約 1,661 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/236.html
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/62.html
野庭の赤ナス (野庭) むかし、野庭村は、人も少なく、さびしい村でした。雑木林が広がり、人々は、畑を中心に野菜を作って生活していました。 村の子どもたちは、いつも元気で、日がくれてやっと家に帰ると、みな真っ黒けでした。 「今日もね、うさぎを見つけたんだよ。ね」 「ぜったい、はさみうちにしてやろうと思ったのにさ、また逃げられちゃったよ」 「あいつら、はやいんだよなあ、うさぎ谷へ入ったら、あっという間さ」 うさぎ谷とは、うさぎがいっばいいる谷のことです。 子どもたちは、たっぷりと家の手伝いもしました。中でも、この家の末の弟は、なぜか、いそいそと畑に出ていきます。それは、真っ赤なナスが実っていたからです。 日本に、まだ外国の人があまりいなかったころ、横浜の港からたくさんの外国人が入ってきて、住みつくようになりました。 そして、西洋料理には欠かせない野菜を、このあたりでも作るように決められたのです。 畑仕事をしながら、末の弟は、そのめずらしい赤ナスに心をうばわれていました。どんな味なのか想像もつきません。 赤ナスは、緑色から、日に日に赤くなっていきます。けれども、父も母も、中華街で買ってもらう大事な作物だからと言って、食べさせてはくれませんでした。 他の西洋野菜も作られていましたが、何と言っても一番知りたいのは赤ナスの味でした。 ある日、とうとう、重そうにぶら下がっている赤ナスをもぎ取ると、ガプリ・・・。 「うぁっ」 口中に青臭い汁があふれました。あわてて吐き出しましたが、のどにも鼻の奥にも、そのみょうなにおいがはりついたかのようです。 目くばせしながら、弟の様子をこっそり見ていた二人の兄は、「やったぁ」と、大笑い。 弟は、初めての味にびっくりしたのでしょうか・・・。この弟だけでなく、二人の兄はもちろん、一度これをかじってみた者はだれも、二度と食べてみようとはしなかったそうです。 日本中のほとんどの人が、まだトマトを知らなかったころのことです。野庭村の人々は、いちはやく、その「赤ナス」と呼ばれていた「トマト」の、味見をしたんですね。 ----
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/49.html
首塚の亡霊(下永谷) bgsound その昔、柏尾川のまわりが、まだ広い湿地だったころのお話です。 下永谷の村にある本城山から、夜になると苦しそうな、悲しそうな、すすりなく声が聞こえてくる、といううわさ話がひろがっていました。 「本城山に、ゆうれいがでるんだって。知っているか」 神社の境内で遊んでいた男の子が、話はじめました。 「夜になると悲しそうな声が、毎日毎日、村のはしっこのほうまで聞こえるんだって」 「知ってる、知ってる。かどのじいちゃんは、山で何か動くものをみてから、熱をだして、ねこんでるんだってさ」 男の子たちの話を、そばで聞いていた小さな女の子が、泣きだしそうな顔で言いました。 「あの声は、ふくろうのなき声を、だれかが聞きまちがえただけだって、かあちゃんがいってたよ」 村の子どもたちは、日が西の山にしずむころになると、いそいで家にかえるのでした。 家の木戸を固くしめ、まっくらな家の中で耳をふさいで、じつと、みんなのかえってくるのをまっていました。 このうわさ話は、いつまでもおさまることなく、村の人たちは、どうしていいのか困りはてていました。 ちょうどそんな時、この村を通りかかった念仏の行者に、首塚の供養をしてもらいました。けれども、声はまだ聞こえるのです。 そこで、江戸から有名な霊厳上人をまねいて、法要をしてもらいました。そうすると、それいらい、声がなくなったということです。 戦国の時代、この山には、北条氏直のとりでがありました。山は平戸川と永谷川が二重の堀となり、広い湿田にかこまれていました。このとりでをめぐつて、たくさんの人々が戦いをしました。 北条氏は、多くの敵の首を切り、みせしめにしたのです。そして、そのあとに首を集めて塚に埋めたのでした。その時に殺されてしまった人たちの、悲しく苦しい思い出が、村の人たちの間に、このような話として伝えられたのかもしれません。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/134.html
年代 大正11年 笹下川の堰場の落成式の様子です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/153.html
年代 昭和41年 場所 水田バス停留所付近 このバス停留所は今も残っている。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/109.html
お百姓さんの助っ人 (日野) bgsound いま、日野と呼ばれているあたりはな、昔は武蔵国で、宮ヶ谷村、金井村、吉原村、宮下村の四つの村に分かれており、相模国の下野庭、上野庭との国境にあったそうな。 日野はなあ、近ごろ急に開けてきて、ひと昔前までの面影が残っている所は、わずかになってしもうたが、山あり、谷ありの丘陵地だったんじや。村の人たちは、この谷あいの村で、百姓をして暮らしておった。 お百姓さんが、一番いそがしい田植えや、稲刈りをするころを、農繁期といってな、戦後もしばらくの間は、学校を農繁休みにして、子どもたちも、家の手伝いをしていたこともあったんじやよ。 金井村にはなあ、いつの頃からか、農繁期になると、毎年、毎年決まって国境を越えてな、大ぜいの人たちがやってきたそうじや。 村の人たちは、その人たちをあてにして、農作業を始めることにしていたそうな。 その人たちはな、一番いそがしくて大変な時に、必ずやってきて、よく働いてくれるので、村の人たちは心から感謝しておった。 「本当によくやってくれたのう、少し余分にお金を入れておいたから、取っといておくれ」 と、一人一人に給金をはずんだそうな。 ところがな、お頭が、余分にもらつたお金を全部集めると、 「おつりです」 といって、必ず返してくれたそうじや。 その人たちの身なりはな、それほどよくなかったが、お金をめあてにしている様子でもなく、決まったお金だけもらうと、さっさと次の村に行ってしまう。 それになあ、そのふしぎな人たちは、一日の仕事が終わると、村人と一緒にご飯を食べながら、見たことや、聞いたことの、いろいろな話をしてくれて、その上、歌ったり、踊ったりもしてくれたそうじや。 このことはな、山深い村の人たちにとって、この上ない楽しみとなって、いつしかその日のくるのを、心待ちにするようになったとさ。 その人たちがな、いったい誰で、何のために大ぜいで歩いていたのか、謎でな。 「もしかして、鎌倉のお寺で、修行のために集まっていた、お坊さんたちではなかっただろうか」と、いう人もおったそうな。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/244.html
年代 昭和36年 2階建て木造校舎を増築しました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/148.html
年代 昭和33年頃 上大岡駅の先々台の駅舎の写真です。 この駅舎は昭和38年に先代の駅舎(駅ビル)に建て変えられました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/197.html
昭和38年まであった上大岡駅先々代の駅舎の写真です。 昭和30~33年ごろです。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 33 15) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/187.html
1937年(昭和12年)頃の大久保付近から京急を望んだ写真です。 「ねぎ畑」の遠い向こうに「京急」の鉄柱が並んでいます。 名前 コメント