約 13,035 件
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/56.html
船山輔之(ふなやますけゆき) 元文三年(1738)-文化元年(1804) ■プロフィール 仙台藩天文家・和算家 天文方山路家暦官 通称:喜左衛門 後に 喜一(喜市) 号 :国賢 佐清 通称喜一、喜左衛門。大番士。中西流和算を戸板保佑に学ぶ。後に戸板と共に幕府暦官山路主住の門に入る。著書に絵本工夫錦絵がある。 安永9年に江戸にでて山路家の暦官となる。 初め善左衛門と称す。 仙台諸士藩籍上によれば、船山家の禄は10貫1文とある。加美郡一関(色麻)、一之迫刈敷(志波姫)、三之迫石越(石越)などを知行地として拝領している。 船山は戸板に師事した後、戸板と一緒に山路の弟子となり関流の数学を学びました。関東普請役となり、江戸に出て、山路と戸板の間を結ぶ重要な役割をしていたと考えられます。 船山は安永4年に私済調暦を著しています。これは安永5年から22年間の暦で日食・月食の予報も計算されています。この頃天文方は、閏月の置き方を間違えるというミスを相次いで起こしています。安永2年、4年、そして天明6年です。私済調暦の中には7回の閏月があります、天明6、寛政4年、寛政6年の閏月の計算が間違っています。寛政7年に藤広則は、土御門泰栄に対し、天明6年の閏月に関する書状を送っています。土御門家からの返答書には『近頃頒暦に所載の閏月に不審の儀奉伺候処去る子年(寛政4年)より古法に被相復候条其の旨可相心得由御命之趣難有奉承知候』とあります。渋川景佑によれば、朔の時刻より前に中気があった場合に間違いが生じており、漢文の翻訳ミスから生じたものであるとされています。 船山が山路についた年については、次の3つがあります。 安永7年(1778) 「山路の雇員になった」仙台藩士辞典 安永9年(1780) 明治前日本数学史、佐英墓誌 寛政2年(1790) 「幕府天文官山路某に属し天文方手伝になる」伊達世臣家譜 仙台藩士辞典によれば、船山は安永7年に山路の雇員になったとあります。一方で、伊達世臣家譜では寛政2年(1790年)、幕府天文官山路某に属し天文方手伝になるとあります。安永7年は、山路徳風が養父の跡目を継いだ年であり、寛政2年は山路徳風が天文方に任命された年です。しかし、明治前日本数学史にある安永9年については何の年なのかは不明です。 「絵本工夫之錦」は子供向けの和算の本です。寛政7年に上下編が、寛政10年には、解答編である後編が出版されました。算題と子供の目を引くイラストが書かれていますが、当時の学者の間では、いたって不評であったとあります。 フナヤマ・スケユキ【船山輔之】 天文家。通称喜左衞門また喜一、天文學を戸板善太郎保佑に學び、後ち保佑と共に幕府暦官山路主住の門に入りて其の蘊奥を極む、著に絵本工夫の錦前後篇三巻あり、この人蓋し前項の舟山喜市と同一人か。 フナヤマ・キイチ【舟山喜市】和算家。中西流算法は元祖毛利勘兵衞重能(慶長年間の人)より傳ヘて仙台藩士戸板善太郎(黄海)に至り、黄海より大番組舟山喜市に傳ふ。 フナヤマ・スケキヨ 【船山佐清】算學家。善左衞門と称す、戸板善太郎保佑の高弟にて関流、中西流算學の両傳を得たり。 フナヤマ・スケヒデ【船山左英】 天文家。字は伯美、圭山と号す、通称を左司馬と曰ふ、祖喜一、諱は輔之、安永九年天文學に通ずるを以て、辟されて幕府の暦官山路氏の属員となり、家を江戸に移す、父善左衞門、諱は佐清と称す、佐英天保四年十一月、暦作測量助役となり、十年四月蛮書和解書役に転じ、文久元年四月疾を以て職を辞す、慶應二年九月九日没す、享年五十三、仙台北八番丁江巌寺に葬る。(碑文) ■船山輔之年表 元文3年(1738) 生まれる。 宝暦年間 3両を貰い、戸板に関流の数学を学ぶ。 宝暦10年(1760) 冬至、戸板保佑、山路主住より、見題、隠題免許。 宝暦12年(1762) 五月、戸板保佑の門人となる。稽古料三両を受ける。 宝暦13年(1763) 正月11日、中西流の免許を授かる。 明和年間 山路の門人となる。 明和4年(1767) 2月、関東御普請方となる。 明和4年(1767) 6月、江戸へ行く? 明和5年(1768) 6月1日、戸板保佑より関流の免許(隠題・伏題)を受ける。 明和6年(1769) 算法御用指南。 明和7年(1770) 11月28日、山路主住より関流の免許を受ける。 安永元年(1772) 山路主住、没する。 安永3年(1774) 江戸から問題を送る。 安永4年(1775) 「私済調暦」を著す。 安永5年(1776) 冬、山路之徽より、別伝、印可、一子相伝の免許を受ける。 安永6年(1777) 戸板保佑、山路之徽より、印可免許を受ける。 安永7年(1778) 山路之徽、没する。 安永7年(1778) 山路の雇員となる。(仙台藩士辞典)10貫001文(諸士藩籍) 安永7年(1778) 5月、日野多利之助、船山の門人となる。 安永9年(1780) 天文方の属となる。(明治前日本数学史) 天明元年(1781) 日野多利之助、関流の免許を受ける。 天明4年(1784) 戸板保佑、没する。 寛政2年(1790) 9月幕府天文官山路才助に属する。天文方手伝となる。 寛政3年(1791) 12月幕府より官資5口を賜る。 寛政7年(1795) 1月作暦方および測量方手伝頭。 「絵本工夫之錦」上下2巻を著す。 寛政9年(1797) 2月改暦のため京都に行く。幕府はその資金のため50両を賜う。 12月江戸に帰る。白銀20枚を賜る。 寛政10年(1798) 「絵本工夫之錦」後編 文化元年(1804) 幕府より、測量事務を免じられる。 9月12日歿。享年67才。10月、左直測量方手伝。官資5口を賜る。 船山佐直 文化元年(1804) 9月喜一没。 11月12日、藩士船山右馬之助左直、測量方手伝。官資5口を賜る。 文化2年(1805) 4月家を継ぐ。 6月住まいを江戸に移す。 文化8年(1811) 10月目を患い測量の御役御免。 文化11年(1814) 10月再び、暦作手伝いとなり官資5口を賜る。 文政6年(1823) 12月長年の功績を称え、白銀2枚を賜る。 文政13年(1830) 9月、親類書。 船山佐英 左司馬と称する。伯美、圭山と号する。 文化11年(1814) 5月、江戸で生まれる 天保4年(1833) 11月 暦作測量助役 天保10年(1839) 4月 蛮書和解書役、給米三人口 天保13年(1842) 7月15日、幕府より禄二人口を加増される 天保14年(1843) 暦作御用 弘化元年(1844) 海上砲術の蘭書翻訳により、幕府より銀子7枚を賜る。 嘉永2年(1849) 褒美を受ける 嘉永5年(1852) 褒美を受ける 嘉永7年(1854) 褒美を受ける 安政2年(1855) 褒美を受ける 文久元年(1861) 4月 病気のため、辞職。褒美を受ける 文久2年(1862) 仙台に帰る。 慶応2年(1866) 9月9日没する。享年53才。 ■師弟関係 {要調} 戸板保佑─>┬─────>┬─船山佐直輔英 ─────船山左司馬佐英 | | | | 山路主住──┼─船山輔之─┼?小倉才助(山路徳風) | | | | 山路之徽──┘ └─日野多利之助 (中西流) ■関連資料
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/351.html
和蘭甲比丹参府年表(享保二―明和七) 出典:岩崎克己「前野蘭化」p93-p106(昭和13)による 年表 享保 二 1717 參府甲比丹ヨアン・アウエル(JOAN AOUWER)・ 外科ウィルレム・ワーヘマンス (WILLEM WAGEMANS).附添和蘭大通詞中山喜左衛門、和蘭小通詞加福喜七郎。 Astrolabium の用法に就いて質問に来た人がある。栗崎道有、外四人の官医がワーヘマンスに質問した。 Jons JONATONS(1603-1675)の「動物図譜」、即ち Nanebeurige Beschryving van de Natur der Viervoetige Dieren, Vissen en Bloedloose Water-Dieren, Vogelen, Kronkel-Dieren, Slangen en Draken, Uyt het Latyn vertaelt door, M.GRADIUs Ansterdam, 1660. を甲比丹の許へ持参し、書中の動物の名を記し得るかと尋ね、出来るであらうと答へたが、此の時はその儘持ち帰った。該書は寛文三年(1663) 甲比丹ヘンドリック・インデイク (HENDRIK INDLK)が将軍家綱へ献上したものであった。 享保 三 1716 甲比丹クリスティアーン・フィン・フレイベルへ(CHRISTIAEN VAN VRYDERGHE).大通詞名村八左衛門、小詞岩瀬徳兵衛。 名村が再び「ヨンストンス」の著書を商館長の許へ持参したので、動物の名称・産地等の記入を手傳ってやった。(換言すれば、名村は通詞でありながら、「ヨンストンス」が解読出来なかったのである。) 享保 四 1717 甲比丹ヨアン・アウェル、外科ワーヘマンス。大通詞楢林量右衛門、小通詞西吉太夫。 二人の天文學者が来訪した。新井白石がワーヘマンスに質問した。 享保 六 1718 甲比丹ルーロフ・ディオダーテ (ROELOFF DIODATE) 外科フィリップ・ビーテル・ミェスクルス(PHILIP PIETER MUSCULUS).大通詞中山喜左衛門、小通詞加福喜七郎。 和蘭に於ける家屋の建築法・消火法を質問に来た人がある。長崎奉行日下部丹後守博貞の家臣が拳銃の打ち方を訊ねた。 享保 七 1722 甲比丹ヘンドリック・デュルフェン(HENDRIK DURVEN). 大通詞名村八左衛門、小通詞岩瀬徳兵衛。 享保 八 1723 甲比丹ヘンドリック・デュルフェン、外科ウィルレム・ケテラール(WILLEN KETELAAR),筆者ヘラルディス・ベルナルデュス・フィッセル(GERARDUS BERNARDUS VISSCHER). 大通詞 加福喜七郎、小通詞馬田忠左衛門。 日下部丹後守の家臣が「ヨンストシス」の著書を持参したので、加福がその中魚類の譜若干を邦訳してやった。同家臣はまた船の模型に就いても説明を求めた。フィッセルは和蘭甲冑の着け方を示した。 享保 九 1724 甲比丹ヨハネス・テーデンス (JOHANNES THEDENS), 外科ウィルレム・ケテラール、筆者ヘラルディス・ベルナルデュス・フィッセル。大通詞今村市兵衛、小通詞名村五兵衛。 桂川甫筑が来訪した。 享保 十 1725 甲比丹ヨハネス・テーデンス、外科ウィルレム・ケテラール。大通詞中山喜左衛門、小通詞森山太夫。 或る官医が患者三人を連れて来訪した。 享保十一 1726 甲比丹ヨアン・デ・ハルトッホ (JOAN DE HARTOGH). 大通詞名村五兵衛、小通詞品川與兵衛。 調馬師「ケイズル」も此の時随行した。栗崎道有が蒸溜法その他を質問した。 享保十二 1727 甲比丹ビーテル・ボーケステイン (PIETER BOOCKESTEIN), 外科ダヴィット・ドリンクマン(DAVID DRINKMAN). 大通詞加福新左衛門、小通詞横山又次右衛門。 深見久太夫が天文・暦法に就いて質問した。 御坊主三人・建部彦次郎・栗崎正堅・牧野升朔・丹羽正伯等が来訪した。 享保十三 1728 甲比丹アブラハム ミンネンドンク(ABRAHAM MINNENDONK) 大通詞今村市兵衛、小通詞名村藤左衛門。 享保十四 1729 甲比丹ビーテル・ボーケステイン、外科ダヴィット・ドリンクマン。大通詞中山喜左衛門、小通詞森山徳太夫。 深見久太夫、及び御坊主が来訪した。又商館長の参礼とは別箇に、此の年の秋、調馬師「ケイズル」が江戸へ下った。附添通詞は今村市兵衛と古雄忠次郎。そして翌年の春になって、新らしく参礼の商館長に随って長崎に帰った。 享保十五 1730 甲比丹アブラハム・ミンネンドンク、外科ハルベルト・エーフィルス (HARBERT Evets) 大通詞名村八左衛門、小通詞品川與兵衛。 深見久太夫が獨逸文の地図を示して説明を求め、又牛酪その他の品を所望した。 享保十六 1731 甲比丹ビーテル・ボーケステイン、外科ブルジュー(BOURGEUX)、大通詞加福新右衛門、小通詞横山又右衛門。 丹羽正伯・深見久太夫等が来訪した。 享保十七年 甲比丹ピーテル・ボーケステイン、外科ヘンドリック・トンプソン(HENDRIKTHOMPSON) 大通詞 森山徳太夫、小通詞中山惣兵衛。 深見久太夫が来訪した。栗崎正堅・井関正伯・丹羽正伯・内田玄勝・長尾全庵等が醫術本草・鋳物等に就いて質問した。 享保十八年 甲比丹ヘンドリック・ファン・デル・ベル (HENDRIK VAN DER BEL) 大通詞名村八左衛門、小通詞吉雄忠次郎。 桂川甫筑が医術・膏薬に就いて質問した。 享保十九 1734 甲比丹ロヒール・デ・ラーフィル(RGIER DE LAVER)、 大通詞名村八左衛門、小通詞加福萬次郎。 享保二十 1735 甲比丹グヴィット・ドリンクマン、外科ヘンドリック・ファン・ハーステル(HUNDRIK VAN HAASTER)、大通詞横山又右次衛門、小通詞本木清左衛門。 調馬師「ケイズル」が随行した。深見久太夫が天文學に就いて質問した。 元文 元 1736 甲比丹ベルナルデュス・コープス・フルーン (BEINARDUs Coops GROes) 外科ディルク・ファン・ホルバッハ (DIEK VAN HORDAGH) 大通詞森山徳太夫、小通詞中山惣右衛門。 調馬師ヤン・トェップハルト・ウェルネル (JAN JEPHART WERNER, of WERNIER)が随行した。深見久太夫が和蘭暦法・月の運行・講星の排列・日蝕月蝕の理由等に就いて質問した。 元文 二 1737 ヤン・ファン・デル・クライセ(JAN VAN DER CRUIJSSE), 外科ディルク・ホルバッハ。大通詞名村八左衛門、小通詞吉雄伯左衛門。 深見久太夫が来訪し、将軍の注文品として、説明附きの動植物図譜を輸入すべきことを申し渡した。 元文 三 1738 甲比丹ヘラルデュス・ベルナルデュス・フイッセル、外科ヘンドリック・ファン・ハーステル、上筆者ヤン・パイス (JAN BUIJS). 大通詞中山喜左衛門、小通詞加福萬次郎。 深見久太夫が暦法・新月満月の理・潮の満干等に就いて質問した。 元文 四 1739 甲比丹ヘラルデュス・ベルナルデュス・フィッセル、外科ヘンドリック・ファン・ハーステル、上筆者ヤン・バイス。大通詞横山又次右衛門、小通詞末永徳左衛門。 元文 五 1740 甲比丹トマス・ファン・レー (THOMAS VAN RHEE), 外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、上筆者ヤン・バイス。大通詞森山徳太夫 小通詞今村源左衛門。 寛保 元 1741 甲比丹ヤーコップ・ファン・デル・ワーイェン (JACOB VAN DER WAELJEN) 外科フィリップ・ビーテ ル・ミュスクルス、筆者ヤン・ファン・デン・ブリール(JAN VAN DEN BRIEL) 大通詞吉雄藤三郎、小通詞名村進八。 深見久太夫が REMBERTUS DODONAEUS(1517-1585)の「植物學書」、恐らくは、 Cruydt-Boeck van REMBERTI Dodona;, volgene sijne latete Verbeteringhe lactste een Beschrijvinghe vande Indiaensche Ghewassen, meest glictrocken uyt de Schriften van Canokys CivIVK Antwerpen Inde Plautijusche Druckerije van Balthasar Moretus, M.DC.XLIV. 或ひはその一六一八年版(参照『好書故事』巻第80。因みに蘭訳本初版の標題は左の如くである。 Cruydobocck in den welcken die gehcele Historie, dat 't Gellacht, ' Fadoen, Naem, Natuery Craclet ende Werckinge, ran den Cruyden, nict alleen hier te Iande rosenude, mier oock van den anderen Vreemden, in der Medecijnen omboorlyck, met grooter Neersticheyt begrepen ende verclaert es met derselver Cruyden natuerlick naer dat Leven Conterfeytsel daerby gestelt Antwerpen, 1554) を持参して質問した。野呂元丈は「ヨンストンス」の著書を携へて問を発した。 EMMANCEL SWEIRTS(1572-1602)の『植物図譜』、恐らくは、 Florilegium tractans de variis floribus et aliis indicis plantis, ad virum delineatum in duabus partibus et quatuor linguis concinnatum. Proetat enale una cum floribus ipsis, apud ipsum autorem, EMAN, SWEERTIUS cujus officina ante euriam Francosur. 1612. を持参して、質疑した官医もあった。 寛保 二 1742 甲比丹トマス・ファン・レー、外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、上筆者ヤン・ヘンドリック・ベークマン(JAN HENDRIK BEECKMAN of BEEKMAN) 大通詞中山喜左衛門、小通詞茂七郎右衛門。 青木昆陽・野呂元丈・深見久太夫等が来訪した。 寛保 三 1743 甲比丹ヤーコップ・ファン・デル・ワーイン、外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、簿記役ニコラース・パルタサル・クルックホフ (NICOLAAS BALTHASAR KLOEKHOFF, of BALTHAZAR KLOEKHOFF). 大通詞加福喜蔵、小通詞吉雄定次郎(耕牛)。 深見久太夫が彗星その他の天體に就いて質問した。野呂元丈・青木昆陽等も来訪した。 延享 元 1744 甲比丹ダヴィット・ブラウェル(Davin BROUWER), 外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、上筆者ヤン・ヘンドリック・ベークマン。大通詞今村源右衛門、小通詞西吉太夫。 野呂元丈・青木昆陽等が来訪した。 延享 二 1745 ヤーコップ・ファン・デル・ワーイェン、外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、上筆者ニコラース・バルタサル・クルックホフ。大通詞末永徳左衛門、小通詞楢林重右衛門。 西川忠次郎が天文學に就いて質問した。青木昆陽が古い薬草書を持参して質問した。野呂元丈も来訪した。 延享 三 甲比丹ヨアン・ルイズ・デ・ウィン (Joan LOUISE DE WIN), 外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、上筆者ニコラース・パルタサル・クルックホフ。大通詞名村進八、小通詞茂七郎右衛門。 野呂元丈が来訪した。 延享 四 甲比丹ヤーコップ・バルデ(Jacon BALDE), 外科フィリップ・ビーテル・ミュスクルス、上筆者(臨時)ヤン・ウィルレム・マルティン(JAN WILLEM MARTIN). 大通詞加福喜蔵、小通詞古雄幸左衛門(耕牛)。 野呂元丈が来訪した。 寛延 元 甲比丹ヤン・ルイズ・デ・ウィン、上筆者ドゥード・エーフェルツ(DOEDO EVERTZ, of EVERTSZ),下筆者ダヴィット・ブーレン(David BOELEN) 大通詞今村源右衛門、小通詞西吉太夫。 野呂元丈が来訪した。 寛延 二 甲比丹ヤーコップ・バルデ、外科クーレル、上筆者タヴィット・ブーレン。大通詞吉雄幸左門、小通詞楢林重右衛門。 野呂元丈・青木昆陽が来訪した。 寛延 三 甲比丹ヘンドリック・ファン・ホムート(HENDRIK VAN HOMORD),外科ドゥード・エーフェルツ、下作者ビーテル・コスチル(PIETER COSTER). 大通詞名村勝右衛門、小通詞西善三郎。 野呂元丈・青木昆陽が来訪した。 宝暦 元 1751 甲比丹アブラハム・ファン・スヒテレン(ABRAHAM VAN SUCHTELEN),外科ドゥード・エーフェルツ、上筆者(簿記役?) ヤン・ヘック(JAN HECK).大通詞今村源右衛門、小通詞森山金左衛門。 青木昆陽が来訪した。 宝暦 二 1752 甲比丹ヘンドリック・ファン・ホムート、外科ドゥード・エーフェルツ、上筆者ヤン・ヘック。大通詞楢林重右衛門、小通詞西善三郎。 青木昆陽が来訪した。 宝暦 三 1753 甲比丹ダヴィット・ブーレン、上筆者ヤン・ヘック、下筆者ヨハネス・レイナウツ(JOHANNES REUNOUTS).大通詞楢林重右衛門、小通詞西善三郎。 宝暦 四 1754 甲比丹ヘンドリック・ファン・ホムート、下筆者ヤン・クレイナウツ(JAN KLIJNOUTS),同ヤン・シモンス (JAN SIMONS).大通詞西善三郎、小通詞森山金左衛門。 野呂元丈・青木昆陽が来訪した。 宝暦 五 1755 甲比丹ダヴィット・ブーレン、外科カレル・ハブリエル・スプリンゲル(CAREI GABRIEL SPRINGER of SPRINGEUR),下筆者ヤン・シモンス。大通詞名村勝右衛門、小通詞名村三太夫。 青木昆陽が来訪した。 宝暦 六 1756 甲比丹ヘンドリック・フェルメゥレン (HENDRIK VERMEULEN),外科カレル・ハブリエル・スプリンゲル、下筆者アブラハム・フェルスぺイク (ABRAHAM VERSPIJK).大通詞今村源右衛門、小通詞楢林重右衛門。 青木昆陽が来訪した。 宝暦 七 1757 甲比丹ダヴィット・ブーレン、外科カレル・ハブリエル・スプリンゲル、上筆者ヘオルヘ・ヘルマン・リンギウス(GEORGE HERMAN RINGIUS).大通詞吉雄幸左衛門、小通詞森山金左衛門。 青木昆陽が来訪した。 寶暦 八 1758 甲比丹ヘンドリック・フェルメゥレン、外科コルネリス・ポルステルマン(CORNELIS BORSTELMAN),下筆者ヘオルヘ・ビーテルソン (GEORGE PIETERSON).大通詞西善三郎、小通詞名村三太夫。 青木文蔵が来訪した。 宝暦 九 1759 甲比丹ヘンドリック・フェルメゥレン、外科コルネリス・ポルステルマン、上筆者ニコラース・マルショー (NICOLAAS MARCHAUT).大通詞名村勝右衛門、小通詞楢林重右衛門。 宝暦 十 1760 甲比丹ヨハネス・レイナウツ、外科ヘオルヘ・ルドルフ・パウエル(GEORGE RUDOLF BAUER, of RUDOLPH BAUWER),下筆者ヤーコップ・デ・ライテル (JACOB DE RUIJTER).大通詞今村源右衛門、小通詞森山金左衛門。 宝暦十一 1761 甲比丹マルテン・ハイスホールン(MARTEN HUYSHOORN),外科ヘオルヘ・ルドルフ・パウエル、上筆者ニコラース・マルショー。大通詞吉雄幸左衛門、小通詞名村三太夫。 宝暦十二 1762 甲比丹ヨハネス・レイナウツ、外科へオルヘ・ルドルフ・パウエル、下筆者ヤン・ベルナルト・クリスト(JAN BERNARD CHRIST).大通詞西善三郎、小通詞楢林重右衛門。 宝暦十三 1763 甲比丹フレデリック・ウィルレム・ウィンケ(FREDERIK WILLEM WINKE),外科コルネリス・ボルステルマン、上筆者ヤコブス・ニコラース・ヒュトカメル (JACOBUS NICOLAAS GUTKAMMER).大通詞名村勝右衛門、小通詞森山金左衛門。 明和 元 1764 甲比丹ヤン・クランス(JAN CRANS),外科コルネリス・ボルステルマン、下筆者ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ (HENDRIK GODFRIED DURKOOP).大通詞今村源右衛門、小通詞楢林重右衛門。 平賀源内が来訪した。 明和 二 1765 甲比丹フレデリック・ウィルレム・ウィンケ、外科アントニー・ファン・ニウエンハイス(ANTHONIJ VAN NIEUWENHUIJS),下筆者ぺーテル・アントニ・ファン・ベイステルフェルト (PETER ANTONI VAN BIJSTERVELDT).大通詞吉雄幸左衛門、小通詞今村金藏。 明和 三 1766 甲比丹ヤン・クランス、外科アントニー・ファン・ニウエンハイス、下筆者ヘンドリック ホットフリート・デュルコープ。大通詞西善三郎、小通詞森山金左衛門。 明和 四 甲比丹ヘルマン・クリスティアーン・カステンス(HERMAN CHRISTIAAN KASTENS),フランソア・ドゥ・オー(ハウト) (FRANÇOIS DE HAUT), 簿記役ウィルレム・ユーリス (WILLEM JURIS) 大通詞名村脇右衛門、小通詞楢林重右衛門。 明和 五 甲比丹ヤン・クランス、外科フランソア・ドゥ・オー、簿記役ルドルフ・フレゥデマン (RUDOLPH FREUDEMAN).大通詞今村源右衛門、小通詞今村金藏。 明和 六 甲比丹ヤン・クランス、上筆者ベーテル・アントニ・ファン・ベイステルフェルト、下筆者ヘンドリック・へールリング (HENDRIK GEERLING).大通詞吉雄幸左衛門、小通詞中山唯八。 明和 七 甲比丹オルフェルト・エリアス (OLPHERT ELLAS).外科イカリウス・ヤコブス・コットウェイク(IKARIUS JACOBUS KOTWIJK).簿記役ヘンドリック・ホット・フリートデュルコープ。大通詞楢林重右衛門、小通詞堀儀左衛門。
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/194.html
111.僭僞諸君有文學 晉載記,諸僭僞之君,雖非中國人,亦多有文學。劉淵少好學,習毛詩、京氏易、馬氏尚書,尤好左氏春秋、孫呉兵法,史漢諸子無不綜覽。嘗鄙隋、陸無武,絳、灌無文,一物不知,以爲君子所恥。其子劉和亦好學,習毛詩、左氏春秋、鄭氏易。和弟宣師事孫炎,沈精積思,不舍晝夜。嘗讀漢書至蕭何、鄧禹傳,未嘗不反覆詠之。劉聰幼而聰悟,博士朱紀大奇之。年十四,究通經史,兼綜百家之言,工草、隸,善屬文。著述懷詩百餘篇,賦、頌五十餘篇。劉曜讀書,志於廣覽,不精思章句,亦善屬文,工草、隸。小時避難,從崔岳質通疑滯。既即位,立太學於長樂宮,立小學於未央宮,簡民閒俊秀千五百人,選朝廷宿儒教之。慕容皝尚經學,善天文。即位後立東庠於舊宮,賜大臣子弟爲官學生,親自臨考。自造太上章,以代急就。又著典誡十五篇,以教冑子。慕容雋亦博觀圖書。後慕容寶亦善屬文,崇儒學。苻堅八歳,向其祖洪請師就學,洪曰「汝氐人,乃求學耶。」及長,博學多才藝。既即位,一月三臨太學,謂「躬自獎勵,庶周、孔之微言不墜。」諸非正道者,悉屏之。自永嘉之亂,庠序無聞,至是學校漸興。符登長而折節,博覽書傳。姚興爲太子時,與范勖等講經籍,不以兵難廢業。時姜龕、淳于岐等皆耆儒碩德,門徒各數百人,興聽政之暇,輒引龕等講論。淳于岐疾,興親往問疾,拜於床下。姚泓博學善談論,尤好詩詠,王尚、段章以儒術,胡義周、夏侯稚以文學,皆嘗游集。李流少好學,李庠才兼文武,曾舉秀異科。沮渠蒙遜博渉群史,曉天文。赫連勃勃聞劉裕遣使來,預命皇甫徽爲答書,默誦之。召裕使至前,口授舍人爲書。裕見其文曰「吾不如也。」此皆生於戎羌,以用武爲急,而仍兼文學如此,人亦何可輕量哉。 前頁 『廿二史箚記』巻八 次頁 愍元二帝即位 111.僭僞諸君有文學 九品中正
https://w.atwiki.jp/vocaloidchly/pages/723.html
作詞:ジミーサムP 作曲:ジミーサムP 編曲:ジミーサムP 歌:初音ミク 翻譯:kankan 一個深呼吸 抓住危險的平衡 跟隨那搖擺 今天也重複著同樣的時間 被賦予的是毫無意義的名字 原來是什麼都不知道的我們的任性 時光前進 畫出環 又只是前往相同的地方吧 被丟到無重力黑暗的邊緣 就只是那樣 沒有人注意到 現在 些微的反射 捕捉到那渺小的樣貌 那裡是任何人的聲音 都無法響起的世界嗎 根本沒有什麼期望的事物 除了唯一的 存在理由以外 時光前進 畫出環 又只是前往相同的地方吧 被丟到無重力黑暗的邊緣 就只是那樣 沒有人注意到 那將消失般的渺小身體 要走到哪裡去呢 在那不安定的軌道上 這光的到來將會是永遠嗎 將昨日稱作今日 將今日稱作明日 如此稱呼的日子會來的話 去找尋螺旋的起始吧 去確認出生的理由吧 到那 響起的聲音 發出的光芒 都沒有的時候吧 連這持續重複的現實一起 能夠偽裝 能夠離開 現在 時間 停止 你聽 開始的 旋律 翻譯:26 *1 深深一次深呼吸 【海王星的軌道尚在旁轉動】 掌握微妙的平衡點 【能夠保持著2:3的共鳴軌道】 身軀沉浸那搖盪 【同樣不受海王星的強烈干擾】 今日也循環著同般時光 【這顆星球迴轉在安定的軌道】 賦予其的是 【稱做「小行星134340號」】 *2 無意義的名稱 【被編上號碼的那顆星球】 正是全然無知的 【不過因為天真的「十二行星提案」】 *3 我們任性所為 【就毫無意義地被踢出行星行列】 時間再次前進 【公轉不曾停止】 輪幅描繪而出 【描繪半徑59憶km軌道的那星球】 也只是一再復往 【軌道週期需要248年】 同樣的位處 【繞行一圈仍返覆運轉】 向無重力黑暗的彼端 【卻被打為沒什麼個性的小行星之一】 投身而去 【遭到降格的那顆星球】 不過僅是如此 【甚至還不瞭解它的詳細資料】 誰也不曾發現 【或許不久就會被忘記了嗎】 現在 給我一點少許反射 【僅能顯映於望遠鏡的14等級光芒】 捕捉極細微的姿態 【異於其他行星只有小小的0.15"角直徑】 *4 那裡是任何人的傳聲 【即使有微量的甲烷氣體、夜晚仍凍寒】 都無法響動的世界吧 【無法聽見任何的聲音】 要論期望之事 【最初觀察海王星攝動之時】 毫無一物可待 【被喚為「惑星X」那般稱號】 除了僅此唯一 【如今卻因為兩百分之一的誤差】 存在的理由以外 【淪落為偶然的產物】 時間再次前進 【以秒速4.6km運行】 輪幅描繪而出 【那軌道是80億秒的延續】 也只是一再復往 【現與近日點遙遙遠去】 *5 同樣的位處 【追尋一世紀100億km的彼端】 向無重力黑暗的彼端 【將往西元2233年的近日點前進】 *6 投身而去 【又再遠遠離開太陽】 不過僅是如此 【如彈飛行而去的那顆星球】 誰也不曾發現 【不久連分類時的等級都會失去】 近似要消逝那纖弱的 【那比衛星還小的星球】 身軀將遙遙前去 【造就了迴轉的慣性力】 什麼樣的遠方 【永遠不會有終點】 依循那不安定的軌道 【描繪著遙遙傾斜橢圓的那顆星球】 這道光抵達之處 【就連照射到太陽光線的五小時】 是否就是永遠 【也無法映出純粹明亮的光點】 不知覺中將昨日稱為今日 【循環著週期六天的逆行自轉】 不知覺中將今日稱為明日 【在此顆星球今日之後迎接的是昨日】 或許有日將如此呼喚 【明日永不將至】 *7 為確認螺旋的開端 【為探索生命的起源】 動身前行吧 【出發去旅行吧】 為確認誕生的理由 【能夠造出碳水化合物】 動身前行吧 【卻不過是一介彗星的那顆星球】 來吧 鳴響的音聲 輝放的光芒 【並不輝耀任何一點光芒】 全往虛無的時代前去 【在太陽重力系誕生之始】 連帶這不過反覆重演的 【隱隱暗藏的那顆巨大的『創世岩』】 現實成就謊言 【將打破這個世界的常識】 為要脫出一切 【創造出嶄新的地平線】 現在 時間 停止了 你聽 初始的 旋律 已能聽見 一、使用字幕 出自ニコ大百科,左為歌詞、右為動畫內コメント解說轉載 二、小行星134340號 冥王星被踢除九大行星系列之後,國際小行星中心為其編上的號碼。 三、十二行星提案 自2001年開始陸續發現比冥王星體型更大的星球 2006年8月14日,國際天文聯會因而召開「定義冥王星」總會 2006年8月22日,提出一新議案「增加太陽系行星為十二個」、冥王星不除名 並增加冥王星的衛星凱倫、矮行星穀神星以及小行星2003 UB313(鬩神星)入列 此提案遭到天文學者的強烈反對。 2006年8月24日,決議新增加三種分類「行星」、「準行星」、「太陽系小天體」 由於冥王星並未達成稱為「行星」的條件,就此被踢除太陽系行星之外。 四、14等級/角0.15" 冥王星的能見等級在14以下,只能藉由望遠鏡觀測 而從望眼鏡畫面中觀測到的平面角直徑則是0.15"(弧秒) 五、近日點 環繞太陽的軌道拱點、一顆行星或彗星距太陽最近的點。 六、一世紀/2233 冥王星上回通過近日點的時間為西元1984年12月 下回通過時間為西元2233年。 七、逆行自轉 若從太陽北極上空俯瞰太陽系,基本上行星是以逆時鐘方向自轉 金星、天王星、冥王星卻為順時針 而從地球時間來觀、逆行轉動的星體就像倒著度過每日。
https://w.atwiki.jp/hkescastro/pages/38.html
浜松北高地学部の班の一つ 研究内容 光害(98,05,06,08,09,10) 流星塵(10) 過去の研究内容 実用的な自動合成写真作成アルゴリズムの設計と開発(07,08) - The Design and Implementation of Practical Algorithms for Automatic Composite Photograph - 恒星の座標化 - デジタルリマスター版 -(07) AAOIFS - 自動天体観測指数予測システム -(07,08) 変光星(09) 班員 3年 6人(男4人・女2人) 2年 5人(男3人・女2人) 1年 11人(男8人・女3人) 関連ページ 谷下班 外部リンク 浜松北高地学部天文班
https://w.atwiki.jp/tenmonbu/pages/14.html
天文部の事件簿 真実はいつもひとつ! じっちゃんの名にかけて! 正直1年に一回は何か起きます。っていうか起きてます。 恐怖です。 あまり書きたくないです。
https://w.atwiki.jp/tsukubun/pages/49.html
【文學裁判】 つくぶん全体の運営に関わることがらについての手続き。ミーティングのこと。 主義による念能力バトルが主だが、結論は多数決で出される。 普段の合評で喋らない人も無理やり喋らされることが多い。
https://w.atwiki.jp/hkescastro/pages/22.html
合宿や、学校以外の観望会の夜にで開かれる天文班主体の会議 概要 開かれる理由は、雲が出てきたなどして星を見ることが困難になった時に空が晴れるまで待つための会議である。 主体は、星を見ることができるまで待つのか、無理だと判断して眠るのか、などこれからの行動の方針を決める。 待つときの内容としては、大富豪やUNOなどのゲームをすることである。眠くなった深夜に行われることが多いので、宗宮化現象が多発する。 最近、この言葉を使うと、方針を決めることを指すのではなく、ゲームをすることを指すことが多い。 活動記録 2007年 7月12日 観望会in竜頭山でテント内で晴れ間を待つために行った 2007年 7月24日 2007年夏の合宿でバンガロー内で晴れ間を待つために行った 2007年 7月25日 同上
https://w.atwiki.jp/magerror/pages/46.html
文學雜誌製作決定 羅哲瑞斯魔法協會,首部文學向雜誌企劃決定! 莎士比亞文學劇作組傾力奉獻。 雜誌名決定! 雜誌名: 某刊志 ! 標語:一起來閱讀吧! 關於雜誌內容取向與創辦目標 培養閱讀的興趣和專注度。 富有創造性的輕文學。 讓生活的環境散播出清新氣息。 雜誌內容板塊(暫定) “序” - 開篇欄。 “雨華” - 輕文學作品,短篇小說集,文學片段收藏集。 “綠茶” - 散文作品,詩詞美文誦讀。 “荷葉” - 清新文學分享。 “漣漪” - 戀愛向文學,少女向文學。 季節性文學,主要分以下四部份:“弥生(やよい)” - 春季 “水無月(みなづき” - 夏季 “長月(ながつき)” - 秋季 “師走(しわす)”- 冬季 季節性文學,主要搜集四季不同氛圍的作品,不僅僅是文學作品,亦可是音樂作品,影視作品,每月刊的四季文學大標題都會用日本十二月陰曆曆法名來標注,即睦月(むつき) ,如月(きさらぎ),弥生(やよい),卯月(うづき),皐月(さつき),水無月(みなづき),文月(ふみづき),葉月(はづき),長月(ながつき),神無月(かんなづき),霜月(しもつき),師走(しわす)。 “曲奇” - 互聯網優秀博文收藏。 “布丁” - 純生活向文學,內容不限。(旅遊,音樂,影評,消費,飲食等) “白魔法” - 治愈向音樂推薦,純音樂,鋼琴曲,小提琴曲,古典音樂交流分享。 “胡蝶” - 哲學,心理學等學術文章探討,趨於專業向文學,亦可是二次元等作品課題研究,雜誌中唯一的宅點,僅此一點。 “羅哲瑞斯的書架” - 本協會原創作品,小說連載等。 “特別企劃” - 根據潮流趨勢所出的專版,特定板塊。 “讀編來往” - 基本沒有吧,至少等培養出固定讀者,人數50以上之后設立.. STAFF 製作:莎士比亞文學劇作組 發行:羅哲瑞斯魔法協會 主編:沙耶 副主編:范思哲 其餘各板塊負責人待定。 發佈形式 發佈週期:期刊為主,暫定為月刊。(已經很有難度了) 雜誌類型:電子雜誌。 購買價格:免費。 發佈站點:Magic Error 發佈對象:青年。 創刊發佈日期 2012年8月20日(暫定)
https://w.atwiki.jp/tsukubun/pages/76.html
1905年(明治35年)に御霊教の下部組織として設立された文学会。 会長には当時の御霊教の幹部であった谷川幹夫が就任した。 同人誌『筑波文學』を発行し、一時は「筑波に文学あり」と言われる ほどの勢力を誇り、筑波派と言われたが、やがて太平洋戦争にお ける紙不足によって廃刊に追い込まれ、会自体も解散状態になった。