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人物 ノーム・チョムスキー〔Wikipedia〕 ノーム・チョムスキー〔Wikipedia@pedia〕 あーあチョムスキー終了。 普遍文法も反論が貯まってきてるところ、晩節を汚したなぁ https //t.co/p1asQY1O9g — MitNak【Bea;champ】 (@MitNak5) November 12, 2021 ■ 【速報】ノーム・チョムスキーが「ふくしま集団疎開裁判」と世界市民法廷に支持と支援の表明 「ふくしま集団疎開裁判(2012.1.4)」より ※ 訳文 「ふくしま集団疎開裁判」に個人的な支援ができることを光栄に思います。 社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、社会の最も弱い立場の人たちのことを社会がどう取り扱うかという基準に勝るものはなく、 許し難い行為の犠牲者となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。 日本にとって、そして世界中の私たち全員にとって、この法廷は失敗が許されないテスト(試練)なのです。」 ノーム・チョムスキー (2012年1月12日) .
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768 :グアンタナモの人:2012/03/13(火) 23 18 31 →711を読んで、少しだけフランクリン世界の日本人のそれからを考えてみたので投下致します。 考察内容が内容だけに若干鬱な話かもしれません。ご注意してください。 皇居前広場にかみ殺したような嗚咽が響いていた。 一人、二人といった人数のものではない。 十数人もの人間が皇居へ向かい、手と付き、頭(こうべ)を垂れ、涙を流していた。 本来ならば、不審な集団として扱われそうなものだが、皇居を守護する皇宮警察は複雑な表情を浮かべたまま、遠巻きにその集団を見守っている。 何故ならそれはここ数年の間に、半ば日常と化してしまった光景だからだ。 今や彼ら皇宮警察が動くのは、時たまに〝自決〟を図ろうとする人間を止める時くらいである。 わずかに得られた時間を利用して〝健在〟である皇居を参拝し、そこで溢れ出たあらゆる感情に身を委ねる人々。 彼らは〝疎開日本人〟と呼ばれる人々であった。 ―― それからの彼ら ―― 数年前の話である。 あのバチカンに悪魔そのものとまで言わしめたフランクリン=デラノ=ルーズヴェルト率いる連合国に〝滅亡〟に追い込まれた自国と繋がったのは。 〝雲の柱〟から垣間見た異世界の大日本帝国の惨状を目の当たりにし、世界最強というまでに上り詰めていた憂鬱世界の大日本帝国は激憤した。 そして激憤したのは彼らだけではない。 ユーラシアを挟んだ向こう側。ドイツ第三帝国でも同様の事象が起き、彼らもまた同様に激憤したのだ。 この後に何が起こったかは、教科書にも載っている。 大日本帝国首相とドイツ第三帝国総統が握手を交わす写真と、日独共同宣言はあまりにも有名だろう。 それは互いが互いを睨んで研鑽し合っていた日独の軍隊が、異界の空の下で轡を並べる決意を固めた歴史的な瞬間だからだ。 轡を並べて、共に憤怒に身を焦がした彼ら日独同盟軍は、まさしく鬼神の兵団と化した。 極東では本州解放から台湾解放までが。 欧州ではドイツ本土解放から東プロイセン解放までが三ヶ月の間に成され、さらに一年を過ぎる頃にはポトマック河の畔で〝フリードリヒ=デア=グロッセ〟と舳先を並べた〝大和〟の艦上で、最後の連合国であるアメリカ合衆国が降伏していたのだから、日独同盟軍の動きは筆舌にし難い。 されど当然ながら、代償はあった。 連合軍は日独同盟軍の進撃を止めるために、あの手この手で原子爆弾を使用したのだ。 もっともそれが日独同盟軍の上で起爆した例は皆無。 むしろ日独同盟軍に撃墜された原爆搭載の爆撃機や地上起爆を試みたものに巻き添えとなる形で、吹き飛ばされてしまった連合軍の方が多い有様だった。 769 :グアンタナモの人:2012/03/13(火) 23 19 59 だが、それでも連合軍を追い出すまでに、日本列島や台湾で起爆した原子爆弾は延べ十発。 ドイツ本土でも同様に延べ七発の原子爆弾が起爆した。 当然ながら、異世界の両国は人間が住めるような状態ではなくなっていた。 大日本帝国が放射線物質を除去するために開発した最新鋭のナノマシンを用いても、両国が人間の住める状態を取り戻すには半世紀から一世紀もの時間を要するという試算すら出てしまうほどであった。 かくして日独は、ノアの箱舟作戦と称された異世界で生き残っている同胞の集団疎開を計画。 日独合計で七〇〇〇万人近い同胞に〝雲の柱〟を超えさせる方針を打ち立てた。 勿論、それは生半可な話ではない。 連日連夜、双方の間を大型船が行き交ってなお、かなりの時間と、資金的な負担を必要とする作戦だ。 資金的な問題は旧連合国が滓すら残らないほど搾り取ることで当面はどうにかなったものの、時間ばかりはどうしようもなかった。 故に今現在、彼らの集団疎開は未了である。 異世界の日本人やドイツ人は、向こうの汚染が軽微な地域に仮疎開させられ、そこからさらに〝雲の柱〟を超えて疎開するまでの順番待ちを強いられているのだ。 また無事に〝雲の柱〟を超えて疎開してきた人間達は地域ごとの集団に纏められ、カルチャーギャップを埋めるための教育が施される。 彼ら〝疎開人〟が本当の意味で自由になるには、相当の時間が必要であった。 しかしながら〝疎開人〟からの不満の声はほとんど挙がらなかったという。 彼ら〝疎開人〟に共通していたことだが、彼らは信じがたいほどに不平不満を表さなかった。 何故ならば、彼らは既にこの世の地獄を見てきた後だったからだ。 旧政府が声高に喧伝していたのと寸分違わぬ〝鬼畜米英〟や〝悪しき連合軍〟の手によって作り出された地獄を。 彼らにとって、この程度の苦など、苦にすらならなかったのだ。 だがそれは裏を返せば、苦に耐えられなかった人間はこちらに渡れなかった、ということでもある。 合衆国降伏後、現地軍――連合軍占領下で抵抗活動をしていた異世界の日独旧軍を再編成したもの――の将兵のおよそ半数が自決や自決未遂を行なったという問題。 これに加えて日本では、陛下を守れなかったという事実を前に死を選んだ人間が、憂鬱世界の今上陛下が急遽お言葉を述べるまで多数存在していた。 悪魔が齎した歪みは、残念ながらそう簡単に癒えそうになかった。 一度、国を失い、新たな祖国で生きようとする彼ら。 彼らが過去から立ち直れるのか、それはまだ誰にも判らない。 (終)
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私たちNPO河口湖自然楽校(代表理事 清水国明)は、被災されたご家族やお子様たちを、山梨県富士河口湖にあります自然体験施設「森と湖の楽園」へ、期限を定めず、随時、無料でお招きする支援活動を行っています。 山梨県へ要請済み。 受付 NPO河口湖自然楽校が窓口となって 直接の申し込みを受け付けます。 疎開託児施設としての河口湖自然楽校を利用されたい方は、 電話0555-73-4116までお問い合わせください。 緊急受け入れの期間は温泉施設で2週間、 疎開託児はそれ以上の長期で対応します。 受け入れは被害が甚大な地域の方を最優先させていただきます。 4/30現在、50名の子どもたちが疎開しています! 清水國明の「森と湖の楽園」 山梨県南都留郡富士河口湖町小立5606 「森と湖の楽園」ホームページ 大きな地図で見る YouTube動画 アウトドアデイジャパン2011その2 清水国明と子どもたち 清水国明の活動報告。2011年4月10日のアウトドアデイでのブースの様子。 関連リンク 清水国明ブログ「緊急です。夏休み宣言して、逃げ出して来て。」2011-04-30 08 25 21 http //ameblo.jp/kuniaki-shimizu/entry-10876621155.html 清水国明ブログ「緊急受け入れ500名!決定しました。」2011-03-21 03 57 39 http //ameblo.jp/kuniaki-shimizu/entry-10836640431.html 一つ前のページにもどる
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209系0番台 京浜東北線 ※廃車回送までの流れ 1、東大宮操車場へ疎開回送 2、東大宮操車場で留置 3、東大宮操車場から北長野へ廃車回送 1号車=クハ 2号車=サハ 3号車=モハ 4号車=モハ 5号車=サハ 6号車=サハ 7号車=サハ 8号車=モハ 9号車=モハ 10号車=クハ 特に記述されていない車両については解体されたと捕らえてよい。 京浜東北線209系0番台・500番台の変遷 編成番号経過長野車セへの回送備考 ウラ1全車解体H20.1.20209系0番台のトップナンバー。保存されることもなかった。 ウラ27号車以外のサハ解体・他7両はMUE-Train(多目的試験車)へ改造H20.7.1・長総MUE-Trainの長総出場は2008年10月8日 ウラ3全車解体H20.2.21 ウラ4全車解体H20.2.6 ウラ5全車解体H20.3.11 ウラ6クハ2両以外全車解体H20.3.18 ウラ7クハ2両以外全車解体H20.4.15 ウラ8クハ2両以外全車解体H20.4.22 ウラ9クハ2両以外全車解体H20.5.8 ウラ10クハ2両以外全車解体H20.5.20 ウラ11クハ2両以外全車解体H20.7.15 ウラ12クハ2両以外全車解体H20.5.13 ウラ13クハ2両以外全車解体H20.9.9 ウラ14クハ2両以外全車解体H20.8.26 ウラ15クハ2両以外全車解体H20.9.16 ウラ16クハ2両以外全車解体H20.9.30青森に2次疎開 ウラ17クハ2両以外全車解体H20.10.15 ウラ18クハ2両以外全車解体H20.11.4 ウラ19H20.4.8 ウラ20クハ2両以外全車解体H20.12.2 ウラ21クハ2両以外全車解体H20.12.16 ウラ22サハ以外6両→2200番台(南武線・ナハ52)に改造H20.10.28下新田に2次疎開,TK改造H21.1.26~5.14 ウラ23クハ2両とウラ36のモハ2両が組成→2100番台(C417)に改造H21.1.14 ウラ24H20.11.12 ウラ25H20.11.26 ウラ26H21.2.3 ウラ27H21.2.26 ウラ28H20.12.9 ウラ29H21.3.3 ウラ30H20.12.23 ウラ31H21.3.24 ウラ32H21.6.30 ウラ33H20.3.5 ウラ34H21.7.7 ウラ35H21.-- ウラ36 ウラ37モハ2両(2・3号車)が東大宮の訓練車に改造H19.12.14209系0番台最初の廃車回送。 ウラ38 ウラ39 ウラ40 ウラ41 ウラ42 ウラ43 ウラ44 ウラ45 ウラ46 ウラ47 ウラ48 ウラ49 ウラ50 ウラ51 ウラ52 ウラ53 ウラ54 ウラ55 ウラ56 ウラ57 ウラ58 ウラ59 ウラ60 ウラ61 ウラ62 ウラ63 ウラ64 ウラ65 ウラ66 ウラ67 ウラ68 ウラ69 ウラ70 ウラ71 ウラ72 ウラ73 ウラ74 ウラ75クハ・モハ6両以外解体H20.8.9青森に2次疎開 ウラ761・2・3・10号車→2200番台(C410)3・4号車→(C409)H20.9.2郡山車セ改造H20.9.18~H21.7.6 ウラ77クハ・モハ6両以外解体H21.10.7青森に2次疎開 ウラ78クハ・モハ6両以外解体H21.3.31青森に2次疎開・209系0番台京浜東北線ラストナンバー 209系500番台 京浜東北線 京浜東北線209系0番台・500番台の変遷 編成番号経過廃車回送(北長野)備考 ウラ80 ウラ81 ウラ82 ウラ83 ウラ84 ウラ85 209系500番台総武緩行線 209系1000番台常磐緩行線 209系2000番台 209系2100番台 209系2200番台南武線 209系3000番台八高線・川越線 209系3100番台八高線・川越線 年表 組成などの詳細は上の表を参照。疎開は記載しない。 2007年 6.23 ウラ48が長野車セへ回送。 6.30 ウラ32が長野車セへ回送。 7.6 郡山車セ改造のC410(元ウラ76の一部)が尾久へ回送。 7.7 尾久留置のC410が幕張へ回送。 7.7 TK改造のナハ■(元ウラ24の一部)が中原へ回送。 7.7 ウラ34が長野車セへ回送。 7.8 大宮車セ改造のC405(元ウラ19と72の一部)が幕張へ回送。
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00.まえがき 01.開戦 02.国民学校一年生 03.出征 04.大本営発表 05.海軍軍事工場 06.消火訓練 07.国策映画 08.最初の空襲 09.我が家の焼失 10.疎開 11.田植え 12.弟の死 13.終戦 14.疎開先での通学 15.食料難 16.兵舎 17.物乞い 18.中洲小学校四年生 19.自転車泥棒 20.アメリカの援助 (リンク) 映画の主人公となったカメラたち (リンク) 私の写真集(リンク)
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まもなく敗戦から75年、新型コロナウイルス感染大流行から国民の命を本気で守ろうとする意志もなく、未来世代に見せてはいけない無責任な大人の姿を晒す安倍自民党公明党政権が、間違っても憲法に手をかけてはいけない集団であることが幅広く痛感される2020年夏本番が到来しています。(文と写真:山本宗補) 今年はコロナ禍のため、通常のイベントにはならないが、会場のロビーを利用して、ミニ写真展をやります。展示するテーマは沖縄の「戦争マラリア」です。 取材したのは戦後60年の2005年夏。初めての沖縄取材でもありました。何事も遅すぎることはない、という思いでの取り組みでした。 戦争マラリアの舞台となった石垣島、波照間島、西表島などの八重山諸島で体験者を探し、体験者から紹介され、事態の深刻さを痛感したものです。以下の長文はその時の取材を大まかにまとめたものです。 軍隊は住民の命を守る意思は最初からないことがひしひしと伝わってきます。中国東北部、満州の荒野に関東軍により棄民された満蒙開拓団の人々が被った悲劇を重なります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 《「戦争マラリア」の記憶が風化する前に》 写真と文:山本宗補}}(2005年記に2020年加筆修正) 石垣島に建立された「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 日本で唯一の地上戦が戦われた沖縄では、敗戦の年の6月23日に組織的戦闘が終わり、米軍死者12500人を含め、死者231000人を出した。わずか90日間あまりの戦闘により沖縄県民の4人に1人が亡くなったという。この中で、いわゆる「戦争マラリア」の犠牲者は3647人にのぼる。 日本軍が沖縄住民の命など始めから守るつもりのなかった事例は数え切れない。「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍国主義の洗脳教育の徹底で、多数の住民が集団自決を計っただけでなく、隠れていた壕を日本軍に追い出され米軍の攻撃にさらされたり、スパイ扱いされて斬り殺されるなどの体験談も多く残されている。 「戦争マラリア」は、戦わずして住民が日本軍に殺された事例のひとつだ。3600人という想像を絶する離島の民が、6月末の沖縄戦の終結にも、8月15日の敗戦にも左右されることなく、八重山の片隅でマラリア地獄の中を死んでいった悲劇は、十分な報道がされてこなかった事実だ。 ここでも、天皇と大本営が敗戦を一ヶ月でも二ヵ月でも早く受け入れていれば、多くの民間人も兵士も無駄死などせずに済んだのにと、怒りを新たにする。戦後60年、軍部によって起きた悲劇の生き残りの多くが80代、70代の高齢者となった。人の記憶はいづれ風化して消え去ってしまう。そのためにも、戦争マラリアの生存者の話と写真を記録に残しておこうと思う。 ・拒否できない軍命と疎開先 戦争マラリアは、地上戦のなかった八重山諸島(石垣島、竹富島、西表島、鳩間島、波照間島、黒島、新城島、仲御神島)で起きた。沖縄の最も南に位置する八重山諸島では、米英軍による空襲は44年10月から始まり艦砲射撃もあったが上陸作戦は行われなかった。45年4月、沖縄中部に上陸した米軍の沖縄侵攻の戦略上、重要でなくなったためだ。 八重山諸島地図 しかし、石垣島の八重山守備軍は、無病地の島民を軍命によりマラリア有病地へ疎開させた。石垣島南部一帯の住民は中部や北部の有病地へ、竹富、波照間、黒島、新城、仲御神島の住民は西表島の海岸地帯へと避難させられた。(西表島の疎開先によっては、マラリアの発病と死亡率が大きく異なった) 各島の牛馬や豚、ヤギなどの家畜は屠殺を命じられ、保存肉は日本軍の食糧になったといわれている。 波照間寛さんは島の牛馬の屠畜の手助けをした。 「西表島への強制疎開を指揮した山下軍曹(国民学校の指導員として離島に送り込まれた陸軍中野学校出身の特務兵)の命令で、米軍の上陸を想定し、牛馬を屠殺する。島に残る年寄りを手助けし、牛馬60頭あまりを屠殺した。牛を屠殺場まで引っ張っていったり、死んだ牛馬を浜辺近くのサンペイ壕に埋め、アダンの葉をかぶせた」 日本軍は44年に八重山郡島各地でマラリアなどの病気調査を終え、有病地帯を把握していた。また、マラリアは明治時代から八重山の風土病としてよく知られてもいた。 軍命による疎開は波照間島では45年4月頃始まり、疎開先での食糧が欠乏し始め抵抗力が落ち始める頃に雨季入りした。石垣島住民の疎開は6月に入って始まった。発病しても、抗マラリア薬などは手に入らないため、発病患者が一人二人と病死し始めた。しかし、本当のマラリア地獄は疎開が解除された7月以降、故郷に帰還してからだった。家に戻っても食糧も薬もないために、ほとんどの住民が発病し生死を彷徨った。 人口31671人のうち、16884人の二人に一人がマラリアを発病し、3647人が病死した。6月から12月までのわずか半年の間の出来事だった。主に10歳以下の幼児と61歳以上の高齢者に死者が多かった。石垣島の日本軍もキニーネなどの抗マラリア薬の欠乏で、680人の将兵が戦わずしてマラリア死した。 2002年、東南アジア有数のマラリア地帯、タイ・ビルマ国境の町にある無料クリニック。ビルマ側から運ばれてきた若者だったが、受付に着いた瞬間に膝から崩れ落ちた。マラリアによる病死だった。 死亡率が高いのは「熱帯熱マラリア」だったから キニーネさえ手に入れば、衰弱していてもこれだけ多数の人がマラリアで死に至ることはないだろう。例えば、私が取材で10数回訪れたことのあるビルマ・タイ国境周辺は、東南アジアでも有数のマラリア感染地域だが、薬が手に入らない地元住民にこれだけ死亡率が高い話しは聞いたことがない。 私自身、これまでに4度マラリアを発病し、一度は熱帯熱マラリアだった。発病による高熱と吐き気と下痢で一気に体力が奪われ、10歳老けたように感じた。手遅れになる前にマラリア薬を服用することで助かってきた。 しかし、死亡率が異常に高い原因は、戦争マラリアの6割がマラリアの中で最もやっかいで、若くても死に至る「熱帯熱マラリア」だったからのようだ。波照間島生まれで当時10歳の小学生だった平田登美さんの話しは、生存者に共通していた。 「身体がものすごく寒くて、2-3人で押さえつけても震えが止まらない、頭はボーっとして。脾臓が肥大し腹がポコッと膨れた」 平田登美さんは当時は10歳で小学校4年。父と母方の祖父母がマラリアで死亡。疎開先の西表島南風見田で、「三つ上の兄と同級の冨底さんは、ひどく叩かれて二日後に死亡した。兄も腕を叩かれ、しばらくは腕が自由に動かなくなった。島に帰る前に発病して、ぼーとして覚えていない。父がここで死なすより(ハテルマ)島で死なせたいって」 ・波照間島の死者が異常に多い理由 波照間島では山下という偽名を使い、国民学校指導員の身分で赴任していた軍のスパイの存在で、疎開が徹底して行われた。その結果、島民1590人中477人がマラリア死だった。10人中3人が死んだことになる。人口1345人の黒島島民が、同じ西表島に疎開(別の海岸地帯)したものの、マラリア死が19人だけだったことと比較すると、波照間島の犠牲者数は異常だ。 当時23歳で現在(取材当時)は83歳になる大泊ミツフさんは、自分の家族と嫁いだ先の家族を合わせると、16人の家族がマラリアで病死した最も不運な方だ。自らも発病し、家族全員の最後を看取ることができなかったことをいまでも申し訳ないことと悔いていた。 「一日たりとも死んだ人のことを考えないことはないよ」 家族親族合わせて16人を失った大泊ミツフさん。 大泊さんと同じ集落に住む浦仲孝子さんは当時13歳。「私は家族11人亡くなったよ」と話し、7人兄弟のうち二人だけ助かったと言った。 浦中孝子さん 疎開先が悪性マラリアが蔓延する地区だったことと、帰島後の食糧難が波照間島民の悲劇に直結した。島の食糧を根絶したのは山下だった。山下は陸軍中野学校出身の特務兵で、牛馬などの家畜の一部を島民に命じて屠畜、遺棄させ、その上残る家畜は屠畜後に島のカツオ工場で薫製にして日本軍の食糧にしたと指摘されている。(波照間寛さんの証言参照) 本来は豊かな島に帰島後、住民が飢えとマラリア地獄に苦しんだのは疎開中に軍人としての本性を見せた山下軍曹の役割抜きには説明できない。 ・「忘勿石 ハテルマ シキナ」 西表島は全島が有病地だったが、中でも大泊さんたちが疎開した東部海岸の南風見田(はえみだ)海岸は悪性のマラリア地区だった。疎開解除で帰島する8月始めまでに84人が犠牲となった。これらの犠牲者を追悼する慰霊碑が南風見田海岸に建つ。隣にある大岩には、軍命に抵抗できずにマラリアにより多くの生徒を失った無念さを「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」と刻んだ10文字が鮮明に残されている。 仲底善光さんは強制疎開当時は小学校3年生。「ハエをを取らないことを理由に、怠けたといって青竹がボロボロになるまで手やけつを叩かれた。6年生の冨底はそのために熱発して亡くなった。一生忘れないよ」 当時の波照間国民学校校長だった識名信升先生が、帰島に際して残したものだ。識名校長は島民が疎開先で全滅することを怖れ、石垣島の宮崎旅団長に直接かけあい疎開解除の許可を取り付けたと人物として生存者の記憶に深く刻まれている。 波照間島民がマラリアで苦しんだ西表島南風見田海岸に建立された石碑。 沖縄本島本部生まれの平田一雄さんは民宿「南風荘」を25年前から開業。平田登美さんの夫。昭和49年(1974)に西表島に移る。切手収集家であり新聞へ自然保護や戦争マラリアの継承を訴える投稿マニア。平田さんは、波照間国民学校校長だった識名信升先生が、「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」と岩場に刻んだ後がある。 慰霊碑は生存者や遺族たちの募金で92年に建てられ、八重山の海を挟んで学童慰霊碑と向かい合って建つ。岩に刻まれた10文字と慰霊碑は、日本の最南端のはずれで忘れられてきた戦争マラリアの悲劇を伝える平和教育の発信地となっている。 帰島にただ一人反対した人物が、米軍上陸時の徹底抗戦に備え山中に避難小屋を設営させていた山下虎雄軍曹だ。この山下については別項で触れるが、彼は各離島に送り込まれていたスパイの一人だった。米軍進駐後、民間人になりすまして島を脱出し、戦後も島民に全く謝罪することも戦犯として断罪されることもないままに生き延びた。 ・石垣島のマラリア死は全体の7割弱 石垣島民のマラリアによる死者数もおびただしい。当時の石垣島では多数の住民が居住する南部一帯が無病地域で、疎開先の中部や北部のジャングルがよほど悪性マラリアの感染地帯だったに違いない。 登野城地区住民3804人中633人が死亡。大川地区住民2465人中226人が死亡。真栄里地区住民239人中88人が死亡。平得地区住民613人中264人が死亡。大浜地区住民1866人中479人が死亡。 資料から引用すると、当時10歳で真栄里地区住民だった村福長英さんは、石垣島中部の白水に避難し、母、長女、次女、三女の家族四人をマラリアにより失っている。石垣島だけで約2500人がマラリア死したとみられる。 島村修さんは19歳で石垣島防衛の宮崎旅団に現地入隊。米軍の空襲が下火になった6月頃から部隊内でもマラリア患者が出始め、マラリアで丸倒れした一個中隊も出たという。武装解除の時、兵器係が菊の御紋をヤスリで削った。9月に除隊し帰島すると家族みんながマラリアで倒れていて、自分も発病した。 「12月ごろようやく起きあがれた。看病疲れで父と兄の子ども3人がマラリア死。出棺は手を合わせただけだった。自分も弱っていたけど、一度だけ14~5歳の女の子を二人で担いだ。マラリアに罹らなかった長兄は、毎日他の人の葬式に出る人。遺体はムシロにくるんで浜の近くで土を掘って埋めた。戦後の昭和22~3年ごろ、島内と西表島の大原で骨を収骨して一気に片づけた。東隣と裏の家族は家族丸倒れで全滅に近かった。波照間では500人の人間が死んだ。永遠に忘れてはいけない、風化させないために島の力で将来は慰霊碑を作りたい」 9月に米軍が八重山に進駐したのは9月だが、マラリア対策として抗マラリア薬のアテブリンを患者に配り始めたのは12月下旬になってからだ。マラリアの流行から半年、ようやくマラリア地獄が収束に向かうことになった。 戦後、6年間で約6000人の計画移民が沖縄本島などから入植した石垣島では、1954年から57年まで、「移民マラリア」が流行ったこともある。現在も石垣島の一部の河川には、マラリアを媒介とするハマダラ蚊の生息が確認されている。 ・国家賠償請求の政治決着 戦争マラリアの遺族による国家補償の請求は、結果からいうと曖昧な政治的解決で1999年にピリオドが打たれた。遺族への見舞金もない。国家補償を請求する動きは戦後44年が過ぎてから起きた。遺族らが「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成し、国に補償を求める活動を始めた。石垣市議会、竹富町議会が県と国へ補償を要請し、沖縄県議会は県と国へ意見書を提出した。 1995年、政府(村山内閣)は石垣島と波照間島の軍命による住民の強制避難を認めた。与党戦後五〇年問題プロジェクトチームは、石垣、波照間、黒島、新城、鳩間島の五島での軍命による住民の強制避難を認め、政治的解決策を狙った。その結果、二億円が八重山地域の慰しゃ事業として政府に要求されたが、見舞金は保留とされた。 この年の12月、95年度予算で総額三億円のマラリア慰しゃ事業経費が認められた。事業の内容は、慰霊碑建立、マラリア記念館の建設、マラリア死没者資料収集・編集作業、死没者追悼事業からなり、遺族に対する見舞金はなかった。 「八重山戦争マラリア犠牲者追悼・慰霊碑」が石垣市のバンナ公園内に建てられた(97年)。犠牲者を追悼する資料・証言集の「悲しみをのり越えて」が発刊された(98年)。戦争マラリアに関する常設展示施設として「八重山平和祈念館」が石垣市にオープンした(99年)。遺族の「援護会」は解散し(99年)、「八重山戦争マラリア遺族会」が発足した(2001年)。島民477人が戦争マラリアの犠牲になった波照間島の遺族は、慰しゃ事業で波照間島にも慰霊碑が建立される計画も含まれていたと指摘したが、慰しゃ事業は完了しているようだ。 ・戦争マラリアは軍隊の役割をいまに伝える 波照間島生まれで当時8歳だった玉城功一さん(68歳)は、1970年代に沖縄県史の編纂に関わり、50人ほどの波照間島民からマラリア体験談を集めて回った。島民の証言から、山下軍曹が住民をマラリア地獄へ送り込んだ人だと確信した。 玉城功一さん(石垣島) 「島の歴史の中で半年の空白を作った。空白の6ヶ月は牛馬の生き地獄となり、島民が帰ったら人間のマラリア地獄だった。まだ、島には屠殺された家畜の慰霊碑もない。ムシャマー(先祖供養)の行事にも戦争マラリアの証言を含めた慰霊祭もない。島でも風化して子どもたちの父母も戦争マラリアの実相を知らない。かつての戦争体験を確認し、いまの政治の動きを考えてみる必要がある。かつての日本軍はどうだったか。山下の役割が象徴的だ。シマンチュを守らなかっただけでなく、食糧確保のために死地へ住民を追いやった。軍は誰のものか。形を変えても軍隊は本質的には変わらない。わかりやすいのが波照間の戦争マラリアだ」
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ふくしま集団疎開裁判・仙台高裁2013-04-24決定 私の感想(京都大学原子炉実験所の小出裕章さん) http //fukusima-sokai.blogspot.jp/2013/04/blog-post_1444.html 「疎開裁判」判決、いただきました。 私は昔から裁判には期待しないと発言してきましたが、改めてその思いを深くしました。 判決は、ただちに影響が出るものではないと言いながらも、低レベル放射線被曝の危険そのものは認めています。 そして、学校だけ変わっても、地域で生活する以上は年間1ミリシーベルトを超える被曝をしてしまい、避難・移住をする以外ないと結論しています。 その通りです。 子どもを年間1ミリシーベルト以上被曝させないためには、郡山を含め汚染地から逃がすしか方法がありません。 そうする責任が国にあると私は思いますし、そう主張もしてきました。 それなのに、年間1ミリシーベルト以下にしたいのなら逃げるしかなく、個人の力で逃げられないわけでもないのだから、訴えに理由がないとしています。 問題は、子どもたちに被曝を強いている責任が、汚染地に取り残されている個人にあるのではなく、国にこそあるということです。 それを問題にできない裁判とは国家の奴隷のようなものですね。 2013/4/24 小出 裕章 ふくしま集団疎開裁判・仙台高裁2013-04-24決定
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両毛線 列車番号 名称 編成 区間 備考 試単8621レ 単機試運転 EF64形又はEF65形高崎車 高崎→小山 カッター車 試単8622レ 単機試運転 EF64形又はEF65形高崎車 小山→高崎 カッター車 配8677レ 配給 EF64形又はEF65形高崎車+キハ110系高崎車 高崎→小山 キハ110系高崎車KY入場回送 配8678レ 配給 EF64形又はEF65形高崎車+キハ110系高崎車 小山→高崎 キハ110系高崎車KY出場回送 配9420レ 配給 EF60形高崎車+C11真岡鐵道車+オヤ12高崎車 小山→高崎 SL飯山線浪漫号C11送込 回9421レ 回送 EF60形高崎車+オヤ12高崎車 高崎→小山 C11SL飯山線浪漫号送込オヤ送込回送 配9431レ 配給 EF64形長岡車+211系田町車 桐生→小山 211系田町車(桐生疎開車)NN入場回送 9431レ 多客臨 EF65形高崎車+12系高崎車+C61 20高崎車 高崎→桐生 快速「EL両毛」 9432レ 多客臨 C61 20高崎車+12系高崎車+EF65形高崎車 桐生→高崎 快速「SL両毛」 9433M 多客臨 115系高崎車 高崎→小山 快速「ググっとぐんま両毛号」 配9435レ 配給 EF81形長岡車+211系高崎車 桐生→小山 桐生疎開返却 配9441レ 配給 EF81形長岡車+209系浦和車 桐生→小山 209系浦和車(桐生疎開車)TK入場 配給 EF81形長岡車+205系京葉車 桐生→小山 205系京葉車(桐生疎開車)OM入場回送 配9444レ 配給 EF64形長岡車+211系長野車 小山→高崎 方転回送 回9444M 回送 107系高崎車 桐生→高崎 疎開返却 回9444D 回送 キヤE193系秋田車(East i-D) 小山→桐生 回9446レ 回送 EF81形田端車+旧型客車高崎車 小山→高崎 回9446D 回送 キヤE193系秋田車(East i-D) 小山→高崎 試9447M 試運転 E491系勝田車(East i-E) 高崎→小山 検測 試9448M 試運転 E491系勝田車(East i-E) 小山→新前橋 検測 回9448D 回送 キヤE193系秋田車(East i-D) 桐生→高崎 9449M 多客臨 115系高崎車 高崎→小山 快速「ググっとぐんま信越号」 配9462レ 配給 EF64形長岡車+211系高崎車 小山→桐生 211系桐生疎開 配9472レ 配給 EF64形長岡車+211系田町車 小山→桐生 9631レ 多客臨 EF65形高崎車+旧型客車高崎車+C61 20高崎車 高崎→伊勢崎 快速「ELいせさき」 C61 20高崎車+12系高崎車+EF64形高崎車 快速「SLいせさき」 EF65形高崎車+12系高崎車+C61 20高崎車 高崎→桐生 快速「ELシルク両毛」 9632レ 多客臨 C61 20高崎車+旧型客車高崎車+EF65形高崎車 伊勢崎→高崎 快速「SLいせさき」 EF64形高崎車+12系高崎車+C61 20高崎車 快速「ELいせさき」 C61 20高崎車+12系高崎車+EF65形高崎車 桐生→高崎 快速「SLシルク両毛」 9641レ 団臨 EF65形高崎車+キハ40系小牛田車(びゅうコースター風っこ) 高崎→桐生 「風っこわたらせ」 9642?レ 団臨 EF65形高崎車+キハ40系小牛田車(びゅうコースター風っこ) 桐生→高崎 「風っこわたらせ」 配9670レ 配給 EF65形高崎車+キハ110系高崎車 小山→高崎 キハ110系高崎車KY出場回送 単9671レ 単機 EF64形高崎車 高崎→小山 配9671レ 配給 EF64形高崎車+キハ110系高崎車 高崎→小山 キハ110系高崎車KY入場回送 単9672レ 単機 EF64形長岡車 桐生→新前橋 工9690レ 工臨 EF60形高崎車+ホキ 桐生→高崎 ホキ工臨 工9691レ 工臨 EF60形高崎車+チキ 高崎→岩舟 岩舟工臨 9697レ 特大貨物 DD51形高崎車+シキ 高崎操→岩宿
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小野寺奈津実(おのでら・なつみ) 所属ガーデン 高座女子高等学校 学年・役職 1年生 所属レギオン LGⅢドゥラメンテ 出身 山形県庄内地方 身長 157cm 体重 きっちり絞っている スリーサイズ B平W普H普 血液型 O型 髪色 茶髪 髪型 ショート・かなりの癖毛 スキラー数値 62 レアスキル ブレイブ サブスキル 無し 使用CHARM グングニル 二つ名 空手道場の孫娘 概要 山形県の庄内地方出身の1年生リリィ。 現1年生世代入学の1年ほど前までは故郷で両親や祖父母と一緒に生活していたが、庄内地方の隣の新潟がアルトラ級ヒュージ「ファヴニール」の襲撃を受けて情勢が不安定になると、両親に連れられて故郷を離れて関東に疎開してきた。その疎開先での生活中にスキラー数値が大きく上昇した事をきっかけにリリィになる事を決意。疎開先の近くにあって、尚且つ入学の要件が比較的緩かった高座女子へ入学する事を決めた。 祖父母は疎開を拒否して今でも庄内に残っており、「立派なリリィになって、祖父母の下に凱旋する事」を当面の目標として日々厳しい鍛錬に励んでいる。 話し方に勢いがあり語尾に「〜ッス」とつく元気と明るさの塊のような性格で上級生にも同級生にも敬語で話をする。 祖父は空手家で道場を経営しており、奈津実も幼少期から祖父から空手を教わっておりその腕前は大人顔負け。その上身体能力も高い。 普段は身につけていないが、戦闘時には白い鉢巻を頭に巻いて戦っている。 好きなものは空手、格好いい武人。 嫌いなものは卑怯な行い。 特技は瓦割り。 胸の周りはほとんど平らだが本人は全然気にしてない。 一部のスタイルのいい子を見ても「凄いとは思うけどあたしがああいう風になりたいとかは特に思わない」とコメントしている。 交友関係 神川魅弥音 同じレギオンの先輩。勝手に師匠と呼んで慕っており、魅弥音の方も満更ではない模様。 周囲の人間達が引くほどの厳しいトレーニングをしており、戦闘時も二人でペアを組む事が多い。 岩松橙香 奈津実と同世代のエースリリィ。LGⅢドゥラメンテのヘッドライナーを決める会議の際に、主将の藤島晴夏に当時はまだ初心者に過ぎなかった奈津実のヘッドライナー起用を提言した。 常日頃から「御台場の長沢雪様の使ってるアレを持たせたらいい使い手になるかもしれない」と周囲に語っている。
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概要 メンバー NC:ふーぎ ドール:アガタ(ねじいぬ) チズ(こなぎ) ヨズリ(大樹) あらすじ 雨吹き込む倉庫で目覚めた、3人のドールの物語。 兵士たちと疎開児童たちの暮らす疎開施設と、そこに暮らし、生きていた筈の人々の記憶を紡ぎ出しながら、彼らは外の世界を目指す。 ログ 6月 第一話 成形には大樹さんのご協力を頂きました。ありがとうございます! 相関図 メモ 小ネタとか、なんかそういうの書いていいと思う。 ヨズリ氏、毎ターン無茶からの自損伝説 ハウンドは三回死ぬ