約 59,693 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2253.html
第三中隊(皆本中隊) 「陣中日誌控」 実物文書の表題 「陣中日誌控」第三中隊 沖縄戦関係資料閲覧室 http //www.okinawa-sen.go.jp/ 海上挺進第3戦隊第3中隊(皆本中隊)陣中日誌と思われる。 ↓ 防衛庁 陣中日誌 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-1-107 収蔵文書名: 簿冊名: 海上挺進第3中隊 陣中日誌控(昭和20.4~20.5)(※) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄284 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301107 表紙 陣中日誌 戦闘要報 控 昭和二十年 自 四月三十日 至 五月二十三日 第三中隊 「戦闘要報控」という元の表題の「戦闘要報」部分を定規で消線して、本文筆者とは明らかな別の筆跡で、「陣中日誌」と訂正を入れてある。「昭和二十年」も加筆されたもの。受領印なし。 防衛庁 陣中日誌 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-1-108 収蔵文書名: 簿冊名: 海上挺進第3中隊 陣中日誌控(昭和20.5~20.7)(※) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄285 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108 表紙 陣中日誌 戦闘要報 控 昭和二十年 自 五月二十四日 至 七月七日 第三中隊 「戦闘要報控」という元の表題の「戦闘要報」部分を定規で消線して、本文筆者とは明らかな別の筆跡で、「陣中日誌」と訂正を入れてある。「昭和二十年」も加筆されたもの。受領印なし。 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1879.html
昨日 - 今日 - 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端 全体の比較資料はこちら→赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端より詳細な検証が必要だが 辻政弘中尉「本部陣中日誌」1945(防衛研究所資料・沖台沖縄209) 谷本小次郎編「陣中日誌」1970(防衛研究所資料・沖台沖縄405) 《違い》 中西記者の引用 大阪地裁判決での評価 大阪高裁判決での評価 陣中日誌改竄に基づく赤松手記 より詳細な検証が必要だが 文献取り扱い専門家である歴史研究者によるより詳細な検証が必要ですが、海上挺進第三戦隊の「陣中日誌」(赤松隊陣中日誌)改竄の一端が明らかになりました。赤松隊陣中日誌とは、1970年に編纂されたものです。編者である元戦隊本部付特別幹部候補生、谷本小次郎氏は次のように記しています。 …… 私、本部付として戦闘詳報、命令会報を記録し甚だ以て僅かの戦闘のみしか参加せず誠に汗顔の至りでは御座居ますが、幸いに基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三中隊陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取り纏め聊の追記誇張・削除をも行わず、正確な史実を世代に残し歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れる事を念願します。 …… (編集のことば 谷本小次郎 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1429.html) (引用者注)戦闘詳報、命令会報は一体どこに? (引用者注)「聊の=いささかの」 しかし、辻政弘中尉が克明に書き綴った本部陣中日誌と、谷本氏が編集したものとは全く違ったものです。追記誇張・削除が随所に見られます。一例として、昭和20年3月28日、集団自決の日の記述を比べてみます。 辻政弘中尉「本部陣中日誌」1945(防衛研究所資料・沖台沖縄209) クリック拡大 三月二十八日 一、陣地構築ヲ終日実施ス 二、第三中隊主力廓陣地ニ到着 三、渡嘉敷、渡嘉志久、留利加波各地ニ上陸セル約一ケ大隊ノ敵ハ廓陣地ニ侵入二三六高地附近に迫撃陣地ヲ構築シ同砲撃ニ艦砲射撃を以テ我ガ陣地ニ攻撃ヲ加フ 四、損害 戦死 勤務隊 二中隊 多田一ト兵 水勤隊 阿部軍曹 軍夫五名 防招 小峯上ト兵以下八名 村民 若干 負傷 辻中尉 山田上ト兵 水勤隊 若干 防招 若干 村民 若干 五、辻中尉負傷ノ為田所中尉副官業務ヲ代行ス 六、独立第三大隊付新海中尉高塚少尉戦死ノ為第三勤務小隊長ニ命ス 七、通信機の状況 破壊三号甲無線機一、五号無線機ニ 谷本小次郎編「陣中日誌」1970(防衛研究所資料・沖台沖縄405) http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1427.html 三月二十八日小雨 晴 夜小雨 昨二十七日留利加波方面に上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し、各隊陣地の構築を行う。第三中隊の主力到着。 昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊道案内の現地防衛招集の一部支給しありたる手榴弾を以て家族と共に自決す。本朝二、三件の模様なり。 1、各隊全員陣地稜線上にタコ壷を掘る。 2、一四〇〇陣地の北の谷に避難していた住民陣地内に崩れ込む、住民の異様なる叫び声阿鼻叫喚の中へ。北方の敵陣地より迫撃砲攻撃を受く、戦隊長防召兵を以て之を鎮めしむ。 二十七日未明「通信隊は軍司令部に対し戦隊長敵情報報告、電報を打ち五号無線一を残して破壌、本隊に合流 三号無線機一 五号無線機二 破壊 3、勤務隊辻中尉防衛招集兵の手榴弾暴発のため負傷田所中尉副官業務を行う。 第三中隊高塚少尉戦死のため独立第三大隊付新海中尉第三勤務小隊長に命ず。 本日の損害 通信隊 里見芳郎上等兵 戦死 勤務隊 多田健一上等兵 林時三一等兵 戦死 水上勤務隊 阿部盛雄軍曹 軍夫五名 戦死 防衛招集兵 小峯上等兵以下八名戦死(自決者含む) 勤務隊 辻政弘中尉 山田上等兵負傷 4、二○○○頃二中隊正面軽機関銃座に敵襲を受く。 5、小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅の如く陣地後方に於いて自決し始めたる模様 注 自決し翌日判明したるものである。 《違い》 原本には天気は無い 文章の構成がガラリと変わっている 原本には米軍上陸日時は無く上陸後の行動も違う記述。後に判明した米軍記録に合わせた後付けだろう 原本には「自決」に関する記載は一切無い 原本には一四〇〇の記述は一切無い 原本には軍司令部への敵情報告もない 原本にはニ○〇〇の記述も一切無い 原本にあった損害・戦死「村民 若干」が抹消されていながら、「注 自決し翌日判明したるものである。」の加筆 中西記者の引用 中西記者が週刊朝日1970年8月21日号で引用した文章は、辻中尉が書いたオリジナルの「陣中日誌」ではなくて、谷本氏が1970年に編んだものでした。 大阪地裁判決での評価 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1203.html#id_b10b3500 大阪高裁判決での評価 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1748.html#id_b10b3500 陣中日誌改竄に基づく赤松手記 《私記》私は自決を命令していない 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1883.html
赤松隊「陣中日誌」記述の変遷 比較対照資料 A:1945年辻政弘中尉が戦闘陣中で記した「本部陣中日誌」原本 B:1946年1月 復員前に赤松嘉次大尉が記した「戦史資料」 C:1968年 防衛庁戦史室が赤松ら元将校の聴取に基づいて纏めた「戦史叢書:沖縄方面陸軍作戦(未作成)」における記述 D 1970年 谷本小次郎元特幹兵が赤松隊友会の声を集めて編集した「陣中日誌 海上挺進第三戦隊」 E:1973発行 曽野綾子「ある神話の背景」(未作成)の記述から(ただしここではWAC版 2006による) 批判対照資料 P:渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 比較着眼点 (1)転進命令、泛水命令、自沈命令と大町大佐の関わり (2)渡嘉敷島住民への避難命令に関する記述 (3)米軍上陸に関する現認記述 (4)「集団自決」した住民についての現認記述
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2343.html
「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 陣中日誌とは(作戦要務令より) ソース http //www.warbirds.jp/sudo/sakusen/s3_9.htm アジア歴史資料センターに原本の画像複数あり その1つ 件名標題(日本語) 作戦要務令 第3部 階層 防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>大日記乙輯>昭和15年 「検閲典範令原本綴 共12冊 第四冊」 レファレンスコード C01002501500 言語 jpn 資料作成年月日 昭和15年05月17日 規模 156 http //www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default ID=M2006090103370184148 「第9篇 陣中日誌及び留守日誌」は、複写P.149より 作戦要務令 第三部 第9篇 陣中日誌及び留守日誌 第308 陣中日誌及び留守日誌作成の目的左の如し 甲、 各部隊若しくは各人の経歴、及び遭遇したる実況、ならびに所見を記載し、戦史の資料と為す 乙、 編制装備、教育、補給、給養、衛生、武器、弾薬、器材、器具、材料、燃料、化学戦資材、被服、装具、馬等に関する軍事の経験を録し、将来改良の資料と為す 第309 甲の目的達成の為には、左記事項に就き記載す 一、 毎日の位置(某地を去りて某地に停る等と記し、各地に分散して位置せるときは詳細に記述す) 二、 作為せる命令、報告、通報中主要なるもの 三、 行軍、宿営に関する事項 四、 戦闘の景況(地上及び空中戦闘の顛末を詳細に記載し、又隣接部隊及び協力部隊との関係ならびに連絡施設の状態を明確ならしめ、且つ緊要なる時期に於ける部隊の位置要図を添附す) 五、 人馬の異動及び現員の概要転任(転出入の実月日を記す)死傷(将校、各部将校、准士官は官職、氏名を、下士官及び兵は其の所属部隊に在りては官等級、氏名を、上級部隊に在りては其の数を、又、馬は用役別、頭数を録す)勲功者の事績等 六、 主要なる時期に於ける部隊の編成表及び将校、各部将校の職員表 七、 宣伝に関する事項 八、 其の他1日間に於ける緊要事項等 記載順序は前掲の順序に拘泥することなく、生起せる事実の経緯を明瞭ならしむるに勉め、要すれば要図を附し、時刻(時々日出時刻、日没時刻をも記入す)、地点を詳記す。又、自己の部隊に影響せる事項(気象、明暗、地形、道路、住民の状態等)は適宜附記す。又、飛行部隊、気球部隊等は毎日の飛行記録又は昇騰記録を添附す軍隊区分に依り自己の指揮に入りたる他部隊の状況は固有の部下部隊に準じて記載し、一時指揮を脱したる固有の部下部隊の行動は要すれば後日輯録(しゅうろく)して之を補修す 第310 乙の目的達成の為には、左記事項に就き記載す 一、武器、弾薬、器材、器具、材料、燃料、化学戦資材、被服、装具等に関する事項 二、編成装備及び諸規則の作戦に及ぼしたる影響 三、補給、給養、及び衛生に関する事項 四、教育及び軍紀に関する事項 五、馬其の他軍用動物に関する事項 六、非常の際取りたる処置等 記述は単に毎日の経験に止むることなく、勉めて某期間の経験を綜合し、其の判決を明かならしむ 第311 戦闘詳報を作為せる場合に於いては、陣中日誌と重複する事項の記載を省略することを得。然るときは其の旨を附記し、戦闘詳報写を陣中日誌に合綴す 第312 陣中日誌は左の各部隊に於いて作製す 大本営の各部及び各課 高等司令部(編制上、部、課に区分するものは各部、課) 連隊、戦隊、大隊、中隊(之に準ずる部隊、其の他中隊を成さざる小隊、長時日独立して行動する小隊等を含む) 連(大)隊の段列及び材料廠 航空地区司令部、兵站地区司令部、野戦輸送司令部、野戦鉄道司令部、鉄道監部、鉄道輸送司令部、停車場司令部、船舶輸送司令部、碇泊場監部、碇泊場司令部、軍補給諸廠、及び此等の支部又は支廠 其の他の独立部隊(編制上、司令部、本部、班等に区分するものは其の区分毎) 師団及び独立して作戦する部隊の前方行李を纏めて行動せしむるときは、其の指揮官に於いて其の期間に限り記述す 留守部隊に在りては、乙の目的を達する如く、概ね前項の区分に従い留守日誌を作製す 第313 陣中日誌及び留守日誌は、各部隊動員令受領の日若しくは之に準ずる日より、毎日記載す。而して、特設部隊等に在りては、先ず編成委員之が記載を始め、後之を主任者に移すものとす陣中日誌及び留守日誌は事件の発生するに従い直ちに之を記載するを要す。日誌記載の終局は各部隊復員完結、若しくは之に準ずる日とす 第314 受領せる命令、報告及び通報、ならびに住民、間諜等より得たる情報、死傷表、兵器、瓦斯防護資材、及び燃料損耗表等は、其の要領を摘み、記事の後に低書して参照に便ならしむ。但し、各原本は種類毎に一括して保存す極秘に関する計画、特別任務等にして、当時之を日誌に記載するを不利とするものは、別冊とし特別の取扱を為し、後日其の妨なきに至り日誌に転載す 第315 各部隊長は、適時陣中日誌、留守日誌を点検し、捺印又は署名すると共に、時々部下部隊の日誌を点検し要すれば所見を記入するを要す 第316 陣中日誌は約1箇月毎(戦闘継続し記述の遑なきときは其の一段落後直ちに)に、留守日誌は復員完結若しくは之に準ずる日以後、速やかに順序を経て一部を大本営(参謀本部)に提出し、一部を其の部隊に保管するものとす 第317 陣中日誌及び留守日誌は通常規格版罫紙を用い、其の上部輪郭の内側に約3糎を隔てて横線を画し、之と上部輪郭との間に日時、気象、宿営地其の他記事中重要なる事項を摘記して見出と為し、横線の下方に記事を記載す。陣中日誌の用紙は、時宜に依り適宜の紙を使用し、又炭酸紙等を用いて複写することを得 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1467.html
分析:陣中日誌 海上挺進第三戦隊
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2251.html
昨日 - 今日 - 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 1945年辻政弘中尉が戦場で執筆した原本「本部陣中日誌」と 1970年谷本小次郎元特幹伍長を中心にして赤松隊友会の合議でつくった改変版「戦隊陣中日誌」との異同を検討しました。 谷本小次郎氏は、「編集のことば」で次のように綴っています。 幸いに基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三中隊陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取り纏め聊の追記誇張・削除をも行わず、正確な史実を世代に残し歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れる事を念願します。 しかし、「聊(いささか)の追記誇張・削除をも行わず」には首を捻らざるを得ません。 なお、谷本文中にある「第三中隊陣中日誌」は、沖縄戦関係資料閲覧室で閲覧できること、ご教示をいただきました。→書誌データ 記述の対照 2009.9.18更新 (1)1945(昭和20)年3月23日~3月31日 <暫定HTMLファイル> (2)1945(昭和20)年4月1日~4月30日 <暫定HTMLファイル> (3)1945(昭和20)年5月1日~5月31日 <暫定HTMLファイル> (4)1945(昭和20)年6月1日~6月30日 <暫定HTMLファイル> (5)1945(昭和20)年7月1日~7月31日 <暫定HTMLファイル> (6)1945(昭和20)年8月1日~(昭和21)年1月10日<暫定HTMLファイル> 掲示板投稿欄へ 赤松嘉次資料 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2252.html
本部陣中日誌 海上挺進第三戦隊本部陣中日誌はコチラで閲覧することができます。 沖縄戦関係資料閲覧室 http //www.okinawa-sen.go.jp/ 書き起こし 本モノの赤松部隊「陣中日誌」 防衛庁 戦後資料 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-5-202 収蔵文書名: 簿冊名: 海上挺進第3戦隊記録(付人名簿)(※) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄209 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305202 ページ3~35 その<複製資料記録票>より 本資料は終戦後海上挺進第三戦隊に配属されていた木林明中尉(戦後死亡)が海上挺進第三戦隊本部要員として(副官的業務担任)記述したものである。(赤松氏談) それを元海上挺進第三戦隊長赤松嘉次少佐(53期)が所持しているものである。 (昭和41年3月4日 陸1佐 伊藤常男) 本記録は当時のメモを基礎として記述されたものと思われる。内容は相当正確と認められる。(2ないし4字不明)も手を入れたものと思われる。 41.3.4 伊藤常男 「陣中日誌」記録者が木林明中尉だと読み取れる文章だが、谷本小次郎氏によって記録者だとされているのは辻政弘中尉である。 幸いに基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた 本部陣中日誌 (「編集のことば」) 木林中尉は、途中からバトンタッチして辻中尉を引き継いだのか、あるいは辻中尉が戦場陣地で書き溜めたメモを、終戦直後の収容所生活中に整理したのか不明である。 なお、「陣中日誌」原本所有者である赤松嘉次元戦隊長は、記録者が辻政弘中尉であると認めている。 出撃準傭から船舶自沈にいたるまでの状況を、戦闘中、基地勤務隊の辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』に追ってみよう。(「《私記》私は自決を命令していない」)。 (追記)<複製資料記録票>の、陣中日誌筆者は木林中尉であるという内容は、正しいかどうか。私は谷本氏、赤松氏のその他の証言に照らして、陣中日誌記述者は辻政弘中尉であって木林中尉ではないと思います。木林中尉はバラバラの紙に書き留めてあった辻中尉のまさしく陣中で書いた日誌を整理し、写本した人物である可能性があります。また別に、木林中尉が記述者であるとした文書「海上挺進基地第3大隊戦闘概要」が見つかりました。その主たる文章の筆跡は「陣中日誌」のそれとは全く違います。但しそれをもって、「陣中日誌」の筆跡が木林中尉のモノではないとは即断できません。「海上挺進基地第3大隊戦闘概要」は第32軍残務整理部がリライトして木林中尉が校閲したものでしょう。書き込みを入れた筆跡者こそ木林明中尉だと思われます。 なお別に上記の資料からの手書き写本と思われる資料もある。文字解読の助けとした。 本モノの赤松部隊「陣中日誌」はその結果です。 沖縄戦関係資料閲覧室 http //www.okinawa-sen.go.jp/ 防衛庁 戦闘詳報 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-2-96 収蔵文書名: 海上挺進第3戦隊渡嘉敷島戦闘概要(昭和20.3~20.8) 簿冊名: 沖縄方面部隊史実資料綴 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄021 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0302096 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1184.html
通088 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 イ 渡嘉敷島について(イ) (赤松命令説を否定等する文献)* c 「陣中日誌」(昭和45年)谷本小次郎著(ha) 「陣中日誌」は,第三戦隊の隊員であった谷本小次郎によって編集されたものである。 「陣中日誌」には,昭和20年3月28日の欄に 「自決は翌日判明したるものである。」 との記述があり,その後に 「三月二十九日曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に酒された昨夜より自訣したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自訣,後判明)首を縛った者,手榴弾で一団となって爆死したる者,棒で頭を打ち合った者,刃物で頸部を切断したる者,戦いとは言え言葉に表し尽し得ない情景であった。」 との記述があり,軍の命令を示す記載はない(甲B19・13頁)。 <被告らの主張> <原告らの主張> 戻る | 次へ 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1427.html
今日の訪問者 - 赤松資料 改本・谷本版 陣中日誌 海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成 新情報 防衛研究所資料「沖台・沖縄405」がWEB上で閲覧可能であることが分かりました。 沖縄戦関係資料閲覧室 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130 【データ】 防衛庁 陣中日誌 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-1-130 収蔵文書名: 簿冊名: 海上挺進第3戦隊 陣中日誌(複製版)(昭和19.8~21.1) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄405 陣中日誌 海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成「陣中日誌」ならぬ「陣後日誌」 「正しい歴史」を作りたい 目次 「陣中日誌」ならぬ「陣後日誌」 「陣中日誌」と命名するものの、この文書の実体は25年後の昭和45(1970年)に、皆の知恵を寄集めて書かれた「陣後日誌」である。大阪地裁「集団自決」裁判書証甲B19。大阪地裁判決における評価。大阪高裁判決における評価。 (※) WEBで陣中日誌を解読した「はい 青木です!」さんによれば、 ……『陣中日誌』は,戦場における部隊の「公的」な記録=戦記である。この第一次資料の価値がある、一般的に『陣中日誌』は,部隊の指揮班の准尉が書くということになっている。第五師団第一建築輸卒隊の場合 ,本部書記の小林工兵伍長が書いたものと推定される。ウソも誇張もない代わりに「事実」の羅列である。多くの人の眼に触れるだけに,感情的な記述も,感想といった記述もない。…… http //mx32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/jintyu/jintyu1.html ということだが、この赤松隊『陣中日誌』は様相を全く異にするようだ。 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 「正しい歴史」を作りたい この『陣中日誌』の編纂計画について赤松元戦隊長は、発刊2年前の1968.4.8琉球新報のインタビューで次のように答えている。 "命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい ‥‥広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。 しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。 ‥‥集団自決は命令したのか。 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。 ‥‥スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。 ‥‥なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。 ‥‥戦記の発行を計画しているとか。 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。 目次 改本・谷本版「陣中日誌」海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成 分析:陣中日誌 海上挺進第三戦隊 予定 (1)渡嘉敷島戦闘の概要 赤松嘉次 昭和二十年十一月 沖縄本島収容所において元海上挺進第三戦隊長 赤松嘉次 (2)編集のことば 谷本小次郎 昭和四十五年八月十五日 元海上挺進第三戦隊本部付 谷本小次郎 (3)無題 斉藤義雄 昭和四十五年六月十八日 元海上挺進戦隊教育隊長 斉藤義雄 (4)降伏文書 (5)(降伏勧告書) 軍情報隊長 昭和二十年八月二十一日 軍情報隊長 大佐 塚本保次 (6)(海上挺進第三戦隊の教育と編成) (7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上) 昭和19年8月25日から昭和20年3月まで (8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中) 昭和20年4月から昭和20年6月まで (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) 昭和20年7月から昭和21年1月10日まで (10)二十五周忌慰霊祭弔辞 赤松嘉次 昭和四十五年三月二十八日 元海上挺進第三戦隊長 赤松嘉次 (11)海上挺進戦隊顕彰之記 斉藤義雄 昭和四十二年十二月三日 元教育隊長 斉藤義雄 沖縄戦資料index>赤松嘉次資料
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1722.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-089 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(2) 集団自決に関する文献等 イ 渡嘉敷島について(イ)(赤松命令説を否定等する文献) 赤松命令説について否定し, 又はその存在の推認を妨げる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。 c 「陣中日誌」(昭和45年)谷本小次郎著(2ha) (判決本文p177~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 「陣中日誌」は, 第三戦隊の隊員であった谷本小次郎によって編集されたものである。 印刷された「陣中日誌」には, 昭和20年3月28日の欄の終わりに 「[5]小雨の中敵弾激しく住民の叫ぴ阿修羅のごとく陣地後方において自訣し始めたる模様」 とある次の行に注として 「注 自訣は翌日判明したるものである。」 との記述があり, その後次の行に 「三月二十九日曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に酒された昨夜より自訣したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自訣, 後判明)首を縛った者, 手榴弾で一団となって爆死したる者, 棒で頭を打ち合った者, 刃物で頸部を切断したる者, 戦いとは言え言葉に表し尽し得ない情景であった。」 との記述があり, 軍の命令を示す記載はない(甲B19・13頁)。 なお, [5]の現在進行形の記述と注にはずれが感じられるが, 体裁からは, 注が日誌自体に何時なぜ記載されたかは不明であリ, 「後判明」とされる阿波連の自決者数の記載等についても同様である。 (引用者注) 「陣中日誌」の評価は、判決文「集団自決に関する文献等の評価について」の当該項参照。 目次 戻る 通2-089 次へ 通巻