約 61,049 件
https://w.atwiki.jp/nightbreakthrough/pages/34.html
情報・価値および意味の一般理論 # 価値の源泉 ## 単体動物の無価値性 欲求の充足は一方的な主観であり価値は保証されない。 故にそれを希求する生存にもまた価値は保障されない。 ## 価値の保証 価値の肯定には 相互的な主観による肯定の反復が必要となる。 ## 価値創出 新規の価値の創出にはためには 既存の主観の止揚が必要となる。 その前提のためには 価値が不確定な新規主観が必要となるが 歴史的先例において確定的原則を破綻させる原因となった 主観全体の肯定的提示は 負の価値を示す。 ## 基本的人権による人間の価値の保証 人権の価値を認めた社会体制においては 人権規範に対する肯定と 社会体制の存続或いは発展的解消により 自身の主観の肯定が保証される。 ## 人間の歴史 個人の自由と幸福追求と その前提となる生存のための 資源と認識の拡張と それに必要な社会における 生産と認識の拡張を求めることが 人間の歴史である。 # 情報と意味のおける主体 ##主体の定義 beとdoとsign(意味)を持ってあらゆる主体は存在する。 一般に主体の各要素は動的であり、無限に分割可能である。 主体はroleを通してbeとdoとsignを表現できる。 客体はroleとしての存在を通してからbeとdoとsignを推認される。 主体として観測するbeの視座の変化により roleから推認されるbeとdoとsignが変化する。 ## 主体の原理 真偽とbeとdoとsignの維持へのhopeにおける トリレンマの解消を目的として 自己と環境の状態と関係性を変化させ続ける。 # 極限様相による制約 ## 価値の限界 具体的にあるbeとdoとsignは全時間の宇宙全体というroleが最大であり、 古イデアと末イデアの過程としてある。 宇宙全体より大きなbeとdoとsignを持つroleはイデアのみである。 ## 本質的価値 あらゆる表現はroleとdoにより観察されるが beとsignから導出されて表現されたものである。 最も価値を示すroleはイデアを表現するものである。
https://w.atwiki.jp/wiki2_pcr/pages/12.html
https://w.atwiki.jp/mahouka/pages/1023.html
余剰次元理論に基づく極小ブラックホール生成・蒸発実験とは、2095年11月にダラス国立加速器研究所で行われたマイクロブラックホールを生成し、そこからエネルギーを取り出す実験である(*1)。 灼熱のハロウィンの際に、司波達也の使用したマテリアル・バーストにより質量をエネルギーに分解している現象が発生したため 質量・エネルギー変換システムの手掛かりをつかむために行われた。 ブラックホールが蒸発した過程で質量が熱エネルギーに変換されることが予想されているため、質量をエネルギーに変換する仕組みを知るために行ったと司波達也は推測している。 実験の結果、異次元から漏れだした情報体がパラサイトとなり、吸血鬼事件を引き起こした。 登場巻数 9巻、10巻、25巻 コメント 消滅実験じゃなく蒸発実験だよ - 2014-08-21 01 52 10 表記がいくつかあってどれを選択したらいいかワカランチン。達也:余剰次元理論に基づくマイクロブラックホール生成・消滅実験 レイモンド、地の文:余剰次元理論に基づく極小(マイクロ)ブラックホール生成・蒸発実験 達也のは推測だからレイモンドが正しいのかな? - 2014-08-21 01 59 52 会話は地の文と言わない。9巻18ページの地の文である「余剰次元理論に基づくマイクロブラックホール生成・蒸発実験」が正しいでしょう - 2014-08-21 02 03 08 9巻18ページの地の文と、レイモンドが雫に教えるところは表記が同じで、達也が雫に教えるところに2パターンあるってことね。 - 2014-08-21 08 55 57 まぁ、神様である地の文と七賢人のレイモンドの方が正しいはずだし、達也のはただの推測だからレイモンドパターンが正解かな。 - 2014-08-21 08 58 36 名前を修正しました。 - 2014-08-24 09 05 38 出典も付けないし最近変な編集者が増えたよな - 2014-08-21 18 47 59 爆縮・放射まで行けば波動砲のできあがり。 (2020-07-13 02 14 14) 戦略級やん (2021-01-12 19 35 01) 全力のマテリアル・バーストと同じで地球上での使用=人類滅亡に繋がるから逆に使い道なさそう。大陸が消し飛ぶとか普通に地殻津波案件だしね。でも、マテバみたいに威力を熱核兵器程度に抑えられるなら戦略級魔法として使えるかも? (2021-01-14 02 27 55) ちっちゃいのを幾つか投下していくと阿鼻叫喚の地獄になるかも? (2021-01-14 19 22 46) 出来事 用語
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/41.html
マルクス主義Marxism※日本語版ブリタニカ百科事典より K.マルクスとF.エンゲルスとの共同作業によって打ち立てられた理論。ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義を批判対象としつつ、これらを継承することで成立した。その根本思想は、世界をあれこれと解釈するのではなく、変革していかなければならないとする実践的唯物論であり、その変革の主体としてのプロレタリア階級を初めて歴史的に位置づけた。人間生活の現実的前提は物質的生活諸条件であり、歴史もまたその中から見出され基礎付けられなければならない、とする唯物史観に立脚し、歴史を階級闘争の歴史として総括する。マルクス主義は、資本主義社会をブルジョアジーとプロレタリアートの対立として捉え、プロレタリア階級の勝利によって無階級社会(社会主義・共産主義)を実現していかなければならない、としている。マルクス主義では、唯物史観に基づくがゆえに、この資本主義社会の科学的把握としての経済学に重要な位置が与えられており、『資本論』はその精華である。 弁証法的唯物論dialectical materialism※(社会科学事典―新日本出版社)より マルクス主義理論の三つの構成部分(哲学、経済学、科学的社会主義)の一つ。そのおもな特徴は次のことにある。 1. 唯物論的であると同時に弁証法的であること。すなわちそれまでの唯物論が形而上学的(機械的)であった欠陥を克服して、最も全面的で内容豊かな、かつ深遠な発展の学説である弁証法をヘーゲル哲学から受け継ぎ、しかもヘーゲルの観念論的弁証法を唯物論の立場からつくり変え、こうして唯物論と弁証法とを不可分に統一していること。 2. このことによって、自然をも社会をも一貫して唯物論的に捉えることが出来るようになり、従来の唯物論の欠陥を克服して、社会とその歴史の理解にまで唯物論を貫徹させて、史的唯物論を確立したこと。 3. 世界を変革すると言う実践の立場に立ち、かつ真理の基準としての実践の意義を明らかにしたこと 。 4. 自然科学が得た新しい成果を総括して、自然の弁証法的性格を捉え、自然科学の理論的基礎を明確にしたこと。 5. 労働者階級の革命的・歴史的な使命を認識して、この階級の哲学であることを宣言したこと。したがってこの哲学はマルクス主義政党の世界観である。 弁証法的唯物論は19世紀40年代にマルクスとエンゲルスによって打ち立てられたが、その後第二インタナショナルの時代にこの哲学に対する軽視や、これを修正する動きが現れた。 これに対してレーニンは、こうした修正主義を克服し、弁証法的唯物論と科学的社会主義とは切り離せないことを強調するとともに、観念論の新しい諸流派との闘争の中で、資本主義の発展と科学の新しい発展に対応して、この哲学を一層発展させた。 弁証法的唯物論は、このように新しい事態の出現に対応して発展してゆく創造的な性格を持ち、実践活動並びに理論的研究の指針となるものである。 弁証法的唯物論に基づかなければ、一面性と主観主義を生み、思想を硬化させ、実践から遊離させ、事物や現象を正しく分析する能力を失い、修正主義的な又は教条主義的な誤りや政策上の誤りをもたらす。 弁証法的唯物論から離れることは、労働者階級の立場から逸脱し、革命の事業を裏切り、社会主義から共産主義へと進む、建設の大義を放棄するに等しい。 史的唯物論historical materialism※(社会科学事典―新日本出版社)より マルクス主義の歴史観で、唯物論的歴史観(唯物史観)とも言う。史的唯物論は弁証法的唯物論の見地に立って社会の構造・その発展の原動力・その法則を明らかにしたものである。これによって社会とその発展とに関する見解は、従来支配していた観念論的歴史観や地理的唯物論の誤りを克服して新に科学的な歴史観となった。史的唯物論は人間の願望や意識又は超人的な精神的存在や神などによって歴史を説明するのではなく、人間社会とその歴史的発展は、人間が生存し活動する為に必要な生活資料の生産、すなわち物質的生産に基づくことを明らかいにした。物質的生産は一方では人間が自然に働きかけて生活資料を得る生産力と、他方ではこの生産における人と人との関係である生産関係とから成り、両者は統一してその時代の生産様式を形作る。生産様式は社会の物質的な骨組みであり、生産力と生産関係との矛盾を通じて変化・発展し、人類の歴史は生産様式の違いによって、原始共同体・奴隷制・封建制・資本主義・共産主義の五つの発展段階に分けられる。それぞれの生産様式のもとで、それぞれの政治や精神活動の所産(イデオロギー)等の社会的諸現象が生産関係を土台として形作られる。政治や精神活動の所産は、究極的には土台に規定されつつ、一定の独自性を持って発展し、土台に対しても一定の反作用を及ぼす。従って史的唯物論は経済的歴史観の一面的見解とは根本的に異なって、政治や精神活動の所産の大きな意義を承認する。社会の矛盾は、階級社会では生産力の発展を担う革命的階級と、現存の生産関係を保持し続けようとする保守的階級との間の階級闘争となって現れ、階級闘争は社会発展の生きた原動力となる。史的唯物論は、物質的生産が社会とその発展において果たす意義を明らかにしたことによって、物質的生産に携わる人民大衆の歴史における創造的役割を明確にした。こうして史的唯物論は今日、弁証法的唯物論とともに労働者階級と勤労者全体の革命闘争を新に科学的に導く指針である。→歴史観、歴史における大衆の役割。
https://w.atwiki.jp/saku_saku/pages/91.html
新幹線脱線批判のいい加減理論 桜井の新幹線脱線時ブレーキ不動作説再反論、への反論である。 http //www.smn.co.jp/JPN/security/art/371.html 以下引用朱記 時速約190メートルで緊急ブレーキが作動すれば、制動距離は約2500メートルとなる 全車輪の半分の車輪が脱輪し、制動距離は通常時の半分の約1250メートルになる 最後尾車両が側溝に落下し、通常時の半分の約1250メートルのさらに半分の約625メートルになる 未だに非常ブレーキといえず「緊急ブレーキ」といっているのはともかく、「緊急ブレーキ」の減速度が何で2.0km/h/sとかくも低いと主張しているのか。条件を変える毎に減速度をちょうど倍々にしている根拠は一体何なのか。例示すべきデータがない以上、いい加減、というほかない。 計算条件を変えても、500-700メートルしかならず これだけの不確定要素があれば、計算条件を変えるといくらでも値が大きく変る。逆に、500-700mの制動距離にしかならないとすれば条件が限られてしまう。どんな計算条件なのか。本当に計算などしたのか。どうやったら500mで止まれる条件になるのか。 脱線起点から約500メートル進行した位置から最後尾車両が側溝に落下し、その状態で約750メートルも引きずられていた。 実に支離滅裂なのは、 最後尾車両が側溝に落下すると大きな負荷がかかり、190km/hからでも625mで停止する と言っているのに、実際は、 脱輪して500m、側溝に落ちて750mも走行していたことを認めているではないか。 己の仮定と実際が矛盾していることを認めているではないか。 最後尾車両の重量は約40トンである。このように大きな負荷が課せられた時、制動距離は、著しく短縮されると考えられる。通常時の半分の約1250メートルのさらに半分の約625メートルになる。 つまり「緊急ブレーキ」の4倍の減速度が出て停止するはずだと言っている。 最後尾の車両の負荷(制動力)で列車全体(10両)に対し、「緊急ブレーキ」の4倍の減速度を出すためには、最後尾の車両が「緊急ブレーキ」時のブレーキ力の実に40倍の制動力を出さねばならないことになる。非常ブレーキに対しても20倍である。 非常ブレーキは粘着限界に近く、当然粘着限界以上出すのは困難である。粘着限界を超えれば車輪が滑走し、ブレーキ力としては更に低下してしまう。桜井説では、緊急ブレーキは動作していなかった疑いがあるとのことであり、ならば車輪は転がってしまいなおさらブレーキ力は発揮できない。 高々40tの車両がどうやって非常ブレーキの20倍もの制動力を物理的に出せるのか。側溝に落下するとどうやって粘着限界の20倍もの摩擦力を得ることが出来るのか。 その計算をきちんと示されず(示せず?) 専門的知識を駆使し、矛盾点を摘出するように努めるのが常道であろう。技術評論の狙いは、矛盾の解明にあり、事故の解説ではない。矛盾が読み取れなければ、ただの素人にすぎない。 などと言えたものだ。まさに噴飯ものであると言えよう。 (追記) 新潟県中越地震に際しては、台湾が 「新幹線はこれまで一度も脱線事故はなかった」「今回の地震でも車両は転覆せず乗客にケガはなかった」などと好意的 なのはともかくとして、中国までもが、 ポータルサイト「新浪」の掲示板には、反日的な意見が相次いでいるものの、強烈な地震にもかかわらず、新幹線が転覆もせず、けが人も出なかった点について、「新幹線はさすがだ。みんなが買いたがるのを責められない」「やはり日本の耐震技術はよく学ばなければならない」といった意見も寄せられている。 と言っており、他の国でも「震度6強くらっても、脱線しても、200Km/h出していてさえも、シンカンセンは怪我人すら出さなかったのか!」と、日本とはまるで間逆に驚いた論調だったとか。 (引用記事:新潟県中越地震 新幹線どうなる海外事業 初の脱線も「けが人なし」評価 2004.10.25 FujiSankei Business i.) さて、本題。 現代技術の総結集としての新幹線の構造設計とはこの程度のものだったのだ。高速化のためにアルミニウム構造材を採用した新幹線がもし脱線事故を起こしたならば、構造材が破壊され、乗客にどのような被害が生じるか、今回のことから容易に想像できるであろう。 と、 人身事故で新幹線先頭車両に大きな穴 ―新幹線の構造設計とはこの程度― で述べているが、200km/hで脱線しても、構造材破壊されたか?たかだか50Kgの人間が衝突しただけで穴が空くのだから、60トンの電車が200Km/h(もっと速度は落ちていたかもしれないが)から約700m引きずられたワケだから、さぞかし大穴か、原型保っていないことであっただろうなぁ。自説に依れば事故=乗客全滅くらいの勢いだったなぁ。さて、現実はどうだっただろうか?以上。 JR西日本とJR東海(事故発生点の管理責任者)に250km/h走行継続の技術的根拠の説明を求めたが、納得できる回答は得られなかった。まったく説明できないのだ。 説明はしてはいるだろうけど、所謂「バカの壁」に阻まれたのでは無かろうか。
https://w.atwiki.jp/kotansogo/pages/44.html
平成24年度第1回 技術・理論 第1問 (1)5 (2)1 (3)2 A ×:シリーズコール ○:内線リセットコール (4)2 A ×:デジタル電話機 (5)2 第2問 (1)1 (2)5 (3)5 (4)2 (5)1 第3問 (1)2 (2)5 (3)4 (4)1 (5)2 第4問 (1)1 (2)1 (3)2 (4)3 (5)5 第5問 (1)1 (2)3 (3)1 (4)4 (5)2 A リピータではなくブリッジ 第6問 (1)4 (2)3 ③ ×:公開鍵 (3)5 (4)3 (5)2 第7問 (1)4 (2)1 (3)3 (4)3 (5)2 第8問 (1)4 (2)1 (3)3 A 42~32 B 100Ω±5% (4)4 (5)2 A 15ではなく20 第9問 (1)5 (2)3 (3)2 (4)3 (5)2 第10問 (1)5 (2)4 (3)4 (4)1 (5)3
https://w.atwiki.jp/shutaro47/pages/78.html
温室効果ガスの影響についての基礎理論② キルヒホッフの法則とランベルト・ベールの関係の基礎を前ページで解説した。今度は、大気上層部の温室効果ガスからどれくらいの熱放射エネルギーが宇宙へ放出されているのかを考察したい。そのためには、大気上層部の温度変化を見る必要がある。 まず、「Is the CO2 effect saturated? CO2効果が飽和しているの?」 と題するスケプティカルサイエンスのWebページに丁度良い解説がある。スケプティカルサイエンスは地球温暖化への懐疑論への懐疑論ということで、CO2温暖化論に好意的であるが、あくまでも科学的検証にこだわっている。すべて英語なので、英語と日本語訳を載せることにする。 *私の本意はCO2温暖化論を擁護することでなく、科学的に検証していくことにある。しかし、このページはCO2温暖化論を終治擁護しているので、その分を差し引いて読んでもらえばと思う。科学的検証の考え方にはなるほどと思わせる部分が多い。しかし、言葉をひとつ間違えると、この検証は反論にもつながる。それゆえ、慎重に読む必要がある。 This argument originates from Angstrom s work in 1901. We now know that the planetary energy balance is determined by the upper levels of the troposphere and that the saturation of the absorption at the central frequency does not preclude the possibility to absorb more energy. この議論は1901年のAngstromの発表(訳者:CO2の効果は温暖化に小さな影響しか与えないという論)に端を発する。今、我々は、惑星のエネルギーバランスは対流圏の上層部によって決定されているということ、中心となる振動数の吸収の飽和はもっとエネルギーを吸収することの妨げにはならないということを知っている。 ---懐疑論--- CO2 effect is saturated Each unit of CO2 you put into the atmosphere has less and less of a warming impact. Once the atmosphere reaches a saturation point, additional input of CO2 will not really have any major impact. It s like putting insulation in your attic. They give a recommended amount and after that you can stack the insulation up to the roof and it s going to have no impact. (Marc Morano, as quoted by Steve Eliot) CO2効果は飽和している “CO2の単位量のそれぞれをあなたが大気に注入すると、温暖化への影響はより小さくなる。一度大気が飽和点に到達すると、CO2のさらなる追加が大きな影響を与えることはないであろう。それはあなたの屋根裏部屋に断熱材を置くようなものである。それらは推奨された量であり、その後、あなたは断熱材を屋根まで積み上げることができ、その効果はなくなっていく。”(Marc Morano, as quoted by Steve Eliot) After the famous Arrhenius paper in 1896, where he did the first calculations of the CO2 greenhouse effect, his theory was dismissed by Angstrom with a simple experiment. He let an infrared beam pass through a tube filled with CO2 and measured the emerging light intensity. Upon reducing CO2 concentration in the tube, only a tiny difference could be found and he concluded that very few CO2 molecules are enough to completely absorb the IR beam. The conclusion was that a CO2 increase could not matter. This was the birth of the first skeptic of the then called CO2 theory and of the more recent CO2 effect is saturated skeptic argument. 1896年の有名なアレニウスの論文の後、この論文が初めてのCO2の温室効果の計算を行ったものであるが、オングストローム(Angstrom)の簡単な実験によって退けられてしまった。彼はCO2で満たしたチューブの中に赤外線を通し、湧き出てくる光の強度を測定した。チューブの中のCO2濃度を減少させた場合、ほんの小さな違いしか観測されなかったので、たいへん少量のCO2分子でIRビームを完全に吸収するのに十分であると彼は結論した。結論は、CO2が増えても影響はないというものであった。これが、「CO2理論」と呼ばれる最初の懐疑論の誕生であった。そして、「CO2効果は飽和している」が最近の懐疑論である。 Thirty years later, E. O. Hulburt (Phys. Rev. 38, 1876–1890 (1931)) added convection to the purely radiative equilibrium assumed by Arrhenius. He found that convective equilibrium holds in the lower part of the troposphere upto about 10 Km, while radiative holds equilibrium above. The important consequence is that the details of the absorption in the lower troposphere do not matter since heat is spread around and transferred upward by convection . In other words, what govern the energy balance of the earth is the radiative balance in the upper troposphere and CO2 concentration there does matter. 30年後、E. O. Hulburt(Phys. Rev. 38, 1876–1890 (1931)) は、アレニウスによって仮定された純粋な放射平衡に対流を追加した。彼は対流平衡は約10㎞までの対流圏の下層部分で成立し、放射平衡はより上層で成立することを発見した。重要な結論は、対流圏低層部での吸収の詳しいことは問題ではない。なぜなら、熱は“対流によって拡散し上へ運ばれる”からである。言いかえると、地球のエネルギーバランスを支配しているものは、対流圏上層部の放射バランスとそこでのCO2濃度である。 Hulburt was very prudent in his conclusions The agreement is no doubt better than is warranted by the accuracy of the data on which the calculations are based. Apparently the uncertainties and omissions have conspired to counteract each other to some extent. Nevertheless, his work is definitely a milestone in the understanding of ouratmosphere. Hulburt s work should have put the controversy on the CO2 theory to an end, since objections which have been raised against it by some physicists are not valid . Unfortunately, this paper passed almost unnoticed, I guess because meteorologists and geologists do not read Physical Review so often. At the time of Hulburt the CO2 absorption coefficient was not known very accurately and even less its line shape, forcing Huburt to use a box-like shape. We may now build a simple model with a more realistic line shape and show that we get an increased absorption with increasing CO2 concentration anyways. Hulburtは慎重に結論した:「一致は、計算の基礎となったデータの精度から保証されるものより疑いもなく良い。明らかに、不確実性と省略がある程度打ち消し合うように作用した。」 それにもかかわらず、彼の仕事は我々の大気の理解のための確かな里程標である。 Hulburtの研究は最終的にはCO2理論に関する論争へと発展させるべきであった。なぜなら、数人の物理学者の反論が正当なものではなかったからである。不幸にも、この論文はほとんど注目されなかった。想像するに、気象学者と地質学者はフィジカルレビューをさほど頻繁には読んでいなかったためであろう。 Hulburtの時代、CO2の吸光係数は正確にわかっていなかった。また、その吸収の形はなお一層わかっていなかった。そのためHulburtは箱のような形のものを使用した。今我々は、より現実的な吸収の形を使った簡単なモデルを作り、ともかくCO2濃度の増加が吸収の増加を引き起こすことを示そう。 Consider the CO2 absorption band around 15 μm (about 650 cm-1), it is strong enough to not let any light go through after a few tens of meters at surface temperature and pressure. Did this energy disappear forever? Surely not, radiatively or convectively this energy is spread around and transferred upward . But on the way up this light will find a decreasing pressure, i.e. less CO2 molecules. There will be a point where the light can escape to the outer space. The intensity of the emerging light will be appropriate for the temperature of this last layer layer. We can crudely model this behavior using the Plank law and a gaussian-shaped absorption coefficient. We consider just two layers, the surface and the last layer, and the emissivity of this outer layer is modulated between 0 and 1 according to the absorption coefficient α. The result is shown in the figure below. 15μm (約 650 cm-1)付近のCO2吸収バンドを考えよう。このバンドは十分に強く、地表の温度と圧力において、どのような光も数十メートル以上通すことはない。このエネルギーは永遠に消えてしまったのであろうか?まさか、放射または対流によって、このエネルギーは周りに広がり、上方へと運ばれる。この光は、上への道すがら減少する圧力を発見する。すなわち、CO2分子の減少である。ここに、光が宇宙へと逃げることができるポイントがある。その湧き出す光の強度はこの「最後の」層の層の温度に相応しいものとなっているであろう。 我々は、この挙動をプランクの法則とガウシアン形の吸光係数を使って荒っぽくモデル化できる。まず、2つの層を考えよう。地表とその「最後の」層である。この外側の層の放射率(射出率)は吸光係数αに従って0から1の間で変化する。その結果は下図に示されている。 In the calculations I used an absorption wavenumber of 650 cm-1 and tuned the optical depth to reach saturation. The two dashed lines correspond to the Plank law for T=300 K and T=220 K. The red curve is the calculated emission; it follows the 300 K curve but deviates from it near the absorption band. This dip represents the energy prevented to reach the outer space, i.e. thegreenhouse effect. This graph can bequalitativelycompared with real measurements to be sure we re not too far off. We can now look at what happens when we increase α. Following Angstrom (and many others in his times) the energy absorbed should not change. On the contrary, if we recall that the absorption coefficient is gaussian we would expect an increase in the energy retained by our layer along the wings. The effect is shown in the figure below. 計算において、波数650㎝-1の吸収を使用し、光学的深さを飽和に到達するように調整した。2つの破線はT=300 K と T=220 K のプランクの法則(訳者:黒体放射)に対応している。赤い曲線は計算された発光であり、300K の曲線に従っているが、吸収バンド付近ではそれから外れている。この窪みは外宇宙に到達できなかったエネルギー、すなわち、温室効果である。 このグラフを実際の測定と質的に比較してみると、我々はさほど大きく外れていないことがわかる。さて、我々はαを増加させると何が起こるか見ることができる。オングストローム(そして彼の時代の他の人々)に従うと、吸収されたエネルギーは変化しないはずである。しかし予想に反し、もし吸光係数がガウシアンであることを我々が思い出すとしたら、我々は我々の層の両翼に沿って保持されるエネルギーの増加を期待するであろう。その効果は下図に示されている。 We can see that although the absorption dip cannot fall below the 220 K curve, it becomes wider and the absorbed energy increases accordingly. This is as far as we can get with this simple model. Needless to say that there s much more than what can be done with the very crude model presented here. We know, for example, that the line shape of the absorption coefficient changes with both pressure and temperature due to what are called pressure and Doppler broadening. In the upper layers of the atmosphere the band initially gets narrower and then splits into several narrow bands (the roto-vibrational spectrum) leaving more room for the increase in CO2 concentration being more effective. We also know that there are weaker absorption peaks other than the stronger one quoted above which are not saturated. この図から、吸収の窪みは220K曲線より下へ落ちることはないが、幅はより広くなり、吸収エネルギーはそれに応じて増大することがわかる。これは我々がこの単純モデルから得られる限りのものである。言うまでもなく、ここで提示した大変粗いモデルで得られることよりも多くのことがある。我々は、例えば、圧力幅およびドップラー幅と呼ばれる吸光係数の線の形が圧力と温度の両方に依存して変化することを知っている。より上層の大気では、最初のうちはバンドはより狭くなるが、そのあと、いくつかの狭いバンド(回転-振動スペクトル)に分裂し、CO2濃度の増加がより効果的となるような空き領域を残すようになる。我々はまた、上で引用した強い吸収の他にまだ飽和していない弱い吸収ピークがあることも知っている。 Gilbert Plass in 1956 used these words One further objection has been raised to thecarbon dioxidetheory theatmosphereis completely opaque at the center of thecarbon dioxideband and therefore there is no change in the absorption as the carbon dioxide amount varies. This is entirely true for a spectral interval about one micron wide on either side of the center of thecarbon dioxideband. However, the argument neglects the hundreds of spectral lines fromcarbon dioxidethat are outside this interval of complete absorption. The change in absorption for a given variation in carbon dioxide amount is greatest for a spectral interval that is only partially opaque; the temperature variation at the surface of the Earth is determined by the change in absorption of such intervals. もう一つの反論がその二酸化炭素理論に対して提出された:大気は二酸化炭素バンドの中心では完全に不透明であり、それゆえ、二酸化炭素の量が変化しても吸収に変化はない。これは、二酸化炭素バンドの中心から両サイドに約1ミクロンのスペクトル幅のおいて完全に真実である。しかし、この議論は二酸化炭素のこの完全吸収の幅の外にある数百のスペクトル線を無視している。ある二酸化炭素量の変化における吸収の変化は、部分的に不透明であるスペクトル範囲において最大となる;地球表面の温度変化はその様な範囲の吸収の変化によって決定される。 There s one more subtle effect related to increased absorption. Upon increasing CO2 concentration, the layer at which the absorption coefficient at each wavelength is low enough to let the IR light escape will be found higher in the atmosphere. The emitting layer will then have a lower temperature, at least until the tropopauss is reached, and hence a lower emitting power. Clearly there s a world behind the absorption of IR light by CO2 in the atmosphere which I omitted. The physics behind it is now solid thanks to the decades of work of many different scientists, and despite the first highly respected skeptic ever who put the CO2 theory on hold for half a century. But you know, this is how science works. Note I cannot conclude without acknowledging the fundamental role of Spencer Weart The Discovery of Global Warming from which I borrowed (and learned) a lot. His book andthe supporting websiteare a treasure cove for anyone interested in how our current knowledge has been built step by step over time. 最後の訳は疲れてしまったので、やめることにする。上記の理論は一見説得力があるように思えるが、その効果がどのくらいかの具体的な見積もりが欠けている。つまり、現在の地球温暖化の主因となるほどのものなのかどうかの議論がない。このような理論であれば、必ず対応する論文があるはずであるが、新しい論文は見つからず、古い論文しか参照していないのはとても残念である。また、あまりにも簡略化された理論なので、実際のスペクトルデータを十分に反映していないことも信頼性を欠くものとなっている。実際のCO2の吸収スペクトルはどこかで詳しく測定されているはずなので、実験結果をもとに理論と突き合わせながら議論すべきである。吸収が飽和していても濃度上昇とともにさらなる吸収が起こることの理論的説明がなされていることは評価できるものの、実験的裏付けや理論の精度がどれくらいかなどの考察が全く欠けている。中心のCO2吸収バンドの形がガウシアン関数で近似されているようであるが、吸収バンドがガウシアンになるのではなく、吸収線がガウシアン関数で拡がって線幅が大きくなり、複数の吸収線が重なってバンドを構成するのが本当であろう。なので、上図で示された吸収バンドの広がりはかなり誇張されているように思える。濃度が2倍になってもバンドの広がりはほとんど変わらないかもしれない。つまり、実験データがなく、単純化された理論だけではどのようにも解釈できることになる。 結局のところ、様々な実験データと突き合わせて検証してみないと何とも言えないというのが結論である。 対流圏の上は成層圏であるが、成層圏下部は温度一定で上部へ行くと温度上昇が起きる。この領域にもCO2が存在していることは確認されているが、この部分の影響がどうなのかがよくわからない。 *対流圏における対流の効果は、定常状態近似でほぼ平衡状態にあると考えてもよいということには賛成である。しかし、熱放射がどんどん上に向かうということには賛成できない。対流圏では、熱の放射伝達速度より対流や分子衝突による熱伝導の速度のほうがはるかに大きいからである。熱放射は常にある程度対流や分子衝突による熱平衡状態にある大気の層からの放射であり、その層の温度に依存している。決して下方の層から熱放射による熱が伝わり新たな熱平衡を作るわけではない。もちろん、地表及び下層の大気の熱放射が上層に伝わってくるが、それよりも早く対流や分子衝突により熱平衡に到達している。それゆえ、熱放射がどんどん上の層に伝わり、熱を上層に運ぶという考えは否定される。しかし、対流が起きない成層圏や希薄な大気で分子衝突が小さくなった領域では、熱放射による熱伝達が大きな寄与をするようになる。 *上記の理論的説明は、大気圏上層部からの熱放射の影響を考える上の基礎として有用であると考えている。上空へ行くほど気温と気圧が下がり、線幅が狭くなる。その結果、大気圏下層部の温暖化ガスの熱ふく射が大気圏上層部で吸収されないで、そのまま宇宙へ逃げてしまうことが起きやすくなる。つまり、吸収できるふく射光の波長が上空へ行くほど限定されてしまうため、すり抜ける光が増えることが起きるであろうということである。220K付近の放射光はその結果かもしれない。やはり、様々な条件下のCO2吸収の実験結果と適切な理論計算を突き合わせる必要がある。また、水分子の存在は衛星データの赤外スペクトル①であったように、CO2の効果を減少させる働きがある。CO2の吸収バンドと水分子の吸収バンドの重なりがかなりの波長領域に存在しているためであるが、地表近くでは水蒸気の濃度が高く、上空では急激に濃度が下がるということも重要である。地表近くの大気の水蒸気が出す熱放射がかなりの上空まで行かないと吸収されないことも考えられる。CO2の効果は水分子の影響で変化するので、単純なCO2だけのモデルでは十分でない。 *大気圏上層部は成層圏、中間圏、熱圏とあり、低温であったり高温であったりと複雑である。熱圏は気圧が異常に低いのでおそらく影響は小さいであろうと思われるが、異常に高温でもあるので、完全に無視することも難しい。簡単な計算でどの程度の寄与があるのかどうかの見積もりをしてみることも重要であろう。 *大気中CO2をそうとう増やした時のIRスペクトルがあったが、濃度が不明であった。(上記の議論のように、吸収幅は増大していたが、濃度が数百倍から数千倍の可能性がある。)濃度が2倍になったときの吸収幅がどれくらいかを知りたい。とにかく、探してみようと思う。
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/244.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第五章 立憲主義の展開 p.71以下 <目次> ■第一節 近代立憲主義の特質[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる ■第三節 「現代立憲主義」へ[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む ■ご意見、情報提供 ■第一節 近代立憲主義の特質 [76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ 近代国家は、 (ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、 (イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、 (ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、 (エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、 という特徴を示してきた。 近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。 そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。 すなわち、近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想をいう。 それは、先に述べた「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認することと同義である([53]参照)。 [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である しかし、それだけではない。 近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。 これを「責任政治の原則」という。 責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。 また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。 もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。 現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。 [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。 この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。 そのうちのどちらが妥当であるか。 その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。 概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。 その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。 ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観 [79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた 市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。 個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。 「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。 また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。 近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。 それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。 この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。 中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。 ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。 その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。 こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。 自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。 国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。 例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。 [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている 近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。 そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。 近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。 しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。 その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。 その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。 また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。 それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。 [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった 楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。 有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。 さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。 近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。 [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる 近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。 当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。 理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。 個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。 ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。 人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。 この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。 国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。 人格として存在することではないのである。 そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。 近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。 こうした再検討のなかで出てくるのが「現代立憲主義」である。 近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。 現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。 ■第三節 「現代立憲主義」へ [83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である 19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。 それは具体的には、 ① 個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、 ② 社会に存在する中間団体の見直し、 ③ 人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認 という方向として表れる。 この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。 近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。 [11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「現代立憲主義」という。 [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る 「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。 この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。 それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。 中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。 国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。 [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える 現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。 それが、「社会的法治国家」、「積極国家」または「福祉国家」と通称される国家である。 それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。 現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。 こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。 なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。 [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? 片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。 それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。 なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。 そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。 こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。 この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。 配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。 [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである 「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。 知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。 その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。 「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。 となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。 自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。 [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか 代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。 執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。 それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。 ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。 その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。 「司法国家」への変質の要請である。 その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。 また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。 しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。 特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。 近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。 [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。 この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。 権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。 なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。 以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。 例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。 彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。 その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。 [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。 彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。 ① 合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。 ② しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。 ③ そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。 《正義の第一原理》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理(最大の平等な自由の原理)。 《正義の第ニ原理》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと(機会の平等)、第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること(格差原理)。 以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。 [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。 彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。 政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。 ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。 その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。 確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。 しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。 その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。 「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。 社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。 「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。 これこそが、現代立憲主義国家の病理である。 その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。 近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。 [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む 現代国家の病理はそれだけではない。 大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。 これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。 なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。 というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。 専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、文民の優勢の体制(civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。 もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。 それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。 その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。 狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。 こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。 この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。 軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。 現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。 それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。 現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。 そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。 実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。 また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。 そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。 それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。 【表7】「現代立憲主義」の課題 ① 実体的正義または「社会的正義」を実現すること ② 肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること ③ 軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/orirowavr/pages/138.html
「みなさん、大事な発表があります」 市街地にある閑散としたブディックの中、鏡の前で女が幸せそうに笑っている。 濃い茶色の髪、スーツに白衣、見るものが見れば彼女の正体は一目瞭然。 「私、白井杏子は本日をもって大切な人と結婚します!」 日天中学校養護教諭、白井杏子。 その左手の薬指には銀色の指輪が光っている。 「お相手は皆さんもよく知っている人です!」 一旦息をつく。 「なんと、美術担当の枝島トオル先生です!」 そして『彼』は割れんばかりの拍手と祝福の言葉を幻視する。 感極まったのか崩れ落ち、小さく涙までこぼす。 白衣の襟元に隠れた白いチョーカーを外し、再びつぶやく。 「……最高だ」 その声は先ほどの高めの女のものとはうって変わる低い男のものであった。 ◇ 日天中学校美術教師、枝島トオルは恋をしている。 相手は同僚、現在彼が姿を模している養護教諭、白井杏子だ。 一目ぼれにして初恋。 これまで半生を絵を描いて過ごした彼にとっては初めての情動であった。 白井杏子との出会いは枝島トオルの人生を大きく変えた。 本来、枝島トオルは人に大して興味を持たない典型的な芸術肌の人間だ。 それが曲がりなりにも嫌われずに教師を続けていられるのは彼女の影響が強い。 彼女へアプローチをかけるために身だしなみを整え、ある程度見られるような姿にもした。 自分の女性への耐性のなさを考慮に入れていなかったために、それは長く厳しい道になってしまうのだが。 結論を言えば、彼はある種の天然なのだ。 好きなアバターを作ってもよいとされたところで迷いなく本当に好きなものをアバターとその名前にしてしまうほどに。 ◇ 「しかし、どうしたものか」 一通りやりたいことをやり終え、枝島トオルは今更ながらに考える。 名簿を眺めた際に見覚えのある高井丈美の名前が目についた。 本人かどうかの確証はないが、本人だった場合は必ず生きて帰させなければならない。 そして最悪の可能性に思いを巡らす。 彼の教え子たちは難しい年ごろである中学生。 彼女のほかにも自身と同じようにアバターと名前をいじって参加している可能性すらあるのだ。 枝島トオルは生徒にあまり深入りはしないが、さすがに自分が教師であるという自覚は持っている。 それになにより生徒の死は想い人たる白井杏子が悲しむ。 心情的にそうなることはどうしても避けたい。 そして、その場合ネックになるのが彼の現在の姿だ。 白井杏子の姿で枝島トオルとして振舞うことは控えめに見ても変態以外の何物でもない。 下手をすると学校時代の信頼すらも失う可能性も高い。 「仕方がない……か」 つぶやきながら支給品の一つ、『変声チョーカー』を再び身に着ける。 白井杏子の優しさは彼だけでなく生徒全体が知るところだ。 もしも彼女がこの場にいてもゲームに乗ることはあり得ない、少なくとも彼はそう確信している。 だから現在の姿を利用する。 白井杏子の姿をした枝島トオルよりも白井杏子本人の方が高井の信頼は稼げるだろう。 ここからの自分は白井杏子だ。 演劇は未経験だが必要なことだ。 彼女を見ていた自分ならできるはずだ。 彼女への愛を示す時だ。 ……決して彼女の声を聴いていたいという邪な動機からではない。 気持ちを新たに枝島トオルはブディックを後にする。 彼は知らない。 彼の想い人たる白井杏子。 彼女もまた参加しているということに。 [E-4/市街地、ブディック前/1日目・深夜] [枝島トオル(枝島杏子)] [パラメータ]:STR:E VIT:D AGI:C DEX:B LUK:A [ステータス]:健康 [アイテム]:変声チョーカー、不明支給品×2 [GP]:5→15pt(キャンペーンで+10pt) [プロセス]: 基本行動方針:白井杏子のエミュをしながら生徒の保護。 1.高井丈美との合流を目指す。 2.他に生徒がいれば教師として保護する。 3.耳が幸せ。 【変声チョーカー】 ダイアルを回して首に着けることで自在に声を変えることができる。 現在は白井杏子の声が設定されている。 006.縛りプレイヤー 投下順で読む 008.ヴァーチャル・リアル鬼ごっこ 時系列順で読む GAME START 枝島 トオル vent the anger…
https://w.atwiki.jp/poke13/pages/117.html
木村 冴花攻略投手育成理論 勝手に新規ページ作っちゃったのでダメなら消してください(汗 概要 [設定] 持ち込み無し、難易度ふつう、守備走塁打撃マニュアル、投球タイプはお好みで(この記事ではオーバースロー)、変化球タイプはストレート以外(ここで変化球を取っておかないと2年目の試合で球種1つで戦うことになる) [条件]甲子園優勝、一年目海底分校勝利、リセットなし [目標] 球速 コントロール スタミナ 球種 総変化量 最低150(+5)km 150C 150A 2 6 この攻略のキモは持ち込み無しで『安定して』(←ここ重要)そこそこの能力の先発タイプを作ること ここの攻略を叩き台にしてアレンジを加えてさらに優秀な選手を作ってみてください 木村攻略ではもらえる超特殊能力が『鉄腕』と強い投手を作るのにはあまり魅力的ではないが、 木村ルートは他の条件の厳しかったりランダムに左右されるルートと違って非常に簡単で安定して進められる。 『鉄腕』で170kmを目指してもいいがむしろ球速+5を莫大な球速必要経験点の軽減と考えたほうが全体的な能力は高くなる。 スケジュール 大怪我前(1年5月4週まで) +イベントカレンダー 1年目 1週 2週 3週 4週 4月 [コ]ストレッチ [コ]ストレッチ [コ]ストレッチ [コ]ストレッチ[後]食堂イベント 5月 [前]パシリ要求イベント[コ]ストレッチ [コ]ストレッチ [前]バット&グローブ決定[コ]ストレッチ [前]経験点消費推奨[コ]ストレッチ[後]大怪我イベント 大怪我前のコマンドは8回全部ストレッチ。途中発生するイベントのおかげで回復コマンドの必要なし。 4月4週、食堂イベントではA「決められた量を守る」を選択。体力が回復する。 5月1週、パシリ要求イベントではC「できません!(根性3)」を選択。やる気+1、体力+15。根性は消費してしまってもいい。 5月4週コマンド後に大怪我イベントなので経験点を消費しておくこと。 大怪我後~木村とデートできるようになるまで(7月1週~10月1週) +イベントカレンダー 1年目 1週 2週 3週 4週 7月 [前]野球やめるのかのイベント 8月 [前]木村の父親の話イベントうろつき開始 9月 10月 [前]木村を映画に誘うイベント この期間はグランド整備12回を目指す。失敗を気にせず連続でやって体力が黄色くなったら回復。 7月4週、野球やめるかのイベントの選択肢は「ムラッ気」が欲しいなら B「野球は絶対やめないぞ」 それ以外なら C「お前は自分の練習をしろ(根性3)」。やる気+1、筋力+15。 8月1週コマンド前、木村の父親の話イベントは B「木村のことをおしえてくれ(根性3)」を絶対選ぶこと。 8月1週、ランダムイベントでやる気が上がってない場合混黒高校うろつきでやる気+1(このコマンド後イベントでやる気が上がるのでタイミングとしてはここしかない)。この場合10月2週の選択肢でA「もう、気にしてない。」を選ぶとさらにやる気+1。 10月2週目、木村を映画に誘うイベントでは B「映画に誘う(根性8)」をきちんと選ぶこと(やる気+1)。 木村とデートできるようになってから~混黒本交戦(1年10月2週~11月1週) +イベントカレンダー 1年目 1週 2週 3週 4週 10月 [コ]会う「サエカ」[後]ゲームモード選択 [後]海底高校戦 11月 12月 [前]練習パワーアップ 2年目 1週 2週 3週 4週 1月 [前]おみくじ 2月 [前]怪我完治 3月 4月 [後]練習パワーアップ [前]ユウキはなぜここに?イベント 5月 6月 7月 8月 9月 10月 [後]天空高校戦 [後]海底高校戦 11月 [後]混黒本校戦 木村とデート可能になったあと3年5月1週目までに24回木村イベントを進める必要がある。 木村イベントは体力が回復するイベントが多いので練習で体力が減ったらデートにいくといい グランド整備12回達成したら12月に練習がパワーアップできるようになるまでランニングで体力づくり。15回目のボーナスを目指す。 10月2週目、さっそく会うコマンドで木村と映画館へ行く。(連絡に間が空くと怒られて攻略終了するので注意)選択肢は B「あ、化粧してる?」 10月3週目、海底高校との校内戦。3-1のビハインド、9回裏の無死2走者の状態で開始されるので投手能力は上げなくていい。打ちごろのストレートとフォークしか来ないのでどちらかを狙い撃ちにして逆転しよう。 ここで筋力100,技術40,変化球25くらいになってるはず 12月4週、練習パワーアップは「トレーニングマシン」を選択。 練習パワーアップ後はマシントレーニングを繰り返し、100%じゃなくなったら木村とデートして体力回復。 このあたりで勧誘時に勝ち運のもらえる可能性がある下山あたりを勧誘しに行ってもいい。 1月1週、混黒うろつきや木村イベントを進めていたらこの時点でやる気がMAX近くあるはず。安定を狙うなら無理におみくじをやる必要はない。やらない場合体力+20。 2月2週、怪我完治で全経験点+50される。ここで筋力226,技術116,変化球81くらいになってるはず 4月1週、2回目の練習パワーアップは「大きな鏡」を選択。 4月2週、ユウキが分校に来た理由について推測するイベント。B「俺のせいかもしれない。」体力+10やる気+1、木村高感度+2、技術+5を選択 10月3週、天空高校戦。ここで能力アップ 目安 球速 コントロール スタミナ 球種 総変化量 木村イベント進行度 140km 90G 80C 2 2 15回 4-3のリードだが8回裏の走者を背負った状態から始まる。140kmの速球とスローボールで緩急をつけて変化球で打たせて取るを心がけよう。またやる気を絶好調の状態に保てていたら各変化球量が+1されるのでねらいたい。 10月4週、海底高校戦。8回表の1死1塁から始まる。低めで惑わせてゲッツーをねらおう。 11月1週、2勝して得た経験点で強化して挑む。2-2の8回表無死1塁攻撃から始まる。餅田はかなり高性能だがカーブとスクリューの2つしかないのでどちらかを狙い撃ちにしよう。4打席目はユウキなので8回で打点を上げたい。勝利後の選択肢はA「・・・届いているぞ」 「ピンチ〇」取得 B「当たり前だ」 「対左打者〇」取得 C「やーいやーい」 「テンポ〇」取得 +混黒高校戦後のステータス目安 練習 ランニング マシントレーニング シャドウピッチング 変化球練習 グラウンド整備 回数 15 21 2 0 12 球速 コントロール スタミナ 球種 総変化量 木村イベント進行度 140km 100F 80C 2 3 15回 各ポイント 筋力 技術 変化球 残りポイント 168 78 58 混沌黒本校戦後~(11月2週目~) +最終イベントカレンダー 2年目 1週 2週 3週 4週 11月 12月 1月 2月 [前]ユウキが退部するイベント 3月 3年目 1週 2週 3週 4週 4月 5月 [前]木村重要イベント 6月 [前]木村最終イベント 7月 [後]先行高校戦 [後]キング高校戦 [後]混黒高校戦 8月 [後]鉄砂高校戦 [後]サンダー学園戦 [後]十三番高校戦 まだまだマシントレーニングと木村イベントを続ける。マシントレーニングは34回目まででとめてそれ以降はシャドウピッチングに切り替える。 2月3週、ユウキイベントでは選択肢A「・・・わかった」(「対強打者〇」取得)を選択、B「紅白戦じゃだめか?」なら「ムード〇」か「ピンチ〇」(「ピンチ〇」をすでに持っていても「ピンチ◎」にならない?)が手に入るが木村イベントで「ムード〇」は手に入る。 5月1週、木村goodルートの重要イベントここまでに木村庄之助に野球の大切さを思い出させるイベント(23回目)を起こす必要がある。基本的に回復コマンドを使わずに木村デートで体力回復していればちゃんと間に合う。 ここで『鉄腕』とスタミナ+10が手に入るので4月4週にスタミナをアップさせておこう(『鉄腕』を取得しても球速自体はアップしない) 目安 球速 コントロール スタミナ 球種 総変化量 木村イベント進行度 146(+5)km 100F 124B 2 4 23回 6月1週、選択肢はB「もう泣いているじゃないか」技術+10、体力+10を選択。これ以降は木村に秋まで会わないでおこうと言われるので25回目のイベントまで起こしたらあとは練習に励もう。 この辺りでマシントレーニング練習が34回になるのでシャドウピッチングに切り替えていく。 7月1週、先行高校戦。木村の選択肢はA「ありがとう」を選択。6-2ビハインドの8回裏攻撃で無死満塁からの逆転をねらわないといけないが相手投手鏡がカーブ1しかないのでこれを強振で狙い打とう。リリーフ陣にいたっては125kmのストレートしかない投手ばっかり。コントロール不安の主人公のために大量得点を取っておきたい。 7月2週、キング高校戦。3-2ビハインド8回裏の無死1塁の攻撃。国王は四球持ちのコントロール90で左右の変化3づつとムービングファストなのでフォアボール狙いでしっかり球を見よう。キング高校もリリーフ陣は弱い投手ばっかりなので何とか国王を引き摺り下ろしたい。 7月3週、混黒高校戦。同点7回表防御、1死1塁を背負った状態で3番池田、4番雨崎と恐ろしい打順。アウトボックスで打たせてきっちり1アウトづつ取っていこう。ユウキは最悪敬遠してもいい。打撃はショートセカンド辺りが狙い目か。 選抜戦勝ち抜き後の能力目安 球速 コントロール スタミナ 球種 総変化量 150(+5)km 122D 131B 2 6 ここらへんでマシントレーニングの35回目ボーナスのための体力調整を行う。(球速はここで最終速度にする) 最後の3戦については速球と変化球で緩急で打たせて内野ゴロでアウトを取る戦法でいけば最後の十三番高校以外は結構いける。 十三番高校は守備が強すぎるのと打力が高すぎて一発の長打が非常に怖い。難しいと感じるなら助っ人部員を加入させるといいかもしれない。 本当はチームワークを上げるのが効率、効果が高いのだがチームワークを上げるコマンドを選ぶ余裕はさすがに無い。 まとめ 総評としては「非常に楽」の一言に尽きる(最後の試合は除く)。 田西イベントのような相当最悪なランダムイベントでも起きない限り進行が狂うことが無い。 彼女攻略に関しても途中体力が回復しないイベントが続いて不安になるがイベント消費と考えて繰り返していれば好感度を考える必要も無いし、煩雑な選択肢もない。選択肢自体少ないので覚えてしまえばスキップできるのでたくさん選手を量産できる。 マシントレーニングを40回近く繰り返す必要と最終戦も勝ち抜く必要があるが総変化量もがんばれば6、少なくとも5はいける。 ただ不満があるとすれば特殊能力が固定(で微妙)なのと超特殊能力が微妙なくらいか。 スパビタD、幸せのボール、よくとぶバットを持ち込み、いいタイミングでスパビタDでやる気を絶好調にしマシントレーニングを少し減らしてシャドウピッチングを増やし、おみくじで大吉をとれればもう一回り強い選手が作れるかもしれない。 木村イベントの必要数が多いので実際のところ練習の組合せに関してはカツカツで改善の余地が少ない。つまり練習コマンドを増やす手がほとんど無い。よって体力消費軽減系よりポイント増加系を持ち込んだほうがよいだろう。 追記 自宅うろつきで餅田でコントロールを上げる手段があるが父親イベントが挟まってスケジュール圧迫しかねないのと先発型だと2年校内戦までに大してコントロールを上げられないので効果が薄いと判断しました。 コントロールも両立しようと練習組み立てを変えるとマシントレが減って変化球習得が遅れて最終的な変化量も下がり、それをフォローしようとして変化球練習を入れようとするとさらに練習メニューがグズグズになるので考えるのをやめました。 その場合ははじめから変化球主体の投手を作ってください(汗 おそらくスタミナとコントロールの両立はこのゲームじゃ厳しいです。 サンプル選手 悪いランダムイベントが無く順調に進んだが逆にいいイベントも起きなかったかもしれない。 初期変化球:カーブ系(スラーブ) 持ち込み:なし おみくじ(1年目):なし おみくじ(2年目):なし(木村ルートだと強制スキップ) フォーム 球速 コントロール スタミナ 変化球 特殊能力 オーバースロー 151(+5)km 150C 152A スライダー4スラーブ3 バント◎、ムード〇、ピンチ〇、勝ち運、打たれ強い、逃げ球、リリース〇、対強打者〇、ホーム〇、『鉄腕』 上のサンプルより木村汎用イベントが2,3回ほど少なく済んだ。またオリ変化球イベントで変化球ポイントも入った。 初期変化球:スライダー系(カットボール) 持ち込み:おきもの、幸せのボール、よくとぶバット おみくじ(1年目):大吉(ほるひすは未取得) フォーム 球速 コントロール スタミナ 変化球 特殊能力 オーバースロー 157(+5)km 139C 133B カットボール2SFF5 バント◎、ムード〇、完投タイプ、ピンチ〇、尻あがり、打たれ強い、重い球、対強打者〇、ホーム〇、『鉄腕』 練習は体力強化15回、筋力強化39回、技術練習10回、グラウンド整備12回。木村の汎用イベントがあと1回少なければ筋力40回ボーナスであと球速が1つ上げられたかも。 バットのおかげで筋力が凄く稼げるがそれでも球速170には足りなさ過ぎる(3年4月4週のスタミナ上げの際にDまでにする必要があるかも)。あと幸せなボールは変化球が速めに習得できるようになった(習得にポイントのかかる変化球を選んだところは留意)が、結局変化球総量8にはぜんぜん達しなかった。 球速170kmを目指すなら球種は1つで変化量3,4まで。残りのシナリオ中手に入る技術ポイントとマシントレーニング40回の筋力ポイントを全部球速につぎ込む必要があるかもしれない。