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15話 本大会開幕!VSドイツ
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184 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 18 59 11 「サラエボ事件は史実通り発生しました。各国の動きも概ね史実通りです」 「しかしオーストリア皇太子の警備が史実以上にずさんであるとは……」 「オーストリアの疲弊は、どうやらナポレオン戦争以来続いているようですよ。あれだけの動員をやって損耗したので当然でしょうが」 「貧すれば鈍するといいますが、手段をもう少し選ぶべきでしょうに」 「幸い我々は巻き込まれない可能性が高い。我々は精々稼がせてもらうとしましょう」 日仏ゲート世界 有為転変2 -Ordeal by Innocence- サラエボ事件の勃発から、オーストリアはサラエボに宣戦布告。連鎖的にイギリスとロシアの英露協商と、独土墺の同盟が ぶつかり合うことになった。この時点における主な中立国は日本 フランス スペイン イタリア アメリカ アカディア大公国 アウスタリ大公国 オランダ スイス スウェーデンなどであった。 アメリカはモンロー主義をとっていたことと経済圏に飲み込みつつあった中南米への対処、さらに参戦理由がこの段階では まだ存在しないことから中立を選んでいた。とはいえ、アメリカの経済界やホワイトハウス内の意見としては参戦による 戦争特需を期待する声が大きかったことは間違いない。実際、アメリカが参戦したのも戦争の流れが協商側に傾いてからであった。 それによる軍の動員は国内にかなりの経済効果をもたらしたし、第一次世界大戦の戦訓を獲得した軍はそれに対応するために 多くの予算を獲得することができた。少々軍部と軍事会社のつながりがあったとしても、それもある意味仕方がないことだろう。 建前的に潜水艦による民間船への被害を例に挙げ、「ドイツが欧州の平和を乱そうとしているため」などと表明していた。 しかし、それはあくまでも建前であるのは参戦国でも中立国の間でも半ば公然の秘密となっていた。史実と異なり ドイツはUボートによる無制限潜水艦作戦を承認しておらず、むしろ国際法を順守して戦争を行っていた。 アメリカの言う『民間船』もイギリスなどに徴用されて兵員輸送船となっている船ばかり。病院船や中立国の捕虜引き渡し船などには 一切手を出しておらず、撃墜されたと主張するアメリカ国籍の船も中立国としては国際法違反の仕事をしていたとの疑惑もある。 しかしながら、戦争末期の混乱によって資料が散逸したために、戦後の現在においても明確な証拠については存在していない。 その証拠はたどろうとしても途中で途切れていたり、何となく腑に落ちない結論が出されてお終いとなっていた。 185 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 00 02 一つ確かなこととしては、新たな消費活動にアメリカは飢えていたということが挙げられる。中南米諸国に資金を ばらまきながら開発し、その地域の資源を、食料であれ労働力であれアメリカ経済のエンジンとして飲み込んでモノカルチャー化し、 『アメリカの延長』へと変化させたがまだ国内の欲求を満たすには足りなかった。そこで新たな市場として参戦による 軍需品の需要拡大を期待していた。アメリカは、実際の所戦争経験が少なかったこともある。モンロー主義によって 欧州に干渉せず干渉されずを維持していたため、精々がメキシコなどをはじめとした中南米の国々での治安維持が精々。 だが、イギリスなどに観戦武官を送る中で経済界は気が付いたのだ。総力戦というのは、すさまじい消費活動だと。 だが、彼らが火遊びによって思わぬ大やけどをすることになるのは、それから数年の内であった。 この世界において、本来三国協商を構成しているはずのフランスは述べたように中立を宣言していた。 とはいえ、協商にも同盟にもどちらにも因縁やつながりを持っているために、何時参戦するかは未知数に近かった。 どちらに味方するかは、どちらかといえば同盟側への参戦も予測された。しかし、それは協商側がフランスと敵対関係にある ためという消去法による判断である。イギリスなどと手を組むということもアロー戦争などを考えればありえなくもないため、 ドイツをスケープゴートとする形で協商と協力できるとも予測される。 この戦争に参戦しない中立国はフランスの動向に注視していた。イギリスもドイツもロシアも欧州圏における強力な プレイヤーであるが、明確に状況を一変させることが可能なプレイヤーは誰かと聞かれれば、誰もがフランスと口をそろえて 証言する。それだけ欧州におけるパワーバランスに食い込んでいるのだ。高い工業力、高い農業生産、高度な軍事力、 膨大な人口と植民地。そしてそれらを束ねる強力な集権体制。おまけにゲートという非常識な手段で固く結ばれた同盟国の 大日本帝国がいるという反則ぶりである。その精強ぶりはナポレオン戦争以来欧州では半ば伝説として語られているし、 フランスは常に戦争に備えていることは明らか。故に、最強の国家と言えるだろう。 参戦国にしても同様である。肩入れを表明せず、実際そのように行動するならば医療品と食料を除けばフランスは貿易を 制限する可能性が出てくる。かなりストイックに国家間の条約や取り決めを守る傾向にあるフランスなので、そこら辺は 覚悟する必要がある。また、戦時ということで値を高く設定されることも予想される。これに関しては想定しているので ある程度は許容できるだろう。しかし、もっと重要なのはフランスの参戦を招かないこと。特に国境が接するドイツはそれに 注意する必要があったし、植民地や航路がブッキングしやすいイギリスも注意を払う必要があった。 186 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 00 47 よって、開戦した際に戦場となったのは、史実と異なり東部戦線が主体となった。 元々ドイツの西側はフランスとオランダとルクセンブルクの3か国で占められている。そうなれば陸軍の出番があるのは ロシア帝国の方が主体であった。もう一つが協商側に参戦していたギリシャだった。元々イギリスが経済的に進出して 地中海でのプレゼンスの維持を行っていたこの国は、嘗てオスマン帝国領であり、そこからの独立を果たした地域である。 さらにギリシャはドイツと同盟を結ぶブルガリアとも接しており、イスタンブールにも距離的に非常に近い。 よって、西部戦線に布陣するはずであったイギリス陸軍はこのギリシャ方面へと進出することになった。ここには戦後に イギリスの企業がいくつか進出して経済的・軍事的な支援を行うなどの契約が交わされていたとされる。 イギリスの動きを読んでいたドイツとオスマン帝国は陸軍をロシア方面へ割り当てつつも、ギリシャ方面に割り当てた。 ここにはイギリス海軍が投入されるかと思われたが、オスマン帝国が日仏独3か国の支援の下で海軍を十分にそろえており、 さらにドイツ海軍の一部が合流しているために、被害を受けることを考えるとイギリス本国の艦隊を結構割いたうえで イギリスが有利になる状況にしなければならなかった。そして、それだけの主力艦隊を動かせば地中海方面でも通商破壊を 実施しているドイツ帝国の哨戒網に引っかかり、オスマン帝国と殴り合っている間に本国が攻撃を受ける可能性がある。 かといって、ドイツ海軍を片手間に倒せるほど余裕があるわけでもない。そんな都合もありイギリスは海軍の護衛の下で 陸軍をギリシャへと派遣するにとどめた。この際に何度かの遭遇戦が発生したり、無防備すぎる輸送艦や護衛艦に対して 潜水艦が打撃を与えたりしたのだが、それはまた別な話である。イギリスは決戦時まで艦隊を保全することを決定。 オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は通商破壊をしながらも艦隊決戦が起こるのではと不安ながらも待機していた。 ドイツ帝国にとっても地中海は活動しやすいようで活動しにくい場所だった。オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国 の支援で母港には困らないのだが、潜水艦による通商破壊を行う場合、流れ弾ならぬ流れ魚雷が中立国の船舶に命中しては 大惨事である。アフリカと本国を行き来するフランスの船舶は多いし、それに紛れようとイギリスの輸送艦なども うまく逃げ回る。さらにイタリアが史実同様に中立を表明しており、通商破壊を行うには若干窮屈となっていた。 その為、地中海方面の情勢はイタリアがどちらに転ぶかも重要事項となりつつあった。 187 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 01 28 さて、次にロシアについてみていこう。 この世界線において、ナポレオンはロシア遠征を結局行わなかった。このことはロシアがヨーロッパにおいて図らずも 国力的に上位に上り詰めることができるきっかけとなった。あくまで相対値ではあるがナポレオン戦争で生じるはずだった 国力の損耗はなかったということは戦争技術の発達が遅れることと引き換えに、ロシアに余裕を持たせることに成功していた。 しかし産業革命の遅れはかなり響いていたし、産業革命への理解が広まるのも遅くなってしまった。 武器や弾薬についての理解は進んでいたし、イギリスが友好価格で販売してくれるものをライセンス生産したり前線に 訓練させたうえで配備することで装備の面では何とかなっていた。一方でそれを運用するノウハウに関しては疑問符がつけられた。 はっきり言ってしまえば、ロシア帝国は近代戦の経験があまりなかったのだ。最近やった戦争といえばクリミア戦争があるが、 その際には工業の遅れや技術発達が他国の後方にいることを明確に示すものであった。この世界線において、日露戦争は 朝鮮王国の永世中立化で想定していた場所とは違う場所で戦闘を強いられ、おまけに陸軍も海軍も大きな損害を受けて、 復旧に時間を取られ、軍そのものの近代化を進めることがかなり難しい状況だった。斯くしてロシア帝国は、旧世代の 戦術や兵器へ重きを置いたままに近代戦へと突入していった。もし少しでもナポレオンとの戦闘や、日露戦争時における 戦訓をきちんと生かす意思があれば、もしくは戦訓を生かすだけの国力があれば。しかし、戦時においてそんなたらればは 現在においては全く通用しない。 そのロシアと激突したのは積極的な戦闘こそ少ないものの、フランスを意識した軍備拡張を進めてきたドイツ帝国と 日仏の支援を受けたオスマン帝国なのだ。そのオスマン帝国との交流の中で断片的ながらもその戦術について研究することができ、 近代戦において不確かながらもメソッドを確立しつつある国であった。後の研究においてはこのメソッドの確立こそが 寡兵で地理的に包囲状態にあったドイツ帝国が薄氷の引き分けをつかむことができた原動力となったと評価された。 逆に言えばロシアは、その人海戦術と物量による押し潰しに対して抵抗力を身に着けていたドイツ軍を破るために、 通常の比ではない出血を強いられることになったのであった。東部戦線において効果的な防御陣地と防衛線の構築に 成功したドイツ軍は、何度も押し寄せるロシア軍の数にあきれながらも効率的な迎撃を行いつづけた。さらに本家と言える フランスにこそ劣るが逆侵攻時には機動力を生かした電撃戦の展開によって、ロシア帝国陸軍をすりつぶしながら 自国側に徐々に引きずり込んでくるという、柔らかい防衛線を用いた泥沼の戦線を展開。ロシア側をうまく翻弄していた。 188 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 02 12 一応ロシア皇帝なども前線視察でこれを見ていたのだが戦術的・戦略的理解が乏しく、「前線が押しているならば、 ドイツに対して勝利を重ねているはずだ」と更なる進軍を指示していた。前線で潰される兵士にとってはたまったものでは ないのだが、傍目にはドイツが負けて見えるのだからそれはもう厄介であった。そしてイギリスから購入する兵器の量も 増加し、その負担は当然のように国内に押し付けられていく。男は戦場に行き、女子供は工場で働かされる。 税率は明らかに上昇していき、ロシア帝国は徐々に戦争という巨大な消費に耐えきれないほどに疲弊を重ねていく。 密かに国内に革命の灯火がともるのも、無理からぬことであった。 しかし、ドイツもモスクワまで兵を推し進めることができるほど有利なわけではない。 あくまで有利に戦闘を進めているだけであり、ドイツ軍にも被害は出ていた。勿論オスマン帝国の支援と派兵でだいぶ楽であるが、 それでもロシアの人海戦術には損耗を強いられていた。そこでドイツは無理に戦線を拡大することなく塹壕戦によって 戦線を停滞させた。バルト艦隊が日露戦争で損害を受けているロシア帝国に対してはオスマン帝国海軍でも十分対応可能だった。 それを理解していたロシア帝国海軍も無理な攻勢にはほとんど出ることはなかった。 一方イギリスとギリシャはオスマン帝国の首都であるイスタンブールへの攻撃を考えていた。 幸いギリシャが味方に引き込まれ、イタリアが事実上の中立を選んでいることから、一時的にでも海軍を切り抜けられれば というイギリス側の楽観があった。軍事交流の名目でギリシャに駐留していたイギリス軍は平時に派遣したものでそこまで多くはない。 しかし、少々押してやれば簡単肉ので歯とも考えていた。 オスマン帝国もそれに備えてダーダネルス海峡の要塞化を進めていた。この海峡要塞は、アフリカの地中海に 面する地帯や東南アジアにフランスが構築してきた沿岸要塞群を参考にしつつ構築されたもので、上陸してくる敵に備えて 予め陣地の構築も進められていた。オスマン帝国側が目論んだのは、史実の第二次世界大戦末期のノルマンディー上陸作戦に 対するロンメルの対応策と奇しくも酷似していた。即ち、上陸してこようとしてきた敵軍を水際で叩いて数を大きく 減らすというものだ。しかし、軍事顧問としてオスマン帝国に出向していたオットー・リーマン・フォン・ザンデルス中将は イギリスが無理やり力押しで上陸してくることを恐れた。確かにオスマン帝国海軍も前弩級戦艦を保有し、さらには補助艦艇も そろえていたのだが、真っ向から殴り合ったときにはオスマン帝国がオーストリア=ハンガリー帝国と共に維持している地中海の 制海権が揺らぐという懸念があった。この時代戦艦の艦砲射撃の威力は十分に信頼されていた。既にドレッドノート級の 登場から前弩級戦艦の価値は下がりつつある中で、前弩級戦艦を多く建造していたイギリスが使い潰してもいい 戦力として まとめて差し向けてくることもありえたのだ。使い潰せる戦力をいきなりぶつけられると少々厳しい。 そこでリーマン中将は艦隊決戦ではなく、機雷や要塞砲そして潜水艦を使った散発的な攻撃を目論んだ。 イギリス海軍が海軍力による決着を試みて、ヴェンジャンス オーシャン イレジスティブルを中核とした艦隊を 送り込んだのだが、史実同様にオスマン帝国は機雷敷設と要塞砲による砲撃を実施して撤退に追い込んだ。 そこで上陸しての戦いを目論んだのだが、協商は上陸をして橋頭堡を築いた時点でオスマン帝国の綿密な十字砲火に 前線を動かすことが出来ず、損耗ばかりを重ねてしまったのだ。 概ね史実通りというべきだろう。 189 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 03 16 イギリスとしては、オスマン帝国が対ロシアに派遣している兵士の吸引を狙っていたのだが、むしろ寡兵でうまく大軍に 対して持ちこたえられてしまう結果となった。オスマン帝国の放った潜水艦による積極的な護衛艦隊への攻撃は 対潜兵器の発達が遅れていたイギリスの艦隊に被害をかなり与えることに成功した。実のところ、潜水艦研究は何も ドイツでしか行われていなかったわけではない。一番最初の潜水艦の活躍もアメリカ独立戦争でのものであったし、 日本においても研究は進められていた。ただ、艦隊決戦の補助戦力ではなく通商破壊という場面に組織的に応用したのは ドイツが有名であるというだけだ。そしてそのドイツから潜水艦の供与を受けていたオスマン帝国は、艦隊決戦では 勝てずともイギリスなどにダメージを与える手段としてこれに着目した。 潜水艦のメリットは、やはり排水量や人員に対しての期待できる戦果の多さである。ヨーロッパの国々より先に常備軍を 持っていたオスマン帝国だが、やはり潜水艦という未知の船舶への理解は全体として見れば進んでいなかった。 潜水艦の一つの欠点として、乗組員の訓練が通常とはやや異なり、適正と育成時間が必要というものがある。史実の 太平洋戦争時に日本とアメリカの潜水艦の建造数は人口や国力と比較しても、それほど比率が変わらない。 つまり、アメリカという膨大な人口を抱える国家でさえ、潜水艦を運用する人員の育成には一定の限度があるのだ。 しかし、逆に言えば通常戦力での差が大きすぎるときには潜水艦という戦力に頼ると逆転する可能性があるということだ。 そして、十数隻という少数ながらも組織的に運用された潜水艦はギリシャへの物資を運ぶ輸送艦へとドイツ海軍と連携して 襲い掛かり、少なくはない出血を敷いた。当然、ダーダネルス海峡をめぐる争いにも何とか用意した潜水艦で抵抗。 結果、このダーダネルス海峡をめぐる協商と同盟の陸海をまたいだ戦いは、史実同様にオスマン帝国側の勝利となった。 さて、手詰まりに見えたイギリスだったが並行してオスマン帝国内部のアラブ人への接触を図った。 戦前からオスマン帝国は過激な民族主義者の摘発に力を注いでいた。多民族の複合国家として国家を維持している オスマン帝国にとっては、地方の自治権をめぐる問題は非常に厄介であった。オスマン帝国は史実と比べる緩やかな 近代化を進めていた。しかし、史実においても伝統的な宗教と近代化の激突というのはどこかしらで発生する。 主導者であるオスマン帝国側もかなり気を使って、長い目で見た近代化の推進に努めていたのだが、やはり問題は浮上した。 特に顕著だったが、議会の設置についてである。投票権を宗派に関わらず与えることに関しては一致した見解ではあったが、 国民の多くを占めるイスラム教への理解が必須となるために、『イスラム教徒枠』を設けるべきではという意見があった。 これはやや極端な提案ではあったが、カリフやイスラム教徒を政治的な地位から除くべきであるという意見が存在し、 それへのカウンタープランとしての提案だった。実際の所、スルタン=カリフ制は現在の所うまく回っていた。近代化を 進める中で列強国のフランス イギリス ドイツらと交渉し、国内事情とうまく擦り合わせを行えるように尽力したのは 憲法と議会の構築を進めているオスマン帝国のスルタンであったためだ。その地位によって国内の改革は進んだといってよい。 190 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 04 23 しかし、当時のオスマン帝国の議会の議席を見ると、先に近代化へと舵を切った青年トルコ党かスルタンの支持者から 固められた統一トルコ党(※)を除けば、他の勢力が政治や議会制への理解が十分ではない弱小勢力ばかりであったのだ。 図らずも、スルタンによる君主制を改めるはずの近代化の結果が、スルタンかそれに近いグループによる政治を生んでしまった。 分かりやすく言えば、国民投票の結果一党独裁になってしまったのだ。野党が構築されるだけの下地が無くなってしまったのだ。 民主制において、市民の意思は何物にも妨げられない。だが、それは果たしてどこまで有効であるかが議論の種となった。 これまでのイスラム教の国家はイスラム教という宗教が色濃く残る中で政治が行われてきた。というより、宗教があっての 政治や生活が営まれてきた。つまり極端に言えば宗教を信仰するために生活するというわけだ。だが、この投票という 概念によってイスラム教が排除されるのではと懸念する意見が存在した。その考えは政党こそ違えどもすべての人々に 共通する懸念事項であった。彼らは祖国の飛躍を願っていたのであり、まかり間違っても文化の破壊を願っていたのではない。 しかし、傍目から見れば中央の意思ばかりが優先されて、地方の権利が阻害されているようにも見えた。 イギリスはこの動きを密かに利用し、フサイン・イブン・アリーらを支援してアラブ系国家の建国をそそのかした。 イギリスの考えとしては、スエズ運河そのものを掌握できなくとも、地中海からインド洋方面に抜ける出口を抑えることで 大西洋への出口を抑えているフランスに対して対抗するという動きがあった。そして、フランスなどの手が届きにくく、 尚且つ戦争に乗じた動きで勢力下に収められると考えられたのがオスマン帝国の南部で見られた独立を求めるアラブ人であった。 実際、フサイン・イブン・アリーの動きはスルタンの動きを懸念してのものだった。メッカの太守という地位も、 権限が徐々にイスラムではない人々の投票によって奪われるのではという彼なりの憂慮もあった。伝統と格式からなる その地位が人々が賛成したからという理由で捨てるか、あるいは地位を理解しない人の手に渡ることを宗教的な意味からも 懸念していた。彼なりの心配に、例によってイギリスがつけ込んだというべきだろうか。 191 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 05 35 しかし、アリーの考えが現実的と言えなかったのも確かである。 彼の考えとしてはイスラム教の国家を丸ごと含んだ統一国家の樹立をと構想していたのだが、すでにイスラム教徒の 宗派間の考え方の違いはかなり明確になりつつあった。無理な統一を図ろうとするよりも、互いの領域や考え方を穏便に すり合わせる行動こそが、現実に即した意味での統一には必要なのだった。 実際、イギリスとアリーの誤算は既にいくつも生じていた。 まず一つ目に、紅海の制海権をいまだにオスマン帝国が維持していたことだった。ギリギリ均衡状態といってもよい。 確かに艦隊戦においてオスマン帝国が不利ではあったが、ドイツから提供された潜水艦が狭い紅海を一杯に動き回り 通商破壊によってダメージを着実にイギリスに与えていたのだ。この戦時においても日本とフランスを結ぶ通商路は スエズ運河を通じて行われており、両国がイギリスに対して圧をかけていたこともイギリス海軍が我が物顔で活動することを 一定程度妨げていた。これによって、イギリスは支援するための物資を史実のように自由には運べなかった。 さらに、アリーの考えていた統一国家への支持者が、予想以上に少なかったのだ。 オスマン帝国同様に日仏の支援を受けていたガージャール朝ペルシャ帝国は権力基盤が弱いながらも、統一国家として 領土を統治するだけの能力を持っていた。曲がりなりにも近代化の推進や列強の圧力を受け、時に不平等条約を 押し付けられながらも致命的なところに踏み込まれることがなかったのは、ガージャール朝イラン帝国の努力の結晶であった。 つまり、ペルシャ帝国は弱いながらもこれから成長の時を迎えようとする有望株であったのだ。石油産業の発達から 開始した近代化によって工業の発達も進み、オスマン帝国との戦争なども日仏の仲介で回避できたことなどで国力が そがれることも回避できた。それによって権力こそ危ういが民衆の支持を集めるガージャール朝への非難の声は、 言いがかりレベルの物でなければあまり存在していなかった。さらに石油を求める日仏がこれの援助をしているということも ペルシャ帝国に対する過激な行動を抑止していた。 これらによって、ガージャール朝に迂闊に手を突っ込むことは危険な行為となっていた。実際、石油産業が国の屋台骨の 一つとなり、協商・同盟のどちらにも味方しない中立国となったことは石油を大量消費する近代戦を行う各国にとっては かなりの懸念事項となった。イギリスも懸念したのだが、もしこれがヒジャーズ王国を介して行われたイギリスの侵略行為と みなされた場合、日本とフランスを含めて中東を丸ごと敵に回す。戦後のことを考えると最悪の場合石油を正規レートで 得られなくなることもあり得た。しかし、支援を表明した手前、アリーを切り捨てるのは簡単ではなかった。 このアラブの反乱は緒戦こそ勝利を収め、多くの捕虜を得ることができた物の、そこから先の行動については正直なところ 行き当たりばったりとなっていた。後方攪乱といえば聞こえは良いのだが、ヒジャーズ鉄道への破壊活動を行っていたのだが、 この鉄道が史実と異なりきちんとメッカまで伸びており、さらには日仏から得られる工業品や食料の交易をおこなうための 必需インフラと化していたことで、逆にヒジャーズ王国への非難の声を盛り上げてしまう結果となった。 こうしてゲリラ戦を仕掛けていたアリーと軍事顧問のロレンスは逆にゲリラから逃げ隠れしながらの戦いを強いられた。 192 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19 06 16 あとから見れば、ここでアリーはゲリラ戦で鉄道を狙うべきではなかったと考えるのも当然であった。 しかし、ヒジャーズ王国の兵力はオスマン帝国のそれと比べて少数で、鉄道を利用した迅速な兵力展開を可能としていた オスマン帝国陸軍に対抗するためには、どうやっても鉄道を狙わざるを得なかった。イギリスが史実よりも支援の余裕が なかったことで生じた皺寄せで武器などが少ないヒジャーズ王国は鉄道の破壊によってオスマン帝国陸軍の補給物資を 積極的に得なければならなかった。実際、史実において5万人ほどの戦力を持っていながらもライフルの数は合計1万丁ほど。 つまり、5人に1人しか支給していなかった。つまり、ライフルを正規兵のほぼ全体にきちんと配り切れてたオスマン帝国と 比較すれば、真っ向で勝負するには力不足だった。 また、オスマン帝国は少数ながらも戦車を有していた。史実ルノーFT-17を乾燥地帯での運用を前提に改良したもので、 そのほかにも装甲車両・バイク・牽引式の野戦砲の積極的な採用など随所にフランスの陸軍のメソッドの影響がみられていた。 砂漠という環境に対してフランスも日本も適した戦術や技術について不足しがちだったこともあり、両国にとっても 非常に良いモデルケースであったようだ。オスマン帝国にとっても工業化を進めてきており、さらに国内インフラの整備が 着実に進んでいたこともあってそれらの導入と普及はスムーズに進んでいた。 しかし、鉄道への被害が出ていることを察知したオスマン帝国はラジオやビラまきをヒジャーズ鉄道周辺はもちろん、 国内にプロパガンダを広めていった。鉄道の被害はイギリスとイギリスにそそのかされたヒジャーズ王国が行ったもので、 オスマン帝国を侵略しようとするものだと、やや誇張気味ながら広めた。そして、旧式の銃火器を弾薬などとともに 揃えてすぐに提供できるようにした。結果はすぐに出た。鉄道に沿った地域に住むアラブ人たちがオスマン帝国への協力を 申し出てきたのだ。オスマン帝国はゲリラ戦を展開するアリーらへの注意を呼びかけた。しかし彼らに言うまでもなく、 外国にこびている(様に見える)アリーへの怒りを持っていたアラブ人たちは自らのネットワークでゲリラ戦への抵抗を始めた。 本来ゲリラ戦は、現地勢力を敵に回してできるものではない。斯くして損害を大きく出し始めたヒジャーズ王国はイギリスへの 援助を求め、イギリスもこれに応じて兵力を何とか派遣して援助しようと努力を重ねた。しかし、その戦力の供給方法は 一番避けるべき戦力の逐次投入であった。こうして、オスマン帝国はあまり兵力を割くことなくじわじわとヒジャーズ王国を 追い詰めていった。イギリスにとっては戦力吸引に見事に失敗した形となり、戦果を出そうと多くの兵力や資金を投じてしまった ために逆に戦力を分散させてしまう結果となった。 各地で戦いは新兵器を投入しながらの凄惨極まるものとなった。 そして、長い停滞を打ち破るべく、イギリスはついに海軍を動かした。 受けて立つのは、建造競争によって建造されたドイツ帝国海軍の大艦隊。 両者の相対場所は、デンマーク ユトランド半島の沖合。 血戦は、ほぼ目前に迫っていた。 ※青年トルコ党が比較的若い世代を中心に民主主義的な改革を掲げるのに対して、統一トルコ党は日本やフランスとの つながりを得たこれまでの権利者(スルタンなどを含む)が自らのあり方を改めていこうと動くグループで、 アブデュルハミト2世の支援の下で比較的広い層に支持者が集まっていた。 青年トルコ人党が地方分権や自治制度の導入など地方分権的な政策を訴える一方で、統一トルコ党は集権的な体制を 維持しながら改革を進めていくべきだと主張していた。因みに、この世界線においてアブデュルハミト2世はミドハド憲法を 停止していないため、青年トルコ人党は専制政権の打倒は訴えてはいなかった 次話:有為転変3 -Dumb Witness-」
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プレイレポ/BtS/大キュロスで大戦争してみた/その3 アメリカいつ独立したの? -- フーバー 中国から独立?にしてもオラニエの野郎とうとう海にはみ出してきやがったw -- アメリカは中国から独立後、ポルトガルに攻められてあっさり属国になってました。 -- うp主 属国にすれば文化押しはないよ -- 文化負けてると反乱が起こるんだよ。 --
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392 :百年戦争:2016/11/06(日) 22 32 35 1922年。その艦隊は生まれ故郷を遠く離れた極東の帝国に係留されていた。 ロシア帝国バルチック艦隊。 かつて世界有数の規模を誇った海軍で最精鋭の艦隊として編成された艨艟は、もはや彼ら以外に掲げる者も居ない喪われた帝国の旗を掲げたまま、目指す航路も見つけられずに朽ち果てて行くのだと思われていた。 国を追われた君主たちが、狂気とも言える無謀な決意を宣言するこの日まで。 「――移動の準備が整いました、陛下」 この期に及んで纏わりつく逡巡を振り払い、アレクセイ・ルイ=ナポレオン・ボナパルト少将は彼らの旗艦たるガングートの甲板から異国の帝都を眺めていた主の背中に声を掛けた。 「……もうそんな時間か」 それに応えて振り返った主君――ニコライ・アレクサンドロヴィチ、ロシア皇帝ニコライ二世と呼ばれた男の顔にもまた躊躇いの色が浮かんでいる。 これから行う選択が本当に正しいのか、彼もまた完全な確信を抱く事が出来ずにいるのだ。 生まれた時からロシア皇族としての教育を受けてきたニコライ二世がこのような感情を家臣に見せる事など革命以前にはあり得なかった事であるが、アレクセイが軟禁されていたツァールスコエ・セローから皇帝一家を救出して以降、皇太子と同じ名を持つナポレオンの末裔は家臣ではなく家族同然の同志という立ち位置を確立してしまったらしい。 それが祖国から追い出された皇族という惨めな共通項からくるものだという現実が、アレクセイに忸怩たる思いを抱かせる。 叶うならばロシア帝国への忠勤の褒賞として、このような信頼関係を皇帝との間に築き上げたかった。 「申し訳ありません」 アレクセイの口から思わず零れた言葉は、このような現実を引き起こした己の血統に対する謝罪であった。 バルチック艦隊の指揮権掌握と皇帝一家のロシア脱出。 おそらくアレクセイはやり過ぎてしまったのだ。 皇帝一家の無事を確保してその再起の可能性を追求するあまり、ナポレオンの血統が十分な戦力と名声を確保して混乱する欧州に留まる事がどのような事態を引き起こすかにまで意識を向ける余裕が無かった。 バルチック艦隊を掌握したアレクセイの帰還を恐れるフランスの反発によってイギリスは縁戚であるロシア皇帝一家の亡命を受け入れが不可能になり、ロマノフ王室は何の所縁も無い極東――大日本帝国への亡命を余儀なくされた。 ナポレオンの血筋がその傍にいなければ、大英帝国の庇護の下に亡命政権を作る事が出来たはずなのに。 「気にする事は無いよ少将」 不意に謝罪を告げられた元皇帝は、悔恨を滲ませる家臣の真意を汲み取って笑顔を浮かべた。 「貴官は私と、私の家族の為に最善の行動を取ってくれた。君がいたからこそ私たちはボリシェビキ共に殺されずに脱出でき、こうして再び歩き出せる。そのように忠誠を尽くしてくれた臣下を放り出して、誰がロマノフと共に歩んでくれるというのだ?」 柔らかな主君の言葉に、フランス皇帝の末裔は背筋を伸ばす。 「愚にもつかぬことを申し上げました――行きましょう陛下、我等が未来の為に」 「うむ……例え愚かな選択だとしても、我等は最後まで足掻いてみせる」 この日、大日本帝国においてロシア帝国王党派を中心とした亡命政権が設立される。 ロシア帝国艦隊政府。 ガングート級弩級戦艦二隻を基幹としたバルチック艦隊をその『領土』としたこの亡命政権は、ソ連から「時代錯誤な専制主義者たちの妄動」「引き際を知らない負け犬たちの艦隊」と罵倒されながら、ロマノフ王朝の資産や亡命ロシア貴族の財産を使って船舶を購入する事でその『領土』を拡大。 シベリア、アラスカ、カナダなど日英に亡命したロシア王党派の資産ネットワークを構築し、自前で船団の警備まで行う大規模な海運業者としての側面を強くしていく。 393 :百年戦争:2016/11/06(日) 22 33 12 夢幻会の憂鬱 世界大戦終結後、夢幻会の面々は頭を抱えていた。 その苦悩の原因は太平洋を挟んで睨み合いを続けるアメリカ合衆国や、シベリア連合の向こう側で蠢くソビエト連邦ではない。 1653年以来ずっと共同歩調を取り続けてきた日本の友好国であり、シベリアと太平洋の二正面で米ソという敵性国家に挟まれた日本にとってもはや必要不可欠な存在となった同盟国、イギリスである。 日英共同でオランダを滅ぼした事で東南アジアと太平洋は日本の勢力圏となり、フランスをアジアから追い出してスムーズになった両国の交易は莫大な利益をもたらし、アジア太平洋に戦力を割く必要の無くなったイギリスの影響力は欧州を中心に拡大。 オランダが滅亡していた為にボーア戦争そのものが発生せず、日本と連携した為にフランスとのアジア植民地獲得競争を史実より負担も少なく乗り越え、中華市場に進出する事も成功している。 史実で背負った各種の負担と引き換えにアメリカとは敵対関係になっていたが、その代償として大英帝国はアイルランドとの統合を成し遂げ、日英同盟はユーラシアの東西から全世界を牽制可能な理想的同盟として機能していた。 そうであるのに何故、夢幻会はイギリスによって思い煩わされているのか? その理由は衰退の兆しも見せない大英帝国の存在そのものにあった。 1918年。ロシアの戦線離脱とアメリカ風邪パンデミックにより第三共和政が崩壊し、唯一の敗戦国として過酷な戦後賠償を追及されるはずだったフランスに対して寛容すぎる講和の条件を提示したのは、意外な事にフランスと泥沼の塹壕戦を繰り広げたドイツ帝国であった。 最も強硬にフランスへの懲罰的賠償を要求すると思われたドイツが示した甘すぎる提案に、オランダを失うフランスは歯軋りしながら頷き、巻き込まれただけに過ぎない大戦争を少しでも早く終わらせて国内の立て直しを図りたいオーストリア=ハンガリーも承諾。 日英は大戦に参加した利益を何も得られない事に反発したが、五年も続く戦争で高まり始めた国内の厭戦感情を考慮して講和を受け入れざるを得ずせっかく占領したフランスの海外植民地を無償で返還する。 フランスは被占領地の無償返還と引き替えにオランダを始めとした新規独立国を承認し、ヴェルサイユ条約によって世界大戦は終結する。 もちろんこれはドイツ人が戦乱と疫病で荒廃したフランスの惨禍を目撃し、博愛精神に目覚めて慈悲の心を発揮したからではない。 ドイツ帝国はやがて復活する将来のフランスよりも同盟国であるはずの日英――特にイギリスの存在を恐れていたのだ。 世界大戦で独仏を始めとした欧州が被った戦災と比べてイギリスは人的被害のみに留まり、さらにはその人的被害も大戦の最初から塹壕戦の泥沼をのたうち続けた欧州諸国に比べれば微々たるものに過ぎず、相対的に見ればイギリスの国力は増加しているとさえ言える。 200年以上の長きに渡って日本が陰日向に支援し続けていたイギリスは、ドイツが自国の復興に注ぎ込むべき賠償金をフランスから搾り取るのを断念してでもその国力の増大を阻止しようとするほどに強大化していた。 その強大化した存在感は日本が講和会議の席上で提案しようとしていた国際的平和維持機構の構想にも影響を与え、本格的に組織の設立に賛同する国が現れずに国際連盟が成立しないという事態を引き起こす。 それがどれほど素晴らしい理想に基づいた組織であれ、大英帝国という怪物が参加すればその主導権がイギリスの物になるのは明らかであり、同盟国である独墺も敵性国家であるフランスもこれ以上イギリスの影響力を拡大させるような組織の誕生を望むはずがなかったのだ。 夢幻会を中心とする日本政府は慌ててイギリスに国際連盟設立への協力を打診するが、古くからの友好国はにこやかな笑みと共にこの申し出を謝絶。 国際連盟設立に賛成しなかったどの国よりも、衰退無き世界帝国が国家の加盟する大規模な国際組織の存在を必要としていなかった。 世界大戦により欧州の競争相手が疲弊し、アメリカが国内対立で身動きが取れなくなっている現状では国際情勢を自国の有利なように動かしていくのは大英帝国にとって容易い事であり、大規模な国際組織の存在はむしろ足枷になりかねないとこの時のイギリスは考えており、イギリスの戦略パートナーは日本だけで十分だという自信さえ抱いていた。 結局、日本の構想はスイスのジュネーブに各国の大使館職員が常駐する施設が設置されるに留まり、この史実とは比べ物にならない小規模な組織=国際会議連絡事務所が国連と呼称されるようになる。 このイギリスの傲慢とも言える世界戦略は、大日本帝国を巻き込んで世界の流れを史実から更に歪めて行ってしまう。 394 :百年戦争:2016/11/06(日) 22 33 45 第四次太平洋戦争でアメリカ太平洋艦隊を殲滅した日本海軍は仮想敵の消滅によりその拡大を一時鈍化させるが、世界大戦に前後してアメリカ海軍が戦力再建を本格化させるとこれに対抗する為に大規模な艦隊建造を決定。 第三次ハワイ沖海戦においてその効果を実証した弩級戦艦群による艦隊編成を発展・改良し、超弩級戦艦による第二次八八艦隊計画を開始する。 1911年に日英共同設計で金剛型巡洋戦艦四隻、薩摩型超弩級戦艦(薩摩、安芸、河内、摂津)四隻を建造。 大戦が始まった1913年には日本式の改良を加えた準金剛型である伊吹型巡洋戦艦(伊吹、鞍馬、筑波、生駒)四隻、クイーンエリザベス級をタイシップに扶桑型超弩級戦艦四隻を建造し艦隊を丸ごと一新する。 国力にモノを言わせた大規模建造は戦時中という事も有りさらに加速し、史実の八八艦隊計画通りに艦齢八年の艦隊編成を目的として第三次八八艦隊計画が始動。 日本海軍のあからさまな標的とされたアメリカは増大した国力を生かして壊滅させられた海軍力の再建と拡大を推進し、国内対立によろめきながらもダニエルズプラン=三年艦隊を計画。真っ向から日本海軍の拡大に立ち向かっていく。 そして太平洋から始まり大西洋へと伝播したこの異常な速度の建艦競争に欧州で唯一余力がある大英帝国が参戦。 終戦により一番艦以降の建造中止が予定されていたアドミラル級巡洋戦艦四隻(フッド、アンソン、ハウ、ロドネー)の建造を再開する。 この事態に顔を引き攣らせたのは国内の復興に掛かり切りになっているフランスと、東欧の混乱を収拾させようと走り回っているドイツであった。 日英によって海軍力を壊滅させられたフランスもイギリスとの建艦競争で作り上げた大洋艦隊が健在なドイツも、国力を回復させたいこの時期に大規模な艦隊建造を行う余力など欠片も残っていなかったからだ。 海軍を持つ列強が建艦競争に参加出来ないという屈辱に震えながら独仏は睨み合い、平穏を謳歌していたイタリアを仲介にバカげた建造祭りを行っている三カ国を呼び出して史上初の軍縮会議であるローマ海軍軍縮会議を開催する。 独仏連携という外交上の異常事態が引き起こしたこの会議は、日英に軍事的に包囲されたアメリカにより最初から難航した。 大戦による疲労が無いアメリカは軍縮失敗による各国の負担などまるで気にせず、日英合計との同量保有と日英同盟の解消を主張。 当然日英がそんな条件を認めるはずもなく、何としても建艦競争による財政負担を回避したい独仏が必死に説得し、カナダ国境と言う長大な潜在戦線を抱えるアメリカも国内から海軍の無制限な拡大に疑問が出た事で、ようやくアメリカも軍縮に前向きになる。 ドイツ帝国は日英への対抗から単純な軍縮に応じられないアメリカを納得させる為に、アメリカの準同盟国であるフランスに建造中のコロラド級戦艦を一隻購入させ、これによってイギリスへの牽制とする案を打診。 これに軍縮条約により予算削減を行いたい日本の夢幻会がイギリスの説得に回る事で軍縮条約はようやく前向きに進み始め、少しでも艦隊戦力を立て直したいフランスがドイツ案を承諾し、ドイツはフランスに財政負担を押し付ける代わりに洋上戦力の不利を受け入れる。 1921年。日米英55万トンを基準として独仏:2、伊 1.75の比率で戦艦の保有率が決定。 戦艦は基準排水量4万トン砲口径16インチ10門以下と規定され、艦齢15年未満は代艦建造禁止。 米仏以外の新艦建造は原則として禁止とし、既に長門型戦艦を完成させていた日本との兼ね合いで米英は16インチ砲搭載戦艦二隻を追加で建造・完成させ、フランスはアメリカから未完成のコロラド級一隻を購入。 日英米が建造中だった巡洋戦艦は二隻づつ空母へと改装される事になり、日本は天城、赤城を、アメリカはレキシントンとサラトガを、イギリスはアドミラル級の二・三番艦であるアンソンとハウを改装空母として完成させる。 各国が所有を許された16インチ砲戦艦は大日本帝国の長門、陸奥を筆頭に大英帝国がネルソン、ロドネー。アメリカ合衆国コロラド、メリーランド。 そしてフランス共和国ラファイエット。 かくして、列強のメディアにビッグ7と呼称される16インチ砲戦艦群が誕生する。 395 :百年戦争:2016/11/06(日) 22 34 20 このようにヴェルサイユ条約や軍縮条約に様々な影響を与えた大英帝国の存在は、同盟国である大日本帝国国内にも無自覚な影響を与え夢幻会にとって頭痛の種となっていた。 イギリスは日本にとって誠実で友好的な同盟国であったが、 強大過ぎる同盟国の存在はその鮮やかすぎる外交手腕と共に日本国内でも警戒心を呼び起こし、列強たる日本がイギリスに外交的主導権を握られていると感じる 日本国内の勢力は夢幻会を『対英追従』と攻撃し、日英協調による日本の勢力安定を求める勢力は国際連盟設立など夢幻会が行おうとする日本の独自外交を『反英孤立』と呼んで非難する。 もちろん夢幻会はイギリスべったりの追従政策を行うつもりも、日英で競争して世界の覇権を争うような意思も無かった。 イギリスとは有力な同盟者として協力できる問題は協力し、多国間での国際関係を強化する事で日本の国益を確保していくという夢幻会の方針は、皮肉な事に200年以上イギリスとの共同歩調を推進してきた夢幻会自身の政策によって日和見主義だと批判され、史実よりも拡大した日本の勢力圏も相まって日本国内における夢幻会の影響力を低下させる事態にまで発展してしまう。 それでも夢幻会は辛うじて国内政治における主導権を確保していたがその代償として外交政策へと関与する余裕を失い、イギリス以外の国との外交関係強化を目的とした国連設立は軸足の欠けたものとなって失敗する。 結局日本の外交方針は日英同盟を主軸とした独自外交の追求という中途半端な物に終始せざるを得ず、そしてイギリスの影を引きずった日本の外交は欧州の警戒心によって鈍化していく。 この状態を誰よりも喜んだのは日本国内の親英派日本人ではなく、同盟者であるイギリスだった。 友好的な近代列強である大日本帝国は大英帝国にとって最重要の同盟国であり、その同盟国が他国の影響を受ける事無く日英同盟を中心にした外交政策を取り続けるという事はイギリスの覇権を維持する上で大いに満足出来る要素であったからだ。 イギリスはロシア内戦に干渉してシベリア連合の成立を日英共同で支援し、その後東欧で発生したポーランド・ソビエト戦争にはドイツの復興遅延を狙って意図的に干渉せず、トロツキーが提案したウクライナ・ベラルーシの分割を容認してドイツの視線を東欧に向けさせる。 さらに独仏対立が激化して欧州列強が自国周辺に釘付けになると、大英帝国はオスマン=トルコ帝国へと介入を開始。 日本を誘ってトルコの近代化に協力すると共にアラビア半島全域をオスマン=トルコへと併合し、1925年には満州と同じようにアラビア鉄道株式会社を設立する事で己の勢力圏に組み込んでしまう。 『世界の管理者(ワールドオーダー)』 没落無き世界帝国の国力に裏打ちされたイギリスの自信は日英同盟を通じて大日本帝国を、そして列強各国を大いに振り回していく事になる。 396 :百年戦争:2016/11/06(日) 22 35 46 以上で投下終了です wiki転載はOKです
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まさおの野望 第二章 前回までの流れ 朝鮮戦争は共和国の大敗で一応の終結を見ました。微妙な均衡の上に立ち残った共和国ですが、決して今までの問題が全て消え去ったわけではありません。軍事大国としての道を捨てた共和国の次の課題とは。 展望 今までの閉鎖的な諸政策を改め、諸外国との自由貿易・労働者の門戸開放を推進していきます。ただ、現状の共和国のままでは人民が流出していくのは目に見えています。そこで、共和国としては経済の発展と共に、環境にも優しい国づくりを国是に再出発していきます。 エネルギー政策 エネルギーは文字通り、国家の原動力です。世界がそうであるように、わが共和国でも化石燃料を頼った発電が不可欠な状態にあります。そういった状態を一変すべく、クリーンエネルギーの採用に全力を傾けていきます。 すなわちそれは水力であったり、風力・地熱・太陽光発電に代表されるものです。これらの発電方法はコストがかかります。ですが化石燃料を消費しない、自給可能なクリーンエネルギーでもあります。これらの採用は国是である環境への低負担の一番の近道になるでしょう。このクリーンエネルギーが共和国の需要を全て賄えるよう、5年かけて整備を進めていきます。 経済・財務政策 戦前は、軍の維持に多大なコストがかかり、社会サービスにそのしわ寄せがきていました。そこで、軍隊は基本廃止とし、その代わりに社会サービスを厚くする方向に進めていきます。ただし社会サービスの拡充には多大なコストがかかります。 では、その資金をどうやって捻出するのか?答えは軍需物資の輸出です。軍隊が廃止されると、軍需工場も不必要になりますが、全世界的に戦争が勃発している中、軍需物資の取引額は天井値を更新しています。その額は1ユニット$300,000以上と、他の物資と比べて明らかに高額です。つまり、この軍需物資の販売により国債を発行せずに再建費用を稼ぐことが可能になるのです。 歳出が確保できれば課税率を下げることもでき、移民を希望する外国人には魅力的な国になるでしょう。実はこの移民の確保が共和国には重要なのです。先の戦争で総人口が2000万人を下回っており、近い将来、それが経済発展の足かせとなる恐れが十分にあったからです。だから、展望で触れた労働者の門戸解放を謳って人口の「打ち出の小槌」をもくろんでいるのです。もちろん、健康に関わるサービスの拡充で出生率の上昇も目指していきます。 軍事政策 前述のとおり軍隊は廃止です。博物館に置いてあるような兵器に毎年多額の整備費が掛けられる非効率性は正してなんぼというところです。 では国防はどうするのか?それはもう神のみぞ知る、というところです。他国から侵攻を受けないために平和的な外交を展開していきます。なんか苦しい答弁ですね^^; まあ、宗主国様がいるので。 外交政策 基本は中国との同盟堅持です。更に、巨大な市場マーケットでもあるインド、石油輸出国であるイラン・イラクとも関係の強化を推進していきます。 再出発 戦後1ヵ月経ち、ようやく平静を取り戻してきた共和国ですが、状況は最悪です。敗戦国だからしょうがないと言えばしょうがないのですが・・・。 ですが明るい材料もありました。それは前述した軍需物資の高騰でした。そこで、戦火を免れていた軍需工場をフル稼働させ、軍需物資の販売により多額の利益を獲得しました。日産400t程度のささやかな軍需物資が、莫大な金に変わったのです。 この戦争特需で資本を得た共和国は、本格的な経済立て直しに着手します。まずは産業工場の増設です。ここで産業物資の増産を目指し、その物資で更に施設を増やしていくのです。特別工業地帯として、咸興(Hamhung)や金策(Kimch aek)・安州(Anji-up)一帯に重点的に工場を建設していきます。この立地は、海に近い(ゲーム的にはあんまり意味ないですがw)上に、万一韓国による再侵攻があった場合にも戦地から離れているという点から選びました。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 1年掛けて産業物資の増産がある程度の効果を見せてきたので、次にエネルギー改革を進めていきます。それは鴨緑江沿いに水力発電所の建設です。この発電所の建設が完了すれば電力の安定供給が確保され、産業はもとより国民生活にもプラスの影響があります。ただ、水力発電は建設費もランニングコストも割高です。なので、普通のプレイヤーの方々は他の発電方法を選ぶと思いますがw また、徳川(Tokch on)周辺に再生可能エネルギーを用いた発電施設を実験的に建設していきます。いわゆるPower-otherのことです。この発電所は1個で1,752,000MWhと最低の発電量と、それに見合わないコスト($1Mで29Mhw)と良いところは何もないんですが、09年時点では環境対策費その他を加えれば、クリーン発電も十分競争力があると判断している国もあるようですね。このゲームには関係ないですがww この電力革命にさらに2年を掛けていきます。発電所の建設費がバカ高なので一気に作れないのです。おとなしく石炭発電所を作っておけば・・・と何回か後悔はしましたがw そこは脳内妄想で満足しておきます。 中韓小競り合い 共和国が順調に経済再建を果たしていく中、中韓の対立は次第に激しくなっていきました。その裏には露韓の同盟締結がありました。重大な経済危機、満州戦の手詰まり感から、ロシアは対外関係の強化に乗り出し、日本・韓国・ロシア・イギリス・イタリアといった有力国との同盟の締結に成功していたのです。 対する中国は世界中に敵対国を作ってしまった為、貿易面でかなり不利になっていきました。好況だった中国経済は破綻し赤字は年々拡大傾向にある中で、包囲網の突破口として韓国打倒を掲げ出したのです。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 2024年11月から、中国軍2個師団相当が共和国に進出し始めます。この動きに韓国政府は中国・共和国両政府に警告を発しましたが、中国は取り合わず、共和国としても、中国の意図が分からない以上どう答えることもできません。遂に中韓の関係は終焉を迎えます。 明けて25年1月、平壌に展開していた中国軍は南下を開始、西南部の都市海州に展開します。これに反応した韓国軍は開城の駐留部隊をさらに北上させました。そして両軍は延安郡(Yonan-up)で遂に激突しました。中国軍は事前に近海に海軍を派遣させており、また、青島半島から空軍を出動させ陸海空で多面的な攻撃を展開していきました。これに対し韓国の要請に応えたのかは不明なもののロシア空軍機が当該空域に現れ、質に劣る中国軍機を追い返しました。これを合図に韓国軍は一斉に北上を開始しました。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 人の庭でなにしてんだこいつら・・・ 形勢不利を悟った中国軍は中朝国境まで撤退し、一難去ったものの、この事件以降、黄海では中国海軍による韓国本土攻撃が始まっていくのです。 更に、中国は共和国に再軍備の要請をしてきました。最新兵器のライセンス生産も許可すると。 再軍備開始 共和国は重大な決断を迫られていました。一人当たり国民総生産は$15,000を越え、我が世の春を謳歌していたものの、世界情勢はそれを許さなかったのです。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 再軍備しよう。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 嫌だよ、、、再軍備なんか。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 断りにくいんだよ。北京の奴ら目が本気だったし。。。このとおりだ、再軍備しよう。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) しょうがないな・・・。 中国は気前よく最新兵器のライセンス生産を許可しました。それは99式戦車であったり、J-10戦闘機であったり(ホントはSu-30が欲しかったが中国側の売り込みということでw)。 既にかなりの経済力を持ち合わせていた共和国にとって、兵器生産工場の新設はほとんど経済負担を感じない程度のものでした。ただ、懸念するとすれば失業率の低下により急激なインフレと経費の高騰が表立って出てきたところでした。ですが、既に舵を切ってしまったのです。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (nolink) 韓国政府も次第に共和国の再軍備の動きを掴んできました。韓国には自主防衛の為と説明をしましたが、だれがどう見ても終戦時に共同宣言したパートナーシップに違反します。怒った韓国軍は部隊を一部北上させ威圧を加えてきました。 これに対し、共和国は一戦やむなしの覚悟で境界線に新設されたばかりの軍を展開します。かりそめの平和は終わりを告げようとしていました。 ←第一章|TOPへ戻る|第三章→
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中国の会とは 現在は毛沢東の影武者1号が大統領を務めている24人程度のOC 元大統領はいぇーいだったが6月12日の第一回大統領選挙によって建材の大統領になった かつては中華人民共和国の会という名前で活動していたがソ連の会との情報戦の末新たに中国の会が建てられた トロツキーという国民が旧ナ○スの会と旧アメリカの会を消した末中国の会で粛清を始めたため、旧メンバーはほぼ消えている 現在滅亡済みであり、チナリパブリックという架空国家になっている 危険度 危険度は1である 戦争した事がある国 ベトナムの会 潰す会 アベニール 台湾の会 中華民国の会 各会との関係 ソ連の会 普通 NSDAP連邦 普通 ポーランドの会 普通 アメリカの会 普通やや良好 鳥の会(潰す会) 普通 ナチス・ドイツ民専用チャット 普通やや険悪 ナチス ドイツ 普通
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中国 中国という言葉はいつ頃からありますか? 『太公望』なる人物は実在したのですか? 「帝なんて知ったこっちゃねー」みたいな歌を聞いて自信喪失したみたいな話って、なんでしたっけ? 孔子がもう人肉の塩漬けは食べないと言ったのは、本当のことなのですか? 儒教って前漢の武帝の時代に国教化されたんですか? 吐蕃、柔然とかについておしえて。読み方もわかんね。 中国の王朝名ってどうやって決まるんですか? 中国王朝はそれぞれその色があるって本当ですか? 「春」「秋」「冬」という王朝がないのは何故ですか? 万里の長城は実戦では役に立たなかったんでしょうか? 中書令という役職は具体的にはどういう役割だったのでしょうか? 司馬遷が中書令を拝命したのは宮刑を受けて後の事でしょうか? 後漢の福建省のあたりについて 科挙に受かって王族に仕えた場合は去勢しなくてもいいのか? 「三跪九叩頭礼」ってどういう動作なんでしか? 残酷なことをした支配者がいますか? めっちゃ残酷な皇帝の名前教えてください。 呉楚七国の発生原因とその影響 三国時代に銀で代金を支払うということはありえたのでしょうか? 北方の騎馬民族の生活は南の農耕民族の交易なしでは成り立たなかったとの文章を見かけましたが 隋や唐の時代では租庸調のほかに雑徭は免除されたのでしょうか? 李淵の後継者争いで李元吉はなんで太子健成の側についてたの? 中国で10C頃から全体的に都が北に移動した理由って何? 何が起こって前奏は敗北してしまったのですか? 徽宗皇帝って、連行された後どうなったんですか? 岳飛廟の秦檜像にツバ吐きつけ 科挙に監視員はいないのでしょうか? 宋景詩という人について教えてください 清朝は日本をどのようにみていたのでしょうか 江戸幕府と清は貿易してませんでしたっけ? 冊封体制が長期にわたって維持されたのはなぜですか? ネルチンスク条約でロシア~清が対等な立場で臨んだのは何故ですか? 「清末売春事情」 「清末廣東売春事情」 大学設立援助とか、鉄道建設とかは列強が善意でやっているんでしょうか?。 絶対勝てるわけないとわかってるのにどうして西太后まで列強に宣戦布告したのですか? 義和団事変について質問です。 西太后が崩御したときに、口に突っ込まれた黒真珠は何でしょうか? 李鴻章の北洋艦隊の戦力は日本海軍よりもまさっていたのですか? いつになったら『清史』は編纂されるのでしょうか? 三国干渉後、日清間で改めて講和条約を改正したのでしょうか。 袁世凱の家族って袁世凱の死後皆殺しにされたって本当? 辛亥革命のとき欧米列強はなんで清につかなかったの? 孫文って結局は勢力を維持するために袁世凱に革命を売り渡した張本人じゃないのですか? 現代中国で孫文はどういう扱いになっているのでしょうか? 洪秀全の最後を教えてください。 中国内戦っていうのは米ソの代理戦争じゃないよね? 蒋介石ってなんであんなに比較的簡単に北伐を成功できたの? 南京国民政府時代、北京はどういう存在だったのですか? 上海の租界に「犬と中国人は入るべからず」という看板があったのは本当? 毛沢東ってめっちゃ人民死なせまくってなんで中国のお札になるほど偉大に扱われてるんですか? 日中国交回復したときに中国が賠償金を求めなかったのはどうしてですか?? それ相当の金額を支那に与えるのは当然っちゃ当然じゃないか なんで中国はチベットの独立を認めないんですか? 中華圏ではなぜ奴隷制が発達しなかったの? 中国史を知るにあたって日本側の資料の価値は? 中国という言葉はいつ頃からありますか? 中国は、古くは「中國」さらに古くは「中或」と表記し、その使用例としては西周時代の青銅器に金文として刻まれているものがあります。ですから、中国という単語の起源は紀元前に溯ります。 ただし、古代における中国は現在の意味とは異なり、各王朝の時代の領域の中心地を意味する漠然とした概念であって、領土全体を示すものではなかったのです。 現在の中国という国境で区切られた国家の領域を意味する用法は、中華民国以降の単語と考えてよいでしょう。 : ど~でもいいけど 投稿日: 01/09/28 23 13 『漢書』の師古注にあるので唐初期には「中国」はあった。 『後漢書』の注釈に易経引きの部分にもあるが、『周易』は読んだ事がないので、詳細は知らない。 :02/06/14 02 33 漏れもあまりコメントしたくないのだが、周代の金石文に中国の用例は存在する。 「中或」という表記であるが、「或」は「國」の古形(国がまえがない)と考えられている。 ただし、近代にいたるまで「中国」にはいわゆる地域としての支那全体を示す意味はなく、国の中心地域という意味である。 これを国名ないしは支那全体を示す意味に使うようになったのは、近代、清末頃からのことと考えてよい。 02/06/14 23 51 『太公望』なる人物は実在したのですか?『封神演義』の最後にあった太公望が朝鮮半島辺りに国を作った、というのもホントの事なのでしょうか……? 仙人である事はフィクションだとしても、どこまでが事実やらさっぱりで。。。 『史記』斉世家、『呂氏春秋』などに太公望の名は見られますから、 歴史的に実在する人物といってよいでしょう。 ただ、本名はよく分かっていません。 :02/09/30 01 25 斉国には太公と呼ばれる 羌姓で呂(甫)氏の望という名の創始者がいました。 :02/09/30 01 29 太公望は武帝が周を建てた後、封建されて斉の国の開祖となってます。 春秋戦国時代の諸国に名を連ね、春秋五覇の一人斉の桓公を出した斉です。 遼東半島を含む中国東部の国ですが、朝鮮半島あたりとは言わんでしょう。 地図参照。 ttp //www.d2.dion.ne.jp/~nob_o/map_syunzyu.htm :02/09/30 01 39 朝鮮辺りに国を造ったのは殷の王族の箕子 :02/09/30 01 51 太公望の本名や名前の来歴は諸説あり真相は謎に包まれている。 本名は羌・子牙であとから呂・尚という名前に改めたとか、もとから太公氏の望という名前であったとか。 : 03/01/20 16 54 夏王朝の誰かがお忍びで町をブラブラしてる時、「帝なんて知ったこっちゃねー」みたいな歌を老人が歌っているのを聞いて、自信喪失したみたいな話って、なんでしたっけ? それは帝堯の話では? それに自信喪失したというのは全く逆。 堯は民衆の気持ちを知るために街中をお忍びで歩き、白髪の老人が「帝力われに何かあらんや!」と楽しげに歌っているのを聞いてこれこそ自分の理想とする「為すなくして天下を治める」政治が実現したと言って喜んだという話のはず。 03/04/20 19 29 孔子がもう人肉の塩漬けは食べないと言ったのは、本当のことなのですか? 微妙にネタなんだよ。 孔子の好物が塩漬け(塩辛)で、弟子が人肉塩辛にされたから、塩辛はもう食わんと言った。 :02/06/04 06 11 儒教って前漢の武帝の時代に国教化されたんですか? それと、武帝の時代までに儒教って民間では定着してたのでしょうか? >儒教って前漢の武帝の時代に国教化されたんですか? そうです。それ以前は黄老学派が国教とは言わないまでも、漢朝の政策決定に、絶大な影響を与えていました。儒学者は、あくまで儀典係に留まっていました。武帝の時代に儒教が国教化されたのは、黄老学派の影響を受けた旧政権の要人を排除し、独裁権を確立しようとした武帝の意向によるものです。 >それと、武帝の時代までに儒教って民間では定着してたのでしょうか?儒教は、戦国時代の時点で既に大学派の一つとして定着していました。儒家のイメージとはほど遠い楚の宰相呉起は、孔子の魯における後継者である曾子から、秦の丞相李斯は、性悪論の荀子から儒学を学んでいます。 永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/14 00 16 吐蕃、柔然とかについておしえて。読み方もわかんね。 「吐蕃」=「とばん」 「柔然」=「じゅうぜん」 ただし中国語(あるいは騎馬民族の言語)での読み方はわかりません。 この辺の歴史については、 『遊牧民から見た世界史』(97年、日本経済新聞社 杉山正明 著) という名著があります。 : 02/02/11 16 56 柔然の滅亡は6世紀の半ば、新興の突厥に滅ぼされました。 吐蕃はどうも「チベット」の地名の音訳だったらしく9世紀にソンツェンガンポ王の王朝が衰えた(絶えた?)のちも吐蕃って呼ばれているみたいですね。 だいたい11世紀ごろから13世紀にモンゴルに服属するまで、チベット各地に仏教の教団と氏族が結びついた地方権力が乱立していたようです。 山川の「中央ユーラシア史」やその旧版「北アジア史」などが中国の周辺地域を扱う手ごろな通史ですから、まず図書館で探して読んでみると良いでしょう。 : 02/02/11 23 54 中国の王朝名ってどうやって決まるんですか? 漢や魏や唐は、建国者の封号(地名)からですよね? 宋・明・清はどうなんでしょう…? 大元・大明・大清は地名からではなく抽象名詞からの王朝名です。 大元なら「おおいなる根元」という意味で古典から取って付けたらしい。 金はたしか完頭氏の出身地が砂金の採れる川だったことからだから、元から王朝の命名法が変化したということになりますね。李自成が一時的に国を建てたときの「大順」も地名じゃないっぽいな。 宋は趙氏の出身地の地名だったかな? : 01/11/25 01 23 支那歴代の国号の称え方について書きます。 古代の唐虞から近代の明清に至るまで概ね固有名詞的な1字を用いるのが基本になっていますが、上に冠する字と下に履く字がありますので併せて説くことにします。 本体部分の文字はその国の発生の基礎となった地名によって名称が定まるのが普通です。観念を国号に用いるようになったのは元朝からと言われていますが後に言及します。経書の注釈などに堯の「唐」は広大平易の意味の「蕩」から来たものだとか、舜の「虞」は安楽の義に原づくものだとか見えていますが根拠のないこじつけです。 劉淵が「漢」李存勗が「唐」を郭威が「周」を国号としたように家系の源流に命名の由来を求めた例もありますが、劉裕も趙匡胤も「宋」を国号としたのは受禅当時の封國または領鎮に因んだものです。 清の趙翼は「廿二史剳記」の「元は國號を建て始めて文義を用ちゆ」の項に「『新』や『成』などの字を用いた王莽や公孫述も、根拠地に因んだもので文字自体の意味を採用したわけではない、『金』の場合は金が変質しないところから命名したそうだが、物質の名称であってまだ抽象的な意味から取ったものではなかった、金末に蒲鮮萬奴が遼東に拠って『大眞』と号したのが抽象観念を用いた最初の例だ、元の太祖のころは単に『蒙古』と称していたが世祖の至元八年に『大なる哉、乾元』の句から取って『大元』とした」という趣旨の記述があります。金については前代の「遼」が銀と同義の「鐐」と同音なのでランクアップしたものだという説がありますが、「金史」の「地理志」には根拠地にある川の名で女真語の金という意味ののアルチュカ(金源水)に因るものであるとあり、また蒲鮮萬奴の「大眞」については岩井大慧さんはやはり金という意味であると解釈しています。あやめは萬奴が所属民族の女真を意識して命名したものではないかと考えています。 元が「周易」の「乾」の卦の「彖傳」に「大なるかな乾元、萬物資りて始まる」の句から2字を取って国号としたのは、元号の選び方に倣ったもので紛れもなく文義から取ったものと言えます。ただ趙氏が唐末に南詔王の世隆が帝を称して国号を「大禮」としたこと、以後も雲南の国家は「大封民」「大長和」「大天興」「大義寧」「大理」などと称していて、これらはいずれも文義に因んだ国号といえるものなのに言及していないのは物足りないものがあります。 それはともかく元が文義によって国号を定める例を開いてから以後の各朝もこれに倣うこととなりました。「大明」は「禮記」の「禮器」に「大明は東に生じ、月は西に生ず」や「詩経」の「大雅」の「大明、文王に明徳あり、故に天は命を武王に復す」などに因ったものでしょう。ただし一説によると朱元璋が最初に所属していた紅巾軍では白蓮教の一派でマニ教も混えた明教を奉じていましたが、弥勒の下生と明王の出世による世直しを信じて反乱を起こしたもので、その二代目の教主の韓林児は「小明王」と号しており元璋も彼から呉王に封じられていたところ、元璋が天下を得た時点で「小明」ではなく「大明」と号したものだというのです。説の当否はともかく中華の朝号がゾロアスター思想に由来するというトピックは面白いと思います。また朱元璋は当初は「大中」という国号にしたかったのだということが、清の王士の「池北偶談」に出ていますが実現したら「大中國」となるわけです。なお元末の群雄が建てた国号は「大金」「大宋」「大漢」「大夏」などと地名由来型に復帰してしまっていますが、振るっているのは徐壽輝の「天完」で「大元」の上に画を加えて押さえつけたつもりにしているのです。 ヌルハチは「大金」と号していましたがホンタイジに至って「大清」と改めたのは天下の混一を志向したものでしょうか。その典拠は恐らく「管子」の「内業」の「大清に鑑がみ、大明に視る」だろうと考えます。李自成の「大順」については彼の部下には碌な読書人がおらず古典から引用できなくて、博打の用語にある「大順」という手の名が景気がいいからと採用したのだそうです。眉唾な話ですが清代の随筆に出ていました(書名失念)。張献忠の「大西」も智慧のないネーミングですが「大西洋」という単語が意識にあったかどうか。 清末の金石学者として知られている葉昌熾の「語石」に「王昶の『金石萃編』に『保寧寺鐘款』を挙げているが冒頭に『大宋國』と題しており、後世の『大元國』『大明國』もここから始まったと思われる、私が見たものでは『蒋舒行修六和塔記』にも冒頭に『大宋國』と題しており、私の出身地の江蘇の『郭市橋北井欄』の文中にも『大宋國兩節浙路平江府』などと書かれており、同様の事例はこの二石に止まらない」という趣旨の記述があります。国号の本体部分に対してこの「大」の字のように上に付く字と「國」のように下につく字があります。 上に冠せられる字として「語石」には上文に続けて「『有』『維』『皇』『聖』などの字があるが、『大』の字が通用されており変じて『巨』や『鉅』の字が用いられている、宋碑に『炎宋』とあるのは火徳であったからで劉氏の『炎漢』と称しているようなものだ、また『神宋』としたものもあるが漢の『周憬碑額』は『神漢桂陽太守』と題しており、これもやはり漢碑の例を用いたものである」と述べています。 「有」字は「有窮」「有扈」「有虞」など古代の国家の名に多く付けられていますが、いずれも一字の国名の語呂を安定させるために用いられたようです。しかし後世でも「有明一代の文章」とか「有清創業の基」とかいうように屡しば使用されています。「維」字も古代から発語の辞として甲骨文などにも頻見しており、ことに「維十祀」のように年月表記などには用いられることが多く、当初は「維れ王の廿又三年九月、王は宗周に在り」 (周の「克鼎」)のように王の名すらも記載されていなかったのに、後世では「維唐貞元元年仲冬十一月十有七日」(唐の「聞喜令楊夫人裴氏墓誌」)のように朝代を明記するのが普通になりました。但し「維唐」の句は「維れ唐の」のように読むべきもので「維」は以下の年月表記全体に係り、葉氏の理解のように国号表記の一部になっているわけではありません。 その他の文字は国号の美称として添えられたものとして常用されていますが、システマティックな意味を持つのは「大」字だけです。 李自成の「大順」という国号が博打の手の名に由来するという話の出所が、分らなくなってしまったと書きましたが、その後に見つかりましたので紹介します。 清初の呉偉業の「綏寇紀略」の「言妖」に「萬暦年間に民間は葉子戯を好み、趙宋時の山東の群盗の姓名を牌に圖して之を鬪かはす、崇禎時に至って大いに盛んなり、其の法は百貫の滅活を以て勝負と爲す、闖と曰ふ有り、獻と曰ひ大順と曰ふ有り、初め自りて起こる所を知らず、後に皆な驗す」とあります。「葉子戯」というのは麻雀の源流とされている紙牌の遊びです。そこに「水滸傳」の好漢の絵が画かれていて、また何貫という銅銭の額も表示されていました。 清初の陳瑚の編になる「頑潭詩話」に収められている王育の「戳讖謡序」には葉子戯の手役を解説しています。「千生は闖を用ゆ、鬪の險也」と「百老は獻を用ゆ、戰の捷也」そして「百千萬馬皆な到る、則はち順風旗にして勝の烈也」という3種です。 明末の諸賊(起義農民と呼んでる人もいる)もこの博打にはまってて、彼らの名号にこれらの文字が出てくるのは偶合ではなく、意識して使っていたのだというのが清初の人の認識のようです。 ことに「順」という字は好まれたようで李自成は崇禎十六年には「新順王」と自称し、翌年には西安で「大順」の国号を定めており、また張獻忠も成都で「大西國」を建てた際に元号を「大順」としています。 ということで李自成の国号が賭け麻雀から取ったというのも満更のヨタ話じゃないみたいです。 : あやめ : 01/11/26 17 46 >ヌルハチは「大金国」ではなく「後金国」を自称したのでは? ヌルハチの建てた国名は満州語でアイシン・グルン(金国)、漢字で「大金国」だよ。 「後金」はあくまで区別のための歴史用語。 : 01/11/26 07 50 >大元はモンゴル語のダヤンに当て字しただけときいたが? 「ダヤンの語源が大元」が正しいのでは? ダヤンって人名でしょ。 : 01/11/26 19 54 「ダヤン・ハーン」は称号で「大元汗」の謂。 十六世紀にモンゴルを再統一した「ダヤン・ハーン」の諱は場とモンケ。 : 01/11/27 06 41 「後魏」「後周」「後漢」などは確かに区別のための後世の呼び方だが、「後金」は確かに自称(金の後裔の意味)。満洲語でアイシン・グルン。漢語で後金国。 : 01/11/27 03 58 「後金」の国号が確認されるのは「李朝實録」(最近では「朝鮮王朝実録」と言わないと叱られるらしいです)にヌルハチが朝鮮國王に寄越した国書には年号を「天命二年」とし、「後金國汗」が朝鮮國王に諭すとして「七宗悩恨」(いわゆる七大恨)が書かれていまして、そこに押捺されていた篆印を解読すると満文で「後金天命皇帝」と顕出されたとの記述があります。なおこの「胡書」が朝鮮に致送されたのは天命四年のことなので、清朝文献が伝える天命建元の年次は後年になって遡らせたものと疑われることになりました。 この後も後金國汗の称号で文書を発出していたことは翌年六月の「神宗實録」に熊廷弼の奏文を引いた中にも見え、その他「三朝遼事實録」「東夷考略」「建州私志」「皇朝從信録」など多くの書籍に見えています。 その後に天命六年の寧遠の攻囲戦ころから改めて「金國汗」と称するようになったようで、天聰年間の朝鮮や毛文龍との文書の往来には全て「金國汗」が用いられています。 そういうことで少なくとも公式に「大金」の国号が用いられたことはなさそうで、御指摘のようにうっかりミスでした(A^^;;ただヌルハチの領域内では一般に「大金」が用いられていたような証跡は残ってはいて、「燃藜室記述」に引かれた「朝野鮮聞」に朝鮮と金國の誓文を載せた中に「朝鮮國王と大金國王子と誓を立て」云々とあり、また遼陽城の南門外から発見された「喇嘛法師寶塔」には「大金天聰四年歳次庚午孟夏吉旦」とあるそうです。 : あやめ : 01/11/28 18 02 漢~宋の中華王朝の国号は、基本的には、その創始者が受封された土地にちなみます。 たとえば、三国時代の魏なら、前王朝の漢から、曹操がまず魏公に封じられ、やがて形式的な禅譲で国を譲り受けました。 まあ、乱暴なたとえをするなら、たとえば、フランス王が実力のある家臣をノルマンディー公に封じ、そのノルマンディー公が下克上でフランスを乗っ取って王になったとします。以降、その国全体がフランスではなく、ノルマンディーと呼ばれるようになる、と、そのようなルールが中国にはあったのだと考えてください。 ちなみに、満州族の金・清、モンゴル人の元、創始者が農民出身の明、太平天国などは、前王朝に受封されたことがないので、縁起のよい字を勝手に国号にしています。また、「劉」姓の人間が国を建てると、国号を漢にしたがる傾向があります。 03/05/05 03 36 中国王朝は、陰陽五行説によって、それぞれその国の色があるって本当ですか? 確かに、黄帝や、蒼天すでに死すとか、あるんですがほんとのところはどうなんでしょうか? 五行交代理論には相勝説と相生説があることは御存じかと思います。前者は戦国末の鄒衍が唱えたもので木金火水土の排列で、後者は漢の劉向・劉キン(音+欠)の父子が唱えたもので木火土金水の順序です。配色の対応は木青・火赤・土黄・金白・水黒となっています。 五行を歴史上の王朝に配当するようになったのは鄒衍が五帝に五行を割り当てたのから始まったようです。この際に彼が基準としたのは同時代の周を火徳とした点です。これについて京大儒学の開祖というべき狩野君山は当時においては周が火徳であることは当時の通念となっていたので、鄒衍もこれを原点とせざるを得なかったものであろうと論じています。そして前代の殷は金徳で夏は木徳で虞(舜の国家)としたもののようです。周が火徳ということであればこれを打倒した秦は自ずから相勝説により水徳ということになります。「史記」にもそう書いてありますし大方の学者もこれを支持しています。ただ栗原朋信さんは始皇帝は周を継承したとの意識は持っておらず、水徳の採用は疑わしいと主張していますが少数説たるを免れません。 漢になってから文帝の時に賈誼は上書して土徳の採用を提案していますが、当時はまだ秦の制度の変革に着手できずに経過していました。武帝の時代になると丞相の張蒼は秦を無視して直接に周を継承して水徳を採用すべしと提議し、民間人の公孫臣はやはり土徳を採用すべしと主張し対立しました。結局は武帝により土徳説に従い服色を黄とすることに決定を見ました。前漢の末になると劉向は相生説を提唱し始め漢は火徳となるべきものと説きました。この説の背景として考えられるのは漢の高祖の先祖は堯であるとする情報が一般化したことです。高祖の先祖については下記のスレッド「春秋戦国を語ろう」のあやめのレス34を参照してください。 http //mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis key=978123589 ls=50 「禮記」の「月令」は古書中では相生説の順序に対応しているので、これにより周木徳・殷水徳・夏金徳・舜土徳と遡っていくと堯は火徳となり、漢と徳運が一致することとなり、高祖を白帝の子である大蛇を斬った赤帝の子とする伝説とも照応し好都合であったのです。 こうして漢は火徳とするアイデアが提唱されることになりましたが、この説を推進したのは劉向の子で王莽のブレインとして活躍した劉キン(音+欠)です。王莽はかねてから舜の子孫という系図をひけらかしていた人で、舜が土徳ということであれば漢の天下を簒奪するのに好都合なわけです。彼は万事こういった迷信じみた理念が好きな人物で、意識的に利用したのか本気の思い込みか政権の獲得維持に積極的に持ち込んでいました。これに対し王莽打倒に反乱を起こした勢力が眉を赤く塗っていたのは、漢の復興を表向きのスローガンにしていたためでしょう。相生説は急速に定着していったと言えるでしょう。 後漢末になると今度は反乱勢力が土徳説を利用するようになりました。言うまでもなく「黄巾の乱」です。また漢に代わって皇帝になろうとした袁術も黄帝の子孫と称し、その国号を「仲家」としたのも土徳に属する方位が「中」であったからかと想像されます。漢に代わって建国した魏が「黄初」呉が「黄武」の元号を用いたのも土徳を意識したためです。一方で蜀では「炎興」の元号を採用しているのは火徳の再興を祈念したものです。王莽や曹丕が武力による政権の奪取ではなく、古の聖帝のように平和裏に易姓を実現したかのように偽装する禅譲プロセスのためには、相生説は絶大な効用を発揮しました。そして相勝説は政治手段としては顧みられなくなってしまったのです。 以下の各王朝の徳運と服色を摘記しておきます。 魏・呉=土黄、晋=金白、後趙・北魏・宋=水黒、前燕・南斉・北斉・北周=木青、前秦・梁・隋=火赤、陳・唐=土黄 なお北魏は当初は黄帝の後裔と称していたため土徳を採用していましたが、孝文帝の時に前秦を継承して土徳とすべしという説と晋を継承して水徳とすべしという、両説が対立しましたがやはり統一政権である晋の金徳を継承することに落着しました。また唐でも玄宗の時に当初は漢の火徳を継承したものとしていましたが、5年後にはやはり隋を継承したものと決定しました。 五代になると後梁は金徳ですが次の後唐はこれを無視して唐の土徳を維持することとし、後晋が金徳で後漢は水徳となり後周は木徳で宋は火徳という徳運となっています。以後の王朝では五行の徳運については全く廃棄されてしまったようです。その事情としては禅譲という手続きが顧みられなくなり、剥き出しの武力で天下の奪権が実行されるようになったという歴史の様相の変化からかと思われます。 王朝の称号もそれまでは政権獲得の前段階の封号に由来するものであったのが、「大元」からは易経から取義することになり「大明」「大清」も古典籍から嘉字を選ぶようになりました。国家の観念も天子の家族の私産という意識から脱却したものへと変化していったように見えます。 あやめ :2001/01/24(水) 19 46 中国史上には、「夏」という国号の王朝はいくつかありますが、「春」「秋」「冬」という王朝がないのは何故ですか? 「夏」を国号とする2つ、五胡「大夏」と「西夏」は、現在の陝西省の黄河流域にあった「夏州」の地縁による国号の命名。季節の「夏」ではない。 :04/04/05 16 21 まあ、よく知らんけど、白川静の「字統」を見てみたら、「春」「秋」「冬」は元々季節に関わる文字だったが、「夏」だけは、転義として四季の名に使われるようになったらしいな。 「夏」というのは、本来、「儀容を整えて舞う人の形」から得られた象形文字だったが、舞踊・舞楽こそが文化の精髄だということで、「文化・文明」をも表すようになり、さらにそれが転じて、「蛮」に対する「中華」、さらにはそれを体現するとされる特定王朝に対しても用いられた、と。 04/04/05 17 30 「夏」とは、盛ん、大きい、というのが元々の意味。 そこから、盛んな季節:summer → 「夏」の字を当てる。 「禹夏」は夏州由来かどうか、どこにあったか不明。そもそも存在自体が不明。 「夏州」はどうしてそういうのかは不明。 04/04/05 17 35 万里の長城は実戦では役に立たなかったんでしょうか? 万里の長城が実戦にそんなに役に立たなかったのは本当。始皇帝が作った奴は馬が飛び越えられない程度の物だから。現在のレンガ造りの奴はそれなりに役に立ったようだが、それでもエセンに英宗が捕縛されるようなこともあった。ただ、万里の長城の建造理由が実際の防衛のためよりも国境線の明確な主張をするための意味があると言う説もある。 04/08/22 23 25 長城は防壁というよりは、レーダー網のような使い方をされていた。敵が来たら警備兵が烽火を上げ、援軍を呼ぶ。壁部分は敵の進軍を遅らせるのが主な目的で、完全に敵を防ぐことまでは期待されてなかった。 04/08/23 01 15 長城は援軍を呼び出す&時間稼ぎが主な目的なんで、やってきた援軍が弱かったらどうにもならない。土木の変の敗北は呼び出されてきた援軍がアフォの英宗だったからで、長城がどうこうという問題ではない。 04/08/23 01 21 騎馬民族だって、簡単な壁ぐらいなら壊せるし、明代の立派な長城は壊すことは無理でも、壁に登るスロープを作る程度のことはできるよ。土を掘って壁際にどんどん積んで固めりゃいいだけなんだから。ただ、工事に時間をくわれて、その間に反撃の態勢を整えられる。特に、長城の南に侵入する時より、帰りが危険。あちこち転戦してると来るときに確保した侵入ポイントに戻れるとは限らない。そうなると、逃げるに逃げられず、工事をしている間に全滅する危険もある。長城は侵入自体を防ぐよりも、侵入後の敵を本国と分断し、戦いやすくする効果が大きい。 04/08/23 02 33 耶律楚材について聞きたいんですが、彼の中書令という役職は具体的にはどういう役割だったのでしょうか? 主に修史を担当する役職です。上位に大書令がありまして、修史と暦法を担当していました。中書令として有名な歴史人物としては、司馬遷が上げられますね。 357 :03/07/27 00 46 ただ、楚材は漢族の統治と、モンゴル帝国の立法関連にも関わっていたとされていますが、杉村氏が主張されるように宰相としての楚材像は誤りではないかとする異説もあるようですね。 357での回答はとりあえず漢代の中書令の職務という事で・・・・。 :03/07/27 00 54 補足すると漢の中書令は宦官ぞよ。後世は違うけど。 :ハナアルキ ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 00 57 中書省は枢密院、御史台と共に百官を統轄し、政治を行う機関とされています。枢密院は軍事、御史台は監察を担当そ、中書省は行政を担当します。この3つの国権の最高機関の中で最も格上なのが、中書省。その長官が中書令ですが、通常臣下が就く事はありません。 だいたい、中書令は皇太子が務め、その副官である中書右丞相、中書左丞相が事実上の帝国宰相となります。モンゴル・元の歴史を通じて、臣下でありながら中書令になったのは、耶律楚材だけです。 ただ、この時期は帝国の官制が定まっていた時期ではなかったので、中書省の長官というよりは、彼の中書令は皇帝の秘書官長といった方が適切だったかもしれません。あるいは、漢土における中書省の代表という役割で、漢土の行政を担当していたのかもしれません。そう考えれば、彼の政治家としての活躍が漢土に偏っていることや、イスラム系の史書で彼の名前が出てこないというミステリーも解決できます。 耶律楚材の中書令が、モンゴル帝国の帝国宰相職なら、イスラム系知識人も、彼の動向には強い関心を払うでしょうから、史書に彼の名前を残さないということは考えにくいです。 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/27 02 24 司馬談が太史令を拝命していたのにもかかわらず、子の司馬遷が一段劣る中書令を拝命したのは宮刑を受けて後の事でしょうか?宮刑を受ける以前は世襲の面が見受けられた太史令の任についていたのでしょうか? 太史令は太常の下の一部門の長でしかありませんよ。 「司馬親子が就いたから偉いはずだ」という思い込みからか、太史令がすごくエライ官職として捉える説も昔から確かにあったのですが。 むしろ司馬遷は宦官にされ中書令になって出世したのです。前漢の中書令は政府から上がって来る文書、皇帝が出す詔を管理し、時には詔書起草などにも関与したらしい官です。しかし後宮内が仕事場であり、宦官しか就任出来ませんでした。 司馬遷は太史令→切断→中書令ですね。 :ハナアルキor怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 01 40 今月号のナショナルジオグラフィクスでは漢王朝特集でしたが、掲載されていた後漢の地図では、福建省のあたりが支配領域に入っていませんでした。 ビン越が歴代王朝の支配地になったのは三国時代。吉川弘文館の歴史地図でも西漢(前漢)時代は属国、東漢(後漢)は白色となっている。 ?越=福建省は今でも中国では一番の多雨多湿気候で、中原の乾燥気候になれた人にとっては苦手な地域。中国共産党がこの近く(瑞金)に最初の根拠地をつくったが、ほどなく長征に出発したのもここの気候に耐えられなかったからという説もあるくらい。 04/02/20 10 10 それと福建省の地形的な理由。 地図を見てもわかるとおり、小規模な山や山脈がたくさんあってそれらの間に細かく分かれた土族をことごとく支配するのは容易ではない。 清滅亡~辛亥革命期に日本が福建省を勢力下にしたのも、日本領台湾の対岸であったのと、列強のぶんどりから取り残された地域であったため。 04/02/20 10 23 以前泉州市に梅雨の頃に行ったことがありますが、もう日本の梅雨の比じゃありません。 最悪です。内陸には行きませんでしたが、地元の人でもこの山また山の地形はなかなか覚えられないそうです。二千年前のビン越がどうだったか、詳しい知識はありませんが、中国世界の一員になったのは三国の呉が南方を平定してからだと言ってました。おそらく「虫」と見られるような人々がいたのでしょう。 吉川弘文館の歴史地図によりますと、広東省~海南島~ベトナム北部一帯は前111年に平定、とあります。 宦官は去勢して王族に仕えたらしいですけど科挙に受かって王族に仕えた場合は去勢しなくてもいいのか? 支那の皇帝の臣下は、内臣と外臣にわかれます。宮廷も外廷と内廷とあって、日本で言えば、内廷が大奥に相当します。内廷にあって、皇帝のプライベートな事項について仕えるのが内臣で、これが宦官でなければならないということでした。 逆に、公的な政治や行政、軍事を行う臣下は外臣で、中心となるのは科挙によって選抜された官僚でした。こちらは、去勢とは関係ありません。 本来のルールでは、内臣である宦官は政治に口出しをしてはいけないということになっていましたが、常に皇帝の側にいることから、しばしば宦官が政治的な権力をも手中にすることがあったということです。 01/09/10 19 26 「三跪九叩頭礼」ってどういう動作なんでしか? ベルトルッチ監督「ラストエンペラー」によれば 号令係のかけ声 大臣たちの動作 「跪!(ホイ!)」 気を付け姿勢から土下座 「一叩頭!(イーコートーゥ!)」 おでこを地べたにゴッチンこ。 「再叩頭!(ツァイコートーゥ!)」 おでこを地べたにゴッチンこ。 「三叩頭!(サンコートーゥ!)」 おでこを地べたにゴッチンこ。 「起!(チー!)」 」 立ち上がって気を付け! これを三セット。 :ドドンガ :02/10/09 05 00 中国の皇帝の正妻が皇帝の死後、お妾さんの目、耳、鼻、腕、足を斬って、人間便器にしたそうです。あまりに残酷ですが、他にそのような残酷なことをした支配者がいますか? この話は漢の高祖、劉邦の正妻、呂后についてですよね? たしか第二夫人の戚夫人を両手両足切断、目玉をくりぬいて耳を切り取る(焼くだっけ?)喉をつぶして便所に落とすというとんでもないことをやった人物(鼻は切り落としたっけ?)これで生きていた戚夫人もすごいといえばすごいかもw 03/05/10 21 18 めっちゃ残酷な皇帝の名前教えてください。 朱元璋 数々の疑獄事件をでっち上げて数万単位で官僚・功臣を殺した。 当時の官僚は出勤に際して、これが今生の別れかもと、妻子と抱き合ってから出勤した、という逸話が残っている。 皇帝を褒め立てる上奏文をある人が出したところ、そのなかに「光」という字があるのを見つけて「おれが貧乏時代に坊主をやってたのを皮肉ってる」といって上奏者を死刑に。 などなど。 2005/05/29(日) 22 22 02 0 永楽帝とかも酷いが、後趙の石虎は残虐だぞ。 太子を殺した別の息子の手足切断、舌抜いて目を潰して殺してるぞ。 息子も猟奇趣味(宮女の首を飾って眺める、比丘尼を犯して殺す)だし、養子の冉閔もそうとうな虐殺者だ。 2005/05/30(月) 01 12 52 金の海陵王亮も。 2005/05/30(月) 06 59 11 呉楚七国の発生原因とその影響 マグロな見方をすると、旧秦VS旧六国(戦国の秦以外)の最後の決戦と言えないことも無いでしょう。秦の統一がすぐに敗れたように、始皇帝の時点では秦には真の意味で中国全土を征服・支配するほどの力は無かったのです。しかし秦の覇業は漢へ形を変えて受け継がれました。漢は全土を郡として直轄するのではなく、経過措置として半独立政権としての諸侯王を認め、争いを避けつつ再度征服するだけの力を蓄えたのです。と同時に諸侯王の領土を細切れにするといった諸侯王対策を施し、来るべき決戦に備えたのです。 旧六国側の勢力では、元々強国だった斉や、直接漢王に攻め込まれはしなかった楚・呉方面がかろうじて漢に対抗しうる力を持っていたと思われますが、斉は漢によってバラバラに分解されて対抗勢力としては虫の息でした。楚王、淮南三王、呉王は漢から離れている事もあってそれぞれ真の独立を勝ち取るために富国強兵に勤めましたが、結局のところ漢もまた同じように力を蓄えてゆくワケで、走っても追いつけないアキレスと亀。 漢が皇帝権力の伸長と経済力回復を進めてゆくのを見た旧六国サイドは、もはや待てぬとばかりに文帝死後の不安定な時期を狙って兵を挙げたのです。 殆ど破れかぶれだった旧六国に勝ち目はなく、これによって漢は旧六国の未征服地域を支配化に置くようになりました。 かくして漢は秦代の領地を回復し、名実共に統一王朝となったのです。 匈奴や域外への攻勢、封禅、政治制度の変革といった後の諸政策は、この乱によって国内を統一した事が基盤となっていたのです。 03/07/02 00 08 中国の三国時代に銀(銀貨ではありません。銀の塊です)で代金を支払うということはありえたのでしょうか? ふぉ。支那の貨幣史ではの、三国時代から隋代は貨幣鋳造が低迷した時代とされておってな、貴金属が不足し、まともな銅貨もそろえられんで鉄銭が鋳造されたような時代じゃ。じゃから、日常的に銀貨で支払いをするという描写があれば、それはちと怪しげな記述ということじゃな。 しかし、漢代には金貨銀貨も鋳造されておったのじゃから、いかに国外に流出し退蔵されたからと言ってもな、いつの世にも、ほれ、ある所にはあるというやつじゃ。特別の場合に取引の対価として銀塊が出てきても、それがありえないというほどのことでもないじゃろの。 :03/08/17 22 28 明代に中国で銀が主な貨幣として流通するようになったのは、新大陸の銀をヨーロッパ商人が持ち込んだのと、日本の銀を大量に輸入するようになって、銀の流通量が急増したからでした。そのため貴金属扱いだった銀の相場が急落して、春秋戦国時代以来の主な貨幣だった銅銭に変わり、普通に通貨として流通するようになったのです。 三国時代の史書にも、銀に関しては恩賞として賜ったいう記録が大半を占めますが、魏書甄皇后伝に飢饉でみんなが金銀珠玉を売りに出して食糧を手に入れようとした時、穀物をたくさん持っていた甄皇后の実家が大儲けしたという記事、蜀書麋竺伝に麋竺が金銀貨幣を供出して軍資金にしたという記事、蜀書李恢伝に異民族叟族が納めた牛や馬や金銀や犀の革を軍資金としたので、軍事費に困らなくなったという記事があります。 おそらく、牛や馬や犀の革は軍資金と言うよりは軍需物資に使ったのでしょうが、銀が支払いに直接使われたのが確実なのは甄皇后伝だけで、蜀書の二つの記事では銀を直接軍事費の支払いに使ったのか、それとも銀を売って銅銭、あるいは布や穀物に換えて支払ったのかは分かりません。この時代は貨幣経済が弱体化して現物交換が盛んになった時代と言われています。布や穀物が通貨として流通するようになった時代ですが、それでも銅銭は流通していたようです。 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/17 22 33 北方の騎馬民族は歴代の中国王朝の脅威になっていますよね。でも彼らの生活は南の農耕民族の交易なしでは成り立たなかったとの文章を見かけましたがこれはどういうことなんでしょうか 「南の農耕民族(漢民族)との交易」と思います。遊牧民は、漢民族から、彼らの優れた文化・生産物を交易により入手することで、自らの文化と生活を向上させていったということだと思います。また、漢民族より、北方に生活しているため、天候不順のとき食料を強奪していくこともありました。 :03/08/24 16 17 中国の優れた生産物ってこともありますが、そもそも遊牧の生産物だけではどうしても栄養が偏るので交易が必須です。中央アジアやイラン・アフガニスタンのように遊牧民と定住民が接して暮らしている地域では遊牧民が農耕民と付かず離れずの様がより顕著に見られます。 :03/08/24 19 06 つーか、騎馬民族で間違いとは言わないけど、普通は匈奴なんかは遊牧民と呼ばないかな。 んで、南方の農耕民との貿易がなければ成り立たないという根拠がよく解らないな。確かに、喫茶の習慣が入ってからは茶を入手するための交易が必要になったと言えるだろうが、漢代あたりでは交易が必要ということもないだろ。少量の交易ならば、ずっと継続していただろうが、基礎的な食料などを交易に頼っていたわけではないし、むしろ漢族との交流によって文明化というか中華風に染まった連中が、もともとの質実剛健な遊牧民にとってかわられるというパターンが多かったように思うが。 :03/08/24 19 54 遊牧文化というのは、農耕文化よりも新しく出現し、動物の乳製品や肉類を摂取し、畜獣とともに移動して生活するという自給型の生活文化ですから、衣食住のすべてが一応は自給可能です。 ただ、理解できないのは普段は分散して生活している遊牧民が歴史上、突然のように集結して農耕民というか、この場合は中華帝国に侵攻するのですが、そのきっかけはなんなんでしょうね。人口増圧力によるものなんでしょうか。 :03/08/25 21 23 府兵制についてですが、隋や唐の時代では租庸調のほかに雑徭は免除されたのでしょうか? 「在郷期間は農閑期に軍事訓練を受けた」ってあるから雑徭は不可能では? :03/06/05 11 53 レポートで隋唐演義について調べてたんだが、李淵の後継者争いで李元吉はなんで太子健成の側についてたの?単純に太子健成と仲良しさんだったから? 李世民のほうが、切れ者過ぎたということらしい。 この三人兄弟は仲がよくて、かなり年をとってからも、いっしょのベッドで寝ることも合ったらしいが。ただ、世民が切れ物過ぎて不気味という感じを受けたらしい。 04/06/27 15 11 中国で10C頃から全体的に都が北に移動した理由って何? その質問には大きな事実誤認があります。10世紀頃の中華の統一王朝北宋の帝都開封は、現在の河南省です。秦の帝都咸陽(現在の陝西省)、前漢や唐の帝都長安(現在の陝西省)、後漢や西晋の帝都洛陽(現在の河南省)など、過去の統一王朝の首都と比べても、特に北に寄っているということはありません。 初めて中華の統一王朝の首都が北方に置かれたのは、13世紀の元帝国の大都(現在の北京直轄市)が最初です。 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/20 22 06 ヒスイの戦い(383年、東晋と前奏の戦い)で前奏が約90万の軍隊だったのに対し、東晋はわずか7万人ほどで勝利したらしいです。いったいどんな戦い方、または何が起こって前奏は敗北してしまったのですか? 簡単に言うと、滅ぼした異民族を信用し、重用してきたが、肝心なときに裏切られた。東晋は漢族の正統な王朝でもあるし、そういう意味でも士気が上がらない部分があった。 簡単な説明なら ttp //members.jcom.home.ne.jp/collonnade/china/china03s.html この辺にもある。 04/09/20 19 22 32 徽宗皇帝って、連行された後どうなったんですか? 徽宗皇帝はね、満州の奥地に連行され、そこで自給自足に近い俘虜生活を強いられた。そして失意のうちに五十代で亡くなった。息子の欽宗も、やはり捕虜のままで数十年後、失意のうちに亡くなった。 04/07/03 23 10 岳飛廟の秦檜像にツバ吐きつけ 実利追求に徹している支那の一般民衆が急に忠君愛国思想に目覚めるかしら?やっぱり御利益があるって迷信が存在するので皆ながやるようになったらしいわよ。そうじゃなきゃ岳飛廟の秦檜像にツバ吐きつけないでしょう : 01/11/05 17 23 この習俗の背景には支那人の「痰吐き文化伝統」というべきものが存在します。何年前でしたか清朝の宮廷文化に関する展覧会があって、乾隆帝の書斎が復元展示されていました。そして豪奢を極める調度の中に立派な痰壷が帝のお机の傍わらに麗々しく置かれておりました。 「日中国交回復交渉」の際に小平だったかが田中角栄首相とやりあってる最中、むづかしい局面にさしかかったら突然と氏が立ち上がって部屋の隅までゆくと、「カーッペッ」という喉音高く盛大に痰を吐きつけたそうな。さすがに負けない角栄氏これまた別の隅に「カーッペッ」 : あやめ : 01/11/07 20 36 科挙に監視員はいないのでしょうか? カンニングは見つかれば罰せられたんでしょうか? 監視員はいませんが、答案のチェックは大変厳重だったようです。誰の答案かわからないように名前に封をしたりしてます。それでも、はじめのほうに名前のわかるような書き方をして、試験官とグルになっていたのは結構いたとか。清の末期にバレて試験官も受験生も何人も死刑になりました。 :アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ :03/07/27 15 52 ちなみに、科挙の主席合格者を「状元」と呼ぶが、横浜中華街の「状元楼」の名はこれに由来する。まぁこれはどうでもいいな。んで、主席合格者の答案はほかの受験者の答案の上に置かれたことから、優れた文章や業績の形容として「圧巻」という言葉が出来た。 :03/07/27 16 29 宋景詩という人について教えてください 宋景詩は山東の堂邑の出身で豆腐屋をやっていた貧民でしたが、白蓮教系の八卦教に参加していたようです。咸豐十一年に地租増税反対一揆を起こし、白蓮教軍の一翼として「黒旗軍」と呼ばれて活躍していましたが、形勢が不利になると清の討伐軍に投降し、勝保の下で安徽・河南の捻軍や陝西の回民の反乱の鎮圧に従事していました。 翌年には脱走して表面上だけ清軍に協力するふりをして、白蓮教軍の鎮圧に差し向けられると白蓮教軍や太平軍の残兵を収容し、自軍の隊伍を強化拡大し地主の民團勢力と衝突を反復していました。当初は山東や河南の民乱に牽制されて武力対応の余裕がなかった清側も、同治二年四月には僧格林沁の軍を動員して九月には開州で宋軍を撃破しました。その後は安徽で捻の苗沛霖や湖北で太平軍の張宗禹の軍に参加して活動を継続し、四年には曹州で僧格林沁を戦死させたのは彼だということになっています。 その後の消息はやや曖昧で亳州で捕縛され安徽省城で処刑された、許連升という拝み屋の男が実は宋景詩であったとも、それは別人で光緒二十六年に故郷に姿を見せたとも色んな伝説が語られているようです。 彼の名は「清史稿」の「文宗本紀」や「勝保傳」などに断片的に出てきますが、余り注目されない人物でした。一躍有名になったのは「武訓批判運動」に関連したキャンペーンからです。当初は山東地方で乞食から富農になり慈善事業を行った武訓という人物の顕彰運動があり、実は彼は偽善者で農民の抑圧に狂奔していた「悪覇地主」の典型だという暴露キャンペーンに変わっていきました。その中で武訓の後援者の揚樹坊の一族が中心となっていた柳林鎮の民團が、宋景詩と最も激しく対立していたことが明らかにされ、毛主席のお声がかりで「農民起義英雄」として宋がクローズアップされることになったのです。当時の編纂に係る「宋景詩史料」という本があったと記憶します。 : あやめ : 01/11/12 13 56 清王朝は江戸幕府(当時の日本の意で)に対して属国支配あるいは従属支配冊封朝貢体制に組み入れていたのでしょうか? 清朝は日本に対してどのようにみていたのでしょうか 日本は確かサンポ事件以来中国締め出しだったと思う。中国側にとって見たら冊封体制に入っていたのは戦国中期まで。 でも琉球台湾や東南アジアで出会い貿易をしていたから中国との密貿易はあった。 04/02/09 01 08 江戸期の日清関係は民間交易のみであり、朝貢・冊封関係は存在しません。江戸日本は清を中心とする国際秩序の外側にいます。徳川将軍が対朝鮮外交で「日本国源○」とのみ称したのもそのためです。 清朝から見て日本は朝貢国でも属国でもありませんが、対等とは見ていません。単に礼儀知らずの野蛮国という扱いですw 04/02/09 01 11 江戸幕府と清は貿易してませんでしたっけ? 幕府は、オランダと清だけ公認で貿易できるみたいな。やはり幕府認定の清との貿易となると、朝貢体制に組みこまれないでできるんですか? それと、鄭成功が日本に援軍を依頼した件に対して清朝は江戸幕府に何も言わなかったですか? ふぉ。明清代の中華帝国の貿易関係はの、朝貢と交市という二種類があったのじゃ。朝貢貿易というのは良く知られておるとおり、形式的には貢物を持っていくと中華皇帝から見返りとして下賜される品々があり、遠隔の地から朝貢すると大きな利益を得ることが出来たというものじゃな。 もうひとつの貿易形態としては、交市というものがあって、これは単なる交易関係を結ぶもので、朝貢は儀礼をつかさどる礼部が対応したのに対して、交市は蛮族を相手にする理藩院が対応したのじゃよ。 朝貢国はその実態として、実際には清の軍事力の及ばない遠隔の地から貿易にくる者を「中華帝国の繁栄を慕って蛮夷が服属してきた」ということにして利益を与える場合と、朝鮮などのように実際に清の軍事力の及ぶ範囲の従属国が混在しておっての、すべての朝貢国が有利な貿易関係にあったわけでもないのじゃ。 で、日本は室町時代の足利義満が明に対して有利な貿易を求めて朝貢関係を結んだが、これを次の代の将軍が破棄しておるので、江戸幕府の代では朝貢ではなく、交市という位置付けでの交易が行なわれたということじゃ。 本来、朝貢関係を結んでこれを破棄すれば、中華帝国から膺懲の師といって、軍事的介入を受けてもしかたがないのじゃが、明からすれば、元寇の失敗の故事もあることで、 「野蛮人はしょうがない」ということでそのままとなったということじゃな。 495 :世界@名無史さん:04/02/09 22 15 495 「理藩院」を持たなかった宋代・明代において、「交市」を管轄していたのがいかなる機関なのか、解説してください。 04/02/09 23 19 中国と朝貢国との冊封体制が長期にわたって維持されたのはなぜですか? 圧倒的な軍事力と経済力の差。 周辺国の朝貢・冊封体制は、中原に大国が形成されやすかったことの結果にすぎないし、経済的・軍事的に自立していれば、例えば、日本のように朝貢も冊封も必要ない。 朝貢したのは、なにも、外国ばかりではなくて、本国の中でも領地を封じた諸侯からの朝貢を受け、冊封を出している。 本国、属藩・外国という意識すらなく、中央に近く御しやすいところから段々と遠方にゆくに従い思い通りになりにくいところ、というくらいのものだ。影響力が限界のところ、ビルマとかマラッカのように、言うこと聞かないから攻めてねじ伏せるというようなことがおよそ不可能なところでは、大国に対する儀礼以上のものは求めず貿易を許すという形になるわけだ。 04/06/04 06 38 朝貢する側にとっては、朝貢は、朝貢という名目の実質的な貿易で、直接的な利益につながる。 朝貢させる中国にとっては、朝廷の権威づけとなる。 双方にメリットがあったので長く続く。 438 :世界@名無史さん:04/06/02 17 44 438 それは、今のビルマやらタイやらヒマラヤやらジャワ島やら中央アジアなどの遠かったり小国だりするところに対しての施策。 東トルキスタンや蒙古や朝鮮なんかの近接の属藩には、軍備を制限したり、経済力を持たないよう収奪的な朝貢を要求したり自立しないよう産業を制限したり、人質として世子を本国に連行し属藩の王位の継承は本国で洗脳済の世子に継承させるよう干渉したりなど、がんじがらめだよ。 452 :世界@名無史さん:04/06/03 20 02 朝貢であれば 452の「収奪的な朝貢」はあり得ない、と言っておく。 その他の施策で経済力が過度に付かない様にコントロールすることはあったが、それは朝貢とは直接関わりはない。 それ以外については、まあ、そんなもんかな。 朝貢は、相手国にとっては経済的魅力は大きいが、中華帝国にとっては、周囲の安全保障と言う観点から見れば「損」と言うわけではない。王朝の盛時には「得」な事の方が多いと思われ。ただ、王朝の衰退期には、朝貢が重荷になったことも確かな様で、朝貢の回数を限ったりしようとする例も見られた。 455 :世界@名無史さん:04/06/03 22 52 455 遠方の諸国はそうだ、 背後にも中原王朝の味方が居るぞ、と、近隣の属藩に示すために、その背後たる遠方の諸国の朝貢には手土産を沢山持たせるし、とりたたて支那の側からの要求も無い。手土産もたせるのが財政的に苦しくて、朝貢の間隔を空けるよう要請することもあったようだ。 近接した属藩に対しては、締め付けの意味合いの方が大きくなる。支配体制なんだから、他の施策とも連携して行う。一種の税だから朝貢の品目や数量にも注文が付くし、王族の中から宗主側が指名して直接来させる、返使という名目での監督官の派遣もあるという具合にガチガチだぞ。 明や清の、琉球に対する扱いが、タイやビルマなどの遠方との扱いと同じくらいに緩く、逆に島津藩や徳川幕府からの扱いが過酷だったために、「朝貢・冊封は緩い」という誤解を生じたのだろう。 朝鮮、新疆、蒙古など、近接の属藩に対する締め付けは過酷なものだったことを忘れるな。 456 :世界@名無史さん:04/06/04 06 12 456 だから、「朝貢」に関して言えば「収奪的な朝貢」はあり得ない、けれども冊封体制そのものが収奪的でなかったかと言えばそんなことはないってことだよ。 朝貢と冊封は確かに対のものだけど、意味合いは違うんだから一緒にするな、と言うことだ。(収奪的に朝貢を行ったら、その王朝の権威が疑われるぞ。)朝鮮や吐蕃、西域諸国も、こと朝貢のみで考えれば中国の出超だったのは間違いない。 何度も言うが、冊封体制そのものは近隣諸国にとって収奪的でないとは言えない。人質もとられたし、軍隊に兵士を徴用されたり、多くはなかったものの、王自らの入朝を求められることもあった。 458 :世界@名無史さん:04/06/04 07 39 458 朝貢して冊封を受けないことは無いし、冊封こそが自体が本国属藩双方の朝貢の目的なんだから、同時に論じなければならない。 隣接地では、専ら朝貢は徴税だ。権威は圧倒的な軍事力があるだろう。時代の近い方から、清、明、元と、三つの中原王朝から連続して直接的な派兵を受けて、いわば、力づくで朝貢を要求されている。この場合には本国から与える文物による権威づけは要らない。 明と足利政権、明・清と琉球のような、中原との軍事的な対立の無い場合には、おまぃさんの言う、大国の威信づけのために与える文物が華美だったが、これはこれで、同じ形をとりながらも別の目的だったことを忘れないように。 465 :世界@名無史さん:04/06/04 18 49 ネルチンスク条約でロシア~清が対等な立場で臨んだのは何故ですか? 三藩の乱も制圧して怖いもの無しだと思うのですが・・・清の絶頂期ですよね 欧州が中国と同格と認識されてたのですか?それともロシアが威圧したのですか 康熙帝がその辺の”格”にこだわらなかったのでしょうか。 条約により、中国はアルバジンの土地を中国領と確認、ロシアは交易の実益を得た。当時ジュンガル地方のガルダンと清は抗争中でロシアと連携するのを恐れる弱みがあった。中国向けの文面は朝貢体制をにおわしていた。 04/02/25 23 33 「清末売春事情」 時代としては咸豐からということで、場所は黄河流域を代表する北京、長江流域を代表する上海、珠江流域を代表する廣州、この3都会について変遷を記述することにします。 わが文化二年に刊行された岡田玉山編「唐土名勝圖會」には嘉慶年代の北京城内の青楼の景観が描かれていますが、東城の燈市口の一帯のことだそうです。清末のジャーナリストとして知られている王韜の「燕京評春録」によると、北京の遊郭は咸豐・同治時代は多くは城外に在ったのが、光緒の初年に西城内の磚塔胡同(俗に口袋底と呼ばれている)に移ったということです。民國の之誠著「骨董瑣記」に「塔西雑記」を引いて磚塔胡同・城隍庵・銭串胡同・大院胡同・三道柵欄・小院胡同・玉帯胡同などの色街が複雑に連接していると記述しています。ごぞんじかもしれませんが「胡同」というのは北京に特有の横丁というか路地です。そういう裏町みたいなとこに娼家が数十戸ひしめいているわけです。経営者は当初は北京または近郊の出身者だったのが清末には天津人が大半になっていたようです。こうした娼家の大店のうち雙喜・天喜・天順などは自己資金で地所を買い求めた者であるが、それ以外は殆どが賃借であるとも書かれています。こうした店は光緒初年は皇族や官僚で賑わっていたのが、後にお上から城外に追い出され光緒末年には殆ど民居になってしまっていたようです。 清代の野史の中でも最も知られている「清稗類鈔」には「道光以前は京師にては最も像姑(かげま、ニューハーフ)を重んじ、絶えて妓寮少なし、金魚池等の處は輿隷(江戸で言えば中間や人足)の群集の地のみ、咸豐時には妓風大いに熾んにして、臙脂・石頭の胡同は家ごと紗燈を懸け、門には紅帖を掲ぐ、毎ねに午を過ぐれば香車絡繹として、遊客は雲の如し、酒を呼び客を送る聲は夜を徹し耳を震はす、士大夫は相習ひて風を成し、恬として怪と為さず、身は敗れ名は裂け、且つ此れに因りて官を褫(うば)はるる者あり」と語っています。 あやめ : 01/10/29 16 01 「清末廣東売春事情」 廣東では咸豐・同治から光緒中葉まで穀埠での色町の繁盛は変りませんでしたが、光緒三十一年に廣東総督は海岸に長堤を築いてしまい、穀埠・迎珠・合昌・水鬼トウ(乙の尾の延びた上に水を乗っけた不思議な字、水溜りという意味、廣東語の表記のためだけに出来てる文字です)にあった大小の花舫は一切をあげて珠江の下流に移されました。デルタにくっついていて「大沙頭」と呼ばれることとなりましたが、それから5年間は昔と変らぬ繁盛が続きました。光緒三十三年冬から「天趣報」という新聞が「花榜」(人気ランキング投票)で金を集めるといったことも始まりました。 翌年の七月に台風が襲来し大沙頭に上陸しました。「花舫」すなわち廣東独特の船上娼家は大半が破壊され、娼妓は全て陳塘に籍を移動しました。その後に花舫が大沙頭に帰ったのは6割弱に止まりました。宣統元年正月には財記という店の船が大火を起こし瞬く間に隣接する舟に次々と広がり、大小数百の舟が一度に灰となり、運良く免れたのは2-3割しか残りませんでした。この事件から穀埠艇の名は歴史上のものとなり、代って陳塘と東堤の全盛時代となりました。 : あやめ : 01/11/15 19 59 陳塘は光緒年間から盛んになってきた地帯で、大巷口・新填地・陳塘南・隆吉里に分れており、クリークで仕切られているので妓女は小舟で往来していました。陳塘の遊客は大体は商人でした。光緒三十一年からは「嶺南第一楼」などの大酒楼が建ちあがり、それまでこの辺の酒局は花代5銭くらいであったのが1元を加え、従前の穀埠・迎珠並になりました。前回に書いたように三十四年の大風災で大沙頭の娼妓が悉く陳塘に移動してきて、人が犇く状態になったのを心配した陳塘の女郎屋の主人(亀公)たちは大籬(大寨)を建築し、その数は35軒に上り抱える娼妓も凡そ2千余人にもなりました。前回に述べた宣統元年の大火にも辛亥革命の際の東堤の駐兵といった事態にも、陳塘の全盛は全く影響を受けませんでした。ところが間もなく廣東都督の陳炯明が禁娼令を出したので、陳塘は荒廃し2年後に龍済光に代って娼妓も古巣に戻りはしましたが、もはや過去の繁華を取戻すことはできませんでした。 続きます 地名が現代のどこに相当するのか地図を見ても分らないのが残念、大沙頭だけは現在も同じなので多分その近辺と対岸一帯じゃないかとは想像するんだけど。 あやめ : 01/11/24 15 27 陳塘とともに宣統年間から繁栄に赴くようになったのが東堤です。宣統二年に廣州の長堤が竣工すると亀公(女郎屋の主人)は資本家や地方役人の協力を得て、東濠橋の傍らに4層建てで底地面積16間の洋式高楼2軒を建て、また橋脚地に「廣舞台」と呼ぶ戯台(芝居小屋)を設け、その後ろの空き地を馬路(大通り)にして商店街と「東園」という公園を造りました。その上で金花巷や清源里など城内の妓院をすっかり東堤の後面にある沙地に移しました。更に大沙頭に浮かぶ妓艇も引き上げて陸地に開業させました。かくて東堤の妓院は12軒に上り南岸の天香・綺翠の両院と併せ14院に妓女千余名を抱え、宣統二・三両年は陳塘と東西の張り合って全盛を現出しました。 ところが間もなく辛亥革命が勃発し民軍が廣州に入城し、武装した兵隊に占拠された色街の女たちは逃げ出して四散してしまい、その上また前回にも述べたとおり陳都督が売春を禁止したため東堤は忽ち寂れてしまい、娼妓たちはまた陸地から妓艇に戻ってしまいました。これまで花街の地域的変遷を中心に記述してきましたが、次回は少し立ち入って売春稼業について書きます。 あやめ : 01/12/08 19 31 アヘン戦争とか義和団事件とか中国は沢山賠償金を払ってますが、大学設立援助とか、鉄道建設とか中国に再還流しているものも多いようです。 あれは列強が善意でやっているんでしょうか?したたかな中国が条件つけて返還してるのでしょうか? 帝国主義の意味について、ちょっと詳しい本を読んでみましょう。そうすると理由が分かります。 ものすごくはしょって言うと~ 帝国主義の目的って言うのは植民地を支配し、住民を奴隷のように働かせることではありません。原材料を輸出し、肥大化した自国の工業生産物を消費してくれる「市場」を必要としていたのです。 ところが、文化も生活様式も違う他大陸の住民にヨーロッパの生活スタイルに合わせて生産された工業製品に対する需要があるわけありません。ではどうするか…自分たちが支配し、生活スタイルをヨーロッパスタイルにすればいいのです。そこから植民地主義が始まりました。 さて、問題の中国ですが、あの国は当時から巨大な人口を持ち、潜在的市場価値が極めて高かったのです。そこで、当時の清政府に対し、市場を開放し、自国の商品を輸入するように働きかけましたがあえなく拒否されます。そこで、武力に訴えて市場を開放させようとしました(阿片戦争、アロー戦争等です)。 これらの戦争により、清国の市場は開放された訳ですが、それだけでは魅力的な市場とは言えません。そこで、鉄道等のインフラを整備して社会資本を増し、大学設立等を援助して、大きな市場に育てようとしていたのです。 なんか抜けの多い説明でしたけど、理解できましたでしょうか? ちなみに同じ帝国主義といわれておりますが、ロシアと日本についてはこの原理では説明できません。個々に理由はあるのですが、そのあたりは本当に詳しい識者にお任せします。 蛇足 現在の日本のODAは、形を変えた穏健な帝国主義の表れであるとする学者もいますし、グローバリズムは「微笑む帝国主義」とも呼ばれますね。結局のところ、手段は変われども国家の意思決定の方法は、未だに余り変わっていないのかもしれません。 :03/08/06 20 31 帝国主義が儲かっていたかを検討すると、時代が下りヨーロッパが豊かになるにつれ、儲からないという結論が出てくる。豊かな国が貧乏な国から略奪しようとすると、コストの方が超過してしまうのだ。 ただそれは、国民経済全体についてプラスにならないということであって、「関係者」は莫大な利益を得る。本国では相手にされないようないい加減なやり方が通用するから。 その辺は現代でも同じで、植林せずに木を切ったり、公害で周辺住民を苦しめたりして、その結果安い物を輸入できても、日本経済には何のプラスにもならない。むしろ逆だろ。しかし不良企業には凄い儲けになる。その黒い利権に政治がくっつけば、帝国主義ができあがる。アジアのことは私は知らないが、中南米での米系企業と米国外交のやり口はそりゃ酷いものだ。 ODAにもインフラ整備にもいいものはたくさんあるが、その金は国民の税金であって、「関係者」が払っているわけではないからね。 610 :世界@名無史さん:03/08/06 22 58 610 それは政治学用語や歴史用語で言うところの「帝国主義」じゃ無いですよ(汗 しかし不良企業には 凄い儲けになる。その黒い利権に政治がくっつけば、帝国主義ができあがる。 こう言うのは、ただの収奪経済です。まあ、戦後のデモとかで騒がれている「アメリカ帝国主義」というのはそういう事実を指すんですけどね。 :03/08/06 23 16 北清事変で列強を憎悪する義和団はともかく、絶対勝てるわけないとわかってるのにどうして西太后まで列強に宣戦布告したのですか? 映画「北京の55日」(ふ、古い!)では、脅迫されてではなく、双方の進言を聞いて義和団と組んで排外主義を選択したことになってます。 というか、当時、戊戌変法で光緒帝を幽閉していたんだから、基本的に排外主義が政策の基本になってたんで、義和団が武力で北京を占拠している状態での列強への宣戦布告というのはそれほど不思議な状況ではないよ。 02/05/27 22 38 現に義和団を鎮圧できない状況の下で、列強に依頼して義和団を鎮圧してもらって、征服王朝としての命脈を終わるか、扶清滅洋をスローガンにする反乱軍を味方にして、一戦交えるかの択一だったってこと。 :02/05/27 23 59 義和団事変について質問です。 出兵した8カ国の中にオーストリアやイタリアが含まれてますが、この国々も中国に権益があったんでしょうか。 また、北京議定書のとき、ベルギー・オランダ・スペインが加わってるんですが、なんでですか。 外国にいる自国民が襲撃されたのに保護されないとき、自国民保護のために出兵するのは当時(現在も?)としては常識です。事件終結後、賠償を要求するのもこれまた当然。 04/09/22 23 11 26 オーストリアはドイツと共に青島に権益を持ち、イタリアも上海などの共同租界に権益を持っています。 ちなみに、第一次大戦の日本軍による青島攻撃では、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の巡洋艦が最後まで抗戦していますし、第二次大戦まで、イタリアは軍艦を中国に駐留させており、あまつさえ河川用砲艦を保有していました。 また、ベルギー、オーストリアなどは宣教師による布教活動の自由を清朝に認めさせていますし、鉄道敷設権も有していたはずです。 04/09/22 23 30 45 映画のラストエンペラー観たんですが、西太后が崩御したときに、口に突っ込まれた黒真珠は何でしょうか? 何の意味があるのでしょうか? 腐敗防止の為に「玉」を含ませたのでは?我が国でも古代には行なわれた様です。『東方見聞録』にジパングの習慣として真珠を死者の口に入れると書かれているのも、これに関係したものでしょう。 当時の我が国にはそんな習慣は無く、真珠の価値も認められていませんでした。 山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/24 23 25 32 李鴻章の北洋艦隊の戦力は日本海軍よりもまさっていたのですか? 軍事力の比較は難しいです。ただ軍艦の数字上の性能なら北洋艦隊が勝っていました。 ところが、訓練はほとんど出来ていなかったようですし、そもそも北洋艦隊自体が、李鴻章の私兵的存在で南洋艦隊等との協力があるませんでした。 士官たちも、海軍の知識に怪しく、軍事顧問団のドイツ人が実質指揮しているようなものでしたので、日本海軍に負けたのも無理はないといった感じです。 02/03/02 17 45 結果が解ってしまっている現在から見ると、比較は難しいということになりますが、開戦前の艦隊戦闘力の比較であれば、定遠と鎮遠の2隻の30センチ砲装備の戦艦を保有していた北洋艦隊が優勢と考えられていました。 日本海軍にはこの2艦に対抗できる艦が存在せず、最大の扶桑も両艦の半分の排水量で、無理に30センチ砲を搭載した三景艦も、単なる気休め程度で、実際には船体に対して砲が強力すぎて実用にはならない状況でした。ただ、訓練不足と兵員の質が低いために、訓練度に勝る日本海軍が小口径の速射砲によって戦闘力を奪い、圧倒したという結果になりました。 しかし、艦隊決戦では定遠と鎮遠を沈めることはできず、水雷艇の夜襲でやっと定遠を撃沈しています。日清戦争全体の帰趨からすれば、黄海の制海権を確保した段階で、日本海軍の勝利ということですが、単純に北洋海軍より日本海軍が強かったとは言いにくいですね。 02/03/02 22 45 いつになったら『清史』は編纂されるのでしょうか? 『清史』は台湾の中華書局から出版されています。 :02/11/25 06 51 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約で領土の割譲と賠償金を得ましたが、三国干渉によって遼東半島を返還させられました。このとき、日清間で改めて講和条約を改正したのでしょうか。それとも条約上はそのままだったのでしょうか。 日清間での賠償と領土割譲については下関条約で完結している。 受け取った遼東半島を日本が返還したのは、あくまでも日本独自の事情によるもので、下関条約に何ら影響を及ぼさない。従って、講和条約の改正は行なっていない。 04/02/09 22 18 袁世凱の家族って袁世凱の死後皆殺しにされたって本当? 殺されていない。 袁世凱には妻一人、妾9人。 男子17人の子供、女子は不明。 長男克定。一男二女。生存。 次男克文。 03/04/16 01 09 辛亥革命のとき欧米列強はなんで、やり易い清につかなかったの? 1911.10~1912.2の時点では孫文らはまだ反乱勢力だろ。それに、各省が反旗を翻しても、欧米列強が力を与えれば、簡単に鎮圧できたのに 欧米列強の帝国主義国家にとって、スペインなどの略奪型の植民地政策と異なり、資本進出が目的でしょうから清朝のような旧式体制よりある程度の近代化は欧米にとっても都合がよいでしょう。 :02/11/10 20 15 孫文って結局は勢力を維持するために袁世凱に革命を売り渡した張本人じゃないのですか? 北京,南京とも手づまり状況のもとで孫・袁間に電報談判が行われ,清国皇帝の退位と袁世凱の共和制賛成を条件に,孫文は大総統位を袁世凱に譲ることにした。2月12日,皇帝退位の上諭が発せられ,秦の始皇帝以来の王朝支配の終焉をみた。孫文は袁世凱に位をひきつぐまえに民主的な臨時約法(軍政から憲政にいたる過渡期の最高法規。憲法と考えてよい)を作りあげた。立法機関(臨時参議院)は人権を確立し,民主を擁護するための多くの法律を制定した。4月初め,孫文は辞職し,南京の諸機関はみな北京へと移り,新しい共和国は袁世凱のもとに統一された。 革命の成果として誕生した民国では,人々は自由を享受し,未来への希望にもえていた。政党の乱立,新聞の族生はその社会的現象であり,辮髪の剪截,纏足(てんそく)の解放はその個人的表現だった。武昌蜂起1周年に際し,北京では天壇が一般開放されたが,これほど帝国から民国への移行を実感させることはなかったろう。孫文は袁世凱と協定を行い,政治を袁世凱にまかせて,自分は10万kmの大鉄道網の建設に当たることにしたほどであった。 しかし,北洋軍閥の頭目と革命家が現実に歩調を合わせて前進することはできなかった。12年暮れから翌年初めにかけて中国最初の国会選挙が行われ,袁世凱の与党が敗北した。勝利した国民党は中国同盟会を母体としたものだったが,反袁というわけではなく,責任内閣制のもとで民国を運営していこうと考えていたにすぎない。しかし袁世凱はそれも独裁への障害であるとし,3月,国民党の中心人物である宋教仁を暗殺した。 孫文はこの段階で反袁武装闘争の必要を認識したが,黄興をはじめ多くは法律による解決を主張した。その間に袁世凱は国会の権限を踏みにじってイギリス,ドイツ,フランス,ロシア,日本の5国銀行団から2500万ポンドにもおよぶ善後借款を結び態勢をととのえた。列強は革命の勢いの強いあいだは中立を装っていたが,今や公然と北洋軍閥を清朝にかわる中国での代理人に仕立てあげることにしたのである。7月,追いつめられた国民党側は九江,南京等で蜂起したが,いずれも簡単に袁世凱の手でねじふせられた。いわゆる第二革命の敗北である。武昌蜂起から1年有半,革命派は政権を握りながら国民の期待にほとんど応えられなかったことにより,孤立状態で蜂起したのである。たしかに彼らは,前も今も反動的独裁者に対して闘争をしかけたのだが,前に彼らを支持した諸勢力は,いまやほとんど背を向けてしまったのだから,その敗北も必然だったわけである。 辛亥革命は民国を作りだし,民国は袁世凱に献げられたかのようにもみえたが,それは同時につぎの跳躍のための屈膝でもあった。 03/04/16 11 09 清廉で真面目すぎる人間が政権とると、周囲の政治家や国民にも自分と同様の清廉さや真面目さを求めてしまい、けっきょくろくなことにならない、という典型。 日本では松平定信なんかがこのタイプ。 03/04/16 13 34 でも結局このときの決断が結果として、国民党を誤解させ、革命理念を踏みにじられ、日本の侵略を許し、支配者が清から袁ら軍閥にかわっただけじゃん 急ぎすぎてあせった結果がのちの40年におよぶ泥沼の内戦に続いたんじゃないの? 03/04/16 20 06 この決断がなければ、清皇帝は退位しなかったんじゃないかな。やむをえなかったと思うが。侵略は列強・日本に責任ありだし、内乱は北伐で統一されるはずだったのでは。何かあの時の対案は何かありますか? 03/04/16 22 40 袁世凱の野望を見抜けたなかったあるいは信じていた孫文が痛い 。彼は立憲元首で名誉職にしようとするつもりみたいだったけど 。だいたい孫文は袁世凱の事知ってたのか? 日清戦争、戊戌政変、清末の袁世凱を観察していれば十分に予想できたこと 。双十事変が予想外な事で急な決断を迫られたとはいえはっきり言って極めて下手糞ななやり方だったと思う 03/04/18 00 29 現代中国で孫文はどういう扱いになっているのでしょうか?孫文を評価するということは台湾政府の正当性を認めることになりそうだしかといって毛沢東も孫文の下で働いてたこともあり・・・ 中共にとっても、「国父」です。 孫文を評価するということは 台湾政府の正当性を認めることになりそうだし それは違います。 孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げて共産党と合作しました。台湾政府を樹立した蒋介石は、孫文と革命への裏切り者という評価ですので、孫文を「国父」あるいは「革命の父」と尊崇することに矛盾はありません。 :02/07/31 17 51 洪秀全の最後を教えてください。資料集だと自殺、別の本には病死と書いてあるし・・。一体どっちが正しいのでしょうか? 高島俊男の本によれば、自殺説と病死説、どっちもそれなりに正しいとのこと。 もともと洪秀全は科挙に4回だか5回だか連続して落第した時に高熱を出して寝込んで以来ちょっと頭がおかしかったらしい(というかその寝込んでいる間に夢の中でキリストに会ったと言って教団を作った)。 で、死の直前、官軍に包囲されて食料が残り少なくなり、側近に対策を尋ねられた洪秀全は「甘露(雑草)を食え」と指示したそうな。 当然部下はみんな拒否したんだけど、洪秀全はそれに怒って「よし、誰も食わないなら俺が見本を見せてやる」と言ってそれ以来雑草しか食べなくなり、結果栄養失調が原因で死んでしまったとさ。 : 03/02/28 17 23 中国内戦っていうのは米ソの代理戦争じゃないよね? でも、共産党はソ連が援助したってのは聞いたことがあるんだが… うん。良い質問だね。 戦前、戦中の共産党はソ連共産党が指導するコミンテルンのもとに統制されていたんだな。つまり、各国の共産党はコミンテルンの指導のもとに、実際にはソ連共産党の都合で行動させられていた。理論的には「労働者の祖国、ソ連邦を防衛することは、世界の共産主義者にとって急務」だということで、各国の共産主義活動や共産主義革命よりも、ソ連という唯一の共産党支配の下にある国家を日本やドイツから防衛することを優先させたんだ。このために、コミンテルン時代の各国共産党の行動はかなり解り難くなっている。 中国について言えば、スターリンは中国の共産主義革命よりも、当時は極東地域で軍事的に大きな力を持っていた日本を牽制してくれる勢力に期待し、これを支援することを原則としていた。具体的には毛沢東の共産党よりも蒋介石の国民党のほうに肩入れしていたんだ。そして、中国共産党に対しては、国民党と合作して日本と戦うように「抗日」連合工作を第一の目標として活動するように指示していた。だから、少なくとも日本が敗北するまでの間はソ連と中国国民党の関係は緊密だったんだ。蒋介石の息子で後継者でもある蒋経国はソ連で教育を受けているくらいだな。 日本が敗北した後は、毛沢東に対する支援も強化されてはいるが、国民党とただちに絶縁したわけではなく、毛沢東の優位が明確になるまで、ソ連の立場は微妙だった。だから、単純に国民党のバックがアメリカで共産党のバックがソ連の代理戦争というには、実態はもっと複雑だったということ。 : 03/01/08 21 27 蒋介石ってなんであんなに比較的簡単に北伐を成功できたの? 北伐も細かくみるとかなりの激戦もあったようですが、成功の一番の理由は、黄埔軍学校による系統的な軍事教育による北伐軍は、単なる賃金かせぎの兵の集団より強かった。広州資本の積極的な資金援助もありました。 :02/11/10 20 15 南京国民政府時代、北京はどういう存在だったのですか? 盧溝橋事件は誰が発砲したかは問題じゃなく、北京近くで起こったことが問題であるとよく言われますが… 辛亥革命、袁世凱の死後、北京にも南京にも中華民国が出来たので首都が二つできてしまった。1928年6月15日北伐完了。そこで蒋介石は、北京という言葉は北の首都という意味なので北京を北平と呼び名を変えた。また北京のある省の直隷省をこれも中心のニュアンスがあるので、河北省に変えて南京政府が正式だということを強調した。 03/04/25 23 50 岩波新書128 山本市朗著「北京三十五年、上下」はどうですか? もう少し前は、ピエール・ロチ著「北京最後の日」東海大学出版会 盧溝橋事件の本は山のようにある。 03/04/26 09 28 上海の租界に「犬と中国人は入るべからず」という看板があったのは本当? 黄浦公園(Public Garden)における「犬と支那人は入るべからず」なる表札の有無の問題だが、確かに、こういう表札があった、と言うこと自体は、いわゆる都市伝説の類だったらしい。だがこの話は以下の点で単なるネタとして片づけるわけにはいかない要素がある。即ち、 (1)この伝説は決して日本だけに存在したものではなく世界的普遍性のあるものだったこと (2)さらに現実においても、これに準ずる規則が存在したことは事実だったこと (3)ただその規則による公園への入園制限は、より広範囲の存在に対し適用されたのであり 「犬と支那人」だけが閉め出されたのではなかった、といった点においてである。 この事情について Leo Ou-fan Lee は SHANGHAI MODERN The Flowering of a New Urban Culture in China, 1930-1945 Harvard UP 1999 において以下のように述べている。 A humiliating reminder of the Western imperialist presence was, of course, the notorious sign of exclusion that reportedly hung at the gate of the Public Garden in the International Settlement No Chinese or Dogs Allowed. The real sign, though no less humiliating to the Chinese, did not exactly read this way. It was a bulletin listing five regulations first decreed in 1916. The first regulation reserved parks for the use of foreign residents. The second stipulated that dogs and bicycles are not admitted, and was followed by the third Chinese are not admitted except in the case of native servants accompanying their white employers. The fourth and fifth regulations excluded Indians (except for those in dignified attire) and Japanese (except for those wearing Western clothing).(p.29) つまりこの規則は原則として人間は白人オンリー、自転車や犬もだめ、ということであり日本人すら洋服を着ていなければ入ることは出来なかったし、逆に中国人であっても、召使いとして主人と一緒になら入れた。確かに人種差別的ではあり特に中国人には屈辱的だったろうが、それでも元ネタの「犬と支那人は入るべからず」とはニュアンスが異なることは認めなくてはならない。即ち「犬」は「自転車」と対で入園禁止なのであり、別に中国人を犬並みの存在と見なし、かつ扱った訳ではなかったのである。なお、この規則は1927に蒋介石派が上海の実権を掌握したとき廃棄されたという。 :Krt:03/12/11 21 46 毛宅東って大躍進政策とか失敗してめっちゃ人民死なせまくったんですよね?なのになんで中国のお札になるほど偉大に扱われてるんですか? 北朝鮮みたいに『毛沢東将軍マンセー!』とか言わないんですか? 言うなら『毛主席ワンスイ!』 文革中は「人民の赤い太陽」のような美称が使われていた。 04/02/12 13 39 とにかく創業の君主は中国では偉く、神に等しい。 漢の創業:劉邦 唐の創業:李淵~李世民 宋の創業:趙匡胤 明の創業:朱元璋 清の創業:ヌルハチ 中華人民共和国の創業:毛沢東 04/02/12 14 27 日本は日中戦争などなどで中国でいろいろやっちゃって中国に損害を与えたのに、国交回復したときに中国が賠償金を求めなかったのはどうしてですか?? 日本が戦っていた時期の中国の正統政府は中華民国。終戦時もそう。共産中国は賠償請求できる正統政府でないことが中心根拠だが、蒋介石がいらないと言ったものを中共のほうが要求するのは面子のてんでも言えなかった。 :02/12/03 18 28 賠償艦というものはあったりする 04/06/16 12 27 そうそう、「雪風」他、駆逐艦ばかり7隻。 でも彼女らは中華民国(つーか台湾)海軍の主力として大切にされてねぇ、そこがなんだか嬉しいのですよ。他の国に持ってかれた艦の運命が、標的艦とか解体とか悲惨なのばっかりなんでね。 04/06/16 13 57 日本には支那に対して『ODA払ってやってるんだからよー』みたいな態度を取るの人が多いですが、支那事変の際の賠償金なしを考慮すれば、ODAの名のもとで、使い道はともかくそれ相当の金額を支那に与えるのは当然っちゃ当然じゃないか。って思うんですが、どうなんでしょう? 青木の実況中継には支那の損害額は今の日本円で1000兆円って書いてあったし… 共産党は日本の対外資産をそっくり接収した。 特に満州には日本が最新の工業設備をごっそり置いていってて、国交化正常交渉の時に毛沢東が「満州で十分すぎるほどもらったから賠償はいりませんよ」って日本の外交官に言ったと言う話が残っているぐらいウハウハだったらしい。 向こうは賠償権放棄してるんだから、こっちから自発的に出すこともないんでないかなあ?ODAは中国の外交&対日政策が上手だからいいように金を引き出されてるだけで、「払ってやってるもん」じゃなくて「手玉に取られて払わされてるもん」だから、ODAを出してるから日本の方が立場的に上って訳じゃないんだけどね。 04/08/30 03 29 それとヴェルサイユの教訓から、相手の経済が破綻しかねない額の戦後賠償は取らないってのが国際社会では一般的になってるんで、仮に「日本は中国に1000兆円賠償しろ」って条約が結ばれそうになったら、よそからブーイングくらいまくると思う。 04/08/30 03 35 なんで中国はチベットの独立を認めないんですか? 認めてしまうと中華地域を除く周辺部が全て分離独立してしまうから。 特に新彊ウィグル自治区、貴州省、青海省といった奥地は中国にとっても一種の植民地の扱いであり、チベットだけを特別扱いする訳にはいかない。 ちなみに、新彊ウィグル自治区は東トルキスタン共和国として一時独立してたりする。 :03/11/26 22 29 中華圏ではなぜ奴隷制が発達しなかったの? 西方の奴隷制度の発達というのは、どの時代を想定しているのかな。ギリシャ・ローマの古代奴隷制度なら、対応する時代は周代の奴隷制度だろう。 西欧の古典時代ほどは都市国家間の戦争や征服戦争が多くなかったために、量的には少なめだろうが、制度的にはほぼ等値だと思う。 近代の植民地プランテーションの労働力としての奴隷制度であれば、対応する制度は東アジアには存在しない。 中世から近世の農奴を中心とする奴隷制度だと、ちょっと複雑になるな。中国そのものでは、後漢の時代に奴隷解放が行われて、その後は実質的な農奴制は存在しても制度としての奴隷制はなかったことになる。 ただ、中華圏というのが周辺国を含むのであれば、朝鮮は奴婢という戸籍制度を持っていて、19世紀中頃でも人口の30%は奴隷だった。 02/03/03 12 43 日本史を知るにあたって中国資料が重要な位置を占めることがありますが逆に中国史を知るにあたって日本側の資料はどのような位置づけなのでしょうか? 中国史で引用される有名な日本側史料に『韃靼漂流記』があります。 越前の船乗りたちが満洲へ漂着した時の記録で、当時の満州族の風習を伝えており資料価値の高いものだとされて居ます。平凡社東洋文庫で手軽に読めます。 :おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/09/04 22 32
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536 :ひゅうが:2016/09/11(日) 20 05 55 神崎島ネタSS――閑話「強盗と詐欺師、或いはその複合」 ――1937(昭和12)年7月4日 ドイツ ライヒスバンク総裁(統合経済相)邸 ナチスドイツは、世界からは奇跡的な経済成長を遂げた国家であるとみなされていた。 700万人の失業者はわずか数年で200万人以下にまで激減。 国民総生産も急拡大していた。 だが… 彼らの経済政策には大きな落とし穴があった。 財源としての増税をヒトラーが拒否した結果、その資金源として短期手形発行に頼っていた。 当時のドイツは外貨不足にあえいでおり、公債発行すらままならぬ状態だったからである。 いわば、貯蓄ゼロの人間が新事業をはじめるために無理をして借金を重ねるようなものだった。 しかしそれを利用して経済発展がなされればすべてが解決する。 劇薬ともいえるこの療法は、半分の成功に終わっていた。 軍需が介入したからである。 調達された資金は、再生産性の低い軍拡資金に転用され、所得に寄与するはずもなかったのだ。 さらには外貨の不足がゆえの資源不足が彼らの苦境に拍車をかけた。 とりわけ、消費財の中でも多くの需要があった繊維産業の原料――綿や生糸の不足は、重工業などの軍需以外の景気回復を押し下げた。 さらには統制経済ゆえの賃金コントロールの失敗は、いわば「実態なき景気回復」を継続させたのだ。 しかしながら、世界恐慌直後のような瀕死のドイツ経済が息を吹き返したことは確かであり、それを半分でもやってのけたシャハトら経済官僚の努力は称賛されてしかるべきだろう。 制限されていたとはいえ、その景気回復と経済成長の効果はいわゆる「史実」のニューディール政策のそれを上回ったとすらいわれるのだから。 問題は、これからだった。 際限なく手形の発行を続け、さらに賃金上昇を国家管理にしたままであるのならば、ドイツ経済は悪性のインフレに突入するか債務不履行に陥ってしまう。 原材料や外貨を手に入れ、そして統制を緩めて国民に平和の配当をあてがう時期だった。 「史実」においては、ヒトラーは軍拡をあきらめきれずにこれを怠り、そして、債務不履行になる寸前に火事場泥棒的に戦争に突入することになる。 だが―― 「綿花に生糸。そして、食料品。中国というのは豊かな国だな。」 ヒャンマル・シャハト統合経済大臣は、自身の顔がだらしなく緩むのを抑えきれなかった。 彼を驚喜させたのは、ライヒ(ドイツ)に入ることになった大量の資源の存在がゆえだった。 初期の軍拡で整備された兵器類と交換で手に入れた中国大陸産の生糸や綿花、そして小麦などの食糧。 さらには宝石よりも貴重な外貨。 これらは、国民党軍の全面的な近代化と引き換えに提供された大量の物資の供給契約に基づくものだった。 何よりうれしいことに、この契約で支払われるのはドイツマルク。 言わずもがなであるが、ドイツは金本位制から離脱している。 537 :ひゅうが:2016/09/11(日) 20 06 27 「さらには――」 「どういうわけか」ドイツに協力的になったウィーンのあの大財閥。 彼らが債権を裏書することにより、ライヒの財政は息を吹き返す。 表向きは「オーストリア中国貿易」という名のペーパーカンパニーの債権であったが、その実態は、シャハトがメフォ手形を作り出す際に利用した「冶金研究協会」と同様。 即ち、国民党からの物資供給を背景としてあの大財閥と国民党政府が支払義務を負う手形を発行したのである。 簡単にいえば、かの財閥が有する資金を第三国経由でライヒ財政に注入する。 どうしてこんなからくりをかの「赤い盾」が承知したのか――それは尋常なことではあるまい。 おそらくは、彼らの身柄は…いや、これ以上考えるのはよそう。 資産が目に見えて減少するようなことはなく、彼らの金庫にある債権が手形に変わるだけ。 ロンドンの本家が気付く頃には、オーストリアという国家はすでに存在しない可能性が高い。 オーストリア政府は気付いているだろう。 だが、その独立にこだわるクルト・シュシュニック首相は、空挺部隊とオーストリア・ナチスによるロースシルト邸襲撃と拉致という事態とそれを天秤にかける。 実際、総統が突き付けるであろうあの提案に間違いなくオーストリア国民は揺れる。 高度な自治権を維持したままでの新設された「大ドイツ帝国」への合流というオーストリアに暮らす人々の悲願、大ドイツ主義の提案は。 ただでさえ、彼らは経済の奇跡を遂げつつあるドイツに対して国民の3分の1が失業者であるというみじめな状態なのだから。 「政治統合と引き換えの経済統合。それこそ我々が本当に必要とすることなのだ。」 そう。 そうしてしまえばライヒの経済は再浮上をはじめる。 「しかし、総統閣下が納得してくださってよかった。」 あの日本人たちが先に行うとならなければ、総統も軍需か民需かで最後まで悩んでいたことだろう。 その点は、あの出っ歯で眼鏡をかけたがに股の不細工な民族に感謝せねばなるまい。 常は真面目な官僚であるシャハトは、彼にしては珍しいことに職場で祝杯をあげた。 失脚したリッベントロップの秘蔵のシャンペンは、彼とドイツ経済の未来のように美味であった。 538 :ひゅうが:2016/09/11(日) 20 08 32 【あとがき】――「バブルを処理するには、さらに強烈なバブルを重ねる」by 21世紀の某大陸国家
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ドイツやフランスは、大学に接続する高校が基本的に決まっており、そこの卒業試験に合格すると、それが大学入学資格として認められる。バイパスが存在しないわけではないが、多様な高校からの大学進学を認めるのではなく、多様な高校の存在を認めるが、多様な高等教育機関との接続関係が非常に狭くなっている。基本的にはギムナジウムやリセから大学に進学する。そして、大学に進学資格を付与できる高校は、かなり厳格に科目や単位の条件が決まっており、学校の決める必要な単位を習得するだけではなく、ドイツではアビトゥア、フランスではバカロレアと呼ばれる高等学校卒業試験の科目として、数科目を選択して、非常に高度な試験に合格しなければならない。そして出題採点はそれぞれの高校で行い、問題のレベルが適切であるかのチェックを教育当局が行う仕組みになっている。そして、問題は論述式であり、時間も極めて長くかかる。(公的機関が統一試験として行う場合もある。フランスは全国試験だったが、しばらく前に高校による試験が導入された。) 石川工業高等専門学校主催講演会・シンポジウム「科学教育を考える」で、行われた講演「フランスの大学における科学教育の現状」の中で、シゲル・ツジ(パリ第六大学教授)は次のように述べている。 フランスの高等学校には,哲学の時間がある。そこでは,人生の意味や外国人労働者の問題といったいろいろな社会問題について考えさせる。バカロレア(baccalaureat大学入学資格試験)の中でも哲学は大きな意味を持つ。3~4時間かけて行われる筆記試験では,正誤よりも論理性・客観性が評価される。その分,採点は非常に大変である。こういった試験が日本にはないことを聞いてフランス人の知人は非常に驚く。そうしないとモノを考える訓練にならないのではないかと。実際,日本人は,実験等の技術はあるが,深くモノを考えないと言われる。国際会議に参加する人は多いが,会議をリードする人は少ない。 3~4時間の論述問題は、深く物事を考え、それを論理的に表現する能力を期待するものだろう。そういうメッセージは明確に伝わるに違いない。そして、いかに大変でもあえてその採点の労苦を引き受ける。 しかし、日本の小論文試験は、ほとんどが1時間から1時間半で字数も1000字以内が多い。ユニークな問題で話題になることはあっても、予備校での「練習」効果が顕著で、予め想定して練習した問題の解答を記憶する受験生もいる。 更に、そうした論文でさえ、私立大学の場合推薦入試でわずかに出題されるだけで、多くは専ら「学力」試験で合否が決まる。 より具体的にドイツのアビトゥアの問題で見ておこう。 州によって異なるが、ギムナジウムでは大体最後の三年間をアビトゥアのための教育を行い、四科目を選択して受験する。一科目4、5時間を要する長いもので、筆記試験だけではなく、口頭試験が課される場合もある。州全体で同じ問題で行う統一試験制度をとっている州もある。 歴史の問題を見てみよう。 チューリンガーでの問題であり、270分、資料持ち込みは不可である。課題が三つあるがひとつを選択する。 課題1は、ドイツのナショナリズムの形成やナチズムについて五問出されている。資料として、エルンスト・アルントの「民族憎悪について」とニーチェの「帝国の基礎とドイツ精神」のそれぞれA4で一ページが添付されている。(アビトゥア1) アビトゥア1 課題1 19世紀と20世紀のドイツナショナリズムと国民国家の発展 1 アルンツ(資料1)の「民族的憎悪について」の理解をドイツの状況に関してまとめ 、時代背景からそれを評価しなさい。 2 1871年までのナショナリズムの理念は政治的にいかなる作用を果たしていたのか 、論じなさい。 3 ニーチェの位置を、「帝国の基礎とドイツ精神」の関連で説明しなさい。そして、ドイツ帝国(資料2)の歴史に関する位置を検証しなさい。 4 国家社会主義のイデオロギー及び政治的支配における国家的思惟の腐敗を裏付けなさい。 5 歴史家ハーゲン・シュルツは、政治的に単一化されたヨーロッパの理念について書いている。「ヨーロッパ体制は、国民、長い歴史、諸言語と諸国家を考慮に入れたときにのみ、継続的でありうる」(シュルツ『ヨーロッパ回帰』) 引用文から出発して、ヨーロッパの問題と展望を述べよ。 課題2は、産業革命=社会経済的変化と題する問題である。 課題3は、民主主義と人権と題する問題となっている。 数学の問題も同じように、じっくり時間をかけて解く必要がある問題である。かなりの学習と論理性、表現力が必要とされるだろう。(アビトゥア2) アビトゥア2 数学基礎の問題 こうしたわずかな例を見ても、卒業試験に合格することで、大学入学資格を得られるというと、何となく簡単な感じがするかも知れないが、大変困難な試験であることがわかるだろう。資料の持ち込みなしで、五時間近い論述の文章を書くためには、広範囲で確実な知識とそれを整理する論理性、そして自分のしっかりした見解をもっていなければならない。また資料として出される文献を批判的に読む能力も求められる。
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大抵のアクションゲームは、優れた仲間をゲーム内で集い、その仲間と相手のチームを倒すことが殆どではないでしょうか? つまり仲間が少数精鋭に対し、敵がその何十倍もいるという仕様。 対してFEZは、仲間に対して敵の数は常に4倍に過ぎません。 これは、敵が少ないのではなく、仲間が非常に多いということを意味します。 こんなやり取りを見ました。 SNSの日記巡りをしていた時、盛んに同国民を叩くことに尽くすネツ民。 いくら仲が悪かろうと相手が下手だろうと、Cネツであるならば、ゲームのシステム上どこかの戦場で一緒に戦うことは避けられません。 それなのに関わらず、自国民を叩くことによるメリットは、ゼロです。 叩くのが悪いとは言いません。 しかし非効率なことにエネルギーを費やすなら、効率的なことにそのエネルギーをまわしてみませんか? FEZの過疎っぷりは、もう見て見ぬ振りも出来ないのが現状です。 FEZにおける勝ち方の1つに、「知り合い50人で埋めたら勝てる」っていうのがあります。 自分が高水準ならば、仲間も高水準の奴らばかりだから、それで戦場を埋めれば連携も意思疎通もとれて勝てるんじゃないかっていう考え。 自国の他人は、自国のあなたの友達の知り合いかもしれません。 直接関係がなくても、人が少ないCネツではとても近い繋がりであることは間違いありません。 自国民を叩くことによるメリットはなく、その反面デメリットはどんどん出てきます。 例えばそのプレイヤーが味方の信用を無くせば救出スキルを使わなくなる。 例えばそのプレイヤーが連携を意識しなければ個人プレイにしかはしらない。 例えばそのプレイヤーが楽しみを見出せなければ戦場における裏方意識が減ってくる。 例えばそのプレイヤーがここに居る意義を見出せなければ自然に居なくなっているかもしれない。 このゲームでやる以上、気に入らない奴が居ようとそれを正さなければ未来はありません。 自身を正当化して美化して相手をけなしても、勝利に繋がることは何ひとつありません。 勿体これはCネツに住むあなたを含めた全員であることをわかってほしい。 くだらないやり取りで、一番被害を受けているのがCネツだということを理解してほしい。 また、こうも思います。 敵は自軍ではなく敵軍なのだと。 戦争結果が表示されるのは、皆さん必ずチェックするでしょう。 俺は、「裏方を捨てて好きな歩兵をやらさせて頂いているのだから、上位にランクされているのが義務であり絶対なんだ」と考えて常にプレイしています。これは、自分が好きなことをしているので裏方さんい対する精一杯の自己アピールだと思っています。 つまり、俺はいくらキルが出ようがPCダメが出ようが、ほとんど気にしません。 デッドが多くなることは気にしますが、それでも「K>D(キル>デス)」を維持できているなら問題ないと考えてプレイしています。 それに対して皆さんはどうでしょう? 自分のPCダメに満足する者、デッドランクを見て戦犯扱いする者。 こんなことしか考えられないプレイヤーはCネツにはいらないと思います。 まず、勝利に直結するものは「キルと建築ダメ」であり、続けて「貢献度」だということを覚えましょう。 この3つを見て、この戦場はどうだったという客観的評価が出来るのです。 それに対してPCダメは誰でも出せるものです。 キルが取れる者はPCダメが自然についてきますが、PCダメしか出せない者にキルはついてきません。 また、デッドランクに載るのは確かに良くありません。 ただ、それを戦犯扱いするのではなく、“どこをどうしてほしい”を伝えることが正しいと思っています。 ですが筆者が本当に言いたいことはこのような事ではありません。 戦争結果では、援軍戦でない限り、「ネツ50と他国50」が表示されます。 つまり、いつでもどこでもネツ民である仲間の情報は手に入るのです。 FEZは国同士の戦いであり、敵国を倒すものです。 仲間をけなす要素はいりません。誰が活躍してないとか、誰が戦犯だとか、そういうのはいりません。 でしたら、“その結果を踏まえて何が足りなかったか”を考察するのが、本来の使い方ではないでしょうか。 国同士の戦争だということを忘れてはいけません。 どのような形であれ、ベインワットにいるものをけなすならば勝率は下がります。 どのような形であれ、ベインワットにいるものを教育するばらば勝率は上がります。 これからはこの当たり前のことをふまえて行動していきませんか?