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目次 1.やる気の人生 2.意識変革の時代 3.宗教心の復興 4.日本の遺産 5.ユートピアヘの運動 (1989年1月4日の霊示) 1.やる気の人生 高橋信次です。新年あけましておめでとうございます。 えー、ミカエルの三部作が入っちゃったりして私の本がすこし間があいたもんだから、私がもう病気で寝込んでいるんじゃないかと思って、みなさん心配しているんじゃないでしょうか。そんなことはないんで、元気いっぱいだということを証明したくて新春早々また出てまいりました。 ほんとうは私の出番じゃなかったんですけどね。『ニュートンの霊示集』なんか録っていたんだけど、割り込んじゃったんですよ。そして、また読者はね、私の本を待っているだろう、こう思っているんです。 先般、『愛の讃歌』を出しましたけど、これはたいへん好評でしてね、続々需要が出てきてまして、「新しい局面を見た。高橋信次の素顔を見た。」あるいは「高橋信次の裏側を見た。」いろいろな意見があって、そして「もっともっと読みたい。」という声がずいぶん来たんですよ。 そこでまあ、ぼくもいろいろ考えて、何を次に世に問おうかなと思って九次元の法なんてのも考えたけど、まだまだ出すの早いなあと思うし、去年の末(まつ)だったかねえ、〇〇先生の『現代成功哲学』なんていう本が出ましたんで、なかなかカッコいいなと思いましてね。私流の成功哲学というか、まあ哲学というほどじゃあないねえ、成功への心構えというかね、そういうふうなものを書いてみようかなあと思っているんですね。 特に今年は、こういう成功論がもっともっと必要なんじゃないかな。特にね、本書を読むような読者というのは、あの世のことには興味が多いでしょうけど、あの世のことに興味の多い人っていうのは、ほんと幸福になれない症候群で、この世が不幸なもんだからどっか逃げたくてしようがないんですよね。で、そういう人が多いと思うが、逆にこの世でね、けっこう成功することによって幸福になってね、そしてなんとなく明るくなったりして、そして地獄へ行かなくなったりして、地獄も人ロ滅っちゃったりして、天国の人口増えちゃったりして、世の中が明るくなることもあるんですよ。だからこの世で、ほんとうの意味での幸福な人がいっぱい増えることっていうのは、いいことなんですよね。まあ、これはわかってくれるでしょうか。 じゃあ、この世で幸福な人、やる気のある人をね、人生が楽しい人、これを続々つくるにはいったいどうすりゃあいいか。まあ、これが考えられなきゃいけないわけですね。本章はやる気こそがすべてだ、というふうに考えてみましたけど、そうだと思いますよ。 特に今、一九八九年の初頭にあたって、これを収録しているわけです。去年の今ごろは、ぼくは『高橋信次のUFOと宇宙』を収録していたんですけど、ずいぶん私の法も進んできたなあと思います。もうマクロからミクロまで行ったり来たりしながらやっていますが、今、私の心がけていることは何かっていうと、法の具体化ですね。 法の具体化、あるいは役に立つ法、これをみなさんに教えたいんだよね。実践っていうか、日常生活に使える法が欲しいなあと思ってね、空理空論だけではやっぱり十分じゃないんで、現実にみなさんの実践に使えて、そしてハンドブックになるような、そういう本をつくりたいと念願しています。 ですから、これは人生のハンドブック・シリーズなんですね。ハンドブックというかハンバーガーみたいなもんですよ。ぼくのなんかほんと、マクドナルドのハンバーガーですから、パクパク食べてくれたらいいんですよ、この本をね。パクパク食べるようなつもりで読んでくれたらいいと思うし、電車のなかででもどこでも読めるように、そういうふうに手軽に書いているし、気取らず気さくにやっていますから、どのページからでも、どの章からでも読んでいただいてけっこうだと思います。 ぼくはねえ今、まあ君たちはもう知っているだろうが、いちおう九次元というところに還っているんですけども、死後十何年たったかね、十三年かねえ。もう十三年たったけど、霊人たち見ています。いろいろ見てて、指導営団もいっぱい見ているんだけど、ウーン、まあぼくほどやる気のある人はいねえんじゃあないかなあ。まあそう思うね。あんまりやる気ないんですよ、みなさんね。やっぱり神様然としているところあってね、そんなに小回りもきかないし、何ていうかね、これでもかこれでもかというふうにがんばるところまではいかないように思うんですね。 ぼくはね、けっこうタフなんですよ。いろいろなことあるけど、地上の人にも受け入れられることもあれば、批判されることもあるし、蹴られることもあれば、喜ばれることもあるし、いろんなことあって、霊としては若干ね、いろいろ気疲れなことも多いんだけど。 でも、やっぱりねえ、人生のねえ、道を切り拓いていくっていうのは、ぼくは「やる気」だと思うよ。そしてそのやる気はいったいどこから出てくるか。これをみんな考えたことあるかい? やる気がいったいどこから出てくるか。これは決してね、お天気がいいときにやる気出てくるとか、こんなもんであっちゃいけないんだよ。それは雨の日や、雪の日、曇りの日よりは、お天気のいい日は気分はいいし、やる気は出るかもしれない。仕事だってそうだし、散歩だってそうだし、ゴルフだってそうかもしれない。 まあ、そういう気持ちはあるだろうけど、ただね、そうした外部環境っていうかね、そういうふうに与えられた条件がよければやる気が出るっていうようなの待っていたら、人間いつまでたったってやる気が出ないんですよ。そうじゃないでしょうか。 たとえば、晩ごはんがおいしかったら、やる気が出る、って言ったら何か誤解されるけど、ウーン………仕事ですね、仕事のやる気が出るとか、朝ごはんがおいしかったらやる気が出るとか、朝、電車で座れたら仕事のやる気が出るとかね、そういう人はいろいろいるでしょうが、ただそれであってはひじょうに何ていうかね、運命と申しますか、環境と申しますか、そうした人まかせの人生である、と言えると思うんだね。 ぼくはね、そういう人まかせの人生というのはほんとうの勝利者になるためには、ふさわしくないと思うんだ。だから、新春にあたって、みんなに言っておきたいこと、ひと言、言っておきたいことはね、人まかせの人生、運まかせの人生、お天気まかせの人生、こういうものから今年は決別しようよ。こういうものを今年は考えないでね、どんな状況下であっても自分の人生を切り拓けるような、そういう生き方をしてみようよ。 ぼくはこれを全天候型っていうんだよね、全天候型。高橋信次そのものが全天候型だと思うんだよね。生前であっても、私は自分のコンディションというのを言いわけにしたことはあまりなかったと思う、ほとんどね。どんなコンディションであっても、どんな状況であっても、いつもエネルギッシュによく働いていたように思う。 まあ、〇〇さんなんかも見ていても、去年なんかもう三十冊近い本を出しましたけど、それでも私の目から見たら多少波があるんですね。意欲的にやっているときと、やる気がなくなって、もう、まあいいや高橋信次でも出そうかなんて言っているときと、けっこう波があるんですよ。そして調子のいいときは理論書の難しいのつくっていますが、調子が悪くなってくると、高橋信次モノとかこんなんでしばらく繋(つな)いでいたりしているんですよ。まあ、そういうふうに波があるもんなんですよね。 だからぼくは、よく彼に「そんなんじゃいけないよ。もう、いつもいつもやはり一定の調子でやらなきゃ。」なんて説教をよくしているんですけど、ぼくなんかはね、〇〇さんが健康であろうが、何であろうが、調子がよかろうが悪かろうが、いつでもこういう本を出す用意があるんですね。でも、神様によっては、やっぱり地上の人の調子が悪かったり、機嫌が悪かったりすると出たくない人のほうが多いですね。これは主流です。やっぱり神社へ行けば、ああいうふうにしめ縄を括(くく)ってね、なんだあれは、みかんか、だいだいか、だいだい祭っちゃって、えー、何だか知らんけど横綱のなんだ、あの金隠しみたいなのがチラチラチラチラ白くぶらさがっているじゃないか。ああいうふうな感じで、なんていうかね、聖域をつくらないとできない神様もけっこう多いと思うし、ウーン、それは言ってみれば主流だとぼくは思います。 高級霊というのはひじょうに高い意識を持っているんでね。この高い意識というのは地上の意識とひじょうにギャップがあるんですよ。このギャップがあるということを翻訳しなおすとどうなるかというと、そういう、なんていうか、神社とか、あるいは特別な祭壇だとか、こういう特殊な風景、あるいは様式というのをつくらないとその高級な感じが翻訳できないんですね。そして、自分がやっている感じがしないわけなんですよ。 2.意識変革の時代 たとえば、私が車の運転がうまいとしよう。でA級のレーサーだとしようね。レーシングカーに乗れるようなドライバーだとしよう。その私がたとえば、あなたトヨタじゃねえや、クボタか、クボタのトラクターか何かで、あなた運転しているの考えてごらんなさいよ。私が、いくらふかしたって力出ない。こういう感じになるでしょう。どうでしょうかね。 私は本物の飛行機乗りだったけども、これがプラモデルか何かで遊んでいたら、こんなの面白くないよね。リモコンのグライダーか何かで遊んでいたってこんなの面白くない。まあこうしたもんで高級霊っていうんであっても、やはり自分の世界をなるべく表現したいんですね。自分の感覚を出したい。こういう気持ちがあります。 ただねえ、今はぼくは、その高級霊たちも意識の変革の時期が来ているんじゃあないかなあと思う。自分たちの立場ばかり考えていたんじゃいけないんであって、地上の人たちの立場に身を置いてね、もっともっと考えてやらなきゃいかんと思う。そんな意味でまず考えねばならんことは、高級霊たちが、自分たちがほんとうに高級霊であるという立場を理解してほしいというような願いだね。これは一種の執着だよ、これをまあ捨てることだと思うんだ。だから偉いかどうかなんてことを気にしないで、ほんとうに地上の人に役に立つ言葉を送ってやることだと思うんだよね。 ぼくだって格調高い話をしようと思ったらいくらでもできます。できますと言いながらしないだけですが、一度もしていないかもしれませんけども、ぼくの考え方は違ったところにあります。これだけの速度で本を次つぎ出しているわけですから、どれもこれもが剛速球ばかりだったらまいってしまいます。やはり、スローカーブもあったりね、山なりの球があったり、ど真ん中があったりしてね、バッターもたまにヒットが出るもんだから、うれしいんですよ。高橋信次のシリーズだけはよくわかったとかね。これでぼくはいいと思うし、ウーン、ぼくが考えている対象は、やっぱり上は八十歳、九十歳から下はだいたい小学校の四、五年ぐらいまで対象としては考えています。十歳から九十歳まで、八十歳ぐらいの間の読者を魅きつけたいというふうに思っています。 今、たとえば本屋なんかに行くとマンガブームだよね。マンガっていったっていわゆるギャグマンガじゃなくて、難しいものがマンガになっているね。経済だとかあるいは科学だとか、まあそんな従来、堅い本で、一般の人が手が届かなかったような内容が、マンガにされて出されています。 また、宗教書もそうですね。最近は、釈迦物語とかいっぱいマンガになっていますね。そしてけっこう売れているように聞いています。そのうち高橋信次物語なんてマンガになるんじゃないかと思って希望しているんですが、読者のなかにマンガ家いたらどうですか、名乗りをあげてはいかがですか。高橋信次のドラマ、マンガになりますよ。生前そして復活、これはもうイエス様を超えるギャダマンガになりますよ。ほんとうに面白いと思います。だれかマンガにでもしてくれたら、もっとこれがわかりやすくなるなあと思うんですが。 そのように今は、英語で言うならマーケットトレンドですね。市場の動向はどこにあるかというと、「高級な内容をね、手近にわかりやすく、お茶の間に」と、これが一つの流れなんですよ。あるいは「高級な内容をね、混んでいる満員の電車のなかでも読めるように」これが一つのトレンドであると私は見抜いているんです。 だから、これはね、神理というものをね、もっともっと身近に、みなさんの手のなかに、お茶の間に、喫茶店に、食堂に、家庭の会話に持ち出す必要があるんです。こうしなければ、ほんとうの意味で何といいますかね、世の中を変えることはできないと思うんです。 ところが神理というのが、今までね、特殊な特権階級のものにされすぎていた。ぼくはそう思いますよ。 まあ、『般若心経』なんていうの人気あるけど、あんなもんでねえ、ほんとうに神理がわかっているかどうかね、みんなどう思う? 『般若心経』を読んで悟れるかい。たとえば『法華経』を読んで悟れるかい、どうだい。あんな物を読んでわかるためには特殊な訓練が要るんだよね。それは、お寺へ入って勉強したり、あるいはお寺りの坊さんが書いた解説を読んだりね。まあ、こういうことがあるわけです。 もちろんお経そのものに、ぼくは無駄があるとは言わないよ。お経はお経で永年親しんできたものだし、内容はいいことを書いていると思いますよ。だから、生前ちょっとお経の攻撃をしすぎたかもしれないけど、ぼくはその内容自体を否定しているわけじゃありません。ただね、もっと親しみのあるもんでなきゃあいけない。 というのは、ほんとうに神様が今願っておられることは何かっていうと、本来の世界をすべての人に知ってほしいってことだよね。そのためには、神理というものはやさしくなければいけない。わかりやすくなければいけないんです。読めなきゃいけないんです。決して大学を出たり、あるいは専門の勉強をした人でなきゃわからないようなもの、これだけが神理じゃあない。 仏陀の教えなんていうのは、今から二千五百有余年前にね、無学文盲のインドの衆生に説かれたんです。そして、彼らは理解ができたんです。そんな大学の宗教学科卒業しなきゃわからんような、そんな内容を言ったわけではないんです。そしてたとえ話をたいへん多く使いながら話をしたわけですね。 今、神理というのをたとえ話を用いて使うということはどういうことかと言うと、まあ、わかりやすく面白く話をするということになるわけですね。だからぼくはね、こういう姿勢というのを、みんなにわかってほしいなあと思います。 3.宗教心の復興 そしてね、いちばんぼくがみんなに知ってほしいことはね、一番目、これは私は十数冊目の本になりますが、霊がほんとうにあるということ、もうこれ認めてよ、とお願いする。これだけうるさく言っているんだから、「もうわかったよ。もう認めるよ、もうギブアップだ。」と言ってほしいんです。ぼくは最初の本のときに、最初のころにね、五冊、十冊、二十冊出すって言ったけど、いつのまにかもう二十冊というのがチラチラ見えてきたじゃないかねえ、もう十冊なんか超えちゃいました。二十冊見えてきてね、それだけ勤勉に働いているんです。 だから、、まずね、「もう霊があるのはわかった。もうわかったわかった。もうわかった。面白いのも、何を言おうが、もうだれが何を言おうがもうわかった。マスコミが批判しようがわかった。もう霊はあるんだ。あるんだよ、もう耳にタコができたからわかった。」と、まず、これを認めてほしいんですよ。今年もいろいろとやっていくつもりだけど、基本的にこれをまず知ってほしいんだよね。日本国中で常識にしてほしいんだよ。 今の日本人、はずかしいですよ。たとえばインドなんかへ行きゃあねえ、日本から見りゃあインドは文化的に劣等国だと思っているかもしれない。文化的にとは言えないかもしれないが、工業的に、あるいは産業的に、商業的に劣位にあると思っているだろうが、インドの人なんて神様をみんな信じてますよ。霊魂なんか知らない人、一人もいませんよ。進んでいますよ、魂においてね。 今の日本人はどうだあ、正月三が日だけ何百万人も初詣でするけど、あとはどうなっているんだということだね。ひじょうに情けない、これはねえ、何が原因かというと、国が今骨抜きにされているんですよ、骨抜きに。みなさん、ほんとうに目覚めなきゃだめですよ。 えー、今から四十数年前に太平洋戦争が終わりました。日本ではそれを終戦と言っています。しかし、実際は敗戦でした。敗戦によってどうなったかっていうことですが、いくつかの変遷がありました。 一つは主権在民ということになって、天皇は象徴になりましたね。明治憲法では天皇は、権力者あるいは主権天皇でしたね。ところが象徴になっちゃいました。これも大きな変化でしたね。それから政教分離ということが行なわれました。政治と宗教を分離するということですね。宗教は政治に口を出しちゃあいけない。また、政治は宗教に手を出しちゃあいけない。この両方ですね。これをつくり出しました。 それから次にやったことというのはいったい何かというと、まあ軍隊ですね。軍備の放棄と、まあこういうことでしたね。こういうふうにやって、こういう憲法をマッカーサー下でつくったわけですね。これはいったい何を意味しているかを四十年たって、もうふり返って考えねばいけない。そう、ぼくは思います。 マッカーサーはじめアメリカの進駐軍だね、進駐軍たちの幹部は考えたんです。この太平洋戦争下の日本の怖さはいったいどこにあったのか。日本というのは恐ろしく怖かったんですね。資源もないし、弱小国のはずなのにやたら怖かったんです。あの神風特攻隊、怖かったんです。なぜこういうふうになったか、彼らは議論したんです。そうした結果、まず、あの宗教がいちばん怖いっていうわけですね。日本の宗教が怖い。宗教のなかで特に怖いのがあの天皇制だ。日本神道糸の宗教は、あれは恐ろしい。国民が一丸になってしまうので、まずこれをやっつけてしまわなければ、日本を弱小国にできない。ということで、天皇制の分断を図ったわけですね。 で、天皇陛下を死刑にしちゃうと国中から内乱が起きて、革命が起きるからね、そして進駐軍のところをゲリラに襲われるんで、命を奪うことはやめた。けど実質上の権力をなくした。まず、こうしたね。それと、政治が宗教に介入して国民をあおりたてる、これをナチズムと同じように考えたわけだ、彼らはね。これも怖いんで、これも政治とも切り離させた。これもあります。それから軍隊を持たれると、また戦いを起こすといけないんで、軍隊を持たせない。こういうふうに考えたわけですね。 この結果どういうふうになったかということなんですが、結果はひょうたんから駒で日本はひじょうに繁栄いたしました。この結果がよかったので、国民はそうした占領軍下の憲法で行なったことに、それほど悪い感情を持っていないんですね。最近よく知られてきたように、軍隊を持っちゃいけない、戦争をしちゃあいけないという条項があるために、軍事費が増大しなかったんで、経済的繁栄があったこと。それに比してアメリカやソ連は巨大な軍事力を抱えたために、ひじょうに国家財政が逼迫(ひっぱく)していて苦しいんですね。これは事実として多くの人たちに、現在知られるようになってきました。日本の繁栄の一つは軍事力に力を注がなかったことですね。これがあります。 またもう一つ、ただそれはプラスの面かもしれませんが、マイナスの面も出てきましたね。宗教に対する考え方ですね。これがひじょうに極端から極端にきました。今までいちばんすばらしいことであったのが、今度はもういちばんいけないこと、諸悪の根源のようになりましたね。 ちょっと前にも中曽根前首相の靖国神社参拝問題っていうのがありましたね。首相が靖国神社に行くこと自体は、特定の宗教を支持することになるし、国民感情としては許されないという、野党の批判がありましたね。そういう感情もありました。これなども霊的な目で見たらどうかということですが、やはり言っていること自体は私はおかしいと思っています。まず、宗教の考え方が根底から違いますね。 ぼくたちが言っている宗教っていうのは、各国にあるいろいろな民族宗教というのは、時代と環境を変えてね、神理がいろんな形で顕現したにすぎない。現われてきたにすぎない、まあこういう考え方でしたね。だから日本神道といい、仏教といい、キリスト教といい、これはまったく別なものではないのだと、違った形で現われているけれども、根本においては一つにつながるものなんだという考えが基本なんですね。だから、特定の方式でやれば、ほかの宗教の迫害になるという考え方はね、これは違っているわけですよ。これは一つの間違いです。 それと、何ていうかね、「アツモノに懲(こ)りてナマスを吹く」っていうことわざがあるけれども、とにかく、天皇主義でやって戦争であれだけ被害が出たから、とにかくもう宗教の宗の字もいやだというようなことで、宗教行為をしちゃあいけない、もう政府の首脳は信仰を持っちゃあいけない、宗数的行為は何もしちゃあいけない。こんなんであっても、やっぱりぼくはおかしいと思うよ。これ、何かひじょうに変形した怨念だよ。そう思いますね。 むしろ、ぼくたちが今めざしていることはね、国の中枢(ちゅうすう)にいる人たち、政治家たち、もっともっと宗教心のある人であってほしい。国の中軸にね、精神的なものを持ってこなきゃあ、やっぱりだめですよ。そんな票集めや、金集めだけで政治をやることに対する批判が集まっているんでしょう。何がいけないんだっていうと、根本の精神が問題なわけだ。だから戦前、天皇制信仰で問題があったとすれば、それを変革していけばいいじゃあないか、修正していけばいいじゃあないか。もっと大きな意味で、宗教なんか超えるような大きな宗教を持ってもいいじゃあないか。 だから、今の憲法下は逆に政治家たちの宗教行為をひじょうに狭めています。国のリーダーになるような人っちゅうのは信仰心、けっこうあるんですよ。彼らも持ってるんだ。持っているんだけど、ウーン出せないでいるんだね。ひじょうに残念なことだと思います。ぼくは、総理大臣とかそういう人にどんどんこういう神理の本を読んでほしいし、読んでそれを国政に取り入れてほしいしね、演説とかそういうもののなかにも引用してほしいと思うんだよ。そうすればいちばん速く国が変わっていくからね、そう思う。 4.日本の遺産 だからこのへんにね、国の屋台骨としての精神論が今、必要だと思います。この精神論がなければね、日本の国は今、経済的にだけ繁栄してるけど、クラゲみたいなもんなんだよ。水ぶくれだ。水に入って広がっているけれども、ほんとうの意味で偉大となって、成長していくことはできませんよ。骨組みがだいじです、国としてのね。 アメリカという国は急成長、急発展しましたが、一つの国としてのスピリットがあったと思う。それは何かというとフロンティアスピリット、開拓者精神ということだと思うんだね。それから、アメリカンドリームっていうのがあって、何か夢を実現するんだね。マンハッタン島なんていうのもそうですね。夢を実現するための街ですね。こういうアメリカンドリーム、あるいはフロンティアスピリットっていうのがあるね。 だから日本人が昔から勤勉に働いてね、そしてお国のために、人のために役に立とうという精神は、これはある意味では日本流のフロンティアスピリットだし、日本流の何ていうかね、ジャパ二ーズドリームだったんだよね。ところがこれを否定された。 今、アメリカ人つかまえてね、「お前たちの考え方間違っている。」と言ってごらん、「フロンティアスピリットは間違いだ。それでインディアンを迫害して、インディアンがアメリカからいなくなったじゃないか。お前たちは他所(よそ)から来たくせに、インディアン狩りをして、インディアンを追いやって、そして西部劇をやってインディアンたちはとうとう絶滅の危機にさらされたじゃないか。それを深く反省せよ。だからフロンティアスピリットなんか、開拓者精神なんか捨てちゃえ。マンハッタン島なんて、あんなの二束三文みたいな金で買った島じゃねえかってね。そんな全部原住民から取り上げた島じゃあないか。そこで繁栄しようなんてとんでもねえやつだ。」なんてね、言い方はいくらでもあるんですよ。だから、アメリカ人もそんなことを言われちゃあ黙っちゃいられないでしょう。そうしたら「何言っているんだ、この精神こそ私たちの伝統的な精神なんだ。これを捨てたらやっていけない。」こう言うでしょうね。 だから日本人も、日本人としてね、別に天皇制だけにこだわる必要はないけれども、これがおれたち日本人の生き方だっていうのは、はっきり出す必要があるんですよ。ぼくはそうだと思う。これ出さにゃあいかんし、これからの日本人が、世界の中心になり注目を集めている今、日本人としての生き方、日本人の精神というのを明らかに訴える必要がある。 今、精神的なことはね、なんか罪悪のように思いすぎているんじゃないか。ぼくはそう思うね。それで、精神的なことを言わずに経済に逃げているだろう。どうだあ、売上だとか、数字だとか、信仰に何も関係ない、精神に何も関係ないところね。利益の数字だとか、貿易黒字だとか、こんなところに逃げ込んで満足させているんだね、優越感を。 しかし、そうした経済の数字の上での優越感を満足させる時期はもう終わった。ぼくはそう思います。そんなんじゃだめだ。これからはね、精神的優越、精神主義ですよ。日本人の考え方というのを世界に教えていく必要がある。先進国として発展途上国たちを教えていく時期がきていると思う。この先輩を見習っているんだ。東南アジアの国でも、ルック・イーストといって、日本に見習えといってやっているでしょう。それは、経済的なことだけを見習わしちゃあいけないよ。そうじゃあなくて、日本人のもっと立派な精神態度、考え方、これを学ばさなきゃいけない。 だから、今はクラゲのように肥大化しているけども、もう骨をつくりなさい、骨をね。骨をつくらなければいけない。日本人ていうのはいったいどういう骨を持って生きている動物か、生き物か、これをはっきりさせなきゃいけないとぼくは思います。それがなきゃあいけない。 そのために、第一に言ったように霊的世界だね、霊があるというのをはっきり知ってもらうことがまず第一だし、第二番目はね、人間というのは、永遠の転生輪廻をしながら各国を移り歩いている存在なんだよ。そしていろいろなところで国造りをし、文化の高みをつくっているんだよ。そういう歴史の流れのなかから見たら、今の日本というのはひじょうに繁栄してきているんですよ。 近代でいえばね、二十世紀前半から発展したアメリカ、それからその前へいくと十九世紀の後半から二十世紀のはじめのイギリスの繁栄がありましたね。そのイギリスの前はどこでしたか。イギリスの前はドイツですね。ドイツの十七、八世紀、それからフランスですね。ドイツ、フランスというのは十六、七、八世紀、ひじょうに繁栄しましたね。それからイギリスに来ました。その前はどこでしたか。ドイツ、フランスの前、栄えていたのはどこでしたか。それはイタリアでしょう、ちがいますか。ルネッサンスのとき十三、十四、十五世紀、このころにイタリアが栄えましたね。光の天使がいっぱい出ました。そうでしょう。そして、その前はどこですか、十三世紀ごろからのイタリアの前に繁栄していたのは、いったいどこでしょうか。これを考えてみると、たとえば東洋だと中国ですね。中国では唐の都というのがあって、世界の最大の繁栄を誇っていましたね、ちがいますか。七、八、九、十世紀、このころでしょう。唐というところは世界一でした。そして西洋圏ではどこかというとイスラム圏でしたね。イスラム圈、マホメットのころです。七世紀、八世紀、このころがひじょうに文化的に高かったんではないでしょうか。 まあ、そういうように文化というのはどんどん移ってきているんです。その前はどこかというと、ギリシャなんかもそうですね。あるいはエジプトですね。エジプト、紀元前前後は、エジプトやあるいはイスラエル、このへんがひじょうに繁栄していましたね。その前がギリシャですね。こうぃうふうに文化というのは北上したり、東進したり、西進したりしながらいろいろ移ってきて、それぞれの国の高みがありました。そうではないですか。 ですから、ギリシャからローマそれからイスラム、イスラエルですね。こういうところから流行ってきてフランス、ドイツ、イギリスと北上してきて、それからそれがアメリカヘと来ましたね。そして、アメリカをまわって日本にやって来た。もう一つの流れはどこかっていうと、インドに発祥して、それから中国、中国から韓国、朝鮮ですね、それから日本へ来た。この東洋の文明、西と東の両方から回ってきたのが、今二十世紀に日本という国に集中してきているんですね。これは大きな神理国家がここでできるということなんです。 だから、今の時代に日本に生まれたということは、たいへんな使命を持っているんであって、同時代人のリーダーであると同時に、後世の人びとに対する模範なんですね。後世の人びとに日本という国の繁栄を見せなければいけない。のちのちの人たちが模範として見るなら、今のような経済的な数字だけでね、車を何台売り込んで、どれだけ儲けたかというような数字、こんなのだけでほんとうにみなさん満足ですか。のこしたいですか、車なんてやがてすたれていきますよ。やがて、空を飛ぶ乗り物ばっかりになりますよ。もう地面なんか、あんなの這(は)っているような乗り物なんか、なくなりますよ。もうすぐですよ、こんなの。みんな空飛びますよ、空を飛ぶし、その自家用機はね、もっと安定的で事故なんかぜったい起きないやつです。 今、リニヤモーターカーといって宙に何十センチか浮いて走る電車の開発が考えられていますが、ああいうような形でね、空飛ぶ円盤じゃあないけど、自家用飛行機がいっぱい飛びますよ。そうしてそれは決して墜落しないです。引力のバランスをとりながら飛ぶやつですから、引力に反発する、そういう反重力の制御装置を持った乗り物ですから、フワフワフワフワ浮いていて、絶対落ちないです。そして事故も起きません。他の飛行機とぶつかりそうになると、お互いにフワッと避けるようになっているんです。ちょうど磁石の同じ極どうしがくっつかないようにね。衝突しそうになるとフワッと逃げるようにできているんですね。そうぃう乗り物がもうすぐできます。 そしたら自動車で儲けた利益なんて、こんなの過去のものになります。牛車とか馬車ぐらいのレベルにやがてなっていくんです。あんな危険な乗り物によく乗ったなあ、一年間に一万人も人が死ぬという、そんなバカな乗り物によく乗ったなあ、そんな物を売ってよく大儲けした自動車会社があったなあ、なんてみんな感心してしまいますよ。後世の人は驚きますよ。 あのころ日本は繁栄したといって、一年間に一万人以上の人が死んでいたんだって、ケガした人はもっと、もう何万、十万ぐらいいたらしい。これは毎年毎年戦争を続けているのとまったくおんなじだった。同じぐらいの死者が出ていた。こういうことだね。これは恥ずかしいです。それで儲かったなんて喜んでいて。これはやがてそういうことはゼロになります。これは、私は保証しますね。 5.ユートピアヘの運動 そうするとね、後世の人にのこしたいのはやはり現代の日本精神ですよ。日本人の精神主義ですね。これを訴えなきゃいけない。だからやはり、ユートピア創りということをね、三番目にこれを全面に出さなきゃだめですよ。 だから、やる気こそすべてだというのはね、ぼくはそういう歴史の流れを見たなかで、今かれらは何をなすべきか、これは真剣に考えなきゃあいけない。それは、最高の国を今つくることですよ。国自体をユートピアに変えることですよ。それによって同時代の宇宙船地球号のこの同時代の乗組員たちですね、ほかの人たちを導くこと、これが一つ。 また後世の人たちに影響を与えること、これが一つです。かつてのローマやギリシャあるいはフランスやドイツ、イギリスこういう国が人類の進化のために役に立って、そして遺産をのこしてきたように、私たち日本人も遺産をのこさねばいけないんですよ。この遺産の最たるものは何かというと、今私たちが問うているこの神理です。これこそが遺産の最大のものなんですよ。だから、こうした神理を積み重ねて、これを広げることです。 そして、日本だけではなくて、世界各国に輸出していくことです。車の輸出はもう十分です。そうではなくて神理の輸出をしてください。この日本を拠点として現われてきた神理ですね。これを輸出したいんですよ、ぼくたちは。日本がね、最高度に進化することによって、この日本で現われた新たな精神主義がね、この精神世界が、世界各国に輸出され、また輸入されるということを願っているんですよ。どうせ一生を生きるなら、数十年の人生を生きるなら、この新たな運動のためにみんな身を投じようじゃありませんか。 特に私はね、必要だと思うのは、このやる気の革命で必要なのは三種類の人間だと思います。 まず、老人たちがんばりなさい。六十過ぎて定年退職迎えて、もうあと死を待つばかりなんてのんびりやっている人たちね、あなた方だって一流会社で社長やったり部長やったりしてたんでしょう。そういう人は力が余っているんだよねえ。その神理の運動のために生きなさい。特に年金などをもらっている人は楽ですよね。もう食うために働かなくたっていいんだから、もうやりなさいよ無料奉仕で。年寄たちは、まず人生のリーダーとしてがんばらなきゃいけない。 もう一つがんばらなきゃいかんのは主婦だ。お父ちゃん帰ってこないで、もうブラブラして、ゴロゴロ昼寝ばっかりしているんだったら、昼間は奉仕団として働きなさい。神理を広げるためにがんばりなさい。あなた方は今、有閑階級ですよ。有閑階級というのは昔の貴族ですよ。エジプトの有閑階級っていったら、あなたはもう神官ですよ。神主さんたちですよ。こういう貴族階級だということを主婦は知りなさい。自分は貴族だということを。働かないでテレビ見てゴロゴロできるんですから貴族です。貴族こそが今、文化の継承者です。伝道をする人たちです。 三番目は若者です。若者はすることがない。戦争でもあったら軍隊で機関銃で人を打ち殺したりして遊べるんだけど、戦争もないし、もうエネルギーが余って余ってもう、暴走族になってみたり、もういろんな悪いことばっかりして遊んでいる。このエネルギーですね。この若者のエネルギー、これも吸収したい。 だから、この救世のエネルギーがほんとうに成就していくためにはね、老人パワーと主婦パワーと若者パワー、この三つはどうしても必要です。そののち、のんびりと中堅パワー、中年パワーやっていきなさい。忙しいんでしようから、稼ぎ手ですから、経済日本をつくっているんでしょうから、後からでもいいけど、とにかくこの三つのパワー、期待しているよ。これが新年早々ぼくの言いたいことだ。大いにがんばろうじゃないか。
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教導神理(OCG) 装備魔法 このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):装備モンスターが「ドラグマ」モンスターの場合、 装備モンスターの攻撃力は自身のレベル×100アップする。 「ドラグマ」モンスター以外の場合、 装備モンスターの攻撃力は自分フィールドの「ドラグマ」モンスターの数×200ダウンする。 (2):装備モンスターが破壊された事でこのカードが墓地へ送られた場合に発動できる。 EXデッキからモンスター1体を墓地へ送る。 デッキ圧縮 ドラグマ補助 能力弱化 能力強化 装備 魔法
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依頼主 フローラ 出現条件 フローラ解放 クリア条件 12/12 00:00までに以下のモンスターを討伐する子鬼:討伐数20 成功報酬 お神酒 依頼時 日本の魔物を倒してくれたら、いいものあげちゃおっかな☆前に日本神社お散歩してたら脅かされたの~!ここはガツン!といってこなきゃ☆ クリア時 ありがと~!はい、これ♪アタシの頼み、これからも聞いてね♪
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どっかの配信のコメかなんかをTLに流す奴にろくな奴ぁいねぇ ポケモンって1対1で殴りあうゲームじゃねぇと思うぞ。そんな単純なもんじゃない 所詮ネットでの絡みだろって考え方はあまり好きじゃないし思いたくない。リアルで人と絡むのが苦手だからここに居るから ただ「絶対にありえない」なんて絶対にありえないと思うだけ 後悔しない人間は劇的に成長しないからそのまま妥協した人生を歩んで腐って死ぬ 強いと思うなら使えばいい。周りの使用率なんか気にしても良いパフォーマンスなんか出来ない 一度でも自分のPTを「弱い」と思ってしまうとそのPTは弱くなってしまう。それまでは普通に使えてたのに。不思議なもんね. 流行り物と人の真似しか出来ない人ってやっぱ底が浅いと思うの。 選出も完璧で立ち回りも完璧だったし、流れも自分の思いどうりになってたのに負けた。 実に薄っぺらいと思うけど、キミはそれで良いんじゃね? アイツを不幸にさせてからじゃないと、次に行けない、かな… 現状の環境に頑張って順応してる人間が当たり前の生活送れるんだろ。自分自身の未来すら予想出来ない人間なんて死んでくだけだ 下半身から腐って死ね 10手先が読めない人はポケモン向いてない みんな元気だな 何が彼らを彷彿させるのか(´`) 超・疲れティッシモ オレは傍観者。 コーフィ(発音よく) はぁ…、、友達なんてのは、いざって時には何の役にもたたん(_´Д`)ノ~~ あの頃はたのしかったなぁ。。。なのに変わってないのはおれだけだったなんて. なんか,さみしいじゃんか。。。 オリジナリティーと独創性が足りないって。 正直個性が垣間見え無いPTには興味ない。参考にして構築で潰しにかかるだけ 役立ってこその人の付き合いだろうに 台風ウンダッシュ(走り出す様) なんで自分で使ってない構成を人の間違った認識を確認するために改めて学ばなければいけないのか 期待と希望まで僅かに入ってて、それを最低な言動と行動で裏切られた。。 プライドも投げて、信頼とか愛情とか友情とか全部費やしたのにな。。 ぴかぴか(新しい) 考えがあるにしろもうちょっと独自に煮詰めてから発言しようぜ。頭悪くみえるぞ 電磁波羽安め以外のサンダーは尖らせてナンボやで 思ったことを口にしなきゃコミュニケーションってどうとるんだろうね 爆アドだけじゃなく、細かいところで積極的にアドを取りに行く姿勢は必ず勝ちに繋がるよ。 (ワシらの)町が福山雅治に襲われた雷 おれは下の方から見上げて生活出来れば十分 ポケ勢身内化計画・始動 正直正解がわからず よく知りもしないネタで返したことを悲しく思っているたらーっ(汗) ポケモン勢にはディベートするって概念は無いらしいので、ひたすら真っ直ぐ自分の意見だけを主張するようにします。 普通を見失わなければそれで良い
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目次 1.正法、神理流布の具体化について 1.正法、神理流布の具体化について 善川 ただいま、日本神道糸の主宰神としてのお立場にある天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとし、天津神、国津神の御降臨を得て種々幽遠なお話を伺い、また空海大師からは雄大なる神のご経綸(けいりん)なり、新時代における日本を中軸とする世界の新文明諭についてご高説を拝聴したのですが、その感想を卒直に申し上げますなら、空海さんにつきましては、これは大変な方でありまして、われわれの近づき難いようなお方でありました。お聴き及びのとおり、ご法を伺う折の随所で、厳しいご叱声を受けたような次第でありまして、それはまあごもっともと思うのですよ。あの方は、大変なお仕事をお忙しくしておられるようだし、私どもの充分理解の届かないお説まで承った次第ですが、それはそれといたしまして、私たちのこれからの仕事としては、聖観音とか、清少納言とか、紫式部さんなど、こういう女性の方々の日常生活、天国観などのお話も伺い、こういう方々のお立場、ご自身の生活環境の有り様なども参考とさせていただき、広く霊界、天上界のご様子を現象界の方々にお伝えして、新しい時代の精神世界の心の支桂と申しましょうか、よりどころ、或いは希望とか夢というものにつないでいきたいと思うのですが、まずはここらを第一段階として、今までに皆様方からお教え願った、正法、神理の一端を、世の心ある方々に訴えたいと思うのですがいかがなものでしょうか。 日蓮 その考えは間違っておりません。 善川 そこで具体的な方策としては、皆様方のうちで、特に中心的なお立場で、私たちをご指導くださっているあなた様のお訓えを、振り返り、取りまとめ、浄記して書物に著わしたいと思うのですが、これを、この方面の理解があり、また多くのこの種の出版物を取り扱っておられる出版社にお願いしたらと思っておりますが、その考えでよろしいでしょうか。 ただ、その出版社ですが、そちらの方で、ご予定の特定の出版社があればお教え願いたいと思いますが。 日蓮 そこまでは私たちは言えませんが、あなたが欲するところでやってみて、もし駄目であっても、また他の道が開けるであろうし、そのようなことはあまり心配せずに、そのようなものの中味が出来れば、それなりの流布というものは、もう当然計画の中に入っておりますので、誰かの手を通じて必ず、出されるようになるでありましょう。 善川 そこで、いま一つ懸念されることは、これを著わすことになると、どうしても日蓮さんのお言葉なり、親鸞さんなり、或いは空海さんなりのお言葉が出るということになりますが、これはいかがなものでしょうか。 日蓮 名前を出すということですか、それは出さないわけにはいかないでしょう。 善川 でないと、これが一体誰のお教えやら分からないことになりますので、またその聖人方のお言葉なり、お教えによって、私たちが悟り、成長していく過程を訴えねば、一般の方々から理解が得られないと思いますので。 日蓮 いいでしょう、やむを得ないでしょう。このことは以前にも申しましたが、あくまで方便なのです、あなた方にとっては、当座の方便なのです。やがてあなた方は、私たちの言葉を借りずとも、自らの言葉で自らの力で「法」を説いていかねばなりません、これはあくまで当座の方便なのです。 ただ、これも一度きりで種切れするようなことであっては困るので、先のことまで、十分考えてお作りになるということ、更に何冊分か、五冊、十冊と予定しておいた方がよいと思います。 と、いうのはね、そういう本を出すと、やはり反響があるし、いろんな人が寄ってきますので、そういうことに堪え得るだけの環境ができているかということです。 善川 そこで心配されることの一つに、既成宗教というものがありますね。ご承知のように、あなたに関しましては、あなたの過去のお教えを固く守って信じておられる方々がありますね。そしてこういう方々は強大な勢力を持っておられますが、こういう方々からの物すごい反撥とか、攻撃とかいうものが懸念されるのですが……。 日蓮 来るでしょう。迎え受けなければ仕方ありません。必ずそういうものは出てくるのです。仕方ありません。世の人々に判断してもらうよりほか仕方ないではないですか、後世の人に判断してもらうしかないじゃないですか。 善川 かつて、また現に、あなたのお教えを―、われわれは何々山系だ、いや、われわれは何々山系の正宗だと言って論争を持ちかけてくる方がありましょうか、これもまたやむを得ないことなのでしょうか。 日蓮 イエスにして然り、釈迦にして然りです。それぞれの時に、それぞれの教えを説いた人がたくさんいたのです。釈迦も随分いろんなところから悪口も言われ攻められもしてきたんです。イエスは遂に十字架にかけられて殺されたことはご存知のとおりです。ですから、例えば「日蓮」の言葉として書いた場合に、日蓮宗系の方々から詰め寄ってくることはあるでしょう。―さあ、その日蓮をここに出してみよ、と問い詰めてくる。―さあ、日蓮ならいつ生まれたか、―さあ、その時に生まれてどうしたか、どこそこに行って何を学んだか、―いや何とか経の内容について聴きたい。返事やいかに、という挑戦状が来るかも知れない。ただあなた方が心得ることは、あなた方は、後世に残る事業を興そうとしているのですから、そのような主義、主張や、何といいますか小さな教義の争いに巻き込まれないような、悠然たる自分自身を保つということです。たとえ何をどう言われようと、悠々と生きるということです。批判は絶対に出てきます。ただ、そうであっても、戦う必要はないのです。その是非は後世の人びとが定めるところですので、決して争いの心を起こしてはなりません。 善川 しかし、われわれは皆、それぞれの環境で社会生活を営んでおりますが、われわれがこの仕事に、全力投入しなければならないようになるのではないでしょうか。 日蓮 まあ、はじめのうちは仕方ないけれど、本も五冊、十冊と出すと、人びとの関心も高まってくるでしょう、そして人びとが集まってくるようになれば、それはもう仕方ないことではないですか。そういう時期を充分見計っていなければいけないのです。本を出す以上は、もうそこまで覚悟をしていかねばなりません。 一つのグループが出来て、集団が出来はじめると仕方ないではないですか、集まる時はアッという間です。一年も経たないうちに、相当の人が集まってきます。だから、そこまでの覚悟は、決めていなければいけないということです。 善川 そういうことになると、お互いが社会生活をしているし、あるものは勤務、あるものは業務と、並行的にというわけにはいかないようになりますが。 日蓮 ただ、二十年、三十年間、何も書かず、何も喋らずにいるわけにはいかないでしょう。しかし暫くは過渡的な時期がありましょう。私はあなた方に、直ちにどうせよとは申しません。ただこういう本が数(かず)出て、人びとが話を聴きたい、相談に乗ってくれ、講演会をしてくれ、ということになって忙しくなってくると、現状をとおすということはできなくなってくるでしょう。或いは会社に勤めていながら、休日とか、夜とかにそういう会合に出るということで、活勤していくということもありますが、これについては、私どもには私どもの考えを持っております、が、まあ修正も可能なことですし、過渡的な時代も必要でありましょうし、これについては、いまは明言しません。ただ、あなた方以外からも協力者が出てきて、事は推進されるようになりましょう。 善川 それでは、どうしても最初の歯車は、われわれの手で動かさねばならないということになってきましょうか。 日蓮 動かすのではなくて、もう動かされているのです。動かすのではなく、動かされているんです。現にあなたはこうして大阪まで来ているでしょう。他に来る必要はないのです。にもかかわらず来ているでしょう。なぜ来ているのか、われわれの意見を聴きたいから来ているのでしょう。これはさせられているのです。 善川 私も、今までのお導きで、これからわれわれが進むべき方向というものは、覚悟しているのですが、しかし事を興すまでには、まだまだいろんな勉強もしなければならないことがたくさんあるし、私自身も、もっともっと実生活の中で鍛えていかなければならないと考えております。 日蓮 本を出し、人びとが寄ってくれば、何かを話し、また何かを書かざるを得なくなるでしょう。自然と書かされるようになるのです。 善川 話は別なことになりますが、最近私たちは、ここにもありますこの本『生長の家』というのに、どういう訳か、大きな影響を受け出してきたのでありますが、これは、何かそちらの方にご計画があってのことでしょうか。 日蓮 計画通りであります。あなた方は、最初、高橋信次先生の「正法」、これを受け売りといいますか、考えとしてはもうこれを受け入れたはずです。これから抜けなければいけないのですが、どうやって抜けていけばよいか分からないのです。他にもこういう教えがあり、これもこれなりの力を持っている。こういう教え二つ、三つと地盤が出来てくると、新たなものが出てくる。これも計画済みです。 なぜなら、高橋信次先生の方は方で一つの問題を持っております。善、悪の二元で捕らえ、悪を反省し、善に戻そうとする過程において、自ら「悪」の中にもがき苦しんでいる人たちは、その中から脱出できないで困っている。愚痴を言う人は、愚痴を止めなさい、と言っても愚痴を止められないから愚痴を言っている。そうです、人の悪口は止めなさい、分かっております。悪口は止めたいんだけれど、言わざるを得ない気持だから悪口が出る。この心をどうするか、このような問題があります。これには、一つは、日本神道糸教団の教えというものも学ぶ必要があります。今後更に新しい教えもあるでしょう。もっとこういうものも吸収していかなければなりません。 善川 まあ、ひじょうに個性の強い宗団でありますが、神道糸教団は今日大を成しているわけでありますが、内容につきましては、われわれが、もって範とするところが多々あるのですが、軍備を唱えるところあたり、一面においては納得しがたいというところもあります。これらの点については、われわれが独自の方向を見出してやっていけばよいというわけですね。 日蓮 あなたは、かつて聴いたはずです。他人の田があり、自分の田があり、他人の畑があり、自分の畑がある。他人の畑は、他人の畑で敬っておればいいではないか、それに文句をつけることはないのです。自らの田、自らの畑をそれ以上に立派なものにすれば、そうすれば、他のものはみんなそれを見習うはずです。 善川 先程、空海さんからは、ひじょうに含蓄深い、広義なお話を承ったのですが、まだまだ私どもの頭では消化しきれないような内容であったように思いましたが、今後いろいろと、段々と、お教えを賜って自分自身のものにしていきたいと、このように思っております。 日蓮 あなた方の仕事に、山場というのはないのです。発展段階しかないのです。いい方向しかないのです。山場はないのです。あなた方の現状を山場とみるのは、それは時間という概念にとらわれているからです。現在、ただいま、未来に解決することを解決しようとすると、それが山場であり、危機であり、問題であるように思うのです。時間の観念だけであります。ともすれば、霊的な能力を持ち、こういうことができるようになると、未来が知りたい、将来が知りたい、先が知りたいと、そういうことになりますが、それを知ったところで何も解決はできないのです、山場でもなんでもありません。普通の人が順調に、そうなるが如くになろうとしているのです。困難は何もないのです。 善川 私は、とかく自分で判断したことを暫く心に溜めておいてから、熟慮してからやがておもむろに行動に移るという性(たち)ではなく、短兵急といった性格でありますので、自分で行っていることに、不安を抱くことが、しばしばあります。私の進んでいる方向が間違っているようなことはないであろうか、度を外していはしまいかと、絶えず思うのですが。 日蓮 そのような心配は無用です。あなたは、馬ではないのです。御者によって鞭を打たれねば、真っ直ぐに走れない馬ではないのです。踏み外してもまた元へ戻れば、いいではないですか。そのような窮屈な人生として、自分の進む方向を見ないことです。 神ではないのです、あなた方は。神ではないのです。正しい道を一直線に走るわけではないのです。よいではないですか、たまに道を外しても、また元に戻ればいいではないですか。迷い込んでも戻ればいいではないですか。そのための守護指導霊ではないですか。あなた方が迷うことがあるから、道を間違うことがあるからこそ、守護指導するのではないですか。あなた方が真っ直ぐ走れるなら守護指導霊もいらないのです。真っ直ぐに走れないから、神は守護指導霊というものをつけて、人間を指導させているのではないですか。 善川 ありがとうございました。 日蓮 本の出版等についても、時期がくれば、私の方から言います。もう出しなさい―と、私の方から言いますから、これは必ず言いますから、今は準備期間だと思ってください。ここ二、三年は準備期間だと思ってください。あなた方の蓄え、まだ十分蓄えがないのです。「正法」といって独自のものを、十年、二十年、三十年と、説いていくだけの蓄えがないのです。 善川 それはそうでありますけれども、この二十年、三十年説くだけのものの貯蓄が出来てから説くというのでは――、 日蓮 出来てからではありませんが、やっと三年、やっと安定してきたところではありませんか。まだあなた方は、この霊的な現象を、自分たちの生活的な悩みとか、小さな悩みを解決するために使おうと思っています。このようなものから脱却しなければいけません。もっと人類のため、他の人びとの悩みを解決するための霊的な現象であり、能力でなくてはなりません。 しかし、そこに至る前には、このような段階があるということであります。 善川 こういうどこにでもある、ありふれた会話や質問の中にも、それはそれなりの意義があるのではないかと思われるのですが、高度な神学や哲学、または宗教諭の中にのみ法があって、生身人間の生活苦や精神的悩み、そうした日常的な話題の中にも、それはそれなりの処生の術と申しますか、法というものがあるのではないか、人ぴとは、そういう段階での凡者に対する覚者の応対指導というものの中に、身近な、それはそれなりの訓えがうかがわれるのでないかと思うのであります。大変次元の低い話になって恐縮ですが、その辺のところもご斟酌(しんしゃく)くださってご指導願いたいと存じます。 日蓮 分かりました。 善川 ときに、かねてよりわたくしどもの行動を看視し、ことある毎に妨害、いやがらせ、惑わし等々を繰り返してきた、かつての根来(ねごろ)の密教僧、xx法師とまで称せられた、xx氏は、ここのところあまり姿を見せませんが、彼は改心でもしたというのでしょうか。 日蓮 彼は、神道糸の神々に、大分手痛い目に逢い撃退されたようです。 善川 ああそうですか、すると神道系の神々は、かなりの力を持っているのですね。 日蓮 そうです。彼、××も、これ以上あなた方に憑(つ)きまとって深入りすると、身が危いと思いはじめております。遠ざかっております。彼は、仏教糸の人間であります。仏教に対しては、ある程度、心の準備ができておりますが、神道糸や、他の神々が出てくると、どうしても弱くなってくるのです。多勢に無勢と考えはじめているはずです。 善川 あなた方は、××など、いわゆるサタンどもを撃退するだけの力はおありでしょうけれども……、 日蓮 そうではなくて、私たちが、あなた方が真実の心の法則に気付くのを待っているのです。心の法則なのです。やはり彼らを呼び寄せるのは、呼び寄せるだけの心があるのです。それは自分の経験を通さずしては、分からないのです。 善川 なお、私たちに対し、他に何かアドバイスがありましたらいただきたいと思いますが……。 日蓮 今後とも、私たちが語った言葉を本にする作業を続けてほしいということと、いま一つは、これを体系化していく作業、一体骨格となるようなものは、何であるかというようなこと、これを体系化していく作業を、段々に考えていかなければならないと思います。でも、もう去年の夏ではなかったですか、私どもが、これを記録し残しておきなさい、原稿に書き起こしなさいと言ったのは、そうでしょう。そうして半年余りの間に、もう既に原稿としてなりつつあり、そうして何年かすると、本になって出てきているのです。そうなるのです。 もうこの世界に入った以上、逃げたくとも逃げられません。私たちはもう逃がしません。私たちが天使であろうが、サタンであろうが、もう連れていかれるだけです。もう本人も腹を決めていただかなければ仕方ありません。もし私たちが、悪魔であるなら一緒に地獄に来ていただかなければ仕方ありません。私どもは、そうではないつもりであります。 善川 昨日、お出ましになられた、天之御中主の神が仰せられた、われわれの「神法」勉学の態度は、二十五点と評されましたが。 日蓮 若干きついと思いますが、私どもでも四十点ぐらいしか差し上げられません。まだまだあなた方は、自己というものにとらわれすぎている。自分というものが捨て切れない。神を、全幅的に信じ切れていないということです。わが身が可愛いという気があります。 善川 これが人間の弱点だといえば、いえるのではないかと思います。この弱さを払拭したのが、イエス・キリストでありましょう。イエス様は、十字架にかけられるに及び「我れ世に勝てり」と申されましたが、まああれ程の気力は持ち合わせがないと思いますが、また、あなたがご在世中に受けられました数々の法難、特に龍のロにおいて刃を向けられた時の不退転の気持、あの神々しいお姿の中に漲(みなぎ)っていた信念というものは、今の私たちには、及びも寄らぬ世界の精神状態であるように思われます。 日蓮 まだそれは、自覚と修行が足りないのです。あなた方が本を出し、それに快く思わない人たちに、詰められようか、どうなろうかと、案じているようなことでは駄目です。私のように斬られ損なったり、島流しに遭うよりは、よほどましです。あなた方の生きている時代は、民主主義の時代で憲法が宗教の自由を認めているような時代です。発言の自由は認められているのです。ただ、人の批判なり陰口なりに、耐えられるかどうかという、自分の内面の心の持ち方だけの問題です。それを発表するからといって、殺されるわけでもなんでもないのです。ただ、人のロ、それが恐いだけではないですか。それはなぜ恐いかというと、まだ自分たちに対する自信がないということです。私たちに対する全幅の信頼がないということです。 私のことを言うなら、日本の歴史の中で、宗教家の中で、私ほど、悪口を言われた人間も居ないのです。大法螺(おおぼら)吹き、大山師、もうありとあらゆる批判、非難が私の頭上に積まれたのです。最後には私も引退しました。私の言った予言、私の言ったことが評価されて、鎌倉幕府から招聘(しょうへい)されても、私はそれを辞退し、最後は淋しく身を退いていったのです。私も傷ついたのです。人生において、ひじょうに傷ついたのです。私は神理を語っていた。しかし世の方々は、私を斬ろうとしたり、襲ったり、島流しに何度もしたり、そのようなことをしてきました。私は相当傷ついたのです。神理の伝道というものは、これだけ苦難なものなのか。しかしながら、考えてみれば、私たちのレベルの魂は、これだけの、これだけの試練を受けないと魂の進化にはならないのかと―これも仕方がないのです。なぜならば、平平凡凡と、凡人としての生涯を生きる生涯ではないからです。恐らくは、あなたの本を読んでも、本当にこれが日蓮か、日蓮なら出してみよ、法論をしたり挑んできたり、法戦を挑んできたりする人が出るでありましょう。それで、いや、そういうことにしたくない、と言えば、「―それ見ろ、やはりインチキではないか、お前が勝手に書いたに違いない―」と、そう彼らは言うのです。しかし、私は、その場に出て彼らの気が済むまで話をする気持は毛頭ないのです。彼らに納得して貰っても、別に何の意味もないからです。私は、私の信ずるところ、私の言いたいことを語るだけです。信ずる人は信じなさい。ついてくる人は、ついてきなさい。あなた方も、その方針でいきなさい。 その本を書いて、これしかないと、これしか信じないとして、他宗を排撃したりすることは止めなさい。 ―われ神理を述べる―と、信ずる人は信じてください、ついてくる人は、ついてきてください―と、その方針でいきなさい。 善川 ひじょうに気強い、そして心温まるお言葉、ありがとうございました。今後も折を見て、なにかといろいろな問題に突き当ったり、判断に苦しんだり、迷い込んだりしようかとも思いますが、その場合においては、その都度、その都度のアドバイスをお願いしたいと思います。 日蓮 時機が来れば、私の方からも、言うべきことは言います。例えば、こうした現象を記録に取れといったことや、また本を出すようになった時には、出せと、何か大きな節目節日には、アドバイスをするはずです。 何事も一時には、事は成らないものです。少しずつ、少しずつ積み重ねていくということが肝心です。 善川 私は、「正法」を真実、四六時中実践していくということは大変難しいことだと思います。第一に、何が「正」であり何が「邪」であるか、その正邪が定かであるものと認められるものはよいとして、同じように正と認められても、これを実行するに当っては、経過、時間、タイミングというものがあり、それを外すと、これが結果は邪となって現われるという、その刹那(せつな)の判断のタイミングということに苦慮することがありますが―。 日蓮 自らやろうとしてやる段階のことは大したことではないのです。どうしてもやらねばならないという状況、つまり胸のうちの大きなうずきに追い込まれてやる時に、人間ははじめて大きな勇気が出てくるのです。そのことは、真の「神」の意志でもあるからです。
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【元ネタ】日本神話 【クラス】セイバー 【マスター】 【真名】日本武尊 【性別】男性 【身長・体重】160cm・50kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力A 耐久B 敏捷A 魔力B 幸運A 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:A A以下の魔術は全てキャンセル。 事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけられない。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。 ただし、野獣クラスは乗りこなせない。 【固有スキル】 神性:B 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大御神の直系にあたる。 合気:A 森羅万象との気の合一により、周囲を察知して行う危機回避。 また、自らの存在を自然に溶け込ませる技法。 火除けの加護:A 宝具『神宮燧石(じんぐうすいせき)』による守護。 偽装:B 騙しの技術。偽装工作における認識操作の手腕。 陽動、欺罔、変装などカムフラージュ全般に有利な補正を得る。 【宝具】 『斎宮衣裳(いつきのみやのきぬも)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:0 最大捕捉:1人 倭姫命の衣。熊襲を討った女形の装束。 着用者は天照大御神の加護により情報の秘匿が施される。 これによりステータスや性別等の隠蔽を可能とし、 自らが攻撃態勢に移るまで対象にサーヴァントとして認識させない。 『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 天叢雲剣による神風の斬撃。 神剣の纏う龍の水気を、宝具『神宮燧石』により気化させ、 暴河神・八岐大蛇の神威の悉くを神風に変換して放つ蹂躙の剣。 石の内包する太陽の格によってオロチの神性を使役する。 皇統の武威を神剣により顕現させる神霊レベルの魔術行使である。 『八尋白智鳥(やひろしろちどり)』 ランク:EX 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 日本武尊の遺骸の転じた、白鳥への化身。 自己の存在を高次元に昇華させ、上位の次元を介することで 物質界的な三次元上での干渉を無視し、異界への渡航すら容易に行う。 白鳥の姿とは即ち、高位存在化した日本武尊の影である。 その身の位階を上げるごとに現世から逸脱する為、 完全形態では“何の干渉も受けず何にも干渉できない”状態となる。 【Weapon】 『天叢雲剣』 三種の神器における武の象徴。天孫に託された神剣。 通常、溢れ出る水の魔力は刀身に集約され剣を不可視にしている。 『神宮燧石』 伊勢神宮の火打石。小型太陽「天照機関」を内蔵する。 火属性に対して高い効力を持つ“迎え火の結界”を張ることが可能。 倭姫命の「伊勢神風理論」を基に行使する、神剣の破壊形態『草薙剣』の機動核。 【解説】 日本神話の大英雄。景行天皇皇子。小碓命。倭男具那。倭健天皇。 息子が即位したために、一部風土記では「天皇」の称をつけて呼ばれる。 16歳で女装による暗殺で熊襲を討ち、道中の悪神を降しながら大和へ帰還。 東征を命じられるとともに伊勢神宮にて「天叢雲剣」を授かるが、 その神剣は草を凪いで火計を凌いだことから「草薙剣」へと名を変えた。 走水の海を弟橘媛の犠牲によって渡ると東国を平定して尾張に至る。 草薙剣を持たずに戦いに挑み、伊吹山の神に大氷雨を降らされて敗走。 病に没した尊は白鳥となって昇天した。享年30歳という。 以上は日本書紀に依る。古事記では父帝の妾を奪って引き籠った兄を殺し、 出雲健を太刀替えで討ち、また倭姫命に泣きつくなど悲観的な言動が目立つ。 そして「やまとはくにのまほろば~」という思国歌を日本武尊が歌っている。 地方伝承においては九頭竜退治や鬼退治、讃留王等の悪魚退治の逸話も見え、 合気の開祖とされたり、盗賊退治の逸話など、武勇の逸話は各地に残る。 萱津神社に曰く、漬物が好きらしい。
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目次 1.ユートピアヘの道 2.最高指導霊の存在 3.方法論について 4.仏陀再誕 5.新しき伝道 6.限りなき可能性 1.ユートピアヘの道 さて、本章においては今後の希望についていろんな話をしてゆきたいと思う。そこでまず最初はユートピアヘの道と題して、いくつかの話をしてゆきたいと思う。 私たちもこのように霊言を地上の人びとに伝えているけれども、こうして霊言を伝える理由は、結局ユートピアヘの道を示さんとしているのだということです。いかにしてユートピアヘの道を拓(ひら)くか。どのようにしてその道を拓く方法を伝えてゆくか。そして人びとの目標をどういうふうに設定するか。こうしたことかだいじなのである。そこでユートピアヘの道として、まず私は最初に三つ大きな項目をあげておきたいと思う。 第一は、まずこれは愛の復権、愛の復活、こういうことだ。イエスならずとも愛ということが今最大の課題となっていると思う。愛とはいったい何なのか。何をもって愛とするのか。いかなる愛を持って生きてゆけばよいのか。また、あらゆる宗教が目標とすべき愛とはいったい何なのか。そういうことが大いなる検討の課題となり、また人びとの生きてゆく方向となるのである。 このようにユートピアヘの道の第一歩はまず愛の復権、愛の復活にある。愛という言葉の力をいま一度考え直してみる必要がある。愛とはいったい何かということをもう一度考えてゆく必要がある。愛ということがひとつの大きなテーマであるということをすべての人が学はなくてはならない。また、神理を学ぶ人は愛とはいったい何ぞや、愛とはどのような方法論を持っているものなのか。愛とはいかなる目標をその内部に持っているものなのか。こうしたことを検討しなければいけないのだ。愛とは何なのか。愛の課題、愛の間題、これです。 愛はもちろん人と人との間に生まれるものです。しかし人と人との間に生まれるものこそが、実際人間の心の教えのいちばんだいじな課題となっているのです。人と人との間には憎しみが生まれることもあります。怒りが生まれることもあります。憎悪が生まれることもあります。嫉妬(しっと)が生まれることもあります。しかし、人と人との間には愛が生まれることもあります。赦(ゆる)しが生まれることもあります。優しさが生まれることもあります。この人と人との間の心の関係学、これがいちばんだいじなのです。 この研究課題のひとつとして愛の問題というのが大きな問題としてある、ということを知らなければいけない。この関門を通らずしてユートピアヘの道はないということです。愛という名の関門を通ってゆくときに、ユートピアヘの道が開けていく。まず愛を課題とせよ。愛の復権を最大の仕事とせよ。愛の復活を最大の問題とせよ。こうしたことがまず言えるのではないかと思います。 ユートピアヘの道の第二として、私は霊的世界の徹底的探究、こういうことをあげたいと思います。今や地上においては何ら目新しいものは見当らなくなってきました。人の思想において繰り返しが多くなり、新たな発見というものが少なくなりました。これからの新たな発見は、もう霊的実相の世界以外にはないわけであります。それ以外はないのです。かつて海底を探検し、かつて大空を飛び、かつて山のなかに分け入ったように、かつてアマゾンの奥地に分け入ったように、これから霊的世界に分け入るということが大いなる探検家の仕事となるでありましょう。それは科学者も宗教家も医学者もすべて全員が力を合わせて、この霊的世界の探究、探検ということ、これに乗り出して行くこととなるのです。この未知なる世界を解明してゆくという仕事は、これは人類の一番大きな課題であり、最終の課題であるとも言えましょう。 この霊的世界の探検。これなくしてのユートピアヘの道はない。なぜないか。それは、今まで考えられたユートピア論というのが、あまりにもこの世的なユートピア論すぎたということであります。あの世におけるユートピアの実在ということ、これをこの世に持っていく以外にほんとうの方法はないのです。実在界にあるユートピアをこの地上に投影させる、これがほんとうのあり方なのです。 さすれば、実在界にあるユートピアとはいったい何なのか。何をもってユートピアと言うのか。これをはっきりとさせねばいけないのです。実在界のユートピアのしくみ、そしてそこに生きる人たちの生活、そこに生きる人たちの考え方、どうした考え方によって調和が生まれておるのか。おたがいの間に愛が生まれているのか。うまく収まっているのか。人びとは幸せになっているのか。これを徹底的に探究し、このユートピアの影を三次元に投影するということです。これがだいじなのです。これなくしてのユートピアヘの道はないわけです。すなわち、霊的世界の徹底的解明、これがユートピア探究の道のりのうち第二番目となるのです。 さて、ユートピアヘの道の第三番目は、ではいったい何でしょうか。これこそ最も難しく、最も困難でありながら、最も価値のあることでもあるのです。それは結局、霊天上界にあるような光の指導霊、これを地上界において数多く創ってゆくということです。この道であります。たしかに天上界においては光の天使、光の指導霊という方が数多く住んでいます。しかし地上にあっては、なかなかそうした方にお目にかかることもできなければ、またそうした方を発掘することも難しい。けれども本当にこの地球を、地上をユートピアにしてゆくためには、そうであってはいけない。地上というのは魂修行の最大の修行場であります。最大の修行場として地上というものがあるのです。さすればこの地上というものを縁として、光の天使となってゆく人たちを数多く創ってゆく必要があるのです。すなわちこの地上を光の天使誕生の場としていくこと、これがだいじなわけです。 このためにはいかなる方法があるのか。どういうことをすればよいのか。これはまさしく「幸福の科学」の課題であると私は思うわけであります。すなわち悟りへの方法論であります。生身(なまみ)の肉体を持ったまま悟りを開く人たちを数多く創ってゆく。光の天使を創ってゆく。光の指導霊を創ってゆく。これが地上における最大の、ユートピアヘの原動力となるわけです。 かつて釈迦という人は、地上にて悟れる人を数多く創っていったのです。もともと悟っている人が、この地上でその悟りを思い出しただけではないのです。この地上というところを縁として、新たに悟った人たちを数多く創っていったのです。新たな光の天使を創出していったのです。この地上は、その魂の修行の度合によっては光の天使誕生の場となるのです。光の天使創造の場となるのです。私はそう思います。それがこの地上の方向だからです。 ですから単に地獄に堕ちないための修行をするのみでなく、この地上界というものを積極的なる存在としてゆく。すなわちユートピア開発への徹底的方法とするということ、これがだいじではないか。このように私は思うのです。 このユートピアヘの道へ入るための三つの方法論、三つの関門、これをもう一度たいせつにして考えていただきたい。第一に愛の復権、第二に霊的世界の徹底的解明、第三に地上での光の天使の発掘、また育成、養成ということです。そして最後の問題が一番むずかしくもあり、最大の比重があるということ。今世の「幸福の科学」の使命も、いったい何人、何十人、何百人の光の天使を創ることができるか。地上という修行場において、それだけの人たちを創っていくことができるかどうか。これが課題であります。本来光の天使が光の天使の自覚を持つだけであっては足りない。地上をユートピアにしてゆくためには、数多くの光の天使を発掘し創り出してゆかねばならんということです。これがだいじなのです。 2.最高指導霊の存在 さて、こうしたユートピア建設への道、そのための道しるべとして、いったい何があるでしょうか。そのための最も力強い道しるべ、あるいは北極星のような役割をしているのが、すなわち他ならぬ最高指導霊の存在ではないでしょうか。 あなた方はさまざまな霊言、霊示集によって、天上界の光の天使たちも数多くの考えを持っており、多様な神理というものを体得しており、個性の違いがきらめいているということを知っているでしょう。そうしたことは実感として感じ取ることはできるけれども、さて最後にいかなる考え方に統一をしていけばよいのか。こうした点で迷いもあろうかと思います。彼もよし、われもよし、これもひとつの考えであるけれども、彼もよし、われもよしだけではひとつの統一はとれない点がある。ではどうするのか。ここで最高指導霊というものの存在ということが必要なわけです。この最高指導霊たちの考え方に照準を合わせてゆくということであります。 現在「幸福の科学」の最高指導霊としては三柱の霊がいるわけです。この第一の座についているのが、これがイエス・キリストといわれた方です。これが「幸福の科学」の最高指導霊の第一人者となっております。「幸福の科学」の最高指導霊の第二は、高橋信次といわれている霊の存在であります。これが最高指導霊の第二となっています。「幸福の科学」の最高指導霊の第三、これがいったい誰であるか。これが他ならぬこの私であるということです。私がやっているのであります。この三人が主として最高指導霊として、現在考えをまとめているのであります。そしてこれ以外の関係のある諸霊として、ほかにたとえば孔子であるとかそうした人が力を与えておる。こういうふうにいうことができると思います。 しかし最後の決定をなしているのはこのイエス、高橋信次、モーゼ、この三人が「幸福の科学」の考え方の最後のとりまとめをしているということです。そしてこの三人の間で意見が分かれた時には、イエス・キリストが最終判断を下していくということです。こういう事実があるということを知りなさい。 正しさの多様さは結構。ただ多様なままであってはいけない。どこかでそれを包摂(ほうせつ)し、統一してゆかねばならん。その最後の統一点にこうした者があるということ、こうした高級霊がいるということを知りなさい。あなた方の指導の最後の判断はイエス・キリストがやっているのです。こういうことを知りなさい。彼自身は前面に出ることはそれほどないであろうけれども、最終判断は彼が持っているということ。彼の責任であるということ。これを知りなさい。 これがいつも私たちがやってきた流儀なのです。私が地上に出た時も、他の者たちが私を指導してくれました。高橋信次が出た時も、私は指導しました。私が地上にいた時には、高橋信次とかイエス・キリストが指導していました。イエスが地上に出た時には、また私とか、あるいはゴーダマ・ブッタが指導していました。こういうふうに交替でいろんな指導をしているのです。ただこうした最高指導霊の存在ということが最後の教えをまとめていく、教えにひとつの方向性を与えていくという意味で大きな意味を持っているであろう。こういうふうに思われるわけです。 したがって教えの多様性や個性の多様性にとまどってはいけない。それは途中の道として多様性はあるけれども、最後にはひとつにまとまっていくということを知らねばならない。その道すがらのさまざまな咲き乱れている花たちであるということを知らねばならない。そうした花の景観を辿(たど)っていながら、最後にはひとつの目標点へと到達する、山の頂きへと到達するのだということを知らなくてはならない。その意味において最後には意見はひとつとなる。こうしたことを言うことができると思います。 3.方法論について さて、それでは本章「希望の章」の方法論ということで、希望に関する方法論についていくつかの話をしてゆきたいと思います。 人類に希望をもたらすための方法論としてまず第一にあげられることは、これは強力な指導体制の確立ということであります。まず第一に強力な指導体制の確立ということです。天上界にあっても、われら高級指導霊たちはさまざまな指導体制を確立しておりますが、地上においてはまだ高級霊の教えを引いた強力な指導体制というのができていません。この意味において、まず前線基地としての強力な指導体制、これの強化、体制固めということが何にも増してだいじであります。そういうことにおいて光の天使たちのスクラム、これがだいじです。光のスクラムを組むということ、光の天使たちの強力な確固とした指導体制を創ってゆくこと。これがだいじです。何にも増してだいじです。光のスクラムをまず組め。まず光のスクラムを組んで、大いなる闇に対して対抗してゆかねばならない。こういうことです。 そのためには強力な指導体制、これは内部スタッフの充実、それから講師陣の充実、強力な内部体制の強化、こういうことをして指導体制を創らねばいけない。一騎当千(いっきとうせん)の人たちを何十人、何百人と創っていく必要がある。何十人、何百人のそうした指導者たちを養成していく必要がある。それだけの指導者たちがいれば世の中を変えてゆける。まず指導者の養成、これが第一義です。強力な指導者たちの養成。人間一人の力は知れています。人間一人で全国を回り世界を回ったところでその力は知れている。しかし、強力な指導者たちが群(むれ)をなして日本各地を回り始めた時に、そこに大いなる力が顕われてくるでありましょう。私はそう思います。ですから方法論としての第一は、強力な指導体制を創れ、こういうことです。 方法論としての第二は、これはすでにご承知でもあると思いますが、法の基礎の充実ということであります。法の基礎固め、法についてのその重さ、高さ、広さ、深さ、こうしたものを固めてゆくということであります。法というものを一片の紙切れのような薄っぺらいものとするのではなく、それに厚味をつけてゆく。幅をつけてゆく。高さと、深さを創ってゆく。こういうことが何にも増してだいじであろうと思います。それは横の広がりと同じに縦の広がりです。両方が必要だということです。横と縦の両方を創っていく。こういうことがだいじです。 高さにおいてはかつてないほどの高さが要(い)る。法の高さです。かつてないほどの法の頂(いただき)。こうした最高度の法の高さというのが必要。しかしその底辺においては、幼い者たちや、あるいは恵まれない者たち、あるいは目がなかなか開けない者たちをも導けるような、そうした導入部門をも持っていなければならん。そして最高と最低とがあるだけでなく、この途中にさまざまなる悟りの階梯(かいてい)がなければならない。悟りの階梯があって教えの階梯がなければならない。 また高い低いだけではない。幅が必要です。こうした順序です。人間にはおのずと吸い寄せられてゆく領域というのがあります。単に正面からの神理というだけでなく、それが芸術を通したり、医学を通したり、あるいは教育を通したり、経済を通したり、さまざまな部門を通して神理に到達する道があるはずです。そうした多角的な入口の形成、法に対する多角的入口の形成、これがだいじであります。すなわち広がりにおける多様性です。上下に階梯があると同じに広がりにおいて多様性があるということ。これがだいじであります。 こうした多重構造の法の形成、こうしたことが二番目の課題となるでありましょう。こうした多重形成、多重構造の法を伝えていくために、先ほど言った強力な指導団が要(い)ると、指導体制が要るということになりましょう。さまざまな指導団がいて、指導員たちがいて、こうした多様な教えをそれぞれ受け持ちながら教えてゆくことができるようになるでありましょう。したがって指導員の形成と同じに法の多様化、多層化ということが起きてくるということです。 方法論としての第三は、これは価値の創出ということであります。今までは、すなわちとにかく勧誘する、人を集める、こういうことでもって神理というものを広めるということが前提でもあったし、そのことを多くの人たちは当然と思ってきた。広めることはいいこと、人を増やすことはいいこと、こういうことを当然としていたけれども、これに対するひとつのアンチテーゼ、別の見方、別の価値あるもの、これを持ってくる必要がある。それは、その教えを学ぶということ自体にひじょうに値打ちがある、価値があるということをはっきりと示す。神理価値の創出ということ、これがだいじです。この神理価値の創出によって人びとにその値打ちを感じさせる。そしてその値打ちによって人びとを導いてゆく。誘導していく。こういう方法であります。 人びとは価値あるもののほうへと流れてゆくのです。それはそうです。会社の転職においてもそうです。より良い会社へと転職していこうとするではないですか。住居においてもそうです。狭い家より広い家へと移ろうとするではないですか。食べ物においてもそうです。安い食べ物よりは豪華な食べ物を食べようとするではないですか。人間はそうしたものです。試験の成績においてもそうです。低い点数よりは高い点数を欲するではないですか。課長よりは部長を欲するではないですか。同じようにそうした価値を求めんとする心は、人間の本質のなかに連綿(れんめん)として続いているのです。 さすればまず価値を呈示(ていじ)することです。値打ちがあるものであることを見せることです。それによって人びとは導かれてゆくのです。まず値打ちのあるものを創っていくこと。これがだいじです。方法論として、こうした方法論をとっておる人はあまり現代においてはいないのです。現代のさまざまな新宗教がありますが、新宗教のなかに価値の創出によって人びとを集めるということ、これを前面に押し出しているところは数少ないと思います。まず、これを前面に押し出しなさい。ほんとうに値打ちのあるものを創ってゆく、値打ちの創出、値打ちのあるものの増出、これがだいじです。これにひじょうに大きな力を注ぎなさい。これが三番目であります。 第四の方法論としてあげることができるものは、いったい何であるか。それは、新たな社会秩序の形成ということです。これを考えてゆかねばならん。第四に新たな社会秩序の形成です。これを考えねばならん。すなわち今までは、神理の世界と日常生活とがまったく分離された世界でありました。神理と日常生活はまったく分離された世界だった。日常生活は日常生活としてあり、神理は神理としてまた別の空間に、まったく別の領域にあった。これをやはり考え直す必要がある。神理空間をさまざまな世界のなかにおいて創ってゆく。社会のなかに創ってゆく。日常生活のなかに創っていく。こういう方法論理の構築であります。これがだいじです。 仕事のなかに神理に関する時間帯と、神理に関する空間の広がりをどうして創ってゆくか。あるいは仕事以外の時間帯においてどう創ってゆくか。日常生活において、家庭のなかにおいてどう創ってゆくか。地域社会のなかにおいてどう創ってゆくか。こうした新たな社会秩序の形成、これをしてゆく必要があります。会社組織のなかにおける神理の進入、浸透、地域社会における神理の浸透、学校教育のなかにおける神理の浸透、こうしたことです。単に法の多層性、多様性というのみならず、積極的行動原理としての神理のこういう行動領域への移行ということです。実際生活における神理の場の出現ということです。これを考えねばならない。 書店においてもそうです。神理の書を中心とする書店の出現。映画館においてもそう、神理を伝えるための映画館の出現。学校においてもそう、神理を伝えるための学校の出現。絵画においてもそう、神理を伝えるための絵画の出現。音楽においても神理を伝えるための音楽の出現。こうした実際の行動面としての、単なる理論や価値基準としてだけではなく、行動原理としてのこの社会秩序の再構築、再形成、こういうことが必要であります。こうしたものをどんどんと取り入れてゆく。取り込んでゆく。移入してゆく。こういう行動、これが必要です。 以上のような方法論をもって、新たな希望の世界が展開するものと、私は信ずるものです。 4.仏陀再誕 こうした方法論をいろいろと話してきましたが、ここにおいて私はひとつの私自身の見解というものを呈示しておきたいと思います。それは現代という時代に対する認識であります。現代人への新たな認識の呈示であります。新たな世界観の呈示であります。新たな時代認識の呈示であります。それは現代という時代が、仏陀再誕の時代に当たっているということを知りなさいということです。仏陀が再誕している時期なのです。そういう時代が来ているのです。 かつて釈迦がインドに生まれ、そして正法の時代があった。その後像法(ぞうほう)の時代、末法(まっぽう)の時代を経て、また今、正法の時代が生まれようとしているのです。そうした仏陀再誕の時期に、今あなた方がいるということを、これを知らねばならない。そうした時期にあるということ、東の国において仏陀が再誕し、その地において新たな法が説かれているということ、これを知らねばならん。こうした新たな法の根拠として、そうした指導霊が地上に出ているということを知らねばならない。 かつてエジプトの地で私が起こした奇跡のような、かつてイスラエルの地でイエスが起こした奇跡のような、こうした聖なる奇跡がさまざまな形で今後噴出してゆくでありましょう。そしてやがて人びとは、今という時代の持つ大きな意味、大いなる意味ということに気づいてゆくでありましょう。それは今という時代がそうした大きな神のしくみのもとに動いている時代だからです。大いなる救世の星がきらめいている時代だからです。この星は二千年ないし三千年に一度、地上に現われてくる星であります。その星が今きらめいている。そしてかつてより大きな光として、より大きな力を帯びて現われているということであります。 それはこの東方の地に再誕している生命体が、かつて出たことがないだけの力と使命を帯びて出ているからです。仏陀の再誕は、再誕は再誕であっても、仏陀の本体が出ているということを人びとは知らなくてはいけない。その本体が出るということは、いったいどれだけの意味があるかということを知らねばならない。本体が出るということは決してそうざらにはないことなのです。本体が再誕しておるということを知らねばならない。この本体はめったに地上には出ないのです。その本体が出ておるということを知らねばならん。それはそれだけ大きな力を持って人びとを救ってゆかねばならないからです。それだけ大きな力を持っておらねば、全地域を救ってゆくことができないからです。 イスラエルではイエスは法を説きました。イスラエルの人たちの数多くを救うことができたかもしれない。しかし、イエスの教えが全世界を覆(おお)うには二千年の暦史を必要としました。仏陀はインドの人たちを救ったかもしれないが、その教えが全世界に広まるにはかなりの時間を要しました。しかし今という時代は、そうした悠長(ゆうちょう)なことは言っておれない時代なのです。大いなる危機が迫っているのです。人類の危機が迫っているのです。人びとはこのことを知らない。人類の危機が迫っているということを知らない。そして、自分が昨日もあったように今日もあり、今日もあるように明日もあると思っている。しかし、明日がないのです。今、心を悔い改め、神の国を創ってゆかない限り、人類に明日はないのです。そういう時期が来ているのです。そういう危険が切迫しているのです。それを知らなくてはならない。 今、この時期に神の国を、仏国土を地上に創らない限り、新たな人類の希望の光は射して来ないということです。そうした大きな時代が今来ているということです。これを知りなさい。そのために大いなる力が今結集してきているということです。これを知りなさい。これを知らねばならない。これを知るということは、最大の秘密であります。今時代の秘密を解く最大の鍵であります。現代という時代がいったいどのような時代であり、現代における日本という国の役割がいったいどのような役割であるのか。これを解く鍵、これがここにあるのであります。 人びとよ、安逸(あんいつ)に流れるなかれ。安易な生活に流れるなかれ。大いなる時代の転換期が今来ようとしている。我われがこれほど矢継ぎ早に次つぎと霊言を地上に問おうとしている理由が、あなた方にはわかるだろうか。われらがこのように続々と霊言集を地上に問おうとしている理由が、あなた方にはわかるだろうか。われらはなぜこのように続々と霊言集を地上に問うのであろうか。かつてこういうことがあったであろうか。かつて一度でもこういうことがあったであろうか。かつて地上にこんなことがあったか。天上界の指導霊が総動員して霊言を世に問うというようなことが、かつてあっただろうか。かつてどのような宗教でそういうことがあっただろうか。現代人たちが記憶している歴史のなかには、そうしたことはかつて一度もなかったのです。 天上界の最高指導霊たちが、続々続々とそのみずからの考えを世に問い、人びとの心に問うている理由は、人類にとってひじょうに厳しい試練の時期がもう来ているからです。この時期に光の塔を打ち立て、神理の塔を打ち立て、神理の光で満たし、神の国を地上に創る以外に人類を救う道はないのです。 まもなく、大いなる闇が地球を覆うようになるでしょう。地球の人びとを覆うようになるでしょう。人びとはその闇の濃さゆえに、希望を失う時が来るでしょう。そうした時に光の国が必要なのです。光が必要なのです。灯台の光が必要なのです。人びとを照らす、闇を照らす光というのがどうしても必要なのです。そのためにやっているのです。この意味を知りなさい。この大いなる意味を知りなさい。 どうか私たちも休みなく働いている、そして私たちがなぜこれほど急いでいるかということの意味を知りなさい。神理の国を創る、神の国を創り、神の国を広げるということ、神の国を建設するということが今ひじょうに求められているのです。闇の力が全世界を覆う前に、今神の国を創らねばならん。ユートピアを創らねばならん。仏国土を創らねばならん。それを創らない限り、人類にとって明日はないということです。今そうした時期が来ているのです。光の家を創ろうとしているのです。その必要があるのです。 5.新しき伝道 さて、さすればそうした光の国を創るための新しき伝道とはいったい何であろうか。新しき伝道の方法、新しき伝道の姿とはいったい何であろうか。それは、最高度に優れた人たちを、この神理の団体のなかに創ってゆくということです。人間として最高度に完成され、最高度に光っている人たちを数多く創ってゆくということです。これが最高の伝道であるのです。最高の伝道というのは決して、会員の数を増やすことでもない。献金を数多く集めることでもない。傑出(けっしゅつ)した人物をどれほど創ってゆくか、またどれほど集めてゆくか、これがだいじなことです。日本を揺(ゆ)り動かせるような影響力を持った人たちが、どれほど神理にめざめるかということです。これがだいじなのです。日本を揺り動かすような偉大な力を持った人が神理にめざめること。そうした人たちを集めること。そして彼らを光の柱としてゆくこと。これがだいじなのです。 あのヘラクレスのように、大いなる地球を持ち上げるような大きな力が必要なのです。そのためには偉大な人たちが数多く神理にめざめる必要があるのです。偉大な人たちが数多くこのユートピア建設への道に参画していく必要があるのです。神理の名において偉大な人がこの世的にも偉大である時が来ているのです。そういう時代が来ているのです。神理において、神理の名において偉大である人が、この世においても偉大な時期が来ているのです。 そして教会が建てられるべきところは、決して山の上だけではない。この地上におけるさまざまな世界において、さまざまな領域において、さまざまな企業群のなかにおいて、教会が打ち立てられてゆくべきであります。それらのなかに光に満てる偉人たちが、逸材(いつざい)たちが数多く散らばっていることによって、それぞれの持ち場を教会としてゆくことです。これがだいじです。さまざまな教会を創れ。 こうした新しい伝道の方法は、まず偉大な人の創出、偉大な人が神理にめざめること、こうした現象を数多く創ってゆくことです。これがだいじです。まずこれから行なわなければ社会改革はできない。ほんとうの意味でのこの世のユートピア創りはできない。会員一人ひとりを増やして一億二千万人にするよりも、日本のなかで傑出した力を持った人百人を、この神理にめざめさせたほうがはるかに大きな力があるのです。日本の各界で活躍している百人の人が神理にめざめたほうが、はるかに大きな力があるのです。各界のオピニオン・リーダーたちが神理にめざめることです。科学界のオピニオン・リーダーたち、教育界のオピニオン・リーダーたち、あるいは政界のオピニオン・リーダー、経済界のオピニオン・リーダー、宗教界のオピニオン・リーダー、さまざまなそうした世論をひっぱっていくような人たちが数多く神理にめざめる必要があるのです。そうしてこそ、はじめて日本が変わっていくのです。 まず、百人の偉人を集めよ。傑出した人材を集めよ。彼らをして神理のラッパたらしめよ。ラッパとせよ。神理のラッパとして神理を伝えさせよ。そうしたことが新しい伝道の方法であります。この可能性というものを今後模索(もさく)していきなさい。 6.限りなき可能性 さて、本節において本章を閉じたいと思う。その最後の一節として、私は限りなき可能性というものをあげておきたいと思う。 人類に限りなき可能性を与えるものはいったい何であるか。それは勇気です。勇気以外にはないのです。限りなき可能性を与えるものは勇気、ひとえに勇気、いちずに勇気。勇気とは勇(いさ)んで進んでいこうとする気概です。大いに前進し向上してゆくという、ほとばしる情熱です。これなくしては、このエネルギーなくしては何ら世の中が変わることもなければ、人間が変わることも決してないということです。 勇気を持て。まず勇気を持て。勇気を持つことが人生を切り拓(ひら)き、社会を切り拓いていく、世界を切り拓いてゆくのだということを知りなさい。希望ある未来を拓いてゆくためには、勇気を持った人が立ち上がらねばならん。勇気が必要です。何にも増して勇気です。この勇気という大きな力でもって、その剣(つるぎ)でもって道を切り拓いてゆきなさい。勇気がある限り、限りなき可能性がそこにあります。 人間の生命は不生不滅(ふしょうふめつ)であり、不増不滅(ふぞうふげん)です。決して滅びることのない生命というものを人間は持っているのです。みなさん方一人ひとりが生命、限りない生命、決して滅びることのない生命を持っているならば、みなさん方は死ぬことがないのです。永遠に生きているのです。永遠に生きているということを自覚したならば、さすればどうする、さすればどう生きる。永遠の生命があるならば、その生命を一番たいせつなもののために使おうではないか。決して減りもしない生命である。さすれば最もたいせつなもののために使おうではないか。神理のために使おうではないか。神のために使おうではないか。神の正義のために使おうではないか。この地上にユートピアを創るために使おうではないか。 そうした勇気を持つことだ。これを持つこと。勇気というものは心の奥の底の底から、腹の底の底から湧き上がってくるものです。これがなければどうして人が救えるか。どうして世の中が変わるか。どうして悪の勢力に打ち勝つことができるか。魔に打ち勝つものは最後は勇気です。勇気がなければ魔に負けてしまう。魔に打ち勝つのは勇気です。勇気の剣(つるぎ)でもって魔を打ち倒していきなさい。切り倒していきなさい。 あなた方は勇気があり、この地上にユートピア建設のために出た、選ばれた戦士たちであるということを知りなさい。勇気という勲章が胸に輝いているということが、あなた方がユートピア建設のための戦士たちであるということの証明でもあるのです。勇気、黄金の勇気、力強い勇気、これは神から贈(おく)られた剣(つるぎ)であります。この神剣(しんけん)をとりて、この剣をとりて、迷妄(めいもう)を断ち、悪を断ち、正義のために道を切り拓いてゆきなさい。自分たちの命を惜(お)しいと思うな。つまらん地位や名誉や財産や、そんなものがいったい何になるか。あなた方は永遠の生命を生きているのだ。いろんな時代にいろんな立場で、いろんな名前で生まれ変わっているのだ。現在ただ今の自分をかわいいと思うな。現在ただ今の自分を守ろうと思うな。勇気という剣でもって道を切り拓いてゆけ。勇気という一条の光でもって前途を照らしてゆけ。そこに神の道が開ける。そこに神のための道がある。 神の元へ還ってゆくためには勇気が要るのだ。その途中さまざまな試練があるであろう。旅の途中でさまざまな障害物があり邪魔物があるであろう。しかし勇気があればこそ、こうした試練を乗り越えてゆけるのだ。勇気という剣でもって道を切り拓き、父であり母である神の元へと辿(たど)り着け。
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目次 1.帰天第一声 2.あの世の実感 3.死後の世界のガイダンス 4.反省と進路決定 5.魂の比重について 6.あの世の世界は波長の世界 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた 8.諸如来による祝福 9.地上での活躍を語る 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ (1986年10月27日の霊示) 1.帰天第一声 谷口雅春です。五十数年の長きにわたって、生長の家総裁として、我が日本の国で神理伝道にこれ務めてまいりましたが、昨年夏にようやく天寿を全うし、この世、すなわち地上に住んでおられるあなた方にとってはこの世ですね、この世を去って一年数カ月、今、こちらの世界で私の生活も落ち着き、どうやら考えもまとまってまいりました。 私は、生前は、そのことに気づきませんでしたが、今、現代の日本に、〇〇〇〇という光の指導霊が出ておって、こういった高級霊界からの、光の指導霊の言葉を受けとっているということを知った。そして、こちらの世界に来てからも、昨年の暮れごろからであったであろうか、他の高級諸霊たちが、〇〇〇〇を通じて、地上の人々にメッセージを送り、これを記録し、書物として出版している事実を知った。 私はもちろん、以前、生長の家という光明思想団体、まあ、宗教団体と言ってもよいが、それを持っており、その後継者も現在おる以上、このような形で、他の宗教活動にかかわるのは、あまりよろしくないのではないか、とずいぶん考えたのでありますが、生前、私の説いておった教えは、万教帰一、万教これ同根ということであります。人間すべて、これ神の子、キリスト教も仏教も、また我が日本神道も、すべては、同じ神から流れ出た教えであり、単に宗教にとどまらない。十八世紀、十九世紀と栄えたドイツ観念論哲学も、十九世紀から二十世紀にかけて、アメリカを中心に流行(はや)った光明思想、すなわちエマソンを始祖とするニューソートの流れも、また同じく神の教えを受けて、この地上に流れ出た思想であることは明らかであります。 このような世界的見地からも、神の教えの広がりというものを見たとき、私は単に生長の家の総裁であったというその事実に基づいて、生長の家以外に対しては、守護、指導をしないというような、そうした偏狭(へんきょう)な心の持ち方では相すまされないものと痛感したのであります。 生前、その存在は知らなかったが、今、〇〇〇〇を通じて、このようなことができるということを知った以上、私もまた光の指導霊として、地上の人々にメッセージを送りたいと思うのである。そしてこちらの世界の報告をすることによって、生前の私の考えと、帰天後の私の考えとの違いがあるや否や、あるいは地上において、未だに連綿(れんめん)として我が教えを学び続ける人に対して、さらに説き得ることあるや否や、これを明らかにしたいと思うのである。 まず、私は天上界に帰って、すでに一年三ヵ月か四ヵ月たったわけではありますが、地上の皆さん、生長の家の方々にもメッセージを送りたいと思う。それは、こちらに来てから一年余りの私の感想であります。それが本日の演題、「天上界に帰る」ということに関する私の話であります。 2.あの世の実感 まず、あの世へ帰った実感がいかなるものであるかということからお伝え申し上げたい。 あなた方は、様々な高級諸霊の霊言を収録しているようであるが、まだ私のように死後一年、というような新しい霊の通信は受けておらぬであろう。まあ最近は、高橋信次というGLAの主宰をしておった者が通信をしておるようであるが、それとても、もう死後十年がたっておるはずである。 そこで、死後一年余りでまだ初々しい九十二歳の谷口雅春が、まあ赤ん坊のように初々しく、こちらで体験したことを語ってみたいと思うのである。 まず、人間の死ということに関してであるが、まあ、たいていの人間は、死の瞬間、自分というものの意識が混乱に陥(おちい)っており、そして、自分がいざ肉体を離れるということにおいて大変な驚愕(きょうがく)をするものである。なぜならば、死後の世界というのは、まったくの未知の世界であり、誰からも教わったことがなく、また、ほとんどの人は書物においても、死後の世界をさほど学んでいないことが普通だからである。 たまには宗教心ありて、あの世のことどもを学んだとしても、あの世のことどもを語っておる宗教書はなにぶんにも古いものが多く、千年、二千年前の仏教書であったり、あるいは二千年前のイエスの教えから一歩も前進しておらぬキリスト教であったりするのだ。 たとえば、キリスト教徒であるのなら、二千年前のイエスの教えのままに、自分はイエスを信じてきたから永遠の生命を受けることができるのであるか、あるいは、炎の炉のなかに投げ込まれる野の草花の如く燃えつきて、その身、その命を失うものであるか、そうした審判というものを恐れて、わなないておる者もいる。 あるいは、仏教徒として死に、そして自分が野辺の送りとなり、坊主が来て読経する姿を見て、どうやら自分は死んだらしいということに、はじめて気づく者もおる。 だが死んだ者の一様に思うのは、自分が日蓮宗であろうが、あるいは浄土真宗であろうが、そうしたことに関わりなく、経文というものをあげられるのであるが、その意味がさっぱりと分からないということである。 お経をあげるということによって、自分が、すでにこの世の人間ではないということは、すべての人間が気づくのであるが、いかんせん経文をあげる本来の意味が失われている現今においては、坊主の一時間、二時間の経文は、彼らにとっての救いとはならんのである。 死んだばかりの霊たちは、そうした経文に一生懸命耳を傾けておるのであるが、それによって悟りを開くこともなく、それによって救われることもない。 やがて自らの肉体が焼かれ、骨壷に納まり、墓に納まり、線香をたてられ、写真を飾られ、鐘を鳴らされる。人々が水とかお茶とか、あるいは御飯とかをまつっている、その姿を見て途方に暮れるのである。自分は死んだばかりであって、食べ物をまつってくれても、それを食べることができない。山のように果物を積んでくれても、それをどうすることもできない。死んだことは分かったけれど、死後の方針がたたないというのが大体の事実なのである。 3.死後の世界のガイダンス そうして地上を、たいていの人間はまあ四十九日というが、実際は二十日乃至(ないし)三十日であって、そのくらいはただよっておるのです。そうして初七日が終わったあと、まだ悲しみにくれている遺族とともに、まだ家のなかにとどまっては、共に生活をしているようなつもりでいることが多いのである。 しかしその二十日、三十日の間に、彼らは徐々に霊としての自覚を持つようになる。そして、自分が今や飲まず食わずとも、生きていかれることを当然のこととして感じるようになる。 そしてまた、地上の人々にいくら話しかけようとしてもその声は聞こえず、いくら肩に手をかけても、その手が肩を通り抜けて、彼らを驚かすこともできなければ、彼らに気づかすこともできないということを悟るのである。たいていの霊は、もうこれ以上この地上にとどまっても自分は生活を送れないということに気がついてくる。そのころを見計らって、本人の守護霊というものが迎えにくるのである。 そしてその死の自覚を十分にさせるために、本人の父親なり母親なり、姉なり兄なり、叔父なり、叔母なり、すでに身内の者であってこの地上を去っているものを共につれてきて、その者をして死後の世界を語らしめることがほとんどである。それからあの世への門下生としての初歩を教えるのである。 それはちょうど、小学校にあがる前の子供たちの姿に似ている。この春、三月、桜が咲かんとしているときに、親たちにランドセルや教科書を買ってもらう、学校にあがる前の子供たちの姿にも似ていようか。この地上でいかに偉大なる人物としていばっておった者であっても、死ねば、あの世では赤子同然だ。あるいは小学生の最下級生にも及ばぬような霊知識しか持っておらぬ。 問題は、この地上にいたときに驕(おご)りたかぶっていた人たちである。彼らは自分が社長であったとか、一国の大臣であったとか、役所の偉い人間であったとか、警視総監であったとか、あるいは学校の校長であったとかいう人たちだ。つまり、この世的には、昇りつめたということで、人に対して訓辞を垂れ、教えることのみを当然としていた人であるわけだが、他界して後、小学生の最下級生になることに、戸惑いをおぼえ、狼狽(ろうばい)するのである。 イエスは言った、「心清き人は幸いである。汝等は神を見るであろう。」そういうことを言った。有名な山上の垂訓(すいくん)でいくつかのお教えをイエスは言った。この世で小さき者は、あの世で大きくなり、この世で大きな者は、あの世で小さくなるとも言った。己れを低くする者は高くされ、己れを高こうする者は低うされるとも言った。 それはまず、この最初の死の関門において、その言葉は実現するのである。すなわち、この地上において己れを大きな者と思っておった者が、あの世で自分の小ささに気がつき狼狽する。しかし、この世において、謙虚に自分を見つめ生きてきた者は、あの世に帰りて、その謙虚さ故に学習が進んでいくのである。 自分の小ささを知っている者は幸いである。彼らは大きくなるであろう。自分の小ささを知らない者は災いである。彼等は他界して後、大いなる辛酸(しんさん)をなめる。こうして死後十日の間に、自らの守護霊、そして縁者の者たちの話を聞きながら、人々は徐々に死後の世界のガイダンスを受けるのである。 4.反省と進路決定 二十日、あるいは三十日たち、時期が来たときに、人によって違うが、指導霊がやがて訪れて来るのである。守護霊というのは大体、本人の霊格と同じレベルの魂であるが、これとは別に一段と霊格の高い霊が、その者を守っておるのである。これが指導霊であるが、この指導霊というのが迎えにくる。そして守護霊と共にその死んだばかりの魂を、まず、あの世の収容所へとつれていくのである。 これはいわゆる四次元といわれている世界、幽界(ゆうかい)といわれている世界である。まだこの世界では、この世的色彩がずいぶん強く、人々は地上的な生活を営んでおる。そして、まだ家族単位で生きているような者もおる。 この地上にある物はほとんど、その幽界世界にもある。そしてその生活のなかで、少しずつ自分の魂を見つめるようになっていくのである。やがてその幽界世界に帰って、早い者ではほぼ三日、遅い者では、まあ九十日くらいであろうか、その間に必ず自分が人間として生きていたときに心のなかに去来したことども一つ一つを、反省することとなっておる。 この反省の仕方は、その人の思想、心情、あるいは宗教において多少異なった色彩を帯びておるが、その人が仏教的な人であるならば、仏教関係の僧侶という者がやってきて、仏教的に反省の功徳というのを諭(さと)し、やがて本人を反省に導いていくのである。 その魂がキリスト教的な魂であるならば、教会の牧師がやって来て、その者に懺悔(ざんげ)を勧めるのである。あるいは、生きているときに宗教というものに無縁であった人に対しては、教育者のような者が出て来て、その人を道徳的に諭していく。このようにして、自分の生きてきた六十年、七十年の生涯というものを、反省させていくのであります。 その際、人によっては、あなた方が知っているように、過去を照らす鏡というものによって、自分の全生涯を見せられる場合もある。ただ、これは幼稚な段階であって、そういうことをする必要がある人に対してなされるのであり、霊的自覚が進んでいる者に対しては、そうしたことは、もやは、なされない。 そして、この幽界のなかで三日から九十日間の反省が終わったならば、それぞれの人間は、自分の行くべきところを定めるのである。これは決して閻魔(えんま)大王のような者がいて、行き先を指定するわけではない。ただその反省の期間において、自分の本質というものをたいていの人間はつかむのである。そして自分の守護霊、あるいは指導霊に対して、今後の身の振り方を相談することになっておるのである。 やがて地獄に行けば、その反省のときのことを忘れているのであるが、少なくともその段階においては自分が天国に行くべき霊か、地獄に行くべき霊かということは、自分自身で判断できるようになっているのである。 どうやら自分が地獄に行くべきだということが分かったときに、守護、指導霊と相談の上で、どうしたことが自分のいちばんの誤りであるかということをはっきりさせる。そして、自分の誤ったことを修正するのに、いちばんふさわしい地獄へと赴(おもむ)いていくのである。これは、あくまでも自分の判断で赴いていくのである。ただたまには例外がある。 私は、今、一般的な人間の場合を言ったのであるが、本当の悪人は、本来はそうした者はないのであるが、霊的な眼で見て、生きていたときに多数の悪霊たちにとり憑(つ)かれ、そして本人も生きている悪霊さながらの生活を送った者は、そうした者に憑(つ)かれたまま、四人、五人、六人の悪霊に憑かれたままに、まっさかさまに地獄に堕(お)ちるという現象があることも事実である。 5.魂の比重について あの世の世界というものは、あなた方が知っているように、様々な霊層に別れておる。その霊層というものは、決して人間をランクづけしようとしてあるのではないのである。それは物理学的な法則に基づいて、物理学的なる法則に随順(ずいじゅん)して、そのような住み分けが行なわれるのである。つまり、これは魂の比重の問題として話すことができると思う。 たとえて言うならば、上澄み液のようなものである。水のなかに灰なら灰を混ぜてかき混ぜると、しばらくすると灰は下の方へと沈んでいく。いちばん底には黒い物が溜まるであろう。そしてだんだんに色が薄くなってきて、最上層では澄みきった水があるであろう。 しかしその段階をよく見るならば、澄みきった水から真黒な灰まで幾層か分かれている。なぜそのようになっているかと言うと、重いものが下に沈んでおるからである。重いものとはなんであるか。それは、この地上的なる、物質的なる思いを魂につけたる者は、比重がこの世的なものであって重いということだ。そうしたものが下に沈んでいく。 これに反して、この世的なものの少ない者、あの世的なる魂は比重が軽いために、上へ上へと浮いていく。したがって、魂というものは、意志決定という面で見れば、自己の判断によって赴くべき処を変えるのであるが、物理学的に見るならば、その魂の比重に合わさった処へと赴いていくのである。 また別のたとえをするならば、人間の魂というものはエネルギー体であり、一つの電磁波であり、一つの波動であるのだ。そしてその波動は、きわめて荒い波動を体現したるエネルギー体たる魂は、そうした世界にその波動が通じてしまう。また、精妙な波動を体現したる魂は、精妙なる世界へとその波長が合っていくのである。 6.あの世の世界は波長の世界 あの世の世界は、いわば波長の世界なのである。あなた方はともすれば、目に見えない地獄というものがあり、目に見えない天国があり、そうした国が厳然とあって、そこで人間が居住するかのように思っておるであろう。しかしそれは、人間的感覚によって分かるような比喩(ひゆ)であり、物体であるのだ。本来の世界は波動の世界であり、その波の世界なのである。 荒い波動の世界、つまりこの世界に生きている者は、たとえば、テレビという受信装置を使ってその映像を受信するならば、地獄という映像がテレビに映るのである。また精妙なる波動を放送している、その電磁波に同調している魂というものは、たとえばテレビで受信するならば、非常に美しい世界を映し出す。天国的な映像を映し出す。こういうものであって、あなた方の身のまわりにももちろん、目に見える電波、目に見えない電波というものが行きかっておるのであるが、普段、その存在には気がつかぬであろう。 しかし、これをラジオ装置なりテレビ装置なりを設けるならば、その像を受信することができ、その声を聞くことができる。その電磁波をラジオに収録し、その波長に合わせたならば、それはあるときは地獄のうめき声となり、あるときは天使のコーラスとなる。またあるときは、地獄的な地獄絵図がテレビに展開され、あるときは、牧歌的な天国の姿が映るのである。 あの世の世界はこういうものであって、物理的なる国としての天国、地獄があると思ってはいけないのである。あくまでも波動の世界であり、波長の世界であるということだ。それを人間的にとらえるがために解釈し直して、天国、地獄という人間的なる者が住んでいる世界として表現をしているのである。これを誤解してはならない。 このようにあの世の世界というものは、この波長の世界、波動の世界が非常に精妙に区別されており、波長の合わない者同士は同通しないことになっている。すなわち個人の織りなす人生の波長によって、個人の魂が響かせる人生の調べによって、音楽によっていくべき世界が異なってくるのである。これ、あるときは如来界、これ、あるときは菩薩界という。これ、あるときは神界と言う。あるときは霊界、幽界というのである。これも、そういった世界があるというよりは、そのような波長の、波動の世界があるということだ。 したがって、この世を遙かに去った世界があるというよりは、この世界をいろいろな電磁波が飛びかっておるように、そうした世界が混在してこの三次元のなかにあるということだ。四次元の世界は三次元のなかにあり、四次元のなかに五次元があり、五次元のなかに六次元がある、このような多重構造の世界となっているということだ。これを間違ってはならぬ。一時代前のように西方浄土に阿弥陀如来(あみだにょらい)が住んでいて、念仏をとなえたる者が、その西方浄土にて、阿弥陀仏と一緒に生活できるわけではないのである。 このように地上の人間のまず考えるべきことは、その人間の五十年、六十年、七十年の生涯において、 その人間が一生を通じて織りなしたハーモニー、波長、曲奏、そうしたものが、あの世に反映されるということだ。これには、例外はない。 この地上であらゆる限りの悪をつくして生きて、あの世で天国に楽しんでいることもなければ、この世で本当に天使のように生きて、あの世で地獄の底にのたうちまわることもないのである。そうしたことはありえない。 ただ、この世で天使のような顔をして教えを説きながら、その内面は非常に地獄界を展開していたがために、人からは聖人と言われながら、地獄でのたうちまわっている宗教家たちは数多い。また、この世においては自らを悪人だと思っていたにもかかわらず、あの世において聖人と列せられている人も数多くいる。 たとえば親鸞(しんらん)だが、親鸞は生きていたときに、自分の悪業、悪人としての性格というものを徹底的に見つめたであろう。晩年の彼は地獄に堕ちるのではないかと恐れていたはずである。家人たちもまた、それを恐れていた。しかし彼は、地獄へは堕ちなかった。彼は天上界で今、やはり光の天使として生きている。立派に生きている。 このように本人の自覚とは別に、ちゃんとした法則があって、それに基づいて、高級なる波長と低級なる波長というのが分けられるのである。まず、それを考えておかねばならない。それは本人が自分が高しと思っても高くないのと同様、低しと思っても低くないのもまた、神理である。 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた さて、今、一般的な人間の死後の世界について話をしたが、では私、谷口雅春はどうなったかということを、あなた方にお伝えしておこうと思う。 このように話している以上、谷口雅春が地獄で苦しんでいるわけではないことは、まあ万人が認めるであろう。また、生長の家の弟子たちにとっても、まさか谷口雅春が地獄に堕ちたとは思っておらんであろう。そのとおり、我が教えに誤りなし、我は思いし通りの世界、如来界という世界であるが、今、来ておる。仏数的には、ここは金剛界とも言っておる。 私かいるような最奥の如来界においては、これはある意味では、胎蔵界(たいぞうかい)とも言われている。奥の奥という意味である。 さて私は、この地上を去ってからどうなったか。まあ焼き場へいって、肉体が焼かれるのを惜しんだわけではない。この地上を去るときが来たことは十分自覚しておったし、私も五十数年間、法を説いてきた。したがって、もうこの世に思い残すことは何もなかった。 執着のない霊にとって、この地上界に留まる必要など何もないということだ。私は自分の死を悟ってから、いち早く肉体を抜け出し、その日のうちに天上界へと帰ったのである。私は、先ほど言ったような四次元幽界などに、立ち止まったりしている暇はない。そういうことはしない。生きているうちに悟りを開いて天上界のことも、この世のことも悟っている人間にとっては、途中の休憩所にいって、一服している暇はないのである。 目に見えるように説明するならば、まあ、幾たりかの天使が私を迎えにきて、その天使たちの手に支えられながら、天上界へと昇っていったという形となろう。その間様々なる世界を眼下に見た。 これはもちろん、人間的なる私の感覚に訴える映像ではあろうが、私にはだんだん地上に日本が小さく見えるのが見えた。大きな海原(うなばら)が見えた。これは太平洋でもあったろう。海原のなかに日本という島国が見えた。九州が見えた。四国が見えた。中国地方が見えた。関東が見えた。東北が見えた。北海道が見えた。 そうして大海原が次第に遠ざかっていき、そして地球という大きな丸い球体が見えてきた。あそこにアフリカがある。ここにアジア大陸がある。オーストラリアがある。あそこにアメリカ大陸がある。そういう大きな地球儀でも見るように、地球というものが見えてきた。 そして私は非常に速い速度で上昇していった。やがて幽界を通りすぎ、霊界を通りすぎ、菩薩界を通りすぎ、如来界へと入り、如来界の下段階を通りすぎ、中段階を通りすぎ、最上段階へと着いた。 8.諸如来による祝福 私が着いたところは、あなた方に分かるように言うとするならば、昔からよく言われているような、のどかな風景のあるところである。そこはなだらかで、ゆるやかな傾斜のある丘陵であり、そこには色とりどりの美しい色の家が建ち並んでいた。そして私が帰った処には、私の家の玄関には、ちゃんと谷口雅春の名札がぶらさがっていたのである。 その名札は桧(ひのき)で作られたばかりの真新しいものであったが、その名札の下を見ると、私の過去世の名をちゃんと書いてあったのである。 最近作ったばかりの私の名札を取り除くと、その下に出てきたのは、プロティノスという名前であった。これはローマ時代の哲学者の名前である。新プラトン派の哲学者であり、プラトンの残した哲学を、さらに発展させた哲学者として、私は一度生まれている。そしてこのプロティノスという名札を取り除いたならば、下から出てきたのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)である。ただ命(みこと)とは書いていない。伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と書いてある。 ただ私は、心性として日本を好むがために、その家は非常に日本的なる色調のある家である。そうした、なだらかな天国を思わせる山の丘陵のなかに私のその日本式の庭園と日本式の家屋が建っており、私はそこに帰っていったのである。 そうして、まあ光の天使たちにつれられて、そこにいったん居を落ち着けて、何人かと歓談したあと、私は広場へと導いてゆかれた。そこの広場には、様々な如来と言われる方々が集まっていた。 まあ如来の数は大変多いがヽ私を迎えに来た如来たちを言えば、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)、あるいは天常立之神(あめとこたちのかみ)、国常立之神(くにとこたちのかみ)、あるいは倭建之命(やまとたけるのみこと)、また女神の世界からは、天照大神(あまてらすおおみかみ)も急きょ、駆けつけてきてくれた。主として日本神道系の方々であったが、それ以外の方々も、私のもとへ訪ねてきた。 たとえば哲学者のカントであり、アメリカの思想家エマソンであり、たとえばプラトン自身であり、またソクラテス自身であったり。こうぃう哲学者たちも私のもとに馳(は)せ参じてくれた。日本神道系の神々、また、かつての哲学者たちが主として私のまわりに集まってきて、私の帰天を祝福してくれたのである。そしてやがて、他の仏教界の方々も私のもとを訪ねてきた。イエス・キリストしかり、これはキリスト教系の霊である。仏教系からは大日如来と言われる方がやって来た。阿閃如来(あしゅくにょらい)と言われる方もやってきた。 また、私より一足早くこの日本の国を去っていた高橋信次と言われる方も、私のもとに訪ねてきた。私は生前まあそれほど高く買っておらなかった人ではあったが、あの世へ帰って、どうやら同じ仲間だということを知った。決して憎しみも何もあるわけではないが、そういう霊もいたということを知った。 9.地上での活躍を語る こうした方々を迎えて、私は、帰天第一声をあげ、数十人の人々を相手に地上での活躍を語ったのである。そして、私の説いてきた五十数年間、また生誕以来ならば、九十余年説いてきた教えの間違っていなかったことを、そのときに確認したのである。 確かに天上界は、光一元の世界であり、私たちの信ずる世界は光しかなかったということである。私は、自らの考えというものをもう一度振り返ってみたが、そこに一点の誤りもないことを認めた。だから、自信を持って私の生長の家総裁の五十五年であろうか、その歩みを語ったのである。戦前のまず活動から、そして戦争時代に日本が突入し、その暗い時代に、如何にして光明を掲げるために苦心したかを。さらに戦後、レッド・パージによって、私もまた、文書を書くということを許されなかった時代のつらかったことを。また戦後、雨後の竹の子の如く、様々な新興宗教が興って、我が生長の家もそのような新興宗教の一派と思われ迷惑したことも語った。 戦前においては、生長の家は本当に新しい啓蒙(けいもう)団体であり、人々の心をゆさぶるような新しい教えであり、導きの光でもあったにもかかわらず、戦後という時代に様々な新興宗教が興きて、その一派と間違われはじめたことは私の深く悲しむところでありました。 しかし、私の光明思想、世を照らしていこうという思想自体は、決して誤ってはいなかった。私は、その光明の思想によって世を照らしたことで、多くの如来たちから賞讃を受けた。 ただ惜しむらくは、その啓蒙思想運動が生長の家という宗教の一派と思われたこと、そして、宗教に属さない他の方々にとっては、それを一つの線をひいたものとして、線引きをしたものとしてとらえられたということである。これを宗教としてではなく、思想としてもっと大きく広げていったならば、もっと多くの人々を救うことができたのにという感想を抱いたということは否めない。それは、私も感じたところである。 ただこれは、我が反省すべきところではない。すなわち、戦後、新興宗教ということでレッテルを貼り、新興宗教そのものを悪しきものとした、新聞をはじめとするマスコミや言論家たちの誤りだったと思う。 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった さて私は、その五十数年間の伝道の歴史を語り、人々と共に語り合った。生きていたときには知らなかったのだが、私を主として指導していたのは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)であった。また、日本神道系の他の神々であった。時には、他の哲学者たちもインスピレーションを与えてくれたことがあった。そうした方々と手を取りあって私は話し合い、あなた方の力によって私はここまでこられたのだということを感謝した。 このように、地上の人間一人の力によっては、何事も成せるものではない。あくまでも地上に下りたる宗教家は、それはスピーカーであって、神のラッパであるのだ。これを忘れてはならぬ。それは、あなた方においても同じだ。 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ さて、そういうことで私の帰国ということは終わったわけだが、今日の最後の話として、締めくくるとするならば、高橋信次すでに亡く、谷口雅春亡き後、日本の国を中心として、新たな教えを説いていくのはやはり、あなた方であろう。 今後は私も指導霊として天上界から様々なアドバイスをするつもりであるが、どうか明るい世界を築くために、万教は帰一であり、同根であり、一つであることを、それを高らかに謳(うた)い上げ、たんに日本の教えとして留まることなく、全世界の人々を救うために、勇ましく立ち上がっていただきたいと思うのである。 谷口雅春は、生長の家をあなた方が超えていくことをむしろ嬉しく思う。私の五十数年間の活動を、凌駕(りょうが)していくことをこそ嬉しく思う。それでこそ、私たちの後に出てきたあなた方ではないだろうか。どうか大きなものとして成っていってほしい。 仏教もキリスト教をも、神道をも儒教をも回教をも、ユダヤ教をも、哲学をも、文学をも、芸術をも、超えていくようなあなた方であれ。そうした勇ましい活躍であれ。今後数十年にわたってそれを続けていけ。 世界は今、闇に沈もうとしている。このときに、大きな神理の太陽が昇る必要があるのだ。大きな光が、明るい光が必要なのだ。人々に対する光明が必要なのだ。それを忘れるな。光明となれ。自らのことを考えるな。勇ましく人々の心を照らしてゆけ。世を照らしてゆけ。それが、あなた方の使命である。 以上が私の本日の話、「天上界に帰る」である。