約 165,730 件
https://w.atwiki.jp/lwetoho/pages/512.html
冬木 弘道 実在の選手 基本用語集トップへ戻る 冬木 弘道(ふゆき こうどう(本名:ひろみち) 1960年5月11日 - 2003年3月19日 1979年、国際プロレスに入門後、全日本プロレス→SWS→WAR→FMW→WEWと渡り歩く。 全日本時代は天龍源一郎の付き人を務め、同じ若手であった三沢光晴と仲がよかったと言われる。 海外遠征後「サムソン冬木」とリングネームを改名。後に天龍が起こした「天龍同盟」に参加。 後に同士である川田利明とタッグチーム「フットルース」を起こす。 その後、大将格である天龍源一郎がSWS(後に崩壊)、WARを起こすと移籍。 この頃、本名にリングネームを戻し、主要イメージとなる、「理不尽大王」を自称。 正統派プロレスが多いWARの中、リング上でコントを披露する等、「怖さ・悪さ」だけでなく「ユーモア」を含めた 今までに無いヒールイメージを植え付け、「冬木軍」として、邪道、外道と共に異色の存在感を示す。 後に、リングネームの「弘道」の読み方を「こうどう」に変える。 WARを離脱後、冬木軍プロモーションを起こし、FMWに参戦。チーム・ノーリスペクトを結成。 リング内外を牛耳るパフォーマンスやハヤブサ達正規軍との戦いで今まで以上に 「理不尽」さを発揮したヒールぶりが見られた。 FMW活動停止後、2002年3月にエンターテイメント性を主体にしたWEWを旗揚げ宣言。 2002年4月7日、プロレスリング・ノアにて三沢光晴と15年ぶりのシングル戦を行い、 正統派プロレスでも高い技術を見せる。 しかし、2日後に直腸ガンを理由に引退宣言。4月14日にノアの全面協力の下、引退試合を行う。 (この時の収益金は全て、冬木に送られたといわれる) 5月5日にWEWの旗揚げ戦をプロデューサーとして見守る。だが、既にガンは転移しており、2003年3月19日に逝去。 葬儀の場では、今まで慕ってきた者、対立していた者を含め、多くのレスラー達の彼の死を惜しむ声があった。 皮肉にも、2ヵ月後に橋本真也との一夜限りの電流爆破デスマッチが決定した後だった。 得意技は寄声を発し、突撃する地団駄ラリアット、小指の角度が違う冬木スペシャル等 このページを編集
https://w.atwiki.jp/hamilton/pages/407.html
進藤 達哉 しんどう たつや 1970.1.14生まれ 富山県出身 高岡商高から 88年ドラフト外で横浜(当時大洋)入団。 01年小川博文との交換トレードでオリックスへ移籍、 03年現役引退。 04年から古巣横浜の内野守備走塁コーチをつとめる。 07年オフ、球団が来季契約を結ばないとの報道がなされた。 07年10月10日現在では「球団職員になる見込み」もしくはフロント入り打診を保留している、との記事がある。 http //sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/headlines/20071010-00000023-kyodo_sp-spo.html http //sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/headlines/20071010-00000176-jij-spo.html 08年からスカウトへ転身。 生涯成績 .239 104本 412打点 97〜 99 ゴールデングラブ受賞 ベイスターズとなってからの最初の白星をもたらすサヨナラ満塁弾を放つ 98年リーグ優勝試合での勝利打点もこの人 その代わり日本シリーズでは全く打てず、9三振という1シリーズ最多三振の記録を作る(NPB 98日本シリーズ試合結果) 皆が打てないときに打ち、皆が打つときに打てない パンチ力のあるその打撃により、4番をつとめたこともある 守備の天才。本人曰く「プロで生き残るために何か一つ秀でたものを作りたく必死で練習した」古木も見習え なのにオリックス時代はDHもつとめたことがある 引退試合には鈴木尚典と相川亮二が観戦に来て、スタンドで伝説を残した。(芋ジャー事件) コーチとなってからエラーの恥ずかしさを選手に理解してもらうため特別編集の「横浜ベイスターズ珍プレー集」を制作する。是非我々も見たいものである。詳細 顔文字は(ー×ー)人柄の良さからか、さん付けで呼ばれる。 外国人選手ともコミュニケーションを取るのが上手。古木も見習え ☆☆2007横浜実況スレ8/28中日戦エピローグpart2☆☆ 911 :ホッシー君@ただいま :2007/08/30(木) 17 35 27 まあ明日から巨人戦だし三浦スライドだとは思ったけどな しかし川上と投げ合って勝ったことあったかなぁ・・・ 927 :ホッシー君@ただいま :2007/08/30(木) 17 42 42 911 1999/09/19 横浜vs中日 第25回戦(横浜スタジアム) 主審 渡田、塁審(1)佐々木 (2)谷 (3)西本 中日 000 000 000 0 横浜 010 000 00× 1 勝:三浦(完封) 負:川上(完投) 本:進藤ソロ(川上)
https://w.atwiki.jp/hamusenwiki/pages/600.html
1991年2月3日生まれ。石川県出身。 読み方は「やち りょうた」 2012年にドラフト6巡目で大学を経てヤクルトに指名される。 高校時代はショート兼控え投手、2年時まで自分がプロ野球どころか大学野球も考えていなかったが、主将となり春の県大会に優勝したことがきっかけで自信につながったが、甲子園出場はなかった。 大学は國學院大學へ進学、1年時よりサードのレギュラーとなる。2年秋に野球部創部80年で初の優勝を経験した(関連後述)。その後自らの希望でショートへコンバート。3年春は最下位となり入れ替え戦でも敗北して2部へ降格。 4年時には主将となり春に2部で優勝してMVP、入れ替え戦を勝ち上がり再び1部へ昇格すると、秋にはショートでベストナインを受賞した。 ヤクルト入団後のルーキーイヤーは唯一開幕1軍であったが出場機会のないまま2軍へ、それでも6試合に出場。 14年シーズンはキャリアハイの43試合に出場、15年は侍ジャパン大学日本代表との試合にNPB選抜として同僚の西浦に代わって出場、岸里とチームメイトになった。 16年シーズンは同年4月19日の対阪神で左手首に死球を受けて手術を受け、8月7日に復帰した。 同年12月11日に秋吉と共に高梨裕稔・太田賢吾との交換トレードでハム入りが発表。 19年春季キャンプはアリゾナ組。同年の開幕メンバーに名前を連ねた。同年4月23日の対楽天にて移籍後初ヒットを放った。 20年12月2日に全内視鏡ヘルニア摘出術(FED)を受けた事を発表した(試合復帰まで3か月)。 22年シーズンは移籍後初失策(同年4月27日の対オリックス)やプロ初サヨナラ打(同年6月10日の対中日)など初物づくしとなっている。 23年シーズンは7月5日にファーム行きとなりそれ以降は昇格もなかった。同年9月19日に現役引退を発表、9月26日に引退会見をし、翌日の27日の対ロッテにて7番サードでスタメン(後述)、第1打席にてタイムリーツーベースを放ち、最終打席はショートゴロだった。同年10月30日に1軍内野守備走塁コーチへの就任が発表された。 エピソード 大学2年の明治神宮大会で当時九州産業大学にいた榎下さんと対戦、3安打を放ったことがプロを目指すきっかけになった模様である ロニーからアミーゴ(親友)認定されている模様。 引退試合ではサード→ファースト→セカンド→ショートと内野全てのポジションを守り、5回表に一度ライトへ着く。守備機会はなかったものの、ファンに最後の別れをと監督のはからい、最後は監督と抱擁。また引退セレモニーにヤクルト時代に守備のお手本だった宮本慎也さんとジェームスと共にラスト守備を行った。またエスコンFでの引退セレモニーは初の事であった。
https://w.atwiki.jp/yakult/pages/23.html
佐藤真一 佐藤 真一(さとう しんいち、1965年8月7日 - )は日本の元プロ野球選手。北海道出身。ポジションは外野手。右投げ右打ち。北海道拓殖銀行、バルセルナオリンピック日本代表を経てプロ入り。実働13年。40歳を迎えるまで現役選手を続けた。 ==来歴・人物 == 28歳で入団した福岡ダイエーホークス在籍時には、背番号7を与えられ期待されるも控えに甘んじる。しかし、当時の根本陸夫監督が、4番を打っていた秋山幸二が負傷欠場した際、他の選手の打順を繰り上げたりせずに佐藤を4番で起用した、ということから、打撃センスを見出されていたと思われる。 ヤクルトスワローズに移籍後も、野村克也監督時には守備堅め中心の起用だったが、若松勉監督のもと1999年は、シーズン途中6月からシュアな打撃で3番に定着。113試合に出場し、規定打席未到達ながら打率.341と打撃の才能を開花。25試合連続安打は現在もスワローズのチーム記録である。晩年も代打の切り札的存在としてパワーある打撃、驚異的な代打成功率など、その持ち味を発揮した。 フルシーズンの活躍といった目覚しい活躍はなかったものの、早々と引退したり自由契約という形で選手生命を絶つ人間が多い中、2005年40歳まで現役を務めた。見た目、生涯成績とも総じて目立つところない選手であったが、玄人好みの代打屋として若松監督のみならず、ファンからも信頼された。若手選手からの人望も厚く、2006年から古田敦也選手兼任監督のもと、スワローズのコーチに就任している。 なお、生え抜き選手・有名選手以外では珍しく、引退セレモニーも行われている。(現役最終打席も代打で出場。あわや本塁打というライトフェンス直撃の二塁打を放つ) また学生時代、勉学は常に学年でトップクラスの成績。更に野球部の中心選手で「文武両道」。東海大学付属第四高等学校時代には「松前賞」を受賞。 ==略歴 == 東海大四高から東海大を経て、たくぎんに入社。 1992年 バルセロナオリンピックで全日本の3番を打ち、銅メダル獲得に貢献。 1993年 ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団。背番号は7番。 1996年 トレードにより、ヤクルトスワローズに移籍。背番号は00番。 1999年 規定打席未満ながら打率.341をマーク、25試合連続安打の球団新記録も達成。 2000年 背番号を8番に変更。 2005年 10月11日対横浜ベイスターズ戦を引退試合として現役引退。 2006年 ヤクルト一軍守備走塁コーチに就任。背番号は82。 ==略歴 == 629試合 .261 1440打数 376安打 36本塁打 155打点 25盗塁 引用元 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9C%9F%E4%B8%80
https://w.atwiki.jp/yakultsen/pages/131.html
真中満 代打の神様 大回転打法をあやつる。 内角打ちのうまさは有名で、スイングする時に駒の回転を意識するという。2001年の日本シリーズ第3戦で香田勲男から放った本塁打で「回転ホームラン」という言葉が生まれた。 2007年、横浜スタジアムでの対横浜17回戦の8回に代打で出場すると寺原から三塁内野安打を記録。これでシーズン代打安打は27本となり、代打成績が集計されるようになった1962年以降、1969年に26安打を放った東映の三沢外野手の記録を抜き、記録更新となった。また、このシーズンは代打起用回数実に98回を数えたが、これは1964年の東映・島田外野手の90回を上回るものだった。なお、この年の代打成績は97打席94打数31安打で.330! バレンタインデーに石鹸を送られるというネタ的にも伝説に残る選手(後に古田のいたずらであることが判明) 2008年に度会選手とともに戦力外通告を受け引退…orz 俺たちの禿…いや、宮本キャプテンは「若い時、いつも一緒で嫁さんより長い時間一緒にいたんじゃないかな。1、2番を長い間打ってあいつのおかげで犠打記録も作れたし、思い出は尽きません。」とのこと…。 ん?アッー! 2008.10.4のファーム日本選手権(対福岡ソフトバンク戦)では3番DHで先発出場、一二塁間を破るライト前先制タイムリーを打つ。そしてこの試合で優秀選手に選ばれた。本人は「最後の最後に色んな経験ができました。二軍で優勝させてもらって、野球人として色んな経験ができた。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。引退する年に受賞する人なんていないと思う(笑)。チームに長い間お世話になったので、これからはチームのために力になれたらと思います。」とのこと…。 引退試合となった2008.10.12の横浜最終戦で、8回裏に代打で1番の大歓声を受け登場。最後の打席は三振に終わった。ちょっと中途半端だったのはご愛嬌!?引き続き9回表には役最後となるライトの守備につき、ライトスタンドから精一杯の声援を受ける。 引退セレモニーでは「皆さん、こんばんは。ボクの最後の試合に足を運んでいただき、本当にありがとうございました。最後の最後でみっともない三振、すみません。こんなにもボクを応援してくださるファンがいたことに初めて気がつきました(笑)。本当にすばらしいチームメイトに恵まれ、本当にいい野球人生を送ることができました。いつも惜しみないご声援を送ってくださったファンの皆さん、本当にありがとうございました。感謝しています。ボクは今日でユニフォームを脱ぎますが、これからヤクルトはどんどん勝っていくチーム。これからもご声援よろしくお願いします!」と、引退4選手中で1番の笑顔でのスピーチだった。 現役引退後は2軍の打撃コーチに就任。大回転の量産にやる気マンマンか!?
https://w.atwiki.jp/hamusenwiki/pages/663.html
1988年9月13日生まれ。東京都出身。 本名は「木村文和(きむら ふみかず)」 2006年にドラフト1巡目で高校を経て西武に指名される。 小学よりソフトボールを始めて1番ピッチャーとしてエースであった。 高校は埼玉栄に進学、1年時は外野手だったが、2年生から投手でエースとして活躍も高校時代は甲子園に出場経験はなく県大会決勝止まりであった。 ドラフトでは増渕の外れ1位で指名されて入団に至る。 ルーキーイヤーの」07年は8月31日に対楽天で中継ぎ投手でデビューもこの1試合に留まる。2軍では優秀選手賞を受賞し、この年の冬ではウィンターリーグの派遣選手となる。 翌年も2軍中心で登板、先発ローテーションを守ったものの結果は残せず。2年連続でウィンターリーグで経験を積む。 09年はWBC強化試合にも選出されたり期待されていたものの1軍定着に至らず、オフに「文紀」に改名。その後は怪我などに苦しめられた事もあり、12年9月に外野手へコンバートが発表。 13年は転向後1軍キャンプメンバーに選抜も開幕は2軍で迎える。同年5月20日にけがで戦線離脱した選手に替わり1軍昇格、同年5月28日の対DeNAでプロ初安打が初ホームランとなり初打点を記録、以降は1軍の試合にも出場も持病の腰痛に悩まされてきた。 21年は開幕スタメンも同年4月13日に腰痛で登録を抹消。後に再昇格も出場機会に恵まれず、更に新型コロナでの濃厚接触者と判定して再び抹消の憂き目に。以降2軍の試合でホームランを量産も1軍の出場機会に恵まれず、同年8月12日に佐藤龍世⇔公文克彦・平沼翔太との交換トレードでハム入りが発表された。イースタンでの出場を経て同年8月24日に1軍昇格、その日の対ロッテで8回に代走として出場、そのままライトの守備についた。翌日の25日の対ロッテではスタメン出場、犠牲フライを放った。22年シーズンより背番号が36に変更となる事が発表された。 23年シーズンは故障が多く2軍暮らしが長くなった。同年9月18日に現役引退を表明してエスコンで会見。同年9月20日の対西武にて4番ライトでスタメン出場(後述)、4回にツーベースを放ち有終の美を飾った。 エピソード 愛称は「キム」、「カルロス」。テーマカラーは赤だった。 お父様は白老町出身との事で幼少期に訪れたことがあるとの事。 23年9月20日の引退試合での4番ライトは予告スタメン、3回の西武側レフトへの守備交替はいずれも監督の粋な計らいであった。試合終了後の引退セレモニーでは両軍選手による胴上げも実施された。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/19653.html
登録日:2009/11/25 Wed 04 16 34 更新日:2024/01/10 Wed 23 33 51 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 アニヲタ野球選手名鑑 トレーバー プロ野球 プロ野球選手 伝説の投手 八代市 千葉ロッテマリーンズ 園川一美 投手 格 格が無い 熊本県 野球 開幕投手 そのかわ かずみ かつてロッテにて活躍した投手。熊本県八代市出身。 記録よりも記憶に残る選手の代表とされ、今でもネタにあがる程である。 ◆ドラフト指名 時は1985年、当時日本体育大学のエースだった園川。 ドラフトでは4球団が競合の末、ロッテ(当時はロッテ・オリオンズ)が指名……も、園川は納得がいかない。 この年の、ロッテの1位指名は高校生の石田雅彦。 『なんでこの僕が2位指名なんですか!』という名言を残し、 ノンプロのプリンスホテルへ進むことを決心するも、ロッテはドラフト指名から12日間園川を放置プレイ。 結局「石田より契約金を高くする」など、ちょっとした交渉の末園川はあっさり折れ、ロッテに入団。 ◆初先発 初先発はルーキーイヤーの10月15日の南海戦。なんと無四球での完投勝利であった。 ルーキーが初先発で無四球完投! そんな新聞記事は紙面の隅にちょこっと書かれるのみだった。 原因は2つ。1つ弱小球団ロッテが消化試合に突入していた事。 そしてもう1つ、ミスターロッテ・有藤道世がこの日に引退を表明したのだ。園川かわいそう。 ◆飛躍と伝説 翌87年は先発ローテーションに定着、まあまあの活躍を見せる。 5月23日、柏崎佐藤池球場での南海戦。 この試合はパ・リーグ史上(現在)最後のサスペンデッドゲームだが、この時のロッテ側の投手は園川だった。(*1)なにやってんの園川。 9月2日の南海戦では13失点(自責点は7)を喫するも完投。このわけわからん記録は今でもパ・リーグの最多失点完投記録である。 しかも次の登板機会だった8日の日本ハム戦では完封。わけわからん男である。 88年10月19日。日付だけでピンとくる人もいるだろう、 パ・リーグ最も長い一日として今でも語り継がれている所謂「10.19」である。 川崎球場での近鉄戦。ダブルヘッダー第1戦は9回2死、梨田の代打決勝タイムリーにより近鉄が勝利。 近鉄にとってシーズン最終戦第2戦に勝利すれば、西武を抜き逆転優勝できるものの、引き分け以下ならば優勝を逃す……。 この近鉄戦に、ロッテ側の先発はなんと園川。7回2/3を投げ4失点。ご存知の通り近鉄は優勝を逃した。 『ザマアミロ、って感じがありましたね。勝っても負けても憎まれ役だってことは分かってましたから』 『優勝が決まる試合だろうが、そうでなかろうが、同じようにやってるんです』 園川、お前ってやつは……。 89年には規定投球回に達するも防御率6.10、当然リーグワースト。 しかしながらこの年園川は奪三振率1位を記録。なにやってんの園川。 91年の近鉄戦、園川によるトレーバーへの厳しい内角攻めの末の死球に対し、トレーバーは激高。 メタボ体型のくせに意外と足の速い(この年盗塁11個)トレーバーに外野まで追いかけられ捕らえられた挙げ句、ボコボコにされる。なにやってんの園川。 ちなみにトレーバーはその後も大暴れ。 退場宣告を受け乱闘も一段落したかと思いきや、何があったか再び激高。 ロッテベンチに向かって突進するも足がもつれて転倒。 起き上がろうとした所を丁度そこにいた当時ロッテの監督だった金田正一に顔面を蹴られた。なにやってんのトレーバー。 その後しばらくフツーの成績でフツーに、特に事件もなく投げ続けた園川。 3年後の94年9月20日のオリックス戦。現マリナーズのイチローが、 パ・リーグ史上初めてシーズン200本安打を達成した日だったが……この200本目を打たれたのが園川だった。 この時のコメントがまたすごい。 『いや、別にボク1人で200本打たれたわけじゃないですし』 ( ゚Д゚)ハァ? ちなみにこの年の対イチローは18打数13安打。 打率.733でカモられた園川はイチローのシーズン200本安打に大いに貢献した。 しかし翌年95年は12打数3安打1本塁打打率250と大幅に改善している。 ◆開幕投手、そして引退へ 96年には開幕投手を務め、4回2/3で降板するもロッテの開幕戦勝利に貢献。 しかし当時、小宮山、ヒルマン、伊良部という3本柱を差し置いて開幕投手に抜擢されたため、 対戦相手のダイエー・王監督に『開幕投手には格っていうものがあるだろう』などとボロクソに言われる。 この時の園川のコメントが、 『仕方がない、俺だってそう思う。開き直ってやったよ』 ちょっとは反論しろよ園川。 このワンちゃんの呪いか、この年は0勝7敗に終わってしまう。 その後あまり良い成績を挙げることができず、99年10月3日、本拠地千葉マリンスタジアムでの最終戦で園川の引退試合。 浜名・柳田・柴原を抑え見事三者凡退に斬り、有終の美を飾った。 通算成績は76勝115敗、投球回1543、防御率4、32と超一流選手ではなかったかもしれないが、一流選手ではあった。 試合後のセレモニー。 『皆様、いままで私に勇気と力を与えてくださりありがとうございました。来年もチームに勇気と力を与えて下さい』 短い挨拶ではあったが、その言葉はロッテファンの心に大きく響いた。 決して目立つ選手じゃない、ただただ、心と記憶に残る選手だった。 ありがとう。園川一美。 さよなら、園川一美。 が。 その後行われた神戸でのオリックス戦に敗戦処理として登板。 引退試合台無しじゃん。 園川は最後まで園川でした。 ここまで主なエピソードを書き連ねてきたが、とても文章には表せないほどある意味魅力的な選手である。 ちなみに現在はロッテの球団職員とのこと。 園川『いや、別にボク1人で追記編集したわけじゃ……』 園川さんのためにも追記編集お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 不幸...って程では全然ないんだけど、「かわいそうな野球選手」と言われて真っ先に思いつくのはこの人w -- 名無しさん (2016-10-04 20 30 21) 今現在はロッテを退団してスポーツ用品店勤務だと聞いた。またいつか球界に復帰して欲しいな。 -- 名無しさん (2019-11-27 18 49 50) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/anapangs/pages/301.html
柴田倫世をお気に入りに追加 柴田倫世アナとは 柴田倫世の52%は知恵で出来ています。柴田倫世の47%は株で出来ています。柴田倫世の1%は信念で出来ています。 柴田倫世アナ@ウィキペディア 柴田倫世 柴田倫世アナの報道 松坂大輔&東尾修、プロ野球人生を振り返る特番放送 入団交渉の裏話も:山陽新聞デジタル|さんデジ - 山陽新聞 里田まい、夫・田中将大と頬寄せ合う密着ショット「ラブラブ」「幸せオーラが半端ない」 - 中日新聞 妻夫木聡、松坂大輔との2ショット写真公開「いっぱいの感動ありがとう」 イチローのサプライズ登場に感激も - 中日新聞 大谷翔平の私生活は謎だらけ…オフは婚活の貴重な時間、玉の輿狙いの女子アナたちは?(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 女性アナとプロ野球選手の結婚が減っている事情…「付き合ったら結婚するしかない」90年代、00年代にあった“現場の”価値観(Number Web) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 松坂大輔、日本シリーズ第3戦でゲスト解説 デビューの地・東京ドームで中嶋聡監督の采配を中継 - 中日新聞 ニッポン放送VS文化放送…今、始まった「言葉の力」抜群の松坂大輔&斎藤佑樹争奪戦 - auone.jp 「5球しか投げていないのに、翌朝は腕も肩も背中も強張って起き上がれなかった 」 “平成の怪物”松坂大輔が語った、引退試合を行うことが“嫌だった”理由 - ニフティニュース Dream Ami『鬼滅の刃』禰豆子に仮装 Aya&Shizukaも登場「禰豆子と煉獄さんの靴…!」(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 木村沙織、夫との2ショット公開「素敵な笑顔!」「幸せが伝わってきます」(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 前田健太投手、妻と『トイ・ストーリー』コスプレ披露「奥様、相変わらずナイスボディ」「ラブラブ夫婦」(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 巨人・岡本和真、登場曲の理由はサザンを「好きになってもらいたい」:山陽新聞デジタル|さんデジ - 山陽新聞 松坂大輔の妻・柴田倫世の“内助の功”にネット民からツッコミ殺到!|ニフティニュース - ニフティニュース ヨンア、夫&息子と3ショット「息子くん、ママ似」「ほっこりファミリーだね パパさんの表情(笑)」(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 松井秀喜、上原浩治のYouTube出演でファン歓喜「めっちゃうれしい対談」“ペダジーニ敬遠”の心境も語る(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース FA権取得の阪神・梅野は残留濃厚か 他球団の「意外な評価」とは - goo.ne.jp 徳光和夫アナ 引退の松坂大輔を絶賛、妻・倫世さんとは海外ロケの過去「人柄も実に大らか」 - スポーツニッポン新聞社 松坂大輔・斎藤佑樹 引退試合に見る「歴史の継承」 (2021年10月23日) - エキサイトニュース 柴田倫世「一番の親友が役目」夫・松坂へ17年“姉さんサポート” - 女性自身 舞台『刀剣乱舞』綺伝 いくさ世の徒花 刀剣男士が提灯を携えたビジュアル公開!あらすじも明らかに (2021年10月22日) - エキサイトニュース ソニン、あのマッパエプロンから急成長?デビュー21周年の“Fバスト”進化 (2021年10月21日) - エキサイトニュース 現役引退する松坂大輔の妻・柴田倫世への誹謗中傷「度を超えている」と球界で怒りの声 - アエラドット 朝日新聞出版 Dream Ami、夫・半田悠人さんとの思い出ショット「あみちゃん夫婦 素敵」水着姿で美脚も披露(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 松坂大輔の Fバスト妻 注目|ニフティニュース - ニフティニュース 松坂大輔の引退で大注目!「Fバスト妻」柴田倫世に出演オファー殺到? (2021年10月20日) - エキサイトニュース 西武 榎田大樹に戦力外通告 18年11勝の「救世主」左腕 小川龍也も戦力外 ともに現役続行希望|ニフティニュース - ニフティニュース NHK和久田、フジ久慈…女子アナ&アスリート「幸せ熱愛」写真 | FRIDAYデジタル - FRIDAYデジタル 柴田理恵が久本雅美と故郷・富山で爆買い恩返し&「終の住処」大豪邸をテレビ初公開! (2021年10月19日) - エキサイトニュース 西武松坂の秘話を同期同学年の赤田コーチが明かす「そしたらあいつ結婚してました」(西日本スポーツ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 長妻怜央・伊波杏樹、舞台『MOTHERLAND』ゲスト出演決定 (2021年10月18日) - エキサイトニュース 斎藤佑樹 松坂大輔もまだなのに…球団が“引退試合”開催を最速で決めた“当然の理由” | Smart FLASH[光文社週刊誌] - SmartFLASH 【松坂大輔】松坂大輔“第二の人生”は妻の古巣「日テレ」で解説者デビューか 古参の江川卓はお払い箱に…|日刊ゲンダイDIGITAL - 日刊ゲンダイDIGITAL 新型コロナ感染の大橋未歩、療養施設退所を報告 熱は下がるも「今は、ほとんど匂いが分かりません」|山形新聞 - yamagata-np.jp 大谷選手も参考に!?「歴代大リーガーの妻」人気ランキング - goo.ne.jp 倫世夫人を想う 松坂大輔40歳「第2の人生」と「結婚秘話」 - 東スポWeb プロ野球選手と女子アナ 交際しても結婚にまで至らなくなった理由 - NEWSポストセブン 野球選手とアナ結婚 今後減少? - goo.ne.jp 加藤綾子アナ、夏目三久アナらの選択 「女子アナ30歳定年説」は死語に - NEWSポストセブン 鷲見玲奈アナも彼はパイロット 「女子アナの野球選手離れ」が進行中 - NEWSポストセブン 吉本興業、東京ヤクルト・村上宗隆選手とマネジメント契約締結を発表 - ORICON NEWS “から騒ぎ”第1期MVP島田律子さんは日本酒スタイリストに|あの人は今こうしている - 日刊ゲンダイDIGITAL 久代萌美アナと『北の打ち師達』はるくんが結婚、見えてきたユーチューバーの社会的地位 - 週刊女性PRIME [シュージョプライム] 『レコ大』総合司会の吉岡里帆 本物志向の彼女は「適任」 - NEWSポストセブン 民放5局+NHK「女子アナ300人」出身大学ランキング - NEWSポストセブン 人気女子アナ&スポーツ選手の結婚式「人生最高の瞬間!」 | FRIDAYデジタル - FRIDAYデジタル 日本テレビの強さの一因「サブアナウンサーシステム」とは - NEWSポストセブン 【野球スター秘蔵写真】斎藤佑樹 「王子時代」の無防備な寝顔 | FRIDAYデジタル - FRIDAYデジタル 松坂大輔「妻柴田倫世のカネ意向で退団?」ゴルフ三昧報道も - エンタMEGA 松坂大輔「年内離婚」か……浪費妻がボストンで「教育費払えない」と悲鳴!? - エンタMEGA 「平成のアイドルアナ」30年史(3)肌着を共有?00年代を牽引したフジテレビの二大巨頭 (2019年4月29日) - エキサイトニュース 中日・松坂大輔、キャンプ途中で投げ出し米国永住権のため緊急渡米が物議…首脳陣も困惑 (2019年2月7日) - エキサイトニュース 松坂大輔の永住権取得で囁かれる「メジャーリーグとの密約」説 - アサ芸プラス 錦織圭×福原愛、松坂大輔、松井秀喜… 平成熱愛史スポーツ選手編 | FRIDAYデジタル - FRIDAYデジタル ソフトバンク・和田毅の大減俸で期待が高まる妻・仲根かすみの芸能界復帰 - アサ芸プラス 松坂大輔復調 “妻失格”批判あった柴田倫世も汚名返上か - NEWSポストセブン 松坂大輔は「まるで金ヅル」妻柴田倫世の「子どもと金のみ」重要状態……ボストンでの優雅な子育てに非難轟々 - Business Journal 松坂大輔が三軍球場で「息子と笑顔でキャッチボール」の意味 - NEWSポストセブン 松坂大輔が柴田倫世アナとの今オフ結婚明かす/復刻 - 野球 - 日刊スポーツ 交通事件の揉み消しも 松坂大輔の西武時代 - エキサイトニュース 「人生順調」女子アナ 柴田倫世、福島弓子、永井美奈子ら - NEWSポストセブン 超特大ワイド34本 消えた女・男・事件 2015年1月1日・8日 新年特大号 | 週刊文春 - 文春オンライン 松坂争奪戦でソフトバンクに強力援軍 元日テレ・柴田倫世夫人がアシストか!? - リアルライブ 柴田倫世さんブログ休止へ 夫・松坂の表情で「気持ち決まった」 - スポーツニッポン 柴田倫世「リハビリは1年かかる」夫・松坂大輔の近況報告 - エイガドットコム 柴田倫世アナが夫、松坂を語った! - 芸能ニュース nikkansports.com - 日刊スポーツ 松坂大輔、噂の女子アナ宅前でレッカーされるの巻 - レスポンス 柴田倫世アナをキャッシュ サイト名 URL 柴田倫世アナの掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る 柴田倫世アナのリンク #blogsearch2 ページ先頭へ 柴田倫世 このページについて このページは柴田倫世のインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される柴田倫世に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/hamasen/pages/34.html
71 小池 正晃【こいけ まさあき】 【役職】選手 【生年月日】1980年5月15日【投/打】右/ 右【ポジション】外野手, 一塁手, 三塁手【プロ入り】1998年 6位【在籍期間】1999 - 2008, 2012 - 2013 【経歴】横浜高 - 横浜 - 中日 - 横浜DeNA 戦士が集う グランドで 打て豪快に 小池正晃 01年 4月20日に代打でプロ初出場初安打。9月25日には7番左翼手でプロ初スタメン出場。 02年 主に代打での出場。5月23日にプロ入り初本塁打を記録。 05年 牛島新監督の元でレギュラーを掴む。リーグトップとなる37犠打、ホームランも20本と長打もバントもある2番打者として飛躍の年となった。自身初となる規定打席にも到達した。 06年 自己最多で2年連続最多犠打となる39犠打を記録したものの規定打席到達はならなかった。 07年 佐伯や内川とポジション争いするも結果を残す事は出来ずレギュラー固定とはならなかった。 08年 二軍生活の続く中で外野不足の中日と投壊状態にあった横浜の思惑が一致、石井裕也との交換トレードで中日に移籍する事となった。 中日時代 代打、代走、守備固めと何でもこなしながら空いたポジションのスタメン争いと、基本的には横浜時代と似た役割を任された。 12年 オフにFA権を行使して4年ぶりの古巣復帰となった。3番一塁手として開幕スタメンに名前を連ねるもその後は打撃不振で次第にスタメン機会を失っていった。得点圏打率.333と勝負強い打撃を見せているものの打率は.192と2割を切る結果に苦しさは隠しきれなかった。 13年 8月終わりまで一軍に昇格できずまた昇格したものの9月半ばにまた二軍に戻るなど芳しくない成績が続き10月1日に 現役を引退を発表。自身の引退試合で3安打で2本塁打の猛打賞しかも現役最終打席でホームランなど見るものを号泣させた。引退後はそのまま一軍打撃コーチになる事に バランスの取れた選手。 自称愛称は「ゴジ」。 大柄な身体に似合わずバント職人。2005-2006年は2年連続でリーグトップの犠打数を決めている。成功率も高い。 一方で大柄な身体を活かした一発の破壊力もある大味な打撃も可能な選手。 特別抜きん出たものこそないが安定した守備走塁。 所謂松坂世代。ボストン・レッドソックスの松坂大輔を始め後藤武敏、元中日・小山良男は同じ高校時代のチームメイト。
https://w.atwiki.jp/yakultsen/pages/124.html
度会博文 みんな大好きニコライさん。 笑顔がステキ~♪ 投手、捕手以外はどこでも守れる。…が、やらかしも多い。 大学2年から頭角を現し始め首位打者3回などを収めるものの、それほど注目される選手ではなかったが、神宮外苑で草野球をしていたところヤクルトのスカウトに目に留まり、1993年ドラフト3位で入団に至ったという。いやはや何とも…。 入団後4年間は一軍での起用は無かったが、1996年、1997年と2年続けて戸田軍で3割以上を打つ活躍を見せる。 戸田軍ではさすがに他の選手より力が上で、1996年以降3割を切ったシーズンは2003年の一度だけ! 主に代打起用で使われる傾向がある。 近年は出番が減少していたが、2006年には.357を残しその健在ぶりを示した。同年に右の代打の切り札であったドバ様が引退したため、その後継者になり主に左投手相手に起用されることが多い。 ベンチではムードメーカーとしての役割も果たす。 よくしゃべる。そのおしゃべりっぷりはマルタイのブログ名の由来にもなってしまうほど。 …しかしここでもすごい笑顔だなぁ。 2008.9.25 戸田軍10年ぶり優勝のための大一番(対埼玉西武)に4番レフトで出場。4打数3安打2打点を叩き出し優勝へ大きく貢献した。 しかし、2008年に真中選手とともに戦力外通告を受け引退…orz 俺たちの禿…いや、宮本キャプテンは「よく一緒にいたなぁ~。あいつは無理矢理やったかもしれんけど(笑)明るくてどんな時も一生懸命で。ただよく喋ってたなぁ。笑いとる為には嘘つくけど(笑)」とな…。 引退試合となった2008.10.12の横浜最終戦で、7回裏に代打で大歓声を受け登場。最後の打席はレフトフライに終わった。 引退セレモニーでは「ヤクルトに入団して15年間、本当にたくさんの人の支えていただきました。監督、コーチ、裏方さん、共に戦ってきた先輩、後輩、いつも温かい声援を送ってくれたファンの皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです。ヤクルトでプレーした15年を誇りに思い、今日引退させていただきます。15年間、本当にありがとうございました!」と…。 2008.10.21付のスポニチでサトシンさんの1軍昇格に伴い、戸田軍の外野守備・走塁コーチ就任が正式決定と報じた。頑張れニコライさん! でも内野が本職じゃなかったっけ…? ( ^ー^)~♪( ∪ ∪と__)__)旦~