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1911年の失敗以降、ロンドン2度目となった『桜の園』 劇場はSt. Martin's Theater 1920年7月11,12日(演出 Vera Donnet) この公演に先駆け、1919年6月『かもめ』、1920年3月『三人姉妹』を公演している。 公演は成功に終わり、ウエストエンドまで遠征公演がなされた。 ラネーフスカヤ:Ethel Irving 劇評では好意的な評価 charming and ineffectual (Morning post) ガーエフ Layton Cancellor ロパーヒン Joseph Dodd 第1次大戦が終わり、イギリスのチェーホフに対する理解は変化した。 チェーホフの世界に対する眼差しが、優れたものだとロンドンの観客達も気がつき始めたためである。 【劇評】 1.Morning Post(1920.7.13) the acters seemed to be more resigned to their characters; at less pains to score points of their own. 2.Daily News(1920.7.13) a kind of ritual...a very solemn performance. 3.Observer(1920.7.18) Everything is inconclusive, invertebrate, supine, and yet how amazingly satisfying it is! 4.Nation(1920.7.17) the horrifying solemnity of productions of Chekhov in this country 参考 The cherry orchard plays in introduction James, N Loehlin http //en.wikipedia.org/wiki/St_Martin s_Theatre
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翻訳の正確さでは最も信頼できる湯浅訳。 一方では舞台で発する台詞として仕えないという批判も浴びてきた。 湯浅訳を用いていた千田是也も、テキストを改変して用いていたという背景がある
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新訳だが、上演向きではなく完全な読み物としての翻訳。 ワーニャ伯父さんの訳は素晴らしいのでちょっと残念。
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春の園建設チームに加わったときのもの。 蓮華の園。霰矢惣一郎さん・蝶子さん夫妻。 桜の園。矢神総一郎さん・サクさん夫妻。 屋台の売り物。たこ焼きとチョコバナナ。 壁画。 ちなみに山吹&ベルカインは梅の園におります。
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新潮文庫、1967年 日本で最も読まれてきたチェーホフの翻訳だと思われる。 歴史を感じる翻訳だが、上演のために小説家でもあった神西氏によって変更された表現が評価されている。 ただし、湯浅氏などが指摘していたように、原文を逸脱している部分があることは否定できない。 訳に関する注意点 p.32 ガーエフ「そう、だがこの屋敷も、借金のカタに売られてしまう。妙な話だが、仕方がない……」 →原文には(仕方がない)というガーエフが現状を認識している台詞はない。 →この訳文ではガーエフの心境がミスリードされてしまう p.79 フィールス「…毎にち封蝋を飲んでいるが、これで二十六年か…」 →原文では20年とちょっとであり、26年という数字は用いられていない。 解説について(池田健太郎)
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The cherry orchard plays in introduction James, N Loehlin(Cambridge University Press)2006 Contents Introduction C1 The Cherry Orchard text and performance C2 The Moscow Art Theater production, 1904 C3 Russian and Soviet performances, 1904-1953 C4 The Cherry Orchard in English early production C5 The Cherry Orchard at Mid-century Barrault, Saint-Denis, Strehler C6 Radical revisions, 1975-1977 C7 Brook and Stein, 1981-1997 C8 The Cherry Orchard after one hundred years 本書の見所は第4章 イギリス・アメリカにおける『桜の園』(20世紀前半) 【上演】『桜の園』1911年(イギリス・ロンドン) 【上演】『桜の園』1920年(イギリス・ロンドン・聖マーチン劇場) 【上演】『桜の園』1925年(ロンドン・Lilic Theatre) 【上演】『桜の園』1926年(ロンドン・バーンズシアター) 【上演】『桜の園』1933年(ロンドン・Old Vic) 【上演】『桜の園』1928-68年(ニューヨーク・ブロードウェイ) 全体の印象として、後半に行けば行くほど息切れしたのかクオリティが下がっている気がする。 特に第7章のピーターブルックとシュタイン辺りの情報量と最初の頃の上演史についての情報量に差がある。 概説書として読むのならば問題はないが、ある程度知識がある人にとっては第4章を中心に読むと効率が良い。
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Демидова А.С. В глубине зеркал/Алла Демидова. М., Вагриус, 2008. タガンカ劇場で女優として活躍したアッラ・デミドワの著書。1995年に初版。2008年に改訂。 この書にはタガンカ劇場でエーフロス演出によって上演された『桜の園』についての言及が含まれている。 エーフロスの前で不安になるなど、まだ初々しい頃のデミドワを知ることが出来ます。 C.100-122 Эфрос. "Вишневый сад" 1.(100-105)ラネーフスカヤにとって桜の園は幸せと安息を感じる場所。 喜劇 不幸と楽天性、病と道化、この要素が喜劇として働いている。どの登場人物も幼児性を抱いている。 桜の園では第2幕が最も難しい。単なる無意味なおしゃべりになってしまう危険性がある。 2.(105-106) ヤルタで見たチェーホフの部屋にあった本棚がタガンローグから運んだ物だと知る。 (この思い出の文章が非常に詩的で美しい。ヤルタの悲しげな情景が思い浮かぶ) 3.(107-116) 111.第一幕は嵐。そして言葉は防波堤。 4.116-122 リュビーモフはエーフロスの桜の園を気に入らなかったらしい。 アッラの文章を読むと、彼女にとってのエーフロスの存在の大きさが分かる。 いつの日か、タガンカに保存されている桜の園のセットや衣装を もう一度若い人たちを使ってアッラは上演したい。とアッラは語っている。 その日が来るのが待ち遠しい。 2008.12.25読了 関連 【上演】『桜の園』1975年(モスクワ・タガンカ劇場)
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池田健太郎『チェーホフの仕事部屋』新潮選書、1980年。 〔解説〕 本人が執筆したものではなく、講演を文字に起こしたものである。 本来ならば池田氏本人が執筆するであったのだろうが、突然の死によって不可能になってしまった。 それゆえ、『桜の園』の部分などは未完となっている。 〔目次〕 第1章 チェーホフと私たち 第2章 生活のさまざまな姿--初期短編の名品たち 第3章 影を写す--チェーホフの小説作法 第4章 女性が恋をする時 第5章 「手帖」から作品へ 第6章 後期の名作たち-その一 第7章 後期の名作たち-その二 第8章 戯曲の名場面--チェーホフの作劇術 第9章 『桜の園』の問題点 第10章 『桜の園』第一幕を読む 第11章 『桜の園』第二幕を読む 第12章 チェーホフの手紙 あとがき(川端香男里) 関連 http //ci.nii.ac.jp/naid/110001256899/
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チェーホフ作品の翻訳 〈全集〉 【翻訳】『チェーホフ選集』米川正夫(1949) 【翻訳】『チェホフ戯曲集』タカクラ・テル(1953) 【翻訳】『チェーホフ名作集』杉山誠(1956) 【翻訳】『チェーホフ戯曲集』神西清(1957) 【翻訳】世界文学全集28チェーホフ(1961) 【翻訳】決定版ロシア文学全集15チェーホフ(1970) 【翻訳】『チェーホフ全集』神西清・池田健太郎・原卓也(1976) 【翻訳】『チェーホフ短編集』原卓也(1988) 〈戯曲〉 【翻訳】『三人姉妹』湯浅芳子(1950) 【翻訳】『桜の園』湯浅芳子(1951) 【翻訳】『伯父ワーニャ』湯浅芳子(1951) 【翻訳】『かもめ』湯浅芳子(1952) 【翻訳】『桜の園』瀬沼夏葉(1913) 【翻訳】『桜の園・三人姉妹』神西清(1967) 【翻訳】『桜の園』小野理子(1998) 【翻訳】『ワーニャおじさん』小野理子(2001) 【翻訳】『かもめ』堀江新二(2002) 英語 フランス語 ドイツ語
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Режиссерские искания Станиславского М.Н. Строева М., Наука, 1973. 【解説】 スタニスラフスキーが手がけたモスクワ芸術座の演出史。 筆者のサイン入りを演劇図書館で発見し購入。 【目次】 『かもめ』 С.32-37 『ワーニャ叔父さん』 С.48-52 『三人姉妹』 С.73-78 『桜の園』 С.120-136 スタニスラフスキーは『桜の園』にこれまでのチェーホフ作品とは違う部分があることに気がつき、 今までのようなチェーホフのトーンを繰り返すことに危惧を抱いていた。 そして、彼は『桜の園』を悲劇として理解し、作者と論争を繰り広げている。普通の人にとってこれは紛れもない悲劇だと。そして、舞台はハーフトーン優しく潤いのある色彩に達したと後に述べている。また、チェーホフに手紙の中で第2幕をレヴィタンのような情景だと伝えている。しかし、結局「ロシア生活の重いドラマ」ということは変わらず、初演を見たチェーホフは気に入らなかった。 後にダンチェンコは書いている。「私たちはかつて過ちを犯した。チェーホフの指摘や手紙、希有な優しい輪郭に理解を示そうとしなかったのだ。」 しかし、スタニスラフスキーが誤った解釈をしたのでも、理解できなかったのでもない。明らかに彼にはチェーホフの戯曲に対する新しいアプローチは困難だった。既にこれまで培ってきた彼のリアリズムの方法では、矛盾が生じてしまったのである。 これは後にメイエルホリドのモスクワ芸術座批判となって現れている。ナチュラリスムを用いて『桜の園』を演じたのでは、チェーホフの神秘性は損なわれてしまう、と彼は指摘した。 確かに、彼はこれまでの方法を用いて『桜の園』を上演したが、それは完璧なものだった。今日、彼の残した演出ノートを注意深く読むと、難解で神秘的な作品に対する彼の情熱を読み取ることができる。 彼にとって『桜の園』は、ロシアの社会における悲劇的な歴史の中の世代交代として響いた。世代交代は必要かもしれないが、人々が互いに不幸にしあうことは彼にとって厳しいものだった。 演出家はロシアの3つの世代、過去、現在、未来、それぞれのグループに客観的かつ内面にも視線を向けた。ラネーフスカヤ、ロパーヒン、トロフィーモフの3つのメロディ。一つ目は過去のメロディ、既に非現実的で桜の花のよう。もう一つのメロディも非現実的で未来に熱狂的に向かう。一つだけが現実的なメロディ。ロパーヒンは静かに狼狽しながら「私が買いました」と答える。 彼はラネーフスカヤにもトロフィーモフにもロパーヒンにも誰にも否定的な目を向けてはいなかった。スタニスラフスキーは「なぜ優しき魂を持ったロパーヒンがラネーフスカヤを助けなかったのか?」と問い、こう答えている。「それは彼が商人の偏見に捕われていたからだ。彼は商人達の笑いものになっていた」。 (スタニスラフスキーのナチュラリスムに対する批判的意見) スタニスラフスキーは「全ての芸術は雰囲気に到達する」と繰り返していた。(Настроение) 『桜の園』がすぐに完全にならなかったのは、ナチュラリスムを演出家が信奉していたためでは全くない。この戯曲がリアリズムをシンボルにまで研ぎ澄ますのが困難だったためである。(C.129) 作家と劇場の食い違いは、双方の歴史観の違いを明らかにした。劇場にとってスタニスラフスキーにとって、歴史観は何よりも厳しい歴史的変化と結びついていた。普通の人にとって、悲劇であった。 『桜の園』は芸術座にとってだけでなく、チェーホフ自身にとっても新しい傾向を持った作品であった。これまでチェーホフはモスクワ芸術座のすぐ近くに居た。しかし、彼は新しい方向性を求めて先に進んでしまったのである。 スタニスラフスキーはチェーホフの死により、彼の満足の行く桜の園を見せることができなかったことを悔やんでいた。 (ここからはゴーリキーなどの話に移って終わる)