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目次 1.私が日本を愛しく思う気持ちは、人後に落ちない 2.地上天国建設の第一歩は、自分の生まれた国を美しいものとすること 3.身近なところをユートピアにして、その輪を広げていくことが大切 4.日本を憂うとき、第一の問題点は宗教の乱れである 5.果実ばかり求めて、ほんとうの幹というものを忘れた宗教が多すぎる 6.新興宗教のなかには、キリスト教と言っても、おかしいのが多い 7.正しい宗教かどうかの見分け方について 8.天上界から見て、合格点をつけられる教えと、その問題点について 9.日本の二番目の問題点、政治について 10.日本の第三の問題点、性風俗の乱れについて 11.将来の日本は、経済大国から心の大国へ (一九八六年十二月十一日の霊示) 1.私が日本を愛しく思う気持ちは、人後に落ちない 内村鑑三です。今日は三日目ということで、「日本を憂う」というテーマでお話をしたいと思います。過去世はともかく、今世において、私も日本人として生まれた以上、日本を憂う気持ちは、人後に落ちるつもりはありません。この日本に生まれて、この日本を愛して、そして、地上を去ってもなお、日本を愛しく思っております。宗教がどうこうということではなくて、この日本に生まれた皆さんにも、日本人として誇りを持ち、日本人として素晴らしい生き方をし、日本人として立派な人生を送っていただきたい。私は、そう思っております。 私の著書のなかに、『後世への最大遺物』という著書があります。講演の概略をまとめた短い本ですけれども、そのなかにも書いたことがあります。つまり、長年の転生輪廻のなかで、たまたま現代のこの日本に、肉体を持って生活をすることができる、幸せな経験ができたということは、おそらくまれなことだ、と。そう私は思うのです。 同じ現代に生きておっても、たとえば、中国がいい、あるいは、ロンドンがいい、アメリカがいいと、いろんなことを言う人がいるかもしれません。しかし、そういうことで比較ばかりしていても、さほど意味はないのです。少なくとも人間は、自分が生まれ落ちた地を離れては、ほんとうの幸せはないのではないでしょうか。 鮭という魚は、成魚となると、懐かしい水の匂いを嗅いで、生まれ落ちた川へ、泳ぎ帰ってくるという話を聞いたことがあります。この鮭もまた、ある意味では、人間と同じでありましょう。内村鑑三が地上を去って、すでにずいぶん長い月日が経ちましたが、それでも私は、やはり鮭と同じように、昔生まれ育った日本という川の水の匂い、それを忘れることができません。かつて、はるか西の国の砂漠の地に生まれていても、今世において、日本に肉体を持った以上、日本という国が、懐かしき母のような気持ちがするのです。 2.地上天国建設の第一歩は、自分の生まれた国を美しいものとすること 地上に降りている皆さんのなかでも、宗教的なことを学んだ方は、仏国土、ユートピアの建設とか、地上天国の建設ということを考えていらっしゃる。地上天国を建設するには、やはり自分の生まれ落ちたところ、場所、これを、それぞれの国の人たちが、まず美しいものとしていく。そこから、地上天国建設の第一歩がはじまるのです。ですから、たとえば、日本に生まれたのにもかかわらず、アメリカを仏国土にするとか、イギリスに生まれて、日本を仏国土にするとかは、むずかしいことだと言えます。日本人として日本に生まれた以上、日本の国を素晴らしい国にしていくために、勇気ある一歩を踏み出すということが、人間として大事なことなのです。 ともすればシニカルな人、冷やかな人というのは、「そういう愛国主義のような、国粋主義のような考えはまちがいだ」と言いがちだと言えます。日本が、日本が、と言うのはおかしい。世界はひとつなのだから、日本が、日本が、と言うことで、日本人が日本のことばかリを言うのはおかしい、と。こういうことをよく言いますが、こういう人は、総論を知って、各論知らずの人間であります。 たとえ話をしましょう。公共図書館を充実すれば、本を読む人が増えるとか、文化意識が高まるとか、こういう総論を振りかざす人がいます。また、公共図書館で本を整備して、無料で本を読めるようにすれば、日本人の教養は高まり、文学離れに歯止めをかけることができると、こういうことを言う人もいます。しかし、たとえ公共図書館をいくら充実しても、読書人ロというものは、そんなに増えるものではありません。 つまり、ほんとうに読書が好きな人は、自分で本を買って読む。それがほんとうの読書人です。ただの本ばかりを借りてきて読んでいるようでは、ほんとうの読書人とは言えないし、それでは、ほんとうの書物愛好家は育たないのです。もちろん手に入りにくい本を借りたり、文献を調べたりするために、図書館の存在は必要です。ただし、公共図書館を充実させたからといって、ほんとうの意味での文学者は育たない。教養ある人物もなかなか育たない。ほんとうに教養ある人たちは、少しずつ自分が蓄えたお金のなかから身銭を切って、そういう教養というものを少しずつ積んでいくものだと思います。 公共図書館さえ全国津々浦々に整備すれば、日本人の文化程度が向上するというようなことを考えている人というのは、また同じようなことを言うものです。つまり、日本国民は、日本人のことを考えすぎだ、世界はひとつなのだから、世界のことを考えようではないか、と。まあ、これは掛け声としては非常にいいことです。「全体責任は、無責任」という言葉があります。全体責任とか、連帯責任は無責任とは、要するに、皆んなの責任は、だれの責任でもないということです。それと同じでね、世界のことを考えればいいとは、結局、だれのことも考えないということが多いのです。 3.身近なところをユートピアにして、その輪を広げていくことが大切 ですから、人間というものは、まず、身近なものからはじめていかねばならんのです。日本人として成すべき務めは、何か。それを、まず身近なところから見ていく。そのためには、まず自分が、自分自身をつくっていく。自分自身の心のなかをユートピアにしていくことです。こうした動きが、まず第一でありましょう。つぎなる動きとしては、自分の家族、家庭のなかをユートピアにしていく。 そして、三番目のステップとしては、職場の仲間たち、仕事する仲間たちの間で、調和をしていく。さらには、職場以外の人たちとのつきあいのなかで、ユートピアをつくっていく。各種のサークル活動、あるいは、近所での活動など、人間というものは、いろんな活動をしています。職業と家庭以外にも、たくさんの場を持っていますが、そういう場をユートピアにしていく。自分の生活環境のなかで、地域環境のなかで、ユートピアをつくっていくのです。そうしたものを起点として町のなか、市のなか、ひとつの県のなかへとその輪を広げていく。やがては、それは日本国中に広がり、日本から世界へと大きくなっていくでしょう。こうしたことが、大切なのです。 二千五百年も以前の昔に、中国の孔子という人が、「修身」、身を修むことからはじめて、「治国平天下」、つまり、「国を修め、天下を平らげる」と言ったようですが、基本的な思想として、これは確かなことなのです。 ですから、まず日本が素晴らしい国となって、世界の手本となっていくことです。これが、世界にとってもまた、素晴らしいひとつの光であるのです。すなわち、ひとりひとりが、それぞれの持ち場持ち場で、自分の素晴らしいものを発揮していく。ここが、大切なのです。そこで、日本人として生まれた皆さんには、遠慮なく堂々と、日本人として最高の生き方をしていただきたい。日本人として最高の生き方をする。そのなかにこそ、人間としての最高の生き方というものがあるのです。 4.日本を憂うとき、第一の問題点は宗教の乱れである 私は実在界から、この日本という国を見ております。すると、さまぎまな問題が目につきます。第一の問題点は、宗教の乱れです。第二次大戦後、雨後の竹の子のように、いろいろな新興宗教が生まれて来ました。そして、公的な場において、人びとは、宗教、魂、霊といったものを否定することが知識人であるような振る舞いをしていながらも、陰の面では、こうした新興宗教に対して、もろもろの形でタッチしておるのです。つまりは、いくつもの宗教に染まったり、宗教遍歴をしている人も、数多いようです。 では、なぜそういう状況が生じるのか。すなわち、真に正しきものが少ないからであります。真に正しき宗教、真に正しき教えというものが少ないからに他なりません。人びとは、何が真で、何が偽りであるか、あるいは、何が正しくて、何がまちがっているかということが、ほんとうにわからなくなってきているのです。だから、霊的なるものは、頭から何でもかんでも信じてしまう。「鰯(いわし)の頭も信心から」ではありませんけれども、新興宗教のように神がかりの教祖が現われると、すぐその取り巻きができて、教団となる。そして、「我も、我も」といろんな人が参加し、「私も、あなたも」と、さらにいろんな人を呼び入れるので、たちまちにして、何方、何十万となってしまう。これが、新興宗教の姿です。 しかし、私は今、こちらの世界から、そうしたものを見ていて、非常になげかわしく思います。神の子人間として生まれて、真に神の教えが何であるかもわからなくなったのか。それほど愚かになったのか。そうした意味で、大変になげかわしく思っております。一方には、無神論者、唯物論者がおり、もう一方には、霊的なものと言えば、何の正邪の判断もなく、まるごと信じていく人たちがいる。こうしたニ派の人たちがいるわけですが、まさに、愚かさの極端です。 正しく心を磨いている人たちが、非常に少ない。一億二千万人もの日本の人口のなかで、宗教人口が五千万人としても、真に正しい信仰の姿を持っている人たちと言えば、ほんの二万人、三万人ぐらいの人たちではないかと、私は思っております。それほど限られた人たちにすぎないのです。 5.果実ばかり求めて、ほんとうの幹というものを忘れた宗教が多すぎる 仏教にしても、キリスト教、神道にしても、その正しい教えというものをほんとうに知っているという人は、非常に少ないと言えます。だから、御利益(ごりやく)信仰に走ったり、霊能信仰に走ったりと、そうしたものばっかりが横行しておるのです。あるところへ行けば、病気が治るというと、もうそればっかりに凝ってしまう。また、あるところへ行けば、浄霊をしてくれるとか言って、そんなことばっかりをしている。手翳(てかざ)しをしたりすることもある。イエス・キリストがやったと同じ御業とか言って、キリストの名を辱(はずか)しめているような、そういう手翳しの業をしているような宗教団体もあります。それで人びとが満足しているのはいいとしても、キリストの御名を汚すことだけは許されないことだと、私は思うのです。 キリストのほんとうの偉さは、現象にあったのではなくて、その御心(みこころ)であり、そのお教えのなかにあったのです。その御心、そのお教えが、神の御心、神のお教えと一致しているからこそ、世を救うことができたのです。その良き信仰の良き教えの果実として、だからこそ、病気が治ったり、悟る人が現われたり、あるいは幸せになる人、救われる人が出て来たのだと言えます。ほんとうに良き教えとは、こうしたものなのです。 それにもかかわらず、そうした果実、実ばかりを求めて、ほんとうの幹というものを忘れた宗教が多すぎます。病気治しとか、御利益信仰が多すぎます。あまりにも多すぎる。こういったことに対して、私は激しく警鐘を打ち鳴らしたいのです。また、キリスト教系統でも、日本のみならず、海外においても、非常に問題点が多い。 たとえば、韓国などでも、現に、そうした問題があるようです。まあ、具体的な名前は差し控えたいと思いますが、迷える人たちのために、はっきり言うならば、「T原理」とかいうものをやっている者がおるようであるけれども、その教祖が見たのは、キリストではないのです。彼が見たのは、実は、キリストの真似をして出て来た地獄のサタンなのです。自らに甘い人間は、霊的なる現象を受けるとすぐ、それをキリストにしたり、あるいは、仏陀にしたりしたがる。そういう聖人として、自分もそれに列せんとするものです。まちがっています。 しかも、こうしたまちがった教えが、しかも、何百万人という人びとの間に広がっていく。こうしたことが、私には、信じられないのです。 日本で言えば、日蓮宗系のある大きな団体がありますが、そこでも、彼らは、何百万人という動員をしています。はたして、そのなかに、ほんとうに人間を救うための原理があるのだろうか。その点を、真剣に考えなければいけないのです。単に、教勢を拡大し、団体を大きくすればいいという、そうした考えが、ほんとうの教えかどうか。よく考えねばなりません。 6.新興宗教のなかには、キリスト教と言っても、おかしいのが多い とくに今の日本人たちに対して、私が喚起(かんき)したいのは、キリスト教、とくに新興宗教のなかにおけるキリスト教におかしいのが多いということです。これは、十分に気をつけないといけない。まあ、仏教系においても同じことが言えますが、教団が大きいからといって、それが素晴らしいというものではないのです。現在の日本に流行ってきている、キリスト教系の教えがあります。つまり、何とかの証人とか、何とかの塔とかいってやっている。聖書を配っているというところに意味がないわけではないのですが、私に、そのなかに、非常によくないものの影を見るのです。影がある。何かに操られている黒い影が見えるのです。 ほんとうの聖霊の素晴らしさ、神の素晴らしさを知らない人たちが宗数的なものに携わると、だんだんに、人びとを迷わし、苦しめる方向へ行ってしまいます。なぜそうなるのか。つまり、地獄の悪魔たちは、とにかく苦しいので、「溺れるもの藁(わら)をもつかむ」で、生きている地上の人に取り憑(つ)いて、何とかその苦しみから逃れたいと思っているからです。 彼らが、生きている人間に取り憑いて、その苦しみから逃れるためには、宗数的に狂った人間が多くなればなるほどいい。彼らの住処(すみか)が、それだけ増えてくるからです。まちがった宗教をやって地獄に堕ちている霊たちは、やはり同じように、まちがった宗数を信じて狂っている人たちが、この地上に増えれば増えるほど、地上における彼らの居場所ができるということになります。 地獄というのは、とても苦しい。だから、そこから迷い出て、生きている人間の体のなかに人るために、狂ったおかしな宗教のなかへと入っていく。これが、いちばん楽なのです。とくに宗教というものは、集団で人を惑わすことができるから、それだけ、彼らも入りやすくなる。そこで憑依霊(ひょういれい)として生きている人間に取り入ると、彼らは、とりあえずの間とはいえ、地獄の苦しみから逃れることができるのです。それは、一時的なものではあるのだけれども、彼らにとって楽なので、そういう意味からも、地上に住処をつくらんとして、人びとを迷わし、狂わす。そういうことをするのです。その点を、とくに注意しなければいけない。悪しき唯物論がある反面、悪しき霊信仰というものもあるのです。これをまちがえてはいけません。 7.正しい宗教かどうかの見分け方について そこで、これは、現代に生きる人たちに対する、私からのアドバイスです。正しい宗教かどうかを、どうやって見分けるか。そのなかに、心の教えのない宗教。これは、まず、切って捨てなさい。現象だけ、利益だけ、そういうことだけを強調する宗教は、捨てなさい。これはまちがっています。「心の教えがある」こと、これが正しい教えの第一条件です。 正しい教えの第二条件としては、その宗教をやることによって、そこに集まっている人たちがほんとうに目覚めて、素晴らしい人格者となっているかどうかです。社会的に不適応な人たちがたくさん出るといった宗教は、まちがっております。その宗教に触れることによって、社会的に適応しながら素晴らしくなっていく人たちが増えていく。これがいちばん素晴らしいのです。ですから、まず、そこに集まっている人たちを見てみることです。社会的に不適応な人たちが増えているとしたら、それはおかしい。そうした宗教は、捨てるべきです。 三番目として、やたら教勢を広げようとして、いやがる人をも無理に引きずり込もうとするような教えというものも、明らかにまちがっています。天使たちは、そういうことはなさいません。なぜなら、天使たちは、個人個人の良心の目覚めを待っておられるからです。自らが誤った宗教に足を踏み入れ、誤った自分であるにもかかわらず、そのことを等閑(なおざり)にして、生きている他の人間を迷わそうとするような教え。このようなまちがった教えというのは、許されるものではありません。ですから、やたら人を引き入れたがる宗教、あるいは、正しいものはこれしかないとばかり言い張って、他のものはすべて邪教だとばかり言っているような宗教、こうした宗教は、完全におかしいと考えるべきです。 まず心の教えがあるかどうかです。これは、大切なことなので、繰り返しますが、つまり、そのなかに、人生をよくするような指導原理があるかどうか。単なる現象、霊的な興味、好奇心に訴えかけるようなものではないかどうか。その点をチェックするのが第一のポイントです。 第二には、その宗教に携わっている人たちが、社会的に不適応にならず、立派になっているかどうか。人格的に向上しているかどうかです。現代においては、何とかの方舟(はこぶね)とか弥して、集団で生活したクリスチャンたちがいたようですが、いずれにしても、こうしたことで社会事件を起こすようでは、困ったものです。これは、まさに、社会的不適応のいい例です。 第三番目には、やたら広げよう広げようとして、いやがる者を無理やりに引きずり込むような宗教、あるいは、正しいものはこれひとつだとして、他宗はすべてまちがっているからと攻撃ばかりしているような攻撃的宗教、こうした宗教には、十分に気をつけるべきです。なぜならば、そうしたものには、たいてい、地獄の阿修羅霊というものが憑(つ)いています。 以上の三点が見分け方の根本なので、そこに注意して見ていただきたいと思います。 宗教のなかにもいろいろあります。転生輪廻はないとか、死ねば何もかもが終わりだとかいうような宗教もあれば、人間を脅(おびや)かしてばかりいるような宗教もある。人間を脅かす宗教とは、何か。要するに、悪いことが起こるぞ、悪いことがくるぞと言って、人びとを恐怖心に駆りたてるような宗教ですね。こうした宗教を四番目としてもいいですが、恐怖心を煽りたてるような宗教、こういうのは、まちがっています。 また、あなたは不幸になる、これ以外に、救われる道はないなどといったこういう脅かし。あるいは、この教団から逃れていくと、そのために、あなたは地獄に堕ちるにちがいない、と。脅かして、絶対に脱会できないようにする。こういう恐怖心を煽る宗教は、要注意です。恐怖心を武器にする宗教。これは、まちがっています。 こうして見ていくと、現代におけるたくさんの宗教のなかでも、九〇数パーセントまでの宗教は、どこかが何かおかしくなっています。もちろん、ごくわずかとはいえ、古い宗教のなかには、素晴らしいものが残っています。しかし、その精神を正しく伝えている宗教は、残念ながら、皆無に近いと言ってもよいでしょう。 8.天上界から見て、合格点をつけられる教えと、その問題点について 今、私の世界から見て、一〇〇パーセント合格だという宗教はありません。しかし、八〇パーセント、八十点ぐらいはつけられる宗教はあります。 たとえば、、仏教系で言えば、高橋信次氏が生きていた頃の「GLA」の教え。これは、おそらく九十点ぐらいはつけられるろでしょう。現在は、後継者にその教えが受け継がれていますが、八十点はつけられないとしても、悪い点といい点をくらべると、いいほうが多いであろうとは思います。人を救い得るかどうかは別としても、他の一般の新興宗教と比較すると、形としては、まだ正法の形を残しております。 それから、「生長の家」というのがあります。日本神道系です。この生長の家の教え、これも、谷口雅春氏の初期から現在まで通じて見ると、八十点から九十点ぐらいの間を行き来していると思います。まちがっているところがあるとすれば、若干、右翼思想のほうに走って、軍事教育をしたり、戦中・戦後においても、軍備の拡大のことで、だいぶ拍車をかけているようなところでしょう。こういう点は、非常に警戒すべきだと思います。 もう一点、気になるのは、゛光一元゛というような教え自体はいいことですが、やはり地獄というものも厳然として存在するものですし、この地上にも、悪、あるいは、病というものがあるわけですから、これを「ないもの」としてだけ片づけるのは、理論的には、少々片手落ちだということです。ほんとうに迷っている人たちを正すための理論というものも必要であったと思います。 この辺の教義上の問題点は若干あるとはいえ、いいところがけっこう多いし、たくさんの人間を立ち直らせたという大きな功績を考えると、総合的には、八十点から九十点ぐらいの点数はつけられると思います。 これら二つの宗教以外に見てみると、まあ、私を始祖とするキリスト教の無教会派があります。矢内原忠雄君とかいろんな人がいましたが、この教え自体も、軍国主義に反対して、正しいキリストの神理を持ち来たらさんとしたものであった。その意味では、ここ百年ぐらいの、生きている人間たちに対する心の教えだったと思います。自分で点数をつけることはできませんが、これも、キリスト教の現代における正しい流れのひとつであった、と。このように思っております。 その他に、どういう教えがあるかというと、神道系で見れば、時代をちょっと百年ぐらい遡(さかのぼ)ると、天理教というのがあります。天理教自体はまちがっているものではありませんが、発展途上宗教という感じは、依然否(いな)めないと思います。その意味では、不合格とは言わないまでも、六十点ぐらいのできではないでしょうか。 あるいは、そうですね、神道系では、他に〇〇〇〇の祈りばかり説いている会があります。この会の初代教祖自身は、もともとは、正しい教えから入っていったのですが、いかんせん増長慢になってしまい、途中から魔に入られたようです。自分の霊能力を過信して、だいぶ狂っていってしまった。そうしたところがあるようです。ですから、そういう意味では、教えを受けた人たちが大変迷っている。こういうかわいそうな例もあります。 あるいはまた、これも神道糸ですが、M教とかいうのがあります。これらも、先ほど話した手翳(てかざ)しなどをやって、人びとを狂わしている。まちがった教えです。善意のまちがいなのですが、彼らには、それがまちがっているということが分からない。いずれにしても、合格点には満たない教えです。 キリスト教で見れば、「Eの〇人」にしても、「T原理」「〇〇〇の方舟」にしても、すべて合格点は出ていない。また「モ〇〇〇教一などといって、日本でもずいぶん勧誘している者もおるようですが、これも、おかしい。 それ以外で、正しい教えというものを探ってみると……。伝統的な宗教、たとえば、禅だとかいうものはどうか。それほど害はないでしょう。害はない。ただし、現代的な意義としては、今ひとつであろうと思います。真宗にしても、同じです。とくに害があるわけではないけれども、現代的意義という点から見ると、若干薄れていると思います。 現代の教えを見ても、やはり規模が大きくなればなるほど、おかしいのが多くなってきている。結局、宗教の概要を見ると、そういうふうに、まちがったものが多い。正しいものというと、ごく古いものか、あるいは、ごく最近開発されたもののなかでも、ごく少数の立派なものか、そのどちらかだと言えます。 (大川注 ― 他宗批判をしないのを原則としていますが、内村氏の強い要望があってやむなく伏字にて、この部分を公表することとしました。) 9.日本の二番目の問題点、政治について 政治についても、ひとこと意見を言っておきたいと思います。現代政治の問題点は、何と言っても選挙制度にあると言えます。とにかく、選挙に勝たねばならない。そこで、ひとつは金権選挙、もうひとつは知名度選挙と、こういうものが出てくるわけですが、これは、明らかに問題です。やはり、もっと志(こころざし)の高い人が、政治家になっていかなければいけないと思います。こうした二つの選挙体制があるから、残念ながら、日本国民が現在の政治家に対して持つ信頼感というものが、薄れているのだと言えます。これは非常に問題です。宗教家と同じように、本来、政治家というものも、一国の人びとの生命を預かり、運命を預かる使命を持っているのです。すなわち、それがひとつの聖職、聖なる職なのです。 そういう意味でも、政治家になるべき者は、正しい人生観、識見を持たなければならない。そこが大事です。ところが、政治家というのは偉いというような評価があり、顔が利(き)くというところで、日本人の皆さんは、一目(いちもく)置いている。しかし、そうした一目置くのではおかしいでしょう。政治家というのは、もっと尊敬されるような真の社会をつくっていかなくてはならないのです。 政治家が尊敬されるがためには、どうあるべきか。つまり、政治家として生きている人たちの人生観というものが非常に優れたものであること。これがまず、前提であると思います。人びとから、ほんとうに「先生」と呼ばれても恥ずかしくないような、それだけの人物であるべきだと思います。 ですから、私はね、これは私の提案ですけれども、これから政治家になるような人というのは、必ず、人生観の資産の公開をやる必要があると思います。自分の資産の公開などはどうでもいい。つまり、そういう金銭的な資産の公開ではなくて、人生観の公開です。選挙に立候補する人は、自分自身の人生観を発表して、それを世の人びとに問う。そういう必要があると思います。 たとえば、公的な場所で、公的な時間内に、必ず個人の人生観について書いてもらう。ゴーストライターなどを使ったのではだめです。立候補する前に、必ず自分自身でパンフレットなり、何なりに作成して、選挙委員会ですか、こうしたものによって一般の家庭に頒布する。各家庭の人たちに読まれる。こういう必要があると思います。ひとりひとりの国民が、立候補者の思想、信条、宗教観、人生観を読み、これらのことがしっかりと打ち出されているかどうか、まちがいがないかどうか、チェックする。こうしたことをやらなくては、だめです。そもそも、知名度とか、金銭だけで政治家を選ぶのはおかしい。その人の人生観で選ぶべきです。 選挙前に公約とかいうのは発表はしているようですが、そんなものだけでは不十分です。きちんとした本を書いてみるべきだと言えます。たとえ、小冊子でもいいからしっかりした人生観というものを出してごらんなさい。それを世の人びとに読んでもらい、自分自身の人物を見てもらいなさい。その人が、ほんとうに人の前に立って講演をやっていいような人物かどうか、これは試すべきです。試されるべきです。 政治家というものが、もっと尊敬されていいような時代が、きっと来るでしょう。これからの政治家には、ある意味で、宗教家的な要素というものが必要となる。私は、そう思います。 宗教家的な要素とは、何か。すなわち、ほんとうに人を立ち直らせたい、救ってあげたいという気持ちです。ですから、こうした要素を持たない政治家というのは、早目に職を去るべきだと思います。この世的に、自分を有名にしようとか、名前を残そうとかばかり思っているような人は、大変危険です。そうではなくて、より多くの人びとのために、自分の一身を投げ出さんとするような政治家。すなわち、こういう人こそが大事なのです。 10.日本の第三の問題点、性風俗の乱れについて 一番目が宗教。二番目が政治。そして、私が日本を憂うる三番目は文化です。そのなかでも、とくに私が問題ありと思っているのは、性風俗の乱れです。まさに、恥ずべきことです。過去の日本の歴史を振り返って見ても、現在は非常に恥ずべき状態にある。そのことを、日本国民は、日本国の歴史の流れのなかで、もう一度自己認識をせねばなりません。このような恥ずべき状況が過去あったかどうか。 もちろん、昔から、そうした男女の憂さ晴らしのような場所はありましたし、そうした話の種はつきません。ただし、現代のように、羞恥心も、道義心もなく、モラルもなく、性というものが、ひとつの見世物となり、商売の材料となったという時代は、かつてなかったはずです。その事実を前に、もっと厳しい目を向けなければなりません。社会として、もっと反省すべき必要があります。 そうした問題は、単に、個人個人が楽しめばいいというものではありません。社会の一員として、もっともっと監視の目を厳しくして、反省すべきです。人びとを堕落させるような産業が、公然と流行(はや)っておる。この現状に対して、自分には関係がないからといって、知らん顔して、それを見すごしても、はたしていいものでしょうか。その点について、よく考えなさい。 もっと風紀を正し、性風俗を正し、道義を正していくためには、人びとが結束し、立ち上がらなくてはならないのです。自分たちの町から、そうしたものを排斥し、優れた町づくりをしていくためにも、真剣に考えていかなくてはならない問題だと言えます。 すべての人がまちがった方向に行っているからといって、自分もまちがった方向に行っていいわけではありません。自分の周りの七〇パーセント、八〇パーセントの人が、病気だからといって自分も病人になりたいと思う人がいますか。いないでしょう。他の人が皆んな交通事故に遭っているから、自分も交通事故に遭いたいという人がいますか。ひとりもいないはずです。皆んなが地獄へ行っているから、自分も地獄へ行きたいと思いますか。思わないはずです。では、他の人がまちがっているから、自分もまちがったことをしてもかまわないと思いますか。これとて、答えは、同じなのです。 ほんとうの神理の目から見れば、まちがいはまちがいであり、罪は罪なのです。その点をほんとうによく考えるべきです。 病気になりたいと思う人がいないように、これもひとつの心の病気だと言えます。自分の周りの人が心の病気に罹(かか)っているからといって、なぜ自分も心の病気に罹らねばならないか。自分の心というものを、もっとしっかりと守っていく必要があるのではないでしょうか。それを考えることが大切です。 とにかく、この道義的なモラルの低下が、非常に著しい。これは、幼少時からの訓練が少し欠けているということもあるのでしょうが、もうひとつには、宗教的、正しい宗教信仰というのが失われていることも大きな原因です。 そういう意味では、天上界からの霊言をもっともっと世に紹介することですね。いろんな形で、まあ、私もしゃべっているけれども、こういう形で出して、天上界の霊たちの考えがどこにあるかを、世に問う。地上の人たちは正しい価値観を知らないから、こういうことは大切だと思います。 11.将来の日本は、経済大国から心の大国へ 正しい宗教のあり方、正しい政治のあり方、そして、正しい文化、風俗のあり方。私はこの三点に関して、日本の皆さんに警告しておきたいと思います。それから、日本の将来についてですが、経済だけに走らず、経済のなかに「心」を求めていきなさいと言いたい。経済だけ、数字だけを追ってはいけないということです。GNPがどうであるとか、売上げがいくらであるとか、そうした数字などは、歴史の彼方に、紙屑のように消えていってしまうものです。 しかし、歴史のなかで消えざるものがある。それは、個々の精神、個々の人びとの精神の煌(きらめ)きだけなのです。だから、精神の煌き、心の美しさということを決して忘れずに、努力精進していきなさい。すなわち、それが、ほんとうの人間の人生の使命であるのです。いたずらに数字を追うことだけに焦(あせ)らないこと。狂奔しないこと。経済のみに心を奪われないこと。こうしたことについて、警告しておきたいと思います。 これで、今日の私の話は終わりとします。
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目次 1.四十年ぶりに地上へ 2.高級霊界の様相 3.鬼門(きもん)、丑寅(うしとら)の金神(こんじん)は荒神(あらがみ) 4.戦争に反対した゛大本教゛ 5.ユートピア建設は永年の夢 6.神は、個性と差別知を与えられた 7.創造神は、多趣味な方 8.日本神道中興の祖・稗田阿礼(ひえだのあれ) 9.日本人のルーツはムー大陸 (1987年2月12日の霊示) 1.四十年ぶりに地上へ 出口王仁三郎じゃ。こうしてまた、地上に住んどる皆の者に、わしも話をすることができて、嬉しく思う。わしが、この世を去ったのは、昭和も二十年を過ぎた頃かのう。二十三年であったろうかのう。日本が敗戦した後に、この世を去ったわけじゃ。七十七年ぐらいは生きたと思うておる。 まあ、久々の地上じゃ。もう四十年ぶりになろうか。まあ、こうした時期にまたわしが話をできるということは、。これは嬉しいことじゃ。ほんとうに嬉しいことじゃし、まあ、わしの名も歴史の彼方(かなた)に流されようとしておるけども、どっこい出口はまだ生きておるわい。出口は出口で生きておって、まだ地上への出口を探して頑張っておるぞ。 今日、わしが今しゃべっておる日に、ちょうど地上には、わしのかつての弟子であった生長の家の谷口雅春が、霊言集を出したようじゃ。まあ、弟子のわりには、けっこう派手なことをやるわいと思うて見ておったがのう。まあ、弟子が出た以上、先生も出にゃあいかんだろう。こうして先生の言葉を伝えて、まあ、地上の「大本教(おおもときょう)」の流れを引いておるものも、また大本から出た「生長の家」三百数十万の会員も、またその他の神道系の人びとも、近代史のなかの宗教界のまあ、巨人と自称してもよかろう。巨人・出口王仁三郎の話をゆっくりと、聞いてもらいたいと思う。 まあ、わしはこういう人間じゃから、話はそうそうはない。うまい話ができるわけではない。ただ、わしはわしなりに、あの世のことはよう知っておるつもりだ。あの世のことをよう知っておるし、この世のこともようわかっておるつもりじゃ。それなりのことはわかっておるし、地上のお前たちの考えておることも、ようわかっておる。天界にありて思うことは、やはり人類の救済じゃ。お前たちの救済じゃ。大本でやれんかったことを、またやってもみたい。そうも思うておる。 2.高級霊界の様相 まあ、それは前置きで、今日は第1章「神のまたの名」という変わった標題を選んでみた。神のまたの名と言うても、それが出口王仁三郎じゃと言うたんでは、世の人びとは信ぜんであろうから、まあ、そういうことを言おうと思うとるんではない。今日の主題はのう、お前たちの今の言葉で言うならば、高級霊界について、話をしておこうと思っておるのじゃ。 まあ、地上の人びとは、神という言葉にどうも多義性というか、いろんな変わった意味を与えすぎているようじゃ。神という言葉を唯一の神というかのう、宇宙を創った神のようにすぐしてしもうたり、あるいは、八百万(やおよろず)の神々と言うて、八百万(はっぴゃくまん)も神がおると言うてみたり、まあ、いろいろじゃ。それは、地上におる宗教家の頭のなかでわかる範囲が知れておることと、その教えを聞いてわかる弟子たちの頭の内容が知れておろうことにもよろうかのう。 ただ、わしがこちらに還って思うにはのう、やはり神という言葉も、もう少し整理をしておかねばならんだろう。もう少し整理をしておかねば、どうも意味がわからぬ。整理もせずして唯一の神などと言っておれば、神はひとつだと思うから、その神を信じておるものは、他の神を信じておる者を迫害する。こういうことにもなろう。そういうことで、神のまたの名ということでね、いくつかの話を今日は用意してきた。 まあ、神のなかでも、いわゆる根本神という奴がある。これはどういった宗教でも、自分たちのなかの親神様というのを、すぐ根本神にしてしまう傾向がある。たとえば、天理教の教祖というのがおったのう。この天理教の神様なども、すぐ根本神となってしまう。あるいは、神道系でも、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのは、宇宙の根本神と言われておったろう。あるいはまた、仏教のなかでも、大日如来というのが根本神と言われておったようだ。まあ、こういうふうにいろいろ言われておるし、西洋の世界でも、アラーであるとか、エホバであるとか、いろんな神が出て来ては、それぞれ根本神のようなことを言っておる。 この背景には、まあ、その神と言われる高級霊も、多少はどうも自己顕示欲が強くて、わし以外に神がないと言いたがる連中が多いということも、確かであろう。したがって、地上の宗教の争いを取りまとめるためには、まあ少なくとも、天にある神々の和解ということも、まず大事じゃ。わしも常々これを言うておる。神々よ、和解せよ。お前らが、「わしのほうが偉い」といつも威張っておっては、地上にある弟子どもも、いつまでたっても和解をせぬ。 唯一の神からきた教えだなどと言いながら、ああでもない、こうでもないとやっておる理由はね、地上の人間がそうやっとる理由は、結局、天界においても、「わしのほうが偉い」と言うておる神様がちょっと多すぎるようじゃのう。そして、主流じゃ、傍流じゃと言うて、相変わらず神の世界でもやっておるのじゃ。 その主流、傍流というのが何で決まるのかというと、だいたいこの世での実績で決まっていくわけじゃ。この世で、世界的な規模の宗教をつくって、そうして、人びとを教化し、指導して、実績をつべると、だんだん主流のほうへと回ってくる。実績がどうも今ひとつだと、だんだん傍流に回ってくる。こういうことで、神の世界でも、そうした時代に応じて、ときどき主流とか傍流とかが、入れ替わっておるんだ。 こういう流れというのがあってのう。たとえば、大本のわしじゃ。わしなどは、もともとは、もっともっと厚遇(こうぐう)されてもしかるべき霊格を持っておるにかかわらず、日本の地で、わしが神理を説いたときに、「大本教」が迫害をされた、そして、どうも神理の種としては、種蒔きとしては不十分であったとか、その後、痕跡もないまでに迫害されたがために、教えが残っておらんとか、まあ、こういうことを言う神々もおるわけじゃ。 わしに言わしてみれば、意見はあるよ。戦争に反対した大本が潰されて、戦争に賛成した某新興宗教があれほど大きくなっておるんだから、まあ、こんな不合理なことはないとわしは思うんだけども、それでも、戦争に賛成したほうが、あの世へ還って威張っておる場合もある。 まあ、こういうことで、神々の世界も、ある程度不可解なところはあろう。わしが生きておったときに、主としてわしを指導しておったのは、国常立之命(くにとこたちのみこと)と言われる方で、もちろん、如来の方であるんだけれどもね、この国常立之神というものも、どちらかと言うと、今傍流のほうに押しやられておる。 まあ、如来も数は多いけれども、そのなかで、やはり力を持っておる如来と、残念ながら時代的には少し外れておる如来と、両方がおるのじゃ。まあそういうことで、国常立之命が、その傍流から立ち上がろうとして、わしを指導しておったんじゃ。ところが、わしがまたこういう形で、非常に弾圧をされたがために、まあ、結局同じことになってしまったわけじゃ。 3.鬼門(きもん)、丑寅(うしとら)の金神(こんじん)は荒神(あらがみ) まあ、「大本」の主宰神を〈丑寅の金神〉と言うけれども、丑寅と言うのは方角でね、昔から鬼門と呼ばれている方向のことじゃ。なぜ丑寅が鬼門かと言うと、まあ、神々の世界のなかで、多少主流から離れた神々が集まっておる方角があるのじゃ。それを丑寅と言う。まあ、下世話の話をすれば、昔から丑寅の方角に、たとえば、便所をつくれば祟(たた)るだとかね、丑寅の方角に何々をつくれば崇るだとかよく言われて、丑寅の方角の神とは、゛祟り神゛と言われておる。 丑寅の方角の神が崇り神である理由と言うのは、ひとつには荒神(あらがみ)という言葉があるけれども、戦の神様が多いということもひとつだ。「如来界」や「菩薩界」にももちろんいろんな神様かおるわけだけれども、戦神というのがかなりおる。そういう神様というのは、一ヵ所に集めておかねばならぬ。放し飼いにしておったのでは、いろんな人を捕まえて、喧嘩をするということで、一ヵ所に集められておるのじゃ。 まあ、昔の荒神(あらがみ)として有名なのは、須佐之男命(すさのおのみこと)。そういう方がおろう。この方も、もともとは如来じゃ。ただ、如来としての神格を持った方であるのはもちろんじゃが、いかんせん行動がどうも派手すぎて、行ないが今ひとつということで、丑寅の方角へ入れられておる。したがって、須佐之男命、国常立之命、それから最近出た偉大な丑寅の神様としては、゛出口王仁三郎゛じゃ。こういう人びとが、まあ、如来は如来なんじゃけれども、ちょっと隅(すみ)のほうへ押し込められておるわけじゃ。 これを何とか、わしらの天下にせねばならんと、まあ、思うとるわけじゃ。なぜわしらがそういう狭いところに入れられておるかというと、結局のところ、我らの霊的な力が強すぎて、たとえば、わしらの世界のなかでも、まあ、神様の力競(くら)べと言っちゃああれだけれどもね、まあ、角力(すもう)取りがどちらが強いかということがあるように、神の力でも力競べというのがあって、どっちが力が強いかというのがわかるわけじゃ。 そうすると、わしらといきあたった神というのは、たいてい逃げよるわけじゃ。わしらの力が強いから、いたずらでもされるといかんと思うて、逃げるわけじゃ。こういうこともあって、若干裏方のほうに、今封じられておる。わしらを封じとるのが一体だれかと言うと、知っとるかのう、だれがわしらをそんなところに封じ込めたと思うか。まあ、これが、「天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)」というお方じゃ。 まあ今、力をふるっておって、最近でも生長の家の大神として、谷口雅春を指導しておったようだけれども、どうやらあちらが主流をつくって、神道系のなかで、わしらのほうを傍流へとだいぶ追いやってきたようじゃ。まあ、これは、過去いろいろと地上を理想化するためにいろんなことを起こしたんだけれども、まあ、やり方があまりにも荒荒しくて、うまくいかないということで、我らが天之御中主之神から、多少いみ嫌われたところがあるわけじゃ。 まあ、わしも、「大本」のときに、ずいぶんやったけれども、感化力というかのう、影響力というのが非常に強いんじゃ。そういうことで、大本の教えに触れると、皆んな、変わっていく。まあ、狂信的と言われると、わしらも腹が立つけれども、まあ、皆んな、何かに引き寄せられるように信者になっていく。とくに大本の失敗は、大本の信者のなかに、狂信の信者がかなり出て来たことじゃ。 4.戦争に反対した゛大本教゛ 狂信の信者がかなり出て来たことによって、日本神道系の秩序が崩れるということになって、「大本」の排撃(はいげき)というのが始まった。したがって、これは、ある意味では、神々のなかでの勢力争いもあったということじゃな。わしらの天下にはしたくなかったという気持ちもあったのじゃろう。まあ、あのまま、「大本」がもっと躍進しておれば、今頃、世界が変わっておったに、と思うんだけれども、わしの「大本」時代の仕事の大きなもののひとつは、戦争の反対じゃった。 わしは、日本が急速に軍備強化して、戦争を始めようとしておったことをいち早く予知能力を駆使してわかっておった。だから、戦争を阻止するために、いろんな若手の軍人とか、皇室関係、あるいは、政治関係、いろんなところへと力を持った。そして、新聞社まで手に入れるにいたった。そういうことをして、日本を変えていこうとしたわけじゃ。 まあ、そのやり方の是非(ぜひ)を問うのは自由だけれども、これは今、お前たちが考えておる仏国土づくりと、その主旨においては少しも変わってはおらぬ。神の経綸(けいりん)というものを知らしめ、この世というものを、神の国にしようとした動きであったことは確かだった。じゃが、問題があった。それは、わしの力があまりにも強すぎて、王仁三郎ひとり相手に日本の警察が立ち上がったわけじゃ。 そうして、第一次大本教弾圧、第二次弾圧があったことは、あなた方も知っておろう。わしは、日本の国が滅(ほろ)びるということを予言した。そういうことで、思想犯、危険犯とされて、投獄もされたし、綾部にあるわしの本部も潰(つぶ)された。何回もそういうことがあった。しかし今、歴史を振り返ってみれば、わしらが言っておったことが間違っておったかどうかは、明らかである。日本は、戦争によって、やはり敗北したではないか。国が滅びた。 そうして、わしは、天皇陛下も「人間宣言」をすると言うておったが、言うておったとおり、ただの人になったではないか。東京に火の雨が降るとわしは予言したではないか。そして、そのとおり、火の雨が降ったではないか。広島にも、長崎にも、原爆が落ちることをわしは予言したではないか。そして、そのとおりになったではないか。歴史を見れば、わしの言ったとおりになっておる。わしは、この危険な傾向を何とか食い止めるために、一心にこの一身を投げ出して、我が身を張って、日本を守ろうとしたんじゃ。まあ、それを理解せぬ人たちがおったということじゃ。 5.ユートピア建設は永年の夢 また、日本には理想国ができんと思うては、満蒙(まんもう)に渡って、満蒙で理想国づくりに励んだこともあった。まあ、こうした流れを見ればわかるように、わしの使命は、この地上にユートピアをつくることにあったのじゃ。ただ、その手段方法について、異論があったこともあろう。そういうことで須佐之男命(すさのおのみこと)とか、国常立之命(くにとこたちのみこと)であるとか、わしとかは、まあ、あまり優遇はされておらん、今のところ。霊的な力が強すぎるのでね。地上に出ると、大事(だいじ)が起きるということになっておるんだろう。 しゃが、まあ、歴史のなかでは、わしの名前もやがて不滅のものとなるであろうと思う。少なくともわしは、人びとを破壊から救いたいと思っておったことも確かであったし、綾部(あやべ)という地に、丹波(たんば)のね、田舎の地じゃけれども、綾部という地に一大聖地をつくって、世界の宗教の発祥地をつくりたいと思ったのじゃ。まあ、そういう理想が夢だった。 まあ、こういうことで、地上の人びとから考えれば、神様の世界にも、いろんな派閥があると聞いてはがっかりとする人も多かろうが、事実あるものはあるのじゃから、仕方があるまい。したがって、神とは言うても、そのまたの名は、やはり高級霊じゃ。 これは、神のまたの名であってな。そして、地上の人間は、高級霊の言うことなら、何でも言うとおりじゃと思うておるだろうが、高級霊にも考えの違いがある。思いの違いがある。やり方の違いがあるということじゃ。 わしらのように、戦争反対ということで、日本国中を信者にしようとした者もおれば、神々のなかには、日本は滅びたほうが、いったん滅びて建て直したほうがよかろうという人もおった。こういうふうな意見の違いもあるということじゃ。そういうことで、一概には何がいいかは言えぬ。どちらのほうがいいかは、やはり歴史のなかで証明されることであろう。 6.神は、個性と差別知を与えられた まあ、西のほうには、イエスという人間が生まれたこともあったけれども、彼とても、ほんとうに十字架にかかったのがよかったのかどうか、これは、今だに結論は出ておらん、わしらの世界でも。お前たちは、その悲劇の人生、詩的な人生ということで、それを崇(あが)めるかも知らんけども、イエスが、ほんとうに三十三歳で死んだのがよかったのか、それとも七十年、八十年の間、神理を伝道して、イスラエルの国にほんとうの神の国を打ち立てたほうがよかったのか、これは何とも言われんとわしは思う。どっちがよかったとは言えぬ。 すべて結果じゃ。こういうふうに、まあ、この地上での神の、法の具現、公布ということに関しては、わしら神々と言われている者であっても、考えの違いがあるし、わしらがまだ人間としての個性を持っておる理由は、結局のところ、まだこうしたことに関して、考えの相違があるからじゃ。考えの相違がなくなれば、わしらの個性はいらんのじゃ。 地上の人間は、高級霊なら皆同じじゃろうと思うとるが、皆同じなら、個性はいらんのじゃ。皆同じなら、何で仏教をつくったり、キリスト教をやったり、神道やったりしようか。同じでないから、いろいろとやっておるのじゃ。それぞれの集団が、わしらの方法こそが一番いいと思ってやっておるのじゃ。 ということはどういうことかと言うと、まあ、如来や菩薩と言えるような、神近き高級霊であっても、やはり地上を仏国土にしていくという仕事において、個性の差があって、またやり方の差があり、考え方の差があるということ、そうであるから、またわしらにとっても、魂の修行ということができるということなんじゃ。まあ、この辺をよく考えてみにゃあいかんだろう。 まあ、そういうことで、地上で諸宗、諸教、諸団体が入り乱れて争っておるけれども、お互いを非難し、排撃することはけしからんことじゃが、その方法論において一致せんところがまだあるというところは、認めざるを得んじゃろう。目的においては一緒じゃ、皆んな、自分らが真理ということを広めて、世を救っていこうと思っとるんじゃ。目的において一緒じゃ。ただ、手段、方法が違っておる。そういうことも、頭のなかに入れておかねばならんということだ。 7.創造神は、多趣味な方 まあ、ほんとうの神、造物主というものの心がどこにあるのかは、わしらでもようはわからん。ただ、こうした高級霊界の様相を見てみるにつけ、その根源にある神というものが、どうやら、ずいぶん多趣味な人格らしいということはわかるわけじゃ。かなり趣味が多い方らしいなということがわかる。あれもいいけれども、これもいい。これもいいけれども、あれもいい、というような人であろう。 まあ、趣味の少ない人であれば、人間だけ創っておればそれで満足するだろうが、よくもまあ、創りに創ったり。トカゲも蛇も創り、狐も猫も創り、鯛も創れば、平目(ひらめ)も創る。蛸(たこ)も創れば、烏賊(いか)も創る。まあ、よくもあそこまで知恵が回ったものじゃ。 まあ、してみると、神というものには、ひとつの好みというのがあったわけじゃなくて、いろんなものを創っていくなかに、どうやら意味を看て取った方であるらしいということがわかるということじゃ。お前たちから見ても、蛸と烏賊どちらが優れておるかと言われても、ちょっとわかりかねるであろう。また、蛸と烏賊が、どっちが進化しているか、これも難しい。蛸と烏賊の生き方のどっちが神の心にかなっとるか、まあ、これもちとむずかしい。 まあ、人種の違いも蛸と烏賊じゃ。日本人じゃ、アメリカ人じゃと言っとるが、日本が蛸じゃ、アメリカが烏賊じゃと言うても、どっちが、どっちじゃ。烏賊の値段が高いときもありゃあ、蛸の値段が高いときもある。墨を吐くとこは、同じじゃ。足がいっぱいあるところも、同じじゃ。軟体動物であるとこも、同じ。まあ、いずれあやめかかきつばた、いずれ蛸か烏賊か、まあ、この程度の違いじゃ、蛸の信ずる宗教と烏賊の信ずる宗教のどっちが得かよく考えてみると、どっちも相手をののしって、墨をペーッと吐いては、逃げておるんじゃ。まあ、この程度の違いじゃの。 8.日本神道中興の祖・稗田阿礼(ひえだのあれ) まあ、こういうわしじゃけれども、出口王仁三郎として出た以外にもまた、我がこの大和、日本の国のために、かつて協力したこともある。わしも、昔の日本の歴史に、名は止どめておるのじゃ。わしがだれかを知っておるかの。わからんだろうの。まあ、遠からん者は耳をそばだてて聴け、近くの者はもっと近くに寄れ。「出口王仁三郎」のその過去世は、畏(おそ)れ多くも、かしこくも、知っておるかのう、ウーム。残念ながら伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)じゃないんじゃけれども、わしは、「阿礼」じゃ。阿礼、知っておるか。 古事記というのをつくった人がおったじゃろうが。それ、それ、古事記をつくったのはだれじゃ。「稗田阿礼(ひえだのあれ)」じゃ。聞いたことがあるかな。稗田阿礼というのは、わしじゃ。古事記をつくったということはな、イスラムの世界で言ゃあ、コーランをつくったのと同じ、キリスト教で言ゃあ、聖書をつくったのと同じ、仏教で言ゃあ、仏典をつくったのと同じじゃ。 それだけ、日本の歴史のなかで、力のあったわしじゃ。稗田阿礼と言うてのう、まあ、帰って歴史の本でも開いてみい。必ず名前がのっておろう。日本の国をつくったひとりじゃ。この神国日本の基礎をつくったのはわしじゃ。その日本の神道の要(かなめ)となったのもわしじゃ。 まあ当時、今からそうじゃのう、千三百年も前であろうかのう、その頃に生まれて、そのときも、わしは巨大な霊能者であったわけじゃ。巨大な霊能者であって、まあ、観自在というか、過去、現在、未来を見通したのがわしじゃ。まあ、現在では、稗田阿礼というのは、昔から、語り継がれた神代(かみよ)の歴史を暗誦しておって、そういう語り部であって、その暗記しておったのをしゃべって、大安万侶(おおのやすまろ)というのが筆録して、古事記ができたと言われておろう。じゃが、事実は、そうではない。 当時、貴族のなかに、宮中において、そういった神代の歴史を語り伝える語り部というのがおったのは確かであるけれども、この語り部というのは、まあ、ある意味での神主でもあったわけじゃ。昔の歴史を覚えてしゃべっておっただけでは決してなくて、語り部のほんとうの意味は、「霊来たりて語り給う」の語り部じゃ。 すなわち、霊能者じゃ。天上界の緒霊をその身に宿して、その口を貸してしゃべらすのが語り部じゃった。そういうことで、当時の政治についても、やはりわしら語り部に、御下問(ごかもん)が下って、右すべきか、左すべきか、というようなことが問い合わされて、わしらが答えておったのじゃ。 「都(みやこ)を今度は変えるべきでござる」とか、あるいは、「そろそろ国史の編纂(へんさん)をすべきときである」とか、こういうことを言ったのが、わしらじゃ。これも、あの世の高級諸霊の言葉が身にのぞんで語ったわけじゃ。今、古事記を見れば、神代の時代のことをいろいろ書いておろう。「大国主之命」の国引きの話とか、「神武(じんむ)天皇」の東征の話であるとか。 「天照大御神」の、天の岩戸隠れであるとか、そうしたことがいろいろのっておろう。当時、わしの口を借りて、そうした高級神霊が語っておったのだ。それを、大安万侶(おおのやすまろ)が筆録して出したわけじゃ、わかるかの。 9.日本人のルーツはムー大陸 まあ、現代では、古事記というたらもう昔の時代のことと思うて、古事記以前の世界がもうないように思うて、現代の日本人は、日本の歴史は二千年そこそこであって、それより以前は、弥生時代であるとか、縄文時代とか言って、石器と稲作だけの時代だけしゃったと思うておったようだけれども、いかんせん、日本の歴史はもっともっと長いのじゃ。 そして、何千年かに一回ずつ、わしのような大きな霊能者が出て、新たな神代の時代の霊言を遺(のこ)して、神話をつくっていくというのが歴史であったわけじゃ。したがって、今お前たちは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)とか、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)とか、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とかいうのが、三千年近いその昔に、日本の国をつくったということを聞いておろうけれども、これにおいても、最初じゃないのだ。もっと昔がもちろんあって、四千年前、五千年前という歴史ももちろんあったし、七千年前の日本もあったのじゃ。ただ、そうしたものは遺っておらん。 そして、四千年前、五千年前の神々のことが記憶に消え去ったときに、天之御中之神とか、天照大御神とかが地に降(く)だられて、新たな宗教をつくられたのじゃ。彼らが地上を去って長くなれば、奈良の時代に、わしらがまたそういう、何と言うかのう、神話をつくって、新たな宗教、まあ、これが日本神道の基礎になっておろう。経本としては、「古事記」「日本書紀」しかないであろう。こういうものになったわけじゃ。 まあ、西洋流に言えば、宗教改革であるし、新たな宗教を起こしたということでも、一緒であろう。まあ、わしの出た時代は、イスラムでは、マホメットの出た時代とそう変わらん頃であるから、歴史としては、もっともっとほんとうは遡(さかのぼ)っておるのじゃ。 いかんせん人間は、二千年か三千年前で、人類が始まったぐらいに思っておるから、キリスト教でもそうじゃ。だいたい神様が四千年ぐらい前に、人間を創ったらしいぐらいに思うておる。「アダム」と「エバ」の話じゃ。神様が粘土をこねて、人間を創ったのは四千年ぐらい前のことだと思っておる。そんなもんじゃなくて、ほんとうは、もっともっと、古いんじゃ。もっともっと古い時代なんじゃ。 そして、日本へそうした神道系の神々が数多く出ておるけれども、こうした神道系の神々の、まあルーツと言うか、根っ子はどこにあったかと言うと、太平洋には、「ムー」という大きな大陸があってのう。昔、ここでまた、皆んなやっておったのじゃ。こうした神々がムー大陸が沈んだ後、また東の国に移って来ておるのじゃ。そうして出たんじゃ。 したがってまあ、日本人のルーツと言うのかのう、現代語では、根っ子がどこにあるかと言うことを、いろいろ議論がなされておるようじゃけれども、根っ子はムーじゃ。ムーの文明を継いでおるのじゃ、日本人というのはのう。それが、根っ子じゃ。まあ、それ以外に、大陸からも人は入ってきておる。さまざまにね。だが、根っ子はムーじゃ。 ムーの海洋文明というのが、日本に入ってきておるのじゃ。もともとの根っ子は海洋民族じゃ。それにまあ、稲作民族が中国、朝鮮のほうから移ってきておるのじゃ。したがって、弥生式時代、縄文式時代というのが、まあ、二千年、二千数百年前にあったと言われておるけれども、それは稲作民族の時代であって、これ以前に日本には、すでに海洋民族が住んでおったのじゃ。海を中心としてのう。 船を道具として、海を舞台として活躍しておった。海洋民族としての日本人がおったのじゃ。今から四千年前、五千年前にも、ちゃんと立派な帆船(はんせん)をつくって、太平洋を、日本海を、行き来しておったのじゃ。そういう文化の高い人種であったのが、日本人じゃ。五千年前にも、ちゃんと帆船をつくって、太平洋を行き来しておった。その頃には、太平洋にも鯨(くじら)がずいぶん泳いでおってのう。帆船に乗って、鯨をモリで突いておったのじゃ。そういうこともしておった。 そして、鯨を漁(と)っては、鯨の体のなかから、蝋(ろう)を採ったり、蝋燭(ろうそく)の蝋を採ったり、筋を採ったり、皮を採ったりして、さまざまなものをつくっておった。その鯨の皮をはいで、これをテントにもしておった。知っておるかのう、鯨のあばら骨を、屋台骨代わりに使って、皮を採ってのう、皮でテントを張って、まあ、エスキモーじゃないが、そういうものをつくって住んどった時代もあるんじゃ。これが海洋民族じゃ。そうぃうこともしておった。 まあ、こういうことはまだだれも言うたことがないじゃろう。まあ、明日もあるから、今日はこの程度にして。また、話を続けていこう。うん。
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山本神社 やまもとじんじゃ 内子 南予 喜多郡 愛媛県 神社 情報をお寄せください。一番下にゲストユーザー向け書き込み欄があります。 内子3081番地 山本神社 名前 コメント
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目次 1.心の革命の始まり 2.新時代の序曲 3.変革につぐ変革を 4.真実の勇気を持て 5.光の革命 (1988年7月19日の霊示) 1.心の革命の始まり さて、いよいよ本書のクライマックスといいますか、最後のところにさしかかってきました。 本書の標題にもありますけど、心の革命だね、これはほんとうに革命なんですよ、みなさん。この革命なくしてね、人類は救われることはない。幸福になることもないんです。世の中が変わることもないんですね。 革命なんていうのは、別に暴力でね、人の頭をひっぱたくのが革命じゃないんですよ。政府倒すことが革命じゃないんですよ。そんなことはね、ある意味ではやさしいことですよ。ゲバ棒振るってね、学生運動やったりすることはそんなにむずかしくないんですよ。ワッショイ、ワッショイやることは別にむずかしくないです。 でもね、意外にむずかしいのがこの心の革命なんですよ。心のなかを変えること。これはむずかしいですよ。どうやって変えますか。ねえ、一人ひとりの心のなかなんかどうやって革命起こしますか。むずかしいですよ。ひとつのイデオロギーでね、マルクス主義を信じるとかね、天皇制を信じるとか、こんなことで人を集めて動くことはそうむずかしいことではないです。けれども、一人ひとりの心を革命するということは、これはたいへんむずかしいことです。 なぜならここは治外法権というのがあって、みんな立ち入ることができないようになっているんですね。まったく立ち入れないんです。心とはそういう聖域なんです。各人の心は聖域です。霊たちであっても自由自在には踏みこめないんですね。踏みこめる条件は霊道を開いているという前提ですね。霊道を開いていても完全には踏みこめません。なぜなら本人自身の意志というのがありますからね。 たとえば私もこういうふうに通信を送っていますが、これは通信を受けている〇〇さんが絶対受けたくないと思ったら、私は通信を送れないんですね。まあ出すことはできるけれども、それを伝えることはできません。本人が受ける気があれば受けられますが、受けたくなければはね返されますね。そのようにむずかしいんですね。 このようにね、人の心というのはものすごい自治権、自由権というのがあって、それを行使できるようになっているんですね。ここまで守られているんです。その意味ではたいへんありがたいことでもあるんですね。 さて私はね、まあいくつかの本を次々と出していますが、なんとか人びとの心に革命を起こしていきたい、その火つけ役をしたい、導火線に火をつけたいという、そうした気持ちでいっぱいです。もちろん、私よりりっぱなことを言う霊人はいくらでもいるでしょう。そうした方にはそうした方の役割があるでしょう。けれどね、私はできるだけ多くの人に教えたいっていうのが、私のほんとうの気持ちです。 まあだから、内容もおもしろおかしくねえ、赤川次郎顔負けの内容を出してるんですよ。それだけ多くの人に読まれたいという気持ちがあるからね。私はむずかしく言おうと思ったらいくらでも言えます。みなさんが読んでもわからんように言おうと思えばいくらでも言えます。そんな固く言おうと思えばいくらでもできます。チンプンカンプンのことを言おうと思えばこんなのかんたんです。けれども、あえてわかりやすく一人ひとりが読んでわかるように、小学生の学力でもわかるように言ってるんです。おじいちゃん、おばあちゃんでもわかるように言っています。 なぜかって言うとね、心の革命を起こすのは、そんな哲学的な議論じゃないからです。むずかしい学問やらなきゃわからんような、そんな理論で人の心なんて変わらんのです。八正道だって私はずいぶんわかりやすく話しましたが、八正道なんてこんなのひねくり回して哲学的に言ったって人間変わらんのです。人間が変わらんような理論は存在の意味ないんです。 私はマルキストじゃありません。マルクスもきらいです。けれどもマルクスのようなことを言いたい。「世の哲学者たちは世界をいろいろに解釈しただけである。しかし、今ほんとうにだいじなことは世界を解釈することではなくて、世界を変革することである。」マルクスはそういうことを言ったと思います。私も主義、主張は違いますが、同じ気持ちです。世界をいくら解釈したところで、そんなものはなんの意味もない。クソの役にも立たんと思っています。そんな世界を解釈することではなくて、世界をどう変革するかということが今だいじなことだと思うんですね。 そしてその変革の先はなにかというと、社会制度を変えるとかね、経済構造を変えるとか、そうしたことももちろんあるけれども、いちばんまっ先にやるのはこの心の革命です。これを始めんかぎりどうにもこうにもならんのです。その心の革命をやるにはむずかしい言葉は不要です。私が言っているように、ただ人間の心というもののしくみ、その作用、そのはたらきというものを教えて、どうすればユートピアができるのか、どうすれば地獄ができないのか、これをはっきりさせるということですね。これをしないかぎり、この革命を通さんかぎリユートピアということはないんです。 2.新時代の序曲 さて、新しい時代が今始まりかけています。そして、次第しだいに新時代の序曲というのが始まってきたように思います。その新時代の序曲として、みなさんが見ていて特徴的であることはいったいなんだと思いますか。 私はね、今続々と霊言といいますか、天上界の人びとが地上にメッセージを送っているわけですが、このメッセージの群れ、大群というものの意味をどう見るかということこれがだいじではないかと思いますね。 決して一枚のメッセージを送って、それを暗記して毎日拝めなんてことは私たちは言ってません。また、宗教だって、今の宗教法人が言うようなあんな掛け軸みたいのをぶら下げて拝めなんて、そんなことはどうでもいいことですね。私はね、そんな形式はどうでもよいと思っています。問題は中身です。メッセージが続々と出ています。なにゆえに、どのような意図でもって出ているのか、これを知ってほしいんです。まず、なぜ日本の地が選ばれたのか。そしてなにゆえにそういう天上界からのメッセージの大群というような方法が取られているのか。これを考えていただきたいのです。 それはひとつには、今の日本という国が世界の注目すべき国になっているということです。ある意味で最強の国のひとつになっています。軍事力は足りないかもしれないが、国力としては最強のひとつになってきていますね。そして国民はひじょうに高い教育を受けています。高い教育を受けて、そして高度な認識力、判断力があると言われています。こうしたところに大量のメッセージが天上界から届けられるということは、いったいなにを意味しているのでしょうか。それは、私は思うのですが、これこそが新しい時代のほんとうの学びである。学びの方向であるということだと思うんですね。 したがって、これからの新時代の序曲として、今奏でられているものはいったいなにかというと、神理を知らずして人ではないという感じですね、この感じがみなさんわかりましょうか。 実在界の霊たちが次々とメッセージを送っています。それが書物になってます。書物になって、メッセージを送ってから数か月で本になるというありがたい時代になっています。これが続々と本として出されるということはどういうことかというと、これを読まないでは現代人とはもはや言えない、常識人とは言えない、知識人とは言えないという、そういう時代を創りたいという意志があるということです。そして、さまざまなる高級霊の言葉を、その教えの内容を一人でも多くの人に学んでほしいということだと思います。 さすれば、私は今、世の中を変えていく方法としてなにがあるかというと、この今の日本という出版文化の栄えている国において、書物という形を取って神理の伝道を切りこんでいくということを、これをひとつのムーブメントとする必要があると思うんです。神理の書を読み、そしてそれによって学習し、学習した結果にもとづいて行動をしていくというこのプロセス、神理の探究・学習・伝道という、このプロセスを各人が持つということですね。そしてこれを新時氏の行動方針にしていく必要があると思うんです。 今、全国各地で塾が流行っています。受験勉強用の塾ですね、これが全国各地に流行ってますが、過当競争でやがて塾はつぶれていくでしょう。いろいろつぶれていくと思います。そんな必要はないからです。それはどのね、子供を縛って一日じゅう意味もない知識を詰めこむ塾、これがいっぱい流行ってもしょうがないんです。学校だって不要になってきつつある時です。そんなの不要なんです。必要がないんです。 これから必要なのは、心のことを教える塾なんです。これしかありません。人の心に革命を起こし、そして人びとに真実の生き方を教える塾が日本全国に流行らなければいけないんです。だから、塾の経営者でもう経営難が見えているところは、早目に神理の勉強して、これを教えられるような体制を組まなきゃいけませんよ。そうじゃないと倒産しちゃいますよ。 まあそうした冗談も言いながら話してますが、これからはね、ほんとうに日本各地で心の塾、これが流行ります。現代の松下村塾、あるいは現代の勝海舟塾でもいいけれども、そうしたものが日本国中で流行らなきゃいけません。こうした神理の書物をテキストとして、いろんなところで塾が流行って勉強する人たちが集まるという雰囲気を創っていく必要があります。 いろんな主要都市で、町で村で、神理の書を中心として学習会を盛り上げ、そして神理をそこで教える人たちが出てくる、こうしたムーブメントを創っていく必要があります。これがどうしてもあるのです。これをね、現代の学習塾のように、あるいはカルチャーセンターではありませんが、生涯学習のように、大いなるムーブメントとして盛り上げていく必要があるんです。こうした動きが新時代の序曲となっているのです。 3.変革につぐ変革を いま、そうした序曲が始まっていると言いましたが、私はね、高橋信次というような名前が有名になるかならんかというようなことはどうでもいいんです。けれども、できうるならば皮切り役をやりたいんです。私の情熱によって日本の各地にそうした神理のムーブメントを起こしたい、神理を学ぶというそうしたことに対するムーブメントを起こしたいと思うのです。 ひと昔前には、中国十億の民が、毛沢東語録という赤い表紙の本をパラパラさせながらみな歩いてました。まあ毛語録も結構ですけども、そんなものではなくて、こうした私の霊示集のようなものを持って歩くのがファッションになるような、そうした時代をどうしても創りたいんですよ。電車に乗りこんだら、あっちもこっちも高橋信次の霊示集を読んでいるような、そんな人がいっぱい目立つような時代、こういうふうにしたいんですよ。 だから、私は本書の読者に言いたい。あなた方はこうした霊物を読んでいることを恥ずかしがっちゃいけない。そんなことを恥ずかしがるということ自体が神理価値に反していることです。これを堂々と胸を張って教えてほしい。人に知らせてほしいと思う。霊がついているから恥ずかしいっていうんで、電車のなかで本にカバーかけて読んでいるようじゃダメです。そんな気の弱いことでどうするか。 したがってこの私の読者がもし高橋信次のファンであるというのなら、高橋信次の霊言ファンであるというならね、カバーなんかつけないで、高橋信次のこの『心の革命』でもなんでもいいけれども、つり皮にぶらさがってね、座っている人の目に見えるように大きく広げて読んでやってくれ。毎朝、毎朝、帰り、帰りね、みんな読んでくれ。職場でもその本が目につくようにピラーッとどこでも置いておいてくれ。そして一人でも多くの人に気がついてほしいんだ。 私は何回も言っているけど、こんなものは何万人ぐらいが読んだぐらいでは世の中は変わらんのです。世の中が変わるためには、最低、最低ですよ、百万人という単位は最低必要です。私の書物なら、それが百万、二百万、三百万は最低読まれたい。もっと読んでほしい、ほんとうは一千万人ぐらいに読まれたい。そのためには、こんなものをキワモノ扱いさせては断じてならんということです。神理の書をキワモノかなんかのように言わすことを断じてしてはならん。 もちろん組織があってそれなりの行動指針を出して動いているので、もちろんその流れに乗っていくということもだいじだけども、一人ひとりの読者という視点、君たち一人ひとりに私が呼びかけるとするならば、この高橋信次の本というのをこれをいろんなところで読んでください。見てください。見せてください。見られるところで読んでください。電車のなかで堂々と読んでください。学校に持っていってください。職場に持っていってください。知りあいの人にあげてください。 お中元でうなぎの蒲焼きを送ってきたら、お返しに高橋信次の霊言セットでも送ってください。お中元でもお歳暮でも結構です。お礼には送ってやってください。ねえ。入学のお祝いに『高橋信次の新復活』とかね、卒業のお祝いに『高橋信次の心の革命』でもなんでもいいんです。みんな勇気をもってね、変人だと思わないでやってくださいよ。そうしなければ広まりませんよ。そうじゃありませんか。 私は読んでほしいんですよ、みなさんに。そのために情熱的に言っているんですね。もちろん書店の人だって力を入れてやっていただきたいと思います。どんどんどんどん本出していきますから、力を入れてやってほしいと思いますが、みなさんね、これを読むということは義務ですよ。私はね、みなさんがいくら買ってくれたって、そんなお金一文もはいりません。一円の得にもなりません。地上で有名になったところでどうっていうことありません。言いたいのはこの中身が言いたいんです。「心の時代到来」ということ、これが言いたいんです。そのためには、各人の心を変革する、これ以外に手がないということを、私はただそれだけを言いたいんですね。 だから、もちろん一読者としてやれることには限界があるでしょう。けれどもこの本を読んだ人がね、この本を一人にでも二人にでも、三人にでも五人にでも、たとえば五人の人に広げてくれたらね、日本全体で合わせたらその五倍の人が知ることになりますね。それらの人がまたこれを広げてくれたらより多くの人が読んでくれます。私は宗教団体の会員の数が何人になるかなんていうことは関係ないんです。そんなことには興味も関心もありません。そうではありません。神理を読み、神理に接したことのある人が一人でも多く増えてほしいんです。接触面積を増やしてほしいんです。 だからまずね、心の革命と言うけれども、この私の本を読んだ人はもう「高橋信次党」に属したんです。マルキストじゃない、高橋信次キストです。キストというのはおかしいかもしれないが、高橋信次派に属したんです。みなさんはもう洗脳されたんです。ねえ、共産党みたいに赤になったんです。まっ赤になったんです。まっ赤かまっ青か知りませんが、ある程度の色が染まっているんですね。私の教えを受けた以上もうゾンビみたいなもんですね。高橋信次の魂が乗りうつったんです。読者のみなさんに乗リうつったんですね。乗りうつったらゾンビはゾンビで仲間を増やすんです。 いいですか。だから、この高橋信次の霊言読んだらもうとりつかれたと思ってください。悪霊でも善霊でいいけれども、もう君たちはとりつかれたんです。とりつかれてもう逃れることができないですね。バラ十字じゃないけども、なにかもう秘密結社にはいったようなもんだ。ねえ、だから君たちは仲間を増やす義務があるんです。ゾンビは自己増殖しなきゃ意味がないんです。どんどんどんどん広げていく必要があるんですよ。 だから、変革につぐ変革をと言っても、これはね、もっと具体的勇気をもって行動せよということですね。まず、家族のなかでこうした神理の勉強をやってください。みながわかるように、家族のなかで「なんだお前、変なことをやっておかしくなったんじゃないか」なんて言わせておかないでね、いいものはいい、これを認めさせる。そして知らせる。多くの人に広げてほしいんです。 これからもうカルピスセットは流行りません。霊言セットです。これをセットでもう友達に送る。会社の上役に送る。部下に送る。近所に送る。親戚に送る。カルピスさん、ごめんなさい。山本山の海苔屋さんごめんなさい。水ようかんやっている人ごめんなさい。申しわけございませんが、しかし人類が生き残るためには霊言セットでも送ってもらわんともうしょうがないんです。そういう時代が来ているんです。心の糧をね、心の缶詰を数多く、多くの人に読んでいただきたいんです。それは、神理を神理と思う人にほんとうの勇気を持っていただくこと、これ以外にないんです。これについてさらに話をします。 4.真実の勇気を持て 結局はここに来るんですね。霊的なものをなぜみながいやがるか、隠したがるか。どうですか。まあ学生さんも読者のなかにいるでしょう。若手のサラリーマンもいるでしょう。本棚に私たちの本を並べていて、家の人が来たり、友人が来たりして見られたら恥ずかしいという気持ちがありませんか。なるべく隠したいという気持ちがありませんか。その本だけ裏返しにカバーしてみたりしていませんか。どうですか。こんなことでね、こそこそしているようでは世の中は絶対に変わらないということです。 まず一人ひとりが不動の覚悟を持ち、そして自信を持ち、勇気を持って神理を広げていこうとしなさい。それはね、会員になれということを言っているのではない。そんなことは意味がないことだ。なってもならんでもいい、そんなことは個人の自由だ。そうではなくて、学んだこと、これを神の世界から出た言葉だと思っているなら、それを実践してみせることです。そして、その実践を通してより多くの人を導くことです。影響を与えることです。そうじゃありませんか。 また、ある種の人たちに言いたいけれども、特に先生なんかをやっている人、小学校、中学校、高校、大学、こうしたところで先生をやっているような人はね、どうか神理を知ってほしい。これは義務だと思ってください。神から与えられた義務です。学校の先生で、もう知識だけを教えたってダメです。これからは心を教えない教師なんかもうクビです。文部省が認めても私は認めない。 子供たちに教えるべきこと、子供たちに与えるべき鍛大の遺産は心の教えであるのです。みなさんは教科を教えているでしょう。学科を教えているでしょう。その合間にね、心の話をしてほしいんですよ。そして、教室でできないのなら自宅ででも結構、生徒たちと遊んでるときでも結構、折りに触れ機に触れ真実の話をしてほしいんです。心の偉大性を語ってほしいんです。人間とはどういう生命を持っているのか、その永遠の生命について語ってほしいんです。 そして、心というものはひじょうに汚れやすいものであるから、毎日毎日お洗濯をしなければいけないということを教えてほしいんです。反省ということかだいじだということを教えてほしいんです。だから特に教職という職業にある人たちは、このことを知ってほしいと思います。 また、宗教界にある人たちもそうです。仏教の人たち、神道の人たち、あるいはキリスト教会の人たち、みなさん方は特定の宗派に属しているから、それ以外のものを受け入れてはいかんと思いがちでしょう。けれどもね、神理は神理、真実は真実であります。仏教だって仏陀が死んで二千何百年、その間なにもせんと思いますか。なんの変革もないと思いますか。キリスト教だってそうです。イエス様が二千年間黙っていると思いますか。なんの心の改革もしないでいると思いますか。日本神道系だってそうですよ。三千年前の神様がなにもしないでゴロゴロ昼寝していると思いますか。この世界はね、日進月歩なんです。 神理は不変ですが、この不変の神理をどのようにアレンジしなおして人びとに広めるかということにおいて、その変革は日進月歩です。キリスト教も早く脱皮しないと、今のままではもう行きづまりますよ。もうそんな形式主義はいらないんです。教会で十字を切っていることによっては救われはしないんです。よいですか、単に「汝ら悔い改めよ」と言ってるだけでは済まないということを知りなさい。悔い改めのその方法は、神理知識というものを得て、その神理知識をテコとしてみずからの内をふり返るということです。そうではないですか。 だから専門家の方もね、どうかこわがらずに、先入観で判断しないで神理というものをとり入れて考えていただきたいのです。そして、真実の勇気をもって多くの人びとを導いてほしいと、そのように思います。 また、会社なんかで経営者をやっている人たちは、是が非でも神理を学んでいただく義務がある。君たちが、あなた方が神理を知っているということが、多くの人にどれだけ影響力を与えるかということ、それを知っていただきたい。平社員が神理を学ぶのもいいけれども、経営者がそれを学んでいるということがいったいどれだけの影響力があるかということを知ってほしいのです。世間的に影響力のある人ほど神理を知っていただきたいのです。そしてそれを実践してほしい、真実の勇気を奮い起こしてほしいと、そのように思います。 5.光の革命 さて、本書も最後までこぎつけました。喉(のど)をからしていろんなことを語ってきました。 私がね、本書で言いたかったことは一言です。「光の革命を起こそう。やろうじゃないか、みなさん」そういうことです。徹底的にやろうじゃありませんか。やらんでどうする。やらんでなにが変わる。世の中のなにが変わる。いったい世界がどうなるんだ。これだけの光があり、光の力があり、光の教えがあるんだから、広げようじゃないか。多くの人に知ってもらおうじゃないか。唯物主義国日本なんてこんなの世界の恥さらしです。そうじゃないですか。 みなさんはね、宗教なんて言って馬鹿にしちゃいけないよ。宗教というのは、「宇宙を示す」と書いてあるんですよ。宗教というのは宇宙の根本を教えることです。その成り立ちを教えることです。そのなかを流れているほんとうの法則を教えることです。 もうマスコミは、宗教を馬鹿にするのはもうやめていただきたい。もう新聞発行するのはやめてください。いろんな新聞社があるけれども、もうこんな霊の世界はインチキだ、迷信だと言ってるような新聞社はもうやめてください。もうそんなところの新聞取るのはもうみなやめてください。もうそんな新聞捨ててください。そんな週刊誌もう捨ててください。もうね、こんなもの私はもう見たくもない。こんな真実に反したことをいつまで言っておるのか。 霊の世界はあるからあると言ってるんだよ。ほんとうにあるんですよ。私が現にこうして言ってるんだから。あるんです。それを迷信だなんだと言ってるような人たちは、もうこういうのは地獄行きの特急列車に乗ってるんだよ。その特急列車に乗っているということを知らないで、それに他の人を乗せるようなことは、絶対にやめていただきたい。私はそう思います。自分が行くのはいいけれども、もう人を乗せるのだけはやめなさい。ひっぱるのはやめなさい。ほんとうの世界は現実にあるんです。それだけを言っておきたい。こうしてね、勇気をもって、光の革命を起こしていきたいと思います。 私は残念なんだけれどもね、できたらそれは高橋信次の霊言だって〇〇さん以外のとこからもいっぱい出してね、いろんなとこから出して世界じゅうに本をあふれさせて、アメリカ人にも出てヨーロッパ人にも出てね、インド人にも出ていろんなとこでやったなら世界も変わると思うけれども、いかんせん神の法則は法則として現にあるんです。他のところに出たくても出られないんです。私はね、GLAという団体のところで霊言したくても、私の霊言受けられる人が一人もいないんです。しょうがないんです。受けられると言うのなら出してみたらいいんです。絶対出せないんです。霊言集出せません。受けられる人いないからです。いないんです。だからほんとは私はつらいんです。いろんなところで出して言いたいけども言えない。ここ一点しか通せない。通せないから無理を言っています。 これほど次々と本を世に問うて、私はほんとうにみなさんに申しわけないと思ってます。こんなに無理を言って、ほんとに他の団体の主宰者がね、よその団体に来てこんな無理を言ってることを申しわけないと思ってます。そのような無理を言うことによって迷惑をずいぶんかけてることも知っています。ほんとに迷惑をかけてます。申しわけないと思っています。けれども、これしか私にとっては取る道がない、方法がないんです。 どうか私のそうした立場も考えて、私のこの一言一言が、一冊一冊がより多くの人たちのほんとうの心の糧となり、光の革命が地上に成就していくための力強いほんとうの力となるように祈っています。 読者のみなさんも、私が何度もくり返して言ったことをよくよく味わってください。言葉は美しくないかもしれません。日本語はへたかもしれません。外人よりへたかもわからない。けれども、私が言ってる言葉は真実の言葉です。この真実の言葉を聞いたなら、どうか変わってください。そして世の中を変えていってください。光の革命を成就しようじゃありませんか。 そのためにどうか力になってください。私の霊言が広がることを支持してください。助けてください。そして光の天使たちが、光の戦士たちが地上で活動していくことへ、どうか力強い支援を送ってやってください。それを祈っています。 ほんと、みんな頼んだよ。ほんとに頼むよ。それだけを言って、本書を終えたいと思います。
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大本神社 おおもとじんじゃ 南予 愛媛県 神社 情報をお寄せください。一番下にゲストユーザー向け書き込み欄があります。 大洲市柴甲255番地 名前 コメント
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杜本神社 大阪府羽曳野市に鎮座する杜本(もりもと)神社の御朱印です。 ★住所 大阪府羽曳野市駒ケ谷64 -
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概要 祭神 由緒・略歴 祭礼・神事 摂末社 アクセス
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サーヴァント 【クラス】セイバー 【真名】日本武尊(やまとたけるのみこと) 【容姿】赤眼に白髪が特徴的で中性的な顔立ち。独自の和服のような物を纏う。 【英雄点】40点(ステ27点・スキル13点):令呪0画消費 【HP】25/25 【筋力】EX:8(10) 【耐久】A:5 【敏捷】A+:6(7) 【魔力】C:3 【幸運】D:2 【スキル1】神性 A 5点:キャラシート作成時、サーヴァントの英雄点10を得る。 【スキル2】怪力 B 3点:物理攻撃時、補正値5を得る 【スキル3】勇猛 A+ 5点:物理攻撃時、ダイスの面数を1増やす。ダイスのマイナス補正を受けない。 【宝具 日ノ本神話・神威纏いし武神の剣(くさなぎのつるぎ) 1/1 【ランク・種別】A++・対城宝具 【効果】物理攻撃と魔術攻撃時、補正値10を得る。陣地破壊が発生する。 【その他】 日本神話最大の英雄、ヤマトタケルノミコトその人。 聖杯への願いは特にない。 強いて言えば、生前と同じように、与えられた役目を全うすることが願いである。 当時の日本で活躍した様々な人物の集合体であり、特定の姿を持たない。 そのため、容姿は召喚者の抱くイメージ等に依存する。
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基本神聖魔法 基本神聖魔法 1Lv 【 /バニッシュ 】蛮族・アンデッドを退ける(範囲) 【 /サニティ .....】精神効果を解除する 【 /フィールドプロテクション 】被ダメージを減少させる(範囲) 2Lv 【 /アウェイクン 】気絶・睡眠から回復する 【 /キュア・ウーンズ 】基本回復魔法 【 /ディテクト・フェイス .】信仰している神を知る 3Lv 【 /キュア・ブラインドネス .】盲目から回復する 【 /キュア・ポイズン ......】毒から回復する 【 /フィールド・レジスト 】特定属性ダメージを軽減(範囲) 【 /フォース .....】基本攻撃魔法 4Lv 【 /セイクリッド・ウェポン .】蛮族・アンデッドに特攻を与える 【 /セイクリッド・シールド . 】蛮族・アンデッドからのダメージを軽減 【 /フェイス・インジケイト . ... . 】特殊神聖魔法を封じる 5Lv 【 /キュア・ディジーズ ... . 】病気から回復する 【 /キュア・ハート ..... . 】回復魔法Lv2 【 /トランスファー・マナポイント . 】MPを他者に渡す 【 /ホーリー・ライト . 】対アンデッド限定攻撃魔法 1Lv 2Lv 3Lv 4Lv 5Lv 戻る
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目次 1.新しき時代の前ぶれ 2.感性の文明とは 3.文明で変わる価値観 4.ゴンダアナ文明と霊文化 5.ミュートラム文明と食文化 6.地球意識による極移動 7.大日意識による文明光線の調整 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 9.レムリア文明と芸術 10.ムー文明の興隆 11.アトランティス文明と光 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ 13.現文明への流れ 14.百万年の歴史をふり返って 1.新しき時代の前ぶれ まず、新人類の予兆というテーマをあげてみましょう。このなかで語られていることは、時代の端境期の様相です。新しい時代が来るときにはその前触れがあって、同時代のなかに次の時代を予想させるものがすでにあるということです。 今、霊言・霊示集を読んでいる私たちは、新しい時代がどうやら来るらしいと感じているわけであります。ところが同時代に生きている多くの人にとっては、それがなかなかわからないのです。しかし、今から千年後、二千年後の立場に立って今の時代を見たときに、みなさんが、いったいどういう時代に生きているのかということを想像するとおもしろいと思うのです。 たとえばイエスの時代であるとか、旧約の予言者の時代などを、いま私たちは聖書を通して知ることができますが、あの時代に生きていればやはりおもしろかったと言えるのではないでしょうか。しかし、時代の流れのなかで、そうした大きなことが現在、起きているのです。後世の人も、必ず今という時代をふり返って興味を持たれるだろうと思います。私たちは毎日毎日のなかに生きているので、意外に当然のことのように思って、それほどのことには感じていない人も多いのです。 ①「鉄の時代」から「太陽の時代」へ 今、ここ一万年ぐらいのサイクルで、ひとつの文明が終わり、新たな文明に入ろうとしているのです。この文明は、後の世にはおそらく、「鉄の時代」と呼ばれるようになるでしょう。その理由は、鉄というものを使っていろいろな機械が発明され、時代が進歩し、そしてそれが文明の象徴になったということです。また「鉄の時代」の別名としては、「知性の時代」あるいは「知の時代」とも言われるでありましょう。 そして、次に来るべき文明の名は何と呼ばれるかと申しますと、これは「太陽の文明」と呼ばれるのです。「新しい神理」の太陽が昇りくる時代の文明という意味を持っています。いったん沈んだかのように見えた「神理の太陽」がふたたび昇ってくるという『太陽の法』のメインテーマ、そのままの時代になり、後世の人々から輝ける「太陽の時代」と呼ばれるようになるのです。このことは、はっきりと予言をしておきたいと思います。 そして、その「太陽の時代」のモチーフの部分は何かといいますと、「悟り」ということなのです。「悟りの時代」が前面に出てきます。ですから、時代的な考え方からみれぱ、この『太陽の法』が出たということは、まことに画期的なことなのです。まだ多くの人はそのことに気づいておらず、数万人ぐらいの人にしか読まれていないと思いますが。実はこれは大変な意味をもっているのです。ひとつの時代の端境期に出た、時代を区切るための書物であるのです。 その内容については、ノストラダムスがすでに予言していたということを前に述べたことがありますが、次のように、はっきりと予言しています。「東の国で『太陽の法』が説かれるときに私の予言が終わり新たな時代が始まる。」とたしかに、記されているのです。ノストラダムスの書物のなかで、「太陽の法」という言葉はたくさん出てきています。ただ、この予言の価値づけがはっきりわかるのは何百年か後になるようです。同時代で気づく人もいれば、気づかない人もいるという意味合いがあるのです。 ②人類の秘史を学ぶ 『太陽の法』という本一冊にしても、相当の霊的能力といいますか、単なる人霊の部分を超越した、アーカーシャーの力を引き出して書かれています。かなり人類全体の知恵の部分、秘史の部分が、明らかにされて出てきています。もちろん内容全般にわたるものではありませんが、かなり具体的に出てきております。 ですから、最初の段階でこの本を読み、勉強しているみなさんというのは、後世の人から、ユダヤ的に言うならば選ばれたる人たち、預言の民と呼ばれても然るべき感じであると思います。ですから、あの世に還ったときには自慢になるかもしれません。 さて、現文明の特色は、知性という部分であったと述べましたが、学問的知性の部分がそうとう強いようです。これに比べて、それ以前のアトランティスは、理性を中心にした文明が栄えていたといわれておりますが、そこではマイトレーヤ如来、クートフーミーなどが活躍していました。さらに、それより古いムーの時代の文明は何かといいますと、光エネルギーの文明でありました。それからさらに前には、インド洋上にレムリアという大陸があって、この時代は感性が中心の文明であったわけであります。ムーの時代には、ランティ、カンターレなどが活躍していましたが、レムリアはマヌとゼウスが中心となって感性の文明を創っていました。 2.感性の文明とは ①色彩感覚 レムリアという感性の時代において、最高度に修行を積んでいた人は、三千種類の色と、二千五百種類の匂いを区別することができたのです。考えてみれば、なるほどという感じはすると思います。みなさんは、色の区別は何種類くらいつけることができるでしょうか。クレョンでは12色や24色の色がありますが、普通の人であれば、24色ぐらいを区別することがせいぜいではないでしょうか。 私も別に遊んでいるわけではありませんが、私もたまにクレヨンで絵を描いたりしています。指導霊のなかには芸術家もおられ、霊言では十分に表現できないので、たまに出てこられるとやはり絵を描きたくなることもあるらしくて、そのときに描かせてあげるのです。ピカソが出てきて水彩画を描いたり、マチスが描いたりします。こうした色彩感覚や調和感覚、デザイン感覚のようなものは現在の文明のなかで確かに一部分、デザイナーや画家などには生きています。しかし、今日これが主流として前面に押し出されるということはそれほどありません。 ところが、今日みなさんはいろいろな色、デザインの服を着ていますけれど、もし、こうしたことで点数がつくような感じの文明であればどうなるかです。パッと見た瞬間に、あれは九〇点を越えるくらいの感覚である、これは七〇点くらいだというように、その人の色彩感覚のレベルがわかるのです。このようなことが認識として明確にわかるとすればどうでしょうか。そうなりますと、そのような美的感覚がひじょうに優れている人が上流階級をつくってゆくわけです。このような時代があってはおかしいかと言うと、そうでもないような気もいたします。 私たちはある意味では、色彩について現在、鈍感であるかもしれません。流行というものがあって、今年は何色が流行、などと言われて、そうしたものを着て歩いているけれども、主体的にどういう色がどのように好きなのかと問われたならば、わからないのではないでしょうか。しかし、色の好みのレベルはあるはずです。 『ピカソの霊言』を読みますと、色を司る天使のような存在があって分担してやっているということですから、やはりレベルがあるようです。ですから、このような感性の評価がもし主流になればどうかといいますと、ベストドレッサーが総理大臣になるような、そのような時代がないとは言えないかもしれません。それが人間としていちばん洗練されているという見方をすれば、そういうことになるわけです。 三千種類の色が見分けることができれば、これはそうとうなものです。私たちは二四色くらいしかわからないけれども、三千、二千、千、五百種類のというふうに、いろいろなレベルの差、実力の差があるわけです。微妙な色合いがわかるというところが人より優れている、洗練されているというわけです。このような世界があってもおかしくはないのです。 ②匂いのセンス また、私たちは匂いについても案外に鈍感です。私たちが特に敏感なのは、嫌な匂いで、一般的に臭いということで表現されていますが、どのように臭いかといわれますと、私もよくわからないのです。また「いい匂いだな」とは思うけれども、そのいい匂いというものの表現がどこまで的確に、みなさんできるでしょうか。このあたりに語彙がそうとう不足しているのがわかると思います。たとえば何の花の匂いに似ているとか、植物の名前であるとか、そうした比喩を出してこなければ説明ができないわけです。もし、その人が、その植物の名前を知らなければ、それで終わりです。これ以外に、匂いということに関して何か言えましょうか。私たちは、二千五百種類の匂いを説明し分けることができるかといいますと、できないのです。 ところが、最近の先端産業といいますか、ニュービジネスのなかでは、匂いビジネスというものも流行(はや)ってきているようです。女性が中心になって、匂いを売るという仕事をやっているそうです。そして、たとえば、ファッションショーのときに匂いの演出、パフォーマンスを繰りひろげるのです。あるいは立体映画のように、匂いがパーッとひろがるようにしたり、あるいは潮騒の匂いなどを漂よわせて、観客に海にいるような感じをかもし出したりするというような匂い産業が、けっこう何億、何十億円の市場に成長してきているそうです。このような人たちは、この時代の昔の記憶、パーニャーパラミタが出てきているのでしょうが、私たちにはあまり出てこないようです。 3.文明で変わる価値観 このように考えてみますと、人間が生きがいを感じたり、あるいは値打ちを感じることは、意外にいろいろとあることがわかります。このように感性の最高度に進んだ時代に生きた人から見れば、私たちがいかに鈍感で、服装にしても何を着ていようがかまわず、匂いに対しても全然センスがない、それで生きていられるということが、まことに不思議で、かわいそうな人びと、いってみれば奴隷階級に見えるはずです。そして知性が中心ではない文明の人びとであれば、今のように一生懸命に本を読んで勉強しているということは、何と憐れな人間たちだろう、というふうに見るでしょう。眼を悪くするまで本を読んで、そのはてにめがねをかけるようになり、悪循環でますます近眼になるという姿は、なぜあのような馬鹿なことをしているのだろう、目を一生懸命悪くしている、というふうに見えるわけです。たいへんおかしなことと感じると思います。 こうしたように、いろいろな文明が移り変わるなかで価値観は変わってきているのです。私たちの魂は、さまざまなところでそうした修行をしてきており、魂の器そのものがいろいろな訓練を受けてきているわけですから、この地上の生活も、その文明に固有の変わったことがあるので、あきることがないわけです。 たとえば、抜群に体格のいい人や運動能力のある人はオリンピック選手にでもなれればもちろん評価されますが、それ以外の人は、仕事ができるとか、勉強ができるとかいう尺度で評価されます。それは今の時代がそうだからです。ところが時代が変わると、評価のうえでいま下にいる人、ほかの特長のある人、たとえば匂いに敏感であるとか、微妙な色合いがわかるとかいう特長をもった人が上がってくるのです。このようなことをいろいろと経験して体験を積んでいるのです。 価値観の多様性という話をしておりますが、それも単に教えの多様性ということだけではなくて、私たちが生きてきた時代そのものに、こうした価値観の多様性があったということを考えあわせることが、ここに、大いなる芸術的な見地があるということです。神は人間にいろいろな何かを悟らせようとされているのです。今私たちが是としている価値観が、すべてに通用すると思っては、ほんとうはいけないのであって、いろいろありうるということなのです。これを知ることが、黄金の時代を知ることにもつながっていくと思います。それぞれの文明が栄え、そして滅びていった話を私はしてまいりますが、それはSFでも何でもありません。もしかすれば、私たちも生きているうちにここに書かれているような出来事を目撃することになるかもしれないということなのです。 4.ゴンダアナ文明と霊文化 ①真・大陸移動説 ゴンダアナ大陸とは、九十六万二千年前に、海底火山の爆発の後に隆起してできた大陸です。現在のアフリカ大陸と南米大陸とを結ぶ海域がその位置していた場所です。そして今から七十三万五千年前の大陸の分裂移動という前代未聞の大事件により、ひとつの大陸が消え、ふたつの大陸の出現をみたのです。過去に、こうしたことが、ほんとうにいろいろと展開しており、大陸が浮かんだり、沈んだりしていたわけです。 現在、大陸移動説というものが地球物理学のほうでも提出されています。プレートテクトニクス理論というものですが、彼らの理論からいえば、すべての大陸がひとつになっていた時期を三、四億年前と考えていて、それが徐々に今のように広がっていたと考えているようでありますが、実際はそうではありません。やはりその間にものすごい変転があったのです。それは数十万年単位で浮上したり沈んだり分裂したり、けっこう変化に富んだおもしろい推移があったのです。 ですから、アフリカの、今のエジプトあたりの土地はかなり古いのですが、あのあたりにしても、ずいぶん上がったり下がったりしています。山脈のようになったときもありますし、いったん海底に沈んだこともあり、また今のようになったこともありまして、いろいろと変わっています。 このゴンダアナという大陸はそうとう大きな大陸で、主として南米とアフリカがひとつの大陸であった時代のことをいっているわけです。それ以前に他の大陸とくっついていた時代もありましたが、百万年前は、そのような状態にありました。そして、大陸の分裂移動という大事件が起きたのです。 今の大陸移動の考え方では、マントルの対流によって、浮かんでいる大陸が動くという説明をしています。そこでは、プレートと呼ばれる固い岩石の層が地球の表層を、一年間に何センチずつか動いていくというのです。たとえばハワイにある島は一年に二、三センチくらいずつ日本のほうに近づいてきています。そして日本海溝のほうは、何センチかずつやはり沈没していっているのです。このままでどんどんいけば日本列島が沈み、あちらのハワイのほうの島がだんだんと日本のほうに寄ってくるであろうというような説明をしているのです。 ただ、その移動の速度を測っているのは現在の観測結果です。しかし、これはやはり変わります。地球自体が生きているからなのです。地球はひとつの肉体であり、マントルの対流というものも、これは地球自体の血液のようなものなのです。ですから地球という、生命体に異常事態が起きたときには、これはそうとう激しく動きます。したがって、マントルの対流の速度にも、いろいろな変化の時期があります。今のマントル対流がこのような状態であるから、同じようにずっと来たのかといいますと、そのようなことはありません。やはりいろいろな変動をしているのです。 ②男女間の超能力の違い さて、このゴンダアナ文明が栄えたのは、今から七十六万年前から、大陸消滅までの約二万五千年の間くらいの期間でありましたが、ここは超能力を中心とする文明でありました。 当時は男性の身長がニメートル一○センチ、女性が一メートル八○センチくらいが標準であり、かなり大きな体格でした。特徴のひとつは、男性には第三の眼が眉間のところにあったということです。ヨガで、チャクラとよく言いますが実際に、肉体的にもそこに眼があった時代であったのです。 現在は、二つの目だけで見ているような気もいたしますが、感覚的に見ても、霊視などができたりするため、やはりこの眉間のあたりで見ているような感じが、私はそうとう強くします。この時代の痕跡があるのだろうと思います。 この眼は超能力を発揮するときだけ開いたということですから、一つ目小僧のようでありますが、普段は閉じていて、いざ超能力を発揮するときにだけパッと開くのです。そうしますと、女性はそれが怖くてパッと逃げるわけです。そういうことで女性が従たる立場に置かれた、ということも言われています。 しかし、ゴンダアナの末期の神話として語られているものとして、「神は、人間の男女を平等につくられた。その証拠に、男性は、自分の身をまもり、一族の安全をまもるために、第三の眼が与えられ、女性は、一族の繁栄のために子宮を与えられた。」ということもあります。 おもしろい平等思想であると思います。この第三の眼によって超能力を男性は持っているが、女性も超能力器官を持っている。それは、一族の繁栄のための子宮であるというわけです。そして、この超能力器官によって、女性は霊天上界と交信ができて、子供となるべき霊を身に宿す前に面接試験ができたというのです。そして、両者合意のうえ、宿したということですから、現在のような人工流産もなかったようです。 内も子供が生まれてくる前に、子供と話をしていました。その会話もテープに収録してあります。一九八七年の四月くらいであったでしょうか。そのときには、すでに生まれてくるのがわかっていました。生まれる本人が「私がこれから出ます。」というので、その準備期間中のことであったようです。 それは、だいたい一か月と少し前くらいから生まれる準備を始めるらしいのです。そして、どのような人生を送るのかをテープに全部吹き込ませてあります。ですから、この計画と実績のズレを、これから分析することができるわけです。本人の計画と実際の人生がどうなるのか、これはまさに実験をしているのと同じで全部わかってしまいます。 約三〇分間くらいの時間をかけて自分の人生の予言をしております。本人に言わせれば、自分は勉強はあまりしたくない、だから、詰め込み教育は止めてほしい、しかし私は早熟の天才となるであろうなどと、いろいろと言っておりました。このようにして一生を予言しております。今後、彼の人生をたどっていくとおもしろいと思っております。 実際に宿るときはどうなるかということについてでありますが、肉体に宿る直前には、やはり交信ができない状態になるのです。生まれてくる前にカプセルのようなものに入るからなのです。 霊界には、そういった産卵場ではありませんが、何か生まれ変わりセンターのようなところがあって、そこにいき、やはりひとつのカプセルのようなもののなかに収まって、冬眠状態に入っていくのです。そして、霊体自体がひじょうに小さなものになっていきます。 ですから、一か月と少しの間は話ができなくなりました。交信がほとんど不可能な状態になるわけです。そして、その後、魂が宿った時期がいつであったかということを計算すると、満九週目に入ったときでありました。家内はそのとき大きな白い犬が出てきて遊ぶ夢を見たのですが、どうやらそのときに入ったようです。 そして宿ったあと、一週間くらいは話ができました。そのときは私もずっと話をしていたのでありますが、まだこのときには本人も大人の意識で、あまり変わりはありません。二か月ちょっと、三か月にならない胎児でありましたが、ずいぶん難しいことを言っていました。 これがやがて「バブバブ」としか言えなくなるのかと、かわいそうだなと思っていたわけですが、一週間くらいはしっかりしていたのです。その後赤ちゃんみたいなことを言うかと思っていますと、急に難しいことを言いはじめたりするという一定しない状態が三か月目ぐらいのあいだ続いていました。 そのうち意識的には、だんだんと赤ちゃんのようになっていきました。七か月目ぐらいに入ったときには、赤ん坊としての意識として話ができるので、おもしろかったです。 ですから、ゴンダアナのときはみんながこのようなものだったわけです。向こうの要求がわかりますし、こちらの話しも通じるのです。 テレパシーでも話ができるのですが、おもしろいことに赤ん坊の霊言もできるのです。言いたいことがあれば、私のロを通じてしゃべることができます。霊言自体は、たいしたことありません。「パフパフパフ」から始まって、何とかが痛いとか、欲しいとかが中心です。もう少し意識が目覚めていたときは、あまり勉強させられると困るというような内容でした。中国系の魂なのですが、家内が論語などを読んでいると、系統が違うものですから嫌がったりして、自分は勉強が嫌いだなどと言ってきたりしていたのです。家内が自転車に乗ったときには、揺れて頭を打ったのでしょう、「自転車痛い、乗るの止めて。」と言われたりして、それ以後家内は自転車に乗れなくなったのです。そのようなことを要求してきたこともありました。 魂が肉体に入っているので、普通の霊言とは少し違うようです。しかし、このような状況であると、普通の地上の肉体とは違って出入りがしやすいのでしょう。まことにおもしろいのです。胎児の言いたいことが、全部わかるのです。 ですから、ゴンダアナのときも、実際こうだったのだろうなと思います。胎教であまり英語はやらないでくれなどと、要求もいろいろするのです。みなさんも、もし女性でこれから出産される方で、霊道を開いたならば、お腹のなかの赤ちゃんと話ができるわけです。何が言いたいかが全部わかります。 それと、霊道を開いた場合の女性は、つわりがありません。つわりの原因は、たいていの場合、母親の肉体意識があまりにも三次元化してきているためで、それで苦しいのです。赤ちゃんが宿るときというのは、この子宮という霊能器官に宿るわけで、ブレが起きるのです。超能力器官ではあるけれども、心が澄んでおらず、錆ついていると、その意識のズレがそうとう出てきます。このときに、つわりが起こるわけです。ですから吐いたり食べ物の好みが変わったりするのも、このようなときです。なかなか合わないところにむりやり魂を押し込むので、それで何か変調をきたすわけです。 また、女性の霊意識が低いところに、もう少し高い意識を押し込むときにも、よくつわりが起きます。それで、霊道を開くとつわりがゼロになるわけです。まったくバイブレーションのズレが起きないのです。 このようにおもしろい結果をずっと分析しています。追跡調査をずっとしてみたいと思っています。本人の予言がどこまで当たるか、何十パーセント的中するのかを調べてみれば、たいへんおもしろいと思います。あと、三〇年くらいすればそれを発表するかもしれませんので、みなさんに長生きをしていただきたいと思います。 ③目の色と超能力 ゴンダアナでは、八つの民族が入り乱れて覇を競っていたので、外敵から身を守る必要があり、第三の眼がひじょうに使われていました。この眼には、黄色、緑、紫、黒、灰色、茶色という色があり、民族によって超能力の発達の度合いが違っていたようです。この六つの色の眼のどれにも共通しているところ、いわゆる念力的な部分は、強弱はありますが、だいたいみな持っていました。つまり念による物理的な力で、相手を金縛りにして、身体を動かせなくすることくらいのことはできました。このように出口王仁三郎のような世界では、霊力の強いほうが相手を縛れるわけです。 黄色い眼の特徴を言うとすれば、読心力、マインドリーディングの力がひじょうに強かったようです。緑の眼を持っていた人は、音感あるいは音楽的な超能力にひじょうにすぐれていました。紫系統は臭覚的感覚が特に強く、黒い眼に特徴的なのは霊視能力で、いわゆるオーラが見えたり、霊体が見えたりする能力が強かったのです。さらに灰色は霊聴能力が中心で、茶色は予知能力でした。 このように中心的な念動力といいますか、それぞれ特徴のある最高パワーをもっていたわけなのですが、これ以外にも六大神通力に値するような部門をいろいろもっていて、技を競い合っていました。 各民族の秘伝の部分があって、そこの長がおりまして、その部族の霊能力や超能力を高めるべく磨き合い、訓練に訓練を積むわけです。たとえば、霊視能力であれば、その能力を開発して、はるか地平線のかなたにいる相手を見えるようになるために訓練するわけです。もちろんそれは第三の眼でみているわけであって、しばらく見つめていると、拡大図のように近づいきてその様子がわかるわけです。 こういう訓練をやっていますと、忍者のように千里先の針が落ちた音がわかるというように、地に耳を伏せて遠くの音を聞いただけで、だいたい敵が何人ぐらいいて、どのような装備をしてきている、ということがわかるようになるのです。 ④文明の盛衰と霊界への影響 このような時代も、それなりにおもしろかったと思いますが、残念なことは「心」がなかったということです。そしてこの大陸消失後、これが仙人界、天狗界、魔術界等の源流になっていったということです。 霊天上界にはいろいろな世界ができているわけですが、このように一つの特別な世界ができる原因は、地上でやはり大量にそうした方面で生きた人が多くいて、それがまとまって天上界にあがったというところにあるようです。そして、その一つの世界が天上界にできると、そこでまた拡張力を発揮するわけです。そこでも、いろいろな新参者を連れてきて訓練させたりして、仙人の世界や天狗の仲間を増やしていきます。そして人数が増えてくれば、また地上に送りこんで地上の仲間を増強したりしてがんばっているのです。 あまりにも異常に大きな数の、同じような傾向性を持った魂が教育によってつくりだされた場合には霊界にもそのような影響が出てきます。 そして、やはりそういう集団がだんだんとどこかに場所を借りて住みはじめ、拡張しはじめます。そのようにしていろいろと変わっていくのです。霊界でも指導霊団の力、実績というものは変わっていきます。ですからイエス様が地上に出たときなどは白色系団がそのあと活動して天上界で邑(むら)をたくさんつくりました。そのあとに、また地上に出てキリスト教を広めたりして、よく教育していきますと、その教育を受けた人が、また広げていきます。他の霊系団も、このような感じで活動しています。 みなさん方のなかにもだいぶこのゴンダアナの時代に生きていた人がいらっしゃると思います。 ⑤ゴンダアナ文明の滅亡 「七十三万五千年前の秋の、ある夕暮に大地からゴーというすさまじい地鳴りがしたかと思うと、ゴンダアナ文明の中心都市のひとつであるエカーナという大都市の中心に、南北に亀裂が入り、みるみるうちに大地に断層ができてきました。最初の断層は、南北百キロぐらいでしたが、やがて、海水が入りはじめて分裂の兆候を示してきたのです。第二段目の変化は、それから三日目におこりました。マグェチュード10ぐらいの、強烈な直下型地震です。約三十万人のエカーナの住人は、この日、死にたえました。」と『太陽の法』に説明されています。このエカーナがどのあたりにあたるかというと、現在でいえば、やはり大西洋域になります。エクアドルの北東の方向で、ヨーロッパとの中間点のところにあったようです。 これは、文明の滅び方を見ればよくある話であるということがわかると思います。それから、ゴンダアナの東南部にはエルミナという都市があって、そこに住んでいたエルミナ族は予知能力がひじょうに発達していたので、一部の人はあらかじめ逃げることに成功しました。そして南方にあった無人の大陸に逃れていきました。 このエルミナは、どのあたりに位置していたかといいますと、これが現在で言うとブラジルのサンパウロのもう少し北のほうで、やはり海域に相当しています。そして、この予知ができる部族が海路南に、逃げたわけです。 この南に無人の大きな大陸があり、この大陸が実は現在の南極大陸と八割くらい重なっている大陸で、いまの南極は寒帯にありますが、当時は地軸がずれていて、比較的温暖な大陸でありました。小麦によく似た穀物がひじょうによくとれました。そしてここにミュートラム文明という三〇万年前から一五万三千年ぐらい前ころまで栄えた文明が出現しました。 5.ミュートラム文明と食文化 ここで特に発達した文明は、食生活の文明です。このあたりにきますと思いあたる人がそうとういらっしゃると思います。食物をどのように組み合わせて食べることが人間性にとって役立つかという、食生活と人間の精神生活との関連性が、徹底的に追究されていました。どういう植物を食べると人間の気質が穏やかになるか、あるいは、どういう精肉を食べると筋肉に瞬発力がつくか、乳製品を一日に何回、どのくらい食べれば長寿が得られるか、脳細胞の活性化に役立つかということが熱心に研究されていたわけです。 たとえば、当時もビーールに似た泡立ってアルコール分のある飲み物があり、それを飲むと気質がひじょうに穏やかになるということも研究されていました。アルコールにも種類によっていろいろな効用があって、ビールに近いようなものは、人間の性格を穏やかにさせていくけれども、その当時にあったブランデーに近いような飲み物は、人間を多少狂わせたりするような力があるとか、あるいは当時の、ワインに近いような飲み物は、高級な精神生活に向いているなど、このようなことをずいぶん研究していたようです。 食物でも乳製品が当時、流行(はや)っていて、農業国であったのですが、酪農に近いものが行なわれていて乳製品をいろいろと研究していました。現在ではミルクとして飲むか、チーズあるいはバターというように、乳製品はこの程度の種類しかないと思いますが、この時代にはもっと研究されていて、何百種類もの乳製品がありました。私たちは、まだそれほど研究心がなくて、チーズかバターくらいでよいと思っていますが、当時はひじょうに研究がなされていたわけです。 この乳製品についても、やはりどういうミルクでつくるかということが、ずいふん課題とされていました。この当時の牛は現在よりも少し小さめでしたが、育て方、飼料の与え方等でどういうミルクを出すか、ということが熱心に追究されていました。それと牛以外のほかの動物のミルクも、ずいぶん消費されていました。 ①パノアのミルク 狼に似た動物のミルクも一生懸命採取していました。その動物は狂暴で家畜にならない種類のものであったのですが、そのミルクは、ひじょうにおいしかったのです。山に棲(す)んでいて、歯がすごい動物でした。ですから、これから乳を搾るということはなかなかの大仕事で、これをどう捕まえて乳を搾り、またそれをもとの野性の状態にどうやって戻すかということが問題でした。山に、ある程度の囲いをつくって、勇士が山に登っていき、バケツを持って搾りにいくわけです。 それはとても大変な作業で、そのための訓練も施されていまして、その狼牛からミルクを搾るために筋力トレーニングも行なわれていて、格闘技の前身にあたるようなものが、そうとう開発されていました。その動物を押え込んでいかに噛まれずに乳を搾って帰れるかという方法が工夫されていました。これは、投げ縄をつかうカウボーイのやり方に近い方法でした。武器としては縄に近いもので、長さが一メートルぐらいの仕込み棒で、中が空洞になっていて棒の先から輪がついた縄が飛び出すような仕掛けになっていたものです。飛び出す縄全体の長さは、だいたい四メートルですから、それぐらいまでは近づかなくてはならないのです。ですから、柵をつくって、音楽隊のように太鼓をたたいたりして、追い込みをするのです。その柵のなかに狼牛を追い込んで、仕込み棒を使い投縄を飛ばして狼牛の首にかけます。 この投縄は、仕込み棒についているボタンを押すことにより狼牛の首を締めるようになっています。首が締まって「フーフー」いっている狼牛にまたがって、もうひとつの伸縮性のあるバンドのような武器をだして、それをロにかけます。ゴムのようになっていますから、「キューッ」とロを締めてしまいます。そしてそのときにもう一人が出てきてこの狼牛からミルクを搾るのです。 この狼牛のミルクはひじょうに高価で、飲めば長生きするといわれていたのです。当時、研究はいろいろありましたが、とくに、長生きの秘訣、不老長寿の薬がそうとう研究されていて、不老長寿の薬が、三種類あると言われていたのです。その一つが蜂蜜のたぐいです。現在の蜂蜜のたぐいのなかに不老長寿のエキスがあるといわれていました。 もうひとつは、この狼牛の乳に長生きする素(もと)がはいっているという研究報告がありました。なぜそう思われたのかといいますと、この狼牛はひじょうに精力的な動物であって、そのうえ動物のなかでも長寿であり、また繁殖力がたいへん強く、ものすごく生命力が旺盛であったので、それにあやかろうという考え方があったわけなのです。この狼牛の名前は、「パノア」と呼ばれておりました。 このパノアのミルクは、このような危険を冒して手に入れるものですから、現在の経済原理からいっても、これがどれだけ高価になるかということがわかります。このミルクは現在でいえば、ワニ革くらいの値打ちがある貴重品でした。ですから、だいたい王侯貴族の経済力がないと、飲めないものでした。 それゆえ、一般の人は、経済力をつけて早くパノアのミルクが飲めるようになりたいとか、ある島でとれるあの蜂蜜が飲めるようになりたい、そしてもうひとつの不老長寿の薬としてクロレラの先祖にあたるものを手にいれたい、という思いが強くありました。このように長寿の研究が進んでいたので、その結果、この時代にはけっこう長寿の者が多かったようです。 ②食物と人間の精神 魚の研究もずいぶんされていました。魚の料理方法なども、現在よりかなり進んでおりましたし、それぞれの魚の味に対する好みも厳しかったのです。どういう香辛料とあわせるといちばん美味しいかということが、徹底的に探究されていました。今の西洋人はそれほどではありませんが、ギリシャなどでは現在でも魚料理の研究が盛んなようです。 この時代に高級魚とされていた魚は、鯛ではなくて、イトヨリの親戚のような魚でした。それはなぜかといいますと、いろいろな分析の結果、つまりエネルギー量換算や、健康度、成分の分析、美味しさの分析というようなものからいくと総合的に一番であったためです。鯨に近いものもいましたが、大きな生物であったので、海の神というように呼ばれ恐れられていました。鯨を見た場合には、漁師は逃げていました。鯨は食用ではありませんでしたが、鮫は食べていました。フカヒレスープに近いものの研究は進んでいて調理法もいろいろありました。 そして、食生活部門ごとに長寿博士あるいは耐久力博士や、記憶力増強博士など、いろいろな博士部門がありました。ようするに、食品と精神のかかわりを徹底的に追究していたわけです。考えてみますと、あるいはそういうものかなという気もいたします。 もしみなさんが、子供のころから、人間の基礎は食品であって、これがないと人間は死んでしまうし、食べ物によって人間の発揮する能力、あるいは精神状態が左右されるのだから、食物と精神のかかわりを研究していくことが最先端の学問であり、一番の叡智者、知恵ある者が行なう仕事である、と言われていたならば、ある程度納得されるのではないでしょうか。確かに食品は万人に必要なものであるし、それでどのようなものを食べればどうなるのか、気質が穏やかになるのか、乱暴になるのか、崇高な精神になるのか、ということはだいじな問題だということです。 ですから、その当時一生懸命研究した人が、今世生まれ変わってきますと、だいたい食品の研究家や、美容食研究家などというようになるわけです。食物と運命の研究家のようになって出てくるのは、だいたいこのころにやってた博士たちがやはり出ているのです。このように、ミュートラム文明は食生活と人間の気質についての膨大な研究を残しました。 このころの研究と比べますと、やはり現代食生活の研究は、数段遅れています。また料理法などもあまり進歩しているとは言えません。ここ何千年かでみれぱ進歩しておりますが、人類の長い歴史、何億年の歴史からみれぱ料理法は決して進歩はしていません。いまでは信じられないような料理が過去にはたくさんありました。そのときに活躍した人が今、生まれていて、時どきパーニャ・パラミタを出して、過去世の料理法を思い出したりしてつくるのです。 ③エミューラの改革 ただこのときに、ひとつの唯物思想のはしりが出てきました。食生活に関心が移ったために、本来の使命である魂の研究、修行がおろそかにされてきたということです。このミュートラムの最盛期は一六万年前くらいになりますが、モーゼとのちに言われた人、当時の名前はエミューラという名前でありましたが、このエミューラ大師が地上に出たときに、「食生活から心の生活へ」というスローガンのもとに精神革命を起こそうとしました。 しかし、これは失敗したようです。それほど深く食生活を研究し食を愛していった人たち、いわばグルメの大群のような人たちに真向から「食物じゃないです。人間は心です。」と言ったところで通用するかどうかです。実際には異端視され、大変な苦労をし、迫害を受けました。ただ功績としては、食生活だけではない何か別のものが、人間性に影響があるのだというイメージだけは植えつけることはできました。この図式は現代の唯物思想とたたかう宗教のはしりに近いともいえるでしょう。