約 14,464 件
https://w.atwiki.jp/teamaed/pages/21.html
このページは、内戦の記録のページのリンクです。 内戦第1回目 内戦第2回目
https://w.atwiki.jp/teamcj/pages/17.html
内戦情報 第2、第4土曜日に内戦を行います ルールは↓のフォームに書いてあります 登録フォーム 参加して下さるメンバーは登録お願いしますm(_ _)m 参加者が2人でも行います よろしくお願いしますm(_ _)m 次の内戦は未定です
https://w.atwiki.jp/gcmatome/pages/9321.html
三国志ツクール 【さんごくしつくーる】 ジャンル ツクールシミュレーション 対応機種 Windows Vista~10 (Steam) メディア Steam ダウンロード専売 発売元 コーエーテクモゲームス 発売日 2015年12月10日 定価 900円(税別)(*1) レーティング CERO A(全年齢対象) プレイ人数 1人~41人 判定 修正前 クソゲー シリーズファンから不評 修正後 改善 シリーズファンから不評 ポイント 三国志「ツクール」ならぬ「イジール」バグてんこ盛り、重い動作(現在は修正済み)『三國志II With パワーアップキット』と割り切るなら安価 三國志シリーズ ツクールシリーズ 概要 特徴 有料版で編集可能な項目 問題点 ベースとなった『三國志II』に起因する問題点 評価点 総評 余談 概要 『三國志』シリーズ30周年企画の一環として、東京ゲームショウ2015にて発表された。この発表と同時にブース内ではPC-9801版の試遊台が用意され、「10分ずつ交代でプレイし皆で中国統一を目指そう」という企画が行われていた。 名前通りKADOKAWAのツクールシリーズとのタイアップであり、エディット要素に特化された三国志になっている。 ちなみにSteamにリリースされたツクールシリーズで最初に日本語版が存在したソフトである。Steam以外でも購入はできるが、その場合でもSteamへの接続と会員登録は必須。 サンプルシナリオ、および配布されたシナリオの読み込み・プレイのみが可能な無料版と、自分でシナリオを編集できる有料版が存在する。 在野の自作シナリオは三国時代を始め、春秋・戦国から国共内戦まで、また中国以外のシナリオも作られ、配布されている。 特徴 システム 基本的にコンシューマー版『三國志II』準拠だが一部の仕様が変更・削除されている。 貂蝉イベントや司馬徽などの旅人が存在せず、初期設定ではアイテムに美女は存在しない。 仮想モードや婚姻は実装されていないが、コンシューマー版では削除された放浪・旗揚げと砦建設は実装されている。 ゲーム開始時に、新君主を作れなくなった。あらかじめシナリオに用意された君主を選ぶのみとなる。 CERO Aで使えない表現が変更された(「斬首」→「処断」など)。 「君主である」がただの「君主」になる、夏侯惇のルビが「かこうじゅん」でなく「かこうとん」になるなど、一部の独特の表現が変更された。 上記でも挙げられる厄介な婚姻がなくなった。 サンプル・DLCシナリオ 初期設定で用意されているのはシナリオ1(189年)のみ。シナリオ2~6は、顔グラフィックとセットの有料DLC。 シナリオ2~6は自作で再現したシナリオも出回っているので、『三國志II』として遊ぶ分には無料版で不自由しない。 武将の表記・読み仮名が後の作品に基づいて変更された(「夏侯惇」は「かこうじゅん」ではなく「かこうとん」になってるなど)。 武将の間引きがなくなった。これにより、シナリオ1でも全ての武将が登場するようになった。原作で間引きされていた武将は、おおむね後のシリーズでの設定を元に所在が設定されている。 原作ではNPC専用だった君主を、プレイヤーが選べるようになった。 寿命も後の作品に基づいて変更。オリジナルでは、早死にするのは孫堅など一部の武将に限られていたが、多くの武将が史実通りの年代に寿命を迎えるようになった。 これにより、後半シナリオの難易度がオリジナルより上がっている。たとえば曹丕(享年40)は『三國志II』では65歳前後まで生きるので250年代でもまだ生きているが、変更により史実通りの227年過ぎに凶兆が出る。ただでさえ武将が少ないのに、加速度的に武将が死ぬのである。 + サンプル・DLCシナリオ一覧 シナリオ名 該当シナリオが収録されているDLC 発売日 価格(いずれも税別) 184年 『三國志13』シナリオ「黄巾の乱」 顔登録素材『三國志13』セット+シナリオ 2016年1月28日 無料 189年 董卓洛陽を騒がし群星起つ 本作同梱のサンプルシナリオ 2015年12月10日 無料 194年 群雄割拠し盛んに覇を競う 顔登録素材「コーエーSLG」セット+シナリオ 2015年12月24日 500円 201年 劉備荊州に潜み脾肉を嘆ず 顔登録素材『太閤立志伝V』セット+シナリオ 2015年12月24日 300円 208年 曹操華北を制し天下を望む 顔登録素材「歴史ファンタジー」セット+シナリオ 2016年1月8日 300円 215年 天下三分し関羽荊州を守る 顔登録素材「無双」セット+シナリオ 2015年12月24日 300円 220年 魏・呉・蜀鼎立し三國成る 顔登録素材『のぶニャがの野望』セット+シナリオ 2015年12月24日 500円 有料版で編集可能な項目 シナリオ シナリオ名、開始・終了年代、概要、オープニング、重要国(占領で戦利品が必ず出る国)、戦利品登場頻度を設定できる。 開始年代は1年から9999年まで可能。紀元前の設定はできない。 終了年代は9999年カンストまでか、特定年代で強制終了かのいずれかを設定。 オープニングは1枚絵と、物語(メッセージ)を設定できる。サンプルシナリオでは実装されていない。 エンディングの設定はできない。あらかじめ用意されたエンディングで固定される。 歴史イベントはじめ、イベント作成は一切できない。また既存イベントの編集もほぼ不可(洪水の有無だけは、都市データで設定可能)。 君主 初期設定で41勢力まで登録可能に。さらに、ゲーム中は放浪君主を含めると少なくとも60勢力は同時存在可能になった(*2)。 設定できるのは「勢力色」「君主」「軍師」「信用度」「金収入増」「強化勢力」「敵対勢力」。 「金収入増」はNPC担当時、金収入が+補正される。同様に、「強化勢力」はNPC担当時、ゲーム開始時の所持金、兵糧、内政パラメータ(民忠誠、土地、治水)、訓練度が+補正される。 同盟・婚姻関係の設定はできない。「敵対勢力」に指定すると、NPC担当時に指定先と同盟・婚姻を結びにくく、なおかつ裏切りやすくなるが、絶対ではないので同盟を結ぶことそのものは可能。 武将 1シナリオに付き999人まで登場可能。同時に999人登場させることができる。武将登録そのものは9999人まで可能で、シナリオ作成時に999人まで登録する形になる。 顔グラフィックは三國志1~12までの物が用意されている。信長の野望・創造PKより大部分を収録。かなりの数だが全部ではなく、三國志IIにいなかった三國志武将のグラフィックはない(*3)。その他、比較的最近の作品の新武将や、春秋戦国時代の武将グラフィックもある。 DLCとしてコーエーテクモの他ゲームシリーズからのプリセット画像が配信されている。『三國志13』DLCは無料で、『三國志II』にいない武将の画像もセットになっている。 もちろん、自分で顔を登録することもできる。登録できる画像は9999種類まで。JPEG形式の画像ファイルなら内容は問わないため、カオスな世界観を再現することも可能(*4)。 全てのパラメータを編集できるが、年齢制限は99までで、100歳以上にはできない。 ちなみに、ゲーム中に100歳を超えても、年齢の数字は99でカンストする。 武将の能力値は、ランダム作成ができる。しかし「顔から作成」以外の機能は、武将名も勝手に設定されてしまう。 「顔から作成」機能では、画像ファイルから能力がランダム生成されるので、画像に全然ふさわしくない能力の武将も多々できる。 シナリオでは、その武将の身分を設定する。既に死亡した武将を登録だけすることも可能。 アップデートで、身分を設定すると兵士数・忠誠度も身分に応じて設定されるようになった(たとえば君主は兵士数1万、一般武将は1千)。 地図・都市 都市データ編集の他、都市名の設定が可能に(最大6文字)。 物資についてはこちらで設定する。君主設定画面で直接できるわけではない。 最初から用意された『三國志II』の地図以外の地図を作成したり、読み込むことはできない。 戦場マップは自由に編集可能。 BGM 『三國志II』『三國志12』のBGMが用意されている。BGMの追加はできない。 戦利品(アイテム) 名前と性能を設定できる。名前は全角6文字以内、読み仮名は半角18文字以内。 あらかじめ用意された画像しか使えないため、自分で美女画像を登録することはできない。 その他 編集画面やゲーム画面付きでTwitterでつぶやく機能がある。肝心のシナリオアップロード機能はないのだが。 問題点 現在は概ね修正されているが、発売当初はバグが多かった上に動作も重かった。 + アップデートで修正された問題点 日本語以外の環境で購入すると表示がおかしくなる(*5) 編集時のバグ 武将の血縁を設定する時、以前に設定した血縁が消えることがある 「新武将登録」の「生年一括編集」で生年を変更したあとでゲームを再起動すると、変更内容が保存されていない シナリオ編集で君主の存在しないシナリオを作成できてしまう(ただしプレイしようとすると強制終了する) シナリオ編集で複数勢力を統合しようとしても、反映されないことがある ゲームプレイ時のバグ 兵士の再編成をすると訓練度が0になる 長期戦で増援を派遣できないことがある 守備側の味方武将が戦争中に寝返ると、武将情報の一覧に登場しなくなる 戦争中、敵の武将情報を見ると強制終了することがある(未修正) 埋伏武将を確認しても、撤退ができないことがある 君主が17勢力以上存在する状態で、外交で結んだ同盟が反映されないことがある(*6) 君主死亡時の後継者選択で、同一勢力で2回目以降強制終了することがある オープニング画面を右クリックすると、メッセージがそこで止まってしまう(左クリックでオープニングを飛ばしてゲーム開始できる) 特に訓練度0と同盟キャンセルバグは、君主によっては致命的で、普通にプレイするにしても支障が出るレベル。 戦場での演出が緩慢で、戦闘終了まで無駄に時間がかかる。 アップデートにより演出の早送りが実装された。 26年前の作品をベースにしたとは思えないほど動作が重い(翌年発売の『三國志13』よりメモリを食うこともあるほど)。 とにかく「ツクール」を名乗っていながら編集できる箇所が少なすぎる 「ツクール」を名乗っていながら全体地図、単語、メッセージ、イベント、エンディング、システムのバランスなどの変更ができない。 特に全体地図、単語、メッセージの変更が不可な点は編集の自由度を大きく制約しており、「オリジナルSLGをツクろう!」と謳っているソフトとして致命的。 当然ながら、システムを魔改造して別のゲームに仕立てるといった遊び方はできない。 BGMは設定できるものの『三國志II』『三國志12』以外の作品のBGMは使えない。(容量や著作権の関係で難しかったのかもしれないが…) 寿命なしの設定にすることができない。寿命なしに近い仕様にしたい場合は、ツクールのシナリオキャラ全員を1歳スタートで99歳を寿命にする必要がある。 おかげで「(ツクールではなく)イジールだろ?」と言われてしまう始末。 全体的にエディタが使い辛い 武将・シナリオ編集のUIが使い辛い上に、CSVなど外部ファイルへの書き出し・読み込みにも対応していない。 勢力エディタから武将エディタに行くといった切り替えができず、いちいちエディタを閉じては別のエディタを開いて編集する必要がある。 名前の登録の時にテキストの貼り付けができない。そのためキーボードでいちいち入力しなければならない。 武将設定では武将の能力値をランダム生成できるが、「顔から作成」以外を選ぶと武将名まで変わってしまう。 画像を取り込む際、画像の拡大・縮小機能があるものの、拡大した部分だけしかカーソルが移動しないため画像のトリミングがしにくい。 武将名に使える外字が少ない 一応『三國志』シリーズ始め、コーエーテクモ作品に登場する名前は網羅されている。しかし、三国時代でもマイナーな人物になると外字が使えず、他の文字で代用せざるを得ない。 作成したシナリオ配布の方法がわかりにくい シナリオアップロード機能は存在せず、公式のアップロードサイトも用意されていない。 そのためシナリオデータ保存フォルダから作成したシナリオのファイルを自力で探して、自分で適当なサイトにアップロードする必要がある。 使者の馬が赤から青に変わる演出を削除。他君主に発見されると「!」マークが付くようになった。 戦略画面の馬は無表示にもできるが、他国の使者の動静が一部伏せられることになるため難易度が上がる(*7)。 内政時、武将の一括選択ができない。 戦略画面の国指定で地図から選べず国リストから選択しなければならない。 アップデートにより演出の早送りが実装されたものの、演出の早送りは実は2種類あり、0人プレイ時専用の「高速表示」の方がより速い(両方設定することはできる)。そのため、プレイヤー君主としてはまだ不満が残る。 ベースとなった『三國志II』に起因する問題点 設定できる武将の能力値は元々マスクデータだった部分を除けば知力・武力・魅力のみしかない上、特技や列伝などもないため武将の個性に乏しい。 さらに新武将の性別も設定できない。 相性値は0~100で表されるが後期の『三國志シリーズ』と違い、0と100はつながっていないため、100段階の中間にあたる50前後の君主の勢力が有利。 忠誠度が90程度の武将でも裏切る時は裏切るほど、武将が裏切る頻度が高い。 義理の高い関羽や張飛ですら、捕虜になると確実に敵に降る。ただし捕虜の登用は確実に成功するものの、元々相性値が離れている武将は忠誠度は基本的に低いため、実用に持っていくにはかなりの時間と金を要する。 COM任せだと超がつくほど有利な状況でないと統一できない。 戦争時、攻撃側が出兵が最大5万までなのに防御側は最大10万まで出せてしまうため。 しかも、後半で国が少なくなると他国からの攻撃用の増援も求めにくくなる。さらに、追加で援軍を自前の軍勢で送ろうにも次ターン(来月)にならないと送れないという始末。 「他国の戦争」を「見る」にすると、「見ない」よりCOMが統一を達成しやすくなる。 評価点 コンセプトそのものは非常によい。 新たなシナリオ作成や作成済みのシナリオの編集はなかなか面白い。 前述した通り編集できる項目は限られているものの、西暦1年以降の中国史シナリオ(正史三国志ベースのシナリオなど)なら比較的違和感なく仕上げる事ができる。 指定した画像から武将のパラメータを自動生成する機能も画期的。 三国志シミュレーションとしての体裁は保たれており、三国志要素が殆どない・全く遊べないほどの出来というわけではない。 もっとも本作のベースとなったのは『三國志II』であるため、物足りなさは感じる。 『三國志II With パワーアップキット』として割り切るなら、値段相応の出来ではある。 前述した通り初期設定で用意されているのはシナリオ1(189年)のみだが、シナリオ2~6も有料DLC購入orシナリオ自作で補える。 ゲーム本体とシナリオが収録されている有料DLCを全て買っても約3000円と安価。 無料の『三國志13』DLCをダウンロードすると『三國志II』のシステムで黄巾の乱シナリオが遊ぶことができる。 総評 『三國志II With パワーアップキット』として割り切るなら、多くのバグが修正された今はお得な内容と言える。 既存シナリオで遊ぶだけなら無料版で十分であり、編集項目の少なさも、値段を考えたら許容範囲ではある。 しかし、歴史シミュレーションゲームの創作・エディットは、シェアウェア『戦国史』が有名であり、『三國志』シリーズでもパワーアップキットや非公式の改造ツールで、大幅な改造が可能な作品がある。 他ならぬ『三国志ツクール』自体が、『三國志Ⅱ』の非公式改造ツールの機能をベースにした節がある(*8)。 『ツクール』を銘打つならば、フルプライスにしてでもこうした既存のツールを上回る機能を実装すべきではなかったか。 また、初期のバグの多さとアップロード機能の不親切さが初動の足を引っ張ったことは否定できない。 安い作りが色々と惜しまれる作品である。 余談 プロモーションムービーでは日本列島を背景に「自由なシナリオで思う存分こだわりの三国志を楽しもう」という演出がなされるが、前述の通り実際に日本列島を舞台にする事はできない。 + 参考動画
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/5415.html
中国 / 中国共産党 / 中国共産党大会〔言葉で検索〕 / 中国共産党第18回党大会 / 中国共産党第19回党大会 / 全国人民代表大会 ● 中国共産党全国代表大会〔Wikipedia〕 ☆ 中国共産党大会/全国人民代表大会とは.pdf +中国の政治機構図 .
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/89.html
トップページ>韓国>韓国独立運動史研究 『韓国独立運動史研究』40、2011.12 研究論文 韓詩俊「新興武官学校と韓国独立運動」 金泰国「新興武官学校と西間島韓人社会の支援と役割」 김주용「『新興交友報』を通じて見た新興武官学校」 김종준「国権喪失に対する一進会の認識:文明化論と合邦論の関係を中心に」 주계운「1930年代忠北地域官制青年団研究」 정진아「『学海』を通じて見た日帝末期知性界の断面」 김광재「日帝時期上海高麗人蔘商人の活動」 양지선「天津朝鮮大独立党籌備会の結成と活動」 孫艶紅「1930-40年代中国華北地域韓人社会と帰還:河北省・内蒙古・山西省地域を中心に」 B-randon Palmer「半植民、抗議、暗殺:アメリカ人、韓日関係に直面する」 資料紹介 潘炳律「「国民代表会議出席員署名簿」解題」 書評 廉仁鎬「1980年代意識と感性が照らす中国管内地域韓国独立運動史:김영범『혁명과 의열-한국독립운동사의 내면』」 『韓国独立運動史研究』39、2011.8 研究論文 최규순「1905-1906年西欧式大礼服制度改定に現れた日帝の韓国併呑準備:日本西欧式大礼服制度との比較を通じて」 金京美「統監府の初等学校歴史教育政策と歴史認識」 李明花「日帝強制併合イデオロギーと植民地教育政策」 이재호「尹琦燮の大韓民国臨時議政院参与と活動」 趙栄得「栄州水島邑(ムソムマウル)宣城金氏門中の民族運動」 韓圭茂「五放崔興琮の生涯と民族運動」 呉美一「総動員体制下生活改善キャンペーンと朝鮮人の日常:植民都市仁川の社会的空間性と関連して」 김한종、남정우、이해영「独立運動史教育における史跡地活用方法とその効果:『国内抗日独立運動史跡地調査報告書』活用手法を中心に」 企画調査報告 이정은「アメリカの史跡地調査及び管理政策」 윤소영「日本史跡地政策と歴史文化資源の活用現況」 資料紹介 필규「朝鮮義勇隊発行『戦鼓』第2号」 『韓国独立運動史研究』38、2011.4 研究論文 김수태「安重根と天主教の関係についての批判的検討:独立運動期を中心に」 李東彦「徐一の生涯と抗日武装闘争」 金容達「金益相の生涯と義烈闘争」 전성현「日帝強占期慶南地域の義烈闘争と地域性:1920年代初義烈団の活動を中心に」 오대록「日帝強占期常山金度演の現実認識と民族運動」 朴杰淳「申采浩のアナーキズム受容と東方被圧迫民族連帯論」 조필군「青山里戦役の軍事史学的再照明」 渡部宗助「1910年前後日本の歴史教育:状況、教育課程、教科書」 佐野通夫「1910年代朝鮮総督府学務局の歴史教育」 資料紹介 성주현「『北接大道主』:義菴孫秉煕の近代国家政治論」 『韓国独立運動史研究』37、2010.12 研究論文 権泰檍「日帝の韓国強占論理とその宣伝」 朴敏泳「響山李晩寿の生涯と殉国」 金喜坤「定斎柳致明宗家三代の独立運動」 김승일「3・1独立運動前後孫文の韓国認識研究」 김주용「黃炳吉の生涯と独立運動」 윤덕영「1920年代中盤日本政界の変化と朝鮮総督府自治政策の限界」 金度亨「ハワイ大朝鮮独立団の組織と活動」 강혜경「淑明女高普盟休事件から見た植民地女性教育」 조은경「『東方戦友』を通じて見た李斗山の国際連帯認識と活動」 崔在聖「「創氏改名」と親日朝鮮人の協力」 資料解釈 尹炳奭「安重根の写真」 『韓国独立運動史研究』36、2010.8 企画論文 韓哲昊「津寬寺太極旗の形態とその歴史的意義」 金光植「白初月の抗日運動と津寬寺」 김주현「申采浩の『新大韓』発行と独立運動」 研究論文 朴孟洙「東学農民革命期在朝日本人の戦争協力実態とその性格」 尹慶老「安重根義挙背景と「東洋平和論」の現代史的意義:東アジア平和と未来を展望して」 呉瑛燮「韓末関東学会の結成と活動」 金祥起「瑞山地域3・1運動の展開と性格」 曺圭泰「1920年代在北京韓人革命社の『革命』発刊と革命運動」 崔起栄「金学武の在中独立運動と左派青年グループ」 윤소영「日帝強占初期韓日初等学校教科書の韓国認識」 趙成雲「1930年代植民地朝鮮の近代観光」 資料紹介 장세윤「新興校友団の機関紙『新興校友報』」 『韓国独立運動史研究』35、2010.4 企画論文 金淇周「光州学生運動以前の同盟休学の性格」 尹善子「光州学生運動以後学生運動の変化」 孫科志「光州学生運動に対する中国媒体の報道と認識」 孫科志「光州学生運動に対する中国媒体の報道と認識」(中) 研究論文 金炯睦「忠南地方国債報償運動の展開様相と性格」 朴敏泳「安重根の沿海州義兵闘争研究」 김남석「大湖芝3・1運動の展開と特性」 崔惠珠「近代日本の韓国史観と歴史歪曲」 李明花「日帝皇民化教育と国民学校制の施行」 최영호「戦後日本右翼の動向と自由主義史観の胎動」 韓詩俊「中韓文化協会の成立の活動」 『韓国独立運動史研究』34、2009.12 企画論文 潘炳律「ロシアにおける安重根の抗日独立運動に対する再解釈」 孫艶紅「安重根義挙が中国の反帝民族運動に及ぼした影響」 李圭洙「安重根義挙に対する日本言論界の認識」 尹善子「解放後安重根記念事業の歴史的意義」 研究論文 한동민「大韓帝国期日本浄土宗の浸透の仏教界の対応」 李東彦「金鴻亮の生涯と民族運動」 朴杰淳「沿海州韓人社会の葛藤と鄭淳萬の被殺」 韓圭茂「「光州学生運動」関連名称の用例と意味」 김영범「李陸史の独立運動詩:空間(1926-1933)と義烈団問題:通説の分析的再検討を兼ねて」 資料紹介 洪善杓「『加哇島韓人団合会規定』」 『韓国独立運動史研究』33、2009.8 企画論文 高珽休「重慶時期大韓民国臨時政府の承認外交失敗原因についての検討」 金喜坤「重慶時期大韓民国臨時政府の指導体制」 韓詩俊「重慶時期大韓民国臨時政府の位相と役割」 李賢周「1942年朝鮮民族革命党の臨時議政院参与と路線闘争」 朴敏泳「韓国光復軍印緬戦区工作隊研究」 研究論文 이호룡「李会栄のアナーキスト活動」 정욱재「朝鮮儒道連合会の結成と「皇道儒学」」 윤대원「玄楯に「秘伝」された臨時政府の実態と大韓共和国臨時政府」 황민호「朴東完の国内民族運動」 정을경「日帝強占期朴寅浩の天道教活動と民族運動」 성주현「天道教青年党の指導理念と組織体系」 洪善杓「解放以前大韓人同志会の組織と活動」 『韓国独立運動史研究』32、2009.4 企画論文 金祥起「尹奉吉の上海義挙に対する日本マスコミの報道」 韓詩俊「尹奉吉義士の虹口公園義挙に対する中国新聞の報道」 尹炳奭「安重根の「同義断指会」の補遺」 研究論文 金炯睦「韓末京畿道私立学校設立運動の展開と性格」 金仁鎬「金浦郡3・1運動勃発の経済的基礎」 김주용「1920年代初独立運動団体の軍事金募金活動」 김성민「光州学生運動の全国的様相と理念」 장신「日帝末期金性洙の親日行跡と弁護論批判」 書評 황민호「間島地域韓民に対する日帝の侵略的金融政策に対する深層的接近:김주용『일제의 간도 경제침략과 한인사회』선인、2008年」 『韓国独立運動史研究』31、2008.12 特集論文 金容達「島山の務実力行論とアメリカ韓人の生活倫理」 李明花「島山の教育観と初期アメリカ韓人社会の教育:大韓人国民会の教育運動を中心に」 李賢周「島山と初期アメリカ韓人団体」 研究論文 韓哲昊「我が国最初の国旗(「朴泳孝太極旗」1882)と統理交渉通商事務衙門製作国旗(1884)の原型発見とその歴史的意義」 이계형「1904-1910年大韓帝国官費日本留学生の性格変化」 金度亨「田明雲の生涯とスティーブンソン処断義挙」 呉瑛燮「安重根の政治体制構想」 李東彦「安明根の生涯と独立運動」 김상현「1920年代初盤崔東旿の天道教活動と民族運動」 資料紹介 潘炳律「『洪範図日記』版本検討と争点」 編集部「『洪範図日記』」 『韓国独立運動史研究』30、2008.6 特集論文 朴杰淳「『丹斎申采浩全集』編纂の意義と課題:「歴史編」を中心に」 김주현「丹斎全集観光と文学編の問題点考察」 研究論文 金炯睦「韓末天安地域近代教育運動の性格」 李升煕「韓末義兵弾圧と駐韓日本軍憲兵隊の役割:伊藤博文の韓国治安構想を中心に」 서동일「パリ長書運動の起源と在京儒林」 曺圭泰「1920年代北京地域韓人留学生の民族運動」 성주현「日帝強占期天道教青年党の大衆化運動」 조철행「1920年代前半期高麗中央局の組織過程と運営」 유필규「1930年代延辺地域韓人「集団部落」の設置と統制的生活相」 황민호「1930年代後半在満興亜協会の設立と対日協力論理」 資料紹介 김승태「日帝の堤岩里協会虐殺・放火事件処理に関する小考」 その他 編集部「日本歴史及び教科書問題関連資料目録(1)」 『韓国独立運動史研究』29、2007.12 研究論文 尹炳奭「万国平和会議と韓国特使の歴史的意味」 T. Simbirtseba「1907年ハーグ平和会議の開催過程と性格」 李玟源「光武皇帝とハーグ特使:高宗のハーグ特使派遣論理と構想を中心に」 朴鍾涍「ハーグ特使と韓露関係」 韓哲昊「ハルバートの万国平和会議の活動と韓米関係」 裵敬隆「ハーグ特使事件と日本の対応」 金祥起「高宗のハーグ特使派遣と国内抗日闘争」 李明花「ハーグ特使が国外独立運動に及ぼした影響」 朴敏泳「国恥前後李相卨の沿海州地域独立運動」 呉瑛燮「李瑋鍾の生涯と独立運動」 崔起栄「韓末李儁の政治・啓蒙活動と民族運動」 『韓国独立運動史研究』28、2007.6 研究論文 朴孟洙「教祖伸寃運動期参礼集会についての再検討」 朴杰淳「1894年合徳農民抗争の動因と様相」 金炯睦「大韓帝国期慶北金堤地域啓蒙運動の展開と性格」 신운용「安重根義挙に対する国外韓人社会の認識と反応」 金淳碩「韓龍雲の政教分離論研究」 김주현「『中国革命史略』著者究明と創作意義研究」 趙成雲「1920年代日帝の同化政策と日本視察団」 尹善子「1933年「全北朝共再建及び忠南前衛同盟」の組織と活動」 孫艶紅「日帝の中国華北侵略と北京地域韓人の麻薬問題」 황묘희「侵略戦争時期天津の親日韓人組織研究」 研究ノート 오인환、문충한、공정자「張仁煥義士の足跡を訪ねて:サンフランシスコ地域を中心に」 資料紹介 임명순「柳寬順烈士一審刑量関係「刑事事件簿」」 『韓国独立運動史研究』27、2006.12 研究論文 朴敏泳「韓末対馬島被囚義兵の幽閉生活」 許東賢「統監府時期(1906-1910)をどう見るべきか?」 이정은「慶南咸安郡3・1独立運動」 김권정「1920年代前半キリスト教民族運動に関する研究」 허종「日帝強占期後半大邱師範学校の学生運動」 特集論文:ヨーロッパ地域におけるアジア植民地解放運動 徐行「ヨーロッパにおいて展開された中国民族解放運動:周恩来をはじめとする中国旅欧勤工倹学生の政治活動を中心に」 徐行「ヨーロッパにおいて展開された中国民族解放運動:周恩来をはじめとする中国旅欧勤工倹学生の政治活動を中心に」(中) Hriday Narayan「ヨーロッパにおけるインド独立運動」 Hriday Narayan「ヨーロッパにおけるインド独立運動」(英) TS. Lê Ðình Chỉnh「20世紀初ヨーロッパにおけるベトナム革命家達の独立活動」 TS. Lê Ðình Chỉnh「20世紀初ヨーロッパにおけるベトナム革命家達の独立活動」(越) 이창훈「大韓帝国期ヨーロッパ地域における外交官の救国運動」 洪善杓「1920年代ヨーロッパにおける韓国独立運動」 『韓国独立運動史研究』26、2006.6 特集論文:韓国独立運動の世界史的意義 韓相禱「国際的反帝国主義連帯闘争としての韓国独立運動:中日戦争前後中国地域を中心に」 朴賛勝「植民地朝鮮社会運動の発展と国際的性格:1920年代を中心に」 金喜坤「東アジア独立運動主導組織の性格と大韓民国臨時政府」 鄭秉峻「韓国独立運動と独立国家建設の歴史的意味」 研究論集 홍영기「蔡応彦義兵長の生涯と活動」 류시현「出版物を通じて見た新学問の受容と「近代」の伝播:崔南善の事例を中心に」 황민호「『毎日申報』に現れた3・1運動の展開と朝鮮総督府の対応」 김주용「植民地台湾と趙明河の義烈闘争」 金度亨「中部太平洋パラオ群島韓人の強制動員と帰還」 任松子「四月革命以後労働組織の変化と韓国労総結成過程」 『韓国独立運動史研究』25、2005.12 研究論文 朴敏泳「張志淵の北方疆域認識:『大韓疆域考』の「白頭山定界碑考」を中心に」 呉瑛燮「乙未事変以前李範晋の政治活動」 李明花「クレアモント(Claremont)韓人学生養成所の運営と国語教育」 양성숙「西大門警務署の開署と抗日義兵の投獄実態」 金光植「済州島法井寺抗日運動の再認識」 柳永烈「キリスト教民族社会主義者金昌俊についての考察:『金昌俊回顧録』を中心に」 崔鳳春「朝鮮義勇隊の創設と活動補遺」 尹善子「1940年代戦時体制と済州島天主教会」 洪善杓「1945年サンフランシスコ会議をめぐるアメリカ韓人の対応と活動」 이주환「1945-1949年北韓における文盲退治運動研究」 국성하「韓日会談文化財返還協商研究」 廉仁鎬「中国延辺文化大革命と朱徳海の失脚:北韓特務嫌疑を中心に」 윤정란「4・19関連資料現況」 『韓国独立運動史研究』24、2005.8 研究論文 金炯睦「大韓帝国期江華地域の私立学校設立運動」 홍순권「「乙巳勒約」前後開化知識人の政局認識と対応」 金祥起「剛山金庸源の生涯と独立運動」 金喜坤「尹滋瑛(1894-1938)の生涯と独立運動」 鄭秉峻「イギリス外務省の対日平和条約草案・付属地図の成立(1951.3)と韓国独島領有権の再確認」 Brandon Palmer「ハワイの韓人とアメリカ人間の関係(1903-1945)」 Brandon Palmer「ハワイの韓人とアメリカ人間の関係(1903-1945)」(英) 企画論文:植民社会と親日団体 성주현「1910年代植民地朝鮮の日本組合教会動向」 강혜경「日帝下釜山地域行政と日本人支配」 김주용「1910-1920年代南満州親日朝鮮人団体研究」 황묘희「侵略戦争期上海の親日朝鮮人研究」 黃善翌「日帝強占期台湾地域韓人社会と強制連行」 書評 이덕일「박환저『잊혀진 혁명가 정이형』2004年」 『韓国独立運動史研究』23、2004.12 研究論文 朴孟洙「東学軍遺骨と植民地的実験:日本北海道大学の東学軍遺骨放置事件」 柳永烈「尹致昊の文明開化意識と反清自主意識」 金珍晧「洪城地域の3・1運動」 尹善子「湖南地域槿友会の設立と活動」 金喜坤「李陸史の民族問題認識」 김주용「日帝時期朝鮮銀行の間島浸透と役割:1910-20年代を中心に」 企画論文:天津・北京地域韓人社会 曺圭泰「天津不変団の組織と活動」 김광재「中日戦争以後北京地域の韓人団体研究」 孫艶紅「解放直後北京地域韓人社会と帰還」 特集論文:韓国近代史と高句麗・渤海認識 尹輝鐸「現代中国の高句麗・渤海認識と限界」 박인호「伝統時代の高句麗・渤海認識」 崔惠珠「韓末の高句麗・渤海認識」 朴杰淳「日帝強占期亡命人士の高句麗・渤海認識」 최석영「日帝植民史学者の高句麗・渤海認識」 研究ノート 具良根「『我讐不忘』と『征倭論』の比較研究」 『韓国独立運動史研究』22、2004.8 研究論文 李玟源「日本の侵略と大韓帝国の慶運宮」 이용창「「漢城府民会」の組織過程と活動」 韓圭茂「醒進会の組織と活動についての再検討」 박이준「日帝下地主家の小作慣行研究:金哲鎮家を中心に」 金度亨「太平洋戦争期ハワイ捕虜収容所の韓人戦争捕虜研究」 朴敏泳「解放後満州国軍出身韓人の帰還」 李剛秀「南朝鮮過渡立法議院の親日派粛清法研究」 廉仁鎬「中国国共内戦期の満州朝鮮人部隊に関する研究(1948-1950):中国人民解放軍第4野戦軍独立15師団を中心に」 資料解題 金炯睦「盧伯麟将軍実記」 書評 韓哲昊「盧伯麟研究の新しい指標線を開く:『노백린의 생애와 독립운동』독립기념관 한국독립운동사연구소、2003年」 『韓国独立運動史研究』21、2003.12 研究論文 권대웅「韓末金泉地域の国権回復運動」 韓相権「安重根の国権回復運動と政治思想」 企画主題 崔在聖「1910年植民地金融政策と地方金融組合」 研究論文 金淳碩「統監府時期仏教界の明進学校設立と運営」 윤정란「植民地韓国女性車敬信の民族運動研究」 金明燮「在日朝鮮人アナーキストの労働運動」 金成鎬「「朝鮮人民革命軍」呼称についての再検討」 資料解題 金度勲「日本外務省の欧米韓人動静報告」 1-20 21-40 41-60
https://w.atwiki.jp/shinjitsuwiki/pages/18.html
中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)は、創価学会・DS・ユダヤ白人・統一教会の世界支配に対抗する、数少ない勢力である。しかし、電通・創価学会・DS・ユダヤ・統一教会(工作員は主に電通)によって、協力者であるかのような間違った情報が流布されている。これは世界支配の邪魔となる勢力を貶めようとする電通・創価学会・DS・ユダヤ白人・統一教会の卑劣な手口である。 中国共産党は世界で唯一、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を市場から追い出し、創価・ユダヤ白人の国際資本を駆逐している。そして、中国では、ユダヤ・創価といったカルト宗教の類は一切禁止されている。中国では、モチロン自民党の母体であるカルト宗教統一教会も邪教に認定されている。これは、習近平氏の『カルト宗教はDSの手先』と言う方針に基づく措置である。 それに怒ったユダヤ・創価の息がかかった人権団体が「宗教弾圧をやめろ」を叩いているが、カルト教は禁止されて当然である。 しかし、そんな、創価・ユダヤの批判にめげず習近平氏は、宗教施設の破壊と、弾圧を着実に進めています。 一方、DS側傀儡国家である、台湾はGAFAや、ユダヤの国際資本が支配し、マネーロンダリングのハブと化し、一般国民の、搾取が平然と行われている。習近平氏は、DS解体に向け、台湾政府撲滅の準備を進めている。 習近平氏は、DS側の世界支配に抵抗する「一帯一路」路線を進め、着実に反DS同盟国を増やしています。 バイデンと、トランプが同一人物である事実も掴んでいました。 プーチン大統領も、これに賛同し、ウクライナを現在浄化中です。 そして、中国とロシアは、世界で唯一創価学会USAの子会社であるファイザー製の毒チンを一切拒否し、毒のないシノパック製・ノババックス製国産ワクチンを使用している。 関連 BRICs 習近平がDSとウォール街解体に動いた! JPモルガンやUBS、中国株下落で大打撃!40%以上損失!
https://w.atwiki.jp/sokajiminto/pages/12.html
中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)は、創価学会・DS・ユダヤ・統一教会の世界支配に対抗する、数少ない勢力である。しかし、電通・創価学会・DS・ユダヤ・統一教会(工作員は主に電通)によって、協力者であるかのような間違った情報が流布されている。これは世界支配の邪魔となる勢力を貶めようとする電通・創価学会・DS・ユダヤ・統一教会の卑劣な手口である。 中国共産党は世界で唯一、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を市場から追い出し、創価・ユダヤの国際資本を駆逐している。そして、中国では、ユダヤ・創価といったカルト宗教の類は一切禁止されている。中国では、モチロン自民党の母体であるカルト宗教統一教会も邪教に認定されている。これは、習近平氏の『カルト宗教はDSの手先』と言う方針に基づく措置である。 それに怒ったユダヤ・創価の息がかかった人権団体が「宗教弾圧をやめろ」を叩いているが、カルト教は禁止されて当然である。 しかし、そんな、創価・ユダヤの批判にめげず習近平氏は、宗教施設の破壊と、弾圧を着実に進めています。 一方、DS側傀儡国家である、台湾はGAFAや、ユダヤの国際資本が支配し、マネーロンダリングのハブと化し、一般国民の、搾取が平然と行われている。習近平氏は、DS解体に向け、台湾政府撲滅の準備を進めている。 習近平氏は、DS側の世界支配に抵抗する「一帯一路」路線を進め、着実に反DS同盟国を増やしています。 バイデンと、トランプが同一人物である事実も掴んでいました。 プーチン大統領も、これに賛同し、ウクライナを現在浄化中です。 そして、中国は、世界で唯一創価学会USAの子会社であるファイザー製の毒チンを一切拒否し、毒のないシノパック製国産ワクチンを使用している。 関連 BRICs 習近平がDSとウォール街解体に動いた! JPモルガンやUBS、中国株下落で大打撃!40%以上損失!
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/230.html
軍閥「張作霖」の兵力や装備は如何程の物だったのでしょうか 中国兵は、戦争前半はモーゼル銃,戦争後半はM1を使ってたって感じですかね? なんで日本の同盟国のドイツの銃を中国人が使ってるんすか? 日中戦争時の中国兵って弱いイメージがあるけれど、実際どうなんですか? 蒋介石は北支での停戦が成った後も、第二次上海事変を仕掛けて挑発し、ゼークトラインで殲滅を図ったようだけど、何故こんな行動に出たの? 国民党軍は各国から援助を受けてたと聞きましたが、日本軍の装備の方が質,量ともに優れていたということなんでしょうか? 数で優勢な中国軍が日本軍相手に負け続け、日本軍が一方的に攻め込めた理由は? 日中戦争の初期、中国軍機が台湾の日本軍基地を空襲したと聞いたことがあるが、詳しいこと分かりませんか? 中国軍が日本本土を空襲したって本当ですか? 日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか? 日華事変時の、特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください 大戦時の中国戦線の国民党の米軍式陸軍は強かったのでしょうか? 中国戦線で、共産党軍兵士が日本兵あるいは国民党軍兵士の人肉を嗜好品として食べたという逸話は事実ですか? 国民党軍の装備について教えて。 中国って日本との戦争中に独自の兵器を生産していたのですか? 中国ってちゃんと空襲警報があったんですか?日本の爆撃機が来ると警報してたんですか? 国民党軍が使っていた戦車は一号戦車以外にもありますか? 第1次世界大戦後の戦間期の頃、ドイツと国民党の間には深い繋がりがありますが 大戦中の中国側の兵器供給元は何所なのでしょうか? 蒋介石は重慶を落とされたら、次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか? 軍閥「張作霖」の兵力や装備は如何程の物だったのでしょうか 海軍は河用砲艦くらいはあったかもしれませんが、英語の中国地名がよく判らんので割愛。 陸軍の戦車はルノーFTが1927年に配備されています。 他の装備は日本のモノを中心に雑多なものだったんじゃないか、と。 日本軍の輸出兵器スレにあったような気もしますが…。 航空兵力としては、これもフランス中心で、ポテ25A2"保貞"が少なくとも15機、 ドボアチーヌD.27C1戦闘機が数機、ユンカースK-53偵察機、K-43爆撃機が数機あったようです。 (34 眠い人 ◆ikaJHtf2) 中国兵は、戦争前半はモーゼル銃,戦争後半はM1を使ってたって感じですかね? モーゼル銃は日中戦争~太平洋戦争を通じて使われています。 米軍装備は供給されはしていますが、歴戦の師団は前線に出されることが 多く、それらはフォン=ゼークト将軍らの軍事顧問団によって育成されたため に、ドイツ式の武器体系から米軍式の武器体系に切り替えることが遅れました。 これら精鋭師団に関しては、戦争末期から戦後に掛けて改変が行われましたが、 米軍式装備への習熟度が足りず、為に国共内戦に戦力たり得ず、国民党軍が敗北した原因の一つとなっています。 米軍式装備を配備した師団は後方の師団でそれも精鋭ではありません。 (40 眠い人 ◆ikaJHtf2) なんで日本の同盟国のドイツの銃を中国人が使ってるんすか? 支那事変時にはまだ独は同盟国ぢゃないよ。 当時の国民党軍には独から軍事顧問が派遣されて居り、 独軍事顧問は独商社HAPROと癒着していたので、 HAPROは各種独製兵器を輸出して中国兵器市場に大きなシェアを誇っていた。 (40 402) 日中戦争時の中国兵って弱いイメージがあるけれど、実際どうなんですか? 士官学校が出来たてな上に、軍閥の跳梁跋扈や日本の侵略により、指揮官を急造せざるを得なかった。 その為、指揮官の能力の低さや損害からの回復能力に問題があったのが原因。 緒戦で一枚看板の精鋭部隊が壊滅した為、戦況が劣勢に陥っている間は、 訓練未了の弱兵、民兵を前線に出さざるを得なかった初期の状況が弱いイメージに繋がっているのだろう。 アメリカの支援の下、ちゃんと訓練をした米式軍隊は北部ビルマや末期の反攻に大いに活躍してる。 (350 658) 蒋介石は北支での停戦が成った後も、第二次上海事変を仕掛けて挑発し、ゼークトラインで殲滅を図ったようだけど、何故こんな行動に出たの? 大軍を動員して補給出来て、日本軍を釣り出せるから。 当時の国民政府は軍閥の連合政権なので、どこでも戦えるわけじゃありません。 補給も御粗末なもので、南京以外では日本軍に立ち向かうための、戦力の集中が不可能。 日本人居留民という人質も選定理由になったでしょう。 (339 73) 何故蒋介石はこの時期を選び、そして何を勝利条件としたのでしょうか? 37年頃と言うと、日独防共協定が結ばれ日本も満州の騒動がタンクー停戦協定で停戦され一息ついたところですよね。 中国国民党も西安事件で統一戦線が築かれたとは言え、共産党の脅威も軍閥の不穏な動きもありました。 また目標ですが、日本軍と対峙するのは必然と長江下流域か北支か満州になるのでこの地域から日本軍を追い出すのは無謀に思います。 蒋介石は最大のライバルだった張作霖がいなくなったおかげで棚ぼた的に 中華民国のトップになったが、内部を完全に統率できていたわけでもなければ 支配する実力もなく、カリスマとしての魅力にも欠けていた(というか、彼には カリスマの要素がほとんどない)。 その為常に張作霖の息子の張学良に粛清されて蹴落とされる恐怖に怯えていた。 西安事件に乗じて(というか利用して)張学良を逆に粛清し蹴落としたのはいいが、 やはり張学良とその一派に常に逆転される可能性があった。 そんな状況なので、何としても自分が主導した軍事攻勢で大勝利を挙げ、 「さすが蒋介石だ明日の指導者はこの人で決まりだな」 と思わせる必要があったわけ。 (339 184) 国民党軍は各国から援助を受けてたと聞きましたが、日本軍の装備の方が質,量ともに優れていたということなんでしょうか? 国府軍は開戦初頭の上海決戦で精鋭部隊と教導部隊が壊滅してしまいました。 この手の損害は後から大きく響くのが通例で事実、そこから戦力を回復するのに時間が掛かってしまったからです。 援助も越南ルートが潰され、開戦と共にビルマルートも潰された為、援助経路は効率、量共に 最悪の空路のヒマラヤルートのみになってしまいました。 反攻が可能になったのはインパール作戦の勝利で米式陸軍が支那戦線で使用可能になったのと、 日本軍の弱体化、そして援助のビルマルートが回復したからです。 (333 515) 数で優勢な中国軍が日本軍相手に負け続け、日本軍が一方的に攻め込めた理由は? 当時の中国は国民党と共産党で内戦中の上に、国民党は軍閥ごとに分かれて 全く統一勢力としての団結性がなかったので、「数の優位」がそもそも ほとんど成立してない。 更に兵隊はごく一部の部隊を除けばその辺から適当に集めたレベルの 烏合の衆だし、これで勝てなきゃウソだろう。 加えて、兵隊が烏合の衆なのに加えて下士官や将校も一部の人を除けば ちゃんとした軍人としての教育を受けてない素人ばっか。 外国人の軍事顧問がいないと最低限度の指揮統制も出来ないような軍閥の部隊も いたので正規軍である日本軍が勝てない理由はない。 マトモな部隊もいたけどね。 中華民国には士官学校があり、ちゃんと士官の養成は行なわれていた。 しかし Chiang Kai-shek s decision to pit all of his crack divisions to fight in Shanghai caused his elite units to suffer some sixty percent casualties in the three-month bloodbath. In one single blow, Chiang also lost some 10,000 of the 25,000 junior officers trained by the elite Central Military Academy between 1929 and 1937, in addition to some tens of thousands of potential military officers. Chiang Kai-shek s Central Army was never to recover from these devastating losses. 「国民党軍が失って苦しんだものは精鋭部隊の60%だけではなく ただ一度の戦闘により、 国民党軍がエリート養成のために、士官学校設立以来(1929~)教育してきた 25,000人の士官の内、実に約10,000人が失われることになり 蒋介石軍中核は、これら破滅的損害からけして立ち直ることはできなかった。」 ということなんだとか。 全軍の若手エリートの半数近い喪失なんて、ソ連の軍部粛清にも比肩する凄まじさ。 日本軍でいえば昭和20年8月15日に至るまで、ここまでの損害を受けた時期はないな。 第二次上海事変に全てをかけて、軍の中核戦力を悉く投じたのがあだになり たった一戦で蒋介石が建設してきた軍が実質的にほぼ壊滅したというのに均しかった。 (593 263-272) 日中戦争で日本と戦っていたのは主に蒋介石の率いる「中華民国」軍。 でも「中華民国」はほとんど近代国家としての体を為しておらず、実態は 「武装マフィアの集団」の寄り合い所帯だった(軍閥、というやつね)。 なので誰も蒋介石の元に団結して日本と戦いたいなんて思っておらず、 そんな軍閥を権謀術数で強制的に駆り集めてきて戦わせてたので、マトモな 軍事行動が不可能だった。 更に、蒋介石は実は張作霖(関東軍が暗殺した人ね)に比べて全然人望が無く、 中華民国の支配者という地位だって本来みんなが「正しい後継者」と思ってた 張作霖の息子を陰謀で蹴落として成り上がったにすぎない。 だから軍閥の支配者はみんな利権でなんとなく蒋介石を支持してただけで、 誰も真面目に戦いなどしなかった。 実際蒋介石は自分が立案した日本への「反攻作戦」を強引に通したのに実際の 攻勢主力に自分の軍を出し惜しみして他閥に押し付け、不利になったらさっさと 逃げたりしてる。 そんな為体なので日本への統合された徹底抗戦など望み様も無かった。 (321 574) 支那事変が始まる前、蒋介石はドイツの支援を受けて 多数のドイツ式装備を備えた師団や機械化部隊を含む直系軍を作り上げました。 さらに新しい軍隊建設の準備として教導総隊なる部隊も設立しました。 これは蒋介石の肝入りで、数千人すべてが新式のドイツ装備を与えられた、国府軍の最精鋭でした。 蒋介石はこの部隊を教導部隊とし、将来の下士官候補として各軍の標準化の基礎とするつもりでした。 ところが、この直系軍と教導総隊が上海から南京までの撤退、攻防戦でほぼ壊滅してしまいました。 日本軍も相応の打撃を受けているので、これらの部隊は実力は確かなものだったと思います。 この戦いで下士官や将校の人的資源が一気に消耗してしまいました。 更には日本がドイツと接近した為にドイツからの支援も途絶え、危機的状況になってしまいました。 その為、国府軍は米国の支援を受けるまで戦力を回復させる事が出来ず、ずるずると内陸に 撤退を繰り返す羽目になってしまいました。 そして日米戦が始まって米国の支援が本格化しましたが、 米軍にとっての支那戦線は日本軍を引き付けておけばそれでOKだったので援助の優先度は低くいものでした。 細々とした支援で戦線を維持するのがやっとで、日本軍が終盤に弱体化した頃にやっと攻勢が掛けられる様になるも、時既に遅しでした。 (321 599) 日中戦争の初期、中国軍機が台湾の日本軍基地を空襲したと聞いたことがあるが、詳しいこと分かりませんか? 中国軍所有のB-26爆撃機が、台北を爆撃しています。 (362 166) 中国的天空 という本に出ている可能性がある。 初期には上海事変などで、日本側が渡洋爆撃をしていたが、これに対して中国側は 迎撃を繰り返している。戦線が進むにつれて爆撃機、戦闘機ともに上海の飛行場などへ 進出していくのだけど。 (362 169) 昭和13年2月23日、台北近郊の松山・新竹の両飛行場に、1~2機の中国軍機による爆撃。 飛行場そのものには被害はなく、飛行場近郊の民家に数名の死傷者が出た。 中国軍の損害は無し。 (362 178) 中国軍が日本本土を空襲したって本当ですか? 昭和13年5月20日、中国空軍のマーチン139WC爆撃機(B-10の輸出型)が、熊本と宮崎一帯に大量の宣伝ビラをばらまいた。 5月30日にも熊本、宮崎、福岡上空に中国空軍機が侵入したらしいが、中国側には該当する記録が無く、日本側の誤認らしい。 (362 184) 日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか? 日華事変の中国海空軍はしっかり存在します。 日清戦争でやられても、辛亥革命で国が引っ繰り返っても海軍の再建は途上ですが、 行われており、旧式ですが巡洋艦も装備していました。 但し、武漢の戦闘までに主力艦艇が失われ、以後は河用砲艦だけの存在になってしまっ ています。 空軍は宋美齢を司令官として当初はドイツ、次いで米国、更にソ連の機材を使って整備 されていました。 上海、南京や重慶で日本の陸海軍爆撃機隊が中国空軍に迎撃されて苦戦していますし、 日本海軍の旗艦出雲に爆撃を掛けたり、あまつさえ、本土爆撃までされています。 (316 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日華事変時の、特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください あと、ドイツは参謀を派遣したりしてますが武器の供与などあったのでしょうか? 戦闘機は米国製Curtiss Hawkシリーズ(後のP-36ではなく、複葉戦闘機)が主力です。 爆撃機は、Curtiss A-12、Chance Vought O2U/V-92C。 戦車は、Vickers6t戦車Mk.EとCarden Loidでしょうが、イタリアのC.V.33も装備しています。 ドイツの関与ですが、清朝時代から関係は深く、小銃や拳銃はMoselが主力ですし、高射砲は 後に日本軍がコピーした88mm高射砲、航空機ではHe-111A爆撃機、Hs-123襲撃機、Fw-44 練習機が売却され、戦車は1号戦車、装甲車としてSdKfz.221を購入しています。 (309 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦時の中国戦線の国民党の米軍式陸軍は強かったのでしょうか? 強かった。インパール作戦において北部ビルマで日本軍を壊滅に追い込んでいます。 装備は米軍のものだし、訓練は行き届いていて、武器弾薬は豊富だし、 衛生管理、兵站がしっかしている。そして何より給料がしっかり出るで(w ※通常の国府軍の場合は指揮官が給料をピンハネするので、雀の涙の給料でやる気無しだったそうです。 もっとも、最初のうちは蒋介石に自由な指揮権がない上に、 在中米軍司令官のスティルウェルと彼の仲が超絶に悪かったので、 1944年(昭和19年)10月にウェデマイヤーが後任にやって来るまで、 支那大陸では活躍させてもらえませんでした。 支那では自分の指揮下にない軍隊は敵とほぼ同意義なので。 (305 823) 中国戦線で、共産党軍兵士が日本兵あるいは国民党軍兵士の人肉を嗜好品として食べたという逸話は事実ですか? 中国のような東アジアの文化圏においては、仇の肉を食べることで 復讐の意思あるいは自己の野蛮さや強さを示す風習が伝統的にあります。 手近なところでは講談社発行 ユン・チアンの「ワイルド・スワン」において 国共内戦時に復讐のため敵の心臓を食べた兵士について短い記載はありますが これはあくまでも個人の復讐の意思としか解釈できません。 (296 202) 国民党軍の装備について教えて。 私が知ってる中にはドイツのKar98kやモーゼルC96、ZB26軽機関銃や青龍刀があるのですがこれ以外にもあったのでしょうか? 陸戦兵器なら、光人社から「もう一つの陸軍兵器史」と言う本が出ていますので、そちらに結構な著述があります。 絶版ですが、全体的にはデルタ出版の「中国大陸の機械化戦争と兵器」 航空機ならこれも絶版ですが、産経の「中国的天空」とか、民國の出版物で、「中国軍用飛机」シリーズとかを御覧 頂ければ宜しいか、と。 (296 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国って日本との戦争中に独自の兵器を生産していたのですか? 中国で建造された軍艦は存在します。寧海級軽巡洋艦の二番艦「平海」がそれです。 寧海級は中華民国海軍の艦艇として日本で設計が行われ、一番艦「寧海」は 播磨造船所で建造されましたが、「平海」は播磨造船所から派遣された行員の指導のもとに 江南(上海)造船廠で1931年7月起工され、32年9月に進水しました。 その後播磨造船所に回航され、儀装された後に36年6月竣工しています。 この後37年に揚子江沿岸で日本海軍航空隊機の爆撃を受けて浸水擱座しますが、 翌年日本軍が接収して浮揚し佐世保に回航し、しばらく放置された後に 43年末、呉工廠で海防艦への改造工事に着手して、44年11月に二等巡洋艦「八十島」として 再就役します。 その直後フィリピン方面に出動し、11月25日 ルソン島西岸にて米軍機の爆撃を受け沈没しました。 (101 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 自国の陸軍で使用するモーゼル小銃など小火器は国産化していました。 また、150mmの中迫撃砲、240mmの重迫撃砲も確認されています。 陸軍では上海工部局で1915年には急造ながら装甲車の製作を行なっています。 なお、ヴィッカース6t戦車が「国産戦車」として内外に喧伝されたこともありますが、 こちらは国産ではありません。 また、艦船でも小艦艇なら、上海の造船所で建造しています。 船体だけなら、軽巡洋艦(寧海)も建造しています。 航空機も海軍航空廠が上海にあり、1918年以来数種類の水上偵察機を製造 しています。 軽巡洋艦搭載用の偵察機は国産機です。 空軍では広東省に飛行機工場があり、AP-1と言う軽爆撃機を製造しています。 第2次世界大戦中は、Curtiss Hawk75(P-36の輸出簡易型)の製造を企画したほか、 Curtiss WrightのCW-21戦闘機の製造を行なおうとしていました。 (101 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国ってちゃんと空襲警報があったんですか?日本の爆撃機が来ると警報してたんですか? 初期の漢口、周家口、上海では結構不意打ちを食ったようですが、空襲警報網は 重慶遷都後に初歩的なものが作られていました。 物資の集積状況、基地の整備状況もこういった便衣隊の活動で、一目瞭然であり、 次の空襲時期はいつか、目標はどこかが予め推測可能でした。 後は、その目標近くに迎撃隊を進出させ、早朝から夜間にかけて、数機の哨戒飛行 を行うだけです。 また、日本軍の出撃についても、漢口、運城の基地を日本機が離陸するやいなや、 昼間ならばその機数を電信で重慶に報知され、途中の山々の頂には見張り員がおり、 日本機を認めると、烽火を上げます。 そのリレーで、日本機の来る方角を知らせるわけです。 ちなみに、電信と烽火併用でも、中攻、重爆の巡航速度では十分に迎撃基地に通報が 間に合いました。 こうして、少なくとも空襲の40分から1時間前には爆撃機による空襲警報が発令されます。 防空壕も当然ありますが、重慶爆撃の初期には完成していません。 ただ、重慶だけでなく、広東などにも大規模防空施設がありました。 それも、蛸壺方式のような日本に見られた簡易なものではなく、コンクリートで、 入り口に頑丈な鉄の扉を持つ本格的なものです。 重慶のは、1938年から工事が開始され、こうした大規模防空壕(公共用大隧道)を 始め、会社・個人でも防空壕を整備し、1940年には公私あわせて1,865カ所、収容 人員44万余のものになっていました。 但し、初期の頃は当時の人々は都市空襲というものに慣れていないので、避難も せず、中国空軍の迎撃戦闘を見物しようと、街路、岸辺、丘の上などに出て、空を 見上げていました。 これによる死者が結構あったようです。 後に、重慶爆撃が本格化し、外交使節のいる周辺以外に全ての爆弾が降るようになって からは、市民も防空壕に避難することが多かったのですが、1941年6月5日の空襲では、 3万人の市民が避難した大防空壕が酸欠状態となり、ほぼ全員が死亡しました(実際の 死者は992人とも言われる)。 ついでに、蛇足ながら、重慶爆撃の回数は1938年12月から1941年9月まで、 まず、12月22日に陸軍が22機で爆撃をしたのを皮切りに、1月7日、10日、15日と 四回に渡って約30機ずつ、ここまで陸軍が担当しましたが、被害は、1月15日に 死者119名、負傷116名を出しただけに終わります。 次いで海軍に担当が変わり、第二連合航空隊の中攻45機が、1939年5月3日に市街 東部と東南部、4日に27機が北部を爆撃し、3日に死者673名、負傷1,023名、4日は 死者1,973名、負傷3,318名で、これはゲルニカ爆撃を上回るものです。 その後、5月、6月に各2回、7月4回、8月6回、9月4回の出撃を行い、1940年5月から 陸海軍共同で、百一号作戦という重慶爆撃作戦を展開します。 陸軍は山西省運城から重爆54機、海軍は漢口から中攻122機を出撃して9月まで 断続的に空襲を行います。 この空襲では、海軍が延出撃日数32日、陸軍が9日、延攻撃機数は海軍が2,128機、 陸軍が322機、投下爆弾数は海軍が14,228発、1,558t、陸軍は1,344発、142tであり、 これにより、死者4,232名、負傷者5,411名、損壊家屋6,955棟の被害を出しました。 更に41年夏季にも空爆が繰り返され(前述の防空壕での死亡はこの時期のもの)、 死者は前年の6割程度になっています(但し、3万人死亡説が正しければ、この数は もっと増える)。 最後は、1943年8月で、陸軍が行っていますが、これは在華米軍の補強により効果無く 終わっています。 最終的に、被害は、中国側資料でも死者11,800人、家屋損壊17,600棟となっています。 (138 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 国民党軍が使っていた戦車は一号戦車以外にもありますか? 国民党軍は、一号戦車(ドイツ)以外にも仏・伊・英から機甲車両を購入しています。 もっとも初期に購入したのは仏製ルノーFT軽戦車でした。その他の車両は以下の通り。 ルノーNC軽戦車(仏) ルノー1931年式軽戦車(仏) ヴィッカース12トン戦車(英) ヴィッカース6トン軽戦車(英) ヴィッカース水陸両用戦車(英) カーデンロイド豆戦車(英) フィアット アンサルド軽戦車(伊) また、ソ連より供与されたT-26軽戦車も若干保有していました。 大戦後半になると、米軍から供与されたM3/M5軽戦車やM4中戦車なども保有しています。 (146 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 第1次世界大戦後の戦間期の頃、ドイツと国民党の間には深い繋がりがありますが 武器の販売、ライセンス生産、軍事顧問団の派遣etc…これはどういった経緯で出来上がったのでしょうか 第1次世界大戦前から清国とドイツ帝国との関係は非常に良好でした。 海軍の鎮遠とか…。 陸軍も精鋭軍の装備にはドイツの装備を導入していました(モーゼル小銃なんかもライセンス生産してたり)。 英国、フランス、ロシア、日本は領土的野心を剥き出しにしたのに対して、ドイツは比較的そう言った点では マシでしたし、ドイツは清国と同じく皇帝を頭に戴く帝政でしたので、関係をすんなり築き易かったところも ありました。 清帝国が倒れてからは、中華民国となった訳ですが、その軍は従来の軍閥を吸収した格好になっていました ので、ドイツとの繋がりが切れた訳ではありません。 また、第1次世界大戦後のドイツは市場を欲していました。 オスマントルコが倒れた後、一番市場的に進出しやすいのは中国ですし、Versailles体制の監視の目も届きに くいことから、中国との関係が強化されていった訳です。 (172 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ハプロ条約 http //ww1.m78.com/topix-2/hapro%20treaty.html (172 12) 大戦中の中国側の兵器供給元は何所なのでしょうか? 中国軍の装備は種々雑多で、国民党軍にしても、米国一辺倒ではなく、ソ連、ドイツ、日本の兵器も 満遍なく使用しています。 そもそも、中国軍の軍閥同士の戦いでは、戦闘前に互いの装備を一覧表にして交換し、それを見て その傘下に入るか、戦うかを決めるものですし…。 それから、清の時代から主力の小銃はドイツのKar-98bと同等の国産品、機関銃はチェコのZB26国産品、手榴弾も ドイツ型です。 南京に装備されていた高射砲は、ドイツ製のクルップ88mm、スウェーデン製75mmボフォース、英国製76mmヴィッ カースが用いられています。 迫撃砲は、ラインメタル製の81mm迫撃砲を主軸に、150mm、240mmの国産品が確認されています。 第2次世界大戦末期で、蒋介石直属軍の装備にやっと米軍装備が行き渡り、M1ガーランド小銃、M2重機関銃、バズー カ砲などが配備されています。 共産党については、ソ連製も多かったですし、日本からの鹵獲品、蒋介石軍から供給されていたものなど も使用しています。 (178 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 蒋介石は重慶を落とされたら、次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか? 蒋介石は雲南の昆明辺りまで退いて抗戦を続けるつもりだったらしい。 ただ雲南省政府主席の竜雲はどちらかと言うと和平派であり、汪兆銘のハノイ脱出を手助けしたりしている。 長期にわたって独立を維持してきた勢力なので、すんなりと蒋介石に協力するかは未知数。 1942年夏頃から重慶・成都を攻略する『五号作戦』が計画・準備されており、 南方での戦況の悪化がなければ、蒋介石の命運も危うかっただろう。 (229 294)
https://w.atwiki.jp/teamspwiki/pages/33.html
チーム内戦の結果です。 2008/10月 第6回ミニ内戦 優勝ゆ~ま。準優勝PUPUPU 2008/9月 第5回ミニ内戦 優勝sibiya 準優勝決闘者 2008/9月 第4回ミニ内戦 優勝なげっと 準優勝??? 2008/9月 第3回ミニ内戦 優勝決闘者 準優勝ゆ~ま。 2008/9月 第2回ミニ内戦 優勝反逆者geass 準優勝なげっと 2008/9月 第1回ミニ内戦 優勝PUPUPU 準優勝??? 2008/3月 第5回トーナメント 優勝BLACK 200/1月 第4回チーム内トーナメント 優勝PUPUPU 2位ランス 2007/12月 チーム内紅白戦実施 紅チーム(リーダーランス)勝利 2007/11月 第3回チーム内トーナメント 優勝幻影inthe旋風 2位純也 2007/10月 第2回チーム内トーナメント 優勝ゆーま。2位純也 2007/9月 第1回チーム内トーナメント 優勝幻影inthe旋風 2位純也
https://w.atwiki.jp/mtwiki/pages/25.html
第1回・チームMT内戦結果