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イエスの系図とエッサイの木 イザヤ書11章には、ダビデ王の父であるエッサイの子であるダビデの子孫にキリスト(インマヌエル)が現れることが、次のように比喩的に書かれている。 イザヤ11 1-5 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。 その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。 このことから、中世ヨーロッパでは、イエスの系図をエッサイの木に重ね合わせて描写することが慣習となった。 Miniature, Jacques de Besançon, Paris, c.1485. Showing 43 generations. Below, the birth and childhood of Mary 創世記から列王記までの系図 アダム~ノアまでの系図は創世記5章にある。 セム~アブラハムまでの系図は創世記11 10-32にある。 イサク~ヤコブの系図は創世記25 19-26にある。 ヤコブ(イスラエル)~ユダの系図は創世記35 22-26にある。 ユダ~ヘツロンの系図は創世記46 12にある。 ペレツ~ダビデの系図はルツ記4 18-22にある。 ダビデ~ソロモンの系図はサムエル記下5 14-16にある。 レハベアム以降の王は列王記に順次記載されている。 アダムからアブラハム(19代) アダム-セト-エノシュ-ケナン-マハラルエル-イエレド-エノク-メトシェラ-レメク-ノア-セム-アルパクシャド-シェラ-エベル-ペレグ-レウ-セルグ-ナホル-テラ アブラハムからダビデ(14代) アブラム(アブラアム)-イサク-ヤコブ(イスラエル)-ユダ-ペレツ-ヘツロン-ラム-アミナダブ-ナフション-サルマ-ボアズ-オベド-エッサイ-ダビデ ダビデからバビロン移住(17代) ソロモン-レハブアム-アビヤ-アサ-ヨシャファト-ヨラム-アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ-アザルヤ(ウジヤ)-ヨタム-アハズ-ヒゼキヤ-マナセ-アモン-ヨシヤ-ヨヤキム 歴代誌の系図 アダム~イスラエルまでの系図は歴代誌上1 1-34にある。 イスラエル~ユダ~ヘツロン~ダビデまでの系図は歴代誌上2 1-15にある。 ダビデ王以降の系図は歴代誌上3章にある。(ウジヤの名は歴代誌下26章) アダムからアブラハム(19代) アダム-セト-エノシュ-ケナン-マハラルエル-イエレド-エノク-メトシェラ-レメク-ノア-セム-アルパクシャド-シェラ-エベル-ペレグ-レウ-セルグ-ナホル-テラ アブラハムからダビデ(14代) アブラハム-イサク-イスラエル-ユダ-ペレツ-ヘツロン-ラム-アミナダブ-ナフション-サルマ-ボアズ-オベド-エッサイ-ダビデ ダビデからバビロン移住(18代) ソロモン-レハブアム-アビヤ-アサ-ヨシャファト-ヨラム-アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ-ウジヤ(アザルヤ)-ヨタム-アハズ-ヒゼキヤ-マナセ-アモン-ヨシヤ-ヨヤキム-エコンヤ バビロン移住から(11代) ペダヤ-ゼルバベル-ハナンヤ-ペラトヤorエシャヤ-レファヤ-アルナン-オバドヤ-シャカンヤ-ネアルヤ-エルヨエナイ-七人 新約聖書と異なり、ゼルバベルの父はペダヤである。シェアルティエル(新約聖書でのシャルティエル)はエコンヤの長男として記述されるが、ゼルバベルの父ではない。 マタイ福音書の系図 これはマタイ1 1-17にある。 アブラハムからダビデ(14代) アブラハム-イサク-ヤコブ-ユダ-ペレツ-ヘツロン-アラム-アミナダブ-ナフション-サルモン-ボアズ-オベド-エッサイ-ダビデ ダビデからバビロン移住(14代) ソロモン-レハブアム-アビヤ-アサ-ヨシャファト-ヨラム-ウジヤ-ヨタム-アハズ-ヒゼキヤ-マナセ-アモス-ヨシヤ-エコンヤ バビロン移住からキリスト(13代) シャルティエル-ゼルバベル-アビウオ-エリアキム-アゾル-サドク-アキム-エリウド-エレアザル-マタン-ヤコブ-ヨセフ-イエス ヨラムとウジヤの間にある「アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ」が削除されている。 また、バビロン移住は前587年であり、そこからイエス誕生の前4年頃までをわずか13代で説明するのはかなり難しい。 ルカ福音書の系図 これはルカ3 23-38にある。 アダムからアブラハム(20代) アダム-セト-エノシュ-ケナン-マハラルエル-イエレド-エノク-メトシェラ-レメク-ノア-セム-アルパクシャド-カイナム-シェラ-エベル-ペレグ-レウ-セルグ-ナホル-テラ アブラハムからダビデ(15代) アブラハム-イサク-ヤコブ-ユダ-ペレツ-ヘツロン-アルニ-アドミン-アミナダブ-ナフション-サラ-ボアズ-オベド-エッサイ-ダビデ ダビデからバビロン移住(20代) ナタン-マタタ-メンナ-メレア-エリアキム-ヨナム-ヨセフ-ユダ-シメオン-レビ-マタト-ヨリム-エリエゼル-ヨシュア-エル-エルマダム-コサム-アヒ-メルキ-ネリ バビロン移住からキリスト(22代) シャルティエル-ゼルバベル-レサ-ヨハナン-ヨダ-ヨセク-セメイン-マタティア-マハト-ナガイ-エスリ-ナウム-アモス-マタティア-ヨセフ-ヤナイ-メルキ-レビ-マタト-エリ-ヨセフ-イエス アルパクシャドの子カイナムは七十人訳聖書には現れるが、マソラ本文には現れない。 また、歴代誌やマタイ福音書と異なり、ソロモンを経由せず、ソロモンの弟ナタンの系図となっているが、なぜかマタイ福音書と同じくシャルティエルとゼルバベルを経由する。 http //blog.goo.ne.jp/b5550/e/4a21ba4c97856a1ea32ad301bb5bbf4b http //andowako.jp/contents/qanda/bible-1/post.html
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マイエストレ イェル(2)の別名。 「女王様」の意。
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イエスタデイ イエスタデイ アーティスト Official髭男dism 発売日 2019年9月11日 レーベル ポニーキャニオン DLデイリー最高順位 1位(2019年9月12日) 週間最高順位 3位(2019年9月17日) 月間最高順位 7位(2019年10月) 年間最高順位 14位(2020年) 初動総合売上 5970 累計総合売上 110503 配信プラチナ ロングセラー 収録内容 曲名 タイアップ 視聴 1 イエスタデイ HELLO WORLD 主題歌 配信/総合ランキング 週 月日 デジタルシングル 総合シングル 順位 週/月間DL数 累計DL数 順位 週/月間枚数 累計枚数 1 9/17 2 14923 14923 3 5970 5970 2 9/24 2 16635 31558 4 6654 12624 3 10/1 2 14254 45812 5 5702 18325 2019年9月 3 45812 45812 8 18325 18325 4 10/8 2 13860 59672 5 5544 23869 5 10/15 3 10659 70331 5 4264 28133 6 10/22 2 13562 83893 8 5425 33558 7 10/29 2 10783 94676 11 4314 37871 8 11/5 3 9636 104312 10 3855 41725 2019年10月 2 58500 104312 7 23400 41725 9 11/12 3 8274 112586 8 3310 45035 10 11/19 2 8505 121091 11 3402 48437 11 11/26 4 7371 128462 10 2949 51385 12 12/3 5 7047 135509 15 2819 54204 2019年11月 2 31197 135509 13 12479 54204 13 12/10 3 6063 141572 9 2426 56629 14 12/17 3 5696 147268 11 2279 58908 15 12/24 3 5851 153119 6 2341 61248 16 12/31 4 6949 160068 12 2780 64028 17 20/1/7 3 7965 168033 3 3186 67214 2019年12月 2 32524 168033 12 13010 67214 18 1/14 5 5836 173869 7 2335 69548 19 1/21 7 5270 179139 14 2108 71656 20 1/28 6 4933 184072 21 1974 73629 21 2/4 6 4497 188569 22 1799 75428 2020年1月 3 20536 188569 21 8215 75428 22 2/11 3 4716 193285 13 1887 77314 23 2/18 5 4390 197675 19 1756 79070 24 2/25 4 3890 201565 12 1556 80626 25 3/3 5 3874 205439 18 1550 82176 2020年2月 2 16870 205439 24 6748 82176 26 3/10 5 3919 209358 17 1568 83744 27 3/17 3 3967 213325 13 1587 85330 28 3/24 2 4134 217459 11 1654 86984 29 3/31 10 3705 221164 20 1482 88466 2020年3月 4 15725 221164 23 6290 88466 30 4/7 7 3505 224669 10 1402 89868 31 4/14 6 2848 227517 10 1140 91007 32 4/21 8 2335 229852 12 934 91941 33 4/28 13 2809 232661 19 1124 93065 34 5/5 8 2724 235385 18 1090 94154 2020年4月 7 14221 235385 17 5689 94154 35 5/12 6 2380 237765 15 952 95106 36 20H 7049 244814 2820 97926 37 20Y 31443 276257 12578 110503
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アイエス精機 本店:浜松市小沢渡町8番地 【商号履歴】 アイエス精機株式会社(1986年10月~2005年10月株式会社フジユニバンスに合併) 株式会社鈴木鉄工所(1960年7月~1986年10月) 【株式上場履歴】 <ジャスダック>2004年12月13日~2005年9月27日(株式会社フジユニバンスに合併) <店頭>1991年11月 日~2004年12月12日(店頭登録制度廃止) 【合併履歴】 1984年4月 日 株式会社小沢渡製作所 【沿革】 当社は従前、株式会社富士鐡工所の軽自動車、オートバイ部品の一製造部門であったが、昭和30年代前半の自動車生産拡大による受注増に、生産、技術の両面から即応するため、昭和35年7月に同社から分離独立して設立されたものである。 昭和35年7月 静岡県浜名郡湖西町(現静岡県湖西市)に資本金1,250万円をもって株式会社鈴木鉄工所を設立。 昭和37年1月 静岡県浜松市小沢渡町の小沢渡団地内に本社及び本社工場を移転。 昭和37年9月 いすゞ自動車株式会社とトラック部品の取引開始。 昭和41年10月 歯車部品が、受注拡大により主力製品となる。 昭和44年9月 駆動部品の受注拡大により、最新鋭設備トランスファーマシンを導入。 昭和46年3月 本社工場内にアルミダイカスト工場建設、アルミダイカスト部品の鋳造開始。 昭和47年3月 昭和46年度労務管理優良事業所として静岡県知事表彰受賞。 昭和48年8月 静岡県磐田郡水窪町に門桁事業所を設置。 昭和48年8月 久保田鉄工株式会社と農業機械部品の取引開始。 昭和52年6月 エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング株式会社と等速ジョイント部品の取引開始。 昭和58年6月 静岡県湖西市古見に鷲津工場を設置。 昭和59年4月 株式会社小沢渡製作所を吸収合併。本社第2工場(静岡県浜松市小沢渡町)として生産活動を開始。 昭和61年10月 アイエス精機株式会社に商号変更。 昭和63年5月 ディスクブレーキユニットが新規受注により主力製品となる。 平成3年1月 受注増に対応するために本社第3工場を設置。 平成3年11月 日本証券業協会へ株式を店頭登録。 平成8年2月 一貫加工の生産ラインを構築するため、本社東工場を設置。 平成9年4月 粗形材からの一貫加工をめざし、本社鍛造工場を設置。 平成10年12月 本社工場へ集約のため門桁事業所を閉鎖。 平成11年10月 TPM優秀賞第1類受賞。 平成13年4月 ISO9001認証取得。 平成14年6月 ISO14001認証取得。 平成15年1月 自動車部品業界を取り巻く環境変化に対応すべく、お互いの特徴を活かしつつ経営の効率化を協同で進めるため、株式会社フジユニバンスとの間で包括的業務提携を締結した。 平成15年4月 ISO9001:2000認証取得。 平成16年12月 日本証券業協会への店頭登録を取消し、ジャスダック証券取引所に株式を上場。
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登録日:2016/12/22 Thu 07 33 39 更新日:2024/06/03 Mon 13 10 36NEW! 所要時間:約 14 分で読めます ▽タグ一覧 いい人 イエス イエス・キリスト イスラエル イスラム教(愛の牧師) キリスト キリスト教 サウスパーク在住 ジーザス・クライスト ドM ナザレのイエス パッション パレスチナ メシア ユダヤ系ローマ人 ヨシュア 八福 地上最強の男 竜 基督 大工 救世主 本職は大工 神の子 立川在住 聖人 開祖 預言者 飯屋 ■イエス・キリスト(Jesus Christ) ■イエス・キリスト(Jesus Christ) 【大まかな生涯】 フィクションにおけるイエス・キリスト小説 漫画 アニメ 『イエス・キリスト(Yhoshuah ha-Mashiah)=救い主たるイエス』はキリスト教の掲げる救い主。神の子。 日本語訳として最も使われるイエス・キリスト(基督)はギリシャ語読みの音(Χριστος)を元にしたものである。 紀元前30年頃に誕生したとされるユダヤの宗教改革者ナザレのイエスが“神の子”と認められると共に信仰の主体とされた概念である。(*1) 英語読みだと“ジーザス・クライスト” ……パンクな生涯に相応しい妙にカッコいい響きである。後の世にロックミュージカルとして描かれたのも宜なるかな。 イエスの生涯の軌跡や、その位置付けについてはキリスト教の宗派内ですら一定していないが、 信仰の前提となる部分であるため、イエスは神の子であり、救世主である。と云う部分を本項目では事実であるものとして記述していく。 というよりキリスト教徒視点からしても真偽不明や要検証な話が多すぎて(*2)話が進まない。 より深く踏み込んだ内容や解釈や翻訳の違い等については、各自で聖書や専門書や『聖☆おにいさん』を参考になさってください。 【大まかな生涯】 生誕 約2000年程も前。中東パレスチナ(イスラエル)北方の貧しい村ナザレに住む、ダビデ大王に連なるヤコブの息子の大工ヨセフ(*3)の婚約者マリア(*4)に「神の息吹」が宿った事により誕生した。 この誕生は、御使いガブリエルによって、マリアの身に聖霊が宿り、神の子を孕んだことを告げられたとされており、これを受胎告知と云う。(*5) また、この事は占星術師により14代毎に訪れて来たユダヤの変革の時として、地上への“救世主”の降誕として予測されていたとの逸話も加えられる。 最初はマリアの不貞を疑ったヨセフだが、自らの夢見にもガブリエルが現れたことでこれを受け入れた。(*6) マリアの臨月が迫る中、夫婦となった二人は時のローマ皇帝アウグストゥスの人口調査の登録の為にベツレヘムを訪れた。 貧しい夫婦は辛うじて馬を繋ぐために儲けられた些末な小屋に身を寄せ、ここでイエスは生まれたのである。 イエスの誕生は天に印として顕れ、これを見た羊飼いや、それを聞き付けた異邦人が乳飲み子と夫婦を祝福し、礼拝したと云う。(*7) ……一方、この印は遥か東方にも伝わり三博士(*8)は、その降誕の場所がベツレヘムの地であると確認すると、時のユダヤ大王ヘロデの下へと赴き「ユダヤの王として生まれた子のこと」を訪ねたのであった。 これを聞いて驚いた王は調査を兼ねて、この事の確認を三博士に依頼。 博士達は星に導かれ、誕生したイエスの下へと辿り着くとこれを礼拝した。 しかし、三博士はこの事をヘロデ王には知らせずに帰国。 ヨセフには子を連れてエジプトへと逃げるようにとのお告げが下る。 ……正に時を同じくして、自らの治世を脅かされる恐怖から狂気に捉われたヘロデ王がベツレヘムとその近隣の2歳以下の子を殺すように命じていたからである。 これによって、多くの赤子の命が失われたが、危うく難を逃れたイエスは父母の慈しみを受けてエジプトの地で成長。 また、成長と共に非常な聡明さを発揮すると共に数々の奇跡を起こす。 そして、12歳の頃にヨセフがヘロデ王の命が尽きる事を夢で知らされた事から親子は恐れつつもイスラエルに戻り、ガリラヤのナザレに身を隠して住む事になったのである。(*9) 洗礼 ナザレに戻ったイエスは両親に仕え、長じてからは大工として働いたが、30歳の頃にガリラヤを出ると荒野で人々に洗礼を施していたヨハネ(*10)の下を訪れ、自らに洗礼を授けるように言った。 これを畏れ多いこととして固辞しようとしたヨハネだが、イエスの説得に従い洗礼を施す。 そして、水から上がったイエスの頭上で天が開けると、鳩のように聖霊がイエスに降り、 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 という、魂に沁み渡る声が全世界に聞こえたと云う。 この後、ヨハネはあのヘロデ王の子である領主ヘロデややこしいが、名前かぶりの序の口だが異母兄の妻ヘロデヤと姦通した上に無理矢理に妻とした不道徳を責めた廉で投獄。 後に、ヨハネはヘロデヤの娘であるサロメの願いにより、彼女の躍りの褒美として首を切り落とされる事になる。 導きに従い荒野に出たイエスは40日の断食に入るが、そこに悪魔が誘惑に顕れる。 悪魔はイエスに対し、空腹や支配欲、神の子の証を立ててみろ、と誘惑するがイエスはこれを強い意志で跳ね除け退散させる。 「人はパンによってのみ生きるものではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きるのだ。」 「わたしは、この世の唯一の神を拝する。その主に仕えることだけが、わたしのなすことである。」 「“神を試みてはならない”と言われている。退け、敵対者(サタン)。記されている言葉はこうだ。“あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ”」 ……悪魔を退けたイエスには天使が付き従い、天の力が満ちたと云う。(*11) ヨハネが投獄された事を知ったイエスは当地を離れガリラヤへ。 湖畔の町カペナウムに身を落ち着けたイエスは預言者イザヤから通して言われていた言葉を伝えるべく、各地で説法や奇跡を起こしながら、 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 と、語り広めた。 伝道を続けるイエスには、やがてシモン(ぺテロ)とアンデレの漁師兄弟、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟のヨハネといった弟子が付き従い、評判を聞き付けた人々が説法や奇跡を求めて悪霊をも祓うイエスの下を訪れるようになった。 こうしてイエスは弟子達を連れながら、他の町へも伝道に出掛けた。 ガリラヤ湖畔を中心に、ナザレ、カペナウム、ピリポ・カイザリア、カナ、マグダラ、ベツサイダ、ゲネサレ、デカポリス……と、その奇跡と伝道の記録は今にも残る。 イエスの奇跡の中でも有名な故事として残る、瓶の水を葡萄酒に変えた最初の奇跡はカナに、2匹の魚と5つのパンを500人に分け与えた逸話はカペナウム近郊の村で行われたとされ、祝福する教会が建てられている。 この他の奇跡としては前述のような悪霊祓いや病を癒した他、モーセとエリヤの霊と対話したとされる。 ……ともかくも、こうして多大な名声と信仰を獲得したイエスはガリラヤ湖北方の小高い山に登り、説法を行う。 これがこころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。の八福から始まる「山上の垂訓」である。 ここに到り、イエスは完全にユダヤの伝統と訣別し新たなる思想を堂々と確立することになるのであった。(*12) そして、イエスは特に信頼する12人の弟子に自らの権威を分け与えて人々を導く助けとする。 最初の弟子となったシモン(ぺテロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリボ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルパヨの子のヤコブ、タダイ、ゼロテのシモン、イスカリオテのユダの12使徒である。 受難 こうして、12使徒を始めとした信徒や支持者に支えられて遂にイエスはエルサレムを目指す。 しかし、こうしたイエスの行いを快く思わなかったのがパリサイ人(*13)と、伝統派の律法師達であった。 また、死者(ラザロ)をも復活させるイエスの奇跡を人々は頼り賞賛したものの、自らの行いを悔い改める事はしていなかった。 パリサイ人は姦淫の罪で捕まえた女(*14)をイエスの前に引き出した。 モーセの律法に従い、これを罰しなければイエスを告訴するつもりでいたのである。 これに対しイエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのないものがまず、この女に石を投げなさい」と言うと、誰もその場には残らなかった。 パリサイ人や伝統派との緊張感は更に高まっていたが、イエスは預言者としての運命に従いエルサレムを目指した。 イエスは子驢馬の背に乗り、救世主の予言通りにオリーブ山から黄金門を通って入城を果たした。 それは過越祭の直前の事であったとされる。 イエスは神殿に到着した後、その堕落の様を見て激怒すると、そこに居た商売人達を追い出したと云う。 そして、祭司長や律法師達はそれを聞いて、イエスを如何に葬るかを相談した。 ユダヤの伝統派の指導者達、パリサイ人、サドカイ人(*15)があの手この手でイエスをやり込めようとしたが、逆にイエスは彼らの突きつけて来た二律背反の矛盾を突いて彼らをやり込めてしまった。 誰もイエスに質問できる者が居なくなると、イエスは昼には神殿で人々に「最後の審判」の話を聞かせた。 そして、夜は弟子達とオリーブ山で過ごした。 過越祭と除酵祭がいよいよ2日後に迫る中、イエスは自らが皆の下から去らねばならぬことを口にしていた。 それと同じくして、邪な思いに捉われたイスカリオテのユダはイエスを祭司長達に売ることを決意するのであった。 過越祭の第1日目の夜。 イエスは弟子達と共に自らが予言で示した小さな家の二階の広間の食卓に就いた。(*16) そして、イエスはここでパンと葡萄酒を自らの肉と血であると言いながら弟子達に分け与えた後に、自らの受難と死と、弟子の裏切りを告げるのであった。 この後で、一行はゲッセネマ(*17)に向かうが、嘆き哀しむイエスの苦しみを弟子達の誰も分かち合ってやることが出来ない。 ……そして、銀貨30枚で師を売ったイスカリオテのユダの手引きと面通しのキスにより、遂に官権の手に委ねられたイエスは惨たらしい尋問の末に死刑を宣告されるのだった。 逃げた弟子達の内でぺテロのみはイエスを追ったが、予言通りにイエスの弟子であることを3度否認して助けてやることも痛みを分かち合うことも出来なかったのである。 そして、翌朝。イエスは「ユダヤの王」を嘲る茨の冠を被らされると、自らが磔となる十字架を背負わされて刑場までの路を歩かさせられる。 この路を「悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)」といい、年一回の聖金曜日には世界中から巡礼者が訪れる。 道には記述に倣い十四のステーションが設けられており、 イエスが裁かれ(1)、十字架を背負い(2)、倒れ(3)、マリアがそれを見て(4)、別の者が十字架を背負い(5)、ヴェロニカが顔を拭い(6)、二度倒れ(7)、女たちと語り(8)、三度倒れた(9)、場所で祈りが捧げられる。 (2)と(3)番目のステーション間にはエッケ・ホモ教会があり、ピラト総督がイエスを指し「この人を見よ」と言った事に由来する。 残りのステーションはイエスの墓の上に築かれた巨大な聖墳墓教会の中にあり、 ゴルゴダの丘で衣を剥ぎ取られ(10)、十字架に釘付けされ(11)、こうして絶命する(12)。(*18) 「我が神、我が神、何ぞ我を見棄て給いしか(エロイ エロイ ラマ サバクタニ)」 ……イエスが十字架に磔にされたのは午前9時ごろであったとされている。(*19) そして、母マリアがイエスの遺体を受け取り(13)、アリマタヤのヨセフが亜麻布で包み墓所に納めたのである(14)。 復活 イエスは奇跡も起こさずに死に、その遺体を弟子のアリマタヤ出身の金持ちのヨセフが引き取り、綺麗な亜麻布に包み新しい石窟墓所に納めて入り口に石を置いた。 マグダラのマリアともう一人のマリアのみがそれを見ていた。 イスカリオテのユダはこの時には自殺しているとされる。 彼は銀貨30枚を神殿に返そうとしたが受け入れられず、神殿に投げ込んで去り首を吊った。 祭司達はこの金を神殿の収入には出来ないとして外国人の墓所とするために畑を買った。ここは「血の畑」と呼ばれる。 安息日が終わると、マグダラのマリア達はイエスの墓所に行き、そこから遺体が消えていることを知った。 そこで出会った御使いに指示され、ぺテロら使徒達にこの事を伝えに行った。 婦人達はイエスが3日の後に復活すると言っていた事を思い出した。 使徒達はこの事を最初は信じなかった。 ぺテロのみは墓を確認して驚いた。 イエスは田舎の方に歩いていく2人の弟子の前に別の姿で顕れ、2人は他の人に伝えたが信じられなかった。 そして、11人の使徒が食事をしているときに遂にイエスが現れ、彼らの不信心と頑固さを責め、復活の証として焼いた魚の一切れを食べてみせた。 イエスは、こうして40日に渡り彼らの前に姿を見せる奇跡を起こし、弟子達の信仰を盤石なものとした。 そして、ベタニヤに弟子達を導き、祝福を与えつつ天に昇った。 それから10日の後、イエスの言葉通りに最後の晩餐の間に集まった弟子達の前に聖霊が出現し、彼らに祝福を与えた。炎の舌により彼らは喋ったこともない外国の言葉を発せるようになり、イエスの言葉を世界中に届ける礎となったのである。 ……以上が、イエスの大まかな生涯の記録である。 イエスが伝道の旅をしたのは3年程の期間であったとされている。 無論、このように伝えられる生涯の全てが史実であるとは考え難いし、事実、後世の都合のいい解釈や付加された部分も指摘されるが、 こうして世に後々にまで広まっていることから、少なくともイエスの言葉が語り継ぐに相応しい重みがあったことは間違いないであろう。 ただし、イエス自身はあくまでもユダヤ教のある一派を信仰していたはずである。 キリスト教は関係者がイエスの教えとされるものを織り交ぜて布教した形になっているため、そのユダヤ教と相反する教えがあったりする。 その他に諸々の過去から当のユダヤ教からは異端扱いされていたりする(気にしない人・ある程度受け入れている宗派もあるが少数とされている)。 …と、キリスト教とユダヤ教の違いの詳細は置いておくとして(*20)、イエス自身に着目すると何だかよく分からないことになっているのでは?と感じなくもない。 誕生日(降誕日)は12月25日とされる。 ただし歴史学的な根拠は無いし、聖書にもそう明記されているわけではない。(*21) 旧世界の信仰より引き継がれた、元はミトラス教の生誕祭だとされつつも、新時代の秩序たるキリスト教でも旧暦の冬至の終わるこの日がイエスの誕生日=生命が新たに活動を始める日として定められたのである。 ついでに西暦は彼の生誕を元年として定められたものだが、 生誕の話に登場したヘロデ王の在位期間は 紀元前37年~紀元前4年 。 歴史学的には 実際のところイエスは紀元前8~4年生まれとする説が有力 である。そもそもイエスの生年もまた聖書には記述されておらず、西暦を定めた6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスの「計算ミス」が定着してしまったためとされる。 現住所は立川、及びサウスパーク。 (後述) あと青森県に墓がある。その手のネタが好きな人には大人気の知られざる名所。 ついでに石川県にはモーセの墓があるが、青森のイエスの墓と比べると異様にショボい。 また宗教関係なので当然のことなのだが、キリスト教圏では「ギャグ化」することに対してシビアなものがあるらしく、 かの「モンティ・パイソン」の面々が、 「イエスと同時代を生き救世主に間違えられちゃった男の人生」を描いたコメディ映画『Monty Python's Life of Brian(ライフ・オブ・ブライアン)』を発表したら苦情が殺到したという。 フィクションにおけるイエス・キリスト 長髪で描かれることが多いが、使徒パウロ(*22)が「男に長い髪があれば彼の恥になり」(*23)と説いているため、実際には髪は短かったのではないかと言われている。 小説 百億の昼と千億の夜 光瀬龍のSF小説。地球の惑星管理員という設定。 萩尾望都の原作小説に比べて遥かに分かり易い漫画版では出番が増やされ、作中における事実上のメインヴィランを務めており、その冒涜レベルのウザさはある意味必読。 漫画 聖☆おにいさん 立川でブッダと同居生活している神の子。お調子者のお人好しで、ジョニー・デップ似。 地上最強の男 竜 日本中から集まった無数の仏像の中から現れた。何故だ。 主人公・雷音竜を抹殺するため、世界で一番強い男として宮本武蔵とブルース・リーをチョイスし復活させた。 その正体はキリストに化けていた大悪魔。 JUDAS 「愛は決して滅びない」 ぶっ飛んだ漫画の割にはイメージに近い。 ノリ・メ・タンゲレ 原案:麻城ゆう、作画:道原かつみの漫画。未来人に精神を乗っ取られて歴史改変をもくろむ。 イエス 安彦良和の歴史漫画。おおむね史実通りだが人間としてのイエスがテーマ。 ドリフターズ 読者からは黒王の正体こそが、かの神の子ではないかと噂されているが……? 「立川でルームシェアで住んでた?」「ジョニー・デップ似の?」 「ブルースリーと宮本武蔵よみがえらせたりした?」「地球がパカッと割れた?」 ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン 北米各所に散らばり、スタンド能力を与え、成長させる「聖人の遺体」がキーとなる。 明言はされてないが、その姿と過去はどう見ても… 妖女伝説 星野之宣の漫画作品。「砂漠の女王」のエピソードに登場。 概ね史実と同様の人物像で描かれるが、その結末で示された「一つの推測」が本エピソードのキモ。 アニメ サウスパーク サウスパークに住み、人気の無い人生相談の番組を持っている。スタンの相談に乗ったこともある。 カトリックを初めとしたキリスト教やイスラムの主張を他所に、ブッダやクリシュナと聖人によるヒーローチーム“スーパー・ベスト・フレンズ”を結成し、世界の悪と戦っている。 父の祝福により、復活(死後3日後に復活どころか、即時新しい肉体を得て任意の場所に降臨する一種のデスルーラ)や、手かざしによる傷病治癒など様々な奇跡と、魚増やしたり水をワインに変えたりのような人気取りの手品を起こす事ができるが、可能な限りは奇跡に頼らず物理で解決を図る肉体派。また元大工という経歴もあって木工の腕も超人級である。 バチカンを始めとするカトリック系組織には「生き神」として祀られているが、S11E10では架空キャラクターが集うイマジネーションランドに居たりと虚実が曖昧な存在でもある。 またS11E05では組織を私物化した米国カトリック協会会長 ビル・ドナヒュー に異端宣言されるも、映画『ブレイド』のウェズリー・スナイプスばりのアクションで邪教徒ビル・ドナヒューの首をチョンパし、信仰を取り戻した。 追記修正は聖夜にたまには救い主を思いつつお願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] なぜこのような項目をこのアニヲタwikiで…? -- 名無しさん (2016-12-22 08 27 25) まぁ宗教関連の項目なんて既にいくらでもあるし勧誘目的の変な項目でもなければ別にいいのでは -- 名無しさん (2016-12-22 10 09 43) 幼稚園がカトリック系だったからよく聖書の話聞いてたけど大変なひとだなぁと思ってた。処刑エグイ・・・ -- 名無しさん (2016-12-22 10 13 55) さっきこの項目に建て主に「この項目必要?」って聞いたらこう答えたんだ 「イエス!」だってさ -- 名無しさん (2016-12-22 10 14 51) HAHAHA -- 名無しさん (2016-12-22 10 34 04) オチがアニオタらしくていいじゃないか -- 名無しさん (2016-12-22 11 49 30) オチがさらっと流し過ぎて少し理解に時間がかかった -- 名無しさん (2016-12-22 11 50 55) むしろ今まで無かったんだなと。調べてみたら「アニメ」の項目も無いんだな -- 名無しさん (2016-12-22 13 06 49) 聖書とかだとユダヤ教の神学者とかがまるでキリスト教を迫害する偽善者みたいな書かれ方してるけど、よく考えると当時のキリスト教はまだ成立したばかりだったわけで、ユダヤ教の信者からすれば自称神の子が奇行を繰り返しながら変な教えを広める怪しいカルト宗教にしか見えなかったんだよね…やったことの是非はともかく排斥されたのも必然かもしれない -- 名無しさん (2016-12-22 13 11 33) 「神の子の証を立ててみろ」の答えになってない気がする -- 名無しさん (2016-12-22 13 54 56) ↑2 正確にはユダヤ教の政教分離を目指し、神官の汚職を糾弾した民衆受けしやすいユダヤ教一派がイエスの思想だ。だから敵対者に政治家や律法学者が多かった。キリスト教を興したのは弟子という部分は間違えたらいけない -- 名無しさん (2016-12-22 14 12 37) 何故か誕生日がリア充がイチャイチャして一人身がイライラする日にされてるおじさん -- 名無しさん (2016-12-22 14 37 22) ♪じーざすくらーい(笑ってコラ〇て) -- 名無しさん (2016-12-22 14 56 24) どうして12/25に建てなかったんだ・・・ハッまさか建て主は12/25に用事が入っているのでは -- 名無しさん (2016-12-22 22 28 26) 立川にはブッダもいるからな… -- 名無しさん (2016-12-22 22 30 41) ↑x2ガンダムをやっつけに行くんじゃね? -- 名無しさん (2016-12-22 22 35 37) あの男 -- 名無しさん (2016-12-22 22 38 26) 今度お兄さんがアニメ化するし、立川が文字通りの聖地巡礼対象となる可能性が微レ存? -- 名無しさん (2016-12-23 08 24 31) ↑3 なんのことだと思ったけど、0080のことか。確かあれも、バーニィとクリスが戦ったのクリスマスだったな。嘘だと言ってよバーニィ! -- 名無しさん (2016-12-23 10 14 48) AVGNのスーパーマリオ3回に出てきたスーパーメカデスキリストには笑ったw -- 名無しさん (2016-12-23 12 24 34) こういうマトモなのもあって良いと思う。オチもアニヲタ的にいいし -- 名無しさん (2016-12-23 19 35 43) イエスとモーセの墓か。あれ言い出したのインチキ霊媒師だけどな -- 名無しさん (2016-12-23 20 30 27) ギャグ化にシビアな割にはサウスパークのイエスもフィギュア化してたり、ユルい部分はユルい辺りまだ好印象。あと、イエス自身は「最後の審判」云々は言ってなかったろうなって。 -- 名無しさん (2016-12-23 21 49 43) おもむろに座って右手と左手をかざすとアヘりそうなビームだしそうな人 -- 名無しさん (2017-12-27 15 43 07) 羊飼いが寝ずの番をするのは放牧する夏期の間だから、12/25が誕生日ってのは嘘っぱちだそうな -- 名無しさん (2017-12-28 13 42 41) 神を試みてはならない。聖書にもそう書かれている。 -- 名無しさん (2018-07-30 11 19 38) だいたい、イエスが生まれたとして西暦1年が設定されたのに、今はイエスは西暦4年~6年生まれと言われてる。生年すら怪しいのに誕生日だけ正確ってのは無理だよな。 -- 名無しさん (2018-07-30 11 25 02) 弟子が後に「男が髪を伸ばすのは鬱陶しい」と言っているので、実際は髪は短かったと言われている(「生前から髪が鬱陶しいと思われていた」ことを否定する証拠もないのもまた事実だが) -- 名無しさん (2019-03-13 21 10 11) イエスが優れた宗教改革者であったことと、その言葉が語り継ぐに相応しい真実を秘めていたことは間違いない…そうお? それすら創作でないと誰が証明できるんだ…ドラえもんか! -- 名無しさん (2019-08-06 10 15 11) ↑ そうじゃないなら影響を受けた弟子もいるはずがなく、ローマの記録に残るはずがなく、キリスト教が興るはずがない。わざわざ優れていない、言葉が響かない人間がシンボルにされると思うか? -- 名無しさん (2019-08-06 11 06 29) 顔がよければシンボルにはされるんじゃない? -- 名無しさん (2019-08-06 11 47 01) その割に顔がいいなんて聖書のどこにも書いてないし、キリスト教はイエス死後だから顔がよくてもとっくに埋葬されてるんだが…… -- 名無しさん (2019-09-06 16 23 49) 北斗の二大聖人シュウトキはどちらもキリストモチーフの部分があるとか -- 名無しさん (2020-01-17 14 01 59) 宗教関連の記事にしてはあんまり荒れてないね、コメント欄 -- 名無しさん (2021-04-18 11 39 27) ↑今の時代の日本にそんな大量に「敬虔なクリスチャン」なんてそう多くないし、逆にわざわざキリスト教を否定するようなタイプの御仁もいないでしょ。 -- 名無しさん (2021-06-07 10 09 41) ↑2やってることは至極マトモだし、そもそもこのお方、キリスト教の最大の被害者だし… -- 名無しさん (2021-06-07 10 14 30) https //news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21 -- 名無しさん (2021-06-14 00 54 18) キリスト教を否定するようなタイプの~ 大分いるみたいだけどhttps //news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21 -- 名無しさん (2021-06-14 00 55 06) アメリカで売ってたっていうジーザスVSゴジラのTシャツ見た時は笑った。そうだよな、キリストなら放射熱戦片手で受け止めるくらい分けないよな -- 名無しさん (2021-11-23 13 40 01) 12/25は単に降誕を祝う日ってだけで別に誕生日とされているわけではないぞ -- 名無しさん (2022-06-17 10 02 19) ユダヤ教の主流派がもっと柔軟ならキリスト教も独立することなく、ユダヤ教の先進的一派として成立しただろうけど、激しく反発しすぎたせいで教えがユダヤ教に収まらなくなって独立してしまうのは皮肉だな -- 名無しさん (2022-06-17 10 55 16) 包皮すら聖遺物にされてるんだ… -- 名無しさん (2022-12-21 21 37 32) ↑えぇ…(困惑) -- 名無しさん (2023-02-25 15 26 44) 名前 コメント
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イエス(4) ヨシュア(2)の別名。
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目次 1.イエスの働きは、地上を去ってからますます活発になってきている 2.今、日本において、かつてイエスが成したと同じ現象が起きている 3.イエスが「主」と言った方は、人格を持った神であった 4.エル・ランテイと言われる巨大な神霊の存在 5.エル・ランティの一部分が、近年、「高橋信次」として地上に出た 6.イエスは、今、起きている救世運動の天上界における陣頭指揮者である 7.現在、人びとにとってもっとも必要なのは、愛の教えである 8.イエスが説いた愛は、地域を越え、民族を越えた愛であった 9.あなた方は、すべての宗教、宗派の統合のために出て来ている 10.まさに、今、イエスの真の愛の教えが甦るとき 11.今こそ、愛の本義が知られるべきときである 12.愛を与えることが、ひとりひとりの使命である 13.「生命の愛」とは、イエスが説いた「与える愛」である 14.人びとよ、「与える愛」と「与えられる愛」について、過去を反省してみなさい 15.「悔い改め」とは、仏教で言う「反省」と同義である 16.ほんとうの洗礼とは、悔悟(かいご)のための一語を与えること (一九八六年十二月十五日の霊示) 1.イエスの働きは、地上を去ってからますます活発になってきている 内村鑑三です。今日は、第4章「イエスの働き」というテーマで、お話をしようと思います。イエス・キリストという名前は、世界中のだれもが知っているほど有名です。日本人であっても、少なくともまともな精神を持った人ならば、イエス・キリストの名前を知らぬ人はいないでしょう。釈迦の名前を知らぬ人がいないのと同じく、偉大なるイエスの名を知らぬ人もいないはずです。世界数十億の民が、その名を信じて、その名を呼びて止(や)まない人。長い、長い歴史のなかで、人類が、その名を呼び続けた人。その人こそ、イエス・キリストなのです。主が降臨されて以来、すでに二千年近い月日が経ったのです。 今、私は、この二十世紀末に、こうした形で、ひとつの聖霊降臨でありましょうが、聖霊として降臨して、地上のあなた方に、メッセージを送り続けておるわけであります。しかし、イエスもまた、我と共にあり、我を励ましてくれているのです。主はやがてまた、降臨されるでありましょう。ただ、その前の段階として、私たち、主の僕(しもべ)たちが、主の言葉を取り継いで、それを人びとに伝える。こういうことが、非常に大切なことであろうと私は思っております。 現代の聖書の学者たら、あるいは、クリスチャンたちは、イエス様という人が二千年前にナザレの地に生を受けて、三十三年の生涯を閉じて以後、まるで地上の人びとのことを忘れ去ったかのごとく思っているかもしれません。ところが、実際にはイエスの働きというものは、地上を去ってからますます活発になってきておるのであります。 イエス・キリストと言われるような方であっても、地上にありて、肉を持ち、ひとりの人間のなかに宿って、その魂は、いかに光輝を放とうとも、いかに輝きを放とうとも、やはり一個の人間たることを凌(しの)ぐことはできなかったと思うのです。しかし、イエスの魂は、この地上を去って我らが実在界に還り、今、かつてない光輝のなかに光っております。 地上のキリスト者たちよ、イエスが、あなた方のことを何も知らないと思い給うのか。そういうことはない。イエスは常にあなた方と共にあり、あなた方と共に悩み、あなた方と共に愛を分かちあっておるのです。この二千年間、イエスが、あなた方と共に愛を分かちあわなかった日は、一日とてないのです。 愛があるところ、イエスが、あなたの側にいたのです。愛があるところ、イエスは、あなた方と共に生きておったのです。たとえどのような悪人の心のなかにも、愛の心が芽生えたときには、イエス・キリストが降臨し給うたのです。なぜなら、イエスの魂は、愛そのものだからです。あなた方は、肉身のイエス、肉を持った身のイエスということしか考えないかもしれません。しかし、身長わずか一メートル数十センチ、十字架にかかったやせた男がイエスのすべてではないのです。 今、イエスの御魂(みたま)は、天上界にありて、光輝燦然と輝いている大きなエネルギーであり、大きな愛の流れ、愛の奔流なのです。愛あるところ、イエスあり。イエスは、イスラエルの地だけにあるのではありません。西洋世界だけにあるのではありません。無神論の国であっても、共産主義の国であっても、あるいはまた、未開の地、文明の発達した東の国、日本においても、イエスの力が働き給わぬところはないのです。すべての国にイエスの力は働き給うておるのです。すべての国、民の心のなかに、愛の心が芽生えるとき、イエスの胸から一条の光が射し込んでいるのです。これがイエスの働きなのです。 キリスト者たちは、イエス・キリストについて、この二千年間、議論することを止(や)めませんでした。わずかひとりの人間が三年間語った言行録を巡(めぐ)って、キリスト者たちは何派にも分かれて、ある者は教会をつくり、ある者はセクトをつくり、ある者はさまざまなことを言い、羊飼を失った羊のごとく、羊の群れのごとく、揺れております。何が真なるものかが分からない。だから、ある者たちは、イエスが行なった奇蹟というものは、二千年前にだけあって、現代には、もう行なわれない、あり得ないことだと思っている。奇蹟を起こしたイエスをあれほど信じる人たちが、もっとも奇蹟を信じない人たちの群を構成していることもあるのです。 2.今、日本において、かつてイエスが成したと同じ現象が起きている これからの現代において、かつて二千年前に、イエス・キリストがイスラエルにおいて成したと同じ奇蹟が起きていくでありましょう。イエス・キリストは聖書のなかで、何度も語っております。イエスは、「我が父なる神」ということを言いましたが、地上の人びとには、父なる神とは何であるかが分からない。そこで人びとは、「主よ、父なる神と言い給うならば、その父なる神を、主なる神を、お見せ下さい。私たちにお見せ下さい」とイエスに問いかけました。そのとき、イエスは、何と答えたのでしょうか。すなわち、「子を見る者は、父を見る者である。子の言葉を聞く者は、父の言葉を聞く者である。我が業(わざ)を見よ、我が業のなかに父の御業(みわざ)あり」と。イエスは、そういうことを言ったのです。 なぜならば、イエスが行なう業というものは、奇蹟の連続であり、一般の人びとには、とうてい人間業であるとは信じられぬことであったからであります。「我が業を見よ」とは、「我が業を見れば、父が我に来給いて、この業を成し給うことを知るであろう」という意味です。また、イエスは、「我が言葉を聞け。我が言葉のなかに、父の言葉を汝らは聞くであろう」と答えられましたが、それは、実際そのとおりであって、これは比喩ではなかったのです。父なる聖霊がイエスの体のなかに宿られて、イエスをして言葉を発せしめ、さまざまな言葉を残されたのです。 ですから、現在聖書として残っている言葉のなかにも、肉体を持ったイエスの言葉だけではなくて、父なる神とイエスが言っていた「エホバの神」「ヤーヴェの神」、あるいは、「アラーの神」とも言ってよい、そうした゛独り神゛の声がたくさん混ざっているのです。それは、ちょうど今、大川隆法が人びとの前に聖霊の言葉を伝えているのと同じだと言えます。まったく同じ現象が起きているのです。 3.イエスが「主」と言った方は、人格を持った神であった つまり、イエス・キリストも、今から約二千年の前に、聖霊たちの言葉や父と言うべき人の言葉を伝えていたのです。では、イエスが父と言った方は、一体、だれであったのか。これについて、二千年間、人びとは知らされることがありませんでした。イエスが主と言った方は、創造神ではないのです。 旧約聖書のなかには、アラーと言う神があり、天と地を分け、さまざまなものをつくられたことになっておりますが、実際の創造神と、イエスが言った父なる神とは、また別なものであったのです。イエスが言った父なる神というのは、やはり人格を持った神であり、巨大なひとつの光であったのです。 天地創造の神、あるいは、宇宙開闢(かいびゃく)の神というものは、無限の過去から存在していた生きとし生けるものを生かしめる力であり、意志であります。それは、人格を持ったものではないのです。すなわち、それは、創造する力であり、エネルギーであり、生命の源であったのです。 ですから、イエスが父と呼んだのは、その力のことではなくて、その力を体現している大きな魂であったということです。九次元のなかに、九次元の如来界のなかに、あるいはまた、宇宙界といわれる世界のなかに、そうした偉大な神霊のひとりがいらしたのです。九次元には、偉大な神霊がたくさんいらっしゃる。現在、イエス・キリストと言われる方も、もちろん偉大な神霊のひとりであります。しかし、それ以外にも、たとえて言えば、釈迦、ゴーダマ・ブッダと言われた方の九次元意識というものがある。また、モーゼと言われる方の意識もありましたし、それ以外の幾人かの人たちの意識というものもあります。 そのなかで、とくにきわだって大きな力を持った魂がいたのです。この大きな力を持った魂のことを、人びとは、あるときはエホバと言い、あるときは、アラーと言い、あるときはヤーヴェと言い、また、あるときは、アブラハムの神と言い、イサクの神と言い、父なる神、万軍の主と言ったり、いろんな形で言っておりました。それは、巨大なひとつの力であり、イエスたちを地上に遺(つか)わしながら、自らは地上に降りて来られない魂があったということを意味しているのです。 4.エル・ランテイと言われる巨大な神霊の存在 さて、その方は、一体、だれであるか。地上にいるあなた方の一部の人は、その名を聞いたことがあるかもしれません。アール・エル・ランティ。そういう名前で呼ばれていた方がいたのです。これは、現実の歴史にある実在の人物ではないために、世の多くの人たちは信じることができないでありましょう。 しかし、アール・エル・ランティと言われた、巨大な神霊がいたのです。しかも、この方は、他の名前をいくつも持っていると同時に、さまざまな顔も持っていらっしゃる。ですから、あるときは厳しい裁きの神のエホバの姿のように現われたり、また、あるときはモーゼの奇蹟を起こした神として現われたり。さまざまな形として現われております。しかし、それはすべて、その方の顔の一面をのぞかせておるだけであって、地上において、その方のすべての姿を知っている人は、今だにおりません。こうした偉大な神霊という方がいらしたのです。 この方のことを、イエスは、「主」と呼んでいらっしゃった。もらろん父と子、父なる神と子なるキリスト、イエスとが本来、同じ世界に住んでおる人間であり、聖霊であり、高級霊であるわけです。しかし、彼が、そうした救世主を、この世に遣(つか)わしていたという役割を持っていたために、その偉大な徳を讃えて、「父なる神」と呼んでいたのです。こうした大きな力を持った神霊がいらしたのです。 5.エル・ランティの一部分が、近年、「高橋信次」として地上に出た この神霊の魂のひとつの面が、近年になって、日本で肉体を持ちました。すべてではありません。しかし、アール・エル・ランティの一部分、ヤーヴエ、あるいは、エホバ、あるいはまた、アラーと呼ばれた方の一面、魂の一面、魂の部分が、地上に現われたのです。すなわち、あなた方が、高橋信次という名前で知っているあの方がそうです。 高橋信次自身は、肉体を持って、生命を持って生きていた以上、やはり、この方の、本来のすべての力を出してはおられませんでした。ただ、高橋信次のような方がはじめて出て来たことで、人びとは、エホバの神の顔というものを見ることができたのです。そして、彼もまた、そういう形で肉体を持ったことで、人びとをより明確に指導することができるようになったのです。 アール・エル・ランティという神が実在しても、それを人びとが知らない以上、その名を持って人びとを説き導くことはできません。しかし、彼は、最近、肉体を持ちました。その肉体を持った個性という意識でもって、今後とも、人びとを導いていくことでありましょう。そして、おそらくそれが、現代人及び、未来人に対するヤーヴェの神となり、エホバの神となっていくはずです。 かつてエホバやヤーヴェがモーゼを導き、イエスを導き、あるいは、過去世のいろんな預言者たちを導いたように、高橋信次として、最近に肉体を持った人が、やがては、今世及び、来世の人たちを導いていくでありましょう。その人の大きさを知るには、人びとは、まだ時聞が足りないようです。しかし、やがては、その大きさが分かってくるようになってくるはずです。 6.イエスは、今、起きている救世運動の天上界における陣頭指揮者である イエスは、今、何をしておられるのか。イエスは、過去二千年間、一体、何をされてきたのか。そのことについてお話をしていきたいと思います。現在、地上において、日本の国を中心として、一大救世運動が起きているわけですが、この救世運動の天上界における陣頭指揮をしている方が、イエス・キリスト、その人なのです。 従って、イエス自ら、陣頭指揮をとり、指導霊をしている以上、この救世運動の核となるものは、おそらく愛であるはずです。そして、この二千年間説かれなかった愛の本義ですが、イエスを指導霊として説いていかれるでありましょう。これが新たな愛の教えとなっていき、新たな地上の人びとにとっての導きの光となっていくであろうと思います。 7.現在、人びとにとってもっとも必要なのは、愛の教えである 今、地上の人びとにとっていちばん必要な教えとは、一体何であろうかと考えるに、私は、やはり愛の教えであろうと思うのです。 今、時代は進み、世界中に、数十億の民が栄え、滅びています。あるいは、いがみあい、憎しみあっている。あるいはまた、緊張のなかに生きている。一部の人たちは信じあっております。このように文明国がさまざまな形で発達しているにもかかわらず、ある国とある国とが永遠に平行線をたどるがごとき姿を見せております。たとえば、アメリカという国がある。この国は、キリスト者の国であります。しかし、このキリスト者の国も、地上にある多くの人びとを苦しめたことがあります。罪なき人びとに爆弾の雨を降らしたこともあります。 では、なぜそのようなことが起こったのでしょうか。すなわち、彼らが信じている神は、愛の神であるにもかかわらず、どこかに古代ユダヤ的な裁きの神の面が出ているからです。彼らは、地上には正義が行なわれるべきだと思っている。地上は悪魔と天使の戦いの場であり、悪魔に対しては、徹底的に戦わねばならぬ、と。彼らは、こう思っている。ですから、彼らが信じている神のなかに、いつかしら裁きの神という者が入ってきて、まちがった者は潰(つぶ)さねばならぬと、こういう考えが全面に出てきているのだと思います。しかし、それは、愛の神を信じておりながらも、愛の本質を知らない人たちなのです。 愛を知るということは、一体どういうことでしょうか。ほんとうに愛を知るということは、人間の生命の起源を知るということです。人間の生命が、唯一の神から分かれてきたものであるということを知ることです。これが、愛を知るということです。 それでは、地上にある異人種、異国の民というものは、これはどうなのでしょうかね。彼らは、サタンの手下なのでしょうか。いや、そうではないはずです。イエスは、こうおっしゃった。「私は、ユダヤの人たちのためだけに来たのではない。むしろ、ユダヤの人たちは、私を辱(はずか)しめた。そこで、後の世においては、彼らが私を辱しめたことによって、辱しめられるであろう」と。イエスは、こう預言しました。 「その代わりに、あなた方が、異国の人びととして蔑(さげす)んでいる人たちが、私を王として崇(あが)め、私を救世主として崇め、やがて、彼らの国にて、私の言葉が伝わっていくであろう」とも、イエスはおっしゃった。イエス自身は、異国の民であるかどうかというようなことには、重きをおいておられなかったのです。 ところが、狭い心の人間たちが、ある人はサマリヤ人だと言い、ある人は何とか人だと言い、争った。人種がちがう、民族がちがうということで、あるいは、住んでいる町がちがうということで、争っておったのです。馬鹿な人びとは、救世主は必ずベツレヘムから出て来るはずであって、ガリラヤから出るはずがないと信じていた。だから、イエスがベツレヘムから出なかったということでもって、救世主ではないと愚かなことを言った人もいます。このように、地上の人間の心というのは非常に狭く、地域とか、血筋とかというものに非常にとらわれてしまうものです。 8.イエスが説いた愛は、地域を越え、民族を越えた愛であった しかし、イエスが説いたほんとうの愛の教えというものは、国境を越え、海を越え、陸地を越えて伝わっていった教えなのです。魂と魂だけが共感するのであって、民族同士が共感したりするものではない。同じ地域に住んでいる者同士が共感するものでもないのです。地域を越え、民族を越えたもの。それが、ほんとうの愛だと言えます。 なぜなら、唯一の神というものは、単なる民族神ではないからです。イエスが出たのは、ユダヤ人のためだけではない。そのことについては、あなた方は、もうすでに、知っているはずです。とはいえ、仏教徒たちとキリスト教徒たちというのは、残念ながら、この地上において、まだ和解をしておりません。手をつなぎあっておりません。それ以外にも、ヒンズー教であるとか、回教であるとか、さまざまな教えがあります。しかし、こうした異なった教え同士も今だに手をつなぎあってはいないのです。 なぜ手をつなぎあえないのか。つまり、彼らの教祖という人たちが、こうした時代的なこと、地域的なことについて、あまり説かなかったからです。その時代における認識が、住んでいる一定の地域を越えるものとはならなかったからです。あくまでも、その地域に住んでいる人びとのみを相手に説かれたために、そういった世界的な立場に立って説かれなかったからだと言えます。 9.あなた方は、すべての宗教、宗派の統合のために出て来ている これからも、あなた方は、地上においてさまざまな「霊言」の刊行をしていくでありましょう。これは、キリスト教のなかで分かれている宗派、仏教のなかで分かれている宗派を統合する。すなわち、すべての宗教をひとつにするということですが、あなた方は、このように、大きな統合を目的とするために出て来たのです。 イエスが悪霊を追い出して、病気を癒しているのを見て、それを信じなかった会堂の司(つかさ)たちは、「あれは、ベルゼベフが入って、悪霊を追い出しているのだ」と言いましたが、それに対して、イエスは、何と言ったか。「我が、もしベルゼベフならば、なぜ悪霊を追い出すのか。サタンの国であろうとも、そのなかで争いをやっておっては、サタンの国は成りゆかぬであろう。分かたれたる家は建たずと言う。悪霊を追い出すものは、聖霊である」と。「分かたれたる家は建たず」、イエスのこの言葉は、まさしくそのとおりです。 ところが、現在では、その分かたれたる家というものが、悪霊のなかだけにあるのではありません。本来、聖なる宮のなかにおいて、キリスト教の派閥のなかにおいても、争いが続いております。たとえば、聖霊降臨派といって、聖霊の異言をすることだけが正しいと主張しているところもあれば、儀式だけを取り行なうところもある。まあ、いろいろです。また、仏教の派閥のなかにおいても、争いが続いている。仏教のなかにおいても、自分のところの教えこそが正法だということで、他宗派と争いをしているのです。お互いに、自分のところのものこそが真実の道だということで、他のものを顧(かえり)みようとしない。困ったことです。 だから、キリスト教の宣教師たちは、日本にやって来て、仏教徒たちが仏壇を焼き捨てたら、それで神の国は広まった、成果を上げたといって、主に感謝をしている。仏教徒は、仏教徒で、クリスチャンを折伏(しゃくぶく)したといって喜んでいる。地上人たちは、実につまらないことのために喜んでいるのです。 しかし、私は思うのです。そうした彼らを責めるよりも、彼らにほんとうのことを教えなかったことが悪かったのではないか、と。彼らにほんとうのことを語りましょう。そのために、今、私たちが一堂に会しているのではないでしょうか。そのために今、私が、キリストの本心を、打ち明けていくのではないでしょうか。 ほんとうの愛を知るためには、先ほども言いましたように、すべての民族を越え、地域を越え、人びとの肌の色、考え方、思想、習慣、教育を越えていかなくてはならない。そして、魂というものは、ひとつなる、ただひとつなる神から分かれてきているのだということを知ることです。 また、もうひとつには、魂というものは、永遠の転生輪廻を繰り返しておるということです。あるときはキリスト救国に生まれて、クリスチャンであった者が、別のときには仏教国に生まれて、仏教徒であったかもしれないのです。こうした永遠の転生輪廻の仕組みを知り、人間の魂が唯一の神からきていることを知るならば、人間同士が、単なる外見的なものによって派閥争いをすることの無意味さがわかるはずです。 10.まさに、今、イエスの真の愛の教えが甦るとき 今、なぜキリストの愛の力が、この地上においても、伝播していくべく強くなってきておるのだろうか。すなわち、今後、地上において、おおいなる争乱が起きるからです。争いが起きるからです。現在、地上にある核兵器、これを総合すれば、地球を何回破壊することができるか。それほど、大きな破壊力を持った兵器があるのです。ソ連も、アメリカも、単に他国を潰(つぶ)すだけではなくて、地球をも破壊し得るような核兵器を持っております。また、自分の国のなかにおいては、飢え死をするような人が出ている国ですら、懸命になって核兵器を開発しているのです。 しかし、他人を殺すことによって、はたして幸せを得ることができるのですか。他国を叩き潰すことによって、自分たちの幸せを守れたら、それでよいのですか。何かが、どこかが、まちかっています。その愛の考え方は、いわゆる自己愛であり、自己保存愛でしかすぎません。また、自分たちの地域にいる者だけがよければいいという仲間愛にしかすぎないでしょう。 今まさに、イエスの、イエス・キリストの、真の愛の教えが甦(よみがえ)るべきときがきているのです。イエスは、こう言っています。「自分の仲間だけを愛するのだったら、一体、それに何の値打ちがあるのか。汝(なんじ)に好意を持ってくれる人だけを愛するとしたら、それに何の意味があるのか。好意を示してくれる人だけを愛するのなら、これは、動物でも示す愛であろう。あるいは、悪人でも示す愛ではないか。自分に好意を示す者を愛することぐらいは、だれにでもできる。それは簡単なことだ。また、親が子を愛する。それは自然な感情であり、これとて、だれにでも備わっているものだ。そうした努力なしに生ずる愛だけが、ほんとうの愛だと思っているのならば、あなた方には進歩はないはずだ」 イエスが教えたのは、「汝の隣り人を愛せよ」ということです。まず、この教えです。隣り人とは何か。あなた方の生命に直接係わりのない他人です。しかし、縁あって、人生の途上で出会う他人であります。そこで、こういう他人を幸せにしなさいということです。他人を幸せにするためには、どうしたらいいか。それに対して、心を砕く。これが、汝の隣り人を愛せよということです。 ただし、まだ、これだけでは足りません。この隣り人という考えは、中立的であり、愛する仲間でもなければ、敵でもないというような関係に取られるでしょう。そこでまた、イエスは言いました。「汝の敵を愛せよ。そして、汝を迫害する者のために祈れ」と。この愛の大きさを、今、地上にある人びとは、知るべきなのではないでしょうか。 核兵器を海岸線に備えて、必要とあれば、いつでも他国を攻撃できるようにしている国々。潜水艦を浮かべて、そのなかから敵を叩き潰さんとしている国々。あるいは、大気圏内に人工衛星を飛ばして、敵国の情報を探っている国々。こうした国々の人びとに、汝の敵を愛せよ、の意味が分かりますか。汝を迫害する者のために祈れという言葉が分かりますか。 大統領が、就任の宣誓のときに、いかに聖書の上に手を翳(かざ)して宣誓をしたところで、やっていることを見れば、イエスの教えを守っていないことは明らかであります。これでもって、はたしてクリスチャンの国だと言えましょうか。もう一度、繰り返します。イエスは、はっきりと言っているのです。「汝の敵を愛し、汝の敵を許し、汝を迫害する者のために祈れ」と。 イエスの弟子たちが、「先生、何回ぐらい許せばよいのですか」とたずねたときに、「七度の七十度許せ」と、イエスは答えております。七度、七十度とは、数が多いことを示します。すなわち、数限りなく許しなさいという意味なのです。 11.今こそ、愛の本義が知られるべきときである 生きていく途上において、地上に住むあなた方は、一体どれだけ、人びとを愛したことがありましょうか。どれだけ多くの人びとの罪を許し、彼らを愛してきたでしょうか。あなたの悪口を言う者のために祈ったことがあるでしょうか。あなたに唾(つばき)をかける者に対して、「幸せよ安かれ」と祈った人がいましょうか。 今、求められているのは、まさしく、こうした愛の原理なのです。敵さえをも愛する偉大なる愛のなかには、不調和な行為はありません。不調和な地上はないのです。私は、今、それを知るべきときがきたと思います。 キリスト教者たちよ、汝の敵を愛せよ。また、キリスト教を信じない人たちよ、あなた方も汝の敵を愛しなさい。たとえ聖書を知らなくても、あなた方の心のなかには、人類の永遠の魂が築き上げてきたところの道徳律があるはずです。どこの国の道徳においても、人を殺すことが正しいことだとか、人を迫害することが正しいことだとか、そういうことを説いているものはありません。 今こそ、愛の本義というものが知られるべきときなのです。そして今、知られるべき愛とは、正しく愛する愛であり、与える愛なのです。二十世紀の後半において、地上の人間のなかにも、さまざまな文献、書物、新聞、あるいは、ラジオ、テレビのような電波通信、そうしたものが開発されて、いろいろな言葉が飛び交っております。そのなかに、「愛」と言う言葉が数多くあります。また、毎日毎日読まれる数多くの文学書のなかにも、たくさん「愛」という言葉が出てきます。 しかし、実際には、それらのなかに、一体どれだけ与える愛のことを書いた本があるでしょうか。与える愛のことを述べた記事があるでしょうか。与える愛のことを伝えたテレビ番組があるでしょうか。 どの人も、この人も、愛とは奪う愛だと思い、執着の愛だと思っているのではないでしょうか。女性の多くは、夫の愛を得られないために苦しみ、また夫の多くは、妻の愛を得られないことのために苦しんでいます。あるいは、世の中には、自分が世に愛されないことに対して、苦しんでいる人がたくさんいるのです。 12.愛を与えることが、ひとりひとりの使命である 愛を求めるのではなくて、愛を与える。それが、あなた方の使命です。愛を与えて、損をすることがあるでしょうか。そのことについて、よく考えていただきたい。愛とは、財布のなかのお金ではないのです。財布のなかのお金を道に撒(ま)いたり、人に投げ与えるのと、愛を与えるのとは、もちろんちがうのです。お金は投げ与えていたら、お金はなくなるでしょう。 しかし、愛とは、たとえどんなにたくさん投げ与えても、決してなくなりはしないものなのです。それどころか、愛とは、与えれば与えられるほどに増えていく。なぜならば、愛とは、神の国からくるものであり、人間の体を通って出ていった愛は、さらに大きな愛として、人から人へと伝わっていくものだからです。 たとえば今、あるひとりの人が、別のある人に、愛を棒げたとしましょう。別のある人は、幸福になるはすです。そこで、幸福になった人は、また他の人を愛するでしょう。そして、その人が幸福になると、また、その人が愛した人が幸福になっていく。つまり、人に与えた愛が三倍になり、五倍になり、十倍にもなっていくのでず。最初に愛を与えた人は、それによって、何か損をしたでしょうか。何かを失ったでしょうか。お金は利子を産むことはあっても、このように、数倍、数十倍、数百倍にも広がっていくことはありません。 「真理は真空をきらう」と言います。自分の心のなかから愛を与えた人には、その心のなかに、より偉大な神の愛というものが降(ふ)り注いでくるものです。これは、私たちの目で見れば、明らかです。光を与えた者のところには、必ず、より大きな光が降(お)りてくるのです。 地上において、人びとに、最大の愛を与えた方はだれですか。それは、イエス・キリストに他なりません。最大の愛を与えに与え、与えきって、与えつくしたイエス・キリスト。イエスこそが、もっとも神の愛を受けた人ではありませんでしょうか。私は、そのことについて、考えてほしいと思うのです。人びとは、自分の蔵(くら)のなかに、愛という金貨を貯えることばかりを考えています。しかし、自分の蔵のなかに、愛という金貨を貯えても、それは一向に増えはしません。「愛の金貨」は人に配ることによって、人に与えることによってはじめて、無限の富を供給していくものなのです。 13.「生命の愛」とは、イエスが説いた「与える愛」である ですから、地上の人びとよ、まずは、与えることからはじめていきましょう。与えるという行為のなかに、見返りを期待してはいけません。見返りを考えて与える愛は、死んだ愛です。死体です。生命ではないのです。「生命の愛」とは、ただ単に、与えていくだけの愛です。見返りを求めない愛であり、無償の愛なのです。他を生かすだけの、生かしきるだけの愛であるのです。自分を生かすための愛ではなくて、他を生かすための愛なのです。 それは、まさしく、イエスが説いた愛なのです。それこそが、「生命の愛」、すなわち、「与える愛」だと言えます。私は今、地上に住むひとりでも多くの人たちが、この与える愛というものを実践してくださることを祈ります。そうしたことによって、より多くの人びとが幸せになっていくことを祈ります。「与える愛」、まず、これからはじめましょう。 14.人びとよ、「与える愛」と「与えられる愛」について、過去を反省してみなさい 与えられる愛ばかりを考えている人たちは、立ち止まって、考えてごらんなさい。自分は、与えられることばかりを考えてきたけれども、はたして、人に与えたことがあっただろうか、と。そのことについて、ちょっと踏み止まって、考えていただきたいのです。おそらく、どの人も、どの人も、反省すべき材料があるでしょう。 反省は、仏教のなかだけにあるのではありません。キリスト教のなかにも、もちろんあるのです。反省とは何ですか。まず、あなたの愛を反省してごらんなさい。あなたの愛とは何ですか。他人からもらうことだけを考えている愛ではなかったでしょうか。他人からもらうことだけの愛を考えていたから、その愛が足りないと言って愚痴(ぐち)ったりしたのではないですか。嫉妬したり、不平不満を言ったり、人を責めたり、怒ったり、叱ったりしたのではないですか。それはつまり、与えられる愛だけを考えていたからに他なりません。 ですから、仏教者も、キリスト教者も、共に考えるべきなのです。愛について考えなさい。愛について反省しなさい。あなた方は、もらう愛、人から与えられる愛ばかりをほしがっていなかったかどうか。その点を、考えるべきです。どれだけ人に愛を与えてきたか。どれだけの人たちに愛されてきたか。自分の人生を振り返って、その二つのことを考えてごらんなさい。そうすれば、与えることのいかに少なく、与えられることのいかに大きいかを知るでしょう。まず、キリスト者たちは、この愛ということについて、「与える愛」と「与えられる愛」の二つのモノサシでもって、自分の過去を反省してごらんなさい。 15.「悔い改め」とは、仏教で言う「反省」と同義である 仏教で言うところの「反省」とは、二千年の昔に、イエスが言った、「汝ら、悔い改めよ」と同じ意味なのです。すなわち、「汝ら、己れ自身のためだけに生きるな。汝ら、自己保存のためだけに生きるな。汝ら、自我我欲のために生きるなかれ。利己主義者で、神の国に入れる人はいないのだ」ということです。 キリストは言いました。「富者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るのよりもむずかしい」と。キリストの言う「富者」とは何か。地上における財貨を漁(あさ)っている人のことです。 つまり、所有欲の大きな人間たち、与えられることばかりを願っている人たちです。どれだけたくさんのものを集めても集めても満足しない人たち。これが、富者であります。こういう人たちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりもむずかしい、と。それは、そのとおりです。なぜならば、彼らの心が、執着の塊になっているからです。取ることばかりを考えているからです。 地上において、取ることばかりを考えている人が満ち満ちたら、どうなるか。この地上は、どこもかしこも、残らす蟻地獄になってしまいます。擂鉢(すりばち)地獄です。ひとりひとりの人間が、蟻地獄の蟻となって、蟻地獄の動物となって、他の人間を喰い込むことばかりを考えていたならば、どうして地上が天国となり得ましようか。決して、天国にはなりません。私たちは、地上に蟻地獄をつくってはならないのです。与えられることばかりを望む愛は、蟻地獄の愛です。 そうではなくて、大切なのは、ひとりひとりに分け与える愛なのです。つまりは、今一度、原始キリスト教の精神に立ち戻るときがやってきたと言えるのでないでしょうか。私は、そう思います。 とくに、クリスチャンたちよ、あなた方は、ほんとうに与える愛がどういうものであるかを知っているでしょうか。よく考えるべきです。また、悔い改めということのほんとうの意味を知っているでしょうか。 悔い改めるとは、自我我欲、すなわち、自分の欲望のままに生きてきた自分自身を悔い改めるということです。もう一度、言います。仏教でいう「反省」と同じ意義です。そこをまちがわないようにしてほしいのです。 16.ほんとうの洗礼とは、悔悟(かいご)のための一語を与えること たとえ「水」にて洗礼したところで、人間の魂が甦(よみがえ)ることはないのです。イエス・キリストが言ったことを思い出してごらんなさい。キリストは、霊にて、聖霊にて、人を洗礼したのです。ですから、あなた方も、「聖霊」にて、人を洗礼しなくてはいけないのです。 では、聖霊とは何ですか。聖霊とは、天降る神の光であり、神の愛の息吹であるはずであります。神の愛の息吹は、どういうときに降りてくるのですか。すなわち、その人間が悔い改めたときです。悔い改めて、愛に生きることを誓ったときにはじめて、神の愛の息吹を受けるのです。 とすれば、ほんとうの洗礼とは何ですか。それは、その人に対して、悔悟のため一語を与えることではないですか。悟りのための導きの言葉を与えることではないですか。それがほんとうの洗礼である。私は、そう思うのです。 キリスト者たちよ、よく耳を傾けなさい。人びとを教会に連れて来て、水にて洗礼をする。これは、ほんとうの洗礼ではないのです。彼らに神理の言葉を語って、彼らの人生を百八十度変えていくことこそが、ほんとうの洗礼なのです。洗礼の意義を見失ってはなりません。まちがってはなりません。 聖霊として、人間の魂が生まれ変わること。これが、洗礼なのです。それを忘れてはなりません。その辺を誤解している人たちが多いので、私は、この場を借りて、改めて言っておきたいのです。 今日は、愛について語りました。それは、すなわち、イエスについて語るということです。イエスは、地上の人びとを愛するだけではなく、天上の人びとをも愛しています。私たちも、イエスに習って、より多くの人びとを愛していきましょう。それが、イエスの働きに対する私たちの協力であり、助力でもあるからです。
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イエス(3) 聖書『ピリピ人への手紙』に登場する人物。 別名: ユスト(2)
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カード画像 基本情報 カード名 士竜王 エクイエス(しりゅうおう エクイエス) / Equies, Grand Dragon of Ancient Valor カード種類 ユニット レベル 2 所属軍 ウォルナー 属性 大地ドラゴン ATK 5 HP 4 STK 2 カードID 2021GB03-017 レアリティ ★ イラストレーター Kotakan カードテキスト ■「士王の鎧」 通常:[DR4/ドラゴン](ダメージリバース。君のダメージゾーンのドラゴン4枚を裏返す。)君の墓地からドラゴン1枚を選び、これのソウルに入れる。【ソウルガード】 フレーバーテキスト はるかな古代、世界の創造という役割を終えた竜たちは、消滅を選ばなかった。未来において自分たちの役割がもう一度訪れる事を……外敵との戦いを予測していたからだ。ユニット原案・小林亨 ■解説・総評 関連 収録パック 第三弾「エース参戦!」 名前
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イエス(2) 旧約聖書外典の『ベン・シラ』という教訓書をまとめた人物。 別名: シラ (父)