約 20,953 件
https://w.atwiki.jp/anima_rp/pages/131.html
名称 アラクネギア 武器 大鎌、蜘蛛型の装甲 能力 ライフストリームで形成する糸と蜘蛛型の爆弾、どちらもライフストリームで生成されており星の瞳を持たない者には視認することが出来ない。 資格 生に執着する者(前提として本能的な死の恐怖を知る必要がある) 適合者 西園寺桃胡 ポテンシャル 攻撃型 解説 通常のアニマギアよりも強い力を持つ幻想種をベースとしたアニマギア。 アラクネをベースとし、その装甲全てを用いて構築された3mはあろうかという巨大な蜘蛛型の機械生命体が主な戦闘を行い、剥き出しの上半身は弱点でしかない。 生命に執着する必要があるためかその能力はライフストリームを扱うもので、特別な眼を持たない者には認識すら出来ない高火力の攻撃を行う攻撃特化型のギアであるが、身体能力は低く、機械生命体を回避しその背中の本体を狙えば仕留めるのは容易い、問題はどうやってそれを為すかである。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/248.html
目次 1.「足ることを知る」をつきつめていくと、執着の問題にゆき着く 2.「人間は、何のために生まれて来たのか」という苦悩 3.釈迦は、「生老病死」を見て、人生には苦しみが多いという考えに達した 4.「人間の努力によって得られるものは、自分の心の持ち方だけ」との考え 5.「悩みの根元は執着である」と釈迦は看破した 6.六年間の修行の結果、難行苦行で執着は断てないことを発見する 7.村娘の弦(げん)の音(ね)を聞いたとき、「悟りは中道にある」と悟る 8.中道の道は、奥を極(きわ)めれば極めるほど、まだ先がある 9.昼間きちっと働き、毎日六時に帰る生活に、現代人の中道の悟りはある 10.「足ることを知る」――第三者の立場で自分を見ながら、八割で良しとする 11.「足ることを知る瞑想法」――自分を正しく見る見地から、心を落ち着かせる 1.「足ることを知る」をつきつめていくと、執着の問題にゆき着く 高橋信次です。では今度は、「足ることを知る瞑想」に入りたいと思います。これは、瞑想法のなかではどちらかと言えば、中級クラスの瞑想だと思うのですね。 瞑想にも、初級用の瞑想もあれば、中級用、上級用と、まあ、いろいろあると思うのですけれども、「足ることを知る瞑想」というのは、まあ、中級クラスです。中級だけれどもね、だいたい瞑想も、中級クラスをマスターすると、ほとんど、八、九割程度までいったというのと同じだと言えるでしょう。 この「足ることを知る瞑想」ができると、人間は、自分の人生というのをだいぶ改善することができるのです。では、この「足ることを知る瞑想」について、いくつかの観点から話をしていきたいと思います。 まず、足ることを知るというのは一体何かということからはじめていきたいと思います。皆さんね、足ることを知るっていうことを、まあ論語か何かで読んだことがあるかもしれませんが、まあ、これは、けっこうね、足ることを知るという意味は、つかみがたいところがあるのですね。そう簡単には、これはわかんないんです。わかるようで、わからない。 たとえば、病気の人が目の前に出て来て、「先生、治して下さい」と言います。これに対して、「いや足ることを知りなさい」と言ったら、病人は、たいてい怒ります。それで、病人が、「先生、薬を調合して下さい」と。そこで、薬を調合します。でね、ちょっと薬をあげます。ところが、「先生、この薬じゃ、ちょっと足りませんから、もっと下さい」と病人が言います。「いや、足ることを知りなさい」と言ったら、まあ、これも怒っちゃいますね、同じです。 あるいは、予備校などで、東大入試を目指して猛勉強しますね。それで、予備校の先生が、予備校生たちに、「君たち、足ることを知りなさい」と。「O点でも足ることを知りなさい。三十点でも足ることを知りなさい」と言ったら、これまた、おかしなことになるんであって、商売が上がったりであります。 あるいは、大学生でもいいけれども、簡単に足ることを知ったとして、「いや、僕は頭が悪いんだから、これで足ることを知っちゃった」ということを言うと、また、これでもつごうが悪いことがありますね。 そういう意味で、足ることを知るっていうことも、言葉だけをとらえていうのは簡単なんだけれども、その反面、局面に合わせて、よく考えないといけないんですね。でないと、間違いのほうに走っていく傾向があるのです。 ただ、そういうことも加味したうえで、よくよく考えてみるならば、足ることを知る、そのほんとうの重要なところは何にあるかと言うと、結局、昔から仏教でよく言っています執着の問題にゆき着くんです。執着の問題なんですね。それについて、これから話をしていきたいと思います。 2.「人間は、何のために生まれて来たのか」という苦悩 まあ、執着というのと一番闘った人はだれかと言うと、歴史上では、インドに生まれたゴーダマ・ブッダ、つまり釈迦なんですね。釈迦が執着と一番格闘したのです。釈迦は、二十九年間、王宮の生活のなかで、おごりとぜいたくのなかで、美女たちに囲まれて、何の不自由もなく育ちましたね。そのなかで、彼は、どんなぜいたくをしても、どんなに美女に囲まれても、何か満足できない自分というものを発見しました。そして、彼は、二十代の後半になって、王宮のなかでずいぶん苦悩しています。 その苦悩の内容を現時点で、もう一度考えてみると、こういう内容だったのですね。まず、自分は、身分としては、生まれつきの王子様で、王が死ねば、シュト・ダナー王が死ねば、その後、自分が王位を継ぐようになるだろう。けれども、そうして、人の上に立って、自分ははたして幸せなんだろうか、と。 インドには、階級制度というのがあります。バラモンというのは、僧侶階級で、まあ生まれもっての貴族ですね。こういう階級があります。そして、釈迦の生まれたクシャトリアというのは、ひとつの武士階級で、武士は武士で集まっています。 あるいは、商人階級、不可触賎民(ふかしょくせんみん)と言いますね。賎民の階級というのがあります。こういうふうに大きく四階層に分かれていました。そして、クシャトリア武士層のなかに生まれて、まあ、王家に生まれるということは、名誉なことですね。そういうことでありました。 ただ、釈迦は考えたのですね。なぜ侍の家に生まれたなら、侍にならにゃいかんのか。なぜバラモンの、要するに、僧侶階級、貴族階級に生まれたのなら、やっぱり僧侶になるのか。なぜ商人階級に生まれたら、商人で一生暮らさにゃいかんのか。なぜ賎民階級に生まれたなら、それで一生、生まれ落ちたときのレッテルを貼(は)られたままで一生、生きねばならんのか、と。こういうことを考えたのです。 そうすると、やはり、そのなかには、真実のものがないんではないか。生まれ落ちたときに、人間の一生が決まってしまうのなら、何のために、人間が生まれて来たのかわからない。どう考えても、人間の一生ってものは、自分が努力していってつくっていくもんだし、それを生まれ落ちた、どういう星の下に生まれたかによって、一生が、そのままに決まってしまうってのは、おかしいんであって、そんな不公平な世界を神様がつくられるわけがない、と。こういうふうに、釈迦は思ったんです。 そして、自分を見つめてみると、王宮のなかで、豪勢な生活をしています。次に王になるのは、必定です。美女たちも、ずいぶんおります。はべっております。食べものにも苦労がありません。けれども、王宮のなかは王宮のなかで、さまざまな人たちの葛藤(かっとう)がありましたね。権力をめぐる葛藤、男同士の葛藤があるし、男をめぐる宮廷のなかの女性の葛藤というのもありました。 こういうふうな、いろんな葛藤というものに、釈迦はずいぶん悩まされました。身分があり、地位があり、高貴であるということは、同時に、数多くの葛藤を持っているということと同じだと、肢は感じたわけですね。 また、王様になったとしても、その当時は、大変戦乱の世の中でありましたから、やがて敵と戦ったりして、いろんな人たちを殺していかねばならぬ。そのための指揮をしなければならない。こういう運命に対して、甘んじられるかどうか。これについても、釈迦はずいぶんと悩んだわけであります。 3.釈迦は、「生老病死」を見て、人生には苦しみが多いという考えに達した また、これも伝説ですけれどもね、釈迦が、有名な四苦八苦というのを発見したときのことです。このカピラ城に東西南北の門があって、釈迦は、そこから一歩も出たことがなかったのですけれども、あるときに、どこでもいいですけれども、東なら東の門を出ると、そこで赤ん坊がギャーギャー泣いておった、と。それを見て、「ああ、生まれ落ちて、そして、これから生きていかねばならんとは、いかなる苦しみなのか。何と哀れな赤ん坊の宿命であることよ」と、そういうことで悩んだ。 あるいは、西の門を出ようとすると、そこの門口のところに腰の曲がった人がいた。そして、釈迦は、そうぃう人を見たことがなかったから、衛兵に尋ねました。「こら、衛兵よ、あの腰の曲がった者は何か」と。そうすると、「シッダルタ王子様、あれは、年寄りという者でございます。人間は年を取ると、あのように腰が曲がるのです」と、こういうふうに教わりました。そこで、「そうか、年を取るということは、あんなに惨(みじ)めなことなのか。人に疎(うと)まれ、さげすまれて生きてゆかねばならぬのか」と釈迦は悩んだわけです。 あるいは、南の門から出ようとすると、今度は、そこでも、見たものがありますね。タンカに運ばれて、ライ病患者みたいのが運ばれていくのを見ました。釈迦はまた、そこにいる人に聞きました。「あの者は、一体、何者であるのか」と。そうすると、その者は答えました。「王子よ、あれは、ライ病患者であります。病(やまい)というものです。病人です。病人というのは、あればど醜(みにく)く、けがわらしい者です」と、そういう答えを言いました。釈迦はまた、これに対して、「ああ、人間という者は、病は避けがたいものなんだな。それほどつらい人生なんだな」と。こういうことを悟ったと言われています。 また、釈迦が、北の門に行きますと、今度は、人びとが悲しみに泣きぬれて、黒い衣装を着て立っています。そのなかを、ひつぎが運ばれていきます。それで、「どうしたんですか」と釈迦が問うと、「実は、昨日の夜、あそこに立っておる娘の父親が死にました。今日は、そのお葬式なんです」と言う。「そうか、死というものは、これほど苦しく、悲しいものなのか。自分は死を知らなかったけれども、こうしたものが死であったのか」と、釈迦はこういうことを知ります。生老病死ですね、この四苦。 まあ、これは、もちろん比喩(ひゆ)であってね、お釈迦様が、そんなことを何も知らなくて、門を出るとき見たというのは、もちろん寓話でありますけれども、こういうのを見て、人生というのは、とにかく苦しみが多いということがわかった。つまり、初期の釈迦は、そういう考えに達したわけです。 4.「人間の努力によって得られるものは、自分の心の持ち方だけ」との考え そして、釈迦は、では、どうしたらこの苦しみから脱することができるのかということを考えに考えたのです。いくら頑張っても、死ぬことから免(まぬが)れることができない。いくら努力しても、老ゆるということから逃げることができない。また、生まれもっての身分というもの、これからも逃げることができない。 そうすると、人間が自分の努力によって築けるもの、手に入れ得るものは一体何かというと、結局、それは自分の心の持ちようだけしかないではないか。釈迦が考えたのは、そういうことなのですね。自分の心の持ちようしかないではありませんか。それならば、どうした心の持ちようにすれば、一番苦しみが少ない世界へと入っていけるのか。これを釈迦が考えたわけです。 5.「悩みの根元は執着である」と釈迦は看破した そこで、いろいろ考えてみると、王宮のなかでも、立身出世を願う人たちの心というのは、見ると、いつも落ち着きがなく、イライラ、イライラしておって、まったく心の幸福というのからほど遠いように思います。 また、女性という者も、非常に美しくて、手に入れたいもののようにも思えるけれども、当時のインドの貴族社会のように、身分のある人には、三人、四人、五人の王妃がかしずくようになってくると、これも、また女性同士のなかでの争いがあって、その嫉妬のために、男性は非常に苦しみます。頭が痛い。どちらの女性が、よく愛されたかということで、お互いに足の引っ張り合いをする。どちらかの局(つぼね)のところには、シッダルタ王子が何回足を運んだかどうか。私のところには、月一度しか来ないとか、こういうことで争いになる。 しかし、そういうもので公平に接しようとすると、また、それはそれで無理がある。自分にはやはり自分の好みの女性がいる。それを無理やり、他のいろんな者を押しつけられている。そういうものがある。そして、まんべんなく、それを養っているのは非常に苦しい。いっそなら、そういう女房たちのいない世界へ行ってみたい。これも苦しみです。 女性というのは、苦しみのもとです。それは、現代でも変わりありません。妻がいるために、どれだけ男性というのは苦しんでいるか、世の女性たちは知っておるでしょうか。男性っていうのは、結婚前は、もちろん結婚したいと思うけれども、したら、たいてい当日か、あるいは、新婚旅行から帰って来た頃に、「しまった」と思うのです。「この結婚さえしなければ、俺は、どれだけ無限の可能性が前に開けていたか」と、それを思うとき、「あっ、しまった」となる。しかし、釣り上げられた魚と一緒で、もう逃げることはできないのです。 結婚というのは、バケツのなかに入れられた魚と同じもんで、ここから飛び出せば、もう死ぬしかないんです、魚は。もとの海には帰れないのでず。もう、パシャッと入れられたようなものなんです。けれども魚は、みすみす餌に食いついていきます。なぜ魚は、餌に食いついて釣り上げられ、バケツのなかに入れられるのか。それは、執着があるからです。女性を手に入れたいという執着があるから、そうなっていきますね。 こうしたもんで、結局のところ、立身出世を願っても、人より偉くなりたいという執着のために、人びとは苦しんでおるし、多くの女性を手に入れることによっても、やはり女性同士の、お互いにひとつでも、ふたつでも人より多くの愛を得たいという、その女性の執着のために苦しみ、また、自分自身が悩みます。 あるいは、食べものでもそうです。どんな豪華なものばかり食べておっても、その食欲というものは、なくなることがありません。 それで、釈迦というのは、人間の内部というものを深く、深く見極めていったんですけれども、結局のところ、諸悪の根元、悩みの根元というのは何かと言うと、執着だな、こう思ったんです。 で、釈迦は、カピラバーストを出て、とりあえず、六年の間、この執着をなくす修行をしようということで、彼は修行したんです。 6.六年間の修行の結果、難行苦行で執着は断てないことを発見する まず、釈迦は、妻子から別れました。これは、妻のこと、子のことを思うがゆえに、自由自在になれない自分から逃げ出して、自分自身を自由にするために、まず、妻子から逃れたのです。また、後を継(つ)いで王になり、そして、敵軍と戦わねばならぬという宿命から逃れるために、王子という地位も捨てました。 そして、山のなかに入って、野の水を飲み、蜂蜜をなめ、キノコを食べ、本の実を食べて、最少限度の食事でもって、修行に打ち込むことにしました。着るものも、かつては王宮で素晴らしいものを着ておったのが、今は、乞食(こじき)同然です。そして、断食(だんじき)に入っていきます。骨と皮ばかりになっていきます。 釈迦は、すべての執着さえ断てば悟れると思って、骨と皮ばかりになって、洞窟のなかで修行をやっておったけれども、なかなか、心の悟りを得られない。断食ばかりをしておっても、今度は、ひもじいという思いが頭に去来して、どうしてもこの思いを断ちがたい。 確かに、他の欲望というものは断(た)ったけれども、今度は、他の欲望が去れば去るほど、ひとつの欲望というのが大く、大きくなってきて、要するに、何とかして食べたい、お腹いっぱいに食べたいという、こればっかりが一日中、頭のなかを占領するようになる。女性に対する執着がなくなったし、地位に対する執着はなくなったし、他の執着はいっさいなくなったけれども、食べたいという執着だけが、やたら肥大化して、それだけが、どうしても処理できなくなる。 食べたら食べたで、今度は、もちろん食べる欲望は減るだろうけれども、肉食などすると、今度は、可愛い村娘などを見るとまた欲望が出てくる。 ひとつの欲望の量を減らすと、今度は、他の欲望が出てくる。そうすると、欲望の合計というのは、いつも変わらない。ひとつに減らすと、大きくなる。欲望を小さくすると、数が増える。どうしても縦横(たてよこ)が並んだら、同じになってしまう。こういうことをして、彼は執着を断とうとしたけれども、どうしても断ちがたい自分という者を、やがて発見していきます。そして、六年間の難行苦行の結果、洞窟から出ます。 7.村娘の弦(げん)の音(ね)を聞いたとき、「悟りは中道にある」と悟る 釈迦を取り巻いた、つまり、シッダルタ王子を取り巻いた、五人の出家した護衛の兵士たちも、まあ、釈迦と一緒に修行しておったんだけれども、釈迦がどうするのかなあと見ていると、トコトコトコと出て行って、朝まだき霧のなかに、カンガーの川の流れのなかに、顔を洗いに行くのかもしれないけれども、釈尊が降りて行く。 そうすると、向こうから村娘が来る。村娘は、釈迦の前でたたすみます。村娘が見ると、お釈迦様、お釈迦様とは言えないけれどもね、名前を知らないから、やせさらばえたそのブッダの体から、かすかに金色の光がもれてくるのが見える。 そこで、村娘は、これを見ると、「ああ、この人は、きっと悟った方に違いない」と。そういうことで、釈尊の前に体を投げ出して、ひざまずいて、おじぎをします。「ブッダ様、どうか私のお布施(ふせ)を受けて下さい。あなたこそ、きっと悟られたブッダに違いありません。今、ここに……」、まあ、これはいろいろ言われているんですけれども、山羊(やぎ)の乳と言われたり、羊(ひつじ)の乳と言われたり、あるいは、牛乳でつくったお粥(かゆ)だとか、いろんなことを言われているようですけど、山羊の乳と思ってもいいでしょう。とにかく、「山羊の乳があります。お椀(わん)いっぱいの山羊の乳、これをお布施しますから、どうかお飲み下さい」と。まあミルクですね、ミルクを釈尊に差し上げたわけです。 そうすると、釈尊は、村娘の真剣な姿というものを見て、そのお椀を取り上げて、生物(なまもの)はいっさい禁じていた自分であるにもかかわらず、それをグーッと一気に飲みはします。すると、そのミルクっていうのが、口から喉に、喉から胃袋にと、ドンドン、ドンドンと滲(し)み亙(わた)っていって、何とも言えない力がみなぎっていって、清々(すがすが)しい気持ちというのを得ました、彼は。 そのときに、彼は悟ったわけですね。その村娘は、釈尊が近づくまで、歌を歌っていました。まあ、弦楽器みたいのがあったんですが、当時ね。まあ、三味線と言ってもいいけれども、三味線なら三味線でいいでしょう。三味線の音というのは、弦を締めすぎると音が良くない、と。また、ゆるめてしまうと音が出ない。締めすぎると切れてしまう。やはり弦というのは中(なか)ほどに締めたら音色がいい、と。こういう村娘の歌を聞いていたわけでずね。そのときに、ミルクを飲んで、彼は思ったわけです。 「そうか、自分は、今、肋骨(あばらぼね)だらけになって、欲望を断つことばっかり、執着を断つことばっかりを考えておったけれども、どうやら、それでも執着を断つことができなかった。また、王宮のなかの豪奢(ごうしゃ)な生活のなかでも、自分は悟ることはできなかった。どうやら悟りは中(なか)ほどにあるな」 ということを、彼は悟ったわけです、そのときに。中道(ちゅうどう)に入ろうと思ったのは、このときです。これが、釈迦の有名な中道ですね。 8.中道の道は、奥を極(きわ)めれば極めるほど、まだ先がある 修行者だからといって、特別な生き方をしてもいかんし、また、あまりにも自分の肉体に奉仕するばかりの生活をしてもいかん。両極端には悟りがなくて、悟りというのは中(なか)ほどにあるんだ、と。人間というのは、ともすれば、その中(なか)ほどに悟りがあるというように言うと、安易な現実妥協者だと考える向きもあるが、実はそうではないのです。 中(なか)ほどという、中道というなかには、非常に深い意味合いがあるのです。中道の道というのは、奥を極めれば極めるばど、奥が、また先にあることがわかるのですね。 9.昼間きちっと働き、毎日六時に帰る生活に、現代人の中道の悟りはある よく、極端な生活をしている人で、それを止めようとしてブレーキを掛けると、急に自分が自分でなくなったような気持ちになる人がいます。たとえば、猛烈サラリーマンで、朝から晩まで、夜中まで働いて、休日も返上して働くような人がいます。こういう人が、毎日が日曜日のような仕事になると、これまた、腑抜(ふぬ)けのようになります。けれども、毎晩毎晩働いて、土、日も働くようなサラリーマンだと、これまた、腑抜けになります。両方ダメなのですね。 ところが、夕方六時になると家に帰るようなサラリーマンになれるかっちゅうと、なかなかそうはいかないのですね。習慣があって、こういうもんなんですけれども、しかし、その毎日六時に帰るという生活のなかに、偉大な、長続きするような神理があるということを、サラリーマン諸君は、まず考えなくてはいかんのです。 釈迦の悟りというのは、現在に焼き直すと、そうゆうことなんです。夜中まで働いて、他人より長く働いて、そして、実績を上げて、人に認められて、給料が上がって偉くなることが、ほんとうの生きがいなのか。 それとも、社会ではね、人から仕事をもらえずに、ちゃらんぽらんに生きて、どんな感じに働いたって、給料の七割、八割は絶対確保できるのだから、まあサボらにゃ損ということで、会社では手紙を書いたり、ムダ話をしたりして、何もしないで、一日つぶしている。こういう人もいます。この両極端じゃないんだということですね。 現代流に言えば、やはりそうじゃなくて、朝きっちり出て来たら、九時から働いてね。夕方の五時、六時まで働いたら、毎晩毎晩、赤提灯の下をくぐるんじゃなくてね。やるべきことをちゃんとやったら、週一回ぐらいは、おつきあいしてもいいけれども、後はサーッと帰って来て、家で子供や妻の顔を見て、話をして、まあ、夜八時すぎたら、書斎にこもってね、自分の心の勉強をする。修行をする。こういう生活のなかには、実は、無限の発展の可能性があるんですよ、と。 毎晩毎晩、もう年がら年中、赤提灯をくぐっているなかには、悟りはないんです。また、会社のなかで、昼寝ばっかりして、人とうわさ話ばかりしてて、何も働いていない、と。こんななかにも、悟りはないんです。 悟りというのは、九時から五時までぴっちり働いて、やるべきことをやって、まあ、月に一回、週に一回ぐらいは、適当に人とも、おつきあいをした後、家庭を大事にしながら、自分自身の時間を見つけていく。このなかに、ほんとうの悟りはあるんですよ。こういうことを釈尊は教えたわけですね。現代で言えば、そういうことですよ。 サラリーマンの皆さん、断食せよとか、ミルクを飲めとか言っているんじゃないんです。そういうことを言っているのです。現代では。そう言われてみると、よくわかるでしょう。 「確かにそうだな。不規則な生活のなかには、悟りはないし、心のやすらぎはないんだな」「そうか、毎晩、酒ばかり飲んでもいかんし、また、酒など一滴も飲まずに、自分はマイホーム主義だからということで、まったく会社の人をないがしろにするのもいかん。そこそこのところに、やはり接点を見つけるべきだな」ということを、やっぱり考えていくんですね。そのなかに、自分の発展が、またあるわけです。 10.「足ることを知る」――第三者の立場で自分を見ながら、八割で良しとする 結局ね、足ることを知るという前に、今日は釈迦の、要するに執着の話をしてきたんですけれども、結局、釈尊が得たのと同じ悟りになるのです。足ることを知るっていうことはね。 さっき言ったように、予備校のテストで0点をもらいながら、足ることを知っちゃいかんのです。そうぃうことでしょう。0点もらいながら、いや、足ることを知ってね、0点でもいいんだ、これで、他の人の偏差値が上がるだろう。僕は0点で足ることを知っていますから、皆さんどうか八十点、九十点を取って偏差値を上げてください。僕が、皆さんの偏差値を上げましょう、と。こんなことで足ることを知ったんじゃあ、やっぱり浪人生のほんとうのところってないんですね。ほんとうの姿はないんです。 親から金を送ってもらってね、高い予備校代を出してもらって、それで0点ばかり取ってて、足ることを知っててはいかんのです。パチンコしててね、足ることを知っちゃあいかんのです。 たとえば逆に、「自分は東大の理科三類、医学部しか行かんのだ」ということで、十三年も浪人している人がおります。予備校でね、十三浪とか、十一浪とか言って、まあ、ひげ面で、赤ちゃんかかえているような人がいますね。「どうしても東大の医学部以外、俺は行かんのだ」ってね、やっています。こういうのもまた、執着が強すぎるのです。0点であっさりあきらめる人もいれば、十三年も浪人してでも東大へ行こうって人もいます。あるいは、司法試験浪人もそうですね。十年、二十年やっている人がいます。こういう人は、やっぱり執着だけに取り憑(つ)かれているんではないでしょうか、これは考えにゃいかん。 そういうことで、やはり自分の「分(ぶん)」というものを人間は知って、それを中心として、ものごとの判断をしなければいけない。そのためには、善意なる第三者の立場という、私が常々言っている立場というのは大事なわけですね。私が常々言っている立場というのは大事なわけですね。 第三者の立場に立って、自分はどうかなと考える。東大の医学部に行くような頭じゃないことは、両親見ても、兄貴見ても、兄弟見ても、姉見ても、親戚一同を見ても、そんな人、ひとりもいないんだから、どう考えたって、入れるわけがないんだから、そんな、突然変異が出て来るわけがないんだから。だれが見たってね、そんなことあり得ないんですね。 十年、二十年やりゃあ受かるなどと考えるのが間違っとる。そうじゃなくてね、家に金がないのなら、どっかね、まあ特定の名前出したら叱られちゃうから、差別だってね。とにかくね、どこでもいいんです、どっか地方の大学でもいいから、医学部に何とか入れればいいしゃないか、と。これで努力する。それは自分の「分」を知った努力ですね。こういうのがあります。 あるいは、全国の人が、皆んな総理大臣になるために努力されても困ります。今、総理大臣の後継者争いなどというのがあるようですけれども、やはり後継者と目されるような人がいて、ねらってしかるべきという人のなかで争いがあって、当然なんです。だれが見たって、あんなのと思うような人が、たとえばね、よく銀座なんかでトラックに乗って、日の丸の鉢巻を頭にしめて、「エー、私は……」って言って、北方領土返還を叫びながらやっているような人が、総理大臣に向いているかと言うと、そりゃちょっと無理だろうと思うのでね。こういう人は、考え違いです。 そういうことで、まず、発想は一緒です。足ることを知る瞑想も、善意なる第三者の立場に立って、自分はどういう才能を受けておるのか、どういう天命を持っておるのか、こういうことを見極めながら、八割で良しとする考えですね。腹八分目で良しとする考え、これです。 11.「足ることを知る瞑想法」――自分を正しく見る見地から、心を落ち着かせる これがまあ、「足ることを知る」ですけれども、結局ね、瞑想のなかで、もう一度、自分自身の姿というものを、第三者の立場で考えてみることなんです。 たとえば、先程の医学部の浪人生であれば、ほんとうに十三年も浪人して受けることが意義あることなのかどうかね。執着の塊(かたまり)になっていないかどうか、よーく考えてみること。あるいは、友だちが出世して、自分が出世しないけれども、それは何か原因があるかどうかをよーく考えてみること。 そして、その人のほうが偉くなっていくのが当然であるならば、偉いものは偉いとして認めてあげて、自分の努力のなさをなさとして考えて、また、一からはじめてみるということも大事です。 そういうふうに、人間というのは、まず第三者の立場に立って、自分を見てみる。そして、ときにはね、自分は人より何ひとついいことはなくとも、五体満足で、健康で生きていること自体が素晴らしいことだということを気がつく必要があります。 ヘレン・ケラーの悟りのようにね。ヘレン・ケラーは、三日間、目が見えたらということを言ったはずです。自分は世界を見て回りたい。恩を受けた人たちに、握手して回りたい。花たちと、草木たちと、話をしてみたい。ヘレン・ケラーはそう言っていたようですけれども、そういう素晴らしさですね。この世の世界を見ることだって素晴らしい。呼吸ができることも素晴らしい。食べものの美味しいことは素晴らしいことです。そういう素晴らしさに気がついていくことも大事です。 あるいは、もしあなたが犬に生まれていたら、どうですか。猫に生まれていたら、どうですか。彼らの立場に立って、もう一回、自分というものを見つめたときに、人間に生まれるということは、このうえない素晴らしいことがわかるでしょう。自分の育ちがどんなに酷(ひど)い環境だって言ったって、犬に生まれたいとは思わんでしょう。やっぱり人間に生まれて良かったんじゃないですか。 こういう意味での、万象万物のなかにおける自分の立場というものも、また、第三者の立場、大いなる神の立場に立って見ることも必要ですよ。そのなかに、ほんとうに心のやすらぎが生まれてくるんではないでしょうか。まあ、そういうことですね。 ですから、やはり自分というものを正しく見るということから、「足ることを知る瞑想」がはじまっていきます。そういう、自分自身を正しく見るという見地から、自分の心を落ち着かしていく瞑想、それが、この「足ることを知る瞑想」なのです。 どうか皆さんもね、執着に執われす、かといって、また、その逆にもいかず、どうか、ちゃんとした中道のなかに自分自身を見つめて下さい。そうすれば、そこに、ひとつの悟りがあるはずです。
https://w.atwiki.jp/chaos-blade/pages/129.html
-異世界の旅人- [最終機女]アザ 技巧 HS-RARE 攻撃力:8193 防御力:7793 戦力:26 ベスポジ効果:なし スキル:マシーン・エクス・ダンス:味方全体の攻撃力大アップベストポジション:なしトレード:不可入手方法:電脳パンデミック初心者クエスト達成報酬、8月度招待報酬 関連家臣 [玩具一号]ルゥカ [玩具二号]ゲーティア 仮想現実の彼方、いまは忘れられし伝説の図書館『ソロモン』のナビゲートプログラム。人間と変わらない自我を備えている。世界の仕組みに興味を抱き、世界が回る仕組みを自らの手で生み出すことに執着している。関心の埒外にある事象はことごとく目に入らないが、自分の玩具あるいは保護者になりえそうな人材には執着心を強くする。いまのお気に入りの遊びはルゥカいじり 備考 ・MAXステータス 攻撃力:13321 防御力:12671 家臣つぶやき
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/31750.html
【検索用 あいこく 登録タグ 2015年 KAITO VOCALOID mayuko あ 曲 曲あ】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:mayuko 作曲:mayuko 編曲:mayuko 唄:KAITO 曲紹介 曲名:『アイ刻』(あいこく) 刻む 歌詞 (動画より書き起こし) 冴えた刃に触れるように 恭しく肌をなぞって 「おいで」と囁く 「はやく」と急かす 軽やかな鈴の音で笑い掛ける 甘やかな蜘蛛の巣に 気づきながら近づいた 祈りながら手を伸ばした お前はソレが欲しいんだろう 望むまま深く沈んで 満たしたい所有欲に 僕の名前はまだ、ある? 蝶のようにヒラヒラ舞い遊んでは 指差すのは“ダレカ” 選ばれない悔しさに溢す言葉は心を刻んだ ひとつの嘘も君は与えちゃいないさ ただ 夢を見たかった 「“たったひとり”になりたくはない」 そんな強がりに逃げ出せたなら 潰れそうな痛みにも耐えられるのだろう 離れてゆく情の深さを 「今日はこれくらいだね」と呟いて 並ぶ目盛りは気づかれぬよう 二の腕に刻む 目が眩むほど醜い 執着に嫉嫉と泥濘(ぬかる)む 昏い欲情に 僕の名前はもう、ない? 月のようにキラキラ満ち欠けては 呼ばれるのは“ダレカ” 伸ばされない指先に舌を這わせて噛み砕けたなら ひとつの夢も君は与えちゃいないさ ただ 嘘に溺れていた 「“たったひとり”にはなれやしない」 そんな現実に踏み出せたなら 裂かれそうな痛みから逃げられるのだろう 失われる情との距離を 「無様に追いかけず在れるように」と 抑う楔は気づかれぬよう 太腿に刻む 誰かを待つ背中なんて斬り裂いてしまえ 「“たったひとり”になりたいんだ」 そんな紛い物の願いごとを いくつ切り刻めば痛みに狂えるだろう 冴えた刃に触れるように 恭しく肌をなぞって 耐えぬ想いが咲き誇るよう 首筋に託す コメント おおっ!ふたたびの2015のmayuko様だ!追加乙!!!! -- 良太 (2015-03-30 23 15 01) 執着に嫉妬と泥濘(ぬかる)む じゃなくて 執着に嫉嫉と泥濘むじゃね? -- ナナシ (2015-04-15 02 28 56) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/minasava/pages/557.html
芸術審美:A アルセーヌ・ルパン 芸術作品、美術品への深い造詣。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、非常に高い確率で真名を看破することができる。 芸術審美:E- ジル・ド・レェ 芸術作品、美術品への執着心。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、ごく低い確率で真名を看破することができる。 【A+ランク】 【Aランク】アルセーヌ・ルパン 【B+ランク】オルフェウス 【Bランク】 【C+ランク】アルジュナ、豊臣秀吉 【Cランク】 【D+ランク】武蔵坊弁慶、アドルフ・ヒトラー 【Dランク】自来也 【Eランク】 【E-ランク】ピサール 芸術審美:B+ オルフェウス 芸術作品、美術品への深い造詣。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、高い確率で真名を看破することができる。 特に、音楽関係の宝具に対し、高い効果を発揮する。 芸術審美:C+ アルジュナ 芸術作品、美術品への嗜好。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、 一定確率で真名を看破することができる。 特に、舞踏関係の宝具に対し、高い効果を発揮する。 芸術審美:C+ 豊臣秀吉 数多くの業物の刀剣を目にし続けた事で磨かれた鑑定眼。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、 それなりの確率で真名を看破することができる。 特に、刀剣関係の宝具に対し、高い効果を発揮する。 芸術審美:D+ 武蔵坊弁慶 数多くの業物の刀剣を目にし続けた事で磨かれた鑑定眼。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、 やや低い確率で真名を看破することができる。 特に、刀剣関係の宝具に対し、高い効果を発揮する。 芸術審美:D 自来也 数々の盗みと古美術の鑑定で磨かれた芸術作品、美術品に対する執着心。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、やや低い確率で真名を看破することができる。 芸術審美:E- ピサール 芸術作品、美術品への執着心。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、 ごく低い確率で真名を看破することができる。 ただし現在はクラス能力により狂化している為、能力を発揮できない。
https://w.atwiki.jp/sexyvoiceandrobo/pages/37.html
ドラマの中でのマックスロボ マックスロボと須藤威一郎の関係 「小3の時、俺に奇跡が起こった。 アニメで見ていたロボットが、3次元、ていうか立体の形で 売られてて、それがまた、よく出来てて。 すげーと思った。 だって、どんなに好きでも、アニメの中に人間は入っていけないわけじゃない? 手の届かないと思っていたヒーローが、自分と同じ空間にあって、 しかもそれ、思う存分いじれるわけ。 こんなことあるのかと思ってびっくりした! 絶対無理だと思ってあきらめていたことが無理じゃなかった! この先も、きっと、そういう奇跡は、起こると思う! だから!生きていける! それが俺の、生きてる、原動力なんだ!!」 ドラマの主人公、須藤威一郎(ロボ)はロボット物のフィギュアオタクである。 その中でもマックスロボは朝起きてすぐに見られるようにビデオがセットし てあり、原作者の色紙も飾っていたりと、特別好きなことがわかる。 口癖も「いただきマックス」や常時主題歌を口ずさむなどしている。 また会社に行くときもマックスロボを持って歩くなどしている。 各話のマックスロボ 1話 朝、マックスロボのビデオでなんとか起きるロボ。このあたりからマック スロボが彼にとって特別なものだとにおわせる伏線が張ってある。 怪しい露天商が売っていた2万円相当のロボのフィギュアを、ニコが 靴底からだしたお金を借りて買うロボ。三日坊主ともみあいになり、 信号機の上に乗ってしまったフィギュアを取ろうとして、三日坊主とニコ のバックではしごを持ってきたり落胆している姿が面白い。 マックスロボを通じてロボにとってニコや人との出会いが始まる話。 2話 ごぼ蔵をスズと会わせてあげよう、と決心したロボが機嫌よく 「マックススターート!5つの勇気が集まって♪限界突破のマックスロボー♪」 と歌うシーンで、マックスロボの主題歌の歌詞が登場。 3話 オタク仲間たちが集まって品評会を開き、「またマックスロボ」と いわれていることから、ロボが以前からマックスロボ集めをしている のがわかる。マックスロボフィギュアが高評価を受けていることから、 貴重品であることを印象づけてくる。 (尚ここに登場するブライガーも造形師による一点物で超貴重品) 生きるのに悩む月子にロボが言う「小3のとき・・・」と、少年のロボの回想 姿が熱いシーンである。 4話 マックスロボのオープニングアニメが登場。押収されたマックスロボの 定位置に、黒いマックスロボ?が置かれているのがわかる。 5話 特にロボットは活躍しないが、ロボのオタクとしての誇りが見える話。 6話 ロボットやアニメビデオが片付けられてしまったロボと、大人になるため にロボットを手放す少年、なにかに頼らないと生きるのが辛い人間の心を うまく表した話。 7話 (未放送のためあとで追加) 8話 会社にいくのにまでマックスロボを持って歩いていたロボが、やがて 恋のために変わっていく様を、ロボットを捨てることでうまく表現されている。 マックスロボがニコとロボにとって重要であったことを示すラストは名シーン。 9話 ロボと、捨て去ろうとしたフィクション=ロボットたちの関係を感じさせる ラスト。 10話 親友だったケロ山との別れはロボの優しさと、彼にとってフィギュアが ただのコレクションではないのを感じさせる。ロボの絵心もわかる。 11話 一海とのデートでも鞄の中にマックスロボを持っていたロボ。 バラバラにされてもけして壊されることのないもの。 ロボにとって「マックスロボ」とは彼自身なのかもしれない。 ライナスの毛布とマックスロボ説 「ライナスの毛布」 とは、漫画スヌーピーに出てくる毛布を手放すことの できない少年ライナスから由来された、発達心理学の用語である。 本来は乳児が成長するにつれ、母の乳房や好きな玩具などが離されていく 不安感から、自身を守るために毛布やぬいぐるみに執着する心理の意味。 フィギュアやコレクション、ある物に執着する大人たちは、 ライナスと同じように自分のまわりの(容赦ない)不安から、 その世界に浸ることで精神の安定を守っていると言われている。 幼いころに自身に影響を及ぼした物を手放せないこと(執着)、 それはある種の精神安定剤とされる。自分を変えていってしまう時間の 流れ、抗えないものからの防護策として、あるものに執着することで (子供のままの)日常的な心の平穏を得るのである。 ロボのマックスロボへの過度の執着もこの背景が見てとれる。
https://w.atwiki.jp/hacchake/pages/144.html
730:名無しさん@HOME:2009/12/08(火) 20 31 10 0 まだはっちゃけてないんだけど、義弟が将来はっちゃけになりそうだ。 仕事辞めて義実家に帰るらしい。 地元で再就職先は決定している点はまだ安心だけど、いま交際中の彼女もおいおい連れて行く予定だとか。 まあ、別に義実家の人々がいい人ならどうってことないんだけど、 義母は今まで長男(うちの夫)に執着。真ん中次男は放棄気味。 長男はその義母に嫌気が指して遠方で就職。子供が生まれてもあまり地元には帰りたがっていない。 しかもわりと田舎なのでプライバシーとかあんまりない。 奥さんになる人を義弟がしっかり守ってくれるといいんだけど、正直心配だ。731:名無しさん@HOME:2009/12/08(火) 21 07 04 0 彼女の方は奥さんになる前に逃げるだろうから心配しなくて良いと思う。 次男が結婚できなくて義母が長男の子供に執着することを心配した方が良くないか?732:名無しさん@HOME:2009/12/09(水) 13 14 48 0 730義弟が戻ってきたら子供つれてダンナのとこへ引っ越せば?733:名無しさん@HOME:2009/12/09(水) 14 09 11 0 731 732 レスどうもです。 うちは義母と絶縁状態なので、うちの子供に執着はしていません。 以前トラブルがあったときに私がブチギレて以来、一切接触がなくなりました。 そもそも、義実家とうちでは新幹線で5時間ぐらい離れているのと、 電話等も一切でないので、向こうが構いたくても構えない状況です。 ですので、義弟が地元に帰って就職→結婚して子供でも出来た場合、 義母や義祖母・その他親戚衆の格好の干渉対象になるんじゃないかなーと思います。 私としては義実家の相手をしてくれる人ができるのはうれしいんですが、 何か揉めた時にとばっちりがくるのも嫌だなあと。面倒だし。 732さんのおっしゃる事は良く分からないんですが、 うちの家族は遠方に避難済みなので、今後の状況をニヤニヤしながら見てたいと思います。
https://w.atwiki.jp/eroscape_bibouroku/pages/26.html
『病んでるヒロインが魅力的』の議事録 【提案内容】 2009年04月09日 題名 病んでるヒロインが魅力的 POV説明 「病んでる」ヒロインの言動・行動が魅力的なゲームを登録してください。 主人公に異常に執着するヤンデレの行動が代表的ですが二重人格やトラウマ持ちetcも含みます。 病みかたの「魅力」によってABCをつけてください。 【審議】 2009年06月20日 ~ 2009年07月26日(登録日) 内容 【結果】 2009年07月26日 可決されました。 題名 精神を病んでるヒロインが魅力的 POV説明 精神的に「病んでいる」ヒロインの異常な言動が魅力的なゲームを登録してください。 主人公に異常に執着するいわゆるヤンデレに限らず、重度のトラウマ持ちや精神崩壊なども含みます。 体が病弱なだけ、腹黒なだけ、依存が強いだけなどは対象外です。 病みかたの「魅力」の大小によってABCをつけてください。 ネタバレになるのでキャラ名は伏せる方向でお願いします。 タグ一覧:POV
https://w.atwiki.jp/6war/pages/873.html
基本情報 名前 ホーネット・アンビルス 生没 ラドリザン (6848~6891) 出身 サムルトン国 種族 人間 性別 男 略歴 サムルトン国を支え続けた古参将軍。 若き頃は堂々とした戦いを好んでいたが、帝国軍との戦いでは国力の差から手段を選ばなくなり、ライラックの戦いにおいては、自分の部下を帝国兵に偽装させ、守るべき筈の街で略奪行為を行わせるという外道の策を用いて混乱状態を起こし、自らは密かに撤退した。 その後クライシスのリックスに救われ、それまで民間組織と侮っていたクライシスへの認識を一変させる。 しかし、偵察にきたグラスシードと遭遇、彼に執着心を見せ独断で追撃を仕掛けるが、反撃にあって戦死した。 人物 粗暴ではあったが、以外に義理堅い一面もあり、一度救われたことからそれまで敵視していたリックスを全面的に信頼することとなる。 国境小競り合いで敗れたグラスシードに対しての執着心は激しく、彼の最後の出撃は、リックスに黙って行われた単独行動であった。 関連項目 CHAOS CROWN
https://w.atwiki.jp/zektwiki/pages/319.html
リュドミール Lyudmil (CV:藤原啓治) アギオナ機関の一員で、主に世界に散らばる古代の有用遺産を調査し確保する担当をしている。 哲学的な思考を持つ人物で、含みのある話し方を好む。 完全なる美にこだわるが、自身は不治の病ドルクマ病に冒されており、徐々に醜い姿となっていく。 宗教や神を否定し、聖女アンネースに異常な執着を持つようになる。 (The Epic of Zektbach -Masinowa-(CD+DVD)+シャムシールの舞(DVD)豪華版 特典設定資料集より) アギオナの一員で、主に世界に散らばる古代の有用遺産を調査し確保する担当をしている。 哲学的な思考を持つ人物で、完全なる美にこだわるが 自身は不治の病であるドルクマ病に侵されていて次第に醜い姿となってゆく。 病が酷くなるにつれ、ディリアで出会った罪狩りの聖女アンネースに対し異常な執着心を持つようになる。 (The Epic of Zektbach Novel CD Series ~Blind Justice~ ブックレットより)