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概要 パザルアンの戦いとは、ニィズ砦の戦いの前哨戦となった戦い。 まだゲーリー国軍が到着する前で、ゾリメック国軍単独でアゾル国軍と戦かったこともあり、独立した戦いとして語られることもあるが、実際はニィズ砦の戦いの中の1つの作戦に過ぎない。 詳細はニィズ砦の戦いにて記載。
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概要 フィードの戦いとは、蜉蝣時代の戦乱の中で、アルファ693年7月、ロードレア国軍とシャリアル国軍の間に起きた戦いである。 戦闘に至るまでの背景 ▲693年2月における勢力図 この頃、大陸中に奇妙な噂が流れた。カルディスが生きているという噂である。 この噂の真相については蜉蝣時代最大の謎とされている。アルディア著の蜉蝣戦記にも噂の事ははっきりと書かれているが、その後カルディスが歴史の表舞台に立つことがないことから、単なる噂だったという説が有力である。 しかし、近年アルディアの日記が発見され、全身に傷を負いながらも奇跡的に生還を果たしたカルディスが、山奥で隠遁生活を送り、たずねてきたアルディアと接触。彼の性格が穏やかになっていたこと、二度と乱世の表舞台に立つつもりのないこと、更にはその後、アルディアの従者として、共に旅をしたこと等が書かれている。 これが本当にアルディアの日記ならば、彼の生存は間違いないものであり、カルディス本人の希望により、存在を抹消してもらったことが想像できるが、日記が発見された場所がアルディアと所縁のない土地だったことから、名もなき作家がアルディアの名前を借りて作った後世の創作という説も否定できず、結局は謎のままである。 しかし、乱世の覇者達は、そんな噂に流されることなく情勢を動かしていく。 7月28日、ロードレア国は、ロー・レアルス国との戦いから一旦離れ、シャリアル国との決戦に挑む事となった。 これは、ベルザフィリス国と友好関係(同盟には至らず)を結び、ルーディア包囲網を背後から牽制するという意味もあったが、ベルザフィリス国に目線を向け、比較的手薄になっていたシャリアル国に攻め込みたいというのが本音であった。 これに対して、シャリアル国は、切り札とも言うべきシャリアル三牙王を召集し、更にディグドが総大将として、最強の布陣で迎え撃つ。「手薄」という当初の目論見は思わぬメスローの対応の早さで挫かれるが、ロードレア国も、レイディック自らが、ヴェリア、アレス、アリガル、ラディアの、いわゆる「ロードレア四天王」を揃えて出陣することで、牽制などではない、本気の決戦に挑むこととなった。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 ロードレア国軍 軍勢 シャリアル国軍 総兵力58000 兵力 総兵力52000 レイディック 総指揮 ディグド ヴェリア 軍師 主要参戦者 レイディック ヴェリア アレス ラディア アリガル ディグド ドラグゥーン サイリオス リガリオン 0.JPGバンガーナ アルヴァドス ラドゥ レイアス ボルゴス ナッシュ ファクト 戦闘経緯 まずはアリガルが真正面から突撃、ドラグゥーン部隊を突き破る勢いで、ディグド本陣に迫りつつあるが、サイリオス、リガリオン部隊が、すぐさまこのアリガル部隊に蓋を閉める形で包囲、これはシャリアル三牙王が得意とした策で、この罠にかかった部隊は壊滅するまで脱出することすら許されなかった。 しかし、今回はそれまで彼らが相手をしてきた敵将とは、格そのものが違っていた。 アリガルは、軍師ヴェリアからあらかじめこうなることは聞かされていた為、慌てる事もなく、そのままドラグゥーン部隊への突撃を継続。彼を包囲しようとしたサイリオス、リガリオン両将は、ボルゴス、ラドゥ、レイアス、ラディア、ナッシュ部隊によって包囲網を作る事を許されず、本来ならこれを妨害する筈のバンガーナも、ロードレア国の精鋭に手玉にとられ、逆に混戦へと持ち込まれていった。 しかし、流石はシャリアル国の誇る三牙王と軍師ディグドであった。本格的な混戦を避け、すばやく撤退命令を下すと、損害らしい損害も出さずに戦場から引き上げ、にらみ合いの体勢をとった。 8月15日、このにらみ合いに耐え切れなくなったナッシュ部隊が、独断専行して敵部隊への奇襲を敢行した。 ナッシュを副将として預かっていたラディアは、その無謀さを指摘するが、一方でその動機を聞かされて悩んでいた。 ナッシュはかつてリディアニーグの策により、ラディアの祖国アゾル国を滅亡させている。その後、紆余曲折を経て二人はロードレア国の将として並ぶ事となるが、過去のいきさつから、ラディアはナッシュとの会話を職務上の最低限に留めていた。ナッシュもまた、ラディア本人に語る事はなかったが、いつか手柄をたててそれをラディアに献上し、過去の罪滅ぼしとしたいと他の者に語っていた。 その事実を知ったラディアは、ナッシュ救援の部隊を率いて出陣する。 罪滅ぼしの覚悟はあったとはいえ、ナッシュの将としての器は、三牙王には遠く及ばず、彼の奇襲は看破されて反撃を受けていた。そこにラディア部隊が現れ、突撃により敵軍を一瞬混乱させると、そのままナッシュ部隊を回収して後退していく。 二人は帰還後、レイディックに呼ばれ査問を受ける。軍令にそむく事は重罪ではあるが、戦乱の時代においては軍令に背いたとしても手柄を上げれば相殺、場合によっては恩賞の対象ともなる風習があった。しかし今回の件は完全なナッシュの失敗であり、軍令違反は免れないと思われたが、これをラディアが弁護して彼を救う、ここに二人の過去は清算され、以後二人は私情を挟むことなく互いの職務に打ち込むこととなる。また、全てを承知で罪なしとしたレイディックも、器の大きさを見せた。 その後も両国の軍勢は数度にわたり激突するが、ついに決着が付かないまま8月29日を迎える。 最初の戦い以後、軍勢の采配を副軍師アレスに任せ、戦場から姿を消していた軍師ヴェリアが密かに行っていた策がここにきて動き始め、ディグドは戦いの最中、突如本国に召集命令を受ける。 メスローの元に駆けつけたディグドが目にした光景は、処刑された自らの妻子の亡骸であった。 ヴェリアの反間の計によって、ディグド反乱の噂を、国主メスローは信じてしまったのだ。 ヴェリアやアレスは、常時いかなる策でも実行できる様に、子飼いの隠密、または共にエザリアンの元で学んだ隠密達を、各国の将やその身の回りの世話をする者、更には一般市民にまで潜ませていた。 そして彼らを使って「ディグドが国境で長期戦の構えを見せたのは時間稼ぎであり、自らの息のかかった部隊を用意し、時がくればロードレア国軍と同時にシャリアル本国へ攻め込む」という噂を流させた。 噂だけならばメスローも信じる事はなかったが、ヴェリアはディグドの家にロードレア国からの使者を送り、わざと捕らえさせたりと、周到に状況証拠を数多く作り上げた。 元々部下に対して猜疑心を持っていた独裁者タイプのメスローは、これをヴェリアの策と見破る事もなく、ディグドの反乱を信じ込み、見せしめのために一族を処刑し、召集に応じて帰国したディグドを捕らえた。しかし、幼き頃の自らの兵法の師であったディグドを即刻処刑することはさすがに気が乗らなかったのか、とりあえず牢内に閉じ込めることとした。 9月5日、戦局は一変した。ディグドを戦場から引き離したヴェリアがロードレア国本隊と合流。 ディグド捕縛の報告が届き、シャリアル三牙王は完全に動揺、兵士達の士気も揺らぎ、そこにロードレア国軍の総攻撃が開始される。 三牙王といえども、炎に飲み込まれていく運命からは逆らえず、サイリオスはアリガルに討ち取られ、リガリオンは全身に槍を受けて戦死、ドラグゥーンは兵士達の裏切りにあい、背後から矢を受けて命を落とした。 戦いの結末 国境での戦いに完全勝利したロードレア国軍は、そのままシャリアル国へ侵入、ギードロモの戦い、グロリスグの戦い、ニィザイアの戦いでロードレア四天王がそれぞれ手柄をたて、完全勝利を収めて軍勢は進み、ついにシャリアル国首都に迫る勢いであった。 だが、このまま手を拱いているメスローではなかった。すぐさまリューグ国とロー・レアルス国に、手薄となったロードレア国の背後を突いてほしいと使者を送る。2国がシャリアル国を助ける義理などないが、確かに手薄となったロードレア領土は彼らにとって魅力的な餌であった。それを視野に入れてのメスローの外交戦略であった。 事実、2国はメスローの為ではなく、自らの為、しかしそれが結果的にメスローの為となる形で軍勢を出陣させ、ロードレア国軍もこれにあわせてシャリアル国を滅亡させるには至らず、国境にレイアス、ナッシュの2将を配備して残りの全軍を持ってこのリューグ、ロー・レアルス国連合軍と対陣した。 しかし、リューグ国のキルレイツ、ロー・レアルス国のドゥバは、合同軍議において口論となり、結局この連合軍は機能する事無くロードレア国軍を動かしたという最低限の役目だけを終わらせて解散した。 皮肉なことにこのメスローの外交戦略は、かつて彼がディグドこそ兵法の師と仰いでいた頃に教わったものであった。
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(1563~1600)細川忠興?の妻で、明智光秀の娘。キリシタン信者。関ヶ原の戦で石田三成?挙兵に際し、人質として大坂城に入るのを拒んで自殺した。 ガラシア祈祷書 美しく聡明な辺境のマリアとして、ローマ法王にも知られた女性。謎の文書・ガラシア祈祷書にその名を残す。実は死んでおらず、天草上島の聖母がその後身ではないかと疑われた。
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糸魚川の戦い 糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 (永禄11年11月10日) 富山城兵 第一弾幕隊:鉄砲隊12500 柴田勝家、小島職鎮、鈴木重兼 第二弾幕隊:鉄砲隊15500 伊吹萃香、黒田孝高、鵜殿長持 先陣本隊:騎馬隊13377 朝倉宗滴、朝倉景紀、朝倉義景 火力本隊:鉄砲隊9500 鈴木重秀、アリス・マーガトロイド、真柄直隆 第三弾幕隊:鉄砲隊9000 磯野員昌、レティ・ホワイトロック、鈴木重泰 第四弾幕隊:鉄砲隊4453 本願寺顕如、鈴木重意、原長頼 (11月15日) 築城隊:6500 海北綱親 (永禄12年1月15日) 援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:佐々成政、百々安信、天野景貫 (1月20日) 後詰本隊:騎馬隊6000:浅井長政、八雲藍、紅美鈴 後詰弾幕隊:鉄砲隊9500 十六夜咲夜、レミリア・スカーレット、朝倉景鏡 最終投入兵力88327 上杉家 春日山城兵 留守居厄:最上義光(計略担当) 迎撃隊(12月10日) 上杉景勝、四季映姫・ヤマザナドゥ、富田氏実:騎馬隊14500 柿崎景家、斎藤朝信:騎馬隊9500 村上義清:騎馬隊9500 本庄繁長:騎馬隊8000 水原親憲、中条藤資:騎馬隊8000 (1月20日) 延沢満延:騎馬隊6500 2月10日 上杉景勝:騎馬隊6500 新発田重家、四季映姫・ヤマザナドゥ:騎馬隊6500 最終投入兵力69000 姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。第三次越中防衛戦の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。 越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。 数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。 合戦までの経緯 富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった。 しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた。 これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えており、受けた傷を癒す時間は十分にあると考えていた。 一方の姉小路は中国地方の制定をほぼ終え、その戦略的指針を東方へと向ける余裕が出来た。 上杉が未だ東北を制圧していない状況、春日山城の戦力低下と合わせて、攻勢に出る機と判断し、出撃を決定した。 概要 春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。 頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であり、 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金の集積地点でもあった。 最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対して、春日山の重要性に変わりはなかった。 度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。 まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。 その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。 揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。 特筆すべきは村上義清だろう。 経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。 姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、寒波による総合的な戦闘力の低下が考えられた。 豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。山口館の戦いで得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。 このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。 姉小路軍は不足が懸念される糧食に関して、越後国境に新規の城を築く一方、上杉家の砦や城塞の食料の回収に努めた。 越中攻防戦の際、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり備蓄しており、それらは残されたままであった。 この事実は上杉が、戦力の回復後、再び越中を狙っていたことを如実に物語っている。 これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)。 回収された物資は姉小路側の兵站事情を大いに助けることとなった。 しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなく、多くの者は寒さに震える中での行軍となった。 上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。この時期には珍しい晴れの日の出撃となった。 姉小路軍はそれを確認すると、かねてからの作戦通り、引きつけて撃滅する為、一時西への撤退を開始。上杉もこれを追撃する様子を見せた。 しかし積雪の為か、朝倉宗滴隊への敵発見の報告が大きく遅れ、取り残される形になってしまった。 報告が遅れただけでなく、鉄砲隊の指揮官が撤退時の手間をなくそうと総大将宗滴に(撤退するという)伝令を送ると同時に後退を始めたことも原因の1つである。部隊を預かる将が優秀だったという証明だが、今回はそれが裏目に出てしまった。 結果、宗滴隊は孤立、上杉軍主力の矛は当然ながらこの隊に向いた。 宗滴は後退は困難、後続部隊の救援を頼りに耐え忍ぶよりほかないと判断し、防御戦を開始した。 一方、後退していた弾幕隊は宗滴隊が後退した様子がないことをここにきて認識し、救援の為、各部隊長の判断ごとに動き出した。 柴田勝家や鈴木重秀、黒田孝高、本願寺顕如といった将達の判断力が優れていたことをここでも証明した。 しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重秀隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、いずれも現実的にありえないとされ未だ明らかにはなっていない。 鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の三隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。 特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。 まず、本願寺隊が上杉の暴風のような攻撃によって崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北を喫した。 救援を急ぐあまり、乱戦に向かない銃兵で騎兵中心の編成に立ち向かったのがその敗因であった。 同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕したが、この部隊は奇跡的に後退に成功する。 機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず撤退が成功したのには、柴田勝家と参謀、小島職鎮の巧みな戦術判断によるところが大きかった。 しかし、その代償は大きかった。左翼を占めていた柴田隊の後退は隣で陣を敷いていた黒田隊が丸々孤立することを意味するからだ。 もちろん撤退することを柴田は黒田に連絡したが、乱戦の最中、伝令が届くことはなかった。 左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。間髪入れず姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。 黒田隊にとり、これは非常に驚異となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当すべき防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加え、本来安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。 黒田も独自に柴田隊の後退を察知していたが、対策を打つには時間と兵があまりに不足していた。 これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。 黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊によって逆襲を駆使、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。 しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。 後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待たずして、黒田隊は崩壊。 黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。 「もし和泉守(柿崎景家)に分別さえあれば、越後七郡に敵無し」と謙信にいわれた柿崎であったが、今回はその分別のなさが黒田隊を壊滅させたのだから、皮肉としかいいようがないだろう。 それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃し、前線が完全崩壊することだけは免れた。 これは黒田と伊吹と鵜殿の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。 姉小路の後詰め部隊は既に戦場に加入したのはこの前後になる。上杉景勝も一時城へ退き戦力を立て直した後再度出撃。負傷しながらも四季映姫も新発田隊の与力として戦場へと舞い戻った。 宗滴隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃を受けつつも粘り強く抗戦を続けており、上杉方に損害を与え続けていた。 それどころか逆に宗滴は策を弄し、上杉部隊を攪乱し水原隊を崩壊させるほどの打撃を与えた。 村上、本庄もまた黒田隊を壊滅させる際に受けた損害が大きく、撤退。 再度出撃した新発田、景勝隊も疲弊しきった馬では状況を打破することができず、撤退した。 戦闘は姉小路の勝利だったが、受けた損害はあまりに大きく、春日山城の制圧は困難と判断し、新規に築かれた魚津へと撤退した。 多数の負傷兵を抱えた状況下の撤退は困難を極めたが、勝ち戦と各将の鼓舞も手伝い、最小限の被害での撤退に成功した。 部隊が帰還したとき、魚津城では海北綱親の指揮のもとに作られた、温かい味噌汁と白米が待っていたという。 この戦いの影響 姉小路の目的が春日山城の制圧であったのならば、戦術的辛勝、戦略的敗北といえる戦であったといえる。 しかし、春日山城の戦力をすり減らすという目的ならば姉小路側の勝利といえるだろう。 上杉家は越中再侵攻はおろか、春日山の防御にも不安が残る程の損害を被った。再度姉小路が越後に侵入した際は城を盾に戦う策をとるしかなく、作戦の自由度を大きく失うことになった。 逸話 この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。 北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。 これは、姉小路家の領地が広大であることもさることながら、 冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。 そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。 これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。 姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、 前線基地への円滑な物資の補給があってこそである。 この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。 第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。 多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。 姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。 そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した 竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。 明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、 水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、 移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。 その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、 それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。 魚津城築城は後世の魚津の発展の要因の一つである。 この戦いまでは魚津城周辺は名目上姉小路領であったといえ、 実質は上杉氏と姉小路氏の両方に属していた。 魚津は上杉家の侵攻に度々晒されていたが姉小路氏はこの地域の防衛をするのが困難と判断。 また、上杉氏も魚津が陸の孤島であり、富山城を落とさない限り維持が困難であると判断していた。 このために両家領の緩衝地帯となっていたのである。 しかし、今回の合戦に勝利して魚津城が築城されたため、名実ともに完全な姉小路領となった。 これまで姉小路家にとって危険な土地であったため、姉小路領の松倉金山から産出される金は、 魚津港を避けて移送されるなど、長年交通の要所で恵まれた地形のわりに不遇であった魚津も、 城下町としていよいよ発展していくこととなる。 この合戦では携行食糧についてさまざまな試みがなされた。 中でも、たったの四粒で一日に必要な栄養をほぼ摂取できる兵糧丸は既存の糒(ほしいい)などと比べて 携行性や栄養価が上回っていたために、兵糧事情改善に大いに期待されていた。 実際にも大きな効果があったのだが、蜂蜜や鰹節など一部材料が高価であること、満腹感に欠けること、 味が良くないことなど将兵の不満が高まり、その後は既存の兵糧との併用という形で収まった。 この後の合戦では、間食、非常時の栄養補給用として利用されていたようである。 兵糧丸はその後も改良を加えられた。生産初期に比べて安価になり、 特に味については飛躍的な進歩がみられた。 なぜ味の改善が重点的に行われたかと言うと、 姉小路の兵糧丸がまずいことで有名になってしまったからである。 よほど印象深かったのであろうか、この合戦の参加者の苦労話には強敵上杉、越後の冬の寒さに続いて 大抵この兵糧丸が登場していた。この話が各地に伝播したようである。 兵糧がまずいというのは不名誉であることのみならず、募兵や士気にも差し障る恐れがあった。 そこですぐに味の改善が図られたという次第である。 幸いなことに募兵や士気には影響は見られなかった。 ただし、その努力に関わらず、この後も兵糧についての冗談話のオチとして扱われる事となったのである。 他には味付き糒といって糒自体に味噌を染み込ませて味噌を携帯する手間を省く物があったが、 この合戦の後の採用は見送られた。表向きは保存性にやや問題があるという理由であった。 しかし本当のところは、当時の兵士は配給された糒の一部を酒に加工するということをしていたのだが、 味付きだと酒にも味がついてしまって不味くなるからであったという。 なお、戦後にこの味付きの糒は味噌味や甘みをつけて御菓子として売られるようになった。 後の雷おこしの原型である。
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779年。 ヴァルム=アーチボルトの命を受けたドライセン城主ベオリウスは、デニン伯国への進軍を開始する。 報を受けたデニン伯ブレンダンは、直ちに軍を整え、ベオリウスを迎え撃つ。 しかし、ベオリウス率いる軍勢の志気は高く、ヴァルム=アーチボルトは、さらにサルデンからの援軍をエンドールに与えて向かわせた。 この際に、ベオリウスは、「誰が遣わされて来るかと思えば、若造ばかりではないか」とエンドールとシュルツを嘲った。 サルデン公国軍は、デニン伯国軍を破り、ブレンダンの本拠地の首都デニンまで迫った。 サルデン軍はデニンを包囲したが、この時、軍師シュルツの進言により、北東に位置するコレア城へ抜ける道の包囲の手を緩めていた。 シュルツの思惑通りブレンダンの軍は、包囲の薄い北部より逃れ、再起を図るためにコレアへ進んだ。 しかし、コレア城主トルヌー男爵は暗愚な人物である。 だからこそ、シュルツはデニス伯をコレア城へ進むよう仕向けたのだった。 コレア城主トルヌーは、デニス伯ブレンダンを迎え入れはしたものの、軍は城外に留まらせた。 さらに、サルデン軍との戦いにも難色を見せていた。 状況が好転しないまま時は過ぎる。 ベオリウス率いるサルデン軍はデニスで兵を整えると、デニス伯追撃のためコレアに迫った。 コレアの攻城戦が始まると城主トルヌー男爵は逃亡を図る。 しかし、すぐにサルデン軍に捕らえられた。 シュルツがコレア城の抜け路を知っていたからである。 指揮の執れない軍を率いつつ、デニス伯ブレンダンは、ベオリウス本陣にまで迫る戦いを見せるが、討死する。 占領されたコレア城には、予想以上の財宝があったという。 トルヌーの蓄財の多さが露見した。
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概要 ディジィの戦いとは、ザールック3326年10月、ビーストバリア国と、アトレティア国軍鬼龍軍との間で起きた戦いである。 戦闘に至るまでの背景 3326-0.JPG リゼルバ攻略戦における大敗により戦力を失ったビーストバリア国は、その後長年の宿敵である鬼龍軍に苦しい戦いを強いられ、国境部隊は次々と撃破されていた。 前回のフォルッカの戦いにおいては、商人であるコルディアの情報が有効に使われたが、その後、コルディアは、アーズ国の使者を買収して偽の書状を送ったり、リゼルバ攻略戦においてモルコア国が出陣できなかった事態を作ったりと、自身の商売を潤すため、戦いをわざと長引かせていることが発覚、追手を逃れてビーストバリア国から姿を消した。 情報源も失い、完全に後手に回ったビーストバリア国に対して、鬼龍軍は首都を一気に陥落させるべく、全軍を出陣させる。 これを迎え撃つべく、ビーストバリア国軍も全軍を出陣させ、ディジィ平原に布陣する。 既に同盟国アーズ国の援軍を期待できない彼らは、国主の名代として、ベルーマまでもが戦意高揚のため陣頭に立ち、ここでなんとしても敵軍を食い止めなければならなかった。 鬼龍軍という存在は、その立ち位置が複雑である。 所属する者のほぼ全員が、もともとはビーストバリア国の民であり、対立からビーストバリア国北部の領土へ移り渡った者達だった為、ビーストバリア国の内乱というのが本来の呼び方であるが、その鬼龍の力を利用できると考え、アトレティア国は、将軍位とダルスバード艦隊を与え、鬼龍自身もアトレティア国への忠誠を口にした。その為、鬼龍軍が駐屯する地域は、「アトレティア国の飛び地領土」とも呼べ、「ビーストバリア国」対「アトレティア国」という呼び方も当てはまる。今回は、後者で統一する。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 アトレティア国軍 鬼龍軍 軍勢 ビーストバリア国軍 総兵力45000 兵力 総兵力24000 鬼龍 総指揮 ベルーマ 軍師 主要参戦者 鬼龍 飛翔 バリ ウェンディ ガイラ ベルーマ 黒狼 火龍 青龍 戦闘経緯 兵力の差は歴然であった、にも関わらず、両軍は見通しのいい平原に布陣したのである。 これを、正面からの決戦と正直に信じるほど鬼龍はあまくはなく、ビーストバリア国軍が密かに艦隊を背後に動かし、奇襲を仕掛けようとしていることを見破り、自軍の艦隊を背後に伏せておいた。 そして決戦は幕を開け、ビーストバリア艦隊は、その予測通り背後に回ろうとするが、背面に展開されていた艦隊に邪魔されて奇襲は完全に失敗、地上部隊は兵力の差から押し込まれていく。 首都防衛の士気から序盤こそ優勢に戦うが、長期戦になれば数の差は覆いきれず、もはや決戦の敗北とそこから首都への進撃は防ぎきれないと誰もが覚悟した。だがそのとき、鬼龍部隊が一斉に撤退していく。 何が起きたかわからないビーストバリア国軍だが、それは霊虎が使者として向かったフレイミスト国が援軍を派遣した為ということを知ることとなる。 フレイミスト国軍は、全軍出陣により手薄になった鬼龍軍の領土を堂々と渡ると、背後から迫り、守備軍として待機していたバリ部隊を撃破し戦死させる、そして、退路を絶たれて挟撃される事を恐れた鬼龍部隊が速やかに撤退したことを知ると、全軍を引き上げさせた。 戦いの結末 フレイミスト国に、ビーストバリア国を救う義理はなかった。だが、使者として単独でやってきた霊虎の説得により、リョウは動いたといわれている。リョウは、援軍を派遣すると、「獣は、餌を喰らい強くなっていく……奴らはまだ餌を食べていないだけだ。今は弱い、だが、将来強くなるかもしれん……少なくとも、あの霊虎という男は強かった。もっとも、未来の事は誰にもわからん、明日には別の獣の餌にされるかもしれないがな」と語った。 この時点では誰も知る由はなかったが、後に両国は敵対することとなる。フレイミスト国は、この戦いから、潜在的に「ビーストバリア国は弱い」という意識があった為、相手を侮り、勝利を逃すことになったと言われる。
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概要 グラウスの戦いとは、クルーディア帝国、共和国サムルトンが連合軍を組んでリアムス自治国家に攻め込んだランドヴァルク作戦の中で行われた戦い。 首都にまで肉薄されたリアムス軍が、起死回生を賭けて行った奇襲作戦である。 詳細はランドヴァルク作戦に記載。 関連項目 CHAOS CROWN
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このページは対人戦でタイマンの時の戦い方を書くページです。
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概要 ノアルスの戦いとは、アルファ1737年4月に、ラ・ディアス帝国の南方侵攻からはじまった戦いである。 これが、後に続くラ・ディアス帝国の南伐に繋がる。 戦闘に至るまでの背景 物語におけるこの戦いと、史実におけるこの戦いは、開戦のきっかけに若干の差異が生じる。 物語では、ヴァン・フレイ国のルナティスが、世界の裏で蠢く存在がガルゾーマではないかと睨み、フェローラ国進軍の橋頭堡確保としてアリアス国へ攻め込む。これに呼応してガルゾーマは、同胞シャラダンにアディス国進軍を要請、ラ・ディアス帝国南部の魔族系諸国にも同様の要請を送ることで、「人間対魔物」の図式を作りあげ、互いの旗色を明確にしていき、ガルゾーマは彼らを用いた「チェス」を楽しんだ……となっている。 しかし、史実においてガルゾーマの要請は、信頼できる資料が発見できず、あくまでもラ・ディアス帝国の南方侵略によって起きた戦いだと思われる。 ガルゾーマとシャラダンが援軍として到着したのは、南方諸国の魔族系の国から援軍要請があったのは事実だが、そこに何の裏もなく、単に彼ら自身が、時に理由なく戦場を欲する性格だったからかもしれない。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 ラ・ディアス帝国軍 軍勢 南方諸国連合軍 総兵力71000 兵力 総兵力53000(援軍含む) ロンディーナ 総指揮 スレイナ 軍師 主要参戦者 ou.PNGロンディーナ スレイナ クリスアーノ ボーン ホルス ストライア 援軍 軍勢 フェローラ国軍 総指揮 ガルゾーマ 軍師 主要参戦者 ガルゾーマ ガミラン ヴィル マルン エミリィ 援軍 軍勢 リヴォル帝国軍 総指揮 アスタル 軍師 イズ 主要参戦者 アスタル ボルド イズ ラスコップ 戦闘経緯 南方へ次々と進軍するラ・ディアス帝国軍は、まさに負け知らずであった。 しかし、彼らはフェローラ、リヴォル連合軍が用意した死地へと誘い込まれていた。 勝利に驕り、前線部隊は必要以上に敵地に切り込み、本隊との距離を作ってしまう。 そこに突如として姿をあらわすフェローラ、リヴォル連合軍。 逃亡する敵軍を追いかけている筈が、脱出口のない山地に誘い出されたことに気付くが時既に遅く、そこに命令を受けたラスコップが火攻めを決行。この火攻めによりホルスは全身に火を受け、以後人格まで崩壊するほどの傷を負う。 更にラ・ディアス帝国軍の本陣にフェローラ国軍が奇襲を仕掛ける。 ここまで用意周到な敵軍の動きから、本陣に救援に向かえば更なる罠があると察したスレイナ、ストライア、クリスアーノは、ただちに撤退を決意した。 スレイナは、この時点で後に起こす政変を既に考えいた為、ここで皇帝ロンディーナが戦死しても構わないと考えていた節がある。 兵法を熟知していた筈の彼らが不用意に本隊との距離をあけたのも、意図的だったのでは?という説がある。 戦いの結末 南方侵攻の出鼻をくじかれ、命からがら帰国したロンディーナだが、彼は侵略を諦めるどころか、復讐心を駆り立て、これより先、長き侵略戦争をはじめることとなる。 だが、ロンディーナを守っていた帝国の主だった譜代の将軍は、二人の魔王によって多くが討ち取られほぼ全滅する。 スレイナ達先行部隊は、距離があった為幸運にも損害を軽微なもので済ますことができ、これが以後彼らの発言力を強めることとなり、皮肉にもスレイナの政変への布石となる。
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武将名 どいとしかつ C土井利勝 徳川家臣。徳川家康の落胤という説もある。7歳で徳川秀忠の養育係に任じられ、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも同行した。家光の傅役や老中に任じられ、本多正純の失脚により、最高権力者となってからも公正な政治を行い続けた。「時は金、いや命なり。天下静謐のため、自ら動かねばならん」 出身地 駿河国 コスト 1.5 兵種 騎馬隊 能力 武力4 統率7 特技 伏兵 計略 大炊頭の征旗? 武力と移動速度が上がる。自身が戦場にいる場合、さらに戦旗ゲージの上昇速度が早くなる。 必要士気2 Illustration 池田宗隆 秀忠・家光の二代に渡って傅役を務め、側近中の側近として絶大な影響力を有した徳川幕府初期屈指の名官僚が参戦。 コストおよびレアリティがパッとしないのは、幕臣として大きな活躍を始めるのが大坂の陣よりも何年も後だからだろうか。 コスト比武力は低いが戦旗ゲージの上昇速度を上げる計略を持ち、 更に自身が騎馬隊なので戦場に継続している事が容易なのが他の2枚の征旗持ちと違う所。 とは言え武力強化はわずかに+1とおまけ程度であり元々の武力の低さも相まって 無理に攻撃用として使うよりは戦場に滞在しやすい事を活かしてゲージを貯めていこう。 カード裏にも記された徳川家康御落胤説は当時から囁かれていたらしく、利勝当人はこの噂を大層嫌っていたと言われる。