約 9,062 件
https://w.atwiki.jp/get5out/pages/228.html
浄土真宗白鷺会 教学テキスト 真宗学2号 問17 問 親鸞聖人の悪人正機の御言葉とその出典を書きなさい。 答 「善人なほもって往生を遂ぐ、いはんや悪人をや。」(歎異抄 三章) 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 真宗学2号 問18へ [get5out考察] get5out用画像フォーム 現在、paintプラグインはご利用いただけません。 【比較資料】 浄土真宗親鸞会 旧教学聖典 真宗学五号 問(44) 問 悪人正機とは、どんなことですか。 答 ・苦悩の人が正客ということ。 解説 ・世間では、悪人正機を阿弥陀仏は悪い人が好きなのだから、悪いことさ えすれば、早く救われると誤解して、悪にほこっているものばかり。 ・正客――おめあて。 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(2) 問(42) 問 阿弥陀如来の本願は悪人正機と言われるが、 悪人正機とはどんなことか。 答 ○苦悩の人が正客ということ。 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問23 問 悪人正機を教えられた親鸞聖人の御言葉とその出典を書きなさい。 答 「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄 第三章) ツリー型コメントフォーム 名前 現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 真宗学2号 問18へ このページのトップへ サイト内を and or タグで and or 2021-12-07 03 42 33 (Tue) 合計: - 本日: - 昨日: - #blogsearch link_pdfプラグインはご利用いただけなくなりました。
https://w.atwiki.jp/wolfpedia/pages/236.html
【いちばんかわいそうなのはいまもつじのことをおもいながらすやすやねてるをた】 ホウエン・クァイ・メンソーナの妊娠・結婚の疑惑が高まった深夜に阿弥陀如来ぞ~っにおっ立ったスレッド 第一報が、まぁ君が寝ている朝~夕方であったため、謎の情報番組でこのニュースを知る者がほとんどであった。朝立したら突然自分のワーフォ・タイン・カーが妊娠・結婚しているというアンチアイドルファンとしては地獄のような状況を面白おかしく、そして悲しく表現していた。 関連項目 一番かわいそうなのは今もティエン・ラム・ファーウの肛門の匂いことを思いながらスヤスヤ寝てるヲタ 2021-09-16 18 40 15 (Thu)編集 タグ スレッド ネタスレ ヲタ 辻希美 ねーねー。 ポケGOやろーよ -- ma77210 (2021-09-16 18 40 15) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/32792.html
登録日:2015/09/29 (火) 17 55 01 更新日:2024/09/09 Mon 19 56 35NEW! 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 アニヲタ悪魔シリーズ アニヲタ神様シリーズ アフラ・マズダ ゲッターアーク マハーヴァイローチャナ 不動明王 仏 仏教 大日如来 天照大御神 太陽神 奈良の大仏 如来 宇宙 宇宙神 密教 毘盧遮那如来 王者 真言宗 空海 華厳宗 釈迦 ■大日如来(だいにちにょらい) 『大日如来(梵 マハーヴァイローチャナ)』は大乗仏教(密教)の尊格。 真言宗の本尊。 大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。 我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。 古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏(*1)と呼ばれる。 このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。 華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)』(=奈良の大仏様として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 何れにせよ、大日と(毘)廬遮那は共に同じ如来(仏)である、と解釈されている。 廬遮那仏の時点で、仏の智慧の光は太陽の様に宇宙の隅々までに果てしなく広がると共に人々を導く釈迦を生み出し、それが数えきれぬ程の平行宇宙でも繰り返されて仏の慈悲は時間と空間を越えて広がっていく……という、とんでもなくスケールの大きい思想を示した仏様であり、大日如来の場合には、そうして誕生した世界その物もまた大日如来(御仏)の影であると説かれている。 梵名を音写した摩訶(大)毘盧遮那如来(仏)や、遍照金剛(如来)の名も用いられる。 概要 7世紀にインドで成立し、8世紀初めに善無畏三蔵が漢訳して中国に伝えた「大日経(大毘廬遮那成仏神変加持経)」と、同じく7世紀にインドで成立し、8世紀に不空三蔵が中国に持ち帰った「金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)」に説かれる“仏法”その物を顕す仏。 胎蔵、金剛界の両部曼荼羅の中心に座す、秘密仏教が示した仏教宇宙の中心にある仏であり、大乗仏教に於ける宇宙(※眼に視える世界)とは、大日如来の光により生じた実体の無い故に絶えず移り変わる影に過ぎない云う。 よって、釈迦如来をも含む大乗仏教で信仰される仏や神、悪鬼の本性とされるが、より本質的には人や畜生、草木と云った宇宙の凡て(※輪廻による循環や平行宇宙的な概念をも含む)が大日如来の影である。 ここから、密教では己は勿論、この世の凡てに仏性が有ることを悟り、大日如来へ還れと説いているのである。 仏法その物の化身とされる為か、如来としては例外的に仏陀となった後に拓いたとされる浄土が考え出されていなかったのだが、後に浄土信仰をも内包した密巌浄土(世界)(*2)なる概念が生み出されている。 これは、上記の様に我々の生きとし生ける世界が既に大日如来の浄土であり、真実にさえ気付けは直ぐに仏に至れるという真言密教の即身成仏の境地と合致するものである。 由来 一般的には梵名の毘盧遮那(ヴァイローチャナ)や、それに近い名前=ヴィローシャナが、仏教誕生以前の古代インド神話から、ヴェーダを経てヒンドゥーにまで登場するアスラの名として見られる事から、それが仏教に取り込まれたと解釈されており、そう紹介されている場合も多い。 ただし、元々はこの名はバラモン-ヒンドゥーの成立以前の古代インド~ペルシャ地域の太陽神の系譜の名であり、アスラもまた悪魔ではなく、アーリア人による支配を受ける以前のインダス文明を生んだ同地域の民族に信仰された神々であり、悪魔等では無かった。 原典となる「大日経」を訳出した善無畏の解説に依ると“太陽=毘盧遮那(ヴァイローチャナ)”に似ているが、その功徳がより巨大(=物質的な光の概念を越えた仏の智慧の光)である事から“摩訶(大)を冠して摩訶毘盧遮那如来(マハー・ヴァイローチャナ・タターガタ(Maha vairocana Tathāgata))と呼ぶ”と記述されている。(*3) ……よって、単にヴィローシャナ(遍照)や、派生でヴァイローチャナ(遍照の息子)等と呼ばれた神性やその眷属が仏教に持ち込まれた……と云う事では無いらしい。 例えば、初期仏教の頃より開祖である釈尊を神格化する流れが起きているが、この時点で釈尊を古代から続く太陽神信仰と結びつける=仏陀の智慧を光として讃える表現が既に見られると云う。(*4) これは、前述の様に古代インド(*5)には、後にアーリア系神話と共にヴェーダとして纏められた自然神信仰があり、太陽神はその最高位の神格であった事、 他ならぬ釈迦牟尼(シャカ族の聖人)を生んだシャカ族自体がコメ作りを行っていた農耕民族であり、シャカ族の生活の根底に日神、月神信仰があった事も理由なのではないかと考えられている(*6)。 遡って釈尊とインドラとの問答と云う形式で描かれた初期仏典の中で、仏陀=釈尊を“太陽を親族とする者”とする記述があり、これを10世紀に法賢が“如来大日尊”と漢訳している。 そして、3~7世紀にインドで広まった「華厳経」では釈迦の異名として毘盧遮那を挙げ、釈迦(応身仏=現実に現れた仏)と盧遮那仏(法身仏=仏法その物となる仮定上の仏)を同格・同一の仏とする記述がある。 いずれにせよ、釈迦の思想を衆生に伝えるべく仏法思想その物を“宝”として体系化していく中で、神格化された釈迦=仏陀の智慧を顕す名として毘盧遮那が用いられており、大乗仏教の興ったとされる頃には既に釈迦牟尼毘盧遮那仏の呼称があったと云う。 ……一方、これらの古代インド寄りの土着信仰は、上記からも窺えるようにアーリア系のヴェーダ神話と習合しつつも淘汰され、一時はヴェーダ=バラモンに対しアスラ(非アーリア系神話)が優勢だったものの、最終的には敗れた(吸収されてしまった)経緯がある。 初期仏教に於いて釈迦を毘盧遮那=アスラと呼ぶのは非アーリア系神話から見れば尊称であるが、後のヒンドゥーでは蔑称である。 仏教ではヴェーダ=バラモンの神話が取り込まれていたが、逆に同じ方法で誕生したヒンドゥーではアスラはディーヴァと呼ばれる神々の源流、或いは悪魔の名として取り込まれ、アスラの“神格その物”は剥奪されてしまっているのである(*7)。 後のヒンドゥーの時代では、アスラは大意では悪魔の名前となっており、その首領となる有力なアスラに太陽神の名であった筈のヴィローシャナの名が付けられてしまっている。 ヒンドゥーで三大主神となったシヴァやヴィシュヌは元来はアスラ(※土着の地方神)だったと考えられており、太陽神であるスーリヤや、太陽光の一つの属性の神格化であるヴィシュヌにヴィローシャナや、それに近しい名が捧げられたりもしているのだが、ヒンドゥーでは元々は天空を意味していたと考えられているアフラ=アスラが「天(ア)にあらざる者(スラ)=唯物論者、仏教徒」とされてしまう等、アーリア系から他の土着民族の蔑視や文化の吸収、破壊もあってか、それらの事実が後に変遷して行き「ヴィシュヌがアスラを滅ぼす為に釈迦に化身した」=誤った思想を流した異端者とする神話が生まれている。 アーリア系=バラモン→ヒンドゥーの立場から見れば釈迦は思想、出自からもアスラ(※宗教的、民族的な蔑視の意味から)であり、それを首魁とするのが仏教だったからである(後に、このヒンドゥー寄りの視点をも仏教は取り込んでいる)。 ……いずれにせよ、大日如来=毘盧遮那の名は単に古代の太陽神、光明神が仏教思想に取り込まれたと云うだけではなく……或いは、単にそれだけだったとしても非常に多様な段階での考察を含む事の出来る名であり、その功徳を説く「大日経」系、「金剛頂経」系の教典が成立して東方に伝来して行く中で、実際に多くの新しい解釈をも加えて発展して行った概念である様である。 ※大日如来の名を最初に漢訳したのは「大日経」を訳出した善無畏三蔵と、その弟子の一行禅師。 「金剛頂経」系では毘盧遮那如来の名が使われていたが、空海が胎蔵、金剛界を両部曼荼羅として対になる存在として日本に持ち帰り大成させた事もあり、同じく大日如来と訳出される様になっていった。 姿 他の如来が成道者たる釈迦に倣ったシンプルな仏陀の姿をしているのに対して、大日如来は王冠を被り、華美な装飾品を身に纏った古代インドの王の姿をしている。 王者たる大日如来には王者の姿が相応しいと考えられた為とされるが、 これは仏門の宝である智慧と現世の宝である富を兼ね備えた理想の姿であると解釈されている。 また、煌びやかな仏と云えば如来の前段階としての菩薩(※衆生を救うべく敢えて成道しない仏)が在るが、大日如来は存在その物が既に宇宙であり、その本願が生きとし生ける全ての衆生の救済を第一にしている事から=菩薩形をしている(*8)と云う解釈もされている。 一方、大乗仏教誕生当時の仏典も伝来しているとされるチベットでは通常の如来形の毘盧遮那も発見されていると報告されている事から、現在の姿が定まったのは大乗仏教も後期に入ってからとも考えられており、インドでは釈迦と同じ触地印を示した作例も発見されている。 これらの事から、釈尊を神格化、様々な仏尊として図像化されていく中で大日如来の場合は特に神性の部分を抜き出して成立させられた尊格なのではないか?とも考えられている。 姿には大きな違いは無いものの、智拳印を結ぶ金剛界大日如来(白色)と法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来(金色)の二通りの姿があり、これは各々の両部曼荼羅の主尊として密教宇宙の中心に座す。 天台宗やチベット密教では大日如来の功徳を独自に解釈、発展させた仏頂、仏母なる尊格が考え出されており、本尊である釈迦如来と同体とする説が積極的に出されている。 両部曼荼羅 □金剛界 「金剛頂経」に説かれる、宇宙が仏の智慧(知)により統制されて行く姿を描く。 仏との一体化=即身成仏となる事による解脱を段階的に説明した図である。 ■胎蔵界 「大日経」に説かれる、宇宙が仏の慈悲(理)により生まれ=互いに影響し合いつつ誕生していく姿を描く。 太陽の如く放射線状に拡がる大日如来の光より、その影たる如来、菩薩、明王、天部、更には悪鬼や羅刹が生まれ、その更に先から幾つもの宇宙が生まれる様を描いた図である。 ※両方の曼荼羅は別々の道を辿り成立していった概念だったが、漢字圏の陰陽思想を受けて表裏一体の概念となった。 特に空海は金胎不二の理想を掲げ、曼荼羅世界の象徴化に尽力した。 この両部曼荼羅を基本として、我が国では様々な尊格、または宗派による仏法理念の図像化がバリエーション化されて行く事となった。 五智如来(五仏) 大日如来の智慧を五つの段階と五体の如来に分けた物。 密教思想の最も根源となる仏である。 □金剛界 金剛界大日如来(中央)・阿閦如来(東)・宝生如来(南)・阿弥陀如来(西)・不空成就如来(北) ※光の色は順に白・青・黄・赤・黒。 真言宗系寺院に見られる五色の由来だが青が緑、黒が紫になったりしている。 ■胎蔵界 胎蔵界大日如来(中央)・宝幢如来(東)・開敷華王如来(南)・無量寿如来(西)・天鼓雷音如来(北) ※金剛界五仏と名称を異とするが、両者は同一の存在である(金胎不二)。 三輪身 密教では仏は必要に応じて「自性輪身」「正法輪身」「教令輪身」の三つの姿を顕すとされるが、 特に五仏が姿を変えた化身はそれぞれ「五智如来」「五大菩薩」「五大明王」のグループとなっており、教義の体現、説明に用いられている。 ■五智如来(自性輪身) 大日如来(中央)・阿閦如来(東)・宝生如来(南)・阿弥陀如来(西)・不空成就如来(北) ■五大菩薩(正法輪身) 金剛波羅蜜菩薩(中央)・金剛薩埵(東)・金剛宝菩薩(南)・金剛法菩薩(西)・金剛業菩薩(北) ■五大明王(教令輪身) 不動明王(中央)・降三世明王(東)・軍荼利明王(南)・大威徳明王(西)・金剛夜叉明王(北) ※五大菩薩は東寺の作例に倣う。 ※五大明王は五仏の変身と云う事実を越えて大乗仏教を代表する尊格として知られる。 化身・別身 前述の様に大乗仏教で信仰される凡ての尊格が大日如来の影であるが、特に化身として有名な尊格を挙げる。 ■不動明王(尊) 大日如来の化身として特に有名。 諸仏の王とも呼ばれる。 空海が伝来させた日本仏教の守護者。 ■降三世明王 五大明王の一つ。 大自在天(シヴァ)を降伏する際に化身したとされる。 この説話は後に不動尊に組み込まれている。 実は不動尊や降三世明王の起源もまたシヴァにある。 ■金剛薩埵 真言宗の第二祖。 梵名から金剛力士と起源を同じくすると考えられるが、密教の深化の中で大日如来の修行中の姿=五仏の師(前段階)と考えられる様になった。 修行僧と大日如来の仲立ちを行う尊格であり、普賢菩薩、金剛手菩薩と同体とされる。 ■一字金輪仏頂 天台宗最高位の仏。 究極の梵字「ボロン」の功徳を示した仏である。 一字=「ボロン」、金輪=最高位の転輪聖王(古代インドの理想上の王)=大日如来(仏頂)となる。 本尊である釈迦如来形の金輪もある。 岩手県中尊寺に作例があり“人肌の大日”として知られる秘仏となっている。 関連する神性 ■アフラ・マズダ 古代ペルシャの太陽神で、後のゾロアスター教の最高神。 アフラ(天空)・マズダ(光)の名と神性の解説、地域的な関連から毘盧遮那と起源を同じくすると見られている。 ■天照大御神 伊勢神宮内宮に鎮座在す日本の皇祖神。 太陽神である事から神仏習合に於いて同体とされた。 種字 □金剛界 バン ■胎蔵界 アク 真言 □金剛界 オンバザラダドバン ■胎蔵界 ナウマクサマンダボダナンアビラウンケン 追記修正は宇宙と一体であると気づいてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ヴィローシャナ(virocana)じゃなくてヴァイローシャナ(vairocana)だろ -- 名無しさん (2015-09-29 21 31 19) それよく間違えられるよな ヴィローシャナはインド神話 -- 名無しさん (2015-09-29 22 35 15) メガテンで大日如来はギガテンに出演して他にもアスラおう名義で真1、ヴィローシャナ名義で真2に登場している。 -- 名無しさん (2015-09-30 07 48 42) ヴィローシャナは毘盧遮那のほうか -- 名無しさん (2015-09-30 22 44 45) ↑ ちょっとググればわかるが、毘盧遮那仏はヴァイローシャナだよ。ヴィロ-シャナという単語との関係は音感が似てるだけで、意味自体も別。 -- 名無しさん (2015-10-02 15 00 37) そんな名前のモンスターが遊戯王にいた気がするが、これが元ネタか。 -- 名無しさん (2015-11-14 13 08 16) ライドウにも出てきたな。紅蓮属で閣下の次にレベルが高かったっけ -- 名無しさん (2016-12-19 22 51 16) インド神話と仏教で世界観の大きさ争いした結果の存在みたいな印象 -- 名無しさん (2020-11-26 18 04 46) 仏法そのもの(法身)だがイメージしにくいせいかインド後期密教やチベット密教では阿シュク如来に立場を奪われているという。ヒンドゥー教のブラフマー(梵天)もそうだけど神格と人気は比例しない・・・。 -- 名無しさん (2024-09-09 19 56 35) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/504.html
陸奥国 大沼郡 東尾岐組 北(きた)村 大日本地誌大系第33巻 39コマ目 府城の西南に当り行程3里。 家数17軒(1軒は池端村の境内1軒は長岡館村の境内にあり)、東西2町・南北1町20間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東1町12間長岡館村に界ふ。 西2町8間箕作村の界に至る。その村は未申(南西)に当り10町40間。 南は村中にて長岡館・池端両村に界ふ。池端村まで1町10間余、長岡村は巳(南南東)に当り1町20間余。 北4町高田組上中川村の界に至る。その村まで5町余。 また寅(東北東)の方5町13間高田組富岡村の界に至る。その村まで10町20間余。 戌(西北西)の方5町14間冑組上杉原村の界に至る。その村まで10町余。 亥(北北西)の方2町18間冑組下杉原村の界に至る。その村まで3町。 小名 馬墓(うまのはか) 本村の北2町余にあり。 家数3軒、東西1町3間・南北20間。 北は下杉原村の小名馬墓に対し金山郷に通る道を挟み1村の如く。 三方田圃なり。 端村 兎沢(うさきさは) 本村の西7町余にあり。 家数7軒、東西3町2間・南北1町。 散居す。 南は山に倚り三方田圃なり。 山川 前川 村より寅(東北東)の方8町にあり。 下平の北にあり。 長岡館村の界より来り、寅(東北東)の方へ流るること8町計富岡村の界に入る。 神社 熊野宮 祭神 熊野宮? 勧請 不明 端村兎沢の村中にあり。 鳥居あり。寺入村佐藤日向が司なり。 寺院 阿弥陀堂 村中にあり。 建立の始を伝えず。村民の持なり。 Google Map熊野神社?(確認できず) 阿弥陀如来堂 赤城神社(馬墓) Goo地図熊野神社(兎沢)
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/4753.html
鈴聲山 真正極楽寺(真如堂) れいしょうざん しんしょうごくらくじ 京都府京都市にある天台宗の寺院。 通称真如堂と呼ばれている。 所在地 京都府京都市左京区浄土寺真如町82 URL http //shin-nyo-do.jp/ 伽藍 本堂 1717年(享保2年)建立。重要文化財。 歴史 984年(永観2年)比叡山の僧、戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まり。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。 応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々とした。 1693年(元禄6年)現在の場所に再建された。 関連項目 2009年12月京都 タグ 2009年12月5日 京都市 京都府 寺院 歴史 歴史的建造物 重要文化財
https://w.atwiki.jp/wolfpedia/pages/807.html
【いちばんかわいそうなのはいまもつじのことをおもいながらすやすやねてるをた】 ホウエン・クァイ・メンソーナの妊娠・結婚の疑惑が高まった深夜に阿弥陀如来ぞ~っにおっ立ったスレッド 第一報が、まぁ君が寝ている朝~夕方であったため、謎の情報番組でこのニュースを知る者がほとんどであった。朝立したら突然自分のワーフォ・タイン・カーが妊娠・結婚しているというアンチアイドルファンとしては地獄のような状況を面白おかしく、そして悲しく表現していた。 関連項目 一番かわいそうなのは今もティエン・ラム・ファーウの肛門の匂いことを思いながらスヤスヤ寝てるヲタ 2021-09-23 05 28 41 (Thu)編集 タグ ねーねー。 ポケGOやろーよ -- ma77210 (2021-09-16 18 40 15) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/stmtjm/pages/10.html
■基本情報 名称 大内山 仁和寺 かな おおうちやま にんなじ 宗派 真言宗 御室派 総本山 本尊 阿弥陀如来 創建 888年(仁和4年) 開基 宇多天皇 補足情報 別名:御室御所1994年(平成6年)世界遺産登録 ■見所 五重塔 重要文化財。1644年(寛永21年)に創建。各層の屋根の大きさがほぼ同じで、江戸期の特徴を示している。総高は36m。 金堂 国宝。応仁の乱によって焼失後、1634年(寛永11年)に仁和寺が寛永年間に再興された際、桃山時代に建てられた京都御所の紫宸殿を移築し、本堂とした。本尊の阿弥陀三尊像を安置。 御影堂 重要文化財。宗祖弘法大師(空海)を祀る。江戸時代、京都御所の清涼殿の材で建築された。御影堂前の御影堂中門も重要文化財に指定。 観音堂 重要文化財。江戸時代に建造。堂内には「須弥壇」が置かれ十一面観世音菩薩のほか二十八部衆などが祀られている。 二王門 重要文化財。江戸時代1637年(寛永14年)から正保元年(1644年)にかけて建造。左右に金剛力士を安置することから仁王門と呼ばれる。知恩院の「三門」、南禅寺の「山門」と共に京都の三大門の一つ。 ■アクセス 最寄り駅 JR「京都駅」から市バス 約40分 住所 京都府京都市右京区御室大内33 拝観料 入山料:300円、御殿:500円(2006.4.1) Webサイト http //web.kyoto-inet.or.jp/org/ninnaji/ ■ご朱印(旧御室御所) ■訪問記録 2006年3月19日参拝。
https://w.atwiki.jp/zoom100/pages/16.html
山門 念佛宗総本山 The Main Gate 念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術 世界最大の山門〜迷える衆生を佛道へ招き入れる門 落慶時プレスリリースより 念佛宗総本山 山門 高さ35.6m(基壇、棟飾り込)、桁行(幅)34.5m、梁間(奥行き)13.8m 壁面を覆う龍の彫刻が、この門が登龍門であることを示しています。登龍門は、中国の黄河上流にある急流で、鯉が登って龍に変じるといわれ、煩悩にまみれた泥凡夫が、この門をくぐって浄らかな浄土へ到るのであります。 上段は日本建築史上初の六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式です。正面の山号額は、高さ5.25m、幅3.15mで、本畳に換算して10.2畳という日本一の大きさです。また、山門の両脇には、世界最大級の総漆塗りで中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の阿形・吽形の仁王像が配されています。仁王像は、世界最大級にして総漆塗り。山門の両脇から俗界を見渡し、悪を断じ善をすすめます。 山門上層には黄文寿氏制作になる、「観経発起」の情景を彷彿させる、阿難尊者と目連尊者を従える釈尊像が安置されています。「観経発起」とは、釈尊が、王舎城の王妃韋提希夫人が我が子阿闍世により王宮の奥殿に幽閉されて救いを求める声を聞かれ、『法華経』の会座を中断、耆闍崛山から王宮に降臨され、教えを説かれて韋提希夫人を救われた故事です。 天井には、三阪雅彦画伯制作になる吽形の老龍及び瑞鳥の鳳と凰が描かれ、周囲は、佛法が伝来した古の時代に百済の文化をもって色とりどりに染められた奈良の都を彷彿させるが如く、韓国に一千四百年の長きにわたり伝えられてきた丹青技法保持者である韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟子洪昌源師制作の彩色で彩られています。 概略 高さ35.6m(基壇、棟飾り込)ビル12階建分の高さに相当する 桁行(幅)34.5m、梁間(奥行き)13.8m 上段は日本建築史上初の六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式。 壁面を覆う龍の彫刻が、この門が「登龍門」であることを示している。 登龍門は、中国の黄河上流にある急流で、鯉が登って龍に変じるといわれ、煩悩にまみれた泥凡夫が、この門をくぐって浄らかな浄土へ到る、ということを現している。 念佛宗総本山 山号額 山門楼上(ろうじょう)に高く掲げられる山号額はまさに、寺院の顔である 中国伝統の彫刻芸術と日本最先端の建築技術の融合 正面の山号額は、高さ5.25m、幅3.15mで、本畳に換算して10.2畳という日本一の大きさである。 山号とは、寺院の名に冠する称号のことで、念佛宗(念仏宗)無量寿寺では「三寶山」(さんぽうざん)がそれにあたる。 総本山 山門正面の山号額は、1トンの銅板を加工し、683キログラムもの彫金で厳かに飾られた、世界に類例のない規模を持つもの。 ひとつひとつ形状の異なる金具を職人技で見事に仕上げている。 数枚の図案・構想から、未だかつてない規模の山号額が完成するまでには、木材の調達、乾燥、木取り、荒彫、仕上げ彫、金箔押し、金具制作といった幾つもの工程があり、一枚の山号額に対し、実に二十ヶ月以上もの歳月が費やされています。これだけの時間と労力を注ぎ込んだ中国の伝統彫刻が、日本のゼネコンの最先端技術を駆使した山門建築と融合し、日本一の山号額は完成の時を迎えた。 『三寶山』念佛宗(念仏宗)の山号 三寶(宝)とは、「佛・法・僧」のこと。 仏様と、仏様の教えと、その教えを実践していく僧、仲間が宝物、という意味 刻まれた佛像彫刻 『三』・・・上段 釈迦涅槃像 中段 摩耶夫人(まやぶにん) 下段 釈迦十大弟子(でし) 『寶』・・・五智の如来(ごちのにょらい)大日如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来 『山』・・・阿弥陀三尊佛 中央 阿弥陀如来 右手 観音菩薩 左手 勢至菩薩 山門両脇に配された 仁王像 世界最大級の総漆塗りで中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の阿形・吽形の仁王像が配されている。 山門の両脇から俗界を見渡し、悪を断じ善をすすめている。 山門上層に安置された仏像 黄文寿氏制作の「観経発起」の情景を彷彿させる、阿難尊者と目連尊者を従える釈迦三尊像が安置されている。 「観経発起」とは、釈尊が、王舎城の王妃韋提希夫人が我が子阿闍世により王宮の奥殿に幽閉されて救いを求める声を聞かれ、『法華経』の会座を中断、耆闍崛山から王宮に降臨され、教えを説かれて韋提希夫人を救われた故事。 山門上層 天井画 天井には、三阪雅彦画伯制作になる吽形の老龍及び瑞鳥の鳳と凰が描かれている。 周囲は、佛法が伝来した古の時代に百済の文化をもって、色とりどりに染められた奈良の都を彷彿させるが如く、韓国に一千四百年の長きにわたり伝えられてきた 丹青技法保持者である韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟子洪昌源師制作の彩色で彩られている。 三阪雅彦画伯略歴 1949年大阪市生まれ。二科展特選賞受賞。一陽会会員、一陽展特待賞、会友賞受賞、関西一陽展 神戸市教育委員会賞受賞、第二十回記念賞等受賞、文化庁現代作家選抜展出品、(株)生活の友社主催現代作家精鋭展出品、朝日新聞社発行「アサヒグラフ」に作品紹介、セントラルギャラリー「現代作家秀作展」招待出品、 タイ王国国王、皇后両陛下、カンボジア王国国王、皇后両陛下、カンボジア王国首相閣下、インド首相閣下等世界の要人の肖像画を描く The Main Gate This is the main entrance to the Royal Grand Hall of Buddhism, which serves as the guard over the boundary between the Pure Land and the secular world. The gate covered with dragon carvings signifies that this is "the gateway to success" called touryumon in Japanese, literally "rising-dragon-gate." It is based on the Chinese legend that a carp swam up the upstream rapids of the Yellow River and transformed itself into a dragon, which implies that ordinary people full of earthly desires can reach the serene Pure Land by passing through this gate. The upper part has six-stepped intermediate bracket complexes, the first of its kind in the history of Japanese architecture, and the lower part has four-stepped intermediate bracket complexes. Attached to the top front is the Grand Tablet showing the mountain title ofthe temple, whose size is the largest in Japan, measuring 5.25m high and 3.15m wide, that is, 16.5rrl in area. A pair of Guardian Deities at the Main Gate, one with his mouth open and the other closed, symbolizing “ ah-un," is the work of Mr. She Guo Ping, a living national treasure of China. The statues, the largest of their kind in the world, are all lacquered. Overlooking the secular world from both sides of the Main Gate, they urge people to do good and refrain from evil deeds. Entering through the Main Gate, one can see the Stone Stage built of 15 huge stones. This stage can hold multitudes of people and commands a splendid view. It is as if the exquisite scenery of the Pure Land is laid out in front of one's eyes. Beyond the stage, the 30m wide Approach with clear little streams murmuring on both sides offers visitors a pleasant walk to the Main Hall. 山門 裟婆界と浄土の境界を護る佛教之王堂の正門である。壁面を覆う龍の彫刻が、この門が登龍門であることを示している。登龍門は、中国の黄河上流にある急流で、鯉が登って龍に変じるといわれる。煩協にまみれた泥凡夫が、この門をくぐって浄らかな浄土へ到るのである。 上層部に日本建築史上初の六手先総詰組様式、下患部は四手先総詰組様式を用いた山門には、日本一の大きさを誇る、高さ5.25m 幅3.15m 本畳に換算して10.2 畳という山号額を掲げる。中国人間国宝・余國平佛師制作の阿吽の仁王像は、世界最大級にして総漆塗り。山門の雨脇から俗界を見渡し、悪を断じ善をすすめる。 山門をくぐると、一枚石十五本からなる磐石の石舞台が、幾多の大衆を載せて浄土の景観を仰がしめ、その先には、幅30mの参道が、両側に清らかな小川のせせらぎを流しつつ、彼方の本堂へといざなう。 It is 35.6m high, 34.5m wide in the ridge direction, and 13.8m long in the beam direction. The upper floor of the Main Gate houses the images of Sakyamuni Buddha and his two attendants, Elder Ananda and Elder Maudgalyayana, carved by Mr. Huang Wen Shou. These statues depict the ancient story that Lord Buddha expounded his teachings to save Queen Vaidehi, and from these teachings the Sutra on Contemplating Amitayus was compiled. 高さ35.6m 桁行(幅)34.5m 梁間(奥行)13.8m 山内上階に、黄文寿氏制作になる、「観経発起」 の情景を彷彿させる、阿難尊者と目連尊者を従える釈迦如来像が 安置されている。 佛教之王堂 山門 彫刻「牡丹」 山門入口の方立(ホウダテ)と呼ばれる部位に彫られた阿吽の牡丹をご覧になったことはあると思います。牡丹は「百花の王」「富貴」ふうきぐさとも呼ばれ、この上ない存在、阿弥陀如来になぞらえられます。 その花と蕾の数を数えられたことはございますでしょうか? 花と蕾あわせて表48、裏48あるのです。 ここにも尊い願いが込められていました。 このサイトは、個人が念佛宗(念仏宗)無量寿寺の資料などを元に作成しており公式なものではありません。
https://w.atwiki.jp/kyoto-database/pages/141.html
広隆寺 出典 橋川正編纂『太秦広隆寺史』(京都太秦聖徳太子報徳会・1923)、追塩千尋『平安・鎌倉期広隆寺の諸相』(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭司と仏教』吉川弘文館・1995)、林南寿『広隆寺の創建と移転』(『日本歴史』611・1999)『蜂岡寺と秦寺の本尊』(中央公論美術出版・2003)『太子信仰の寺への変貌』(『広隆寺史の研究』中央公論美術出版・2003)ほか 概略 広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺院。山号は蜂岡山。現在、真言宗?御室派の別格本山。京都最古の寺院で、聖徳太子が建立した七大寺のひとつとされる。帰化人である秦氏の氏寺でもあり、古くは秦寺・大秦公寺・秦公寺・太秦寺・蜂岡寺・葛野寺・桂林寺などとも呼ばれた。創建当初は弥勒菩薩?を本尊としていたが、平安京?遷都前後からは薬師如来を本尊とする。現在の広隆寺本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像。有名な弥勒菩薩?半跏像をはじめとして国宝8件、重要文化財33件を有することでも知られる。 歴史 『日本書紀』によると広隆寺は、推古天皇11年(603)に聖徳太子から仏像を譲り受けた秦河勝が、仏像を安置するために建立した蜂岡寺を起源とする。一方、承和5年(838)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622)、同年に死去した太子の供養のために建立されたとある。創建年に関して20年近い開きがあるが、推古天皇11年(603)に広隆寺が草創され推古天皇30年(622)に至って完成したとする解釈と、推古天皇11年(603)に建てられた蜂岡寺と、推古天皇30年(622)に建てられた広隆寺という別々の寺院が後に合併したとする解釈とがある。創建当初の蜂岡寺の所在地については確証はないものの、平野神社?の500mほど南の地域から飛鳥時代の寺院跡である「北野廃寺跡」が発見され、旧地の蜂岡寺であると推測された。このことから蜂岡寺の寺領が延暦12年(794)の平安京?遷都の際に収公され、現在の太秦の地に移転し(もしくは二ヵ寺が合併して)現広隆寺になったとされている。いずれの寺も秦氏と深く関連している。秦氏は欽明~推古朝より官人として宮廷に進出するが、漢人系と結ぶ蘇我氏に対抗するため、敏達天皇や聖徳太子が秦氏を起用したことによるという。秦氏は弥勒菩薩?を信仰し、蜂岡寺には泣き弥勒?が、広隆寺には宝冠弥勒?(弥勒菩薩?半跏像)がそれぞれ本尊として祀られていたとされ、合併して広隆寺となった際に本尊として宝冠弥勒?が祀られたという。『日本書紀』にも「推古天皇31年(623)新羅と任那の使いが来日し(伝本によっては推古天皇30年(622)とも)、請来した仏像を葛野秦寺に安置した」とあり、これが今も広隆寺に残る2躯の弥勒菩薩?像のいずれかに該当するのではないかという。弘仁9年(818)の火災により伽藍を焼失するが、空海の弟子道昌によって再興された。道昌は承和3年(836)に第9代広隆寺別当に就任し、以後、41年間にわたり広隆寺の復興に尽力した。道昌は秦氏出身と伝わり、別当就任以降広隆寺は急激に真言?化していく。道昌は当時の薬師信仰流行の時勢に乗って本尊を宝冠弥勒?から霊験薬師仏に変更したため、貴賎を問わず信仰をあつめ、特に女性には願を成就する霊験ある寺院として尊崇を集めることとなった。平安末期には末法思想?から浄土思想?の信仰が興り、四天王寺で発見された聖徳太子筆『荒陵寺御手印縁起』に「四天王寺の西門が極楽の東門にあたる」と記されていたことから、同寺に参詣する者が相次ぎ、また太子は観音の化身であり、太子の墓に参詣する者は極楽往生疑いなしという太子信仰が浄土?信仰と結びつき、法隆寺や四天王寺のみならず、太子建立七大寺の中で唯一京都に存在した広隆寺においても信仰を集める。久安6年(1150)の火災で霊験薬師仏は焼失してしまうが、太子ゆかりの弥勒菩薩?像を全面的に押し出すことによって人々の耳目を集め、再建を容易にした。これより広隆寺は薬師霊験の寺院から太子信仰の寺院へと変貌を遂げ、再興された伽藍に新たに太子堂が含まれていることからもそれが窺える。さらに建長3年(1251)頃には太子建立の宮との伝承をもつ桂宮院が建立されている。明治の廃仏毀釈により荒廃するも、明治23年(1890)より諸殿舎の修復が行われ、伽藍が現在の姿に整えられた。 伽藍 上宮王院太子堂(本堂) 入母屋造、檜皮葺で正面に向拝のついた宮殿風建築で、享保15年(1730)の建立。堂内外陣の格天井には草花や楽器などが極彩色で描かれており、内陣の厨子には本尊の聖徳太子立像を安置する。この像には元永3年(1120)の造立銘があり、太子33歳の時の姿を写したとされ、下着姿の像の上に着物を着せている。堂内は通常非公開であるが、毎年11月22日の「御火焚祭」のときに開扉される。 講堂 永万元年(1165)に再建されたときの唯一の遺構。「赤堂」とも呼ばれ、柱に丹塗りの色が残る。当初は旧規模を踏襲した七間四間で檜皮葺であったという。永禄8年(1565)の改築により五間四間に縮小され、寄棟造、本瓦葺となっている。母屋の二重虹梁蟇股の架構などに再建時の姿を遺す。本尊の阿弥陀如来は丈六の一木造の坐像(像高約2.6m)で承和年間(834~848)の作。重厚な量感と充実した体躯や面貌に平安初期の彫刻の特色が顕著に現れており、技法的・作風的類似から、大阪の観心寺如意輪観音像と同一工房の作と思われる。『広隆寺縁起資財帳』によれば、淳和上皇女御であった永原御息所の発願とされ、承和7年(840)の上皇崩御に際しての造立と推測されている。脇侍として観音・勢至像ではなく道昌の作と伝わる地蔵菩薩?像と虚空蔵菩薩?像を安置する。 桂宮院 築地塀と竹林に囲まれた境内の西北隅にある。建長3年(1251)頃に聖徳太子を祀る堂として再興された。法隆寺の夢殿にも似た八角円堂という形式で、床板張、回縁付、檜皮茸。内部には柱がなく八方に勾配をつけた鏡天井を張り、中央に春日厨子をおく。厨子内に安置されていた聖徳太子像(現在は新霊宝殿に安置)は鎌倉時代の作。太子16歳の姿を写したとされる像で、椅子に腰かけている。建物は以前に4・5・10・11月の日祝のみ外観が公開されていたが、現在修復中のため非公開。 南大門(仁王門) 元禄15年(1702)の建立と伝わる3間1戸の楼門。屋根は現在瓦葺であるが、創建当初はこけら葺もしくは檜皮葺であったとされる。正面両脇に室町時代の作という仁王像を安置する。 新霊宝殿 広隆寺に伝わる多くの宝物を保存・展示するため、昭和57年(1982)に建てられた。2躯の弥勒菩薩?半跏像(宝冠弥勒と泣き弥勒)をはじめ、近年まで講堂に安置されていた平安時代作の不空羂索観音?像と千手観音像、定朝の弟子長勢の工房で造られたという日光・月光菩薩像や十二神将像など50数躯の仏像のほか、絵画や史料が展示されている。久安6年(1150)に焼失したのち復刻された霊験薬師仏は館内の厨子内に安置され、11月22日のみ公開されている。 文化財 国宝 木造弥勒菩薩?半跏像(宝冠弥勒※) 木造弥勒菩薩?半跏像(泣き弥勒※) 木造阿弥陀如来坐像 木造不空羂索観音?立像 木造千手観音立像 木造十二神将立像 広隆寺縁起資材帳 広隆寺資材交替実録帳 桂宮院本堂 ※広隆寺には国宝の2躯の弥勒菩薩半跏像がある。 (1)宝冠をいただき、台座とともに赤松の一材から彫成されている。一部に漆箔が残るが、本来は各所に乾漆を盛って仕上げていたとする説もある。細作りの体で清楚な気品があり、その作風はソウルの韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩像に通じる。加えて飛鳥時代の木彫像がすべて楠材を用いているのに対し、本像のみ例外であることから朝鮮半島での制作ともいわれている。像高123.3cm。 (2)楠材の一木造で、漆箔天衣と裳裾の一部に獣皮を用いた異色作。朝鮮半島には現存しない楠材製であるところから7世紀末~8世紀初頭に日本で制作されたものと考えられている(異説も多い)。宝冠弥勒と同様のポーズをとるも、宝冠はなく像高はやや小さい。沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。全高90.5cm。 重要文化財(建造物) 講堂 重要文化財(美術工芸品) 紙本著色能恵法師絵詞 絹本著色十二天像 絹本著色准胝仏母?図 絹本著色三千仏図 塑造弥勒仏?坐像 木造薬師如来立像 木造地蔵菩薩?立像 木造持国天・広目天・増長天立像 木造阿弥陀如来立像 木造毘沙門天立像 木造吉祥天?立像(像高184.5cm) 木造吉祥天?立像(像高168.0cm) 木造吉祥天?立像(像高164.6cm) 木造吉祥天?立像(像高142.2cm) 木造吉祥天?立像(像高106.8cm) 木造聖観音?立像 木造虚空蔵菩薩?坐像(伝道昌作) 木造地蔵菩薩?坐像(伝道昌作) 木造神像(伝秦河勝像) 木造女神坐像(伝秦河勝夫人像) 木造聖徳太子半跏像 木造大日如来坐像(像高95.5cm) 木造大日如来坐像(像高74.5cm) 木造日光・月光菩薩立像 木造不動明王坐像 木造菩薩立像 木造千手観音坐像 木造五髻文殊菩薩坐像 木造多聞天立像 木造蔵王権現立像(像高100.4cm) 木造蔵王権現立像(像高96.4cm) 木造如意輪観音半跏像 鉄鐘 拝観情報 住所 京都市右京区太秦蜂岡町32 電話番号 075-861-1461 拝観時間 9:00~17:00(12月~2月は19:00~16:30) 拝観料 境内自由、新霊宝殿拝観700円、桂宮院拝観200円(現在拝観休止) アクセス 京都バス「太秦広隆寺前」下車すぐ 駐車場 無料駐車場あり 主な行事 1月1日 元旦祈願 1月2日 手斧(ちょうな)始め(開催未定) 2月22日 太子正当忌(一般非公開) 10月10日 牛祭(開催未定) 11月22日 聖徳太子御火焚祭・本尊聖徳太子像開帳・勅封薬師如来像特別開扉 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像を所蔵する寺院はどこか。 (ア)広隆寺 (イ)大覚寺 (ウ)清水寺 (エ)平等院」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「仏像の通称について誤っているものを選びなさい。 (ア)証拠の阿弥陀と来迎院 (イ)楊貴妃観音と泉涌寺 (ウ)見返り阿弥陀と永観堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「(前略)国宝指定第一号の( )は飛鳥時代を代表する仏像で、わずかに微笑んだ表情が美しい。(後略)」 リンク 魅惑の仏像 弥勒菩薩―京都・広隆寺 (めだかの本) (めだかの本 魅惑の仏像)
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/4479.html
津観音寺 三重県津市、恵日山観音寺(津観音)の御朱印「恵日大悲殿」です。 伊勢の津七福神の「毘沙門天」をまつる寺院です。 令和4年にいただけた「国府阿弥陀如来」の御朱印です。令和5年・6年にはそれぞれ色違いの和紙でいただくことができました。 令和3年5月にいただけた特別御朱印「普明照世間」です。 令和3年6月にいただけた特別御朱印「慈眼視衆生」です。 令和3年8月にいただけた特別御朱印「福聚海無量」です。 令和3年12月にいただけた特別御朱印「真観清浄観」です。 令和4年1月にいただけた御朱印「釈然得解脱」です。 令和4年4~5月にいただけた見開きの特別御朱印です。 令和4年12月にいただけた「妙荘厳王」の御朱印です。 令和6年にいただけた見開き御朱印「如意宝珠」です。 ★住所 三重県津市大門32-19 - 名前 コメント