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判決全文 と 準備書面一式 とから調べ 引用は自己責任にてお願いします m(- -)m 書証一覧 サイト内検索 書証一覧本件書籍(結審時) 調書 原告側提出甲A 甲B1~20 甲B21~40 甲B41~60 甲B61~80 甲B81~100 甲B101~120 甲B121~140 甲B141~160 甲C1~ 被告側提出乙1~20 乙21~40 乙41~60 乙61~80 乙81~100 乙101~120 乙121~140 本件書籍(結審時) 番号 証拠名 by whom 成立 本件書籍(1) 「太平洋戦争」岩波現代文庫版 家永三郎・岩波書店 2002年平成14年7月16日 本件書籍(2) 「沖縄ノート」 大江健三郎・岩波書店 1970年昭和45年9月21日 調書 略称 氏名 法廷 備考 知念調書 知念朝睦 皆本調書 皆本義博 宮城調書 宮城晴美 金城調書 金城重明 梅澤調書 梅澤裕 赤松調書 赤松秀一 大江調書 大江健三郎 原告側提出 甲A 番号 証拠名 by whom 成立 甲A1 「太平洋戦争」岩波現代文庫版 家永三郎・岩波書店 2002年平成14年7月16日 甲A2 「沖縄問題20年」 中野好夫, 新崎盛暉・岩波書店 1965年昭和40年6月 甲A3 「沖縄ノート」 大江健三郎・岩波書店 1970年昭和45年9月21日 甲A4 甲A5 甲A6 甲A7 甲A8 甲A9 甲B1~20 番号 証拠名 by whom 成立 甲B1 陳述書 原告梅澤裕 2005平成17年12月26日付 甲B2 『潮』「私は自決を命令していない」 赤松嘉次 1971昭和46年11月号 甲B3 司法制度改革審議会での発言 曽野綾子 2000平成12年 甲B4 『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』 曽野綾子・正論 2003平成15年9月号 甲B5 「母の遺したもの」 宮城晴美 2000平成12年12月 甲B6 「鉄の暴風」初版 沖縄タイムス 1950昭和25年8月 甲B7 「太平洋戦争」第1版第1刷 家永三郎 1968昭和43年2月14日 甲B8 「証言」 宮村幸延が書いた? 書かせられた? 1987昭和62年3月28日 甲B9 神戸新聞 1985昭和60年7月30日 甲B10 神戸新聞 1986昭和61年6月6日付 甲B11 神戸新聞 1987昭和62年4月18日付 甲B12 東京新聞 1987昭和62年4月23日付 甲B13 「座間味島の『集団自決』を考えるつどい」宮城晴美発言 琉球新報 2005平成17年8月28日付 甲B14 「沖縄史料編集所紀要 第11号」 沖縄史料編集所 1986昭和61年3月 甲B15-1 回答 沖縄タイムス社 1986昭和61年2月12日付 甲B15-2 回答 沖縄タイムス社 1986昭和61年2月12日付 甲B16 「沖縄県警察史」採話 安里喜順 1988昭和63年2月8日 甲B17 『潮』 「集団自決を追って」 星雅彦 1971昭和46年11月号 甲B18 「ある神話の背景」単行本 曽野綾子 1973年昭和48年5月 甲B19 「第三戦隊陣中日誌」 谷本小次郎 1970昭和45年8月 甲B20 「集団自決の島-沖縄・慶良間」 週刊朝日 中西昭雄 1970年昭和45年8月21日号 甲B21~40 番号 証拠名 by whom 成立 甲B21 『潮』「生き残った沖縄県民100人の証言」 富山真順,金城重明 1971昭和46年11月号 甲B22 「リンドバーグ第二次大戦日記(下)」 甲B23 「渡嘉敷島における戦争の様相」 渡嘉敷村 甲B24 「沖縄戦を考える」 大城将保(嶋津与志) 1983昭和58年 甲B25-1 梅澤宛信書 大城将保 1985昭和60年10月16日 甲B26 『小説新潮』「第一戦隊長の証言」 本田靖春 1988昭和63年1月号 甲B27 謝罪等要求書 梅澤裕 1985昭和60年12月10日 甲B28 謝罪文案口述 梅澤裕 1988昭和63年11月1日 甲B29 謝罪要求をしない」とする内容の文案 沖縄タイムス 1988昭和63年12月22日 甲B30 「『謝罪』要求について(回答)」 沖縄タイムス 「1988昭和63年12月20日」 甲B31 再会翌月の梅澤への手紙 宮城初枝 1982昭和57年7月 甲B32 梅澤に送った手記の写し 宮城初枝 昭和 ? 甲B33 陳述書 原告梅澤裕 2006平成18年8月26日付 甲B34 原告代理人への回答 神戸新聞中井和久記者 甲B35 照屋昇雄の供述 産経新聞 2006平成18年8月27日付 甲B36 「花綵の海辺から」 大江志乃夫 2000平成2年 甲B37 「沖縄戦と民衆」 林博史 2001平成13年12月 甲B38 『正論』「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」照屋昇雄と金城武徳の供述 水島総ら 2006平成18年11月号 甲B39 小峰園枝の供述「渡嘉敷村史資料編」 1987昭和62年 甲B40-1 「沖縄戦に“神話”はない」 沖縄タイムス 1985昭和60年4月 甲B41~60 番号 証拠名 by whom 成立 甲B41 甲B42 「沖縄戦を心に刻んで」 金城重明 1995年平成7年 甲B43 「光の泉」 安里喜順,世界聖典普及協会(生長の家) 1996平成8年 甲B44 「沖縄戦ショウダウン」 とコラム 上原正稔 ・琉球新報 1996平成8年6月1日から13回 甲B45 「沖縄の証言(下)」 甲B46 「週刊新潮」コラム 櫻井よしこ 平成18年 甲B47-1 「『集団自決』早期認定」 沖縄タイムス 平成19年1月15日 甲B48 社会科資料集「わたしたちの渡嘉敷島」 甲B49 『Voice』「」 曽野綾子 平成19年 甲B50 甲B51 甲B52-1 『DVD』金城武徳の証言 中村粲撮影 平成10年4月 甲B52-2 『映像反訳書』金城武徳の証言 中村粲 平成10年4月 甲B53 「秘録 沖縄戦史」復刻 山川一郎 平成18年10月 甲B54 甲B55 「沈船検死」 曽野綾子 平成18年 甲B56 甲B57 甲B58 甲B59 『潮だまりの魚たち』 宮城恒彦 2004年平成16年6月 甲B60 安里喜順 赤松大尉の直筆の手紙紹介 沖縄タイムス 甲B61~80 番号 証拠名 by whom 成立 甲B61 特嵩力に宛てた手紙 安里喜順 1983昭和58年6月8日付け 甲B62 安里喜順への返事 特嵩力 甲B63 照屋昇雄への辞令 甲B64 照屋昇雄への辞令 甲B65 照屋昇雄への辞令 甲B66 皆本陳述書 皆本義博 甲B67 知念陳述書 甲B68 甲B69 小林よしのり 甲B70 甲B71 甲B72 甲B73 赤松インタビュー 週刊新潮 昭和43年 甲B74 対談 宮城晴美,目取真俊 甲B75 甲B76-4 甲B77 金城重明寄稿 毎日新聞 平成19年6月22日付 甲B78 金城証言「赤松嘉次守備隊長から」 沖縄タイムス 平成19年6月8日付 甲B79 陳述書 赤松秀一 甲B80 陳述書 佐藤加代子(赤松長女) 甲B81~100 番号 証拠名 by whom 成立 甲B81 甲B82-1 上洲幸子の証言 沖縄タイムス 平成19年7月7日付 甲B82-2 上洲幸子の証言(訂正) 沖縄タイムス 平成19年7月21日及び24日 甲B83 宮平修の投稿 琉球新報 平成19年9月9日 甲B84 産経新聞 曽野綾子 平成19年10月23日付 甲B85 宮村幸延に渡した「証言」下書き 梅澤 裕 甲B86 「中隊長の見た現場」 皆本証人・WILL 平成17年12月号 甲B87 小林よしのり 甲B88 甲B89 甲B90 イェルサレムのアイヒマン ハンナ・アーレント(大久保和郎訳) 甲B91 『慶良間列島の惨劇』 嶋津与志 甲B92-1 沖縄タイムス記事「母の遺言」上 宮城晴美 平成7年6月 甲B92-2 沖縄タイムス記事「母の遺言」中 宮城晴美 平成7年6月 甲B92-3 沖縄タイムス記事「母の遺言」下 宮城晴美 平成7年6月 甲B93-1 「母の遺したもの」受賞報道 沖縄タイムス 平成13年 甲B93-2 「母の遺したもの」出版報道 沖縄タイムス 平成13年 甲B94 「WILL」 曽野綾子 平成20年1月号 甲B95 甲B96 「サピオ」 井沢元彦 平成19年12月12日号 甲B97 「鉄の暴風」?版「まえがき」 沖縄タイムス 甲B98 「沖縄の戦記」 仲程昌徳 1982年 甲B99 (県民大会のこと) 甲B100 甲B101~120 番号 証拠名 by whom 成立 甲B101 甲B102 (宮村幸延らが異議申立してない) 甲B103 (抗議はなされなかった) 甲B104 甲B105 甲B106 甲B107 甲B108 甲B109 甲B110 集団自決「解散命令」の深層 藤岡信勝 正論 2008年4月号 甲B111 「住民よ, 自決するな」と隊長は厳命した 鴨野守 諸君! 2008年4月号 甲B112 「新証言」に関する記事 産経新聞 2008年2月23日付 甲B113 宮平秀幸 甲B114 甲B115 甲B116 甲B117 甲B118 甲B119 甲B120 甲B121~140 甲B121 甲B122 甲B123 甲B124 甲B125 甲B126 甲B127 甲B128 甲B129 甲B130 甲B131 甲B132 藤岡意見書(1)平成20年3月10日付「宮平秀幸証言」添付 藤岡信勝 平成20年7月28日付 甲B133 甲B134 甲B135 甲B136 甲B137 甲B138 甲B139 甲B140 甲B141~160 甲B141 甲B142 宮平秀幸陳述書(1) 平成20年8月7同付 甲B143 甲B144 甲B145 藤岡意見書(2) 藤岡信勝 2008年8月28日付 甲B146 甲B147 甲B148 沖縄タイムズの「不都合な真実」 藤岡信勝・鴨野守 WILL 2008年8月号 甲B149 秀幸新証言 撮影のDVD映像 平成20年1月26日 甲B150 秀幸新証言 上 前半部分反訳 甲B151 秀幸新証言 上 後半部分反訳 甲B152 甲B153 甲B154 甲B155 甲B156 甲B157 甲B158 宮平秀幸陳述書 (2) 平成20年9月1日付 甲B159 甲B160 甲C1~ 番号 証拠名 by whom 成立 甲C1-2 赤松 甲C2-1 『石に泳ぐ魚』訴訟事件判決 甲C3 甲C4 甲C5 甲C6 最高裁平成9年9月9日判決 甲C7 甲C8 甲C9 甲C10 被告側提出 乙1~20 番号 証拠名 by whom 成立 乙1 百人斬り訴訟1審判決 東京地裁 平成17年8月23日 乙2 「鉄の暴風」 沖縄タイムス 昭和25年 乙3 「渡嘉敷島における戦争の様相」「座間味戦記」 座間味村 乙4 「秘録 沖縄戦史」 山川泰邦 昭和33年 乙5 「沖縄戦史」 上地一史 乙6 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」「血ぬられた座間味島」 下谷修久 乙7 「秘録 沖縄戦記」 山川泰邦 乙8 「沖縄県史 第8巻」 琉球政府及び沖縄県教育委員会 昭和46年 乙9 「沖縄県史 第10巻」 沖縄県教育委員会 昭和49年 乙10 「戦闘概要」,「ドキュメント沖縄闘争」所収 新崎盛睴編 昭和28年3月28日 乙11 「裁かれた沖縄戦」 安仁屋政昭 乙12 朝日新聞記事 昭和63年6月16日タ刊 乙13 「渡嘉敷村史 通史編」 渡嘉敷村 平成2年3月31日 乙14 判決 東京地裁 平成15年9月14日 乙15 判決 前橋地裁高崎支部 平成10年3月26日 乙16 30周年記念誌「還らぬ人とともに」 沖縄県遺族連合会 乙17 宮村幸延のメモ 乙18 「仕組まれた『詫び状』」 宮城晴美 『歴史と実践』第26号 2005年7月 乙19 「血ぬられた座間味島」『家の光』 宮城初枝 昭和38年4月号 乙20 「貴村における『集団自決』問題について(照会)」 沖縄タイムス社 昭和63年11月3日付 乙21~40 番号 証拠名 by whom 成立 乙21-1 座間味村村長公文書 座間味村 昭和63年11月18日付 乙21-2 沖縄県援護課あて回答文 座間味村 乙22 訂正・謝罪要求はしないことの明言 原告梅澤 乙23 「『鉄の暴風』周辺」 太田良博 乙24 「裁かれた沖縄戦」曽野綾子証言 乙25 「『ある神話の背景』における『様相』と「概要』の成立順序について」 伊敷清太郎 乙26 赤松インタビュー 琉球新報 昭和43年4月8日付 乙27 百人斬り訴訟控訴審判決 東京高裁 平成18年5月24日 乙28 「自叙伝」 宮村盛永 昭和31年 乙29 「地方自治七周年記念誌」 沖縄市町村長會 昭和30年 乙30 沖縄県史第8巻 琉球政府 昭和46年 乙31 石原昌家 乙32 乙33 「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」 第32軍 1944年昭和19年11月18日 乙34 乙35-1 慶良間列島作戦報告書米国立公文書館で発見 沖縄タイムス 平成18年10月3日付 乙35-2 慶良間列島作戦報告書「座間味島」に関する記載 米軍歩兵第77師団砲兵隊・沖縄タイムス 平成18年10月11日付 乙36 「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」「住民処理の状況」 馬淵新治 昭和32年 乙37 「沖縄戦講話録」 自衛隊幹部学校 昭和36年1月 乙38 「援護のあゆみ」 琉球政府社会局作成 乙39-5 「戦斗参加者概況表」 琉球政府 昭和32年5月 乙40-2 宮村幸延の「功績調書」 乙41~60 番号 証拠名 by whom 成立 乙41 宮村文子陳述書 乙42 乙43-1 録音反訳書 乙43-2 神戸新聞中井和久記者の供述 乙44 沖縄戦の真実と歪曲 大城将保 乙45 大城将保 乙46 乙47-1 「『集団自決』早期認定」 沖縄タイムス 平成19年1月15日付 乙48 與儀九英回答書 與儀九英 乙49 「座間味村史」上巻 乙50 「座間味村史」下巻,宮里美恵子,宮里育江,宮城初枝 乙51 宮平春子陳述書 乙52 上洲幸子陳述書 乙53 宮里育江,上洲幸子 朝日新聞 2007年5月14日朝刊 乙54 金城重明 琉球新報 平成19年4月4日付 乙55 「沖縄方面陸軍作戦」 防衛庁防衛研修所戦史室 乙56 琉球政府の人事記録 乙57 琉球政府の人事記録 乙58 琉球政府の人事記録 乙59 琉球政府の人事記録 乙60 行政文書開示請求書 被告代理人 乙61~80 番号 証拠名 by whom 成立 乙61 行政文書不開示決定通知書 厚生労働省 乙62 宮里育江陳述書 乙63 陳述書 宮城晴美 乙64 「座間味島の集団自決」『沖縄戦―県民の証言』 日本青年出版社,宮城晴美 1972年 乙65 宮城証人調書 乙66 梅澤の宮城晴美への手紙 梅澤裕 1980年(昭和55年)12月 乙67 吉川勇助陳述書 吉川勇助 平成19年7月12日 乙68 安仁屋陳述書 安仁屋政昭 乙69 乙70-1 吉川勇助の証言 沖縄タイムス 平成19年6月14日付 乙70-2 吉川勇助の証言 沖縄タイムス 乙70-3 吉川勇助の証言 沖縄タイムス 乙71 宮平春子, 宮村トキ子 沖縄タイムス 乙72 石原昌家 乙73 乙74 乙75 乙76 乙77 乙78 乙79 「秘録沖縄戦記」 山川泰邦 昭和44年 乙80 乙81~100 番号 証拠名 by whom 成立 乙81 乙82 與儀九英 乙83 乙84 乙85 乙86 乙87 乙88 乙89 乙90 大江 乙91 乙92 乙93 乙94 乙95 乙96 乙97 陳述書 大江健三郎 乙98 宮川スミ子 沖縄タイムス 乙99 (県民大会の報道) 乙100 乙101~120 番号 証拠名 by whom 成立 乙101 乙102 乙103 乙104 乙105 垣花武一陳述書 垣花武一 乙106 乙107 乙108-1 ピデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」 記録社 平成4年制作 乙108-2 ピデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」 記録社 平成4年制作 乙109 ノンフィクション「座間味島一九四五」 本田靖春 小説新潮昭和62年12月号 乙110 宮城晴美陳述書 宮城晴美 乙111 乙112 乙113 乙114-1 慶良間列島作戦報告書(英語原本) 米軍 乙114-2 慶良間列島作戦報告書(英語原本) 米軍 乙115 乙116 乙117 乙118 撮影状況に関する電話回答 記録社 乙119 田中登元村長は平成2年12月11日に県立那覇病院で死亡 乙120 乙121~140 番号 証拠名 by whom 成立 乙121 乙122 乙123 乙124 乙125 乙126 乙127 乙128 乙129 乙130 乙131 乙132 乙133 乙134 乙135 乙136 乙137 乙138 乙139 乙140 読める判決「集団自決」
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http //book.jiji.com/kyouin/cgi-bin/edu.cgi?20100324-5 教育ニュース 2010年03月24日11時10分 韓国、日本の右傾化懸念=歴史共同研究 日本と韓国の有識者による日韓歴史共同研究委員会は23日、歴史教科書をめぐる摩擦などについて考察した第2期研究の報告書を公表した。この中で韓国側は、日本の教科書で第2次大戦時の従軍慰安婦に関する記述が減ったことや、「新しい歴史教科書をつくる会」が編さんを主導した教科書の検定合格を挙げ、日本の「右傾化」に強い懸念を表明。一方、日本側は、韓国の教科書が記載していない平和憲法を取り上げるよう主張。教科書をめぐる日韓の溝が浮き彫りになった。 日韓歴史共同研究は、2001年に就任した小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝や「つくる会」の教科書の検定初合格を受け、小泉氏と金大中大統領(同)が同年10月に合意してスタート。第2期研究委(共同委員長=鳥海靖東大名誉教授、趙※〔※=おうへんに光〕、高麗大教授)は07年6月に始まり、古代から現代までの通史研究に加え、教科書問題の専門部会を設け、約2500ページの報告書にまとめた。 韓国側は、1910年の日本による韓国併合から45年の日本敗戦までの植民地支配の時期について、日本の教科書が創氏改名や労働者の強制連行に触れているものの「簡潔でドライ」だと論評。文部科学省による検定には「侵略と支配の事実ができるだけ表面化しないようにする」傾向があると批判した。 特に韓国側は、96年に日本の7種の中学校教科書が従軍慰安婦について明記していたのに、05年には明記が2種に減り、強制性を示す表現も相次いで削除されたことを指摘、「政治、社会的状況の保守化が根本的要因」と断じた。「つくる会」の教科書に対しては、「最も右翼色が強い」「叙述が極端」と警戒心をあらわにした。 これに対し日本側は、従軍慰安婦が「女子挺身(ていしん)隊」の一環として強制的に動員されたと韓国の教科書が位置付けていることについて、「挺身隊は軍需工場などの勤労動員に限定される」と異なる見解を表明。また、「年端のいかぬ青少年に『戦場と性』という難題を果たして教えるべきかという教育現場のためらいもある」と指摘した。 また、戦争放棄をうたった日本の平和憲法について「戦後の日本を理解するには絶対に必要な要素」として、韓国の教科書への明記を要求。昭和天皇以降の戦争への反省のお言葉や、おわびを表した95年の村山富市首相談話も十分に説明するよう求めた。 「つくる会」の教科書について、日本側は「多くの国民の支持を得ていない」「学校現場は冷淡」として、韓国側が過大評価しているとの認識を示した。(了) 日韓歴史共同研究
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史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報 週刊新潮1968年4月6日号記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽大阪支局員を赤松氏宅に向かわせ、4月8日にフォローアップ記事を特集した。 それは、『渡嘉敷島の集団自決 "悪夢の惨事"二つの真相?』と題するもので、23年ぶりの「戦闘報告」を語った元戦隊長赤松氏と、「戦記」を書いた元村長古波倉氏、二人のインタビューを対峙させるものだった。 史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報 "悪夢の惨事"二つの真相?盆地を血にそめ329人自決恩讐の23年、戦記は偽りか 開き直る赤松元大尉"命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい "弁明”に怒る生存者大尉の"報告"はうそ "反省の色なく許せない" ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始) 赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報 "悪夢の惨事"二つの真相? 【関西支局】沖縄戦の最中、戦闘に巻き込まれていった住民の悲劇のうち、渡嘉敷島の集団自決、住民の斬殺は旧日本軍の手で行われたといわれているだけに、23年たったいまも恩讐を込めて語りつがれている。その「無知と暴虐をともなった悪夢のような悲劇」を命じたといわれる赤松嘉次氏(48)=当時渡嘉敷島駐屯海上てい身隊第3戦隊隊長=が兵庫県加古川市に住んでいた。「私はどう中傷されようとかまわないが死んだ戦友がかわいそうだ」という赤松氏は。このほど本誌記者とのインタビューに応じて「集団自決は命じたものではない。気の毒だと思うが私の取ったその他の処置はあの時点ではやむをえなかった」と語った。一方、この弁明に対し当時同島にいて暴虐ぶりを目の当たりに見た同島生き残りたちは「事実を曲げるのもはなはだしい。罪の意識にかられていると思ったら、なんということをいい出すのか」とカンカン。生存者の語る"二つの真相"は沖縄の戦記にどう書き加えられて行くのだろうか。 盆地を血にそめ329人自決 恩讐の23年、戦記は偽りか 「渡嘉敷島における戦争の様相」という記録がある。終戦当時渡嘉敷島の村長だった古波倉惟好さん、村役所経理員で防衛隊長をしていた屋比久孟祥さんの二人が渡嘉敷島での戦闘と住民の模様を書きつづったもので、その中で赤松大尉はひきょう者となり、住民を圧迫した張本人となっているが、当時二十五歳の赤松大尉は防衛隊、男女青年団員、婦人会員など二百四十余の協力で爆雷を積んだ舟艇百隻を海辺に並べ出撃を待った。ところが「赤松大尉は出撃の命を下さずごうの奥に退避し、戦闘意欲を全く失っていた」ばかりか「気が狂ったのか全舟艇の破壊を命じた」という。二十年三月二十六日未明のことである。 さらに「あしゅらのごとき阿鼻叫喚の地獄」がくり広げられる。同二十八日午前米軍の上陸に危機を感じた住民が西山の軍陣地北方の盆地に集結した。「記録」によると集団自決のもようは次のようなむごたらしいものだ。 「防衛隊員の持つ手榴弾(二個ずつ)二、三十人が集まり、瞬時にして老若男女の肉は四散し死にそこなったものは棍棒で頭を打ち合い、カミソリで自らのけい部を切り、すきで親しいものの頭をたたき割るなど世にも恐ろしい情景がくり広げられた」このとき三百二十九人が死んだ。手榴弾が不発で死を免れた住民が軍陣地へ押し寄せると、赤松隊長はごうの入り口に立ちはだかり「軍のごうに入ってはいけない。すみやかに軍陣地を去れ」と厳しくかまえ、住民をにらみつけた―という。記録には赤松隊長が"自決命令"を出したとは書いてないが、自決はしいられたもの―というふうにとれ、生存者の中にははっきり「命令だった」と断定するものもいる。 また赤松大尉の部下は住民にスパイの容疑をかけ切り殺し「山をさまよい歩く古波倉樽を敵に通じるおそれありとして軍刀にかけ」あるいは米軍の要求で投降を勧告に来た伊江島の男女6人を斬殺した。少年二人も米軍に通じたとして首をつらせ、渡嘉敷小学校訓導の大城徳安氏は「防衛隊員のくせに家族の元に帰ってばかりいた」ので斬首された。そして血のにじむような記録は「沖縄本島の降伏に遅れること1ヶ月。二十年八月二十三日、渡嘉敷島の戦闘はその幕を閉じた」と結んでいる。 これまでこの記録や生存者の証言をもとに赤松大尉のことが数多く書かれてきた。そのたびに旧部下で生存者の人たちが抗議したが取り上げられず、赤松氏もあまり語らなかった。だが戦死者までひきょう者呼ばわりされるのは可愛想―と最新号の「週刊新潮」で意見をのべ、近くかつての同僚が手記などを持ち寄って「正しい戦史」を作る計画もある。 加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室で記者のインタビューに答えて語る「渡嘉敷島集団自決の真相」は次のようなものだった ~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) 週刊新潮で紹介された戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の復習のあとは、加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室での赤松元隊長インタビュー。「正しい歴史をつくりたい」とは、沖縄で書かれた戦記は間違っている、という断定なだけに挑戦的だ。沖縄地元紙の見出しには怒りが込められている。 ~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用はじめ) 開き直る赤松元大尉 "命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい ―広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。 しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。 ―集団自決は命令したのか。 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。 ―スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。 ―なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。 ―戦記の発行を計画しているとか。 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。 ―現在の計画は わたくしの取った措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから。現在の感覚と尺度でははかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか、不徳のいたすところなどとわたくしが言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ。しかし、命令でやり、任務であったことがすべて個人の責任となるような社会には戻りたくない。 ~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) 対立する当事者が言ってることは、それぞれ単独で聞けばどちらも正しい。芥川龍之介の羅生門の世界だ。 したがって現場を知らないわたしたちとしては、他の記録との照合や何よりも同一人の証言の変遷を辿って、その信頼性を検証するしかない。慌てず騒がず試みたいと思います。 琉球新報の特集は、戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」を書いた、集団自決体験者のインタビューへとつづく 週刊新潮の記事と、赤松元隊長の矛先になった戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の筆者の一人が反論し、これまで書かなかったという秘話も語る。赤松氏に行状についての新証言にもまして興味深いのは、戦後永きに渡って渡嘉敷村村長をつとめ、この報道の時もそうであり、2年後の慰霊祭に赤松氏を招いた玉井氏が、集団自決の時には島にいなかったという事実である。 ~~~~~~~~~~~~~(記事引用はじめ) "弁明”に怒る生存者 大尉の"報告"はうそ "反省の色なく許せない" 戦後23年になって、急に「わたしは島民に集団自決をしいて、自ら戦わずして生き延びようとした卑きょう者ではない」と開き直った赤松大尉の戦闘報告に、当時渡嘉敷島で辛酸をなめた同島の生き残りたちは「これはどうしたことか」とその心境をはかりかねて当惑している。やっと悲惨な傷跡がいやされ、にくしみも角がとれて、平和な島として再出発しているときだけに、同氏の意外な発言は眠りかけた胸のうずきをゆすぶられたというか、にくしみがむらむらとわいてきたようである。 戦争当時、渡嘉敷村長の職にあって軍隊と住民の板ばさみになって苦悩した米田(旧姓古波倉)惟好さん(57)(那覇市 略)琉球通運搬船共済会副会長は、週刊新潮の記事を読んで「でたらめもはなはだしい」と怒りをぶちまけた。 「赤松氏の戦闘報告はすっかり事実を曲げてなされている。戦後20余年をひっそりとして音さたもないので、謹慎して反省しているのだろうと思い、いまさら彼一人を責めることはよそう、と思っていたのに、このソラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決をしいられてなくなった人たちの霊も浮かぶまい」と声をふるわせた。 米田さんの話によると、赤松氏が戦闘報告で行った弁明は、住民を一ヶ所に集めたとき「西山の陣地に集合せよ、といったのではなく西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ、といった」ということ以外は全部まっ赤なウソで、集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だという。 「彼は島民を斬ったことのは軍紀だ、とうそぶいているようだが、20余年も過ぎているので忘れている、とでも思ったのだろうか。住民が陣地に押しかけては攻撃のまとになるとして、わずかに離れた盆地に追いやって集団自決の命令を出したのは赤松大尉でなくてだれだったのか」と声を荒立てる。 あの混乱の中の地獄絵が、まざまざと脳裏によみがえってきたらしく、悲痛な表情で語りつづける。「それにわたし個人としてどうしても許せないのは、"村長がきて機関銃を貸してくれ足手まといの島民を打ち殺したいと申し入れてきた"といっていることです。どうしてわたしに村民が殺せるのですか。ことの真相はこうです。盆地に追いやられたわたしたち住民は、敵軍と友軍の間に置かれ敵軍からの砲撃も激しいので、このままでは皆殺しにされると思い、わたしが友軍のもとへ行って、"軍民で総攻撃したいからわれわれにも機関銃を貸してほしい"といったのです。 結局、銃は借りられず逆に足手まといになるとして自決を強いられたわけだが、同氏の報告では敵に銃を向けるということが住民に向けるとすりかえられている」と事実を明らかにした。 その他、赤松氏が弁明している「私刑」についても、ことごとく事実に反すると反論する。 「少年二人が自分で首をつって死んだとか、いろいろつくろっているが、これらも確かに赤松大尉の命令で処刑されたのです。 いまさら戦争の傷跡をほじくるまい、と思っていましたが、相手に反省の色がなく、史実を曲げるような言動をしている以上、すべてをはっきりさせざるを得ません。これは戦記にも書かなかったのですが、実をいうと赤松大尉は捕虜になるまで一歩もごうから出ず食糧も独り占めして他の将兵たちは住民から食物をもらって自給生活をしていた。兵隊は住民に先がけて戦うものであるにもかかわらず、戦闘意欲は全くなく、わたしに面と向かって"オレは生き延びて大本営に戦況を報告する義務をおわされている"とはっきりいっていました。 平和な世の中になったいまになって考えると軍人であろうと命を粗末にするべきではありませんが、しかし当時の状況の中で住民を殺し自らは隠れて生還するというのは総指揮官がとるべき態度だったでしょうか」と語る。この米田さんも、赤松大尉の命で手りゅう弾の引きがねを引いて自決しようとしたが不発になって捕虜になった一人である。 当時の村長として、この残酷史が赤松氏の弁明によってぬり変えられることを警戒した米田さんは、近く週刊新潮に対しことの真相を投書、赤松氏の弁明を改めて告発するという。 一方、現渡嘉敷村長の玉井喜八氏は「赤松氏はそんなことをいってるのですか」と語り、わたしは戦争当時島にいなかったが、戦記にある通りまさに地獄絵だったといいます。戦後23年もたった現在では島の人々の赤松隊に対する反感も薄れて、すべては戦争が悪かったという気持ちになっており、いまごろになってどうのこうのいってくる赤松氏の態度は逆効果でしょう。いまさら責任をなすり合っても自決した同胞が生き返るわけではないし、二度とむごい戦争を起こさないように努力しあうことが重大です」と多くを語りたがらなかった。 このように当時の体験者たちが「全てを許そう、そして平和な島を築こう」と誓い合っているとき、こんどの赤松氏の出現で心を乱されたかたちだ。島民たちの立場にたてば、沈みかけた怒り、悲しみをゆり起こした事体が赤松氏の"第二の罪"になりはしないか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) これは資料だから、あまり感想は述べたくないが、ひとつだけ言わせていただけば、米田氏の意見は『ある神話の背景』では、これに較べてやけにトーンダウンしているように思えるがどうだろうか? 曽野綾子氏の批判の的になっているからだろうか? いったい、どちらの米田氏が本当の姿なのか? やはり、資料は結論を急がずに読み比べなければいけない。 1.20追記 米田(旧姓古波蔵)元村長の意見が『ある神話の背景』ではトーンダウンしているように思われる理由がわかりました。 曽野綾子氏は、『ある神話の背景』の雑誌『諸君』連載時には、古波蔵氏からの聞き取りを素のまま記載して「判断は読者に委ねる」という姿勢をしめしていましたが、単行本を上梓するにあたって、古波蔵氏からの聞き取りの一節一節に、元赤松隊隊員の「そんなことはなかったはずです・・・」といった反論を挟み込みました。 古波蔵氏の証言を読むシーンが、古波蔵氏への反論を聞くシーンへと、変更されているのです。 追って詳しくレポートいたします。 沖縄戦資料index
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http //www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/93251/ 【正論】曽野綾子 集団自決と検定 それでも「命令」の実証なし 10/23 05 28 ■戦争責任と曖昧な現実に耐えること ≪大江氏の『沖縄ノート』≫ 1945年、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を浴びた沖縄県慶良間列島の幾つかの島で、敵の上陸を予感した島民たちが集団自決するという悲劇が起きた。渡嘉敷島では、300人を超える島民たちが、アメリカの捕虜になるよりは、という思いで、中には息子が親に手をかけるという形で自決した。そうした事件は、当時島にいた海上挺進第3戦隊隊長・赤松嘉次大尉(当時)から、住民に対して自決命令が出された結果だということに、長い間なっていたのである。 1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。 ≪ないことを証明する困難さ≫ これも慎みのない言い方だが、私はその赤松元隊長なる人と一切の知己関係になかった。ましてや親戚(しんせき)でも肉親でもなく、恋人でもない。その人物が善人であっても悪人であっても、どちらでもよかったのである。 私はそれから、一人で取材を始めた。連載は文藝春秋から発行されていた『諸君!』が引き受けてくれたが、私はノン・フィクションを手掛ける場合の私なりの原則に従ってやった。それは次のようなものである。 愚直なまでに現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。その場合、矛盾した供述があっても、話の辻褄(つじつま)を合わせない。 取材者を怯(おび)えさせないため、また発言と思考の自由を確保するため、できるだけ一人ずつ会う機会をつくること。 報告書の真実を確保するため、取材の費用はすべて自費。 今日はその結果だけを述べる。 私は、当時実際に、赤松元隊長と接触のあった村長、駐在巡査、島民、沖縄県人の副官、赤松隊員たちから、赤松元隊長が出したと世間が言う自決命令なるものを、書き付けの形であれ、口頭であれ、見た、読んだ、聞いた、伝えた、という人に一人も会わなかったのである。 そもそも人生では、「こうであった」という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったと証明することは非常にむずかしい。しかしこの場合は、隊長から自決命令を聞いたと言った人は一人もいなかった稀(まれ)な例である。 ≪もし手榴弾を渡されたら≫ この私の調査は『集団自決の真相』(WAC社刊)として現在も出されているが(初版の題名は『或る神話の背景』)、出版後の或る時、私は連載中も散々苛(いじ)められた沖縄に行った。私は沖縄のどのマスコミにも会うつもりはなかったが、たまたま私を探して来た地元の記者は、「赤松が自決命令を出したという神話は、これで否定されたことになりましたが」と言った。私は「そんなことはないでしょう。今にも新しい資料が出てくるかもしれませんよ。しかし今日まで赤松が自決命令を出したという証拠がなかったということなんです。私たちは現世で、曖昧(あいまい)さに冷静に耐えなきゃならないんです」と答えた。この答えは今も全く変わっていない。 戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子工員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾(しゅりゅうだん)を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。 政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。(その あやこ=作家)
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通048 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・1 名誉毀損の成否の規準等について 第4・1 名誉毀損の成否の規準等について(1) (訴訟の概略と訴えの成立)* (2) (名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件)* (3) (事実を基礎とする意見や論評による名誉毀損の要件) (4) (名誉毀損を理由とする出版等差止めの要件)* (5) (敬愛追慕の情侵害の場合の要件≧名誉毀損の場合の要件)* (6〕(司法的救済を求めることの遅滞)* (7)(結び)* (1) (訴訟の概略と訴えの成立)* 本件は,冒頭で指摘したとおり,本件各書籍により原告梅澤及び赤松大尉が太平洋戦争後期に座間味島,渡嘉敷島の住民に集団自決を命じ,住民を多数死なせながら自らは生き延びたという虚偽の事実を摘示され,原告梅澤及ぴ赤松大尉の社会的評価を著しく低下させられ,その名誉を毀損され,その人格権や敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたとして,損害賠償及ぴ本件各書籍の出版の差し止め等を求める訴訟である。 人の品性,徳行,名声,信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は,損害賠償又は名誉回復のための処分を求めることができるほか,人格権としての名誉権に基づき,加害者に対し,現に行われている侵害行為を排除し,又は将来生ずぺき侵害を予防するため,侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁昭和61年6月11同大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。 (2) (名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件)* そこで,まず名誉毀損を理由とする損害賠償請求について検討するに,事実を摘示しての名誉毀損にあっては,その行為が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的がもっぱら公益を図るものである場合に,摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があったときには,その行為には違法性がなく,仮にその事実が真実であることの証明がなくても,行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば,その故意又は過失が否定され,不法行為は成立し拒いものと解するのが相当である(最高裁昭和41年6月23日第1小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。もっとも,書籍の執筆,出版を含む表現行為一般について公益を図ることが唯一の動機であることが必要であるとすることは,実際上困難であるから,ここにいう「その目的がもっぱら公益を図るものである場合」というのは,書籍の執筆,出版について,他の目的を有することを完全に排除することを意味するのではなく,その主要な動機が公益を図る目的であれぱ足りると解するのが相当である。 また,ある書籍中の記述が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは,当該記述についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すぺきである(最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決・民集10巻8号1059頁参照)。 (3) (事実を基礎とする意見や論評による名誉毀損の要件) 第2・2(3)イのとおり,沖縄ノートの各記述中には,事実を基礎とした意見ないし論評にわたる部分が存在している。 ところで,公然と事実を摘示した場合に限定する刑法230条1項の名誉毀損罪と異なり,民事上の名誉毀損は,人の品性,徳行,名声,信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を違法に低下させることによって成立するものであり,侵害の手段は格別限定されないから,意見ないし論評によっても,民事上の名誉毀損は,成立し得る。 そして,ある事実を基礎としての意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては,その行為が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的がもっぱら公益を図ることにあった場合に,その意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り,その行為は違法性を欠くものというぺきである(最高裁昭和62年4月24日第2小法廷判決・民集41巻3号490頁参照)。そして,仮にその意見ないし論評の前提としている事実が真実であることの証明がないときにも,行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば,その故意又は過失が否定され,不法行為は成立しないものと解するのが相当である(最高裁平成9年9月9日第3小法廷判決・民集51巻8号3804頁参照)。 したがって,沖縄ノートの各記述中の事実を基礎とした意見ないし論評にわたる部分については,まず,その部分が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的がもっぱら公益を図ることにあったこと及ぴその意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であること若しくは真実相当性の証明があったかどうかを判断することになるが,この点は,名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件と重なる面がある。そして,これが認められた場合には,さらに人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものであるか否かを検討することとなる。 (4) (名誉毀損を理由とする出版等差止めの要件)* 次に名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版等差止めの要件について検討する。 人格権としての名誉権に墓づく出版物の印刷,製本,販売,頒布等の事前差止めは,その出版物が公務員又は公職選挙の侯補者に対する評価,批判等に関するものである場合には,原則として許されず,その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって。かつ,被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り,例外的に許される(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。 本件では,既に出版され,公表されている書籍の出版等差止めを求めるものであるから,表現行為の事前差止めに関する以上の要件のうち,損害発生に係る要件は,「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに」限定する必要はなく,被害者が重大な損害を被っていると評価されれば足りるものと解される。 そして,本件で問題になっているのは,第2・2(1)アのとおり,太平洋戦争後期に座間味島で第一戦隊長として行動した原告梅澤及び渡嘉敷島で第三戦隊長として行動した赤松大尉が,太平洋戦争後期に座間味島,渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたか否かであって,原告梅澤及ぴ赤松大尉は日本国憲法下における公務員に相当する地位にあったから,本件各書籍の出版の差止め等は,その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって,かつ,被害者が重大な損害を被っているときに認められると解するのが相当である。 ※↑原告梅澤及ぴ赤松大尉は、私人ではなく公務員であったことの指摘 この要件を名誉毀損を理由とする損害賠償請求のそれと比較した場合,真実性が認められないことが求められたり主張,立証責任の観点からも,原告らに責任が加重されていると考えられるのであって,名誉毀損を理由とする損害賠償請求が認められない場合に,名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版差止めが認められる余地は存しない。 したがって,以下の争点についての判断に際しては,まず名誉毀損を理由とする損害賠償請求の成否についての判断を示し,それが認められる場合に,名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版差止めの要件について検討を進めることとする。 (5) (敬愛追慕の情侵害の場合の要件≧名誉毀損の場合の要件)* ※名誉毀損による損害賠償の要件が認められなければ、敬愛追慕の情侵害による損害賠償は当然認められなくなる。よって、まず、名誉毀損による損害賠償の要件について判断する=争点7は場合によっては審理に及ばない。 原告赤松は,第2・2(1)アのとおり,赤松大尉の弟であり,本件請求は,赤松大尉の名誉が本件各書籍により侵害され,これにより原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする。 ところで,死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求について,その要件が名誉毀損を理由とする損害賠償請求より加重されるか否かについては,原,被告らが第3・7で裁判例を引用するなどして主張するとおり,見解の対立があり,「比較的広く知られ,かつ,何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について,当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには,その前提として,少なくとも,故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり,その上で,当該行為の属性及ぴこれがされた状況(時,場所,方法等)などを総合的に考慮し,当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の借を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に,当該行為についての不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した東京高裁車成18年5月24日判決(乙27)のように,これを加重する見解も存している。 しかしながら,死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求について,その要件が名誉毀損を理由とする損害賠償請求より軽減されるとする見解は存しないし,これを軽減すぺき法的根拠は見出し難いから,それが軽減されるとは解されない。したがって,以下においては,まず赤松大尉に関する記述についても,通常の名誉毀損を理由とする損害賠償請求に関する要件を検討し,それが認められる揚合に,さらに死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求の要件について検討を進めることとする。もとより,赤松大尉に関する記述について,通常の名誉毀損を理由とする損害賠償請求に関する要件を充足しない場合には,死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求の要件について検討を進める必要がないことは,以上の判示から明らかである。 (6〕(司法的救済を求めることの遅滞)* 本件で間題となづているのは,太平洋戦争後期に発生した座間味島,渡嘉敷島における住民の集団自決であり,それは,第2・2(2)のとおり,昭和20年3月25日から同月28日にかけて発生したものであって,後記第4・5(6)のとおり,歴史の教科書に採り上げられるような歴史的事実に関わるものであって,既に発生から60年を超える年月が経過していることから,当裁判所に顕著な平均余命を考えると,赤松大尉を含め,関係者の多くが既に死亡しているものと認められる。 一方,第2・2(3)のとおり,家永三郎著の「太平洋戦争」は,昭和42年2月14日に発行され,その改訂版である「太平洋戦争 第二版」は昭和61年11月7日に発行され,本件書籍(1)は,平成14年7月16日に文庫化されたものである。また,沖縄ノートについても,第2・2(3)のとおり,昭和45年9月21日には既に発行されているのであって,原告ら及び赤松大尉が本件各書籍若しくはその前身である書籍に関して司法的救済を求めることは,昭和45年には可能であったと認められる。 本件で問題となっている太平洋戦争後期に発生した座間味島,渡嘉敷島における住民の集団自決に,原告梅澤及ぴ赤松大尉が関わったか否かについての実態の調査には,以上のとおり,既に時聞の壁が存するといわざるを得ないし,当裁判所には,当事者双方が提出し,若しくは申請した書証,証人の取調べに判断の資料が限定されるという司法的な限界も存するのであって,当裁判所の行う事実の存否の解明には,こうした限界があることを指摘せざるを得ない。 もとより当裁判所としては,前記事実の存否の解明それ自体が目的ではなく,これまで判示した損害賠償請求等の要件へのあてはめを立証責任を踏まえて判断することになる。その際,真実相当性の有無の判断に際しては,集団自決を体験したとする座間味島,渡嘉敷島の住民の供述やそうした記載を掲載している諸文献が重要な意味を有することは明らかである。 しかしながら,先に判示したとおり,集団自決が発生して相当時日が経過し,関係者の多くが既に死亡していると考えられることから,集団自決を体験したと供述し,諸文献に記載されている座間味島,渡嘉敷島の住民やそうした記載を掲載している諸文献の作者に対して反対尋問権を行使し得ず,その弾劾ができない場合に遭遇せざるを得ない。このことは,そうした諸文献の重要性に鑑みると,原告らに不利益な側面を有しているといわざるを得ないが,それは原告ら及ぴ赤松大尉が本件各書籍に関して司法的救済を求めることが遅滞したことに起因するものといわざるを得ない。 (7)(結び)* 以上,種々指摘した点を踏まえて,各争点について検討を加えることとする。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
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ソース:チャンネル桜 http //www.ch-sakura.jp/topix/1054.html 訴状;http //www.ch-sakura.jp/sakura/NHK_lawsuitcomplaint.pdf 代理人目録:http //www.ch-sakura.jp/sakura/NHK_lawsuit_proceduralattorney.pdf 訴状の構成 以下に私が読み取った訴状の構成をメモします。詳しい内容は原文をあたってください。 1、8389万円の「損害賠償等請求事件」だそうです。 2、被告は、放送法第7条にもとづく日本放送協会 (ちなみにチャンネル桜は、今月1日スカパー復帰しましたから、同法第52条の13に基づき認定された委託放送事業者です。下記の放送法第3条を遵守する義務は、NHKと同様にあるはずです) 3、訴えた原告は、NHKに受信料を払ってる人(原告資格A)と、払ったことはないが払えといわれそうな人(原告資格B)の2種類だそうです。 4、番組「アジアの一等国」の場面やせりふには放送法第3条の2の第1項に違反するところがあるから、原告らと被告との受信契約に違反しているばかりか、前項の内容の本件番組を放送する被告との契約を強制されることで精神的に損害を受けている。 5、よって、不法行為として損害賠償を請求することができる。 といっています。 番組が放送法違反だという根拠として 6、番組が明治28年の台湾領有に焦点を当て、存在しなかった事実をあったかのように事実を捏造し、誤った事実に基づいて批判し、我が国の努力を不公平な態度で嘲笑している。50年間、いかに台湾人を弾圧し、虐待し、差別し、利用したかを延々と述べる。インタービューに登場したほとんどすべての台湾人がインタービューの一方的な放送に怒りの声をあげている と述べ特に問題になることとして (1)人間動物園 (2)後藤新平の取扱 (3)日台戦争 (4)やらせ、歪曲取材 という事項を挙げている。訴状は続けて 7、「抗議の声にNHKが誠実に対応してない」との非難を述べている 8、原告らの損害は1万円をくだらない と述べている。 まとめのところが訴状の肝だと思いますので、それを引用します。 ~~~~~~~(引用開始) 第8 原告らの損害 (原告資格A) 1 原告らは、被告と受信契約を締結させられているが、原告らが契約締結に応じたのは、被告が本件義務(引用者注=放送法を守る)を果した番組を放送することを期待したからである。 2 被告はその期待に反したばかりか、逆に本件義務に反した番組を反していないと居直っている。被告が原告らの期待に反した本件番組を放送したことにより、原告らが受けた精神的損害は、各自1万円を下らない。 (原告資格B) 3 また、受信契約を締結していない原告らは、本件義務に反した番組を放送する被告との受信契約を強制されるのではないかという精神的不安をかかえている。その不安についての慰謝料は各自1万円を下らない。 ~~~~~~(引用終了) 8000余人の「白紙委任状原告」というのも異様ですが、 この訴訟内容も異様に思えます。 法律に詳しい方の論評を待ちたいと思います。 補足 チャンネル桜がWEBで配布している委任状の文面サンプルはまさしく白紙委任状です。 http //www.ch-sakura.jp/topix/1054.html 訴状の構成 訴状当事者の表示 損害賠償等請求事件 請求の趣旨 請求の原因第1 当事者 第2 被告作成及び放映の番組「JAPAN デビュー」の第1回「アジアの“一等国”」について 第3 放送法により被告に課せられた義務 第4 原告と被告との関係(受信契約)及び受信契約の内容 第5 被告の放送法違反、受信契約違反、及び不法行為 第6 本件番組の内容1 総論 2 人間動物園 3 後藤新平の取扱 4 日台戦争 5 やらせ、歪曲取材 第7 被告に対する抗議とその対応 第8 原告らの損害 第9 結論 添付書類 代理人目録 訴状 平成21年6月25日 東京地方裁判所御中 原告ら訴訟代理人 弁護士高池勝彦 弁護士荒木田修 弁護士尾崎幸廣 弁護士田中禎人 弁護士溝呂木雄浩 弁護士山口達視 別紙原告訴訟代理人目録記載のとおり 当事者の表示 原告ら別紙原告目録のとおり 被告150-0041 東京都渋谷区神南二丁目2番1号 日本放送協会 代表者会長福地茂雄 損害賠償等請求事件 訴訟物の価額金8389万円 貼用印紙額金27万2000円 予納郵券金6400円 請求の趣旨 1 被告日本放送協会は、原告らに対し、それぞれ金1万円及びこれに対する本訴状送達の日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。 2 訴訟費用は被告の負担とする。 との判決並びに第1項につき仮執行の宣言を求める。 請求の原因 第1 当事者 1 被告は、放送法第7条の目的を達成するため同法の規定に基づき設立された法人である。 2 原告らは、同法第32条の第1項の規定により、被告と受信契約を締結した者及び契約締結を法律上強制されている者である。 第2 被告作成及び放映の番組「JAPAN デビュー」の第1回「アジアの“一等国”」について 1 被告は、平成21年4月5日、シリーズものの番組「JAPAN デビュー」の第1回として「アジアの“一等国”」を放映した(以下、本件番組という)。その中に、別紙1のような場面やせりふが含まれている。 2 その場面やせりふには後述の問題点があり、原告らの契約上の権利を侵害するものである。 第3 放送法により被告に課せられた義務 1 放送法第3条の2の第1項は、次のように定めている。規定中の放送事業者に被告が含まれることは当然である。 放送事業者は、国内放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。 一 公安及び善良な風俗を害しないこと。 二 政治的に公平であること。 三 報道は事実をまげないですること。 四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。 2 同法第44条第1項には、特に被告に課せられた義務として次の規定がある。規定中の協会は、被告をさす。 協会は、国内放送の放送番組の編集及び放送又は受託国内放送の放送番組の編集及び放送の委託に当たつては、第三条の二第一項に定めるところによるほか、次の各号の定めるところによらなければならない。 一 豊かで、かつ、良い放送番組を放送し又は委託して放送させることによつて公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄与するように、最大の努力を払うこと。 二 (略) 三 我が国の過去の優れた文化の保存並びに新たな文化の育成及び普及に役立つようにすること。 3 以上を総合すると、被告には、政治的に公平で、事実に即し、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、良い放送番組によって文化水準の向上に寄与するものであり、我が国の過去の優れた文化の保存並びに新たな文化の育成及び普及に役立つような番組を制作放送する義務(本件義務)がある。 第4 原告と被告との関係(受信契約)及び受信契約の内容 1 放送法第32条第1項には次の規定がある。 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。(以下略) 2 原告らは上記規定により被告と受信契約を締結している者及び締結を強制されている者である。 3 受信契約により、原告らが受信する放送は、放送法に適合したものでなければならない。いいかえると、被告が放送法に適合しない番組を放送した場合には、原告らは被告に対し、契約違反として、または不法行為として損害賠償を請求することができる。 第5 被告の放送法違反、受信契約違反、及び不法行為 1 本件番組は、次に述べるように、事実に反するばかりか、一方的ないわゆる「やらせ」取材をし、虚偽の事実を捏造し、極めて悪質で偏向したものである。 2 本件番組は放送法に違反するとともに、原告らと被告との受信契約に違反しているばかりか、前項の内容の本件番組を放送する被告との契約を強制されることで精神的に損害を受けている。 第6 本件番組の内容 1 総論 本件番組は、日本が明治開国以後、一等国になろうとして努力した内容を取り上げたものである。明治27年(1894年)から翌年の日清戦争、明治37年(1904年)から翌年の日露戦争から大正3年(1914年)の第一次世界大戦にかけて、一等国二等国三等国という考え方があり、我が国は一等国になろうと必死に努力したのである。本件番組は、明治28年の台湾領有に焦点を当て、その我が国の努力を、存在しなかった事実をあったかのように事実を捏造し、誤った事実に基づいて批判し、不公平な態度で嘲笑している。多くの台湾人のインタービューを登場させ、明治28年から昭和20年(1945年)までの50年間、我が国がいかに台湾人を弾圧し、虐待し、差別し、利用したかを延々と述べる。インタービューに登場したほとんどすべての台湾人がインタービューの一方的な放送に怒りの声をあげ、訂正を要求する抗議書を作り署名しているほどである。特に問題となるのは次のとおりである。 2 人間動物園 明治35年(1902年)締結された日英同盟のもと、日露戦争に勝利した我が国は、日英の一層の経済交流を図るべく、明治43年(1910年)、英国政府と共催で、ロンドンにおいて日英博覧会を開催した。この博覧会において、公式展示とは別に余興区画がつくられ、力士団による相撲、日本人農民による農村風景を描いて米俵製作の実演など日本の伝統的な農村風景を紹介、アイヌや台湾原住民のパイワン族による生活状況を見せた。日英博覧会は、5月14日から10月29日の開催期間内に835万人の入場者があるなど大成功をおさめた。本件番組は、パイワン族による実演を「人間動物園」と表現した(別紙1、10 頁)。 日本政府が、パイワン族による実演を「人間動物園」と呼んだことはない。本件番組は、当時、イギリスやフランスは、博覧会で植民地の人々を盛んに見せ物にし、それを人間動物園と呼んだから、日本はそれを真似たのだというのである(別紙1、13 頁)。これは悪意に満ちた曲解である。イギリスやフランスによる植民地の人々による見世物が人間動物園と呼ばれたのか実証されておらず、人間動物園と呼ばれたかもしれないが(しかも当時「人間動物園」の言葉そのものが使用されたことがなく、後に作られた言葉である可能性が高いのである)、日英博覧会におけるパイワン族によるによる民族舞踊等の実演はそのようなものではなく、我が国の風俗民族産業の実情を紹介する一環であることは明らかであるのに、そのように番組のナレーションは解説した。我が国が、展示内容の品位に留意していたことは当時の公式記録にもある。 さらに日英博覧会に出演したパイワン族の子孫である労兄妹に、人間動物園の説明もなく、出演した父親の写真を見せた。妹の女性は、父親の写真を見て日本語で、「かなしいね」と日本語で言い、パイワン語で「非常にこのことは言葉に言えない」と言った。また、男の声で、女性の顔の画面に「かなしいね、語りきれないそうだ。かなしいね、この重さね、話しきれないそうだ」と日本語の声が流れてくる。本件番組では、人間動物園の説明をして、この女性とその兄の画面で、字幕に「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」と出しているのである(別紙1、14 頁)。本件番組を見た者は、あたかも、このパイワン族の老兄妹が、父親の人間動物園出演を嘆いて「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない。」と言ったと思わせているのである。その後の調査で、パイワン族の人々が日本語で「かなしい」というのは、「なつかしい、せつない」という意味であることが明らかとなった。要するに亡くなってもういない父親の写真を見て、懐かしいせつないと感嘆の声を上げただけなのである。しかも、男の声の、「かなしいね、語りきれないそうだ。かなしいね、この重さね、話しきれないそうだ」は画面に登場している兄の発言ではなく、画面に登場していない別の隣家の男の初言であることも明らかとなった。 3 後藤新平の取扱 明治31年(1897年)、台湾総督府に民生局長(総督に次ぐ地位)として赴任した後藤新平は、自身医者でもあったので、当時瘴癘の地といわれ、マラリアその他の疫病が蔓延していた台湾に衛生観念や設備を導入し、台北市をはじめ多くの都市計画を立案した。現在の台湾の大都市は後藤の都市計画が基礎になっている。また、台湾の発展のために有能な人材の登用にも力をつくした。 代表的な人物として、後に国際連盟の事務次長となって国際的に活躍した新渡戸稲造を総督府の殖産局長に招聘して、活躍させ、糖業発展に大きな成果を残した。その後藤を、本件番組は、台湾人の弾圧差別の首謀者としてのみ描いている(別紙1、10頁以下)。後藤が台湾人を弾圧するために特別に立法し、それによって3千人を死刑したという。後藤の功績について樟脳事業の立て直しについてだけであり、その樟脳事業のために基隆港を大型化し台湾の縦貫鉄道を敷設したかのように描いている。台湾における農業の基幹となる米やサトウキビの増産などへの貢献についてはまったくふれていない。 4 日台戦争 台湾併合直後、台湾人によるいくつかの暴動が起きて日本軍により鎮圧された。本件番組では、この暴動と鎮圧をさして、「日台戦争」と呼んでいる(別紙1、10 頁)。 「日台戦争」などという用語は、ごく少数の偏向した学者が使っている特殊な用語である。日本が領台直後に直面した台湾人などによる武装抵抗は確かに激しいものではあったが、宣戦布告もなく、台北や台南入場に際しては城内の台湾人や外国人などが一致して日本軍を場内に招き入れていることからも、これは日清戦争後における治安維持のための戦闘であり、決して新たな戦争ではなく、「日台戦争」などと呼ばれるべき性質のものではない。また、この治安維持については、台湾放棄を徹底しなかった清国政府にも責任があるものである。本件番組はそのような特殊な用語を使うことによって日本軍の弾圧がいかに厳しいものであったかということを印象付けようとしたのである。台湾の番組出演者のほとんどが、この事実歪曲の訂正を要求し抗議書に署名している。 5 やらせ、歪曲取材 番組のナレーションで語られる柯徳三さん一家の家族情報は、NHK取材班が柯徳三さんの自宅を訪れ、教えるまで、柯徳三さんは知らなかったにもかかわらず、NHK製作スタッフは、自分たちの狙っている製作意図を柯徳三さんにしゃべらせて、証言者自身から出た言葉であったかのように撮影し、編集し、放送している。柯さんはその情報を聞いて、コメントをさせられたのである。これはテレビ製作者としてはやおってはいけない「やらせ」取材であり、完全な放送法の違反である。 第7 被告に対する抗議とその対応 1 原告らの一部を含む多数の国民は、本件番組があまりに事実を歪曲し、我が国を不当に貶めていることに抗議して、被告に対して、東京では、平成21年5月16日、30日、6月20日と抗議デモが行われ、それぞれ1000人以上が参加した。東京以外では、大阪、名古屋をはじめ全国各地で被告の支局に対して同様の抗議デモが行われ、台湾の台北でも行われた。 2 平成21年6月11日には、「公共放送のあり方について考える議員の会」が発足し、衆参両院議員60名以上が加入して、本件番組が「日本の統治がひどかったという一方的な内容にしている」との観点から、有識者や被告の管轄官庁である総務省担当者などにも出席を要請して公共放送の在り方を議論している。 3 放送法第2条3号の2の放送事業者である株式会社日本文化チャンネル桜の調査によると、本件番組に登場したほとんど全部の台湾人は、自分の発言が一方的に放送されていたり、公平でなかったりしたことを抗議している。さらに、被告が材料を提供して自分の好みに合わせた発言をさせたいわゆるやらせ発言であることまで判明している。 4 原告らの一部や、上記議員の一部が被告に対して、本件番組について、抗議したが、被告は、本件番組は公平であるとして、誠意ある対応をしない。 5、被告は台湾人出演者から抗議はないと、NHKのホームページや議員の会への回答書で繰り返し明言しているが、出演した台湾人のほとんどが訂正と抗議の書類に署名捺印している。また、台湾人の日本語世代の代表的な会である「友愛会」も80名の署名とともに抗議書を原告団に送付している。 第8 原告らの損害 1 原告らは、被告と受信契約を締結させられているが、原告らが契約締結に応じたのは、被告が本件義務を果した番組を放送することを期待したからである。 2 被告はその期待に反したばかりか、逆に本件義務に反した番組を反していないと居直っている。被告が原告らの期待に反した本件番組を放送したことにより、原告らが受けた精神的損害は、各自1万円を下らない。 3 また、受信契約を締結していない原告らは、本件義務に反した番組を放送する被告との受信契約を強制されるのではないかという精神的不安をかかえている。その不安についての慰謝料は各自1万円を下らない。 第9 結論 よって、原告らは被告に対し、本件受信契約違反に基づく慰謝料として各々1万円、およびこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みに至るまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。 添付書類 1 資格証明1通 2 訴訟委任状8389通 (別紙1)「アジアの“一等国”」書き起こし 代理人目録 弁護士 髙池勝彦 弁護士 青山定聖 弁護士 荒木田修 弁護士 内田智 弁護士 尾崎幸廣 弁護士 小沢俊夫 弁護士 勝俣幸洋 弁護士 神崎敬直 弁護士 田中平八 弁護士 田中禎人 弁護士 田辺善彦 弁護士 玉置健 弁護士 中島繁樹 弁護士 馬場正裕 弁護士 羽原真二 弁護士 浜田正夫 弁護士 藤野義昭 弁護士 二村豈則 弁護士 牧野芳樹 弁護士 松本藤一 弁護士 溝呂木雄浩 弁護士 三ツ角直正 弁護士 森統一 弁護士 山口達視 弁護士 山崎和成 〒102-0093 東京都千代田区平河町二丁目16番5号 クレール平河町302号髙池法律事務所(送達場所) 電話03(3263)6041 ファックス03(3263)6042 弁護士 髙池勝彦 〒860-0078 熊本県熊本市京町二丁目1番17号 青山定聖法律事務所 電話096(352)1167 ファックス096(352)1168 弁護士 青山定聖 〒104-0061 東京都中央区銀座六丁目12番2号 東京銀座ビル3階荒木田修法律事務所 電話03(3572)5175 ファックス03(3572)5176 弁護士 荒木田修 〒100-0006 東京都千代田区有楽町一丁目13番1 号 第1生命館内山近・矢作法律事務所 電話03(3216)3822 ファックス03(3215)5400 弁護士 内田智 〒154-0022 東京都世田谷区梅丘一丁目22番4-203号 菊水法律事務所 電話03(6240)8277 ファックス03(6240)8278 弁護士 尾崎幸廣 〒183-0023 東京都府中市宮町一丁目23番3号 關口ビル5階小沢俊夫法律事務所 電話042(336)6701 ファックス042(336)6702 弁護士 小沢俊夫 〒101-0021 東京都千代田区外神田二丁目18番20号 ナカウラ第五ビル4階勝俣幸洋法律事務所 電話03(5297)3755 ファックス03(5297)3756 弁護士 勝俣幸洋 〒100-0014 東京都千代田区永田町二丁目14番3号 赤坂東急ビル8階赤坂山王法律事務所 電話03(3591)6070 ファックス03(3591)6071 弁護士 神崎敬直 〒105-0004 東京都港区新橋四丁目29番6号 寺田ビル4階402号室 電話03(3436)6595 ファックス03(5472)4087 弁護士 田中平八 〒105-0004 東京都港区新橋四丁目29番6号 寺田ビル4階402号室 電話03(3436)6595 ファックス03(5472)4087 弁護士 田中禎人 〒640-8144 和歌山県和歌山市四番丁26―2 田辺法律事務所 電話073(431)2801 ファックス073(433)2299 弁護士 田辺善彦 〒640-8117 和歌山県和歌山市南細工町12 玉置・石倉法律特許事務所 電話073(436)1520 ファックス073(436)3087 弁護士 玉置健 〒810-0073 福岡市中央区舞鶴三丁目8番1号 まいづる中央ビル206号中島法律事務所 電話092(721)4312 ファックス092(761)3976 弁護士 中島繁樹 〒850-0033 長崎県長崎市万才町10―16 パーキングビル川上2階馬場法律事務所 電話095(821)1632 ファックス095(821)1685 弁護士 馬場正裕 〒700-0811 岡山県岡山市北区番町一丁目7番26号 羽原真二法律事務所 電話086(221)6464 ファックス086(221)6460 弁護士 羽原真二 〒107-0062 東京都港区南青山五丁目9番15号 新青山共同ビル521 浜田正夫法律事務所 電話03(3498)3435 ファックス03(3498)3439 弁護士 浜田正夫 〒060-0005 札幌市中央区北五条西6丁目1―23 北海道通信ビル5階藤野法律事務所 電話011(241)8141 ファックス011(241)8142 弁護士 藤野義昭 〒450-0002 名古屋市中村区名驛五丁目3番21号 いとうビル2階二村法律事務所 電話052(586)0567 ファックス052(586)0564 弁護士 二村豈則 〒100-0014 東京都千代田区永田町二丁目14番3号 赤坂東急ビル8階赤坂山王法律事務所 電話03(3591)6070 ファックス03(3591)6071 弁護士 牧野芳樹 〒541-0041 大阪府大阪市中央区北浜二丁目3番6号 北浜山本ビル3階松本藤一法律事務所 電話06(4707)8518 ファックス06(4707)0038 弁護士 松本藤一 〒101-0052 東京都千代田区神田小川町一丁目1番 山城ビル2階溝呂木法律事務所 電話03(3518)4766 ファックス03(3518)4767 弁護士 溝呂木雄浩 〒810-0073 福岡県福岡市中央区舞鶴三丁目3番1号 三ツ角法律事務所 電話092(715)4101 ファックス092(715)4066 弁護士 三ツ角直正 〒810-0041 福岡市中央区大名二丁目4 番30号 西鉄赤坂ビル3階森統一法律事務所 電話092(725)8763 ファックス092(725)8764 弁護士 森統一 〒160-0023 東京都新宿区西新宿七丁目10番12号 KKDビル401 山口達視法律事務所 電話03(3365)5121 ファックス03(3365)5123 弁護士 山口達視 〒640-8152 和歌山県和歌山市十番丁12番地 公園前法律事務所 電話073(427)2204 ファックス073(427)2205 弁護士 山崎和成 提訴騒動
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1986.3 沖縄史料編集所紀要11 座間味島集団自決事件に関する隊長手記 大城将保 座間味島集団自決事件に関する隊長手記一、隊長命令説"について 二、手記「戦斗記録」 一、隊長命令説"について 沖縄戦下、座間味島(座間味村・慶良間諸島)で発生した住民の集団自決については、数多の戦記に記述が見られるが、「鉄の暴風』(沖縄タイムス社・一九五〇年)以来現在に至るまで、集団自決は隊長の命令によるものである、という見解が通説になっていた。 ところが、昭和六〇年七月三〇日付『神戸新聞』は、当時の海上挺進隊第一戦隊長(少佐)・梅澤裕氏はじめ関係者の談話を基に、「日本軍の命令はなかった」というサブタイトルをつけて、いわゆる"隊長命令説"に疑問を提示した。 筆者(大城)は、『沖縄県史』に"隊長命令説"に基づく解説記事を執筆した責任上、この新説を無視するわけにはいかず、直接梅澤氏に書簡および電話で連絡をとり、ご本人の意向を確かめたうえ、より詳細で正確な事実関係を把握すべく手記の執筆を要望したところ、早速同氏から次節に掲載する「戦斗記録」の原稿を寄せていただいた。 まず、同手記を紹介するにあたって、従来の"隊長命令説"の経緯を、筆者の関わる範囲内であらかじめ明らかにしておきたい。 "隊長命令説"には二種類の原資料が考えられる。 最も早いのは沖縄タイムス社『鉄の暴風』(一九五〇年)であるが、同書の記述では、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」(四一ぺージ)とあるのみで、具体的な命令内容はみられない。 ところが、山川泰邦『秘録・沖縄戦史』(一九五八年)には、「艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』」(二二九ぺージ)とあり、はじめて命令内容が明記されている。 『沖縄県史』第8巻・沖縄戦通史(一九七二年)では同書を参考にして命令内容が引用されており、おなじく『沖縄県史』第10巻・沖縄戦記録2では「座間味村」の項で筆者(大城)が次のように「解説」を書いた。 「午後十時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』というものだった/役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた」「ここでは、部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言から確認できるのである」(六九八~六九九ぺージ)。 最新の出版物では『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス杜・一九八三年)が「座間味島集団自決」の項で『沖縄県史』10巻の記述を引用している。 ところで、『沖縄県史』10巻の該記述は、下谷修久『沖縄戦秘録・悲劇の座間味島』(昭和四三年)に収録されている現地在住の宮城初枝氏の手記「血ぬられた座間味島・沖縄緒戦死闘の体験手記」を参考にして書いたものである。「午後十時頃梅沢隊長から次の軍命令がもたらされた/『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』云々」(三八べージ)とある。この原資料には座間味村当局が琉球政府および日本政府に提出した『座間味戦記』(タイプ印刷、八ぺージ)と題する文書がある。「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問はず若き者は全貫軍の戦斗に参加して最後まで闘い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於て玉砕する様にとの事であった」。宮城氏の手記はこの部分の引用である。 山川氏の記述も、おそらく座間味村から琉球政府に提出された援護関係文書に拠ったものと思われるが、要するに、"隊長命令説"は村当局の公式見解になっていたのである。 以上述べた通り、"隊長命令説"には二種の根拠資料が存在するのであるが、後者の場合は、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したとは書いてない。そして、多くの住民証言から、役場の書記が「忠魂碑前に集合して玉砕するよう」伝達してまわった事実は確認されている。そこで、問題になるのは、村当局と軍との間に集団自決について事前の通達、ないし協議がなかったかどうか、ということである。この点について筆者は梅澤氏に電話で質問したのであるが、「そういうことはなかった」と否定した。ただし、軍には他に勤務隊、整備隊等の集団があって、もし、事前協議等があったとすれば他部隊の可能性も否定できないが、集団自決が村当局の自発的な方針によるものか、あるいは何らかの形で軍の意向がはたらいていたのか、村三役以下役場幹部のことごとくが組合壕で自決を遂げた後となっては、その真相を確かめるのは容易でない。 いずれにしても、従来の"隊長命令説"は現地住民の証言記録を資料として記述されてきたのである。これに対し、一方の当事者である梅澤氏から"異議申立て"がある以上、われわれはこれを真撃に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである。以下に同氏の手記を掲載させていただき、筆者の当面の責をはたしたいと思う。 なお、手記は後半に「戦後の苦悩」と題をあらためて、戦後、同問題をめぐって氏の周辺で起きた事柄の経緯を述べているが、紙幅の関係と、また論点を明確にする上でも、「戦斗記録」のみに絞って、後半部は割愛させていただいた。 二、手記「戦斗記録」 (梅澤裕) 私は昭和十四年九月より戦争に参加し、大陸(北支)を転戦したが、最後は沖縄県慶良間の座間味島で死闘を演じた。そして二十一年一月負傷の身を米軍の手厚い取扱により病院船で浦賀に復員したのである。 元来軍人を志し正規教育を受け、任官後長期間戦陣に明け暮れた次第だが、此の戦争は不可解なりと感じ始めたのは太平洋戦争頃であった。騎兵戦車兵として大陸で行動したが、十九年一月何と船舶兵に転科させられ、宇品の船舶司令部に派遣され、船の運用を練習した。之は破局を迎えつつあった、南方の島伝いに軍需資材を急送する特殊艇の要員であったのだ。それが結局その船も資材難で出来ず、ベニヤのモーターボートを爆装し敵輸送船に体当りする特攻艇要員になった。瀬戸内で夜間の猛訓練の後十九年九月、海上挺進第一戦隊の長となり座間味に進駐したのだ。 私は既に戦争の前途は大体予見して居た。若し米軍上陸となれば国土内の戦争になり悲惨の極だろう。こんな特攻艇にどれ程の効果を期待出来るのか。その後比島戦が始まりその経過を見乍ら、統帥部はいつも決戦を呼号するが、果して決戦をやるのか、見殺しではないか等、若い将校や村民が案じられてならなかった。大陸で数多くの戦斗を経験して居たので戦争の悲惨は熟知して居た。中央はいつ迄こんな事をさせるのだと先が案じられた。果して大変な事になった。敵は大挙上陸、反撃も一瞬に吹き飛び、そして無残な村民の自決。これは戦争なんてものではない、奴等の言うジャップハンティング、即ち嬲り殺しの様なものだった。弾薬無く食糧なく数日を出ずして、蹌踉と唯山林をさ迷う部隊を見て、正に国敗れんとして、軍の崩壊せんとする地獄のさ中私は負傷し力尽きた。そして戦後になり何たる事、村民の自決は私の命令によるものとされ、爾来三十年間汚名に泣くこととなった。以下座間味進駐以後の経過を記述する。 一、座間味島進駐(19・9) 九月十日輸送船より上陸した。戦隊は私以下百数名、装備は艇百隻、武器は三十年式軍刀、拳銃(旧式輪動式)自動短銃約十挺、五十㎏爆雷二百五十個位。之を支援する基地隊は○少佐以下約八百名であった。島民は当時沖縄で最も愛国的な村民で誠心誠意の人達であった。皆一致団結して協力して戴いたので大いに感謝し私以下部隊は親睦に留意し非違行為は一件もなかった。 十九年十月十日沖縄大空襲あり、私は前日より首里の司令部に出頭して居た。空襲は米機のみ乱舞し那覇は壊滅した。 その後本鳥に配備されていた第九師団を比島に増強する問題が発生、結局台湾に足止めの愚挙があった。之が為基地隊長以下主カがその穴埋めの為本島に移動した。行く者は喜び残置された者はショックであったが運命は彼等が全滅の途を歩んだのだった。 私は残留約二百八十名を指揮下に入れた。不足労力を補う為朝鮮人軍夫百人が来援した。間もなく比島戦始まる。リンガエン上陸戦にて我等と同種戦隊が出撃したが殆ど不成功でこの秘部隊は米軍の知る処となる。※1 (当時この戦隊は全国に三十あり、ケラマは座間味、阿嘉、渡嘉敷に各一、本島に三ケその他は此島、内地にあつた)。私は比島の事で米軍は沖縄の戦隊を調査する。我企図は察知されるだろうと判断した。果してそれから米機の偵察が始まり写真撮影が行われたのだ。その後空襲が二、三回あり兵舎の学校も焼失、我々は村落内に舎営し分散した。之が為老人婦人達は若い兵を息子の様に大事にして戴き双方食い物を頒ち合い甘味品を分け合ったものである。空襲で優秀な鰹舟が煙を発したのを見て隊員は危険の中を飛び込み消し止めた。之も村民に対する感謝の気持の現れだった。舟はその後崖下に秘匿し戦後も活躍した由である。軍司令部は若い将兵を思ってか女傑の店主の引率する五人の可憐な朝鮮慰安婦を送って来た。若い将校は始めて青春を知ったのだ。 ※1 これは『戦史叢書』1968刊などを読んで知ったことであろう。1945年時の"判断材料"にはならない。 島の青年は殆ど出征して居り、若者は女性が主であり女子青年団が出来て軍属の様に働いて居た。此の頃夜間、山の上で燈火信号の如きものが散見された。沖縄人は米国へ出稼者が多い故スパイ活動ではないかと部下や村民間に噂が流れた。斥候を出して調べたが不明だった。疑わしき者ありとの報告もあったが証拠もなし、又考える処ありて私は押さえた※2 。之で良かった。他島は処刑の話が多い。 ※2 沖縄軍が「防諜」「防諜」と号令をかけている中で、極秘基地がそれでいいのか? 比島戦は終熄した。今度は沖縄だろう。大勢は極めて不利、部下、村民の運命如何にと案じつつ訓練に励んだ。之を推進する基地隊は三百名足らず。その装傭は機関銃一、軽機関銃数挺、擲弾筒二、後は小銃のみ、村民は約八百、老幼婦女子の他青壮年若干、之を指導する者は村長、助役、収入役等役場の幹部そして校長先生警察官等であった。敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。何という事だ。戦国の落城悲話の如き心情がケラマにあったのだ。 二、米軍上陸・死闘(20・3・23以降) 二十三日本島に先がけザマミに空襲始まる。直ちに戦斗配置につき壕に退避厳に秘匿し応射せず。折しもザマミには沖縄船舶団長大町茂大佐一行が視察の為来島し訓示の最中であった。当日夜一行は渡嘉敷の第三戦隊へ移られた。二十四日猛爆。二十五日は戦艦級以下海峡に侵入し来り爆撃と艦砲射撃で島は鳴動した。そして舟艇秘匿壕は落盤や直撃により使用不能となった。当夜より軍司令部からは敵の輸送船の位置が知らされて出撃するのが計画であったが、数百の島を取巻く艦船が無電妨害によりガーガーと雑音ばかりで受信不能、又出撃の基地そのものが襲撃されては特攻なぞ一片の夢と化した。よしんば出撃してもすぐ沖に取巻く装甲艦により瞬時に撃滅されてしまったであろう。 二十五日夜二十二時頃戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が来訪して来た。助役宮里盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏及び女子青年団長宮平初枝さん(現在宮城姓)の五名。 その用件は次の通りであった。 いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。 老幼婦女子は予ての決心の通り軍の足手纒いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。 就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。 私は情然とした。今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか。 私は答えた。 決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましょう。※3 弾薬は渡せない。 ※3 宮城初枝氏はそうは聞いていない=『母の残したもの』 しかし、彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開し忠魂碑近くに落下したので彼等は急いで帰って行った。 これで良かったとホッとしたが翌二十六日から三日位にわたり、先ず助役さんが率先自決し村民は壕に集められ次々と悲惨な最期を遂げた由である。 この五人も宮城初枝さんだけ生存し他は皆自決された。私は戦斗間村民が数多く亡くなったと報告を受けたがこんなことが行われたとは知らなかった。昭和三十三年頃マスコミの沖縄報道が盛になり始めて知った。 三、上陸戦(3・26) (1)二十六日九時頃より爆撃開始 西方沖合は舷々相接する輸送船群の為水平線は全部埋まって居た。見事という他なかった。夫より上陸用舟艇や水陸用戦車が泛水開始、そして整備調整か円運動を行う。果して敵はどの島に来るか、ああ遂に来るべきものが来た。運命や如何にと台地に立ちて待機した。 午前十時彼等は一斉に白波を蹴立ててザマミに向って来た。斯くして本島に先立つ事六日前我戦隊は沖縄の戦端を開いた。 この米軍はアンドリュー師団、ブルース少将の77師団の由でLST32、LIS40その他の輸送船一四を主体とする陣容であった。我隊は戦隊の他約二百八十名、機関銃一挺の水際反撃は何十門の戦車で一瞬ふっとび後退し、村を取囲むコの字状丘、台地に拠って抵抗した。奴等は我々をなめた様に散開し、中腰になって前進するのを斜射、側射で撃ちまくったらコロコロ倒れた。そしてすぐ退却し空地連絡してグラマンを呼ぷ、戦車が交代反撃してくる。之で一日が終った。 (2)夜戦 島一番の高台番所山に敵が上ったので夜九時頃本部基地隊の主力で夜襲を決心し突込んだが敵はすぐ後退し夜襲は中断した。然るに、離れて阿佐海岸に待機中の戦隊第一、第二中隊、といっても六十名がそのすぐ裏山に進入した敵の機関銃陣地に独断で斬込んだ。丁度十時頃我々主力が位置した番所山西方稜線から遥か東方に猛烈な敵の機関銃音が起こった。そして数分にして終った。この若武者等は出撃不能の無念、この裏山の機関銃陣地が翌朝より及ぼす影響を判断し叩こうとした。本部とは離れ、敵が中間各処に進入したので連絡困難、斯くして連絡とらざる儘独断斬込んだ。右の谷に沿い伊藤少尉の第一中隊、左山道に沿い阿部第二中隊、銃座を取囲み折重なって倒れて居た。敵陣地は一時奪取し奪った機銃で第二線を撃ったが逆襲でやられた。敵黒人射手は銃と鎖でつながれ、その脳天を阿部少尉の軍刀が二つに割り共に折重なって倒れて居た。生残る者四名。私は一瞬にして最も精鋭な現役部下の三分の二を失い落胆の極に達した。状況把握が遅かった。連絡報告さえあれば止められたものをと残念の至である。 (3)二十七日より月末頃迄 之より連日圧倒的に優勢な空、陸、海の包囲攻撃で逐次斃され、収容に由なく、弾薬尽き、加ふるに敵に降った村民より聞き出し、彼等は糧秣の秘匿壕を黄燐弾で焼き払ったので飢餓状態となった。村民は次々と投降したが止めなかった。しかし民間防衛隊、女子青年団はよく協カした。基地隊の朝鮮人軍夫百名は壕や陣地構築によく働いたが、敵上陸前夜動揺甚しとの報告を受けた。彼等なりに情報があった様で、日本の敗戦近しとして投降の徴がある、処刑すべきかとの報告があったが、日本人でもない彼等は既に戦力にはならぬ、処刑不可、追放せよと命じた。彼等はすぐ逃げて行った。前記慰安婦にも軍夫を放すから自由にせよと伝えた。既に日本兵と懇になった者もあり淋し相であった。すぐ米軍に行かず山林中を暫くさ迷った後四名が投降した由。一名が重傷の将校を看取ると云って離れず後二人で手榴弾で自決した。※4 ※4 このことが間違って伝わり、『鉄の暴風』初版の梅澤死亡説になったと思われる。 哀話ではないか。女傑の主人は本部と行動すると云い去らず将校軍服を着用して看護に炊事に大いに働いた。後私が負傷後はつき切りで看護してくれた。 古座間味海岸の戦隊壕の津村第三中隊は度々本部主力と合流せんと行動したが包囲を脱することが出来ず海岸よりの戦車の攻撃に潰滅した。津村少尉は本部違絡の途上重囲に陥り哀れ戦死した。 主力は敵の攻撃をかわして夜間行動し東の阿真山中へ又翌日は東北の阿佐山中へと食糧なき儘蹌踉として戦斗を続けた。 (4)私の負傷(4・12)と以後の状況 東北部阿佐山中へ圧迫された主力は軍用犬により発見包囲された。地隙により辛ふじて撃退したが私は左膝関節盲貫破片創を受けた。村民は更に後方に分散避難して居たが逐次投降して行った。防衛隊も離れた、女子青年団も負傷者が出たので降りて行った。私は止めなかった。 本部は私以下副官、当番兵、負傷兵及び前記女性が残った。軍医は散在する負傷兵の手当の為山中、林と衛生兵と共に廻り時々私の治療に来る。しかし薬材無く、米軍の落す衛生材料は貴重品であった。私はつくづく考えた。これは戦争ではない、奴等が云うジャツプハンティングだ。これ以上嬲り殺されてたまるか、皆を集めて命令した。「全員数名以下に分散し山林中に隠忍せよ、止むを得ざる場合の他反撃するな。死ぬな」。 この頃敵の掃討も漸やく納まったので情勢の推移を待つ事とした。敗残の部下達は何を食べて居たか。漂着する敵艦船群の食糧残滓、米軍糧秣集積所より奪うレーション、焼却された食糧壕の焼け米、それ等を芋の葉、蔓、大豆の葉で雑炊を作りすすって居た。 (5)六月上旬頃迄 私の傷は激痛が始まり化膿が進んだ。折からの梅雨で兵の作る雨除けも役立たず、連日ビショ濡れ、飢えと寒さで苦しんだ。加ふるに骨髄がやられ高熱が続き朦朧として過した。皆洗濯板のような胸になり夜が明けると横の負傷兵が冷たくなって居たりする。しかし私は助けられた。食糧は元気な兵が手に入れる度に細かく分けて届けてくれた。それを細かく切っては雑炊にする。その頃米粒は一日一人マッチ箱一つ分だった。又投降した防衛隊の学校の先生等が米軍給与等を持って度々夜間尋ねて呉れた。そして敵状、本島の戦況、米軍の内地空襲の状況をその写真と共に知ることが出来た。和平交渉が始まって居ることも判った。※5 座間味島では歩哨線を設けなかったのか? 昼間敵の揚陸艇が私の隠れて居るすぐ下の浜迄来て放送する。「隊長に告げます。戦争は終りつつある。日本は和平交渉に応じて居る。之以上の無駄な戦斗を止めよう。部下救出の途を考えなさい」と。そして賑やかな音楽をボリュームを上げてコーヒータイム、水兵が甲板に坐って何か食って居ると歩哨が報告する。彼等は村民から私の位置を聞き私の症状衰弱の様子を熟知して居たのだ。 (6)私の捕獲(救出)作戦 基地隊の兵に東大出の異色の学徒兵が居た。その名はI君。彼は始めからこの戦争は不可なりとし予て期する所があった。よく事態を把握して居たというぺきだろう※7。敵上陸後彼は一人で秘かに投降した。その後負傷収容された兵や防衛隊員そして米兵と協力して山林中に倒れる負傷兵、餓死迫る兵等を収容して廻った。そして又縷々反抗、狙撃され危険の為作業が進まない。その結果負傷衰弱して居る私他本部のものを捕えよく情勢を認識させ戦隊長自身に救出行動を起して貰おうと決した由である。I君は私に食糧を届けて呉れた防衛隊の人等と協力、或る早暁米軍と共に私等を急襲し、本部は私以下一瞬にして捕われた。すぐ舟艇で村の米軍本部に連れて行かれ連隊長たるハプターン中佐と会った。彼日く「戦はすぐ終る我々はもう敵同志ではない、これから貴官の部下を一緒に救出しよう」と云って握手する。そしてナイフでジュース缶を切り開き私に奨めるのだ。私の思考は大転回した。戦争は敗れたりと痛感した。そしてフランクな米指揮官の態度に感じ入った次第だ。ウエストポイント出の将校だった。 ※7 I中尉は渡嘉敷島にも投稿勧告にいったが、赤松大尉は会ったものの投降には応じなかった。また赤松大尉は、伊江島島民や渡嘉敷島民の少年2人のように投降勧告に来たことを理由にI中尉を斬ることはなかった。 それからすぐ手術、膿が溢れ出た。約一週間の医療生活で大分元気が出た。事態を把握した私は覚悟をきめ部下に告ぐ書を綴り救出作業を開始した。山中の部下達は私の指示書を読み逐次下山して集った。 この間の我が部下、村民の好意努力は申す迄もなく米軍将兵の好意好遇は終生忘却出来ぬ思い出である。私は部下米軍に後事を託し設備の良い本島の病院に移って行った。三回の手術で腐骨が除かれやっとギブスがとれ左足を切らず済んだ。コロンビア大の外科医マッコリイ少佐他看護兵、看護婦の敵味方を隔てぬ友愛精神には感謝の言葉もない。私他多くの負傷兵が焦土と化した内地に帰還したのは二十一年一月以降、私は病院船で浦賀に上陸した。 猶終戦の一ケ月程前私は再ぴ揚陸艇でザマミに連れて行かれハプターン中佐と会った。彼日く阿嘉島の野田少佐の戦隊が往来する米船を撃ってくるので損害が出て困る。彼の頼みは終戦を目前にし掃討作戦をすれば双方に犠牲が出るので私に一緒に阿嘉に行き情況を説明し反抗を止める様説得してくれとの事であった。私は喜んで応じた。担架で阿嘉島へ行き放送したら戦隊長以下奇麗な服でゾロゾロ降りて来た。そして私にすがって無事を喜び合った。斯くして第二戦隊は無事終戦を迎えた。阿嘉は上陸掃討戦が無かったから損害は少なかった。私は浦賀で入院加療をすすめられたが、振り切る様に家路を急いだ。母は八月終戦の二十九日に病で亡くなって居た。 以上により座間味島の「軍命令による集団自決」の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した「座間味戦記」及び宮城初枝氏の「血ぬられた座間味島の手記」が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり) ここまでが梅澤氏による手記である。原告弁護士徳永信一氏が正論9月号で、原告準備書面(2)(7)(8)で、最後の段落を「大城主任専門員は『現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明している」と書き添えた」と主張するがこれはウソである。(『沖縄戦の真実と歪曲』大城将保p56)
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集団自決訴訟 元守備隊長らの請求を棄却 沖縄タイムス速報 沖縄タイムス 元隊長の請求棄却/「集団自決」訴訟 琉球新報「集団自決」軍が関与 元隊長らの請求棄却2008年3月28日 琉球新報 「太平洋戦争」と「沖縄ノート」 琉球新報 「集団自決」軍が関与 岩波・大江訴訟 共同通信 集団自決「軍が深く関与」 元守備隊長らの請求棄却 共同通信 元守備隊長らの請求棄却 沖縄集団自決訴訟 朝日 「沖縄ノート」訴訟、元軍人の請求棄却 大阪地裁 毎日 集団自決訴訟:大江さんらへの請求を棄却 大阪地裁 毎日 集団自決訴訟:判決の日…悲劇の舞台63年目 渡嘉敷島 毎日 集団自決訴訟:軍の関与…法廷内に支援とため息入り混じる 読売 「沖縄ノート」めぐる名誉棄損訴訟、元少佐らの請求棄却 産経 元守備隊長の請求棄却 沖縄集団自決訴訟
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【資料】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』をめぐって 【転載歓迎】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』全内容文字起し 文字起し:夕刻の備忘録 http //jif.blog65.fc2.com/ より転載 一部修正 【転載歓迎】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』全内容文字起しPart.1★オープニング プロローグ:2枚の写真 最初の植民地 台湾領有 1895年 樟脳をめぐって Part.2統治の改革 後藤新平 1898年 公学校開設 台湾人子弟在席事件 樟脳産業の立て直し 日英博覧会「人間動物園」 1910年 Part.3台湾議会設置誓願運動 1921年 原敬の同化政策 台北一中時代の差別 皇太子の台湾行啓 1923年 Part.4台湾議会設置の直訴計画 日中戦争勃発 皇民化政策 1937年 「改姓名」 宗教弾圧 1938年 太平洋戦争勃発 1941年 エピローグ:台湾人元日本兵 Part.1 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-104.html %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% ★オープニング JAPANデビュー 未来を見通す鍵は歴史の中にある 世界の連鎖が歴史をつくってきた 150年前 世界にデビューした日本 私たちはどう生きた そしてどう生きる NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー 第一回 アジアの“一等国” %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% プロローグ:2枚の写真 ★今の横浜港の風景 語り・男声: ――今から150年前、西暦1859年、ここ横浜の港から、日本は世界の荒海に船出しました。長年の鎖国を解き、自由貿易を開始、西洋列強を目標に、日本は近代化の道を歩み始めます。 1859年、ジャパン、世界デビュー。 それから60年後、第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、世界の一等国に登り詰めます。しかし、1945年、太平洋戦争に敗れ、日本は焦土と化しました。日本は何故坂を転がり落ちていったのか。開港から敗戦までの変遷を辿るシリーズ、「JAPANデビュー」第一回のテーマはアジアです。 ――日本の南西に位置する台湾。ここは日本の最初の植民地と成った場所です。近代日本とアジアの関わり、その原点はこの地にあります。毎年秋に行われる道教の祭り、台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です。日本は太平洋戦争の敗戦まで、50年間に渡り台湾を支配しました。台北市の公園に、日本の統治時代を生きた台湾の人々が居ました。 ★公園の風景 「当時の大日本帝国軍人。一万二千八百部隊×××宜しくお願いします(敬礼)。死に損なった日本兵ですよ。あのですね……」 ――太平洋戦争当時、台湾の青年達は日本軍の兵士として、戦場に駆り出されました。 「日本男児と生まれ来て、戦の場(にわ)に立つからは名をこそ惜しめ武士(つわもの)よ、ハハハ……」 「守るも攻めるもくろがねの浮かべる城ぞたのみなる(以降、数名で合唱)。仇なす国を攻めよかし」 ――日本は台湾の統治に力を注ぎ、この島を足がかりに、アジアへと勢力を拡大しました。半世紀に及ぶ統治で、日本は台湾の人々に、日本語をはじめ、日本精神を叩き込んでいきました。そして、太平洋戦争中、およそ21万の台湾人を、日本軍に入隊させ、次々と戦場に送り込みます。 台湾は日本のアジア支配、大東亜共栄圏の基点となっていきます。日本の傀儡国家、満州国、ここに五千人を越す台湾人が移り住みました。台湾の人々は、満州国の役人や技術者となり、日本の支配を支えました。太平洋戦争勃発後、日本が占領したインドネシア、台湾での統治経験を活かし、人々に日本精神の体得を強制していきます。 ★授業中の風景(少年の声) 「私たちはどんな苦しいことでも我慢して力一杯働いています。あのアメリカやイギリスや、オランダに負けてはいけないと思うと、どんなことでも苦しくありません」 語り・女声: ――日本のアジア支配の原点となった台湾。そこから近代日本とアジアとの関係が見えてきます。50年間の日本の台湾統治を象徴する、二枚の写真です。 「人間動物園」、そして「台北第一中学校の生徒達」。 ――台湾の先住民族です。およそ100年前、日本は彼等をロンドンに連れて行き、博覧会の見せ物として展示しました。この写真には世界にデビューした日本が、一等国へと登り詰めるまでの歴史が秘められています。 最初の植民地 台湾領有 1895年 語り・男声: ――日本が開港して間もない19世紀後半。西洋列強が注目していたのは、台湾でした。当時、イギリスやフランスなど列強は、アジアに狙いを定め、競い合って植民地を獲得していました。台湾は列強にとって地理的に重要な場所でした。台湾を基点に中国大陸へ勢力を拡大しようと目論んでいたのです。フランス外務省に残された資料(1895)です。 「イギリスやドイツが台湾を獲得しようとする動きがある。彼らが台湾を侵略するのなら、フランスは何らかの行動をとる」 ――列強の植民地奪い合いの最前線となった台湾。その台湾を領有したのはジャパン、日本でした。日清戦争に勝利した日本は、台湾を獲得します。この台湾領有の背景には、列強のアジア進出に関する日本の危機感がありました。世界の植民地を研究しているパスカル・ブランシャールさんです。 フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール: 「日本を開港させたのは、アメリカの軍艦でした。またフランスは東南アジアのベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、中国南部にも勢力を拡げていました。フランスの軍部では、日本の植民地化も議論されていたほどです。そこで日本は植民地化されない国になるため、欧米列強に倣い、自ら植民地を持つべきだと考えたのです」 ――明治政府が外交上の指針としたのは、西洋列強の間で定められていた国際法、萬國公法です。ここには国のランクが示されています。世界の国々は、一等国、二等国、三等国に分かれている。一等国とは、イギリスやフランスなど、ヨーロッパの五大国である。三等国は他国の意のままになる。日本はこうした世界観を持つ西洋列強と向き合わねばなりませんでした。 日本は防衛ラインを拡げるため、アジアへと進出、日清戦争に勝利した1895年、南の要として台湾を獲得したのです。同じアジアである台湾を、最初の植民地としました。現地統治機関、台湾総督府を置きます。当時の首相、伊藤博文は、台湾の統治が一等国を目指す日本の命運を握っていると考えていました。 「台湾の統治に失敗すれば、日の丸の御旗の光が失墜する(伊藤博文)」 ――初めての植民地を、日本はどのように統治したのか。その詳細を知る手掛かりがあります。台湾総督府文書です。日本内地の行政文書は、太平洋戦争の終結直前に、多くが焼却されています。台湾総督府文書は、統治の実態を明らかにする貴重な資料です。台湾領有から敗戦までの50年間の記録は、二万六千冊に及びます。 総督府は、衛生、教育、軍事、民生、警察など最大でおよそ二万七千人の官僚を抱える巨大な組織でした。日本は統治に力を注ぎます。しかし、領有直後から問題が噴出します。 漢民族としての伝統や誇りを持つ台湾人が、日本の支配に対して激しい抵抗運動を起こしたのです。台湾中部、雲林に暮らす邸順意(74)さん。邸さんは親類達から、住民が武器を取って日本軍と戦った様子を伝え聞いています。 「(字幕)日本軍は川の下流から来ました。台湾人は川の両岸で待ち構えていました。山の中にも潜んでいました。日本軍を取り囲んで射撃したのです。しかし日本軍の攻撃はすさまじく恐ろしかったと聞いています。このあたりの川は、死者の血で真っ赤に染まったといいます」 ――武力で制圧しようとする日本軍に対し、台湾人の抵抗は激しさを増していきます。戦いは全土に拡がり、後に「日台戦争(1895)」と呼ばれる規模へと拡大していきました。戦いによって、台湾の宝といわれる重要な産物が被害を受けます。クスノキから作られる「樟脳」という物質です。台湾の樟脳は、世界のシェアのおよそ七割を占め、西洋列強から注目されていました。 樟脳をめぐって 語り・女声: ――19世紀後半、イギリスでは樟脳を使ってある製品が作られていました。当時、新しい素材として爆発的に普及していたセルロイドです。様々な生活用品に使われる万能の合成樹脂でした。 科学博物館学芸員: 「セルロイドは美しい素材としてとても人気がありました。真珠の代わりとしても使われました。これはビクトリア女王の即位75周年に使用されたものです」 ――樟脳は軍事面でも需要がありました。スウェーデンの科学者、アルフレッド・ノーベルです。1887年、ノーベルは樟脳を使い新しい火薬を発明しました。煙の少ない無煙火薬です。無煙火薬は相手に居場所を探られにくいことから、世界中の軍隊で使われるようになります。世界に広く輸出されていた台湾の樟脳。しかし、混乱する日本の統治下、樟脳工場は次々と操業を停止していきます。 ★背景・旧イギリス領事館(台湾) 語り・男声: ――行き詰まる日本の統治を、台湾のイギリス領事館は冷徹に観察し、本国に報告していました。日本が台湾を領有した翌年、1896年の報告です。 「数ヶ月前には価値のある重要だった樟脳の産地が、日本の統治によって永遠に廃墟になってしまった」 ――フランスもまた、日本に厳しい評価を下していました。 「非常に素晴らしい島が、まったくの未経験者に支配された。極めて残念なことだ」 ――日本の台湾統治を研究してきたマーク・ピ-ティー(スタンフォード大学客員教授)さんです。 「日本は自らの植民地統治を、未熟だと認識していました。しかし一方で、ヨーロッパの植民地大国であるイギリスやフランスに、自分達には統治能力があることを示したいと考えていました。ですから、台湾統治の結果は、日本にとって大変重要でした。日本は台湾を自らの能力を見せるためのショーケースにしたかったのです」 ――台湾統治を成功させ、一等国を目指す日本。しかし、統治の方法を巡り、政府内で大きな混乱が起きていました。原因の一つは、明治政府が作った憲法にありました。台湾領有の六年前に発布されたこの憲法には、植民地の規定が記されていなかったのです。明治憲法の下では、日本の領土に生きる人は、みな天皇の臣民であるとされました。これに従えば、日本が領土とした台湾の人も、天皇の臣民となります。しかし、民族も習慣も異なる台湾人を、臣民として日本人と同様に扱うべきか、議論が起きます。 ――日本は世界の二大植民地大国、フランスとイギリスを参考にします。フランスがアルジェリアの統治で掲げたのは、同化政策でした。フランス国内と同じ法律をアルジェリアにも適用し、フランス国民として生きるよう求めました。 一方、イギリスの植民地、インドの統治は対照的なものでした。イギリスは、イギリス人とインド人を明確に区別し、現地のみに通用する法律、特別法によって統治しました。 日本の下した結論は、いわば、フランスとイギリスの折衷案でした。台湾人を、日本人と同じ天皇の臣民と位置付けながら、台湾のみに通用する特別法を定めたのです。 Part.2 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-103.html 統治の改革 後藤新平 1898年 ――台湾領有から三年後、一人の官僚が台湾に着任し、統治の改革に乗り出します。総督府ナンバー2の民生局長、後藤新平です。後藤は、台湾全土の調査を行います。臣民と位置付けられた台湾人の実態を、把握するためでした。 台湾には漢民族の他に、パイワン族をはじめ、14の先住民族が暮らしています。先住民族が暮らす山あいの地域は、樟脳の産地に近いことから、治安の安定が一きわ重要でした。後藤は、先住民族の村々に自ら足を運びます。そして、日本からは、人類学者や法律の専門家が入り調査をします。台湾総督府文書の中に、先住民族の調査報告書が残されています。 国史館台湾文献館研究員・陳文添: 「(字幕)これは当時、台東地域で生活していた先住民族です。顔の入れ墨や使用していた武器もきめ細かく描かれています。この民族には首狩りの習慣がありました」 ――後藤が語った言葉があります。 「ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。台湾人を日本人に変えることは難しい」 ――風習や文化が異なる台湾人を、臣民として日本人と同じ法律で統治していくことは、困難であると判断します。後藤は、台湾のみに適用される法律、特別法を駆使していきます。先ず手を着けたのは、住民の抵抗運動を抑えることでした。後藤が考え出した条令、匪徒刑罰令です。日本内地ではあり得ない厳しいものでした。略奪、殺傷のみならず、建物や標識、田畑を破壊した者は死刑。未遂であっても同罪とする。総督府警察が、匪徒、犯罪者と見倣せば、たとえ未遂でも死刑に処せられました。 ――匪徒刑罰令によって死刑となった台湾の人々です。条令施行後の五年間で、三千人に達しました。日本統治への抵抗を根絶させるため、後藤は台湾人の協力者を取り込んでいきます。柯(か)徳三さん、87歳。柯さんの祖父は、日本の統治に協力した一人でした。祖父・秋潔さんです。一家は中国福建省から移り住んで来た漢民族でした。秋潔さんは逸早く日本語を学び、日本の統治下で生きていく決意をします。 柯徳三(日本語で語る): 「金の無い貧乏の農民として、私の祖先ですね。渡って来たその祖先達はね、この土地で経営して、田畑を植えて生活しているのに、いまさら大陸に戻ったら何も出来ない。びた一文無い。だから結局、帰れない」 ――地区のまとめ役だった秋潔さんは、住民を監視し総督府に報告する役割を担わされました。後藤は、秋潔さんのような人物を組織化していきました。 柯徳三(日本語で語る): 「あの住んでいる住民達をね、一人でも漏らさないようにコントロール出来る訳だ」 NHKスタッフの声:「周りの人達からどう思われていたんですかね?」 「周りの人達は恐らく、僕ら少年の時は、ああいうこと、分かりません。大人になってから後で考えたらね、恐らくあんたは、日本人の走狗(手先)だ、日本人の人に使われとった奴隷だ、そういう考え方やっとったかもしれませんね、ああ」 公学校開設 台湾人子弟在席事件 ――後藤は、日本人児童が通う小学校とは別に、台湾人児童が通う公学校を開設、統治に必要な日本語の初等教育を始めます。柯秋潔さんは、公学校の日本語教師も務めます。日本の統治に協力してきた秋潔さんは、息子の文徳さんを、日本人が通う小学校に入学させます。それまでの功績から、通学が認められると考えたのです。しかし、このことが総督府で大問題となります。台湾総督府文書に、小学校校長の報告書が残されていました。 「台湾人子弟在席の事件、柯文徳という台湾人が、学校内にいることを発見しました。 誠に恐縮なことでありまして、直ちに退学を命じました」 ――後藤は全ての学校に通達を出します。 「台湾人の児童と日本人の児童は教育の目的が異なる。こうした規則が徹底されなければ、統治の目的は永久に達せられない」 ――退学させられた、柯文徳さんは、徳三さんの父親です。 柯徳三(日本語で語る): 「もしこれを許せば、総督府がこれを許せば、小学校にどんどん台湾人が入るかもしらんと恐れたんでしょ、つまり、化外の民である台湾人を日本語教育するために、公学校というのをこしらえたんだから、おまえらしゃべることに事欠かず、普通の生活に事欠かない程度の日本語を覚えればそれでいいんだ、そういうつもりなんでしょ」 樟脳産業の立て直し ――後藤は、統治の基礎を固めながら、台湾の宝である樟脳産業の立て直しに着手します。生産現場を管理し、労働者への指導を徹底します。 元樟脳工場労働者・許雲集(91): 「(字幕)一カ所でクスノキを切り終わったら、すぐ別の場所で働けと命じられました」 ★キールンの風景 ――樟脳貿易の拠点となった港、キールン(基隆)。後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り替えました。さらに南北400キロを結ぶ縦貫鉄道を建設、樟脳の輸送ルートを確保しました。 総督府は、樟脳の販売を独占します。後藤が赴任した二年後には、樟脳の事業は赤字を解消、現在の価値で、年間およそ100億円の収入を上げるようになります。 「台湾十年間の進歩」、後藤の時代に台湾総督府が出版した欧米向けのパンフレットです。そこでは、台湾が金のなる島になったことをアピールしています。台湾を急速に発展させた日本には、一等国の資格があることを強調したのです。イギリスの商社にとって、台湾の樟脳は重要な貿易商品でした。後藤の改革により、樟脳が安定的に供給されるようになったことを、イギリスは歓迎します。 「日本の政策によって我が国にも多大な利益がもたらされることになる。今後半世紀にわたり台湾の樟脳は、世界中に供給されるであらう」 日英博覧会「人間動物園」 1910年 ――台湾領有から15年後の1910年。日本は、統治の成果を世界に示す絶好の機会を得ます。ロンドンで開かれた日英博覧会。日本とイギリスの友好関係を祝う催しでした。近代国家として坂を駆けのぼってきたジャパン。会場では日本の産業や文化が幅広く紹介されました。訪れた観客はおよそ800万人。特に人気を集めたコーナーがありました。台湾の先住民族、パイワン族。日本は、会場内にパイワンの人々の家を作り、その暮らしぶりを見せ物としたのです。 ――日英博覧会のガイドブックです。そこには、台湾の人々が、客の前で戦いの踊りをし、戦闘の真似事をすると記されています。当時、イギリスやフランスは、博覧会などで植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本はそれを真似たのです。 フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール: 「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、人間動物園だったという訳です。その時代、日本もまた、世界には民族の違いに基づいて、階層があると考えるようになりました。そして、自分達は階層の頂点にあり、その下にアジアの他民族がいる、そうした世界観がハッキリと根付いていったのです」 ★台湾南部、高士村の風景 ――台湾南部、高士村。パイワン族が暮らす村です。およそ100年前、日英博覧会に連れて行かれたのは、この村の出身者でした。 ――博覧会の会場で売られていたパイワンの人々の写真です。裏には、高士村から来た、と記されていました。展示された青年の息子、許進貴(85)さん。そして娘の高許月(79)さんです。父親の名は、チャバイバイ・プリャルヤン。チャバイバイさんは生前、博覧会について子供達に語ることはありませんでした。 (高許月(妹)さん、パイワン語で語り) 「・・・・・・・・・」 (そこに日本語字幕) 「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」 (高許月(妹)さんにクローズアップすると、通訳の声(日本語): 「話しきれないそうだ。悲しいね、この話の重さね、話しきれないそうだ」 語り・女声: ――ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。後藤新平は、独自の法律で抵抗運動を抑え、樟脳産業を立て直しました。日本は、台湾統治の成功を誇示し、世界に一等国入りをアピールしました。その後の台湾統治を象徴する一枚の写真。「台北第一中学校の生徒達」。この写真には、台湾人に日本の文化を叩き込み、民族性まで奪っていった歴史が秘められています。 Part.3 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-102.html 台湾議会設置誓願運動 1921年 語り・男声: ――1914年、日本の台湾統治に大きな影響を及ぼす戦争が起こります。第一次世界大戦です。日本はこの時、イギリス側に立って参戦、戦勝国の一員となります。1919年、パリ。第一次世界大戦の戦後処理を話し合う、パリ講和会議が開かれました。日本は、この国際会議に、イギリスやフランスなどと並んで、初めて五大国の一つとして招かれます。64人の大代表団を送り込んだ日本。ジャパンは、遂に列強から一等国と認められたのです。この時、アメリカ大統領ウィルソンの発言が、世界の植民地に大きな影響を及ぼしていました。民族自決主義、それぞれの民族が、自らの運命を決定する権利を持つという考え方です。 語り・女声: ――ヨーロッパでは、民族自決主義に基づいて、ポーランドやチェコスロバキアなどが独立を果たしていきます。民族自決主義は、アジアの植民地にも火を点けます。民衆に呼び掛けるインドの指導者ガンジーです。ガンジーは、イギリスの統治に対抗し、非暴力不服従運動を展開していました。フランス統治下のベトナムでも、民衆の抵抗運動が始まります。そうしたうねりは、ホーチミンでの武装闘争に発展していきます。 日本が統治していた朝鮮でも、独立を求める激しい抗議行動が起きます。「三・一運動」です。市民がデモを繰り返し、朝鮮総督府の警察部隊と衝突、多数の死傷者が出ました。そして台湾でも、日本の統治に異議を唱える運動が始まります。 語り・男声: ――蒋松輝さん、96歳。蒋さんの父親は、民族運動を率いた一人でした。当時は、病院を経営する医者でした。 蒋松輝(日本語で語る): 「向こうに見える義美というお菓子屋。あそこは親父の病院、大安病院の跡です。上は初めは病室だったけど、後は全部、自覚運動の運動の集会場になった。だからまあ、あの当時の民族、自覚運動の本拠地だったんです」 ――父・蒋渭水です。蒋は、武装闘争ではなく、出版や講演会などの言論を通じ、民衆に民族意識に目覚めるよう呼び掛けました。 蒋松輝(日本語で語る): 「警察は民衆の中に入って、入り込んでいるから、誰がどういう思想を持っているか、一目瞭然だ。だから、できる、できるはずはない。武装闘争できるはずない」 ――台湾議会設置誓願運動。台湾住民から成る議会を設置し、法律と予算を審議する権利を要求しました。いわば台湾人の自治を求めたのです。1921年、日本の国会に台湾議会設置のための請願書が提出されます。この時、日本は世界の民族自決の潮流と逆行します。首相・原敬は、議会で自らの統治方針を語りました。 原敬の同化政策 「台湾の全ての程度に応じて内地の法律を施行する」 ――原が進めようとしたのは、同化政策です。法律上、台湾を内地と同様に扱うことで、民族運動を収めようとしたのです。原が示した方針に対し、議員から疑問が投げ掛けられます。 「フランスでは同化政策を採用していたが、次第に廃棄している。今これから日本だけが同化政策を採るのか」。 ――この頃、フランスはアルジェリアの同化政策を放棄していました。住民の反対運動が激しさを増し、植民地を同じ法律で統治することの限界が露呈していました。しかし、原は答えます。 「他の国がどうであるからと言って、日本にもそれを敷くわけにはいかない。他の国の植民地と日本の植民地は違う。現にここに内地同然になった例がある。琉球だ」 ――明治維新の11年後、琉球は沖縄県として日本に組み込まれます。沖縄には、内地の様々な法律が次第に導入されていきました。参政権が認められ、税制や徴兵制が布かれました。その結果、日露戦争では二千人の沖縄出身者が、日本の兵士として戦場に立ちました。原は、台湾議会の設置を認めませんでした。台湾人が、明治憲法下で、同じ臣民であると定められている以上、沖縄のように同化することを求めたのです。 ――台湾の同化政策で先ず重視されたのが、教育でした。それまで台湾人は、日本人と別々の学校に通っていました。同化政策によって、同じ小学校に通えるようになります。さらに、日本人しか通うことの出来なかった中学校への進学も許可されました。 台北一中時代の差別 ★同窓会の風景 ――かつて父親が日本人小学校を退学させられた、柯徳三さんです。 柯さんは同化政策によって、日本人と同じ小学校を卒業し、中学校に進学しました。柯さんが通った旧制中学校、台北第一中学校を卒業した台湾の人々です。78歳から96歳までの卒業生が一堂に会した同窓会です。台北一中時代の柯徳三さんです。クラスメイトは50人。その中、台湾人の生徒は二人だけ。他はみな日本人です。同化政策の実態は、台湾人にとって厳しい制限付きのものでした。 卒業生(日本語で語る): 「それでね、一中なんかね、あんたね、台湾人は3%しか、3%ぐらい」 卒業生(日本語で語る): 「台北一中を受けるために、日本人より勉強しないと受からない」 柯徳三(日本語で語る): 「日本人になりたい、小さい時は日本人になりたい、どうして台湾人というものに生まれたかなんて考えたけどね、小さい時、小学校の頃ね」 ――狭き門を潜り抜け、中学校に入学した台湾の生徒達。しかし、日本人が大多数を占める中で、より多くの偏見や差別に苦しめられることになります。 柯徳三(日本語で語る): 「台湾人の豚肉の角煮ね、ローバーだな。ああいうものを弁当に持っていってるでしょ、そうすると笑われるんだ。笑われるから。特に豚の尻尾なんか持っていったら笑われる。あれなんだ、豚の尻尾だ。台湾人は豚の尻尾食うのか、わいわいわい騒ぎ立てるんだね。そういうことだから、だから家に帰って、母に文句言ったんです。弁当のおかずを日本式にしてくれ、卵焼きとかね、たらことかね、ああいうものをやってね、そして、なるだけ台湾食を無くしてくれって、要求したんです。私の母も随分苦労したよ。さくら干しとか、みりん干しとか、ああいうものね、おかずにして持って行く。そしたら弁当の蓋を開けるのも、堂々と開けられるね、台湾式のおかず持って行ったら隠さんといかん。恥ずかしくて、笑われるから、あれ、子供の時代、年取って大人の……」 ――台北一中を卒業した台湾人生徒達は、日本人の生徒と同様に、高校や大学に進学しました。社会に出ると、さらに露骨な差別を受けることになります。 卒業生(日本語で語る): 「僕の親父は一番下の判任官(役人)になっていたけど、あんたね、一月ね、百円貰って、同じ判任官でも僕の親父は百円で、内地人は百六十円貰えるんだ」 「同じ職場で、同じクラスで」「そうそう」 「父も華南銀行におったんですが、台湾人だと伸びないんですよ。だからみんなお医者になるって。お医者になったら技術次第だからね」 柯徳三(日本語で語る): 「私の従兄弟の姉さんが、日本人の嫁になって、日本へ行ったけどね、戸籍が入らん。あれが差別。こういうのが差別でしょう。ええ、それで随分苦労したって。最後の最後まで、台湾人である身分を隠さんといかん」 卒業生(日本語で語る): 「台湾においては一等国民は内地人で、二等国民が琉球だ。三番目が台湾人だ」 ――台湾には当時、およそ一万人の沖縄出身者が暮らしていました。とりわけ多かったのが教育関係者でした。日本は、既に同化が進んだ沖縄の人々を台湾に送り込み、指導に当たらせていました。 テロップ:「日本時代をどう思いますか?」 卒業生(日本語で語る): 「もう嫌だな、嫌だ。差別、馬鹿にしよって」 皇太子の台湾行啓 1923年 ――1923年、台湾総督府で大きな計画が持ち上がります。皇太子を台湾に招く、行啓です。総督府がまとめた、「台湾行啓記録」には、その目的が記されています。 「我が国皇道の博大なる仁愛を示し、遠く離れた台湾の民に、すがるべき主君を知らしめる」 ――皇太子を招くことで、台湾人に日本人と同じ臣民であることを、実感させようとしたのです。 皇太子を迎える予行演習。並んでいるのは先住民族です。演習に参加した先住民族の言葉が、残されています。 先住民族の言葉: 「困ったのは不動の姿勢というやつだ。背中から汗が流れるが、拭くことも出来ない。のみならず、目の玉さえ動かすことがならぬ。それは自分らには、生まれて初めての大苦痛であった」 ――1923年4月。皇太子、後の昭和天皇が台湾に到着。当時、皇太子は、病気だった天皇に代わり公務を担っていました。皇太子は12日間に渡り、台湾各地を回りました。視察したのは、統治によって日本化されていく台湾の姿でした。皇太子は、学校や工場など、およそ百カ所を訪ねました。そして訪れた先々で、台湾の人々に姿を見せました。台湾行啓記録の文章です。 「台湾人は日のいづる国の民という自覚に歓喜している。彼らは今や朝廷忠良の民となった」 Part.4 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-101.html 台湾議会設置の直訴計画 ――皇太子の行啓を、千載一遇の機会と捉えた人物がいます。台湾議会設置運動の指導者、蒋渭水です。蒋は、皇太子の一行が、自分の病院の前を通過することを知ります。考え出したのは、皇太子に直接、台湾議会の設置を訴えることでした。 蒋松輝(日本語で語る): 「親父はそのコースを狙って、大きなのぼりを作った」 ――恭しくお迎え致します、台湾議会誓願団。のぼりに書かれた言葉です。 スタッフの声:歓迎しますっていうんですね? 「目的は悪くない。目的はただ、台湾人がこういうことをやっていることを摂政宮(皇太子)に知らせたかった。ていうのはあれ、雲の上の人でしょ。みな知らないよね。台湾人がそういうことをやっていることを、全然知らない。だから知らせようと思って、これを作った」 ――蒋渭水の病院前を通過する皇太子の一行です。しかし、そこに蒋の姿はありませんでした。実行直前に警察に見付かり、拘留されたのです。台湾議会の誓願は、14年間続けられましたが、認められることはありませんでした。台湾の民族運動を研究してきた歴史学者の周婉窈さんです。 周婉窈(台湾大学歴史学系教授): 「この時、台湾人は日本からの独立を求めていたわけではありません。日本の統治を認めた上で、自治を求めていたのです。ですから日本が台湾人の訴えに応えて、自治を許していたら、日本はアジアで新たな世界を創り上げることになったはずです。そうすれば、今日でもアジアの人々の支持を得ることが出来たでしょう。しかし、日本はこの分岐点に差し掛かった時、そうした行動を取ることはありませんでした。台湾人の自治を認めることは無かったんです」 日中戦争勃発 皇民化政策 1937年 ――1937年、日中戦争が勃発。台湾統治が新たな局面を迎えることになります。当時台湾には、およそ500万人の漢民族がいました。日本は、自らの領土内に敵と同じ民族を抱え込むことになります。当時の台湾総督、小林躋造です。小林は、軍人出身者として17年ぶりに台湾総督となりました。軍との結び付きを強めた総督府は、新たな統治方針を打ち出します。 「現下の情勢に鑑み、五百万島民が打って一丸となり、等しく皇国民たる資質を体得するを要す」 ――小林は、皇民化というスローガンを掲げます。皇民化とは、天皇中心の国家主義のもと、台湾人を強制的に日本人へと変える政策でした。学校や新聞などで、中国語を禁止し、日本語の使用を強要します。当時、台湾総督府の官僚だった、田宮良策さんです。田宮さんは、軍部の強い要請の下、皇民化政策を担うことになります。 元台湾総督府官僚・田宮良策(98): 「日本語を話せない人は御遠慮下さい、ということで、バスは乗せなかったですね。しかし、人間の数からしたら、日本人は微々たるものなんですから、その台湾人同士で、こう話す時には、平気でね(中国語)を話す。いや、それは、こっちは(軍の幹部に)実情を話しながら、もう少し方法を変えて貰えないかとかね、いくと、お前は非国民だっつうんだ。軍刀を抜かれたことはないけど、ここ(腰の刀に手をかける仕草)、こうやられたことはありますな」 「改姓名」 ――皇民化政策は、人の名前の変更にまで及びました。同じ時期、朝鮮半島では、新たに氏を創る「創氏改名」が行われ、台湾では「改姓名」が始まりました。 ★先の同窓会の風景 卒業生(日本語で語る): 「私、林(りん)です。それで、僕のお父さんは林(はやし)という名前で改姓名したかった。それは許可出ない。台湾の林ていう姓は必ず、中林(なかばやし)だとか大林(おおばやし)とか中林(なかばやし)とか小林(こばやし)という、もう一字付け加えないといけない」 卒業生(日本語で語る): 「私は黄(こう)で、廣内ね。この字(黄)を残すように、自分の考えをね、それが多いんです」 NHKスタッフの声:「それはどういう思いからなんですか?」 「昔の姓を残したい、昔の自分の姓を残したい、改姓名は結局、公務員の方ね。職場に就いている人は、あのね、改姓名すると、昇級の、あの条件になってしまうんです。それで仕方なしに、みな改姓名するんです」 ――皇民化政策は、台湾人の心の中にまで踏み込んでいきます。台湾全島に、日本の神社を次々に建て、人々に参拝を強制します。 宗教弾圧 1938年 ★背景・開復廟 ――そして、台湾人が拠り所にしてきた宗教への弾圧が始まります。道教寺院や廟の参拝を制限、建物の取り壊しも始めます。この廟を管理する鄭啓松さんは、少年時代の出来事を克明に覚えています。1938年、地域の寺院や廟に奉られていた神々の像が集められ、全て焼かれました。 鄭啓松(80): 「(字幕)神様を、掛け布団の中に隠した人もいれば、台所に隠した人もいました。それでも日本人は、神様を郡の役所に持ってくるよう命じました。従わない者は29日間も刑務所に入れられるのですよ」 ――新たに作られた日本の神社には、破壊した台湾の寺院や、廟の木材も使われました。そして、建築には近隣の台湾人が駆り出されました。皇民化政策によって、台湾の人々は、台湾人であるという意識を大きく変えられていきます。 ★先の同窓会風景 柯徳三(日本語で語る): 「酒を呑むのも日本酒で、こういう人間に誰が育てた、日本だ。そして、しゃべるのも日本語、台湾語でこういう演説を出来ない」 卒業生(日本語で語る): 「自称知識人と言いながら、ね、中国文で今言ったような言葉書けないよ、書こうと思ったら日文ですよ。そっから見れば、果たして幸福かどうか」 柯徳三(日本語で語る): 「書けないよ、あんた書けますか、中国語で」 卒業生(日本語で語る): 「僕は書けないね」 柯徳三(日本語で語る): 「頭のコンピュータが既に日本化されてしまっているから、あの20何年間の教育というのは、実に恐ろしいね。こういうの、頭が全部ブレーンウオッシュされているからね。だから日本式にものを考えたり、日本式に日本語をしゃべったり、そういうことする」 ――近年、日本統治時代を記録したフィルムが発見されました。ここには、皇民化政策が行き着いた先が、映し出されていました。戦時下、台湾青年を集めた訓練所が、各地に作られていきます。そこでは、皇民化政策によって、日本人としての精神が叩き込まれました。台湾の青年達は、天皇の兵士として日本軍に加わり、国のために命を捧げることになります。担ったのは日本の政策「南方進出」でした。 元台湾総督府官僚・田宮良策(98): 「軍の考え方じゃ、やっぱり(台湾を)南進基地にしたいと、そうすっと、こりゃ、あの住民はね敵国になるような人を向こうに回しちゃ拙いから、結局、そりゃ、自分の方の同胞にひっつけておいた方がいいと、日本人にした方が、将来、所謂南方の海洋国家にね、なっていくのには、あそこ(台湾)を根拠地にするのは、一つの、軍部としては、そう考えたんじゃないでしょうか」 太平洋戦争勃発 1941年 ――1941年12月、太平洋戦争が勃発。日本は、戦争の目的を、欧米列強からアジアの植民地を解放することである、としました。 総督府前を行進する「台湾人日本兵」です。太平洋戦争期間中、およそ21万の台湾人が、日本軍に入隊します。そして、中国や南方戦線へと送られていきました。台北一中を卒業した柯徳三さんは、この頃、台北帝国大学の医学部に進学していました。1945年4月、柯さんは日本海軍に入隊します。訓練中、アメリカ軍の大空襲を受け、多くの台湾人兵士が命を落としました。さらに親族も犠牲になります。 柯徳三(日本語で語る): 「それだから、上御一人のためとか、喜んで天皇陛下のために死んでいってるよ。死んだ、死んだ奴こそ災難だよ、ほんと。戦争で犠牲になってね、叔父は海軍の軍属で、マラリアに罹って海軍病院に入っとった。それで帰れるかと思ったら帰れない、死んでる。死んで、どういう病気、マラリアで死んだのか、殺されたのか、どうされたのか、分かりません、全然。未だに分かりません。もちろん骨もありません」 ――1945年8月、敗戦。日本は50年に渡って統治した台湾を手放します。ジャパン、アジアの一等国の終焉でした。 エピローグ:台湾人元日本兵 ★最初の公園の風景 群衆の一人、日本語で歌う: 「太平洋の空遠く、輝く南十字星……」 ――戦場に赴いた、元台湾人日本兵です。太平洋戦争中、三万人を越す台湾人が、戦場で命を落としました。 群衆の一人、日本語で歌う: 「守りは我ら台湾軍、ああ厳として台湾軍。台湾軍の歌、台湾軍の歌」 群衆の一人、日本語で語る: 「あの、教育勅語ね、教育勅語。今ほとんど皆、分かりますよ。暗唱しちゃいましょうか」 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ……」 ――戦後、台湾を統治したのは蒋介石率いる中国国民党でした。日本兵として中国と戦った台湾人は、かつての敵の下で暮らすことになります。台湾人は、日本人の奴隷になったと非難され、国民党と衝突、多くの人々が処刑されていきました。 ★再び公園の風景 群衆の一人、日本語で語る: 「孤児(みなしご)になって捨てられたみたいですよ。人を馬鹿にしているんだ、日本は。そういうとね、間違ってるか?本当のことだろう。間違ってるか?本当のことだろう。これ嘘じゃない、帰ったらね、日本の若い連中には分からないけど、年寄りの80歳以上の人に、まあ、宣伝して下さい。台湾の、台湾の当時の若い青年は、如何にして、日本の民と協力して、尽くしたか、心を察して貰いたい。ハハハ、分かりますか。そうでしょ、命を掛けて国のために尽くしたんだよ、命のため、それなのに……」 ★同窓会の風景。台北一中、パイワン人の写真など フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール: 「私たちは、他者と共有できる歴史を探り当てなくてはなりません。他者の歴史を知ることは、自分自身を知ることでもあります。私たちは最早、正しく優れているのは自分で、間違って劣っているのは相手だ、と考えることは出来ません。世界に目を向け、何故世界の人々が、日本をこのように見るのか、理解しなければならないのです」 ★渋谷?界隈の夜景 ――親日的とも言われる台湾に、今も残る日本統治の深い傷。それは今後、アジアの中で生きていく日本が、分かち合わなければならない現実です。過去と向き合う中から見えてくる未来。150年前に世界にデビューしたジャパンの歴史が、私たち、一人一人の明日を問い掛けています。 %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% ★エンドロール NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー 第一回 アジアの“一等国” 資料等協力(略) %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% 【資料】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』をめぐって
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元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1) ソース:http //www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf 【小目次】 第1 本件は何を問うものか?1 本件の法的争点と判断の前提として不可欠な事実(1)本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、 (2)この簡単な要約からもわかるように、 (3)この法的な責任の有無の判断の前提として、 2 被控訴人らの責任について(1)もとより、本件で問われているのは、 (2)後者の被害者に対する賠償は、 (3)同様に植民地支配によって被害があった場合に、 第1 本件は何を問うものか? 1 本件の法的争点と判断の前提として不可欠な事実 (1)本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、 本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、植民地とした朝鮮から少女らを欺岡して日本に連れてきて、軍需工場で劣悪な環境と差別の下、自由を奪われた強制的な労働に従事させ、それにより身体や心に深い傷を負わせたにもかかわらず、当初の約束に反して貸金の支払いも受けられない状態で着の身着のままで朝鮮に帰し、戦後は、事実に関する調査、公表もしないまま、少女らを軍慰安婦との同一視被害に苦しむことを余儀なくさせた、その被害につき、苦しめられてきた被害者らが日本国政府と三菱重工を相手に損害賠償を請求している事件である。 (2)この簡単な要約からもわかるように、 この簡単な要約からもわかるように、本件の加害事実は、戦前における当時の大日本帝国と三菱重工が行なった朝鮮人の戦時労働動員と戦後の同一視被害の 放置という二つの行為により、被害者が人生を奪われるような重大な被害を受けたということであり、この加害行為について日本政府および三菱重工に法的責任が問えるかということが本件訴訟の中心争点である。 (3)この法的な責任の有無の判断の前提として、 この法的な責任の有無の判断の前提として、上記二つの加害行為について、故意・過失と違法性の有無が問題となる。そして、不法行為における違法性が加害行為の態様と被侵害利益の相関関係で決せられるという相関関係税(通説)からすれば、少なくとも違法性判断の前提として、戦前の行為については、被控訴人である当時の大日本帝国政府がいかなる計画の下に朝鮮人戦時労働動員をどのように計画し実行したのか、そのことに三菱重工を始めとする労働動員を受け入れた企業がどのような関与をしたのかが、被控訴人らのそれぞれの故意・過失および違法性要件の判断にとって必要不可欠である。控訴人らが求めている植民地支配の実態と朝鮮人戦時労働動員に関する証拠調べが本件の審理に欠かせない理由である。 2 被控訴人らの責任について (1)もとより、本件で問われているのは、 もとより、本件で問われているのは、一つは、戦時労働動員であり、そこに被害があった場合(本件では肉体的な被害、精神的な被害の両面が存在する)、当該加害行為を行った者に対する少なくとも民事上の責任追及と被害に対する 賠償が必要となる。不法行為における公平性の回復の要請によるものである。前者は加害行為の責任追及であり、戦争に対する責任(いわゆる戦争を引き起こしたという人道に対する罪ではなく、戦争中の違法行為に対する責任である)の問題である。 (2)後者の被害者に対する賠償は、 後者の被害者に対する賠償は、国家としてあるいは企業としての法的義務の負担の問題である。この問題についての義務を負うべき主体に限って言えば、現在の日本国は、国家として同一性を保ったまま、かつての大日本帝国の正負の全ての遺産を承継することになる。したがって、戦前の行為についても大日本帝国が負うべき責任について現在の日本国がその責任を負うこととなる。また、三菱との関係でも、戦前の三菱が実態として現在の三菱と同一性があると評価できれば被控訴人三菱が戦前の行為についても責任を負うことになる。組織や団体としての被控訴人らが法的な責任を承継するのは当然のことである。 (3)同様に植民地支配によって被害があった場合に、 同様に植民地支配によって被害があった場合に、その植民地被害の加害責任を当時の大日本帝国が負うべきであれば、日本政府がその責任を承継することとなる。本件における戦前の控訴人らの被害事実は、形式的には韓国併合によって植民地とされた結果、「皇国臣民」とされ、その植民地における支配機構を通じて、その権力を背景にして、島民化教育の成果として朝鮮女子挺身隊への参加を決意させられ、その撤回を不可能にさせられたことである。さらに経済的にも参加を促す状況が存在した。その意味で、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員を 可能ならしめたのは、日本による当時の朝鮮植民地支配の実態と強く関連しているのである。以下、植民地化の過程、植民地支配と本件動員との関係および他の戦時労働力動 員と朝鮮女子勤労挺身隊動員との異同について論述する。 indexへ