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編集 中尉とは、前漢前期に置かれた朝廷の職官である。京師(京城、首都)とその周辺を警邏し、盗賊に備え、これを捕らえることを司った。 宮中を巡回する衛尉と表裏を為すとされる。名実共に、諸郡の群尉の任を中央において果たした職と言える。 武帝に執金吾と改められ、以後その名が長く用いられる。 なお、王国の軍備を司る長官としては中尉の名が継続して用いられた。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏(前漢)丞 候 司馬 千人 屬官武庫 式道 中壘 寺互 都船 左輔都尉 右輔都尉 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説結 参照 歴史 中尉は、秦官。漢初これを承ける。 武帝元鼎四年、二輔都尉(左輔都尉、右輔都尉)が左内史・右内史に移る。 太初元年、名を更めて執金吾。 位 卿、一人。秩中二千石。 職掌 京師を徼循するを掌る。 徼は遮繞を謂うなり。いわゆる遊徼。徼循して盗賊を禁じ備えるなり。 属吏(前漢) 丞 二人、千石。 候 司馬 千人 それぞれ部隊を率いる。 将軍制等によれば、編成の上級単位である部を率いるのが部司馬、その下の単位である曲を率いるのが候、千人という順序となる。 屬官 武庫 (前漢) 武庫令 一人。 武庫丞 三人。 式道 式、表也。(顔師古) 車駕が出づれば前に在りて道を清めることを掌る。還れば麾を持ち宮門に至り、門乃ち開く。 式道中候 秩六百石。 丞、一人。 式道左候 秩六百石。 丞、一人。 式道右候 秩六百石。 丞、一人。 中壘 中興して省く。 中壘令 一人。 中壘尉 二人。 寺互 獄令、治水の官なり。 初め、寺互は少府に属し、中ばは主爵に属し、後に中尉に属す。 中興して省く。 寺互令 一人。 寺互丞 一人。 都船 獄令治水の官なり。 中興して省く。 都船令 一人。 都船丞 三人。 左輔都尉 諸郡都尉の如く。左馮翊の武職甲卒を典(つかさ)る。 治所は左馮翊高陵県。 尉、丞、兵卒が有り 武帝元鼎四年、左内史に移る。 右輔都尉 諸郡都尉の如く。右扶風の武職甲卒を典(つかさ)る。 治所は右扶風郿県。 尉、丞、兵卒が有り 武帝元鼎四年、左内史に移る。 所属項目(タグ) 中二千石 中尉 卿 執金吾 尉 職官 軍官 関連項目・人物 護軍都尉 執金吾 中尉 詳説 漢王朝が興ると、山東に諸王を封じ、それ以外の地方には郡県を置いて官吏による統治を企図した。郡には長官として郡守(後の太守)があって行政を総括し、また郡尉(後の諸郡都尉)があって徴兵からなる郡兵を統率した。 しかし、京師長安県周辺五十数県の広い地域には郡守は置かれず、朝廷の中都官による直轄統治が行われた。言わば『京師圏』(後に三輔と呼ばれる)に於いて文治を担当したのが内史であり、武事を担当したのが中尉であった。 中尉の後身となる執金吾は、 「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」 と、長安にてその車騎の甚だ盛んなことを見た若き光武帝が嘆じたことで有名であるが、その設置当初の中尉期に於いては楚漢戦争の余韻を持ち多数の精兵を擁した堂々たる武官職であった。 既に淮南王英布の乱に対して、 上郡、北地、隴西の車騎、巴蜀の材官及び中尉の卒三万人を発し、皇太子の衛と為して霸上に軍す。(高帝紀十一年) とあり、さらに、 五月、匈奴が北地に入居し、河南に寇を為す。 上は甘泉に幸し、丞相灌嬰を遣わして匈奴を撃ち、匈奴は去る。中尉の材官を発して衛将軍に属し、長安に軍す。(文帝紀三年) 六年冬十月,隴西、天水、安定の騎士、及び中尉、河南、河內の卒十萬人を発し、将軍李息、郎中令徐自を遣わして西羌を征するを為す。これを平げる。(武帝紀元鼎六年) と、有事にあって中尉の領する兵力が皇帝と別働して京師の守備に就いたり、征伐の主戦力となったことが見て取れる。 また、中尉自らも、 十四年冬、匈奴が邊を寇し、北地都尉卬を殺す。 三将軍を遣わし隴西、北地、上郡に軍す。中尉周舍が衛将軍となり、郎中令張武が車騎将軍となり、渭北に軍す。車千乗、騎卒十万人。(文帝紀十四年) 景帝中三年秋、蝗。これより先、匈奴が邊を寇す。中尉不害、車騎・材官士を将い、代の高柳に屯す。(五行志第七中之下/聽羞) 衛尉李広が驍騎將軍と為り雲中に屯し、中尉程不識車騎將軍と為り鴈門に屯す。六月に罷。(武帝紀元光元年) 秋、東越王餘善が反し、漢の将吏を攻め殺す。橫海将軍韓説、中尉王音舒を遣わし会稽に出、樓船将軍楊僕が豫章に出、これを撃つ。(武帝紀元鼎六年) と、将軍号を帯びて出征することがあった。この場合、中尉本来の兵力が主体になったと想像できる。 一方、中尉の平時での職掌は盗賊を禁じることであるが、史書には姦猾を検挙し断罪した例が見られる。 後會更五銖錢白金起,民は姦を為し、京師尤も甚し。乃ち縱を以って右內史と為し、王音舒を中尉と為す。(酷吏伝/義縱) 遷って河内太守と為る。……河內の豪姦の家を皆知り……捕郡中の豪猾を捕らえ、相連坐すること千余家。……上はこれを聞き、以って能と為し遷して中尉と為す。その治、また河内に放(なら)い……。 温舒、また中尉となる。……吏は淫悪な少年を苛察し、缿(密告の道具)を投げ告を購い姦を言わせ、伯落の長を置き以って姦を収め司った。……姦猾は治を窮め、大抵盡()く獄中に靡爛し(尽き果て)、論を行って出る者無し。 是の時、上方通天臺を作るを欲するも而して未だ人有らず。温舒は中尉の脱卒を覆すことを請い、数万人の作を得た。(酷吏伝/王溫舒) これらの検挙は、地方では諸郡都尉の管轄であったから、中尉とはまさに「中央の都尉」であった。 その所有する主兵力もまた諸郡都尉と同じく、管轄の県・郷里から徴兵された士卒で編成されていたと推定される。 漢代、郡県制が敷かれた地域の戸口には徴兵制が敷かれ、正となった者は一年間は衛士として宮廷を衛護する他、材官・騎士等として郡に務めて諸郡都尉の指揮下に入ることが知られている。しかし、中尉の担当する『京師圏』にて彼ら材官・騎士を引き受ける職官が何者か、史書には記されていない。ただ京輔、右輔、左輔の三つの輔都尉が中尉に所属したと百官表が記している。 この輔都尉は、同じく百官表で、元鼎四年「更めて二輔都尉を置く」ともされる(元鼎四年の時点で、京師周辺の行政は右内史・左内史の言わば「二輔」が司っており、「三輔」はまだ成立していない)。 しかし、東方朔伝では、武帝期初頭の建元三年に右輔都尉の記述が確認されるため、当初の輔都尉二者は中尉に属し、元鼎四年後に二輔の行政長官各位の所属に「更め」られたのだと言える。上記の王溫舒伝にも、溫舒が中尉部の「脱卒」を集めて数万人を得た事から、管轄地の徭役を総督する地位にあったことが分かるのである。 また、濱口重國氏らは、漢初に京師守備に重要な役割を果たした南北軍のうち、北軍とは中尉の率いる軍であったとする。南北軍の詳細については諸説があり一致を見ておらず、中尉と北軍を直接結び付ける記録も見つかっていないが、この仮説を後押しする記述として、武帝期後期に高官となった江充の事跡がある。 拜して直指繡衣使者と為り、三輔の盜賊を督し踰侈(奢侈が度を越すこと)を禁察す。貴戚・近臣に奢僭多く、充みな挙劾せり。車馬を没入し、身は北軍に待して匈奴を撃たんと令するよう奏請す。 直指繡衣は常制の官では検挙できない盗賊や姦猾を捕らえる皇帝の使者である。この使者が三輔という中尉の管轄で中尉の職責を代行し、その罪人を北軍の士卒にしたことは北軍と中尉の関係の深さを推測させる。 また、『百官表』にて北軍の壘営を掌るのは公卿に属さない中壘校尉とされるものの、この中壘校尉が設置されるのは武帝期であり、一方で中尉の属には中壘令という類似した名の職官が記されている。 結 仮説も含めて中尉の歴史を概観すれば以下のようになる。 漢初の中尉は、後の三輔に当たる『朝廷直轄圏』の五十数県から徴兵された士卒によって編成された常備兵団の司令官であった。 平時には『直轄圏』の政事・軍事を内史と言わば「縦割り」して分掌し、長安城内を守備すると共に圏内の盗賊・姦猾を取り締まって「中央の郡尉」に相当した。その広大な地域を掌握するため、(漢初から存在したかは不明であるが)右輔、左輔の輔都尉が分置された。その長安城内の屯営は中壘と呼ばれたと思われるが、常備兵の他に毎年の徴兵によって教練を受けた士卒が民間に累積していくため、その予備役を合わせれば数万の大兵力になったと考えられる。 しかし武帝期以降、京師周辺の治安の向上や匈奴の脅威の低下によって、中尉に大きな権限を集中する必要がなくなる。まず元鼎四年、二つの輔都尉が右内史・左内史の管轄に移り、太初元年には行政区分が京兆尹、右扶風、左馮翊に三分され、大きく縦割りされていた政事軍事の権限は三者に細分化されることになる。同年、中尉が執金吾と改称され、軍官を示す「尉」の字を除かれる。同じ頃、中壘校尉が設置され、北軍の主要屯営であった「中壘」も皇帝の直轄に移管される。 執金吾と改称して以降も、姦猾を督し(酷吏伝/尹賞)たり、節を持し兵を将いて胡を撃った(奉世輒伝)例から、諸々の権限が一時に失われたとも思われないが、前漢後期にかけて執金吾は当初の大兵力と諸郡都尉に相当する城壁外の盗賊・姦猾を検挙する職責を失っていき、光武帝が長安を詣でた新代には「仕官するなら執金吾」と気楽に言われるような、華々しい車騎を伴って長安城内を巡回し、重責と言えば武庫を守る程度の顕職となっていたのだろう。 ただし、続く後漢代に於いてもまた、執金吾はその時代故の特殊な役割を果たすことになる。 参照 秦漢隋唐史の研究〈上巻〉 編集 -
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資治通鑑巻第十四 漢紀六 太宗孝文皇帝中 前三年(甲子、前一七七) 1冬,十月,丁酉晦,日有食之。 1. 2十一月,丁卯晦,日有食之。 2. 3詔曰:「前遣列侯之國,或辭未行。丞相,朕之所重,其爲朕率列侯之國!」十二月,免丞相勃,遣就國。乙亥,以太尉灌嬰爲丞相;罷太尉官,屬丞相。 3. 4夏,四月,城陽景王章薨。 4. 5初,趙王敖獻美人於高祖,得幸,有娠。及貫高事發,美人亦坐繋河内。美人母弟趙兼因辟陽侯審食其言呂後,呂後妒,弗肯白。美人已生子,恚,即自殺。吏奉其子詣上,上悔,名之曰長,令呂後母之,而葬其母眞定。後封長爲淮南王。 淮南王蚤失母,常附呂後,故孝惠、呂後時得無患;而常心怨辟陽侯,以爲不強爭之於呂後,使其母恨而死也。及帝即位,淮南王自以最親,驕蹇,數不奉法;上常寬假之。是歳,入朝,從上入苑囿獵,與上同車,常謂上「大兄」。王有材力,能扛鼎。乃往見辟陽侯,自袖鐵椎椎辟陽侯,令從者魏敬剄之;馳走闕下,肉袒謝罪。帝傷其志爲親,故赦弗治。當是時,薄太后及太子、諸大臣皆憚淮南王。淮南王以此,歸國益驕恣,出入稱警蹕,稱制擬於天子。袁盎諫曰:「諸侯太驕,必生患。」上不聽。 5. 6五月,匈奴右賢王入居河南地,侵盜上郡保塞蠻夷,殺略人民。上幸甘泉。遣丞相灌嬰發車騎八萬五千,詣高奴撃右賢王;發中尉材官屬衞將軍,軍長安。右賢王走出塞。 6. 7上自甘泉之高奴,因幸太原,見故羣臣,皆賜之;復晉陽、中都民三歳租。留游太原十餘日。 7. 8初,大臣之誅諸呂也,朱虚侯功尤大。大臣許盡以趙地王朱虚侯,盡以梁地王東牟侯。及帝立,聞朱虚、東牟之初欲立齊王,故絀其功,及王諸子,乃割齊二郡以王之。興居自以失職奪功,頗怏怏;聞帝幸太原,以爲天子且自撃胡,遂發兵反。帝聞之,罷丞相及行兵皆歸長安,以棘浦侯柴武爲大將軍,將四將軍、十萬衆撃之;祁侯繒賀爲將軍,軍滎陽。秋,七月,上自太原至長安。詔:「濟北吏民,兵未至先自定及以軍城邑降者,皆赦之,復官爵;與王興居去來者,赦之。」八月,濟北王興居兵敗,自殺。 8. 9初,南陽張釋之爲騎郎,十年不得調,欲免歸。袁盎知其賢而薦之,爲謁者僕射。 釋之從行,登虎圈,上問上林尉諸禽獸簿。十餘問,尉左右視,盡不能對。虎圈嗇夫從旁代尉對。上所問禽獸簿甚悉,欲以觀其能;口對響應,無窮者。帝曰:「吏不當若是邪!尉無賴!」乃詔釋之拜嗇夫爲上林令。釋之久之前,曰:「陛下以絳侯周勃何如人也?」上曰:「長者也。」又復問:「東陽侯張相如何如人也?」上復曰:「長者。」釋之曰:「夫絳侯、東陽侯稱爲長者,此兩人言事曾不能出口,豈效此嗇夫喋喋利口捷給哉!且秦以任刀筆之吏,爭以亟疾苛察相高。其敝,徒文具而無實,不聞其過,陵遲至於土崩。今陛下以嗇夫口辨而超遷之,臣恐天下隨風而靡,爭爲口辨而無其實。夫下之化上,疾於景響,舉錯不可不審也。」帝曰:「善!」乃不拜嗇夫。上就車,詔釋之參乘。徐行,問釋之秦之敝,具以質言。至宮,上拜釋之爲公車令。 頃之,太子與梁王共車入朝,不下司馬門。於是釋之追止太子、梁王,無得入殿門,遂劾「不下公門,不敬」,奏之。薄太后聞之;帝免冠,謝教兒子不謹。薄太后乃使使承詔赦太子、梁王,然後得入。帝由是奇釋之,拜爲中大夫;頃之,至中郎將。 從行至霸陵,上謂羣臣曰:「嗟乎!以北山石爲槨,用紵絮昔斮陳漆其間,豈可動哉!」左右皆曰:「善!」釋之曰:「使其中有可欲者,雖錮南山猶有隙;使其中無可欲者,雖無石槨,又何戚焉!」帝稱善。是歳,釋之爲廷尉。上行出中渭橋,有一人從橋下走,乘輿馬驚。於是使騎捕之,屬廷尉。釋之奏當:「此人犯蹕,當罰金。」上怒曰:「此人親驚吾馬,馬賴和柔,令它馬,固不敗傷我乎!而廷尉乃當之罰金。」釋之曰:「法者,天下公共也。今法如是,更重之,是法不信於民也。且方其時,上使使誅之則已。今已下廷尉。廷尉,天下之平也,壹傾,天下用法皆爲之輕重,民安所錯其手足!唯陛下察之。」上良久曰:「廷尉當是也。」 其後人有盜高廟坐前玉環,得;帝怒,下廷尉治。釋之按「盜宗廟服御物者」爲奏當:棄市。上大怒曰:「人無道,乃盜先帝器!吾屬廷尉者,欲致之族;而君以法奏之,非吾所以共承宗廟意也。」釋之免冠頓首謝曰:「法如是,足也。且罪等,然以逆順爲差。今盜宗廟器而族之,有如萬分一,假令愚民取長陵一抔土,陛下且何以加其法乎?」帝乃白太后許之。 9. 四年(乙丑、前一七六) 1冬,十二月,穎陰懿侯灌嬰薨。 1. 2春,正月,甲午,以御史大夫陽武張蒼爲丞相。蒼好書,博聞,尤邃律暦。 2. 3上召河東守季布,欲以爲御史大夫。有言其勇、使酒、難近者;至,留邸一月,見罷。季布因進曰:「臣無功竊寵,待罪河東,陛下無故召臣,此人必有以臣欺陛下者。今臣至,無所受事,罷去,此人必有毀臣者。夫陛下以一人之譽而召臣,以一人之毀而去臣,臣恐天下有識聞之,有以窺陛下之淺深也!」上默然,慚,良久曰:「河東,吾股肱郡,故特召君耳。」 3. 4上議以賈誼任公卿之位。大臣多短之曰:「洛陽之人,年少初學,專欲擅權,紛亂諸事。」於是天子後亦疏之,不用其議,以爲長沙王太傅。 4. 5絳侯周勃既就國,毎河東守、尉行縣至絳,勃自畏恐誅,常被甲,令家人持兵以見之。其後人有上書告勃欲反,下廷尉。廷尉逮捕勃,治之。勃恐,不知置辭。吏稍侵辱之,勃以千金與獄吏,獄吏乃書牘背示之曰:「以公主爲證。」公主者,帝女也,勃太子勝之尚之。薄太后亦以爲勃無反事。帝朝太后,太后以冒絮提帝曰:「絳侯始誅諸呂,綰皇帝璽,將兵於北軍,不以此時反,今居一小縣,顧欲反邪?」帝既見絳侯獄辭,乃謝曰:「吏方驗而出之。」於是使使持節赦絳侯,復爵邑。絳侯既出,曰:「吾嘗將百萬軍,然安知獄吏之貴乎!」 5. 6作顧成廟。 6. 五年(丙寅、前一七五) 1春,二月,地震。 1. 2初,秦用半兩錢,高祖嫌其重,難用,更鑄莢錢。於是物價騰踴,米至石萬錢。夏,四月,更造四銖錢,除盜鑄錢令,使民得自鑄。 賈誼諫曰:「法使天下公得雇租鑄銅、錫爲錢,敢雜以鉛、鐵爲它巧者,其罪黥。然鑄錢之情,非殽雜爲巧,則不可得贏;而殽之甚微,爲利其厚。夫事有召禍而法有起姦;今令細民人操造幣之勢,各隱屏而鑄作,因欲禁其厚利微姦,雖黥罪日報,其勢不止。乃者,民人抵罪多者一縣百數,及吏之所疑搒笞奔走者甚衆。夫縣法以誘民,使入隱阱,孰多於此!又民用錢,郡縣不同:或用輕錢,百加若干;或用重錢,平稱不受。法錢不立,吏急而壹之乎?則大爲煩苛而力不能勝;縱而弗呵乎?則市肆異用,錢文大亂;苟非其術,何郷而可哉!今農事棄捐而采銅者日蕃,釋其耒耨,冶熔炊炭;姦錢日多,五穀不爲多。善人怵而爲姦邪,願民陷而之刑戮;刑戮將甚不詳,奈何而忽!國知患此,吏議必曰『禁之』。禁之不得其術,其傷必大。令禁鑄錢,則錢必重;重則其利深,盜鑄如雲而起,棄市之罪又不足以禁矣。姦數不勝而法禁數潰,銅使之然也。銅佈於天下,其爲禍博矣,故不如收之。」賈山亦上書諫,以爲:「錢者,亡用器也,而可以易富貴。富貴者,人主之操柄也;令民爲之,是與人主共操柄,不可長也。」上不聽。 是時,太中大夫鄧通方寵幸,上欲其富,賜之蜀嚴道銅山,使鑄錢。呉王濞有豫章銅山,招致天下亡命者以鑄錢;東煮海水爲鹽;以故無賦而國用饒足。於是呉、鄧錢布天下。 2. 3初,帝分代爲二國,立皇子武爲代王,參爲太原王。是歳,徙代王武爲淮陽王;以太原王參爲代王,盡得故地。 3. 六年(丁卯、前一七四) 1冬,十月,桃、李華。 1. 2淮南厲王長自作法令行於其國,逐漢所置吏,請自置相、二千石;帝曲意從之。又擅刑殺不辜及爵人至關内侯;數上書不遜順。帝重自切責之,乃令薄昭與書風諭之,引管、蔡及代頃王、濟北王興居以爲儆戒。 王不説,令大夫但、士伍開章等七十人與棘蒲侯柴武太子奇謀以輦車四十乘反谷口;令人使閩越、匈奴。事覺,有司治之。使使召淮南王。王至長安,丞相張蒼、典客馮敬行御史大夫事,與宗正、廷尉奏:「長罪當棄市。」制曰:「其赦長死罪,廢,勿王;徙處蜀郡嚴道邛郵。」盡誅所與謀者。載長以輜車,令縣以次傳之。 袁盎諫曰:「上素驕淮南王,弗爲置嚴傅、相,以故至此。淮南王爲人剛,今暴摧折之,臣恐卒逢霧露病死,陛下有殺弟之名,奈何?」上曰:「吾特苦之耳,今復之。」 淮南王果憤恚不食死。縣傳至雍,雍令發封,以死聞。上哭甚悲,謂袁盎曰「吾不聽公言,卒亡淮南王!今爲奈何?」盎曰:「獨斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮考諸縣傳送淮南王不發封饋侍者,皆棄市;以列侯葬淮南王於雍,置守塚三十戸。 2. 3匈奴單于遣漢書曰:「前時,皇帝言和親事,稱書意,合歡。漢邊吏侵侮右賢王;右賢王不請,聽後義盧侯難支等計,與漢吏相距。絶二主之約,離兄弟之親,故罰右賢王,使之西求月氏撃之。以天之福,吏卒良,馬力強,以夷滅月氏,盡斬殺、降下,定之;樓蘭、烏孫、呼掲及其旁二十六國,皆已爲匈奴,諸引弓之民並爲一家,北州以定。願寢兵,休士卒,養馬,除前事,復故約,以安邊民。皇帝即不欲匈奴近塞,則且詔吏民遠舍。」帝報書曰:「單于欲除前事,復故約,朕甚嘉之。此古聖王之志也。漢與匈奴約爲兄弟,所以遺單于甚厚;倍約、離兄弟之親者,常在匈奴。然右賢王事已在赦前,單于勿深誅!單于若稱書意,明告諸吏,使無負約,有信,敬如單于書。」 後頃之,冒頓死,子稽粥立,號曰老上單于。老上單于初立,帝復遣宗室女翁主爲單于閼氏,使宦者燕人中行説傅翁主。説不欲行,漢強使之。説曰:「必我也,爲漢患者!」中行説既至,因降單于,單于甚親幸之。 初,匈奴好漢繒絮、食物。中行説曰:「匈奴人衆不能當漢之一郡,然所以強者,以衣食異,無仰於漢也。今單于變俗,好漢物;漢物不過什二,則匈奴盡歸於漢矣。」其得漢繒絮,以馳草棘中,衣胯皆裂敝,以示不如旃裘之完善也;得漢食物,皆去之,以示不如湩酪之便美也。於是説教單于左右疏記,以計課其人衆、畜牧。其遺漢書牘及印封,皆令長大,倨傲其辭,自稱「天地所生、日月所置匈奴大單于」。 漢使或訾笑匈奴俗無禮義者,中行説輒窮漢使曰:「匈奴約束徑,易行;君臣簡,可久;一國之政,猶一體也。故匈奴雖亂,必立宗種。今中國雖雲有禮義,及親屬益疏則相殺奪,以至易姓,皆從此類也。嗟!土室之人,顧無多辭,喋喋占占!顧漢所輸匈奴繒絮、米薛,令其量中,必善美而已矣,何以言爲乎!且所給,備、善,則已;不備、苦惡,則候秋熟,以騎馳蹂而稼穡耳!」 3. 4梁太傅賈誼上疏曰:「臣竊惟今之事勢,可爲痛哭者一,可爲流涕者二,可爲長太息者六;若其它背理而傷道者,難遍以疏舉。進言者皆曰:『天下已安已治矣,』臣獨以爲未也。曰安且治者,非愚則諛,皆非事實知治亂之體者也。夫抱火厝之積薪之下而寢其上,火未及然,因謂之安;方今之勢,何以異此!陛下何不壹令臣得孰數之於前,因陳治安之策,試詳擇焉! 使爲治,勞志慮,苦身體,乏鐘、鼓之樂,勿爲可也。樂與今同,而加之諸侯軌道,兵革不動,匈奴賓服,百姓素樸,生爲明帝,沒爲明神,名譽之美垂於無窮,使顧成之廟稱爲太宗,上配太祖,與漢亡極,立經陳紀,爲萬世法。雖有愚幼、不肖之嗣,猶得蒙業而安。以陛下之明達,因使少知治體者得佐下風,致此非難也。 夫樹國固必相疑之勢,下數被其殃,上數爽其憂,甚非所以安上而全下也。今或親弟謀爲東帝,親兄之子西郷而撃,今呉又見告矣。天子春秋鼎盛,行義未過,德澤有加焉,猶尚如是;況莫大諸侯,權力且十此者虖! 然而天下少安,何也?大國之王幼弱未壯,漢之所置傅、相方握其事。數年之後,諸侯之王大抵皆冠,血氣方剛;漢之傅、相稱病而賜罷,彼自丞、尉以上遍置私人。如此,有異淮南、濟北之爲邪?此時而欲爲治安,雖堯、舜不治。 黄帝曰:『日中必{艸□},操刀必割!』今令此道順而全安甚易,不肯蚤爲,已乃墮骨肉之屬而抗剄之,豈有異秦之季世虖!其異姓負強而動者,漢已幸而勝之矣,又不易其所以然;同姓襲是跡而動,既有征矣,其勢盡又復然。殃禍之變,未知所移,明帝處之尚不能以安,後世將如之何! 臣竊跡前事,大抵強者先反。長沙乃二萬五千戸耳,功少而最完,勢疏而最忠,非獨性異人也,亦形勢然也。曩令樊、酈、絳、灌據數十城而王,今雖以殘亡可也;令信、越之倫列爲徹侯而居,雖至今存可也。然則天下之大計可知已:欲諸王之皆忠附,則莫若令如長沙王;欲臣子勿菹醢,則莫若令如樊、酈等;欲天下之治安,莫若衆建諸侯而少其力。力少則易使以義,國小則亡邪心。令海内之勢,如身之使臂,臂之使指,莫不制從,諸侯之君不敢有異心,輻湊並進而歸命天子。割地定製,令齊、趙、楚各爲若干國,使悼惠王、幽王、元王之子孫畢以次各受祖之分地,地盡而止;其分地衆而子孫少者,建以爲國,空而置之,須其子孫生者舉使君之;一寸之地,一人之衆,天子亡所利焉,誠以定治而已。如此,則臥赤子天下之上而安,植遺腹,朝委裘而天下不亂;當時大治,後世誦聖。陛下誰憚而久不爲此! 天下之勢方病大腫,一脛之大幾如要,一指之大幾如股,平居不可屈伸,一二指慉,身慮亡聊。失今不治,必爲錮疾,後雖有扁鵲,不能爲已。病非徒腫也。又苦□炙盭。元王之子,帝之從弟也;今之王者,從弟之子也。惠王之子,親兄子也,今之王者,兄子之子也。親者或亡分地以安天下,疏者或制大權以逼天子,臣故曰非徒病腫也,又苦□炙盭。可痛哭者,此病是也。 天下之勢方倒縣。凡天子者,天下之首。何也?上也。蠻夷者,天下之足。何也?下也。今匈奴嫚侮侵掠,至不敬也;而漢歳致金絮采繒以奉之。足反居上,首顧居下,倒縣如此,莫之能解,猶爲國有人乎?可爲流涕者此也。今不獵猛敵而獵田彘,不搏反寇而搏畜菟,玩細娯而不圖大患,德可遠加而直數百里外,威令不伸,可爲流涕者此也。 今庶人屋壁得爲帝服,倡優下賤得爲後飾;且帝之身自衣皁綈,而富民牆屋被文繡;天子之後以縁其領,庶人孽妾以縁其履;此臣所謂舛也。夫百人作之不能衣一人,欲天下亡寒,胡可得也;一人耕之,十人聚而食之,欲天下亡飢,不可得也;飢寒切於民之肌膚,欲其亡爲姦邪,不可得也。可爲長太息者此也。 商君遺禮義,棄仁恩,並心於進取;行之二歳,秦俗日敗。故秦人家富子壯則出分,家貧子壯則出贅;借父櫌鉏,慮有德色;母取箕帚,立而誶語;抱哺其子,與公並居;婦姑不相説,則反脣而相稽;其慈子、耆利,不同禽獸者亡幾耳。今其遺見餘俗,猶尚未改,棄禮誼,捐廉恥日甚,可謂月異而歳不同矣。逐利不耳,慮非顧行也;今其甚者殺父兄矣。而大臣特以簿書不報、期會之間以爲大故,至於俗流失,世壞敗,因恬而不知怪,慮不動於耳目,以爲是適然耳。夫移風易俗,使天下回心而郷道,類非俗吏之所能爲也。俗吏之所務,在於刀筆、筐篋而不知大體。陛下又不自憂,竊爲陛下惜之!豈如今定經制,令君君、臣臣,上下有差,父子六親各得其宜。此業壹定,世世常安,而後有所持循矣;若夫經制不定,是猶渡江河亡維楫,中流而遇風波,船必覆矣。可爲長太息者此也。 夏、殷、周爲天子皆數十世,秦爲天子二世而亡。人性不甚相遠也,何三代之君有道之長而秦無道之暴也?其故可知也。古之王者,太子乃生,固舉以禮,有司齊肅端冕,見之南郊,過闕則下,過廟則趨,故自爲赤子,而教固已行矣。孩提有識,三公、三少明孝仁禮義以道習之,逐去邪人,不使見惡行,於是皆選天下之端士、孝悌博聞有道術者以衞翼之,使與太子居處出入。故太子乃生而見正事,聞正言,行正道,左右前後皆正人也。夫習與正人居之不能毋正,猶生長於齊不能不齊言也;習與不正人居之不能毋不正,猶生長於楚之地不能不楚言也。孔子曰:『少成若天性,習貫如自然。』習與智長,故切而不愧;化與心成,故中道若性。夫三代之所以長久者,以其輔翼太子有此具也。及秦而不然,使趙高傅胡亥而教之獄,所習者非斬、劓人,則夷人之三族也。胡亥今日即位而明日射人,忠諫者謂之誹謗,深計者謂之妖言,其視殺人若艾草菅然。豈惟胡亥之性惡哉?彼其所以道之者非其理故也。鄙諺曰:『前車覆,後車誡。』秦世之所以亟絶者,其轍跡可見也;然而不避,是後車又將覆也。天下之命,縣於太子,太子之善,在於早諭教與選左右。夫心未濫而先諭都,則化易成也;開於道術智誼之指,則教之力也;若其服習積貫,則左右而已。夫胡、粤之人,生而同聲,嗜欲不異;及其長而成俗,累數譯而不能相通,有雖死而不相爲者,則教習然也。臣故曰選左右、早諭教最急。夫教得而左右正,則太子正矣,太子正而天下定矣。書曰:『一人有慶,兆民賴之。』此時務也。 凡人之智,能見已然,不能見將然。夫禮者禁於將然之前,而法者禁於已然之後,是故法之所爲用易見而禮之所爲生難知也。若夫慶賞以勸善,刑罰以懲惡,先王執此之政,堅如金石;行此之令,信如四時;據此之公,無私如天地,豈顧不用哉?然而曰禮雲、禮雲者,貴絶惡於未萌而起教於微眇,使民日遷善、遠罪而不自知也。孔子曰:『聽訟,吾猶人也;必也使毋訟乎!』爲人主計者,莫如先審取舍,取舍之極定於内而安危之萌應於外矣。秦王之欲尊宗廟而安子孫,與湯、武同。然而湯、武廣大其德行,六七百歳而弗失,秦王治天下十餘歳則大敗。此亡他故矣:湯、武之定取舍審而秦王之定取舍不審矣。夫天下,大器也;今人之置器,置諸安處則安,置諸危處則危。天下之情,與器無以異,在天子之所置之。湯、武置天下於仁、義、禮、樂,累子孫數十世,此天下所共聞也;秦王置天下於法令、刑罰,禍幾及身,子孫誅絶,此天下之所共見也。是非其明效大驗邪!人之言曰:『聽言之道,必以其事觀之,則言者莫敢妄言。』今或言禮誼之不如法令,教化之不如刑罰,人主胡不引殷、周、秦事以觀之也!人主之尊譬如堂,羣臣如陛,衆庶如地。故陛九級上,廉遠地,則堂高;陛無級,廉近地,則堂卑。高者難攀,卑者易陵,理勢然也。故古者聖王制爲等列,内有公、卿、大夫、士,外有公、侯、伯、子、男,然後有官師、小吏,延及庶人,等級分明而天子加焉,故其尊不可及也。 里諺曰:『欲投鼠而忌器。』此善諭也。鼠近於器,尚憚不投,恐傷其器,況於貴臣之近主乎!廉恥節禮以治君子,故有賜死而亡戮辱。是以黥、劓之罪不及大夫,以其離主上不遠也。禮:不敢齒君之路馬,蹴其芻者有罰,所以爲主上豫遠不敬也。今自王、侯、三公之貴,皆天子之所改容而禮之也,古天子之所謂伯父、伯舅也;而令與衆庶同黥、劓、髡、刖、笞、傌、棄市之法,然則堂不無陛虖!被戮辱者不泰迫虖!廉恥不行,大臣無乃握重權、大官而有徒隸無恥之心虖!夫望夷之事,二世見當以重法者,投鼠而不忌器之習也。臣聞之:履雖鮮不加於枕,冠雖敝不以苴履。夫嘗已在貴寵之位,天子改容而禮貌之矣,吏民嘗俯伏以敬畏之矣;今而有過,帝令廢之可也,退之可也,賜之死可也,滅之可也;若夫束縛之,繋媟之,輸之司寇,編之徒官,司寇小吏詈罵而榜笞之,殆非所以令衆庶見也。夫卑賤者習知尊貴者之一旦吾亦乃可以加此也,非所以尊尊、貴貴之化也。古者大臣有坐不廉而廢者,不謂不廉,曰簠簋不飾』;坐汚穢淫亂、男女無別者,不曰汚穢,曰『帷薄不修』;坐罷軟不勝任者,不謂罷軟,曰『下官不職』。故貴大臣定有其罪矣,猶未斥然正以呼之也,尚遷就而爲之諱也。故其在大譴、大何之域者,聞譴、何則白冠氂纓,盤水加劍,造請室而請罪耳,上不執縛繋引而行也;其有中罪者,聞命而自弛,上不使人頸盭而加也;其有大罪者,聞命則北面再拜,跪而自裁,上不使人捽抑而刑之也。曰:『子大夫自有過耳,吾遇子有禮矣。』遇之有禮,故羣臣自熹;嬰以廉恥,故人矜節行。上設廉恥、禮義以遇其臣不以節行報其上者,則非人類也。故化成俗定,則爲人臣者皆顧行而忘利,守節而伏義,故可以托不御之權,可以寄六尺之孤,此厲廉恥、行禮誼之所致也,主上何喪焉!此之不爲而顧彼之久行,故曰可爲長太息者此也。」 誼以絳侯前逮繋獄,卒無事,故以此譏上。上深納其言,養臣下有節,是後大臣有罪,皆自殺,不受刑。 4. 七年(戊辰、前一七三) 1冬,十月,令列侯太夫人、夫人、諸侯王子及吏二千石無得擅徴捕。 1. 2夏,四月,赦天下。 2. 3六月,癸酉,未央宮東闕罘罳災。 3. 4民有歌淮南王者曰:「一尺布,尚可縫;一斗粟,尚可舂;兄弟二人不相容!」帝聞而病之。 4. 八年(己巳、前一七二) 1夏,封淮南厲王子安等四人爲列侯。賈誼知上必將復王之也,上疏諫曰:「淮南王之悖逆無道,天下孰不知其罪!陛下幸而赦遷之,自疾而死,天下孰以王死之不噹!今奉尊罪人之子,適足以負謗於天下耳。此人少壯,豈能忘其父哉!白公勝所爲父報仇者,大父與叔父也。白公爲亂,非欲取國代主,發忿快志,剡手以衝仇人之匈,固爲倶靡而已。淮南雖小,黥布嘗用之矣,漢存,特幸耳。夫擅仇人足以危漢之資,於策不便。予之衆,積之財,此非有子胥、白公報於廣都之中,即疑有專諸、荊軻起於兩柱之間,所謂假賊兵,爲虎翼者也。願陛下少留計!」上弗聽。 1. 2有長星出于東方。 2. 九年(庚午、前一七一) 1春,大旱。 1. 十年(辛未、前一七〇) 1冬,上行幸甘泉。 1. 2將軍薄昭殺漢使者。帝不忍加誅,使公卿從之飲酒。欲令自引分,昭不肯;使羣臣喪服往哭之,乃自殺。 臣光曰:李德裕以爲:「漢文帝誅薄昭,斷則明矣,於義則未安也。秦康送晉文,興如存之感;況太后尚存,唯一弟薄昭,斷之不疑,非所以慰母氏之心也。」臣愚以爲法者天下之公器,惟善持法者,親疏如一,無所不行,則人莫敢有所恃而犯之也。夫薄昭雖素稱長者,文帝不爲置賢師傅而用之典兵;驕而犯上,至於殺漢使者,非有恃而然乎!若又從而赦之,則與成、哀之世何異哉!魏文帝嘗稱漢文帝之美,而不取其殺薄昭,曰:「舅後之家,但當養育以恩而不當假藉以權,既觸罪法,又不得不害。」譏文帝之始不防閒昭也,斯言得之矣。然則欲慰母心者,將愼之於始乎! 2.
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名稱:劉曜 伺服器及顏色:5服綠類型:武 性別:男 生命值:612 武力:42 智力:10 防禦:15 敏捷:44 運勢:23 敘述:劉曜(?—328年)新興(今山西忻州市)匈奴人。是十六國時前趙的最後一位國君。漢光文帝劉淵侄。328年劉曜攻打洛陽,驕傲輕敵,被後趙的石勒所殺。
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名稱:沮渠無諱 伺服器及顏色:5服綠類型:武 性別:男 生命值:607 武力:42 智力:11 防禦:15 敏捷:40 運勢:23 敘述:沮渠無諱(?—444年),北涼國君主,匈奴支系盧水胡族人,沮渠蒙遜之子,沮渠牧犍之弟,牧犍在位時被任命為沙州刺史、都督建康以西諸軍事、領酒泉太守。
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問題 答え 『三国志演義』で、黄巾賊・程遠志は誰のために殺された? 関羽 『三国志演義』で諸葛亮の計によって魏延を斬ったのは誰? 馬岱 曹操が最も気に入っていた息子は? 曹沖 三国で飛将と呼ばれていた武将は誰? 呂布 以下の名将の中で、誰の武器がいちばん重い? 顔良 「慌ただしい中、兵を整え砦を堅固にし、謗りや苦労を物ともせず、敗北を勝利に転じた。古の名将も、これを超えることはできまい」とは誰のことを指している? 于禁 うっかり荊州を失ったのは誰? 関羽 呉を裏切り、魏に身を寄せたのは孫堅のどの部将の息子? 韓当 「十勝十敗」とは、以下のどの策士の故事? 郭嘉 董卓暗殺の美人計を立てたのは誰? 王允 『三国志演義』に「身長八尺、豹のような頭にドングリ眼、エラが張った顎には虎髭、雷のような大音声、その勢いは暴れ馬のよう」と描かれているのはどの名将? 張飛 父親が「江東の虎」、兄が「小覇王」と呼ばれていたのは誰? 孫権 孫権が公孫淵を燕王に封じようとしたが、それに反対して病と称して出仕せず、土で自邸の門を封じた大臣は誰? 張昭 ペットのいない名将は? 于吉 蔡文姫や匈奴に拉致され、匈奴の左賢王に献上されたが、その後、蔡文姫を中原に連れ戻したのは誰? 曹操 「この錦帆の怒涛に呑まれやがれ!」はどの名将のセリフ? 甘寧 『三国志演義』で「意気軒昴、威風堂々として弓矢を構え、画戟を手に赤兎馬から降り」と描写されている名将は? 呂布 「天下を乱す者は、きっと何進だ」は誰の断言? 曹操 長坂坡で曹操の十万の強力な軍を脅して退かせたのは誰? 張飛 以下の人物のうち、皇帝を名乗らなかったのは誰? 曹操 袁術は自分こそが袁家の嫡子だと思っていた。では、誰を妾の子だと思っていた? 袁紹 周瑜とともに「苦肉の策」を使用した名将は誰? 黄蓋 袁紹は衆人から推されて討伐軍の盟主になったが、誰が先鋒を務めるのだろう? 孫堅 「春秋の大義と戦国の武勇、わが前によみがえれ!」は、どの名将のセリフ? 関羽 子午道の奇策はどの名将が提案し、諸葛亮に不採用にされた? 魏延
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麴義 cast:バラライカ(BLACK LAGOON) 袁家軍のトップ。匈奴との大戦からずーっとトップ。実績、能力ともに半端ない。 基本的にものっそい厳しいので、この人が現れるだけで空気が引き締まる。というか皆緊張する。 二郎はちっちゃいころから世話してもらってたのでねーちゃんと呼んで慕っている。 この人が出張ると大概のことが解決してしまうので出番は基本的にないと思われる。
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☆千軍の星システム 名のある敵を撃退すると手に入ることがある「千軍の星」は、一定量集めると将官から奨励を受け取れるようになります。将官は自由市場(座標315,22付近)に出現します。 千軍の星 100個で梅の小袋。 千軍の星 400個で竹の小袋がもらえます。 各種小袋は、王者の祝福で梅の大袋または竹の大袋に昇華できます。 ※王者の祝福とは。 特定の品物を昇華させることができる神秘的な力が込められたアイテム。王者の祝福のみではアイテムとして使用できません。NPCを通して、特定のアイテムと組み合わせることによって使用することができます。三国商店街で入手できます。 (三国商店街のご利用にはSGコインが必要です) 【奨励アイテム一覧】 アイテム名 梅の小袋 梅の大袋 --- アイテム名 竹の小袋 竹の大袋 →→→ アイテム名 梅の小袋 梅の大袋 --- アイテム名 竹の小袋 竹の大袋 虎牙槍 44.00% 10.50% 破軍鎧 40.00% 8.00% 虎牙槍 44.00% 10.50% 破軍鎧 40.00% 8.00% 九曲戟 護国鎧 九曲戟 護国鎧 双手斧 一品朝服 双手斧 一品朝服 百里弓 天官袍 百里弓 天官袍 鋸翼剣 破軍冠 鋸翼剣 破軍冠 古錠刀 護国冠 古錠刀 護国冠 日月棍 一品冠 日月棍 一品冠 孔雀扇 天官冠 孔雀扇 天官冠 金羽扇 一品歩履 41.00% 10.00% 金羽扇 一品歩履 41.00% 10.00% 青玉鎮邪の杖 破軍の靴 青玉鎮邪の杖 破軍の靴 巫仙の杖 護国の靴 巫仙の杖 護国の靴 虎威鎧 36.00% 9.50% 天官歩履 虎威鎧 36.00% 9.50% 天官歩履 鷹揚鎧 鎮軍旗 鷹揚鎧 鎮軍旗 春官の法服 鎖錬の小手 春官の法服 鎖錬の小手 蝦蟇祭服 金剛の小手 蝦蟇祭服 金剛の小手 赤髮頭巾 兵書二十四篇 赤髮頭巾 兵書二十四篇 帽箍 孫子兵法 帽箍 孫子兵法 西域頭巾 孟德新書 西域頭巾 孟德新書 青鉄冠 霊斬の護符 9.10% 9.10% 青鉄冠 霊斬の護符 9.00% 35.00% 錦衣マント 玄棘の護符 錦衣マント 玄棘の護符 獣皮マント 焔雹の護符 獣皮マント 焔雹の護符 火術護符 9.60% 30.60% 霜砲の護符 火術護符 9.60% 30.60% 霜砲の護符 水術護符 毒煙玉 水術護符 毒煙玉 仙術護符 幻惑玉 仙術護符 幻惑玉 妖術護符 灼傷玉 妖術護符 灼傷玉 孝経 氷封玉 孝経 氷封玉 春秋穀梁伝 鳳凰扇 7.90% 36.00% 春秋穀梁伝 鳳凰扇 7.60% 35.00% 猛将真書 百里剣 猛将真書 百里剣 鉄甲戦靴 7.50% 34.90% 藤衣 鉄甲戦靴 7.50% 34.90% 藤衣 飛翼靴 鉄布袍 飛翼靴 鉄布袍 翼形の盾 石綿の衣 翼形の盾 石綿の衣 長立の盾 玉石の衣 長立の盾 玉石の衣 虎の小手 金色の衣 虎の小手 金色の衣 藤の小手 火炎の盾 藤の小手 火炎の盾 鳥孫 氷塊の盾 鳥孫 氷塊の盾 西極馬 大団の盾 西極馬 大団の盾 汗血馬 燎原火 2.00% 10.00% 汗血馬 燎原火 2.40% 12.00% 技能増幅符 2.90% 14.50% 白龍駒 技能増幅符 2.90% 14.50% 白龍駒 勲功増幅符 沙裡飛 勲功増幅符 追風 兗州通行証 寒冰洞通行証 王者の祝福 精鋭匈奴兵転職令 騎兵転職令 北郷仙洞通行証 騎兵転職令 精鋭猛獣兵転職令 女騎兵転職令 毒龍譚通行証 女騎兵転職令 べこちゃん(30日) 鉄騎兵転職令 精鋭匈奴兵転職令 匈奴兵転職令 連弩車 猛獣兵転職令 精鋭遊騎兵転職令 猛獣兵転職令 虎豹騎転職令 弓騎兵転職令 連弩車 弓騎兵転職令 神弓騎転職令
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星の紋章:EX (アルテラ) 体に刻まれた独特の紋様。 何らかの高度な術式による紋―――フンヌ(匈奴)族に特有の紋と言う訳ではなく、アルテラという個人が有する不可思議の紋である。 ランクが高いほどに威力は増していく。紋を通じて魔力を消費することで、瞬間的に任意の身体部位の能力を向上させることが可能。魔力放出スキルほどの爆発的な上昇幅はないが、魔力消費が少なく燃費が良い。 更に、直感スキルの効果も兼ね備えた特殊スキルでもある。……何か、一文字欠けている気がする、とは本人の弁。
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331 :第三帝国:2013/12/28(土) 01 34 48 大陸日本史~銀髪美少女のための年代考察(ネタ度強) ・紀元前1200年頃 殷王朝の誕生に従いコーカソイド系遊牧民族がシベリア=樺太=蝦夷亜大陸、あるいは東シナ海、日本海経由で逃亡する、彼らは所謂スキタイ人でが渡来し日本大陸北部~東部に定住。 シベリア経由は史実でもロシアのコサックもしたように深いシベリアの森林の中、アムール河に沿って移動を続けた末かと考えられる。そして一番狭くて7キロ程度先にある樺太に上陸してからさらに南下をつづければ、特に冬ならうまくすれば徒歩でも上陸可能。 同じく戦乱が続く中華世界から連れて来た、あるいはのがれた人々が農業、主に麦の生産活動に従事し人口の増大が進む。 ・紀元前660年 皇紀元年にして神武天皇が即位。 このころ東西日本、さらに近畿、九州では諸民族が入り乱れており、神武天皇は後世に言われるような絶対王政的な権力者というよりも利害調整役兼宗教的指導者であり、農耕、騎馬、漁労、に各部族、豪族の取りまとめ役で確かに言えることはこの頃に大和朝廷が成立したことだ。 これまで麦中心であった東北で米の生産が東北まで一気に広がり明治を待たずに蝦夷亜大陸で米の生産が開始する(転生者が頑張った) 人口は牧畜と合わせて更に増加、そのうち財産を受けることが出来ない次男坊、三男坊が傭兵や交易に従事し、中華世界=シベリア=樺太=蝦夷の海洋交易ルートが沿岸部のツングース系民族との融合もあって船舶建造技術が強化される。 ・紀元前221年 始皇帝による中国統一、除福が銀髪幼女等各種民族の童女3000人を引きつれて亡命し成功。 以後、加熱する中華世界の戦乱に伴い大陸日本に亡命し治金技術、農業技術が飛躍的に向上。 が、大規模な流民発生と除福が戻ってこない事に激怒した始皇帝が本気で大陸侵攻を計画したため、街道、港湾、城塞整備を本格的に開始、中華世界からもたらされた最新の土木技術を用いて大宰府が建造される。 近衛として大々的に東北や蝦夷からコーカソイド系騎馬民族が雇われる、ようはビザンツ帝国のヴァリャーギだと思えばいい。 ・紀元前120年 史書で大陸日本の記述が初めて記載される。 この時に大陸日本東部には白匈奴が居住していることを指摘する文があり、彼らは匈奴と同じく牧畜を生活の糧にする一方で交易や傭兵、あるいは略奪を行うと記述。 白匈奴の中には北の海を越えて中華世界に来る者もいるためそちらは海人(あば)と区別されることもあり。 ・紀元前~紀元後 大和朝廷による統治がほぼ確立。 が、所謂豪族による連合体なので朝廷の本当の支配権は東北まで及ばず。 この頃から古墳が各地で建造されるのだが、転生者のせいで石壁にアニメ調な絵や埴輪の代わりにねんぷちが設置され、「どう見てもミクダヨーです、本当に(ry」等と後世の夢幻会が盛大に罵倒し胃を抑える事態となる。 ・紀元後180年 三国時代に突入、さらに流民が発生し大陸日本の技術が底上げされる。 が、現在の樺太の豊原、新潟・佐渡などのルートで楽浪郡と交易をおこなっていた東北、蝦夷のコーカソイド民族がその消滅を確認。 大和朝廷軍が朝鮮半島に出兵、高句麗との間に不可侵の約定を結び以後は最低限の交易を除き引きこもりのタイムに突入。 ・紀元後200~250年 『魏史倭人伝』における倭国大乱勃発、 疫病に増えすぎた人口による飢饉で、宮廷政治の問題にとどまらず大和朝廷の主導権をめぐり内乱が発生。 倭の八王が互いに覇権を巡り争う戦国時代に突入する、東北では阿武里亜琉王(あぶりある王)須歩尾瑠王(すぽおる王)などコーカソイド系の血を引いた王が大規模な騎兵戦を仕掛け中華世界に引き手を取らない大規模な野戦が幾度も発生する。 が、最終的には近畿中心に女帝(三輪女帝)をたることによりこれを治め、国号を大和と定める。(いわゆる邪馬台国である) ------------------- 修正回:0(アップロード) 修正者:Call50 備考:誤字・空欄等を修正。 修正回:1 修正者: 修正内容: -------------------
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名稱:班固 伺服器及顏色:5服紫 類型:文 性別:男 生命值:1066 武力:41 智力:46 防禦:24 敏捷:52 運勢:128 敘述:(建武八年32年-永元四年92年),東漢史學家班彪之子,字孟堅,扶風安陵人。居喪在家時,著手撰寫《漢書》,至漢章帝建初七年書成,開創了“包 舉一代”的斷代史體例,為後世“正史”之楷模。後從大將軍竇憲攻匈奴,為中護軍,竇憲因擅權被殺,班固因此受到牽連,被人陷害入獄,死于獄中。