約 71,501 件
https://w.atwiki.jp/niconicomugen/pages/6422.html
「・・・すごい臭いだ。」 解説 アルティメット待ちガイルなどで知られる出オチの人ことkymy氏による総当たりトーナメント。 概要 ワキを見せたら次元の顎に引き裂かれる。(勝利ポーズや開始イントロも含まれる。当然ダメージ。) 出場選手 ケン アレックス 師範 グラント 関連大会 カニ風味かまぼこトーナメント 蟹江敬三タッグトーナメント 高周波ブレードプチトーナメント ボツ鍋トーナメント ウロボロすトーナメントPK 私と同じストライダーズの生き残りですトーナメント ジョナサンシャーロットトーナメント 除夜の鐘トーナメント 人類ワキ化計画 必殺技はタンデむだけ 必殺技連結システム 気にしすぎトーナメント SEトーナメントX 飛ぶTOOOMトーナメント ライフが3の倍数と3がつく時だけバカになる大会 コメント 誰かコレ女性キャラでやんねーかなw -- 名無しさん (2012-01-23 20 57 17) しぃて言うなら白ゼロ子が -- 名無しさん (2012-01-23 22 18 19) 霊夢やヨハン出して欲しかったな。 -- 名無しさん (2012-01-23 22 19 08) まさかの没企画の再利用 -- 名無しさん (2012-01-23 23 40 14) ミスタ・・ -- 名無しさん (2013-08-28 23 57 57) kymy氏 一体何者なんだ... -- 名無しさん (2016-02-18 01 44 39) 名前 コメント マイリスト
https://w.atwiki.jp/sentai-kaijin/pages/3744.html
【名前】 新人類ミュータント 【読み方】 しんじんるいみゅーたんと 【登場作品】 仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム 【所属】 怪人同盟 【詳細】 サナギマンなどに該当する亜種。 「5年後の世界(フォーゼ編)」の天高で弦太朗と対立する。 番場影人が「ゼーバーの完成」という名目で集められていただけに過ぎず、実際は金の為に騙されているだけだった。 その事をライダー部から知らされ、三郎以外のミュータントはライダー部に加勢する。 【余談】 名前は『イナズマン』での超能力者の総称の「新人類」と「ミュータント」に由来している。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/17271.html
登録日:2013/06/19(日) 21 38 00 更新日:2024/08/14 Wed 14 17 31 所要時間:約 2 分で読めます ▽タグ一覧 シナジェティック・コード ネタバレ項目 パイロットの宿命 蒼穹のファフナー 適正 適正が高い="いなくなる" 遺伝子 この項目は、『蒼穹のファフナー』シリーズのネタバレが含まれています。 シナジェティック・コードとは、蒼穹のファフナーにおける用語で、ファフナーパイロットにとってはとても重要なもの。 搭乗時に神経接続を用いるファフナーとパイロットの脳を連結するのに必要な「ある種の脳の状態」で、成人はコード形成が難しくなり、無理に形成しようとすると脳に負担が掛かってしまい、船酔いや酩酊状態に似た症状が出るため、作中で出たパイロットの平均年齢は16歳となっている。 ノートゥングモデル及びマークフィアー・マークエルフのコアを移植したザルヴァートルモデルの搭乗にはこのコード形成が必須となるが、 自力で形成が可能なパイロットは10万人に1人と自然分娩における出生率が極めて低く、剣司(と恐らく僚)がこれに該当する。 人類軍がシナジェティック・コード形成が出来なくても搭乗可能なファフナーを運用しているのはこの為であり、 Alvisは試験管ベイビーに遺伝子レベルでフェストゥム因子を同化させることでシナジェティック・コード形成を可能とした。 だがこのシナジェティック・コード形成能力の付与の代償は余りにも大きく、 パイロットの親達が赤紙を見た時唯一の例外の里親を除いて取り乱した。 所謂「経年劣化」によって形成率が低下した場合、因子活性剤などの薬物である程度の改善は可能で、 成人している日野道生や狩谷由紀恵がシナジェティック・コードの形成が必要なノートゥングモデルやマークニヒトに搭乗できたのは薬剤のお陰という面もあるが、共にアルベリヒド機関による試験管ベビーの第一世代であるという一面もある(生存している第一世代はEXODUS時点で弓子のみ)。 但し因子活性剤を使いすぎると死に至る可能性もある。 道生と狩谷はフェストゥム因子を移植した第一世代なので元々ファフナーには乗れるが成人しているので形成値が低下しており、狩谷はそもそも適正が低かったのでマークニヒトの搭乗の為に同意の上で因子活性剤を致死量ギリギリまで投与していた(狩谷のミツヒロに対する愛情を利用された説がある)。 1期1話時点で真壁一騎のクラスメイト全員のシナジェティック・コード形成値は出ているが、設定ミスか作画ミスか3話で出された値と異なる場合がおり、設定としては3話のものが正式な設定と思われる(但し故意に改竄されていた真矢はこの限りではない)。 小説版での記述によると、脳の表側(トップソイル)にある「人間らしさ」を生み出す領域から、原始的な脳の深奥部(ダークフロア)にあるR領域、爬虫類(レプタイル)の脳に至るまですべての部位の脳波が緊密に関係しなければならず、その関係は黄金比として脳波計で表現され、対数スパイラルと呼ばれる連動状態を表すらしい。 更に竜宮島回覧板にも記述があり、この形成には積極的な自己否定が必要で、脳の自意識を司る部分を眠らせる事ができるかどうかということ…らしい。 トップソイルとは末梢神経、自立交感神経系、自立副交感神経系、脊髄、右脳と左脳、延髄の事を指し、ダークフロアは間脳、視床、視床下部、辺縁系、網様体を指す。 要するに脳がどれだけ違う変性意識下の自分を受け入れられるか、ということなのだろう。 黄金率の0.618:1:1.618に近ければ近いほどファフナーパイロットとしての適正が高く、一騎は形成率が最も高い。 この形成率が低くてもファフナーとの一体化を受け入れる気持ちの強さ次第では高い適正を示す場合もある(形成率が低い僚が選抜された要因は恐らくこれが関わっている) 劇中で判明している限りでは、基本的に同化耐久率とコード形成率の高さは相反しており、例えば同化耐久率の高い僚は形成率が低く、逆に高い形成率を叩き出している真矢、祐未の同化耐久率は低い。ただし例外もあり、一騎や総士はコード形成率も同化耐久率も高い。 L計画に参加したパイロット8名の選抜基準はこの形成率の高さだったので、恐らく同化耐久率は二の次だったと思われる。 この選抜理由として有力なのは、 「RoL当時の竜宮島とAlvisは実戦経験が乏しく、ファフナーで戦うことのリスクや同化耐久率の重要性が不鮮明だった」 というものがあり、ブラックボックスの中に遺された僚の遺言がそれらを生々しく鮮明に伝えた事が後のパイロット選抜前の適性検査に繋がったのでは、という推測がある。 なお、EXODUS時点において作中に形成率の細かい数値が出ている中で数字上の形成率が高い(黄金率に近い)のは上位3名に絞ると 一騎(3.132:1:4.253)、真矢(3.312:1:4.532)、彗(6.519:1:7.999) 逆に低い(黄金率から遠い)のは、改竄された真矢の数値(12.142 1 13.584)を除いて下位3名に絞ると 僚(15.115:1:18.053)、カノン(15.157:1:15.838)、剣司(12.742 1 13.566) 真矢は形成率が一騎に次いで高い分、ノートゥングモデルにコアとして搭載されている瀬戸内海ミールの欠片の影響、即ち同化現象の進行が誰より早いという大きな欠点があったが、道生とは逆に同化抑制剤を投与する事でどうにか克服している。 L計画参加パイロットでは祐未の形成率が高い(08.342:1:09.969)が、彼女も真矢同様に本人の同化耐久率は低いと明言されている。 総士はマークアインの起動実験の際「見えない左目が見えてしまう」という現象を受け入れられなかった為ファフナーへの搭乗を断念しているが、同化耐久率もコード形成率も一騎や祐未に並ぶほど高く、ティターンモデルの搭乗に数時間は耐えられる程だったという。 蔵前はアニメ版では「パイロット適正が高すぎる」小説版では「適正はパイロットとしてギリギリ」と食い違っているものの、 いずれにせよファフナーの複数回搭乗に耐えられるほどの耐久率はなく、L計画中同時進行に行われた数回のマークツヴァイ起動実験の後、同化現象の初期症状である目の赤化現象を起こしてしまい、特殊偏光レンズのメガネで隠さざるを得なかった。 逆に僚は異常値とも取れるほど適正が低く、カノンと剣司はアルベリヒド機関によってファフナーパイロットの適正を持って生み出された試験管ベビーではなく、自然分娩での誕生だったのでノートゥングモデルに対して低いながらも適正を示してる事そのものが奇跡である。 カノンはフェストゥム因子を強引に投与した結果、定着に成功し道生同様ノートゥングモデルへの搭乗適性が付与された為 上記の数値が算出されたものの、適合出来ず死亡してもおかしくない暴挙であるため、その場に居合わせた全員が止めている。 僚は直接的な言及はないものの、彼の病気が「母親由来のもの」という言が確かであれば自然分娩による誕生の可能性が高い。適正が高い祐未とは逆に同化耐久率はL計画参加パイロット8人の中でトップとされている。 また、「ファフナーとの一体化に前向きであれば高い適正を示す場合がある」とされているため、結果的にティターンモデル搭乗が決定した可能性はある(逆にその補正を含めてもこの数値であるという可能性もあるが…) なお、ノートゥングモデルの数十倍の進行速度だったティターンモデルに長期間乗っていた祐未が最終盤まで末期症状を引き起こしていなかったのは奇跡に近い(詳しくはL計画(蒼穹のファフナー)参照)。 更に改竄された真矢の数値は、弓子がファフナーに乗せたくない為に書き換えたものだが、本来の数値の3倍近い数値になっており、搭乗出来ない原因は神経系の発達障害とされていた。 このコード形成は、ノートゥングモデル搭乗時に起こる変性意識(思考状態が普段とは異なり、戦闘向きになる状態)にも影響があるようで、一騎やカノンのように自己否定が強い場合は変性意識の影響はない。変性意識は大抵が攻撃的なものになるのはこのせい。 道生は特に普段と変わりないように見えるが好戦的な性格になる模様。また、ティターンモデルだった僚と祐未も搭乗時は好戦的な性格へ変化するようだが言及はない。 但し変性意識が臆病な剣司、ゴウバインメットの自己暗示の影響もあって先陣を切る傾向もある衛のような例外もある。 ちなみに翔子はあくまで変性意識は「(一騎への)愛情」だが、その愛情が先行してしまい行動理念が「一騎第一」となってしまうが故に攻撃的かつ単独行動しがちな変性意識となってしまっていた。 アクティビオンを致死量ギリギリまで投与してから、追記・修正をお願いします △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ファフナー乗りとしての一騎の才能ハンパないな、形成値トップ、同化耐性も(劇中みられる限りでは)低くはない、サヴァン症候群の影響で身体能力はオリンピック級・・・親がともにエースだったこともあるんだろうけど -- 名無しさん (2014-01-24 17 14 45) 僚先輩低っ!設定資料でも低い低い言われてたがここまでだったのか… -- 名無しさん (2014-01-24 18 15 00) 因みに蔵前は小説とアニメで設定が違うらしく小説は形成ギリギリ、アニメは適性が高すぎるとなっている。ただしどっちも耐久は低い。 -- 名無しさん (2014-01-24 18 26 26) 総士も設定上は、形成値も耐久もトップだったんだよね。でも左目が見えることを受け入れられずパイロットから脱落だっけ? -- 名無しさん (2014-03-29 18 42 37) ↑そう。だからジークフリードシステムで指揮官をやることを選択せざるを得なかった。本人は自分だけ比較的安全な後方ってのは嫌だったってのはRoLで語られた通り。 -- 名無しさん (2014-04-01 17 40 37) 飛鳥真先輩はどのくらいなのだろう -- 名無しさん (2014-05-08 11 53 47) ↑あの人は特異体質で、自ら進んで「同化」する毎に強くなるから耐久性はトップだろうね。 -- 名無しさん (2014-06-20 08 50 35) 「祐未が一騎をも凌いで抜きん出て高い」と書いてあるけど、小数点の位置をよく見れば一騎や真矢には全く及んでいない。新入りの彗・零央にも負けている。 -- 名無しさん (2015-02-09 16 11 56) ↑やっぱそうだよね。ずっと首かしげてたわ -- 名無しさん (2015-02-10 20 57 46) 祐未関連修正、ついでにEXODUS準拠に -- 名無しさん (2015-02-11 11 51 26) 美羽ちゃんはどんな数値になるんだろう? -- 名無しさん (2018-03-23 14 43 00) 真矢は同化耐久率高いみたいなことを総士が言ってたような? -- 名無しさん (2018-07-16 08 45 42) ↑長いこと公式で「真矢は適正高すぎて耐久も低い」とされてきたのでこの発言は首傾げてるファンも多い。多分体力的なことだと思うんだけどね。 -- 名無しさん (2019-04-16 10 06 22) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/bokurobo/pages/46.html
《ID.01-049》 【人類(じんるい)ロボ ロボミンナー】 宇宙からやってきた孤独な侵略者ヒットリー帝国から地球を守るため、 人類が争いをやめ、一致団結して作った究極ロボ。5人乗りだが、 全人類がパイロットになれるため、毎回乗る人が違う。 カテゴリ: 〈分類のないロボ〉 戻る
https://w.atwiki.jp/univhyogoslavia/pages/58.html
特徴 カコモン カコモンについて年度ごとまとめています。 シラバス シラバスのサイトに飛びます。 ※2024年度のものです。注意してください。 シラバス_文化人類学(A) クラバス この講義に対する本音と感想を書こう。 みんなのコメントは「すべてのコメントを見る」から コメント コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/mechashor/pages/41.html
警告 以下の情報の閲覧は人類連合最高議会によって規制されています。 無許可のアクセスが確認された場合、特別漏洩防止プロトコルによって閲覧者は即座に処分されます。 アクセス許可を持たない人員は直ちに処理を終了し、適切な手順の後に退室してください。 認証情報を入力してください。 個人認証キーを60秒以内に入力してください。 システムエラー:認証システムにエラーが発生しました。 警告:入力された認証情報は存在しません。 警告:個人認証キーが間違っています。 警告:網膜認証の為のカメラが破損しています。 警告:提示されたDNA情報が正しくありません。 警告:・ソa繧「fからの応答が縺ェ縺医ん。ネットワークが遮断されて縺ケ・仙粋縺。 警※:不正なアソa繧「f縺ケ・仙粋た。特・う繧ェ繧「h繧コ畦kfvc縺ェ縺医♀・・°す。 繧難:繝・く繧ケ繝・繝峨く繝・繝。繝ウ繝・ £・考amfd,sx縲・シ帙≠・ システムの復旧が完了しました。 認証情報を入力してください。 個人認証キーを60秒以内に入力してください。 網膜認証を行います。カメラを覗き込んでください。 認証が完了しました。ようこそ、CROSS-■■ 人類連合最高議会 CROSS-01 我々は幾億の時を駆けた。 CROSS-02 それが我々の咎であったからだ。 CROSS-03 それは贖罪には成り得ないであろう。それは我々への永遠の罰だった。 CROSS-04 人道や倫理は、置き去りにすべきものではなかった。 CROSS-05 それに気付くには、我々はあまりにも遅すぎた。 CROSS-06 我々が手を取り合うには、あまりにも溝が深過ぎた。 CROSS-07 故に我々は永遠無窮を漂い続けるつもりだった。 CROSS-08 だが、我々はそこへ辿り着いてしまった。 CROSS-09 ならば我々は成し遂げなければならない。 CROSS-10 それこそが我々の、許されない罪とその罰だ。 不正なアクセスが検知されました。 特別漏洩防止プロトコルを発動します。
https://w.atwiki.jp/ws_wiki/pages/3529.html
autolink() MB/S10-071 カード名:全人類ご主人さま計画 カテゴリ:イベント 色:赤 レベル:1 コスト:4 トリガー:0 あなたは自分の山札を見てコスト0以下の《メイド》?のキャラを3枚まで選び、舞台の別々の枠に置く。その山札をシャッフルする。 これより全人類ご主人様フェイス3に移行します! レアリティ:U illust. 赤に珍しいデッキ圧縮を兼ねた特徴サーチ。 消費コストは4と早出しイベント並みに重いが、これ1枚が1/0/5500のメイド3体に化けるので中々強い。 レベル1同士であれば場の制圧にも貢献するし、終盤追い込まれてからのチャンプアタック要員にも出来る。 ネオスタンでは効果対象がレベル0~1の翡翠しか無い。 強力なCXシナジーを持つ琥珀さんはメイドではなく和服… 翡翠の絆発動でほがらか家政婦さん 琥珀呼べるんじゃね?→翡翠をプレイした訳ではないので絆使用不可能… スタン環境下のメイドデッキでは頑張り屋 頼子のソウルパンプが強いので、 もしかすると大きく化けるかもしれない。 どうでも良いが、テキストの効果を見る限り全人類メイド化計画の方が正しい気もする。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/350.html
目次 1.宗数的常識の欠如 2.狂信、盲信への恐怖心 3.万教帰一理論と間違った新興宗教 4.宗数的常識の確立と「生長の家」の教え 5.人類に罪ありやなしやの問題 6.「罪」と「包み」 7.人間罪の子の思想と人間神の子の思想の効果の違い 8.クーエの成功心理学 9.光明思想の教育効果 10.自己実現と全託の精神 (1987年6月30日の霊示) 1.宗数的常識の欠如 それでは、第3章に入りまして、いよいよ私の語りたいこと、その本質、核心へと入ってゆきたいと思います。題して、「人類無罪宣言」と、こういうことで話をしてゆきたいと思います。 まあ、この人類無罪宣言ということに関しては、ひとつの思い出があります。 昔、あるラジオ局で私が真理の話をしておったときのことでありますが、そのとき、もちろん生番組ではなくて、録音をして放送をしたわけでありますが、そのラジオ局の責任者が、私の講演のテープを聞いて、こういうことを言ったわけであります。 谷口雅春は間違っておる。なぜなら、この講演のなかで、彼は人類には罪がないと言うている。こんなはずがない。人類に罪がないなら、何のために宗教があるのか。何のために救いがあるのか。そういうことの意味がないではないか。もう救われておるものなら、救う必要がないし、罪がないなら、その罪を許すための宗教もいらんではないか。にもかかわらず、谷口は人類に罪がないなどと言っておるが、とんでもない間違いだ。こういう間違ったものを電波に乗せるわけにはいかん。 と、まあ、その放送局といいますかね、ラジオ局の責任者は、そういうことを言ったわけであります。そして、人類無罪という部分について、私は修正を求められたわけであります。 このことに関しては、私は、深く心に傷と言っては大袈裟(おおげさ)ではありますが、やはり残念な気持ちというものが残ったわけであります。 宗教家は、現在、日本ではずいぶん警戒されておって、なかなか宗教家に自由に書かせてくれるところもなく、自由にしゃべらせてくれるところもないんです。言論出版の自由とか言いながら、実際問題、宗教家に言論出版の自由があるかと言えば、そうではない。現にごフジオ放送のなかで、そういったことを言っただけでも修正を迫られる。まあ、こういうことがあるわけです。 思想、信条は自由ではないか。良心の自由があるではないか。そういうことを言っても、許されんわけであります。電波という公共性を通じてやる以上は、そんなのでは困る、と。で、困ると言っておるその宗教の常識論が、実は、根本から間違っておる。まあ、こういう世界であります。 私は、非常に不思議に思うのでありますが、なぜ宗教の世界だけが、こんな百鬼夜行のごとき景観を呈しておるのか。非常に不思議に思うとともに、残念でなりません。 学問の世界においても、もちろん新説に関してはいろいろと議論が戦わされるでありましょうが、少なくともそれが大筋において正しいか、正しくないかということは、客観的にそれを論証する道があり、通説というのがあって、大部分の人がそれを認めるという方法があるように思います。ですから、現実問題として、そういう通説的な学問に、大きな間違いというものがあるとは言えない。 けれども、こと霊の世界、魂の世界、宗教の世界になると、百鬼夜行の世界です。出版社でも、現在、いろんな霊的なものが、出されておったりしているけれども、残念ながら、その出版社の知名度とか、大きさとか、そうしたものは、まったくその中味とかかわっていないというのが、現状であります。 つまり、出版社の編集者や責任者たちも、宗教のなかにおいて、何が真実で、何が間違っておるのか、そうしたことについての共通の認識が得られないのです。あまりにも違いすぎるということです。 神道は、日本の神様を拝み、仏教は仏様を拝み、また、キリスト教は天なる父を拝んでおる。まあ、こういうことで、別々のものを信仰しておって、それぞれ我れのところのみが正しい、と。まあ、こういうことを言っておるわけであります。 こういう宗教の世界における混乱と共通認識のなさが、いわゆる宗数的常識というものの確立を大変遅らせておるものであります。 2.狂信、盲信への恐怖心 それと、もうひとつ、宗教的常識の確立を妨げておる理由は、やはり信ずるということを通しての人間の狂信、盲信による極度の変化、これに対する恐怖心というものがやはりあると思われるのです。 現在の日本を見渡して見ても、結局、宗教に対して悪いイメージを抱かしておるいくつかの団体があると思う。私は、これらの団体は、非常に反省、いや、反省というよりも、猛省をしなければいかんと思う。 自分のところの団体がおかしいのはともかくも、そうした活動をすることによって、宗教全体を毒しておる、誤解させておるという責任は、非常に重いものがあるのではなかろうか。私は、そう思います。 とくに、良い宗教が会員集め、信徒集めをするのはいいけれど、悪い者ほど熱心にやっておるから、これが非常に困るわけです。悪いものほど熱心にやっておる。 なぜそういうふうに熱心にやっておるかと言うと、これは、ひとつは、私は、生前あまり説かなかったけれども、地獄の亡者たちの活動というものがあるわけであります。地獄の亡者というよりも、地上を去ってまだ地上への執着がなくならぬ霊たちが、すなわち、本来の実相の世界に還っておらぬ霊たちが、いろんな人に憑いてそれを狂わしとるわけです。 とくに宗教団体というのは、そうした霊的な磁場ができやすいところでありますから、そこの教祖に入って、その教祖を狂わしてしまえば、その下に続く信者たちを狂わすのはわけないことであります。 そういうことによって、本来の実相の世界を知らぬ霊たちが、地上に執着を持って生きている人間に取り憑いて、つまらぬ自己実現をやっておるというのが、現代の新興宗教者たちの本当の姿だと言えるでありましょう。 結局のところは、こうした霊たちは、自分が苦しくて仕様がないから、救われたくて仕様がないのです。本当は救われたくて、救われたくて仕様がない人間が、そういう宗教団体に大量に取り憑いて、その後は、人を救うというようなことをやたらやりたがるわけですね。 まあ、人を救うということによって、何か自分が偉いような気になって、自分が結局救われるというような、気持ちだけ救われるというような、こういう気分を味わっておるのです。 3.万教帰一理論と間違った新興宗教 まあ、そういうことで、この新興宗教の大変な乱れというものを目の前にして、実在界に還った私も、またひとつ、意見を述べねばならぬと思います。 では、生前から谷口雅春が言っておるところの人類無罪というこの宣言は、そうした新興宗教家たちの活動をどう見るのか。彼らにも罪がないのか。そういうことについて、私は私なりの結論を出さねばならぬと思うのであります。 結局のところ、間違った宗教というのがあるのかどうか、そういうことについての話になるかと思います。 そして、これが万教帰一理論とのかかわりにおいて、大切になるわけですね。万教が帰一であり、唯一の神に帰一し、唯一の神より流れ出たものであるという定義は、現在活躍しておる、あるいは、活動しておる諸教、諸団体、こうしたものすべてが、神の意にかなったものであるかどうかといった議論とはまた違ったものがあるわけであります。 すべてが唯一の神から分かれたとして、世を迷わしているこうした間違った宗教をも神から出ておるのだと考えるのは、これは早計であります。 すなわち、神は、迷いというものを創ってはおらんからであります。迷いというものを実相と見れば、間違った宗教家たちも、もちろん、実相の神のためにつくしておるかもしらんけれども、実際、神は迷いを創らず、神は無明を創っておらんのです。そうであるならば、人間を狂わすような宗教を説かすのが神の本意ではないはずであります。 では、にもかかわらず、何故(なにゆえ)、間違った宗教家たちが何十万、何百万の団体を組織して、その教勢を広げんとしていることを、神は手をこまねいて見ておるのか。この問題、このむずかしい問題について考えていかねばならぬと思うのであります。 どの宗教団体の教祖にしても、自分の教えが間違っておるとはなかなか思わんであろう。したがって、自分の教えと矛盾する教えが出た場合に、それを異説、邪説として一蹴し、片づけたがるということが非常に多いと思うのですね。 また、現実におかしな団体が多いことも事実であるので、それを正しいものとそうそうは認めることができないということも、真実でありましょう。 裁判の世界だけでなく、宗教の世界においても、疑うべきは罰せずであればいいんだけれども、残念ながら宗教の世界においては、疑うべきは罰するというのがどうやら原則になっておって、信じられるのは自分だけであって、自分以外は、すべて信じられない。つまり、敵であり、悪魔であると考えがちであります。 こうした混乱のなかにおいて、共通のひとつの常識、宗数的常識というものもつくってゆかねばならぬと私は思うのです。 私が、生前、「生長の家」において、九十年間余りの生涯で説いてきた教えというものも、結局、この宗数的常識の確立ということがその大きな使命であったろうと思うのであります。 4.宗数的常識の確立と「生長の家」の教え 私は、人類の基底に流れておる思想というものが、単に仏教のみならず、キリスト教にも、日本神道のなかにも、また、アメリカの光明思想団体、ニューソートの流れのなかにも、あるいは、それ以前のドイツ観念論派のなかにも、真実のものが流れているということを説明してきたつもりであります。 というのは、本当のものというものに対して、その基盤、基礎をあきらかにしなければ、人びとが考え、判断する基準というものが、なくなってしまうからであります。 そういう意味において、人類の共通項、共通の基盤というものをあきらかにするために、私は努力邁進(まいしん)してきたのであります。そこで、こうした共通項、共通の思想、あるいは、教科書としてでも確立できるようなしっかりとした信仰の岩盤の部分、これを今固めていく必要があると思う。私は、強く、そのように思うわけであります。 そして、この共通の基盤のなかにおいて、いちばん大切な教えとは一体何であるかと言うと、結局、人間が神の子であるということを明確に謳うか謳わないかということ、これが非常に大事なのではないか、と。私は、このように思うのであります。 人間の性悪説、性善説というふうに、いろいろと古来から話をされておるけれども、やはり、性善説、つまり、本来善き者と考えて、所説を立てていくのが筋ではないか。そういうふうに、私は考えるわけであります。 そうでなければ、人間が本当にくだらない者であるならば、生きておること自体が罪であります。存在自体が罪であります。 本当に善きものだからこそ、真実永遠の生命というものを保ちつつ、人間は生きておるのではないでしょうか。私は、そう信ずる者であります。 5.人類に罪ありやなしやの問題 さてでは、人類に罪ありやなしや、この問題について考えていきたいと思います。まあ、これは、罪ということの概念、これにかかわってくるわけであります。 人類全員が、たとえば、天照大御神様のように光り輝いておるかと言えば、現実問題としてはそうは言い切れんのが事実であるし、また、宗教家たち、つまり、本人は神近きと思っておる宗教家たちの現実の姿とて、そうではないことは、常識のある日本人であるならば、先刻知っておるとおりであります。 そうしてみると、では、何をもって罪とするか。あるいは、罪はないとするか。この辺を徹底的に考えてみなければならんと思います。 私は、生前からよく説いてまいりました。罪とは、「包(つつ)み」のことであります、と。すなわち、罪とは、覆(おお)い隠すものであると、こういうことを言ってまいりました。 たとえば、百ワットの白熱電球がそこにあるとしても、それに風呂敷をかけてしまえば、光は出てこないわけであります。そして、曇ったような形になる。ただ風呂敷がかかっておるということは現実ではあるけれども、かといって、光そのものが曇っておるということでないことも、事実であります。 この白熱電球の部分は、無限に光を放ち続けているということが、人間が神の子であり、生命の実相において神と本質をひとつにするものであるという意味なわけであります。つまり、人間に罪はないけれども、包みというものがあるように見えるということです。その本来の光り輝く神性を包み隠しているように、覆っているように見えるものがあると言えることです。 そして、それが、あるときは白熱電球にかかった風呂敷であったり、あるときは白熱電灯にかかった、いわゆる塵芥(ごみ)や埃(ほこり)であることもあるわけですね。しかし、本来、そうしたものはあるべきはない。そこにあるべきでないものが、無精(ぶしょう)人間が怠慢をしているうちに、そうしたものに蜘蛛(くも)の巣がかかったり、塵芥(ごみ)が落ちたりしてきておるわけであります。ですから、本来の輝きを取り戻すためには、この包みの部分を取り除かねばならない。 これは、ある意味では、宗教の共通した思想であろうと思います。私の光一元、善一元論にしても、本来光一元、本来善一元ということであって、本来白熱電球というのは、何の曇りもなく輝いておるということを言っておるのです。 輝いておることを前面に押し出しておるわけであって、もちろんそういう曇りや汚れがないと言っているわけではないのです。だから、この曇りや汚れを本来のものと考えてはならぬ、と。そういうことを言っておるのですね。 すなわち、たとえば、窓ガラスの外には美しい景色が広がっておっても、窓ガラスが曇っておったのではよく見えんということですね。あるいは、水蒸気で曇ったり、塵芥で汚れたりしておっても、窓の外の景色は見えんでしょう。こういう場合には、雑巾で拭けば窓ガラスはピカピカになります。そうすると、人間は、外の美しい景色というものを見ることが可能なわけであります。 ところが、人間罪の子の思想、あるいは、人間の存在を性悪説ととらえる人というのは、どういう人であろうかと言うと、窓ガラス自体がそんな透明なガラスではなくて、まあ、ステンドグラスか何かのように濃い色が入っておって、外が自由に見えないと、こういうふうに考えるわけであります。このように色ガラスであって、磨いても磨いても透明にならないと言うならば、外の景色が素通しで見えるわけはないのであります。 6.「罪」と「包み」 ですから、私が本来罪なしと言っておることと、つまり、包みのみがあると言っていることと、罪があると言っておることは、似ておるように聞こえるかもしれないけれども、この部分が、重要な差となっておるのです。 私は、本来の姿は、外の美しい景色が自由自在に見えると言っておるのです。ところが、罪が実在すると思っておる人たちは、すなわち、ステンドグラスのように色濃いガラスか何かが入っておって、磨けど、磨けど、外が見えんと言っておるのです。あるいは、赤いステンドグラスが入っておれば、世界が血のような赤さに見えて、本当にやりきれないと言っておるのです。 ところが、私はそうではないと言っておるのですね。本来は透きとおって見えると言っておるのです。この意味が、わかるでしょうか。まあ、そういうことなんですよ。 ある人は、透きとおったガラスであるのにもかかわらず、勘違いをして、実は窓に鉄格子が入っていると思っておる者もおるのですね。まるで人間を囚人か何かのようにとらえておる者がおる。この三次元世界というのを、刑務所か何かのようにとらえて、人間が刑務所のなかにブチ込まれるために出てきておるように、処罰のためにこの三次元世界へ出てきておるように思っておる者もおります。 こうした者は、窓に鉄格子が入っていると思っておるのですね。まあ、これも大変な誤解であります。本来そうしたものではないということです。 私の考えがあきらかになってきたと思うのでありますが、窓の外の美しい景色、これが、結局天上界の景色であり、天国の姿であり、地上を去った実相世界にあるユートピアの姿であるわけであります。 このユートピアの世界を、私たちは、地上の人間にも見せてやらねばならんのです。そして、このユートピア世界を地上の人間に見せてやるためには、人間が罪の子であるという意識を拭い去らねばならぬということなのですね。これが大事なわけであります。 人間が罪の子で永遠に罰せられておるという考えは、まあ、これはひとつの強迫心理であって、本来は、そんなものではないわけですね。人間罪の子の思想が真実であるとすると、まるで地上に生きておる人間は、すべて指名手配中の殺人犯人か何かのような存在になってしまいます。私たちは、殺人犯人相手に法を説いとるわけではないのであります。 本来、みんなおとなしい羊であるのです。おとなしい羊であるけれども、ときどき、羊は迷い出て、百匹のうちの一匹、二匹が迷い出て、谷のなかに降りてみたり、岩の間を飛び越そうとして足を折ってみたり、いろんなことをしておるのです。 だからこそ、私たちが正しい生き方というものを教えて、そうした者たちを導かねばならんようになっておるわけです。 7.人間罪の子の思想と人間神の子の思想の効果の違い こう考えてみると、たとえば、効果という面で考えてみても、人間に罪ありと考える思想と、人間に罪なしと考える思想と、どちらのほうが効果が大きいかということも理解がいくと思うのです。 人間に罪があると言われて、そして、生きておるという思想は、どういうことでしょうか。たとえて言えば、オギャアと泣いて、赤ちゃんとして生まれて、もの心がついたときに、実は、その両親というのはもう死んでいて、その子は孤児であって、「お前の両親というのは大変な大泥棒であったんだ。お前は泥棒の子供であったんだ。だから、泥棒の子供として生きていかねばならんのだ」と、まあ、こうぃうことを言われるのと同じでありましょう。 あるいは、いち早く地上を去った両親は、大変な借金、何億円もの借金をつくって死んだのだ。だから、お前は、義務教育の間は許されるけれども、義務教育が終ったら社会に出て働いて、両親の借金というのを生まれながらにして払う義務があるのだ。まあ、こういうふうに考える考え方でありましょう。 一方、もうひとつの人間に罪なしという考え方とは、どういうのか。あなたは神の子であって、光り輝くような姿で生まれた。無限の可能性が与えられておる。どんな人も、赤ちゃんとして生まれて、オギャーと泣いて以来、平等のスタートを切るのである。そして、本来の神の姿に戻るために、永遠の向上を目標として努力していくのである。行く手には希望と勇気が輝いている。つまり、こういうことですね。 こうした二つの人生観があるわけですが、どちらを持って生きていくのが、本当に人類を幸福にすることになるかどうか。このことについて、よくよく考えていただきたいのであります。 皆さんは、小学校でもいい、中学校でもいいのですが、たとえば、高校になったときに、まあ、普通の人間として育っておったのだけれども、友だちから、こう言われたとしましょう。 「君は、自分の両親を本物の両親だと思っておるが、実は違うんだ。君は、生まれ落ちてすぐ、孤児院の前に捨てられておったのだが、拾われて、今の両親が引き取って、育ててくれたんだよ。君の本当の出生の秘密を調べてみたら、実は、君は大変な悪人の子供であったのだ」 まあ、こういうふうに言われたとしたら、その十八歳なら十八歳の男の子でも女の子でもいいが、その人の人生は、どのようなものになるでしょうか。本人にまったく責任がないところでもって、本人は自己処罰の観念に苦しみ、暗い人生を生きていくのではないでしょうか。 そして、その結果、どうなるか。ああ、自分は大変罪深い両親の縁のもとに生まれた人間で、本来地上に出て来るべきではなかったのに、本来出て来るべきでなかった自分が出て来たんだから、何とか人様に迷惑をかけないだけの生き方をしていかなければならぬ、と。まあ、こういう消極的な人生観になっていくわけです。 ところが、たとえ同じように拾われた子としても、逆の言い方もあるでしょう。 あなたは一歳のときに拾われたのだけれども、実は、あなたは天皇家の子孫なんだ。本当は、天皇家の子供さんなのだ、と。あるいは、有名な大富豪の、あるいはまた、ノーベル賞作家の、ノーベル賞学者の実はお子さんなんだ、ということを言われたらどうなるか。これは大違いですね。 まあ、どちらが真実かということですが、ただ私は、善し悪しを判断するだけではなくてね、その行為の善悪だけではなくて、単にこの世的に効果というものだけを考えても、やはり自分は素晴らしい両親のもとに生まれたんだ、素晴らしい星のもとに生まれたんだと考えるほうが、人生としては明るい人生が開けていくのではないかと思う。それでいいじゃないかと思うんですね。 暗い人生の思想をいっぱいつくってしまって、どうして世の中が明るくなるでしょうか。どうして世界が平和になるでしょうか。どうして世界が幸福になっていくのでしょうか。やはり、ひとりひとりの人生が光り輝くものになっていかなければならないのではないでしょうか。私は、強く、そのように考えるわけであります。 8.クーエの成功心理学 有名な心理学者として、クーエという人がおりましたが、この人は、大変面白い方法を考え出しました。つまり、「あらゆることにおいて、自分は毎日よくなる。一層よくなる。あらゆることにおいて、毎日よくなる」と。これを一日ね、十回、二十回、いろんな機会に口に出して唱えておると、本当にその人がよくなってくる。こういうことを、クーエという人は、実験によって確かめました。 まあ、薬局でも、同じですね。薬を売るときに、「この薬は非常によく効きます」と言って渡しておるのと、「この薬は全然効きません」と言って渡しておるのとでは、ずいぶん遠う。たとえ科学的にみれば、薬の成分がもう効能を発しないような、有効期間をすぎておる薬であったとしても、それを効くと思って飲めば、実際にアッという間に病気が治ってしまう。そういう例も、実際、あるわけであります。 こういうふうなのをみると、その人の考え方、心の持ちようということが、どれほど大切なものであるか、こういうことがわかると思うのですね。 ですから、「自分は罪の子だ。罪の子である。自分は永遠に罰せられておるのだ。自分は泥棒の両親のもとに生まれたのだ。自分は不幸の星のもとに生まれたんだ」と、毎日毎日言い聞かしている人と、「自分は一層よくなるんだ。もともと神の子であるし、もともと王様の子であって、そして、ますますよくなっていくんだ」と思っている人とでは、一体どちらが本当にバラ色の人生を生きておるか。どちらが天国を生きておって、どちらが地獄を生きておるか。その答えはあきらかであります。私は、そう思います。 人間という者は、「もの」ではないのです。物質ではないのです。だからこそ、その思いによって、人生が変わってくるのです。自分が思い、希望した方向へと人生を開いてきておるのです。そういう生き方をしてきておるのです。 そうであるならば、やはり光明の方向へと心を向けていかねばならぬのです。あらゆることで、自分はよくなっていくんだ。一層よくなっていくんだ、と。クーエのように、一日十回、二十回でも、そういうことを繰り返すべきです。 そうすれば、それが自己暗示となって、本当によい方向へといくのですね。言ってみれば、こういうことは、皆さんも、無意識のなかでは、ずいぶん経験しておるのです。 たとえば、会社に入って、とくに一流会社というところに入ると、新入社員でも、立派に見えてくる。はた目から見ても、いかにも一流会社に勤めているという雰囲気になってきます。 なぜそうなるかと言うと、やはり、そこに働いておる社員が、自分は、日本を代表する一流会社の社員なんだと、一日何回も何回も思っておるということなのです。その思いが、顔の表情となり、身のこなしとなって現われてくるということです。 また、東京大学などを出ておる人が、社会に出てから非常に活躍をしておりますが、これなども、結局、彼らがそのクーエの法則を知らないうちに使っておるということがあるのですね。社会に出て、いろんな困難にぶち当ったときでも、「自分は東京大学を出ておるんだ。自分の頭脳が優秀だということは、すでに国家機関によって認められておるのだ。自分は受験戦争を勝ち抜いてきたのだ。いつも先生にほめられてきたし、いつもよい成績を取ったし、いつも他の人から尊敬されてきたのだ」と。 こういう自信を持っておるから、艱難(かんなん)にぶち当っても、自分は優れた人間であって、この困難を必ず乗り越えていけるのだ、と。こういうふうに、自分に言い聞かせているがために、実際、その困難を打ち崩していくことができるのです。 ところが、自分の学歴に劣等感などを持っておる人というのは、社会に出てから困難にぶち当たると、「いや自分がダメなのも、やはり大学を卒業していないからなのだ。大学を中退したからなんだ」と。あるいは、「高校に進まなかったからだ」と。こうしたことを、いつもいつも愚痴るようになるわけですね。 そして、何かことがあるごとに、「結局、学歴がないから自分は不幸なんだ。学歴がないからいい嫁さんも来なかったし、学歴がないからいい就職もできなかったし、学歴がないから昇進もできなかったし、学歴がないから馬鹿にされたし、学歴がないから子供の教育もできないし、学歴がないから車も持てない。学歴がないから家も持てない。学歴がないから……」ということで、こうした言い訳ばかりをするようになります。 私は思うのですが、人間の基本的な能力というものは、そうそう大きな開きというのはないと思うのですね。ですから、成功体験を通して、自分というものに自信を持ってくると、いろんな困難や苦難に遭遇したときでも、それを打ち破っていける。その自信でもって、その困難や苦難を打ち破っていけるのです。 ところが、挫折しか経験しておらん人は、何か困難、苦難がくると、「また挫折をするのではないか」と、自分の悪い経験ばかりを反芻(はんすう)してしまう。そして、結局、挫折する。こういう悪循環を繰り返していくのです。 したがって、こうした悪循環を断ち切るためには、やはり、成功の心理学というものを十分心のなかに刻んでゆかねばならんのですね。この成功の心理学を刻んで、日々生きていくことが大事なのです。 9.光明思想の教育効果 私は、本来的にも人間は神の子であり、人間の性は善であり、人間の本質は素晴らしいものだと思っておりますが、また、それが事実だと思っておりますが、それが事実であるかどうかということの論証を抜きにしても、人間は本来素晴らしい存在なのだと考えて生きることが、結果的に、どれほどその人の人生をバラ色にするか。そういうことを考えねばならんのです。 ですから、宗教家で言えば、人間罪の子の思想を説く人が、もし教育者で出てくれば、結局は、子供たちをつかまえては、その子供たちの欠点ばかりを教えるようになる。つまり、「お前は算数ができないからダメだ。他の学科が全部できても、お前は算数ができないから、将来は理科系統に進めない。だから、医者になれない。科学者にもなれない。結局、ダメだ」と、こういうことを言うようになる。 また、算数はよくできるが、国語ができない子供にはどう言うかというと、「国語ができないということは、日本語ができないということだ。日本語ができないというような人間は、教養がない。そして、教養がない人間は、どこへ行っても、人の上に立てない。だから、お前は、ダメなんだ」と、こういうふうになってくるわけであります。 このように、欠点ばかりを見るものの見方は、大局的な見地から言っても、その人を生かすことにはならんし、その人を幸せにすることにもならん。私は、このように考えるのです。 いいところを見つけて、それをほめていく。そして、それを伸ばしていく。やはり、そういう教育こそが、真実であるのではないですかね。 算数ができる子がいたら、あなたは天才だ、と。数学の天才だとほめていく。国語ができる子がいたら、お前はその才能を生かして、作家になれるかもしれないよ、と。こういうふうに見ていくべきです。 また、たとえ勉強はできなくとも、しゃべるのがうまい子をみれば、お前は説法が非常にうまいから、将来は政治家か、あるいは、宗教家になるかもしれない、と。こういうふうにも、とらえていけます。 すなわち、現実は同じであっても、それをどうとらえるかによって、人生を幸福にできるかどうかということが変わってくるのですね。 ですから、私は何度も何度も繰り返して言っておるけれども、人間というものは、光明の方面に自分の考えを向けていかねばならんのです。そうしなければ、本当の意味においての幸せということはないのです。すなわち、もし過去において、自分に罪があったとしても、「罪よ、罪よ」ということをあんまり自分の心に刻んでしまってはならんのです。 人間が原罪の子であるという思想は、もちろん、カルマとか、あるいは、過去世の業ということでもあるんでしょうが、それは過去世だけのことではなく、今世のことにもあてはまるわけです。 今世で過去に失敗したからと言って、その失敗ばかりをいつまで言っておっても、決して幸福にはなれんのであって、その失敗に清算をつけて、新しい太陽に向かって、人間という者は生きてゆかねばならんのです。 したがって、自分が間違っていたことに対しては、もちろん、その点に関して、人に詫びるのは、正しいし、そうした間違ったことを二度としないと心に決めることも大切でありますが、肝要なことは、その間違いを引きずらないということです。その間違いを引きずって、自分の人生は間違ってしまった、間違いの人生だというような、そういう自己卑下的な考え方はせんことです。 人間は、間違うこともあるけれども、それ以上に素晴らしい人生を生きることができるんだ。これからいつも新しい出発をしていくんだ。神の子として、素晴らしい旅立ちをしていくんだ。こういう思想というものを持たなければ、人間は、本当に幸福になることはできないのです。 ですから、私は本章で言っておるように、本来罪なし、人間本来罪なし、すなわち、「人間無罪宣言」というのを大切にしたいと思うのです。それゆえ、本書の読者の皆さんも、もし自分に罪がありとしていろいろと虐(いじ)めておるならば、その罪から自分を解放してやりなさい。その鉄格子のなかから、自分を解放してやりなさい。と、言いたいのです。 そして、クーエのごとく、考える。毎日、自分はあらゆる面で一層よくなる。毎日、あらゆる面で一層よくなるんだ。なぜなら、自分は神の子だからだ。神の子だから、よくなるしかないんだ。自分は、ますます向上し、ますます立派になり、ますます社会のために奉仕できるんだ。そうして、多くの人びとに喜んでもらえるんだ。こういうふうに思っておくことです。それが、大事なことなのですね。 10.自己実現と全託の精神 「生長の家」の聖詩篇のなかにも私は書いておりますが、自己実現に関しては、その結果というものに関して、神にお任せすることです。自分は神の子で、神様が最大に愛しておる子供なんだから、あとはその念いを持続し、いい念いを持続して、いつその結果が現われるかということは、もう気にしないで見ておる。そういうことです。 一晩眠って、朝になればね、草の芽、あるいは、植物の芽というのは、一層伸びておるのです。夜眠っておる間に、そうしたものは、芽が伸びておるのですね。そうしたものなのです。 ですから、そういう心を、そういういいことだけを心の奥に刻んで、それが何センチ伸びたかということは計らずに、待っておることです。すると、ある時期になると、パッと花が咲く。必ず、花咲くのです。 たとえば、片栗粉でもそうですね。湯を注(さ)して、持っておると、ある瞬間に、パッと透明に変わる。そういうものなんです。片栗粉がなかなか透明にならないと言うんで、固まらないって言うんで、また水を注したり、いろいろとこね廻したりしておっても、ダメなんですね。あるとき、パッと変わるんです。そういう瞬間があるんです。それを信じて生きることですね。これが大事ですよ。 まあ、自己実現の方法については、また改めて話をしようと思うけれども、人間は本来無罪なんだ、素晴らしい存在なんだという思想を、どうか忘れずに生きていただきたい。私は、強く、そう願うのであります。
https://w.atwiki.jp/fro2018/pages/51.html
. 聖杯戦争のマスターとして不幸にも覚醒してしまった男が、目撃したのは『絶望』そのものだった。 日本の京都。 舞台に相応しい『僧侶』の役割を当てられていた・室井静信が、かつての記憶を取り戻すに時間は要しない。 彼が身を置いていたのは、自然豊か程度で済まされない。 閉鎖された古典的『ド田舎』。人口が僅か1300人だけの村。 そこと比較すれば大都会かつ有名な京都へ移ったのだから、違和感の一つや二つ。直ぐに抱いた。 ――静信が人気ない、自身が在籍すると『されている』寺院で思い出した矢先。 目にしたのは自らのサーヴァント。 じゃない。 最早、原型のない血液の集合体であった。 偉大なる英霊とはかけ離れた『化物』そのもの。 何かと疑念を脳に発生させる必要なく、血液は独特の匂いを漂わせながら静信に接近する。 逃げるべきだが。 不思議にも静信は逃げる手段を取らずに、額に汗を浮かべながらも静観していた。 血液は静信の周囲を取り囲み。 『お前は――セイシン。嗚呼、ムロイセイシン。そう呼ばれているな。「情報」がある』 と、ゴポゴポと泡を立てながら。 確かに、血液から声が聞こえたのである。しかも人間の。 血液でしかないソレを果たして『人間』と称するべきなのだろうか。 聖杯戦争をすんなり受け入れた訳じゃないが、静信は酷く落ち着いた様子で聞き返す。 「情報?」 『お前の「血」の情報だ。お前は――自殺しようとしたな。手首をかっ切り、死のうとした』 自然と静信は、指摘された手首を抑えていた。 今尚、痕跡が残されている。血液に果たして視力があるか怪しいものの。 ソレの言葉は事実であり、真実だった。そして――― 『お前はこの世界に絶望した。とっくの昔に全てを悟り、死を選択し。だが結局のところ死なずに居る』 何故だか息を飲む。 絶望した。 そうなのかもしれない。閉鎖された村に対してじゃない……この世界全てに対して。 でも、実際は曖昧だった。絶望の衝動で刃を立てたのか。分からない。 困惑する静信に対し、血液は嗤う。 『お前の選択は最善だ。そうだとも。死ぬ必要なんて無い。死ななくても良いからだ』 「なら、どうして。ぼくにその話を」 『俺とてこの世界に絶望しているからな。こんな世界はクソでアホでバカで間抜けだ。 最も、世界を代無しに没落させた要因は、紛れも無く「人間」という最低最悪の生物だ』 「―――」 静信を差し置いて語り語る血液の形状は、見る見る内にヒトの姿になった。 年齢は明らかに静信よりも若い。 先ほど男の声だった気もするのだが、実際の姿は 木瓜紋があしらわれた帽子を被り、赤マントを靡かせる黒の軍服の黒長髪の少女。 軍に関わる年代と性別に大凡思えない容姿。 口調と違って可愛らしい声色で、堂々とソレは言う。 「だが、考えても見ろよ。こんなにも醜く哀れで地上の宝を湯水の如く消化し穢す愚かな生物が 滅亡すること無く、その文明を永続させられると思うか? 俺は思わないな! 人類は滅びる。勝手に滅びる。 確実に滅びる。滅んで当然の末路だ。クソ世界に絶望した俺の共感者(マスター)。お前なら分かる筈だぜ」 「……君は一体何者なんだ?」 震える静信の問いかけに、英霊は不敵に嗤い答えた。 「人類で最初に『殺された』間抜けだよ」 ◆ 人間が知らない神話。 人類最初の被害者と称された弟は、兄の嘘を告発する為、執念により大地に流れた自らの血液を利用した。 それを視た神は、弟を『人類全ての血の祖』にし。 死と引き換えに『血液』を通し、人類史を観測する地位を与えられた。 誰しも神からの恩恵に喜ぶ事だろう。 最初、弟も神から与えられた地位に心より感謝の意を表していた。 ……だが。本当にそれは最初の内だけ。 人類が流す『血』の要因など、自ずと悲劇と非業と拷問や戦争……醜悪の塊でしかない。 無論。全てがそうでなかったとしても。 そうでなかった『希望』が『絶望』に塗り替えられるほど、弟の魂を摩耗し、精神を穢した。 あらゆる私怨や憎悪を抱く中。 弟がこれらが――兄の血筋が要因ではなく。人類という種族そのものが愚かであるが故の顛末なのだ、と理解するのに。 さほど時間はかからなかっただろう。 罪人として『生き続ける』兄の方が安息に思えるほど、弟は『悪』を目にし続ける。 弟の名は『アベル』。 京都の地において『ライダー』のクラスで召喚された英霊。 ◇ 翌日早朝。 ふう。と静信は、寺院の清掃を終えた。 枯れ葉をゴミ袋にまとめ、観光客の姿もまばらなのを確認し、自室へ移動すると今時珍しい原稿用紙を机に敷き。 小刻みにペンで音立てて執筆活動に励む。 僧侶ながら副業に小説家を持つ人間は、珍しい部類に属するだろう。 「おい、何してる?」 静信のいる部屋に面した縁側で、胡坐をかいて呆れた風に声をかけたのは、夢でもない、静信が召喚したライダーである。 ……なのだが。 静信がペンを落としかけるのも当然。 ライダーの姿は形状を露わにした黒髪の少女そのものだが、格好は現代らしいラフなものへと変わり果てていた。 木瓜紋をあしらった帽子はそのまま。 現代のジャケットと『Buster』とロゴがある赤いクソダサTシャツ、あげくにミニスカ。ロックなヘッドフォン。 彼――性別は彼女だが――の真名を看破できる存在など、現状いるのか怪しいほどだ。 流石に静信も溜息をついて、一旦ペンを置く。 「君こそ、世界に絶望しているにも関わらず。謳歌しているのかい」 「仕方ないだろう。現代がこのような格好を求めているのだから」 「君が『女性』だったとは思えない」 馬鹿真面目な態度で返事する静信に、ライダーは舌打つ。 「俺本来の姿になったところで何の意味がある? 京都に縁ある英霊の姿を借りて何が悪い? 確か名前……オダ、オダノブナガ。これは『織田信長』の姿だ。お前の国の英霊だぜ。名くらい知ってるだろ」 「なんだって?」 否。織田信長が女性である方こそ『おかしい』のだが…… 頭をかかえる静信を気にも留めず。 ライダーは悠々と問いかけた。 「おい、共感者(マスター)。お前の願いはなんだ。言っておくが人類滅亡も衰退も願う必要はない」 「僕は……まだ分からないよ」 真剣な面持ちの静信に対し、ライダーは鼻先で笑う。 どのように罵倒されようが静信は続けた。 「君の提案する人類の衰退も最初から願いになかったし、特別な願いも僕にはない」 「つまらんな。本当につまらん。小さな箱庭で満足するキチガイめ」 「僕はそれでいいと思っているよ。今もね」 「今もか? こんな世界を知っておいて。良いと思って死のうとした癖に」 「そう」 「……お前はきっと俺に失望しているんだろうな」 「そうだね」 「馬鹿だな。何故、嘘をつかない」 「君には嘘が通用しないと知っているからだよ。英霊の力は逸話通りじゃないのかい」 ライダーの表情は心底退屈そうなもの。 静信が察する通り、ライダーの逸話に準え『虚偽』を明かす能力が備わっている。 英霊であれマスターであれ。ここに配置された無銘の住人ですらライダーに嘘を暴かれる。 しかし。だからこそか。 ライダーは本当につまらなそうな様子だった。 「もう俺は嘘が嫌いじゃない。嘘がないほど面白みが失われる。 なあ、どうだ。共感者(マスター)。世界を混沌極まりない残虐かつ残酷な土台に変えたのは人間か? 神か?」 「どうなのかな」 「俺を殺した男は典型的な卑怯者だが、神に対し泥を塗ったのは滑稽で面白いと思うぜ」 ゲラゲラ嗤うライダーは、最早悪魔のようだった。 そんな彼――アベルに静信は失望していた。 聖書で語られたアベル。その存在に身勝手な尊さを抱いて、自滅し、失望しているのか。 あるいは……神に対し失望しているのか。 死して終わる筈のアベルに対し、清らかな心を穢すかの如く。あらゆる醜さを味あわせるなど。 「君は、観測者には相応しくなかったんだ」 皮肉めいた静信の発言に、アベルが目を見開く。 「やっぱりお前は俺の共感者(マスター)だ。俺もそれを願おうと考えていた」 所謂、自らの消滅。 通常願う事ない自殺を願う。 だけど静信は当然のことだと考えていた。何故ならアベルに『罪』も『罰』もない。きっとそうだ。 故に地位を捨てる事も赦されるのだ、と――勝手な理想を描いていた。 【クラス】ライダー 【真名】アベル@旧約聖書 【属性】混沌・悪 【ステータス】筋力:C 耐久:C 敏捷:D+++ 魔力:D 幸運:C 宝具:EX 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。 騎乗:EX アベルの騎乗の真価は『血液』の騎乗にある。 【保有スキル】 変化:EX 血液そのものと成ったアベルは、大地に流れ続ける人間の血液と同化し続けている。 血を流した人間であれば誰にも変身可能。 どこかの英霊も体現可能だが、英霊としてのスキルや宝具は獲得できない。 文字通りの見かけ騙し、姿だけのハリボテ。形は本物なので初見殺しになりえるだろう。 アベル本来の姿は保てない訳ではない。 愚かな兄に殺された自分自身を『弱い』と嫌悪している。 血脈集束:EX 大地に流れた人間の血液と同化状態にあるアベルは、それらから『情報』を得る。 所謂、ほぼ人類史巨大サーバー。あらゆる情報が集束されたネットワーク。 当然ながらアベルが全ての情報を即座に引き出す事は不可能。 そうしようとしたら彼自身に膨大な負荷がかかり、自滅に終わる。 一つ一つ、特定の情報を『検索』する作業となる。 無論、情報検索における魔力消費も必要。ある程度、検索条件を加えれば魔力消費も少ない。 精神汚染:C+ 精神が錯乱しているため、他の精神干渉系魔術を高確率でシャットアウトする。 一応、会話は可能だがハメをはずして、命令を聞かない。 マスターの静信があれこれ言っても、素直に応じる事もない。 ただ『共感者』として意気投合できると思っている。 真紅の告訴:A かつてカインの嘘を暴いた逸話によるスキル。相手の虚偽を暴くもの。 アベルの認識範囲に留まる全てが対象。嘘をつけば嘘を述べた者の足元。 もしくは肉体等に血液に似たものが浮かびあがる。 【宝具】 『人類の不浄よ、地上を潤したまえ(クリムゾン・レコード)』 ランク:EX 種別:対血宝具 レンジ:∞ 最大補足:∞ あらゆる世界。人類が大地に流した血液の集合体であり、そのものであるアベルは 前述にある変化や血脈情報の他にも、血液そのものを使役する事が可能。 血液中にある鉄分を利用し、武器を創造。血液を使い魔のような生命体に変化。 巨大な血液で構成されたモンスターに形作ることすら出来る。 舞台の京都そのものを血液の海に沈める事も……可能だが、魔力が圧倒的に足りない為、行わない。 使役する血液の量により、魔力消費は変化する。 【人物背景】 旧約聖書に登場する人類最初の被害者。 兄・カインから嫉妬され、殺され、大地に流れた血液と成った。 死したアベルは、神より人間の血を通し人類史の観測者となる恩恵を与えられる。 しかしながら、戦争等非業の歴史と所業。 血に流される『情報』は人間の醜さが凝縮されたものだった。 これは罪人として生き永らえ続けるカインの行いではなく。 人間という生物が至った醜さだと理解し、絶望している。ヤグされている。 人類滅亡を望んでいるものの。別に願う必要なく人類は自滅すると過信している。 【容姿・特徴】 スキルにより姿はコロコロ変わる。『姿だけ』であれば血を流した者に限り、誰でもなれる。 現在、京都所縁ある英霊・織田信長(FGOのノッブ)の姿でいる。 それも水着verのラフな格好だったり、魔人アーチャーの軍服verだったり様々。 本来の姿は、二十前半の青年。短髪黒髪。細みだが筋力ある体つき。一枚布を体に纏っている。 【聖杯にかける願い】 観測者の恩寵という呪いを解く 【マスター】 室井静信@屍鬼(漫画版) 【聖杯にかける願い】 まだ分からない 【人物背景】 人口わずか1300人の村にある寺院の息子。 本業は僧侶で、副業は小説家。ワープロに抵抗がある為、原稿用紙で執筆している。 性格は典型的な温厚だが、学生時代に自殺未遂を起こす。 【能力・技能】 特になし。 魔力なしマスターである為、魔力源は心もとない。
https://w.atwiki.jp/cardxyz/pages/1138.html
「全人類の緋想天」 永続スペルカード 維持コスト N1 使用者 [[比那名居 天子]] このカードが存在する時、[[ワールド]]カードが重複可能になる。