約 439,966 件
https://w.atwiki.jp/familiar/pages/4519.html
ゼロの飼い犬8 月の涙(後編) Soft-M ■1 気絶していたのは、どのくらいの時間だったのだろうか。 俺は背中を川べりの岩に叩きつけられ、その衝撃で意識を取り戻した。 息と一緒に、飲み込んでしまった水が吐き出される。 そのまままた気が遠くなってしまうような苦しさと痛み。 しかし、腕の中に抱きしめたままの小さな女の子の感触を確認して、意識を引き留めた。 片手で岩を掴み、歯を食いしばって体を岸に寄せる。 必死につま先を伸ばすと、ありがたいことに砂砂利に触れた。 這うようにして岸に上がり、腕の中の女の子を安全な場所へ寝かせる。 今度ばかりは危なかった。本気で死ぬところだった。 上を見ると、高く切り立った崖の両岸から夜空と月が覗いている。 そう長い距離流されたわけではないようだが、さっきのルフ鳥の姿は見えない。 「ごほっ、げほっ……はぁ、はぁ、ふぅ……おい、タバサ、タバサ!」 そのまま何もかも忘れて休みたがる自分の体を強引に起こし、 タバサの様子を伺う。目を閉じたままで、呼んでも反応が無い。息もしてない。 けれど、まだ生気はあるように見えた。僅かに、苦しそうに身をよじったから。 えーと、思い出せ思い出せ。こういうとき、どうするんだっけ。 学校の防災訓練か何かのときにやった気がする。 もっと真面目に聞いておけば良かった、などと思いながら記憶をたどって、 タバサの顎を上げる。確か最初に、気道を確保。 悪いけど、この際背に腹は代えられない。 俺はタバサの鼻を摘み、その唇に唇を重ねて息を吹き込んだ。 「……こほっ、けほっ、かはっ……!」 何回やればいいんだっけ、と考えているうちに、タバサは大きく咳き込んで 水を吐いた。そのまま、荒いけれどはっきりと呼吸を始める。良かった、間に合った。 けれど、苦しそうな息をついているだけで、意識は戻らない。 このまま無防備でいるところをルフ鳥に見つかったらどうしようもない。 俺は、タバサの小さな体を再び抱え上げ、どこか隠れる場所を探す。 首をめぐらせると、岸壁に人が入れそうな亀裂が走っているのが目に入った。 ずるずるとそこまで歩いていく。重い。疲労とかもあるけど、水を吸った服がつらい。 言っちゃ悪いが、たっぷり水を吸い込んだタバサのマントが一番やっかいだ。 それでも、どうにかこうにかボロボロの体を無理やり動かして、俺たちは 岩肌の亀裂の中まで移動した。 亀裂の中は、立ち上がっても天井に届かないほど広い洞窟になっていた。 タバサを寝かせていったん外に出る。使えそうなものを拾って 再び戻ってくると、タバサが目を覚まして上体を上げ、岸壁に背中を預けていた。 「ここは…?」 俺の姿を確認するなり、タバサはか細い声で聞いてくる。 「谷底の洞窟。入り口は狭いから、ここならルフ鳥が襲ってくることもないだろ」 「あなたが助けてくれたの?」 「まぁ……そう、かな」 タバサが気絶している間に人工呼吸という名のキスをしてしまったことを思い出し、 つい視線を逸らせてしまいながら頷く。 「……ごめんなさい」 タバサはお礼ではなく、謝罪をしてきた。 「なんで謝るんだ?」 「わたしに付き合ったから、こんなことになった」 「お前は俺に来るなって言ったろ。 なのに俺が無理についてきたんだから、タバサが悪いわけじゃない」 「…………」 そう返すと、タバサは顔を伏せ、黙ってしまった。自らの肩を抱いて、小さく震える。 感情が読み取りにくい彼女が、明らかに弱気になっている姿なんて初めて見た。 ■2 「びしょ濡れで寒いだろ? 今、火を起こすから」 気まずくなってしまった空気を変えるために、努めて明るい声でそう言う。 「どうやって?」 杖を失ってしまったから、火なんて起こせないと思っているのだろう。 ところが、そうとは限らない。 俺は腰を下ろすと、川辺で拾ってきた木片と枯れ草を目の前に置いた。 そして、枯れ木の枝の先を歯で噛み、強引に引きちぎる。 「?」 タバサは、俺の行動を不思議そうに見ている。これで失敗したら情けないなぁと プレッシャーを感じつつ、噛み千切ったことにより鋭くなった木の枝を構える。 「これは武器、これは武器。刺したら痛い、場所によっては死ぬ」 目を閉じ、念じながら唱える。自己暗示をかけ、精神を集中させる。 すると、左手のルーンが微かに熱を持つのがわかった。 デルフを握った時よりはずっと弱いけど、これでも十分なはず。 気合を入れて、手に持った木の枝を木片に高速で擦り付ける。 ほどなくして、焦げ臭いにおいと共にぶすぶすと煙が立ち昇り始めた。 そこで、細かく砕いた枯れ草をくべる。祈りながらふーふー息を吹きかけると……。 果たして、枯れ草が小さく燃え上がった。続けて、慎重に小枝や葉っぱをくべる。 しばらくすると見事に焚き火ができあがった。 「やった! やりました!」 思わずカッツポーズ。ルーンの力を借りたのに、腕がつりそう。 これを日常的にやってたであろう原始人ってすげえ。ガンダールヴよりすげえ。 とりあえず、パーカーを脱いで火に当てる。水を弾くナイロン製だからすぐ乾くだろう。 「焚き火できたぞタバサ。もっとこっちこい」 振り向いて手招きすると、タバサは目を見開いて俺を見つめていた。 その眼鏡に、焚き火のオレンジ色の炎が反射してゆらめく。 「摩擦熱で火をつけたの?」 「ああ。昔の人はこうやって火をつけてたんだろ。知らないのか?」 「知らない」 タバサは不思議そう…というだけではない複雑な目で俺と焚き火を見つめている。 いつも本を読んでるのに、こんな小学生でも知ってるようなことを知らないのかな。 そう疑問に思った後、気付いた。この世界は魔法とかがあるから、 地球とは技術の大元も違うのかもしれない。 「あー、うん。俺のいたとこではそう言われてたって話なんだけどな」 タバサには、俺が別の世界から来たって伝えてないんだっけ。慌てて取り繕う。 「ロバ・アル・カリイエ?」 「そう、そこ」 たしか授業中にコルベール先生に出身地を聞かれて一度答えただけなのに、 タバサは覚えていたらしい。 確認した後、タバサは先程と同じように俯いた。焚き火の側に来る気配はない。 「ほら、服乾かそうぜ。こっち来いってば」 「……寂しくないの?」 ■3 「え?」 タバサの急な質問に、ぽかんとしてしまう。さっきからこの少女にしては 妙に口数が多いなと思っていたが、唐突にこんな事を聞いてくるとは思わなかった。 「使い魔は主人と長期間離れていると、不安や孤独を感じる。 あなたは普通の使い魔ではないから違うのかもしれないけど……。 でもそれ以前に、強制的に召還されて、故郷や家族の元から離されて……寂しくない?」 ロバなんとかの話をしたから、こんなことを聞いてきたのだろうか。 意外に思いつつも、その質問の内容について考える。 「どうだろ。俺が暢気なせいもあるかもしれないけど、何だかんだで回りは賑やかな奴 ばっかりだし、親身になってくれる人もいるし……そんなに寂しいとは思わないかな。 まぁ、ルイズとは今ちょっと、アレなことになってるけどさ」 首筋を掻きながらそう答える。すると、タバサは俺の顔を見て再び口を開いた。 「ルイズ・フランソワーズは、本当の意味で、あなたを自分とは別の存在だとは思ってない」 その言葉に驚く。ルイズと俺が仲違いすることになってしまった元々のきっかけを、 なんで彼女が知ってるんだろう。 「家の教育のせいでああいった性格や物言いになっているけれど、たぶん、内面は違う。 彼女自身が魔法に不得手だからというのもあるだろうけど……もっと、深い部分で。 あなたや平民を、貴族とは別種の存在だと思ってはいない。 本当に平民を”差別”している貴族は、わざわざ口に出したりしない。本人も意識せずに、 見下しているという自覚すら無しに、平民を物や動物同然に扱う」 つらつらと言葉を重ねるタバサ。彼女は……俺を、元気づけようとしてくれてる? タバサにルイズとの関係について話したことなど無い。普段の俺やルイズの行動とか 言葉の節々から、今の俺の状況と、かけるべき言葉を察したのだろう。 「……ごめんなさい。憶測に過ぎないことを、喋りすぎた」 「いや、謝らなくていいよ。ありがとう、タバサ」 タバサは、自分でも柄にもないことを言ってしまったと思ったのだろう。 でも、嬉しかった。ルイズが俺を本気で犬同然だとは思っていないという言葉も 嬉しかったけど、このタバサがそう励ましてくれた事も嬉しかった。 この無口で愛想のない女の子は、他人と付き合うのを煩わしいなどとは思っていない。 むしろ、人一倍回りのことに関心を持っていて、他人の状況や内面を読み取っている。 タバサはフーケの時やアルビオンの時に、関係ないはずなのに俺たちを助けてくれた。 本当は友達思いで、他人の問題を放っておけない性分なんだと思う。 それに、今みたいに、自分の考えをはっきり言葉にすることもできる。 なのに、彼女は周囲に対して壁を作っている。交流を最低限に留めている。 何か事情があってのことなのだろう。他人に話すわけにはいかない事情が。 ――それは、寂しいことじゃないのか。つらいことじゃなdfghいのか。自分の抱えている問題を 隠さなければならず、自分一人で対処しなくればならない。そういう状況すら秘密にしている。 ひょっとしたら、『月の涙』を探さなければならないのも、その事情に関係してるのかもしれない。 そっか。タバサは俺に、「寂しくないの?」と聞いた。 タバサ自身が、自分でも気付いていないかもしれないけど、寂しさを抱えているんだ。 だから、他人の寂しさにも敏感になる。 聞くか? どうしてわざと他人に対して壁を作っているのか。抱えてる問題は何なのか。 聞いても、教えてはくれないだろう。 そう簡単に答えてくれる事情で、ここまで自分を隠し続けているわけがない。 俺は、タバサに何がしてやれるんだろう。この『月の涙』探しを手伝う気になったのは 恩返しのつもりもあったわけだけど、それで彼女の問題はいくらか解決するのだろうか。 ……よく考えたら、『月の涙』が見つかるかどうか以前に、生きてこの谷から脱出できるのかも 怪しい状況なんだった。あえて考えないようにしていた現状を思い出し、頭を抱えたくなる。 ■4 ちらりとタバサの方を見る。そういえば、しばらく喋ってない。 さっきまで壁に背中を預けていたタバサだったが、今はマントにくるまる形で横になっている。 「タバサ……!?」 嫌な予感がした。慌てて駆け寄って抱き起こす。その端正な顔は青ざめ、苦しそうに歪んでいた。 「どうしたんだよ、おい!?」 マントは水を吸ってぐっしょり濡れたままだ。だから乾かそうっていったのに。 それを剥ぎ取ってタバサの手に触れた瞬間、ぞっとした。人間の肌とは思えないくらい冷たい。 冷たいって、どういうことだよ。濡れて風邪を引いたとかなら熱くなるはずだ。 それにタバサの息も、荒くなっているのではなく弱弱しくなってきている。 ふと思い当たってタバサの右手を見てみる。ブラウスの袖が小さく裂かれて血が滲んでいた。 手首のボタンを外してまくってみると、白くて細い手首の少し下に、 誤ってカッターナイフを走らせてしまったような切り傷ができている。 タバサが杖を落とす原因になった、ルフ鳥の羽を飛ばす攻撃によるものだろう。 でも掠めただけらしく、そんなに大きい傷じゃない。こんなに目に見えて具合が悪くなるような ものだとは思えない。 「……毒、か……雑菌……」 タバサは消え入りそうな声でそう言った。声を出すのも辛そうだ。 「毒!? 気付いてたなら、なんで早く……!」 早く言わなかったんだよ、と聞こうとして言葉に詰まる。たぶん、タバサは毒に侵されていると わかっても、この状況では対処のしようがないことを理解していたんだ。 タバサはもともと白い肌を一層青ざめさせて目を閉じ、今にも止まってしまいそうな 細い息をついている。この洞窟で目を覚ましてからタバサは驚くほど口数が多かったけど、 喋っていることで意識をどうにか引き留めようとしていたからでもあったのかもしれない。 「タバサ! 目開けろよ、タバサッ!」 肩を揺するが、ほとんど反応しない。手遅れ、なんていう嫌な言葉が脳裏に浮かぶ。 どうする? どうすればいい? 混乱する俺の手の中で、タバサはただ小さく震えている。 「ごめ……なさい……」 タバサはぽつりとそう言った。さっきもされた謝罪。その意味を考えて、怖気が走る。 「謝るなよ! タバサ、どうすればいい? どうして欲しい!?」 顔を寄せて必死で聞くと、タバサは残っていた力で、俺の方へ僅かに体を寄せた。 「……寒い……」 これだけ体が冷たくなってるんだから、寒いに決まってる。けど、川から上がったままで ブラウスもスカートもぐっしょりと湿ったままだ。これじゃ余計に体温が奪われる。 それでも、少しでもタバサを温める方法はないか。そう頭を捻って、思いついた。 古来からこういう状況で使うべき手段といえば、決まってる。 ……いや、でも、それは。 思いついた方法に一瞬躊躇するが、迷ってる場合じゃないと頭を切り換える。 ごくりと唾を飲み込むと、俺はまだ生乾きのままのシャツを脱ぎ去った。 タバサの体を抱えて焚き火の側まで移動すると、ごめん、と謝ってからびしょびしょの ブラウスのボタンを外して脱がせた。その下のシミーズも取り去って、 ルイズよりもさらに一回り小さくて細い上半身を露わにする。 誰一人踏み荒らしていない雪原みたいな綺麗な肌にどきんと心臓が高鳴るけど、 今はそんなの気にしてる場合じゃない。 「タバサ、後でどれだけ文句言ってもいいから」 お互いに上半身を裸にして、なるべく肌が触れる面積が多いようにタバサを抱く。 タバサの体から熱が逃げないように、乾いたパーカーを被せた。 それによって少しは持ち直したようだった。本能的に温もりを求めるみたいに、 タバサは俺の方へ体をすり寄せてくる。たぶん、意識もはっきりとはしてないんだろう。 ■5 ポケットに入っていたハンカチを乾かして、まだ湿っているタバサの背中や髪を拭く。 本当に子供みたいな、小さな体。その体が震えながら俺に抱かれている姿と感触に、 女の子の肌に触れているという興奮よりも痛々しさを感じてしまう。 助けなきゃいけない。俺が、この小さな子を守ってやらなきゃいけない。 でも、どうすりゃいいんだ。毒で苦しんでいる彼女がただ温めるだけで回復するとは 思えない。この状況じゃ、助けを呼びに行くこともままならない。 自分の無力さに怒りが湧いてくる。何だよ、俺は伝説のガンダールヴだとかいう シロモノらしいのに、女の子一人助けられないのかよ……! タバサの右手を持ち上げて、傷口を見る。傷自体は浅く、もう血は流れていない。 こんな小さな傷なのに、毒だか何かのせいでこんなに弱ってしまっているなんて。 「……毒?」 頭の隅に、何かが引っかかった。毒。ちょっと前に聞いた単語だ。 そうだ。そもそも俺たちはここへ何をしに来た? あらゆる毒を消す治癒の秘薬であるという、『月の涙』を探しに来たんじゃないか。 つまり、その秘薬を探し出すことができれば、このタバサが受けた毒だって治せるはずだ。 そんな都合の良い話があるか。頭の中の冷静な部分がその考えを否定する。 でも、今のタバサを助けるには、それにすがるくらいしか方法がない。 タバサはこの谷に降りる前に、こんな仮説を立てていた。 『月の涙』の在処についての情報は、”この谷の底”と漠然としすぎている。 それはつまり、『月の涙』がどこか特定の場所に存在するわけではなく、 例えば植物や生き物みたいに、比較的広範囲に生息しているものだからではないのか。 頷ける話だった。それなら、闇雲に探しても見つかる可能性がある。 いや、可能性じゃだめなんだ。見つける。見つけなきゃいけない。 俺は、パーカーを纏わせたままのタバサを抱いて、立ち上がった。 そのままふと自分達がいる洞窟の奥の方を見ると――。そこに、何か明かりが見えた。 ただの行き止まりだと思っていたのに。タバサを抱えたままそちらの方へ歩いていくと、 入り口の方からは死角になっている部分に、横穴があった。光はそこから漏れている。 しゃがめば通れる程度の大きさであるその横穴に、俺は藁にもすがる思いで入った。 暗い。暗いけど……でも、どこが岩でどこが通れるのかは見える。 奥から微かに光が漏れているおかげだ。 狭い穴の中を進んでいるのではっきりとはしないけど、 どうやらこの横穴は湾曲しているらしい。このままだと川岸に出てしまう。 もしそうなら、この明かりはただの外の月明かりということになってしまう。 嫌な予感がし始めたころ、狭い穴が終わり、広い空間に出た。 ――そこで、俺は息を呑んだ。 確かに、その明かりは月明かりだった。そこは渓谷の岸壁がえぐれたようになった部分の 川岸で、上空の崖と崖に区切られた狭い夜空から、月の光が照らしている。 でもそれだけじゃなかった。そこには、薄紫色の花をつけた植物が生い茂り、 さながら天然の花畑といった様相になっている。 そして、その上には、無数の蝶が舞い踊っていた。 透き通るような青い色の蝶と、淡い赤色の蝶。それぞれ、数えきれないほどの数。 なぜ闇の中でそんな色がはっきりわかるのかといったら、簡単だ。その二種類の蝶が、 まるでこの世界の夜空を照らす二つの月のように、青と赤の色に輝いているから。 蝶たちは、青と赤のそれがダンスを踊るように戯れ、くっついては離れる。 そのたびに、羽と同じ色に輝く鱗粉が零れ、混ざってキラキラと光りながら下の花畑に降り注ぐ。 その光景を目にした人がいたら……こう、名付けるだろう。そうとしか呼べない。 ■6 「……月の涙」 俺はぽつりと呟いた。間違いない。これこそが『月の涙』。 この幻想的な姿を見てしまったら、疑いようがない。 誘われるように、俺はふらふらと花畑に近付いていく。この輝く鱗粉が、『月の涙』。 どうやって使うものなんだろう。飲ませる? 傷口に塗る? 思案しているうちに、 俺とタバサの上に『月の涙』がふわりと霧雨のようにまとわりついてきた。 「……ん、ぅ……」 それこそ魔法のように、すぐにタバサが身じろぎしてゆっくりと目を開いた。 まだ体は冷たいままだが、さっきまでよりずっと血色が良くなっている。 「タバサ……良かった。効いたんだ。これだよ、見つけた。『月の涙』!」 じわっと目頭が熱くなる。俺の方が涙を零しそうだった。 タバサはそんな俺の顔を不思議そうに見た後、青と赤の光の饗宴へと視線をめぐらせる。 「…………綺麗」 しばらく間を置いてタバサの喉から漏れたのは、命を賭けてでも探したかった宝を見つけた 喜びの声ではなく、毒を瞬時に消し去ったその効果への感嘆でもなく。 目に見える光景への、素直な感想だった。 「そうだな、綺麗だな……凄い」 タバサがそんな言葉を口にしたことがなぜか嬉しい。 タバサが意識を取り戻した安堵もあって、そのまましばしの間、目の前の光を二人で眺めていた。 が、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。 まだ体は冷たいままのタバサの肩が、ぶるりと小さく震える。 「悪い。そっか、ここじゃ寒いよな。戻ろう」 「あ……」 俺は、慌ててさっきの横穴に入り、焚き火のところまで戻る。枝をさらにくべて 火を大きくすると、その側に座り込んでタバサの体をぎゅっと抱きしめてやった。 毒が消えたって、毒に侵されている間に失った体力が戻るわけじゃない。 まだ油断できる状況じゃないんだった。 さっきもそうしていたように、タバサの体で湿っている部分をハンカチで拭いてやる。 「どうだ? もう大丈夫みたいか? タバサ」 「あ……うん、ありがとう……」 タバサは俺が体を拭き、なるべく肌が触れあうようにすると、小さく身をよじりながらも されるがままになっていた。 一通り水気がとれると、今度は履いたままになっている俺のジーンズとか、 タバサのスカートやタイツなんかが気になってきた。こっちはまだじっとり湿っている。 できれば脱いで乾かした方がいいんだろうけど。 「タバサ、出来れば下の方も脱いで欲しいん……」 タバサを冷やしちゃいけないという一心で声をかけている途中で、俺は気付いてしまった。 ……よくよく考えたら、俺、とんでもないことしてません? 今、どんな格好よ? パーカーを被せてるとはいえ、その中でタバサは上半身裸で。 で、俺の方も半裸で。それで、温める目的だとはいえ、肌を押しつけるように抱きしめてる。 それでそれで、許可もとらずに、ハンカチでタバサの体のいたるところを拭いてる。 こ、こここ、こんなちっちゃい子を。ちっちゃいからいいのか? むしろちっちゃいから逆にもの凄く駄目なのか? さーっと顔から血の気が引く。不可抗力。緊急避難。あくまで善意だった。 色々言い訳が浮かぶけど、たった今『パンツ脱げ』(意訳)って要求しようとしていた事を 思い出して、嫌な汗がだらだら流れ始めた。 ■7 「え、あ、あの、これはね、タバサが寒いって言ったから温めようと思って。ほら、あるだろ? 雪山で遭難したりしたら、人肌で温めるってやつ。寝たら死ぬぞーと同じくらいお約束な……」 混乱してべらべらとわけのわからない弁明を並べる。なんていうか、今更すぎる。 説明するならタバサが起きてすぐにしておくべきだった。 「あー、でも、ごめん! やだよな、勝手にこんなことされて…でも、変な気があったわけじゃ」 「……わかってる」 タバサは、俺の言葉を途中で制止した。 「え?」 「わたしを助けるためにしてくれた。それくらいわかる。適切な判断」 タバサはなぜか俺に目を合わせようとしないまま、嫌がっていないことを示すように 俺の方へきゅっと体を押しつけてくる。 「………ありがとう」 俺の背中へ手を回して、頬を胸に押しつけて、タバサはまたお礼を言ってくれた。 まだ冷たく感じる彼女の肌が、心なしか……単純な体温の問題ではなく、なんとなく。 雪が春の光で溶け出したみたいに、温かくなっているような気がした。 タバサは、俺に抱っこされた形のまま、もぞもぞと体を動かし始めた。 「どうしたんだ?」 「ごめんなさい、体がまだちゃんと動かなくて……脱げない」 ……へ? ヌゲナイって、何を? 「下……特に、タイツが濡れたままで、体温を奪ってる」 タバサは僅かに不快感を含んだ声でそう言った後、「……脱がせて欲しい」と続けた。 「ぬっ、ぬぬぬ、ぬが、脱がせてって……!?」 「お願い」 お願いされちゃいましたよ。タバサはより効率よく体力を回復させる方法を 考えてるんだろうけど。それはわかるんだけど、でも女の子のタイツ脱がすって。 いや、こんなこと頼むくらいだから、タバサの方はよっぽど濡れた下穿きが 冷たい上に気持ち悪いんだろう。だったら、応えてやらなきゃいけない。 躊躇したり下世話な想像する方が失礼だしタバサに悪いことになるんだ。……たぶん。 「わ、わかった。脱がすから」 これは人助けこれは人助け、と心の中で呪文のように唱えながら、タバサの体を 手で探り、スカートの下に両手を入れる。 下着があるところより少し上の、タイツに指をかける。確かに、濡れて張り付いていて 脱がしにくい。やや強引に、それを足の方へ引き下ろした。 「あっ……」 タバサは少し驚いた声を上げたけど、脱がすならさっさと済ませてしまった方がいい。 丸めるようにして膝の下まで持って行くと、タバサはそこから足を抜いてくれた。 「おっけ、脱げたぞ。これは乾かした方がいいよな」 くしゃくしゃになってしまった白いタイツを、ぎゅっと絞る。水気を切った後に それを伸ばすと、違和感に気付いた。腰の部分が妙に重たい。 何だろこれ。単純な疑問からそこに指を入れ、触れた物を引き出す。 それは、見慣れた物だった。洗濯のたびに見ているルイズの下着より、一回り小さい……。 「パッ、パパッ、パ……!?」 パンツじゃん!! タイツを脱がすときに一緒に巻き取ってしまったらしい。 ■8 ということは、ということは。俺のパーカーを被せてあって直接は見えないけど、 今のタバサってノーパン。上も裸でノーパン。タバサノーパン。たっ、たたた、ターパン。 「慌てなくていい。どっちにしろ全部脱ぐつもりだったから」 タバサはあくまでも冷静だった。さっきから俺ばっかり慌てふためいてて馬鹿みたいだ。 ちょっと泣きそうになりながら、タバサのパンツを震える手で焚き火の側に置く。 「もう少し、体力が戻るまででいいから。温めてて」 タイツよりは脱ぎやすかったらしいスカートを自分で脱いでしまったタバサは 体の向きを変え、俺の胸に背中を預けてそう言った。 うう、いくら緊急事態とはいえ、裸の女の子が俺の膝の間で、俺に密着してるんですよ? なんでタバサはこんなに冷静なんだよ。この少女の内面がまたわからなくなる。 遭難してるも同然なこの状況で、裸だパンツだにドキドキしてる俺の方が変なのかな? 頭を捻りながら、タバサとできるだけ肌を合わせた方が良いのか、 最低限に留めた方が良いのか迷ってしまう。 そんな中、タバサがふと口を開いた。 「子供だと思って、そう扱ってくれて良い。無理に気を遣わなくても」 タバサの落ち着き払った声。さっきからの俺の反応を見かねての言葉だろう。 「そうはいくかよ。お前だってその、女の子なんだし」 「わたしは気にしない。それに、あなただって……こんな体じゃ、何も感じないでしょう?」 「かっ、感じな……って」 タバサの言葉に、絶句する。実年齢よりずっと幼い自分の体を自覚しての 台詞なんだろうけど。 「そ、そういう問題じゃないだろ。重要なのは見た目より中身で、お前俺といくつも違わないし」 自分で口に出して、ぎくっとした。その通りだ。このタバサ確かもう15歳なんだった。 前にキュルケに聞いて失礼にも仰天してしまった覚えがある。 だったらいくら見た目が幼くてもこの子、日本でいうなら中学3年生か高校1年生。 …………ヤバくね? 「……じゃあ、わたしで何か感じるの?」 タバサは俺の言葉が嘘だと思ったのか、冷めた声で聞いてきた。 うわぁ、何て答えればいいんだよ。どう答えても気まずいじゃんか。 「ど、どきどきはするよ……当たり前だろ」 体が子供だから何も感じないなんて言ったら、失礼にも程がある上に嘘になる。 俺は正直に答えてしまった。その答えにさすがのタバサも恥ずかしがるかと思ったら……。 「……そういう趣味なの?」 タバサの反応は、予想だにしていなかった斜め後方から飛来してきた。 「ばっ! おま、何言って……!!」 「そういえば、ルイズもあんな外見だし」 タバサは独り言みたいにぽつりとそう続けた。何ですかそれ。何か話がもの凄く変な方向に 逸れていってやしませんか。 違う、断じて違う。俺はタバサがちっちゃいからどきどきすると言ったわけではなく、 体とは関係無しにどきどきして当然と言ったわけで。 ああでも普通はこんな○学生みたいな見た目の女の子にはどきどきしないものなのか? どきどきしちゃった時点で”そういう趣味”あるのか? ああそれってどうなの。 俺が自分でも気付いていなかった一面への疑惑に怯えていると、タバサは俺の手をとって 胸元できゅっと握りしめた。 「構わない」 「……へ?」 「わたしに……こんな体に、何か感じたなら。何かしたいことがあるなら、好きにしていい」 いつもと同じ、抑揚のない淡々とした声。でも、その内容はとんでもないものだった。 ■9 「ば、ばか! 冗談でもそういうこと言うなよ」 「冗談じゃない。本気……今のわたしがあなたに報いられることは、それくらいしかない」 その言葉に、かちんときた。何だよそれ。俺は報いとか、そういうのを期待して タバサの手伝いをしたわけでも無いし、タバサを助けたわけじゃない。 俺の行動を否定された気分にもなった。でも、それよりもっと大きい気持ちがある。 タバサが、報いだとかそんなののために体を差し出すとなんて言い出したこと。 それが、それが……我慢できないほど、嫌だった。 そうだ。前から、タバサに感じていた違和感や不安。 それは、彼女が自分自身を大事にしていないように見えることだった。 タバサは他人の助けを借りずに、一人で危険な場所に赴こうとした。 一人でルフ鳥を食い止めるつもりで、俺に逃げろと言った。 俺がタバサを助けた時、彼女は「ありがとう」と言う前に「ごめんなさい」と言った。 タバサは、実は他人思いの優しい女の子だ。なのに、自分のことは慮らない。 自分自信をあまりにも軽視している。それが、ずっと引っかかっていたんだ。 「違うだろそんなの。もっと自分を大事にしろよ」 「わたしはいい。でもあなたが……」 「違うだろっ!」 自分でも大声を出すつもりなんか無かったのに、声を張り上げてしまった。 彼女の方は、純粋に……といえるのかはわからないが、俺のために言ってくれたことなのに。 「あ……悪い、怒鳴っちゃって。でも」 「……ごめんなさい」 タバサは、それまでの冷たい声ではなく、震えの混じった声で俺に謝った。 「ごめんなさい……でも、わたしにはわからない。 あなたを、何をしても償えないことに巻き込んでしまって。 それなのに、わたしのためにこんなにしてくれて……。その上で、わたしに気を遣って。 どうしたらそんなあなたに贖えるのか、わたしにはわからない。だから……」 容器に収めて外に出さないでいた感情が、容量を超えて僅かに零れてしまったような タバサの言葉。俺の手を握ったタバサの手に、一層力が込められる。 「償うとか、そんなのどうでもいいだろ。タバサだって俺を何度も助けてくれたんだし。 ほら、困ったときはお互い様というか」 「違う、違うの。そうじゃない……」 タバサは切羽詰まった声で俺の言葉を否定する。違うって何だ。どういうことだ? 「だめ。わたしに優しくしないで。そんな風にされたら」 その言葉でなんとなくだが気付いた。タバサは感情を表に出さず、周囲に壁を作ることで 回りの人の”優しさ”とか”善意”を避けてもいたのかもしれない。 本当は優しくて気が利いて、やろうと思えば回りの皆と良い関係を築けるタバサが、 もし回りから優しくされたら。善意や協力を向けられたら。 そうしたら、タバサはきっと甘えてしまう。甘えて、周囲に頼って。 せっかく作り上げたタバサという殻が、壊れてしまう。 目的のために余計な物を切り捨てた少女が、ただの女の子に戻ってしまう。 だから、タバサにとって周りからの無償の優しさは、毒であるんだ。 「そんなの……それこそ、寂しいだろ。つらいんじゃないのか?」 「でも、だめっ……!」 タバサは、寂しいとかつらいということを否定しなかった。それくらい、弱っているんだろう。 心だけでなく、体も影響してるんだと思う。毒で体力を奪われて、裸になって他人と肌を合わせて。 そんな状況で、張りつめていた心までむき出しにされかけているんだ。 だったら。だったら。タバサのためを思うなら、その内面にはまた蓋をしてやらなきゃいけない。 俺に、嫌がっているタバサを無理矢理変えてしまう権利なんか無い。 冷たい殻に覆われた『雪風のタバサ』に戻してやらないといけない。 寂しくても、つらくても。タバサがそう望んでいるのだから。そうする必要があるのだから。 ■10 「っ……俺がタバサの手伝いする気になったのは、今までに助けて貰った借りを 返すつもりだったからだよ。純粋な善意とかじゃない。あと、宝も欲しかった」 今さらほとんど意味がないと分かっていて、そう言葉をかける。 「それじゃ、だめ」 タバサは小刻みに震える手で俺の手を掴んだまま、言い返してきた。 「違う、でしょう? あなたの目的は、それだけじゃないでしょう?」 その言葉は質問じゃない。嘘をつけという要求だ。俺は唇を噛んだ。 「じゃ、じゃあ……その、あれだ。ちょっと下心あったから。タバサに恩を売っておけば、 ひょっとしたらちょっと嬉しいことあるかなぁなんて思ったから」 じゃあって何だよ、と脳内で自分にツッコミつつ、タバサが望んでいそうな嘘をつく。 「嬉しいことって?」 「え……えーと、色々」 微妙な空気が俺とタバサの間に流れる。これでいいのか? 何か違う気がしないか? 「こんな体で、嬉しいことが色々あるの?」 「あ、あるんだよ。だから手伝ったんだってば」 「やっぱりそういう趣味なんだ」 さっきと同じような問答になってきたけど、今は状況が違う。頭がくらくらしてきた。 「そ、そうだよ! 俺はタバサみたいなちっちゃい子でも余裕でオッケーなんだよ」 半ばヤケクソ。もうこうなったら、俺はどれだけ汚れたっていいからタバサの望む答えを 返してやる。決めた。そう決めた。 「そうなの?」 「ああ。だから下心丸出しの俺なんかに助けられちゃったタバサは不幸だぞ。 どんなこと要求されるかわかんないぞ。それを見抜けなかったタバサが悪いんだからな」 息を荒げながらそう言い放つと、タバサの体からふ……と力が抜けた。 「……それでいい」 「え?」 「ちっちゃい子が大好きで小さい子しか愛せないあなたに借りを作ってしまった上に、 抵抗する力も無くなって服まで剥がれてしまったわたしは……何をされても、抵抗できない」 タバサは囁くようにそう言った。えーとあの。その台詞の前半部分ですけど、 俺そこまでは言ってないんですが。 「なっ、何だよそれ。えっと、そうだな、俺はタバサみたいな子でもアリだけど、 というかタバサは体がどうこう以前に十分すぎるほど綺麗で可愛いと思うけど、 でもその、外から見たりこうやってちょっと触れてるだけで十分かなぁなんて……」 変な方向に暴走しそうな雰囲気を、必死で軌道修正しようとする。 だが、そんな俺をかどわかすように、タバサは俺の胸に頬を乗せて、呟いた。 「じゃあ、言い方を変える」 タバサは、潤んだ瞳で俺の顔を見上げて。 「…………虐めて」 その言葉に、ターンと脳天を射抜かれた。なっ、ななな、なんて事言うんだこのちびっ子。 いっ、いいいい、いけません。いけませんよそれは! ああでも、そのいけなさが。いけなさがヤバイ。普通に考えたら絶対に手を出したりしちゃ 許されないような女の子が、こんなに淫靡な雰囲気で俺を誘ってる。 可愛い。このままモラルとかプライドとかぶっちぎってしまいたくなるほど可愛い。 やばいやばいやばいやばい、嘘から出た真っていうか、本当にちっちゃい子でもOKどころか、 ちっちゃい子大好きにされてしまう。タバサに開発されちゃうよぉ……。 「だ、だめだってそんなの、それだけは」 「じゃあ、小さい子でもOKっていうのは嘘?」 「嘘に決まって……あ、いや、嘘じゃないけど」 嘘じゃないことにしないといけないんだっけ。というか、嘘じゃなくなりつつある俺が怖い。 ■11 身悶えている俺に対し、タバサは最後の一押しをするように言った。 「……あと一度だけ。助けて」 その言葉にはっとした。今までの台詞は演技みたいなものが多くを占めていたけど、 これだけは間違いなく本音。 明らかにおかしいけど、無茶苦茶だけど、俺がタバサから”報い”を受けることが、 タバサが自分を保つための助けになる。 じゃあ、だったら。これも嘘。ただのフリであって人助け。そう思うしかない。 そう思うことで大義名分作ろうとしてないか? なんてツッコんでくる理性もあったが無視。 「わ……わかった。タバサのこと、可愛がっちゃうぞ。好きにしちゃうぞ……いいんだな」 「よくなくても、わたしは何もできない」 俺の手の中の女の子は、ゆっくりと目を閉じて体を俺に預けた。 いけないという気持ちとだからこそどうにかしてしまいたいという気持ちがせめぎ合って 震える手で、俺はそっとタバサの首筋に触れた。 「ん……」 タバサはびくっと身をすくませ、小さく吐息を漏らした。そのまま鎖骨をなぞり、 胸元まで指を滑らせる。まだ微かに湿り気が残ったその肌は美術品のように滑らかで、 ただ触るだけで禁忌すら浮かぶ。 どんな経験が役に立つのかわからないなぁと思う。今までに何度もルイズのマッサージを していたおかげで、女の子の肌にどんな風に触れたら気持ちいいのかある程度わかる。 ただ経験だけでそういうのがわかるようになったわけではないらしい、少し気になることも あるのだけど。とりあえず今はそのことは考えないでおく。 指が胸に触れた。でも、ほとんど膨らみが感じ取れない。 肋骨の上だからここが乳房であるはずなんだけど……伝わってくる柔らかさは 他の部分の肌と変わらない。女性どころか、少女にすらまだなっていないような体。 性の匂いがまったくない身体なのに、そんな身体に触れて、俺の心臓はばくばく鳴っている。 「あっ……!」 それまでとろけるように身体を弛緩させていたタバサが、短い悲鳴を上げた。 俺の指がとっかかりのない乳房にただ一つ強ばった部分、乳首に触れたからだ。 俺の指一本でも隠れてしまいそうなほど小さなそこは、触れる前から固くなっていた。 でもこれも、きっと性的に感じてるからじゃない。身体が冷えていたから。 タバサの身体は、まだ男女のことで悦びを得られるほど成長していない。 そんな身体から無理矢理”オンナ”を引きずり出したりしたら。それは、タバサの殻を壊して 中の優しい女の子をむき出しにしてしまうのと同じくらい罪深いことだと思う。 それをわかった上で彼女の肌に触れて、匂いや体温を感じてまぎれもなく興奮してる俺は 本格的にヤバい領域に踏み込んる、間違いなく。 「はぁ、は……ぁ、ふ……」 指先で何度もタバサの乳房をかすめると、タバサの吐息に熱いものが含まれてきた。 ひょっとしたらこれは身体を温める意味もあるかもしれない、なんて 都合の良いことを考えながらタバサの耳元に顔を寄せる。 「ど、どう? どんな感じ?」 「ふぁっ、あ……熱く、なってきた」 タバサは息を吹きかけられて、短い髪を振り乱した。 感じてるといえるのかはわからないけど、耳も敏感らしい。 ■12 「タバサ、可愛い……」 「ひゃぅっ!」 小さな耳たぶを甘噛みする。タバサは面白いくらい過敏に反応した。 こりゃもう、本格的にまずい。本当に可愛くて愛しいと思っちゃってる。こんな小さな子に。 タバサが俺にではなく、俺がタバサにどうにかされてしまっているといった方が正しいのかも。 「可愛い、綺麗……」 煮え切った頭のまま囁いて、首筋に口付ける。冷たいと思っていたタバサの肌だけど、 その奥には確かな温もりの火がある。 「可愛いって、そんなの」 「本当だよ。絶対に嘘なんかついてない。俺は小さい子が好きだからタバサに 下心持ったんじゃなくて、タバサが可愛いから下心持ったんだよ。わかるだろ?」 さっきタバサのためについた嘘が、どこまで嘘だったのかわからなくなってきた。 もうどっちでもいいやというか、タバサ可愛いしもう俺変態でもロリコンでもいいやなんていう とんでもない思考が頭の中に浮かんでくる。 後ろめたさまで興奮の材料になってしまっていることを感じながら、 胸をいじっていた手を下にすべらせる。柔らかいお腹に触れた。 心配になってしまうほど薄くて細い。本当に幼い女の子のままの身体だったら 少しお腹は出てるはずだから、タバサは完全に幼児体型というわけではないらしい。 タバサはその先を想像したのか、反射的にきゅっと太股を閉じる。 けど俺が手をそのまま持って行かずに閉じられた太股を撫でると、おずおずとそこを 再び開いてくれた。 そこで、さすがにそろそろ止めてもいいんじゃないのか。タバサからの”報い”という名目の 嘘だったら、これくらいで十分なんじゃないかなんていう思いが一瞬頭をよぎるが、振り払う。 もう言い訳なんかしない。俺はタバサのためとかじゃなくて、俺がタバサに触れたいからこうしてる。 壊れ物を扱うように、タバサの足の間に指を触れた。指が溶けてしまうんじゃないかと思えるほど 柔らかくて、それなのに張りがある肌の感触が伝わってきて……それだけだった。 薄々予想はついてたけど、うぶ毛の一本たりとも生えていない。 「あぁ……は、んっ……!」 タバサは、俺がタバサの身体の前に回した手をぎゅっと掴む。それは止めてという意味ではなく、 自分の意志に反して動いてしまいそうな体を留めるためのこと。 タバサの一番大事な部分が収められた割れ目も、完全に閉じたまま。 手探りだけで感じているから目で見ることはできないけど、簡単に様子が想像できる。 そのスリットにほんの少しだけ指を沈ませ、つつ……と撫で上げる。 「あっ……あ、あ……ふぁ……!」 タバサはゾクゾクと身を震わせた。割れ目の一番上を掠めて 指を引き抜いた時、一際大きく彼女の身体が跳ねる。 指先には、僅かながらタバサの体から滲み出た蜜がついていた。 「なるべく、無理はさせないから。少しだけ我慢して」 きっと、こんな体だったら何かしようとしても何もできやしない。でも、何かしら”した”という 区切りみたいなものは残さないと、タバサの方も満足しないだろう。 俺は手の平全体でタバサの丘を覆うと、全体を撫でながら親指の付け根でスリットの一番上、 さっきタバサが一番反応した部分を優しく刺激した。 「ひゃうっ! あ、や……そこ……!」 同時にもう片方の手で乳首を弄り、首筋に舌を這わせる。タバサは悲鳴に近い嬌声を上げた。 「痛い?」 「わからない……わかんない、でもっ、でも……ぁあ…!」 タバサの反応がどんどん感極まっていく。あのタバサがこんなに乱れて、甘い声を上げて。 それを感じるだけでたまらなくなる。 そして、とどめとばかりに先程そうしたように指を割れ目に差し入れ、擦り上げると。 「かはっ、んぅ……ああぁっ……!!」 タバサはその小さな身体を限界まで伸ばし、小刻みに全身を震わせて、限界に達した。 「はっ……ふはぁ……サイ…ト……」 タバサは俺の手を幼子みたいにぎゅうっと掴みながら、うわ言みたいに俺の名前を呼んだ。 そんなタバサが可愛くて、いやらしくて。彼女へのどんどん気持ちが膨らんでいくのを感じる。 そういえば……タバサが今日俺の名前を呼んだのって、谷底に落ちる直前と たった今だけなんだなと気付く。 そのまま、たぶん初めてであろう感覚に身体を震わせているタバサの身体を ゆっくり撫でてやっていると。 ■13 「……ぁ、あっ……だめ……!」 タバサは急にその身を縮こませて、焦りの声を上げた。 「え、どうした?」 タバサの大事なところを弱く当てたままの俺の手を、タバサの太股がきゅっと挟む。 ひょっとしたら、もう一度達してしまいそうなのかも。ここで止めてしまうのも可哀想なので、 敏感になっているであろうタバサにつらくならないよう気をつけながら、また指を動かす。 「あっ……や、はなしてっ……それだめ、やめてっ……」 タバサはさっきとは比にならないほど切羽詰まった声を上げて、俺の手から逃れようと 身をよじる。その声が、頭が沸騰しそうなくらい可愛い。止められない。 タバサにもっと良くなってもらって、そうしたらどんな姿を見せてくれるのか知りたい。 「タバサ、いいからもう一度」 「ちがっ、ちがう……そうじゃない……ぁ……!!」 タバサはどこかで一線を越えてしまったみたいな小さな悲鳴を喉の奥から漏らして、 びくっ、と全身を硬直させた。 あれ、さっきと全然反応が違う。何かおかしいな、なんて思った直後。 「あ……あ、あぁ……」 タバサの口から泣き出してしまったかのような震える吐息が漏れ……。 俺の手に、熱いお湯のようなものがぴしゃぴしゃと降りかかった。 「え?」 呆気にとられる。これって、つまり、おおおお、お漏らし? っていうか、それ以外ないよな。タバサの大事なところに当てた手のひらを 熱い液体が満たし、こぼれ落ちていく。それを、なんとなく気持ちいいなんて思ってしまう。 「だめ……ごめんなさ、ごめ……」 タバサは俺の手を力一杯掴みながら、その溢れ出るものを止められない。 そりゃそうだ。一度出てしまったのを止められるわけがない。 俺はとっさに、上にかけたパーカーにひっかからないようにタバサを少し持ち上げる。 俺たちのすぐ前の地面に、水溜まりができてゆっくり広がっていくのが はっきりと見えた。 「ぁ……」 タバサが最後に何もかも諦めたような息を漏らし、ぶるりと体を震わせると ようやく俺の手に降りかかるものが止まった。そのまま、しばしお互い何も言えないまま あまりにも気まずい時間が流れる。 だ、だだだ、だめってそういうことだったの。達してしまって体から力が抜けたら、 急にもよおしてしまったから。だから駄目と。 なのに俺勘違いして。タバサはやめてって言ったのに。 そ、そりゃそうだよな。水に落ちて冷えたし。昨晩からトイレなんか行ってないし。 そんな時に今まで感じたこと無いような刺激を与えられたら、失禁してしまっても仕方がない。 「ごごめんタバサっ! 俺、調子に乗りすぎて…ああもうマジでごめんなさいスミマセンッ!」 謝って許されるとは思わない。俺はもしかすると、少女に一生消えない心の傷を。 「……あなたが、悪いんじゃない」 批難を覚悟していた俺に、タバサはいつもと変わらない調子…… いや、努めていつもと同じようにしている口調で、そう言ってきた。 ■14 「わたしが、行為前に済ませておくべき事を怠ったのが問題。思慮が足りなかった」 行為前ってあなた。 「それに、もしあなたにこういうことを楽しむ性的嗜好があったのだとしたら、 わたしの意志に関わらず要求される可能性も十分にあり得たはずなので、 これくらいのことは予想しておくべきだった。覚悟も足りていなかった」 「ちょ、タバサ、何言ってんすか」 つらつらと人聞きの悪い台詞を続けるタバサに突っ込むと、タバサは俯き。 「……でも、普段だったら、こんな失態は見せない……」 最後にぽつりと、そう言った。その言葉でようやくわかった。 さすがのこの子ももの凄く恥ずかしかったんだ。当たり前だ。 「わ、わかるよ! 当然だろ! ほら、今のは色々悪条件が重なったんだよ! そそそれに、その……みっともないなんて思わなかったから!」 慌てて必死にフォローする。 「みっともないのは確か」 「そんなことないって! むしろ貴重なもの見させてもらったっていうか、それどころか ちょっとどきどきしちゃったっていうか……」 何言ってんだ俺。かなり頭煮えてる。 「……そういう趣味も?」 タバサは俺の方へ顔を向けて聞いてきた。そういう趣味ってどういう趣味だよ。 あと、”も”って何だよ。わかるけどわかりたくない。 「あーもう! どうだっていいだろ。それよりも、これでいいのか? タバサ」 また事態が暴走してしまいそうになったので、話を元に戻して聞く。 これだけやったら、タバサにも引け目は無いはず。 するとタバサは……普段と変わらないのに、なぜか不満なのが見て取れる顔で 俺を見上げた。 「いいかどうかは、わたしが決めることじゃない。……あなたは、満足してない」 「はい?」 「途中で何か変だと思ってたけど……あなたは、わたしを愛撫してくれて 失態を鑑賞しただけで、自分が良くなることを何一つしてない。それじゃあ納得できない」 愛撫って。真顔でそんなこと言ってくるタバサに、頭がくらっとした。 「い、いやもう十分だから! っていうか、失礼だけどタバサの体だったら無理……」 「やってみないとわからない。まだ、続きがあるはず。それとも」 タバサの目が、僅かに細くなった。ひょっとして、無理って言ったのがカンに障った? 「わたしの身体でもOKというのは、やっぱり嘘?」 「嘘じゃないよ! でも物事には順序というものがだね」 「だったら前戯が終わったから、続き」 さらなる追求にたじたじになってしまう俺。そもそも何でこんな事になったんだっけ? もともとの発端がどこへやらに消えて、激しく脱線したまま加速してる気がする。 とにかく止めなきゃ。この、知識があるんだか無いんだかよくわからないタバサを どうにか納得させなきゃ。 「えっと……そうだな、俺は大好物を一気に食べてしまうような勿体ないことは しない主義なんだよ。だからその……この先は、この谷から無事生還してから じっくり頂こうかなぁ〜、なんて」 またさっきみたいな”エセ悪党”になってしまう俺。トホホ。 「つまり、借りを一度で返せると思ったら大間違いで、何度にも渡りわたしを弄ばないと、 この貸しは埋まらない……と」 なんだそれ。ガクッと肩が落ちる。否定しようと口を開く前に、タバサは言葉を続けた。 ■15 「それなら、『続き』は後にしてもいい。でも……」 タバサは一度目を瞑った後、再び俺の顔を見た。その雰囲気が、見違えるほど張り詰める。 もしかして、信じがたいけど、今までのやりとりは『冗談』のつもりでもあった? このタバサが? 「ここから脱出できる公算はあるの?」 その言葉に、俺の方も意識を切り替える。タバサの方からそう聞いてきたってことは、 彼女には有効な策が無いってことだ。 でも……俺の方は、十分な公算があるとは言い切れないが、脱出の方法を考えていた。 「無くは無い。説明するから……まず、服着よう」 火にあてていたおかげで乾いていた服を着込むと、俺は手頃な石をいくつか拾ってきた。 タバサも、ある程度体力は戻ったようだった。けど、このまま満足に食料もない場所に 居続けたらすぐまた倒れてしまう。脱出をはかるなら早いうちしかない。 「……武器?」 聡いタバサは俺が地面に並べた石を見て、すぐに意図を察したようだった。 「そう。さっき木の枝を武器に見立てて、ルーンの力を使って火を起こしただろ。 つまり、武器だと思えば、武器として使えればただの木でも石でも武器なんだよ。 もちろん力は弱まるけど」 説明しながら、こぶし大よりももう少し大きい石を吟味する。 「そもそも、なんで弱いはず人間が他の動物に負けなかったかっていったら、 武器が使えたからだろ。もともとは石とか棒きれとかを武器にしてた。 だから、重要なのはそれが身を守り、敵を倒すための道具であるかどうかなんだよ」 どうよ? と同意を求めようとタバサの方を見ると、タバサはまた不思議そうな顔をしていた。 あ、またやってしまった。この世界には魔法があるから、武器のおかげで 原始人が他の動物に対抗できたとは限らないんだ。 「あー、うん、これも俺のいたロバなんとかではそう言われてたって話ね」 フォローになっているのかわからないフォローをすると、 タバサは俺が拾ってきた石のひとつを真剣な表情でみつめていた。 「どうした?」 「うん……続けて」 タバサは俺の方へ視線を戻してそう言った。 俺は気を取り直すと、石を壁の岩に叩きつける。ガチン、と衝撃が伝わってきて石が欠けた。 「それは?」 「石器だよ石器。たぶん、ただの石よりはこの方が力が強まると思う」 思うっていうだけなんだけど。でも、このガンダールヴの力って、その時の気分とか 勢いに大きく左右されるから、俺の中で納得できる方が強くなるのは確かだ。 なるべく鋭い、ナイフ状にすることをイメージしながら、石を割り続ける。 途中で左手のルーンが鈍く光り始めた。そう、大事なの想像力。 これは武器。敵を倒すため……いや、自分と、誰かを守るための武器。 「つっ!」 欠けた石の破片が、腕を傷つける。無視して続けようとすると、いつのまにか隣に来ていた タバサがハンカチで血を拭いてくれた。俺は微笑みかけて、作業を続ける。 割れて大体の形ができたら、今度は慎重に少しずつ削っていく。 ある程度それっぽいものが出来上がった。けど、それを握っても湧き出てくる力は今ひとつ。 「……タバサ、崖を駆け上がるとしたら、いつがいいと思う?」 「明け方、日が昇り始めるころ。ルフ鳥はその時一番活動が弱まる。 帰るときは、その時間を狙うつもりだった」 タバサは俺の考えている作戦ともいえない作戦を聞かずとも、察したようだった。 今は全部任せる、そんな意志が伝わってくる。 「じゃあ、まだあと何時間かはあるな」 外の闇はまだ白み始めてもいない。満足いく出来のナイフが出来るまで粘る余地がある。 俺は、タバサと一緒に新しい石を探し始めた。 「……これだ」 額の汗を拭い、痺れた手を弛緩させる。10個近く打製石器を製作した上で、 ようやく出来上がった会心の出来のものが目の前にあった。 途中、手が滑って足の上に落っことしたり石ではなく指を岩に叩きつけたりと 酷い目にあったが、どうにかなった。 「あーでも、本当にやばいのはこれからなんだよなぁ」 愚痴りつつもささやかな達成感にひたっていると、タバサが俺の手をとった。 擦り傷だらけで、痺れて感覚もなくなりかけている俺の手。 「ごめ……ありがとう」 タバサは一瞬謝りかけた後、そう言った。まるで自分が傷ついたみたいに、 俺の手を優しくさすってくれる。 「お礼にはまだ早だろ。それに、タバサのためだけにしたわけじゃないし。 俺が助かるためと……帰ったら、タバサに『続き』きっちりさせてもらわないとな」 こっちも開き直れたのか、冗談にする余裕が出てきた。 逆に、タバサの方は俺の言葉に一瞬呆気にとられた後、はにかむみたいに俯いてしまった。 ■16 「えっと……あ、そうだ。帰る前に、『月の涙』をちゃんと持って行かないと」 さっき無茶なことを言って俺に迫っていた時とは様子の違うタバサの態度に戸惑いつつ、 手をポンと打つ。出来上がった石器をパーカーのポケットに入れると、 タバサと一緒に花畑へと続いている横穴へと再び入った。 夜明けが近いらしく薄明るくなりつつある花畑には、先刻のように蝶が舞ってはいなかった。 俺が少しがっかりしていると、タバサが屈み込んで何かを拾い上げる。 のぞき込むと、タバサの手のひらの上には……地味な、白い蝶の死骸が乗っていた。 はっとして足下を見渡すと、同じような死骸が転々と落ちている。 「昆虫があれだけの魔力を使ったら、何日も生きてはいられない。 たぶん、交尾をして卵を産んだら、それだけで生命力が尽きる」 タバサは冷たい意見を淡々と言いながら、慈しむような目でその手の上の蝶を見る。 「そこの植物はウズ草という名前で、猛毒がある。 恐らくこの蝶は交尾の際に雄と雌が互いの鱗粉を合わせ、それに魔力を通すことで 解毒効果のある魔法薬を発生させてウズ草の毒素を消し、そこに産卵する」 いつも本を読んでいて博識なタバサだからこそできる推測だろう。 あの幻想的な光景を理論的に説明されてしまったのはちょっと寂しいものがあるけど。 ルフ鳥の繁殖シーズンにしか『月の涙』が見つからないのは、この蝶の繁殖シーズンと 時期が重なっているからなのか。 「でも、なんでそこまでして毒のある草に卵を産むんだ?」 「猛毒がある草には、鳥や他の昆虫などの外敵が近寄らない。 現に、ここ以外の場所でウズ草を食物にする生き物なんて聞いたことがない。 生態が特殊すぎるからこの蝶はこの谷にしか生息しないんだろうけど…… その代わり、ここでは確実に生きていける。 種が生きるために……子孫を残すために、この蝶は命を燃やし尽くす」 最後に、タバサは観念的なことを言った。 その手の中の蝶は、死骸となってしまってははっきり言って地味だ。 日本でいうなら、色がないアゲハチョウみたいな外見。 でも、その蝶が『月の涙』を作り出す時の輝きは、見惚れるくらい…… 二つの月と比較して余りあるくらい綺麗で、そしてどこか儚かった。 その光が美しいのは、この蝶が命のために命を燃やす光だからなのだろうか。 タバサはその後、自分が受けた毒はこのウズ草のものであり、この谷のルフ鳥は 外敵への攻撃手段として自らの羽をウズ草に擦りつける習慣でもあるのだろうと言った。 あの羽がもう少し深く肌を傷つけていたら、治す間もなく死んでしまっていただろうとも。 そして、『月の涙』は猛毒であるウズ草の毒素を完全に消せるものではあるけれども、 あらゆる毒を治せるのかどうかは怪しいと結論づけた。 「わたしの求めているタイプの解毒薬じゃない。それに、死骸と鱗粉だけを持って帰っても 恐らく薬にはならない」 タバサは独り言……いや、自分自身に言い聞かせるように呟いた。 「でも……もしかしたら、ほんの僅かでも、調べれば助けになるかもしれない。 そんな希望を捨てられない。だから……ごめんなさい」 タバサは懐から革袋を出して、蝶の雄と雌の死骸を、労るように拾って大事にしまった。 俺はその様子を見ながら…このタバサだったら。 やるべき事のために命までを賭けているこの少女だったら、 そのためにこの蝶を利用することも許してもらえるんじゃないか、なんて思った。 ■17 ハンカチを破って紐状にすると、左の手の平に先程作った石器のナイフを縛り付けた。 ナイフを落とさないまま指を動かすことができるのを確認すると、 目を閉じて静かに意識を集中させる。左手のルーンが熱くなるのがわかり、 体に力がみなぎり始める。 「……よし、いいぞタバサ」 俺が屈むと、タバサは頷いて背中におぶさった。 もう自分を置いていけなんて事は言ってこない。 俺がその通りにするわけがないとわかっているからだ。 タバサのマントを体の前に回して、ぎゅっと縛る。 これでちょっとやそっとの事ではタバサが背中から落ちることはない。 洞窟の入り口から外をうかがうと、登り始めた朝日が景色を淡く照らしている。 タバサの言葉を信じるなら、今がルフ鳥の活動が最も弱くなる時間。 もう一度、強く左手のナイフを握りしめ、背中に負ぶさった女の子を意識する。 ただでさえ心配になるほど軽いタバサの重みが、ほとんど何も感じないほどになった。 不思議だ。手に持っているのは急造の石器なのに、普段デルフを握ったときと 同じかそれ以上に力が湧いてくる。 ひょっとしたらガンダールヴの”心の震え”ってやつは、 誰かを護る時に一番強くなるのかもしれない。 もしそうなら、おあつらえ向きなシチュエーションじゃんか。 俺はこんな状況なのに口元に笑みが浮かぶのを感じながら、大きく息を吸い込んだ。 タバサがそれを感じて、一層強く俺にしがみつく。それは落下しないためじゃなく、 俺を信頼してくれているから。裏切るわけにはいかないな。 きっ、と外を睨みつけて駆け出す。崖を見上げて、一瞬で最良のルートを判断する。 ここでモタモタしているということは、ルフ鳥に見つかる危険性が増えるということだ。 俺は岸壁に飛びつくと、ルーンの力を目一杯に解放させて駆け上がった。 この谷から脱出するための策っていうのは、要するにこれだけ。 ガンダールヴの力を使って急いで登るだけという、あまりにも安易な物。 そんな出たとこ勝負の作戦なのに、タバサは黙って受け入れてくれた。 俺に全てを預けてくれた。ちょっと前の彼女だったら、とても考えられないことだ。 やっぱり俺は、タバサの殻を少なからず壊してしまったのかもしれない。 でも、それでいいと思う。タバサが弱くなってしまったなら、 回りが助けてやればいいだけだ。簡単なこと。なんだ、呆れるくらいに簡単じゃないか。 そう思ったら、体がさらに軽くなった気がした。考えたり悩むより先に行動。 その方が俺の性に合ってる。 この宝探しに出発する前からずっと心の奥に淀んでいたものまで、 ある程度取り除かれてしまった気さえする。 でも、そのことをどうにかするのはこの崖を登って皆の所に戻ってからだ。 岩を踏み、岸壁を蹴り、腕で体を持ち上げて崖をすいすい登っていく。 ガンダールヴの力があるからこその、一流ロッククライマーも真っ青な 規格外れの断崖絶壁踏破。既に三分の二は登ったと思う。 このまま何事もなく上までたどり着ければ、なんて考えた矢先。 「来た」 そうは問屋が下ろさなかった。背中側を注意してもらっていたタバサが呟く。 昨晩聞いた不気味な風斬り音と風圧。見なくてもわかる、ルフ鳥だ。 昨日は気配の遮断を行わなかったらすぐに見つかったことを考えると、 この時間ルフ鳥の活動が弱まっているというのは確からしい。 ここまで登るまで発見されなかっただけでも御の字というべきか。 ■18 「っし、ナビ頼むぞ!」 俺の方は後ろの様子を伺ったりしない。登ることに専心する。 そして、タバサが背中側のルフ鳥の動きを俺に伝えるという手はずだった。 「左から」 さっそく簡潔に言ってきたタバサの言葉通り、左方から突風が襲ってくる。 岸壁から引きはがされたら終わりだ。俺は全身に力を込め、風をいなして崖を駆け上がる。 「右下、止まって耐えて」 タバサのナビは正確だった。鋭くなった感覚で気配を察知できるのと合わせて、 背中に目がついているみたいにあの鳥の動きがわかる。 俺の力と……協力してくれて、かつ守るべきものである背中の女の子と。 全てが噛み合わさって、パズルのピースが埋まったみたいな一体感。 一歩間違うだけで鳥の餌にされてしまうという状況なのに、まるで不安にならない。 あと少し! 崖の最上部が見えてきた。前はここでしくじった。 けど同じことは繰り返さない! 「――ッ! 左に跳んで! 羽!」 タバサが焦りの色を含んだ声でそう言った。瞬時に体をずらすと、 すぐ右脇の岸壁に黒い巨大な羽がダーツの矢のように数枚突き刺さる。 ここでそう来るか。このルフ鳥も昨晩の奴と同じように羽に毒を 擦りつけてるとしたら、これがまともに刺さればあっという間にオダブツだ。 一撃必殺の飛び道具まで使うかこの鳥野郎。流石に体に緊張が走る。 次の瞬間、殺気。タバサが右に僅かに体重をかける。 言葉で伝えても間に合わないということだ。即座に察した俺は右に跳ぶ。 ついさっきまで俺たちがいた位置に再び飛来する羽。 間一髪、次の攻撃に意識をやりつつ岩に手をかけると。 その岩がぼろりと崩れた。羽を避けたばかりで無理な体勢にあった体が、 空中の……手を伸ばしても足を伸ばしてもどこにも触れない所へ投げ出される。 ウソだろ、昨日も元はといえば落石のせいでピンチになったのに。 またこんな、ただの不運みたいな事態で――!! ルフ鳥が飛来して仕留めるための体勢をとるのが感じられる。 翼を持たず、魔法のを使うための杖も持たない人間には まったく無力である空中で、爪とクチバシでトドメをさすつもりだ。 が、今度は、前とは違った。誰かにポンと背中を押されたみたいに、 俺たちの体は岸壁に押し戻される。 それだけの力。空を飛ぶことも敵を吹き飛ばすこともできない、僅かな風の力。 でも、それだけで十分だった。俺は岸壁を蹴って上へ跳び、 ルフ鳥の突撃をすんでのところでかわした。 崖の上に巡りつく。久しぶりの確かな足場に感動しながら俺は手近な林に飛び込む。 俯せに転がって四肢を投げ出し、酷使しつくした体と精神を休ませた。 「はーっ、はぁ、はぁっ……けほけほっ……やったぁ……!!」 ルーンから熱が失われるのがわかり、どっと疲れが襲いかかってきた。 タバサが背中から降り、俺の横にぺたんと座り込む。 俯せだと苦しいので、ごろんと寝返りをうって仰向けになる。鬱蒼と茂った木々が 目に入り、ここならルフ鳥も襲って来られないと安心していると、 タバサが俺の顔をのぞき込んだ。 その手には、小さな石の欠片が握られている。俺が石器を作ろうとしていた時に、 タバサが真剣に眺めていた石だ。あの後タバサが言ったことには、それは風石らしい。 純度が低く、魔力を通しても大した風の力は起こせないらしいけど……。 人二人分の体を、たった数十センチ押し上げるくらいならば可能だったってわけだ。 タバサは「もしもの時の足しになるかもしれないけど、期待しないで」なんて言ってたけど。 とんでもない。最強の切り札になってくれやがった。 「良かった……やったなぁ……」 目を閉じると、急に生きている実感がぶわっと湧き上がってきた。 全身あちこち痛いし、酷使しきった筋肉は疲労にピクピク痙攣してるけど、でも生きてる。 生きてて、このタバサも無事助けられた。それが、滅茶苦茶に嬉しい。 閉じた瞼の上に、朝日が木漏れ日となって降り注いでくる。 「ごめん、タバサ……もう少し休ませて……。そしたら、宿に戻ろう」 ほとんど徹夜だったし、眠い。このまま寝ちゃうかも、なんて思っていると。 俺の頬に、何か柔らかいものが触れた。 「えっ?」 ぱっちり目を開くと、俺の上にはさっきと同じように俺の顔をのぞき込むタバサの顔。 今の、今の感触って。タバサの顔は、心なしか……本当に心なしか、赤くなっている気がする。 「タバサ?」 まだその感触の余韻が残っている頬を確かめるように触れながら声をかけると、 タバサは俺の髪を撫でて。 「……ありがとう」 今まで彼女の口からは聞いたことがないような優しい声で、そう言った。 ■19 「もー、あなた達二人、夜半から朝まで何やってたのよ。白状しなさいってば」 宿に帰るなり泥のように寝てしまった俺たちは昼過ぎに目を覚ますなり、 キュルケ達から質問攻めにあった。 『月の涙』を探しにいったけど失敗してほうほうの体で逃げ帰ってきた、そんな まるっきりの嘘とも言えない言い訳で誤魔化そうとしたけど、キュルケには怪しまれている。 結局、何も言わないタバサといくつも小さな怪我をしている俺を見て そんなに怪しい事をしたわけではないとわかってくれたみたいだけど… 実はけっこうやっちゃってるんだよな、怪しいこと。 「大丈夫ですか? どうしたらこんなお怪我をするんですか、もう…」 特に手のところが擦り傷切り傷突き指だらけになっている俺の怪我の手当てを してくれたシエスタは、純粋に俺を心配する。本当のことが言いにくいのが申し訳ない。 結局、俺がさっさと次のお宝ポイントへ行こうぜと強引に押し切ったのをきっかけに、 宿を発つこととなった。普段の倍くらい昼食をがっついて皆に呆れられた後、 町の外の、シルフィードを降ろせるだけの広さがあるところまで皆で歩いていく。 「それにしても相棒も悪運が強いねぇ。おいらを放して落っこちたとき、今度ばかりは 駄目かねと思ったもんだぜ」 「おいおい、そりゃ白状だろ」 岸壁に刺さったままだったのを無事回収できたデルフが感心する。 ルフ鳥に吹き上げられたタバサの杖もその近くに転がっていたので助かった。 「サイトさん、落っこちたって…どこからですか?」 デルフの声を聞いたらしいシエスタが俺の側に寄ってきて心配そうな声をかける。 「あ、大したことじゃないよ。ほら、この通り無事だし」 「でも、お怪我してます。サイトさんが危ない目に遭うのは、わたし…」 シエスタが涙ぐんで、俺に寄り添った。胸が二の腕に当たって、つい顔が緩む。 くいくい。 そんな中、俺のパーカーの袖が小さくひっぱられた。 そちらを見ると、タバサが俺を見上げている。どうしたんだろ。 普段は他人に干渉することがないタバサの珍しい行動に、 シエスタも驚いた表情を浮かべた。 タバサは、ちらりとシエスタの方を見た後、俺の方へ一歩近寄って、 「……続き、楽しみにしてる」 そう小声で言った。前を行くキュルケやギーシュには届かない…… けど、すぐ横のシエスタに聞こえるには十分な、そんな声で。 「なっ、なななな……」 金魚のようにぱくぱく口を開け閉めする俺を、シエスタは信じられないものを 見たといった感じの視線で見つめてくる。 「サ、サイトさん……昨晩、夜中にミス・タバサと一緒にいなくなって…… それで、朝になって帰ってきて……」 シエスタはふらりとよろける。あれ。あれあれ。なんかちょっとまずくね? 「そ、そんな……ここ、こんな小さな子……あぁ、でもそういえばミス・ヴァリエールも。 嘘、嘘よ。サイトさんがそんな……まさか、だからわたしには……!?」 シエスタは顔面蒼白になってぶつぶつと言葉を続ける。 やばい。とてもやばい勘違いされてますよ。 「ちょ、ちょっと待ってシエスタ。それ誤解っ、もの凄い誤解してるから!」 暴走しているシエスタを必死になって否定すると。 「誤解なの?」 タバサが、”寂しそうな”声で聞いた。ちょっと待てちびっ子、まさかわざと言ってる? 「あのなあ、タバ……!」 半泣きになりながらタバサを見ると、彼女はすっと俺の横を通って 小走りに前の方へ言ってしまった。その横顔に……気のせいかもしれないけど。 本当は違って、そう見えただけなのかもしれないけど。 一瞬、浮かんでいたように感じられたものに呆気にとられる。 ―― タバサ、今笑ってた? 初めて見る……いや、見たのかどうかもわからないけど、その表情。 やっぱり俺は、あのタバサの心を覆う雪を、いくらか溶かしてしまったのかもしれない。 もしそうなら、それが良いことなのか良くないことなのかはわからないけど……。 俺とあの子の関係は、たぶん変わる。そう思って、嬉しくなってしまっている自分に気付く。 自然に、俺の口元にも笑みが浮かんだ。 たぶん、きっと。ほんのちょっとだけ楽しくなる。俺はタバサの友達になれるかもしれない。 「サイトさんっ! それは病気なんです! 放っておいたら取り返しがつかなくなる病です! わたしが、わたしが治してあげますからっ! だから頑張りましょう!」 ……その前に、あの青髪のちびっ子がやらかしてった”悪戯”の後始末を、 どうにかしないといけないんだけどな。 タバサの方を見ながらニヤニヤしている(とも見えるであろう)俺の肩を掴んで ゆさぶりつつ、さらなる暴走をしているシエスタをどうやって説得するかは とりあえず後で考えよう。 色んなものが混じり合った何とも言えない気分で空を見上げると、 どこまでも青く眩しい空から、タバサの使い魔であるシルフィードが 俺たちを次の場所に運ぶために舞い降りてくる姿が目に入った。 つづく 前の回 一覧に戻る 次の回
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1260.html
夜。ギアッチョはベランダの手すりに背中を預けて、あおむけに空を見上げていた。 「一つだけの月なんざ、もう長く見てねえ気がするな・・・」 片手に持ったワインを飲み干して、柄にもないことを考える。 グイード・ミスタとジョルノ・ジョバァーナ、あの二人と戦った夜、たった一つの地球の 月は自分を照らしていたのだろうか。ついぞ空など見上げなかったことを思い返して、 ギアッチョは首を振る。 黒い手袋に三角形に覆われた己の右手に、ギアッチョは眼を落とした。この手で 無数の人間を葬って来たことを思い出す。対抗組織の人間を、彼は腐るほど 殺して来た。しかしその一方で、組織の障害となるというだけのやましいところの ない人間をその手にかけたことも一度ならずあった。 罪悪感はない。後悔もない。ギアッチョは、ただ生きたかっただけだ。パッショーネの 庇護なしには生きられない世界に絶望し、殺さなければ生きられない世界に絶望 しても尚、ギアッチョは生きたかった。唯一つの拠り所で、リゾットのチームで、 なんとしても生き抜きたかった。だからギアッチョは、人が牛を、豚を、鶏を 殺すように人を殺した。殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して――そして最後に殺された。 この世を修羅道と見紛わんばかりの凄絶な人生だった。ギアッチョにとって殺人は、 もはや呼吸と同じほどに当たり前の行為としてその身に染み付いている。まともな 人の心など、とうの昔に消え去ったはずだった。 しかし。 ならばなぜ、自分はルイズに付き従っているのだろう。ルイズを庇い、叱り、助けた のだろう。ギーシュを殺さなかったのは何故だ?キュルケを叱ったのは?タバサを 助けたのは? リゾットチームのほかには、ギアッチョの世界には彼にとってどうでもいい人間か、 そうでなければ殺すべき人間しかいなかった。何故なら彼は暗殺者だったからだ。 イタリアにいてさえ、彼は災禍を振り撒く魔人だった。魔人であらねばならなかった。 別の世界に召喚されようが、使い魔として契約をしようが、彼の思考は、言動は 暗殺者としてのものだった。キュルケが殺されようが、タバサが身代わりに なろうが、ルイズが死んでしまおうがどうでもいいはずだった。なのに、何故自分は 彼女達を助けた? ――・・・贖罪のつもりってわけか? 後悔していないと思っていても、どこか心の奥底でわずかに罪悪感を感じていたの だろうか。彼女達を助け導くことで、無数の犠牲者への罪滅ぼしをしているのだろうか。 しかし、ならば死ねばいいだろう。例え何万人の命を救ったところで、ギアッチョが 殺した人々が蘇るわけではない。彼らが願うものは唯一つ、ギアッチョの死である はずだ。 それもいいかもな、とギアッチョは思う。イタリアに戻ったところで、もうどこにも彼の 居場所はない。そしてイタリアで生きる意味も、もはやありはしない。仇を討つ意味も また、存在しない。彼らはその命と誇りの全てを賭けて戦い、そして負けたのだから。 みっともなく再戦を挑むなどということは、彼らを侮辱する行為でしかないと ギアッチョは思っている。 ブルドンネ街のあの薄汚い裏路地のような場所で、惨めに哀れにのたれ死ぬこと こそが、自分に相応しい末路だ。この手で消した数え切れない命は、もはや ギアッチョが一秒でも早くその命を絶つことを願っているだろう。 ベランダから地面を見下ろして考える。氷の槍を作って飛び降りれば、それだけで 死ぬことが出来るだろう。ギアッチョは虚ろなまなざしで、数秒地面を見つめた。 ゆるゆると、実に緩慢な動作でギアッチョは顔を上げる。引き結ばれていたその 口からは、「・・・クッ」という声が漏れる。 「クックック・・・ どこにでもいるもんだよなァァ 全く度し難い人間ってのはよォォーー」 全然理解が出来ないことだが、自分が死ねばルイズはまた泣くだろう。自分を 友だと言ったギーシュはどうだ?キュルケとタバサは?一体どんな顔をするものか 自分には分からないが、バカみたいに真っ直ぐな奴らだ、また突っ走って危ない目に 遭うだろう。任務の情報が漏れている上に既に刺客が差し向けられていることを 思い出して、ギアッチョはやれやれと呟いた。結局自分は、どこまでも悪人なのだ。 いくら罪悪感を感じようが、いくら良心の呵責に苛まれようが、結局は自分の意思で 己の生死を決定出来る。自分の意思の赴くままに何かをすることに、微塵の躊躇も ありはしない。 ギアッチョは静かに笑いながら、己の左手に眼を向けた。そこに刻まれたルーンは、 使い魔の契約の証だった。 ――オレがこの手で命を救ったんだぜ 笑える冗談じゃあねーか ええ?おめーら・・・ リゾットの奴は責任をまっとうしろと言うだろう。プロシュートの野郎はマンモーニを 鍛え直してやれと言うかもしれない。メローネのバカはオレと代われと言いそうな 気がする。イルーゾォは、ホルマジオは、ペッシは、ソルベは、ジェラートは・・・。 地獄で自分を笑っているであろう仲間達を思い浮かべて、ギアッチョはフンと鼻を 鳴らす。この任務の間だけは、面倒を見てやろう。ギアッチョは今、そう決定した。 コンコンという音に、ギアッチョは部屋の入り口を見る。断続的に続くその音は、 扉から発されていた。 「入りな」 という彼の声で部屋に入ってきたのは、ルイズだった。ギアッチョは彼女を確認すると、 すぐに視線を外してまた手すりにもたれかかった。ルイズはベランダまでやって 来ると、ちょっと心配そうな顔でギアッチョを見る。 「・・・ねぇ どうして負けたの?」 今朝の決闘で、ギアッチョはホワイト・アルバムを使いもせずに敗北した。まさか力が 使えなくなったのだろうか、なんて心配しているルイズである。 「ワルドの野郎を信頼するな」と言いかけて、ギアッチョは口をつぐんだ。ルイズが ワルドに向ける表情は、自分へのそれとどこか似ている。確定もしていないのに 迂闊なことを言うべきではないだろう。 何故そう思ったのか、そこに意識が至らないままギアッチョは言葉を返す。 「剣の練習だ」 「そ、そう・・・」 ルイズは納得したようなしてないような微妙な顔になるが、それ以上は何も 言わなかった。何も言わないまま、ギアッチョの隣で同じように手すりにもたれ かかった。ギアッチョはルイズに、不思議そうに一瞥を向ける。 「・・・何か用でもあんのか」 しかしルイズは答えない。色んな感情の入り混じった、結果としてどこか悲しげに 見える表情で、何も言わずに空を見ている。何か悩んでいるのだということは 容易に察しがついたが、言う気のないことを根掘り葉掘り聞く気はない。そこまで 考えて「根掘り葉掘り」についてブチ切れそうになったが、自制心をフルに活用して 抑え込む。空気を読んだギアッチョにあの世で仲間達は涙を流して喜んでいる かもしれない。 「・・・ギーシュ達は何をやってんだ」 何とはなしにそう尋ねる。ルイズは無理に笑顔を作ってそれに答えた。 「酒盛りしてるわよ 皆アルビオンへ行くのが楽しみみたい」 「遠足気分だな・・・あのガキ共はよォー」 そう言うギアッチョに、ルイズは「全くだわ」と笑う。二人して空を見上げたまま、 また静寂が流れ――、 「・・・・・・・・・私、結婚するの」 やがてぽつりと、ルイズはそう言った。 反応が気になって、ルイズはこっそりギアッチョを見る。いつもの無表情で、 ギアッチョは何も変わらず空を見上げていた。 「よかったじゃあねーか 憧れの子爵様だろうが」 ホントに喜んでいるのならこんな表情はするわけがない。そう分かっては いるが、彼女が一体何に心を囚われているのか全く分からないので彼としても そう言うほかはなかった。しかし何かを期待していたらしいルイズは、更に 悲しげな色を深めた眼を伏せて、一言「そうね」と呟いた。 これだからガキはなどと思いつつも、このままルイズを放置するのは気分が 悪い。仕方なく身体を起こすと、ギアッチョはルイズに向き直った。 「何を迷ってるんだか知らねーがよォォ~~ 言いたいことがあるなら言いな オレじゃあなくていい キュルケでもタバサでもギーシュでも、言いたい奴に ぶちまけろ あいつらなら真摯に聞いてくれるぜ・・・多分な 些細な感情のスレ違いから身を滅ぼしたバカをオレは何人も見てきた おめーがそうなっちまうのは気分のいいことじゃあねーからな」 己の眼を覗き込むようにしてそう言われて、数秒の葛藤の後、 頬を染めながら彼女は恐る恐る口を開いた。 「・・・・・・・・・あの ・・・・・・えっと・・・その ・・・・・・・・・じゃ、じゃあ言うわ・・・」 深夜の静寂に自分の心臓の鼓動が煩いほどに響き、ルイズは大きく 深呼吸をする。そうしてからその真っ赤な顔を怪訝な眼で自分を見ている ギアッチョに向けて、ルイズは怒鳴るような勢いで口を―― ズズンッ!! 開けなかった。素晴らしいタイミングで大地が鳴動し、ベランダの外に 二度と見たくなかった 巨大なシルエットが闇を切り抜いて姿を現した。
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1867.html
すっかり慣れた、しかしこの場にそぐわぬどこか甘い香りが鼻腔を くすぐり――ギアッチョの意識はゆっくりと眠りの海から浮かび上がる。 「・・・・・・ああ?」 開ききらない瞳で仰向けのまま左右を探ったギアッチョの、それが 最初の言葉だった。 第三章 その先にあるもの ゆるゆると上体を起こして、ギアッチョはいささかぼんやりした 視線を下に向ける。視界に入ったものは、見間違えようも無くルイズの ベッドだった。そしてその持ち主は―― 「・・・・・・」 ギアッチョの隣で、すやすやと寝息を立てている。 「ここにブッ倒れて・・・そのままっつーわけか」 「我ながら情けねーな」と呟いて、ギアッチョは小さく溜息をついた。 何とか途中で気力が切れずに済んだが、もしもガキ共の前で倒れて いたらと考えると心底自分が腹立たしくなる。 「少々かったりぃが・・・鍛え直すとするか」 立ち上がろうと身体に力を入れるが、上着の裾が何かに引っ張られて ギアッチョは再び腰を下ろす。何事かとそちらを見れば、ルイズの 小さな手が服の端を掴んでいた。引きはがそうと服を引っ張るが、 一体どんな夢を見ているものか、ルイズは頑なに手を離そうとしない。 「・・・おい」 声をかけてみるが、少女が眼を覚ます様子はない。 「・・・クソガキ、起き――」 頭を掴んで揺さぶろうと伸ばした手を、ギアッチョはピタリと止めた。 考えてみれば一日以上寝ていなかったのだ。自分と違って、ルイズは そういうことに慣れてはいないだろう。そう考えると、無理矢理起こして しまうことも少々躊躇われる。 「・・・チッ」 まあいい、特に急ぐ理由もない。相変わらずの凶相で一つ舌打ちして、 ギアッチョは再びベッドに背を預けた。 「・・・ぅん・・・」 浅いまどろみの中で、ルイズは一日ぶりの睡眠を噛み締めていた。枕に 頬をうずめて、毛布を胸に抱き締める。いつもと同じそれが、今日は 何故だかとても幸せに感じられた。そんなわけだったから、 「・・・・・・ギアッチョ・・・」 等とうっかり寝言を洩らしてしまっても、それは仕方のないことで。 「ああ?」 しっかり聞こえていたギアッチョに無愛想に言葉を返されてしまったと しても、やはり仕方のないことだった。 ただ、ルイズ本人はそうは思わなかった。自分の言葉で微かに目覚めた 彼女の心臓は、ギアッチョの声で跳ね上がった。 「ようやくお目覚めか」 「えっ、な、ち・・・ちちち違うの!違うんだからね!!」 「・・・何か知らんが落ち着け」 「・・・う、うん・・・」 答えたところでギアッチョの服を掴んでいることに気付き、ルイズは 慌てて手を離した。ギアッチョはそれを眼だけで眺めると、もう用は 無いと言わんばかりにベッドから降りる。 「厨房行ってくるぜ」 「あっ・・・」 デルフリンガーを担いですたすたと扉に向かうギアッチョに一抹の寂しさを 覚えて、ルイズは身体を起こした状態のままその背中を見つめる。そんな 視線に気付く様子もないギアッチョがドアに手を伸ばした瞬間、 「・・・?」 ドアは外側から開かれた。 「あら、おはようギアッチョ」 ギアッチョが口を開く前に、キュルケは驚いた顔も見せずに挨拶する。 「昨日の今日で元気だなおめーは ルイズに用か?」 「ええ、それと貴方にもね ちょっと待っててちょうだい」 ギアッチョの肩越しに室内を覗き込みながらそう言うと、怪訝な顔の 彼をそのままにキュルケはルイズの前へとやって来た。 「おはようルイズ やっぱりまだ寝てたわね」 「お、おはよう」 「あら、ちょっと顔が赤いんじゃない?風邪でもひいた?」 「べっ、べべべ別にああ赤くなんかないわよ!」 わたわたと手を振って否定すると、ルイズは話を逸らそうと言葉を継ぐ。 「そ、それより何か用?」 「何って・・・忘れたの?」 呆れ顔のキュルケに、ルイズはようやく今朝交わした約束を思い出した。 「あ!」 「食事、行くんでしょう?タバサとギーシュはもう厨房で待ってるわよ」 「ごっ、ごめん!すぐ着替えるから――」 言いかけたところではっとドアに眼を向けると、ギアッチョは既に 廊下へ姿を消していた。 「私達でシエスタを送って行った時に、今日の昼食を厨房でって話に なったのよ」 扉横の壁に背中を預けるギアッチョを見つけて、キュルケは問われる 前にそう言った。 「ま、そんなところだろうとは思ったがよォォォ~~~~・・・ そりゃ何だ、このオレも一緒に着いてくことになってんのか」 「当ったり前でしょう?あなたが主役なんだから」 「オレぁそんなガラじゃねーんだがな」 若干首をすくめて答えるギアッチョを面白そうに眺めて、キュルケは その隣に背をもたれさせる。 「あなたが来ないとシエスタ泣いちゃうかも知れないわよ?あの子 随分あなたに感謝してるみたいだし・・・惚れられちゃったりしてね」 「こんな化け物に惚れる人間が一体どこにいんだよ」 「あら、いつもの自信がないじゃない あなたって結構イイ男だと 思うわよ?まあ私のタイプとはちょっと違うけどね」 半分茶化して笑うが、ギアッチョは詰まらなそうに首を振る。 「・・・そういう意味じゃあねーよ 得体の知れねえ力で無数の人間を 殺して来た野郎が化け物でなくて何なんだ?・・・全く今更だが、 オレは本来他人と関わっていい人間じゃあ――」 「ストーップ、ギアッチョ一点減点よ」 声と共に突き出されたキュルケの掌に、ギアッチョの言葉は中断された。 「いい?あなたが過去に人の命を奪ってきたこと、それは事実かも 知れないわ だけどね、こう言うと冷たく聞こえるかもしれないけど、 私達はそんなこと知らないの 知ってるのは、いつでも何度でも私達を 救ってくれたヒーローだけなのよ」 「・・・・・・」 「罪を認めることは勿論大切だわ だけど人を殺す一方で、あなたは 私達の命を、人生を救ってくれた・・・その重さも知っていいんじゃ ないかしら?」 キュルケは小さく笑みを浮かべてそう言うと、躊躇いがちに開きかけた ギアッチョの口にスッと人差し指を当てる。 「だからネガティブな発言は一切禁止!次に言ったら三点減点するわよ」 あくまでも茶化した態度のキュルケに小さく溜息をついて、ギアッチョは 諦めたように彼女を見た。 「・・・で、ポイントオーバーでどんな罰ゲームを頂けるんだ」 「そうねぇ・・・十点マイナスで三食はしばみ草ってのはどうかしら?」 「・・・・・・そいつは勘弁願いてぇな」 再度の深い溜息と共に、ギアッチョは両手を上げて降参の意を示した。 「ごめん、お待たせ!」 マントを胸に抱えて、ルイズは急いで部屋から飛び出した。確認する ようにこちらに一瞥を向けて、ギアッチョは「行くぞ」という一言と共に すたすたと歩き出す。 後を追おうとするルイズの頭に、スッとキュルケの片手が置かれた。 「頑張りなさいルイズ きっとチャンスはあるわ・・・多分」 「・・・へ?」 生温かい笑みのキュルケを、ルイズはきょとんと見返した。 「本ッ当に済まなかったッ!!」 厨房へ着いたルイズ達を出迎えたのは、マルトーの猛烈な謝罪だった。 シエスタから仔細を聞いたのだろう、「やりたくてやったことだから」と 首を振るルイズ達にマルトーはまるで懺悔のような表情で謝り続ける。 設えられた質素なテーブルにこっそりと眼を向けると、本を開いて己の 世界に逃避しているタバサの横でギーシュが苦笑交じりに肩をすくめた。 どうやら自分達が到着する前から、この大柄なコック長は大音量の謝罪を 繰り返していたらしい。マルトーに視線を戻すと、謝り続けるうちに 感極まったのか、彼はとうとう漢泣きに泣き出した。 「おっ、俺は誤解していたッ!あんたらみてぇな貴族がいることを 知ろうともせずに、この世の摂理を理解でもしたような気になって いたんだ・・・ッ!!本当に、詫びのしようもねえ!!俺は、お、俺はッ!」 「・・・おいマルトー」 咆哮の如き大声のマルトーを見かねてか、ギアッチョが気だるげに声を かけるが、マルトーはギアッチョに標的を変えて尚も喋り続ける。 「おおギアッチョ・・・お前さんにも一体何て謝りゃあいいのかッ!! モットの野郎が悪魔なら、こんな傷だらけの人間を死地に向かわせた俺は 堕獄の罪人よ!!こんなもので償い切れるとは思わねぇが、どうか気の 済むまで俺を殴ってくれッ!!」 「ああ?」 「「コック長、それは・・・!」」 ギアッチョと外野、双方がそれぞれ声を上げるが、マルトーはそれに 首を振ると漢らしく両手を広げて怒鳴る。 「気にするこたぁねえ!これは俺の罪滅ぼしなんだ!!さあッ! いくらでも殴ってくれ!!さあ!さあッ!早く!!はやげふゥゥウッ!!」 「「殴ったーーーーー!?」」 ギアッチョの躊躇無い一撃を顔面に受けて、マルトーは派手に吹っ飛んだ。 やれやれと言わんばかりに溜息をついて彼を引き起こす。 「眼ェ醒めたかマルトー」 マルトーをしっかりと立たせてから、ギアッチョはそう口を開いた。 「何度も言うがよォォ~~~ オレ達がやると決めたからやったんだ 謝罪なんぞ受ける気もねーし権利もねぇ そんなもんよりオレ達はメシが 食いてーんだがな」 「お、おお・・・ギアッチョ・・・!」 マルトーの顔に、明らかな感動の色が浮かぶ。様子を見守っていた コック達を見回して、マルトーはいつもの威勢を取り戻した声で叫んだ。 「聞いたかお前達!真の英雄は己の行為に代償を求めたりはしねぇ!! 俺達がするべきはとびきりの御馳走を振舞ってやることだ!!さあ お前達、調理を再開しようじゃねぇか!!」 「「おおぉおぉおーーーーーーーーーっ!!」」 ていうか殴れと言われたから殴っただけだろうなと思うルイズ達を よそに、マルトー達は大盛り上がりで料理にとりかかった。 ほどなくして、テーブルに種々の料理が運ばれて来た。肉や野菜、色 とりどりの果実が惜しみなく使われたそれらは、正に御馳走と呼ぶに 相応しい代物であった。ルイズ達にはさほど珍しいものではなかったが、 ギアッチョにとってはそうではないようで、先ほどからルイズの隣で 小さく感嘆の声を上げている。 料理が運び終わるまでの間、キュルケ達としばし談笑していたルイズ だったが、ふと気付いて顔を上げた。と、手馴れた様子で配膳する シエスタと眼が合う。 「もうすぐ全部運び終わりますから、もう少々お待ちくださいね」 シエスタは普段着では無く、いつものメイド服を着ていた。にこりと笑う シエスタと対照的に、ルイズは少し心配げな顔を見せる。 「シエスタ、休んでなくて大丈夫なの?」 その言葉に場の視線がシエスタに集中するが、シエスタは笑みを絶やさず 応じた。 「いえ・・・自分のことなんかよりも、私は一秒でも早く皆さんにお礼を したいんです 私に出来るのは、少々の料理の手伝いぐらいですから・・・」 「それに」シエスタは少し厨房を見渡して言葉を継ぐ。 「またここで働くことが出来るんだって思うと、休んでることなんて 出来なくって」 「シエスタ・・・」 屈託の無い笑顔を見せるシエスタに、ルイズ達はこの娘を助けてよかったと 改めて思う。互いに顔を見合わせて、つられるように笑った。 「・・・おいしい」 口に運んだ料理は違えど、彼女達の感想はみな賞賛の一言だった。 「いつもうめぇが・・・今日はそれ以上だな」 ギアッチョまでが珍しく素直な賛辞を口にする。 「俺にも使える魔法がある」いつかマルトーが言った言葉だが、成る程 こいつは確かにその通りだとギアッチョは柄にも無く独白した。 「そうかい、そいつぁよかった!こんな料理でよけりゃあいつでも食いに 来てくんな!あんたらにならいつでも御馳走を振舞わせてもらうぜ!」 マルトーはガキ大将のような笑顔を見せる。その隣で、シエスタも クスクスと楽しそうに微笑んだ。 「・・・次ははしばみ」 「却下だ」 誰よりも旺盛な健啖ぶりを現在進行形で発揮しているタバサの提案を、 ギアッチョは一瞬で棄却する。 トリステイン魔法学院――その厨房を、わだかまりの無い笑いが満たした。
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1033.html
重々しい音を立てて魔法学院の正門が開き、王女の乗った馬車の一行が到着した。 整列した生徒達は一斉に杖を掲げて、王女アンリエッタの来訪を歓迎する。 敷き詰められた緋毛氈の上にアンリエッタが降り立つと、生徒達から一斉に歓声が上がった。 ギアッチョとルイズ、それにキュルケとタバサ、ついでにギーシュとモンモランシーも手を振る王女を眺めている。 正確に言えば、タバサだけは地面に座って我関せずで本を読みふけっていたが。 ギアッチョはしばらく興味深げに王女や御付の人間達を眺めていたが、やがて飽きてきたらしい。 あくびを噛み殺して隣の少女に眼を向けると、ルイズは紅潮した顔で一点を見つめている。 何とはなしにその視線を辿ると、どうやらルイズが見ているのはつばの広い羽帽子の下から凛々しい口髭の覗く、護衛の男のようだった。 「知り合いか?」 と声を掛けてみるが、聞こえていないのかぼんやりと男を見つめたままルイズは何の反応も返さない。 ギアッチョも別に気になっているわけでもなかったのですぐに顔を戻した。 「あの人はきっと魔法衛士隊の隊長だね」 と言ったのはギーシュである。 「何だそりゃあ?」 アンリエッタに鼻の下を伸ばしていたことがバレたらしく、モンモランシーに足を踏みつけられた格好のままギーシュは続けて説明をする。 「女王陛下の護衛隊さ グリフォン、マンティコア、ヒポグリフの三つの隊があるんだが、あのマントの刺繍からするとグリフォン隊だろうね 僕達メイジには憧れの存在だよ」 「・・・マンティコア?」 聞き覚えのある単語に、ギアッチョは記憶を辿る。 ――あれは・・・プリニウスの博物誌だったか? 確か、とギアッチョは思い返す。ギアッチョが読んだ記述では、それはライオンの身体を持つ化け物だった。 それだけなら問題はないのだが、博物誌ではその前後に「人面に三列の歯を持つ」という記述があり、おまけに彼が読んだものにはご丁寧に口の下にもう一つ口がついた顔で人面のライオンが不気味に微笑んでいる挿絵までついていて、その気持ち悪さにギアッチョは一瞬で本を二つに引き裂いたのだった。 更に出禁の図書館が増えたそんな記憶を思い出して、ギアッチョはギーシュに眼を向けて一言、 「てめーらのセンスはわからねー」 と呟いた。 さてその夜。ルイズは未だに思案顔でベッドに転がっていた。ギアッチョやデルフリンガーが何を言っても生返事である。 「それで、ルイズの嬢ちゃんはどったのよ?」 とデルフが問いかけるが、ルイズはやっぱりうわの空で「あー」とか「うー」とか言うだけなので、仕方なくギアッチョが返事をする。 「さぁな・・・昼からずっとこの調子だがよォォ~」 ルイズは何かを思い悩んでいるようだった。 「あのヒゲが憎いなら暗殺してやるぜ」と言おうかと思ったギアッチョだったが、どうもそんな感じの悩みではなさそうだったのでやめておいた。 他に何か言ってやるべきかと少し考えたが、数秒の黙考の後どうせ明日になったら治るだろうと投げやり気味に結論してギアッチョはさっさと藁束に寝転がる。 その時、トントンと決められたような間隔を空けて扉がノックされ、ルイズはその音にハッと飛び上がると急いで服を着て扉に駆け寄った。 果たして、入ってきたのは真っ黒な頭巾をすっぽりと被った少女だった。 ノックの合図はギアッチョにとって懐かしいもの――己が仲間であることを知らせるサインだったので、彼は特に警戒はしなかった。 しかしノックの後に入ってきた人物が黒い頭巾で正体を覆い隠しているとなれば話は別である。 ギアッチョはさりげなくデルフリンガーに手を掛けて少女の動向を見守った。 しかしギアッチョの心配は杞憂だった。少女は黒いフードを外すと、 「ああ、ルイズ・フランソワーズ!お久しぶりね!」 と感極まった声で言うや否や跪いたルイズに抱きついた。 「姫殿下!いけません、こんな下賎な場所へお越しになられるなんて!」 ルイズがかしこまった声で言えば、 「そんな堅苦しい行儀はやめてちょうだい!ルイズ・フランソワーズ、わたくしとあなたはお友達じゃないの!」 フードの少女――アンリエッタ王女は即座にそれを否定する。 ギアッチョは小さく溜息をつくと、デルフリンガーを元の場所へ立てかけた。 聞けばアンリエッタは閉塞した宮廷にうんざりしているらしい。 幼馴染であるらしいルイズとしきりに昔話に興じている。 「・・・・・・結婚するのよ、わたくし」 ひとしきり思い出を語り合った後、王女は無理に笑顔を作ってそう言った。 その声に何か悲しげなものを感じて、ルイズは複雑な顔で祝いの言葉を述べた。 そこで初めて、アンリエッタは藁束の上に座るギアッチョの存在に気付く。 「あら・・・ごめんなさい もしかしてお邪魔だったかしら」 「お邪魔?どうして?」 「だって、そこの彼・・・あなたの恋人なのでしょう? いやだわ、わたくしったら つい懐かしさにかまけてとんだ粗相をいたしてしまったみたいね」 そう言って、アンリエッタはすまないという顔をする。 「こ、恋人?ギアッチョが?わたしの?」 思ってもみなかった角度からの攻撃に、ルイズは少しうろたえる。ちらりとギアッチョに眼を向けると、思いっきり視線がぶつかった。 途端に顔が赤くなるのを感じて、ルイズは理由も分からぬままにバッと俯いて顔を隠す。 「そそ、そんなんじゃありません!これはただの使い魔です!」 「・・・使い魔? 人にしか見えませんが・・・」 アンリエッタは小首をかしげた。 「人です でも使い魔です」 自分をルイズの恋人と勘違いしたアンリエッタをギアッチョは「大丈夫かこのガキ」 といった眼で観察していたが、ルイズにとっては幸いなことにそんなギアッチョの心がアンリエッタに気付かれることはなかった。 「そうよね ルイズ、あなたって昔からどこか変わっていたけれど・・・相変わらずね」 アンリエッタはそう言って物憂げに笑う。 ルイズはギアッチョの凄さをそりゃもう徹夜で語ってやりたい気分だったが、王宮に彼の力を知られるのは流石に不味いかと思い、多少の罪悪感はあるもののそ知らぬ顔で通すことにした。 「――それよりも 姫様、どうなさったんですか?」 この部屋に入ってきた時から、アンリエッタに元気がないことにルイズは気付いていた。 ルイズのその言葉に、アンリエッタは話そうか話すまいか悩む素振りを見せたが、やがてぽつぽつと語りだした。 アルビオンの貴族達が反乱を起こし、今にも王室を打倒しそうであること。 アルビオンを制圧すれば、彼らは次にこの小国トリステインに攻め入ってくるであろうということ。 それらに対抗する為に、トリステイン王女アンリエッタの嫁入りという形でゲルマニアと同盟を結ぶことになったということ。 それらをいちいち大げさな身振りで説明するものだからギアッチョはいい加減うんざりしてきたが、ルイズが真剣に聞いているので仕方なく黙って耳を傾けていた。 この分だと何かの任務を任されるかもしれない。 アンリエッタの話は続く。ゲルマニアとの同盟を阻止する為に、貴族達は婚姻を阻止する為の材料を血眼で捜していること。 そして、ある時自分のしたためた一通の手紙が、その材料であるということ。 「・・・そ、その手紙はどこにあるのですか?」 ルイズの眼は真剣だった。ギアッチョは呆れた顔で彼女を見ているが、特に何も言いはしなかった。 手紙のありかはアルビオン。正に戦の渦中の人、アルビオン王家のウェールズ皇太子が所持しているという。 「ああ・・・破滅です!ウェールズ皇太子は遅かれ早かれ反乱勢に囚われてしまうでしょう そうしたらあの手紙も明るみに出てしまうわ!」 アンリエッタはそう言って泣き崩れる。そんな彼女を見て、ルイズは一も二も無く立ち上がった。 「ギアッチョ・・・わたし達を助けてくれる?」 懇願するようなルイズの言葉にギアッチョは何度目かの溜息と共にやれやれという言葉を吐き出すが、 「・・・ま、オレは使い魔だからよォォ~~ 面倒だがついて行ってやるとするぜ」 実にあっさりと承諾した。 知ってか知らずかルイズの良心につけこむ話し方をするアンリエッタは正直胸糞悪かったが、万一この国が戦争になりでもしたら面倒になりそうだということと、他の国も一度ぐらいは見てみたいという好奇心が合わさった結果そういう結論に達したのだった。その言葉を聞いて、ルイズの顔がぱぁっと輝く。 「姫殿下!わたし達にお任せください!わたしの使い魔がいれば、どんな任務でもきっと達成して御覧にいれますわ!」 そう言ってルイズは凹凸に乏しい胸を誇らしげに張る。デルフリンガーはそんなルイズを見て、 「えらく信頼されてんねダンナ」 と笑ったが、ギアッチョは不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだった。もっとも彼が不機嫌そうに見えるのは全くいつものことだったが。 話が纏まると多忙なアンリエッタはすぐに部屋を辞し、ギアッチョとルイズは明日に備えて早々に寝床に就き。彼らの多忙な一日は、こうして終わりを告げた。
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1270.html
「嘘・・・どうしてフーケが!?」 岩石を切り抜いて作られたラ・ロシェールそのものを素材にして錬金された 巨大ゴーレム。突如出現したそれの肩に長い緑髪をなびかせて座っている女は、 忘れもしない土くれのフーケだった。自分の言葉を中断されて少し助かったと 思ってしまい、ルイズはぶんぶんと首を振る。フーケは端正な顔を不機嫌に 歪めてルイズに答えた。 「実に親切なお方がいらっしゃってねぇ わたしみたいな美人はもっと世の中に 貢献しなくちゃいけないっておっしゃってね 牢から出してくれたのよ」 皮肉たっぷりにそう言って、フーケはじろりと隣を睨む。彼女の刺すような視線の 先にいたのは、白い仮面をつけた黒マントの貴族の男だった。フーケの言動に 一切の反応を示さず、腕を組んで冷厳とルイズ達を見下ろしている。 「個人的にはあんた達なんかとは二度と関わりたくないんだけどね これも仕事よ、恨まないことね!」 言うが早いか、ゴーレムの柱を束ねたような腕が高速で振り下ろされた。いつの 間にか己の剣を握っていたギアッチョは、ルイズを小脇に抱えるとベランダの 手すりを踏み台にルーンの力で数メイルを飛び上がった。直後岩で出来た ベランダを粉々に破壊したその拳に見事に着地して、ギアッチョはピクリとも 動かない表情のまま口を開く。 「やっぱりよォォ~~ オレは戦うのが性に合ってるみてーだなァァ」 「ちょ、ちょっと!どどど、どこ触ってんのよこのバカ!離しなさいよ!」 小脇に抱えられたままルイズがじたばたと騒ぐ。 「どこ触ろうと同じだろーがてめーの身体は 黙ってねーと舌噛むぞ」 「おなっ・・・!?」 ルイズの頭にガーンという音が響き渡った。心に深いダメージを負ったルイズの ことなどつゆ知らず、ギアッチョは戦闘態勢に入った眼でフーケ達を睨む。 足場にしている拳に振り落とされる前に、「ガンダールヴ」の脚力で一瞬のうちに 肩へと駆け上がる。デルフリンガーを持つ方向に身体をひねり二人まとめて 横薙ぎにブッた切るつもりだったが、 「チィッ!」 仮面の男が一瞬の機転でフーケの首根っこを掴んで後方へ落下した為、 デルフリンガーは虚しく宙を切った。ギアッチョは特にイラだった顔も見せずに 地面を覗き込む。レビテーションをかけたのか、男とフーケは無事に地上に 降り立っていた。フーケと結託しているのなら、仮面の男とその仲間には当然 ホワイト・アルバムのことは知られているだろう。もはや隠す必要もないと考えて ギアッチョはゴーレムを凍結しようとするが――下のほうから聞こえてきた怒声や 物音がそれを中断させた。 「どうやら・・・あいつらも襲われてるみてーだな」 放っておくべきか一瞬迷ったが、酒を飲んでいるならマトモに戦えていないかも 知れないと考え、ギアッチョは助けに行くことを選択した。もはや抵抗もしない ルイズを小脇にかかえたまま、見るも無残に破壊されたベランダから部屋に 飛び込み、扉を蹴破って廊下を走り、手すりを乗り越えて階段を飛び降りる。 果たしてギーシュ達は、全員無事に揃っていた。もっとも、テーブルを盾にして いる彼らの頭上では無数の矢が飛び交っていたが。 ギーシュ達と共にワルドがいたのを見て、ギアッチョはピクリと眉を上げる。 背格好といいタイミングといいあの仮面の男がワルドだとギアッチョは殆ど確信 していたのだが、どうやら自分の推理は間違っていたらしい。考え込む彼に 気付いて、ギーシュが声を上げる。 「ギアッチョ!無事だったのかい!」 その声でキュルケ達は一斉にギアッチョを見た。ギアッチョはフンと鼻を鳴らすと、 ルイズを引っ張ってキュルケ達の後ろに身を伏せる。 ギアッチョはフーケがいることを伝えたが、どうやらその必要はなかったらしい。 戸口からは思いっきりゴーレムの足が覗いていた。「それはともかく」と前置きして、 キュルケは鬱オーラ全開で俯くルイズを見る。 「ルイズ、あなた大丈夫?」 「・・・・・・尊厳を汚された・・・」 「は?」 意味が分からずに怪訝な声を上げるキュルケだったが、「一年後に後悔しても 許してあげないんだから」だの「まだ変身を三回残してるのよ きっとそうよ」だのと 肩を震わせながらブツブツと呟いているルイズを見てなんとなく事情を察した。 とりあえずルイズは放置することに決めて、彼女はギアッチョに向き直る。 「どうするの?ギアッチョ」 言外に「魔法を使うのか」と尋ねるキュルケに、ギアッチョは思案顔で黙り込んだ。 しかしギアッチョが結論を下す前に、ワルドが口を開く。 「諸君、このような任務は半数が目的地に辿り着けば成功とされる」 周りの状況などおかまいなしに本を読んでいたタバサが、それを受けてワルドを 見る。ぱたりと本を閉じると、キュルケ、ギーシュ、そして自分を指差して「囮」と 呟いた。ワルドは重々しく頷いて後を引き継ぐ。 「彼女達が派手に暴れて敵を引きつける 僕らはその隙に、裏口から出て 桟橋へ向かう」 その言葉に、ルイズが弾かれたように顔を上げた。 「ダメよそんなの!フーケもいるのよ!?死んじゃったらどうするのよ!」 「いざとなれば逃げるわよ それにわたし、今ちょっと暴れたい気分なのよね」 キュルケは余裕の笑みでそう嘯く。それに追従してタバサが「問題ない」と言い、 ギーシュは相変わらずガタガタ震えていたが、「いいい行きたまえよ君達! ぼ、ぼぼ僕はフーケのゴーレムに勝った男だぜ!」 と誰が見ても明らかに分かる虚勢を張り上げてルイズ達を促した。 「行って」というタバサの声と、「行きなさい」というキュルケの声が重なる。 ルイズはそれでも二の足を踏んでいたが、 「別にルイズの為にやるわけじゃないんだからね 勘違いされちゃ困るわよ」 というキュルケの発破で、何とか行く決心がついたようだった。「わ、分かって るわよ!」とキュルケを睨むと、「おーおー、素晴らしきは友情だね」と笑う デルフリンガーに二人で蹴りを叩き込んで走って行った。それを追ってワルドも 裏口へ去って行く。去り際ルイズが小さく呟いた「ありがとう」という言葉に 意表を突かれて一瞬顔が赤くなったキュルケだったが、コホンと一つ咳をすると すぐいつもの顔に戻った。 「それで、今度はどんなお言葉を下さるのかしら?」 未だ動かないギアッチョに余裕の仕草で笑いかける。ギアッチョは溜息を一つ つくと、彼女達に向き直って口を開いた。 「このまま死なれちゃ寝覚めが悪いんで忠告しといてやる ・・・命を賭けてまで戦おうとするんじゃあねーぞ」 慈悲の欠片も見当たらないような表情で、しかしギアッチョはそう言った。 「無理を悟ったらとっとと逃げろ 桟橋とやらで追いつかれたところでどうせ オレが何とか出来るんだからな」 一見どうでもいいような口調でそう言って、ギアッチョはガシガシと頭を掻く。 そうならない為に今まで隠して来たんじゃないのか、等と言う気は誰にも なかった。一様に真剣な顔で頷く三人に一瞥を向けると、彼は無言で ルイズ達の後を追った。 音を立てずに駆け去るギアッチョの後姿を見送って、キュルケはふぅと 溜息をつく。 「全く、この主にしてこの使い魔ありって感じよねぇ」 やれやれといった風に笑うキュルケに、タバサはこくりと頷いて杖を握った。 大きな音を立てて自分の顔を叩いて、ギーシュは一つ気合を入れる。 「よ、よし!行こうじゃないか二人とも!」 「ええ、火傷しない程度にね」 二人して杖を抜き放ち、ニヤリと笑いあった。
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1157.html
ルイズは夢を見ていた。夢の中で、ルイズは自分ではない誰かになっている。 誰かになったルイズは、どこか古臭い部屋で仲間と思われる人々と会話を交わして いた。自分も回りもどこかかすみがかかったようにぼんやりとして、ルイズはそれに 不安を覚えたが、それと同時に不思議な居心地の良さを感じていた。 「――」 仲間達は自分に何かを語りかける。 「―― ――」 しかし、その言葉もまたおぼろげにかすみ、 ルイズの耳には届かなかった。 ルイズはそれが何故だかとても悲しいことのように思えて、なんとか声を聞こうと するが――聞こうと思えば思うほど、言葉はかすみ、彼らも自分もかすんでゆく。 それでも彼らはルイズに何かを伝えようとしている。酷くかすんで彼らの顔は 分からないが――きっと今の自分である『誰か』の大切な人達なのだろうと、 ルイズは思った。そう思うと、彼らの声が聞えないのがなおさら辛くて、ルイズは 声を張り上げようとする。だけどそれすらもかすみにとけて、そして、世界が、白く、 包まれて。真っ白い闇に、全ては消えた。 ――ゾクッ、と寒気がする。誰かに見られているような視線を感じ、いつの間にか 自分に戻っていたルイズはキョロキョロと周りを見渡すが、それらしいものは 何もない。にも関わらず、ルイズの心はアラームを鳴らし始めた。何かよく 分からんがこれはヤバいッ!と思うと同時にルイズの体は浮上を始め、心の 海を上へ上へと上昇し―― 意識が覚醒したルイズが最初に見たものは、今にもスタンドを発動させそうな 眼でルイズを見下ろしているギアッチョの姿だった。 「だから言ったじゃあねーか」 バシャバシャと水音を立てて顔を洗うルイズを見ながらギアッチョは言った。 「この時間になったら起きなきゃならねーってことを体が覚えこむってよォ~~」 ――覚えこまされたのはあんたの殺気と威圧感よ! と心の中でツッこむルイズである。 「起きる度に殺されかけてちゃ身が持たないわよ・・・」 ルイズはため息をつきながらクローゼットに向かう。ギアッチョに服を持って 来いなどとは勿論言えない。ごそごそと着替えを漁っていると、ガチャリと音を 立ててギアッチョが部屋の扉を開いた。 「・・・どこ行くのよ」 床に座り込んだ状態で首だけ向けて訊くルイズに、 「厨房だ」 と背中で答えるギアッチョ。 「そう・・・それならいいわ だけど教室にはちゃんと来てよね」 ルイズが言い終えると同時にギアッチョは廊下へ姿を消した。 「何よ・・・そんなに早く出て行かなくてもいいじゃない」 と一人ごちるルイズだったが、その原因が自分の着替えにあるとは気付く べくもなかった。 昨日の決闘の噂は、一日も立たずに学院中に浸透したらしい。ギアッチョの 行くところ常に生徒が道を開け、ギアッチョの後ろには謎の魔法を使う男を 一目見ようと大勢の野次馬が付き従っていた。 ――やれやれ・・・シナイ山で啓示を受けた覚えはねーんだがな ギアッチョは畏怖と好奇の視線に辟易していたが、また同時に奇妙に新鮮な 感覚を覚えていた。ギアッチョの生前は目立つという行為はタブーであった。 暗殺を成功させる為、敵の刺客から逃れる為――何か特殊な場合を除き、 ギアッチョ達暗殺者が目立ってしまうことは決してあってはならないことなのである。 こんなに大勢の人間に注目されるのは初めてか、でなくとも久方ぶりの経験だった。 まぁ実際にはギアッチョがそう思っているだけで、客観的にはギアッチョは暗殺者と して有り得ないぐらい目立ちまくっていたのだが。暗殺チームで刺客に襲われた 回数にランキングをつけたならば、ギアッチョはブッちぎりで一位だったことだろう。 「あいつじゃなきゃあ10回は死んでるな」とは地味度一位のイルーゾォの言である。 「おはようございます」 シエスタはにこやかにギアッチョを出迎えた。 「ギアッチョさんの分、もう出来てますよ」 悪いな、と答えてギアッチョは厨房に入る。マルトー達と適当に挨拶を交わして テーブルに着くと、そこには既にギアッチョの為に朝食が用意されていた。 「さぁ食べてくれ!少しならおかわりもあるから遠慮するなよ!」 マルトーはそう言うと意味もなく豪快に笑った。 「いただくぜ・・・ん?」 いざ食事を始めようとしたギアッチョは、窓の外から赤い何かが覗いている 事に気付いた。よくよく眼を凝らすと、そこにいたのはキュルケの使い魔であった。 ――あの化け物・・・サラマンダーとか言ったな ご主人様の命令でオレを監視 してるってェわけか・・・ご苦労なこった ルイズが言っていた、使い魔の視覚と聴覚を共有する力を使っているのだろう。 ギアッチョはスープを飲むふりをしながら、キュルケがフレイムと名付けた化け物を 観察する。どうやら本当に自分を監視しているようだ。脇目も振らずこちらを凝視 している。ガンくれてやろうかとも思ったが、特に迷惑でもないのでギアッチョは そのまま無視を決め込んだ。 「このままキュルケのヤローの疑いが晴れてくれりゃあ儲けもんだしな」 そう結論すると、ギアッチョは今度こそ目の前のご馳走に専念することにした。 それから数日は滞りなく進んだ。フレイムが四六時中ギアッチョの周りをうろついて いること以外は特に変わったこともない。ギアッチョ同様早々にフレイムに気付いた ルイズがキュルケに食ってかかろうとしたが、ギアッチョに静止されて引き下がった。 ギアッチョがキレた回数もたったの3回と、実に平和な日々だった。 「明日は街に出るわよ」 その夜、ルイズはそう宣言した。 「授業はねーのか」 と訊くギアッチョに、 「明日は虚無の曜日だからね」 短く答えるルイズ。虚無だ何だと言われてもギアッチョに分かるわけもなかったが、 まぁ要するに休日なのだろうと彼は判断した。何をしに行くのかと尋ねると、 「剣を買いに行くのよ」という答えが返ってくる。 「剣だぁ?誰が使うんだよそんなもんよォォ」 当然の疑問を放つギアッチョをルイズは指差した。 「ああ?いらねーよそんなもん オレは素手が一番力を発揮出来るんだからな・・・ 第一ナイフや銃を扱ったことはあっても剣なんざ触ったこともねーぜ」 ホワイト・アルバムはプロシュートのグレイトフル・デッドと同様、直触りが最も効果を 発揮するスタンドである。わざわざ剣を握って片手をふさがらせる必要はない。 そう言うと、 「そ・・・それは・・・えっと、あれよ・・・だから」 何故かしどろもどろになるルイズである。 「・・・そ、そうよ!貴族の使い魔たる者、剣の一つや二つ下げていなければ格好が つかないの!分かったらつべこべ言わずに寝なさい!明日は早いんだからね!」 そう言い放ってルイズは逃げるようにベッドに潜り込んだ。 ギアッチョは「剣下げてる使い魔なんて見たことねーぞ」と言おうかと思ったが、 ギーシュ戦の感謝を素直に言えないルイズの遠まわしな礼だと気付いて黙っている ことにした。 「剣で何とかなる敵がいるならそれが一番だしな・・・・・・」 今は平和だがこれから何があるか分からない。スタンドはやはり極力隠すべきだと 判断したギアッチョだった。
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/2049.html
「・・・それじゃあ開けるわよ・・・」 揺らめく炎が微かに照らす岩壁に、少女の声が反響する。誰も近寄らない魔物の 巣窟、その深奥に安置された古びたチェストに手を掛けて、キュルケは真剣な 眼でルイズ達を見た。少し汚れた顔を皆一様に頷かせたことを確認して、 ゆっくりと蓋を開く。 キュルケの地図によれば、犬にされた王女の呪いを解除したとも、王に化けた トロールの魔法を見破ったとも伝わる「真実の鏡」がこの洞窟に隠されていると いう話だった。もし本当ならば世紀の大発見である。期待と不安の眼差しの中、 箱の中から姿を現したのは―― 「なッ・・・!」 粉々に割れた鏡の残骸だった。 「何よそれぇ~~~・・・」 糸が切れた人形のように、キュルケ達はへなへなとへたり込んだ。 「み、見事に割れちゃってますね・・・」 「・・・真贋以前の問題」 脱力するシエスタの横で、流石のタバサも疲労の溜息をついた。 「・・・戻るか」 頭を掻きながら呟くギアッチョに異を唱える者はいなかった。 その夜。 「はぁ~~~~~~・・・・・・」 適当に見繕った洞穴に腰を下ろして、ギーシュは深く息を吐き出した。 「七戦全敗とはね・・・」 焚き火に手を当てながら首を振る。 そう。現在消化した地図は八枚中七枚、そしてその全てが到底お宝等とは 呼べないガラクタのありかであった。 炎の黄金で作られた首飾りが隠されているはずの寺院にあったのは、真鍮で 出来た壊れかけのネックレス。小人が遺跡に隠したという財宝は、たった六枚の 銅貨だった。それでも何かが出てくるならばまだいい、中には地図に描かれた 場所自体が存在しないことすらあった。 「ま、いい経験が出来てよかったじゃあねーか」 ギアッチョが戦利品の欠けた耳飾りを眺めながら言う。彼の言ういい経験とは、 無論実戦経験のことである。この数日間否応無く化物の群れと戦い続け、 ルイズ達は最後にはギアッチョの助けが無くともそれらを殲滅出来る程に なっていた。 「おかげさまでね・・・」 「懐が暖まらないのは残念だけどね」 そう言いながらも、不思議とキュルケに悔しさは無い。そして、それは皆同感の ようだった。 ゆらゆらと揺れる炎を見つめながら、ルイズは静かに言う。 「でも・・・楽しかった」 「・・・そうだね」 その言葉に、皆の顔から笑みがこぼれる。傍から見れば何の得も無い、くたびれ 儲けのつまらない旅行だろう。しかし――損だとか得だとか、そんなことは彼女達 にはどうだっていいことだった。 眼に見えるものは何も無い、手に取れるものは何も無い。だが彼女達が手に入れた ものは、だからこそその胸の中で強く輝いている。 「・・・これ・・・」 ルイズは手のひらに慎ましく乗っている六枚の銅貨に眼を落とす。それは今回の 数少ない戦利品の一つだった。とは言え、とりたてて古銭というわけでもない 上どれも皆錆び放題に錆び、あちこちが傷つき欠けている。とりあえず持ち 帰ったはものの、どう考えても買い取り不可であろうこれをどうしたものか、 皆の頭を悩ませている一品であった。 「・・・・・・これ、皆で一枚ずつ持たない?」 しばし考えた後、ルイズはおずおずとそう言った。 「・・・分配?」 意味を量りかねて、タバサは小首をかしげる。 「ううん、そうじゃなくて・・・」 「こういうことだろう?」 そう言ったのはギーシュだった。ルイズの手から銅貨を一枚取り上げると、 錬金で中央に小さく穴を開ける。ガラクタの中からネックレスを取り出し、 穴に通して首にかけた。 「う、うん・・・」 ズレてはいるが殊更外見を気にするギーシュが躊躇い無く銅貨を見につけた ことに、ルイズは聊か驚きながら首を頷かせる。 「・・・解った」 得心した表情で立ち上がると、タバサもまたルイズの掌から銅貨を一つ掴む。 後に続いてキュルケが二枚をその手に取った。 「ほら、シエスタ」 「へっ?」 焚き火に鍋をかけていたシエスタは、キュルケに差し出された銅貨に眼を丸く する。一拍置いて、ブンブンと手を振ると慌てた口調で言葉を継いだ。 「そそ、そんないけません!折角の宝物を私のような平民に――きゃっ!」 キュルケはシエスタの額を中指で軽く弾いて言う。 「全く、まだそんなことを言ってるの?平民だとか貴族だとか言う前に、 私達は友達じゃない 大体、貴族と平民に違いなんて何も無いことは貴女が 一番よく知ってるでしょう?」 「・・・そ、それは・・・」 「ん?」 シエスタの瞳を覗き込んで、キュルケは優しく微笑む。シエスタは少しの間 銅貨を見つめて逡巡していたが、やがてキュルケと眼を合わせて口を開いた。 「・・・私でも――いいんでしょうか」 「よくない理由が無いわよ」 きっぱりと、キュルケは断言する。シエスタは少しはにかんだ笑みを浮かべて、 静かに銅貨を受け取った。 「ありがとうございます・・・ミス・ツェルプストー」 「き、君達いつの間にそんな関係にッ!?」 「どんな関係も無いから鼻血を拭きなさい」 何やら興奮した面持ちのギーシュを適当にあしらうと、キュルケはルイズに 視線を移して、 「ほら、まだ残ってるでしょうルイズ」 「・・・うん」 意味するところを察したらしいルイズは、掌に残った銅貨を一枚取り上げて、 ゆっくりとギアッチョに差し出した。 「受け取って、くれる・・・?」 「――・・・・・・」 ギアッチョは答えずに錆びてひしゃげた銅貨を見つめる。 これは児戯だ。心に風が吹けば飛び、薄れ、消えてしまう記憶を、それでも 留めておきたい子供の。 ――それでも。彼女達にとっては、この銅貨は紛れも無い宝物になるだろう。 ギアッチョは口を閉ざす。黙ったまま――その眼差しに万感を込めるルイズから、 銅貨を受け取った。 「ギアッチョ・・・」 ルイズの、キュルケ達の顔が綻んだ。どうにも居心地が悪くなって、 ギアッチョは銅貨に眼を戻す。薄くて軽いそれが、少しだけ重さを増した ように感じた。 「さ、皆さん お食事が出来ましたよ」 やがて完成したらしいシチューを、シエスタは鍋からよそってめいめいに配る。 食前の唱和もそこそこに、動き疲れたルイズ達は少々はしたなく食器に手を 伸ばした。 「・・・おいしい」 食べ慣れないが実に美味しいシエスタの料理に、ルイズ達は揃って舌鼓を打つ。 兎肉や種々のキノコにルイズ達が見たことも無いような山菜が入ったそれは、 聞けばシエスタの村の――正確には彼女の曽祖父の、郷土料理なのだと言う。 それから、話題はそれぞれの郷土のことに移った。少し酒の入ったギーシュは 饒舌にグラモン家の領土を語り、それを皮切りに皆わいわいと言葉を交わし 始める。ギアッチョも酒を傾けながら時折話に混ざっていたが、それを見て タバサがふと思い出したように呟いた。 「・・・貴方は?」 「あ?オレか?」 「そういえば、ギアッチョの話は聞いたけどそっちの世界の話は聞いて ないわね 良ければ聞かせて欲しいわ」 「・・・そうだな」 キュルケの言葉に、空になった杯を弄びながら答える。 「前にも言ったが、最も大きな違いは魔法なんてもんが存在しねーことだ」 「君のようなスタンド能力はあるのにかい?」 「こいつは例外中の例外だ スタンドを知ってる人間なんざ、さて世界に 何人いるかっつーところだな ・・・ま、そう考えるとよォォ~~~、 魔法使いがひっそり存在してるって可能性も否定は出来ねーが ともかく 殆ど全ての人間が魔法なんて知らねーし信じちゃあいねー そういう世界だ」 ギアッチョの説明に、キュルケ達は一様に不思議な表情を浮かべる。 「何度聞いても想像出来ないな・・・ ということはマジックアイテムも 無いんだろう?不便じゃないかね?」 「不便ってのは便利さを知って初めて出る言葉だと思うが・・・ま、別に んなこたぁねー 魔法の代わりに、地球の文明は科学によって発展してきた」 「・・・科学」 「あの教師――コルベールか?いつだったか、授業で簡単な内燃機関を 披露してたがよォーー、例えばあれを応用すると馬車より速い乗り物を 作れる 国にもよるが、大半の人間はそいつを足に使ってるな」 「えーっと・・・?」 案の定と言うべきか、今の説明を完璧に理解出来た者は居ないようだった。 眼鏡をかけ直す仕草の間に、ギアッチョは解りやすい例えを捻り出す。 「・・・簡単に言うとだ」 軽く居住まいを正すと、片手で天井を指しながら、 「あの飛行船・・・あれを動かしてる動力があるだろ」 「風石」 間を置かず補足するタバサに頷いて続ける。 「そいつを人工で作り出したみてーなもんだ」 おおっ、と全員が驚いた顔になる。 「凄いじゃない!魔法も使わずにそこまでのことが出来るなんて!」 得心がいって俄然興味が沸いたのか、キュルケが少し身を乗り出して言った。 いかにも非魔法的技術に特化したゲルマニアの貴族らしい反応である。 「あら・・・?ということは、コルベール先生は雛形とは言えそれを 一人で作り上げたということ?」 「そういうことだろうな」 油と薬品の臭気が漂う研究室で独り研究に明け暮れる奇矯な教師、という 学院一般の評判を思い出してギアッチョは答えた。「そう・・・」呟くように 言うと、キュルケは少し複雑そうな表情を見せる。 「それじゃ、他にはどんなものがあるの?」 続けて問い掛けるルイズに、ギアッチョは面倒というよりは怪訝な視線を 向けた。 「おめーにゃあ何度も話してるじゃあねーか」 「そうだけど、もっと詳しく聞きたいんだもの それに、皆は初めて聞く ことでしょ」 「ギアッチョさん、私ももっと聞きたいです」 ルイズとシエスタの言葉に、ギーシュが頷きで賛同の意を示す。ギアッチョは ガシガシと頭を掻いて、一つ溜息をついた。 「・・・ま、別にかまわねーが」 とは言え、乱暴な言い方をするならば殆ど何もかもが違うような世界である。 はて何から喋ったものかとギアッチョは一人思案した。 先端科学の話でもするかと考えたが、観測者の存在が観測結果に影響を与える 等と言ったところで理解は難しいだろう。考えた末に比較の可能な乗り物から 話すことにすると、ギアッチョは手近な小石で地面に絵を描き始めた。 「飛行機っつー代物があってな・・・」
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1409.html
「桟橋」の階段の先は、一本の巨大な枝に続いている。そこに吊り下げ られている船の甲板にワルドとルイズはいた。ギアッチョは左手に デルフリンガーを握ると、昇降の為に備えられているタラップに眼も くれずそのまま甲板に飛び降りる。着地の衝撃が身体を揺らすが、 「ガンダールヴ」の力はギアッチョにまるで痛みを感じさせなかった。 「便利なもんだな」と呟きながら剣を仕舞う。ワルドに視線を遣ると、 彼は遅いぞと言わんばかりの眼をこちらに向けていた。 「交渉は成功してるんだろーな」 「勿論」 ワルドは杖の先で羽根帽子のつばをついと押し上げ、舳先の方で 船員達に指示を出していた船長に声をかけた。 「船長、もう結構だ 出してくれたまえ」 船長は小ずるい笑みでワルドに一礼すると、船員達に向き直って怒鳴る。 「出港だ!もやいを放て!帆を打て!」 がくんという衝撃と共に船が浮き上がる。ギアッチョは舷側に乗り出して、 興味深そうに地上を見下ろした。ルイズの話では、船体に内臓された 「風石」とやらの力で宙に浮かんでいるのだという。徐々に速度を増して 遠ざかってゆくラ・ロシェールの明かりを眺めて、ギアッチョはキュルケ達の ことを考えた。あの三人とシルフィードなら、引き際を誤らなければ死ぬ ことはないだろう。しかしそう思いつつも、意思に反して彼の心はどこか ざわついている。今日何度目かの舌打ちをして、ギアッチョは去り行く港の 灯りから眼を離した。ボスを裏切って7人散り散りに別れたあの日以来、 こんな気分になることはもうないと思っていた。 どうしてこんな気持ちになる?彼女達が死んだところで自分にどんな不都合が あるというのだろう。暗殺者という軛を外れた彼が否応なく人としての心を 取り戻しつつあることに、ギアッチョは気付けない。 「クソ・・・気分が悪ィ・・・」 自由な片腕で欄干にもたれたまま、ギアッチョは不機嫌な顔で眼を閉じた。 包帯と軟膏を持って、ルイズは少し釈然としない顔で船室から甲板へ戻って きた。怪我人がいるから譲って欲しいと船長に頼んだのだが、薬は高いし 船の上では補充も効かないと言われて二倍以上の金額で買わされたのだった。 しかしまぁそれも仕方ないかなとルイズは思う。身近な国で戦争が起こっている このご時世、平民からすれば少しでも金は欲しいのだろうし、包帯や薬は アルビオンに輸出されて品薄になっているのかも知れない。船長ならちゃんと 船員に金を分け与えるだろうし、貴族としてこのくらいの支出はしなければ。 等と素直に考えている辺り、ルイズはまだまだ純粋な少女であった。 欄干にもたれているギアッチョの元へ、ルイズは足早に歩いて行く。 マストの下で、ワルドと船長が何事か話していた。「攻囲されて・・・」だの 「苦戦中・・・」だのという言葉が聞こえてくる。やはり戦況は芳しくないようだ。 どうやら手紙の所持者、ウェールズ皇太子はまだ生きて戦い続けてはいる らしい。しかしアルビオンの王党派は、もはやいつ全滅してもおかしくない 瀬戸際にいるという。脳裏をよぎった最悪の可能性に首を振って、ルイズは ギアッチョの元へ逃げるように駆け出した。 「左手、出して」 「ああ?」 後ろからかけられた言葉に、ギアッチョは気だるげに振り向く。両手に 包帯と軟膏を抱えてルイズが立っていた。 「包帯巻くのよ」 「・・・オレをミイラ男にでもする気かてめーは」 ギアッチョはじろりと包帯を見る。どっさりと抱えられたそれは、彼女のか細い 両腕から今にも転がり落ちそうだ。 「う・・・あ、明日の分もいるでしょ!そ、それに交換もしなきゃいけないし・・・ あと、えーと・・・・・・ああもう!とにかく左手出しなさいよ!」 「そこに置いとけ 包帯ぐらいてめーで巻ける」 どうでもいいようにそう言って、ギアッチョは再び空に顔を戻した。 ルイズは少しムッとする。わざわざそんな言い方をしなくてもいいではないか。 「左手出しなさいってば!」 ルイズは意固地になって繰り返す。 「てめーで巻けるって言ってるだろーが」 「自分じゃ巻きにくいじゃない!巻いてあげるって言ってるんだから大人しく 聞きなさいよ!」 「いらねーってのが分からねーのかてめーは いいからそこに置け」 「あんたこそ出せって言うのが分からないの!?いいから出しなさい!」 絶対巻いてやるんだから!と躍起になるルイズと全く巻かせる気のない ギアッチョは、一進も一退もしない攻防を続ける。無表情で拒否を繰り返す ギアッチョにいい加減疲れてきたルイズは、はぁと溜息をついて尋ねた。 「もう・・・どうしてそんな意地になるのよ」 借りを作るのは面倒の元だ、と言おうとしてギアッチョはハッとする。 ここはそういう世界ではないのだ。そしてルイズはそんな人間ではない。 進んで手当てをしておいて貸しを作ったなどと、考えすらしないだろう。しかし。 「・・・な、何よ」 ギアッチョはじろりとルイズを見る。 彼にも矜持というものがある。大の男が年端もゆかぬ――しつこいようだが ギアッチョはそう思い込んでいる――少女に包帯を巻かれる等という状況は とても容認出来るものではなかった。そんなギアッチョの心境を感じ取ったのか どうなのか、 「分かったわ・・・じゃあこうしましょう あんたが包帯巻くのをわたしが手伝うわ」 ルイズはそう言って、まるで名案でも思いついたかのようにえっへんと残念な 胸を張った。その拍子に次々と包帯が甲板に落ちて、ルイズは慌ててそれを 拾い集める。そんなルイズを見下ろして、ギアッチョはしょーがねーなと考えた。 借りがどうだと言うのなら、そもそも命を助けられた時点でこれ以上ない借りを 作っているのだ。借りを返すということで我慢してやることにして、ギアッチョは あくまで投げやりに口を開いた。 「・・・勝手にしろ」 「――ッ!」 ギアッチョの左腕を捲り上げて、ルイズは息を呑んだ。仮面の男の雷撃に よって、ギアッチョの左腕は見るも無残に焼け爛れていた。 「ひどい・・・」 ルイズは思わず声を上げるが、 「この程度で騒ぐんじゃあねー」 ギアッチョはことも無げにそう言って、ルイズの腕の中の包帯と軟膏を一つ 無造作に掴み取った。それらをポケットに突っ込むと、ショックを受けている ルイズを放置して船室へと入って行く。船員に言って水を貰い、痛みをこらえて 傷口を洗い流し軟膏を塗りつける。それから包帯を取り上げると、右手と口で 器用にそれを巻いていく。半分ほど巻き終わったところで、 「ひ、一人で何やってんのよあんたはーーーっ!」 ようやく正気を取り戻したルイズが飛び込んで来た。 「も、もうこんなに巻いてるじゃない!わたしも手伝うって言ったでしょ!?」 「だから勝手にしろって言っただろーが 来なかったのはおめーの勝手だ」 しれっと言ってのけるギアッチョに、ルイズの肩がふるふると震える。これは キレたか?と思ったギアッチョだったが、 「・・・何よ 手当てぐらいさせなさいよ・・・」 ルイズの口から出てきたのは、実に弱弱しい言葉だった。少し眼を伏せた 格好で、ルイズは殆ど呟くような声で言う。 「・・・姫様に頼まれたのはわたしなのに、わたしだけが何も出来ないなんて 最低よ・・・ あんたもワルドも、キュルケ達まで戦ってるのにわたしは何も 出来ずに見てるだけなんて、こんなのメイジのやることじゃないわ・・・ 挙句にわたしを庇ってこんな大怪我までされて・・・せめて手当てぐらい しなきゃ、わたし・・・!」 ルイズの言葉は、彼女の悔しさと申し訳なさを如実に物語っていた。 ギアッチョは改めてルイズを見る。俯いて立ち尽くすルイズの拳は、痛い ほどに握り締められていた。 「主人を庇うのが使い魔の仕事なんだろーが」 包帯を巻く手を休めてギアッチョは言うが、その言葉はルイズの傷をえぐる だけだった。 「そうだけど・・・そうだけど違うもん 使い魔だけど、あんたは人間だもん ・・・何よ 何でも出来るからって、どれもこれも一人でやらないでよ・・・ 一つくらい、主人らしいことさせてよ・・・」 ここまで深刻に悩んでいるとは思わなかった。ギアッチョはがしがしと頭を掻く。 ルイズはこう見えて責任感が強い。何も出来ずただ守られているだけの自分を、 彼女は許せないのだろう。 「・・・てめーでやれることをすりゃあいいんだ 拗ねることじゃあねーだろ」 「・・・拗ねてなんかないもん 使い魔の前で拗ねる主人なんていないもん」 拗ねながら落ち込むという若干高度なテクニックを披露するルイズに軽い 頭痛を感じたが、しかし一方でギアッチョにはルイズの無力感が痛いほどよく 分かる。フーケ戦で己の無力を痛感したギアッチョに、今のルイズはどうしても 捨て置けなかった。 自分を誤魔化すようにはぁと溜息をつくと、彼は左手をルイズに突き出した。 「・・・片手でやるのはもう疲れた 後はおめーがやれ 一度やると言ったんだからな、嫌だと言っても巻いてもらうぜ」 その言葉に、ルイズの顔が一瞬ぱぁっと明るくなる。それに気付いてルイズは ぷいっと怒ったように顔を背けて答えた。 「い、言われなくたってやってあげるわよ!しょうがないけど、言ったことは やらなきゃダメだもの ご主人様が直々に手当てしてあげるんだから、 かか、感謝しなさいよね!」 誰が見ても照れ隠しと分かる顔で早口にそう言って、ルイズはギアッチョの 右手から包帯の端をひったくった。手持ち無沙汰になったギアッチョはフンと 鼻を鳴らして眼鏡を押し上げると、何をするでもなく黙り込んだ。 まるで白磁のような手で、ルイズは包帯を巻いてゆく。未だに燃えているかと 錯覚するほどに熱い腕を、その冷たい指で冷ましながら。 たどたどしい手つきではあるが、出来うる限り優しく丁寧に巻こうと苦心している ことが十二分に伝わってくる。良くも悪くも、真っ直ぐな少女だった。 一心不乱に包帯と戦っているルイズを見下ろして、ギアッチョはふと思う。 ペッシを見守るプロシュートは、こんな感じだったのだろうかと。もっとも、 ペッシとルイズの容姿には本当に同じ人間同士かというほどの差はあるのだが。 「おめーも物好きな野郎だな」などと冗談交じりに話していたことを思い出す。 しかしあいつの気持ちが、今なら少し――本当にほんの少しだが、分かるかも 知れない。そのうち地獄でプロシュートに会ったら、「オレもヤキが回ったもんだ」 と言ってやろうかとギアッチョは思う。しかし少なくとも、手紙を回収するまでは そっちには行けそうにない。ならば当面はプロシュートに学ぼうかと彼は考えて みた。あんな時こんな時、あいつはどう説教していただろうか、どうフォローして いただろうか。「何でオレはこんなことをバカみてーに考えてんだ」と心中毒づき ながらも、ギアッチョはプロシュートの偉大さを痛感した。ギアッチョが覚えている だけでも、プロシュートは結構な回数ペッシをブン殴っていた。にも関わらず、 ペッシはプロシュートを変わらず「兄貴」と慕っていたのである。 ――カリスマってヤツか? いや、それはリゾットだろうか。まあどの道、とギアッチョは結考える。どの道 自分にプロシュートのような真似は出来ない。特に額に額を当てる彼の得意技 など、ギアッチョがやれば恫喝にしか見えないだろう。 オレはオレで適当にやらせてもらうとしようと結論づけて、ギアッチョは己の 左腕に眼を落とす。包帯は既にその大部分を包んでいた。 ついでにプロシュートはこの状況ならどうするだろうかと考えてみる。 「『手当てした』なら使ってもいいッ!」と真顔で言うプロシュートが何故か思い 浮かんで、ギアッチョは思わず口の端がつり上がった。そんなギアッチョと偶然 眼が合って、彼の笑みをどう解釈したものか、ルイズは少し顔を赤らめて眼を 逸らした。
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1429.html
「アルビオンが見えたぞー!」 怒鳴る船員の声で、ギアッチョは眼を覚ました。慣れない空飛ぶ船での 睡眠で痛む頭と軋む身体を半ば無理やりに引き起こす。 「――ッ・・・」 睡眠をとり過ぎた時のような気分の悪さに頭を抑えて、ギアッチョはふぅっと 息を吐き出した。気だるげに隣に眼を遣ると、ベッドの上は空。 「眼が覚めた?」 待っていたようなタイミングで上から降って来た声に、ギアッチョは緩慢に 頭を上げる。隣のベッドの主が、両手にコップを一つずつ携えて立っていた。 ギアッチョの返事を待たずに、彼女は片方のコップを差し出す。 「・・・水、飲む?」 だるそうな声で「ああ」と答えて、ギアッチョはコップを受け取った。取っ手を 傾けて一息に飲み干すと、徐々に頭が冴えてくる。軋む身体を捻ってから、 ギアッチョは彼女――ルイズに眼を戻した。 「・・・昨日といい今日といい、おめーが早起きしてんのは珍しいな」 ルイズは既に制服に着替え終わっている。困ったように溜息をつくと、 「今日はあんたが遅いのよ わたしはいつもの時間に起きたもの」 そう言って自分のカップに口をつけた。ルイズから眼を戻して、ギアッチョは 節々が痛む身体に鞭打って立ち上がる。首や肩をコキコキと鳴らすと、 眼鏡を探しながら口を開いた。 「悪ィな」 「え?」 意味を掴みかねているルイズに、コップをひょいと上げることで答える。 「あ・・・べ、別にあんたの為に汲みに行ったわけじゃないわよ なんだか あんたが寝苦しそうだったから、わたしのついでに持ってきてあげただけ」 ついでという部分を幾分強調して早口にそう言うと、空になったギアッチョの コップを奪い取ってルイズはぱたぱたと走って行ってしまった。 ルイズの背中を見送って、デルフリンガーはカシャンと柄を持ち上げて笑う。 「いやはや、見てるこっちが恥ずかしくなる程の純情ぶりだね」 「ああ?」 なんの話だと言わんばかりの眼をこっちに向けるギアッチョに、デルフは 内心やれやれと呟いた。 ――やっぱりネックは旦那だねこりゃ ギアッチョ達の世界で、カタギの人間と恋に落ちるような者は中々珍しい。 理由は種々あるわけだが、ギアッチョはそれ以前に愛だの恋だのという もの自体に全く興味がなかった。彼にとっては、リゾットチーム以外の人間は 殆ど全てが敵か、またはどうでもいい者のどちらかであった。例えば一人の 女性がいて、彼女がそのどちらであるにせよ、ギアッチョには微塵の興味も 沸きはしない。殺すか、捨て置くか。彼の前には、それ以外の選択肢など 出ようはずもなかった。そんなことが何年も続くうちに、ギアッチョからは もはや恋だとか愛だという概念それ自体が失われてしまったのである。 これはいかんと思ったメローネが愛読書のハーレム漫画を無理やり 読ませたこともあったが、次々と女絡みのトラブルに巻き込まれる主人公に ついて「このガキはスタンド使いか何かか?」などと呟くギアッチョには、 さしものメローネも匙を投げざるを得なかった。「敗因は漫画のチョイスだろ」 とはイルーゾォの言であるが。 勿論デルフリンガーがそんなことを知る由もないのだが、これだけ度々こんな 場面に遭遇すれば流石に彼にもギアッチョのことが分かって来たようで、 デルフリンガーは半ば本気で二人の行く末を心配していたりする。 返事をしないデルフから、ギアッチョは早々に視線を移して身体を伸ばして いた。若干身体が楽になったことを確認して、ひょいとデルフを掴む。 「お?」 「アルビオンとやらを見に行くぜ」 アルビオンを「見上げて」、ギアッチョは絶句した。広大無辺の大空に、 溜息が出るほどに巨大な島――否、大陸が一つ、悠然と浮遊している。 「――・・・・・・」 正に文字通りの意味で絶句して、ギアッチョはアルビオンに眼を奪われている。 それは当然だ。この神々しいまでに美しくも雄大な景観に、圧倒されない 人間が一体どこにいるだろうか。 珍しく驚嘆の表情を露にしているギアッチョが面白いのか、ワルドと話をして いたルイズはくすりと笑って口を開く。 「驚いた?」 「マジにな・・・」 「あれがアルビオンよ ああやってずっと空を彷徨ってるの 普段は大洋の 上空に浮かんでることが多いんだけど、月に何度かハルケギニアの上に やってくるわ」 大きさはトリステインの国土程もあるのだとルイズは説明する。それを受けて、 「通称『白の国』、だね」 ワルドも解説に加わった。ギアッチョはアルビオンの下方にちらりと眼を移す。 アルビオンの大河から流れ落ちた水が、霧となって下半分を白く覆っていた。 「・・・なるほどな」 「右舷上方の雲中より、船が接近してきます!」 鐘楼で見張りに当たっていた船員の大声で、船内に一瞬で緊張が走った。 ギアッチョは言われた方向に首を向ける。こちらより一回りも大きい黒塗りの 船が、明らかにこちらを目指して近づいて来た。 「・・・貴族派の連中か?お前らの為に硫黄を運んでいる船だと教えてやれ」 船長の指示で見張りが手旗を振るが、黒い船からの返信はない。皆一様に いぶかしんでいるところへ、副長が血相を変えて駆け寄って来た。 「せ、船長!あの船は旗を掲げておりません!空賊です!」 二十数門もの砲台が、こちらを睥睨している。いかなワルドやギアッチョと 言えども、もはや逃走は不可能だった。 黒船のマストに、停船命令を意味する信号旗がするすると登り、 「・・・裏帆を打て・・・・・・停船だ」 苦渋に満ちた顔で、船長は絶望の命令を出した。 黒船の舷側に、銃や弓を持った野卑な男達がずらりと並ぶ。一斉にこちらに 狙いを定められて、ルイズはびくりと小さく肩を震わせた。ギアッチョは感情の 読めない顔で、一歩ルイズの前に進み出る。 「・・・ギアッチョ」 冷静に、彼は状況を分析する。黒船からは、既に小型の斧や曲刀を持った 賊達がこちらに乗り移って来ていた。大砲を使われることはないだろう。 仲間諸共沈めてしまうからだ。しかし示威としてはこの上ない威力を発揮 している。それが証拠にこちらの船員達はすっかり怯えあがり、もはや 物の役にも立ちはしない状態であった。もっとも、ギアッチョは元々彼らを 戦力などと考えてもいなかったが。 ――奴らの銃は大方オレ達三人に狙いをつけている・・・こいつを突破 するなぁ少々骨だな おまけに剣を持った奴らもオレ達を包囲してやがる これだけ四方八方から狙われりゃあ満足に立ち回れるかも怪しいもんだ ワルドの野郎は自力で何とかしてもらうとしても、ルイズを放っておく わけにゃあいかねーからな・・・ しばし黙考した末に、ギアッチョは投降を選択した。まさかこの場で 殺されるなどということはないだろう。貴族にはいくらでも「使い道」がある。 どれだけがんじがらめに縛られようが、ホワイト・アルバムがあれば 脱出は容易い。負けを認めるのは多少・・・いやかなり屈辱だが、今は 四の五の言っている場合ではないことの解らないギアッチョではなかった。 「そこのてめーら!剣と杖をこっちに放りな!」 と高圧的に命令する空賊に、ギアッチョは苛立つ顔一つ見せず従った。 ぼさぼさの黒い長髪に眼帯と無精髭という、実にステレオタイプな風体の 男がどすんと甲板に飛び降りる。ギアッチョはまるで創作ものの海賊船長 だなと思ったが、どうやら男は本当に賊の頭らしく、じろりと辺りを見回して 荒っぽく言葉を吐いた。 「船長はどこだ?」 その声に恐る恐る答えた船長と幾つか言葉をかわした後、男は震える 船長の首筋を曲刀でぴたぴたと叩いて笑った。 「船も硫黄も全部買い取ってやる!代金はてめーらの命だ!」 隅から隅まで響き渡るような大声でそう叫ぶと、男はニヤリと笑ったまま 仲間のほうを向いた。 「おい、こいつらを船倉に叩き込んどけ」 空賊に引っ立てられて行く船員達を満足に見遣って、男はルイズ達に 向き直る。 「これはこれは、貴族様方が御同船なされていたとは存じ上げませんでした」 大げさな身振りで白々しくそう言って、男は愉快そうに下卑た笑いを浮かべた。 曲刀を肩に担ぎ、どすどすとルイズに歩み寄る。ルイズの顎を片手で持ち 上げて、男は値踏みするように彼女を眺めた。 「こりゃあ大層な別嬪さんですなぁ どうです?私の元で靴磨きでも?」 人を小馬鹿にした笑みでそう言う男の手を、ルイズはぱしんとはねのけた。 怒りを込めた眼で、キッと男を睨みつける。 「下がりなさい!わたしはトリステインからの使い・・・大使よ!」 堂々と己の正体をバラすルイズにワルドは不味いという顔をし、ギアッチョは やれやれといった感じに首を振った。しかしルイズはそんな彼らの心中も 忖度せず、だが毅然として胸を張る。 「わたし達はアルビオンの王党派に、正統な政府たる王室に用があるの 今すぐ皆を釈放してここを通しなさい!」 「おいおいお嬢ちゃん あんた頭は大丈夫かね?」 賊の頭は不可解な顔でルイズに問い掛ける。 「俺達が貴族派と結託してる可能性ってヤツを考えなかったのか?」 恫喝するような調子で語りかける男に、ルイズはあくまで王女の使いと しての誇りを持って相対する。 「だったらどうだと言うの?わたしはあんた達みたいな人間に嘘をついて 下げるような頭は持ってないわ!」 その言葉に男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、やがてげらげらと おかしそうに笑い出した。 「カハハハハハ!ええ?貴族のプライドの為に命を捨てるってか?あんたら 貴族ってなァ全くもって度し難い奴らだな!」 「そんな下らないものじゃないわ」 「何・・・?」 まるで貴族自体を否定するような言葉が当の貴族から出たことに、頭は 再び眼を丸くする。それは手下の空賊達も、そしてワルドも一緒だった。 「これはあんた達みたいな外道を許せないわたし自身の、そして トリステインを代表する者としての誇りよ!あんたなんかには永遠に 理解出来ないでしょうけどね!」 貴族でありながら、彼女の言葉は貴族のものでも平民のものでもない。 ただ一人、ルイズ・フランソワーズ、彼女自身の言葉だった。頭は彼女の 綺麗な髪を引っつかみ、鼻先まで顔を近づけて脅嚇し、首筋に刃を 押し当てる。しかしびくりと身を固くしながらも、ルイズは頭の眼を見据え 続けた。逆境にあって尚、彼女の旭日のような誇りと「覚悟」は潰えない。 そんな彼女を、ギアッチョはただ黙って見つめている。男は手を変え 品を変えてルイズを脅し続けるが、彼女は何をされようがついに男に 屈しなかった。ルイズの「覚悟」が本物であると悟り、今にも人を殺さん ばかりだった男の表情がふっと和らぐ。 男の物腰は、賊のそれから一流の貴族のものに一瞬にして変化した。 彼は己の黒髪に手をやり、 「どうやらその「覚悟」は本物のようだ 失礼を詫びよう、私は――」 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」 突如上空から雄叫びが聞こえ、男もルイズも、その場の誰もが天を振り 仰いだ。彼らの真上にいたのは、竜だった。そして甲板に大きく影を落とした それから流星のように飛び降りて来た金髪の少年はッ! 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぶァァッ!!」 くぐもった悲鳴と共に、見事に甲板に激突した。 「ギ、ギーシュ!?」 天から隕石の如く落下した少年に、ルイズが初めて大きな動揺を見せる。 ギーシュは鼻を押さえてフラフラと立ち上がると、造花の杖を頭に向けた。 「や、やひッ!賊め、ルイズをはにゃせッ!」 フガフガと鼻を鳴らしながら言われても何の迫力もないのだが、当の空賊 達はギーシュの体を張った一発芸に呆気にとられて言葉も出なかった。 そんなギーシュの横に、情熱に染まった髪を持つ少女が降り立つ。 「空賊であらせられる皆々様、よろしければ武器をお捨てになって 下さりませんこと?さもなくばこの微熱のキュルケと雪風のタバサ、あと 鉛の・・・青銅?・・・青銅のギーシュが、不本意ながらこちらで大暴れ させていただくことになりますわ」 優雅な身振りで一礼するキュルケに合わせて、シルフィードに乗ったまま 臨戦態勢のタバサが降りてきた。 予想外の展開にルイズは眼を白黒させている。ギアッチョとワルドも、 大小違いはあれど共に驚きの色を含んだ顔で彼女達を見ている。 空賊の頭と手下達は今度こそ驚愕の顔で固まっていたが、数秒の後 彼らは殆ど同時に、弾かれたように笑い出した。しかしその笑いには、 今までの野卑な声とは違う爽やかさがあった。 実に大きな声でひとしきり笑った後、頭は改めてルイズ達に向き直った。 「君は実に良い仲間を持っているようだ すまない大使殿、数々の無礼 許して欲しい」 ルイズに謝罪しながら、男は己の髪を掴む。男の力にしたがって、それは するりとはがれた。彼は次に眼帯を取り外し、そして最後に髭を外す。 その下に現れたのは、金糸の如き髪と蒼穹を映したかのような瞳を持つ 凛々しき青年だった。ぽかんと口を開けたまま固まっているルイズ達を 見渡して、青年は威風堂々たる所作で口を開いた。 「私はアルビオン王国空軍大将にして、王国最後の軍艦、この『イーグル』号が 籍を置く本国艦隊司令長官・・・」 にこりと爽やかに微笑んで、彼は己の名を名乗る。 「アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ」 「・・・プ、プリンス・オブ・ウェールズ・・・?」 あまりの事態に頭が混乱しているルイズ達のそばで、ギアッチョとワルドは 冷静にウェールズを観察している。一人はなるほどなという顔で、一人は 興味深げな顔で。 「我々空軍の役目は反乱軍共の補給線を断つことなのだが、困ったことに 空賊に身をやつさねばおちおち空の旅もままならぬ状況でね 大使殿、君のこともなかなか信じられなかった まさか外国に我々の 味方がいるなどと、夢にも思わなくてね・・・重ねて言うが、試すような真似を してすまなかった」 そこでウェールズは一度言葉を切る。そうしてルイズ達を見渡して、まるで 太陽のように眩しい笑顔で「そして」と言った。 「明日滅びる国へようこそ、客人方」
https://w.atwiki.jp/familiar_spirit/pages/1499.html
木造の粗末なベッドに椅子とテーブルが一組、他に眼に付くものは壁に掛けられたタペストリーのみ。その質素な部屋が、アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーの居室であった。 部屋の主は椅子に腰掛けると、机の抽斗を開いた。そこにはたった一つ、宝石が散りばめられた小箱が入っている。先端に小さな鍵の付いたネックレスを首から外すと、彼はそれを小箱の鍵穴に差し込んだ。 開いた蓋の内側には、アンリエッタの肖像が描かれている。 ルイズとワルド、それにギアッチョがその箱を覗き込んでいることに気付いて、ウェールズははにかむように笑った。 「宝箱でね」 小箱の中に入っていた手紙を、ウェールズはそっと取り出す。それこそがアンリエッタの手紙であるらしかった。愛しそうに手紙に口づけた後、ウェールズは便箋を引き出してゆっくりと読み始める。 何度もそうやって読まれたらしいそれは、既にボロボロだった。 「これが姫から頂いた手紙だ」 ウェールズはゆっくりと手紙を読み返すと、ルイズにそれを手渡して 「確かに返却したよ」と言った。深く頭を下げて、ルイズは手紙を押し頂く。 「ありがとうございます、殿下」 「明日の朝、非戦闘員を乗せた『イーグル』号がここを出港する。 それに乗って、トリステインに帰るといい」 しかしウェールズから告げられた任務終了の言葉にも、ルイズは安堵の顔を見せない。それどころか、彼女の表情は悲しげにすら見える。 少しの間彼女はじっと手紙を見詰めていたが、やがて決心したように口を開いた。 「……あの、殿下 申し上げにくいのですが……その」 「言ってごらん」 「……王軍に勝ち目は、ないのでしょうか」 躊躇うように問うルイズに、ウェールズはあっさり答える。 「ああ、ないよ」 「我が軍は総勢三百、敵は五万だ 万に一つの可能性も有り得ないさ 我々に出来ることは、王家の誇りを最期の一瞬まで彼奴らに刻み込むこと――それだけだ」 幾分おどけたような口調でそう言うウェールズの眼に、しかし冗談の色は含まれていなかった。ルイズは俯いて口を開く。 「……殿下も、討ち死になさるおつもりなのですか?」 「当然さ 私は真っ先に死ぬつもりだよ」 愕然とした顔をするルイズの横で、ワルドはただ黙って眼を閉じている。 そしてギアッチョもまた、黙してウェールズを見つめていた。しかし眼鏡のレンズに阻まれて、彼の表情を読み取ることは出来ない。 「……殿下、失礼をお許しくださいませ 恐れながら、申し上げたいことが ございます」 「なんだね?」 「この、只今お預かりした手紙の内容 これは――」 「ルイズ」 ワルドがルイズの肩をそっと掴んでたしなめる。しかしルイズは、キッと顔を上げてウェールズを見つめた。 「わたくしがこの任務を仰せつかった折の姫様の御様子、尋常なものでは ございませんでした まるで……まるで恋人を案じるような…… それに先ほどの小箱に描かれた姫様の肖像画や、姫様のお話をなされる時の殿下の物憂げなお顔……もしや、姫様と殿下は――」 「恋仲であった、と言いたいのかな」 微笑むウェールズに、ルイズは頷いた。 「……とんだご無礼をお許しくださいませ しかし、そうであるならばこの 手紙の内容は……」 「……そう、恋文だよ ゲルマニアにこれが渡っては不味いというのは、つまりそういうことさ 何せ、彼女は始祖ブリミルの名において永久の愛を私に誓ってしまっているのだからね これが白日に晒されれば、無論ゲルマニアとの同盟は相成らぬ トリステインはただ一国にて、貴族派共と杖を交えねばならなくなるだろう」 「……殿下、僭越ながらお願い申し上げます どうか、我が国へ亡命なされませ!」 ルイズは今にも叫びだしそうな勢いで言うが、ウェールズは笑って取り合わない。 「それは出来ないよ」 「殿下、姫様のことを愛しておられるのならば、どうか、どうかお聞き入れ下さいませ!幼少のみぎり、わたくしは畏れ多くも姫様のお遊び相手を務めさせていただきました 姫様のご気性、わたくしはよく存じております!王宮の中にあって、姫様はとても純粋な方でございます 殿下の戦死を、あの方はきっと納得出来ませぬ。 先にお渡しした手紙にも、姫様は恐らくあなた様に亡命をお勧めになっているのでございましょう?いえ、わたくしには分かりますわ。亡命を受け入れず叛徒の手にかかって死んでしまわれたなどと、わたくしは一体どのような顔で姫様にお伝えすればよいのでしょうかそんなことを聞けば、姫様のお心はきっと張り裂けてしまいますわ! 殿下、お願いでございます!姫様の為に、どうか、どうか我が国へ!」 ルイズの心からの嘆願に、ウェールズは一瞬苦しげな顔を見せたが、しかしすぐに首を振ってそれを打ち消した。 「……本当に、君は彼女のことをよく知っているようだね そうさ、その通りだ。この手紙の末尾には私の亡命を勧める一文がしたためられている。……だが、私は亡命するわけにはいかない。絶対にだ」 「何故……!」 「私がトリステインへ亡命などすれば、叛徒共はそれを口実にすぐトリステインへ攻め込んで来るさ。奴ら――『レコンキスタ』の目的はハルケギニアの統一と『聖地』の奪還だそうだ まさか出来るなどとは思わないが。 それに私がここで逃げなどすれば、我がアルビオン王家の為に命を投げ打ってくれる三百人に一体どう詫びればいい? 我々はせめて最期の一瞬まで勇猛に戦って、ハルケギニアの王家は決して劣弱などではないことを知らしめなければならぬ それが、没する王家の最期の義務であり責任なのだ」 「……殿下……!」 「もうやめるんだルイズ 君の気持ちは殿下にも痛い程伝わっているさ だが殿下のお覚悟も理解しなければいけないよ」 そう言ってワルドはルイズの肩を抱く。彼女はそれでようやく諦めたようだった。悄然として俯くルイズの頭を優しげに撫でて、ウェールズは口を開く。 「君は正直な女の子だな、ラ・ヴァリエール嬢 正直で、まっすぐだ とてもいい眼をしている」 にこりと魅力的に微笑んで、ウェールズはルイズの眼を覗き込んだ。 「そのように正直では、大使は務まらないよ しっかりしなさい ……しかし、亡国への大使としては適任かも知れないな 明日に滅ぶ政府は、誰より正直だからね 名誉と矜持、これ以外に守るものなど何もないのだから」 そう言って、彼は己の顔を隠すように机の上に眼を落とした。そこには水の張られた盆が置かれている。水に浮かんでいる針は、微動だにせず一点を指していた。どうやら、これが時計であるらしい。 「……そろそろパーティーの時間だな。君達は我が王国最後の客人だ。是非とも出席していただきたい」 やがて上げられた彼の顔に、物憂げな様子は見られなかった。 ルイズはそれに応えるように、出来る限りの笑顔を作って一礼する。 「……ありがとうございます 喜んで出席させていただきますわ」 「光栄至極に存じます」 同じく一礼すると、ワルドは先頭に立って部屋を退出した。後に続こうとして、ルイズはギアッチョに顔を向ける。 「ほら、ギアッチョ行くわよ」 「先に行ってろ オレはまだ用がある」 「……は?ちょっ、何言ってるのよ!」 ルイズは焦ったような声を上げる。ギアッチョを一人にすれば一体どんな事態になるか解らない。しかしウェールズは微笑んでルイズを制した。 「私は構わないよ ラ・ヴァリエール嬢、先に行っていなさい」 ルイズは困ったように二人を見比べていたが、ギアッチョの眼に退かない光を感じて、諦めたように首を振った。 「変なことしたら許さないんだからね!」と何度も怒鳴るように念押しして、それでもどこか心配そうな顔をしながらルイズは退出した。 ぱたんと扉が閉まるのを確認して、ギアッチョはウェールズに視線を移す。何を言うでもなく、頭をがしがしと掻いてギアッチョはただウェールズを見つめて――否、観察している。 ウェールズもまた、ギアッチョを眺めて彼の言葉を待ったが、ギアッチョはなかなか用件を言い出そうとしない。少し困ったような顔をして、ウェールズはギアッチョに話しかけた。 「……人の使い魔とは珍しい トリステインとは変わった国であるようだね」 「…………トリステインでも珍しいらしいがな」 ギアッチョのぶっきらぼうな口調にウェールズは驚いたような顔になるが、それも一瞬のことだった。すぐにいつもの顔に戻ると、ウェールズはギアッチョに問い掛ける。 「……それで、私に一体何の用かな?子爵と同じ用件だとは思えないが」 それを聞いて、ギアッチョはずいとウェールズの前に進み出た。 ウェールズの蒼い瞳を覗き込むと、彼はようやく話を始めた。 「最初に言っとくが……オレは遥か彼方の世界から来た トリステインやアルビオンの礼儀作法なんざ知らねーし、迂遠な会話で曖昧に濁すつもりもねえ。答えてもらうぜウェールズ・テューダー はっきりとよォォ」 鬼のような眼差しでウェールズを睨んで、ギアッチョは続ける。 「てめーは何の為に死ぬ?聞けば敵は五万だそうじゃあねーか こんなもんは戦争じゃあねえ 一方的な虐殺だろうが」 ギアッチョの言葉に、ウェールズの顔はもう驚愕も不快も表さなかった。 「確かにその通りだ 恐らくは――いや、明日は確実にそうなることだろうね 何の為にか……理由は一つではないが、先ほども言った通り我々は最後まで戦って王家の誇りを示さねばならぬ 奴らの目的が現実のものとなってしまわぬようにだ」 ウェールズはうろたえることなく言い放った。 ウェールズの言葉を、ギアッチョはハッと鼻で笑い飛ばす。 「馬鹿も休み休み言えよ王子様。てめーは使命感に酔ってるだけだ。 誇りを示す?てめーらが総員討ち死にしたところで何も変わりゃあしねーぜ。 それとも何か?この世界にゃあ五万に三百で立ち向かって玉砕した人間を『間抜け』と思わない奴らが山ほど居るってわけか?」 「ああ、それも確かに君の言う通りかも知れないさ。だが我らの意志を誰か一人でも受け継いでくれる可能性があるのならば、私達はどうしてそれに賭けずにいられようか! 遥か異郷から来たという君には分からないかもしれないが、奴ら貴族派――『レコンキスタ』が本当に『聖地』奪還などに動き出せば、数限りない死者が出る。 それを阻止する為には、我々王家は決して奴らに屈してはならないんだ」 ウェールズの毅然とした反論を聞いて、ギアッチョは苛だった顔を見せる。 「……下らねぇな それなら他にいくらでもやりようはあるだろうが。てめーらは自分の国が裏切り者に渡るのを見ずに死にてーだけじゃあねーのか?ええ?オイ。 戦争って名を借りて自殺するってェわけだ。自尊心も満たせりゃ誇りも示せるからなァァァ」 「それは違うッ!!」 ウェールズはついに怒鳴った。握り締めた拳はぶるぶると震えている。 「我々の覚悟を侮辱しないでもらおう!我々はただ死ぬ為に死ぬのではない……死にに行くのでもない!希望を明日へと繋ぐ為に、『戦いに』行くのだ!!」 ドガンッ!! 「ぐッ……!」 壁を殴るような音が、部屋中に響き渡った。ウェールズは首根っこを掴まれて、他ならぬギアッチョの手によって壁に叩きつけられていた。 ウェールズを壁に押し付けたまま、ギアッチョは静かに口を開く。 「そんなに死にてーならよォォォーー 今ここで死ね」 ビキビキと音を立てて、ウェールズの首が凍り始める。ウェールズは驚愕に眼を見開いて呻いた。 「……な……んだ……これは…………!」 「動くんじゃあねーぜ王子様 そうすりゃあ楽に死ねるからよォォー」 「ッ……君は……何者なんだ……」 肺腑から細く息を吐き出すウェールズを死神も震え上がらんばかりの凶眼で見つめて、ギアッチョはつまらなさそうに口を開く。 「さてな……魔人だと言ったらてめーは信じるか?」 「何……?」 「だがオレは慈悲深い てめーを送った後はお仲間もしっかりそっちに届けてやるぜ この城を丸ごと氷の棺にでもしてな……」 それを聞いた途端、ウェールズの右手が跳ねるように動いた。一瞬で懐から杖を引き抜くと、素早く呪文を唱えてギアッチョに空気の塊を打ち放った。 「チッ……!」 今度はギアッチョが壁に叩きつけられる番だった。ギアッチョを引き離したことを確認して、ウェールズはぜいぜいと肩で息をしながらも油断なく杖を構える。 「ふざけるな……!私達は何としてでも明日まで生き延びるッ! それを阻むと言うのであれば、ギアッチョ!例えラ・ヴァリエール嬢の使い魔であろうと私は君を容赦しない!」 言うが早いかウェールズは立て続けに呪文を詠唱する。ギアッチョが弾かれたようにウェールズへ走り出すのと、ウェールズの呪文が完成するのは同時だった。ウェールズの杖から突如巻き起こった烈風は三枚の不可視の刃となってギアッチョに襲い掛かるが、 「ホワイト・アルバム!」 ギアッチョを切断するかと思われた瞬間、三つの刃は小さな銀の粉塵と化して砕け消えた。 「なッ――!?」 驚愕の声を上げるウェールズに、ギアッチョは寸毫待たず肉薄する。 ギアッチョはそのまま左の裏拳でウェールズの杖を殴り飛ばす。同時に右手でウェールズの頭を容赦なく掴むと、 ドグシャアァアッ!! 思いっきり床に叩きつけた。 「が……ッ!!」 「終わりだ」 機械的にギアッチョはそう宣告するが、 「うぉぉおおぉおッ!!」 ウェールズは諦めなかった。両の拳でもがきながらギアッチョに殴りかかり、何とか彼から逃れようとする。しかし所詮はメイジの細腕、百戦錬磨のギアッチョに敵う道理などあろうはずもなかった。 「……ぐッ……くそッ……!離れろッ……!!」 片手で拳を捌かれ続けても、彼は諦めない。荒い呼吸を繰り返しながらも攻撃を止めないウェールズを感情の読めない眼で見遣って、ギアッチョはパッと、攻撃を防いでいた左手を上げた。 バギャアア!! 「……ッ」 「なッ!?」 ギアッチョはウェールズの拳をモロに顔面で喰らい――否、受け止めた。いくら疲弊したメイジの拳とはいえ、思いっきり顔に受ければかなりのダメージがあるはずだった。しかしギアッチョは痛がる素振り一つ見せずにウェールズを睨む。次いで頭を掴んでいた右手を離すと、彼は両手を上げて立ち上がった。 「……やれやれ、悪かったな王子様よォォ オレの負けだ」 「……何だって……?」 ウェールズは魂が抜け落ちたような顔で言う。彼を引き起こしながら、ギアッチョはがしがしと頭を掻いた。 「とっとと諦めるか……さもなきゃあ命乞いでもするかと思ったんだがな。 てめーの『覚悟』は本物だったらしい 疑って悪かった……っつーところだ」 「……演技だったってわけかい……」 ウェールズははぁと溜息をついて椅子に滑り落ちた。 「そういうわけだ オレは慈悲深くも何ともねーからな。そんなに死にてーなら好き放題に死ね」 その言葉にウェールズはぽかんとしていたが、やがて堰を切ったように笑い出した。 「あっははははははは!そんな言葉を言われて安心したのは生まれて初めてだよ! 全くラ・ヴァリエール嬢は珍しい使い魔を召喚したものだ!」 おかしくてたまらないという風に笑い転げるウェールズに背を向けて、ギアッチョは扉へと歩き出す。 「話はこれだけだ ……あの姫さんにゃあオレからよろしく言っといて やるぜ」 そう言って扉に手を掛けたギアッチョに、後ろから「待ちたまえ」という声が掛かる。肩越しに振り向くと、笑いを収めたウェールズがギアッチョを見つめていた。 「……ならば私からも、一つ質問させてもらおう」 「……何だ」 「外つ国の住人である君は、何故私にこんなことをする?君が我らを気にかける理由がどこにあるのか、差し支えなければ教えて欲しいのだが」 ギアッチョは何も答えず扉に顔を戻す。その格好のまま、数瞬の沈黙を越えて彼は口を開いた。 「『覚悟』のねー野郎がさも世を悟り切ったかのような顔で生きてやがるのが気に食わねーからだ」 ウェールズは何も言わずにギアッチョを見つめ続ける。 まるでそんな答えには納得しないと言うかのように。 部屋を再び沈黙が包み――観念したのか、ギアッチョは溜息をついて頭を掻いた。 「…………と、思ってたんだがな……」 感化されたのかもしれねーな、と彼は独白するように言う。 「……感化?あの優しい少女にかい?」 「…………そうかもな あの真っ直ぐ過ぎるクソガキ――いや、クソガキ共か…… 全くオレもヤキが回ったもんだ」 不満げに舌打ちするギアッチョの後姿を眺めて、ウェールズは微笑む。彼は落ち着き払った仕草ですっと立ち上がると、顔を背けたままのギアッチョに近づいた。 「……私は君という人間をよく知らない ましてや、昔の君のことなど全く分からない……しかし言わせて欲しい」 ウェールズにとって、ギアッチョは彼の「覚悟」を今、恐らく最も曇りなく理解している人間だった。 ウェールズは微笑んだまま、太陽のような、しかしその中に峻厳たる誠実さを含んだ口調で言った。 「……今の君に、ありがとうと」 ギアッチョはフンと鼻を鳴らすと、乱暴に扉を開けながら返す。 「とんだお人よしだな……てめーはよ」 その言葉と共に、ギアッチョは廊下へ歩き去った。 前へ 戻る 次へ