約 59,693 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1748.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-115 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(4) 集団自決に関する文献等の評価について (原)ク その余の文献の評価 (判決本文p224~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)ク その余の文献の評価(ア)(櫻井よしこのコラム)* (イ)(陣中日誌)* (ウ)(「花綵の海辺から」)* (エ)(「沖縄戦ショウダウン」)* (ア)(櫻井よしこのコラム)* 櫻井よしこは, 第4・5(2)ア(イ)f(b)のとおり, 週刊新潮のコラムにおいて, 座間味島の集団自決について概ね控訴人梅澤の供述に沿う事実経過を記載しているが, 第4・5(2)ア(イ)f(b)で判示したとおり, その記載内容から控訴人梅澤に対する取材や前記神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり, 控訴人梅澤に対する取材を除き, 櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められないから, 後記第4・5(5}ウのとおり, 控訴人梅澤の供述等が措信し難い以上,その資料的価値は乏しいというほかない。 (イ)(陣中日誌)* 陣中日誌(甲B19)は, その中に掲載された「編集のことば」によれば, 第三戦隊本部付であった谷本小次郎が基地勤務隊辻政弘中尉が記録した本部陣中日誌と昭和20年4月15日から同年7月24日までを記録した第三中隊陣中日誌をもとに, 昭和45年8月15日に編集, 発行したものであるとしている。 折しも, 赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり, そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7), 「陣中日誌」は, このような報道後, 同年8月15日に発行されたものであるし, その元となった資料は資料は当時の記録として貴重であろうが, それ自体は書証として提出されておらず, 前記指摘のとおりその転載の正確性を確認できない。 (ウ)(「花綵の海辺から」)* 戦史研究家である大江志乃夫が執筆した「花綵の海辺から」には, 第4・5(2)イ(イ)のとおり, 「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。 西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民にくばったのは, 米軍の上陸まえである。 挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであつた赤松隊長がくばることを命じたのかどうか, 疑問がのこる。」 との記載がある。 その「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったと考えた根拠は, 甲B第36号証として提出された「花綵の海辺から」の一部からは, 「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する体験談を記載された大城良平の証言をあげる以外明確にされていない。 「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に記載された赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する大城良平の体験談の評価については, 第4・5(4)カ(イ)のとおりであり, 大城良平から聞かされたという遺族年金の支給という実益問題にも疑問があることは, 第4・5(3)のとおりであって, 大江志乃夫の「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったという観測的な判断は, 本訴において資料価値は低いものというほかはない。 (エ)(「沖縄戦ショウダウン」)* 上原正稔が平成8年に琉球新報に掲載したコラムである「沖縄戦ショウダウン」には, 第4・5(2〕イ(イ)gのとおり, 金城武徳や大城良平, 安里巡査が, 赤松大尉について, 立派な人だった, 食料の半分を住民に分けてくれた, 村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載された部分及び援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分がある。 しかしながら, 第4・5(1)のとおり, 赤松大尉は, 大城徳安, 米軍の庇護から戻った二少年, 伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく, 各処刑したことに関与し, 住民に対する加害行為を行っているのであって, こうした人物を立派な人だった, 村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。 そして, 第4・2(3)で判示したとおり, 赤松大尉は, 昭和45年3月28日に渡嘉敷島で行われた戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたものの, 反対派の行動もあって, 沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったのであって,このことに照らしても村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは疑問であって, その記載は一面的であるというほかない。 また, 援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分についても, 第4・5(3)で判示した事実によれば前示のとおり, 根拠がないというぺきであるのみならず, そもそも, 赤松大尉自身がその様な考えを持っていたことを裏付ける的確な証拠もない。 目次 戻る 通2-115 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/hyougensya/pages/21.html
活動の状況 (写真が掲載されている分のみ) ● 池田市おたなKAIWAI おたなギャラリー(写真帳) ● ラジオ大阪 藤原宏美女史 ● ブログ : 表現舎乱坊の「陣中日誌兼戦闘詳報」 (駄文練習帳) お世話になっている人々(敬称略・順不同) ● いけだサンシー㈱ ● 社会福祉法人 各社会福祉協議会 群 大阪市西成区社会福祉協議会 大阪市住之江区社会福祉協議会 大阪市浪速区社会福祉協議会 大阪市西区社会福祉協議会 大阪市東住吉区社会福祉協議会 大阪市港区社会福祉協議会 交野市社会福祉協議会 ● 在宅支援110番千林事業所 ● ホテル日航茨木大阪 ● 伝楽亭(素人落語の定席小屋) ● 南港アスール幼稚園(敬老会・謝恩会) ● 関西大学校友会 ● 大阪ガス㈱ ● 伊賀市猿野地区自治会 ● ひだまりの会 ● JAいがほくぶ 年金友の会 ● 伊賀市中央公民館 市民講座 ● 和歌山県かつらぎ町商工会 ● 池田市こいし歯科 ● 自治労伊賀市役所女性会 ● 伊賀市比土地区自治会 ● なにわ保健生活協同組合 びろうじゅ大淀 ● 南大阪地域大学コンソーシアム ● 大阪府立山本高校同窓会
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2270.html
再び「殉国日記」について これは http //keybowokinawan.blog54.fc2.com/blog-entry-66.html#comment-top こちらのコメント欄に対する、W氏へのレスです。オフトピについての長文の討論となりますので、ブログ主さんへのご迷惑を避けるため、弊ブログへのリンクと致しました。 なお再反論は、当頁末尾にコメント欄を設置しましたので、Wさんに置かれましても、こちらにてお願いします。 敬具 「殉国日記」内の主要な文献をファイルしましたので御報告します。 ■沖縄作戦 殉国日記 index http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2223.html 早々と「気がついたことを纏め」た方がおられますが、その“飛ばし”記事の中に事実誤認や誤解を招くやしれぬ独断がありますので、以下に事実を指摘しておきます。 1) W氏 5頁赤松版「戦斗の概要」の一部だが24 00船舶団長が丸木船で阿嘉島から来島は時間を2時間以上遅くしている。 これでは「丸木舟」とし、後の「赤松部隊長戦場日記」では「船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇船ニテ阿波連ニ上陸渡嘉敷島本部ニ来ル」となっている矛盾を指摘すべきでしょう。その元である辻版「陣中日誌」では「橇舟」です。 なお「22 00以前」が正確な時間だという論稿はどこにも見たことがありません。今のところこの到着時間は諸説フンプンで議論の『紛れ』にはもってこいのアイテムですから、赤松アイドル派には都合がよく、また「22 00以前」が本当ならば赤松は嘘つきだ、という仮定理屈で赤松を断罪するにも便利なようです。 2) W氏 本来丸木船にて来島というような(特攻艇2隻で来島、阿嘉島の乗務員の名までわかっている)誤った情報が赤松に伝わるはずがない。 渡嘉敷到着「一行の人員15名」は諸文献が一致するところのようです。そして、6名が特攻艇2隻に分乗し残余がクリ舟で渡嘉敷にきたことも、「石田四郎」手記、「第二戦隊戦闘の概要海上挺進第2戦隊史実資料」などを重ね合わせると事実のようです。「石田四郎」手記で特攻艇同乗者とされなかった人物も。赤松隊の「陣中日誌」で戦死者として明記されていますので(参照:渡嘉敷島に残留した別部隊員)、特攻艇以外の船で阿嘉島から渡嘉敷に渡った人物がいることは厳密証明できています。 3) W氏 35頁「赤松戦場日記」に「船舶団長基地隊長以下15名座間味より○船ニテ来島」とある。36頁にも座間味島より渡嘉敷島本部に来たり、とある。 「赤松戦場日記」では1箇所です。36頁にもというのは転写をした中島幸太郎氏がそれを受けて繰り返したものです。此の箇所は他の箇所との字形をみても、「○船」ではなく「橇船」として良いでしょう。なお、同じく「殉国日記」所収の「皆本書信」では「橇艇」となっています。 なお、座間味はそこが巡察の出発点だということから、手拍子で書き間違えたのでしょう。 4) W氏 36頁皆本の印鑑からしばらく皆本の書信らしい。 印鑑がなくとも幸太郎氏は、皆本氏の書信であることくを明示的に示しています。この文書は皆本氏が防衛研究所に寄贈したものです。彼が印鑑を押したのは「転写内容は自分も保証する」という意味でしょう。 W氏 37頁「戦闘準備状況を視察中たりし軍船舶隊長大町大佐24日我が渡嘉敷島対岸阿嘉島に在りて状況を判断せられ海上挺進第3戦隊は直ちに沖縄本島に転進同地に於て海上攻撃に参加すべきを決心し25日夜日没を待って○船より敵艦船群突破我が渡嘉敷島に到着直ちに転進命令を下達す。然れども時刻既に22時を経過し・・・・」 以下読み取りにくい文章が続く。 別に読みづらい文章ではありません。それよりWさんの不正確が気になります。以下のほうが書き起こしとしては正確に近いはずです。 町度三月二十一日より慶良間列島海上挺身 (ママ) 戦隊(海上特攻隊)の戦闘準備状況を視察中なりし軍船舶隊長大町大佐二十四日我が渡嘉敷島対岸阿嘉島に在りて状況を判断せられ海上挺身 (ママ) 第三船 (ママ) 隊は直ちに沖縄本島に転進 仝地に於て海上攻撃に参加すべきを決心し二十五日夜日没を待って橇艇により敵艦艇群を突破我が渡嘉敷島に到着直ちに転進命令を下達す 然れども時刻既に二十二時を経過し当時部隊は戦隊(艇乗組員)は舟艇につき出撃準備中なれども・・・ 5) W氏 ここでの皆本書信は後の皆本の説明とも、赤松の記載とも異なる。 ここにも嘘があり○は読みがたいが櫂か、櫨の可能性がある。 特攻艇ではないとの記述である。当初から、よほど大町大佐がクリ船で来島したことにしておきたかったらしい。 皆本書信での表現は 日没を待って橇艇により敵艦艇軍を突破我が渡嘉敷島に到着直ちに転進命令を下達す です。○は「橇」です。櫂か、櫨の可能性はないでしょう。 【追記】 特徴のある橇の字は、辻中尉の「陣中日誌」からの踏襲だと思われます。 1、橇船=辻中尉の『陣中日誌』の写本 2、橇船=赤松「戦場日記」の写し 3、橇艇=皆本書簡の写し 4.橇舟=皆本直話聞き書きの写し 手書き字体は「耒」へんに「毳」に見えますが、手元の漢和辞典になく、私は「橇」だと思っていますが、分厚い字典でいつか確認してみます。 【追々記】 辻中尉が手書きで、「耒」(らいすき/すきへん)に「毳」と誤記したのは、消耗の「耗」からの連想ではないかと思います。図書館で大きな辞書いろいろ見ましたが、「耒」へんに「毳」という字はありませんでした。 確認した辞書は、「字通」「新潮日本語漢辞典」「廣漢和辞典」「大漢和大字典」「大漢語林」です。 6) W氏 44頁なも皆本の直話として、・・・・何の事はない。大町大佐は戦況を正確に把握し、当然取るべき策を考えていた。 私もここではW氏と意見を一致します。昭和21年3月に語られたこの皆本直話には、後の言動に比べたらまだ正直な要素が多いと思うからです。 赤松隊の『史実』は、(1)昭和40~43年の「戦史叢書」編纂過程(2)昭和42~45年の「赤松隊陣中日誌」編纂過程(3)昭和45~43年の「ある神話の背景」と3つの過程で、赤松擁護、艇隊擁護のストーリー(=「正史」化)が進行してきました。しかもこれらは、「沖縄戦史を書き換えねばならん」という社会的背景力によって進められた営為です。 昭和21年3月の皆本直話はそうした全体的な意図はまだないと思います。頭の中にあるのは、投降した自分達の「誇り高き戦い」と、死んだ戦友たちを美しく祀ることです。そのためのバイアスは惜しみないものですが。 7) W氏 甲号戦備が発動された日は確か24日。この時点で赤松は昼夜兼行で船艇に爆雷を装着すべきであったが怠った。 この不始末を隠すためにさまざまの嘘を考案し 甲号戦備とマルレの出撃命令とは違います。 これは私の私見ですが、赤松元戦隊長が最初から一番隠したかったのは、秘匿壕の整備の遅れ、泛水路整備の遅れ、連絡艇の泛水整備のための部隊内連携作業の不備など、戦隊長として基本的な軍務の不首尾ではなかったかと思います。 そうしたことを監察にやってきた大町大佐や鈴木少佐たちに「泛水したのに出撃できず」の責任を押し付けたのではないでしょうか? 複廓陣地に篭っての「持久戦」の間、勤務隊員や整備隊員の怨嗟の目をそらすため、そうした言い訳は繰り返され、繰り返えされるうちに赤松戦隊長の頭の中では、「妄想」が「真実」と化していったのかもしれません。 そうした赤松戦隊長の粉飾意図が反映していないクールな筆致の、辻版「陣中日誌」は落丁がありながらも真実を語っているような気がします。 ご意見 →これまでのコメント http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2313.html (ファイルから溢れたあと) わださん 地図を見れば阿波連湾の西方に渡嘉敷島はなく、海面です。 一体何を仰っているのか? 地図を見ながらものを言ってくださいね。阿波連湾内の西のほうという場所はありますよ。 いくら地図を見ても阿波連湾の北・東に渡嘉敷島の陸地は存在しますが、阿波連湾の西に場所は存在しても海上であり、陸地としては(名もない ?)離島しか存在しません。 北もややむつかしいと思います。 それに対して阿波連部落を基点にすれば、阿波連湾から見て西北に陸地は存在します。 これ以上は見解の相違ということで、地理のことは言いません。 私は、石田少尉手記に関する資料的評価は全然最初から変えていないのですが。 ? 最初、キー坊さんの所で石田少尉が赤松隊に食料で世話になったことだろうとの趣旨を書いておけば、当然わかってもらえると思ったのですが。 -- (和田) 2009-10-30 14 38 45 和田さん 1、「軍事研究」某(失念)氏は迂闊に信用できない、同意有難うございます。 2、捜査権のない私たちは事実検証ができることから攻めていくのが健康な姿です。陰謀論で検証をすっとばしたい誘惑には反対です。 3、和田さんが引用した文章は 「戦史叢書」が「嘉敷島阿波連西方海岸に上陸し二二00ころ海上挺進第三戦隊本部に到着した」 「ある神話の背景」が「阿波連西方の、夜目にも白い清浄な浜に着いた。」 阿波連湾の形は¬の字でその角っこが阿波連。海岸はそこから西と南に伸びています。「阿波連西方海岸」は阿波連湾のなかにあります。 あなたの無茶ブリでは、「阿波連湾」とは湾内の海の中のことだから幾ら西へいっても海しかないでしたね。だとしたら、戦史叢書は離島のことなのですね。 4 これ以上はご自分のHPで図入りでやってください。 ご覧のように溢れちゃったからおしまいです。 今後は・・・・ 【投稿上のご注意】 無遠慮で配慮のない投稿は困ります。 1回の投稿は短ければ短いほど効果的です。どんなに長くても全角文字1.000字以内でお願いします。 溢れて「続き」を投稿なさっても、内容の如何にかかわらず機械的に削除します。長い投稿は下書きのうえ投稿してください。 また、適切な空行がなく読み手に苦痛を強いるような投稿は、内容の如何に拘わらずスパム投稿として削除します。空行は6字分の消費にすぎません。 引用符のないものや引用元が明記(急ぎでも言及)してないものは史実検証討論には有害です。また○付数字など、機種依存文字を使用しているものも同様です。これらも削除します。
https://w.atwiki.jp/valkyria2/
戦場のヴァルキュリア2 ガリア王立士官学校 攻略Wiki こちらは戦場のヴァルキュリア2 ガリア王立士官学校 攻略Wikiの避難所です。 メインwikiにおいてスクリプト荒らしにによるサイト書き換えが多発しているために設立されました。 当Wikiはどなたでも編集を行えます。 皆の利用するWikiです。他人に迷惑をかけるような行為は控えましょう。 荒らし行為を発見した場合はこちらまでお問い合わせ下さい。 携帯からの人はメニューへ ※質問の前に、以下に答えがないか見る、上の検索欄で調べたい事柄を検索してみる、などをしてから質問しましょう。 よくある質問、小ネタ・裏技、2chテンプレ、キャラクター情報、兵科別情報、敵エース・鹵獲武器 タイトル 戦場のヴァルキュリア2 ガリア王立士官学校 対応機種 PSP ジャンル アクティブ・シミュレーションRPG 発売日 2010/01/21 価格 UMD版:6,090円(税込)ダウンロード版:5,400円(税込) プレイ人数 1人 (アドホック通信プレイ2~4人) 発売元 SEGA 予約特典 「ドキュメント オブ ガリア 1936」【特典詳細→http //valkyria2.jp/info.html】 関連サイト 戦場のヴァルキュリア2 公式サイト 戦場のヴァルキュリア2 公式ブログ 戦場のヴァルキュリア オフィシャルブログ 【陣中日誌】 2ch 現行スレ 【PSP】戦場のヴァルキュリア2 -第41陣- ゲーム攻略掲示板 GAMES
https://w.atwiki.jp/ja2047_memorial/pages/116.html
>何でこんな 2005/ 1/16 9 59 [ No.30669 / 39216 ] 投稿者 ja2047 何でこんなことを覚えているんです わはは、実は、めずらしく鳩さんがまっとうな指摘をしているのが印象的だったので、覚えているのです。 どうも、その、「日誌」と言う日本語と「日記」と言う日本語が交錯している様に感じられる次第なのです。 実はこれ、同じ様な日本語では有りますが、日本語としては重大な違いが有るのです。 「日誌」として「虐殺云々」の記述が実在していた場合には、実際に虐殺が有った上に、当時の軍隊内部に於いても把握出来ていたことに成り、それが連隊長や師団長に依って「決済」されていたと言うことに成ります。 決済と言うことは、銃弾を何発使用したとか、どの程度の食料を消費して、現在の在庫がどの位あるのかと言う点に関して、徴用の最小単位組織で有るところの連隊長から師団長に至るまで、承認の捺印や署名が行われていた、と言う事で有るのです。」 http //messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN action=m board=1835559 tid=fn5fe5tbba6a4oa4ga4ca4abeea42a4h3nbfaea47a4fa4a4a4k sid=1835559 mid=6078 thr=6065 cur=6065 dir=d 「陣中日誌」に「虐殺行為」が書かれているなら、軍が認めているのだから信用しうる。 という趣旨の発言を鳩さんがしてるというのが、面白いでしょ。 これは メッセージ 30668 yu77799 さんに対する返信です 戻る?
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2463.html
「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)3/3 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(1) 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)1/3 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)2/3 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)3/3典拠 「戦闘詳報」に対する「戦闘要報」 凡例 内容(2)の第51葉 (2)の第52葉 (2)の第53葉 (2)の第54葉 (2)の第55葉 (2)の第56葉 (2)の第57葉 (2)の第58葉 (2)の第59葉 (2)の第60葉 (2)の第61葉 (2)の第62葉 (2)の第63葉 (2)の第64葉 乱丁・落丁の検討 御意見欄 典拠 防衛庁 陣中日誌 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-1-108 収蔵文書名: 簿冊名: 海上挺進第3中隊 陣中日誌控(昭和20.5~20.7)(※) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄285 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108 「戦闘詳報」に対する「戦闘要報」 何ものかが後で訂正し、簿冊名「海上挺進第3中隊 陣中日誌控」とされているが、下記に規定された「戦闘要報」の控であって、訂正前のほうが正しい可能性が高いと判断して、タイトルを「第三中隊戦闘要報」とした。 作戦要務令 綱領.総則及第一部 http //www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default ID=M2006090102530950737 指揮及連絡 報告及通報 第三十二~第三十四 P35~P386 凡例 「〓」・・・・・・・読み取り不可能文字 「?」・・・・・・・読み取ったものの不確か(1字or複数) 「?[疑問符]」・・・原文での「?」 (※)・・・・・・・・注記 落丁や乱丁の可能性があるので、「○ページ」という指示は致しませんでした。 また綴られた順序によって月日を決めることも避けました。記載された時刻や事項の連続性や、辻版『陣中日誌』との事項照合などが必要かと思われます。 内容 (2)の第51葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 51/64 六 一九三○ 田中伍長儀志布連絡ヨリ〓…〓 本日ノ作業 退避壕 掘開断面交通壕 戦死者戦傷者ナシ 中隊長以下三九名異常ナシ 七月五日(木) 一 ○七三○ 杉沼〓…〓六名非常用薪ノ材〓 為〓…〓 二 一一三○ 杉沼伍長以下六名薪取リヨリ帰還ス 三 一三○○ 杉沼伍長儀志布連絡ノ為メ出発ス 四 一三三○ 竹島伍長以下四名薪取リ為メ出発ス 五 一五○○ 中隊長前進陣地巡察ノ為メ出発ス 六 一七○○ 〓…〓以下〓…〓帰還ス 七 一八三○ 〓…〓 八 一九○○ 杉沼〓…〓帰還ス 九 一九〓〓 〓…〓本部ニ到ル 一○ 二一三○ 中隊長部隊本部ヨリ帰還ス 本日ノ作業 退避壕 非常用薪取 戦死者戦傷者 ナシ 中隊長以下三九名異常ナシ (2)の第52葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 52/64 七月六日 一 ○七○○ 竹島伍長以下四?名分哨交代ノ為メ出発ス 二 ○八○○ 杉沼伍長敵製自動小銃分解結合ノ教 育ニ参加ノ為メ出発セリ 〓 〓〓〓〓 今井伍長以下〓名分哨下番シ中隊ニ帰還 三 ○九三○ 八木伍長分哨〓…〓出発ス 五 〓〓〓〓 杉沼伍長〓…〓帰還ス 六 一三○○ 田中伍長儀志布連絡ヨリ帰還ス 七 一九○○ 田中伍長儀志布連絡ヨリ帰還ス 八 一九一○ 戸次伍長本日ヨリ敵製自動小銃 弾薬二○○発受領シ帰還ス 本日ノ作業 退避壕 戦死者戦傷者ナシ 中隊長以下三九名異常ナシ 七月七日(土) 一 ○五一○ 吉尾伍長軍夫捜索ヨリ帰還ス 二 ○六五○ 池田少尉前進陣地ニ報告ノ為メ出発ス ○八○○ 結城伍長以下三名軍夫捜索 ヨリ帰還ス 四 ○八三○ 竹島伍長兵器受領ノ為メ帰還ス 五 ○九○○ 竹島伍長自動小銃取扱法習得ノ為メ 本部南少尉ノモトニ到ル 六 ○九三○ 杉沼伍長儀志布連絡ノ為メ出発ス 七 一八○○ 杉沼伍長儀志布連絡ヨリ帰還ス 注) 以降は別記メモ? 筆跡が違う (2)の第53葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 53/64 〓〓ヨク〓…〓 四 白旗ヲ掲ゲ遠方ヨリ軍使タルヲ表ス〓…〓 對シテハ敵トシテ取扱ハズ歩哨線外ニ〓ヲ止メ〓ノ 同ジ面セシム 降参人ニハ武器ヲステシメ乘馬(〓)〓〓〓 馬?(本)如シ旨速ニ報告スベシ、此ノ際無闇ノ対話 特ニ欺カザル様注意スベシ 五 歩哨ハ喫煙スベカラズ 命令〓〓〓坐臥スルヲ得ズ 銃ハ平時??ハ教?スベ〓〓〓 晝間ハ立銃提銃又ハ腕銃?? 〓夜間ノ提銃ヲ〓〓ヲ受ク?? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※ これは「作戦要務令 その1」第二百三十一の抜粋であるらしい http //www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default ID=M2006090102530950737 P130 (2)の第54葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 54/64 一 〓…〓 芋掘リ作業ヲ中止シ〓ラズ 前進陣地ノ後ハ作業ヲヤッテモ良イガ前ニハ絶 對ニ出タライカン 二 火焔放射器ノ使用ニ對シ銃眼ノ閉ソク設備 鉄條網ノ設備(突然ニヤル事 [突然ニヤル事」ニ取リ消シ線] 三 攻撃ノ為ノ捜索ハ高地〓ヤル事 前ニデタラ〓〓 四 〓〓〓〓木〓実?〓事ハ〓〓〓〓 六月二十日 〓〓 一 北〓…〓ニ陣地構築中 二 偵察〓〓A高地?3 ニ変化ナシ依然トシテ増強中 三 〓…〓敵兵一名負傷ス 四 〓〓砲身二米位ノ砲一門火焔放射キヲ揚陸シ 〓〓〓〓〓(アダンノ木) 五 火焔放射キニ対シ銃〓ヲ蓋スルモノヲ設備スベシ 陣地作業ニ就イテ 一 新タニ抗木入レテ〓〓〓〓爆風ニ對處スル事 二 陣地ノ艤装ヲヨクスル事 三 一番?〓〓ハ必ズ抗木ヲ入レル事 バショウ木ハ必ズ根本カラ〓〓ヲ残〓〓如シ (2)の第55葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 55/64 六月二十一日 1.部隊長ニ対シ停止敬礼ヲ行ナハザル者アリ 一兵ニ到ルマデ 徹底ノコト 2.現在「ハブ」ノハビコリニ注意 各人通行ノ際ハ「ツエ」ヲ利用 セラレタシ 3 軽機ヲ〓〓筒キヲ調査ノ上本部ニ差出 〓〓 陸軍大尉西村市五郎 三月二十二日ヨリ女河原ニ行キシ現地自活班ノ指導ナラビニ 村民ノ指導ニ任ズベシ〓〓〓〓女河原警備現在 橋警備〓ヲ〓〓〓〓〓〓〓得 〓〓軍曹中〓〓〓 五月二十二日頃前進陣地ヲハナレ渡嘉敷部 落ニ浸入セシニヨリ重禁シ二日ニ處ス (2)の第56葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 56/64 六月二十二日 敵情 1.本日武装兵三○名渡嘉敷ニ上陸 内十五名ハ高射砲兵ノ判断 2.昨日夜間防ヱ隊前沢彌生〓A高地 附近ニテ地雷ニカヽレル模様 3.渡嘉敷部落ノ敵ノ地雷設置ハ完了 セル模様 4.昨日夜村民約一○○島永ニ漂流物ヲ 取リニ行キ戦死一負傷一ヲ出セリ 部隊、海洋作戦ニ影響ヲ来スガ如キ 動作??ナキ様、絶対、敵発見サレヌ様 5.前進陣地ヨリ前ニ出ル時トカ他隊ノ 警戒区域ニ入ル時ハ必ズ連絡スベシ 6.村民ノ給与ヲ強要セザルコト 7.栗〓蘇鉄伐採ヲ禁ズ 8.「切ボシ」必要ナル中隊ニハ渡ス 情報特攻? 艦種不詳六 火柱六 「ニガナ」「ノアサ」「クサギナ」 腹菜 海岸ニ有リ 「コケ」ノ如シ 防衛隊ノ沸上下ケ 一訓以〓ニテ〓…〓スベシ (2)の第57葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 57/64 11 被服保全ニ万全ヲ期セ (特ニ編上靴ノ修理使用) 12 前進陣地ノ監視特ニ嚴ニスベシ 六月二十四日 艦砲??〓高射弾ノエン蓋ノ基A甲地敵一○○ー 〓〓敵ノ与ヘタル損害二○ 吾方五負一 銃蓋偽装ヲ完全ニナセ 三、本部 稜線上通行ヲ禁ズ 敵ノ〓〓〓以外壕外ノ出ルベカラズ 〓〓石橋異状態ナシ昨日旭沢登口 〓〓〓〓〓模様 四 〓内交通壕 完備 銃ガ「〓〓〓」 〓…〓炊事〓位置 西海岸ノ交通ニ注意セヨ 本日ノ敵ハ白人ノ指導スル黒人部隊 (2)の第58葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 58/64 1 A高地敵陣地鰹節ニ 二○○○ 二ヶ所 本日一ヶ所 以上三ヶ所 二名ニテ警戒作業 一本松ニハ敵兵ナシ役場高地高射砲陣地ハ (女川原ノ上A高地) 白人数名ニテ修理セル模様 本日 大発二隻入港ノ内一隻食糧 一隻弾薬 A高地ニ上レル理由ハ渡嘉敷村ノ完全ニ守 備セン為メナラン 2 夜間作業ニ出ル時ハ完全ニ警戒セヨ 敵艦船〓敵陣地ニ対シ「バクロ」セヌ様 3 注意事項ハ一般ニ徹底サス事 現在兵器ノ員数現況報告(二十八日) 前進陣地ヲ含マズ 燃料ガソリン配給(二十七日) 六月二十六日 (1) 敵状変化ナシ (2) 各隊ヨリ作業ニ出ル者ガ部落民ニ食糧 ヲ強要シ盗ム者有リ嚴ニ徹底〓〓 スベシ(女川原、銀河原)軍民離間ノ原因 (3) 一昨日(二十四日)整中水勤三女河原ニテ米麦 味噌油ヲ盗メリ 軍夫ニ至ル迄嚴ニ 監督スベシ ※対處では? (2)の第59葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 59/64 四、〓〓〓ノ食事ノ分配ノ〓〓〓ニスベシ 特ニ軍夫ニハ公平ニセヨ 六月二十九日( 敵状 一 敵ハ役場高地海岸方陣地ノ畠山、各地共 陣地作業補強中 昨[取リ消シ線]稲刈リ実施 本朝非武装兵八名乗陸 明日土曜日ナレバ射撃ニ警戒 二 各隊共対ガス防禦〓〓〓〓 退避場陣地ノ平面図〓…〓 シ昨日命令〓〓〓〓 三 「藷ツル」ノ〓〓〓施ル 部隊長注意 一 昨日午前中全部壕内作業 明後日モ別命ナクバ 監視ハ壕内ニテ 二、偽装不充分(藷ツル) 三 各隊〓〓ニ真剣味不充分 (2)の第60葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 60/64 六〓…〓 一、昨日〓…〓 ニ、本日西村大尉ニヨリ〓〓セリ 女河原、銀河原石橋及稜線ハ晝間通行禁止 ニ拘ス通行スル者アリ 嚴ニ注意サレタシ 〓〓「トシコロス」ヲ成ベク多数提出スベシ 〓者食ハ医務室ニテ証明書ヲ書クベシ[ベシニ取消線] 〓本〓出 吉水風學 金井道光 金山〓〓 〓〓周 吉永常七 〓〓〓〓 ~~~~~~~~~~~~ ※六月三十日か? ※各隊「ドンコロス」=麻袋か? ※患者食 特設水上勤務第104中隊(昭和19.9) 陣中日誌(※) http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301118_00 P28 P31 か その付録 特設水上勤務第104中隊軍夫編成表(昭和19.9)(※) http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0304118 第一小隊第二分隊 4/14 7/14 吉本仁出 吉永奉鶴 金井道成 金山銀錫 林漢周 吉永常七 七月一日(日) 1.1○○ 四七名撤退セリ武装兵 七月三日(火) 〓…〓 稲刈 〓…〓 〓…〓少尉ノ捜索 二 〓…〓鉄帽一 〓…〓 〓…〓 〓…〓 〓…〓 「〓給」〓順備ニ遺憾ナキヲ期セ 〓〓排水ノ順備 七月四日 日命(七月四日) 陸軍上等兵 辻丹繁章 本部ニ於テ勤務ヲ命ズ 報 現在三中隊ニ配属中ノ防衛〓〓テ〓〓リノ 〓…〓 〓…〓 (2)の第61葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 61/64 〓…〓 各中隊デ無断デ〓〓〓〓タル者〓 事 ○将校ト雖モ隊長許可証ヲ有スル事ガ大切ナリ ○前進陣地ヨリ前ニ出ヅル者ハ必ズ〓一ノ認 ※許可証では? 情報 三日(十九時) 一 バリパパン注)ニ敵大部隊来襲上陸ヲ開始セリ 来襲艦艇ハ一二○ 内輸送船(大型〓) 二、戦陸用〓〓攻撃隊ハ来襲敵艦船ニ攻撃 実施〓 戦果ヲ収メタル 轟沈[取消線] 轟沈〓 〓〓駆二 大型駆一 撃沈〓 大型駆一 艦種不詳一 火柱認〓…〓 三 内地〓…〓機〓…〓 B〓…〓内地各地区ヲ集メタルモノ) 大型〓〓〓〓〓機九州方面沖縄基地ヲ発セシ モノト認ム 注)バリクパパン:カリマンタン(ボルネオ)島東部の都市で、石油貯蔵、精製 積み出しの資源要地。1942年1月、日本軍占領。1945年7月1日、連合軍上陸開始。 陸軍の雷撃機による駆逐艦2隻撃沈の報告があったのは上陸日ではなく6月29日。 上陸日以降7月14日まで駆逐艦撃沈の報告なし。上陸作戦では上陸用舟艇250隻、 輸送船40隻 戦史叢書「蘭印攻略作戦」pp. 358-373,「南西方面海軍作戦」pp.578-580 七月五日(木) 一 明六日敵製自動小銃ノ分解結合ノ教育 アリ 各隊ヨリ適任者一名八時迄ニ本部 ニ差出シ 二、各隊ハ必ズ十日迄ニ退避壕ヲ完成スベシ 七月四日一九○○ 一 バリックパパンハ其ノ後激戦テンカイ中 敵ハ次第〓 兵力ヲ増強シ海上ニ於テ上陸用舟艇ヲ (北方ニ上陸 一部南下シ ショウカイ艇一〓… ※「第」は略字の方 (2)の第62葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 62/64 約3行不明 (2)〓…〓地区ニ〓…〓 〓〓 (3)B〓B38B29〓百三十九機〓…〓 〓〓地区ニ来襲〓〓宮崎ハ主トシ都城〓〓 ナリ右ハ沖縄基地ヲ発セルモノト認 (4)朝鮮 〓〓一○○○ヨリ二回ニ渡リB29四機ハ太田附 近ヲ空襲セリ 昨三日内地各地来襲総数五百五十機ナリ (5)本朝○五三○潜水艦一アシスカ?4 半島(?[疑問符]) ヲ艦砲射撃 (6)本朝来〓〓〓 〓…〓 分間ニ渡 艦砲射撃ヲ実施セリ (2)の第63葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 63/64 集合写真 説明は次ページ (2)の第64葉 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108の 64/64 海上挺進第3中隊 金毘羅神宮での皆本中隊 昭和19.8 中央は皆本義博少尉(57期) 乱丁・落丁の検討 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2404.html#id_64478f11 御意見欄 名前 コメント すべてのコメントを見る 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(1) 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)1/3 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)2/3 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)3/3 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1203.html
通106 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(4) 集団自決に関する文献等の評価について 第4・5(4)ク その余の文献の評価 第4・5(4)ク その余の文献の評価(ア)(櫻井よしこのコラム)* (イ)(陣中日誌)* (ウ)(「花綵の海辺から」)* (エ)(「沖縄戦ショウダウン」)* (ア)(櫻井よしこのコラム)* 櫻井よしこは,第4・5(2)ア(イ)f(b)のとおり,週刊新潮のコラムにおいて,座間味島の集団自決について概ね原告梅澤の供述に沿う事実経過を記載しているが,第4・5(2)ア(イ)f(b)で判示したとおり,その記載内容から原告梅澤に対する取材や前記神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり,原告梅澤に対する取材を除き,櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められないから,後記第4・5(5}ウのとおり,原告梅澤の供述等が措信し難い以上,その資料的価値は乏しいというほかない。 (イ)(陣中日誌)* 陣中日誌(甲B19)は,その中に掲載された「編集のことば」によれば,第三戦隊本部付であった谷本小次郎が基地勤務隊辻政弘中尉が記録した本部陣中日誌と昭和20年4月15日から同年7月24日までを記録した第三中隊陣中日誌をもとに,昭和45年8月15日に編集,発行したものであるとしている。折しも,赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり,そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7),「陣中日誌」は,このような報道後,同年8月15日に発行されたものであるし,その元となった資料は書証として提出されておらず,その転載の正確性を確認できない。 (ウ)(「花綵の海辺から」)* 戦史研究家である大江志乃夫が執筆した「花綵の海辺から」には,第4・5(2)イ(イ)のとおり, 「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民にくばったのは,米軍の上陸まえである。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであつた赤松隊長がくばることを命じたのかどうか,疑問がのこる。」 との記載がある。 その「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったと考えた根拠は,甲B第36号証として提出された「花綵の海辺から」の一部からは,「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する体験談を記載された大城良平の証言をあげる以外明確にされていない。「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に記載された赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する大城良平の体験談の評価については,第4・5(4)カ(イ)のとおりであり,大城良平から聞かされたという遺族年金の支給という実益問題にも疑問があることは,第4・5(3)のとおりであって,大江志乃夫の「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったという観測的な判断は,本訴において資料価値は低いものというほかはない。 (エ)(「沖縄戦ショウダウン」)* 上原正稔が平成8年に琉球新報に掲載したコラムである「沖縄戦ショウダウン」には,第4・5(2〕イ(イ)gのとおり,金城武徳や大城良平,安里巡査が,赤松大尉について,立派な人だった,食料の半分を住民に分けてくれた,村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載された部分及び援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分がある。 しかしながら,第4・5(1)のとおり,赤松大尉は,大城徳安,米軍の庇護から戻った二少年,伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく,各処刑したことに関与し,住民に対する加害行為を行っているのであって,こうした人物を立派な人だった,村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。そして,第4・2(3)で判示したとおり,赤松大尉は,昭和45年3月28日に渡嘉敷島で行われた戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたものの,反対派の行動もあって,沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったのであって,このことに照らしても村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは疑問であって,その記載は一面的であるというほかない。 また,援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分についても,第4・5(3)で判示した事実によれば,根拠がないというぺきである。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/320.html
週刊金曜日 1997.12.5 南京大虐殺60周年特集 日本側の調査をもっと! 小野賢二 今年の八月、「南京大虐殺史国際学術シンポジウム」が南京で開催された。俺も一報告者として参加した。このシンポジウムの主報告で、南京侵華日軍南京大屠殺史研究会顧問の陳安吉先生は「南京大屠殺史」研究の歴史的経過を分析した後、今後の任務の一つとして「歴史に対して重い責任を負う態度で」基本的にはそれぞれの地域での取り組みを早急に行なうことを強調された。当然、日本人は加害者側からの調査、研究をと、理解した。 日本での南京大虐殺の解明は主に、南京大虐殺否定論者との論争として展開されてきた。そして、南京大虐殺否定論は完全に破産し、事実関係の解明は大幅に進んだ。が、「一部分でも『戦闘詳報』や『陣中日誌』が保存されているのは、歩兵大隊に限っていえば、南京戦参加五七大隊中の一六大隊と四中隊、約三割にすぎない」(『インテリジェンス』一九九四年八月号、藤原彰著『戦争“美化”に通じる虐殺少数論』)が、公式記録の現状である。 だが、視点を変えれば資料は無限だともいえよう。それはわれわれの身近にいる(いたはずの)元兵士たちの存在である。歩兵第六五連隊員の聞き取りと、資料収集の経験からいえば多くの兵士が陣中日記を書いていた。 大虐殺の命令は軍司令部から出されたにせよ、直接虐殺を実行したのは他ならぬ末端の兵士たちである。実行者が書いた記録は貴重であり、数多く収集すれば精度が増す。俺が調査から得た結論は末端の兵士たちまで、当時、捕虜虐殺は当然と考えていた。そこまで行きついてしまった精神構造を解明せずには本当の南京大虐殺の解明には至らないのではないだろうか。 しかし、南京攻略戦後六〇年、証言を記録するには時間的に最後のチャンスだろう。陣中目記等の記録も、当事者が死亡すれば消滅するのを防ぎようがなくなる。 それぞれの地域で、対象を限定した徹底的な調査をすることを期待したい。この方面からの調査はまだまだ未開拓分野なのだ。つけ加えれば、俺の調査結果に対して具体的な反論はまだない。南京攻略戦に加わった部隊は吉田裕著『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)に詳述されている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ おの けんじ・化学労働者。 南京大虐殺60周年特集index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2220.html
沖縄作戦 殉国日記(1) 沖縄作戦 殉国日記 index 沖縄作戦 殉国日記(1)図版01~05 図版06~10 図版11-15 図版16-20 お好きな場所からテキスト化してください! 沖縄作戦 殉国日記(2) 沖縄作戦 殉国日記(3) 図版01~05 図版01 クリックして拡大 図版02 図版03 図版04 クリックして拡大 序(赤松嘉次) 渡嘉敷戦斗の概要(赤松嘉次 昭和20年11月 沖縄収容所ニ於テ) 「渡嘉敷戦斗ノ概要」は、1970年編纂の「陣中日誌 海上挺進第三戦隊」所収の「渡嘉敷島戦闘の概要」の原本といえるが、後者はカタカナ書きではなくかな書きに改められ、表現にも細かい手が加えられている。後者には「中島一郎少尉」の名前はない。 赤松嘉次「渡嘉敷戦斗ノ概要」 昭和二十年十一月沖縄収容所に於て 図版05 渡嘉敷戦斗の概要 つづき(赤松嘉次) 図版06~10 図版06 渡嘉敷戦斗の概要 つづき(赤松嘉次) 図版07 渡嘉敷戦斗の概要 つづき(赤松嘉次) 図版08 渡嘉敷戦斗の概要 つづき(赤松嘉次) 中島一郎君ノ思出 (埼玉県立豊岡実業学校教諭 吉田政三) 図版09 中島一郎君ノ思出 つづき(吉田政三) はしがき(中島幸太郎) 図版10 はしがき つづき(中島幸太郎) 殉国日記 s18年4月入隊より(中島一郎からの書簡をもとに父幸太郎がまとめる) 図版11-15 図版11 殉国日記 つづき 図版12 殉国日記 つづき 図版13 殉国日記 つづき 図版14 殉国日記 つづき 図版15 殉国日記 つづき 図版16-20 図版16 殉国日記 つづき 図版17 殉国日記 つづき 図版18 殉国日記 つづき 図版19 殉国日記 つづき 図版20 殉国日記 つづき s19年7月 お好きな場所からテキスト化してください! 名前 コメント すべてのコメントを見る 沖縄作戦 殉国日記(2) 沖縄作戦 殉国日記 index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1430.html
index 目次 (3)無題 斉藤義雄 赤松隊長の御要請を拒み切れなくて折角の貴重な記録の刊行を汚すことを恐れながら筆を執らせて戴きました。私は赤松隊長、皆本中隊長とは○レの研究を命ぜられた時から起居を共にし、皆様が小豆島および豊島で最初の訓練を重ねられた時にはその御手伝いをしていました。運命と申しますか戦隊長要員として特幹隊に到着後突然訓練主任を命ぜられた為でした。運命が変わっていたら或は戦隊長として皆様と一緒に苦労を共にしたかも知れない身上であったのです。 戦後何かの意図の下に心なき奴輩の行った第三戦隊に対する誹謗攻撃については、他人の事とは思えない憤激を覚え、又赤松隊長の人柄を知る一人としては信じ難い事として心痛の種でありました。 去る昭和四十五年三月の隊長以下の渡沖は色々の意味に於いてよい結果を生じたとのことで心から喜びに堪えません。此度第三戦隊の陣中日誌が刊行配布されるとの報に接し、地下の戦友や在世の方々と共に御喜び申し上げます。小さな渡嘉敷と云う島に孤立した第三戦隊が極めて貧弱な装備でしかも陸上戦闘の訓練も受けたことの無い少年兵が大部分であったにも拘らず、食糧の不足に悩みながら終戦後まで頑張り通したことは長く後世1こ語り伝えるべき尊い戦史でありまして、世の中がどのように変化しても日本人として誇るに足りる輝かしい記録であると信じます。 皆様こ取っては戦後の生活にどんなにこの体験が役立ったことか又将来更に無限の励ましとなることかと一種の羨望をすら感ずるものであります。 今後この記録が皆様の後継者のみでなく、広く日本の将来を背負う人達に何かを教えて具れることを希求し且つ確信致します。 昭和四十五年六月十八日 元海上挺進戦隊教育隊長 斉藤義雄 index 目次