約 165,719 件
https://w.atwiki.jp/tsvip/pages/1155.html
「...ふぅ。さてと、部活だ部活」 HRが終わり筆箱をリュックに投げ入れ廊下へと歩く。なにも変わらない日常。 『おーい!サトシー!早く部室いこーぜ!!』 声のするほうに目をやると隣の教室の前に手をぶんぶん振ってる自称・イケメン(笑)がいた。 「うぃーっす、今日のテストどーだったん?」 『え?俺wwwもちろん赤店wwwテラワロスwww』 「...(タグ理解www(笑))少しは勉強しろよ、監督に怒られんぞ」 『大丈夫だって、部活では成績優秀だからwww』 「...やれやれだぜ」 この馬鹿丸出しな自称イケメン(笑)は悪友のシゲル。もちろん地球最強の漢とは何の接点も無い。そもそも一字違い。 小学生の頃から同じ学校で同じ部活をしている。頭は悪いがスポーツに関しては何も言えない。 「たしか今日から3年生部活には出ないんだよな?」 『そーだな。引退試合がベスト4はちょっと悔しいと思うけどね。俺が出てればなぁ~』 「はいはいワロスワロス(こうですかわかr(ry)」 先週の県大会が3年生の最後の試合となった。結果はベスト4だったけど、実力的には準優勝、いや優勝も狙えたと思う。それくらい3年生は強くてかっこよかった。 「あー、なんか3年生抜けるとやる気でないなぁ~・・・」 『まー、2年生少ないしなんか頼りないしなwww』 「...おい」 気付くとそこはもう部室の前で、お約束のように怖い先輩がいまして... 『ん?...!?え?、いや違うんですよwwwサトシがダブルスのパートナーだと頼りないな~ってwww』 「ほほう...なら俺と組むか?」 昔からコイツは運が悪いというか...。ご愁傷様です。 ちなみにこの新部長であるタケシ先輩は2年生で唯一レギュラー入りしていた実力者。性格はちょいと可笑しいけど...あ、いえ、すごくいい人です。はい。 今日の練習は一段ときつそうな気がしてならない。
https://w.atwiki.jp/washisen/pages/175.html
関川浩一 1969年4月1日生 東京都調布市出身 右投左打 楽天在籍時の背番号は選手時代が「23(05 -07 )」、コーチ時代が「81(08 -09 )」「75(11 )」 ヘッドスライディングが代名詞。 阪神時代は俊足巧打で鳴らした異色の捕手だったが、中日移籍後は外野手にコンバートされる。広いナゴドでその脚による守備範囲を武器に、長年センターを守ってきた。 しかし福留孝介の外野コンバート、また英智の台頭が重なり出番が激減。 2004年オフ、半袖とともに無償トレードでやってきた球団創設メンバーである。 2005年の開幕戦では1番レフトでスタメン出場し、新球団の記念すべき最初の打者となった。ちなみに結果は地味様こと清水直行(現星)の初球を叩いての左飛。 4月には自身の1000本安打を球団史上初の猛打賞、球団初の三塁打で飾る。 外野のレギュラーをがっちりキープし、球団初年度の良心として活躍した。その後鉄平、リックさんらの加入もあったが、サブとして欠かせない存在に。 1試合4犠打を記録したことがある。これは日本タイ記録である。 また2006年に、監督に就任したノムさんの言いつけで、捕手の練習も再開した。緊急時に備えるためとのことだったが、結局捕手としての出場機会はなし。 2007年は出番が激減し、9月24日引退を表明。 10月4日の引退試合は1番センターでフル出場した。現役最後の打席は、一塁ゴロながら代名詞であったヘッドスライディングを見せてくれた。余談ながら、そのときの相手投手は楽天移籍後に初対決した地味様だった。 引退後は一軍打撃コーチに就任。2010年は海を渡り、韓国のSKワイバーンズで打撃コーチを務めた。 そして2011年より、再び楽天にコーチとして復帰することが報じられた。以前同様、打撃コーチかと思われたが、よもやの(?)二軍外野守備走塁コーチに。が、コーチ陣の入れ替えに伴い、シーズン途中に一軍外野守備・走塁コーチへ配置転換される。 翌年も留任することが内定していたが、シーズン終了後、阪神タイガースからのオファーを受けて退団。2012年より、阪神の外野守備コーチとなることが決まった。 い、忙しい……。
https://w.atwiki.jp/kyojin-ogasawara/pages/681.html
1 名前:風吹けば名無し[sage] 投稿日:2012/03/01(木) 18 43 12.39 ID LKeNnNo3 開幕まで一ヶ月と迫った巨人は1日、都内の中学校で『特別授業』を行った。3年一組34名の生徒の前で、ホールトンら助っ人組が即席の英語教室を開催する中、下半身をしごきながら登場したのは巨人小笠原特A級戦犯(38)。 畜生は教室に入ると同時に、通訳を務めていた女性教師をレイプ。唖然とする選手・生徒を尻目にぐう畜イングリッシュの幕開けだ。 今回の授業は強調構文。強調したい語句を前に出し、ItとThatで挟む。畜生は黒板に向かって絶頂射精すると、ザーメンをなぞり次々と例文を挙げていく。 It was Mathieson that nearly killed Kajimae.「加治前を殺しかけたのはマシソン」 It was Katsunori that allowed 6 stolen bases in his last game.「引退試合で6盗塁を許したのはカツノリ」 It is Tani that is married to a monster.「美人の奥さんと結婚しているのは谷」 It was Komano that missed a PK.「絶対に許さない、顔も見たくない」 不適切ながらもわかりやすい解説に生徒は大絶賛。「なぜ英語ができて国際試合で打てない」と野次を送った生徒には、畜生の渾身のフルスイングで応え保健室送りに。 教室が歓声と精液の匂いで満たされたころ、何気なくボウカー外野手が黒板に書いた It was him that used to play in Nippon Ham Fighters. 「かつて日本ハムでプレーしていたのは彼だ」 という文章を見るやいなや、頭痛が畜生を襲う。強調されたキンタマがみるみる膨張、破裂し死亡した。突然の訃報を受け大正義巨人原辰徳監督は「開幕投手を務めないのは内海。先発ローテから外すのは東野。」と取材陣に改めて強調。 なお、新学期には間に合う模様。 http //hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1330594992/
https://w.atwiki.jp/hamilton/pages/544.html
プロフィール 新沼 慎二 にいぬま しんじ 1979年6月22日生まれ 宮城県出身 身長185cm 体重84kg 血液型 A型 右投右打 1997年ドラフト2位で仙台育英学園高から横浜入団 相川鶴岡時代の中、3番手・4番手捕手に甘んじていた。 2009年田代代行体制になって以降貧打な捕手陣の中で打撃力を生かして出場機会を増やしたが、弱肩が仇となり正捕手奪取とまでは至らなかった 2011年度よりベイスターズ選手会長に就任。(記事) 2012年シーズンを持って現役引退。またシーズン最終戦にて(新沼クラスとしては異例と言われる)引退試合が行われた。 シーズン終了後、コーチ就任。13年シーズンからは1軍バッテリーコーチに 現役時代の背番号は「29」 顔文字はミ`↓´ミ 愛称はイケメン、ニイヌマッシンジー、ニーヌ・マッシンジー(マリナーズ捕手城島健司=ジョージ・マッケンジーが元ネタ)など イケメンだが写真写りがイマイチなときがある。また、あえて変顔をするときもあるようだ 実は競合3球団のクジで引き当てられた選手 なお、外したヤクルトはロケボ五十嵐亮太を指名 プロ初安打は06年8月3日中日戦、川上からのホームラン 2010年シーズンには中日の岩瀬からサヨナラ打を放った そのためかエースキラー、もしくは一流判定(機)と呼ばれたりする。 猫が苦手 趣味は釣り。 「海釣りが好きで、岸から100メートルくらい離れた沖まで泳いで行って カニを網で取ってくることもある」らしい。 ☆☆2007横浜実況スレ 4/3 広島戦 エピローグpart2☆☆ 881 :ホッシー君@仕切り直し :2007/04/04(水) 10 01 56 新沼頑張ってほしいんだよなぁ なんとなくだけど、彼はすごーくいいやつだと思うんだ 884 名前: ホッシー君@仕切り直し 投稿日: 2007/04/04(水) 10 04 47 881 わかる 俺ずっと、勝手になんかスカした奴なのかと思ってたが、 シーレで写真撮らせてくださいって言ったら、 「変顔する?変顔したほうがいい?」と言ってきた 噴いた
https://w.atwiki.jp/waseitaiho/pages/35.html
PPLNewsで試合前に引退をばらされてしまったたいほーです こんにちは! 試合前に引退ほのめかすと何かと問題あるかなと思って 伏せていたんですけど早々にPPLNewsでブーデー兵さんに ばらされちゃいました☆ とはいうもののいざそのときにどんな風に切り出したらいいか まったく思いつかなかったので人任せでだいぶ楽できました(´∀`) BookMakerは刃牙の全選手入場をモチーフにしたんですが いまいち不評でしたね・・・なんやねんラグ勢開山てwwwww さて試合。 週半ばはEasyさんが遠征とのことで試合は日曜日に 遠征疲れのところを狙ってぼこってやろうとおもってました。 結果から。 10-3 7回コールド 惨敗! 苦い最終戦になりました・・・ 守備の反省が多々ありますが・・ まずひとつ、外野後退 前対戦のザマギエフ戦では外野後退を徹底してアウトを稼いだんですけど かっかしちゃってシフトいじるの忘れてたよ・・・ でもねー左中間、右中間を割る当たりばかりだったから 実際守備シフトをいじってもだめだったんだろうと思います。 というのももうひとつの問題、 配球。 掲示板のレスにも書かれていたけど ワンパターン。 試合中に俺も思ってたんだけどねwwwwwwww なんていうのか・・・ いつもより球がおそかったんやwwwww 同期の関係だと思うけど。 だからどうしてもストライクになる変化球使いたくなかった。 そういうのはまずもってく相手なのはわかっているので。 それがボールになる変化球と4隅にかたよるストレートに 配球が偏る結果を生んで、それがわかってて直せなかった 直しかたがわからなかった。 ほいで毎回失点の7回10失点。 ぷーん。 攻撃。 前もいったけど球が遅めに同期されていたので結構打てた。 けどフォロー(カメラワークの種類です)はあれだわwwww きもてぃわるくなるwwwwww 軽く3D酔いしましたwwww どうもフォローは慣れれば守備しやすいとのことなので 存外に今後はやっていくかもしれない。 そして3D酔いしやすい人間(主催とか、あと主催とか)には 大ダメージを与えれるかもしれない。 メモしといてください。 走塁ミスもありましたし100%満足な攻撃はできませんでした・・。 最終回には藤川がマウンドに。 2番からの攻撃でした。 賢介倒れ、糸井倒れ、 稲葉の打席・・・ まよったあげく・・ 坪井さんを打席に送りました。 引退試合ですね ぴ~える~ あ~お~が~く~ と~しば~ (はんしん!) つ~ぼ~い~ 凡退はしましたがその勇姿は俺の中で行き続けるでしょう。 どこにいっても応援します。 リーグ戦としては1勝3敗(1試合不成立) にわか勢としては盛り上げれたんではないでしょうか なにより楽しかったです さいごにひとこと PPLよありがとう。
https://w.atwiki.jp/moiki/pages/341.html
プロフィール 選手名 - 飯田 哲也(いいだ てつや) 背番号 - ヤクルト時代 58(87年~90年)→2(91年~04年) 楽天時代 2(05年~06年) 出身地 - 東京都調布市 身長/体重 - 173㎝/72㎏ 投打 - 右投右打 球歴 - 拓大紅陵高-ヤクルト(86年ドラフト4位) 顔文字 - 実況板でのあだ名 - 猿 関連用語 - 入団前 拓大紅陵高では強肩の捕手として3年時に春夏連続甲子園出場。 3年夏の千葉県予選決勝では後のチームメイトとなる土橋が在籍していた印旛高を破って甲子園出場を果たしている。しかし、ドラフト順位では土橋が2位、飯田が4位と逆転した形で同時にヤクルトに入団した。 ヤクルト時代 3年目にして1軍に捕手として出場し始めるも、翌年に古田が入団してきた為に二塁手に転向。 二塁手に転向し、すぐさま前年新人王の笘篠からレギュラーを奪取するが、91年にエンジェルスからジョニー・レイが加入した為今度は外野手に転向。 無謀なコンバートと言われたがこれが大成功となり、外野手転向の1年目から7年連続ゴールデングラブ獲得をするなどヤクルト史上に残る名外野手に成長。フェンスを駆け上る超人的な運動神経や強肩は人気となった。 1番センターで4度のチーム優勝に貢献。92年優勝時には盗塁王、ベストナインにも輝いた。 93年の日本シリーズ第4戦でのセンター前ヒットをノーバウンドバックホームで刺したシーンはシリーズ史上に残る名場面とされている。ちなみに、このセンター前ヒットを放ったのは後にヤクルトに入団してきた鈴木健であったりする。 98年に怪我をした際に代役となった真中がそのままポジションを獲得してしまい、出場機会が激減。 04年オフ、コーチ打診を受けるが拒否し、新球団の楽天に無償トレードで移籍。球団側からも「勉強のつもりで」といった円満移籍であった。 楽天では短期間ながらも往年を彷彿とさせるプレーを見せながら、2年間のプレーで引退。10月のフルキャストでの最終戦で元ヤクルトのカツノリと共に引退試合を行った。 07年、古巣ヤクルトの1軍外野守備走塁コーチとして復帰。08年の高田政権では1軍守備走塁コーチに昇格し、4年振りに神宮に帰ってくる事となった。 -
https://w.atwiki.jp/hamasen/pages/35.html
55 後藤 武敏【ごとう たけとし】 【役職】選手 【生年月日】1980年6月5日【投/打】右/ 右【ポジション】一塁手, 三塁手, 左翼手【プロ入り】2002年 自由枠【在籍期間】2012 - 【経歴】横浜高 - 法政大 - 埼玉西武 - 横浜DeNA 鍛えた剛腕 獲物を捕らえろ狙いを定め ゴメス! 打てよ 飛ばせ 彼方へ 03年 怪我で出遅れたアレックス・カブレラに代わり、ルーキー開幕スタメン4番を任される。後半こそ失速したものの101試合で11本塁打と期待に応えた。 08年 49試合の出場ながら打率.301ルーキー以来となる本塁打を打ち自己最多の12本塁打を記録するなど結果を残した。 09年 8月25日楽天戦で自身初のサヨナラ本塁打を記録。 11年 打率は2年連続で1割台に低迷。オフに武山真吾との交換トレードで横浜DeNAに移籍した。 12年 後半戦になってようやく1軍昇格を果たすと8月には6本の本塁打を打つ活躍を見せた。以降は打撃の調子を落とし守備のミスも目立った事から代打での出場が主になったものの、貴重な長距離砲としての存在感を示した。 13年 前半戦に一度、1軍登録されるも不調で2軍落ち、しかし夏に1軍昇格を果たすと9月の月間打率が.417と好調でブランコの不調時に四番を努める事もあった、また小池の引退試合には本人よりも涙目になっていた。 打席や守備でもいつもガムを噛んでいる(西武はガム禁止だった)。 天性の長打力を持つロマン砲。 愛称は「ゴトタケ」、「GT」、「ゴメス」、「スエェ」など。 ゴメスは横浜に来てからの愛称で由来は松本啓二朗が待ち合わせに遅れた時、「ごめんっす」と言ったら石川雄洋が後藤の事を言ってると聞き間違えたのが由来。 2軍で無双しては1軍で伸びきれない、所謂「二軍の帝王」。 小池正晃、レッドソックス・松坂大輔、元中日・小山良男は高校時代のチームメイトで松坂世代の1人。 守備には難があり中畑清監督には「素人に近いファースト」と言われてしまった。 活躍する時はまとまった期間に爆発する事が多く、逆に言えばシーズン通した活躍をした事がない。
https://w.atwiki.jp/hamasen/pages/33.html
4 荒波 翔【あらなみ しょう】 【役職】選手 【生年月日】1986年1月25日【投/打】右/ 左【ポジション】中堅手, 左翼手【プロ入り】2010年 3位【在籍期間】2011 - 【経歴】横浜高 - 東海大 - トヨタ自動車 - 横浜DeNA 煌くフィールド 荒波SHOW!見せてくれ 歓声浴びて翔け さぁ疾風の如く 獲得受賞タイトル ゴールデングラブ賞 2回(2012.2013年) 11年 9月11日中日戦に「2番センター」でプロ初出場初スタメン。そこから28試合に出場し6盗塁を記録するなど俊足ぶりを見せつけた。 12年 7番センターで自身初の開幕スタメンを掴む。4月末頃から1番センターに定着するとチーム・自己最多の141試合に出場、規定打席にも到達する飛躍の年となった。 『DeNAのスーパーカーとして頑張りたいと思います!』 思いきり良く振り切った鋭い打球が魅力のラインドライブヒッター。 振り切るためか打球方向は極端にライト側に寄ってる。 早いカウントから積極的に振っていくためかリードオフマンとしては出塁率は低め。 またポップフライ病でもある。 打席に立つ際に「∞」(無限)の軌道を描くように素振りをするのが特徴。 ルーキー時代の「生まれたての小鹿」のような独特の打撃フォームからはませんでは「小鹿」とも呼ばれる。 ロッテ・成瀬善久は高校時代の同期のチームメイト。 並外れた俊足が最大の武器。トヨタ自動車時代の同僚である現ロッテの荻野貴司をしてベースランニングでは1秒差を付けられるを言わしめた。 俊足を活かして守備範囲は広くダイビングキャッチが持ち味。当初は粗さも目立ったが徐々に確実性も増している。 シーズンオフでも「常に体を動かしていないと不安になる」と語るほど、すごく真面目で練習熱心。 またその優等生キャラから「空気が読める」と言われ、2012年のシーズン最終戦(対阪神・甲子園、アニキ金本の引退試合)では、新井兄のセンター前ヒットで一気にセカンドからホームを狙った金本をその強肩で刺し、ある意味“見せ場”を作った。 さらに、同じ試合で金本最後の守備機会となる9回表2アウトの場面で最後の打者として打席に立ち、見事に金本が守るレフトにフライを打ち上げ、花道を飾ったが、その奇跡的なバットコントロールが称賛されてしまうという非常な皮肉な結果になった。 (ちなみに試合は3-0で完封負け。)
https://w.atwiki.jp/new-yakusen/pages/52.html
増渕竜義(ますぶち たつよし) 背番号22 1988年5月3日生まれ 埼玉県草加市出身 右投右打 いわゆる「ハンカチ世代」のひとり。 野球を始めたのは小学校のころ。高校進学の際、多くの強豪私立高校から誘われたが増渕は実家から30キロ離れた久喜市にある鷲宮高へ進学。本人いわく「公立高校のほうが埼玉らしい」「公立の高校に入って私立の強豪校を倒したい」とのこと。なにこのイケメン。 そんな高校時代、1年秋からエースを担うと2年生ですでにストレートは140キロ台をマーク。 3年次はおしくも甲子園には届かなかったが、ノーヒットノーランを達成するなど実力の片鱗を見せた。 ドラフトでは東京ヤクルトと埼玉西武が1位指名。結果東京ヤクルトが指名権を獲得し入団した。ちなみに増渕を外した埼玉西武は、同じ埼玉県内の高校にいた木村文紀を指名。お互いライバル意識があった模様。 指名会見では早速乳酸菌を検出乳酸菌検出。目標には五十嵐を挙げた。 ルーキーイヤーは一軍キャンプスタートを果たし、いきなり自己最速152km/hをマーク。開幕ローテーション入りを果たすが、3試合に登板して結果は残せず二軍落ち。 しかも右肩の故障でしばらくリハビリに時間を費やす羽目に。 それでも終盤に復帰後はプロ初勝利をマーク。しかしこの時鈴危険の引退試合、またラミちゃんが右打者として初めてシーズン200本安打を放った試合だったのでマスコミにはほとんど取り上げられず。カワイソス 2008年も開幕ローテーション入り。しかし一軍定着には至らず。 2009年は練習中の事故で一軍での登板がわずか1試合、しかもその試合で滅多打ちにされてしまう。 それでも2010年には復活。中継ぎとして開幕一軍を迎える。当初は敗戦処理やロングリリーフとしての役回りを任されていたが、徐々に首脳陣の信頼を得て勝利の方程式に指名される。 この年57試合に登板して安定した投球を披露。新たな適性を見つけ出した1年となった。 2011年は先発に再転向し、7勝11敗。規定投球回には届かなかったがローテーションをしっかり担った。 2012年はマロン投手の加入から再び中継ぎに。一時はバカボンの離脱で先発を任されるも、起用法が安定しなかったのが災いしたのか防御率が5点台と跳ね上がってしまった。 2013年は春先に2試合に登板するも不安定な投球に。
https://w.atwiki.jp/kinecoandvtr/pages/19.html
プロ野球 高校野球 プロ野球 1956年10月17日巨人×西鉄(後楽園球場)当時のニュース映画にキネコ保存(白黒)された中継映像が一部使用されている。 1961年6月6日阪急×大毎(阪急西宮球場)テロップなしのモノクロVTRが関西テレビにより保存されており、阪急の後継球団であるオリックスの公式YouTubeにて公開された。「関西テレビに現存する最古の勝利試合の映像」ということで、それ以前の映像も残っている可能性はあるが詳細は不明。 1967年10月1日阪急×東映(西京極球場)テロップ無しのモノクロVTRが関西テレビにより保存されており、阪急の後継球団であるオリックスの公式YouTubeにて公開された。阪急が初優勝を決めた試合。 1973年8月30日阪神×中日(甲子園球場)テロップ無しのカラーVTRがサンテレビにより保存されており、CSやサンテレビの雨傘などで不定期的にでダイジェスト放送された。江夏豊が自身のサヨナラホームランでノーヒットノーランを決めた試合。この試合以降のサンテレビの野球中継はVTRにして4000本以上が残っており、この試合以降全ての映像が残っている可能性は高い。 1973年10月10日, 11日巨人×阪神(後楽園球場)テロップ無しのカラーVTRが日本テレビにより保存されており、CSでダイジェスト放送された。 1974年6月13日阪神×広島(甲子園球場)テロップ無しのカラーVTRがサンテレビにより保存されている。江夏豊が2000奪三振を達成した試合である。 1974年10月14日巨人×中日(後楽園球場)テロップ無しのカラーVTRが日本テレビにより保存されている。長嶋茂雄の引退試合であるため、近年まで頻繁に放映されていた。 1975年10月15日巨人×広島(後楽園球場)テロップ無しのカラーVTR映像が日本テレビにより保存されており、度々放映されている。広島カープが初優勝を決めた試合。 高校野球 1969年4月6日三重×堀越(第41回選抜大会決勝)テロップ付きのカラーVTRが現存。CSでダイジェスト放送された。 1973年8月22日広島商×静岡(第55回全国高等学校野球選手権大会決勝)カラー家庭用VTRが現存。NHKおはよう日本(東海版)甲子園名選手名場面にて一部が流れた。