約 546 件
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/1321.html
反日主義者の精神構造へ戻る (※このコーナーは別ページ反日主義者の精神構造6を表示したものです。目次より直接それぞれの項目に飛ぶことは出来ませんので、お手数ですがスクロールしてご覧ください。) 品性下劣 ■人事のように振る舞う ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは下記リンクをご覧ください。 道徳教育の復活 よく残酷な事件が起こるとテレビのキャスターが現場から中継をしていますが、そのキャスターの裏でピースを笑いながら送っている者がいます。 昔はこんな者一人としていませんでした。世界各国でも日本だけです。 一体全体どうなっているのでしょうか?このような発想は、品性下劣・利己主義以外何物でもありません。利己主義者も「反日主義者の精神構造」の持ち主です。 事件に巻き込まれた当事者やその家族、周辺住民の心境はさぞ心穏やかではないことでしょう。 もし自らが当事者で、第三者にそのようなことをやられたら、どう思うのでしょうか? 次に下記リンク3つをご覧ください。 飛行機内で救命中、傍観乗客の視線と写真撮影でPTSDに なぜ日本人は暴動を起こさないのか??おとなしいからか??違うやろ??? - Yahoo!知恵袋 日本人に何が起きているのか? ( この国は少し変だ! よーめんのブログ 内) 2008年に飛行機で心臓停止した方を救護しているところに、中年男性の人たちが寄ってたかって写メールを撮るという事件が発生しました。 これは前述の事件現場でピースを笑いながら送っている者と同じ発想です。 これによって救護した女性は、写メールと中年男性に恐怖感を覚えるPTSDになってしまいました。このようなことがまかり通っていることが、 「見て見ぬふり」を引き起こす原因になっています。 また、1998年FIFAワールドカップにおける城彰二氏ら日本代表が、ふがいない結果を出したにも関わらず、 他の国のサポーターのようにぶちギレる事なく、同様にキャスターの裏でピースを笑いながら送っている者がいました。 漫画家の小林よしのり氏は連載漫画においてこのことを痛烈に非難しました。この非難の理由は、まさしく人事のような振る舞いです。 2009年5月に日本で新型インフルエンザ患者が出ましたが、それを出した高校などをばかにし倒す者がいました。 特にインターネットで、「屑カス学校」なるコメントをした者は、さて逆の立場に立ったらどうするのでしょうかね? どうせ「火を噴くようにキレる」のがオチです。 小ばかにし倒した者も、もしかしたら、同じウイルスを持っているかも知れません。 またこういう問題は「明日は我が身。」と思う上、国や地域が一体になって、解決や予防策を立てるべき問題です。 小ばかにするということは、他人事に思っている証拠です。 ■子供の性問題に無頓着 ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは下記動画をご覧ください。 (引用元・ 「児童ポルノ」顔負けの日テレ番組 ( せと弘幸Blog『日本よ何処へ』 内)) ザ・イロ萌えア 080602-(1/3) ザ・イロ萌えア 080602-(2/3) ザ・イロ萌えア 080602-(3/3) 次に下記リンクをご覧ください。 性教育訴訟 都議と都に賠償命令 本紙報道への請求は棄却 - MSN産経ニュース このような者たちは公共道徳がでたらめ千万であるため、品性下劣な行動が平然と出来るのです。 たとえば上記動画の「AKB0じ59ふん」の「ザ・イロ萌えア」。 少女たちが男性に色目を使いながら、5人全員のパトライトが全て回れば(萌えた者からパトライトが回る) 一万円の食事券が獲得できるからで必死になるわけですが、実はそれだけではありません。回せないと少女たちには罰ゲームが待っていました。 この罰ゲームというのは酷いもので、SMシーンを想起させるものまであったといいます。 これは「児童ポルノ法改正法」(「児童ポルノ法改正案の正体」参照)改正で自らが窮地に追い込まれる口実になりはしないか? 懸念すればこのようなことはできません。「個人情報保護法」では「メディア規制法」として警戒したにもかかわらず。 しかも日本においては「萌え」や「オタク」に関していらぬ警戒心を抱かれていますから(「マスコミに潰された者」参照)、 いよいよもってこの放送自体「萌え」・「オタク」に関するイメージダウンを引き起こさせかねません。 さらに反日左翼による奇妙奇天烈な性教育は、もはやポルノというに等しいことをしています。 同等の地位に立つフェミニストたちは、この実態をどう見ているのでしょうか?これこそ「クレヨンしんちゃん」より悪質です。 PTAは「クレヨンしんちゃん」や、昔でいえば「8時だよ! 全員集合」を「低俗番組」と指弾しておきながら、これに関しては徹底的に追及しないのでしょうか? 少なくても「クレしん」や「全員集合」のほうがよほど健全に思えます。それとも「「先生」とつく者のやることだから。」として看過する気でしょうか? そうだとしたら、権威主義・事大主義に陥っています。それ自体「反日主義者の精神構造」特有の思考です。 中田宏の所業と横暴 ( ひしょうじょ(婢将女)日記 内) 中田宏横浜市長43歳「"私の中に指入れ"合コン」と「口封じ恫喝肉声テープ」 『週刊現代2007年11月10日号』 横浜市長であった中田宏氏は、看護学生と合コン・淫行を働きました。 政界におけるセックススキャンダル自体は、古今東西問わず存在します。 例えばイタリアのベルルスコーニー氏は、セックススキャンダルを頻繁に起こしています。 しかしイタリアの民度も手伝っているのでしょうか、それでも首相の座にありついています。 またアメリカ大統領であったビル・クリントン氏も、モニカ・ルインスキー氏との不倫スキャンダルを起こしました。 このため第17代米大統領のアンドリュー・ジョンソン以来の弾劾裁判にかけられてしまいました。 そうでなくても、初代内閣総理大臣・伊藤博文は、おさわりをするなど言わば「スケベおやじ」です(当時の日本女性は、このような地位にある人物に「おさわり」を受けることを大変喜んだことを注記します)。 無論、不倫は倫理上許されるものではありませんが、どうやら歴史に名を刻む政治家である人物は、性に豪快な者が結構見受けられます。 しかし中田氏が問題なのは、嫌がる女性に対して強引に自らの欲望のままに持って行ったことです。 これは立派な犯罪行為です。しかも相手は「乙女」と言える女の子です。 前述のケースは看護学生との問題でもあり、なんといっても、清純な白衣の乙女に対する、まさに淫行があったというもので、これをメディアは追及すべきです。 大体各方面に合コンのセッテイングを強要する、その上、暴行を働き破廉恥千万なことをし放題。さらに口封じを働き、スキャンダルを揉み消す。 学生との合コンなどと、大人気なく品格と品性が問われます。ましてや、同じ年頃の女の子を持つ親のすることでしょうか? かつては国政にかかわり、かつ市の行政のトップであった者がすることではありません。 (詳細は「中田宏の正体?」参照。) このような大人気ないまでの低俗千万な発想こそ、事実を捏造してまで、グリーン税を導入させてくれという発想に繋がったのです。 かねがね「反日主義者の精神構造」の持ち主は、ろくな人物はいません。 ■なんでもありの品性下劣な思考に走る ↓本文はここをクリックして表示 +... 「左翼の手口」をご覧になればお分かりいただけますが、このような者の辞書に「品格」という字はありません。卑怯そのものです。 日本社会の気風「場の空気を読む」・「武士道」をいいように利用して、やりたい放題です。このような者を日本においておくわけにはいきません。まさしく「韓国人の国民性」をなぞったようなものです。 「光市母子殺害事件の正体」および下記動画をご覧になればお分かりいただけますが、下品そのものです。 この事件の21人の弁護団は、元少年に「ドラえもんが助けてくれると思った。」などと言わせて、被害者遺族・本村洋氏の心情をことごとくないがしろにしました。自分たちさえよければいいのです。 この事件における21人の弁護団の言動は、弁護士の信頼を損ねるに十分すぎる非行行為を働いた、と言えましょう。 橋下弁護士Uploaded by UDF 橋下徹弁護士、光市・母子殺害事件の弁護団に怒る | <掲載日>2009.02.05 大阪府の橋下徹知事がタレント時代において、 「光市母子殺害事件」の21人の弁護団に対しての懲戒請求発言の動画です。 【関連】光市母子殺害事件の正体 ■他人のブログ・ホームページを荒らす ↓本文はここをクリックして表示 +... このようなことをする人物は、少なくても2パターンは考えられます。 この項目を読んで「これが「反日主義者の精神構造」の持ち主かい?!」と思われる方もいらっしゃいましょうが、以下の理由をご覧になればお分かりいただけます。 他人のブログ・ホームページを荒らす→都合の悪い書き込みの隠蔽→アサヒる行為→朝日新聞社またはVANKと同じ 他人のブログ・ホームページを荒らす→管理者が気に入らないといってネットいじめ→犯罪性が極めて高い→自尊心が肥え太った厚かましい人物である→韓国人の国民性 次に下記リンクをご覧ください。 ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには1 ( cache ) ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには2 ( cache ) 日本は今「反日主義者の精神構造」の持ち主によって食い荒らされています。そのような者がのさばっているせいで、まともにサイト運営ができなくなっています。 別項でも述べましたが、たとえばmixiで「飲みに行ったよ!」と書き込めば「飲酒運転か?!」とわけのわからない書き込みをしでかす者がいたりします。 これではどうやってやっていけばいいかわからなくなります。だからこそ自殺者が増えているのです。では自分のブログなどで逆にやられたらどんな気分になるでしょうか? そういう者に限って具合の悪い書き込みを削除したりアクセス制限をするでしょう。事実、河野太郎衆議院議員も「改正国籍法」に関する反論の書き込みを相次いで削除しました。 また「 長崎県佐世保市女子小学生斬殺事件 ( クソガキどもを糾弾するHP 内)」の加害者少女(いわゆる「NEVADAちゃん」)も、被害者少女のホームページに自分にとって都合の悪い書き込みをされたとたんに、その人のアバターなどをひっかきまわすというとんでもない行動に打って出ました。 このような態度から「 クソガキどもを糾弾するHP 」の管理人・葵龍雄氏に「クソガキ犯罪者」と認定されました。この加害者少女も河野太郎議員同様「反日主義者の精神構造」の持ち主であると言えます。 「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」ということわざがあります。自分がやられて嫌なことを人にしてはいけません。が、分からず屋な「反日主義者の精神構造」の持ち主にそれを言っても「馬の耳に念仏」でしょうが。 「2ちゃんねる」が2009年3月30日付けで朝日新聞社(asahi-np.co.jp)からの記事の書き込みに規制をかけたことが明らかとなりました。 珊瑚礁の次は2ちゃんねるですか? 「アサヒる」とは、事実の捏造・歪曲・でっちあげ・隠蔽を指しますが、朝日新聞社は、ネット工作をもってアサヒったのです。 系列局のテレビ朝日が仕込みブログ事件を起こすという不祥事がありましたが、これは朝日新聞社グループ全体の体質といわざるをえません。 ちなみにこの規制以降、工作員めいた書き込みがめっきり減ったそうです。朝日新聞社の辞書に「コンプライアンス(法令遵守)」という字がないのでしょうか? 陰湿性 ■なんでも悲観的になる ↓本文はここをクリックして表示 +... 失敗が人間を成長させると私考えている。失敗のない人なんて本当に気の毒に思う。 (本田宗一郎) 新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念できればと思います。またいつか会いましょう。夢を忘れずに!(忌野清志郎) 全然へこんでいないから。ブルースはまだまだ続いているというわけだ。すぐ帰ってくるから。(忌野清志郎) 「親日有名人?」に掲載されています、忌野清志郎氏は、物事を前向きに捉えています。 発表した曲が時々発売禁止になってしまうなどのトラブルはありましたが、忌野氏は素直に前向きに生きる人物であったと言えます。 これは「反日主義者の精神構造」の持ち主と相反する発想です。 理想に狂うゆえ、日本の現状が自分の理想と思っていることと違うと思っただけで、「日本はだめだ」と決めつけてしまいます。 またスターリニストであるため、自分が普段だめなやつと見ている者が珍しくできたことを見て、「雨が降らなきゃいいけど」などと冷やかします。このような発言は、向上心・カイゼンの否定です。 反日主義者が後ろ向きな発想になるのはなぜか? このような家庭環境で育てられた可能性は極めて大きいです。 2008年10月4日の日本テレビ「ズームイン!!サタデー」にて「日本語が上手な外国人 大集合!」という特集が放送されました。 インタビューに答えてくださった外国人の方の声を聞くかぎり、全体的に見て日本に対する好印象を抱いているコメントが相次いでいました。 「世界から見た日本」や瀬戸弘幸氏の演説、西川京子氏のコメントでも取り上げられていますが、日本は本当に素晴らしい国です。 だからこそ私たち日本人は、胸を張って「この国に生まれてよかった。日本人でよかった。」と思っていただきたいです。 しかしこんな素晴らしい国を、反日マスコミをはじめとする反日主義者がこのような発想でめちゃめちゃにしました。なぜそうしたがるのか不思議でなりません。 ■「100年に1度の大不況」を煽る ↓本文はここをクリックして表示 +... | まあ、我々(マスコミ)が煽ってると言われればそれまでなんですけども、なにせ世の中全体が浮き足立ってるんで、 なんとか足元固めてやってくれよと(辛坊治郎・読売テレビ解説委員) 参考リンク マスコミが煽ってる ( 反日勢力を斬る 内) マスコミでも悲観的な事をいう人が賢く見えるという傾向があって、新聞も悲観的な事を書くのがいいとしている。 しかし、日本が戦後これだけで成長したのは、その悲観論を新たな経済政策や企業の努力につなげてきたから良くなってきた。 だから悲観論が強まることは日本経済そのものにとって良くない。そういう観点からすると、 スタート台がそこまで落ちたということは4-6月にプラスになる可能性が強い。数字だけではなくて、 産業構造を変えていこうとする努力をしていけば、 アメリカや中国が回復する中で成長軌道に乗れると思う。(伊藤洋一(経済ジャーナリスト)) 参考リンク 悲観するな日本経済 ( 反日勢力を斬る 内) 2008年後半のリーマンショックから端を発した世界的大不況が発生したのはご存じの通り。 「定額給付金の真実」をご覧になればお分かりいただけますが、 本来ならば体感景気が回復してしかるべきなのになぜそうならないのでしょうか? それはマスコミが「失われた10年」などと煽って、国民に失望感を与え続けているからです。 読売テレビ解説委員・辛坊治郎氏が上記コメントをしましたが、浮き足立たせている張本人はほかならぬ彼らマスコミです。 マスコミがなぜこのようなことを平然とやってのけるのでしょうか? また麻生太郎首相は、2009年にエコポイント政策を行いました。 マスコミは国民が政治不信に陥っていると、どうしても現政権の批判に結び付けたいらしいでしょうが、 定額給付金やエコポイントで家電店は空前の大賑わいであるという現状に目を瞑っています。 これぞまさしく反日主義者の精神構造の持ち主・「なんでも悲観的になる」というところにあるからです。 このありようにさすがに経済界からも「不況の原因はマスコミなり!」との声が上がっています。 そのせいでしょうか、トヨタ自動車相談役の奥田碩氏は、マスコミのありように怒り心頭となりました。 「朝から晩まで厚労省たたきをやっているのは異常な話。スポンサーでも降りてやろうか。」と発言し、 前宮城県知事の浅野史郎氏にとりなされるというハプニングがありました。 次に下記リンクとそのコピーペーストをご覧ください。 マスゴミwがのたまう 【 大不景気?無責任な派遣切り? 】 こんなのに簡単にうろたえて踊るなよ~www ( まっすぐゆっくりと歩こうよ! 内) 最近のテレビのマスゴミwは暴動?や革命でも起こしたいのだろうか?みんな冷静に考えてみて・・・ 不景気・不景気って言うけど巷ではマダマダ食べれる食い物をポイポイと平気で捨ててる国でしょ~この国は・・・。 自分の身の周りをテレビでのたまうマスゴミwに踊らされずに良~く見てみてよ~ 不景気?なのにパチンコ屋には暇をもてあました沢山の人が娯楽?とやらに金をバンバン捨てているし、 不景気?なのに宝くじ売り場にはお金を握り締めて夢?wを買う為に長蛇の列・・・ あげくの果てに不・景・気・な・の・に・年末の大型スーパーやデパートなどの買い物客の多さはハンパじゃねぇ~し、 活気や勢いもマダマダあるような気がする・・・。マスゴミwが不景気だって言う割には夜も昼も沢山の車がブンブンと走りまわっているしね。 俺の住む片田舎でもこれだぜっ!!テレビでのたまう派遣切りがどういったものだかなんてもはやどうでもいい・・・ マスゴミwは今度は派遣切りされた非社員達に生活保護を受けさせたいのだろうか?そんなニュース?wが増えてきた・・・。 人それぞれ色々な事情はあると思う・・・けど【 バイト・パート・派遣?etc・・・ 】と【 正社員 】の待遇が違うのはあたりめぇ~じゃね? 自由!自由!待遇!待遇!給料!給料!人間関係!人間関係!って追い求めて流れ着いたのが今の働き場所や居場所なんじゃね? 大不景気?が襲ってきたら当然もろくもいとも簡単に崩壊するでしょ~そんな夢のような理想的世界の空間わっw!! それが本当に嫌ならピーチクパーチクと便利な口で自己主張ばかりしてないで、 今すぐに安い給料でも良いからキチンと正社員になって地に足つけた世界の生活を歩みなさい。。。 多少の不具合や我慢は必要でしょ~安定をこの国で今すぐに手に入れたいのなら・・・。 この国ではコツコツと自分の決めたレールの上を損得勘定なしで歩いた者が最後は小さく笑うのじゃ~!!w しかし・・・今の世の中でワイワイギャーギャーと騒がれている【 弱い?者達 】って言われる人達の本当の中身や意味は、 何か本来の意味合いと大きく違うような気がするんだよな~。。。これを具体的に俺が大声で言うと、冷た~い!!とか、 協力性が無い!!酷い!!でもその中にもこんな人もいるっ!!って言われそうだけど、 それは各自自分で良い様に解釈して考えてくれればそれで良いんです!!そうです・・・ マスゴミwに作られた無能なニュースに簡単に踊らせられないでどっしりと地に足つけて各自が自らの意思で考える事・・・ これが今一番大事なんです!!だから今回の俺の記事は無鉄砲な投げっぱなしのジャ~マンの様な記事なのです!! あしからず・・・(ジャーマン=プロレス技) 「景気の「気」は気持の「気」」といわれます。 上記の記事を読む限り、「不況・不況」と騒いでいる割には、財布のひもをしっかり締めているのかいな? と我が目を疑います。 普通に食べ物をポイ捨てしているうえ(ただし衛生面を考えたら、食べ物屋が捨てるのはいた仕方がないことです。)、 朝鮮玉入れ屋やら宝くじやらにバンバンお金を捨てています。オイオイ理論矛盾していないか?と言いたくなります。 ただし、小売店などは売り上げが下がって、結果開店時間が短縮されていますことを注記(2009年4月12日現在)。 当サイトの非難の対象にされています小沢一郎氏ではありませんが、1990年以降の景気は「構造不況」と言えます。 そもそも構造不況とは消費者がこれ以上の生活を望まなくなったので、消費欲求が減少し、消費市場の成長が止まり、それに連鎖して生産財市場が止まったのです。 国内需要を増やすために公共投資をどんどん行っても、消費市場が変化しなければ景気は回復しません。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、わがままにして陰々とした考えに毒されています。 このような者によって、政治の世界や司法の世界、極めつけは報道の世界に跋扈していることから、 世の中がおかしくなっています。整理整頓は「捨てる」ことから始まるといわれています。 ともすれば、真の意味での景気回復・日本を元気にする第一歩は、「反日主義者の精神構造」の持ち主の撲滅から始まります。 ■近年の日本の「右傾化」を心配する ↓本文はここをクリックして表示 +... 日本には技術もカネもある。「尚武精神」が侵略主義と違うことは世界が認めていることである。日本の防衛力増強を「脅威」だと、本当に心から心配している国があるとすれば、それは自らが侵略主義的志向を持った国であるというほかはない。 (引用元・月刊WiLL 2008年10月号 日下公人 「現代日本の10大バカ」P256 2行目) 「自らが侵略主義的志向を持った国」と言えば、特定アジア諸国ですよね。事実、中国はチベットやウイグルを侵略・ジェノサイドをしています。 また韓国は竹島を不法占拠、北朝鮮は外国人を次々と拉致。こういうことをしておきながら、戦時中の日本の戦争犯罪をでっちあげてまで糾弾し倒しているのですから、とんだ迷惑です。 国内に目を向けても、反日主義者も日本の「右傾化」を心配していますが、しかしながら彼らと同じ主義の一派が、「 国電同時多発ゲリラ事件 」を起こすなど、目的のためなら手段を選ばない、というとんでもないことをしました。 さらに「自己正当化をする」項・「犯罪者を必要以上に擁護する」項でも触れていますが、北朝鮮問題においてみそをつけています。 北朝鮮と同調をしている証拠です。さらに凶悪犯罪者と同調しています。 「蟹は甲に似せて穴を掘る」ということわざがあります。自分たちが残虐非道ですから、日本軍も残虐非道であると思い込むのでしょうね。 虚無性 ■テレビ漬けである ↓本文はここをクリックして表示 +... この者たちは、「考える」ということを嫌います。 またそうでなくても、マイナス思考のためテレビでごまかしています。 ただでさえ日本のテレビは反日なのに、「反日主義者の精神構造」の持ち主がテレビ漬けとなるとますます洗脳されてしまいます。 あなたの身内にテレビ漬けの方いらっしゃいますか? その人は反日発言していますか?それが「反日主義者の精神構造」の持ち主の正体です。 ■マスコミの情報を鵜呑みにする ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは下記リンクをご覧ください。 対応 ( U3MUSIC INC 内) この中で、宇多田氏は、 「自分のそういう経験をふまえて、芸能人の噂を聞いてもまったく信じる気になれなくてさ。 本当のこともあるんだろうけど、全部鵜呑みにしてる人が多いのがなんかこわい。 どうして、週刊誌とかに書いてあることをやたらと信じる人が多いんだろう。 記事なんて、記者という人間が書いた文章に過ぎないのに。 メディアを信じ過ぎ(笑)」と斬っています。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、考えることをめんどくさがります。 当サイト有志のようにマスコミを疑ってかかれば、いかに日本のマスコミが偏向に満ち溢れているかご理解いただけます。 ただし、明らかに本当のこと(大東亜戦争=自衛のための戦争であったことetc)を "嘘"と垂れ流す愚か者or工作員もたくさん存在するので、そのような者は徹底的に潰されるべきです。 参考 http //www.oshiete-kun.net/archives/2009/01/_2ch.html ■ものぐさである・自己研鑽を拒む ↓本文はここをクリックして表示 +... チャレンジして失敗を怖れるよりも、何もしないことを怖れろ。 (本田宗一郎) 「マスコミに騙される人」や「甘ったれている」項をご覧になればお分かりになりますが、この者は自分で動かず受け身に甘んじています。 反日主義者に見られるサヨク思想は、ある意味お気楽な思想です。昭和時代の反日左翼の権化・国鉄労働組合は、スト権スト・順法闘争などを行い結果、国民に甚大なる損害を与えました。 この者たちはまさしく、ものぐさ・甘ったれ・自己正当化・現実を素直に認めない・自己中心的な発想といった、「反日主義者の精神構造」の持ち主です。 また韓国企業がいわゆる「パクリ」を行うのは、自ら開発をしよう・自己研鑽しようという精神がなく、ただ人のアイデアを盗めばよいという安易な発想を持っているからです。 浮き足立っている ■浮き足立っている ↓本文はここをクリックして表示 +... 戦前は「バスに乗り遅れるな!」と、言わんばかりに戦争まっしぐら、戦後は自虐史観に囚われるあまりに、愛国発言を焚書抗儒し、 バブルのときは、「イケイケ」と言わんばかりに、他国の絵画まで買いあさり、 リーマンショック後は、せっかく竹中平蔵氏による金融機関の正常化で、 不良債権がきれいさっぱりにも関わらず、いたずらに「100年に1度の大不況」を煽っています。 さらに民主党の岡田克也氏はNHK討論番組で、北朝鮮貨物検査強化案を廃案にしたのは麻生首相だと言い張り、審議拒否した責任逃れをしました。 しかしマニフェストにはぬけぬけと実施するとしています。それならなぜ麻生太郎首相問責決議後に参議院で審議を拒否したのでしょうか? 米軍基地に対する強行姿勢も改めて米国に擦り寄りました。 ソマリア沖への自衛隊派遣も認めると軟化しました。 一体全体それまでの反対の姿勢は、何だったのでしょうか。それは浮き足立っているからです。 石破茂の利敵行為 ( 反日勢力を斬る 内) 石破茂氏は与謝野馨氏とともに麻生おろしを企みましたが、成功しないと見ると途端に麻生支持に転じました。 しかも自分は麻生おろしには加担していないと嘘をつきました。 そんな石破氏が民主党を批判してばかりいてはダメだと利敵発言。 この時点で戦闘状態(選挙モード)に入ったのですから、そのような綺麗事を言っているゆとりはないはずです。 このように綺麗事を言って自分に嘘をついている時点で、「反日主義者の精神構造」の持ち主です。 さらに自らの言動に責任を持っていないので、ますますもってです。ましてや大臣です。鉄面皮なことこの上ありません。 戦前は、羽織ゴロと呼ばれ世間に忌み嫌われた(新聞)記者という、モラル・矜持無き人物であり、 今、その亜種が国民の生き血を吸い、テレビ界で異常繁殖して居ます。だからこそ戦前・戦後を通じて、反日勢力にしてやられるのです。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、自尊心が肥え太ったお調子者です。そのためやたらと「風」に乗ったり、いたずらに「風」をつくります。 ■軽佻浮薄である ↓本文はここをクリックして表示 +... ※軽佻浮薄(けいちょうふはく) 考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。 ▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。 軽佻浮薄 句例 ◎軽佻浮薄な振る舞い 軽佻浮薄 用例 昭和維新の目的は、すべての軽佻浮薄の根元を叩きつぶすことにあるのだ。 井上光晴・心優しき謀反者たち 東国原英夫氏が、2009年の衆議院議員総選挙における立候補要請があった際、 「条件の一つとして私を次期自民党総裁候補にしなさい。」旨の発言がありました。 この時、「(東国原氏に)頭を冷やしたまえ。」などと非難ごうごうでした。 一国の主に留まらず、外交において国を代表する首相は、そう簡単になれるものではありません。 ましてや日本は、隣国に民度の低い国がそびえだっています(「韓国人の国民性」・「中国人の国民性」参照)。 「断じて行えば鬼神もこれを避く」対応なくしてなりたちません。 さらに日本人は、「盆の上の豆」のごとく軽佻浮薄な性格をしています(「日本を正常にする方法」参照)。 小泉純一郎氏のようにマスコミ対策をきちんとやり、その上国民にわかりやすくかつ納得いく説明をしなければ、 安倍晋三氏のように報道テロで潰されてしまいます(「安倍晋三の真実」参照)。 伊藤博文、犬養毅、東條英機、大平正芳、後述の小渕恵三の各歴代首相は、暗殺や法務死、心労が祟って病死するなどをしています。 だからこそ日本の首相の椅子は、元来軽いものではありません。命懸けなのです。 それでも「目指す!」と言うならば、命を捨てたと思わなくては、務まりきれません。 小渕恵三氏は首相時代に激務の末、帰らぬ人となってしまいました。その娘の優子氏は、 そんな父親を目の当たりにしただけに、東国原発言に対して、他の自民党議員以上に憤慨の気持ちをあらわにしました。 これといったポリシーなくして、首相にしてくれというのは、軽佻浮薄なことこの上ありません。 このような発想で首相になって、結果国益を食い荒らしたのは、細川護熙内閣や村山富市内閣、福田康夫内閣です。 ■ミーハーである ↓本文はここをクリックして表示 +... 皆さんの周りに、流行を追い掛けるおのぼりさんは、いらっしゃいますでしょうか? 例えばプロゴルファーの石川遼氏に、ファンレターを送ったアナウンサー。公私混同はなはだしい。実におとなげないことこの上ありません。 1998年に横浜ベイスターズが38年ぶりの日本一になりました。その時、にわかファンがうじゃうじゃわきました。 彼らはベイスターズが試合に負けるや否や、メガフォンなどをグラウンドに投げ付けることをしました。 それがテレビなどで伝えられ、そういうことをやらないようにとの呼びかけの声があった結果、正常化しました。 にわかファンは所詮やじ馬根性丸出しのおのぼりさんでしかありません。 いわゆる「韓流おばさん」もそうです。「韓国人の国民性」でも取り上げられていますが、 これについて岩井志麻子氏が、「チャンチャラおかしい。」・「ホンマモンの韓国男の真髄も醍醐味も、まるでわかっとらん。」と斬りました。 元横綱・若乃花勝こと花田勝氏の元夫人・花田美恵子氏は結婚した際、「おかみさんにはなりたくない。」 としました。名家に嫁いだという自覚などさっぱりありませんでした。 お相撲さんと結婚することは、将来おかみさんになる可能性があります。ましてや当時の勝氏は、 花田家という角界においては名門中の名門の長男です。 家を守るという自覚無くして、嫁ぐなど有り得ません(ただし実力・力士としての品格は、弟の貴乃花光司氏が上回っていました)。 当時「若貴兄弟」はブレイクしていました。 これらを考えたら、結婚した際、「(勝氏に嫁ぎたい動機が)ミーハーではないか?」という疑念を抱かれてもいたしかたがありません。 事実、美恵子氏の考え方はあまりにも軽すぎました。どたばたの末、離婚してしまいました。 名家の名を汚したという意味では万死に値します。ミーハーな発想で行動したなれの果てです。 このような人物こそ、「ホリエモン」こと堀江貴文氏を再三再四持ち上げておきながら、 犯罪者として摘発されるや否や、一転してバカ者扱いしたのです。 この態度は田母神俊雄氏に対して、はしごを外すような真似をした鳩山由紀夫氏に通じます。 この発想そのままの投票行動の結果が、土井たか子氏が起こした「マドンナブーム」、 小泉純一郎氏が起こした「郵政解散」に伴う総選挙での自公圧勝です。 なぜミーハーな者が「反日主義者の精神構造」の持ち主なのでしょうか? それは身代わりが早く、 かつ自尊心が肥え太ったお調子者ゆえ、浮き足立っているからです。 ■ブランドにしがみつく ↓本文はここをクリックして表示 +... 「 特亜を斬る 」にて茶化されている韓国人が、なぜノーベル賞を欲するのか?それはブランドにしがみつきたがるからです。 なぜそうなのか?なぜならば「反日主義者の精神構造」の持ち主は、別項でも述べていますが、ええかっこしい態度に走るからです。 (※このコーナーは別ページ反日主義者の精神構造7を表示したものです。目次より直接それぞれの項目に飛ぶことは出来ませんので、お手数ですがスクロールしてご覧ください。) 小心者 ■綺麗事を並べる・言い訳をする ↓本文はここをクリックして表示 +... 野党は税金まけろ、橋や道路は造れとうまい話ばかり。これは毛バリで釣りをするようなもの。 (渡辺美智雄) 街で見かける、余裕がない人々にギスギスした社会の縮図を感じる(扶桑社刊「週刊SPA!」2008年10月14日号「もはや国民病「生きづらい」の正体・日常の風景編」P39)。 日本の良さを再確認もしましたし、いやなところも見えましたね。日本人って、人にどう見られるかをすごく気にしているでしょ。アメリカ人は良くも悪くも人の目を気にせずに、ありのままの自分で生きているんですよ。それとYES・NOもはっきりしている。日本人みたいに“たぶん…”なんて言って返事を濁したりしないし。きっと日本人とアメリカ人、足して2で割れば最高かも(笑)(加護亜依・扶桑社刊「週刊SPA!」2008年10月14日号「もはや国民病「生きづらい」の正体」P41) 「 この国は少し変だ!よーめんのブログ 」の「 保守の性格左翼化現象 」・「 今、日本人に何が・・・? 」をご覧になればお分かりいただけますが、このような者の精神的な傾向は、言葉悪い言い方をすると「オツムが弱い」と言えましょう。この弱さを偽装・隠蔽するべく、綺麗事を並べたり、口先だけ立派なことをいう傾向が散見されます。これぞ よーめん 氏いわく、「綺麗事派」の正体です。 そう。待つ仕事はやめよう。おい出てくれよといわれる状態にしなくちゃいけないとね。自分で何かに向かって生きて行った方が、勝ちの人生。好かれようとするんじゃなくて、嫌われるのなら嫌われていい、ただ、言いたいことは言おうと。すべての人間に好かれっこないんだから(八名信夫) 悪役で有名な八名信夫氏は「ダカーポ」2004年5月5日号の取材において、上記のコメントを寄せました。 さらに「オレははっきりしている方だからね。自分のネクタイも自分で選べないようなカマッぽいのは嫌だね!それと自分だけ生きていると思っているようなヤツ。いろんな人がいて、世の中成り立ってるんだから。」とコメント。 このコメントを読むにつけ八名信夫氏は「反日主義者の精神構造」の持ち主と相反する思考の持ち主であることがうかがい知ることができます。 「みんなに好かれたい」と思うからつまずくのです。嫌われてもいい、まずは自分の立場を大事にすることが一番です。 「反日主義者の精神構造」の持ち主に嫌われる、これほど幸せなことはないのですから。 民主党の本性・本音が現れた行動をご覧になればお分かりいただけますが、民主党は口では綺麗事を言っていますが、やっていることは完全に売国政策です。 人のことを言葉だけで判断するのは大変危険です。まさしく生前の渡辺美智雄氏の言葉どおりです。 「見ている人はわかる」と言いますが、的を得ています。そういう意味では安倍晋三氏は、評価損をしてしまったといっても過言ではありません。 ■「断じて行えば鬼神もこれを避く」対応ができない ↓本文はここをクリックして表示 +... 悪魔で…いいよ。悪魔らしいやり方で、話を聞いてもらうから! (「魔法少女リリカルなのは」のキャラクター 高町なのは) 「断じて行えば鬼神もこれを避く」とは、決断して、くよくよためらわず、勇敢に行えば恐ろしい鬼神でさえも道をよけて通らせる。強い決意と勇気で事に当たれば、どんなこともできるということ。秦(しん)の趙高(ちょうこう)の言で、本来は、悪事を断行する時にいったものです。 下記リンクのレスを引用します。 クーデターをやるしかありますまいて。。 ( この国は少し変だ!よーめんのブログ 内) Commented by 豹雹 at 2008-11-16 14 17 25~45歳の人は小林よりのりの本やネットであっさり洗脳がとけて冷めた目で自虐教育者をみている。高校生大学生は「マスゴミ」という言葉すら普通に使ってる。権力者だけ国民を洗脳したまま捏造を通せると思っているだけで嘘つきだと国民は見ているだけだ。このままこのギャップが続いたらクーデターが突然起こっても不思議はない。権力や理屈を集めて法的に国民をどうしようが民間をどうしようがクーデターには法も権力も何も通用しない。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は小心者で、そのためええかっこしい態度でふるまいます。しょせんは張り子の虎です。 それに引き替え戦前の日本軍は勇敢でした。お国のため・天皇陛下のために命をかけて大国・アメリカに立ち向かいました。日本は戦争には負けましたが、アメリカ軍は日本軍のその強い精神力に驚愕したといいます。 チャンスをつくったし攻撃はよかった。でも負けたのは何かが足りないということでしょう。いい経験をした。 (中田英寿) 中田英寿氏が、上のコメントを述べていました。 別に「韓国人の国民性」に成り下がらなくてもいいので、せめてはおもいっきってやり倒す精神を持つべきです。 正義無き力は無能なり、力なき正義も無能なり。(大山倍達) 金切り声で絶叫しよう! ( この国は少し変だ!よーめんのブログ 内) この中でよーめん氏は、「日頃から口すっぱく抗議活動では、「怒り・憎しみ・憎悪や怨霊・生霊・ 祟りまでをも込めて全身から搾り出すような金切り声で抗議の叫びを絶叫しなくてはならない!」と言っております。」とコメントしています。 上記リンクによりますと、当該デモ参加者の女性が、「国旗を侮辱する左翼に我慢できず、ののしりの声を思いっきりぶつけました。」と述べたとのこと。 さらにシュプレヒコールの合間に、「途切れてはいけないとの思いもあり」必死に叫んでいたとあります。 ただ単に動員されただけに過ぎない人物ならば、このような強烈な態度に打って出ることは出来ないでしょう。「自分」がないからです。主体性がないからです。 日本人、は中国・韓国の「世間離れしてる」・「過激だ」などといいように言いくるめられて、大人しすぎます。 国民運動するに当たって、駄目なものはダメ!という毅然とした態度で臨まないと、ますます彼らの言いなりになりさがってしまいます。 もうそんな事なかれ主義の「日本人」は打破すべきです。 そう!ここで「断じて行えば鬼神もこれを避く」対応です。このぐらいしないと抗議ではありません。 日本国民が大人しいため、日本がだめになるのです。 フランス政府は国民がすぐに抗議行動をするから国民のための政治をする事が多いのです。 我々日本人がバカなのですが、もっと気付きましょう。日本の「憂国の戦士」は、国民のための政治を実現させるべく、 すぐに抗議行動を、それも西村修平氏のように、フランスも真っ青なまでに過激な抗議行動をすべきです。声上げていきましょう。 ■「快刀乱麻を断つ」ことができない ↓本文はここをクリックして表示 +... これは、「断じて行えば鬼神もこれを避く」と趣旨は同じです。 ごちゃごちゃしててどうしようもない問題を抱え込んで、結果取り返しのつかない事態を引き起こす例は多々あります。 あの「坂本弁護士一家殺害事件」のときに、オウム真理教の犯罪を疑って当然にも関わらず、 サヨクはそれを妨害して、結果サリン事件を引き起こさせる事態を招かせました。 また「河野談話」や「村山談話」を引き起こさせたそもそもの原因も、 サヨクやよーめん氏いわく「綺麗事保守」の国益をないがしろにした勢力を見過ごして来た結果です。 「断じて行えば鬼神もこれを避く」=「快刀乱麻を断つ」です。 ■社会正義に関する心のブレーキがある ↓本文はここをクリックして表示 +... 「断じて行えば鬼神もこれを避く」ということわざがあります。このような思考の持ち主は、綺麗事思考に汚染されています。 「主権回復を目指す会」の西村修平氏には、社会正義に関する心のブレーキがありません。 ですから2006年、TBSに乗り込むことが出来たのです。 同じことを2ちゃんねらーがやったら、警備の方に怒られてすごすごとなってしまいました。 これでは何のために集まったのかわかりません。 また「クソガキどもを糾弾するHP」の葵龍雄氏や、暴露本の鹿砦社も悪を叩きるべく、住所・電話番号を暴露しています。 当サイトは一刻も早く住所・電話番号・メールアドレスなどの個人情報を暴露し、反日の実態を検証しなければなりません。 このように悪を蹴散らす態度は、大いに拍手しなければなりません。 それができないのなら、あなたは立派な売国奴です。 ■理屈をこねる ↓本文はここをクリックして表示 +... この者たちは人間形成がなっていません。なっていませんというより、人格破綻を起こしています(だからこそ犯罪者と同化するのです)。 結果まともな者ならサクッと答えが出るのに、この者たちはそれができない。だからあれやこれやとこじつけなどして答えようとします。 また よーめん 氏ではありませんが「 綺麗事思考 」が強いため、同じくあれやこれやとこじつけなどして答えようとします。 一時のコカコーラのCM「理屈じゃないんだよ。no reason」というキャッチコピーがありました。世の中は理屈では語りきれないところもあります。 あの「坂本堤弁護士一家殺害事件」の捜査を妨害した者は、「魔女狩りが…」などと理屈をこねて茶々入れをしました。 ■現実を素直に認めない ↓本文はここをクリックして表示 +... 私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。 (本田宗一郎) 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。 (「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクター 碇シンジ) 受難の歴史が渦巻くこの場所で、我々はこのような汚濁の歴史が再び繰り返されないよう、民族的自尊を高くし、自主、自強の意志を固く決意しなければならない(全斗煥) 反日主義者=左翼主義者=スターリニスト(「非国民」というレッテル貼り放題の、戦前のエセ右翼(右翼に偽装した左翼)も同罪)の辞書に、「反省」という字はありません。 漫画家・小林よしのり氏が薬害エイズ訴訟を支える市民団体に参加しているときに、自己反省をしていないメンバーに「このメンバーの中に、オウム信者と同じ者がいる。」と発言するや否や、「一緒にするな!」とキレられたといいます。なおこの市民団体は、某左翼団体のバックアップがありました。 「甘ったれている」項・「自己正当化する」項と重複しますが、反日左翼主義者は他人をさんざん糾弾しておきながら、このように人を振りみてわがふり直すことができない、この独善性こそ日本を不幸に貶める反日主義者の正体です。 2008年12月7日のTBSテレビ「がっちりマンデー」に、イー・アクセス代表取締役社長兼CEO千本倖生(せんもとさちお)氏が出演しました。 千本氏も本田氏同様、まるで成功しまくっているかのように見えますが、実は失敗をしていたと語っていました。 しかも夫人に「それでもあんたは電気博士?」と言われていたそうです。それでも成功していますから驚くに値します。 くだらない魔女狩りに明け暮れる「反日主義者の精神構造」の持ち主にとっては、成功者がまぶしく見えるのでしょう。 次に下記リンクをご覧ください。 北朝鮮「少しでも迎撃の動きでも見せようならば、直ちに報復の打撃を加える」 ( 痛いニュース(ノ∀`) 内) 北朝鮮は、なにかと国際社会にいらぬ不安を与え放題です。 自らが国際社会から信用されていないために、監視されているのです。これをわかっているのでしょうか? この国の将軍様はわかっているわけがありません。だからこそチャウシェスク夫妻の処刑を見て、「明日は我が身」と怯えているのです。 14世紀末に建国された李氏朝鮮は明(中国)の朝貢国でした。 その朝鮮にとって満州(中国東北部)にある女真族は北狄(ほくてき=野蛮人)であり、軽蔑の対象でしかりませんでした。 ところが17世紀に入ると、満州で女真族が建てた後金が勃興し国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めてきました。 華夷思想に染まっていた時の朝鮮王・仁祖は当然のことながら清の要求を拒絶します。 すると、怒った清の皇帝・太宗は10万の兵力を率いて朝鮮に侵攻しました。 そして、清の圧倒的な兵力の前に朝鮮軍はなすすべもなく惨敗を重ね、わずか45日で降伏。 これが「丙子胡乱」です。 このとき江華島に逃げた仁祖は清軍に捕らえられ、三田渡で降伏の儀式が行われました。この儀式は屈辱的なもので、 仁祖は太宗に対し 三跪九叩頭の礼 (さんききゅうこうとうのれい/英語:nine koutows・三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられました。 そして三田渡の地には、後にこれを記念した 大清皇帝功徳碑 (三田渡碑)が建てられることになりました。 韓国では、この碑を「恥辱碑」と呼びます。 それは、この碑に以下のような内容の文が刻まれているからです。 愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆らった。 清国皇帝は、愚かな朝鮮王をたしなめ、この大罪を諭してやった。 良心に目覚めた朝鮮王は、自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。 我が朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆った愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。 その石碑のレリーフは韓国政府が作ったもので、「大清皇帝功徳碑」のそばにあります。 清の太宗の陣地があった三田渡の受降壇で、仁祖が太宗に対して三跪九叩頭の礼を行い、清皇帝を公認する誓いをさせられるという場面を描いたものです。 レリーフの文末には、上記全斗煥氏の言葉「受難の歴史が渦巻くこの場所で~」と書かれています。 これは、1982年当時の全斗煥氏が大統領であったころに書かれたものです。 「受難の歴史」「汚濁の歴史」、この言葉に韓国・朝鮮の歴史的、民族的無念が示されています。 誇り高き韓国・朝鮮人にとっては受け入れがたい歴史ですが、これが事実であることがさらに彼らの自尊心を傷つけています。 しかし逆に考えたら、韓国に失うものは何もないではありませんか? フロンティアの余地が十二分にあります(韓国人自身に自覚さえあれば)。 アメリカでさえ1776年7月4日に独立して以来、沢山の歴史を残してきました。 たった170年間近くだけで世界ナンバーワン国家になって来たのです。 焼け野原から出発した日本もまた、戦後から昭和末期のたった40年間近くだけでも大きな歴史を残して来ました。 「我々はこのような汚濁の歴史が再び繰り返されないよう、民族的自尊を高くし、自主、自強の意志を固く決意しなければならない」我が日本も人事ではありません。 偏向報道、自虐史観まみれで日本人としての誇りを失っている今、この言葉を強く噛み締めなければなりません。 犯罪性 ■犯罪者を必要以上に擁護する・犯罪者に同化する ↓本文はここをクリックして表示 +... こちらが悪ければ、悪い人間が寄ってくる。こちらが信用することによって、信用される人間が生まれる。 (本田宗一郎) 「反日法律家の正体」の弁護士たちをご覧になればお分かりいただけますが、「加害者の人権」を必要以上に求めようとしています。 「加害者の人権」なるものは、本来囚人いじめなど、必要以上に犯罪者をいたぶる行為から擁護するためにあるものであって、 犯罪者と何も罪のない一般市民と同じ扱いにすべしとするものではないはずでありますが、なぜこのような思考に走るのでしょうか? このような者は大概犯罪者と精神構造が同じであるからでしょう。少なくても「反日法律家の正体」に登場する者の言動を見る限り、そうだと言えましょう。 参考リンク どうして民主党は犯罪者の人権を守り被害者の人権を踏みにじるのですか。 - Yahoo!知恵袋 またオウム事件の場合、このような者によって坂本事件の追撃が阻害され、結果松本・地下鉄サリン事件につながったのです。 次に進む前に下記動画をご覧ください。注目すべきは「死刑をやったら「死に神」。死刑をやったら「死に神」。」のところです。 http //www.nicovideo.jp/watch/nm6082757 アサヒる新聞の唄 /歌 鏡音リン・レン (コメントを消して動画を見る場合は、右隅のヒヨコのマークをクリックしてください。) 朝日新聞社は宮崎勤死刑囚らの死刑執行の際、当時法務大臣であった鳩山邦夫氏のことを「死に神」と揶揄(詳細は「朝日新聞の不祥事年表」を参照)。 これは反日主義者がいかに犯罪者と同調しているか、一つの表れであるといっても過言ではありません。 ■「反日主義者の精神構造」の持ち主やその子供が犯罪に走るケースが多い ↓本文はここをクリックして表示 +... 2ちゃんねらーのうち、少年犯罪に高い関心を抱く方は、「 クソガキどもを糾弾するHP 」をご存じでしょうか? この管理人の葵龍雄氏に目をつけられた者のページをご覧頂ければお分かりになりますが、あらかたの者は無反省であり続けています(中には共犯者と袂を分かった者もいます(例・ 名古屋5000万円恐喝事件 ))。 そのうち1988年11月から1989年1月にかけて起きた「 女子高生監禁コンクリート詰め殺人事件 」を起こした者が33歳になった2004年に再犯を犯し、この際「オレは未成年のときに起こした事件で、10年近く務めている。」とひけらかし、 さらに「なめてんじゃねえぞ。殺すぞ。オレは1人殺しても2人殺しても一緒だ。長い懲役行ってるから、警察や検察を騙す方法は知っている。精神鑑定受けて減刑される方法だって知ってるんだ。」と暴言。 この男に限らず、無反省を貫き通している者は、なぜ恥ずかしげもなくのうのうとしていられるのか? 本質は「甘ったれている」・「自己中心的な発想に走る」。そう! 結局は「反日主義者の精神構造」の持ち主だからです。 被害者少女が監禁された家は、共産党員の自宅で、少年グループの一人は、その共産党員の長男だったのです。 実は、凶悪犯罪を犯す少年の親が共産党員である確率は、人口に占める共産党員の割合よりもはるかに高いのです。 共産党員の子供は、往々にして社会適応能力がなく凶悪犯罪に走る傾向にあります。 参考リンク 朝日新聞と共産党が少年法改正に反対する理由 ( アッサヒ・コム(アッサヒ新聞社) 内)) 共産党員でなくても反日主義者・またはそうでなくても「反日主義者の精神構造」を持っている者がいかに社会毒か、これだけでもよくわかります。 このような輩が牛耳る日教組は、子供の情操心に悪影響を与えています。国労同様、社会的に抹殺されるべきです。 また「反日マスコミの正体」をご覧になればお分かりになりますが、反日マスコミの社員の間で犯罪が異常に多いのです。 TBSがオウム真理教に対して、坂本堤弁護士のインタビュービデオを見せてしまい、これが「坂本弁護士一家殺害事件」につながったのです(詳細は「TBSの不祥事年表」を参照)。 さらに反日教育をしこたま受け続けた韓国人が、来日しては犯罪を犯すということが多発しています。 「愛国無罪」といわんばかりになんぼでもやったれという気持ちで犯罪を犯しています。 まともな精神を持っている者ならばたとえどんなにその者やその地域が憎々しいと思っていても、よほどのことがない限り犯罪を犯すということはありません。 参考リンク 韓国の反日教育と韓国人犯罪者の関係 ) 別項でもとりあげています、「 奈良騒音傷害事件 」の加害者女性がなぜしこたま騒音鳴らし放題をやれたのでしょうか? これもまた「迷惑だったら解決したらいい(つまり「引っ越せ」ということでしょうね)。」という考えでやったのです。 いずれにしてもこのような考えの持ち主が犯罪者気質を持っているといっても言い過ぎではありません。 次に下記リンクをご覧ください。 ★イランの公開絞首刑は苦しみを与えるクレーン吊り(゚゚;)エエ ( 知識の泉 Haru s トリビア 内) 世界一死刑が残酷な国はイランだそうです。絞首刑、石打ち刑、体切断刑、高所から... - Yahoo!知恵袋 ( cache ) ここまでやれとは言いませんが、中にはこのように考えている方がいます。そこまでいきつかないように日本を正常化してほしいと思います。 ■悪いことをした過去を明るく想う ↓本文はここをクリックして表示 +... いくら今真面目に生活していても、例えば暴走族であった過去のことを「あのころは青かった。」・「若気の至り。」 などと言って笑って語っているようでは、本当に反省しているとは言えません。 このような人物にとって、自分たちの行動はふぬけた社会に対して反抗し、そういう自分がかっこいい存在だと思いこんでいます。 要するに己に酔いしれ、快感を楽しんでいるだけのへたれでしかありません。 本当の反省とは、悪いことをした過去を嫌い抜くことです。過去の自分と同じような現在の悪いことをしている人物を見て、 腹を立て、「なんとかやめさせられないものだろうか?!」と真剣に考えることです。 こういう気持ちにならないような者は、今がいくら真面目な者であっても、真の意味で更正したとは言えません。 このような発想は、独善主義そのものです。 ■人の悪口言いたい放題 ↓本文はここをクリックして表示 +... 人が本当に下劣になると他人の悪口を言うことにしか喜びを見出せなくなる。(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ) まずは、「日刊ゲンダイの正体」をご覧ください。 あまりにも低俗千万な報道姿勢でもって、麻生太郎首相をバッシングしています。 「歴史書、経済書などをドーンとまとめ買いして、読書家(本当は"積ん読家")をアピールしたが、またも赤っ恥だ。」と。 「この本とか買ったら(マスコミ向けに)面白いんじゃない? 『麻生首相熟読』とか書いちゃってさ」との発言に対しても、「悪い冗談を飛ばした。」としています。 そのうえ「前回購入された(7冊の)本は読みましたか。」との記者団からの質問に麻生首相は、 「ああ、ほとんどだ。」と答えましたが、「それは「ほとんど読まなかった」という意味かも。」 と真偽のほどか否かしっかりとっていないにもかかわらず、勝手な解釈をつけたしています。 「ああ、ほとんどだ。」は「ああ、ほとんど読んだよ。」の可能性があるにもかかわらず。 これは珊瑚礁に傷をつけて、でっち上げスクープを仕込んだ朝日新聞社や、 スマイリーキクチ氏にいらぬ中傷レスを書き込んだ者の精神構造となんら変わりません。 (※このコーナーは別ページ反日主義者の精神構造8を表示したものです。目次より直接それぞれの項目に飛ぶことは出来ませんので、お手数ですがスクロールしてご覧ください。) 破壊性 ■魔女狩り裁判に走る ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは下記リンクをご覧ください。 【事件】東金市女児遺棄事件の勝木容疑者(21)、部屋一面が女児向けアニメのポスターや「プリキュア」などの漫画で囲まれた状態 女児誘拐殺人事件が起きるたびに、あたかもこのような趣味を持つものがまたやらかしたかのごとくの報道がなされます。 これは、「マスコミの東京賛美報道と反日」でも取り上げられています、大阪人バッシングと構造がよく似ています。これは魔女狩り裁判以外何物でもありません。 このような魔女狩り裁判体質そのままに、反日左翼団体の目の敵にされた自衛隊関係者がバッシングを恐れるようになりました。 結果NEC汚職事件の際、書類を消却炉に燃やすなど証拠隠滅を図りました。 同様に原発関係者もJCO事件の際、救急隊に事実を知らせることなく現場に向かわせ、被曝させてしまうなどとんでもないことをしました。 このように魔女狩り裁判は、嘘や事実の隠蔽といった「アサヒる」行為につながります。 そうなったら約束されるはずの安全が脅かされてしまいます。 次に下記リンクをご覧ください。 ミサイル発射の誤報など気にするな ( せと弘幸Blog『日本よ何処へ』 内) 本田宗一郎氏は幾多の失敗を重ねた上で、「世界のホンダ」を築き上げました。文字通り「失敗は成功の元」です。 日本はこれまで国防をおろそかにしてきました。遅きに失したとはいえ、この北朝鮮問題によって、国防のありようの正常化への第一歩を踏み出すことが出来ました。 にもかかわらず、それに伴うしくじったことを政権バッシングの種にしようなど、浅はかとしか言いようがありません。 間違った情報を流してしまった場合は、きちんと謝罪した上で善後策を取ればいいのです。 この事件の本質は、戦時中の「警戒警報発令」→「警戒警報解除」に過ぎません。こういう警報はなされるべきにも関わらず、なされないほうがはるかに恐ろしいです。 坂本弁護士一家殺害事件は、TBSが自らの失態によって坂本氏の身の安全が脅かされてしまう可能性が発生したにも関わらず、本人に謝罪と「ホウレンソウ」がなされなかったことが原因です。 ■陰湿・病的なまでにしつこい ↓本文はここをクリックして表示 +... 「謝罪は1回すれば十分だ」(ウラジミール・プーチン) まずは下記動画をご覧ください。この程度でいちいち抗議するほどのものでしょうか? もしこれが通ったら、ありとあらゆる風刺漫画は社会的に抹殺されたことでしょう。 これと同じことをやったのが、オウム真理教の麻原彰晃です。漫画で風刺されたことが気に入らないと、作者の小林よしのり氏をポアしようとしたのです。 少なくても自らが売国行為など度し難いことをしたわけですから、茶化される前に殺されてもおかしくないのに。これぞ反日主義者に見られる陰湿極まる独善体質です。 http //www.nicovideo.jp/watch/sm4700759 <掲載日>2008.08.31 創価学会が謝罪放送を要求 ■解説■やしきたかじん、桂ざこば、勝谷誠彦の発言について翌週の番組で謝罪放送がされました。筆者追記この動画の掲載日の翌日をもって、創価学会が起こしたとされる、朝木明代市議会議員不審死事件から13年となります。しかし左動画のようなことがあったりと、この団体は相変わらず反日主義者に見られる陰湿な独善主義がはびこっています。関連リンク創価学会の正体 このような者は、元来の日本人の「水に流す」・「仕方がない」・「あきらめる」という考えに相反します。 一例を述べますと、創価学会が造反者に対して、執拗にネガティブキャンペーンをはってイメージダウンを図っています(それでいて上記動画ごときで、いちいち抗議しているわけですから、肝の大きさが知れたものです)。 反日主義者は、どうやら敵対する者に対して、まるで人格がないかのような考え、かつそのような者に対しては何をやってもよい、と考える傾向にあるようです。 スターリニストゆえにそのようなことを平気でやれる、そのようにも思えます。 「反日主義者の精神構造」の持ち主がなぜこのような考えに陥るのか? そもそもの根源はこのようにウジウジしているからです。 陰と陽の気が定まらない者は、やがて病を呼び寄せます。 頭でっかち ■頭でっかちである ↓本文はここをクリックして表示 +... 親も先生もオール5を取れというかもしれないが、それは優秀な人間とはいえない。それでは役に立たない役人ぐらいにしかなれない。社会が求めている優秀な人間とは、他の誰にも考えつかないことを考え、それを実行できる人間である。君たちがそうなる前には好きなことを見つけ、徹底的に追求することだ。そうして成長してきた君たちを社会は優秀な人間として大歓迎するだろう。(石原慎太郎) まずは下記動画をご覧ください。タイトルは「麻生自民党を選挙で大勝させる方法」ですが、 なぜ日本のインテリが麻生氏をバカにしているかを具体的に表しています。 つまり麻生氏をバカにする日本のインテリは「頭でっかち」なのです。 麻生自民党を選挙で大勝させる方法 ⇒ ニコ動版 動画DL→DVD焼付け方法 次に下記リンクをご覧ください。 低学歴な人が苦手です。本当に馬○じゃないですか低学歴な人って・・・? 馬鹿な... - Yahoo!知恵袋 低学歴な人が苦手です。 本当に馬○じゃないですか低学歴な人って・・・? 馬鹿な事を仕出かす馬鹿というのと、頭が悪くて無知無教養な馬鹿、 どっちが本当の馬鹿ですか?彼氏彼女にするならどっちを選びますか? 【分かりやすく言うと・・・】 東大法学部卒でエリート官僚になっても、満員電車で痴漢で捕まってしまえば馬鹿・・・。 まァ確かに馬鹿と言えば馬鹿ですが、馬鹿の意味が違いますよね。 分かりますかね、私の言いたい事。 馬鹿な事を仕出かす馬鹿というのと、頭が悪くて無知無教養な馬鹿・・・。 馬鹿な事を仕出かす馬鹿というのは理性を身につければよいけれど、 頭が悪くて無知無教養な馬鹿は何をやらせても馬鹿ですよね? 補足 回答者数=低学歴コンプレックスさん達の数?! そのうちの印象深いレスを引用いたします。 s61aitiさん 高学歴は大体が反日日本人になる確率が高い だから僕は高学歴は嫌いです。 実際僕も祝日に日の丸飾っていたら文句言って来た奴がいてさ そいつ日本人だぞ。信じられる? 反日主義者の精神構造 http //www35.atwiki.jp/kolia/pages/184.html 回答日時:2009/4/13 02 49 52 tanakayama06131980さん 本当にバカだから「低学歴」なんですよ、私は。 もうどうしようもないくらいバカで困っています。 それでいて、内科のドクターに惚れてます。ドクターも バカは相手にできないとしてます。 でも私はあなた様と違い人間できてます。 人前でこういったバカを馬鹿にすることはしません。 「相手は自分の鏡」相手を見ての態度です。 こういう言葉すら知らないでしょうね、あなた様は。 そんなにけないしたいならばここで私のことをうんとけなしなさいよ。 かまわないですよ。 回答日時:2009/4/13 22 45 50 このような見下すような思考に走るのはなぜでしょうか?おそらく別項ではありませんが、「挫折を知らない」からでしょう。 東京都の石原慎太郎知事ではありませんが、オール5を取ったところでそれは優秀ではなく、 それでは役に立たない役人ぐらいにしかなれないと言っています。真の意味での優秀とは人様の役に立つことをする者です。 天皇陛下が国民の模範になる、これを具現化する、125代にわたってこれが続く、となれば天皇家は優秀なお家柄と言えましょう(「万世一系」参照)。 また長嶋茂雄氏は、「ん~、そ~ですね~。」という口調していますが、自らが好きな野球でもって日本中に元気な話題を提供してきました。 そういう意味でも長嶋氏も優秀な人物と言えましょう。 それに引き替えオウム真理教事件を起こした人物は、はたして低学歴でしたでしょうか? 実は高学歴のボンボンである人物です。 「反日法律家の正体」にをご覧になればお分かりいただけますが、高学歴でも売国奴であるならは本当の意味で「バカ」です。 低学歴にして落ちこぼれでも人様のために働ける者は「優秀」なのです。 次に下記リンクのコメント欄をご覧ください。その中の秀でたものを引用いたします。 アメリカには言われたくない ( 反日勢力を斬る 内) Commented by ma-4649 さん 経済学者って人間ほど信用できないのは金融の常識ですよ。 経営の経験も無いのに予想屋に過ぎない。 高名な学者教授が、内緒で「株」をして破産した・・と(笑)話も 金融の現場で経済学者がバカにされています。 マスコミに振り回されないようにしたいものです。 ■挫折を知らない ↓本文はここをクリックして表示 +... 裸一貫から出直すということであろう。人生はまだまだこれからである。草なぎ氏には大いに頑張って頂きたい。(東国原英夫) 汚職政治家や不祥事経営者って「反日主義者の精神構造」の持ち主に当てはまる・・・(名無しさん 2009-02-22 23 47 45 (掲示板より)) まずが下記リンクをご覧ください。 東国原知事、人が裸になる理由を分析する - Ameba News 宮崎県の東国原英夫知事は、公然わいせつ罪で逮捕されたSMAP・草なぎ剛氏に対して、自身のブログで応援メッセージを送り、さらには「裸」について考察しました。 草なぎ氏には、今回の事件について「挫折や失敗は僕らに実に多くのことを教えてくれる」とし、これを糧にしてどう成長していけるかが重要だ、とメッセージを送りました。 そして「裸一貫から出直すということであろう。人生はまだまだこれからである。草なぎ氏には大いに頑張って頂きたい」と草なぎ氏を応援しました。 裸になるという行為について「人は、潜在的にあらゆるものから開放されたいと思っているのかも知れない。」と裸になる理由を分析しました。 次に下記リンクをご覧ください(2006年の記事です)。 汚職政治家・不祥事経営者の9割は「ニート未経験」 ( ボーガスニュース 内) 上記の掲示板のコメントによる情報の提供がありました。提供者様ありがとうございます。 若いうちに挫折や屈辱を味わう事なくのうのうと暮らし、結果人の気持ちになれずに、図に乗った態度に終始する愚か者がいます。 上から目線で立派なことを言い放つ・下手な学校の先生のように調子いいことを言い放つ嫌なやつは、人に徹底的にいじめ倒されて、 苦しんだ経験した・就職氷河期の真っ只中の苦難を乗り切らず、生き方がやたらとうまく、スイスイスーダラダッタとやって来たように思えます。 そういう者は、「オレ様が一番だ。」・「あたしが一番よ。」と天狗になっています。かなり気取っています。 それに引き換え中田英寿氏は、朝日新聞やセリエA時代に散々苦難に遭いました。 生き方が下手であったことが、損している部分があります(元横綱の輪島氏(とんねるずいわく「ワジー」)や長嶋茂雄氏も同じです)。 しかし引退報道のとき、それ自体が事件になるなど(実は朝日新聞の捏造であることが判明)を見るに付け、決して気取った男ではないというところを、世間は肌で感じたことでしょう。 生き方下手が、かえって素のままの人格を表に出した結果と言えましょう(詳細は「マスコミに潰された者」参照)。 よーめん氏いわく「綺麗事派」に見られる者を見るかぎり、前述の「嫌なやつ」もかなり含まれています。そういう者に限って気取るからです。 ■ 働く過剰 大人のための若者読本 日本の〈現代〉12 (単行本) 玄田 有史 著上の階級の人々には下にいる下級階層のことは解らないままになっています。これは政治家・財界人・報道関係者にご一読いただきたいものです。そうすれば、人の痛みを痛烈によく分かっていくことでしょう。 上記「働く過剰大人のための若者読本」があります。 収賄や利益誘導政治を行う政治家、不祥事を起こす企業経営者の9割は、30代までニートになった経験がない…。 読売新聞社が実施したインターネットモニター調査で、こんな傾向があきらかになりました。 「くさい」「キモイ」と社会に迫害された経験の不足が政財界の腐敗を生んでいる可能性を裏付けるもので、 政治家や財界人(筆者追記・加えて特権階級になり下がった「マスゴミ」)には「さまざまな境遇の人の身になって考えること」が求められていると言えそうです。 同調査は「汚職政治家や腹黒経営者が同じ国に住んでいる」と答えたモニター約4,000万人に、 そうした政治家や経営者の過去の生活や家庭環境・暮らしぶりなどを質問した結果をまとめたものです。 これによりますと、幼少期から親族に政治家がいた、暗いときには万札に火を灯してあかりがわりにしていた、 など恵まれた環境で育った人物ほど、清廉な政治へのあこがれや労働環境改善意欲が乏しいという傾向が見られました。 特にバイト先で女の子にキモがられて辞めたことのない者、新卒で就職したものの理想や建前とのギャップに耐えきれず半年で退職したことのない者は、 新興宗教団体と裏で結託して歴史修正主義に走る割合が高かったのです。 調査を監修した労働政策研究・研修機構統括研究員の小杉礼子氏は、 「ニート体質に清廉さや正義感を涵養するちからのあることがうかがえる。政治家・経営者を積極的にコミケに参加させ、DVDボックスも大量に購入させるようにすべきだ。」と話します。 「オタク度を上げすぎると周りから激しい迫害を受け、いじけてネット右翼になる。」 (筆者追記・別項でも述べましたが、フランスでは堂々と「オタク」と言えるのです。詳細は「マスコミに潰された者」を参照)。 との指摘はあるものの、今後の政財界人材育成の手法に一石を投じる調査と言えそうです。 上から目線 ■居丈高にふるまう(上から目線で対応する)・他者を小ばかにする ↓本文はここをクリックして表示 +... 自分の力の足りなさを自覚し、知恵や力を貸してくれる他人の存在を知るのもいい経験である。 (本田宗一郎) 長嶋茂雄であり続けることは、結構苦労するんですよ (長嶋茂雄) まずは下記動画をご覧ください。なおこの動画は当サイトの趣旨とは相反しますが、ご了承願います。 これは1990年にデビューするも翌年早々引退してしまった田中陽子氏の動画ですが、注目すべきは1 08から1 43までです。 田中氏は、当時の東京のタクシードライバーの威丈高っぷりに驚いたとのこと。 同様のことは、漫画家の小林よしのり氏も連載漫画で非難していました。 挫折を知っていたら、このような態度に打って出ないでしょう。 そもそもタクシードライバーはサービス業です。お客様を怖気づかせるような態度はあってはいけません。 以下、その文を引用。 昨年(筆者追記・1989年)の秋に徳島(筆者追記・田中氏は徳島県徳島出身)から東京に来たんですけど徳島と違うナァ、と思ったのはタクシーです。 徳島はちゃんとタクシーが止まるのに東京のはナカナカ止まってくれません。 ようやく乗れてもツンケンした人が多くてイヤになっちゃう。 徳島のタクシーの運転手さんはとても優しかったナァ。 東京のタクシードライバーのみなさん優しくして下さいネ。(田中陽子) 田中陽子とは→ 田中陽子 - Wikipedia を参照。 田中陽子 陽春のパッセージ このような者は自信がないため、それを隠蔽するべく綺麗事を並べると同時に居丈高にふるまいます。身の程知らずにもほどがあります。 ここ最近創価学会問題に絡んで命がけで戦っています、瀬戸弘幸氏やよーめん氏に対する茶々入れコメントが目に余ります(2008年9月14日現在)。 下記リンクをご覧ください。 誰が喜ぶのか? ( この国は少し変だ!よーめんのブログ 内) 【連載】朝木明代元東村山市議殺害事件(15)(創価ジャーナリストのブログより) ( せと弘幸Blog『日本よ何処へ』 内) では瀬戸氏らを非難する、と言うことは隗より始めよ、非難した自らが瀬戸氏を超える活動ができる、と言いきれるのでしょうか? どうせ口先だけです。いざとなれば敵前逃亡するのがオチです。 民主党(参)の円より子氏などが推進する「児童ポルノ法案」は日本を破滅する法案らしいと思う。 その推進派は「反日主義者の精神構造」の持ち主にあてはまる。(名無しさん 2008-10-23 14 50 59(掲示板より)) 次に下記リンクの引用を紹介します。 現実の女が偉そうで生意気だからゲームがいいんだよ ( nikaidou.com 内) エロゲーを禁止するって・・・現実の女というだけでもうっとうしいのに、さらに妄想まで取り締まるのか?思想・表現の自由を侵す憲法違反だよ。ていうか、正直エロゲーはいいけど、アニメやイラストまで規制しかねない。パンチラも全部エロということにされかねない。そのくらいいいじゃねーか。規制しすぎると性犯罪が増えるぞ。 大体だな、現実の女がクソ生意気でめんどくさいこというから、二次元のほうがいいという結論になるんじゃねーか。まずはテレビや雑誌による女どもへの過度な自由主義、変な男女平等をなくせよ。ブスのくせに権利を主張するバカとかが多くてうっとうしいんだよ。 それでも男は文句を言わずに、二次元にいった。それなのにそれをも規制するってか?だったら、「ブス禁止法」とか作れよな。ブスが生意気なこといったら罰金刑とか。 まったく、物事の根幹をわかってないバカが増えて困りものだ。 大体だな、現実の女がクソ生意気でめんどくさいこというから、二次元のほうがいいという結論になるんじゃねーか。 「モンスターXXになる」項と併せて読んでいただきたいのですが、身勝手な振る舞いをする女性が増えているから、男が「やってらんねー!」ということで三次元を疎ましく思うようになって否応なく二次元に走らざるを得なくなったのです。 「CLANNADは人生」という言葉(友人や家族との絆を紡いでいくゲーム・アニメ作品『 CLANNAD 』への思い入れの深さを端的に表現した言葉)がありますが、この事象の本質を、見事に突いていると言えるでしょう。 しかし、民主党の円より子氏はそんな現実を無視して、「ことごとく取り上げてしまえ!」とばかりに主張しています。 「エロゲーで人間性失う」 規制求め請願 円議員の掲示板に批判数百件 - ITmedia News ( cache ) ある程度の年齢になったら取捨選択ができるわけですからいいではありませんか? 下記リンクをご覧になればお分かりいただけますが、いかに民主党が「反日主義者の精神構造」に陥っているか如実に表しています。 民主党が有権者を侮辱! 「有権者は知識が少ない」 ( cache ) 結局は国民を信用していない、もっとひどい言い方をすれば国民をばかにしているのです。だからこそ民主党が売国政策に走るのもなるほど合点、というものです。 ■とにかく差別をしたがる ↓本文はここをクリックして表示 +... オタクと「反日主義者の精神構造」の持ち主が水と油なら、オタクの精神構造は親日主義者に近い気がする。(名無しさん 2008-11-03 00 21 23(掲示板より)) 外観という者はいちばんひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾に欺かれる。 (シェイクスピア(「ヴェニスの商人」より)) この者たちはとにかく地に根がついていません。足もとがぐらぐらです。それをごまかすべく何者かを差別して安心したがります。 いくら日本におけるオタクを世に知らしめた、宮崎勤元死刑囚や宅八郎氏がネクラだからと言ってオタク=ネクラという構造が成り立つのでしょうか? 別項でも述べましたが、まさしく「反日主義者の精神構造」の持ち主は「バカの壁」を破ることができません。 アニメファンなら知っていると思いますが、斎藤千和氏も「声優グランプリ(声グラ)を読んで声優を目指しました。かくしてこの斎藤氏もネクラなのでしょうか?(少なくても筆者にはポジティブに映ります。なお、声優=オタクという構造は成り立たないことを注記いたします) 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、はっきり言ってネクラです。自らがネクラだからこそ水と油なオタクもネクラと思い込むのでしょう。 つまり戦前日本軍のやったことが残酷千万だと言って歩いている反日左翼主義者、実のところこれは本人がそうなのだというのと同じ構造です。 次に下記リンクから抜粋。 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 - Wikipedia より引用。 一連のバッシングはかなりの偏見も含まれたものであったが、この事件の異常さが世間一般に与えた衝撃はバッシングと関係無しにあまりに大きかった。それまでアニメオタクの存在は水面下では知られていたものの、それまでは世間一般には露出していなかった。アニメオタクの存在が初めて世間に露呈したのが、この衝撃的な事件だっただけに、世間一般においてのアニメや特撮番組、そしてそれを好む人に対するイメージは極端に悪化した。 21世紀に入ってオタク系漫画と通常の漫画との境が曖昧になってきたこと、メディアでのオタクやオタク文化の露出機会が増えたことなどで、オタクやアニメに対するイメージは変わりつつある。しかし、それでも幼女に対する性犯罪など発生したときには、たとえ事件と無関係であっても何かとオタクやオタク文化がバッシングされる傾向にある。大谷昭宏の「フィギュア萌え族犯行説」などがその典型である。 ネット上の話であるが、2005年11月21日に、当時この事件の取材をしていた木村透が、読売ウイークリーのブログにて偏向報道があったことを告白している(当該エントリーはすぐに削除された。 関連記事 )。削除されたエントリーで木村は、部屋の隅に数十冊あった雑誌の大半は20代男性なら誰でも読むような本だったのに、ある民放カメラマンがワザワザ猥褻な雑誌を一番上に乗っけて撮影するという意図的な行為があったと告白した。また、大量のビデオテープの中でいかがわしいビデオは少数で、幼女関連のビデオは5787本中44本で全体の1%に満たず、大半は「男どアホウ甲子園」や「ドカベン」など普通のアニメの録画テープだったという。 日本では「オタク」が恥ずかしい存在として認知されているのですが、その大本となったのが「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)」です。 その際、そのような趣味に走る者に対する差別を生むような偏向報道がなされました。 これは2008年でいう「 毎日新聞の捏造変態記事事件 」、2007年でいえば安倍晋三氏に対する報道テロと構造がまったく似ています。自ら異物とみなしたらとことん排除、そのためならなんぼでもやったれ、というところが似ています。 このようなありように疑義の意見が出ています。 参考リンク twelveとtwenteyが右から左からムギュッ ( cancerkiller173のブログ 内) 上記ブログ主は「まずマスコミは「オタク=悪」という偏見を喧伝するのを停止せよ!」と訴えています(「マスコミに潰された者」参照)。 それに引き替えフランスでは、「私はオタクです。」と堂々と言えるのです。 参考リンク フランスはマンガブーム ( ろっぴとみきのパリ日記 内) 奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト アニメは日本が誇れる文化です。堂々と主張すればいいではありませんか? ましてやマンガ好きで、政界きってのオタクでもあります愛国政治家・麻生太郎氏が首相になったわけですから(これ以上述べますと当サイトの趣旨と脱線しかねませんので、この程度に抑えます)。 どうやらオタクと「反日主義者の精神構造」の持ち主は、水と油のようです。 さらに下記動画をご覧ください。(「名曲集」より) 二人はプロ市民 麻生太郎氏を貶めるべくここまでやるか? と言いたくなります。 マスコミで定義されている、いかにも「オタク」と言えるような風貌のプロ市民がしゃしゃり出てきてこのような工作をしています。 たとえイケメンであっても「ガンダム好き」であったり、きわどいところまでいけば「プリキュア好き」であったりというように「オタク」になりえます。 それを考えたらこれいかに!?と言えます。 これでは「どうやら」どころか「本当に」オタクと「反日主義者の精神構造」の持ち主は、水と油のようです。 ■やたらと上昇志向が強い ↓本文はここをクリックして表示 +... 津川雅彦氏は出馬せよ! ( 花うさぎの「世界は腹黒い」 内) ことわざに「バカと煙は高いところが好き」があります。 またアニメ「ヤッターマン」によく出てくる「ブタもおだてりゃ木に登る」という言葉もあります。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、変なところで上昇志向が強いのです。なぜならば彼らはおバカさんだからです。 一方、日本人は慎み深いですから、世襲でもない限り、なかなか議員などになりたがりません。 こんな状態で民主党が世襲禁止を打ち出していますが、はてさてこれでまともに日本は回りますでしょうか? 少なくても売国奴だらけになってしまうのは、火を見るより明らかです。いうなればこれは日本を壊滅させるに十分過ぎる政策です。 貴族院が廃止された今となってはそれに代わる人材となると、やはり世襲議員に他なりません。 もちろん同じ世襲議員でも、鳩山由紀夫氏や福田康夫?氏みたいな売国奴を支えろというわけではなく、 安倍晋三氏や麻生太郎氏のような真性保守を支えろということです。 貴族院なき日本における世襲議員NGは、皇室廃止に準ずる世にも恐ろしい事態です。 ■世界の警察と思っている(アメリカ人限定) ↓本文はここをクリックして表示 +... 確かに冷戦時代は、西側諸国のNo.1でした。また、ソビエト連邦崩壊後は唯一の大国として存在しています(但し、サブプライムローン問題から端を発した世界的不況から、その座を追われつつあります)。 その政治力を乱発して、国際情勢をめちゃめちゃにするなど、国際社会から顰蹙を買っています。 こういう考えに至る原因の一つこそ「世界の警察」意識です。これは利己主義以外なにものでもありません。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、別項でも述べていますが、利己主義者です。 (※このコーナーは別ページ反日主義者の精神構造9を表示したものです。目次より直接それぞれの項目に飛ぶことは出来ませんので、お手数ですがスクロールしてご覧ください。) 反社会性 ■人を思いやる気持ちがない・公共道徳がない ↓本文はここをクリックして表示 +... 他の人との違いを認めて、それを尊重しよう。自分がして欲しいと思う事を、人にもしてあげよう。そうすればこの世界はもっと良くなるから。(キム・ピーク(映画「レインマン」のモデル)) このような者は自己中心的な発想に走っています。 「愛国心(帰属意識)が希薄・先人の行いに敬意を表しない」項をご覧になればお分かりいただけますが、そのような考えに至るのはなぜでしょうか? 人を思いやる気持ちがないからです。だからこそ大東亜戦争(太平洋戦争)での日本軍・英霊をことごとく否定しているのです。 少なくても英霊のみなさんは、お国のために命を捧げてくださった方々です。この方々を小ばかにした日には、英霊のみなさんの胸中はいかほどのものでしょうか? さぞ心穏やかでないに違いありません。 「サザエさん」の波平役でおなじみの声優・永井一郎氏が、テレビ朝日・「徹子の部屋」にて「電車の中で化粧をやられた日には、不愉快に感じます。 本人は何とも思っていないでしょうが、不愉快に思う人がいるのです。」という旨のコメントをしました。 そもそも化粧する行為は、家でやるものです。これはプライバシーを外にさらす行為です。これははっきりいって恥ずかしいことです。 卑猥な例えを使いますが、ならば電車の中で下着一枚になるまで脱いで着替える者がいますでしょうか?恥を知れ・人を思いやれというものです。 こういう公共道徳のない者が、売国主義者に同調して売国議員に票を入れてしまうのでしょう。 映画「レインマン」のモデルになったキム・ピーク氏が、2008年9月10日のフジテレビ「ザ・ベストハウス123」でのインタビューにて 「他の人との違いを認めて、それを尊重しよう。自分がして欲しいと思う事を、人にもしてあげよう。そうすればこの世界はもっと良くなるから。」とコメント。 お互い人を思いやる気持ちがなくなったから、自殺者が増える・少年犯罪が陰湿化・「反日主義者の精神構造」の持ち主が増えるのです。 テレビの責任 ( 反日勢力を斬る 内) 元駐米大使の加藤良三氏は、2009年7月22日付の産経新聞のコラム「正論」において、「世界で稀な『成功物語』のつけ」とのタイトルで、以下のコメントを寄せました。 「まず、日本人同士の連帯感、思いやりの心が希薄になった。それと反比例するかのように、 『文句』と『他人批判』によって人を『萎縮』させる達人が多い。これにはマスメディア、就中(なかんずく)テレビの責任が多いと思う。」 「『事実報道』といいながら、画面で喋る人間が自分の主義らしきものを混入して『与論』を『誘導』し、 それに快感を覚えている。こういうマス・メディアの状況は驚きではないが、子供じみていると感ずる。」 さらにテレビの低俗化・正気の沙汰とは思えないほどの政権バッシングは、時を追うごとに目に余るようになりました。 このようなマスメディア状況は安倍政権の時代から際立って顕著になりました。 閣僚の不祥事(中には不祥事といえないものまで)をあげつらい、安倍晋三氏を退陣に追い込みました。 2009年7月22日でも、「自殺大臣」と「絆創膏大臣」と「酩酊大臣」の画像を映して笑いものにしていた番組がありました。 小泉劇場だ刺客だと面白おかしくバラエティ番組が政治を語り始め、政治とは無関係の芸能人、 作家、漫画家、スポーツマンなどが素人談義を始めるようになりました。 その傍らには必ず政治評論家や新聞の編集委員が居て議論をひとつの方向に持って行こうとしていました。 お茶の間に政治を持ち込むことには成功しましたが、テレビを無批判に受け入れてしまう愚衆を作ってしまいました。 小泉劇場で愚衆は政治に興味を持ちましたが、安倍政権の出現に危惧を抱いた反日勢力の逆襲が始まりました。 その逆襲はますます力を得て、麻生政権の終焉と政権交代を可能にするまで成功しました。 子供の世界の、いや大人の世界でも「いじめ」が増加したのは同じ精神構造であり、テレビの責任はきわめて大きいです。 このようなことが、名古屋5000万円恐喝事件や、愛知県半田市の中学生による教職員流産未遂事件といった取り返しのつかない重大事件、 奈良県平群町の騒音おばさん事件や栃木県壬生町の中傷ビラ事件(いわゆる「資生堂おばさん事件」)といったご近所トラブル、 またいじめではありませんが、全国で相次ぐ役所・企業などでの不祥事や鳥取砂丘などでの景観破壊事件、 非難の声にも関わらず平然と飲酒運転をするといったモラルハザードを引き起こす原因にもなっています。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、自尊心が肥え太った厚かましい人物です。だからこそ胸を痛めることなく、利己主義に走れるのです。 ■社会的使命・任務をなおざりにする ↓本文はここをクリックして表示 +... 世にも恐ろしいことに日教組は、何のために学校が存在しているのか?という意義をなおざりにしています。このため日本の民度は時を追うごとに低くなっています。 この落とし前はどう付けてくれるのでしょうか? 「後先を考えない」これぞ「反日主義者の精神構造」なのです。 だからこそ渡辺美智雄氏や中山成彬氏に徹底的に非難されるのです。 政党は、民意を汲み上げそれを政策に結びつける中間組織としての役割を果たす、そのために組織されています。同じ主義の者を束ねることによって民意の反映を容易にするためです。 そのため近年は「マニフェスト」と呼ばれる政党が任期中に実施する政策を、有権者・支持者に対して具体的に示したものであり、その中身は、数値目標、推進体制、具体的な実施スケジュールなどとなっています。 言わば、これをやり遂げますから、どうか支持をお願いします、といった約束事です。 こういう立場にありながら、民主党の管直人氏は「「政権を獲得した時に実行するもの」なのであり、履行義務はなく、小泉政権の政策実現度を検証していく。」としました。 ( 民主党マニフェストの粗相を斬る ( 粗相を斬る 内)) いくら政権が取れなかったからと言って、有権者の約束事をことごとく無に帰していいのでしょうか? 一方、「本田技研工業」の創始者・本田宗一郎氏は、数々の名言を残しました( 本田宗一郎の名言 ( 名言のウェブ石碑 内))。 鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。また、とても便利とはいえない三重県鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみにその時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。(引用元・ 本田宗一郎 - Wikipedia 2008年9月20日現在) ■マナーを知らない ↓本文はここをクリックして表示 +... 性的な話となると、「臭い物には蓋をしろ」となる風潮がある。「朝、歯磨いた?」という話と「今日コンドーム持った?」というのは同じ。そういうことの話って言うのは、シモの話じゃない。俺から言わすと、頭を使ってやることだから、上の話、「脳みそ」の話。(加藤鷹) まずは下記リンクをご覧ください。 livedoor ニュース - ハロウィーンパーティーで、加藤鷹が「コンドームは、最低限のマナー」 加藤鷹氏は「O-157は騒ぐけど、性病を騒がないのは、マスコミのダメなところ。」と語りました。 さらに「世の中に影響のあるタレントが『デキちゃったから、結婚します。』って。記者も『おめでとうございます。』とか言ってる。 そんなこと言ってたら誰が避妊しますか? 俺はあのモラルは許せない。それを見てる若者たちも、 『じゃあ俺もナマでヤって、デキたら一緒になればいいんでしょ。』、となる。 結婚してから子どもを作るという本来の順番が、おかしくなっている。」 と元モーニング娘。メンバーの辻希美氏とその夫、杉浦太陽氏、そして二人の結婚を「おめでた婚」と祝福したマスコミを批判しました。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、後先を考えない自分勝手な性格をしています。 まさしく「 特亜を斬る 」に登場するはちゃめちゃな韓国人同様、「韓国人の国民性」をなぞったようなものです。 社会動物のアリでさえ結婚してから家庭を作る、というプロセスをたどります。 またサルのオスは、メスの取り合いの末、勝ったオスがそのメスと交尾をするものです。 マルチタレントで活躍中の中川翔子氏は、飛行機の離陸時に携帯電話を使用して問題になりました。 ブログに飛行機内での携帯による撮影と思われる写真がありました。 機内では携帯を使わないのが中川氏自身出演のCM「プロミス」ではありませんが「大人のマナー」です。いやそれ以前に常識中の常識。 なぜ飛行機の離着陸時に携帯電話を使用してはならないのか?それは単なる騒音トラブル予防ではなく、 飛行機の電子機器に悪影響を与え、結果墜落事故といった重大事故の引き金になりかねないことを防ぐためです(ただし本当にそうなるかは実証されていませんが、危険性をはらんでいるからやめてくれと言っている以上はやめるべきです)。 ■対案なき批判をする ↓本文はここをクリックして表示 +... やたらと政府の批判をする者がやっていることは、 権力者に歯向かえば良い批判しかできないという、労働組合やマスコミの体質、 そして労働組合を支持母体にする民主党とよく似ています。 トヨタ労組など4000円賃上げ要求 経営側ベアゼロも辞さず(2009.02.18 産経新聞) これだけ大変な経済危機のさなか、多くの派遣社員や正社員もリストラされているにもかかわらず、自分たちの賃上げを要求しています。 これはかつてスト権ストを起こした国労と何ら変わりません。 「与謝野氏は新財務相なのだから、所信表明からやり直すことが必要だ」と国会運営妨害(2009.02.17 日刊スポーツ) 一刻も早く景気対策をしなければならないのに、政局しか考えていません。 この行動には、 「自分のことしか考えていない」 「全体を見ていない」 「日本のことなど何も考えていない」 としか言いようがありません。 マスコミに迎合して政権批判している者は、ごね得労働組合と実に良く似ています。 全体のことを考えられないから、勉強もしないのです。 批判しか出来ないから、報道姿勢に疑問にも思わないのです。 (参考・政権交代したら、日本はこう変わる) また1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生しました。 それからオウム信者を相次いで別件逮捕しました。それに対する非難の声はありました。 確かに別件逮捕は、法治国家のありように対する挑戦です。 しかしこれは大掛かりな組織的犯行を、法の不備にも関わらず、火急的速やかに片付けるためにやむなく行ったことです。 そんな状況下の「別件逮捕」を批判するならば、対案を出してからにするべきです。 それ以外に対案がありましたでしょうか?そのような声はさっぱり聞きません。 国民の安全を考えたら、最悪は超法的措置で臨まなければなりません。ただし「超法的措置」はあくまでも対処療法です。 善後策として新しく法律を作らなければ法治国家のありようが崩壊します。どうせ批判するなら、 「善後策はどうした?次同じことが起きたらどうする気だ?」とするべきです。 お調子者 ■自分のことを棚に上げて他者を糾弾する(揚げ足を取る) ↓本文はここをクリックして表示 +... 民主主義の脅威は「外からの侵攻」と「内からの侵食」である。(ハーマン・カーン) 反日テレビの国語力 ( 反日勢力を斬る 内) マスコミは麻生太郎氏の言い間違いを、再三再四バッシングしていますが、はてさて自分たちはどうか? 「反日勢力を斬る」を確認しただけでごろごろ出ています。これで人のことを笑えるのでしょうか? 黒鳩よ、愚民にこびるな ( 反日勢力を斬る 内) オリンピックに出場し、世界トップレベルと争う者に、漢字が読めないからといって批判するのでしょうか? プロゴルファーの石川遼氏が漢字が読めなくても批判するのでしょうか? 辻井伸行氏が、外国のピアノ・コンクールで優秀な成績を残しましたが、漢字が読めない、漢字が書けないと批判するのでしょうか? 総理大臣と付く者が漢字が読めないことくらいで、マスコミのバッシングは、見るに耐えられたものではありません。 そのマスコミが、テレビなどで、漢字も読めない「おバカタレント」を重宝して稼いでいることには、批判しません。 これは完全に理論矛盾しています。要するに「麻生太郎」という男に敵対心を抱いているからです。 こういうのを「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言います。 そうでなければ、「総理大臣は完璧でないとダメ!」と考えているか? これは無理難題を押し付ける「モンスターペアレント」に通じます。 これは「反日主義者の精神構造」に毒されきっています。完全に病気です。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、自尊心が肥え太った厚かましい人物です。だからこそブレまくるのです。 ■八方美人である ↓本文はここをクリックして表示 +... 横浜市長であった中田宏氏は、立正佼成会から支持を取り付けておきながら、それと敵対関係にある公明党を支持しました。 これはまさしくおいしいとこどりの卑しい精神構造の持ち主であることをアピールしたようなものです。 昔話に「卑怯なコウモリ」があります。獣と鳥とが戦争していた際、コウモリはいずれにもいい顔をしていました。 その後、獣と鳥は和解しましたが、コウモリの八方美人的な態度に両陣営から反感を買い、コウモリはあなぐらにこもってしまいました。 この中田氏、他にも別項でも述べましたが、看護学生に淫行をする、性的暴行を加えるもそれを揉み消す、 事実を捏造してまで、グリーン税を導入させてくれという、など「反日主義者の精神構造」の持ち主であることがうかがい知ることが出来ます。 八方美人の正体は、ご都合主義にして二枚舌のお調子者です。 ■発想がセコい ↓本文はここをクリックして表示 +... その道の達人をコケにして安心しようとする。多数派のときだけやたら強気。才能ある人間を歪んだ目でしか見れない。 場所が変わると手のひらを返すように態度が豹変する(あの連中の中じゃヘコヘコさせられてきたが、うちに来たら見ていろ! 礼儀を教えてやる)。 読みが浅い。粘着に睨まれる事を言っておいて関係ない人に振り向けてバックレようとする(どうせあんたはヒッキーでしょ?/大阪人だってジサクジエンしてるぜ!)。 早とちりが多く、誤爆と気付いても釈明できない。イイ人を装って忘れる(そういう土地柄だったのさ!)他人の勘違いは許せない。 話題と関係ない個人攻撃で場の空気を険悪にする。次第に耐え切れなくなりあきれて話題をコロコロ変える。 いつの間に恩を貸してるように振舞うが、自分のためであると見抜かれる。恥ずかしさをごまかすために大袈裟にキレるが相手がキレると今度はビビる。 顔が見えない相手に対しては毒舌かつ強気。面と向かった相手にはやたら弱気で他人が言ったことに(俺が言ったんじゃないんだけど、Kさんがあなたをショボイと…ヒヒ)。 無理な人の真似をしてケチだけつけ、批判される所には現れない。観察される側になると極度に焦る(直接対決が苦手。言い返されにくい状況を計算する)。 自分が企んでいるのに相手を悪人に仕立て上げて餌食にする。わざと攻撃を誘って自分の憎悪に酔いしれる。人の裏切りを許せないわりに自分の裏切りは覚えていない鈍感さ。 世間に通用しないような事ばかりしつこく繰り返して自分に課した目標から逃げる。あげくに人のせいにして相手にわからない方法でキレる。 「反日主義者の精神構造」の持ち主はセコいです。なぜならば軽佻浮薄だからです。 ご都合主義 ■虚言・妄言をする(二枚舌)・ご都合主義に走る ↓本文はここをクリックして表示 +... アサヒしちゃってるんですよ。 (桜林美佐) 当サイトをご覧の方は、「アサヒる」という言葉をご存じだと思いますが、なぜ反日主義者が「アサヒる」のか、なぜならば アサヒる者 は元来の日本人の「勤勉・まじめ」と相反するからです。 韓国人は、良いことは自らの実績として(ウリナライズム)、難事の原因を他人のせいにする、と言われていますが(「韓国の歴史偽造」参照)、反日志向に走る者も同様の傾向にあります。 また「反日勢力の二枚舌」をご覧になればお分かりいただけますが、このような者は実にご都合主義としか言いようがありません。 2008年9月1日に福田康夫氏が内閣総辞職の意向を示すも、野党側が「無責任」と糾弾しましたが、そういう状態に追い込んだ張本人は、ほかならぬ野党側です。 しかも「辞任要求」をさんざん突きつけておきながら。こういうせこい発想で糾弾し倒す、と言うことが通り過ぎているから、世の中が閉塞しているのです。 2008年12月14日の日本テレビ「真相報道バンキシャ!」において、元東京地方検察庁特別捜査部長にして日本テレビ顧問弁護士の河上和雄氏は、「自分たちがさんざん持ち上げた人物(麻生太郎氏)を引きずり落とすのはどうか?」との旨のコメントをしました。 これと同じ目にあって結果倒れたのは安倍晋三氏であり、このことが今日の国益を脅かす自体が多発する原因、ゆえに当サイトの存在する必要性が発生してしまったのです。 またスマイリーキクチ氏があたかも「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の加害者であると思いこんで、キクチ氏のブログを荒らした者がいましたが、 本当にそうなのか?その根拠は?きちんと理解せずに中傷して歩く行為は、言語道断です。 これは「坂本弁護士一家殺害事件」におけるオウム真理教を疑うこととは、事情がまったく違います。クソとミソを一緒にする発想こそ虚言のもとです。 朝日新聞が「アサヒる」と揶揄される原因も、このような思考が原因です。 民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。(ウィンストン・チャーチル) ブレたと言われてまたブレた民主党 ( 反日勢力を斬る 内) 2009年の衆議院議員総選挙において、民主党はマニフェストを提示いたしましたが、 都合が悪いと見るや否やコロコロ内容を変えまくっています。こういうのを「オオカミ少年」と言います。 衆愚政治の正体は、大衆迎合です。また大衆迎合の正体は、八方美人です。それを受け入れる愚民は後先を考えないミーハーあり、かつ厚かましい者です。 どうやら「反日主義者の精神構造」の持ち主は、衆愚政治を好むようです。だから彼らには政治を任せることが出来ないのです。 これについてタレントのビートたけし氏は、自著「やっぱり私は嫌われる」において 「多くのバカを政治に参加させるくらいなら、少人数の賢い人物に政治を任せたほうがいい。」旨のコメントをしました。 ふざけるな民主党マニフェスト! ( 反日勢力を斬る 内) 東京都議会議員の土屋敬之氏(板橋区選出)は、2009年の衆議院議員総選挙における自らが所属する民主党のマニフェストを批判しました。 民主党は重要政策をまとめた「政策集」で ▽学習指導要領の大綱化▽選択的夫婦別姓の早期実現 ▽元慰安婦に謝罪と金銭支給を行うなど慰安婦問題への取り組み ▽靖国神社に代わる国立追悼施設の建立 などを盛り込みながら、マニフェストではこれらを抜いていました。 土屋氏はホームページに「ふざけるなマニフェスト! 本心をひた隠し」と記述。政策がマニフェストから抜けていることについて、 「そんな政策を掲げて選挙をやれば民主は『第二社会党』だと批判を受けるからだ。」としました。 民主党の政調幹部らは、「われわれが選挙で国民に示して約束するのはマニフェストであり、政策集は公約ではない。」 と釈明していましたが、土屋氏はこうしたやり方を「ねこだまし」「姑息」などと批判。 「政党たるもの、議員たるもの、政策は正直に国民に示して選挙を行うべきだ。」と反発しました。 詳細は「民主党の正体」参照。 これはかつて中曽根内閣が1986年の衆参同時選挙で「大型間接税は導入しない」と国民に約束するも、多数の議席を得た途端、 「売上税」を持ち出し、国民から反発を受けてしまいましたが、その後継者の竹下内閣のときに「消費税」とラベルを変えて導入したのと同じ構造です。 民主党の前身の一つの日本社会党は、こうした姑息なやり口で導入した消費税を高々に批判、「マドンナブーム」を起こしました。 その日本社会党の流れを組む民主党が、今度はそんな消費税を導入したときの自民党と同じことをしようとしています。 こういうのを「ミイラ取りがミイラになる」と言います。 ■誘導尋問をする ↓本文はここをクリックして表示 +... 「反日マスコミの正体」・「毎日新聞の不祥事年表」に掲載されています佐賀県知事に質問攻めをした、韓国籍の記者をご覧になればお分かりいただけますが、「反日主義者の精神構造」の持ち主はどうでもいい質問を繰り返し行います。 次に下記動画をご覧ください。 http //www.nicovideo.jp/watch/sm5110002 <掲載日>2008.11.01 【べらんめぇ日記】麻生首相ぶらさがり取材 2008-10-31(音声調整版) ■解説■3年後の消費税増税について、麻生総理は「経済情勢を踏まえて」ということを初めから言っているのに、マスコミはあたかも「3年後に必ず消費税を上げる」かのように偏向報道していることが良く分かる動画です。また、消費税が何のために上げられるのか分かっていないのか、意図的な偏向報道なのか、記者の酷さがにじみ出ています。(コメントを消して動画を見る場合は、右隅のヒヨコのマークをクリックしてください。) いま目についているのが、上記のような麻生太郎首相に対しての誘導尋問めいた質問です。見方によっては、失言を引き出したくて仕方がないように見受けられます。 それでいて国益に関わる重大な質問をしないものですから、摩訶不思議です。 ■自己保身に走る ↓本文はここをクリックして表示 +... 2009年7月12日に行われた東京都議会議員選挙で大敗した自民党都議団は5日後の17日、 「挙党一致で行動しなければ、衆院選で支援しない。麻生降ろしに加担する国会議員は、衆院選で応援しない。」 とする旨の内容の決議文をまとめ、党本部に提出しました。 確かに麻生自民党は、都議選で敗れました。直に行われる衆議院議員総選挙での惨敗は、目に見えています。 しかしそれから4年前の2005年に行われた郵政解散による総選挙のときの自民党には、追い風が吹いていました。 その波に乗ってわんさか当選したのが、「小泉チルドレン」です。 その中には、それまでは民主党で立候補、またはそのつもりでやっていた人物も含まれています。 それから4年後の自民党が泥船状態になりました。これは事実です。 しかし自民党に身を置いている以上は、自民党の方針に従わなければなりません。 それがいやならば、党から出るべきです。事実、2005年の小泉氏はそれを明確に述べました。 自民党総裁が小泉氏であろうが、麻生氏であろうが関係ありません。 小泉内閣のときはいい気になっていた人物が、「麻生降ろし」に加担しています。まさしく勝ち馬根性丸出しです。 「反日主義者の精神構造」の持ち主が、なぜ事大するのでしょうか?このように勝ち馬根性によるお調子者だからです。 自民党都議団が前述の決議文を党本部に出したのは、このようなていたらくに怒ったからです。 お前らのために自民党があるんじゃないぞ!子供たちの未来のために自民党があるんだ!(浜田幸一) 過去にもそれと同じようなケースがありました。いわゆる「40日抗争」(角福戦争→大平正芳VS福田赳夫)です。 1979年に立てこもる造反組(福田赳夫氏側)に対し、交渉が進まなかったため、 説得役を任された浜田幸一氏が激怒して、上記「お前らのために~」と発言しました。 結局は「ハプニング解散」に至り、ときの自民党総裁にして首相の大平正芳氏の心労に伴う死をもって収束、一致団結したのです。 伊東正義氏は、福田赳夫氏らを「大平を殺した」として生涯許さなかったのです。 ■緊急非難気質丸出し ↓本文はここをクリックして表示 +... この者たちは所詮小心者です。 2008年9月30日、TBSテレビ「ピンポン!」にて元日本テレビアナウンサー・福澤朗氏は麻生太郎首相を捕まえて「弱い犬ほどよく吠える。」と発言しました。 その福澤氏、2005年4月17日の「真相報道バンキシャ!」において、元財務相・塩川正十郎氏が「 奈良騒音傷害事件 」の加害者女性のことを「きちがい」と発言し、「 こんな事件はテレビ51年の歴史上、初めての出来事といっても過言ではない。 」とうろたえました。 しかしながら「きちがい」という言葉は、元々テレビでも普通に使われていました。したがってその「テレビ51年の歴史上、初めての出来事。」は少なくてもテレビ放送開始してから間もなくに起きているはずです。ただし精神病患者の治療に支障が出るため、精神病患者団体が勝手に使うな、という呼びかけがあったため放送禁止用語になってしまいました。 したがいまして塩川氏に「そういう発言は相応しくない。」と言って制止することは、テレビ局のアナウンサーとして当然としても、「大事件」と大袈裟に戸惑うことはありえません。 それを考えるに付け福澤氏ないし精神病患者団体は、「反日主義者の精神構造」を持った小心者と言われても抗弁の余地はありません。 またタレントのビートたけし氏は1995年の阪神淡路大震災後に離婚が続出したという話をしました。女房を置いていっててめえだけが逃げていったということがあったりしたからだ、とのこと。かねがね人間はいざというときに本性が現れるものです。 本当に女房を愛しているならば、人を思いやる気持ちがあれば、先に女房を助け出して次は自分というようになるのが自然なのに。全くもって「反日主義者の精神構造」の持ち主は人を不幸にします。 ■往生際が悪い ↓本文はここをクリックして表示 +... livedoor ニュース - たけし、酒井法子逮捕に“この夫は嘘でも(妻を)守れよ” このような者たちは、自分は悪くない、場合によっては相手に責任をおっかぶせる傾向にあります。ゆえに往生際が悪い態度に走ってしまうのです。 これは2009年の総選挙向けのマニフェストをころころ変えまくるも、こっそり裏マニフェストを背中に忍ばせる民主党と同じです。 酒井法子氏が2009年8月3日未明以降行方をくらますも、5日後の8日に自ら出頭・逮捕されました。 夫の高相祐一氏は、少なくても取り調べの段階では、偽証罪に問われるわけではないので、 例えどのみちばれるのは時間の問題でも、「妻はやっていません。」とフォローすべきでした。 このことで、ビートたけし氏は、「不謹慎なことを言うようだけど、この夫は嘘でも(妻を)守れよって感じあるけどな。 うちのカミさんはやってませんとかさ。どうせ最後にはバレるんだろうけど、なんか男としてはカッコ悪い。 (職務質問を受けた際にも)芸能人(の妻を)呼んで、あれで逃げれると思ったんじゃない?」と、首をかしげました。 民主党のブーメランの最大の原因は、このような思考に走るからです。 ■都合が悪くなると人を裏切る ↓本文はここをクリックして表示 +... #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) 鳩山夫妻を隠蔽 ~マスコミと癒着している証拠写真~ (※クリックすると拡大) (参考・ ブレまくる鳩山代表 ( 反日勢力を斬る 内)) 2004年9月15日、アパグループ代表の元谷外志雄邸での「日本を語るワインの会」に鳩山由紀夫氏は夫人を連れて参加しました。同席しました田母神俊雄氏、大島信三氏と元谷夫妻の6人で核武装に関する議論などを行っていました。鳩山氏と同席者達は邸宅内外で記念写真を撮影しています。なお、鳩山氏はこの件に関して事実関係を認めつつも、「失礼ながら余りにも私の思想とかけ離れた話をされていたので、途中でご無礼いたしたことを思い出します。」と自身の2008年11月5日付けのメールマガジンで述べています。また、「田母神航空幕僚長が、かつて日本が犯してしまった侵略行為と植民地支配を正当化する論文を発表して、更迭されたのは当然として、定年退職にしてしまったことは許せません。退職金は6千万円とも言われています。懲戒処分を受けるべき者が、6千万円貰って退職するとは言語道断です。このような処理をした政府の責任を厳しく追及せねばなりません。」と田母神氏を批判しています。 鳩山氏の批判に対して田母神氏は「ウソを言うのもたいがいにしてもらいたい。鳩山はあの日、最後まで会合に出席して楽しんでいた。彼は私や元谷代表らと一緒に、仲良く記念撮影までしている。自分がつらい立場になれば、平気で人を裏切る。そういう人間は、今後も何かあったときに必ず人を裏切ることでしょう。鳩山由紀夫は、まったく信用ならない人物です。」と述べています。 鳩山由紀夫氏がいかに「韓国人の国民性」・「反日主義者の精神構造」の持ち主であることを、うかがい知ることができます。 だからこそ「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と特定アジア人に同調・代弁してしまうのでしょう。 ■自己正当化をする ↓本文はここをクリックして表示 +... 三塁ベースはぼくの恋人です。それが守れなくなったら、潔く引退します 。 (長嶋茂雄) 小泉純一郎政権時代において官房副長官当時の安倍晋三元首相が、北朝鮮の工作員を「無罪放免にすべし」とした国会議員を、「マヌケな議員さん」と糾弾しました。これに対して逆ギレ起こして「絶対追求してやる!」と鼻息荒い者がいましたが、自らの過ちを素直に認めたら、このような発言などあり得ません。 彼らは、普段戦時中の日本軍の悪行を糾弾し倒している者たちです(そもそもこれ自体、疑問だらけですが。「靖國神社参拝問題」を参照)。 人のことを糾弾するからには、隗より始めよ、まずは自らを律するべきなのに、自らの失態は絶対に認めない。 古舘伊知郎氏は、2008年1月30日に「報道ステーション」の毒餃子事件において「中国にとって大変痛手ですね。」と国内をなおざりにしてまで中国側を心配しましたが、この古舘氏、2007年10月4日にて、数の誤報を指摘された際に、「なにが問題なのか?」と開き直りました(「 フルタチるとは - はてなダイアリー 」参照)。 結局は反日主義者と自己正当化主義者は同調するものである、ということがこれによって証明できた、と言えましょう。 (※このコーナーは別ページ反日主義者の精神構造10を表示したものです。目次より直接それぞれの項目に飛ぶことは出来ませんので、お手数ですがスクロールしてご覧ください。) ジャイアニズム ■ジャイアニズムに走る ↓本文はここをクリックして表示 +... おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの。(剛田武・漫画「ドラえもん」登場人物) 韓国人は、とかく他民族のオリジナルをあたかも自らの起源にしたがります。これを「ウリジナル」または「ウリナライズム」といいます。 これは漫画「ドラえもん」の登場人物・ジャイアンに通じます。 このような動きに目に余ったグリーンランド国際サンタクロース協会が、「クリスマスの起源は韓国ではない」との異例の発表を行いました。 また韓国人ではありませんが、野村沙知代氏が整形手術代を踏み倒しました。この野村氏、居直るなど厚かましい思考の持ち主です。 ジャイアニストがなぜ「反日主義者の精神構造」の持ち主か?その本質は自尊心が肥え太ったあまりに厚かましくなっているからです。 ■厚かましい ↓本文はここをクリックして表示 +... 娯楽に徹せよ。身の丈を知れ。(山内溥・任天堂第3代代表取締役社長(週刊ポスト2009年6月12日号より)) 国に17兆円の大損害を与えた国労の専従職員であった者は、それに対して糾弾した瀬戸弘幸氏に 「ストライキは労働者の権利なんだよ!」と捨て台詞を吐きました。 これだけの大損害を出したからには、国労の存在そのものが抹殺されなければなりません。にも関わらず、平然と捨て台詞。 「反日主義者の精神構造」の持ち主はかねがね厚かましいです。 宮崎県の東国原英夫知事は、フライデー襲撃事件の時の事を「全員、抗議をするだけで殴るつもりはなかった。 ただ、講談社関係者の対応が『どうぞ、殴ってください。これも記事にしますんで。』と、 悪態を付いたのがどうしても許せなかった。」と語りました。 また、ビートたけし氏自身は「一発殴って終わりにして、編集部員も含めてみんなで飲みに行くつもりだった。」と自著に記しています。 田中康夫氏による裁判傍聴記においては、当初は軍団メンバーには手を出さないように言っておいたものの、 編集部員の挑発的言動が原因で暴行に至ったと記されています。 言論に対しての暴力の否定は、「言論の自由」を確固たるものにするためです。 だからといってそれにあぐらをかいて、やりたい放題していいという理由にはなりません。 この事件を裁いた裁判官は、ビートたけし氏らの暴力行為を断罪しつつ、フライデー編集部の過度の取材姿勢に苦言を呈しました。 また当時官房長官であった後藤田正晴氏は「暴力はいけない。」としながら、 「ビート(たけし)君の気持ちはよくわかる。」と同情のコメントを寄せました。 (詳細は「フライデー襲撃事件の正体」を参照。) 今「マスゴミ」と揶揄されている者たちは、法務大臣当時の鳩山邦夫氏に「死に神」と呼び付けたり、 大阪府の橋下徹知事に対して「弁護士を廃業したら?」と社説に書き込むなど、 襲撃事件当時のフライデー編集部にも劣る態度に終始しています。 ■強欲である ↓本文はここをクリックして表示 +... 自ら労して自ら食うは人生独立の本願なり。 (福沢諭吉) このような者たちは、無い物ねだりをします。 例えば「モンスターXXになる」。なぜそうなるか? それは強欲だからです。 また「派遣村の正体」でのみのもんた氏のコメントではありませんが、自らの権利ばかり主張して贅沢ばかり、 それでいて果たすべき義務を果たさないのはなぜか? これもまた強欲だからです。 2009年3月にアニメ「フレッシュプリキュア」の東映側の書き込み掲示板が、心ない「大きなお友達」による書き込みが相次いでしまって、 結果普通に参加しようとした者の書き込みが阻害、ついには東映側によって閉鎖されるという事件がありました。 「反日主義者の精神構造」の持ち主がなぜ他人のブログ・ホームページを荒らすのか? その理由の一つは強欲だからです。 以下「 反日勢力を斬る 」より 国民が日本を食い潰す 反省しないマスコミ 当サイトに「中田宏の正体?」というページを設けられ、非難の対象にされています中田宏氏でさえ、 「日本に残されている時間は少ない。バラマキ合戦で税収より借金が多い予算は国民が日本を食い潰し、諸外国が日本を食い潰す。」と日本の現状を嘆いています。 2009年の衆議院議員総選挙における、民主党のマニフェストが大衆迎合そのもののバラマキ政策を打ち出しました。 国民の多くは喜んで票を入れるに違いありません。 自民党の閣僚は口を揃えて財源の根拠の無いバラマキを批判するも、 鳩山由紀夫氏は「あんたには言われたくない、国の借金を増やしたのは自民党だ。」と反論しました。 生前の渡辺美智雄氏は、このような野党の態度を「毛針で釣りをするようなもの。」と椰喩しました。 しかしこのところ何でも欲しがる我が日本国民に問題があります。 一昔前の山口もえ氏主演の「マツモトキヨシ」のCMで「なんでも欲しがるマミちゃんは…。」というのがありました。 このような態度が「盆の上の豆」な投票行動に繋がる遠因になっています。まるで多財餓鬼です。 太平洋戦争(大東亜戦争)の真っ只中、日本は「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に困窮生活に耐えました。 今は少子化の時代だといわれますが、当時は「産めや増やせや」で貧乏な家庭でも大家族の家が多かったのです。みんなが貧乏でも助け合って幸せでした。 戦後の瓦礫のなかの貧困も日本人は耐えて来ました。池田隼人氏に 「貧乏人は麦飯を食え!(正確には違いますが)」と激を飛ばされながら、所得倍増計画を達成させました。 「ワーキングプア」などという洒落た横文字もなかった上、「格差」だの「生活保障」だの「最低賃金」などという言葉もありませんでした。 ところが今はどうでしょうか? そこそこの生活をしているにもかかわらず、国民は何でも欲しがり、少しでも人より沢山貰い、幸せになろうとしています。 その国民がマスコミの世論操作に乗せられ、政権交代を求めて動き出しています。国民が日本を食い潰そうとしているのです。 無能な人物をも推挙しマスコミがはやし立て、支持するのであれば「落選」はあり得ない。それだけ、愚民は風見鶏で欲ったかりな者たちです。 「なんでも欲しがるマミちゃん」な態度は、ジャイアニズムに通じます。ジャイアニズム=「韓国人の国民性」です。 身を軽んじ、財を重んじる者は、健康に生きることは出来ません。 ■なんでも東京(都市)中心と思っている ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは「マスコミの東京賛美報道と反日」をご覧ください。 これは「世界の警察と思っている(アメリカ人限定)」と同じ思い上がりです。 確かにキーステーションであるテレビ局があるのは東京であります。これは紛れも無い事実です。 また東京は、ニューヨークやロンドン、パリに並ぶ世界四大都市の一角をになっています。 だからといって、東京をやたらと賛美して、あたかも他地域を田舎と言わんばかりの扱いをするのは、とにかく出鱈目千万であると言っても過言ではありません。 東京人のうちこのような態度に走る者は、別項でも述べていますが、ブランドにしがみつきたがる見栄っぱりです。 やしきたかじん氏をはじめとする大阪人が東京に反発する原因は、このような気取った空気にあると推察できます。 そうでなくても東京一極集中は、地方の発展を阻害します。 ただし大阪等の都市圏人にも他の地域を田舎と蔑視する傾向があり、一概に東京だけが問題とも言えません。 自省しましょう。 ■環境破壊・ポイ捨て・景観破壊などなんのその ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは下記リンクをご覧ください。 名大生鳥取砂丘「馬の背」に落書き まとめ 以下「 特亜を斬る 」より 【追記有り】竹島の海は死んでいた 破壊された竹島・これからどうなる? 竹島の領有権問題は「竹島侵略の正体」で触れるとして、少なくてもこのような行動の根源は何なのか? 「自己中心的な発想に走る」ことから来ています。 なぜ竹島は上記リンクのようにゴミだらけなのか? なぜ中国ですざまじい環境破壊が進んでいるのか?なぜ最近の日本人は平気でポイ捨てするのか? 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、自然を大事にしません。 典型的な例は、珊瑚礁を傷つけてスクープを捏造した朝日新聞社(詳細は「朝日新聞の不祥事年表」を参照)や、鳥取砂丘に落書きをした名古屋市内にある大学の女子生徒(詳細は「 名大生鳥取砂丘「馬の背」に落書き まとめ 」を参照)です。 それに引き替え、アイヌ人や昔の日本人は自然を大事にしました。 特にアイヌ人は、昔は文字がなかったです( 口承文芸 ( アイヌ文化入門 内))。 にもかかわらず、なぜ「口承文芸」だけで長年伝統を受け継ぐことができたのでしょうか? 必要分だけ採って生活してきたアイヌ人は、人間として・または自然の摂理にかなった生活をしていた、と言えます。 間違った伝統は、まともに受け継ぐことはありません。仮に受け継ぐとしたら捏造を重ねて受け継がれてしまいます。一方正しい伝統は、まともに受け継がれるものです。 話変わって、「割れ窓の理論」をご存じでしょうか? ルドルフ・ジュリアーニ 氏がニューヨーク市長であったころ、この理論でもって治安回復政策を行ったのです。 ニューヨークでポイ捨てをする者・落書きをする者をどしどし逮捕するようにした時期あたりから、治安が改善されました(他にもいろいろな要素もありますが。詳細は こちらへ 。該当のWikipediaのページにジャンプします)。 このような輩を次々とツブしたことによって、「反日主義者の精神構造」の持ち主を社会的に抹殺したわけですから、治安回復は至極当然のことです。 ■人の所有物を盗む・壊す・捨てる ↓本文はここをクリックして表示 +... まずは下記リンクをご覧ください。 【速報】85年阪神優勝の時に道頓堀に投げ込まれた「カーネルおじさん」発見 ( 痛いニュース(ノ∀`) 内) 1985年に阪神タイガースが日本一になった際、心ないファンによってカーネル・サンダース人形が道頓堀に投げ込むという事件がありました。 いくらひいきしているチームが優勝したからといって、人の所有物を投げ捨てることは許されません。 これは利己主義以外何ものでもありません。このようなのぼせ上がった体質は、韓国で起こっている、めちゃめちゃなデモをする者となんら変わりません。 ただし、こういった一部の人間の行動が反日マスコミによって大々的に取り上げられることにより、大阪を中心とした関西全体や阪神タイガースファン全体に対する偏見につながっている面もあります。 詳しくは、マスコミの東京賛美報道と反日をご覧ください。 次に下記動画・リンクをご覧ください。 【愛知県半田市】中学1年が「妊娠中の教諭を流産させる会」結成 半田市の中学生が「女教師を流産させる会」を結成まとめ 中学生が妊娠教諭に嫌がらせ 生徒16人が「先生を流産させる会」を結成し、給食に異物混ぜるなどのイタズラ ( 痛いニュース(ノ∀`) 内) 半田市流産企て中学生ども ( クソガキどもを糾弾するHP 内) この場合、「物」ではなく「人命」というのがふさわしいのですが、発想が上記の「カーネル・サンダース人形」事件に通じる、 極めて軽率な発想によるものですので、ここに書き込みますが、これは胎児を殺す「殺人未遂」事件です。極めて重大な事件です。 被害者教諭は30台。2009年(学校上では2008年度)、3学期が始まった1月、席替えの決め方に対する不満や、部活動で注意されたことへの反発から、生徒ら数人が周りの生徒に声を掛けて反抗しようと計画、16人で会を結成したものです。 たとえ先生が憎くても、胎児に罪はありません。先生に反発はあり得ても、胎児まで巻き込むのは言語道断です。 ましてや被害者教諭は、妊娠しているのです。これは極めてデリケートな状態です。これを軽率な発想でいじり倒すなど世にも恐ろしい発想です。 (※このコーナーは別ページ反日主義者の精神構造11を表示したものです。目次より直接それぞれの項目に飛ぶことは出来ませんので、お手数ですがスクロールしてご覧ください。) 「反日主義者の精神構造」からの脱却への道 ■「反日主義者の精神構造」の持ち主の天敵・「男前女」の進出 ↓本文はここをクリックして表示 +... 2009年8月28日にテレビ東京「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!」において、「男前女」が特集されていました。 「男前女」は、「信念を貫き通す」・「強いリーダーシップ」・「サバサバしている」と元来の「男らしい」と言える反面、「強い生存本能」・「強い感性(インスピレーション)」という女ならではの強みを持っています。 こういう「男前女」の進出は、「反日主義者の精神構造」の持ち主にとって脅威と言えましょう。 そもそも「男前女」は「反日主義者の精神構造」の持ち主を反転させたような性格をしています。 「日本を正常にする方法」に「「日本女性の会 そよ風」を支える」とあるのは、常軌を逸した「反日主義者の精神構造」の持ち主社会に対抗できるのは、「男前女」しかいないからです。 「日本男児はかくあるべく。」は、どうやら古くなってしまったようです。 しかし同時に「日本男児よ、これでいいのか!? しっかりせい!」と言いたくなる今日このごろです。 ■故郷を想う ↓本文はここをクリックして表示 +... 「マスコミの東京賛美報道と反日」におけるアンケートの「当サイトに訪れる前の東京・大阪以外の地域に対するイメージはどうでしたか?」の回答で、「故郷を知らなさすぎた」と答えた方がいます。 故郷を想う気持ちが、愛国心への第一歩です。さらにこれは生物学的な表現でいえば「帰巣本能」であり、これは健全な人間性の証です。 郷土愛が故郷の危機に立ち向かう原動力になります。 「反日主義者の精神構造」の持ち主は、そういう健全な人間性が故障しています。これに気づき次第、火急的速やかに正常化させるべきです(ただし、知識不足(特に自虐史観)のまま故郷を想うことは反日につながるので注意)。 ■お互いの人格の尊重 ↓本文はここをクリックして表示 +... 本題でも触れていますが、映画「レインマン」のモデルになったキム・ピーク氏が、2008年9月10日のフジテレビ「ザ・ベストハウス123」でのインタビューにて「他の人との違いを認めて、それを尊重しよう。自分がして欲しいと思う事を、人にもしてあげよう。そうすればこの世界はもっと良くなるから。」とコメントしました。 「反日主義者の精神構造」の例である「威丈高にふるまう(上から目線で対応する)・他者を小ばかにする」・「分からず屋・独善主義者である」限り、このような精神構造からの脱却は不可能です。 「反日主義者の精神構造」の持ち主がのさばった結果、「みんなと一緒だと安心する。」というファッショな風潮も発生しました。そのため「悪意は無いがみんなと合わせられない者」や「 発達障害者 」たちは居場所を奪われています。そうでなくてもひとたびミスをしました、一度悪いレッテルを貼られました、そうなった日にはそのレッテルがはがれない、いやはがさせてくれない、という「失敗した者の全人格までも否定する」行為、言わば魔女狩りを生んでいます。 このことが自殺者を増やす原因となっています。これでは反日主義者がのさばり、優秀な政治家・憂国の戦士が育たないのです。 これを正すことによって、国が生き生きとしてくるのです。あの長嶋茂雄氏が現役時代であった日本を見てどう思いますか? 貧しいながらも明日への希望を捨てずに生きよう、という風潮があったではありませんか? さらに日本は「和」を重んじる国です。しかし基本的人権の尊重・グローバル化がうたわれています。 そのいずれも達成するには、日本社会はますますもってお互いの人格の尊重こそ重要と言えます。 いつまでも「みんなと一緒だと安心する。」という考えではだめなのです。これも「反日主義者の精神構造」の持ち主の正体です。 ■高い意識 ↓本文はここをクリックして表示 +... 2009年1月23日に、他の日本製の衛星とともに「まいど1号」が打ち上げられました。 これは大阪府東大阪市の町工場が主体となって立ち上げられたプロジェクトです。 この「まいど1号」、実に日本の高い技術力が凝縮されたものです。 「日本を正常にする方法」にある「日本の力を知る」がありますが、本当の意味で日本の力を知らしめることができました。 翌日の2009年1月24日に読売テレビ「ウェークアップぷらす」において、 「(銀行に対して)自分たちが支えているから、こういう技術が支えられている。」、 「(国民一人一人に対して)例え法律で決められていなくても、やっていいことと、やってはいけないことの認識がほしい。社会人としての自覚を持ってほしい。」 という旨のコメントがありました。 他力本願の「反日主義者の精神構造」の持ち主では「まいど1号」は無理でしょう。 ■もっと積極的に・社交的に ↓本文はここをクリックして表示 +... 社会の時間は政治や経済について教科書を元に語り合います。最近起こった時事問題についても話し合い、ある時は大統領のスピーチについてでした。いきなり先生にさされ、「YUKAが大統領だったらどう言った? もっとこういう風に言うべきだったという意見はない?」と聞かれたりします。もちろん最初はとまどいましたが、次第に意見を言わないと相手にされなくなるので常に自分なりの意見を考える様になりました。(土川由加) ( ESSAY ニューヨークからのプレゼント・元テレビ東京アナウンサー 土川由加 ( cache )より) 接客業や介護福祉産業、農業、実はリーマン不況にも関わらず、人手不足に悩んでいます。 にもかかわらずなぜ、就職競争率が低いか? これはひとえに教育が原因以外考えられません。 ポルノを彷彿させる性教育をしている様を見るに付け、その時間を無くして、次のことをしたらいかがでしょうか?(これは当サイトの提案です。あしからず御了承願います) 1 義務教育期間中にディスカッションの訓練(特に国語や社会科の授業の際) 2 小学生のうちに、土いじり(小1~3に作物作りして、それを収穫して食べる、家族にプレゼント) 3 小4~6・中1に、ご年配の方の介護ボランティア研修を1週間 ■「お笑い」を取り入れる ↓本文はここをクリックして表示 +... 人が本当に下劣になると他人の悪口を言うことにしか喜びを見出せなくなる(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ) 「反日主義者の精神構造」の持ち主は悪口言いたい放題です。悪口を言っているときは顔は笑っていても、心は怒っています。 これは本当の意味では「腹の底から笑っている」ことにはなりません。 チンコからネタを作れ!子宮から笑え!(大川豊・「誰が新井将敬を殺したか」より引用(筆者記憶による)) いきなり下ネタ失礼します。「大川興業」総裁・大川豊氏は、何を言いたいのか? 「お笑い」に対しては何も考えるな、素直に笑え、と言いたいのです。 「笑う門には福来たる」ということわざがあります。人間、時には腹の底から笑って陰々とした気持ちを吹き飛ばす必要があります。 陰々とした気持ちを吹き飛ばす、それが出来たら「反日主義者の精神構造」を寄せ付けないものです。 「笑うことが健康によい」と言われています。実は笑うことが、免疫のバランスを正常にする力があることが最近分かってきました。 笑うと自律神経が変化します。交感神経と副交感神経のバランスが崩れてしまうと、自律神経失調症などの不安定な状態になってしまうのですが、笑っている時には、これらの神経がバランスよくはたらいているそうです。 つまり、バランスよくはたらいている=健康的である、ということなのです。 しかも「お笑い」は、がんにもいいのです。「お笑い」は、ホメオスタシスを高めるため、心身の健康にいいのです。 参考リンク 笑うことが健康に良いのは何故ですか? - Yahoo!知恵袋 心の健康のためにも、特にへこんだときに、「お笑い」を取り入れてみてはいかがでしょうか? オウム真理教の弁護士であった青山吉伸氏は、裁判に参加する弁護士が多いことをネタに、「裁判官3人と青山1人に対してわし側は12人。わしの勝ちだ。」とした小林よしのり氏のジョークを真に受け、裁判所に注意喚起するという「事実は小説より奇なり」を地で行くことをしました。 カルトや反日左翼主義にはまる者は、「お笑い」が足りないのです。 ライブ・寄席・DVD・CD・毒舌本・はたまたYouTubeですと、制作者サイドもさほど気にする事なく、下ネタも含めて本領発揮・やりたい放題が出来ます。 お笑いをやるにも、テレビですと放送コードがうるさいため、制作者サイドも控え目にせざるをえませんので、それらのメディアでのものをお勧めします。 特にYouTubeの場合は、タダですのでどしどしご覧いただきたいです。 (この際当サイトの趣旨に合うおもしろい音楽を見つけましたら、「名曲集」に、また同様に音楽でなくてもおもしろい動画を見つけましたら、「マスコミが隠す動画」にご登録願います) 当サイトの編集にご参加のみなさま、たまには息抜きにお笑いはいかがでしょうか? 笑い放題笑って前向きになって、当サイトに編集にご参加していただければ、さらに質の高い書き込みが出来ることでしょう。 ■人を引き付ける「マグネット」になる ↓本文はここをクリックして表示 +... 観光客は温泉に何を求めて来るのか ( 市民〔citizen〕と結ぶネットマガジン!建設メディア 内) 日本を再生するマグネット国家論:黒岩祐治 ここでいう「マグネット」とは、自分中心の発想ではなく「人は自分(たち)に何を求めているのか?」を追及し、 答えを出してそれを実践、結果相手に魅力を与え、引き寄せられるようになることをいいます。 「日本を正常にする方法」で、「これからは日本の時代だ。」という説明がありますが、しかし、同時に「日本はジリ貧になる。」との指摘もあります。 日本を正常にするためには、またはジリ貧から脱却するには、日本人一人一人、日本企業一社一社が「マグネット」になって、相手に対する満足度をどんどん上げていくことです。 その第一歩が自らが「反日主義者の精神構造」に陥っていたら、それを反省して、精進することです。いの一番は、利己主義を捨てることです。 まとめ ■あとがき ↓本文はここをクリックして表示 +... 「反日主義者の精神構造」の持ち主=「韓国人の国民性」です。 このような考えで生きる彼らは、他人に対する思いやりや慈愛の精神は皆無です。 したがって、日本人が普遍的に持っている「平等感」や「対等」と言う気持ちや態度は、彼らは敗者の態度に見えてしまいます。 日本人は彼らの人としての軽薄な精神性をあまり理解していません。 「溺れた犬を棒で叩け。」・「泣く子は餅を多くもらえる。」と厚かましいのです。 彼らは、「優しい」と「弱い」の区別が出来ません。また、「強い」と「悪い」と「正義」の区別も出来ないのです。 彼らと付き合うのはとても厄介です。しかし、我慢して付き合わなくてはいけない状況です。 彼ら人は「対等」と言う概念を知しません。彼らは個人同士、どちらが優位な位置に居るか? それが、最重要な関心事です。まことにもって、異常性を感じます。 このような者とは韓国人同様、人と思って付き合うから、やけどをしてしまうのです。 彼らを犬だと思って付き合って下さい。それが彼らのためでもあります。 謝ってはいけません。 筋の通らない理屈を言ったら、100倍制裁をして下さい。 感謝の気持ちは、王が家来に褒美を与える様に接して下さい。 正論や理屈は意味がありません。強制と命令で動かして下さい。 裏切りにたいして、温情は絶対にいけません。 実行できない無理な命令を出して、出来ない事を責め続けて下さい。 彼らとつきあう・糾弾するに当たっては「断じて行えば鬼神もこれを避く」対応は絶対に習慣づけなければなりません。 そうでないと最終的には自らを不幸に貶めてしまいます。 このページは、まだまだまとめる余地があります。新たに反日主義者に見られる特徴が割れ次第、書き込み願います。 反日主義者の精神構造へ戻る ■アンケート 反日主義者の精神構造に関するアンケートを 反日主義者の精神構造に関するアンケート? にて受け付けております。 ぜひご協力ください。 ■当サイト普及のために ↓真実を国民に知らせたい方はクリック! #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (人気ブログランキングへ) ご協力ありがとうございました。 ■情報提供・意見 反日主義者の精神構造についての情報提供や意見がある方は掲示板でどうぞ。 ただし、wikiの編集が出来る方は、極力ご自身でページの編集をするようにしてください。 コメントページに記入出来ないので、ここに記入します。 「反日主義者の精神構造」について、大変な力作だと常々評価していますが、「戦前日本を焼野原にしたA級戦犯である右翼も、戦後日本を溶解しつづさせているA級戦犯である左翼も、同じ穴のむじなです。 」の記述は問題あり。 何方かが以前リンクしていた 沖縄県民斯ク戦ヘリ 氏のblog、および 「大東亜戦争への経緯」でリンクの尾崎秀実獄中手記 にある通り、中国・日本の共産化を目論んでいたコミンテルンの指導の下、右翼に偽装および転向した共産主義者が日本を大東亜戦争に引きずり込んだ、というのが本当の所です。(F.D.ルーズベルト政権にも多数の共産主義者が浸透しており、日米を対立させるために暗躍した)⇒つまり、「戦前日本を焼野原にした右翼に偽装した共産主義者も、戦後日本を溶解しつづさせている左翼も、同じ穴のむじな(というより、正体は完全に同じ・目的も同じ)です。 」が正しい。 ゾルゲ・尾崎秀実の仲間であった西園寺公一も、晩年は中共の党員であった。昭和49年後半と記憶するが、NHKテレビで西園寺が「あの戦争は俺達がやったんだ」とニヤニヤしながら語っていたことは、今も脳裏から離れない。腹立たしい事実である。(沖縄県民斯ク戦ヘリ) それから、朝鮮系・童話系に乗っ取られた「エセ右翼」が多いとはいえ、瀬戸氏のようにプライドを持って「右翼」を名乗る方もいるのだから、単に「右翼」と一括りにするのではなく、「エセ右翼」と表記したほうがいいのではないか。 さらにもう一点。「A級戦犯」という言葉は安易に使わないほうがいい。マスコミがよく「A級戦犯」という言葉を使うのは、国民に対して「A級戦犯がいた」という刷り込み工作を行っているからであり、それに引っかかったままでは困る。(実際には、講和条約発効後に「国内法上は存在しない」とする国会決議が為されている) 以上文責 alas 2008-10-03 00 28 47 To alas様 このページの大半を書き上げた者です。叱咤激励ありがとうございます。 >「戦前日本を焼野原にした~」これについては、alas様のご指摘通りに修正いたしました。左翼の連中が右翼を名乗った事実についての認識が不足していました。 >「「A級戦犯」という言葉は安易に使わないほうがいい。」まずは A級戦犯→張本人 に修正いたしました。このご指摘で思い出しました。以前テレビ番組で東條由布子氏が、「「A級戦犯」という言葉を使わないでほしい。」と言っていました。おじいちゃんがそういう立場に立って、かつネガティブな意味で転用されてしまったことについて相当胸を痛めていました。 >「反日主義者の精神構造」について、大変な力作だと常々評価しています~おほめいただきありがとうございます。それにしても最近こういう人たちが増えて世の中がめちゃめちゃになっています。困ったものです。事実私自身もこのような者たちにいじめ倒されて大変迷惑をしています。おかげで体を壊してしまってものすごく困っています。そもそも私がこのページを設けた動機は、反日主義者の根本的な原因に深く突っ込む機会を作らないとまた同じ繰り返しになってしまうという危機感と、前述のとおり私自身がこのような者たちのせいで迷惑をしていて、かつ同様な被害を受けて精神的に病んでいる方が増えている現実に怒りを覚えたからです。さらにalas様は瀬戸弘幸氏をご存じですので よーめん 氏のことをご存じだと思いますが、よーめん氏が「 保守綺麗事派 」という者について最近ブログにて相次いで書くようになりました。このような者は結局左翼の刷り込み工作に引っかかって、奇妙奇天烈な書き込みをしてはよーめん氏に突っ込まれています。いかに左翼の毒が日本中を蔓延させているか、ことごとく思い知るものがあります。結局はこの「保守綺麗事派」も「反日主義者の精神構造」の持ち主です。このような者たちは自覚症状がなければ、場合によっては周りの者も気がつきにくいので厄介です。この者たちの危険性を日本全国に知らしめて、徹底的にたたきのめして日本を正常な方向にもっていきたいです。 最後に。いかんせん私はとても不器用でいろいろミスをやってしまって、現実世界でもそのことで他の人以上に注意を受けたりしています。一朝一夕ではなかなか修正しきれませんが、なるべくこのようなことのないように気をつけます。 名無し 2008-10-03 22 46 00 To当ページ執筆者様 丁寧なご返信&迅速な訂正有難うございました。これからも皆様と共に当サイトを充実させていきましょう! alas 2008-10-04 00 30 47
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/116.html
資治通鑑巻第十三 漢紀五 高皇后 元年(甲寅、前一八七) 1冬,太后議欲立諸呂爲王,問右丞相陵。陵曰:「高帝刑白馬盟曰:『非劉氏而王,天下共撃之。』今王呂氏,非約也。」太后不説,問左丞相平、太尉勃,對曰:「高帝定天下,王子弟;今太后稱制,王諸呂,無所不可。」太后喜,罷朝。王陵讓陳平、絳侯曰;「始與高帝啑血盟,諸君不在邪?今高帝崩,太后女主,欲王呂氏;諸君縱欲阿意背約,何面目見高帝於地下乎?」陳平、降侯曰:「於今,面折廷爭,臣不如君;全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」陵無以應之。十一月,甲子,太后以王陵爲帝太傅,實奪之相權。陵遂病免歸。 乃以左丞相平爲右丞相,以辟陽侯審食其爲左丞相,不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸於太后,公卿皆因而決事。 太后怨趙堯爲趙隱王謀,乃抵堯罪。 上黨守任敖嘗爲沛獄吏,有德於太后,乃以爲御史大夫。 太后又追尊其父臨泗侯呂公爲宣王,兄周呂令武侯澤爲悼武王,欲以王諸呂爲漸。 1. 2春,正月,除三族罪、妖言令。 2. 3夏,四月,魯元公主薨。封公主子張偃爲魯王,謚公主曰魯元太后。 3. 4辛卯,封所名孝惠子山爲襄城侯,朝爲軹侯,武爲壺關侯。太后欲王呂氏,乃先立所名孝惠子強爲淮陽王,不疑爲恆山王;使大謁者張釋風大臣。大臣乃請立悼武王長子酈侯台爲呂王,割齊之濟南郡爲呂國。 4. 5五月,丙申,趙王宮叢台災。 5. 6秋,桃、李華。 6. 二年(乙卯、前一八六) 1冬,十一月,呂肅王台薨。 1. 2春,正月,乙卯,地震;羌道、武都道山崩。 2. 3夏,五月,丙申,封楚元王子郢客爲上邳侯,齊悼惠王子章爲朱虚侯,令入宿衞,又以呂祿女妻章。 3. 4六月,丙戌晦,日有食之。 4. 5秋,七月,恆山哀王不疑薨。 5. 6行八銖錢。 6. 7癸丑,立襄成侯山爲恆山王,更名義。 7. 三年(丙辰、前一八五) 1夏,江水、漢水溢,流四千餘家。 1. 2秋,星晝見。 2. 3伊水、洛水溢,流千六百餘家。汝水溢,流八百餘家。 3. 四年(丁巳、前一八四) 1春,二月,癸未,立所名孝惠子太爲昌平侯。 1. 2夏,四月,丙申,太后封女弟嬃爲臨光侯。 2. 3少帝浸長,自知非皇后子,乃出言曰:「後安能殺吾母而名我!我壯,即爲變!」太后聞之,幽之永巷中,言帝病,左右莫得見。太后語羣臣曰:「今皇帝病久不已,失惑昏亂,不能繼嗣治天下;其代之。」羣臣皆頓首言:「皇太后爲天下齊民計,所以安宗廟、社稷甚深。羣臣頓首奉詔。」遂廢帝,幽殺之。五月,丙辰,立恆山王義爲帝,更名曰弘,不稱元年,以太后制天下事故也。以軹侯朝爲恆山王。 3. 4是歳,以平陽侯曹窋爲御史大夫。 4. 5有司請禁南越關市、鐵器。南越王佗曰:「高帝立我,通使物。今高后聽讒臣,別異蠻夷,隔絶器物,此必長沙王計,欲倚中國撃滅南越而並王之,自爲功也。」 5. 五年(戊午、前一八三) 1春,佗自稱南越武帝,發兵攻長沙,敗數縣而去。 1. 2秋,八月,淮陽懷王強薨,以壺關侯武爲淮陽王。 2. 3九月,發河東、上黨騎屯北地。 3. 4初令戍卒歳更。 4. 六年(己未、前一八二) 1冬,十月,太后以呂王嘉居處驕恣,廢之。十一月,立肅王弟産爲呂王。 1. 2春,星晝見。 2. 3夏,四月,丁酉,赦天下。 3. 4封朱虚侯章弟興居爲東牟侯,亦入宿衞。 4. 5匈奴寇狄道,攻阿陽。 5. 6行五分錢。 6. 7宣平侯張敖卒,賜謚曰魯元王。 7. 七年(庚申、前一八一) 1冬,十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。 1. 2春,正月,太后召趙幽王友。友以諸呂女爲后,弗愛,愛他姫。諸呂女怒,去,讒之於太后曰:「王言『呂氏安得王!太后百歳後,吾必撃之。』」太后以故召趙王,趙王至,置邸,不得見,令衞圍守之,弗與食;其羣臣或竊饋,輒捕論之。丁丑,趙王餓死,以民禮葬之長安民塚次。 2. 3己丑,日食,晝晦。太后惡之,謂左右曰:「此爲我也!」 3. 4二月,徙梁王恢爲趙王,呂王産爲梁王。梁王不之國,爲帝太傅。 4. 5秋,七月,丁巳,立平昌侯太爲濟川王。 5. 6呂嬃女爲將軍、營陵侯劉澤妻。澤者,高祖從祖昆弟也。齊人田生爲之説大謁者張卿曰:「諸呂之王也,諸大臣未大服。今營陵侯澤,諸劉最長;今卿言太后王之,呂氏王益固矣。」張卿入言太后,太后然之,乃割齊之琅邪郡封澤爲琅邪王。 6. 7趙王恢之徙趙,心懷不樂。太后以呂産女爲王后,王后從官皆諸呂,擅權,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姫,王后使人鴆殺之。六月,王不勝悲憤,自殺。太后聞之,以爲王用婦人棄宗廟禮,廢其嗣。 7. 8是時,諸呂擅權用事。朱虚侯章,年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入侍太后燕飲,太后令章爲酒吏。章自請曰:「臣將種也,請得以軍法行酒。」太后曰:「可。」酒酣,章請爲耕田歌,太后許之。章曰:「深耕穊種,立苗欲疏;非其種者,鋤而去之!」太后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之而還,報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之!」太后左右皆大驚,業已許其軍法,無以罪也,因罷。自是之後,諸呂憚朱虚侯,雖大臣皆依朱虚侯,劉氏爲益強。陳平患諸呂,力不能制,恐禍及己。嘗燕居深念,陸賈往,直入坐,而陳丞相不見。陸生曰:「何念之深也!」陳平曰:「生揣我何念?」陸生曰:「足下極富貴,無欲矣;然有憂念,不過患諸呂、少主耳。」陳平曰:「然!爲之奈何?」陸生曰:「天下安,注意相;天下危,注意將。將相和調,則士豫附;天下雖有變,權不分。爲社稷計,在兩君掌握耳。臣常欲謂太尉絳侯,絳侯與我戲,易吾言。君何不交歡太尉,深相結?」因爲陳平畫呂氏數事。陳平用其計,乃以五百金爲絳侯壽,厚具樂飲;太尉報亦如之。兩人深相結,呂氏諸益衰。陳平以奴婢百人、車馬五十乘、錢五百萬遺陸生爲飲食費。 8. 9太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝之,願守代邊。太后乃立兄子呂祿爲趙王,追尊祿父建成康侯釋之爲趙昭王。 9. 10九月,燕靈王建薨,有美人子,太后使人殺之。國除。 10. 11遣隆慮侯周灶將兵撃南越。 11. 八年(辛酉、前一八〇) 1冬,十月,辛丑,立呂肅王子東平侯通爲燕王,封通弟莊爲東平侯。 1. 2三月,太后示犮,還,過軹道,見物如蒼犬,撠太后掖,忽不復見。卜之,雲「趙王如意爲祟」。太后遂病掖傷。太后爲外孫魯王偃年少孤弱,夏,四月,丁酉,封張敖前姫兩子侈爲新都侯,壽爲樂昌侯,以輔魯王。又封中大謁者張釋爲建陵侯,以其勸王諸呂,賞之也。 2. 3江、漢水溢,流萬餘家。 3. 4秋,七月,太后病甚,乃令趙王祿爲上將軍,居北軍;呂王産居南軍。太后誡産、祿曰:「呂氏之王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐爲變。必據兵衞宮,愼毋送喪,爲人所制!」辛巳,太后崩,遺詔:大赦天下,以呂王産爲相國,以呂祿女爲帝后。高后已葬,以左丞相審食其爲帝太傅。 4. 5諸呂欲爲亂,畏大臣絳、灌等,未敢發。朱虚侯以呂祿女爲婦,故知其謀,乃陰令人告其兄齊王,欲令發兵西,朱虚侯、東牟侯爲内應,以誅諸呂,立齊王爲帝。齊王乃與其舅駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平弗聽。八月,丙午,齊王欲使人誅相。相聞之,乃發卒衞王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王固善,勃請爲君將兵衞王。」召平信之。勃既將兵,遂圍相府,召平自殺。於是齊王以駟鈞爲相,魏勃爲將軍,祝午爲内史,悉發國中兵。 使祝午東詐琅邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王,自高帝將也。請大王幸之臨菑,見齊王計事。」琅邪王信之,西馳見齊王。齊王因留琅邪王,而使祝午盡發琅邪國兵,並將之。琅邪王説齊王曰:「大王,高皇帝適長孫也,當立。今諸大臣狐疑未有所定,而澤於劉氏最爲長年,大臣固待澤決計。今大王留臣,無爲也,不如使我入關計事。」齊王以爲然,乃益具車送琅邪王。琅邪王既行,齊遂舉兵西攻濟南。遺諸侯王書,陳諸呂之罪,欲舉兵誅之。 相國呂産等聞之,乃遣穎陰侯灌嬰將兵撃之。灌嬰至滎陽,謀曰:「諸呂擁兵關中,欲危劉氏而自立。今我破齊還報,此益呂氏之資也。」乃留屯滎陽,使使諭齊王及諸侯與連和,以待呂氏變,共誅之。齊王聞之,乃還兵西界待約。 呂祿、呂産欲作亂,内憚絳侯、朱虚等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之。欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未決。 當是時,濟川王太、淮陽王武、常山王朝及魯王張偃皆年少,未之國,居長安;趙王祿、梁王産各將兵居南、北軍。皆呂氏之人也。列侯羣臣莫自堅其命。 太尉絳侯勃不得主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商,令其子寄往紿説呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已佈告諸侯,皆以爲宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守藩,乃爲上將,將兵留此,爲大臣諸侯所疑。足下何不歸將印,以兵屬太尉,請梁王歸相國印,與大臣盟而之國。齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲以兵屬太尉。使人報呂産及諸呂老人,或以爲便,或曰不便,計猶豫未有所決。 呂祿信酈寄,時與出遊獵,過其姑呂嬃。嬃大怒曰:「若爲將而棄軍,呂氏今無處矣!」乃悉出珠玉、寶器散堂下,曰:「毋爲他人守也!」 九月,庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相國産計事。郎中令賈壽使從齊來,因數産曰:「王不早之國,今雖欲行,尚可得邪!」具以灌嬰與齊、楚合從欲誅諸呂告産,且趣産急入宮。平陽侯頗聞其語,馳告丞相、太尉。 太尉欲入北軍,不得入。襄平侯紀通尚符節,乃令持節矯内太尉北軍。太尉復令酈寄與典客劉掲先説呂祿曰:「帝使太尉守北軍,欲足下之國。急歸將印辭去。不然,禍且起。」呂祿以爲酈況不欺己,遂解印屬典客,而以兵授太尉。太尉至軍,呂祿已去。太尉入軍門,行令軍中曰:「爲呂氏右袒,爲劉氏左袒!」軍中皆左袒,太尉遂將北軍。然尚有南軍。丞相平乃召朱虚侯章佐太尉,太尉令朱虚侯監軍門,令平陽侯告衞尉:「毋入相國産殿門。」 呂産不知呂祿已去北軍,乃入未央宮,欲爲亂。至殿門,弗得入,徘徊往來。平陽侯恐弗勝,馳語太尉。太尉尚恐不勝諸呂,未敢公言誅之,乃謂朱虚侯曰:「急入宮衞帝!」朱虚侯請卒,太尉予卒千餘人。入未央宮門,見産廷中。日食甫時,遂撃産,産走。天風大起,以故其從官亂,莫敢斗,逐産,殺之郎中府吏廁中。朱虚侯已殺産,帝命謁者持節勞朱虚侯。朱虚侯欲奪其節,謁者不肯。朱虚侯則從與載,因節信馳走,斬長樂衞尉呂更始。還,馳入北軍報太尉。太尉起,拜賀朱虚侯曰:「所患獨呂産。今已誅,天下定矣!」遂遣人分部悉捕諸呂男女,無少長皆斬之。辛酉,捕斬呂祿而笞殺呂嬃,使人誅燕王呂通而廢魯王張偃。戊辰,徙濟川王王梁。遣朱虚侯章以誅諸呂事告齊王,令罷兵。 灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王舉兵,使使召魏勃至,責問之。勃曰:「失火之家,豈暇先言丈人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能爲乎!」乃罷魏勃。灌嬰兵亦罷滎陽歸。 班固贊曰:孝文時,天下以酈寄爲賣友。夫賣友者,謂見利而忘義也。若寄父爲功臣而又執劫,雖摧呂祿以安社稷,誼存君親可也。 5. 6諸大臣相與陰謀曰:「少帝及梁、淮陽、恆山王,皆非眞孝惠子也。呂后以計詐名他人子,殺其母養後宮,令孝惠子之,立以爲後及諸王,以強呂氏。今皆已夷滅諸呂,而所立即長,用事,吾屬無類矣。不如視諸王最賢者立之。」或言:「齊王,高帝長孫,可立也。」大臣皆曰:「呂氏以外家惡而幾危宗廟,亂功臣。今齊王舅駟鈞,虎而冠。即立齊王,復爲呂氏矣。代王方今高帝見子最長,仁孝寬厚,太后家薄氏謹良。且立長固順,況以仁孝聞天下乎!」乃相與共陰使人召代王。 代王問左右,郎中令張武等曰:「漢大臣皆故高帝時大將,習兵,多謀詐。此其屬意非止此也,特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新啑血京師,此以迎大王爲名,實不可信。願大王稱疾毋往,以觀其變。」中尉宋昌進曰:「羣臣之議皆非也。夫秦失其政,諸侯、豪桀並起,人人自以爲得之者以萬數,然卒踐天子之位者,劉氏也,天下絶望,一矣。高帝封王子弟,地犬牙相制,此所謂磐石之宗也,天下服其強,二矣。漢興,除秦苛政,約法令,施德惠,人人自安,難動搖,三矣。夫以呂太后之嚴,立諸呂爲三王,擅權專制;然而太尉以一節入北軍一呼,士皆左袒爲劉氏,叛諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲爲變,百姓弗爲使,其黨寧能專一邪?方今内有朱虚、東牟之親,外畏呉、楚、淮陽、琅邪、齊、代之強。方今高帝子,獨淮南王與大王。大王又長,賢聖仁孝聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王。大王勿疑也。」代王報太后計之。猶豫未定,卜之,兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余爲天王,夏啓以光。」代王曰:「寡人固已爲王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具爲昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃命宋昌參乘,張武等六人乘傳,從詣長安。至高陵,休止,而使宋昌先馳之長安觀變。昌至渭橋,丞相以下皆迎。昌還報。代王馳至渭橋,羣臣拜謁稱臣,代王下車答拜。太尉勃進曰:「願請間。」宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉乃跪上天子璽、符。代王謝曰:「至代邸而議之。」 後九月,己酉晦,代王至長安,舍代邸,羣臣從至邸。丞相陳平等皆再拜言曰:「子弘等皆非孝惠子,不當奉宗廟。大王,高帝長子,宜爲嗣。願大王即天子位。」代王西郷讓者三,南郷讓者再,遂即天子位。羣臣以禮次侍。 東牟侯興居曰:「誅呂氏,臣無功,請得除宮。」乃與太僕汝陰侯滕公入宮,前謂少帝曰:「足下非劉氏子,不當立!」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去;有數人不肯去兵,宦者令張釋諭告,亦去兵。滕公乃召乘輿車載少帝出。少帝曰:「欲將我安之乎?」滕公曰:「出就舍。」舍少府。乃奉天子法駕迎代王於邸,報曰:「宮謹除。」代王即夕入未央宮。有謁者十人持戟衞端門,曰:「天子在也,足下何爲者而入?」代王乃謂太尉。太尉往諭,謁者十人皆掊兵而去,代王遂入。夜,拜宋昌爲衞將軍,鎭撫南北軍;以張武爲郎中令,行殿中。有司分部誅滅梁、淮陽、恆山王及少帝於邸。文帝還坐前殿,夜,下詔書赦天下。 6. 太宗孝文皇帝上 元年(壬戌、前一七九) 1冬,十月,庚戌,徙琅邪王澤爲燕王;封趙幽王子遂爲趙王。 1. 2陳平謝病。上問之,平曰:「高祖時,勃功不如臣,及誅諸呂,臣功亦不如勃,願以右丞相讓勃。」十一月,辛巳,上徙平爲左丞相,太尉勃爲右丞相,大將軍灌嬰爲太尉。 諸呂所奪齊、楚故地,皆復與之。 2. 3論誅諸呂功,右丞相勃以下益戸、賜金各有差。絳侯朝罷趨出,意得甚。上禮之恭,常目送之。郎中安陵袁盎諫曰:「諸呂悖逆,大臣相與共誅之。是時丞相爲太尉,本兵柄,適會其成功。今丞相如有驕主色,陛下謙讓。臣主失禮,竊爲陛下弗取也!」後朝,上益莊,丞相益畏。 3. 4十二月,詔曰:「法者,治之正也。今犯法已論,而使無罪之父母、妻子、同産坐之,及爲收帑,朕甚不取!其除收帑諸相坐律令。」 4. 5春,正月,有司請蚤建太子。上曰;「朕既不德,縱不能博求天下賢聖有德之人而禪天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。其安之!」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟、社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也;呉王,兄也;淮南王,弟也,豈不豫哉?今不選舉焉,而曰必子,人其以朕爲忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也!」有司固請曰:「古者殷、周有國,治安皆千餘歳,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝平天下爲太祖,子孫繼嗣世世不絶,今釋宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子啓最長,純厚慈仁,請建以爲太子。」上乃許之。 5. 6三月,立太子母竇氏爲皇后。皇后,清河觀津人。有弟廣國,字少君,幼爲人所略賣,傳十餘家,聞竇後立,乃上書自陳。召見,驗問,得實,乃厚賜田宅、金錢,與兄長君家於長安。絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不爲擇師傅、賓客;又復效呂氏,大事也!」於是乃選士之有節行者與居。竇長君、少君由此爲退讓君子,不敢以尊貴驕人。 6. 7詔振貸鰥、寡、孤、獨、窮困之人。又令:「八十已上,月賜米、肉、酒;九十已上,加賜帛、絮。賜物當稟鬻米者,長吏閲視,丞若尉致;不滿九十,嗇夫、令史致;二千石遣都吏循行,不稱者督之。」 7. 8楚元王交薨。 8. 9夏,四月,齊、楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。 9. 10時有獻千里馬者。帝曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行三十里。朕乘千里馬,獨先安之?」於是還其馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也。其令四方毋求來獻。」 10. 11帝既施惠天下,諸侯、四夷遠近歡洽。乃修代來功,封宋昌爲壯武侯。 11. 12帝益明習國家事。朝而問右丞相勃曰:「天下一歳決獄幾何?」勃謝不知。又問:「一歳錢穀出入幾何?」勃又謝不知,惶愧,汗出沾背。上問左丞相平。平曰:「有主者。」上曰:「主者謂誰?」曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢谷,責治粟内史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「陛下不知其駑下,使待罪宰相。宰相者,上佐天子,理陰陽,順四時;下遂萬物之宜;外鎭撫四夷諸侯;内親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」帝乃稱善。右丞相大慚,出而讓陳平曰:「君獨不素教我對!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數,君欲強對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,人或説勃曰:「君既誅諸呂,立代王,威震天下。而君受厚賞,處尊位,久之,即禍及身矣。」勃亦自危,乃謝病,請歸相印,上許之。秋,八月,辛未,右丞相勃免,左丞相平專爲丞相。 12. 13初,隆慮侯灶撃南越,會暑濕,士卒大疫,兵不能隃領。歳餘,高后崩,即罷兵。趙佗因此以兵威財物賂遺閩越、西甌、駱,役屬焉。東西萬餘里,乘黄屋左纛,稱制與中國侔。 帝乃爲佗親塚在眞定者置守邑,歳時奉祀;召其昆弟,尊官、厚賜寵之。復使陸賈使南越,賜佗書曰:「朕,高皇帝側室之子也,棄外,奉北藩於代。道里遼遠,壅蔽樸愚,未嘗致書。高皇帝棄羣臣,孝惠皇帝即世;高后自臨事,不幸有疾,諸呂爲變,賴功臣之力,誅之已畢,朕以王、侯、吏不釋之故,不得不立。今即位。乃者聞王遺將軍隆慮侯書,求親昆弟,請罷長沙兩將軍。朕以王書罷將軍博陽侯;親昆弟在眞定者,已遣人存問,修治先人塚。前日聞王發兵於邊,爲寇災不止。當其時,長沙苦之,南郡尤甚。雖王之國,庸獨利乎!必多殺士卒,傷良將吏,寡人之妻,孤人之子,獨人父母,得一亡十,朕不忍爲也。朕欲定地犬牙相入者,以問吏,吏曰:『高皇帝所以介長沙土也。』朕不得擅變焉。今得王之地,不足以爲大;得王之財,不足以爲富。服領以南,王自治之。雖然,王之號爲帝。兩帝並立,亡一乘之使以通其道,是爭也;爭而不讓,仁者不爲也。願與王分棄前惡,終今以來,通使如故。」 賈至南越,南越王恐,頓首謝罪,願奉明詔,長爲藩臣,奉貢職。於是下令國中曰:「吾聞兩雄不倶立,兩賢不並世。漢皇帝,賢天子。自今以來,去帝制、黄屋、左纛。」因爲書,稱:「蠻夷大長、老夫臣佗昧死再拜上書皇帝陛下:老夫,故越吏也,高皇帝幸賜臣佗璽,以爲南越王。孝惠皇帝即位,義不忍絶,所以賜老夫者甚厚。高后用事,別異蠻夷,出令曰:『毋與蠻夷越金、鐵、田器、馬、牛、羊。即予,予牡,毋予牝。』老夫處僻,馬、牛、羊齒已長。自以祭祀不修,有死罪,使内史藩、中尉高、御史平凡三輩上書謝過,皆不反。又風聞老夫父母墳墓已壞削,兄弟宗族已誅論。吏相與議曰:『今内不得振於漢,外無以自高異。』故更號爲帝,自帝其國,非敢有害於天下。高皇后聞之,大怒,削去南越之籍,使使不通。老夫竊疑長沙王讒臣,故發兵以伐其邊。老夫處越四十九年,於今抱孫焉。然夙興夜寐,寢不安席,食不甘味,目不視靡曼之色,耳不聽鐘鼓之音者,以不得事漢也。今陛下幸哀憐,復故號,通使漢如故;老夫死,骨不腐。改號,不敢爲帝矣!」 13. 14齊哀王襄薨。 14. 15上聞河南守呉公治平爲天下第一,召以爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼,帝召以爲博士。是時賈生年二十餘。帝愛其辭博,一歳中,超遷至太中大夫。賈生請改正朔,易服色,定官名,興禮樂,以立漢制,更秦法。帝謙讓未遑也。 15. 二年(癸亥、前一七八) 1冬,十月,曲逆獻侯陳平薨。 1. 2詔列侯各之國,爲吏及詔所止者,遣太子。 2. 3十一月,乙亥,周勃復爲丞相。 3. 4癸卯晦,日有食之。詔:「羣臣悉思朕之過失及知見之所不及,□以啓告朕。及舉賢良、方正、能直言極諫者,以匡朕之不逮。」因各敕以職任,務省繇費以便民,罷衞將軍。太僕見馬遺財足,餘皆以給傳置。 穎陰侯騎賈山上書言治亂之道曰:「臣聞雷霆之所撃,無不摧折者;萬鈞之所壓,無不糜滅者。今人主之威,非特雷霆也;執重,非特萬鈞也。開道而求諫,和顏色而受之,用其言而顯其身,士猶恐懼而不敢自盡;又況於縱欲恣暴、惡聞其過乎!震之以威,壓之以重,雖有堯、舜之智,孟賁之勇,豈有不摧折者哉!如此,則人主不得聞其過,社稷危矣。 昔者周蓋千八百國,以九州之民養千八百國之君,君有餘財,民有餘力,而頌聲作。秦皇帝以千八百國之民自養,力罷不能勝其役,財盡不能勝其求。一君之身耳,所自養者馳騁弋獵之娯,天下弗能供也。秦皇帝計其功德,度其後嗣世世無窮;然身死才數月耳,天下四面而攻之,宗廟滅絶矣。秦皇帝居滅絶之中而不自知者,何也?天下莫敢告也。其所以莫敢告者,何也?亡養老之義,亡輔弼之臣,退誹謗之人,殺直諫之士。是以道諛、媮合苟容,比其德則賢於堯、舜,課其功則賢於湯、武;天下已潰而莫之告也。今陛下使天下舉賢良方正之士,天下皆欣欣焉曰:『將興堯舜之道、三王之功矣。』天下之士,莫不精白以承休德。今方正之士皆在朝廷矣;又選其賢者,使爲常侍、諸吏,與之馳驅射獵,一日再三出。臣恐朝廷之解馳,百官之墮於事也。陛下即位,親自勉以厚天下,節用愛民,平獄緩刑;天下莫不説喜。臣聞山東吏布詔令,民雖老羸癃疾,扶杖而往聽之,願少須臾毋死,思見德化之成也。今功業方就,名聞方昭,四方郷風而從;豪俊之臣,方正之士,直與之日日獵射,撃兔、伐狐,以傷大業,絶天下之望,臣竊悼之。古者大臣不得與宴游,使皆務其方而高其節,則羣臣莫敢不正身修行,盡心以稱大體。夫士,修之於家而壞之於天子之廷,臣竊愍之。陛下與眾臣宴游,與大臣、方正朝廷論議,游不失樂,朝不失禮,議不失計,軌事之大者也。」上嘉納其言。 上毎朝,郎、從官上書疏,未嘗不止輦受其言。言不可用置之,言可用采之,未嘗不稱善。 帝從霸陵上欲西馳下峻阪。中郎將袁盎騎,並車攬轡。上曰:「將軍怯邪?」盎曰:「臣聞『千金之子,坐不垂堂』。聖主不乘危,不徼幸。今陛下騁六飛馳下峻山,有如馬驚車敗,陛下縱自輕,奈高廟、太后何!」上乃止。 上所幸愼夫人,在禁中常與皇后同席坐。及坐郎置,袁盎引卻愼夫人坐。愼夫人怒,不肯坐;上亦怒,起,入禁中。盎因前説曰:「臣聞『尊卑有序,則上下和』。今陛下既已立后,愼夫人乃妾。妾、主豈可與同坐哉!且陛下幸之,即厚賜之。陛下所以爲愼夫人,適所以禍之也。陛下獨不見『人彘』乎!」於是上乃説,召語愼夫人,愼夫人賜盎金五十斤。 賈誼説上曰:「管子曰:『倉廩實而知禮節,衣食足而知榮辱。』民不足而可治者,自古及今,未之嘗聞。古之人曰:『一夫不耕,或受之饑;一女不織,或受之寒。』生之有時而用之亡度,則物力必屈。古之治天下,至纖至悉,故其畜積足恃。今背本而趨末者甚衆,是天下之大殘也!淫侈之俗,日日以長,是天下之大賊也!殘、賊公行,莫之或止;大命將泛,莫之振救。生之者甚少而靡之者甚多,天下財産何得不厥。 漢之爲漢,幾四十年矣,公私之積,猶可哀痛。失時不雨,民且狼顧;歳惡不入,請賣爵子。既聞耳矣,安有爲天下阽危者若是而上不驚者! 世之有饑、穰,天之行也;禹、湯被之矣。即不幸有方二三千里之旱,國胡以相恤?卒然邊境有急,數十百萬之衆,國胡以饋之?兵、旱相乘,天下大屈,有勇力者聚徒而衡撃,罷夫、羸老,易子上咬其骨。政治未畢通也,遠方之能僭擬者並舉而爭起矣;乃駭而圖之,豈將有及乎!夫積貯者,天下之大命也。苟粟多而財有餘,何爲而不成!以攻則取,以守則固,以戰則勝,懷敵附遠,何招而不至! 今驅民而歸之農,皆著於本。使天下各食其力,末技、游食之民轉而縁南晦則畜積足而人樂其所矣。可以爲富安天下,而直爲此廩廩也,竊爲陛下惜之!」 上感誼言,春,正月,丁亥,詔開藉田,上親耕以率天下之民。 4. 5三月,有司請立皇子爲諸侯王。詔先立趙幽王少子辟強爲河間王,朱虚侯章爲城陽王,東牟侯興居爲濟北王;然後立皇子武爲代王,參爲太原王,揖爲梁王。 5. 6五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌,誹謗之木,所以通治道而來諫者也。今法有誹謗、妖言之罪,是使眾臣不敢盡情而上無由聞過失也,將何以來遠方之賢良!其除之!」 6. 7九月,詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也;而民或不務本而事末,故生不遂。朕憂其然,故今茲親率羣臣農以勸之;其賜天下民今年田租之半。」 7. 8燕敬王澤薨。 8.
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1536.html
唐書巻一百八十三 列伝第一百八 畢諴 崔彦昭 劉鄴 陸扆 鄭綮 朱朴 附 孫偓 兄儲 韓偓 兄儀 畢諴は、字は存之で、黄門監の畢構の従孫である。畢構の弟の畢栩は、畢浚を生み、畢浚は畢勻を生み、代々官位につけず、塩商となっていた。畢勻は畢諴を生んだが、早くに父を亡くした。夜は薪を燃やして読書し、母は疲れるのを憐れんで、火を奪って休ませたが、休むことをよしとせず、遂に経史に通じ、文章を巧みにした。性格は正直で謹厳で、みだりに人と交わることはなかった。 大和年間(827-835)、進士・書判抜萃科に推挙され、合格した。忠武の杜悰の幕府の下僚に任命された。杜悰は度支を掌握しており、上表して巡官となり、また淮南に任命され、京師に入って侍御史に任命された。李徳裕ははじめ杜悰とともに宰相となって政務にあたったが、不仲となり、そのため杜悰は剣南東川節度使に出された。そのため下僚であった吏は慮ったが、畢諴は餞すること平日のようであったから、李徳裕に嫌われ、京師から出されて慈州刺史となった。累進して駕部員外郎・倉部郎中となった。その昔、権勢ある家の師弟がなる職であったから、倉部・駕部の二曹は官吏によって恥辱の任官であったが、畢諴は揚々と名誉ある官職であるかのように、異議を言うことはなかった。宰相はこれを知って、職方郎中兼侍御史知雑事に任じ、召還して翰林に入れて学士とした。 党項(タングート)が河西に侵入したから、宣宗は試しに辺境防衛の事を諮問してみると、畢諴は古今の例をあげて、羌を打ち破る方法をすべて列挙し、帝は喜んで「私がまさに優れた将軍を選ぼうとした時、たとえ廉頗・李牧といった古代の名将が我が禁軍にいたとしても、卿は朕のために行ってもらうだろう」と言い、畢諴は従って、そこで刑部侍郎を拝命し、出されて邠寧節度使・河西供軍安撫使となった。畢諴が軍に到着すると、吏を派遣して懐柔のため説諭し、羌人は皆大人しく従った。当時、辺境を守る兵士は常に調などの税で窮乏しているのに苦しんでいたから、畢諴は兵士を募って屯田を設置し、毎年穀物三十万斛を収め、度支の経費を省き、詔書によってお褒めの言葉をいただいた。にわかに昭義軍節度使、また河東節度使に遷った。河東は最も胡に近く、杷頭峰七十烽を回復し、謹んで敵を侍らし、寇はあえて侵入しなかった。 懿宗が即位すると、宣武節度使に遷り、召還されて戸部尚書、判度支となった。しばらくもしないうちに礼部尚書同中書門下平章事(宰相)となった。一年後、普段から病であったと称し、兵部尚書に改められて、宰相は罷免された。巡って平章事と河中節度使を兼任した。卒し、年六十二歳であった。 畢諴は行政手腕が非常に優れ、昇進すると、得た俸禄は一族の貧しい者を扶養し、避難するところがなかった。それより以前、畢諴は宣宗に知られ、宰相となる人物と認められた。しかし令狐綯が畢諴を嫌い、邠寧からおよそ三度転出させられ、還ることができなかった。畢諴は結びつきを得ようと思い、太原に到ると、見目美しい女性を探し求め着飾らせて献じさせた。しかし令狐綯は「太原(畢諴)は私に分けるものがなかったが、今これを餌として与えてくるのは、我が一族を破滅させようとしているのだ」と言って受けなかった。使者は邸宅に留まったが、畢諴もまた女性を手放した。太医の李玄伯なる者がいて、帝を喜ばせようと、銭七十万をもって招き、夫婦で日々自ら食事を与え、その歓心を得ると、そこで女性を帝に献じ、寵愛甚だしくことは後宮に冠たるほどであった。李玄伯もまた丹薬を進上し、帝はこれを服用したが、疽(はれもの)が背中に出来た。懿宗が即位すると、李玄伯および方士の王岳・虞芝らを収容して、ともに誅殺した。 崔彦昭は、字は思文で、その先祖は清河の人である。広く儒学の通じ、進士に及第した。しばしば藩鎮の帥がその下僚に任じようと奏上し、事務処理能力は非常に優れており、至る所で最も優れた成績をおさめた。累進して戸部侍郎となった。河陽節度使から河東節度使に遷った。これより以前、沙陀の諸部は多く法を犯し、崔彦昭は慰問してねぎらっては威光と恩恵があり、三年にして、国境の内は大いに治まり、耆老たちは朝廷に留まるよう願い、詔して裁可された。僖宗が即位すると、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使となった。しばらくして中書門下平章事(宰相)となり、判度支を重任した。それより以前、楊収・路巌・韋保衡は皆朋比の収賄に連座して罪を得て死に、蕭倣が宰相で、偽ってこれを改めようとして、崔彦昭は協力し、そのため百の官職を推挙し、査察しても煩わしがることはなかった。六ヶ月もしないうちに、門下侍郎に遷った。帝はそこで詔を下して楊収らの過悪を暴き、丁寧に励まし、崔彦昭の素晴らしさを讃えた。 崔彦昭は宰相であったが、朝廷を退いては母の食事に付き添い、家人とともにあって、顔色や物腰は柔らかで、左右にあっても異なることはなく、士人はその孝行さがあついとした。王凝とは義理の弟であった。王凝は大中年間(847-860)初頭にまず名を知られるようになったが、崔彦昭はまだ仕えてすらいなかったから、かつて王凝と会うと、王凝は足を投げ出して冠を被ったり帯をしめたりせず、侮って「いっそのこと進士ではなく明経科から推挙されるんだな」と言ったから、崔彦昭は恨みに思った。ここにいたって、王凝は兵部侍郎となった。母は崔彦昭が宰相になったことを聞いて、婢に命じて多く屨(くつ)と襪(しとうず)をつくらせ、「王氏に嫁いだ妹は、必ず子とともに皆逐われるだろうから、私も一緒に行こう」と言い、崔彦昭はこれを聞いて、泣いて拝礼し、あえて恨みをなすことはなかった。王凝はついに免れた。 俳優の李可及は懿宗の寵愛を得て、専横はなはだしく、崔彦昭は奏上によって放逐し、嶺南で死んだ。累進して兼尚書右僕射を拝命したが、病によって職を去っており、太子太傅を授けられ、卒した。 劉鄴は、字は漢藩で、潤州句容県の人である。父の劉三復は、文章をよくしたため名を知られた。若くして父を亡くし、母が病で臥せっていたから、劉三復は粟を貰い受けて養った。李徳裕が浙西観察使となると、その文章が優れていると思い、上表して掌書記とした。李徳裕は三度浙西および剣南・淮南の節度使となり、常に付き従った。会昌年間(841-846)、李徳裕は宰相となると、劉三復を刑部侍郎・弘文館学士に抜擢した。 劉鄴は六・七歲にして文章に優れ、李徳裕は憐れんで、自分の子とともに師につかせて学ばせた。李徳裕が排斥されると、劉鄴は頼るべきものがいなくなり、去って江湖の間を居候した。陜虢観察使の高元裕は上表して官に任命しようと推薦し、高少逸もまた自ら統括する鎮の幕府に任命した。咸通年間(860-874)初頭、左拾遺に抜擢され、召還されて翰林学士となり、進士の及第を賜った。中書舎人を経て、翰林学士承旨に遷った。劉鄴は李徳裕が朋党を抱えたために誣告されて海上(海南島)で死んだことを悲しみ、令狐綯が長らく宰相となって執政の座にあり、しばしば恩赦があったが、官爵は戻されなかった。懿宗が即位すると、令狐綯が宰相の位を去ると、劉鄴はそこで直ちにその冤罪を申し上げ、官爵が復されることとなり、世間はその義が高いとした。戸部侍郎・諸道塩鉄転運使となった。礼部尚書同中書門下平章事(宰相)、判度支となった。僖宗が即位すると、再び尚書左僕射に遷った。 それより以前、韋保衡・路巌は劉鄴とともに宰相の位にあり、親しいもの同士であった。突如、蕭倣・崔彦昭が宰相となると、劉鄴を罷免して淮南節度使・同平章事とした。黄巣の乱が激しさを増してくると、高駢に詔して淮南節度使を交替し、鳳翔節度使に遷されることとなったが、固辞して、左僕射に戻った。帝が黄巣を避けて西狩すると、乗輿を追いかけたが及ばず、崔沆・豆盧瑑とともに将軍張直方の家に匿われたが、賊に捕らえられ、三人とも黄巣の臣となることをよしとせず、共に殺された。 豆盧瑑は、字は希真で、河南の人である。仕えて翰林学士・戸部侍郎を経て、崔沆とともに同中書門下平章事(宰相)を拝命した。この日、朝廷で任命の宣告があったが、大風と雷雨があって樹を抜き払った。しばらくもしないうちに、禍いが及んだ。それより以前、咸通年間(860-874)、暦見の者がいて巧みに禍福について述べており、ある者が「この頃の宰相は多くても四・五人にもならないが、どうしてなのか」と尋ねると、「紫微で災になろうとしており、そしてその人もまた免れないだろう」と答えた。後に楊収・韋保衡・路巌・盧攜・劉鄴・于琮・豆盧瑑と崔沆は、全員終わりをよくしなかったという。 陸扆は、字は祥文で、宰相陸贄の族孫である。陜州に居候し、遂に陜州の人となった。光啓二年(886)、僖宗が山南に行幸するのに従い、進士に及第し、翰林学士・中書舎人に累進した。陸扆は巧みに文章をつくり、迅速なことは水が流れたり射られた矢のように速かったから、当時書信を担当する者で、同僚たち自らは陸扆に及ばないと思っており、昭宗は陸扆を優遇した。帝はかつて賦をつくり、学士に詔して全員に唱和させ、陸扆ひとり最も先に行った。帝はこれを見て、「貞元の、陸贄・呉通玄が内廷の文書をよくしたが、後に継ぐ者がいなかった。今朕はこれを得たのだ」と感嘆した。それより以前、進士に推薦された時、まさに帝が遷幸しようとしており、六月に牓(合格通知)が出された。ここに到って、暑くなるごとに、他の学士はふざけて「造牓の季節だな」と言い、陸扆の進士及第がその時ではなかったことを謗った。累進して尚書左丞となり、嘉興県男に封ぜられた。戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)に移った。昔、三省から宰相となった者は、光署銭があり、宴会の資金としたが、学士院ではいまだにこれが行われたことがなかった。陸扆が宰相になると、光院銭五十万を贈り、近侍する者の栄誉とした。中書侍郎となり、戸部を司った。 嗣覃王李嗣周は兵をあげて鳳翔(李茂貞)を討伐しようとしたが、陸扆は諌めて、「国はこれから安寧へと歩みを進めようとしていますが、兵を近隣に用いることはよくありません。必ず他の賊に乗じられてしまい、無益です。また親王が軍事に仕えることは、必ず後害があるでしょう」と言ったが、帝は軍の出兵の方に目先が行って、陸扆が妨げたことを責めて、峽州刺史に左遷した。軍が案の定敗れた。しばらくして工部尚書を授けられた。天子が華州より帰還すると、兵部尚書となって宰相に復帰し、呉郡公に封ぜられた。 天復年間(901-904)初頭、帝は密かに韓偓に向かって「陸扆・裴贄はどちらが私に対して忠誠があるか」と尋ねた。韓偓は「陸扆らは全員宰相で、どうして他の考えなぞありましょうか」と言うと、帝は「外部では陸扆が私の復位を喜ばず、元日に服を替えて啓夏門に奔ったというぞ。信じられるか」と言い、韓偓は「誰が陛下にこのことを言いましたか」と言い、帝は「崔胤と令狐渙だ」と言い、韓偓は「もし陸扆がこのようなことでしたら、また責めるにたりません。また陛下が正しい道に戻られた時、陸扆は最初からこの謀を知りませんでした。だからたちまち兵をおこしたというのを聞いて、奔り出ようとしただけなのです。陛下が国難に死ななかったこと責められるのでしたら、そうなのでしょうが、喜ばなかったというのは、それは讒言です」と言い、帝はようやく理解した。戸部尚書を兼任した。 帝が鳳翔より帰還すると、天下に大赦し、全国諸道はすべて詔を賜ったが、ただ李茂貞だけは賜らなかった。陸扆は、「国の西は、鳳翔が最も近いところで、その罪を追いかけ続けるのでしたら、もとより赦すべきではありません。しかしなおも職貢を納められ、朝廷もこれを絶やしていないのに、詔書で差別してはなりません」と述べた。それより以前、崔胤は宰相を罷免され、陸扆がこれに代わった。崔胤は心内に恨みに思い、ここに及んで陸扆が密かに党派を組んでいると議し、沂王傅に貶し、東都分司とした。崔胤が死ぬと、復帰して吏部尚書を授けられ、洛陽より遷った。柳璨は始め朱全忠に付き従い、朝廷で衣冠が有望な者を去らせようとし、陸扆を濮州司戶参軍に貶し、白馬駅で殺害した。年五十九歳。陸扆の初名は陸允迪で、後に改名したという。 鄭綮は、字は蘊武である。進士に及第し、監察御史を経て、左司郎中に抜擢された。非常に貧しかったから、廬州刺史に補任されることを願った。黄巣が淮南を侵略すると、鄭綮は触文を出して黄巣が州境を攻撃することがないよう願い、黄巣は笑って、そのため兵を収めたから、廬州だけは無事であった。僖宗は喜び、緋魚(五品)を賜った。任期満了で去ると、余剰の銭千緡を州の庫に納めた。後に他の盗がやってきたが、終に鄭使君の銭だけは手を触れなかった。楊行密が刺史となると、この銭を都に送って鄭綮のもとに戻った。王徽が御史大夫となると、兵部郎中によって上表して知雑事となり、給事中に遷った。杜弘徽が中書舎人に任じられると、鄭綮は杜弘徽の兄の杜譲能が宰相で、兄弟で禁中の要職にあってはならないとし、奏上して詔書を差し戻すよう訴えたが、返答がなかったから、ただちに病と称して官を去った。召還されて右散騎常侍となり、時々失政を摘発したから、衆は喜んでこれを伝えたから、宰相は怒り、鄭綮を国子祭酒に改め、議する者は正しくないとし、また常侍に戻った。大順年間(890-891)の後、王政は衰え、鄭綮は詩を詠むごとに自らの気持ちを諷刺して託するようになり、宦官は鄭綮の詩を天子の御前で詠んた。昭宗は詩の蘊奥を読み取りきれず、そこで役人が官僚名簿を提出すると、鄭綮の名前の側に「礼部侍郎・同中書門下平章事(宰相)とすべきだ」と書いた。鄭綮はもとより詩をよくし、その語は多く諧謔姓があり、そのため格調を落とさせていたが、世間では「鄭五の歇後の体」と言った。ここにいたって、省の役人が鄭綮の家に走って面会すると、鄭綮は笑って、「諸君は間違ってるぞ。人は皆字を知らないのなら、宰相もまた私には及ばないのだろう」と言ったが、役人は間違いではないと言った。突如制詔が下されたから、「万が一、本当にそうなら、天下の人は笑い死にしてしまうぞ」と言い、政務を見るようになってから、親戚が就任のお祝いに訪ねてきたが、頭を掻いて「歇後なんかつくる鄭五を宰相なんかにするくらいだから、天下の事はおして知るべしだな」と言って固辞したが、聴されなかった。朝廷に立っては剛直で、前のように諧謔に戻ることはなかった。自らを人々が瞻望するところではないと思っていたから、三か月で病気のため辞職を願い、太子少保を拝命して致仕し、卒した。 朱朴は、襄州襄陽県の人である。三伝三史科に推挙され、荊門県令から京兆府司録参軍に進み、著作郎に改任された。乾寧年間(894-898)初頭、太府少卿の李元実は内外の九品以上の官吏の二か月分の月俸を取り上げて軍資にしようとしたが、朱朴は上疏してその不可を申し上げたから、沙汰止みとなった。 国子毛詩博士に抜擢された。上書して当時の世事を申し上げ、遷都を議して次のように述べた。「古の王者はその居場所は一定ではなく、皆天地の興衰をみて、随時物事を定めていました。関中は隋朝が都とするところで、我らは実にこれによることおよそ三百年、財物・銭貨や、奢侈品や礼物ではない物品は、すべてきわめつくされているのです。広明年間(880-881)大悪党が宮殿を陥落させ、役所の国庫、村や街はあるものは十二でしたが、その頃に石門・華陰に帝が行幸すると、十二の中、八・九が滅びており、高祖・太宗以来の制は焼失してしまったのです。夫襄州・鄧州の西は、平坦な土地が数百里あり、その東の漢輿・鳳林はこの関となっており、南は河の流れは屈折して漢中に流れ、西の上洛県は山が折り重なる険阻の地で、北は白崖が連なっており、形勝の地で、平坦で肥沃で何もない土地です。もし広く運河を浚渫すれば、天下の財を運び、大いに集めさせることができるでしょう。古より中興の君主は、すでに衰れて、さらに衰えきっているのから去り、いまだ王ならざるところから即位して王となりました。今南陽は、漢の光武帝が蹶起したとはいえ未だ王ではなかったところです。臣が山河壮麗たるところが多いのを見ますに、故都はすでに栄えてから衰え、再興するのは難しいだけです。江南は土薄く水浅く、人心は浮ついて騒がしく、軽薄で偽りが多いので、都とすべきではありません。河北は土厚く水深く、人心は偏狭固執かつ凶悪惨忍で、都とすべきではありません。思いますに襄州・鄧州は真に中原の地で、人心は良質で、長安からは距離も近く、上洛から通行を制限すれば、長らく夷狄の侵入の心配はなくなり、これは都を建てるのに極選の地なのです」 しかし返答はなかった。 朱朴は人となりが質実剛健で、他に才能はなかった。当時、天子は政務の権を失い、特別に人材を起用して任命し、中興に用いようと思っていた。しかし朱朴は方士の許巌士と親しく、許巌士は昭宗の厚遇を得て、禁中に出入りし、朱朴に経済の才能があると申し、また水部郎中の何迎もまた朱朴の賢人ぶりを上奏したから、帝は召還して共に語り、左諌議大夫・同中書門下平章事(宰相)に抜擢した。普段より聞いたこともなかったから、人々は大いに驚き、突然戸部を司り、中書侍郎に昇進した。帝はますます軍事増強をはかり、裁可するところはすべて朱朴に一任した。朱朴は四方に触文し、近き者は兵士を出させ、兵糧を運送し、遠き者は羨余を進上した。その後数か月して、許巌士は韓建に殺害され、朱朴は宰相を罷免されて秘書監となり、三度貶され郴州司戸参軍に左遷され、卒した。朱朴とともに宰相であった者は孫偓である。 孫偓は、字は龍光である。父の孫景商は、天平軍節度使となる。孫偓は進士に及第し、顕官を歴任し、戸部侍郎同中書門下平章事(宰相)となって、門下省に遷り、鳳翔四面行営都統となった。突然、礼部尚書・行営節度諸軍都統招討処置等使を兼任した。それより以前、邸宅の堂柱に槐枝が生えており、十日ほどして茂り、その時孫偓は宰相となり、楽安県侯に封ぜられた。朱朴とともに衡州司馬に貶され、卒した。 孫偓の性格は闊達で、人を騙すことはなく、かつて「士はいやしくも行いがある人物なら、必ず自身の長所を相手の短所にあてはめて形としたり、自身の清を相手の濁にあらわすようなことはしない」と述べ、客と面会するごとに、奴童は互いに罵りあって客の前で引き倒すようなことをしても、責めることはなく、「もし怒りの心を持てば、それは自分を歪ませることになる」と言った。 兄の孫儲は、天雄節度使を経て、兵部尚書で終わった。 韓偓は、字を致光といい、京兆万年県の人である。進士に及第して、河中節度使の補佐として仕えた。都に召還されて左拾遺の官を授かったが、病気のために解任された。その後、官位が次々うつって左諫議大夫になった。宰相の崔胤が判度支となり、韓偓を自分の副使に任命した。王溥が推薦して翰林学士となり、中書舎人に転任した。韓偓は崔胤と画策して、劉季述を誅殺したことがあった。昭宗が正位に復され、韓偓を功臣とされた。帝は宦官の横暴に心を傷められ、一人のこらず除去しようと考えられたが、韓偓がいった、「陛下が劉季述を誅されました時に、のこりの者はみな赦してお咎めになりませんでした。それが今になって誅罰されるとしたら、誰もがいつ殺される目に会うかわからなくてびくびくしなければなりません。ですから今は恥をしのんで辛抱され、後の機会を待つのがよろしいかと思われます。天子の御権力は、今日では方々に散らばってしまっています。もし上の者と下の者とが一つの気持ちになり、政権の大綱を統御すれば、天下の治ますることも可能でありましょう。宦官の中で忠義で任用できる者に、恩寵を貸しあたえ、自分でその派閥を滅ぼさせれば、何事も為しうるでしょう。今、朝廷の禄を食んでいる者は、八千人います。公けの属吏から身うちの係累までをすべて数えれば、その数は二万人を下りません。六七人の大物を誅したところで、無益なことで、謀反の気持ちを固めさせるだけです」。帝は体を乗り出していわれた、「このことはいっさいにまかせよう」。 中書舎人の令狐渙は巧智にたけていた。帝は彼に国事を担当させようと考えたことがあったが、すぐに後悔していわれた、「令狐渙が宰相になると、ひょっとしたら国政をしくじることになるかもしれぬ。朕はまっさきに卿を採用すべきであった」。韓偓は辞退していった、「令狐渙は父子二代にわたる宰相の家柄で、故実に習熟しております。陛下はすでに令狐渙を宰相にすることを承認されました。もし令狐渙の任用を承認されたことを変更できるのでしたら、臣の御承認でも変更できないことはないでありましょう」。帝がいわれた、「私はまだじかに命を下してはいないのだから、はばかることはない」。韓偓はそこで、清廉で威厳があり、朝廷のうちそとも模範となりうる人物として、御史大夫の趙崇を推薦した。帝は韓偓が趙崇の門下生であることを知られると、彼の人に譲ることのできる意力に感嘆された。 以前、李継昭らは功績をたてたことで、いずれも同中書門下平章事(宰相)に昇進した。時の人々は彼らを「三使相」とよんだ。その後はふたたび韓全誨・周敬容にしだいに近づいていき、彼らは皆な崔胤をきらっていた。崔胤はそのことを耳にすると鳳翔の李茂貞をよびよせて朝廷に入れ、李茂貞の一族の子、李継筠を宮中において宿直にあたらせた。韓偓はそれを聞いて、いけないと考えたが、崔胤はききいれないので、韓偓は令狐渙に語った。令狐渙は、「うちでは宰相をだいじにしないのかね。護衛の兵がいなかったら、茶坊主どもの思うままになってしまう」といった。韓偓は「そうではありません。兵がいなければ家も国も安泰ですが、兵がいれば家も国も守ることはできません」といった。崔胤はその話を聞くと心配になったが、どうしてよいかわからなかった。李彦弼は帝を前にしても、はなはだ傲慢であったので、帝は心中おだやかでなかった。韓偓は、「彼をおいはらい、その徒党は罪を問わずに新生の道を歩ませれば、気違いじみたたくらみはひとりでにつぶれてしまいましょう」と願い出たが、帝はその意見を採用されなかった。李彦弼は、韓偓と令狐渙とは朝廷内の話を外部に漏らしているので、彼らと国政を相談することはできないと讒言した。帝は怒っていわれた。「卿にも手下の役人がいて、日夜相談しておるのに、どうして私が私の部下の学士と会うことをいやがるのだ」。李継昭らは宮中で酒を飲んで、平然としていた。帝がそれに立腹されると、韓偓がいった、「三使相が手柄をたてた時、手厚く金、官爵を与えて、政治には参与させない方がよかったのです。今では宰相も事を自分で決定することができず、李継昭たちが申し上げたことは、何でもお聴きとどけになります。後日になって急に変更されたら、彼らは誰もがうらみをいだくでありましょう。以前は警護の兵に宦官を取り締らせていたのが、今では宦官と警護の兵とは一体になっております。臣は内心胆を冷しております。どうか李茂貞に詔を下して、彼の警備の兵を朝廷から引き挙げさせるよう、お願いいたします。そういたしませんでしたら、二つの藩鎮の軍が宮門の下で戦闘し、朝廷は危険にさらされることになりましょう」。崔胤が朱全忠をよびよせて韓全誨を討たせようとする時になり、朱全忠の軍隊が都に近づいていた。韓偓は令狐渙に、李茂貞をせきたてて護衛の兵を都からひかせるように勧告した。また「宦官の罪を暴露して、それによって韓全誨らを誅殺するように。もし李茂貞が詔勅にしたがわないのなら、ただちに朱全忠に入朝を許しなさい」と勧めた。その言葉がとりあげられないうちに、韓全誨らは帝に強制して長安から西へ行幸させた。韓偓は夜に帝の後を追いかけて鄠県まできて、帝にお目にかかると声をあげて泣き出した。鳳翔に着くと、韓偓の官は兵部侍郎にかわり、承旨に昇任した。 宰相の韋貽範は母の喪で退いていたが、もとの官位にもどす詔勅を下すことになった。韓偓は起草をする当番であったが、帝に申しあげた。「韋貽範はまだ数か月しか喪に服しておりません。いそいで仕事につかせたら、孝子の心情を傷つけることになりましょう。今、中書省の仕事は、一人の宰相でも処理できるものです。陛下が心からの能力を大切にされようとお考えでしたら、喪服のとける時になってからお召しになっても、さしつかえありません。どうして家の外では宮廷に高々と冠をかぶせ、家の中では柩のかたわらに血涙を流させる必要がありましょうか。身のやつれるほど悲しめば、勤務をおろそかにすることになりますし、精勤すれば喪の悲しみを忘れることになります。これは人間の情愛がある者が処置できることではありません」。学士使の馬従皓が韓偓に起草を強要した。韓偓は、「私の腕は断ちきることができても、詔勅は起草できません」といった。馬従皓が「あなたは殺されることを求めているのか」というと、韓偓は「私の職務は内署であるから、黙っておられようか」といった。翌日、官職のある者が集まったが、詔勅は下されなかった。宦官ががやがや騒ぎ、李茂貞は入殿して帝にまみえて、「宰相を任命されたのに、その詔勅を学士が起草しないということは、謀叛ではありませぬか」というと、むっとして出ていった。それを聞いて姚洎が、「私を起草の担当にあてられるなら、後で死罪になってもかまいません」といった。こういうことがあった後、帝は李茂貞をおそれて結局、韋貽範を宰相の位にもどす詔勅を下すことにして、姚洎が韓偓に代わって起草した。これ以後、宦官派はひどく憎むようになった。馬従皓は韓偓をなじっていった。「南司(朝臣)は、はなはだ北司(宦官)を侮蔑しております。あなたは崔胤と王溥の推薦で朝に入った人です。今日、北司の者があなたを殺すこともありうるのです。両軍と枢密は、あなたが一年中給料をもらえないでいると言っています。私たちがあなたを救おうと相談して、事態が切迫していることを、御存知ですか」。韓偓は返事をしようとしなかった。 李茂貞は帝がこっそりぬけだして朱全忠のもとに身を寄せはしまいかと心配して、行在に見張りの兵をつけた。帝は武徳殿の前に行かれ、その機会に尚食局まで足をのばされると、ちょうど学士が独りいるだけであった。おつきの者が韓偓を手招きした。韓偓はやってきて再拝すると涙を流し、「崔胤はとても元気です。朱全忠軍がきっと助けにきます」といった。帝は喜ばれた。韓偓が「どうか陛下、宮中にお帰り下さい。人に知られませんように。」というと、帝は麦粉や豆を賜われて立ち去った。韓全誨が誅せられ、宦官の多くは死罪になった。帝は残党を一掃されようとしたが、韓偓がいった。「家来たる者は謀反を考えることもならね。謀反を考えただけでも必ず誅罰する。宮仕えの女が恩に背いたら、許してはならね。それが礼だといいますが、しかし人は三十年たたなければ、一人前になれません。一人のこらず誅罰することは、陛下の仁徳を傷つけることになりましょう、どうか特にひどい者だけを追い払い、宦官の仲間の内部から外を静めるようにし、そうして人々の心を落ち着かせ下さいますように」。帝は「よかろう」といわれた。帝は輝王(後の哀帝)を元にしていただきたいと願いでた。帝は「後日、私の子(輝王)がまきぞえにされることはなかろうか」とたずねた。韓偓がいった。「陛下が東内に押し込められました時、空が曇りがたちこめた中で、王は鳥の鳴き声をお聞きになると「天子様も皇后様もとらわれの身にあると、鳥や雀の鳴き声までもの悲しい」とおっしゃり、それを耳にされた陛下は胸を痛められたということがあったのではございませんか」。帝がいわれた。「そのとおりだ。この子は生まれながらにして忠孝の心ばえを持っており、並の者とは違う」。そこで、元帥にすることを決められた。韓偓の意見はみなこんなぐあいに崔胤に従っていた。帝は正位に復され、政治に努められた。韓偓が機密な事がらを認可する際の処置は、たいがい帝の意見と一致した。三、四回、宰相になりそうなことがあったが、人にゆずって引きうけようとしなかった。蘇検が政務の補佐にまねいたこともあったが、結局ことわった。 これより以前、韓偓は宴会の場で、京兆の鄭元規と威遠使の陳班と席を並べることになったが、「学士というものは外班に近づかないのです」といってことわった。主催者がどうしてもとたのむと、やっと坐ったが、鄭元規と陳班がやってくると席を離れ、とうとう同席しなかった。朱全忠と崔胤とが殿の前で詔勅をよみあげ、坐っていた者は皆な席を離れたが、韓偓は坐ったままでいった。「宴会の席では、やたらに立ちあがるものではない。お二人は私のことを礼をわきまえた者と思われるであろう」。朱全忠は韓偓が自分を軽んじたのに腹を立て、むっとした顔で出ていった。韓偓は高い官にある者をはずかしめるのが好きだと讒言する者があった。崔胤も韓偓と仲違いした。ちょうど王溥・陸扆が放逐され、帝が王賛と趙崇とを宰相にされようとすると、崔胤が王賛と趙崇を宰相の器でないといった。帝は仕方なく中止された。王賛と趙崇とはどちらも韓偓が宰相に推薦した者であった。 朱全忠は帝に見えて韓偓の罪状をあからさまに指弾した。帝は何度も崔胤の方をみて弁護を求められたが、弁明してやろうとしなかった。朱全忠は中書省にやってきて、韓偓をよびよせて殺そうとした。鄭元規が、「韓偓の官位は承旨であるから、軽々しいことをなさってはいけません」といったので、朱全忠は思いとどまり、韓偓を濮州司馬に左遷させた。帝は韓偓の手をとると、涙を流していわれた。「私のまわりには誰もいなくなった」。また栄懿尉に左遷され、それから鄧州司馬にかわった。天祐二年(905)、ふたたび学士として故の官位にもどるように召還したが、韓偓は朝廷に入ろうとせず、彼の一族をつれて、南方の王審知のもとに身を寄せ、そこで没した。 兄の韓儀は、字は羽光で、同じく翰林学士から御史中丞となった。韓偓が左遷された翌年、帝は文思殿の毬場で宴したが、朱全忠が入ってきても、百官は廊下に座ったままであったから朱全忠は怒り、棣州司馬に左遷され、侍御史の帰藹も登州司戸参軍に左遷された。 賛にいわく、懿宗・僖宗以来、王道は日に日に、次第に失われていき、官吏は腐敗して朝廷は逼塞し、賢人は逃れ、四方の豪傑英雄は、それぞれ合うところに従って奮闘するだけであった。天子は孤独で、一緒にいる者はおべっか使いの見識の浅い人物で、災禍を防ごうとして、すでに倒れているものを支えているようなもので、何と危ういことであろうか。鄭綮・朱朴のような輩を通例によらぬ方法で用いたのは、豚の脛を壊して、猛獣の貙の牙を防ぐようなもので、滅びの道を歩むだけなのである。ただ韓偓一人すら容れられなかったのに、どうして賢者を用いられようか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百八十二 列伝第一百七 『新唐書』巻巻一百八十三 列伝第第一百八 巻一百八十四 列伝第一百九
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/39572.html
登録日:2018/05/22 Tue 12 41 39 更新日:2024/09/17 Tue 16 43 22NEW! 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 SCP-3288 aristocrat お貴族様 アリストクラート イヤミ コメント欄ログ化項目 ノブレス・オブリージュ ファンタジー ヨーロッパ史 世界史 中世 中国史 伯爵 佐藤天彦 侯爵 公爵 子爵 封建制度 日本史 権力者 特権階級 男爵 貴族 貴族制度 辺境伯 選民思想 金持ち 階級制度 貴族とは、封建社会における特権階級。 一般大衆とは比べ物にならない大きな権力を持ち、その権力は主に世襲により受け継がれる。 ▽目次 貴族の必要性 貴族の特権と責任 世界の貴族ヨーロッパ 中国 日本 朝鮮半島 ローマ アメリカ フィクションにおける貴族キャラ フィクションで王族や貴族を主人公やその盟友にする理由主な貴族キャラの特徴 フィクションにおける貴族系キャラの一覧(善悪問わず) 貴族の必要性 原始農耕社会は基本的に共産的である。 コミュニティ内の全ての住民が直接食料生産に携わり、自分の食べるものは自分で手に入れる、というシンプルな構造の社会において貴族は必要ない。 しかし、コミュニティの大型化と分業制が進むにつれ、コミュニティ同士が利権をめぐって争うことも増えてくる。 そうなると、他コミュニティとの交渉・調停をする、あるいは戦争に臨むために、コミュニティの統率を行う強力な権力者が求められるようになる。 だが、直接的には食料生産には一切貢献しないその権力者すなわち「政治家」は、短期的な視点で見ると「浪費者」でしかない。 昔の社会で「働かず食える人間」を養う余裕というのは僅かしかない。 よって、一人またはごく数人の「働かずに政治だけやっていればいい人間」を何とかして決める必要がある。 だが、その決め方が問題だ。 今の社会と違い、民衆への教育も不十分な原始社会では選挙などするのは難しいし、やっても衆愚政治になるだけである。 かといって、いちいち競い合わせていたら社会そのものが疲弊してしまうし、 「誰でも勝てば政治家になれる」としてしまうのは権力争いを加速させるばかりで、コミュニティ崩壊の原因になる。 だからこそ「貴族という特権階級を最初から決めてしまい、権力はこの血族の中でだけ回していく」という社会構造が世界各地で自然と出来上がっていったというわけである。 貴族制というと、民主主義に比べて劣っているように見られがち。 だが、実際にはこのように「資源の不足」「教育の未熟」が合わさって自然発生したものであるため、 そのような問題が解決していないのに貴族制を無理に廃止しようとすることはかえって混乱の種になる。 「現在の社会にどちらが適しているか?」というだけの問題なのだ。 貴族の特権と責任 貴族は、一般人から納められた税金を使って生活することが認められている。 但し、基本的にその建前は世界中どこであっても「戦争準備金」である。 つまり、貴族は民衆から金を集めてそれで軍備を整え、いざという時に戦争に乗り出すことが義務として課せられているのである。 これを「ノブレス・オブリージュ」と言う。 「普段楽をしているのも、戦争の時に最前線に立つため」というわけである。 実際に古代ローマでは、出陣していたファビウス氏族がたった1人の幼い男子を残して一族郎党全員が戦死するという事態も起こっており、「ノーブレスオブリージュ」の典型ともされている(*1)。 「戦争になる前に敵対する可能性のある他の勢力の下に説得に赴く」「戦争中の相手に和平交渉を担う」「人質として同盟相手の下に逗留する」という外交的な仕事も貴族の責任である。 女でも、政略結婚先となった他のコミュニティーが母国の敵に回らない様に気を配ると同時に、母国が嫁ぎ先の我慢の一線を越えない様に警告しなければならないので、無能な人間には任せられない。いざとなったら、開戦寸前の息子と兄の軍勢の間に自ら割って入ってでも、同盟や平和条約の破綻を防がねばならないのだ。 また、春秋時代の楚の荘王の王妃は令尹(宰相)を批判した際に「自分は夫の(主に政治的な)利益に繋がると思えば自分以上の美人を含めた女性を何人も紹介したのに令尹は一人もこれぞという人物を王に推挙していない」と苦言を呈している。 王妃の立場としては夫を独占したいだろうし、自身の息子を王太子に立てたいと思うのは当然だが、国の為に有益と思えば私情や私利を殺し、有能だったり人脈を持っている人物を推挙したりする自制心と、自身が推挙した相手が暴走しない様にいざとなったら抑止できる政治力が必要とされるのだ。 またそれだけでなく地域のために民衆を集めて労働させたり、地域内の揉め事を裁定したりということも貴族の特権・義務として存在している。 世界の貴族 ヨーロッパ フィクションでも頻繁に登場するタイプの貴族なので、爵位同士の上下関係は覚えておくといいかもしれない。 なお、ヨーロッパの爵位は基本的に「個人」ではなく「土地」に冠せられるものである。 「○○男爵領」という土地を保持している人が「○○男爵」と呼ばれるのであり、一つの家が複数の爵位を保持していることも割と普通にある。 基本的には「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」の5段階が多いだろう。騎士はその下。 日本と異なり、イギリスなどでは現在でも貴族という立場そのものは健在である。 イギリスでは授与された本人のみに適用される一代貴族と言う制度もあり近年はこれで貴族になるのが主流。 現在では貴族としての特権はほぼ無いものの、先祖伝来の土地や文化財により裕福な暮らしをしている人もいる。 一方で、そのようなものは手放してしまい名前だけは貴族のものを受け継いでいても、暮らし向きはごく平凡、という人もまた多いようだが。 中国 一般に「貴族」とは呼ばれないが、周王朝以前は広大な中華大陸を治めるのに「封建制」を施行し、革命期に活躍した武将たちを封建領主に据えていた。 彼らは与えられた領土を運営し、いざ戦役となると兵士や戦車部隊などを束ねて中央に馳せ参じる義務を負っているなど、一般にイメージされるヨーロッパ的な「貴族」そのものの特徴を持つ(*2)。 欧州貴族階級の訳語として広く使われる「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」という五段階の称号も、もともとは周朝の封建領主の称号である(*3)。 しかし、この貴族制を内包した封建制は、春秋戦国時代を経て官僚を派遣して土地を治める郡県制に取って代わられていき、秦の始皇帝と漢の高祖によって完全に消滅した。 三国時代に大いに勢力を誇った地方豪族が、魏国の「九品官人法(九品中正法とも)」を足掛かりとして中央政府に進出した。そうした地方豪族を「貴族」と呼ぶこともある。 但し、当時・当人たちは「士大夫」と称していたし、中国では「士族」と呼ぶ(*4)ので、ほぼ日本限定のローカル呼称であることは注意。 また「士大夫」という呼び方は紀元前の周代から二十世紀の清代、比喩まで含めると現代までとにかく幅広く使われる用語(*5)なので、うかつに使わないほうが無難。 さてこっちの「貴族」だが、前身の豪族のころから、彼らは中央政府の意向に面従腹背を繰り返してきた。 それがさらに中央政府への足場を作り、それらを世襲させたことで、魏晋南北朝時代にあってはそれはそれはすさまじい派閥闘争と君権の無力化を生じさせた。 後漢全盛期の人口が6000万だったのに、魏呉蜀「三国」の人口がたった800万ほどしか「登録」されなかった、つまり「国家が徴税・徴兵などの実効支配を及ぼすことができたのは、全人口の15%程度だった」といえば、少しはわかるだろうか。 それもあって君主や国家の権力は大変脆弱で、ある皇帝などは「生まれ変わりがあるなら、二度と皇帝には生まれたくない!!」と叫んだとされるほど。 国家よりも強いこうした貴族の存在はもちろん国家の悩みの種だった。 しかし、隋の文帝が作り上げた科挙制度は、貴族層が掌握していた「人事権」を皇帝が握る布石となった。 さらに唐の太宗が制定した貞観氏族志によって「貴族」の素性を暴いて権威を落とし、逆に科挙官僚の社会的地位を引き上げたことで、貴族の影響力は衰退。 中華史上唯一の女帝・武則天が人材発掘にいそしみ科挙官僚を手足として抜擢し、玄宗がその遺産を引き継いだことで、貴族層は無力化した。 最期は唐滅亡期の戦乱の中にとどめを刺されたという。 日本 「源平藤橘」の四家が有名。この中では藤原氏が最も力を付けた貴族として知られるだろう。 藤原氏は「南北式京」四家に分かれ、最も盛隆を誇った北家からは「近衛・九条」の各家が、さらに近衛家から鷹司家、九条家からは二条家・一条家が分かれた。 この五家が現在まで続く「五摂家」で、太平洋戦争期まで度々国の中央の要職を担ってきた。 戦後もこの一族から神職や赤十字などの要職、内閣総理大臣に就いていることなどからしてその影響力は衰えていないと言える。 藤原氏からはさらに「清華家」と呼ばれる、太政大臣になれる「三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川」の六家(村上源氏の久我家も加えて七家。後に広幡・醍醐を加えた九家)もあり、この家も歴史に幾度となく顔を覗かせている。 発生初期は諸外国のものとあまり変わりはないのだが、その後大きな変化がある。 なんと貴族自身が「武力」を完全に手放し、実際の政治と直接関わることから離れてしまったのだ。 これ以降の貴族は「公家」と呼ばれる。 その後、自警団などに端を発する地方武装勢力と清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏などの下級貴族が結びついて武士団を成す。 流石に貴族のトップである摂関家だけは強力な私兵集団を擁していたが、其れも保元の乱で自壊し、武士から新たに清華家として台頭した平家と河内源氏も短期間で滅亡し、承久の乱で天皇家の親衛隊も大打撃を受けたので、朝廷の武力は武士の組合である幕府にとても及ばないものになってしまった。 「武力の外注」という他の国の貴族にはまず見られない現象である。前述のような貴族の成り立ちを考えるとある意味当然だが。 武士に権力を奪われた後は「建武の新政」などの一時期を除きほとんど完全なお飾りと化していた。 日本人の感覚からするとピンとこないかもしれないが、「軍部が700年間実権を握っていたのに一度も易姓革命が起こらなかった」は普通の国ならまずあり得ない事態である ……が、幕末になると王政復古の動きが加速。 明治維新と共に貴族は新たに旧大名家とともに「華族」として身分制度の中に組み込まれ、西洋風の五爵制度も取り入れ、完全な別物と化した。 日本国憲法の公布と共に華族制度もまた終わりを告げたのだが、現在でも華族の末裔は所謂「名家」扱いされることが多い。 旧華族一覧が平成以降の世になっても作成されたり旧華族の集いが定期的に開催されたりしているなど、権力や身分は失っても完全に概念が消えた訳ではないようだ。 其れとは別に、位階制度での分け方もある。 従五位下の位階を受けた人間は通貴と呼ばれ、本人一代に限り下級貴族として扱われ、従三位以上、若しくは四位参議は公卿、貴と呼ばれる上級貴族として扱われた。 逆に言うと、日本で言う貴族は家長、若しくは嫡出長男がほぼ自動的に通貴の位に昇れる家柄を指す。 この視点で言うと、鎌倉時代の北条得宗家と赤橋家、足利家も貴族と言えるし、江戸時代の大名は大半が五位の位を与えられていたので、此方も貴族に該当するし、大名としては極小クラスの越前葛野松平家(*6)や1万石に満たない高家吉良家は従四位下や上の近衛権少将なので下手な大名よりも貴族としての家格は高い。 明治維新後も位階制度は残っており、中佐以上に昇格した軍人(*7)や政務次官経験が有る国会議員が従五位や正五位の位を授けられ、華族家の跡取りと同等の一代貴族として扱われた。 従三位となると、国務大臣経験者や大将クラスの軍人が該当し、男爵家当主より格上の席次が与えられた。 朝鮮半島 朝鮮王朝時代に存在していた官僚「両班(ヤンバン)」が、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置する貴族階級(中華帝国における士大夫)に相当した。この両班は官僚を輩出する一族そのものを指す名称でもある。 この両班は自然発生的に形成されてきた他国の貴族とは少々成立の経緯が異なる。 基本的に朝鮮王朝は自らを偉大な中華帝国文化圏の一員と位置付ける「小中華思想」に基づいて成り立ってきたため、高麗建国の際統治機構として唐や宋の制度を参考に武官、文官の二系統の官僚組織を立ち上げた。 本来はこの武官(武班)と文官(文班)の二つを合わせた官僚組織そのものの呼び名こそが両班だったのである。 無論宗主国に倣い朝鮮も西暦958年に科挙制度を導入するのだが、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれるというルールがあったため、それら上級文臣が世襲によって権力を独占し門閥を形成し始める。 高麗はこれら王族と貴族化した門閥文臣によって支配されていた。この体制は1170年に起きた武官側の軍事クーデターによる政権乗っ取りと続く元軍の侵略で一旦崩壊するが、このとき雌伏していた文官の生き残りたちは「新興儒臣」という集団を形成。元崩壊後の李氏朝鮮王朝成立に伴う政界再編に乗じてさらに版図を広げ、これが後に貴族階級としての両班のルーツとなる。 李氏朝鮮王朝では軍事政権時代に権力を握っていた郷里出身の文臣を官僚から追放、科挙の受験資格を大幅に制限したことで科挙は事実上受験費用を賄える門閥貴族のボンボンの専売特許と化し、次第に両班という言葉はこれら門閥貴族階級のことを指す言葉となっていった。 つまり両班とは地方豪族が中央に進出して政治権力を握ったものではなく、最初から政治屋として産み出された官僚が権力の集中と門閥化により貴族へと成長したものだといえる。 この両班だが、厄介なことに重税を湯水の如く使い潰す上に自身は特権により他国の貴族なら負うであろう貴 族 の 責 務(ノブレスオブリージュ)を免れた挙げ句、人民に対する横暴も許されるというあんまりにもあんまりなテンプレ腐敗官僚そのものなのだ。(*8) そもそも儒教の影響で肉体労働とは下賎な下等民のやるものという傲慢な思想に染まりきっていたので、真面目に働いて稼ごうという意識がなく、自国民にまで「盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」などと唾棄されるほど腐敗を極めた。 おまけに両班の特権を金で売り買いする不届き者が横行したため、李氏朝鮮王朝末期には金で特権を買った「自称両班」が大増殖。血みどろの権力闘争を繰り広げる世紀末状態に……! その惨状を、マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは自身の著書『朝鮮事情』において「世界一傲慢な貴族」とまで評した。 当然、当時は立憲君主国として発展していた日本に此等の特権が認められるはずもなく 教育を受ける権利と子女に教育を受けさせる義務(*9) 職業選択・居住の自由 私有財産の尊重 法律の根拠無しに逮捕・監禁されない権利 納税の義務 止むを得ず国民の権利を制限せざるを得ない場合は国民の代表である国会の賛同を経た法律の手続きを順守しなければならない と併合後は両班の特権を悉く潰す政策が施行された。 韓国は儒教文化により「家柄」「血筋」のブランドを過剰に崇拝する権威主義の強い影響を受けており、朝鮮王朝が滅亡した現代でも、血筋を鼻にかけて高級官僚や財閥トップの座にいる一族が未だに影響力を持ち続けている。 因みに朝鮮民主主義人民共和国は労働者の国を標榜している(共産主義)ため、ブルジョワ階級である両班の血統はむしろ忌避される傾向にある。 ローマ ローマの建国王ロムルスによって百人の有力者が集められたのが始まり。 彼らはラテン語で「父」を意味する「パーテル」(*10)と呼ばれ、元老院を構成した。 当初はあくまでも王に対する助言機関だったが、七代目の王タルクィニウスの時代にやりたい放題やった王を追放。以後は国家ローマの意思決定機関となる。 だがローマが地中海世界の覇権を握る頃になると、統治能力の衰えからスッラやカエサル等の独裁を許し、初代皇帝アウグストゥスによってローマが帝政に移行した後は、皇帝に対する助言機関に戻る。 アメリカ 国の成り立ち、政治の構造上・制度の上での貴族は存在しない。 しかし歴代の国の重鎮には、ヨーロッパから渡ってきた王侯貴族の血を受け継いだものが多いのもまた事実である。 またブッシュ家やクリントン家、ケネディ家といった大統領・有力政治家を多く輩出してきた家系が「貴族階級」と揶揄されることもある。 フィクションにおける貴族キャラ ファンタジー世界観の場合大抵一度は出てくる。 概ね、「体制よりの保守派」の悪役として出てくることが多い。 味方サイドであっても、無能だったりギャグキャラだったりとあんまりいい扱いはされない場合が多い。 これは、味方サイドの有力貴族が有能であった場合、本編における(*11)多くの問題を鶴の一声で解決できうる存在になってしまいかねず、そうなると(大体平民だったり旅人だったりな)主人公の出る幕が無いから……と言うのが原因だろう。 上述したまっとうな貴族だった場合は、主人公サイドからは疎まれつつもやるべきことはきっちりやっている有能ぶりを発揮していたり、主人公とは敵対しつつも一定の敬意を持たれていることもある。 もちろん主人公サイドとも敵対せず、有能・友好的な場合もある。 その一方で主人公として活躍するパターンも当然ある。 その場合は選民思想の薄い公平な視点を持った異色の貴族として登場することが多い。 主人公格の貴族だと召使や平民など下々に対する態度が柔らかく、そこから恋愛感情が生じて……、というパターンは昔から少女漫画では使い古された展開である。 かように「身分差を強く意識し、下層に惨く当たる選民思想(そして無能)」か「身分差を全く気にせず、下層にやさしく接する博愛主義(そして有能)」の二分化が激しく、「身分差は厳然として意識をするが、とりたてて下層につらく当たるわけではない(有能か無能か、もしくは真ん中辺りか)」といういわば「普通の貴族」は主要キャラとして登場することは極めて稀で、そもそも登場することもあまりない(登場する例としては、例えば下記に出てくる『王様の仕立て屋』の場合は、服飾を語る上で貴族を多く登場させているため、「普通の貴族」もわりと多く登場している)。 また、その血筋から財閥・王族系キャラとかぶりやすいのが特徴である。 初めて「ノーブレスオブリージュ」という言葉が使われたのは「『貴族が義務を負う(ノブレス・オブリージュ)』ならば、王族はそれに比してより多くの義務を負わなければならない」という文脈なので、違いがわかりにくいからかもしれない。 なお、日本語における爵位はヨーロッパ各地の時代や国によって制度が異なる爵位を、中国語由来の言葉に強引にコンバートし、更に日本独自の解釈を加えたものなので、実体とは微妙に~完全に異なる部分がある。 (もっともポピュラーな「王」ですら、絶対的トップの王から実権が無い王まで色々あるが、爵位も同様なのだ) なので聞きかじりの知識で「○○伯は名前から田舎っぽいが実は偉い」とか「市民が○○になれることは通常ない」などと断言すると実は間違ってる可能性があったり、ましてや現実とルールが異なる異世界モノの貴族制度にツッコミを入れると爵位警察になってしまったりするので注意が必要。 あと辺境伯がすっごい人気。 よく使われる辺境伯の設定としては「国境の最前線の領地を預かる貴族」 「戦争に直結する領を守るための強力な武力、他国との交易による富力、他人種と交わることによる開放的な気風、領としての独立性を持つなど強大だが、首都から離れているため田舎貴族と舐められることもある」などである。 あまりに人気が高すぎて色んな作品で出るため、辺境伯の概念は知ってるけど、リアルの歴史で具体的に誰が辺境伯だったかは知らない、なんて人も多いのではないだろうか。 また、素人執筆のネット小説、小説家になろう作品、俗に言うナーロッパではまた違った側面があり、 + ナーロッパのトンデモ貴族 モブの貴族イコール無能 自身の私服を肥やすために重税を化したり、あらぬ争いを起こして問題を加速させたりなど、基本的に問題しか起こさない。 社会人であることが多い作者の上司や政治家への憎しみが反映されているためであろうか。 酷いものになると、人類と魔族で戦争を繰り広げている中で国家予算の1/5を私物化、退陣して娘に尻拭いをさせる裏で売国行為を続けるなんて作品も。 主人公が貴族や王族の場合、主人公の立案が無ければ延々と会議を続ける、まともに案という案を出さない、主人公持ち上げマシーンと化す。 貴族の権威は振り回すくせに、義務は果たさない 戦争が起きた際には真っ先に逃げ出すのは鉄板。お前何のために国境近くの土地を治めてるの? ちなみに上記作品の国王も、「大勢いる魔導士のうちの1人として、魔力切れを起こしながらも国土一面を防御する大魔法の詠唱を行う」と使命はちゃんと果たしていた。 主人公が貴族の場合、長男や次男坊ではなく、三男以下が人気 権力争いに巻き込まれず責任などのしがらみからも遠いが、衣食住の面では不自由なく暮らせるためである。 文化的な側面から見ても、中世ヨーロッパの文化レベルで1日3食の食事や文字の読み書きの勉強など、現代日本の一般人レベルの暮らしがしたいのならば、貴族階級は必須である。 そして逃げ出した親兄弟の代わりに戦争や魔物討伐に駆り出されるのもお約束である。そして大活躍して支持を掻っ攫う。 スキルや魔力などに恵まれない自分の子供を追放する お腹を痛めて産んだ自分の実の子供だろうが、「スキルに恵まれなかった」「魔力を持っていない」という理由だけでいない者扱いしてしまう。 でも殺したら物語が始まらないので、赤子を殺さずにわざわざ森の中に運んで捨てる。 魔力測定器は2桁までしか測れないのに主人公が三桁以上の魔力を持っていた…というのもお約束である。 そしてスキルなどに頼らないで活躍する、スキルの真価を発揮して活躍する主人公に「ザマァ」されるのがお約束である。 どのスキルが貰えるのか完全に運任せのくせに、目当てのスキルが得られなかったら「この親不孝者!」と実の息子をぶん殴る、なんて作品もある。なお、その主人公父親貴族の末路はお察し 「戦闘向けのスキル」に執着する 土地を納めるのには役に立たない「賢者」やら「剣聖」というスキル持ちを願い、 「錬金術」や「鑑定」、「政神」と言った事務系作業に役に立ちそうなスキル持ちを毛嫌いする。 現代日本からの物品や食品には興味津々 主人公が異世界を出入りできたり、地球産の物品を購入できる能力を持っている場合は、 頭を下げない不遜な態度を繰り返す主人公を笑って許したり、権力を使って主人公を囲おうとしたりする。 そして、図に乗った主人公からぼったくり価格でモノを買わされるのもお約束である。 フィクションで王族や貴族を主人公やその盟友にする理由 先述した通り、王族や貴族と言う存在は軍事・治安維持・外交と言った普通の平民には手に余る厄介事に対処する為に、権限を委託され、平民から金を徴収する事が出来る。 そうした地位でなければできない活躍というのはやはり存在している。最低限、そうした権限を行使できるか、必要に応じて貸してくれる上司なり盟友なりがいなければ、いくら有能でもその有能さを発揮できない。 一庶民が個人の実力だけでその地位にのし上がるというのも流石にリアリティに欠けるし作者が描きたい部分ではないため、最初から貴族キャラか、権限を貸してくれる貴族がいる方が都合がいいのである。 また、貴族は領内に外敵に侵攻され、誰の目にも明確な被害が出た場合は報復するなり、占領地を解放or捕虜を救出するなり、被害を補えるだけの条件で和睦を引き出すなりしないと面子≒権威を保てない。 無論、国や領邦の司令塔が不在というのは問題なのだが、すげ替えることは簡単だ。(*12) また、貴族と言えども跡取り候補の優先順位が低い子供は相応の功績を示して、独立なり分家創立なりの根拠を作らなければ『田分け』として一族の勢力そのものが弱体化・若しくは意思統一が出来なくなってしまう。 であるので、フィクションの主役や主要な盟友として起用するには都合が良い一面がある。 例として比較的知名度が高い 同盟国の裏切りで父を殺され、姉を捕縛され、国土を奪われた王太子 即位式当日に王妃を誘拐された新国王 弟を誑かして利用した敵に王城を落とされた王女 と言ったフィクションの主人公は家族を愛していると言う動機を除いたとしても、身内を捕虜にした外敵を自らの手で叩き潰して捕虜を奪回するぐらいの実績を挙げないと失墜した権威と国民の支持を回復するのが難しいと言う側面も存在している。 また、貴族や王族は外交担当者としても教育を受けているので、語学が堪能で遠隔地の住民と意思疎通が出来、地理・歴史に詳しいのも当然であるし、政略結婚した身内なり、親世代が嘗て共同戦線を張った元同盟者なりが国外に居て助力してくれてもそれ程不自然ではない。 そもそも、読み書き出来る人間自体が希少と言う地域や時代が現実の歴史でも長かったのだ。 王族や貴族が主役だったり、主役の補佐役だったりした場合は、言語の壁を大幅に省く事が出来るし、地理や歴史の基礎知識が有ると言う前提で周囲も接するので情報を引き出し易い一面もあるだろう。 高貴な身分と言うのは、言語の壁や地理・歴史の問題を大幅に緩和出来る設定でもあるのだ。 主な貴族キャラの特徴 高慢 選民思想 金髪碧眼 極端なイケメンor怠惰な生活で肥満体 貴族でないものは人として扱わない 見栄っ張り 無能 俺様キャラ 世間知らず、または浮世離れしている 貴族としてのプライドが良くも悪くも高い フィクションにおける貴族系キャラの一覧(善悪問わず) マリク (ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣) クレーベ 、フェルナン(ファイアーエムブレム Echoes もうひとりの英雄王) ロイ 、リリーナ (ファイアーエムブレム 封印の剣) エリウッド 、ヘクトル 、リン (ファイアーエムブレム 烈火の剣) オリヴァー(ファイアーエムブレム 蒼炎の軌跡) ヴィオール、マリアベル( ファイアーエムブレム 覚醒) フェルディナント=フォン=エーギル(ファイアーエムブレム 風花雪月) ザビ家(機動戦士ガンダム) ロナ家(機動戦士ガンダムF91) ピースクラフト家(新機動戦記ガンダムW) ソレル家・ハイム家・ラインフォード家・ボルジャーノ家・ギンガナム家(∀ガンダム) セブンスターズ(機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ) ミカエル・アウスバッハ・フォン・ロアーヌ、モニカ・アウスバッハ(ロマンシング サ・ガ3) シャルル・ド・フランソワ・バー・パンタ・ジャンヌ・ピエール・デ・オンディーヌ(ワンナイR R) 帝国サイドの将軍・提督クラスほぼ全て(銀河英雄伝説) 烏丸少将文麿(柳生一族の陰謀) 朽木白哉(BLEACH) シエル・ファントムハイヴ、エリザベス・ミッドフォード(黒執事) 一条三位(麻呂)(水戸黄門) プリンス・ハイネル(超電磁マシーン ボルテスV) 円卓の騎士(アーサー王伝説など) 世界貴族(ONE PIECE) ベリーニ伯・ウォーレン卿(王様の仕立て屋) 乃木家(結城友奈は勇者である) ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール(ゼロの使い魔) レディ・ペネロープ(サンダーバード) デューク(パウ・パトロール 大空のミッション・パウ ロイヤルストーンをとりもどせ!) ソレッタ・織姫(サクラ大戦2) 北大路花火、グリシーヌ・ブルーメール(サクラ大戦3) 男爵ディーノ(魁!!男塾) ドゥークー伯爵、ザナトス、ウィルハフ・ターキン(STAR WARSシリーズ(映画)) 追記・修正お願いします庶民ども~! 友達になってください庶民ども~! チンパンジーの脳みそ以下の庶民どもぉぉぉ~! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 コメントログ ↑ヘヴィーオブジェクトでそんな話があったな…。主人公の父親が近所の貴族が没落した時匿って助け、助けられた方は新しい身元で再出発したっていう。 -- 名無しさん (2018-05-26 14 34 51) おじゃる丸もそういや貴族キャラだった -- 名無しさん (2018-05-28 10 18 25) ↑3 そう言えば聞いたことがある。家庭教師は上流階級としての体面を保ちながら現金収入を得ることができる数少ない仕事の一つとか。 -- 名無しさん (2018-09-28 12 06 31) ↑あとは弁護士だったかな?収入が「謝礼」という形式を取るので面子を保てるんだそうな -- 名無しさん (2018-10-04 13 00 30) ↑12 古代ローマ。そもそもギリシャ諸都市は「両親がともに市民権所持者でなければ子供に市民権は与えない」とかやってたし -- 名無しさん (2018-10-04 13 59 41) 特徴・選民思想と言えば「家畜に神はいないッ!」 -- 名無しさん (2019-04-27 10 41 12) どっちにしろ身分を金銭で売り買いするのはまずいよな -- 名無しさん (2019-08-20 17 05 07) 名前忘れたけどTRPGで一見横暴貴族に見せかけて、行き場のないキャラ達を保護する立場をとってた貴族が凄く上手かったな。身分を大事にしつつやるべきことをやる有能さが表現されてた。 -- 名無しさん (2019-11-01 08 33 01) 現代で貴族の家に生まれながら合わなかったので日本に来た方がEテレ出ておりましてな・・・。彼女の話聞いてるとあの息苦しさはやってけんわーと思う。 -- 名無しさん (2020-01-24 11 00 59) 江戸時代~昭和初期の公家及びその流れを汲む華族は気位の高い貧乏貴族設定がむしろ定番のような。お家のために成金に嫁ぐけど旦那を見下しているので夫婦仲はよくないのも定番。 -- 名無しさん (2020-09-12 15 10 12) 結局、こういった貴族制度は実質廃れないんだろうなぁ......生まれがすべてを決めるシステムが廃れない以上 -- 名無しさん (2020-12-25 21 57 53) 世界はわからんけど、今の日本だと上級国民や政治家が貴族かね。 生まれから強い力を持っていると人間性が育たないのかね -- 名無しさん (2021-03-08 21 59 48) ↑ 金で買えないものなどない~って貴族キャラは言うイメージだけど、人間性と品性は金では買えないものの一つだと思う -- 名無しさん (2021-03-31 18 10 47) 知っているつもりだったが韓国の項目で心底いやな気分になった。「知れば知るほど嫌いになる国」って本当だったんだなぁ…と同時にどんな魔法使ったら、両班が継続している状態で近代まで国家を存続させられるんだ? 全く想像できん -- 名無しさん (2021-07-03 23 37 34) ローマの貴族ってパトリキとエクイテスどっちだよ -- 名無しさん (2021-11-21 00 37 32) 韓国時代劇では王様が良い政治をしようと試みたら列を組んで邪魔しに来る連中って、国内でもそういう扱いだから -- 名無しさん (2023-01-03 20 40 09) 韓国の歴史ドラマ「チャングムの誓い」では、王様のこと尊敬している素振りをしている一方で言うことなすこと一切耳を貸さず、自分の提言に対してYESと言うまで仲間たちで囲って「デモデモ、ダッテ」と言って一切動こうとしないというとんでもない害悪貴族たちがいたな。王様も大変だと思った -- 名無しさん (2023-03-01 20 28 57) いや、まあ、あれが普通だよ。近代人は国家や政府に正当性があるから従うべきだと思うから違和感があるけど、日本の江戸時代なんかも実は藩主と家老(要は藩内貴族階級)で結構ああいうバトルをやってるし、藩主が突如病気で引退したりする時というのはまあ(なので藩主は身分が下のやつを幼少期から鍛えて子飼いにしたりする) -- 名無しさん (2023-03-26 12 57 34) ↑韓国では、王様のために、自分の政敵である王様の親戚を勝手に殺そうとしたり、目論見が外れると親戚の恋人を指名手配しようとするのが、普通なのか?なお王様は人攫いに見せかけて親戚の恋人を遠くに連れ去るという最大限の配慮をしてくれた -- 名無しさん (2023-03-26 13 12 00) ログ化を提案します。 -- 名無しさん (2023-07-19 09 41 24) ログ化しました。 -- (名無しさん) 2023-07-26 14 10 30 序盤の貴族の必要性の項に書いてある事って「貴族制出現の成り立ち」じゃなく「君主制出現の成り立ち」になってない?貴族と君主は似て非なる物で近代以前は君主制と貴族制はむしろ対立しがちな概念だったのに -- (名無しさん) 2023-07-26 22 39 03 形だけだが、シーランド公国は爵位の販売をしているよ。男爵だけだと思われるけど大体日本円にして10000円位で買えるらしい。あくまで爵位の証明書をもらえるってだけだから、本当の貴族とは違うんだけど -- (名無しさん) 2023-07-27 05 31 07 日本について「朝廷の軍事貴族たる『武家』」について単語一つすら書かれてないのが気になるな。「貴族が武力を手放した」と言うよりかは「貴族が政治学問担当(公家)と武門担当(武家)に分化した」と言うべきか -- (名無しさん) 2023-08-18 18 30 05 「武力の外注」という他の国の貴族にはまず見られない現象である。前述のような貴族の成り立ちを考えるとある意味当然だが。 ←この一文、何が当然なのかよく分からないので解説プリーズ -- (名無しさん) 2024-04-16 01 21 54 現代の学説では日本の中世(室町時代まで)は武家の一極支配でなく、朝廷の権力もまだ残されていたというのが言われているから、当然貴族もお飾りでなく、仕事もあったよ。 -- ( ) 2024-07-14 18 13 49 朝鮮半島の貴族がリアル天竜人だと思った自分はおかしいのかな? -- (名無しさん) 2024-08-26 09 02 22 スイスの傭兵は大変だ -- (名無しさん) 2024-09-03 08 05 43 創作物の貴族は立場に胡坐をかいて他者を見下し圧する極悪人として描かれるのが一般的になってるが、そんな連中が罰されて平民どころか犯罪者に惨めに落ちぶれ社会的にも物理的にも人生が終わらされるカタルシスがあるからこそ、昨今の悪徳貴族が敵の作品は流行るのだろうな -- (名無しさん) 2024-09-03 10 25 26 烏丸少将がいて吹いた -- (名無しさん) 2024-09-11 22 45 56 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/go-syuin/pages/15.html
浅草名所七福神(1社、1寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺社名称 鎮座地・所在地 拝受日 備考 大黒天 聖観音宗 浅草寺 台東区浅草2-3-1 平成30年2月11日 東京三十三観音霊場第31番札所江戸三十三観音霊場第1番札所坂東三十三観音霊場第13番札所大東京百観音特番札所 恵比寿神 神社本庁 浅草神社 台東区浅草2-3-1 平成30年2月11日 新宿山ノ手七福神(2寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺院名称 所在地 拝受日 備考 布袋尊 浄土宗 太宗寺 新宿区新宿2-9-2 平成30年5月1日 江戸六地蔵第3番札所 大黒天 日蓮宗 経王寺 新宿区原町1-14 平成30年9月27日 深川七福神(2社拝受済) 七福神名 神社名称 鎮座地 拝受日 備考 寿老神 深川神明宮 江東区森下1-3-17 平成30年3月25日 大黒神 富岡八幡宮 江東区富岡1-20-3 平成30年11月22日 東海七福神(1社拝受済) 七福神名 神社名称 鎮座地 拝受日 備考 福禄寿 天祖諏訪神社 品川区南大井1-4-1 平成30年6月17日 元祖山手七福神(2寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺院名称 所在地 拝受日 備考 布袋尊 黄檗宗 瑞聖寺 港区白金台3-2-19 平成30年6月17日 大東京百観音霊場第6番札所 寿老人 天台宗 瀧泉寺 目黒区下目黒3-20-26 平成30年11月13日 通称 目黒不動江戸五色不動黒色札所関東三十六不動第18番札所江戸三十三観音第33番札所東京三十三観音第3番札所 雑司が谷七福神(1社、1寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺社名称 鎮座地・所在地 拝受日 備考 恵比寿神 神社本庁 雑司が谷大鳥神社 豊島区雑司が谷3-20-14 平成30年11月6日 大黒天 日蓮宗 鬼子母神堂 豊島区雑司が谷3-15-20 平成30年11月6日 港七福神(1社拝受済) 七福神名 神社名称 鎮座地 拝受日 備考 宝船 十番稲荷神社 港区麻布十番1-4-6 平成30年11月13日 東京下町八社福参り(5社拝受済) 御神徳 神社名称 鎮座地 拝受日 備考 交通安全 住吉神社 中央区佃1-1−14 平成30年11月22日 強運厄除 小網神社 中央区日本橋小網町16-23 平成30年5月17日 安産子授け 水天宮 中央区日本橋蛎殻町2-4−1 平成30年4月2日 健康長寿 第六天榊神社 台東区蔵前1-4-3 平成30年5月13日 円満融和 下谷神社 台東区東上野3-29-8 平成30年11月29日 松戸七福神(4寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺院名称 所在地 拝受日 備考 布袋尊 真言宗豊山派 善照寺 松戸市松戸1857-1 平成30年3月2日 下総三十三観音霊場第19番札所東三十三観音霊場第13番札所下総四郡八十八霊場第52番札所 大黒天 真言宗豊山派 宝蔵院 松戸市上矢切1197 平成30年3月2日 下総四郡八十八霊場第62番札所 福禄寿 真言宗豊山派 円能寺 松戸市千駄堀735 平成30年3月6日 寿老人 真言宗豊山派 徳蔵院 松戸市日暮5-270 平成31年1月7日 下総四郡八十八霊場第47番札所 松戸史跡七福神(2寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺院名称 所在地 拝受日 備考 寿老人 曹洞宗 慶林寺 松戸市殿平賀209-2 平成30年11月15日 福禄寿 日蓮宗 常真寺 松戸市大谷口18 平成30年11月15日 武蔵野七福神(1寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺院名称 所在地 拝受日 備考 布袋尊 真言宗豊山派 金乗院 所沢市上山口2203 平成30年4月14日 武蔵野三十三観音霊場第13番札所狭山三十三観音霊場第1番札所奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第52番札所奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第65番札所奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第67番札所奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第77番札所奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第79番札所 なごや七福神(2寺拝受済) 七福神名 宗教法人名 寺院名称 所在地 拝受日 備考 寿老人 高野山真言宗 興正寺 名古屋市昭和区八事本町78 平成30年4月4日 知多四国八十八ヶ所霊場第88番札所名古屋二十一大師霊場第21番札所東海三十六不動尊霊場第36番札所尾張三十三観音霊場33番札所東海百観音霊場第33番札所大名古屋十二支霊場第4番卯年札所 布袋尊 真言宗智山派 大須観音 名古屋市中区大須2-21-47 平成30年4月4日 尾張三十三観音第1番札所東海三十六不動尊霊場第10番札所尾張八十八か所第21番札所名古屋二十一大師霊場第1番札所 東京福めぐり(7社拝受済) 【七福神ではないものの、開運を目的とした巡礼であるため、この項に分類】 神社名称 鎮座地 拝受日 備考 戸越八幡神社 品川区戸越2-6-23 平成30年6月27日 高輪神社 港区高輪2-14-18 平成30年4月15日 烏森神社 港区新橋2-15-5 平成30年3月25日 波除稲荷神社 中央区築地6-20-37 平成30年11月13日 福徳神社 中央区日本橋室町2-4-14 平成30年9月14日 鳥越神社 台東区鳥越2-4-1 平成30年5月3日 浅草神社 台東区浅草2-3-1 平成30年2月11日
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/127.html
資治通鑑巻第二十四 漢紀十六 孝昭皇帝下 元平元年(丁未、前七四) 1春,二月,詔減口賦錢什三。 1. 春、二月、詔があり、口賦銭を三割減らした。 2夏,四月,癸來,帝崩於未央宮;無嗣。時武帝子獨有廣陵王胥,大將軍光與羣臣議所立,咸持廣陵王。王本以行失道,先帝所不用;光内不自安。朗有上書言:「周太王廢太伯立王季,文王捨伯邑考立武王,唯在所宜,雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗嗣。」言合光意。光以其書示丞相敞等,擢郎爲九江太守。即日承皇后詔,遣行大鴻臚事少府樂成、宗正德、光祿大夫吉、中郎將利漢,迎昌邑王賀,乘七乘傳詣長安邸。光又白皇后,徒右將軍安世爲車騎將軍。 賀,昌邑哀王之子也,在國素狂縱,動作無節。武帝之喪,賀遊獵不止。嘗遊方與,不半日馳二百里。中尉琅邪王吉上疏諫曰:「大王不好書術而樂逸游,馮式撙街,馳騁不止,口倦虖叱吒,手苦於棰轡,身勞虖車輿,朝則冒霧露,晝則被塵埃,夏則爲大暑之所暴炙,冬則爲風寒之所匽薄,數以耎脆之玉體犯勤勞之煩毒,非所以全壽命之宗也,又非所以進仁義之隆也。夫廣廈之下,細旃之上,明師居前,勤誦在後,上論唐、虞之際,下及殷、周之盛,考仁聖之風,習治國之道,欣欣焉發憤忘食,日新厥德,其樂豈街橛之間哉!休則俛仰屈伸以利形,進退歩趨以實下,吸新吐故以練臧,專意積精以適神,於以養生,豈不長哉!大王誠留意如此,則心有堯、舜之志,體有喬、松之壽,美聲廣譽,登而上聞,則福祿其臻而社稷安矣。皇帝仁聖,至今思慕未怠,於宮館、囿池、戈獵之樂未有所幸,大王宜夙夜念此以承聖意。諸侯骨肉,莫親大王,大王於屬則子也,於位則臣也,一身而二任之責加焉。恩愛行義,纖介有不具者,於以上聞,非饗國之福也。」王乃下令曰:「寡人造行不能無惰,中尉其忠,數輔吾過。」使謁者千秋賜中尉牛肉五百斤,酒五石,脯五束。其後復放縱自若。 郎中令山陽龔遂,忠厚剛毅,有大節,内諫爭於王,外責傅相,引經義,陳禍福,至於涕泣,蹇蹇亡已,面刺王過。王至掩耳起走,曰:「郎中令善愧人!」王嘗久與騶奴、宰人遊戲飲食,賞賜無度,遂入見王,涕泣膝行,左右侍御皆出涕。王曰:「郎中令何爲哭?」遂曰:「臣痛社稷危也!願賜清閒,竭愚!」王辟左右。遂曰:「大王知膠西王所以爲無道亡乎?」王曰:「不知也。」曰:「臣聞膠西王有諛臣侯得,王所爲似於桀、紂也,得以爲堯、舜也。王説其諂諛,常與寢處,唯得所言,以至於是。今大王親近羣小,漸漬邪惡所習,存亡之機,不可不愼也!臣請選郎通經有行義者與王起成,坐則誦詩、書,立則習禮容,宜有益。」王許之。遂乃選郎中張安等十人侍王。居數日,王皆逐去安等。 王嘗見大白犬,頸以下似人,冠方山冠而無尾,以問龔遂,遂曰:「此天戒,言在側者盡冠狗也,去之則存,不去則亡矣。」後又聞人聲曰:「熊!」視而見大熊,左右莫見,以問遂,遂曰:「熊,山野之獸,而來之宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」王仰天而歎曰:「不祥何爲數來!」遂叩頭曰:「臣不敢隱忠,數言危亡之戒;大王不説。夫國之存亡,豈在臣言哉!願王内自揆度。大王誦詩三百五篇,人事浹,王道備。王之所行,中詩一篇何等也?大王位於諸侯王,行汚於庶人,以存難,以亡易,宜深察之!」後又血汚王坐席,王問遂;遂叫然號曰:「宮空不久,妖祥數至。血者,陰憂象也,宜畏愼自省!」王終不改節。 及徴書至,夜漏未盡一刻,以火發書。其日中,王發;晡時,至定陶,行百三十五里,侍從者馬死相望於道。王吉奏書戒王曰:「臣聞高宗諒闇,三年不言。今大王以喪事征,宜日夜哭泣悲哀而已,愼毋有所發!大將軍仁愛、勇智、忠信之德,天下莫不聞;事孝武皇帝二十餘年,未嘗有過。先帝棄羣臣,屬以天下,寄幼孤焉。大將軍抱持幼君襁褓之中,布政施教,海内晏然,雖周公、伊尹無以加也。今帝崩無嗣,大將軍惟思可以奉宗廟者,攀援而立大王,其仁厚豈有量哉!臣願大王事之,敬之,政事壹聽之,大王垂拱南面而已。願留意,常以爲念!」 王至濟陽,求長鳴雞,道買積竹杖。過弘農,使大奴善以衣車載女子。至湖,使者以讓相安樂。安樂告龔遂,遂入問王,王曰:「無有。」遂曰:「即無有,何愛一善以毀行義!請收屬吏,以湔灑大王。」即捽善屬衞士長行法。 王到霸上,大鴻臚郊迎,騶奉乘輿車。王使壽成御,郎中令遂參乘。且至廣明、東都門,遂曰:「禮,奔喪望見國都哭。此長安東郭門也。」王曰:「我嗌痛,不能哭。」至城門,遂復言,王曰:「城門與郭門等耳。」且至未央宮東闕,遂曰:「昌邑帳在是闕外馳道北,未至帳所,有南北行道,馬足未至數歩;大王宜下車,郷闕西面伏哭,盡哀止。」王曰:「諾。」到,哭如儀。六月,丙寅,王受皇帝璽綬,襲尊號,尊皇后曰皇太后。 2. 3壬申,葬孝昭皇帝於平陵。 3. 4昌邑王既立,淫戲無度。昌邑官屬皆征至長安,往往超擢拜官。相安樂遷長樂衞尉。龔遂見安樂,流涕謂曰:「王立爲天子,日益驕溢,諫之不復聽。今哀痛未盡,日與近臣飲酒作樂,斗虎豹,召皮軒車九旒,驅馳東西,所爲悖道。古制寬,大臣有隱退;今去不得,陽狂恐知,身死爲世戮,奈何?君,陛下故相,宜極諫爭。」 王夢靑蠅之矢積西階東,可五六石,以屋版瓦覆之,以問遂,遂曰:「陛下之詩不云乎:『營營靑蠅,止於籓。愷悌君子,毋信讒言。』陛下左側讒人衆多,如是靑蠅惡矣。宜進先帝大臣子孫,親近以爲左右。如不忍昌邑故人,信用讒諛,必有凶咎。願詭禍爲福,皆放逐之!臣當先逐矣。」王不聽。太僕丞河東張敞上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣猶懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾耳,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 太僕丞河東張敝上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣憂懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾年,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 大將軍光憂懣,獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰:「將軍爲國柱石,審此人不可,何不建白太后,更選賢而立之!」光曰:「今欲如是,於古嘗有此不?」延年曰:「伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。將軍若能行此,亦漢之伊尹也。」光乃引延年給事中,陰與車騎將軍張安世圖計。 王出遊,光祿大夫魯國夏侯勝當乘輿前諫曰:「天久陰而不雨,臣下有謀上者。陛下出,欲何之?」王怒,謂勝爲示夭言,縛以屬吏。吏白霍光,光不舉法。光讓安世,以爲洩語。安世實不言;乃召問勝。勝對言:「在鴻範傳曰:『皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上者。』惡察察言,故云『臣下有謀』。」光、安世大驚,以此益重經術士。侍中傅嘉數進諫,王亦縛嘉繋獄。 光、安世既定議,乃使田延年報丞相楊敞。敞驚懼,不知所言,汗出洽背,徒唯唯而已。延年起,至更衣,敞夫人遽從東廂謂敞曰:「此國大事,今大將軍議已定,使九卿來報君侯,君侯不疾應,與大將軍同心,猶與無決,先事誅矣!」延年從更衣還,敞夫人與延年參語許諾:「請奉大將軍教令!」 癸巳,光召丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士會議未央宮。光曰:「昌邑王行昏亂,恐危社稷,如何?」羣臣皆驚鄂失色,莫敢發言,但唯唯而已。田延年前,離席按劍曰:「先帝屬將軍以幼孤,寄將軍以天下,以將軍忠賢,能安劉氏也。今羣下鼎沸,社稷將傾;且漢之傳謚常爲『孝』者,以長有天下,令宗廟血食也。如漢家絶祀,將軍雖死,何面目見先帝於地下乎?今日之議,不得旋踵,羣臣後應者,臣請斂斬之!」光謝曰:「九卿責光是也!天下匈匈不安,光當受難。」於是議者皆叩頭曰:「萬姓之命,在於將軍,唯大將軍令!」 光即與羣臣倶見,白太后,具陳昌邑王不可以承宗廟状。皇太后乃車駕幸未央承明殿,詔諸禁門毋内昌邑羣臣。王入朝太后還,乘輦欲歸温室。中黄門宦者各持門扇,王入,門閉,昌邑羣臣不得入。王曰:「何爲?」大將軍跪曰:「有皇太后詔,毋内昌邑羣臣!」王曰:「徐之,何乃驚人如是!」光使盡驅出昌邑羣臣,置金馬門外。車騎將軍安世將羽林騎,收縛二百餘人,皆送廷尉詔獄。令故昭帝侍中中臣侍守王。光敕左右:「謹宿衞!卒有物故自裁,令我負天下,有殺主名。」王尚未自知當廢,謂左右:「我故羣臣從官安得罪,而大將軍盡繋之乎!」 頃之,有太后詔召王。王聞召,意恐,乃曰:「我安得罪而召我哉!」太后被珠襦,盛服坐武帳中,侍御數百人皆持兵,期門武士陛戟陳列殿下,羣臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。光與羣臣連名奏王,尚書令讀奏曰:「丞相臣敞等昧死言皇太后陛下:孝昭皇帝早棄天下,遣使征昌邑王典喪,服斬衰,無悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,使從官略女子載衣車,内所居傳捨。始至謁見,立爲皇太子,常私買雞豚以食。受皇帝信璽、行璽大行前,就次,發璽不封。從官更持節引内昌邑從官、騶宰、官奴二百餘人,常與居禁闥内敖戲。爲書曰:『皇帝問侍中君卿:使中御府令高昌奉黄金千斤,賜君卿取十妻。』大行在前殿,發樂府樂器,引内昌邑樂人撃鼓,歌吹,作俳倡;召内泰壹、宗廟樂人,悉奏衆樂。駕法駕驅馳北宮、桂宮,弄彘,斗虎。召皇太后御小馬車,使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令:『敢洩言,要斬!』……」太后曰:「止!爲人臣子,當悖亂如是邪!」王離席伏。尚書令復讀曰:「……取諸侯王、列侯、二千石綬及墨綬、黄綬以並佩昌邑郎官者免奴。發御府金錢、刀劍、玉器、采繒,賞賜所與遊戲者。與從官、官奴夜飲,湛沔於酒。獨夜設九賓温室,延見姊夫昌邑關内侯。祖宗廟祠未舉,爲璽書,使使者持節以三太牢祠昌邑哀王園廟,稱『嗣子皇帝』。受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署征發凡一千一百二十七事。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,日以益甚。恐危社稷,天下不安。臣敞等謹與博士議,皆曰:『今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。「五辟之屬,莫大不孝。」周襄王不能事母,春秋曰:「天王出居於鄭,」由不孝出之,絶之於天下也。宗廟重於君,陛下不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢!』臣請有司以一太牢具告祠高廟。」皇太后詔曰:「可。」光令王起,拜受詔,王曰:「聞『天下有爭臣七人,雖亡道不失天下。』」光曰:「皇太后詔廢,安得稱天子!」乃即持其手,解脱其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,羣臣隨送。王西面拜曰:「愚戇,不任漢事!」起,就乘輿副車,大將軍光送至昌邑邸。光謝曰:「王行自絶於天,臣寧負王,不敢負社稷!願王自愛,臣長不復左右。」光涕泣而去。 羣臣奏言:「古者廢放之人,屏於遠方,不及以政。請徒王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戸,故王家財物皆與賀;及哀王女四人,各賜湯沐邑千戸;國除,爲山陽郡。 昌邑羣臣坐在國時不舉奏王罪過,令漢朝不聞知,又不能輔道,陷王大惡,皆下獄,誅殺二百餘人。唯中尉吉、郎中令遂以忠直數諫正,得減死,髡爲城旦。師王式繋獄當死,治事使者責問曰:「師何以無諫書?」式對曰:「臣以詩三百五篇朝夕授王,至於忠臣、孝子之篇,未嘗不爲王反覆誦之也。至於危亡失道之君,未嘗不流涕爲王深陳之也。臣以三百五篇諫,是以無諫書。」使者以聞,亦得減死論。 霍光以羣臣奏事東宮,太后省政,宜知經術,白令夏侯勝用尚書授太后,遷勝長信少府,賜爵關内侯。 4. 5初,衞太子納魯國史良娣,生子進,號史皇孫。皇孫納涿郡王夫人,生子病已,號皇曾孫。皇曾孫生數月,遭巫蠱事,太子三男、一女及諸妻、妾皆遇害,獨皇曾孫在,亦坐收繋郡邸獄。故廷尉監魯國丙吉受詔治巫蠱獄,吉心知太子無事實,重哀皇曾孫無辜,擇謹厚女徒謂城胡組、淮陽郭征卿,令乳養曾孫,置閒燥處。吉日再省視。 巫蠱事連歳不決,武帝疾,來往長楊、五柞宮,望氣者言長安獄中有天子氣,於是武帝遣使者分條中都官,詔獄繋者,無輕重,一切皆殺之。内謁者令郭穰夜到郡邸獄,吉閉門拒使者不納,曰:「皇曾孫在。他人無辜死者猶不可,況親曾孫乎!」相守至天明,不得入。穰還,以聞,因劾奏吉。武帝亦寤,曰:「天使之也。」因赦天下。郡邸獄繋者,獨賴吉得生。 既而吉謂守丞誰如:「皇孫不當在官。」使誰如移書京兆尹,遣與胡組倶送;京兆尹不受,復還。及組日滿當去,皇孫思慕,吉以私錢雇組令留,與郭征卿並養,養月,乃遣組去。後少内嗇夫白吉曰:「食皇孫無詔令。」時吉得食米、肉,月月以給皇曾孫。曾孫病,幾不全者數焉,吉數敕保養乳母加致醫藥,視遇甚有恩惠。吉聞史良娣有母貞君及兄恭,乃載皇曾孫以付之。貞君年老,見孫孤,甚哀之,自養視焉。 後有詔掖庭養視,上屬籍宗正。時掖庭令張賀,嘗事戻太子,思顧舊恩,哀曾孫,奉養甚謹,以私錢供給,教書。既壯,賀欲以女孫妻之。是時昭帝始冠,長八尺二寸。賀弟安世爲右將軍,輔政,聞賀稱譽皇曾孫,欲妻以女,怒曰:「曾孫乃衞太子後也,幸得以庶人衣食縣官足矣,勿復言予女事!」於是賀止。時暴室嗇夫許廣漢有女,賀乃置酒請廣漢,酒酣,爲言:「曾孫體近,下乃關内侯,可妻也。」廣漢許諾。明日,嫗聞之,怒。廣漢重令人爲介,遂與曾孫。賀以家財聘之。曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏,受詩於東海澓中翁,高材好學;然亦喜遊俠,鬥雞走狗,以是倶知閭里姦邪,吏治得失。數上下諸陵,周遍三輔,嘗困於蓮勺鹵中,尤樂杜、鄠之間,率常在下杜。時會朝請,捨長安尚冠里。 及昌邑王廢,霍光與張安世諸大臣議所立,未定。丙吉奏記光曰:「將軍事孝武皇帝,受襁褓之屬,任天下之寄。孝昭皇帝早崩亡嗣,海内憂懼,欲亟聞嗣主。發喪之日,以大誼立後,所立非其人,復以大誼廢之;天下莫不服焉。方今社稷、宗廟、羣生之命在將軍之壹舉,竊伏聽於衆庶,察其所言諸侯、宗室在列位者,未有所聞於民間也。而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭、外家者,吉前使居郡邸時,見其幼少;至今十八九矣,通經術,有美材,行安而節和。願將軍詳大義,參以蓍龜豈宜,褒顯先使入侍,令天下昭然知之,然後決定大策,天下幸甚!」杜延年亦知曾孫德美,勸光、安世立焉。 秋,七月,光坐庭中,會丞相以下議定所立,遂復與丞相敞等上奏曰:「孝武皇帝曾孫病已,年十八,師受詩、論語、孝經,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞!」皇太后詔曰:「可。」光遣宗正德至曾孫家尚冠里,洗沐,賜御衣;太僕以軨獵車迎曾孫,就齋宗正府。庚申,入未央宮,見皇太后,封爲陽武侯。已而羣臣奏上璽綬,即皇帝位,謁高廟;尊皇太后爲太皇太后。 侍御史嚴延年劾奏「大將軍光擅廢立主,無人臣禮,不道。」奏雖寢,然朝廷肅然敬憚之。 5. 6八月,己巳,安平敬侯楊敞薨。 6. 7九月,大赦天下。 7. 8戊寅,蔡義爲丞相。 8. 9初,許廣漢女適皇曾孫,一歳,生子奭。數月,曾孫立爲帝,許氏爲婕妤。是時霍將軍有小女與皇太后親,公卿議更立皇后,皆心擬霍將軍女,亦未有言。上乃詔求微時故劍。大臣知指,白立許婕妤爲皇后。十一月,壬子,立皇后許氏。霍光以後父廣漢刑人,不宜君國;歳餘,乃封爲昌成君。 9. 10太皇太后歸長樂宮。長樂宮初置屯衞。 10. 中宗孝宣皇帝上之上 本始元年(戊申、前七三) 1春,詔有司論定策安宗廟功。大將軍光益封萬七千戸,與故所食凡二萬戸。車騎將軍富平侯安世以下益封者十人,封侯者五人,賜爵關内侯者八人。 1. 2大將軍光稽首歸政,上謙讓不受;諸事皆先關白光,然後奏御。自昭帝時,光子禹及兄孫雲皆爲中郎將,雲弟山奉車都尉、侍中、領胡、越兵,光兩女婿爲東、西宮衞尉,昆弟、諸婿、外孫皆奉朝請,爲諸曹、大夫、騎都尉、給事中,黨親連體,根據於朝廷。及昌邑王廢,光權益重,毎朝見,上虚己斂容,禮下之已甚。 2. 3夏,四月,庚午,地震。 3. 4五月,鳳皇集膠東、千乘。赦天下,勿收田租賦。 4. 5六月,詔曰:「故皇太子在湖,未有號謚,歳時祠;其議謚,置園邑。」有司奏請:「禮,爲人後者,爲之子也;故降其父母,不得祭,尊祖之義也。陛下爲孝昭帝后,承祖宗之祀,愚以爲親謚宜曰悼,母曰悼後;故皇太子謚曰戻,史良娣曰戻夫人。」皆改葬焉。 5. 6秋,七月,詔立燕刺王太子建爲廣陽王;立廣陵王胥少子弘爲高密王。 6. 7初,上官桀與霍光爭權,光既誅桀,遂遵武帝法度,以刑罰痛繩羣下,由是俗吏皆尚嚴酷以爲能;而河南太守丞淮陽黄霸獨用寬和爲名。上在民間時,知百姓苦吏急也,聞霸持法平,乃召以爲廷尉正;數決疑獄,庭中稱平。 7. 二年(己酉、前七二) 1春,大司農田延年有罪自殺。昭帝之喪,大司農僦民車,延年詐增僦直,盜取錢三千萬,爲怨家所告。霍將軍召問延年,欲爲道地。延年抵曰:「無有是事!」光曰:「即無事,當窮竟!」御史大夫田廣明謂太僕杜延年曰:「春秋之義,以功覆過。當廢昌邑王時,非田子賓之言,大事不成。今縣官出三千萬自乞之,何哉?願以愚言白大將軍。」延年言之大將軍,大將軍曰:「誠然,實勇士也!當發大議時,震動朝廷,」光因舉手自撫心曰:「使我至今病悸。謝田大夫曉大司農,通往就獄,得公議之。」田大夫使人語延年。延年曰:「幸縣官寬我耳,何面目入牢獄,使衆人指笑我,卒徒唾吾背乎?」即閉閣獨居齋舍,偏袒,持刀東西歩。數日,使者召延年詣廷尉。聞鼓聲,自刎死。 1. 2夏,五月,詔曰:「孝武皇帝躬仁誼,勵威武,功德茂盛,而廟樂未稱,聯甚悼焉。其與列侯、二千石、博士議。」於是羣臣大議庭中,皆曰:「宜如詔書。」長信少府夏侯勝獨曰:「武帝雖有攘四夷、廣土境之功,然多殺士衆,竭民財力,奢泰無度,天下虚耗,百姓流離,物故者半,蝗蟲大起,赤地數千里,或人民相食,畜積至今未復;無德澤於民,不宜爲立廟樂。」公卿共難勝曰:「此詔書也。」勝曰:「詔書不可用也。人臣之誼,宜直言正論,非苟阿意順指。議已出口,雖死不悔!」於是丞相、御史劾奏勝非議詔書,毀先帝,不道;及丞相長史黄霸阿縱勝,不舉劾;倶下獄。有司遂請尊孝武帝廟爲世宗廟,奏盛德、文始五行之舞。武帝巡狩所幸郡國皆立廟,如高祖、太宗焉。夏侯勝、黄霸既久繋,霸欲從勝受尚書,勝辭以罪死。霸曰:「朝聞道,夕死可矣。」勝賢其言,遂授之。繋再更冬,講論不怠。 2. 3初,烏孫公主死,漢復以楚王戊之孫解憂爲公主,妻岑娶。岑娶胡婦子泥靡尚小,岑娶且死,以國與季父大祿子翁歸靡,曰:「泥靡大,以國歸之。」翁歸靡既立,號肥王,復尚楚主,生三男、兩女。長男曰元貴靡,次曰萬年,次曰大樂。昭帝時,公主上書言:「匈奴與車師共侵烏孫,唯天子幸救之。」漢養士馬,議撃匈奴。會昭帝崩,上遣光祿大夫常惠使烏孫。烏孫公主及昆彌皆遣使上書,言:「匈奴復連發大兵,侵撃烏孫。使使謂烏孫『趣持公主來!』欲隔絶漢。昆彌願發國精兵五萬騎,盡力撃匈奴。唯天子出兵以救公主、昆彌!」先是匈奴數侵漢邊,漢亦欲討之。秋,大發兵,遣御史大夫田廣明爲祁連將軍,四萬餘騎,出西河;度遼將軍范明友三萬餘騎,出張掖;前將軍韓增三萬餘騎,出雲中;後將軍趙充國爲蒲類將軍,三萬餘騎,出酒泉;雲中太守田順爲虎牙將軍,三萬餘騎,出五原;期以出塞各二千餘里。以常惠爲校尉,持節護烏孫兵共撃匈奴。 3. 三年(庚戌、前七一) 1春,正月,癸亥,恭哀許皇后崩。時霍光夫人顯欲貴其小女成君,道無從。會許后當娠,病,女醫淳於衍者,霍氏所愛,嘗入宮侍皇后疾。衍夫賞爲掖庭戸衞,謂衍:「可過辭霍夫人,行爲我求安池監。」衍如言報顯,顯因生心,辟左右,謂衍曰:「少夫幸報我以事,我亦欲報少夫,可乎?」衍曰:「夫人所言,何等不可者!」顯曰:「將軍素愛小女成君,欲奇貴之,願以累少夫。」衍曰:「何謂邪?」顯曰:「婦人免乳,大故,十死一生。今皇后當免身,可因投毒藥去也,成君即爲皇后矣。如蒙力,事成,富貴與少夫共之。」衍曰:「藥雜治,當先嘗,安可?」顯曰:「在少夫爲之耳。將軍領天下,誰敢言者!緩急相護,但恐少夫無意耳。」衍良久曰:「願盡力!」即搗附子,繼入長定宮。皇后免身後,衍取附子併合太醫大丸以飲皇后,有頃,曰:「我頭岑岑也,藥中得無有毒?」對曰:「無有。」遂加煩懣,崩。衍出,過見顯,相勞問,亦未敢重謝衍。後人有上書告諸醫侍疾無状者,皆收繋詔獄,劾不道。顯恐急,即以状具語光,因曰:「既失計爲之,無令吏急衍!」光大驚,欲自發舉,不忍,猶與。會奏上,光署衍勿論。顯因勸光内其女入宮。 1. 2戊辰,五將軍發長安。匈奴聞漢兵大出,老弱奔走,驅畜産遠遁逃,是以五將少所得。夏,五月,軍罷。度遼將軍出塞千二百餘里,至蒲離候水,斬首、捕虜七百餘級;前將軍出塞千二百餘里,至烏員,斬首、捕虜百餘級;蒲類將軍出塞千八百餘里,西至候山,斬首、捕虜,得單于使者蒲陰王以下三百餘級。聞虜已引去,皆不至期還。天子薄其過,寬而不罪。祁連將軍出塞千六百里,至雞秩山,斬首、捕虜十九級。逢漢使匈奴還者冉弘等,言雞秩山西有虜衆,祁連即戒弘,使言無虜,欲還兵。御史屬公孫益壽諫,以爲主可。祁連不聽,遂引兵還。虎牙將軍出塞八百餘里,至丹餘吾水上,即止兵不進,斬首、捕虜千九百餘級,引兵還。上以虎牙將軍不至期,詐增鹵獲,而祁連知虜在前,逗遛不進,皆下吏,自殺。擢公孫益壽爲侍御史。 烏孫昆彌自將五萬騎與校尉常惠從西方入,至右谷蠡王庭,獲單于父行及嫂、居次、名王、犁汙都尉、千長、騎將以下四萬級,馬、牛、羊、驢、橐佗七十餘萬頭。烏孫皆自取所虜獲。上以五將皆無功,獨惠奉使克獲,封惠爲長羅侯。然匈奴民衆傷而去者及畜産遠移死亡,不可勝數。於是匈奴遂衰耗,怨烏孫。 上復遣常惠持金幣還賜烏孫貴人有功者。惠因奏請龜茲國嘗殺校尉賴丹,未伏誅,請便道撃之。帝不許。大將軍霍光風惠以便宜從事。惠與吏士五百人倶至烏孫,還,過,發西國兵二萬人,令副使發龜茲東國二萬人,烏孫兵七千人,從三面攻龜茲。兵未合,先遣人責其王以前殺漢使状。王謝曰:「乃我先王時爲貴人姑翼所誤耳,我無罪。」惠曰:「即如此,縛姑翼來,吾置王。」王執姑翼詣惠,惠斬之而還。 2. 3大旱。 3. 4六月,己丑,陽平節侯蔡義薨。 4. 5甲辰,長信少府韋賢爲丞相。 5. 6大司農魏相爲御史大夫。 6. 7冬,匈奴單于自將數萬騎撃烏孫,頗得老弱。欲還,會天大雨雪,一日深丈餘,人民、畜産凍死,還者不能什一。於是丁令乘弱攻其北,烏桓入其東,烏孫撃其西,凡三國所殺數萬級,馬數萬匹,牛羊甚衆;又重以餓死,人民死者什三,畜産什五。匈奴大虚弱,諸國羈屬者皆瓦解,攻盜不能理。其後漢出三千餘騎爲三道,並入匈奴,捕虜得數千人還;匈奴終不敢取當,滋欲郷和親,而邊境少事矣。 7. 8是歳,穎川太守趙廣漢爲京兆尹。穎川俗,豪桀相朋黨。廣漢爲缿筒,受吏民投書,使相告訐,於是更相怨咎,姦黨散落,盜賊不敢發。匈奴降者言匈奴中皆聞廣漢名,由是入爲京兆尹。廣漢遇吏,殷勤甚備,事推功善,歸之於下,行之發於至誠,吏咸願爲用,僵仆無所避。廣漢聰明,皆知其能之所宜,盡力與否;其或負者。輒收捕之,無所逃;案之,罪立具,即時伏辜。尤善爲金句距以得事情,閭里銖兩之姦皆知之。長安少年數人會窮里空捨,謀共劫人;坐語未訖,廣漢使吏捕治,具服。其發姦手適伏如神。京兆政清,吏民稱之不容口。長老傳以爲自漢興,治京兆者莫能及。 8. 四年(辛亥、前七〇) 1春,三月,乙卯,立霍光女爲皇后,赦天下。初,許后起微賤,登至尊日淺,從官車服甚節儉。及霍后立,輿駕、侍從益盛,賞賜官屬以千萬計,與許后時縣絶矣。 1. 2夏,四月,壬寅,郡國四十九同日地震,或山崩,壞城郭、室屋,殺六千餘人。北海、琅邪壞祖宗廟。詔丞相、御史與列侯、中二千石傅問經學之士,有以應變,毋有所諱。令三輔、太常、内郡國賢舉良方正各一人。大赦天下。上素服,避正殿五日。釋夏侯勝、黄霸,以勝爲諫大夫、給事中,霸爲揚州刺史。 勝爲人,質樸守正,簡易無威儀,或時謂上爲君,誤相字於前;上亦以是親信之。嘗見,出道上語,上聞而讓勝,勝曰:「陛下所言善,臣故揚之。堯言佈於天下,至今見誦。臣以爲可傳,故傳耳。」朝廷毎有大議,上知勝素直,謂曰:「先生建正言,無懲前事!」勝復爲長信少府,後遷太子太傅。年九十卒,太后賜錢二百萬,爲勝素服五日,以報師傅之恩。儒者以爲榮。 2. 3五月,鳳皇集北海安丘、淳于。 3. 4廣川王去坐殺其師及姫妾十餘人,或銷鉛錫灌口中,或支解,並毒藥煮之,令糜盡,廢徙上庸;自殺。 4. 地節元年(壬子、前六九) 1春,正月,有星孛于西方。 1. 2楚王延壽以廣陵王胥,武帝子,天下有變,必得立,陰附肋之,爲其後母弟趙何齊取廣陵王女爲妻,因使何齊奉書遺廣陵王曰:「願長耳目,毋後人有天下!」何齊父長年上書告之,事下有司考驗,辭服。冬,十一月,延壽自殺。胥勿治。 2. 3十二月,癸亥晦,日有食之。 3. 4是歳,於定國爲廷尉。定國決疑平法,務在哀鰥寡,罪疑從輕,加審愼之心。朝廷稱之曰:「張釋之爲廷尉,天下無冤民。於定國爲廷尉,民自以不冤。」 4. 二年(癸丑、前六八) 1春,霍光病篤。車駕自臨問,上爲之涕泣。光上書謝恩,願分國邑三千戸以封兄孫奉車都尉山爲列侯,奉兄去病祀。即日,拜光子禹爲右將軍。三月,庚午,光薨。上及皇太后親臨光喪,中二千石治塚,賜梓宮、葬具皆如乘輿制度,謚曰宣成侯。發三河卒穿復土,置園邑三百家,長、丞奉守;下詔復其後世,疇其爵邑,世世無有所與。 御史大夫魏相上封事曰:「國家新失大將軍,宜顯明功臣以填籓國,毋空大位,以塞爭權。宜以車騎將軍安世爲大將軍,毋令領光祿勳事;以其子延壽爲光祿勳。」上亦欲用之。夏,四月,戊申,以安世爲大司馬、車騎將軍,領尚書事。 1. 2鳳皇集魯,羣鳥從之。大赦天下。 2. 3上思報大將軍德,乃封光兄孫山爲樂平侯,使以奉車都尉領尚書事。魏相因昌成君許廣漢奏封事,言:「春秋譏世卿,惡宋三世爲大夫及魯季孫之專權,皆危亂國家。自後元以來,祿去王室,政由塚宰。今光死,子復爲右將軍,兄子秉樞機,昆弟、諸婿據權勢,在兵官,光夫人顯及諸女皆通籍長信宮,或夜詔門出入,驕奢放縱,恐寢不制,宜有以損奪其權,破散陰謀,以固萬世之基,全功臣之世。」又故事:諸上書者皆爲二封,署其一曰「副」,領尚書者先發副封,所言不善,屏去不奏。相復因許伯白去副封以防壅蔽。帝善之,詔相給事中,皆從其議。 3. 4帝興于閭閻,知民事之艱難。霍光既薨,始親政事,厲精爲治,五日一聽事。自丞相以下各奉職奏事,敷奏其言,考試功能。侍中、尚書功勞當遷及有異善,厚加賞賜,至於子孫,終不改易。樞機周密,品式備備,上下相安,莫有苟且之意。及拜刺史、守、相,輒親見問,觀其所由,退而考察所行以質其言,有名實不相應,必知其所必然。常稱曰:「庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者,政平訟理也。與我共此者,其唯良二千石乎!」以爲太守,吏民之本,數變易則下不安;民知其將久,不可欺罔,乃服從其教化。故二千石有治理效,輒以璽書勉厲,增秩,賜金,或爵至關内侯;公卿缺,則選諸所表,以次用之。是以漢世良吏,於是爲盛,稱中興焉。 4. 5匈奴壺衍鞮單于死,弟左賢王立爲虚閭權渠單于,以右大將女爲大閼氏,而黜前單于所幸顓渠閼氏。顓渠閼氏父左大且渠怨望。是時漢以匈奴不能爲邊寇,罷塞外諸城以休百姓。單于聞之,喜,召貴人謀,欲與漢和親。左大且渠心害其事,曰:「前漢使來,兵隨其後。今亦效漢發兵,先使使者入。」乃自請與呼盧訾王各將萬騎,南旁塞獵,相逢倶入。行未到,會三騎亡降漢,言匈奴欲爲寇。於是天子詔發邊騎屯要害處,使大將軍軍監治衆等四人將五千騎,分三隊,出塞各數百里,捕得虜各數十人而還。時匈奴亡其三騎,不敢入,即引去。是歳,匈奴饑,人民、畜産死者什六七,又發兩屯各萬騎以備漢。其秋,匈奴前所得西□辱居左地者,其君長以下數千人皆驅畜産行,與甌脱戰,所殺傷甚衆,遂南降漢。 5.
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/128.html
資治通鑑巻第二十五 漢紀十七 中宗孝宣皇帝上之下 地節三年(甲寅、前六七) 1春,三月,詔曰:「蓋聞有功不賞,有罪不誅,雖唐、虞不能以化天下。今膠東相王成,勞來不怠,流民自佔八萬餘口,治有異等之效。其賜成爵關内侯,秩中二千石。」未及徴用,會病卒官。後詔使丞相、御史問郡、國上計長史、守丞以政令得失。或對言:「前膠東相成偽自增加以蒙顯賞。」是後俗吏多爲虚名云。 1. 2夏,四月,戊申,立子奭爲皇太子,以丙吉爲太傅,太中大夫疏廣爲少傅。封太子外祖父許廣漢爲平恩侯。又封霍光兄孫中郎將雲爲冠陽侯。霍顯聞立太子,怒恚不食,歐血,曰:「此乃民間時子,安得立!即后有子,反爲王邪!」復教皇后令毒太子。皇后數召太子賜食,保、阿輒先嘗之,後挾毒不得行。 2. 3五月,甲申,丞相賢以老病乞骸骨;賜黄金百斤、安車、駟馬,罷就第。丞相致仕自賢始。 3. 4六月,壬辰,以魏相爲丞相。辛丑,丙吉爲御史大夫,疏廣爲太子太傅,廣兄子受爲少傅。 太子外祖父平恩侯許伯,以爲太子少,白使其弟中郎將舜監護太子家。上以問廣,廣對曰:「太子,國儲副君,師友必於天下英俊,不宜獨親外家許氏。且太子自有太傅、少傅,官屬已備,今復使舜護太子家,示陋,非所以廣太子德於天下也。」上善其言,以語魏相,相免冠謝曰:「此非臣等所能及。」廣由是見器重。 4. 5京師大雨雹,大行丞東海蕭望之上疏,言大臣任政,一姓專權之所致。上素聞望之名,拜爲謁者。時上博延賢俊,民多上書言便宜,輒下望之問状;高者請丞相、御史,次者中二千石試事,滿歳以状聞;下者報聞,罷。所白處奏皆可。 5. 6冬,十月,詔曰:「乃者九月壬申地震,朕甚懼焉。有能箴朕過失,及賢良方正直言極諫之士,以匡朕之不逮,毋諱有司。朕既不德,不能附遠,是以邊境屯戍未息。今復飭兵重屯,久勞百姓,非所以綏天下也。其罷車騎將軍、右將軍屯兵。」又詔:「池□未御幸者,假與貧民。郡國宮館勿復修治。流民還歸者,假公田,貸種食,且勿算事。」 6. 7霍氏驕侈縱橫。太夫人顯,廣治第室,作乘輿輦,加畫,繡絪馮,黄金塗;韋絮薦輪,侍婢以五采絲輓顯遊戲第中;與監奴馮子都亂。而禹、山亦並繕治第宅,走馬馳逐平樂館。雲當朝請,數稱病私出,多從賓客,張圍獵黄山苑中,使倉頭奴上朝謁,莫敢譴者。顯及諸女晝夜出入長信宮殿中,亡期度。 帝自在民間,聞知霍氏尊盛日久,内不能善。既躬親朝政,御史大夫魏相給事中。顯謂禹、雲、山:「女曹不務奉大將軍餘業,今大夫給事中,他人壹間女,能復自救邪!」後兩家奴爭道,霍氏奴入御史府,欲蹋大夫門;御史爲叩頭謝,乃去。人以謂霍氏,顯等始知憂。 會魏大夫爲丞相,數燕見言事;平恩侯與侍中金安上等徑出入省中。時霍山領尚書,上令吏民得奏封事,不關尚書,羣臣進見獨往來,於是霍氏甚惡之。上頗聞霍氏毒殺許後而未察,乃徙光女婿度遼將軍、未央衞尉、平陵侯范明友爲光祿勳,出次婿諸吏、中郎將、羽林監任勝爲安定太守。數月,復出光姊婿給事中、光祿大夫張朔爲蜀郡太守,羣孫婿中郎將王漢爲武威太守。頃之,復徙光長女婿長樂衞尉鄧廣漢爲少府。戊戌,更以張安世爲衞將軍,兩宮衞尉、城門、北軍兵屬焉。以霍禹爲大司馬,冠小冠,亡印綬;罷其屯兵官屬,特使禹官名與光倶大司馬者。又收范明友度遼將軍印綬,但爲光祿勳;及光中女婿趙平爲散騎、騎都尉、光祿大夫,將屯兵,又收平騎都尉印綬。諸領胡、越騎、羽林及兩宮衞將屯兵,悉易以所親信許、史子弟代之。 7. 8初,孝武之世,征發煩數,百姓貧耗,究民犯法,姦軌不勝,於是使張湯、趙禹之屬,條定法令,作見知故縱、監臨部主之法,緩深、故之罪,急縱、出之誅。其後姦猾巧法轉相比況,禁罔浸密,律令煩苛,文書盈於幾閣,典者不能遍睹。是以郡國承用者駁,或罪同而論異,姦吏因縁爲市,所欲活則傅生議,所欲陷則予死比,議者咸冤傷之。 廷尉史鉅鹿路温舒上書曰:「臣聞齊有無知之禍而桓公以興,晉有驪姫之難而文公用伯。近世趙王不終,諸呂作亂,而孝文爲太宗。繇是觀之,禍亂之作,將以開聖人也。夫繼變亂之後,必有異舊之恩,此賢聖所以昭天命也。往者昭帝即世無嗣,昌邑淫亂,乃皇天所以開至聖也。臣聞春秋正即位、大一統而愼始也。陛下初登至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受命之統,滌煩文,除民疾,以應天意。臣聞秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。夫獄者,天下之大命也,死者不可復生,絶者不可復屬。書曰:『與其殺不辜,寧失不經。』今治獄吏則不然,上下相驅,以刻爲明,深者獲公名,平者多後患,故治獄之吏皆欲人死,非憎人也,自安之道在人之死。是以死人之血流離於市,被刑之徒,比肩而立,大辟之計,歳以萬數。此仁聖之所以傷也,太平之未洽,凡以此也。夫人情,安則樂生,痛則思死,棰楚之下,何求而不得!故囚人不勝痛,則飾辭以示之;吏治者利其然,則指導以明之;上奏畏卻,則鍛練而周内之。蓋奏當之成,雖皋陶聽之,猶以爲死有餘辜。何則?成練者衆,文致之罪明也。故俗語曰:『畫地爲獄,議不入;刻木爲吏,期不對。』此皆疾吏之風,悲痛之辭也。唯陛下省法制,寬刑罰,則太平之風可興於世。」上善其言。 8. 9十二月,詔曰:「間者吏用法巧文浸深,是朕之不德也。夫決獄不當,使有罪興邪,不辜蒙戮,父子悲恨,朕甚傷之!今遣廷史與郡鞠獄,任輕祿薄,其爲置廷尉平,秩六百石,員四人。其務平之,以稱朕意!」於是毎季秋後請讞時,上常幸宣室,齋居而決事,獄刑號爲平矣。涿郡太守鄭昌上疏言:「今明主躬垂明聽,雖不置廷平,獄將自正;若開後嗣,不若刪定律令。律令一定,愚民知所避,姦吏無所弄矣。今不正其本,而置廷平以理其末,政衰聽怠,則廷平將召權而爲亂首矣。」 9. 10昭帝時,匈奴使四千騎田車師。及五將軍撃匈奴,車師田者驚去,車師復通於漢;匈奴怒,召其太子軍宿,欲以爲質。軍宿,焉耆外孫,不欲質匈奴,亡走焉耆,車師王更立子烏貴爲太子。及烏貴立爲王,與匈奴結婚姻,教匈奴遮漢道通烏孫者。 是歳,侍郎會稽鄭吉與校尉司馬喜,將免刑罪人田渠犁,積穀,發城郭諸國兵萬餘人與所將田士千五百人共撃車師,破之;車師王請降。匈奴發兵攻車師;吉、喜引兵北逢之,匈奴不敢前。吉、喜即留一候與卒二十人留守王,吉等引兵歸渠犁。車師王恐匈奴兵復至而見殺也,乃輕騎奔烏孫。吉即迎其妻子,傳送長安。匈奴更以車師王昆弟兜莫爲車師王,收其餘民東徙,不敢居故地;而鄭吉始使吏卒三百人往田車師地以實之。 10. 11上自初即位,數遣使者求外家;久遠,多似類而非是。是歳,求得外祖母王媼及媼男無故、武。上賜無故、武爵關内侯。旬月間,賞賜以巨萬計。 11. 四年(乙卯、前六六) 1春,二月,賜外祖母號爲博平君;封舅無故爲平昌侯,武爲樂昌侯。 1. 2夏,五月,山陽、濟陰雹如雞子,深二尺五寸,殺二十餘人,飛鳥皆死。 2. 3詔:「自今子有匿父母、妻匿夫、孫匿大父母,皆勿治。」 3. 4立廣川惠王孫文爲廣川王。 4. 5霍顯及禹、山、雲自見日侵削,數相對啼泣自怨。山曰:「今丞相用事,縣官信之,盡變易大將軍時法令,發揚大將軍過失。又,諸儒生多窶人子,遠客饑寒,喜妄説狂言,不避忌諱,大將軍常讎之。今陛下好與諸儒生語,人人自書對事,多言我家者。嘗有上書言我家昆弟驕恣,其言絶痛;山屏不奏。後上書者益黠,盡奏封事,輒使中書令出取之,不關尚書,益不信人。又聞民間讙言『霍氏毒殺許皇后』,寧有是邪?」顯恐急,即具以實告禹、山、雲。禹、山、雲驚曰:「如是,何不早告禹等!縣官離散、斥逐諸婿,用是故也。此大事,誅罰不小,奈何?」於是始有邪謀矣。 雲舅李竟民善張赦,見雲家卒卒,謂竟曰:「今丞相與平恩侯用事,可令太夫人言太后,先誅此兩人。移徙陛下,在太后耳。」長安男子張章告之,事下廷尉、執金吾,捕張赦等。後有詔,止勿捕。山等愈恐,相謂曰:「此縣官重太后,故不竟也。然惡端已見,久之猶發,發即族矣,不如先也。」遂令諸女各歸報其夫,皆曰:「安所相避!」 會李竟坐與諸侯王交通,辭語及霍氏,有詔:「雲、山不宜宿衞,免就第。」山陽太守張敞上封事曰:「臣聞公子季友有功於魯,趙衰有功於晉,田完有功於齊,皆疇其庸,延及子孫。終後田氏簒齊,趙氏分晉,季氏顓魯。故仲尼作春秋,跡盛衰,譏世卿最甚。乃者大將軍決大計,安宗廟,定天下,功亦不細矣。夫周公七年耳,而大將軍二十歳,海内之命斷於掌握。方其隆盛時,感動天地,侵迫陰陽。朝臣宜有明言曰:『陛下褒寵故大將軍以報功德足矣。間者輔臣顓政,貴戚太盛,君臣之分不明,請罷霍氏三侯皆就第;及衞將軍張安世,宜賜幾杖歸休,歸存問召見,以列侯爲天子師。』明詔以恩不聽,羣臣以義固爭而後許之,天下必以陛下爲不忘功德而朝臣爲知禮,霍氏世世無所患苦。今朝廷不聞直聲,而令明詔自親其文,非策之得者也。今兩侯已出,人情不相遠,以臣心度之,大司馬及其枝屬必有畏懼之心。夫近臣自危,非完計也。臣敞願於廣朝白髮其端,直守遠郡,其路無由。唯陛下省察。」上甚善其計,然不召也。 禹、山等家數有妖怪,舉家憂愁。山曰:「丞相擅減宗廟羔、菟、蛙,可以此罪也。」謀令太后爲博平君置酒,召丞相、平恩侯以下,使范明友、鄧廣漢承太后制引斬之,因廢天子而立禹。約定,未發,雲拜爲玄菟太守,太中大夫任宣爲代郡太守。會事發覺,秋,七月,雲、山、明友自殺,顯、禹、廣漢等捕得;禹要斬,顯及諸女昆弟皆棄市;與霍氏相連坐誅滅者數十家。太僕杜延年以霍氏舊人,亦坐免官。八月,己酉,皇后霍氏廢,處昭台宮,乙丑,詔封告霍氏反謀者男子張章、期門董忠、左曹楊惲、侍中金安上、史高皆爲列侯。惲,丞相敞子;安上,車騎將軍日磾弟子;高,史良娣兄子也。 初,霍氏奢侈,茂陵徐生曰:「霍氏必亡。夫奢則不遜,不遜必侮上。侮上者,逆道也,在人之右,衆必害之。霍氏秉權日久,害之者多矣。天下害之,而又行以逆道,不亡何待!」乃上疏言:「霍氏泰盛,陛下即愛厚之,宜以時抑制,無使至亡。」書三上,輒報聞。其後霍氏誅滅,而告霍氏者皆封,人爲徐生上書曰:「臣聞客有過主人者,見其灶直突,傍有積薪,客謂主人:『更爲曲突,遠徙其薪,不者且有火患。』主人嘿然不應。俄而家果失火,鄰里共救之,幸而得息。於是殺牛置酒,謝其鄰人,灼爛者在於上行,餘各以功次坐,而不録言曲突者。人謂主人曰:『郷使聽客之言,不費牛酒,終亡火患。今論功而請賓,曲突徙薪無恩澤,焦頭爛額爲上客邪?』主人乃寤而請之。今茂陵徐福,數上書言霍氏且有變,宜防絶之。郷使福説得行,則國無裂土出爵之費,臣無逆亂誅滅之敗。往事既已,而福獨不蒙其功,唯陛下察之,貴徙薪曲突之策,使居焦發灼爛之右。」上乃賜福帛十匹,後以爲郎。 帝初立,謁見高廟,大將軍光驂乘,上内嚴憚之,若有芒刺在背。後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。及光身死而宗族竟誅,故俗傳霍氏之禍萌於驂乘。後十二歳,霍後復徙雲林館,乃自殺。 班固贊曰:霍光受襁褓之托,任漢室之寄,匡國家,安社稷,擁昭,立宣,雖周公、阿衡何以加此!然光不學亡術,闇於大理;陰妻邪謀,立女爲後,湛溺盈溢之欲,以增顛覆之禍,死財三年,宗族誅夷,哀哉! 臣光曰:霍光之輔漢室,可謂忠矣;然卒不能庇其宗,何也?夫威福者,人君之器也。人臣執之,久而不歸,鮮不及矣。以孝昭之明,十四而知上官桀之詐,固可以親政矣,況孝宣十九即位,聰明剛毅,知民疾苦,而光久專大柄,不知避去,多置親黨,充塞朝廷,使人主蓄憤於上,吏民積怨於下,切齒側目,待時而發,其得免於身幸矣,況子孫以驕侈趣之哉!雖然,向使孝宣專以祿秩賞賜富其子孫,使之食大縣,奉朝請,亦足以報盛德矣;乃復任之以政,授之以兵,及事叢釁積,更加裁奪,遂至怨懼以生邪謀,豈徒霍氏之自禍哉?亦孝宣醞釀以成之也。昔椒作亂於楚,莊王滅其族而赦箴尹克黄,以爲子文無後,何以勸善。夫以顯、禹、雲、山之罪,雖應夷滅,而光之忠勳不可不祀;遂使家無□類,孝宣亦少恩哉! 5. 6九月,詔減天下鹽賈。又令郡國歳上繋囚以掠笞若瘐死者,所坐縣、名、爵、里,丞相、御史課殿最以聞。 6. 7十二月,清河王年坐内亂廢,遷房陵。 7. 8是歳,北海太守廬江朱邑以治行第一入爲大司農,勃海太守龔遂入爲水衡都尉。先是,勃海左右郡歳饑,盜賊並起,二千石不能禽制。上選能治者,丞相、御史舉故昌邑郎中令龔遂,上拜爲勃海太守。召見,問:「何以治勃海,息其盜賊?」對曰:「海瀕遐遠,不沾聖化,其民困於饑寒而吏不恤,故使陛下赤子盜弄陛下之兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪,將安之也?」上曰:「選用賢良,固欲安之也。」遂曰:「臣聞治亂民猶治亂繩,不可急也;唯緩之,然後可治。臣願丞相、御史且無拘臣以文法,得一切便宜從事。」上許焉,加賜黄金贈遣。乘傳至勃海界,郡聞新太守至,發兵以迎。遂皆遣還。移書敕屬縣:「悉罷逐捕盜賊吏,諸持鍺、鉤、田器者皆爲良民,吏毋得問;持兵者乃爲賊。」遂單車獨行至府。盜賊聞遂教令,即時解散,棄其兵弩而持鉤、金且,於是悉平,民安土樂業。遂乃開倉廩假貧民,選用良吏尉安牧養焉。遂見齊俗奢侈,好末技,不田作,乃躬率以儉約,勸民務農桑,各以口率種樹畜養。民有帶持刀劍者,使賣劍買牛,賣刀買犢,曰:「何爲帶牛佩犢!」勞來循行,郡中皆有畜積,獄訟止息。 8. 9烏孫公主女爲龜茲王降賓夫人。絳賓上書言:「得尚漢外孫,願與公主女倶入朝。」 9. 元康元年(丙辰、前六五) 1春,正月,龜茲王及其夫人來朝;皆賜印綬,夫人號稱公主,賞賜甚厚。 1. 2初作杜陵。徙丞相、將軍、列侯、吏二千石、訾百萬者杜陵。 2. 3三月,詔以鳳皇集泰山、陳留,甘露降未央宮,赦天下。 3. 4有司復言悼園宜稱尊號曰皇考;夏,五月,立皇考廟。 4. 5冬,置建章衞尉。 5. 6趙廣漢好用世吏子孫新進年少者,專厲強壯蜂氣,見事風生,無所迴避,率多果敢之計,莫爲持難,終以此敗。廣漢以私怨論殺男子榮畜,人上書言之,事下丞相、御史按驗。廣漢疑丞相夫人殺侍婢,欲以此脅丞相,丞相按之愈急。廣漢乃將吏卒入丞相府,召其夫人跪庭下受辭,收奴婢十餘人去。丞相上書自陳,事下廷尉治,實丞相自以過譴笞傅婢,出至外第乃死,不如廣漢言。帝惡之,下廣漢廷尉獄。吏民守闕號泣者數萬人,或言:「臣生無益縣官,願代趙京兆死,使牧養小民!」廣漢竟坐要斬。廣漢爲京兆尹,廉明,威制豪強,小民得職,百姓追思歌之。 6. 7是歳,少府宋疇坐議「鳳皇下彭城,未至京師,不足美」,貶爲泗水太傅。 7. 8上遷博士、諫大夫通政事者補郡國守相,以蕭望之爲平原太守。望之上疏曰:「陛下哀愍百姓,恐德之不究,悉出諫官以補郡吏。朝無爭臣,則不知過,所謂憂其末而忘其本者也。」上乃征望之入守少府。 8. 9東海太守河東尹翁歸,以治郡高第入爲右扶風。翁歸爲人,公廉明察,郡中吏民賢、不肖及姦邪罪名盡知之。縣縣各有記籍,自聽其政;有急名則少緩之。吏民小解,輒披籍。取人必於秋冬課吏大會中及出行縣,不以無事時。其有所取也,以一警百。吏民皆服,恐懼,改行自新。其爲扶風,選用廉平疾姦吏以爲右職,接待以禮,好惡與同之;其負翁歸,罰亦必行。然温良謙退,不以行能驕人,故尤得名譽於朝廷。 9. 10初,烏孫公主少子萬年有寵於莎車王。莎車王死而無子,時萬年在漢,莎車國人計,欲自托於漢,又欲得烏孫心,上書請萬年爲莎車王。漢許之,遣使者奚充國送萬年。萬年初立,暴惡,國人不説。 上令羣臣舉可使西域者,前將軍韓增舉上黨馮奉世以衞候使持節送大苑諸國客至伊循城。會故莎車王弟呼屠征與旁國共殺其王萬年及漢使者奚充國,自立爲王。時匈奴又發兵攻車師城,不能下而去。莎車遣使揚言「北道諸國已屬匈奴矣」,於是攻劫南道,與歃盟畔漢,從鄯善以西皆絶不通。都護鄭吉、校尉司馬喜甏皆在北道諸國間,奉世與其副嚴昌計,以爲不亟撃之,則莎車日強,其勢難制,必危西域,遂以節諭告諸國王,因發其兵,南北道合萬五千人,進撃莎車,攻拔其城。莎車王自殺,傳其首詣長安,更立它昆弟子爲莎車王。諸國悉平,威振西域,奉世乃罷兵以聞。帝召見韓增曰:「賀將軍所舉得其人。」 奉世遂西至大宛。大宛聞其斬莎車王,敬之異於它使,得其名馬象龍而還。上甚説,議封奉世。丞相、將軍皆以爲可,獨少府蕭望之以爲:「奉世奉使有指,而擅矯制違命,發諸國兵,雖有功效,不可以爲後法。即封奉世,開後奉使者利以奉世爲比,爭逐發兵,要功萬里之外,爲國家生事於夷狄,漸不可長。奉世不宜受封。」上善望之議,以奉世爲光祿大夫。 10. 二年(丁巳、前六四) 1春,正月,赦天下。 1. 2上欲立皇后,時館陶主母華婕妤及淮陽憲王母張婕妤、楚孝王母衞婕妤愛幸。上欲立張婕妤爲后;久之,懲艾霍氏欲害皇太子,乃更選後宮無子而謹愼者。二月,乙丑,立長陵王婕妤爲皇后,令母養太子;封其父奉光爲邛成侯。後無寵,希得進見。 2. 3五月,詔曰:「獄者,萬民之命。能使生者不怨,死者不恨,則可謂文吏矣。今則不然。用法或持巧心,析律貳端,深淺不平,奏不如實,上亦亡由知,四方黎民將何仰哉!二千石各察官屬,勿用此人。吏或擅興徭役,飾廚傳,稱過使客,越職踰法以取名譽,譬如踐薄冰以待白日,豈不殆哉!今天下頗被疾疫之災,朕甚愍之,其令郡國被災甚者,毋出今年租賦。」 3. 4又曰:「聞古天子之名,難知而易諱也;其更諱詢。」 4. 5匈奴大臣皆以爲「車師地肥美,近匈奴,使漢得之,多田積穀,必害人國,不可不爭」,由是數遣兵撃車師田者。鄭吉將渠犁田卒七千餘人救之,爲匈奴所圍。吉上言:「東懷去渠犁千餘里,漢兵在渠犁者少,勢不能相救,願益田卒。」上與後將軍趙充國等議,欲因匈奴衰弱,出兵撃其右地,使不得復擾西域。 魏相上書諫曰:「臣聞之:救亂誅暴,謂之義兵,兵義者王;敵加於己,不得已而起者,謂之應兵,兵應者勝;爭恨小故,不忍憤怒者,謂之忿兵,兵忿者敗;利人土地、貨寶者,謂之貪兵,兵貪者破;恃國家之大,矜民人之衆,欲見威於敵者,謂之驕兵,兵驕者滅。此五者,非但人事,乃天道也。間者匈奴嘗有善意,所得漢民,輒奉歸之,未有犯於邊境;雖爭屯田車師,不足致意中。今聞諸將軍欲興兵入其地,臣愚不知此兵何名者也!今邊郡困乏,父子共犬羊之裘,食草萊之實,常恐不能自存,難以動兵。『軍旅之後,必有凶年,』言民以其愁苦之氣傷陰陽之和也。出兵雖勝,猶有後憂,恐災害之變因此以生。今郡國守相多不實選,風俗尤薄,水旱不時。按今年計子弟殺父兄、妻殺夫者凡二百二十二人,臣愚以爲此非小變也。今左右不憂此,乃欲發兵報纖介之忿於遠夷,殆孔子所謂『吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之内也』。」上從相言,止。遣長羅侯常惠將張掖、酒泉騎往車師,迎鄭吉及其吏士還渠犁。召故車師太子軍宿在焉耆者,立以爲王;盡徙車師國民令居渠犁,遂以車師故地與匈奴。以鄭吉爲衞司馬,使護善阜善以西南道。 5. 6魏相好觀漢故事及便宜章奏,數條漢興已來國家便宜行事及賢臣賈誼、晁錯、董仲舒等所言,奏請施行之。相敕掾史按事郡國,及休告,從家還至府,輒白四方異聞。或有逆賊、風雨災變,郡不上,相輒奏言之。與御史大夫丙吉同心輔政,上皆重之。 丙吉爲人深厚,不伐善。自曾孫遭遇,吉絶口不道前恩,故朝廷莫能明其功也。會掖庭宮婢則令民夫上書,自陳嘗有阿保之功,章下掖庭令考問,則辭引使者丙吉知状。掖庭令將則詣御史府以視吉,吉識,謂則曰:「汝嘗坐養皇曾孫不謹,督笞汝,汝安得有功!獨渭城胡組、淮陽郭征卿有恩耳。」分別奏組等共養勞苦状。詔吉求組、征卿;已死,有子孫,皆受厚賞。詔免則爲庶人,賜錢十萬。上親見問,然後知吉有舊恩而終不言,上大賢之。 6. 7帝以蕭望之經明持重,議論有餘,材任宰相,欲詳試其政事,復以爲左馮翊。望之從少府出爲左遷,恐有不合意,即移病。上聞之,使侍中成都侯金安上諭意曰:「所用皆更治民以考功。君前爲平原太守日淺,故複試之於三輔,非有所聞也。」望之即起視事。 7. 8初,掖庭令張賀數爲弟車騎將軍安世稱皇曾孫之材美及征怪,安世輒絶止,以爲少主在上,不宜稱述曾孫。及帝即位而賀已死,上謂安世曰:「掖庭令平生稱我,將軍止之,是也。」上追思賀恩,欲封其塚爲恩德侯,置守塚二百家。賀有子蚤死,子安世小男彭祖。彭祖又小與上同席研書指,欲封之,先賜爵關内侯。安世深辭賀封;又求損守塚戸數,稍減至三十戸。上曰:「吾自爲掖庭令,非爲將軍也。」安世乃止,不敢復言。 8. 9上心忌故昌邑王賀,賜山陽太守張敞璽書,令謹備盜賊,察往來過客;毋下所賜書。敞於是條奏賀居處,著其廢亡之效曰:「故昌邑王爲人,靑黑色,小目,鼻末鋭卑,少鬚眉,身體長大,疾痿,行歩不便。臣敞嘗與之言,欲動觀其意,即以惡鳥感之曰:『昌邑多梟。』故王應曰:『然。前賀西至長安,殊無梟;復來,東至濟陽,乃復聞梟聲。』察故王衣服、言語、跪起,清狂不惠。臣敞前言:『哀王歌舞者張脩等十人無子,留守哀王園,請罷歸。』故王聞之曰:『中人守園,疾者當勿治,相殺傷者當勿法,欲令亟死。太守奈何而欲罷之?』其天資喜由亂亡,終不見仁義如此。」上乃知賀不足忌也。 9. 三年(戊午、前六三) 1春,三月,詔封故昌邑王賀爲海昏侯。 1. 2乙未,詔曰:「朕微眇時,御史大夫丙吉,中郎將史曾、史玄,長樂衞尉許舜,侍中、光祿大夫許延壽,皆與朕有舊恩,及故掖庭令張賀,輔導朕躬,修文學經術,恩惠卓異,厥功茂焉。詩不云乎:『無德不報』,封賀所子弟子侍中、中郎將彭祖爲陽都侯,追賜賀謚曰陽都哀侯,吉爲博陽侯,曾爲將陵侯,玄爲平台侯,舜爲博望侯,延壽爲樂成侯。」賀有孤孫霸,年七歳,拜爲散騎、中郎將,賜爵關内侯。故人下至郡邸獄復作嘗有阿保之功者,皆受官祿、田宅、財物,各以恩深淺報之。 吉臨當封,病;上憂其不起,將使人就加印紼而封之,及其生存也。太子太傅夏侯勝曰:「此未死也!臣聞有陰德者必饗其樂,以及子孫。今吉未獲報而疾甚,非其死疾也。」後病果愈。 張安世自以父子封侯,在位太盛。乃辭祿,詔都内別藏張氏無名錢以百萬數。安世謹愼周密,毎定大政,已決,輒移病出。聞有詔令,乃驚,使吏之丞相府問焉。自朝廷大臣,莫知其與議也。嘗有所薦,其人來謝,安世大恨,以爲「舉賢達能,豈有私謝邪!」絶弗復爲通。有郎功高不調,自言安世,安世應曰:「君之功高,明主所知,人臣執事,何長短而自言乎!」絶不許。已而郎果遷。安世自見父子尊顯,懷不自安,爲子延壽求出補吏,上以爲北地太守;歳餘,上閔安世年老,復征延壽爲左曹、太僕。 2. 3夏,四月,丙子,立皇子欽爲淮陽王。皇太子年十二,通論語、孝經。太傅疏廣謂少傅受曰:「吾聞『知足不辱,知止不殆。』今仕宦至二千石,官成名立,如此不去,懼有後悔。」即日,父子倶移病,上疏乞骸骨。上皆許之,加賜黄金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿故人設祖道供張東都門外,送者車數百兩。道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息爲之下泣。 廣、受歸郷里,日令其家賣金共具,請族人、故舊、賓客,與相娯樂。或勸廣以其金爲子孫頗立産業者,廣曰:「吾豈老悖不念子孫哉!顧自有舊田廬,令子孫勤力其中,足以共衣食,與凡人齊。今復增益之以爲贏餘,但教子孫怠墮耳。賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者衆之怨也,吾既無以教化子孫,不欲益其過而生怨。又此金者,聖主所以惠養老臣也,故樂與郷黨、宗族共饗其賜,以盡吾餘日,不亦可乎!」於是族人悅服。 3. 4穎川太守黄霸使郵亭、郷官皆畜雞、豚,以贍鰥、寡、貧、窮者;然後爲條教,置父老、師帥、伍長,班行之於民間,勸以爲善防姦之意,及務耕桑、節用、殖財、種樹、畜養,去浮淫之費。其治,米鹽靡密,初若煩碎,然霸精力能推行之。吏民見者,語次録繹,問它陰伏以相參考,聰明識事,吏悄不知所出,咸稱神明,豪厘不敢有所欺。姦人去入它郡,盜賊日少。霸力行教化而後誅罰,務在成就全安長吏。許丞老,病聾,督郵白欲逐之。霸曰:「許丞廉吏,雖老,尚能拜起送迎,正頗重聽何傷!且善助之,毋失賢者意!」或問其故,霸曰:「數易長吏,送故迎新之費,及姦吏因縁,絶簿書,盜財物,公私費耗甚多,皆當出於民。所易新吏又未必賢,或不如其故,徒相益爲亂。凡治道,去其泰甚者耳。」霸以外寬内明,得吏民心,戸口歳增,治爲天下第一,征守京兆尹。頃之,坐法,連貶秩;有詔復歸穎川爲太守,以八百石居。 4. 四年(己未、前六二) 1春,正月,詔:「年八十以上,非誣告、殺傷人,它皆勿坐。」 1. 2右扶風尹翁歸卒,家無餘財。秋,八月,詔曰:「翁歸廉平郷正,治民異等。其賜翁歸子黄金百斤,以奉祭祀。」 2. 3上令有司求高祖功臣子孫失侯者,得槐里公乘周廣漢等百三十六人,皆賜黄金二十斤,復其家,令奉祭祀,世世勿絶。 3. 4丙寅,富平敬侯張安世薨。 4. 5初,扶陽節侯韋賢薨,長子弘有罪繋獄,家人矯賢令,以次子大河都尉玄成爲後。玄成深知其非賢雅意,即陽爲病狂,臥便利,妄笑語,昏亂。既葬,當襲爵,以狂不應召。大鴻臚奏状,章下丞相、御史案驗。案事丞相史乃與玄成書曰:「古之辭讓,必有文義可觀,故能垂榮於後。今子獨壞容貌,蒙恥辱爲狂癡,光曜晻而不宣,微哉子之所托名也!僕素愚陋,過爲宰相執事,願少聞風聲;不然,恐子傷高而僕爲小人也。」玄成友人侍郎章亦上疏言:「聖王貴以禮讓爲國,宜優養玄成,勿枉其志,使得自安衡門之下。」而丞相、御史遂以玄成實不病,劾奏之,有詔勿劾,引拜;玄成不得已,受爵。帝高其節,以玄成爲河南太守。 5. 6車師王烏貴之走烏孫也,烏孫留不遣。漢遣使責烏孫,烏孫送烏貴詣闕。 6. 7初,武帝開河西四郡,隔絶羌與匈奴相通之路,斥逐諸羌。不使居湟中地。及帝即位,光祿大夫義渠安國使行諸羌;先零豪言:「願時度湟水北,逐民所不田處畜牧。」安國以聞。後將軍趙充國劾安國奉使不敬。是後羌人旁縁前言,抵冒度湟水,郡縣不能禁。 既而先零與諸羌種豪二百餘人解仇、交質、盟詛。上聞之,以問趙充國,對曰:「羌人所以易制者,以其種自有豪,數相攻撃,勢不壹也。往三十餘歳西羌反時,亦先解仇合約攻令居,與漢相距,五六年乃定。匈奴數誘羌人,欲與之共撃張掖、酒泉地,使羌居之。間者匈奴困於西方,疑其更遣使至羌中與相結。臣恐羌變未止此,且復結聯他種,宜及未然爲之備。」後月餘,羌侯狼何果遣使至匈奴藉兵,欲撃善阜善、敦煌以絶漢道。充國以爲「狼何勢不能獨造此計,疑匈奴使已至羌中,先零、罕、幵乃解仇作約。到秋馬肥,變必起矣。宜遣使者行邊兵,豫爲備敕,視諸羌毋令解仇,以發覺其謀。」於是兩府復白遣義渠安國行視諸羌,分別善惡。 7. 8是時,比年豐稔,穀石五錢。
https://w.atwiki.jp/trebor/pages/771.html
閻魔大王 閻王(えんおう)、閻魔・焰摩・焔魔・炎摩(えんま)、閻魔王(えんまおう)、焔魔天(えんまてん)、閻魔法王(えんまほうおう)、閻魔羅・閻摩羅(えんまら)、閻魔羅闍・閻摩羅社(えんまらじゃ)、閻羅(えんら)、閻羅王(えんらおう)、夜摩天(やまてん)とも呼ばれる。 元はヒンドゥー教の、人間で最初の死者にして死者の国の王となったヤマ神に由来する。 地獄の裁判官の長としてよく知られ、死後5回目(35日目)の裁判(判決)を担当する。(浄土真宗では死後すぐに極楽浄土に行くので、十王の審判はない。) 地蔵菩薩の化身とも、六欲天の夜摩天(焔魔天)ともされている。 縁日は旧暦1月と7月の16日(共に藪入りの日)。 現在は1月16日と7月16日、旧暦7月16日に相当する(概算)8月16日を縁日とするところが多い。1月16日は特に「初閻魔」と呼ばれる。 御真言は「ナウマク・サマンダ・ボダナン・エンマヤ・ソワカ(namaḥ samanta-buddhānāṃ yamāya svāhā)」、 または「オン・ヤマラジャ・ウグラビリャ・アガッシャ・ソワカ」。 種字は「エン」または「カ」。御利益は「延寿・災難除去・病気平癒」とされている(一部には「子宝」も見られる。)。好物は「コンニャク」w。 十王信仰(十三仏信仰の場合は地蔵菩薩となる。)として閻魔大王を祀られている寺院は多いので、掲載漏れもあると思いますが… 目標イメージとしては、『御朱印帳1冊まるごと墨書が閻魔大王となっている直書きの御朱印』です。 GoogleMAP 第1グループ 御朱印帳もお勧め。 寺社名 所在地 宗派 参考 獨鈷山 西明寺 栃木県芳賀郡益子町益子4469 真言宗豊山派 【笑い閻魔】見開きは書き手が居る時のみ直書 三縁山 宝珠院 東京都港区芝公園4-8-55 浄土宗 お盆と正月は限定御朱印あり 常光山 源覚寺 東京都文京区小石川2-23-14 浄土宗 【こんにゃく閻魔】 大椿山 六道珍皇寺 京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595 臨済宗建仁寺派 限定御朱印多 第2グループ 絵入りや期間限定などの、ぜひ頂いておきたい御朱印。 寺社名 所在地 宗派 参考 熊野山 福正寺 栃木県栃木市西方町元1584 浄土宗 1月の閻魔図御開帳限定(HP) 金砂山 円光寺 閻魔堂 新潟県柏崎市東本町2-7-39 曹洞宗 えんま市(6月中旬)時のみ御朱印あり 壽豊山 観音院 長円寺 京都府京都市伏見区淀新町681 浄土宗 夜閻魔等の限定御朱印多(HP) 光明山 歓喜院 引接寺 京都府京都市上京区千本芦山寺上閻魔前34 高野山真言宗 【千本ゑんま堂】限定朱印あり 矢田山 金剛山寺 南僧坊 奈良県大和郡山市矢田町3505 高野山真言宗 【矢田寺】開帳時のみ 高円山 白毫寺 奈良県奈良市白毫寺町392 真言律宗 見開きは期間限定書置き 第3グループ 普通に閻魔関係の御朱印。 寺社名 所在地 宗派 参考 瑠璃山 醫王寺 利性院 閻魔堂 栃木県足利市井草町2388 浄土宗 葛井山 千手観音寺分院 三毳不動尊 栃木県栃木市藤岡町大田和747 単立 児栄山 実勝院 華蔵寺 栃木県下野市下古山928-1 真言宗智山派 【下野大師】 岩谷山 久昌寺 埼玉県秩父市久那2315 曹洞宗 石の御手判(御朱印ではなく、お札に分類すべきか?) 霞関山 本覚院 太宗寺 東京都新宿区新宿2-9-2 浄土宗 江戸三大閻魔 薬竜山 正蔵院 東京都新宿区神楽坂6-54 天台宗 【草刈えんま】 三宮神山 勝専寺 東京都足立区千住2-11 浄土宗 安養山 還国寺 東京都文京区小日向2-19-7 浄土宗 和順山 歓喜院 法真寺 東京都文京区本郷5-27-11 浄土宗 【本郷閻魔】 賢臺山 法乗院 東京都江東区深川2-16-3 真言宗豊山派 【深川ゑんま堂】 勝林山 金地院 東京都港区芝公園3-5-4 臨済宗 一松山 長傳寺 東京都港区元麻布1-2-2 浄土宗 称光山 華徳院 東京都杉並区松ノ木3-32-11 天台宗 江戸三大閻魔 薬王山 延寿院 善養寺 東京都豊島区西巣鴨4-8-25 天台宗 江戸三大閻魔 八幡山 上品寺 東京都葛飾区東新小岩7-8-2 新義真言宗 大方山 華厳寺 東京都墨田区本所2-12-3 浄土宗 蟠場山 文殊院 東京都板橋区仲宿28-5 真言宗豊山派 鶏足山 実相寺 東京都目黒区中目黒5-7-14 天台宗 新居山 円応寺 神奈川県鎌倉市山ノ内1543 臨済宗建長寺派 【子そだてえんま】 芦峅寺 閻魔堂 富山県中新川郡立山町芦峅寺 立山修験 無住書置き? 海性山 真如寺 愛知県蒲郡市形原町石橋11 浄土宗西山深草派 岳翁山 往生院 西方寺 愛知県津島市天王通り4-23 浄土宗鎮西派 西方寺 大阪府大阪市浪速区下寺3-16-11 融通念仏宗 【合邦辻閻魔堂】 天王山 宝積寺 京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原1 真言宗智山派 東大寺 念仏堂 奈良県奈良市雑司町406-1 華厳宗 授与所の見本にはないが申し出る 補陀落山 志度寺 香川県さぬき市志度1102 真言宗善通寺派 四国八十六番 潮音山 義弘院 海元寺 福岡県福岡市博多区中呉服町10-5 浄土宗鎮西派 第4グループ 授与していないところ。 (地図では、授与状況不明な寺院も第4グループに入れています。) 寺社名 所在地 宗派 参考 萬年山 青松寺 東京都港区愛宕2-4-7 曹洞宗 御朱印は授与していません 地蔵院 金蔵寺 東京都足立区千住2-63 真言宗豊山派 【ソバ食い閻魔】現在は授与していません
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/401.html
唐書巻二百二十三下 列伝第一百四十八下 姦臣下 盧𣏌 崔胤 崔昭緯 柳璨 蒋玄暉 張廷範 氏叔琮 朱友恭 盧𣏌は、字は子良である。父の盧弈は忠義伝に見える。𣏌は弁舌の才能があり、体は醜いこと甚だしく、鬼のような容貌で顔色は藍色であり、衣が粗末であったり粗食なのを恥じることなく、人はいまだその情がないのを悟らず、皆、祖風の節があると言った。蔭位のため清道率府兵曹参軍となり、僕固懐恩が朔方府に左遷されると書記となり、病により免職となった。鴻臚丞に補任され、出て忠州刺史となる。上役に節度府の衛伯玉がいて謁したが、衛伯玉は喜ばず、そこで謝して帰った。次第に吏部郎中に遷り、虢州刺史となった。上奏して、虢州に官豚が三千あって民の患となっていることを述べると、徳宗は、「沙苑に移せ」と言った。𣏌は、「同州もまた陛下の百姓です。臣は食べると役に立つと思います」と言った。帝は、「虢州を守りながらも他の州を憂う。宰相たる人材である」と言った。詔して豚を貧民に賜り、遂に意あって重用された。にわかに召されて御史中丞となり、論奏すれば合わないことはなかった。翌年御史大夫に移り、十日たたずして、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に抜擢された。 すでに志を得ると、賊は険しきによって野宿し、賢者は媚び売って、能者は嫌い、小人は自身に逆らい、死地にかしずかずして止まなかった。将軍は大樹となって威を振るい、衆は権力を弄ぶことを脅かして、そのため自身の地位を固めた。楊炎は𣏌とともに輔政したが、楊炎は𣏌の才能が下であることを卑しんで、喜ばず、いまだ半歳もしないうちに、讒言して楊炎を罷免させた。当時、大理卿の厳郢と楊炎は仲が悪く、そこで厳郢を抜擢して御史大夫として自らの助けとし、楊炎はついに追われて死んだ。張鎰は人材が豊かでゆとりがあり、忠誠心があり、帝はいつくしみ、いまだ間柄が悪くなるようなことはなかった。たまたま隴右で兵を用い、𣏌はそこで帝を見て、偽って行くことを願ったが、帝は許可せず、そこで張鎰を推薦して鳳翔を守らせた。すでにまた厳郢と仲違いしていた。当時、幽州の朱滔と朱泚に言うことが食い違っており、その軍の司馬の蔡廷玉を誣告して仲悪く言い争いして、これを殺すことを願った。にわかにして朱滔が叛き、帝はこれを斥けようとすれば朱滔を喜ばせるだけだとし、御史の鄭詹に按状を下し、柳州司戸参軍に貶め、勅吏が護送した。蔡廷玉は朱滔の所に送られようとしているのだと疑い、よって自ら黄河に身を沈めた。𣏌は上奏して、朱泚が詔によって殺されようとしているのだと疑うことを恐れ、願って鄭詹を三司の共同審理に下して、あわせて御史大夫の厳郢を弾劾した。それより以前、鄭詹と張鎰は仲が良く、𣏌に伺っている時に時間があるごとに、ひとり張鎰に詣でており、𣏌はこれを知っていた。他日に鄭詹が伺って来ると、そこでただちに張鎰の別室に行き、鄭詹が避けて逃げていくと、𣏌はにわかに企みにおよび、張鎰はやむをえず、「鄭侍御はいました」と言ったから、𣏌は表向きは驚いたように「本来言わなければならないところで言うところを、他人の所ではないのに聞かせたということか」といい、ここにいたって合わせて事件とし、詔があって鄭詹は杖死とし、厳郢を費州に流刑とした。杜佑判度支は、帝が最も寵礼するところであったが、𣏌はその罪を醸成し、ついに蘇州刺史に貶めた。李希烈が叛くと、𣏌はもとより顔真卿が諫言を呈するのを憎んでいたから、そこでその軍を宣慰させ、ついに賊のために殺害された。もと宰相の李揆は名望があり、再度任用されるのを恐れて、遣して吐蕃会盟使とし、行って卒した。李洧は徐州を降したため、経略があったが、使人が誤って先に張鎰に申し上げたため、𣏌は怒り、これを瓦解させ、使に功ありとはしなかった。その狙害隠毒なこと、天下は痛憤しない者はなく、𣏌が君の信頼を得ているから、そのため敢えて申す者はなかった。 この当時、兵は河南・河北に駐屯し、兵は連ねて解散することができず、財は日急を要した。ここにおいて度支軍を維持するための分を計算して申請するところを給付すると、月費は緡百万あまりとなり、しかし蔵にはわずかに三か月分しかなかった。𣏌はそこで戸部侍郎の趙賛を判度支とし、その党の韋都賓らは建言して「商人の蓄えた銭千万は、自らの業とすることを許します。千万を過ぎた場合、その溢れたものを貸して軍での決裁とします。軍が解散したら、約束して官が補償します」と言い、帝はこれを許した。京兆はにわかにその期を責められ、校吏は大いに街を捜索し、疑列を占めているのに尽きていないことを疑い、笞うってこれを掠い、人は怨みにたえず、自ら溝に落ちて死ぬ者が相継ぎ、京師は騒然として静かになる日はなかった。しかし田宅・奴婢の価値をつくしても、緡は八十万止まりであった。また僦櫃(櫃の貸し借り)・質舎(家屋の賃貸)・粟を商う者は、四分の一を利とするから、わずかに二百万に至るのみであった。しかし長安は店を閉ざし、民は皆宰相をむかえて祈り訴えるも、𣏌は説き伏せることはなく、走り去ってしまった。帝は民の愁忿を知り、所得が足りないのに軍に給付するのを止めた。趙賛は政略が窮地に陥り、ここにおいて間架税・除陌銭を設けて、意をほしいままに暴虐した。その法は、屋は二架を一間とし、住宅の質に応じて税とし、上は二千、中は千、下は五百、吏は邸・室に入ってこれを測量し、ごまかせば二架ごとに罪にあたり、密告者には銭五万を与えた。おしなべて公私の貿易は、旧法では千銭ごとに二十を数え、請うて五十を加え、仲買人が売るところを注し、その算を役人に入れた。互市より、私に借りた場合は自ら申請し、ごまかした場合、千銭ごとに二万を没収し、密告者には一万銭を与えた。これによって仲買人がその私用で操っていたところを得て、悪事をすれば、公に入るところは常に半分にもならず、しかも怨嗟の声は天下に満ちあふれた。涇師の変におよんで、市で「商人の僦質を奪わないのに、間架税・除陌銭を税とするな!」と叫ぶものがいて、その唱和や造作は怨みを増して乱のきっかけとなり、すべて𣏌がやったことである。 帝が奉天に逃げると、関播とともに従った。後数日して、崔寧が賊中より来て、関播に帝が奉天に逃げることになったのは𣏌の責任とだと言ったから、𣏌はそこで崔寧が叛くと誣告し、帝はこれを殺した。霊武の杜希全が塩州・夏州の二州の兵六千を率いてやってきたが、帝は道に従うところを議し、𣏌は道を漠谷にするよう請うた。渾瑊は、「そうではありません。彼は険が多く、かつ賊に乗じて来たのですから、道を乾陵の北にするのにこしたことはありません。鶏子堆を越えて駐屯し、兵を分けて挟撃すれば、賊を打ち破ることができます」と言ったが、帝は𣏌の議に従った。賊ははたして隘路によって進路を塞ぎ、兵は進むことができず、邠州に逃げ帰った。 李懐光が河北より帰還すると、しばしば賊を破り、朱泚は解囲して撤退した。ある時、王翃と趙賛が、「李懐光がかつて宰相を斥けて謀ができなかったと聞いています。度支の租税を割り当てや取り立てが重く、京兆は刻々と軍賜のために損なわれています。よろしくこれを誅殺して天下に謝すべきです。まさに李懐光は功があり、お上は必ずその言を聴き用いるでしょう。公らには何と危ういことでしょうか!」と二人は𣏌に申し上げた。𣏌 は恐れ、そこで帝を欺いて、「李懐光の勲功は宗社にあり、賊はこれを憚って肝を冷やしています。今その威によって、一挙に平定すべきです。もし来朝を許せば、労って一か所に留まることになります。そうすると賊は残党を集結させることができ、守備の計画を全うされてしまいます。これを謀ること実に難しく、有利な状態で勝利を収め、京師を平定させるにこしたことがなく、破竹の勢いとなるでしょう」と言った。帝はそうだと思い、詔して李懐光を朝拝させず、進んで便橋に駐屯させた。李懐光は自ら千里の艱難の勤めをし、大功があったが、姦臣のために間を阻まれて、天子に一見もできなかった。心は晴れ晴れとせず発するところとてなく、ついに謀反し、よって𣏌らの罪悪を暴露した。士議は騒ぎだし、𣏌を指さして見たから、帝ははじめて目覚め、新州司馬に左遷された。 これより以前、帝が即位すると、崔祐甫が宰相となり、専ら道徳によって主の意を導いた。そのため建中年間(780-783)初頭、綱紀は設けられ、輝く様は貞観の風があった。𣏌が宰相になると、帝に仄めかして刑名をもって天下を糺し、混乱が相継いだ。その弊害・偽りは、国に軍が駐屯しているとはいえ主を辱めるだけで、騒々しくほしいままにこれをなした。後に排斥されたとはいえ、しかし帝はこれを思うことは衰えなかった。興元年間(784)の赦令によって、にわかに吉州長史に移された。𣏌はそこで、「お上は必ずまた我を用いるだろう」と言った。貞元元年(785)、詔して饒州刺史を拝した。給事中の袁高がまさに詔書を作成しようとしたが、草稿を作成するのをよしとせず、宰相に、「𣏌は背いて天常を変え、万乗の君をして播遷(さすらい)の憂き目に合わせました。幸いにも赦されて誅されず、また大州を委ねれば、天下の望みを失うことになります」と言ったが、宰相は喜ばず、そこで別の舎人を召して制をつくった。袁高は固執して制を下すべきではないとした。ここに諫臣の趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦らの多くが答え、極言して、𣏌の罪を四海に棄てて、今またこれを用いれば、忠臣は肝を冷やし、良士を骨を痛め、必ずやまた災いの発端があるとした。その言は懇切丁寧であった。帝は宰相に語って、「𣏌に小州を授けてはどうか?」と聞いたが、李勉は、「陛下が大州を与えるのもまた難なしとすれば、四方の謗りは一体何のでしょか?」と答えたから、そこで詔して澧州別駕とした。後に散騎常侍の李泌が謁見すると、帝は、「袁高らが𣏌の事を論じたが、朕はこれをよしとする!」と言ったから、李泌は頓首・祝賀して、「連日外では陛下のことを漢の桓帝・霊帝のようであると言われていましたが、今は堯・舜のような英主だと知りました」と言ったから帝は喜んだ。𣏌はついに澧州で死んだ。 それより以前、尚父郭子儀の病が甚だしく、百官は見舞いしたが、侍妾を退けなかった。𣏌が至ると、そこで侍妾を退け、脇息を隠して待った。家人は怪訝にその理由を聞くと、郭子儀は「彼は外には心が狭く、内はとげとげしく、左右は見れば必ず笑うが、後に権力を得てしまったら、我が一族に類する者はいないのだ!」と言った。 崔胤は、字は垂休で、宰相崔慎由の子である。抜擢されて進士に及第し、累進して中書舎人・御史中丞に遷った。陰謀を喜び、権勢の強い者に付き従い、その外は自分で自分のことを処置し、荘厳にして持重であり、心は陰険で恐るべきものがあった。崔昭緯がしばしば推薦し、そのため戸部侍郎・同中書門下平章事となる。まさに王珙兄弟が河中を争い、胤を節度使としたが、赴任することができず、半年してまた中書侍郎に復し宰相に留まった。崔昭緯が罪によって誅殺されると、罷免されて武安節度使となり、陸扆が国事を司った。当時、王室は振わず、南司(政府官僚)・北司(宦官)はそれぞれ党派をたてて藩鎮と結び、内は宰相に凌ぎ脅かした。胤はもとより朱全忠と仲良く、心を委ねてこれと結んだ。朱全忠は胤に功績があり、外に出すのはよろしくないといい、そのため宰相に戻って陸扆を追放した。 光化年間(898-901)初頭、昭宗は華州より到り、任務は反乱側を慰撫することで、胤は密かに朱全忠の地とし、兵をほしいままに四たび追討させた。帝はその行いを醜いとし、罷免して吏部尚書とし、陸扆を復帰させて宰相とした。たまたま清海に帥がおらず、よって胤は清海節度使を拝した。それより以前、崔昭緯が死に、王摶らはその死体を発くことを申し、胤はこれに坐して罷免されたから、心に恨みを含んだ。すでに王摶と同じく宰相となり、胤は議してことごとく宦官を去らせようとしたが、王摶は助けず、おもむろに請うてこれを謀った。王摶に宦官を排除する意思がないとみて、その語を朱全忠に漏らし、王摶を公開弾劾して勅使を交えて共に国を危うくするとし、罪は誅に当たった。胤は湖南に行き、召されて帰還して司空・門下侍郎・平章事(宰相)となり、領度支・塩鉄使・戸部使を兼任し、王摶に死を賜い、あわせて中尉の宋道弼・景務修を誅殺し、これによって権力は天下に震い、宦官といえどもまた吐息をひそめた。ここに至って、四たび宰相を拝し、世に「崔四入」と言われた。 劉季述は帝を東宮内に幽閉し、徳王を奉って監国としたが、朱全忠の強気を恐れて、深く胤を怨んでいたにも関わらず、敢えて殺すことなく、宰相を罷免するのに留まった。胤は朱全忠に軍を西進し、帝が幽閉されている所以を問う手紙を出し、朱全忠はそこで張存敬をして河中を攻め、晋州・絳州を攻略した。神策軍大将の孫徳昭は常に宦官が天子を廃し辱めているのに憤り、胤は判官の石戩をしてともに遊ばせ、間に乗じて伺察した。孫徳昭は酒を呑めば必ず泣き、胤はその心をおしはかることができ、そこで石戩をして説いて、「劉季述が天子を廃してより、天下の人は未だかつて忘れず、武夫や義臣は手をこまねていて憤っています。今、謀反者はとくに劉季述・王仲先のみで、他の人は威に脅かされるだけで、ともにすることはありません。君はよく乗じてこの二豎子を誅殺し、天子を復位すれば、功名を取れるのではないのでしょうか。即ち早計ではなく、まさにこれを先んじる者があろうとするでしょう」と言い、孫徳昭は感激して目覚め、そこで胤は謀を告げ、孫徳昭は許諾し、胤は帯を斬って誓いとした。にわかに劉季述・王仲先を誅し、功によって司徒に進んだが、就任せず、また宰相に復し、あわせてまた戸部司・度支司・塩鉄司も復した。帝はこれを恩義とし、朝廷であっても名で呼ばず、字で呼んだ。寵遇は比類なきものであった。 天復元年(901)、朱全忠はすでに河中を取り、進んで同州・華州に迫った。中尉の韓全誨は胤と朱全忠が仲良かったから、朱全忠を誘致することを恐れ、君側より除こうとし、そこで宰相を罷免することを申したが、いまだ罷免される前に、切迫して帝を携えて鳳翔に行幸させた。胤は帝が廃位されたことを怨んでいて、従うのを承諾せず、朱全忠を召喚して兵で天子を迎えることとし、太子太師の盧渥をして群臣を率いて朱全忠を迎えさせた。それより以前、朱全忠は華州に至り、幕府の裴鑄を遣わして奏事し、帝はやむを得ず来朝を聴(ゆる)した。ここにいたって胤はこの謀をなし、そこで兵で行在に迫った。帝は詔を下して鎮に帰還する趣意を示し、よって詔して盧渥らを遣わしてともに西行した。朱全忠は上表して具さに、「書に向かってみると詔は皆宰相から出ていて、今陛下の意思ではないことを知りました。時間を無駄にするところでした。軍は関に入り、李茂貞と和約することを得て恨みを解き、乗輿(昭宗)を迎えることを願います」と述べた。李茂貞は弾劾して、「胤は死士を蓄え、度支使を用いて利益を独占し、自ら陳班を信じ、京兆府の募兵を与え、居るところの坊を守らせています。天子が出軍駐屯し、使者を五人派遣して、横になって動かず、もっぱら表を奉って陳謝いたします」と奏上した。当時、帝は朱全忠の上表文を見て、また大いに怒り、よって詔を下してあきらかに責め、工部尚書を以て知政事(宰相)を罷免し、胤をして華州におらしめた。 それより以前、天復年間(901-904)以後、宦官はもっとも屈して胤に仕え、事があれば諮問しないことはなかった。禁中で議政するごとに、暗くなって燭台を継ぐほどになり、ことごとく宦官を誅殺することを請い、宮人には内司の事のみを司らせようとした。韓全誨らは密かにこれを知って、共に帝の前にてなおも憐憫を請うた。そこで胤に詔して後にまさに密封すべしとしたが、口頭で述べることがなかった。宦官はますます恐れ、いよいよその謀を得ようとし、そこで知書美人の宗柔らの側近より陰謀についてを探ると、胤の計略は次第に露わとなり、宦官はある者は互いに困難な状況に泣き、自ら心を落ち着かせられず、行幸を奪う謀を固めた。 華州にいる時、朱全忠のためにしばしば醜計を謀った。朱全忠は兵を引き上げて河中に駐屯し、胤は迎えて渭橋に謁し、觴(さかづき)を奉って朱全忠の寿を祝い、自ら歌って酒を呑み干した。たまたま李茂貞が韓全誨らを殺し、朱全忠と和約した。帝は急いでこれを召し、墨詔は四・朱札は三で、すべてなお病のようであった。帝が鳳翔を出るにおよんで、朱全忠の軍に行幸し、そこで迎えて道中で謁し、また平章事(宰相)を拝し、位は司徒に進み、判六軍諸衛事を兼任し、詔して邸宅を右軍に移し、帷帳器用十車を賜った。胤はついに、「高祖・太宗は内侍を典軍にすることなく、天宝年間(742-756)以後、宦官は次第に盛んとなり、徳宗は羽林衛を分けて左右神策軍とし、宦官を主とし、二千人を率いさせました。その後、機密に参与・掌握させ、内務百司に至ってはことごとく宦官の手に帰し、それぞれが補っていますがこれは不法であり、朝廷は微弱となり、禍はここに始まるのです。請うらくは左右神策軍・内諸司使・諸道監軍を廃止せんことを」と奏上し、ここにおいて内外の宦官はことごとく誅殺され、天子が詔命を伝導するときは、ただ宮人の寵顔らのみが用いられた。 帝が鳳翔にある時、盧光啓・蘇検を宰相としたが、胤は皆追放してこれを殺し、行幸に従った近臣陸扆ら三十人あまりを分けて追放し、ただ裴贄は一人だけ留まっていたから、留めてともに政務に当たった。帝は動静を胤に一決し、敢えて言うことはなかった。胤は皇子を元帥とし、朱全忠を副元帥とし、功績を褒め称えることを示すよう議した。朱全忠は心内で輝王(後の哀帝)が幼くて利するとし、そのため胤の言をかりて請うた。帝は「濮王は年長だが、どうか?」と言ったが、禁中に帰って、翰林学士の韓偓を召して謀した。韓偓は陰で胤を助けていたから、ついに胤の奏は退けられなかった。朱全忠は東に帰還し、長楽に至った。群臣は並んで見送りの言葉を送り、胤は一人霸橋に至って酒を置き、乙夜に帰還した。帝はそこで召して「朱全忠の安否はどうか」と問い、ともに飲み、宮人に命じて舞剣曲を演奏させ、戊夜に退出し、二人の宮人を賜ったが、固辞して許された。この時、天子は孤独で危うく、威令はまったく去ってしまい、胤の傲慢な様はこのようであった。侍中・魏国公に累進した。 鳳翔より帰還すると、朱全忠がまさに簒奪しようとしていると考えられたから、おのが宰相を顧みて、一日禍が及ぶかと恐れ、兵を掌握して自ら固めようとし、偽って朱全忠に、「京師は李茂貞が迫っており、防備することができません。是非とも軍を募って守らなければなりません。今、左右龍武軍・羽林軍・神策軍は、鳳翔への行幸の余党で、兵にみるべきものはありません。願わくは軍に四人の歩将、将を二百五十人、一人の騎将、将を百人を置き、交代制で近侍させます」と言い、京兆尹の鄭元規を六軍諸衛副使とし、陳班を威遠軍使とし、兵卒を市で募った。朱全忠はその意を知っていたが、表向きは相応しいとして許した。胤はそこで仏寺を破壊し、銅鉄を取り出して兵仗とした。朱全忠は密かに汴人数百人を応募して、その子の朱友倫を宿衛に入らせた。たまたま朱友倫が毬戯(ポロ)をしていて、馬から落ちて死んだから、朱全忠は胤の陰謀を疑って大いに怒った。その時、胤がまさに帝を携えて荊州・襄州に行幸し、そこを朱全忠が乗輿(昭宗)を脅して都を洛陽にしようとしていると伝えられたから、異議を恐れて、密かに胤が専横して国を乱していると上表し、誅殺を請うたから、そこで宰相を罷免されて太子少傅となった。朱全忠はその子朱友諒に兵で開化坊の邸宅を包囲させて胤を殺害し、汴の兵は皆突出し、市の人は争って瓦礫を投げてその死体を撃った。年五十一、鄭元規・陳班らも皆死んだ。実に天復四年(904)正月のことであった。 胤は罷免されてからおよそ三日で死に、死んでから十日で、朱全忠は帝を脅して洛陽に遷都し、長安の居人を発してことごとく東に向かわせ、家屋の木を撤去して渭水より黄河をたどって下り、老いも幼きも道に続き、泣き叫ぶ声は絶えず、皆大いに罵って、「国賊崔胤が全忠を導いて社稷を売り、我をしてこのようなことになった」と言った、これより先、朱全忠は河南を根拠としていたが、強者を顧みて諸侯と互いに対峙していたから、未だ敢えて国を移すまでに決しなかった。胤が内隙を間として、互いに結び、その禍いの手引きを得て、朝権を取って強大となり、ついに天下は滅び、胤の身も屠られ唐室は滅んだ。世に言うところでは、崔慎由は晩年になっても子がなく、異僧に遇って術を求めると、そこで胤が生まれ、小字を緇郎としたという。宰相となるに及んで、その叔父の崔安潜が唸って、「我が父や兄が刻苦して門戸を保ったが、ついに緇郎のために壊されるとは!」と言ったという。 崔昭緯は、字は蘊曜で、その先祖は清河の人である。進士に及第した。昭宗の時になると、仕えて次第に頭角を現し、戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となり、位にあることおよそ八年、尚書右僕射に累進した。性格は陰険で、密かに宦官と結び、外は列強諸侯と結び、内は天子を制してその権力を固めた。族人の崔鋋をして王行瑜の邠寧節度使の幕府に仕えさせた。他の宰相が建議するごとに、または詔令が自分に有利なものではないとき、必ず崔鋋をして密かに王行瑜に告げ、上書させて誹謗攻撃し、自身は陰でおもんねって助けた。まさにこの時、帝室は衰え、人主は臣下の為に動かされて危うい状態のようであった。それより以前、帝は杜譲能に委ね兵や兵糧を調えて鳳翔を討とうとしたが、昭緯はまさに李茂貞・王行瑜を頼って重んじられていたから、密かにその計を知って、そこで走って告げた。兵を使う機会だとして宮中に向かわせ、遂に杜譲能を殺した。後にまた三鎮の兵を導いて韋昭度らを殺した。帝の性格は厳格かつ公正であり、忍ぶにたえず、たまたま王行瑜を誅殺し、そこで昭緯を罷免して右僕射とした。また朱全忠が自薦し、また諸王に賄賂をあつくしたから、奏するところとなり、梧州司馬に貶され、詔を下してその五罪を数えあげ、死を賜うこととなった。任地に赴く途上で江陵に行くと、使者が到り、斬られた。崔鋋もまた誅殺された。 柳璨は、字は炤之で、柳公綽の族孫である。人となりは粗野で、その家は諸柳氏の末葉のようではなく、幼くて独り身で貧しかったが好学で、昼は薪を採って費とし、夜は葉を燃やして書を照らし、博覧強記となり、多く通暁するところであった。劉知幾の『史通』を過失や欠点をあげて非難し、『史通析微』を著し、当時、ある者はこれを称えた。判史館の顔蕘は、璨を引き上げて直学士としたから、これによってますます名を知られた。左拾遺に遷った。昭宗は文を好み、李磎を待って最も厚遇したが、李磎が死ぬと、心では常に李磎に似た者を求めた。ある者が柳璨の才能が高いのを推薦し、文を試験してみると、帝は善とし、翰林学士に抜擢された。 崔胤が死ぬと、昭宗は密かに璨を宰相にするとよいと思ったが、外には知る者はなかった。日が暮れて禁中から出ると、士が走って伝えて宰相を呼んだから、人は皆大いに驚いた。翌日、帝は学士承旨の張文蔚に、「璨の才能を用いるべきで、今宰相に抜擢したいが、何の官を授ければいいだろうか?」と言ったから、答えて、「賢を用いるのに素質を計ることはありません」と言った。帝は、「諫議大夫ではどうだろうか?」と言ったから、「はい」と言った。ついに諫議大夫・同中書門下平章事(宰相)となった。布衣(平民)から身を起こして、ここにいたるまで四年もならず、そのにわかに貴くなること近世にいまだなかった。裴枢・独孤損・崔遠は宿望の旧臣で、ともに宰相の位を同じくしたが、すこぶる軽んじられて、璨は心内では怨んだ。朱全忠は簒奪弑逆をはかり、宿衛の士を皆汴人とし、璨は一層あつく朱全忠と結び、蒋玄暉・張廷範と最も互いに得た。既に朱全忠を擁して、そのため朝権は皆璨の手に帰した。中書侍郎・判戸部に進み、河東県男に封じられた。 天祐二年(905)、長星が太微・文昌の間より出て、占者は、「君臣皆不利で、多くを殺せば天変を塞げるでしょう」と述べた。蒋玄暉・張廷範はそこで璨と謀って大臣宿老で有望な者を殺し、璨は手づから疏して妬む者を仇とするように独孤損ら三十人あまりを、皆誅殺し、天下は冤罪であるとした。朱全忠はこれを聞いて不善であるとした。その後九錫(皇帝より臣下に下賜された九種類の最高の恩賞)の授与を急がせたが、宣徽北院使の王殷は璨らと事を構え、九錫の授与には二心があると言い、そのため九錫の礼は至らなかった。蒋玄暉は恐れ、自ら行って弁解した。朱全忠は怒り罵って、「お前と柳璨の輩は我を阻み、九錫をもたらさなかったが、天子のためにそうしたのか?」と言った。璨は恐れ、そこで哀帝を脅して、「人望は元帥に帰しています。陛下は天子の位を譲って授けてしまってください」と言い、璨は自ら行くことを請い、昇進して司空を拝し、冊礼使となり、即日道を進んだ。蒋玄暉が死ぬと、朱全忠は璨が己に背いたことを怒り、登州刺史に貶め、にわかに除名して平民とし、崖州に流刑し、ついでこれを斬った。刑に臨んで悔いて舌打ちして、「国賊を負った柳璨は、死んで当然だ」と言い、弟の崔瑀・崔瑊もみな拷問死した。 蒋玄暉は、幼い頃は卑賎で、その系図は著すことができなかった。朱全忠に仕えて腹心となった。昭宗が東遷すると、玄暉は枢密使となった。帝が陝州に駐屯すると、術家は星緯が異常で、かつ大変があり、冬に洛陽に行幸すべきであると言った。帝は朱全忠が必ず簒奪すると思っていたから、衛官の高瓌に命じて帛を持って詔を王建に賜い、遷都を脅されていることを告げ、また、「朱全忠は兵二万で洛陽を治め、まさにすべて我の左右から去らせようとしている。君は李茂貞・李克用・楊行密と同盟し、檄文を襄州・魏州・幽州・鎮州に伝え、それぞれが軍で我を迎えて京師に帰還させるべきである」と述べた。また朱全忠に詔して、「皇后はまさに妊娠しているから、十月になってから東に行くべきである」と述べたが、朱全忠は帝に謀があるのを知り、寇彦卿を遣わして圧迫催促し、天子はやむを得ず、遂に行幸した。穀水に至って、朱全忠は左右の黄門・内園の小児五百人をことごとく殺害し、禁衛をすべて汴兵に代えた。それより以前、朱全忠は鳳翔に至って、邠州に侵攻すると、節度使の楊崇本は降伏し、その家族を人質とした。楊崇本の妻は美しく、朱全忠はこれと姦淫し、そのため楊崇本は怒った。ここにいたって使者を遣わし李克用・李茂貞と会し、南は趙匡凝および王建に告げ、同じく兵を挙げて脅かして遷都を強行したのを詰問する書状を出し、朱全忠は大いに恐れた。 帝は関中から出て以来、今後や予想できないことを恐れ、常に黙って座って涙を流していた。玄暉と張廷範は様子を探って、必ず朱全忠に報告していた。朱全忠は帝が帝位を禅譲する気がないことを恨み、そこで弑逆を謀って人望を絶やすこととし、よってその部下の李振に玄暉を説得させた。玄暉は龍武統軍の朱友恭・氏叔琮とともに夜に勇士百人を選抜して行在を叩き、急奏があると言って、帝に謁見を請うた。宮門が開くと、門に十士を留めて守らせた。椒蘭院中に至ると、夫人の裴貞一が関を開くとこれを殺し、そこで殿下を走った。玄暉は、「お上どこにおわしますか?」と言い、昭儀の季漸栄が「院使よ、お上を傷つけてはなりません。むしろ私を殺しなさい!」と言ったが、士は剣を持って侵入し、帝は聞いてにわかに単衣を着たまま逃げ、柱の周りをまわったが、ついに弑逆された。季漸栄は身をもって帝を庇い、また死んだ。また皇后を捕らえたが、皇后は憐みを請うた。玄暉は朱全忠が帝を弑逆したものだとして、そこで皇后を釈放した。翌日、宰相は対面を要請したが、日暮れになっても出ず、玄暉は遺詔を偽って、帝が夜に昭儀と愛し合い、裴貞一と季漸栄のために弑逆されたと言って、二人の首を出した。朱全忠は河中より来朝して、李振に、「晋の文帝(司馬昭)は高貴郷公(魏の廃帝髦)を殺したが、罪は成済に帰させた。今よろしく朱友恭らを誅殺して、天下の謗を解くべきだ」と言い、朱全忠は西内(大明宮)を走って臨み、嗣天子に対して自ら弑逆は本謀ではなく、皆朱友恭らの罪であると言い、泣いて下がり、罪人の討伐を願った。この時洛陽城は旱魃で、米一斗の値は銭六百にあたり、軍に穀物を掠奪する者がいたから、都人は怨んでいた。そのため衆を喜ばせようと、朱友恭・氏叔琮を斬った。朱全忠が九錫を迎えると、玄暉は自ら詔を持って汴に走って申し上げた。洛陽に帰還すると一日もしないうちに、朱全忠は詔を偽って逮捕拘禁し、役人はこれを車裂の刑とし、兇逆百姓に貶め、死体を都の門外で焚いた。 張廷範は、俳優であったことから朱全忠に愛され、東遷に付き添って御営使となり、金吾衛将軍・河南尹に進んだ。朱全忠は廷範を太常卿に任命したかったが、宰相の裴枢が不可としたから、ここにいたって裴枢は罷免されて追われた。柳璨は朱全忠の意に迎合して詔を下したが、内も外も責めて妄りに流品清濁を言うことができず、ついに廷範を太常卿とした。たまたま天子がまさに郊祀をし、修楽県使となり、また蘇楷らとともに昭宗の諡号を論駁した。朱全忠が九錫の授与の件で怒っており、王殷は張廷範と柳璨らが天を祀って唐室の延長を祈っていると誣告したから、蒋玄暉は死に、柳璨は誅殺され、そこで廷範を莱州司戸参軍に貶し、河南市で車裂の刑に処された。 氏叔琮もまた汴州の人であり、中和年間(881-885)末に感化軍に属し、騎士として奮戦し、性格は沈着勇壮で胆力があった。朱全忠が黄巣を陳州・許宗の間で撃破してから、右諸将と名乗り、親校となった。時溥・朱宣と戦い、戦功を重ねて検校尚書右僕射、宿州刺史となった。趙匡凝を襄陽に攻めたが勝てなかった。また李克用と洹水で戦い、曹州刺史に遷った。天復年間(901-904)初頭、沢州・潞州を陥落させ、太原を攻撃し、晋慈観察使を授けられた。朱全忠が鳳翔に駐屯すると、李克用は絳州を襲撃し、臨汾を攻めたが、氏叔琮は二人の壮士で沙陀に似た者を原に牧馬させ、李克用の軍とともに進み、隙を伺ってそれぞれ捕虜を一人得て帰還した。李克用は大いに驚き、伏兵があるのかと疑い、遂に屯蒲に退いた。たまたま朱友寧が兵三万を率いて来援に来たが、叔琮は、「賊は逃げてしまった。功を立てようとしても無理だな」と言った。そこで軍を潜めて夜に遊騎を派遣し、数百を殺して、進んでその砦を破り、捕虜・斬首は一万人、馬三千を鹵簿し、遂に長駆して汾州を奪取し、転戦して太原に迫ってから帰還した。検校司空に遷り、再び昇進して保大軍節度使となった。 朱全忠は帝を洛陽に遷そうとし、上表して叔琮を右龍武統軍としたが、ともに帝を弑逆し、そのため朱全忠は請うて叔琮を白州司戸参軍に貶し、これを斬った。叔琮はまさに死のうとしている時、「朱温(朱全忠)は私を売って天下を取る。神理というのは何なのか?」と叫んだ。 朱友恭は、もとは李彦威である。寿州の人で、汴州に客人となった。財を任俠に殖え、朱全忠は愛して子として養い、長剣都を領した。功績を積み、上表して検校尚書左僕射となった。乾寧年間(894-898)、汝州刺史、検校司空を授けられた。楊行密が鄂州に侵入すると、友恭は将兵一万あまりで杜洪に援軍し、江州に至り、還って黄州を攻めてここに入城し、楊行密の将を捕虜とし、捕虜・斬首は一万ばかりを数えた。また安州を襲撃して守将を殺した。潁州刺史・感化軍節度留後に遷った。帝が東遷すると、左龍武統軍となったが、崖州司戸参軍に貶められた。刑に臨んで、「朱温(朱全忠)が私を殺せば、また一族が滅ぶだろう!」と言った。また張廷範に語って、「お前もこうなるぞ」と言ったという。 賛にいう、木がまさに倒壊しようとしているとき、虫は実に発生している。国がまさに滅ぼうとしているとき、妖は実に産み出された。そのため三宰は女傑に嘯かれて時を奪われ、李林甫が蕃を用いて黄屋(皇帝)を奔らせ,鬼質(黄巣)に敗れて興元府に潜み、崔胤・柳璨は李家の宗室を倒して覆した。嗚呼、国家にある者は、戒めとしないべきだろうか! 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十三上 列伝第一百四十八上 『新唐書』巻二百二十三下 列伝第一百四十八下つづき 巻二百二十四上 列伝第一百四十九上
https://w.atwiki.jp/qmaqma/pages/44.html
大見出し Q:ドイツの社会主義者・ラッサールが自由放任主義の国家を批判して用いた有名な言葉は? A:夜警国家 (自由主義国家論において提唱される、国家は最低限の治安維持などの活動しか行わない国家ただし「夜警国家」自体はフェルディナント・ラッサールが自由主義国家論を批判するときに用いた言葉) Q:肖像メダルを数多く作成しておりメダル作家としても名声を得た「エステ家の王女」などで有名な15世紀イタリアの宮廷画家は? A:ピサネロ (Pisanello1395年頃のイタリア生まれミニアチュール風の緻密な描写を特徴とした代表作にサン・フェルモ・マッジョーレ聖堂の「受胎告知」、肖像画「リオネロ・デステの肖像」など) Q:人間の尾骨や虫垂のようにかつては機能していたが現在は退化した生物の器官 A:痕跡器官 Q:ベネゼエラの首都 A:カラカス (Caracas中心のリベルタドルと隣接するミランダ州のチャカオ、スクレ、バルタ、エルアティジョを合わせて呼ぶことがある1567年にスペイン人ディエゴ・デ・ロサダが建設したサンチャゴデレオンデカラカスが前身) Q:太陽系最大の衛星 A:ガニメデ (直径約5000km名前はギリシア神話に登場するトロイアの王子、ガニュメデスに由来し、小惑星にも同名のものがある) Q:多面体の定理などに名を残すスイスの数学者はレオンハルト・○○○○? A:オイラー (レオンハルト・オイラー[Leonhard Euler]1707年スイス生まれ主にロシアで活動した解析学や代数学、幾何学など数学の広い範囲で多くの業績を残したオイラーの多面体定理=多面体においては、「頂点の数-辺の数+面の数=2」が成り立つ) Q:光線がコロイド溶液中を通る時に光の道筋が見える現象 A:「チンダル」現象 (光の波長よりも小さい粒子によるレーリー散乱によって散乱するアイルランドのジョン・チンダルJohnTyndallが発見) Q:道路標識などに表記されている、県を意味するアルファベット4文字の略称 A:PREF (prefecturalの略) Q:道路標識などに表記されている、政令指定都市の区を意味するアルファベット4文字の略称 A:WARD (wardで「区」という意味) Q:資本力と政治力で石油の採掘から販売まで一手に行い市場の影響力の大きい巨大企業複合体の総称 A:メジャー (米エクソン、モービル、シェブロン(以上はロックフェラーのスタンダード・オイルが前身)、テキサコ、ガルフ、英BP、蘭ロイヤル・ダッチ・シェルで「セブン・シスターズ」と呼ばれた現在はエクソンモービル、シェブロン・テキサコ、BP、ロイヤル・ダッチ・シェルに集約された) Q:5世紀から6世紀にかけて中央アジアを跋扈したイラン系の騎馬遊牧民族 A:エフタル (Ephthalトルコ系、トゥルク系など諸説クシャーナ朝の残党を滅ぼし、サーサーン朝やグプタ朝に干渉したが、6世紀に突厥とサーサーン朝に滅ぼされた) Q:火力発電の中で、石油や石炭などを燃やした熱で水を蒸気に変え、その力で電気を作る方法 A:汽力発電 (火力発電には他に内燃機関を用いる内燃力発電、内燃機関の廃熱で汽力発電を行うコンバインドサイクル発電がある) Q:『日の沈む所』という意味がある、北アフリカの地中海沿岸諸国のこと A:「マグレブ」諸国 (アラビア語で「西」という意味) Q:宗教観などの違いから分裂する危険性をはらんでいる、先住民や移民などの他民族・他文化で構成される国の通称 A:「モザイク」国家 Q:ネパールとブータンに挟まれた場所にあり首都をガントクに置いたが1975にインドに併合された A:「シッキム」王国 (1642年にチベット人が建国1890年にイギリスの保護領になる1974年に議会で親インド派が台頭、翌年4月9日にインド軍が介入、翌日にインドの保護領となった) Q:中国の書物「戦国策」の中の言葉で、虹が太陽を突き抜けるようにかかる現象を表した言葉で革命の前兆とされた A:白虹貫日 (戦国策・魏策に登場し、燕の太子が秦王へ暗殺者を送ったという故事から白虹=武器、日=君主の象徴とされる) Q:物質波の概念を提唱してノーベル物理学賞を受賞した、フランスの理論物理学者 A:ドブロイ (ルイ・ド・ブロイLouis-VictorPierreRaymond1892年生まれ7代ド・ブロイ公爵でもあるアンリ・ポアンカレ研究所の理論物理学教授として1929年にノーベル物理学賞受物質波=移動している粒子はある波長(ド・ブロイ波長)の波であるという考え方シュレーディンガーにより波動力学の定式化に用いられた) Q:農村が過疎化する原因にもなっている一家族がまるごと都市郡へ移り住むという動き A:挙家離村 Q:ニルムド王宮を守る人頭有翼獣身像 A:ラマッス (身体は牛ニルムド王宮=紀元前13世紀頃にアッシリア王シャルマネセル1世が建設したイラク北部にある遺跡) Q:(沖縄海洋博のアクアポリスの画像)これが開催された年 A:1975 (1975年7月20日~1976年1月18日に沖縄県本部町で開催された現在跡地は沖縄記念公園となっている) Q:チンギスハンの血統を継ぐムガル帝国の創始者 A:バーブル (テュルク系の貴族母がチンギス・ハンの次男チャガタイに始まるモグーリスタン・ハン家の王女だったシャイバーニー朝に中央アジアを追われ、その後インドに侵攻しムガル帝国を建国した) Q:(「河岸段丘」からの分岐)海が削られて出来る地形のこと A:海岸段丘 (太平洋沿岸に多い) Q:「事柄を説明するのに、必要以上の仮説を立ててはならない」と言う意味の言葉 A:「オッカム」の剃刀 (14世紀の神学者・オッカムのウィリアムWilliamofOckhamが提唱したオッカムはイングランドにあった村の名前) Q:親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想 A:悪人正機 (仏教は人を悪の道から救うのが目的であり、悪人こそ往生するのにふさわしい、ということ) Q:3月から4月にかけて長期的な雨が続くこと A:菜種梅雨 (この頃に菜の花が咲くことから) Q:「ヨーロッパ最北の都市」といわれるノルウェーの町ハンメルフェストがある島 A:「クバレイ」島 (北緯70度39分に位置し、ハンメルフェスト島の西岸にあり、市制を施行する都市では世界最北第2次大戦時ドイツ軍によって破壊され、戦後計画都市として復興した) Q:アスファルトの感光性を利用して写真の撮影に成功したフランスの発明家 A:ニエプス (ニセフォール・ニエプスJosephNicephoreNiepce1765年生まれ1826年に息子のイシドールと共にアスファルトと白鑞(銅と亜鉛の合金)板で映像を定着させたその後ルイ・ダゲールLouisJacqueMandeDaguerreと共同研究し、ダゲールはニエプスの死後の1839年に銀板写真を発明した) Q:1877年に日本赤十字社の全身である博愛社を創設した明治時代の政治家 A:佐野常民 (1823年肥後生まれ維新前は漢学や医学を学ぶ維新後は兵部省で海軍の基礎を築く西南戦争をきっかけに1877年博愛社を設立、1887年日本赤十字社と改称した) Q:奥の細道で詠まれた有名な俳句 A:あらたふと「青葉若葉」の日の光 (4月1日に日光で詠んだ奥の細道=1689年に松尾芭蕉が弟子の河合曾良と共に行った旅行の記録) Q:約30兆8千6百億キロメートルを1とする天文学上の距離の単位は? A:パーセク ([parsec]年周視差が1秒角となる距離(1天文単位の長さが円弧上で1秒度(3600分の1度)となる距離) Q:(パーセクの分岐)地球と太陽の平均距離 A:「てんもん」単位 (AUという単位で表される地球の公転軌道(楕円)の長半径1.4959787066×10^11m) Q:「江戸生艶気樺焼」などの作品で知られる江戸時代の作家 A:山東京伝 (本名岩瀬醒1761年江戸生まれ草双紙の挿絵画家・北尾政寅としてデビュー寛政の改革により処罰され、以降作家となった) Q:勝海舟、山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれている人物 A:高橋泥舟 (たかはしでいしゅう本名精一郎1835年江戸生まれ幕府の講武所で槍術を教えたりし、その後は徳川慶喜につき、護衛役を果たした) Q:ロッキー山脈に吹く風 A:チヌーク ([Chinook]「チヌック」ともロッキー山脈の東側に吹くフェーン風吹いた後は気温が上がるため「雪食い(snoweater)」と呼ばれる名前はアメリカ北西にあるコロンビア川の河口北岸一帯にいたネイティブ・アメリカンの部族に由来) Q:(顔だけの像の写真)この巨石文明の名前 A:オルメカ ([Olmeca]メキシコ南東部で紀元前13世紀~紀元前後にわたって栄えたナワトル語で「ゴムの地の人」という意味玄武岩でできた、歴代の王がモデルとされる巨石人頭像で有名) Q:2005年8月に死去した、サウジアラビアの近代化の立役者である第5代国王 A:ファハド (ファハド・ビン・アブドゥル=アズィーズ・アール=サウード1923年生まれとされる内相などを経て1982年国王就任6代国王にはアブドゥッラーが就いたちなみにサウジ王は皆アブドゥルアズィーズ初代国王の直径子孫) Q:東大初の女性教授 A:中根千枝 (1926年東京生まれ津田塾専門学校から東大へ進学1970年に東京大学東洋文化研究所の教授となった) Q:『一千一秒物語』の作者 A:稲垣足穂 (いながきたるほ1900年大阪生まれ関西学院在学中に同人誌「飛行画報」を創刊その後佐藤春夫の家に寄宿し作品を書くが、佐藤と対立し同人誌へ発表の場を移した) Q:『チボー家の人々』を書いた A:マルタン・デュ・ガール ([Roger Martin du Gard]1881年フランス生まれ代表作に戯曲「ルルー爺さんの遺言」など1937年ノーベル文学賞受賞) Q:2005年9月に再選を果たしたエジプトの大統領 A:ムバラク (ムハンマド・ホスニー・ムバラク1928年生まれ空軍司令官を経て1975年副大統領に就任1981年サーダート大統領の暗殺を受け大統領に就任し現在に至る) Q:カルスト地形に見られる、雨水による溶食でできたすり鉢状の窪地 A:ドリーネ ([doline]スロベニア語で「谷」という意味地下の石灰岩が溶けて空洞になり、その部分の地上がへこむ) Q:(ドリーネの分岐)隣接するドリーネがお互い成長してつながったもの A:ウバーレ([uvale]スロベニア語で「露岩」という意味「カルスト」はスロベニア北西部の地方krasに由来) Q:プエルトリコにある世界最大のアレシボ電波望遠鏡のものが特に有名な、地球外知的生命体を探索するプロジェクト A:SETI ([Search for Extraterrestrial Intelligence]1960年のフランク・ドレイクらによる「オズマ計画」が前身) Q:マゼランが世界一周の航海の際に立ち寄り、原住民と戦い戦死したフィリピンの島 A:「マクタン」島 (マゼランはキリスト教への改宗と服従を要求し、これに反発したマクタン島の酋長ラプ・ラプの軍隊がマゼランを殺害した) Q:『太平広記』を出典とする生き別れたり離婚していた夫婦が再び一緒になることを表す四字熟語 A:破鏡重円 (はきょうじゅうえん割れた鏡が元通りになること太平広記=977~978年に編纂された、漢から五代までの475の説話をまとめたもの) Q:100カペイカを1とするロシアの通貨単位 A:ルーブル (ロシア革命前から利用されている1961年に10分の1、1998年に1000分の1のデノミネーションが行われた) Q:江戸時代後期の蘭学者宇田川榕庵が著した日本初の化学書のタイトル A:舎密開宗 (セイミかいそう1837年刊行「セイミ」はオランダ語で「化学」という意味イギリスのウィリアム・ヘンリーの物理学書"AnEpitomeofChemistry"の重訳(間にトロムスドルフのドイツ語版、アドルフ・イペクチーのオランダ語版を挟む)宇田川榕庵=1798年美濃国生まれ 1811年に宇田川玄真の養子となり、津山藩医を経て1826年にショメール百科事典を「厚生新編」として翻訳主な著書に「西洋度量考」「和蘭志略稿」など) Q:江戸時代後期の蘭学者宇田川榕庵が著した日本初の物理学書のタイトル A:気海観瀾 (きかいかんらん1827年刊行オランダのヨハネス・ボイスの"Natuurkundigschoolboek"の翻訳漢文で書かれており、その後川本幸民が解説書「気海観瀾広義」を出版したことで広まった青地林宗=1775年伊予国生まれ杉田玄白の下で蘭学を学び、幕府の司天台訳員となり洋書の翻訳に従事する主な訳書に「輿地誌略」「遭厄日本紀」など) Q:正岡子規が死の二日前まで新聞に連載していたエッセイの題名 A:病牀六尺 (六尺=病室のベッドの長さ正岡子規=本名・升1967年伊予国生まれ東京帝大卒業後、新聞「日本」に入社し「獺祭書屋俳話」を連載病牀六尺の連載も「日本」だった) Q:ベルベル人が作った王国 A:モロッコ (ベルベル人=北アフリカに住む、ベルベル諸語(アフロ・アジア語族)を母語とするギリシャ語で「文明の外にいる人」を意味するバルバロイbarbaroiに由来紀元前10000~4000年頃のカプサ文化が由来とされ、ローマ時代はキリスト教を、7世紀以降はイスラム化が進行、11世紀からムラービト朝・ムワッヒド朝・マリーン朝が興り、1660年アラウィー朝が成立、現在のモロッコとなった) Q:イラク東北部に存在する紀元前70000年ごろの新石器時代最古の遺跡 A:ジャルモ (Jarmoシカゴ大学のブレイドウッドが194~55年に発掘小麦や大豆の栽培の跡がある数十の家があり、数百人が住んでいたとされる) Q:平安時代の貴族が朝廷に古来から伝わる儀礼や礼式、法令などを研究する学問 A:有職故実 (「有職」=朝廷や公家に関する知識「故実」=昔の儀式・作法などの習わし) Q:(問題文不明確)宇宙空間であらゆる方向に放射される電磁波 A:「宇宙背景」放射 (宇宙空間全域からほぼ均等に観測されるさまざまな電磁波の放射主なものはマイクロ波で、他にX線や赤外線などがある) Q:ソルジェニーツィンの小説『ガン病棟』で、マースレニコフ博士が見つけたガン治療薬の名前 A:チャーガ (カバノアナタケというキノコ実際に効果(医学的根拠)があるかは不明) Q:錦絵の考案者 A:鈴木春信 (1725年頃の生まれ錦絵は1765年に鈴木を中心とした彫り師や摺り師が創始した) Q:シュガートレインの走る沖縄の島 A:南大東島 (シュガートレイン=1917~84に運行していたサトウキビ輸送用の鉄道) Q:応仁の乱で東軍の総大将 A:細川勝元 Q:(細川勝元の分岐)西軍の総大将 A:山名宗全 (応仁の乱=細川勝元と山名宗全の対立に始まり、足利義政の後継者問題や畠山・斯波両家の家督争いが絡んで勃発した戦争1474年に和議が成立した戦国時代のきっかけといわれる) Q:平沼騏一郎内閣が総辞職した時に述べた言葉 A:欧州情勢は「複雑怪奇」 (8月23日に締結された独ソ相互不可侵条約を受けて発言平沼騏一郎内閣=1939年1月5日~8月30日平沼騏一郎=1867年岡山生まれ大審院検事・貴族院議員などを経て、1939年内閣結成欧米との協調路線や対立路線などを繰り返した戦後A級戦犯となるが病気釈放) Q:日本が鎖国していた時に設置されていた出島のオランダ商館の館長のこと A:カピタン ([capitao]英語の[captain]と同語源) Q:戊戊夢物語を書いて~ A:高野長英 (1804年陸奥国生まれシーボルトの鳴滝塾で学び、その後江戸で蘭学塾を開いた「戊戌夢物語」は外国船打払令を批判したもの) Q:「赤い蝋燭と人魚」などの代表作を持つ日本のアンデルセンと呼ばれる児童書作家 A:小川未明 (おがわびめい(「みめい」は通称)1882年新潟生まれ東京専門学校(現早大)予備校在学中に「漂浪児」でデビュー1926年童話作家へ転身代表作「野ばら」「殿さまのちゃわん」など) Q:松平信綱の別名 A:知恵伊豆 (役職・従五位下伊豆守から1596年武蔵国生まれ1901年松平正綱の養子となる1633年には六人州(後の若年寄)の1人となる徳川家光・家綱の2代に渡り老中を務めた) Q:592年、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を暗殺した人物 A:東漢直駒 (やまとのあやのあたいのこま東漢直磐井の息子暗殺の後、馬子の娘・河上娘と密通して処刑された) Q:有島武郎の小説「或る女」の主人公 A:早月葉子 (初出時「或る女のグリンプス」というタイトルだった有島武郎=1878年東京生まれ1923年婦人公論記者の波多野秋子と不倫、情死する) Q:1616年に中国の清朝を創始して初代皇帝となった A:ヌルハチ (愛新覚羅努爾哈斉1559年生まれ明から女真族のリーダーに選出されるその後1616年金(後の清)を建国、女真の民族名を満州に改めたその後明を攻撃するが、1626年戦闘中の怪我が元で死去) Q:新興宗教「真如苑」の開祖である宗教家 A:伊藤真乗 (本名文明1906年山梨生まれ1936年真言宗の一派として「成田山立川立照講」を設立する戦後「まこと教団」として真言宗から離脱、1955年現在の名前に改称) Q:朱印船貿易や富士川、天竜川、高瀬川の開発を行ったことで有名な江戸時代の豪商 A:角倉了以 (すみのくらりょうい1554年京都生まれ高利貸しを営み、これを元手に各種事業に進出した) Q:代表作に「出家とその弟子」「愛と認識との出発」がある明治時代の作家 A:倉田百三 (1891年広島生まれ結核に苦しみ、病床で執筆活動を行った1943年死去) Q:南米の国、ガイアナの首都 A:「ジョージ」タウン ([Georgetown]元はオランダ領で「スタブロークStabroek」という名前だったが、1812年に占領したイギリスによって改称されたハノーヴァー朝初代王のジョージ3世から) Q:西南の役で敗れた西郷隆盛が自害するとき、介錯を務めた人物 A:別府晋介 (1847年薩摩国生まれ戊辰戦争で活躍し、維新後近衛陸軍大尉となった1873年の明治六年政変後は西郷と共に下野するその後西南戦争に参加し、敗北が決定的となった1877年9月24日、西郷を介錯し、その後自決した) Q:中国歴史上ただひとりの女帝となった唐の高宗の皇后 A:則天武后 (「武則天」とも623年生まれ在位690~705年太宗の後宮に入り、高宗の皇后となると垂簾政治(皇后や皇太后が皇帝に代わって政治を行うこと皇帝の背後にある垂簾の中にいたことから)で独裁的な政治を行った) Q:本を燃やして儒教学者を殺した、始皇帝の政策 A:焚書坑儒 (秦の始皇帝が紀元前213年に行った思想統制政策農業や医学など以外の書物をを焼き払い、同時に始皇帝に従わない儒教学者約460人を生き埋めにした) Q:底が10の対数 A:常用対数 (工学などの一部の分野では「対数」というとこれを指す対して、底がネイピア数(e)のものを「自然対数」という) Q:16世紀後半に世界最強を誇ったスペインの無敵艦隊 A:アルマダ (スペイン語で「無敵艦隊」という意味の"ArmadaInvencible"から1558年にフェリペ2世がイギリス征服のために派遣した130隻からなる艦隊イギリス軍の小回りのきく艦船に苦戦し、プリマス沖海戦・グレイブライン海戦で敗北、壊滅した) Q:雪をブロック状に切り出しドーム状に積み上げた、イヌイットの作る住居 A:イグルー ([igloo]「家」という意味) Q:その数は1万人以上に上る、EU機関で働く加盟国の職員のこと A:ユーロ「クラート」 ([Eurocrat]EU官僚のこと) Q:脳底の動静脈の吻合の異常の病気を、X線に映る像の様子から A:「もやもや」病 (正式には「ウィリス動脈輪閉塞症」という頚動脈の閉塞や狭窄が起こる) Q:「奥の細道」に登場する松尾芭蕉の俳句 A:「あかあか」と日はつれなくも秋の風 (金沢で詠んだとされる) Q:ハヤシ・フェイズなどに名前を残す宇宙物理学者 A:林忠四郎 (1920年京都生まれ湯川秀樹に学び、浪速大(現大阪府立大)助教授を経て1957年から京大教授ハヤシ・フェイズ=恒星がHR図(ヘルツシュプルング・ラッセル図縦軸に絶対等級、横軸にスペクトル型(表面温度)を取った図)上で主系列星になる前に明るく輝く時期) Q:「ジャンボ」が「こんにちは」の意味になる言語 A:「スワヒリ」語 Q:朝永振一郎、シュウインガー、ファインマンらによって提唱された理論 A:「くりこみ」理論 (元々は金融で元金に利息を加えたものを新たな元金とする手法のこと素粒子物理学などで使われる、真の電子の質量や電荷を逆符号の無限大とおくことで計算結果の発散を防ぐ数学的技法) Q:雪の観察記録や雪国の自然民衆生活などを記した「北越雪譜」を著した江戸時代の文人 A:鈴木牧之 (1770年生まれ) Q:『田舎教師』『蒲団』で知られる文学者 A:田山花袋 (本名録弥1872年栃木生まれ1981年「瓜畑」でデビュー死の直前の1930年に国木田独歩、太田玉茗らと詩集「抒情詩」を刊行) Q:1979年に皇帝パフラヴィー2世を追放し、イラン革命を成しとげたシーア派の指導者 A:ホメイニ (アヤトッラ・ルーホッラー・ホメイニ1900年頃生まれイスラム法学者として活動した後、1979年にイラン・イスラム革命を指導し、パフラヴィー朝2代国王モハンマド・レザーを追放した) Q:薩長による藩閥政治が批判されたときに行われた、薩長政府を正当化する演説 A:蛮勇演説 (1891年に松方内閣の海軍相だった樺山資紀が行った「藩閥への批判をする者がいるが、今まで国の平和が守られたのは一体誰のおかげか」という内容の演説) Q:710年平城京に遷都した天皇 A:元明天皇 (第43代天皇在位707~715年天智天皇の第四皇女文武天皇から聖武天皇への中継ぎとして即位した) Q:離れ小島を本土とつなぐ砂州 A:トンボロ ([tombolo]陸繋島とも函館山や江ノ島、マカオなど) Q:教科書?や軍歌で有名な「加藤隼戦闘隊」の加藤隊長のフルネーム A:加藤建夫 (1903年北海道生まれ加藤隼戦闘隊=陸軍飛行第64戦隊の通称) Q:(山東京伝からの分岐)『復讐妹背山物語』『小桜姫風月奇観』で知られる山東京伝の弟 A:山東京山 (本名岩瀬百樹1769年江戸生まれ篆刻の傍ら作家活動をし、評論「歴世女装考」などを著した) Q:著書に「無常といふ事」「考へるヒント」などがある今は亡き評論家 A:小林秀雄 (1902年東京生まれ1929年雑誌「改造」の懸賞論文「様々なる意匠」でデビュー代表作「本居宣長」「ドストエフスキイの生活」など) Q:オランジュリー美術館が所属しているフランスの画家アンリ・ルソーの代表作 A:「ジュニエ」爺さんの二輪馬車 (ルソーの近所に住んでいた食品店のクロード・ジュニエ一家がモデルルソー=HenriRousseau1844年生まれ元々税関職員の傍ら絵を描いていたが、退職後は本格的に作品に取り組んだ代表作「戦争」「眠るジプシー女」など) Q:作家の深沢七郎が、1965年から亡くなるまでずっと住んでいた埼玉県にある牧場 A:「ラブミー」農場 (深沢が1965年に作った深沢七郎=1914年山梨生まれ1955年「楢山節考」で中央公論新人賞を受賞しデビュー1960年「風流夢譚」の内容が元で、中央公論社社員が右翼活動家に殺害される事件(嶋中事件)が起こる) Q:小説『セールスマンの死』の主人公のセールスマンの名前 A:ウィリー・「ローマン」 (かつては優秀なセールスマンだったが、老後は収入が減り、最終的には保険金目的に自殺したアーサー・アッシャー・ミラーArthurAsherMiller=1915年ニューヨーク生まれラジオや舞台の脚本を手掛け、1949年の「セールスマンの死」は舞台版がトニー賞・ピュリッツァー賞受賞代表作「るつぼ」「橋からの眺め」など) Q:独立運動を指導したフィリピンの国民的英雄 A:ホセ・「リサール」 ([Jose Rizal]1861年生まれスペイン留学などを経て、言論面で独立運動を指揮する秘密結社カティプナンを結成するが、スペイン軍に捕らえられ処刑された) Q:アナトール・フランス「神々は渇く」の主人公 A:エヴァリスト・「ガムラン」 (アナトール・フランス=本名ジャック・アナトール・フランソワ・チボー[Jacques Anatole Francois Thibault]1844年フランス生まれ代表作「赤い百合」「舞姫タイス」など) Q:向田邦子の直木賞受賞作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』が収められた短編集の題名 A:思い出「トランプ」 (向田邦子=1929年東京生まれ映画雑誌編集を経て、脚本家として活躍「時間ですよ」「阿修羅のごとく」などを手掛ける1981年飛行機事故で死去) Q:突然変異のうち白色になるもの A:アルビノ ([albino]日本語では「白子」「先天性色素欠乏」とも酸化酵素のチロシナーゼの先天的不全によりメラニン生成がないもしくは限りなく少ない) Q:千利休の弟子で「一期一会」という言葉を作った A:山上宗二 (著書の「山上宗二記」に記述がある山上宗二=1544年生まれ堺の豪商で、千利休に学び秀吉や前田利家に仕えた晩年は北条氏に仕えたが、秀吉の小田原責めの際に処刑された) Q:1932年に血盟団を組織した、昭和初期の狂信的国家主義者 A:井上日召 (本名・昭1886年群馬生まれ満州鉄道で諜報活動等を行い帰国、日蓮宗の僧侶となる血盟団事件を起こし無期懲役、戦後公職追放の対象となる孫に元オウム真理教の井上嘉浩がいる) Q:中世イスラム世界で君主が軍人に土地を与え土地の管理を委ねた制度 A:「イクター」制 (アラビア語君主が軍人に「カティーア」と呼ばれる土地を与え、管理及び徴税の権利を委任した8世紀頃からあったが、10世紀以降はアッバース朝の財政悪化に伴い軍人への給与支払に用いられるようになった) Q:670年に作られた日本初の全国的な戸籍 A:庚午年籍 (天智天皇の代に「近江令」によって作成され、氏姓を記録した6年に一度作成され、30年間保存される名前は670年が庚午(かのえうま)の年だったことに由来) Q:犬追物・流鏑馬・笠懸を三つ合わせて A:騎射三物 (きしゃみつもの) Q:アフリカの国、ウガンダ共和国の首都 A:カンパラ ([Kampala]ビクトリア湖北岸の高地(標高約1300m)にある) Q:NTTグループが民営化される前の名前 A:電電公社(「電々公社」も可) (日本電信電話公社1952年に電気通信省の広州電気通信現業部門を引き継ぐ形で発足した1985年、日本電信電話株式会社法の施行に伴い解散、日本電信電話(NTT)に業務を継承した) Q:中東の国「ヨルダン」の正式名称 A:ヨルダン・「ハシミテ」王国 (正式名アル=ムマルカ・アル=ウルドゥニーヤ・アル=ハーシミーヤ「ハシミテ」は「ハーシム家の」という意味の形容詞"Hashemite"からハーシム家は国王の出身家で、ムハンマドの従弟であるアリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻に始まるとされる) Q:デンマークの言語学者オットー・イェスベルセンが開発し1928年に発表した、人口国際補助言語の一つ A:ノビアル ([Novialnov-International Auxiliary Language]の略ヨーロッパの10の言語をベースに作られた) Q:哲学者ジャック・デリダが用いた、男女間における男性の優位性を根底とする考え方のこと A:「ファルス」中心主義 ([phallocentrisme]西欧形而上学の持っている感性よりも叡知、身体よりも精神に優位があるという関係は、男性優位の論理と不可分であるとする考え方ジャック・デリダJackieDerrida=1930年アルジェリア生まれ(フランス人)ポスト構造主義の代表的哲学者として「脱構築」「グラマトロジー」などの概念を生んだ) Q:太宰治の『走れメロス』の舞台となる都市の名前 A:シラクサ ([Siracusa]シチリア島南東部にある紀元前734年にギリシア・コリントスの植民が町を開き、紀元前4世紀にはカルタゴを破りシチリア島全域を支配する紀元前212年にローマ帝国に敗れ陥落した) Q:硯友社を設立した、「金色夜叉」でも知られる作家 A:尾崎紅葉 (硯友社=1885年に東大予備門の学生で結成し、同年日本初の純文学雑誌「我楽多文庫」を発刊した尾崎の死と共に解散した) Q:カエサルが「賽は投げられた」と言って渡った川 A:「ルビコン」川 (イタリア北部を流れ、アドリア海に注ぐ「ピザテッロ」「フィウミチノ」とも紀元前49年、イタリア(ローマ本国)と属州ガリア=キサルピナの境界で、ポンペイウスと対立したカエサルが元老院に召還された際に↑を言って川を渡ったちなみに「賽は~」は元々ギリシャの詩人メナンドロスの作品から取られたもの) Q:生物の寿命に関係があると考えらている染色体の両端にある部分を何という? A:テロメア ([Telomere]ギリシア語で「末端」を意味する"telos"と「部分」を意味する"meros"から作られた語細胞分裂の度に短くなり、ある程度短くなると分裂が停止する) Q:大阪府で唯一の村 A:千早赤阪村 (1956年に千早村と赤阪村が合併して誕生1294年に楠木正成が生まれた地でもある) Q:1915年親子でノーベル物理学賞受賞 A:ブラッグ (父ヘンリー・ブラッグ、子ローレンス・ブラッグX線による結晶構造解析に関する研究で受賞子のローレンスは当時25歳) Q:ドイツのスコラ哲学者で「全科博士」と呼ばれる A:アルベルトゥス・「マグヌス」 ([Albertus Magnus]1193年頃ドイツ生まれイタリアのパドヴァ大学で哲学、自然科学、医学を学び、その後ドミニコ会で神学を学んだ多くの学問に精通し、「全科博士(doctor universalis)」と呼ばれた砒素の発見者とされる) Q:香港最大の島 A:「ランタオ」島 (「大嶼山」とも1998年開港の香港国際空港の空港島がある香港はランタオ島、香港島などの約200の島と大陸の一部である新界からなる) Q:省都をウルムチに置く中国最西端の自治区 A:新疆「ウイグル」自治区 (中国北西にあるウイグル族の民族自治区面積は全土の6分の1を占める13世紀にモンゴル帝国に、18世紀に清の支配下に置かれた) Q:ナトリウムやカルシウムの発見者 A:デービー (ハンフリー・デービー[Humphry Davy]1778年イギリス生まれ王立研究所で化学の普及活動に努めるボルタ電池を用いた電気分解により1807~08年にかけてカリウムやストロンチウム、バリウム、マグネシウムを発見した) Q:「アラビア海のガラパゴス」と呼ばれる島 A:「ソコトラ」島 (ソマリア、アシル岬の東北東に浮かぶ商船の寄港地として栄え、現在は多くの山羊が飼育されている) Q:大化の改新の実行犯 A:中臣鎌足 (614年生まれ蘇我氏打倒のため孝徳天皇や中大兄皇子に接近、さらに蘇我氏の内紛を利用し、645年に飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺したその後669年に天智天皇から藤原姓を受け、藤原氏の始祖となった) Q:1989年にチェコスロバキアで起こった革命 A:「ビロード」革命 (共産党第一書記のミロシュ・ヤケシュが民主化要求に屈し退陣、アレクサンデル・ドゥプチェクとヴァーツラフ・ハヴェルらが連邦会議議長、大統領に就任した「ビロード」は生地の種類で、流血の事態が避けされたことをビロードの柔らかい肌触りに例えたもの) Q:船の側面に荷物落下防止の菱形の仕切りを作ったことに由来する大坂と江戸の間の貨物輸送を行った江戸時代の船を何という? A:菱垣廻船 (江戸時代に上方と江戸とを結んだ廻船(輸送船)「菱垣」は竹製の菱組格子を両弦に組んだことに由来) Q:皇位を譲った天皇のことを上皇といいますが、これは何の略 A:太上天皇 (中国での呼び方「太上皇」に由来出家すると太上法皇(法皇)と呼ばれる) Q:物理学で液体の構造を表す模型に名を残すイギリスの物理学者 A:ケルビン (ウィリアム・トムソンの通称(ケルビン卿)流体力学において渦原子仮説(現在では否定されている)などを提唱した) Q:共和制初期の古代ローマの貴族の世襲制度 A:パトリキ ([patrici]ラテン語のpeter(父)に由来紀元前287年にホルテンシウス法が成立し、制度上は平民との階級差はなくなった) Q:(パトリキの分岐)平民階級のこと A:プレブス ([plebs]) Q:大和政権の時代に大陸から渡来してきた人々のうち、刀剣などの鋳造に従事する者のこと A:韓鍛冶部 (かぬちべ4~5世紀に朝鮮半島からわたってきたそれ以前にも倭鍛冶と呼ばれる刀鍛冶はいた) Q:脳神経の中で「第三脳神経」と呼ばれるもの A:動眼神経 (眼球運動を司る) Q:(動眼神経の分岐)「第四脳神経」と呼ばれるもの A:滑車神経 (上斜筋の眼球運動を司る主な脳神経は左右に12対あり、1番目から嗅神経・視神経・動眼神経・滑車神経・三叉神経・外転神経・顔面神経・内耳神経・舌咽神経・迷走神経・副神経・舌下神経) Q:初めて全モンゴルを統一した匈奴の第2代の王 A:冒頓単于 (父は初代王の頭曼単于だったが、疎まれ一時期養子に出されていた冒頓はその後紀元前220年にクーデターを起こし父らを殺害、王位に就いた) Q:弾性体を引っ張った時の縦方向の伸びと横方向の伸びの比率をフランス人科学者の名前から A:「ポアソン」比 ([Poisson s ratio]弾性限界内で物体に力を加えたときの、力の方向に伸びた割合と力に垂直な方向に縮んだ割合の比逆数を「ポアソン数」というポアソン=シメオン・ドニ・ポアソン[Sime on Denis Poisson]1781年フランス生まれポアソンの偏微分方程式や統計学におけるポアソン分布で知られる) Q:リトアニア南東部に位置する同国第2の都市で、杉原千畝がユダヤ人に脱出用ビザを大量発行したのはどこ A:カウナス ([Kaunas]ニャムナス川とニャリス川の合流点にある元は13世紀頃に城壁として発展し、その後交易都市へと移行1919~1945年までワルシャワが占領されたため臨時の首都となった杉原千畝=1900年岐阜生まれ1924年に外交官となり、1940年7~9月にかけてのビザを書いた) Q:昭和新山に代表される、粘度の高い溶岩が火口内で固まり柱となって地表に押し出された山容を何という? A:火山岩尖 (「ベロニーテ」「溶岩尖塔」とも溶岩塊が地表に押し上げられてできた火山) Q:イタリアで、火山観測所が設けられていた山 A:ベスビオ ([Vesuvio]イタリア・カンパニア州にある複合成層火山で、標高1281m79年にはポンペイを埋没させた1880年には登山列車が開通し、記念して楽曲「フニクリ・フニクラ」が作られた) Q:日本のリンネといわれた蘭学者 A:小野蘭山 (1729年京都生まれ松岡恕庵に本草学を学び、その後幕府の命で江戸の医学館で講義するかたわら、薬草採集を行った著書に「本草綱目啓蒙」などカール・フォン・リンネCarlvonLinne=1707年スウェーデン生まれ著書『自然の体系』で動植物を分類し、「分類学の父」と呼ばれるまた、学名における二命名法や綱・目・属などの概念を考案した) Q:物理学で液体の構造を表す模型に名を残すイギリスの物理学者 A:バナール ([John Desmond Bernal]1901年生まれX線を用いた結晶構造解析により水などの分析を行った著書に「科学の社会的機能」「歴史における科学」など) Q:エーゲ海に浮かぶギリシアの島で、世界七不思議のひとつと言われた巨大な太陽神像がある島 A:「ロードス」島 (ドデカネーゼ諸島に属するリンドスのカレスが紀元前3世紀頃に建てた、全長約34mの太陽神ヘリオスの象があったとされる) Q:光合成、炭素同化回路 A:「カルビン」回路 (「カルビン-ベンソン回路」「還元型ペントース燐酸回路」とも光化学反応により生じたニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸(NADPH)とアデノシン三リン酸(ATP)を用いて炭素固定を行う) Q:ギリシャ語で「軽い」という意味のミュー粒子、タウ粒子、電子、ニュートリノの総称 A:レプトン ([lepton]) Q:大西洋にある、首都リスボンの西にある9つの島からなるポルトガル領の諸島 A:「アゾレス」諸島 ([Azores]リスボンの西約1500kmに位置し、主要な9つの島からなる1431年にポルトガルのエンリケ王子の命による艦隊が発見かつては大航海時代の中継地や捕鯨基地、現在は保養地として有名) Q:『十五少年漂流記』で少年たちが乗る船の名前 A:スラウギ (スクーナー(縦帆のマストを持つ帆船)十五少年漂流記=ジュール・ヴェルヌが1880年に発表した小説で、原題は"Deux Ansde Vacances(2年間の休暇)") Q:主に傾斜面に形成される肥沃な土壌 A:レンジナ (腐植質炭酸塩土温帯湿潤気候などの地域での森林において、石灰岩の上にできる黒色土壌) Q:鎌倉時代に鎌倉沖に造られた人工島 A:和賀江島 (1232年、荷の積み下ろしのために僧侶の往阿弥陀仏が北条泰時の許可を得て造った石積みの小さな築堤で、現在は干潮時にのみ現れる) Q:カリフォルニアとメキシコの頭文字から名付られたメキシコ北西部の都市 A:メヒカリ ([Mexicali]バハ・カリフォルニア州の州都カリフォルニア州側のカレキシコ[Calexico]と姉妹都市中国からの移民が多く、メキシコ最大のチャイナタウンがある) Q:極東国際軍事裁判で裁判長を務めたオーストラリアの法律家 A:ウィリアム・「ウェッブ」 Q:明治時代に制定された、天皇の在位中は元号を変えない制度 A:「一世一元」の制 (もとは明で使われた制度)