約 784,878 件
https://w.atwiki.jp/aoeror/pages/53.html
石の時代:自然を狩り尽くせ! 石の時代はとにかく自然の物資を狩る。 優先順位的には沿岸の魚>動物(ガゼル・象)>木苺。ワニとかライオンは非常手段なので狩らんでよろしいw
https://w.atwiki.jp/sengokusi/pages/432.html
第二次世界大戦シナリオの改造。日露戦争前夜が舞台。 あらすじ 1902年 ボーア戦争の泥沼で疲れ果てた大英帝国は、ついに国策である 「光栄ある孤立」を放棄する事を決断した。自国の東アジアにおける権益を守る「憲兵」として、東アジアの 新興帝国・大日本帝国を同盟国として選んだのである。 — 英首相バルフォアは下院で、日英同盟条約の目的を説明した。 「この条約が阻止しようとしている危険とは、冒険的な政策が行われる危険である。…(英国)政府はロシア政府が極東においてそのような危険を犯すと疑ってなどはいない。」 — 日英同盟の交渉中にも、林薫公使は英外相に語っていた。 「露国の如き強大国に対し、日本は猥りに戦を挑むものにあらず」 強大な大ロシア帝国に、日本が勝利するという空想を抱いている者は、誰もいなかった。 — むしろ、日英同盟は「平和の担保」とみなされていたのである。 日本でも、同盟締結は「東洋貿易安全の基礎」が固まったと祝されていた。 — -だが、英国のある議員は、議会での討論終了間際に次の様に述べている。 「われわれは、世界でも最も勇敢な小国の一つと手をむすぼうとしている…」 — 一方、ロシア外相ラムスドルフは、日英提携に際し次の様に述べていた。 「極東に於ける戦争の如きは、夢想だにも浮ばざる所なり」 ロシアの主敵はドイツ・エステライヒ両国であり、極東での冒険は外相ラムスドルフや蔵相ウィッテら実務派の本意ではなかった。 しかし、ロシア陸相クロパトキン大将は自信を持って断言する。 「我が国は、日本と戦争の已むなきに至るべし」 — 1902年1月30日、大英帝国と大日本帝国の間で日英同盟が成立する。 太平洋の二人の巨人…日米が台頭する直前のこの時期は、まさに、帝国の時代であった。 (OPより) 入手先 戦国史旧作シナリオ復興委員会 備考 シナリオデータ シナリオ名: 帝国の時代 作者: 秀也 現バージョン: - 最終更新: 2005年3月5日更新 動作環境: SE○ FE◎ 旧◎ 規模: 世界 開始年月: 1902年2月 大名家数: 60 城数: 419 武将数: 1961 攻略難易度表(難 S ~ F 易) S A B C D E F キャプチャ画像 リプレイサイト 関連項目 以下、加筆求む
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/52.html
目次 1.正義の教えは両刃の剣 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 3.イエスの時代は「愛の時代」であった 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝」を排斥した 8.あの世から見れば邪宗はすぐ分かる 9.神仏は崇るか 10.天変地異は地球の生命体の自浄作用 11.アトランティス大陸沈没の真相 12.本当の裁きの神とは個々人の内部神性 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ 1.正義の教えは両刃の剣 今日はいよいよ第4章ですね。四日目になりまして、正義の時代ということについてお話をしたいと思うのです。現在はね、宗教を見てみると、とくに日本の宗教を見てみると、正義ということが忘れられているような感じがするのですね。まあ正義って何かというと、正しく筋が通っていることということですね。あるいは正しい者は要するに、屈してはならない。筋を通さねばならぬと、この世的にも勝利をせねばならぬということね。これが正義です。これが、今ちょっと薄れているかもしれません。 まあ正義というのが今、残っているとすれば日蓮宗系ですね。これはやっているかもしれない。日蓮さんの教え、過去説いたという教えに関しては結局、何と言いますかね、正しいのは、これしかないんだということで、他を折伏(しゃくぶく)する。説得して、それに改宗させると、こういうことを今だにやっていますね。連綿(れんめん)と七百年やっとるわけです。まあこれは、一つの正義の顕(あらわ)れかもしれません。 ただ正義ということはね、非常に難しいところがあるんです。この世的にいいものというのは、どれも諸刃(もろは)の剣、両刃の剣であって、いい面もあるけれど、悪い面もあるというところがあります。正義の持つ二面がまさしくそうですね。 いい面としては、本当に神理が正しいものを正しいとして、太陽のもとで認められると、太陽のもとに正しいものはこれしかないと、こういうことが明らかになるという意味でいいですね。 悪い面は、これが正しくて、これは間違いだというのは、非常にくっきりと、はっきりとなるために争いを呼びやすいと、こういうところがあるのです。これがあやうい面です。まあそういうふうにいろいろ見てくると、正義の悪い面も、いい面も両方ありますね。 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 歴史的には、たとえばモーゼの時代、まさしく、これは正義の時代でした。正義の時代の神っていうのは、何かというと裁(さば)きの神でしたね。裁きの神ということで、ヤーヴェの神というのが出て来て、短気で怒リっぽくて、不寛容で、要するに言うことを聞かないと怒っちゃうと。まあ、こういう神様がおりましたね。 谷口雅春さんの霊言集というのが先般出たようですけど、谷口雅春という方は、大ベストセラーの『生命の実相』を書かれたり、いろいろな本を書かれているけれども、彼は昔、大昔から「エホバの神って、ありゃ邪神(じゃしん)だ」と言っておられたそうです。なぜ邪神か。「妬(ねた)みの神、怒りの神、こんなのおかしい。なんで神様が妬むことがあろうか。怒ることがあろうか」そりゃそうですね。宗教人の常識から言えば、そうです。ですから谷口さん、そう思ったんでしょう。 ところがあの世に来てみると、その妬みの神、怒りの神が、こっちにいましてね。「いやあ谷口さん久しぶりですね」と言って待っているのですね。「もしかして」なんていうとね。「あなたが邪神といわれた方は、この私なんですよ」「ああやっぱりそうですか。GLA起こした高橋信次。やっぱり邪神だと思ったら、ああそうですか。私も高橋信次って名前は知っていたが、これは邪神だと思っていましたよ」なんてね。こういうことを言われることがあります。 それはね、神理の一面だけ見ているから、そういうふうになるんであってね、別に谷口さんがどうこうっていうことじゃないんです。まあ、時代時代があるんですね。法というものも時代に合わせていろんな説き方をされるんです。そして神理のいろんな面が出てくるんですね。 3.イエスの時代は「愛の時代」であった イエス様の時代には、つまり二千年前のイスラエルの時には、愛という点を全面に押してきましたね。愛という面ですね。イエス様は愛以外説けないかというと、そんなことはないです。もちろん何でも知っています。万能とまでは言えませんけれども。イエス様はそれは大工(だいく)仕事は知ってても、スペース・シャトルの組み立て方は知らないかもしれません。けれども、まあ彼の時代は愛ということを中心に説いた時代でした。 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった あるいはイエス様の千百年か千二百年前のモーゼの時代っていうのは、これは、正義の時代だったのです。正しい者が強くなければならぬという、正義の時代だったんです。あるいは「義」、「義の時代」だったわけです。 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 釈迦の時代って何か。二千六百年ぐらい前ね。釈迦の時代っていうのは、「慈悲の時代」、あるいは「法の時代」、こういうことなわけです。 あるいは中国の孔子様って何ですか。儒学(じゅがく)ですね。あるいは儒教。儒教って何だろう。立身出世なんてあるけれども、人間としての完成の道ですね。それを中心に説かれた。主に道徳的に、あるいは人間の知性と理性に訴える形での「秩序」、そういうものを説かれましたね。 同じく秩序を説かれたのは、日本だと古代の天之御中主之神、天照大御神様、こういう方がたが秩序と礼節ということをしきりに説かれました。 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ こういうふうに、神理は本当はいろいろな面があるんですよ。ところが、それをいっぺんに全部出しても分からないし、特色がないから、何か一つの特色を出すんです。その時代に。 出版社なんかでもそうですよ。今、日本に出版社何千あるか知らないけれども、みんな同じような本を出していたら、意味がないのです。それぞれの出版社に特徴があるから、それでいいんですね。 たとえば、こういう霊言ものでもそうです。ある出版社は本当に内容がいいような、諄々(じゅんじゅん)と説得するような内容のものしか出さないという出版社もあります。 あるいは悪霊専門でね。悪霊でもなんでもいいと。とにかく売れればいいと。悪霊篇でよく出している出版社もあります。 あるいは予言がやたら好きで、予言ばっかり出している出版社もあります。 こういうふうにいろいろあるのですね。霊的なものが好きといっても、こういうもんであって本当にいいのです。特色があってね、それぞれがやる意味があるんです。 だから私たちの法というのもそうで、いろいろな時代にいろいろな面が出てくるんです。ですからそれを、あるものは正しくて、あるものは間違っているなんて言ったら、これは違うんですね。そうじゃありません。 やはり、ダイヤモンドみたいなものでね。ダイヤモンドでもいろいろなカットの仕方がありますね。十二面体、二十四面体、三十六面体、七十二面体。私は持ったことがなくて知らないから、人づてに聞いたことでしゃべっているんだけれども。三十六面体カットとか、七十二面体カットとかいろんなのがあるんでしょ。持ったことがないのでよく分からないんですが、一度ぐらい手にしたいと思うんですけれども。そういうカットの仕方がある、と聞いています。 そういうふうに神理っていうのは同じようなものなんですよ。多面体なんです。そしてそれぞれの面が、いろいろな時代に、地域に合わせて、チラチラ出てくるんですよ。そして、その面を通してね、ダイヤモンドを感じ取りなさい。そういうことなんですよ。 そういう意味で、神理が七十二面体だとするとね、七十二面体の一つが、たとえば「愛」であり、「礼節」であり、あるいは「慈悲」であり、あるいは「義」であると。こういう一つ一つの面なのです。 あるいは里見ハ犬伝みたいなのを出してくりゃあ、「忠」だとか「孝」だとかいっぱいあります。昔からあるものは、「仁」だとか「信」だとかあります。こういうのが面なんです。こういう面がチラチラ出てくるんですね。 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)」を排斥した じゃあモーゼの時代、つまり、正義の時代のエホバ神というのは本当の邪神であったか。これの検討に入らねばならぬと思います。そうじゃないんです。皆さんは、今の時代だからそう思うだけでね。当時はそうじゃなくて、非常に人殺しのはやった時代なのです。それと今もありますけれども、いわゆる邪教、本当に間違った信仰というのが多かったのです。 とくに人びとは偶像崇拝というのをやっていまして、要するに金儲けの神様です。今流に言えば、銭儲けの神様を一生懸命信仰しておったのです。まあバール信仰なんていうのもそうですけれども、分かるように言えば「招き猫」ですね。招き猫の信仰というのをやっておったのです。 皆さん今、招き猫の大きいのを、五メートルぐらいのを作ってね、これを本部にすえて、招き猫の前でみんなで右手なんか曲げちゃって、「はい、これが招き猫のポーズですよ」「これが正しい精神統一の方法です」と。 ご本尊の招き猫の前で、こうみな手を立てちゃって、「はい、これで商売繁盛です。儲かります、儲かります。招き猫です、招き猫です」と、これをやっとるわけです。とんでもないです。 こういうのを見ると天上界からエホバの神は、「そういう間違った信仰はやめなさい。招き猫なんか、いくら拝んだってあなた方、本当に正しい生き方できないんですよ。本当に神理っていうのが分かんないんですよ」と、そういうことを言ったわけです。「そういう招き猫なんかやめて、人間としてちゃんと働きなさい。汗水たらして朝から晩まで働きなさい。そして人とうまく調和しながら生きていく中に、人間としての繁栄があるのです。本当の発展があるんですよ」と。 だから招き猫は打ちこわして、捨てちゃって、猫の一匹や二匹飼ってもかまわんけれども、そうぃう猫におこぼれあげるくらいの収入を得るように、ちゃんと働きなさいよ。そういう招き猫を拝んで利益を得るよりは、あなた方日常生活の中で、日々コツコツと努力し商売し、他人との関係を調和しながら、立派になっていきなさい。それが最高ですよと。まあこういうことを教えたわけです。 その時にたとえば、こういうようにエホバ神はね、「我以外には神なし」と。「招き猫と我とは違うぞ」と。「諸君よ、招き猫の神は偽物(にせもの)である」と。「招き猫の神は捨てなさい。我以外に神としてはならぬ。拝んではならぬ。奉(たてまつ)ってはならぬ」と言ったわけです。じゃあこれは妬(ねた)みの神だから邪宗かっていうとそんなことはないですよ。 別に、招き猫と私は競争しているわけじゃなかったんですけど、そういうのはおかしいですと。招き猫のお化けなんか飾っちゃいけないのです。そういうことを言ったわけで、まあ、これを称して「妬(ねた)むもの」というのは勝手です。「妬むもの」というのは言い過ぎであってね、「我は排斥する者」と。要するに「我は悪しき者を排斥する」するという意味ですね。 ですから、寛容ということも宗教には大事です。けれども、かたや左側には高橋信次の肖像画をかかげて、右側に招き猫の、五メートルかね、実物大以上かね、招き猫のお立ち台か何かつくっちゃって、両方に手を合わせちゃったりして、こっちも正しい、あっちも正しいよ高橋信次っていうのは高電工業で金儲けうまかったけれども、他人に金儲けはあまり教えなかったと。そういったところで法に欠陥があると。そういうことで、招き猫の神というのは、その欠陥を埋めるに余りあるご利益(りやく)がある方たっていうんで、高橋信次の肖像に向いて、経典の「心行(しんぎょう)」なんか読んじやって、「大宇宙、大神霊、仏よ」なんてやっているんです。 そしてそれが終ったと思ったら、じやあ、ちょっと次は銭儲けの方をやらなきやって、チーンと叩きながら、「ハイ招き猫ね。今日は、これが目刺しの頭の残りですよ。これでご利益下さいよ」とやったら、やっぱり高橋信次の肖像画が、ガタガタガタガタゆれ始めてね、「こら、何やってるんだ、そんなことをしちやダメだぞ」と。「俺だってあなた、目刺しの頭ぐらい食べたいぞ。こっちへ持ってこい」なんて、やっぱり言うわけですよ。そして、「その招き猫やめなさい」なんて、言うわけです。まあ、これを妬みの神と言うか、目刺しの頭食べたいといって妬んだか、まあ言い方はあるでしょうけれども。 8.あの世から見れば邪宗(じゃしゅう)はすぐ分かる まあ、こういうのは方便でありまして、やはり正しい信仰に帰依(きえ)しなさいということだったわけです。 私たちから見ると、つまりあの世から今の地上を見ると、邪宗、邪教というのはよく分かるんです、間違っているのは。とくに「光の天使」たちが指導している宗教というのは、これは、すぐ分かるけれども、光っていない「曇りの天使」たちね、頭が真っ黒になった霊たちが指導している宗教団体というのも、すぐ分かっちゃうんです。 だから本当は、正直な人間であれば、「それはちょっと違ってますよ」と本当は教えたいんですね。本当は教えてあげたいんです。「その教えは違っていますよ。そんな方に行ったら、あなた、もうトントントンと地獄のいちばん奥の方まで行っちゃいますよ。それでいいんですか」なんて、ほんとうは言いたくなるんです。 だからたとえば、私は天上界でも、新聞は非常に興味を持って読んでいるんですけれども、今日の読売新聞を天上界から眺めてみると、ある密教食をつくった宗教家が、薬事法違反で摘発されていました。そういうのを私は見てました。「オー、やったな。とうとう見つかったねえ」なんてね。 一時期十年ほど前から密教食ブームなんてあってね、これを食べれば念力がついてくるなんて言って、健康になって念力がついてきて、念力で護摩(ごま)の火がたけると。念力で大学に合格したり、彼女を射止めたり、念力で給料が増えたりいろいろすると。こういうことで、密教食を食べながら数珠(じゅず)をもんでたら、だんだん力がついてくると。まあ、こういうのを言っているところがあります。 こういうのをあの世から見てみたらいろいろ分かるわけです。「その密教食、薬事法違反にそのうちなりますよ」とね。まあそういう余計なことを言わなくてもいいんだけれども、「あんまり、そちらの方向へいって念力つけたって、下の方のチャクラばかり開いちゃって、本当の精神統一できませんよ」と。たとえば、あの世からエホバ神ならぬ高橋信次がお節介にも言うことができるんです。 ただそういった結果、どうなるかというとね、「あー、高橋信次は多分、密教食を食べたくてしょうがないのに、あの世で手に入らないので、それでひがんでいるに違いない」と。「高橋信次の墓の前に密敷食を持っていって、それをパックにして置いてやったら、多分喜ぶに違いない。時どき、一日一回、水をかえてやったら喜ぶだろう」と、たまには花の一つもかえてやろうか」と。「多分ひがんどるんだから、妬みの神だから」と。まあ、こういうふうにとる人がいるでしょう。そういうわけじゃないということです。 ですから、あの世から見てると、この地上の中で、おかしいのがよーく分かるんです。それを正直に言い過ぎると、妬みの神になっちゃうわけです。あるいは怒りの神になっちゃいます。 9.神仏は崇(たた)るか あと、よくありますね、神仏が人を罰するか。天変地異っていうのは、神仏の怒りであるかどうか。これについても私は、答えとかねばいかんと思います。まあよく新興宗教でも多いですね。「うちの宗教を脱会すると、脱宗すると神の怒りにふれて、お前に祟(たた)りがあるぞ」と。いわゆる「崇り」ですね。 崇リの問題について、崇りは本当にあるかということをちょっとのべておきましょう。神仏、あるいは高級霊たちが崇りを起こすかというと、絶対、これはあり得ないです。私はこれをはっきり言っておきます。崇りはありません。 だから、たとえ、高橋信次のご遺影にね、お小水をかけたとしても、私は面白くないのは当然ですけれども、それで崇ってね、夢枕に出てきて、その人をこらしめて、あと腰か何かに取り憑(つ)いちゃって、腰がたたないようにするかというとそんなことはしないです。いくら何でも、私もそんな暇じでありません。 ところが、そういうことをする霊もあります。それは地獄霊たちです。とくに動物霊たちがそうですね。動物霊たちは、よく分かんないから、無礼をされたからとか、「あの野郎失礼を働いた」なんて、こういうことで怒ることもあります。よく社(やしろ)なんかありますね。お孤さんなんか祭ってあります。それで稲荷大明神を祭ってあるところに本当に稲荷大明神がいるかっていったらいやしないのです。そこにいるのはたいてい狐の霊です。 動物霊たち、それもたいてい餓鬼地獄(がきじごく)に堕(お)ちた狐の霊たちで、お腹空(なかす)かしているのですね。お腹空かして、ひもじいひもしい思いでいます。そして人が何とかしてね、油揚げでも何でもいいから奉(まつ)ってくれないかと思っているんです。彼らはもちろん食べることはできないけれども、油揚げを供養(くよう)するというような気持ちだけでね、それで満腹感が少しはあるから、それが欲しくてそういう大明神の社にいるんです。 で、そこに来ていろいろな人が手を合わせたり、ご飯持ってきたりすると喜んでいるわけです。 ところが不埓(ふらち)な者が来て、「何だこんな稲荷犬明神、こんなものあんた、信しんぞ、俺は」と言ってね、放言してぺーっと唾(つば)をはいて帰ります。すると稲荷大明神ならぬお狐様は怒っちゃいますね。「この野郎、俺に対して失礼なことをしたな。これは許せん」ちゆうんで、頭に取り憑(つ)いてきます。そうするとその人は、一晩寝ると、翌日あたりから頭が痛くて痛くてしょうがない。そして肩が凝(こ)って凝ってしょうがない。腰が痛い。こういうことになってきます。 ですから地上の皆さん、信仰している人も、していない人も、急に頭痛がしたり、頭痛持ちで、頭が割れるように痛い、あるいは肩がいつも重い、肩が凝る、こういう人というのはよく狐霊に憑かれています。よーく反省してみなさい。 そして腰が重い。あるいはリューマチね、足が冷える。こういうのは蛇の霊が多いです。とくに冷え性というのは蛇の霊が多いですね。冷え性の方はとくに蛇と縁がないかをよーく考えなさいよ。どこかの水神(すいじん)さんか何かに行って拝んだりしてないかどうか。こういうことがあります。 ですから崇(たた)るというのは要するに悪霊です。それも、そういう社(やしろ)とか、祠(ほこら)とかに巣くっている悪霊がほとんどです。だから気をつけなさい。高級霊はそういうことはありません。 10.天変地異は地球の生命体の自浄(じじょう)作用 あと、神仏が人類に罰を与えるかどうかだね。まあ結果としてね、罰に近いような現象があることはあります。それはあるんです。たとえば、ソドムとゴモラという都市がありましたね、悪徳の街、人びとが欲望にふけり、金儲けと淫欲(いんよく)、性欲にふけっていた街。神は、これを怒り、怒りの火で焼かれたと。死の灰を落とされたという記録が旧約聖書にありますけれども。過去を見ると不調和の都市というのがやはり沈没したり、火山の噴火で埋まったりすることはあったようです。ただ、これが神仏の怒りだというのは間違っているんです。そうじゃないんです。 皆さんにこういうことを言って分かるかどうかしりませんが、地球自体が一つの生命体なんですね。そして生きておるんです。生きておって、やっぱりいろんなものを感じ取る能力を持っておるんです。地球の生命体が。そうして、たとえばそこの中で、ある土地に行くとする。犯罪都市などのような、人びとが不調和な想念を持って生きている土地っていうのは、地球の生命体も非常にそこが病んでくるんです。非常に病んできて、何とかそこを浄化したいという気持ちが起きるんです。そうするとそういう浄化したいという気持ちが、一つの反作用となってあらわれるんですね。反作用となってね。それで地殻(ちかく)変動とか天変地異なんかになりやすいんです。 そのもともとは何かと言いますと、そこに住んでいる人のそういう不調和な想念、これがやはり原囚を作っているのです。人びとの黒い想念の曇りが神の光をさえぎり、その反作用として、たとえば大陸が沈没したり、そういうことがあるんですね。 11.アトランティス大陸沈没の真相 アトランティスという大陸が今から一万年ぐらい前にありました。ところが、そのアトランティス大陸が一夜にして沈んだということになっています。これは、歴史上の事実であります。どうして沈んだかっていうと、結局その末期のアトランティスにおいては人びとの心がすさんで、光の天使たちを次つぎと殺戮(さつりく)するような不調和な行為を起こし、その結果、地球の生命体、意識体が反作用を起こしたのです。そうしてその意識体が陥没(かんぼつ)を起こすようなことになったわけです。 こういうふうに地球自体が、自浄作用というものを持っておるんです。言ってみれば、徽(かび)かばい菌なんです、そういう人たちというのは。徽やばい菌が、いっぱい自分の表面についていると、地球だって時どきお掃除するのですね。そういうことがあります。 けれども、それは罰というよりは、やはり作用・反作用の法則なのです。大宇宙の法則なんです。ですから神仏は罰を与えません。しかし、そういう法則はあります。 12.本当の裁(さば)きの神とは個々人の内部神性 ですから、同じことが言えるのであって、正義の時代、正義の法というのも一緒です。裁きの神というのがあるのかというと、裁きの神ならそれができると言われているように、善悪を私たちは区別できます。善悪を分かつという意味での裁きの神というのはあるかもしれません。ただ本当の裁きというのは、人間個人個人が、自分自身を裁くんです。 これが分かるでしょうかね。皆さんは地上に生きている時にやりたい放題、したい放題の生き方をしていますけれども、死んであの世に還った時にみんな、裁きというのを受けるのです。その裁きは閻魔(えんま)大王が裁くのではないのです。閻魔大王が裁くなんて今だに思っている人がいるだろうけど、そういうのはたわごとです。閻魔さんは忙しいんです。地球には五十億も人間がいます。それを一つ一つ裁いておったら、もうとても書類がたまってしまい、今の日本の裁判みたいに十年ぐらいかかります。だからできないのです。 そうじゃなくて、やはり一人一人の心の中に、神仏の子としての神性、光の子としての自覚があるのです。これがあの世に還った時に、目覚めてくるんです。その光の子としての自覚が、自分自身の六十年、七十年の人生航路を裁くんです。その結果、不調和な行動が大きければ、その垢(あか)を落とすために、厳しい地獄界での修行にはげんでくるのです。 また光明に満たされた生活をしてきたのならば、その神性が自分自身の神の子の本質に適(かな)うということで、天国で素晴らしい生活をします。 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ こういうふうにあくまでも、一人一人の自分自身の中にある、善我(ぜんが)なる神性が自分自身を裁いていくのです。そういう意味で私たちは、あの世から善悪を裁くことはできるけれども、それは、あくまでも一人一人にまかせてあるのです。 だから地上の人たちも、これが正法で、これが悪法だといって、裁きたい気持ちっていうのがいっぱいあると思います。でもまあ神様は、どんな悪人に対しても、その人の寿命が来るまで待ってあげているでしょう。なんで放置してあるんですかね。悪人は人一人殺したらすぐ寿命を奪ったらいいじゃないか。それを奪いもしないで放置してあるでしょう。悪人が六十、七十、九十、まで生きます。何で放っとくんだろうと思う。やはり神様でもね、それだけ待たれておるのです。チャンスを与えてくれておるのです。そういうふうに、死んであの世に還るまでは、その人を裁こうとされていないのです。 であるならば 、地上に生きているあなた方もね、生きている間にあまり人を裁こうとするなということです。その人たちの良心を信じて、その人たちが良くなっていくことを祈ってあげなさい。そういうことで、正邪を分かつことも大事だけれども、悪法がいっぱいあっても、あんまり裁いちゃいけません。 そうじゃなくて彼らの良心を信じながら、自分たちの正しい行いを積んでいくことです。それが大事です。ですから刈り入れの時が来るまでは、神様は刈り入れされないのです。刈り入れの時までに毒麦が、麦の中に入っているかもしれないけれどもね、毒麦であっても、刈り入れの時まで神様は、刈ろうとしないのです。 だからそれをよく思い出して、あなた方も今、正義、正義といって正しいことは間違いないんだから、他のは全部罵倒(ばとう)するかというとそうじゃなくてね。刈り入れの時まで神様が待っておられるんだから、あなた方もそれを待って、ただ自分自身がたわわに稔っていくように努力していきなさい。 自分の畑、自分の田圃(たんぼ)を立派なものにしていくように努力していきなさい。それが、いちばん肝腎なことですよ。まあそういうことですよ。今日はいいかな。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/120.html
目次 1.夫婦の縁 2.恋愛の季節 3.結婚問題 4.新婚ホヤホヤの時代 5.夫婦の努力 4.新婚ホヤホヤの時代 さて、新婚にはいったとしましょう。めでたく新婚にはいったといたしましょう。さあ、なにをもって新婚だと判定するか、という問題はいろいろあるんですね。現代ではこれがむずかしくなっていますね。新婚というのを入籍時とするか、それとも新婚というものを結婚式を挙げた日とするか。あるいは、新婚というのを実質上の夫婦となった日とするか、現代にはこの三つスタート時があります。どれを取るかというたいへんむずかしい問題があって、この三つがパラパラであることがふつうは多いんですね。そういう時代です。 では、これがたとえばほんとうにいけないことなのかどうかと、たとえば結婚式当日に入籍し、式を挙げ、そして同居するのがほんとうであるかというと、まあ昔から伝統的にはそうであったことはあるでしょう。ただ現在では、届けをするときには入居時か、結婚式のどちらか早いほうなんて、よく書いてありますね。そういうふうになっていると思います。そのように、まあ、時代が変わってきつつあるということでしょうね。それはあるでしょう。 ただ私はねえ、これについても寛容な姿勢を取りたいと思います。私は裁きの神ではないからです。寛容な姿勢を取りたいと思います。そういうことを言うのは、自分にもなにか傷があるんじゃないかと、こう疑われる恐れもありますが、ないわけではありません。あると言っているわけでもありません。まあいいじゃないですか、みなさんよければ、幸福になれば、ねえ。後であなた、おたがいあなたと結婚してよかったなんて両方が言うのなら、まあなんでもいいじゃないか。まあね、そのへんの優しさもいるよ。あんまり世の常識だけでいっちゃいけない。 だから、これもさっきのつりあいの話じゃないけども、そうだねえ、プラスマイナス六か月以内ぐらいならよしとしよう、ね。これは高橋信次の判断だ。新婚のスタートをどこに求めるか、三種類の求め方があるけども、プラスマイナス六か月はOK、ねえ。ただ、二年も前から同棲しててやっと式を挙げたとかね、やっと籍を入れたとか、あんまりこういうの僕は好みじゃない。好きじゃない。諸般の事情がいろいろあるだろうから、その順序は言わないけど、だいたい六か月前後、その以内に納まっておれば、現代ではよしとしよう。これは高橋信次の許可です。 だから、六か月前ぐらいからいっしょに住みはじめて、その後入籍、挙式でもいいし、挙式してから六か月してから住む人、あるいは入籍してから挙式して、それから住む人、挙式して、それから入籍してそれから住む人、挙式していっしょに住んで、それから入籍する人、まあこの組み合わせはいくらでもあるでしょうが、だいたい六か月前後ならまあいいでしょう。結果がよければ、それは個人の自由にしたいと思います。だから、杓子定規にやらねばいかんものではありませんし、それは決して神理の面から言ってまちがっているものでもありません。おたがい幸せならそれはそれで結構です。ただ、あまりそれ以上はズレない程度の間に納めなさい。 この新婚のときの問題はいったいなんであるかというと、それはまあみなさん後でも問題出るけれども、とりあえす興味津々(しんしん)だよね。異性といっしょに住むなんて、まあ珍しい経験で、まあ珍しくもない人もいるでしょうが、ふつうは珍しい経験ですね。それで、若い二人ですから、まだまだ未熟であって、何が未熟であるかと言っても、まあいろいろ愛し方が未熟なわけですね。このへんについては、学校教育が遅れているので未熟であるということで、結婚して生活し始めて、まあ落ち着くのに半年ぐらいはかかるでしょうね。この半年間はね、私は言っとくけども、どんなことがあってもまあがんばり抜きなさい。これは一般論です。 なぜかと言うと、関門が二つあるからですね。それは、男女の性的結合の問題がひとつありますね。これはねえ、自分にピッタリ合う人がいると思っている人もいるかもしれないけど、そんなもんでもないんですね。慣れというのがやっぱりあるんです。慣れというのがあってね、おたがいに努力しているうちに、だんだん相手が合ってくることがあってね、自分とピッタリの鍵と鍵穴じやないけどね、鍵と鍵穴みたいに一つしか合うのがないなんて思ったら、とんでもないまちがいですね。慣れてきて、だんだんよくなってくるもんなんですね。だから、それまで半年ぐらいは、どんなことがあってもまずがまんしなさい。これがあります。 もうひとつはね、仕事の内容が変わるということがありますね。女性は、今までやったことがない主婦業というのがはいってきます。これも慣れないうちはものすごく疲れますね。疲れますから、どうしても愚痴や不満、不平がたまってきやすいんですね。たいへん疲れちゃいます。料理がどんなにじょうずだと思っている女性でも、主婦になってみたらなかなかそうはうまくいかないんですね。段取りがあってね、それがなかなかそうはうまくいかないんです。だから、半年ぐらいやっぱり疲れが残ります。 まあ旦那さんもいっしょなんですね。今まで、仕事だけでだいたい精力使ってますね。結婚するのは、だいたい入社五年目ぐらいがふつうですね。そのころはようやく仕事になれてきて、会社でもそこそこ任されるようになった時代ですね。こういう時に、新婚というのがはいるとどうなるかというと、負担感がものすごく多いんですね。ちょうど五年目ぐらいだと、仕事任されて、夜の仕事、残業なども増えてくるころなんですね。 そのころ、新婚がはいってきて、夕方サーッと引けて行くっていうのは、これはむずかしいこともあってね、でもカァちゃん待っているから帰らないといかんし、会社で上司にちょっといびられたりするんですね。たとえば「伝書鳩か、お前は」なーんてね、言われるんですね。そしてわざと酒に誘われるんですね。新婚早々で帰らねばいかんと思ったらね、「オイ、飲みにいこうか」ってやられるんですね。「いや、僕ちょっと」と言うと「ちょっとって何だ」「カァちゃんが待っているんです」「なーに言ってるんだ。ぶったるんでるよ。お前そんなの新妻教育ちゃんとやらんか。結婚して新婚旅行から帰ったら、一週間絶対家に帰っちゃいかん」なんて言ってね、こういうふうに上司につるし上げくったりして意地悪されるんですね。 それで、職場から電話なんかしてね、「今日はちょっと遅くなるよ、ちょっと先輩に誘われてね」と言ったら、電話の向こうで奥さんが泣いたり、わめいたりするんですね。「ホニャー」ちゅうって泣くんですね。そうするとカクッときて、「先輩ちょっと、今日ちょっと」と言うと、「何言ってんだ、お前ぶったるんどるぞー」なんて言われます。まあ、こういうことで軟弱なところを見せてしまうわけですね。 だから、旦那さんも大変だということを、知る必要があるということですね。今までの仕事を続けながら、人間関係続けながら、結婚するのは大変なことなんですね。特に新婚前後、新婚旅行前後っていうのは、仕事に負担が相当かかります。女性のほうはわからないかもしれませんが、男性が一週間職場を離れるというのは、大変なことなんですね。特に、その人がよくできる人であればできる人ほど、そうです。それで、一週間離れるのに結婚休暇というのがあるけども、それはどういうことかと言うと、結局、だれかが他の人がやらないといけなくなるんですね。それが仕事というものなんですよ。そういうことでね、男性は大変だということをわかってください。 だからとりあえず、新婚ホヤホヤのときは、なんというかなあ、半年ぐらいがんばり技いてみることです。そしたら、あんなに困難に見えたことが、いつの間にか消え去っているということがあるわけなんです。 5.夫婦の努力 まあ、いろいろ話をしてきました。夫婦問題についても、もっとくわしい話を今後やってゆくつもりですが、僕はねえ、この夫婦調和の法について、結論めいて言うけども、言っておくけどもね、たしかに実在界の世界で出てくる前に夫婦の縁というのはありましたし、たいていの場合約束をしてきておりますが、ただ、約束をしてきた相手だから自分は幸せになれるかっていったら、そうは言えないよ、ということを言っておきたいんですね。たまたま例外的に、約束しなかった相手と結婚する場合もあります。だから不幸になるかと言えば、そうでもないんですね。そうとも言えませんよ。 なぜかと言うとね、結局、努力という問題があるんですよ、ということなんですね。自分が出てくる前には、霊的に出会っていて、過去世も夫婦であったから絶対うまくいくと思って、理想のカップルだと思った相手であっても、地上に生まれて二十年、三十年、まったく違った環境でね、違った条件下に生活してくると、その間にその人の思想、身上、教育、性格、いろんなものが変わってきているんですね。実際に肉体を持って出る前の魂の部分と、だいぶ違ったものになっていることがあるんです。 それゆえに、たいていの場合、二十年後、三十年後にふたたび会ったとしても、ズレがあるんですね。魂的にズレがあるんです。あるいは、人間的にズレの部分があります。これを鍵と鍵穴みたいに、ピッタリした相手でなければうまくいかないと思ったら、とんでもないことになりますよ、ということを言ってるんですね。そうじゃないんです。魂的には最初合意してても、何十年か経つとズレが出てくるんです。環境相応のズレが出ています。そういうときには、そうしたズレの部分を克服するための努力はいるんですよ、ということですね。まあこれを忘れんようにしなさい。 理想的な相手がいたら、それとくっつけば幸福になれるなんて思っちゃいけないよ。そんなもんじゃない。やっぱり、地上に生まれて生きるということは、ズレが起きるんです。環境に染まっていろいろ人間は変わります。だから、その変わった部分を引きずり戻して、調和させるだけの努力はいるんですね、こういうことなんですよ。 だから、相手選びによって幸福になると思ってはいけないよ。たまたま結婚することになったら、その人が神縁があったと思ってね、そして努力して、その部分、合わない部分を変えていく努力ね、これがだいじですよ。こうしなきゃいけませんよ。これなくして夫婦調和の法はないですよ。相手選びじゃない、まちがいだらけの車選びじゃないんだ。車さえ選べば自分に合うなんていうもんじゃない。ゴルフのクラブでもないんだ。野球のバットでもない。そういうふうに、自分に合えばいけるなんていうもんではないんです。おたがいに努力して合わしていくもんなんだよ、ということなんですね。 だから、夫婦でトラブルがあっても、前世で約束してたらこんなトラブルあるはずないと思うかもしれないけれども、それはそうじゃないということだね。地上に生きている間にズレが起きているんだから、その部分の穴埋めをし、歩み寄りをしなければいかんということです。だから夫婦の努力っていうことは、とってもだいじだということを、私は言っておきます。まあ以上で、第1章は終わりです。
https://w.atwiki.jp/before-one/pages/1038.html
せいめいのじだい 生命の時代 【分類】 時代 用語 【解説】 星を世界の一つの領域として定義づけた、その時代の変遷。 「雨の時代(あめのじだい)」 「泉の時代(いずみのじだい)」 「苔の時代(こけのじだい)」=菌 「骨の時代(ほねのじだい)」=虫 「鰭の時代(ひれのじだい)」=魚 「脚の時代(あしのじだい)」=竜 「衣の時代(ころものじだい)」=鳥と獣 「炎の時代(ほのおのじだい)」=ヒト(火人)の時代 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/seiyu-coversong/pages/3252.html
原曲・KinKi Kids 作詞作曲・canna ジャニーズアイドル・KinKi Kidsが1998年に発表した楽曲。 TVドラマ『青の時代』主題歌。 【登録タグ 1998年の楽曲 J-POP KinKi Kids ジャニーズ ドラマ主題歌】 カバーした声優 山本剛史
https://w.atwiki.jp/infinit-fantasy/pages/215.html
目次 アーシアの歴史と伝説 五つの時代古代王国時代-アリア暦 戦乱時代-アーシア暦 統一帝国時代-王国暦 暗黒時代-新王国暦 現代-新王国暦 アーシアの歴史と伝説 数少ない発掘資料から、アーシアには少なくとも2000年以上の歴史があることが確認されており、幾つかの伝説が存在する 五つの時代 アーシアの時代はおおまかに五区分で表される 古代王国時代-アリア暦 アーシアに最初に興った文明といわれている古代王国『アリア』が崩壊するまでの事をそう呼ぶ。この時代に対する資料はほぼ存在せず、統一帝国時代の資料にわずかに名前が残るのみである 戦乱時代-アーシア暦 古代王国崩壊後から統一帝国マケドニア建国までの間を便宜的にそう呼ぶが、一般には殆ど浸透しておらず、わずかに専門家達が使うだけである。この時代の資料は存在せず、統一帝国時代の資料からその名残を感じるのみである 統一帝国時代-王国暦 イスカンダルが世界を統一、『マケドニア』建国から崩壊までをそう呼ぶ。この時代に作られた統一通貨・言語が今も共通語・標準語として使われている。たった三代で崩壊した事から歴史は浅いが、新王国暦以前の事を知る資料が他に比べれば多く残されている 暗黒時代-新王国暦 統一帝国崩壊後、小国家が乱立し戦乱が続いた時代を便宜的にそう呼ぶ。イスカンダル教・アリア教が生まれるなど、現代に繋がる重要な要素が幾つも誕生した。IDの開発、その所持・非所持による戦力差が激しくなり、終焉を迎えた。この終焉時期は研究者達の間で新王国暦200年頃だという共通見解が出ている 現代-新王国暦 現在の六国家による統治体制の確立、ISの発掘以後を便宜的にそう呼ぶ。IDの開発・研究が飛躍的に進み、文化が発展すると同時に二度の世界大戦を経て全国家の言語・通貨が統一される。その後の『白騎士事件』以降、安定した治世が続いている
https://w.atwiki.jp/wwes/pages/253.html
天秤の時代 天秤の時代(てんびん-の-じだい,the Libra Age)とは、惑星消費主義の 前時代に当たる神話の時代を指す語。 祖六国と人民再生会議 瓶詰の貧困 肉色の液体を一杯に湛えた細長い広口ビン、称して「瓶詰の貧困」はこの時代の象徴として 頻繁に利用されるモチーフの一つである。虐げられた人々は常に貧しさを代表してきた。彼 等は遂には群れを成して世界を渡り、資源と富を食い荒らす。世界の均衡を保つ役割を果た す緩衝装置である。PRAはこの分野において孤高の雄であったといえるだろう。
https://w.atwiki.jp/biblematome/pages/202.html
名前 黄金の時代 読み おうごんのじだい 使徒 ウガスト、リガー、ルルグン 出来事 ウガストによる治政、魔獣の鎮静化 備考 使徒・ユリケンシュが定義した五つの時代のうち、四番目の時代。ウガストにより治政が行われ、ルルグンの能力により魔獣の襲撃が治まっていた時代を指す。 大陸の各国と、聖地との戦争が勃発することにより終わりを迎える。
https://w.atwiki.jp/biblematome/pages/203.html
名前 闘争の時代 読み とうそうのじだい 使徒 リン、(カイエ)、ティアマティア、イヴァーデ 出来事 聖地と大陸各国の戦争、戦後復興、聖遺物の収集 備考 使徒・ユリケンシュが定義した五つの時代のうち、五番目の時代。暗黒のの時代にジュリウス、ジュリアの巫女の暴走によって散らばった過去の使徒の聖遺物を手にした各国と聖地の戦争、そしてその復興が行われた時代を指す。 黒騎士と呼ばれる人間と、リンとの戦いが行われた。ティアマティアは戦災の復興を、イヴァーデは聖遺物の探索を担った。 聖戦の終了と、復興が粗方済んだことにより終わりを迎える。