約 741,917 件
https://w.atwiki.jp/pixno/pages/177.html
『僕と召喚獣の精神理念』 作者:ヒノフヘ ステータス:連載中 タグ:長編、ファンタジー、動物、青春、戦闘、ロボット リンク:(別窓) コメント: ロボットとか 動物とか 青春とか 時間とか 交じり合った物語。 予定では、たぶん三部構成になると思ったり。 タイトルほど難しい話じゃないです。軽い気持ちで、トレンディーに(?)読んでいただければと思います。 基本的に毎週月曜日投稿中。気分でちょこちょこ番外編とか出すかもしれないです。 意見・感想どんどんください! (シリーズ全体に修正を入れている途中です。修正が間に合わず、読みにくい箇所もあるかもしれません) 4/11 第一部(全二十一話+番外編二話)投稿完了 下記より第二部の投稿状況をお知らせします 第二部:(別窓) 5/02~1/16 第一話~第三十話投稿完了 1/23 第三十一話投稿 1/30 第三十二話投稿 2/13 第三十三話投稿 2/20 第三十四話投稿 2/27 第三十五話投稿 3/05 第三十六話投稿 3/12 第三十七話投稿 3/26 第三十八話投稿 ----
https://w.atwiki.jp/inamugyo/pages/42.html
種きた ~イ・ナムギョの日本語源流散歩10(機械翻訳) 紀元前4世紀頃,カヤ族によって米作が日本に伝来したという。狩猟でさまよってその日その日を生きていった土着民らにあって農作業で安定した住居生活ができるようになったことは人生の大変革だった。狩猟民族で農耕民族で,原始民族で文化民族での変わるこの時期を日本は弥生時代という。 米作で最も重要なのは 種 であるが,母国のカヤで種が到着した時 種きた という(のは)話の意味があまり大きくて,この言葉が 幸福 という意味の シアワセ (幸福)になった。 米 で 幸福 という単語を引き出したことだけ見ても,種もみを持って到来したカヤ族らを原住民らがどれくらい尊敬して尊敬したのか察してあまりあるに値する。 だから彼らを神(靴)と敬って神社(紳士)に迎えたことはもしかしたらあまりにも当然の処置ではないだろうか? 日本神社(紳士)の神々が皆到来韓国人であることはこういう歴史的な理由からだ。 私たちは日本の臣事すれば日帝強制支配期時の 神社参拝強要 という痛みのために拒否反応を起こすが,実はその神々が全部韓国人ということを分かれば少しは愉快でないだろうか? そのように見れば 懐かしがる,思慕する という意の 市(詩)ダウ (慕う)も 種甘いですよ という話で由来したというのに,これも簡単に理解できる。 そして 米 は古代韓国語で 肉 であるが,韓国語の 太る も 米 で由来したことで,日本語の 贅沢 (幸)すなわち, 幸福 という(のは)話もこの 米 から出た言葉だ。 種きた が持ってきた シアワセ (幸福), 種甘いですよ が作り出した 市(詩)ダウ (慕う)は現代を生きる欲張りな私たちに人生の幸福はそれほど高くないところにあるということを語っていることだけ同じだ。 とても忙しく東奔西走して自身を忘れて生きるあなただ! 簡素な衣食住だけ解決されることができるならばもう少し心の余裕を持って人生の幸福が何か一回ぐらい見て回って生きるということはどのようか? ヤマドリ音と渓谷の水声を聞いて流れる雲をとめどなく眺めるひまな余裕時間を設けるのも,時にはすばらしいことではないか? 愚かな者は遠いところで幸福を求めて幸せな人は足の下で幸福を育てる で誰か話したのではないか? [2009/03/11] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-10] 種きた http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=11000 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/310.html
目次 1.人類は死滅するか 2.ノストラダムスの予言は当たるか 3.核戦争を考える 4.正義と正法 5.日本の繁栄 6.超人類の出現 6.超人類の出現 さて、この日本の繁栄のなかで、福音となるべきことを言っておきたいと思います。 それはもちろん、今正法神理が説かれているということもひとつだけれども、やっぱりこれから言えることは、相当の数のいわゆる超人類が出現するということです。超人類っていうのは言葉として悪ければ、いわゆる、何て言うかね、昔物語としてみなさんが知っているような奇跡、奇跡物語っていうのは聖書の世界とか、そういう世界だけにあると思っているだろうけれども、そうした奇跡の人びとが数多く出てくる時代にあるということなんです。 それは、ある意味で現代のイスラエルの民であるということとも一致するんですが、イスラエルになぜあれほど預言者が出たか、まあ言ってみれば神の声を聞く人がなぜあれほど出たかということだね。それだけの超能力を持った人がいっぱい出たんだね。その時他の国は何していたのかと言ったら、寝ていたのかどうか知りませんが、それほどたいしたことはなかったね。このように、日本という国は今宗数的な高みができつつあるけれども、これから超人類がいっぱい出ます。超人類というのは、いわゆる現代における現代科学の水準で、常識といわれているものを超えていく人たち、これがいっぱい出ます。超人類がいろんな形で出ます。 たとえば、この霊言集だって続々と出てますね、霊示集かなんか知らんが続々出ている。年に二十冊も三十冊も本が出ている。これなんかも奇跡かもしれないけれども、こうしたことがいろんな分野で起きてくる。あるいはファッションの面で、ものすごいデザインがどんどん、どんどん出てきたり、あるいは新たな芸術家が出てきたり、素晴らしい大作家が出てきたりね。 とにかくインスピレーション型の天才が、数多く出てくると思います。レオナルド・ダ・ヴィンチじゃないけど、ああした天才たちがね、これから日本、日本だけじゃないけれども、日本に相当出ますよ。これは福音ですよ。宗教家だけじゃない。いろんなそうした、ものすごい天才がいっぱい出てくる。みなさんそれを目の当たりに見ることができる。喜べ、喜べっていうことですね。こんな楽しい時代はないです。 こういう超人類が出てくるということはね、これは神が現代という時代をどれほど憂いているか、心配しているか、また現代人たちを救おうとしているか。こうしたことに関係していると思います。だからそうした超人類、天才たちの活躍があっちにもこっちにも目立ち始めたら、「いよいよ時期が来たな。神様がいよいよ計画を始めたな。俺たちを本当に導いてくれるつもりなんだな。山の頂きまで連れていってくれるんだな。」こういうふうに思ってください。 この時に大事な考え方は、やはり寛容の精神だと私は思います。いろんな分野で、才能がキラキラする人がいっぱい出てくるけれども、それを嫉妬するような小さな国民感情であってほしくない。そうした才能を異端視するような、そうした国民であってほしくない。やはり素晴らしいものは素晴らしいものとして、いろいろと百花繚乱(ひゃっかりょうらん)となってくるようなそうした時代背景をつくりたいね。 寛容の精神こそ、今望まれている。そうした超人類が出るための土壌は、寛容の精神です。寛容の精神がなければ育ちません。そういうことで、大いに寛容の精神というのを日本の国に培(つちか)っていただきたい。そう思います。 読者の方もね、神理の書もいっぱいこれからいろんな形で、いろんな人が出すでしょうが、それを善か悪か、真か偽かというのではなくて、どの程度の神埋が出て来ているかという、神理の現れ方が違うという観点から判断してください。正しいのがひとつというようなものでもないのです。そういうふうに判断して、寛容な精神でもっと天才の活躍を肋けるような、そうした精神風土をつくっていきましょう。本章は以上です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/275.html
目次 1.資本主義経済と共産主義経済 2.経済と神理の兼ね合いの再検討 3.神理も専門家集団を創らないと、法に深みと広がりが出てこない 4.神理を価値として合む経済学の必要性 5.神理探究者への経済的優遇措置の再考 6.新経済学①――法価値を認めた経済原理 7.新経済学②――神理の付加価値を認める経済体制の確立 8.心の価値が認められる新経済学の時代 (1987年8月14、15日の霊示) 1.資本主義経済と共産主義経済 高橋信次です。さあ四章、「新経済学」えーこういう題で話をいたします。まあみなさんね、読者のみなさん、私がなにを言うと思うでしょうか。どうやったらお金が儲かるか。そういう話だと思うでしょうか。 それともお金はぜんぶ捨てなさい、ドブに捨てなさいなんてね。一円も、儲けちゃいけません、こういう話になるかどうか。まあどうでしょうかねえ。きょうはでもちょっとね、ま、せっかくですからあなた、ちょっと景気のいい話もしとかないとね。 「お金なんて持ってあの世に還れません。」なんて言ったら、なんかがっかりしちゃうだろうから、ね。ちょっとだけ、ちょっとだけいい話をしますね。 で、まあ私が本章で意図してることはね。経済理論のまあ再構築と言いますか、建て直しであります。まあいま、資本主義経済とか、あるいは共産主義経済とか言ってね、いろんな経済学あります。 まあ資本主義の経済の原動力っていうのは、けっきょくある意味で人間の欲望というのを解放しとるんですねえ。人間というのは、ようするに富というものを蓄積して、それを使いたがる。そういう性格を持っておると。だからまあお金を儲けて使いたがるんだと、ね。 より大きな家。より大きな車。より大きななんといいますかねえ、えー財産。より美しいかあちゃん。より賢い子供。まあこういうふうに、人間というのは欲望の連鎖でもってね、生きていくと。こういうふうに思っておるのが、資本主義経済なわけですね。 一方、マルクス主義経済っていうのはそうじゃないんですね。つまり経済っていうものの奴隷になっちゃいかんと、人間はね。そういうことで、ユートピア実現のために貨幣、資本のね、公平分配、これが必要である。 そして一部資本家による独占、あるいは支配というようなもの、こうしたものを認めてはあいならんと。こういうことですね。独占支配を認めちゃならん。公平に分配してみんなで共有しよう、ね。 まあほんともっと典型的に言っちゃたらね、ほんと昔、プラトンちゅう人がやったそうですねえ。言ってたそうですねえ。婦人の共有まで考えなさいなんてね。 ま、そら男性から見たら、「うん、それも悪くねえなあ。」なんてね。 「そりゃそうだよなあ。なんでうちのかあちゃん、同じかあちゃんとあなた、三十年も四十年もいっしょに顔合わせにゃいかんねん。若いうちはいいぜー二十代はね。ま、三十代前半ぐらいまではいいけど、あとはもういらねえよなー。」なんてね。 「あとはもうどんどん若いのがいいんじゃないかなー。」なんてね。「共有しようぜー。」なんてね。 若い人だったら「イヤだよ。年寄りのかあちゃんなんか共有できないよー。」なんてね、なるかもしれない。 あるいは子供まで共有しちゃおうなんてね。子供は国家財産とするなんて言っちゃったら、ほんとうややこしいですね。 まあそういうふうに、欲望のなんというかね、欲望によるその増大、欲望の増大っていうか、欲求の増大っていうものは認めないかわりに、公平とか分配というようなこと考えたけども、まあ共産主義にはそこにまたひとつの行き詰まりがあるね。 ただ共産主義のほうから見ると、資本主義ってのはあれは欲望の奴隷だとね。欲望をつのらしとる、と。 あんなんじゃいけない。あれがほんとうの生きかたじゃない。まあこう言う。 2.経済と神理の兼ね合いの再検討 ま、両面ね、ま、たしかにまああってるとこはあるんですねえ。あってるんです。ただね、えーひとつ考えにゃいかんことは、単に資本主義経済はね、資本家を肥やしてね、太らして、そして欲望をつのらしてね、そして独占で支配が始まると、いうようにだけ考えればいいかというと、そうじゃないんだなあ。それだけとは言えない。 えーじゃあどうかって言うと、ま、ひとつのね、それはやはり自己確認の手段でもあるということですね。貨幣というものも、悪くなれば執着の奴隷になっちゃいますが、いいとこはあるんだな。 仕事というのが、まあ一定の評価を与えられて自己満足、それと自己確認ができて、そしてそれがさらにつぎの生産を生んでいくというところね。いいとこありますねえ。 たとえば、こういう私は霊訓集ちゅうのを作ってますが、これ作ることによって私には一円もお金ははいりませんねえ。まあ、だから霊は足ることを知って一円もはいらないんですが、じゃあ現実の人たちね。 じゃあそんな神霊の本を出しておるんだから、出版社は一円も儲けちゃいかんか、ね。印刷屋は儲けちゃいかんのか。あるいは著者も儲けちゃいかんのか。まあーしかしそれはねえ、やっぱり考えものですねえ。 やはりこういうもんで儲けちゃいけないから、一生懸命庭で大根作って、大根売ってねえ、そして、その利益で生活しながら無料で霊言を出すというまあ考えもあるかもしれませんが、しかしねえ、やっぱりそういうもんでもない。 もうお金の価値というものにたいする考えかたですけどもね。えー逆の考えもあるっていうことですね。 いわゆるほんとうに神理に則したものにたいしては、値打ちを認めていくっていう考えもあるんですね。そして神理に反するものの値打ちは低く見ていく。 ま、そういう考えかた、そういう新しい経済学の考えもあるんですねえ。 だからこの世の中をユートピアにしようとしたら、まあ昔イエス様が言ったように、カイザルのものはカイザルに、神のものは神にというふうに、地上の権力と、あの世の権力というものを分けて、そしてお金はこの世のもの、そして心はあの世のものっていう考えもあるけれども、この世のもの的なお金のなかにね、やはりできるだけいい使われかたをするような、そういう経済学っていうのがあってもいいんですね。 だから、まあ先般もある本のなかで言ってましたけども、たとえばあれでもいいんですよねー、えー正法にのっとった生活をしとる人は税金が安くなって、ねえ。えーようするに心はもう垢がいっぱいの人はもう税金が高くなる、ねえ。それでもいいんですよー。そういうことでもね、悪くない。 それから、神理にのっとった人にはね、経済的な優遇が与えられる。こういうこともあってもいいんだな。 これは共産主義でも資本主義でもこういうことはないね、いまは。そうだろう。資本主義では、お金儲けのうまい人はお金がたまる、ね。共産主義のほうでは、もうようするに、まあ共産党の本部はちょっとまあ金儲かるんだけど、それ以外の人ってのは貧しさの公平分配やってるわな。 それじゃどうすりゃ心の聖者、聖者はもうようするにそうめん食っとれっちゅうんかってね。あのーそうめん食ってりゃええんかってね。そういうことですなあ。 おにぎり昼(ひる)食って、もう夜そうめん食っとりゃええんかってね。目刺しでもたまに食っときゃええんか。足ること知っとりゃええんか。まあそういうこともあれば、まあここも考えの分かれるとこね。 まあ聖者が金庫(かねぐら)建っちゃったら、こりゃ欲望にもうチャリンコ、チャリンコね、お金数えてばかりいたら聖者が聖者でなくなると………えー読者のみなさん、せっかくいいとこまで来たんですけど、ちょっとここで注釈をしなきゃいけない。 えーいままでの部分は、八月十四日四国の山荘で収録しておったとこなんですね。ところが収録の途中で雷が落ちまして、で停電になりまして、私の新経済学が途中で切れちゃったんですね。 だから今日は日をあらためまして、八月の十五日になりまして、えーきょうはカラッと晴れあがっておりますね。途中まで新経済学言って、あと続きが出なくなっちゃったんですが、おーなにを言っておったかというとですね、えーまあお金がチャリンコ、チャリンコやっておっては、聖者はまあ聖者でなくなるかと、まあこういうことを言っておったわけですね。 しかしね、まあそういうわけでもないんですね。やはりね、金銭的な余裕っていうのがね、精神的な余裕を生む部分もなきにしもあらずなんですね。 たとえば、えーまあ私のこの収録もね、なんとみなさん八月の半ばに、お盆に、みんなもう東京で暑い暑い言ってね。もうパタパタパタパタあなた、あのー扇子(せんす)じゃない団扇(うちわ)でパタパタしながら脂汗流してはいまわってるときに、私はなんとあなた四国の山荘でこの新経済学を収録しとるんですよ。みなさんね。 で、四国の山荘で新経済学を収録するためには、やはりそれなりの経済がいるんですねえ。えーやっぱり飛行機に乗って、やはりここに来なきゃだめなんですね。来ないと収録はできない、ね。 そして収録して、あーこらもうそれから高原でね、気温は二十三、四度、あー涼しい。クーラーもいらない。こんなとこで収録してこんないいことないってね。 もう勢いこんで元気いっぱいやり始めるとですね、ガラガラガラガラゴロゴロゴロゴロって雷が鳴り始めてねえ、夕立になって、停電になって、私の収録がおじゃんになると。まあこういう厳しい場合もありますねえ。 まあそういう自然の猛威というのには勝てないわけでありますが、まあそれはべつとして、えーまあ多少、経済的に余裕があれば、聖者もそれなりの仕事ができるんですね。まあこれがあるんです。 えーたとえばそれは原稿の執筆でも同じなんですね。 原稿の執筆をたとえばあのうあなた続き長屋でねえ。もう隣の部屋からね、明りがもれてくる。えーベニヤ板かなんかで仕切ってあってね。明りがもれてくるなんてとこで、あなたこんなとこでね、自動書記で霊言の執筆なんかできませんよ。 隣で「オギャーオギャーオギャー。」とかね。あなたね、「こら、かあちゃんまたさんま一匹足りねえぜー。」なんてね。「チェツ、だれだよ、こんな炭(すみ)みたいに焼いたのはー。」とかね。 そらあすき焼き食べてたらね。「だれだ、おれの肉隠して食ったのはー。」なんてね。「おまえだろうー、ネギに隠して肉食ったのはー。」なんて。 「おにいちゃん、僕じゃないよー、あいつだよ。」なんてね。そういうことやってるとこではなかなかできない。 まあそういう意味でね、聖者といえども、現在洞窟のなかであなたやれませんからね。そういう意味で、多少のね、その環境作りのための資金というのはいると思うんですね。それをかならずしも否定できるもんじゃない。まあそういうことは言ってもいいと思うんですね。 3.神理も専門家集団を創らないと、法に深みと広がりが出てこない ま、これに関しては私自身もひじょうに考えるところがありましたね。えーまあGLA時代、私も高電工業という会社を営んでおったために、事業家であったわけですねえ。 そして自分で講演のなかでね。「今世は光の天使はみんなね、宗教家なんかに生まれません。」てね。 「みんな事業家として出てね、自分で自分のめしの種を稼いで、そして初めて法を説く。」と。まあこういうふうになっとんだと、ね。 「銭や金のためにね、そんなやっちゃあいけません。」ていうふうに言いました、ね。で、じっさい自分もそれ守りました。そして苦しみました、苦しかったです、ね。はっきり言ってね。 えーだからまあそれ一代限りはいいけど、まあ、あとは続かないっていう面があるんですなあ、これやるとね。とくに私みたいに自営業でやった人はまだええけども、会社勤めしてる人はダメですねえ。いわゆるサラリーマン。 じゃああなた講師やりながらパンパン実名でやれるかっちゅうたら、ほらやっぱり苦しいとこあるねえ。知られたくない、ね。会社って。 会社ってのは変わったことする人はもうほとんどダメなんですねえ。変わったことする人ってのは、あいつはおかしい。ちょっとここへきてるなんて頭さしたりね、指さしたりされます。まあそういうことがあって、なかなか落ち着かないんですね。 それでねえ、私もいろいろ考えたんですが、まあ私はいまのお寺のようなね、観光仏教ね、あれ大きらいだし、戒名の値段でね、百万円、二百万円戒名代取ったりするのね、あんなの大きらいなんですけどね。 まあそういうものはべつにしても、まあ神理が説かれるときにね、それなりの基礎ってのはやっぱりいるなーっていう感じはしてます。 とくにまあサラリーマンは二足のわらじでね、やっておったんでは、なかなかそんなに満足したね、法の探究、伝道っていうことはできないんじゃないかと。ま、そういうふうに感じられるわけですねえ。 これは仏陀も同じ考えであって、釈迦仏教の時代もね、やっぱりサンガーというのを創りました。サンガーっていうのはまあ僧団ですね。えー集団と言ってもいい。教団ですね。やっぱり専門家集団創ったんですねえ。 なぜ専門家集団が必要かっていうとね、けっきょく、そういう専門家集団を創らないと、法に深みと広がりが出てこない。こういうことが言えるんですね。 つまり仕事をしながらね、一日八時間、縛りつけられながらやはり法の探究しておると、やはりその法に深みが出てこない。どうしてもね。 講演等でもそうですね。えーまあなんの準備もしないで話するのもいいけど、やっぱり多少準備して話したほうが中味が濃くなりますわな。ほら、あの作業服着て抜けだしてきて、いきなり講演したってね、いいけども、まあそれじゃ、ちょっと中味が薄くなる。ま、そういうことありますね。 だから私も生前八年間ぐらい法を説いたでしょうかね。七、八年間説きましたが、そのときに亡くなるときにね、私は言いましたね。亡くなる前にはみんなに言ったことあるんです。もう八年、七、八年かかって私はもう説き尽くしたと。 仏陀が昔、四十五年間かかって説いたことを私はもう七年か八年で終わったと。説き終わったと。もうなにも説くことはない。 説き終わったと言ってあの世へ昇天してね、十年以上たったら、しまった!あっちにもこっちにももう説くこといっぱいあってね、もうたいへんだった。忘れてたんですね。 つまり時間がないとなかなかね、余裕が出ないんですね。法に深みと広がり、これが出ないんですね。ま、こういうことが言えると思います。 4.神理を価値として合む経済学の必要性 だからまあ、けっきょくなんていうかね、私自身でもやはり法にね、狭さがあった。こういう点は否めない。こう思いますね。 だから講演テープなんかね、私の講演テープなんかでもまあ、「いつも同じ話しとるなあ。」なんて聞いとる人もおるんでしょう。 「なーんか『心の原点』ちゅう題ばーっかりでいつも話してるんだ。なにかたまにちがうこと言え。」なんてね。 ねえ、「現象だってまあほらまあ狐やって、つぎ、蛇やってね。蛇やったつぎにはあなた犬やって、犬やったつぎにはあなた、あのうなにかやる。」ってね、「まあ種類変えてね、やったら楽しみもあるのに同じ現象ばかりやって、いつもお狐さんとお蛇さんばっかりやっとったら退屈するぞ。」ってね。 「もっとちがうことやんなさい。」なんてね、言うような人もいたでありましょう。まあそうしたもんでね。やはり、えー時間というものもだいじにしなきゃいけないんでね。 で、時間を作るための基礎はやっぱり経済力ですね。経済的余裕がないと時間ができない。そういう意味合いもありますね。 ところがね、不思議なんですね。そういう法を説く人が経済的に余裕がなくて、法なんか説かないのにかぎって経済的に余裕があってね。別荘持ってあなた、従業員いっぱい雇って遊んじゃってヨット持ってね、遊んでるんですね。世の中まちがってますね。 だから唯物論者なんかもう時間なくてヒーヒー働いとりゃいいんですよ、ね。 昔からあのーほら仏陀のサンガーだけじゃなくて、エジプトなんかでもそうですねえ、エジプトの王宮、宮殿のなかにもやはりそういう祭司階級ていうのがおりましたし、どこでもそのお寺、あるいは神社、あるいは教会みたいなところで、えーお金に苦労しないで、ようするに法の探究、実践ができるような人の集団ていうのがいつもいたんですね、一定の割にね。 全員これになっちゃ困るけども、やはりあるていどのね、そういう時間がいるんですよ。その生活に苦労しないていどで時間が得られるっていうことね。だいじですねえ。 だから私も考えてみれば、まあもうちょっと時間があればよかったかなーなんてね、思ってますね。ま、そういうふうに感じます。 ですから、これからの法の探究者、実践者はね、自分の人生っていうのはそう長くありませんからね。それをできるだけ効率的に生きていくための方法論は考えにゃいけませんよ、ね。私はそれはそう思いますね。 だからお布施もらってね。その布施を集めてお布施が二百万になったら自費出版で本出して、ただで配るなんてね。こんなことする必要ないんでね。ほんとうにいい本作れば、それは読むほうも利益だし、作るほうも利益と、まあこういうのでいいんじゃないでしょうかねえ。 たとえば『高橋悟次霊訓集』なんか一冊これがまあ千円か千二百円か千三百円か私知りませんが、千円ぐらいで買えるんでしょう、ねえ。ほらあなたね、紙代とね、インク代だと思うからね、千円越えたら高いなんて思うんであってね。 この内容の思想はどうだ、ねえ。こらあなた言葉は美しくはないかもしれませんよ。しかしながら、九次元のね、大如来がいま、しゃべっておるんですよ。絶対に聞けないんだ、こんなの。あなたね、どんなに逆立ちしたってね、もうあの世へ行ったって聞けないんです、私の言葉なんて。それが聞ける、一冊の本で。こんなの値打ちつきませんよ。 まあ、はっきりいやあ、もう正倉院のなかか、あるいはどっかの国宝ですよ、ねえ。もう法隆寺かなんかの国宝ですよ、こんなの。そんなに値打ちある。 それがあなたね、廉価版(けんかばん)でね、みんなコーヒーにサンドウィッチぐらいの値段で買えるんですね。こんなありがたいことない。 だから世の中の経済システム、どこかになんかまちがいがあるように思うんですね。だからこれからはね、えー僕は思うんですが、神理というものを価値として含んでいる経済学ね、これがだいじじゃないかな。こういうふうに思うんですね。 だからようするに神理により近い経済行動をとっておる人にとっては利益が大きくなるような、そういうシステムが開発されていい。まあそう思うんですね。 5.神理探究者への経済的優遇措置の再考 だからまあなんと言いますかねえ、えーそれはまあひとつの柱として考えれば、税金システムでもいいと思うんだな。 いま、税金のシステムっていうのはべつにもう関係なく頭割り、収入の額でガンガン来ますね。ぜんぜん関係なく収入の額でおまえいくら、おまえいくらと来ますね。これもまあ問題あると思うんですね、僕はね。もうちょっと税金なんかも考えてもいいんじゃないかね。 まあたとえばね、うーん、この前なんかもなにか言ってたね。松下幸之助さんみたいな人が八割も九割も累進課税で税金もっていかれるんでしょ。で、「くやしい。」とね。「こんな十億も金、税金払ったって、役所はそれなにに使ってんか。」ってね。 「どうせ夏場にはクーラー入れて鰻丼(うなどん)かなにか食っとんだろう。」ってね。 「あーもったいない。あーもったいない。そんなことする金があったらおれがよっぽどいいことのために使いたい。」まあそういう気持ちはありますね。僕はそう思いますね。 だから、たとえばね。えーこれからの日本の国で神理の流布や、あるいは公布、交流、こういうものをね、やろうと思ったら、ひとつにはまあお寺の坊さんと言ったら僕はちょっと疑問があるんですが、こういう神理探究者、ね、仏法を伝え探究する人にとって、たとえば無税にする、いいですよ、ね。 いまだって東南アジアでもタイみたいな国では、お坊さんていうものにたいしてものすごく尊敬払ってるね。そしてあのー彼らが生活の糧(かて)稼がなくても生きていけるように、みんなで布施したりいろいろして、お坊さんものすごく尊敬してるね。 こういう神理の探究者を尊敬するという風潮っていうのはいまの日本にない。これは教育制度も悪いけどもね。これはいかん。だから、あのー優遇措置をまず作る必要がある。神理を探究する者にたいしてね。 たとえばまず税金、こういうものを取らない。こうしたらもう税金逃れたくてもう坊さんなる人はいっぱい出るかもわかんないけどね。 まあいいじゃないか、それもそれでね。それはそれでいいじゃないか。そういう人口も増えていい、多少ね。そういうあんまりね、この世的に縛られない人の階層作ってやる必要がある。 それと国会議員であなた、電車のフリーパスだのなんだの言っていっぱいやっとるんだろう。あんなものもったいないですなあ。あんなことする必要ない。それよりはやはり神理の探究する者にとってね、経済的にほんとうにあのーメリットのある方式をね、使う必要がある。 たとえば神理の団体、研究者、こういう人たちがね、旅行するとき、あるいはホテルなんかね、泊まるときね。あるいはホールとか会場とか借りるときに、格安の料金で借りられるような、こういうのをつくってやるといいね。 だから、旅行とか宿泊なんかでも目的によって分けるわけですね。で、なんでもいいが、「研修会やります。」ってね。「なんとかホテルで、えー大洗海岸で二泊三日の研修会をやります。」ってね。 こういうときにはみんな率先してね、「うちは定価の三割にさせていただきます。うちは二割にさせていただきます。」っていうこういうふうな優遇が出るようなね、こういう社会環境にしてほしいね。 日本の国っていうのもひじょうにいま、豊かになってきとるんだね。その豊かな部分を精神的なるものの奉仕のためにね、やはり便わにゃいかん。僕はそういう時期が来てると思うんですね。 だからみなさん、経済的に余裕が出てね、豊かになってきたら、その豊かな部分をね、昔は教会の十分の一税っていって納めてたんですよ。 そういうことする必要はないから、そうした神理を探究し、伝道する人たちが、十分に利便を、なんて言いますかねえ、えー使えるような、そういうところにねえ、奉仕すればいいんですよ、ね。 だからホテル業界、ね、旅館業界、話し合ってね、こういう神理のためにね、合宿や研修やるときにはね、みんななるべくもう原価に近いところでね、やれるようなそういう態勢作りましょ。 僕ら儲け過ぎとるけど、そういうとこへ奉仕がやっぱりあっていいんじゃないかと、献金といっしょなんだからそれは。そういうふうにしませんかってね。ま、そういう方針もあっていいんじゃないでしょうかね。 それから、神理の団体だったらとくに、もう何百人もはいる会場探すこと、あるいは千人、二千人がはいる会場探すことはたいへんむずかしいですね。これを探すことはね。こういうことがけっこう苦しみになってきます。 だからそういう土地、建物持ってる人たちがね、そういうサービスを提供できるようにね、まあこういうところでもっともっとね、経済学働かなきゃいけない。 6.新経済学①――法価値を認めた経済原理 だから神理経済学、新経済学のね、第一点はやはり法の価値ね、法価値というのを認めなさい。そして法価値を認めて、それを認めるならば、それが高まるような方向での経済原理が働いていい。 人間ひとりひとりをなんと言いますかね、欲望の、欲望型の人間、ね。みんなもう自分の欲を持って経済活動する人間ていうふうに定義するんじゃなくてね、もうちょっと別の観点からやる必要がある。 だから神理を説いたり運動する人たちが、そんなにね、脱税して一生懸命努力しなきゃいかんようなことさせるな、ということだね、まず。 そういうことをさせずに、心置きなくね、これに邁進できるように、経済政策をまず変えていきなさい。これだいじですよ。 とくにだいじなのがほんとう、交通、あるいは宿泊料、場所代、こうしたもんでね。 えー現代でも布施の心ってのはだいじですよ。そういう布施の心、経済原理の改変によってね、まず考えていく必要があるんじゃないか。こういうことがひとつですね。 7.新経済学②――神理の付加価値を認める経済体制の確立 それからもうひとつはね、えーま、交換経済って言っていまいろんな交換がありますけどね、物の交換みたいなのがありますが、そうした交換経済にもう少し神理価値を乗じていく必要があるんじゃないでしょうかねえ。 外国なんかではタクシー乗ってもチップとかあるんでしょ。一割ぐらいチップあって、運転マナーがいいと上がって、ねえ、運転マナーが悪いとチップはなくなるってこんなのあるんでしょう。ホテルでもタクシーでもね。だからそらそうですよ。物の代金だけじゃないと思いますよ。ガソリン代じゃないと思いますよ、タクシー料金っていうのは。 同じようにね、そのサービス料、チップ料じゃないけれども、そういう神理料みたいな神理価値によった値段の幅があってもいいと思うんですね。そうじゃないでしょうかね。えー私はそう思いますよ。だからいまさっきは安くなる話をしましたが、逆に高くなる話なんですね。これはね。 あのー単なる物の売買、あるいは流通というふうに考えずに、神理という価値がこもっておるものに、ようするに付加価値、サービス料金、これが付くような経済体制の確立ですねえ。これを考えにゃいかん。 いま考えとるとあなた、トマトだとかレタスだとかなんかしらんが、東京近郊で作ったやつと軽井沢で作ったトマトとか言ってね。あるいは無農薬トマトだとか、えーなんとか栽培トマトとか、水栽培とか、なんかかんか言っとんでしょ。そして変わった栽培したらそれが値打ちあったりするんでしょう。そんなの値打ちないよね。 もっともっとね、心が、心の価値を認めにゃいかん。心がどれだけこもっておるかね、これによってね、決めていく必要があると思うんですねえ。 だからそのひとつの典型的な例って言うのは、会社のあれでもそうですね、活動なんかでもそうですね。だから神理にたいしてね、神理を推し進める活動ね、形での企業活動をしておるものには、利潤が豊富になるように。 そして神理に関してそれはどちらかというと、まあ後退させるような企業活動に関しては利潤が少なくなるように。こういう経済システムをね、あるていど考えていく必要があるんじゃないでしょうかね。 ま、この経済システムをたとえば、なんでもいいですが、出版業界に持ち込めばね、たとえば神理に関する書物ならもちろん、あのー利幅が高くてもいいですなあ。 ところがつまらんもうエロ小説ね、なんかもう見るに堪えないような写真雑誌ね、いっぱいありますが、こんなのはもう二束三文で買えるようにね、もうこういうふうにしていく、ね。 だからこの辺まちがわないで、なんかちょっとおかしいですよ、世の中ね。裏ビデオみたいなものがすごく高くなんか出まわったりして、変ですよー。そりゃおかしいですよ。 高橋信次のこんなあのー霊言集、霊訓集なんちゅうのが、まあ千二百でもいいけど、定価千二百円とすりゃあ、これは「こんなの安すぎる。これ一万部限りらしい。たいへんだ。一億人がみな欲しいって言うとる。しょうがないな。一万分の一しか本がない。しょうがない。」って言うんでこれが一万円の値打ち生んでまわったりね。 そのていどでもほんとうはおかしくないんですよ、ね。だから神理価値を認めていく、ね。こういう方向っていうのは僕はひじょうにだいじだと思いますよ。 だからタクシーの運ちゃんでもそうですね。運転手でも、えー運転手、まあなんとかタクシーって書いてあるけれども、バンと運転手の免許証なんてはってありますが、あそこに運転手の履歴みたいなの書いてね。 精神修養ね、こんなんだって、「私は毎週日曜日に内観して反省しております。そして心の調和がひじょうにできております。」 ってこうバーンとはってあったら「おっ、このタクシー運ちゃんできる。よし。チップー割五分。」ね。「チップ一割五分。」 ところが客が乗り込んだって黙ってね、ブスッとしてね、なにも言わない、バンと閉めて「おいどこそこの駅まで。」って言ったら、黙ってブーツと行ってね、ブーッとして、着いたら黙ってブッとそれ出してね。 こういうのはチップなし、ね。こういうもうちょっとね、心がようするに調和できればね、経済的に豊かになるようなシステムをね、もう少し考えにゃいかんな。 えーだから公害だすような企業は、税金どんどん重くなっていくね。公害企業は税金重くなっていく。 ところが社会福祉を進めたりね。あるいはなんと言うか、まあそういういまのひとびとの心をゆたかにするような経済活動をしているところには税金が安くなっていく。こうすりゃいいね。税金もそうだし、あるいはものが高く売れるような値打ちが認められる、ね。 だから本屋だっていろんな本出しとるけど、本屋によってはやはりどういう精神的な本を出しとるかによってその価値が、格がついていく、ね。ま、そういうもんだな。 だからソーセージだってそうですよ。ねえ、あのーなんか精神修養よーくやってる人が作ったソーセージとねえ、「この野郎。」なんてブタ追いかけてポーンと蹴っ飛ばして、頭叩いてあなた作ったソーセージとじゃあ、値打ちがちがう、ねえ。 まあそういうようになんかね、そうした値打ちをね、認めていかなきゃいけない。こうした経済学の構築。 8.心の価値が認められる新経済学の時代 だから第一番目にまあ税金面でのね、優遇措置と、それから神理に関する利用にたいする優遇措置ね。これが第一番。 第二番目は心の価値というものを経済原則のなかに織り込んでいく。で、心が高まった人のものとか、企業活動に関しては、どんどん利益が出るように。そうでないものにたいしては利益が少なくなっていくように。 そういうふうにしてね、人間というものをよい方向に導いていくためのね、方便、これがひじょうにだいじですよ。私はこれだいじだと思います、ね。 けっしてあのー説法だけが方便じゃありませんよ。やっぱりアメとムチじゃありませんが、この世の人間には、やはり欲もあるし目先のこともあるんだから。そういうことをね、国の政治指導者たちはよーく考えてね、指導していかなきゃいけない、ね。 いい方向へ人間を導いていかなきゃいけない。税金いっぱい取って大蔵省がいっぱい予算あるんだってね。それであの予算配って喜べるようなそんなシステムつくってもだめですよ、ね。よーくその辺考えなさいよ。 それから会社のなかでも神理を知った人が出世していけるようなね、どんどん幹部になっていけるような、そういうシステムね、昇進制度、これをいっぱい作っていかねばいけませんよ。 まあね、えーまあ、『新ビジネス革命』なんてのがあって、こういうことが書いてありますけどね。まあ私もまったく同じ意見ですね。だからそういう考えかたね、だいじにしてください。 心の価値が認められる時代、そういう新経済学の時代であってほしい、そう思います。
https://w.atwiki.jp/asaahingaeaw/pages/780.html
日本語では蛇(ヘビーまたはヘビ)。英語ではsnake(スネーク)。ラテン語ではserpens(セルペス)。ヘブライ語ではנָחָשׁ(ナハーシュ)。アドラステア語ではAserisffilxcra(エンシェンクレッセント)。と呼ぶ。多くは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目の事を指す。また爬虫綱有鱗目ヘビ亜目に属する生物の事も指す。有毒種と無毒種。昼行性と夜行性など多岐にわたる。足は退化しているものの無いわけではない。主に日本では神格されており、八岐の大蛇などが日本神話に登場する。 蛇の種類 下の画像は蛇の樹形図。上から順に日本語版、英語版、アドラステア版である。 ナミヘビ科 クサリヘビ科 ボア科 ニシキヘビ科 コブラ科
https://w.atwiki.jp/asaahingaeaw/pages/712.html
照連淀柚芦妃命(あまつらよどきあしきひのみこと)とは日本神道の靉驪道の神で伊邪那美命と同列。現在の宮崎県(日向の国)に降臨し、家を作って火鉢淀柚古品命と結婚するものの、下総でNTR(寝取られて)され、袂を分かつ。日向の国に帰ると三貴神を男身一人育てるが三貴神照武代天府命、月武代夜府命、荒武代海府命により最終的には殺されてしまう。
https://w.atwiki.jp/minnasaba/pages/30.html
【元ネタ】日本書紀+古事記 【クラス】セイバー 【マスター】 【真名】日本武尊 【性別】男性 【身長・体重】164cm・53kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久B 敏捷B 魔力B 幸運A 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。 【固有スキル】 神性:B 天照大神の直系にあたり、本人も相応の信仰を集めている。 合気:A 森羅万象の活動と自身の気を和合することによって、周囲の状況を感覚的に把握する。 これにより、命中と回避に有利な補正を得ることができる。 神殺:B 神や神獣との豊富な戦闘経験。 神性を持つ相手に対してダメージが向上する。 【宝具】 『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~3 最大捕捉:1人 日本国三種の神器の一つ。ヤマタノオロチの怨念を鎮めるため、その骨を削りだし神剣として祀り上げたもの。 スサノオの神剣『天羽々斬(あめのはばきり)』の刃を欠けさせたほどの硬度を持つ。 内部から漏れ出す水の魔力を抑えるため、柄の部分に火打石がはめ込まれている。 そのため、常に魔力が霧となって刀身全体を覆っており、刀身の秘匿、気配遮断、魔力効果の打消しを可能とする。 常備型の利器としての宝具である。 『天叢雲(あめのむらくも)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:10~99 最大捕捉:1000 草薙の真名を開放し、草薙の内部に秘められたオロチの魔力を解き放った状態。 川・雲を象徴する神、オロチの化身である八筋の濁流を空中に生み出し、それを操ることで対城規模の蹂躙を行う。 【解説】 2世紀頃に存在したとされる日本神話の英雄。景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる。 その名は【この国で最も強いもの】を意味し、神々から草薙の剣を授けられた。 たいへんな美貌の持ち主で、女装しての色仕掛けで敵をだまし討ちにしたことがある。 その力を父に疎まれ、多くの戦場を渡り歩かされた。戦いに果てた時、その魂魄は白鳥となって空に上ったという。 【イメージイラスト】 日本武尊、ヘクトル、パリス、ラーマ 右:宮本武蔵 左:日本武尊 【出演SS】 ヤマタケVSポイヤン(+1) 日本武尊とポイヤウンペのトラぶる道中記 坂上田村麻呂&鈴鹿御前のトラぶる道中記 マスターV教授(+フラット君)のサーヴァント講座 三時限目 すっごくラーマなカマセチック
https://w.atwiki.jp/minasava/pages/247.html
【元ネタ】日本書紀+古事記 【クラス】セイバー 【マスター】 【真名】日本武尊 【性別】男性 【身長・体重】164cm・53kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久B 敏捷B 魔力B 幸運A 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。 【固有スキル】 神性:B 天照大神の直系にあたり、本人も相応の信仰を集めている。 合気:A 森羅万象の活動と自身の気を和合することによって、周囲の状況を感覚的に把握する。 これにより、命中と回避に有利な補正を得ることができる。 神殺:B 神や神獣との豊富な戦闘経験。 神性を持つ相手に対してダメージが向上する。 【宝具】 『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~3 最大捕捉:1人 日本国三種の神器の一つ。ヤマタノオロチの怨念を鎮めるため、その骨を削りだし神剣として祀り上げたもの。 スサノオの神剣『天羽々斬(あめのはばきり)』の刃を欠けさせたほどの硬度を持つ。 内部から漏れ出す水の魔力を抑えるため、柄の部分に火打石がはめ込まれている。 そのため、常に魔力が霧となって刀身全体を覆っており、刀身の秘匿、気配遮断、魔力効果の打消しを可能とする。 常備型の利器としての宝具である。 『天叢雲(あめのむらくも)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:10~99 最大捕捉:1000 草薙の真名を開放し、草薙の内部に秘められたオロチの魔力を解き放った状態。 川・雲を象徴する神、オロチの化身である八筋の濁流を空中に生み出し、それを操ることで対城規模の蹂躙を行う。 【解説】 2世紀頃に存在したとされる日本神話の英雄。景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる。 その名は【この国で最も強いもの】を意味し、神々から草薙の剣を授けられた。 たいへんな美貌の持ち主で、女装しての色仕掛けで敵をだまし討ちにしたことがある。 その力を父に疎まれ、多くの戦場を渡り歩かされた。戦いに果てた時、その魂魄は白鳥となって空に上ったという。 【イメージイラスト】 日本武尊、ヘクトル、パリス、ラーマ 右:宮本武蔵 左:日本武尊 【出演SS】 ヤマタケVSポイヤン(+1) 日本武尊とポイヤウンペのトラぶる道中記 坂上田村麻呂&鈴鹿御前のトラぶる道中記 マスターV教授(+フラット君)のサーヴァント講座 三時限目 すっごくラーマなカマセチック
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/347.html
目次 1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた 2.仏教が現在のように堕落してきた原因について 3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた 4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである 5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる 6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている 7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある 8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について 9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない 10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである 11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる (1986年11月3日の霊示) 1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた 谷口雅春です。今日は私の話も第八回目、最終回となったが、「真理は、汝(なんじ)を自由にする」という演題で話をしたいと思う。今日の演題は、おそらく締めくくりにふさわしい演題であろう。 私たちは一体何のために、真理の学習に励んでおるのか。まずここから出発せねばならぬ。一九〇〇年代の終わりが近づいた、この現今の宗教好きの人たちを見ていると、どうも悩みが多い、私にはそう思える。仏教徒というのはどうも暗い。見ていると、カビ臭い。よく聴いておれば、どこかの木魚の音か何かが聞こえてきそうな気がする。あるいはナンマイダか、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とか、そういう声が薄暗い御堂のなかから聞こえてきそうな、そういう気がする。 また、クリスチャンにしてもそうだ。教会の建物自体は、洋風であり、日本人から見れば、一つの素晴しい建築でもあると思う。しかし、教会でも、現在は歌を唄うとか、聖書を読むと、相も変らず二〇〇〇年も同じ聖書を読んでおるわけである。二〇〇〇年前に三十歳で法を説き始めて、三十三歳で磔(はりつけ)にあった人間が語ったとされる言行録、弟子が編んだ言行録を今だに一字一句読んで、みんな唱えておるわけだ。どれもこれも、なかなか明朗な明るい発展という道がないように思う。 日本神道系にしてもそうだ。現在においては、もはや、カビ臭いというか、陳腐(ちんぷ)なものとなってしまったように思う。今、神社に行って悟れる人はいないと思う。 神社に行って見るものは何か。まあ狛犬(こまいぬ)が二匹座っておるぐらいで、あとは御みくじだの御賽銭(おさいせん)だのを入れる箱があって、鈴かなんかが上からぶら下っておって、ジャリンジャリンと鳴らすと、まあ、この辺が終りだな。あと神道で他のものと違うとすれば、まあ柏手(かしわで)を二回ぐらい打つと、こういうことだろうな。こういう違いしかないと思う。 そして神主は何をしておるかというと、一応神道系の装束(しょうぞく)を着て、烏帽子(えぼし)か何かをかぶって、眼鏡を掛けてやっておるわけだ。普通のサラリーマンをやりながら、片手間にやっておる者もおれば、いろいろだと思う。 ところで、そういった神社とか、仏閣、あるいは、キリスト教でもいいけれども、まあそういうところを職業として働いている人たちを見ると、神社の神主さんの家に代々不幸が多い。息子が交通事故で死んだり、あるいは、不具の子供が生まれたりする。仏様の方でも、お寺の方でも同じで、なぜか縁遠くなったり、事故が起きたり、病気がちの家庭になったり、いろんなことになっておるようだ。 こういうのは、本来聖域であるべきところが霊的な場所であるというだけで、住んでいる人たちの心が調和されていないがために、いろんな悪霊が巣喰っておるのだ。そして、そこに住んでいる人たちをも不調和にしていく。こういうところがあるようだ。 そして、神社も仏閣も、あるいは、キリスト教の方も、何だかんだと観光仏教とか、観光神道とか、そういうふうになってしまって、お金儲けだな、観光客相手の、そういうことになってしまったようだと思う。 神道、日本神道の方では、なかなかその教えというものが、はっきりと今の形では残っていないがために、確かに多くを要求するのは難しいという面もある。たかだか祝詞(のりと)をあげるくらいのことしか伝わっていない。また禊払(みそぎはら)いというようなことがあるというぐらいしか分かっていないようだ。 神道系でヽ少し本格的な動きとして近代で出たのは、例えば、黒住(くろずみ)教、あるいは金光教、あるいは天理教、こうしたものであったろうか。そして、近、現代だけれども、出ロナオ、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)、こういう人々の大本教。そしてまた、戦後もいろいろなものがあるようだ。PL教団とか、何だかんだと出ておる。 谷口雅春が生命の実相哲学を奉ずる生長の家は、一体如何なる宗団かと言われると、これも万教帰一でやっているがために、一律にこれだと決めつけるわけにはいかないけれども、流れとしては、日本神道系統であろうと思う。なぜなら、指導神、親神様というのが、日本神道の神様であるからだ。そういうことにおいて、神道系とみてもいいかもしれない。 ただ、かつて日本神道系というのは、古事記、日本書紀ぐらいしか、その理論的著書というのがなかったのであるが、我が生長の家においては、一大啓蒙運動となり、文筆によって様々な思想というものを人々に流布(るふ)することに成功したのである。 さて私は今、そういう仏教、キリスト教、神道、こうしたものがだんだん形式主義となり、暗いものになってきたという話をしてきた。そしてなぜ、そういうふうな形式主義、暗いものになったかという原因を考えてみたいと思うのであります。 2.仏教が現在のように堕落してきた原因について まず、仏教を検討してみようか。仏教がなぜ、現在のように堕落してきたのかということを考えたいと思う。 仏教というのは、釈迦の時代においては、人間が本当に悟るための道であったと思う。ところが、釈迦没後二千五百年ぐらいたった今日では、悟りという言葉は、言葉としてはもちろん伝わっておるけれども、人々は悟りということの本当の意味が分からなくなっている。そしてとくに悟り、悟りと今だに言っておるのは主に禅宗であろうかと思う。 禅宗において本当に悟っておるのかというと、これも、けっこう難かしい問題がある。禅のなかには確かに深いものがある。禅のなかで無門和尚(むもんおしょう)というのがいて、「無門関(むもんかん)」というものを著わしている。そこで、無門という人の悟り得たレベルというものを、よくよく見てみるならば、けっこう高いものを持っていたと思う。禅で公案の集大成をした人であるという。ただ、その流れ自体を見てみると、栄西を始め、公案禅の流れというものは、どうも形式に堕してきたようだ。 禅というものは、まったく奇抜な問答をすることによって、人間的な知識というものを切り取り去って、新境地を開拓するというものが、その本義である。しかし、平凡な坊主が禅を教えているがために、どうもその森厳(しんげん)の理というものが、なかなか極められないようである。本当に悟った人が教えたならば、只管打坐(しかんだざ)だろうが何だろうが、それは素晴しい教えと、おそらくなるであろう。 ところが、悟っておらん人間が指導しているがためにそうしたものは、なかなか人間を本当の方向に導かないでいるのだ。しかし、坐禅でも組みたいというような気持ちを持つという、つまり、人間がそういうような気持ちを持つということ自体は、決して悪いものではないと、私は思う。 さて今、仏教の暗い面の話を続けておるんだけれども、結局、釈迦が説き来たり、説き去った教えというものは、何百、何千の法門がある。そのなかに法華経あり、そのなかに維摩経(ゆいまきょう)あり、そのなかに涅槃経(ねはんきょう)あり、そのなかにまた禅の源流となるような教えもあった。いろんな教えがあったのである。 そうした複合した教えが、釈迦という、一人の悟った人間のなかにおいて、渾然(こんぜん)一体となって融合されておったのだと思う。ところが、後の世の弟子たちは、師匠ほど、優れた人材ではなかったがために、その全貌を理解することができず、その一端をそれぞれ行じたのにすぎないのである。 であるからして、たとえば、お経というものの本来は、釈迦と弟子との問答集であったのにもかかわらず、それが漢訳され、そして日本に持ち来たられると、本来の意味を失ってしまう。つまり、漢語だな、いわば漢語の勉強としてだけ意味を持つようになった。あるいは、音読する。とにかく歌の練習でもしておればよいのだろうが、歌の練習のかわりにお経を読んでおると、喉(のど)は強くなるかもしれないけれども、意味も分からずに、経文をあげておる。 それでも功徳(くどく)があるのだ。あるいは、写経をする。それだけでも功徳はあるのだと、こういうことを言われておる。しかし、そういうことは、一般的に言えば、なんの功徳もないと考えてよい。 もちろん、写経をすることによって、規則正しい生活をするなり、向上心を持つなり、精進するという姿勢を持つことができるがゆえに、それは悪い影響はないであろう。しかし、経文そのものに、それはどの価値があるかといえば、そうあるものではないと思う。 ただ漢訳されたお経のなかにも、やはり漢訳した人の力によって、つまり、漢訳をした僧侶たちが霊能力を持っていた場合もあったために、なかには言魂によって漢訳されている言葉もなきにしもあらずである。 たとえば、般若心経(はんにゃしんぎょう)などというのは、よく読まれており、また現代でも人気があるようだけれども、これなども、これを訳した人が、霊的な能力を持っておったようで、訳語自体のなかに一つの言魂があるのだ。 あなた方も今、様々な神理の言葉というのか、そういう経文のようなものをつくって読んだりもしておるようだけれども、やはり言魂というのがあって、それは綴(つづ)られた文章のなかに出てくるのである。であるから、一般にお経というものは、それほど深い意味があるのではないけれども、なかには、そういうものもないとは言えない。とにかく、「仏つくって魂入れず」の諺(ことわざ)があるけれども、外見だけを真似て、中味を知らないのが人間であったと思うのだ。 3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた キリスト教においてもそうだ。現在、キリストの本当の精神というものは、忘れ去られていると思う。そして、形式によって行われている。ただもちろん、聖書というものを熟読して、毎週毎週日曜日に、教会か何かに行って教えを受けておる。そのなかに、聖書自体も一つの波動があることは確かで、それに馴染(なじ)んでいることによって、多少の悟りのよすがとなることは事実であろう。 ただ、聖書を読んでいても分からぬことがある。つまり、イエス様が現代に出ておったなら、どういうことを言ったであろうということが、なかなか分からんということだ。今から二〇〇〇年前に、ナザレの地で漁師たちを相手に法を説いておったわけだから、それ自体は立派な教えであったとしても、なかなか現代の文明人たちを納得させ、説得するには少々不足するようである。ただイエスという人は、大変詩人でもあり、言葉が美しい方であったために、今だに彼の言葉によって、心酔し、影響を受けている人も多いかと思う。 こういうことで、仏教においても、キリスト教においても、その中味というものがだんだんと失なわれてきて、形式に堕してきた。すなわち、たとえば、日曜日に集まって、聖書を読めばいいとか、あるいは、お寺に篭(こも)って坐禅を一週間やればいいとか、そういう形式的なものになってきた。あるいは念仏をあげればいいとか、あるいは写経すればいいとか。そういうふうになってきた。 そして本来、自由自在であった神理というものが、いつの間にか人間の形式的な行動のなかに閉じ込められてしまったと言えると思う。禅をやっている者は、坐らなければ、とにかく悟れないとか、念仏をやっておる者は、念仏をあげなければ救われないとか。こうした行為というのは、そうした教えというものは、本来の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の教えからいえば、ほんの一万分の一にも満たない教えであろうと、私は思うのだ。 4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである であるから、私は今、あなた方にも、様々な真理というものを学んでほしいと思うのであります。真理を知るとは、どういうことかというと、目の鱗(うろこ)をはがすということなのだ。人間の目には様々な鱗が入っている。自分自身は、いろんなことを知っていると思っても、その知っておるという知識自体が自分を歪める一つのフィルターとなっておるのだ。 キリスト教のみが真実であると思っている人間は、その鱗の入った目で仏教を見、神道を見るから、本当の姿が分からない。だから、イエス様によってしか救われないなどと言っておる。 しかし、じゃあ、イエス様以前の人たちは、永遠に救われなかったのか。じゃあ、イエス様は、なぜイスラエルにだけ出て、日本だとか、中国だとか、印度(いんど)には出なかったのか。それらの人々を救う意図がなかったのか。そんなことは、おそらくないであろう。イエス・キリストは、ユダヤの民族神ではないはずである。彼が説いた愛の教え自体は、普遍的な教えであり、人類共通の財産であると思う。 そうではないだろうか。そういうことで、イエスの教えというものも、ずいぶん、誤解されている。イエスを熱心に信仰すればするほど、イエスの教えの枝葉末節ばかりにかかわって、そして本当のキリスト教の真理というものが、人々には分からなくなってきておる。 仏教においてもそうで、仏教者であれば、キリスト教では救われないとか、神道では救われないとか言っている。こういう宗教による宗派の違いというものは、もちろん、根拠のないものではない。 というのは、やはり日本なら日本を中心に活躍した神々があり、キリスト系統ならキリスト教系統で、ヨーロッパ世界を中心として活躍した神々がある。また仏教系なら、印度、中国、日本と渡ってきた神々があるということにおいて、魂の系統というのがないわけではない。しかし、だからといって、他宗が全然間違っているというわけではないと思うのだ。 5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる とくにキリスト教においては、他宗排撃というものが頑固に、頑強に現在でもあると思う。他の目から、今、実在界にいる私の目から公平に見て、どの教えがいちばん真理を伝えているかというと、どれも、どっちもどっちというところだな。仏教は、本当に葬式仏教になって、一部の修行者だけのものになってきたようだ。神道は、本当に金集めばかりをやっているようだ。キリスト教においては、人間の生きていくべき道ということがまだ学ばれておるようにも思うけれども、ただ真理という面において、他のものを学ぼうとしない、そういう傾向がおそらくあると思う。 私は生長の家において、神道、仏教、キリスト教、こういうものを統合し、これを超える教えというものを説いたつもりである。なぜこういうことをしたのか。その理由を一言で言うならば、「真理は汝を自由にする」ということなのだ。真理を知るということは、手足を伸び伸びと動かすことができるということなのであります。 たとえば、哲学というものがある。現代でも哲学というものがあって、大学の授業でやっておる。そして大学の教授なんていうのは、自分が哲学をやっておると思えば、宗教というものを軽蔑して、ああいうものは、インチキだと、淫祠邪教(いんしじゃきょう)であって、人を惑わすものだと、哲学こそ本当の人間の理性を追究していくものであって、真理探究の近道だと、こういう考えをしておる。 ところがその元を辿(たど)れば、哲学においても、出ている偉大な指導霊たちは、皆んな光の天使であり、教えを説いた、その側面がただ仏教やキリスト教と違っているだけである。したがって、自らが哲学を学んでいるからといって、宗教を排撃している人たちは、結局のところ、真理を知らないんである。 また、仏教をやっているからといって、西洋哲学などを否定している人たちは、まだ真理を知らない。結局、知らないということから、そうした偏狭な心が生まれ、そうした偏狭な心から、争いがある。そして、不調和が生まれておるのだと、私は思う。 結局、本当に力を発揮するのは何かというと、真理を悟るということであり、真理の全体像をつかむということだ。真理は一つだということを本当につかんだならば、そういった宗教間の争いはなくなるのである。これがなくなることによって、どれだけ世界が平和になるかということを、あなた方は考えたことがあるだろうか。 宗教によって、救われた人も数多いかもしれないけれど、宗教によって命を失った人が数多いことも事実である。そうではないだろうか。とくに中近東の方では、イスラム教関係の国家同士の争いが非常に激しい。それも他宗教との争いではなく、イスラム教同士のスンニ派だとか、シーア派だとか、私はよく知らぬけれども、そうした派閥同士で血を流す争いをしている。爆撃をしてまでも、争っている。またアメリカとソ連との争いを見ても、キリスト教国が唯物主義の国というのを、要するに、叩(たた)き潰(つぶ)そうとしておるのだ。 6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている 唯物論というのは、結論から言えば、間違っている。この世は物だけではない。その裏には、生命の実相という偉大なる実相の世界がある。共産主義においても、ユートピアを実現せんとする、そういう希望が実際にあり、共産主義も一つの希望の原理であったこと自体は、否めないと思う。共産主義は、まったく間違った教えかというと、そのなかにある希望の原理自体は間違っておらぬのだ。人々を解放し、そして豊かな平等な社会をつくろうとする気持ちそのものは、間違っておるものではない。 ただ、唯物思考という考え方、あるいは暴力礼讃という考え方、こういうものは、明らかに間違っておる。 マルクスは、暴力というのは、革命の産婆であると言っておる。つまり、革命という落し子というか、赤ん坊をとりあげるためには、暴力という産婆が必要なのだと、マルクスは言っておるようだ。 しかし、こういう考えが間違いであることは明らかであって、人々が本当に平和な社会を築いていくためには、やはり暴力のない世界を目指すべきである。暴力によって、暴力のない世界を目指すということは、それ自体が一つの矛盾であることに気がつかねばならんと、私は思うのである。暴力によっては、平和な社会は生まれないのだ。それは革命という美名によっては、浄化され得ないことである。 たとえば、ソヴィエト連邦においてロシア革命が起きたときに、人々は、これが自由の勝利だと思ったであろう。これからユートピア世界が来るのだと思ったであろう。ところが、どうだ。この後の流れは、レーニン以後、スターリン、こういう悪鬼の如き者が出てきて、大量の粛清(しゅくせい)とかいうのを始めて、いろんな人を殺していったのである。 また、中国においてもそうだ。共産主義をやって、そのときには、平和な民主主義革命かのように装っておったけれども、対立抗争する者たちを、次々と粛清していった姿を見れば、それが一つの地獄の現われであるということを否(いな)めないであろう。 それは、やはりマルクス自身にも責任があったと、私は思う。つまり、暴力によって平和な世界がある。平等な社会がある。ユートピアが来るという思想自体が、間違っておるからだ。暴力によっては、ユートピア社会は来ない。 本当のユートピア社会をつくるためには、昨日も言ったけれども、良き言葉の創化力を使いながら、人々がお互いに光輝いていく方向で生きていくべきなのだ。そうでなければ、本当の意味のユートピアはできるはずがない。 7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある たとえば、こうした唯物主義、あるいはキリスト教国を語っておるアメリカ帝国主義、あるいはイラン、イラクなどイスラム社会の抗争、あるいはまた、キリスト教、仏教、神道という、こういう教義の争い、こういうのを見ておると、結局のところ真理とは何かということが分かっていない。これだけだと思う。 それぞれ自分の信ずるものだけが正しいという頑固な思い込み、これによって争いが起きているのではないか。釈迦が思っていたような広大無辺な思想というものは、普通の人は抱けない。またイエスが思っておった大きな教えというものを理解することができない。そのために自分に都合のよい教えだけを取って、そして、それでもって他宗を排撃する。これが人間の愚かなところだけれども、心が狭いというよりは、そういうことを、つまり、真理を理解するだけの容量がないと見るべきなのだ。 また今後、大きな教えが説かれていくのだろうけれども、この教えもまた大きすぎて、後の世の人々をすべて吸収することはできないだろう。そこで、またいくつかの派に分かれていく。これはある意味では、やむを得ない流れだろうと、私は思う。 さて私は、真理を知らないということ、これが争いの原因だということを言ってきた。 実際、人間はずいぶん、言葉づらに執われているのである。神様の呼び名を、お父様、お母様というふうに考えれば、キリスト教系では、それをパパ、ママと呼んでおる。仏教系では、それをお父様、お母様と呼んでいるかもしれない。ところが、神道系では、父上、母上と呼んでいるかもしれない。じゃあ、父上とパパは違うのか。お父様が違うのかと言えば、同じ人なのである。これを、呼び名が違うから違うと思っている。 かたやアラーの神というアラーがあったり、エホバがあったりしている。かたやまた日本では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とか天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)とか、こういう方がいたり、中国では孔子の教えでは、天帝、天の御帝というのがおるかとか、いろんなことを言われている。 これをみんな、別のものだとおもっているようだが、決して別のものではなくて、実際は神そのものでなくて、神近き高級霊のことを指しておるのである。そして天上界では彼らはみんな友達であり、知り合いである以上、それぞれのお弟子さんの信仰は違うものであっても、お弟子さん同士の争いの原因が、無知に起因することを理解し、他宗教の高級神霊をも礼讃する気持ちが、彼らにあってもいいはずである。まず人間はこのことを知らねばならぬ。 今、様々な宗教の高級霊の霊言というものを世に送っているようだけれども、これもまた、万教は一つであり、同根であり、一つの神から分かれてきた教えであるということを理論的に実証しようとする動きなのである。 そういうことで、あなた方が、今後とも何十巻も霊言集を出していかれるということは、大変意味のあることであろうと思う。そうすることによって人々は、やがて、それを否定できなくなってくると思うのである。そうしたことが事実であるということを、やがて否定できなくなってくるであろうと、私は思っている。こういうことが、「真理は汝を自由にする」ということであって、真理を知ることによって、宗教を学んでいる者たちを自由にするのである。 ただ、この真理は汝を自由にするということを間違ったふうにとらえてはならぬと思う。真理は汝を自由にするからといって、間違った教えを堂々と説いていいかといえば、そういうことではない。それは明らかに違っていると思う。 私は他宗排撃ということは、基本的にはやらなかった。あなた方に対しても、基本的には同じ態度をとられるのが賢いと思うけれども、しかし時には、例外の場合もあると思う。あなた方のところで教えを請うてきている者が、明らかに間違った教えに所属している。こういうこともある。こういう人に対しては、それはちょっと違っていると、教えてあげるということは、好意であろう。 真理は一つであり、万教は一つなのであるけれども、ただ、これも正しい教えも間違った教えも一つであるという意味ではないということだ。これを間違ってはいけない。 教えのなかには両立しない矛盾というものがあると思う。その矛盾している点は、やはりどこか間違っているところと正しいところがあるのだと、この矛盾点そのものは見逃してはならぬ。清濁(せいだく)合わせ飲むという器量は、大変大事であるけれども、清濁合わせ飲むだけで、濁りをいつまでたっても濁りとして認めているようでは駄目であって、やはり清の方が浄化していかねばならぬ。濁りをも浄化していく、そういう必要があるのではないだろうか。 8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について こういうことで、あなた方は宗教をやっているけれども、宗教をやれば、仏教をやれば抹香臭くなり、キリスト教をやればアーメンばかり言って、懺悔の思想とか何とかいって、暗くなってくる傾向が多い。 人間を暗くするような宗教というものは、私は、どこかがおかしいと思う。宗教というものは本来人間を幸せにするはずだ。本来人間を幸せにする宗教が、それを学ぶことによって、人間を暗くする。これは何かの誤りがあるのではないか。私は、そう思う。 先般も話をしたから深く話をすることをやめるけれども、キリスト教においても罪の思想、こういうのがあるし、仏教においてもカルマの思想、こういうものがある。こうしたものが人間を暗くしておるのだ。キリスト教では、何で自分がこんなに不幸なのかと思えば、結局はアダムとエバが犯した原罪によって不幸なのだ、と。仏教系で、今世に何でこんなに不幸なのかと思えば、きっとこれは三世の縁であって、過去世の業(ごう)に違いないという、こういう思想を持っている。 業というものがないかといえば、ないわけではない。作用、反作用という法則は厳然としてあるし、また過去世の生き方が今世の生活環境に影響していることも、これもまた事実である。ただ業はあるけれども、業に振り回されてはならんということも、また事実なのである。 たとえ過去世において人殺しを犯しておろうとも、今世でまた人殺しを犯さなければならないという理由はない。ショーペンハウアーという哲学者がおって、「盲目的意志」とか言っておる。人間は盲目的意志によって動かされている、と。したがって、これは仏教の業の思想だろうと思うけれども、盲目的意志によって生きておるのだ、と。どうしようもないところがあるのだと、こういうことを彼は言っておる。しかし、人間は闘牛の牛ではないから、赤いものを見たら飛びつくというようなものであってはならぬと思う。過去世の業があっても、それを乗り越えていくような人間でなければならぬ。 9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない 今ある仏教の一派では、釈迦の原始仏教の、はっきり言ってしまえば、阿含経(あごんきょう)というのを根本教典にして、A宗などというのを立ててやっておるのが、どこかにおるようである。京都かどこかに。こういうものに対して私は一言、言っておきたい。 何というか、まだこういう考え方というのは、学問的な考え方に偏(かたよ)っておる。釈迦がいろいろと説いたお経のなかでは阿含経が最初に説かれた教えということになっておるけれども、最初に説いた教えだから正しいとか、後のものは弟子がつくったから間違いだとか、こういうことを言うておるようだけれども、そういうものではないということである。人間というものを、何というか、そういうふうに一つの教えに縛(しば)りつけてしまう。こういうのは、私は非常に間違いだと思うのであります。 この教団においては、あえて名前は言わぬけれども、人々は、さっき言った業を背負っておるとしておる。業というのを、ここでは因縁(いんねん)と言っておるようだけれども、因縁というものを持っておれば、この因縁を断たねばならぬ。父母の因縁を断つだとか、あるいは、兄弟の因縁を断つだとか、あるいは、失恋の因縁を断つだとか何だかんだと言って、銭儲けをしておるわけだ。 因縁を断つ行法というのを教えて、これで三年間やれば、両親の因縁を断てるとか、こういうことを言っておるようだ。たとえば、両親が非常に貧乏であったとか、このままでいくと自分も貧乏になるんじゃないかと、そういうことで、両親の貧乏の因縁を断たねばならぬ、と。こういうことで、何とかというお経を唱えて、三年間か何か数珠(じゅず)を揉(も)んでおれば、因縁が断てるなんて言っている。こんなのは、はっきり言って、何も分かっておらんと思う。 因縁というものは、ないとは言えないけれども、それは先程言った作用、反作用の連鎖であり、ある意味ではカルマであろう。ただこれを断つには、逆のことをやっていかねばならんということだ。つまり、過去、不幸な人生を生きていたのならば、どこかで幸福な人生を歩むように切り換えていかねばならんのだ。それはそうした経文を読んだり、数珠をさげたり、坐ったりすることによって、断てるものではない。百日坐ったから、千日坐ったからなんて、そんなもので切れるものでない。 そうではなくて、過去、罪深いことをしてきた人間であるならば、その因縁を切り、その業を断つためには、今世でいいことをするしかないのである。お経を読んだり、数珠を持って、数珠をちゃらちゃらさせながら千日坐ったからといって、切れるわけは絶対にない。こういうのは邪教というのだ。間違っている。 人間は過去、誤った宗教において迷ったのであるならば、今世において正しい宗教を修める以外にはないのである。これ以外にないのだ。 10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである 因縁を切るという方法は、この因縁を断つ方法は一体何かというと、これは一つの光明思想であると思う。 人間というのは、たとえばキリスト教でいうように、原罪を負った存在、罪深い存在だということで連綿として生きてきた。こういう形で、いつまでたっても、子供の代になっても、孫の代になっても原罪を背負って生きていくのが人間であるならば、人間は、その業を、カルマを断ちようがないではないか。どうやって断つというのだ。それを、これを断つには人間、罪の子の思想を改めて、くらりと思考を一転し、光明の方に向くしかないのだ。 過去が不幸だからといって、なぜ現在も不幸でなければならんのか。それをよくよくあなた方は考えてほしい。昨日の不幸をなぜ今日に持ち込むのか。なぜ、明日には悪いことばかりが起こると思うのか。あさっては、もっと悪くなると思うのか。病気をすればますます悪くなる一方だとか思うのか。こういう思いというものは、一つの慣性であろう。そういう惰性であろう。私は、これを一つの因縁とするならば、これを断ち切るためには、心を光明の方向へ向けるしかないと思うのだ。 要するに、日時計主義の生き方です。日時計というのがあるけれども、札幌か何かにも、花時計とかがあるけれども、日時計というのは、太陽が出ているときだけしか時を刻まないのだ。日時計というのは、闇の時間を刻まない。太陽が出ているときしか、時を刻まない。つまり、人間というのも、この日時計主義でやっていかねばならんのだ。 我、太陽の時刻のみをしるす。そういうことで、明るいことのみを心に刻んでいくということが、大事なのではないのが。罪の子であるとか、業に翻弄(ほんろう)されているとか、両親だとか、先祖の因縁によって自分が縛られているだとか、こうぃう悪しき宗教信仰によって、自分自身を縛ってはならんのだ。 そういうものは本当に拭い去って、捨て去る。そして、ただ今から、自分は、明るく生きていくということを、まず一大決意することだ。これが因縁を切る、カルマを断つ一つの方法なのである。そして今日ただ今、それを決意したのならば、今日ただ今から、自分は心のなかに悪を刻まないと、刻むまいと、はっきり心に誓うことだ。 11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる 結局、この世で生きているうちは、いろんなことが起こる。良いことも、悪いこともあるだろう。地獄に行っている人とは、どういう者たちか。結局人が自分にしてくれなかったこと、人の悪かったことばかりを心に刻んだ人たちが、今、地獄に行って、今、呻吟(しんぎん)しておるのだ。地獄では、心にいいことばかりを刻んだ人などいない。 そういうことで、一日のうちでもいろんなことが起こるであろうけれども、悪いことは小さく、そして洗い流していくことだ。そして、良いことが起こるのは、きっと神様が自分を愛していて下さっているからだと思うことです。良いことが身に降ってきたのなら、それに対しての感謝行をしていく。そうすれば、さらに良いことがくるであろう。また、していく。それが、さらに良いことになっていくであろう。こうして、人間は発展しかない生き方をしていくのだ。 ところが今日、悪いことがあったとする。それを今日、一生懸命、一晩考えてしまうと、夜寝られない。翌日も寝られない、と。こうして悪いことばかりをひき継いでいけば、永遠に明るい人生を生きることはできないのである。 悪いことは小さく受け止め、それを流し去れ。そして良いことのみを心に刻んでいけ。そういう日時計のような生き方のみが、人間を本当に幸福にする道であります。そして、そういう生き方こそが、人間を幸福にするのだということを悟ることが、「真理は、汝を自由にせん」ということなのだ。 古き宗教の因習に執(とら)われ、教えに執われ、自ら不幸にすることなかれ。人間は本当の真理を知ったとき、日時計のように、太陽の輝く日のみを、時間のみを我は刻す。そういう人生を生きることができるのだ。ここに至って、初めて人間は自由自在となり、明るい人生を生きることができるのだ。そして、その生活は、また天国にある生活であり、あなた方が、あの世に帰ったときに、そのように生きていくための準備でもあるということなのだ。このことを、忘れてはならない。 どうも長い間、私の話を聞いていただいてありがとう。八日間連続した講義も、これで終わりとする。 今回をもって一応、私の霊言集は完結するつもりであるけれども、もし読者から、もう一度、さらに再、再度、谷口雅春の教えを聞きたいという声が高まってくれば、また時期をみて出さないでもない。そういうときには、協力を惜しまない。以上であります。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/175.html
トップページ>日本>日本学研究 『日本学研究』41, 2014.1 清登典子「芭蕉俳諧と仏教:仏道修行者への憧れと詩的達成」(日) 尹采根「『金鰲新話』:業と慈悲としての物語」 유양근「デジタル時代日本映画の変貌:Jホラーを中心に」 이예안「近代日本の小国主義・小日本主義:アジア主義との拮抗と交錯」 유지아「戦後対日講和条約と米日安保条約過程に現れたアメリカ軍の日本駐屯と日本再軍備の議論」 洪聖牧「日本神話におけるオホクニヌシ物語とその周辺」(日) 김영호「林義端の作品に現れた創作意図考察:浅井了意小説との比較を中心に」 최범순「「世界文学」の想像と翻訳:内田魯庵の翻訳と近代日本のナショナリズム」 박상현「春園李光洙の「明治天皇御製謹訳」研究」 尹幸舜「韓国と日本の漢文読法の発達過程についての考察」 李京哲、崔智淳「韓国漢字音遇摂韻の母胎別位相について:日本漢字音との比較を中心に」 崔延朱「接続助詞「から・ので」の習得に関する研究:L2学習者の習得過程に着目して」(日) 김세련「『高等学校日本語Ⅰ』教科書の文化的内容分析:2007年改訂教育課程を中心に」 1-20 21-30 31-40 41-50