約 57,413 件
https://w.atwiki.jp/dunpoo/pages/614.html
メイフラワー号 13領植民地 独立宣言 アメリカ合州国憲法 名前 コメント ↑ご自由にコメントをお書き下さい。 ●アメリカ独立革命 17世紀初め、イギリスのジェームズ1世およびチャールズ1世は、国内の信仰を国教に統一する目的で、非国教徒を弾圧した。あくまで信仰を貫こうとした清教徒(ピューリタン)の一団は、1620年、 メイフラワー号 に乗って新大陸に向かい、北アメリカ東岸プリマスに上陸し、ここに植民地を切り開いた。この一行102人は、後にアメリカ合衆国の支配層となったイングランド系白人・清教徒の父としてピルグリム・ファーザーズと呼ばれ崇敬された。彼らは、アメリカ上陸に先立ち、船内で政治的協約を結んだ。これを、「メイフラワー契約」といい、直接民主制、男子普通選挙等を規定し、後の合衆国憲法の淵源のひとつとなった。 その後、母国での宗教的弾圧を逃れた清教徒・クエーカー教徒、旧教徒らもアメリカに続々と渡り、北アメリカ東岸北部にニューイングランド植民地と総称される植民地が続々と形成された。 また、ヴァージニア以南の、東岸南部の地には、国王特許の植民地が成立。18世紀前半までに北アメリカ東岸にイギリス領であるは 13領植民地 が成立した。 各植民地は、その成立事情に違いはあるものの、総じて自主独立の気風が強く州ごとに独自の議会と政府をもっていた。 しかし、イギリス本国は13植民地に対して、重商主義に基づき、本国商品の市場及び原料供給地として利用する方針をとり、植民地と外国との直接貿易を禁じ、本国と競合する恐れのある産業を規制した。 特に、フランスとの間で7年戦争を闘って勝利したイギリス国王ジョージ3世は、植民地への本国本位の規制や課税を一層強め、植民地の憤激を買った。 マサチューセッツ州は、清教徒の開いた植民地として特に独立心の旺盛な地であるが、その首府ボストンは、本国以外との貿易、本国からいうと「密貿易」が盛んな地であった、1773年、本国政府は、東インド会社の財政難解決のため、同社の手持ちの茶を北米植民地で無税で独占販売する特権を認める茶条例(tea act)を制定した。茶の密貿易に従事していたボストンの商人たちはこれに反発して、茶を積んだ東インド外車の船を襲撃し、茶を海に放擲した(ボストン茶会事件)。これに対して本国政府は駐留軍隊によってボストン港を封鎖し、マサチューセッツ州の自治権を奪い、さらに北米植民地全土にわたって旧教の布教を許可するなど報復を行った。、 特に旧教への寛容政策には他の植民地の反発も強く、74年、植民地代表がフィラデルフィアに集まり、第1回大陸会議が開催され、通商断絶同盟の結成が宣言された。その直後、レキシントン・コンコードで、本国駐屯軍と植民地民兵との武力衝突がおこり。これが独立戦争への口火となった。 第2回大陸会議では、ジョージ・ワシントンが総司令官に任命され、76年7月4日にはついに 独立宣言 が発せられた。 独立宣言は、ジェファソンが起草して、彼やフランクリンを含む起草委員会で決定された。その序文---- 「我々は、自明の真理として、全ての人は平等につくられ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命・自由及び幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そして、その正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合は、人民はそれを改廃し、彼らの安全と幸福をもたらすべしと認められる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。」 と、自然権と革命権を主張し、イギリス名誉革命を正当化したロックの思想を継承している。 1777年に13州の連合規約がつくられ、アメリカ合州国という名称が定められた。しかし、13州がそれぞれ強い自治権を主張したため、連合政府は徴税権・通商規制権、常備軍の保持などは認められず、弱体であった。 しかし、英国との戦況は植民地側に不利であった。植民地側は、イギリスの弱体化をねらうヨーロッパ諸国の支援を受けて態勢を立て直し、ついに81年、イギリスはパリ講和会議においてアメリカ合衆国の独立を承認した。 独立後、より強力な連合政府樹立の要求が高まり、1787年、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれた。中央集権の強化を図ろうとする連邦派と、各州の独立性を強調する反連邦派が妥協し、同年 アメリカ合州国憲法 が成立した。ここでは、各州が独立の議会と法律を持ち、内政上の広い権限を持ちながら、中央政府(連邦政府)には外交・軍事・財政・貨幣・郵便など権限を与えた連邦制を採用した。また、立法権は州を代表する上院と直接国民を代表する下院によって構成される議会に、行政権は大統領に、そして司法権は最高裁判所にあって互いに牽制しあう三権分立制度が採用された。また、人権の保障、言論・出版・集会・信教の自由が規定された。
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/27779.html
いちおしどくりつせんそう【登録タグ CD CDい ゆうゆCD】 前作 本作 次作 世迷言ユニバース イチオシ独立戦争 - ゆうゆ 流通 即売 同人 発売 2013年12月31日 2014年1月上旬 価格 ¥1,000(税込) ¥1,457(税込) サークル ゆや。 CD紹介 攻撃的平和主義の僕たちへ。 無法音楽地帯の「今」を生き抜け―――。 ゆうゆ氏 待望の、同人 5th album 。 「早退系ネガティブ天国」「アイマイ独立宣言」「夜行線上のフライト」「踊ル怪談ズ」に、新曲とインストを加えた全10曲を収録。 今回はジャケットイラストも ゆうゆ氏 お手製。 コミックマーケット85(C85)にてリリース。通販・書店委託も行われている。 曲目 イチオシ独立戦争 feat. CUL 踊ル怪談ズ feat. 鏡音リン 早退系ネガティブ天国 feat. 初音ミク 擬態と醜態 feat. GUMI・初音ミク・CUL・IA アイマイ独立宣言 feat. GUMI メテオライト・オーロラデイズ feat. 巡音ルカ 竜と少女 feat. IA 夜行線上のフライト feat. GUMI Sol-2413 feat. 初音ミク ifの終点(instrumental) リンク 特設ページ とらのあな コメント おおお! -- 名無しさん (2013-12-18 19 37 29) ゆうゆさんのルカだと?! -- 名無しさん (2016-05-04 12 51 43) 投稿されてない曲では「擬態と醜態」「竜と少女」が好き 動画で見たい -- 名無しさん (2020-04-18 14 31 35) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/icinm4/pages/25.html
概要 #ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 西京独立国家連合・SISAは、世界最大規模の軍事同盟。前身は世界相互防衛条約機構・WMDTO。三洲連合共和国首都、西京中央特別行政市に本部を置く。反共産主義的な性質を帯びており、 1:国連憲章の掲げる信念と目的を遵守し、 2:市場主義、国家主義、君主政治体制を擁護し、 3:連合域内の安定を促進し、 4:連合域内の防衛並びに構成国の共通の利益の維持の為に、その努力を維持し、 5:もって国際社会の恒久的な平安と安定に寄与すること を主要な目的とする(三洲連合共和国国家行政委員会のSISA基本方針に関する統一見解)。 加盟国 加盟国 三洲連合共和国 大レイリル及びウェイランド合同王国 アルベニック共和国 オーファン連邦共和国 エルタロット民族自治国 トラニストア連合王国 リルバーン帝国 組織 参考資料:SISA組織図 { SISA中央理事会 ~};全ての加盟国の代表者で構成される最高意思決定機関であり、軍事、外交、経済、その他の同盟に関わる全ての問題について全般的に取り扱い、討議する。防衛計画、経済協力両委員会の討議内容に関して監督し、両委員会での合意内容を最終決定事項として可決する。必要と認められる場合に、その都度開設される非常設機関。 { 防衛計画委員会 ~};軍事政策、防衛計画全般を取り扱う。開催は、SISA中央理事会の開催と同期とする。 { 経済協力委員会 ~};加盟国間の通商、経済支援等を討議する。開催は、SISA中央理事会の開催と同期とする。 { 締約国常設会議場 ~};上記の中央理事会、防衛計画委員会、経済協力委員会が開催されていない時期に於ける、活動の継続性を確保する為、各国の代表者が常駐し、同盟に関係する様々な問題を討議する。また、加盟各国の核戦力、生物化学兵器の包括的な管理等を行うNBC兵器管理委員会を直接、所管する。 西京独立国家連合軍・SISAF ~ 加盟国は、何れかの加盟国が武力攻撃を加えられた場合に、共同防衛義務を負い、中央理事会若しくは締約国常設会議場の指示に従い、保有する全部又は一部の軍事組織の運用をSISAに委託する。これを西京独立国家連合軍・SISAFと呼称する。SISAF中央司令部、並びに海軍、陸軍、空軍各参謀本部は常設とし、各国は自国の軍事組織の将官を派遣する。 条文 【西京独立国家連合の運営に関する規定】~ [前文]~ 我ら西京独立国家連合は、世界の公序良俗と安寧秩序を維持し、加盟国間の平和的独立を維持し、友好関係を増進する事が、各々の国民の基本的利益に合致することを深く確信して、この目的を遂行する為に西京独立国家連合を設立することを宣言する。 [第一条] 加盟国は加盟国間の友好関係を増進し、加盟国間の経済的及び文化的連帯を発展強化し、平等、互恵、国家主権及び領土保全に対する相互尊重の原則、国内事項に対する不干渉の原則を遵守する。 [第二条] 加盟国は、平和の強化及び全般的安全の為に加盟国間の共通の利害に関わる問題について随時協議する。また、集団的自衛権の行使については、これを義務とする。軍事力の行使に際しては国際連合憲章を遵守しなければならない。本同盟として軍事力を行使する場合は西京独立国家連合軍を組織する。 ※免責:加盟国の中で国際連合指定の開発保護期間中にある国は、集団的自衛権行使の義務を負わない。 [第三条] 加盟国は加盟国間の経済的及び文化的連携を発展強化し、互いに可能な経済的援助を与え、かつ、必要な経済的協力を行うことを約束する。また、盛んな経済的交流を促進する。 [第四条] 本同盟への新規加盟については、既存加盟国の総意で決定される。本同盟からの脱退は、個々の加盟国の権利であり何時でもこれを行使する事が出来るが、国際会議場で事前通告を行うものとする。 [第五条] 本同盟本部は三洲連合共和国西京中央特別行政市に設置する。
https://w.atwiki.jp/gionshantveed/pages/309.html
ファルトクノア独立紛争(理 L'ixfant elm fon faltknoa, 淮 Var ailyries salè ouné faltknoai, 檀語 fria-bidtaiu kun-faltkna^ ,帝連語 Rokez uneat-s oins vencaie Faltknoa)はシンテーア歴〇〇○○年に起こったユエスレオネ連邦とショアン王国との間での戦争。結果としてファルトクノア共和国が独立した。 目次 ショアン領期 ファルトクノア共和国成立 (以下コピペなので、変わるかもしれません) ショアン領期 ピリフィアー歴2012年3月12日、前日未明からハタ王国へのウェールフープ移動を行おうとした外交院職員23名が行方不明になったことが外交院により発表された。連邦特別警察庁長官及び情報特務庁長官は当日中に捜査手配を行った。閣僚会議がすぐに執り行われ、連邦は厳戒態勢に置かれた。当時、XIAA紛争が勃発しいたために政府はXelkenの仕業と見て政治的手段(サニス条約によるラネーメ国への軍事介入と言われている)を決断しようとしていた。 3月15日、外務省職員23名のうち6名がユエスレオネに帰還する。調べによって、外交院職員は、ハタ王国とは別の惑星に降り立ったこと、外交院職員は現地政府に逮捕及び監禁されたことなどが判明。固有WP波の痕跡を元に特定した惑星に連邦軍・特別警察官・外務省職員及び国際協力院職員が降り立った。3月21日現地政府との交渉を望もうとしたところ、現地政府の軍隊による攻撃を受け外務省職員3名と国際協力院職員2名が死亡し、泥沼の市街地戦闘に陥った。その時の拠点が上記の図の青色の点である。 交渉に失敗した交渉団は、「交渉成功の見込みなし。相手方、徹底即時抗戦の構え」との通信を送信。これを受け取った政府は、更なる連邦軍の増員を決定。これにより、敵軍の攻勢も強まり、必然的に宣戦布告の無い戦争となってしまった(ショアン戦争)。 ファルトクノア共和国成立 ショアン戦争では、兵士の増員と膨大な市民の捕虜のため、ショアン側が降伏。以後、ユエスレオネ連邦、ハタ王国、デュイン総合府の四者間会議(イルヴィツァー会議, 2012.4.8)においてショアンの一部を国土分譲すること、サニス条約に加盟することで賠償金問題を帳消しにすることを合意した(イルヴィツァー・サニス合意) こうして、新たに連邦に編入された地域は独立し、ファルトクノア共和国となってユエスレオネ連邦の構成国の一つとなった。合意の地となったイルヴィツァー(I lèviza)は首都となった。
https://w.atwiki.jp/tasdouga/pages/1117.html
タイトル(コピペ用) 独立戦争 ジャンル その他 このページを編集 海外タイトル 発売日 1994/03/18 動画を追加 シリーズ TASVideosForum 現行最速 -表示 その他 -表示 過去最速 +表示
https://w.atwiki.jp/takemuralab/pages/29.html
【定義】 Px…選択肢の集合であり、また凸集合である。 ∀p,q,r∈Px 確率λ(0 λ 1) 【命題】 p≻q⇒λp+(1-λ)r≻λq+(1-λ)r すなわち、ある二つの選択肢の選好関係が定まっている場合、それらの選択肢に結果が等価であり各結果を得る確率が等しい別の選択肢をそれぞれ複合した場合にも、それらの選択肢の選好関係は保存される、という公理である。 ジェンセン(1967)が提唱した公理系の一つで、 順序公理、連続性公理とともに、 フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの期待効用理論が成立する必要十分条件である。 例えば、表1のようなギャンブルがあったときに、ギャンブル2をギャンブル1より選好しているとする。 表1 選択肢\報酬 1万円 o円 2万円 ギャンブル1 2/3 1/3 0 ギャンブル2 1/2 1/3 1/6 ギャンブル3 1/6 0 5/6 ※分数は確率 ここで、ギャンブル1とギャンブル3、ギャンブル2とギャンブル3を0.5の確率で混合した複合ギャンブルを構成すると、表2のギャンブル1'とギャンブル2'のようになる。 表2 選択肢\報酬 1万円 o円 2万円 ギャンブル1 5/12 1/6 5/12 ギャンブル2 1/3 1/6 1/2 ※分数は確率 独立性公理は、ギャンブル1よりギャンブル2を選好するならば、ギャンブル1'よりギャンブル2'を選好することを要請するのである。
https://w.atwiki.jp/disciple50/pages/247.html
【概要】 1945年から1949年まで続いたティダード独立戦争は、ティダード王国とオランダを中心とする連合軍との間で起こった戦争である。 連合軍は瞬く間にティダード王国を制圧し、ティダード王国は植民地支配の危機に晒されていた。 当時まともな武力を持たなかったティダード王国は連合国の強力な軍隊に成す術もなく、誰もがティダードの敗北を確信していた。 そんな時、連合国によるティダード王国の占領を打開すべく、一人の若者が立ち上がった。 若者の名はシルクァッド・ジュナザード。特A級の達人級以上の実力を持つシラット使いであった彼は、仲間のシラット使いたちと共にシラットゲリラ部隊を組織し、連合軍に徹底抗戦を行う。 一騎当千の実力を持つジュナザードを筆頭に、シラットゲリラ部隊は次々と軍隊を撃退していった。 『最前線で戦い続けるシルクァッド・ジュナザード』 ジュナザードは気高い戦士であり、戦いの前には必ず敵に降伏の機会を与えていた。 その機会を逃し刃向かってきたものだけを、シラットゲリラ部隊は仕留めていったのである。 長い戦いの果てに、ゲリラ部隊の抗戦による犠牲を重く見た連合軍はティダード王国からの撤退を決定した。 シラットゲリラ部隊は連合国に勝利し、ティダード王国を守り抜いたのである。 この戦いによりジュナザードは「救国の英雄」となり、やがて「ティダードの神」と崇められるようになった。 しかし、神となったジュナザードは平和に飽き、やがてその権力を悪用して自ら戦乱を求め、ティダード王国の乱を引き起こす邪神へと姿を変えることになる。 このエピソードのモデルとなったのはインドネシア独立戦争であると思われる。 戦局はほぼ同一であり、インドネシアはゲリラ戦など多くの戦いの末に、侵攻したオランダ軍を打ち払った。 現実でも、軍隊シラットをマスターした使い手が活躍した事で知られている。 コメント とはいえこの頃のジュナが10代半ばだとしたらケンイチ作中は2020年より後になりそうだしどうなんだろ? 基本ケンイチの世界は本編開始時の西暦だと思ってたけどコナン時空で進んでた感じなのかな -- 名無しさん (2023-04-07 00 38 58) 名前 コメント 昨日 - 今日 - 合計 -
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/9331.html
韓国 / 日韓併合 +クチコミ検索〔3・1独立運動〕 #bf +ブログサーチ〔3・1独立運動〕 #blogsearch +ニュースサーチ〔3・1独立運動〕 あだたら高原スキー場 12/24(金)営業開始!~オープン初日限定!仮装して来ればリフト券が無料に!~:時事ドットコム - 時事通信 「腸が煮えくり返るような思いです」部落解放同盟トップが語る“ネット差別事件”への怒り - 文春オンライン 東京栄養サミット2021 アクションプラン:農林水産省 - 農林水産省 ブラックホールが奏でる「普遍的な和音」 - 理化学研究所 ニューカレドニア、仏からの独立を問う緊迫の最終投票へ(12月8日、AFP/PACNEWS) | 太平洋島嶼国事業-ブレーキングニュース - 笹川平和財団 【第58回金馬奨】「瀑布」が最多4冠、香港民主化運動を記録した「時代革命」の栄冠に拍手喝さい(映画.com) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース スイダニ・ソロモン諸島マライタ州首相、独立も視野(12月7日、SOLOMON STAR/PACNEWS) | 太平洋島嶼国事業-ブレーキングニュース - 笹川平和財団 【一筆多論】「大東亜戦争」と呼ぼう 岡部伸 - 産経ニュース コ・ドゥシム&ソル・ギョング「第8回韓国映画制作家協会賞」で男女主演賞を受賞…「モガディシュ」が6冠達成(総合)(Kstyle) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース ミャンマー軍車両、抗議デモの集団に突っ込む - BBCニュース ソ連崩壊30年、大国ロシア復活の野望と摩擦 - 日本経済新聞 2021年海外の主なニュース - 読売新聞 韓国政府が年末特赦を推進、朴槿恵・李明博元大統領は除外か=韓国ネットは賛否 (2021年12月2日) - エキサイトニュース 韓国の教育庁がインスタ投稿した北朝鮮礼賛マンガの驚くべき中身 - auone.jp 【世界遺産】あなたが行ってみたい「アメリカ合衆国にある世界遺産」はどこ?(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 虐殺を覆い隠そうとした「全斗煥の3S政策」…大衆は「愚民化」しなかった(ハンギョレ新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 「Qアノン・シャーマン」に禁錮3年5カ月の実刑判決 米連邦議会襲撃(BBC News) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 認知症のリスクを下げる「運動」 最適な強度やルーティンは?(AskDoctors) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース <W解説>韓国と日本の「歴史認識の差異」と「砂上の楼閣」=ムン・ジェイン大統領が岸田首相に祝いの書簡(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 香港の「キャプテン・アメリカ」に有罪判決 国安法違反で(BBC News) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース <W寄稿>「3・1運動」および「関東大震災」朝鮮人の死亡者数=韓国と日本の歴史認識に数字の隔たり - WOW! Korea <W解説>韓国、新たに「親日行跡」明記=次期大統領の有力候補イ・ジェミョン(李在明)氏が主張(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 日本の農場主が埋めた金塊2トン、韓国・益山市に?…「掘られた痕跡を発見」(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 独立運動家の記念館で日本産の駐車管制装置を使用=韓国報道(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 独立運動家・安重根の義挙112年で記念式典 ひ孫も出席=韓国(聯合ニュース) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース [フォト]「独島の日」これが21世紀の独立運動(ハンギョレ新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 独島の日(25日)に合わせて独立運動家をモデルに「独島&東海の表記を正すキャンペーン」実施=韓国(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 106年前の日帝時代に独立運動家が起こした「慶州郵便馬車事件」の現場を訪ねて(ハンギョレ新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース <W寄稿>「独立運動」は無条件に聖域なのか?=韓国知識人の提案(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース ハワイ訪問の文大統領 独立功労者の故人2人に勲章(聯合ニュース) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 文大統領はなぜ「旧ソウル駅舎」で光復節を迎えたのか(ハンギョレ新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 独立運動紹介する案内書をNY文化院に寄贈 女優ソン・ヘギョさんら(聯合ニュース) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース <「光復節」記念式典の文在寅大統領演説全文>(聯合ニュース) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 掘っ立て小屋で死んでいった「独立の英雄」洪範図、78年ぶりに故国へ(ハンギョレ新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 米国に乗り込む文在寅大統領、再び韓国得意の「告げ口外交」か - JBpress 韓国・文大統領が走る被害者コスプレ 「K防疫」に舞い上がり無視する日帝強圧の史実 人糞だらけの町に「1カ月に便所1500個設置」 - iza(イザ!) 「日韓関係を改善したい」となぜか頭を低くし始めた文在寅大統領の3つの魂胆 日韓関係を最悪にした元凶なのに… - PRESIDENT Online 3.1独立運動から102周年/市民団体が新宿駅前で集会 | 朝鮮新報 - 朝鮮新報 文在寅大統領の「対日メッセージ」を韓国メディアはどう伝えたのか?(辺真一) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース <W解説>韓国「反日の聖域」に挑戦する有名時事漫画家ユン・ソイン(尹瑞寅)氏とは? - WOW! Korea <「三・一運動」記念式の文在寅大統領演説全文> - 聯合ニュース ソウル・韓屋村の基礎築く 鄭世権を紹介する歴史館が1日開館 - 聯合ニュース 【写真】花より先に咲いた太極旗の花 - 中央日報 「二・八独立宣言」再解釈へ 韓国の独立有功者協会とYMCA - 聯合ニュース 独立宣言書の「コピー」のおかげで成功的な3・1運動が可能だった - 東亜日報 独立運動「三・一運動」の記念式典開催 新型コロナで規模縮小=韓国 - 聯合ニュース <「三・一運動」記念式の文大統領演説全文> - 聯合ニュース 3・1独立運動、民間人死者553人のうち平安道が231人で最多 - 東亜日報 いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(2)/抑圧36年、日本は朝鮮で何をしたか - しんぶん赤旗 「キリシタン研究の再考」「3・1独立運動と韓国キリスト教の歴史」 キリスト教史学会大会でシンポと公開講演 - クリスチャントゥデイ 独立運動時に配布された独立宣言書 日本人が韓国に寄贈 - 聯合ニュース 韓国で囁かれ始めた「クーデターが必要」の主張 - JBpress 100年前の「独立宣言」が日本人に呼びかけたこと(加藤直樹) - アジアプレス・ネットワーク 3・1運動100周年、主人公は女性独立運動家:朝日新聞GLOBE+ - Asahi Shimbun GLOBE 3・1運動の「宣言書」の現代日本語訳の意義・東アジアの平和、人権、民主宣言~外村大・東京大学大学院教授による解説 - 岩上安身責任編集 - IWJ Independent Web Journal 【正論4月号】韓国「三・一独立運動」のウソ 評論家 八幡和郎 - 産経ニュース 三・一独立運動記念日 現地記者が感じた、リアルな韓国人の関心の先 - 文春オンライン “3・1運動”写真の女性は妓生ではなく女学生 - The Hankyoreh japan 誇大数字“独り歩き” 三・一独立運動の死者数 文発言は国家機関の調査とも乖離 - 産経ニュース 3・1運動で大きな役割果たした太極旗 独立宣言書の文章よりも強い影響力:朝日新聞GLOBE+ - Asahi Shimbun GLOBE 【主張】三・一運動100年 「反日」で国をまとめるな - 産経ニュース 三・一独立運動の精神継ごう/韓国 記念集会各地で - しんぶん赤旗 社説:3・1運動から100年 相互尊重へ新たな歩みを - 毎日新聞 韓国「三・一独立運動」から100年、ソウルで記念日祝う市民 - AFPBB News 韓国「三・一独立運動」親日派抹殺の愚 日本から独立勝ち取るまでの偽りの神話 (2019年3月2日) - エキサイトニュース 韓国の独立運動式典、大統領演説の背景は 識者に聞いた - 朝日新聞社 3・1独立運動から100年 文氏、「未来志向」強調し対日批判せず - 毎日新聞 - 毎日新聞 主張/朝鮮三・一運動100年/歴史の過ち直視し未来志向へ - しんぶん赤旗 河野外務大臣会見記録|外務省 - Ministry of Foreign Affairs of Japan 特集ワイド:「3・1運動」から100年 日韓に希望の虹はかかるか? - 毎日新聞 独立運動100周年、韓国各地で集会 日本大使館前でも - 朝日新聞社 独立運動100周年 ソウルで政府記念式典=全国で万歳三唱も - 聯合ニュース 米紙「宣言文を持った少女の手を…」 海外が報じた三・一独立運動 - 聯合ニュース 韓国『三・一』日本批判で異常な狂騒… 日帝の弾圧で2万人殺害!? 根拠のない死者数持ち出す“歴史発掘” - ZAKZAK 韓国で三・一独立運動100年の記念式典開催 - 産経ニュース 韓国「三・一独立運動」で日本人渡航者に注意喚起 外務省 - 産経ニュース 三・一独立運動から100年/日本のメディアはどう伝えてきたか/問われる植民地支配への態度 - しんぶん赤旗 質問なるほドリ:「3・1独立運動」って? 日本の朝鮮半島支配に抵抗 学生ら犠牲=回答・堀山明子 - 毎日新聞 文大統領、安重根の墓参拝 3・1独立運動100周年 - 朝日新聞社 韓国建国 起点巡り論争 1919独立運動から100年 - 毎日新聞 - 毎日新聞 【平成末の風景】史実とかけ離れた“反日史観”が炸裂か…韓国「三・一運動」の誤解と捏造 - ZAKZAK 朝鮮「3・1独立運動」独立宣言書、長崎の個人宅に現存 - 朝日新聞社 三・一運動100周年で吹き荒れる日韓「春の嵐」 - 東洋経済オンライン (いちからわかる!)朝鮮半島で起きた3・1独立運動って?:朝日新聞デジタル - asahi.com 「三・一独立運動」記念日控える韓国 高まる反日感情 - 産経ニュース 「三・一独立運動」韓国、北朝鮮との共闘は期待外れに - 産経ニュース 三・一独立運動から100年 データベース構築=韓国 - 聯合ニュース 北朝鮮に3・1独立運動の遺跡共同調査を提案 - The Hankyoreh japan キム・ヨナらが歌う三・一独立運動の記念曲 「3456」無料で公開 - 聯合ニュース 3・1運動100周年、ソウル各地に痕跡を刻む - The Hankyoreh japan 「二・八独立宣言」の意義を世界に 韓国市民団体とソウル市がキャンペーン - 聯合ニュース 三・一独立運動100周年 各国の韓国系住民も記念行事開催へ - 聯合ニュース 3・1朝鮮独立運動100周年/東京でさまざまな取り組み - レイバーネット日本 [韓流]「三・一独立運動」題材の映画 来年相次ぎ公開 - 聯合ニュース 「3・1運動は中国民族主義に大きな影響、日本帝国に対抗したお手本」 - 東亜日報 北朝鮮の金日成一家は3・1独立運動に参加したのか - 東亜日報 韓国、「3・1独立運動」の記念日迎える 日本兵の取り締まり再現も - AFPBB News 韓国、「3・1独立運動」の記念日迎える - AFPBB News 吉田外務報道官会見記録|外務省 - Ministry of Foreign Affairs of Japan 茂木外務大臣会見記録|外務省 - Ministry of Foreign Affairs of Japan ● 三・一運動〔Wikipedia〕 ■ 三一独立運動の文大統領の文章を読みつつ思う日本 「DEEPLY JAPAN(2019-03-06 06 28 23 )」より / 3日前の3月1日、韓国では1919年3月19日から2カ月ぐらいの間にあった、三一独立運動を称える式典が行われていた。 北朝鮮に関する英語の記事を読んでいたらコメント欄にリンクがあって文大統領のスピーチに繋がっていた。開けたのでざっと読んだ。結構長い。 最初の一文が素敵。 「100年前の今日、我々は一つだった」 One hundred years ago today, we were united as one. https //english1.president.go.kr/BriefingSpeeches/Speeches/128 今日にとってはこの一文が一番重要なんじゃないかという気がした。そして、これは結構、通りますよ、世界中に、などとも思った。 (※mono....以下中ほど長文につき略、詳細はサイト記事で) / いずれにしても、1918年から1923年あたりというのは日本にとっては本当に暗黒の時代だと思う。三一独立運動、五四運動があり、日本の当局者はいずれの場合もインパクトに恐れをなして潰しにかかり、そして、その間にシベリア出兵という、実に壮大なスケールの無駄で迷惑な欲望の発露のような行動を取り、それが失敗に終わった直後に関東大震災が来る。 ここをしっかり開けないで、周辺との関係を良好にといっても限界があると思う。そして、他者との関係のうちに自己を見られないのだとしたら、それは偽りの自己を語っていることにしかならないだろうとも思う。 いやしかし、日本のデタラメさってすごい。 ■ 【Tの視点】「3・1独立運動記念式典(100周年)」での文在寅韓国大統領の演説に関する現時点での一考察 「二階堂ドットコム(2019/03/04 11 14)」より / 2019年3月1日、日本統治下の1919年3月1日に朝鮮独立を求める抗日独立運動の一環として展開された大衆運動「3・1独立運動」から100年を記念する政府式典が韓国・ソウルで行われた。 日韓のいわゆる歴史問題、元慰安婦問題、元徴用工問題等の従来からの問題や最近の我が国・日本の海自・護衛艦の旭日旗を巡る問題、海上自衛隊・P1哨戒機に対して韓国海軍駆逐艦・広開土大王が火器管制用レーダーを照射した事件を巡る諸問題、文喜相・韓国国会議長の言動等の問題に起因する日韓関係の緊張の増大、日韓関係の悪化が進んでいることから、当該「3・1独立運動記念式典」に注目が集まっていた。 中でも、当該「3・1独立運動記念式典」での文在寅韓国大統領の演説に注目が集まっていた。 https //www.j-cia.com/archives/15049 ←※有料課金記事 ーーー 【参考】 ★ <三・一運動記念式の文大統領演説全文> 「聯合ニュース(2019.03.01 13 35)」より ■ 日本政府は証拠が在っても、朝鮮の嘘に証拠を出して暴いたことが無い~「三・一運動」の場合 「魂魄の狐神(2019-03-03 14 20 12)」より / 三・一運動関係の資料及び著作物図書は国立図書館に118件ある。以下の文章の検証は、此処で証左可能かもしれない。細部は読者自身で調べられたい。 【反論】三・一独立運動の真実 | No!自虐史観 https //ameblo.jp/hironk2005/entry-10627540852.html 拙稿で書きました様に、左翼は(1)日本は、「3・1独立運動」で多くの朝鮮人を殺したじゃないか!と言うかもしれませんが、反論させて頂きます。 朝鮮側の数値はあの上海の反日組織がまとめたものである。□「上海の反日組織」□併合に依って追われた李朝の高級官僚の一家だった李承晩等が゜打ち立てた名ばかりの独立運動組織。 死刑は皆無であった。□当時は、朝鮮民族は日本国民であった。当時も暴力を行使する内乱罪は首謀者達は、私刑であった。不思議である。朝鮮人は何遣っても優遇は既に此の時も。 犬HKは如何にも日本の官憲は無抵抗の朝鮮人に酷い事をしたと言いたそうであるが、実際には無抵抗の朝鮮人を弾圧したのでは無く、日本側も多くの被害を被っていると言う事実である。□犬NHKは、誰の犬か?保守を気取るマス塵の報道姿勢は総て自虐的なのは何故か? 放送法を観れば犬の飼い主が日本政府自身である。似非保守マス塵は朝鮮人に乗っ取られた財界の犬であり、似非保守政権もくそざいかいの犬である。詰まり、自虐史観は与野党総て政党の党是である。 (※mono....以下略) ★ <三・一運動記念式の文大統領演説全文> 「聯合ニュース(2019.03.01 13 35)」より / 【ソウル聯合ニュース】日本による植民地支配に抵抗して1919年に起きた独立運動「三・一運動」から100年を迎えた1日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は政府主催の記念式典で演説した。以下は演説の全文。 尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、100年前のきょう、われわれはひとつでした。3月1日正午、学生たちは独立宣言書を配布しました。 午後2時、民族代表たちは泰和館で独立宣言式を行い、タプコル公園では約5000人が一緒に独立宣言書を朗読しました。 たばこをやめて貯蓄し、金はかんざしと指輪を差し出し、さらには切った髪を売って国債報償運動に加わっていた労働者や農民、婦女子、軍人、車夫、妓生、と畜業者、作男、零細商人、学生、僧侶など平凡な人々が三・一独立運動の主役でした。 その日、われわれは王朝と植民地の百姓から、共和国の国民へと生まれ変わりました。 独立と(植民地支配からの)解放を超え、民主共和国のための偉大な旅路を歩み始めました。 100年前のきょう、南も北もありませんでした。 ソウルと平壌、鎮南浦と安州、宣川と義州、元山まで、同じ日に万歳の声がわき上がり、全国あちこちに野火のように広がっていきました。 3月1日から2カ月間、南北韓を分かたず全国220の市・郡のうち211の市・郡で万歳デモが起こりました。 万歳の声は5月まで続きました。 当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。 約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。 逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。 最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。 +続き 3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。 京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。 しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。 北間島・竜井や沿海州のウラジオストクで、ハワイとフィラデルフィアでもわれわれはひとつでした。 民族の一員として誰でもデモを組織し、参加しました。 われわれはともに独立を熱望し、国民主権を夢見ていました。 三・一独立運動の声を胸に収めた人々は、自分と同じ平凡な人々が独立運動の主体であり、国の主人だという事実に気付き始めました。 そのことが、より多くの人の参加を呼び込み、毎日のように万歳を叫ぶ力になりました。 その最初の結実が、民主共和国の根源である大韓民国臨時政府です。 大韓民国臨時政府は臨時政府憲章第1条に三・一独立運動の意義を込めて「民主共和制」を明記しました。 世界史上で憲法に民主共和国を明示した初の事例でした。 尊敬する国民の皆さん、親日残滓(ざんし)の清算はあまりにも長く先延ばしにされた宿題です。 誤った過去を省察するとき、われわれは共に未来に向かって進むことができます。 歴史を正しくすることこそが、子孫が堂々とできる道です。 民族精気の確立は国家の責任であり、義務です。 今になって過去の傷をほじくり返して分裂を引き起こしたり、隣国との外交であつれき要因をつくったりしようとするものではありません。 どれも望ましいことではありません。 親日残滓の清算も、外交も未来志向的に行われなければなりません。 「親日残滓の清算」とは、親日は反省すべき、独立運動は礼遇を受けるべきという最も単純な価値を立て直すことです。 この単純な真実が正義であり、正義がまっすぐあることが公正な国の始まりです。 日帝は独立軍を「匪賊」、独立運動家を「思想犯」と見なして弾圧しました。 このときに「アカ」という言葉もできました。 思想犯とアカは本当の共産主義者だけに使われたのではありません。 民族主義者からアナーキストまで、全ての独立運動家にレッテルを張る言葉でした。 左右の敵対、理念の烙印(らくいん)は日帝が民族を引き裂くために用いた手段でした。 解放後も親日清算を阻む道具になりました。 良民虐殺、スパイでっち上げ、学生たちの民主化運動にも、国民を敵と追い込む烙印として使用されました。 解放された祖国で日帝警察の出身者が独立運動家をアカとして追及し、拷問することもありました。 多くの人々が「アカ」と規定されて犠牲になり、家族と遺族は社会的烙印の中で不幸な人生を送らねばなりませんでした。 今もわれわれの社会で政治的な競争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー論」が猛威をふるっています。 われわれが一日も早く清算すべき代表的な親日残滓です。 われわれの心に引かれた「38度線」は、われわれを引き裂いた理念の敵対をなくすとき、一緒に消えるでしょう。 互いに対する嫌悪と憎悪を捨てるとき、われわれ内面の光復(植民地支配からの解放)は完成するでしょう。 新たな100年はその時になって初めて本当に始まります。 尊敬する国民の皆さん、過去100年、われわれは公正で正義のある国、人類全ての平和と自由を夢見る国に向けて歩んできました。 植民地と戦争、貧しさと独裁を乗り越え、奇跡のような経済成長を遂げました。 四・一九革命と釜馬民主抗争、五・一八民主化運動、六・一〇民主抗争、そしてろうそく革命を通じ、平凡な人々が各自の力と方法でわれわれ皆の民主共和国を築いてきました。 三・一独立運動の精神が民主主義の危機のたびによみがえりました。 新たな100年は真の国民の国を完成させる100年です。 過去の理念に引きずられることなく、新たな思いと気持ちで統合していく100年です。 われわれは平和の朝鮮半島という勇気ある挑戦に乗り出しました。 変化を恐れず、新たな道に踏み込みました。 新たな100年はこの挑戦を成功に導く100年です。 2017年7月、ドイツ・ベルリンで「朝鮮半島平和構想」を発表した時、平和はとても遠くにあり、手に入れることができないように思えました。 しかし私たちはチャンスが訪れた時に飛び出し、平和をつかみました。 平昌の寒さの中、ついに平和の春は訪れました。 昨年、金正恩委員長と板門店で初めて会い、8000万の民族の心を一つに、朝鮮半島に平和の時代が開かれたことを世界の前で宣言しました。 9月には綾羅島競技場で15万の平壌市民の前に立ちました。 大韓民国の大統領として平壌市民に朝鮮半島の完全な非核化と平和、繁栄を約束しました。 朝鮮半島の空と地、海から銃声が消えました。 非武装地帯で13柱の遺骨と共に、和解の心も発掘しました。 南北の鉄道と道路、民族の血脈がつながっています。 黄海5島の漁場が広がり、漁民たちの満船の夢が膨らみました。 虹のように思われた構想が、われわれの目の前で一つ一つ実現しつつあります。 もうすぐ非武装地帯は国民のものになるでしょう。 世界で最もよく保存された自然がわれわれへの祝福となります。 われわれはそこに平和公園をつくるなり、国際平和機関を誘致するなり、生態平和観光をするなり、巡礼の道をつくるなり、自然を保存しながらも南北国民の幸福のために共同で使用することができるようになるのです。 そこはわが国民の自由で安全な北旅行へとつながっていくでしょう。 離散家族と失郷民(北朝鮮からの戦争避難民)たちが単なる再会にとどまらず、故郷を訪問して家族親戚と会えるよう、取り組んでいきます。 朝鮮半島の恒久的な平和は、多くの峠を越えることで確固たるものとなります。 ベトナム・ハノイでの2回目朝米(米朝)首脳会談も、長時間の対話を交わし相互理解と信頼を高めただけでも意味ある進展でした。 とりわけ両首脳の間で連絡事務所の設置まで議論がなされたことは、両国関係の正常化に向けた重要な成果でした。 トランプ大統領が示した持続的な対話の意志と楽観的な展望を高く評価します。 より高い合意へ進む過程だと考えます。 ここで、われわれの役割が重要になってきました。 わが政府は米国、北と緊密に意思疎通しながら協力し、両国間の対話の完全な妥結を必ず実現させてみせます。 われわれが抱く朝鮮半島平和の春は、他人が生み出したものではありません。 われわれ自ら、国民の力で生み出した結果です。 統一も遠くにあるのではありません。 違いを認めながら心を一つに、互恵的な関係を築けば、それがまさに統一です。 これからの新たな100年は、過去とは質的に異なる100年になるでしょう。 「新朝鮮半島体制」へと大胆に転換し、統一を準備していきます。 「新朝鮮半島体制」はわれわれが主導する100年の秩序です。 国民と共に、南北が共に、新たな平和協力の秩序を生み出していくのです。 「新朝鮮半島体制」は対立と葛藤を終わらせた新たな平和協力共同体です。 われわれの一貫した意志と緊密な韓米連係、朝米対話の妥結と国際社会の支持を土台に、恒久的な平和体制構築を必ず成し遂げます。 「新朝鮮半島体制」は理念と陣営の時代を終わらせた、新たな経済協力共同体です。 朝鮮半島の「平和経済」時代を開いてまいります。 金剛山観光と開城工業団地の再開案も米国と協議します。 南北は昨年、軍事的な敵対行為の終息を宣言し、「軍事共同委員会」の運営に合意しました。 非核化が進展すれば、南北間で「経済共同委員会」を構成し、南北双方が恩恵を享受する経済的な成果を生み出すことができるでしょう。 南北関係の発展が朝米関係の正常化と朝日(日朝)関係の正常化につながり、北東アジアの新たな平和安保秩序も拡張されます。 三・一独立運動の精神と国民統合を礎に、「新朝鮮半島体制」を築いていきます。 どうか全国民が力を合わせてください。 朝鮮半島の平和は南と北を超え、北東アジアと東南アジア、ユーラシアを包括する新たな経済成長の原動力となるでしょう。 100年前、植民地になったか植民地転落の危機に直面したアジアの民族と国々は、三・一独立運動を積極的に支持してくれました。 当時、北京大学の教授として新文化運動を導いた陳独秀は「朝鮮の独立運動は偉大で悲壮であると同時に明瞭で、民意をもってしながらも武力を用いなかったことで世界の革命史に新紀元を開いた」と語りました。 アジアは世界で最も早くに文明が繁栄した所で、多様な文明が共存した所です。 朝鮮半島平和によってアジアの繁栄に寄与していきます。 共存を図るアジアの価値と手を取り、世界平和と繁栄の秩序をつくるため一緒に進みます。 朝鮮半島の縦断鉄道が完成すれば、昨年の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)に提案した「東アジア鉄道共同体」の実現が早まるでしょう。 それはエネルギー共同体と経済共同体に発展し、米国を含め多国間平和安保体制を固めることになります。 東南アジアの国々とは「2019年韓国・ASEAN特別首脳会議」と「第1回韓国・メコン首脳会議」開催を通じ、「人中心の平和と繁栄の共同体」を共につくっていきます。 朝鮮半島平和のために日本との協力も強化します。 「己未(三・一)独立宣言書」は三・一独立運動が排他的感情ではなく全人類の共存共生のためのものであり、東洋平和と世界平和に向かう道であることを明確に宣言しました。 「果敢に長年の過ちを正し、真の理解と共感を基に仲の良い新たな世界を開くことが互いに災いを避け、幸福になる近道である」ことを明らかにしました。 今日も有効なわれわれの精神です。 過去は変えられませんが、未来は変えることができます。 歴史を鑑として韓国と日本が固く手を握る時、平和の時代がわれわれに近付くでしょう。 力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やす時、韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるでしょう。 尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、過去の100年、われわれが共に大韓民国を耕してきたように、新しい100年、われわれは共に豊かに暮らさなければなりません。 全ての国民が平等で公正に機会を得ることができなければならず、差別されずに仕事の中に幸福を見出さなければなりません。 共に豊かに暮らすために、われわれは「献身的包容国家」というもう一つの挑戦を始めました。 今日われわれが歩んでいる「献身的包容国家」の道は100年前のきょう、先祖たちが夢見た国でもあります。 世界は今、両極化と経済不平等、差別と排除、国家間の格差と気候変動という地球レベルの問題解決のために新たな道を模索しています。 「献身的包容国家」というわれわれの挑戦を見守っています。 われわれは変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。 われわれは最も平和で文化的な方法で世界民主主義の歴史に美しい花を咲かせます。 1997年のアジア通貨危機、08年の世界金融危機を克服した力も、全て国民から生まれました。 われわれの新たな100年は平和が包容の力につながり、包容が共に豊かに暮らす国を作り出す100年になるでしょう。 包容国家としての変化をわれわれが先導することができ、われわれが成し遂げた包容国家が世界包容国家のモデルになり得ると信じています。 三・一独立運動は今もわれわれを未来に向かって進ませてくれています。 われわれが今日(三・一運動の象徴である独立運動家)柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の功績を見直し、独立有功者の勲格を高めて新たに褒賞するのも、三・一独立運動が現在進行形だからです。 柳寛順烈士は(忠清南道・天安の)アウネ市場で万歳デモを主導しました。 (ソウルの)西大門刑務所に閉じ込められても死を恐れず、三・一独立運動1周年万歳運動を行いました。 しかし、何より大きな功績は「柳寛順」という名前だけで三・一独立運動を忘れられないようにしたことです。 過去100年の歴史はわれわれが向かい合う現実がどれだけ困難でも、希望を諦めなければ変化と革新を成し遂げることができると証明しました。 今後の100年は、国民の成長がすなわち国家の成長になるでしょう。 国内では理念の対立を越えて統合を成し遂げ、国外では平和と繁栄を成し遂げる時、独立は真に完成されるでしょう。 ありがとうございました。 ーーー ★ 独立運動100周年 きょうソウルで1万人参列の政府記念式典 「聯合ニュース(2019.03.01 05 00)」より / 【ソウル聯合ニュース】日本による植民地支配に抵抗して1919年に起きた独立運動「三・一運動」から100周年となる1日、政府の式典をはじめさまざまな記念行事が韓国の全国各地で開催される。 行政安全部などによると、政府主催の記念式典はこの日午前11時からソウル中心部の光化門広場で開かれ、文在寅(ムン・ジェイン)大統領と約1万人の国民が参列する。 (※mono....以下略、詳細はサイト記事で) ーーー ★ 韓国「3・1独立運動」100周年!文在寅大統領の親日清算でこれまでにない盛り上がり! 「Jcast(2019.3.1)」より / 「3.1独立運動100周年」の1日(2019年3月)の韓国・ソウルは早朝から異様な雰囲気に包まれた。中心部にある光化門前から市庁舎にまでの道路(約1.5キロ)が封鎖され、モニュメントが置かれ、ビルの外壁には国旗が飾られ、式典会場には大勢の警察官が配置されていた。 ソウルの会場には1万人 式典には文在寅大統領が出席し、市民1万人が参加、「親日清算」が主張された。韓国情勢に詳しい龍谷大の李相哲教授によると、親日清算は文大統領がかねてから主張している「100年以内に親日をなくす」というスローガンで、「今年はその決着の年」という。 司会の小倉智昭「微妙に歯車が絡み、難しいですね」 .
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/159.html
Template 朝鮮の事物? 三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)は、日本統治時代の朝鮮で起こった独立運動。1919年3月1日に起こったことからこう呼ばれる。独立万歳運動や万歳事件とも(日本では三・一運動、三・一事件という名称が一般的)。韓国では3月1日を三一節として祝日に指定している。 背景 第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより 十四か条の平和原則 が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった日本に留学中の朝鮮人学生たちが東京に集まり、「独立宣言書」を採択したことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。 三一運動の直接的な契機は高宗の死であった。高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間ささやかれるようになる。その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。実際のところは不明であるが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まったことが、運動の引き金となった。 経緯 民族代表33人 高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。中心となったのは天道教やキリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。同時に朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。 3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした開催場所の変更 場所の移動は群集が暴徒化し、それを口実に総督府が「凶悪な弾圧手段に出るかもしれない」(崔麟「自叙伝」)という恐れからであった。。参加者は、孫秉熙らの天道教代表15名、その他李昇薫らのキリスト教代表16名、韓龍雲(ハンニョンウン)、白龍城(ペクヨンソン)らの仏教代表2名の計33名であったという。そのためしばしば民族代表33人といわれる民族代表33人、彼等については評価が分かれている。独立宣言発表後すぐに朝鮮総督府に自首し運動を積極的に牽引しなかったことについて、大衆に背を向けたとする説(山辺健太郎・姜徳相)と彼等を再評価する説(朴慶植)とがある。。独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。 独立宣言 「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする」という一文から独立宣言は始まる。タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが宣言の骨子となっている。 一読して分かるように、非常に理想主義によって貫かれた独立宣言文であった。特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。 こうした理想主義的な独立宣言に対し、抽象的で具体的な行動指針が示されていないといった批判がマルクシズム的歴史学から寄せられたこともある。しかし現在では多くの民衆を動員せしめた点で、その意義は大きく評価されている。 運動の広がり 発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。 規模 三月から五月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域であった。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。 運動の担い手と形態 運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導した。しかし運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになった。 運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった韓国の3.1運動記念館「暴動化しながら進んだ」 ref name=meisei 『日韓共鳴二千年史』名越二荒之助 明成社『歴史を偽造する韓国』中川八洋 徳間書店。これに関して「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見 ref name=meisei 『日韓共鳴二千年史』名越二荒之助 明成社などがある。 「被害」 襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。 日本の対応 日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧(弾圧)強化を行った。それはこの運動を短期間で終わらせることで、パリ講和会議における不安定要因を除いておこうという考えからであった。そのため多くの犠牲が朝鮮側に生じた。当時、上海に亡命しており伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。犠牲者数:この運動に伴う検挙者数・死傷者数に関しては今なお論争がある。朴殷植は事件発生当時上海に亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本書中で断っているが、韓国の教科書や研究者にはこの犠牲者数を参照しているものが多い。一方、当時の朝鮮総督府の記録「朝鮮騒擾事件道別統計表」(3月1日 - 4月11日)によると357名が死亡し、負傷者は約802名とされている。ただこの集計は日本から増派された軍が配置され本格的な鎮圧(弾圧)が始まる前のものであること、「内外に対し極めて軽微なる問題となす」べきと総督府側自身がいうように、その発表された数は意図的に少なく抑えられているとする研究者もいる。 その他の記録でも検挙者数・死傷者数について食い違いがある。たとえば、和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7500人が死亡、4万6000人が検挙された」とされている(106頁)。朝鮮総督府側は、上に述べたように警察官及び憲兵8名が死亡、152名が負傷(他に陸軍4名が負傷)したとされるから、仮に総督府の公式発表である死者357名を認めるにしても、それの何十倍にもあたる多大な人的被害が運動側にでたことになるTemplate 誰?。いずれにせよ、独立を唱える大規模な示威行動が朝鮮半島において展開され、その過程で暴徒と化した群集を朝鮮総督府が武力によって鎮圧(弾圧)する際、死傷者が出たことは確かである。 こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。・・・之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している。自由主義史観の観点 杉本幹夫 『「植民地朝鮮」の研究』(展転社、2002年)や金完燮『親日派のための弁明2』(扶桑社、2004年)では、提岩里近くで起きた小学校焼き討ちと警察官2名の殺害事件に関する取調べの際、容疑者の逃走を阻止する過程でやむなく起こったとしている。これは事件の日本側当事者である有田中尉の報告を採用した意見である。しかしその上官や時の総督長谷川好道自身が「検挙班員及軍隊ノ行為ハ、遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ明カニ刑事上ノ犯罪ヲ構成スル」とのべている日本側に非があることを認めた証言、並びにアメリカ人宣教師の事件報告については上記二書はその点については看過しており、何故採用しないかという点にも触れないTemplate 誰? 。当然この意見は非常に稀少な意見であって学会ではこの説を採らないTemplate 要出典? 。このように先の犠牲者数や堤岩里事件を含むの三・一運動理解において日本国内の「自由主義史観」を唱える評論家は、歴史学者の大半が支持しているこのような見解・評価を否定し、三・一運動は単なる暴動であり日本官憲の行為はそれに対する正当な鎮圧であるとか、朝鮮人のうけた被害について今まで言われてきた規模は誇張されすぎていると主張ししている。 この他の悲劇としては江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。 以上のような運動弾圧(鎮圧)中、悲劇の死を迎え、特に人々の記憶に残った女生徒がいる。故郷の天安で独立運動を行い、逮捕・起訴後懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去したという梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)(当時17歳)である。彼女は、後に「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、現在まで尊敬を集めている。一方で、彼女についての実際の記録はほとんどなく、膨張され過ぎて伝えられてきたと指摘もされている。柳寛順研究所の研究員は「柳寛順への盲目的な思い込みから、いい加減な事実が広まっており、子供向けの伝記にまで膨張した話が掲載されている」と問題視している2002年2月26日中央日報。 運動の終息 朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していった日本側対応の形容について 三一運動の弾圧については、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会 編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男 編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)という表現を用いている。一方で名越二荒之助『日韓2000年の真実』(国際企画)等をはじめ、日本の教科書[1]など、「鎮圧」という表現を用いているものもある。 。司法的には以下のように決着がつけられた。逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年(大正8年)5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。司法的結末:「万歳騒擾事件一」(友邦協会編纂) きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。高等法院で確定した刑期も、1920年(大正9年)の大赦令によりさらに半減されている。 一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、国内における独立運動は挫折した。その結果、三一運動が挫折した後、 1945年(昭和20年)の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。ただこのうち後に独立派の中心人物となった金九は、事件後中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府に参画している。朝鮮人移住者の多かった満州の間島地域では、独立軍の抗日武装闘争が活発化し、青山里戦闘などの事件が起きた。 当時の反響 日本のマスコミ 発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。しかしやがて武力に頼った統治、すなわち武断統治に対する批判も徐々に一部の新聞に掲載されるようになる。「擾乱の有力なる原因」は朝鮮総督府の統治方法にあり、このたびのような事件を今後防ぐために朝鮮人の待遇改善や武官総督制を改め文官も総督と就けるようにすること、警察制度の強化、同化政策を推進すべきとの論調が出るようになった。これらは武断統治に限界を感じた原敬内閣の意向に沿うものであった。 吉野作造や石橋湛山ほか 日本の世論は圧倒的に三一運動を暴動とみなす論調が強かったが、一部には運動に同情を寄せる識者もいた。たとえば民本主義を標榜し、大正デモクラシーの主導者となった吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。この他石橋湛山や柳宗悦なども運動への理解を表明している。 影響と意義 三一運動は、独立という目的こそ達成できなかったが、大きな影響と意義をもった運動であった。一部の者だけが決起するのではなく、多くの民衆の参加したことは民族解放運動の画期をなし、以下のような影響を与えたとされる。 たとえば日本及び朝鮮総督府の武断統治を改めさせ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。朝鮮人による国外での独立運動が活発化する契機となったことや、国内での合法的民族運動を展開する道が開けることになったことは三一運動の大きな成果といえる。ただそれは日本当局による民族同化政策・民族文化減殺政策のより一層の推進を促す結果となったのも事実である。 三一運動は、朝鮮の人々に今なお深く記憶され、独立運動の様子を描写したレリーフがソウル特別市のタプコル公園に作られており、毎年3月1日に同公園に人々が集い独立運動を偲んでいる。 脚注 Template reflist? 関連項目 Template Wikisource? 朝鮮の歴史 韓国併合 斎藤実 京城帝国大学 参考文献 朴慶植『平凡社選書49 朝鮮三・一独立運動』平凡社、1976、ISBN B000J9DU8Q 李光植ほか編「3・1運動と大韓民国臨時政府の成立」『朝鮮韓国近現代史事典』第二版、日本評論社、2006、ISBN 4535584346 木原悦子『万歳事件を知っていますか』平凡社、1989、ISBN 4582823688 小笠原亮一『三・一独立運動と堤岩里(チェアムリ)事件』日本基督教団出版局、2000、ISBN 4818400246 姜徳相『朝鮮独立運動の群像―啓蒙運動から三・一運動へ』青木書店、1998、ISBN 4250980189 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005、ISBN 4-582-45431-3 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月6日 (木) 11 39。
https://w.atwiki.jp/gionshantveed/pages/1240.html
リスヒューメ独立戦争 Lis'umun Noswanth'un Zedovin 年月日:1738年1月9日 - 1739年12月4日 場所:ショトー・グンティ星系・惑星ユリーナ 結果:リスヒューメ側の勝利。王室領ユリーナが独立 ←アクース内戦 →マーカス内戦 交戦勢力 グライニア側 リスヒューメ側 グライニア調和国ヴァルエルク共和国メロア自由連邦スレフィエ国フレイルベリオン共和国ショアン王国 南サニス連合王国第一艦隊(1738~1739)王室領ユリーナ(1739~)(南サニス連合王国)ファルトクノア共和国全シルア労働者連盟タアルニアエルトリア王国アクース連邦(ニーネン=シャプチ) 指導者・指揮官 グライニア側 リスヒューメ側 戦力 グライニア側 リスヒューメ側 歩兵 4,531,283名戦闘車輌 18,148輌機兵 3,060機航空機 2,880機小型艦 49隻中型艦 28隻大型艦 7隻 歩兵 391,802名戦闘車輌 38,250輌機兵 1,930機航空機 4,700機小型艦 34隻中型艦 19隻大型艦 6隻 損害 グライニア側 リスヒューメ側 リスヒューメ独立戦争(現代ヴァルエルク語:Lis'umun Noswanth'un Zedovin、1738年1月9日 - 1739年12月4日)はグライニア領(当時)ショトー・グンティ星系の惑星ユリーナでグライニア調和国とリスヒューメ王国(または南サニス王国連合)との間で起きた内戦である。 目次 背景各勢力リスヒューメ側勢力 グライニア側勢力 その他勢 戦争による影響 戦闘の経過山頂不明艦隊迎撃戦 第一次ヴォーギマガードの戦い 第一次スーレヌカの戦い ショトー・グンティ星系近傍の戦い ファルトクノア軍によるユリーナ降下 パレゴアル侵攻 ケルーノの戦い 第二次ヴォーギマガードの戦い ショトー・グンティ星系基地占領 コトー・スロー宙域会戦 ショトー・グンティ星系基地防衛戦 「レシュ・キーゼメ・カルスフ」/”カルスフの自己犠牲”作戦 アクース軍・A F勢降下 ヴァルエルク艦隊到着 イェスカラーンの戦い ユリーナ航路の艦隊戦 シルア増援艦隊の到着 ショトー・グンティ星系外縁部の艦隊戦 ハーリタネン・ストルハ作戦 トロベアクベロン陥落 ヴェオルモルドゥオス強襲降下 ウォルツァーラルの戦い クエリオン攻勢 ヴァルエルク軍増援の到着と降下 リーニアツィ陥落 第二次クエリオン攻勢 ハルハ奇襲 ロロモアクトーミオ作戦 アドヴィオルオン・ガウォル作戦 ゼドルク作戦 第三次クエリオン攻勢 セトナーシュト作戦 ドロスフェンダの戦い トロベアクベロン島の虐殺 第二次スーレヌカの戦い 踏み絵事件 デュティイェスルキオンの戦い グライニア軍の蛮行 疎外円環の終端作戦(陸) ヴァルエルク軍の撤兵 イ・ルヴィツァー講和条約三国間経済交渉 その後○○国際特別法廷 関連資料 関連項目 背景 1738年1月9日、南サニス王国連合海軍の海上艦隊が突如WP転移事故によって惑星ユリーナのデュティイェスルキオン山の山頂に出現する。 海上艦隊の出現に驚いたグライニア軍の現地守備隊は発砲して応戦し、戦闘が起きた。 これに呼応するようにグライニアに支配されていたリスヒューメ人が一斉に反乱を起こし、グライニア調和国は内戦状態に陥った。 自由解放連合各国は加盟国のグライニアの危機に軍事介入を決定。ヴァルエルク共和国、メロア自由連邦、スレフィエ国の宙軍艦隊が各地より出港した。 各勢力 リスヒューメ側勢力 リスヒューメ王国艦隊から国家に。 女王陛下万歳!!!(半分あきらめつつ攻勢) 勝者 ファルトクノア共和国影響力が欲しいので、グライニアを黙らせようとしたら、ヴァルが介入してきてブチ切れた。連邦? 知らんわよ(冷や汗をかきながら) ファル「シルアはまともに支援してくれ(涙目)」 619「まともなしえんとは?(禁止兵器をバリバリ使いながら)」 目的:ヴァルの影響圏拡大を防げ。 内務省「介入してくるショアンに圧力掛けろ」 陸軍「えいえいさー(国境に展開)」 全シルア労働者連盟正直言って、私がなりたい。 アクース内戦の結果発生した反ヴァルエルク・親ファルトクノア国内世論の一環としてファルを支援 グライニアも弱くできて国内報道を戦争で一色にできるから完璧! 医療部隊のネタはここでやりはじめる 「グライニアの都市に医療器具を投下しているだけだ(爆撃)」 「え?この戦車はなんだって?戦車じゃなくて救急車ですよ(苦笑)」 ニーネン軍の軍事顧問と武器支援を得て戦闘開始!!! タアルニア「フレイルに対抗して、うちらも過激な企画やらなきゃ!」配信企画「戦争しているバーチャルアイドル、抹殺してみた」 後に報道界隈での黒歴史に。また、第N次ルリスティア内戦の遠因に ニーネン=シャプチ暫定中立 アクース軍を率いて裏からリスヒューメ側に参戦するかもしれないアクース軍への説明「ニーネン軍が率いるから安心だよ」 国際社会への説明「ニーネンは介入してないです!アクースは出兵してるかもしれないですけど……(ニッコリ)」 ファル&リスへの説明「諸事情で正規軍は出せないけど手伝うやで」 ヴァルへの説明「スラーンはニーネンが話つけるからやめよ???ね????えっダメ??じゃあ開拓中のシャグマ=ラゴンに居留地作るから許されない???あっいい?(……ホッ)」 プルスへの説明「スラーンのことはニーネンが仲介するからええねん!ニーネンにまかせてね!」 シルアへの説明「シルアもアクース軍率いてみない?あっ逆にニーネン軍に率いられたい?いや~……それはちょっと司令部のキャパが死ぬのでそっちに鉄砲積んで軍事顧問送るってことでいい?あっじゃあそういう感じで」 アクース連合ニーネンと共謀して、なんか国際社会の網を掻い潜って出兵する 血の気が強いセッちゃん狂信者や内戦後社会に馴染めなかった人たちが戦いに志願 国際社会への説明「アクースは介入してないですよ!他国に指揮されて戦うアクース人兵士は知らないです!責任取れませんよ!!」 エルトリア王国経済支援(外貨を投げ銭するとこまでは決まり) 情報提供(エルトリア宮廷諜報部より) ジサ同盟各国への説明「リスヒューメへの貸しですわ!貸しはキッチリ後で返してもらいますわぁ♡」 グライニア側勢力 グライニア調和国被害者にして敗北者。 数々の戦争犯罪によって調和主義の恐ろしい一面が明らかになり自由解放連合での立場を追われる。 ヴァルエルク共和国スラーン宙圏での影響力拡大のための橋頭堡獲得が目的。 この時代のヴァルエルクは国内の景気も良く国際社会での評判も比較的良好だったため、流れに乗っていた。アクース内戦での(最終的な)勝利を得たから。 ヴァルエルクの全領土のうちイェダ以外を領有し、開発が追いついてきた。 ヴァルエルク保護国圏の経済的発展による好景気。 メロアとスレフィエの発展。 国内世論は「革命の被害者を助けに行く!」という認識。 陸軍と民間軍事会社が共同で軍事介入を行うことで戦費コスト削減。補給・修理の一部を民間軍事会社が担当。 フレイルルリスティア・プルス共和国のバーチャル・アイドルグループ。ヴァルエルクの銃器メーカーのヴェリゲオン社のコラボ企画「戦争してみた」としてバーチャルアイドルが参戦。 ???「アイドルが戦争をするのはおかしいというのは前時代的な話で、むしろアイドルは積極的に戦争するべきだと言う研究がアルナ フリナ総合大学の研究から出ている」 ベリオン共和国えー、今回ですね、宿敵とも言えるえー、ヴァルエルクの側に立ってグライニアに介入しようというのはですね、えー、覇権国家ベリオンとしてはスラーンに影響力を及ぼす必要がありまして、あの、そのためには、そのためにはヴァルエルクと協力してでもスラーンに影響力を及ぼしていこうという…その、その所存…覚悟を持って介入していく所存でございます。 でもいちいち介入して事を荒立てたくない… ベリオン「いけ」ショアン「はい…」 兵器をいっぱい輸出しようね… ショアン王国↑というわけで出兵した。 憎きファルトクノアとリスヒューメによってかつてのショアンと同じ目にあわされているグライニアの同志を助けにいこう。 ジエール帝国連邦グライニアの防衛は正当。帝国連邦はこれを支持し、人道的支援を行う。 軍事的にこれを支援する諸国は賛同するが、支援と引き換えに何らかの利権を要求する国があれば断固反対する。 天嶺皇国以下同文です。 その他勢 プルスティア戦中は自制を求めながら、外交戦を展開。あとは戦後処理? タリェナフらの集団「どっちも真のイェスカ主義じゃない、まとめて殺す」 「ついでに王位返せやクソお菓子」 アルナ&フリナ「おい、フレイルもタアルニアも戦争をネタにし始めたぞ……アイツら止めなきゃ……」 サーヴァリア企業連合この紛争で被害を被った皆さまには、災害支援キャンペーンが適用されます。今ならサーヴァリア製生活物資・日常雑貨を45%OFF※で---お買い求め戴けます!!!! 団体購入の場合、60%OFF※!!!!※割引は最大の場合を表示しています。商品により変動します。 戦争による影響 ヴァルエルクグライニアの戦争犯罪が露見して反戦運動が巻き起こる。 戦争の消耗の代償を払うためにマーカス内戦の参戦が遅くなる。 ニーネン=シャプチ裏からアクース軍を動かして戦争に介入。後々国際社会に判明する。 エルトリアアクース内戦時の軍隊債権と近代化の費用をリスヒューメへの経済支援に使ってしまった。 当時、軍隊債権は少なくとも1775年までかかると試算された。その後短縮して55年には完了する予定。 シルア国際社会における立ち回り方を学んだ。ニーネン=シャプチ指揮ドクトリンの流入で地上軍が大幅強化。 シルア製装備の信頼度が増強。 シールドグレネードの共同開発。 スラーン条約機構諸国との関係強化を図る。グライニアの脅威度低下による安全保障の強化を図る。 当時国内ではアンドロイドで騒ぎが怒っており、国内課題を揉み消すために派兵した可能性が指摘されている。 戦闘の経過 山頂不明艦隊迎撃戦 1738年1月9日~1月12日 結果:結果:リスヒューメ側の勝利。デュティイェスルキオン制圧。 南サニスの海上艦の艦隊がWP転移事故によってユリーナの山頂に突如転移。 グライニア軍が艦隊に発砲したため南サニス艦隊が艦砲射撃で応戦。 グライニア市民は南サニス艦隊を認識に不審な行動(反乱の計画?)をし始めるようになり、これに危機感を覚えたグライニアの現地守備隊は南サニス艦隊に対し威力偵察攻撃をおkなった。 ファルトクノア政府はFAFJS(ユエスレオネ連邦情報機関)から内閣に直接南サニス艦隊のWP転移事故発生の可能性を通達。本国内閣の意向により、介入しないよう忠告される。ラヴィル首相は内閣の秘密会議で介入を決断。 南サニス政府は艦隊の件について連邦に問い合わせたが、連邦側からの情報は得られなかった。 第一次ヴォーギマガードの戦い 1738年1月17日~2月1日 結果:リスヒューメ側の勝利。海軍偵察部隊の撤退成功。 南サニスの偵察部隊がヴォーギマガードでグライニア軍と遭遇。小規模な戦闘の後、撤退に成功した。 海軍第一艦隊はファルトクノアとの交信に成功し、南サニス本国に増援を要請。エミリア・ウォルツァスカイユ政権は介入を決断。 グライニアは自由解放連合に介入を要請し、ヴァルエルク・メロア・スレフィエが受諾。 自由解放連合は1月18日にメロア・スレフィエ艦隊の派遣を決定。2月14日にメロア艦隊が、3月5日にスレフィエ艦隊が出港。 第一次スーレヌカの戦い 1738年2月7日~2月15日 結果:リスヒューメ側の勝利。スーレヌカ占領。 到着した南サニス軍による本格的な初の戦闘。質的優位とWPによる戦力投射を活かした南サニス陸軍がグライニアの第83防衛大隊に甚大な被害を与えた。 ショトー・グンティ星系近傍の戦い 1738年3月19日~4月1日 結果:リスヒューメ側の勝利。ショトー・グンティ星系の制宙権を獲得。メロア艦隊は修理のためアポラに撤退。 ファルトクノア艦隊の一部もニーネン=シャプチに一部移送。 ヴァルエルク共和国の要請を受けてメロア艦隊がグライニア宙域にワープアウト。 その一日後にファルトクノア共和国の宙艦実習艦隊がショトー・グンティ星系の重力井戸の外側に到着し。グライニア側艦隊がこれを検知。メロア艦隊は迎撃するためにグライニア艦隊と合流してから出撃した。ショトー・グンティ星系近傍200光年の宙域で両軍の艦隊は交戦距離に入った。 ファルトクノアの宙艦実習艦隊指揮官のレシェール・フミーヤ・ファイユ上級兵曹の狂犬っぷりが炸裂し、メロア第4護衛艦隊の旗艦である巡洋戦艦メーニアを含む4隻を撃沈、その他6隻小破の大戦果を挙げる。メロア宙軍は修理と補給のためにアポラのエリナテー星系まで撤退し、皇族のスレフィエ艦隊を待つことにした。 リスヒューメ側はIEAX LSV-6 ファリーア、IEAX LSV-7 クラディアが小破し、ニーネン=シャプチのギーラン国際宇宙港へ修理するために後方移送。ファルトクノアからリミアン技術中佐が修理工兵部隊を連れてシ=ギーラムに急行する。 ファルトクノア軍によるユリーナ降下 1738年4月1日~4月15日 結果:リスヒューメ側の勝利。ヴォーギマガード占領。 ファルトクノア艦隊は惑星ユリーナの軌道上から陸軍治安維持派遣隊、惑星降下独立中退、クラシュヴェルグネース師団をデュティイェスルキオン近辺に降下させた。 パレゴアル侵攻 1738年4月6日~4月9日 結果:リスヒューメ側の勝利。パレゴアル占領。 ファルトクノアの陸上治安維持派遣隊の降下に困難が生じているところを惑星降下独立中隊による補助が入り、降下の諸端が開かれた。グライニアの調和主義親衛隊と戦闘の後、橋頭堡を築いたところでシルア艦隊が到着。ファルトクノアと連携し第A独立強襲准隊が降下。 圧力に耐えきれなくなった調和主義親衛隊は後方に撤退するも、熾烈な防衛戦を繰り広げた。 ケルーノの戦い 1738年4月10日~5月15日 結果:膠着。 ファルトクノアの陸上治安維持派遣隊は続いてケルーノに侵攻する。ファルトクノア軍は双方から押し上げる形でケルーノを包囲しようとしたが、補給線が伸びたところをグライニア軍に側面から攻勢を掛けられたため後退。戦闘が膠着する。 第二次ヴォーギマガードの戦い 1738年5月15日 結果:グライニア側の勝利。ヴォーギマガード奪還。 ケルーノの戦いでファルトクノアが兵力を集中させたために手薄になったヴォーギマガードの守備を突く形でグライニア防衛義勇隊(民兵組織)がヴォーギマガードを奪還。 ショトー・グンティ星系基地占領 1738年6月1日 結果:リスヒューメ側の勝利。ショトー・グンティ星系基地占領。リスヒューメ側が惑星ユリーナ付近の制宙権を完全に獲得。 戦闘後、グライニアの第一艦隊、第二艦隊を奪取。海軍を運用に任せ、南サニス連合王国海軍臨時非重力圏戦闘隊を結成。 コトー・スロー宙域会戦 1738年8月4日 結果:グライニア側の勝利 トルナーチェ=アクース艦隊が補給を終えてアポラから出発したスレフィエ・メロア艦隊とコトー・スロー星系近傍で遭遇。 ちょうどアクース艦隊は惑星スラーンの宇宙港で補給を受ける前だったため戦闘準備が間に合わず、後方からワープアウトしたスレフィエ・メロア艦隊の一撃を受け混乱。態勢を立て直すことができず、輪k末井スラーンの軌道付近に緊急ワープを使い撤退した。 シ=ギーラムへ後方移送していたIEAX LSV-6ファリーアとIEAX LSV-7クラディアは戦線復帰中会戦の支援を行おうとしたが、到着したときにはすでに大勢が決まっており、追撃してきたスレフィエ・メロア艦隊を追い払うことしかできなかった。 ショトー・グンティ星系基地防衛戦 1738年8月11日 結果:リスヒューメ側の勝利。星系基地の防衛に成功。 防衛に成功。ファルトクノア艦隊がサポートに回る。 「レシュ・キーゼメ・カルスフ」/”カルスフの自己犠牲”作戦 1738年9月16日 結果:リスヒューメ側の勝利グライニアの調和主義親衛隊1個師団が全滅。 シルアのヤフーアシジ部隊がヴォーギマガードを攻撃してグライニア側の防御を弱体化させることに成功。ユリーナ・ニエノから回ったファルトクノア・シルア地上部隊が迂回突破。グライニア側は第一大陸西側の海岸線に沿って後退。撤退するグライニア側部隊をファルトクノアの治安維持派遣隊が追撃し、一部を殲滅する。 フレイル/タアルニアとA Fの護衛部隊がグライニア側/リスヒューメ側に分かれる。 アクース軍・A F勢降下 1738年10月7日 シ=ギーラム星系での補給・修理から戻ってきたトルナーチェ=アクース艦隊とA F税は第一大陸のリスヒューメ側が占領しているユリーナ・ニエノに降下。 ヴァルエルク艦隊到着 1738年10月15日 ヴァルエルクの第4艦隊がツーンカ星系経由でキャルノ星系にワープアウト。キャルノで補給を受けショトー・グンティ星系を目指す。 イェスカラーンの戦い 1738年10月9日~18日 結果:リスヒューメ側の勝利グライニア側の主力がほぼ損害なしに撤退。 リスヒューメ側はイェスカラーン付近の海岸線を包囲してグライニア側軍を分断したが、ヴァルエルク宙兵隊の決死の防御によりほとんど兵力の損失なしにグライニア軍の海上輸送船のみならず地元の漁船やヨットさえも動員して兵員をリーニアツィ島に撤退・輸送させることに成功。 グライニアへの自由解放遠征地上軍は捕虜になることがほぼ確実であると絶望していた中、ほとんど無傷でイェスカラーンを脱出できたため、将兵たちはこの戦いを「イェスカラーンの奇跡」と名付けた。 ユリーナ航路の艦隊戦 1738年10月18日 結果:リスヒューメ側の勝利。 トルナーチェ=アクース艦隊とファルトクノア宙軍の2隻(そしてA F税)だけではギリギリ頭数が足りないため、タイミングを見計らってファルトクノア宙軍本隊の増援も要請。 戦闘前、アポラのエリナテー星系で修復したはずのメロア駆逐艦3隻が機関トラブルで戦線を離脱。同じ箇所が故障していたことが判明。 ファルトクノア宙軍本隊がアクース艦隊とスレフィエ・メロア艦隊が交戦し始めた絶妙なタイミングで到着し、思わずトルナーチェ提督も「……機は熟したか。 今がその時だッ!」って決め台詞を言ってしまった。 A F艦隊は交戦の様子を大宇宙に配信し、その動画は各国で議論を呼び起こした。特にプルスティアは戦争開始から起こしている批判の矛先を国際社会に向けることになる。 シルア増援艦隊の到着 1738年11月 ショトー・グンティ星系外縁部の艦隊戦 1738年11月5日~11月8日 結果:リスヒューメ側の勝利。ヴァルエルク宙軍はキャルノ星系に押し留められる。 ヴァルエルク艦隊がショトー・グンティ星系に到着したがリスヒューメ側の多国籍艦隊の熾烈な迎撃でショトー・グンティ星系中央部への進入に失敗。 ヴァルエルク艦隊はショトー・グンティでリスヒューメ側の艦隊を撃破できればメロア・スレフィエ艦隊と合流して制宙権を確保できると踏んでいたが、キャルノ星系に押し留められる形で分断された。 ハーリタネン・ストルハ作戦 1738年11月10日~1739年3月8日 結果:ヴァルエルク宙軍のショトー・グンティ星系進入を阻止。 シルアとファルトクノアが主体の多国籍艦隊がヴァルエルク艦隊を定期的に襲撃しキャルノ星系に押し留める。 作戦名は「ハーリタンの火箭」という意味。 トロベアクベロン陥落 1738年11月14日~15日 結果:リスヒューメ側の勝利。両軍の一部が第二大陸に転戦 第一大陸南西島嶼部のトロベアグベロン島にリスヒューメ側軍が上陸。 上陸前に防衛しきることが極めて困難であると判断したヴァルエルク宙兵隊はグライニア軍と共に撤退したため無血で陥落した。ヴァルエルク宙兵隊第34師団のみ第二大陸に転戦した。 ヴェオルモルドゥオス強襲降下 1738年11月17日 結果:リスヒューメ側の勝利両軍の一部が第二大陸に転戦 艦隊(宇宙艦?)による支援が行われ、ヴェオルモルドゥオス半島にリスヒューメ側軍が降下。 ウォルツァーラルの戦い 1738年13月8日~1739年2月6日 結果:グライニア側の勝利ウォルツァーラルの防衛に成功。 第一大陸の頭部の都市ウォルツァーラルに追い込んだリスヒューメ側軍だったが、ウォルツァーラルでグライニア軍の激しい抵抗に遭う。 クエリオン攻勢 1738年14月2日 結果:痛み分け シルアの第Aが独立強襲准隊、スレフィエの第9遊撃師団、メロアの第11軍は被害多数で再編成中。 ヴェオルモルドゥオス半島の結節部にて独立混合師団とヴァルエルクの第34師団が一進一退の攻防を繰り広げた。 グライニア民兵の物量攻勢からクラシュヴェルグネース師団が守り抜き、同師団はファルトクノア異能戦闘瓶によるクエリオン奪取を試みたが肝心の攻勢は失敗した。 ヴァルエルク軍増援の到着と降下 1739年1月7日~1月12日 レガントゥオス・クオリノス提督率いるヴァルエルク宙軍第4艦隊スラーン方面増援艦隊が到着。 輸送船団にはヴァルエルク陸軍第2遠征軍の兵士と兵器が満載されている。 ここからヴァルエルク地上軍の反撃が始まる。 リーニアツィ陥落 1739年1月9日~1月11日 結果:ヴァルエルク・メロア軍がリーニアツィ島から撤退。 リス側の上陸タイミングを一か八か予測して見事的中させたヴァルエルク・メロア軍がバッチリほとんど撤退。 キスカ島撤退作戦みたいな感じですかね。 第二次クエリオン攻勢 1739年16月1日 結果:リスヒューメ側の勝利。 シルアの即応管区グライニア派遣軍が増援として到着し、クエリオン北部の前線を押し上げる。 ファルトクノアのアステゼイト部隊がヴァルエルクの守備隊を蹴散らして爆走。 スレフィエの第2機甲師団による決死の反撃が行われた。 アクースの独立混合師団がファルトクノアのアステゼイト部隊を追従しきれず、ヴァルエルクの第34師団の後衛部隊に補足されて進撃に遅れが出始める。 南サニスとファルトクノアの異能戦闘兵部隊がクエリオン市街地を制圧。シルアの強襲部隊が橋を奪取し、グライニア陸軍の守備隊がようやく動き出した。 ハルハ奇襲 1738年14月1日~15月8日 ヴァルエルク宙軍がガイエン領のブラニスタ星系から出撃。シルアのハルハ星系に突如現れて軍基地を爆撃。 リスヒューメ独立戦争で主力艦隊が遠征中だったためにシルアは応戦できずに多数の軍基地が破壊される。 政情不安が生じたかもしれない。 ロロモアクトーミオ作戦 1738年16月14日~1739年4月14日 結果:引き分け グライニア陸軍15万(2個師団)、親衛隊1個師団が増援として到着。 クエリオン北部に投入され、シルア・アクース軍部隊の攻勢を抑えた。 クエリオン南部ではスレフィエの機動反撃が功を奏し、始めクラシュヴェルグネース師団を包囲し、グライニア民兵が束になって攻撃。 アクースの独立混合師団が救出のために的右翼側に攻勢を仕掛けるも息切れを起こし、クラシュヴェルグネース師団は補給が軽かったことが幸いし自力での脱出になんとか成功。 シルアの第A独立強襲准隊がクエリオンから攻勢を仕掛けるもメロアの遅滞戦術の前に息切れし、調和主義親衛隊の増援が確認されたことで後退を開始した。 アドヴィオルオン・ガウォル作戦 1739年1月20日~2月8日 結果:グライニア側の勝利。ヴォーゲフェント島の防衛に成功 1739年1月20日~2月8日 結果:グライニア側の勝利ヴォーゲフェント島の防衛に成功。 ヴォーゲフェント島へのリス側(アクース軍団?)の上陸を水際で防いだ戦闘。ヴァルエルク軍とメロア軍が奮闘。 アクース軍の上陸を一度だけ許し、橋頭堡を素早く構築して抵抗したためグライニア側軍では投降ムードが広まったものの、指揮官が鼓舞に奮起したヴァルエルク・メロア軍が拠点を奪取しアクース軍工兵部隊を海に追い落とした。 ゼドルク作戦 1739年2月9日~2月10日 結果:ヴァルエルク軍第28師団がアクース軍後背地のスーレヌカ近郊を占拠。 ウィノスコス将軍率いる第28師団の見せ場。スーレヌカ近郊に空挺強襲をかけ奪還し、リスヒューメ側の第一大陸本軍と東部に取り残されたリスヒューメ側軍の分断に成功。 分断されたウォルツァーラル攻略部隊は補給の分断と不十分な防寒装備で苦境に立たされ、特にアクース軍団は凍死者が続出するほどの被害が発生した。 第三次クエリオン攻勢 1739年5月3日~6月1日 結果:グライニア側のクエリオン占領。 グライニアの調和主義親衛隊第5師団、メロアの第11軍がクエリオン奪還を試みる。 独立強襲准隊は市街地ゲリラ戦を展開するも数の暴力によって大損害を被り、シルア軍の士気低下。 異能戦闘兵がスレフィエ軍と再度ぶつかるも、スレフィエ軍のゲリラ+機動戦に苦戦。 ヴァルエルク軍第34師団がクラシュヴェルグネース師団の攻勢を受けて熾烈な戦いが繰り広げられた。 セトナーシュト作戦 1739年2月15日~2月20日 結果:リスヒューメ側の勝利。スーレヌカを再度奪還。 ウォルツァーラル攻略部隊を少しずつ引き抜いてスーレヌカのヴァルエルク軍第28師団の迎撃部隊として充当。少数の機甲部隊でスーレヌカに攻撃を仕掛け、近郊部のキルゾーンに誘引した後に火力を浴びせて撤退させた。第28師団は第一大陸南東部に敗走。 ドロスフェンダの戦い 1739年3月8日~3月14日 結果:グライニア側の勝利。グライニア側はドロスフェンダの防衛に成功。 両軍によるドロスフェンダ近郊の草原での大規模な戦車戦が発生。ヴァルエルク軍第28師団を追撃していたアクース軍・南サニス軍はクナクヌイ・戦車混合の機甲部隊でヴァルエルク・グライニア軍を突破することに成功した。 しかし市街地ではクナクヌイが寒冷地での機動で無理が祟り相次いで故障。対戦車プラズマランチャーを装備したヴァルエルク兵の攻撃を受けて次々に撃破された。後続の歩兵部隊は本来機甲部隊が破壊するはずだったトーチカに突入を阻まれ、作戦は中止された。 トロベアクベロン島の虐殺 1739年4月1日~4月2日 激ヤバ虐殺事件。 グライニア軍は放棄されたトロベアクベロン島の再占領に成功。 島民はアクース軍占領時にニーネン=シャプチ軍によってケモ耳再生手術を施されていたため、調和主義に反してるんじゃないかとして議論になっていた。グライニア政府を見学していたフレイルのナミサ・ダグレがグライニア主席に「じゃあ、爆撃したら良いんじゃないんですかあ?」と発言、グライニア主席は「なるほど、調和主義的に他国の意見も飲み込まなければな」と考えて、軍に警告爆撃を司令。軍はこれを殲滅だと勘違いし、事前通告なしにトロベアクベロン諸島全域を空爆。ネズミ一匹すらいない土地になった。 あの!グライニア軍人も巻き込んでるんですけど?!?!?! 後にプルスティアによる国際特別法廷で責任の所在が争点となった。 第二次スーレヌカの戦い 1739年3月8日~3月14日 結果:グライニア側の勝利。グライニア側はドロスフェンダの防衛に成功。 ここら辺でヴァルエルク的にはもうゲンナリし始めてる。グラ側はスーレヌカを奪還するが、無視できないレベルの損害を被った。 ここではフレイルのナミサ・ダグレが前線での配信を行おうとしたため、ヴァルエルク軍第28師団指揮官のディヴォヌオス・ウィノスコスは「ナミサを護衛するA Fの地上軍がヴァルエルク軍の移動を妨害するなどして実力を発揮できなかった」と説明した。 踏み絵事件 1739年4月9日~5月1日 解放地でグライニアが南沙国旗を踏み絵させる事態が発生。 踏み絵させたはいいけど、「あれっ?もしかして南沙の国旗を踏むってことは反調和主義者ってことですよね……?」ということでウォルツァーラル市民がまあそこそこ虐殺された。 デュティイェスルキオンの戦い 1739年4月12日~19日 結果:リスヒューメ側の勝利。デュティイェスルキオン山頂付近の防衛に成功。 グライニア軍の蛮行 1739年5月1日~7月18日 グライニア軍はヴォーギマガード、エメオン、ケルーノ、パレゴアルを順番に解放。生き残った市民を”浄化”して回った。 ルア・ヴァウネ・フレイルがグライニア軍に随行。市民の虐殺に参加して数百人を虐殺した。 2ヶ月弱の間に8万人が虐殺された。 疎外円環の終端作戦(陸) 1739年4月12日~19日 結果:リスヒューメ側の勝利。ヴォーギマガードを占領。 最後の大規模な戦闘。 ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユが前線で指揮を執り、リスヒューメ側連合軍の士気が増加する。 追い込まれたフレイルはヤウミの指揮で撤退を決定するも、ナミサは同意せずZHL兵器であるカンデを伴って前線に征く。起動することで戦線を維持しようとしたものの、グラスヴァールに射殺され、ヴァルエルク軍の士気も低下することになる。 ヴァルエルク軍の撤兵 1739年6月18日~7月17日 ゲンナリしすぎて高濃度のにがりに漬けられたヘニエンのようになってヴァルエルク軍は撤兵してしまいました。お前のせいですグライニア。あーあ。 メロア・スレフィエ軍はもう少し後に撤退します。 イ・ルヴィツァー講和条約 1739年12月4日 元々は停戦協定として提案されたが、その後正式に講和条約としてファルトクノア共和国首都イ・ルヴィツァーで締結された講和条約。 以下は確認・決定された事項。 リスヒューメ独立戦争に関する戦闘を終結し、戦争状態を解除する。 リスヒューメ王国の建国。 ヴァルエルク共和国がリスヒューメ側各国に賠償金を支払う。 メロア自由連邦及びスレフィエ国がリスヒューメ側各国に賠償金を支払う。 また、イ・ルヴィツァー講和条約締結に伴って自由解放連合がグライニア調和国を除名。ヴァルエルク共和国は「国際組織の盟主国としてグライニア軍が引き起こした戦争犯罪に対して説明すべき責任を負うことができなくなった」と釈明しつつグライニアの戦争犯罪を強く非難した。 以下はリスヒューメ王国を国家承認した国家。 ファルトクノア共和国 ニーネン=シャプチ アクース連合 エルトリア王国 グロスクロイツ社会主義共和国連邦 エルミア共和国 三国間経済交渉 1739年15月10日 ニーネン=シャプチ、ファルトクノア共和国がヴァルエルク共和国に対して外交的ルートを通じて経済補填を行う三国間経済交渉が妥結し、三国間の国家間関係の悪化に歯止めをかけることに成功した。この交渉で得た友好関係はマーカス内戦でのアイローム派とデクトリア派の勝利に大きく関係する出来事であり、特にマーカス内戦が終結した1747年以降、注目された。 この交渉に参加したヴァルエルクのレガンセアナ、ファルトクノアのリュフィア、ニーネン=シャプチのネンシェの三名の外交官の手腕が国内外で評価され注目を浴びた。 その後 ○○国際特別法廷 1740年8月22日 ルリスティアの戦争犯罪バーチャルライバー/アイドルによる肖像権侵害行為 ナミサ・ダグレによるZHL兵器の破棄(後に問題化) グライニアの戦争犯罪1738年1月9日の守備隊による先制攻撃について責任者の追求 虐殺に関連する責任者の追求1738年10月9日から18日の間に行われた違法な強制徴集についての責任者の追求 1739年4月1日から4月2日の間に行われた「トロベアクベロン島の虐殺」に関する責任者の追求 1739年4月9日から5月1日の間に行われた「踏み絵事件」に関する責任者の追求 1739年5月1日から7月18日の間に行われた虐殺に関する責任者の追求ヴォーギマガードの虐殺 エメオンの虐殺 ケルーノの虐殺 パレゴアルの虐殺 ヴァルエルクの戦争犯罪1739年2月9日から10日の間に行われた攻勢で、反抗不可能になった部隊の投降を認めず、敵兵を凍死させたことに関する責任者の追及空挺降下で敵国(アクース軍団等)を分断して孤立させたウィノスコス将軍は「敵国の防寒装備が貧弱であることを考慮して人道的な対応を取ることは不可能であった」とし、「天候や環境に起因する事象についてさえヴァルエルク陸軍は責任を負わねばならないはずはない」と主張した。 リスヒューメの戦争犯罪無防備な兵士に艦砲射撃を行った責任者の追求リスヒューメ政府は使わなくなった巡洋艦をケートニアーで粉砕するデモンストレーションをして疑いを晴らそうとした。 ファルトクノアの戦争犯罪1738年9月16日の治安維持派遣隊による撤退中のグライニア部隊への攻撃についての責任者の追求指揮官であるキャスカ・シェラフは「撤退すると見せかけてグライニア部隊は攻撃を仕掛けてきた」と主張した。 シルアの戦争犯罪いわゆる「医療部隊」問題のらりくらり回避してってマーカス内戦までもってきたい。 関連資料 リスヒューメ独立戦争(ドキュメント) リスヒューメ独立戦争出兵記録 リスヒューメ独立戦争戦闘経過表 関連項目 大宇宙の歴史 大宇宙の歴史/戦争