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#blognavi 今日は訃報ばかりでなんだかへこみます。。。 岸田京子さん。ビストロお持ち帰り事件が印象的です。おもしろいトークでした。永久保存です。 カンニングの中島さん。特にスキってわけじゃなかったんですが、来春に復活みたいのを聞いてただけに衝撃でした。 青島幸雄さん。よく知らないけどすごい人だと思います。 みなさんのご冥福をお祈りします。(勝手に) カテゴリ [テレビ] - trackback- 2006年12月20日 23 21 43 #blognavi
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- 【平凡太郎】 日記 2002年 10月 05日(土曜日) 朝刊に平凡太郎死去の報。69歳。子供のころからテレビでずっと顔を見ている人であり、もっともっと高齢だと思っていた。連絡先が弟子(仲良太郎、という名前がいかにも喜劇人)の住所になっていたが、家族はいなかったのだろうか。キネ旬の俳優名鑑には既婚、二女ありとあったのだが。先月、『てなもんや三度笠』のDVDを見たのが、たまたま平凡太郎の出ていた回であった。さすがに戦後軽演劇の黄金時代を担った人だけに、芝居は実にきちんとしていて、うまい。うまい人というのは逆にその後、生きていきにくかったろうなあ、と思う。出演作をネットで調べたら、『空の大怪獣ラドン』に出演しているらしいが、いったいどこに出ていたのやらまったく記憶になし。 日記 2002年 10月 06日(日曜日) こっちの新聞には、今日になって平凡太郎死去の記事。同じ業界の談之助さんも、まだ生きていることを知らなかったと言う。芸能人の訃報で一番もの悲しいのは、最盛期の輝きを知っている人が、何十年か後に“あ、まだ生きていたのか”という状態で亡くなることである。人生に必要なのは、成功のバランスよい配分なのだ。モノカキもそうだが、売れることばかりを考えていると、売れたその先ということがどうしても考えられなくなる。例えば20代で売れて、40歳まで売れ続けたにしろ、人生75歳として、その後が35年間もあるのである。人生の最盛期というのは後に後にとズラして設定しておいた方がいい。 【池谷三郎】 日記 2002年 10月 20日(日曜日) 池谷三郎氏死去。79歳。われわれ東宝特撮ファンにとっては“あのアナウンサー役の人”で通った。『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『妖星ゴラス』『怪獣大戦争』『怪獣総進撃』などなどなどの映画で、われわれはこの人の報道で怪獣の出現、地球の危機を知ったのである。アナウンサー役専門の役者というのはいかにも妙で、最初、われわれはそれを第一作『ゴジラ』の実況中継アナウンサー役があまりに印象的で、それ以来アナウンサーとなればアイツ、と役が回ってきたんだと思っていたが、なんと本職のTBSアナウンサーだったそうで、アナウンサー養成学校の校長まで務めていたという。東宝の脇役関係にはいろいろマニアックな紹介サイトが多いが、ちょっと切り口が面白いと思ったのは、以下のところで、これはいろんな映画でアナウンサー役をやった俳優・本職のリスト。 http //www.fjmovie.com/horror/j/column/announcer.html 『ただいま実況中』 【笹沢左保】 日記 2002年 10月 22日(火曜日) 笹沢左保死去。肝細胞ガン、71歳。中学生のころ、図書委員を務めていて、全校読書感想文コンクールの事務仕事をやらされていたとき、私のクラスの応募作の中に、木枯紋次郎シリーズ『赦免花は散った』を取り上げたものがあった。で、果たしてこれを応募作として認めていいものか、担任の教師と生徒たちの間に、ちょっとした対立が起こった。股旅ものなどを学校の読書感想文の対象にすることがそもそも認められない、という教師に、それは差別で、本人の感動にはその対象が文学作品であれ大衆小説であれ、差はないのではないか、という生徒側の主張が真っ向からぶつかり、なかなかスリリングな事態だった。で、どちらもこれではラチがあかんと思ったのか、その決定権が図書委員であった私にゆだねられた。私はそこで非常に政治的な判断を下し、“自分も以前、レイ・ブラッドベリのSFの感想文を提出して却下されたことがあり、文学だけが感想文の対象ではないと思う。しかし、この『赦免花は散った』の感想文は、誤字・脱字が多く、文章の質そのものに問題がある。残念ながら、選考以前の問題として、クラス代表の応募作には価しないだろう”と、これを却下した。教師側からは大岡裁きと賞賛されたが、生徒側からは裏切り者と見えたかも知れない。しかし、実のところ、私はもうその当時、読書感想文コンクールなどというもの自体に嫌気がさしきっており、こんなことでグチャグチャ論争するのがバカらしくて仕方なかったのだ。 それはともかく、私はそれがきっかけで笹沢左保の小説を読み始め、なかなか面白いと思ったのを覚えている。ただし、この面白さは作者の器用さに由来するもので、深くはないな、というのが十数冊読んでの結論だった。読み終わって次の一冊にいくときにはもう、前の本の内容はすっかり忘れてしまっているのである。そういう作家は多いが、しかし笹沢作品は、例えストーリィは忘れても、タイトルだけは見事に印象に残るのだった。『赦免花は散った』『見返り峠の落日』『雪に花散る奥州路』といった気恥ずかしくなるくらい華麗なタイトルが、当時としてはいかに斬新だったことか。この人の能力は作家としてというよりは、むしろこのようなコピーライターとしてのものなのかもしれない、いかにも現代的だなあ、と感心した。その後、私がこの人の作品のタイトルで気に入っていたのは、『姫四郎医術道中』という、医者で殺し屋、という主人公の連作で、第一作が『嘉永二年の帝王切開』、以降『嘉永三年の全身麻酔』『嘉永四年の予防接種』『嘉永五年の人工呼吸』『嘉永六年のアルコール 中毒』と続いていた。 【リチャード・ハリス】 日記 2002年 10月 26日(土曜日) やっと解放されて夕刊を見ると、大物二人の訃報あり。一人は俳優リチャード・ハリス。ホジキン病にて死去、72歳。読売の記事では“『ハリー・ポッターと賢者の石』の魔法学校の校長役で知られる”など、ハリポタ関係のことでしか経歴を書いていない。これはいくらなんでもひどかろう。60年代から70年代にかけて、ハリスは英米をまたにかけてのトップスターで、『カサンドラ・クロス』や『ジャガーノート』などのアクション映画であれ、『キャメロット』『クロムウェル』などの歴史物であれ、『テレマークの要塞』『ワイルド・ギース』のような戦争物であれ、『馬と呼ばれた男』『サウス・ダコタの戦い』などの西部劇であれ、何でもござれの名優であった。その単なる娯楽映画俳優に収まらない渋みと存在感は、ハリウッド俳優ではない英国俳優、しかも英国人ではないアイルランド出身という出自のもたらしたものだろう。そう言えば演技派俳優が大挙出演した『天地創造』では弟殺しのカインの役をやっていた。根っからのひねくれ者、神に向かってもたてつくような役が似合っているのである。 だからハリスが老バウンティ・ハンターに扮して、ジーン・ハックマンの悪徳保安官に徹底的にボコにされるクリント・イーストウッドの『許されざる者』なんかは見たくない、と思ってしまうのだ。『クロムウェル』でアレック・ギネスの首さえチョン切ったハリスが、ハックマンなんかに負けるというのは、どうしても納得いかないのである。さて、今後のマスコミの訃報欄では、ハリポタ以外の彼の代表作に何を挙げるか。ポピュラー度だけで『ナバロンの要塞』などを出すところが多いだろう。あの大作のときはハリスはまだほとんど無名の青二才、冒頭の英国軍パイロットというチョイ役でしかないんだが。私のお気に入りは日本では封切年における興業ワースト記録を作ったという、ジョン・フランケンハイマーのおふざけアクション『殺し屋ハリー・華麗なる挑戦』で、ハリスはじめ、チャック・コナーズ、エドモンド・オブライエン、ブラッドフォード・ディルマンなどというクセ者役者が全員オーバーアクト満開で楽しませてくれた。林海象や三池崇史など、この映画からだいぶ影響を受けているはずである。この映画でハリスはモデル出身のアン・ターケル(17歳年下)と出会い、結婚したのだが、どうもこの女はサゲマンだったらしい。それ以降のハリスの主演映画は、『オルカ』『黄金のランデブー』『未来元年・破壊都市』などと何かパッとしなくなり、日本公開作品も減って、主演俳優の座からとうとうすべり落ちてしまう。そして、彼女と離婚した1981年、サーの称号を得て、それからは脇役ではあるが光る演技がまた認められ、晩年の作品歴を充実したもので飾ることになるのである。 【山本夏彦】 日記 2002年 10月 26日(土曜日) そしてもう一人、日本を代表する名エッセイスト、山本夏彦氏が胃ガンにて死去、87歳。ハリスと同じく反骨とひねくれが売り物であった人である。ここ10年くらいのエッセイはさすがに同じことを繰り返すばかりで力量が衰えた感があったが、これまたハリスと同じく70年代半ばから80年代にかけて、私は、いや私ばかりでない、読書のし過ぎで名文中毒になった本好き連中、こぞって山本夏彦エッセイのトリコになり、賛仰者になり、信者となった。徹底した保守主義者で、一部の左翼からは批判もあったが、その文章の、一種居合抜きにも似た切れ味の凄みは、大げさに言えば“日本語というのはここまで洗練されうるものか”という驚きを読む方に与え、思想の左右を問わずファンとなるものも多かった。タクシーを最後まで“タキシー”と表現する、時代錯誤と言いたくなるほどのガンコさと、そのくせテレビのアイドルの変遷などにやたら詳しいジャーナリストとしての好奇心を合わせもっていた。お年寄りの医療費を無料に、とマスコミが言えば『タダほど悪いものはない』と書き、世界がアポロに熱狂すれば『何用あって月世界へ』と書き、“月は行くものではない、眺めるものである”と名言を吐いた。一握りの進歩主義者たちが大衆を蔑視し、先端こそ文化人の居所と騒いでいるとき、ただ一人、新しすぎるものが万人にいいものであるわけがない、と書き、一人の天才に大衆がくっついていった歴史の悲劇を語った。 「ヒトラーもスターリンも、今は犬畜生だが、以前は神人か天才だった。天才なら仰いで一言もなくついて行けば、どこかへつれていってくれる。そこはいいところに決まっている。自分の考えもなく、言葉もなく、晴れてみんなで追従できるのだもの、こんなうれしいことはない。万一しくじっても、それは天才のせいで、凡夫のせいではない。昔なら英雄豪傑、今なら革命家の出現を、いつも、彼ら(また、おお我ら)は待っている。待っていれば、いつかは必ずあらわれる。私はそれをとがめているのではない、とがめて甲斐ないことだから、ただ無念に思っているのである」(『毒言独語』より『大衆は大衆に絶望する』) さっき『佛教暴露』のところでも書いたが、私は山本氏よりももう少し、大衆というものを信頼している。しかし、その弱さも十分に認識しているつもりだ。とまれ、大衆よ、大衆に絶望するな。天才を待つな、という私の根本の思想は、山本夏彦をその根元とする。つつしんで冥福をお祈りし、あわせて出版書律に、彼がそのひねくれ精神で最後まで復刻を認めなかった戦前の名訳『年を経た鰐の話』を、ぜひこの際に復刻していただきたいとお願いするものである。 【椋陽児】 日記 2002年 10月 27日(日曜日) ところで調べたら椋陽児氏は昨年7月、死去されていた。享年72歳。縄と女、というよりもっと露骨に言えば縄と少女というモチーフを追い続けた“絵師”。最近は絵師という言葉はSM画家を指す言葉になってしまった感があるが、ゲイジュツカをきどらず、しかしアートをはるかに超えてひとつのテーマを追い求める求道の心が、この分野にしかもはや残っていないということではないか。一年以上の遅れだが、黙祷。 【高坂和導】 日記 2002年 11月 01日(金曜日) あと、竹内文書で有名な高坂和導氏死去の報がと学会MLにあり。“色が濃いのがイロコイインディアン”“ああ、ぱっちし(バッチリ)見事なのがアパッチインディアン”(『[竹内文書]超古代アメリカを行く』)の人である。まあ、はっきり言えば芳しくない噂ばかりの人で、ニフティのパソ通時代に、詐欺師として騒がれたりもしていた。別の視点から見ればいかにもアヤシゲなオカルト業界人種の典型として(顔もヒゲも極めてアヤシくてよかった)興味深い人であった。バイオ・メディカル・サイエンスの博士号をアメリカの何とか言う聞いたことのない大学から取得したと言っていたし、その前は宇宙人から高エネルギーの凝縮された杖を貰って、これにふれれば全ての病気が治るとか称していたにもかかわらず、脳溢血で55歳の若死に。あまり世間的には悼まれない人であろうとは思うので、裏モノ的にここで追悼の意を表しておく。 【安田卓矢】 日記 2002年 11月 02日(土曜日) 郵便受に入っていた日本漫画新聞、普段はまず目も通さないのだが、ちらと見たら安田卓矢氏死去の報あり。68歳。8月8日とかなり前。企業キャラクターデザインの第一人者で、三菱ビーバーエアコンのあのビーバーのキャラクターをデザインした人である。今の日本で安田卓矢という名を知っている人は1パーセントにも満たないと思うが、ビーバー、と言ったら日本人の70パーセントくらいはあのビーバーを思い浮かべるのではないか? 【ジョナサン・ハリス】 日記 2002年 11月 07日(木曜日) 読売新聞に『宇宙家族ロビンソン』のドクター・スミスことジョナサン・ハリス死去の報。87歳。この役以外、テレビではゲスト出演していたのを二、三回見たきりだったが、新聞によると『トイ・ストーリー』に声の出演をしていたらしい。観てないので知らなかった。熊倉一雄のあのクセのある吹き替えの口調が印象に強いが、原語版で見てみると、女性みたいに優しい声で、実に折目正しい英語を使っていた。気障、というキャラクターだったのだろう。同時代に日本のマンガでは、赤塚不二夫がイヤミというキャラクターを『おそ松くん』で登場させていたが、日米で、こういうキャラが子供たちに人気だったのは面白い。ドクター・スミスも、嫌われ者ではあったが唯一人、ロビンソン博士の息子のウィルとは仲良しだった。好奇心あふれる子供というのは、いい人よりも、こういう、ちょっと悪いことを教えてくれるような大人の方を好きになるのである。 【秦野章】 日記 2002年 11月 08日(金曜日) 同じ夕刊に、元法務大臣秦野章氏死去の報。91歳。東大紛争の際の警視総監だったそうだが、私らの世代には都知事選で美濃部亮吉氏と争った人、の印象が強い。札幌在住でなんで東京の都知事選が印象に残っているかと言えば、当時の新聞マンガがのきなみこのことを取り上げていたからで(『サザエさん』でも波平が占い師に“ミノベが勝つかねハタノかね”と難しい顔で訊くというのがあった)、さらに『少年マガジン』でも、みなもと太郎の『ホモホモ7』で、レスレス・ブロックの会議になぜか突然秦野氏が出てきて、“あちらがだめならこちらを引っ張り出そうと言うのではまるで昭和元禄田舎芝居じゃないのかね”と、候補に擁立されたときに吐いて有名になった辞退のセリフ(でも結局出た)を言い、レスレス・ブロックの女隊長に“人のこと言えた義理かてめえっ!”とケッ飛ばされて退場、というギャグがあった。こん なことで記憶に残されていると知ったら、秦野氏も嘆くであろうが。 【范文雀】 日記 2002年 11月 09日(土曜日) 読売朝刊に范文雀死去とあって驚く。まだ54歳。K子は『サインはV』ファンだったので、“ジュン・サンダースが死んだ”と教える。“えっ、骨肉腫?”と、すぐ出てくるのがいかにもK子である。半分弱、なんてふざけた名前なので、てっきりニセ中国人(李香蘭とか)だとばかり思っていたら、本当に両親が中国人。その後は推理ドラマなどの常連になっていたが、このヒトくらい“いわくありげ”という形容詞のぴったりくる女性を演じられる女優はいなかったな。ジュン・サンダースも、『プレイガール』のユーミン・ダロ ワ(何て名だ)も、しっかりいわくありげだったし。 【ジェームズ・コバーン】 日記 2002年 11月 20日(水曜日) 朝刊にジェームズ・コバーン死去の報。72歳。『荒野の七人』の……と新聞には大書。まあ、『電撃フリント』の、とか『戦争のはらわた』の、とも書けまい。ブルース・リーの弟子、それも高弟、というのは有名なのだろうか。同じく弟子で脚本家のスターリング・シリファント(いま話題の『アルジャーノンに花束を』の68年の映画化の際の脚本家でもある)と、師匠主演予定で脚本を担当(!)した大怪作ニューエイジ・カンフー映画『サイレント・フルート』なんてのもあったなあ。と、思って調べてみたら、なんとDVDがついこないだ(11月6日)に発売になっていたのには驚いた。こんなものまで出るとは。ビデオで出たときは『超戦士伝説ジタン』などという、ロボットアニメみたいなタイトルがつけられていたものだが。とにかく、アメリカ人が東洋思想を自己流に解釈して話にしたらこうなる、という奇々怪々な作品であった。浪人時代、浅草の名画座で観客が私一人という状況でこの映画を観て、こんなところでこんな作品をぽつねんと観ている自分がとてつもなく情けなくなり、急性の鬱に襲われたことをまざまざと思い出す。 【菜摘ひかる】 日記 2002年 11月 22日(金曜日) 昨日風俗嬢作家の菜摘ひかるがこの4日に死去したというニュースを知って驚いたところ(まだ29歳)であったが、今朝の新聞に高円宮殿下急逝の報。皇族で逆縁となる(父親は三笠宮崇仁親王)のは珍しいのではないか。菜摘ひかると並べては不敬かとも思うが、しかし、こちらも47歳という若さの突然死である。菜摘よりも年齢差がないだけに、人ごとじゃない。カナダ大使館で死んだ、と聞き、一瞬、アタマの中にサウスパークの『BLAME CANADA』のメロディーが響くが、あちらの大使とスカッシュ競技の最中に心臓発作(心室細動)で突然倒れて死去した、と報道にはある。心室細動は調べてみると、全身の状態が極度に悪化しているときに起こる症状であるとか。疲れや、それに関係するストレスが相当あったのではないか。 【サンダー杉山】 日記 2002年 11月 24日(日曜日) 新聞に訃報、元プロレスラー、サンダー杉山死去、62歳。案外若かった。国際プロレスで一時はエースの座にあった人だった。必殺技が“雷電ドロップ”。要するにマットに倒した相手選手の上にジャンプして尻餅を落とすというあまりカッコよくない技で、いかにも国際プロレスといった感じで味があった。試合運びを見ていても、どこか人のよさを感じさせてしまうのも、国際プロレス出身者の悲しい特長だったかもしれない。引退後は俳優となったが、大抵ヤクザの用心棒とか、酒場の暴れ者とかばかりで、あまり大きな役をやっていたのは見たことがない。和田勉監督の『ハリマオ』で山下泰文を演じていたのが一番大きな役柄か。『宇宙からのメッセージ』では額にダイヤモンド型のシールを貼り付けただけ(下はTシャツ)で、宇宙人(でも、やはり酒場の暴れ者)を演じていた。それでも、一ぺん見たら忘れられないキャラクターで、その顔をいかして、自社『サンダー杉山コーポレーション』は業界で確固たる地位を築き、飲食業経営などで年商35億の利益を上げていたという。糖尿病で両足右腕を切断という状態だったというが、最後まで意気軒昂であったというのに何となくホッとするものを感じる。 【家永三郎】 日記 2002年 12月 02日(月曜日) しかし、今朝の家永三郎氏の訃報記事は、久々に明確な対立があって興味深かった。読売が家永氏の教科書訴訟を検定制度に一石を投じたとして評価、「九七年の第三次訴訟の最高裁判決は、『七三一部隊』関係の記述削除を求めた文部省の検定意見を違法と判断するなど、初めて一部勝訴が確定」と裁判に勝ったように書き“検定意見に「見過ごし難い誤り」があった場合、「国による裁量権の逸脱」として違法性を認める司法判断が定着”と、効果があったとい う見方をとっているが、産経新聞の方は 「最終的にはいずれの訴訟も敗訴に終わり、検定制度を合憲とする司法判断が定着」 と、まったく逆の書き方で、“家永氏が脚光を浴びた時代はすでに終わっている” と切り捨てている。 私たちの世代は家永裁判をずっとリアルタイムで追っかけながら教科書を使っていた世代であったが、あまりその認識はない。そもそも、現場の中学・高校生にとっては、近代史などは受験にはほとんど出ないためにスッ飛ばされるものであり、あまり現実的な問題ではなかったのである。家永氏の著作を初めて読んだのは大学生になってからだったが、文章の行間からにじみでる、そのルサンチマンの凄まじさに圧倒されて、なるほど、これはカリスマ人間であるかもしれない、と感心した。家永氏の持つ強烈なパーソナリティがなければ、教科書裁判も、あそこまで事が大きくはならなかったろう。どっちも“何だかなあ”で済んでしまっていたのではないか。そんな気がする。保守主義者のよく言う“自虐史観”なる言葉はあまり好きではないが、こと家永氏に関してはまさに自虐癖があったのではないかと思える筆致が読みとれ、子孫は親の世代の戦争責任を自動的に相続し、永遠にその責めを負い続けねばならぬという主張にはなにか『累ケ淵』のような因果ものを読むのと同じ恐怖感に襲われ、これはたまらん、と感じてしまったものである。現在、この教科書裁判世代に小林よしのり氏をはじめとする逆コース的愛国主義熱が高まっているのは、若いころに家永氏の 戦争責任論にオビエた、その反作用という性格があるのではないか。 【イリイチ】 日記 2002年 12月 04日(水曜日) ネットニュースでイリイチ死去の報。博多にはイリイチの明太子というのがあるがそそっかしいおくやみが会社に舞い込んでいはしまいか。十五年くらい前に、この人の“バナキュラーな世界”という概念を初めて知ったときはちょっとした知的興奮を覚えた。と、いうのも、その当時吹き荒れていた(今でもか)フェミニズム思想による男女差の否定に対し、頭では理解できても、しかし実質的、オトコとオンナは違うしなあ、と直感で抵抗を感じていたところに、男女の本質的な性差を論の基本とするバナキュラー説が出てきて、民俗学までをも取り入れたイリイチの論に、“まず、どう考えてもこっちの方が自然だよな”と賛同した。しかしバナキュラー論は、フェミニズム論者からは保守的と見られたようだが、それを紹介していた山本哲史(政治社会学者)が“危険思想”といみじくも言っていたごとく、実は社会的、文化的、地域的束縛を全てはぎとった“個人”中心の近代生産社会全ての否定(と言って過激にすぎれば見直し)を要求するものであり、大変にアナーキーな思想でもある。そこらへんにまたゾクゾクするような魅力もあった。もうひとつ、本職は歴史学者であったイリイチの、性差(ジェンダー)がかつては天地万物全てを把握するコスモロジーの基本にあった、という考え方(男女の役割分担により、そのそれぞれに属する自然、概念、道具、全てにジェンダーが与えられた)で、当時もう一度第二外国語に挑戦しようとして、その毎度の挫折のきっかけになっていた男性名詞女性名詞という考え方の発生のモトが見えた気がして、ナルホド! と膝を打ったものであった。 【ウィリアム・ヘンソン】 日記 2002年 12月 07日(土曜日) 産経新聞の訃報欄にウィリアム・ヘンソン死去の報。亡くなったのは今週初めだそうだが、テキサス州ダラス郊外で車にはねられ、病院で死去、78歳。 「ウォルト・ディズニーで『ピーターと狼』などのアニメ映画を製作。シマリス兄弟のキャラクター、チップ&デールを生み出した。その後メキシコでスタジオを率い、リスのロッキー、ヘラジカのブルウィンクル、ボリス&ナターシャなどのキャラクターを創作した」 おい、ロッキーはリスじゃないぞ、と思ってNEWS@niftyを見てみたら、こっちはムササビと書いてあった。正確にはあれはflying squirrelだからモモンガなのであるが(ムササビはジャイアント・フライング・スクゥアレルである)。テレビではナレーション(牟田悌三)が“空飛ぶリス”と言ってたか。それにしてもロッキーくんのアニメがメキシコで作られていたとは知らなかった。 http //www.charlotte.com/mld/charlotte/entertainment/events/4674167.htm ここを見ると、『おばけのキャスパー』も彼が作ったキャラクターだとある。ロッキーもキャスパーも、日本では“アニメとしての質が低い”ということでまったく評価されない作品だったが、アメリカ人にとっては血肉とも言うべきキャラクターで、どちらも後に実写映画化されている。大衆文化は質じゃない、ということがよくわかる事実であると思う。 【ウィリアム・ヘンソン】 日記 2002年 12月 09日(月曜日) ところで、同じく情報というのがたよりないことであるという事件。おとつい、産経新聞に載ったウィリアム・ヘンソンの訃報であるが、訃報記事を見たあと、 http //www.inkyfingers.com/Jenna/R B.main.htm などに行ってみたのだが、ヘンソンの名前はどこにもない。生みの親は同じウィリアムでも、Wiliam Hurtzだ、とある。カートゥーンMLで、やはりおかしいと思って調べた人がいて、経歴がかなりこの二人は一致することから、どうも、ハーツ(2000年10月に死去)とゴッチャになったのではないか、との書き込みがあった。確かにヘンソンも、キャスパーのあとメキシコに行っているが、それは先に渡っていたハーツから協力を依頼されてのことである。あくまでもヘンソンは、これらの作品に関わっていたというだけで、創作したとか、生みの親であった、という事実はないとのこと。英文記事の“his works”というのを、createとカン違いしてしまったのだろう。まあ、日本でも宮崎駿を“『ルパン三世』の生みの親”とか書いてる記事を見ることがあるしねえ。 【千葉茂】 日記 2002年 12月 11日(水曜日) 食い終わって、調整豆乳飲みながら古新聞を読む。千葉茂氏死去(10日)の報があるが、この人の活躍期には、私はまるでカブらないので、野球関係でのイメージはわかない。カツカレーの確か発案者だった、ということで名前を記憶している。カツライスとカレーを別々に食べるのがめんどくさいので、カレーの上にカツを乗っけて持ってきてくれ、と頼んだのが始まりだそうな。ところで、黒澤明が自作の映画『七人の侍』のことを表して“トンカツとビフテキを盛り合わせて、その上にカレーをぶっかけたような映画”と言っていた。黒澤は比喩で言ったんだろうが、千葉氏が何かでこれを目にして、うまそうだと思い、たまたまいきつけの洋食屋(銀座3丁目のグリルスイス)でカツライスを頼んだとき、ふと“カレーをかけてみてくれよ”と頼んだというようなことは……などと空想して楽しむ。 【ブラッド・デクスター】 日記 2002年 12月 15日(日曜日) 新聞にブラッド・デクスター死去の報。『荒野の七人』仲間の一人、ジェームズ・コバーンの後を追うようにして、か。七人を演じた役者の名前を指折って数えていくと、この人でつまづく。実のところ、死んでいく四人の中では一番カッコいい死に方をしているんだが、他の連中がそれぞれその後ビッグになったのに、この人のみはプロデューサー業に色気を出して、そのために俳優の方はおルスになってしまった感がある。占領下の日本を舞台にしたロバート・フラーの怪作アクション『東京暗黒街』にも出演して来日しているし、『シャンプー』での珍演は、“これがあの『荒野の七人』の人か?”と驚くようなものだった。演技力がある分、スターになりきれなかった人なのだろう。 【伊藤昌哉】 日記 2002年 12月 17日(火曜日) 政治評論家・伊藤昌哉氏死去。85歳。こう言ってはなんだが、週刊誌などで顔を見るたびに、“しっかしひどいご面相の人だなあ!”と思っていた。あだ名が “ブーチャン”。ブーチャンとは戦後人気を博したジャズ・ピアニスト兼コメディアンの市村俊幸(黒澤の『生きる』でカチューシャの唄を弾く)の愛称だが、伊藤氏の場合は単に太って豚鼻だったから、のブーチャンであったろう。池田勇人の秘書官時代に、“これからの政治家はマスコミ向けの顔を持たなければいけない”と、冷たい感じのする銀縁眼鏡を鼈甲に変えさせ、庶民派をアピールするために記者会見でカレーライスを食べさせた。新時代を見越した名伯楽と称されたが、これも、自分が外見で若い 頃に悩んだ経験からの知恵ではなかったか? 【笠原和夫】 日記 2002年 12月 17日(火曜日) そう言えば書き落としていたが、昨日は脚本家・笠原和夫氏が肺炎で死去の報。享年75歳。新宿東映で学生時代、夏休みの帰郷を延ばしてまで『仁義なき戦い』全作品一挙上映オールナイトを観たときの、何というのか、凄いものを観たという疲労感と満足感のないまぜになった気分(館内にヤブ蚊がいて、サンダルばきだった私は右足の薬指を刺されて真っ赤に腫れ上がっていた)は忘れられない。娯楽映画というものが、ここまで人間を描き切れるのだ、という衝撃を私に与えてくれた作品だった。若いころにマキノ正博、佐々木康、佐伯清、沢島忠といった娯楽派の大家と組んでさんざしごかれた(と思う)経験と、後年にやや右傾化した作品を多く書いた原動力になった、戦後の日本人に対する思いが、ちょうどうまくバランスのとれた時期に、深作欣二、菅原文太という才能と出会うという、希有な運命の邂逅がもたらした、あれは奇跡のような作品であったと思う。……とはいえ、それで大家になって以降の作品にはどうもトホホなもの(『オーディーン・光子帆船スターライト』などのアニメも含めて)が多かったのも確かで、中でも“なんでアイドル映画の脚本をこの人に書かせるのか”と呆れた、中森明菜・近藤真彦主演の『愛・旅立ち』は、不治の病におかされた薄倖の少女・明菜の愛読書が『耳なし芳一』で、その芳一が明菜に死後の世界を案内するという、もう本当にワケツワカラン作品になっていた。今観たら、絶対に こっちの方が好きになるだろうが。 【ジョージ・ロイ・ヒル】 日記 2002年 12月 28日(土曜日) 夕刊にジョージ・ロイ・ヒル死去の報、81歳という高齢に驚く。アメリカン・ニュー・シネマの旗手としてとにかく、“新しい人”というイメージがあったからなんだが。 【ケネス・トビー】 日記 2002年 12月 28日(土曜日) 同じく訃報欄に小さくケネス・トビー死去の報。85歳。『遊星よりの物体X』『水爆と深海の怪物』の主役、の他、出演作が『OK牧場の決闘』『原子怪獣現る』『機関車大追跡』というのだから、古い々々。この人とたった4つしか年が違わないということを見ても、改めてジョージ・ロイ・ヒルのイメージの新しさが理解できる。
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【悲報】チームウェイブ、実は腹黒【訃報】 C 闇文明 (3) 呪文:チームウェイブ ■<バズレンダ>[無色(2)] (この呪文のコストを支払う時、追加で[無色(2)]を好きな回数支払ってもよい。そうしたら、そのBR能力を1回と、追加で[無色(2)]支払った回数、使う) ■BR-自分の山札の上から2枚を墓地に置く。 ■相手のクリーチャーを1体選ぶ。このターン中、そのクリーチャーのパワーは、自分の墓地にあるカード1枚につき-1000される。 作者:仙人掌 レギュレーション違反。 フレーバーテキスト 気付いてしまったか。残念だが消えてもらおう。 評価 名前 コメント
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亡くなった方への情報をまとめるサイトです。亡くなった方の過去の功績を振り返りましょう。
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- 【イングリッド・チューリン】 日記 2004年 01月 10日(土曜日) ネットでイングリッド・チューリン死去の報。ベルイマン映画の名女優、ではあるのだが、そこらの作品は教養としてフィルム・センター等で観たものが多く、リアルタイムとしては『カサンドラ・クロス』(76)の怖い顔した女医のおばさんとか、『ナチ女秘密警察・SEX親衛隊』という凄いタイトルで当初は洋ピンとして公開された『サロン・キティ 鉄十字の愛人』(76)の怖い顔した高級娼婦館のおばさんとか、とにかく怖い顔したおばさん役と言えばこの人、であった。 【加藤道子】 日記 2004年 02月 01日(日曜日) 新聞に訃報二つ、ラジオ声優加藤道子氏死去、84才。第一回紅白歌合戦(もちろんラジオ)紅組司会者というから、放送の歴史そのものみたいな人である。ただし、第一回というのは1951年、『歌合戦』というタイトルになってからであって、その前身である『紅白音楽試合』(GHQのクレームで“合戦”の文字はまかりならんとされて題名を変更)は1945年、司会は水ノ江滝子と古川ロッパだった。水ノ江滝子の方はまだ生きているんだから凄い。 【10代目桂文治】 日記 2004年 02月 01日(日曜日) さらに10代目桂文治死去、80才。パルコのCMでスクーターに乗って走っていたのももう二十年くらい前だったか。あの起用は、要するに“最もパルコらしくない人”という意図でのものだったろう。その時期から、変遷する世の中とは次元を違えた、寄席という、時の止まった、狭い世界に生きていた人であり、それ故に価値のある人だった。私はこの人の高座は、前名の伸治の時の方がよく聞いていたと思う。子供には大変にわかりやすく、笑える落語ばかりで、それだけに“まあ、あまり大物の人じゃないナ”と、小生意気なことを思っていた。今にして思えば、この人の伝えていた、いかにも長屋の八っつぁん熊さんといった雰囲気を、もっと味わっておけばよかったかな、とも思うが。 【堂垣内尚弘】 日記 2004年 02月 03日(火曜日) 新聞に堂垣内尚弘・北海道知事の訃報あり。私が中学校一年のときから、なんと3期12年、北海道知事を務めていた。土木業界出身で、『道路の路肩と法面』などという専門的著述もあるが、柔道部出身のスポーツマンで、そのイメージ通りにバイタリティ満々、札幌オリンピック招致に関わる市郊外再開発、炭坑閉山に代わる観光地としての道北の見直し、スキー場誘致によるウインタースポーツの奨励など、“ビジネスとしての北海道開発”を推進し、彼の任期中が戦後の北海道の最盛期にあたることは、まず間違いないだろう。彼の持っていたビジネスマンとしてのセンスは、時に自民権力との癒着を騒がれたりもしたが、後に彼の後を襲って知事に就任した社会党系の横路孝弘氏(彼は代々の政治家一族)が行った『食の祭典』などのイベントのことごとくが失敗に終わったのと、好対照である。 出身地の知事とはいえ、私がこのような一地方政治家のことを書き記すのは珍しいとお思いの方もいらっしゃると思うが、世の中は因縁であり、この人の存在が私の青春期のアイデンティティ確立に大きく関わっている。彼がオリンピック招致がらみで市郊外に文化施設をやたら建てまくったおかげで、オリンピック後、それらの施設がほとんどガラ空き状態のまま、貧乏ファンサークルにも比較的楽に使用できるようになっていたことが、アニメや特撮の上映会、また研究会などの会合を開くにあたり、われわれ在サッポロのオタクたちに、どれだけ利したかしれない(前にも書いたが、地方都市の住人にとっては、上映会ひとつ開くのも、それ以前は機材や会場を自由に使用できる大学のサークルなどにほぼ限られた特権だったのである)。地下鉄をはじめとする交通網の整備が、ただでさえ雪に閉ざされ引きこもりがちになる北国のオタクに、冬の間もせっせと会合で顔を合わせて情報交換や同人誌の制作に携わらせることにもなった。時代と一文化ジャンルの勃興期がたまたま重なった偶然、と言えばそれまでだが、私という人間の人格形成に、この人の存在が数パーセントは、確実に影響を与えているのだ。向こうの方ではそんなこと思いもしていなかったと思うが、とりあえず一オタク・唐沢俊一として、心からお礼を申し上げ、またご冥福を祈るもの である。 【手塚しげお】 日記 2004年 02月 10日(火曜日) 元スリーファンキーズの手塚しげお、6日に死去。62歳。“♪カナカナカナカ、ナカナカ見つからない”は今でもよく鼻歌で出る。芸歴を調べたら、『仮面ライダーストロンガー』で奇械人ゴロンガメ、なんてのをやっていたのか。うーむ。ゴロンガメだからいけない、というわけではないが、せめてギリザメスだとかガラガランダだとか、もうちょっとまともな名前の怪人だったら、と 思ってしまう。一般の人にはどちらも同じか。 【高木均】 日記 2004年 02月 13日(金曜日) 朝刊に俳優の高木均氏死去の報。ムーミンパパ、トトロの声などで子供たちにもおなじみの人ではあるが、その顔は容貌魁偉、という形容が最も適当するであろう人で、その怖いご面相をいかして、日活で団鬼六作品などSMものによく助演していた。“声が顔を裏切るのがいい役者の条件”とは井上ひさしの説だが、それで言えば、実にいい俳優と言えただろう。NHKの『新・坊ちゃん』(脚本・市川森一)では漢学の先生役で、原作では“愛嬌のあるお爺さん”としか書かれていない役だが、例の巨体とギョロ目で一癖ある守旧派の悪役として演じ、東京風を吹かす下条アトムの野だいこに鉄拳制裁を加えていた。ご冥福をお祈りいたします。 日記 2004年 02月 18日(水曜日) このあいだのこの日記で俳優・高木均氏の訃報に対する感想を書いたが、産経新聞が、社会面『葬送』欄に、葬儀の模様を大きく取り上げていた。さすがにSM映画の常連であった、などということは書かれていないが、“「文学座三大奇優」と称されるほど、独特の存在感を持つ役者だった”と、いち脇役俳優としては異例の大きな取り上げ方をしている。葬儀には野沢雅子、肝付兼太など声優仲間が多く参列し、出棺時には『銀河鉄道999』のラストシーンの、高木氏自身によるナレーション“さらば”の声が流されたとか。このあいだの日記では井上ひさしの言葉を引いたが、その井上氏の作詞で高木氏が歌った『ムーミンパパのうた』を思い出した。 「雲の上には なにがある 雲の上には 空がある 空の上には なにがある 空の上には シドがある ドレミファソラシド」 ……空の上、シドの世界に旅立った名優に、改めて黙祷。 【網野善彦】 日記 2004年 02月 28日(土曜日) 朝刊に網野善彦、谷エース、伴野朗などの各氏の訃報。網野氏の『異形の王権』や『日本中世の民衆像』とかの中世史観には、お定まりではあるが一時かなりハマッたものである。なにより、農民がただ、日がな暮れがな田畑を耕しているだけという、パッとしないイメージだった日本の民衆史を、海の民によるダイナミックな文物交流をバックにした、スリリングでカッコいいものとして呈示してくれた功績は大きいと思う。ただし、あまりに面白すぎて、読んでいるうちにホンマかいな、という疑念がわき始めるのも確かであり(江上波夫の騎馬民族説もそうだった)、また、国家という主義や概念を嫌う人々が、その思想的よりどころのようにして網野史観を持ち上げる風潮にも、ちょっと違和感を感じていたことは確かである。そういう色眼鏡を外した視点から氏の学術的業績を確認することが、難しくなってしまっているのだ。 【42代横綱・鏡里】 日記 2004年 03月 02日(火曜日) 42代横綱・鏡里死去、80歳。突き出た太鼓腹から“土俵の満月” “錦絵の相撲取り”と称えられた、とネットでの記事にあったが、キネマ旬報で以前、誰だったかが(古田タクだったか?)が、“爬虫類の鏡里”というアダ名があった、と紹介していた。『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』でジャバ・ザ・ハットを見ていたら、その名前を思い出したんだそうである。 【神山卓三】 日記 2004年 03月 17日(水曜日) 読売朝刊に声優の神山卓三氏死去の報。敗血症、72歳。『狼少年ケン』の悪役である虎、熊、ゴリラの(インドが舞台なのにゴリラがいるというのがこの時代のアニメの融通だが)トリオのうち、一番のコメディ・リリーフであるゴリラ役で知った名前。この時、私は5歳。つまりは、本当に子供の頃から、私が育ててもらった声、なのである。このゴリラに限らず、『ハッスルパンチ』のヌーとか『未来少年コナン』のドンゴロスとか、悪役ではあっても、必ずその底にどこかにくめないユーモラスさを感じさせてしまう声質で、子供たちに本能的に愛される声の人だった。ひょっとして、代表作『チキチキマシン猛レース』のケンケンが、もっとも冷酷な悪党役だったかもしれない。リクツ抜きで寂しい。無闇に寂しい。 【いかりや長介】 日記 2004年 03月 21日(日曜日) いかりや長介さん死去、72歳。私はクレージーキャッツにハマッていた人間なので、正直な話、ドリフターズをあまり評価して来なかった。お互いに主演映画を数多く残しているが、クレージーが東宝の明朗スラップスティック路線で行っていたのに対し、ドリフは松竹の人情喜劇路線が色濃く、どことなく泥臭くてこれもあまり好みではなかった。『全員集合!』よりは当然のことながら毒の強い『ひょうきん族』の方を贔屓していたし、ドリフターズの番組で毎週楽しみにチャンネルを合わせていたのは『飛べ! 孫悟空』くらいだったと思う。……にもかかわらず、ドリフの価値を私が大いに認めるのは、これくらい、教師やPTAにメノカタキにされたコメディアンたちも、まず絶後であろうと思うからである。小学六年生の修学旅行時、バスの中で歌う歌にドリフのものを入れることを認めよ、と、代表の一人になって職員室に談判に行ったことがある。当時はそういう手続きを踏まないと、ドリフの歌を“学校行事で”歌うことは禁じられていたのである。学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”と言われて、無難なところを、と思い『ツンツン節』のいかりや長介の歌う 一節、 「ボクはしがない婿養子/結婚九年目離婚沙汰/家土地財産妻のもの/鍋釜子供はボクのもの」 という部分を歌ったら、苦笑して認めてくれた(その教師が実際婿養子だと知った のはずいぶん後のことだった)。 昭和50年代には、二〜三ヶ月に一度は必ず、新聞のテレビ欄に、“食べ物を粗末にするドリフのコントは許せない”といったような投書が掲載されていて、それを読むのが楽しみであったものだ。若いうちは、大人が自分たちの文化を理解できないことが嬉しいものである。加藤茶の“ちょっとだけヨ”や、荒井注の “なんだ、バカヤロー”、さては志村けんの“カラスの勝手でしょ”にいたるまで、ギャグとしてはどれも大したことないものなのに、痺れるような快感があったのは、そのギャグを口にすることで大人たちの神経をかき乱せる、ということを子供たちが本能的に知っていたからであった。“子供にとって一番オモシロイことは、大人の嫌がることである”という原則を、これほど忠実になぞったコメディアンたちはいなかったと思う。メンバー中、もっとも大人であり常識人であるいかりやにとって、彼らの暴走の度合の目盛は、常に自分の中にあったのではないか。親たちと同じ世代で、親たちからワースト番組と目される番組を作り続けるという苦悩もあったと思う。きちんと丁寧に作り込んだ番組に彼がこだわっていたというのも、その人気がいかに危険な場所に位置しているものか、を身を以て理解していたためだろうと思えるのである。 【岩田次夫:イワエモン】 日記 2004年 03月 24日(水曜日) コミック・マーケット運営事務局の岩田次夫氏、というより一般にはコミケカタログのイワエモン氏死去の報があちこちから入る。享年50歳。コミケという文化を日本に定着させた実質的な人物である。ポルノ規制、オタク批判などでコミケ運営に対しさまざまな口出しをしてくる文化人たちに、常に実際の現場を統括している者の立場から、きちんと論理的に対応をしていた姿が印象的だった。たまたま、今読んでい る『フレッド・ブラッシー自伝』に、こういう言葉がある。 「人間はときどき運命的な職業に出会える。私の場合、それは、レスラーという職業だった。いつの時代でもこの業界のためになりたかった。それは自分の身と同じくらいにこの業界が好きだからだ」 ……“レスラー”の部分を“コミックマーケット運営”という単語に変えれば、それを岩田氏の言葉と言って疑う者はいないのではないだろうか。早すぎる死に暗然た る気持ちになる。 【下川辰平】 日記 2004年 03月 26日(金曜日) ニュースで下川辰平氏死去の報。72歳だが、92歳の母堂が葬儀に出ている様が放送されたのに驚く。これからはこういう光景も増えるだろう。下川氏は最後に見たのが『ぶらり途中下車』の旅人役だった。つい、走り出して、“いやあ、『太陽にほえろ!』の頃の癖がまだ抜けなくて……”と笑っていたのだが。下川氏くらいのベテランなら役柄が固定しても仕事は来るが、又野誠二あたりだと、他に使い道がなかったのかも。それにしても、このところ訃報続く。倒れたチョーさんとは別のチョーさんが死んだかと思ったらまた別のチョーさんが亡くなったわけである。 【三ツ矢歌子】 日記 2004年 03月 25日(木曜日) 女優の三ツ矢歌子さん死去の報。晩年は自身の病気や、子供の不祥事などで、傷心の表情をブラウン管で見ることが多かったように思うが、われわれの世代にとっては、テレビをつけるといつも映っているお母さんの顔、であった。大学に入ってからさかのぼって名画座めぐりで観た、新東宝時代の彼女は清純のきわみ、というような美少女で、タイトルこそ『肉体女優殺し』とか『ヌードモデル殺人事件』などという末期新東宝的なキワモノであっても、彼女のみは常に清らかな役(殺される肉体派女優やヌードモデルの妹役)であり、沼田曜一や林寛に襲われ、アワヤというところで宇津井健に救われるのである。だから、石井輝男の『天城心中・天国に結ぶ恋』で演じた愛新覚羅慧生(映画では王英生)役でも、モデルとなった満州国皇帝の娘は実際に死んでしまうわけだが、三ツ矢歌子だけは絶対、助かるものだと思ってしまい、最後に やはり死んでしまったときは大ショックだったものだ。 追悼と言えばもうひとつ、S井さんから美食MLで、能登のさんなみに旅行するときにいつも用いていた能登鉄道がいよいよ廃線とのニュースが。 【佐藤まさあき】 日記 2004年 03月 26日(金曜日) 他に、劇画界の草分けである佐藤まさあき氏も今月11日に亡くなっている。 http //www.comicpark.net/ 今度文庫化される『愛のトンデモ本』の中の『堕靡泥の星の遺書』評が追悼になってしまうのだなあ。死去の件を書き加えなくては。また、それに先立つ9日にはゴー ルデンハーフのルナもひっそりと亡くなっていた。 http //music.goo.ne.jp/contents/news/NMS20040309-s-19/ これも、今度の『トンデモ本の世界S』に、尼さんマニア本『アンチクライスト』のことを取り上げているので、追悼の言葉を添えておくべきか。作品は『修道女ルナ の告白』なのであるが。 【うしおそうじ】 日記 2004年 03月 30日(火曜日) 新聞に特撮プロデューサーうしおそうじ(鷺巣富雄)氏死去の報、82歳。実は私の中での特撮主題歌の裏フェイバリット(表フェイバリットは多すぎてちょっとこれ一本、というのが絞れないが)というのが、うしお氏の会社“ピープロ”の制作になる『風雲ライオン丸』の主題歌『行け友よライオン丸よ』なのである。渡部宙明や菊池俊輔を主流とした、いわゆる特ソン節とはちょっと違う、西部劇調の奥行きのある曲(筒井広志。ちなみにこの人も数年前亡くなっているが、この曲でウエスタン調、『とびだせ! マシーン飛竜』でブルーグラス調と、西部の匂いの香る名曲が多い)が印象的ということもあるが、ちょうどこの番組がリアルタイムで放映された時期、私は中学三年生。普通なら受験を期に、アニメや変身モノ番組からは足を洗うところを、敢えて(親や教師の白い眼を耐えながら)こういう番組を見続けることを選択した、つまり語を変えて言えばオタクとして生きることを人生の中で意識的に選択した最初の時期の作品だった。従って、どうしても、その曲を聴いたときの思い出に、いささか胸苦しくなるようなせつなさが伴って甦るのである。中でもこの曲は、特ソンらしからぬ哀感、孤独感をただよわせていて、印象的な曲だった。エンディングの、『行くぞ! ライオン丸』も、脳天気な明るさの中の孤独、みたいなものがしみじみ感じられる不思議な曲で、いまだにときどき口ずさむ。 世の中には二種類の人間がいる。一流しか愛さない人と、二流のどうしようもなさも、共に愛することの出来る人である。うしおそうじ率いるピープロ特撮のファンはまぎれもなく、その後者に属するタイプである。ピープロは、とにかく弱小プロダクションであった。『スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)』などを見ていれば、たとえ小学生であっても、“あ、これはお金(制作費)のない貧乏番組なんだ” とわかったはずである。番組末期に至っては、よくこんなショボい絵しか撮れないほど金のない中で、まがりなりにも毎週、特撮番組を作り続けられているものだ、と逆に感心していたくらいである。『ウルトラマン』が明治座や新橋演舞場で演じられる芝居だとすると、『スペクトルマン』は浅草の芝居小屋の大衆演劇といった感じであった。いわば手作りの特撮番組だったのだ。おまけに、金ばかりでなく、時間的余裕すらピープロにはなかった。下記サイトを読むと、まさにこの番組は、とにもかくにも完成して放映されたことが奇跡のような状況下で制作されたということがわかる(なるほど、新東宝の監督が撮ったからゴリの円盤に『吸血鬼ゴケミドロ』のあの円盤が流用できたのか……)。急場に作り上げた故の欠陥シーンの手直しを要求する編成局長に対してとった別所プロデューサーの奇策は爆笑モノである。とにかく面白いからご一読を。 http //van-dan-emon.web.infoseek.co.jp/k/pprox/px1_01.htm もっとも、このサイトは“事実をもとに再構成したフィクション”である。実際には、こんな凄まじい状況をこのように感動的な話にしてしまっていいものかどうか、かなりの疑問が残る。また、ここで多くのスタッフが、“僕はうしおさんと仕事をしたいのであって、ギャラなんか問題でない”と発言しているのも、『マグマ大使』出演者へのギャラ未払い問題が今なお話題になることから考えると、事実かどうか。しかし、それはさて措いて、間違いなく感じ取れるのは、極限状態の中で作品を作り上げていく現場の緊張と高揚であろう。世の中には二種類のクリエイターがいる。“いいものを作りたい”と思う人と、“いいものであろうとなかろうと、とにかく作りたい”と思う人である。うしおそうじ氏はまさに、後者であったように思われる。円谷英二にあってうしおそうじになかったものは(まあ、それはいろいろあるだろうが、そのひとつは)映像に対するビジョンであった。思想、と言い換えてもいい。それは東宝という後ろ盾を持って、特撮監督のエリートコースを歩いてきた円谷に比べ、一時はマンガで食いつなぎながら、野から這い上がって特撮業界に食い込んでいったうしおが、その苦労の過程で置き忘れ、失ってしまったものだったかも知れない。その差が、作品の質(品格)に現れている。だが、考えてみれば、映像の楽しさという特撮作品の根元から言えば、ビジョンも品格も、所詮は付け足しのものに過ぎない。いや、そういう余計なものがないだけ、『スペクトルマン』からも『快傑ライオン丸』からも、特撮ヒーローものの原点とでも言いたい、オモチャ箱の中をのぞいたような驚きと楽しさが伝わってきていた。いま、マンガや映像の業界で活躍している人に、驚くほど、ピープロ作品のマニアが多いことでも、それはわかると思う。黙祷。 今日も去って行く 明日もひとり行く ライオン ライオン ライオン丸 行こう戦いの旅 行こう地の果てまでも (『行くぞ! ライオン丸』より) 【ピーター・ユスティノフ】 日記 2004年 03月 30日(火曜日) もう一人、奇遇にも同年齢の82歳で、ピーター・ユスティノフ死去。新聞を見ていた母が“あらア、惜しい!”と叫んだ。新聞には『ナイル殺人事件』などのポワロを代表作として掲げてあったが、個人的にはハンフリー・ボガートと共演した『俺達は天使じゃない』の丸まっちいデブの毒蛇使い、ジュール役が大好きである。母はまた、『クオ・ヴァディス』のネロ役の、燃えさかるローマを眺めながらハープを奏でるシーンが最高だった、と言う。名優には違いないが、英国俳優の例に漏れず、本業はあくまでも舞台であって、映画はアルバイトという感覚であったらしく、作品歴を見るとA級B級を選ばないゴタマゼ的なイメージがある。そう言えば、サンリオが一時アニメ製作に乗り出し、ギリシア神話を題材にした『星のオルフェウス』というツマラない作品を作ったのだが、世界進出を考えて日本語版と英語版を作って、英語のバージョンも字幕付きで上映していた。日本でそんなもの誰が観にいくか、と呆れたものだが、このとき、日本語バージョンのナレーションが伊丹十三、英語バージョンのナレーションをユスティノフが担当していた。日英二大インテリ俳優のナレーションというのがどういうものなのだか興味がわいて、結局、両方観てしまった経験がある。『ナイル殺人事件』以下のポアロは賛否両論(さすがに名演なのではあるが、なにしろ原作のポアロとイメージが違いすぎる)あるようだが、私は好き。もっとも、『ナイル……』は当時好きだった女の子を誘って観にいったあと、くどいて見事にふられた哀しい思い出があって、あまり冷静には語れない。
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- 【矢切隆之】 日記 1999年 12月 10日(金曜日) 銀行に寄り、雑用二、三済ませて家に帰ったら、官能倶楽部メンバーでこの春に亡くなった矢切隆之氏の追悼文集が送られていた。二十代から三十代、『文藝』で嘱望された純文学の徒であり、数冊の作品集も出版したあと、四十代から官能小説に転じて人気作家となった矢切氏に対し、ジュンブンガクの仲間からの風当たりは強かったらしい。すでに官能作家となって十五年以上たってなお、しかも旅先で、 「吉本隆明に師事した者が官能小説を書いているとは何事だ。殺してやりたい」 と言われた、という話がこの文集の中にある。矢切氏のそのときの心境を思いやることとは別に、いかにもアマチュア的なその物言いに笑ってしまう。今や文学が官能小説に学ぼうとしているこの時代に。 文集贈ってくれた藍川京さんに礼状書く。矢切さんを悼む気持ちと同時に、その死をまるでわれわれのせいにするような勝手な説教をブチあげ、官能倶楽部に後足で砂をかけて去っていった館淳一氏への怒りもあらためてフツフツ湧いてくる。あのときはその態度に呆れ返って血圧が上がったものだ。 【デズモンド・リュウリエン】 日記 2000年 01月 16日(日曜日) 新聞に、先日交通事故で亡くなった007映画の“Q”役、デズモンド・リュウリエンのことが載っていた。Qがあまりのはまり役でイメージが強くなりすぎ、他の映画の出演依頼がとだえたため、新作の撮影期間以外は年金でつましく生活していたんだそうな。・・・・・・これはわれわれにも言えることで、得意分野を持つのはいいが、あまりに“○○の××さん”などと言われてイメージが固定すると、その分野が流行遅れになったとき、仕事がパッタリ絶えることになる。以前、芸能プロダクションの先輩がナベプロの社長の言葉として、“プロダクションに(収入を支える)柱が一本しかないのは危険である。二本でも、一本が欠ければ屋台がグラつく。柱は三本、作っておきなさい”というのを繰り返し語っていた。フリーのモノカキで一生をまっとうしようとするなら、“それだけで食える”得意分野が三本は必要だろう。 【きんさん】 日記 2000年 01月 24日(月曜日) きんさん死去の報道あり。あまりマスコミがひっぱり回すから早死にをした、というようなことを言う奴はいないかな、といくつかチャンネルを回す。 【荒井注】 日記 2000年 02月 09日(水曜日) キオスクの新聞に荒井注死去の報。体が悪いことは知っていたが、今年の正月、ドリフターズの現メンバーと一緒にフジカラーの七福神のCMで毘沙門天を演じており、元気になったんだ、と思っていたところだったので驚く。 【わちさんぺい】 日記 2000年 03月 10日(金曜日) スポーツ新聞で、わちさんぺいの死去を知る。子供のころ、まっさきに名前を覚えたマンガ家の一人だった。その当時から、すでに古いマンガだな、というイメージが子供心にした人だったが、死亡記事で初めて顔を見た。かなり大きく記載されていたのは、釣り情報をずっとスポーツ紙で担当していたからだろう。 【小渕首相】 日記 2000年 05月 15日(月曜日) テレビで小渕首相死去のニュースいろいろ。ゆうべ二朝庵で二次会やっているときにこのニュース流れて、さて“誰がスイッチ切った”で盛り上がった。SFマガジン残り一気に書き上げてメールする。 【三浦洋一】 日記 2000年 05月 16日(火曜日) 三浦洋一死去のワイドショーを見ているうち、急にガックリと落ち込み、鬱状態のようになって何も手がつかない状態になるが、やがて “三浦洋一の死んだことはオレには何の関係もないじゃないか”と気がつき、急に正常に戻る。 【ジャンボ鶴田】 日記 2000年 05月 16日(火曜日) ジャンボ鶴田死去の報。マニラで肝臓移植手術中、と聞いたとたん、“いくらで買った?”と反射的に考えるのは裏者のサガ。 【竹下元首相】 日記 2000年 06月 19日(月曜日) 竹下元首相死去、朝刊にはまだ載っておらず、テレビのニュースで見る。政治家の死が相次ぐ。今回の選挙で“代議士の定年を65歳にする!”と吠えてる若い人がいたが、“老人が生きがいを持って働ける社会を”というお題目が、なぜ政治の世界には適用されないのか、そこらへんの説明をしてくれると面白いんだがな。老害々々というが、今の日本の若い政治家に、本当に日本政治を変革し、しかも内外に山積した諸問題に対応できるだけの柔軟な思考力と実行力を持つ者がいるとは、自己申告以外寡聞にして聞かないのだが(田中角栄も中曾根康弘も青年議員の頃からズバ抜けた実力とパフォーマンスで圧倒的な注目のをされていて、しかもアレであった)。 【たかもちげん】 日記 2000年 08月 10日(木曜日) マンガ家、たかもちげんの死去を知る。『代打屋トーゴー』など、手堅く読ませる作品を描く人ではあったが、やはりこの人を語るならばあの大宗教マンガ『祝福王』を無視してはいけないだろう。呉智英がたぶんただ一人絶賛していたこの作品、当時私が講談社で仕事していて担当編集者から聞いた話では、読者アンケート最下位どころか、つまらぬわけがわからぬ早くやめろのお便りの嵐で、唯一掲載誌の編集長がドはまりし、“僕が編集長でいる限りいつまでも続けてください”と、まさに信仰告白してしまったという、異色中の異色の作品であった。オウム事件以降、日本ではあのようなマンガはもう描けなくなってしまったのではないか。 【谷村昌彦】 日記 2000年 08月 11日(金曜日) 脇役俳優谷村昌彦死去。『忍者ハットリくん』(もちろん実写版)の花岡実太先生が私にとってはインプリンティングで、校長に“鼻を齧ったくん!”と呼ばれて山形弁で“イエ校長、鼻を齧った、でなくて花岡実太でナイノ?”と毎度訂正する、そのイントネーションをしょっちゅう真似しては怒られていた。花岡実太という名前は脚本の井上ひさしが当時コントなどでよく使う名前であることは後に知った。谷村氏にとり山形弁はネイティブランゲージだが、東北出身の脚本家である井上ひさしが、コンプレックスであった東北訛りをギャグにするとはいい度胸であったと思う。 【E・H・エリック】 日記 2000年 08月 20日(日曜日) 新聞にE・H・エリック死去の報。ロイ・ジェームス、ジェリー伊藤と並ぶ、幼い私のガイジンさんのイメージを形づくった三人の一人だった。 【浪越徳次郎】 日記 2000年 09月 25日(月曜日) マリリン・モンローが来日して癪を起こしたとき、治療に呼ばれて全裸の彼女に対面したという“戦後史”の生証人、浪越徳次郎氏死去九六歳。長寿はやはり指圧の効果か。正直なところ、もう大分前に亡くなっていた、とばかり思っていた。“指圧のココロォ、母ゴコロ。押せば命の泉涌くゥ・・・・・・”というフレーズは、いったい今、どれくらいに通じるのか。 【工藤栄一】 日記 2000年 09月 25日(月曜日) それから、最後の映画屋、と呼びたい工藤栄一監督死去、七一歳。学生時代、蒲田の東映系名画座の薄よごれたスクリーンで『十三人の刺客』を初めて観たときは、興奮で体がブルブルと震えたものである。わが映画観賞のバイブル『脇役グラフィティ』に、“『七人の侍』よりこっちを西部劇にリメイクすべきだ”とあり、千恵蔵にリー・マーヴィン、寛寿郎にエミリオ・フェルナンデス、菅貫太郎にピーター・フォンダ・・・・・・などというキャスティングごっこを楽しげにやっていた。今の映画ファンはあまりこういうこと、やらないねえ。どの新聞も死去の報に“『必殺』シリーズの・・・・・・”と書かれていたのがちと寂しい。 【林家珍平】 日記 2000年 11月 06日(月曜日) 林家珍平(テレビの銭形平次のガラっ八)死去。享年60歳。一応三平の弟子ではあるが、落語家系図にも載っておらず。俳優に専念していたものか。こういう人が三平門下には多かったが、いま、みなどうしているのだろう。テレビ版『ハレンチ学園』でパラソル先生をやっていた人も、確か林家だった筈。 【東野英心】 日記 2000年 11月 16日(木曜日) 昨日の夕刊に、俳優・東野英心死去の報。掲示板などではZAT副隊長追悼、とみな言っている。“なんでZATだけ副隊長が指揮しているんだ?”と、子供心に思ったのが、記憶に残っているのだろう。私もあの役は好きであるが、それより、彼の顔は70年代NHK大河ドラマの常連(東野孝彦名義)として記憶に強く残っている。彼の演じた山内一豊や井上聞多は、ずうずうしさと愛敬を兼ね備えた、実にいいキャラクターであった。確か『署長マクミラン』で、ジョン・シャックが演じた部長刑事の声もアテていて、血筋のよさと、顔にとどまって性格にまで及ばない、適度なアクの強さがNHK好みなんだろうな、と思っていたものだ。その後も中学生日記の先生とか、NHK的な役柄に俳優としてとどまってしまったのが実に惜しい。さらにふてぶてしい悪役などを、この人が演じるのを見てみ たかったものである。 【鈴木その子】 日記 2000年 12月 06日(水曜日) 電光ニュースで鈴木その子死去の報、ちょうどトキノ銀座店の前だったのに驚く。 【福田純】 日記 2000年 12月 08日(金曜日) 夕刊を見たら、福田純監督の訃報。三日に亡くなっていたとやら。享年七七歳。ゴジラ新作の話題で盛り上がっているときに、ひっそりと昭和ゴジラの足跡を刻んだ監督が亡くなる。これもまた因縁か。一度だけ、間近でお酒をお相手させてもらったことがある。ゴジラの再ブームで、ビデオやLDの印税がちょくちょく入ってくるんだけど、全部競馬に使っちゃってるよ、と笑っておられた。“岩波新書から、『娯楽映画の作り方』って本を出さないかと言ってきたんだけど、娯楽映画に作り方なんかないよ、って断っちゃった”とも聞いた。惜しい。たとえ本人に自覚がないとしても、『ゴジラ』『若大将』と、変革期東宝で、二本の人気シリーズを初代から引き継ぎ、その路線を時代の変遷に合わせて、着実なドル箱として定着させた実力派だ。構成・編集のよろしきを得れば、日本映画の、これまで語られなかった一面の記録となっただろうに。福田作品は演出の大味さがよく指摘されたが、それは、氏が助監督としてテクニックを学んだのが大作監督稲垣浩のもとだったからであり、氏が監督に昇進した後は、日本映画界は、残念ながらその腕を存分にふるえる大型映画を撮らなくなってしまっていたのである。黒沢年男主演のハードボイルドアクション『野獣都市』では小技をきかせた演出に見事な腕をみせているという話だが、私は未見。ゴジラもので一本、好きな作品を挙げるとすると、『地球攻撃司令・ゴジラ対ガイガン』か。特撮シーンがライブフィルムを乱用していて評判の悪い作品だが、演出はナンセンスとサスペンスを混在させたシャレた味で、偉大な本多猪四郎の影をやっと払拭した新感覚のゴジラ映画になり得ていた。 【塚原尚人】 日記 2000年 12月 13日(水曜日) 留守録に、数人の知り合いから、元・官能倶楽部メンバーの塚原尚人氏の訃報が伝えられている。驚いて官能倶楽部パティオをのぞく。どうやら事実らしい。司法解剖に回され、今日あたりが葬儀であった、とのことである。大いに驚きはしたが、意外性はまったくない。やっぱりこうなったか、という感じである。 塚原氏は今年はじめあたりから、睡眠薬と向精神薬を大量に服用し、夏ころにはそれでリストカットしての自殺未遂まで起こしている(いずれもネットで自分からそれを吹聴し、こちらにも伝わってきていた)。てっきり自殺か、と思ったのだが、ネットあちこち回って情報を仕入れたところによると、仕事の打ち合わせを終えた後でのクスリの服用量を誤っての事故死であるらしい。自殺でなかったことのみが唯一の救いだろう。だが、私が真っ先に思い浮かべたのは、ボードレールがポーの死に対して述べた“このような死はほとんど自殺、ずっと以前から準備されてきた自殺というべきものである”という言葉であった。意識的、無意識的に関わらず、彼の死は、彼自身によってコースを定められ、そこに突き進んでいった末のものであった(やはり自殺なのでは、という未確認情報もあった)。 彼の死について、述べたいことは多々、ある。今年一月の日記で、私は彼の人間性を徹底して批判した。その意見を変える気はさらさらない。この死と、それにまつわる、私の知っている(本人から直接聞いた)範囲内の情報においても、その死の理由についていろいろ予想がつく。だが、まだ彼の魂が中有に迷っているであろうこの時期に、それを述べるべきではあるまい。せめて四十九日過ぎまでは待とうと思う。だが、改めて、才能と死、ということをしみじみ思う。彼は若手官能作家としては人並み優れた才能を誇っていた人物であった。そして、彼が結果、このような死を迎えたのは、まさにその才能の故であったと思う。才能が無い者の悲劇を、私は数え切れないほど知っている。だが、才能がある故の、そして、その才能が、自分の望んだものでなかった故の悲劇も、また十指にあまるほど知っている。彼の悲劇は、まさにその典型的な例であった。それだけにやり切れない。また、腹立たしい。 いくつかのネットで、彼の死をやたら美化して慨嘆している人がいる。ナニヲ言ッテイヤガル、と憤りを覚える。伊丹十三が死んだとき、桜金造が、伊丹監督に自分くらい恩を受けた者はいないだろうが、と前置きして、しかし監督のこの死に方は最低の死に方である、とはっきり言い切っていた。しかり、塚原尚人の死もまた、最低の死である。二十七の早すぎる死は確かに痛ましい。しかし、その痛ましさに酔って、彼の死を正当化しようとする者は、懸命に生きている、他の全てのモノカキを馬鹿にしているのだ、と私は思う。同業者の死にこういう言葉を投げることはつらいが、それが彼にしてやれる最後の真心だ、と思う。 【如月小春】 日記 2000年 12月 20日(水曜日) 新聞に如月小春クモ膜下出血で死去の報。如月小春なる文字を見てすぐ、同名の寺内小春(脚本家)のことを想起し、寺内の脚色でNHKで放映された番組『イキのいい奴』のことを思い出し、あの番組の小林薫はよかったよなあ、おふくろがこの親方の役にミーハー的にハマっていたなあ、などと、しばらくノスタルジーにふけるも、よく考えてみれば如月小春とはなんの関係もない感慨なり。 【ジェースン・ロバーズ】 日記 2000年 12月 27日(水曜日) 帰って夕刊を見たら、ジェースン・ロバーズ死去の報。大好きな役者だった。代表作はオスカーを取った『大統領の陰謀』での、ニクソン大統領を追い詰める新聞社のデスク役だろうが、NHKで放映されたミニ・シリーズで、同じようなタイトルの『権力と陰謀』では、追い詰められる方のニクソン(劇中ではディクソン)を演じ、こちらの方が(声をアテた西村晃もうまかったが)数等印象的な大芝居だった。どっちの役でも、机の上に足をデーンと投げ出す行儀の悪いことをしていたが、これが彼 の得意の人格表現、だったのか?
https://w.atwiki.jp/karasawamania/pages/26.html
- 【矢切隆之】 日記 1999年 12月 10日(金曜日) 銀行に寄り、雑用二、三済ませて家に帰ったら、官能倶楽部メンバーでこの春に亡くなった矢切隆之氏の追悼文集が送られていた。二十代から三十代、『文藝』で嘱望された純文学の徒であり、数冊の作品集も出版したあと、四十代から官能小説に転じて人気作家となった矢切氏に対し、ジュンブンガクの仲間からの風当たりは強かったらしい。すでに官能作家となって十五年以上たってなお、しかも旅先で、 「吉本隆明に師事した者が官能小説を書いているとは何事だ。殺してやりたい」 と言われた、という話がこの文集の中にある。矢切氏のそのときの心境を思いやることとは別に、いかにもアマチュア的なその物言いに笑ってしまう。今や文学が官能小説に学ぼうとしているこの時代に。 文集贈ってくれた藍川京さんに礼状書く。矢切さんを悼む気持ちと同時に、その死をまるでわれわれのせいにするような勝手な説教をブチあげ、官能倶楽部に後足で砂をかけて去っていった館淳一氏への怒りもあらためてフツフツ湧いてくる。あのときはその態度に呆れ返って血圧が上がったものだ。 【デズモンド・リュウリエン】 日記 2000年 01月 16日(日曜日) 新聞に、先日交通事故で亡くなった007映画の“Q”役、デズモンド・リュウリエンのことが載っていた。Qがあまりのはまり役でイメージが強くなりすぎ、他の映画の出演依頼がとだえたため、新作の撮影期間以外は年金でつましく生活していたんだそうな。・・・・・・これはわれわれにも言えることで、得意分野を持つのはいいが、あまりに“○○の××さん”などと言われてイメージが固定すると、その分野が流行遅れになったとき、仕事がパッタリ絶えることになる。以前、芸能プロダクションの先輩がナベプロの社長の言葉として、“プロダクションに(収入を支える)柱が一本しかないのは危険である。二本でも、一本が欠ければ屋台がグラつく。柱は三本、作っておきなさい”というのを繰り返し語っていた。フリーのモノカキで一生をまっとうしようとするなら、“それだけで食える”得意分野が三本は必要だろう。 【きんさん】 日記 2000年 01月 24日(月曜日) きんさん死去の報道あり。あまりマスコミがひっぱり回すから早死にをした、というようなことを言う奴はいないかな、といくつかチャンネルを回す。 【荒井注】 日記 2000年 02月 09日(水曜日) キオスクの新聞に荒井注死去の報。体が悪いことは知っていたが、今年の正月、ドリフターズの現メンバーと一緒にフジカラーの七福神のCMで毘沙門天を演じており、元気になったんだ、と思っていたところだったので驚く。 【わちさんぺい】 日記 2000年 03月 10日(金曜日) スポーツ新聞で、わちさんぺいの死去を知る。子供のころ、まっさきに名前を覚えたマンガ家の一人だった。その当時から、すでに古いマンガだな、というイメージが子供心にした人だったが、死亡記事で初めて顔を見た。かなり大きく記載されていたのは、釣り情報をずっとスポーツ紙で担当していたからだろう。 【小渕首相】 日記 2000年 05月 15日(月曜日) テレビで小渕首相死去のニュースいろいろ。ゆうべ二朝庵で二次会やっているときにこのニュース流れて、さて“誰がスイッチ切った”で盛り上がった。SFマガジン残り一気に書き上げてメールする。 【三浦洋一】 日記 2000年 05月 16日(火曜日) 三浦洋一死去のワイドショーを見ているうち、急にガックリと落ち込み、鬱状態のようになって何も手がつかない状態になるが、やがて “三浦洋一の死んだことはオレには何の関係もないじゃないか”と気がつき、急に正常に戻る。 【ジャンボ鶴田】 日記 2000年 05月 16日(火曜日) ジャンボ鶴田死去の報。マニラで肝臓移植手術中、と聞いたとたん、“いくらで買った?”と反射的に考えるのは裏者のサガ。 【竹下元首相】 日記 2000年 06月 19日(月曜日) 竹下元首相死去、朝刊にはまだ載っておらず、テレビのニュースで見る。政治家の死が相次ぐ。今回の選挙で“代議士の定年を65歳にする!”と吠えてる若い人がいたが、“老人が生きがいを持って働ける社会を”というお題目が、なぜ政治の世界には適用されないのか、そこらへんの説明をしてくれると面白いんだがな。老害々々というが、今の日本の若い政治家に、本当に日本政治を変革し、しかも内外に山積した諸問題に対応できるだけの柔軟な思考力と実行力を持つ者がいるとは、自己申告以外寡聞にして聞かないのだが(田中角栄も中曾根康弘も青年議員の頃からズバ抜けた実力とパフォーマンスで圧倒的な注目のをされていて、しかもアレであった)。 【たかもちげん】 日記 2000年 08月 10日(木曜日) マンガ家、たかもちげんの死去を知る。『代打屋トーゴー』など、手堅く読ませる作品を描く人ではあったが、やはりこの人を語るならばあの大宗教マンガ『祝福王』を無視してはいけないだろう。呉智英がたぶんただ一人絶賛していたこの作品、当時私が講談社で仕事していて担当編集者から聞いた話では、読者アンケート最下位どころか、つまらぬわけがわからぬ早くやめろのお便りの嵐で、唯一掲載誌の編集長がドはまりし、“僕が編集長でいる限りいつまでも続けてください”と、まさに信仰告白してしまったという、異色中の異色の作品であった。オウム事件以降、日本ではあのようなマンガはもう描けなくなってしまったのではないか。 【谷村昌彦】 日記 2000年 08月 11日(金曜日) 脇役俳優谷村昌彦死去。『忍者ハットリくん』(もちろん実写版)の花岡実太先生が私にとってはインプリンティングで、校長に“鼻を齧ったくん!”と呼ばれて山形弁で“イエ校長、鼻を齧った、でなくて花岡実太でナイノ?”と毎度訂正する、そのイントネーションをしょっちゅう真似しては怒られていた。花岡実太という名前は脚本の井上ひさしが当時コントなどでよく使う名前であることは後に知った。谷村氏にとり山形弁はネイティブランゲージだが、東北出身の脚本家である井上ひさしが、コンプレックスであった東北訛りをギャグにするとはいい度胸であったと思う。 【E・H・エリック】 日記 2000年 08月 20日(日曜日) 新聞にE・H・エリック死去の報。ロイ・ジェームス、ジェリー伊藤と並ぶ、幼い私のガイジンさんのイメージを形づくった三人の一人だった。 【浪越徳次郎】 日記 2000年 09月 25日(月曜日) マリリン・モンローが来日して癪を起こしたとき、治療に呼ばれて全裸の彼女に対面したという“戦後史”の生証人、浪越徳次郎氏死去九六歳。長寿はやはり指圧の効果か。正直なところ、もう大分前に亡くなっていた、とばかり思っていた。“指圧のココロォ、母ゴコロ。押せば命の泉涌くゥ・・・・・・”というフレーズは、いったい今、どれくらいに通じるのか。 【工藤栄一】 日記 2000年 09月 25日(月曜日) それから、最後の映画屋、と呼びたい工藤栄一監督死去、七一歳。学生時代、蒲田の東映系名画座の薄よごれたスクリーンで『十三人の刺客』を初めて観たときは、興奮で体がブルブルと震えたものである。わが映画観賞のバイブル『脇役グラフィティ』に、“『七人の侍』よりこっちを西部劇にリメイクすべきだ”とあり、千恵蔵にリー・マーヴィン、寛寿郎にエミリオ・フェルナンデス、菅貫太郎にピーター・フォンダ・・・・・・などというキャスティングごっこを楽しげにやっていた。今の映画ファンはあまりこういうこと、やらないねえ。どの新聞も死去の報に“『必殺』シリーズの・・・・・・”と書かれていたのがちと寂しい。 【林家珍平】 日記 2000年 11月 06日(月曜日) 林家珍平(テレビの銭形平次のガラっ八)死去。享年60歳。一応三平の弟子ではあるが、落語家系図にも載っておらず。俳優に専念していたものか。こういう人が三平門下には多かったが、いま、みなどうしているのだろう。テレビ版『ハレンチ学園』でパラソル先生をやっていた人も、確か林家だった筈。 【東野英心】 日記 2000年 11月 16日(木曜日) 昨日の夕刊に、俳優・東野英心死去の報。掲示板などではZAT副隊長追悼、とみな言っている。“なんでZATだけ副隊長が指揮しているんだ?”と、子供心に思ったのが、記憶に残っているのだろう。私もあの役は好きであるが、それより、彼の顔は70年代NHK大河ドラマの常連(東野孝彦名義)として記憶に強く残っている。彼の演じた山内一豊や井上聞多は、ずうずうしさと愛敬を兼ね備えた、実にいいキャラクターであった。確か『署長マクミラン』で、ジョン・シャックが演じた部長刑事の声もアテていて、血筋のよさと、顔にとどまって性格にまで及ばない、適度なアクの強さがNHK好みなんだろうな、と思っていたものだ。その後も中学生日記の先生とか、NHK的な役柄に俳優としてとどまってしまったのが実に惜しい。さらにふてぶてしい悪役などを、この人が演じるのを見てみ たかったものである。 【鈴木その子】 日記 2000年 12月 06日(水曜日) 電光ニュースで鈴木その子死去の報、ちょうどトキノ銀座店の前だったのに驚く。 【福田純】 日記 2000年 12月 08日(金曜日) 夕刊を見たら、福田純監督の訃報。三日に亡くなっていたとやら。享年七七歳。ゴジラ新作の話題で盛り上がっているときに、ひっそりと昭和ゴジラの足跡を刻んだ監督が亡くなる。これもまた因縁か。一度だけ、間近でお酒をお相手させてもらったことがある。ゴジラの再ブームで、ビデオやLDの印税がちょくちょく入ってくるんだけど、全部競馬に使っちゃってるよ、と笑っておられた。“岩波新書から、『娯楽映画の作り方』って本を出さないかと言ってきたんだけど、娯楽映画に作り方なんかないよ、って断っちゃった”とも聞いた。惜しい。たとえ本人に自覚がないとしても、『ゴジラ』『若大将』と、変革期東宝で、二本の人気シリーズを初代から引き継ぎ、その路線を時代の変遷に合わせて、着実なドル箱として定着させた実力派だ。構成・編集のよろしきを得れば、日本映画の、これまで語られなかった一面の記録となっただろうに。福田作品は演出の大味さがよく指摘されたが、それは、氏が助監督としてテクニックを学んだのが大作監督稲垣浩のもとだったからであり、氏が監督に昇進した後は、日本映画界は、残念ながらその腕を存分にふるえる大型映画を撮らなくなってしまっていたのである。黒沢年男主演のハードボイルドアクション『野獣都市』では小技をきかせた演出に見事な腕をみせているという話だが、私は未見。ゴジラもので一本、好きな作品を挙げるとすると、『地球攻撃司令・ゴジラ対ガイガン』か。特撮シーンがライブフィルムを乱用していて評判の悪い作品だが、演出はナンセンスとサスペンスを混在させたシャレた味で、偉大な本多猪四郎の影をやっと払拭した新感覚のゴジラ映画になり得ていた。 【塚原尚人】 日記 2000年 12月 13日(水曜日) 留守録に、数人の知り合いから、元・官能倶楽部メンバーの塚原尚人氏の訃報が伝えられている。驚いて官能倶楽部パティオをのぞく。どうやら事実らしい。司法解剖に回され、今日あたりが葬儀であった、とのことである。大いに驚きはしたが、意外性はまったくない。やっぱりこうなったか、という感じである。 塚原氏は今年はじめあたりから、睡眠薬と向精神薬を大量に服用し、夏ころにはそれでリストカットしての自殺未遂まで起こしている(いずれもネットで自分からそれを吹聴し、こちらにも伝わってきていた)。てっきり自殺か、と思ったのだが、ネットあちこち回って情報を仕入れたところによると、仕事の打ち合わせを終えた後でのクスリの服用量を誤っての事故死であるらしい。自殺でなかったことのみが唯一の救いだろう。だが、私が真っ先に思い浮かべたのは、ボードレールがポーの死に対して述べた“このような死はほとんど自殺、ずっと以前から準備されてきた自殺というべきものである”という言葉であった。意識的、無意識的に関わらず、彼の死は、彼自身によってコースを定められ、そこに突き進んでいった末のものであった(やはり自殺なのでは、という未確認情報もあった)。 彼の死について、述べたいことは多々、ある。今年一月の日記で、私は彼の人間性を徹底して批判した。その意見を変える気はさらさらない。この死と、それにまつわる、私の知っている(本人から直接聞いた)範囲内の情報においても、その死の理由についていろいろ予想がつく。だが、まだ彼の魂が中有に迷っているであろうこの時期に、それを述べるべきではあるまい。せめて四十九日過ぎまでは待とうと思う。だが、改めて、才能と死、ということをしみじみ思う。彼は若手官能作家としては人並み優れた才能を誇っていた人物であった。そして、彼が結果、このような死を迎えたのは、まさにその才能の故であったと思う。才能が無い者の悲劇を、私は数え切れないほど知っている。だが、才能がある故の、そして、その才能が、自分の望んだものでなかった故の悲劇も、また十指にあまるほど知っている。彼の悲劇は、まさにその典型的な例であった。それだけにやり切れない。また、腹立たしい。 いくつかのネットで、彼の死をやたら美化して慨嘆している人がいる。ナニヲ言ッテイヤガル、と憤りを覚える。伊丹十三が死んだとき、桜金造が、伊丹監督に自分くらい恩を受けた者はいないだろうが、と前置きして、しかし監督のこの死に方は最低の死に方である、とはっきり言い切っていた。しかり、塚原尚人の死もまた、最低の死である。二十七の早すぎる死は確かに痛ましい。しかし、その痛ましさに酔って、彼の死を正当化しようとする者は、懸命に生きている、他の全てのモノカキを馬鹿にしているのだ、と私は思う。同業者の死にこういう言葉を投げることはつらいが、それが彼にしてやれる最後の真心だ、と思う。 【如月小春】 日記 2000年 12月 20日(水曜日) 新聞に如月小春クモ膜下出血で死去の報。如月小春なる文字を見てすぐ、同名の寺内小春(脚本家)のことを想起し、寺内の脚色でNHKで放映された番組『イキのいい奴』のことを思い出し、あの番組の小林薫はよかったよなあ、おふくろがこの親方の役にミーハー的にハマっていたなあ、などと、しばらくノスタルジーにふけるも、よく考えてみれば如月小春とはなんの関係もない感慨なり。 【ジェースン・ロバーズ】 日記 2000年 12月 27日(水曜日) 帰って夕刊を見たら、ジェースン・ロバーズ死去の報。大好きな役者だった。代表作はオスカーを取った『大統領の陰謀』での、ニクソン大統領を追い詰める新聞社のデスク役だろうが、NHKで放映されたミニ・シリーズで、同じようなタイトルの『権力と陰謀』では、追い詰められる方のニクソン(劇中ではディクソン)を演じ、こちらの方が(声をアテた西村晃もうまかったが)数等印象的な大芝居だった。どっちの役でも、机の上に足をデーンと投げ出す行儀の悪いことをしていたが、これが彼 の得意の人格表現、だったのか?
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- 【イングリッド・チューリン】 日記 2004年 01月 10日(土曜日) ネットでイングリッド・チューリン死去の報。ベルイマン映画の名女優、ではあるのだが、そこらの作品は教養としてフィルム・センター等で観たものが多く、リアルタイムとしては『カサンドラ・クロス』(76)の怖い顔した女医のおばさんとか、『ナチ女秘密警察・SEX親衛隊』という凄いタイトルで当初は洋ピンとして公開された『サロン・キティ 鉄十字の愛人』(76)の怖い顔した高級娼婦館のおばさんとか、とにかく怖い顔したおばさん役と言えばこの人、であった。 【加藤道子】 日記 2004年 02月 01日(日曜日) 新聞に訃報二つ、ラジオ声優加藤道子氏死去、84才。第一回紅白歌合戦(もちろんラジオ)紅組司会者というから、放送の歴史そのものみたいな人である。ただし、第一回というのは1951年、『歌合戦』というタイトルになってからであって、その前身である『紅白音楽試合』(GHQのクレームで“合戦”の文字はまかりならんとされて題名を変更)は1945年、司会は水ノ江滝子と古川ロッパだった。水ノ江滝子の方はまだ生きているんだから凄い。 【10代目桂文治】 日記 2004年 02月 01日(日曜日) さらに10代目桂文治死去、80才。パルコのCMでスクーターに乗って走っていたのももう二十年くらい前だったか。あの起用は、要するに“最もパルコらしくない人”という意図でのものだったろう。その時期から、変遷する世の中とは次元を違えた、寄席という、時の止まった、狭い世界に生きていた人であり、それ故に価値のある人だった。私はこの人の高座は、前名の伸治の時の方がよく聞いていたと思う。子供には大変にわかりやすく、笑える落語ばかりで、それだけに“まあ、あまり大物の人じゃないナ”と、小生意気なことを思っていた。今にして思えば、この人の伝えていた、いかにも長屋の八っつぁん熊さんといった雰囲気を、もっと味わっておけばよかったかな、とも思うが。 【堂垣内尚弘】 日記 2004年 02月 03日(火曜日) 新聞に堂垣内尚弘・北海道知事の訃報あり。私が中学校一年のときから、なんと3期12年、北海道知事を務めていた。土木業界出身で、『道路の路肩と法面』などという専門的著述もあるが、柔道部出身のスポーツマンで、そのイメージ通りにバイタリティ満々、札幌オリンピック招致に関わる市郊外再開発、炭坑閉山に代わる観光地としての道北の見直し、スキー場誘致によるウインタースポーツの奨励など、“ビジネスとしての北海道開発”を推進し、彼の任期中が戦後の北海道の最盛期にあたることは、まず間違いないだろう。彼の持っていたビジネスマンとしてのセンスは、時に自民権力との癒着を騒がれたりもしたが、後に彼の後を襲って知事に就任した社会党系の横路孝弘氏(彼は代々の政治家一族)が行った『食の祭典』などのイベントのことごとくが失敗に終わったのと、好対照である。 出身地の知事とはいえ、私がこのような一地方政治家のことを書き記すのは珍しいとお思いの方もいらっしゃると思うが、世の中は因縁であり、この人の存在が私の青春期のアイデンティティ確立に大きく関わっている。彼がオリンピック招致がらみで市郊外に文化施設をやたら建てまくったおかげで、オリンピック後、それらの施設がほとんどガラ空き状態のまま、貧乏ファンサークルにも比較的楽に使用できるようになっていたことが、アニメや特撮の上映会、また研究会などの会合を開くにあたり、われわれ在サッポロのオタクたちに、どれだけ利したかしれない(前にも書いたが、地方都市の住人にとっては、上映会ひとつ開くのも、それ以前は機材や会場を自由に使用できる大学のサークルなどにほぼ限られた特権だったのである)。地下鉄をはじめとする交通網の整備が、ただでさえ雪に閉ざされ引きこもりがちになる北国のオタクに、冬の間もせっせと会合で顔を合わせて情報交換や同人誌の制作に携わらせることにもなった。時代と一文化ジャンルの勃興期がたまたま重なった偶然、と言えばそれまでだが、私という人間の人格形成に、この人の存在が数パーセントは、確実に影響を与えているのだ。向こうの方ではそんなこと思いもしていなかったと思うが、とりあえず一オタク・唐沢俊一として、心からお礼を申し上げ、またご冥福を祈るもの である。 【手塚しげお】 日記 2004年 02月 10日(火曜日) 元スリーファンキーズの手塚しげお、6日に死去。62歳。“♪カナカナカナカ、ナカナカ見つからない”は今でもよく鼻歌で出る。芸歴を調べたら、『仮面ライダーストロンガー』で奇械人ゴロンガメ、なんてのをやっていたのか。うーむ。ゴロンガメだからいけない、というわけではないが、せめてギリザメスだとかガラガランダだとか、もうちょっとまともな名前の怪人だったら、と 思ってしまう。一般の人にはどちらも同じか。 【高木均】 日記 2004年 02月 13日(金曜日) 朝刊に俳優の高木均氏死去の報。ムーミンパパ、トトロの声などで子供たちにもおなじみの人ではあるが、その顔は容貌魁偉、という形容が最も適当するであろう人で、その怖いご面相をいかして、日活で団鬼六作品などSMものによく助演していた。“声が顔を裏切るのがいい役者の条件”とは井上ひさしの説だが、それで言えば、実にいい俳優と言えただろう。NHKの『新・坊ちゃん』(脚本・市川森一)では漢学の先生役で、原作では“愛嬌のあるお爺さん”としか書かれていない役だが、例の巨体とギョロ目で一癖ある守旧派の悪役として演じ、東京風を吹かす下条アトムの野だいこに鉄拳制裁を加えていた。ご冥福をお祈りいたします。 日記 2004年 02月 18日(水曜日) このあいだのこの日記で俳優・高木均氏の訃報に対する感想を書いたが、産経新聞が、社会面『葬送』欄に、葬儀の模様を大きく取り上げていた。さすがにSM映画の常連であった、などということは書かれていないが、“「文学座三大奇優」と称されるほど、独特の存在感を持つ役者だった”と、いち脇役俳優としては異例の大きな取り上げ方をしている。葬儀には野沢雅子、肝付兼太など声優仲間が多く参列し、出棺時には『銀河鉄道999』のラストシーンの、高木氏自身によるナレーション“さらば”の声が流されたとか。このあいだの日記では井上ひさしの言葉を引いたが、その井上氏の作詞で高木氏が歌った『ムーミンパパのうた』を思い出した。 「雲の上には なにがある 雲の上には 空がある 空の上には なにがある 空の上には シドがある ドレミファソラシド」 ……空の上、シドの世界に旅立った名優に、改めて黙祷。 【網野善彦】 日記 2004年 02月 28日(土曜日) 朝刊に網野善彦、谷エース、伴野朗などの各氏の訃報。網野氏の『異形の王権』や『日本中世の民衆像』とかの中世史観には、お定まりではあるが一時かなりハマッたものである。なにより、農民がただ、日がな暮れがな田畑を耕しているだけという、パッとしないイメージだった日本の民衆史を、海の民によるダイナミックな文物交流をバックにした、スリリングでカッコいいものとして呈示してくれた功績は大きいと思う。ただし、あまりに面白すぎて、読んでいるうちにホンマかいな、という疑念がわき始めるのも確かであり(江上波夫の騎馬民族説もそうだった)、また、国家という主義や概念を嫌う人々が、その思想的よりどころのようにして網野史観を持ち上げる風潮にも、ちょっと違和感を感じていたことは確かである。そういう色眼鏡を外した視点から氏の学術的業績を確認することが、難しくなってしまっているのだ。 【42代横綱・鏡里】 日記 2004年 03月 02日(火曜日) 42代横綱・鏡里死去、80歳。突き出た太鼓腹から“土俵の満月” “錦絵の相撲取り”と称えられた、とネットでの記事にあったが、キネマ旬報で以前、誰だったかが(古田タクだったか?)が、“爬虫類の鏡里”というアダ名があった、と紹介していた。『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』でジャバ・ザ・ハットを見ていたら、その名前を思い出したんだそうである。 【神山卓三】 日記 2004年 03月 17日(水曜日) 読売朝刊に声優の神山卓三氏死去の報。敗血症、72歳。『狼少年ケン』の悪役である虎、熊、ゴリラの(インドが舞台なのにゴリラがいるというのがこの時代のアニメの融通だが)トリオのうち、一番のコメディ・リリーフであるゴリラ役で知った名前。この時、私は5歳。つまりは、本当に子供の頃から、私が育ててもらった声、なのである。このゴリラに限らず、『ハッスルパンチ』のヌーとか『未来少年コナン』のドンゴロスとか、悪役ではあっても、必ずその底にどこかにくめないユーモラスさを感じさせてしまう声質で、子供たちに本能的に愛される声の人だった。ひょっとして、代表作『チキチキマシン猛レース』のケンケンが、もっとも冷酷な悪党役だったかもしれない。リクツ抜きで寂しい。無闇に寂しい。 【いかりや長介】 日記 2004年 03月 21日(日曜日) いかりや長介さん死去、72歳。私はクレージーキャッツにハマッていた人間なので、正直な話、ドリフターズをあまり評価して来なかった。お互いに主演映画を数多く残しているが、クレージーが東宝の明朗スラップスティック路線で行っていたのに対し、ドリフは松竹の人情喜劇路線が色濃く、どことなく泥臭くてこれもあまり好みではなかった。『全員集合!』よりは当然のことながら毒の強い『ひょうきん族』の方を贔屓していたし、ドリフターズの番組で毎週楽しみにチャンネルを合わせていたのは『飛べ! 孫悟空』くらいだったと思う。……にもかかわらず、ドリフの価値を私が大いに認めるのは、これくらい、教師やPTAにメノカタキにされたコメディアンたちも、まず絶後であろうと思うからである。小学六年生の修学旅行時、バスの中で歌う歌にドリフのものを入れることを認めよ、と、代表の一人になって職員室に談判に行ったことがある。当時はそういう手続きを踏まないと、ドリフの歌を“学校行事で”歌うことは禁じられていたのである。学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”と言われて、無難なところを、と思い『ツンツン節』のいかりや長介の歌う 一節、 「ボクはしがない婿養子/結婚九年目離婚沙汰/家土地財産妻のもの/鍋釜子供はボクのもの」 という部分を歌ったら、苦笑して認めてくれた(その教師が実際婿養子だと知った のはずいぶん後のことだった)。 昭和50年代には、二〜三ヶ月に一度は必ず、新聞のテレビ欄に、“食べ物を粗末にするドリフのコントは許せない”といったような投書が掲載されていて、それを読むのが楽しみであったものだ。若いうちは、大人が自分たちの文化を理解できないことが嬉しいものである。加藤茶の“ちょっとだけヨ”や、荒井注の “なんだ、バカヤロー”、さては志村けんの“カラスの勝手でしょ”にいたるまで、ギャグとしてはどれも大したことないものなのに、痺れるような快感があったのは、そのギャグを口にすることで大人たちの神経をかき乱せる、ということを子供たちが本能的に知っていたからであった。“子供にとって一番オモシロイことは、大人の嫌がることである”という原則を、これほど忠実になぞったコメディアンたちはいなかったと思う。メンバー中、もっとも大人であり常識人であるいかりやにとって、彼らの暴走の度合の目盛は、常に自分の中にあったのではないか。親たちと同じ世代で、親たちからワースト番組と目される番組を作り続けるという苦悩もあったと思う。きちんと丁寧に作り込んだ番組に彼がこだわっていたというのも、その人気がいかに危険な場所に位置しているものか、を身を以て理解していたためだろうと思えるのである。 【岩田次夫:イワエモン】 日記 2004年 03月 24日(水曜日) コミック・マーケット運営事務局の岩田次夫氏、というより一般にはコミケカタログのイワエモン氏死去の報があちこちから入る。享年50歳。コミケという文化を日本に定着させた実質的な人物である。ポルノ規制、オタク批判などでコミケ運営に対しさまざまな口出しをしてくる文化人たちに、常に実際の現場を統括している者の立場から、きちんと論理的に対応をしていた姿が印象的だった。たまたま、今読んでい る『フレッド・ブラッシー自伝』に、こういう言葉がある。 「人間はときどき運命的な職業に出会える。私の場合、それは、レスラーという職業だった。いつの時代でもこの業界のためになりたかった。それは自分の身と同じくらいにこの業界が好きだからだ」 ……“レスラー”の部分を“コミックマーケット運営”という単語に変えれば、それを岩田氏の言葉と言って疑う者はいないのではないだろうか。早すぎる死に暗然た る気持ちになる。 【下川辰平】 日記 2004年 03月 26日(金曜日) ニュースで下川辰平氏死去の報。72歳だが、92歳の母堂が葬儀に出ている様が放送されたのに驚く。これからはこういう光景も増えるだろう。下川氏は最後に見たのが『ぶらり途中下車』の旅人役だった。つい、走り出して、“いやあ、『太陽にほえろ!』の頃の癖がまだ抜けなくて……”と笑っていたのだが。下川氏くらいのベテランなら役柄が固定しても仕事は来るが、又野誠二あたりだと、他に使い道がなかったのかも。それにしても、このところ訃報続く。倒れたチョーさんとは別のチョーさんが死んだかと思ったらまた別のチョーさんが亡くなったわけである。 【三ツ矢歌子】 日記 2004年 03月 25日(木曜日) 女優の三ツ矢歌子さん死去の報。晩年は自身の病気や、子供の不祥事などで、傷心の表情をブラウン管で見ることが多かったように思うが、われわれの世代にとっては、テレビをつけるといつも映っているお母さんの顔、であった。大学に入ってからさかのぼって名画座めぐりで観た、新東宝時代の彼女は清純のきわみ、というような美少女で、タイトルこそ『肉体女優殺し』とか『ヌードモデル殺人事件』などという末期新東宝的なキワモノであっても、彼女のみは常に清らかな役(殺される肉体派女優やヌードモデルの妹役)であり、沼田曜一や林寛に襲われ、アワヤというところで宇津井健に救われるのである。だから、石井輝男の『天城心中・天国に結ぶ恋』で演じた愛新覚羅慧生(映画では王英生)役でも、モデルとなった満州国皇帝の娘は実際に死んでしまうわけだが、三ツ矢歌子だけは絶対、助かるものだと思ってしまい、最後に やはり死んでしまったときは大ショックだったものだ。 追悼と言えばもうひとつ、S井さんから美食MLで、能登のさんなみに旅行するときにいつも用いていた能登鉄道がいよいよ廃線とのニュースが。 【佐藤まさあき】 日記 2004年 03月 26日(金曜日) 他に、劇画界の草分けである佐藤まさあき氏も今月11日に亡くなっている。 http //www.comicpark.net/ 今度文庫化される『愛のトンデモ本』の中の『堕靡泥の星の遺書』評が追悼になってしまうのだなあ。死去の件を書き加えなくては。また、それに先立つ9日にはゴー ルデンハーフのルナもひっそりと亡くなっていた。 http //music.goo.ne.jp/contents/news/NMS20040309-s-19/ これも、今度の『トンデモ本の世界S』に、尼さんマニア本『アンチクライスト』のことを取り上げているので、追悼の言葉を添えておくべきか。作品は『修道女ルナ の告白』なのであるが。 【うしおそうじ】 日記 2004年 03月 30日(火曜日) 新聞に特撮プロデューサーうしおそうじ(鷺巣富雄)氏死去の報、82歳。実は私の中での特撮主題歌の裏フェイバリット(表フェイバリットは多すぎてちょっとこれ一本、というのが絞れないが)というのが、うしお氏の会社“ピープロ”の制作になる『風雲ライオン丸』の主題歌『行け友よライオン丸よ』なのである。渡部宙明や菊池俊輔を主流とした、いわゆる特ソン節とはちょっと違う、西部劇調の奥行きのある曲(筒井広志。ちなみにこの人も数年前亡くなっているが、この曲でウエスタン調、『とびだせ! マシーン飛竜』でブルーグラス調と、西部の匂いの香る名曲が多い)が印象的ということもあるが、ちょうどこの番組がリアルタイムで放映された時期、私は中学三年生。普通なら受験を期に、アニメや変身モノ番組からは足を洗うところを、敢えて(親や教師の白い眼を耐えながら)こういう番組を見続けることを選択した、つまり語を変えて言えばオタクとして生きることを人生の中で意識的に選択した最初の時期の作品だった。従って、どうしても、その曲を聴いたときの思い出に、いささか胸苦しくなるようなせつなさが伴って甦るのである。中でもこの曲は、特ソンらしからぬ哀感、孤独感をただよわせていて、印象的な曲だった。エンディングの、『行くぞ! ライオン丸』も、脳天気な明るさの中の孤独、みたいなものがしみじみ感じられる不思議な曲で、いまだにときどき口ずさむ。 世の中には二種類の人間がいる。一流しか愛さない人と、二流のどうしようもなさも、共に愛することの出来る人である。うしおそうじ率いるピープロ特撮のファンはまぎれもなく、その後者に属するタイプである。ピープロは、とにかく弱小プロダクションであった。『スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)』などを見ていれば、たとえ小学生であっても、“あ、これはお金(制作費)のない貧乏番組なんだ” とわかったはずである。番組末期に至っては、よくこんなショボい絵しか撮れないほど金のない中で、まがりなりにも毎週、特撮番組を作り続けられているものだ、と逆に感心していたくらいである。『ウルトラマン』が明治座や新橋演舞場で演じられる芝居だとすると、『スペクトルマン』は浅草の芝居小屋の大衆演劇といった感じであった。いわば手作りの特撮番組だったのだ。おまけに、金ばかりでなく、時間的余裕すらピープロにはなかった。下記サイトを読むと、まさにこの番組は、とにもかくにも完成して放映されたことが奇跡のような状況下で制作されたということがわかる(なるほど、新東宝の監督が撮ったからゴリの円盤に『吸血鬼ゴケミドロ』のあの円盤が流用できたのか……)。急場に作り上げた故の欠陥シーンの手直しを要求する編成局長に対してとった別所プロデューサーの奇策は爆笑モノである。とにかく面白いからご一読を。 http //van-dan-emon.web.infoseek.co.jp/k/pprox/px1_01.htm もっとも、このサイトは“事実をもとに再構成したフィクション”である。実際には、こんな凄まじい状況をこのように感動的な話にしてしまっていいものかどうか、かなりの疑問が残る。また、ここで多くのスタッフが、“僕はうしおさんと仕事をしたいのであって、ギャラなんか問題でない”と発言しているのも、『マグマ大使』出演者へのギャラ未払い問題が今なお話題になることから考えると、事実かどうか。しかし、それはさて措いて、間違いなく感じ取れるのは、極限状態の中で作品を作り上げていく現場の緊張と高揚であろう。世の中には二種類のクリエイターがいる。“いいものを作りたい”と思う人と、“いいものであろうとなかろうと、とにかく作りたい”と思う人である。うしおそうじ氏はまさに、後者であったように思われる。円谷英二にあってうしおそうじになかったものは(まあ、それはいろいろあるだろうが、そのひとつは)映像に対するビジョンであった。思想、と言い換えてもいい。それは東宝という後ろ盾を持って、特撮監督のエリートコースを歩いてきた円谷に比べ、一時はマンガで食いつなぎながら、野から這い上がって特撮業界に食い込んでいったうしおが、その苦労の過程で置き忘れ、失ってしまったものだったかも知れない。その差が、作品の質(品格)に現れている。だが、考えてみれば、映像の楽しさという特撮作品の根元から言えば、ビジョンも品格も、所詮は付け足しのものに過ぎない。いや、そういう余計なものがないだけ、『スペクトルマン』からも『快傑ライオン丸』からも、特撮ヒーローものの原点とでも言いたい、オモチャ箱の中をのぞいたような驚きと楽しさが伝わってきていた。いま、マンガや映像の業界で活躍している人に、驚くほど、ピープロ作品のマニアが多いことでも、それはわかると思う。黙祷。 今日も去って行く 明日もひとり行く ライオン ライオン ライオン丸 行こう戦いの旅 行こう地の果てまでも (『行くぞ! ライオン丸』より) 【ピーター・ユスティノフ】 日記 2004年 03月 30日(火曜日) もう一人、奇遇にも同年齢の82歳で、ピーター・ユスティノフ死去。新聞を見ていた母が“あらア、惜しい!”と叫んだ。新聞には『ナイル殺人事件』などのポワロを代表作として掲げてあったが、個人的にはハンフリー・ボガートと共演した『俺達は天使じゃない』の丸まっちいデブの毒蛇使い、ジュール役が大好きである。母はまた、『クオ・ヴァディス』のネロ役の、燃えさかるローマを眺めながらハープを奏でるシーンが最高だった、と言う。名優には違いないが、英国俳優の例に漏れず、本業はあくまでも舞台であって、映画はアルバイトという感覚であったらしく、作品歴を見るとA級B級を選ばないゴタマゼ的なイメージがある。そう言えば、サンリオが一時アニメ製作に乗り出し、ギリシア神話を題材にした『星のオルフェウス』というツマラない作品を作ったのだが、世界進出を考えて日本語版と英語版を作って、英語のバージョンも字幕付きで上映していた。日本でそんなもの誰が観にいくか、と呆れたものだが、このとき、日本語バージョンのナレーションが伊丹十三、英語バージョンのナレーションをユスティノフが担当していた。日英二大インテリ俳優のナレーションというのがどういうものなのだか興味がわいて、結局、両方観てしまった経験がある。『ナイル殺人事件』以下のポアロは賛否両論(さすがに名演なのではあるが、なにしろ原作のポアロとイメージが違いすぎる)あるようだが、私は好き。もっとも、『ナイル……』は当時好きだった女の子を誘って観にいったあと、くどいて見事にふられた哀しい思い出があって、あまり冷静には語れない。
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- 【矢切隆之】 日記 1999年 12月 10日(金曜日) 銀行に寄り、雑用二、三済ませて家に帰ったら、官能倶楽部メンバーでこの春に亡くなった矢切隆之氏の追悼文集が送られていた。二十代から三十代、『文藝』で嘱望された純文学の徒であり、数冊の作品集も出版したあと、四十代から官能小説に転じて人気作家となった矢切氏に対し、ジュンブンガクの仲間からの風当たりは強かったらしい。すでに官能作家となって十五年以上たってなお、しかも旅先で、 「吉本隆明に師事した者が官能小説を書いているとは何事だ。殺してやりたい」 と言われた、という話がこの文集の中にある。矢切氏のそのときの心境を思いやることとは別に、いかにもアマチュア的なその物言いに笑ってしまう。今や文学が官能小説に学ぼうとしているこの時代に。 文集贈ってくれた藍川京さんに礼状書く。矢切さんを悼む気持ちと同時に、その死をまるでわれわれのせいにするような勝手な説教をブチあげ、官能倶楽部に後足で砂をかけて去っていった館淳一氏への怒りもあらためてフツフツ湧いてくる。あのときはその態度に呆れ返って血圧が上がったものだ。 【デズモンド・リュウリエン】 日記 2000年 01月 16日(日曜日) 新聞に、先日交通事故で亡くなった007映画の“Q”役、デズモンド・リュウリエンのことが載っていた。Qがあまりのはまり役でイメージが強くなりすぎ、他の映画の出演依頼がとだえたため、新作の撮影期間以外は年金でつましく生活していたんだそうな。・・・・・・これはわれわれにも言えることで、得意分野を持つのはいいが、あまりに“○○の××さん”などと言われてイメージが固定すると、その分野が流行遅れになったとき、仕事がパッタリ絶えることになる。以前、芸能プロダクションの先輩がナベプロの社長の言葉として、“プロダクションに(収入を支える)柱が一本しかないのは危険である。二本でも、一本が欠ければ屋台がグラつく。柱は三本、作っておきなさい”というのを繰り返し語っていた。フリーのモノカキで一生をまっとうしようとするなら、“それだけで食える”得意分野が三本は必要だろう。 【きんさん】 日記 2000年 01月 24日(月曜日) きんさん死去の報道あり。あまりマスコミがひっぱり回すから早死にをした、というようなことを言う奴はいないかな、といくつかチャンネルを回す。 【荒井注】 日記 2000年 02月 09日(水曜日) キオスクの新聞に荒井注死去の報。体が悪いことは知っていたが、今年の正月、ドリフターズの現メンバーと一緒にフジカラーの七福神のCMで毘沙門天を演じており、元気になったんだ、と思っていたところだったので驚く。 【わちさんぺい】 日記 2000年 03月 10日(金曜日) スポーツ新聞で、わちさんぺいの死去を知る。子供のころ、まっさきに名前を覚えたマンガ家の一人だった。その当時から、すでに古いマンガだな、というイメージが子供心にした人だったが、死亡記事で初めて顔を見た。かなり大きく記載されていたのは、釣り情報をずっとスポーツ紙で担当していたからだろう。 【小渕首相】 日記 2000年 05月 15日(月曜日) テレビで小渕首相死去のニュースいろいろ。ゆうべ二朝庵で二次会やっているときにこのニュース流れて、さて“誰がスイッチ切った”で盛り上がった。SFマガジン残り一気に書き上げてメールする。 【三浦洋一】 日記 2000年 05月 16日(火曜日) 三浦洋一死去のワイドショーを見ているうち、急にガックリと落ち込み、鬱状態のようになって何も手がつかない状態になるが、やがて “三浦洋一の死んだことはオレには何の関係もないじゃないか”と気がつき、急に正常に戻る。 【ジャンボ鶴田】 日記 2000年 05月 16日(火曜日) ジャンボ鶴田死去の報。マニラで肝臓移植手術中、と聞いたとたん、“いくらで買った?”と反射的に考えるのは裏者のサガ。 【竹下元首相】 日記 2000年 06月 19日(月曜日) 竹下元首相死去、朝刊にはまだ載っておらず、テレビのニュースで見る。政治家の死が相次ぐ。今回の選挙で“代議士の定年を65歳にする!”と吠えてる若い人がいたが、“老人が生きがいを持って働ける社会を”というお題目が、なぜ政治の世界には適用されないのか、そこらへんの説明をしてくれると面白いんだがな。老害々々というが、今の日本の若い政治家に、本当に日本政治を変革し、しかも内外に山積した諸問題に対応できるだけの柔軟な思考力と実行力を持つ者がいるとは、自己申告以外寡聞にして聞かないのだが(田中角栄も中曾根康弘も青年議員の頃からズバ抜けた実力とパフォーマンスで圧倒的な注目のをされていて、しかもアレであった)。 【たかもちげん】 日記 2000年 08月 10日(木曜日) マンガ家、たかもちげんの死去を知る。『代打屋トーゴー』など、手堅く読ませる作品を描く人ではあったが、やはりこの人を語るならばあの大宗教マンガ『祝福王』を無視してはいけないだろう。呉智英がたぶんただ一人絶賛していたこの作品、当時私が講談社で仕事していて担当編集者から聞いた話では、読者アンケート最下位どころか、つまらぬわけがわからぬ早くやめろのお便りの嵐で、唯一掲載誌の編集長がドはまりし、“僕が編集長でいる限りいつまでも続けてください”と、まさに信仰告白してしまったという、異色中の異色の作品であった。オウム事件以降、日本ではあのようなマンガはもう描けなくなってしまったのではないか。 【谷村昌彦】 日記 2000年 08月 11日(金曜日) 脇役俳優谷村昌彦死去。『忍者ハットリくん』(もちろん実写版)の花岡実太先生が私にとってはインプリンティングで、校長に“鼻を齧ったくん!”と呼ばれて山形弁で“イエ校長、鼻を齧った、でなくて花岡実太でナイノ?”と毎度訂正する、そのイントネーションをしょっちゅう真似しては怒られていた。花岡実太という名前は脚本の井上ひさしが当時コントなどでよく使う名前であることは後に知った。谷村氏にとり山形弁はネイティブランゲージだが、東北出身の脚本家である井上ひさしが、コンプレックスであった東北訛りをギャグにするとはいい度胸であったと思う。 【E・H・エリック】 日記 2000年 08月 20日(日曜日) 新聞にE・H・エリック死去の報。ロイ・ジェームス、ジェリー伊藤と並ぶ、幼い私のガイジンさんのイメージを形づくった三人の一人だった。 【浪越徳次郎】 日記 2000年 09月 25日(月曜日) マリリン・モンローが来日して癪を起こしたとき、治療に呼ばれて全裸の彼女に対面したという“戦後史”の生証人、浪越徳次郎氏死去九六歳。長寿はやはり指圧の効果か。正直なところ、もう大分前に亡くなっていた、とばかり思っていた。“指圧のココロォ、母ゴコロ。押せば命の泉涌くゥ・・・・・・”というフレーズは、いったい今、どれくらいに通じるのか。 【工藤栄一】 日記 2000年 09月 25日(月曜日) それから、最後の映画屋、と呼びたい工藤栄一監督死去、七一歳。学生時代、蒲田の東映系名画座の薄よごれたスクリーンで『十三人の刺客』を初めて観たときは、興奮で体がブルブルと震えたものである。わが映画観賞のバイブル『脇役グラフィティ』に、“『七人の侍』よりこっちを西部劇にリメイクすべきだ”とあり、千恵蔵にリー・マーヴィン、寛寿郎にエミリオ・フェルナンデス、菅貫太郎にピーター・フォンダ・・・・・・などというキャスティングごっこを楽しげにやっていた。今の映画ファンはあまりこういうこと、やらないねえ。どの新聞も死去の報に“『必殺』シリーズの・・・・・・”と書かれていたのがちと寂しい。 【林家珍平】 日記 2000年 11月 06日(月曜日) 林家珍平(テレビの銭形平次のガラっ八)死去。享年60歳。一応三平の弟子ではあるが、落語家系図にも載っておらず。俳優に専念していたものか。こういう人が三平門下には多かったが、いま、みなどうしているのだろう。テレビ版『ハレンチ学園』でパラソル先生をやっていた人も、確か林家だった筈。 【東野英心】 日記 2000年 11月 16日(木曜日) 昨日の夕刊に、俳優・東野英心死去の報。掲示板などではZAT副隊長追悼、とみな言っている。“なんでZATだけ副隊長が指揮しているんだ?”と、子供心に思ったのが、記憶に残っているのだろう。私もあの役は好きであるが、それより、彼の顔は70年代NHK大河ドラマの常連(東野孝彦名義)として記憶に強く残っている。彼の演じた山内一豊や井上聞多は、ずうずうしさと愛敬を兼ね備えた、実にいいキャラクターであった。確か『署長マクミラン』で、ジョン・シャックが演じた部長刑事の声もアテていて、血筋のよさと、顔にとどまって性格にまで及ばない、適度なアクの強さがNHK好みなんだろうな、と思っていたものだ。その後も中学生日記の先生とか、NHK的な役柄に俳優としてとどまってしまったのが実に惜しい。さらにふてぶてしい悪役などを、この人が演じるのを見てみ たかったものである。 【鈴木その子】 日記 2000年 12月 06日(水曜日) 電光ニュースで鈴木その子死去の報、ちょうどトキノ銀座店の前だったのに驚く。 【福田純】 日記 2000年 12月 08日(金曜日) 夕刊を見たら、福田純監督の訃報。三日に亡くなっていたとやら。享年七七歳。ゴジラ新作の話題で盛り上がっているときに、ひっそりと昭和ゴジラの足跡を刻んだ監督が亡くなる。これもまた因縁か。一度だけ、間近でお酒をお相手させてもらったことがある。ゴジラの再ブームで、ビデオやLDの印税がちょくちょく入ってくるんだけど、全部競馬に使っちゃってるよ、と笑っておられた。“岩波新書から、『娯楽映画の作り方』って本を出さないかと言ってきたんだけど、娯楽映画に作り方なんかないよ、って断っちゃった”とも聞いた。惜しい。たとえ本人に自覚がないとしても、『ゴジラ』『若大将』と、変革期東宝で、二本の人気シリーズを初代から引き継ぎ、その路線を時代の変遷に合わせて、着実なドル箱として定着させた実力派だ。構成・編集のよろしきを得れば、日本映画の、これまで語られなかった一面の記録となっただろうに。福田作品は演出の大味さがよく指摘されたが、それは、氏が助監督としてテクニックを学んだのが大作監督稲垣浩のもとだったからであり、氏が監督に昇進した後は、日本映画界は、残念ながらその腕を存分にふるえる大型映画を撮らなくなってしまっていたのである。黒沢年男主演のハードボイルドアクション『野獣都市』では小技をきかせた演出に見事な腕をみせているという話だが、私は未見。ゴジラもので一本、好きな作品を挙げるとすると、『地球攻撃司令・ゴジラ対ガイガン』か。特撮シーンがライブフィルムを乱用していて評判の悪い作品だが、演出はナンセンスとサスペンスを混在させたシャレた味で、偉大な本多猪四郎の影をやっと払拭した新感覚のゴジラ映画になり得ていた。 【塚原尚人】 日記 2000年 12月 13日(水曜日) 留守録に、数人の知り合いから、元・官能倶楽部メンバーの塚原尚人氏の訃報が伝えられている。驚いて官能倶楽部パティオをのぞく。どうやら事実らしい。司法解剖に回され、今日あたりが葬儀であった、とのことである。大いに驚きはしたが、意外性はまったくない。やっぱりこうなったか、という感じである。 塚原氏は今年はじめあたりから、睡眠薬と向精神薬を大量に服用し、夏ころにはそれでリストカットしての自殺未遂まで起こしている(いずれもネットで自分からそれを吹聴し、こちらにも伝わってきていた)。てっきり自殺か、と思ったのだが、ネットあちこち回って情報を仕入れたところによると、仕事の打ち合わせを終えた後でのクスリの服用量を誤っての事故死であるらしい。自殺でなかったことのみが唯一の救いだろう。だが、私が真っ先に思い浮かべたのは、ボードレールがポーの死に対して述べた“このような死はほとんど自殺、ずっと以前から準備されてきた自殺というべきものである”という言葉であった。意識的、無意識的に関わらず、彼の死は、彼自身によってコースを定められ、そこに突き進んでいった末のものであった(やはり自殺なのでは、という未確認情報もあった)。 彼の死について、述べたいことは多々、ある。今年一月の日記で、私は彼の人間性を徹底して批判した。その意見を変える気はさらさらない。この死と、それにまつわる、私の知っている(本人から直接聞いた)範囲内の情報においても、その死の理由についていろいろ予想がつく。だが、まだ彼の魂が中有に迷っているであろうこの時期に、それを述べるべきではあるまい。せめて四十九日過ぎまでは待とうと思う。だが、改めて、才能と死、ということをしみじみ思う。彼は若手官能作家としては人並み優れた才能を誇っていた人物であった。そして、彼が結果、このような死を迎えたのは、まさにその才能の故であったと思う。才能が無い者の悲劇を、私は数え切れないほど知っている。だが、才能がある故の、そして、その才能が、自分の望んだものでなかった故の悲劇も、また十指にあまるほど知っている。彼の悲劇は、まさにその典型的な例であった。それだけにやり切れない。また、腹立たしい。 いくつかのネットで、彼の死をやたら美化して慨嘆している人がいる。ナニヲ言ッテイヤガル、と憤りを覚える。伊丹十三が死んだとき、桜金造が、伊丹監督に自分くらい恩を受けた者はいないだろうが、と前置きして、しかし監督のこの死に方は最低の死に方である、とはっきり言い切っていた。しかり、塚原尚人の死もまた、最低の死である。二十七の早すぎる死は確かに痛ましい。しかし、その痛ましさに酔って、彼の死を正当化しようとする者は、懸命に生きている、他の全てのモノカキを馬鹿にしているのだ、と私は思う。同業者の死にこういう言葉を投げることはつらいが、それが彼にしてやれる最後の真心だ、と思う。 【如月小春】 日記 2000年 12月 20日(水曜日) 新聞に如月小春クモ膜下出血で死去の報。如月小春なる文字を見てすぐ、同名の寺内小春(脚本家)のことを想起し、寺内の脚色でNHKで放映された番組『イキのいい奴』のことを思い出し、あの番組の小林薫はよかったよなあ、おふくろがこの親方の役にミーハー的にハマっていたなあ、などと、しばらくノスタルジーにふけるも、よく考えてみれば如月小春とはなんの関係もない感慨なり。 【ジェースン・ロバーズ】 日記 2000年 12月 27日(水曜日) 帰って夕刊を見たら、ジェースン・ロバーズ死去の報。大好きな役者だった。代表作はオスカーを取った『大統領の陰謀』での、ニクソン大統領を追い詰める新聞社のデスク役だろうが、NHKで放映されたミニ・シリーズで、同じようなタイトルの『権力と陰謀』では、追い詰められる方のニクソン(劇中ではディクソン)を演じ、こちらの方が(声をアテた西村晃もうまかったが)数等印象的な大芝居だった。どっちの役でも、机の上に足をデーンと投げ出す行儀の悪いことをしていたが、これが彼 の得意の人格表現、だったのか?
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- 【菊池章子】 日記 2002年 04月 08日(月曜日) 朝刊に菊池章子死去の報。78歳。小学生の頃、『懐かしのメロディー』でこの人が『星の流れに』を歌ったのを聞いて、母が“やっぱり本人の歌は違うわねえ。この歌は演奏からほんの少しはずして歌うところが、いかにもやさぐれた女の歌って感じがしていいのよ。若い歌手が歌うときちんと歌おうとするんで、ムードが台無し”と言った。それを聞いて感心した私は、たまたま家にあった『戦後歌謡ヒット集』というレコードで彼女の歌を繰り返し聞いて、そのやさぐれた女らしい歌い方をマスターした。あの当時の小学生で『星の流れに』を、ちゃんと“やさぐれた女の感じで”歌うことのできた小学生はたぶん日本で私一人だったろう。もちろん、その出来を人に聞かせて感心させるチャンスはなかったが。今でも私にはカラオケで、この歌を若い女性が“きちんと”歌うと、“ああダメダメ、この歌はね”と注意したくなってしまう悪癖があるのである。 【額田やえ子】 日記 2002年 04月 14日(日曜日) ゆうべの夕刊を読んだら、額田やえ子死去の報があった。刑事コロンボシリーズがやはり代表作か。それまで、外国テレビ番組の、声優は話題になることがあっても翻訳家が話題になることなどまずなかっただけに、コロンボと言えば額田やえ子、となったのはその大胆な話し言葉のくだき方がよほど印象的であったのだろう。外国モノで刑事が死体を“仏さん”というのも考えてみれば度胸の要る訳し方である。“ウチのカミサン”がなにより有名だったが、この人の好んで使う言い回しに、“よござんすか”があった。原文は“You see”だと思うのだが、コロンボも使うし、高慢な女性(たいてい被害者)が特によく使う。このシリーズに限らず、吹き替えで“よござんすか”が出てきたら、ああ、額田さんか、と思ったものだった。 【デーモン・ナイト】 日記 2002年 04月 20日(土曜日) 留守中に訃報のあった有名人、それほどなし。デーモン・ナイトが死んだくらいか。 【ワフー・マクダニエル】 日記 2002年 04月 23日(火曜日) 昨日の朝刊を読んでいたら、ワフー・マクダニエル死去という報。写真入りの扱いなのでへえ、と思う。インディアン系レスラーとしては出世頭だったか。もっとも日本での印象は薄く、“スタン・ハンセンが全日に引き抜かれた穴を埋める”と豪語してやってきて、猪木の延髄切にあっという間に仕留められてしまっていた。そのあと、ブッチャーとの抗争で売り出そうとしたがこれもパッとせず。アメリカでは黒人系・インディアン系・ドイツ系・アラブ系(加えて日系)といったレスラーの人種別抗争に高い需要があるが、日本では人種がどうあれひとくくりに“ガイジン組”であり、それを超えた個性を出さなければウケないのである。そこらへんを読めなかったのは、アメリカ・マットで売れてるという余裕からくる甘さであったろう。 【ルー・テーズ】 日記 2002年 04月 30日(火曜日) ルー・テーズ死去の報が新聞にあり。この人海外では強いことは強いが金にガメツイ、と嫌われていたようだ。評価する人ももちろん多いが、それは徹底した格闘芸のプロ、としての評価であるらしい。日本で神格化されているのは何と言ってもあの力道山をも恐れさせた伝説の強豪、というイメージがあるからだろう。聞いた話だが、自伝を出版したとき、内容があまりに赤裸々な裏話だったため、日本の版元が勝手に書き換えて武道の達人、みたいなストイックなストーリィにしてしまったという。ご本人はまったくそんなことを知らずに、あこがれの英雄と出会える、と目をキラキラさせて来日サイン会に並んだ少年ファンと握手していたというから、罪な話(誰に対して?)だ。 【G・A・エフィンジャー】 日記 2002年 04月 30日(火曜日) もうひとつ訃報、これは新聞(読売30日付朝刊)には載っておらずネットで知ったのだがSF作家G・A・エフィンジャー死去、55歳。悲運のSF作家と言われていたが、この早逝で悲運にもトドメがさされたという感じである。代表作・『重力が衰えるとき』(ハヤカワ文庫)は内容も凄かったが、訳者の解説に引用されている、アーバー・ハウス版のハーラン・エリスンの推薦文がもの凄く、感動のあまり一度読んだきりで全文を暗記してしまったほどである。後半を引用してみる。「よろしい、今回はこう言おう。たのむからおれの忠告を聞いて、『重力が衰えるとき』を買え。この小説はスケートをはいた蜘蛛のようにクレージーな、とてつもない傑作だ。これほど言ってもわからないなら、こっちにも考えがある。おまえの子供らと飼い犬は、われわれが預かった。いますぐこの本を買って読み、舌を巻いて感嘆せよ。さもなくば・・・・・・」・・・・・・およそ、本をお他人様に勧めようというなら、ここまで言わないとダメ、という見本のような文章である。私の文章宝鑑の中の一つ。なお、なぜエフィンジャーが悲運の作家なのかは、『重力が衰えるとき』の解説(浅倉久志)を読んでいただきたいが、ざっとしたことはここで。 http //home.catv.ne.jp/dd/fmizo/gravity.html 【柳家小さん】 日記 2002年 05月 16日(木曜日) 人間国宝・柳家小さん死去。87歳。芸としては好みではなかったものの、その存在が重石として、ありとあらゆる落語界の問題の噴出を上から押さえ込み、何とか安定させていたことは確か。さて、その重石が消失した今、その混沌の中から何が飛び出してくるか? それはそうとその死去を報じたスポニチアネックスの記事の“人情ばなしを得意とした”ってのは何だ、と首をひねる。大物落語家が死ねば必ず“人情ばなしを得意とした”と書くもの、と思いこんでいたのではないか? すぐその後に“長屋ものや職人ものを得意とした”とも書いてある。落語に対してあんまり知識がない記者が書いたのか、それともよほど混乱して書いたのか。まあ、他の誰かの訃報記事からのコピペをもとにしたものであろう。 芸能プロダクション時代、うちのような弱小に使えるレベルでない大物ではあったが、それでも思い起こせば2回ほどお仕事をさせていただいたことがある。横浜そごうホールでの寄席興業のとき、当時小野栄一の弟子で漫才をやっていた東野しろうという男が、自分は落研出身で太鼓の叩き方から仕込まれていると日頃自慢していて、じゃアと楽屋の名前札を書かせたら、“林家小さん”と書いて出しやがった。本人の入り寸前に同じく漫才で出演していた笑組さんが気がついて教えてくれてことなきを得たが、すぐその場でクルリときびすを返して帰られても、文句の言えない失態である。人を信じるもんじゃないな、と青くなって書き換えたのを思い出した。もう一回は平成三年の、これも横浜の教育会館寄席。入りが遅れるから、と電話があり、やがて入ってきたのを見たら、マネージャーの女性(生代子夫人亡き後の内妻だったというウワサがあったが)ともども、喪服姿だった。その朝、春風亭柳朝師匠が亡くなったのであった。 不思議と、楽屋での小さん師匠の姿というのは覚えていない。教育会館のとき前方をつとめ、袖に降りてきた花緑(当時は小緑)に、“おまえ、何演ったンだい”と訊いて、その口調が祖父のそれと師匠のそれとが微妙に混淆された自然な感じで、実によかったことを覚えているのだが、さて、本人が何を演じたかも覚えていない。一緒に仕事した芸人さんの高座はたいてい記憶しているのだが、小さん師匠のときだけ、袖でマイク調節しながら大いに笑ったのは確かだが、後は空白である。私の中にある噺家の美学(文楽、志ん生、圓生を頂点とする)に合わない人だったからなのだろうか。“芸人は色っぽくなくっちゃいけねえ”という基準からすると、やはり小さんという人は武骨に過ぎた。もっとも、それだけに子供にはわかりやすくて、私が落語を聞いて大笑いした最高記録は小学生のとき、この師匠の『浮世根問』において、である。あの時は笑い過ぎて死ぬかと思ったものだった。落語という遊蕩芸術がテレビにのることが危険視されずに家庭にとけ込めたのは、この人の存在が大きかったのだろう。話の時代背景を微妙にぼかすのがクセで、『道具屋』の“ライスカレーはさじで食わい”とか、『強情灸』の“アイスクリームみてえなのこさえちゃったナ”とかいうクスグリがいかにもとぼけた落語調で、九代目文治の“蕎麦をクーデター”とか、圓生の“わいろ、袖の下、コンミッション”などという英語使いの、そこだけ際だたせる方式とは違って、江戸情緒の中に自然にそういう言葉が入ってくる、不思議な味を出していた。 円丈の『御乱心』に、圓生脱退騒動のときの小さんの態度を弟子の夢月亭歌麿が絶賛するシーンがある。包容力があり、あわてず騒がず、落ち着いてはいるがここ一番でピシリと最も効果のある手を打つ。ここらへんは軍隊経験がものを言っているのであろう。あるいは武道をやっていたことからくる不動心か。芸至上主義の圓生と違って若手の自由な発想の高座を大いに認めていた(川柳川柳こと三遊亭さん生の芸を最初に認めたのは師匠の圓生ではなく小さんだったという)ことも小さんの考え方の柔軟性を物語る。ただし、落語協会に問題が多発しだしたのは、圓生から小さんに会長がバトンタッチしてからのことだ、ということも見逃してはいけない。柔軟性故に大量真打ち昇進、試験制度などという、そもそも落語界の体質に合わない制度を取り入れたことで、混乱は解決するどころか、さらに拍車がかかった。人の意見をよく聞くのはいいが、人の意見に態度が左右されがちだったという弱点もあった。圓生のように、最も芸の上手い人間が独裁制を敷く。はっきり言えばこれが団体を円滑に運営していくベストの方法なのである。しかし、時代の流れと小さんの性格は、そのような方式を受け入れられなかった。落語というものの存続に対する小さんの苦悩は、そのまま、現代の落語というものの抱える苦悩である。 【スティーヴン・J・グールド】 日記 2002年 05月 21日(火曜日) 講談社の大麻事件やミスドの添加物もみ消し事件などをネットで追っていたら、スティーヴン・J・グールド死去の報あり。60歳。顔写真には口ひげがあるが、確か若い奥さんもらって、彼女にヒゲはイヤ、と言われて剃っていたのではなかったか。再婚相手に引っ張り回されるようになると早死にをするな、やはり。果たして彼の一生はワンダフル・ライフであったか。ミスター高橋『プロレス至近距離の真実』(講談社文庫)を読む。例の『流血の魔術 最強の演技』の大ヒットで前著が文庫化されたのであろうが、私にとってはこちらの方がショッキングな本だったように思う。殺されたブルーザー・ブロディをリングの上での天才と認めながらも、あれほどトラブルメーカーだった男はいないとし、その天才ならではのエゴで、いかに同業者に憎まれていたかを書く。彼がプエルトリコで刺されて血の海でのたうち回っているとき、周囲のレスラーたちは誰も助けようとせず、指さしてゲラゲラ笑っていたというのが(著者も伝聞で書いてはいるのだが)一番ショッキングだった。まあしかし、ここまで憎まれるのもさすがというくらい、彼の一種アブない(興奮剤をやっていたらしいが)レスリングは魅力的だったなあ。昔、ブロディのレスリングを評して村松友視が“談志の落語”と言っていたが、確かにむちゃくちゃに相似形であった。ハンセンが志ん朝(わかりやすい名人芸)でブロディが談志(わかりにくい名人芸)、かつての われわれは談志志ん朝の二人会を毎度見ていたわけだ。なんたる贅沢! 【清川虹子】 日記 2002年 05月 25日(土曜日) 昨日、清川虹子死去。86歳。晩年は『ねじ式』『ガメラ3』『平成たぬき合戦ぽんぽこ』とすっかりカルト女優になっていた感あり。もっともガメラ関係の掲示板で“あのお婆さん誰?”みたいなことを言っているもの知らずもいたが。サザエさんのフネ母さんを今のファンはアニメの麻生美代子の上品な声でイメージしているだろうが、私らにとってはフネは江利チエミのサザエさんにおける、波平を尻に敷いているガラッパチな下町のお母さん、清川虹子であった。潮健児とは肝臓病仲間であって、東映の極道シリーズなどでさんざ共演した大先輩。潮さんの出版記念パーティでも発起人代表、また葬儀のときも委員長を務めていただいた。天下の清川虹子に“あら、あなたが潮ちゃんの社長さん? いい男だわねえ”と感心されたのは自分の容貌に関する、私の数少ない勲章のひとつかも知れない。もっとも伴淳を亭主にしていた人ではあるが。とにかく、本当にいい人だった。ただ、潮さんが清川さんを敬愛するあまり、私にも自分と同じ尊敬と親愛の情を彼女に抱くよう強要してきたのが、当時の私にはちょっと煙たかった記憶がある。潮さん一人で手一杯状態だった若輩者の私に、清川虹子は大物すぎた。結局、その気分を引きずったことで、清川さんと私の関係は潮さんの死で途切れてしまった。それがなければ私のような昔好きにとって、ロッパ一座などを肌で知っている彼女との付き合いは宝の山であったろうが。 【村田英雄】 日記 2002年 06月 13日(木曜日) なにか訃報日記みたいなおもむきだが、村田英雄氏死去。73歳。ライバル三波春夫に一年ちょっと遅れての死。70年代末に、NHKの番組『この人』(だったか『二人のビッグショー』だったか)で、犬猿の仲と言われたこの二人を共演させて歌謡ショーを実現させたことがあった(ディレクターは二人の登場カット数を合わせたりするのに死にそうな苦労をしたことだろう)この番組は他にも片岡千恵蔵・市川右太衛門のショーをやったりして、NHK全盛時の底力を見せていたと思うが、なかなか内容も感動的であった。 三波「戦後すぐに行われた、全国浪曲コンクールで、すでに少年浪曲師として一世を風靡していた村田英雄さんが優勝されました。もちろん、わたくしも出場しておりましたが、優勝は村田さんでした。その、底深い力にあふれた声に、わたくしは負けてさえ、なおほれぼれとする気持ちで聞き入っていたのでございます」 村田「浪曲が下火になり、田舎回りをしていたわたくしの耳に、三波さんの、東京での大活躍の報が届いてまいりました。矢も楯もたまらず上京し、そのステージを見に行ったわたくしは、その、浪曲の常識を破って縦横無尽、融通無碍に歌う華やかな舞台姿に魅せられ、ああ、この人は本当の天才なのだと感を深くいたしたものでした」 といった、わざとくさいライバル賞賛も、これくらいの大物同士だとピタッとイタにつくのである。もっとも、やはり村田英雄は不器用すぎ、三波春夫は器用すぎというのが持ちキャラで、その後で見せた二人浪曲でも、三波が大石内蔵助役を村田に譲り、自分は吉良上野介をいやらしく楽しげに演ずるという腹芸を見せていた。オタク世代にとって、三波春夫に『ルパン音頭』あれば、村田英雄には『真田十勇士の歌』あり。この二曲を両方とも入れているX2000は本当にエライ。文化勲章でもやりたいくらいである。 【室田日出男】 日記 2002年 06月 17日(月曜日) 室田日出男死去、ムラタヒデオの5日後にムロタヒデオが死んだのである。これもコクトーの言う、多少調子の狂った秩序。たぶんこの中間の3日間にムリタヒデオとムルタヒデオとムレタヒデオが日本のどこかで死んでいるのではないかと思われる。 冗談はさておき、64歳とは若い。川谷拓三が呼んだか。 若いころのこの人は立っているだけで怖い役者だった。この怖いは、天本英世が怖いとか、汐路章が怖い、というのとはちょっと違った怖さで、中学生くらいの私はこの人に、“近寄ったら意味もなく殴られるのではないか”という本能的な暴力に対する恐怖を、スクリーンから受け取った。役者としての作られた人格を超えた、リアルな怖さをかもしだしている人だった。いわば、映画という虚構からハミ出すリアルさで、石井輝男が彼を徹底して嫌ったというのも(『星を喰った男』に出てくる、『網走番外地』の看守役でロケに行ったときに監督が彼を嫌い抜いて、とうとう彼を降ろして、照明のおじさんをその役で使ったというエピソードのMという役者は室田氏である)わかるような気がした。映画は監督によるアーティフィシャルな完結した作品であり、そこを役者のリアルがハミ出して壊してしまってはまずいのだ。 そのリアルさを実録モノという新分野で上手く使いこなしたのが、深作欣二監督だろう。彼が松竹で撮った『恐喝こそわが人生』(1968)は、知的コン・ゲーム映画みたいに痛快に始まって、最後は暗ぁく主人公(松方弘樹)が殺されて終わり、という、日本映画の困った部分が強く出たような作品だったが、ここで最初、主人公のブレーンの一人として仲間になっている室田日出男は、中盤から旗色が悪くなると、“オレ、怖くなったからオリるわ”と、さっさと一人グループを抜けてしまって、後からまたからんでくるかと思ったらそれきりで、以降出てこない。この、映画っぽくないヘンにリアルな退場が、室田日出男の持ち味なのかも知れなかった。だから、この人がリアル感を排除しないと成り立たない特撮モノとかに出ると、いや、似合わなかった似合わなかった。『ジャイアント・ロボ』のブラック・ダイヤも『バロム1』のミスタードルゲも、今イチ印象が薄かったし、『イナズマン』のキャプテンサラー役は抱腹絶倒の珍演に見えてしまっていた。『宇宙からのメッセージ』のウロッコ役(志穂美悦子の従者)は例の不祥事で降ろされ、佐藤充が代役になったが、むしろ結果的にはよかったのではないか(まあ、彼が出ないでもあの映画はどうしようもないものではあるんだが)。要するにケレンの出来ない人、マジな演技しか出来ない人という印象で、そこらへん、ケレンたっぷりの安藤三男や吉田義夫、潮健児などの俳優が山のようにいた60年代の東映で、長いことくすぶっていたのも無理はないと思える。いま、追悼映画を選ぶとしたら、後年の枯れてからのもので『ドグラ・マグラ』と『眠らない街・新宿鮫』、怖いころので、しつっこく念を入れて殺されていた『0課の女・赤い手錠』か。あ、監督とケンカして途中でオリてしまい、撮り直す金がないので映画の中盤から同じ役で役者が代わってしまう(しかも女性に)という、『てなもんやコネクション』なる珍物もあったな。 【山本直純】 日記 2002年 06月 19日(水曜日) 5時半、新大阪着。降りてキオスクの新聞見出しを見たら、山本直純死去の報。 日記 2002年 06月 20日(木曜日) 山本直純死去のこと。この人で思い出すのは昭和四十七年の札幌オリンピック。佐藤勝がテーマ曲として『交響曲札幌オリンピック』を作曲していたが、それよりも、山本作曲の入場行進曲『白銀の栄光』の方がずっと躍動感にあふれ、耳に残る名曲だった。当時を記憶する札幌市民はほぼ全員がこの曲を口ずさめるはずである。それにしても、昭和四十二年の“大きいことはいいことだ”でのブレイク以来、山本氏はテレビにラジオに出ずっぱりの売れっ子。その合間を縫って、どうやってこんな大曲を作曲できたのか。斎藤秀雄門下の後輩の小沢征爾に“お前は頂点を目指せ、俺は音楽の裾野を広げる”と言ったという、まさにその言葉を裏切らぬ八面六臂の活動であった。そして、こういう人ほどコケたときの衝撃も大きい。昨日も金成さんと話したが、人気絶頂時にこの人、無免許運転で事故を起こし、しかもそれを開き直って、一斉にマスコミからホサれたことがあった。それ以降急速に体調を崩したようで、最後に顔を見たのは数年前、飼っている犬が人を噛んだニュースがワイドショーで取り上げられ、そのときも(何かしぼんだような顔で)テレビに出て、開き直ったようなことを言っていた。痩せ具合から糖尿か肝臓の病気だと判断したが、肝臓病の場合、妙に怒りっぽくなる場合があるから、それなのかしらん、と思った。小沢征爾の追悼コメントを新聞で読む。以前、小沢征爾物語をたのきんトリオの野村義男主演でテレビ化したとき、山本直純役は山口良一で、徹底して小沢を引き立てるコメディリリーフにされていた。やはりこれも笑って見ていたんだろうか、それとも怒ったか、山本氏は。私は怒ったものだった。