約 461 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2584.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第3章 日中戦争と太平洋戦争 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その1> 波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その1>はじめに―開戦と中国戦線 第1 節 太平洋戦争下の中国戦場1)重慶攻略作戦構想の挫折と浙〓作戦 2)ビルマ攻略作戦とCBI 戦線 3)華北の戦い 4)一号作戦(豫湘桂戦役) 第2節 日本占領地域の状況1)汪政権下の政治と経済 2)通貨戦争 3)「対華新政策」とその破綻 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その2> はじめに―開戦と中国戦線 日米開戦時に日本軍は20 個師団、21 独立混成旅団を中国戦線に展開していたが、作戦を積極化させたわけではなかった。開戦直前に政府は米英蘭と開戦の場合には「出来得る限り支那に於ける消耗を避け、以て長期世界戦に対処すべき帝国綜合戦力の確保に資する」ことを確認していた 1。現地軍の再三の要請によって、緒戦期には四川侵攻作戦(五号作戦)などが計画されるものの、後半期の「一号作戦」を除けば、太平洋戦争期を通じて大規模な軍事作戦は抑制されていた。他方、事変の外交的・政治的手段も失われ、軍事的にも政治的にも解決策が見出せないまま精鋭部隊の南方転用が図られる。 一方、蒋介石政府(重慶国民政府)は、12 月9 日、日本に宣戦を布告し、42 年1 月には連合国共同宣言に「4 大国」の一員として署名した。蒋介石は宣戦布告のなかで「今次の戦争は必ず全体として解決されなければならない」と述べたように、中国は米英ソと並ぶ連合国陣営の「4 強」の一つとなった 2。他方、中国共産党も開戦直後の「解放日報」において、抗日のための国際的統一戦線の必要性を訴え、英米との提携強化を主張した 3。しかし、蒋介石が切望していたソ連の対日参戦が拒絶され 4、近代的戦力に不足するなかで対日戦を有利に戦うためには、経済的・軍事的にはアメリカからの援助に頼らざるを得なかった。 アメリカにとって中国戦線の意義は二つであった。第1 は、太平洋における戦いを有利に運ぶため、日本軍の地上戦力を中国戦線に拘束すること、第2 は、重慶政府の支配地域に日本本土と日本の占領地に対する戦略爆撃のための航空基地を設定することであった。第2 の中国における航空基地の建設は、ソ連が対日中立関係を維持しており、沿海州やカムチャッカ半島を対日爆撃基地として米国に提供する可能性が低かったため、とくに重視された。これらの目的を達するため、いかに効果的に中国を支援するかがアメリカの課題であった 5。 第1 節 太平洋戦争下の中国戦場 1)重慶攻略作戦構想の挫折と浙〓作戦 ※ 〓は 支那派遣軍は、開戦と同時に上海、漢口、広東、天津等の租界に進駐し、英米軍の武装解除、権益接収を実施した。香港攻略を任務とする第23 軍は、12 月8 日に国境を突破し、13 日には九竜半島の掃討を終了した。香港要塞に対する降伏勧告を英軍が拒否したため同軍は、18 日に香港 1 「対米、英、蘭開戦ノ場合ニ於ケル帝国ノ対支方策」(1941 年11 月10 日)外務省記録A7.0.0.9-51「大東亜戦争関係一件 開戦関係重要事項集」。 2 家近亮子「蒋介石と日米開戦」(『東アジア近代史』第12 号、2009 年3 月)。 3 日本国際問題研究所『中国共産党資料集 第10 巻』(資料84、85、87)。 4 U.S.Dept.of State,Foreign Relations of the United States,1941,vol.4.,p.747. 5 等松春夫「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」(波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』慶応義塾大学出版会、2006 年)391-92 頁。 2 島を占領した。 この香港作戦を支援し、広東方面に移動した中国軍を牽制するための陽動作戦として、武漢地区の第11 軍による第2 次長沙作戦が実施された。第11 軍は、3 個師団約6 万の兵力をもって、12月下旬から攻勢作戦を開始し、第九戦区軍22 個師団約19 万名を擁する中国軍と激闘を展開し42年1 月初旬には長沙に侵入したが、まもなく長沙を放棄して漢口へ撤収した。日本軍の戦死者は約1500 名、戦傷4400 名、中国第九戦区軍は死傷28000 名以上を数えた6。蒋介石は「我が抗戦の、世界に対する貢献の大なることは各国も一致して認めざるをえまい」と自負し、敗北続きの連合国陣営の中にあって唯一日本軍の進攻を撃退した「勝利」として宣伝された 7。 日本軍の東南アジア侵攻が一段落した42 年春、参謀本部は支那派遣軍の要請に応え、中国における大規模作戦の研究に着手した。4 月上旬、杉山元参謀総長は、畑俊六総軍司令官に適当な機会に重慶攻略作戦を実行するよう指示した。 ところが、4 月18 日に米軍機が日本本土を空襲して中国基地中国の浙江占領区に不時着したことから、急遽、浙〓作戦が実行される。本土空襲が国民や兵士の士気の低下をもたらす影響を考慮したものであった。上海の第13 軍は、華中と華北から集めた兵力をもって5 月中旬から浙〓線に沿って西進し、他方、漢口の第11 軍の一部が東進して7 月初旬に両軍の連絡に成功した。しかし、補給計画が充分ではなく、4000 人以上の死傷者を出し、沿線確保は行われることなく撤退した。重慶攻略作戦の準備が優先されたことも撤退の要因であった。いくつかの飛行場の破壊が成果であったが、その後、中国の航空基地は各地に建設されたため作戦の意義は疑問であった8。 ※ 〓は この間、重慶攻略作戦構想の本格的準備が進捗し、9 月3 日、杉山参謀総長は「五号作戦」(四川作戦)の準備を派遣軍に指示した。そのねらいは、太平洋方面における英米の反攻に備えるため、大陸方面の兵備を軽減して対英米正面に転用する条件を作り出すことにあった。在満兵備の軽減が対ソ関係上、不可能であったことから中国方面がその対象となり、兵力節減の前提として「重慶政権の抗戦力の源泉を覆滅」をはかることにあった。他方、政略的には、重慶政権の足元である四川省の軍事的圧迫によって、同政権を「屈伏和平」に導くという効果が期待されていた9。 作戦計画では、南方から6 万、内地から12 万、満洲・朝鮮から18 万の兵力を増派し、主力は西安方面から、一部は武漢方面から 四川省に進攻するというものであった。ところが、42 年8月からのガダルカナル島(南東太平洋方面)をめぐる激しい攻防戦は、五号作戦に必要な物的基 6 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書47 香港・長沙作戦』〔以下、「戦史叢書」〕朝雲新聞社、1971 年、535 頁。 7 蒋中正『中国之命運』1943 年(日本語翻訳版、96 頁) 。 8 浙.作戦の支作戦であった衢州攻略戦において第13 軍司令部は化学戦資材の使用を奨励し、第22 師団は42 年6 月初旬、大洲鎮付近における遊撃戦で「あか弾」を使用し、大きな効果を挙げたといわれる(第13軍司令部「セ号(浙.)作戦経過概要」、及び「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」陸軍習志野学校案、粟屋健太郎『未決の戦争責任』柏書房、1994 年、122、148 頁)。吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』(不二出版、1989 年)、資料56。 9 「甲谷悦雄大佐回想録」(厚生省引揚援護局調整、1954 年)、伊藤隆ほか編『続・現代史資料(4)陸軍・畑俊六日誌』〔以下、「畑日誌」〕みすず書房、1983 年、1942 年9 月6 日、11 月15 日の条。 3 礎を奪って行く。作戦には30 万トンを超える船舶が必要とされ、海軍との折衝が行われるが、太平洋重視の海軍は南太平洋の制空権の確保に全力を挙げることを主張して譲らず、また船舶の消耗も予想を上回るものであった10。かくて、42 年11 月初旬には事実上の中止(43 年内は行わず)が内示される。その理由は「主として輸送に充当すべき船舶の欠乏」にあった11。こうして内地から中国への兵力増派は不可能となり、12 月10 日に中止される。 ガタルカナル攻防戦による国力(船舶)消耗と、それに連動した「5 号作戦」計画の挫折は、日中戦争解決方策の根本的な再検討を促すことになり、大規模軍事作戦はしばらく見合わせ、「政謀略」を重視する方向転換が図られる。戦争指導班長・甲谷悦雄大佐によれば、「戦略的な積極方策は国家戦力の現状から見込薄となり、政略的に積極的方策を講ずることで戦局に一大転換を図らんとする希望が政府、統帥部に表面化」してきたという12。その政略の重要な一環が「対華新政策」(後述)であった。 2)ビルマ攻略作戦とCBI 戦線 開戦当初の中国にとって中国内陸よりも西からの脅威への対処が急務であった。日本軍による香港の占領に加えて、日本軍のビルマからの進撃によるビルマ・ルートの遮断、さらに昆明、重慶への進撃が危惧されたのである。42 年1 月、タイに進駐した日本軍は、ラングーンの攻略によって援助物資の揚陸を阻止するため、1 月20 日、国境を越えてビルマに侵入した。3 月7 日、ラングーンを占領した。 ビルマ駐留のイギリス軍は兵力不足と戦闘意欲の欠如のため、中国に派兵を求めざるを得なかった。国民政府は、在中国米軍最高司令官兼蒋介石の参謀長となったスティルウェル(JosephW.Stilwell)中将の指揮のもとで、雲南省西部に集結していた中国軍をもって遠征軍を編成し、英軍との協同作戦に当たらせた。3 月下旬、日本軍(第15 軍)はトングー〔同古〕の南方で中国軍の精鋭第5 軍と激しい戦火を交え、3 月末にトングーを陥落させ、5 月末までに北部ビルマを占領し、ビルマ・ルートの完全遮断に成功した。一方、中国軍はインド方面と雲南方面に分散退却してしまう。 日本軍が中北部ビルマの占領に成功したことで、中国への補給路遮断は陸のみならず、空においても一定の効果を発揮し始めた。北ビルマのミキナ〔蜜支那〕には第18 師団の師団司令部と哨戒・戦闘用の飛行場を置き、中国への補給路を陸上のみならず航空方面でも大きく制約したため連合軍はヒマラヤ山脈越えの困難な航空輸送ルート(Hump 空輸)を選択せざるを得なくなった13。 42 年3 月、スティルウェル中将は、中国陸軍の近代化計画を中米両政府に提案し、当時300 個以上あった中国軍師団数の整理縮小計画を示すと共に、ビルマ戦敗北後にインドに脱出してラーンガルに逃れた中国軍の再編成、雲南省に集結した中国軍部隊の改編に着手した。これらの計画 10 前掲「甲谷悦雄大佐回想録」。戦史叢書63『大本営陸軍部(5)』朝雲新聞社、1973 年、76-80、185-92、419-27 頁。 11 『畑日誌』1942 年9 月23 日、10 月5 日、11 月9 日、12 月13 日の条。 12 前掲「甲谷悦雄大佐回想録」。 13 バンプ空輸量はビルマ公路のそれを大きく上回り、1945 年まで在華米空軍の活動を支えた(西澤敦「対中軍事援助とヒラマヤ越え空輸作戦」(軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年)275-95 頁。 4 遂行とビルマ奪還に必要な軍需物資を恒常的に中国の輸送するためにはインドから中国までの補給路が必要であったが日本軍よって遮断されていた。そこで雲南省・北ビルマからインドまでの陸路を打通するために形成されたのがCBI(中国・ビルマ・インド)戦線であった。 ビルマ奪還はイギリスの分担であったが、そのイギリスはヨーロッパ、中東戦線とインド防衛を優先せざるをえず、ビルマ奪還に貴重な戦力を割くことはできなかった。アメリカも太平洋における反攻準備および英ソ支援を優先してCBI 戦線(ビルマ奪還)を低位においていた。また、蒋介石もビルマの奪回作戦に消極的で、代わりに蒋介石の顧問として中国空軍の育成に従事してきた米空軍シェンノート(Claire L. Chennault)少将の中国空軍強化プランを支持し、スティルウェルとの間に軋轢をひきおこし、両者の関係は42 年半ばから悪化した。 しかし、スティルウエルは中国やイギリスの反対をおして、42 年夏、北ビルマを通るレド公路の開発のため、インドのランガルーで米式の装備と訓練を施された中国新軍の建設に着手し、同年秋からは雲南から中国軍3 万2000 名が空輸によって合流し、訓練に加わった。43 年4 月からは、雲南省昆明において陳誠将軍の指揮下に新軍の訓練に着手し、8 月までに5 個軍15 個師団の改編が完成した。 この間、アメリカは中国戦線における対日戦略を陸軍近代化から戦略爆撃へと重点を移動させていったが、この背景には高性能ボーイングB29 爆撃機の実用化がある。高性能のB29 による日本本土の生産中枢への組織的爆撃は、日本の抗戦能力を破壊するもっとも能率的な戦略と考えられた。43 年5 月のワシントンにおける米英合同参謀会議(トライデント)での論議を経て、同年11 月の米英中首脳のカイロ会談において、中国戦線における連合軍の対日戦略の重点を戦略爆撃におくことが決定された。蒋介石自身は当初、陸軍の近代化にも熱意を持っていたが、やがてローズヴェルト大統領の説得もあって中国を基地とする対日戦略爆撃を支持するようになる。中国戦線の米軍のみならず中国軍の指揮権をも要求するスティルウェルとの関係悪化、さらに、中国陸軍の大幅な整理縮小に対する軍閥系勢力からの頑強な抵抗なども蒋が陸軍近代化に消極的になった要因であった14。 カイロ会談ではビルマ作戦が対日戦略において優先権が与えられ、蒋介石もランガルーと雲南の中国遠征軍を北ビルマに進攻させことを約束した。しかし、43 年11 月のテヘラン会談におけるスターリンの対日参戦の約束はビルマ作戦の意義を弱めた。蒋介石はテヘラン会談の情報から、雲南の新軍のビルマ作戦使用を拒否し、その代償としてスティルウエルにランガルーの中国軍に対する指揮権を与えた。スティルウェルは前年の浙.作戦に鑑み、強力な中国地上軍なしには、航空基地が日本軍の地上攻撃で失われる危険を説いたが、太平洋戦線で苦戦する日本が中国戦線で新たな大攻勢を行う可能性は低い、と顧みられなかった15。 43 年12 月、スティルウエルは中国新軍を率いてインドから北ビルマ入口のフーコン河谷に侵入していたが、44 年5 月上旬、連合軍は、インパール作戦の発動によって防備が手薄となった北ビルマ、雲南に総反攻を開始した。日本軍第18 師団を優勢な火力によって粉砕し、7 月までにフー 14 前掲、等松「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」396-400 頁。 15 Tang Tsou, American Failure in China (Chicago University of Chicago Press, 1963), p. 82. 5 コンを占領した。また、北ビルマの要地ミチナ(蜜支那)を急襲し、8 月にはミチナ飛行場を奪回した。中国軍も同じころ、ビルマ国境のサルウイン河(怒江)の強行渡河を開始した。こうして北ビルマ・雲南方面で米軍により近代的軍隊に改編された中国軍が戦果を挙げているとき、中国本部では日本軍の大陸打通作戦(一号作戦、後述)によって国民政府軍は苦戦を強いられていた16。 3)華北の戦い 40 年後半の百団大戦によって、日本軍は華北の抗日根拠地を基盤とする共産軍の実力と脅威を認識することになり、華北の治安粛正作戦において国民政府軍に対しては「帰順」を求めるが、「警戒監視にとどめ攻撃せず」とされ、共産軍対策が重点目標となる17。41 年3 月から42 年末にかけて、北支那方面軍は、華北全域を治安区(占領区)、准治安区(遊撃区)、未治安区(抗日根拠地)に区分し、未治安区に対して組織的な「掃蕩」作戦を展開するとともに、王克敏ら旧軍閥の有力者を指導者として樹立させた華北政務委員会(40 年3 月成立)と協力して組織的な「治安強化運動」を展開した。治安区では、華北政務委員会を利用した宣伝など清郷工作、遊撃隊の活動する地域の住民を「治安区」に強制的に移住させ、遮断壕を構築する「無人区」の設定、「未治安区に対しては、経済封鎖、商品流通の分断などを実施した。「准治安区」でも共産党支配地域への経済的締め付けが強化され、遮断戦を越えて「未治安区」の市場を襲い、農産物の収奪や没収、強制買い上げ等、その規模は大きくなっていった。 こうした治安強化運動や掃蕩作戦の強化は、抗日根拠地に大きな打撃を与え、根拠地は縮小を余儀なくされる。しかし、この未曾有の根拠地の危機は、共産党の指導による、農民大衆の経済的基盤の確立のための「減租減息」(小作料と利子の減額)運動の全面的展開や「大生産運動」などによって克服され、43 年以降、根拠地は徐々に再生・拡大をたどることになる18。 他方、北支那方面軍は華北への共産勢力の伸長を食い止めるために、43 年9 月、対ゲリラ戦専門部隊として北支那特別警備隊(北特警)を設置したが、結局、都市部でしか目立った戦果を挙げることができなかった。北特警の戦闘詳報によれば、43 年後半には、共産党軍が「治安地区」にも浸透し、「治安地区」の拡大という当初の方面軍の計画とは逆の結果を招いてしまっていた19。こうした情勢のなかで、共産軍は勢力を盛り返し、根拠地は44 年末までには40 年の状態まで回復し、45 年6 月、共産軍は河北省で一斉に攻勢に出るのである。 ところで、42 年初頭、北支那方面軍参謀は政務将校の会同で、食糧と物資確保の緊急性を説き、「討伐作戦に伴ひ大規模なる物資獲得の手段を講ずるか、或は更に物資獲得の為に討伐を実施する」等の「創意工夫を要すべし」と説いている20。現地軍の「現地自活」という要求が強まるなかで、 16 一号作戦と北ビルマ・雲南作戦の関係については、浅野豊美「北ビルマ・雲南作戦と日中戦争」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)、297-338 頁。 17「第1 軍作戦経過の概要」第1 軍参謀部(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(38) 太平洋戦争4』みすず書房、1974 年)〔以下『現代史資料』〕177 頁。馬場毅「華北における中共の軍事活動、1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)232-34 頁。 18西村茂雄『20 世紀中国の政治空間』青木書店、2004 年、135-77 頁。 19 山本昌弘「華北の対ゲリラ戦、1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)209-11頁。 20 「政務関係将校会同席上方面軍参謀副長口演要旨」(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(13) 日中戦争5』みすず書房、1966 年、524 頁)。 6 物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦は、中国側が「三光作戦」と呼ぶ非違行為の背景となっていた21。すでに、40 年秋には、百団大戦に対する報復的な山西省中部での反撃作戦として、共産軍の根拠地とみなされた村落を焼き払う、という「燼滅(じんめつ)作戦」が強行されていた22。「燼滅」の一つの手段が化学弾薬(毒ガス)の使用であり、北支那方面軍司令部が各部隊に配布した『粛正討伐ノ参考』(1943 年5 月)によれば、化学弾薬は遊撃戦法をとる共産軍に対抗するために有効であるとして推奨されている。こうした「未治安区」における非違行為は、他の戦線への兵力抽出や部隊の改編によって補充兵の比率が増し、兵士の質が低下していたことが主な原因であった23。 また、満洲や日本への労働力の提供のため、華北において強制的な労働力の動員が42 年から実施され、その業務は日本軍と華北政務委員会の統制下にあった華北労工協会が一元的に請け負っていた。200 万人を超える労働者が華北から満洲、蒙彊に提供された。44 年以降は華北政務委員会が表面に乗り出し、重要労力緊急動員の秘密命のもとに日本軍が出動して「浮浪遊民」を逮捕徴発して日本や満洲に送り込んだ。日本全土への強制連行は43 年9 月から試行的に始まり、45年5 月までに約3 万9000 人の中国人が移送され、過酷な労働に従事し、秋田県の花岡鉱山事件のように中国人労働者の大規模な蜂起事件も起こっている24。 4)一号作戦(豫湘桂戦役) 南東太平洋戦線で大きく戦力を消耗した日本軍は、43 年9 月、戦略の転換を図り、ビルマ、蘭印、西部ニューギニア、マリアナ諸島、千島列島、満州を結ぶ防衛ラインの内側を「絶対国防圏」と定めた。この「絶対国防圏」の防備強化のため、中国戦線から10 個師団の兵力(1.5 万-ママ)、馬1.5万頭、自動車2000 両などを絶対防衛圏の防備強化に転用する計画が策定されるが、一号作戦(「大陸打通作戦」)計画の浮上はこの転用計画を大幅に縮小させる25。 44 年4 月中旬から翌年の2 月上旬の間、派遣軍総兵力の約8 割にあたる約50 万人(延20 個師団)を動員し、一号作戦と呼ばれる日本陸軍史上最大の作戦が京漢・粤漢・湘桂の各沿線地域で 21 前掲、山本「華北の対ゲリラ戦、1939-1945」204-05 頁。なお、「三光」は、殺光(殺し尽くす)・焼光(焼き尽くす)・槍光(奪い尽くす)の意味。 22 晉中第一期作戦(1940 年8 月30 日~9 月8 日)では、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存し能はざるに至らしむ」方針のもと、「敵性ありと認むる住民中15 才以上、60 才までの男子」は「殺戮」の対象となり、「敵性部落」は徹底的に焼き払われた(独立混成第4 旅団「第一期晉中作戦戦闘詳報」)(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』、資料53、54)。 23例えば、第36 師団司令部「昭和十七年度粛正建設計画」(1942 年4 月15 日)(『現代史資料(13)』572-88頁)、前掲、山本「華北のゲリラ戦、1937-1945」209-11 頁。 24 各事業場の「華人労務者就労顛末報告書」に基づく研究として、西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会、2002 年)がある。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、207-10 頁。花岡事件については西成田『中国人強制連行』、363-402 頁を参照。 25 戦史叢書67『大本営陸軍部(7)』朝雲新聞社、1973 年、179-215 頁。中国戦線からの兵力抽出について同545-48 頁。 7 実行された。河南省黄河から広東・仏印国境まで約1500 粁にわたる大作戦の目的は、日本本土空襲の恐れがある西南地区(桂林、柳州)に散在する航空基地の奪取、インド、ビルマ、雲南方面からの反攻阻止、南方資源の輸送のための仏印から中国、朝鮮にいたる交通路の確保であった26。一号作戦の決定と遂行には、真田穣一郎少将と服部卓四郎大佐が最も重要な役割を果たした。 真田は42 年12 月に作戦課長、43 年10 月には作戦部長となっている。ガダルカナル島からの撤退決定に中心的役割を果たした真田大佐は、太平洋戦線における軍事的劣勢を補い、長期戦に耐える戦略体制を築くため、中国大陸の派遣軍と東南アジアの南方軍を連携させることが必要と考えた。服部は41 年7 月に作戦課長として開戦を迎え、前述の5 号作戦の立案の中心となったが、作戦が中止されたことから中国における攻勢作戦の機会をねらっていた27。服部は42 年12 月に陸相秘書官に転出し、43 年10 月に再び作戦課長となると真田作戦部長とともに本格的に一号作戦計画を実行に移そうとした。「太平洋における頽勢を大陸作戦によって補おうとする狙い」が両者に共通していた28。 作戦部が起案した最初の作戦計画は、敵航空基地の覆滅、南方軍との陸上連絡通路の確保、重慶政権の壊滅などを列挙していた。この作戦計画について、東条陸相は作戦目的を航空基地の覆滅一本に徹底することを条件にこの案に同意し、天皇も作戦目的を敵の航空基地覆滅に絞った作戦の実施について裁可した29。 しかし、44 年1 月24 日、杉山参謀総長から支那派遣軍に指示された「一号作戦要網」では、南方軍との連絡や重慶政権の継戦企図の破砕といった目的も含まれていた30。真田や服部の強い意思と派遣軍の積極的姿勢が反映したものと考えられる。一号作戦計画を参謀本部が積極的に取り上げたことは士気が沈滞気味であった派遣軍の幕僚たちを活気づけていた31。 一号作戦の前段である湘桂作戦は順調に進展したが、衡陽の攻略に際しては重慶軍の抵抗が激しくなり、しかも補給ラインが米軍機の攻撃を受けて日本軍は苦戦に陥ったが8 月初旬、衡陽を占領した。この衡陽占領は、一号作戦の重要な転機であった。 太平洋の戦局も重大な転機にさしかかっていた。44 年6 月末、中部太平洋のサイパン島の陥落によって「絶対国防圏」の一角が崩された日本軍は、太平洋戦線で劣勢に立たされ、さらに、北部ビルマからインド進攻をねらったインパール作戦でも敗退していた。こうした戦局の悪化は、近衛文麿ら重臣を中心に国内の「反東條勢力」の結集を促し、7 月の東條内閣総辞職の要因となった。 参謀本部は全般的な戦略を見直し、日本本土、沖縄、台湾、フィリピンを連ねる線を防衛し、 26 原剛「一号作戦―実施に至る経緯とその成果」(前掲『日中戦争の軍事的展開』)283-95 頁。 27 戦史叢書67『大本営陸軍部(7)』548-53 頁。 28 井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』芙蓉書房、1978 年、499 頁。 29 前掲、原「一号作戦」287-88 頁。 30 この「要綱」によれば、「近き将来に於て米英が化学戦を行使するの公算大」と判断され、米英の毒ガス攻撃を恐れ、桂林、柳州など米軍基地付近での米軍に対する化学兵器の使用を避けるよう命じている。実際、中国戦線では44 年半ばから毒ガスなど化学兵器の実戦使用が禁じられ(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』(不二出版、1989 年、30-31 頁)、使用回数は減少したものの使用を放棄したわけではなかった。 31 戦史叢書4『一号作戦(1)河南会戦』朝雲新聞社、1967 年、16-39 頁。 8 この防衛ラインで敵の進攻を迎え撃つという基本戦略を決定した。これを「捷号」作戦と名づけた。問題はこの「捷号」作戦構想との関連で、継続中の一号作戦をどのように位置付けるかにあった。具体的には、一号作戦を計画通りに進め、桂林、柳州攻略を実施するか、あるいは中止するかという選択であった32。 陸軍省首脳部や参謀総長は、桂林、柳州への進攻についてインパール作戦のように補給物資が続かないことを恐れて中止すべきとの意見であったが、作戦部は一号作戦を計画通り実行する方針であった。派遣軍も作戦部の続行方針を支持していた。とくに真田作戦部長と服部作戦課長は、フィリピン作戦と一号作戦とは表裏一体であり、日本本土と東南アジアの交通連絡が遮断されないためには作戦の続行が必要と説いた33。この間、44 年9 月には、陸軍次官・柴山兼四郎中将が陸軍上層部を代表して、粤漢打通作戦のみを実施したうえ中止するよう畑総司令官に意見具申したが、畑は補給の検討は約束したものの中止には同意しなかった34。 こうして一号作戦は続行され、44 年11 月までに桂林、柳州の航空基地を占領し、45 年1 月には大陸縦貫交通路の確保をほぼ達成したが、すでに当初の戦略構想は意味をなくしていた。すなわち、重爆撃機B-29 は四川省の成都に集結して九州爆撃を開始しており、またマリアナ基地の完成に伴い、44 年末から同基地から東京など本土全域への戦略爆撃が始まっていたからである。アメリカのアジア太平洋にとって中国戦線の意味は低下して行くが、米軍指導部は、中国戦線の危機を憂慮した蒋介石やスティルウエルの要求に応じ、主要都市爆撃を許可し、44 年12 月18 日、B-29 によって華中の日本軍拠点であった漢口爆撃が実施され、市街の9 割が灰燼となり、派遣軍に大きな打撃を与えた。 一号作戦における国民政府軍の敗退の原因は、兵士に対する劣悪な処遇、将校の腐敗などによって戦意が著しく低下していたこと、命令系統の混乱、情報不足などであった。中国側の損害はきわめて大きく、60~70 万の兵士が犠牲となり、河南、胡南、広西、広東、福建の各省の大部分の領土を失った。他方、国民政府軍の敗退は、共産軍の対日反抗に有利な条件を作り出した。すでに44 年から、共産党軍は華北、華中の抗日根拠地を中心に活動が活発化していたが、日本軍が一号作戦で大兵力を動員したため、華北の治安警備能力が大幅に低下したことによって、共産勢力の反攻を助長し、日本軍の占拠地域を侵食していった35。 44 年末、新たに派遣軍総司令官に就任した岡村寧次大将は、一号作戦の余勢をかって重慶進攻を参謀本部に進言したが、太平洋戦線の戦局悪化から承認されなかった36。その代替案として浮上したのが、老河口と〓江作戦である(〓は草かんむりに止)。一号作戦の結果、航空基地を喪失した在華米空軍は老河口、〓江(〓は草かんむりに止)に戦闘機、中型爆撃機用の基地を造成した。派遣軍は、45 年3 月から4 月にかけて第12 軍は 32 前掲、井本『作戦日誌で綴る大東亜戦争』570-72 頁。 33 前掲、原「一号作戦」290-91 頁。『畑日誌』1944 年10 月6 日の条。 34 前掲、『畑日誌』1944 年9 月13 日の条。 35 石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1983 年、182-85 頁。 36 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(下)』錦正社、1998 年〔以下『機密戦争日誌』〕、643-44 頁。 9 3 個師団など6 万名を投入して、老河口基地の破壊に成功した37。他方、〓江(〓は草かんむりに止)をめざした第20 軍約5 万に対し、中国軍約60 万と米空軍機が迎え撃った。中国軍には、スティルウェルの後任者ウェデマイヤー中将による陸軍近代化計画によって育成された近代化師団が加わっていた。この最後の大作戦は日本軍の惨憺たる敗北に終わり、第20 軍は45 年5 月下旬に撤収した38。 第2節 日本占領地域の状況 1)汪政権下の政治と経済 重慶を脱出した汪兆銘は、40 年3 月、重慶からの遷都という形をとって南京に中華民国国民政府を樹立し、40 年11 月、日本は満州国地域を除く中国全土に統治権を有する中央政府として承認した。しかし、汪の意思に反して多数の日本人顧問が就任し、満州国の経験を生かした「内面指導」方式が貫かれ、日本の実質的な統制下におかれ、その統制は戦後も継続することが想定され、畑総司令官と会見した汪は「第二の満洲国となること」を憂いた39。こうした汪政権に国民党の有力な反蒋介石勢力が参加することはなく、基礎となる軍事力を欠き、和平陣営に参加した軍隊は「名ばかりで寧ろ土匪団」であった40。 経済面でも日本による物流支配と経済封鎖は深刻な産業不振と物価の騰貴をもたらした。汪政権のもとで中支那振興会社傘下の基幹産業は、形式の上では中国側の出資比率を51%とする日中合弁企業なったが、実権は日本側が握り続けた。たとえば汪は、上海、南京地区を含む江蘇省など三省で200 を超える軍管理工場の返還を要求して日本軍と交渉するが、日本軍は、小規模な工場の返還には同意したが、その他は買収ないし日中合弁を強要した。周仏海によれば「原則のうえでは統制権を放棄しているが、制限を無限に加えているので返還していないに等しい」状況であった41。軍用とは無関係な商品についても「厳格な制限を受け、その結果、和平地区内の商工業は疲弊し、物価は暴騰し政府の財源また枯渇に瀕する」状況であった。41 年8 月、日本は中央、地方に物資統制委員会を設置し、占領地域内の物資の移動制限緩和に乗り出したが、効果はなかった。 2)通貨戦争 日本は日中戦争期間を通じて、物資の安定的獲得を目的として、占領地に中国聯合準備銀行、中央儲備銀行(41 年1 月発足)などを設立し聯銀券や儲備券を発行し、国民政府の旧法幣と通貨戦争を展開した。また陸軍は39 年には「杉機関」によって通貨謀略や法幣の偽造を行い、物資取得に投入し、軍票は国民政府の法幣を追いつめて行く。太平洋戦争の勃発と租界占領によって上海の法幣は弱体化し、汪政権は軍票の新規発行を停止し、旧法幣の流通禁止、43 年には儲備券による統一を実現した。儲備銀行は東京を含め38 支店をもつ大銀行となった。 37 前掲、等松「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」406-07 頁。戦史叢書64『昭和二十年の支那派遣軍(2)』朝雲新聞社、1973 年、379-432 頁。 38 前掲、『昭和二十年の支那派遣軍(2)』353-78 頁。 39 前掲、『畑日誌』1941 年4 月19 日の条。 40 前掲、『現代史資料(13)』39 頁。 41 蔡徳金編(村田忠禮訳)『周仏海日記』みすず書房、1992 年(1940 年5 月5 日の条)。 10 しかし、旧法幣が急落する一方で、蒋政権の発行する統一公債は、開戦後も相変わらず上海で取引され、42 年1 月には開戦前の相場を上回り、新旧法幣の交換によって新法幣建てに改定されるとさらに高騰した。占領地で重慶政権の公債が流通し、額面を上回る価格で取引される事実は、中国国民の蒋介石政権に対する信頼が揺らいでいないことを示している。 元来、日本側通貨の流通範囲は都市と鉄道沿線の占領地に限られていたが、共産軍が「日本軍が重慶軍を放逐したる跡を占領し、所謂廉潔政治を行ひて華北華中方面に着々地歩を固め来り」という状況となると、聯銀券や儲備券の流通範囲はさらに縮小した。さらに通貨を増発して悪性インフレに見舞われた。占領地における物価騰貴は物資取得のために通貨を乱発した結果であり、それは軍票価格の下落を意味した。こうして「在支60 万の日本人社会の外に於ては全然別の価格体系が存在する」状況となる42。 南京政府治下の華中・華北では、南京政府の発行する儲備券(新法幣)が旧法幣に対し弱体性を克服できなかったこと、日本軍による軍票の乱発などが原因で、通貨の混乱、物価高騰、激しい物資不足に見舞われ、日本側の要請に応えることは不可能な状況にあった。インフレの進行を抑えて通貨価値を中国側通貨(旧法幣)より優位に維持し、購買手段として通貨機能の安定は最後まで実現できなかった。 3)「対華新政策」とその破綻 ガダルカナル島(南東太平洋方面)をめぐる攻防戦が重大局面に差しかかっていた42 年12 月、御前会議は新たな中国政策(「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」)を決定した。その骨子は、南京国民政府の「自発的活動」の促進、蒙疆・華北などの「特殊地域化」方針の是正、治外法権や租界の撤廃、日華基本条約(1940 年11 月)の修正、経済施策における「日本側の独占」の抑制などを通じて、「国民政府の政治力を強化」をはかるというものであった43。それまで汪政府に対する基本政策であった「支那事変処理要綱」(40 年11 月)の根本的改定であった。 この「新政策」を浮上させた背景は、42 年後半の太平洋戦線における激しい消耗戦が経済力の低下を招いたため、日本側の関与を緩め、中国側の自発的活動に委ねて中国における統治の負担を軽減することにあった。もう一つの背景は、双十節(42 年10 月10 日)における重慶政権に対する英米の治外法権撤廃の声明であった。英米は戦後に治外法権の撤廃を行う意思を表明していたが、アジア太平洋の軍事情勢の改善や重慶政権の強い希望によって、実施を早めたものである44。中国共産党も、中国人民の100 年来の独立と解放のための闘争の結果であり、「中英、中米間の新たな関係と新たな団結」として歓迎した45。中国の「民心把握」と「協力強化」という観点では、治外法権の撤廃など不平等条約の廃棄が有効な手段と考えられたことは、連合国側も日本側も同様であり、両者は競うように租界返還・治外法権撤廃の具体化を急いだ。 しかし、中国における多くの権益を失うことになる「新政策」の決定とその実施には、強力な 42 『続・現代史資料(11) 占領地通貨工作』、みすず書房、1983 年、937、836 頁。 43 参謀本部編『杉山メモ(下)』原書房、1989 年、321-23 頁。 44 Christopher Thorne,Allies of a Kind The United States,Britain,and the War against Japan,1941-1945(New York;Oxford University Press,1978.),pp.178-79.,195-97. 45 前掲、『中国共産党史資料集 第11 巻』資料46。 11 推進力が必要であったが、その中心となったのが重光葵(42 年1 月汪政府大使、43 年4 月外相)であった。重光にとって「新政策」は、日本の対中国政策の「根本的更正」や「誤れる方向に指導した軍部の策謀を矯正」して、日本民族の「公正なる精神を支那民族に明瞭に示す」という意味があり46、日華基本条約の根本的改定による中国の主権回復の必要性を天皇や政軍指導者に懸命に説き、軍の反対を抑えた。 新政策の決定により、政治面では、治外法権の撤廃、租界の返還などが順次実施され、43 年8月には日華基本条約に代わって日華同盟条約が新たに締結され、汪政権は日本との関係においては、形式的にせよ平等な関係を築いた。 しかし、新政策には元来、戦争遂行上の必要物資の獲得という主目標が含まれ、経済面では、「上は日本軍人に牛耳られ、下は日本商人に独占されたまま、特殊化は日本の敗戦まで続けられた」47 というのが実情であった。南京政府治下の人民にとって、物価高騰による経済的逼迫の解決こそが切実な問題であり、「新政策」を歓迎する雰囲気にはなかった48。日本側はこうした経済的逼迫を打開するために、軍票の新規発行停止と儲備銀行券への移行、さらに、日本軍による物流統制システムを廃止し、南京政府側の一元的な物資統制機関として43 年3 月に設立された全国商業統制総会(商統総会)に移行などの措置をとる。これらの措置は、南京政権の自立化促進の一環とされたが、現実的なねらいは、重要物資の内地送還-対日供給物資の確保のためであった49。 南京政府側にも、「商統会」(全国商業統制総会)を結成して統制権を中国側の手にとりもどし、統制を緩和させるならば、物価の高騰は抑制できるという見通しが存在したが、商統総会の機能は弱体であり、上海を中心に重要物資の隠匿が横行し始め、43 年夏には物価高は「破局的様相」となった。その原因は、南京政権と日本に対する人民の信頼が動揺し、儲備券の価値に疑念が生まれてきたことにあった。南京政府は「隠匿取締に関する国民政府令」(43 年4 月)などを公布して対応したが、成果は挙がらなかった50。 こうした破局的状況を日本政府も放置しえず、43 年7 月の大本営政府連絡会議は「対支経済施策に関する件」を審議し、金塊25 トンを華中、華北に現送し、これを市場に売却して通貨回収に充てるとともに隠遁の激しかった綿糸布の強制買い上げに用いる緊急措置を決定した。この措置は物資隠遁の風潮と物価高騰を一時的に抑制する効果があったが長くは続かなかった51。 開戦後、大蔵省の上海財務官室に勤務していた渡辺誠は、43 年12 月、新政策の混迷を打開する方策として、 1)「経済問題に関しては国民政府に頼らず支那経済人を相手とすべし」、 2)「官治統制」の廃止、 3)「軍官は経済問題に関しては表面に立つべからず」 と3 点を指摘する大胆な意見を提出している。渡辺によれば、上海財界と中国民衆の信頼を失っている汪政府に新政策の実施 46 重光葵『昭和の動乱(下)』中央公論社、1952 年、167、172 頁。 47 陳公博(岡田酉次訳)『中国国民党秘史―苦笑録・八年来の回顧』1980 年、講談社、334 頁。 48 前掲、『周仏海日記』、1943 年2 月23 日の条。 49 古厩忠夫「日中戦争と占領地経済」(中央大学人文科学研究所編『日中戦争―日本・中国・アメリカ』中央大学出版会、1993 年)344-59 頁。 50 岡田酉次『日中戦争裏方記』東洋経済新報社、1974 年、261-67 頁。 51 同上、267-68 頁。 12 を期待するのではなく、「〔上海〕経済人の自主的活動」を直接支援すべきであった。さらに、渡辺によれば、新経済政策の真のねらいは、「日華両経済圏を融合」することで「新しき自給自足的新経済秩序を建設」することにあるが、日本側の軍需物資の調達のための「便宜手段」と化している点に混迷の真の原因があった。汪政権と日本の関係の本質を見抜いた渡辺の提案が考慮されることはなかった52。 日本軍の侵略に対する抗戦を通じて、中国はナショナリズムを農村や奥地まで浸透させ、戦後の国家建設にむけ社会変革と民族的統合の基盤を築いた。一方、日本は戦争を通じて日中提携協力や「新秩序建設」を目標にかかげ、経済的な先進地域を占領し、新興政権を樹立したが、軍事優先の「新政策」が住民の信頼を得ることも、戦時中国の建設に寄与することもなかった。 52 「対華新政策の経済面に関する管見」(1943 年12 月20 日)『続・現代史資料(11)』829-37 頁。 日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/32524.html
登録日:2015/07/14 Tue 01 15 59 更新日:2024/09/29 Sun 08 32 11NEW! 所要時間:約 9 分で読めます ▽タグ一覧 三国志の果て 三国志ファン涙目 世界史 中国 中国史 中国脅威の同化力 乱世 五胡十六国時代 仏教 内ゲバの嵐 十六国←もっとある 南方に追いやられる漢民族 小国乱立 東晋 歴史 浸透王朝 異民族 群雄割拠 虐殺 西晋 身内に権力を持たせた結果がこれだよ! 道教 魏晋南北朝時代 五胡十六国時代。それは、三国志末期まで読み進めた中国史ビギナーに対して中華を統一してあまりに悲しい事実を突きつけた全国王朝・晋がやらかしちったため、 漢民族化しつつあった北方の異民族、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五部族が中華の主役に躍り出るべく大暴れして、約100年以上泥試合を繰り広げた中国史上最悪の混沌無粋の時代である。 それまでわかりやすかった中国史がこのへんでめっっちゃわかりづらくなる。 始まり 経過 結果 後世への影響他 この時代に興亡した国たち晋とその系譜 一般に十六国とされる国 十六国以外の各国 始まり まずは、漢~魏までの皇族、皇帝になり損なった皆さんの処遇について簡単にまとめなければならない。 以下、簡単なまとめ 始皇帝亡きあとの秦をぶっ倒し、項羽をなんとか紙一重、韓信が斉王でも名乗っていたら恐らくまた戦国時代に逆戻りしていたくらいの紙一重で退けて本格的中華大帝国・漢を打ち立てた劉邦。 その劉邦・漢は、功臣を王としたあとそれらをバッサリ粛清、空いたところに血族を積極的に王として登用する政策を取った。 が、呂氏の専横などで皇帝権が緩んだことなどもあり、王が徐々に皇帝を軽んじるようになったため領土削減など力を削ぐ方策を取る。 しかし、呉楚七国の乱で呉王劉濞(りゅうび)(*1)他が大乱を起こすなど問題が発生したため 皇帝と官僚を中心に据えた秦式をアレンジした中央集権化を推し進めた。しかしこれも外戚により簒奪を招き、漢の一時的断絶に繋がってしまった。 光武帝が復興させた後漢は豪族の寄り合い所帯ということもあり、最後まで外戚と外戚に対抗するために重用された宦官の暗闘が行われるというありさまであったが、 両者の跋扈に対抗する第三勢力になり得る皇族は徹底的に管理され抑圧され続けた。 …第三勢力になり得るとはいったが、呉楚七国の乱を考えれば皇族が信用出来ないのもまた道理か。魏末期には幽閉同様の待遇であったらしい。 ちなみに魏も後漢に習った皇族への処遇を続けたが、帝が若死にを続けた曹叡以降に皇帝権が弱体化すると、大功のある司馬懿・血族であるが皇族ではない曹爽らにほとんど実権を奪われたも同然に。 そして曹爽一派が盛大にやらかしまくったので司馬懿らは「凡愚共には任せておれぬ」とばかりに蜂起して曹爽たちを捕らえ、その悉くを処断。 しかしこれを皮切りに、対呉・蜀のために各地に置いていた軍権を持つ都督たちが司馬氏の専横を止める名目で相次いで反乱を起こし、魏という国体を大いに揺るがす(*2)。 なんとか内乱ラッシュをしのぎきった司馬昭は、司馬氏王朝樹立に向けて近親者、王朝樹立後は皇族として、皇位継承権を持ち得る血族に領土や都督の位などを与え始めていた。 魏が、都督として大功を挙げて並ぶ者のない存在となった父・司馬懿のような存在を出したことで滅ぼされることになった例から、そういう存在を他の氏族から出さず、司馬氏の血族で治めていくという意図を込めた人事であった。 司馬一族は司馬懿を含む8人兄弟が「八達」と呼ばれるなど賢才の多い家系であったため、そういう賢才たちが一族を運営していくことを想定していたのかもしれない。 だが、晋代に入った司馬一族は書物すら読めない奴とか読書好きかと思えば決断力がない奴とか皇帝を軽んじる野心家とか、後世で散々に言われるほどの想定外の問題児が現れ始める。(*3) 更に彼らを抑え、賢才を登用すべき皇帝があろうことかクソ暗愚だったらしく、そういう困った人材も司馬一族であると言うだけで上に行くようになってしまい、大混乱を招くことになった。 さて、蜀を滅ぼしいつのまにやら三国時代の勝者としての地歩を固めていた司馬昭の息子司馬炎(晋武帝)により、晋が禅譲を受ける形で樹立され、三国最大の国家・魏は滅亡した。その後二宮の変だなんだでgdgdになった呉を滅ぼし晋が中華統一を果たす。 ところが武帝は統一事業を完成させると急に堕落してしまう。英君が突如として酒色に溺れる暗君となってしまったのだ。さらに優秀であると名の通っていた弟・司馬攸を無理に都督に任命したあげく死なせてしまう(斉王攸帰藩事件)(*4)。 末期ですでに外戚の専横が見えていた武帝の死後、司馬衷(晋恵帝)が後を継ぐ。 が、以前より懸念されていた通りの暗愚っぷりを発揮(*5)。政権は恵帝の母親の一族である楊氏が牛耳った。 しかしそれを快く思わない恵帝の皇后・賈南風(*6)は、他の皇族と共謀して楊氏一族を皆殺しにし実権を奪った。 ところが賈南風のヒスは皇族にも向き始め、汝南王司馬亮(*7)に皇帝廃立を狙っていると罪を擦り付けて殺害。 更に亮殺害の実行役であった楚王司馬瑋(*8)が司馬亮を冤罪に陥れたとして彼も死刑とした。 子に恵まれないため他の婦人が産んだ皇太子も処分するなど専横を尽くすが、 皇太子殺害はやり過ぎであったか、逆に趙王司馬倫・斉王司馬冏の挙兵を受けて賈氏一族およびそこにおもねった臣下が皆殺しの憂き目に遭うこととなった。 これが、晋終わりの始まり・八王の乱の始まりであった。 この八王の乱、無駄に多くのエピソードが転がっているので簡略に記す。詳細が知りたい方は該当項目で見てほしい。 以下、簡単なまとめ まず、趙王司馬倫(*10)が淮南王司馬允(*9)が反乱を起こしたとして粛清する。 ところが、これで調子に乗った趙王司馬倫は暗愚な皇帝など廃位して自分こそ皇帝と名乗り始めてしまった。 だが流石にこれに宗室諸王は黙っておらず、斉王司馬冏(*11)、成都王司馬穎(*12)、河間王司馬顒(*13)が組んで司馬倫を打倒。 次に実権を握ったのは斉王司馬冏であったが、実権を握ったのをいいことにやりたい放題をはじめたため、趙王司馬倫を倒した残り二人は激怒。 河間王司馬顒は、都にいた長沙王司馬乂(*14)に斉王司馬冏を倒すようそそのかした。 これは、長沙王司馬乂を斉王司馬冏に返り討ちにさせてそれを口実に挙兵しようという作戦だったが、長沙王司馬乂は予想外に強く、なんと斉王司馬冏討伐に成功、恵帝は長沙王司馬乂の補佐を受けるようになってしまう。 長沙王司馬乂は成都王司馬穎とも相談して政治を行っていたが、長沙王司馬乂に実権があるのが面白くない成都王司馬穎・河間王司馬顒は挙兵して長沙王司馬乂討伐をはかった。 長沙王司馬乂は少ない兵力で両王の軍勢を圧倒する無双ぶりを見せた(*15)(*16)が、劣勢に陥ったと見た東海王司馬越(*17)があろうことか長沙王司馬乂を捕えて降伏、長沙王司馬乂は殺された。 が、次の実権者・皇帝の後継者となった成都王司馬穎は結局部下のとりまとめに失敗。 この混乱を見て今度は東海王司馬越が成都王司馬穎に挑むが大敗し、封地に逃げ帰ることになる。 だが、成都王司馬穎は幽州で烏丸の剽悍な騎兵を率いる王浚に大敗、洛陽に逃げ込むももはや成都王司馬穎に力はなく(*18)、河間王司馬顒のいる長安に逃げ込むしかなかった。 そんな状態を見逃さず東海王司馬越は異民族の騎兵を取り込んで長安の河間王司馬顒を圧倒。河間王司馬顒の和睦の申し入れ(*19)も蹴飛ばし、長安は陥落した。 成都王司馬穎は東海王司馬越に捕えられて死亡。東海王司馬越は河間王司馬顒を手なずけようとしたが、東海王司馬越の弟司馬模が河間王司馬顒を暗殺した。 恵帝はこれに前後して、餅を喉に詰まらせて死んだ。(東海王司馬越による毒殺説もある) さらに簡単、というか雑に表すと以下の通り。 趙王司馬倫「反乱なぞ起こしおって!死ねぃ!イヤーッ!」 淮南王司馬允「グワーッ!サヨナラ!」 趙王司馬倫「グワーッハッハッハ!暗愚なる皇帝なぞ廃位してくれるわ!朕が皇帝なりィ!」 斉王司馬冏「ふざけるな簒奪者が!お前の政治はブルシットだ!くたばれ!」 趙王司馬倫「アバーッ!皇帝は…皇帝は…サヨナラ!」 成都王司馬穎「アンタはよくやったよ斉王。イヤーッ!」 長沙王司馬乂「せいぜい親父の後を追うんだな!イヤーッ!」 斉王司馬冏「アイエエエ!?ナンデ!?サヨンナラー!」 成都王司馬穎「ついでにテメーも死ね!気に入らねんじゃ!」 長沙王司馬乂「グワーッ?!」 以上の内ゲバがうんざりするくらい延々と繰り返されて晋の国力は急降下、そのまっただ中で八王の乱に将として参戦していた匈奴の単于・劉淵(*20)が漢および蜀漢の後継を名乗り漢(のちに趙と改称、史学的には前趙)を建国。永嘉の乱の始まりである。 当初は晋もそれなりに食い止めていたが、最終的な実権者で漢の進撃の前に立ちはだかった東海王司馬越が、あまりの独裁っぷりで支持を失う。 3代皇帝懐帝(*21)とも対立してしまい、ついに東海王司馬越は反逆者扱いされた怒りのあまり憤死してしまった。 こうなっては漢の進撃は止まらず、また大黒柱を失った晋は止めることもできず、洛陽は殺戮と略奪と陵辱の坩堝となり、3代皇帝懐帝はありとあらゆる屈辱をたっぷり与えられた(*22)のち処刑された。 生き残りが長安で4代目の愍帝(*23)を立ててまだ抵抗したが、やっぱり負けた上で長安は洛陽と同じ運命を辿り、愍帝は懐帝と同じようにありとあらゆる屈辱を与えられたあと処刑された。 こうして晋は滅亡。司馬昭の皇族に大権を与える政策がまるっきり裏目にでるという、司馬懿が見たら馬鹿めが!と一喝されそうな(宗室がピンチになっても皇族が無力だった末期の魏を笑えない)結果になった。 ただ皇族をそこら中に置いていた効果は確実にあり、華北が乱れる間隙を突き、八王の乱と永嘉の乱からさっさと逃げていた司馬睿(*24)を亡命貴族と江南貴族が擁立したことにより晋(東晋)が復興される。 しかしそれこそが、大陸を南北に分断した挙げ句千々に乱す不毛の大内乱・五胡十六国時代の幕開けであった…。 経過 さて、傑物劉淵が匈奴を中心に据えて建国した漢であったが、統一を待たずに劉淵が天命を迎える。 さっそく発生した後継者争いを勝ち抜いた劉聡が、東海王司馬越を自ら排除し弱体化した晋(西晋)を倒して永嘉の乱に終止符を打ち、華北の王者となったのだが、 この劉聡も愍帝を処刑して完全に西晋を滅ぼしてからわずか二年後に亡くなってしまい、また後継者争いになってしまった。 勝ち抜いた劉曜が即位しさらに国号を趙(前趙)と変更するが、重臣で永嘉の乱勝利に大功のあった羯族の生まれである石勒が大単于趙王を名乗り独立。 十数年の抗争の後、最終的に勝者となったのは石勒であり、皇帝に即位。石勒も趙という国号を継続使用した(匈奴劉氏の趙と区別するため後趙と呼ぶ)。 しかしこの後趙も石勒の死後、その弟の石虎が実質的に簒奪した挙げ句死の直前に暴君化し、石虎の崩御後は息子たちがまたまた後継者争いをおっ始めてゴタゴタゴタゴタしているうちに、 石氏に養子として入っていた漢族(*25)の冉閔が後趙の皇族を殺戮し簒奪。魏(冉魏)を打ち立て、漢民族至上主義の元、羯族以下異民族を虐殺する凄惨な事態になるが(*26)、 政権基盤は貧弱であり、鮮卑慕容部が建国した燕(前燕)が遼東から殺到しあっという間に倒れた。 同じころ、後趙が洛陽から鄴(*27)へ遷都していたため、影響力の落ちていた陝西で氐族の苻洪が秦(前秦)を建国。息子の代で皇帝を称した。 その頃、江南の東晋はと言うと亡命政権ということもあり、亡命貴族と江南貴族の激しい主導権争いがあるなど、北伐どころではなかったのだが、 王導の政治指揮でようやく安定し始め、荊州方面の西府軍を率いる桓温が蜀に打ち立てられていた成漢(*28)を討ち滅ぼし版図に加えると、北伐が本格化。 揚州(*29)の北府軍を率いる殷浩(*30)が桓温の大功に焦ったのか、三代目石虎崩御後の混乱にあった後趙へ侵攻。許昌まで侵攻するが反撃され敗北し失脚。 北府軍の軍権をも得た桓温が満を持して開始した北伐は大成功を収め、洛陽を取り返し、司馬氏の陵墓を修復するなど功績と名声は並ぶ者のない存在となり、政治にも参画するようになった。 しかしその桓温も晩年は散々であり、前燕の侵攻で洛陽を奪われるとまた北伐するも大敗。逆に前秦や前燕の南進を招く事になってしまった。 東晋から禅譲を受け王朝を開くという桓温の秘した野望は、実現から大きく遠ざかってしまう。慌ててあの手この手で禅譲を受けんとするも、腹心としていた謝安から妨害され桓温の寿命もまた禅譲を待たず尽きてしまう。 余談だがこの桓温、「既に後世に芳を流す能わず、復た臭を万載に遺すに足らざるか」 つまり「俺ぁ歴史の有名人になれなかったってのに、悪名高いクソ野郎にもなれねえのか!」という絶叫を残したという。 悪名は無名に勝るとはよく言ったものだ。 前燕は、桓温の北伐を退けた柱石・慕容垂が前秦に亡命すると一気に衰え前秦に滅ぼされる。 その全盛期の前秦を率いた英雄こそ苻堅であった。勇猛にして英明な大器であり、漢族の名宰相・王猛と共に華北統一に邁進。 并州付近にそれなりの勢力を誇り、前趙などの侵攻をはねつけてきた代(鮮卑)、涼州にやはり長く存続していた前涼(漢族)など周辺国を全て倒しついに華北を統一。 久しぶりに華北を統一した英雄となったのであった。 しかしこの苻堅ですら中華統一までは届かなかった。東晋侵攻を頑なに反対していた腹心・王猛を失い、さらに群臣の反対(*31)を押し切ってでも中華統一を目指し強行した南征は、 謝玄率いる東晋軍の勇戦、そして東晋からの降将・朱序の裏切りに遭い決定的な惨敗を喫し、統制力が一気に衰えた前秦は例によって四分五裂。華北は再び混沌に陥るのであった… 結果 その後、華北は苻堅が暗殺されたり、慕容垂が独立したり再びクソミソになったが、かつて代を建国した鮮卑拓跋部の王族拓跋珪が代を復興、のちに魏(北魏)と改名し、夏(匈奴)などを滅ぼし華北を再統一することになった。 北魏は初代皇帝として即位した拓跋珪が次男に殺害されるアクシデントはあったものの、崩壊せず踏ん張りきり、前述のライバルを次々併呑し華北の統一政権として確立されるに至った。 そのころ、南の東晋は謝安体制の終焉から、再び不安定になっていた。 西府軍の首領となっていた桓温の息子桓玄が皇帝になり損なった父の悲願を果たすべく、五斗米道系の道教教団が起こした反乱鎮圧名目で都・建康(*32)に駐屯。 一時的に帝位を簒奪し、楚を建国。父の悲願を叶えた…のだが、並び立つ北府軍と対立し、首領を自殺に追い込んだことで決裂。 北府軍を引き継いだ劉裕によりあっけなく楚は滅ぼされ、東晋は再興された。 さらに劉裕は北上して南燕を滅ぼし山東半島を奪回。前秦から分裂した後秦をも滅ぼし、遠征中の留守を狙った反乱も鎮圧。名声・功績は東晋史上類を見ないものとなったため、禅譲を受け宋を建国。 しかしその後も虐殺・内ゲバ・殺し合いが続き、今度はやっぱり部下の蕭道成に、南宋の順帝が退位のち暗殺されることで幕を閉じる(*33)。 宋の建国の少し後に、北魏が華北を統一。南北に成立した安定政権のにらみ合いへとシフトしたため、北魏の華北統一と宋の成立を持って南北朝時代へと区分が変わり、ここに五胡十六国時代は終焉を迎えた。 …しかし、この南北朝時代の戦火が収まり南北統一に至るまでは実に150年以上の年月と、楊堅・李淵ら隋・唐を築く傑物の出現を待たねばならない。 この後漢末~隋による再統一までの400年間のグダグダ混乱を引っくるめて「魏晋南北朝時代」と呼ぶ。 後世への影響他 これ以前は禅譲をされた側は、ある程度禅譲した側を優遇するのが基本であった(*34)。しかしこの時代以降は禅譲しても一族皆殺しがデフォになった。だいたい晋のせいである(*35)…。抵抗しても概ね皆殺し、素直に譲ってあげても皆殺し。サツバツ!それもあってか、最後の(一応)長期政権となった南朝宋(劉宋)最後の皇帝・順帝(数え11歳)は禅譲後に幽閉される(=死まで秒読みになった)際に「生まれ変わりがあるなら、二度と皇帝には産まれたくない!」と叫んだそうである。後世から見れば五胡十六国時代と南北朝時代という区切りがあっても、人の意識は変わってなかったのだ。っていうかさらに後の五代十国時代でも大して変わってない。 魏は皇族が弱体化してクーデターで滅亡し、晋は三楊や賈氏ら外戚の専横をきっかけに崩壊していったため、北魏は皇太子に立てられたら生母を殺すという対策を取った。そんな、ひどい…しかしそれで浮いた権力の椅子は後に軍閥が握り、北魏もまた分裂してしまうのであった。 インド伝来の仏教が浸透したのもこの時代。鳩摩羅什ら名僧が続々と華北の王朝に招聘され、社会不安とも相まって信者数を一気に増やした。その仏教の流入・発展に触発されて、道教でも教団の組織化や経典の整備が急速に発展、北方では寇謙之、南方では陸修静といった道士が登場した。やがて儒教と合わせて「三教」が出そろい、相互に影響を与えつつ発展していくことになる。 この大混乱に重ねて高句麗(*36)など朝鮮半島の国家が勃興するなどの事情が重なり、日本からの入貢が途絶えがちになった。(*37)そのため、日本の歴史では「魏志倭人伝」として知られる魏書東夷伝以降~倭の五王の入貢までの歴史(*38)は、日本人自身が記録する文化をあまり持っていなかったこともあって大きな謎となっている。 異民族が大いに暴れたため、漢民族は制圧されマイノリティに…転落はせず、むしろ鮮卑や匈奴ほかの異民族を漢民族化するという、漢民族脅威の同化能力を発揮した。この同化能力はのちの時代にも遺憾なく発揮されていくのである。文化の力ってすごい。ヤック・デカルチャー…例えば、北魏で国史を編纂する際に、宰相の崔浩が鮮卑の風俗や信条なども国史に盛り込んだところ、当時の皇帝である三代・太武帝が「なんやこの野蛮な歴史はァ!?」とブチ切れて、崔浩の一族のみならず繋がりのある有力貴族まで滅された事件もあったりする(国史の獄)。やはり異民族は野蛮である。ただし、この事件における学問上様々な議論があることも付記しておく。しかし同化に反発する声も根強く、大規模な内乱をたびたび引き起こすこととなる。その最も大きな例が、北魏時代後期に勃発した「六鎮の乱」である。 ただ、胡族は単純に「漢化」したわけではない。彼らは習俗や統治方法に漢族のやり方を取り入れ、そしてそれらを中心にしていったのだが、一方で胡族由来の習俗や文化のものも残り続け、双方の習俗がいわば「融合」し始めていたのである。学問上では「胡漢融合」と呼ばれるこの変化がこの時代(そして南北朝時代)に進行し、後に南北統一を達成する隋帝国と、その後の内乱を治めた唐帝国をもって完成を見る。そして、唐が中国史上最初となる「世界帝国」に成長する原動力となっていくだけでなく、唐以後の中国史にも影響を残していくのである。 急に北辺から華北のど真ん中に北方系の民族が雪崩込んだわけではなく、後漢末~三国時代の時点で、魏が国策として南匈奴諸族の定着化を進めて華北から逃げ出したり、飢饉で死に絶えた農民の補充をしていたりとこの時代につながる片鱗はあった。於夫羅の孫である匈奴の左賢王が劉淵(劉姓)を名乗っているのも漢民族化した証拠といえる(*39)。 この時期に流入した異民族は冒頭の五つに限らず、またこの時代では五胡の内訳が決まり切っていなかったりするらしいので、「五胡」の語は「北方の異民族の総称」くらいの感覚に近い。その中でも羯族は石勒という傑物が輩出されたおかげで名を連ねているだけで匈奴の傍流のひとつというかなり小さな部族で、冉閔の異民族狩りで完全に根絶されたようで綺麗さっぱりなくなってしまった。 「五胡十六国時代」の呼称は北魏の崔鴻による「十六国春秋」とそれに挙げられた16の国に由来し、短命王朝や北魏とその前身である代などが含まれていない。なので実際にはもっと多くの王朝が乱立している。王朝を開く前にあえなく滅んだ所や、武装した流民の集団などもある。 江南の開発は呉の時代から本格的に始められていたが、東晋ほか南部の王朝により一層の加速を見た。その結果、隋による統一が成ったころには経済の中心は江南に移っていたほどであった。今でも長江以南の方が経済的に強い大都市が多いが、その基盤はこの時代に出来上がったといえる。政治の中心と経済の中心をつなげるという発想は隋の煬帝によって成立する。 陸遜の直系子孫である陸機が八王の乱で殺され、賈逵の孫たちが滅びの引き金を引くことになる。劉禅や孫皓の子孫も八王の乱やその後の乱に巻き込まれて大半が殺されてしまった。三国志の延長として読んでいくと、文官はともかく武将ファンにとって結構キツい話が多い。中国史からロマンが無くなる転機という意見もある。 魏の陳羣が提唱し整備された「九品官人法」だったが、これは人事権を一手に握っている「中正官」に対して二品以上でなければ意見が述べられないため、あまりにも権限が強すぎるという欠陥が早期から指摘されていた。このため二品やそれに近い立場の子に生まれなければ出世ルートから外れてしまうのだが、指摘したのが司馬懿の対立派閥の人物だったせいか司馬懿はその上に更に権限の強い「州大中正」という役職を置いてしまう。そして晋代になると皇族の権限がより強まったため、制度の欠陥も一層強く浮かびあがることとなった。出世ルートから外れた者たちは地方官僚として出向させられその野心を燻ぶらせていたが、自分の仕えている皇族が皇帝になれば立場が変わるという結論に至り、皇族の中でも特に操りやすい馬鹿を煽り立て傀儡とする形で八王の乱を加速させた。九品官人法は仔細を変えつつもこの時代を通して使われた上に欠陥はそのままという状態だったが、これを変えるために隋で「中正官」の代わりに「科挙」が置かれたことでようやく問題解決の糸口が見えてくることとなる。 この時代に興亡した国たち 晋とその系譜 西晋(265~316) 東晋(317~403、404~420) 楚(403~404) 宋(南朝、420~479) 一般に十六国とされる国 前涼(301(または314)~376)…漢人 前趙(304~329)…匈奴 成漢(304~347)…氐(巴賨) 後趙(319~351)…羯 前燕(337~370)…鮮卑 前秦(351~394)…氐 後燕(384~407(または409))…鮮卑 後秦(384~417)…羌 西秦(385~400、409~431)…鮮卑 後涼(389~403)…氐 南涼(397~414)…鮮卑 北涼(397~439)…匈奴?(廬水胡) 南燕(398~410)…鮮卑 西涼(400~421)…漢人 夏(407~431)…匈奴 北燕(407(または409)~436)…漢人 十六国以外の各国 前仇池(296~371)、後仇池(385~442)…氐 代(315~376)、北魏(386~534)…鮮卑 冉魏(350~352)…漢人 西燕(384~394)…鮮卑 翟魏(388~382)…丁零(テュルク系) 後蜀(405~413)…漢人 追記・修正は禅譲を受けた後に一族を皆殺しにしてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 中華にロマンが無くなって殺伐がデフォになったとも言える転機だな… -- 名無しさん (2015-07-14 03 00 36) これがコーエーの歴史ゲームにならんのは、内ゲバとかのイベントが多すぎて、作ったら歴史イベントまみれでゲームにならないからだろうか? -- 名無しさん (2015-07-14 06 59 46) これがあるから司馬氏は好きになれないんだよな。統一後の司馬氏はだらしなすぎる -- 名無しさん (2015-07-14 10 33 24) 脚注の1番って前漢の呉楚七カ国の乱の記述じゃないのか -- 名無しさん (2015-07-14 12 42 23) ↑4 日本も武家が生まれて家康が江戸幕府開くまでの800年寝ても覚めても殺し合いしてたし、歴史なんてそんなもんじゃね? -- 名無しさん (2015-07-14 13 20 49) しまった司馬衷の記事を作ろうとしてたのに内容がかぶってしまった!だが乙! -- 名無しさん (2015-07-14 15 50 08) この戦乱での虐殺と混血で狭義の漢民族はほぼ絶滅したんだとか。 -- 名無しさん (2015-07-14 17 57 42) 最近の墓誌研究では少なくとも上流階級はなるべく異民族間の婚姻をさけていたとか -- 名無しさん (2015-07-14 18 25 07) そもそも漢民族はこれ以前にも何度も異民族との同化を繰り返してるし、この時代でも特に漢族に対する断種措置があったわけでもないから、絶滅というのは全然実態に即してはいないだろう。 -- 名無しさん (2015-07-14 19 32 39) ぜひ五代十国時代の項目を...!! -- 名無しさん (2015-07-14 23 39 36) この手のどうしようもないgdgdを見ていると、しょーもない逸話持ちの劉禅でも「臣下が内乱起こさなかったし、せいぜい凡君止まりだな」に見えてくる -- 名無しさん (2015-07-15 22 00 05) 劉裕が劉備の孫と言うオチの本を読んだ気がする 家臣たちも孔明や関羽の子孫と言うとんでもない話だった -- 名無しさん (2015-07-15 22 06 04) はえー、献帝とか水滸伝の柴進って例外中の例外で恵まれてたんですね<禅譲しても皆殺し。 -- 名無しさん (2015-07-16 06 04 17) ちなみに十六国に数えられる国のうち,十国が苻堅没落後(結果の時期)に興亡した国。後期の華北はまさしくカオスである -- 名無しさん (2015-07-16 22 03 15) 竹馬の友の故事がこの時代だったっけ? 世界史で石勒を習ったような、習ってないような…。 -- 名無しさん (2015-07-16 22 46 12) ↑竹馬の友は桓温の逸話に出てくる。ちなみに意味は幼いころからの友人といった現在の意味ではなく、いらなくなった竹馬を殷浩という桓温の友人が使ってたからそんなものくれてやるよといった上下関係的な意味だったそうだ。ちなみに殷浩は桓温の策略にはまり失脚します -- 名無しさん (2016-01-24 09 55 49) こうして見ると曹操とか曹丕とかって献帝に対して無茶苦茶礼儀正しかったんだな… -- 名無しさん (2016-01-24 10 16 38) 恋姫無双ベースでこの時代は見たくないな… -- 名無しさん (2016-09-06 21 09 03) スクイズ並の血みどろになる...? -- 名無しさん (2016-09-06 21 23 56) この時代とその後の南北朝時代はヤバい皇帝が出過ぎやわ。そら皇族に生まれたくなかったなんて言う人も出るよ。 -- 名無しさん (2016-09-09 17 33 37) ↑中国の人たちには失礼だけど、中国の南北朝の皇帝たちには、日本の南北朝の人たちを見習ってほしいw -- 名無しさん (2017-11-15 07 52 13) 宇宙大将軍ですら五胡十六国時代はDQN多すぎって言ってたらしいからな -- 名無しさん (2017-11-15 10 34 41) 色々手を加えてみたよ -- 名無しさん (2017-11-15 15 22 29) コレに加えてなんで異民族がこんなにのさばったのか→漢末から三国時代の超大量の人口減少が原因ってのも書きたいね -- 名無しさん (2017-11-15 15 34 54) 実は続いてた献帝の末裔もこの辺りの戦乱で途絶えたんだっけ? -- 名無しさん (2017-11-15 21 17 45) ↑普成立の過程で曹操の末裔はほぼ滅びてるし、劉備・孫権の末裔も滅びてるし、献帝の末裔も逝ってる。ほぼ全滅び -- 名無しさん (2017-11-16 09 47 36) この時期を見た後に楚漢戦争見ると、項伯とか五胡十六国時代時代だったら絶対殺されてるなって思う -- 名無しさん (2018-12-04 14 00 19) Wikipediaの石虎の記事から…数行に一回殺した処刑した虐殺したって出てきて笑っちまうよ -- 名無しさん (2019-01-17 14 17 36) ↑ページ検索すると「殺害」で34、「殺」で84、「処刑」で9、「処」で22、「陵辱」で1。ほんまやばい -- 名無しさん (2019-01-17 15 06 33) 漢民族はフェストゥムだった・・・? -- 名無しさん (2019-12-11 22 10 27) というより大陸の民族は周辺の民族と混血しながら拡大縮小するのが普通だし。文化人類学などの呼称からもわかるように、民族ってのは文化や歴史的な要素のほうが重要で、血統はあまり重要視されない。漢民族は文化と歴史で君臨してたから、異民族に征服されても異民族が漢民族の進んだ文化や華やかな歴史を取り込もうとして結局漢民族化する。 -- 名無しさん (2020-01-23 14 59 05) 仮にこの騒乱で元々の漢民族の血統が主流に残ったとしても、異民族の文化や気風を取り込んで従来の漢民族とは少し異なる文化になっただろうしね -- 名無しさん (2020-02-05 14 57 33) ↑チャイナドレスとか辮髪とかは元々満州族の民族衣装だしな -- 名無しさん (2020-02-05 18 27 42) 「趣味は人を殺すことです」みたいな皇帝が割とざらに出てくるやべー時代。董卓もこの時代に生きてれば仁君の部類まである -- 名無しさん (2020-02-15 03 59 07) 司馬乂まともで逆に浮いてる -- 名無しさん (2020-05-28 11 22 33) この時代から前王朝の人間は〇害というのが出てきた。 -- 名無しさん (2020-05-28 11 54 44) 「二王三恪」っつー「前代の王朝と前前代の王朝の子孫は礼遇しましょうね(もしくは2+3で5代前まで)」ってのがあったんだが、まあこの頃から怖いから全員殺しとけになる。趙匡胤はマジで特殊。あと一応清が明の子孫を残してるか -- 名無しさん (2020-06-02 15 31 02) 淝水の戦いいいよね……いや犠牲者の数を考えると全然よくないが -- 名無しさん (2020-12-03 12 35 40) 司馬炎が司馬攸を左遷しなかったら内乱が起きなかったかもしれない。 -- 名無しさん (2021-02-21 11 34 48) 杜預が皇帝が無道なら臣下に殺されても仕方ないと司馬昭による曹髦殺害を正当化した。これにより皇帝殺害が常態化した。 -- 名無しさん (2021-04-04 10 56 11) ↑ いや、「杜預の曹髦殺害の正当化がなければ、皇帝殺害が常態化しなかった」かというとそれは無いだろう。つまり杜預の論文一つで、その後の数百年の歴史が変わることはあるまいよ。だいたいにして中国では臣下による君主殺しは決して珍しくない。例えば春秋の晋では公室で殺し合いがよく起きた。三国時代に少なかったのは、むしろ三国時代が異例で、単に三国のクーデター勢力が「前王朝の君主を殺して新しい王朝を築くほどの覇気もなかった」というだけのことだろう。 -- 名無しさん (2021-04-04 12 09 34) あとこういう時代を見てると、国家がこんなにガタガタ&グダグダになっても、民衆のほうは平気で暮らしているんだから、中国の民衆は皇帝や士大夫よりもはるかにタフだということがよく分かる。華北では異民族が流入して、漢族の多くが河南に流れ込んだというけれど、この場合でも華北には「移民しないまま華北に残った漢族」が大勢いた。そんで彼らも異民族と接触しつつ、いつしか彼らの文化も取り込みつつ発展していった。この時代に、華北でも道教が発展したことが、まさに中国人のタフさの象徴だよ。 -- 名無しさん (2021-04-04 12 15 41) 皇帝殺しの大罪をした賈充を処刑して天下に詫びろと陳泰は司馬昭に進言したが却下された。賈充を処刑していたら未来は変わっていたかも。 -- 名無しさん (2021-04-10 21 28 28) トップになった途端に悪魔に魅入られて暴君化したり贅沢三昧になったりするやつ多すぎ。他の史料読んでも「お前もかよ!」と何回ツッコミしたか。 -- 名無しさん (2021-08-16 13 55 13) 「陸遜の直系子孫である陸機が八王の乱で殺され、賈逵の孫たちが滅びの引き金を引くことになる。劉禅や孫皓の子孫も八王の乱やその後の乱に巻き込まれて大半が殺されてしまった。三国志の延長として読んでいくとファンにとって結構キツい話が多い。中国史からロマンが無くなる転機という意見もある。」とあるけど、一方で崔琰・盧植・王允・楊脩の一族なんかは唐代に至るまで名門貴族であり続けるんだよね。 -- 名無しさん (2022-03-21 02 26 06) 曹操の末裔もこの時代を生き延びて存続してるんだよな。三国で真っ先に実権を失った曹家が生き残るという皮肉よ -- 名無しさん (2022-03-21 03 13 35) 陸遜の子孫は滅んだが甘寧やコヨウを始めとした呉の名族が晋で活躍するのはかっこいいよな -- 名無しさん (2022-05-17 22 11 35) 三国志の英傑たちが生命を賭して守った未来がこれか... -- 名無しさん (2022-09-16 22 46 21) きっと現実じゃ三国志の英傑もこの時代の戦士たちも人となりは大して変わらんのやろな -- 名無しさん (2022-10-05 20 37 21) 良くも悪くもやたら印象に残る慕容一族 -- 名無しさん (2022-10-15 17 54 38) 混沌極まりない時代でも、なんだかんだで現在まで子孫が生き残ってる慕容一族はある意味じゃ勝者だな -- 名無しさん (2022-10-16 21 16 13) 正直、「〇〇の一族は滅んだ」っていうのを血統がいなくなったみたいに感じてしまっているけどこれ多分他家に嫁いだ娘とかはある程度残ってるだろうから子孫全滅は……ないよね? -- 名無しさん (2022-12-25 05 57 52) 賈詡の孫の賈疋も晋の復興に全力を捧げて死んだ悲劇のヒーローみたいでかっこよかった。 -- 名無しさん (2023-01-11 17 49 55) 魏が皇族の権力を削いだら臣下に簒奪されたんでその反省から皇族に権力を与えたら今度は身内で内紛か。結局何事もホドホドが一番ってことだな -- 名無しさん (2023-04-13 13 16 37) 物語として楽しみようがねえ時代だな… -- 名無しさん (2023-05-14 14 45 21) 五胡十六国時代から唐代までは、三国時代前後に形成された同族集団が貴族として力を持っていた時代で、三国志ファン視点でも「この人物の祖先は三国時代のこの人物なのか」と繋がるのは面白いんじゃないかな(宋代以降はそれがなくなる)後世の有名人だと、杜甫の父方は杜預の一族・母方は崔琰の一族であるとか、顔真卿・顔之推の先祖の一族に顔良がいるとか。 -- 名無しさん (2023-05-19 07 51 20) 西晋も東晋も魏の時代に滅ぼした同じ苗字の劉氏に滅ぼされる歴史の皮肉よ -- 名無しさん (2023-08-21 22 20 14) ロマンがなくなるとは言うが蘭陵王みたいなイケメンの人気者が出てきたのはこの時代だし他にも暴君や宇宙大将軍みたいな連中も見ててある意味楽しい、あと何だかんだ名君や有能な将軍・文人の類もこの時代に結構排出されてるし(そういう意味で一番悲惨なのはそういった面白連中が全然いない五代十国時代) -- 名無しさん (2024-02-14 22 03 18) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/wikirace/pages/39.html
番外編・人気有名人 人気有名人を分類する。すべて敬称略。 自分が勝手に分類しているだけです。申し訳ないです。 また、日本人は大混血民族なので一概には分類できない部分もあります。 北方モンゴロイド 朝鮮民族やモンゴル人、弥生人、中国東北部、ツングース人など。 向井理 長身でまるで韓流スターのような顔。 豊川悦司 北方系黄色人種そのもの。 小栗旬 北方系黄色人種そのもの。北方系とは思えないよく喋り明るい性格のようである。 加藤歩 北方系黄色人種そのもの。韓国人に多い顔。筋肉がよく発達している。 やしきたかじん 北方系黄色人種。 蝶野正洋 北方系黄色人種。 松井秀喜 北方系黄色人種。完璧なツングースの形質。 入江陵介 北方系黄色人種。 もう中学生 北方系黄色人種だと思われる。 桜井和寿 韓国人に多い顔。天然で北方系とは思えない性格をしているようだ。 大東俊介 北方系黄色人種。 三木谷浩史 完璧なツングースの形質。 島田秀平 体が細い以外はほぼ完璧なツングースの形質。 コブクロ(黒田) ほぼ完璧なツングースの形質。 なかやまきんに君 北方系黄色人種。筋肉がよく発達している。 大沢たかお 韓流のような顔。 大竹一樹 北方系黄色人種の顔。警戒心が強いのは北方系の性格の特徴。 江角マキコ 北方系黄色人種そのもの。 中村俊輔 中国華北の形質が非常に強く出ている。 大沢あかね 韓国にいそうな顔。性格も潔癖症と北方系に多くみられる性格。 金田哲 北方系黄色人種。性格も潔癖症と北方系に多くみられる性格。 高山トモヒロ 北方系黄色人種。 熊谷紗希 北海道の人、こういう顔の人多いなって感じました。顔は韓国などに多い顔。 澤穂希 北方系の黄色人種。 IKKO 北方系黄色人種。韓国人に多い形質。体格が特に韓国、モンゴルなどに多い体型。 福山雅治 学生時代の写真を見てもやはり北方系である。性格も「潔癖症」と北方系の性質を強く示している。 森田剛 弥生人の典型。 田村淳 まるで弥生人の復元を見ているような、完璧な弥生である。 小泉純一郎 弥生人のところで典型としといてなんだが顔の骨格が角張っており弥生とは少し異なる。 中居正広 弥生に少しマレー系が入った形質である。 二宮和也 典型的とも思える弥生人。 亀梨和也 典型的とも思える弥生人。 赤西仁 形質が北方系黄色人種の一派であることは間違いない。性格が北方系とは程遠い性格のようだ。 相葉雅紀 弥生人。北方系の他の系統も混じっていると思われる。 佐藤健 弥生人。 波田陽区 弥生人だと思われる。 小山慶一郎 弥生であるが朝鮮半島の形質が強く出ている。性格が北方系とは程遠い性格のようだ。 永井大 形質が完全に北方系。肌の色も北方系が日焼けした時によく見られる赤褐色の肌。 橘慶太 北方系の範囲内。筋肉がよく発達している。 草彅剛 もう少し背が高ければ華北の典型である。顔立ちは文句なしの中国華北。 東山紀之 文句なしの中国華北。性格も北方系の黄色人種によくみられる、完璧主義、潔癖など。 堂本光一 韓国南部に多い顔。また、かなり繊細な人物らしく、また「潔癖症」と性格も北方系を現している。 中田英寿 韓国南部に多い顔。完璧主義などの性質は、北方系黄色人種に多く見られる。 市原隼人 韓国南部に多い顔?。 松井大輔 韓国に多い形質。 角田信朗 韓国に多い形質。 ホリエモン 韓国南部に多い形質?。 広末涼子 中国華北から華東北部、華中北部。鼻の形や瞳の色素も薄くほぼ間違いないと思われる。 山田優 中国華北。最初自分は華僑の人だと思ったが沖縄ということで納得。 長澤まさみ 中国東北部の形質が強く出ている。特に子供の頃の写真は完璧に北方系である。ここに写真載せました。 仲間由紀恵 中国華東、華中。 眞鍋かをり 中国華東、華中、華南。中国の北か南か難しい。 南方モンゴロイド 中国南東部、マレー系、タイ・ラオス系 など。 国分太一 文句なしの中国華南。ここまで華南の形質が出ている日本人は珍しい。 上戸彩 文句なしの中国華南。総てのスペックが一致すると言っていい。 大野智 文句なしの中国華南。 さかなクン 中国南部に多い顔である。 石垣佑磨 完璧な華南顔。 塚地武雅 文句なしの中国華南。 剛力彩芽 完璧な華南顔。 山口智充 顔は文句なしの中国華南。体型は韓国などの北方系。毛深さは縄文や琉球。 ほっしゃん 文句なしの中国華南。 ベトナム人にベトナム人と間違われた事もあるという。華南からベトナムは形質がほぼ一緒。 石原さとみ 華南顔だと思う。ただ、朝鮮半島にもいそうな顔である。 山田孝之 中国南東部に何か混じった感じである。 関根勤 彫が深く縄文でも問題なさそうだが、「酒が飲めない」「よどみなく喋れる」「髭が薄い」「なで肩」等、 縄文とは思えない性質を持っている。かと言って中国南東部とするにも形質が違うようにも思える。 櫻井翔 華南。顔立ち、体型が華南そのもの。 宮崎あおい 華南顔。韓国にも多い形質で、頭の形、肌の色など分類が難しい。ソニンと形質が似ている。 山田涼介 華南。縄文の遺伝子も強く入っていると思われる。 稲垣吾郎 華南。縄文の遺伝子も強く入っていると思われる。 千葉涼平 華南に縄文が混じった形質か?。 緒方龍一 華南にマレー系が混じったか?。 増田貴久 ベトナムにも多い華南顔。典型的な顔である。 志田未来 華南に若干縄文が混じった形質である。 倉科カナ 南方モンゴロイド。中国華南っぽさとマレーっぽさが混じっている。 城島茂 ここまでマレー系の形質を持った日本人がいることに驚きである。 松岡昌宏 体型はマレー系とは程遠いが顔がマレー系。体型は北方系の黄色人種。 山下智久 マレー系。性格もマレー系独特の熱い性格のようだ。 蛯原友里 マレー系に琉球系遺伝子が混じった?。 新垣結衣 顔はマレー系。体型は中国華北。 松本潤 マレー系と思われる。性格もマレー系の性格のようである。 錦戸亮 典型的なマレー系と思われる。子どもの頃の写真をみると、マレー系ではないかも知れないとも思う。 木村拓哉 典型的なマレー系と思われる。性格もマレー系。 妻夫木聡 髭以外マレー系の範疇。 矢田亜希子 マレー系。 井上真央 たぶんマレー系。 真田広之 鼻以外マレー系。 降谷建志 多分、マレー系。髭や鼻の感じが縄文っぽいが。 速水もこみち 体型と鼻以外マレー系。マレー系は本来顔が大きいのですが。 山崎裕太 マレー系。 久保田利伸 マレー系。 桜庭ななみ マレー系ですね。体型、鼻の形など。 成海璃子 マレー系。性格もマレー系な個性的な性格のようだ。 村上里佳子 マレー系。体型は中国東北部のように思える。性格が典型的なマレー系な性格で個性的で熱く毒舌である。 川口春奈 マレー系か?。琉球の遺伝子が入ったか?。腕も比較的長い。また、顔が小さい。 本来、マレーや琉球は比較的腕が短く顔が大きいのが特徴であるが。 国生さゆり マレー系。顔もクッキリ、性格もクッキリなマレー系は多い。 井川慶 マレー系。彼の独特の個性的性格はインタビュー等でも見る事ができるが、あれはマレー系の性格。 堂本剛 基本マレーだが、縄文が少し混じったか?。 今井翼 マレー系だと思われる。 溝端淳平 マレー系。自分が注目しているのは、彼の典型的なマレー系の性格。これは自他共に認めることらしいが、熱く、男らしく、雑で、よく喋る。顔を見直してみましたが、マレー系とは形質が異なるようですね。ちょっとルーツが分かりづらいですね。 里田まい 多分、マレー系。 榮倉奈々 マレー系。手足が長く体型は中国東北部といえる。性格はマレー系的な明るい性格のようだ。 身長や性格などを考えるともしかしたらポリネシア系の形質が強く出ているのかもしれない。 香取慎吾 ポリネシアともマレーともつかぬ形質である。あの明るい性格、体型がポリネシアの性質である。 川畑要 身長は足らないがそれ以外はポリネシアだと思う。 大道典嘉 体型、顔立ち、文句無しのポリネシア。 織田裕二 顔、性格などポリネシアとするに十分な性質である。 加藤雅也 外国のインタビューにも明るく応えるあの性格、顔立ち、雰囲気がポリネシア。 山本太郎 顔、体型がポリネシア。性格も熱い性格で性格までポリネシア。 相武紗季 ポリネシア。意外に思われるかもしれないが北方系の形質も強く出ている。目が細かったら華中・華東にいそうな顔である。 石原良純 ポリネシア。もしかするとコーカソイドの形質なのかも知れない。性格もポリネシアかコーカソイド。 佐藤浩市 ポリネシアだと思われる。 照英 ポリネシアだと思われる。性格もポリネシア。顔もキャラも濃い。 藤田和之 ポリネシアだと思われる。というか、日本人でもっともポリネシアに近い男のように見える。 坂口憲二 ポリネシア。ポリネシアとするには鼻が高過ぎるが。 藤岡弘、 ポリネシア。顔、性格、体型、全てがポリネシア。 中西学 ポリネシアっぽいな。ポリネシアだろうな。 名倉潤 タイ・ラオス系で間違いないが、髭の濃さなどは縄文の影響か?。 板倉俊之 完全にタイ・ラオス系の形質。日本人でここまでタイ人なのはめずらしい。 藤岡弘、は「、」までが芸名である。 古モンゴロイド アイヌ人・縄文人など。 北村一輝 縄文系でほぼ間違いない。縄文人は大人しかったと考えられているが北村は自他共に認める熱い男だという。 山本徳郁 縄文の典型。 hyde 縄文系でほぼ間違いない。体格は違うが。 加藤成亮 縄文。若干、北方系が入っていると思われる。 手越祐也 ほぼ縄文。マレー系も入っていると思われる。 岡田准一 ほぼ縄文。鼻の形はコーカソイドのようにも見える。もしかしたら全くの別系統で中東人を小柄にしたタイプかも知れない。 田中聖 縄文。 植草克秀 縄文。 横山裕 顔が細い。縄文とするに無理があるか。 比嘉愛未 女性でここまで縄文の形質が出ている女性もめずらしい。 高田由香 縄文。 比嘉栄昇 完全な縄文である。 滝沢秀明 縄文。子どもの頃の形質は華南っぽくも見える。山田涼介と一緒で「縄文が混じった華南」かも知れない。 前田敦子 縄文だと思われる。自分はAKBに詳しくないのでよく分からないが。 さとう珠緒 縄文である。 落合博満 若い頃の写真見ると縄文。今は中国華南っぽい顔。髭の濃さや髪質から考えれば縄文だと思われる。 小室哲哉 縄文?。 稲葉浩志 たぶん縄文。顔が細い以外は縄文で問題ないと思う。 YUI(歌手) 縄文だと思う。 加藤アツオ たぶん縄文。ただ、映像によっては北方系に見えなくもない。というか北方系かも。 岡田将生 縄文だと思ったが、背が高い。コーカソイドか?。 あべ十全 動画で見たが縄文系で間違いない。 中田浩二(サッカー選手) 顔は縄文。ただ、背が高い。 諸積兼司 顔は縄文。ただ、背が高い。 佐藤豪則 縄文。 佐々木希 白人とのハーフのようにも見えるが縄文。 加藤夏希 白人とのハーフのような顔・スタイルだが縄文と思われる。 澤屋敷純一 背が高いが顔が縄文。 鈴木Q太郎 「卑弥呼さま~」などとやっているが、顔は縄文。 岸本セシル 縄文にマレー系が混じったような顔。もしくはコーカソイドが混じったような顔。生粋の日本人というから驚きである。 余談。 アイヌ人の昔の写真などを多く見て感じた事は、アイヌは一般的な黄色人種とは次元の違う形質を持っており、 縄文・アイヌ系など日本にいないのではないかと感じてしまいました。 ここに載せている人たちも、昔のアイヌとは程遠い形質である。 コーカソイド(白色人種)の形質を持つ有名人 ヨーロッパ、北アフリカ、中東、中央アジア、インドなど。 長瀬智也 鼻以外、まるでタリバン兵のような形質。鼻だけは黄色人種。明るく陽気で天然ボケはコーカソイドに多く見られる性格である。もしかしたら、ポリネシア系かも知れませんが。 平井堅 中東人のような風貌。まるでタリバン兵の様な形質。生粋の日本人というから驚きである。 阿部寛 南アジアを感じさせる顔。形質。 堂珍嘉邦 黄色人種に白色人種が混じったような顔。天然ボケな性格が強く出ており、性格まで日本人離れしている。 伊藤英明 黄色人種離れしており、コーカソイドの形質が強いと思われる。非常によく喋る人物らしく明るい性格もコーカソイドらしさ。 本並健治 コーカソイドの形質が強いと思われる。縄文に見えなくもない。生粋の日本人というから驚きである。 井口資仁 完全な南アジア顔。インド北東部からバングラディッシュまでに多い顔。体型も南アジアっぽい。 スザンヌ キルギスやカザフスタンなどにいそうな顔。ようは白色人種と黄色人種の混血っぽい。性格も極端に天然。 水嶋ヒロ あきらかにコーカソイドが混じった顔。性格も天然なところがあるそうだ。 田口淳之介 スザンヌ同様、中央アジア北部の形質。 中迫剛 コーカソイドの形質が強いと思われる。 平井理央 コーカソイドの遺伝子が入っているか、もしくは縄文の遺伝子であの形質になっているのか分からない。 市川知宏 コーカソイドがかなり入っていると思われる。 田中直樹 コーカソイドが強く入っていると思われる。コーカソイドの形質が強く出ている人は個性的な性格の人が多い。 てつじ(シャンプーハット) 顔が中東顔、中東人。生粋の日本人というから驚きである。完全にコーカソイド。 申し訳ないです。書き途中です。これからも追加していきます。 琉球・沖縄は遺伝子(血)は北方系だが形質が南方系に近いのでここでは南方モンゴロイドとする。 芸能人の子どもの頃の写真 ウィキリング http //www46.atwiki.jp/arassa/pages/213.html スザンヌさんは北方系黄色人種と分類するべきかもしれません。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/856.html
八路軍(はちろぐんパーロとも呼んだ。)は、現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。 背景 毛沢東は軍閥や列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方で1920年代の中国国民党は装備こそ貧弱であるものの党の軍隊を組織しており、第一次国共合作は軍隊組織を持つ国民党・蒋介石による反共クーデターにより瓦解した。この経験から、中国共産党は軍隊の組織を開始することになる。 ドクトリンは毛沢東による人民戦争理論にしたがっていたと考えられる。 すなわち、「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」人海戦術がそれである。 そのドクトリンに従い、共産党は積極的に各地に共産党を広める浸透工作をおこなった。共産党に好意的、または恐怖により屈服する村落、都市を増加させるのが目的である。その結果共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させるのも容易になった。 事実、日本軍は都市や拠点など点と線のみの確保にとどまり、それ以外はすべて敵性の住民に囲まれるという様相を呈し始めた。 こうした共産党勢力と八路の展開は、日中戦争後の国共内戦でも有利な条件となり、最終的に国民党軍を撃破するのに大いに役立った。 歴史 前身 当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。第四軍はその後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。 この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。 誕生 このような情勢下、西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。 同時に中国南方地域では紅軍は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に新四軍と呼ばれることになる。 消滅 1947年に第二次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された。 行動地域 八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という大規模な会戦を行い、延安と華北地域への回廊を確保した。 戦果 八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は七万四千回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したとされている。また、兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していた。 組織 総指揮官:朱徳 副総指揮官:彭徳懐 正規師団:第115師団・第120師団・第129師団が存在したが、民兵組織も多数参加した模様。 評価 日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本兵を悩ませた。 一方の国民党軍はアメリカからの援助があり装備は優れていたものの、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があり、弱兵として日本軍に侮られた。地域によってはむしろ八路軍を弾圧、あるいは八路軍に対して積極攻勢に出る場合もあった。 国民党軍が兵力温存を図ったのは、抗日戦勝利後の共産党との決戦に備えたものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離してしまった。また国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった。 結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集めて勝利したとされ、中華人民共和国設立に貢献した。 八路軍に降った日本軍将兵はソ連軍に下った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵は少なくない。但し特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない。 八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があったが実際に守られていたかは疑義が残る。 また占領地で「富農」と認定した、地主をはじめある程度の土地や家畜を持つ自作農を「人民裁判」(裁判という名称に値するかどうかは疑問の余地がある)にかけ、処刑を行った。これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであり、国共内戦時には、中国住民の虐殺事件を起こしており、八路軍に対する否定的側面として語られるものである。ただし、このような残虐行為は地域内の貧者の嫉妬心・復讐心を満たす事になり、かえって大衆の支持を集める事に貢献した。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月8日 (木) 18 46。
https://w.atwiki.jp/coldwar21/pages/2.html
トップページ 一覧 国家一覧 イデオロギー一覧 年表 テンプレート 国家テンプレート 政党テンプレート 選挙テンプレート(議会) 選挙テンプレート(元首) 選挙テンプレート(党首) 戦争テンプレート 人物テンプレート 内閣テンプレート オリンピックテンプレート 最新の10件 取得中です。 人気の10件 内閣テンプレート トップページ 国家テンプレート 2021年国民保守党総裁選挙 メニュー 選挙テンプレート(議会) 国家一覧 人物テンプレート 選挙テンプレート(党首) イデオロギー一覧 年表 加賀美咲 涼宮ハルヒ プラグイン/コメント プラグイン/ニュース プラグイン 未作成 ソビエト連邦 チェコスロバキア ドイツ民主共和国 ハンガリー ブルガリア ポーランド ルーマニア人民共和国 モンゴル イギリス イタリア ドイツ連邦共和国 フランス アメリカ カナダ 華北人民共和国 スイス スウェーデン フィンランド ユーゴスラビア 華南共和国 韓国 北朝鮮 日本 竹下亘 河野太郎 〔編集〕
https://w.atwiki.jp/ryuugakusei/pages/18.html
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。 約1万2千年前頃、最終氷期終わり急激な温暖化が始まると、日本列島はアジア大陸から分離するとともに、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除き、次の縄文時代へ移行していった。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2567.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第1章 満州事変から盧溝橋事件まで 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その1> 戸部良一: 防衛大学校教授(外部執筆委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その1>1.満洲事変1)柳条湖事件 2)中国の対応と国際連盟 3)事変解決の模索 4)上海事変と満洲国建国 5)満洲国の実態 6)熱河事件と国際連盟脱退 2.関係安定化の模索と挫折1)戦区接収と実務協定 2)広田・重光外交 3)日中提携の試み 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2>2.関係安定化の模索と挫折4)梅津・何応欽協定 5)広田三原則 3.華北の紛糾1)幣制改革 2)「北支」工作(華北「自治」運動) 3)多発する事件 4)対ソ戦略と対中政策 5)内蒙工作と綏遠事件 6)西安事件 7)対中政策の再検討 8)盧溝橋事件前夜 1.満洲事変 1)柳条湖事件 1931 年9 月18 日夜、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。関東軍の作戦参謀・石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略によるものであった 1。鉄道守備を任務とする関東軍はこれを中国軍の仕業とし、自衛のためと称して一気に奉天を制圧した。 柳条湖事件発生の数ヵ月前、陸軍では省部(陸軍省と参謀本部)の課長レベルで、在満権益に重大な侵害が加えられた場合には武力を発動する、というコンセンサスが成立していた 2。彼らの構想では、武力発動の前に内外の理解と支持を得るために 1 年ほどの世論工作が必要とされ、したがって柳条湖事件の発生は早すぎたが、関東軍が武力行使に踏み切った以上、それをバック・アップするのは当然と見なされた。発動した武力を背景として、張学良政権の「排日」政策をやめさせ、権益の維持・増進を図ることが目標であった。そのためには、満洲に張学良政権に代わる親日政権を樹立することも視野の中に入っていた。 ただし、首謀者の石原や板垣にとって、武力発動は単なる自衛や権益擁護のためだけではなかった。彼らは北満も含む満洲全土を領有するつもりであった。こうして満洲での武力発動は、政府や陸軍指導部の基本方針に反する行動として開始されたのである。まず第一に、石原や板垣を含む陸軍の急進的な軍人は、ナショナリズムの急進化を背景とした中国の「革命外交」によって日本の在満権益が危機に瀕しているととらえたが、これに対して幣原外相の対中外交はまったく効果的な手を打っていないと見なされた。それゆえ急進的な軍人たちは、謀略によって日中間に衝突事件を引き起こし、満洲の「危機」を強引な武力行使によって一挙に打開しようとしたのである。 第二に、満洲での軍事行動は、満洲の危機打開のためだけではなく、日本の国防のためにも必要であると考えられた。石原らは、1929 年の奉ソ戦争におけるソ連の行動を見て、その軍事的脅威が復活しつつあると判断し、ソ連の軍事的脅威に対抗するためにも、満洲全土を日本の支配下に置こうと計画した。満洲全土を支配下に置けば、対ソ国防上有利な態勢を築くことができ、また、満洲の豊富な資源を確保して日満一体の自給自足圏を構築することができると考えられたのである。自給自足圏の構築は、第 1 次世界大戦の教訓として少壮軍人たちが学んでいた総力戦の前提でもあった。 第三に、武力発動によって日本を取り巻く国際関係が緊張し対外的危機が造出されれば、それをテコにして日本本国の国内政治の改造を促すことができるとも期待された。急進的な軍人は、政党政治が「党利党略」に明け暮れて国防を顧みず、国民の利益や要望にも応えていないと見なした。彼らは、「腐敗堕落」した政党政治を打倒し、総力戦を戦うための国家改造を目指した。満洲における武力発動を、そうした国家改造のきっかけとすることも目論まれたのである。 こうして柳条湖事件は、石原らの周到な計画と目論見に基づいて開始された。事件後、 1 柳条湖事件の謀略については、秦郁彦「柳条溝事件の再検討」『政治経済史学』第183号(1981 年8 月)を参照。 2 「満洲問題解決方策の大綱」小林龍夫・島田俊彦編『現代史資料7・満洲事変』(みすず書房、1964 年)164 頁。 2 奉天を制圧した関東軍はさらに進んで安東、営口、長春など満鉄沿線の要地を占領した。居留民保護を名目として、満鉄沿線から遠く離れた吉林にも進出し、そのため手薄となった南満洲の防備を理由に朝鮮軍に援助を要請した。 事件の報を受けた東京の若槻(礼次郎)内閣は9 月19 日、事態不拡大の方針を決めた。陸軍指導部は関東軍の行動を容認し、朝鮮軍の越境(満洲進出)を政府に要請したが、事態不拡大の方針に反するとして認められなかった。しかし、かねてから関東軍の幕僚との間に援軍派遣の了解があった朝鮮軍は、陸軍指導部が政府の承認と天皇の裁可を得るのに戸惑っていることに痺れを切らして、9 月21 日独断で国境の鴨緑江を越えた。若槻内閣は朝鮮軍増派を追認せざるを得なかった。天皇の裁可を得ない独断越境は、本来、軍法違反で処罰の対象となるはずだったが、柳条湖事件の謀略と同様、有耶無耶に済まされてしまった。そしてこの後、現地軍の一部が突出し、それに東京の陸軍指導部と政府が追随し出先軍の行動を追認してゆくというパターンが繰り返されることになるのである。 マス・メディアも強硬であった。各新聞は、事件が中国側の計画的な行動であるとの関東軍の言い分を鵜呑みにした上で、その背景には度重なる排日行為や権益侵害の積み重ねがあると読者に解説し、関東軍の行動を自衛権の発動であると正当化した。新聞は事変をめぐって活発な報道合戦を繰り広げ、事変を利用して発行部数を伸ばした。そして、その強硬論は国民を煽る方向に作用したのである 3。 関東軍の行動に対する国民の支持は、武力発動が自衛や権益擁護のためであるとの政府による説明に基づいていた。だが、既に述べたように、関東軍の石原らの狙いは自衛や権益擁護を超えており、彼らは満洲全土を領有する計画であった。しかしながら、満洲領有案に対しては陸軍指導部の急進分子ですら同調しなかった。このため石原ら関東軍は独立国家樹立構想に軌道修正したが、これに対しても積極的支持があったわけではない。関東軍の武力発動に対する支持の多くは、自衛もしくは権益擁護という理由に基づいており、陸軍中堅層を含む強硬論者の間でさえ、期待されたのは張学良政権に代わる新しい親日地方政権を樹立することくらいであった。 2)中国の対応と国際連盟 関東軍の軍事行動はほぼ計画どおりに進行した。それを可能にした理由の一つは、中国側が武力抵抗を試みなかったことにある。事変勃発時に張学良は10 万の兵を擁して北平(北京)に滞在していたが、満洲には東北軍20 数万の大軍が存在し、これに対する関東軍の兵力は2 万に満たなかった。しかし事変前から、蒋介石は張学良に対して日本側を刺激しないよう命じ、張学良も奉天の部下に日本との衝突を避けるよう指示していた。 事変勃発直後も張学良が不抵抗方針を継続したのは、日本政府が関東軍に対するコントロールを回復できるだろうと考えたからであった。そこには、張学良の軍閥としての思惑も絡んでいた。もし東北軍が関東軍と戦って兵力を損耗すれば、自分の権力基盤が弱体化すると張学良は懸念した 4。蒋介石も張学良に武力抵抗を命じなかった 5。当初は、中国政 3 池井優「1930 年代のマス・メディア」三輪公忠編『再考太平洋戦争前夜』(創世記、1981年)177-185 頁。 4 宇野重昭「中国の動向(1926~1932 年)」日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』第2 巻(朝日新聞社、1962 年)274 頁。 3 府も日本政府による関東軍の統制に期待をかけた。9 月19 日、財政部長の宋子文が中国駐在公使の重光葵に対して、日中両国による事件の共同調査を提案したのは、そうした期待がまだあったからである 6。しかし、関東軍が南満の要地を次々と占領するに及んで、中国は日本との直接交渉による解決を断念するに至った。 当時、国民政府は江西省に本拠を置く共産勢力と軍事的に対峙し、この年5 月に成立した広東政権とも対立関係にあり、対日武力抵抗を試みる余裕がなかった。そのため国民政府は二つの方法によって日本の行動を抑制しようとした。排日ボイコットと国際連盟への提訴である。柳条湖事件以後、日貨排斥は反日抵抗運動として、その規模と激しさを増した。しかし関東軍の行動を抑制することはできなかった。 一方、国際連盟は必ずしも中国の期待どおりには動かなかった。英仏等の大国は、国際秩序の動揺を最小限に抑えると同時に、日本の行動が権益擁護の自衛措置と見なされる限りは、日本の立場に配慮しつつ自制を求めようとした。それまで国際秩序の維持に協力してきた幣原外交への期待もあった。幣原は中国との直接交渉による事変解決を主張した。これに対して中国は、関東軍による要地占領の解消つまり鉄道付属地内への撤退が先決であると反論した。9 月30 日、連盟理事会は、日本軍の早期撤退を決議したが、撤退には期限を付けなかった。撤退監視員の派遣という中国側の要求は退けられた。 ところが、こうした連盟の配慮にもかかわらず、関東軍は突進する。国内では10 月中旬、参謀本部の中堅将校を首謀者とするクーデタ計画が発覚した(十月事件)。クーデタは未発に終ったが、陸軍を抑制しようとする政府にとっては無言の圧力となった。10 月 8日、関東軍は張学良が東三省回復の本拠としていた満洲西南部の錦州を爆撃する。さらに、対ソ刺激を懸念する陸軍指導部によって抑えられてきた北満進出にも踏み切り、11 月19日には要衝チチハルを占領した。新国家擁立への関与を禁じた政府の方針を無視して、満洲各地で国民政府から独立した地方政権の樹立を背後で促進し、新国家の首班に予定する廃帝溥儀を、謀略による騒動に紛れて天津から満洲に連れ出した。 こうして、権益擁護のための自衛行動という日本の主張は説得力を失い始め、国際連盟の対日不信が強まってゆく。10 月24 日、理事会は日本軍の期限付撤兵勧告案を採決したが、日本のみの反対で否決された。結局理事会は日本の同意を得た上で12 月10 日、現地への調査団派遣を決議し、その調査が終了するまで問題の解決を先送りした。調査対象には日本の主張により、満洲の事態だけではなく、中国の全般的状況(排外運動や政府の条約義務履行能力など)も含まれた。 3)事変解決の模索 国際連盟が問題解決を先送りしている間、日中両国の間では直接交渉によって事変解決を目指す試みが潜行する。これには、日中両国の政権交代が関わっていた。 中国では日本に対抗するため、南京の国民政府と広東政権との合流が進み、その合流条件として12 月15 日、蒋介石が国民政府主席・行政院長・陸海軍総司令を辞職し下野した。 5 NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史 最後の証言』(角川書店、1991 年)123-127頁。 6 柳条湖事件直後の国民政府内の対日直接交渉論については、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)107-111 頁を参照。 4 これに代わって行政院長には孫科が就任し、国民政府の首脳は広東政権要人によって占められることになった。外交部長に就任した陳友仁は広東政権時代から、日中間の直接交渉による事変解決を唱えていた。中国は孫科政権の下で、一時的にではあったが、直接交渉に傾いたのである。 一方日本では、軍部の台頭に対抗するため二大政党による協力内閣を目指す動きが生まれたが、この協力内閣運動をめぐって民政党の若槻内閣は閣内不一致をきたし総辞職した。これに代わって政友会の犬養(毅)内閣が登場する。明治期から孫文や黄興など中国の革命家を支援してきた犬養首相は、中国に密使を派遣して事変解決を図ろうとした。彼の解決構想は、満洲における中国の主権を前提とした上で広汎な権限を持つ地方政権を樹立し、日中対等の条件で経済開発を実施するという内容であった。 密使に起用されたのは、犬養と同じく中国同盟会の同志であった萱野長知である7。孫科政権誕生直前に中国に渡った萱野は、居正、孫科らと会見し、犬養構想に基づく事変解決を模索した。孫科らは、特殊行政組織として東北政務委員会をつくり、日本の商租権を認めて日中対等の経済開発を実現する、という構想を示したが、その狙いは張学良の勢力を駆逐し、国民党の満洲進出を実現することにあったという8。 しかしながら、萱野の工作は犬養内閣の主要閣僚と軍部の厳しい反対にあう。それまで幣原外交を批判してきた政友会であっただけに、犬養内閣には、書記官長の森恪をはじめとして、強硬論者が多かった。彼らの間では、国民政府の統治が満洲に及ぶこと自体に反対が強かった。その反対を受けて1932 年1 月初旬、ついに犬養は萱野に帰国を命じざるを得なくなる。陳友仁は、日本との直接交渉が挫折した上、国内の反日世論に押され、対日断交を主張するようになった。 犬養首相は、中国との秘密交渉を試みると同時に、陸相に荒木貞夫を起用し陸軍の統制を回復しようとした。だが、ここでも犬養の期待は裏切られた。関東軍に対する陸軍指導部の統制は回復されなかった。関東軍は陸軍指導部の了解を得て、反満抗日分子を討伐するためにその策源地を叩くという名目で 1 月 3 日、錦州を占領した。それまで幣原外交に期待してきたアメリカの国務長官スティムソン(Henry L. Stimson)は、錦州占領に反撥して不承認政策を通告してきた。九ヵ国条約や不戦条約に違反しアメリカ国民の権利を侵害するいかなる状態も協定も承認しない、という趣旨の通告であった。2 月 5 日、関東軍はさらに、かつて出兵を禁止されたハルビンを攻撃してその占領に成功した。 4)上海事変と満洲国建国 事変勃発後、日増しに激しくなる反日ボイコットの中心となったのは上海である。それに対する日本人居留民の反撥が高まる中で、衝突事件が発生する。1 月18 日、上海で布教中の日本人僧侶が中国人に襲われ、翌日その報復として今度は日本人が中国人の工場を襲撃した。公使館付陸軍武官補佐官(上海駐在)の田中隆吉が、列国の関心を満洲からそら 7 萱野の和平工作については、時任英人「犬養毅と満州事変」『政治経済史学』第209 号(1983 年12 月)50-55 頁。 8 黄自進「満州事変と中国国民党」中村勝範編『満州事変の衝撃』(勁草書房、1996 年)360-361 頁。 5 すために、関東軍の板垣の要請に応じて画策した謀略によるものであったという 9。上海の居留民団はいきり立ち、これを受けて総領事は上海市長に対し、犯人の処罰のほかに抗日団体の即時解散を含む強硬な期限付要求を突きつけた。不穏な空気が流れる中で、日本海軍は居留民保護のため艦船や陸戦隊を上海に増派し、中国側では上海周辺の19 路軍が警備を強化した。1 月28 日、日本海軍陸戦隊と、かつて江西省で共産軍と戦った精強な19 路軍とが衝突、上海事変が始まった10。 海軍は自前の戦力では19 路軍に対抗できず、陸軍の派遣を要請せざるを得なくなる。この上海派兵に対しては犬養首相と高橋(是清)蔵相が強く反対したが、結局、居留民保護を訴える陸海軍の主張に押し切られた。派遣された陸軍部隊も苦戦を強いられ、やがて派遣兵力は3 個師団に及び上海派遣軍が編成された。 日本政府は満洲事変と上海事変とを絡ませず別個のものと取り扱って、事態を必要以上に拡大しない方針をとった。派遣軍は、中国軍に打撃を与えて日本軍の威力を示すことを優先したが、3 月初めの攻撃でそれを達成した後は、国際連盟による牽制もあって、自制的な行動をとるようになった。 一方、中国では 1 月 1 日に正式に発足した孫科政権が一月も持たずに崩壊し、汪精衛が行政院長に就任、蒋介石も政権に復帰した。中国にはまだ日本と戦う実力が備わってはいないと考える蒋介石は、陳友仁の対日断交方針に反対し、直系部隊を上海戦線に投入して19 路軍の抗戦を支えながら、同時に日本との妥協の道を探った11。 積極的に停戦斡旋に動いたのはイギリスである。列国の牽制と斡旋の下で 3 月中旬には事実上の停戦が成立し、5 月5 日に正式に停戦協定が調印された。停戦協定は、日本軍の撤退と、中国軍の駐屯を認めない非武装地帯の設定が眼目であった。中国側には、領土を割譲せず賠償金も支払わないで外国軍を撤退させたのは、アヘン戦争以降初めての大勝利である、との評価もあったという12。 上海での軍事紛争は、関東軍の板垣が狙ったように、列国の注視を満洲から離れさせた。その間、満洲では独立準備が着々と進行し、ついに3 月1 日には溥儀を元首(執政)とする満洲国の建国が宣言された。国際連盟の調査団(リットン調査団)が現地入りする前に、既成事実がつくられた。 現地の事態の急展開に押されて、陸軍指導部は既に新国家樹立を容認していた。犬養首相は満洲国の国家承認に否定的であったが13、同年5 月、海軍青年将校を主体とするテロ(五・一五事件)で暗殺されてしまう。後継首相には海軍長老の斎藤実が起用された。前年に発覚した軍人による未遂のクーデタ(三月事件、十月事件)や相次ぐテロが政党政治を激しく攻撃していたので、天皇から後継首相について諮問を受ける元老西園寺公望は、 9 田中隆吉「上海事変はこうして起された」『別冊知性-秘められた昭和史』(1956 年12月)を参照。 10 上海事変とその停戦交渉については、島田俊彦「満州事変の展開(1931-1932 年)」『太平洋戦争への道』第2 巻、第5 章を参照。 11 黄自進「満州事変前後における国民政府の対日政策」『東アジア近代史』第5 号(2002年3 月)22-24 頁。 12 同上、24-25 頁。 13 時任「犬養毅と満州事変」56-57 頁。 6 政党内閣を当面見合わせ、「中間内閣」と呼ばれる非政党内閣によって危機を乗り切り、政治に対する陸軍の圧力を緩和しようと考えたのである。 だが、強硬であったのは陸軍だけではない。例えば満洲国の承認については、政府よりも議会やマス・メディアのほうが積極的であった。6 月、衆議院は満洲国承認決議案を可決した。柳条湖事件時の満鉄総裁で関東軍に協力し、斎藤内閣の外相に就任した内田康哉は、議会での答弁で、日本は「国ヲ焦土ニシテモ」主張を貫くと述べ、満洲国承認を強く示唆した。9 月15 日、日本は日満議定書を調印して満洲国を正式に承認した。国際連盟から派遣されたリットン調査団が、現地調査を終え北京で報告書を作成した直後であった。 10 月2 日に公表されたリットン報告書は、柳条湖事件後の関東軍の行動を自衛の範囲内にあるものとは認めず、満洲国が住民の自発的な独立運動によって生まれたものとも認定しなかった。ただし報告書は、事変前への原状復帰が望ましいとも論じなかった。そこで提案されたのは、中国の主権と領土保全の原則を前提としながら、軍閥を排し、満洲における日本の権益と歴史的な関わりを考慮した自治的地方政府を形成することであった。満洲という地域の特殊事情に配慮した妥当な解決構想であり、事変前であったならば日本でもそれなりの評価を得たであろう。しかし、事変後1 年を経て、もはや日本ではほとんど見向きもされなかったのである。 5)満洲国の実態 満洲国は「王道楽土」「民族協和」という新国家建設の理念を謳った。居留民の中にはこの理念に共鳴し、奉天軍閥の圧政と苛斂誅求から満洲住民を救い、理想的な国家をつくることに情熱を燃やす者もあった。満洲の地方有力者や中小軍閥の中には、張学良に対する反感や自己保身から、新国家に同調する者も出てきた14。 むろん積極的に新国家建設に参加する住民は少なかった。反満抗日のゲリラ活動もなかなか下火とはならず、これに対しては満洲国の国防と治安の維持を担当する関東軍が徹底的かつ厳しい弾圧を加え、1932 年9 月の平頂山事件のように、ゲリラに通じたとされる住民の虐殺に至るケースもあった。 満洲国の統治実績の例として挙げられるものに幣制改革による通貨の統一がある。事変以前から満洲の地域金融システムは通貨統一の方向に向かっていたが、満洲国はこの方向を継承して強力に実現を図った15。通貨の統一は満洲経済の近代化を促し、1934 年までに満洲は中国の中で最も工業化された地域となった16。満洲国は経済のインフラストラクチャ整備にも力を入れた。鉄道では1933 年から44 年までにおよそ6,350 ㎞の新線が建設され、道路では32 年から39 年までに総延長15,480 ㎞の国道が竣工した17。鉱工業の面で 14 満洲国建国に関わった中国人については、浜口裕子『日本統治と東アジア社会』(勁草書房、1996 年)第2 章、第3 章を参照。 15 安富歩「「満洲国」経済開発と国内資金流動」山本有造編『「満洲国」の研究』(緑蔭書房、1995 年)239-246 頁。 16 Nakagane Katsuji, “Manchukuo and Economic Development,” in Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie, eds., The Japanese Informal Empire in China, 1895-1937 (Princeton University Press, 1989), p.134. 17 西澤泰彦「「満洲国」の建設事業」山本編『「満洲国」の研究』392 頁、407 頁。 7 は石炭、電力、鉄鋼、アルミニウム等の生産が大きく伸びた18。 しかしながら、こうした産業基盤や鉱工業の発展は住民の生活水準の向上を目指すものではなかった。多くの場合、開発や近代化は軍事的な考慮に促され、鉱工業の発展も軍需関連部門に傾斜していた。特に日中戦争の拡大以後はその傾向が強まり、満洲は日本の兵站基地化していった。太平洋戦争期に入ると満洲国も戦時体制を強化し、日本の戦争遂行の要求に応じることを最優先した。戦争末期には経済・金融のバランスが崩れ住民に多大の苦痛を与えた19。満洲国は「王道楽土」にはなり得なかった。 「民族協和」もスローガンだけに終始した。実質的に満洲国をコントロールしたのは関東軍であった。中央政府と地方(省)政府の実権は日本人官僚(日系官吏)によって掌握され、中央政府機関に占める日系官吏の比率も1934 年の53 パーセントから1940 年の69パーセントに増えた20。日本人の権力独占は強まるばかりであった。様々の面で日本人と他の満洲国人との格差が拡大した。当初から大きかった建国の理念と現実の乖離は、ますます広がっていったのである。 6)熱河事件と国際連盟脱退 満洲国は、奉天、吉林、黒竜江の東三省に加え熱河省を合わせて、その版図とした。だが、熱河省長の湯玉麟は、華北に蟠踞する張学良軍から強く牽制され、曖昧な態度をとり続けた。熱河は、張学良が満洲国の動揺を狙ってゲリラ部隊を浸透させる主要なルートであった。このため関東軍は湯玉麟を排して、実力で熱河を掌握することを計画した21。しかし1933 年に入り熱河への実力行使が日程に上ると、斎藤首相・内田外相と天皇がこれに強い懸念を示すようになる。それは、その頃国際連盟がリットン報告書に基づく事変解決勧告案を審議中だったからである。 満洲国を承認した日本としては、もはや報告書に基づく勧告案を受け容れることはあり得なかった。ただし連盟規約によれば、紛争当事国を除く全会一致の勧告を当事国の一方が受諾し、他方がそれを不服として新たに戦争を始める場合には、連盟はその国に対して制裁を発動するものとされていた。そのため政府首脳や天皇は、連盟の勧告案採決後に日本が熱河に武力を行使し華北にそれが波及すれば、連盟が制裁を発動するのではないかと憂慮していたのである。結局、政府は2 月20 日、勧告案可決の場合は連盟を脱退すると決定した。連盟の一員でなくなれば、制裁を受ける法的根拠はなくなるはずであった22。2月24 日、連盟総会は勧告案を可決し、3 月27 日、日本は連盟脱退を通告した。連盟によ 18 Ramon H. Myers, “Creating a Modern Enclave Economy The Economic Integration of Japan, Manchuria, and North China, 1932-1945,” in Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie, eds., The Japanese Wartime Empire, 1931-1945 (Princeton University Press, 1996) を参照。 19 塚瀬進『満洲国』(吉川弘文館、1998 年)190-198 頁、同「満洲国の実験」山室建徳編『日本の時代史25 大日本帝国の崩壊』(吉川弘文館、2005 年)130-132 頁。 20 塚瀬『満洲国』44 頁。 21 熱河作戦については、内田尚孝『華北事変の研究』(汲古書院、2006 年)第1 章、第2章を参照。 22 国際連盟と熱河作戦との関係については、井上寿一『危機のなかの協調外交』(山川出版社、1994 年)第1 章を参照。 8 る制裁を危惧して熱河「討伐」を躊躇する意味はなくなった。 一方、中国側では、熱河はいわゆる満洲の東三省とは異なる地域と認識され、したがって関東軍が軍事力を用いて熱河を完全に掌握しようとすれば、それは日本の新たな「侵略」と見なされることになった。関東軍の熱河進出の動きに対し、国民政府が湯玉麟と張学良に熱河防衛を厳命したのは、このためである。張学良は20 万を超える東北軍を熱河に入れたが、1933 年2 月、関東軍2 個師団が熱河作戦を開始すると、2 週間足らずで潰走した。剿共戦を指揮していた蒋介石は事態の急変に驚き、華北の東北軍と西北軍25 万の大軍を長城の防衛戦に投入した。 長城線に達した関東軍は中国軍の頑強な抵抗に遭い激戦を交えた。同年4 月、ようやくそれを排除し、長城線を越えて関内に侵入した関東軍は、陸軍指導部の反対にあって一旦は長城線外に撤退したものの、5 月、あらためてこれを突破して関内に入った。満洲国防衛のためには、それを脅かす華北の張学良の権力基盤を壊滅させねばならない、というのが関内進出の理由であった。 中国にとって、張学良軍が敗走した「熱河の惨敗」は大きな衝撃であった。上海での対日抗戦を成功と見る傾向があっただけに、その衝撃は大きかった。しかも、共産勢力との戦いは依然として決着がつかなかった。蒋介石は、外敵を撃ち払う前に国内の敵を平らげるという「安内攘外」の方針に基づき、日本との妥協に向かう。北平近郊にまで迫った日本軍に抵抗を続けて、さらに失地を広げるよりも、一時的に屈して妥協を図り、将来の失地回復に備えようと考えたのである23。 こうして1933 年5 月31 日、天津郊外の塘沽で日中両国の軍事当局の間に停戦協定が調印された24。関東軍が長城線以北に引き揚げる代わりに、その南に広大な非武装地帯(戦区)が設定され、そこには中国軍は駐留できず、警察部隊(保安隊)が治安の維持にあたることになった。蒋介石と汪精衛が合作した国民政府は、塘沽停戦協定が中国側にとって不利であることを承知しつつ、満洲国の承認につながることを避け、これ以上の失地拡大を防ぎ、特に平津(北平と天津)を確保し、関東軍を長城線以北に撤退させることを、より重視したのである。 2.関係安定化の模索と挫折 1)戦区接収と実務協定 塘沽停戦協定によって満洲事変には一応のピリオドが打たれた。だが、華北の事態はまだ流動的であった。中国にとっては、満洲国を承認しないことは当然としても、当面その実在をどのように取り扱うかに苦慮しなければならなかった。この困難な問題に取り組んだのは黄郛(行政院駐平政務整理委員会委員長)である。彼を中心とした華北の地方機関が、南京の中央政府の指示を受けつつ、満洲国を代表する関東軍との交渉に臨んだ。 交渉の最初の案件は、関東軍の関内撤退と中国側による戦区接収であった。関東軍によ 23 鹿錫俊『中国国民政府の対日政策 1931-1933』(東京大学出版会、2001 年)第6 章、第7 章。 24 塘沽停戦協定の交渉については、内田『華北事変の研究』第3 章を参照。 9 る長城線の確保など不完全さは残ったが、中国側による戦区の行政権回収には一応の決着が付いた。次に交渉の対象となったのは中国と満洲国との連絡に関わる諸問題である。まず鉄道連絡については、日中合弁の民間会社を設立し、その会社が奉天・北平間の列車を行するという通車に関する合意が1934 年6 月に成立した。難しかったのは、国家承認関わる郵便の交換であったが、これについては国際連盟が、郵政機関の間で関係を持つことは満洲国の国家承認を意味しないと決議し、それを受けて同年12 月、通郵に関する申し合わせができた。その直後には、長城線を境界として税関を設置する協議も妥結した。 このような実務に関する交渉の過程で、華北当局は国民政府の指示を受け、満洲国承認に関わる事項を一貫して拒否し、関東軍との合意覚書の作成には同意したが、それを協定とは認めず調印することも回避した25。この点で中国側は日本に対して一方的に屈服したわけではない。しかし、多くの場合、中国側は日本の要求を受け容れざるを得なかった。黄郛は、塘沽停戦協定の枠内で交渉する限り中国側の不利を脱却することができないので、同協定を解消し、華北問題を華北当局と関東軍との折衝ではなく、中央政府間の交渉に載せる必要があると考えるようになった26。 一方、日本政府は、戦区の交渉をほとんど関東軍の手に委ねた。満洲国の実在を既成事実とし、地方としての華北の現地交渉を軍事に関わる問題として関東軍に委ねながら、政府・外務省は、全体としての中国との関係修復・安定化に取り組もうとしたのである27。 2)広田・重光外交 1933 年9 月に内田に代わって広田弘毅が外相に就任してから彼の首相時代も含め1937年2 月までは、一般に広田外交の時代と呼ばれる。ただし対中政策に関しては、広田の了解の下で、次官の重光が主導的役割を果たした。重光は、親日的と見られた蒋汪合作政権との提携を通じて日中関係を安定化させようとする。その際、彼は欧米列国の中国に対する関与を制限ないし排除し、列国の権益を犠牲にすることによって中国の対日協力を引き出そうとした28。 1934 年4 月のいわゆる天羽声明には、このような重光の構想が示されている29。天羽声明とは、外務省情報部長の天羽英二が新聞記者との会見で行った非公式の談話であり、それが内外に報じられて国際問題化した。声明の趣旨は次のようなものである30。中国問題に関して日本は列国とその主張・立場を異にし、それゆえ国際連盟を脱退したのだが、東アジアの平和と秩序の維持は日本の使命であり、中国とともにその責任を全うする決意である。これに対して、列国の中国に対する共同動作は、たとえ名目は経済的あるいは技術 25 光田剛「華北「地方外交」に関する考察」『近代中国研究彙報』第22 号(2000 年)53-54 頁。 26 光田剛『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』(お茶の水書房、2007 年)206 頁。 27 臼井勝美『日中外交史研究』(吉川弘文館、1998 年)126 頁。 28 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊』(東京大学出版会、1992 年)58-62 頁。 29 重光と天羽声明との関係については、冨塚一彦「1933、4 年における重光外務次官の対中国外交路線」『外交史料館報』第13 号(1999 年6 月)を参照。 30 「天羽英二情報部長の非公式声明」島田俊彦・稲葉正夫編『現代史資料8・日中戦争1』(みすず書房、1964 年)25-26 頁。 10 的なものであっても政治的な意味を帯びることは避けられず、結果として中国の国際管理や勢力範囲の設定を招きかねない。したがって、そのような列国の援助は、東アジアの平和と秩序を乱すものとして日本は反対せざるを得ない。 このような趣旨の天羽声明は、直接的には、中国の欧米派と呼ばれるグループが日本を除外したかたちで欧米列国との経済提携を画策していることに対する警告であった。前年に財政部長の宋子文は、日中関税協定の特例措置が期限切れになると、据え置かれていた日本商品に高率関税を課し、アメリカとの間に5000 万ドルの信用供与(棉麦借款)を成立させた後、列国から技術・経済援助を得ようと画策していた。宋子文のアドヴァイザーとして対中援助を具体化させていたのは、国際連盟の元事務次長(後のヨーロッパ統合の父)ジャン・モネ(Jean Monnet)である31。 欧米のメディアは天羽声明を、日本が「東亜モンロー主義」を表明し侵略主義的な意図を示したものと非難した。しかし、各国の政府レベルでは、門戸開放・機会均等の原則を尊重するとの広田外相の釈明を受け容れた。中国でもメディアの反応は厳しかったが、政府の対応は冷静であった32。 3)日中提携の試み 天羽声明のつまずきにもかかわらず、広田・重光の対中関係安定化の試みは継続された。中国側でも、日本側の試みに応じる条件が整いつつあった。1933 年11 月、福建に移駐させられた19 路軍と反蒋勢力が手を結んで福建人民政府を樹立したが、翌年1 月の国民政府中央軍の総攻撃で同政府は壊滅した。江西省の共産軍に対する第5 次剿共戦も順調に進み、1934 年11 月には瑞金が陥落、共産軍は「長征」という名の逃避行に移った。こうして蒋汪合作政権の基盤強化により、対日関係安定化のための前提が形成されたのである。 1935 年1 月、蒋介石は徐道鄰の名を借りて、『外交評論』に「敵か?友か?-中日関係の検討」という論文を発表した。この中で蒋介石は、日中関係悪化について日本だけでなく中国にも責任があることを認め、日中提携の必要性を訴えた33。同年1 月22 日、広田外相は帝国議会の演説で中国に対する不脅威・不侵略を唱え、日中親善を論じた。広田演説に応えるかのように同年2 月、国民政府は全国の新聞社に排日言論の掲載禁止を命じた34。3 月には、各省市の教育部に反日的な教科書の使用禁止を命令した。 日中の親善ムードがピークに達したのは同年5 月17 日の大使交換である。中国に対する常駐使節を公使から大使に昇格させる方針は、既に1924 年に閣議決定されていたが、1934 年から翌年にかけての関係安定化と親善ムードの中で、ようやく実現の運びとなった。日本は列国(英・米・独・仏)にも中国との大使交換を働きかけ、その賛同を得た。1935年6 月には、国民政府が邦交敦睦令を公布し、排日運動を禁止した。 31 濱口學「ジャン・モネの中国建設銀公司構想」『外交史料館報』第15 号(2001 年6 月)を参照。 32 光田剛は、天羽声明によって蒋介石が日本を主敵と見なすようになった、と解釈している。光田『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』202-204 頁。 33 宇野重昭「中国の動向(1933 年~1939 年)」『太平洋戦争への道』第3 巻(朝日新聞社、1962 年)281-282 頁。 34 この間の日中間の動きについては、臼井『日中外交史研究』133-137 頁。 11 このような親善ムードを背景に、日中経済提携の動きも本格化した35。同年10 月、中国実業界の経済視察団が来日し、同時期には日本実業界の経済視察団が訪中した。翌1936年1 月には東京に日華貿易協会、上海に中日貿易協会が設立された。 35 家近亮子『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002 年)182-185 頁、小林英夫「幣制改革をめぐる日本と中国」野沢豊編『中国の幣制改革と国際関係』(東京大学出版会、1981 年)242-243 頁。 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/retroadventure/pages/258.html
カセット版 タイトル 関連リンク・1 関連リンク・2 プレイ動画リンク 備考 あ アイドル八犬伝 馬琴衒学館 (攻略) ニコニコ動画 エンディングのみ 赤川次郎の幽霊列車 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 アキラ ~AKIRA~ Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 悪魔の招待状 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 暗黒神話 ヤマトタケル伝説 いなかのげーせん (攻略) ニコニコ動画 えりかとさとるの夢冒険 つあらいのほおむぺえじ (攻略) 美味しんぼ 華北探偵事務所 (攻略) ニコニコ動画 おそ松くん バック・トゥ・ザ・ミーの出っ歯の巻 RUN IN UNIVERSE (攻略) ニコニコ動画 オホーツクに消ゆ(北海道連鎖殺人) Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 か かぐや姫伝説 ファミコン仏陀 (攻略) ニコニコ動画 かってにシロクマ もりをすくえのまき ニコニコ動画 京都財テク殺人事件 何かのマチガイ (攻略) ニコニコ動画 京都花の密室殺人事件 何かのマチガイ (攻略) ニコニコ動画 京都龍の寺殺人事件 Adventure Island (攻略) 何かのマチガイ (攻略) ニコニコ動画 孔雀王 ゲーム研究所3948 (攻略) 孔雀王Ⅱ 御存知弥次喜多珍道中 Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 さ 殺意の階層 パワーソフト連続殺人事件 Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 殺人倶楽部 闇の王国 (攻略) サラダの国のトマト姫 華北探偵事務所 (攻略) ニコニコ動画 さんまの名探偵 Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) ジーザス 恐怖のバイオモンスター 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 時空の旅人 時空の旅人を見守る会 (攻略) mononofu (攻略) シャーロックホームズ伯爵令嬢誘拐事件 RKO First Labo (攻略) シャドウゲイト 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 じゃりん子チエ ばくだん娘の幸せさがし Adventure Island (攻略) 草陰 (攻略) 小公子セディ 俺ちっく艦隊 (攻略) 少年アシベ ネパール大冒険の巻 藝夢天国 (攻略) ニコニコ動画 SWAT ファミコン仏陀 (攻略) 星霊狩り 闇の王国 (攻略) 赤龍王 ゼルダの伝説1 た 太陽の神殿 ~アステカⅡ~ Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 たけしの挑戦状 Adventure Island (攻略) 探偵神宮寺三郎 時の過ぎゆくままに Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 探偵神宮寺三郎 横浜港連続殺人事件 Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 TM NET WORK LIVE POWER BOWL 闇の王国 (攻略) ディジャブ 悪魔は本当にやって来た 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 東方見文録 FC銅雀台 (攻略) ニコニコ動画 な 西村京太郎ミステリー スーパーエクスプレス殺人事件 闇の王国 (攻略) 西村京太郎ミステリー ブルートレイン殺人事件 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 は ビーバップ・ハイスクール 必殺仕事人 RKO First Labo (攻略) ひょっこりひょうたん島 なぞのかいぞくせん プロ野球?殺人事件 なにかするどこひま跡地 (攻略) ポートピア連続殺人事件 Adventure Island (攻略) ま 舛添要一 朝までファミコン 何かのマチガイ (攻略) マニアックマンション 闇の王国 (攻略) 魔法のプリンセス ミンキーモモ リメンバードリーム マルサの女 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 ミシシッピー殺人事件 Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) 名探偵ホームズ Mからの挑戦状 華北探偵事務所 (攻略) 名探偵ホームズ 霧のロンドン殺人事件 草陰 (攻略) めぞん一刻 草陰 (攻略) メタルスレイダー グローリー ら リップルアイランド リップルアイランドの記憶 (攻略) LAW OF THE WEST -西部の掟- さっとの部屋 (攻略) ディスクシステム版 タイトル 関連リンク・1 関連リンク・2 プレイ動画リンク 備考 か 消えたプリンセス 草陰 (攻略) げぇむに恋して! (攻略) さ サムライソード Adventure Island (攻略) じゃあまん探偵団魔隣組 丸秘ジゴマ捜査ファイル 水晶の龍 Adventure Island (攻略) 草陰 (攻略) ゼルダの伝説 ゼルダの伝説資料館 (攻略) た タイタニックミステリー 蒼の戦慄 GameFoolish (攻略) タイムツイスト 歴史のかたすみで…(前後編) Adventure Island (攻略) げぇむに恋して! (攻略) ニコニコ動画 探偵神宮寺三郎 新宿中央公園殺人事件 Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 探偵神宮寺三郎 危険な二人(前後編) Adventure Island (攻略) 闇の王国 (攻略) ニコニコ動画 デッドゾーン Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 な 中山美穂のトキメキハイスクール げぇむに恋して! (攻略) ニコニコ動画 ナゾラーランド 第3号(ナゾラー少年探偵団) 何かのマチガイ (攻略) なんきんのアドベンチャー は 光GENJIローラーパニック You Me(路地裏) (攻略) ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者(前後編) Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 前編 後編 ファミコン探偵倶楽部2 うしろに立つ少女(前後編) Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島(前後編) Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 ふぁみこんむかし話 遊遊記(前後編) Adventure Island (攻略) ニコニコ動画 ま Mr.GOLD 遠山の金さんすぺえす帖 更新履歴 08/08/31 ニコニコ動画にある、プレイ動画リンクを追加(今後は逐一更新) 08/08/31 「コスモジェネシス」「明治維新」をリストから削除(ジャンル違いと判断) 08/09/05 細かい修正 08/09/06 「舛添要一 朝までファミコン」を追加 08/09/10 「AD D ヒルズファー」「ゴルゴ13 第一章」「ゴルゴ13 第二章」「マインドシーカー」「マハラジャ」をリストから削除(ジャンル違いと判断)
https://w.atwiki.jp/regnumtria/pages/449.html
赤壁の戦い~前哨戦~ 曹仁 剣兵/rank4 LV35 許チョ 矛兵/rank3 LV35 徐晃 矛兵/rank3 LV35 [発生武将] 諸葛亮 「あぁ、随分といい風が吹いてきましたね。いーい感じです」 ホウ統 「この士元に任せておきなさい。なぁにちょいと面白いことを、ね」 [序章] 華北を制した曹操は次の目標を南方へと定めた。 呉の領土にまで及ぶ曹操の侵略に対し呉の国内では交戦・降伏の両論が交錯する。 そんな中、劉備の軍師となった諸葛亮が呉へと出向き孫権に共闘を持ちかける。 さまざまな思惑が交錯する中、孫権は兄孫策の義兄弟である周瑜の後押しもあり、開戦を決意する。 [終章] 諸葛亮 周瑜の策により、魏軍の水軍の弱体に成功する。 そして諸葛亮は赤壁の地形、風土より勝機を見出す。 まだ、戦いは始まったばかりである。 ホウ統 ふらり気のままを装い魏軍に紛れ込むホウ統。 船酔いに苦しむ魏軍に対しホウ統は一つの妙案を打ち出す。 まだ、戦いは始まったばかりである。
https://w.atwiki.jp/retroadventure/pages/124.html
黄金の墓 1983年発売 (マジカル・ズゥ/ストラットフォード・コンピューターセンター) ストーリー (テープ版あらすじ) 「ギザの地に入るものよ、獅子に光を与え時の風に乗れ。その理力により全てを得ん。クフはギザの地の人々に永遠に眠る。」 砂漠の中のアドベンチャーは、この謎のメッセージから始まった。 悪漢どもとの戦い、美少女との出会い、森を抜け、クフ王の秘密を追い求める壮大なアドベンチャーの旅! 隠された財宝はどこに?そしてその宝とは一体何か? 甦るロマンと冒険の世界へ、今こそ出発!! 操作方法 コマンド入力式(日本語) 作品解説 テープ版(タイトル・左)とディスク版(タイトル・右)ではゲーム内容が異なり、ディスク版は高い難易度であった。 チャレンジ!!パソコンアドベンチャー・ゲーム 第一巻に収録。 関連項目 続・黄金の墓 ~スフィンクスの謎~ 外部リンク 配信サイト(有料) レトロゲーム総合配信サイト プロジェクトEGG (PC-8801版) 攻略サイト ashen to ashen(誰が見るのよ懐ゲー攻略集) (テープ版/ディスク版の攻略あり) 華北探偵事務所