約 1,661 件
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/3116.html
クレスコ 本店:東京都港区港南二丁目15番1号 【商号履歴】 株式会社クレスコ(?~) サガミ工業株式会社(1948年9月9日~?) 【株式上場履歴】 <東証1部>2001年9月3日~ <東証2部>2000年9月19日~2001年9月2日(1部に指定替え) <店頭>1997年7月23日~2000年9月18日(東証2部に上場) 【合併履歴】 1992年4月 日 株式会社クレスコ 【沿革】 昭和63年4月 ソフトウェア開発、システム機器の開発及び販売を目的として、テクトロン株式会社と株式会社メディアリサーチが合併し、東京都港区西新橋に株式会社クレスコを設立 平成2年2月 通商産業省によるシステムインテグレータ登録企業となる 平成4年4月 株式の額面金額を変更するため、株式会社クレスコ(形式上の存続会社、旧サガミ工業株式会社)と合併 平成5年3月 本社を東京都港区高輪へ移転 平成7年4月 本社、ソフトウェア事業部、オープンシステム事業部及びシステム事業部の4事業所を統合し、東京都港区三田へ移転 平成9年7月 日本証券業協会の店頭登録企業となる 平成10年9月 コンピュータのハードウェア及びソフトウェアの商品販売、SI事業のシステム機器及びパッケージソフトウェアの販売等、当社企業グループ業容の拡大のため、芝ソフトウェア株式会社(現商号 クレスコ・イー・ソリューション株式会社・現 連結子会社)を設立 平成11年4月 中国人技術者の受入会社として株式会社ウェイン(現 関連会社)を設立 平成12年8月 当社企業グループの業容拡大のため、酒造業界に特化したソフトウェア開発の株式会社ハートコンピューターを買収 平成12年9月 東京証券取引所市場第二部に株式上場 平成13年3月 ソフトウェア開発事業の拡大のため、北海道札幌市に北海道開発センターを設置 平成13年9月 東京証券取引所市場第一部に株式上場 平成14年4月 無線通信システムを手がけるワイヤレスソリューションセンターを新設 平成15年7月 連結子会社である株式会社ハートコンピューターの株式を譲渡 平成16年2月 横浜センターにおいて「ISO14001」認証を取得 平成16年5月 本社、芝センター、田町センター及びワイヤレスソリューションセンターの4事業所を統合し、東京都港区港南へ移転 平成17年10月 近距離無線通信ソリューションに特化したワイヤレステクノロジー株式会社(現 連結子会社)を設立 平成18年4月 企業サイトのブログ化推進及びサイト監視サービス提供に特化した株式会社クレスコ・コミュニケーションズ(現 連結子会社)を設立 平成19年2月 横浜センターにおいて「ISO9001」認証を取得
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/221.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 日野8丁目の丘の上より(0011より東の方向)を望んだ写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/202.html
上大岡駅前商店街です。 未だ、歩道も完備していません。(ガ-ドレ-ルがあるだけです。) 「上大岡おみやげセンタ-」の入口(人がかがんでいる所)から、上大岡駅へ抜けられました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/125.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 木造校舎の配置が良く判ります。 手前に、プ-ルが出来る前の写真です。 昭和30年頃の撮影です。 0004、00041、の写真をご覧になって、比べて見て下さい。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/60.html
馬を洗った尼将軍 (上永谷) 上永谷と野庭の境のあたりで、「鎌倉下の道」と交差して、ひとつの川が流れています。 上流には滝があって、滝つぼは手頃な洗い場となっていて、旅人たちはここで馬を洗い、身じたくを整えて、鎌倉へ向かったことから、いつしか誰言うとはなく、この川を馬洗川とよぶようになリました。 あるとき、尼将軍北条政子が、源氏の祈願所である弘明寺などに参拝するため、ここを通りかかりました。 すると、そこで二人のりりしい若武者が、馬を洗っていました。 政子は、お供のものに声をかけました。「少しの休息を・・・」 そこにいる若武者たちを見て、亡き息子の頼家や実朝の姿を、重ね合わせに見たからです。 「むごい政治の争いから、あの時、子や孫たちを救う道はなかったものか」 と政子は思い悩んでいました。 政子は二人の若武者に、「気をつけて鎌倉へ参られよ」 と、やさしくことばをかけてそこを立ち去りました。 市女笠を深くかぶり、母親のつらさ、悲しさを、政子はすっぽりそこにおおっていました。 その後も尼将軍は、弘明寺参拝を幾年続けたことでしょう。 頼家、実朝の供養になればと、そのつど土地の人にいろいろな物をほどこしました。 男まさりと言われた尼将軍政子も、「鎌倉下の道」を通るときは、ひとりの母親の姿でしかなかつたのです。 いつしか、土地の人たちは、政子に厚い信頼をよせるようになっていました。 こうして、“馬洗川で馬を洗った”との話が、のちのちまでも伝えられるようになったのです。 橋については、あったのかなかったのか、いまだに“なぞ”です。 今も、馬洗橋の近くでは、北条政子の伝説や「鎌倉下の道」のおもかげが感じられます。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/88.html
野庭の「関城」と周辺 (上大岡・野庭) bgsound(http //www19.atwiki.jp/konanrekishi/pub/nobanosekishiro.wma) 山をくずして谷を埋め,田畑をつぶして宅地とし,街ができました。上大岡の東一丁目にある高台を大塚山といい,大きな塚があったそうです。 この山は,または,「人見塚」といって,「鎌倉下の道」の餅井板や,上大岡駅前あたりの「かねさわ道」を通る人を見はる場所でもありました。 それに,ここは蒔田城と野庭にあった関城をつなぐ「狼煙台」の役目もしていました。 いまの野庭は,むかしは野場と書かれていました。ひろい草原で馬を飼育するのに適しているし,広大な大地は,鎌倉時代や後北条時代には,馬や武士を鍛練するのにたいへん良かったと思われます。 かつて,鎌倉幕府の侍所の別当である和田義盛は,野庭団地一帯に関城というお城をつくったとされています。 その本丸(お城の中心)は,野庭中央公園の高台付近にあったといわれています。 この関城は,「台地構え」という備えをしていて,迎陽トンネルへの道は,空堀のあとともいわれています。 そして,建保元年(1213)の和田合戦のとき,和田義盛に味方する武士たちが,この城にたてこもりました。 当時六十六歳であった義盛は,その一族と共に,鎌倉で討ち死にしましたが,その後でも関城にこもる人びとは,攻め寄せる北条軍に抵抗し,二十日間も持ちこたえて,壮絶な最期をとげたとの,言い伝えが上野庭にはあります。 その近く,上野庭の浄念寺にある「力石」は,「北条時宗の力石」とよばれています。 バーベルを持ち上げる,重量上げをするように,関城では鎌倉武士が力石をつかって,力だめしをやったのだと思います。 むかし,日野の若者が,この力石を持ち去ったことがありました。これを知った野庭の若者たちは,大さわぎをしで交渉に行き,もとの野庭にもどしたといわれています。 そこで,このような問題が再び起きないように,この「北条時宗の力石」は,浄念寺の境内にがっちりと保存されるようになりました。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/191.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 大正年代の古い校舎の前で撮った写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/226.html
年代 大正14年 皇室へ届ける繭を前にした記念写真です。 当時、上永谷周辺の谷戸には桑畑も多く、農家では養蚕を行っていました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/185.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 昭和4年に2階建て木造校舎(現在の校舎の前)の上棟式の際に撮った写真です。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/145.html
年代 昭和29年 桜岡小学校の2階建て木造校舎の全景写真です。 右下が上大岡駅でしょう、あふれんばかりの生徒がいました。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 43 11) 名前 コメント