約 4,798 件
https://w.atwiki.jp/welovejapan/pages/447.html
3つの新聞読者グループすなわち、ほかならぬジャーナリストの仲間の中では、新聞を国家の中での「国家」と好んで表現する習慣がある。 第二のグループは数ではまったく決定的に少なくなる。かれらの一部は、最初は第一のグルー 「世論」われわれがつねに「世論」といっているものは、自分でえた経験や個々人の認識にもと このゴロツキ新聞の危険を完全に正しく評価しうるためには、りっぱな人間を 危険な弾劾者の道徳的武装解除しかしユダヤ人およびかれらのマルクス主義的闘争組織の 民族体の三クラス 大衆の心理 3つの新聞読者グループ すなわち、ほかならぬジャーナリストの仲間の中では、新聞を国家の中での「国家」と好んで表現する習慣がある。 事実、新聞の意味はなんといっても、じつに巨大なものである。新聞は一般的にいって、いくら高く評価しても 過大評価されるということはありえない。なにしろそれは現実に、相当の年配になった人々に対し、 教育の延長という働きをするからである。 新聞の読者はその際、一般に三つのグループに分類される。 すなわち、第一は読んだもの全部信じる人々、 第二はもはやまったく信じない人々、 第三は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々、である。 第一のグループは数字の上からは、けたはずれの最大のグループである。かれらは大衆からなっ ており、したがって国民の中では精神的にもっとも単純な部分を表している。しかしかれらを 職業でもって示すことはできず、せいぜい一般的な知的程度で示すことが出来るだけである。自 分で考えるだけの素質もなければ、またそのような教育も受けていない人々は、みなこのグルー プにはいる。そしてかれらは半ば無能から、半ば無知から白地に黒く印刷して提供されたものを 全部信じる。さらに、たしかに自分の頭で考えることもできようが、それにもかかわらず、考え ることの単なる無精さから、他人はきっと正しく頭を働かしたに違いなかろう、とつつましく仮 定して、その他人がすでに考えたことをありがたく全部そのままもらってしまうような、無精者 もまたこのグループにはいる。ところで、大衆を意味するこれらすべての人々にとって、新聞の 影響はまったく驚くべきものであるだろう。かれらは提供されたものを自分で吟味する境遇にも ないし、またそんな意思もないので、あらゆる時事問題に対するかれらの一般的態度というもの は、ほとんど例外なく他からの外的影響に還元できるのである。このことは、かれらの啓蒙が、 真剣で真理を愛する方面から企てられるならば有利であるだろうが、しかし人間のくずや、うそ つきがこれに手を出す場合には害悪となる。 第二のグループは数ではまったく決定的に少なくなる。かれらの一部は、最初は第一のグルー プにはいっていたが、長い間の苦い幻滅を経験した後いまや反対側に移って、ただ印刷されて目 に映るものならばなんでも、もはや全然信じなくなってしまった分子から構成されている。かれ らは新聞という新聞を憎み、およそ読まないか、あるいは、その内容がかれらの意見からすれば、 まったくうそと、事実でないことだけで構成されているにすぎないのだから、例外なしに、そう した内容に憤慨するかである。なにしろ真実に対してもつねに疑ってかかるだろうから。これら の人々はきわめて取り扱いがむずかしい。かれらはそれゆえ、あらゆる積極的な仕事に対しては だめな人間である。 最後に第三のグループはけたはずれて最小のグループである。かれらは生まれつきの素質と教 育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることについてかれ自身の判断を形成すること に努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう一度自己の吟味にかけて、その先の結 論を引きだすような、精神的にじつに洗練された頭脳をもった人々からなり立つ。かれらはいつ でも、自分の頭をたえず働かせながらでなければ新聞を読まないだろう。だから、編集者の立場 は容易ではない。ジャーナリストはこのような読者を実際括弧つきでしか愛しはしない。 この第三のグループに属する人々にとっては、新聞がでっち上げうるナンセンスもほとんど危 険がないか、あるいは意味があるとさえも考えられる。とにかく、かれらはたいてい生活の過程 の中でジャーナリストなどは通例として、真実をたびたび語るにすぎない詐欺師とみなす ことに慣れてしまっている。しかし残念なことは、このようなすぐれた人間の価値が、まさにか れらの知能にだけあるにすぎず、その数にはないことである。-このことは賢明であることに 意味がなく、多数がすべてであるような時代における不幸なのだ。大衆の投票用紙があらゆるこ とに判決を下す今日では、決定的な価値はまったく最大多数グループにある。そしてこれこそ第 一のグループ、つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群衆なのである。 アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」 「世論」 われわれがつねに「世論」といっているものは、自分でえた経験や個々人の認識にもと づくものはごく小部分だけで、大部分はこれに対して、往々にしてまったく際限なく、徹底的にそし て持続的にいわゆる「啓蒙」という種類のものによって呼びおこされるものである。 信仰上の態度決定が教育の結果であり、宗教上の要求それ自体がただ人間の内心にまどろんでいる に過ぎないのと同様に、大衆の政治的意見もまた往々にしてまったく信じられないほど強靭で徹底的 な加工を、心と理性にほどこした究極の結果であるにすぎない。 このばあい、宣伝ということばが非常にぴったりするが、政治「教育」に図抜けて強力に関与して いるものは新聞である。新聞はまず第一にこの「啓蒙活動」を考え、それによっておとなに対する一 種の学校をなしている。ただこの授業は国家の手にはなく、ある部分は最も劣等な勢力の手中にある。 わたしは若くして、ヴィーンで、この大衆教育の機関の所有者や精神的な製造者を正しく知るまさしく 絶好の機会をもった。わたしははじめは、国家の中にいる不快な大勢力が、一般のものがしっか りといだいている内心の願望や観念をまったくつくり替えようとするときに、どうしてそんな短期間 で一定の意見をつくることができるのかと驚いた。数日にして笑うべきことから意味深長な国家的行 為をつくりあげ、その間同時に逆の生活上の重要問題は一般に忘却され、もっとよくいえば大衆の記 憶と回想の中から簡単に盗みだされてしまうのである。 そのようにして、二、三週間たつうちに、魔法のように何もないところから名前がつくり出され、 その名前に公衆の信ぜられぬほどの希望が結びつけられ、さらに実際にすぐれた人物でもしばしばか れの全生涯においても与えられないような人気をつくろうとするのである。そのさい、一ヶ月前には だれも聞いたことがないような名前で、一方では同時に国家生活やその他の公的生活で古くから定評 ある人々が、最も健全でありながら簡単にその時代社会から抹殺されてしまうか、あるいはかれらの 名前がやがて、まったくはっきりと下劣で無頼なシンボルになるように脅迫する悲惨な誹謗を浴びせ かけられるのだった。 このゴロツキ新聞の危険を完全に正しく評価しうるためには、りっぱな人間を 一度で呪文をかけたように、同時に何百という方向から清潔な衣服に下劣な誹謗と、名誉毀損の汚物 桶を注ぎかける、卑しいユダヤ人のやり方を研究しなければならない。 こういう精神的な盗賊騎士には、自己の卑しい目的を達するために合致しないものは何もない。 かれはそのさい、家族の最も秘密なことまで中へはいってかぎつけ、不幸な犠牲者にとどめをさす にちがいないようなあわれむべきでき事を、キノコを探すような本能で探し出すまで止めないの だ。しかし公的な生活にも、私的な生活にさえも、まったく何もかぎだすものを見つけえないと、幾 度となく取消しても、それだけを取ってみると何かが引っかかるだけでなく、かれの遊び仲間のみん なによって誹謗をただちにみつけ、幾百回となくくり返した結果、たいていのばあいにそれに対する 犠牲者の闘争がまったくできなくなるのだ、という不動の確信をもってヤツは簡単に誹謗するのであ る。そのさいこういうゴロツキどもは、他の人間には信じられないぐらいの、あるいは理解さえもで きないような動機から何か企てるのである。神よ守りたまえ!そういうようにルンペンは愛すべき 同時代の人々を、最も無頼な方法で攻撃しながら、このイカは実直さとかもったいぶった文句とかい うまことらしい墨雲の中へかくれ、「ジャーナリストの義務」とか、それに似た虚偽のくだらないこ とをしゃべり、しかもそのうえ増長し、会議とか、会合とか、またこういう疫病がたくさん集まる機 会には、まったく特殊な、すなわち、ジャーナリストの「名誉」についてムダ口をたたき、おまけに 集まってきた無頼漢どもはおたがいにおもおもしく確認しあうのである。 だが、このゲスどもが、いわゆる「世論」の三分の二以上を製造していて、その泡から議会主義と いう愛の神が発生したのだ。 このやり方を正確に描き、そのまったくの嘘にみちた不誠実さをのべるためには数巻を要するであ ろう。しかしまたこれを度外視し、そしてその活動とともに所与の結果だけでも観察するならば、正 しく信ずる気持ちをもつのならば、この制度の客観的に見た狂気を想像するためには、これで十分 であるように思う。 ヒトラー著 「わが闘争」 危険な弾劾者の道徳的武装解除 しかしユダヤ人およびかれらのマルクス主義的闘争組織の すべての底知れぬ嘘は、ほかならぬただひとり超人的な意志力と実行力でもって、自己に予見で きた破局を防ぎ、国民をどん底の屈辱と不名誉な時代から免れさせようと努力した男に、崩壊の 責任を負わせたのである。かれらは、ルーデンドルフが世界大戦の敗北に責任があると極印を押 すことによって祖国の反逆者に対抗して立ち上がりうる唯一の危険な弾劾者の手から、道徳的正義 という武器を取り上げてしまったのである。かれらはその際、まったく正しい原則、つまりうそ が大きければ信じてもらえる一定の要素がつねに存在するという原則、から出発した。なぜなら 国民大衆の心は本質的に、意識して、故意に悪人になるというよりも、むしろ他から容易に堕落 させられるものであり、したがって、かれらの心情の単純な愚鈍さからして、小さなうそよりも 大きなうその犠牲になりやすいからである。というのは、かれら自身、もちろんしばしば小さな うそをつくのだが、しかし大きなうそをつくのはなにしろあまりにも気恥ずかしく感じてしまう からである。そのような大きなうそはかれらの頭にはとてもはいり込めないし、したがって不名 誉きわまる歪曲をするような、まったく途方もない厚かましさは他人の場合でも可能だなどと信 じ得ないだろう。それどころか、このことについて説明を受けてさえも、なお長く疑いつづけ、 動揺するだろうし、そして少なくとも、なにか一つくらいの理由はやはり真実だと受け取るだろ う。したがって、実際きわめてずうずうしいうそからは、つねになおなにかあるものが残り、続 いていくだろう。-以上はこの世のあらゆる大うそつきや、大うそつき団体が底の底まで知 っており、したがって卑劣にも利用している事実なのである。 アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」 民族体の三クラス いずれの民族体も、三つの大きなクラスにわけることができる。すなわ ち一方の側では最良の人間性という極端で、あらゆる道徳の意味で善良で、とりわけ勇気と献身 によって特徴づけられる。他方は、最悪の人間の屑という極端で、あらゆる利己主義的衝動と悪 徳が存在しているという意味で劣悪である。両極端の間に、第三のクラスとして、大きな広範な 中間層があり、ここにおいては輝かしい英雄的精神も、卑劣きわまりない犯罪者的根性も具体化 されていない。 民族体の興隆期は、この極端によい部分の絶対的指導によって特徴づけられ、そのうえそれに よってのみ存在する。 普通の、均整のとれた発展期、あるいは安定状態の時代は、明らかに中間の分子の支配によっ て特徴づけられ、またそれによって成立している。この場合両極端は、相互に平衡を保ち、あ るいは相殺しあう。 民族体の崩壊期は、最悪の分子の優勢な活動によって定められる。 ただそのさい、大衆は-わたしたちはかれらをそう呼ぼうとするのだが-中間のクラスとして、 両極端自体がみずから相互の格闘にしばられているときだけ、はっきりとあらわれるのであり、 だがかれらは両極端の一方が勝った場合には、つねによろこんで勝利者に従属するものだ、とい うことにも注意すべきである。最良のものが支配している場合には、大衆はこれに従い、最悪のも のが興隆している場合には、かれらは最悪のものに何の抵抗もしない。というのはこ の中間の大衆は決してみずから戦わないからである。 アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」 大衆の心理 大衆の心理は、すべて中途半端な軟弱なものに対しては、感受性がにぶいのだ。 女性のようなものだ。かの女らの精神的感覚は、抽象的な理性の根拠などによって定められるより も、むしろ足らざるを補ってくれる力に対する定義しがたい、感情的なあこがれという根拠によって 決せられるのだ。だから弱いものを支配するよりは、強いものに身をかがめることをいっそう好む ものである。大衆もまた哀願するものよりも支配するものをいっそう好み、そして自由主義的な自由 を是認するよりも、他の教説の併存を許容しない教説によって、内心いっそう満足を感ずるものであ る。かれらもまた、たいていそれをどう取扱うべきかを知らないし、しかも容易に見捨てられている と感ずるものである。かれらは破廉恥な精神的テロや、かれらが人間的自由をシャクにさわるほど虐 待されていることにも気がつかないのだ。かれらは全教説のうちにひそむ狂気に決してきづかないの である。そのようにしてかれらは、目的のはっきりしているこの傍若無人な力や残虐さを見て、いつ も屈服しているのだ。 アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/373.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 巻末 人名解説 <目次> ◆イェリネック ◆ケルゼン ◆シュミット ◆ホッブズ ◆ロック ◆ルソー ◆ダイシー ◆ハイエク ◆ハート ◆ノージック ◆ロールズ ◆モンテスキュー ■ご意見、情報提供 ◆イェリネック G. イェリネック(1851~1911):ドイツの公法学、行政法学者、国家学の集大成者。 彼は、当時の狭隘な法実証主義に反対して、法学を哲学・社会学と結合せんと目指した。 なかでも、社会学的に考察した国家を、法学的に再構成しようとした大著『一般国家学』(芦部信喜監訳、学陽書房)が、その成果である。 同著作において、彼は、社会学的国家概念と、法学的国家概念とに分けながら、国家を把握せんとした。 彼の有名な国家法人説は、この視点からの産物である。 また、その公権体系論は、人が人であること、また、人が法人において一定の地位を占めること、に応じて各種の公権を類型化したものであるが、これは、人権概念を否定する当時のドイツ国法学に対抗する理論であった。 彼は、事実学と規範学とを区別する新カント派の哲学を基礎としながらも、存在(事実)と当為(規範)とを結びつけるものを「事実的なるものの規範力」に求めた。 これが、事実の観察から規範を説く、彼の有名な「方法二元論」である。 彼の二元論は、事実と規範とを結びつける要因である社会心理的事実、すなわち、人々が事実を規範として受容すること、において一元化された理論ともなっているのである。 しかしながら、その一元化は不徹底であった。 彼の理論は、美濃部達吉に強い影響を与えた。 美濃部が、天皇機関説を提唱したのも、国家という法人における天皇の地位を解明しようとしたからである。 ◆ケルゼン H. ケルゼン(1881~1973):事実と規範とを峻別する新カント学派の哲学に依拠し、法実証主義を徹底させたオーストリーの法哲学者。「純粋法学」の創始者。その代表作に『一般国家学』(清宮四郎訳、有斐閣)がある。 彼の思索の出発点は、イェリネック批判にある。 すなわち、イェリネックのように、国家は自然の領域に存在するものとの前提にたって、それを社会学的分析対象とする視点が誤っている、とケルゼンはみたのである。 そのうえで彼は、国家は法学の対象であって、法学的にのみ把握可能であると考え、《国家とは法秩序そのものである》、と説いた。 また、新カント学派の視点を徹底させて、《規範は規範からのみ生ずる》とも主張した。 彼は、法とは権利・義務等の帰属関係を表示する特殊な規範であると捉えて、帰属関係の始源に「根本規範」を仮設した。 ケルゼンの純粋法学は、H. ヘラーによって、「国家なき国法学」と批判され、また、自然法学者によって、所与の実定法を鵜呑みにする「規範支配」の信仰を生み出した、と批判され、さらにC. シュミットによって、「規範を生み出すものを忘却している」とも批判された。 ケルゼンの理論は、宮沢俊義、清宮四郎等、戦後の我が国の指導的憲法学者に強い影響を与えたが、宮沢・清宮は、ケルゼンほど、法実証主義に徹底的にコミットした訳ではない。 ◆シュミット C. シュミット(1888~1985):ドイツの政治的憲法学者。彼は、新カント学派の方法論とは別の法哲学に依拠して、国家と法の根源を考えた。 その着想は、政治的極限状態における法と国家の役割を考えることにあった。 彼は、例外的極限状況において決断することこそ、主権者の役割であるとみなした。 すなわち、彼によれば、法秩序の究極的根拠は、主権者の決断にあるのである。 これが、彼の有名な決断主義であり、《意思の力が法を作る》とする、バリバリの法実証主義の思考である。 この思考による限り、合法性を正当性に還元すべきではなく、主権者が意欲すれば足るのである。 これが、彼の代表作『憲法理論』(尾吹善人訳、木鐸社)にみられる憲法制定権力論である。 彼は、この決断主義によって、存在と当為との溝を埋めることに成功した、と信じていたが、晩年には、決断主義が存在と当為の対立を止揚しなかった、と自己批判するに至る。 また彼は、自由主義が個人の価値を基礎とするのに対して、民主主義は全体の価値を探求するという点で、両者は両立し難い思想体系であることを説いた。 彼は、また、議会が政治的利害の妥協の場と成り下がっていることを痛烈に批判したことでも有名である(間接民主制批判)。 彼にとっては、国家と個人の間に何らの異物の存在しない、透明な統治体制こそ、理想的であった。 シュミットは、基本権の主体を個人に限定したかったために、個人以外の利益が憲法上保障されている場合、それを「制度的保障」と称したのである。 ◆ホッブズ T. ホッブズ(1588~1679):1640~60年のイギリス革命期の真っ直中に育った政治思想家。 彼は幾何学を好み、幾何学に基づいた政治学の体系を樹立したいと考えた。 その成果の一つが、1651年に出版された『リヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫)である。 その著作での彼の理論は、心身の能力の平等な諸個人が自己保存権を自然権として有することから出発した。 これが、「万人の万人に対する戦い」という自然状態である。 国家は、諸個人がこの自然状態から抜け出るために考案された(社会契約という形式をとる合意によって成立する)人為的構成体である。 ホッブズは、「如何にデモクラシーは愚かであるか、それに対して、一人の人間は如何に賢明であり得るか」と確信していた。 ために、彼は、平和維持のための装置である国家において、絶対主権をもった君主が君臨する必要を説いたのであった。 もっとも、彼は、そのことから連想されるほど、保守反動の輩ではない。 一言でいえば、彼は、ラディカリストであった。 私の『憲法理論Ⅰ』は、保守反動とのラヴェルを貼られるかも知れないが、私自身は、ラディカル・リベラリストを標榜しており、その立場からすれば、ホッブズに限りない共鳴を覚えている。 以来、近代啓蒙思想家たちは、ホッブズ理論を乗り越えようとして、懸命な思索を繰り返したのである。 ◆ロック J. ロック(1632~1704):イギリスの哲学者、政治思想家。 ロックは、その代表的著作『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)において、ホッブズ理論を乗り越えようとした。 ロックにとって、ホッブズ理論の欠点は、絶対的主権によって諸個人の共生が初めて保存される、という点にあった。 ホッブズ理論は、人々が共に生活するに当たって、社会において労働し生産するという相互行為を見逃しているのではないか、これが、ロックの診断であった。 だからこそ、彼は、自然状態において人々が労働し、生産するためにも、「生命、自由、財産」が自然権として保障されなければならない、と強調したのである。 ロックの社会契約論は、二段階理論となっていることに、我々は注意しなければならない。 第一段階は、諸個人が契約を締結することによって「市民社会」を樹立する段階である。 第二段階は、市民社会における市民が契約によって政治権力を生み出す段階である。 「政治権力」は、統治のための「道具」として、市民が合意によって作り上げたものであるからこそ、必要とあれば、市民たちは、王の首を別の王の首に、政府を別の政府に、置き換えることが可能なのである。 その考え方が、アメリカ独立宣言に取り入れられたという事実は、余りにも有名である。 私自身は、ロックはイギリス経験論者であるというより、大陸流の超越論者に近い、と位置づけている。 ◆ルソー J. ルソー(1712~1778):フランスの文学者・政治思想家。その代表作が、『社会契約論』(桑原武夫他訳、岩波文庫) ルソー理論も、ロック等と同様に、社会契約論を説いた、と一般にいわれるが、ルソー以前の理論が、自然状態→社会状態→国家状態という二つの移行を、二段階の社会契約によって説明したのに対して(右のロックの解説をみよ)、ルソーは、社会状態から国家状態への移行を一段階の社会契約で解明しようとした。 『社会契約論』における彼の狙いは、はっきりしている。 各人が他の全ての人々と結びつきながらも、しかも、自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由である国制の形式を解明すること、これである。 これこそが彼にとっての根本的な問題であり、社会契約がそれへの解答であった。 ところが、社会契約によって成立した国制において、誰が実際に支配すべきか、という論点でのルソーの解答は、実にナイーヴであった。 彼は、「人民」が支配すべきである、と答えた。 彼の理論において、人民は「一般意思」を具体化する単一の人格である、と単純に片付けられた。 その理論は、共産主義や社会主義を信奉する人々によって何度も援用された。 F. ハイエクや K. ポパーのような自由主義者にとって、ルソーのごとき人民主権論は、人類の歴史上、多くの不幸で破壊的な政治的効果をもたらす元凶以外の何物でもなかった。 社会科学者としてのルソーの全ての著作、『エミール』、『不平等起源論』は、私の見解とは全く相容れない。 文学者としてのルソーの作品と理解するのであれば、話は別であるが。 ◆ダイシー A. ダイシー(1835~1922):イギリスはヴィクトリア王朝期のコモン・ロー研究者。その代表的著作が『憲法序説』(伊藤正巳=田島裕訳、学陽書房)。 ダイシーは、その著書において、国会主権、法の支配、憲法習律について、理論を展開した。 その中でも、「法の支配」を論じた部分が、最も有名である(本文の[71]をみよ)。 彼の『憲法序説』は、モンテスキューの著作と同様に、あたかも聖書であるかのように、扱われた時期もあった。 ところが、彼の理論体系は、「積極国家」を擁護する多くの論者から厳しい批判を受けることとなった。 批判者によれば、ダイシー理論は確固とした体系をもっているものではなく、同書の出版時点の時代、つまり、19世紀的な消極国家に妥当した理論に過ぎない、というのである。 特に、「イギリスにはフランスのような行政法は存在しない」という彼の理論につき、批判者は、①ダイシーのフランス行政法の理解が不正確であること、②イギリスにも行政法特有の理論が認められていること、を衝いた。 確かに、本文の[72]でふれたように、ダイシーの理論は、様々な難点をもっていた。 我々の「あと知恵」に照らして批判することが許されれば、その最大の難点は、国会主権と法の支配との対抗関係を軽視した点にあった、といわざるを得ない。 国会主権とは、国会の制定する法律が基本権の内容と限界を画定できる、と承認することである。 とすれば、それは、まさに、法実証主義的な思考とならないか、と疑問視されざるを得ない。 実のところ、ダイシーは、分析法学者として著名なJ. オースティンの影響を受けていた学者であった。 彼の理論は、基本権(人権)を本来絶対的なものとみるホイッグ的自由主義とは、もともと異なっていたのである。 ◆ハイエク F. ハイエク(1899~1992):オーストリー生まれの万能の社会理論家。現代のA. スミスともいわれる人物。 ケインズ理論に反対し、「福祉国家は隷従への道」と説く。 また彼は、理性によって社会を意図的に改革する「設計主義・合理主義」に反対し、自由な人々の営為の積み重ねによって生まれ出る「自生的秩序」の価値を説いた。 市場の秩序は、まさに、個々人の行動の結果ではあるが、誰によっても事前に設計されたものではない、自生的なものである、というのである。 彼の思想体系は、『ハイエク全集』(春秋社)に集約されている。 その中でも、『自由の条件Ⅰ~Ⅲ』が有名。 もっとも、彼の思考のエッセンスを知ろうとすれば、『法・立法・自由Ⅰ』が最善である。 ハイエクは、最低限の社会保障、徴兵制を容認する点で、ノージックほどの自由至上主義者ではなく、「古典的自由主義者」とでも評しておくべきか。 彼のいう、「法/立法」、「自由主義/民主主義」、「デカルト的合理主義=大陸的啓蒙思想/反合理主義=スコットランド啓蒙思想」といった区別は、合理主義的な法学教育を受けてきた我が国の研究者・学生にとって、超刺激的である。 ハイエク理論が阪本『憲法理論Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』の基礎となっている。 ◆ハート H. ハート(1907~1992):英米における法哲学の最高峰といってよいイギリスの法哲学者。その代表作は『法の概念』(矢崎光圀訳、みすず書房)である。 通常、ハートは「法実証主義」者である、といわれる。 しかしながら、その評価は、法実証主義の理解にもよるが、正確ではない(「法実証主義」の意味については、本文の[34]をみよ)。 ハートの法理論は、実証主義哲学を基礎としているというより、日常言語学派の哲学を基礎としたものと理解するほうがよい。 哲学は、様々な課題を対象とするが、ある時期、哲学は、哲学自身を語るための「ことば」について、その日常的な用法に目を向けて分析してみることの重要さに気づいた。 この思考が一つの学派を成し、「言語行為論」と呼ばれる学問体系になっている。 例えば、「私は、君に会うために、明日10時にここに来よう」と、私が貴方に言ったとき、その私の発言は、客観的事実を報告しているわけでもなければ、内心での主観(意思)を外部に表明しているだけでもない。 私は、そう言いながら、約束するという行為を為しているのである。 ハートの法理論は、ルールが言葉の使用の中に自生的に、すなわち、計画的に作られるわけではなく、意図しないで反復継続される行為の中にいつの間にか、生まれ出る、という視点の上に樹立されている。 この自生的なルールを、彼は「一次ルール」と呼んだ。 小さな社会においては、人々は、一次ルールに従って生活することができたのであるが、大きな社会においてはそうはいかない。 大きな社会では、《一次ルールが、この社会のルールとなっている》、と確認するためのルールが必要となる。 ここに登場してきたものが「二次ルール」である。 ある社会に一次ルールと二次ルールとが存在するとき、《そこには法体系が存在する》、とハートは言うのである。 ロックにせよ、ケルゼンにせよ、ハートにせよ、世に知られた法理論家は、例外なく、言語の哲学に関する定見を持っていた。 彼らの立場が、それぞれ異なるのは、その依拠する言語哲学の違いを反映しているのである。 読者の皆さん、言語哲学を軽んずるなかれ。 ◆ノージック R. ノージック(1938~):ハーヴァード大の哲学教授。他者に対する強制だけを排除するための強制力を独占する最小国家が、最もユートピアに近いと考える、「リバタリアン(=自由至上主義者)」の旗手。 その代表作として、福祉国家、国家による平等の実現に反対する『アナーキー・国家・ユートピア』(島津格訳、木鐸社)がある。 同書は、巧みな比喩、読者を引き込むような例を頻繁に用いながら、多くの識者が慣れ親しんできた、ステレオタイプ思考に激しく揺さぶりをかけ、全米図書賞の栄に輝いた。 先にふれたハイエクと同様、方法論的個人主義に徹する。 方法論的個人主義に徹する論者は、共通して、公共的利益、社会的利益という芒洋とした概念を徹底して疑う。 また、階級とか国民を、実体化しないのである。 もっとも、最近、彼は宗旨替えしたのか、最小国家論から撤退して、共同体主義に近づいているといわれる。 共同体主義とは、コミュニティにおいて人々が共通善に向けて献身することの中に正義は現れる、とする見解をいう。 ◆ロールズ J. ロールズ(1921~):ハーヴァード大の哲学教授。立憲国家のみならず、福祉国家の理論的正当化を、その著作『正義論』(矢島欽次監訳、紀伊国屋書店)によって、初めて完成させた哲学者。現代のカントとでもいうべき人物。 彼の『正義論』は20世紀最高の哲学書である、との評価すらみられる。 その著作は、素朴な社会契約論の弱点を回避すべく、仮想的に「始原状態」という、損得の予想のつかない状態を想定したうえで、全員が納得できる命題に到達することを説く。 全員が同意する命題こそ正義である、とする「同意(契約)理論」の旗手。 彼のいう、二つの正義原理については、本文の[90]をみよ。 彼の正義論は、英米で圧倒的な影響をもってきた功利主義の正義-その最も単純なものが、「最大多数の最大幸福」を実現することこそ、正義である、とする立場-に対抗して、それぞれの個々人が享受すべき自由は、「最大多数の最大幸福」を破って、保障されなければならない、ということを説く壮大な理論体系である。 もっとも、私自身は、ロールズ理論には、数多くの疑問を抱いている。 彼は、精神的自由や政治的自由の保障と、経済的不平等の是正(経済的弱者のための所得再分配)とが、厳しい緊張関係にあるとはみていないようである。 私のロールズ批判については、『憲法理論Ⅱ』 [32]、『憲法理論Ⅲ』 [468] をみていただきたい。 ◆モンテスキュー Ch. モンテスキュー(1689~1755):フランスの政治思想家。 彼は、人間とその社会が、歴史現象と常に緊張関係にある、とみた。 彼の代表作、『法の精神』(野田良之他訳、岩波書店)が、法を宗教、経済、人口、風土、習俗等との相互連関のなかで捉えようとしたのは、そのためであった。 従って、『法の精神』は、正統派の啓蒙思想の書というよりも、歴史哲学の書、つまりは、歴史法則を求めるための書であるといったほうがいいかも知れない。 彼の最大関心事は、ある社会における矛盾・対立のなかから、いかにして均衡が生み出されるか、という社会法則を見出すことにあった。 だからこそ、その著作が、『lois(自然法則、法)の精神』と題されたのである。 彼の発想は、今日いわれる「弁証法」的な思考といってもよいだろう。 『法の精神』は、不思議なことに、ホッブズ、ロックとは違って、社会の状態や国家の成立に何の関心も示していない。 モンテスキューにとっての主題は、成立後の国家における法、正義、権利、政体、を論ずることにあった。 同著作の最も著名な箇所が、第一部第11篇第六章の「イギリスの国制について」である。 彼は、この章において、政治的自由の保障にとって理想的な国制は「混合政体」である、と説きたかったのである。 モンテスキューをもって、民主的理論の提唱者である、と考えるとすれば、それは浅慮である。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1727.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 巻末 人名解説 <目次> ◆イェリネック ◆ケルゼン ◆シュミット ◆ホッブズ ◆ロック ◆ルソー ◆ダイシー ◆ハイエク ◆ハート ◆ノージック ◆ロールズ ◆モンテスキュー ■ご意見、情報提供 ◆イェリネック G. イェリネック(1851~1911):ドイツの公法学、行政法学者、国家学の集大成者。 彼は、当時の狭隘な法実証主義に反対して、法学を哲学・社会学と結合せんと目指した。 なかでも、社会学的に考察した国家を、法学的に再構成しようとした大著『一般国家学』(芦部信喜監訳、学陽書房)が、その成果である。 同著作において、彼は、社会学的国家概念と、法学的国家概念とに分けながら、国家を把握せんとした。 彼の有名な国家法人説は、この視点からの産物である。 また、その公権体系論は、人が人であること、また、人が法人において一定の地位を占めること、に応じて各種の公権を類型化したものであるが、これは、人権概念を否定する当時のドイツ国法学に対抗する理論であった。 彼は、事実学と規範学とを区別する新カント派の哲学を基礎としながらも、存在(事実)と当為(規範)とを結びつけるものを「事実的なるものの規範力」に求めた。 これが、事実の観察から規範を説く、彼の有名な「方法二元論」である。 彼の二元論は、事実と規範とを結びつける要因である社会心理的事実、すなわち、人々が事実を規範として受容すること、において一元化された理論ともなっているのである。 しかしながら、その一元化は不徹底であった。 彼の理論は、美濃部達吉に強い影響を与えた。 美濃部が、天皇機関説を提唱したのも、国家という法人における天皇の地位を解明しようとしたからである。 ◆ケルゼン H. ケルゼン(1881~1973):事実と規範とを峻別する新カント学派の哲学に依拠し、法実証主義を徹底させたオーストリーの法哲学者。「純粋法学」の創始者。その代表作に『一般国家学』(清宮四郎訳、有斐閣)がある。 彼の思索の出発点は、イェリネック批判にある。 すなわち、イェリネックのように、国家は自然の領域に存在するものとの前提にたって、それを社会学的分析対象とする視点が誤っている、とケルゼンはみたのである。 そのうえで彼は、国家は法学の対象であって、法学的にのみ把握可能であると考え、《国家とは法秩序そのものである》、と説いた。 また、新カント学派の視点を徹底させて、《規範は規範からのみ生ずる》とも主張した。 彼は、法とは権利・義務等の帰属関係を表示する特殊な規範であると捉えて、帰属関係の始源に「根本規範」を仮設した。 ケルゼンの純粋法学は、H. ヘラーによって、「国家なき国法学」と批判され、また、自然法学者によって、所与の実定法を鵜呑みにする「規範支配」の信仰を生み出した、と批判され、さらにC. シュミットによって、「規範を生み出すものを忘却している」とも批判された。 ケルゼンの理論は、宮沢俊義、清宮四郎等、戦後の我が国の指導的憲法学者に強い影響を与えたが、宮沢・清宮は、ケルゼンほど、法実証主義に徹底的にコミットした訳ではない。 ◆シュミット C. シュミット(1888~1985):ドイツの政治的憲法学者。彼は、新カント学派の方法論とは別の法哲学に依拠して、国家と法の根源を考えた。 その着想は、政治的極限状態における法と国家の役割を考えることにあった。 彼は、例外的極限状況において決断することこそ、主権者の役割であるとみなした。 すなわち、彼によれば、法秩序の究極的根拠は、主権者の決断にあるのである。 これが、彼の有名な決断主義であり、《意思の力が法を作る》とする、バリバリの法実証主義の思考である。 この思考による限り、合法性を正当性に還元すべきではなく、主権者が意欲すれば足るのである。 これが、彼の代表作『憲法理論』(尾吹善人訳、木鐸社)にみられる憲法制定権力論である。 彼は、この決断主義によって、存在と当為との溝を埋めることに成功した、と信じていたが、晩年には、決断主義が存在と当為の対立を止揚しなかった、と自己批判するに至る。 また彼は、自由主義が個人の価値を基礎とするのに対して、民主主義は全体の価値を探求するという点で、両者は両立し難い思想体系であることを説いた。 彼は、また、議会が政治的利害の妥協の場と成り下がっていることを痛烈に批判したことでも有名である(間接民主制批判)。 彼にとっては、国家と個人の間に何らの異物の存在しない、透明な統治体制こそ、理想的であった。 シュミットは、基本権の主体を個人に限定したかったために、個人以外の利益が憲法上保障されている場合、それを「制度的保障」と称したのである。 ◆ホッブズ T. ホッブズ(1588~1679):1640~60年のイギリス革命期の真っ直中に育った政治思想家。 彼は幾何学を好み、幾何学に基づいた政治学の体系を樹立したいと考えた。 その成果の一つが、1651年に出版された『リヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫)である。 その著作での彼の理論は、心身の能力の平等な諸個人が自己保存権を自然権として有することから出発した。 これが、「万人の万人に対する戦い」という自然状態である。 国家は、諸個人がこの自然状態から抜け出るために考案された(社会契約という形式をとる合意によって成立する)人為的構成体である。 ホッブズは、「如何にデモクラシーは愚かであるか、それに対して、一人の人間は如何に賢明であり得るか」と確信していた。 ために、彼は、平和維持のための装置である国家において、絶対主権をもった君主が君臨する必要を説いたのであった。 もっとも、彼は、そのことから連想されるほど、保守反動の輩ではない。 一言でいえば、彼は、ラディカリストであった。 私の『憲法理論Ⅰ』は、保守反動とのラヴェルを貼られるかも知れないが、私自身は、ラディカル・リベラリストを標榜しており、その立場からすれば、ホッブズに限りない共鳴を覚えている。 以来、近代啓蒙思想家たちは、ホッブズ理論を乗り越えようとして、懸命な思索を繰り返したのである。 ◆ロック J. ロック(1632~1704):イギリスの哲学者、政治思想家。 ロックは、その代表的著作『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)において、ホッブズ理論を乗り越えようとした。 ロックにとって、ホッブズ理論の欠点は、絶対的主権によって諸個人の共生が初めて保存される、という点にあった。 ホッブズ理論は、人々が共に生活するに当たって、社会において労働し生産するという相互行為を見逃しているのではないか、これが、ロックの診断であった。 だからこそ、彼は、自然状態において人々が労働し、生産するためにも、「生命、自由、財産」が自然権として保障されなければならない、と強調したのである。 ロックの社会契約論は、二段階理論となっていることに、我々は注意しなければならない。 第一段階は、諸個人が契約を締結することによって「市民社会」を樹立する段階である。 第二段階は、市民社会における市民が契約によって政治権力を生み出す段階である。 「政治権力」は、統治のための「道具」として、市民が合意によって作り上げたものであるからこそ、必要とあれば、市民たちは、王の首を別の王の首に、政府を別の政府に、置き換えることが可能なのである。 その考え方が、アメリカ独立宣言に取り入れられたという事実は、余りにも有名である。 私自身は、ロックはイギリス経験論者であるというより、大陸流の超越論者に近い、と位置づけている。 ◆ルソー J. ルソー(1712~1778):フランスの文学者・政治思想家。その代表作が、『社会契約論』(桑原武夫他訳、岩波文庫) ルソー理論も、ロック等と同様に、社会契約論を説いた、と一般にいわれるが、ルソー以前の理論が、自然状態→社会状態→国家状態という二つの移行を、二段階の社会契約によって説明したのに対して(右のロックの解説をみよ)、ルソーは、社会状態から国家状態への移行を一段階の社会契約で解明しようとした。 『社会契約論』における彼の狙いは、はっきりしている。 各人が他の全ての人々と結びつきながらも、しかも、自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由である国制の形式を解明すること、これである。 これこそが彼にとっての根本的な問題であり、社会契約がそれへの解答であった。 ところが、社会契約によって成立した国制において、誰が実際に支配すべきか、という論点でのルソーの解答は、実にナイーヴであった。 彼は、「人民」が支配すべきである、と答えた。 彼の理論において、人民は「一般意思」を具体化する単一の人格である、と単純に片付けられた。 その理論は、共産主義や社会主義を信奉する人々によって何度も援用された。 F. ハイエクや K. ポパーのような自由主義者にとって、ルソーのごとき人民主権論は、人類の歴史上、多くの不幸で破壊的な政治的効果をもたらす元凶以外の何物でもなかった。 社会科学者としてのルソーの全ての著作、『エミール』、『不平等起源論』は、私の見解とは全く相容れない。 文学者としてのルソーの作品と理解するのであれば、話は別であるが。 ◆ダイシー A. ダイシー(1835~1922):イギリスはヴィクトリア王朝期のコモン・ロー研究者。その代表的著作が『憲法序説』(伊藤正巳=田島裕訳、学陽書房)。 ダイシーは、その著書において、国会主権、法の支配、憲法習律について、理論を展開した。 その中でも、「法の支配」を論じた部分が、最も有名である(本文の[71]をみよ)。 彼の『憲法序説』は、モンテスキューの著作と同様に、あたかも聖書であるかのように、扱われた時期もあった。 ところが、彼の理論体系は、「積極国家」を擁護する多くの論者から厳しい批判を受けることとなった。 批判者によれば、ダイシー理論は確固とした体系をもっているものではなく、同書の出版時点の時代、つまり、19世紀的な消極国家に妥当した理論に過ぎない、というのである。 特に、「イギリスにはフランスのような行政法は存在しない」という彼の理論につき、批判者は、①ダイシーのフランス行政法の理解が不正確であること、②イギリスにも行政法特有の理論が認められていること、を衝いた。 確かに、本文の[72]でふれたように、ダイシーの理論は、様々な難点をもっていた。 我々の「あと知恵」に照らして批判することが許されれば、その最大の難点は、国会主権と法の支配との対抗関係を軽視した点にあった、といわざるを得ない。 国会主権とは、国会の制定する法律が基本権の内容と限界を画定できる、と承認することである。 とすれば、それは、まさに、法実証主義的な思考とならないか、と疑問視されざるを得ない。 実のところ、ダイシーは、分析法学者として著名なJ. オースティンの影響を受けていた学者であった。 彼の理論は、基本権(人権)を本来絶対的なものとみるホイッグ的自由主義とは、もともと異なっていたのである。 ◆ハイエク F. ハイエク(1899~1992):オーストリー生まれの万能の社会理論家。現代のA. スミスともいわれる人物。 ケインズ理論に反対し、「福祉国家は隷従への道」と説く。 また彼は、理性によって社会を意図的に改革する「設計主義・合理主義」に反対し、自由な人々の営為の積み重ねによって生まれ出る「自生的秩序」の価値を説いた。 市場の秩序は、まさに、個々人の行動の結果ではあるが、誰によっても事前に設計されたものではない、自生的なものである、というのである。 彼の思想体系は、『ハイエク全集』(春秋社)に集約されている。 その中でも、『自由の条件Ⅰ~Ⅲ』が有名。 もっとも、彼の思考のエッセンスを知ろうとすれば、『法・立法・自由Ⅰ』が最善である。 ハイエクは、最低限の社会保障、徴兵制を容認する点で、ノージックほどの自由至上主義者ではなく、「古典的自由主義者」とでも評しておくべきか。 彼のいう、「法/立法」、「自由主義/民主主義」、「デカルト的合理主義=大陸的啓蒙思想/反合理主義=スコットランド啓蒙思想」といった区別は、合理主義的な法学教育を受けてきた我が国の研究者・学生にとって、超刺激的である。 ハイエク理論が阪本『憲法理論Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』の基礎となっている。 ◆ハート H. ハート(1907~1992):英米における法哲学の最高峰といってよいイギリスの法哲学者。その代表作は『法の概念』(矢崎光圀訳、みすず書房)である。 通常、ハートは「法実証主義」者である、といわれる。 しかしながら、その評価は、法実証主義の理解にもよるが、正確ではない(「法実証主義」の意味については、本文の[34]をみよ)。 ハートの法理論は、実証主義哲学を基礎としているというより、日常言語学派の哲学を基礎としたものと理解するほうがよい。 哲学は、様々な課題を対象とするが、ある時期、哲学は、哲学自身を語るための「ことば」について、その日常的な用法に目を向けて分析してみることの重要さに気づいた。 この思考が一つの学派を成し、「言語行為論」と呼ばれる学問体系になっている。 例えば、「私は、君に会うために、明日10時にここに来よう」と、私が貴方に言ったとき、その私の発言は、客観的事実を報告しているわけでもなければ、内心での主観(意思)を外部に表明しているだけでもない。 私は、そう言いながら、約束するという行為を為しているのである。 ハートの法理論は、ルールが言葉の使用の中に自生的に、すなわち、計画的に作られるわけではなく、意図しないで反復継続される行為の中にいつの間にか、生まれ出る、という視点の上に樹立されている。 この自生的なルールを、彼は「一次ルール」と呼んだ。 小さな社会においては、人々は、一次ルールに従って生活することができたのであるが、大きな社会においてはそうはいかない。 大きな社会では、《一次ルールが、この社会のルールとなっている》、と確認するためのルールが必要となる。 ここに登場してきたものが「二次ルール」である。 ある社会に一次ルールと二次ルールとが存在するとき、《そこには法体系が存在する》、とハートは言うのである。 ロックにせよ、ケルゼンにせよ、ハートにせよ、世に知られた法理論家は、例外なく、言語の哲学に関する定見を持っていた。 彼らの立場が、それぞれ異なるのは、その依拠する言語哲学の違いを反映しているのである。 読者の皆さん、言語哲学を軽んずるなかれ。 ◆ノージック R. ノージック(1938~):ハーヴァード大の哲学教授。他者に対する強制だけを排除するための強制力を独占する最小国家が、最もユートピアに近いと考える、「リバタリアン(=自由至上主義者)」の旗手。 その代表作として、福祉国家、国家による平等の実現に反対する『アナーキー・国家・ユートピア』(島津格訳、木鐸社)がある。 同書は、巧みな比喩、読者を引き込むような例を頻繁に用いながら、多くの識者が慣れ親しんできた、ステレオタイプ思考に激しく揺さぶりをかけ、全米図書賞の栄に輝いた。 先にふれたハイエクと同様、方法論的個人主義に徹する。 方法論的個人主義に徹する論者は、共通して、公共的利益、社会的利益という芒洋とした概念を徹底して疑う。 また、階級とか国民を、実体化しないのである。 もっとも、最近、彼は宗旨替えしたのか、最小国家論から撤退して、共同体主義に近づいているといわれる。 共同体主義とは、コミュニティにおいて人々が共通善に向けて献身することの中に正義は現れる、とする見解をいう。 ◆ロールズ J. ロールズ(1921~):ハーヴァード大の哲学教授。立憲国家のみならず、福祉国家の理論的正当化を、その著作『正義論』(矢島欽次監訳、紀伊国屋書店)によって、初めて完成させた哲学者。現代のカントとでもいうべき人物。 彼の『正義論』は20世紀最高の哲学書である、との評価すらみられる。 その著作は、素朴な社会契約論の弱点を回避すべく、仮想的に「始原状態」という、損得の予想のつかない状態を想定したうえで、全員が納得できる命題に到達することを説く。 全員が同意する命題こそ正義である、とする「同意(契約)理論」の旗手。 彼のいう、二つの正義原理については、本文の[90]をみよ。 彼の正義論は、英米で圧倒的な影響をもってきた功利主義の正義-その最も単純なものが、「最大多数の最大幸福」を実現することこそ、正義である、とする立場-に対抗して、それぞれの個々人が享受すべき自由は、「最大多数の最大幸福」を破って、保障されなければならない、ということを説く壮大な理論体系である。 もっとも、私自身は、ロールズ理論には、数多くの疑問を抱いている。 彼は、精神的自由や政治的自由の保障と、経済的不平等の是正(経済的弱者のための所得再分配)とが、厳しい緊張関係にあるとはみていないようである。 私のロールズ批判については、『憲法理論Ⅱ』 [32]、『憲法理論Ⅲ』 [468] をみていただきたい。 ◆モンテスキュー Ch. モンテスキュー(1689~1755):フランスの政治思想家。 彼は、人間とその社会が、歴史現象と常に緊張関係にある、とみた。 彼の代表作、『法の精神』(野田良之他訳、岩波書店)が、法を宗教、経済、人口、風土、習俗等との相互連関のなかで捉えようとしたのは、そのためであった。 従って、『法の精神』は、正統派の啓蒙思想の書というよりも、歴史哲学の書、つまりは、歴史法則を求めるための書であるといったほうがいいかも知れない。 彼の最大関心事は、ある社会における矛盾・対立のなかから、いかにして均衡が生み出されるか、という社会法則を見出すことにあった。 だからこそ、その著作が、『lois(自然法則、法)の精神』と題されたのである。 彼の発想は、今日いわれる「弁証法」的な思考といってもよいだろう。 『法の精神』は、不思議なことに、ホッブズ、ロックとは違って、社会の状態や国家の成立に何の関心も示していない。 モンテスキューにとっての主題は、成立後の国家における法、正義、権利、政体、を論ずることにあった。 同著作の最も著名な箇所が、第一部第11篇第六章の「イギリスの国制について」である。 彼は、この章において、政治的自由の保障にとって理想的な国制は「混合政体」である、と説きたかったのである。 モンテスキューをもって、民主的理論の提唱者である、と考えるとすれば、それは浅慮である。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/thlabyroth2/pages/133.html
9F 生命が躍動する翡翠の原始林 8Fへ/10Fへ モンスター ボス攻略:9F 名前 Lv HP EXP 金 属性 備考 炎 冷 風 然 魔 霊 冥 物 大樹の精 31 1944 110 40 × - - ◎ - ◎ × - 炎・冥弱点 敏捷早め 異形カズラ 33 4120 116 48 △ - - ◎ × × ◎ - 炎・魔・霊弱点 ガスマッシュ 33 2200 124 38 - × ◎ ★ - × ★ ◯ 冷・霊弱点 敏捷早め フォレストメイジ 34 2999 134 50 × ◎ - ◎ - × ★ - 炎・霊弱点 精神高め 胞子っこ 35 1240 115 50 × - - ★ - - - △ 炎・物弱点 敏捷早め 密林の甘葛 35 1948 116 48 - - × ★ - - ◯ △ 風・物弱点 大輪の狂華 35 4432 134 50 △ - × ◎ ◎ × ◎ - 炎・風・霊弱点 ミジミジンコ 27 5966 320 128 - × ◎ - - × ◎ - 冷・霊弱点 C-1,I-1,G-7,j-12付近で確認 美味しい秋の味覚 40 5240 600 150 × ★ × ★ ★ ★ ★ - 炎・風弱点 J-12付近で確認 ここも炎弱点が多いが、フォレストメイジだけは精神が高く別格。ロイヤルフレアすら1ダメということも。 反面防御は薄いので橙などを用意しておこう。 ガスマッシュに先制を取られると、全ステータスを下げ、すぐさま碧の矢や影踏みで攻撃をすると言う危険な敵。 一体だけならいいが、数が多いとあっという間にステータス低下の連続で弱体化や全体麻痺をされる。 マップ 強烈なネタバレ情報なので、マップを見たい方だけクリックしてください 表示 9F概要 イベント 表示 座標 内容 備考 出現条件 H-7 中継点 H-7 8階(G-6)への階段 I-7 8階(L-6)への階段 I-11 8階(L-10)への階段 D-7 10階(D-7)への階段 F-7~G-7 茂み。上から順にB-3/B-7/I-8の根っこが連動 H-6 藍の結界-1 B-4(赤)/F-2(赤)/F-8(赤)/I-5(紫)出現 8階I-4(赤)後 B-4 藍の結界-2 八雲 藍戦で藍の簡易式神のHP低下 H-6(赤)後 F-2 藍の結界-3 八雲 藍戦で藍の簡易式神のHP低下 H-6(赤)後 F-8 藍の結界-4 八雲 藍戦で藍の簡易式神のHP低下 H-6(赤)後 B-3(上) 根っこ 一番上の茂み除去 B-7(下) 根っこ 真ん中の茂み除去 I-8 根っこ 一番下の茂み除去 B-3(下) 四季映姫・ヤマザナドゥ 会話のみ B-7(上) 聖 白蓮 会話のみ H-10 伊吹 萃香-3 純米大吟醸・蝶を要求、渡すと加入 6階C-2(赤)後 I-5 八雲 藍 BLv34詳細はボス攻略参照。八雲 藍加入 H-6(赤)後 D-7 比那名居 天子 BLv36詳細はボス攻略参照。連戦、負けてもストーリーは進行 宝箱 9F宝箱 サブ 名前 備考 座標 紫色の金属装甲 F-8 歌姫のエプロン C-6 ペイルウイングスラスター G-12 「天空の支配者」のカード I-2 ラスタキャンディ D-8 水斬りの剣 J-2 幸せの帽子 D-1 スカウター A-6 T-45dパワーアーマー C-1 大天使の爪楊枝 D-10 世紀末ジャケット E-4 素材 名前 備考 座標 お払いの霊札×2 C-10 妖怪の火吹竹×2 H-3 特殊 名前 備考 座標 宝箱の鍵 D-6 覚醒の石 C-11 その他 名前 備考 座標 990銭 D-12 1000銭 F-7 妖怪メダル砕きの斧(メイン) 鍵付き宝箱 I-4 丈高きエレンディルの星(サブ) 神速の玉×2(特殊) 啓蒙の書・敏捷×2(特殊)
https://w.atwiki.jp/sendai_mtg/pages/323.html
1位 アオキリョウヤ「ブラッドバロン当たらないマン」 17《沼/Swamp》 4《変わり谷/Mutavault》 1《ヨーグモスの墳墓、アーボーグ/Urborg, Tomb of Yawgmoth》 3《疾病の神殿/Temple of Malady》 4《群れネズミ/Pack Rat》 3《夜帷の死霊/Nightveil Specter》 2《生命散らしのゾンビ/Lifebane Zombie》 4《冒涜の悪魔/Desecration Demon》 4《アスフォデルの灰色商人/Gray Merchant of Asphodel》 4《思考囲い/Thoughtseize》 3《究極の価格/Ultimate Price》 3《胆汁病/Bile Blight》 4《英雄の破滅/Hero s Downfall》 3《地下世界の人脈/Underworld Connections》 1《エレボスの鞭/Whip of Erebos》 サイドボード 2《悲哀まみれ/Drown in Sorrow》 4《強迫/Duress》 1《生命散らしのゾンビ/Lifebane Zombie》 2《ファリカの療法/Pharika s Cure》 1《地下世界の人脈/Underworld Connections》 2《死者の神、エレボス/Erebos, God of the Dead》 3《破滅の刃/Doom Blade》 (コメント) 酒田EDH モーギス教団をよろしくお願いします。 2位 びりー「威圧する君主 強し!」 4《平地/Plains》 2《山/Mountain》 4《戦場の鍛冶場/Battlefield Forge》 4《凱旋の神殿/Temple of Triumph》 4《聖なる鋳造所/Sacred Foundry》 4《変わり谷/Mutavault》 4《ボロスの精鋭/Boros Elite》 4《万神殿の兵士/Soldier of the Pantheon》 3《ラクドスの哄笑者/Rakdos Cackler》 4《管区の隊長/Precinct Captain》 4《果敢なスカイジェク/Daring Skyjek》 3《威圧する君主/Imposing Sovereign》 3《放逐する僧侶/Banisher Priest》 4《ゴブリンの熟練扇動者/Goblin Rabblemaster》 2《稲妻の一撃/Lightning Strike》 2《向こう見ずな技術/Madcap Skills》 1《ヘリオッドの槍/Spear of Heliod》 4《かき立てる炎/Stoke the Flames》 1《ウルドのオベリスク/Obelisk of Urd》 サイドボード 3《ボロスの魔除け/Boros Charm》 3《灼熱の血/Searing Blood》 3《ミジウムの迫撃砲/Mizzium Mortars》 3《摩耗+損耗/Wear+Tear》 1《払拭の光/Banishing Light》 2《ウルドのオベリスク/Obelisk of Urd》 3位 カネヒラハルキ 20《島/Island》 4《変わり谷/Mutavault》 1《ニクスの祭殿、ニクソス/Nykthos, Shrine to Nyx》 4《雲ヒレの猛禽/Cloudfin Raptor》 4《審判官の使い魔/Judge s Familiar》 4《潮縛りの魔道士/Tidebinder Mage》 4《凍結燃焼の奇魔/Frostburn Weird》 4《夜帷の死霊/Nightveil Specter》 4《海の神、タッサ/Thassa, God of the Sea》 4《波使い/Master of Waves》 3《急速混成/Rapid Hybridization》 1《サイクロンの裂け目/Cyclonic Rift》 3《タッサの二叉槍/Bident of Thassa》 サイドボード 1《払拭/Dispel》 1《サイクロンの裂け目/Cyclonic Rift》 2《否認/Negate》 2《反論/Gainsay》 2《解消/Dissolve》 3《家畜化/Domestication》 2《思考を築く者、ジェイス/Jace, Architect of Thought》 1《ギルドパクトの体現者、ジェイス/Jace, the Living Guildpact》 1《霊異種/AEtherling》 4位 つきと「ボロスバーン」 7《山/Mountain》 4《変わり谷/Mutavault》 4《聖なる鋳造所/Sacred Foundry》 4《凱旋の神殿/Temple of Triumph》 3《戦場の鍛冶場/Battlefield Forge》 4《若き紅蓮術士/Young Pyromancer》 4《チャンドラのフェニックス/Chandra s Phoenix》 4《岩への繋ぎ止め/Chained to the Rocks》 2《灼熱の血/Searing Blood》 4《頭蓋割り/Skullcrack》 4《マグマの噴流/Magma Jet》 4《稲妻の一撃/Lightning Strike》 4《ボロスの魔除け/Boros Charm》 4《かき立てる炎/Stoke the Flames》 4《戦導者のらせん/Warleader s Helix》 サイドボード 2《ニクス毛の雄羊/Nyx-Fleece Ram》 4《サテュロスの火踊り/Satyr Firedancer》 2《摩耗+損耗/Wear+Tear》 2《灼熱の血/Searing Blood》 2《光の柱/Pillar of Light》 2《払拭の光/Banishing Light》 1《紅蓮の達人チャンドラ/Chandra, Pyromaster》 (コメント) タルキールが楽しみです 5位 えいべ 2《マナの合流点/Mana Confluence》 2《コイロスの洞窟/Caves of Koilos》 1《啓蒙の神殿/Temple of Enlightenment》 2《静寂の神殿/Temple of Silence》 3《欺瞞の神殿/Temple of Deceit》 3《神無き祭殿/Godless Shrine》 3《湿った墓/Watery Grave》 4《神聖なる泉/Hallowed Fountain》 2《変わり谷/Mutavault》 3《平地/Plains》 4《万神殿の兵士/Soldier of the Pantheon》 3《果敢なスカイジェク/Daring Skyjek》 2《威圧する君主/Imposing Sovereign》 1《死の国の造幣工/Underworld Coinsmith》 4《ザスリッドの屍術師/Xathrid Necromancer》 4《リーヴの空騎士/Lyev Skyknight》 3《冒涜の悪魔/Desecration Demon》 2《幽霊議員オブゼダート/Obzedat, Ghost Council》 1《ヴィズコーパの血男爵/Blood Baron of Vizkopa》 2《究極の価格/Ultimate Price》 4《拘留の宝球/Detention Sphere》 2《エレボスの鞭/Whip of Erebos》 1《ヘリオッドの指図/Dictate of Heliod》 2《遠隔+不在/Far+Away》 サイドボード 2《通行の神、エイスリオス/Athreos, God of Passage》 2《至高の評決/Supreme Verdict》 4《ニクス毛の雄羊/Nyx-Fleece Ram》 2《否認/Negate》 1《罪の収集者/Sin Collector》 2《ヴィズコーパの血男爵/Blood Baron of Vizkopa》 2《破滅の刃/Doom Blade》 6位 イワサワフミヤ 2《コイロスの洞窟/Caves of Koilos》 4《欺瞞の神殿/Temple of Deceit》 4《静寂の神殿/Temple of Silence》 2《変わり谷/Mutavault》 4《啓蒙の神殿/Temple of Enlightenment》 5《島/Island》 2《平地/Plains》 2《思考囲い/Thoughtseize》 2《中略/Syncopate》 1《アゾリウスの魔除け/Azorius Charm》 3《今わの際/Last Breath》 4《解消/Dissolve》 1《払拭の光/Banishing Light》 4《スフィンクスの啓示/Sphinx’s Revelation》 4《拘留の宝球/Detention Sphere》 4《至高の評決/Supreme Verdict》 4《神聖なる泉/Hallowed Fountain》 4《思考を築く者、ジェイス/Jace, Architect of Thought》 3《太陽の勇者、エルズペス/Elspeth, Sun’s Champion》 サイドボード 2《闇の裏切り/Dark Betrayal》 3《夜帷の死霊/Nightveil Specter》 3《テューンの大天使/Archangel of Thune》 1《払拭/Dispel》 3《ニクス毛の雄羊/Nyx-Fleece Ram》 1《ヴィズコーパの血男爵/Blood Baron of Vizkopa》 1《究極の価格/Ultimate Price》 7位 ワイパー(担当:トロンボーン)「にわかバーン」 8《山/Mountain》 4《聖なる鋳造所/Sacred Foundry》 4《凱旋の神殿/Temple of Triumph》 4《戦場の鍛冶場/Battlefield Forge》 3《変わり谷/Mutavault》 8《山/Mountain》 4《若き紅蓮術士/Young Pyromancer》 4《チャンドラのフェニックス/Chandra s Phoenix》 1《ボロスの反攻者/Boros Reckoner》 2《岩への繋ぎ止め/Chained to the Rocks》 3《ショック/Shock》 3《灼熱の血/Searing Blood》 4《稲妻の一撃/Lightning Strike》 4《頭蓋割り/Skullcrack》 4《ボロスの魔除け/Boros Charm》 1《マグマの噴流/Magma Jet》 3《戦導者のらせん/Warleader s Helix》 4《かき立てる炎/Stoke the Flames》 サイドボード 3《ボロスの反攻者/Boros Reckoner》 3《サテュロスの火踊り/Satyr Firedancer》 3《真髄の針/Pithing Needle》 2《軍勢の集結/Assemble the Legion》 1《灼熱の血/Searing Blood》 2《摩耗+損耗/Wear+Tear》 1《復仇/Reprisal》 (コメント) ゲーム音楽吹奏楽団「しかしMPがたりない」、9/7(日)に山形で演奏します!よろしくお願いします! 8位 サクマトシミツ (デッキリスト記入中)
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/20.html
FAQ とりあえずまだ何を書くか決めてないので、適当なことでも書いておく 史実と作品の相違 プロテクト・ギア 全何話なの? CDになる? 映画化するって本当? EDナレーション 史実と作品の相違 この作品はあまり知られていない戦史(史上最大の陸戦である独ソ戦)にスポットを当てようという押井監督の意図があるため、 ケルベロス、ヒトラー、ナチス関連以外の部分は史実通りである事が多く、またその歴史をマキの視点(というか押井の視点を榊原の声)で解説する内容が作品内で多い。 それゆえ、他のケルベロスサーガとは違った歴史を歩んでる可能性がある。 (というか、各作品毎に設定は少しづつ違っており完全な整合性はない) 他のケルベロスサーガではドイツ・イタリアの枢軸国が勝利し、ドイツによる日本占領政策が始まる。 押井監督曰く「悲劇的な舞台でないとケルベロスという物語は成立しない」などと語っており史実通りにドイツの負ける可能性も? プロテクト・ギア 1990年代の日本の首都警を舞台とした物語のプロテクト・ギアは動甲冑であり、パワードスーツとしての機能を備えている。 作中に登場するプロテクト・ギアはただの鉄板であり拳銃すら防げない。デザインに優れており、啓蒙宣伝が主目的であった。 全何話なの? 26話~36話等言われているがどうやら36話前後が有力 月1放送が5話、週1になってから31話とのこと ソース CDになる? おそらくは何らかの形で発売することは間違いないと思われるが、現状では確定した情報を知らない。 ドラマCDという形で発売されているものは1枚60~80分程度であり、ドラマの方も3話で1部としていることから1枚あたり1部3話収録となる可能性が高い。 とするとCDで12枚組ということになり、ドラマDVDという形で発売される可能性もある。(ドラマDVDという形式で発売されている製品は存在する) 映画化するって本当? 押井「3年後を目処に映画化を考えている。ただ、戦場的にスケールが大きいので簡単に映像化はできない。最終的に映画化するにしても、まずラジオドラマで出発するのが土台として正しいと考えている」 ただ、氏の映画予定作品で映像化されていないものはいくつかあり、同じくケルベロスサーガの系譜である「エルの乱 鏖殺の島」なども予算の問題から製作延期になっている。慣れているファンは、にわかには信用できない。 EDナレーション 毎月最終水曜日の放送の頃 「ケルベロス鋼鉄の猟犬。 お楽しみ頂けましたでしょうか? (公式サイトの紹介) 押井守が20年に渡って描き続けてきた、まさにライフワークと言うべきケルベロスサーガ。 その最新作、ケルベロス鋼鉄の猟犬は、誰も予想しえなかった連続ラジオドラマという形で世に送り出されることとなった。 脚本は全編、押井守による渾身の書き下ろし。 音楽は川井憲次。出演は榊原良子、池水通洋、内田夕夜。 音声のみで繰り広げられる押井ワールド。 ラジオの向こうでもう一つの戦争が始まる。 (ネット放送(雷電)の紹介) ケルベロス鋼鉄の猟犬。 一ヵ月後、最終水曜日の夜に、またお会いしましょう。」 毎週放送になってから 「ケルベロス鋼鉄の猟犬。 お楽しみ頂けましたでしょうか? 第二次大戦におけるドイツとロシアの戦いを舞台に、音声のみで織り成す滅びの叙事詩。 ケルベロス鋼鉄の猟犬 脚本は全編、押井守による渾身の書き下ろし。 音楽は川井憲次。出演は榊原良子、池水通洋、内田夕夜。 ラジオの向こうで鳴り渡るもう一つの戦い。 呪われた装甲兵、ケルベロスの姿を追い求めるマキ。 その果てに待ち受けるモノは、闇か 光か。 (公式サイトの紹介) (ネット放送(雷電)の紹介) ケルベロス鋼鉄の猟犬。 それではまた、来週木曜日のこの時間に。 耳をすませて待機せよ。」 細かいバージョン違いが存在する。 なお、ナレーターは途中で変わっている。
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/278.html
「日本列島は日本人だけの所有物ではない」「これからは国境に固執する時代ではなくなり『地球市民』の時代になる」(鳩山由紀夫・前首相)という発想は一体どこから来たのでしょうか? <目次> ■1.国家解体思想? ■2.「世界政府・地球市民」の思想的背景、歴史的経緯◆大陸合理論とイギリス経験論 ◆設計主義的合理主義と批判的合理主義 ◆「世界政府・地球市民」は、設計主義的合理主義(大陸合理論)からの帰結 ■3.いわゆる「陰謀論」について◆でも、なぜ「陰謀論」が発生したのだろう? ◆トンデモ陰謀論・デマ話に効く書籍 ◆陰謀論こそ保守派を混乱させる陰謀である ■4.まとめ ■5.参考図書 ■6.ご意見、情報提供 ■1. 国家解体思想? 先日、人気ブログ「中韓を知りすぎた男」様に、 国家解体思想 という記事が上がりました。 日本やアメリカといった既存の国家を解体して、世界統一政府を作り、みんなで地球市民になるんだ・・・という思想ですね。 本ページでは、この問題について少し突っ込んだ検討を行います。 ■2.「世界政府・地球市民」の思想的背景、歴史的経緯 ◆大陸合理論とイギリス経験論 中学や高校で、「啓蒙思想」が17世紀のイギリスや18世紀のフランスで起こり、それが1789年のフランス革命に繋がっていった、という事を学ぶと思います。 ホッブズ・ロック・ルソーらの唱えた「社会契約説」がその代表とされ、ほかにデカルトやモンテスキューなどの思想も少し習いますね。 大学の教養課程レベルだと、この啓蒙思想には実は ? 大陸合理論 「コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)」というデカルトの『方法序説』以来ドイツ・フランスなど欧州大陸で発展した理性を唯一の拠り所として世界を合理的に理解しようとする思想潮流で、理性からの演繹による思弁を絶対視するもの。 ? イギリス経験論 人間の理性は不完全であり、所詮は人間は失敗と成功という試行錯誤を繰り返しながら経験に学ぶしかない、という理性に対する懐疑を唱え、演繹ではなく帰納の大切さを強調するもので、主に18世紀のスコットランド出身者(ヒューム、アダム・スミスら)およびアイルランド出身者(エドマンド・バーク)らが?大陸合理論に対抗して唱えた。 の二つがある、ということを学ぶと思います。 もちろん西洋思想の主流は、デカルト以来の、?大陸合理論のほうで、この思想が結局フランス革命を引き起こし、さらにやがてカント・ヘーゲルらのドイツ観念論を生み、ヘーゲル左派からはマルクス主義が生まれ、ロシア革命へと繋がり、またヘーゲル右派からはナチズムが生まれたのです。なおフランスではフーリエ、サン・シモンらの(空想的)社会主義が生まれています。 ◆設計主義的合理主義と批判的合理主義 日本の学者は明治以来、?ドイツ・フランス系の大陸合理論ばかりを輸入しましたし、今の社会科教育で教えられる思想家も、やはり?大陸合理論の思想家ばかりです。 しかし、実はイギリス・アメリカでは、?イギリス経験論の伝統が強くて、フランス革命の時にはエドマンド・バークが出、また第二次世界大戦の最中にはオーストリア出身で故国がドイツに併合された際にイギリスに帰化していたF.A.ハイエクと、K.R.ポパー、さらにはラトビア出身で、やはり故国がソ連に併合された際にイギリスに帰化していたI.バーリンらが出て、フランスの革命思想や、ヘーゲルやマルクスの思想、ナチズム(国家社会主義)を含む社会主義を全体主義思想として排撃し、そうした思想が発生した根源としてデカルト以来の?大陸合理論の持つ重大な誤謬を強く批判しました。 簡単に言うと、?大陸合理論、?イギリス経験論というネーミング自体が実は、?は合理的で?は非合理的だ、という?大陸合理論の論者の側のプロパガンダであり、実際には以下の分類が相応しい、という批判です。 ? 設計主義的合理主義 (F.A.ハイエクの造語で、いわゆる大陸合理論) デカルト以来の「自らの理性のみの力で世界を解明し、人類にとって理想的な世界を再設計できる」とするリセット主義。社会主義の暴力革命論も修正社会主義といわれる議会制内での社会改革も含めて、国家や社会を改造しようとする思想で、世界統一政府や地球市民という理念もここからの帰結である。 ? 批判的合理主義 (K.R.ポパーの造語で、いわゆるイギリス経験論) 人間が自らの理性を有効に活用できるのは自由な批判を通じて間違いを検出し改善して、より真実と思われるものに一歩でも近づく限りにおいて、である。社会を根底からリセットできる、とする?は致命的な思い上がりである。 もちろん、ハイエクやポパーが正しいとしたのは ?批判的合理主義であり、これこそが真の意味での「合理主義」であって、 ?設計主義的合理主義は、結局は人間を『隷従への道』へと導く誤った思想である、というのが彼らの結論です。 漫画『隷従への道』(ハイエク著)要約 、詳しくは⇒ハイエクと自由主義へ 1980年代のイギリス・サッチャー政権は、ハイエクの思想を政策理念の主軸に据えてサッチャー改革を断行しました。またアメリカのレーガン政権はハイエクの所属したシカゴ学派の経済政策を大々的に取り入れ、政治面ではソ連との対立政策を断行して、1989-91年にかけてソ連・東欧の社会主義体制を崩壊に導きました。 ◆「世界政府・地球市民」は、設計主義的合理主義(大陸合理論)からの帰結 このように現実の世界政治の舞台では、サッチャー・レーガン政権以来、ハイエクやポパーの思想が一応の勝利を収め、社会主義は大きく後退したのですが、学者達の思想の世界では、いまだに?設計主義的合理主義が大きく蔓延っていて、とくに日本においてはその傾向が強いのです。私達は、学校教育で、ホッブズ・ロック・ルソーの社会契約説やデカルトの思想は習いますが、ハイエクやポパーの思想は、ほとんど全く習いません。 従って高度な教育を受け、官僚や政治家や司法界に入るような、あるいはマスコミ界に入るような人材は、教育で植えつけられる思想のオカシサに自分で気づかない限り、デカルト以来のリセット主義(世界を理性の力で再設計できるとする思想)になってしまいます。 要するに問題なのは、西洋思想の主流そのものです。 鳩山由紀夫首相の「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」発言も、その淵源を辿ればここからきているわけです。 ? 西洋思想の主流 設計主義的合理主義(大陸合理論) プラトン ⇒デカルト ⇒社会契約説(ホッブズ、ロック、ルソー) ⇒ドイツ観念論(カント、ヘーゲル) ⇒ヘーゲル左派 ⇒マルクス主義(マルクスetc.)・修正社会主義(フェビアン協会etc.) ⇒国家解体思想(世界政府・地球市民) ⇒フランス啓蒙思想(百科全書派・ヴォルテールetc.) ⇒ヘーゲル右派 ⇒ナチズム(国家社会主義) ? 西洋思想の傍流 批判的合理主義(イギリス経験論) ソクラテス ⇒スコットランド啓蒙派(ファーガソン、ヒューム、アダム・スミスetc.) ⇒エドマンド・バーク ⇒アクトン卿・トクヴィルetc. ⇒ハイエク、ポパー ⇒真正自由主義(歴史と伝統を重視) ■3.いわゆる「陰謀論」について +ネットで一部の人が盛んに流布させている「ユダヤ陰謀論」といった類のデマ話を信じてしまう初心者向けの解説です。 ところで、以上説明したような「世界政府・地球市民」理念(=国家解体思想)が発生した背景・歴史的経緯を知らない人達の中には、ユダヤ系の陰謀組織が存在し、あらゆる謀略活動の糸を引いている・・・という類のデマ情報を信じ込んでしまう方々がいらっしゃるようです。 ユダヤの金融資本家が「イルミナティ」という陰謀組織を結成しており、実は共産主義国家と裏で手を組んでいて「全人類奴隷化計画」を進行中だとか、2001年9月に起きた911連続テロ事件はイルミナティに乗っ取られたアメリカ政府の自作自演だ・・・などと言う人までいらっしゃいます。あるいは、全てはフリーメーソンの陰謀だ、という話もあるようです(特に一神教のアメリカ・ヨーロッパでは昔からこうしたユダヤ金融資本家の陰謀という話が広く流布されており、ナチスがユダヤ人を迫害した原因ともなりました)。 しかし、そのような安直な陰謀論に飛びつくのは、 国家解体思想が発生した思想的背景・歴史的経緯を知っている人からは、馬鹿にされるだけですし、そうでなくとも常識のある一般の人からは、思いっきり引かれるだけです。 ◆でも、なぜ「陰謀論」が発生したのだろう? デカルト以来の?大陸合理論は「理性によって世界を唯一の正しい姿にリセットできる」という一元論・決定論でした。 当然その直系である社会主義思想も「歴史の方向性は決まっており、世界は共産主義社会に向かって進歩する」という決定論です。 これをそっくりそのまま裏返すと、「イルミナティ」という陰謀組織が存在し、彼らが世界の統一を目指してあらゆる陰謀の糸を引いている、というような話になります。 つまり一元論・決定論はそのままなのです。 (※ ?唯一絶対的な神の存在 → ?理性による唯一合理的な世界の設計 → ?世界統一を目指す唯一の陰謀組織の存在 ) このような安直な考え方が、一神教の精神文化を持つ欧米諸国で発生し広まってしまったのは、仕方がない側面があるのかも知れません。 しかし、そもそも寛容な多神教的精神文化を持つ我が国の普通の人ならば、ハイエクやポパーの小難しい批判を知らなくとも、直感的にこのような話はおかしい、と気づいてもよさそうです。 ◆トンデモ陰謀論・デマ話に効く書籍 トンデモ予言者大集合 ご存知『トンデモ本の世界』シリーズの、マネッコ本。しかしパチモンの癖に実に出来がいい!その為本家「と学会」から公認を貰ったと言う。冗談じゃなくマジで出来がいい!必読! この人を見よ 現代社会が生んだ病める神秘主義者カール・グロガウアーはキリストの生涯に異常とも言える執着を持っていた。彼は、市井の科学者の手になる未完成のタイム・マシンを入手するやキリストの最後を見届けるべく、過去へと旅立った・・・。神秘思想に取り付かれた人物の内面描写がすごい!有る意味最も厳しい本。 立花隆先生、かなりヘンですよ タイトル通り立花隆氏を批判している本。だが後半で、返す刀で立花隆がハマッテいる「ニューエイジ」「ニューサイエンス」などを批判している。それが又非常に的確。オカルト(「ニューエイジ」「ニューサイエンス」等)にハマッテいる人にはぜひ1度読んで欲しいが、タイトルのせいで立花隆に興味のない人は見向きもしない。惜しい。 ◆陰謀論こそ保守派を混乱させる陰謀である こうしたユダヤ金融機関の陰謀といった類の話は元々は左翼ブログの定番テーマだったのですが、昨年の総選挙の前後からマトモな言論ではとても保守派に敵わない左翼ブロガーの一部が、保守あるいは右翼に方向転換した振りをして(あるいは本当に転向したのかも知れませんが)こうしたデマを宣伝し始めたらしく、それを信じ込み自分も宣伝に廻っている人が何人も発生している様子です。(詳しくは反日ブログリスト?、「「愛国詐欺」詐欺」に注意を参照下さい。) いずれにせよ、こうしたデマ話は相手をするだけ時間の無駄ですし、第一に論理的な辻褄も全然合っておらず、全く知的好奇心をそそるものでもありませんが、中にはどうしてもこうした類の話を本気にしてしまい、あちこちで迷惑な宣伝活動までする幼稚な?あるいはひねくれた?人が発生している様子なので、当サイトではそうした被害の防止のため注意を呼びかけています。下らない馬鹿話なんか取り上げないで欲しい…と不快に思われた方は、以上の事情をご了承願います。 ■4.まとめ 「世界政府・地球市民」という理念は、ひとつの思想ですから、それだけで一概に悪いとは言いません。 しかし、このような思想が発生した背景、また、この手の思想を信奉する人達が自分たちの理想とは裏腹に、これまで世界にどのような惨禍をもたらしてきたのか、といった歴史的経緯を確り知っておくことは非常に大切です。 また、そのような思想的背景・歴史的経緯を知ることで、いわゆる「ユダヤ陰謀論」「911自作自演説」といった集団ヒステリーのようなトンデモ話に引っかからないで済むようになるはずです。 そして、寛容な多神教文化を持つ我が国のことを有難く感じ、大切に思って、この国を守りたいと強く思えるようになることでしょう。 ■5.参考図書 『正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒 (単行本) 』(中川八洋:著) 西欧哲学の正統保守主義(真正自由主義)の系譜と、それに対立する邪悪な全体主義思想(自由を圧搾する偽りの思想)の系譜を峻別して分かり易く解説。正統の思想・邪悪な異端の思想の各々の思想家と代表的著作の一覧表が大変参考になります。<目次>第1部 総論 真正自由主義離脱の代償・ 第一章 近代がうんだ「反・近代」―全体主義の源流フランス革命・ 第二章 「進歩」という狂信・ 第三章 真正自由主義―伝統主義、保守主義)第2部 各論 隷従の政治か、自由の政治か・ 第四章 「平等教」の教祖ルソー―全体主義と大量殺戮の起源・ 第五章 フランス革命―人類の「負の遺産」・ 第六章 「大衆」―全体主義の母胎・ 第七章 「人権」という狂信―全体主義への媚薬・ 第八章 迷信の「国民主権」、反・人民の「人民主権」・ 第九章 「進歩」の宗教、「進化」の神話・ 第十章 平等主義―自由抑圧の擬似宗教・ 終章 伝統・権威と自由の原理―保守する精神文献リスト―「悪書」の過剰と「良書」の欠乏 『知の歴史―ビジュアル版哲学入門 (大型本)』(ブライアン・マギー:著) イギリスの標準的な哲学・思想解説本。左翼の強い日本では意図的に紹介されない英国保守思想の大家エドマンド・バークにも確り数ページが割かれています。著者ブライアン・マギーは、ハイエクの盟友カール・R・ポパーと深い交流のあったイギリスの代表的な哲学解説者で、イギリス左翼の代表的思想家バートランド・ラッセルとも交流のあった人物。この本で特に興味深いのは、デカルト以来の大陸合理論が、ガリレオ・ガリレイからケプラーを経てニュートンによって完成した古典力学の決定論の大きな影響を受けていること、しかし20世紀に入ってアインシュタインの相対性理論・ハイゼンベルクの不確定性原理が発見され、絶対と思われたニュートン力学が否定され、それがハイエクやポパーの合理主義批判に影響を与えていること、がポパーの解説部分の前後に述べられている点である。 【関連】 政治の基礎知識 デモクラシーの真実 リベラリズムの真実l? ■6.ご意見、情報提供 作っていて正直、結構厄介な問題だと思いました。このページのここが分かりにくい、ここをもっと説明して欲しい、など当ページをより良くするために、様々なご意見をお願いします。なお煩雑さをさけるため、頂いたコメントはページ修正後に削除する場合があります。 -- ページ作成者 (2010-05-08 03 55 12) まとめ乙。なんとなくわかったようなきがするwたぶんこれでもかなり分かりやすくまとめてくれたんだと思う。今後は民主党、左翼勢力、特定アジア等の敵勢力がどのようにしてまとめてくれたことを利用していくのか現実問題とリンクしてくれるとよりわかり易くなるかもしれない -- 名無しさん (2010-05-08 14 38 37) 鳩山氏の演説を作った平田オリザ氏も国家解体と言ってますから、鳩山氏もはっきりと国家解体を目指しているとは言えなくても心では思ってるんだと思います。http //www35.atwiki.jp/kolia/pages/780.html#id_c7b6a592 -- 名無しさん (2010-05-08 16 15 54) >作っていて正直、結構厄介な問題だと思いました。「厄介な」とは、この問題を安直な陰謀組織の話にしてしまう人がどうしても一定の割合で発生する、という意味です。 詳しい事情 。今から15年前のオウム真理教事件(アメリカ・ヨーロッパにユダヤ系の悪の陰謀組織があり、1999年に世界最終戦争が発生する・・・といった洗脳ビデオを信じ込んでカルト教団に入信した(元)大学生らが、教祖らの命令で被害者救援活動に取り組んでいた弁護士一家の殺害・地下鉄サリン散布などの凶悪犯罪に及んだ事件)の例に見るとおり、この手の怪しいユダヤ陰謀論は昔からあるのですが、今でも少しづつ形を変えて一部の人に通用するようです。そうした怪しい陰謀論を信じ込んでいる人にお勧めの本⇒ トンデモ予言者大集合 、 この人を見よ 、 立花隆先生、かなりヘンですよ --- ページ作成者 (2010-05-24 23 22 18) お疲れ様です。とても勉強になりました。 -- 国家解体思想嫌い (2010-11-08 11 15 42) ただ、陰謀論の所がよくわかりません。国家解体思想の系譜と陰謀論の真偽は関係ないと思いますが。 -- 続き (2010-11-08 11 17 58) 国家解体は反日勢力の基本的考え方だから保守・愛国派は国家護持を基本とすべき!! -- 名無しさん (2010-12-24 10 51 46) 911は100%自作自演だべ?陰謀とかじゃなく、ビルの崩れ方があきらかにおかしいだろw -- 名無しさん (2011-01-16 05 34 43) ↑ ソースは?(2ch以外で) -- 名無しさん (2011-01-16 10 05 27) ↑余りに知られた真実なので、陰謀論とみなす必要はありません。 -- 名無しさん (2011-07-18 13 06 38) 内容が間違いだらけ 書き手のナルが入りすぎてて気持ち悪いです -- 名無しさん (2011-10-06 12 10 43) このページ他サイトからも評判悪いよ 削除した方がいいじゃね -- 名無しさん (2011-10-06 12 13 52) ↑此処のHPはユダによって作られました。 -- 名無しさん (2013-06-06 23 00 10) 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/253.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 巻末 人名解説 <目次> ◆イェリネック ◆ケルゼン ◆シュミット ◆ホッブズ ◆ロック ◆ルソー ◆ダイシー ◆ハイエク ◆ハート ◆ノージック ◆ロールズ ◆モンテスキュー ■ご意見、情報提供 ◆イェリネック G. イェリネック(1851~1911):ドイツの公法学、行政法学者、国家学の集大成者。 彼は、当時の狭隘な法実証主義に反対して、法学を哲学・社会学と結合せんと目指した。 なかでも、社会学的に考察した国家を、法学的に再構成しようとした大著『一般国家学』(芦部信喜監訳、学陽書房)が、その成果である。 同著作において、彼は、社会学的国家概念と、法学的国家概念とに分けながら、国家を把握せんとした。 彼の有名な国家法人説は、この視点からの産物である。 また、その公権体系論は、人が人であること、また、人が法人において一定の地位を占めること、に応じて各種の公権を類型化したものであるが、これは、人権概念を否定する当時のドイツ国法学に対抗する理論であった。 彼は、事実学と規範学とを区別する新カント派の哲学を基礎としながらも、存在(事実)と当為(規範)とを結びつけるものを「事実的なるものの規範力」に求めた。 これが、事実の観察から規範を説く、彼の有名な「方法二元論」である。 彼の二元論は、事実と規範とを結びつける要因である社会心理的事実、すなわち、人々が事実を規範として受容すること、において一元化された理論ともなっているのである。 しかしながら、その一元化は不徹底であった。 彼の理論は、美濃部達吉に強い影響を与えた。 美濃部が、天皇機関説を提唱したのも、国家という法人における天皇の地位を解明しようとしたからである。 ◆ケルゼン H. ケルゼン(1881~1973):事実と規範とを峻別する新カント学派の哲学に依拠し、法実証主義を徹底させたオーストリーの法哲学者。「純粋法学」の創始者。その代表作に『一般国家学』(清宮四郎訳、有斐閣)がある。 彼の思索の出発点は、イェリネック批判にある。 すなわち、イェリネックのように、国家は自然の領域に存在するものとの前提にたって、それを社会学的分析対象とする視点が誤っている、とケルゼンはみたのである。 そのうえで彼は、国家は法学の対象であって、法学的にのみ把握可能であると考え、《国家とは法秩序そのものである》、と説いた。 また、新カント学派の視点を徹底させて、《規範は規範からのみ生ずる》とも主張した。 彼は、法とは権利・義務等の帰属関係を表示する特殊な規範であると捉えて、帰属関係の始源に「根本規範」を仮設した。 ケルゼンの純粋法学は、H. ヘラーによって、「国家なき国法学」と批判され、また、自然法学者によって、所与の実定法を鵜呑みにする「規範支配」の信仰を生み出した、と批判され、さらにC. シュミットによって、「規範を生み出すものを忘却している」とも批判された。 ケルゼンの理論は、宮沢俊義、清宮四郎等、戦後の我が国の指導的憲法学者に強い影響を与えたが、宮沢・清宮は、ケルゼンほど、法実証主義に徹底的にコミットした訳ではない。 ◆シュミット C. シュミット(1888~1985):ドイツの政治的憲法学者。彼は、新カント学派の方法論とは別の法哲学に依拠して、国家と法の根源を考えた。 その着想は、政治的極限状態における法と国家の役割を考えることにあった。 彼は、例外的極限状況において決断することこそ、主権者の役割であるとみなした。 すなわち、彼によれば、法秩序の究極的根拠は、主権者の決断にあるのである。 これが、彼の有名な決断主義であり、《意思の力が法を作る》とする、バリバリの法実証主義の思考である。 この思考による限り、合法性を正当性に還元すべきではなく、主権者が意欲すれば足るのである。 これが、彼の代表作『憲法理論』(尾吹善人訳、木鐸社)にみられる憲法制定権力論である。 彼は、この決断主義によって、存在と当為との溝を埋めることに成功した、と信じていたが、晩年には、決断主義が存在と当為の対立を止揚しなかった、と自己批判するに至る。 また彼は、自由主義が個人の価値を基礎とするのに対して、民主主義は全体の価値を探求するという点で、両者は両立し難い思想体系であることを説いた。 彼は、また、議会が政治的利害の妥協の場と成り下がっていることを痛烈に批判したことでも有名である(間接民主制批判)。 彼にとっては、国家と個人の間に何らの異物の存在しない、透明な統治体制こそ、理想的であった。 シュミットは、基本権の主体を個人に限定したかったために、個人以外の利益が憲法上保障されている場合、それを「制度的保障」と称したのである。 ◆ホッブズ T. ホッブズ(1588~1679):1640~60年のイギリス革命期の真っ直中に育った政治思想家。 彼は幾何学を好み、幾何学に基づいた政治学の体系を樹立したいと考えた。 その成果の一つが、1651年に出版された『リヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫)である。 その著作での彼の理論は、心身の能力の平等な諸個人が自己保存権を自然権として有することから出発した。 これが、「万人の万人に対する戦い」という自然状態である。 国家は、諸個人がこの自然状態から抜け出るために考案された(社会契約という形式をとる合意によって成立する)人為的構成体である。 ホッブズは、「如何にデモクラシーは愚かであるか、それに対して、一人の人間は如何に賢明であり得るか」と確信していた。 ために、彼は、平和維持のための装置である国家において、絶対主権をもった君主が君臨する必要を説いたのであった。 もっとも、彼は、そのことから連想されるほど、保守反動の輩ではない。 一言でいえば、彼は、ラディカリストであった。 私の『憲法理論Ⅰ』は、保守反動とのラヴェルを貼られるかも知れないが、私自身は、ラディカル・リベラリストを標榜しており、その立場からすれば、ホッブズに限りない共鳴を覚えている。 以来、近代啓蒙思想家たちは、ホッブズ理論を乗り越えようとして、懸命な思索を繰り返したのである。 ◆ロック J. ロック(1632~1704):イギリスの哲学者、政治思想家。 ロックは、その代表的著作『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)において、ホッブズ理論を乗り越えようとした。 ロックにとって、ホッブズ理論の欠点は、絶対的主権によって諸個人の共生が初めて保存される、という点にあった。 ホッブズ理論は、人々が共に生活するに当たって、社会において労働し生産するという相互行為を見逃しているのではないか、これが、ロックの診断であった。 だからこそ、彼は、自然状態において人々が労働し、生産するためにも、「生命、自由、財産」が自然権として保障されなければならない、と強調したのである。 ロックの社会契約論は、二段階理論となっていることに、我々は注意しなければならない。 第一段階は、諸個人が契約を締結することによって「市民社会」を樹立する段階である。 第二段階は、市民社会における市民が契約によって政治権力を生み出す段階である。 「政治権力」は、統治のための「道具」として、市民が合意によって作り上げたものであるからこそ、必要とあれば、市民たちは、王の首を別の王の首に、政府を別の政府に、置き換えることが可能なのである。 その考え方が、アメリカ独立宣言に取り入れられたという事実は、余りにも有名である。 私自身は、ロックはイギリス経験論者であるというより、大陸流の超越論者に近い、と位置づけている。 ◆ルソー J. ルソー(1712~1778):フランスの文学者・政治思想家。その代表作が、『社会契約論』(桑原武夫他訳、岩波文庫) ルソー理論も、ロック等と同様に、社会契約論を説いた、と一般にいわれるが、ルソー以前の理論が、自然状態→社会状態→国家状態という二つの移行を、二段階の社会契約によって説明したのに対して(右のロックの解説をみよ)、ルソーは、社会状態から国家状態への移行を一段階の社会契約で解明しようとした。 『社会契約論』における彼の狙いは、はっきりしている。 各人が他の全ての人々と結びつきながらも、しかも、自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由である国制の形式を解明すること、これである。 これこそが彼にとっての根本的な問題であり、社会契約がそれへの解答であった。 ところが、社会契約によって成立した国制において、誰が実際に支配すべきか、という論点でのルソーの解答は、実にナイーヴであった。 彼は、「人民」が支配すべきである、と答えた。 彼の理論において、人民は「一般意思」を具体化する単一の人格である、と単純に片付けられた。 その理論は、共産主義や社会主義を信奉する人々によって何度も援用された。 F. ハイエクや K. ポパーのような自由主義者にとって、ルソーのごとき人民主権論は、人類の歴史上、多くの不幸で破壊的な政治的効果をもたらす元凶以外の何物でもなかった。 社会科学者としてのルソーの全ての著作、『エミール』、『不平等起源論』は、私の見解とは全く相容れない。 文学者としてのルソーの作品と理解するのであれば、話は別であるが。 ◆ダイシー A. ダイシー(1835~1922):イギリスはヴィクトリア王朝期のコモン・ロー研究者。その代表的著作が『憲法序説』(伊藤正巳=田島裕訳、学陽書房)。 ダイシーは、その著書において、国会主権、法の支配、憲法習律について、理論を展開した。 その中でも、「法の支配」を論じた部分が、最も有名である(本文の[71]をみよ)。 彼の『憲法序説』は、モンテスキューの著作と同様に、あたかも聖書であるかのように、扱われた時期もあった。 ところが、彼の理論体系は、「積極国家」を擁護する多くの論者から厳しい批判を受けることとなった。 批判者によれば、ダイシー理論は確固とした体系をもっているものではなく、同書の出版時点の時代、つまり、19世紀的な消極国家に妥当した理論に過ぎない、というのである。 特に、「イギリスにはフランスのような行政法は存在しない」という彼の理論につき、批判者は、①ダイシーのフランス行政法の理解が不正確であること、②イギリスにも行政法特有の理論が認められていること、を衝いた。 確かに、本文の[72]でふれたように、ダイシーの理論は、様々な難点をもっていた。 我々の「あと知恵」に照らして批判することが許されれば、その最大の難点は、国会主権と法の支配との対抗関係を軽視した点にあった、といわざるを得ない。 国会主権とは、国会の制定する法律が基本権の内容と限界を画定できる、と承認することである。 とすれば、それは、まさに、法実証主義的な思考とならないか、と疑問視されざるを得ない。 実のところ、ダイシーは、分析法学者として著名なJ. オースティンの影響を受けていた学者であった。 彼の理論は、基本権(人権)を本来絶対的なものとみるホイッグ的自由主義とは、もともと異なっていたのである。 ◆ハイエク F. ハイエク(1899~1992):オーストリー生まれの万能の社会理論家。現代のA. スミスともいわれる人物。 ケインズ理論に反対し、「福祉国家は隷従への道」と説く。 また彼は、理性によって社会を意図的に改革する「設計主義・合理主義」に反対し、自由な人々の営為の積み重ねによって生まれ出る「自生的秩序」の価値を説いた。 市場の秩序は、まさに、個々人の行動の結果ではあるが、誰によっても事前に設計されたものではない、自生的なものである、というのである。 彼の思想体系は、『ハイエク全集』(春秋社)に集約されている。 その中でも、『自由の条件Ⅰ~Ⅲ』が有名。 もっとも、彼の思考のエッセンスを知ろうとすれば、『法・立法・自由Ⅰ』が最善である。 ハイエクは、最低限の社会保障、徴兵制を容認する点で、ノージックほどの自由至上主義者ではなく、「古典的自由主義者」とでも評しておくべきか。 彼のいう、「法/立法」、「自由主義/民主主義」、「デカルト的合理主義=大陸的啓蒙思想/反合理主義=スコットランド啓蒙思想」といった区別は、合理主義的な法学教育を受けてきた我が国の研究者・学生にとって、超刺激的である。 ハイエク理論が阪本『憲法理論Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』の基礎となっている。 ◆ハート H. ハート(1907~1992):英米における法哲学の最高峰といってよいイギリスの法哲学者。その代表作は『法の概念』(矢崎光圀訳、みすず書房)である。 通常、ハートは「法実証主義」者である、といわれる。 しかしながら、その評価は、法実証主義の理解にもよるが、正確ではない(「法実証主義」の意味については、本文の[34]をみよ)。 ハートの法理論は、実証主義哲学を基礎としているというより、日常言語学派の哲学を基礎としたものと理解するほうがよい。 哲学は、様々な課題を対象とするが、ある時期、哲学は、哲学自身を語るための「ことば」について、その日常的な用法に目を向けて分析してみることの重要さに気づいた。 この思考が一つの学派を成し、「言語行為論」と呼ばれる学問体系になっている。 例えば、「私は、君に会うために、明日10時にここに来よう」と、私が貴方に言ったとき、その私の発言は、客観的事実を報告しているわけでもなければ、内心での主観(意思)を外部に表明しているだけでもない。 私は、そう言いながら、約束するという行為を為しているのである。 ハートの法理論は、ルールが言葉の使用の中に自生的に、すなわち、計画的に作られるわけではなく、意図しないで反復継続される行為の中にいつの間にか、生まれ出る、という視点の上に樹立されている。 この自生的なルールを、彼は「一次ルール」と呼んだ。 小さな社会においては、人々は、一次ルールに従って生活することができたのであるが、大きな社会においてはそうはいかない。 大きな社会では、《一次ルールが、この社会のルールとなっている》、と確認するためのルールが必要となる。 ここに登場してきたものが「二次ルール」である。 ある社会に一次ルールと二次ルールとが存在するとき、《そこには法体系が存在する》、とハートは言うのである。 ロックにせよ、ケルゼンにせよ、ハートにせよ、世に知られた法理論家は、例外なく、言語の哲学に関する定見を持っていた。 彼らの立場が、それぞれ異なるのは、その依拠する言語哲学の違いを反映しているのである。 読者の皆さん、言語哲学を軽んずるなかれ。 ◆ノージック R. ノージック(1938~):ハーヴァード大の哲学教授。他者に対する強制だけを排除するための強制力を独占する最小国家が、最もユートピアに近いと考える、「リバタリアン(=自由至上主義者)」の旗手。 その代表作として、福祉国家、国家による平等の実現に反対する『アナーキー・国家・ユートピア』(島津格訳、木鐸社)がある。 同書は、巧みな比喩、読者を引き込むような例を頻繁に用いながら、多くの識者が慣れ親しんできた、ステレオタイプ思考に激しく揺さぶりをかけ、全米図書賞の栄に輝いた。 先にふれたハイエクと同様、方法論的個人主義に徹する。 方法論的個人主義に徹する論者は、共通して、公共的利益、社会的利益という芒洋とした概念を徹底して疑う。 また、階級とか国民を、実体化しないのである。 もっとも、最近、彼は宗旨替えしたのか、最小国家論から撤退して、共同体主義に近づいているといわれる。 共同体主義とは、コミュニティにおいて人々が共通善に向けて献身することの中に正義は現れる、とする見解をいう。 ◆ロールズ J. ロールズ(1921~):ハーヴァード大の哲学教授。立憲国家のみならず、福祉国家の理論的正当化を、その著作『正義論』(矢島欽次監訳、紀伊国屋書店)によって、初めて完成させた哲学者。現代のカントとでもいうべき人物。 彼の『正義論』は20世紀最高の哲学書である、との評価すらみられる。 その著作は、素朴な社会契約論の弱点を回避すべく、仮想的に「始原状態」という、損得の予想のつかない状態を想定したうえで、全員が納得できる命題に到達することを説く。 全員が同意する命題こそ正義である、とする「同意(契約)理論」の旗手。 彼のいう、二つの正義原理については、本文の[90]をみよ。 彼の正義論は、英米で圧倒的な影響をもってきた功利主義の正義-その最も単純なものが、「最大多数の最大幸福」を実現することこそ、正義である、とする立場-に対抗して、それぞれの個々人が享受すべき自由は、「最大多数の最大幸福」を破って、保障されなければならない、ということを説く壮大な理論体系である。 もっとも、私自身は、ロールズ理論には、数多くの疑問を抱いている。 彼は、精神的自由や政治的自由の保障と、経済的不平等の是正(経済的弱者のための所得再分配)とが、厳しい緊張関係にあるとはみていないようである。 私のロールズ批判については、『憲法理論Ⅱ』 [32]、『憲法理論Ⅲ』 [468] をみていただきたい。 ◆モンテスキュー Ch. モンテスキュー(1689~1755):フランスの政治思想家。 彼は、人間とその社会が、歴史現象と常に緊張関係にある、とみた。 彼の代表作、『法の精神』(野田良之他訳、岩波書店)が、法を宗教、経済、人口、風土、習俗等との相互連関のなかで捉えようとしたのは、そのためであった。 従って、『法の精神』は、正統派の啓蒙思想の書というよりも、歴史哲学の書、つまりは、歴史法則を求めるための書であるといったほうがいいかも知れない。 彼の最大関心事は、ある社会における矛盾・対立のなかから、いかにして均衡が生み出されるか、という社会法則を見出すことにあった。 だからこそ、その著作が、『lois(自然法則、法)の精神』と題されたのである。 彼の発想は、今日いわれる「弁証法」的な思考といってもよいだろう。 『法の精神』は、不思議なことに、ホッブズ、ロックとは違って、社会の状態や国家の成立に何の関心も示していない。 モンテスキューにとっての主題は、成立後の国家における法、正義、権利、政体、を論ずることにあった。 同著作の最も著名な箇所が、第一部第11篇第六章の「イギリスの国制について」である。 彼は、この章において、政治的自由の保障にとって理想的な国制は「混合政体」である、と説きたかったのである。 モンテスキューをもって、民主的理論の提唱者である、と考えるとすれば、それは浅慮である。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/h_session/pages/8076.html
かりそめの名:梅宮 天満 PL名: 眠たいやつ 表の職業:教師(社会注目:10 社会地位:10 ) 年齢:28歳 性別:男 容姿:短髪で垂れた糸目に銀縁メガネの優男 魔の名:トレポネーマ アーキタイプ:魔王の息子 魔の性:男 魔の齢:666(自称) 魔の姿:銀眼銀髪に黒い肌 (現在人間性:) 愛 300/350 罪 /300 ■人の能力値 150 知性:【6】 感情:【6】 肉体:【3】 ■魔の能力値 150 知性:【6】 感情:【6】 肉体:【3】 ■絆 知性: 感情: 肉体: ■エゴ 魔物/人 知性:啓蒙6/ 感情:楽しみながら政権を掌握(異常な願望)8/美しい少女達を集める5 肉体:純粋な力が欲しい3/欲望を満たす5 ■血と肉: 18+1D6 ■イニシアティブ修正:±0(人間時)/±0(魔物時) ■武器:黒き爪 (1D6/SR/闇) ■防具:0+修正値 ■技 90 【知性】情報1 運転:四輪車1 言語:英語1 【感情】人にやらせる2 指揮1 会話1 交渉1 心理1 【肉体】 【特殊】≪≫ ■業80 【知性】 【感情】闇のまなざし1 王子の我侭1 白紙委任1 扇動1 【肉体】黒き爪1 貴族の余裕2 【特殊】魔界の目付役1 ■所持品60 学園(20)学園寮(20)携帯電話(5)高級スーツ(5)高級車(10) ■設定 全寮制学園原升学園の二代目理事長。 政治家に転向した、父親の後を継いだだけのボンボン。と言うのが周りの評価。 本人もそれを承知で特に神輿として担がれており、生真面目で融通の効かない教頭の従者が実質の理事を務めている。 が、それが仮の姿。 実は父親とともに、悪魔の力を使わずに支持を受け政権を取る。という回りくどい上に労力が必要で、 何より無意味な目的の為に動いている代わりものの悪魔。 日本の未来を変えるために今日ものんびり頑張っている。当面の敵は日●組だ。 従者「……ぼん。政権を掌握したければもっと簡単な方法があると思うのだが…」 天満「うん。あるねぇ。でも、そうすると天界の連中が黙ってないだろう。なにより…、 面倒くさくて回りくどいからこそ楽しいんじゃないか」 原升学園双鳴分校 天満が理事を務める、小中高一貫の巨大学園の分校。 共学だが、8割が女生徒。 学園の中でも特に優秀な生徒に更なる教育を施すための全寮制の施設。 この分校の寮に理事長自身も住んでいるという力の入れよう。 多方面で成功した生徒を多数輩出しており入学希望者は多数である。 学力だけでなく、礼儀作法もしっかりとしつけられており、社交界から礼儀作法を学ばせる為に 入学させられる子女も多い。 また、寮内では生徒同士のグループを作り社交性、協調性を学ばている。 グループのリーダーは主に成績優秀者が選ばれる。 実態は理事長・天満の気に入った生徒達が集められた分校。 厳しい教育を課せられ、理事長の「日本の将来を担う人材を育成する」と言う教育方針の元、 特に政治と性教育を重視して教育される。 寮内でのグループは、グループリーダーのハーレムであり、グループ内では絶対の権限を持っている。 が、リーダーの地位は不変ではなく、多くの生徒がリーダーになるために切磋琢磨している。 また、この分校には特別寮があり天満お気に入りの生徒が集められており そこは彼の後宮であり、彼専用の少女ばかりが集められている。 ■変異 ■性嗜好など注釈 ■成長 ■アーツデータ8d
https://w.atwiki.jp/81908/pages/112.html
ENFJの長所 人間関係や集団の和を大切にする 社交的 精力的 感情表現豊か 謙虚 素直 自己開示する 打ち解けるのが早い 臨場感のある人を惹きつける話し方をする 信頼関係を築く 共感し喜怒哀楽を見せる 礼儀正しい 協力的 出会いの場を作り人の輪を広げることで皆の安心を生み出す 悲観に流されない 現状を見つめながらも、それを乗り越えてゆこうとする 可能性を厳選してビジョンを示す ビジョンを実現するために尽力する 人間や社会に対して鋭い洞察力が働く 世の中の矛盾や歪みを認識し、自分なりの意見を持つ 他者のことをよく見ており、思いやりがあり、面倒見が良い 現実的な経験から普遍的な愛を知る 規律を重んじる 事前準備をする 人の良さを素直に認める リズム感がある 多様な価値観を認め、自分らしく生きることを奨励する 人々のモチベーションを上げる 将来を見据え、長期的な視野に立って計画する 一人一人を大切にしながらも、人類のことについても考える 先祖に感謝しながらも、子孫のことを考える 警告する 啓蒙する こういった長所は、一生の間ずっと、ENFJの魅力となることでしょう。 もしあなたがENFJならば、決して自分に反することなく、これらの善い点を手放すことのないようにしましょう。 アキレスのかかと 内向的思考にご注意下さい 育ってきた環境や属するコミュニティーの人間関係の影響を大きく受けます。 他者のフィードバックを素直に受け入れるのは良い点でもありますが、 権威や大衆の総意、集団の雰囲気が不合理であっても素直に受け入れてしまうことがあるかもしれません。 他者との心理的な距離を縮めることがとても得意で、多くの人たちは感銘を受け、勇気づけられます。 しかし、あまりにも他者を引きつけようとする思いが前面に出過ぎると、大げさになります。 話していることの一貫性のなさや矛盾に気がつかないことがあります。 他者のニーズに熱心に応えようとする一方で、 自分自身にとって何が必要なのか分からなくなることがあります。 他者の否定的な意見に意気消沈したり、傷つきやすいところがあります。 特に若い時は、人間関係で対立が生じると、 無理やり和を保とうとして不合理な解決案を押し付けてしまうことがあるかもしれません。 これらはすべて、第四の心理機能である 内向的思考(Ti) が「アキレスのかかと」になっていることが原因です。 しかし、第一の心理機能である 外向的感情(Fe) の働きを長所をとして発揮するためには幾分仕方のないことです。 内向的思考(Ti) を意識的に鍛えれば解決するなどという簡単なことではありません。 しかし、 内向的思考(Ti) を抑圧していることが欠点となって、 集団の調和と全体の利益が危うくなってしまい、 すべてが瓦解することのないように、気に留めておくことは大切です。 最悪の状況に陥らないためには、ときに雰囲気に流されることなく、 また雰囲気を作り出すことだけに満足することなく、 冷静に理論的に考え判断し戦略を練る必要があります。 そうすることが、全体の利益と人々の平和を守るためにも欠かすことができません。 ENFJは政治的な手腕にかけては右に出るものはいないかもしれません。 なので、その影響力は大きなものになり得ます。 ときには、分析的な思考を持続させ、目標達成のために効果的なポイントを見出すことが求められます。 そうすることで、ENFJの行動から自然と恩恵を受ける人々は益々広がり、協力関係は持続することになります。 おそらく、自分自身を守ることを意図的に避けているかもしれません。 それでも、他者の要求ばかりを一人で受け入れ、疲れきってしまうことのないように気をつける必要があります。 他者を勇気づけ、独立と協力を促すという形で必要な援助をすることを心がければ、自分も他者も救われるでしょう。