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濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』 http //www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89%E5%BE%93%E8%BB%8D%E7%A7%98%E9%8C%B2%E2%80%9580%E5%B9%B4%E7%9B%AE%E3%81%AB%E5%85%AC%E9%96%8B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82-1972%E5%B9%B4-%E6%B5%9C%E6%9C%AC-%E5%88%A9%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/B000J9GQ0K
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635 :yukikaze:2013/12/10(火) 22 33 25 では日清戦争史第二章。いよいよ開戦です。 日清戦争史 第二章 開戦 1894年5月。威儀を正した清国全権使節がもたらした書簡は、日本の朝野を憤激させた。 清国皇帝による説諭として出された文書では、まず日本がこれまで清国皇帝に挨拶をせず、さらに皇という文字を使い続ける非礼を責めると共に、慈悲深い清国皇帝は、愚かな日王が前非を悔いて以下の詫びをするならば、大いなる広い心で許してやろうとする ものであった。 これだけでも「喧嘩を売っているのか?」という中身だったのだが、それ以上だったのが「詫び」の中身であった。 天皇の称号を使わないのは序の口で、各種鉱物資源等を年間決まった量だけ上納することや、沖縄や奄美大島などの割譲、更には有事の際には日本軍の提供まで義務付けるという、およそ外交的常識をどこかに置き忘れたような内容であった。 つまり、それだけ光緒帝とその取り巻き達の外交認識が低かったともいえる。 (流石に李鴻章は、この文書を読んで絶句し、取り巻き達の無能さを呪ったとされる) この文書は、日頃温和な明治天皇も激怒したとされるが、悪いことにこの全権大使は皇帝に対する忠誠心は高いものの、外交的な素養は全くのゼロで、更に日頃高慢な態度でひんしゅくを買うことの多い男であった。 その為、研究家においては、清国は元々交渉するつもりはなく、相手を挑発させて戦争を吹っ掛ける気であったという意見が主流であるのだが、それを示すように、大使は、終始傲慢な態度を崩さず、事あるごとに日本を見下すような発言を連発していた。 当然、日本側も彼の発言に態度を硬化することになるのだが、それを更に助長させたのが半ば強引に清の使節に随行していた朝鮮王国役人の態度であった。 彼らは、清国大使の傍若無人な態度を見て、自分達も日本に傲慢に振る舞ってよいと錯覚し、清国大使に輪をかけて傲慢に振る舞っていた。 その態度は、清国随行員側からも「あれでは清国の威信にかかわる」と苦言を述べられる程であったが、大使は「傍若無人に振る舞う朝鮮人でも、我が大清には奴隷のように従順ではないか」と、意にも返そうともせず、却って助長させてもいた。 こうした態度に遂に日本も堪忍袋の緒が切れたのだが、彼らに対する日本人の報復は辛辣という言葉すら生ぬるい代物であった。 日本人達は「親睦パーティー」の席上、清と朝鮮の代表に対し、儒学の極めて高度な問いかけを延々と行い、彼らが口ごもると「おや。儒の国と言われているので、この程度の事はご存じかと思われたのですが」と、辛辣な皮肉を浴びせ続けたのである。 清国にしろ朝鮮にしろ、儒学は未だ高等教養として必須なのだが、よりにもよって蛮夷である日本人に劣っていると馬鹿にされるのは、これ以上ない程の屈辱であった。 そして憤激に身を震わせる2人に対し、日本側は「皇帝陛下と国王陛下への贈り物です」と、嘲笑交じりに、幼児向けの儒学の本を渡している。 「どうやら貴国達は儒学が相当衰えているようだ。皇帝陛下自らもう一度お勉強しなおすべきだろう。 貴官ら程度を差し向けるようでは、皇帝陛下の儒の知識もたかが知れている」 徹底的に恥をかかされた大使達は、怒りのあまり「貴様ら如き未開の国など我が大清の手にかかれば一夜にして奴隷に出来る」と叫んだのだが、それこそ日本側が待ち望んだ言葉であった。 「よろしい。では戦おう。ただし、我らを怒らせた代償は大きいぞ」 半年後、大使達は「大清の権威を地に落とした」として、拷問の末に処刑されることになるのだが、その時になって大使達は初めて、自らの行動を悔やんだとされる。 1894年7月。日清戦争開幕。
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868 :ナイ神父MK-2:2015/11/23(月) 00 22 08 日蘭世界 日清戦争 日清戦争とは大日本帝国で新政府が樹立してから、初めて行われた他国との戦争である。この戦いによって アジアで唯一日蘭同盟に対抗しうる勢力を保持していた清帝国が敗戦し、その後のアジアに於ける覇権を確固足る物とする戦争でもあった。 開戦まで 開国後、新政府はオランダを初めとした欧州国家との通常条約を改めて結び、欧州では日本の機械化されたラインによって製造された絹製品が 清国製の絹製品を市場から駆逐し、清との摩擦を起した。更に長崎で起きた鎮遠事件によって両国で複数の死者が発生し、関係が悪化の 一途を辿る事となる。 そんな中、朝鮮では親日派の勢力が朝鮮でも国家の近代化を図り改革に取り組んでいた。しかし、清はそれを良しとせず親清派を用いての排除を決めた。 両派閥のぶつかり合いは次第に軍事力を行使した物になり内乱に発展したまた、この内乱で日本から呼ばれた顧問が死亡したことにより。現地邦人の安全 を図る為、日本が朝鮮に対し派兵した。対する清も軍を派遣して内乱への介入に乗り出し、朝鮮国内で日清両国の陸軍がにらみ合うこととなった。 あくまで邦人救出を目的とする日本政府は清国側と交渉し、現地邦人の救出と内乱の鎮圧後に撤退した。だが、この迅速な行動とアッサリとした 撤退は清国上層部には弱腰、又は清国の威光に恐れを成したと見做され清国では日本征服論が活性化していく。そして、清国との対立が決定的に成った 事件が、客船の沈没事故である。この事故では同乗していた100名余りの日本人が死亡したが、客船の船長は清国人のみを助け日本人を見捨てていた。 更に清国政府から清国人を多数助けたとして表彰されたことも加わり、それを理由に日本が宣戦布告し表舞台に出てからの初の戦争である日清戦争へと と突入していく。 戦争と朝鮮の瀬戸際外交 戦争が間近に迫ると焦るのは朝鮮である。朝鮮の立地関係上、経済上共に戦争の被害を受けることは明白であり、両国に連日戦争回避の為の 会談を行っていたが止めることは不可能であった。そこで朝鮮は一つの賭けに出ることになる、それは日本政府と密約を結んだ上で表向きは 清国側で参加すると言う非常に綱渡りな策であった。しかし、日本に協力してしまえば国境線に駐留している清国軍に襲われかねない為、 これが最善としか言えない状況であり、後の歴史家からは高評価を受けている。その為、戦中清国に投入された兵力は歩兵や騎馬兵力を中心にして 敢えて旧式兵器で行われ後にロシアが日本の兵器は旧型が中心と言う勘違いを犯す原因となっている。 一方、海上戦では日本がワンサイドゲームとも言える戦況で戦いを進めていた。当初清国では日本には定遠級より巨大な艦は存在していないと 見られており、更に就役している艦も比較的小型の艦が主力を担っていると判断されていた。この不幸な勘違いは彼らの日本に対して待っていた 虎の威を駆る新興国と言う認識と共に粉々に打ち砕かれることと成る。 当時の日本は既に欧米の列強と大差の無い軍備を整えており、清国海軍を出迎えたのは当時のアジア最大の敷島型戦艦であった。 そして戦艦敷島及び朝日を旗艦とした艦隊との戦いにより、定遠と鎮遠共に鹵獲され他の艦は軒並み海の底へと送られることなった。その後、 悠々と清国海軍の主力を叩き潰した艦隊は補給後再度出向し、今度は天津へ向けて艦砲射撃を行い周辺施設へ重大な被害を与えることに成功してる。 同時に清国上層部は日本が北京へ直接攻撃を仕掛けてくると判断し、朝鮮国境へ貼り付けている軍を北京へと戻し 防衛強化して日本軍との決戦に備えることと成った。 そんな中朝鮮はチャンスと言わんばかりに、日本へと降伏し結果的にではあるが清よりも遥かに低い被害で戦争を乗り切ることに成功し、更に 矢面に立たせていた清国派の軍人たちを排除することにも成功しており、憂い無く後の近代化に取り組む下地を形作っていくことにも成功している。 869 :ナイ神父MK-2:2015/11/23(月) 00 22 39 鉄の暴風と英雄の消失 日本とオランダの戦争を語る上で外せない戦力が同時代の他国よりも遥かに高められた火力による過剰なまでの砲撃戦である。 その一部は嘗てのフランス革命戦争に於ける要塞の火力に見られるが、日清戦争において日本が持ち出した物は過去のフランスの 悪夢を更に昇華させたものであった。清国各地から徴兵又は召集され北京の内外に集結した部隊は数こそ日本を上回る物であったが、兵装はその実 貧弱極まりない物だった。実際の戦闘でもその差は歴然であり、突撃してくる清国兵に対して容赦なく浴びせられる、無数の機関銃と数えることが 馬鹿らしくなるほどの迫撃砲と列車砲による容赦の無い攻撃は各国の武官を唖然とさせた。 そして砲撃の後に姿を見せたのは元の形すらわからないほどに吹き飛ばされた敵兵と月面の如く大小さまざまなクレーターだけであり、一部の武官は後に 戦場から英雄が消えたとの手記を残している。一方清国は日本の大火力を前にして混乱を極めていた、当初計画していた篭城による長期戦と物量による 制圧が適わないばかりか、あの悪夢のような火力が今度は自分たちに向けられるそんな恐怖が身分の上下問わずに広がっていった。 そんな中日本は更に清国を追い込む為にかねてより研究していた、飛行船艦隊を九州より出撃させ艦載型の火中車を使用した爆撃を敢行して北京市内の 駐屯部隊に対して次々に爆撃を加えていった。この対抗不能な攻撃に対して軍の士気は完全に崩壊し、清国の敗北が決定することとなる。 戦後 戦後、日本は清国に対して賠償金と朝鮮の独立を要求視して清国に飲ませている。更に、鹵獲した定遠級は日本に譲渡され新たに丹後級として 日本で運用されていくこととなる。尚、余談だがこの丹後は第二次世界大戦時には輸送艦に改装されており朝鮮ー日本間の物資輸送に従事 していたが、途中で中央共産党軍が鹵獲した船を使用した艦隊に遭遇内一隻を衝角で船底に穴を開けて沈めている。皮肉には定遠級の衝角は 目標となっていた日本ではなく、自身をまともに運用しなかった中華の兵に発揮することになったと当時の日本では評価されている。
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310 :yukikaze:2013/12/08(日) 16 50 59 日本戦艦史を書こうと思ったけど、さらりとしか書かれていない日清戦争史でも書こうかと思い投下。 しかしこの時代の各国指導者層の動き見ると、悲劇の名君扱いされがちな光緒帝が、ヴィルヘルム2世並みに空気の読めない『無能な勤勉』としか・・・ そりゃ百日維新で、官吏たちが碌に従わなかった訳だわ。 1894年に行われた日清戦争は、清国の凋落を決定づけ、日本が華々しく近代世界史に躍り出た戦争であった。 これ以降、日本が坂の上の坂を上り続けるのに対し、中華大陸はどん底にまで没落していくことを見れば、まさに両大陸の命運を決した戦争であったとも言えた。 今回は、この戦争を俯瞰することにより、如何なる要因の元この戦争は生じ、そしてその影響がどう波及していったのか見ていきたいと思う。 日清戦争史 第一章 開戦前夜 日清戦争が起きた要因はいくつか考えられるが、その主因として挙げられるのは清国内部における権力闘争であった。 当時の清国で実権を握っていたのは、皇帝の光緒帝ではなく、伯母の西太后であり、彼女の寵臣であり、太平天国の乱で活躍した李鴻章であった。 実力や才能はともかくとして、責任感があったことだけは間違いのないこの皇帝にとって、現状はとても許せるものではなく、何とか実権を得ようと画策をしていた。 一方、西大后も李鴻章の北洋軍閥が必要以上に強大化している事実に対し、密かに危機感を抱いていた。 所謂同治の中興において、清国は表面上近代化を進めていたように見えたが、実際は清国ではなく北洋軍閥の近代化と言える代物であった。 この辺が日本の明治維新と違い、洋務運動への評価が著しく低くなることになるのだが、こうした北洋軍閥の強大化は、いかに寵臣の軍隊であったとはいえ、見過ごすわけにはいかなかった。 こうして、清国内において、北洋軍閥に対する風当たりは静かにしかし確実に強さを増そうとしていた。勿論、李鴻章もその流れをよくつかんでおり、清国の真の実力者である西太后の疑念を払拭するために努力をし、それは概ね成功するのだが、皇帝に対しての工作は捗々しくなく(李自身が西大后派なので当然なのだが)、不安定な立場へと置かれようとしていた。 そうした中、皇帝側近を中心にある一つの計画が持ちあがる。 『日本征討』 これまで歴代中華王朝が果たし得なかった壮挙を達成することで、国力増強と威信回復を果たすという計画である。 311 :yukikaze:2013/12/08(日) 16 51 36 後世の我々の目から見れば『血迷ったか』としか言えない代物であったが、宮廷内闘争はともかく、海外の事象に対して真剣に考察しない彼らにとって、日本は『東方の蛮族』程度の認識しかなかった。 同時期の日本において、明治天皇が、毎朝の習慣として、欧米列強の最新情報を必ず報告させるように(しかもクロスチェックをさせることを厳命していた)していたことと比べると、あまりもの落差に失笑すら浮かぶものであるが、問題はこの程度の認識しか持っていなかった者達が、皇帝の周囲を取り巻いていたという事である。 これでは皇帝が理性的な判断を下すことが出来なかったのも無理はないと言えるであろう。 そして皇帝やその取り巻き達の自信を補強する要因があったのも事態をややこしくさせることになった。 1つは日本の軍備改革が『名目的には』碌に進んでいないことであった。 これは日本が、明治維新以降『諸侯の軍隊から国家の軍隊』への脱皮を図ることを最優先課題とし、その整理再編に努力を傾注したことと、この時期の小火器や大砲などは技術革新度ですぐに陳腐化されるので、これ以降も長く使える三八式小銃(ただし口径は7.7mm)や41式山砲の開発に全力を費やし(日露戦争用には史実九五式野砲相当の砲を開発中)、海軍も富士級以前の戦艦なんて役に立たないとして、防護巡洋艦の取得並びに海軍工廠の近代化に全力を費やす(例外は松島型であり、この艦は史実松島型ではなく、史実デュピュイ・ド・ローム装甲巡洋艦をフランスに発注している。)など、現時点での正面戦力『だけ』を見る限り、清国が優勢であると見られていたのである。 そしてもう一つの要因が朝鮮王国であった。 これ以降も日本の疫病神として度々顔をだし、最終的には徹底的に潰される運命をたどるこの半島国家は、清国皇帝の周囲の空気を敏感に察知し、自らも日本征討に加わることによって、報酬のおこぼれを獲得することと、既に破綻と言ってもよい国家運営を清国に丸投げすることによって、自らの生き残りを図ろうとしたのである。 寄生虫根性もここまで来ると清々しいものがあるが、彼らは清国皇帝に対し、日本の無礼さと過去の侵略行為(秀吉の朝鮮出兵の事。この時、明・挑戦連合軍は日本軍によって壊滅し、3年間国土が制圧下にあった事を指している。なお、日本軍の撤退は秀吉が死去したことによるものであり、秀吉が後10年生きていれば、北京も落とせたのではないかというのが定説となっている)を書き連ね、『極東の安定の為には、清国皇帝の威徳を以て、東方の蛮族を説諭すべし』という上奏文を送っている。 これら2つの要因を受けて、光緒帝は日本征討に大きく関心を持つようになる。 そしてこの皇帝の意思を変えられないと判断した李鴻章は、日本征討で北洋軍閥の武威を見せつけることによって自身の立場強化に努めることを念頭に入れ始め、西大后は、皇帝と李鴻章のバランサーとなることで、政権における自分の存在理由を見せつけようとした。 本来挙国一致で執り行わなければならない戦争であるにもかかわらず、清国上層部の認識とはこの程度であった。 そして彼らの認識の甘さはもう一つあった。 彼らは清国軍が日本軍に完膚なきまでに叩き潰されるという可能性を全く考えていなかったのである。 彼らのこの見通しの甘さのツケは、莫大な負債となって降りかかることになる。
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静清戦争は、静岡鉄道と静岡高速鉄道が静岡市・清水市(現 静岡市葵区・清水区)で繰り広げた縄張り争いの通称のこと。 経緯 静岡高速鉄道による訴訟 1934年から争いが続いている駿遠戦争により既に2社の関係は悪化していたが、1962年に突如静岡高速鉄道が静岡鉄道を相手取り訴訟を起こした。 訴訟の理由は、 「静岡鉄道静岡市内線が廃止される事は当社(静岡高速鉄道)も承知しておりますが、この路線の譲渡については一切当社に提案されていませんでした。よって静岡鉄道を相手取り訴訟致します。」 と言う理由であったが、勿論の事静岡鉄道から自己中過ぎると猛反発を食らった。 また、静岡鉄道は静岡高速鉄道による実力行使にも警戒し、(駿遠戦争の際に静岡鉄道の前身である藤相鉄道の路線バスの運行を静岡高速鉄道の踏切で阻止された為)この争いが収まるまで静岡高速鉄道の路線との直通運転を停止することにした。 静岡高速鉄道による実力行使 静岡高速鉄道が実力行使に出たのは、静岡市内線が廃止された翌日の1962年9月16日の事である。 静岡高速鉄道が静岡市内線を、静岡高速鉄道が運行する朝比奈線の支線と見做して運行開始し、利用者からは混乱の声も聞かれた。 この行為にも静岡鉄道が猛反発し、静岡高速鉄道に対し、運行をやめるよう何度も通告したが、静岡高速鉄道からの返事は無く運行を続ける始末となった。
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770 :yukikaze:2013/12/11(水) 23 13 09 日清戦争史 第三章 決戦前夜 驚くべきことではあるが、日清戦争が勃発した時、日清両国においては軍事戦略は固まってはいなかった。 と・・・言っても、その内実はだいぶ異なる。 まず清国側であるが、皇帝とその取り巻き達は、清国軍の精強さに幻想を抱いていたせいか、日本は無条件で自分達の条件を受け入れると、半ば本気で予想をしていた。 そうであるが故に、日本が戦端を開くというのは予想の範囲外であったし、仮に戦端を開いたとしても「鎧袖一触だろう」という根拠のない楽観論しか口からは出なかった。 その為、彼らからまともな戦略が出ることは戦争中一度もなかった。 彼らが口に出すのは「蛮夷の国を早く征伐しろ」の一点だけだった。 無知であるが故に彼らは好戦的であり、そしてその根拠のない自信が叩き潰されたことで極めて見苦しい態度を後に示すのであるが、少なくともこの時の彼らには、そういった未来は考慮の外であった。 勿論、皇帝やその取り巻きとは違い、李鴻章は現実的であった。 彼は、皇帝たちが安易に開戦を選んだことに内心罵倒をしていたが、彼がそう思うのも無理はなかった。 皇帝たちは日本を簡単に占領できると考えていたのだが、その兵士たちを運ぶ輸送船が絶対的に足りず、また遠征軍の重要な補給地である朝鮮半島は、李王朝の統治能力の低さから、大軍が駐屯するだけの余力などどこにもない事が、袁世凱の報告で明らかになると、ますます皇帝たちの楽観論に嫌気を覚えることになる。 結果、彼のとった戦略は、彼が切れる最良のカードである北洋水師によって、日本海軍を撃滅し制海権を確保することで、清側のとれる選択肢を増やそうというものであった。 この李の戦略は、自国の負担を減らすことを望んでいた朝鮮王室からも賛意を受け(もっとも、李はこの属国に軽蔑しか抱いていなかったが)皇帝も、当初は気乗り薄であったが、アジアでも最大の大鑑である定遠級の活躍をみたかったのも事実であったようで、かなり恩ぎせがましく、李の戦略に裁可を与えている。 771 :yukikaze:2013/12/11(水) 23 38 47 翻って日本側はどうであったか。 彼らは清国との戦争については、清国側と違い、常日頃から真面目に考察をしていたのだが、その戦略で対立が生じていた。 まず第1案としては、史実と同様、朝鮮半島に攻め込み、同地を制圧した後、遼東半島に上陸した別働隊と合流し、最終的には直隷決戦により清国を屈服させるというもので、これには陸軍主流派が賛同を示していた。 もう1案が、朝鮮半島を無視し、全軍を以て遼東半島と威海衛を落とした後、天津に上陸し、一気に北京を突くべきという野心的な案であった。 これには海軍や陸軍非主流派が賛同を示していたのだが、陸軍主流派にとって性質が悪かったのが、この案に帝国で唯一の元帥である西郷隆盛が「面白い」と興味を抱いたことであった。 明治天皇の信頼がことのほか厚く、戊辰の役で、実質的に新政府軍の総大将として、鳥羽伏見の決戦での勝利、江戸城の無血開城、東北地方を武力を用いずに収めるなど誰もが反対意見を述べることが出来ない生きる軍神に対しては、流石に山縣や種田などでどうこうせよというのは無理であった。 もっとも、西郷が第2案に興味を抱いたのにはわけがある。 彼は主君の島津斉彬の元、多くの事を学んでいたのだが、明治政府のトップとして斉彬が常に心を砕いていたのが、列強の介入であった。 そして西郷は、第1案でも勝てることは重々理解していたが、朝鮮半島の制圧戦で、参謀本部が考えるよりも長く時間がとられる可能性を指摘し、その間に列強の介入を招きかねない危険性を心配していた。 ならば制海権を牛耳ることで一気呵成に大軍を北京に攻め込ませた方が、短期的に終わらせるのではないかと意見を述べたのである。 大群の補給問題にさえめどが立てば十分傾聴する意見であるのは間違いなかった。 これにより日本の軍事戦略は、開戦しても尚、腰の定まらない状況が継続することになる。 唯一纏まったのが、連合艦隊による北洋水師の撃滅であり、これにより日本の選択肢を増やそうとしたのである。 かくして艦隊決戦の舞台は整った。決戦場は黄海。
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394: yukikaze :2017/02/06(月) 22 15 58 それではネタスレで予告していました、大陸版日清戦争(アメリカ赤化世界)の再構築verを投下します。 1894年に行われた日清戦争は、清国の凋落を決定づけ、日本が華々しく近代世界史に躍り出た戦争であった。 これ以降、日本が坂の上の坂を上り続けるのに対し、中華大陸はどん底にまで没落していくことを見れば、まさに両大陸の命運を決した戦争であったとも言えた。 今回は、この戦争を俯瞰することにより、如何なる要因の元この戦争は生じ、そしてその影響がどう波及していったのか見ていきたいと思う。 日清戦争史 第一章 開戦前夜 日清戦争が起きた要因はいくつか考えられるが、その主因として挙げられるのは清国内部における権力闘争であった。 当時の清国で実権を握っていたのは、皇帝の光緒帝ではなく、伯母の西太后であり、彼女の寵臣であり、太平天国の乱で活躍した李鴻章であった。 実力や才能はともかくとして、責任感があったことだけは間違いのないこの皇帝にとって、現状はとても許せるものではなく、何とか実権を得ようと画策をしていた。 一方、西太后も李鴻章の北洋軍閥が必要以上に強大化している事実に対し、密かに危機感を抱いていた。 所謂同治の中興において、清国は表面上近代化を進めていたように見えたが、実際は清国ではなく北洋軍閥の近代化と言える代物であった。 この辺が日本の明治維新と違い、洋務運動への評価が著しく低くなることになるのだが、こうした北洋軍閥の強大化は、いかに寵臣の軍隊であったとはいえ、見過ごすわけにはいかなかった。 こうして、清国内において、北洋軍閥に対する風当たりは静かにしかし確実に強さを増そうとしていた。勿論、李鴻章もその流れをよくつかんでおり、清国の真の実力者である西太后の疑念を払拭するために努力をし、それは概ね成功するのだが、皇帝に対しての工作は捗々しくなく(李自身が西太后派なので当然なのだが)、不安定な立場へと置かれようとしていた。 そうした中、皇帝側近を中心にある一つの計画が持ちあがる。 『日本征討』 これまで歴代中華王朝が果たし得なかった壮挙を達成することで、国力増強と皇帝の威信を絶対化するという二つの目的を果たすという計画である。 395: yukikaze :2017/02/06(月) 22 16 44 後世の我々の目から見れば『血迷ったか』としか言えない代物であったが、宮廷内闘争はともかく、海外の事象に対して真剣に考察しない彼らにとって、日本は『東方の蛮族』程度の認識しかなかった。 同時期の日本において、明治天皇が、毎朝の習慣として、欧米列強の最新情報を必ず報告させるように(しかもクロスチェックをさせることを厳命していた)していたことと比べると、あまりもの落差に失笑すら浮かぶものであるが、問題はこの程度の認識しか持っていなかった者達が、皇帝の周囲を取り巻いていたという事である。 これでは皇帝が理性的な判断を下すことが出来なかったのも無理はないと言えるであろう。 そして皇帝やその取り巻き達の自信を補強する要因があったのも事態をややこしくさせることになった。 一つ目は清仏戦争の結果であった。 保護国であるベトナムを失う羽目になったこの戦争ではあったが、その内容は、フランス側を後一歩という所まで追い詰めた代物であり、少なくとも西洋列強に手も足も出なかったアヘン戦争やアロー号事件の時と比べると格段の差があった。 皇帝もその取り巻き達も、清仏戦争でベトナムを失ったのは、穏健派の面々が腰砕けになったからであり大清が本気を出せば、西洋相手にも勝てると判断したのである。 二つ目は、制圧先の日本の軍事能力が『表面上は』低い事であった。 皇帝達にとっては何とも理解しがたいことに、彼らはそのありあまる資源を、兵器購入等には費やさずに教育とインフラ整備、そして工業化等に全振りをしていたのである。 勿論、洋務運動で彼らも同じことをしていたのだが、日本側のそれはかなり徹底したものであり、明治新政府成立後には、横須賀や呉、佐世保、舞鶴、室蘭、大湊に、通称『六大鎮守府』が設定され、陸軍も、札幌、仙台、相模原、名古屋、小倉、大阪に、大規模な武器弾薬生産拠点を設営したが、それ以上に力を入れたのが、1872年に八幡に設立したのを皮切りに、鹿島、室蘭、釜石、神戸、和歌山、倉敷、大分に建造されはじめた大規模な一体型洋式製鉄所群である。 『鉄は産業の米である』と、発言したのは、同事業に心血を注ぎこんで尽力した小栗忠順であったが、彼や、大隈重信、伊藤博文が『この広大な国土を豊かにするには、内陸部にまで鉄道路を早急にめぐらさねばならぬ。色々な物資が早い時間で行き届くことこそ、産業を活性化するのだ』と、これまた全土における鉄道網構築の為に、莫大な資金を投入することによって、日本の鉄鋼産業は、加速度的に興隆することになる。 無論、幾ら豊富な鉱物資源のある日本とはいえ、その資金には当然限りがあり、軍事力については幕末において英国からライセンス生産されていたスナイドル銃のまま更新が中々されず、砲も七糎野砲、海軍についても、英国から筑後型防護巡洋艦(史実の新高型防護巡洋艦)を購入し、自国で生産を初めてはいるが、清国が誇る定遠級はもとより、超勇級や経遠級にも劣る豆鉄砲であった。 つまり、皇帝達からみれば、日本は、自分達に食われる為にオードブルを用意する愚者でしかなかったのだ。 取り巻きの中には『大清国皇帝陛下の旗と、忠勇なる兵士が100人もいれば、倭奴は恐れ平伏し、泣いて命乞いをするでありましょう』と、皇帝の前で物真似をし、爆笑の渦であったとされるが、これら2つの要因を受けて、光緒帝は日本征討に大きく関心を持つようになる。 そしてこの皇帝の意思をさらに後押ししたのが朝鮮王国であった。 これ以降も日本の疫病神として度々顔をだし、最終的には徹底的に潰される運命をたどるこの半島国家は、清国皇帝の周囲の空気を敏感に察知し、自らも日本征討に加わることによって、報酬のおこぼれを獲得することと、既に破綻と言ってもよい国家運営を清国に丸投げすることによって、自らの生き残りを図ろうとしたのである。 寄生虫根性もここまで来ると清々しいものがあるが、彼らにしてみれば、秀吉の大明出兵以降、完全に没交渉になっている(家康にしても、大陸国家と組んで度々ちょっかいを出してくる半島国家なんぞに配慮してやる気など更々なかった)日本なんぞよりも、大清の関心を買うことこそが重要であり、上手くすれば、忌々しい倭奴を奴隷としてこき使うことで、大清の直近の弟としての体裁を整えようと、いつものように斜め上の未来を描いていたのである。 396: yukikaze :2017/02/06(月) 22 17 15 こうした状況に、李鴻章は心底呆れていた。 成る程確かに、日本側の軍備は、表面上は低調であったと言える。 だが、もし軍備に何の関心も持たないのならば、何故彼らは、大規模な工廠を含んだ鎮守府を作り、武器弾薬生産拠点を作ったというのか。 また、各諸侯が持っていた陸軍を吸収し再編するといった手間をかけたというのだ。 李も日本の動向を調べていたが、既に彼らは西洋の編制基準で、18個師団の編制が終了していることが判明している。旧式兵器が主体とはいえ、北洋軍閥の全軍よりも数ははるかに多いのである。 李にしてみれば、皇帝はのんきなことを言っていればいいのだろうが、その矢面に立たされる自分にしてみれば、むざむざと消耗してやる気になどなれなかった。 その為、彼は西太后に泣きついて、「無用な出師は止めるように」と運動したが、西太后も、皇帝と李鴻章のバランサーとなることで、政権における自分の存在理由を見せつける利を考えていたため「まあここは皇帝に恩を売るか」と、消極的姿勢に終始。 結果的に、李は、自らの武威を見せることで皇帝に対して優位を見せるしかないと判断することになる。 本来挙国一致で執り行わなければならない戦争であるにもかかわらず、清国上層部の認識とはこの程度であった。 もっとも、彼らが、日本の『本当の』実力を見れば、この楽観は瞬時に消え失せていたであろう。 確かにこの時期において、夢幻会の関与は未だ限定的ではあった。 だが、限定的であったとはいっても、それは国家運営等の問題であって、個々人の業務の範囲内 においては、成果を上げようとしていた。時代の都合から装薬こそ原型よりも低かったが、却って反動が許容範囲に収まり、威力も必要条件を満たしていた7.62x51mm NATO弾の開発採用。 習作として採用され、大量配備が急速にされている二十二年式速射砲。(史実有坂砲(三十一年式速射砲)) 歩兵部隊の面制圧兵器としての期待が高い8cm迫撃砲(原型は史実82mm迫撃砲BM-37) マキシム機関銃を上記弾薬に適合させたもののライセンス生産及び新型小銃(史実99式類似品)を配備 海軍はと言えば、戦艦には見向きもせず、英国アームストロング社との技術協力も得て完成した富士型装甲巡洋艦2隻(史実浅間型)及び吉野型防護巡洋艦4隻(史実ハイフライヤー級防護巡洋艦)を実戦配備するなど、これまでの経験と技術投資の成果を発揮しだしたのであった。 日本人は誠に日本人らしく、将来の仮想敵国を油断させるために、可能な限り装備の改編情報を流出させることを防ぎ、彼らに対して精神的な奇襲を与えようとしていたのである。 清と朝鮮はこの時の特大のツケを否というほど払わされることになる。 397: yukikaze :2017/02/06(月) 22 18 13 1894年5月。威儀を正した清国全権使節がもたらした書簡は、日本の朝野を憤激させた。 清国皇帝による説諭として出された文書では、まず日本がこれまで清国皇帝に挨拶をせず、さらに皇という文字を使い続ける非礼を責めると共に、慈悲深い清国皇帝は、愚かな日王が前非を悔いて以下の詫びをするならば、大いなる広い心で許してやろうとするものであった。 これだけでも「喧嘩を売っているのか?」という中身だったのだが、それ以上だったのが「詫び」の中身であった。 天皇の称号を使わないのは序の口で、各種鉱物資源等を年間決まった量だけ上納することや、沖縄や奄美大島などの割譲、更には有事の際には日本軍の提供まで義務付けるという、およそ外交的常識をどこかに置き忘れたような内容であった。 つまり、それだけ光緒帝とその取り巻き達の外交認識が低かったともいえる。 (流石に李鴻章は、この文書を読んで絶句し、取り巻き達の無能さを呪ったとされる) この文書は、日頃温和な明治天皇も激怒したとされるが、悪いことにこの全権大使は皇帝に対する忠誠心は高いものの、外交的な素養は全くのゼロで、更に日頃高慢な態度でひんしゅくを買うことの多い男であった。 その為、研究家においては、清国は元々交渉するつもりはなく、相手を挑発させて戦争を吹っ掛ける気であったという意見が主流であるのだが、それを示すように、大使は、終始傲慢な態度を崩さず、事あるごとに日本を見下すような発言を連発していた。 当然、日本側も彼の発言に態度を硬化することになるのだが、それを更に助長させたのが半ば強引に清の使節に随行していた朝鮮王国役人の態度であった。 彼らは、清国大使の傍若無人な態度を見て、自分達も日本に傲慢に振る舞ってよいと錯覚し、清国大使に輪をかけて傲慢に振る舞っていた。 その態度は、清国随行員側からも「あれでは清国の威信にかかわる」と苦言を述べられる程であったが、大使は「傍若無人に振る舞う朝鮮人でも、我が大清には奴隷のように従順ではないか」と、意にも介そうともせず、却って助長させてもいた。 399: yukikaze :2017/02/06(月) 22 31 48 こうした態度に遂に日本も堪忍袋の緒が切れたのだが、彼らに対する日本人の報復は辛辣という言葉すら生ぬるい代物であった。 日本人達は「親睦パーティー」の席上、清と朝鮮の代表に対し、儒学の極めて高度な問いかけを延々と行い、彼らが口ごもると「おや。儒の国と言われているので、この程度の事はご存じかと思われたのですが」と、辛辣な皮肉を浴びせ続けたのである。 清国にしろ朝鮮にしろ、儒学は未だ高等教養として必須なのだが、よりにもよって蛮夷である日本人に劣っていると馬鹿にされるのは、これ以上ない程の屈辱であった。 無論、清国および朝鮮使節の自業自得ではあるのだが、それで自制するようならばそもそも彼らはこのような態度は最初からとってはいない。 しかも日本側の辛辣な対応はこれだけに留まらず、朝鮮の使節随行員が、商店から品物を盗む姿を激写したものをマスメディアにトップ記事で報道させ「泥棒を使節随行員に任命する朝鮮王と、それを見過ごす清国皇帝」を徹底的にコケにした風刺画を国内外に向けて発信するわ、前述の儒学の問いかけに全く答えられない2人をディフォルメした絵に「こんなことなら真面目に科挙を受ければよかった。皇帝に賄賂を渡せば官吏になれたんだがなあ」と、コメントを載せたものを出し、顔を赤らめて抗議すれば、今度は真っ赤な茹蛸の姿で「本当のことを書きやがってどうしてくれる!!」という絵を出すなど、徹底的におちょくり、遂には「貴様ら如き未開の国など我が大清の手にかかれば一夜にして奴隷にしてやる。戦争をして奪えば簡単なんだ」と叫ばせ、清国の国際的立場を「無法者の強盗」扱いする格好の宣伝材料に仕立て上げることに成功する。 腹いせ交じりに朝鮮の使節を殴りつけながら退場する清国の使節に対して、大久保を始めとする日本の首脳部は冷笑を浮かべてこう呟いたとされる。 「未だに東洋の盟主気取りか? バカが。貴様らは『日、没する国』だろうが。 せいぜい落日を楽しむがいい。今度は太閤のように寿命による時間切れはないぞ」 400: yukikaze :2017/02/06(月) 22 38 19 これにて第一話投下終了。前回の『開戦前夜』と『開戦』を統合し、加筆しています。 まあ清国使節もここまでおちょくられれば、そりゃあ頭に血が上って軽はずみな発言はしますわなと。 まあ海外からは「清国は相変わらず外交的常識も知らんのか?」と、呆れられてはいますが、日本と清国の争いが長引けば長引くほど、利益が転がると予想して舌なめずりしている所でもあります。 ちなみに清国がアロー号事件以降も海外からちょっかい出されているのに、日本は殆どなかった最大の理由は、「商売上、日本はお得意さまで、日本を制圧するなんてした瞬間他の列強が確実に介入するだろうし、そもそも四方を海で囲まれているんで、大軍を連れてくるのもコスト的に割が合わん」という、商売上の要因と地理的要因が大きかったでした。 誤字修正