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鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比(ごろ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。」と申しき。かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。 口語訳 鎌倉の海岸で、鰹とか言っている魚は、あの(鎌倉)の地域では類のないものとして、この頃珍重するものである。それも、当地の古老が申しましたことは、「この魚は、私どもが若かった頃までは、身分の高い立派な人の前には、先ず出ることはありませんでした。また、頭などは、召使でも見向きもせずに食べずに、切って捨てましたものです。」と申しました。 このような物でも、世が乱れ衰えてきたものだから、しきたりがあやふやになり上流社会にまで、入りこむことでございます。 この話も前の章と同じく鎌倉に関係する話題であるが、兼好が二回ほど鎌倉に来ているが前回よりも前、即ち初めて鎌倉に来たときに見聞した話題だと思われる。この段に対する大方の解説書は、当時鰹節など加工したもの以外では食べなかったらしい鰹を鎌倉では堂々と生で食べている有様を見て食の変化にも現れる末世の乱れの様相を強く感じ取って批判したとものと説かれている。京文化の目から見れば世も末の絶望的な現世に写ったに違いない。短い文章ながらも驚きの中にかなりきつい語調で、「鰹と言ふ魚は」とか「かの境には」とか「さうなきもの」とか最後まで一貫して突き放した批判的な文言で終始している。兼好にとってはカルチャーショックの一事だったのであろう。鰹を生で食べることのみならず、鎌倉では庶民ばかりかじんわりと上層部の人々にまで広がりを見せている事実に驚きを隠せなかったのではなかったか。鰹は古くから干して堅くしたものを用いるのが普通で生では食べることはなかったか、あったとしても限定された漁村の周辺だけではなかったか。熱処理して食すとか調味料的なものとか塩辛類的な食べ物としての役割りを果たしていたのであろう。 ところが兼好のこの一文に対して、異説を唱えている人が居る。宮下章氏で自著の鰹節(法政大学出版局)の中で述べている。「平安時代には、都では天皇家をはじめとする『はかばかしき』人々の食膳に、生カツオが煮るか焼くか、ヒシオ(塩辛状)にするかして上せられていたものである。」として、兼好は太平洋側のたくさんのカツオの獲れる浦のある浦の一人の年寄りの思い出話を聞いて書いているに過ぎない。カツオ食のとくに「上ざま」の習慣ともなれば、京の町で尋ねるべきものであろうとしている。更に、『徒然草』は、とくに生食について言及しているわけでなく、昔のはかばかしき人はカツオ自体を食べなかったといっているのだから、兼好の書くところをまともに受け取れば、彼の認識不足だったということになる。としている。宮下氏によれば平安おろか奈良、それ以前の古代から生カツオは食べられていたと記している。神饌(神々に捧げる供物)の必須品目には鰹の製品は欠かせられないものとして重視されていたと書く。黒潮に洗われる海産国であれば古代よりカツオが食されていたことは想像がつく。しかし、天皇制のもと律令制がまだ生きていた頃ならいざ知らず、鎌倉時代になってから朝廷の権威が著しく低下してからはどうであったであろうか。ましてや兼好の時代は幕末の混乱期である。都までの租の品々の流通はスムーズに行っていたのであろうか。カツオのような日保ちのしない魚は生のままでは都に届きにくい状況にあったのではないか。宮下氏自身もページを変えて生カツオは焼くか、煮るか熱処理して食すると認識しているのであって、決して生のままで食するとは言及していない。その延長で兼好も生食に限定しているわけではなく、カツオ自体の食について書いているのであるから、カツオ自体を否定するようで認識不足と指摘しているのであるが、むしろ逆にカツオの生食を目の当たりに見聞したからこそ目を白黒させて仰天したのではないかと考える。兼好も若いとき数年ほど後二条天皇が急逝するまで蔵人として奉仕したことがあるから「上ざま」の習慣はある程度心得ていたであろう。神饌の品々の中にカツオがあることも、或いは焼いて、煮て、ヒシオなどで口にすることも知識では知っていたであろう。当時何かと経済的に不如意な宮中の台所には、傷みやすい生カツオが食膳に上がる機会がなかったとするのは穿ちすぎか。少なくとも兼好レベルまでには手間のかかる傷みやすい生カツオには手が届かなかったであろう。彼は恐らく鎌倉に来てカツオの生食を始めて知ったのではあるまいか。そうして食の乱れひいては世の中の乱れとして批判的に兼好は受け止めたのである。宮下氏のように兼好がとくに生食に言及しているわけでないと決め付けてしまうのは如何なものであろうか。 現代でもチルドという冷蔵技術があまり発達しない頃までは、サバなどの刺身は水揚した産地以外では当たるからといって都会などの消費地では食することは敬遠された。冷蔵技術の向上と、それと輸送手段がきちんと整備されるようになってからチルド食品として産地からサバ・イワシ・サンマなどが都会に送られて、刺身として食べられるようになったのは最近のことでそう古いことではない。生ものの食の広がりは地域によってパラツキがあり、特に昔ほどその傾向が顕著であったと思う。「生堅魚」(生カツオ)の木簡が発見されたから、或いは神饌に大いにカツオが供せられたといって、現代のような刺身として広く一般に食したかどうかははっきりしないのである。 また、宮下氏は当時わがもの顔に振る舞っていた鎌倉武士(カツオ)─「おのれら若かりしころまでは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき」として以前は天皇や公家の前に出ることはなかった─に対する痛烈な風刺が潜んでいるとの見方をしている人々がいると紹介して、徒然草の一文を正面から解釈しないとする説を援用しているが、鎌倉末期の武士社会の批判として捉えるのは同感できる。 鎌倉時代百五十余年の長き歴史の中に、初期・中期あたりまでは武士の食事は上級クラスでも質素で、平素はいわしの丸干し・梅干しなど一汁三菜が基本で一日二食と決まっていた。それが変化し出したのは後期である。鎌倉末期になると前章でも触れたように酒宴が頻繁に開かれ、メニューも八品、十二品、十五品、十八品、二十品…とエスカレートしていき、食の風景が豪華・華美に変化してきた。珍味・美味なるものを求めて食材の広がりも見せたであろう。カツオを刺身にして食するという伝統にとらわれない調理も過度の酒宴と連動して、漁港をお膝元に抱えた権力の中枢・鎌倉の地であったればこそ可能になったわけで、何事も京の文化の尺度で物事を測る兼好の嗜好からは到底受け入れられない食材であった。兼好の心底には鎌倉の洗練されない文化の後進性を感じていたかもしれない。帰洛するや、このことは書きとめるのは無論のこと歌や友人の仲間内で大いに吹聴してまわったであろう。何かと朝廷のことに干渉して天皇すらねじ伏せてしまうおぞましい存在の鎌倉幕府に一矢報いる気持があったのではないか。あの腐りやすいカツオを生で食するなんてグロテスクにも程がある。…というぐらいの感想は持ち、世も末だと嘆いたことであろう。 徒然草の影響もあってか鎌倉時代以前までは上流の人々の間では、鰹は生で食べなかったとする説が流布されていたが、時代がさがって江戸時代になるとカツオの評価も一変する。食の広がり・進化が見せた変化である。江戸の庶民はおろか上流の人々までが熱狂的に歓迎するのである。特に初鰹に対するこだわりは江戸っ子の気風と相俟って尋常でないものがあった。加えて徒然草が江戸時代に入って大いに読まれたことが影響して、兼好に対する反撥や皮肉もある。それを川柳や俳句で熱狂ぶりや反撥ぶりの一端を垣間見ることとしよう。 初鰹なに兼好が知るものか (徒然草の百十九段の文章に対する素直な反応である) つれづれに鰹は食ふな鯉を食へ (同、徒然草の百十八段の、鯉の羹(あつもの)食ひたる日は鬢そそけずとなん。…による) 鎌倉からの早乗りは初鰹 (鎌倉からの早乗りは、政治的・軍事的な重大な用件ではなく初鰹の輸送とは) 鎌倉を生きて出でけむ初鰹 芭蕉 (鎌倉のみなとを出たときはまだ生きていて、さぞ生きのいい初鰹が江戸に着くことだろう) 藤咲いて鰹食ふ日かぞへけり 基角 (藤の花が咲いてそろそろ初鰹を食べられる日を数えて、待ち遠しいことよ) 芝浦や初鰹から夜が明ける 一茶 (魚市場の芝浦は初鰹の入荷から夜が明けて活気づていく) 「目に青葉山ほととぎす初鰹」 (素堂) 初鰹を詠んだ代表作であるが、「初鰹むかでのような船に乗り」、「あてがあるようにかけ出す鰹売り」、「昼までの勝負と歩く初鰹」、「初鰹妻に聞かせる値ではなし」、「初鰹一両までは買ふ氣なり」、「初鰹女房食った上小言」などなど江戸市中は初鰹狂騒曲で包まれてしまう程のフイーバー振りで、地下の兼好もさぞかしびっくりの変貌である。鎌倉末期、食べ物に対する批判が出ることは、一方で食べ物がそれだけ多彩になり、それなりに豊かになってきて新しいものが出現してきた事の証しでもあるといえる。 話題は飛躍するが、現代の食事情を兼好ばりに考察すると如何なことに相成るであろうか。食べ物が和風・洋風と多種多様にわたり豊富になることはいいことであるが、斬新さが常識を飛び越えて奇抜や過激になり過ぎると批判や反動が起きるものである。ある調査で、戦後二十世紀のメイド・イン・ジャパンの最大の製品は即席めん(インスタントラーメン)だとの説があるが意外と真面目に肯定する向きもあって広く支持されているそうである。ちなみに、第二位はカラオケで、第三位はソニーの開発したヘッドホンステレオ(ウォークマン)という結果が出たとのことである。どれも海外に輸出されて各国で支持されている品々である。 特に即席めんが世に出たときは賛否両論で、反対する側には食べ物ではないとの酷評も出たほどである。京都のある著名な老舗の料理家は「あんなもの食い物じゃないよ。食いたいと思わないね」と極めて悪し様にテレビで言ったのを覚えている。しかし、伝統的な和を重んじる料理家の反対の叫びにも拘らず、即席めんは確実に地歩を着々と固め、やがて絶大なる支持を得て国民食といわれるまでに成長をしている。 即席めんは、安藤百福氏によって開発された。昭和58年に発売されてから高度経済成長の波にも乗って、残業や受験勉強の夜食、単身赴任者、母親の社会進出よるカギっ子向け、登山やレジャーのお供に需要は急増して時代にマッチした手軽な食べ物と歓迎された。国際的にも広がりを見せ、平成17年度(2005年)のデータでは、世界の44国・地域で消費された即席めんの数は857億食(半数は中国・香港)で、日本からの輸出は8700万食及んでいるとのことである。(世界ラーメン協会)また、国内での総生産は54.4億食で、日本人一人当たりの消費は42.4食になる。(平成17年度、日本即席食品工業協会) 平均で一人42.4食であるから好きな人ならきっと毎日でも食べる人もいる勘定であろう。日本のラーメン狂騒曲は尋常ではないことを物語っている。 即席めんの生みの親である安藤百福氏は日清食品を創業し即席めんの更なる開発および普及に心を砕き、平成19年1月5日に会長職のままで亡くなった。享年96才である。即席めんに殉じ、戦後の闇市からスタートして食を通して昭和の時代に彩りを添えた生涯であった。もって瞑すべしである。 日本の即席的な食の変化はラーメンだけにとどまらず、その他の食べ物にも波及していった。宇宙食に象徴されるように湯を注ぐだけで食べられる食品は多岐にわたりほとんどの食べ物が可能になった。スープ類などは正にその典型である。 回転寿司も日本食の革命として名をとどめる出来事であろう。これも出現した当初は、衝撃的で喧喧諤諤(けんけんがくがく)の騒動で、特に寿司職人のアレルギー反応は激しかった。反対の理由は一言で突き詰めれば、「あれは寿司あらず」であった。機械がにぎって、不味くて別の範疇の食べ物であると言うのが理由であった。しかし、回転寿司側の挑戦も続く。機械の改良と味の改善をし、清潔感と値段の透明性を高めて、おいしさと廉価を目指した。庶民ではなかなか味わえない高級なネタも容易に味わえるようになり、サラリーマンやファミリー、若者などを中心にどんどんと浸透していった。そればかりではなく、日本食ブームに乗り欧米などの海外で回転寿司が意外と受け入れられ好評であった。今では、回転寿司もすっかり市民権を得て定着して全国的に或いは国際的に広がりを見せて、伝統のにぎり寿司とは違った世界を構築している。 兼好の鎌倉での鰹料理の話から始まって現代の新しい食べ物・食べ方の出現をほんの一寸垣間見たが、現在では即席めんも回転寿司も最早驚くことではなくゴク普通のこととして受け入れられていている。むしろこれからどんな新しい食べ物が出現して、人々がどんな好奇心で接するか否かが興味のあるところである。今も若者や女性が推進役となってトレンドな食べ物、奇抜な食べ物を次々開発して世上を賑わしているが、確たる国民的な支持を得るまでには至っていないが、挑戦は絶えることなく続いている。今後、百年後、二百年後の日本人はどんな新しい食べ物を口にしているのか、伝統をさして重んじない国民性のなせる技で兼好的な驚愕やショックがあるのか興味のあるところである。時代は絶えず変わって行くものであり、兼好が批判したような末法的な社会現象は招来するのか否か、ひとへにわれわれ自身かかっていることである。 ■参考文献 鰹節 宮下章著 法政大学出版局 「徒然草の歴史学」 五味文彦著 朝日選書 ■データー 世界ラーメン協会【IRMA】、日本即席食品工業協会 「唐の物は、薬の外はなくとも事欠くまじ…… (百二十段)」に続く。
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さてさて、いろいろと問題視されているこの団体ですが、宗教団体である以上、教義が存在します。一体どのようなものであるか見てみましょう。学会は設立当初、日蓮宗の一派である日蓮正宗の”講”の一つでした。”講”とは信徒の集まりを指します。平成3年までは講であったのですが、この年にその親とも言える日蓮正宗から破門され(第二次創宗戦争)て独立路線を歩みだし、今に至っています。すなわち、この破門以前と以後で教義が多少変化しました。 日蓮宗とは鎌倉時代の僧侶である日蓮が開いた”法華経”という経典を信奉する鎌倉仏教です。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、世の中では”末法思想”と呼ばれる終末論が蔓延しており、人々に間には不安があふれていました。末法思想とは、釈迦が生まれて500年の間は仏の教えがよく保たれ、正しい修行によって悟りが得られる時代であるという正法時であり、その後1000年は教法・修行は行われて正法時に似るが、悟りが得られなくなった時代、すなわち像法時で、末法時とはその後の10000万年は教えが説かれるだけで修行する者もなく、悟りを開く者のいない時期のことです。各時代の期間には諸説ありますが、鎌倉時代にはちょうど末法に時期に入ったと解釈されていたようです。この時代の末法思想による人々の不安を背景に、様々な仏教が興り、このとき興った仏教をまとめて鎌倉仏教といいますが、日蓮宗はこの鎌倉仏教の中の一つでした。 日蓮宗の経典 日蓮宗の経典等についてですが、宗祖日蓮は法華経こそが釈迦の出生の本懐であると考えたことから、法華経を信奉しています。この”法華経”という経典が曲者で、解釈の仕方によって教義にかなりの攻撃性を生み出すことができます。 この法華経のほかに”御書”と呼ばれる日蓮の書いた手紙等の遺文をまとめたものも日蓮宗では信奉の対象になっています。 この”御書”の中には四箇格言という言葉すなわち、禅天魔、律国賊など日蓮宗と同様の鎌倉仏教を邪宗として非難する内容があります。この教えを真に受けると、他宗が邪宗であるという認識になってしまいます。 日蓮宗における三大秘法 日蓮の仏教における根本的な教義に、三大秘法(さんだいひほう)があります。それぞれ本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の3つですが、日蓮宗内でもこの解釈が分かれておりそれぞれ独自の解釈により諸派を形成しています。日蓮宗と学会が所属していた日蓮正宗の最も大きな違いは、本門の本尊の解釈が日蓮宗では釈迦に対して、正宗では日蓮であり、さらに、日蓮こそが末法の救世主であると位置づけていることです。この考えから、上で書いた日蓮の”御書”の内容が正宗の教えに強い影響を与えます。ですから、御書にある四箇格言に従って、他宗のことを邪宗であると位置づける団体が正宗系に多いのもこのためです。 日蓮正宗 日蓮正宗とは、宗祖を日蓮とし日蓮の弟子である日興を派祖とし、大石寺を総本山とする日蓮宗の一派です。他の日蓮宗諸派との大きな違いは、本門の本尊が日蓮であり、日蓮を末法のご本仏と位置づけています。また、正宗には唯授一人の血脈相承という考え方があり、これは初代日蓮からの血脈が2代目日興、3代目日目・・と代々受け継がれており、現在では67代目である日顕氏に受け継がれています。正宗の本尊である曼荼羅はこの血脈相承を受け継いでいる者のみが書写することができます。しかし、学会は正宗から破門されたため、それまで使用していた66代目日達氏、67代目日顕氏の本尊が使えなくなりました。そこで、今では26代目日寛氏の書いた本尊をコピーして配布しています。これには正宗側も猛反発しているが、学会側は師弟直結であると反論しています。 本尊 日蓮宗における三大秘法の中の一つである本門の本尊ですが、日蓮正宗においては人の本尊と、法の本尊の2つがあり、人の本尊は日蓮で、法の本尊は南無妙法蓮華経です。そして、日蓮が書いたとされる大曼荼羅にはこの両方が備わっていると考えています。信徒には代々血脈相承を受けた法主がこの大曼荼羅を紙に書写し配布しています。基本的に本尊と呼ばれているのはこの書写した曼荼羅のことです。 題目 信の題目は本門戒壇大御本尊を信じること、行の題目は南無妙法蓮華経と唱え、人にも勧めることです。無妙法蓮華経とは法華経に帰依しますという意味です。そして、この題目を本尊に向かって唱えることを勤行といい、自分への修行となります。 戒壇 事の戒壇は本門戒壇大御本尊を安置する処で、義の戒壇は御本尊所住の処です。 王仏冥合とそれに伴う国立戒壇論 日蓮正宗には”国立戒壇論”という考えがあります。もともとこの考えは、戦前の同じ日蓮宗系の国柱会を創設した田中智学によって提唱されました。有名な国柱会関係者に石原莞爾陸軍中将や宮沢賢治などがおり、また、戦時中の思想面に大きな影響を与えました。この国立戒壇とは簡単に言うと、王法(天皇)と仏法(日蓮宗)が結びつき(王仏冥合)、その象徴として天皇が建立する戒壇のことです。 功徳・仏罰・信心 功徳とは良い行いをした報いで、仏罰とは仏から受ける罰のことであり、信心とは信仰心のことです。これらの言葉は一般人には聞きなれませんが、学会においては日常よく使われる単語です。また、これらの単語は、非常に便利な単語となります。例えば、学会活動をすれば功徳が得られ、学会を辞めようとすると仏罰が落ちる、学会に疑問を持ったりすると、信心が足りないから。と、これらの言葉は恣意的にも使え、会員を学会にとどめておくためには非常に便利の良い言葉となります。 折伏 折伏(しゃくぶく)は、破折屈伏(はしゃくくっぷく)の略。仏教における布教姿勢の一つで、摂受(しょうじゅ)に対する語。出典は「勝鬘経(しょうまんぎょう)」である。相手の間違った思想に迎合することなく、正しいものは正しいと言い切り、相手と対話を通じて仏法を伝えること。日蓮がその著作『開目抄』において、摂受よりも折伏の方が末法時代の日本においては適した布教法であると判定していることから、法華宗各派では特によく使用される言葉である。 折伏 - Wikipedia 広宣流布 広宣流布(こうせんるふ)とは、法華経の教えを広く宣(の)べて流布させること。すなわち、死後の世界に浄土を求めるのではなくて、法華経の教えによってこの世に仏国土を建設していこう、という理想である。 広宣流布 - Wikipedia 日蓮正宗からの破門前後の教義の違い 日蓮正宗から破門される前は学会は正宗の教義をそのまま使用していました。しかし、正宗から破門され、独立した後は学会組織を正宗から切り離さなければなりませんでした。日蓮を末法の本仏とあがめることはそれまでと同様でしたが、正宗の本尊が使えなくなるのでこれに変わる本尊が必要となりました。そこで日蓮正宗の中興の祖である26代目法日寛師の書いた曼荼羅を模写したものを、コピーして会員に配ることで解決したことになっています。日蓮から代々受け継がれている血脈に関してはは会員は日蓮と直結して血脈が得られる大聖人直結という考え方を主張しています。従って、破門前後では考え方が少々異なっています。
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●日本のお茶の歴史 ●人類とお茶の出会い 歴史的な史料から見ると中国の漢の時代の奴隷売買証文の中に「お茶を買ってくる」 というのがあります。おらくそれが一番古い史料上での「お茶」になると思われます。 しかし、お茶の木の成育していた所と、漢文化の発生した所はとても離れているのです。 黄河流域に発生した漢文化の思想の一つに「神仙思想」とか「仙薬思想」というのがあり、「不老長寿」を願っていろいろな植物をはじめ、動物や鉱物までもが利用されてきました。この仙薬思想などが、揚子江流域の山間地に、育っていた茶を飲んでいた山地民族の間に普及し、漢文化が茶を漢方薬などとして取り入れ始めてから記録に残っているわけです。 したがって、実際は記録に残るもっと以前から人類は茶の木と出会っているはずなのですが、その時期を特定するのは難しいといえます。    ●日本のお茶の歴史1 日本茶の起源は、中国から渡ってきたという渡来説と、もともと日本にお茶の樹があったという自生説の二つがありますが、渡来説のほうが有力のようです。 日本に喫茶の文化が始まったのは、遣唐使が往来した奈良・平安時代で、最澄や空海らの留学僧の手によって伝えられたとされています。 記録では、廷歴二四年(805)最澄が唐から持ってきて、近江の坂本に植えたとあり、これは今でも日吉茶園として残っています。 さらに翌年の大同元年(806) 空海が茶を持ってきて長崎に播いたというのがあります。 そして「日本後記」という書物にもお茶が登場してきます。弘仁六年(815)に梵釈寺の永忠が近江の国を訪れた嵯峨天皇にお茶を煎じて献じたと書かれています。 それがきっかで嵯峨天皇は近畿地方にお茶の樹の栽培を命じ、上流階級の儀式や行事に用いられるようになりました。 ところが不思議なことに、この後三百年以上に渡ってお茶に関する書物及び記録は出てこなくなるのです。    ●日本のお茶の歴史2   次にお茶についての記述が現れるのは鎌倉時代に入ってからです。 建久二年(1191)に栄西禅師によって宋の国の浙江省から持ち帰ったといわれているお茶の樹の種です。 その後、栄西禅師から明恵上人に茶の種子が贈られ栂尾の深瀬に播いたそれが、今でいう宇治茶の基盤を開いたものです。これが有名な抹茶の始まりです。 栄西はお茶の普及に努め、貴族社会でしか飲まれていなかたお茶を武家社会まで広めました。 また栄西がお茶で源実朝の二日酔いを治したという記述が「吾妻鑑」に残っています。 その後、お茶は弾宗との結びつきから茶道という独自の文化をつくり広まっていき ます。 現在のように、煎茶が日常茶飯の飲み物になったのは江戸時代になってからです。中国が明の時代となり、承応三年(1654)中国南部の福建省から隠元禅 師が来日し、この前後にお茶の葉にお湯を直接注いで飲む「淹茶式」の飲み方が伝わ り、これこれが広く日本人の喫茶法として定着したと言われています。 そして、江戸末期には現在飲まれているようなお茶がつくられるようになりました。      参考資料   橋本実 著 『茶の起源を探る』淡交社/斉藤光哉 監修 『お茶の辞典』成美堂出版  松下智・橋本実・鈴木良雄・南廣子・南久美子 著『Q&Aやさしい茶の科学』淡交社  『日本のお茶Ⅰ・お茶と生産』株式会社ぎょうせい  Copyright(C) 2001 OHTORI All Rights Reserved  
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4え問題とか 歴史 鎌倉時代、尼将軍といわれ「承久の乱」で後鳥場上皇に勝利した人 「北条政子」 鎌倉時代に「浄土真宗」をひらいた僧 親鸞(しんらん) 徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた年代 「1603年」 朝廷に使える役人の心得を定めた「十七条の憲法」ができた年代 「604年」 室町時代の次の時代 「安土桃山時代」 安土桃山時代に豊臣秀吉が農民の一揆を防ぐために制定した法令 「刀狩令」 大阪府にある仁徳陵(大山)古墳の形 「前方後円墳」 西暦650年は何世紀? 「7世紀」 英語 agreeの意味を選びなさい 「同意する」 difficultの意味を選びなさい 「難しい」 elseの意味を選びなさい 「その他の」 pastの意味を選びなさい 「過去の」 manyの意味を選びなさい 「たくさんの」 「娘」を意味する単語を選びなさい 「daughter」 enjoyの過去形 「enjoyed」 findの過去形 「found」 I lesten □ music.の □ に入る単語 「to」 □ that dog big?の □ に入る単語 「Is」 数学 49の約数 「1・7・9」 絶対値が2より小さい整数 「-1・0・1」 (-6)+(-3)の答え 「-9」 (-1)-(+4)+(-4)の答え 「-9」 30と8の公約数 「1・2」 30と75の公約数 「1・3・5・15」 一辺が3の立方体の表面積 「54」 幅が3、高さが2、奥行きが5の直方体の体積 「30」 底面積が6、高さが9の円錐の体積 「18」 36(km)を4時間で走る人の時速 「9000(m)」 15%の食塩水が300gある。これに5%の食塩水をまぜて8%の食塩水をつくりたい。5%の食塩水を何gまぜればよい? 「700g」 ノート4冊と80円の消しゴムを買って1000円払ったときのおつりが420だった時のノート1冊の値段 「125円」 X円の品物を4個買ってY円払ったときのおつりが60だったときのXとYの関係 「Y=4X+60」 一の位が3である2桁の整数で、十の位と一の位を入れ替えた整数が元の整数より36小さい時の数 「73」 3-2X=7の答え 「X=-2」 X=5のとき6X+3の答え 「33」 江戸時代、農民がおこした一揆「X米騒動 ○?」 次の中から「名詞」を選ぶ 「since」「sample」「admit」(正解:sample) carefulの意味「注意深い」 底面積が8、高さが6の円柱の体積「48」 -- 名無しさん (2011-11-28 06 23 46) 征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開いた人物 足利義満X 足利義政 足利尊氏 -- 名無しさん (2011-12-17 06 47 42) 太安万侶が編纂した最古の歴史書→古事記 -- 名無しさん (2012-06-01 22 53 42) 征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開いた人物 足利尊氏 -- 名無しさん (2012-08-06 18 32 25) 5:3に等しいもの 30:18 -- 名無しさん (2012-08-06 18 44 39) he □ English.□に入る単語を選びなさい。 「speak」「speaks」「eat」(答 speaks) -- 名無しさん (2015-02-23 00 10 29) 平安時代、宇治(京都)に平等院鳳凰堂を建てた人物の名前を選びなさい。 藤原頼通 -- 名無しさん (2015-02-23 00 20 06) what s □ with this □に当てはまる単語 「wrong」 -- 名無しさん (2015-12-05 15 46 44) 絶対値が4になる数字すべて→ +4、-4 -- 名無しさん (2015-12-05 15 52 53) 静岡県にある弥生時代の代表的な農耕集落の遺跡の名称を選びなさい。 「登呂遺跡」 -- 名無しさん (2015-12-05 15 58 42) How often do you □? □に入る単語を選びなさい。 「study」 -- 名無しさん (2015-12-05 16 05 28) 次の式の答えを求めなさい。6(㎏)-1300(g) 「4(㎏)700(g)」 -- 名無しさん (2015-12-05 16 11 01) 過去形が"was"でないものを選びなさい。 「are」 -- 名無しさん (2015-12-05 16 22 53) My □ hurts. 当てはまるのはeye -- 名無しさん (2021-05-19 15 51 39) 「せまい」の英単語⇒narrow -- 名無しさん (2021-07-04 15 01 03) 次の中から「前置詞」を選びなさい ⇒overを選択 -- 名無しさん (2021-09-29 19 03 13) 長さ40(cm)のひもを使って、縦の長さが横の長さより2(cm)長い長方形のわくを作ります。 縦、横の長さをそれぞれ何(cm)にすればよいか求めなさい。 ⇒縦11(cm)、横9(cm)を選択 -- 名無しさん (2021-09-29 19 12 09) 【英語】lawの意味=法律 -- 名無しさん (2022-03-18 00 34 35) 【英語】もうひとつの英語=another -- 名無しさん (2022-03-18 00 45 03) 【歴史】関ケ原の年代=1600年 -- 名無しさん (2022-03-18 00 55 02) 【英語】「彼らの」を意味する単語を選びなさい=答(they) -- 名無しさん (2022-03-18 01 48 10) 夏目漱石は明治時代 -- 名無しさん (2022-10-21 13 58 28) 名前 コメント リンク名 次の中から「名詞」を選ぶ 「allow」「him」「cat」(正解:cat) 次の中から「動詞」を選ぶ 「against」「admit」「accident」(正解:admit) 次の中から「助動詞」を選ぶ 「many」「match」「may」(正解:may) テーブルは 縦棒で くぎります
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Cafeの歴史 ウィキペディアを引用しながら、Cafeの歴史について書いていこうかなと思います。そのうち本も買って、加筆しながら進めたいと思います。日本の茶屋と世界のカフェ店の比較もしたいですね。wikipediaのカフェ説明 Cafeの起こり 1500年頃 すでにメッカにカフェがあったといわれている。 1643年 フランスのパリに、中近東出身の人物がカオべまたはカウェと名づけてコーヒー豆を販売した。しかし、うまくいかなかった。コーヒーは薬とみなされていて好んで飲むというものではなかった。 1650年 イギリスにヨーロッパ初のコーヒー・ハウスができる。コーヒーハウスは新聞を読んだり、政治を論じたりといった男社会の交流の場でもあった(イギリスはロンドン、ギャラウェイが特に有名)。 1675年 パリに世界最古のカフェができる(現在のカフェ・プロコップ)。 1878年 神戸元町の「放香堂」が店頭でコーヒーを提供(元町3丁目に茶商として現存)。 1888年 東京下谷に本格的なコーヒー店「可否茶館」ができる。 1911年 銀座日吉町に開業したカフェー・プランタンが初の日本カフェ。 1920年代、日本に喫茶店ブームが到来したらしい。 1950年代、戦後になって、ジャズ喫茶、歌声喫茶、名曲喫茶などが流行った。 1970年代、店主自らコーヒーを淹れるこだわりの喫茶店が増えた。 1980年代、セルフ式コーヒーチェーン店のドトールコーヒーが誕生した。 1990年代、日本へスターバックスなどシアトル系チェーン店が進出してきた。 2000年代 カフェブームが起こった。1999年にオープンした渋谷公園通り「アプレミディ」がひとつの典型とされるが、この頃から都市で単にカフェという場合、ソファ、茶色系のインテリア、白熱灯による薄暗い照明などを特徴とした店主のこだわりがいくらかでも感じられる店のことを指すようになった。 2008年現在 スターバックスが町のブランドアイテムとしてもてはやされるほど流行っている。 さて、歴史を振り返るとCafeというものは政治家、知識人や芸術家たちが活動する拠点として利用していたようだ。つまり裕福層がお店を利用していた。今日では、一般市民の憩いの場であるが大衆化はいつ起きたのだろう?。 日本の休憩店の始まり カフェというお店は”物を買う”・”食事する”といったことはプラス要素でで、”おしゃべりする”・”ちょっと休憩する”といったことがメイン要素だよね。あ、あとコーヒーが出ることかな!? ところで、日本でおしゃべりや休憩といったサービスを提供し始めたのはいつ頃だろう?日本の喫茶店の起こりは、1878年に神戸元町「放香堂」がコーヒーを茶店で出し始めたこと起こりだけど、おしゃべりや休憩はもっと前からにはあったと思う。どういったことで、そのサービスが起こったんだろう? そにれは茶について調べることがいいと思い、少し調べてみた。 喫茶の起こり 実は、喫茶は8世紀の唐時代にすでにあった。陸羽という人が、茶の魅力、効能、飲み方を『茶経』という書物に書き記していて、流行っていたらしい。これを遣唐使が日本に持ち帰った。嵯峨天皇が茶を賞味して大変気に入り、茶の栽培が始まったそうだ。しかし、遣唐使廃止で一時期衰退する。 その後、日本で独立した商人階層がでてきた。商業が平安時代中期以降に盛んになり、鎌倉時代には貨幣経済が各地へゆきわたった。 茶が復活したのは禅宗の栄西が、薬として茶を飲むようになり、これを禅と結びつけて宗教儀式の1つにとりいれたことによる。ここから茶道文化が少しづつ形づくられる。 一般市民にも茶が広く飲まれるようになったのは室町時代に入ってからだ。自社の門前などの盛り場に、手軽に一服飲める茶店が普及していったらしい。 ちなみに”一服”となぜいうのかというと、病気のもととなる邪気の浸入を防ぐこと(外服)や、薬を体内で効かせるために飲むこと(内服)を、体に薬を「衣服」のようにまとうと考えたかららしいです。 戦国時代に根付いた茶道についてはすっとばして、天下泰平となった江戸中期以降について話そう。この頃に社寺参詣ブームが起こり、一般市民が街道を利用するようになった。そこで茶屋や旅籠など、下級武士や市民が休憩に利用する店が出てきたらしい。
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キャラ名:さくら 性別:女 年齢:11(肉体年齢)産まれてからは753年 属性:ロリ、和服、貴族 性格:凶悪、わがまま 備考:古の貴族の娘。12歳になったら政略結婚の道具として顔も知らない男に嫁ぐ事が 決められていた。それを嫌った彼女は歳を取る事を拒み、そこを四姫「桜」に憑かれる。 「桜」は彼女の願いを叶える為、他人の命を奪う事で永遠に少女でいる方法を教え、 それ以来人の命を食らい続けている。 稀に大規模な食事(主人公の街もその一つ)を行い、それ以外は手を出さなければ普通の少女。 外見と裏腹に高い戦闘力を誇り、戦闘をすると空腹になるのか食事を行うという悪循環に陥る為、 政府機関は存在を確認しながら黙認と存在の隠蔽を続けている。 子供らしいわがままな性格で、遊んでくれる人は好き。10年前主人公を見逃したのは一緒に遊び 自分に懐いていたから。さくらにも桜にも悪意はまったく無い。 「永遠に狂い咲きのさくら」の通り名で政府機関や同士から呼ばれる。 能力は結界展開(内部は春になる)と生命吸収。 ちなみに桜の木に死体が云々の伝説は彼女の仕業である。 設定:身長:133cm 体重:25kg スリーサイズ:59・53・62 服装に関しては、鎌倉時代には既に貴族階級においても小袖が存在したので そちらを採用。色は暖色系。春の花をイメージさせる感じで。江戸時代以降の物や 大正小袖(双方卒業式に女学生が良く着ている型)は流石にNG。 腐り姫の蔵女がイメージとしては近いです。あれを豪奢にした感じ。桂重ね着の正装も場面限定で検討。 古い時代の人間なので若干発育不良気味。髪型は黒髪長髪の姫カットをイメージ。変えてもいいです。 貴族だけど麻呂まゆげじゃなくてもおk。この辺は変更しても構いません。 性格は女の子女の子しているより男の子寄りの活発な子。子供が虫にするように人を殺す。 悪い意味で純粋。罪悪感無し。人とはかなり安易に打ち解けられる。 一人称は「わし」二人称は「ぬし」似非古語で話す。 10年前に主人公の姉貴分として振舞った事があるので、主人公に対する 態度は年下にする物。 「前に会うた時は「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と可愛らしかったのにのう……」 陽子の事は主人公の婢女(はしため 主に仕える女)だと思っている。 馬鹿にした態度を取る事もしばしば。陽子が主人公を付け回しているので絡みは多い。 「わしに意見するか?無礼じゃぞ婢女」 裕の事は理解出来ない。彼女自身は苦しんでまで前に進む事に価値を見出せなかった為。 裕の花屋は好き。 「哀れな……それ程の力を持っておるのにのう」 如月姉妹の機関とは数百年の長い付き合い。 戦闘→食事→戦闘・・・・のループに陥って都を消滅させた過去があるので 機関は彼女に手を出さない。 「ご苦労な事じゃの、朝廷の犬」 四姫に願った願いは「永遠の少女時代」 寝泊りは結界を張って廃墟や空き家で寝たりしている。無理矢理空き屋にする事もある。 食った命によって身体や服を構成している。言い方を変えると結界で製作したさくらという ヒトカタを生命で満たす事によって動かしている。なので、実は服も身体の一部(擬体だが)だったりする。 この設定は忘れていいです。 非常に危ういバランスで生きている為、生命の補充が長期間出来なくなると身体が崩壊する。 戦闘スタイルは現時点だと結界師っぽくなりそう……斬新な戦闘方法募集。 昨日あったレス見てBADEDで主人公堕落ED書こうかなと思った。 sage
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若楸(わかひさぎ) 大太刀 奈津緒 図鑑説明 自分は若楸と言います。楸は久木、赤芽柏のことで前の主がとある歌からとったものです。戦場から身を引いて久しいですが、やはりこの空気が自分は好きですね。 画像 紹介 主大好きヤンデレ大太刀。大太刀であるからどうこうと言う感情は無い。 本丸の料理当番 一人称『自分』(感情的になると『俺』) 二人称、年上は『~様』、同年・年下は呼び捨て ソフトモヒカン(横は刈り上げてます)、三白眼、太めのフレーム眼鏡、体格が良い 生い立ち 大太刀が流行した鎌倉時代に作られ、最初の主に名を与えられる。(図鑑説明の前の主とはこの人を指す。) 主が討たれたことにより戦利品として仇の手に渡るが、その後すぐに家臣に下げ渡されることとなる。(柏紋を持つ家臣が若楸の名に縁を感じ、主に懇願したとの記録がある) それから長きに渡り実戦で使われることはなく、家宝として伝えられてきた個人所蔵品であったが現在は博物館蔵となっている。 性格? 主第一で行動しているため、他の男士に興味がない。基本的に主以外に笑顔を見せない。主が「短刀達を乗せてみてよ!」と言われれば両肩に乗せてみせます。 丁寧そうに思える話し方をするが敬意はあまり含まれていないイメージ。年上に対して取りあえず様付けしてれば良いかと言うような。年上であれば見た目が幼くとも様付け(例:尾長丸様) 上述の生い立ちから、主を守りきれなかったことをひどく後悔しており、かつ仇側の手に長く置かれていたことからヤンデレへと変貌。男士となった彼の目標?は『主を看取ること』。(「もしも主が敵の手にかかるようなことがあれば、その時は誰より早く自分が主を斬ってみせましょう」「主、自刃の際には自分をお呼び下さい」なんてな) それ故に、自刃に使われた男士には羨望があり、その男士の考え方によっては喧嘩を売りに行きます。 もしも、前の主の子孫の手に戻ることが出来たならば、彼がここまで歪むことはなかったのでしょう(ツイッターより) 料理上手で褒められると嬉しいけれど顔には出さず、品数は増えます。 もらったイメージ 大太刀で長身 眼鏡 口が基本への字になっている ヤンデレ 依存症 料理上手 イメージカラー紫 台詞 ログイン(読み込み中) お待ちしておりました。 ログイン(読み込み完了) 刀.剣.乱.舞、始まりますよ。 ログイン(ゲームスタート) さ、行きましょうか主。 入手 自分は若楸と言います。戦場から身を引いて久しいですが、やはりこの空気が自分は好きですね。 本丸 本丸(放置) ……主?どこですか主? 本丸(負傷時) っこれくらい、まだ、行けます。 結成(隊長) 自分にお任せ下さい。 結成(入替) はっ。 装備 出陣 資源発見 主は喜ばれるだろうか。 ボス到達 索敵 開戦(出陣) 開戦(演練) 攻撃 会心の一撃 軽傷 ぐっ。 中傷/重傷 っ、覚えていろ…! 真剣必殺 一騎打ち 勝利MVP ランクアップ 任務(完了時) 内番(馬当番) 内番(馬当番終了) 内番(畑当番) 内番(畑当番終了) 内番(手合せ) 内番(手合せ終了) 遠征 我が久ならば……いえ、なんでもないです。行ってきます主。 遠征帰還(隊長) 戻りました。何もありませんでしたか主? 遠征帰還(近侍) 鍛刀 刀装 手入(軽傷以下) 手入(中傷以上) 連結 戦績 万屋 破壊 今度こそ最期まで…主と共に…俺、は……
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宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来るぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろぼろやおはします」と尋ねければ、その中より「いろをし、ここに候。かくのたまふは、誰」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、恨み申さばやと思いて尋ね申すなり」といふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉らば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参りあわん。あなかしこ、わきさしたち、いづかたをもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言い定めて、二人河原へ出であひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死にけり。ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・漢字など言ひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍をこととす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまま書き付け侍るなり。 口語訳 宿河原というところで、世捨人のぼろぼろが大勢集まって、九品(くほん)の念仏をとなえていたところ、外からはいってきたぼろぼろが、「もしや、この集まりの中に、いろをし房と申すぼろは、おいでになりませんか」と尋ねたところ、その中から、「いろをしは、ここにおります。そうおっしゃるのは、どなたですか」と答えたので、「しら梵字と申すものです。私の師匠の何某と申した人が、東国でいろをしと申すぼろに殺されたと伺いましたので、その人にお会いいたしまして、お恨みをはらいたく存じまして、お尋ね申す次第です」という。いろをし、「殊勝にもお尋ねておいでになった。そういうことがありました。ここでお相手いたせば、修道場をけがしましょう。前の河原へ参って、お手合わせいたしましょう。けっして傍輩衆よ、どちらにも助勢なさるな。大勢の人の迷惑になっては、仏事の妨げでございましょう」と話をつけて、二人で河原で立ち合って、思うさま刺し違えて、ともに死んでしまった。 ぼろぼろというものは、昔はなかったのではないだろうか。近ごろの世に、ぼろんじ・梵字・漢字などと言われたものが、その起源であったとかいうようである。ぼろぼろは、この世を捨てているかのように見えて、なかなか執着心が強く、仏道を願っているかのように見えて、どうして闘争を仕事としている。勝手気ままで、恥知らずのありさまであるが、死を恐れず、少しもこだわらないところが、小気味よく思われて、人の話した通りに書きつけておいた次第です。 まるで歌舞伎の荒事シーンを観ているような情景であるが、兼好が実際にあった話を聞いて書き記した次第であると述べている。衆人監視の中、互いに剣を結び合わせて間合いを取りつつ隙を狙って斬り込むといった映画で観る武士の決闘場面とは程遠く、ルールも作法もへったくりもなく、唯々刀か凶器を振りかざして相手めがけて矢鱈めったら突き刺して殺しあったのであろう。それを目撃した人たちが口々に周りに伝えて、周囲に広まっていったものである。新聞もラジオもない時代でも情報の伝達は意外と早く広がりを見せる。聞いた兼好は、ぼろぼろなる人種は昔はなかったと書いている。彼らは世捨て人で表向きは仏道修行者を装っているが、髪は伸ばし放題、襤褸を身につけ、護身用の刃物を(中には腰に刀をさしたか)身につけ、諸国を廻り歩いて、時には強盗・物盗り・殺人など状況次第で相当殺伐な行為にも及んだりもした。むしろ闘争を仕事としていると兼好も書いている。我欲も相当なものであり、勝手気ままで破廉恥な連中なのが普通で、いろをしとしら梵字の二人にはむしろ生死を超えたいさぎよさが感じられて、例外に属する部類かも知れない。 広辞苑によれば、ぼろ(梵論)とは虚無僧の旧称とある。深い網笠をかぶり、尺八を吹いて門付けをする修行者とあるが、兼好の昔はなかったとして説明する「世を捨てたるに似て我執深く、仏道願ふに似て、闘諍をこととす。」から受けるイメージとは大分かけ離れていて殺伐の匂いがしない。逆に兼好の頃の鎌倉末期の雰囲気の中にはかなり荒々しいものが社会に横溢していたことだけは確かであろう。 また、与謝蕪村の句を引用して掲げるが、つぎのような句がある。 討ちはたす梵倫(論)つれ立て夏野かな 互いに相手を討ち果たすべき宿怨の梵論が二人、決闘の場を求めて黙々と暑い夏の野を歩む。(場面を夏と設定して緊張感を高めている)草いきれの中に殺気をはらんだ静謐感が漂う。何か西部劇の決闘の前の静けさを思わせるシーンである。蕪村は見事に十七文字に劇場仕立ての句に詠み込んでいる。ついでながら、蕪村は徒然草が気に入ったと見えて他にもいろいろと句を詠んでいる。二三あげてみると、 大根につゞく兵(つはもの)法師武者 六十段のひたすら芋頭を好んだ盛親僧都のエピソードの前に、六十八段に日頃薬用として大根を愛用していた筑紫の押領使が、賊に襲われたとき大根の化身が兵となって現れて恩返しとばかり撃退したことのエピソードを重ねて詠んだ句。 このあとはいわでや聞かん鹿の声 十一段は、風雅な佇まいの山家の庭にある実もたわわな柑子の木が垣で厳重に囲われている有様を見て、少し興ざめした思いを載せた話で、これを題材にして詠んだものである。前文で「かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに」までで止め、残念な結末を省いて含みを持たせるなど技巧用いている。蕪村ならでは創意と並々ならぬ徒然草好きの一端が窺われる。その他にもいくつか句がある。 昔なかったとされるぼろぼろについて、二つのことを考えて見たい。一つは新聞・ラジオのない時代でも情報の伝達は意外と正確に早く伝わっていたのではないかと考えられること。しら梵字の師匠の何某が東国においていろをしに殺されて、その仇を果たすべく諸国を遍歴して宿河原にやってきて敵を探し当てたという事実から情報をどう考えるかである。二人の出会った宿河原は東国の武蔵国ではなく、京の近くと比定する(『徒然草』の歴史学 五味文彦著)意見があるが、文脈の流れからいっても自然だと思う。当時人が集まり佛教の修行をする宿河原的な場所は各地に散在していたのだろと考えられる。しら梵字は東国で師匠の何某が事件にあって殺され、その仇を追い求めてはるばる京近くの宿河原に辿りついて本懐を遂げたのである。東国を出てから各地でいろをしの所在の情報を聞きながら遍歴したものと思われる。宿河原は単に修行者の道場として拠点になっていたばかりでなく旅人の宿泊や休息の便にも役立っていたであろうし、食事類を提供することもあったのでないか。このようにこのように宿河原的な人々の集う存在が各地に点在していて、貴重な情報をもたらして発信する役割りをも担っていたのであろう。通信・情報のネットワークは想像以上に確立していたようである。でなければしら梵字がはるばる東国からやって来て仇のいろをし捜しあてることは出来ない筈である。彼の消息を聞き、足取りを辿りながら追い掛けて来たものであろう。鎌倉時代に佛教が拡大しより大衆と密着して関わりを持つようになってから、布教活動と関連して各地との交流が活発になり、情報の広まり、正確さ、早さがよりいっそう高まったことも影響しているであろう。 無論、官の情報伝達は古来よりあったが、民衆レベルでの情報交換がより広まり、活発になったのは鎌倉時代になってからと考えるが如何であろう。一遍上人絵伝の絵巻からも窺い知れるように、各地での布教活動が情報交換の有力な手段として役立っていたことは容易に髣髴される。 太平記で、新田義貞が鎌倉幕府に対して追い詰められて蜂起した下りがあるが、先ず、幕府の二人の使者が来て西国の乱を静めるための軍費として高圧的に「六万貫を五日中に沙汰すべし」と即刻差し出すように命じられてので、怒った義貞は一人を拘束し、残りの使者の首を切って梟首したのである。これを聞いた北条高時は「使節を誅戮する条、罪科軽きにあらず」と怒って、武蔵・上野の両国の勢力に新田貞義と弟の脇屋義助を討つように命令する。義貞は主力となる一族を集めて相談するに、集った者の意見はまちまちでなかなか定まらず、その中にあって弟の脇屋義助が敢然と「相模守の使い切りたりし咎によって、他国へ逃げて討たれたりしかなんど、天下の人口(噂)の入らん事こそ口惜しけれ。(略)…先立つて綸旨を下されぬるは、何の用に当つべき。おのおの宣旨を額に当てて、運命を天にまかせて、ただ一騎なりとも国中へ打ち出でて、義兵を挙げたらんに、勢付きなばやがて鎌倉を攻め落とすべし。勢付かずんば、ただ鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき(あるまい)」と義を優先し、武勇を重んじる主戦論を唱えてその場の空気をリードする。当座にいた一族三十余人はたちまち賛同して、事の洩れぬうちに旗を挙げよと五月八日の卯の刻(午前六時頃)に、生品明神の御前にて旗を挙げた。このとき参集した兵は、僅か百五十騎に過ぎなかった。それがその日の夕方には、越後勢二千騎が馬烟を立てて合流した。義貞大いに喜び、参集した訳を聞くと、去る五日、お使いとて天狗山伏が一人、越後の国中を一日の間に触れ回って蜂起を告げたので、われわれは夜を日に継いで馳せ参じたと応えた。更に遅れて、五千騎ものおびただしい軍勢が参着する。翌九日には、足利尊氏の子息千寿王(義詮)が二百騎に守られて合流し、夕刻までには二十万七千余騎が冑を並べて控えるに至った、と記してある。四方八百里の武蔵野に人馬ともども満ち溢れていた。短期間の内に百五十騎があっという間に雪だるま式に万余を超える大軍と化したのである。後は鎌倉目指して押し出すだけである。太平記の数字には誇張があるにせよ、この社会現象ともいえる大軍の参集にはいろいろ理由はあろう。幕府への不満、不公平感、生活苦、一旗揚げ組みなどなどがチャンス到来到来とばかりに一気に動き出したのである。しかし、ここでは情報・伝達だけに絞って考えて見たい。天狗の面相をした山伏が一人が越後の国中を一日で触れ回って情報を伝えたとあるが、迅速さを考えれば恐らく何人かの山伏がリレー式で駆け回って伝えたのであろう。また、山伏だけではなく木こりや猟師などの山賤の類も一役買ったであろう。北条幕府に不満を持つ人々が各地に充満していたのがわかる。太平記の書き手は天狗に擬した超人的な山伏に集約させて、この劇的な動員の様子を描いたのではないか。でも実際には決して神がかり的な情報の伝播ではなく、確固たる情報伝達の手段を持っていたのである。一つには布教活動に伴う情報チャンネルもあり、一つには商業活動による情報の伝播もあった。特筆すべきは争い事(戦争)に伴う情報の交錯であろう。争いの度に情報手段の早さ・正確さもアップして発達していっている。同様に庶民のレベルでも情報の渦に無縁ではなく諸々の方法で広範囲の情報を共有・獲得する時代でもあった。ぼろぼろ同士の決闘も大海の中で海亀が流木に偶然当たるような低い確率ではなく、しら梵字は修行者社会特有の点と線を辿って、いろをし房をちゃんと捜し当てたのである。ある筋の情報チャンネルを頼りにしてこそ敵に巡り遇えたのだ。 この宿河原の決闘から感じるもう一点は、ぼろぼろの死を恐れぬ無法ぶりから鎌倉時代に大いに発生し、社会現象にもなっている悪党の跳梁跋扈との関連である。所謂、諸事悪事は人類の発生と共に昔からあるわけで、取りわけ鎌倉時代と限定することもないのであるが、一般に歴史書には鎌倉時代後半より、畿内周辺の大寺院などの荘園領主に対抗する地頭や、非御家人の新興武士たちが集団で武力に訴えて年貢の納入を拒否したりして、荘園領主に抵抗するようになり、これらを悪党と呼ぶようになったと記してある。当時の社会現象としてその動きは主に畿内・西国の各地に広大していき、荘園領主や幕府を悩ます事態までになっていた。悪党の生態や増殖していく有様を「峰相記」より紹介してみよう。 峰相記は、1348(貞和四)年に播磨国の峰相山鶏足寺に作者(公家か?)が参詣して旧知の寺の老僧と問答形式で取り交わした内容を記したものであるが、当時の播磨国の悪党の様子が窺える格好の資料となっている。以下、その悪党振り有様を抜粋して見ることにする。(悪党 小泉宜右著より) 問うて云わく。どこの国でも同じといいながら、この播磨国では特に悪党が蜂起しているとの評判です。いつ頃から公然とのさばるようになったのですか。答えて云わく。正安・乾元(1299~1303)の頃から、目にも余り耳にも一杯になるほどうわさが高くなりました。あちこちでの乱暴、あの浦この浦での海賊、寄取り(勝手な債権の取り立て)、強盗、山賊、追落し(追剥ぎ)をひっきりなしに行い、その奇怪で異様な姿は普通の人間とは異なって、柿色の衣(渋色に染めた一重の衣、罪人が着用した)に六方笠をつけ、烏帽子や袴をつけず、他人と顔をあわせず、人目をさけるようにして、数も不揃いの竹製の矢籠を背負い、柄も鞘もはげた太刀を持ち、竹の長い槍・撮棒(鋲を打ちこんだ長い木製の武器)を杖にするばかりで、鎧・腹巻を着るというほどの武具をさらさら持っていません。こいう連中が10人20人と、ある場合は城にたてこもるかと思えば攻め寄せる軍勢に加わり、ある場合は敵を城の中へ導き入れ主人を裏切るといったことを当然のこととしており、誓って引き受けた約束なども全く行動の根拠とはしないのです。ばくちや賭け事を好み、こそ泥棒を生業としています。武家方の命令や守護の取り締まりにもかかわらず、悪党は日に日に倍増していきました。これに対して、幕府は元応元年(1319)の頃、使者を播磨に派遣し、地頭御家人とともに、悪党の在所を焼き払うなどして鎮圧したため、暫らくの間は静穏になりました。ところが正中・嘉暦(1324~1329)のころになると、その行動は以前にまさって、世の人々に衝撃を与えました。上等の馬に乗って、50騎100騎と打ち続き、引馬(美しく飾って引連れて行く馬)・唐櫃・弓箭・武具類など、金銀ちりばめて、鎧・腹巻は美しく輝くほどです。彼らは党を結び契約を成し、自分の関係する論所(自分の関わる荘園)でなくとも一方の味方と称して所々を押領しました。このような輩の多くは丹波・因幡・伯耆からやってきました。これに対して、警護の守護などは、彼等の権威を恐れ、追罰の武士も憚りをなす有様であったため、悪党の追捕狼藉・苅田・苅畠・打入奪取により、残る庄園もないような事態に立ちいりました。幕府はたびたび鎮圧の命令を下しましたが、使者はあるいは悪党のまいないを受け、あるいは彼等の武勇を恐れて、命令を遵行しないので、国中の過半数が彼等に同意するにいたりました。 悪党が初期には人数から武具いたるまで小数で貧弱で、一時的には弾圧されながらも後期には人数から装備まで着実に充実・成長していく様が手に取るようにわかる。反面施政者の幕府や守護たちの無力さやモラルの無さがよくわかる。正中・嘉暦ころは丁度後醍醐天皇が打倒幕府に腐心していた時にあたり、鎌倉の弱体化を敏感に察知していたのであろう。天皇の倒幕計画もあながち無謀とは言い切れない面があった。政治や社会の治安がどんどん劣化していく状況にあって、正に庶民たるぼろぼろの世界では、彼等流の社会の流儀やルールがあり、白昼公然と決闘が行われたのも彼等流の解決法であった。昔は彼等のような者は居なかったと兼好は新現象のように書いてあるが、一方の悪党の出現および肥大化と相対的に無縁ではなかったのではないか。特に初期の頃の悪党は貧弱で異様ないでたちの小集団で主として海賊・山賊・強盗・小盗(こそ泥の類)を業としていて、ばくちを好み人目を避けて行動する節操のない恥じ知らずの輩であった。彼等は本拠地を持たない浮浪性の濃厚な集団でもあった。彼等悪党の発生源は没落荘園の人々や僧侶崩れとか圧政に堪えかねて逃亡した農民とか、或いは社会からドロップアウトした牢人・巡礼・乞食・河原者・非人とかいろいろな人種で構成されているが、ぼろぼろも悪党の構成員の片棒を担いでいたと想像してもほぼ間違いはないのでないか。そこに気の利いたリーダーでもいれば忽ち台風の目となって処々で荒らし回る悪党集団が発生するのである。ぼろぼろは各地を遍歴して歩いて紛争のある荘園に遭遇すれば、飯の種になるとばかり傭兵として分のいい方に忽ち加担して思いっきり暴れ回ったことであろう。 また、ことさら無理に悪党とぼろぼろを結びつけなくとも鎌倉末期の不穏な世相を考えるならば、上は都の後醍醐天皇の倒幕狂をはじめに武の棟梁・北条高時の権力渇望からの反動の狂気や各地の実力をつけてきた在地非御家人層、あるいは下は海賊・山賊・牢人・非人などの悪党たちの反幕勢力も社会秩序を破壊するに十分な狂気を持つ人々と並んでぼろぼろの狂気も鎌倉末期の世相を彩るに足りるエピソードであるといえる。上から下までが社会を変革するエネルギーを十分に蓄積していたのである。 「或大福長者の言はく、「人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。…」(二百十七段)」に続く。
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平宗経 平宗経の一流について (本郷和人) 鎌倉時代中期、平時継という公卿がいた。平時子・時忠らの父時信の四代の孫である。武家の清盛一門とは系統は異なるものの、やはり鎌倉時代にあっては平氏は栄達できず、彼の祖父も父も納言には昇っていない。時継は蔵人・弁官を経て参議に進み、実直に十五年その職を務めた。文永六年(1269)、「参議労十五年」を以てようやく中納言に昇り、同年のうちに辞官した。本来なら彼の廟堂生活はこれで終了する筈であったが、思わぬ好運が彼を待っていた。彼は後深草上皇に仕えていたが、弟亀山上皇の一統に皇位を奪われていたこの不遇の上皇が、弘安十年(1287)に治天の君に返り咲いたのである。時継は上皇の信任を得てにわかに政務に関与するよぅになり、院執権・伝奏・評定衆となり、大納言にも任じられた。 時継の権勢は次子経親に伝えられた。経親も後深草・伏見上皇に重く用いられ、官は大納言に進んだ。持明院統を代表し、鎌倉幕府への特使にもなっている。もちろん奉行として、伝奏として、院宣・綸旨の発給に頻繁に関わっている。 時継・経親父子は持明院統の第一の側近ともいうぺき存在であった。ところが、彼らの子孫の活動はあまり伝えられていない。建武政権を経て、皇統は持明院統に独占されるにもかかわらず。そこで私は拙著『中世朝廷訴訟制の研究』において「彼らの家が上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難く、こののち子孫は衰微していく」と書いてしまった。 一九九二年、私は茨城県新治郡・鹿島郡ほかに出張し、古文書を調査・撮影し、あわせて花押を採集した。帰京して護国院の文書を整理しでいるとき、私は「おや?」と思った。『茨城県史料 中世編1』の護国院文書十一「後光厳院綸旨案」にあたる文書の奉者「権中納言宗雅」の「権中納言」の文字が、ちょうど同時に整理していた山城長福寺文書の貞和四年七月十一日、光厳上皇院宣の奉者「権中納言(花押)」の「権中納言」の文字に酷似していたのである。 貞和四年(1348)七月に権中納言であった人物は、 平宗経・三条実継・源宗明・二条良冬・正親町忠季・一条内嗣・中御門宣明・吉田国俊・甘露寺藤長。 このうちで長福寺文書の権中納言は誰か。摂家以上の出身の者は院宣の奉者にふさわしくないから、久良親王の子の宗明、関白兼基の子の良冬、関白経通の子の内嗣を除く。花押の形状が判明していて、長福寺文書のものとは明らかに違う宣明・藤長も除く。実継・忠季は左萄門督・右衛門督を兼ねているので、兼官を以て署判し「権中納言」とは書かないだろう。とすれば、残るは平宗経と吉田国俊であるが、そこで護国院文書に注目してみよう。『茨城県史料』は「宗雅」としているが、これは「宗経」とも読めるのではないか。 もしこの推測が当たっているならば、護国院文書の「後光厳院綸旨案」は案文ではなく正文である。また宗経は貞和五年(1349)に五十六歳で没しているから、「光厳上皇院宣」の方がよいだろう。 もう一つ。護国院文書の「宗経」と全く同様にくずした署名(花押は据えずに、権中納言+署名)が、山城六波羅密寺文書に何通か見える。丹後国大内庄に関する訴訟につき、甘露寺藤長とともに奉行を務めて院宣を奉じている。貞和四年の付年号があるものもあり、史料編纂所の影写本には「定経」と朱が付してあるが、この権中納言も平宗経とみて間違いないだろう。 権中納言平宗経は、こうしてみると、それこそ死の間際まで実務公卿として活発に活動しているようである。そしてこの宗経こそは、先の平経親の子息にあたるのだ。なにが「子孫は衰微していく」であろうか。 『尊卑分脈』を開くと、宗経の子は時経一人、そして彼は正五位左少弁、と記してある。また時経以降の記載はない。これを以て「子孫は…⊥と書いたわけだが、時経で家が絶えている理由をもう一度考えてみなくてはなるまい。宗経も光厳上皇のもとで活躍していたことが判明し、この家が「上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難」いなどとは決していえないのだから。 平時経をどうやって調ぺよう。そのときにふと思い出したことがあった。やはり長福寺文書の中に、たしか時経が奉じた綸旨なり院宣があったはずである。そこで見直してみると、はたして正平八年六月二十九日、後村上天皇綸旨の奉者が時経のようである・・後村上天皇?・・そうか、時経は南朝に仕えたのだ。それで事跡が伝わらないのだ。 南朝文書と時経、といぅ視点で史料を見直すと、 ○年末詳・松尾寺文書・右少弁、 ○正平九年十一月十日・金剛寺文書・右中弁、 ○正平九年十一月十八日・金剛寺文書・右中弁、 ○年末詳・金剛寺文書・右中弁、 ○正平十年三月二十七日・毛利文書・右中弁、 ○正平十年十月一日・金剛寺文書・左中弁、 ○正平十二年九月十七日・久米尚寺文書・左中弁、 ○正平十三年・三月二十三日・東妙寺文書・左中弁 時経は以上のように後村上天皇の給旨を奉じている。すくなくとも正平九年(1354)から十三年(1358)まで、彼が南朝方の奉行として活動していることが確かめられる。 しかし依然として旋問は残る。持明院統の信任厚い家に生まれた彼が、どうして南朝に仕えるようになったのか。ヒントは彼が南朝に奔った時期にあるように思ぅ。『弁官補任』によると、「観応三年、左少弁 正五位平時経(参南方為蔵人)」とあり、彼が南朝に参じたのは観応三年(1352)であるという。右の後村上天皇綸旨の発給状況からみてもこの記述は正確であろうと思われるが、この年は有名な「正平一統」のあった年である。将軍足利尊氏は弟直義を討つために南朝に和を請い、北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王は廃された。南軍は一時的に京都を画復し、貴族たちは保身に汲々とした。時経はまさにこのとき、限前の状況にとらわれて、時局の読みを誤ったのではないか。 『系図纂要』によると、時経には経泰といぅ兄弟がいたようである。そしてあまり確度の高い史料ではないのだが、史料編纂所に架蔵されている応永三十二年(1425)の奥書を持つ『南朝公卿補任』によると、経泰は広橋を称して早くから南朝に仕え、大納言に昇った人物であるという。彼の子の経氏・泰尹は伊達行朝の娘を母とし、前者は南朝の公卿となり、後者は脇屋義助の孫の義陸とともに奥州を転戦して応永九年(1402)に戦死したといぅ。推測にすぎないが、正平一統時、時経は経泰らのとりなしによって必要以上に南朝に接近し、結果として京都を去らざるを得なくなってしまったのではないか。また時経の子や孫は、あるいは経氏のように、また泰尹のように生きたのではないか。持明院統の近臣たる平氏が消破した経緯は、およそこのようなものだと思う。 護国院文書中の一通の古文書から、平宗経の一流の足跡を追ってみた。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したこの実務の家は、吉野の山中に姿を消していった。南朝に仕え、歴史に残らなかった家はきっと他にもあることだろう。「史料編纂所員として今後このような人々の事跡の発掘に努めたいと思っております」、今年の十月に再び茨城県の常陸太田市に史料採訪に赴いた私は、西山荘の黄門様人形にかように申し上げたのだった。 (本郷和人)