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2ちゃんねる 最近の放り込みスレ 【速報】 永田寿康・元衆議院議員、福岡県で飛び降り自殺か ■ 【訃報】民主・永田寿康元議員の死亡を確認 飛び降り自殺★4 実況中… 2009.1.3-
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#blognavi 倉橋さんの訃報は、ショックでした。「パルタイ」「大人のための残酷童話」「ポポイ」「アマノン国往還記」「スミヤキストQの冒険」・・・ 私がいわゆる多感な時期に美しい文体で幻惑的な世界に連れて行ってくれた方でした。 翻訳をされた絵本「ぼくを探しに」も名作でご覧になった方も多いと思います。 なくなる直前には「星の王子様」の新訳にも取り組んでいらしたとのこと。新しい作品に触れることが出来なくなったのは、本当に残念です。 本棚の奥から引っ張りだして、再読してみようと思います。でも多分あの頃のように異世界にのめりこんで楽しむ余裕がない自分に気づいちゃうんだろうなぁ。。。 大人になったことを悲しく思うのはこういうときなのかもしれません。 カテゴリ [本の周辺] - trackback- 2005年06月17日 10 00 44 名前 コメント #blognavi
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- 【蔵原惟繕】 日記 2003年 01月 05日(日曜日) 『南極物語』の監督、蔵原惟繕氏死去。去年の12月28日に亡くなっていたとのこと。日活出身で、かの無国籍アクションの極北のような怪作『メキシコ無宿』を監督したヒト、ということで私の中では偉大である。あと、ショーケンが『エマニエル夫人』のスケベ爺さんアラン・キュニーにオカマを掘られる『雨のアムステルダム』という映画を高校のとき観にいって、変梃なものじゃと思ったのを記憶している。映画関連ではもう一人、『モンティ・パイソン』のプロデューサー(『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』の監督)イアン・マクノートン死去。これも昨年12月10日。スポニチアネックスの訃報情報では“俳優・監督”となっていた。『怪獣ウラン』のキャストにあるイアン・マクノートンというのは彼なんだろうか。植木不等式氏の日記で、若い頃の作品に『ハギス・未知なるX』というフィルムがあるという話があったが、『怪獣ウラン』の原題が『X:THE UNKNOWN』であることを考えると、どうも自己出演作のパロディっぽい。と、いうか、このフィルムのこと自体、パイソン流のジョークではないかと思えてくる。 【深作欣二】 日記 2003年 01月 13日(月曜日) 新聞に大きく深作欣二監督死去の報。つい先月、『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和雄が死んだばかり。続くなあ。スーパーモーニングではその人生を絶賛しながらも、荻野目慶子との不倫のこともちゃんと触れており、感心。しかし松坂慶子、荻野目慶子と連続不倫したときには、慶子という名前フェチだったのかと思ったな。 その荻野目慶子の書いた不倫暴露本で、前立腺摘出手術をすれば命が延びると言われ、命より男性としての機能を選ぶ、というマッチョイズムの美学を貫いたということが書かれている、とテレビで紹介されており、なかなかスゴい、と、すぐネットでその本を注文。好きだねオレも。世の中に対する闘争心、反骨精神を最後まで貫き通して遺作『バトルロワイアル』を大ヒットさせたのは、黒澤明などよりずっと映画人として恵まれた晩年だったのではないかと思う。作品中一本だけ選ぶとしたら、もちろん『仁義なき戦い』を挙げたいのは山々だが、青臭い映画少年だった頃の思い出に免じて、『軍旗はためく下に』をあげさせてほしい。一時極端な反戦思想カブレだった私の、思想的基盤みたいになっていた作品であることはおいても、夫の戦地での不可解な処刑死の謎を、戦後になって教養もない老いた妻が解き明かそうとして、かつての軍隊時代の人々の話を聞いて回る、という現代版『羅生門』とも言うべきミステリ作品として完成度が高い作品だった。 ただし、深作監督フィルモグラフィー中、汚点というよりは異点、珍点というべきなのがそのSF作品群である。この人はまさに戦後闇市の暗黒の中から情念を全身にべっとりまとわりつかせて這い上がってきた人であり、そういう情念を切り捨てたと ころで成り立っているSFという世界を描くと、とたんにどうしようもない駄作ばかりを連発した。会社もまあ、どうしてそれなのに次々とこの人にSF・ファンタジーを撮らせ続けたか。『ガンマ3号宇宙大作戦』、『宇宙からのメッセージ』、『復活の日』、『魔界転生』、『里見八犬伝』……思い出すだけで頭を抱えたくなるものばかり。まあ、それもこの人の場合ご愛敬か。最後の作品であるバトロワが血まみれで はあれ、ファンタジーなんだし、それでモトはとったということか? 【榎本滋民】 日記 2003年 01月 17日(金曜日) 新聞に秋山庄太郎氏死去の報。82歳。しかしそれよりもその隣の、榎本滋民氏宅全焼、焼け跡の焼死体は榎本氏か? という記事が気になる。容易に判別できぬほど黒焦げになっていたということか。腹ンとこだけ生焼けに……(などという不謹慎なギャグを落語ファンはみな、思い浮かべたと思うが)。TBSの落語特選会での山本文郎とのコンビの姿が真っ先に思い浮かぶ。あのシャツの趣味はどうにかならないかとか、みな言っていたものだが。 【田中明夫】 日記 2003年 01月 21日(火曜日) 俳優・田中明夫氏死去。76歳。例により特撮作品先行で行くと、『鉄腕アトム』実写版のお茶の水博士(ただし第一部のみ)、そして『ウルトラマン前夜祭』の怪獣 博士と、初期オタクたちにとって忘れがたい二大博士役を務めている。一般には大岡越前、水戸黄門という二大長命時代劇の悪代官・悪商人役で有名だが、吹き替えマニアには『オリエント急行殺人事件』のアルバート・フィニー、『ナイル殺人事件』のピーター・ユスチノフという、二大エルキュール・ポアロをアテた人として記憶に残る。何か“二大”がつきまとう人だな。声優で、劇団四季出身という経歴が新聞に報じられているので、ああ、新劇俳優さんがアルバイトで声優をやっていたんだな、と思うところだが、キネマ旬報『日本映画俳優全集』によれば、最初声優として名前が売れ、その後に四季に入って舞台俳優に転向したんだそうである。 【松田定次】 日記 2003年 01月 24日(金曜日) 映画監督松田定次死去。九十六歳。マキノ省三が愛人に生ませた子であったが、結果として正妻の子(マキノ雅広)、メカケの子と、二人が二人大監督になった。日本映画の主・マキノ省三の遺伝子の濃さよ。例えてみればマキノ雅広は談志、松田定次は志ん朝という芸風であった。個性の押し売りはせず、スターをきちんと立て、白塗りの顔をライトでぴっかぴかに照らして撮る。マキノ雅広だったらさまざまな工夫をこらして演出するであろうところを、松田定次は真っ正面からどーん、とストレートに出す。大味ではあるが、横綱相撲だ。両者のフィルモグラフィーを比べて見ればわかるが、兄・雅広が次郎長ものや国定忠治などの任侠映画が多く、武士の主人公でも丹下左膳のようなアウトローや遠山金四郎など横紙破りなキャラクターが主なのに対し、弟・定次は旗本退屈男、新吾十番勝負のように折り目正しい、正統派ヒーローを描くことに長けていた。仮面ライダーシリーズを生んだ平山亨プロデューサーはこの松田監督の直弟子である。初期仮面ライダーシリーズが持つ、ヒーローとしての折り目正しさは、松田定次譲りなのだ。この折り目正しさ、時代劇とかでは完璧に効果を発揮するのだが、現代劇となるとどうもトチ狂う。時代劇のセオリーをそのまま現代に持ってきた『多羅尾伴内』シリーズなど、どうみても非現実というよりはシュールな世界が展開してしまう(今、見るとこの映画は古い作品だからこんな変てこなのだろうと思いがちだが、とんでもない、当時から変てこだったのだ)のだが、しかし、この徹底した浮世離れぶりあればこそ、“ある時は片目の運転手……”というセリフがいまだに通用する生命を持ち得ているのである。現実世界にいない者は年をとりようがない。松田作品は今見ても、時の風触から逃れ、見事に華やかにカッコいい。 一本、作品を選ぶなら、以前にもこの日記で取り上げた記憶のある、『赤穂浪士・天の巻・地の巻』。重厚なセットと、様式美の美しさを徹底追及した演出。ことに内匠頭(東千代之介)が切腹の場に向かうシーン、庭からそれを見送る片岡源五(原健策)との対面の、月明かりの下でのしびれるような構図は、黄金期にあった日本映画 の美学の粋が感じられる、圧倒的な名場面だった。 【長高橋俊昌】現役編集長 日記 2003年 01月 26日(日曜日) 昨日のニュースで、ジャンプの現役編集長高橋俊昌氏が24日に死去との報。ワンピースの映画の製作発表の最中にいきなり倒れて亡くなったとのこと。使い古された言葉ではあるが戦死、というのが最も適当している。死を悼みながらも、同業者間の会話は“いつかはこういうことになると思ったが”に収斂されていくであろう。出版関係者の葬儀の席での話は“この仕事は体に悪いでなあ”というものばかりで、作家組合だか石屋の組合だかわからない、と嘆いたのは阿川弘之だったか。私もこのところ、朝方など、心臓のへんがケッタイしたりしている。人ごとではない。まあ確かに、体には悪い仕事 だでなあ。 しかし、悼みはしても同情はあまり出来ないのはその直前に『B−GEEKS』の10号で、ジャンプの短期間打ち切り作家たちの悲惨な有様を紹介した『ちゆまんが大王』を読んでいたせいか。今年の新年第一号で切られた(何もおめでたい新春第一号で切らずとも)という道元宗紀など、この訃報をなんと聞いたか。1998年、新連載がわずか15週打ち切りのあと、まだ20代で“ストレス性栄養失調”でこの世去ったしんがぎんという人もいる(まだ高橋編集長就任前であるが)。いや、とはいえプロの世界だ、こういうことは最初から覚悟の上でなくてはマンガ家などになれはしない。しかし、マンガ雑誌編集というのは、常にこういう消えていった者たちの怨念を肩に背負う、因果な職業だということは覚えておいた方がいい。 【アンソニー・M・ドーソン】 日記 2003年 01月 27日(月曜日) 昨日も出たが三才ブックスの『B−GEEKS』、またパラパラやっていたら、坂口亜紀の映画コラムで、アンソニー・M・ドーソンが去年死んだ(11月)と書いてあった。あわててネットで検索したら、ビデオマーケットでもドーソン追悼とかやっているじゃないですか。ショック、とまで言うとウソになるが、いわゆるマカロニの名に恥じぬ、感動的なまでにB級一直線のカツドウヤ人生は、私のあこがれみたいなものであった。ベトナムで人肉の味を覚えた兵士が帰国しても人を食いまくるようになるという、ストーリィを書くだけでも呆れ返るB級映画『地獄の謝肉祭』とか、槍に突き刺された心臓がその穂先に引っかかって飛び出し、そこでまだドックンドックン動いているという『悪魔のはらわた』(監督表記はアンディ・ウォーホルの弟子のポール・モリセイだが、実質的監督はアントニオ・マルゲリティ名義のドーソン)だとか、とにかく良識だの質だのに一切こだわらない見世物的演出を、しかもオタク的でも職人的でもない“商売人気質”で(“撮影に入る前にチェックするのは小切手の後ろのゼロの数で、シナリオなんかじゃない”という名言を吐いている)撮りまくった人であった。死去を伝える下記サイトでも、彼の肩書きは“PROLIFIC(多 作な)FILM DIRECTOR”となっている。 http //www.senseofview.de/newsticker.php?read=110 まぎらわしい名に『ダイヤルMを回せ』のハサミで刺し殺される殺し屋や、『ドクター・ノオ』のデント教授、さらに『ロシアより愛を込めて』・『サンダーボール作戦』のブロフェルドの後ろ姿などを演じたベテラン俳優アンソニー・ドーソンがおり(彼は1992年に死去)、確か70年代に、TVの洋画劇場で彼の『惑星からの侵略』を見たときも、解説者が“この監督は007映画にも出ていて……”と言っていた記憶がある。しかし、それでまあ、名前が脳裏に焼き付いたことは確かで、怪奇映画ファンにはもはや昔がたりの、1986年、九段のイタリア文化会館で行われたイタリア映画上映会(チネテーカ・イタリアーナ)にわざわざ無字幕イタリア映画を観に出かけて行ったのも、ドーソンことマルゲリティ監督の『幽霊屋敷の邪淫(プログラムのタイトルは『死の舞』だった)』が上映されると知ったからだった。やや太り気味の、あまり似ていないエドガー・アラン・ポーが狂言回しになっていたその映画は、アンニュイ感あふれる幻想ムードの上質な怪談に仕上がっており、もっとB級の怪奇映画を予想していた私に、思わぬ感心をさせてしまった。そう、このヒトは同じB級監督でも、エド・ウッドのように、作ったものが結果としてB級になっているのではなく、最初からB級映画をめざして作っている、実は才能ある人なのであった。商売人監督として長年の間、通用してきたのは、乱作の底に安定した質のものを送り出し続ける技術が彼にあったからである。信じられない、信じたくないという人も多いと思うが、しかし、彼の才能は私ばかりではない、もっとウルトラ級の大物が認めている。かのスタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮る際に、スタッフとして手塚治虫を招こうとしたのは有名な話だが、そのとき一緒に呼ばれていて、一緒に断ったのがこの、アンソニー・M・ドーソンなのである。何故か手塚ファンはその事実をあまり語りたがらないのであるが。 【ザ・シーク】アラビアの怪人 日記 2003年 01月 28日(火曜日) 昨日のアンソニー・M・ドーソンの件もあって、見のがしていた訃報がなかったかと検索してみたら、なんと18日にアラビアの怪人ことザ・シークが亡くなっていたのがわかった。享年72歳。火を噴く怪奇レスラーとして、真樹日佐夫/一峰大二の『プロレス悪役シリーズ』以来、日本のファンにおなじみだった。もっとも、梶原兄弟はあまりシークがお好きでなかったらしく、『悪役シリーズ』ではほとんどの悪役レスラーを“本当はいい人”として描いているのに、シークだけは汚いトリックを使う(香炉の煙にまぎれて美女アシスタントが相手レスラーにしびれ薬を塗った吹矢を吹くというお笑い)インチキレスラーとしているし、後の梶原一騎による『プロレススーパースター列伝』でも、新人レスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーを徹底していじめぬく悪役として描いていた。まあ私などの世代が見たシークはすでに50を超えた老レスラーでしかなかったが、それでも何度も何度も日本に招かれていたというのは、プロモーター業界の大立て者だったという他に、エンターテイナー・レスラーとしての実力が群を抜いていたからであろう。K−1もパンクラスも結構だが、商業的格闘技というものには絶対にケレンの要素が必要なのだ。彼に学ぶことが今の若手にも、まだまだ多かったはずである。高校生のころ、レスラーの発する奇怪な文句を暗記するというのが流行って、ブッチャーが“マカラカシトモマカラ”、タイガー・ジェット・シンが“ハッタラマタハタラー”、そしてシークが“マキマキッ”であった。大学に入ってからも、酒飲んで議論しながら、よくマキマキッ、とかわめいていたなあ、あの頃。 【板坂剛】 日記 2003年 02月 05日(水曜日) ネットで“板坂剛氏死去”と出ていたので、『飯島愛の真実』の著者か、と思って読んだら、元日研化学取締役の人だった。フラメンコダンサー兼スキャンダルライター板坂剛については去年の暮れにカスミ書房で先鋭疾風叢書I『板坂剛の世界』を購入したが、刊行の1981年当時には嫌悪感(というより軽蔑感)しかなかった乗り遅れ革命家独特の臭みが、今見ると時代遺産としてなかなかいい感じに熟成していた。時間によるイメージの変化は大したものだなあ、と思ったものだ。死ねばもっと好意 的に見られるのではないか、と思うのだが。 【生島治郎】 日記 2003年 03月 03日(月曜日) 新宿駅のキオスクの新聞見出しで、生島治郎の死去を知る。70歳。小泉喜美子の悲しい死のニュース以来、イメージがどうしても悪い方に向かう。編集者出身でありながら、作家志望の女性(しかも自分の編集していた雑誌に応募してきた)と結婚する際、家庭をとるか作家の道をとるか、と選択させたなどというのは、本人はいろいろ言訳しているが、およそプロとは言えまい。好きな作品(『頭の中の昏い唄』とか)も多々あるのだが、晩年の作品のボケ具合(ことに『暗雲』とかは、別の意味で面白かったほど文章もひどくなっていた)を見た身には、出来れば小泉喜美子と死去の時期を逆転させてほしかったと、これは本気でそう思う。 【ホルスト・ブッフホルツ】 日記 2003年 03月 04日(火曜日) 読売夕刊にホルスト・ブッフホルツ死去の報。69歳。『荒野の七人』がこのところ、コバーン、デクスターと次々逝く。演技力ある青春スターとして、一時はあのビリー・ワイルダーの映画(『ワン・ツー・スリー!』)にも出演したが、ドイツ出身らしく華やかさに欠けたせいか、中年以降どうもパッとせず、アーウィン・アレンの駄ッ作SFTVムービー『アトランチスの謎』(けっこう好きだったりするんだが。悪役はバージェス・メレディスだし、ホセ・ファーラーとメル・ファーラーのチャンバラ対決、なんて珍なものも見られるし)ではアトランチスの王子という情けないマンガチックな役で登場。『アバランチ・エクスプレス』では、どこに出ていたのかも思い出せない薄い印象でしかなかった。 【井上瑤】 日記 2003年 03月 06日(木曜日) 読売新聞に声優・井上瑤さん死去の報。2月28日死去とのことで、ネットでは既にあちこちで広まっていた。ああ、若い声優さんが、と思って年齢を見たら56歳。私にとっては若手、というイメージだったんだがな。彼女の声で “軟弱者!”と叱られてみたい、と切望したオタクは多かろう。本人はそのセイラ役でイメージが固まってしまい、色っぽい役が来なくなったと晩年のインタビューで語っていた。小説版だと色っぽくないどころかアムロの初体験の相手で、終えたあと“乳首って、意外と小さいんだな”という珍感想を吐かせるのだが。きびしい女性の乳首が小さいというイメージは、いかにもアニメのキャラ設定的だな、と読んで変な感心をしたのを覚えている。そもそも乳首は……と、追悼からどんどん離れていきそうなのでやめる。 【伊万里すみ子】 日記 2003年 03月 06日(木曜日) もうひとつ訃報。レディースコミック作家の伊万里すみ子氏が亡くなったと、漫画新聞で知った。もっとも、伊万里すみ子というのは原作担当の夫と、作画担当の妻とのコンビのペンネームで、亡くなったのは夫の方。1月27日、心筋梗塞、55歳。ホームページにも“とても仲睦まじい夫婦の漫画家です”“一卵性夫婦と呼ばれていまーす”などと自己紹介しているだけに胸が痛む。しかし、彼女といい花小路小町といい、レディース作家には夫婦共作が多いな。一応、うちもであったが。レディースコミック最盛期には月間平均執筆枚数300枚だった、とサイトで自慢していたが、これはうちのK子もそのくらいであった。レディースコミックという業界自体が、多作を前提とした業界だったのである。ただし、向こうはそれで一年に出た単行本の数が(特集増刊含め)36冊という記録を持っているという。私たちはケにもハレにも『ギロチン女』一冊だけ。ここらが本道・王道を行く作風の人と、変なものばかり描 いている作風の作家との差であろう。 【黒岩重吾】 日記 2003年 03月 08日(土曜日) 新聞に黒岩重吾死去の報あり。この人の小説の底にはどんなギリギリの人間的欲望を描いても、どこかに通俗小説の匂いがあり、それは、言ってみれば飾らないホルモン焼きのような、食欲をそそる匂いだった。西成のドヤ街を描くとこれがピタリとはまるが、歴史小説、ことに一連の古代王朝ものにもこの匂いが強く漂っていて、閉口したのを覚えている。飛鳥・奈良時代を舞台にした作品を書いてくれる作家は貴重だったから、なんとか読み通さないと、とがんばったのだが、ちとつらいことであった。 【滝沢解】 日記 2003年 03月 10日(月曜日) 大盛堂書店で雑誌立ち読み。『噂の真相』に、伊万里すみ子と並んで、滝沢解死去の報(やはり一月)があった。ふくしま政美『女犯坊』『聖徳太子』などの原作者であり、一時の(突発的ではあったが)ふくしま政美再評価で、最近の読者にもなじみが深くなっていたのではないかと思われる。2月の2日の日記に、赤塚不二夫『鬼警部』のことを書いたが、あのストーリィ協力が滝沢解で、それから赤塚不二夫と彼はコンビを組み、『狂犬トロツキー』『幕末珍犬組』といった、頭でっかち的な失敗作を多数生み出していく。先にも書いたように、純粋なナンセンスの世界に変な思想を盛り込んでいく作風に反発を感じていた私であったが、その底に流れている異様な情念の濃さはビリビリするほどに感じて、なんなんだろうこの人は、と、単なるマンガ原作者を越えたものを彼には感じていた。また、そのような“傾向的マンガ”に失敗し、娯楽派に転じてからの、異様なコワレ方はまた梶原一騎や小池一夫といった成功者の作品にはついぞ見られない、ドス黒いまでの情念の世界を描き出していた。成功作よりは失敗作の方が多い人だったが、失敗作でなくては味わえない、異様なインパクトというものもまた、あるのである。代表作と言えばなんと言っても『女犯坊』だろうが、小森一也・画の『怪豪力士伝』なんかも、コワレ方は凄まじかった。大島渚などと同世代の、60年安保世代で、その挫折を一番色濃くひきずっていた一人ではなかったろうか。 【天本英世】 日記 2003年 03月 23日(日曜日) ネットニュース回っていたら、7時過ぎ、天本英世死去のニュースが。よくこの日記で訃報を記すたびに“私を作ってくれた人”という書き方をするけれども、まさに天本英世氏はその大きな中核をなしていた人だった。脇役俳優マニアに私をはまりこませたのも、学生時代、天本英世出演作を追っかけたのが最初だったと思う。映画というものが非日常を体験させてくれるシステムであるとするなら、まさに、その非日常が人間のカタチをとってこの地上に降りてきたようなキャラクターだった。あれは確か昭和46年だから死神博士とほぼ同時期かちょっと前、堺正章主演のコメディ番組『笑っていただきます!』で、精神病院から逃げ出したミイラ学の世界的権威、という役で登場、あのマント姿でお茶の間に上がり込み、ちょこんと座布団に座っている姿は、まさしくホームドラマ的日常を侵略する非日常というイメージそのままだった。あれほどお茶の間が似合わない俳優もちょっとおらず、そこが値打ちの人だったように思う。そのドラマ内で一番強い人、というレギュラー設定だった和田アキ子の体育教師が部屋をのぞき、天本の一瞥をくらって腰を抜かし、 「あたし、ああいう『土曜怪奇劇場』みたいな人、ダメなの」 と逃げ帰る、というギャグがあって、ホームドラマ嫌いだった(日常性を軽蔑していたのだ。若かったね)中学生の私に快哉を叫ばせた。もっとも、このドラマで天本の博士は、堺正章をミイラにしようとつけねらった挙句、病院からの迎えの車に閉じ こめられてしまい、ドアをバタン、としめた藤村俊二が 「キチガイも、フツーのヒトも、紙一重。アハハ」 と笑ってドラマを〆メていた。深読みをすれば、ドラマというものの中から次第に非日常が閉め出されていき、橋田寿賀子、向田邦子等に代表される“日常”がテレビを支配する、という変遷の転換期であった1970年代初頭の、ひとつのアナロジーであったようにも見えたものだ。 それ以来、天本英世の居場所は子供向け変身もの番組の中に限定されてきた感がある。映画雑誌などで彼の紹介をするライターはほとんど、“いま、彼を使いこなせない日本のテレビ・映画界は情けない”と書いていた。思えばわれわれがいい年をして変身モノなどにのめりこんだのは、非日常が、そこにしか残っていなかったからではなかったか。その非日常の代名詞として、天本英世という名前があった。そういう意味では、SF文化、オタク文化の象徴、みたいな人ではなかったかと思う。 死亡記事では“あまもと・ひでよ”と書いてあったので、あれ、ひでよは本名で、芸名の読みは“えいせい”ではなかったか(キネ旬の俳優名鑑でもそう記載)と思い調べてみたら、円谷プロ出演俳優のサイトに“旧芸名・えいせい”とあった。改名したらしい。バラエティなんかでずっとひでよ、ひでよ、と呼ばれていたので通りのいいそちらの名にしたのかも。……大学生の頃、中野から渋谷に向かうバスに乗っていたら、初台あたりでいきなり天本氏が乗り込んできた。その異様なオーラに圧倒された私は、終点の渋谷で降りた後を追って駆け寄り、ノートを差し出してサインを求めた。私はサインというものを人に求める習慣のなかった(ミーハー、とバカにしていた)男なのだが、その禁を破った初めての人物が、天本英世氏であったのだ。物憂げに“……ハアイ”と答えて、いかにも嫌そうにしてくれたその態度が、サイン以上にいかにも天本英世という感じだったのだが、そのときも私は“アマモトヒデヨさんですね、大ファンなので、サインお願いできますか”と言ってしまった。気を悪くしたろうなあ。 この一作、と言って選べば、もちろんキン逆のドクター・フーや、日本映画史上に輝く狂人役を演じた『殺人狂時代』などいろいろあるのだが、彼がまだ“あの天本英世”でなかった頃の、岡本喜八の暗黒街シリーズ第一作『暗黒街の顔役』の殺し屋、小山を上げたい。殺人を目撃したラーメン屋の女店員を殺すために河津清三郎に呼ばれたフリーの殺し屋で、出演シーンはたったの二場面に過ぎないのだが、まず、標的の顔を確認するためにそのラーメン屋に入り、“ラーメン”と注文する(セリフはこれだけ。“ラーメン”……)。そして、彼女の顔をジロリ、と見て記憶に焼き付けると、彼女が外出したのを見計らい、トラックを運転して、表情ひとつ変えずいたいけな娘を轢き殺すのである。この二シーンのみで、天本英世の名は日本一の殺し屋役者としてファンの間に焼き付けられた。当時の『ヒッチコック・マガジン』に、殺し屋スターのインタビューというのが載っていたが、“ピストルで一気に殺すより、ナイフでじわじわと殺していく方が好きですねえ……”などと、イカニモなリップサービスがなされていた。実際にそんな奴がいたらホンモノの精神異常者なのだが、何か、この男なら本当にそう考えているかもしれない、と、そう思わせるような雰囲気があまりにただよっていた。あの役は俳優・天本英世を一生食わせたが、また一生、そのイメージの中に縛り付けたのではなかったか。『オール怪獣大進撃』における、人のいい発明狂のおじさん役は、最初、天本英世が演じているとはわからなかったくらいのユーモラスな演技で、あ、こういう役も出来る人なんだ、と後で驚いたほどであった(他に珍演としては、『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』の銀ラメタイツに全身を包んだ宇宙人サムソン役がある。サリーだったかトッポだったかに股間を蹴り上げられ、股を押さえてピョンピョン飛び跳ねていた)。それを思ってから、私はいかにも天本英世、という演技を強いられている彼を、あまり注視できなくなってしまったように思う。ともあれ、日本に希有な個性の昇天に、黙祷。愛するスペインのイラク攻撃容認を、どう思っていたろうか。 【冬木弘道】 日記 2003年 03月 24日(月曜日) 昨日、天本英世が死んだが、その数日前に、理不尽大王、冬木弘道も大腸癌で死去。『死体解剖医ヤノーシュ』の主人公が“夏や冬はそんなに人は死なないから忙しくない。春が大変だ”と言っていた が、まさに。
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- 【キャサリン・へプバーン】 日記 2003年 07月 01日(火曜日) キャサリン・へプバーン死去。キャサリン・ヘプバーンとくれば『旅情』を語らねばならないのだろうが、私が学生時代に池袋の文芸座でこれを観たのは、『事件記者コルチャック』のダレン・マクギャビンが出ていると知って、いったいどんな役で、と、それを確認するためだけであったので(もちろん、まっとうに感動もしたのだけれど)、あまり語る資格はない。むしろ、もっと年をとってからの、『オレゴン魂』での気の強いおばちゃん、『冬のライオン』での怖いおばあさん(王妃さまだ)といった役が印象に深い。 【ニカウ】ブッシュマン 日記 2003年 07月 06日(日曜日) 読売では昨日の夕刊、夕刊のない産経では今朝の新聞に、ブッシュマン・ニカウさん死去との報。映画もテレビもなんかあざとくて嫌な気がして、一回も観ていない。ただ、推定年齢が58、9歳で、日本人から言えば短命ではあるが、老衰もせず、病気もせず、薪拾いに高原に出かけて、そこでの自然死というのは、うらやましいくらいの大往生ではないかと思える。80いくつの老人が嫁や孫に殺される事件の報道が相次ぐ中、長生きだけが価値のように言う日本は間違っておるよ。B級映画ファンとしてはこの人が香港で出た『ブッシュマン対キョンシー』とかは是非、観てみたいのだが。 【バディ・イブセン】 日記 2003年 07月 09日(水曜日) 産経新聞に、バディ・イブセン(エブセン)死去の報。6日に死亡、95歳。読売にはこの訃報がなく、載せてくれた産経には感謝したいが、しかし代表作を『ビバリー・ヒルビリーズ』と表記していたのは残念。『じゃじゃ馬億万長者』としなくちゃ、わかる人は少ないのではないか。日本だとせいぜいそれくらいの知名度だが、アメリカでは国民的人気者で、ファンサイトでは“アメリカの象徴、伝説の人物”などと称している。前から言っているように、アメリカというのは田舎者で成り立っている国で、彼らが都会者を右往左往させる『じゃじゃ馬億万長者』(このドラマ自体がアメリカのフォークロアをそのままテレビ化したものだ)は国を代表する番組だったのだ。本人は純朴なジェドおじさんとは異なり歌手、ダンサー、ボードビリアン、劇作家、画家などにも才能を発揮する多才な人物だったらしい(『オズの魔法使い』でバート・ラーが演じた泣き虫ライオンは、本当は彼がキャスティングされていたのだが病気で降板したとか)。後年演じた『名探偵バーナビー』では一転、知的な探偵役を演じていた。引退した探偵が、息子を殺されたことで再び復職し、息子の若い未亡人を助手に悪にいどむ、という役柄で、アメリカでは7年も続いた人気番組(コジャックでも5年である)だった。この義理の娘役が『バットマン(ムービー版)』でキャットウーマンを演じたリー・メリウェザー。凄いコンビだね。 【小松方正】 日記 2003年 07月 12日(土曜日) 朝刊には載っていなかったが、ネットで小松方正の死去を知る(夕刊にあり)。演技ばかりでなく顔も体も、存在すべてが名優の名に価した役者、とは思うが、訃報を聞いて真っ先に思い浮かんだのが『電撃! ストラダ5』の冒頭で殺されてしまう主人公の父親の刑事役だったというのはなんでか。あと、『美人はいかが?』のお父さんとか、ゲバゲバ90分で“タメゴローの次にうけた男”と言われた喜劇演技とか。『絞死刑』とかは誰かがもっとまっとうな映画関係のところで評価するからいいだろう。と、いうより、私はあの映画を前半のドタバタ不条理喜劇のところしか評価したくない(後半に例の“ヨカチンチン”があるけれど)ので、そこでは小松方正、ほとんどしゃべっていないのである。 「芸者の“芸”の字と人足の“人”の字、あわせて“芸人”である」(小松方正) 【坂口祐三郎】 日記 2003年 07月 15日(火曜日) 読売の朝刊に坂口祐三郎死去の報。61歳とはまた若い。尤も、数年前から生まれ故郷の九州に帰っていたというから、俳優業はほとんど廃業していたと言っていいだろう。新聞にも『赤影』のことしか書いてなかった。新撰組血風録とか、水戸黄門とか、キカイダーとか、桃太郎侍とか、土ワイとか、必殺シリーズとか、探すとちょこちょこ出ているんだが。『壬生の 恋歌』では桂小五郎役だったな。 子供の頃からワキ好みだったんで、赤影も敵方の忍者ばかり見ていて、主役はほとんど注目していなかった。大学一年あたりで、つきあっていた女の子が“でも、あの坂口祐三郎って絶対ヘンだよー、首筋がやけに細いしさー、目キラだしさー、唇色っぽすぎるしさー”と熱心に主張してから、そうかと思って改めて見てみると、なるほど、これはヘンだった。役者においてヘン、というのは褒め言葉である。ああいう、中性的な魅力というのは、現代だったらもっとさまざまなドラマに応用が効いて用いられていたのではないか(竹内義和氏は赤影はホモ人気に支えられていたと主張している)。また、一時ライターに転業し、東スポにナンパ記事や玉門占いなど書いて、東映の先輩に怒られたりしたらしいが、これだって今ならもっと話題になり、バラエティ番組などに用いられていたろう。時代が早すぎた、のかも知れない。ちなみに、ワープロで“あかかげ”と打ったら、“赤陰”と出た。玉門占いならこっちの名前の方がよかったか。 【ジョン・シュレシンジャー】 日記 2003年 07月 27日(日曜日) 朝刊でジョン・シュレシンジャー監督、『南京大虐殺のまぼろし』の鈴木明氏の死去を知る。シュレシンジャーと言えばオクスフォード大出身のインテリ監督で、『真夜中のカーボーイ』『イナゴの日』『日曜日は別れの日』など、人間ドラマを、常に哀しみの目を持って描く人……とされているが、実はそれ以上に映画マニアで、映画大好き、といった子供っぽい感覚を多く有していた人ではなかったか。『真夜中のカーボーイ』の冒頭、セックスシーンでテレビのリモコンのスイッチが押され、いろんな番組が次々登場する(スカイドンが出てくるのが有名だがジャミラらしい足も一瞬出てくる。どちらも実相寺!)お遊びでもわかるし、『マラソンマン』でかのオリビエに演じさせた、映画史上に残る悪役“白い天使”ゼルの描写なども、彼が背負っているナチズムの烙印なんて深い設定を軽く飛び超え、個人的スーパー・ヴァリアントとしてのカッコよさを徹底して目立たせてしまった。テーマ好きストーリィ好きな、頭の固い映画ファンが怒る部分なのだが、私のような、ただ単にオモシロイもの好きな馬鹿にはたまらない、オシッコもらしそうになるほどのほれぼれとする大悪党ぶりで、監督の“映画好き”を再確認したことだった。そう言えば話題にもならない作品だったが、邪教集団から我が子を守るために戦う父親(マーチン・シーン)を描いた『サンタリア・魔界怨霊』という作品もあった。この作品の原題は、と学会ファンに はうれしい『ザ・ビリーバーズ』なのである。 【鈴木明】 日記 2003年 07月 27日(日曜日) 一方の鈴木明氏は、訃報には『南京大虐殺のまぼろし』のことが大きく扱われていたが、個人的には『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』がベスト。万博会場で聴いたディートリッヒの『リリー・マルレーン』に魅せられ、その曲のルーツを訪ねてはるばる東西ヨーロッパを経巡り、ついにその作曲者ノベルト・シュルツェに邂逅するまでを描いた壮大な探訪の記。もともとは軽快なマーチ風の曲であったリリー・マルレーンは、アフリカ戦線で多くのドイツ軍兵士たちに愛唱され、その放送を傍受した連合軍兵士たちにも熱狂的に愛唱され、さらに連合軍の兵士たちを慰問したディートリッヒによって歌われ、次第に第二次大戦全体を象徴するような、重く、深い歌へと変化していった。その過程をたどる、時間と空間を隔てている空白をひとつひとつ埋めていく実証的かつ壮大な筆致は、読んだ当時、いろいろ事情があって精神的にやさぐれていた私に、ひさびさに “ロマン”という言葉を思い出させてくれた本だった。例の『南京大虐殺のまぼろし』で鈴木氏を“大東亜戦争肯定の右翼論者”などと表現する人々がいまだにいるが、彼がそんな単純な動機であの事件を調べ始めたわけでないことは、実際に彼の本を読めばよくわかる。そこにあるのは、とにかく歴史の空白を埋めたいという、知的探求者の衝動なのである。 【ボブ・ホープ】 日記 2003年 07月 29日(火曜日) 新聞にボブ・ホープ死去の報、100歳。最後に姿を見たのは『スパイ・ライク・アス』のカメオか。ところで、ボブ・ホープの作品はわれわれテレビ世代には柳沢真一の吹き替えでお馴染みなのだが、柳沢氏はまだご健在なのか。『スパイ・ライク・アス』のときは一言、セリフがあった筈だが、テレビではあれは誰が吹き代えたのだろう。……ちなみに、わが家にはボブ・ホープのフィギュアがある。『GIジョー』の第二次大戦シリーズの一環で、前線慰問に回っていた時のものである。 ボブ・ホープと言えば戦後のポピュラーヒット第一号の“バッテンボー”で有名だが、 “buttons and bows”をバッテンボーとは、よく当時の日本人も耳に取ったりな、という気がする。時代ならではで、戦後のヒアリング授業に慣れたこちらの耳には、ホープの歌もダイナ・ショアの歌もどちらを聴いても、せいぜいが“バッゥアンボウズ”としか聞こえず、しかしバッテンボーという、目にも耳にもユーモラスな語でなければ、あそこまで当時の日本で人口に膾炙したかどうかは疑わしい。“♪にぎやかなバッテンボー、指輪に飾りにバッテンボー”という、語呂だけで意味不明な歌詞の日本語版を歌ったのは池真理子だが、昭和40年代、懐かしのメロディというような番組で、この池真理子がこの歌を歌っているのを見た母親が「あら懐かしい! ベッテエ・ブープ!」と大声を上げた。丸顔で短髪で、大きな耳飾りをつけている彼女のことを、母方の祖父がベッテエ・ブープとあだ名していたのだそうで、ベティさんでもベティ・ブープでもない、さらに一時代前のベッテエという呼称が、いかにも彼女の容姿にピッタリしていた……と、思い出はどんどんボブ・ホープを離れていってしまう。 【竹田千里】 日記 2003年 07月 31日(木曜日) 元東京医科大教授・竹田千里氏死去。喉頭癌で亡くなった池田勇人首相の主治医。確か『ガン回廊の朝〜わが首相のベッド』という読売テレビ製作のドラマで、丹波哲郎が彼の役を演じてなかったか(がんセンター局長の久留勝役か?)。このとき池田勇人役は芦田伸介、大平正芳を岡本喜八映画でおなじみの小川安三が演じ、“アー、首相の、容態は、ウー、どうです”とそっくりさん演技でやっていた。変なことを覚えている ものである。 【沢たまき】 日記 2003年 08月 09日(土曜日) 新聞には間に合わなかったようだが、テレビで沢たまき死去のニュース。中野貴雄監督がらみでプレイガールのビデオなど見返したばかりだったので驚く。個人的には『独占! 女の時間』での大姐御ぶりが印象に極めて深い。女性恐怖症を引き起こしかねないくらいであった。ご冥福をお祈りする気持ちにウソはないが、しかし、以前に選挙に出たときの、八代英太とのミもフタもない妨害合戦が面白すぎた。八代側は選挙区に“公明党はオウムと同じ”というビラをまき、沢陣営は八代英太の選挙ポスターの目をくり抜く、という嫌がらせに出た。八代陣営は、それならと八代英太のポスターの下に、池田大作のポスターを重ねて、その目の部分がちょうど合致するように貼ったという。すると、さすがに学会員はやはり会長さまの目をくりぬくことは出来ないらしく、この妨害はパッタリやんだとか。……何か、カラス撃退法みたいなエピソードであったな。 【グレゴリー・ハインズ】 日記 2003年 08月 12日(火曜日) 新聞にグレゴリー・ハインズ死去の報。彼のタップが好きだったか、と言われるとうーむ、と首を傾げるが、80年代の彼の出演作は日本公開されたものに関しては『ウルフェン』(凡作)から始まって『珍説世界史パート2』(まあまあだがハインズのエピソードは面白くなし)、『コットンクラブ』(まずまず)、『ホワイトナイツ』(なかなか)など、ほぼ観ていて、スターの階段を駆け上がっていく状態(まさに『コットンクラブ』状態)を、リアルタイムで追いかけていたので、印象に深い俳優である。なぜ彼のタップが好きとストレートに言えなかったかというと、私にとってタップとはアステアの洗練されたシアター・タップだったわけであり、ハインズのワイルドなタップにはちと、なじめぬものを感じてしまったのだった。ハインズ自身、自分の先達はアステアよりもダイナミックなジーン・ケリーの方だと思っていたのではないだろうか。ジーン・ケリーのAFI功労賞受賞記念番組に出演したハインズは、ステージに上がり、“偉大なるジーン氏に、私のハートと、両脚から、最高の感謝と尊敬を捧げます”と挨拶し、タタタン、と一瞬だけタップを踏んでみせた(記憶だけで書いているので違っているかも知れないが)。その“粋”な姿が最も 印象に残っている。 【ジャック・ドレー】 日記 2003年 08月 12日(火曜日) そう言えばジャック・ドレーも死んでいた。『ボルサリーノ』のラスト、ベルモンドの死に方を見て、ああ、やっぱり粋に死ぬ芝居はベルモンドが一番だなあ、と感心しました。なぜか日本ではアラン・ドロン主演というだけで、『太陽が知っている』とか、『友よ静かに死ね』とか、過去のヒット作の二番煎じ的なタイトルをつけられて公開されて、気の毒であった。配給会社に才能を認められてなかったということだ ろうか。 【戸部新十郎】 日記 2003年 08月 14日(木曜日) 戸部新十郎氏死去、77歳。いわゆるクラブ雑誌作家の一人。クラブ雑誌というのは戦前から戦後にかけてゾロゾロと刊行された、娯楽読み物雑誌群で、『面白倶楽部』だとか『講談倶楽部』、『探偵倶楽部』、『傑作倶楽部』など、“クラブ”と誌名につくものが多かったのでそう総称された。罵倒癖のあった百目鬼恭三郎などには、クラブ雑誌小説というのは“読者に頭を使わせずに、低俗な欲求を満たすことだけが要求され、従って文章は下品でなければならず、登場人物は紋切り型で、月並みな行動パターンと、必然性のないご都合主義の筋書きに乗って動くのが特徴”であると、これ以上ないというくらいひどい表現で説明されている。大衆娯楽小説の復権とかが叫ばれているコンニチでは、まさかここまでひどいことを言う人もいないだろうし、その多作性、通俗への徹底性こそが “時代の欲求に応える”プロのテクニックを持っていた証拠、と言えるだろう。が、しかし、それでもクラブ雑誌から出て一頭地を抜いた作家たちの持っていた強烈な個性、例えば山田風太郎の奇想とか、柴田錬三郎のダンディズムとかいう“ウリ”が、戸部氏の作品には欠けていた。直木賞候補にまでなる筆力を持ちながら、氏がいまいち知名度という点で劣ったものがあったのも、あまりに大衆の欲求に合わせることばかりに徹しすぎた作家の悲哀であったかも知れない。…… ところで、クラブ雑誌の最後の生き残りと言われていたのが桃園書房から出ていた『小説CLUB』であった。私はここに、7年もの間エッセイを連載していたし、短編小説も一本発表している。私もまた、クラブ雑誌作家の末席に名を置くことが出 来ると思うと、ちょっとうれしくなる。 【アミン】元ウガンダの人喰い大統領 日記 2003年 08月 21日(木曜日) この日記に書き忘れていたが16日に元ウガンダの人喰い大統領、アミンが死去。80才。大正14年生まれ、と書いてあったサイトがあったが、そう考えると、いい歳であった。猪木と異種格闘技戦(このときはアミン自身がレスリングで戦う、と言っていたので厳密に言えば“異種”ではない)の話があった(政変で流れた)が、あのときすでに53歳であったか。コミケで奥平くんが“アミン追悼企画をどこかでやらなくちゃ”とはしゃいでいたが、まさにわれわれの世代における一個の“異人”であった。われわれがいま現在、呼吸して生きているこの世界が、自分たちの矮小な常識で判断できるような、一筋縄でいくものものではないということを認識させてくれたという意味で、大きな存在だったと思う。 アミンが人喰いと呼ばれるのは、政敵であるマイケル・オンダンガ外相の死体が発見された(1973年)とき、その肝臓が抜き取られていて、食べられたらしい痕跡があったためだが、アミン大統領の出身部族であるカクワ族の間では、殺した相手の肝臓を食べればその怨霊にとりつかれない、という言い伝えがあったらしい。案外迷信深い質だったのである。ちなみに、フルネームはイディ・アミン・ダダ・オウメ。ダダてのも凄いな。長いことウガンダ経済を支配していたインド人を追放して主権をウガンダ人に戻すなど、功績も多々、あった政治家だった。 【穂積由香里】 日記 2003年 09月 02日(火曜日) 新聞に訃報記事が二つ。チャールズ・ブロンソン81歳、穂積由香里(『積木くずし』のモデル)35歳。穂積由香里に関しては、やはりドラッグで肉体を痛めつけると早死にするなあ、という感想。父親の穂積隆信自身が、『積木くずし』ブームで金が入って、すぐに女をこさえてしまったりして、俳優だから仕方ない部分があるとはいえ、父親としては失格(俳優としてはかなり好きな方なのだが)だった。本人があまりに強く父親への反発心を持ち、自分を破滅させることで復讐を遂げた、という感じがして仕方がない。これは私見だが、親子が徹底して反発しあってしまった場合、娘と母、息子と父という組み合わせはまだ後に修復が効くけれども、娘と父、息子と母というのはもう、骨がらみで一生どうしようもない場合が多いような。手元にある『キネマ旬報日本映画俳優全集』79年版の、穂積隆信の項目の末尾“65年結婚、 一女あり”の記載が悲しい。 【チャールズ・ブロンソン】 日記 2003年 09月 02日(火曜日) チャールズ・ブロンソンに関しては、もう81歳か、と驚き、マンダムのCMをわけもわからずに真似していたあの時代の遠く去ってしまったことをしみじみ想う。それにしても、どうしてあの当時の日本人は、ああまであのCMにハマってしまったんだろう? 今から思っても異常な浸透の仕方であった。醜男であってもカッコいい、という存在がいることを、日本人が初めて知った(いることは理解出来ても実例がなかった)、その文化的ショックなのかも知れない。その一点で、クリント・イーストウッドだとか、ポール・ニューマンだとか、スティーヴ・マックイーンだとかとは比べ物にならない強印象をわれわれの世代に残していった俳優なのである。アラン・ドロンとの共演が有名だが、もう一人、彼とは名コンビだった俳優がヴィンセント・プライスで、『肉の蝋人形』『空飛ぶ戦闘艦』で共演しており、『空飛ぶ……』では頼りになる男役だったが、『肉の……』ではマッド・サイエンティストならぬマッド・アーティストの唖の召使い役、名前がもう、そういう役ならこれ以外ないでしょうという、“イゴール”であった。 【青木雄二】 日記 2003年 09月 06日(土曜日) 朝刊に『ナニワ金融道』青木雄二氏死去の記事あり、驚く。58歳、まだまだ死ぬ年齢じゃない。98年にまだ私が手塚治虫文化賞選考委員だったとき、優秀賞を受賞して大阪から上京し、舞台挨拶したのを同じ壇上の選考委 員席(つまり背中から)見ていた。 「ゆうべの晩、大阪の自宅でワシの頭の中に響いておりましたのは、村田英雄の『王将』の、“明日は東京へ出てゆくからは、何が何でも勝たねばならぬ”という文句でありまして、決意を新たにしたわけでありますが、しかしよく考えてみますと、受賞はもう決まっているわけでありまして、行けばくれるのはもうわかっておるんでありまして、勝たねばならぬと気張らんでも別によかったわけで……」 と、これをどうもギャグでなく素でしゃべっているらしくて、大阪人の自己表現スタイルの凄さよ、と感心したのを覚えている。この受賞を本当に喜んでいるらしく、上機嫌のあまり、あれだけブチ殺すとかいきまいていたいしかわじゅんとも仲直りし てしまったほどだった。 『ナニワ金融道』については、ストーリィには講談社の編集の手がだいぶ入っているらしいが、私にとってはそんなことはどうでもいい。そもそも、金貸しの話などというものに、あまり興味はなかった。私がはじめてあのマンガを読んで仰天したのは、その、表現というか構成というか、いわゆるマンガはこびが、それまでの、手塚治虫が手本を示し、石森章太郎が理論化した現代における“マンガの描き方”を一切、無視した(と、いうか知らなかったのだろう)ものであったことだった。「おい灰原、これをあの家に届けてくるんや」「はい、わかりました、これをあの家に届けるんですね」この二つのセリフに二コマかけて、しかも、そのコマ同士の構図や人物配置は全く同じなのである。無駄なコマを使うな、コマごとの構図は変化させて読者を退屈させるな、表現は説明口調でなくソフィスティケートさせろ、等々、われわれ『マンガの描き方』世代の“常識”を一切守らず、しかも、その表現が呆れるほど面白かったのである。当時、徳間書店の『少年キャプテン』誌の編集者だった(現・SFジャパン編集長の)Oくんに「ヤーイ、あんた方編集の言っているマンガのセオリーが一切ムダになった」と言ったら憮然とした顔で、“ソンナことはないです、いまにあのマンガは破綻しますよ”と口をとがらかしたが、破綻もせず最後まで描き切ったのはお見事というしかない(もっとも、後半手慣れてからはかなり普通のマンガぽくなった)。手塚治虫がたぶん、最も自分から遠いと思ったであろう内容の作品で手塚治虫文化賞をとると いうのも皮肉な受賞であった。 【レニ・リーフェンシュタール】 日記 2003年 09月 10日(水曜日) 新聞にレニ・リーフェンシュタール死去の報。101歳。リーフェンシュタールの評価として私が鮮烈に覚えているのは、二十代の半ばくらいに読んだ、現代教養文庫『ベストワン事典』(W・ディビス編、1982)におけるもの。この本は、映画や小説、アニメから絵画彫刻俳優、さらに日用品まで、全てのものの“質”におけるベストを独断してしまおうという無謀なことを敢えてした本であったが、その中の“宣伝映画のベスト”として挙げられていたのが、彼女のナチス宣伝映画『意志の勝利』であった。そして映画担当の筆者アレクサンダー・ウォーカーは言う。「ベストというカテゴリーには、よく考えてみれば道徳というものは含まれません」この一文が当時の私に与えた影響というのがいかに大きかったか。実際、その当時は、『機動戦士ガンダム』を“戦争の悲惨さをテーマにしているからいい作品だ”というような評がまかり通っていた。そうではない、アニメを批評するのに作画や演出技術、キャラクター設定という基本的なものをなおざりにして思想や哲学なんてものを基準にしてどうする、と、大向う相手(本当に衆寡敵せずという感じだった)に論陣を張った、その(大げさに言えば)思想的バックボーンになったのがこのリーフェ ンシュタール評価だったのである。 そして、ウォーカーによるこの文章の末尾の一文。「(この映画は)悪は平凡である、という信念を根底からくつがえします」彼女が戦後、長く“評価せざるべきもの”とされていたのはまさに、彼女の映像の持つ、この恐るべきパワーによるものであって、逆に言えばそれは彼女の勲章であったのではないか。ちなみに女史は佐川一政氏あこがれの人だった。彼女のきわだったエリート的自尊精神は佐川氏の美学にまさに一致していたが、それ以上に“過去の犯罪行為により、その才能を無知な世間に押しつぶされている”というイメージが、佐川氏に(あくまで氏の内部で、であるが)自分との同一性を感じさせていたのだろう と思う。 【エドワード・テラー博士】 日記 2003年 09月 11日(木曜日) 新聞に“水爆の父”エドワード・テラー博士死去の報、95歳。ハンガリー出身で、母国名テッレル・エデ。ハンガリーは日本と同じく、姓の後に名がくるのである(5へぇくらいか?)。 水爆の父、という称号を彼は嫌がるどころか、生涯、誇りにしていたらしい。なにしろ、科学が現代のように人類をおびやかす脅威ではなく、未来への希望、人類の発展という言葉と100%結びついていた時代に生きていた人である。彼がどれほど科学を純粋に信奉していたかは、自分の息子に、“アストロ”という、鉄腕アトムか、というような名前をつけたことでもわかるだろう。ちなみに、このアストロ・ボーイならぬアストロ・テラー氏も当然科学者になって、今、人工知能の研究をしているそうだ。……だって、こんな名前をつけられたら、科学者になるしかないではないか。 親父のテラー氏の研究への没頭ぶりは、『カール・セーガン科学と悪霊を語る』に詳しい。自分の作った水爆の平和利用を熱心に唱え、港や運河を造ったり、山を除去したり、大量の土砂を片づけたりするときには核爆弾を使用したらいいとか、一般相対性理論の証明には太陽の向こうで水爆を爆発させればいいとか、月の化学成分を調べるには、月面で水爆を爆発させ、その閃光と火の玉のスペクトルを調べればいいとか、実にもう、うれしくなるほどのマッド・サイエンティストぶりである。その極めつけが彼と宇宙人の結びつきで、宇宙人来訪説信者には、エリア51でテラー博士は宇宙人J−RODと何度も対談した、と信じられている。彼が伝説の科学者であればこそこういう話も生み出されるのだろう。トンデモ科学者自体が、最近は小粒になってきてしまったなあ、という感じである。 日記 2003年 09月 13日(土曜日) 訃報がらみで、一件訂正を。一昨日の日記で、エドワード・テラー博士の息子の名を“アストロ”と書いたが、あれは孫の間違い。で、アストロ・テラーのアメリカのバイオグラフィサイトを読んだら、そのアストロという名はアストロノーツなどとは関係なく、サッカー少年であった子供時代に、髪を短髪に刈り上げていたのが人工芝(アストロターフ)に似ていたのでチームメイトから呼ばれていたあだ名を、自分の名にしてしまった(両親がつけた名前はエリック)のだという。野球少年でアストロ ならアストロ球団か、とも茶々を入れられたのだが。 【ジョニー・キャッシュ】 日記 2003年 09月 13日(土曜日) 朝刊にジョニー・キャッシュ死去の報。あのボブ・ディランをも小僧扱いしたという超大物歌手なのだが、日本での知名度はどれくらいなのか。産経は読売の倍の行数で業績を伝えていたが、読売はちゃんと“『刑事コロンボ』にも出演”と書いているのがエライ。彼の演じた犯人は、『別れのワイン』のドナルド・プレザンスと並ぶ、“被害者より可哀想な加害者”の代表格だった。……ところでネットで調べたら、この人、なんと日本映画に出ているのであった。『海嶺』という、日本聖書協会協力の文芸映画(西郷輝彦主演)である。1983年公開。バブル前期の景気のよかった日本映画界を象徴して いるなあ。 【グレート・アントニオ】 日記 2003年 09月 14日(日曜日) 『サンデー・モーニング』で、“密林男”グレート・アントニオが8日(日本時間9日)に死去していたことを知る。享年77歳。昔(私の記憶でもかなり昔)の少年誌には、よくこのグレート・アントニオがバスを引っ張っている写真やイラストが載っていたものである。純朴だった当時(60年代はじめ)の日本人には大人気もので、その人気をねたんだカール・ゴッチやビル・ミラーなどガチンコ派にボコボコにされてカナダへ逃げ帰り、よせばいいのに77年にも来日、やはりそのころガチンコ勝負で人気をとっていた猪木に顔面キックを喰らって鼻を骨折し、わずか229秒でノックアウトされた(“秒殺”だとか当時のスポーツ新聞に書いてあったが、229秒ってことは3分49秒で、秒で換算すりゃなんだって秒殺になるじゃねえか、と読んで思った)。この試合は見ていて、猪木の容赦なさばかりが目立ち、どこか自分の心の中にあった猪木嫌いの心情を再確認したものだ。ミスター高橋も『流血の魔術・最高 の演技』の中で 「彼は、こと観客動員ということについては、立派な貢献をしてくれていたのだ。あんなことをしていい理由はどこにもない」 と、厳しく猪木を批判している。晩年は地下鉄の中でエンピツを売っていたというから、まあ乞食をしていたということだろう(あのエンピツは金を払ってもとっては いけないのだ、と星新一が書いていた)。寂しい話だなあ、と思う。 【河原崎長一郎】 日記 2003年 09月 21日(日曜日) 河原崎長一郎氏死去の報が新聞に。64歳。脳梗塞で倒れたと聞いたのはもう何年前であったか、まだそのときは50代であったはず。その後も糖尿病の合併症などで半身不随の状態だったらしい。惜しい、とはまさにこのような人に言える言葉だ。倒れる寸前はまさに日本で一番存在感のある性格俳優の一人だった。大ファン、と言っていい人だったと思う。多少回りくどい言い方だが、何故かというと、とにかくこの人、サスペンスものなどで情けない被害者の役をやらせるともう抜群で、いわゆる普通の“カッコいいからファンになる”という心理とはまったく違っていたから、である。タイトルも何も忘れてしまったが、その類の一本で、事業に失敗し、自分が死んでその保険金を家族のために残そうとする中小企業の社長の役を演じていた。自殺では保険金が下りないので、自分が被害者になる偽装殺人の準備を思い詰めた表情で、しかし淡々と進め、アリバイ作りもきちんと済ませた後、妻にロープを渡し、これで自分の首を絞めろと命ずる。妻が、“いやっ……できない……”と拒否すると、“馬鹿ッ。これまでのことを思い出せッ。……オレのために、お前たちがどんなに悲惨な目にあってきたかを……”と怒鳴る。涙にくれながら妻は夫の首にロープを回し、必死の思いで絞めるが、絞めているうち本当に、うらみの表情がその目に浮かび、その手に力がこもり、夫のぐうーっという断末魔の声が……という、こんな役を演じて、それが魅力的だったんだから、不思議な人気俳優だった。こういうマゾヒスティックな役が好きなのかしらん、と思ったものだ。 知的な風貌で、その気になれば知性派悪役も充分に務まる人であり、その代表作がNHKで放映された柴俊夫主演の『新・坊ちゃん』における赤シャツだったろう。自分の出世のために、軍需産業に関係する地元の有力者(伊藤雄之助)に接近、その娘であるマドンナ(結城しのぶ)を婚約者うらなりから横取りし、校長のたぬき(三國一朗)も追い落として、卒業式で教え子を戦場に送り出す演説を堂々と行う、という冷酷な権力崇拝者の教頭を見事に演じていた。似たようなタイプの俳優に米倉斉加年がいる(彼も当然、赤シャツを演じたことがある)が、米倉がまず、弱者の役は演じないのに対し、河原崎長一郎はその両極端を演じることの出来る分、幅の広い役者であった。こういう情けない役が定着したのはニュー東映の最高傑作、いや、人によっては日本時代劇の最高傑作に挙げる一本である倉田“赤影”準二監督の『十兵衛暗殺剣』における、柳生の一門・城所早苗役からだったかも知れない。役名からして早苗などと女々しいが、将軍家指南役の座を奪おうと柳生但馬守の道場を近江柳生の一党幕屋大休(大友柳太朗)の一団が襲ったとき、一人だけ逃げて助かり、そのために一門から臆病者よばわりされて大いに傷つき、汚名返上のために、大友柳太朗を追う十兵衛(近衛十四郎)の一行に加わろうと後から追いかけ、そこで出会った大友柳太朗に必死に戦いをいどむが、子供扱いされて、ほとんどなぶり殺しに殺されてしまう。凄く強い奴がさらに強い奴に次々殺されていく、というこの映画の中で、唯一“徹底して(腕も心も)弱い”役柄であり、それだけに見ていたこっちに極めて強烈な印象を与えた。この映画が1963年公開であり、河原崎長一郎23歳。その後の役柄を決めたかも知れない。翌年公開の『幕末残酷物語』では沖田総司役という、“強い”役もやっているのに、そっちでは全然印象が薄かったのである。 【夢路いとし】 日記 2003年 09月 30日(火曜日) 一昨日、談之助さんとのライブ中に、お客さんから夢路いとし死去の報を伝えられたのだった。昨日の朝は新聞でその記事を読んでいた。あの二人のキャッチフレーズの“生まれたときから兄弟で、それからずっと兄弟で、今でもなぜか兄弟で……”という文句を、小学生のとき、われわれ兄弟も真似して兄弟揃っての自己紹介のときに使っていたものだ。ダイマル・ラケットの漫才におけるボケとツッコミの対立が、時に凄みまで感じさせるものだったのに対し、いとこいの漫才はその対立にどこかにほんわかとしたところがあって、これは兄弟ならではの味だったのだろうか。無理な比較とはわかっているが、あえて言えばダイラケは談志、いとこいは志ん朝という芸風であった。 【ドナルド・オコナー】 日記 2003年 09月 30日(火曜日) その記事に比べれば小さく、同じ日にドナルド・オコナーの訃報もあった。私は、『雨に唄えば』はジーン・ケリーよりも絶対オコナーの方が贔屓なのである。アメリカでは彼の出世作はしゃべるラバ(ロバとなっている資料もあるがラバが正しい)、フランシスとコンビ(?)を組んだシリーズで、1949年から6本(7本という資料もあるが最後の一本はオコナーでなくミッキー・ルーニー主演)作られ、『雨に唄えば』を中にはさんで6年続いたこのシリーズは、アメリカ人にとってはそれこそ、大阪人にとっての吉本新喜劇みたいな位置づけにあるシリーズらしい(無名時代のクリント・イーストウッドもこのシリーズの中の一本に出演している)。B級映画マニアのジョン・ウォーターズが『クラックポット』(徳間書店)の中で、このシリーズの関係者を追いかけるというインタビュー記事を書いており、オコナーのところにも行っている。オコナーはフランシスを懐かしがって、「見つけたら連絡をくれと言っておいてくれ。また一緒にやりたいから」とジョークを言っていた。
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【訃報】人気アイドルの潮満さん殺害される★885 [2] ええ!? [3] 死にたい・・ [4] マジかよ・・・誰に殺害されたの? [5] 嘘嘘嘘!嘘だー・・・えーそんなの信じられないよー。。。もう満と会えないなんて。。。 [6] 犯人がわかった冴子って女優らしいぜ 死ねこのクソ女!(怒) [7] いや実は言うと私ね昨日生放送の番組で見てたんだけどね。帰りに満ちゃんからサインもらったばかりなの。もうね、悲しいの・・。こんなことってないよ。。。 [8] みんなー、これネタだよー。さっきテレビ局に電話したら本当はどっきりなんだって(^-^)どっきりなんだって・・・、どっきり。。(/_.`)。。。 [9] 誰か知らないけど何か涙出てきた これから仕事の面接なのに ・・私は木村達也の方が悲しいんだけど [10] 満ちゃん・・、俺今会いに逝くからね・・ [9997] 10 馬鹿やめろ!
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(2010年01月19日) 浅川マキさん、逝去
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- 【マルセ太郎】 2001年01月23日(火曜日) 新聞にマルセ太郎死去の報。以前、ジァンジァンの楽屋を訪ねたことがある。猛禽のような鋭い目つきが無茶苦茶印象的だった。ただ、猛禽類は猛禽類でも、ハヤブサやワシではなく、モズのそれのような感じは、した。額や手のあたりの皮膚が白なまずのように脱色しているのがちょっと気味悪かったが、死因は肝臓ガンだとのことで、あれは抗ガン剤の副作用だったのだろうか。性格も容貌も芸人にはまったく適していない人だったが、ジァンジァンの舞台の、あの暗い空間に独りで立っている姿が、こ れほど似合う人もちょっといなかった。日記つけ、K子に弁当。 【ゴードン・R・ディクスン】 2001年02月03日(土曜日) 夕刊に、SF作家ゴードン・R・ディクスン死去の報。ポール・アンダースンとの共著、『地球人のお荷物』は、私ばかりでなく、それまで頭でっかちなSFばかり名作と教えられて読まされてきた日本のSFファンに、“SFってこれでいいのか!”と、目からウロコの落ちる経験をさせてくれた作品であった。私見だが、日本のSFにおける主流がハードものからライトユーモア色の強いヤングアダルト系にぐんと傾斜していったのは、この作品の与えた影響(こういう作品が書きたい! と思った若手作家の増加)が大だと思う。 そう言えば、例の講談社文庫の“黒本”と呼ばれていた『世界SF傑作選』の第一巻に載っていたのが、このディクスンの作品で、あの『お荷物』の作者か、という気 持で読み始めた私は、そのハードでミリタリーな作品世界設定と硬質な描写、にも関わらずラストが未来的悪夢、とでも言うような暗いイメージの、異様な圧迫感のある文章で、得体の知れぬ感動を味わったことを思い出した。……と、そこまで思いをはせて、書庫に入ってその『世界SF傑作選1』を引っぱりだし、パラパラとめくってみたら、そう感じたのは同じ巻に収録されている(第一巻は二人だけ)ポール・アンダースンの『王に対して休戦なし』の方にだった、ということを発見した(ディクスンのは『兵士よ、問うなかれ』)。記憶なんてアテにならんもんだと苦笑したが、この両人、どちらもアメリカSF界では政治的に右派として知られ、内容も両人のものともベトナム戦争にインスパイアされた戦争ものだったから、ゴッチャになっていた のである。 【並木鏡太郎】 2001年02月16日(金曜日) 朝刊に並木鏡太郎監督死去の報、98歳。アラカンの鞍馬天狗ものの監督として紹介されていたが、典型的な職人監督で、チャンバラからヒュードロ怪談もの、森繁の喜劇、宇津井健のギャングアクションまで、なんでもござれの人だった。学生時代、新東宝映画などのオールナイトで、出てくる映画出てくる映画みんな並木鏡太郎で、またかい、と呆れたことを覚えている。中でも珍品は昭和二十九年新東宝映画(またかい)、『力道山の鉄腕巨人』だろう。留置場に入れられた力道山が鉄格子をつかんでゆさぶると、警察のビル全体がグラリグラリと大揺れになり、丹波哲郎(!)はじめ警察官たちが大あわて、などというギャグは、例え喜劇であっても、もはやその“ギャグの文法”が死滅してしまっているため、現代では再現不能なのである。 【新珠三千代】 2001年03月22日(木曜日) 買い物して帰り、夕刊を見たら、新珠三千代死去のニュース。17日に亡くなっていたという記事に大々驚愕。まさにその日、この日記のタイトルで名前を使わせてもらっていたのである。と学会を退会しなきゃならんのではないか、とさえ思わせる西手新九郎のミステリアスな腕の冴え。 そのタイトルの受けでもネタに使っていた『細うで繁盛記』以来、新珠三千代は優等生的イメージの役ばかり多くなったが、NHKの銀河テレビ小説『やけぼっくい』では同じように優等生的な女医さん役だけれど、元・夫(高橋昌也)に入浴シーンを偶然のぞかれてしまい、少女みたいに“いやーん、見ちゃ、いやーん”と恥ずかしがるというスゴい演技を軽々とやっており、見ていてその女優としてのハバに驚いたものである。顔は美人というより、高級な犬みたい、とずっと思っていたけれど。 新珠三千代で好きなエピソード。ある日、ロケ先で彼女は目を傷めてしまい、その土地の眼科を探してもらって、マネージャーと一緒に出かけた。ところが、どう間違えたか精神科の病院に行ってしまい、診療室に入って、“新珠三千代でございます”と先生に頭を下げると、先生、マネージャーの方を向いて“で、いつからそう思い込んでいるんですか”。確かミッキー安川の本で読んだ。 【ウィリアム・ハンナ】 2001年03月23日(金曜日) 帰って夕刊を見たらハンナ・バーベラの片割れ、ウィリアム・ハンナ死去、90歳。ぎんさんからこっち、高齢者がよく死ぬ気が。 【奈良本辰也】 2001年03月24日(土曜日) 奈良本辰也氏死去、87歳。なんか87じゃまだ若いじゃないか、というような感じである。昔、この人の監修したマンガ版日本の歴史が私の愛読書だった。そう言えばこのマンガを描いていたカゴ直利って、まだ存命なんだろうか? 私の記憶にある最も古いマンガ家の一人で、石川球太などと一緒に『狼少年ケン』のマンガなどを描いていて、ギャグタッチでかなり面白かったんだけども(注・と、イキオイで書いてあとで思い出したが、カゴ直利の描いたマンガ日本史の監修は和歌森太郎であった。奈良本辰也の日本史は、マンガばかりで日本史を押さえるのもどうも、と後で買った読み物の方であった)。 【エルゲ・イングスタッド】 2001年03月30日(金曜日) 年寄りが死ぬと言えば、日本ではないが、ノルウェーの探検家エルゲ・イングスタッド(コロンブスの発見以前にアメリカ大陸はバイキングによって発見されていたという説の発見・証明をしたひと)がこないだ死去、101才。探検家にしては長生き。そういやインディ・ジョーンズも、100才まで(それ以上か)生きたという設定だったっけな。 【畑田国男】 2001年04月08日(日曜日) そう言えば、この本を読んで知ったのだが、イラストレーターの畑田国男さんは亡くなっていたのか(調べてみたら平成8年3月死去、51才)。慶応ボーイらしい多趣味人間で、『日本三大協会(日本三大○○、というものを収集する)』などという酔狂なものを作ってみたり、兄弟姉妹の人間学を研究して『妹の日』を制定する運動を起こしてみたり、この人もまた横田さんと同世代の、既成権威相対化型人間の代表であった。 【三波春夫】 2001年04月14日(土曜日) 帰宅、ネットでニュースを見たら三波春夫死去の報。K先生の文章に三波春夫のレコードのことが出てきている。西手新九郎見参。 2001年04月15日(日曜日) 三波春夫関連のニュースいろいろザッピング。『おまんたばやし』をやるかと期待していたが、コンニチハコンニチハばっかり。『ルパン音頭』とかも流せ。三波家と、ルパン三世の音楽を担当していた大野雄二氏とは、慶応つながりで(三波氏の長男の豊和氏が慶応出身)交友があり、ルパンでLP一枚分の歌を吹き込んでいた、と平岡正明だったかのエッセイで読んだことがある。結局、発売されたのは『ルパン音頭』と『銭形マーチ』のカップリングEPだけだったが、二曲とも大変な名曲。カラオケに『ルパン音頭』は入っているが、ぜひ『銭形マーチ』も入れてほしい。と、いうか、この際他の曲も含めて追悼盤CDでも出さないか。 【勅使河原宏】 2001年04月16日(月曜日) 勅使河原宏監督死去。『砂の女』を学生時代、千石の三百人劇場で観て、そのあまりの観念的映像にヘキエキした記憶があり、それから十数年たって、『利休』を観て、前衛的部分がこれっぱかしもないのに肩すかしをくった記憶がある。ジーン・ハックマンが、最も好きな映画に『砂の女』を挙げていて、その取り合わせの似合っていないことに驚いたことも。 【河島英五】 2001年04月16日(月曜日) 車内の電光ニュースで河島英五の死去と、皇太子妃懐妊(の、可能性)を知る。 2001年04月17日(火曜日) 河島英五の若くしての死は痛ましいし、『酒と泪と男と女』は私がカラオケで持ち歌にした最初の歌なので思い入れも深いのだが、同じ日に、もう少し小さい扱いで報じられた小島三児の死が、どちらかというと私にはこたえる。 【小島三児】 2001年04月17日(火曜日) 同じ日に、もう少し小さい扱いで報じられた小島三児の死が、どちらかというと私にはこたえる。今の若いお笑いファンは知らないだろうが、昔、トリオスカイライン当時の彼はまさに時代の寵児、といった人気者だった。スカイラインという非常にモダンなトリオ名を裏切って、浅草出身なのになぜかナマリのある東八郎とダアダア的な小島三児の取り合わせの古臭いところが笑わせた。小島のボケによる話の食い違いが最高潮に達して収集がつかなくなったところで原田健二(今回の報道で、久しぶりに名前を思い出した)が“ハイハイ”となだめ、そのハイハイを聞くと反射的に東が“小諸ォ〜”と馬子唄を歌い出し、小島がまたそれを聞くと反射的に東の肩に首をもたせかけて、東が“なっつくな!”と払う、というギャグは、考えてみるとまるでイミがないのだが、そのイミのなさが、1970年代初頭のナンセンス・ブームに非常にマッチして、若者にウケていた。少年サンデーの新人賞応募マンガで、鬼のトリオが地上に出てきてドタバタするというコメディマンガが掲載されたことがあったが、その鬼たちのキャラクターがトリオスカイラインをモデルにしていて、編集部がそれを“センスがいい”と講評で褒めていた、という記憶がある。そんな時代もあったのである。 小島はそれまでの陽性ばかりの人気芸人の中にあって、ボケてはいても目に不遜な光を宿している気味の悪いところがあり、そこもまた非常に生意気ざかりのこちらの神経を刺激していた。ヨタ者のように東の言うことに逆らってばかりいた小島が、小諸ォ、と聞くと子供のようになっつきだす、というあたりの切り替えが、(“ごめんちゃい”という幼児語のギャグも効果的だった)小島のキャラクター自体が持つ暗さを中和していたのである。東と離れて独立して以降、この中和がなされなくなり、なにやらヌメっとした無気味な感じばかりが先に立って、愛らしさが感じられなくなってしまった。東という、お笑い芸人としてはアクの弱い、目立たぬ感じであった人物と組んでやっと小島のキャラは御家庭仕様のものになったし、東もまた、自分のキャラの弱さを小島というアブない人物とからむことで目立たせることが出来た。ある意味、理想のコンビネーションだったのだが、小島はそれを不満に思っていたようだ。その小島の自意識肥大がトリオ解散につながる。東はその後しばらくの低迷の後、気の弱い愛されるお父さんという安定した役柄で人気を得たが、小島のキャラは当時の映画やテレビでは扱いきれず、不完全燃焼のままに終わってしまった感が強い。彼にとって、東と早い時期に別れたのは生涯の誤算だったろう。……扨も皆様、こんにちの御話の教訓で御座り升るが、呆気芸は突込あつてのもの、御客様の笑いを悉皆己が取た物と思ふて慢心致さば終には己が身を滅ぼすといふことぢや。 【あすなひろし】 2001年04月23日(月曜日) 夕刊に、あすなひろし氏死去の報。60歳。いわゆる“バタくさい”作風と呼ばれる作家さんの代表で、私の中では『COM』というと、誰よりさきにこの人の絵が頭に浮かぶ。それくらい、一度見たら忘れられない個性的かつ美しい絵柄の人だった。肺がんで、闘病生活をしているとは聞いていたが。 【古今亭右朝】 2001年04月30日(月曜日) 朝刊に名を知っている人の訃報二つ。ひとつは落語家の古今亭右朝さん、肺ガン。享年52歳。圓丈さんのサイトで、肺に水がたまる病気で声が出なくなっていたと聞いていたが。今からもう十年以上前になるか(なをきがまだ結婚していない時期だったから)、ある年の元旦に、ほとんど車のいない高速道路を走るタクシーの中で、正月の寄席中継をやっており、『抜け雀』がかかっていた。なをきと聞いて、“誰だ、これ? うまいなあ”と仰天・感心したのだが、それが右朝さんだった。それから何度か高座を聞いたが、とにかくうまい。うますぎることが欠点だったと思う。聞いてる方がそのうまさについていけないのだ。そのギャップのせいか、若いのにえらく老成した感じを受けたが、先代馬生や馬の助はじめ、何故かこういうタイプの人ってのは早死にする。 【出口聖子】 2001年04月30日(月曜日) もう一人が大本教の4代目教祖、出口聖子、66歳。かの王仁三郎の孫娘。5代目教祖は、姪で養女になった紅さんが継いだとのこと。出口くれない、って、何か演歌のタイトルみたいだ。あ、もう一人、日本の原爆製造研究の中心人物、竹内柾氏も亡くなっていた。こちらは90歳か。 【和泉宗章】 2001年05月04日(金曜日) 他に、“天中殺”の和泉宗章氏、膵臓癌で死去、65歳。うちの伯父とは昔からの知り合いであり、伯父の次男(私にとっては従弟)の結婚式の仲人代わりの立会人でもあった。昔は歌手志望でそれが果たせず、競馬の予想をはじめ、その研究から占いに興味を持ち、やがて算命学にはまりこみ、天中殺占いで大ブームを巻き起こす。しかし、長島監督(第一期)の引退時期をはずしたことから占い師を引退、今度は一転して占い否定の説に走り……という、かなり波乱万丈な一生だったと思う。本人から直接聞いたわけではないのだが(プロダクションのマネージャーさんから聞いた)、彼が占いに凝ったのは、なんとか馬券を百発百中に当てる方法はないものか、と思案した末であり、数年間、その研究に没頭したあげく、人間相手の占いに転向した。その理由は、“馬には占いが適用されない” という結論だったからだそうだ。彼の理論では、なんでも占いが当たるのは星のめぐりが人間の五臓六腑と綿密な関係を持っているためであって、馬にはこの五臓六腑のうちのナントカが足りないのだそうな。私は天中殺なんてものはツユも信じないけれど、和泉さんの人生における星回りの最高の一瞬が、この占い研究の成果を本にして出すに当たって、算命学(万象算命)という名称を用いず、“天中殺”というその中の用語にスポットを当てて書名にしよう、と思いついたその瞬間であったことは確かだろう。このインパクトある耳新しい名があったればこそ、あの、どちらかと言えば地味な占いがあれだけのブームを巻き起こしたのである。 実は私はこの人には一度、苦い目にあっている(本人は知ったことではないのだけれど)。昔、ある本の企画を持って出版社めぐりをしていた。知人の紹介で青春出版社の企画部長さんにお会いして、案外向こうが乗り気になってくれ、私はホッと一息ついて、雑談にまぎらせ、実は和泉宗章さんと知り合いで……と口をすべらせた。その途端、相手の態度がガラリと変わった。その部長さんがあの天中殺の本の担当だったのだが、和泉さんが勝手に占い師廃業を宣言して、出していた天中殺関係の本も全て絶版にしてしまったため、青春出版社はみすみす大ヒットシリーズを失った、というわけである。そのとき、和泉さんと何か不快なやりとりがあったらしく、それを思い出した、と言うようにその部長さんの態度は感情的に硬化していき、話の接ぎ穂がなくなった私はただ呆然とするばかりで、結局、企画も流れてしまった。共通の知り合いの名を出すときにはよほど注意しなくてはいけません。 【ダグラス・アダムス】 2001年05月13日(日曜日) 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の著者、ダグラス・アダムス死去、まだ49歳。27歳で出した『銀河〜』は1400万部の大ベストセラーだということだが、日本での人気はサッパリだった。英国流の、ふたひねり効いたユーモアが日本人にはやっぱり通じにくかったらしい。スーパーコンピューターに750万年かけて解かせた“宇宙と生命と万物の存在に対する究極の解答”が“42”というギャグなど、その際たるものだろう。新潮文庫のこのシリーズの三冊目『宇宙クリケット大戦争』がアッという間に品切れ絶版になり、東京じゅうの古書店を捜しまわったのも懐かしい。 【團伊玖磨】 2001年05月17日(木曜日) 團伊玖磨氏死去、77才。この日記には何故かちょくちょく出てくる名前だった。ナマで最後に見たのは去年、新橋の蕎麦屋で風邪を引き込んでボヤいている姿だったが、何か生気がないように感じたのは病気のせいばかりでなく、奥さんを亡くした直後だったからか。『パイプのけむり』シリーズは末期には出版社のお荷物になっていた、という話も聞いたことがあるが、しかし、あれだけの期間、エッセイのネタを途切れさせなかったというのはスゴい。文章の読みやすさと大衆が安心してついてこられる程度の知的レベル、上品さ、視点の位置など、文筆業志望者ならば一度は(一度でいいが)目を通しておくべきだろう。そうそう、ジェイソン・ミラーも死んだ。舞台中心の人だったので映画では『エクソシスト』のカラス神父くらいしかおなじみのものがないが、あの暗ぁい深刻そうな顔がなければ、あの映画は成立しなかっただろう。カラス神父と言えば小倉智昭の頃の『どーなってるの?』で中村江里子がこの名前を“カラス親父”と読み間違えた事件は何回もネタに使わせていただきました。 【鈴木宏昌】 2001年05月23日(水曜日) 訃報欄にジャズピアニスト鈴木宏昌食道ガンで死去の報。60歳。貧乏学生時代、新宿ピット・インでコークハイ一杯でねばりながら、コルゲン・バンドに聞き入っていたことを思い出す(中村誠一がサックスで参加していたなあ)。『今夜は最高!』の、決して歌がうまくないゲストと、それをまたフォローするほどうまくないタモリのトランペットを支えて、毎回なんとかステージを“カタチ” にしていた彼のバンドの実力は、まさに日本でも有数のものだったろう。そのころ私は彼が音楽を担当した『海のトリトン』同好会のメンバーの女性二人に、二またかけてつきあっていて……まあその話はいいや。何にしても、私の青春は彼の演奏と共にあったような気がする。 【河本敏夫】 2001年05月25日(金曜日) 笑わん殿下河本敏夫死去。政治家としての彼の不幸は、現小泉内閣を見ればわかるように、政治が実力と見識の時代からマスコミ相手のコマーシャリングの時代に移項する、ちょうどハザマの時期にいたことであろう。マスコミ演出の名人である中曽根氏と総理の座を争い破れ去って、その後第一線に浮上してくることが出来なかった。今後の日本は地味な人間はトップに立つことができない社会である、と考えるべきだろう。ブッシュ(今のブッシュの親父)が大統領になったとき、アート・バックウォルドが、“こんな特長のないやつが大統領になってはわれわれはメシの食い上げだ”と政治マンガ家たちが集会を開いて嘆きあう、という冗談コラムを書いていたっけ。そう言えば河本サンの似顔絵で印象に残るものを見たことがない。いしいひさいちがヒロオカに河本サンを演じさせたやつがかろうじて記憶にあるくらい。 【アンソニー・クイン】 2001年06月04日(月曜日) アンソニー・クイン死去。『アラビアのロレンス』の、粗暴だが子供っぽい盗賊の親玉役が、最初テレビで見たときの北村和夫の吹き替えが抜群だったこともあって、印象深い。親父が粗暴で無教養なのに、幼い息子が美少年でやたら賢くて、それを参謀にしているという設定は、かなりのSFマンガがパクったのではあるまいか。 【唐沢パパン】 2001年06月14日(木曜日) 各新聞に乗った親父の訃報記事を見る。北海道新聞の記事はなんと、『評論家・唐沢俊一氏、漫画家・唐沢なをき氏の父』と肩書されている。グレて店も継がなかった息子たちの父、などという評価では、“生きていたらさぞ怒るだろうねえ”などとよくわからないようなことを話して笑う。母まで含めて何か家中盛り上がっている感じである。豪貴の奥さんの優子さんが一番、喪家の人っぽく、親父の棺の前で座っている。 【青山正明】 2001年06月18日(月曜日) 帰宅したら青山正明死去の情報。まだ本当かどうかわからないが、また葬式か、とぼんやり思う。驚きはするものの、意外性がその死にこれほどまつろわぬ人間も珍しいのではないか。 2001年06月19日(火曜日) 青山正明関係の情報がとぎれとぎれながら入ってくる。てっきりクスリで体がガタガタになっての死だと思ったら自殺、しかも腹を切って首をつったらしい、というすさまじい話がつたわってくる。『ハンニバル』のジャン・カルロ・ジャンニーニみたいな死に様だったということか。やはりクスリでの発作的な行動か、それとも覚悟の上の凄絶な死か? 風聞だが、永山薫が私とモメた一件で、青山正明に手打ちの仲介を頼もうとしたが、すでに彼の体がそんなことに耐えられなくなっていた、という話がある。あれほどの男がこのまま忘れられていくのは寂しいな、と思っていたが、ラストでなんというインパクトある死を。 彼の鬼畜・悪趣味関係の仕事での独走ぶりはズバ抜けたものがあった。何度も一緒に仕事をしたし、話もしたが、クスリにしろ少女姦にしろ、“実体験”に基づいたそのエピソードは面白いったらなかったし、その才能に羨望もした。しかし、話しながら“同じ分野でも、彼みたいになってはいけないな”ということはビンビンに感じたものだった。彼のような方向性の仕事は、自分をどんどん狭いところに追い詰めていき、一般読者を排除して、しまいには自分自身をも破裂させてしまうのではないか、と思ったのである。ことこのような事態になってからこんなことを書くとアトヅケと思われるかもしれないが、これは正直なところである。逆に言うと、彼の背中を見ていたからこそ、私はカルトライターながらも一般向けというワクの中にとどまれたのかも知れない。初対面はまだ私の参宮橋時代の喫茶店だったが、最初から“実はいま警察に尾行受けているんですよ”と語ってくれたのはいかにも青山正明らしかったと思う。で、“××社なんかが、「青山さん、いっそ警察と完全に敵対して、おたずね者になって、その逃亡体験記書きませんか」なんて無責任なこと言ってタキツケるんで、大弱りしてるんです。他人事だと思って”とボヤいていた。話す内容は狂気のレベルだったが、目は温和でオドオドさえしており、マスコミが勝手に作り上げる青山正明像に無理して合わせているという感じが見てとれた。 青山正明というと鬼畜だのドラッグだのという言葉が反射的に浮かぶが、実は彼はその合間に、実に平凡でつまらぬ編集・ライター仕事をせっせとやって、それで稼いでいたのである。彼の他の鬼畜系ライターがみんな彼のようになろうとしてかなわなかったのは、まっとうな仕事もちゃんとこなせる、というその、基盤の常識的能力の差にあったと思う。私の『女性自身てば!』の構成も担当してくれたし(途中で別の仕事が忙しくなったので降りてしまったが)、思えば最後に彼と打ち合わせをしたのは、まるきり青山正明らしくない、『逮捕しちゃうぞ!』の謎本を書くライターを紹介してくれないか、という件であった。そのちょっと前にクスリで逮捕されて、出てきたばかりのところであったので、鶴岡などは“『逮捕されちゃうぞ!』って本だした方がいいんじゃないですか”などと言っていたけれど。そのとき、警察関連のコレクターを紹介して、“彼、本物の逮捕状まで持ってるんですよ”と言うと、恥ずかしげに笑って、“ボクも見たことあります……”と言った。“でも、一応見せられるんですが、足がガクガクして、頭の中なんか真っ白で、何が書いてあったかなんて、まるで覚えていませんねえ”とのことで、それを聞いて、ああ、この人、本心は気が弱くて常識家なんだな、と思った。まあ、それだからドラッグなどに走ったのかもしれないが。 私に会うと口癖のように、“今の若いライターは文章力がないからダメだ”とこぼしていた。“ライターの文章は商品なんですよ、自分が書きたいことを書くのでなしに、人がそれを読む、ということを認識して書かねばいけないのに、そんな基本がわかってなくて、自分本位の文を書き散らかしている。何考えてんでしょうね”と言っていたのを思い出す。青山正明にこう言われていたのである。今日びの若手のモノカキたちは、これを彼の遺言と思ってほしい。 青山さんの件で、フィギュア王N田くんはじめ、数名の関係者から電話。持っている情報はだれも同程度のものらし。ところでN田くんはなんと札幌での通夜に来てくれていたらしい。驚く。あまりに人が多数参列しているので、こちらに声もかけられなかったとか。K子に“N田くん来てたんだって”と言うと、間髪を入れず“えっ、黒いアロハで?”と来た。 【金井大】 2001年06月20日(水曜日) 俳優の金井大死去、74歳。地味だが味のある傍役、という形容が一番ピッタリする人で、昔からその名前は知っていたが、顔と一致したのは『夜叉ケ池』あたりからだった。古くは『ウルトラQ』のゴルゴスの回のおまわりさんなどで見ているのである。『悪魔くん』の狼男で、蜷川幸雄の狼男をムチであやつるマッド・サイエンティスト役をやっていたのが一番の怪演だったのではないか。晩年は声優としての活躍の方がメインで、『大草原の小さな家』などでおなじみ。そうそう、映画版『怪物くん』では怪物大王をやってましたなあ。 【ポール・シュリーブマン】 2001年06月27日(水曜日) 『怪獣王ゴジラ』のプロデューサー、ポール・シュリーブマン氏死去、92歳。はっきり言って、この名前を知っている人はよほどの怪獣マニアでも滅多にいないと思うが(海外版演出者であるテリー・モースの名前ならともかく)、よく新聞に載ったと思う。ところで『怪獣王ゴジラ』だが、珍妙な日本描写はともかくとして、モンスター・ムービーとしては、むしろ本家日本版よりよく出来ていたのではないか、と思う。日本のスタッフはゴジラをゲテものにしないためにさまざまなテーマ性を作品の中に盛り込んだが、そこらへん、ゲテ映画を作ることに何のコンプレックスも持っていないアメ公どもは、ひたすら化物としてのゴジラの脅威を強調した演出であの映画を再構成し、結果としてスッキリしたエンタテインメント映画になり得ていた。ゴジラは“ここ”に帰るべきでは? 【トーベ・ヤンソン】 2001年06月28日(木曜日) トーベ・ヤンソン女史死去。こういう顔でしたか。この人、あくまで本業はマンガ家及び挿絵画家で、小説は自分の挿絵に添える形で書いたものだったとか。 【ジャック・レモン】 2001年06月29日(金曜日) ジャック・レモン死去。名コンビのウォルター・マッソーの後を追った形。この二人のおかげで私は映画が好きになったようなものかもしれない。『アカデミー賞グレイテスト・モメント』というビデオの中に、彼ら二人が1981年の監督賞のプレゼンターを勤めている模様が残されている。 レモン「監督という人々にもいろいろあります。傍観者、独裁者、優しく寛大で理解ある人。かと思うと、意地悪でケチくさい人もいます」 マッソー「……チビもいる。ノッポも。老いぼれがいるかと思うと青二才もいる。アメリカ人の監督ばかりじゃない、フランス人、チェコ人、イギリス人。……人物の描き方はうまいのに、カメラ音痴のやつ。アングル、フォーカス、レンズやスプロケットの状態には気をつかうくせに、役者のコンデションに気が回らないやつ……」 レモン「……今夜はそんな監督たちが一堂に会しています」 漫才でもないのにこんなにイキが合っている二人も珍しかった。
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- 【円谷浩】 2001年07月24日(火曜日) 帰宅12時ころ、ネットニュースみたら円谷浩死去の報あり、驚く。37歳。内臓不全の持病があるとは聞いていたが、祖父の生誕100周年でわくこの年に世を去るとは。しかし、早世の一族だなあ。 【山田風太郎】 2001年08月01日(水曜日) 昨日の夕刊の山田風太郎の死亡記事を読み返す。“忍法帖・魔界転生 山田風太郎氏死去”という見出しは少しオカシい。魔界転生も立派な忍法帖のひとつだからだが、この見出しを書いた記者は、たぶん、魔界転生が『おぼろ忍法帖』というタイトルだったことなど知らない世代なんだろう。 確かエッセイ集『風眼抄』にも収録されていたと思うが、牧逸馬・林不忘・谷譲次の『一人三人全集』(河出書房新社)に山田氏は解説を書いていて、その中で “大衆小説の名作の大半は、たいてい出たとこ勝負のところがあるようだ”と、丹下左膳や大菩薩峠、宮本武蔵、赤穂浪士などのストーリィ運びの矛盾の例をあげ、“おそらく好評のため延長拡大されたせいであろうが、それだけに作者の筆に天馬空をゆく高揚があらわれ、かくていよいよ一世を風靡するということになったのであろう。こうなるとすでに作者と読者の合作といっていい”と、そのデタラメさを魅力の本質としてとらえている。軽く書いているからツイ読みのがしてしまいがちだが、これはいわゆる評論ズレした頭でっかちには決して吐けないセリフであり、大衆文化というものの本質を見事にツイた達見なのだ。思うに、大衆ヒーローもの小説の傑作が世に出なくなって久しいのは、作者たちが読者とでなく、評論家と合作を始めたためなのではないか。 【青柳裕介】 2001年08月09日(木曜日) 帰宅したら青柳裕介氏死去の報。耳下腺基底細胞がんとはまた聞きなれぬ病気。そう言えば蛭子能収さんの奥さんも血液の病気で亡くなったというし、訃報が続く。 【フレッド・ホイル】 2001年08月24日(金曜日) 作家・天文学者フレッド・ホイル死去。86歳。ビッグ・バン理論というのは、彼が定常宇宙理論の立場から、悪口として“あんなもの、ドッカーン理論じゃないか”と言ったセリフから定着した。思いもかけず、その語呂のよさが受け、いまや提唱者たちまでがその名称を使っているのを、どう思っていたか。皮肉な結果である。 【白石義明】 2001年08月30日(木曜日) 帰ってニュースみたら、回転寿司の開発者の白石義明氏、死去。87才。うーむ、さすがの西手新九郎も夏バテで、ちょいハズしたようである。小沢昭一の『私は河原乞食考』の中に、大阪人の直截的発想の典型例のひとつとして、特出しストリップと共にこの回転寿司のことが記載されている。昭和40年代当初、回転寿司は江戸っ子の目に情緒こそないがいかにも現代的な発明として映ったのである。それから三○数年、いまや回転寿司は日本を制覇し、世界をねらっている。これが大阪出自のシステムであることの証左として、初期の回転寿司には必ずバッテラが混じって回っていた(嘉門達夫の歌でも歌われていた)が、最近はそれも無くなってしまった。私は日本を代表する科学技術のあり方として、H2ロケットよりも回転寿司の方に感心する。 【トロイ・ドナヒュー】 2001年09月03日(月曜日) トロイ・ドナヒュー死去、65歳。まだ65というのが意外なほど、 “過去の人”という感じだった。新聞には出演作として『ゴッド・ファーザーPartΙΙ』などと書いてあったが、あの映画での彼は“どこに出てたの?”という程度の役でしかない。ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノ、ロバート・デュバルといったニューシネマ・スターの台頭で、彼のような古いアメリカの二枚目は出番がなくなった、その象徴のような映画だった。私にとってのドナヒューは何といってもTVの『ハワイアン・アイ』。これは北海道だけだったのだろうか、この番組が三十年くらい前、お昼の時間帯にエンエンと再放送されており、学校を風邪で休んだり(本当の風邪だったり、ズル休みだったり)したときの楽しみは、TVで『ウルトラ・ファイト』と『ハワイアン・アイ』を見ることだった。番組中での私のひいきは久野四郎が吹き替えていたポンシー・ポンスのタクシー運転手・キムだった(彼のセリフで“モチコース”という言い方を覚えた)けれど、あのテーマソングの“ジャ、ジャジャジャジャジャジャジャジャジャジャ、ハワイアン・ア〜イ”というオープニングを聞くだけで今でもシビれる。死んだ親父が、夫婦ゲンカをして、母がしかめっ面をしているのをにらみつけて、“なんだ、『ハワイアン・アイ』みたいな顔して”と言い(オープニングに出てくるハワイの神像の顔がそういうしかめっ面なのである)、母も含めて家中が吹き出したのも、昨日のような思い出である。 【ジョン・チェンバース】 2001年09月03日(月曜日) ドナヒューの死亡記事の詳細をネットで調べていたら、先月25日に『猿の惑星』の特殊メーキャップアーティスト、ジョン・チェンバースが78歳で死去とのこと。新作公開中に死去というのもなかなか。同じ大御所のディック・スミスがリアリズム派だとすると、チェンバースはファンタジック派で、現実の物に似せるのではなく、現実にはないものを想像力で作り上げることに長じていた。『猿惑』の猿だって決してリアルな猿ではなく、猿を演じるロディ・マクドウォールやキム・ハンターの目をしっかり強調して、知性ある猿、というクリーチャーにしていた。技術でははるかに上を行く、リック・ベイカーの新・猿惑が評判が悪いのは、あまりにソレが猿そのものだからではないだろうか。しゃべる猿は猿ではない、新しい生き物の筈なのだ。そういうチェンバースの仕事の中で私が特に好きなのは『ファントム・オブ・パラダイス』のウィリアム・フィンレイの、顔の片面にレコードのミゾを焼きつけられたメイク、それから『怪奇! 吸血人間スネーク』のゲテ趣味全開のヘビ男である。特に後者の、手足がない全身メイク故に、ほとんど体を上にそらせるくらいしか動かせない蛇人間の姿は爆笑もので、この作品にパリ国際ファンタスティック映画祭が特殊メイク賞を与えたと知ったときにはワカッテルネエと大喝采したものだ。私にとってチェンバースは『猿の惑星』でアカデミー特別賞(この時代にはまだ特殊メイクアップ賞がなかった)を受けた人ではなく、『Sssssss』(原題)で賞をとった人、な のである。 【相米慎二】 2001年09月10日(月曜日) 夕刊を見たら、相米慎二肺ガンで死去との報。53歳という若さ。うーん、はっきり言ってこの人の映画が私は苦手だった。最後に観たのが銀座の松竹試写室での『東京上空いらっしゃいませ』で、ウェルメイドプレイを日本映画に取り込もうとしてこじんまりと挫折していたこの作品で、何故か私は無闇に腹がたち、ついでナサケなくなり、あ、もういいや、になってしまったのである。一方で、“今やあらゆる日本映画は相米慎二の映画との距離を比較され、その正しさを測られる”(某サイトの映画評より)とまで評されるカルト監督ではあったが。『台風クラブ』などをもう一度、見直してみようかと思う。 【橘家文蔵】 2001年09月10日(月曜日) 訃報もうひとつ、落語家橘家文蔵氏死去、62歳。え、そんな若かったっけ。正蔵仕込みの怪談噺を受け継いだ人がまた、ひとりいなくなった。あ、JOCの八木会長も急死とか。オリンピック大阪招致失敗で心労がたまってたんだろう。サウナでいきなり、というのは心不全か脳溢血か、何にせよ他人事でない。 【古今亭志ん朝】 2001年10月01日(月曜日) 新宿行きのタクシーの電光ニュースで、古今亭志ん朝の死去を知る。享年63歳。ゆうべ、ジオポリスの楽屋で、談之助さんと“志ん朝師匠ももう、再起不能でしょうねえ”と話していたばかり。兄弟揃っての早世はシャレにならない。正月の三木助に続いて、落語界には今年は凶年である。それも、三木助の死がジャブだとすると、志ん朝の死はカウンターのストレートだ。中学生のころ、ラジオの公開録音会場で『干物箱』を聴いて、その演出のあまりのサラリとした、うまさを超えた自然さ(まあ、本人のアダ名が“若旦那”だったんだから若旦那ものが自然だったのは当然か)に愕然とした。続いて上がった談志が(何をやったか忘れた)負けじと熱演すればするほど、生得の血の違いのようなものが歴然として、何か談志が気の毒になってきて、それ以来、私はがんこな談志派になったものである。 そのせいで、私は志ん朝をきちんと聴き込まぬままに来てしまった。もちろん、落語会などで山ほど聴いてはいるものの、いわゆる独演会に、志ん朝目当で聴きに通ったことは一回もない。その若さと、若さに似合わぬ円熟ぶりに、これは“いつでも聴ける”人だ、というイメージがあり、それよりもクセのある人ある人、と選んで足を運んでいた。まさかこんなに早く逝ってしまうとは。今になって無茶苦茶にくやしい思いがする。 2001年10月02日(火曜日) 昨日の読売夕刊に志ん朝死去の報があるが、メガネをかけた写真を掲載している。芸人なんだから、高座での顔を載せてもらいたかったろうに。こういうところ、新聞記者というのは無神経だなあ。歌舞伎役者はメガネをかけた素顔で出るが、あれは舞台では化粧をしていて、シロウトには誰が誰だかよくわからないからだろう。それにしたって、歌舞伎役者がメガネかけた顔で写真出すのは不見識だと、私はしょっちゅう思っているのだが。 【秋山正美】 2001年10月15日(月曜日) と学会パティオで猟奇・ノイズミュージック等の研究家、秋田昌美氏死去との書き込みがあり、あわてて調べたら亡くなっていたのは古書・児童文化研究家の秋山正美氏の方だった。これも見落としていた。今月1日、心筋梗塞で死去、72歳。河北新報社のニュースサイトで見てみると、“葬儀・告別式は故人の遺志により行わない”という記載のあとに“(注)通夜も行わない”とダメ押し。それほど世間に忘れられた人でなく、最近まで児童文化・生活史の本を執筆したり監修したりして活躍されていた方だけに、一切何も行わないというのはかえって関係者をとまどわせないかと思うのだが。 これは、書こうか書くまいか迷ったのだが、秋山氏を初めて知ったのは、変態セックス研究家としてであった。雑誌『薔薇族』の出版元である第二書房から、昭和四○年代に、『ホモ・テクニック』『レズビアン・テクニック』『へんたい学入門・性と愛大百科』というような研究書をやつぎばやに出版していた。なかんずく、若者のオナニーの研究・教則本『ひとりぼっちの性生活』は名著で、かの立川談志が高座でネタにしていたくらいであった。 「最近の若い連中はせんずりのやり方まで本で覚えやがる。こないだ読んで見たら、書いてあったヨ。“第一章、原則として手を用いる”……まア、決して間違っちゃいないが……」 これを聞いてからずっと古書店を探し回り、見つけて読んでみると、さすがに第一章ではなかったものの、ホントに“原則として手を用いる”と書いてあって抱腹したのを覚えている。だが、このような生真面目さで書かれたオナニーのマニュアル本が出版され、自慰に対する真摯な考察が行われたのは画期的なことだった。この本の出現により、オナニーは初めて不品行な夜のいたずらから脱却し得たのである。数年前に、少しお固めの某誌で“思い出の一冊”という企画コーナーに原稿を依頼され、この本のことを書いた。そのとき、著者の秋山氏に編集者が図版使用の許可を取るため連絡したのだが、秋山氏からは、“あれは自分の文筆歴の汚点のような本なので、どうか触れないでいただきたい”と返事が来た、と連絡があった。私は、いや、汚点どころか、あれは出版史上極めて価値あるものだと考えている、と返答したのだが、氏はかたくなに拒否され、泣く泣く、これを取り上げるのを諦めたことがある。 しかし、汚点と言っても、なにしろ当時第二書房のそれらの本は隠れたベスト・セラーであり、出版点数もやたら多く、いろんな古書目録に堂々と秋山正美著として記載されている。いまさら隠せるものでもあるまい、と思ったのだが、児童文化史家として、教育関係の仕事にも関わっていた秋山氏にとり、やはり変態研究書を出版していた、という記録を、そういう人たちも目を通すお固い雑誌に残しておくのはまずいということだったのだろう。お亡くなりになって、もはや解禁と思うし、そんなことで秋山氏の名誉が毀損されると考える教育関係者の方が間違っている。いや、これら一連の書籍の価値は後の児童文化史関係での氏の業績に、勝るとも劣らないと私は固く信じるものだ。ここで再評価することを、泉下の秋山氏も許して下さると思うのである。 【アンソニー・シェーファー】 2001年11月07日(水曜日) 夕刊にアンソニー・シェーファー死去の報、75才。大ヒット戯曲『探偵/スルース』の原作者で映画化の際の脚本も担当し、『フレンジー』『ナイル殺人事件』、さらにあのカルト・ホラー・ミュージカル(?)『ウィッカーマン』などのシナリオも手掛け……という、実にもって私好みの作品を書いてくれた人だった。『アマデウス』のピーター・シェーファーとは双児の兄弟。才能と名声と成功に満ちた結構な一生だった、と思う。女性に関しても艶福家で、なにしろ奥さんのダイアン・シレントは元ショーン・コネリー夫人。あのジェームズ・ボンドから女性を横取りしたんだから、ソッチの腕も大したモノだったんではないか、と想像できるのである。 【横山隆一】 2001年11月08日(木曜日) 夕刊に『フクちゃん』の横山隆一死去の報。92才。日本のマンガ家の中で一番のモダニストだったのではないか、と思う。私が中学生のときくらいまで、毎日新聞でフクちゃんは連載されていたが、『サザエさん』の泥臭さに比べ(サザエさんの強みはその泥臭さなのだが)、その線の洗練は段違いと言っていいものだった。フクちゃんは代表作とはいえ、『百馬鹿』『人造首相』といった作品の方にその特色はよく表れていて、そのスタイルのスマートさとナンセンスは現在見てもまったく色褪せていない。また、アニメへの興味も手塚治虫に先駆けてもので、名作『ふくすけ』を残している。『フクちゃん』のみで横山隆一が語られるのはいくぶん残念なのだが、それでもその最終回は、極めて印象深いものだった。四コマという形式を取りながらも、ギャグを排した大河マンガ的展開を見せ、でんすけやら、“アカチバラチ”のドシャ子など、他の横山作品のキャラまでが登場して(アカチバラチの意味までちゃんとあかしてくれる。“赤いバラが散った”だそうだ)、一ヶ月かけてこれまで謎に包まれていたフクちゃんの両親の秘密があきらかにされていくという趣向がとられていた。こんなことを新聞の四コママンガでやったのは横山隆一が最初だろう。そういう作品にあふれていたセンスに比べると、漫画集団を率いてのさまざまなユーモアパフォーマンスはちょっと寒いものがあったけれど、とにかく一世の才人であったことは確かだと思う。なお、フクちゃんに関しては下記のサイトがくわしい。 http //www1.sphere.ne.jp/kobataka/manga/hukutyann/hukutyanntop.html 横山隆一は眠るがごとき往生だったようだが、ジョージ・ハリスンはガンの放射線治療中で衰弱が進み、明日をも知れぬ状態だとか。また、ソニーの大賀社長も脳溢血で倒れたとか。どうも最近、新聞読むとこういう記事が目について仕方ない。自分の健康に不安を感じている証拠か。 【大出俊】 2001年11月09日(金曜日) 新聞に“国会の止め男”・大出俊氏死去の報。79歳。よく差別的に“女性は政治家を見てもそのネクタイの趣味しか見ようとしない”と言うことがあるが、この言葉は大出氏から生まれたのではないか、と思ったことがある。それくらい、あのネクタイと縞のシャツの取り合わせの趣味は悪かった。“みんな反対、社会党”の代表みたいな政治家だったな(ちなみに、フルバージョンは“数におごりの自民党、みんな反対社会党、ロボットばかりの公明党、日本に合わない共産党、あるのかないのか民社党”である。作られた時代がわかるねえ)。全然関係ないが、むかし少年マガジンに連載されていた峯たろう・しのだひでおの『パンパカ学園』というマンガで、社会科の先生の名前が“民名半大(みんなはんたい)”という名前だったが、途中からこの先生だけ変えられてしまった。クレームがついたんだろうか。 【左幸子】 2001年11月12日(月曜日) おとついの夕刊を改めて読み、左幸子死去の報を確認。見損ねていたのである。夕刊は無駄だから取るのをやめようか(産経新聞は夕刊を廃止したそうである)と思うのだが、こういう風に夕刊にしか載らない記事があるからそうもいかぬ。左幸子というと肉感女優、というイメージがあったが、もう71歳だったか。『暖流』『にっぽん昆虫記』『飢餓海峡』などと日本映画の金字塔みたいな作品が代表作として並んでいるが、私にとっての左幸子は、なんといっても『草を刈る娘』と『軍旗はためく下に』の二本。『軍旗……』での、息子夫婦の夜のいとなみを隣の部屋で聞いてもだえてしまう戦争未亡人の演技、というか肉体は、まさに“熟れた”という感じで、まだ若かったこちらを完全にノックダウンさせた。その後で見た若き日の主演作『草を刈る娘』(新東宝版。1953、中川信夫監督)でも冒頭で水浴びのシーンがあり、こちらでは若々しい肉体を見せてくれた。田舎なまり丸出しでの宇津井健とのラブシーンもほほえましく、石坂洋次郎原作のタアイない話なのだが、演技陣の好演もあって楽しめた。お互いの家の親が二人の仲をまじない師の婆さんに占わせて、そのお告げが“時造とモヨ子の二人は、あつらえたモモヒキみてえにぴったりだぞよ!”というのにひっくり返って笑ったな。この作品、その後日活で吉永小百合、浜田光夫のコンビでリメイクされていて、それと区別するためか新東宝版は『思春の泉』というタイトルになっていることもある。吉永版の方は見ていないのだが、左版では、宇津井健が農作業の最中に、何だったか大事なものをなくしてしまう。記憶をたどると、畑仕事の最中に野グソをして、その脇に置いたと思うのだが、どこでクソたれたか忘れてしまった、というのを、左幸子がそのクソの匂いを嗅ぎ当てて、なくしたものを見つけてやる、という話だった(若い諸君は信じないかもしれないが、ホントにそういう件りがあり、しかもそれがこの映画のクライマックスなのである)。吉永小百合も、 浜田光夫の野グソを嗅いでやったのであろうか? 【ジョージ・ハリスン】 2001年12月01日(土曜日) ジョージ・ハリスン死去。58歳。ビートルズ世代ではないのだが、彼らの映画のファンだった。『ヘルプ!』のハリスンは美青年だったよなあ。彼がその映画の中で縮小されてしまい、オールヌードになるシーンは、当時の女性ファン失禁モノではな かったろうか。 【小松崎茂】 2001年12月09日(日曜日) 小松崎茂氏が7日に死去、86歳。ここらになってくると人間、ひょっとして死なないんではないか、と思えてくるもので、感覚から言うと“早死に”である。戦記・SFものでの功績は私などよりはるかに詳しい人がいるだろうが、カストリ雑誌にときおり挿絵を描いていたのはどれくらいの人が御存じか。晩年に描いた東京シリーズの絵も素晴らしいが、S.KOMATSUZAKI画になる夜の銀座の灯に舞う女たちの図も、また捨てがたい味わいがあったものである。それにしても、この人も量を極めた天才であった。大衆文化は量がポイントなのである。ちなみに、ネットで7日の死亡記事を検索していたら“山下耕作氏死去”との記事があって、あれ、もう亡くなっていたと思ったが、とちょっと驚いた。アタカ工業常務だってさ。同姓同名。 【江戸家猫八】 2001年12月10日(月曜日) 江戸家猫八死去の報。今年は芸人さんがよく死ぬなあ。まあ、名跡を継ぐ息子がいるだけ芸人としちゃ幸せか。ちなみに言うと、猫八と小猫は、親子であって義理の兄弟でもあった。つまり、猫八の再婚した女性と、小猫の奥さんとが姉妹なのである。 【南原宏治】 2001年12月22日(土曜日) 昨日の夕刊で南原宏治死去の報を確認。『殺しの烙印』の陰鬱なユーモアをたたえた存在感が何といっても印象的であるが、とにかくこの人の魅力は声であったろう。『夜叉ケ池』などで最もよく確認できるが、この人のセリフ回しは一種の歌い調子とでも言うべきうねりがあって、そのアクが、最近の軽いドラマには似合わず、出演作品を狭められてしまった感がある。しかし、その深みのある声質は日本の俳優の中でも一、二を争うものだった。その証拠が、ジョージ・ルーカスによるダース・ベイダーの日本語版役へのオファーであったろう。まあ、あれが代表作と言うのもナンであるが。
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- 【横山まさみち】 日記 2003年 10月 16日(木曜日) 朝刊に横山まさみち氏死去の報。73歳。家でとってる二紙のうち、読売には代表作の欄に『やる気まんまん』が載ってない。産経には載っていた。アレを乗せないでどうしますか。とはいえ、私らの世代には、横山まさみちはスマートな画風のアクション劇画のヒト、というのが最初の印象であって、『少年サンデー』に『マイティジャック』なんかの漫画化作品を連載していたのを愛読していた ものである。 【塩まさる】 日記 2003年 10月 17日(金曜日) 歌手の塩まさる氏死去、95歳。“くだんのはは”と聞けば、たとえ小松左京ファンであっても、元ネタであるこっちの『九段の母』(塩氏の代表曲)をまず、思い出さねばいかんのである。それが順序だ。生涯現役をつらぬき、毎年、九段で開催される軍歌会に出席し、去年も車椅子で歌っていたと睦月影郎さんに聞いた。私はこの人の名は、徳川夢声の戦争日記で知った。一緒に南方慰問にまで行った仲であり、以前に、まだお元気と知ったとき、インタビューして夢声のエピソードなどを聞いておこうかと考えたこともある。今にして思えば、無理しても聞いておけばよかった。 【松尾孝】 日記 2003年 10月 31日(金曜日) カルビーの創業者、松尾孝氏死去の報が新聞に。91歳。イタロ・カルヴィーノという作家の名前を衝動的に思い出したが何の関係もない。かっぱえびせんで一世を風靡しただけでなく、仮面ライダースナックで、現在の食玩ブームの元祖みたいなパターンを作った人であった。食品のおまけ自体はグリコや丸美屋など、もっと以前からあるが、ついているおまけの方が主体で、食品自体を目的に買わない、という買い方を子供たちにさせた最初の商品なのである。スナック(間食)菓子という言葉も当時は新鮮だったなあ。ちなみに、衝動食いのことを英語で“スナック・アタック”というらしい。な んかカッコいい。 【辰巳四郎】 日記 2003年 11月 16日(日曜日) ネットで、かなり遅れ辰巳四郎氏の死去を知る。8日に亡くなったらしい。gooニュースの訃報欄にも出てなかったので見のがしていた。つい最近まで椎名林檎の公演のポスターなどで名前を見かけていたので、実感がわかない。死因は何だったのだろう。装丁家としても名高いが、独特の、アクの強いタッチのイラストは一度見たら忘れられない。初めて辰巳四郎という名前を知ったのは、と学会の活動の元祖とも言える迷信・誤伝打破本の名著、B・エヴァンズ『ナンセンスの博物誌』の、大和書房バージョン(1971年。初刊行は抄訳・毎日新聞社1960年)での挿絵(装丁も)だったと思う。内容の面白さにハマって何十度となく読み返すたびに、その挿絵もまた脳裏に刷り込まれていった。極端にディフォルメされた、巨大な目玉のキャラクターたちが、今もなお目に焼き付いている。焼き付いているどころか、その本は常に私の仕事場の棚にあって、折に触れ読み返しているのだ。黙祷。 【江見俊太郎】 日記 2003年 11月 19日(水曜日) 読売昨日夕刊と産経の朝刊に、江見俊太郎氏死去の報。80歳。怪談映画の最高峰である中川信夫の『東海道四谷怪談』における直助権兵衛、テレビでは『レインボーマン』のヘロデニア三世で印象深い。知的冷酷さが一転、崩れて凶暴さを剥き出しにするような芝居の巧さはちょっと他になかった。直助権兵衛は他に映画では近衛十四郎、田中春男、中村勘三郎、高松英郎、小林昭二などの演じたのを観ているが、どれも伊右衛門の冷酷さに対するにやや三枚目的な小悪党としての描かれ方であり、それに対してこの人の直助は“あの”人非人を演じさせたら天下一の(『憲兵と幽霊』など)天知茂を手玉にとるほどのメフィストフェレス的役柄であって、その悪逆度はダンゼン、他を圧する迫力、出来映えであった。そして最期、錯乱した伊右衛門の刀で直助が額を割られたとたん、部屋が、そのままかつてお岩を沈めた隠亡掘となり(合成でなく、セットをそのように作り込んでいる)、すでに魂が天外に飛んだ無表情のまま、その中へとスローモーションで倒れ込む。日本映画史上においても屈指の死に 様であった。 【相川浩】アナウンサー 日記 2003年 12月 04日(木曜日) 日記に書き忘れていたが、元NHKのアナウンサー、相川浩氏が先月27日に死去、70歳、肝硬変。もともと肝臓を悪くしていて、一時一線から退いていた記憶がある。語り口に見事なまでに鋭角なところのない人で、NHK時代からファンだったが、NHKを離れてからの『御家人斬九郎』のナレーションなど、ひとつ間違えると必殺シリーズみたいな殺伐とした話になりかねないストーリィを、見事に家庭人情時代劇のワクに囲って〆ていた。 【バーブ佐竹】 日記 2003年 12月 06日(土曜日) 新聞に、歌手のバーブ佐竹と英俳優デビッド・ヘミングス死去の報。バーブ佐竹は子供の頃、オトナの歌謡曲の世界の代表、みたいなイメージで見ていた人だった。代表作『女心の唄』の“どうせ私をだますならだまし続けてほしかった”の歌詞は寺山修司が絶賛していたのではなかったっけ。 【デビッド・ヘミングス】 日記 2003年 12月 06日(土曜日) 一方のデビッド・ヘミングスはこの7月に『リーグ・オブ・レジェンド』で若い頃とはまるでイメージが変わってしまった姿を見て、愕然としたばかり。『遙かなる戦場』『バーバレラ』『ジャガーノート』『パワープレイ』と、私好みの映画にたくさん登場していた俳優で、若い頃の感じは同じ英国俳優のアンソニー・ホプキンズに似ており(年齢は確かホプキンズの方が4つほど上)、目の表情が実によく、ホプキンズよりこっちの方が大物になるだろうとばかり思っていた(世間の評価もヘミングスの方が高かった筈)。『遙かなる戦場』に主演したとき(1968)には、その美青年ぶりを新聞でこう絶賛されたという。「ロシアの革命党員やカリフォルニアの金鉱夫の色あせた写真を思わす、やや、やせこけた顔だち、バラのつぽみのよのような唇、そしてバイキング風の口ひげ」……思えば美貌なんてはかないものだ。若き日と晩年の比較はこのサイトで。 http //news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/film/3290919.stm 【都筑道夫】 日記 2003年 12月 13日(土曜日) 新聞に都筑道夫氏死去の報。74歳。最後に姿を見かけたのは無くなった渋谷の東急文化会館で皆神龍太郎氏と観た『MIB』の試写会のときだった。あのときに、ずいぶん歳をとったなあ、とすでに思っていたけれども。ご本人は自分の編集者としての最大の功績を日本に007を根付かせたことだと思っていらした、とどこかで読んだことがある(“リブ・アンド・レット・ダイ”を『死ぬのは奴らだ』と苦心して訳したのに、映画化のとき試写の招待状も送ってこなかったと腹を立てていた)が、個人的考えでは007は都筑氏がいなくても根付いたと思う。むしろ、SF草創期の時に、シェクリィやブラウンを風刺とウィットに富んだ短編小説作家、として紹介したことが、後に日本にSFを根付かせる大きな土壌になった、一大功績ではないか。そして、都筑氏がなぜこういう作家が好きだったかというと、早逝した兄が落語家(鶯春亭梅橋)だった、という環境にあることもあきらかだ。SFの本来持っていた、馬鹿ばなしを大まじめにやるシャレっ気が都筑道夫の感覚にぴったりとフィットしたのだろう。 そういう都筑氏のシャレッ気で一番好きだったのは、仲間の境田昭造(漫画家)や星新一たちとやっていたという“正月ごっこ”。夏でも秋でも、とにかく唐突にみんなで紋付きを着て、初詣に行き、“おめでとうございます”と年始回りをして、カルタとりをし、お屠蘇を飲んで、雑煮を食べる。ただそれだけのことなのだが、大の大人がまじめくさってこういうことをやる、というのが実にどうも太平の逸民の遊びという感じで、バカバカしさの極みで結構であった。ミステリやSFは、この感覚じゃ なきゃいけない。 思えば都筑氏はB級映画マニアという点でも元祖だった。今の私と同い年だった頃にこの人、『超人バロム1』なんて番組を大まじめに見て、“ウデゲルゲなる怪人が叫ぶ「フィンガー」という科白に抱腹絶倒した”と、それを“噛もう”から転訛した日本古来の化け物の叫び声“モモンガー”に対比させて論じたりしていた。70年代初期のことである。40代半ばの、社会的地位のある人間が、ものもあろうにウデゲルゲのことを論ずる、ということが当時、どれだけ異端なことであったか。その“数奇者” としてのスタイルのカッコよさに私は痺れた。同じ怪奇幻想派でも、フランス文学などにハスによりかかっている澁澤龍彦より、都筑氏の行き方がよほど拗ね者のダンディズムとして光って見えた。こういうモノカキになりたいものだ、とそのとき中学生だった私は心底から思った。結果、当時の都筑氏と同い年の今、本当に『バロム1』のことなどを始終原稿に書く身分になっている。人生の目的は達した、という ことになるのかも知れない。 沖縄の中笈木六さんに、“唐沢さんが小説を書くなら都筑道夫みたいなものを書くと思う”と言われたことがあり、うれしく感じたことがある。私があちこちに書き散らしている雑学エッセイも、都筑氏の『昨日のツヅキです』を究極の目標にしているのである。しかし、氏の活動はあまりに多岐、あまりに雑多な分野にまで及んだために、狭量な日本の土壌では、報いられること、あまりに尠かったのではないか。開高 健が『書斎のポ・ト・フ』でいみじくも洩らした「(『なめくじ長屋シリーズ』で)なんで都筑道夫が直木賞をとれなかったのか、わからんねえ」の言葉に、私の全ての想いは集中しているのである。 【チャールズ・バーリッツ】 日記 2003年 12月 31日(水曜日) 新聞にチャールズ・バーリッツ死去の報。89歳。新聞ではベルリッツ名義になっていたが、日本での翻訳物のほとんどはバーリッツ名義だったはず。ベルリッツで名前が出たのは、報道にあるようにベルリッツ語学学校創立者の孫、という血筋を重視しての報道だったろう。記事は申し訳程度に『バミューダ・トライアングルの謎』を著作の代表として挙げていたが、そればかりではない、われわれトンデモ本愛好者にとり、アトランティス大陸ものをはじめとして、ロズウェルUFO墜落事件、フィラディルフィア・エクスペリメント事件、ノアの箱船は実在した等、無節操なまでに手を広げまくるトンデモプロパー作家として記憶に深く刻み込まれていた名前である。アトランティスものの翻訳者は、北朝鮮擁護で最近悪名を馳せた、あの吉田康彦氏で ありましたな。