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第14-32章.第14-33章.第14-34章. 第14-33章. ブラフマナは言った、「臆病な者よ、私はこの世で、汝が己の理解に従って非難するようなやり方で動いてはいない。私はヴェーダの知識を持つバラモンです。私は森の隠遁者である。私は家の持ち主の義務を守る者である。私は誓いを守ります。私は善行も悪行も、汝の目に映る私ではない。私によって、この宇宙に存在するすべてのものが浸透している。動くもの、動かないもの、この世にどんな生き物が存在しようとも、火があらゆる種類の木を(破壊する)ように、私がそれらすべての破壊者であることを知れ。一方では)全地球や天に対する主権、あるいは(宇宙と私の同一性に関する)この知識、この知識は私の富である。 これはブラーフマナにとって一つの道であり、これを理解する者は、家屋敷、森の中の住まい、戒者のもとでの住まい、托鉢僧の間での住まいへと進む。 数多くの混じりけのないシンボルによって、ただひとつの知識だけが崇拝される。どのような象徴や生活様式を信奉しようとも、静寂を本質とする理解を獲得した者は、無数の川がすべて大海に出会うように、その一つの存在に到達する。 この道は、この肉体ではなく、理解力の助けによって通り抜けることができる。行為には始まりと終わりがあり、肉体はその絆のために行為を持っている。 それゆえ、祝福された女性よ、汝は来世に関して不安を抱く必要はない。汝の心が現実の存在に向けられるならば、汝が入るのは我が魂である』」。 第14-32章.第14-33章.第14-34章.
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●クーンのパラダイム理論 前回は、確かクワインの話をして、ちょっとハンソンにも触れて、エピステーメー、エピステモロジーというところまで話をしたと思います。 科学哲学の発想のなかで、私自身、最も親近感があるのは、バシュラールとかカヴァイエスという、フランス系エピステモロジーの人たちです。 歴史的にどうだったか、彼らの発想がどうだったかという話は前回しましたけれども、基本的には歴史性へ帰ってきたという話です。ポパーは内在的に考えることで問題をもう少し一般化しましたが、クワインはむしろ3つの不確定何とかというタイプを出して考えた。その不確定というのは「世界の現実をある種のタイプの細部としての不確定性である」と考えると分かりやすい。そういう話をしました。 ただ個別性にどう触るかっていったときに、クワインはネオプラグマティズムという、非常にアメリカンな発想の立場を取ったわけです。 プラグマティズムに関して、パース自身はプラグマティズムというよりプラグマティシズムという言い方をして、ある意味で存在論のシステムを考えたんです。それをウィリアム・ジェイムズが個人をベースにする思考にがらりと変えました(宗教的な議論が入っているので、根本的に変わったというと言いすぎだけど)。ともあれその伝統によって、アメリカでは今でもオリジナルの哲学としてプラグマティズムに凄い自負を持っています。昔、パトナムとローティが日本に来て講演したときに、事後の質疑応答でもその自負がはっきり出ていました。ローティはもともとそうなんですけれども、パトナムもそうなのかと。彼らは自分自身の土壌になった哲学として、プラグマティズムに非常に強い思い入れを持っているわけです。これが俺たちのオリジナルの哲学だっていう。 それに対してクワインは物理主義の傾向からネオプラグマティズムをやった。このとき、クワインの立場から見ると、物理主義には内的に問題がある。エピステモロジーに拘泥する理由の一つは(これは僕の感覚なんですけど)科学における「個別」という問題を、どの範囲で考えるかが重要だからですね。 これに対抗して、英米圏ではもうひとつ、新科学哲学というものがありまして、これも何度も言っていますけど、ハンソン、クーン、それからファイヤアーベントとトゥールミンとその辺のあたりが代表例です。彼らも、やっぱり科学における「個別」の問題で歴史に向かうんですよ。 このときクーンの発表したのがいわゆるパラダイム理論です。クーンに対抗する形で、もう一度、ポパーの反証主義に、パラダイム論を取り込んで、うまい具合に折衷主義をとったのがイムレ・ラカトシュですね。ラカトシュのリサーチプログラムです。 クーンの『科学革命の構造』は、いわゆるパラダイム理論を説明したものだといわれて有名になった本です。科学というのは連続的にずーっと伸びているものではない。パラダイムという言葉は、科学の理解における基礎を示しています。この、科学の基礎的な理解、理解のバックグラウンドになるような考え方が、じつは必ずしも連続していない。この手の話を、物理学を例証として考えたのがクーンです。 ●地球科学の場合 このようなクーンの物理学中心主義に対してある日本人が「そんなにパラダイムは変わらないよ」という批判をしました。もう亡くなっていますが、都城秋穂さんという方です。都城さんは地学に即したパラダイム論というのを自分の本『科学革命とは何か』で出したんですよ。ただ絶版で今どこでも手に入らないんです。私も3年位前に名古屋大学の戸田山さんが紹介してくれて議論したことあるんですが、現物は読めていない。 これは、学問のスケールが違うんですよね。物理学でこういう凄い転換が起こったのはいくつか有名な例があるし、それから物性物理のような細かい実験室レベルでの話に対しても、パラダイムチェンジということは非常によく言われます。 ところが、地球科学っていうのは今ものすごくサイズがでかい。最近は何をやっているかっていうと、例えば全地球史とかいうことをやっています。全地球史というのは、地球が45億年前にできてから今までという流れを、全部地学的な要因と絡めながら、地球の歴史を語るということなんです。例えば、原始地球には酸素はほとんど無かった、酸素は無いと言っても、元素として酸素が無いわけじゃなく、遊離した気体の酸素というのが無かった。それを作ったのは20億年程前に発現したケイ藻類で、それがオゾン層を作る場合があるとか、そういう話。それから地軸とマントル対流の話に対する色々な知見とか、大から小までいろんな事が地球の環境に影響を与えたて言って、地球史を45億年トータルでやるわけです。しかも45億年トータルだから、微生物とかそういうものが出している細かい物質も累積して、ものすごく影響になるわけ。さっき言った、酸素なんか一番いい例ですね。 笑い話があって、わたしの知っている分子生物学の先生がいて、大学院生の国際競争があるんだと。そこで面白い研究を発表すると賞がもらえるというので、彼がある年に学生に応募させたのが、レイズドタイタニックっていうやつ。何やるかっていうと、遺伝子コントロールしたバクテリアを使ってタイタニック号を浮上させるってことですね。どうやるかって言うと、バクテリアのなかでまず炭酸ガスを排出するバクテリアを飼って、タイタニック号のなかに送り込む。こういうのをちゃんと計算して浮上させる計画というのを作って応募したんだそうです。かなり絶賛されたけど、賞は取れなかったそうです。 いまのは冗談に近いんだけど、本当に地球惑星科学では、こういう微生物のサイズから考えて議論しているんですよ。その一方で、地軸が変動しているのはなぜかといったら、単なるマントル対流だけでなく、マントルがぼこっと落ち込んで、中心金属核の高密度の液体金属の分布が変わることによって中の渦が変わっちゃって、地軸の磁気の向きが変わるからだというサイズの話もある。それでは、それが生物学にどう影響するのか、とか。そういうある意味でものすごく学際的な学問をやっている。そんなところでころころと全体の人々が見ているようなパラダイム、バックグラウンドにあるパラダイムというものが変わるなどという発想ではできない、という形で都城さんは批判をしました。 ●バシュラールのエピステモロジー パラダイムっていう議論の元になるのは、やっぱり理論科学、もしくは前回も言ったハンソンの理論負荷性があります。頭で考えて個人の学者が言っていることは、個人としての学者たちの知による理解の体系なんですよね。でも理解しているのはあくまでも個人で、その「理解」という言葉が結構問題です。 フォン・ウリクトの『理解と説明』で前回ちらっと紹介しましたが、理解というのは解釈をすることです。解釈の仕方、解釈のバックグラウンドになるものを、科学者共同体はだいたい一緒に持っている。それが科学観といわれるものです。いまの科学観はこうです、物理主義はこうです、という形の解説を支えているものが、パラダイムと言われている言葉には入っている。 ところがそれに対して、エピステモロジーは違います。ポアンカレから始まって、有名なのはバシュラール、カンギレム、そしてカヴァイエス。彼らも「理解」を問題にしていますが、「理解の背景」とはちょっと違うんです。なぜならポアンカレをはじめと、彼らはプロの科学者がプロの科学をやっているなかでしていることそのものを扱う。つまり「理解」といわれているものは、私が見た像の内容ではなくて、理解をする機構であり、その機構としての歴史に目をつけるという発想なんです。 エピステモロジーの発想で「理解」がどこまでいくかというと、精神の発達に行き着きます。精神の発達という発想自体はヘーゲルのものです。ヘーゲルの『精神現象学』における精神の発達は、自己発達です。エピステモロジーの場合、この精神というのは、各人の自由な精神ではなくて、それぞれの科学の、それぞれの分野がやっている、合理的な思考とか実験の手続きとか、そういうものをバインドしている、計画しているものとしての精神であるいう発想になります。 だから、こちらでは、「われわれがイメージしていること」と「理解」が直結していない。例えば、バシュラールなんかだと、この科学の精神がどう発展してきたかということは、同時に、科学教育がどう改変されるかということだというふうに考えていくんです。もちろん、それは個人の精神の素養としてとらえることはできるけれども、逆に言うと、個人を超えてそこに広がっていて、その場として教えられる思考の様式の変更であるとも言うことができます。 そういういうものとしてエピステモロジー、今回はバシュラールを主にとりあげます。 ●科学者集団 パラダイムや個別性に関わっている哲学に、分析哲学があります。そこでは、クワインが言い出したコンセプチュアル・スキームっていう概念があって、これが重要なんですね。概念の枠です。クワインは、全体的に概念枠という枠組みがあって、そこにいろいろと経験が当てはまってシステムになっていく、と考えていく。 その一方で、クーンのパラダイムはあくまでもそこにいる科学者集団の社会的な現在の理解です。彼の場合は、科学者集団の全体の雰囲気、日本の山本七平が言っていた空気とか、そういうものを非常に重視している感じがあります。 ところが、エピステモロジーの科学的精神は、むしろ人間というよりも科学におけるものです。例えば、公理、技法、実験、そういうものを律している。非人間的かもしれない。しかも、これは個別にバラバラでいいんです。だからエピステモロジーを論じるバシュラールは、科学哲学を分配される哲学と考えます。「分配される」と言っても、生物学の哲学とかなんとかっていうそういう大雑把なサイズの話ではなくて、科学において進歩の斉一性っていうのは全然保証されていない、という意味合いです。進歩の仕方は分野によって違う。さっき言った地学と物理は違うとかそういうレベルじゃなくて、物理の中でさえ分野ごと、理論ごとに違う。だからそれぞれの分野、理論に対してそれぞれに応じた形での科学的精神というものが存在する。その分配の間を繋ぐものが、「構造」なんですね。構造という概念を使ってそれぞれの科学的精神の間のやりとりをする。接合する。 だから、この「構造」概念は、狭くとれば形式的な部分や理論の方が着目されるんですけれど、必ずしもそうは限らない。 ただ基本的に、科学的精神・合理的精神というのは、一つの精神としてそこにあるのではなくて、たくさんの精神が、別々のレベルで(例えば、人間の体の中でものすごい数と種類の細胞が仕事をしているのと同じように)非常にバラけた形で、しかもこの「構造」概念を通して、科学であることをひとまず認めている。さらにそれぞれが、いつも教育、実験、発見によって動的に変わっていく。バシュラールは科学をそういうものだと考えているんですよ。 だから逆に、科学的精神のどこに個人が出てくるのか。科学的精神における個人とはなにか、という問いがあるのね。そこがじつは結構難しい。 バシュラールの言い方では、通常、科学哲学において(新科学哲学とかそれから後の科学社会論になると特に)、科学者が研究室を出たときに、何を考えているのか。普通の人に戻ったときに、何を考えているのか。そこに哲学的な問いがあるということをよく言います。だから自分の個別の狭い研究室のなかではなく、そこを出たときに科学をどう理解しているか、ということをカンギレムは考えたわけね。研究室の中にいると科学者は歯車であると。 ところがバシュラールはそうじゃない。研究室に入ったときに何をしているか。研究室の外じゃなくて研究室に入ったときに科学者が何をしているか。バシュラールが問うのはこっちなんです。 一方で、クワインの概念枠は、そんな研究室の内と外の区別なんて何も考えていない。われわれが見ているものの全体としての理解という、非常に大きい枠で考えるわけです。ですから、「組織化する概念」というのは、これはこれで正しいんだけど、じゃあ具体的に、その実態はなにもんじゃいと言ったならば、この言葉以上に言いようがないわけですね。 クワインの概念枠は、前にお話したシステム論における、システムという概念の一番大雑把なところとほとんど変わらないわけです。具体的にそのシステムをどのレベルでどう接しているか、どこを重要なタイプとして考えるか、と考えたのが、例えばクーンのパラダイム論、エピステモロジーの人たちが考えたことです。 ●クワイン、デイヴィッドソン、ラカトシュ… これは余談になりますけど、クワインの概念枠理論に対しては、じつはデイヴィッドソンが「こんなものない」って文句を言います。クワインの有名な『経験主義の二つのドグマ』っていう論文があって、一つが感覚与件への経験論、観念の可能性。もうひとつが、分析判断と総合判断。 これに対してデイヴィッドソンが三つめを言うんですね。第三のドグマ。何かというと、概念枠だと言うんです。 形式と内容の分割、これが第三のドグマだとデイヴィッドソンは言うわけです。 なぜかというと、これは実はパラダイム論にも関わるんだけど、 「理解をするということの意味は何か」という問いがあるからです。前にも言ったけど、デイヴィッドソンにとって「理解」というのは、真理条件意味論だから、真理を導く、証明を導く、ということです。だから証明の仕方が違う、論理が違うとなれば、そんなのわかるわけないじゃないかと。つまりAという概念枠のネットワークに対して、Bという概念枠のネットワークがあるとする。お互いに理解できるのなら一つの概念枠だろ。理解できなかったらそもそも証明とかわからない。だから二つの概念枠は、他者の概念枠がわかるということを言っては意味がない。これはデイヴィッドソンの合理性という考えでも同じなんですよ。私の合理性はわかるけれど、他者の合理性って案外わからない。だとしたら、そもそも合理性という概念を出すことに意味があるのか。そう言ってこの概念枠という発想を否定します。 そうするとパラダイムが違うとか、科学的精神の分割性ということに対して、デイヴィッドソンの立場からだと、そんなことをいう奴は無知蒙昧だと。お前らはわかるということをわかっていないんだ、という話になっちゃう。 つまり理解をするということは、一通りしかない。私がいまここで理解できるという仕方は、一通りしかない。だから、それが変わってしまったら全部が変わってしまう。それがデイヴィッドソンの持っている全体像の話なんですね。でも、デイヴィッドソンは証明という形態をとっていて、システムの内部に、個別と全体とか、タイプとトークン、個別と一般ということを、論理学の形態では持っていないわけですよ。証明をするときには個別も全体もどっちも使えるから。 でもこの個別というのは当然のことながら、頭で考えて一般化できるというかたちでわかるものではないはずです。だから、もし個別が頭で考えて形式的に一般化できるんだったら、クワインの言っている概念枠という概念に対応するし、それの理解ということをデイヴィッドソンのように言うならば、それは結局、「私」の枠が一番大きいことになって、その枠の中にたまたま無知な奴らとか、よくわかっていない奴がいる、という話になるわけね。人間は猿がやっていることがわかるけど、猿は人間がやっていることをわかんないみたいに、上の方が常に下を見降ろしているという立場というのはデイヴィッドソンの態度です。 で、これがクワインの物理主義の物理の微妙なところでもあります。物理といいながら、その物理がいわゆる論理学に還元できない。でも還元できないものだと、「この物理はなんなの?」と言われたときに具体的な物理の書き方は難しいと言った。そのことにクワインの難点があるんですけど。 その部分が、新科学哲学なんかでは、基本的に形式的な取り扱いと言われているものです。実験の取り扱いが、指示や理論を持っていることを確定できない。例えば、指示の不可測性(「これは何の実験ですか?」)とか、理論の決定不全性(「どこに理論があるんだ?」)とか、そういったところに対して、われわれが理解する仕方の不完全な部分こそが、パラダイムという形を生み出すんだと。そう考えた方がわかりやすいです。 ラカトシュのリサーチプログラムは、相性がいいんですね。科学はリサーチのプログラムという個々の理論ではなくて、リサーチプログラムという方向に向かう理論集団であると。 典型的なのは、ビッグプロジェクトです。有人宇宙船を火星に持っていく、そのためには何が必要かというもの。それからさっきの都城さんが出していたようなタイプの、全地球史、全部の地球という課題があってそれを越えていく。それにはどういう個別の研究が絡んでくるんだろうか。そうやって目標を設定して、研究する。その間に必要なもの、手段、目的、それから情報提供という形で、いろいろなバラバラの理論が結びつく。理論の組み換えも起こるし、この理論は駄目だなあと思っても、別の理論が発達して、それによって再出発する、ということもある。 この集団間の、ある意味で闘争だというのが、ラカトシュのリサーチプログラムの科学史観です。だから、クーンはこれを批判している。リサーチプログラムをやったときに「合理的っていうのは何?」って言うわけ。「科学的って何ですか?」って。リサーチプログラムにちゃんと載っていることです。リサーチプログラムの一部を占めていることです。――でもそうなると、どんなに今あほらしい研究だと思っても、後々に復活するかもしれないから、あほらしい研究にこだわっているやつを馬鹿だと言うことができなくなる。そういう批判をするのがファイヤアーベントと私です。 ●科学的精神同士の争い こう考えたときに、さっきの分散した、分配された分散した哲学といっているものとの対比というのがでてきます。対比される見方というのは、リサーチプログラム。それから、背景にある個人としての学者、問題に対する理解の仕方、それがなんという問題なのかと理解する理解の仕方、研究室から出たときの全体を見渡す、研究生活全体に対する、どういう関わりをするかというと集団の関わり。この辺の流れが後に科学社会学というタイプの学問に繋がるわけです。 科学社会学の辺りの話というのは、具体的に科学者の集団が、パラダイムを浸透させるときにどういうふうに浸透させているかです。ある教授がすごくカリスマ的な能力・性格を持っていて、学生にこれをずーっと伝染させるのか。それともレポートの書き方とか授業課題という形で締め付けて、そういう発想をするようにしむけるのか。その形式から外れたタイプのレポートを書いたら、学会で皆でぼこぼこにしちゃって教育するんだとか。結構人間臭い話が多いわけね。こちら側の人間臭い話、哲学が理解するタイプ、哲学が見たタイプの科学、の方法になる。 バシュラールはそうではなく、彼の場合はなにが対抗するかというと、科学的精神同士が争うんですよ。もしくは科学的と科学的じゃない精神が争う。バシュラールにおいては、合理的精神自体が一つの精神とは限らないわけね。それと対角するのは非合理的精神なんですけど、合理的精神はひと塊であると考えてないわけ。分散された合理的精神だから――しかもさっき言ったように発展の段階で斉一性がないから、合理的精神のなかでさえ組み換えが起こるし、その組み換えは分野ごとに違う。一般的なもの(いわゆる哲学において「一般的な」と言っているもの)にはなりえない。非合理的精神、経験を組織化する概念のネットワーク、それは一般的に説明できるでしょ? バシュラールは「一般的だからなんなの?」っていう。一般的だけでは、何も言ってないからね。 つまり一般的に説明したということは合理的に何かすることに関して、何の情報にもならない。ですから、バシュラールはもう一つの問い方をします。 バシュラールは化学の哲学の構築を目指して頑張るんですけれども、物理学で考えましょう。物理学は「事実の学」、ふつうは皆そう考えるよね。でもむしろ、「効果の学」だってバシュラールは言うんですよ。例えばこういう言い方をする。実験室があります。普通はどう考えるか。実験室というのは因果という概念を持ってきて、因果の中のファクターを切り出す場所である。そこには、主要な概念がある。落下の運動があった時に、ニュートンの意見が正しいとします。でも、ここに空気があったり、風で渦が巻いたり、コリオリ力があったりするから、純粋にニュートンの提唱した法則になることはない。個々の場合をそのまま法則に当てはめられない。やっぱり理想化が必要になります。だから科学は理想化をするし、実験も理想化をする。理想化するのは、世界の本質をファクターに分けるためである。世界自身が原子論的に構成されているということに対応して、構成している法則が分けられていく。その法則を抽出するのが実験だ、――というのが普通の事実の見方なんだよね。
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プログラミング 1:目標ーアンドロイドのアプリを制作 2:必要な知識、 2.1 環境設定 現在の問題点として、eclispのJAVA、(MAIN)の問題。 インストールし直す必要があるのではないのか。 一旦アンインストール?時間はかかるが確実。 2.2 数学的論述への知識不足。 数学の本を読む。どんな種類?論理学あたりが怪しい。 2.3 JAVAへの理解 JAVAの文法 2.4プログラミング自体への理解 アセンブリ、C言語、 3:知識の獲得の方法、手順 まずはアプリ制作入門の本を手に入れる(3000円)、ネットで調べる。本の方が理解が早く、復習、リファレンスとしての機能に優れる。 4:作りたいアプリ バンドのアプリ:バンドのスケジュール、写真、twitter、ゲーム、 サークルのアプリ:掲示板のクローラ、写真 5:スケジュール 今回の大阪滞在中に簡易なアプリを制作、そこから発展させる。
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第12-305章.第12-306章.第12-307章. 第12-306章. ジャナカは言った、「聖なる者よ、男性と女性の関係は、破壊不可能なものと破壊可能なもの(あるいはプルシャとプラクリティ)の間に存在する関係に似ていると言われている。男性がいなければ、女性は決して妊娠することができない。女性がいなければ、男性も決して形を創造することはできない。互いに結合し、それぞれが相手の属性に依存する結果、(生き物の)形は流れるように見える。これはあらゆる存在の秩序に当てはまる。性的)結合を目的とした互いの結合によって、またそれぞれが他者の属性に依存することによって、(生き物の)形は月経の季節に流れる。われはその徴を汝に告げよう。父に属する属性とは何か、母に属する属性とは何かを聞きなさい。再生する者よ、骨、筋、骨髄は主人に由来する。皮膚、肉、血は母に由来すると聞く。再生者の第一人者よ、このことでさえ、ヴェーダやその他の経典に書かれていることなのだ。ヴェーダや他の経典で宣言されているように読めるものは何でも、権威とみなされる。ヴェーダと矛盾しない)ヴェーダと他の経典の権威は、やはり永遠である。もしプラクリティとプルシャが、それぞれが対立し、それぞれが相手の属性に依存することで、常にこのように一体化しているならば、聖なる者よ、私は解脱が存在し得ないことを理解する。聖なる者よ、汝は霊的な視覚を有しており、万物が汝の目の前に存在するかのように見える。それゆえ、もし奴隷解放が存在することを示す直接的な証拠があるならば、それを私に語ってください。私たちは解放に到達したいと望んでいる。縁起がよく、肉体がなく、衰えることがなく、感覚の及ぶところでなく永遠であり、それに優るものがないものに到達したいのです」。 ヴァシシュタが言った、「ヴェーダと他の聖典の指示についてあなたが言うことは、(そのことに関して)その通りです。汝はそれらの印を、取るべき方法で取っている。しかし、汝は、ヴェーダと他の経典のテキストのみを理解する。君主よ、汝はそれらの経典の本当の意味に真に通じているのではない。ヴェーダやその他の経典の本当の意味や意味に通じていないで、ただヴェーダやその他の経典の文章だけを自分の理解の中に留めている者は、それらの文章を無益に留めているのである。実際、意味を理解せずに著作の内容を記憶している人は、無益な重荷を背負っていると言われる。しかし、ある論説の真の意味に通じている者は、その論説を目的を持って研究していると言われる。文章の意味について質問されたら、入念な研究によって理解した意味を伝えるのが当然である。学識者の集まりの中で文章の意味を説明することを拒む鈍い知性の者、愚かな理解力の者は、意味を正しく説明することに成功することはない。 無知な者が論説の真意を説こうとすれば、嘲笑を浴びることになる。魂の知識を持っている者でさえ、(説明しようとするものが学問によって獲得されたものでない場合)そのような機会には嘲笑を受けなければならない。君主よ、サンキャ哲学とヨーガ哲学に精通した高貴な人々の間で、(戒師が昔から弟子に)どのように解放の主題が説明されてきたか、私の話を聞きなさい。ヨーギンが見ているものは、まさにサンキャが到達しようとしているものである。サンキャ哲学とヨーガ哲学が一体であると見なす者は、知性に恵まれていると言われる。皮膚、肉、血、脂肪、胆汁、骨髄、筋、そしてこれらの感覚(知識と行為の両方)は存在する。物体は物体から、感覚は感覚から生まれる。種子が種子から得られるように、人は肉体から肉体を得る。至高者が感覚もなく、種もなく、物質もなく、身体もないとき、彼はすべての属性を失っているに違いない!彼がそうであることの結果として、彼は実にどのような種類の属性を持つことができるだろうか?空間やその他の属性は、サットワ、ラジャス、タマスの属性から生じ、最終的にはそれらの属性の中で消滅する。このように、属性はプラクリティから生じる。皮膚、肉、血液、脂肪、胆汁、骨髄、骨、筋、これら八つはプラクリティから作られるが、王よ、(男性の)生命力のある種のみによって生み出されることもあることを知れ。ジヴァ魂と宇宙はともに、サットワ、ラジャス、タマスという三つの属性によって特徴づけられるプラクリティに属していると言われる。至高の魂は、ジヴァ魂とも宇宙とも異なる。季節が形を伴わないにもかかわらず、特定の果実や花の様子から推測されるように、プラクリティも同じように、形がないにもかかわらず、マハトの属性とそこから生じる残りのものから推測される。このように、肉体の中のチャイタニヤの存在から、あらゆる属性から切り離され、完全に無垢な至高の魂が推論される。始まりも滅びもなく、終わりもなく、万物の監督者であり、縁起の良いその魂は、肉体や他の属性と自らを同一視することによってのみ、属性を持つものとして捉えられるようになる。真に属性に通じている者は、属性を持つ対象だけが属性を持つことができるが、すべての属性を超越するものは何も持つことができないことを知っている。ジヴァ魂がプラクリティから生まれ ジヴァ魂は、プラクリティから生まれ、誤りのもとで思い込んでいるすべての属性を征服するとき、初めて至高の魂を見る。サンキヤとヨーガの体系に精通した最高のリシのみが、サンキヤとヨーギンと他のすべての体系の信者が理解を超えていると言う至高の魂を知っています、 無知や誤りの属性を超越し、顕現せず、あらゆる属性を超越し、至高と呼ばれ、あらゆる属性から切り離され、万物を定め、永遠にして不変であり、プラクリティとプラクリティから生まれたあらゆる属性を支配し、四つと二十の探求のテーマを超越して二十五番目のテーマを形成する。生誕、生きている意識の諸条件、そして死を恐れる知識のある人が、無明を知ることに成功すると、同時に至高の魂を理解することにも成功する。知性のある人は、ジヴァ魂と至高の魂との一体性を、聖典と一致し、完全に正しいと見なしますが、知性のない人は、この二つを互いに異なるものと見なします。これが、知性のある人間と知性のない人間の区別を形成している。クシャーラとアクシャーラ(破壊可能なものと破壊不可能なもの)の両方の徴候が、今あなたに告げられた。アクシャラとは一体性または統一性のことであり、多義性または多様性はクシャラであると言われている。五つと二十の探究テーマを学び、正しく理解し始めると、魂の一体性は聖典と一致し、その多様性は聖典と対立するものであることを理解する。これらは、創造されたトピックや原理の物語に含まれるものと、その物語を超越するものについてのいくつかの兆候である。賢者たちは、トピックの物語は5つと20しかないと言っている。トピックを超越するものはその数を超え、26番目となる。創造されたもの(五つと二十の数)をその集合体(五つ)に従って研究し理解することが、トピックの研究であり理解である。これらを超越するものが永遠なるものである。 第12-305章.第12-306章.第12-307章.
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システム設計 POINTs ウェブサイトのシステム全体の理解 プログラミングを連動させるためのサーバーに関する知識 ホスティングサービスの利点を理解 これまでのウェブサイト制作は、HTMLでの静的なコンテンツ制作が主流でした。 しかし、今日では、ネットワーク環境の整備や管理上の利便性などの要員により、コンテンツを情報に応じてさまざまに変化させる動的コンテンツが発展を遂げ、その結果、プログラムやサーバーの設計は、ウェブサイト制作上避けては通れないものとなってきています。 プログラミングやサーバー構築は、高度な専門分野にあたり、実際の設計はシステムエンジニア(SE)などが担当します。しかし、ウェブサイト制作にかかわるほかのスタッフが、まったくこの分野を知らなくていいということではありません。 特にウェブディレクターなど、ウェブサイトの進行管理やクライアントとの対応をするスタッフは、「どのような技術」で、「どのようなことが可能なのか」を明確に説明できなければなりません。 システム設計のワークフローは、サイト設計など、他の分野と大きく違うので、基本的な事柄をしっかりと理解しておく必要があります。また、「リスク」や「問題点」、「作業工数」、「費用」などについても理解する必要があります。 ウェブディレクターは、制作段階で、現在どのような作業をプログラマーが行っているのかをクライアントに分かりやすく説明する必要があります。また、ほかの制作スタッフも、プログラムに適応したグラフィックエレメントの制作やコーディングなどの連携作業を効率よく行うためには、やはり、プログラミングやサーバーに関する最低限の知識を持っておく必要があります。 項目 プログラム設計のワークフロー プログラム設計のワークフロー2
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「こういうことはやってます」くらいの指標。 もちろん乗ってない項目について授業してもらってたりする分には問題ないです。 術科&教養 「初等能力管理」 能力についての理解や、運用法、燃費・安定性・対価等のリスク管理が主軸。 「体躯操法」 竜としての身体を使った基礎訓練。 牙や爪を用いた有効な引き・咬み裂き方、尾や身体自体を用いての打撃方法を学ぶ。 「走駆/飛行/潜泳/穿孔/~術」 基本的な身体の運び方を学ぶ。 "移動できない"状況は危機的事態に直結する為、最低でも実技は2種選択、教養に置いては全種が必修。 「指向性術式」 各々の"力"に指向性を持たせる訓練。所謂ところの魔法に近く、また他の術式の基本にも当たる。 己の力を用いるものから、周囲の力を汲み取るもの、生じさせるもの等ある程度広範に使用方法は仕込まれる。 「対竜戦術」 対堕竜を視野に入れつつ、竜種との戦闘時における戦術や注意点など。 属性や特性の見切り方、その竜の持つ強みの往なし方から制圧・殺害まで。 対象は"世界"につくられる傀儡で行われる。殺した後は食べる。わりといける。 「改変術式」 概念や状態に改変をもたらす術式を学ぶ。 指向性術式の延長に当たり、自己そのものや対象そのものを力の焦点とする。 外観をヒトに定義して歪めたりする直接なものや、或いは呪ったり呪いを解いたり、といった間接なものにも亘る。 無為に自己以外のものに対して使用することは控える様に、という指導が一応為されている。 「封印術式」 能力や術式の発現に制限を掛けたり蓋を施したりする術式を学ぶ。 分類としては改変術式に含まれるが、必要性などを鑑み独立した扱いになっている。 封印の掛け方やその条件付け、解除方法と手順、強制解除のリスクなどを幅広く学ぶ。 「創造術式」 0から1を生みだしたり、或いは既にある10を3と7であるとか、随意に切り出したりする術式を学ぶ。 想像や概念に物体性を付与する性質が強く、非常に『神竜性』の高い訓練。 「世界間渡航」 必要に迫られて、或いは単純に己の目的を達する為。世界を隔てる機会は多い。 召喚・被召喚、転移、渡航など、各種の世界を渡る手段・その安全な運用について学ぶ。 「世界間通信」 有事・平事を問わず、連絡手段の有無は時に趨勢の可否を決する。 長距離での伝達や、世界を隔しても伝える事の出来る手段について学ぶ。 「異種意思疎通」 異常事態の小火などは存外、他の種族の方が嗅ぎ取るのが早かったりする場合も多い。 そのような実利に限らず、意思もつ種族との意思疎通は図れるに越したことはない。 声帯等を介しない会話方法(念話のようなもの)、使用言語・概念の自動翻訳など。 「高次能力啓発」 『初等能力管理』を継承する。最終段階を迎える程にまで訓練を終えた候補生に対し、 持ち得る力のさらなる高みを開拓する。 能力の運用限界や、本来と違う方法での干渉、対象の摩り替えと概念の読み替えなど多岐に亘って研究・実践を行う。 「異空間対処」 其の儘にしているだけでは生存を危うくするような環境、ひっくるめてアウェーの環境での立ち回りを訓練する。 そこをねぐらにする存在を意識した、空間に左右されない攻撃方法や回避方法、 離脱方法や空間の上塗り・書き換え等について学ぶ。 そういった空間を作れる竜種が学生に居る場合、疑似敵を任されることがある。 「危険能力対処」 一撃で自我や生命、乃至は継戦能力を喪失するような著しく致傷性の高い能力に対する立ち回りを訓練する。 事前防御から被弾時対応、治療で払拭出来ない場合の対処法などを学ぶ。 そういった能力を持つ竜種が学生に居る場合、疑似敵・乃至は疑似攻撃を任されることがある。 「被討伐対処」 事前に精緻に対策を練られた上で、団体様でやってくるお客様に対する対応を訓練する。 基本的に能力的な不得手な竜種や武装での訓練になる為、『世界』に用意される模擬敵による訓練になる。 不利を被りながらの接敵、他世界や同世界での援護要請、接敵回避時の留意事項などを学ぶ。 術科 「基礎訓練(無能力訓練)」 封印を施された侭、貧弱な魔力・膂力・体躯での訓練を課されひたすらしごかれる。きつい。 然し蓋をされた状態での身体の繰り方の練習なので実はそれなりに重要。 但し最初期訓育時においてはその落差などによる精神的な負荷や修練の意味も非常に大きい。 「実践総合訓練」 "設定"を言い渡され、そこに生じる問題の解決を行う。 "設定"は非常に広範であり、単純討伐から、侵略対処、未曽有災害対処、同僚間救援、同僚間討伐などに亘る。 「無制限死合」 全く封印を施さない状態で死合を行う。 すべての能力に制限を設けない状態で実戦戦闘を行い、各種の感覚に磨きをかける。 本当に死にそうになったら漸く中止。 教養 「秩序枢軸責務」 神竜・超竜が世界に及ぼし得る影響の大きさと、故にそれをある程度律する機構が必要である、 という仕組みについて学ぶ。 ようするに卒業後ウチに来ませんかという勧誘。 「初等均衡施術理論」「均衡総論」 世界が崩壊を来さない様に行う事が出来る術や知識、状態把握などについて広範に、且つ深く学ぶ。 「初等種族理解」「種族理解」 世界を構成する主だった種族や概念、意思疎通の有無や文明水準、戦闘・特殊能力などについて学ぶ。 「危険種理解」「危険種対応」 世界に危険を、乃至は崩壊や著しい損害を生じさせ得る種族や概念について、またその対処法・対峙法について学ぶ。 「物質外概念理解」 物質理解とセット。物質でないものの一般的な特徴特性、運用法について学ぶ。 「物質理解」 物質外概念理解とセット。物質であるものの一般的な特徴特性、運用法について学ぶ。 「初等管理理解」 世界を管理するにあたっての必要な仕組みや、あると便利な仕組みについて此れまでの例を含めつつ学ぶ。 「被信奉統治論」 初等管理理解の発展。神竜向け。 知性のある生命体から信奉・信仰の対象となることで生命体や文明に指向性を持たせる統治形式を学ぶ。 「制圧統治論」 初等管理理解の発展。超竜向け。 知性のない生命体にも有効な、単純な力に因る支配を敷く形式を学ぶ。 「契約総論」 魂魄の絡むものから召喚や約定など簡単なものに至るまで、契約の方法と、その応用について学ぶ。 「配下管理指揮」 自分の世界のみならず、等列の者や下位の者に対して行う指揮の方法について学ぶ。 統治時における組織管理や、戦闘時の有効な陣の種類、陣の組み方、および各種伝達方法など多岐に亘る。 「多干渉世界判断」 "開かれた世界"と"閉じた世界"との違いを研修結果も踏まえて改めて吟味する。 また、そこでの力の使役の上限や、立ち振る舞いの可否判断など、影響の及ぶ範囲すべてに於いて検証し学ぶ。 「滅亡趣旨理解」 世界の滅ぼし方について学ぶ。
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研究紹介 植物科学や光合成生物学は私たちをとりまく地球規模での環境破壊、食糧危機、エネルギー問題のようなさまざまな問題を解決する可能性を秘めています。そのためこのような可能性を現実へと転換する技術開発や革新的なアイデアが急務で、それらは基礎科学による知見に基づいています。 例えば、光合成能力を高めるための植物遺伝子工学は二酸化炭素削減、バイオ燃料生産や環境耐性付与作物の作出などに必須の技術です。このような技術開発の近道は、私たちが実際に植物が行っている環境適応の戦略を理解することにあると考えます。植物が進化の過程で獲得してきた機構は、人類の理解を遥かに越えたものであることに疑問の余地はありません。光合成の場である葉緑体は、プラスチドと総称されるオルガネラが葉などの緑色組織でとる形態です。プラスチドは独自のゲノムを持ち、そこにコードされている約100個の遺伝子の大部分は光合成機能に必須です。プラスチドの遺伝子発現は転写、RNA成熟化、翻訳の段階で複雑に制御されています。しかしながら、私たちはまだこれらのプロセスが光合成制御にどのように必須であるかをよくわかっていません。光合成制御のメカニズムを理解するために、私はこれまで光合成電子伝達が異常なシロイヌナズナ変異株を単離し、生化学的手法で原因遺伝子の機能を明らかにしてきました。遺伝学と生化学を駆使した研究アプローチは複雑な植物の生理機能に潜む分子メカニズムを理解するうえで強力な方法であると考えています。実際、このアプローチによって得られた結果は、光合成関連遺伝子の発現制御を行い、長年謎であったプラスチドRNA編集の分子機構を解き明かすことに大きく貢献しました。 私は現在も引き続き、光合成制御のメカニズムを理解することを目的とし、独自の研究として葉緑体遺伝子発現制御機構の解明に取り組んでいます。また、小池裕幸教授のもとで、藻類における光合成電子伝達機構および陸棲藻類の持つ高い乾燥耐性に関する研究などについても取り組んでいます。 以下、行っている研究課題の詳細です。 1) 葉緑体遺伝子発現調節機構の解明 2) 植物オルガネラRNA結合蛋白質の機能解明 3) 藻類における光化学系Iサイクリック電子伝達機構の解明
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Pampotan はノストラダムスの造語と考えられている語。 詩によって Pam- は Pem-, Pom- などのこともあるし、-potan(s)は -potam(s) などのこともあるが、同じ語と理解されている。 ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは Prepotent とラテン語訳し、「最も力ある(者)」と理解した。ベルナール・シュヴィニャールもこれをそのまま紹介している(*1)。 アナトール・ル・ペルチエはギリシャ系接頭辞 pan-(pam-)と、ラテン語 potens の造語で「全能の(者)」と理解した(*2)。 この読み方はエドガー・レオニ、エヴリット・ブライラー、ピーター・ラメジャラー、マリニー・ローズたちからも支持されている。 エドガー・レオニは、-potam となっている場合については、ギリシャ系接頭辞 pan- とギリシャ語 potamos の造語で「全ての海」の可能性があることを示している(*3)。 ローズも同様の指摘をしている。 ブライラーは、「全能者」以外の可能性として、ラテン語 pompa(豪奢、誇り)の派生形の可能性を挙げている(*4)。 ラテン語 pomposus からとし、「壮麗な(者)」(le magnifique)の意味に理解したジャン=ポール・クレベールも、これに近いといえるのかもしれない。 クレベールの場合、スレイマン大帝(Soliman le magnifique)のあだ名にも対応すると指摘している(*5)。 登場箇所 詩百篇第8巻97番 詩百篇第10巻100番 アンリ2世への手紙 予兆詩第33番(旧30番) ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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元ネタ:キャプテンハーロック(宇宙海賊キャプテンハーロック 水木一郎) 作:ヤジオーディエンス あいつの尻は 俺の尻 俺の果てしない 欲望さ あいつは受けで 俺は攻め 俺の捨てきれぬ 性癖さ ホモよ 理解されぬ 愛と知っても やはり 男とまぐわうのだ 世間に隠し 俺は生きる あいつのマラは 俺のマラ 俺の果てしない 欲情さ 滴る汁は 俺の汁 俺のあふれ出した 喜びさ ホモよ 理解されぬ 愛となっても やはり 男を求めるのだ 世間に背き 生きてゆこう あいつの汗は 俺の汗 二人啜り合った 聖水さ 喘いだ声は 俺の声 俺の抑えきれぬ 雄叫びさ ホモよ 理解されぬ 愛と知るから ずっと秘密に していくのだ 男を愛し 俺は生きる 男を愛し 俺は生きる 検索タグ その他ネタ アニメ フルコーラス ヤジオーディエンス メニュー 作者別リスト 元ネタ別リスト 内容別リスト フレーズ長別リスト
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デマを流す人に利用されないために 「危ない情報を教えてくれる人は親切心なんだから正しい」という思考は間違い 世の中には「危ない情報を教えてくれる人は親切心なんだから正しい」って思う人が多いです。しかし、全てとは言いませんが、不安はお金儲けや政治運動に利用できるという側面があります。また、国や行政に対して不満を持てば「国が悪いことにしたい」と言う心理が働き、バイアス(偏見)が入ってしまいます。 放射能が人体に与える影響については、感情ではなく科学的に もちろん、感情的に「放射能が入った食べ物は嫌だ」と思うのは自由です。しかし、それを「放射性物質が少しでも含まれていたらガンになる」であるかのように科学的な事実をねじ曲げてはいけません。この人は好きだから信頼できそうだから信じる。というのではなく、科学的な事実を理解して判断するべきです。 ※科学的な知識や教養が無いと、判断しにくい。というのが問題なのですが、、、。 専門家のようで専門家ではない人が作る誤解 そして、専門家の肩書きがついていると、よく理解できないまま信じてしまいます。その専門家が実は専門知識がない人(別の分野の専門家とか)だということがあります。やはり公的な機関や学会の知見を見て判断し、理解できた上で、精査するべきです。 ※専門家風な人やジャーナリストが、ちゃんと理解し調べているわけではありません。彼らによって不安を煽るような誤解が撒き散らされている例が散見され、風評被害や差別につながります。 注意が必要な専門家