約 59,693 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2344.html
沖縄戦資料index 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 陣中日誌とは(作戦要務令より) 戦闘要報と戦闘詳報(作戦要務令より) (6)(海上挺進第三戦隊の教育と編成) 改本『陣中日誌』の付録のひとつ。この場合は「挺隊」としての「第三戦隊」 第三戦隊職員表 <沖台 沖縄021>の内容物のひとつ。この場合「第三戦隊」は、第三勤務隊、特設水上勤務隊を含んだ後期の「第三戦隊」で、部隊の「職員」として、この場合は「将校」をあげている。 赤松隊関係「史実調査参考資料報告」 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(1) 海上挺進第三戦隊「第三中隊戦闘要報控」(2)(未作成) 特設水上勤務第104中隊軍夫編成表(昭和19.9)(※) 赤松嘉次・赤松隊資料 海上挺進基地第3大隊戦闘概要 本モノの赤松部隊「陣中日誌」 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端 資料沖縄作戦 殉国日記 index 作戦と戦闘経緯 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2254.html
昨日 - 今日 - 本モノの赤松部隊「陣中日誌」 海上挺進第三戦隊 本部付辻政弘記「本部陣中日誌」 これを素材にして1970年、小谷小次郎元特別幹部候補生伍長を中心にした赤松隊戦友会が「海上挺進第三戦隊陣中日誌」を編集した。赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 ソース 【書誌データ】 防衛庁 戦後資料 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-5-202 収蔵文書名: 簿冊名: 海上挺進第3戦隊記録(付人名簿)(※) 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄209 【閲覧】 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305202 ページ3~35 【表紙】 沖縄作戦 海上挺進第三戦隊記録 (付)人名簿 元海上挺進第三戦隊長 元陸軍少佐 赤松嘉次 受付印「戦史室 受 41.4.23 付 第141号」あり 【用箋】 ページ3~35 「陸軍」「黒田国光堂 納」 ※現「コクヨ」 本モノの赤松部隊「陣中日誌」ソース 1945(昭和20)年3月三月二十三日 晴 三月二十四日 晴 於渡嘉志久 三月二十五日 晴 於渡嘉志久 三月二十六日 晴 於渡嘉志久 旭沢 三月二十七日 晴後雨 於旭沢 北方複廓陣地 三月二十八日 三月二十九日 三月三十日 三月三十一日 1945(昭和20)年4月四月一日 晴 於北方廓陣地 四月六日 曇 於北方廓陣地 四月七日 晴 於北方廓陣地 四月八日 曇 於北方廓陣地 四月九日 曇 四月十一日 曇 四月十三日 晴 四月十四日 四月十五日 四月二十五日 四月二十六日 四月三十日 1945(昭和20)年5月五月四日 晴 五月五日 五月十日 晴 無風 五月十一日 曇 五月十二日 曇 五月十三日 晴 五月十四日 晴 五月十五日 雨 五月十八日 曇 五月十九日 曇 五月二十三日 五月二十四日 1945(昭和20)年6月六月八日 六月十四日 六月七日 六月四日 六月八日 晴 六月十三日 六月十八日 晴 六月廿日 曇 六月十七日 六月二十一日 六月二十三日 六月二十四日 六月三十日 1945(昭和20)年7月七月一日 晴後曇 七月二日 晴 七月四日 七月五日 七月六日 七月八日 七月十日 七月十八日 七月廿日 七月廿一日 七月二十九日 七月三十日 1945(昭和20)年8月八月三日 八月四日 八月五日 八月八日 八月九日 八月十日 八月十一日 八月十二日 八月十三日 八月十六日 八月十七日 八月十八日 八月二十日 八月二十二日 八月二十三日 1945(昭和20)年3月 三月二十三日 晴 於 渡嘉志久 一、敵機延三○○機位慶良間列島ニ爆撃並ニ銃撃ヲ為ス投弾目標ハ主ニ地上棲息設備トスル如ク民家並ニ渓谷ニ対シ爆弾並ニ焼夷弾ヲ投下シ各所ニ山火事ヲ発ス 二、我方ノ損害 戦死者 拾壱名(艇隊二、勤ム隊三 防召四、水勤一) 横山 本岡候補生 小杉、伊藤、長町上ト兵 負傷者 拾壱名(艇隊 樺山 藤原、世古候補生) 勤ム隊 服部、中道上ト兵 水勤三名 防召三名 兵器糧秣其ノ他 舟艇 小破二(本一、一一)(※) 軽機二、小銃七(第一中隊兵器庫並撃弾ノタメ焼失) 糧秣 第一中隊糧秣庫焼失若干搬出 建工器材若干 第一第三器材庫焼失 (引用者注)※「本一、一一」は「本部1艇、第一中隊1艇」の意味か 三月二十四日 晴 於渡嘉志久 一、敵艦載機五○、爆撃機常時在空シ基地設備地上陣地棲息設備山林谿谷ニ対シ爆撃並ニ焼夷弾投下並ニ機銃掃射ヲ為ス 二、敵情 軍情報ニ依レバ敵機動部隊ハ首里基点一六○度五○浬ノ基点ニ接近シアルモノノ如シ 命令 左ノ日命ヲ下達ス 陸軍中尉 田所季彦 右ノ者渡嘉敷警備隊長命シ防召並連絡所勤ム者ヲ指揮シ渡嘉敷村落ノ警備ニ任ズベシ 三、損害 一、戦傷 勤ム隊 壱名 川井衛生兵 二、兵器 舟艇 大破五 小破二 三、器材 若干 四、糧秣 若干 三月二十五日 晴 於渡嘉志久 一、敵機常時在空三○~四○機主目標ヲ基地設備並ニ地上陣地ニ対シ爆弾焼夷弾投下銃撃モ加フ 敵機動部隊ハ巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡侵入 我ガ地上陣地並ニ基地設備ニ対シ猛烈ナル艦砲ヲ加フ 船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ島ヨリ橇船ニテ阿波連ニ上陸後渡嘉志久本部ニ来隊セラル 二、転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス 勤ム隊主力整備隊一部並ニ水上勤ム隊ノ主力ハ船舶〓長ノ意考ニ依リ渡嘉敷島ニ残留敵ヲ邀撃ニ訣ス 二二:二○ 部隊全員ヲ以テ舟艇泛水ノ作業ヲ実施ス 我方ノ損害 人員 戦死傷ナシ 兵器銃器械 糧秣ニ若干ノ焼失アリ 基地設備 若干 損害アリ 三月二十六日 晴 於渡嘉志久 旭沢 一、渡嘉志久基地全舟艇ノ泛水並ニ出撃準備完了スルモ泛水作業悪ルク泛水ニ五時間ヲ要シ出発準備完了ハ払暁ニ近ク然モ敵駆逐艦、魚雷艇慶良間海峡ニ遊弋シ那覇転進ハ不可能ノ状態トナレハ部隊ハ他日ヲ期シ涙ヲ呑ンデ三中隊ノ二艇ヲ残シ全舟艇ヲ渡嘉志久湾ニ自沈ス 二、阿波連基地ニアル第一中隊ハ泛水ハ阿波連湾内ニ敵駆逐艦並ニ魚雷艇アリテ泛水不可能ナリ 三、 敵機常時二○~三○爆撃並ニ渡嘉志久湾ニハ敵艦艇数隻ヲ以テ艦砲射撃ヲナス攻撃目標ハ自沈舟艇、地上陣地、棲息設備ニシテ猛烈ヲ極ム 四、部隊本部旭沢ニ転移ス、船舶団長、基地隊長鈴木少佐外一名那覇帰隊ノタメ舟艇二ヲ以テ出発ス 中島少尉、竹島候補生、操縦手トシテ 整備隊下士官一、兵一ハ助手トナリ出発ス 五、損害 人員 戦死者 水勤隊軍夫 二名 負傷者 三島候補生 一名 三月二十七日 晴後雨 於旭沢 北方複廓陣地 一、敵艦載機ハ常時二○~三○機在空シ銃撃爆撃熾烈ヲ極ム 船舶ハ慶良間列島付近ニ遊弋シテ船種不明ニシテ一○○数隻ナリ 二、○二○○ 部隊長以下本部主力ハ旭沢ヲ撤退渡嘉敷北方複廓陣地ニ向フ 部隊重要書類ハ整理ヲナシ旭沢ニ埋設ス 三、○四○○ 約一ケ中隊ノ各敵ハ渡嘉敷、留利加波ノ茶畑付近ニ進出 部隊ハ速ニ警戒配備ニ着ク 四、南少尉以下五名儀志布付近遭難ノ三池少佐以下五名ノ捜索ニ出発 五、第一中隊ノミ転進命令ヲ受領スルモ敵艦船ノ監視厳ニシテ泛水ヲ果サズ止ムヲ得ズ全艇ヲ自爆焼却ス 六、 戦死八名 勤ム隊 富塚春次郎少尉 岩田淳一伍長 三江忠 江淵満 上ト兵 木本春也 鈴村賢三 一ト兵 所在不明、 勤務隊 川村清喜上ト兵 乾房次郎一ト兵 艇隊 世古候補生 水勤 六名 三月二十八日 一、陣地構築ヲ終日実施ス 二、第三中隊主力廓陣地ニ到着 三、渡嘉敷、渡嘉志久、留利加波各地ニ上陸セル約一ケ大隊ノ敵ハ廓陣地ニ侵入二三六高地附近に迫撃陣地ヲ構築シ同砲並ニ艦砲射撃ヲ以テ我ガ陣地ニ攻撃ヲ加フ 四、損害 戦死 勤ム隊 二中隊 多田一ト兵 水勤隊 阿部軍曹以下五名 防招 小嶺上ト兵以下八名 村民 若干 負傷 辻中尉 山田上ト兵 水勤隊 若干 防招 若干 村民 若干 五、辻中尉負傷ノ為田所中尉副官業務ヲ代行ス 六、独立第三大隊附新海中尉高塚少尉戦死ノ為第三勤ム小隊長ニ命ス 七、通信機ノ状況 破壊三号甲無線機一、五号無線キニ 三月二十九日 一、○七○○ 敵迫撃砲ヲ以テ我陣地ニ対シ猛烈ナル集中射撃ヲナスモ我ニ損害ナシ ニ、敵機終日上空ニ在リ時々銃撃ヲ加フ 三、知念少尉以下五名留利加波方面敵情偵察ノ為出発 四、楠原主計中尉以下五○名渡嘉敷並ニ旭沢内兵舎ニ糧秣蒐集ノ為出発 五、損害 戦死 新垣上ト兵以下六名 戦傷 古波蔵上ト兵以下三名 三月三十日 一、敵機ノ飛来ハ連日ト同ジク二○~三○機ナリ ○三一○頃ト○五○○頃ノ二回ニ渉リ東海上ニ爆音ト敵艦砲交錯シソノ熾烈ナルハ我ガ特攻隊ト判断ス 二、第一中隊未ダ到着セズ依而張間中尉以下八名阿波連方面偵察ニ出発 (引用者注)※依而=よりて 三、楠原主計以下糧秣蒐集 四、敵ハ渡嘉敷、渡嘉志久、留利加波ノ海岸上、撤退セリ、一部阿波連ニ上陸セル敵ハ依然トシテ陣地ヲ構築シ無差別砲撃ヲナス 五、我方損害ナシ 六、知念少尉以下三名渡嘉志久隊本部ノ偵察ニ出発 七、防召新垣常雄精神異常ヲ来シ陣地ヲ出テ所在不明 三月三十一日 一、敵戦斗キ並ニ爆撃キ常時一○~二○機上空ヲ旋回 ○九○五 阿波連沖ニ空母アル模様 ○九ニ五 渡嘉敷沖ニ敵潜水艦二隻浮上シアリ 二、慶良間海峡ニ敵艦船 A二 B五 C九 D一五 上陸用舟艇五六隻ニテ埋マル 外飛行艇三○機アリ 三、儀志布島ニ戦車一 兵隊三○名上陸セリ 四、各隊ヲシテ別紙要図ノ如キ監視哨ヲ設置セシメ任ニツカシム 五、中島軍曹以下渡嘉志久方面ノ弾薬蒐集ニ出発 六、部隊長以下五名各陣地並ニ敵状偵察 七、楠原主計以下五十名渡嘉志久旭沢ノ糧秣蒐集ニ出発 八、第一中隊長以下主力ハ阿波連ヨリ到着陣地配備ニ着ク 1945(昭和20)年4月 四月一日 晴 於北方廓陣地 一、早朝ヨリ一八○○ノ間在空ノ敵機二○~三○機ニシテ又飛行艇一~二渡嘉敷島周辺ヲ偵察セリ。 二、○九○○ D一渡嘉敷港ニ入港 一○一○ 那覇方向ニ去ル。 三、○九二○ 阿波連湾内ニハB二ヲ主力トスル其ノ他艦船二○数隻停泊中 四、一○一五 慶良間海峡ノ敵艦船 五、 1、留利加波正面C二、D五 T六、舟艇(我SSニ依ルモノ)八其ノ他小型舟艇 航行偵察ナリ 海峡北口ニハ防潜網アリ中央浮標三ヲ認ム 2、渡嘉志久正面、A二、C二、D二、病一、舟艇一○ 警戒艇四、T二 3、視界不良ナルモ本島方面ニ移動中ナルモノノ如シ 六、一一二○ D一 那覇方面ヨリ阿波連方面ニ向フ 七、一一三○ C一、T一 那覇方面ヨリ留利加波ニ停泊 八、一一三○ 座間味東海岸ニ敵兵四○~五○名上陸 九、一三一五 A二儀志布島附近ヨリ那覇方面ニ進行中 (十)、一四三五 阿波連湾内ノ艦船続々ト南進中 (十一)、一七二○ 小型A二 BO二 小型艦船二五 T八 アリ出航ノ模様ナシ (十二)、一八五○ 南方水平線ヨリ沖縄本島砲撃中 (十三)、二三○○ 黒島東北方、渡嘉敷島東方ヨリ高射機関銃ノ射撃音〓ニ慶良間海峡ノ船舶煙幕ヲ構成中 四月六日 曇 於北方廓陣地 第三連絡艇隊命令 一、 阿波連方面ノ敵状ハ依然トシテ詳カナラズ 二、 隊ハ同方面ノ敵状捜索並ニ行方不明者ノ捜索ヲ実施セントス 三、張間中尉ハ捜索隊長トナリ第四次人員ヲ指揮シ本六日一三時ヨリ向フ七日余ノ予定ヲ以テ前項捜索ニ任スベシ 四月七日 晴 於北方廓陣地 松作命第二号 一 第一中隊ハ現在配属中ノ防召員全部ヲ整備隊ハ配属防衛隊員二名ヲ残置シタル残余ニ原所属ニ復昄セシムベシ 二 部隊ハ食糧確保ノ為明四月八日ヨリ蘇鉄澱粉ヲ採取セントス 三 第二中隊ハ連下少尉以下五名ヲ明日八日○八○○迄ニ本部前ニ差出シ前項採取ニ任ズベシ 四 防衛隊長ハ防衛隊員ノ大半ヲ連下少尉ノ指揮下ニ入ラシムベシ 五 水上勤務隊ハ軍夫五○名ヲ連下少尉ノ指揮下ニ入ラシムベシ 六 細部ニ関シテハ別ニ示ス 七 整備隊ヨリ兵一 防衛隊長ハ隊員一 水勤隊ハ軍夫三ヲ明八日○八○○迄ニ本部前ニ差出シ楠原主計中尉ノ指示ヲ受ケ野菜採取ニ任セシムベシ 八 明八日夕食ヨリ各隊ハ雑炊ニハ粥食ヲ実施スベシ(定量ハ一人当三○○瓦トス) 九 各隊ノ将校全員明八日○七四○迄ニ本部ニ集合スベシ 一○ 各隊ハ野菜畜類其ノ他ノ物資ヲ自由ニ集収スル事ヲ厳禁ス 一一 予ハ部隊本部ニ在リ 部隊長 第一中隊 一 対敵陣地形勢以前ニ同ジ 敵艦船合計百四十一隻慶良間海峡ニ停泊飛行艇二十七 本日飛行艇慶良間海峡附近ノ哨戒繁シ 一○五○ヨリ一五四○ノ間駆逐艦一五隻那覇ヨリ慶良間海峡ニ入ル 四月七日 -(引用者注)※後の書き込みか 一○五五ヨリ十四三五ノ間 巡洋艦五隻慶良間ヨリ那覇方向ニ往復セリ ※(「復往」と書いて「レ」点あり) 一四一五ヨリ一五二○ノ間 戦艦四隻沖縄本島慶良間ノ間ヲ往復セリ 一二○○ 阿波連斥候ノ報告ニヨリ阿波連部落内ニ敵発見一六○○本部ヘ報告ノ為伝令二名出発 二 陣地攻築 所在不明者ノ佐藤少尉並ニ世古候補生左図ノ場所ニテ戦死セルコト判明セリ (地図アリ) □ノ中ニ×印 佐藤少尉ノ戦死ノ場所 × 世古候補生 佐藤少尉ハ三月二十七日ニ斬込ニヨリ戦死セリ 世古候補生年月日不明ナリ 整備隊 一、状況 前日ニ同ジ 行動 一、柴田伍長以下五名基地隊本部及ビ船舶團ニ於テ連絡業ムニ從事 二、土肥技術伍長那覇転進 三、中隊長以下七名防空壕ノ構築及諸業ム給養ニ任ズ 四、第一小隊白根少尉以下一七名(内防召五名)陣地構築及戦斗配置ニツク 五、第二小隊小川技術少尉以下一一名陣地ノ構築及戦斗配置ニツク 六、美能田伍長以下五名渡嘉敷監視哨ニ於テ監視ニ任ズ 七、大口伍長以下一二名(内八水勤)坑木ノ伐採作業) 八、鈴木技術軍曹以下六名(内防召二)阿波連方面捜索 九、中島兵長以下六名楠原主計中尉ノ指揮下ニ入ル 一○、金城以下二名(水勤)炊事要員トシテ配属 一一、平尾伍長以下以下六名(内水勤五)防空壕掘開作業 一二、中隊長以下六名一六○○~○一二○渡嘉敷 旭沢 渡嘉志久方面器具弾薬ノ蒐集 一三 防召座間見嘉那?本部復皈 一四 戦死一、杉本嘉一上ト兵死体発見ニ付戦死ト確認 不明 伊藤技術軍曹以下六名 四月八日 曇 於北方廓陣地 1、陣地設備ノ強化――弾薬糧秣器材等ノ集積確保(堆積場所外ヲ調整ノ事) イ、糧秣集積ノ現況ハ現在人員ノ約二ヶ月分ヲ有スルノミ ロ、米麦ノ収穫ハ僅少ニシテ村民ハ自給自足ヲ満シ得ズ ハ、本日夕食ヨリ粥食又ハ雑炊(定量三百瓦以内)ヲ以テ給与ヲナスコト(出来得ル限リ食延シヲ為スコト) 二、本日ヨリ部隊本部ニ於テ蘇鉄ノ採取ヲナシ食糧確保ヲ計ルニ付キ各員ハ陣地攻築ニ専念スルコト 2、敵輸送船攻撃! 現在目前ニ存シ敵輸送船ヲ攻撃スル時期ハ陣地ノ強化及各種資材ノ確保ヲ圖リシ後ニ於テ実施ノ予定ナリ 一中隊 一、彼我ノ形勢以前ニ同ジ 敵艦隊ノ合計八十八隻飛行テイ十一慶良間ニ碇泊飛行艇終日慶良間ヲ哨戒 約二機位ヲ以テ渡嘉敷島西端及阿嘉島ノ東岸ヲ飛行 ○七四五ヨリ○八一五ノ間 敵輸送船九隻慶良間ヨリ那覇方面ニ向ッテ進行ス 一○○五ヨリ約一○分間ノ間 戦艦二隻那覇ヨリ慶良間海峡ニ入ル ○九三○ 前島東方ニ於テ大小艦艇約五○隻ノ集結状態ヲ視ル 一八三○ 慶良間海峡ニ碇泊中ノ小型艦艇ヨリ煙幕発煙阿波連斥候ノ偵察ニヨリ ○七○○ 戦艦駆逐艦各一隻阿波連湾ニ入港 一六○○ 夜上陸用舟艇一湾入港五名上陸 一九○○ 阿波連部落敵兵影ナシ 四月九日 曇 陣地構築 ○七四○ 所在不明ノ岸川少尉以下五名無事陣地ヘ皈隊ス 四月十一日 曇 松作令第二○号 一 渡嘉敷監視哨ヨリ報告ニ依レバ敵兵約二十名ハ渡嘉敷港ニ上陸セリ 二 新海中尉ハ軽機二ヲ含ム部下十名及整備中隊ヨリ差出シノ一ヶ分隊ヲ併セ指揮シ渡嘉敷ニ到リ陣地ニ占領シ各種物資蒐集ノ為差出シアル部隊将兵ノ収容ニ任ズベシ 三 整備隊長ハ一ヶ分隊ヲ本部前ニ差出シ新海中尉ノ指揮ニ入ラシムベシ 四月十三日 晴 一、敵状況 ○七○○ ケラマ海峡ノ艦船B一 D六 大小舟艇五四 飛艇一八 ○八五○ T一○那覇方向ヨリ阿波連方向ニ向フ ○九○○ C一 D二 機?城島付近ニ遊弋中 一○二○南ニ進中 一○一○ LST一○ 残波岬方向ヨリ阿波連方向ニ南下中 一二一○ C三 T一四 前島前方ヲ南下中 一六二○ 小型艇一 トカシキ付近ニ入港人員約十名武装,軽 一七一○ A二 阿波連沖ニ碇泊ノ模様ナリ 一八○○ 留利加波ニ小銃ノ射撃音〓エ小型舟艇三ヲ以テ約三十名上陸ノ模様ナルモ一九三○頃退去セリ ○六○○~二○○○間 グラマン四機飛行艇一~二ハ絶ヘズ哨戒セリ 四月十四日 1、渡嘉敷ニ於テ本十五日午前中ノ爆雷運搬ニ趣キシ第三中隊木村候補生ハ作業中敵弾ノ為戦死ス 2、第一中隊加藤、塚本上等兵ハ茶畠附近ヨリ部落入口附近ニ到リ敵弾ノ為戦死ス 3、鈴木少尉以下二名 林一等兵捜索ノ為渡嘉敷方向ニ向ケ出発 4、鈴木少尉以下二名 林一等兵ノ死体ヲ渡嘉敷旧農業会裏山凹地ニ之ヲ発見シ帰来ス 四月十五日 ○七四○ B二 D二 T七 前島東方海面ニアリ トカシキ沖ニC一 D二 哨戒艇二 碇泊ノ模様ナリ ○九三○ 渡嘉敷部落ニ非武装兵三○位上陸 掠奪ノ上一一○○退去ス 四月二十五日 ○九二○ 大発一兵員約三十二名ハ渡嘉敷湾ニ上陸セルモ一一○○頃全員乗艇ノ上阿波連方向ニ進ム 四月二十六日 一八三○ 安楽候補生旭沢分哨伝令トシテ帰来シ敵約十五名旭沢街道ヲ渡嘉敷ニ向ケ前進中ナルヲ高橋哨長之ヲ 発見スルヤ単独軽機ヲ抱ヘ敵ノ前面ニ進出セントスルヲ 敵ニ発見セラレ自動小銃ニテ射撃セラレ其ノ第一弾不幸ニモ軽機ノ弾納下部ニ命中セル為発射出来ズ 之ヲ代エントスル折敵ノ手榴弾ニ依リ全身数ヶ所ニ其ノ破片ヲ受クルモ機ヲ失セズ腰ニ吊ル軍刀ヲ引抜キ正ニ第一兵ヲ打斬ラントスルトキ敵ノ小銃連続シテ右大肋部ニ命中起ツヲ得ズ遂ニ敵ヲ遁走セシムルノ止ムナキニ至リ高橋哨長無念ニモ重傷ヲ負ヘリ 四月三十日 ○七○○ 敵艦船合計九十四隻飛行艇三十慶良間海峡ニ碇泊 一○三○ 敵約三十名渡嘉敷湾ニ上陸 一一三○頃南方ニ脱去ス 艦船ノ行動ハ駆逐艦ヲ主体トナリ本島―海峡間ヲ往行セリ グラマン機四機編体ヲ以テ絶ヘズ上空哨戒 松作命丙17号 一、部隊ハ現地自活班ヲ編成シ部隊所属ノ各種糧秣ノ栽培採取加工等ノ一切ノ作業ヲ担任セントス 二 楠原中尉ハ現地自活班長トナリ班員ヲ指揮シ第一項ノ任務ヲ担任スベシ 1945(昭和20)年5月 五月四日 晴 一九○五 D一 渡嘉敷湾沖ヨリ部落ニ対シ艦砲射撃ヲ実施後北上ス 一三○○ 本部東山監視所勤ム者渋谷見習士官 宇田上ト兵敵銃撃ノ為戦死ス 五月五日 稲垣少尉以下十一名沖縄本島ヨリ操舟ニテ渡嘉敷島ニ連絡ノタメ到着 一同士気旺盛ナリ 作命甲31号 一、木村少尉ハ将校斥候トナリ伊藤軍曹加藤上ト兵防召二名他二糸満防召員六名ヲ指揮シ操舟ニヨリ本六日夜渡嘉敷島ヲ出発シ沖縄本島ニ到リ軍司令部ノ船舶団其ノ他関係方面ト連絡スベシ 二、木村少尉ハ三池少佐沖縄本島帰還ヲ護送スベシ 三、木村少尉ハ連絡任務終了後ハ原所属ニ復帰スベシ 四、伊藤軍曹ハ連絡任務終了セバ時期ヲ選ビ沖縄本島ニ於ケル当部隊残留者ヲ指揮シ帰隊スベシ 五 楠原主計中尉ハ所要ノ糧秣ヲ準備スベシ 六 細部ニ関シテハ別ニ示ス 七 予ハ現在地ニ在リ 部隊長 赤松大尉 五月十日 晴 無風 一 ○九四○大発五 兵力約一五○名渡嘉敷ニ上陸 上陸スルヤ迫撃砲並ニ銃撃ヲ以テ索敵シツヽ迫撃砲陣地並ニ諸作業ヲ実施シアリ 何カノ企図シアル模様ナリ兵員約一五○名戦車一台迫撃砲数門 二 渡嘉敷部落ノ周囲ノ高地ニ陣地ヲ構築中 三 記念運動場ニ物資集積 四 阿波連方面竝ニ渡嘉志久方面ノ迫撃砲声ハ漸次北上シテ渡嘉敷方面ニ移レリ ○八十五 作命甲号33号 一 阿波連駐止斥候ヨリノ報告ニヨレバ敵ハ昨九日朝阿波連方面ニ対シ艦砲射撃ヲ実施スルト共ニ舟艇及戦車ヲ以テ阿波連湾及野加良崎南北地区ニ上陸シ監視哨高地ヲ挟撃スル態勢ニアリ 監視哨ハ目下後退シテ敵情監視中ナリ 敵ハ渡嘉敷島ヲ掃蕩スル如キ徴候アリ 二 各隊ハ速ニ戦斗準備ヲ整ヘ何時タリトモ應戦敵ヲ撃滅スルノ態勢アルベシ 一○○○ 左ノ 作命甲号34号 (一) 阿波連方面ノ敵情ノ兵力約一○○名ヲ九日朝来阿波連東西線海岸ニ上陸セシメ監視哨高地ヲ挟撃中ニシテ○九五○渡嘉喜湾内ニ大発五隻ヲ以テ兵力約百五十名ヲ上陸セシメ渡嘉敷島攻略ヲ企図セルモノヽ如シ (二) 各隊ハ直ニ戦斗配置ニ就クト共ニ兵力約半数ヲ将校ノ指揮ヲ以テ陣地及ビ前進陣地ノ中間ニ配シ目前陣地前方ニ斥候ヲ派遣シ敵状ヲ捜索スベシ (三) 前進陣地内部ニハ敵兵ヲ入レル事ナク之ヲ撃滅スベシ (四) 陣地内ノ兵力ハ戦斗配置ニ就キ軍夫ヲシテ陣地作業ヲ続行スベシ 損害 戦傷 田中熊一候補生 右上膊片創 五月十一日 曇 一、敵上陸部隊渡嘉敷村落周囲ノ高地ニ陣地ヲ構築中 作命甲第35号 一 敵状ハ昨夜示シタル外渡嘉敷港ヨリ逐次軍需品兵器類ヲ揚陸武備ヲ増強シアルモノヽ如シ 二 部隊ハ昨日夜暗ヲ期シテ渡嘉敷部落ニ上陸セル敵中ニ斬込ミ敢行セントス 三 第三勤ム少隊ヨリ下士官以下四名ノ斥候ヲ渡嘉敷ニ派遣シ敵ノ集積シアル弾薬糧秣類ヲ爆破セシムベシ 四 第一中隊ヨリ高取少尉以下五名ヲA高地南方地区ニ派遣シ敵迫撃砲ノ陣地ヲ夜襲スベシ 五 第二中隊ヨリ将校ノ指揮スル約十名(機関銃一 擲弾筒一ヲ附ス)ヲA高地ニ派シ掻乱射撃ヲ実施セシムベシ 六 之ガ為南少尉ハ第一中隊ヘ爆〓筒一、破壊筒一(一米位ノモノ)第三中隊ヘ爆発缶二ヲ交付スベシ 七 各隊ノ現在地ノ出発ノ時期ハ本夜二四○○以降ト予定ス 五月十二日 曇 一三一○ 挺身隊高取少尉本部下谷シテ負傷ノ報アリ医ム室玉木兵長以下五名ヲ以テ収容出発 一五一○無事?隊ス 作命甲第37号 (一)敵ハ本渡嘉敷島ヲ掃蕩ヲ企図シアルモノヽ如シ (二)部隊ハ現地自活作業ヲ中止シ鋭意陣地強化ヲ圖ラントス (三)現地自活班ハ一時解散シ防衛隊員及軍夫ヲ各隊ニ配屬ス (四)各隊ハ先ヅ前進陣地ヲ強化シ遊撃戦斗ノ準備ヲナスベシ (五)稲葉少尉ハ明十三日夜現在地ヲ出発シ渡嘉敷島南半部ニ轉進スベシ防衛隊員二名ヲ附ス (六)部隊ハ遊撃隊ヲ組織セントス之ガタメ第二中隊ヨリ連下少尉以下候補生二名 第一、第三整備中隊ヨリ下士官以下三名ヲ選出シ連下少尉ノ指揮下ニ入ラシムベシ (七)遊撃隊出発時期及細部ハ別ニ示ス 戦傷 原山、石原、吉尾 野崎 五月十三日 晴 一○○五 大発一 渡嘉敷湾ニ入港 兵員約三十名上陸セリ 一二一○ 〃 〃 二十五名 〃 一三○○ 〃 〃 二十名 〃 一三三五 迫撃砲弾茶畑陣地ニ落下ス 一三五○ 敵約四○名茶畑南端ヨリ現レ友軍ト交戦シ残念運動場裏山ニ退去セリ我方損害ナシ ○七二○ 第一中隊香山軍曹以下四名挺身斬込隊任務完遂無事?隊ス (六)一七○○ 第三中隊公野伍長以下四名作命甲第号ニ依ル敵陣ノ弾薬糧秣庫爆破任務終ル渡嘉敷ニ帰隊ス 五月十四日 晴 一○二五 大発一入港武装兵三五名上陸鰹工場付近ノ海岸ニ待機シアリ (一)敵ノ陣地ヨリ我方ヘ迫撃砲並ニ軽機ヲ連続連続的ニ射込ミ一部整備隊前進陣地ヘ接近シ来ルモ我方ニ應戦撃退ス 五月十五日 雨 一一四○ 大発一渡嘉敷湾ニ入港兵員約三十五名上陸セリ 五月十八日 曇 一○○○ 大発一入港兵員四○名上陸ス 一○五○大発ノミ出発ス 五月十九日 曇 一三四○ 敵二五名A高地ニ来リLgヲ以テ射撃セルモ直ニ應戦撃退ス 五月二十三日 昨日上陸セル敵一八○名ハ黒人ヲ混ヘタル雑兵ノ模様ニシテ警備交代ラシク昨日ハ炊事場付近ニ露營ス 現在迄アリシ米兵ハ各人ノ荷物ヲ纏メ海岸ニ集結中又天幕モ一部撤収中 畠ノ高地ノ敵ハ小型天幕ヲ取外シソノ骨組モ破壊中 五月二十四日 一二二○ 大発一北方ヨリ入港兵二○名上陸 湾口ニ砲艦(三三三号)碇泊 一三三○ 大発一入港 糧秣等六○梱揚陸ス 一五○○ LST二隻北上積載品一隻兵員一五○名 一隻梱包等約一○○梱ナリ 部隊ノ敵ハ大型小型天幕展開中(現在四) 1945(昭和20)年6月 六月八日 一五○○以降約一時間半敵ハ迫撃砲重機小銃弾ヲ三勤整備隊前面ニ射込ミタリ我方人員兵器資材等被害ナシ 六月十四日 敵ハ昨夜友軍ノ斬込ミニ恐怖ヲ抱イテカ従来ノ一方的射撃ヨリ一般的射撃ニ移リ終日間断ナク砲撃射撃セリ 夕刻ヨリ日没迄軽機ノ乱射 六月七日 一○三○ 駐止斥候米田上等兵栗良波稜線上ニ於テ渡嘉敷ノ敵ヨリ射撃ヲ受ケ腰部並ニ右上膊貫通銃創負ヒタリ 六月四日 一七○○ 整備隊平尾伍長作業中機銃射撃ヲ受ケ戦死ス 六月八日 晴 A高地服ム中ノ堀部中野両上等兵壕内ニ於テ待機中敵兵約十名匍匐ニテ陣地ニ侵入自動小銃ニテ狙撃セラレ堀部上等兵頭部盲貫銃創ニヨリ戦死 中野上等兵脛部貫通銃創ノ重傷ヲ負ヘリ 六月十三日 敵ハ昨十一日一五○○ヨリ要図ノ如ク陣地構築配備ニ着ケリ 尚陣地ノ一部ハ目下構築中ナリ兵力約五○名 六月十八日 晴 敵約七○名(黒人武装兵)渡嘉敷ニ上陸 旭沢、石橋、A高地付近ヲ盛ンニ銃砲撃セリ 敵ハ我斬込ヲ恐レ各谷ニ並ニ通路ニ盛ンニ地雷及障害物ヲ設置シツヽアリ 六月廿日 曇 昨夜一八○○頃敵約十名留利加波道顋松付近ニ侵入 其ノ后ノ行動不明ナル為之ガ捜索ノ為駐止斥候トシテ森末伍長以下二名出発 二三○○頃迄捜索スレドモ敵影ヲ確メズ 其ノ帰途月ハ落チ小雨降ツテ真ノ暗夜トナリ通路モ知ラズ注意深ク帰リ来レド途中顋松ノ下ノ段々畑ニテ敵ノ地雷ニ掛リ森末伍長ハ戦死佐藤伍長ハ耳部負傷セリ 一三五○ 特大発(一四○九)儀志布方向ヨリ湾内ニ入ル黒人約三十名上陸 帽子ハ白ニテ種々ナリ牽引車一輌砲二門(砲身約二米野砲ヨリ小 ゴム車輌四ヶ)高射砲ヤモ知レズ ○九○○ 水陸両用車二輌ヲ以テ監視船ニ連絡ニ行キ一輌ニ人員約二十五名(内武装兵二名) 一輌ニ鉄材(長サ一米五十位ノ軌條ノ如シ)ヲ満載シ揚陸ス 六月十七日 特務班長鈴木少尉敵側施設地雷堀出ノ際地雷ノ爆発ニ逢ヒ戦死ス 早朝石橋駐止斥候小松原少尉麾下小林伍長負傷 第二中隊中川上ト兵戦死ス 仝夜石橋駐止斥候小松原少尉以下三名敵ノ施設セル地雷ニ觸レタルモノヽ如ク所在不明トナル(戦死セルモノヽ如シ) 六月二十一日 二十一日夜恩納河原自活班勤ム防召隊員前里与太郎 恩納河原河谷入口付近ニ於テ敵側埋設ノ地雷ニ觸レ戦死セシモノト推定サル 六月二十三日 一二○○頃 水勤衛生兵玉木兵長病死ス 六月二十四日 旺ンナル敵ノ砲撃銃撃終日引続キ 一七五○頃漸ク敵ノ射撃間隙トナル ○七三○ 敵ハ艦砲高射砲迫撃砲ヲ以テ猛烈ニ射撃ヲ開始ス ○八三○ 敵約六○名A高地ニ攻撃シ来リ我軍ト猛烈ナル戦斗ヲ交ク ○九五○ 敵ハA高地ニ迫撃砲重軽機ヲ備ヘ 一八○○頃迄間断ナク我ガ陣地ニ向ケ射撃ス 一九○○ 敵ハA高地ヲ撤退銃声殆ドナシ 猶○七三○ノ艦砲ニヨリA高地ハ敵ノ攻撃ヲ受ケ 多里少尉以下十名勇戦奮斗交戦一時間状況止ムナキニ至リ同地ヲ撤収セリ 此ノ戦斗ニ於テ 山田兵長 野々口一等兵戦死 佐藤伍長重傷后戦死 島谷伍長戦死ト 尊キ犠牲四名ヲ出ス 六月三十日 一五一五 桃坂伍長戦病死ス 1945(昭和20)年7月 七月一日 晴後曇 一四三○頃 阿波連駐止連下隊ヨリ連絡兵二名来隊曽根一等兵ヲ首謀トスル某事件ヲ報告ス 一八○○ 新海中尉以下二十二名別紙ノ通リ捜索隊ヲ編成 曽根一等兵以下ノ捜索ニ出發ス 七月二日 晴 ○五三○ 稲垣少尉以下八名阿波連方面ニ於テ通信業務ニ従事中ノ処情勢ノ変化ニ伴フ連絡不能ニ到来シ器材携行 部隊本部ニ皈還ス 七月四日 知念少尉以下一○名逃亡セル曽根並ニ軍夫捜索ノ為渡嘉敷島南部方面ニ向ヒ出發ス 一七○○ A高地附近及阿利加ノ稜線ニ迫撃砲並ニ軽機ノ連射アリ ○二○○ 須賀上等兵以下二名逃亡者捜索ヨリ皈隊ス 七月五日 一三○○ 捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡中ノ軍夫四名捕縛 本部ニ護送皈隊シ捜索隊ヲ解散ス 七月六日 一四○○~一七○○ニ於テ 渡嘉敷方面ヨリA高地並ニ整備中隊前進陣地ヘ迫撃砲重機自動小銃ノ乱射 飛行艇前日ニ異リ早朝ヨリ哨戒ス 七月八日 二○○○ 田中伍長以下三名ノ芭蕉採集班留利加波ニ於テ留利加波沖碇泊中輸送船ヨリ射撃ヲ受ケ 田中伍長右大腿部擦過傷 中本伍長手ニ擦過傷ノ軽傷ヲ負ヘリ 七月十日 ○八三○ 片桐一等兵陣地ニ於テ病死ス 海峡ノ船舶甚ダシク数ヲ減ズ 七月十八日 ○五○○ 浮田軍医少尉戦病死ス 七月廿日 原口伍長栄養失調症ニヨリ病死ス 七月廿一日 一六○○ 座間味敵陣地ヨリ栗良波方面ニ向ケ高射砲並ニ重機ノ射撃有リ 七月二十九日 一一○○ 知念副官第一中隊稲森一ト兵戦病死ニ依リ埋葬式ニ参列 一三一○帰隊ス 一一○○ 本部杉橋一ト兵栄養失調症ノ為戦病死ス 七月三十日 知念少尉以下五名本部陣地加藤上ト兵ノ埋葬式ニ参列ス 1945(昭和20)年8月 八月三日 武装兵一五○名上陸ス ○○二○~○四三○頃迄 間歇的ナル砲撃ヲ受ケタリ座間味高射砲陣地ヨリノ砲撃ナラント推定ス 総弾数約百五十発人員資材共異常ナシ 一一一○ 渡嘉敷河畔陣地ト思シキ方向ヨリ銀納河原方面ニ対シ数発高射砲射撃ヲナス 一七○○~一七三○ 渡嘉敷方向ヨリ迫撃砲ノ砲撃アリ 八月四日 武装兵二六○名上陸ス 一八三○ 渡嘉敷方面ヨリ高射砲迫撃砲弾飛来ス 本日戦斗機高々度ニテ頻繁ニ飛行ス 八月五日 一一三○頃 整備隊前進陣地方向ニ迫撃砲十数発 八月八日 第三勤務少隊長新海中尉戦病死ス 敵約三○名一四○○頃A高地ニ出現薄暮ニ至ル迄射撃ス 江崎伍長茶畑陣地ヨリA高地捜索中左下技(肢)右踵ヲ負傷ス 八月九日 一三三○~一四四○ A高地ヨリ重機自動小銃ノ銃撃アリ A高地ノ敵ハ昨日来陣地構築中ノ模様 八月十日 高橋伍長戦病死ス 整備隊前進陣地ニ敵約四○名来襲ス 石原伍長戦病死ス 八月十一日 ○七三○ヨリ部隊命令ニ基キ火網編成並ニ射撃設備ノ点検補修ヲナス 一七五○ヨリ迫撃数発、機銃射撃ヲ被ル 退避ノ際田中熊一伍長転倒シ顔面ヲ負傷ス 荒木上ト兵有賀自活班ニテ行方不明トナル 多里少尉有賀自活班ニテ座間味ヨリノ高射砲直撃弾ヲ受ケ戦死ス 八月十二日 払暁数發迫撃砲々弾集中スルモ何等異状ナシ 敵水上機第三中隊陣地前方ニ「ビラ」ヲ撒布ス 八月十三日 一二○○ 松下一等兵留利加波連絡所ニテ戦病死ス 二二○○頃 竹島伍長藤本伍長敵陣ニ斬込ムト遺書ヲ残シ脱走ス 八月十六日 海軍水兵々長吉田實 陸軍一ト兵川崎貞一 国頭ヨリ儀志布島ニ漂着部隊ニ到ル 八月十七日 ○九三○ 木林中尉以下四名米軍ト協定ノタメA高地ニ出發 一三○○歸隊 八月十八日 ○九○○ 部隊長以下十一名米軍司令官ト会見ノタメ出発 八月二十日 第一中隊前進陣地ニ於テ兵器訣別式ヲ擧行 八月二十二日 第三中隊橋田伍長米軍病院ニ入院ノタメ知念少尉以下八名渡嘉敷米軍司令部ニ出発ス 一二○○?隊ス 八月二十三日 部隊長以下十一名渡嘉敷司令官ト会見ノタメ出発ス 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1436.html
index 目次 1970年改本・谷本版 (7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上) (引用者注)昭和19年8月25日から昭和20年3月末までを(上)としました。 (7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上)昭和十九年八月八月二十五日 八月二十六日 八月三十一日 昭和十九年九月九月三日 九月四日 九月八日 九月十日 九月十一日 九月十二日 九月十三日 九月十四日 九月二十一日 九月二十六日 九月二十七日 九月九日 昭和十九年十月十月九日 十月十日 昭和十九年十一月十一月十日 十一月 日 昭和十九年十二月十二月十日 昭和二十年一月昭和二十年一月一日 一月十日 一月二十日 一月二十一日 昭和二十年二月二月中旬 昭和二十年三月三月二十日晴 三月二十一日晴 三月二十二日晴 三月二十三日晴 三月二十四日晴 三月二十五日晴 三月二十六日晴 三月二十七日晴後雨 三月二十八日小雨 晴 夜小雨 三月二十九日曇 雨 三月三十日曇 三月三十一日晴 (8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中) (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) 昭和十九年八月 八月二十五日 船舶兵特別幹部候補生隊教育終了の供覧演習に演習戦隊として第三戦隊が選ばれ土庄町双子浦沖の仮設敵船団(空母一、練習船一、SS二、LS一、海軍より魚雷艇三)に対し豊島訓練基地より発進、魚雷艇と交戦しつつ船団泊地に侵入体当り攻撃を実施、夜間攻撃は第一中隊が実施、此の演習記録映画は畏くも天覧の光栄に浴した。 八月二十六日 船舶司令官佐伯中将閣下臨席の下に終了式を行う、同日付特別幹部候補生上等兵の階級に進む。 八月三十一日 動員下令、船司作命第六三八号に依り船舶練習部に転属、同日小豆島出発、戦隊長以下香川県金刀比羅宮に参拝武運祈願を行う。 昭和十九年九月 九月三日 動員完結、船舶練習部に到着、海上挺進第三戦隊を編成、幸の浦第十教育隊に到着。 九月四日 同日より乗船準備、舟艇兵器、装備の受領、搭載、予防注射等準備完了。 九月八日 装備検閲出陣式を行う。 九月十日 乗船、二二○○宇品出帆 本部及一、三中隊の一部 大興丸 第一中隊 鉄山丸 第二中隊 香椎丸 門司にて威輿丸 第三中隊 宝来丸 九月十一日 ○五○○門司到着 九月十二日 二二○○門司出航 九月十三日 一五○○天草湾到着 二二○○同湾出航 九月十四日 一四○○鹿児島湾に到着 船団編成のため碇泊 九月二十一日 ○八○○鹿児島湾出航沖縄に向かう事を知らさる、第二中隊乗船の威興丸は船速が五ノットしか出ない為本船団に加われず後発船団となる。夜間奄美大島に仮泊、出発後奄美犬島沖合にて敵潜水艦の攻撃を受くるも被害なし。 九月二十六日 一○○○那覇港沖に到着、午後慶良間列島に到着揚陸開始、同日二○○○揚陸完了、沖縄県島尻郡渡嘉敷島渡志久に上陸 九月二十七日 ○○○○本部渡嘉敷に到着、同日より同島に於いて任務に着く、基地配備次の通り 本部 渡嘉志久基地 装備 第一中隊 阿波連基地 戦隊長以下一○四名 第二中隊 留利加波基地 攻撃用舟艇一○○艇 二五○kg爆雷装備 第三中隊 渡嘉志久基地 一○○式自動短銃五丁 各人拳銃軍刀武装 渡嘉敷島は那覇の西五十五㎞に浮かぶ慶良間列島の東端に位置する小島で東西約二㎞(狭い所で一・三㎞)南北約八㎞面積約十八平方キロ、人ロー・三七七人(一九四○年の統計)大部分山で覆われ。海岸付近に一部耕地があり、断崖絶壁多くまた海岸に珊瑚礁が多いため港の良い所がない、男は主として漁業に女が農業に従事して之といった産業のない島である。 九月九日 先に到着した海上挺進基地第三大隊は(大隊長 鈴木常良 十九年十二月一日少佐進級)海上挺進の基地援助警備要員として作戦準備に専念、即ち舟艇の秘匿作業、陣地構築が進められ海岸付近の山裾に洞窟を掘り舟艇を秘匿、水際に邀撃陣地を構築、谷間に幕舎作りなど村民の涙ぐましい協力を得て昼夜作業が実施された。戦隊は挺進作戦の訓練のため昼夜付近海岸及ぴ海上の偵察、航行及び攻撃訓練を行い、基地隊援助のため自ら壕を掘り抗木の伐採蒐集作業を行った。約一ケ月余遅れて到着した第二中隊は留利加波基地に入り訓練を開始したが留利加波基地は外洋に近く断崖絶壁が多いため波高く舟艇の泛水揚陸作業は困難を極め秘匿壕の掘進も遅れ作戦に支障を来たす状態となった。戦隊長は急邊基地大隊と協議、留利加波基地を変更し渡嘉志久基地に移駐せしめたが之が為基地大隊と感情的なものがあったが全軍突貫作業を実施。 (引用者注)旧隊員たちの記憶を寄集め、何か文献を参照して書いたものであることは、ここまでの記述からよくわかる。 昭和十九年十月 十月九日 軍司令部に於ける兵棋演習に参加のため戦隊長、知念見習士官太田正一候補生那覇へ出張。 十月十日 那覇市敵機の空襲を受け全市全焼、午後渡嘉敷島も空襲を受け港外及び港内の連絡船、漁船は悉く銃爆撃を受け炎上沈没乗員に戦死者を出した。大本営の発表に依れば台湾沖に敵機動部隊を補捉大損害を与えたるも此の艦載機の空襲を受けたる模様なり。之を台湾沖航空戦と言い沖縄基地の我が軍航空機殆ど撃墜されたる模様である。 (引用者注)これが昭和20年の記録ではなくて、昭和45年の後知恵であることが証明されている。台湾沖航空戦(1944年10月12日-10月16日)は大本営が戦果を誤認したことで戦後有名になったが、そうした認識が昭和19年10月10日に書かれるはずがない。しかも、肝心の渡嘉敷島での空襲の様相がなにひとつ具体性をもって書かれてない事に驚く 海上挺進とは 長さ五米、幅一・五米、深○・八米のベニヤ製舟艇に七五馬力自動車エンジンを載せ速力二○ノット、一二五キロ(三秒瞬発信管)爆雷ニケを搭載して夜間敵艦船に体当り爆破沈没させる目的で編成されたものである。五米以内にて爆雷攻撃を実施すれば巡洋艦大破、駆逐艦撃沈、輸送船大破沈没可能である。三艇を一組として攻撃敵船腹にて爆破せしむるもので隊員の生還は不可能である。 (引用者注)「陣中日誌」では、このような解説文をにリアルタイムで書き込むことはありえない。 昭和十九年十一月 十一月十日 船舶兵特別幹部候補生谷本小次郎以下八八名陸軍伍長に任官(命令未着のため翌二十年五月発令) 十一月 日 第一中隊特別幹部候補生高木直太渡嘉敷に於いて防空壕構築作業中落盤事故に遇い翌日那覇陸軍病院に入院(十二月二十四日小倉陸軍病院に移送) 昭和十九年十二月 十二月十日 第一中隊八木喜一伍長肺結核のため那覇陸軍病院に入院 昭和二十年一月 昭和二十年一月一日 風雲急を告げ緊張したる新年を迎え戦隊長以下全員記念運動場に於いて遥拝式、午後演芸大会を行い士気大いにあがる。 一月十日 知念見習士官以下九名陸軍少尉に任官 一月二十日 軍司令部より海上挺進戦隊がリンガエン湾に於いて肉迫攻撃せしことの通報あり、電文「リンガエン湾の海上挺進戦隊約七○は九日夜、敵輸送船団に肉迫、爆雷攻撃を敢行、約二○~三○隻を撃沈せしめたるもののごとし」 註 右部隊は海上挺進第十二戦隊にして舟艇五十六隻を以て三十八隻を撃沈破せるものの如し、十二戦隊の生存復員者八名 一月二十一日 第二中隊鹿田恒雄伍長右湿性胸膜炎ため内地送還となる。第一中隊松村哲夫伍長病気のため那覇陸軍病院に入院、第二中隊稲田聖伍長急性腸炎のため内地送還。 昭和二十年二月 二月中旬 (編成完結二月十七日)沖縄本島防傭強化のため基地大隊は 勤務隊の一部、 西村市五郎大尉以下一六一名、 装備 重機関銃二(弾薬一二○○発)、軽機関銃六、擲弾筒七、小銃一五二、三号無線機一、五号無線機四、電話機八、 整傭中隊 木村明中尉以下五五名、装備 軽修理車一、小銃四五 を残し独立第三大隊として沖縄本島に移動し、独立混成第四四旅団の指揮下に入る、従って残余の勤務隊、整備隊は第三戦隊長の指揮下に入り、作業援助要員として沖縄本島より特設水上勤務第百四中隊の一箇小隊、斉田重雄少尉小隊長以下下士官兵一三名軍夫(朝鮮人)二一○名が配置された。 基地大隊の移動により残留した勤務隊、整備隊、水上勤務隊は勿論戦隊員も一体となり現地防衛招集兵、青年団、婦人会、女子青年団の協力を得て必死で日夜陣地構築、訓練を続行した、戦隊本部付高比政偉軍曹那覇連絡所勤務のため沖縄本島に出発。 昭和二十年三月 三月二十日晴 第一次戦闘配備計画作業(舟艇秘匿及び出撃準備等海上作戦の準備作業)完了のため戦隊は本二十日、二十一日の二日間を休養日とし各隊休養す。戦隊長は村民の労を慰うため村長以下各指導者と共に会食し労をねぎらった。 三月二十一日晴 休養日正午敵機B29一機北東より侵入高度約二〇〇〇米南西に脱去 三月二十二日晴 戦隊は第二次戦闘配備計画に基き基地構築特攻訓練を開始、海岸砲十糎加農砲受領のため勤務隊より下士官外座間味島へ連絡船にて出発、午前一〇〇〇頃、午後一四三○頃二度に亘り敵磯B29高空にて侵入退去す、敵の来襲近しを知る。 三月二十三日晴 陣地構築は昨日と同じく続けられる、一〇〇〇頃より突如敵機数十機渡嘉敷島及ぴ周辺の慶良間列島に対し空襲、焼夷弾を主とした銃爆撃を受く、敵の投弾目標は地上棲息設備なるものの如く民家並ぴに渓谷陣地に対し爆弾、焼夷弾攻撃を受け至る所山火事を発す。 一二三〇 第三中隊小松原少尉、防衛隊及び女子青年団員を指揮、渡嘉敷部落に急行、住民の避難消火作業を行う。各基地との有線通信連絡途絶。 一三〇〇 各中隊対空射撃を実施。 一四〇〇 阿波連基地に於いて対空射撃班の至近に爆弾炸裂、 戦隊 横山小一伍長、木岡年丸伍長、 勤務隊 小杉保居上等兵 伊藤吉三郎上等兵 長町謙吉上等兵、防招兵四名、 水上勤務隊二名、合計十一名戦死。 戦隊 樺山祐夫伍 長藤原清人伍長 勤務隊 服部上等兵 中道上等兵。防召三名、 水上勤務隊三名、計十名負傷 舟艇三小破 軽機二 小銃七損焼、 第一中隊兵器庫、糧秣庫、直撃弾のため焼失、 勤務隊土工機材庫、第一、三機材庫焼失、 渡嘉敷 糧秣庫焼失。 敵機の来襲 延べ約三〇〇機、 一八○○ 敵機脱去後各中隊通信線の復旧、山火事の消火作業、棲息設備の復旧作業を行う、戦隊長以下三名第一中隊阿波連基地を視察、現地を指導し第二中隊をして応援せしむ。 三月二十四日晴 敵艦載機約五○機夜明けと共に来襲、常時滞空旋回爆撃を受く基地設傭地上陣地、棲息設備 渓谷に爆撃、焼夷弾攻撃機銃掃射を受く昨日と同じく山火事を起す、 一○○○軍司令部より軍情報入電。情報 「敵機動部隊は首里起点一六○度五○浬の地点に近接しあるものの如とし。」 戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉田所秀彦(ママ)、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並びに連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし、敵機退去後舟艇の整備、器材修理、弾薬糧秣の集積、通信線の復旧、消火等全員夜を徹して行う。敵の来襲及び我が挺進隊の出撃間近なるを予測す。 (引用者注)第3勤務隊隊長付陸軍中尉 田所季彦のことか http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload act=open pageid=1406 file=%E6%88%A6%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%9908.jpg 三月二十五日晴 暁と共に敵機の空襲を受く。 ○六○○頃 阿波連岬第一監視哨より南方洋上に機動部隊らしきもの発見の報告入る。 ○八○○ 機動部隊の船影確認、第一弾久米島に艦砲射撃開始。 ○九三○ 敵機動部隊は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡に侵入我が地上陣地、基地設備に熾烈なる艦砲射撃を受く、我が方反撃する火器なきため水際陣地及び防空壕に於いて夜のとばりを待つ。 一七○○頃より 敵機動部隊監視艦を残し南方洋上に退去、各中隊出撃準備のため燃料の補給、爆雷の点検を行う。 二○○○ 戦隊長出撃を考慮し独断各隊1/3の舟艇に泛水を命ずると共に本島船舶団本部に「敵情判断如何」と打電した。各中隊は前記戦隊命令により勇躍泛水作業を実施官民一体となってこの作業は概ね順調に行われた。 二一三○ 船舶団本部より下記命令を受領。 「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし。那覇港到着の際は懐中電灯を丸く振れ船舶工兵之を誘導収容す。」 戦隊長在渡嘉志久の各隊長を集め前記船舶団本部命令を検討協議の上本島転進に決し全舟艇の泛水を下令、各隊は1/3泛水に引続き残り3/2※ママの泛水作業を決行。 第一中隊より阿波連湾内に敵駆逐艦進入第一中隊の泛水作業不可能との連絡を受く。 折から慶良間列島を視察中の第十一船舶団長大町大佐以下十五名敵艦艇の中を突破阿嘉島より阿波連西方に上陸渡嘉志久本部に到着。大町大佐直ちに戦隊の泛水作業中止を下令し戦隊長より状況を聴取す。(※) (引用者注)(※)「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」の記述とは明らかに違う 戦隊長前述の泛水転進の決心を説明許可を求めたが団長容易に同意せず団長の本島護送を求められ、種々協議の結果左の戦隊命令を下達した。 夜に入り戦隊長は敵情に備えるため各中隊に出撃準傭を命令、第一中隊の状況説明のため高取少尉本部に到着、 戦隊命令、於渡嘉志久本部(※) 一、敵情 略 二、戦隊は主力を以て途中の敵を撃破しつつ船舶団長と共に沖縄本島に転進せんとす。 三、渡嘉志久基地の戦隊各中隊は直ちに全舟艇を泛水出撃を準備すべし。出撃の時期は別に示す。 四、整傭中隊は舟艇に一名宛整備兵を附し戦隊と行動を共にすべし。 五、第一中隊は機を見て出撃沖縄本島に転進本隊に合流すべし。 六、戦隊出撃後勤務隊西村大尉は勤務隊、水上勤務隊を指揮し敵を邀撃すべし。 七、余は現在地にあり爾後本部舟艇付近に至る。 (※)命令番号なし。上記「団長容易に同意せず」と矛盾 三月二十六日晴 ○○○○出撃準備命令 湾外より艦砲射撃を受け水面にて瞬発信管により散弾飛び散りまた焼夷弾山を焼く中泛水作業、爆雷装着、湾内の警戒等次々と行うも残留、敵を邀撃する基地勤務隊 特設水上勤務隊の感清交錯し干潮のためリーフ各所に露出延々五時間余を要し東天既に黎明近く白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が沖縄本島に到着すること不可能となるを考え船舶団長再び艇の収容揚陸を命ず。 戦隊長現在便用し得る人員を以てする揚陸は不可能と判断、船舶団長に所在の艦船に対し出撃命令の下令を懇願せしむるも空しく、他戦隊の作戦に影響大なりと考え戦隊長以下全員揚陸作業を行うも、第二中隊舟艇秘匿壕にロケット弾命中し、空襲退避中の藤田伍長負傷す。 又、第二中隊基地小隊江崎伍長空襲時の破片で負傷(グラマンの機銃弾)既に陣地に立篭もりたる勤務隊、水勤隊等の連絡悪く最も困難を極め数艇を揚陸したる時敵機の空襲を受く。 茲に於いて遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命令す。阿波連基地第一中隊は阿波連湾内に敵駆逐艦侵入、洞窟より舟艇を引き出しエンジン始動せばたちまち砲撃を受け炎上、泛水作業全く不可能となる。 本部二、三中隊は自沈舟艇より取外したる爆雷を以て渡嘉志久基地水際に埋没信管を装着し地雷となす。残余隊員は勤務隊と合同し水際陣地に着く。 隣接の第二戦隊阿嘉島には敵上陸を開始、敵機常時二、三十機上空にあり爆撃、海上には数十隻の艦艇にて艦砲射撃を受く。 タ刻二中隊の陣地旭沢に集結。船舶団長大町大佐以下那覇軍司令部帰隊のため護送任務を第三中隊に命令。第三中隊第二戦闘群長中島少尉以下四名船舶団長護送任務に着く。 操縦手 中島伍長 操縦手 竹島伍長 整傭 土肥技術伍長 整備 田中技術上等兵 第一番艇乗艇者 第二番艇乗艇者 軍船舶団長 大町大佐 第五基地隊長 三池少佐 独立第三犬隊長 鈴木少佐 独立第三大隊付 新海中尉 船舶隊副官 山口中尉 船舶隊付 木村少尉 「事故あるも各艇互に救助せず」との申合わせの後那覇に向け出発、第一中隊泛水出撃作業を行う整備中隊長をして応援せしめるも出撃全く不可能なり。 本日の損害 勤務隊本部 川合上等兵 戦死 水上勤務隊軍夫 二名 戦死 戦隊第二中隊 三島伍長 負傷 三月二十七日晴後雨 転進出撃命令により二十六日夜来より泛水作業を実施しあった第一中隊は本日も敵艦艇の攻撃を受け泛水作業出撃すること不可能となり各隊、水際で戦闘の後複廓陣地に撤退の旨下令の後、○二○○より戦隊長以下本部、第二中隊主力 旭沢より渡嘉敷北方複廓陣地に向かう。 南少尉以下五名、二十六日夜出発した二番艇遭難したる模様の三池少佐以下五名の捜索に儀志布島付近に出発、午後本部に収容帰る。 ○四○○留利加波方面の敵情偵察のため本部知念少尉以下四名(谷本伍長、久保田伍長、池田伍長)出発、敵約ニケ中隊、水陸両用戦車十両上陸中帰隊報告、A高地にて邀撃を準備すると共に水際陣地に配備中の二中隊の勤務隊及び整備中隊を複廓予定地に撤退、第一中隊は舟艇破壊後複廓陣地に撤退、第三中隊に之が掩護を下令す、○六○○敵は戦車三十数両約一ケ連隊を以て留利加波、渡嘉志久、阿波連、東部海岸の方面より砲爆撃掩護の下上陸を開始。邀撃隊は直ちに交戦、渡嘉志久峠の第三中隊高塚小隊は第三皆本中隊長指揮の下、長時間敵戦車部隊と交戦、小隊長以下殆ど戦死。部隊本部二、三中隊整備隊の北方陣地転進を容易ならしめた。 第一中隊は本隊に合流すべく阿波連より撤収するも渡嘉志久峠の敵に阻止され突破することを得ず東方山中に潜伏、タ刻本部二中隊整備隊北方陣地に到着直ちに陣地構築を開始。 二○○○より戦隊本部谷本伍長、小野伍長、通信隊より川崎軍曹、整備隊より中島軍曹、渡嘉志久旭沢付近の敵情偵察のため出発、整備隊吉田軍曹以下十五名渡嘉敷より弾薬移送のため渡嘉敷へ出発。本部主計より楠原主計中尉以下二十名糧秣移送のため渡嘉敷へ出発。 本日の損害 勤務隊 高塚春次郎少尉 岩田淳一伍長 三江忠 江渕満 市川栄 戸田房次郎上等兵 川崎清吾 鈴村賢三 木内繁雄 村川茂一一等兵戦死 整備隊 杉本嘉一上等兵戦死 水上勤務隊 軍夫六名戦死 三月二十八日小雨 晴 夜小雨 昨二十七日留利加波方面に上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し、各隊陣地の構築を行う。第三中隊の主力到着。 昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊道案内の現地防衛招集の一部支給しありたる手榴弾を以て家族と共に自決す。本朝二、三件の模様なり。 1、各隊全員陣地稜線上にタコ壷を掘る。 2、一四〇〇陣地の北の谷に避難していた住民陣地内に崩れ込む、住民の異様なる叫び声阿鼻叫喚の中へ。北方の敵陣地より迫撃砲攻撃を受く、戦隊長防召兵を以て之を鎮めしむ。 二十七日未明「通信隊は軍司令部に対し戦隊長敵情報報告、電報を打ち五号無線一を残して破壌、本隊に合流 三号無線機一 五号無線機二 破壊 3、勤務隊辻中尉防衛招集兵の手榴弾暴発のため負傷田所中尉副官業務を行う。 第三中隊高塚少尉戦死のため独立第三大隊付新海中尉第三勤務小隊長に命ず。 本日の損害 通信隊 里見芳郎上等兵 戦死 勤務隊 多田健一上等兵 林時三一等兵 戦死 水上勤務隊 阿部盛雄軍曹 軍夫五名 戦死 防衛招集兵 小峯上等兵以下八名戦死(自決者含む) 勤務隊 辻政弘中尉山田上等兵負傷 4、二○○○頃二中隊正面軽機関銃座に敵襲を受く。 5、小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅の如く陣地後方に於いて自決し始めたる模様 注 自決し翌日判明したるものである。 三月二十九日曇 雨 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決、後判明)、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頚部を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽くし得ない情景であった。 而し我等は戦闘が先決であり一人でも多く敵を倒さなければならない。勤務隊、水上勤務隊を以て犠牲者の埋葬を行う。 ○七○○月敵は迫撃砲を以て熾烈なる集中砲火を加え来り敵機は終日上空に在り銃爆撃を加ふ我が方の損害軽微なり。 知念少尉以下五名留利加波方面の敵情偵察のため出発。楠原主計中尉以下五十名渡嘉敷、旭沢の糧秣集積移送のため出発、全員帰隊、損害なし。 本日の損害 防衛招集兵 新垣上等兵以下六名 戦死(自決者含む) 古波蔵上等兵以下三名 負傷 三月三十日曇 ○三○○頃○五○○頃の二回東方海上に爆音と敵艦艇の対空砲火交錯し火柱の揚るを認む、我が方の特攻機と判断す、敵機は連日と同じ二○~三○機を以て常時滞空し銃砲撃を加ふ。 第一中隊阿波連より未だ到着なきため本部張間中尉、向山伍長以下八名を以て阿波連方面の偵察捜索に出発、防衛招集の新垣常雄陣地より脱走行方不明、楠原主計中尉以下全員無事帰隊、我が方損害なし。 敵情、留利加波、渡嘉志久に陣地を構築しありたる敵は双方共海岸迄撤収。然し阿波連の敵は依然陣地を構え四方無差別砲撃を行ひあり、阿波連の一中隊未だ健在なりしか。 三月三十一日晴 1 敵戦闘機 爆撃機常時一○~二○機上空に在り旋回銃爆撃を加ふ。 ○九○五 阿波連沖に敵空母 ○九二五 渡嘉敷沖敵潜水艦二隻浮上 2 慶良間海峡の敵艦船、 空母二、戦艦五、巡洋艦九、駆逐艦一五、上陸用舟艇五 六○隻 飛行艇三○ 3 一○○○儀志布島に敵戦車一兵力三○名上陸 4 各隊別紙要図の如く監視哨を設置直ちに任につかしむ。 5 部隊長以下五名各陣地並ぴに敵情偵察 6 中島軍曹以下渡嘉志久方面の弾薬収集に出発 7 楠原主計中尉以下五十名渡嘉志久旭沢の糧秣収集に出発 8 第一中隊長以下主力阿波連より到着陣地配備陣地構築を行う 9 各隊主力を陣地構築、防空壕構築に専念する。 10 終日艦砲射撃を受く、本日特に沖縄本島に向ける集中砲火を加える。 第一中隊の状況 第一中隊は二十六日以降敵の艦船の攻撃を受け出撃すること出来ず全舟艇を破壊、本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ二、三度斬り込突破を行うも前進不能となり東部海岸より海上突破、本隊に合流したものである。従って一部所在不明者が多数なり。 (8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中) (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) index 目次
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1438.html
index 目次 1970年改本・谷本版 (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) (引用者注)昭和20年7月から昭和21年1月10日までを(下)としました。 (7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上) (8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中) (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下)昭和二十年七月七月二日晴 七月三日 七月四日 七月五日 七月六日 七月七日 七月八日 七月十日 七月十六日 七月十八日 七月二十日 七月二十一日 七月二十七日 七月二十八日 昭和二十年八月八月一日 八月三日 八月四日 八月五日 八月七日 八月八日 八月九日 八月十日 八月十一日 八月十二日 八月十三日 八月十四日 八月十五日 八月十六日 八月十七日 八月十八日 八月十九日 八月二十日 八月二十一日 八月二十二日 八月二十三日 八月二十四日 八月二十五日 八月二十六日 昭和二十年十二月十二月三十日 昭和二十一年一月昭和二十一年一月三日 一月七日 一月十日 昭和二十年七月 七月二日晴 ○五三○稲垣少尉以下八名阿波連方面に於いて通信業務に従事中情勢の変化に伴い(沖縄本島軍司令部最後の斬り込を取行し玉砕したるものと思われ以後通信が途絶したるものと判断)連絡不能となり通信器材を携行、本部に帰隊す。 日時不祥、防衛隊員大城徳安数度に亘り陣地より脱走中発見、敵に通ずる虞ありとして処刑す。 米軍に捕えられたる伊江島の住民米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以て陣地に進入、前進陣地之を捕え戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状態を暴露したる上は日本人として自決を勧告す女子自決を諾し斬首を希望、自決を抱助す。 七月三日 第二中隊多里少尉以下A高地の敵陣に攻撃を実施之を撃退の上引揚ぐ、整備中隊の重機関銃之れを側面より援助攻撃す。敵は渡嘉敷に退避す。 戦利品 自動小銃二、弾丸六箱、手榴弾一三、鉄帽一、 昨日に引続き捜索隊を編成出発す。 七月四日 知念少尉以下十名、曽根一等兵及び軍夫捜索の為、渡嘉敷島南部阿波連方面に向かい出発す。 一七○○A高地付近及び阿里賀稜線迫撃砲並びに軽機の連射はげしい。 七月五日 ○二○○須賀上等兵以下二名、捜索より帰隊す。 一三○○捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡者四名を逮捕し本部に護送帰隊す。 本日を以て捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ。 七月六日 一四○○~一七○○渡嘉敷方面よりA高地整傭中隊、前進陣地へ迫撃砲、重機、自動小銃の乱射激しく飛行艇も前日と異なり早朝より哨戒巌なり。 七月七日 A高地に於いて敵の遺棄せし自動小銃にっいて本部兵器将校南少尉より該中隊に使用法を教育す。 七月八日 敵情昨日と変化なし。二○○○第二中隊田中伍長以下三名、芭蕉蘇鉄採集班となり留利加波にて採集中留利加波沖に停泊中の艦船より攻撃を受け田中伍長右大腿部擦過傷、中本伍長右手に擦過傷の軽傷を負えり。 七月十日 ○八三○片桐一等兵、栄養失調のため戦病死す。海峡の艦艇甚しく数を減ず。 七月十六日 整備中隊芝山一等兵、渡嘉敷に於いて戦死す。 七月十八日 ○五○○本部軍医、浮田少尉戦病死す。 七月二十日 第三中隊原口伍長栄養失調にて戦病死す。 七月二十一日 一六○○座間味方面より第一中隊陣地栗良波方面に敵の高射砲らしきものの水平射撃を受く、第一中隊田村伍長、左手切断、右大腿部に重傷を負えり。 七月二十七日 依然敵は攻撃して来る気配も見えず、唯日夜迫撃砲を主力として砲撃するのみ。 一一○○第一中隊稲森一等兵栄養失調のため戦病死す。 本部陣地杉橋一等兵栄養失調のため戦病死す。 七月二十八日 ○八○○本部陣地加藤上等兵栄養失調のため戦病死す。 昭和二十年八月 八月一日 船舶団所属若山兵長、栄養失調のため戦病死す。 八月三日 武装兵一五○名上陸す。 ○○二○~○四三○頃迄の間座間味高射砲陣地よりと思われる的なる砲撃、約一五○発、攻撃を受くるも人員資材、被害なし。 一一○○頃渡嘉敷河畔陣地と思しき方向より銀納河原方面に対し数発高射砲攻撃をなす。 一七○○~一七三○渡嘉敷方向より迫撃砲の砲撃を受くるも我方被害なし。 八月四日 整備中隊山内一等兵、栄養失調のため戦病死す。 武装兵約一六○名上陸す。 一八三○渡嘉敷方面より高射砲、迫撃砲の射撃を受くるも被害なし。本日戦闘機高々度にて頻繁に飛行す。 八月五日 一一三○整備中隊前進陣地付近に敵迫撃砲弾十数発落下す。 八月七日 本部勤務隊斉藤上等兵、A高地付近に於いて敵より攻撃を受け戦死、此れを捜索のため整備中隊江崎伍長茶畑陣地よりA高地を捜索中左下肢、右を負傷す。 第三中隊犬塚伍長破傷風にて戦病死す。 第二中隊勤務小隊田中一等兵栄養失調のため戦病死す。 八月八日 第三中隊勤務小隊長新海中尉戦病死す。 敵兵約三十名一四○○頃A高地に進出薄暮に至る間攻撃す。 八月九日 一三三○~一四四○A高地91重機、自動小銃の射撃あり、A高地の敵は昨日来より陣地構築中の模様。 八月十日 整傭中隊前進陣地に敵兵約四十名来襲す。 第二中隊高橋伍長栄養失調のため戦病死す。 八月十一日 ○七三○より戦隊命令に基き火網編成並びに射撃設備の点検を案施補修を行う。 第二中隊小隊長多里少尉有賀自活班に於いて高射砲弾により戦病死す。第一中隊勤務隊荒木上箏兵行方不明となる。 一七○○頃より迫撃砲、機銃射撃を被く、第三中隊田中伍長、退避の際転倒、顔面に負傷を受く。 数日前郵便局長徳平氏他、渡嘉志久付近の稜線に於いて敵の潜伏斥候に捕えられたる模様。 八月十二日 払暁数発迫撃砲弾集中攻撃を受くるも何等異常なし、第三中隊陣地方面前方に敵水上機ビラを散布する。 一八○○東部海岸を警傭する前進陣地田所中尉本部に緊急連絡あり。 情報連絡 数日来より東部海岸の谷間に住民続々と集結、異常な状態となり何か敵に通ぜしものあり至急調査されたい。 右の情報により本部知念副官谷本伍長、阿利賀恩納河原に起居する住民の行動調査に出発。阿利賀の谷間に住居せし住民は二○○○頃より食糧を整え身辺の整理を行い移動する様子でざわめき其の行動を問い正すも語らず。 知念少尉沖縄の方言にて切々と話合うも語らず、現地に止まるよう、説得して恩納河原へ出発。 恩納河原に到着後警備分隊長中島軍曹に状況を聞くも不明にして住民を説得、情報を得たる処によれば数日前敵に捕えられたる郵便局長の手引きにより古波蔵村長以下幹部、既に敵に降伏し敵米軍に対し八月二十日迄に村民全部を降伏せしむることを約し東部海岸に集結せしめる模様で既に大半は集結しあるとの情報である。 之を説得に掛るも既に意思固く全く馬耳東風にして動けない者、老幼な者を残し未明警備隊にかくれ三々伍々、恩納河原を脱出す。 戦隊長の意思通り住民の意思決定を尊重し敢えて之を阻止、攻撃せず。 八月十三日 東部海岸へ共に行動出来なかった住民、早朝より木の枝、或は竹に白紙又白布を付けて之を掲げ恩納河原より谷間へ谷間より田団道へ、田団道より米軍陣地へ三人、或は四人、又単独にて投降す。 東部海岸よりの駐在巡査外二名(大城防衛隊員、小学校の先生)の情報に依れば八月十日頃より東部海岸へ移動したる住民は十三日一○○○敵上陸用舟艇二隻に乗艇、残った村民に対し離岸の舟艇より機関銃を以て銃撃を加え渡嘉敷方面に去る。 村長は八月二十日迄に悉く村民を投降せしむるため二十日以降日本軍軍隊及び残った住民に総攻撃を加え全減せしむる条件を米軍に提示したと伝えられる。 知念副官谷本伍長駐在巡査外十数名を引率帰隊す。 一二○○第二中隊勤務隊松下一等兵栄養失調のため戦病死す。 八月十四日 戦隊は昨日の情報ににより(※ママ)渡嘉敷の敵陣地に対し最後の斬り込を行うべく各中隊に包囲隊形を計画直ちに実施に移さしむる。 第二中隊高橋伍長、A高地に於いて戦死。 八月十五日 本部通信室故障の無線機にて終戦の詔勅を傍受、敵陣地よりの放送により終戦投降の呼び掛けを受く。 戦隊長直ちに各中隊の将校を集め訓示を行ふ。敵飛行機よりビラを散布す。 八月十六日 早朝、我陣地内に既に投降したる村民陣地各所に敵軍よりの投降勧告文書を散布す。我歩哨線之を逮捕一部処刑す。 投降勧告文書次の通り 慶良間列島渡嘉敷島日本軍最高指揮官に告ぐ 一、貴軍は現在特に大本営との連絡を欠きいるを以て貴官に次の情報を通報せんとする。 二、日本政府は本日午前八時(日本時間)連合軍に対し無条件降伏をなせり。 三、日本国天皇陛下は次の如く宣せられたり。 全日本陸海軍並びに陸戦隊は直ちに対敵行動を停止し、最寄りの連合国軍隊に投ずべし。然らばジュネーブ会議に於いて決定されたる交戦規定に基き軍人としての礼儀と尊敬を受くべし。 四、投降の形式を貴軍と協定せんとす。貴官は協定のため隊長以下全員若し全員不可能の場合は若干の代表を我が軍方部に差出されたい、これら代表者は適切なる協定の成立したる後は可及的速かに貴官のもとに帰還せしむる事を予の面目にかけて致たす。 貴官の代表者は絶対に射撃される事なかるべし。 慶良間列島渡嘉敷島米軍最高指揮官 昭和二十年八月十五日午前八時 サビランドエ コンノリー 戦隊長直ちに在陣地の全将校を集合協議す。 結果、明日敵陣地に軍使を出すことを決定、各中隊及び前進陣地に此の旨連絡、最悪の事態を考慮配備す。 海軍水兵兵長、吉田実、陸軍一等兵川崎貞一、国頭方面より儀志布島に漂着、第三中隊の斥候結城伍長本部に連行。 本部勤務稲葉伍長戦死す。 軍使、次の通り決定す 陸軍中尉 木村明 陸軍軍曹 吉田政一 陸軍少尉 知念朝睦 陸軍軍曹 中島重吉 八月十七日 ○九三○整備隊長木村中尉以下四名軍便として出発、米軍と会見連絡、情報収集後一二○○帰隊す。大東亜戦争は終結、連合軍に降伏したる模様なり戦隊長全将校を集め協議す。明、十八日、戦隊長米軍司令官と会見することに決定、最終重要段階に到る。 八月十八日 ○九○○戦隊長、整備隊長木村中尉以下十一名米軍司令官と会見のため出発す。 渡嘉敷に於いて会見席上、在沖縄本島連絡所勤務高比軍曹、第二戦隊中川中尉降伏説得のため来島しあり、我軍の無条件降伏確定的なり。 戦隊長、米軍司令官に上級指揮官の降伏命令の受領を要求、命令の伝達迄降伏を拒否、停戦協定のみを締結、意見の交換、終戦処理の協定を行う。 一五○○帰隊す。戦隊長、本部、第一、二、三各中隊候補生、先任下士官、谷本伍長以下四名を集合せしめ終戦の経過を説明、進退の決定をせしむるも各下士官、戦隊長に進退を一任す。 終戦処理協定に依り、明十九日、二十日の二日間戦死者の遺骨収集、兵器弾薬の集積を実施することを通達命令す。 兵器類の携行は絶対にしない事。 米軍陣地内に立入らざる事。 戦隊長各隊前進陣地及び阿波連駐止斥候連下隊に副官をして其撤収を命令する。副官知念少尉各隊前進陣地に連絡之を撤収せしむ。 阿波連駐止斥候連下隊撤収せしむる連絡文 知念少尉 連下少尉殿 長イ間御奮闘深ク感謝ス小官貴官二思イ苦シキ事ヲ告ゲネバナラヌ時ガキタ 畏クモ天皇陛下二於カセラレテハ八月十五日大東亜戦争終末二関スル詔勅ヲ漁発(※ママ)アラセラレ大東亜戦争ハ終リヲツゲタ 随ツテ部隊ハ昨十八日○八○○ヨリ渡嘉敷二於イテ在米軍司令官ト会見停戦協定ヲ結ンダノデアル我々軍人トシテ誠二残念ナレドモ致シ方ナシ 協定ト雖モ単二停戦ノミニシテ後ノ武装解除二非ラズ。我々ハ飽ク迄上級指揮官ノ命ニヨリ行動スベク協定シ近日中決定セル筈、貴官ノ心境小官ニハ克ク察セラレルモ又部隊長殿ノ心境モ察セラレ度 疎道幾十幾百年続クトモ戦後ノ復興二努メ戦闘開始前ノ如キ勇壮無比ナル日本ヲ再現シヨウデハアリマセンカ 又ナスベキ我々ニハ任務アリ 貴官モ大御心ヲ奉体シ忍ビ難キヲ忍ビ耐エ難キヲ耐ヘテ奮闘ノ程協定後ノ処置トシテ多数ノ整理モアリ指示モアル故 明日中二阿波連二於ケル全部ヲ整理シ本十九日中二本部二帰隊セラレ度、同伴シアル下士官 兵 防召兵モ引揚ゲラレ度。糧秣ハ持テルダケ持ツテ兵器ハ各人携行兵器ヲ外爆薬其ノ他ハ一箇所集積ヲナシ爆薬弾薬等、危険物埋没シテ数量、品目ヲ記シテ標識ヲ立テ明ラカニセラレ度 詳シキコトハ帰隊面談ノ上在阿波連間幾多ノ苦難誠二未練アル事トハ存ゼドモ何事モ命ノ侭 右取急協定後ノ処置トシテ連絡致ス迄 昭和二十年八月十九日 於本部 十九日一三○○ 受領 八月十九日 各隊早朝より、戦死者の遺骨収集を行い茶毘に附す。水上戦死者、敵陣内戦死者等遺骨収集不可能なるものは其の最も近き所の霊石を奉持する。 八月二十日 第一中隊前進陣地に於いて各隊兵器を集積し遥か東方皇居をは拝し、兵器訣別式を行う。 太陽は青空に輝き、青い空、青い海に唯静かに周囲の海上は数百の敵艦艇が遊弋或は停泊中なり、静かに唯荘然、戦い既に終わる。 八月二十一日 各中隊身辺の整理を行い収集せる遺骨を戦隊本部に安置。海岸に漂着せる木材をもって白木の箱として白布を包って慰霊祭を行う、各隊の遺骨奉持者を決定各中隊に伝達安置す。 知念少尉以下二名米軍に到り重傷者、戦病者後送のため連絡担架借用し午後帰隊す。 八月二十二日 第三中隊 橋田伍長米軍病院に入院のため知念少尉以下八名出発、米軍司令部に到着一二○○帰隊す。 八月二十三日 戦隊長以下十一名米軍と協定のため出発、無条件降伏の調印を行う。戦隊長以下三名敵陣営に入る。 本部勤務西上上等兵戦死す。 八月二十四日 知念少尉以下十名戦傷者、戦病者担送のため米軍司令部より担架を借用し午後帰隊す。 八月二十五日 戦傷者、戦病者米軍病院に入院のため出発、担送す。 八月二十六日 本部及び各隊敵陣営に入るため西山陣地を出発、渡嘉敷米軍陣地に入り武装解除を受く。全員座間味島収容所に入る。本二十六日を以て三月三十日より一六○日余の戦闘は終り、幾十幾百の戦友を此の渡嘉敷に、水漬き草むし或は大空に飛び散りて悠久の大義に生き、其の魂醜故郷の山河に帰り父母に或は妻子に抱かれん事を祈り吾等又祖国の復興を決意し敵軍門に降り俘虜収容所に入る。 昭和二十年十二月 十二月三十日 座間味島収容所を出発、渡嘉志久前面より留利加波沖を経て沖縄本島に向かう。 午後沖縄本島石川収容所に入る。 昭和二十一年一月 昭和二十一年一月三日 石川収容所を出発、那覇港より乗船。 一月七日 浦賀港に到着、浦賀引揚掩護局に到着、同地にて復員手続きを実施。 一月十日 引揚掩護局に於いて復員業務完了、解散。 各自出身地に帰郷す。 index 目次
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1437.html
index 目次 1970年改本・谷本版 (8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中) (引用者注)昭和20年4月から昭和20年6月末までを(中)としました。 (7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上) (8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中)昭和二十年四月四月一日晴 四月二日 四月三日より四月五日まで 四月六日曇 四月七日晴 四月八日曇 四月九日曇 四月十日曇 四月十一日曇 四月十二日晴 四月十三日晴 四月十四日晴 四月十五日晴 四月十六日 四月十七日より四月二十四日迄の間 四月二十五日曇 四月二十六日晴 四月二十七日より四月二十九日迄 四月三十日晴 昭和二十年五月五月一日曇 五月二日曇 五月三日曇 五月四日晴 五月五日晴 五月六日晴 五月七日 五月十日晴風無 五月十一日曇 五月十二日曇 五月十三日晴 五月十四日晴 五月十五日雨 五月十六日晴 五月十七日晴 五月十八日晴 五月十九日曇 五月二十日 五月二十一日晴 五月二十二日晴 五月二十三日曇 五月二十四日 五月二十五日~五月二十七日 五月二十八日 五月二十九日 五月三十日 五月三十一日 昭和二十年六月六月一日 六月二日 六月三日 六月四日 六月五日 六月六日 六月七日 六月八日 六月九日 六月十日 六月十一日 六月一二日 六月十三日 六月十四日 六月十五日 六月十六日 六月十七日 六月十八日晴 六月十九日曇小雨 六月二十日曇 六月二十一日 六月二十二日 六月二十三日 六月二十四日 六月二十五日 六月二十六日 六月二十七日 六月二十八日~六月二十九日 六月三十日 (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) 昭和二十年四月 四月一日晴 1 早朝より一八○○の間在空の敵機二○~三○機又飛行艇一を以て常時渡嘉敷島周辺を偵察せり。 ○九○○ 敵駆逐艦一、渡嘉敷港に入港一○一○那覇方面に去る。 2 阿波連湾内に敵戦艦二を主力とする其の他数隻停泊中 3 慶良間海峡の敵情 a 留利加波正面 巡洋艦二、駆逐艦五 上陸用舟艇停泊 小型舟艇にて周辺の警戒偵察。海峡の北入口に防潜網と思われる浮標を認む b 渡嘉志久正面、空母二、戦艦二、巡洋艦二、病院船一、上陸用舟艇一○ 警戒用舟艇四、翰送船二 C 阿波連湾内より多数の艦船続々と南進中那覇方面への出入り激し。 4 座間味阿室島東海岸に敵四五○名上陸 視界不良なるも敵は沖縄本島方面へ移動中なるものの如し。 5 黒島東北方渡嘉東方より高射機関砲の射撃音あり慶良間海峡の艦船水上煙幕を構成、我特攻機に対する隠蔽なり。 四月二日 特に記録するものなく上陸したる敵は渡嘉敷島には見えず撤退したるものの如し。戦隊長各中隊長に状況を偵察せしむ。阿波連に於ける敵は一部駐留しあるものの如く其の姿を認む。主力は沖縄本島へ転進上陸したるものの如く北部海岸より光々たる明りを認む又東海岸より那覇方面には敵艦船数百隻、本島に艦砲射撃を実施。 四月三日より四月五日まで 別に特記する事項なし戦隊は渡嘉敷方面に敵影を見ないため努めて糧秣弾薬の収集に全力を尽くし陣地構築を急ぐ。 四月六日曇 敵情前日と変化なく阿波連方面の敵情依然として詳しからず戦隊長は捜索隊を出発せしむ 戦隊命令 一、阿波連方面の敵情は依然として詳しからず 二、戦隊は同方面の敵情捜索並びに行方不明者の捜索を実施せんとす。 三、張間中尉は捜索隊長となり第四次の人員を指揮し本六日一三○○より向七日間の予定を以て前項の捜索に任ずべし 張間中尉整傭隊鈴木軍曹外五名捜索に出発 四月七日晴 周囲海上に敵艦船おびただしく大多数なるも本渡嘉敷島には阿波連方面の敵兵の外落着きを取り戻し戦隊は次の敵の攻撃に対する準備のための陣地の構築、弾薬、糧秣の収集に鋭意努める一方地元村民の警備指導に全力を掲ぐぺく逐次計画を実施す。 戦隊命令 一、第一中隊は現在配属中の防召兵全部を整備隊は配属防召兵二名を全員原所属に復帰せしむぺし。 二、戦隊は食糧確保のため蘇鉄澱粉を採取せんとす。 三、第二中隊は連下少尉以下五名を明八日○八○○迄に本部前に差出し前項採取に任ずべし。 四、防衛隊長は防衛隊員の大半を連下少尉の指揮下に入らしむべし 五、水上勤務隊は軍夫五〇名を連下少尉の指揮下に入らしむぺし 六、細部に関しては別に示す 七、整備隊は兵一、防衛隊は隊員一、水上動務隊は軍夫三名を明八日○八○○迄本部前に差出し楠原中尉の指示を受け野菜採取に任ずぺし。 八、明八日夕食より各隊は雑炊又は粥食を実施すぺし。(定量は一人一日三○○瓦以内とす) 九、各隊の将校全員明八日〇七四〇迄本部に集合すぺし。 十、各隊は野菜家畜類その他の物資を自由に収集することを厳禁す西方海上及び留利加波方面に位置する第一中隊の敵情次の如し。 一、対敵陣地及ぴ形勢 以前に同じ 慶良間海峡に停泊せる敵艦船合計一四一隻、飛行艇二七、本日飛行艇慶良間海峡付近の哨戒繁し。 二、一○四○より一五四○の間敵駆逐艦一五、巡洋艦五、戦艦四、慶良間の間を往復出入り繁し、タ刻敵艦船煙幕を張る(我特攻機隠蔽のため) 阿波連斥候は一二〇○阿波連部落内に敵を発見、本部へ報告のため伝令二名出発一六○○本部到着。 所在不明の戦隊佐藤博彦少尉・世古収伍長、勤務隊杉本嘉一上等兵の戦死礎認、三月二十七日渡嘉志久峠斬り込突破により戦死したるものの如し。 第二中隊の状況 二中隊正面の敵情、前進陣地、分哨変化なし、陣地構築に専念する。 本部陣地の状況 敵情変化なく本部壕および食糧壕の構築に専念する。張間中尉阿波連捜索隊長となり捜索中。 第三中隊の状況 渡嘉敷正面の東山分哨、渡嘉敷分哨共変化なし、船舶団長護送のため攻撃艇で出発したる中島一郎少尉其の後情報不明。陣地構築に専念す。 整備隊の状況 1、柴田伍長以下五名那覇に於いて基地隊本部との連絡業務に従事。 2、土肥技術伍長船舶団長護送のため出発したる儘其の後の状況不明。 3、鈴木技衛軍曹以下六名本部張間中尉と共に阿波連捜索隊に参加。 4、中隊長以下陣地構築、戦闘配備に着く。 一六四○、中隊長以下○○三○の間旭沢、渡嘉志久、渡嘉敷より弾薬の収集移送に従事。 第一中隊と共に行動したる伊藤技術軍曹以下六名依然所在不明 四月八日曇 戦隊の状況及び装備 上陸したる敵が沖縄本島に転進したる後鋭意陣地構築、弾薬、糧秣の集積点検に努めたる結果、次の通り判明。 一、弾薬 小銃弾約五○○○、軽機銃弾約三○○○、重機銃弾約二○○○、擲弾筒弾約二○○及び自動短銃弾約一○○○ 二、器材 爆薬(黄色薬) 少量、爆薬棒 少量。 三、糧秣開戦前約六ケ月分が現在人員の約ニケ月分(一日定量三○○瓦以内で)} 四、米麦の収穫なく村民の自給自足不可能。 五、本日より本部に於いて蘇鉄の採取をなし食糧確保に全力を揚げるに付き各隊は陣地構築に専念するよう通達。 六、戦隊は目前の敵輸送船を再び攻撃することを計画、陣地の構築、強化に必要なる資財器材の確保を図りたる後実施の予定、攻撃時期は追って決定 敵情 慶良間海峡の敵艦船の出入り激しく飛行艇二機を以て渡嘉敷西岸阿嘉島東岸を旋回飛行哨戒する。前島方面には約五十隻位の艦艇集結中を望見す。 阿波連斥候の報告に依れば駆逐艦一入港、上陸用舟艇にて敵兵五名上陸、部落内に敵兵見えず。 四月九日曇 ○七四○第一中隊岸川少尉以下五名無事本隊に到着合流す。敵情変化なし、夜間特攻機飛来す。海峡の艦船煙幕を展開、対空射撃激し。 四月十日曇 戦隊長水上特攻不可能になったため残余の爆雷を以て再び水上特攻を計画、第三中隊をして之を準備実施せしむる様を命令、資材器材の集積を開始。 四月十一日曇 ○九三○頃敵兵二十数名渡嘉敷港に入港上陸、行動不明のため戦隊長左の如く新海中尉に命令し行動せしめる。 戦隊作戦命令 一、渡嘉敷監視哨よりの報告に依れば敵兵約二十数名は渡嘉敷に上陸せり。 二、新海中尉は軽機関銃一を含む部下十名及び整備隊より差し出したる一ケ分隊を併せ指揮し渡嘉敷に到し陣地を占領し各種物資収集の為差出しある部隊将兵の収容に任ずべし。 三、整傭隊長は一ケ分隊を本部に差出し新海中尉の指揮下に入らしむべし。午後敵は家畜を徴発して退去したる模様なり、我が方の損害なし。 四月十二日晴 昨十一日敵兵退去に伴い本部より物資収集の将兵再び出発する。敵情変化なし、沖縄本島の戦線嘉手納中部より南へ進行し数十の照明弾夜を徹して打上げ、又那覇以南の南部戦線には空襲艦砲射撃を熾烈に実施中。 四月十三日晴 敵情 慶良間海峡の艦船 戦艦一、駆逐艦六、大小艦艇五四、飛行艇三八、那覇 残波岬、前島方面より阿波連方向に忙しく行動 儀志布、座間味間の海峡に機雷を設置したる模様、点々と浮標を発見する。 タ刻一八○○頃 留利加波方面で小銃音聞こえ舟艇三を以て約三十名上陸せる模様、一九三○頃退去する。終日グラマン四機、飛行艇一を以て絶えず哨戒す。 四月十四日晴 慶良間海峡の敵情変化なし渡嘉敷島に毎日上陸する敵の行動依然不明 目的判明せず、唯家畜の徴発あるも水浴したり又部落入口付近を砲撃、阿波連には一部常駐しある模様なり。 四月十五日晴 一、予て計画ある爆雷を以て水上特攻の為、第三中隊木村伍長以下軍夫八名、渡嘉敷村落より爆雷運搬作業を実施中、上陸しある敵に発見され交戦戦死す。 二、阿波連より渡嘉敷に移駐行動中の第一中隊勤務隊塚本、加藤上等兵茶畑付近にて敵と交戦戦死す。 三、第二中隊鈴木少尉以下二名所在不明の勤務隊林一等兵捜索の為出発す渡嘉敷旧農業会裏山凹地に遺体を発見埋葬す。 四月十六日 慶良問海峡の艦船減少模様なるも渡嘉敷島周辺の警戒特に厳重なる模様、敵は我が方の行動察知したるものか海岸洞窟入江等を厳重警戒しある模様、渡嘉敷沖に駆逐艦一、砲艦二、哨戒艇二停泊せる模様本日も三十数名の敵兵上陸午後阿波連方向に移動す。本日も家畜を略奪しある模様。 四月十七日より四月二十四日迄の間 未記録のため詳細不明、別段敵情我方変化なし。 四月二十五日曇 ○九三○ 敵大型発動艇(上陸用舟艇)一隻兵員約三十二名渡嘉敷港に上陸。一一○○全員乗艇の上阿波連方向に退去す外に別に変化なし。 四月二十六日晴 午前中別に変化なくも午後第二中隊駐止斥候旭沢分哨員、敵と交戦高橋分哨長重傷を負ふ、同分哨安楽候補生戦隊本部に戦闘状況報告のため帰隊す。 戦闘状況 旭沢街道を渡嘉敷に向け前進中の敵を発見するや軽機関銃を抱え敵の前面に進出せんとするを敵に発見され自動小銃の乱射を受け其の一弾不幸にも軽機関銃弾嚢下部に命中、発射不可能となり之を代えんとする折、敵の手榴弾に依り全身数ケ所に爆傷を受くるも機を失せず軍刀を引抜き正に斬らんとするとき、敵の小銃連続して右大腿部に命中、分哨長無念にも重傷を負ふ、然し、敵は其の侭遁走撃退す。 四月二十七日より四月二十九日迄 未記録のため詳細不明。 四月三十日晴 ○七○○ 慶良間海峡の状況 敵艦船合計九十四隻、飛行艇三○機停泊。一○三○、敵約三○名渡嘉敷港に入港、上陸一一三○頃南方に退去す。 戦隊は持久戦に備え食糧確保のため現地自活班の編成を命令、直ちに実施す。 一、戦隊は現地自活班を編成し所要の各種糧秣類の栽培採集加工等の一切の作業を担任せんとす。 二、楠原中尉は現地自活班長となり班員を指導し第一項の任務を担任すべし。 昭和二十年五月 五月一日曇 各隊は野菜食糧の耕作採集を実施、外陣地構築を徹底的に実施。 本部各中隊連絡壕の構築を開始。第三中隊非常配備訓練を実施。 五月二日曇 敵情変化なし我方陣地構築に精出す。 五月三日曇 ○九四○ 戦隊長第三中隊陣地巡視を行ふ。引続き整備隊の巡視を行ふ。 五月四日晴 渡嘉敷島周辺の敵は数日来より厳重なる警戒を行い絶えず島の周辺を哨戒し隠れ場所と思しき処へ艦砲射撃を行い我方の損害多し。 一三○○ 船舶団渋谷見習士官、宇田上等兵東山分哨にて敵の銃撃を受け戦死す。第三中隊池田少尉以下三名阿波連将校斥候となり出発す。 五月五日晴 軍司令部船舶団より慶良間列島出身の将兵を以て編成の稲垣少尉以下十一名、沖縄本島よりくり舟三隻を以て渡嘉敷島連絡の任を受け無線機を携行渡嘉敷に到着。内一隻は途中行方不明、乗艇者我が戦隊の高北良軍曹、松村伍長、全員士気旺盛、直ちに戦隊本部に連絡報告、軍司令部宛、渡嘉敷島健在の電報を打つ。 第三中隊、小松原少尉本部付となり恩納原前進陣地分哨長となる。沖縄本島の戦闘状況を聞き稲垣少尉以下の作戦行動について打合わせを行う。 五月六日晴 沖縄本島の戦闘緊急を要するため戦隊長は残留船舶団の将校を本島に帰還せしむるため次の命令を下達作戦に参加せしむ。 戦隊作戦命令 一、木村少尉は将校斥候となり整傭隊伊藤軍曹、加藤上等兵、防召兵二名、他に糸満防召兵六名を指揮し舟により本六日夜渡嘉敷を出発、沖縄本島に到り軍司令部、船舶団其の他関係方面と連絡すべし。 二、木村少尉は三池少佐の沖縄本島帰還を護送すべし。 三、木村少尉は連絡任務終了後原所属に復帰すべし。 四、伊藤軍曹は連絡任務完了せば時機を見て沖縄本島に於ける当部隊残留者を指揮し、帰隊すべし。 五、楠原主計中尉は所要の糧秣を準備すべし。 六、細部に関しては別に示す 七、予は現在地に在り。 戦隊長 赤松嘉次 第三中隊長、皆本少尉以下五名阿波連より弾薬運搬のため一八○○出発す。 夜半東部海岸より「クリ舟」三隻にて沖縄本島へ三池少佐以下出発。 五月七日 稲崎(※ママ)少尉以下沖縄本島より到着したる連絡員東側海岸に於いて本島との無線連絡を開始。 第三中隊阿波連より弾薬爆雷運鍛作業を実施帰還す。阿波連方面より銃声、迫撃砲弾を打込まれる。 五月十日晴風無 ○九四○、敵上陸用舟艇にて約一五○名渡嘉敷に上陸、上陸するや迫撃砲並びに銃撃を以て牽制しつつ迫撃砲陣地並びに諸作業を実施しあり何か企図しあるものの如く、敵の兵力約一五○名、戦車一台、迫撃砲数門。渡嘉敷部落周囲の高地に陣地構築中。 記念運動場に物資集積、阿波連方面及び渡嘉志久方面の砲声漸次北上して渡嘉敷方面へ移動、稲垣少尉以下の無線通信が敵に補足せられしか敵は当渡嘉敷島の掃討を企図しあるものの如く上陸増強しあり戦隊長直ちに各隊連絡将校を集合せしめ敵を邀撃戦闘配備を命令す。 ○八一五 作命甲第三十三号(※) 一、阿波連駐止斥候よりの報告に依れば敵は昨九日阿波連方面に対し艦砲射撃を実施すると共に舟艇及び戦車を以て阿波連湾及び野嘉良崎南方地区に上陸し監視哨高地を挟撃する態勢にあり、監視哨は目下後退して敵情監視中なり、敵は渡嘉敷島を掃討する如き兆候あり。 二、各隊は直ちに戦闘準備を整え何時たりとも応戦敵を撃滅する態勢にあるべし。 ※ここで突然作命番号出現 一○○○ 作命甲三十四号 一、阿波連方面の敵情は兵力約一○○名を九日朝来阿波連東西線海岸に上陸監視哨高地を挟撃中にして、○九五○渡嘉敷湾に大型発動艇五隻を以て兵力約一五○名を上陸せしめ渡嘉敷攻略を企図せるものの如し。 二、戦隊は戦闘配置につき敵の攻撃を警戒せんとす。 三、各隊は直ちに戦闘配備に就くと共に兵力約半数を将校の指揮を以て陣地及び前進陣地の中間に配し且陣地前方に斥候を派遣し敵情を捜索すべし。 四、前進陣地内部に敵兵を入れることなく之を撃滅すべし。 五、陣地内の兵力は戦闘配備に就くと共に軍夫を以て陣地構築作業を統行すべし、第三中隊田中熊一伍長整備室へ伝令として任務遂行中右上膊部に迫撃砲の破片創を受くも元気旺盛なり。 五月十一日曇 敵上陸部隊は渡嘉敷村発、周囲の高地に陣地を構築中。 戦隊は之に徹底的改善を与えるべく初期攻撃を計画、直ちに挺身斬り込隊を編成、攻撃を開始す。 戦隊作戦命令甲三十五号 一、敵情は昨夜示したる外渡嘉敷港より逐次軍需品、兵器類を揚陸武備を増強し有るものの如し。 二、戦隊は本日夜暗を期し渡嘉敷部落に上陸せる敵中に斬り込を敢行せんとす。 三、第三勤務小隊より下士官以下四名の斥候を渡嘉敷に派遣し敵の集積しある弾薬糧秣を爆破せしむべし。 四、第一中隊より高取少尉以下五名をA高地南方に派遣し敵の迫撃砲陣地を夜襲すべし。 五、第二中隊より将校の指揮する約十名(軽機関銃一 擲弾筒一を附す)をA高地に派遣し掻乱射撃を実施すべし。 六、之がため南少尉は第一中隊へ爆薬管一、破壊筒(一米位のもの)一、第三勤務小隊へ爆発缶二を交付すべし。 七、各隊の現在地出発時刻年本夜二四○○以降と予定す。 五月十二日曇 戦隊は挺身斬り込隊の行動を容易にすべく部隊を一部前進、敵を擾乱せんとす。 一三一○斬り込隊高取少尉(第一中隊)本部下の谷間に於いて負傷、伝令の報告を受け医務室玉木兵長以下五名を以て収容一五一○帰隊。 戦隊作命甲第三十六号 略 戦隊作命甲第三十七号 一、敵は本渡嘉敷島掃蕩を企図しあるものの如し。 二、戦隊は現地自活作業を中止し鋭意陣地強化を図ると共に遊撃戦を以て敵の企図を破壊せんとす。 三、現地自活班は一時解散し防衛隊員及び軍夫を各隊に復帰せしむべし。 四、各隊は先ず前進陣地を強化し遊撃戦闘を実施すべし。 五、稲垣少尉は明十三日夜現地を出発し渡嘉敷島南部に転進すべし。(防衛隊二名を附す) 六、戦隊は遊撃隊を組織せんとす之がため第二中隊より連下少尉以下下士官二名 第一、三整傭中隊より下士官以下三名を選出し連下少尉の指揮下に入らしむべし。 七、遊撃隊出発の時刻及び細部は別に示す。 第三中隊前進陣地敵襲を受け原山、吉尾、野崎伍長負傷す。 五月十三日晴 ○七三○第一中隊斬り込隊香山軍曹以下四名挺身任務完遂無事帰隊(第三中隊の側画攻撃を容易ならしむため擾乱陽動任務) 第三中隊未帰還 一○○五 一二一○ 一三○○の三回に分け敵兵約七十五名渡嘉敷湾に侵入上陸す。 一三三五敵迫撃砲弾茶畑付近に落下損害なし。 一三五○敵兵約四十名茶畑南端より侵入、前進陣地と交戦記念運動場裏山に退去せり我方損害なし。 一七○○第三勤務小隊公野伍長以下四名挺身斬り込の任務を完遂し帰還す。 戦果渡嘉敷弾薬集積所爆破、我損害なし。 五月十四日晴 一○二五敵大型発動艇(上陸用舟艇)一 渡嘉敷に侵入武装兵三十五名上陸海岸に待機 敵陣地より我方へ迫撃砲弾 軽機関銃集中砲火を受く、渡嘉敷西方旧監視哨付近に火災発生、一部敵兵整備中隊前進陣地に接近交戦撃退す。 我方の損害、第三中隊第三勤務小隊中道上等兵戦死、上陸の敵は阿波連方向に退去す。 五月十五日雨 第三中隊前進陣地池田小隊よりの報告に依れば渡嘉敷三叉路付近に掩体ありとの申送りあるを偵察するも発見出来ず指示を求めて来る。一○二○上陸用舟艇一隻約三十二、三名上陸梱包物の揚陸をなし離岸す。各隊に迫撃砲に隊する退避壕の構築を急がしむ、敵は一一○○頃より防波堤に達着し渡嘉敷部落より水タンクで水を運び去る模様なり。一三○○、自動貨車を持つて物資の揚陸を行ふ。 一六三○上陸用舟艇にて水タンク及び住民を乗せ離岸す。 五月十六日晴 敵情昨日と変化なく唯渡嘉敷の敵陣地は徐々に補強し、一部住民(所属不明)が敵に捕われ使役に使われ或いは敵陣地内にて起居しある模様なり。 五月十七日晴 敵の砲艦664入港偵察後退去す。大型上陸用舟艇一、住民約五十名を乗せ離岸、小型上陸用舟艇二隻にて敵兵約二十五名上陸揚陸後離岸す。我方損害なし。 五月十八日晴 一○○○敵上陸用舟艇渡嘉敷に入港約四十名上陸、荷物を約一○○梱揚陸す。防衛招集中の大城逃亡中の処第三中隊歩哨森山伍長耕作地に於いて捕う。用便に行くと虚言して再び逃亡す。 一二四○松の山陣地付近に白煙を発見第三中隊原山伍長斥候として出発、一四○○帰隊異常なし。 一五○○~一六○○砲艦らしきもの渡嘉敷東方に投錨す。 一六三○住民らしきもの約三十名上陸用舟艇にて座間味方面に退去す。 五月十九日曇 敵兵約二十五名A高地に来襲しLgを以て射撃せるも我方直ちに応戦撃退す。我方損害なし。 五月二十日 敵は相変わらず増強し頻りに我方の偵察を行う、敵兵二名渡嘉敷鰹工場煙突東側に出現、本部結城伍長(第三中隊出向)直ちに発砲撃退す。第三中隊小松原少尉記念運動場付近を偵察、鉄條網に引掛り鉄條網に結着しありし手榴弾に触れ発火爆発するもいち早く後退、被害なし。 五月二十一日晴 彼我の情況昨日と異常なし、唯敵は続々増強し本渡嘉敷島を掃討せんとしある模様なり、タ刻新たに住民八○名揚陸す。 五月二十二日晴 作戦命令 一、敵は渡嘉敷島を掃討せんと企図しある模様なり。 二、戦隊は之に対し遊撃戦闘を開始敵を撹乱せんとす。 三、本部張間中尉は本部陣地より下士官五、兵二、水上勤務隊二十名を指揮し本戦闘を実施すべし。 四、出発の時期、場所、方法等は別に指示す。敵約一八○名渡嘉敷に上陸。 本部陣地より張間中尉以下二十八名、谷本、小野、池田、向山伍長犬橋一等兵、栗木二等兵、安田軍夫外十九名、約二十日間の日程で渡嘉敷東部高地嘉手刈付近敵の背後真上に陣地構築遊撃戦闘のための本部を出発。 五月二十三日曇 昨夜上陸したる敵は(約一八○名)黒人を混えたる混成の模様にして警備交代のためか昨夜は炊事場付近に露営しあり米兵は各人荷物を纏め海岸に集積中なり、又天幕も一部撤収中。尚高地の敵は天幕を取外し、其の骨組も解体中なり、住民約四○○名揚陸す。 五月二十四日 一二○○上陸用舟艇一、北方より侵入渡嘉敷に入港兵印約三十名、揚陸、湾口に敵砲艦一、停泊.(333)一三三○敵大型上陸用舟艇一、入港し梱包等約六○個揚陸す。一五○○LST二隻北上積載品一隻、兵印一五○名梱包等約一○○梱なり。残余の敵は大型小型天幕展開中(現在四) 五月二十五日~五月二十七日 彼我の清況変化なし。 五月二十八日 第三中隊配属中の特設水上勤務隊の軍夫、逃亡せし模様のため直ちに第三中隊をして俘虜捜索監視のため増援す。 五月二十九日 A高地、整傭中隊付近に日夜迫撃砲弾の集中砲火を受くるも被害なし。 第三中隊原山伍長以下五名俘虜護送のため出発す。 五月三十日 第三中隊原山伍長以下俘虜護衛より帰隊す。本部渡嘉敷東部嘉手刈障地より連絡。敵は遊撃陣地構築の企図を察知してか斥候二名嘉手刈陣地北方に進出我が警備隊五○○米前方迄に進出後徹退す。 五月三十一日 毎日の如く渡嘉敷の敵陣地より迫撃砲の連射、入港中の艦艇より艦砲射撃を受くるも我方損害軽微なり。本部より川崎軍曹(通信隊)整備隊鈴木軍曹斬り込隊となり渡嘉敷に侵入、鈴木軍曹敵の鉄條網に引掛り手榴弾により戦死。 昭和二十年六月 六月一日 渡嘉敷の敵は逐次増強する模様にして水陸両用車を使用し物資を揚陸しあり、第三中隊斬り込隊員丸子伍長連絡なし、第三中隊より前進陣地に対し捜索に出発す。 六月二日 第三中隊丸子伍長帰隊す、敵陣地内(伊江島住民)に於いて俘虜と共に起居せし模様なり。 敵情変化なし、相変わらず増強しある模様なり。 六月三日 阿波連、渡嘉敷、儀志布島方面に絶えず敵は監視せる模様なり。 六月四日 整備中隊平尾伍長石橋付近にて陣地構築中敵の機銃掃射を受け戦死す。 六月五日 敵は常に渡嘉敷に対し増強しあるものの如く水陸両用車を以て物資を揚陸す。 一三○○頃敵はA高地に対し重機関銃を以て約二時間射撃を受くるも被害なし。 一七三○頃第三中隊渡嘉敷前進陣地前面に対し艦砲及び機関砲を射撃我方損害なし。 六月六日 敵は迫撃砲及び機銃を以て射撃するも我方被害なし、敵は数日来より頻りに我陣地を牽制しある模様なり。 六月七日 整傭中隊前進陣地より渡嘉敷海岸の敵に対し小銃を以て射撃を行う。敵は直ちに迫撃砲及び機銃を整備隊前進陣地に打込むも我方被害なし。 一○三○駐止斥候米田上等兵栗良波稜線上に於いて渡嘉敷の敵より射撃を受け頸部並びに右上膊部に貫通銃創を受く。 六月八日 A高地服務中の第三勤務小隊堀部、中野両上等兵壕内に於いて待機服務中敵約十名近接し自動小銃の射撃を受け堀部上等兵頭部盲貫銃創により戦死。中野上等兵脛部貫通銃創の重傷を負う。敵は一五○○以降、迫撃砲、重機、小銃弾をA高地三中隊整備隊の前面に射込みたるも我方人員資材等損害軽微なり。敵より攻撃を受けし詳細次の如し。 六月七日前進陣地報告三中隊、池田少尉 一三一五 我監視哨に小銃十数発、 一四三○ 渡嘉敷南海岸に於いて爆破二回、 一六三○ A高地に対し射撃(渡嘉敷より) 一七○○ 渡嘉敷港より整備中隊前進陣地に対し数回射撃、我方よりの射撃に対し応射の模様。 六月四日前進陣地報告 ○六三○ 渡嘉敷より前進陣地に自動小銃連射。 ○六四○ A高地に迫撃砲十数発射撃を受く。 ○八四○ 渡嘉敷よりA高地に迫撃砲十数発。 ○九一○ 前進陣地に海岸より自動小銃連射。 ○九四○ 海岸よりA高地に迫撃砲十数発。 一○三○ 恩納ケ原に自動小銃連射、渡嘉敷に於いて爆破音大、 一一一○ 前進陣地に迫撃砲十数発 一三○○ 入港中の敵艦船より前進陣地に十数発、A高地に十数発艦砲射撃 一四○○ より炊事の谷、A高地に対し五~十分毎に迫撃砲四、五発射撃を行う。 一四五○ 前進陣地に対し火力の集中砲火三叉路に迫撃砲数発、敵は盲滅法に射撃を行うも我方被害なし。 一七○○ 第三中隊丸子伍長渡嘉敷に斬り込及び敵情偵察のため出発(敵情偵察及び斬り込の場所、日時判断のため) 六月九日 本部張間中尉以下二○名遊撃戦闘及び陣地構築完了し渡嘉敷東部台地嘉手刈より帰隊す。 第三中隊丸子伍長敵陣偵察より帰隊する。敵は昨昨夜(※ママ)より激しい砲火を我陣地に集中するも被害なし。 六月十日 敵は渡嘉敷記念運動場に鉄條網を敷設し地雷を敷設したる模様なり。 六月十一日 整傭中隊日根小隊の偵察によれば次の如く陣地構築しある模様。兵力約五○名目下構築中の模様なり。 石橋陣地、原田上等兵戦死す。 六月一二日 敵は間断なく射撃するも被害なし。 六月十三日 敵は昨夜より我軍の斬り込を恐れてか一方的射撃より一般的射撃に移り終日間断なく砲撃射撃を実施、夕刻より日没まで軽機関銃の乱射を受く。第一中隊斬り込隊長高取少尉負傷療養中の処、本日一七○○北方複廓陣地に於いて戦死を遂ぐ。 六月十四日 爆雷を以て再び水上特攻を実施すべく第三中隊をして準備せしむ 三中隊爆雷運搬のため竹島伍長以下四名出発器材の集積を始む。 六月十五日 昨日同様、敵情変化なし、爆雷運搬を実施 六月十六日 爆雷攻撃準備のため第三中隊長以下儀志布島偵察に出発、タ刻帰隊す。 六月十七日 早朝石橋駐止斥候小松原少尉麾下の勤務小隊、小林伍長負傷、第二中隊勤務小隊中川上等兵渡嘉敷に於いて戦死。第二中隊斬り込隊長鈴木少尉敵陣地斬り込準備のため敵前の地雷掘出し除去作業中地雷爆発壮烈なる戦死を遂ぐ。夜半過ぎ石橋駐止斥候小松原少尉以下三名(小松原少尉、永井軍曹、森上等兵)敵情偵察中敵の敷設せる地雷に触れたるものの如く、所在不明となる。(戦死せるものの如し) 六月十八日晴 敵兵約七十名(黒人武装兵)渡嘉敷に上陸、旭沢、石橋。A高地付近に盛んに銃砲撃を実施する。敵は我が斬り込を恐れ各谷間並びに通路に盛んに地雷及び障害物を設置す。 六月十九日曇小雨 一八○○敵約十名留利加波道傘松付近に侵入、其の後敵の行動不明なる為之が偵察に駐止斥候として第二中隊森末伍長、佐藤伍長二名出発、二三○○頃迄偵察するも敵影を発見出来ず暗夜小雨の中帰途に着く、途中傘松の下、段々畑にて敵の地雷に掛かり森末伍長戦死、佐藤伍長耳部負傷す。 会報を左の通り下達す。 石橋付近には昼間十名内外の敵が駐在し部落内外も危険な状態となる(敷設地雷による)石橋~渡嘉志久間の通行を禁止す。 留利加波、阿利賀の道路の昼間通行禁止す、絶対に戦隊本部の許可を必要とする。 六月二十日曇 ○九○○水陸両用箪二両を以て監視船に連絡に行き一両に人員約二十五名(内武装兵二名)一両に鉄材(長一・五米位の軌条の如し)を満載し揚陸す。一三五○特大発(51409)儀志布方向より湾内に入る。黒人兵約三十名上陸、帽子は白にて種々なり牽引車一両砲二門(砲身約二米野砲より小型にてゴム車輪四ケ)高射砲やも知れず。 六月二十一日 夜恩納河原自活班勤務防招隊員前里与太郎、恩納河原、河谷入口付近にて敵の埋設せし地雷に触れ戦死せるものの如し。 六月二十二日 本部無線機にて本島軍司令部最後の斬り込を敢行するとの電報を傍受す。 六月二十三日 一二○○頃水上勤務隊衛生兵玉木兵長戦病死す。 六月二十四日 ○七三○艦砲、高射砲、迫撃砲を以て猛烈に射撃を開始、特にA高地に目標を置くものの如し。 ○八三○敵兵約六○名、A高地に攻撃を加え我軍と交戦す。 ○九五○敵はA高地に迫撃砲重軽機を備え一八○○頃迄間断なく我陣地に向け射撃す、 一九○○敵はA高地を徹収、銃声殆どなし、 猶○七三○艦砲によりA高地は敵の攻撃を受け多里少尉以下十名勇戦奮闘交戦一時間、状況止むなきに至り同高地を徹収す、此の戦闘に於いて島谷伍長、佐藤伍長、久保伍長、山田兵長、野々ロー等兵、戦死の尊き犠牲を出す。 第三中隊、杉沼、森山伍長負傷敵は旭沢に地雷を設置する模様なり。最近各隊は稜線上に於いて敵の狙撃を受ける事頻なるによって昼間稜線上の通行を厳禁す。 六月二十五日 敵情及び陣地内変化なし、各中隊陣地構築に専念する。 六月二十六日 作業に陣地外に出る者、部落民に糧秣を強要するものあり強奪せしものは厳罰に処す旨各隊に通報す。 水上勤務隊軍夫三名氏名不祥、恩納河原に於いて糧秣を強要したる模様なり。 六月二十七日 戦隊長各中隊長を本部に招集しA高地失地後の戦闘計画を示達実施せしむ、各隊の情況異常なし。 六月二十八日~六月二十九日 異常なし、戦隊は依然として陣地構築及び各隊の縦面連絡壕の構築を実施す。 六月三十日 ○六○○第三中隊所属水上勤務隊軍夫吉本(名不祥)より岩村班等昨夜逃亡せる旨報告あり 一四三○阿波連駐止斥候連下隊より連絡兵二名特設水上勤務隊曽根一等兵を主謀とする某事件の報告を受く。 (引用者注)曽根一等兵は特設水上勤務隊ではなく勤務隊所属 一八○○新海中尉以下二十二名捜索隊を編成、曽根一等兵以下の偵察に出発す。 某事件とは 特設水上勤務隊斉田少尉以下二四○名朝鮮人を主力とする軍夫で戦隊の舟艇を秘匿する舟艇壕の掘進、舟艇の泛水、引揚、器材の運搬を目的として集められ戦場にかり出されたものである。 敵の上陸後は西山複廓陣地に於いて日夜連日陣地作り(防空壕、タコ壷掘り)弾薬器材の集積に従事し武装する兵器なく、唯自決用の手榴弾一ケのみ与えられたるまったくの丸腰である。敵弾の落下する中、不足したる食糧に飢え精神的な焦燥に耐え切れず敵軍に集団投降したる事件である。 (9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) index 目次
https://w.atwiki.jp/lupinduke/pages/179.html
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/98.html
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載8回目 信頼どこにおくか 将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。 ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、それらすべてを否定しないと、赤松弁護の立論ができないのである。 沖縄側の渡嘉敷戦記の全面否定は、あとで曽野氏がいちばん信用できるとする赤松隊の陣中日誌なるものを持ち出すための伏線となっている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が、伝聞証拠によって書かれたとする判断をふまえて、曽野氏はつぎのように推理する。 曽野氏は、渡嘉敷島に関する三つの記録をあげている。沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。 「事実内容」の問題 『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたようだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはともかく、事実内容まで、伝聞証拠によって書かれたとされる『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記をまねるということがありうるだろうか。 この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである。三つの資料は、いずれも直接体験者の証言に基づくものであって、直接体験者でない者からの伝聞証拠によって三つの記録の事実内容が共通性をもたされているのではないことはあきらかである。 私製の「陣中日誌」 曽野氏が最も信用できる資料として赤松弁護の道具に使っている赤松隊の「陣中日誌」なるものは、ほんとの「陣中日誌」ではない。軍隊では、作戦要務令で規定された陣中日誌を「陣中日誌」というのだが、赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられた(記述の年月日がある)もので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合の強いもので、客観的資料として信用しがたいものである。 現地側の戦記資料はすべて否定し、赤松隊のこの「私製陣中日誌」に最大の信を置いて書かれたのが『ある神話の背景』である。赤松隊の「私製陣中日誌」と曽野氏の『ある神話の背景』とは、書かれた意図に似通うものがあり、赤松隊弁護の意図で重なり合っているが、『ある神話の背景』があるていど公平を装っている点だけがちがっている。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2263.html
渡嘉敷島に残留した別部隊員 会報特攻 第11号 平成2年8月 「第十一船舶団長 大町茂大佐の洋上戦死」 石田四郎 http //www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf による、大町大佐一行の移動経過 (「会報特攻」への投稿原稿と思われる石田四郎元少尉自筆文書が、遺族によって防衛研究所に寄贈されています<沖縄 台湾399>。内容は大部分が雑誌と同じですが、編集部の手によるのでしょうか、雑誌では大町大佐の巡察目的などの記述が変更されています。また3月25日の32軍からの「転進命令」について、脚注の内容が雑誌では大幅に簡略化されておるなど、なかなか気が付かないことの検証が必要です。) 渡嘉敷島に残留した別部隊員本島から座間味へ 座間味島から阿嘉島へ 阿嘉島から渡嘉敷島へ 渡嘉敷島から本島へ(1) 残留者 渡嘉敷島から本島へ(2) 石田少尉は残留組か? 本島から座間味へ 「3月22日大町大佐は所要の随員をつれて那覇港を出航した。一行は15名で・・・」 船舶団関係(11名) 団長大町茂大佐 副官山口栄中尉 石田四郎少尉 渋谷悦三郎見習士官 若山英次兵長 他5名(通信班) 当番兵1名 第五海上基地隊本部(4名) 隊長 三池明少佐 木村安蔵少尉 南芳明技術少尉 当番兵1 計15名 座間味島から阿嘉島へ 「大佐は、24日○四○○頃、二隻の刳船によって阿嘉島に上陸」 阿嘉島から渡嘉敷島へ 「大町大佐は3月25日二二○○頃、特攻艇二隻に搭乗して一路沖縄本島を目指し出発した。」 第2戦隊から 第2中隊長 宮下力少尉 小田候補生 麻生候補生 村上候補生 乗船区分 1号艇 大町茂大佐 副官山口栄中尉 石田四郎少尉 2号艇 三池明少佐 木村安蔵少尉 南芳明技術少尉 予定は変更されて渡嘉敷島阿波連に上陸 其の他9名は刳り舟。沖台沖縄205「海上挺進第2戦隊史実資料」参照 宮下少尉が渡嘉志久の第三戦隊本部まで案内する。 刳り舟に乗ったその他9名とは 船舶団(8) 渋谷悦三郎見習士官 渡嘉敷で5月4日戦死(辻版「陣中日誌」原本、本版「陣中日誌」改本) 若山英次兵長 渡嘉敷で8月1日戦病死(谷本版「陣中日誌」改本) 他5名(通信班) 当番兵1名 第五海上基地隊本部(1名) 当番兵1 渡嘉敷島には既に海上挺進基地第三大隊(独立第三大隊に改組)から4名も来島中 隊長鈴木常良少佐 新海中尉 竹内軍曹 他1名 渡嘉敷島から本島へ(1) 「26日二二○○頃、特攻艇二隻(爆装を外す)に総てを托し、大町大佐は沖縄本島を目指して出航した。」 一番艇(遭難帰還せず) 中島一郎少尉 土肥技術伍長 大町大佐 鈴木少佐 山口中尉 二番艇(遭難帰還) 竹島候補生 田中技術上等兵 三池少佐 新海中尉 木村少尉 残留者 したがって、3月27日の時点では渡嘉敷島には別部隊将兵が、 船舶団関係(9名) 石田四郎少尉 渋谷悦三郎見習士官 辻版「陣中日誌」5月4日戦死 若山英次兵長 谷本版「陣中日誌」8月1日「船舶団所属若山兵長、栄養失調のため戦病死す」 他5名(通信班) 当番兵1名 第五海上基地隊本部関係(4名) 隊長 三池明少佐 辻版「陣中日誌」5月6日本島帰島予定、本島糸満上陸後海軍部隊参謀として転属。沖台沖縄205「第5海上挺進基地隊本部史実資料」参照 木村安蔵少尉 同人物か不明だが、辻版「陣中日誌」5月5日に「木村少尉」の記載有り、これが木村安蔵少尉のことらしく、この翌日本島帰島。沖台沖縄205「第5海上挺進基地隊本部史実資料」参照 南芳明技術少尉 辻版「陣中日誌」3月27日三池少佐らの捜索班長、5月11日にも「南少尉」の記載有り 当番兵1 山本一等兵、沖台沖縄205「第5海上挺進基地隊本部史実資料」参照 海上挺進基地第三大隊(独立第三大隊に改組)(3名) 新海中尉 辻版「陣中日誌」3月28日「独立第三大隊附新海中尉高塚少尉戦死ノ為第三勤ム小隊長ニ命ス」、8月8日「八月八日第三勤務少隊長新海中尉戦病死ス」 竹内軍曹 他1名 以上16名が、赤松部隊の下に残留したことになります。(3月27日現在) なお、何らかの転籍規定により原隊復帰が望めないものは赤松部隊の判断で赤松部隊に編入されたと思います。 渡嘉敷島から本島へ(2) 5月5日稲垣少尉以下十一名(含糸満漁師6名)が通信機器を携えて刳舟二隻で来島。翌5月6日、その二隻に渡嘉敷島の刳舟一隻を加えて、三池少佐らの原隊復帰のため離島。送られた将兵の数など詳細不明なところがあります。 「 作命甲31号 木村少尉ハ将校斥候トナリ伊藤軍曹加藤上ト兵防召二名他二糸満防召員六名ヲ指揮シ操舟ニヨリ本六日夜渡嘉敷島ヲ出発シ沖縄本島ニ到リ軍司令部ノ船舶団其ノ他関係方面ト連絡スベシ 木村少尉ハ三池少佐沖縄本島帰還ヲ護送スベシ 木村少尉ハ連絡任務終了後ハ原所属ニ復帰スベシ 伊藤軍曹ハ連絡任務終了セバ時期ヲ選ビ沖縄本島ニ於ケル当部隊残留者ヲ指揮シ帰隊スベシ 」 辻中尉版「陣中日誌」原本より http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2254.html#id_0ab80ab4 「 座間味島を逃れて赤松隊と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ渡る機会を絶えずねらっていたのであろう 防衛隊員の中から割舟に経験のある者の調査が行われた、 この時の白羽の矢が隊員小嶺賀牛玉城定夫の両名に当った. 本人達は希望するところか軍命であれぱ致し方なく決死行の意固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手に糸満漁夫二名を補強し渡嘉敷港を出発した 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり四哩の海路を無事前島部落へ辿り着いた. 」 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 より 石田少尉は残留組か? 石田四郎少尉が三池明少佐とともにこのとき本島に帰還したとすれば、上記「作命甲31号」に名前が記載されているはずです。 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2324.html
防衛研究所資料<沖台 沖縄>シリーズ 沖縄戦関係資料閲覧室 http //www.okinawa-sen.go.jp/search.php 以下の中「未作成」は、ここで検索すると画像資料を見ることができます。 <沖台 沖縄>トピック 001~050 第1篇 第32軍沖縄作戦記録<沖台 沖縄001>(改訂版)(昭和24年11月復員局編纂) 第32軍沖縄作戦記録(昭和21年8月第一復員局編)<沖台 沖縄008> 第32軍沖縄作戦に関する質疑に関する回答(昭和20年12月22日第一復員省編)<沖台 沖縄016> 海上挺進第3戦隊渡嘉敷島戦闘概要(昭和20.3~20.8)<沖台 沖縄021>(未作成) 赤松隊『陣中日誌』原本の写本(敗戦直後作成) 海上挺進第3戦隊[戦史資料](昭和21.1.9調製)<沖台 沖縄021>(未作成) 赤松嘉次の提出文書 海上挺進基地第4大隊[戦史資料]<沖台 沖縄021>(未作成) 第32軍司令部[史実調査参考資料報告]<沖台 沖縄025>(未作成) 第32軍沖縄戦当時に於ける部隊所在表<沖台 沖縄028>(未作成) 附・防衛召集概括一覧表<沖台 沖縄028> 海上挺進第3戦隊記録(付人名簿)(※)<沖台 沖縄029>(未作成)「本部陣中日誌」原本所収] 第32軍現役兵連名簿(島尻郡伊是名村)昭和19年度<沖台 沖縄032>(未作成) 第32軍沖縄戦に於ける戦死者の遺骨(体)等の状況について<沖台 沖縄030>(未作成) 沖縄作戦に於ける第32軍史実資料<沖台 沖縄037>(未作成) 第32軍 陣中日誌案(昭和19.3~20.1)<沖台 沖縄040>(未作成) 第32軍参謀部命令録(昭和20.3)<沖台 沖縄041>(未作成) 第32軍天ノ巌戸戦闘司令部取締に関する規定(昭和20.5)<沖台 沖縄041>(未作成) 第32軍情報記録(昭和20.3)<沖台 沖縄048>(未作成) 第32軍命令(昭和20.2)<沖台 沖縄048>(未作成) 航空・船舶関係部隊の地上戦転用について 051~100 第32軍参謀神直道陸軍少佐に対する第32軍牛島満軍司令官訓令写<沖台 沖縄051>(未作成) 第32軍司令官から神参謀に渡された訓令(昭和20.5)<沖台 沖縄052>(未作成) 第32軍長参謀の釜井参謀に対する命令書(昭和19.9.14)<沖台 沖縄053>(未作成) 第32軍司令官牛島満中将訓示(昭和20.5.3)<沖台 沖縄054>(未作成) 32A牛島満、長勇両中將の自決の状況 附3.23-3.27日間の状況 萩之内清S20<沖台 沖縄056>(未作成) 第32軍牛島満・長勇両中将の自決状況(昭和20.6)附神直道中佐の記録(20.3.23-3.27)<沖台 沖縄056>(未作成) 第32軍司令部新聞抜粋綴(陣中新聞)(昭和20.5.8~5.12)<沖台 沖縄057>(未作成) 沖縄作戦八原博通S34<沖台 沖縄059>(未作成) 元第32軍参謀八原大佐に対するGHQ戦史課の質問並びに回答(昭和24.4)<沖台 沖縄061>(未作成) 101~150 沖縄戦記 伊江島戦闘経過の概要(独立機関銃第4大隊副官環正次が聴取)<沖台 沖縄130>(未作成) 第32野戦兵器廠・第32野戦貨物廠命令(昭和20.3)<沖台 沖縄135>(未作成) 沖縄、国頭支隊関係部隊作命綴 独立混成第44旅団独立混成第15連隊第3大隊 陣中日誌(昭和19.8)(※)<沖台 沖縄143>(未作成) 軍官民合同警備演習 151~200 第32軍命令(昭和19.10~20.3)<沖台 沖縄187>(未作成)作戦命令録 独立迫撃第6中隊(※) 第32軍戦闘指針(第1~5・9号)(昭和20.2~20.3)<沖台 沖縄193>(未作成)作命綴 要塞建築勤務第6中隊(※) 「一人十殺一戦車」 要塞建築勤務第6中隊 陣中日誌(昭和19.5)(※)<沖台 沖縄196>(未作成) 慰安所建設に関する命令 要塞建築勤務第6中隊 陣中日誌(昭和19.6)(※)<沖台 沖縄197>(未作成) 慰安所建設に関する命令 要塞建築勤務第6中隊 陣中日誌(昭和19.7)(※)<沖台 沖縄198>(未作成) 201~250 第11船舶団司令部史実資料<沖台 沖縄205>(未作成) 海上挺進基地第3大隊戦闘概要<沖台 沖縄205>(未作成) 赤松隊整備隊長木林中尉による 海上挺進第1戦隊史実資料<沖台 沖縄206>(未作成) 海上挺進第3戦隊史実資料<沖台 沖縄206>(未作成) 海上挺進第3戦隊記録(付人名簿)(※)<沖台 沖縄209>(未作成) 海上挺進基地第1大隊知念海岸基地偵察報告(※) <沖台 沖縄210>(未作成) 海上挺身第30戦隊の回想富田稔S43<沖台 沖縄215>(未作成) 沖縄作戦における海上挺身隊基地第2大隊の行動 儀同保S42<沖台 沖縄219>(未作成) 特設水上勤務第104中隊軍夫編成表(昭和19.9)(※)<沖台 沖縄232>(未作成) 沖縄作戦 殉国日記 index<沖台 沖縄234> 赤松隊中島少尉二周忌記念誌 昭和21年における赤松、皆本の認識 慶良間諸島・久米島・伊江島住民の沖縄戦記<沖台 沖縄235> 住民による戦記の写本 原寿満夫日誌 巻1 原寿満夫S20<沖台 沖縄245>(未作成) 251~300 沖縄戦記(座間味村、渡嘉敷村戦況報告)<沖台 沖縄253>(未作成) 住民による戦記の写本 神日誌 其2 第32軍参謀 陸軍中佐 神直道<沖台 沖縄254-2>(未作成) [[沖縄作戦の観察(主務者第2次案)陸上自衛隊幹部学校]<沖台 沖縄265>] 海上挺進第3中隊 陣中日誌控(昭和20.4~20.5)(※)<沖台 沖縄284>(未作成)皆本中隊陣中日誌 海上挺進第3中隊 陣中日誌控(昭和20.5~20.7)(※) <沖台 沖縄285>(未作成)皆本中隊陣中日誌 海上挺進戦隊資料<沖台 沖縄289>(未作成)皆本寄贈資料 第32軍陣中日誌案(昭和19.3) (※)<沖台 沖縄290>(未作成) ~20.1も<沖台 沖縄290> 301~350 沖縄戦記「島民」の集団自決は軍命令だった(週刊讀賣抜粋)(昭和44.8.15) <沖台 沖縄302>(未作成) 「ある神話の風景」(週刊春秋諸君抜粋)(昭和47.3)<沖台 沖縄302>(未作成) 沖縄戦における島民の行動 馬淵新治S35<沖台 沖縄303>(未作成) 351~400 [[]] 401~450 伊江島守備隊 児玉俊介S59<沖台 沖縄401>(未作成) 第32軍部隊名一覧表(沖縄本島)<沖台 沖縄402>(未作成) 海上挺進第3戦隊 陣中日誌(複製版)(昭和19.8~21.1)<沖台 沖縄405>(未作成)1970年谷本版『陣中日誌』 <中央 軍事行政 編制> 第32軍編成人員表<中央 軍事行政 編制45>(未作成) 国立公文書館 秘密戦に関する書類 昭和19年(未作成) 国頭支隊秘密戦機関「国士隊」結成ノ件報告 昭和20年3月14日(未作成) 宣伝資料送付ノ件 昭和20年3月15日(未作成) 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/ja2047_memorial/pages/112.html
>お尋ね 2005/ 1/13 6 37 [ No.30615 / 39216 ] 投稿者 ja2047 「陣中日誌」「手記」などの原本は何処に保存されているのでしょうか? 本来の意味の「陣中日誌」は、隊の公式日誌なので、防衛庁が保管しています。 http //www.nids.go.jp/military_history/military_archives/ ただし、「戦闘詳報」もそうですが、基本的には旧軍の公式資料は全て敗戦時に破棄されましたので、現存する公式資料は一旦個人蔵になった上で提供されたものでしょう。旧軍関係については、公式記録はすべて、一旦公式の保管を解かれているわけです。 少しトピずれの話をしますと、旧軍の航空機の塗色の見本帳として、「空技報0226」と呼ばれる研究報告書や、「仮規117」と呼ばれる標準の現物が存在していることは、早くから有名であったのですが、いずれも個人や企業が秘蔵しており、公開されていませんでした。 60年の歳月を経て、4年前に「空技報0226」が、昨年「仮規117」が、一般の目に触れる形で公開されました。 お尋ねの件と少しずれたと思いますが、公式記録である「陣中日誌」と、個人記録である「日記」が混同されがちなので、あえて、「陣中日誌」の話をしました。 私個人的には、南京事件が「犠牲者数万人の虐殺事件」として世に現れた1938年の時点で、中支那方面軍司令官の更迭で済ませずに、徹底的な調査を行って結果を公開していれば、後に「数十万の大虐殺」説が定着することもなかったろうし、今また無謀な全否定論がまかり通って、国際的に「日本人は卑怯な国民である」という印象を振りまくこともなかったのではないかと思っています。 当時の日本軍の姑息な隠蔽体質が、ここまで問題をこじらせた第一の原因であると思います。隠蔽体質が壊滅的な悪評を招くというのは、最近でも某自動車メーカーが証明して見せたとおりなのですが・・・ これは メッセージ30609tanomosiitousanさんに対する返信です 戻る?