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ヨーロッパ世界 フン族 王はアッティラ トルコ・モンゴル系が起源といわれ、昔モンゴルにいた匈奴の一部が西に移動し、フン族に吸収されたと言われる 375年、ヨーロッパ東方にいた彼らはボルガ川を渡り、ゲルマン諸民族である東ゴート族を支配する ゲルマン人 東ゴート族 アッティラ
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登録日:2024/03/15 Fri 17 00 00 更新日:2024/06/19 Wed 08 16 11NEW! 所要時間:約 20 分で読めます ▽タグ一覧 リーボック 中国史 匈奴 名将 始皇帝の統一戦争を阻んだ武将 春秋戦国時代 李左車 李牧 趙 李牧とは、春秋戦国時代末期の人物。 趙国の武将。封号は武安君。なお、『戦国策』によると本来の名前は繓(さつ)で、牧は字だという。本稿では一般に知られている「李牧」で通す。 秦の始皇帝(皇帝となる前なので「秦王政」と王号で呼ばれることが多い)が中華統一を開始した時期に現れ、一時は秦軍を阻んだことで知られる。 生年は不明。前229年に没。 ▽目次 【生涯】◆前歴 ◆秦軍撃退 ◆破滅 【人物評】 【李牧の一族】 【各作品】 【余談】 【生涯】 ◆前歴 出身地は趙国の柏仁(現在の河北省は邢台市の隆尭県)。 しかし生年は不明。出自などほとんどのことは分からない。 長期間にわたって代(かつて独立国だったが武霊王の時代に併合した地域)の雁門郡に司令官として駐屯し、匈奴に対して防衛線を敷いていた。 現地一帯ではほぼ全ての権限を握っており、代郡・雁門郡の税収を(首都・邯鄲に収める以外は)自由に采配し、現地の役人の任免や、兵士への軍事訓練や待遇改善、狼煙台の整備、民衆情勢の視察など、全業務を指揮した。 また彼は匈奴に対しては防衛を徹底した。 「匈奴が侵入してくれば、住民は家畜や物資を持ってすぐに城や砦に帰還し、堅く守れ。もしも出撃するようなことがあれば斬刑に処す」 と、反撃も禁止していた。 そのため、匈奴は何度も侵入しながら、略奪してもほとんど収益を得られなかった。 しかしこうした徹底防衛は、敵の匈奴はおろか味方の趙軍将兵からさえ「臆病」と受け取られた。 当時の趙王もこれを問題視し、何度も譴責の使者を送ったが、李牧は頑として方針を変えなかった。 結局、趙王は李牧を罷免し、別の武将を後任の代郡太守とした。 後任太守は一年にわたって、匈奴の侵入に対して毎度出撃し、撃退していった。 しかし戦闘のたびに物資や兵士に対する損害が多く出てしまい、また農地や牧場は荒れ果てた。 趙王は慌てて李牧の再任を決定。 李牧は「病気」と称して門を閉ざして出仕しなかったが、これは一種のハッタリや交渉であり、 最終的に李牧は趙王に対して「王が私を再任するというのなら、私が従来の方針に戻すことを受け入れ、容喙しないでいただけますね」と言質を取った。趙王は受け入れた。 再び匈奴戦線の司令官となった李牧は、宣言通り方針を「専守防衛」に戻す。匈奴が侵入してきても民衆や物資を城に戻して、出撃を禁じて、守りに徹した。 それで匈奴は、略奪による収入こそ減ったが、敵がまた「臆病な司令官」に代わったと見て勢いづくようになった。 しかしその間に、李牧は将兵の訓練、武器の整備、物資の集積を行っていた。 そして、戦車1300輌、騎馬13000匹、勇士五万と弓兵十万、そしてそれらを指揮する将校が揃った時点で、李僕は反撃を決意した。 その時にも単純な力押しではなく作戦を練った。 まず、匈奴の侵入に合わせてわざと「逃げ遅れ」を作って住民や家畜を略奪させる。 李牧再任以来、略奪での収入が減っていた匈奴はいよいよ「攻め込み時が来た」と判断して、その主力部隊を総動員して攻め込んだ。当然「趙軍は今回も引きこもって出てこない」と確信している。 しかしその攻め込んできた匈奴の大群に対して、李牧は一年間増強し続けた軍隊を総動員。「まさか反撃されるはずがない」と油断していた匈奴を包囲し、一気に殲滅した。趙軍もこれまで戦う機会がなかったことで激しい戦意を見せたのである。 結果、匈奴は十万以上の騎馬と兵士を失い、以後十数年にわたって趙に攻め込むことができなくなった。 さらに李牧はこの機を逃さず北伐を開始。襜襤(せんらん)、東胡、林胡という三つの部族をあるいは滅ぼしあるいは併合して、北方を安定させ国力を増大させた。 『史記』にも記載された非常に有名なエピソードだが、実はこの李牧のエピソードは「いつ起きたのか」が分からない。 趙王から一度罷免されてから再任された、という話でも不思議と「趙王」とだけ記されており、孝成王(在位BC.265~BC.245)なのか悼襄王(在位BC.244~BC.236)なのか不明である。 また「李牧の兵権を一時交替した武将」も名前さえ記されていない。 ◆秦軍撃退 李牧の活動が年次とともに分かるのはBC.243から。趙国では悼襄王の二年、秦では始皇帝四年である。 このとき李牧は相国となり、秦国に使者として赴いて同盟を結び、秦が人質に取っていた趙国の太子と、趙が人質としていた秦の公子がそれぞれ帰国した。 ただ、二年後には趙は韓・魏・楚・燕(*1)と組んで秦に攻め込んでいるため、同盟は短期間で終わった模様。 さて、BC.245年に孝成王が没してから即位したのが悼襄王であるが、この悼襄王元年(BC.244)には趙国は大いに荒れた。 前年から大将軍の廉(れん)頗(ぱ)は魏国攻略に赴いていたが、即位した悼襄王は前から廉頗を嫌っていたため、彼の軍権を剥奪して楽乗という将軍に引き継がせようとした。 廉頗はこれに猛反発し、なんと楽乗を撃破。続いて側近を率いて今さっきまで敵対していた魏国に亡命した。 また廉頗に破れた楽乗も悼襄王からの叱責を厭ってか、逃亡して行方不明となる。 それ以前から趙国では、名臣と唄われた趙奢・藺相如が世を去っており、今また廉頗と楽乗をも失ったため、趙軍における李牧の重要性は増していた。 彼が相国に任命されたのもそれが原因であろう。 西に秦国と同盟を結んだのと同じBC.243年には、李牧は趙王からの命令で燕国に侵攻。燕国の武遂、方城の二県を制圧した。 翌BC.242年には再び燕国に侵攻。この時は老賢者・龐煖(ほうけん)と共に指揮を執り、燕の老将劇辛を討ち取っている。 ちなみに龐煖と劇辛は昔なじみだったという。しかし、劇辛はBC.312年に燕の昭王に仕えた人物であるといい、BC.242からすると七十年も前である。燕の昭王に仕えた時に二十歳だとすると劇辛は九十歳になり、かつ龐煖が劇辛と知り合ったのは「燕の昭王に仕える以前」らしいので、両者はほぼ同世代と思われる。 実際龐煖も趙の武霊王(在位BC.326~298)から諮問を受けたという逸話がある。武霊王の在位年数は四半世紀もあるので「何年のことか」ははっきりしないが、最晩年に諮問を受けたとしても56年前のこととなる。 やはりBC.242年時点で少なくとも七十代後半、「燕の昭王の時代に生きていた」というのが本当ならば九十代でもおかしくない年齢だろう。 また「韓非子」ではこの趙国と燕国(龐煖と劇辛)の戦いについて一カ所(飾邪篇)だけ触れられているが、ここでは李牧の名がない。 年齢差もあるので、李牧は龐煖の副将だったと思われる(あるいは参戦していなかったか)。 なお韓非子にとってはまさにリアルタイムで入手できた最新情報である。 このBC.242年の燕国攻略後、李牧の足取りは数年にわたって途絶える。 しかし商鞅の改革以来、一強となった秦国には相変わらず圧倒されっぱなしだった。 BC.236年、趙軍は龐煖を将軍として燕国に攻め込み六の城を制圧する(今回は李牧は不参戦)が、手薄になった趙国を秦軍(指揮官は王翦(おうせん)・桓(かん)齮(き)・楊端和)に攻め込まれて鄴・閼与など城を九つも失う。龐煖は急いで遠征軍を撤退させるが、すでに鄣水一帯の土地を失っていた(*2)。 この年に悼襄王が逝去して幽繆王(ゆうぼくおう)(趙王遷)が即位する(*3)が、BC.234年(幽繆王二年)に秦の大将・桓齮によって平陽・武城・武遂を落とされて将軍扈輒(こちょう)が討ち取られ、将兵十万を喪失。 翌BC.233年にはまたも桓齮に攻め込まれて上党を、続いて太行山を超えて趙国の後方、赤麗と宜安を落とされる。ここでも秦軍は趙軍十万を討ち取る。 すでに秦領となった鄴と合わせて、邯鄲は前後に秦軍に挟撃される形となった。 幽繆王も危機感を感じて代・雁門郡から李牧を招集、彼を大将軍に任命すると趙国全軍の指揮権を与え、秦軍撃退を命令した。 李牧は趙軍主力を率いて邯鄲から出撃すると、宜安付近から肥下にて秦軍と対峙。 連戦連勝を誇った秦軍に対して激しく戦い、ついに秦軍を撃破。桓齮は『史記』によれば撤退、『戦国策』では戦死したという。 時にBC.233年。この「肥下の戦い」の勝利で李牧は「武安君」に封じられた。 さらに翌BC.232年には、趙領の番吾に攻め込んできた秦軍を李牧が兵を率いて迎撃、これを打ち破る。 李牧率いる趙軍は、同年のうちに魏国・韓国にも攻め込み、国境線を南に押し広げていった。 ◆破滅 しかし、李牧が真に敵対していたのは桓齮ら秦の将軍たちではなかった。秦王政、いや秦の始皇帝である。 李牧が桓齮と戦っていたBC.233年、秦国では韓非子が始皇帝に謁見している。 韓非子はすぐに死没してしまったが、始皇帝が彼から受けた影響は大きく、ついに始皇帝は「天下統一」を本格的に視野に入れた。 そして韓非子は「趙国は以前から軍事力を増強し、また諸国の合従(反秦連合)を主導している」と指摘しており、また「秦趙の強弱は、今年にあるのみ」とも言及していた。 また秦国には尉繚子(うつりょうし)もいた。かつて魏国に仕えた尉繚子の子孫であり、自らも兵法家である。 彼はBC.237年に始皇帝に謁見し「六国にいる重臣たちに手厚く賄賂を送れば、六国の足並みを乱して諸侯を併合できるだろう。秦の損失はたかが三十万金ぐらいである」と指摘していた。 要するに、始皇帝は「天下統一」という戦略プランと「反間の計」という戦術プランを立てて行動を開始していた。 そして李牧は、あくまでも「秦軍迎撃」だけを考える戦術家であった。幽繆王には戦略眼はない。 この戦略と戦術の差が、李牧と趙国が敗れる最大の原因となる。 またBC.231年には代郡で大地震が、翌BC.230年には大飢饉が発生。不吉であった。 BC.229年(秦始皇18年)、始皇帝は大軍を発して趙国に攻め込んだ。大将王翦は井陘に、副将楊端和は河内に、次将羌瘣(きょうかい)は邯鄲もしくは代に、それぞれ軍を預かって進撃。もちろん、各方面を突破できれば、後は邯鄲を落とすのみである。 対する幽繆王は当然のように李牧を大将軍に起用し、また副将に司馬尚を任命して、全軍を与えて秦軍迎撃に当たらせた。 王翦も李牧には苦戦したが、始皇帝は尉繚子の策に基づき「反間の計」を実行に移す。 狙いは趙国の大臣・郭開。彼はBC.245年に廉頗の趙国帰参を妨害した人物だったが、十六年を経た現在は幽繆王の信任を得ていた。 また幽繆王の母・悼倡后も李牧を疎んでいた。 『列女伝』によれば、もともと彼女は低い身分で素行もよろしくなかったようだが(*4)、美貌ゆえに先王・悼襄王から後宮に迎えられ、ついには王妃となった経緯がある。 しかし李牧は、悼襄王が悼倡后を容れることに反対していた。 その悼倡后の産んだ子が幽繆王である。つまり彼女にとって、李牧が自分と息子を放逐することはあり得る話だった。 秦は彼らに大量の賄賂を送って味方に付けると、「李牧と司馬尚は秦軍と結託して邯鄲に攻め込み、王位を奪おうとしている」との噂を流させた。 もともと幽繆王自体が、兵権と人望を握り母と対立した李牧を警戒していたこともあり、幽繆王は李牧の粛清を決定。 王族の趙葱(ちょうそう)と、斉国からの亡命者・顔聚を派遣して李牧・司馬尚と交替させた。 李牧は驚きながらも邯鄲に戻って幽繆王に弁明するが、幽繆王は一切を聞き入れず即座に李牧を処刑。司馬尚は身の危険を察して逃亡した。 なお、李牧の最後は資料により差異がある。 『史記・廉頗藺相如列伝』では李牧は将軍解任の通達に抵抗したため、「抗命罪」により幽繆王が派遣した将校によって斬首された。直後に司馬尚も逃亡。その後に趙葱・顔聚を後任として派遣したとする。 一方『戦国策』では、李牧は悲嘆して自殺したという。なおこの『戦国策』では李牧は腕に障碍があり、拝礼も難しかった。そして剣を抜いて自殺しようとしたが、ちゃんと握れないので切っ先を口にくわえて柱に押しつけるようにして死んだという。とはいえ、その身体障害の描き方が「荘子」と似ており、さすがに寓話と推定される。 また李牧が粛清されるまでには『戦国策』には三つの話が記載されている。 『戦国策・欲見頓弱』では「秦大夫・頓弱が趙国に派遣され、万金を投じて工作して李牧処刑に誘導した」、 『戦国策・文信侯出走』では「幽繆王の寵臣・韓倉が李牧を讒言し、李牧に短刀を届けさせて死を賜った」、 『戦国策・秦使王翦攻趙』では「王翦が反間の計を用い、郭開に賄賂を送って李牧粛清に持って行った」、とする。 また上述した悼倡后の話は主に『列女伝』の記述による。 一番上の『戦国策・欲見頓弱』の話は尉繚子が始皇帝に示した反間の政略と一致する。このことから頓弱とは尉繚子の別名とする学説もある……が、「反間の計を進言する人物が、必ずしも賄賂の送り方や宮廷工作の具体的なやり方に通じているとは限らない」と言うことで、「尉繚子の策略を実行した工作員として頓弱(あるいはそれに相当する人間)がいたのは事実だろうが、尉繚子本人が邯鄲まで出張ったというわけではなかろう」というのが通説。 いずれにせよ、趙国は最後の名将であった李牧を自らの手で消し去った。 そして李牧の死を確認した秦軍は趙国攻略を再開。 BC.228年、王翦は総攻撃を開始し、東陽の地で趙軍を大いに破る。趙葱は戦死して顔聚は邯鄲に逃亡した。 秦軍はそのまま邯鄲に攻め込むとこれを攻略し、幽繆王と顔聚を捕縛した。 幽繆王は房陵に流されたという。 趙国の公子嘉(幽繆王の異母兄)はかつて李牧が治めていた代に逃亡して代王を名乗るが天下の趨勢に影響をもたらすことはなく、BC.222年にやはり秦によって滅ぼされ、公子嘉も捕虜となり趙国は完全に滅亡した。 【人物評】 始皇帝の統一戦争を正面から阻む可能性のあった人物として、楚国の項燕とともに知られる人物。 唐朝・徳宗の建中三年(782年)には、礼儀使・顔真卿の建議で歴代の名将六十四人を讃えて「武廟」を設立した。その筆頭は太公望だが、続く諸将の中には李牧の名前も入っている。 (他の春秋戦国時代後期の武将からは、孫臏・田単・廉頗・趙奢・王翦が選出) 宋代の宣和五年には「武廟」は七十二人の武将が名を連ねるが、ここにも李牧の名がある。 匈奴に対しても強かったことから、北方騎馬民族の脅威を常に受けていた漢民族からの信仰も強かった。 例えば、前漢の名君・文帝は「廉頗や李牧がいま我が部下にいれば、匈奴など恐れることもなかったであろう」と延べ、その臣下の馮唐は「天下の将軍はただ廉頗と李牧のみだ」と嘆いた。 他にも彼に言及する人物は多いが、ほぼ全て賞賛一色。 唐初期の歴史家・司馬貞が「廉頗と李牧を用いなかったために趙国は滅んだ」と評したのを筆頭に、あまたの文章家が李牧を絶賛し、その死を惜しんだ。 もっとも、李牧がそこまで絶賛されたのは、やはり「儒教の理想に背く悪の帝国を作った極悪人・始皇帝の野望を、唯一阻める人物だったから」という点が最も大きかったのだろう。 「三国志」の王允も、どちらかというと狭量な逸話が多いのに「董卓を討ち果たした」の一点のみで美化されているところがある。 李牧への英雄視も「もしあのとき李牧が勝っていたら」という、一種の願望もあったと思われる。実際「秦は汚い謀略を使って罠に填めた」と罵倒をぶつける文人もいた。例えば、宋の司馬光は「虜帳方惊避、秦金已闇来(秦の金は闇より来たれり)」と書いている。 「秦の侵略を阻んだ」のは項燕も同じだが、彼の場合は「中国史上最強の暴れ武者」項羽のイメージがあまりにも強く、また「全力を出し切ってそれでも秦の大軍に負けた」という展開のため、「もし郭開のような佞臣がいなければ」というようなIFも見いだしにくかったのだろう。 【李牧の一族】 李曇(字:貴遠) 李牧の祖父。趙で武将として働き、柏人侯の封号を受けた。その後は秦に入朝して御史大夫となる。 さらに後には退官して趙に戻り、柏人(現在の邢台市隆尭県)に葬られた。 李璣 李牧の父親。李曇の第四子。活躍などは記録されていない。 李左車 李牧の孫。 楚漢戦争から前漢初期の時代の人物。 秦末に六国残党が蜂起した際、趙歇と陳余を中心とする趙国に参加。「広武君」の封号を受ける(*5)。 歴史における李左車の初登場は紀元前204年。漢の大将軍・韓信(&一緒にいる張耳)が三万の兵で趙に侵攻した。 趙はこれを迎撃するためにほぼ全軍、二十万(*6)を投入。趙王歇と陳余が自ら参戦していた。 李左車はこの際、陳余の副将として参戦。 「韓信軍は数こそ少ないが勢いに乗っていて手強い。しかし井陘(地名)にいるので、隘路に苦戦している。この道を前後から封鎖してしまえば韓信軍の兵站を断ち崩壊させられるだろう。私が趙軍から三万を率いて韓信軍の背後に回るので、陳余閣下は残る大軍で正面から出口を封鎖してください」 と献策した。 だが陳余は「敵は寡兵でこちらは大軍。このような時は数に任せて短期決戦にすべし」と却下。少数の敵に対して持久戦を展開すれば志気に関わるともしていた。 「趙国」といっても陳勝の反乱からの混乱のなか突貫工事で立ち上げた勢力であり(*7)、求心力を高めなければならないというのは切実な問題であった。 また陳余が短期決戦にこだわった理由として、西からの韓信軍に加えて南方で劉邦軍が旧魏領地に展開しており、言わば西と南の両面から挟撃されていたことも指摘される。つまりさっさと韓信を倒して劉邦に備える必要があったと言うこと。もっとも、劉邦が韓信と連携していたかは資料で一致しない。 しかし韓信は「背水の陣」を敷いて陳余と趙軍主力を「韓信隊など一戦にして壊滅させられる」と思い込ませて誘い出す。それで手薄になった趙軍本陣に、韓信が送り込んだ別働隊が襲撃、前後に敵を迎えさせて、ついに趙軍を壊滅させた。この「井陘の戦い」は趙軍の完敗となり、趙歇・陳余は前後して戦死、趙国は滅亡した。 この際に李左車も捕らえられた。 しかし韓信は李左車の見識が高いことを知っており、彼を説得して自らの幕僚に加えた。李左車も韓信軍の疲弊と再建の必要性、および燕・斉を直接的な武力ではなく威圧によって降伏させる戦略を進言し、韓信はこれを受け入れた。 彼は「広武君略」という兵書を書き記したと言うが、現在は散逸している。 なお「敗軍の将は戦を語らず」とは、李左車が韓信に捕縛された際の言葉。趙歇・陳余をよく補佐できなかったことを念頭に置いている。 それでも説得する韓信に対して、自分は愚者ではあるがという謙遜を表現した「智者には千慮すれども必ず一失あり。愚者には千慮すれば必ずや一得あり」という言葉もまた有名である。 「史記」や「漢書」などにおける李左車の記述は以上となる。劉邦が天下を取ってからの受勲者の中に李左車の名前はない。 ただ、民間信仰では非常に人気が高く、主に旧趙国こと河北でさまざまな説話に登場するほか「死後に雹の神となった」とも伝わる。 1977年には山東省で古代の墓が見つかり「李左車の墓か」と一時期大騒ぎになったという。 しかし調査の結果、前漢時代ではなく後漢時代のものであり、李左車とは無関係と判明した。 まあそれはそれとして考古学的資料としては大きな価値があったが。 ただ、実は李牧の親族関係、特に李左車を李牧の孫とするのは『新唐書』宰相世系表に拠っている。 そして『新唐書』の歴史書としての評価はやや低め。また成立は1060年、李牧や李左車の時代から1200年以上も経過しており、「李左車は李牧の孫」というのは否定的な見方をされる場合もある。 なにせ李という姓は中国には無数にあるわけで…… ただ、陳余や韓信への献策からして李左車が能力ある人物だったことは確か。 また趙国では求心力の向上に腐心していたはずであり、仮に本当に血縁がなかったとしても「こちらの李左車将軍はあの李牧将軍の血を引くものである!」というハッタリを利かせた可能性なら大いにあるだろう。 【各作品】 コーエー三國志 「いにしえ武将」として定番の一人。 統率力は90代後半、知力は90前後と文武両道。武力と魅力も70代半ばとこれまた悪くない。 政略で消されたためか政治力は60台とやや低めながら、全体的にバランスのとれた武将。 安能務「春秋戦国志」 麾下の兵士を分散・収束させて敵を攪乱し、隙を見せたところに奇襲を掛ける、戦場での駆け引きに長けた武将として描写される。 韓非子は「政治の世界に天才というのは現れないが、軍事の世界に天才というのは突然現れる。例えば楽毅がそうだった。秦国は確かに現在最強の国家だが、軍事力で逆転されることはあり得る。そうなる前に統一を急ぐべきだ」と教えていた。 そのため李牧の活躍を聞いた始皇帝は「これこそ韓非子が言っていた、楽毅に並ぶ軍事の天才だ」と懸念しつつも「韓非子は政治の世界に天才は現れないと言った。しかし、ここに俺がいる。ヤツは俺の手で倒してみせる!」と決意する。 また魏国から来た尉繚子より「廉頗が魏国に亡命したのは、趙国で郭開の讒訴にあったから」と聞いていたこともあり、その郭開を買収(前金で一万金)して李牧を破滅させた。卑怯な政治工作と言うより、政治手腕による一騎打ちといった様相である。 なお、郭開は「李牧を始末したら趙都・邯鄲の城門も開ける」と約束していたのだが、李牧死後も彼は開門しなかった。というのも李牧死後も成功報酬が送られなかったことで、郭開が「秦は値切るか、踏み倒す気だ」と判断。徹底抗戦に及んだのだった。 キングダム 詳細はリンク先参照。 趙国の並み居る武将たちを総括する総司令官的な立場にあり、秦軍に対する強大な壁となる。 なお、李牧の史実の登場は(年次不明の匈奴迎撃戦を除けば)BC.243。しかしこの頃は、外交や対燕国戦線に投入されており、秦軍に対して投入されるのはBC.233である。 しかし本作では登場が大幅に前倒しされ、BC.244から対秦国戦線にて総指揮を執っている。 そのせいで数々の敗戦が李牧の責任にされ、読者からは「あれは李牧じゃない別人のリーボックだ」と揶揄されることに。 【余談】 『史記』では『趙世家』と『廉頗藺相如列伝』に記述があるが、なぜか『秦始皇本紀』には一切名前の記述がない。 アニヲタWikiを守るために追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 勝った… -- 名無しさん (2024-03-15 17 02 03) ん? -- 名無しさん (2024-03-15 17 16 23) 「身内における立ち位置の確保」と「対外戦闘の強さ」を両立できないと、武将というひとは長生きできない。大変なんだな。 -- 名無しさん (2024-03-15 20 49 13) 「守戦の名将」の印象が強かったけど、改めて読み直すと万能型の名将だったと感じられる。 -- 名無しさん (2024-03-16 00 19 28) 左遷されたり、疎まれたり、本人の能力は極めて高いのにさぞ悔いの残る生涯だったろうなぁ… -- 名無しさん (2024-03-16 01 39 45) まさかここの建て主が著作権をダシにしてエピソード項目の件を蒸し返すような残念な人柄だったなんて。もう二度とアニヲタwikiに関わらないでほしい -- 名無しさん (2024-03-22 10 29 47) 名前 コメント
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資治通鑑巻第二十四 漢紀十六 孝昭皇帝下 元平元年(丁未、前七四) 1春,二月,詔減口賦錢什三。 1. 春、二月、詔があり、口賦銭を三割減らした。 2夏,四月,癸來,帝崩於未央宮;無嗣。時武帝子獨有廣陵王胥,大將軍光與羣臣議所立,咸持廣陵王。王本以行失道,先帝所不用;光内不自安。朗有上書言:「周太王廢太伯立王季,文王捨伯邑考立武王,唯在所宜,雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗嗣。」言合光意。光以其書示丞相敞等,擢郎爲九江太守。即日承皇后詔,遣行大鴻臚事少府樂成、宗正德、光祿大夫吉、中郎將利漢,迎昌邑王賀,乘七乘傳詣長安邸。光又白皇后,徒右將軍安世爲車騎將軍。 賀,昌邑哀王之子也,在國素狂縱,動作無節。武帝之喪,賀遊獵不止。嘗遊方與,不半日馳二百里。中尉琅邪王吉上疏諫曰:「大王不好書術而樂逸游,馮式撙街,馳騁不止,口倦虖叱吒,手苦於棰轡,身勞虖車輿,朝則冒霧露,晝則被塵埃,夏則爲大暑之所暴炙,冬則爲風寒之所匽薄,數以耎脆之玉體犯勤勞之煩毒,非所以全壽命之宗也,又非所以進仁義之隆也。夫廣廈之下,細旃之上,明師居前,勤誦在後,上論唐、虞之際,下及殷、周之盛,考仁聖之風,習治國之道,欣欣焉發憤忘食,日新厥德,其樂豈街橛之間哉!休則俛仰屈伸以利形,進退歩趨以實下,吸新吐故以練臧,專意積精以適神,於以養生,豈不長哉!大王誠留意如此,則心有堯、舜之志,體有喬、松之壽,美聲廣譽,登而上聞,則福祿其臻而社稷安矣。皇帝仁聖,至今思慕未怠,於宮館、囿池、戈獵之樂未有所幸,大王宜夙夜念此以承聖意。諸侯骨肉,莫親大王,大王於屬則子也,於位則臣也,一身而二任之責加焉。恩愛行義,纖介有不具者,於以上聞,非饗國之福也。」王乃下令曰:「寡人造行不能無惰,中尉其忠,數輔吾過。」使謁者千秋賜中尉牛肉五百斤,酒五石,脯五束。其後復放縱自若。 郎中令山陽龔遂,忠厚剛毅,有大節,内諫爭於王,外責傅相,引經義,陳禍福,至於涕泣,蹇蹇亡已,面刺王過。王至掩耳起走,曰:「郎中令善愧人!」王嘗久與騶奴、宰人遊戲飲食,賞賜無度,遂入見王,涕泣膝行,左右侍御皆出涕。王曰:「郎中令何爲哭?」遂曰:「臣痛社稷危也!願賜清閒,竭愚!」王辟左右。遂曰:「大王知膠西王所以爲無道亡乎?」王曰:「不知也。」曰:「臣聞膠西王有諛臣侯得,王所爲似於桀、紂也,得以爲堯、舜也。王説其諂諛,常與寢處,唯得所言,以至於是。今大王親近羣小,漸漬邪惡所習,存亡之機,不可不愼也!臣請選郎通經有行義者與王起成,坐則誦詩、書,立則習禮容,宜有益。」王許之。遂乃選郎中張安等十人侍王。居數日,王皆逐去安等。 王嘗見大白犬,頸以下似人,冠方山冠而無尾,以問龔遂,遂曰:「此天戒,言在側者盡冠狗也,去之則存,不去則亡矣。」後又聞人聲曰:「熊!」視而見大熊,左右莫見,以問遂,遂曰:「熊,山野之獸,而來之宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」王仰天而歎曰:「不祥何爲數來!」遂叩頭曰:「臣不敢隱忠,數言危亡之戒;大王不説。夫國之存亡,豈在臣言哉!願王内自揆度。大王誦詩三百五篇,人事浹,王道備。王之所行,中詩一篇何等也?大王位於諸侯王,行汚於庶人,以存難,以亡易,宜深察之!」後又血汚王坐席,王問遂;遂叫然號曰:「宮空不久,妖祥數至。血者,陰憂象也,宜畏愼自省!」王終不改節。 及徴書至,夜漏未盡一刻,以火發書。其日中,王發;晡時,至定陶,行百三十五里,侍從者馬死相望於道。王吉奏書戒王曰:「臣聞高宗諒闇,三年不言。今大王以喪事征,宜日夜哭泣悲哀而已,愼毋有所發!大將軍仁愛、勇智、忠信之德,天下莫不聞;事孝武皇帝二十餘年,未嘗有過。先帝棄羣臣,屬以天下,寄幼孤焉。大將軍抱持幼君襁褓之中,布政施教,海内晏然,雖周公、伊尹無以加也。今帝崩無嗣,大將軍惟思可以奉宗廟者,攀援而立大王,其仁厚豈有量哉!臣願大王事之,敬之,政事壹聽之,大王垂拱南面而已。願留意,常以爲念!」 王至濟陽,求長鳴雞,道買積竹杖。過弘農,使大奴善以衣車載女子。至湖,使者以讓相安樂。安樂告龔遂,遂入問王,王曰:「無有。」遂曰:「即無有,何愛一善以毀行義!請收屬吏,以湔灑大王。」即捽善屬衞士長行法。 王到霸上,大鴻臚郊迎,騶奉乘輿車。王使壽成御,郎中令遂參乘。且至廣明、東都門,遂曰:「禮,奔喪望見國都哭。此長安東郭門也。」王曰:「我嗌痛,不能哭。」至城門,遂復言,王曰:「城門與郭門等耳。」且至未央宮東闕,遂曰:「昌邑帳在是闕外馳道北,未至帳所,有南北行道,馬足未至數歩;大王宜下車,郷闕西面伏哭,盡哀止。」王曰:「諾。」到,哭如儀。六月,丙寅,王受皇帝璽綬,襲尊號,尊皇后曰皇太后。 2. 3壬申,葬孝昭皇帝於平陵。 3. 4昌邑王既立,淫戲無度。昌邑官屬皆征至長安,往往超擢拜官。相安樂遷長樂衞尉。龔遂見安樂,流涕謂曰:「王立爲天子,日益驕溢,諫之不復聽。今哀痛未盡,日與近臣飲酒作樂,斗虎豹,召皮軒車九旒,驅馳東西,所爲悖道。古制寬,大臣有隱退;今去不得,陽狂恐知,身死爲世戮,奈何?君,陛下故相,宜極諫爭。」 王夢靑蠅之矢積西階東,可五六石,以屋版瓦覆之,以問遂,遂曰:「陛下之詩不云乎:『營營靑蠅,止於籓。愷悌君子,毋信讒言。』陛下左側讒人衆多,如是靑蠅惡矣。宜進先帝大臣子孫,親近以爲左右。如不忍昌邑故人,信用讒諛,必有凶咎。願詭禍爲福,皆放逐之!臣當先逐矣。」王不聽。太僕丞河東張敞上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣猶懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾耳,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 太僕丞河東張敝上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣憂懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾年,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 大將軍光憂懣,獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰:「將軍爲國柱石,審此人不可,何不建白太后,更選賢而立之!」光曰:「今欲如是,於古嘗有此不?」延年曰:「伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。將軍若能行此,亦漢之伊尹也。」光乃引延年給事中,陰與車騎將軍張安世圖計。 王出遊,光祿大夫魯國夏侯勝當乘輿前諫曰:「天久陰而不雨,臣下有謀上者。陛下出,欲何之?」王怒,謂勝爲示夭言,縛以屬吏。吏白霍光,光不舉法。光讓安世,以爲洩語。安世實不言;乃召問勝。勝對言:「在鴻範傳曰:『皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上者。』惡察察言,故云『臣下有謀』。」光、安世大驚,以此益重經術士。侍中傅嘉數進諫,王亦縛嘉繋獄。 光、安世既定議,乃使田延年報丞相楊敞。敞驚懼,不知所言,汗出洽背,徒唯唯而已。延年起,至更衣,敞夫人遽從東廂謂敞曰:「此國大事,今大將軍議已定,使九卿來報君侯,君侯不疾應,與大將軍同心,猶與無決,先事誅矣!」延年從更衣還,敞夫人與延年參語許諾:「請奉大將軍教令!」 癸巳,光召丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士會議未央宮。光曰:「昌邑王行昏亂,恐危社稷,如何?」羣臣皆驚鄂失色,莫敢發言,但唯唯而已。田延年前,離席按劍曰:「先帝屬將軍以幼孤,寄將軍以天下,以將軍忠賢,能安劉氏也。今羣下鼎沸,社稷將傾;且漢之傳謚常爲『孝』者,以長有天下,令宗廟血食也。如漢家絶祀,將軍雖死,何面目見先帝於地下乎?今日之議,不得旋踵,羣臣後應者,臣請斂斬之!」光謝曰:「九卿責光是也!天下匈匈不安,光當受難。」於是議者皆叩頭曰:「萬姓之命,在於將軍,唯大將軍令!」 光即與羣臣倶見,白太后,具陳昌邑王不可以承宗廟状。皇太后乃車駕幸未央承明殿,詔諸禁門毋内昌邑羣臣。王入朝太后還,乘輦欲歸温室。中黄門宦者各持門扇,王入,門閉,昌邑羣臣不得入。王曰:「何爲?」大將軍跪曰:「有皇太后詔,毋内昌邑羣臣!」王曰:「徐之,何乃驚人如是!」光使盡驅出昌邑羣臣,置金馬門外。車騎將軍安世將羽林騎,收縛二百餘人,皆送廷尉詔獄。令故昭帝侍中中臣侍守王。光敕左右:「謹宿衞!卒有物故自裁,令我負天下,有殺主名。」王尚未自知當廢,謂左右:「我故羣臣從官安得罪,而大將軍盡繋之乎!」 頃之,有太后詔召王。王聞召,意恐,乃曰:「我安得罪而召我哉!」太后被珠襦,盛服坐武帳中,侍御數百人皆持兵,期門武士陛戟陳列殿下,羣臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。光與羣臣連名奏王,尚書令讀奏曰:「丞相臣敞等昧死言皇太后陛下:孝昭皇帝早棄天下,遣使征昌邑王典喪,服斬衰,無悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,使從官略女子載衣車,内所居傳捨。始至謁見,立爲皇太子,常私買雞豚以食。受皇帝信璽、行璽大行前,就次,發璽不封。從官更持節引内昌邑從官、騶宰、官奴二百餘人,常與居禁闥内敖戲。爲書曰:『皇帝問侍中君卿:使中御府令高昌奉黄金千斤,賜君卿取十妻。』大行在前殿,發樂府樂器,引内昌邑樂人撃鼓,歌吹,作俳倡;召内泰壹、宗廟樂人,悉奏衆樂。駕法駕驅馳北宮、桂宮,弄彘,斗虎。召皇太后御小馬車,使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令:『敢洩言,要斬!』……」太后曰:「止!爲人臣子,當悖亂如是邪!」王離席伏。尚書令復讀曰:「……取諸侯王、列侯、二千石綬及墨綬、黄綬以並佩昌邑郎官者免奴。發御府金錢、刀劍、玉器、采繒,賞賜所與遊戲者。與從官、官奴夜飲,湛沔於酒。獨夜設九賓温室,延見姊夫昌邑關内侯。祖宗廟祠未舉,爲璽書,使使者持節以三太牢祠昌邑哀王園廟,稱『嗣子皇帝』。受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署征發凡一千一百二十七事。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,日以益甚。恐危社稷,天下不安。臣敞等謹與博士議,皆曰:『今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。「五辟之屬,莫大不孝。」周襄王不能事母,春秋曰:「天王出居於鄭,」由不孝出之,絶之於天下也。宗廟重於君,陛下不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢!』臣請有司以一太牢具告祠高廟。」皇太后詔曰:「可。」光令王起,拜受詔,王曰:「聞『天下有爭臣七人,雖亡道不失天下。』」光曰:「皇太后詔廢,安得稱天子!」乃即持其手,解脱其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,羣臣隨送。王西面拜曰:「愚戇,不任漢事!」起,就乘輿副車,大將軍光送至昌邑邸。光謝曰:「王行自絶於天,臣寧負王,不敢負社稷!願王自愛,臣長不復左右。」光涕泣而去。 羣臣奏言:「古者廢放之人,屏於遠方,不及以政。請徒王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戸,故王家財物皆與賀;及哀王女四人,各賜湯沐邑千戸;國除,爲山陽郡。 昌邑羣臣坐在國時不舉奏王罪過,令漢朝不聞知,又不能輔道,陷王大惡,皆下獄,誅殺二百餘人。唯中尉吉、郎中令遂以忠直數諫正,得減死,髡爲城旦。師王式繋獄當死,治事使者責問曰:「師何以無諫書?」式對曰:「臣以詩三百五篇朝夕授王,至於忠臣、孝子之篇,未嘗不爲王反覆誦之也。至於危亡失道之君,未嘗不流涕爲王深陳之也。臣以三百五篇諫,是以無諫書。」使者以聞,亦得減死論。 霍光以羣臣奏事東宮,太后省政,宜知經術,白令夏侯勝用尚書授太后,遷勝長信少府,賜爵關内侯。 4. 5初,衞太子納魯國史良娣,生子進,號史皇孫。皇孫納涿郡王夫人,生子病已,號皇曾孫。皇曾孫生數月,遭巫蠱事,太子三男、一女及諸妻、妾皆遇害,獨皇曾孫在,亦坐收繋郡邸獄。故廷尉監魯國丙吉受詔治巫蠱獄,吉心知太子無事實,重哀皇曾孫無辜,擇謹厚女徒謂城胡組、淮陽郭征卿,令乳養曾孫,置閒燥處。吉日再省視。 巫蠱事連歳不決,武帝疾,來往長楊、五柞宮,望氣者言長安獄中有天子氣,於是武帝遣使者分條中都官,詔獄繋者,無輕重,一切皆殺之。内謁者令郭穰夜到郡邸獄,吉閉門拒使者不納,曰:「皇曾孫在。他人無辜死者猶不可,況親曾孫乎!」相守至天明,不得入。穰還,以聞,因劾奏吉。武帝亦寤,曰:「天使之也。」因赦天下。郡邸獄繋者,獨賴吉得生。 既而吉謂守丞誰如:「皇孫不當在官。」使誰如移書京兆尹,遣與胡組倶送;京兆尹不受,復還。及組日滿當去,皇孫思慕,吉以私錢雇組令留,與郭征卿並養,養月,乃遣組去。後少内嗇夫白吉曰:「食皇孫無詔令。」時吉得食米、肉,月月以給皇曾孫。曾孫病,幾不全者數焉,吉數敕保養乳母加致醫藥,視遇甚有恩惠。吉聞史良娣有母貞君及兄恭,乃載皇曾孫以付之。貞君年老,見孫孤,甚哀之,自養視焉。 後有詔掖庭養視,上屬籍宗正。時掖庭令張賀,嘗事戻太子,思顧舊恩,哀曾孫,奉養甚謹,以私錢供給,教書。既壯,賀欲以女孫妻之。是時昭帝始冠,長八尺二寸。賀弟安世爲右將軍,輔政,聞賀稱譽皇曾孫,欲妻以女,怒曰:「曾孫乃衞太子後也,幸得以庶人衣食縣官足矣,勿復言予女事!」於是賀止。時暴室嗇夫許廣漢有女,賀乃置酒請廣漢,酒酣,爲言:「曾孫體近,下乃關内侯,可妻也。」廣漢許諾。明日,嫗聞之,怒。廣漢重令人爲介,遂與曾孫。賀以家財聘之。曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏,受詩於東海澓中翁,高材好學;然亦喜遊俠,鬥雞走狗,以是倶知閭里姦邪,吏治得失。數上下諸陵,周遍三輔,嘗困於蓮勺鹵中,尤樂杜、鄠之間,率常在下杜。時會朝請,捨長安尚冠里。 及昌邑王廢,霍光與張安世諸大臣議所立,未定。丙吉奏記光曰:「將軍事孝武皇帝,受襁褓之屬,任天下之寄。孝昭皇帝早崩亡嗣,海内憂懼,欲亟聞嗣主。發喪之日,以大誼立後,所立非其人,復以大誼廢之;天下莫不服焉。方今社稷、宗廟、羣生之命在將軍之壹舉,竊伏聽於衆庶,察其所言諸侯、宗室在列位者,未有所聞於民間也。而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭、外家者,吉前使居郡邸時,見其幼少;至今十八九矣,通經術,有美材,行安而節和。願將軍詳大義,參以蓍龜豈宜,褒顯先使入侍,令天下昭然知之,然後決定大策,天下幸甚!」杜延年亦知曾孫德美,勸光、安世立焉。 秋,七月,光坐庭中,會丞相以下議定所立,遂復與丞相敞等上奏曰:「孝武皇帝曾孫病已,年十八,師受詩、論語、孝經,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞!」皇太后詔曰:「可。」光遣宗正德至曾孫家尚冠里,洗沐,賜御衣;太僕以軨獵車迎曾孫,就齋宗正府。庚申,入未央宮,見皇太后,封爲陽武侯。已而羣臣奏上璽綬,即皇帝位,謁高廟;尊皇太后爲太皇太后。 侍御史嚴延年劾奏「大將軍光擅廢立主,無人臣禮,不道。」奏雖寢,然朝廷肅然敬憚之。 5. 6八月,己巳,安平敬侯楊敞薨。 6. 7九月,大赦天下。 7. 8戊寅,蔡義爲丞相。 8. 9初,許廣漢女適皇曾孫,一歳,生子奭。數月,曾孫立爲帝,許氏爲婕妤。是時霍將軍有小女與皇太后親,公卿議更立皇后,皆心擬霍將軍女,亦未有言。上乃詔求微時故劍。大臣知指,白立許婕妤爲皇后。十一月,壬子,立皇后許氏。霍光以後父廣漢刑人,不宜君國;歳餘,乃封爲昌成君。 9. 10太皇太后歸長樂宮。長樂宮初置屯衞。 10. 中宗孝宣皇帝上之上 本始元年(戊申、前七三) 1春,詔有司論定策安宗廟功。大將軍光益封萬七千戸,與故所食凡二萬戸。車騎將軍富平侯安世以下益封者十人,封侯者五人,賜爵關内侯者八人。 1. 2大將軍光稽首歸政,上謙讓不受;諸事皆先關白光,然後奏御。自昭帝時,光子禹及兄孫雲皆爲中郎將,雲弟山奉車都尉、侍中、領胡、越兵,光兩女婿爲東、西宮衞尉,昆弟、諸婿、外孫皆奉朝請,爲諸曹、大夫、騎都尉、給事中,黨親連體,根據於朝廷。及昌邑王廢,光權益重,毎朝見,上虚己斂容,禮下之已甚。 2. 3夏,四月,庚午,地震。 3. 4五月,鳳皇集膠東、千乘。赦天下,勿收田租賦。 4. 5六月,詔曰:「故皇太子在湖,未有號謚,歳時祠;其議謚,置園邑。」有司奏請:「禮,爲人後者,爲之子也;故降其父母,不得祭,尊祖之義也。陛下爲孝昭帝后,承祖宗之祀,愚以爲親謚宜曰悼,母曰悼後;故皇太子謚曰戻,史良娣曰戻夫人。」皆改葬焉。 5. 6秋,七月,詔立燕刺王太子建爲廣陽王;立廣陵王胥少子弘爲高密王。 6. 7初,上官桀與霍光爭權,光既誅桀,遂遵武帝法度,以刑罰痛繩羣下,由是俗吏皆尚嚴酷以爲能;而河南太守丞淮陽黄霸獨用寬和爲名。上在民間時,知百姓苦吏急也,聞霸持法平,乃召以爲廷尉正;數決疑獄,庭中稱平。 7. 二年(己酉、前七二) 1春,大司農田延年有罪自殺。昭帝之喪,大司農僦民車,延年詐增僦直,盜取錢三千萬,爲怨家所告。霍將軍召問延年,欲爲道地。延年抵曰:「無有是事!」光曰:「即無事,當窮竟!」御史大夫田廣明謂太僕杜延年曰:「春秋之義,以功覆過。當廢昌邑王時,非田子賓之言,大事不成。今縣官出三千萬自乞之,何哉?願以愚言白大將軍。」延年言之大將軍,大將軍曰:「誠然,實勇士也!當發大議時,震動朝廷,」光因舉手自撫心曰:「使我至今病悸。謝田大夫曉大司農,通往就獄,得公議之。」田大夫使人語延年。延年曰:「幸縣官寬我耳,何面目入牢獄,使衆人指笑我,卒徒唾吾背乎?」即閉閣獨居齋舍,偏袒,持刀東西歩。數日,使者召延年詣廷尉。聞鼓聲,自刎死。 1. 2夏,五月,詔曰:「孝武皇帝躬仁誼,勵威武,功德茂盛,而廟樂未稱,聯甚悼焉。其與列侯、二千石、博士議。」於是羣臣大議庭中,皆曰:「宜如詔書。」長信少府夏侯勝獨曰:「武帝雖有攘四夷、廣土境之功,然多殺士衆,竭民財力,奢泰無度,天下虚耗,百姓流離,物故者半,蝗蟲大起,赤地數千里,或人民相食,畜積至今未復;無德澤於民,不宜爲立廟樂。」公卿共難勝曰:「此詔書也。」勝曰:「詔書不可用也。人臣之誼,宜直言正論,非苟阿意順指。議已出口,雖死不悔!」於是丞相、御史劾奏勝非議詔書,毀先帝,不道;及丞相長史黄霸阿縱勝,不舉劾;倶下獄。有司遂請尊孝武帝廟爲世宗廟,奏盛德、文始五行之舞。武帝巡狩所幸郡國皆立廟,如高祖、太宗焉。夏侯勝、黄霸既久繋,霸欲從勝受尚書,勝辭以罪死。霸曰:「朝聞道,夕死可矣。」勝賢其言,遂授之。繋再更冬,講論不怠。 2. 3初,烏孫公主死,漢復以楚王戊之孫解憂爲公主,妻岑娶。岑娶胡婦子泥靡尚小,岑娶且死,以國與季父大祿子翁歸靡,曰:「泥靡大,以國歸之。」翁歸靡既立,號肥王,復尚楚主,生三男、兩女。長男曰元貴靡,次曰萬年,次曰大樂。昭帝時,公主上書言:「匈奴與車師共侵烏孫,唯天子幸救之。」漢養士馬,議撃匈奴。會昭帝崩,上遣光祿大夫常惠使烏孫。烏孫公主及昆彌皆遣使上書,言:「匈奴復連發大兵,侵撃烏孫。使使謂烏孫『趣持公主來!』欲隔絶漢。昆彌願發國精兵五萬騎,盡力撃匈奴。唯天子出兵以救公主、昆彌!」先是匈奴數侵漢邊,漢亦欲討之。秋,大發兵,遣御史大夫田廣明爲祁連將軍,四萬餘騎,出西河;度遼將軍范明友三萬餘騎,出張掖;前將軍韓增三萬餘騎,出雲中;後將軍趙充國爲蒲類將軍,三萬餘騎,出酒泉;雲中太守田順爲虎牙將軍,三萬餘騎,出五原;期以出塞各二千餘里。以常惠爲校尉,持節護烏孫兵共撃匈奴。 3. 三年(庚戌、前七一) 1春,正月,癸亥,恭哀許皇后崩。時霍光夫人顯欲貴其小女成君,道無從。會許后當娠,病,女醫淳於衍者,霍氏所愛,嘗入宮侍皇后疾。衍夫賞爲掖庭戸衞,謂衍:「可過辭霍夫人,行爲我求安池監。」衍如言報顯,顯因生心,辟左右,謂衍曰:「少夫幸報我以事,我亦欲報少夫,可乎?」衍曰:「夫人所言,何等不可者!」顯曰:「將軍素愛小女成君,欲奇貴之,願以累少夫。」衍曰:「何謂邪?」顯曰:「婦人免乳,大故,十死一生。今皇后當免身,可因投毒藥去也,成君即爲皇后矣。如蒙力,事成,富貴與少夫共之。」衍曰:「藥雜治,當先嘗,安可?」顯曰:「在少夫爲之耳。將軍領天下,誰敢言者!緩急相護,但恐少夫無意耳。」衍良久曰:「願盡力!」即搗附子,繼入長定宮。皇后免身後,衍取附子併合太醫大丸以飲皇后,有頃,曰:「我頭岑岑也,藥中得無有毒?」對曰:「無有。」遂加煩懣,崩。衍出,過見顯,相勞問,亦未敢重謝衍。後人有上書告諸醫侍疾無状者,皆收繋詔獄,劾不道。顯恐急,即以状具語光,因曰:「既失計爲之,無令吏急衍!」光大驚,欲自發舉,不忍,猶與。會奏上,光署衍勿論。顯因勸光内其女入宮。 1. 2戊辰,五將軍發長安。匈奴聞漢兵大出,老弱奔走,驅畜産遠遁逃,是以五將少所得。夏,五月,軍罷。度遼將軍出塞千二百餘里,至蒲離候水,斬首、捕虜七百餘級;前將軍出塞千二百餘里,至烏員,斬首、捕虜百餘級;蒲類將軍出塞千八百餘里,西至候山,斬首、捕虜,得單于使者蒲陰王以下三百餘級。聞虜已引去,皆不至期還。天子薄其過,寬而不罪。祁連將軍出塞千六百里,至雞秩山,斬首、捕虜十九級。逢漢使匈奴還者冉弘等,言雞秩山西有虜衆,祁連即戒弘,使言無虜,欲還兵。御史屬公孫益壽諫,以爲主可。祁連不聽,遂引兵還。虎牙將軍出塞八百餘里,至丹餘吾水上,即止兵不進,斬首、捕虜千九百餘級,引兵還。上以虎牙將軍不至期,詐增鹵獲,而祁連知虜在前,逗遛不進,皆下吏,自殺。擢公孫益壽爲侍御史。 烏孫昆彌自將五萬騎與校尉常惠從西方入,至右谷蠡王庭,獲單于父行及嫂、居次、名王、犁汙都尉、千長、騎將以下四萬級,馬、牛、羊、驢、橐佗七十餘萬頭。烏孫皆自取所虜獲。上以五將皆無功,獨惠奉使克獲,封惠爲長羅侯。然匈奴民衆傷而去者及畜産遠移死亡,不可勝數。於是匈奴遂衰耗,怨烏孫。 上復遣常惠持金幣還賜烏孫貴人有功者。惠因奏請龜茲國嘗殺校尉賴丹,未伏誅,請便道撃之。帝不許。大將軍霍光風惠以便宜從事。惠與吏士五百人倶至烏孫,還,過,發西國兵二萬人,令副使發龜茲東國二萬人,烏孫兵七千人,從三面攻龜茲。兵未合,先遣人責其王以前殺漢使状。王謝曰:「乃我先王時爲貴人姑翼所誤耳,我無罪。」惠曰:「即如此,縛姑翼來,吾置王。」王執姑翼詣惠,惠斬之而還。 2. 3大旱。 3. 4六月,己丑,陽平節侯蔡義薨。 4. 5甲辰,長信少府韋賢爲丞相。 5. 6大司農魏相爲御史大夫。 6. 7冬,匈奴單于自將數萬騎撃烏孫,頗得老弱。欲還,會天大雨雪,一日深丈餘,人民、畜産凍死,還者不能什一。於是丁令乘弱攻其北,烏桓入其東,烏孫撃其西,凡三國所殺數萬級,馬數萬匹,牛羊甚衆;又重以餓死,人民死者什三,畜産什五。匈奴大虚弱,諸國羈屬者皆瓦解,攻盜不能理。其後漢出三千餘騎爲三道,並入匈奴,捕虜得數千人還;匈奴終不敢取當,滋欲郷和親,而邊境少事矣。 7. 8是歳,穎川太守趙廣漢爲京兆尹。穎川俗,豪桀相朋黨。廣漢爲缿筒,受吏民投書,使相告訐,於是更相怨咎,姦黨散落,盜賊不敢發。匈奴降者言匈奴中皆聞廣漢名,由是入爲京兆尹。廣漢遇吏,殷勤甚備,事推功善,歸之於下,行之發於至誠,吏咸願爲用,僵仆無所避。廣漢聰明,皆知其能之所宜,盡力與否;其或負者。輒收捕之,無所逃;案之,罪立具,即時伏辜。尤善爲金句距以得事情,閭里銖兩之姦皆知之。長安少年數人會窮里空捨,謀共劫人;坐語未訖,廣漢使吏捕治,具服。其發姦手適伏如神。京兆政清,吏民稱之不容口。長老傳以爲自漢興,治京兆者莫能及。 8. 四年(辛亥、前七〇) 1春,三月,乙卯,立霍光女爲皇后,赦天下。初,許后起微賤,登至尊日淺,從官車服甚節儉。及霍后立,輿駕、侍從益盛,賞賜官屬以千萬計,與許后時縣絶矣。 1. 2夏,四月,壬寅,郡國四十九同日地震,或山崩,壞城郭、室屋,殺六千餘人。北海、琅邪壞祖宗廟。詔丞相、御史與列侯、中二千石傅問經學之士,有以應變,毋有所諱。令三輔、太常、内郡國賢舉良方正各一人。大赦天下。上素服,避正殿五日。釋夏侯勝、黄霸,以勝爲諫大夫、給事中,霸爲揚州刺史。 勝爲人,質樸守正,簡易無威儀,或時謂上爲君,誤相字於前;上亦以是親信之。嘗見,出道上語,上聞而讓勝,勝曰:「陛下所言善,臣故揚之。堯言佈於天下,至今見誦。臣以爲可傳,故傳耳。」朝廷毎有大議,上知勝素直,謂曰:「先生建正言,無懲前事!」勝復爲長信少府,後遷太子太傅。年九十卒,太后賜錢二百萬,爲勝素服五日,以報師傅之恩。儒者以爲榮。 2. 3五月,鳳皇集北海安丘、淳于。 3. 4廣川王去坐殺其師及姫妾十餘人,或銷鉛錫灌口中,或支解,並毒藥煮之,令糜盡,廢徙上庸;自殺。 4. 地節元年(壬子、前六九) 1春,正月,有星孛于西方。 1. 2楚王延壽以廣陵王胥,武帝子,天下有變,必得立,陰附肋之,爲其後母弟趙何齊取廣陵王女爲妻,因使何齊奉書遺廣陵王曰:「願長耳目,毋後人有天下!」何齊父長年上書告之,事下有司考驗,辭服。冬,十一月,延壽自殺。胥勿治。 2. 3十二月,癸亥晦,日有食之。 3. 4是歳,於定國爲廷尉。定國決疑平法,務在哀鰥寡,罪疑從輕,加審愼之心。朝廷稱之曰:「張釋之爲廷尉,天下無冤民。於定國爲廷尉,民自以不冤。」 4. 二年(癸丑、前六八) 1春,霍光病篤。車駕自臨問,上爲之涕泣。光上書謝恩,願分國邑三千戸以封兄孫奉車都尉山爲列侯,奉兄去病祀。即日,拜光子禹爲右將軍。三月,庚午,光薨。上及皇太后親臨光喪,中二千石治塚,賜梓宮、葬具皆如乘輿制度,謚曰宣成侯。發三河卒穿復土,置園邑三百家,長、丞奉守;下詔復其後世,疇其爵邑,世世無有所與。 御史大夫魏相上封事曰:「國家新失大將軍,宜顯明功臣以填籓國,毋空大位,以塞爭權。宜以車騎將軍安世爲大將軍,毋令領光祿勳事;以其子延壽爲光祿勳。」上亦欲用之。夏,四月,戊申,以安世爲大司馬、車騎將軍,領尚書事。 1. 2鳳皇集魯,羣鳥從之。大赦天下。 2. 3上思報大將軍德,乃封光兄孫山爲樂平侯,使以奉車都尉領尚書事。魏相因昌成君許廣漢奏封事,言:「春秋譏世卿,惡宋三世爲大夫及魯季孫之專權,皆危亂國家。自後元以來,祿去王室,政由塚宰。今光死,子復爲右將軍,兄子秉樞機,昆弟、諸婿據權勢,在兵官,光夫人顯及諸女皆通籍長信宮,或夜詔門出入,驕奢放縱,恐寢不制,宜有以損奪其權,破散陰謀,以固萬世之基,全功臣之世。」又故事:諸上書者皆爲二封,署其一曰「副」,領尚書者先發副封,所言不善,屏去不奏。相復因許伯白去副封以防壅蔽。帝善之,詔相給事中,皆從其議。 3. 4帝興于閭閻,知民事之艱難。霍光既薨,始親政事,厲精爲治,五日一聽事。自丞相以下各奉職奏事,敷奏其言,考試功能。侍中、尚書功勞當遷及有異善,厚加賞賜,至於子孫,終不改易。樞機周密,品式備備,上下相安,莫有苟且之意。及拜刺史、守、相,輒親見問,觀其所由,退而考察所行以質其言,有名實不相應,必知其所必然。常稱曰:「庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者,政平訟理也。與我共此者,其唯良二千石乎!」以爲太守,吏民之本,數變易則下不安;民知其將久,不可欺罔,乃服從其教化。故二千石有治理效,輒以璽書勉厲,增秩,賜金,或爵至關内侯;公卿缺,則選諸所表,以次用之。是以漢世良吏,於是爲盛,稱中興焉。 4. 5匈奴壺衍鞮單于死,弟左賢王立爲虚閭權渠單于,以右大將女爲大閼氏,而黜前單于所幸顓渠閼氏。顓渠閼氏父左大且渠怨望。是時漢以匈奴不能爲邊寇,罷塞外諸城以休百姓。單于聞之,喜,召貴人謀,欲與漢和親。左大且渠心害其事,曰:「前漢使來,兵隨其後。今亦效漢發兵,先使使者入。」乃自請與呼盧訾王各將萬騎,南旁塞獵,相逢倶入。行未到,會三騎亡降漢,言匈奴欲爲寇。於是天子詔發邊騎屯要害處,使大將軍軍監治衆等四人將五千騎,分三隊,出塞各數百里,捕得虜各數十人而還。時匈奴亡其三騎,不敢入,即引去。是歳,匈奴饑,人民、畜産死者什六七,又發兩屯各萬騎以備漢。其秋,匈奴前所得西□辱居左地者,其君長以下數千人皆驅畜産行,與甌脱戰,所殺傷甚衆,遂南降漢。 5.
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資治通鑑巻第十一 漢紀三 太祖高皇帝中 五年(己亥、前二〇二) 1冬,十月,漢王追項羽至固陵,與齊王信、魏相國越期會撃楚;信、越不至,楚撃漢軍,大破之。漢王復堅壁自守,謂張良曰:「諸侯不從,奈何?」對曰:「楚兵且破,二人未有分地,其不至固宜。君王能與共天下,可立致也。齊王信之立,非君王意,信亦不自堅;彭越本定梁地,始,君王以魏豹故拜越爲相國,今豹死,越亦望王,而君王不早定。今能取睢陽以北至穀城皆以王彭越,從陳以東傅海與齊王信。信家在楚,其意欲復得故邑。能出捐此地以許兩人,使各自爲戰,則楚易破也。」漢王從之。於是韓信、彭越皆引兵來。 十一月,劉賈南渡淮,圍壽春,遣人誘楚大司馬周殷。殷畔楚,以舒屠六,舉九江兵迎黥布,並行屠城父,隨劉賈皆會。 十二月,項王至垓下,兵少,食盡,與漢戰不勝,入壁;漢軍及諸侯兵圍之數重。項王夜聞漢軍四面皆楚歌,乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也?」則夜起,飲帳中,悲歌慷慨,泣數行下;左右皆泣,莫能仰視。於是項王乘其駿馬名騅,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜,潰圍南出馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者纔百餘人。至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中,以故漢追及之。 項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人,項王自度不得脱,謂其騎曰:「吾起兵至今,八歳矣;身七十餘戰,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願爲諸君快戰,必潰圍,斬將,刈旗,三勝之,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」乃分其騎以爲四隊,四郷。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:「吾爲公取彼一將。」令四面騎馳下,期山東爲三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,郎中騎楊喜追項王,項王瞋目而叱之,喜人馬倶驚,辟易數里。項王與其騎會爲三處,漢軍不知項王所在,乃分軍爲三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人。復聚其騎,亡其兩騎耳。乃謂其騎曰:「何如?」騎皆伏曰:「如大王言!」 於是項王欲東渡烏江,烏江亭長艤船待,謂項王曰:「江東雖小,地方千里,衆數十萬人,亦足王也。願大王急渡!今獨臣有船,漢軍至,無以渡。」項王笑曰:「天之亡我,我何渡爲!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還;縱江東父兄憐而王我,我何面目見之!縱彼不言,籍獨不愧於心乎!」乃以所乘騅馬賜亭長,令騎皆下馬歩行,持短兵接戰。獨籍所殺漢軍數百人,身亦被十餘創。顧見漢騎司馬呂馬童,曰:「若非吾故人乎?」馬童面之,指示中郎騎王翳曰:「此項王也!」項王乃曰:「吾聞漢購我頭千金,邑萬戸,吾爲若德。」乃刎而死。王翳取其頭,餘騎相蹂踐爭項王,相殺者數十人。最其後,楊喜、呂馬童及郎中呂勝、楊武各得其一體;五人共會其體,皆是,故分其戸,封五人皆爲列侯。 楚地悉定,獨魯不下;漢王引天下兵欲屠之。至其城下,猶聞弦誦之聲,爲其守禮義之國,爲主死節,乃持項王頭以示魯父兄,魯乃降。漢王以魯公禮葬項王於穀城,親爲發哀,哭之而去。諸項氏枝屬皆不誅。封項伯等四人皆爲列侯,賜姓劉氏;諸民略在楚者皆歸之。 太史公曰:羽起隴晦之中,三年,遂將五諸侯滅秦,分裂天下而封王侯,政由羽出;位雖不終,近古以來未嘗有也!及羽背關懷楚,放逐義帝而自立;怨王侯叛己,難矣!自矜功伐,奮其私智而不師古,謂霸王之業,欲以力征經營天下。五年,卒亡其國,身死東城,尚不覺寤而不自責,乃引「天亡我,非用兵之罪也,」豈不謬哉! 揚子法言:或問:「楚敗垓下,方死,曰『天也!』諒乎?」曰:「漢屈羣策,羣策屈羣力;楚敦羣策而自屈其力。屈人者克,自屈者負。天曷故焉!」 1. 2漢王還,至定陶,馳入齊王信壁,奪其軍。 2. 3臨江王共尉不降,遣盧綰、劉賈撃虜之。 3. 4春,正月,更立齊王信爲楚王,王淮北,都下邳。封魏相國建城侯彭越爲梁王,王魏故地,都定陶。 4. 5令曰:「兵不得休八年,萬民與苦甚。今天下事畢,其赦天下殊死以下。」 5. 6諸侯王皆上疏請尊漢王爲皇帝。二月甲午,王即皇帝位於汜水之陽。更王后曰皇后,太子曰皇太子;追尊先媼曰昭靈夫人。 詔曰:「故衡山王呉芮,從百粤之兵,佐諸侯,誅暴秦,有大功;諸侯立以爲王,項羽侵奪之地,謂之番君。其以芮爲長沙王。」又曰:「故粤王無諸,世奉粤祀;秦侵奪其地,使其社稷不得血食。諸侯伐秦,無諸身率閩中兵以佐滅秦,項羽廢而弗立。今以爲閩粤王,王閩中地。」 6. 7帝西都洛陽。 7. 8夏,五月,兵皆罷歸家。 8. 9詔:「民前或相聚保山澤,不書名數。今天下已定,令各歸其縣,復故爵、田宅;吏以文法教訓辨告,勿笞辱軍吏卒;爵及七大夫以上,皆令食邑,非七大夫已下,皆復其身及戸,勿事。」 9. 10帝置酒洛陽南宮,上曰:「徹侯、諸將毋敢隱朕,皆言其情。吾所以有天下者何?項氏之所以失天下者何?」高起、王陵對曰:「陛下使人攻城略地,因以與之,與天下同其利;項羽不然,有功者害之,賢者疑之,此其所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;填國家,撫百姓,給餉饋,不絶糧道,吾不如蕭何;連百萬之衆,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。三者皆人傑,吾能用之,此吾所以取天下者也。項羽有一范增而不能用,此所以爲我禽也。」羣臣説服。 韓信至楚,召漂母,賜千金。召辱己少年令出胯下者,以爲中尉,告諸將相曰:「此壯士也。方辱我時,我寧不能殺之邪?殺之無名,故忍而就此。」 10. 11彭越既受漢封,田橫懼誅,與其徒屬五百餘人入海,居島中。帝以田橫兄弟本定齊地,齊賢者多附焉;今在海中,不取,後恐爲亂。乃使使赦橫罪,召之。橫謝曰:「臣烹陛下之使酈生,今聞其弟商爲漢將;臣恐懼,不敢奉詔,請爲庶人,守海島中。」使還報,帝乃詔衞尉酈商曰:「齊王田橫即至,人馬從者敢動搖者,致族夷!」乃復使使持節具告以詔商状,曰:「田橫來,大者王,小者乃侯耳;不來,且舉兵加誅焉!」橫乃與其客二人乘傳詣洛陽。未至三十里,至屍郷厩置。橫謝使者曰:「人臣見天子,當洗沐。」因此留,謂其客曰:「橫始與漢王倶南面稱孤;今漢王爲天子,而橫乃爲亡虜,北面事之,其恥固已甚矣。且吾烹人之兄,與其弟並肩而事主,縱彼畏天子之詔不敢動,我獨不愧於心乎!且陛下所以欲見我者,不過欲一見吾面貌耳。今斬吾頭,馳三十里間,形容尚未能敗,猶可觀也。」遂自剄,令客奉其頭,從使者馳奏之。帝曰:「嗟乎!起自布衣,兄弟三人更王,豈不賢哉!」爲之流涕,而拜其二客爲都尉;發卒二千人,以王者禮葬之。既葬,二客穿其塚傍孔,皆自剄,下從之。帝聞之,大驚。以橫客皆賢,餘五百人尚在海中,使使召之;至,則聞田死,亦皆自殺。 11. 12初,楚人季布爲項籍將,數窘辱帝。項籍滅,帝購求布千金;敢有舍匿,罪三族。布乃髡鉗爲奴,自賣於朱家。朱家心知其季布也,買置田舍,身之洛陽見籐公,説曰;「季布何罪!臣各爲其主用,職耳;項氏臣豈可盡誅邪?今上始得天下,而以私怨求一人,何示不廣也!且以季布之賢,漢求之急,此不北走胡,南走越耳。夫忌壯士以資敵國,此伍子胥所以鞭荊平之墓也。君何不從容爲上言之!」滕公待間言於上,如朱家指。上乃赦布,召拜郎中,朱家遂不復見之。布母弟丁公,亦爲項羽將,逐窘帝彭城西。短兵接,帝急,顧謂丁公曰:「兩賢相厄哉!」丁公引兵而還。及項王滅,丁公謁見。帝以丁公徇軍中,曰:「丁公爲項王臣不忠,使項王失天下者也。」遂斬之,曰:「使後爲人臣無效丁公也!」 臣光曰:高祖起豐、沛以來,罔羅豪桀,招亡納叛,亦已多矣。及即帝位,而丁公獨以不忠受戮,何哉?夫進取之與守成,其勢不同。當羣雄角逐之際,民無定主,來者受之,固其宜也。及貴爲天子,四海之内,無不爲臣;苟不明禮義以示之,使爲臣者,人懷貳心以徼大利,則國家其能久安乎!是故斷以大義,使天下曉然皆知爲臣不忠者無所自容;而懷私結恩者,雖至於活己,猶以義不與也。戮一人而千萬人懼,其慮事豈不深且遠哉!子孫享有天祿四百餘年,宜矣! 12. 13齊人婁敬戍隴西,過洛陽,脱輓輅,衣羊裘,因齊人虞將軍求見上。虞將軍欲與之鮮衣,婁敬曰:「臣衣帛,衣帛見;衣褐,衣褐見,終不敢易衣。」於是虞將軍入言上,上召見,問之。婁敬曰:「陛下都洛陽,豈欲與周室比隆哉?」上曰:「然。」婁敬曰:「陛下取天下與周異。周之先,自後稷封邰,積德累善,十有餘世,至於太王、王季、文王、武王而諸侯自歸之,遂滅殷爲天子。及成王即位,周公相焉,乃營洛邑,以爲此天下之中也,諸侯四方納貢職,道里均矣。有德則易以王,無德則易以亡。故周之盛時,天下和洽,諸侯、四夷莫不賓服,效其貢職。及其衰也,天下莫朝,周不能制也;非唯其德薄也,形勢弱也。今陛下起豐、沛,卷蜀、漢,定三秦,與項羽戰滎陽、成皋之間,大戰七十,小戰四十;使天下之民,肝腦塗地,父子暴骨中野,不可勝數,哭泣之聲未絕,傷夷者未起;而欲比隆於成、康之時,臣竊以爲不侔也。且夫秦地被山帶河,四塞以爲固,卒然有急,百萬之衆可立具也。因秦之故,資甚美膏腴之地,此所謂天府者也。陛下入關而都之,山東雖亂,秦之故地可全而有也。夫與人斗,不搤其亢,拊其背,未能全其勝也。今陛下案秦之故地,此亦扼天下之亢而拊其背也。」帝問羣臣,羣臣皆山東人,爭言:「周王數百年,秦二世即亡。洛陽東有成皋,西有殽、澠,倍河,郷伊、洛,其固亦足恃也。」上問張良。良曰:「洛陽雖有此固,其中小不過數百里,田地薄,四面受敵,此非用武之國也。關中左殽、函,右隴、蜀,沃野千里。南有巴、蜀之饒,北有胡苑之利。阻三面而守,獨以一面東制諸侯;諸侯安定,河、渭漕輓天下,西給京師;諸侯有變,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之國也。婁敬説是也。」上即日車駕西,都長安。拜婁敬爲郎中,號曰奉春君,賜姓劉氏。 13. 14張良素多病,從上入關,即道引,不食穀,杜門不出,曰:「家世相韓,及韓滅,不愛萬金之資,爲韓報讎強秦,天下振動。今以三寸舌爲帝者師,封萬戸侯,此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲從赤松子游耳。」 臣光曰:夫生之有死,譬猶夜旦之必然;自古及今,固未嘗有超然而獨存者也。以子房之明辨達理,足以知神仙之爲虛詭矣;然其欲從赤松子游者,其智可知也。夫功名之際,人臣之所難處。如高帝所稱者,三傑而已。淮陽誅夷,蕭何繋獄,非以履盛滿而不止耶!故子房托於神仙,遺棄人間,等功名於外物,置榮利而不顧,所謂明哲保身者,子房有焉。 14. 15六月,壬辰,大赦天下。 15. 16秋,七月,燕王臧荼反;上自將征之。 16. 17趙景王耳、長沙文王芮皆薨。 17. 18九月,虜藏荼。壬子,立太尉長安侯盧綰爲燕王。綰家與上同里□,綰生又與上同日;上寵幸綰,羣臣莫敢望,故特王之。 18. 19項王故將利幾反,上自撃破之。 19. 20後九月,治長樂宮。 20. 21項王將鐘離昧,素與楚王信善。項王死後,亡歸信。漢王怨昧,聞其在楚,詔楚捕昧。信初之國,行縣邑,陳兵出入。 21. 六年(庚子、前二〇一) 1冬,十月,人有上書告楚王信反者。帝以問諸將,皆曰:「亟發兵,坑豎子耳!」帝默然。又問陳平。陳平曰:「人上書言信反,信知之乎?」曰:「不知。」陳平曰:「陛下精兵孰與楚?」上曰:「不能過。」平曰:「陛下諸將,用兵有能過韓信者乎?」上曰:「莫及也。」平曰:「今兵不如楚精而將不及,舉兵攻之,是趣之戰也,竊爲陛下危之。」上曰:「爲之奈何?」平曰:「古者天子有巡狩,會諸侯。陛下第出,偽游雲夢,會諸侯於陳。陳,楚之西界;信聞天子以好出遊,其勢必無事而郊迎謁;謁而陛下因禽之,此特一力士之事耳。」帝以爲然,乃發使告諸侯會陳,「吾將南遊雲夢。」上因隨以行。楚王信聞之,自疑懼,不知所爲。或説信曰:「斬鐘離昧以謁上,上必喜,無患。」信從之。十二月,上會諸侯於陳,信持昧首謁上;上令武士縛信,載後車。信曰:「果若人言:『狡兔死,走狗烹;飛鳥盡,良弓藏;敵國破,謀臣亡。』天下已定,我固當烹!」上曰:「人告公反。」遂械繋信以歸,因赦天下。 田肯賀上曰:「陛下得韓信,又治秦中。秦,形勝之國也,帶河阻山,地勢便利;其以下兵於諸侯,譬猶居高屋之上建瓴水也。夫齊,東有琅邪、即墨之饒,南有泰山之固,西有濁河之限,北有勃海之利;地方二千里,持戟百萬,此東西秦也,非親子弟,莫可使王齊者。」上曰:「善!」賜金五百斤。 上還,至洛陽,赦韓信,封爲淮陰侯。信知漢王畏惡其能,多稱病,不朝從;居常鞅鞅,羞與絳、灌等列。嘗過樊將軍噲,噲跪拜送迎,言稱臣,曰:「大王乃肯臨臣!」信出門,笑曰:「生乃與噲等爲伍!」上嘗從容與信言諸將能將兵多少。上問曰:「如我能將幾何?」信曰:「陛下不過能將十萬。」上曰:「於君何如?」曰:「臣多多而益善耳。」上笑曰:「多多益善,何爲爲我禽?」信曰:「陛下不能將兵而善將將,此乃信之所以爲陛下禽也。且陛下,所謂天授,非人力也。」 1. 2甲申,始剖符封諸功臣爲徹侯。蕭何封酇侯,所食邑獨多。功臣皆曰:「臣等身被堅執鋭,多者百餘戰,小者數十合。今蕭何未嘗有汗馬之勞,徒持文墨議論,顧反居臣等上,何也?」帝曰:「諸君知獵乎?夫獵,追殺獸兔者,狗也;而發縱指示獸處者,人也。今諸君徒能得走獸耳,功狗也;至如蕭何,發縱指示,功人也。」羣臣皆不敢言。張良爲謀臣,亦無戰鬥功;帝使自擇齊三萬戸。良曰:「始,臣起下邳,與上會留,此天以臣授陛下。陛下用臣計,幸而時中。臣願封留足矣,不敢當三萬戶。」乃封張良爲留侯。封陳平爲戸牖侯。平辭曰:「此非臣之功也。」上曰:「吾用先生謀計,戰勝克敵,非功而何?」平曰:「非魏無知,臣安得進?」上曰:「若子,可謂不背本矣!」乃復賞魏無知。 2. 3帝以天下初定,子幼,昆弟少,懲秦孤立而亡,欲大封同姓以填撫天下。春,正月,丙午,分楚王信地爲二國,以淮東五十三縣立從兄將軍賈爲荊王,以薛郡、東海、彭城三十六縣立弟文信君交爲楚王。壬子,以雲中、雁門、代郡五十三縣立兄宜信侯喜爲代王;以膠東、膠西、臨淄、濟北、博陽、城陽郡七十三縣立微時外婦之子肥爲齊王,諸民能齊言者皆以與齊。 3. 4上以韓王信材武,所王北近鞏、洛,南迫宛、葉,東有淮陽,皆天下勁兵處;乃以太原郡三十一縣爲韓國,徙韓王信王太原以北,備御胡,都晉陽。信上書曰:「國被邊,匈奴數入寇;晉陽去塞遠,請治馬邑。」上許之。 4. 5上已封大功臣二十餘人,其餘日夜爭功不決,未得行封。上在洛陽南宮,從覆道望見諸將,往往相與坐沙中語。上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳!」上曰:「天下屬安定,何故反乎?」留侯曰:「陛下起布衣,以此屬取天下。今陛下爲天子,而所封皆故人所親愛,所誅皆平生所仇怨。今軍吏計功,以天下不足遍封;此屬畏陛下不能盡封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。」上乃憂曰:「爲之奈何?」留侯曰:「上平生所憎、羣臣所共知,誰最甚者?」上曰:「雍齒與我有故怨,數嘗窘辱我;我欲殺之,爲其功多,故不忍。」留侯曰:「今急先封雍齒,則羣臣人人自堅矣。」於是上乃置酒,封雍齒爲什方侯;而急趨丞相、御史定功行封。羣臣罷酒,皆喜,曰:「雍齒尚爲侯,我屬無患矣!」 臣光曰:張良爲高帝謀臣,委以心腹,宜其知無不言;安有聞諸將謀反,必待高帝目見偶語,然後乃言之邪?蓋以高帝初得天下,數用愛憎行誅賞,或時害至公,羣臣往往有觖望自危之心,故良因事納忠以變移帝意,使上無阿私之失,下無猜懼之謀,國家無虞,利及後世。若良者,可謂善諫矣。 5. 6列侯畢已受封,詔定元功十八人位次。皆曰:「平陽侯曹參,身被七十創,攻城略地,功最多,宜第一。」謁者、關内侯鄂千秋進曰:「羣臣議皆誤。夫曹參雖有野戰略地之功,此特一時之事耳。上與楚相距五歳,失軍亡衆,跳身遁者數矣,然蕭何常從關中遣軍補其處,非上所詔令召,而數萬衆會。上之乏絶者數矣。又軍無見糧,蕭何轉漕關中,給食不乏。陛下雖數亡山東,蕭何常全關中以待陛下。此萬世之功也。今雖無曹參等百數,何缺於漢;漢得之,不必待以全。奈何欲以一旦之功而加萬世之功哉!蕭何第一,曹參次之。」上曰:「善!」於是乃賜蕭何帶劍履上殿,入朝不趨。上曰:「吾聞進賢受上賞。蕭何功雖高,得鄂君乃益明。」於是因鄂千秋故所食邑,封爲安平侯。是日,悉封何父子兄弟十餘人,皆有食邑;益封何二千戸。 6. 7上歸櫟陽。 7. 8夏,五月,丙午,尊太公爲太上皇。 8. 9初,匈奴畏秦,北徙十餘年。及秦滅,匈奴復稍南渡河。 單于頭曼有太子曰冒頓。後有所愛閼氏,生少子,頭曼欲立之。是時,東胡強而月氏盛,乃使冒頓質於月氏。既而頭曼急撃月氏,月氏欲殺冒頓。冒頓盜其善馬騎之,亡歸;頭曼以爲壯,令將萬騎。 冒頓乃作鳴鏑,習勒其騎射。令曰:「鳴鏑所射而不悉射者,斬之!」冒頓乃以鳴鏑自射其善馬,既又射其愛妻;左右或不敢射者,皆斬之。最後以鳴鏑射單于善馬,左右皆射之。於是冒頓知其可用。從頭曼獵,以鳴鏑射頭曼,其左右亦皆隨鳴鏑而射。遂殺頭曼,盡誅其後母與弟及大臣不聽從者。冒頓自立爲單于。 東胡聞冒頓立,乃使使謂冒頓:「欲得頭曼時千里馬。」冒頓問羣臣,羣臣皆曰:「此匈奴寶馬也,勿與!」冒頓曰;「奈何與人鄰國而愛一馬乎!」遂與之。居頃之,東胡又使使謂冒頓:「欲得單于一閼氏。」冒頓復問左右,左右皆怒曰:「東胡無道,乃求閼氏!請撃之!」冒頓曰:「奈何與人鄰國愛一女子乎!」遂取所愛閼氏予東胡。東胡王愈益驕。東胡與匈奴中間有棄地莫居,千餘里,各居其邊,爲甌脱。東胡使使謂冒頓:「此棄地,欲有之。」冒頓問羣臣,羣臣或曰:「此棄地,予之亦乎,勿與亦可!」於是冒頓大怒曰:「地者,國之本也,奈何予之!」諸言予之者,皆斬之。冒頓上馬,令:「國中有後出者斬!」遂襲撃東胡。東胡初輕冒頓,不爲備;冒頓遂滅東胡。 既歸,又西撃走月氏,南並樓煩、白羊河南王,遂侵燕、代,悉收蒙恬所奪匈奴故地與漢關故河南塞至朝那、膚施。是時,漢兵方與項羽相距,中國罷於兵革,以故冒頓得自強,控弦之士三十餘萬,威服諸國。 秋,匈奴圍韓王信於馬邑。信數使使胡,求和解。漢發兵救之。疑信數間使,有二心,使人責讓信。信恐誅,九月,以馬邑降匈奴。匈奴冒頓因引兵南踰句注,攻太原,至晉陽。 9. 10帝悉去秦苛儀法,爲簡易。羣臣飲酒爭功,醉,或妄呼,拔劍撃柱,帝益厭之。叔孫通説上曰:「夫儒者難與進取,可與守成。臣願征魯諸生,與臣弟子共起朝儀。」帝曰:「得無難乎?」叔孫通曰:「五帝異樂,三王不同禮,禮者,因時世、人情爲之節文者也。臣願頗采古禮,與秦儀雜就之。」上曰:「可試爲之,令易知,度吾所能行者爲之。」 於是叔孫通使徴魯諸生三十餘人。魯有兩生不肯行,曰:「公所事者且十主,皆面諛以得親貴。今天下初定,死者未葬,傷者未起,又欲起禮、樂。禮、樂所由起,積德百年而後可興也。吾不忍爲公所爲。公去矣,無汚我!」叔孫通笑曰:「若眞鄙儒也,不知時變。」遂與所微三十人西,及上左右爲學者與其弟子百餘人,爲綿蕞,野外習之。月餘,言於上曰:「可試觀矣。」上使行禮,曰:「吾能爲此。」乃令羣臣習肄。 10. 七年(辛丑、前二〇〇) 1冬,十月,長樂宮成,諸侯羣臣皆朝賀。先平明,謁者治禮,以次引入殿門,陳東、西郷。衞官俠陛及羅立廷中,皆執兵,張旗幟。於是皇帝傳警,輦出房;引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀,莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上,皆伏,抑首;以尊卑次起上壽。觴九行,謁者言「置酒」,御史執法舉不如儀者,輒引去。竟朝置酒,無敢讙嘩失禮者。於是帝曰:「吾乃今日知爲皇帝之貴也!」乃拜叔孫通爲太常,賜金五百斤。初,秦有天下,悉内六國禮儀,采擇其尊君、抑臣者存之。及通制禮,頗有所增損,大抵皆襲秦故,自天子稱號下至佐僚及宮室、官名,少所變改。其書,後與律、令同録,藏於理官。法家又復不傳,民臣莫有言者焉。 臣光曰:禮之爲物大矣!用之於身,則動靜有法而百行備焉;用之於家,則内外有別而九族睦焉;用之於鄉,則長幼有倫而俗化美焉;用之於國,則君臣有敍而政治成焉;用之於天下,則諸侯順服而紀綱正焉;豈直幾席之上、戸庭之間得之而不亂哉!夫以高祖之明達,聞陸賈之言而稱善,睹叔孫通之儀而歎息;然所以不能比肩於三代之王者,病於不學而已。當是之時,得大儒而佐之,與之以禮爲天下,其功烈豈若是而止哉!惜夫,叔孫生之爲器小也!徒竊禮之糠枇,以依世、諧俗、取寵而已,遂使先王之禮淪沒而不振,以迄於今,豈不痛甚矣哉!是以揚子譏之曰:「昔者魯有大臣,史失其名,曰:『何如其大也!』曰:『叔孫通欲制君臣之儀,召先生於魯,所不能致者二人。』曰:『若是,則仲尼之開跡諸侯也非邪?」曰:『仲尼開跡,將以自用也。如委己而從人,雖有規矩、準繩,焉得而用之!』」善乎揚子之言也!夫大儒者,惡肯毀其規矩、準繩以趨一時之功哉! 1. 2上自將撃韓王信,破其軍於銅鞮,斬其將王喜。信亡走匈奴;白土人曼丘臣、王黄等立趙苗裔趙利爲王,復收信敗散兵,與信及匈奴謀攻漢。匈奴使左、右賢王將萬餘騎,與王黄等屯廣武以南,至晉陽,漢兵撃之,匈奴輒敗走,已復屯聚,漢兵乘勝追之。會天大寒,雨雪,士卒墮指者什二三。 上居晉陽,聞冒頓居代谷,欲撃之。使人覘匈奴,冒頓匿其壯士、肥牛馬,但見老弱及羸畜。使者十輩來,皆言匈奴可撃。上復使劉敬往使匈奴,未還;漢悉兵三十二萬北逐之,踰句注。劉敬還,報曰:「兩國相撃,此宜誇矜,見所長。今臣往,徒見羸瘠、老弱,此必欲見短,伏奇兵以爭利。愚以爲匈奴不可撃也。」是時,漢兵已業行,上怒,罵劉敬曰:「齊虜以口舌得官,今乃妄言沮吾軍!」械繋敬廣武。 帝先至平城,兵未盡到;冒頓縱精兵四十萬騎,圍帝於白登七日,漢兵中外不得相救餉。帝用陳平秘計,使使間厚遺閼氏。閼氏謂冒頓曰:「兩主不相困。今得漢地,而單于終非能居之也。且漢主亦有神靈,單于察之!」冒頓與王黄、趙利期,而黄、利兵不來,疑其與漢有謀,乃解圍之一角。會天大霧,漢使人往來,匈奴不覺。陳平請令強弩傅兩矢,外郷,從解角直出。帝出圍,欲驅;太僕滕公固徐行。至平城,漢大軍亦到,胡騎遂解去。漢亦罷兵歸,令樊噲止定代地。 上至廣武,赦劉敬,曰:「吾不用公言,以困平城;吾皆已斬前使十輩矣。」乃封敬二千戸爲關内侯,號爲建信侯。帝南過曲逆,曰:「壯哉縣!吾行天下,獨見洛陽與是耳。」乃更封陳平爲曲逆侯,盡食之。平從帝征伐,凡六出奇計,輒益封邑焉。 2. 3十二月,上還,過趙。趙王敖執子婿禮甚卑,上箕倨慢罵之。趙相貫高、趙午等皆怒,曰:「吾王,孱王也!」乃説王曰:「天下豪桀並起,能者先立。今王事帝甚恭,而帝無禮;請爲王殺之!」張敖嚙其指出血,曰:「君何言之誤!先人亡國,賴帝得復,德流子孫;秋豪皆帝力也。願君無復出口!」貫高、趙午等皆相謂曰:「乃吾等非也。吾王長者,不倍德;且吾等義不辱。今帝辱我王,故欲殺之,何洿王爲!事成歸王,事敗獨身坐耳!」 3. 4匈奴攻代。代王喜棄國自歸,赦爲郃陽侯。辛卯,立皇子如意爲代王。 4. 5春,二月,上至長安。蕭何治未央宮,上見其壯麗,甚怒,謂何曰:「天下匈匈,苦戰數歳,成敗未可知,是何治宮室過度也!」何曰:「天下方未定,故可因以就宮室。且夫天子以四海爲家,非壯麗無以重威,且無令後世有以加也。」上説。 臣光曰:王者以仁義爲麗,道德爲威,未聞其以宮室填服天下也。天下未定,當克己節用以趨民之急;而顧以宮室爲先,豈可謂之知所務哉!昔禹卑宮室而桀爲傾宮。創業垂統之君,躬行節儉以示子孫,其末流猶入於淫靡,況示之以侈乎!乃云「無令後世有以加」,豈不謬哉!至於孝武,卒以宮室罷敝天下,未必不由酇侯啓之也! 5. 6上自櫟陽徙都長安。 6. 7初置宗正官,以序九族。 7. 8夏,四月,帝行如洛陽。 8.
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三次兵科 [部分編集] 名称 在庫数 大刀兵転職令 練鎚兵転職令 長槍兵転職令 戟兵転職令 鉄騎兵転職令 匈奴兵転職令 長弓兵転職令 弩兵転職令 長剣兵転職令 剣士転職令 藤甲兵転職令 猛獣兵転職令 近衛兵転職令 刺客転職令 遊騎兵転職令 弓騎兵転職令 舞姫転職令 歌姫転職令
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57.王莽時起兵者皆稱漢後 漢自高、惠以後,賢聖之君六七作,深仁厚澤,被於人者深。即元、成、哀三帝稍劣,亦絶無虐民之政,祇以運祚中衰,國統頻絶,故王莽得乘便竊位。班彪所謂危自上起,傷不及下,故雖時代改易,而民心未去,加以莽政愈虐,則思漢之心益堅。王常曰:「莽政令苛酷,失天下心。民之謳吟思漢,非一日也。」(常傳)鄭興説更始曰:「天下同苦王氏虐政,而思高祖之舊德。」(興傳)馮衍説廉丹曰:「海内潰亂,人懷漢德,甚於詩人之思召公也。」(衍傳)馮異説光武曰:「天下同苦王氏,思漢久矣。」(異傳)歴觀諸説,可見當日之民心也。故羣雄之起兵者,無不以劉氏舉號。劉聖公在平林羣盜中爲安集掾,軍雖衆而無所統一,諸將以聖公本漢裔,遂立爲天子,建元曰更始。更始初都洛陽,將大封功臣,朱鮪以爲高祖約非劉氏不王,是諸將初起事,即守漢祖法也。(更始傳)赤眉樊崇起兵,已屢勝,聞更始立,即往洛陽降。後仍亡歸,因齊巫言城陽景王云:「當爲縣官,何故作賊?」遂奉劉盆子爲帝。(劉盆子傳)平林人方望謂弓林等曰:「莽簒奪而孺子嬰尚在,今皆云劉氏更當受命,嬰故漢主也。」乃求得嬰立之。(光武傳)卜者王郎僞稱成帝子子輿,有趙王子林欲立之,會赤眉將至,林乃宣言,赤眉來當立子輿爲帝,以觀衆心。百姓果信之,遂立郎於邯鄲,於是趙國以北,遼東以西,皆從風而靡。(王郎傳)盧芳因人心思漢,乃詭自稱武帝曾孫劉文伯,謂曾祖母匈奴谷蠡渾邪王之姊,爲武帝后,生三子,遭江充之亂,小子回卿流出在外,再傳生文伯,以此誑惑人。諸豪傑以其爲劉氏子孫,遂立爲上將軍,使人與匈奴通和,匈奴即立芳爲帝。而是時五原人李興,朔方人田颯,代郡人石鮪等,各自起兵者,聞芳係漢後,即迎入塞奉之。(芳傳)劉永亦漢後,更始封爲梁王。更始敗,永據睢陽起兵,遣使拜董憲、張歩爲王。憲、歩本特起,不借劉氏爲號者,以永係漢後,遂受其爵命,爲之盡力。(永及張歩等傳)公孫述雖自帝於蜀,然其先亦借輔漢起事。時宗成、王岑皆以應漢爲將軍,述在成都,迎之。而成等暴掠,述乃謂少年曰:「天下同苦新室思漢,故聞漢將到即迎之,今反肆虐,此寇賊,非義兵也。」乃使人詐稱漢使者自東方來,假述輔漢將軍益州牧印綬,遂撃破成等,自立爲蜀王,尋稱帝。(述傳)隗囂後雖割據天水諸郡,然初起時亦思奉漢,因王莽尚在長安,隔更始不得通,即立高帝廟,稱臣奉祠。莽死,更始至長安,囂即入謁,見更始政亂,遂逃歸。後又受光武將鄧禹所封官號,並遣子入侍。末年,惑於王元之説,始懷貳志。(囂傳)歴觀諸起事者,非自稱劉氏子孫,即以輔漢爲名,可見是時人心思漢,舉天下不謀而同。是以光武得天下之易,起兵不三年,遂登帝位,古未有如此之速者,因民心之所願,故易爲力也。 前頁 『廿二史箚記』巻三 次頁 王莽之敗 57.王莽時起兵者皆稱漢後 王莽自殺子孫
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精鋭兵科 [部分編集] 名称 在庫数 精鋭大刀兵昇進令 精鋭練鎚兵昇進令 精鋭長槍兵昇進令 精鋭戟兵昇進令 精鋭鉄騎兵昇進令 精鋭匈奴兵昇進令 精鋭弩兵昇進令 精鋭長剣兵昇進令 精鋭剣士昇進令 精鋭藤甲兵昇進令 精鋭猛獣兵昇進令 精鋭近衛兵昇進令 精鋭刺客昇進令 精鋭遊騎兵昇進令 精鋭弓騎兵昇進令 精鋭舞姫昇進令 精鋭歌姫昇進令
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名稱:呼廚泉 伺服器及顏色:5服綠 類型:文 性別:男 生命值:456 武力:32 智力:21 防禦:12 敏捷:29 運勢:83 敘述: 呼廚泉,南匈奴單於於夫羅之弟,於夫羅死後繼任成為單於,曾派右賢王去卑幫助漢獻帝東歸,其後還於本國。後曹操借呼廚泉入朝朝見之際,將其留在鄴城,派去卑去管理其國。
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名稱:劉閼陋頭 伺服器及顏色:5、6服綠 類型:武 性別:男 生命值:630 武力:43 智力:11 防禦:17 敏捷:45 運勢:22 敘述:劉閼陋頭,一作劉閼頭,生卒年不詳,十六國時期匈奴支系鐵弗部首領,為劉烏路孤之子,前任首領劉務桓之弟。356年(東晉永和十二年、前秦壽光二年),務桓去世,閼陋頭繼立。
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更新履歴:南陽のBoss未実装Boss削除 あげ 9/6 毒龍Boss追加 追加してほしいBOSSは、<女神>まで連絡ください。(今はシードに連絡ください。…追加更新亀かもですが) 結界法(軍師・方士) 南陽将軍(楊弘、陳紀 袁術取巻 ) 益州将軍(劉巴、鄒靖、鄧賢、劉璋 全国 ) 冀州将軍(許攸、荀諶、逢紀、沮鵠、審配、陳琳、郭圖、袁熙) 涼州将軍(王昌、李封、薛蘭、張?、田儀、李肅、董?、李儒) 匈奴将軍(伐同、令居、速僕丸、那樓、左賢王) 南蛮将軍(董荼那、朵思大王、朱褒、孟節、木鹿大王) ローマ将軍(卡利恩努斯 カリウス 、賽維爾) 行軍 首領将軍(首領-弓) ローマ将軍(帕卡緹亞努斯、艾爾拜倫 アルビヌス 、凱達 ゲタ 、高盧斯 ガイウス ) 七星 首領将軍(首領-長兵) ローマ将軍(希班納古斯、巴爾比努斯 バルビヌス 、哥迪亞、卡利恩努斯 カリウス ) 軍師 武将技 雷球光陣(軍師) 益州将軍(張任 全国 ) 療術結界(軍師) 匈奴将軍(治元多 骨進 育延 厥機 越吉 素利 能臣) 南蛮将軍(劉冑 高定 忙牙長 孟節) 首領将軍(首領-短兵) ローマ将軍(迪亞杜曼尼安、朱利安努斯 ユリアヌス 、馬克希姆 マクシムス ) 豪傑 武将技 凍結氷峰(豪傑) 南陽将軍(紀霊 全国 ) 益州将軍(冷苞) 寒冰洞(冰霜巨人) 毒龍潭(計蒙(藍),奔龍(藍)、鰲龍(藍)) 妖刀天舞(豪傑) 南陽将軍(袁術 全国 ) 方士 武将技 大地怒吼(方士) 南陽将軍(紀霊 全国 ) 益州将軍(張任 全国 劉璋 全国 ) 毒龍潭(鰲龍(黑)) 地獄の門(方士) 南陽将軍(袁術 全国 ) 必殺技封印(方士) 南陽将軍(樂就、韓暹、楊奉) 毒龍潭(計蒙(黃)、計蒙(紫)) 必殺技 4次必殺技 (猛将・豪傑) 分身 南陽将軍(紀霊 全国 ) 5次必殺技 散弾 南陽将軍(袁術 全国 ) 名前 コメント