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唐書巻一百七 列伝第三十二 傅弈 呂才 方毅 陳子昂 王無競 趙元 傅弈は、相州鄴の人である。隋の開皇年間(581-600)、儀曹に任じられて漢王楊諒に仕えた。楊諒が反乱をおこすと、傅弈に尋ねた。「今、熒惑(火星)が井に入ったが、いったいどういうことか」。傅弈は答えて「東井は、黄道のよるところで、熒惑の星宿は、怪しむに足りません。もし地上の井に入れば、これは災いです」と言ったから、楊諒は怒った。しばらくして敗れたが、傅弈は誅殺を免れ、扶風に移った。 高祖は傅弈を扶風太守とし、礼遇した。高祖が即位すると、傅弈は太史丞に任命された。当時、太史令の庾倹が父の庾質が占候(天文による吉凶占い)によって煬帝の意をたのんで死んだから、その事にこり、術官であることを恥じたから、傅弈を推薦して自身の職と代わった。傅弈は太史令となり、庾倹と同列になったが、しばしば排撃したにも関わらず、庾倹は恨みと思わなかった。ここに人は庾倹に真心があるとし、傅弈を罪とし、恐れて憤った。 当時、国制は草創期で、多くは隋の旧制によっていたから、傅弈は乱世の後であるから変更すべきであるとし、そこで上言した。「龍紀・火官を黄帝は廃止し、咸池・六英を堯はそぐわないとし、禹は舜の政を行わず、周は湯王の礼を踏襲しませんでした。『易』に、「すでに革(あらた)むべき時に至ってこれを革めれば孚とされるのは、革めてしかも人々がこれを信じることである」とあり、だから「革の時は偉大なことである」というのです。隋末の世になると、天意は違って民を害し、刑法はほしいままに行われ、賢俊の人を殺戮し、天下の民は心を同じくして叛いたのです。陛下は乱をしずめて正しい世にもどしましたが、官名・律令はすべて隋の旧制によっています。また沸騰した羹(あつもの)に懲りた者は冷たい齏(なます)を吹き、弓で傷つけられた鳥は曲がった木にも驚きますが、ましてや天下の人は長らく隋の暴政に苦しんできましたのに、どうしてその耳目を改めないということができましょうか。正朔をあらため、服色をかえ、律令をかえ、官名をあらため、功が大きければ楽をつくり、治が終えれば礼をつくし、民に盛徳がおこるのを知らしめるのは、まさに今なのです。しかしながら官や貴族は少なければならず、夏后の官は百人をこえず、虞氏は五十人、周は三百人をこえず、商は百人でした」また次のように述べた。「夏に政令を犯す者が現れて「禹刑」がつくられ、商に政令を犯す者が現れて「湯刑」がつくられ、周に政令を犯す者が現れて「九刑」をつくりました。衛鞅(商鞅)が秦のために法を制定し、額に刺青し、肋の筋を引き抜き、鼎で煮殺す等の六篇を増やしました。始皇帝は挟書律を制定し、この煩いを失いましたが、法令を制定しなければなりません」 この当時、太僕卿の張道源が建言して、「官曹の文簿は繁多で欺きやすいのです。これを減らして官吏のよこしまに制限を加えられますように」と述べた。公卿は全員そうだと思わなかったが、傅弈は一人そうだと思い、周囲に騒ぎ文句を言ったものの、実施されなかった。 武徳七年(624)、上疏して力をつくして仏法を誹謗した。以下にいう。「西域の法は、君臣父子の間柄がなく、三塗(さんず)や六道によって愚か者を脅かし凡人を欺くのです。既往の罪を追って、将来の福をうかがい、身が悪逆に陥ることがあっても、獄中で礼仏し、口で梵言を誦えれば、免れることができるようになるといいます。また生死や長寿・夭折は、もとよりすべて自然のことです。刑徳威福は、人主につながるものです。今その徒は何事も仮託するのに、すべて仏によるといい、天の理をはらい、人主の権力をぬすむのです。だから『尚書』に「ただ君主だけが褒賞を与えることができ、ただ君主だけが刑罰を加えることができ、ただ君主だけが美食することができるのであります。家臣は、褒賞を与えたり刑罰を加えたり美食したりしてはなりません。家臣が褒賞を与えたり刑罰を加えたり美食したりすれば、その家臣自身の家をそこない、その君主の国によくないことがあるでしょう」とあるのです。 三皇五帝の時代には、まだ仏法はありませんでしたが、君が明君で臣は忠臣であり、王朝の時代は長らく久しいものでした。漢の明帝の時代になって始めて胡祠(仏寺)が建立されましたが、西域の僧侶が自分でその教えを伝えに来ました。西晋以降、中国では髪を剃って胡(仏)に仕えることは許しませんでした。石氏(後趙)・苻氏(前秦)が中華を乱すと、その禁は緩み、君主は凡庸で臣は佞臣となり、政治は暴虐で王朝の時代は短かくなりましたが、事は仏がそうさせたのです。梁の武帝・北斉の文襄帝(高澄)はもっとも誡めとすべき者です。昔、褒姒一女で、幽王は乱され、その国を滅ぼすことができました。ましてや今、僧尼十万、繒に描いて泥の像をつくり、これによって天下を惑わしていますが、滅びることはないとでもいうのでしょうか。陛下は僧尼十万の衆を還俗させて自ら夫婦に見合わせられ、十年もすれば子供を養育し、十年教を垂れられれば、兵士や農民とするのに両方とも可能なのです。利はすでに邪に勝っているのではないのでしょうか。昔高斉の章仇子佗は、「僧尼が外では宰相や臣下、内では妃や公主に取り入って、表では讒言し裏では誹謗中傷している」といいましたが、ついに都市で処刑されました。北周の武帝は北斉を平定すると、その墓に封戸をつけました。臣はひそかに賢人であると思います。」 また十二論を奏上したが、言葉はますます悲痛であった。帝は傅弈の建議を役人に下したが、ただ張道源だけがその奏上を助けた。中書令の蕭瑀は、「仏は聖人です。聖人を非難するのは無法者です。この者を誅殺してください」と言った。傅弈は、「礼は始めは親に仕え、終わりは君に仕えるものです。しかしながら仏は父から逃げて出家し、匹夫たちとともに天子にあがらい、子を親に逆らわせています。蕭瑀は親が誰だかわからない人でもないのに、その言を尊んでいます。思うにいわゆる「孝にあらざる者は親無し」というのは彼のことです」と言ったから、蕭瑀は答えず、ただ手を合わせて、「地獄というのはまさにこの人のためにつくられたのだ」と言った。帝は傅弈の答えを善しとしたが、実行する前に帝位から譲ってしまった。 これより以前、武徳九年(626)、太白(金星)は秦分(東井)にまとわりついた。傅弈は秦王(後の太宗)がまさに天下をとるであろうことを奏じ、帝はこの奏上を秦王に告げた。太宗が即位すると、呼び寄せて食を賜い、「お前の奏上のせいで、私はどれだけ大変な目にあったことか。だからといって今から煩わしいからといって発言を尽くさないなんてことはしてはならんぞ」と言った。またかつて「卿は仏法を拒んでいるがどうしてか」と尋ねると、傅弈は「仏は西胡の詐欺師なだけで、夷狄を騙し唆して自らを神といっているのです。中国に入ってくると、小児や術師が老荘を模倣して文を飾り、国家に有害であり、百姓に無益だからなのです」と答えた。帝は珍しいことだと思った。 貞観十三年(639)卒した。年八十五歳。傅弈が病となると、今まで医者を呼んだことはなかったが、突然病に臥した。勢いよく起き上がって悟って「私は死ぬのだ」と言い、そこで自ら「傅弈、青山白雲の人である。酒に酔って死んだ。ああ!」と墓誌を書いた。遺言で子に「六経や礼教の言葉は、少しは習いなさい。妖胡の法(仏教)は慎んで行ってはならない。私が死んだら裸で葬りなさい」と戒めた。傅弈は数学に優れていたとはいえ、今まで自らその学を言ったことはなかったから、伝えられなかった。また『老子』の注釈書をつくり、晋・魏以来の仏教徒と議論した者の伝を集めて『高識篇』をつくった。武徳年間(618-626)、漏刻を改め、十二軍の号を定めたが、すべて傅弈が定めて詔が出されたという。 呂才は、博州清平の人である。貞観年間(627-649)、祖孝孫に楽律を増損させた。音楽家の王長通・白明達と何度も激しい議論を交わし、決めることができなかった。太宗は侍臣に音楽をよくする者をたずねると、中書令の温彦博が呂才はいかなる人物よりも聡明で、一度見聞きしたものは、すぐさまその本質にたどりつけると申し上げた。侍中の王珪・魏徴も、さかんに呂才が尺八を約十二枚つくったとき、長短が同じではないのに、それぞれの律管に応じており、すべて韻にあっていないことはなかったと褒め称えた。そこで呂才をめして弘文館にて直学士を務めさせ、音楽について論じることに参加させた。 帝はかつて北周の武帝が著した『三局象経』を読んで、理解できず、あるとき太子洗馬の蔡允恭がこれをよくしていたから召し出して尋ねたが、少し知っていただけで、老いて忘れてしまっていた。そこで試しに呂才に尋ねると、すこしばかり退いて解釈してしまい、詳細に図をつくって申し述べた。蔡允恭が前に記しておいたものと比べてみると、呂才と同じであった。そのため名を知られるようになった。太常博士に累進した。 帝は陰陽家に伝えられた書に多く誤りがあって、こじつけもはなはだしく、世の人はますます恐れで縛り付けられていたから、呂才と専門の老学者に命じて誤りを削除させ、使えるところを残して五十三篇とし、旧書の四十七篇と合わせて、合計百篇とし、詔して天下に頒行した。呂才は儒者が意見した持論をとりあわず、経義によってその験術を推定判断したから、諸家はともに欠点を非難した、また世相を禍福で惑わしているといったが、ついに理解することはなかったという。 呂才の言には文彩をつくすことはなかったが、俗失から救おうとすることが大事であるとし、時局にあわせ、易によって明らかにさせた。そのためその三篇を略出する。 「卜宅篇」にいう。「『易』に「上古の人々は穴に住み野宿をして生活していたが、後世の聖人がそのかわりに家屋をつくり、棟を上方にしつらえ軒を下に垂らして風雨に備えるようにしたのは、おそらく大壮の卦であろう」とある。殷・周の時には卜択の文があり、詩経に「その陰陽を相(み)て」とあり、土地の吉凶を占った。近世、五姓の説があり、宮・商・角・徴・羽の音律にあてはめたのであり、天下万物はすべてここに配属され、吉凶の結果によって、これによってその法とした。張・王氏は商とし、武・庾氏は羽とするのは、音階が似ているからである。柳氏を宮とし、趙氏を角とするのは、またそうではない。また同じくこの一姓があって、宮・商の両方に属しているが、復姓の数字はこの法に帰することはできない。これは野人巫師の説にあるだけである。『堪輿経』をみてみると、黄帝は天老(黄帝の輔臣)に対し、はじめて五姓のことを言った。また黄帝の時、ただ姫・姜などの数姓があるのみであったが、後世に族を賜わる者が次第に多くなり、すなわち管・蔡・郕・霍・魯・衛・毛・聃・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇はもと姫姓で、孔・殷・宋・華・向・蕭・亳・皇甫はもと子姓で、官によって氏を授けられ、邑によって族を賜り、もとは同じで末が異なっているから、宮・商に配することは難しいのである。『春秋』では陳・衛・秦を水姓とし、斉・鄭・宋を火姓としているが、あるものは出身の祖により、あるいは所属の星に繋け、あるいは居住の地からとられているが、そうなっている理由は、宮・商・角・徴・羽が互いに統轄しているからである。」 「禄命篇」にいう。「漢の宋忠と賈誼は司馬季主に、「卜筮は、人の禄や命が高くなると言って、人の心を喜ばせる。災難がおこると勝手な予言をして、人の財をつくすのだ」と謗った。王充は、「人の体つきを見れば、禄命(天命)を知ることができる。禄命を見れば、人の体つきを知ることができる」と述べたが、これは禄命が長らく行われてきたことを言うのである。その本源を探し求めてみると、もとからそうではなかった。「善行を積み重ねた家には、その福慶の余沢は必ず子孫におよぶ」(『易経』坤)とあるのに、どうして禄を建てた後に吉となるのであろうか。「不善を積み重ねた家では、その災禍がひいて必ず子孫に及ぶ」(『易経』坤)とあるのに、どうして脅し殺した後で災いがおきるのであろうか。「天の行なう道には、依怙贔屓が無く、常に善人に味方する」(『史記』伯夷列伝)、天と人の交に影響があるかのようである。「有夏に多くの罪があり。天命これを殺す」(『書経』湯誓)とあるが、宋景が徳をおさめれば、妖星が退いたのである。「道を得るために学んでいれば、俸禄はそこに自然に得られる」というが、生きられないのに学で身を立てることができようか。文王は国事に憂いて寿命を損なったが、禄が空亡であったわけではない。長平で穴埋めにされた降伏した兵たちは、ともに三刑を犯したわけではない。光武帝は南陽の近親縁者を用いたが、ともに天地四方をあわせたわけではない。歴陽が一晩で湖になったのも、叢辰法が河魁の凶神となったからではない。蜀郡が火のように暑いのは、災厄をつくしたからではない。世の中には同年同日に生まれても貴賎の違いがあり、同じ母親から共に生まれた双子であっても、早死したり長生きしたりと異なるのだ。魯の桓公六年七月、子の同が生まれた。これが荘公である。暦を確認してみると、歳は乙亥にやどり、月は申にやどり、だから禄は空亡にあたり、法は窮賎に応じ、また勾絞・六害の凶相に触れ、福神の駅馬星にそむき、身は駅馬三刑にきまり、この時に産まれた者は、無官となる。命火(七月)に生まれると病郷にあたり、法に「人となりは弱々しく小さい」とある。『詩経』に荘公を、「ああ容貌が立派な方、身のたけは頎然として美しく、目元も額も共にうつくしい人だ、器用に小走りで出てくる」と言い、ただ命一物に向かうだけで、法では長寿であるとしているが、荘公は四十五歳で薨去した。当たらなかった一つ目である。秦の昭襄王の四十八年、始皇帝は正月に産まれたから、名を政とした。この歳は壬寅正月、背禄にあたり、法では無官で、たとえ禄を得たとしても、奴婢より少ないとある。また駅馬三刑で、身は駅馬星にきざみ、法によると官を望んでも至らないとあり、金は正月にあたって、生は絶え、始めなくして終りあり、老いてから吉であるとする。また命生を建て、法では長生きするとあるが、帝が崩じた時は五十歳をすぎなかった。当たらなかった二つ目である。漢の武帝は乙酉歳七月七日平旦に産まれ、禄は空亡にあたり、法によると無官である。駅馬星に向かうとはいえ、四辰を隔て、法によると若い頃は無官で、老いてから吉であるという。武帝が即位した時は年十六歳で、晩年は漢の戸口は減少した。これが当たらなかった三つ目である。後魏の高祖孝文皇帝は皇興元年八月に産まれ、これは丁未にやどり、禄命と駅馬三刑に背き、身は駅馬星にきざみ、法では無官である。また生まれて父は死に、法では父を見ず、とあるが、孝文皇帝はその父顕祖(献文帝)より皇帝位を譲られている。礼では、君主は継承してから年をこえなければ、正位を得ることはできない。だから天子に父なく、三老に仕えるのである。孝文皇帝は天下を率いながらその親につかえているが、法では「まさに父を識るべからず」とある。当たらなかった四つ目である。宋の高祖は癸亥三月に産まれ、禄と命では両方とも空亡であり、法では無官である。また子は墓中に生まれ、法では嫡子をよしとし、次子がいたとしても、早くに死ぬとしている。しかし高祖の長子は先に弑され、次子の義隆は国を継いだ。また祖禄の下に生まれ、法では「嫡孫を得て財は禄のようである」としている。しかしその孫の劭・濬は双方簒逆され、ほどなく断絶して宗廟を失った。これが当たらなかった五つ目である。」 「葬篇」にいう。「『易』には「昔は使者を葬る場合、薪を幾重にも屍体にかぶせて野原に埋葬するだけで、封(土饅頭)をつくることも、樹を植えて墓標とすることもせず、喪に服する期間にも定めがなかった。後世の聖人がこれにかえて棺槨を用いるようにしたのは、おそらく大過の卦から思いついたことであろう」とあり、『孝経』に「葬とは蔵である。蔵とは物をしまって人に見えぬようにすることである」とあり、「その宅兆(墓域)を選んで、これを安置する」とあるように、これによって感念仰慕とするところを、魂神の宅地とするのである。朝市のような場所では将来どうなるかわからないし、山中の渓流では石や水の侵食で地下がどうなっているかわからないのである。これは葬地をえらぶのに卜筮によってはかり、後難なきを願い、そして慎重の礼を備えるのである。後代、葬説は祭事・神事を司る巫祝が行い、一つでも間違えると災いが死生に及ぶと言い、多くの妨げや禁忌を言い、その術を売り、みだりに物怪が憑依しているといい、その葬書に到っては百二十家もある。『春秋』に「王者は死後七日目に殯(仮埋葬)し、七月目に葬る。諸侯は五日目に殯し、五月目に葬る。大夫は三月目に、士・庶人は月をまたぐだけである」とあり、葬方は貴賎によって同じではなく、礼もまた異なるのである。同じようにしようとすれば、弔いに遠近の期があり、事を制法で図るのである。そのため期に先んじて葬るのを、これを不懐というのである。期を後になってするのを不葬といい、これを殆礼というのである。これは葬礼には定まった期間というものがあり、年と月を選べないのである。これが一つ目である。また、「丁巳、定公の葬儀が挙行された。雨のため完了せず、翌日に完了したのは礼に合している」(左伝定公十五年)とあるのは、君子はこれを善としている。『礼記』に、「葬事は遠い日を先に占う」とあるのは、末日より進んで、不懐を避けることをいうのである。今の法では己亥日を葬に用いるのを最凶としているが、『春秋』をみると、この日に葬られた者は二十族あまりにたっしている。これ葬とは日を選ばないのである。これが二つ目である。礼に、「周の時代は赤を尊んだから、大事のことには日出の時を用いた。殷は白を尊んだから、大事は日中を用いた。夏は黒を尊んだから、大事は日の暮れを用いた」とある。大事とはなにか。喪礼のことである。これによって当代の尊んだところをみれば、時刻は早晩である。『春秋』に「鄭卿子産および子太叔が簡公を葬った。この時、司墓大夫の家屋で道路にひっかかるものがあり、これを壊して直進すれば、早朝のうちに埋葬が終わるが、壊さないと迂回して埋葬が日中になってしまう。子産は家屋を壊すことを望まず、日中まで待とうとした。子太叔は「もし日中の埋葬になってしまうと、諸侯大夫で会葬に来た者を待たせてしまう」と言った。」とあるが、これは子産・太叔が時の得失を尋ねたのではなく、ただ人事の可否を論じただけであった。曾子は、「葬礼の時に日蝕に遭遇したら、路の左で止まり、明るくなるのを待ってから進むのだ」と言っており、非常に備えた理由であった。だが『葬書』によると、葬家は多く乾・艮の二時を採用しているが、つまり夜半に近づいており、この一文は礼に背いている。葬は時を選ばないのだ。これが三つ目である。『孝経』に「身を立て道を行い、名を後世に揚げるのは、父母の名をあらわすためである」とあり、『易』には「天地にあやかる聖人の偉大な宝物は、天子の位である。しからば何によってその位を守るかといえば、それは仁である」とある。しかし法には、「官爵や富貴は、葬がもたらすものである。寿命の長短や、一族子孫繁栄も、葬が招くのである」とある。日に一日慎めば、輝きは無限となる。徳は行われなければ、子孫が絶える最大の不孝となる。臧孫氏は後裔が魯で栄えたが、葬で吉を得たとは聞いたことがない。若敖氏の祭祀は楚で途絶えたが、葬で凶を得たとは聞いたことがない。これによって葬に吉凶があるとは信じるべきではないのである。これが四つ目である。今葬法はすべて五姓の別によって実施されているが、古の葬では、国都の北であった。趙氏の葬は九原で行われ、漢家の山陵はあちこちに墓域がある。まだどうして上利や下利、大墓や小墓の意味があるのだろうか。漢の劉氏の子孫は本流・支流ともに絶えず、趙の後裔は六国の王となった。つまり葬は五姓を用いるというのは信じるべきではないのである。これが五つ目である。また人には、始めは卑賎で後に高貴となり、逆に始めは穏やかで終わりはそうではない者がいる。子文(闘穀於菟)は令尹となって、三たび仕えて三たび辞め、展禽(柳下季)は三度士師の職を追放された。彼の墓はすでに定まって改められず、この名位は固定される。何故なのか。そのため栄辱の高低は各自諸人によるのであって、葬が原因ではないのを知るのである。これが六つ目である。世の人は葬の巫祝のために欺かれ、悲しみを忘れ、幸福になりたいと願うのである。これによって塚や墳をみて、官爵をこいねがうのである。そこで日時を択び、金銭の利益をつくすのである。あるいは辰の日に哭さず、喜んで弔を受けるといい、あるいは同一の相に属する場合は埋葬することができず、礼服をきてその親を送るのを避けるという。これは欺いて礼俗を崩すものであり、法は用いるべきではないのである。これが七つ目である。 帝はまた詔して「方域図」および「教飛騎戦陣図」をつくらせ、しばしばお褒めをいただいた。太常丞に抜擢された。麟徳年間(664-665)、太子司更大夫の官のまま卒した。普段より書物を校正したり著述が非常に多かった。 子の呂方毅は、七歳にしてよく経をよんだ。太宗はその賢さを聞いて、召見させると優秀であるとし、束帛を賜った。成長すると右衛鎧曹参軍となった。母を喪くすと、哀悼のあまり卒した。布車は母の葬にしたがい、友人の郎余令は白粥・玄酒・生芻で道の傍らに祭った。世の人はともに哀しんだ。 陳子昂は、字は伯玉で、梓州射洪の人である。その先祖は新城におり、六世の祖の陳太楽は南斉の時代にあたり、兄弟で豪桀ぶりを競い、梁の武帝は命じて郡司馬とした。父の陳元敬は財産があり、ある年に飢饉になると、粟一万石を出して郷里に配給して救った。明経科に合格し、文林郎に任命された。 陳子昂は十八歳になってもまだ書物を知ることはなく、富豪の子であるから、男だてをきそい、博徒と交際していた。ある日村の学校に入り、自分の無学さを後悔し、それまでの自分を振り捨てた。文明年間初頭(684)、進士に及第した。当時高宗が崩御し、柩が長安に帰ろうとしており、ここに関中は歳時の定めがなく、陳子昂は盛んに東都が優れた土地であるとを述べ、山陵を造営すべきとした。上書に以下のように述べた。 「臣は以下のように聞いています。秦が咸陽により、漢が長安を都としたのは、山河が堅固となって、天下が帰服したからで、北は胡・宛の利を仮り、南は巴・蜀の囲みに助け、関東の粟を転送し、山西の宝を収容し、長らく異民族に対する政策に利があり、世界を制したのです。今はそうではなく、燕・代の地は匈奴が圧迫し、巴・隴の地は吐蕃がまとわりつき、西は疲弊して千里の地も食料が乏しく、北は十五城もの要塞があります。歳月はめまぐるしく、秦は首尾完うせず、ただ関中の間のみ残っているだけになったのです。この頃飢饉となり、百姓は連年の飢饉で、河に迫ってあちこち移動したところで、ただ赤い土地があるだけなのです。隴をめぐって北に行っても、青草に遭遇することはありません。父兄は転々と移動し、妻子は流浪して離別するのです。天に頼って災いを去るべく願っても、去年の実りは少なく、消耗のあまり、何人かは盗賊に身をやつさざるを得ませんでした。しかし流亡すると帰ることはなく、白骨はあちこちにあり、田野には主はおらず、蓄積したとしても、なお悲しむべきことなのです。陛下は先帝の遺志によって、まさに長旅にお出かけになられ、西京に留まろうとされており、千乗万騎の大軍も、どうして命令に従わないということがありましょうか。山陵は中腹に穴を掘り、必ず徒役をついやし、疲弊した者たちを率い、数万の軍をおこし、近畿を徴発し、老いも若きも笞打って監督し、山をけずって石をはこび、走って功績を得ようと、春になにもしなければ、どうして秋の実りがあると望むのでしょうか。病にやせ衰えて噛み残し、再び艱苦にかかり、その苦しみに耐えられない者が出て、そのため盗賊に身をやつし、叫喚にテコ入れすることになり、詳細に検討しなければなりません。また天子は四海を一家とし、舜は蒼梧に葬られ、禹は会稽に葬られましたが、どうして夷人の末裔の地を愛して中国を田舎にしてしまうのでしょうか。他に無いのを示すのです。周の平王・漢の光武帝は都を洛陽においてましたが、山陵・寝廟はともに西土の地にあり、本当に当時はそうせざるを得なかったので、そのため小事をのこし大事をのこすのも、禍去って福をとるのです。今高い山々は高くそびえ、北は嵩山・邙山に対し、西の汝・海の地は、祝融・太昊の故地があるのです。園陵の美は、どうしてまた加えられないのでしょうか。かつ太原の蔵は巨万の倉で、洛口は天下の粟をもうけ、そこで捨てて顧みられないようしようとすれば、鼠の集団がひそかに盗みに入り、西は陝州郊外から、東は虎牢から侵入し、敖倉一抔の粟を奪いますが、陛下はどうやって遮られるのでしょうか。」 武后はその才能を優れているとし、金華殿に召し出した。陳子昂の容貌は柔和で、風采があがらなかったが、上記の回答をおこなったから、麟台正字に任命された。 垂拱年間(685-688)初頭、詔して群臣に「元気(宇宙自然の気)を調えるのはどのような方法をすべきであるか」と尋ねた。陳子昂はこれによって武后に明堂・太学をおこすことをすすめ、そこで上言した。 「臣は師にこのように聞いています。元気というのは、天地の始で、万物の祖で、王政の大端です。天地は陰陽に大なるものはなく、万物は人に霊なるものはなく、王政は人心を安心させるのに先んじるものはありません。そのため人心が安心すれば陰陽は和し、陰陽が和するなら天地は平らかで、天地が平らかならば元気は正なのです。先王は人心によって天に通じさせたので、ここに群生を養成し、天徳に奉順し、人をしてその業を楽しませ、その食を美味いものとし、その服を美なるものとし、その後に天瑞が降り、地符が升り、風雨は季節にかない、草木は生い茂るのです。だから顓頊・唐・虞はあえて荒寧しませんでした。その書に、「百姓たちの行いが明らかなものになると、さらにすべての国々が仲良くなるように図られた。このようにして、民衆たちは、みな教化を被り、その風俗がやわらいだのである。そこで羲氏と和氏のものに命じ、大いなる天につつしみ従って、日月星辰の運行を暦に写し取り、人々に季節を丁寧に教え授けさせられた。」とあるのは、これらを得て和したのです。夏・商が衰え、桀・紂が暗逆であったのは、陰陽は行いにそむき、天地は震え怒り、山川には神鬼があらわれ、妖が発して災いがおこり、疫病が流行し、ついに滅亡したのは、和を失ったからです。周の文王・武王の創業にいたると、誠信忠厚を百姓に加え、そのため成王・康王は刑の執行を四十年あまりも差し控えたので、天人はまさに和したのです。しかし幽王・厲王は乱れること常であり、邪悪かつ暴虐で、天地をはずかしめ、山川や塚や社は沸き崩れ、人は憂いて恨みを懐いだのです。その詩に、「大いなる天よりの恵みはなし。あるのはただ、災いばかり。」というのは、天が先でもなく後でもなく、虐げられて病となり、思うになんと悲しいことでしょうか。近くは隋の煬帝が四海の富をたのんで、溝を掘って河をくずし、伊州・洛州より揚州に繋げましたが、生きる人の力を疲れさせ、天地の蔵を洩らし、中国は立ち上がれなくなり、そのため身を人の手によって殺され、宗廟は廃墟となりました。元気の理にそむくのです。臣は禍乱の動きをみるに、天人の際は、先師の説であることは、あきらなかことであり、欺くべきではありません。 陛下は天地の徳を含み、日月の光は、遠くから眺められてお考えになり、天地の沖和の気を求めようと考えられていますが、これは伏羲氏が三皇の首となった理由であります。昔、天皇大帝(高宗)は元符を手中におさめ、東は太山(泰山)に封禅されましたが、しかしまだ明堂を建立せずに上帝を享り、万世の鴻業を伝えましたが、欠如して照らすことはなく、ほとんどその盛徳を留め、陛下に発揮させるものとなりました。臣は元気を和するというのは、人倫睦まじく、これを捨てれば無用のものとなります。昔、明堂は、黄帝は合宮、有虞は総期(総章)、堯は衢室、夏は世室といい、すべて元気を調えるのがそのいわれであり、陰陽を治めるのです。臣は以下のように聞いています。明堂は天地の制で、陰陽の統、二十四気・八風・十二月・四時・五行・二十八宿、すべて備わっていないものはないのです。王者が失政すれば災いがおこり、善政であれば祥瑞がみられます。臣は願うところは陛下よ、唐のために万世の業を回復し、南郊におまつりし、明堂を建て、天下を民とともに改めてはじめ、『周礼』・「月令(『礼記』)」によって考察してこれを行います。つまり月は孟春の季節に、鸞輅(天子の車)に乗り、蒼龍(逞馬)に引かせ、三公・九卿・大夫を率い、明堂の東の部分を占める青陽殿の北室に起居し、後ろに屏風を立て、玉几(玉の机)によりかかり、天下の政を聴きます。自ら籍田で耕し、親蠶をおこなって農業・養蚕をすすめ、三老・五更らの長老を養って孝悌の道を教え、訴えを明らかにして獄徒囚人を憐れみ、残忍な刑罰をやすませ、文徳を修して戦争を止め、孝廉な人物をあきらかにして貪欲な官吏を排除します。後宮で妃嬪御女ではない者は宮中から出します。珠玉などの宝石、錦や美しい刺繍、巧みな彫り物は無益なのでこれを破棄します。巫鬼・淫祀で人を惑わせるような者を禁止します。臣はしばらくもしないうちにまた太平を見ることができると言えるのです。」 また申し上げた。「陛下はまさに広く教化を行いましたが、太学を廃止されてから久しく、広大な殿堂は荒れ果てて埃が被っており、『詩経』・『尚書』を読む声は聞こえることはなく、英明な詔はまだ及んでいないかのようで、愚臣はひそかに恨みとするところです。太学は、政教の地で、君臣上下の礼がここでおこり、祭器に酒食を盛って礼拝するところなのです。天子はここに賢臣を得るのです。今詳しくは論じませんが、人倫を睦まじくしたいと思い、治世の大綱をおこそうとしても、その根本が失われているのに無いものを求めたところで、得ることはできないのです。「親の喪は三年ですが、長すぎませんか。君子が三年間礼法と音楽を稽古しないと、忘れてしまいます。」(『論語』陽貨第十七)と言いますが、どうして天下のために礼楽を軽んじるのでしょうか。願わくは貴族の長子を引き連れて太学に帰らせてください。国家の大務は廃してしまうべきではありません。」 武后は召喚して謁見され、筆札(文具)を中書省で賜い、箇条書きで利害を上書させた。陳子昂は三事を応えた。 その一にいう。「全国に大使を出して天下を巡察させ、官吏の考課を上申させ、人民の労苦のもとを探させるのは、臣はいまだに最善をつくしていないと思います。陛下が使者を発すれば、必ず天子が早朝深夜も天下に勤め憂いていることを百姓に知らせることになります。群臣はこれを知って治績を考えてこれを任命しますし、姦暴不逞の徒はこれを知って邪心を除こうとするでしょう。そこで選ばれるようでなければ、仁であれば孤児を憐れむことができ、賢明であれば用いられない者を見出すことができ、剛であれば強い守りを避けず、智であれば悪者を見つけ出すことができ、そのような後には使となったら、そのため使者がまだ行動する前から、天下は首を長くして待っているのです。今、使がまだ出ないのでしたら、道路の人は皆すでに指さして笑い、賢能の士を推薦し、出来の悪い者を下そうと望んでも、どうしてできるというのでしょうか。宰相は詔書を奉って、遣使の名目だけを果たすだけで、使を任命する実効性はありません。そのような状態で使が出発したところで、天下の弊害となるだけで、いたずらに百姓に道路を直させ、往来を送迎させることになり、その有益性は見いだせないのです。臣は願うところは陛下よ、さらに威厳荘重で節度があり、衆によって推薦された者を選んで、そこで前殿に臨御され、使者の礼遇によってこれを謁見され、よくわかるよう繰り返し勅して使が出発する意義をいい聞かせ、そこで節を授けます。京師から州県にいたるまで、才子・賢人を抜擢・登用し、人民の労苦のもとを探させ、上意を宣布し、もしくは家を見させて戸ごとにわけを納得させます。昔、堯・舜は席を離れることなく天下を教え導いたというのは、思うに官吏の考課の良し悪しの意見を集約できたからでしょう。陛下、適任者を得ることができないことがわかれば、使を出すのは少なくするのにこしたことはありません。使をしきりに何度もすれば教化に無益であり、これは小魚を煮てしばしば傷つけるようなものです。」 その二にいう。「刺史・県令は、政教の首です。陛下は恩恵をしかれ、詔書を下し、必ず刺史・県令を待って謹んでこれを宣して執行させます。その人材を得ることができなければ、役人を捨て置いて建物の壁に掛けているようになるだけで、百姓はどうしてこれを知ることができましょうか。一州は賢明な刺史を得ると、十万戸はその福を頼るのです。不才の刺史を得ると、十万戸は禍を受けるのです。国家の興廃はこの職にあるのです。今、吏部は選任にあたって県令を任命するのに県尉を任命するようにしており、ただ資格と考課を見るだけで、才子・賢人を求めているわけではありません。人事に序列によらずに行ったことがあったとしても、天下はやかましく謗り合い、なれて常に変わることはないのです。そのため凡人は皆県令に任じられ、教化はひたすらに遅く、思うにこのようにひどいものがありましょうか。」 その三にいう。「天下の危機は、禍福によって生じています。機が静かならば福があり、動であれば禍となり、百姓が安心すれば楽が生じ、不安なら生を軽んじるのです。今軍事の弊害は、夫妻は安心できず、父子は互いに養えないこと、五・六年になります。剣南より河州・隴州まで、山東では青州・徐州・曹州・汴州、河北では滄州・瀛州・趙州・鄚州が、あるいは洪水や旱魃で困窮し、あるいは兵役や疫病で苦しみ、死亡や流浪でほぼ払底してしまいました。なおも陛下を頼ってその失職を憐れまれ、おしなべて軍事徴発を一切罷められました。人は妻子に再開し、父兄は互いに守り合い、よく機を静かにしたというべきでしょう。しかしながら臣は将軍が夷狄の利に貪欲であることを恐れており、地を広げ軍が強いからと陛下を説得する者は、機を動かそうとしており、機が動けば禍いを構えることになるのです。文徳を修し、刑罰を去らせ、農業・養蚕をすすめ、民の疲弊を休ませるのです。蛮夷も中国に聖王があるのを知れば、必ず通訳を重ねてやってくるでしょう。」 当時、吐蕃と鉄勒九姓が叛き、田揚名に勅して金山道の十姓(西突厥)の兵を発してこれを討伐させた。十姓の君長は三万騎をもって戦い、功績があり、遂に入朝を願った。武后はかつて命を奉らず勝手に回紇を破ったことを責め、聴さなかった。陳子昂は上疏して以下のように述べた。 「国家がよく十姓を制するできる理由は、九姓は強大であるから、中国に臣服し、そのため勢力が微弱でありながら、下吏の命令を受けているのです。今九姓が叛き、北蕃が争乱となり、君長に主がおらず、回紇は破られ、磧(ゴビ砂漠)北の諸姓はすでに国を保っておらず、挟撃して背いた者を滅ぼそうとしても、ただ金山諸蕃が形勢を共にするだけとなあっています。有司はそれを理解せずに田揚名が勝手に回紇を破ったことを十姓の罪に帰し、拒んで帰らさせ、入朝させないことは、恐れながら羈戎に対する長期の策ではありません。戎には鳥や獣のような心があり、親など戦いに則さない年長者が子に順い、疑いがおこればただちに反乱するようなものたちで、今その善意を阻むのでしたら、十姓の心内には国家に対する親信の恩がなくなり、外には回紇への仇敵の患いがあり、心が安心せず、鳥は驚き狼が後方を警戒するようになり、そのため河西諸蕃は自然と命令を拒むようになります。また夷狄は互いに攻撃し合うことは、中国にとって福なのです。今、回紇はすでに破られているので、もうどうなっているのかわかりようがありません。十姓に罪はなく、また絶えさせてはなりません。罪は田揚名一人にとどめれば、その酋領を慰めることができるでしょう。 近頃、同城に仮に安北府を置くという勅を出されました。この地は磧(ゴビ砂漠)の南口にあたり、匈奴を制する要衝で、常に激務の要地です。臣は近頃、磧北の突厥の帰順した者はすでに千帳あまりにおよんでおり、来る者はまだ止むことなく、甘州の降伏した戸数は四千帳にもなり、これもまた同城に置かれました。今、磧北は戦乱・飢饉のため、頼る所とてありません。陛下は安北府を開いて降伏する者を招きいれられ、誠に戎狄を撫育する真心であるといえるでしょう。しかしながら同城はもとより蓄えがなく、降伏した蕃人の部落は寒さや飢えを免れず、さらに互いに奪い合うのです。今、安北府には官有の牛・羊が六千頭あり、粟麦は一万斛で、城は孤立して兵は少なく、降る者は日々多くなりますが、救済することができず、盗賊が日に日に多くなるのです。夫人の情は生を求めるのに危急なのですが、今、粟麦・牛羊はこれを餌としていますが、その死を救うことができないのに、どうして盗賊になることを阻止できましょうか。盗賊がおこれば安北は全うできず、そうなれば甘州・涼州以北は失われて、後に辺境の禍となり、その禍は計り知ることが出来ないのです。これはわざわざ誘って乱を誘発しており、盗賊に教えているようなものなのです。また夷狄が代わって雄となり、中国に抗し、勃興するようになり、散り散りとなった者を寄せ集め、衆が興隆するようなことになれば、これは国家の大きな危機であり、失うべきではありません。」 また次のように述べた。「河西の諸州は、軍が興って以来、公私の備蓄は嘆かわしいものがあります。涼州は年間六万斛を消費し、屯田から収穫されても補填することができません。陛下は河西を制し、敵の戎を平定しようとしますが、この州は空虚で、いまだ動かすべきではありません。甘州が積むところは四十万斛あり、その山川をみるに、誠に河西の喉元の地で、北は九姓にあたり、南は吐蕃にせまっており、両者は邪悪ではかりがたく、我が辺境の隙を伺っています。そのため甘州は地が広く粟などの穀物は多いのに、左右からの敵を受けているから、ただ戸は三千戸どまりで、精兵となるべき者は少ないのですが、屯田は広遠で、倉庫は満ち足りて、瓜州・粛州以西は、すべてその輸食に頼り、一旬(十日)も輸送に行かなかれば、兵士はすでに飢餓空腹となってしまいます。この河西の命脈は甘州にかかっているのです。その収穫量は四十屯あまりで、水泉は良質で、天の時を待つことなく、毎年二十万斛の歳入がありますが、ただ人力は乏しく、未だ開梱をつくしていません。他日、吐蕃があえて東侵しないのは、甘州・涼州にいたる兵士・馬が強盛なためです。今、甘州は粟を積むこと一万ばかりで、兵が少ないため賊を制することができず、もし吐蕃が敢えて大挙侵入すれば、貯蓄の穀物は焼き払われ、諸屯は蹂躙され、そうなったとき河西の諸州を我らはどうやって守ればいいのでしょうか。屯兵を増やし、外では盗賊を防ぎ、内は農業を営ませ、数年の収入をとり、兵士百万を食わせるのでしたら、天兵が臨むところ、どうして求めて得られないことがありましょうか。」 その後吐蕃はやはり入寇し、ついに後世に辺境の患いとなること最も甚大なものであった。 武后はまさに蜀山を開き、雅州道より生羌を討ち、そこで吐蕃を襲撃しようと謀った。陳子昂は上書して七つの理由によって諫止した。それにいう。「臣は、乱がおこるのは必ず怨みによるからだと聞いています。雅州の羌はいまだかつて一日たりとも盗賊となったことはなく、今罪なく殺戮を被るのは、怨みは必ず激しいものとなり、怨みが激しければ蜂の巣を突っついて驚かせるようにして滅び、辺境の村々は兵を連ねて守備体制は解けず、それは蜀の禍や乱を招くことになります。昔後漢の時に西涼で敗れて喪失しましたが、乱のはじまりは諸羌によるものでした。これが一つ目の理由です。吐蕃は狡猾で、天誅に抗うこと二十年あまりです。先日、薛仁貴・郭待封は十万の軍で大非川にて敗れ、一兵士も帰ることはありませんでした。李敬玄・劉審礼は十八万の軍をあげて青海に侵攻しましたが、身は賊の朝廷に捕らえられ、関・隴は空地となりました。今すなわち李処一をたてて上将としようとしていますが、駆け疲れた兵に攻撃させてこれを吐蕃の幸運とさせてはならず、賊に笑われてしまいます。これが二つ目の理由です。物事には利を求めて害を得ることがあります。蜀は昔中国とは通じておらず、秦は金牛・美女によって蜀侯をそそのかし、蜀侯は五丁の力士を使って桟道を掛け、山を削って谷に通し、秦の贈り物を迎えさせました。秦は兵を従わせて内部に入って蜀侯を滅ぼしました。これが三つ目の理由です。吐蕃は蜀の富を愛し、蜀の富を盗もうとしています。いたずらに山川の険難に阻まれ、餓狼の喙に苦しみ食を得ることができないのです。今山羌を撤し、隘道をひらくことは、その逃亡の原因を解決させ、先導となって辺境を攻めさせることになります。これは道を除いて賊を待ち、全蜀をあげてこれに派遣します。これが四つ目の理由です。蜀は西南の一都会で、国の宝庫で、また人材は豊かで粟は多く、江にしたがって下れば、中国は利益を感受することができます。今、僥倖の利をはかろうとするのに、事を西羌の一件にゆだねています。羌の地を得ても耕やす地は不足しており、羌の財を得ても富むには足りません。これはいたずらに無辜の民を殺して、陛下の仁を傷つけるのです。これが五つ目の理由です。蜀の地のたのむところは険難の地であることです。蜀が安全なところは、戦争がないことです。今、蜀の険を開き、蜀の人を戦争に動員すれば、険を開けば侵攻されることになり、人は戦争で財を失うのです。臣が恐れるのは羌だけではなく、内部に悪者・盗賊がいることなのです。他日、益州長史の李崇真は吐蕃が松州に侵入したのを口実として、天子は軍勢を集合させて、兵糧を転送して備えましたが、三年もたたないうちに、巴・蜀は大いに騒動しましたが、一人の賊とて見ることはなく、李崇真はすでに巨万の賄賂を受けていました。今、奸臣がこのように利益をはかろうとしなければ、また生羌とて計略の助けとなることができるでしょうか。これが六つ目の理由です。蜀の兵士は臆病で戦闘経験がなく、一人の敵が矛を持って攻撃してくれば、百人でもあたることはできません。もしただちに西戎を破り滅すことができなければ、臣は蜀の辺境は守られず、羌夷が跋扈することになるでしょう。これが七つ目の理由です。国家が近ごろ安北府を廃止し、単于を抜き、亀茲(キシュ)・疏勒(カシュガル)を放棄し、天下は思うところは、国家の務めは仁であって領土を広げることではあく、養うことであって殺すことではなく、太古の三皇の政事を行うことなのです。今、欲深い者の建議に従えば、無罪の羌を誅殺して、全蜀の患いをのこし、これは臣の理解できないところです。今、山東は飢餓となり、関隴は疲弊し、生人は流浪しており、誠に陛下が安寧になされれば、天人が和する時であって、どうして甲兵を動かして大戦役を起こして、自ら乱を生じさせるのでしょうか。また西の軍は守りを失い、北の軍は不利で、辺境の人は動揺しているのに、今また軍をおこして不測の事態に投じており、つまらない者がいたずらに夷狄に利する建議を行っており、これは帝王の至徳ではありません。よく天下をなす者は、大をはかって小をはからず、徳に務めて刑罰に務めず、安全にありながらも危険を思い、利をはかって害をおもんばかります。願わくば陛下、審らかにお考えくださりますように。」 武后は再び召喚して謁見され、為政の要、現状に不便なものを論じさせ、上古の故事を援用せず、空言を批判した。陳子昂はそこで八科を奏上した。一つ目は措刑、二つ目は官人、三つ目は知賢、四つ目は去疑、五つ目は招諫、六つ目は勧賞、七つ目は息兵、八つ目は安宗子であった。その大略に言う。 「今、各種制度はすでに備わっていますが、ただし刑や獄は厳しいのに法自体の密度は高くなく、為政の要となってはいません。だいたい君主がはじめて天下を制した時は、必ず凶乱叛逆の人があって、駆除をすれば天誅が明らかとなります。凶賊叛徒がすでに滅びれば、そこで人の心がしたがい、過ちを赦して罪を宥すのです。思うに刑は乱を禁じるものであって、乱が静かなれば刑もやみ、刑罰自体が泰平となる原因にはならないのです。太平の人は、徳を楽しんで刑を憎み、刑が加えられれば、人必は悲痛憂鬱となり、そのため聖人は刑罰をすえおくことを貴んだのです。この頃大赦となり、群罪が一掃されると、天下は慶びとなり、皆過去を悔い改めることができたのです。近日、詔獄はややしきりとなり、支党を捕縛すれば、芋づる式に尋問していますが、思うに獄吏は天意を知らず、凄惨な態度であたるのです。誠に和楽平易の道を広め、勅法して罰を慎み、無実の誣告・冤罪をはぶけば、これは太平で人を安心させることになるでしょう。 官人が賢人ならば、政事が治まるところです。しかし君子は小人でそれぞれ自分の党類をたっとびます。もし陛下が賢人を好みながら任命されないのでしたら、任命は信をおくことができず、信があっても功績をあげられず、功績があっても賞しなければ、賢人がいたとしても、ついには来るのをよしとせず、また勧めてもよしとしないのです。これに反するならば、天下の賢人は集まるでしょう。 議する者は、「賢は知るべからず、人は識るべからず」と言いますが、臣は、賢はもとより知りやすく、人ももとより知りやすいと考えています。徳行をたっとぶ者は凶悪陰険ではなく、公正につとめる者は邪心がなく、清廉な者は貪欲を憎み、信ある者は偽りを憎み、智ある者は愚者の謀をおこなわず、勇ある者は臆病者のような死に方をせず、なお鸞と隼は翼を接することはなく、香草と臭い雁金草では臭気をともにせず、その理は自然なものなのです。なぜならば、徳を凶と並べれば、勢は相容れることはありません。正で佞を攻めても、勢は有利になることはありません。清廉な者に貪欲をすすめても、勢は相容れることはありません。信によって偽りを正しても、勢は融和することはありません。智者は謀を尊びますが、愚者は聴くことすらありません。勇者は死に逍遥として従いますが、臆病者は従いません。この趣向の反するものなのです。賢人はいまだかつて効用を思わないことはなく、その同類を知ることができず、これが時世に埋没させてしまう理由なのです。誠によく俊才・賢良を信任し、左右の者に明らかに賢行の者がいるのを知り、これに爵位・高禄を賜い、賢行の類を互いに推挙させるのであれば、天下の理得なのです。 陛下は賢人を得たこと知って任用するべきところですが、信任を多くしておりません。信任をしていても効らないのです。裴炎・劉禕之・周思茂・騫味道のようにもとより用いられましたが、皆恩徳に背いて死んでしまいました。世間はこれを陛下が信賢を疑っているからだといいます。臣はもとよりそうだとは思いません。昔の人は食にむせいで病となるのだから、食をやめましたが、食が絶えれば死ぬのを知らないでの言いなのです。国にとっての賢人は、人にとって食べるようなものなので、人は一回むせぶからといって食べるのを止めるべきではなく、国は一人の賢者が誤りをおこすからといって正しい士を遠ざけるべきではありません。これは神鑑知る所なのです。 聖人の大徳は、よく諌めを受け入れることにあります。太宗の徳は三皇より上回っていますが、それはよく魏徴の直諌を受け入れたことにあります。今、誠にあえて諫める硬骨の臣があり、陛下が広く受け入れて従われるのでしたら、新たな盛徳によって、万世語り継がれるでしょう。 臣は以下のように聞いています。功臣が賞されなければ、功を勧めるものはいなくなるでしょう。死士が賞されなければ、勇を勧めるものはいなくなるでしょう。今、勤労や決死の働きをした者に名爵が及ぶことはありません。ひそかに栄禄をとったり無意味に職をしめたり、寵愛によってみだりに官職を加えられたりすれば、功績を広く世の中に示して行いを励ますことができなくなります。願わくば節を全うして死んだ者を表彰し、百僚を励まされますように。古人が「賞一人にして千万人悦ぶ」とあるのは、思うにこのことをいうのでしょう。 今、国家の事の最大のものは、出兵の憂いが毎年おこることで、賦役は省みられず、軍をおこすこと十万人であれば、百万の家が本業を安心して行うことができなくなります。北狄の有事から今まで十年、中国の勝利を聞いたことがありません。凡将が兵力の逐次投入を行い、徭役は日に日に拡大し、兵力は日に日に多くなりました。願わくば詳細に損益をはかり、利害を計算し、有意は行うべきではなく、出兵を虚しくしてはなりません。出兵をやめればそれは人心を安心させることになります。 賊が規律違反するということは、自ら屠り滅ぼされるのを選ぶことですが、罪は叛逆した首謀者にとどめ、また連座することはありません。宗室の子弟は、皆更生することができました。しかしながら臣が願うところは陛下、重ねてこれを慰撫され、天子の慈善仁愛を明らかに知らせさせれば、下々は安心できるのです。臣は、人の心は自分から表明することはできず、そこで疑いとなり、疑えば恐れ、恐れがあれば罪が生じると聞いています。和楽平和の徳を賜われ、過ちのない地におらしめられますように。」 しばらくして右衛冑曹参軍に遷った。 武后は既に皇帝を称し、国号を改めて周とし、陳子昂は「周受命頌」を奉って媚びたから武后は喜んだ。しばしば召喚して謁見され、政治の意見を尋ねられたとはいえ、論じれば歯に衣着せず正邪を論じたから、奏聞してもそのつどとりあげられることはなかった。母の喪によって官を去り、服喪が終わると右拾遺に抜擢された。 陳子昂は病がちとなり、職にあっても楽しまなかった。当時、武攸宜が契丹を討伐し、高位のものが幕府に置かれたが、上表によって陳子昂が参謀となった。漁陽に行くと、前軍が敗れて全軍が震撼し、武攸宜は軽視して戦略を立てることがなかったから、陳子昂は諌めて、「陛下は天下の兵を発して大王に委ねられました。どうして敗北の危機がここにあるのに、簡単になされようとするのですか。今、大王の法制は立たず、小児の戯れのようです。願わくば、智者と愚者を詳細に調べ上げ、勇者と臆病者をはかり、軍の多いのと少ないのを見極め、長をもって短を攻撃し、これによって恥の道を刷新しましょう。軍をみてみますとまだ威厳があるようですが、十分信頼できる者を選んでこの不測の事態に対処しましょう。大王は重装歩兵と精兵を率いて、境の上にとどめていますが、朱亥のような者がひそかにこの変を発して軍権を奪うようなことがあるのを、本当に恐れています。王はよく我が愚計を聞かれ、麾下一万人を分けて前駆とすれば、契丹の小醜など日もたたないうちに捕虜にできます」と述べたが、武攸宜は陳子昂が儒者であるから、謝絶して受け入れなかった。数日いて、再び計略を進めたが、武攸宜は怒り、陳子昂を参謀から軍曹に降格した。陳子昂は合わないことを知って、再び言うことはなかった。 聖暦年間(698-700)初頭、父が老いたのを理由として、辞職して帰って父のもとにいたいと上表し、詔して在官待遇のまま生計を供給された。父を喪うと、家に並べて葬り、哀しみ慟哭するたびに、聞く者は涙を流した。県令の段簡は貪欲で酷い人物で、陳子昂の財産が多いのを聞いて、陳子昂を痛めつけようとし、家人に銭二十万緡を納めさせたが、段簡はその賄賂をまだ少ないとして、捕えて獄中に送った。陳子昂は捕えられると、自ら占い、卦が出たのを見て驚いて「天はたすけてくれない、私はもう死ぬのだ」と言い、はたして獄中で死んだ。年四十三歳。 陳子昂の性格はせっかちであったが、財を軽んじて施しを好み、朋友と篤く、陸余慶・王無競・房融・崔泰之・盧蔵用・趙元と最も親しかった。 唐が興ると、文章は徐摛・庾肩吾の宮体詩の余風をうけ、天下は祖として尊んだが、陳子昂がはじめて雅正に変えたのである。はじめ感遇詩三十八章をつくると、王適が、「これは必ず天下の文豪となるだろう」と言い、そこで交際を願った。陳子昂の論著は、当世の法となった。大暦年間(766-779)、東川節度使の李叔明が旌徳碑を梓州に建て、学堂は今なお残っている。 子の陳光は、また趙元の子の趙少微と親しく、ともに文によって称えられた。陳光は商州刺史で終わった。子の陳易甫・陳簡甫は二人とも官位は御史となった。 王無競は、字は仲烈で、代々東莱に遷り、南朝宋の太尉の王弘之の遠裔である。家には財があり、非常に気をおって豪放であった。下筆成章科に選ばれ、欒城尉に任命され、三度官位が遷って監察御史となり、殿中侍御史に改められた。朝礼の時、宰相の宗楚客と楊再思が遠くからしゃべっているのを見て、王無競は笏をあげて、「朝礼ではお上を敬い、公たち大臣も敬っているのに、きまりを軽視するのはけしからん」と言ったから宋楚客は怒り、王無競を太子舎人に左遷した。 神龍年間(705-707)初頭、権勢者を謗ったから、出されて蘇州司馬となった。張易之らが誅されると、かつて交際していたのに連座して、広州に貶され、恨みを持つ者に詔と偽られ、笞で打ち殺された。 趙元は、字は貞固で、河間の人である。祖父の趙掞は、通儒と号し、隋の時代に同郡の劉焯とともに召されて京師に至り、黎陽長に任じられ、居所を汲州に移した。 趙元は幼い頃から志があり、議論を好んだ。洛陽にやって来て遊ぶと、士は争って慕いなびき、搢紳たちの選に謝する返句をつくったからであった。武后が称制すると、その高雅な精神が受け入れられないのを恐れたが、宜禄尉に任じられた。職に就くと、公事でなければ言わず、琴を弾いて薬を育て、隠者のようであったが、自ら隠逸の志がありながらも実現しなかった。卒したとき年四十九歳。その友の魏元忠・孟詵・宋之問・崔璩らは共に「昭夷先生」と諡した。 賛にいわく、陳子昂は武后に明堂・太学を興すことを説き、その言は非常に高雅で、本当に驚くべきものがあった。武后は威柄をぬすみ、大臣・宗室を誅殺し、長男を脅して権力を奪った。陳子昂はそこで王者の術をもってこれに勉めさせ、卒に婦人のために侮り軽蔑されて用られず、玉器を閨房にすすめたが白粉で汚されてしまったというべきであろう。盲目の人には泰山は見えず、耳の聞こえない人には雷の轟音は聞こえない。陳子昂の言は、目や耳の不自由な者に語ったものになってしまったというべきだろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六 列伝第三十一 『新唐書』巻一百七 列伝第三十二 巻一百八 列伝第三十三
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901 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/04(月) 00 10 14.46 ID Q2uYkIAO アルゴンはまた何を信じればいいのかわからなくなる衝動に駆られそうになったが その湧き上がる気持ちを無理やり抑え込んだ。 自刃せねばならないと思ったこの従者の愚かさにむしろ怒りがこみ上げてきた。 悲しんでいる暇はなかった。 間髪を入れずもう一人の兵士が入ってきて告げた。 「申し上げます。我々が籠もっていた砦が先程敵の総攻撃を受け落城!城兵はみな討ち死にしたようです!」 コルリーはアルゴンを見上げた。 「皇子、時は一刻を争います。早く脱出を」 アルゴンはゆっくり頷くと、上着を横たわる従者にかけてその場を後にした。 その後、 コルリーは敵の包囲網を巧みに抜け 船が用意してある海岸まで辿り着き、無事アルゴンを国へと帰還させることに成功した。 この一件でコルリーは幕令から郡太守へと昇格し 親子二代の郡太守となる。 反乱を起こした某国は 反乱者達の内部対立により足並みが乱れ、その隙を突いた帝国軍の総攻撃により三日で首都は陥落。 反乱の首謀者はことごとく撫で斬りにされ、擁立された王族は島流しにされた。 アルゴンは再び目を開けると、ベッドに横たわっていた。 どうやらそのまま寝ていたらしい。 外はすでに暗くなっておりランプと*発光樹がこうこうと部屋内を照らしていた。 *光を吸収し暗くなると様々な色に発光する特殊な樹木。大抵は小さな丸太にして部屋の装飾として飾られることが多い。光量は本が読めるほど明るい。 902 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/04(月) 01 02 59.44 ID Q2uYkIAO とりあえずベッドから降りて辺りを見回すと 近くの机の上に置き手紙があるのに気づいた。 『酷くお疲れのようでしたのでそのままベッドへ移させて頂きました』 眠ってしまったのは不覚だったが これで確信が持てた。 もしコルリーが裏切っているならば自分に何かしらの危害を加えることが出来たはずである。 今のところとくに体に異常はない。 そして脇差しを腰に刺したところで思い出した。 (クロム…!) あれからかなり時間は経っている。見つかったのか。 急いで部屋のドアに向かいノブに手をかけていきよいよく開けて そのまま出ようとした瞬間、ドアの前の何かに気づいた。 「………あっ…」 「お、皇子………!」 薄暗い廊下にクロムがいた。 一瞬時間が止まったように動きが止まった。 そしてクロムは少しまごついたように手をわたわた動かすと頭を下げて 「も、申し訳ありませんっ…!勝手な行動を取り、様々な御迷惑をお掛けしてしまい…ほんとうに…」 「いつ戻った?」 「*二時間ほど前に…」 *分かりやすく現在の時間間隔に合わせます 「ずっと待っていたのか?ここで」 「は…はい…」 「………、そうか。治安維持は我々の務めでもある。今回は多目にみよう。だが今度からはそういうことは極力控えるんだ」 「はっ、はい!………あとそれから…」 クロムはローブのポケットから一枚の紙を取り出した。 903 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/05(火) 10 02 47.53 ID bK9GgUAO 「皇子が起きたらこの場所に来てほしいとラドンさんが。ささやかな晩餐会を開きたいといっていました」 「あ、もしお疲れならば私が丁重に断ってきますが…」 見ると紙には簡単な地図が記されていた。 今いる館からそう遠くではないようだ。 「クロムはどうする?」 「実は…私も誘われています」 「………。ラドンが直接クロムに言ったのか?」 「はい、確かに」 アルゴンは少し思案すると、 「…せっかくの誘いだ、列席せねばラドンに悪いな」 「分かりました。では出席するとラドンさんに伝えておきます………」 「……………」 「…どうかなさいましたか?…私の顔に何か…?」 「……いや…、無事でよかったよ、クロム」 「……//そ、そんなっ…//勿体ないお言葉っ…」 クロムはまた手をわたわたと動かして紅くなった顔を少し覆った。 「……それじゃあ支度をするから待っていてくれ」 「…はっ、はい!」 904 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/06(水) 00 24 28.70 ID fRYqVoAO バタン… クロムは見えないように隠していた腕を押さえた。 まだ痕も痛みも残っていた。 (これ以上皇子に心配をかけちゃ……。でも……無事でよかったって…///) ―――――― ―ある宿屋 「この廊下のつきあたりの部屋なんだけどねぇ」 カジ、シアン、リンの三人は 軍兵ではないとのことからクロムとラドンのはからいで 仮設宿営地ではなく、城内にある郡府直営の宿屋に泊まらせてもらえることになった。 「ハロゲンの方で戦争があったっていうから旅の行商さん達がみんなランタンに留まって部屋がほとんど満室なんですよ。嬉しい悲鳴ですがねぇ、やっぱり大変ですねぇ」 宿屋のおばさんが三人を部屋に案内しながら世間話を中心にあーだこーだ喋っていた。 「へぇ~大変ですね~」 それにシアンが適当に相づちをうちながら頷く。 「でもねぇさすがに女の子と男の子を一緒の部屋にするってのはちょっとまずいんじゃないのかい。ほら……あなたそういう盛りでしょう」 すかさずリンさん。 「私が責任をもってそういうことはないよう見張ってますよ」 「そうかい、ならいいけど」 (そういう目で見られてるのか…俺…) そして部屋につくと荷物を置き、窓を開けた。 角部屋でしかも宿屋が小高い丘の上にあるためなかなか見晴らしがよく 窓からの眼下には*郡府まで続く街一番の大通りがあり人がひっきりなしに行き交っていた。 *郡都にある政庁 案内してもらったおばさんは最後まで不審の目でこっちを見ていたが…。 「あー疲れたぁっ…!」 ドサァッ…ゴツッ! 「うわっ!いたっ!」 ベッドに勢いよく寝っ転がったはいいものの薄い布がしかれているだけで 思いっきり頭をぶつけた。 905 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/05/06(水) 03 40 00.80 ID HAnzsIAO 変なこと聞いちゃうけどもうエロシーンはカットの方向で? 906 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/06(水) 08 18 01.32 ID fRYqVoAO 905さぁどうでしょうw 907 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/06(水) 15 38 15.92 ID fRYqVoAO と、いうか なくなりはしません、多分 ただ少なくはなるでしょうね 現在の物語の雰囲気上やむを得ないのであります むしろ初期やりすぎたかな…と思ってるくらいで それが今さらいろいろと響いてきています…。 えぇ、俗に言う設定の矛盾ですよ ただ期待にはできるだけ応えていきたいと思っています。 あと、そういえばパー速で今自分が書いてるようなオリジナルの物語書いてる人いるんでしょうか? 908 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/06(水) 20 32 41.63 ID fRYqVoAO さらにチラ裏 同じようなものを書かれている方がいらっしゃれば少しでも参考にでもしようかと思ったので。 他意はありません。 そしてこれから進めていくに辺り まだ序章、導入編ですが おそらくはこれから先の話は戦争のお話しも多くなってくるでしょう。 と、なると生半可な戦争の知識じゃかなり行き当たりばったりなことになりかねないでしょうね…。 あんましズレたことは個人的に書きたくない(最初からかなりズレてますができるだけちゃんとしたものにしたい)ので、 孫子とかクラウゼヴィッツの戦争論でも読んでおこうかと…。 読める時間あるかわかんないけど。。 他になにかお勧めとかあったら教えてくださるとありがたいです。 でも一番大事なのは文体と構成力かも…。 ちなみに今見てわかる通り文の試行錯誤中です。。 読みにくくなったかもしれませんが…。 909 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/05/06(水) 21 47 36.81 ID dEqeGkDO オリジナルの物語というか・・新ジャンル系はけっこう一人で物語書いてる感じが多いような あとここみたいに女「とか妹「とかで始まるようなの 910 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/07(木) 20 17 58.02 ID KtkcfsAO 909いや…、どちらかと言うと軍記物や戦記物みたいな……。 うーん……。 はっきり言ってこのままファンタジー戦記書きたい自分がいます。 最初は変態新ジャンルでやってましたが 心境の変化というか趣向が変わったというか…。 もう方向性変えちゃって……いいかな? 変わっちゃってるけど。 せっかくここまで設定考えて書いてきたのだから ただで終わらしたくないんです。 少し真面目にやりたいんです。 この…自分の我が儘に付き合って下さい…。 (できることなら設定そのままでやり直したいくらいです…。でもそれは止めておきます) 911 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/05/08(金) 01 44 54.00 ID ZAmkeP.o やりたいようにやればいいと思うよ ただ、そうなるとスレタイは変えた方がいいかもなww次スレ立てるときにでもさ 912 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/08(金) 13 25 26.71 ID xzhNGYAO 911もちろんそのつもりです 950くらいになったらいくつか題名案を出して決めようかと。 913 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/10(日) 00 18 17.82 ID j57Dd6AO カジ「っ…いったぁー!!」 シアン「これ石のベッドじゃない?ほら、布で隠れてて見えないけど」 シアンが布をめくると確かに白っぽい色の石の断面が見えた。 リン「ランタンってほらアルケン山脈の麓じゃない。アルケンって昔から方解石がよく採れたからこの辺りでは日用品に使われてるっていうのを聞いたことがあるわ。ひんやりして寝やすいんじゃないかしら?」 カジ「へ、へぇ…そうなんですか…」 その時隣の部屋から音が ドスッ 「いてっ」 「ちくしょうっ!石かよ!」 隣部屋との壁が薄いのか隣部屋の客の声がそのまま聞こえた。 顔を見合わせる三人。 カジ「同じことを…」 シアン「だいぶ筒抜けなんですね…音…」 リン「仕方ないわよ、そんなにいい宿じゃないんだから」 といいつつ別にリンさんは気にしていないようである。 リン「そういえばカジくんさっきの商人の女の子にお食事誘われたんだって?」 シアンは知らなかったようで、カジの顔を軽く睨んだ。 カジ「い、いや…まぁ…そうなんだけど…。一応二人きりじゃまずいからみんなでってことにしたんだ。この宿屋の前で待ち合わせるって」 リン「そう、じゃ早く行きましょ、お昼食べてないからお腹ペコペコ。しかもランタンって食糧庫ってだけあってご飯が美味しいらしいから2、3軒ハシゴするのもいいわね~」 シアン「そうなんですか!?きゃー楽しみ~♪」 カジはこれから起こるであろう気苦労で果たして美味しくご飯を食せるのか、飯が喉を通るのか… 騒ぐ二人を尻目にすでに頭は満腹状態だった。 914 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/11(月) 20 50 55.08 ID ecWDHYAO 三人は支度を済ませると部屋を出た。 そしてドアにつけられた粗末な木製の錠に鍵をかけていると、 ガチャッ さっきカジと同じように石に頭をぶつけたと思われる男が 隣の部屋から頭をさすりながら出てきた。 その男、長髪でボサボサの髪を茶杓状に後ろで縛っていた。 着ている服装はなかなか位の高そうな朱色の衣服を纏ってはいるが ずっと着たままなのかところどころ破れ、朱色が茶色になっており これがかなり目についた。 リンさんは無視してなかなか閉まらぬ錠に悪戦苦闘してたが カジとシアンはその男と目が合った。 軽く会釈するとその男は軽く頷いて返した、 そして視点をずらし悪戦苦闘するリンさんを一目みた。 するとはっきりとした目をさらに見開いて口をへの字にしてまた部屋に入っていった。 「なんだろう…変な人…」 シアンがそう呟くと同時にリンさんは施錠し終えた。 「もうっ…、錠って苦手。…ん?二人ともどうしたの?」 「い、いやなんでも」 「そう、じゃ行きましょ。大切な物は持ったわね?」 三人が階段を降りていくのを建て付けの悪いドアの隙間から目で追いかける男がいた。 (あれは……もしやタンタルの王女?) 915 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/11(月) 23 05 25.55 ID ecWDHYAO ――――― 「あっ!こっち!こっちですっ!」 イロンはさっき着ていた服とは違う綺麗な社交用と思われる淡い青の衣装を着て道の向こうからこちらに手を振っていた。 傍らには剣の鞘を握り締めたフェルムが周りに睨みをきかし 笑顔を振りまくイロンと対象に威圧を振りまいていた。 イロンは再び頭下げ 「先程は本当にありがとうございました。皆さんには御礼をしてもしきれませんです」 「城内に私の父の頃から馴染みの料理屋がありまして、そこでささやかながらご馳走したいと思うんですが、いいですか?」 三人は同時にもちろんと答えると、イロンは少しはにかんで 「それじゃあ立ち話もあれですから。えっと…此方です」 馬車が使えないからと、ほのかな街灯に照らされた静寂な小路をイロンのあとについて歩いてゆくことになった。 歩きながらイロン、 「そういえばあの可愛らしい魔法使人さんは?」 「確か用があるからって言ってどっかに行っちゃいました」シアンが答えた。 「そうですか…、あの魔法使人さんのおかげで助かったようなものですから是非御礼をしたかったんですが」 そして怪訝そうな顔で、 「それで盗賊さん達は…?」 「城内の牢屋で1日拘束されたあと取引に乗っ取って解放するらしいわよ」とリンさん。 「もう二度とこのようなことをしなければいいのですけど…」 すかさずフェルムが横から 「お頭のお命を狙った奴です!普通なら拷問で獄死が当たり前ですよ!」 「こらっ、フェルム!」 「まぁまぁ…」カジがやんわり宥めた。 916 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/13(水) 23 07 11.51 ID kZtMOAAO 時間もあったので薄暗い石畳の上を歩きながら 話せる範囲でお互いのことを話し合った。 武器商人であったイロンの父は 大十国の半数国をまたにかける大商人であり、様々の国へ武器の売買を行っていた。 幼い頃から武器を見て育ったイロンは武器についての興味はその頃から培われたらしい。 しかし、ある時大十国内で大きな戦争が起こった。 イロンの父は国の要請で武器を大量に、しかも更なる利益を得ようとして両方の国へ売った。 後日、戦場の側を通ったとき山のように積まれた屍の山と売った武器の残骸を目の当たりにしたとき イロンの父は人相が変わったように顔面蒼白となり頭を抱えて震えていたという。 そしてその頃から病弱となった父はイロンが13のとき肺の病にかかり亡くなった。 父の事業を継いだイロンは遺言通り、国への武器の売買をやめ 今のような規模に縮小した。 そしてフェルムはイロンの父から受けた恩を返すために 食客でただ一人イロンに付き従っている、とてもありがたいと思っています、と付け加えると フェルムは謙遜しながらもニマニマとまんざらでもなさそうに笑っていた。 「ここです」 坂を登りきった先イロンが指さすところに民家に挟まれた小さな小屋があった。 食事をするところにはとても見えない。 「小屋の地下にあるんです」 なるほど、小屋の扉の側に階段があった。 見ると何人か出入りしているようだ。 そして階段を降りようとしたとき、下から登ってくる男と目があった。 「あっ!」カジが声を出すと相手も気づいたようで 「おっ。お前ら、戻ってきてたのか」 腰に下げた太刀と朱色の鉢巻と無精髭が目立つので一目でわかった、ネオンだ。 917 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/13(水) 23 37 36.66 ID kZtMOAAO 「えぇなんとか…。それよりどうしてここに?」 「どうしてって、飯食いにきてたんだよ。ここの店主とは古い馴染みだからな。お前らも飯か?」 もちろん、はいと答えた。 ネオンは後ろに立つイロンをチラリと見て 「……ま、ここの飯は旨いが高い。コネありか金持ちじゃないと気持ちよく食えないだろうよ。俺ぁもう宿営地に戻るぜ、明日もはえぇからな」 と言い階段を登って帰ろうとするのをフェルムがドンと塞いだ。 「…なんか用か?」 「貴様、どこかで会ったことはないか」 ネオンはフェルムの顔をまじまじと見たが首を傾げ 「…さぁな。お前みたいなむさい面した奴の顔なんかいちいち覚えてないさ。わかったらさっさとそこどいてくれ」 「俺は貴様とどこかで会ったような気がする。しかもとても悪いところでだ」 「気のせいだろ。俺みたいな男前の顔なんてどこにでもいる。俺はお前なんて知らんさっさとどけ」 「…………」 カジ達には何が起きてるのかよくわからなかった。 するとフェルムは少しの睨み合いのあと一歩横にずれ道を開けた。 そしてオンは通り際に呟いた。 「………お前みたいな奴を何人斬ったかすら覚えてないんだ…わりぃな…」 918 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/13(水) 23 39 32.25 ID kZtMOAAO まぁこんな感じで不定期に小出しで更新していきます。 溜めて一気に投下ってのもたまにあると思います。 919 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/05/14(木) 22 49 39.71 ID KEmqEEDO イロンかわいいよイロン イロンのスペックとか決めてあんの? 920 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/14(木) 23 11 19.16 ID awGY5gAO 919まだあやふやだけど… 年齢17、出身地は大十国(詳細な国名はいずれ) 一見おとなしそうだけど中身はしっかりしてるタイプかな 純粋なだけに少し天然なところがあり そして、武器が好き でも殺戮のための武器は嫌いでどちらかと言うとその形状や、 使用者が使ってる姿、芸術的観点から武器に愛着がある。 国から国へと行商をしているため あまり同年代の男と接したことがない。 だからか歳の近い男に興味がある……ぐらいかな 921 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/15(金) 13 20 40.04 ID zUvXP.AO あ、外見的なスペックなら特には決めてないです 強いて言うならおとなしそうって感じでしょうか 922 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/15(金) 23 45 46.08 ID zUvXP.AO それを聞こえたか聞こえずか フェルムはネオンの背中を見てうわごとのように呟く。 「やはり人斬りだったか…」 イロンは心配してフェルムの顔を覗いた。 「どうか…したんですか?」 「いえ…。昔どこかで会ったような気がしたのですがどうやら気のせいのようです」 「そう…ならいいんですが」 店内に入るとモワッと肉を焼いたような香ばしい匂いとともに 人々の談笑の声が聞こえた。 外装と打って変わってなかなか内装にはこだわっており そこら中に刀剣が飾ってあった。 そしてイロンが店主らしき人に声をかけると店主は懇切丁寧に 奥の席へと案内してくれた。 イロンはカジに先に座らせ自分は隣に座った。そしてカジを挟むかのようにシアンが席につく。 視線がつらい…。 「ここの店主は昔父の元で働いていたんです」とイロン。 「さ、遠慮なく注文してください。さ、カジさんもどうぞ遠慮なく」 「は、はぁ…じゃあイロンさんの何かお勧めを…」 「え!いいんですか?じゃあ、えーと…カジさんはお野菜お好きですか?」 「まぁ、好きかな」 「じゃあじゃあこれなんてどうですか?きっと美味しいと思いますよ!?ね、フェルム」 「お頭がそうおっしゃるならば間違いないです、はい」 「お頭はやめてって言ってるでしょーもー」 フェルムはイロンを援護するのに徹するようである。 椅子を近づけて一つのメニューを二人で見ながらキャイキャイする横でシアンはぶつくさ言いながらメニューを睨んでいた。 923 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/19(火) 18 34 01.21 ID CXELW.AO 結局料理名と内容が一致しないのでイロンが強く進める「コニトリ」と言う料理を頼むことにした。 注文を店主に言うと 「わたしもそれ!」 と、メニューを凝視したままシアンも同じものを頼んだ。 そのあとリンさんは立て続けに4品くらいを同時に注文し フェルムは、安い酒だけでいいと言って葡萄酒を頼んでいた。 するとすぐに食前酒が運ばれてきた。 イロンは躊躇うことなく一気に飲むと、 「はぁ~やっぱり武器に囲まれての食事っていいですよね。カジさん」 「う、うんまぁ……なんか殺気を感じるけど……」 そして壁にかけてあるダガーナイフをとると 「武器っていうのはですね人類の英知の結晶なんです。いかに利便性に優れいかに相手を倒すかに究極とも言える知識を詰め込んだいわば芸術品なんですよ。 そして芸術品とも呼べる武器を最高の使用者が使ったときなんかもうっ……!あ~想像しただけで体が熱くなってきちゃいますよっ!」 と、目をきらめかせながら語るイロン。少し頬が赤くなってる。 「へ、へぇ。そんなに好きなんだ」 「はいっ!けど…あんまり爆弾とか銃みたいな火薬を使う武器っていうのは好きじゃないんです。なんだか…下品っていうか…美がないっていうか」 「わかるわ」と、横からリンさんがイロンと同じく少し頬を赤らめて言った。 「最近の帝国は火薬を使いすぎよ!そのせいで周辺の国の兵士は致命傷を受けてみんな死んじゃってるんだから!タンタルの民も…!*北方諸国も…!」 *アボガドロ帝国の北に位置する多民族が建てた諸王国を総じて言う。近年帝国による侵略をうけている 924 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/22(金) 16 53 44.90 ID 0s5O3QAO 不定期とは言ったものの更新少なくて申し訳ないです 中間テストが近いのでしょうがないっちゃしょうがないんですが…。 ちゃっちゃと三章終わらしてサクッと一息いれたかったんですが こうも伸びに伸びてしまうとは…。 もしかしたら今年一年使っても三章すら終わんないじゃないかと心配になってます…。 925 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/05/28(木) 03 25 59.39 ID EvE83zEo 今はどんな感じのスケジュールで暮らしてるの? 朝から晩までずっと予備校とか? 926 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/28(木) 07 26 59.64 ID HEY6usAO 925基本朝から6時すぎぐらいまで予備校ですね そのあと家に帰ってから少しやることやるとだいたい就寝時間になります 書けるとしたら予備校中か寝る前か休みの日ぐらいでしょうか 927 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/28(木) 15 32 22.33 ID HEY6usAO 「………」 リンの言葉に一瞬騒々しかった店内が静まり返った。 「……あ……え……ご、ごめんなさい…」 リンが粛々と席に座ると、また店内は賑やかな声に満たされた。 イロンは少し声を落としてリンに言った。 「いいんです気にしないで下さい、お食事の席でこんなお話しちゃった私がいけないので…」 すると後ろの席に座っていた体格のいい男がぬっと顔を出して口に手を添えて言った。 「お嬢ちゃん、世間話もいいけど帝国に対する悪口はあんま言わないほうがいいぜ、最近そういうのに厳しいからよ。昨日もそこの広場で叫んでた旧国の王族がしょっぴかれたからな」 「…ご忠告どうも…」 「ま、叫びたくなったら俺の部屋にこいよ俺の上で好きなだけ叫ばせてやるぜ」 「それは遠慮しときます」 そうかい残念だ、と言うと男は自分の席へ戻っていった。 イロンは小声で、 「…確かにこの所帝国に対する中傷や暴言への規制は厳しくなっています。みなさん、気をつけたほうがいいみたいですね」 928 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/29(金) 20 29 12.22 ID GGBaf.AO ―――――――― 「…銃?」 晩餐会が催される場所へ行く馬車の中でアルゴンはこの少し奇妙な事に言葉を反復して聞き返した。 「はい…、昼間に捕らえた賊が所持していました。これです」 クロムはアルゴンに血の付いた長銃を渡した。 「…いくら銃の需要が増えたと言っても、三下の賊が手に入れられるほど安価なものではないはずだが……、!?」 「どうかされましたか?」 「…賊はこれをどこで手に入れたと?」 「大十国…恐らくアルミニア近郊である商人からコランダムと交換で手に入れた、と」 「……コランダム……」 アルゴンは俯いた。 「……そうか………」 コランダム。その存在には謎が多い。 古くは龍創暦以前の壁画にその存在が確認できる、度々史書や伝説として登場しており その時代に活躍した覇者や英雄が所持し、その石の力により圧倒的カリスマを得たといわれる。 伝説では、蒼空から現れし祖龍が人間達が神と崇める岩の上に舞い降り 岩に雷を落とすと青く輝きだし粉々に割れた。 すると祖龍は言った。 「世界を統べよ。さすれば望みを叶えてやる。そしてこの岩石はお前達が統べることを助けるだろう」 と言うと祖龍は蒼空に帰って行った。 人間達は呆気に取られ暫く呆然としていると一人、また一人とその岩石の欠片の魅力に惹かれ 石を拾っていった。見たこともない光を放つその石を。 そして………それまで平和に暮らしていた人間達は石の奪い合いを始め互いに殺し合った。 戦争が始まったのである。 「…………その話が本当ならば、その商人とやらは何者だろうか。…恐らく間違いなく只の商人ではない。この金具を見てみろ」 アルゴンは銃の持ち手を示した。 「アボガドロ帝国は世界最高水準の銃を製造している自負がある。…だがこれはその水準を遥かに越える技術を使って造られているものだ」 「……やはり」 「あぁ。こんなものが世に出回るようになればこの世界は30年もせずに統一されるだろう、それ程すごい技術だ。みろ、見たこともない金属だ」 929 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/05/29(金) 22 49 03.05 ID GGBaf.AO 「確かに…、こんな金属は見たことがありません…」 「もし…大十国のどの国かがこの銃を製造しているならばすでに戦争に使用され、戦果を上げて我々の耳に入っているはずだ」 「しかしそれがないということは、何者かが私的に作った物だろう。しかし…一体誰が…。それに、コランダムのことも気掛かりだ」 クロムは呟くように言った。 「……コランダムを集めているとしたら…」 「………。コランダムを集めようとしている者は大抵支配階級か王族だ。自らの野心を達成するために石の力を借り覇権を握ろうとしているんだ」 「だけどほとんどの輩は手に入らず危険な領域まで踏み込み命を落とす。残りの大多数はそんなものは迷信だと相手にしていない」 「皇子は…実在すると?」 「……子供の頃父上のものを見たことがある」 「…………!」 「…一見はただの白い石、でも子供心ながら心の奥底から欲望が湧きいでるような感覚を感じたんだ。欲しい、欲しいって」 「父上はそれ以降は見せてはくれなかった…。この石のことを言うと激怒して3日ぐらい口をきいて貰えなかったっけ」 「つまり…力は本物ということですか…?」 「恐らくある。今の父上の覇道がここまできたのもあの石の所為だろう」 「………………」 クロムは急に押し黙った。 目を泳がせて唇を甘く噛んだ。 そして意を決したかのように 「皇子……」 「…どうした?」 「皇子は……野心がおありですか」 「なんだ…?急に?」 「このままで…よろしいのですか…?」 「…………」 クロムの目はアルゴンをみずにただ前を見ていた。 クロムが言いにくいことを言うときは必ず目を逸らして喋ることをアルゴンは知っていた。 「皇帝陛下に疎まれて遠ざけられ、辺境の地の巡察ばかり命じられている皇子を見ているのはとても…とても……」 「それに…今回の、一連の策謀も皇帝陛下が仕組まれたものとし―」 「言うな」 アルゴンはクロムの口を封じた。 「それ以上……言わなくていい……」 ガタッ 外の景色の動きが止まった。 ラドンが指定した木と煉瓦でできた館の前に着いた。 930 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/01(月) 00 31 07.02 ID aBvaOYAO 「私は……ただ……皇子がこのようなことで終わるような器ではないと…」 「………クロム、まだ父上がやったと決まったわけじゃない」 「ですが……!このままでは……!」 「行くぞ、せっかくの料理を冷やしてしまってはラドンに悪い」 アルゴンは下車すると、ズンズンと館の中へ入っていった。 「……皇子…………」 ――――――――― 「――という伝説があるんです、コランダムには」 イロンは2杯目の葡萄酒をチビチビ飲みながら身振り手振りで説明した。 「…その伝説に出てくる祖龍って言うのは、実在するの?」 シアンは尋ねた。 「私が信仰しているレプトンの教えではこの世界の創造主であり唯一無二の神と位置づけられています」 「レプトンの教え?」 カジが横から聞いた。 「えっ?知らないんですか?」 「あ、うん…」 「レプトン教団のことよ」 リンがイロンの代わりに言った。 「大十国周辺に多数の信者を抱える教団で祖龍をレプトン神と呼んで崇めてるの」 「かなり敬虔な信者が多いことで有名で、国教にしてる国も沢山あるわ。確かここの郡護太守も敬虔な*レプトニスだったはずよ」 *信者を指す 「えぇ。よくご存知ですね」 「それで…祖龍は実在します。私はまだ見たことはないのですが、祖龍の使いである祖龍子は度々この世界に現れては我々人間に知識や魔法を授けていると史書に幾つも書かれていますし」 (………祖龍子………) 「祖龍も龍創暦の初年―アトム王国の世界統一に際し天より舞い降り王の望みを叶えたと文書で残っています」 「でも、その文書の真偽については今の史家の間では真っ二つよ。当時の王国のプロパガンダじゃないかって説も出てるくらい」 リンが得意の持説をイロンにぶつけた。 酔っているのか史学に対してのプライドなのかかなりずけずけと言った。 931 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/01(月) 18 25 25.47 ID aBvaOYAO 話が段々と複雑になってまいりました…。 あと新スレ建てる前に簡単なあらすじを書きますので 建てる際に貼ってもらえるとありがたいです。 932 :旧サーバーにロールバックしましたFrom vs302.vip2ch.com sv[sage]:2009/06/03(水) 16 57 23.25 ID HV9cPQgo 約3ヶ月ぶりに来ました。いつの間にか現代(?)から戻ってるな 933 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/03(水) 18 46 10.11 ID hELUoUAO 932このあとまた現代に戻ります。 934 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/08(月) 00 10 53.59 ID 9HpI1EAO 「その可能性は否めません…ですが、祖龍が舞い降りた日の天変地異については確かな文書が残存しているはずです。確か…」 イロンは指先を下唇にあて思い出そうとしているとリンがすかさず、 「天、暗雲に覆われ、雷鳴数百、風吹き渡りて一晩、暁頃に暗雲裂け白光の中より青白き龍光臨す…その時の王国に仕えていた文官の日記の一節でしょ?」 「よ、よくご存知で…」 「確かに、当時の様子を知るには興味深い文献だけど、その部分だけ何度か書き換えたような跡があるのよね」 「え、見たんですか!?」 「えぇ、だって私の国の宝物庫に保管……い、いや、たまたま見る機会があってねっ!うん、たまたま!」 「と、ともかく、祖龍がいるなんていう確かな証拠は今の所存在しないわ。そもそも祖龍子なんてのも…」 「リ、リンさん!」 カジがあわてて静止した。 リンはイロンの方をみてはっと口を押さえた。 「……いるもん……レプトンの神様は…絶対いるもん…」 半泣き状態であった。 「こらぁっ!!お頭を泣かせるとはどういうつもりだぁ!」 フェルムの甲高い怒声が店内に響き渡ると再び店内の陽気な声は静まり返った。 「…フェルム…お頭は…止めて下さい…グスッ」 「あ、申し訳ありません…」 リンはイロンの横でしゃがんで 「ご、ごめんなさいっ…私熱くなっちゃって…イロンちゃんの気持ちも考えずに…」 「いいんです…、私も勉強不足なところがありました…。色んな考えの人がいるのは…最初から分かってますから…」 「おいおい、俺の店は泣く場所じゃなくて笑いにくる場所だよ?さっ、お待たせ、当店自慢のコルトリだよ。涙なんか吹っ飛ぶくらい旨いからな」 カールした髭を蓄え頭の髪が吹っ飛んでる店主が現れた。 そしてアツアツの料理の皿をテーブルに置くと、 「イロン~、泣き虫の癖は治ったんじゃなかったのかい?」 「な、治ってますから!大丈夫です!さっ、皆さん熱いうちに食べちゃいましょう!」 「ハッハッハ、じゃ次の料理持ってくるからね」 935 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/12(金) 00 31 37.50 ID Zpg1JIAO そして再び店主は厨房のほうへ戻っていった。 「じゃ、お先にいっただきま~す」 カジが湯気が立ち上るその料理に匙を差し込んだそのとき、 グスッ…グスッ…… また誰かが泣いている。 見渡すとシアンが料理を目の前にして手で顔を覆ってすすり泣いていた。 「ど、どうしたのよ?お腹でも痛いの?」 リンさんは今度はシアンの席のそばにいってシアンの背中を撫でた。 この事態に円卓には非常に微妙な空気が流れはじめた。 カジもそばに寄って涙を拭くためのナプキンを渡した。 「どうしたんだよ…?急に?」 ちょっと目が赤いイロンもフェルムも怪訝そうな顔で見ていた。 「……グスッ……ごめんなさい………思い出しちゃって……」 「思い出したって…何を?」リンさんが優しく聞いた。 「………お父さんが…よく作ってくれた料理……名前知らなかったけど……グスッ……なんだか懐かしくなっちゃって………コルトリって……いうんだ…グスッ」 カジはすぐに察して、外の風にあたってくることを勧めた。 「うん………ごめんね…そうする…」 シアンはリンさんに付き添われて店の外に出て行った。 店主も不安そうに見ていた。 「どうか…されたんでしょうか?」 イロンがとても心配そうな顔で尋ねた。 「……あいつ…シアンは、昔両親を殺されたんだ…。多分両親にこれと同じものを作ってもらってたから思い出しちゃったんだろうな」 「………そうなんですか、悪いことしちゃったみたいですね…」 「気にしなくていいよ。…大丈夫だから。戻ってきたら平気な顔してるよきっと」 「………っ…」 イロンは何かを言いかけようとして、そのまま俯いた。 「…カジさん……」 936 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/12(金) 00 51 12.99 ID Zpg1JIAO チラ裏 遅筆、すみません。 何度も謝罪するといい加減ウザいのでもう当分はしませんが 見てくださる方にはほんと申し訳なく思っています。 やはり、このペースだと 人もかなり減った…かな?どうだろ? 少し不安ですが、それも致し方ない、か。 展開、設定は常にいつも考えてるんですが それを文字に起こす時間が…。 取れないわけじゃないけど平気で30分とかぶっ飛ぶからね…。 そういえば、現実(?)世界編って見ている方が割と好評なような印象を受けたんですが、 どうなんでしょうかね? だいぶシリアスっていうか残酷ですが…。 魔王の思想もそろそろ固めていきたいところです。 でもなんだかんだいってやっぱ学園生活ものはいいよな~。 941 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/20(土) 00 11 12.76 ID ha2lXsAO 「ん…?」 「いえ……その」 イロンは俯いた顔がいつの間にかカジの顔をぼんやり見つめていたことに気づき少し目線をそらした。 「おいしい…ですか?」 「あ、うんうん!おいしいよ!今まで食べたことない味、パリカリッとしてる」 カジは止めた匙をまた動かしてガツガツ口に頬張りながら言った。 イロンはよかったですと言ってニコッと笑った。そして… 「……カジさん…、カジさんはどうしてシアンさんと旅を?」 カジは匙を一瞬止めた。 「…旅…っていうのかな…。…ゆ…いやシアンがどうしてもやらなきゃならないことがあって…」 「…復讐…ですか?」 「…うん」 「時間…かかりそうですか?」 「…わからない。相手の正体が全く分からないから」 少し変な間が空いた。 「…見つけたら?」 カジは手を完全に止めた。見つけた時のことを深く考えていなかった。 一体どうするのか…。そもそも勝てる相手なのか。かつて見たあの黒々とした大男を思い出して考えてみた。 「…わからない」 結論はやはりこうなる。 「私、何も事情は知らないし差し出がましいですが…、もし私なら…好きな人に復讐なんてしてもらいたくはないです」 「……」 「好きな人が憎悪に駆られてる姿は見たくはないはずです」 「……」 シアンの泣き顔が頭をよぎった。 いつも気丈にしている彼女がどれほどの憎悪を抱えているのか…、それを思わないようにしている自分がどこかにいた。 親を殺された人の気持ちは計り知れないものがあるだろう。 確かにシアンが憎しみで満たされた姿は見たくはない、だが、復讐を止めろなんてことは彼女の気持ちを考えるととても言えそうになかった。 すると店主が後ろから料理を運んできた。 「おいおい、さっきの子俺の作った渾身の料理が美味しくなくて泣いちゃったのかい?」 「いえ…故郷を思い出したんですって」 「そうかい、んま!陰気臭い話はそれぐらいにしてんぱぁっと明るい話をしてやるよ!」 「いや、別にっ…」 「遠慮すんなって、丁度片付いたところだ。そんなどんよりした顔で店にいてもらっちゃこっちが迷惑さ。えーっとそうだな、三日前!そう!三日前にな、俺のダチのルーフォンってやつがよぉ、これが傑作でな―」 942 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/22(月) 00 42 09.37 ID iw6MO.AO ―――――――― ランタン郡府 執務室 コルリーはほのかな発光樹の光と蝋燭の炎の下、丁度治安維持に関する書類に目を通し終わった。 深く溜め息をついて椅子に深く腰を落とし 執務室の赤い天井を見上げた。 そして呟くように、 「……悲しきかな…野心も老いてしまったわい…」 と髭を撫でた。 絶好の機会だった。アルゴンを殺すには。 アルゴンが死ねば、皇太子は居なくなり、その後継を巡って国が乱れてランタンを拠点に独立できるかもしれなかった。 例え軍を差し向けて来ようが、先のタンタル戦で大敗を喫したためそうすぐには軍は興せない。 しかも一年戦える食糧と難攻不落の環濠がある。勝算は十分にあった。 だが出来なかった。 そうさせない自分がどこかにいた。 老いなのか情なのか、さっきからその答えを考え続けて書類に目を通していた。 齢50を間近にし、馬上よりもこの椅子の居心地がよくなってきた自分が少し情けない気持ちになった。 若年の頃、父の勇壮な背を見て育ち、 いつかこの世界の地図に自分の版図を描くと夢みていたものだったが 幾月も経ち、ついにこの年となってしまった。 時間は残り僅かである。乾坤一擲も厭わない気持ちはあった。 出世はした。賢才にも恵まれた。 だが決して満足はしていなかった。 心の奥底から沸々と湧く野心がずっと彼を誘惑しているのである。 機会があればそれを逃す自分はいないはずだった。 なのにしなかった。 道に反するなどはなから恐れてはいないはずである。 ……もしや惹かれているのか? この私が。あの若造に。 そういえば、窮地に陥った皇子を助けた時、 初めて会ったにも関わらず 心の底から命を懸けて助けたいと思ったのを思い出した。 読み終わった書類を書簡に入れて棚に戻していると 衛兵が来訪者を告げる鈴を鳴らすのが聞こえた。 943 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/29(月) 16 58 17.21 ID bAIPGYAO 「政務中だ。明日にしろと言え」 「それが…フォルミカのネオンと言えばわかると言って、居座って帰ろうとしないのです、強引に帰しますか?」 (………フォルミカのネオン…) 棚を静かに閉じると、指に髭を絡ませながら少し考えた。 「通せ」 「もう通させてもらってるぜ」 衛兵「なっ貴様っ!?」 「構わん」 ネオンはドカドカと入室すると部屋中央にある華美な毛皮の椅子に座り 赤の天井を見上げヒューと溜め息をついた。 「久し振りだな、コルリー。あの戦争以来か」 「…辺境のどこかで野垂れ死んだと思っていたぞ」 「俺はしぶといんだ」 「それで…ファルミカの元隊長、赤蟻が私に何の用かな?」 コルリーはネオンに向かい合って座った。 「……単刀直入に言おう。時間も無いんだろ」 「私の寝る時間が短くなるだけだ」 「…そうかい……そうだな、分かりやすくいやぁアルゴンを殺すなってことだな」 少し体がビクッとしたのをコルリーは自覚しすぐに平静を装った。 …私はまだ何もしていないはずだ。 誰かに私の思惑が漏れるはずがない…。 こいつ…いきなりなんだ。 頬が勝手に緩んだ。 「私が皇子を殺すと?馬鹿な。何を言っている」 ネオンの頬も同じく緩み、ふてきな笑みを浮かべた。 「俺は別にあんたが殺すなんて微塵も思っちゃいないと言えば嘘になるが、んまぁ念の為だよ。釘を刺しにきたんだ。やりかねないってことでな。今あれを殺されるとマズいんだ」 「まるで誰かに指示されているような口振りだな。…そもそも叛逆ではないか、ものは考えていえ」 944 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/06/30(火) 22 22 03.16 ID XWiTKcAO 「しっかし、策士コルリー…と呼ばれていた男も今じゃあの椅子の居心地にすっかり慣れちまったようだな」 ネオンは奥の机を見ながら言った。 「……。何故殺してはいけないのかわけを聞こうか、お前はもうこの国の人間ではないはずだろう」 「そりゃあ上の人間を殺すのは外道だからなぁ」 コルリーを皮肉るように言った。 「そうではない。わざわざ言いにきた理由はなんだと言ってるんだ?」 「釘を刺すためさ」 「…………言わないならこちらにも考えがある。今の皇子を抹殺するなど私にとっては簡単なことだ。今夜中に全てなかったことにできる」 「……おーっと!わかったわかった。言うよ、少しだけな。あんた目がマジなんだよ」 ネオンはわざとらしく驚いた。 「実はな……ベンゼンで近い内に騒ぎが起こる」 「騒ぎ…?」 「恐らくクーデターだろう」 「誰が?」 「それは知らないな」 「どこの情報だ?」 「出所は知らない」 「……」 「あんたにも怪しい密書が届いてるはずだ」 「………破棄してしまったよ」 「あんたらしくないな。喜んで荷担しそうだが」 「私を外道か何かと思っているのかね?」 「いや、昔はそうだったろ。まぁいい、ほぼ確実にクーデターが起こる」 「お前すら知っているそのクーデターが何故皇帝の耳に入っていない?」 「知ってるのは俺とあんたと極一部の人間、それに各郡太守だ」 「…郡太守達は中央の様子見をしているのか」 「そうだ。優位な方に加勢するつもりなんだろう。まぁ国に忠誠誓ってる奴にはさすがに密書は送らなかったみたいだが」 「…………」 「そこでだ、俺達はクーデターが起きてコバルトさんが死んだ時に後継者が不在だと国が崩壊する可能性があって困るわけだ」 「何が困る?」 「それは言えんね」 「………」 「すでに皇弟が亡き者になってるし、皇子の命を狙う刺客も次々にきている」 「皇子のお命を狙う者など数多もおるからな」 「……だいたい見当ついてんだろ?誰が裏で糸ひいてんのか」 「まぁだいたいは、な…。それでお前たちはクーデターは止めずに国の崩壊は止めるのか。少し矛盾しておらんかね」 945 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/07/08(水) 21 35 08.86 ID QuU2igAO 最近なんやらかんやらでだいぶ執筆が遅れております。 これから夏休みにも突入するので(実際は忙しそうだけど) 多少は進められるかなとは思ってるんですが… できれば夏中に過去編には突っ込みたいです。 全く目処は立ってませんが; 若干細かい設定も忘れかけてて困ってます…。 947 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/07/13(月) 22 39 47.26 ID QNJZkEAO ネオンは机の上に置いてあった樫の木で作られたパイプに火をつけプカプカとふかした。 「現皇帝は用済みってことだ。覇業はアルゴン皇子に継いでもらう」 コルリーは冷静な顔でそんな大それたことを宣うこの男に少し憤りを感じた。 「………何を…」 「ん?何をって事実だ」 「…ただの蟻風情が国家の大事に関われるはずがないだろう!さぁ冗談を話している暇はない!今のは聞かなかったことにしてやるから早く出ていけ!出て行かなければ…!」 ネオンは冷めた目で立ち上がったコルリーを見た。 「…叛逆罪で俺をしょっぴこうってか?お前にそんな権利があるのか?」 「私は郡護太守だ。そんな―」 「―密書が届いたとき、少なくとも騒ぎを起こそうと画策するやつがいることが分かってて何故皇帝に上奏なり密告なりしなかった?え?」 「………」 「あんたは事が起こるのを期待していたんだろ?それであえて言わなかった、違うか?」 「………」 「所詮あんたは俺と同じ穴の狢だ。俺をしょっぴいたってなぁ大衆の面前でこのことを大声で叫んでやるさ。例え文書を破棄しててもこの手紙を出したお偉いさんの耳に入りゃあんたは難癖つけられて失脚だ」 「…………。わざわざ私を責めにきたのかね…。それとも脅しにきたのかね…」 「あんたのその中途半端な野心のせいで計画が頓挫するのは御免なんだよ」 「…この…蟻がぁっ!」 コルリーは脇から護身用の短刀を出して刃先をネオンへ向けた。 「確かに俺は丸腰だが……そんなものじゃぁ俺は殺せないさ。あんたがよくわかってるだろう」 「……っ」 「やっぱり人間護るもんができると保守的になっていけねぇ。あんたの愛娘、さっき拝顔させてもらったぜ。16か17か、いい時期じゃねぇか…男の味を味あわせてもいいんだがなぁ」 「…貴様ぁっ!」 「あの時のあんたは隙あらば主の首もかっきってしまいそうなくらい反骨精神に溢れてたのによ、どうなってんだよ、え?今じゃ帝国の忠実なワンちゃんだ。俺は正直幻滅してんだ」 「…それ以上…!」 「そのままその中途半端ながらくたの野心を墓まで持って行ったらどうだ、肥やしくらいにゃなんだろ」 「……………」 コルリーは少し溜め息をつくとナイフを降ろした。 「…私を怒らせようという魂胆か…」 「だが事実だ」 「あぁ…そうだな」 コルリーはもう一つ溜め息をつくとドスンと椅子に座った。 逆にネオンは椅子からゆっくりと立ち上がった。 948 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/07/23(木) 23 31 21.07 ID mEd8GUAO 夏休みになれば時間ができると思っていたら逆に忙しくなったでござる しかも夏休みなんか存在しなかったでござる 最後のレスがもう10日前… 時間が経つの早いわぁ。 後先考えず決めた設定をいくつかいじりたくなってきました。 ちょっと話がややこしくなるあの部分… 変えちゃってもいいかな?かなっ? 無理やり話の流れでねじ曲げちゃおうかな ある単語なんだけどね。意味が違う同じ単語ってわかりにくいよなぁ ま、そこら辺含めて勉強の合間に思案してます。 パソコンで書けりゃどんだけ楽か… 949 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/07/28(火) 22 33 08.78 ID pColI2AO 「さぁてと、そろそろ失礼しますかね」 ネオンは最後に煙を目一杯吸うと、パイプを灰皿の上に置いた。 「安心しなよ、あんたの娘にゃ手なんかださねぇさ。……蟻は女王蟻の忠実なる僕…、心から愛してるのは女王蟻だけだ」 コルリーはこの言葉を隠喩だととっさに察知した。 「……!、まさか、まだあれを!?…はっ、そのために入都許可証を…!貴様全部っ…!!」 この男が何をしようとしているのかについて一本の筋が通ったような気がした。 コルリーが次の言葉を発しようとした時、ネオンはコルリーの口を塞いでいた。 「…流石はコルリーさんだ。頭の回転がお早い。だーが…あんまり大きな声で言わない方がいいな」 「ッ…(あれが何かをわかっているのか!?)」 「それと…もう一つ言いたいことがあったんだ」 ネオンはゆっくり手を離すとその手をコルリーの耳元へ持って行って囁いた。 (八年前のエステル皇妃暗殺事件…お前が一枚噛んでいるんだってなぁ…よくもまぁはめてくれたよなぁ…) コルリーはこの男の凍るような囁きにさっきまで熱を帯びていた背筋が急激に冷めるのを感じた。 「しっ…知らん…!!そんなものは知らんぞっ!それにあれはお、お前の落ち度ではないか!しかもお前の助命を請うたのはこの私なのだぞ!」 「……へへっ…嘘をつくのが下手になったのかなぁ?え?呼吸が少し荒くなったぞ。真実はどうあれ…おかげで俺は五年の追放…」 「…………」 「そういや、あんた信仰を持ったんだって?…レプトンの神か」 首に掛かった祖龍の紋章が刻まれた首飾りを見て言った。 「…………それが…どうした………」 「…神なんてもんはこの世にゃいねぇよ」 「…?」 「今んとこは…な」 950 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/07/28(火) 23 11 55.12 ID pColI2AO ネオンは再び黄ばんだ笑みを浮かべると 意味を解せないコルリーが瞬きする刹那にはすでに 入り口のドアノブに手をかけていた。 「ま、まてっ!!」 「…」 「これから…一体何が起こる?」 「…あんたは外野で黙って見てるこったな」 振り返りもせずそれだけ言うとネオンは出て行った。 コルリーは座ったまま数分手を組んで頭をもたげていた。 ありとあらゆる記憶と情報が頭の中で交差し収集がつきそうにない。 終始、心臓を握られているような心地だった。 恐らく端からネオンはアルゴンの件は二の次で自分に例の事を伝えるために来た…ということだろう。 おもむろに立ち上がり仕事机の隠された引き出しを開けて 布でくるまれた書簡を取り出し もう一度文面をたしなめた。 時間が分からなくなるくらい静止したまま書簡を眺め そして一呼吸つくと、それを布と一緒にランプの炎に伝わらせ燃やした。 ジワジワと燃え広がる書簡を見てまた一呼吸をつき燃え殻は灰皿に置いた。 ネオンの吸っていたパイプはまだうっすらと煙を立ち上らせていた。 ――――――― ▼晩餐会が催される館 どうぞこちらへ、皇子。 アルゴンとクロムはラドンの案内で玄関ホールから続く螺旋階段を上り 奥の間へ通された。 951 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/07/28(火) 23 36 54.37 ID pColI2AO と、まぁ 念願?の950になりましたぁ! いやー長かった。 さて題名変更の件ですが 何かいい案があればドシドシ言ってほしいのですが。 自分では今のところ 「コランダム」か「アトム戦記」かなとは考えてるけど まだなんか良さそうなのありそうですよね。 てか人いるのかって話なんですが…。 いやまぁしょうがないです!遅筆ですから! スレもほぼ最下層にありますからね! 959 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/08/12(水) 12 22 33.89 ID R9ZWbwAO 奥の間に入ると部屋の壁や天井に神話を思わせる絵が描かれ 部屋の中央には六角形の卓があった。 卓上にはすでに料理が準備され 卓の真ん中の空いた穴からは発光樹の小さな幹が伸び 銀食器をほのかに照らしていた。 「この館はこの地方を支配していた王族が居住していたもので、焼かれずに残っていたんです。どれだけ勢いにのっていたか部屋の内装を見ればわかると思います。ここは玉座でした」 ガタッ 「どうぞ、其方におかけ下さい」 アルゴンは上座に、クロムはラドンの向かいに静かに着席した。 部屋には三人の他には誰も見えなかった。 「まずは…改めて、御無事で何よりでした、皇子…。それでは皇子の生還を祝して…」 ラドンは杯を持った。 「……」 「……っ申し訳ありません…。…此度は…」 「いや…いいんだ…」 「しかし、この圧倒的劣勢でよくぞハロゲンを守りきられました。我が部下以外にも皇子の勇名をみな讃えております」 「………そうか」 「それでラドン殿、そろそろ本題を…」 クロムは話を遮るように尋ねた。 「あ、では…、その本題に入る前に…。つい先程急使が到着しまして…」 「…?」 「…アルミニア軍が六日前*ジルコニア領へ侵攻。ジルコニア軍は徹底抗戦するも連戦連敗、その後アルミニア軍はジルコニアの首都を包囲、三日で首都を陥落させジルコニア王はタンタルへ落ち延びた…とのことです」 *アルミニアとハロゲン市の中間に位置する大十国、十諸侯の中の一国 「!!!」 969 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/08/21(金) 00 05 39.56 ID 8YSPDQAO 「あのジルコニアが!?」 「大十国の一国が滅びたと言うのか…!」 驚くのも無理はない。 大十国は約100年前にあった王朝が瓦解し 十諸侯が独立を宣言した後に いくつかの小国の興亡を除いては 現在まで一つの国も滅亡することなく存在してきたのである。 しかもジルコニアは十国中最も領土が狭いながらも 過去に負けたことは指で数えられるほど少ないと言われる強国であった。 ラドンは準備してあった帝国周辺の地図を広げた。 「…ジルコニアが滅亡したことによってアルミニアの領土は我が国と隣接したことになります。しかも最前線拠点は…」 「ハロゲン市…ですね」 クロムは少し卓に乗り出して地図を眺めた。 「もし…アルミニア軍がこのまま攻めてきたとして、今の半壊したハロゲン市では攻城兵器を持ち出されると…五日…いや、三日も持たないでしょうね」 「恐らく、すぐには軍を此方には向けれないでしょう。ジルコニアの残党による反乱の恐れがありますから」 「中央へは?」 「はっ、すでに早馬と*便鳥を」 *緊急や有事の際に中央へ文書を伝える伝書鳥。 「それにしても…我々がハロゲン市に到着する前には全くアルミニア軍の動静に関しては何も聞かなかったな」 「強力な情報封鎖によるものでしょう。帝国や周辺諸国が介入するのを畏れたのでしょうな。いやはや相当なものですよ。アルミニアの指揮官は」 970 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/08/25(火) 20 09 00.52 ID UIGyaMAO クロムは地図にあるジルコニアの辺りに目を落とした。 「しかしこの展開の早さはいくらなんでも何かおかしいですね」 「…ハロゲン市がこちらに併合を申しでたことから、東側に兵力を傾けていたとしても…それは微々たる変化。確かに、あの強国が滅亡するには少し早すぎる。…これは何かあるな」 「国境付近の防備を固めるべきでしょうか」 ラドンは国境線を指でなぞらえながら言った。 ラドン「ハロゲン市が併合され、国境を接するジルコニアが消滅したいま、国境は不明瞭な状態です。 幸いなことに我々とアルミニアには国交が開かれていますから近い内に国境線を定めるための使者が遣わされてくるか…、最悪の場合、実力で押し広げてくるやもしれません。その場合を考慮して防備を固めるのは私も同感です」 「うむ…」 アルゴンは顎に拳をあてて少し考えた。 「だが、しなくてもいい戦争を始めてしまうことは避けたい。アルミニアとの対応はひとまず相手の出方を探り、私の権限でハロゲン市にさらに兵2000を治安維持の名目で派兵するとして、大勢の決定は中央の判断を仰ぐとしよう」 ラドン「わかりました」 「ラドン、アルミニアについて何か知っているか」 「…私が存じているのは、三年前アルミニアの王が逝去し、双子の娘の姉が王位を継いだことと、その双子の妹が軍の指揮官につき黄豹と呼ばれ周辺諸国に恐れられていることぐらいです」 クロム「恐らく、ジルコニアを滅亡させたのはその黄豹でしょう」 アルゴン「………黄豹………か」 クロム「さっきから気になっていたんですが、席がもう一つ用意されてるところを見るとまだ誰か?」 ラドン「あ、えぇ、そろそろ着く頃だと思います」 983 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/09/15(火) 22 23 53.05 ID sW.xEkAO 982そっか どっちでもいいけど 中途半端だし物語に関わらないし 何やってるのかよくわからないから てか少し恥ずかしい…// 現在ストーリーと設定を勉強の合間に あれこれ考えるとですね 最初は何も考えずにやってたものですから 色々とむちゃくちゃしすぎて 凡才ながらちゃんとした物語が書きたくなってきた今の自分としては だいぶん後悔していることが多々あります… やりすぎました。えぇやりすぎました。 ほんと、最初から書き直したいぐらいです。 キャラに愛着が沸いてきた今では非常にキャラに申し訳ない… これらは何も考えずパンパンやっちゃった自分が悪いのですが 楽しんでもらえたのなら自分はそれで構いません。 それで嬉しいです。 でもですね… 物語を考える上でそれらが弊害として表れてくるわけです。 自分の書きたいものとのGAPが出てきてしまうんです。 例えばあの2人はもう一定のゴールを迎えてしまった。 なんて言えばいいか… それを否定したらこのスレが否定されるわけですが 今思うと段階を踏んでもっと先でもよかったかなと思ったりするんです。 それを書くのがすごい楽しそうだし。 すいません。愚痴みたいで。 はっきり言ってエゴです。 でもどうやったら面白くなるかなとかを 考えた結果としての自分の気持ちです。 そしてそのGAPが筆を少し鈍らしているのに若干影響しているのは否定しません。 でもそれは自分にそこからを考える才能が乏しいからであり 一概に過去の自分を責めるわけではありません。 ですがもうすでにここまで来てしまいました。 このままやっていきます。 凡才ながら完璧主義の自分が憎いです。 あれもしたいこれもしたいではやはり物語を作るのは難しいですね。 すいません。どうでもいい今の心境を長文で述べさせてもらいました。 忘れて下さって結構です。 はっきり言って続きを書きたくてウズウズしてます。 そして早くパソコン欲しい 984 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/09/15(火) 22 28 29.11 ID sW.xEkAO あと一つ… パソコン買えて時間があるなら ちゃんと設定練り直した上で やり直すかもしれません でもそれは皆さんを裏切ることになるので あくまで可能性として留めておきます。 985 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/09/15(火) 23 42 03.46 ID wiphCR6o 1が書き直したいと思うなら、書き直していいんじゃないかな 書いていくのが 1である以上、 1が納得できるものを書くべきだろ 悔いが残っていて納得できない状態で書かれたものを読むのは俺も嫌だしね ここまで来たらいっそ徹底的にこだわって設定詰めたりストーリー練ったりして、 1なりの最高のものを書いてほしいと俺は思う ちょうどスレも終わるし、いい頃合いじゃないか? というか、 1はいい加減に受験勉強に集中すべきwwこれから追い込みだろうがww 986 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[sage]:2009/09/16(水) 03 48 22.80 ID XnFr2kDO 確かに受験に集中すべきだww 別に裏切るとか、そういうのはないと思うよ 自分は読むだけだしなww 987 :1 ◆DlyW/s8ibQ[sage saga]:2009/09/17(木) 08 33 05.52 ID 1KoU5sAO 985-986今の所は考えておくに留めておきます。 もし仮にやり直すとしたら 大筋はあまり変わらないかもしれませんが 人名や性格、設定は大きく変わるかもしれないですね 別にけしからんことが嫌いになったわけじゃないです。 自分も日本男児でありますから。 ただワクワクするような方が自分は好きだってことに気づいたのであります。 裏切るってのは少し語弊があったかもしれないですね。 最初にあれで釣っといて急に変えるというのに少し皆さんに後ろめたさを感じたので……。 そろそろ受験に集中します。
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導入 探索前半 探索後半 戦闘前半 戦闘後半 エンディング 文字色説明 GM 描写など 雑談など A/チーム・リステア アルキバ イヅナ B/Innocent Philia カイ アリシア C/C班 ヒエン ナツメ D/Echris ヨーコ カンナ E/遊星歯車 クレッセン アシュリー セッションF-1 2020/03/15 [雑談] というわけでこんばんは [雑談] 本日から〈箱舟の下に眠る原石〉始まります よろしくおねがいします [雑談] 今日は導入のみで終わると思います [雑談] 最初に個別導入のタイミングを持ちます 1人だけで導入のシーンやりたい方はここでどうぞ [雑談] その後、全員集まっての導入シーンになります シナリオ上は班はここで発表されます [雑談] 導入の途中でまたタイミングを設けますので、その時に班員で一緒にシーンを作ることもできます BGM 神秘の水晶谷 from イリスのアトリエ グランファンタズム(ガスト, 2006) Composed by 中河健 ――A.D.3783 ソル・シエール―― 地表はようやく安定を取り戻しつつある時期。 各地では、第三塔の消滅などそれぞれの事情もあり、開発が盛んに進められていた。 そんな中で表面化してきたのが“資源の不足”。 死の雲海は消え、今までとは桁違いの広大な大地が人々の前に姿を現したわけではあるが、 まだ地表の資源を活用する態勢は十分に整っておらず、結果として需要に供給が追いつかなくなってきた。 ホルスの翼を抱えるここソル・シエールの地では比較的影響が少ないものの、それでも足りないものがある。 それがグラスノ結晶――あるいは、その原料となる唄石である。 人工技術体系であるグラスメルクが普及したソル・シエールでは、他塔との交流が始まったとはいっても 生活の隅々にまで根付いたグラスメルク製品や技術を捨て去るようなことはできず、 むしろ開発ラッシュによってグラスノ結晶の需要が高まっている状況にある。 これに対し、天覇は地表探査プロジェクトと並行して唄石の鉱床を探索してきた。 有望な場所の絞り込みが済み、最後の仕上げとして人海戦術での位置特定を試みる―― アルトネリコTRPG チーム対抗型シナリオ 箱舟の下に眠る原石 fedyya keenis syec sanctum [雑談] 以上 いつもの手動オープニングムービー [雑談] おおー [雑談] さすがの貫禄 [雑談] なにこれ凄い [雑談] そういう話だったのか…… BGM ひいらぎの帆 from 黒い瞳のノア(ガスト, 1999) Composed by 阿知波大輔 [雑談] というわけで個別導入シーンになります 状況とかで質問あればこちらでどうぞ [雑談] 地上に人が暮らせるだけの村的なやつはあるんでしたっけ [雑談] 今はそこそこあるという設定です [雑談] バイト募集みたいな形ですが報酬はそれなりに高額です 少なくとも普通の3日間で得られる額じゃない [雑談] (今回の日程は事前説明1日+実働2日) [雑談] バイトってことはチラシとかで知ったでもいいんですかね [雑談] ですね イヅナ・クランベルはメタ・ファルスからソル・シエールへと渡ってきた、ごくごく普通の風来坊である。 違う点とすればレーヴァテイルというぐらいで、平々凡々と生まれ育ち、 特に困ったこともなく生活して、ひょんなことから旅に出ようと決意した。そんな程度の境遇に生きていた。 長らく目指していた、『メタ・ファルスとは異なる世界を旅する』ことの第一歩として、遂にソル・シエールへと 辿り着いた彼女は、意気揚々とどこか違うようで似ているその地に踏み入った。……ところまではよかったのだが。 イヅナ:「……ヤバイ……ちょっとこれはまずいかも。……お腹、空いたなー」 旅を始めて早々に色々ごたごたに見舞われたイヅナは、その途中にあろうことか 全財産の詰まった財布をなくしてしまい、昨日遂に持ってきていた食料の殆どが尽きることになってしまったのだ。 [雑談] 経済に困窮してる人が多すぎる [雑談] 金欠はいい理由ですし [雑談] シナリオ作りの面でも金を提示するやり方はいろいろ楽 [雑談] 前回〈地下戦争〉では100万円くらいの報酬だした記憶 [雑談] 今回は……日給10万で30万円くらいかなあ [雑談] 日給10万は相当多い [雑談] 月給200万と考えればエキスパートに出す給料としては妥当だと思うけど [雑談] あ、あとこれに成功報酬みたいなのが乗るはず イヅナ:「流石にお茶だけじゃ無理があるしなー……いっそ……いやいやいや駄目駄目! 何考えてるの私!」 お守り代わりにしていたゲロッコから全力で目をそらしながら 「魔物を狩るにしたって剣折れちゃったし……はあ」 いつもなら魔物を狩って得た素材を売る、という手段も現状では使えない。 せめて誰かいればよかったのだが、なんてことを考えながら町中をとぼとぼ歩いていると、ふとあるチラシが目に入った。 イヅナ:「……なにこれ? 地表の調査……天覇?」 首を傾げつつ 「えーっと報酬は……えっ、えっ!? ……」 二度見しながら それは天覇という会社が出した依頼のチラシであり、どうやら現在調査のため人員を募っているとのことだった。 その下に書かれたおおよその報酬を眺め、イヅナは目を丸くした後、……一度深呼吸をして、自らの頬を叩く。 イヅナ:「……ぃよっし! 日付は……うん! だったらもう少し、頑張って何とかやろう!」 そう決意を固めた後、自らの空腹を手持ちのお茶で誤魔化しつつ、イヅナは今日の頼りどころを探すのだった。 ソル・シエールにて家族と共に暮らす青年、アルキバ・クロウには、一つの大きな悩みがあった。 それは、妹・クラズの抱える心臓病。血管に炎症を起こすという病の後遺症として、クラズは重い心臓疾患を抱えていた。 詩魔法で治せるタイプのものでもなく、治療には腕のいい医師による手術が必要となる。つまり、莫大な金がかかる。 一般家庭であるアルキバの家に、そんな家計の余裕があるわけもなく──故に、アルキバはある一つの決断をした。 学業を一度中断し、高収入のバイトをひたすらこなして、治療費を捻出する。 愛する妹のため、兄として出来ることの全てを。 アルキバ:(唄石の鉱床……俺にも、そいつが凄まじい価値を持っていることはわかる。 この仕事で一山当てれば、もしかしたら目標金額に届くかもしれない。 やるしかねぇ……クラズが元気になるためだったら、なんだってしてやる!) こうして、アルキバ・クロウは金目当てに、今回の物語に関わることになったのだ──。 [雑談] 妹のクラズは多分川崎病かなんかを盛大にこじらせて重めの後遺症を抱えちゃったんじゃないかな [雑談] 心臓手術ってどれくらいかかるんでしょうね 専門ではないのでよくわからないです [雑談] さあ? よくある「渡米して手術」とかだと単位が普通に千万円だし [雑談] ソル・シエールって福祉整ってなさそうだし [雑談] ぐぐってみた 3割で100万ぐらいらしい [雑談] じゃあ350まんえんくらいかなあ [雑談] 親もいるし、一部ローン組むことも考えれば、今回の報酬で届くかもしれないね [雑談] 成功したらアルキバ君のエピローグは妹と一緒に学校行くシーンで決まりですね……(フラグ立て) ――ソル・シエール ホルスの翼のどこかの街の一角―― 宿に備え付けられている掲示板を眺めている二人の姿がある。 一人は赤髪、一人は金髪。ソルシエールではあまり見ない風貌である。 事実、彼らはソル・シエールではなくメタ・ファルスの出身だった。 カイ:「どうやらまた天覇が募集をかけているみたいだな」 そう言うのは赤髪の男性。対して、金髪の女性は嘆息する。 ノイエ:「この間は私が行ったから、行くならパスね。カイはどうするの?」 カイ:「資金はあるに越したことはないし、参加できるならしたほうがいい。 まぁ、その間はノイエ一人になるから苦労はかけるだろうが」 ノイエ:「私のことなら気にしなくていいわ。この間がそうだったんだから、貸し借りはこれでなし。そうでしょ?」 カイ:「違いない」 募集のチラシを読みながら笑い合う二人。どうするかは決まったようだ。 カイ:「期日は……もう少し先だな。応募は出しておいて、それなりに準備を済ませておくか」 ノイエ:「頑張ってね、元騎士“様”?」 カイ:「その呼び方はやめろと言ったはずだ」 そんなこんなで、カイが今回の天覇の募集に参加することになる。 [雑談] 絆、いいな [雑談] ノイエさんは〈地下戦争〉の登場人物でもあるので、ある意味バトンが渡された [雑談] 準備がなかったのでリアルタイム生成でした [雑談] 8888 [雑談] RPについてはけっこう無茶振りするGMなので いつもおつきあいありがとうございます [雑談] (動機考えてないなそういや……どうしたものか) [雑談] ないならないで大丈夫ですよw そんなキャラ深掘りしてる人ばかりじゃないので [雑談] キャラ選択ミスったなーと我ながら思うw [雑談] 教会から頼まれた的な流れでも、他に適任いるべ! っていう脳内ツッコミ。うーむ [雑談] 他の適任な人は他の仕事に出払ってるとかでもいいし [雑談] あ、詩魔法それなりに多いから、でいいか(カリストがlv4までダイブしてるし) [雑談] だとするとアリシアは、まぁ貢献的なところが目的になりそうだな。 [雑談] 教会所属だから経済面はそこまで困窮してなそうだし [雑談] 貢献という意味では間違いないですね 唄石不足ということなので [雑談] 減ったおかずを取り戻すためでしてよ [雑談] 物価が上がったから稼がないといけなくなったんですよ(版上げ) [雑談] 版w [雑談] 世知辛い [雑談] 「またお米を切り詰めないと……かなしい」 [雑談] オボンヌ値上げのお知らせ [雑談] ぶっちゃけ100リーフから200リーフに値上げってめちゃくちゃつらい [雑談] オボンヌの値上げでオボンヌにダメージが [雑談] エレミアの騎士としてオボンヌの値上げは生死に関わりますよ [雑談] 別にエレミアの騎士はオボンヌ同好会じゃないから……w [雑談] オボンヌがキチッてるだけで他はまともだから [雑談] でもオボンヌの同期周りは苦手になってる人多そうだなと思ってますね() [雑談] あちこちに押しつけるから……ミシャとか完全に被害者 [雑談] なのでヒエン君もちょっと苦手くらいの個人的設定です [雑談] 宗教勧誘レベルでオボンヌ推されたら確かに嫌いになりそう [雑談] オボンヌ(人間)のオボンヌ(アイテム)ゴリ押しに辟易してる人は多そう [雑談] 本編すぎてそこそこ経ってるし、ライナーも多分お偉いさんになってるだろうし [雑談] パワハラならぬオボハラを…… [雑談] オボハラ [雑談] wwww [雑談] オボンヌは、ありまぁす!! [雑談] 地上に人が暮らせるだけの村的なやつはあるんでしたっけ [雑談] 今はそこそこあるという設定です ソル・シエールの地上には、いくつかのコミュニティが成立している。 そこから離れた湖のほとりに、小さな小屋が一軒立っている。 彫刻刀を振るい、ひたすらに、理想とする仏の形に削っていく。 それはこの地域では見ることの出来ない、第三塔で信仰されている仏の形をしている。 まだ未完成のそれの加工を続け、数時間。 太陽が真ん中を通り過ぎる頃に、彼女は作業を止め、外の空気を吸う。 ナツメ:「……」 しばらくの沐浴を済ませた後、彼女は家に戻った。 そして、少し遅い昼食を済ませようとして――気づく。 ナツメ:「……あら、もう買い付けに行かなくちゃいけない頃だったかしら」 クローゼットの下側、6つある引き出しの左真ん中の引き出しの裏。 彼女が村で善行を積んで貯蓄したわずかばかりの資金だ。 ……そこにはもう、子供でも数えられる程度の貨幣しかない。 ナツメ:「一人でいると、こういうところをおろそかにしがちね」 買い出しもそうだが、それと同時にいくらかの稼ぎも必要なことを知る。 彼女はいつもの装束と錫杖とバックパックを持って、近くのコミュニティへと足を運び出した…… [雑談] ヒエン君天覇に協力せよみたいな指令で出向してるみたいな感じでもいいですか? [雑談] いいですよ [雑談] そういえば今回の依頼の事務所とかってどこにあるんですか? [雑談] そこに呼ばれたところから始めたいのですけども [雑談] 事務所は天覇内の部局ということになっていますので、呼ばれるのは当日が最初になると思います [雑談] あー了解ですー じゃあ自宅に手紙が届いたという事で [雑談] ほたる横丁とかってどうなってるんですか? [雑談] ほたる横丁はそのままだと思っていいです というかソル・シエール全体がほぼそのままです [雑談] ソル・シエールはほんとに変わらないね。行ける場所に地表や他の地域が増えたくらい [雑談] 塔の上下を往来する飛空艇がちょっと増えたぐらいか [雑談] 了解です ヒエン君の今の家ほたる横丁にあるってことで話進めますー ――ヒエンの自宅―― ヒエン:「プラティナから出て天覇に所属したのは良いものの、見事に平和でつまらない……」 そう言って、椅子に座りぼんやり天井をみながらぼやく。 ヒエン:「天覇にある程度貢献できたらパートナーを見繕ってやる、なーんて言ってたけども実際どうなんだろうなー」 と、そんなことを言っていたら自宅に手紙が届いた。 ヒエン:「はー、地表の調査依頼か、ほたる横丁で喧嘩の仲裁とかの治安維持活動ばかりだったから この仕事は楽しそうだな」 と、上機嫌に依頼を見ながら当日の事に想いを馳せ ヒエン:「おっと、いけない私はエレミアの騎士だ、これは大事な仕事なんだから! ……とは言え可愛い子一緒だったら……」 ヒエンはプラティナでは騎士らしい行動に拘り過ぎて女性と全く接点がなかった、 なので今回出会いが無いか淡い期待があったのである。 ヒエン:「さーて、当日かっこ悪い所は見せれないから武器の手入れとかしないと!」 [雑談] 以上です [雑談] ありがとうございましたー シンプルでよい [雑談] おつでしたー [雑談] 3d50 → 61[35,5,21] → 61 [雑談] またなんか変なダイス振ってる [雑談] も お な ……えーっと この三文字をふくむ名前って難しいな [雑談] あー、名前決めの [雑談] モナーでいいか(白目) [雑談] ( ´∀`) [雑談] モナ王 [雑談] チョコモナカジャーンボ! [雑談] もっかいふらせて(血涙) [雑談] www [雑談] 好きにしてw [雑談] 3d50 → 17[10,1,6] → 17 [雑談] こあか [雑談] 湖朱とか? [雑談] 赫子 [雑談] 紅孤 [雑談] アシュリーさん案でいこう [雑談] やった 湖朱:「何でも屋いるー?」 クレッセン:「ここは溜まり場じゃないんですけど……依頼がないなら帰ってくださいよ」 湖朱:「ひどいな、いや今回は真面目に依頼。お金だすのは私じゃないけど」 クレッセン:「また意味不明な事を……聞くだけ聞くから終わったらさっさと帰ってくださいよ」 湖朱:「ん、この求人ね、ちょっと魅力的で応募したはいいんだけど。 よくよく考えたらこの日程、用事あって私行けないのよね」 クレッセン:「……代打しろと!?」 湖朱:「正解! いやー自由意思で申し込んだのに行けませんで何もしないって外聞悪いじゃない。 せめてもの誠意としての札を用意したいよね」 クレッセン:「俺はお前の誠意じゃないんですが」 湖朱:「まぁまぁ頼むよ。きっと報酬は(むこうが)弾むからさ」 クレッセン:「はぁ……とりあえず解った。報酬もあって依頼ならやる。でも貸しだから忘れないでくださいね」 湖朱:「んじゃよろしくー。帰るね」 クレッセン:「……台風の予報は出てなかったんですけどね」 置いていかれたチラシを見つつ [雑談] 台風w [雑談] 苦労人ってことは分かった [雑談] なぜペア5組でRTが4人しかいなかったか? きっと一人ばっくれたからだよ [雑談] えぇ……w [雑談] w [雑談] では個別導入はここまで 全体導入に入ります [雑談] Echrisはどっちも人間じゃないとだけ [雑談] Not人間コンビ [雑談] 片方はアルシエル出身ですらないし [雑談] 作られたもの同士なかよくしましょ [雑談] ですね BGM 総合企業複合体TENPA from アルトネリコ(バンプレスト/ガスト, 2006) Composed by 中河健 ――ほたる横丁 天覇本社・大会議室―― 一日目の午前。今回の仕事を受けた者たちは、この会議室に集められた。 人数は全部で40人ほど。後方支援を担当する者もいるため、実際の調査活動を行うのは半分くらいだろうか。 ノースロップ:「おはようございます。今回の事業の責任者を務めております、 地上探査事業部のメドウ・ノースロップです。よろしくお願いします」 演壇に立ったのは比較的小柄な女性だ。年は三十代半ばといったところか。 責任者にしてはやや若く見えなくもない―― とはいえ、同じくらいの年齢の女性が天覇全体の社長だった時期もあるが。 ノースロップ:「今回みなさんに依頼したい仕事は、唄石鉱床の場所の特定です。 ご存知の通り、唄石はグラスメルクには欠かせない材料であるグラスノの原料鉱石であり、 これがなければ我々の生活は成り立たないと言っても過言ではありません。 そして、現在でもグラスメルクを主力としている天覇にとって、唄石の確保は死活問題であり――」 資料画像を交えながらの説明が始まった。最初のうちは募集時の要項にも書かれていたような内容だ。 [雑談] 第二塔って唄石あったっけ(今更) [雑談] 見たこと無くても説明入るので大丈夫 [雑談] じゃあ説明受けて初めて知ったってことで ノースロップ:「――H波パルス反響法によるリモートセンシングでは、ホルス右翼には あまり唄石が存在しないだろうことが判明しました。おそらくは第二紀の間に採掘が進んだのでしょう。 そこで我々は探査の範囲をホルスの外に広げ、その結果、唄石の存在度の高さと 鉱山跡に特徴的な地形を兼ね備えた場所をいくつか発見し――」 しばらくの間、彼女は今回の探査活動の意義とその背景の説明を続けた。 時間が長かったせいか、すでに聞くのに飽きている者もいるようだ。 いずれにせよ、最初に配布された資料によると、今日はこの説明会を終えて昼食を取った後は 唄石の特性と見分け方に関する講習を受けて地表に移動して終わりのようだ。 実際に外に出ることになるのは明日から二日間である。 三十分ほどで彼女の話は終わった。交代で大柄な男が演壇に立つ。 フックス:「ではここから、みなさんにやっていただくことの具体的な説明に移ります。 天覇地上探査事業部のローランド・フックスと申します。よろしくお願いします」 彼は以前行われた地下調査活動で責任者を務めていた者だ。 その活動では、ちょうど同時期に同じ地下調査を行っていたライバル企業である メビウスワークス・エレミアとの衝突が発生し、問題になっている。 [雑談] ありましたねぇ、MWE [雑談] (メビウスワークス・エレミアはこっちの勝手な設定の企業 念のため) フックス:「――量もそうですが、鉱石の質も非常に重要です。 なので、サンプルとして鉱石を拾ってきてください。その際、それを拾った正確な場所も記録してください」 よくよく観察してみれば、今回ここにいるメンバーには柄の悪そうな者は少ない。 あの時のトラブルを反省して、ある程度は選抜を行ったのだろうか。 [雑談] 前回はガラ悪い人がいたのか…… [雑談] 前回(地下戦争)のMWEルートのボスがクソシエールでした [雑談] その単語には曰くを感じる [雑談] レーヴァテイルの扱いがひどい人……要は量産型ボルド [雑談] 量産型ボルドで草 [雑談] 異星人がいてもいいのか…… [雑談] いいんじゃないですかね [雑談] w フックス:「――今回は事前に調査を行うことを公表し、許可も得ています。 なので先だってのような事故は起きないはずですが、もし万が一部外者と鉢合わせた場合は、まずは連絡を」 天覇内部でなんらかの方針転換があったのかどうかは分からないが、 彼の口調も以前と比べれば穏やかになっている。 フックス:「――基本的には協力して事を進めてほしいのですが、なあなあになるのもあまり良くありません。 なので、いい発見や貢献があった方にはそれに見合ったインセンティブを出します。 みなさんの頑張りを期待します」 説明された内容は概ね以下の通り: ・調査範囲は、おそらく第一紀に露天掘り鉱山だった場所の周辺 まだ採掘が始まっていない鉱床があると思われる ・各地を回り、鉱石が存在する量を記録し、またサンプルを採取する 品質の良い鉱石がたくさんある場所ほど有望と思われる ・その他、なにか価値のありそうな物が見つかったならそれも採取し場所を記録すること ・異形の者の出没も報告されている 探索時は常に注意し、遭遇した場合は適宜対処すること 可能なら討伐することが望ましい ・期間は明日と明後日の2日間 重複を避けるため、1日目のみ探索する範囲に制限がある 探索と野営に必要な物資は天覇で用意するので出発時に受け取ること ・午後の講習の終了後、飛空艇で地表の村の宿に移動 その後は自由時間なので各班とも自己紹介などを済ませておくこと ・各班に800リーフずつ配布するので、必要なアイテムがあるなら購入すること (購入できるアイテムは後に提示されるリストにあるもののみ) [雑談] 800リーフもくれるのか 太っ腹やん [雑談] いま各班が持っている残金は、A班から順に 0 700 0 200 100 これに800が足される [雑談] Aチーム素寒貧で草 [雑談] w [雑談] 財布なくしちゃったから許して [雑談] C班もお金ないよ! [雑談] うちの班買わなさすぎとちゃうか? [雑談] 必要ならもう持ってるアイテム売却して埋め合わせてもいい [雑談] まぁありえんと思うけど一応 装備は売れる? [雑談] 服売るか? [雑談] 裸族 [雑談] 実質ミュール化はダメです [雑談] 装備はちょっと対応面倒なのでパスで ノースロップ:「それでは、最後に、班分けを発表します。 まずは1つめの地区、V337-1536のほうから。A班――」 班分けが発表される。席に着く参加者たちは周囲を見回している者が多い。 ノースロップ:「以上です。お昼休憩を入れますので、時間までにまたここに戻ってきてください。 この間にそれぞれの班でメンバーの自己紹介などを済ませて、それから、班の名前を決めてください」 そうして午前の部は終わった。 すぐに席を立ち部屋を出ていく者もいれば、部屋の中に残る者もいる。 [雑談] というわけで、シナリオ上はここで班員が対面することになります [雑談] 書いてある通り、会ってRPできるタイミングとして昼休みをとっていますので、活用してください [雑談] 先にルール説明しちゃいますね けっこう長いので時間取ります BGM 説明は君に任せた from アルノサージュ(ガスト, 2014) Composed by 柳川和樹 では、探索パートのルール説明をします。 (編注:こちらの「探索パートのルール」 ならびに「シナリオ限定アイテム表」「ランダムイベント表」「探索パートマップ」を参照) [雑談] 複雑で頭こんがらがってきた [雑談] ルール説明が長くなるのはすみません 多少複雑でも明文化しておくのが大事なので [雑談] 複雑なゲームはちゃんと明文化しないと後で困る 遊戯王っていうゲームがそれですごく困ってる [雑談] w [雑談] 妨害もできるのか…… [雑談] となると動き方次第で大分色々変わるっぽい? [雑談] ですねえ [雑談] なるほど それでこのマップの形なのか…… [雑談] 最下位の加護 [雑談] HPに余裕ある前衛組はガンガン追加探索したいわね [雑談] 1日目は小文字のエリアのみ入れるってことですかね? [雑談] はい 1日目は小文字エリアのみ、2日目は最外周のa~kが消えます [雑談] とりあえずトレッキングポールと寝袋をイヅナさんに渡しとこう [雑談] ありがとうございます [雑談] トレッキングポールと荷役用ドローンは重複あり? [雑談] 重複ありです [雑談] お金に結構余裕があるからドローンとポールが両方買えるな。すげぇすげぇ [雑談] 売り買いは次の購入フェイズでしかできないのかな [雑談] はい ここでしかできません [雑談] 夜にできたらリーフ増やしてドローンでも買おうかと思ったが…… [雑談] 支給品を見れば分かる通り、1日目と2日目の間の夜は各自キャンプなので…… セッションF-2 2020/03/23 BGM ひといき from アルトネリコ(バンプレスト/ガスト, 2006) Composed by 阿知波大輔 購入処理 決まったらここにどうぞ (C/C班 discord上の相談 2020/03/23) [雑談] 寝袋は欲しいかなぁと、斧なのでHP無いと死活問題ですので [雑談] となるとウタ缶+ポールか鉱物図鑑辺りが丸いかなぁ [雑談] 図鑑は確かに強力ですけどポールは悪い効果そのもの無効化に出来るので利点大きいかなと [雑談] んじゃポールをもらって 残りどうしよっか [雑談] ヒエンさんもポール持つ? それならポール2寝袋2でちょうど800 [雑談] あーそうっすねじゃあそれで C班 トレッキングポール2つ 寝袋2つです C班 残り0リーフ A班 粗茶2とクッキー売却 ポール1、寝袋1、鉱石図鑑1、おやつ1購入 ポールと寝袋はイヅナ 鉱石図鑑とおやつはアルキバ A班 売却により+450で1250リーフ そこから1200リーフ使用 B班 ポール1、ドローン1購入 ポールはアリシアさん、ドローンは自分(=カイ)で B班 残り200リーフ D班 アイス丼×2、オボンヌ×2売却、ドローンとポール×2、寝袋1です。 ドローンはカンナが、寝袋はヨーコさんに持っていただきます。 D班 売却により+700で1700リーフ 全て消費 [雑談] きっと交互に寝袋で寝るスタイル [雑談] ヨーコは機械だから痛そう [雑談] なお1泊だけの模様 [雑談] なんやてー!? [雑談] じゃあきっと寝袋の譲り合いでもするんじゃないかな……? [雑談] 買い物どうしましょうー こっち氷砂糖売ってドローンもありかなとは思ってるけれど [雑談] ドローンか寝袋がいいけどそんなお金あったっけー、で思考が止まっていた記憶 [雑談] E班は900リーフ アイテム売却しても1200リーフが限度 [雑談] 全部売れば寝袋二つとドローン一つがそろうけど [雑談] いろんなものは現地調達……? [雑談] いろんなものとは一体 テントとか食料とかは支給品に含まれてる [雑談] 回復アイテムとか…… [雑談] 回復アイテムはここでは調達できません 素材買ってグラスメルクするくらい [雑談] もう回復なんて知らぬと脳筋プレイに走ってもいい気がする(双方遠距離武器だし) [雑談] ……ドローン買っていいですか? [雑談] こっちは氷砂糖売ってドローン買いたいと思ってる [雑談] 寝袋はいります? [雑談] 探索途中での受け渡し は無しだよね [雑談] 班をまたぐ受け渡しはなしですが班内の受け渡しはいつでもどうぞ [雑談] なら最悪一つでも 一番傷ついてるほうが使う で行けそうな気はするかな [雑談] アシュリーさんのほうはネジは手放したくないだろうし……? [雑談] できれば…… [雑談] それじゃドローン一つと寝袋一つでいいかな [雑談] 寝袋は戦闘とかひいちゃったときにHP減ってるほうが使うって感じで 氷砂糖を1つ売ってもらってドローンを買います ついでに寝袋も一つだけ購入 ドローンも寝袋も何でも屋が背負います E班 売却により+200で1100リーフ 残り0リーフ B班のみまだ200リーフ残っているので、もし追加の購入があるなら今日のセッション中は受け付けます [A/チーム・リステア アルキバ・イヅナ] 説明会の午前の部が終わり、めいめいに休憩時間を取る参加者たち。 そんな中、アルキバはチームメンバーと指定されたイヅナを探し出し、昼食を共にすることを企てる。 果たして、見つけるところまではスムーズにいった。 アルキバ:「……なぁ、お前がイヅナさんで良いのか?」 イヅナ:「むぐむぐ……うん? そうだけど」 お弁当食べながらそっち見ます 「あれ、君は……えっと、アルキバ君でいいんだっけ? 一緒の人だよね、確か」 アルキバ:「ああ、俺がアルキバだ。今回はお前とチームのようだ……よろしく頼む。相席してもいいか」 イヅナ:「おー、いいとも! どうぞどうぞ」 アルキバ:「では、失礼して」 向かいの椅子に座って、自分のお弁当を広げる アルキバ:「……俺たちはA班、ということらしいな」 イヅナ:「んぐ……そうなるね。そうだ、せっかくだから聞きたいって思ってたんだけど、アルキバ君は何ができるの?」 アルキバ:「……特殊な技能は持っていないが、頑丈さと腕力ならそれなりに。 そういうお前は……俺と組むということは詩魔法使いか?」 イヅナ:「そうなるかな。というか、今のところ謳うことしかまともにできないんだけど。 まあ回復とか攻撃はそこそこできるよ。これでも色々旅してきたからねー」 アルキバ:「回復が使えるのは心強いな」 少しだけ口角を上げる イヅナ:「そういえば、班ごとに名前つけるとか言ってなかったっけ。何かいい案、ある?」 アルキバ:「いや……そうすぐには思いつかないが。 何か、俺たちの共通項みたいなのが有れば良いんだが。出身地とか……」 イヅナ:「だよねー、簡単に出てくるわけないよねー。私はメタ・ファルスからきたんだけど、そっちは?」 アルキバ:「俺はソル・シエール、ホルスの翼の出身だ。生まれた土地はダメか…… なら、誕生日や好物ならどうだ? 俺は4月の生まれで、好きなものは色々あるが……まぁ、チョコレートが好きかな」 イヅナ:「私もチョコレートは好きだよー。ってアルキバ君4月生まれ? 奇遇だね! 私も4月生まれなんだよー」 アルキバ:「ほう……面白い偶然もあったものだな。 せっかくなら、4月の要素を取り入れたいな。何かアイデアはないだろうか」 イヅナ:「4月……かぁ。うーん、花とか……はあんまり知らないしなあ。 4月っていうと、紅……なんとかとも呼ばれてたような気もするけど、なんだっけ?」 アルキバ:「紅……もしかして、リステア神のことか? 確か4月の守護神だったか」 イヅナ:「あーそうそう、それ! 紅禰命。別名がそっちなんだよね」 アルキバ:「なら、そこから名前をとって、チーム・紅禰命……は、ちょっと語呂が悪いか。 チーム・リステア。これならどうだ?」 イヅナ:「おお、おしゃれだね! いいかも! じゃあ私たちはこれから、チーム・リステアってことで! よろしくねー」 席を乗り出して握手しようとする アルキバ:「あ、ああ。よろしく頼む」 一瞬面食らった様子を見せつつも、頷いて握手に応じます [雑談] この後相談して購入物資決めましたということで [雑談] そういう意味だったのね チーム名 [雑談] です 2人とも4月生まれだって気づいたので [雑談] いやはや、緊張した [雑談] まぁ最初のうちは緊張するのはしょうがない 誰だってする [雑談] 楽しくキャラで会話出来たし [雑談] するする打てる指に対し終始動悸がやばかったという [雑談] 私だって、今くらいのゆるい会話RPくらいならもう緊張もしないけど、 [雑談] ドシリアスなシーンとか重要なシーンをGMで回すとなるとめちゃくちゃ震えますし [雑談] アルキバ君のRPは若干そっけない感じだけど、初対面の人相手で距離感測ってる最中って感じなので [雑談] イヅナは全然そういうの気にしない感があるなー なんとなくだけど [雑談] というか正直未だにキャラがふらっふらしてる [雑談] ふらふらしたままでも、固まる時は固まるでしょうし 自分のペースでRPしていくのです [雑談] それじゃあのんびりやっていきますー [D/Echris カンナ・ヨーコ] [雑談] ところでRPどうしましょ [雑談] 初めは仕事上で偶然出会うというくらいかな [雑談] きっと危ないところを助けてもらったんでしょう そっからカンナが周りをぐるぐるしてる……とか? [雑談] バターになるかもしれない [雑談] ぐるぐる [雑談] ww あたりを見回してパートナーを探すヨーコ。どうやら彼女かこのミッションのパーティーメンバーらしい。 ヨーコ:「ねぇ」 早速声をかけてみる カンナ:「はい? ……ああ、もしかして今回のパートナーって。 こんにちは! 初めまして、カンナって言いますー! 短い間だけどよろしくね!」 ヨーコ:「よろしく。私、ソルシエールの教会で騎士やってるヨーコ。 あんまり戦闘は得意じゃないけど頑張って守ってみるね」 カンナ:「教会の騎士! すごいなあ……こんなとんでもない美人で強いなんて。 まるで人間じゃないみたい……なーんてねー!!!」 ヨーコ:「え、もしかしてばれちゃった……」 カンナ:「え? ……もしかして貴女もそうなの? ……そっか、久しぶりだなあ。 うんうん、きっと旅のことなら先輩だし、なんでも聞いてね」 ヨーコ:「あ、ありがとうございます」 (よかった~。どうやらレーヴァテイルと思われているみたい) カンナ:「これからよろしくね! ヨーコさん!」 ヨーコ:「ところでこのパーティーD班というけどそれじゃ味気ないから、 何か特別なパーティー名を付けてみるのはどうです?」 カンナ:「特別なパーティ名? うーん……? 何かいいアイデアがあるの?」 ヨーコ:「私が前にいたところではそれぞれ特徴のあるパーティー名で少数で作戦行動をしていたから、 何かあれば落ち着けると思ったのですが」 カンナ:「うんうん、そういう理由ならいいと思うよ。あれ、騎士の前にも何かやってたの?」 ヨーコ:「うーん、この戦い方はパートナーとの共鳴が大事と騎士の訓練で習ったから……。ヒュムノスでいうとEchrra?」 [雑談] そこからだったのか! なるほど [雑談] です [雑談] おしゃれだなぁ カンナ:「えくら……うん、いいな」 ヨーコ:「そこに私の出身地の言葉を掛け合わせて……Echris(共鳴する者たち)ってところでどうでしょう」 カンナ:「いいと思う! すごいよヨーコさん! 素敵な名前だと思う!」 カンナ:(でもさ、出身地ってことは……あれ? 同郷ではない……?) 「……うーん、ま、いっか!」 ヨーコ:「よろしく」 カンナの手を握るヨーコであったが、手を握ったカンナは少々不思議そうな顔をしていた…… [雑談] この手のはかなり時間をかけてやる派なのでもっと即興力を高めねば…… [雑談] 十分すぎるほどだと思いまっせ [雑談] 実際十分すぎるほどだと…… [C/C班 ナツメ・ヒエン] [雑談] ロールプレイも決めておけばよかった( [雑談] 強く当たって流れでやれば大丈夫かもしれない [雑談] まぁノリで何とかするかなー [雑談] ヒエンさんのノリに合わせてそっけなく色々決めてこうって考えてる [雑談] んじゃ状況適当に考えるんでできたら行きましょう [雑談] ただC班キャラサバサバしてるから速攻で終わりそう [雑談] まぁぶっちゃけ速攻で終わっても大丈夫かもなどと思ってる [雑談] ならC班速攻で終わらせましょう() 今回の“善行”の説明会と人員割り振りが決まってすぐ。 チームの顔合わせを考え、ナツメはヒエンと呼ばれた男の元へ足を運ぶ。 二人が遭遇したのは、会議室を出て間もないタイミングだった。 ナツメ:「もし、そこの貴方。ヒエンさんで間違いないですか?」 ヒエン:「えぇ、そうですよ、貴女が私のパートナーということで良かったですか? えー……っと」 パートナーをいきなり当てがわれ、緊張で名前が飛んで目をそらし ナツメ:「ナツメ・ジュンマールです。よろしくお願いしますね?」 ヒエン:「あぁ、ナツメさんですね、今回はよろしくお願いします」 と騎士らしく一礼をする ナツメ:「どうも。……さて、この後ご予定はありますか?」 ヒエン:「いえ、特にはありませんよ」 ナツメ:「そうでしたか。それなら、今のうちにやれることをやっておきましょう。 例えば、私達の班の名前とか」 見つめながらにっこり ヒエン:「あー。そうですねぇ、確か暫定C班でしたっけ?」 と、女性に微笑まれることが無かったので考えてる振りをしながら目をそらし ナツメ:「えぇ、合ってますよ。ただ、こちらから振っておいてなんですけど、特にこれと言ったものは思いつかなくて…… ヒエンさんは何か案がありますか?」 ヒエン:「うーん……生憎と、私も特に案がなくてですね……暫定C班だからC班でいいのでは?」 ナツメ:「なるほど。あれこれ考えるよりはその方がいいかもしれませんね。それでいきましょう」 [雑談] この班こういう感じの二人で行きたい [雑談] ノルマ達成したけどどうします? [雑談] じゃあヒエン君の童貞ムーブでそそくさ逃げる様に去るオチでいいですか? [雑談] 草 [雑談] いいですよ ヒエン:「っと、ナツメさん当日はよろしくお願いしますね!」 と用も終わり女性と話すことに耐えられなくなり早口で話を切り上げにかかる ナツメ:「はい、こちらこそ」 笑顔で返します ヒエン:「あ……そっ……そういえばっこの後ほたる横丁の巡察の仕事がありましてー……で……では失礼しますね!」 と女性の免疫が無い彼にとって笑顔で返されたことはどんな強力な詩魔法よりも強烈な一撃であった、 そのまま逃げる様にその場を去った [雑談] しっかり逃げたw [雑談] ノルマは達成したぞ! ナツメ:「えぇ、また、あした……」 逃げ去るヒエンを見て言葉尻が弱くなる 「……明日、基本二人きりだけど、大丈夫かしら」 一人うそぶく [雑談] いいRPだった [雑談] 88 [雑談] なんていうか 班名らしい感じの2人だった (この段は事前のC班のdiscord上での相談 2020/03/10) [雑談] 共通点から班名作ろうと思ったんだけど ヒエンさんの設定とかあったりします? [雑談] エレミアの騎士ってことくらいっすかねぇ~ あとは性格はかなり合理主義な感じです [雑談] ナツメは優しい宗教家って設定なので かすらねぇ…… [雑談] 両方ともこの仕事に死ぬほど興味なさそうだから暫定C班で、と上からお達しあったということで [雑談] この二人ならもうC班で良くない?とか言いそうですね [雑談] 確かに「金がないから依頼受けただけ」だもんなぁ…… [雑談] ヒエン君も上から天覇に手を貸すようにと言われただけなので [雑談] じゃあC班って名前にするか [雑談] そうっすね [B/Innocent Philia カイ・アリシア] [雑談] そういえば班わけの発表の時って、名前を口頭で伝えただけでいいんでしたっけ [雑談] 口頭で伝えて挙手してもらった くらいな感じ [雑談] 口頭だけだったら名前で判断はつかないだろうからどうかと思ったけど杞憂であった [雑談] リアルの自分だったら挙手されても誰か判別できないなw [雑談] w [雑談] あるある [雑談] 基本アリシアさんがどうするかになりそうなんだけど(カイくんは普通に喋るだろうし [雑談] カイくんは「」で台詞、()で思ってること、地の文は行動とかとか、そんな感じになると思うけど [雑談] アリシアさんは筆談になる分、なんか別の形式が欲しい。「」だと普通に喋ってるように見えるだろうし [雑談] アリシアは『』がテレモ文字、()が思ってる事。「」使うとすれば例の緑魔法使う時かな [雑談] あー、詩魔法か。それはありか [雑談] カイさんは人間だからたぶんヒュムノスを理解できないかもしれないけど、想いというか感情としては [雑談] 多少伝わりやすくなる、って感じになると思う [雑談] カイくんヒュムノス語わかんないよたぶん [雑談] うん、じゃあざっと感情が読みやすくなってる感じだと思う。ほむ…… [雑談] どうするのがいいかなぁ……アリシアさんの方で何かあったらとりあえず詩魔ぁ……? [雑談] まぁ基本はテレモ文字見せる筆談だから、詩魔法使う機会は少なそうではある…… [雑談] 少なくとも、どうにかしてカイくんに気づかせる方法が必要な気がしている [雑談] まぁポールをコツコツするのでもいいと思うけれど [雑談] 声をかけられるまで気付けないタイプなのよねぇ。こちらから、となると肩を軽くとか……? [雑談] 一定の間隔で◯回みたいな決め事があれば反応しやすいかと [雑談] 決め事? [雑談] 必ずしも肩を叩けるほど近くにいるとは限らないから、 [雑談] 少しだけでも離れてて何かあった時に知らせる方法を予め決めておきたい [雑談] あーそれもそうだな [雑談] あれだったら残りの200リーフをそれのためのフレーバーアイテムに使うとかもいいかもしれない [雑談] 何が使えるかな。フレーバーで考えようとしても今すぐ出てこないや [雑談] 呼び鈴みたいなのがあればいいのか? [雑談] 音で知らせるか、あるいは豆粒みたいなのを投げつけるとか [雑談] 相互通信で使える、ボタン押したら振動する機械か何か、そういうのがあると楽かもしれない [雑談] そのくらいなら2000円あればできそうなのであってもいいとします [雑談] あー、道具の名前は出てこないけど、そういうのあると便利そう [雑談] 名前は出ない。まさにw [雑談] トランシーバーとはまた違うしな [雑談] 意図伝輪? [雑談] 糸電話w [雑談] わかりやすく遠隔振動装置でいいんじゃない(テキトウ) [雑談] 遠隔振動装置、分かりやすい [雑談] じゃぁ200リーフそれでフレーバーにするかぁ [雑談] ……となると、昼休みRPはあったほうがいいね? [雑談] ですね。例の遠隔振動装置を渡す過程も必要かもしれない [雑談] よし、その方向でいこう 昼休み。別に移動する人を避けながら、班わけ発表で一緒に手が上がったところへ。 カイ:「君がアリシアさん、で間違いないか? 同じB班のカイだ。よろしくたのむ」 アリシア:「……」 (同じように、班分けの際に挙手していた人を探して歩いている。その表情は不安そうだ) 「?」 (声をかけられ相手に気付くと、慌ててパット型のテレモを取り出した) アリシア:『カイさん、ですね。よろしくお願いします』 (テレモの文字を相手に見せながら、軽く礼をした。少し緊張している様子) カイ:「こちらこそよろしく。俺に見せているその画面……なるほど、君は喋れないのか」 アリシアの様子から推察 「――いや、悪く思う必要はない。それならこちらが対応を合わせればいいだけだからな」 アリシア:「……」 (少し申し訳なさそうに頷き) カイ:「さて、まずは各々のスタイルを確認しておこう。俺は前に立って牽制するタイプだが、君はどうだ?」 安全装置がつけられたハンドガンを示しつつ アリシア:『私ができるのは、守るため、敵を退けるための詩魔法です。 ……今回は、貴方に守られる形になるかもしれませんね』 (相手の装備を見て、自分の役割を認識した様子) カイ:画面の文字を確認しつつ 「なるほど、レーヴァテイルだったか。それなら、何かあったらその方向でいこう。 今回は採掘、つまり体力はそこそこ要求されると思うが、そこはどうだ?」 ちゃんと聞き取れるようにゆっくり話す アリシア:『話す事はできませんが、謳う事はできるようになりました。お役に立てれば幸いです。 体力は……よほどの事がない限り大丈夫だと思っています』 (教会で遠征等には参加していたようだが、こういった採掘等は初めてなので断定的には書けず) [雑談] 買えるものリストみたいなのはどこかにあったりするのかな。あるいは資料が配られている? [雑談] 実はそこらへん何も考えてない [雑談] んじゃてきとーにやろー [雑談] アリシア、言葉の重み気にするタイプだな…… [雑談] いいね [雑談] 一部の私はその気があるかもしれない カイ:「わかった。そうなると必要になりそうなのは……」 最初にもらった資料を広げて確認 「君が一応持っておいた方がいいのはこれか」 トレッキングポールを示しつつ 「ちょっと高いが、こいつは便利だな。荷物持ちが1人分増えることになるだろうから」 荷役用ドローンを示しつつ アリシア:(相手の言葉に頷く) [雑談] 地図見ればなんとなく分かる通り けっこう高低差がある地域 [雑談] (この等高線描いてて楽しかった) カイ:「……」 全部見たところで一度沈黙 「……他に、何か必要なものあるかい?」 一応聞いてみる アリシア:『私はこちらから声をかける事ができないので、離れていても何かあった時に 分かるような物が必要かもしれません……』 (相手の言葉に頷きつつ問われると) カイ:「たしかにそうかもしれないな。通信機器みたいなものがあるならいいんだが」 ざっと通し見ただけなので、今度はじっくり資料を見て 「――お、これならどうだ?」 遠隔振動装置を示す [雑談] 簡易通信機あるじゃんって思ったけど振動しないものってことにしておこ。声出せない人にゃ意味ないし [雑談] 簡易通信機は通信先が固定されてるトランシーバーみたいなやつです 各班1個、本部と連絡するためのもの [雑談] 本部だけか。それじゃ無理だな。サヨナラバイバイ [雑談] 俺はコイツと旅に出る(イッツアピカチュウゥゥッゥゥゥゥーーーーーー!!!!) アリシア:「……!」 (相手の指し示すそれを見て、驚きつつ少し嬉しそうに) 『これなら何とかなるかもしれません』 (相手の指し示すそれを見て、驚きつつ少し嬉しそうに) カイ:「……決まりだな!」 こちらも頷く ということで、トレッキングポールを1つ、荷役用ドローンを1つ(ここまでは事前購入済)、 遠隔振動装置(フレーバー、200リーフ)を購入 カイ:「あとは班名か。自由に決めていいって話だったが……生憎とこういうものはなかなか難しくてな」 頭を悩ませる アリシア:「……」 (自分も悩む。共通点を見出そうにも、相手の事をよく知らない) カイ:「まぁ、まだ時間はあるだろうし、ゆっくり決めよう。まだ互いのことも全然知らないしな」 小さく首を振る アリシア:『そうですね。お互いの話の中から、班名も浮かぶかもしれませんね』 (頷き) お互いに話す中で班名も代表者も決まり、代表者となったカイはそれを報告した。 [雑談] 割と率先してRPしてしまったがはたして問題なかっただろうかという一抹の不安 [雑談] さっきの話見た感じはこれも杞憂かなとは思っているけど [雑談] 2人だと片方がリードする役に回るとやりやすいってのはよくある [雑談] むしろ助かりました……降霊しないまま強行してたのでw [雑談] いいんじゃないかな。私もまだキャラかっちりしてないし [雑談] 率先しても相手がしゃべりやすいように立ち回れてれば問題なし [雑談] 互いの方向性はしっかり決まったから御の字である [E/遊星歯車 クレッセン・アシュリー] クレッセン:「私とのペアは……貴方でしたね。同じE班として仲良くしましょう」 班分け終了後に迷わず相手の所に向かって アシュリー:「ええ。短い付き合いだとしても、よくありたいわ。よろしくね」 と片手を差し出します クレッセン:「最悪の場合、命を預ける相手になり得ますしね」 握手しつつ 「とりあえず互いの得物とできることの確認、それから探索用装備の購入、 そして班の名前を決める、の順で処理しましょうか」 アシュリー:「そうね。……私の獲物はこれよ」 背中に背負った銃を軽く動かして クレッセン:「ありがとうございます。私の得物は武器は弓です。 とはいっても戦闘本業ではないので、メインは今回の場合探索補助ですかね」 アシュリー:「……お互いに遠距離武器なのね」 クレッセン:「謳う専門のレーヴァテイルがいない組としては上々でしょう。 最悪でも双方互いに引き撃ちである程度は持っていけます。時間はかかりますが…… っと、次は探索用の補助具でどれを買うかですね」 アシュリー:「個人的には、このドローンってのが気になりますね。 私はなるべく身軽でいたいし、何か見つけてもこれに持たせちゃえばいいんじゃないかなと思ってるわ」 クレッセン:「同意見ですね。互いにある程度身軽な方が良さそうですし。 お金は……足りない分はこちらで何とかしておきましょう」 アシュリー:「……すみません。その分働いて返すわ」 クレッセン:「謝る必要はないですよ、私のためでもありますし」 クレッセン:「さて、わりかしサクサク物事が決まっていったのでもう最後ですね…… 班名を自由に決めて良いとのことですが」 アシュリー:「そういうのを決めるのは、あまり得意な方ではないわね……」 クレッセン:「成程、ではこちらで適当に候補を考えていきますね。 もし気に入らなければそうと言ってください、別のを出します」 クレッセン:「……そうですね、まずは『遊星歯車』。からくりの一つですね。 二本の軸が同軸上にあってどちらを主軸と置いても機能する面白い物です。 今回で言えば、互いに遠距離武器という同軸にあり、どちらを主軸においてもある程度は問題なく戦えるでしょうし」 アシュリー:「ほぉう……そんな面白いものがあるのね。その名前、いいんじゃないかしら」 クレッセン:「ではそれで。あと忘れてましたが班としての代表も決めないといけなかったですね。 やりますか? 苦手であるならこっちでやっときますけど」 アシュリー:「うーん……ずっと隠れて引き撃ちしててもできるものかしら」 クレッセン:「嗚呼、それは…… 不安が残るのであれば無理してやろうとしなくても大丈夫ですよ。 代表もこちらでやっておきますね。一応心得もありますし」 アシュリー:「何から何までごめんなさいね」 クレッセン:「大丈夫です、慣れてますから。 では買い物と班名・代表者決定の報告をしてきますねー」 アシュリー:こくんとうなづきます アシュリーさんと別れてもろもろの行動を済ませる為に一人サクサク動くクレッセンさんでしたが 残すは報告だけとなった時に足を止めます クレッセン:「……勢いで遊星歯車って決まっちゃったけど、 これ歯車同士の精度が高くないとすぐにガタガタになって破綻するんだよね…… まぁ……短い付き合いだけど上手く踊れる事を願うしかないかな」 名前なんて記号でしかないしそれで結果が左右されるわけじゃなからいいかな と気を取り直して報告に向かいました [雑談] クレッセンさんのこういうところすき [雑談] 遊星歯車は要求精度が高いけどギアチェン系統をかなりコンパクトに構築できるロマンのある機構だと思います [雑談] あと名前がかっこいい() [雑談] 次回までに初期配置位置をどこにするか決めてもらいます [雑談] いわゆるドラフト方式です どこを希望するか同時に宣言して、かぶったらかぶったところで抽選になります [雑談] なので、どこを希望するかその時に一斉に宣言しますので、どこにするかを次回までに決めてきてくださいね [雑談] 見えてる情報の限りだとどこでも大差なさげ [雑談] 初期配置地点は外周の1~7ですが、これがそのまま1日目の行動順になります [雑談] つまり番号の小さい(拠点から近い)方が早く行動できます [雑談] 右上の方のちっちゃいやつが拠点って事だったのね [雑談] です あれがこのあと行く村 [雑談] んーC班だから3かなぁ() [雑談] www [雑談] どこの班もよそに喧嘩売りそうな装備してないし、ラッキーナンバーとかで考えてもいいでしょ() [雑談] 花火持ちはいない [雑談] 点数ですが、リソースウィンドウで管理します [雑談] 今回は経験点・探索パート・戦闘パートの3種類のハンディキャップがあり、 [雑談] それぞれのパートが始まる時に加算されます [雑談] 具体的な点数もここで発表しますね ・経験点ハンディキャップ 各班の経験点合計を求め、一番高い班から10経験点差がつくごとに1点 A/チーム・リステア 経験点80 HC2 B/Innocent Philia 経験点105 HC0 C/C班 経験点90 HC1 D/Echris 経験点105 HC0 E/遊星歯車 経験点100 HC0 ・能力値ハンディキャップ 力系/詩魔法・耐久・素早さ系・感知系/伝達力系・幸運の5系統について 2人とも期待値が概ね12未満ならばそれぞれ1点 A/チーム・リステア 素早さ・幸運 HC2 B/Innocent Philia 素早さ・幸運 HC2 C/C班 耐久・素早さ・幸運 HC3 D/Echris 素早さ・幸運 HC2 E/遊星歯車 (なし) HC0 [雑談] 以上 Aから順に、4,2,4,2,0からのスタートです [雑談] 戦闘パートのハンディキャップはそのときに発表 [雑談] ハンデ合計点はチームリステアとC班がトップ [雑談] これはC班来たな! [雑談] 最初が低いE班はそのぶん最下位の加護を受けやすいということでもある [雑談] ハンディ無しwww セッションF-3 2020/04/06 [雑談] 今日から探索パートに入ります [雑談] それぞれの班は初期配置の予定地を決めましたかね? あとでいっせーので言ってもらうので [雑談] もしまだ決まってない所は……代表者の一存で決めるようにしてね [雑談] 第二候補までさっき決めた [雑談] こちら決定済み [雑談] 決まってました [雑談] 候補は2つあったっけな。順位もつけてある [雑談] いけるー [雑談] よしOK 午後の部では、唄石に関する講習を受けた。 見分け方としては、叩いたときの澄んだ音、割った時の反応で現れる振動や音や光、 あるいは強い思いを込めてヒュムノス語を唱えたときに光ることもあるらしい。 講習の途中で一時誰かが部屋の外で騒いでいたようだが、他は特に何事もなくこの日の説明は終わった。 すぐに飛空艇で地表の村に移動した。三時間ほどかけて到着した場所は、湖のほとりの小さな農村だ。 村に一軒だけの宿は貸し切り状態であり、天覇一行は食材が乏しくともよく工夫された食事でもてなされた。 本格的な調査は明日から始まる―― [雑談] 部屋の外で騒いでたの誰だw [雑談] 誰だろう [雑談] 伏線っぽそう BGM はじまりの村 from ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル(スクウェア・エニックス, 2003) Composed by 谷岡久美 あくる日。空はよく晴れ、朝の涼やかな風が家並の間を通り抜ける。 彩音回廊の効果範囲を大きく外れた場所ではあるが、これから二日の活動期間の間は天候に恵まれそうだ。 朝食を終え、それぞれ出発の準備をし、宿の外へ。すでに二機の小型飛空艇が待機している。 どこから調査を始めるかによってどちらの飛空艇に乗り込むかが異なるようだ。 アルキバ:「おはよう。……よろしくな、イヅナさん。よく眠れたか?」 イヅナ:「おはよーアルキバくん。こっちは変わらず元気だよー」 アシュリー:「おはよう……」 とまだ少し眠そうな顔をしています ヒエン:「まずい、緊張であまり眠れなかった……」 アリシア:「Fou paks wa exec……」 (少し緊張する……) [雑談] さっそくヒュムノス語 [雑談] 想いを出して、という意志が囁いた。けど喋れないのでヒュムノスロールをするしかなかったり [雑談] 想音の有効活用 カンナ:「おはようヨーコさん! よく眠れたー?」 ヨーコ:「いやー朝は低血圧がひどい」 [雑談] 低血圧……? [雑談] ヨーコは少し異常をきたしているイメージ カンナ:「低血圧かあ……これから山登りだし、ちょっとあっちでストレッチする?」 ヨーコ:「各部動作異常なし……」 ブツブツ 「え、なんだって」 カンナ:「大丈夫かな……?」 ヨーコ:「ここでもフォトン濃度が低いのね。本来の戦闘スキルは限定的になるか……」 カンナ:(大丈夫かな、ヨーコさん……朝が弱いのかも?) イヅナ:「いやーそれにしてもいい天気だね。これこそハイキング日和って感じだ」 アルキバ:「そりゃあ良い、確かに顔色も良いようだし。天気も良いと……気分も上向きになる」 薄く笑みを浮かべる イヅナ:「そっちも大丈夫そうで何よりだよ。改めて、今日からよろしくね」 アルキバ:「ああ。頑張ろうな」 一つ頷く イヅナ:上機嫌ながらにこくこくと頷きます クレッセン:「皆おはよう。ライバル関係とはいえど本題は会社の利益なのだから、協力しあって頑張りましょう」 カンナ:「はーい! 一緒にがんばりましょーね!」 アルキバ:「……そうだな。協力し合えることを願う」 アシュリー:「そうね。競い合うことだけに一生懸命になったら終わらない」 カイ:「二日あるのだから、1日目にバテて2日目は何もできませんでした、じゃぁ困るだろうしな」 ナツメ:人混みのなかヒエンを見つけて 「あら、ごきげんよう、ヒエンさん。顔色が優れないみたいですが、大丈夫ですか?」 ヒエン:「あっおはようございますナツメさん、このような調査任務自体慣れてなくて緊張してしまいましてーハハハ」 本当はパートナーと仕事ができるというのに舞い上がって寝れなかっただけ ナツメ:「仕事ですから、力みすぎない方がよろしいかと。ほら、あの辺りの人たちぐらい軽くても構いませんよ?」 D班の二人辺りを示しながら ヒエン:「そうですね、今日は怪我しない程度に頑張りましょう」 ナツメ:ヒエンの反応を見てにっこりしてから 「……そちらの方々も、お互い助け合いましょうね」 全員に向けて挨拶した人(クレッセン)の辺りに呼びかける クレッセン:「ええ、いがみ合った結果ろくに結果を残せないなんてことになってはまずいですからね」 [雑談] はてさて全員協力なんてできるんだろうか() イヅナ:「しっかしここまで人が多いのも新鮮だなぁ……本当にいろんな人が参加してるんだね」 きょろきょろしながら アシュリー:「……ちょっと騒がしいくらいだから、本番はコンビでよかったかも」 アルキバ:「都市部に行けば、これくらいの人混みは珍しくないが…… ここまで多種多様な連中が、同じ目的のために揃うのは、確かに新鮮かもしれない」 イヅナ:「そうだね。こういう感じなのは……本当に大陸の時ぐらい? かなぁ」 昔のことを思い出しつつ [雑談] 大陸の時 メタファリカの時か? いいねぇ こういう原作要素 [雑談] いえす ギリギリI.P.D.として一緒に謳ってたんで [雑談] 覚醒時期がその直前 [雑談] PCは「メタファリカ? あー隣国だっけ?」くらいの認識だからPCでは根掘り葉掘りできないけどw [雑談] まあぼんやりと独り言程度ならと言っただけなんで……w [雑談] 人多すぎて何が何やら 人混み感凄い [雑談] 雰囲気出てるね [雑談] PL10人はしかたない [雑談] 賑やかっすわー。文字がどんどん流れていく [雑談] これだけ多いと大変だよぅ [雑談] 流石にPC10人+NPCは頭ハジケ祭りしそう [雑談] そう思って今回はNPC少ないのだ [雑談] 今の所出てきたNPCが依頼人ぐらいか [雑談] ありがたや これでNPCもそこそこだったら脳内処理が死んでた フックス:「おはようございます。皆さん、まずはこちらで支給品を受け取ってください。 そうしたらお手元の地図をご覧ください。まず――」 マップの説明: 最外周の1~7が初期配置地点 行動順はこの数字の小さい順になる 外周のa~k(青)が2日目に探索できなくなる地点(移動は可能) 内側のA~L(黄・赤)が2日目専用の地点(1日目のみ移動も不可) 探索パート終了時に内側にいる方が戦闘パートが有利になる それでは初期配置を決めてください。処理は以下の通り: 1.全てのPC(代表者だけでなく)は希望する初期配置地点を宣言する 宣言はGMで合図をしたら一斉に行う 重複がなかった班はそれで決定 2.重複した場合、該当する班の全員がそれぞれ1D100を振る 最大値を出した人の所属する班が当選、決定 3.外れた班と残った初期配置地点だけで再び1~2のステップを繰り返す 通信のラグに対する保険として、全員に宣言してもらう形になります。 なお、この場面に限らず、班員同士の相談に秘話を使っても構いません。 秘話を使った場合は、相談終了後に発言モードを全員に戻すのを忘れずに。 [雑談] では、これからGMが3,2,1,0とカウントダウンしますので [雑談] 0が見えたら各班は希望する初期配置位置を発言してください [雑談] 代表じゃなくて全員よね [雑談] 全員ですよー(もし万一2人の班員で別のこと言ってたら代表者優先) [雑談] ではいきます (宣言結果 A:7 B:5 C:7 D:6 E:6) まずB班5が決定 [雑談] だだかぶりじゃねーか [雑談] w [雑談] あら5番不人気だわ [雑談] かぶってるねえ [雑談] 2がせいかいだったかー [雑談] 全員右のほうだな! [雑談] みんな後手とりたい病 [雑談] そうだよなぁ!!!! 67強ポジだもんなぁ!!!!!!!! [雑談] こちらは第二候補すら被らなかったので多分思考回路が違う 次に位置6のD班E班での決戦 D班E班は全員1D100を振ってください カンナ:1d100 → 57 ヨーコ:1D100 → 49 クレッセン:1D100 → 3 アシュリー:1d100 → 95 位置6はE班 [雑談] く り て ぃ か る (なお高い方が有利なのでゴミカス [雑談] うっそお [雑談] E班デコボコだなあ [雑談] つり合い取らないでくれる? [雑談] よし! 期待値だな! [雑談] E班平均50とかくっそ期待値なのほんと…… 次 A班C班は全員1D100を振ってください アルキバ:1d100 → 75 イヅナ:1d100 → 14 ナツメ:1d100 → 51 ヒエン:1d100 → 90 位置7はC班 [雑談] ありゃ [雑談] 童貞力みせちゃったかな? [雑談] はい勝ち~(パートナーの出目に助けられたため) [雑談] 次頑張りましょ次です次 では、A班D班は次の希望する場所を決めてください [雑談] 決まったら決まったって言ってね [雑談] こちら決まりました [雑談] 決まりました [雑談] ではまたカウントダウンしますね 準備おねがいします (宣言結果 A:2 D:1) [雑談] おっかぶらなかった [雑談] よかったよかった [雑談] 最前線をつっぱしってやるーーーーー [雑談] やっぱり第二候補と被らない……なんじゃなんじゃ 初期配置 A:2 B:5 C:7 D:1 E:6 1日目の行動順は D-A-B-E-Cの順です [雑談] 他チームとの相談はありですか? [雑談] 見えない場で相談するのはなし 公開の場(つまりここ)ならあり [雑談] なるほど [雑談] 開かれた場での交渉はアリですか [雑談] 実際に同じマスに入った時はある程度の交渉は必要になるので…… [雑談] 積極的に談合していけ [雑談] なるほどなぁ [雑談] いいですねぇ(俄然乗り気に) [雑談] なかよくできるかな? [雑談] 高度な情報戦かな [雑談] 互いに良い状態になるよう交渉はするつもり ナツメ:「よい位置は取れましたが、他班に囲まれてますね……鉢合わせも覚悟で参りましょう」 ヒエン:「ははは、まぁ鉢合わせになっても戦闘にはならないでしょうし、気楽にいきましょう」 アルキバ:「結局、近くの方になったか……まぁ、どこでもやることは変わらん。 他と探査範囲が被らなさそうなのは、良いことだ」 イヅナ:「うんうん、結構のびのびできそうだよ」 クレッセン:「諍いよりもいかにして広範囲を調べ上げられるか…… では、がんばりましょう」 アリシア:「……」 (全員の無事を祈るように、そっと手を合わせた) フックス:「それでは時間になりましたので出発します。お気をつけて」 カンナ:「それじゃあヨーコさん! 私たちの船はあっちだから一緒にいこうねー!」 手をさっとつかむ ヨーコ:「よろしく頼みます」 奇妙な感触の手がつかむ [雑談] 奇妙な感触…… [雑談] フィギュアみたいなイメージ 人形だからね [雑談] なるほど? [雑談] あーソフト感が凄い感じか [雑談] おおよそ生き物の手じゃない アルキバ:「……船酔いしなければいいが」 ぼそっと独り言 [雑談] choice[しない、するので酔い止め薬を持っている] アルキバは船酔い…… → しない [雑談] しなかった [雑談] w [雑談] 回復謳え……謳って効くのかこの場合 [雑談] 状態異常回復があるならワンチャン? [雑談] 守護呪曲による二日酔い治療ロールはあった [雑談] フレーバーキュアメロでなんとかいける、かな? イヅナ:「飛行艇はソル・シエールに来て以来だなー、ってあれ? どうかした?」 アルキバ:「いや、なんでもない」 イヅナ:「? そっか」 導入 探索前半 探索後半 戦闘前半 戦闘後半 エンディング
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第三章 「御盾」 交易都市『ブンガ・マス・リマ』沖 2012年 12月28日 13時20分 「……暑ぃ」 海上自衛隊所属、輸送艦「ゆら(LSU4172)」の艦首部で、運用員の安芸英太三等海曹は、本日34回目のダレたぼやきを漏らした。 安芸三曹は、入隊五年目の24歳。背丈は平均よりやや小柄ながら、防暑作業服に包まれた胸板の厚みや、肘まで捲った下から見えるよく鍛えられた腕からは、狩猟犬の様な俊敏さを持つ体躯が窺える。 汗で色の変わった作業帽の下には、良く日に焼けた精悍な容貌があった。しっかりとした眉の下に、大きく黒目がちの瞳。鼻筋は通り、大ぶりの口元からは、並びの良い真っ白な歯が見える。 彫りが深く細面のその顔は、なかなか整っている。ただ、その表情からはやる気の欠片も見えず、放っておけば口から舌を出しそうな勢いだ。 今の彼からは、真夏に庭先で寝そべるウェルシュ・コーギーの様な空気が全力で発散されていた。 安芸三曹は輸送艦「ゆら」の第一分隊所属の運用員である。出入港や投錨作業に始まり、搭載艇の運用や艦の整備作業まで、甲板上で艦の運用の一切を回す『運用員』は、正に船乗りその物であると言えるだろう。 乗員が運用員長を呼ぶ時の旧い名前──『掌帆長』という呼び名が、彼等の有り様を如実に表していた。彼等は、未だ風を頼りに船を操った時代から連綿と受け継がれた役目を担う男達であった。 その伝統ある職場の末席に連なる安芸三曹は、「ゆら」の艦首で運用員の伝統ある任務──見張りについていた。だが、お世辞にもその態度は職務に精励しているとは言い難い。 「あー、左右視界内いじょーなーし」 安芸は艦首左右方向を確認した。空は馬鹿みたいな鮮やかさで晴れ渡り、名前も知らない海鳥が気持ち良さそうに飛んでいた。空の青さに一点のくすみも無い。 照りつける陽光は、物理的な力さえ感じる程直接的だ。「ゆら」の甲板上に彼の額から落ちた汗が、短く音を立てて蒸発した。照り返しが全身を包み、身体中の汗腺がねっとりとした熱気で埋められていた。 暑い。ひたすら暑い。 「……海面に変色なーし」 辟易しながら視線を艦の前方の海面に向ける。異状は無い。この辺りの海域は、すでにリユセ樹冠国の妖精族達の案内の元、EODが確認済みであった。 ブンガ・マス・リマ市域から東へ4キロメートル。浜辺際まで森が迫った、差し渡し2キロの砂浜は、適度に緩やかな海底傾斜と、肌理の細かい砂で作られた地形を持っていた。 報告に戻った水中処分隊長の顔を思い出す。彼は真っ黒に日焼けした顔で「輸送艦が乗り上げるのに最高の場所です」と言い放った。余程楽しんだのだろう。顔中を皺だらけにした、とても良い笑顔だった。 そりゃあ、楽しかっただろうなぁ。 安芸は思った。視界の先にはタヒチやバリ島も顔色を失いそうな程、美しい砂浜が見える。人手が加わっていない天然の渚の白さが、背景に広がる木々の緑と絶妙のコントラストを描いていた。 そして「ゆら」がディーゼルの音も喧しく、波をかき分けて進む海を覗き込めば、海中を海底まで綺麗に見通せた。翡翠色の海水の向こうに、白く輝く砂とカラフルな姿で泳ぐ魚の群れを見ることが出来る。 豊かな森と島々を巡る海流が、この辺りの海に有らん限りの祝福を与えている。 安芸は微妙な罪悪感さえ覚えた。「ゆら」が何かを垂れ流しているわけでは無いのだが、こんな楽園の様な海を、武骨な箱型の輸送艦が行き交う事に居心地の悪さを感じていた。 ああ、こんな海には──。 視界の片隅に、水面を進む影が映った。視線を向ける。そこには、一艘のカヌーがいた。片舷に浮子を備えたアウトリガーカヌーだ。地球では、南太平洋で良く見られる白く細長い船体は、真っ白な帆一杯に風を受け、「ゆら」と併走している。 巧みに帆を操るカヌー乗りは、皆リユセの森の妖精族だ。自衛官達は彼等を、その風貌から『エルフ』と呼んでいた。 また来てる。物好きな連中だよ。 エルフ達は、その細くしなやかな身体を、僅かな布地で覆っただけである。一族の男達は、樹冠長の命を受け皆各地に散っているらしい。その結果、周囲でカヌーを操るのは妙齢(に見える)の女性ばかり。 正直な所、目の毒であった。彼女達の見た目はほぼビキニ姿であり、揃いも揃って美形なのである。 エルフといえば、森の民だろう? 何で海なんだよ? そうした日本人の先入観に、彼女達は「森の恵みは海の恵み。我等森の守護者が海をゆくのに、何の障りがあろうか」と、平然と答えたのだった。 リユセの森の妖精族は、二つの族に分かれている。〈鎮守〉を司る東の一統は、調和と伝統を尊ぶ。世間一般のイメージするエルフはこちらであろう。彼等は洋上の〈門〉に関する秘儀を握っている。 一方〈叡智〉を司る西の一統は、進取の気風に溢れた一族であり、航海技術に長けていた。彼等は、既知世界の各地に人間と共に旅立ち、知識と人脈を広げていった。今では、南瞑同盟会議の外交・諜報活動は彼等無しには成り立たない。 この東西二族を両輪に、リユセ樹冠国は南瞑同盟会議の精神的・魔導的な中心として確固たる地位を築いていた。 こんな海に似合うのは、あの娘達だよなぁ。ここは仕事で来る場所じゃないよ。 伴走するエルフと目が合った。彼女はスレンダーな身体を躍動させ、カヌーを操りながら安芸ににっこりと笑いかけた。彼女達は「ゆら」に興味津々らしい。 四角い艦首で波を掻き分けながら、海岸線を目指す「ゆら」の周囲では、エルフ達のアウトリガーカヌーが、頼まれもしないのに露払いを買って出ている。余程昨日のビーチングがお気に召した様だった。 勢い良く砂浜に乗り上げた「ゆら」の姿に目を丸くし、バウランプが倒れる様子に船縁を握り締め、吐き出される車両や人員に黄色い歓声を上げる彼女達の姿を思い出し、安芸は自然ににやけ顔になった。 手摺りにもたれ、だらしなく手を振る。 可愛いなぁ。腕もふとももも真っ白だ。何で日焼けしないんだろう? ちなみに、エルフは日焼けしない。それは、世界の理である。 突然、安芸三曹の顔色が曇った。 「……ちっ」 彼は忌々しげに舌打ちすると、目を逸らした。猛スピードで走る灰色のボートの姿があった。ミサイル艇搭載の複合艇──RHIBだ。水飛沫をエルフ達のカヌーに浴びせつつ、跳ぶように「ゆら」の周囲を走っている。 通常、臨検任務等に用いられるRHIBの上にはEOD隊員が乗艇し周囲の警戒に当たっている。ブーニーハットに迷彩服の軽装で、機関けん銃を構えていた。 安芸は、そんな彼等の姿をどうしても見る事が出来なかった。彼等に含むところは無い。しかし、どうしても駄目だった。 「……畜生。辞めてえな」 彼は、そう吐き捨てた。 3ヶ月前、安芸三曹は広島県江田島市にある海上自衛隊第1術科学校の敷地内で、海自で最も過酷な教育を受けていた。 その名を特別警備隊基礎課程と言う。 海上自衛隊唯一の特殊部隊、特別警備隊の隊員育成がそこで行われていた。志願者はそこで徹底的に体力と精神力を鍛え上げられる。そこで行われる訓練は『育てる』より『篩(ふるい)にかける』という言葉が相応しい。 彼等は、経験豊富な教官達により、将来自分の背中を預ける事が出来る人間であるかどうかを、厳密に試されるのだ。 彼は、その試験を突破しようとしていた。基礎体力の錬成に始まり、武器・爆薬の取り扱い、徒手格闘、戦闘訓練。そして学生達をして、それらの訓練を「息が吸える分、楽だ」といわしめる程に過酷な潜水訓練。 安芸はそれらを高い成績でクリアしていった。学生時代に水泳部だった事が幸いしたかも知れない。だが何より、彼はあらゆる困難を燃料に変え前に進むことが出来た。ガッツが有ったのだ。 さらに、同期への態度も教官の期待以上の物を示した。彼は仲間を見捨てなかった。常に気遣い、鼓舞し、前進した。自分の限界を無視してでも、チームが目的を達成するために必要な行動をとった。 献身と勇気。これは、彼等のような男達の中で、しばしば身体能力や戦闘技能より重要とされる。 安芸は、訓練生につき物の様々なミスは犯したが、教官達が密かに持つ採点表ではほぼ完璧な成績を修めていた。 「あいつは、うちの小隊にもらうぞ」 「それはずるい。抜け駆けは無しでお願いします先輩」 「ヒヨッコ一人に随分な入れ込み様だな、お前等」 だが、その日は訪れなかった。 野戦訓練の最中、転倒したバディを助けようとした彼は絡み合うように谷へ滑落した。 結果は、左アキレス腱損傷。大腿部骨折。半月板損傷。重傷だった。 だが、入院した後も安芸は諦めなかった。医師が慌てる程の熱意で、リハビリに励んだ。驚く程短期間で退院の日が訪れた。 「おめでとう。よく頑張ったね。こんな患者は初めてだよ」 「有り難うございます。退院したら走ってもいいんですよね?」 「もちろんだよ。君ならあっという間にサッカーでもバスケでも出来る様になる。元の部隊にチームは無いのかね?」 「あったかも、知れません。でも、俺は早く治してもう一度課程に入り直すんです」 安芸の言葉に、にこやかに笑っていた医師の顔に、微かな陰が差した。優しいが憐れむ様な表情。嫌な表情だ。 病室のドアが開いた。複数の男達がドヤドヤと入ってくる。 「教官! それにお前等まで!」 「おぅ、すっかり回復したみたいだな」 「看護師のお姉さんが言ってたぞ。放っておくと何時までもリハビリ止めねえんだって」 「流石に少し太ったんじゃねえか?」 「うるせー」 あっという間に、清潔で静謐だった病室が、暑苦しい運動部の部室の様な有り様になった。入ってきたのは、基礎課程の教官と同期達だ。皆真っ黒に日焼けしている。安芸は、羨ましく思った。自分はこんなにも白くなってしまった。 彼は皆の後ろに隠れる様に立つバディの姿を見つけた。何だあいつ? 辛気臭い顔しやがって。 「よう! 久しぶりだな!」 「……お、おう。久しぶり」 「どうした? 元気ねえぞ。お前、もう復帰したんだろ?」 「ああ、何とかな」 一緒に滑落したバディの伊藤三曹は、腕の骨折から回復し課程に復帰していた。彼は、その事を気にしているのだろうと、努めて明るく言った。 「もう一度バディを組むのは無理だけど、俺も次の期でまたやり直すからな! 部隊に行ったら頼むぜ先輩!」 きっと、気持ちの良い返事が返ってくるだろう。伊藤も少しは気分が楽になるはずだ。気を遣いやがって。あいつらしいぜ。 だが、誰も答えなかった。 部屋に苦い沈黙が落ちた。同期達は曖昧に笑い、伊藤は下を向いた。医師が何かを言おうと息を吸った。 「先生、私が伝えます」 教官が、静かに言った。安芸に真っ直ぐ向き直り、顔を見詰めた。普段は笑顔どころか仁王の様な表情を崩さない教官が、優しい表情をしていた。 「お前の身体は、任務に耐えられない。原隊復帰だ」 教官の瞳はどこまでも優しかった。だが、同時に僅かな妥協も許さない鋼の冷たさを含んでいた。 「そんな!? 激しい運動も出来るって!」 「その通りだ。回復すればサッカーだって柔道だって出来る。だが、特警の任務は出来ない。そう判断された」 安芸はひどく狼狽し、同期達を見回した。バディ以外の皆が、同じ目をしていた。全員が彼に同情し心から気遣っている。世の理不尽に怒る者も、同期の不運に悲しむ者もいた。だが、そこには不可視の崖が横たわる。 お前は、もう俺達の仲間にはなれない。 『特警』にあっては、情熱も根性も同期の絆も、厳然たるひとつの基準の前には、無意味であり無価値である。 お前に能力は有るか? 命を預けるに足る者か? 安芸は、その問いに対する答えを失ったのだった。 原隊に戻された安芸は、荒れた。勤務態度は投げやりになり、周囲とのトラブルが激増した。艦を降ろされ、陸上配置になっても、収まらなかった。 以前を知る上司がショック療法とばかりに、手を回した。「ああなっちまった奴は、余計な事を考えられない程忙しくしてしまうのが一番だ」安芸にとって迷惑極まりないこの配慮は、人手不足の現状と合わさって、彼をマルノーヴ大陸派遣調査団に押し込むことになった。 「帰りたいなぁ……」 そんな経緯があり、現在、三等海曹安芸英太は『ゆら』の艦首で腐っていたのだった。 「やあ、暑いですねぇ」 艦首でふて腐れていた安芸の背後から、のんびりとした声が聞こえた。振り返ると、ぼんやりとした印象の陸自幹部がにこにこと笑っていた。 「……鈴木二尉。どうもお疲れ様です」 「お疲れ様なのは、そちらですよ。どうですか? 水分とっていますか?」 「はぁ。大丈夫です」 鈴木二尉は「ゆら」の荷物の一部だ。中肉中背、七三に分けた髪型の下には人の良さそうな笑みがある。目が細いことを除けば顔立ちは平凡だ。陸に降ろしてしまえば、「ゆら」の乗員のほとんどが彼の顔を忘れてしまうだろう。 「しかし、ここは楽園と言っても言い過ぎじゃないですね。エルフのお姉さん達も綺麗だし、海も綺麗だし。竿が有れば釣りたいなぁ」 「……暇なんですね」 「え? いやいやそんな訳は──はは、嘘はいけませんね。正直言うとね、暇です」 「荷造りは終わったみたいですね」 安芸は車両甲板を横目で眺め、言った。そこには、浜辺に集積されるべき物資と車両の姿がある。鈴木二尉の高機動車も見えた。 「はい。荷解きはしていないので、楽なものです」 「ケースに入っているのは通信関係の装備でしたっけ? 随分厳重ですよね」 高機動車の荷台には、黒色の耐衝撃水密ケースが積まれていた。それ以外にも、水や食料、燃料缶が見える。 「精密機器なので水や衝撃は御法度ですから」 「確か、広域通信設備の適地選定、ですか。通信教導隊ってそんなこともするんですね」 「ええ。通信の確保は重要なんですよ? ただ、私等だけで遠出するのはちょっと怖いかな──おっと、幹部がこんなことを言っちゃ駄目だな」 鈴木は、照れたような笑いを浮かべ頭をかいた。その姿は、迷彩服よりよほど背広姿の方が似合いそうだ。安芸は密かに思った。日焼けしていなけりゃ中小企業のサラリーマンだな、この人。 そこに、鈴木の部下が現れた。長く伸ばした髪が汗で額に張り付いていた。2人とも陸上自衛官というより、携帯会社の若手と言われた方がしっくりくる印象だ。 「やあ、田中三曹、佐藤三曹お疲れ様」 「あ、鈴木二尉、揚陸準備終わりました。マジ暑いっスね」 革手袋を外しながら、佐藤三曹がぞんざいな口調で報告した。あまりにも気安い様子に、安芸は思わず鈴木二尉を見た。視線に気付いた鈴木二尉が苦笑いを浮かべた。 「気になりますか? うちの連中は普段から娑婆の方々とお付き合いが多いんで、あんまり自衛官っぽくないんですよ。かく言う私も迷彩服を着たのは久しぶりな程です」 「この髪型とかもね」 田中三曹が前髪を引っ張りながら、悪戯っぽく笑う。色素の薄い虹彩が印象に残った。 「それより、その銃凄いな」 「俺も気になってた」 田中と佐藤が口々に言う。その目は安芸の胸の前に下げられた短機関銃に向けられていた。やっぱり来たか。絶対こいつに食いつくんだよな、みんな。 「どんだけ物持ちが良いんだ、海自は」 「……まさか、M3が現役とはなぁ」 「うう」 「グリースガンだぜ。下手すっと爺ちゃん達と戦争したやつだぜ」 「何でも鑑○団に出せそうだな」 「うううう……」 M3A1短機関銃。第二次世界大戦期、アメリカ合衆国で設計・製造された銃だ。軍の所要を満たすため生産性が優先され、鋼板のプレスと溶接のみで製造可能である。 直線で構成された外見は、銃というよりは工具の趣を見せる。実際、グリースガンやケーキデコレーターの愛称を持っていて、美しい、という形容詞は似合わない代物だ。 だが、この単純にして武骨な短機関銃は、奇異な外見とは裏腹に高い信頼性を示し、大戦期を通して兵士達に愛用された。 「だからって言ってもなぁ。限度があるんじゃね?」 「海自はどこも小火器不足なんです」 生産ラインの限界と官僚的な意志決定が、現場にしわ寄せを押し付けていた。増産された89式小銃はまず弾火薬庫や総監部に優先配備され、その後、少ない在庫を護衛艦と警察が奪い合った。 後回しにされた「ゆら」をはじめとする補助艦艇の小火器不足が明らかになったが、急な派遣に間に合う筈もなかった。 「それで、どっかの誰かが思い付いたらしいです。用廃間際の予備装備だったこいつを……」 「きっとドヤ顔だったんだろうね」 「おかげで派遣輸送隊の艦上は博物館状態。トンプソンM1A1に、コルトM1911、極めつけはBARですよ。コンバットかっつーの!」 「おぅ……でも、ちょっと撃ってみたいな」 「良かったらあげますから、代わりに89式小銃くださいよ! BARなんて重すぎてうちのおっさんが一人腰やっちゃったんですから」 安芸は興奮して、左手を振り回した。銃把を握る右手の伸ばした人差し指が痙攣する。 鈴木二尉が、もとから細い淡い色の瞳をさらに細め、楽しそうに言った。 「いや、安芸三曹なら使いこなせますよ。それに、.45ACPは逆に頼もしいかもねぇ」 「9㎜パラより良いかもな」 「このシンプルな排莢口、しびれるっス」 陸自隊員達は、色褪せて灰色になったM3A1を口々に誉めた。 腰道具ベルトにスパナやモンキーと一緒に刺した予備弾倉の重みが、増したような気がした。こいつら他人事だと思って好き勝手言いやがって。 安芸は、手元の短機関銃がとてもみすぼらしく感じた。自分にはお似合いだ、そう思った。 「錨入れェ!」 艦尾から、金属の擦れる音が響く。投錨したらしい。ビーチングした輸送艦は、着岸前に降ろした錨鎖を詰める事で離岸する。 気がつけば、もう海岸がすぐそこに見えていた。甲板上が慌ただしい空気に包まれる。バラストが調整され、艦首が持ち上がった。 鈴木二尉が、部下に言った。 「もう、着くようです。山田一曹達と準備にかかって下さい」 「了解しました」 田中三曹と佐藤三曹が、意外な身軽さで車両に向かう。 「さて、安芸三曹。お世話になりましたね」 「いえ、鈴木二尉もお気をつけて」 彼等は今から結構な奥地に入るらしい。通信員の彼等は、皆平凡な印象の隊員ばかりだった。この人達大丈夫だろうかと思う。顔を上げると、美しい異世界の砂浜と、そこに積み上がった物資の山を背に、鈴木二尉が微笑んでいた。 明るい茶色の瞳が、安芸を見ている。何だ? どこかで、見たことがある気がする。一瞬そんな思いがよぎった。 艦底から振動が伝わる。陸では陸自の施設科が宿営地を設営中だ。あちこちに物資がうず高く積み上がり、重機が走り回っている。 轟音が聞こえた。視線を右に向けた安芸の視界に、海水を猛烈な勢いで水煙に変換し巻き上げながら陸岸へ向かうLCAC(エアクッション型揚陸艇)の、平たい船体が飛び込んできた。 甲板上に角張った車体が見えた。あんなものまで持ち込むのか。安芸の目は暫く釘付けになった。 気が付くと、揚陸準備に向かったのか、鈴木二尉は安芸の前から消えていた。 揚陸から9日目 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 前方監視哨 2013年 1月5日 13時04分 地域最大の河川であるマワーレド川が、ゆったりと蛇行している。川幅500メートルに及ぶマワーレド川の流れは緩やかで、水量は豊富だ。川は南へ3キロ程下ったところで西に支流を分け、さらに毛細血管のように分岐しつつ海へ注ぐ。 交易都市ブンガ・マス・リマは、このマワーレド川河口域の三角州地帯に、市街地を広げている。市は本流東側、本流と支流に囲まれた最も大きな中洲、支流の西側の3地域に分けられており、それぞれ「東市街」「中央商館街」「西市街」に分かれている。 季節は乾季である。照りつける太陽が、灰色の水面に反射している。川の両側にはブンガ・マス・リマへと続く街道が整備され、流れに寄り添っていた。 以前は鬱蒼とした熱帯林に覆われていたが、交易都市の営みにより周囲5㎞四方の森は切り開かれ、湿地と草原に姿を変えていた。 乾季にもかかわらず充分な水量を湛えたマワーレド川の川辺では、背中に瘤を持つ水牛に似た生き物の親子がのんびりと水を飲んでいる。その背には色鮮やかな水鳥たちが、羽を休めていた。 水面に水音が響く。大型の淡水魚が跳ねたのだろう。音に驚いた水牛が頭をもたげると、背に止まっていた水鳥が一斉に飛び立った。けたたましい鳴き声と共に、赤や紫の羽根が辺りに舞う。 水牛は、自分には関係ないという風情で、また水を飲み始めた。 のどかで平和な景色だ。 だが、もしも地元の者がこの場に居たならば、すぐに違和感に気付くはずだ。 川が静か過ぎるのだ。 普段は街道を隊商がひっきりなしに往来し、川面には交易品を満載した船や、川魚を捕る小舟がひしめいていた。 川縁には漁師や住民が生業の為に働き、舟を引く人足が賑やかな掛け声を上げていた。 だが今は、全てが絶えていた。水面はたまに跳ねる川魚以外に揺らす者はなく、船も人も途絶えている。まるで、巨竜に例えられる事もあるマワーレド川が、息絶えたかのような静まり方であった。 もう一つ。もし、景色を眺めた者が熟練のスカウトか猟師であれば、違和感に気付けたかもしれない。 マワーレド川の東側。川と街道を見下ろす小高い丘の上に小さな森がある。その貧弱な茂みの端に、自然には存在しない獣がその身を伏せていた。下生えの中に目を凝らすと、その付近に岩のような気配がある。 マルノーヴ派遣調査団、陸自先遣隊偵察隊所属の90式戦車だ。 複合装甲を纏った鋼の獣は、ラインメタル社製44口径120㎜滑腔砲を北方に向け、獲物を待つ肉食獣の様に身を隠していた。角張った砲塔側面、偽装網の隙間からは北海道と蠍の部隊章が見えている。 偵察隊付戦車小隊長、柘植甚八一等陸尉は車長席から上半身を出し、タスコ社製軍用双眼鏡を構えた。彼は偵察隊長を兼ねており、指揮下には90式戦車4両と73式APC1両、二個小銃分隊及び各種車両を置いている。 一個戦車小隊という戦力は、先遣隊が普通科中隊基幹であることを考えると、かなり張り込んだ感がある。実際の所、偵察隊という体裁をとってはいたが、その装甲と火力が当てにされていることは間違いなかった。 陸自は過去に得た捕虜や、南瞑同盟会議からの情報を基に、異世界での戦闘において戦車の火力を必要とする場面を想定しているのだった。 (だからって、うちが出張るのは無理やり感があり過ぎるな) 柘植は思った。彼本来の所属は第1戦車群第301戦車中隊であり、彼は戦車中隊長であった。ところが、マルノーヴ派遣調査団に合わせて陸自先遣隊が編成される際、第9戦車大隊を押しのけて、彼の中隊から一個小隊が派遣されることになったのだった。 どうせ、どこかの戦車屋が90式を異世界で好きなだけ走らせてみたいなんて考えたに違いない。俺自身話を聞いた時は素晴らしい考えだと思った位なんだから、間違いない。 ごり押しは、それなりに高いところから行われたのだろう。表面上はすんなりと収まった。だが、当然ながら基幹中隊を派遣する第9師団側は良い顔をするわけがなかった。結果しわ寄せは現場が被ることになった。 柘植は先遣隊長の神経質な顔を思い出した。細面がまるでカマキリのような雰囲気の一佐である。何かにつけて柘植の小隊を目の敵にしていた。 柘植一尉、君の小隊はもう少し上品に食事が出来ないものかね? 我々は日本国を代表して来ていることを考えたまえ。 ああ、思い出したら腹が立ってきた。柘植は顔をしかめると、前方に広がる景色に意識を戻した。雄大な大河と、緑豊かな草原。人工物のほとんど無い大自然の光景は素晴らしいものだったが、柘植はそう気楽な気分ではいられなかった。 普段の彼は他人に穏やかな印象を与える男であり、その丸顔にはめったに厳しい表情を浮かべない。ともすれば頼り無げに見える程で、威厳で部下を統率するタイプの指揮官では無く、部下が自然に手助けをしたくなる類の男だった。 だが、いま彼の表情は厳しい。 そこには、彼に与えられた任務が影響している。 彼の小隊はブンガ・マス・リマ北東5㎞の現地点に前方監視哨を設け、警戒監視任務に付いている。また、90式戦車の運用に関する地形偵察も行っている。併せて、北方に無人機及びオートバイ斥候を展開させ敵情の収集に努めていた。 12日前、北方の平原において南瞑同盟会議野戦軍が敗北。帝國軍は同盟会議側の抵抗を排除しつつブンガ・マス・リマへと迫っていた。 数日前から、偵察部隊と思われる敵騎兵の姿をオートバイ斥候が確認していた。近いうちに敵の主力が姿を現すことは間違いない。柘植はそう見積もっている。戦争が足音を立て近付いていた。気楽な気分になどなれるはずもない。 さらに、頭痛の種はもう一つあった。 「中隊長、連中です」 「──ん、了解。それから今の俺は小隊長だ」 操縦手の村上三曹からの報告にぞんざいに答えた後で、柘植は眼下の良く整備された街道上に目を向けた。 マワーレド川に沿って南北に街道が走っている。舗装はされていないものの、道幅は約10メートルあり、車両の走行も充分可能である。街道を南に進めばブンガ・マス・リマ東市街が存在している。 その街道上を、幻想世界の住人が北へ進んでいた。数は50名程。騎乗士が数名確認できる。 隊列を組む兵士たちの鱗鎧が陽光を反射している。彼らはその上に遠目にも色鮮やかな緑と白の縦縞模様の長衣を着ていた。さらに頭には水鳥の羽根で飾った帽子を被っていた。中でも騎乗士の帽子は一際派手に飾られている。 彼らは全員が武装していた。腰には短めの曲刀を下げ、肩には長刀のようなポールウェポンを担いでいる。列の最前には軍旗が誇らしげに掲げられていた。明らかな軍、ただし現代のものでは無い。 彼らは「パラン・カラヤ衛士団」と名乗る集団である。ブンガ・マス・リマ東市街の警備を担当する、商都に残された数少ない戦力だ。 「相変わらず派手な連中ですね。まるでチンドン屋だ。虚仮威しにしかならないですよ、あんなの」 砲手の根来二曹が、冷え切った口振りで言った。普段は物静かで冷静な性格なのだが、眼下の集団には明らかに好意的では無い。耳を傾ければ周囲からも悪し様に罵る声が聞こえた。 声の主は戦車の周辺を固める普通科隊員たちだ。全身を偽装用の草木で覆い、タコツボに身を沈めている。 本来ならばたしなめる立場の柘植であったが、とてもそんな気分にはなれなかった。彼にとって、目の前を巡察の為に行進している集団は、大きな頭痛の種であったのだ。 気がつけば、衛士団の先頭を進んでいた騎乗士が、柘植たちが潜む森を見ていた。右手を頭の横に掲げ、隊列を停止させる。しばらくして騎乗士は従者を従え、こちらへと馬を進め始めた。こちらを見つけているようだ。 柘植は顔をしかめた。偽装が不十分だったか? いや、履帯跡か。もっと丁寧に消さないと駄目だな。 彼が偽装の手管についてあれこれと考えている間にも、騎乗士はどんどん近付いてくる。柘植は大きな溜め息をついた。放っておけばあの御仁は、周囲の普通科隊員たちと揉め事を起こすに違いない。柘植には確信があった。 「仕方ないか──各自そのまま待機」 柘植は小隊長車から飛び降りると、普通科分隊に待機を命じ、自ら騎乗士を出迎えた。少しでも威厳を示そうと戦闘上衣の裾を引っ張って伸ばす。どうも、大した効果は無さそうだった。 騎乗士は、柘植を認めるとゆっくりと近付いてきた。やはり、知った顔である。出来れば見たくない類の。だが、地元治安部隊の指揮官を無視する訳にも行かなかった。 柘植は努めて友好的に、騎乗したままでこちらを見下ろす男に声をかけた。『通詞の指輪』で話は通じるはずだ。 「こんにちは。ケーオワラート団長殿。巡察お疲れ様です」 騎乗士──パラン・カラヤ衛士団団長ウドム・ケーオワラートは極めて尊大な態度でそれに答えた。派手な羽根飾りのついた円筒形の帽子の下には、褐色の肌をした中年男の顔がある。 毛虫のような眉毛の下のぎょろりと大きな瞳が、柘植を見下ろしている。蔑むような目つきを隠そうともしていない。鷲鼻と豊かな口髭、その下に隠されたへの字に曲げられた口元、全てが頑固で偏屈な性格を表しているようだった。 彼はにこりともせず、言った。 「これは、ツゲ殿。貴公らはよく飽きもせずそうしておるな。まあ、その隠蔽の腕だけは大したものだ。野盗どもに優るとも劣らん」 「ありがとうございます」 「皮肉もわからんか──まあ良い。此処はそのうち帝國軍が現れよう。その前に避難するがよかろう」 ケーオワラートの口振りは、酷く手厳しいものだった。こちらに好意を持っていないことは明らかだ。 「いえ、我々にも任務がありますので」 柘植の答えにケーオワラートは口元を歪め、低い笑いを漏らした。 「戦いもしないのに森に隠れることが御役目か。貴国の軍はずいぶん変わっておるな。……そういえば軍では無いのだったな」 森の中に伏せている普通科隊員や、戦車乗員からの刺すような視線に気付いているのかいないのか、彼は辛辣な言葉を柘植に浴びせ続けた。 「その後ろのハリボテが道を荒らして困ると近場の民から申し立てがあった。気を付けることだ」 「善処します」 「それから──街に来る際はもう少し綺麗な格好で来ることだ。他の客が迷惑する」 ケーオワラートは、柘植の戦闘服を一瞥し、揶揄するように言った。柘植は何も返さない。ケーオワラートはその様子に、鼻を鳴らすと馬首を巡らせ隊列へと戻っていった。 「なんてムカつく野郎だ!」 「あいつらがだらしねえから、本拠地までヤバいんじゃねえかよ! それを棚に上げて好き放題言いやがって」 「あのクソ髭、引っこ抜いてやりてえな」 尊大な衛士団長の背中に向けて、隊員たちから悪し様に罵る声が上がる。柘植も流石に怒りを覚えた。 だがそこで、騎乗した主人の後ろを歩く小柄な人物が目に入った。柘植とは顔見知りの従者の少年だ。 彼は柘植と目が合うと、その華奢なつくりの顔に心底申し訳ないという表情を浮かべ、頭をぺこりと下げた。そして、胸に槍を抱えてよたよたと主人を追いかけて行った。 柘植は毒気を抜かれてしまい、気の抜けた口調で呟いた。 「最初は、こんなんじゃ無かったんだがな……」 柘植小隊がマルノーヴ大陸ブンガ・マス・リマ市東方に揚陸されてから8日。帝國軍が北方約10㎞付近まで迫り、都市は危急存亡の情勢下にある。 だがこの時、日本国陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊と南瞑同盟会議ブンガ・マス・リマ市警備部隊、パラン・カラヤ衛士団との関係は、最悪の状態にあった。 派遣調査団 政府特使及び随行員(外務省主導) 合同調査団(各省庁合同チーム) 警護班(警視庁警護課) 海上保安庁 マルノーヴ派遣船隊 巡視船「てしお」「おいらせ」 測量船「明洋」「海洋」 設標船「ほくと」 海上自衛隊 マルノーヴ派遣 旗艦 掃海母艦「ぶんご」(群司令乗艦) 海洋観測艦「すま」 第1掃海隊 掃海艇「いずしま」「あいしま」「みやじま」 派遣ミサイル艇群 第1ミサイル艇隊 ミサイル艇「わかたか」「くまたか」 第2ミサイル艇隊 ミサイル艇「はやぶさ」「うみたか」 マルノーヴ派遣輸送隊群 第1派遣輸送隊 輸送艦「おおすみ」「ゆら」「LCAC1号」「LCAC2号」 SH-60J×3機 第2派遣輸送隊 多用途支援艦「ひうち」「えんしゅう」 曳船、特別機動船、交通艇他 陸上自衛隊 マルノーヴ先遣隊(増強普通科中隊基幹) 先遣隊本部 本部班 通信小隊 衛生小隊 施設作業小隊 普通科中隊 中隊本部班 小銃小隊×3個 迫撃砲小隊×1個 対戦車小隊×1個 偵察隊 本部班(無人偵察機×1) 戦車小隊(90式戦車×4) 小銃班(73式装甲車×1、軽装甲機動車×2) オートバイ斥候班(オートバイ×8) 戦車直接支援班 後方支援隊 本部班 補給小隊 整備小隊 管理小隊 施設隊 配置等 ブンガ・マス・リマ沖 第1掃海隊(海自) 航路啓開 第1ミサイル艇隊(海自) 周辺哨戒 マルノーヴ派遣輸送隊群(海自) 部隊・物資輸送 マルノーヴ派遣船隊(海保) 測量、航路啓開 ブンガ・マス・リマ南方多島海域 第2ミサイル艇隊(海自) 調査団護衛 合同調査団 現地調査 ブンガ・マス・リマ中央商館街 政府特使及び随行員 外交交渉 警視庁警護課 特使護衛 小銃小隊 市街警備 ブンガ・マス・リマ西市街 マルノーヴ先遣隊本部(陸自) 全般指揮 普通科中隊(二個小銃小隊欠)市街警備 対戦車小隊 市街警備 ブンガ・マス・リマ東市街 小銃小隊 市街警備 迫撃砲小隊 市街警備 ブンガ・マス・リマ東方海岸 後方支援隊 物資集積所設営 施設隊 物資集積所設営 戦車直接支援班 整備支援 ブンガ・マス・リマ北東5㎞地点 偵察隊 前哨警戒 揚陸から3日目 ブンガ・マス・リマ旧市街 2012年12月30日 12時34分 「うひゃあ、賑やかだなぁ」 「おい村上、迷子になるんじゃないぞ」 「いや、中隊長。ガキじゃないんすから、それは無いですよ」 「いや、村上なら有り得ると思うな」 「根来さんまで、そりゃないっすよ」 雑踏の中を三人の自衛官が歩いている。アメリカ合衆国以上に人種の坩堝である(何しろ元の世界では恐らく百パーセントだった「人間」が、こちらでは『最大勢力』という扱いなのだ)交易都市にあっても、彼らの出で立ちはなかなかの注目を浴びている。 彼ら三人がいるのは、ブンガ・マス・リマで『旧市街』と呼ばれる地域である。まだ都市が町であった頃、ここは交易の中心だった。商品を山のように抱えた隊商と交易船が行き交い、荷揚げ場は活況を呈していた。 町には市が立ち、様々な取引が行われ、船乗りが旅の垢を落とした。各地から集まる彼らを当てにして、ありとあらゆる店が軒を連ねた。 町が大きくなるにつれて、交易の中心は別の場所に移ったが、市民の為の比較的小規模な商いは残った。そして、商人たちの胃袋を満たすべく集まった店もまた、そのままであった。 今では、市街有数の飲食店街として市民の憩いの場を提供している。 「美味いメシの気配がする」 柘植が鼻をひくつかせて言った。 「出た出た、中隊長の美食センサー」 以前は鮮やかな紋様が描かれていたのだろう。いまは色褪せた石畳の道が、川沿いに延びている。道の川面側には船着き場があり、小さな交易船が荷揚げを行っていた。荷揚げ場は、商人たちが少しでも儲けを出そうとするやり取りの喧騒に満ちている。 道を挟んだ反対側は商店がひしめき、生活雑貨や衣料品が簡単な天幕の下に並んでいた。行き交う人々の波は途切れることがない。三人は人並みを縫うように街路を歩いた。 「本当に賑やかなところですね。まるで、シンガポールのボート・キーだ」 「ずいぶんと洒落た感想だな。俺はアメ横を思い出したよ」 「しかし、思ったよりずいぶんときれいな都市です。驚きました」 露天商の売る針や籠を冷やかしながら、根来二曹が感心したように言った。根来二曹は柘植小隊長車の砲手である。和歌山出身、長身痩躯で落ち着いた態度の男だ。何時も淡々と的を射抜く腕の良い砲手である。 大学時代バックパッカーとして放浪した経験から、根来は都市の衛生環境を地球の都市と比較し、予想より良いことに驚いたようだった。 「それ、俺も思いました。同期には『頭の上からうんこが降ってくるから気を付けろよ』なんて言われてたんで……」 操縦手の村上三曹が辺りをキョロキョロと見回しながら同意した。体格の良い村上の子供じみた仕草を見て、すれ違った使用人風の少女がくすくすと笑う。 「うんこってなぁ、お前……まあ、いいか。確かにこの異世界の大都市は驚くほど清潔だ。捕虜の聞き取りから得られた『中世ヨーロッパ』程度の文明とは思えない」 確かにその通りだった。人口二十万の大都市は、清潔さを保つ努力に余念が無く、それはある程度の成功──地球で言えば発展途上国の首都レベル──を収めていた。 「厚労省の担当官やうちの医官も驚いていたよ。ここの住人は公衆衛生の概念を体験的に理解している」 「はあ」村上が適当な相づちを打つ。 「つまりだ。煮沸消毒や紫外線消毒。上下水の分離に廃棄物処理、伝染病患者への対応まできちんとやるんだよ。どうも細菌の存在にも気付いているらしい」 「それは、大したものですね。でも、何故そんなに進んでいるんでしょう?」 根来が質問した。柘植は二人の目を順に見つめ、ニヤリと笑って言った。 「神さまのいうとおり、だよ」 柘植の言葉に根来と村上はぽかんとした顔になった。柘植は自分もこの話を聞いたときはこんな風だったなと思った。 「ある神官が、衛生員の持つ医療キットの中身を見て言ったそうだ。『これらは聖別されたものですね』とな。その神官は消毒液から抗生物質まで、たいていの薬効を言い当てた」 「どうやって? 俺たちでも見分けなんかつかないのに」 「こっちの神官は『本物』なんだよ。ちゃんと神さまのお告げを聞けて、信者に手をかざせば奇跡が起こせる。だから、いくつかある教団の神官や司祭は、修行を積んだ魔法使いなんだ──この表現が正しいかどうかは知らんがな」 「良いものと悪いものが分かるんですね」 「そうだよ。だから、抗生物質が『悪しきもの』をやっつける効果があると分かったし、信者たちには清潔な環境を維持するよう指導する」 柘植は、微妙な笑顔を浮かべてその後を続けた。 「こっちの世界の村人は、怪我をしたらきちんと患部を清潔にして、薬効のある薬草を当てる。それでも駄目なら神の奇跡で治してもらうんだ。 俺たちの御先祖さまはどうだ? 馬糞汁を飲んだり、水銀を塗ったり、悪い血を抜いてみたり。しまいには先祖の行いが悪かったとか言い出す始末だ。泣けてくるね」 「熱が出たら尻にネギを入れるなんてのも、俺やられたっす」村上が尻をさすりながら言った。 「効いた?」 「あんまり」 村上の言葉に、根来がやや引き気味に応じる。柘植は、両手を広げなるべく胡散臭い顔を作ると、二人の部下に結論を告げた。 「この世界には、迷信なんて無いんだよ」 「……ファンタジーだ」 根来が、呆れたようにぽつりと呟いた。 「だからこそ、俺たちが街に出られるんだ。良いことだよ。ほら、いい匂いがしてきたぞ」 柘植たちが街をぶらついているのは、れっきとした職務である。一般隊員の現地民との接触は未だ制限されていたが、偵察隊や衛生員に対しては、情報収集目的での行動が認められていたのだった。 戦いにおいて、その場所を『知らない』というのは、とてつもなく不利なことである。検疫は彼らの行動を許す程度には完了している。柘植は民情把握と市街地の地形偵察を兼ねて、街に繰り出していた。 とはいうものの、柘植一尉の『偵察』はその対象の選定において、著しい偏りを見せていた。 「中隊長、あそこなんか美味そうじゃないですか?」村上が、前のめりになって言った。 視線の先では、上半身裸の屈強な男たちが、大きな木の椀を抱えて何かをかき込んでいた。濃厚な肉と乳の匂いが辺りに漂う。 「どれどれ?──荷揚人足かな? あれは……粥か」 堅太りの親父が大きな鍋で麦粥を煮込んでいる。乳とチーズで煮込まれた粥には、ゴロゴロとした大きな肉が浮いていた。親父は大汗をかきながら鍋をかき混ぜる。味付けは粗塩だろうか。男たちはたっぷりとした粥を、ガツガツと胃に流し込んでいる。 「確かに美味そうだが、多分味付け濃いぞ。肉体労働者の昼飯だ」 辺りを見回せば、食料品店が立ち並んでいる。 魚屋には、裏手で荷揚げされたばかりの魚が並べられていた。どれも目は澄んでいて新鮮だ。ただ、やはりどの魚も見たことが無い種類だった。七色に輝くウロコを持つナマズがいる。一体どんな味なのか検討もつかない。 店の親父が「どうだい兄さん、痺れる旨さだぜ!」と薦めてきたが、さすがに生魚には手を出せなかった。 肉屋の軒先では籠に入れられた鶏がやかましい。頭上には羽根を毟られた仲間が、ぶらりと吊り下げられている。寡黙な店主が、手際よく肉をさばいては客に手渡していた。 鶏、豚、水牛、山羊(に似た生き物)の肉に加えて、加工品も扱っているようだ。肉厚のベーコンやハム、干し肉が艶めかしい色を放っていた。よく塩が効いていてとても美味そうだ。チーズもある。水牛のものだろうか? 変わったところではカエルやヘビの肉も売られていた。柘植もカエルは食べたことがあった。鶏に似たさっぱりとした味がなかなかいける。ただ、彼が食べたカエルの足は六本も無かったけれど。 隣は青果店だ。色鮮やかな野菜の葉が、南国の恵みを現していた。やはり柘植たちが知る野菜や果物は無かったが、新鮮さだけはよく分かった。熟れすぎてはじけたマンゴーに似た果物の果肉から、濃厚な甘い香りが漂っている。 青果店では、ジュースも売っているようだ。おかみさんが手早く搾った果汁が飛ぶように売れている。柘植は一際繁盛している店を見つけた。 「氷だ。一体どうやって?」 その店では、氷でよく冷えたジュースを出していた。柘植が裏手を覗くと、灰色のローブを着込んだ貧乏そうな青年が桶に氷を生み出していた。 「おーい、氷足りねえぞ。まだかバイト!」店員が怒鳴った。 「はいはーい!……いま、やってますって。魔力も無尽蔵じゃないんだけどなぁ──あ、やべ」バイトと呼ばれた魔術士は、ブツブツと小さく何かを唱えながら手から氷を作り出していたが、不意にストンと腰を落とした。 「おかみさーん、打ち止めです」そのままへたり込む。 「えぇ? もうかい──仕方ないねえ。冷やし果汁、いまあるだけだよー!」おかみさんは、桶の氷をガリガリと砕きながら、声を張り上げた。 「魔法使いが製氷機か──貧乏学生ってところかな」 「MPが切れたんすかね」 「値段見たらよその三倍でしたよ。コスト的に割りに合うんだろうか?」 三人は口々に感想を言う。正直なところ街の豊かさに舌を巻いていた。店には商品が溢れ、庶民の購買力もある。異世界の全貌は未だ明らかではないが、少なくとも未開の蛮族たちという認識は誤りであることは間違いなかった。 柘植はもう一度小鼻をひくつかせると、一軒の飯屋を指差した。 「あそこが美味そうだ。俺の魂が囁いている」 「えーっと……赤い、敷物──赤絨毯亭、ですか」 根来二曹が先遣隊員に配布された『マルノーヴ語の手引き』と、看板の文字を見比べて言った。 「見ろ。客層が偏っていない。加えて近所の商人らしい連中もいる。ああいうところは、たいてい美味いぞ」 「何でもいいっす。はらへったー!」村上が叫んだ。 三人は、天幕に下げられた日除けの布を潜り、店内に足を進めた。柘植が店主に声をかける。言葉は『通詞の指輪』で大丈夫なはずだ。 「こんちわ。親父さん空いてるかい?」 その瞬間、椅子代わりの木箱に腰掛け食事をしていた客たちが、一斉に三人の自衛官の方を振り向いた。老若男女(とそれ以外)の遠慮ない視線に、柘植たちはたじろいだ。何だこいつら? 視線はそう言っている。 「適当に座ってくんな」店主がぶっきらぼうに言った。 「ち、中隊長。店、選択誤ってないっすか?」 「狼狽えるな。俺たちは異邦人だ。大抵こんなもんだよ」 そうこうしていると、褐色の肌をした給仕の若い女が客をかき分けて近づいてきた。派手さは無いがエプロン姿がよく似合う。 「いらっしゃいませぇ。お客さん珍しいいでたちね。外国の方かしら?」 「そんなもんだよ。腹が減っているんだが、お薦めはあるかい? なまもの以外で頼む」 柘植の問いかけに彼女は、小首を傾げた。くせ毛のショートヘアがさらりと揺れる。 「もちろん。看板メニューがあるわ」 「じゃあ、そいつを三つ頼もうか」 「何か飲む?」 「あいにくと仕事中でね。飲み物はいいよ」柘植が迷彩服の襟を引っ張りながら言った。 「それ、お仕事着なのねぇ。じゃ、お薦め三つ」 彼女はそう言うとくるりと長いスカートの裾を翻し、寡黙な店主が鍋を振るう厨房へと戻っていった。 「いい店ですね、中隊長」 村上が言った。その目は厨房へと戻る給仕の女の子の尻を追いかけている。柘植は、村上の背中を平手でどやしつけた。 「さっきと言っていることが違うじゃないか」 「痛ぇ! いや、いいお尻だなぁと」 「馬鹿。品位を保つ義務を忘れたか……いやまあ確かに見事な張りだが」 「でしょ?」 確かに、給仕の女の子の尻は、スカート姿でも分かるほど豊満であった。柘植はもう一度村上の背中をひっぱたいた。 それを見て、周囲の客がどっと笑った。 「どこでも、兵隊は同じじゃの」枯れ木のような禿頭の老人がニヤニヤ笑いながら言った。 「あんたら『ニホン』の兵隊じゃな?」 「はい、日本国自衛隊です。やはり、分かりますか?」柘植が答える。老人は笑いを大きくした。 「あんたらの格好はよう目立つからのう。それに、どこの国のもんでも兵隊は必ずアミィの尻を追っかけるでな。初めは話が通じるか分からんと思っとったが、そこの若いのを見て、ワシらと変わらんと思ったよ」 老人の言葉に、また周囲の客が笑う。店内の雰囲気はいつの間にか和らいでいる。村上三曹の行動も、どうやら意外に役に立ったようだ。 「ご隠居だって毎日アミィの尻を眺めに来てるじゃねえか!」 「う、うるせぇ。年寄りを労れ」 老人とのやりとりが、引き金になったのだろう。刺すような視線から逃れたと一安心した柘植たちは、今度は遠慮ない好奇の目と質問の集中砲火を浴びる羽目になった。 「あんたが隊長さんかい?」商人が言う。 「はい、柘植と言います。この二人は私の部下です」 「なら騎士さまだね。それにしちゃ、兵隊とおんなじ格好だねぇ」 「海の向こうから援軍として来てくれたんだろ? ありがとうね」おばちゃんが頭を下げた。 「東の浜にどでかいゴーレムがたくさん上がったらしいが、あんたらかい?」背の低い髭面の男が、鼻息荒く尋ねた。 「ゴーレム、といいますかまあ我々の装備です。あなたはもしかしてドワーフですか?」 「そうだ。今度あんたらのゴーレムを見せてくれんか? ところでその腕につけた飾りはなんだ?」 「時計ですが」 途端にドワーフが立ち上がり、顔を真っ赤にして柘植の腕に顔を寄せた。ちょっと脂臭い。かれは、柘植の腕時計をまじまじと見つめ、しきりに首を振った。 「ありえん。こんな小さな盤の上を針が……これは刻時盤だな? どうやって動いとる? むむむむ、ちょっと分解していいか?」 「いや、それは困る」 さらに、魔法使い風の青年が身を乗り出して言った。 「あの、あの鉄船に乗ってきたんですよね? 有翼蛇を墜とした魔法はライトニングですか? そもそもどうやって動いているんですか? 系統は? 魔晶石を使うのですか?」 「いや、その……」 「『ニホン』にはあたしらみたいなのはいるの?」猫のような耳と目を持つ女が村上に聞いた。 「えーっと、アキバになら……」 「おお! 獣人もいるのか『ニホン』には」 「冒険者ギルドはあるか? 未知の世界に行ってみたいぜ」革鎧を着た戦士風の男が言った。 「えーっと、派遣登録みたいな感じ? なら沢山あるかな。多分数万人規模で登録してると思う」村上が答える。 「す、数万人!? そんな大規模ギルドが存在するのか?」戦士風の男を始め、周囲は目を白黒させた。 「で、では信仰の対象は? どの神に祈っているのですか?」気の優しそうな中年男性が言った。 「神? アイドル? アイドルならこないだ東京ドームで──」 「ほう、『ニホン』の人々は、48柱の女神を信仰しておられるのですか……え、48柱どころじゃない? なんと!」 微妙に間違った情報が流布されるのを聞きながら、柘植は質問の制圧射撃に頭すら上げられない状況である。 それを救ったのは、両手に料理を乗せた、給仕のアミィだった。 「はいはい、どいてどいて。おまちどうさま」 テーブル代わりの樽の上に赤い皿が並ぶ。片方は沢蟹だ。からりと素揚げされた蟹が朱く色付いている。もう片方の皿には、見事に茹で上がった海老が山盛りになっていた。車海老より一回り大きな海老の身は、ぷりぷりと弾力があり肉厚だ。 「うちのお薦めよ。海老はたれをつけて召し上が──」 「いただきます!!」 彼女が言い終わる前に村上は料理にかぶりついていた。柘植と根来も苦笑しつつ手を伸ばす。 「ンムッ」 沢蟹を口に放り込む。噛んだ瞬間、口の中に蟹肉の旨味が広がった。パリパリとした食感が心地よい。シンプルな塩味と油の風味、微かな蟹味噌の香りに、次々と手を伸ばしたくなる。 「ビールが飲みたいな」根来が言った。柘植も全く同感だった。 次に海老を食べる。赤いたれをつけて口に入れた。茹でた海老の身が口の中でほぐれ、肉汁が溢れる。海老の甘味とたれの辛味が絶妙だ。魚醤、大蒜、赤茄子、唐辛子、辺りだろうか。地球と全く同じものでは無いだろうがとにかく── 「うまいな」 「うめぇ」 「おいしいなぁ」 三人は揃って料理の味を褒め称えた。 「!!」 その瞬間、周りで息をのんで見守っていた客たちが、大きくどよめいた。何だか嬉しそうだった。 「な? いけるだろ? ここはこの辺でも一番の店なんだ」 「看板娘はかわいいしな。オヤジは無愛想だけどよ」 「……」 「よその人にも味は分かってもらえるのね。嬉しいわ」 「なあ、『ニホン』の軍人さんよ。あんたらの国にはこんな旨いものあるかい?」 「そもそもどんな国なんだ? 教えてくれよ」 給仕のアミィが腰に手を当て、胸を張っている。店主の親父も、さり気なくこちらを見ていた。彼は柘植たちの食べっぷりを確認すると、また黙々と鍋を振り始めた。 わいわいと賑やかな客たちに囲まれて、柘植たちは飯を食った。店が愛されていることが分かり、柘植も嬉しくなった。 その時、店先で鉄の擦れる音が聞こえた。誰かが来たようだ。 「御免。おや、今日はいつもより賑やかであるな」 重厚な印象の声が店内にかけられた。はっきりとした発音のそれは、喧騒の中でも不思議とよく響いた。給仕のアミィが声の主に返事をした。 「あら、団長さま。いらっしゃいませ!」 団長、という単語を聞いた客たちが、さっとスペースを開いた。その空間を一人の威丈夫がゆったりと進む。 「おお、団長どの。御役目御苦労様ですな」老人が親しげに声をかけた。 「む、ご隠居。今日も生きておったな。重畳の至りである」 声をかけられた男はそう言って笑った。周囲の客も笑う。柘植の目にも、その男が相当な敬意を払われていることが分かった。それでいて、みな親しみを持って接している。 男はがっちりとした体格の身体をきらきらと光る鱗鎧で包み、その上から緑と白の縞模様が鮮やかな長衣を羽織っていた。背筋は真っ直ぐに伸び、鎧の重さを感じさせない。 小脇に赤と青二色の羽根飾りがついた円筒形の帽子を抱えている。帽子の額には大きな赤い宝石が留められていた。 「この騒ぎの元は──貴殿であるな」 漆黒の色を湛えた瞳は大きく、強い光を放っていた。鷲鼻と豊かな口髭が、父性を感じさせる。穏やかな態度であった。しかし、柘植はそこに風圧のようなものを感じ取った。 (ただ者じゃないな。軍人? いや武人、か) 僅かに値踏みするような、言い換えれば人物を見られているような気配を感じ、柘植は箸を置き威儀を正した。二人の部下もそれに倣う。その様子を見て、男は腰に提げた曲刀の鞘に左手を当て、右拳を顔の横に掲げた。 「我が名はウドム・デールゥ・パラン・ケーオワラート。騎士にしてパラン・カラヤ衛士団団長。貴殿は?」 ケーオワラートと名乗る男の時代掛かった口上に、柘植は陸上自衛官らしい生真面目な敬礼を返した。 「一等陸尉柘植甚八。日本国陸上自衛隊アラム・マルノーヴ先遣隊偵察隊長です」 ケーオワラートは柘植の動作に、自分たちに通じるものを感じたようだった。彼は面白そうな表情をすると柘植の隣に腰掛けた。従者の少年が、素早く帽子を受け取る。 「ふむ。噂に聞く『ニホン』の騎士に相見えられたことを嬉しく思う。風変わりな出で立ちだが、なかなかの勇者揃いと聞いている。我はブンガ・マス・リマ参事会より兵権を預かり、東市街を鎮護している者だ」 そう言うケーオワラートは、柘植の態度をじっと見ていた。警備部隊指揮官として、異邦から現れた軍を見極めようとしているようだ。柘植は努めて冷静に応じようとした。 「都市の警備に当たる責任者にお会いできたことは幸いです」 「貴殿──ツゲ殿で宜しいかな。斥候の長というが、どれほどの部下を率いておられる?」 「はい、約50名の部下がいます。それと車両がいくらか」 「ほう、なかなかの兵力である。イットウリクイというのはツゲ殿の軍における位階であるのか?」 「はい、その通りです。『通詞の指輪』にておおよその感覚は伝わっていると思いますが」 ケーオワラートは大きく頷いた。 「百人隊長といったところであろう? 我が手勢は二百を数えるが、この広い市街を護るには手が足りぬ。『帝國』を名乗る蛮族どもが迫る昨今においては特にな。まあ、この界隈に戯けた悪党がおらぬ故、我が御役目もどうにかなっておる」 ケーオワラートは周りで興味深そうにしている客たちを見回した。周囲の者はうんうんと頷いた。 その後も、話は多岐に渡った。柘植の感触では警備部隊指揮官であるケーオワラートは、自衛隊に好意を抱いているようだった。おそらく海自ミサイル艇の奮戦が伝わっているからだろう。 ケーオワラートは、陸自の編成や装備に興味を示し、様々な質問を投げかけてきた。 (警備上の情報収集が半分、個人的な興味が半分といったところか) 加えて、彼の背後に控える従者の少年の態度がいかにもあからさまだった。年齢は13、4歳くらいだろう。手足のひょろ長い華奢な体躯は、まだ発展途上で凛々しさよりも可愛らしさが勝っている。数年後には立派な騎士に成長する要素はあるが、今はまだ子供でしかない。 そんな彼は、柘植が話す自衛隊や日本の話に興味深々のようだった。いつの間にか直立不動の姿勢が、柘植の方向に20度ほど傾いている。 「我々の主力装備は戦車です」 「『戦車』とは如何なるものか? ゴーレムのようなものであるか?」 「ゴーレム、ですか。私はゴーレムを見たことが無いのでなんとも。90式戦車はこのお店にようやく一両入る程の大きさで──」 「ええっ!」 ケーオワラートの背後で甲高い驚きの声が上がった。周囲の視線が集まる先には、顔を真っ赤にした従者の少年が両手で口を押さえている。 「カルフ! はしたないぞ」 「申し訳ありません!」 カルフと呼ばれた従者の少年は、慌てて謝った。しかし、くりくりとした黒目がちの大きな瞳の奥には、隠しきれない好奇心が溢れていた。柘植は苦笑して言った。 「ケーオワラート団長殿。もし明日御時間が許すのであれば、我が隊の演習を御覧になりませんか? 参事会の許可を得て市街北東部で『戦車』の運用試験を行っているのです」 「誠ですか!?」 「カルフ!……失礼仕った。だが、大変興味深い。貴殿の申し出有り難くお受けしよう。この通り我が配下も噂に名高い異邦からの騎士団に興味が尽きぬようであるからな」 「では、お待ちしています」 現地警備部隊指揮官と知己を得るのは、有意義であろう。柘植はそう考えた。同時に、ケーオワラートたちに対して純粋に好意を覚えた自分を感じていた。周囲の客たちも、両者のやりとりを誇らしげに見守っていた。 「では、間もなく巡察に出ねばならん。此にて失礼致す」 「はい、明日お会いしましょう」 「店主、邪魔をしたな。御免」 そう挨拶すると、ケーオワラートは長衣を翻し大股で店を出て行った。 ケーオワラートを見送ると、村上がしみじみと言った。 「いやぁ、雰囲気ありますね。渋い」 すると、人足風の男が胸を張って言った。 「この街が平和にやっていられるのも、パラン・カラヤ衛士団のおかげさ。邏卒で手に負えない連中も、衛士団にかかればイチコロよ!」 「それでいて、こんなところまで気軽に足を向けて下さる。お優しい御方じゃよ」老婆が手を合わせた。 「あんたらも、何かあれば団長さまに話を持っていくといいよ」おばちゃんが言った。 (こいつは僥倖だったかな) 柘植は周りの態度に大きな手応えを感じていた。少なくとも、現地住民との関係は良い滑り出しであると言えた。 「さてと、俺たちも行くか!」 人垣の中から、溌剌とした声が上がった。柘植がそちらを見ると、革鎧を着た戦士とその仲間らしい集団が、荷物を抱え上げている。 「おい、オドネル。そんな装備を抱えてどこに出かけるんだ?」 オドネルと呼ばれた戦士は、装備を確認しつつそれに答えた。 「義勇軍さ。帝國の奴らが迫っている。参事会がギルドを通して義勇軍を募っているんだ」 後を受けて魔法使い風の青年が言った。 「私たちは冒険者ですが、戦の心得も有ります。街の危機に見て見ぬ振りは出来ません」 「その通りだレナーワ。俺たちみたいな冒険者は、精鋭として遊撃隊に編成される。見てな! この戦いで『碧の右腕』の名が高らかに響き渡るところを」 オドネルはそう言って、腕輪を付けた右腕を高くかざした。腕輪には碧い水晶が飾られている。彼と彼のパーティーは揃いの腕輪をトレードマークにしているようだった。オドネルを含め8人の男女は、店主が作った携行食を受け取ると、意気揚々と店を出て行った。 「怪我しないといいけどねぇ」 客の一人がぽつりと呟いた 揚陸から4日目 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 2012年 12月31日 15時28分 「……これが『戦車』であるか?」 ケーオワラートが怪訝な顔で言った。彼の後方に控える衛士団の部下たちも、一様に胡散臭い物を見るような目をしている。質の悪い武具を売りつけに来た商人の売り口上を聞く態度だ。 市街地の北東約5㎞付近。マワーレド川を見下ろす小高い丘の上に集まった彼らの前には、4両の90式戦車がその巨体を並べている。濃緑色と茶色に迷彩塗装された全長9.8メートルの車体からは、無駄を排した戦闘車両の凄みが現れていた。 現代人であれば、たとえ兵器から程遠い日々を過ごしている者であったとしても、その迫力に圧倒されただろう。「戦車」とは、本来ならとても『分かり易い』兵器なのだ。 であるからこそ── 異世界の戦士たちに、90式戦車の水冷2サイクルV型10気筒ディーゼルエンジンが叩き出す1500馬力の素晴しさを全身全霊をかけて力説していた村上三曹は、あまりの反応の鈍さに大きな不満を覚えていた。 口ひげを生やした細身の衛士が言った。 「戦さ車というからには動くのであろうが、とてもそうは見えん。とてつもなく重いのだろう? ムラカミ殿」 「だから! こいつのエンジンは──」 「その『でぃーぜる』の魔術がよく分からん。巨大な『でぃーぜる』という魔獣に曳かせるのか?」 再度説明しようとした村上三曹の言葉を遮って、衛士は見当外れのことを言った。 堅太りの衛士が、ラインメタル社製44口径120㎜滑腔砲の砲身を見上げている。 「これは破城鎚か? 鋼のようだが先は尖っておらぬし、いささか細いように思えるのだが……」 ボアサイトを済ませた砲手の根来二曹が、困った顔でそれに答えた。 「それは破城鎚ではなく大砲です。『戦車』はそこから弾を発射し、敵を撃つのです」 「その筒から火球を放つのか? では魔術士は何処に?」 「いえ、魔術士は──」 「それにしても、この臭いはたまらんな」 ケーオワラートが顔をしかめた。視線はアイドリング中の機関部に向けられている。低音を響かせ振動する車体後面左右の排気孔からは、うっすらと黒い排気がたなびいていた。 「臭い、ですか?」 「うむ。こやつの吐く煙が堪らなく臭うぞ。何なのだこれは? 川向こうからでも分かるぞ」 「ケーオワラート団長。恐らくはこの『戦車』の中に飼われている『でぃーぜる』の吐息でありましょう」 柘植より先に、ケーオワラートの配下が答えた。口ひげを生やした中年男だ(ちなみにケーオワラートの配下は殆どが口ひげを生やしている)。 「ほう」 「これだけの巨体。馬や牛では曳くことは出来ますまい。また、破城鎚であるからには矢弾を防げなければなりますまい。従って、この鋼箱の中に巨体な魔獣を収め、動かしているに相違在りませぬ!」 「面妖な」 「先ほどから臭うこの臭気。低いうなり声。中身はよほど醜悪で凶暴な獣でしょうな」 「なんと」 「しかし、いくら何でも大きすぎはせんか? とても動けるとは思えん」 堅太りの衛士が装甲板を叩く。 「見ろ。響きもせん。よほどの厚みぞ。これを動かすとは如何なる獣か」 それを聞いて、中年の衛士が陰気な口調で言った。 「おそらくは禁呪を用いて召喚されし妖魔よ。そういえば去年の夏、西の廃城を巡回しておったらな。不意にいやな気配がして、振り返ったのだが誰もいない。面妖なと思いつつも先へ進んだのだが、気配がついてくる。 いやだのぅ恐ろしいのぅと思いつつも御役目を放り出すわけにもいかず。意を決して進むのだが、耳元でひったひったと音がする。あぁこれはアレだ悪霊だな、と──」 (これは、説明ではどうにもならんな) 戦車を前にして何故か怪談話を始めてしまった衛士たちを前に、柘植は言葉でどうにかすることを諦めた。 パラン・カラヤ衛士団の男たちにとって、目の前の物体は想像の埒外に過ぎた。彼らには目の前にある鉄の塊が地を走るなどとは、到底信じられないのだ。 なまじ『通詞の指輪』でニュアンスが伝わるだけに始末が悪い。この世界で車を動かすには、何かで曳くか、魔術的な力を使うしか無い。彼らは自分たちが知る理で、目の前の物体を理解しようとした。 (その結果が『魔獣でぃーぜる』か) 柘植は、ケーオワラートたちに声をかけた。 「我が国の言葉には『百聞は一見に如かず』とあります。この90式を実際に動かしてみせるのが、手っ取り早いでしょう」 「よかろう」と、ケーオワラートも同意した。衛士たちは「動かす」という柘植の言葉に、まだ胡散臭そうな態度だ。ただ一人、従者のカルフだけが期待を隠さない表情で、ケーオワラートの背後に控えていた。 彼は従者という立場から、戦車に触ることも質問することも出来ず、そわそわと立ち尽くしていた。 「では、ケーオワラート団長殿。ひとつこいつの乗り心地を試してみませんか?」 「こやつに乗るのであるか?」 「はい。残念ながら定員は3名なので、団長には窮屈な体勢を我慢いただくことになりますが──宜しいですか?」 柘植の提案に、ケーオワラートは面白い、という顔をした。 「他に何名か乗ることは可能ですが……」 柘植はそう言って他の衛士たちを見たが、彼らは団長ほど戦車に興味を示してはいなかった。「どうせ、動くものか」という態度もあからさまである。ただ一人、カルフ少年だけが、大きな瞳を輝かせて柘植を見ていた。 「あー、ケーオワラート団長殿?」 「何であろうか?」 二人の大人は、ことさら厳めしい表情を作った。互いに視線を合わせ、心中で密かに苦笑する。 「我が『90式戦車』の馬力ならあといくらか乗せられるのですが、どうも部下の方々は乗り気では無いようですな」 「うむ。そのようであるな」 「──!」 カルフは、一生懸命に視線で訴えている。従者である彼は、勝手に名乗り出ることは許されていない。ただ、彼の顔を見れば「ぼく乗りたいです!」と墨で大書されたような有り様だ。 「うーん。では、お一人だけですか」 「まぁ、やむを得まい。いささか得体の知れぬ代物であるからな」 「誰か、志願者はいませんかねぇ」 意地の悪い大人二人は白々しい会話を交わしている。カルフはぴょこぴょこと跳ね始めた。柘植は駐屯地祭を思い出した。根来二曹が、いい加減にしたらどうです? という表情で言った。 「柘植一尉、意見具申。ここは従者の彼に体験してもらうのはどうです? 未来の衛士に我々を知ってもらうのは良いことだと思います」 「なるほど」 柘植は、ケーオワラートを見て「宜しいですか?」と視線で尋ねた。彼は白い歯を見せ大きく頷いた。 「ふむ。カルフがもし乗りたいと申すのであれば、よかろう。ただ、乗りたがるかどう──」 「し、志願します! 異国の魔獣に乗れるとは光栄ですし、わたくしは団長の従者でありますので、常にお側に控えるべきであり、その、あの!」 顔を真っ赤にして、間髪入れずカルフは志願した。その尻尾があったら全力で左右に振っているだろう姿に、周囲で眺めていた偵察隊員たちが爆笑する。 ケーオワラートも、笑いを堪えながらしかつめらしく許しを与えた。見かけより面白みの有る御仁だな、と柘植は思った。 90式戦車のエンジンが出力を上げる。大きな音と共に、一際濃い排気煙が吹き出した。周囲で眺めていた衛士たちがとっさに身構える。一人は手を腰の曲刀に伸ばした。彼らには目の前の戦車が眠りから目覚めた魔獣に見えているのかもしれない。 ごろりと起動輪が回る。履帯が軋む金属音が鳴った。50トンの車体が、じわりと前に進む。最初はゆっくりだった速度は、村上三曹の慎重な操縦を受け、徐々に力強さを増していった。 「う、動きよった」 「おお、タィヤーグ・ノ・リヴスの護り在れ」 衛士たちの驚く声はたちまち後方に流れていった。履帯がマルノーヴの大地に爪を立て、泥を跳ね上げた。地面の凹凸をものともせず、90式戦車が前進する。 柘植は車長席のケーオワラートを見た。その顔は、さすがに驚きを隠さない。 「真に動いておるな、このような重く大きな車が。信じられんが、我が身は確かに此処にある」 カルフはといえば言葉も無いようだ。口をぽかんと開いて、あちこちを見回していた。 「操縦手、前方1000のボサを回って戻る」 『了解』 「ツゲ殿、これが『戦車』か。凄まじきものであるな」 ケーオワラートは感に堪えないという様子だ。身に纏う長衣が合成風にたなびいている。 「まるで鉄の竜だ。かくも巨大な代物をこのような速さで走らせるその魔術、我には想像もつかん。貴殿の国は余程魔導が進んでおるのだな」 「はい」柘植は素直に頷いた。ニヤリと笑う。 「ケーオワラート団長殿。この戦車は今の3倍速く走れますよ」 「何!? 3倍だと? 軽騎兵並みではないか……うむぅ、この巨体が騎馬並みの速度で迫れば、重装歩兵の戦列など薄絹よりも容易く破られよう」 90式戦車は時速約20キロで丘を下る。低木の茂みを履帯が噛み砕く。大きな窪みもものともしない。柘植はサービスとばかりに砲塔を左右に旋回させた。 「いかがですか?」柘植が尋ねた。 キューポラの縁に手をかけ彫像のように微動だにしなかったケーオワラートは、前を見つめたまま答えた。 「この眺め、まるで我が身が巨竜になったかと思うほどだ。ツゲ殿、一つ伺いたいのだが、貴国にこの『戦車』はどれほどあるのか?」 「我が国全体では、およそ数百」柘植は曖昧に答えた。 「数百! この鉄竜が数百か?」 「ええ、私の中隊には18両あります」 「そうか……」 ケーオワラートは黙り込んだ。下を向き肩を震わせている。柘植はその態度を訝しんだ。 「……フフ」 「ケーオワラート団長殿?」 「むはははははははははははッ!」 突然ケーオワラートは大声で笑い出した。愉快で仕方がないかのようだった。 「うわはははははははははははッ! ツゲ殿よ。貴殿の国は何ということを考えるのだ。鉄の竜が地を駆け、あらゆるものを薙ぎ倒す。それが数百頭だと? 見よカルフ、この景色を。帝國の重装歩兵も、重騎兵も、魔術士の放つ雷や火球でさえもものの数では無いぞ。学べよ! うわはははははははははははッ!」 戦車の威力を少しは分かってもらえたようだ。この時柘植はそう思った。直後に車体が岩に乗り上げ小さく跳ねたため、そちらに気を取られた柘植は、ケーオワラートが碧空を見上げ、静かにつぶやいたことに気付かなかった。 「あの時、この『戦車』が我らにあれば……」 ケーオワラートの顔は、寂寥感と自責に暗く沈んでいた。一人、カルフだけが気遣うように彼を見つめていた。 硬質な音を内包した轟音が、見る者の耳朶を激しく打った。一拍遅れて生暖かい空気と共に、衝撃波が眼球を歪ませる。初めて見る戦車砲の射撃は、彼らの目を眩ませるのに充分な威力を持っていた。 90式戦車から放たれた120㎜多目的対戦車榴弾は、標的とされた1500メートル先の廃馬車を容易く貫通し、背後にあるバックストップ代わりの丘で炸裂した。轟音と共に土砂が噴き上げられる。 土煙が晴れると、廃馬車はバラバラに砕けていた。 「おおおおお、なんたる威力!」 「こ、腰が抜けた。何ちゅう音だ」 すでに衛士たちは戦車の威力に心を奪われていた。団長を乗せ軍馬より速く駆ける90式戦車の姿は、彼らに衝撃以上の何かをもたらしていたのだった。 そして、射撃訓練が始まった。 ある者は轟音に腰を抜かし、ある者はその威力に目を見張った。ケーオワラートですら、二、三度頭を振り「信じられん」と呟いたほどだった。カルフに至っては、惚けたような顔で地面に座り込んでしまっていた。 衛士たちは喜び、口々に戦車を讃えた。乗員たちも愛車を褒められ嬉しくない筈がない。すぐに両者は打ち解け、飯を食いながらの交流が始まった。 「おーい、カルフ君」根来二曹がカルフを呼んだ。 カルフは、車体側面のスカートをのぞき込むのを止め、振り返った。 「何でしょうか?」 「君、戦車は好きかい?」 「はい! 今日一日でとても好きになりました。どれだけ見ていても飽きません」 子供らしい素直な答えに、根来は笑顔を浮かべ、雑嚢から何かを取り出した。インスタントカメラだ。 「じゃあ、良い物をあげよう。ちょっと戦車の前に立ちなさい」 「? こうですか?」カルフは小首を傾げつつもちょこんと戦車の前に立った。 「皆さんも写真、いかがです?」 「何だそれは? 写し身?……いや、遠慮する」 根来の誘いは、腕組みした衛士たちに断られてしまった。カルフもやや恐ろしいようだ。根来はカメラを構えた。 「じゃあ、撮るぞ。ほらもっと笑えよ。そうそう──チーズ」 カシャリ。 チープな音がして、小さな写真が繰り出された。根来は指で摘まんだそれをパタパタと振りながら、カルフの所に歩く。 「根来さん、何でそんなものを?」村上が尋ねた。 「同期に聞いたんだ。海外でモテるにはコイツがいいんだと──ほい」 根来から写真を受け取ったカルフは、怪訝な顔をして彼を見上げた。 「黒い紙? 何ですかこれは?」 「いいからいいから。暫く眺めてごらん」 「は、はぁ」 すると、暫くして徐々に画が浮かび上がってきた。90式の隣で、固い笑顔を見せる少年の姿。カルフはそれに気付くと震える手で写真を持ち、もう一度根来を見上げた。 「こ、これは私ですよね!? ネゴロさまは魔術士だったのですか? 凄い! 私が『戦車』と写っている」 「あげるよ」 「え?」 「君にあげる。記念になるだろ?」 固まった。数秒間の後、根来二曹の言葉が彼の脳細胞に浸透しきると、カルフは華のような笑顔を満面に浮かべ、飛び上がって喜んだ。 「ありがとうございます! 凄い凄い! 家宝にしよう! 見てくださいジュンジーヤさま。これ私なんですよー」 「ほ、ほう。これは……」 遠巻きにしていた衛士たちも、写真を覗き込んで驚きの表情を浮かべた。根来は満足気にその様子をみている。村上が言った。 「凄い威力っすね」 「だろう? ここまで喜ばれるとは思わなかったけどな」 「魔術士扱いですよ? 見てくださいカルフ君尊敬の眼差しでこっちを見てます。今度貸してください」 「ナンパに使う気だろ」 カルフはクルクルと回りながらいつまでも喜んでいる。根来がそんな姿を眺めていると、ふと90式の前に三人の人影が立ったのに気付いた。 衛士たちであった。何かを訴える目つきでこちらをじっと見ている。ヒゲ面の三人が黙って立っている姿に、根来は気圧された。だが、衛士たちは何も言わない。 「……えっと」 堅太りの衛士が左手を曲刀に添え、右手を腰に当てて立っている。 「……その」 細身の衛士は両腕を組み胸を張っている。 「もしかして」 ジュンジーヤと呼ばれた中年の衛士は、口ひげを撫でつけ、90式の車体に肘を置き、片手を顎に添えた。 「……撮ってほしい、とか?」 こくり。 三人の衛士は揃って恥ずかしそうに頷いた。 「パラン・カラヤ衛士団というのは、つまり『パラン王国衛士団』なのですよね。王国はどの辺りにあるのですか?」 柘植は、大騒ぎする部下たちを眺めながら、ケーオワラートに聞いた。ケーオワラートは少し逡巡する素振りを見せた。やがてゆっくりと話し出した。 「その通り。我らはパラン王国近衛衛士団であった。王国はブンガ・マス・リマより遥か南方にある豊かな島国、であったよ」 「であった?」 「王国は滅びたのだ」 「! それは……」柘植は絶句した。ケーオワラートは苦い笑顔を浮かべ静かに言った。 「良いのだ。今より十年前、聡明なるカラ・マレファ陛下の元、王国は平和に栄えていた」 そこで、ケーオワラートは小刻みに震えだした。気が付けば額にびっしりと脂汗を浮かべている。 「だが、あの日。あの忌まわしい『ものども』が、冥い海より王国を襲った。我らは何も出来なかったよ。国と国王陛下をおめおめと喪った我らは、辛うじて大陸までたどり着いた。思えば何故生き延びてしまったのか……」 「……」 「生き恥を晒した我らは、屍に等しかった。だが、そんな我らを救って下さったのが、先代のブンガ・マス・リマ参事会議長閣下だ。彼は我らを励まし、叱咤し、目的を与えてくれた」 ケーオワラートの瞳に力が戻る。彼は柘植の目を真っ直ぐ見つめて言った。 「ツゲ殿、貴殿の軍は臣民を護るためにあるのであったな?」 「はい。我々自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国民の生命と財産を守る為に存在しています」 柘植が答えると、ケーオワラートは大きく頷いた。 「我らも同じだ。我らは恩に報いる為にも、身命を賭してブンガ・マス・リマを護る」 ケーオワラートのゴツゴツした両手が柘植の両肩に置かれた。 「貴殿の軍は強い。だが心せよ。喪うは容易く、護るは難い。ひとたび喪えば取り返しはつかぬ。貴殿にはそのような思いをして欲しくないでな。努々油断は禁物ぞ」 「義勇軍が北へ向かうぞ!」 誰かが叫んだ。その声に導かれ街道に目をやると、そこには北へ向けて進軍を開始した、ブンガ・マス・リマ市義勇軍の姿がある。兵の隊列と荷馬車が長蛇の列を組んでいた。 側面を守るべく、馬に乗った冒険者たちがパーティー単位で左右を固めている。彼らは手を振る自衛官たちに応え、手にした得物を振りかざすと、北へ向けて歩みを進めていった。 「彼らは勝てますかね」 柘植がふと漏らした言葉に、ケーオワラートが返した言葉は、微かに震えているようだった。 「──勝つ。彼らは勝たねばならんのだ」 揚陸から6日目 街道上 ブンガ・マス・リマ北方20キロ 2013年 1月3日 9時17分 南瞑同盟会議野戦軍敗北。この知らせは伝令・撤退してきた敗残兵・交易商人などにより3日後の12月27日頃には詳報が伝えられ、同盟会議首脳部を狼狽させることとなった。 自信を持って送り出した野戦軍約一万が、いとも簡単に打ち破られたのである。交易商人の情報網や、リユセ樹冠国西の一統による諜報活動により帝國南方征討領軍の兵力をある程度正確に把握していたからこそ、敗北は彼らに大きな衝撃をもたらした。 帝國南方征討領軍先遣兵団の27日時点の兵力は以下の通りである。 本営警護隊 騎士・正規兵504名 コボルト斥候兵 約400名 ゴブリン軽装兵 約1500名 オーク重装歩兵 約500名 諸都市徴用兵 約2000名 総勢 約5000名 この中で、よく訓練された騎士団や都市自警軍と正面から交戦可能なのは、本営警護隊とオーク重装歩兵を合わせた約千名程度。残りは非力な妖魔か素人の寄せ集めである。「勝てる」そう同盟会議首脳部が信じていたのも無理はない。 だが、真の主力は別に存在した。南方征討領軍が誇る異能兵団である。 帝國南方征討領軍飛行騎兵団 翼龍騎兵21騎 『魔獣遣い』9名 有翼蛇52頭 帝國南方征討領軍魔獣兵団 約100名(『魔獣遣い』を含む) 人喰鬼、ヘルハウンド、剣歯虎等多数 数の上ではごく少数の彼らが、戦場で決定的な役割を果たした。 同盟会議野戦軍を打ち破った帝國軍は、ゴブリン兵による小規模な部隊を多数編成し南へ放っていた。ゴブリン達は「逃げれば死罪。あとは好きにやれ」と命じられている。ゴブリン兵は街道沿いの町や河畔の村を襲撃しながら南へと進んだ。 一部隊の兵力はゴブリン数十匹程度。同盟側の守備隊に遭遇すればあっさりと壊滅した。使い捨てである。しかし、守りの無い村や運悪く出くわした隊商は、ゴブリン兵により大きな被害を受けた。 大急ぎで義勇軍を編成していた南瞑同盟会議の下に、マワーレド川流域のあちこちから悲鳴のような救援要請が殺到した。 『レノの村がゴブリンに焼き討ちにあった。討伐隊を要請する』 『タルワ商会の隊商が行方不明』 『そこら中ゴブリンだらけだ。危なくて森に入れない』 帝國軍のやり方は、戦術の常道からは大きく外れていた。だが、被害は絶えない。早く手を打たねば諸勢力が離反しかねなかった。危機感を露わにした首脳部は、編成完結を待たず軍を北に進発させた。 野戦軍敗北の原因すら、はっきりしない段階での第二陣の出撃である。 森は兵を飲む。 同盟会議義勇軍を率いる冒険商人上がりの将軍、テラン・バンジェルマはそのことをよく理解していた。 ゴブリンの浸透を受けた同盟会議軍が取り得る手段は、守るべき拠点に僅かずつの兵力を配置しつつ、敵主力を捕捉し撃破することであった。ゴブリンの掃討には、兵が足りない。森に兵を分散投入しては、帝國の思う壷だった。 「さて。命からがら逃げてきたばかりの兵隊と、『進め』と『止まれ』しかまだ出来ねぇ民兵連中で、どうやって戦うべいかな、こりゃ」 諧謔味を感じさせる声で、バンジェルマがぼやく。シワの一つ一つに幾多の修羅場をくぐった経験を刻み込んだ隊商上がりのこの漢は、寄せ集めの義勇軍を率いる将軍として馬上の人となっていた。 頬に走る十文字傷は、率いていた隊商が凶暴なリザードマンに襲われた時の傷である。彼は四方から迫る妖魔の群れを、ただの商人と人足たちを指揮して撃退した経験を持つ。 「敵も似たようなものと聞きますぞ」 都市自警軍の百人隊長が、力づけるように言った。バンジェルマは噛んでいた煙草を道端に吐いた。 「確かに。んだが、なら何で精鋭揃いの野戦軍が負けたんよ? おかしかろ? 兵どもの言うには『ヘルハウンド』だの『翼龍』だのがおったらしいが」 「最近では、ブンガ・マス・リマ周辺にまで翼龍が出没しておりますからな」 バンジェルマは空を見上げた。街道の左右からは森の木々がせり出していて、青空は隙間から僅かに見える程度だった。 「翼龍はやっかいよな。……あぁ、あの異世界から来たとかいう連中、〈ニホン〉とか言ったか? あれらの助勢があればなぁ」 「無い物ねだりをしても仕方ありますまい。我らとて無策ではありませんぞ」 野戦軍本陣の壊滅により、どう負けたのかは依然不明である。ただ、魔獣に攻撃されたことは断片的に伝わっていた。 「敵に魔獣あり」これを受けてバンジェルマは、義勇軍の要請に応じた冒険者たちを軍主力の左右に配置、森からの奇襲に備えさせた。彼らは元々魔獣退治のプロである。パーティー編成された冒険者は、小規模遭遇戦に絶大な威力を発揮した。 すでにゴブリンとコボルトの小部隊を数個、捕捉殲滅している。 その時、前方から一騎の伝令が行軍中の本陣に駆け込んできた。馬体にぐったりと身体を預け、息も絶え絶えである。よく見れば、矢傷を受けている。 「何事か!」 「伝令! アスース近郊に帝國軍出現! その数、千名余。軍装から降伏した諸都市徴用兵と思われます。……至急、救援を」 諸都市徴用兵、その言葉に本陣の将兵は息を呑んだ。強いからではない。略奪暴行を欲しいままにするその暴虐ぶりが、すでに知れ渡っていたからであった。 放置すれば、アスースは滅ぶ。 「相判った。貴殿は休まれよ」 バンジェルマの言葉に安心したのか伝令は馬から崩れ落ちた。泡を吹いて痙攣する伝令を、慌てて兵が駆け寄り担ぎ出した。 これ見よがしに出現した徴用兵。近郊には野戦に適した平野部が存在している。 「……罠だな」 バンジェルマはあごひげをさすりながら、つぶやいた。 「だが、仕方ねえ。戦うべい」 南瞑同盟会議義勇軍本陣から、行軍中の諸隊に向けて、一斉に伝令が飛んだ。 ブンガ・マス・リマ北方 アスース近郊 2013年 1月3日 14時23分 交易都市ブンガ・マス・リマから北へ20キロ。この辺りまでくると、貪欲な都市の活動よりも大自然の地力が優る。 蛇行するマワーレド川の両岸には濃密な熱帯雨林が繁り、地表を覆っている。ブンガ・マス・リマを発した大街道はマワーレド川に沿い、森を縫うように地を這っていた。街道に寄り添うように所々森が拓け、そこには大小の集落と、そこに住む人々が開墾した水田が並んでいた。 それら人の営みは、まるで緑色の絨毯に描かれた、艶やかな紋様のように見えた。 だか今、その美しい絨毯の紋様は、タバコの火で焦がしたかのような有り様を晒していた。 街道沿いの町アスース、その周囲に広がる水田と畑のあちらこちらには、何かが燃えた痕が黒く点在し、今なお焦げ臭い煙を立ち上らせている。 燃えているのは荷馬車、駄馬、そして人であった。その周囲には、踏み荒らされた水田の上に、赤黒い内臓を晒したかつては人間だったものが散乱している。 気温の上昇によって、それらは自然の理に従い腐乱し始めていた。 川沿いには、ボロボロになった男たちがひざまずいていた。彼らの服装はまちまちで、鎧を着けている者、着けていない者、まともな着衣すら無い者すら存在したが、絶望に満ちた顔だけは同じだった。揃って青白く表情を喪っている。 彼らの背後には、剣や槍、戦斧を構えた兵士や妖魔が並んでいる。 指揮官の命令で、ひざまずいていた男たちに刃が振り下ろされ、槍が延髄を貫いた。唸りをあげた戦斧によって首が断ち切られ宙に舞う。 死体は川に蹴り込まれ、無数に浮かぶ先客たちに混ざって下流へと流れていった。 「サヴェリューハ閣下、敵前逃亡者38名の処刑つつがなく執り行いました」 「見ていましたよ。……彼らの係累について調べはついていますね?」 部下の報告に対し、帝國南方征討領軍先遣兵団主将、レナト・サヴェリューハは美しい顔を上気させ、うっとりとした口調で尋ねた。漆黒の薄金鎧のあちこちに血糊が付着している。戦場の興奮醒めやらぬ様子であった。 「は、親兄弟親類縁者に至るまで」 「では、処分しなさい。怖じ気づいた者の末路がどれだけのものか、この南蛮の地の無知蒙昧な方々に広く知っていただきましょう」 「御意」 副官の合図で、翼龍に跨がった操獣士が空へ舞い上がった。龍騎兵がもたらす知らせは、帝國軍の支配下にある諸都市に少なからぬ死をもたらすだろう。 南瞑同盟会議の北辺防備城塞「双頭の龍」を陥落させ、その全てを戮殺した帝國南方征討領軍先遣兵団は、驚くべき速さで同盟会議諸国を侵略していった。 彼らの流儀は明確であった。 「逆らう者には死を」 帝國は「双頭の龍」の惨劇に震え上がり、早々に降伏した都市に対しては寛大とも言える態度を示した。即ち、支配下に置き、物資と徴用兵を供出させるに留めたのである。 しかし、僅かでも──それこそコボルト斥候兵一匹を殺しただけでも──抵抗を見せた者に対しては、苛烈な仕置きでこれに応えた。 さらに巧妙なことに、帝國軍は同盟会議諸勢力が抱える反目を巧みに利用し、互いを監視させ、競って協力させるように仕向けた。 徴用兵の背後には、対立勢力による督戦隊を配置し追い立てさせた。彼らはやがて帝國軍よりも背後の督戦隊を憎むようになった。 戦場跡では、徴用兵たちが死体から金目の物を漁っている。また、林の影からは悲鳴と下卑た歓声が聞こえてくる。悲鳴の主は義勇軍に志願した冒険者に少なからず含まれていた女たちだろう。何が行われているのかは想像に難くない。 「『戦利品』の回収については、あと半刻許します。進発前には、余剰分や『使い終わった』ものについては処分するように」 サヴェリューハは嘲りと満足を細面に浮かべた。それらが何に対して向けられているのか、副官には分からなかった。もしかしたらサヴェリューハは、呆気なく敗北した敵の無能を嘲り、本能に忠実な徴用兵たちに対しては、心の底から満足しているのかもしれない。 彼にはそのような一面があった。 「同盟会議軍は、都市自衛軍残余千名にギルドが募った義勇兵──これは主に冒険者と呼ばれる者たちですが、これが約三百。さらに市民兵二千の総勢約三千三百程度でありました」 副官は手元の羊皮紙に記録した戦闘詳報を見ながら、報告している。かき集められた同盟会議軍に対し、帝國軍は約千五百名の徴用兵を差し向けた。 「徴用兵の損耗は約五百名。ただし、増援により戦力は回復しています」 損耗率三割。恐るべき死傷率であった。背後から追い立てられ、逃亡者には本人のみならず親兄弟に至るまで死が待っている。そんな過酷な立場の男たちに対して、帝國は対価を与えた。 敵対者に対する暴行略奪の「明確な」許可である。小は敵兵の死骸から金品を奪うことから、大は指揮官に対して、制圧した村を下賜することまで。徴用兵は奪うことを許された。 死への恐怖と戦利品の誘惑。相反する飴と鞭が、彼らを急速に血に飢えた兵士へと変えていった。前進か死か、と問われれば前へ進むしかない。 帝國はその苛烈な公平さとでも表現すべき態度をもって、南瞑同盟会議の版図を切り裂いて行ったのだった。 「敵将の首は確認しました。本陣を壊滅させ、混乱した敵軍の六割は包囲殲滅に成功しています。残余もゴブリン兵に追撃させています。あと二割は捕捉出来るでしょう」 サヴェリューハたちの周囲は、黒い甲冑を纏った帝國南方征討領軍正規兵が隙なく固めている。その前方には、水田地帯に南瞑同盟会議軍が骸を晒している。死体の群れは街道上に延々と南へ続いていた。 サヴェリューハはにこやかに言った。 「我らの戦術に、敵は対応出来ないようですねぇ」 この世界における軍の戦術は、その地域によって大きく異なっている。それは兵の種族や魔法の存在などの戦力倍化要素が勢力によって様々であることが影響していた。 とはいえ、刀剣類による近接戦闘が中心である以上大まかな型は存在する。たいていの場合戦争は野戦において会戦の形をとり、短期間で決していた。これは、未発達の兵站が野戦軍の長期間に渡る行動を支えられないことに起因する。 結果、短期決戦を必要とする両者は、陣形を組んだ軍勢を対峙させ、激突することになった。 通常主力となる重装備の歩兵は戦列を組む。がっちりとした陣形を組んだ歩兵の群れだけが、最終的な勝利を掴むことが出来るからだ。 主力歩兵の前面には軽装備の前衛部隊が配置され、主に弓矢や攻撃魔法で敵を攻撃する。また、主力歩兵の後方に長射程のバリスタやロングボウ部隊、魔導部隊が配置されることもある。 歩兵は味方の火力支援の下で敵の投射武器に打ち減らされながら前進する(運が良ければ味方のカウンターマジックや矢除けが得られるかもしれない)。そのうち両軍は接触し削り合いを始める。 戦闘はどちらかの陣形が維持できなくなったところで決する。陣形を組んだ歩兵は、一般的に驚くほど粘り強く戦うことができた。自分の隣に仲間がいることで、彼らは個人でいるときとは比べものにならない程の勇気を発揮した。 言い換えれば、陣形を崩された側が敗北する。攻撃側は側背を突かんと騎兵を旋回させ、防御側は予備隊をもって戦線の綻びを塞ぎ、陣形の両翼を延ばした。 側背──陣形の横や背後から攻撃されることが何故致命的なのかは、ラグビーのスクラム中に数名の重量級フォワードが横から突っ込んできたらどうなるかを想像してもらえば理解できるだろう。 この世界における指揮官──騎士団長、将軍、軍長、族長、その他様々な呼び名で称される者たちは、基本的にはいかに自軍の戦列を維持し、また敵の戦列を崩すかにその能力を傾注すれば良かった。 ごく稀に、国家級の魔導師による戦域魔法や、英雄と呼ばれる存在による一撃が戦争の勝敗をひっくり返すことがあったが、それは例外に過ぎない。 再編成った南瞑同盟会議義勇軍も、その常識に従い動いていた。 アスース近郊の平地で対峙した両軍は、互いに素人であった。市民兵も徴用兵も前進か後退しか出来ない。一度戦端を開けば、どちらかが崩れるまで戦うしか無い。 同盟会議義勇軍指揮官のバンジェルマ将軍は、現れた徴用兵を囮と看破しつつも、これを撃破する以外に取り得る方策は無かった。 同盟会議義勇軍は、市民兵隊を正面からぶつけ帝國軍を拘束、立て続けに都市自警軍を側面から突入させ、一気呵成に打ち破ることを目論んだ。冒険者たちは、軍の側面を守っている。 だが、帝國軍はそれを許さなかった。龍騎兵に帯同した『魔獣遣い』による有翼蛇の集中運用──30匹以上の蛇が未だ行軍隊形の義勇軍本陣を空から奇襲すると共に、やはり集中運用された大型魔獣の群れが側衛の冒険者たちを食い破り、同盟会議義勇軍を大混乱に陥れた。 バンジェルマは混乱の中戦死。統制を失った義勇軍は、包囲殲滅された。同盟会議は、全く同じ戦術に軍を打ち破られたことになる。 情報は存在した。しかし、それを戦訓として取り入れる暇も能力も無かった。都市商業同盟としての性格が強い、彼らの軍事的限界だった。 焦げた臭いに混ざって甘い腐敗臭が漂い始めた戦場で、サヴェリューハは副官が淡々と報告する言葉を聞いていた。彼の意識は、すでに次の戦場に向いている。 「飛行騎兵団は現有兵力、翼龍騎兵21騎。ワイアーム52頭であります」 サヴェリューハの流麗な眉がぴくりと動いた。半眼を副官に向ける。 「翼龍が1騎、ワイアームが3頭足りませんね。墜とされましたか? 損害が出たとは聞いていませんが」 「……あ、はッ! その、今回の損害ではありません」 たちまち副官は棒を呑み込んだかのような態度になった。顔面は蒼白になっている。 「では?」サヴェリューハの声が一段低くなった。副官は脂汗を流しながら釈明した。 「翼龍騎兵1騎とワイアーム3頭、随伴した『魔獣遣い』は、先月半ばから未帰還となっているものです。閣下のお耳に入れるほどではないと……」 「私の軍において、飛行騎兵団と魔獣兵団は要。それに損害が出たのに重要ではないと?」 副官は首筋に刃を当てられているような気配に震え上がった。いや、気配ではない。彼の首は、目の前の優男の腕が一閃すれば落ちるのだ。 「そ、その。恐らくは敵の魔術士に墜とされたものと推測されます」 副官は、しどろもどろになりながら弁明した。だが、サヴェリューハの表情はさらに冷たくなっていった。 「貴方の推測など要りません。確かな情報を集めなさい。それとも貴方──戦場の勘を取り戻す必要がありますか? 望むなら徴用兵の一隊を預けますよ?」 最前線に立つ徴用兵の指揮官の生存率は五割を切る。冗談では無かった。副官は必死にすがった。 「いえ! ただちに情報を集めます。あらゆる手段を用いて。全力で」 「励みなさい」 副官は虎口から逃れるかのように、猛烈な勢いで部下の元へと駆け出した。サヴェリューハはすぐに彼に対する興味を失った。爪を噛む。 (気に入りませんね。翼龍と有翼蛇を容易く墜とす程の敵が今の同盟会議にいるとは思えません) 少なくとも、有翼蛇がやられた時点で、翼龍騎兵は戦場を離脱するはずである。それが揃って未帰還。サヴェリューハはそこに不穏なものを感じ取った。 「ブンガ・マス・リマに行けば、分かりますかねぇ」 あと僅か20キロ南下すれば、そこは敵の本拠地である。サヴェリューハは新たな殺戮の予感に背筋を震わせた。 ブンガ・マス・リマ大商議堂 2013年 1月3日 夕刻 柔らかな精霊光とランプの光に照らされた豪奢な会議室は、重苦しい沈黙に支配されていた。中央の円卓には、彫像のように動かない男女が力無く席に着いている。 敗報は、泥まみれの兵士によってもたらされた。 義勇軍後衛に所属していたその兵士は、顔を鼻水と涙と泥でぐしゃぐしゃにしたまま、息も絶え絶えに市域を護る衛士に告げた。 「義勇軍は全滅だ! 帝國がくるぞッ!」 幸いにも、知らせは市民に広まる前に衛士団の所で留め置かれた。急報を受けて集まった同盟会議と商都の重鎮たちは、余りの事態に言葉を失っていた。 「おしまいだ」頭を抱えたままだった参事の一人が嘆いた。 「何を言うか!」 水軍提督アイディン・カサードが吠えた。だが、賛同の声は無い。カサードの叫びは高い天井に吸い込まれるかのように消えた。 「ようやく編成した義勇軍が全滅したんだぞ。なけなしの軍だったんだ。もはやこの都市を護る者はいないんだ」 見苦しく取り乱す参事だったが、その言葉は事実でもあった。 「こうも容易く全滅するとは……手練れの冒険者たちもいたというのに」 ギルド長ヘクター・アシュクロフトが声を震わせた。年齢は五十を数えているが、鋼を寄り合わせたような肉体に衰えを見つけることは出来ない。かつて『狂える神々の座』最深部から生還したこともある、生粋の戦士だ。 その彼の息子も軍に加わっていた。円卓に置かれた両手は小刻みに痙攣している。気付く者はいない。 「と、とにかく今後の対策を立てねば」 ロンゴ・ロンゴの言葉が虚ろに響く。 「市の残存兵力は?」 「我がパラン・カラヤ衛士団が二百、市警備隊が三百、撤退してくる残兵から五百は編成出来ようか……あとは市民から募るしかあるまい」 「て、敵は?」 「恐らくは五千以上。一万の我が野戦軍を破り、また義勇軍三千を殲滅した恐るべき敵である」 衛士団長のケーオワラートが重々しく言った。絶望的な戦力差だった。 「駄目だ。やはりおしまいだ!」 「ええい、いざとなれば儂のガレーから船手を全部陸に揚げるわ! それで五百はまかなえよう」 「水夫が陸に揚がって何ができる!」 「何をッ!」 「やめなさい」 議長席から制止の声が放たれた。柔らかな声色だ。だが、有無を言わせぬ迫力があった。海千山千の商人と、歴戦の海将を一言で黙らせるのだから並みではない。 声の主はマーイ・ソークーン。参事会議長である。 「それだけ声が張れるならば、街へ出て兵を集めなさい。今は仲間内で言い争う時では無いでしょう」 「……確かに」 「すみませんソークーン議長」 諭すような口振りで言い争う二人を収めたソークーンは、しがないエビ漁師の息子から議長まで上り詰めた立志伝中の人物である。昔は美男子でならした彼だが、今は立場に相応しい貫禄を備えている。 その外見と鷹揚とした態度からは、かつて冒険商人として西方諸侯領の御用商人たちと争い、彼らから『颱風』の名で怖れられた漢とは思えない。 ソークーンは、リルッカに水を向けた。 「リユセ樹冠国はどうしていますか?」 「はい……情勢は樹冠長の耳に入っています。いくらかの戦士は出せますが、戦況を覆す程では……」リルッカはそう言って視線を円卓に落とした。 リユセの妖精族は一人一人が優秀な精霊魔法の遣い手であり、弓手の上手であった。その妖精族の力をもってしても戦況は好転しないという。議場に再度重い空気が満ちた。 別の参事が、すがるように言った。 「そうだ! 〈ニホン〉の助けを借りるべきだ! あの不可思議な力を持つ軍ならば、帝國に対抗出来はしないだろうか?」 「それはよい考えだ! あの有翼蛇を倒したのだ。その力を帝國にぶつければ!」 「すぐに〈ニホン〉の代表に使いを──」 「無駄です」 ロンゴ・ロンゴが断ち切るように言った。普段の彼からは予想出来ない程、冷徹な響きだった。周囲が一様に黙り込む。問うような視線が集まったのを感じたロンゴは、重い口を開いた。 「すでに〈ニホン〉軍の指揮官の元へ出向いて、助勢を申し出ました。ですが断られました」 「な、なぜだ!? 帝國は〈ニホン〉にとっても敵であろう」 「私もそう言いました。ですがミヨシという名の指揮官は『我々が攻撃を受けない限り、こちらから手を出すことは禁じられている』と言うばかりで、全く通じませんでした」 ロンゴは落胆を隠そうともしない。周囲の参事たちからも失望のため息が漏れた。その中で最も衝撃を受けた顔をしている男がいた。ケーオワラートである。彼は拳を握り締め、首を振った。 「ロンゴ総主計、それは真か? 〈ニホン〉軍はすでに帝國の有翼蛇を墜としているではないか」 「ええ、私にも彼らの考えはさっぱり分かりません。ですが事実です」 「何かの間違いであろう。確かめて参る!」 ケーオワラートはそう言うと勢いよく立ち上がり、議場を飛び出していった。 呆気にとられた一同であったが、事態は惚けていようが居まいが変わらない。 「早晩市民にも敗報は伝わろう。治安が心配だ」 「治安だと? 我らはすでに敵対したのだぞ。帝國軍が市を陥とせば縊り殺されようぞ」 「すぐに防備を固めて……」 「いや、いっそ大陸から退くべきかも」 「馬鹿な。財物は容易くは動かせんぞ。無一文でやり直せというのか?」 参事たちは、てんで勝手に喋り始めていた。一人が気付いた。 「そういえば、何人か姿が見えないな」 「……言われてみれば」 「逃げ出したよ」 揶揄するように言ったのは、痩せぎすの男だ。職工組合の長を勤める彼は薄笑いを浮かべ続けた。 「商館長たちは流石に目敏いね。敗報が入った途端、大急ぎで逃げ支度だ。恐れ入る」 組合長は「俺たちは街を捨てられん。あんたらは好きにしたらいいさ」と吐き捨てると、天井を見上げ黙り込んだ。 何人かの参事や団体代表が慌てて議場を後にした。櫛の歯が抜けたような有り様の円卓では、さして効果の無さそうな対応策が話し合われている。 商都内の複雑な利害関係を捌き、他国商人たちを巧みに出し抜いて、ひたすら街を大きくしてきた参事会だが、眼前に迫る帝國軍に対しては何ら有効な手を打てず、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 前方監視哨 2013年 1月3日 18時27分 柘植は街道をこちらに向けて進むケーオワラートを見つけた。かなりの勢いで馬を駆っている。何か急報だろうか。そう思った彼は作業の手を止め、立ち上がった。 彼の率いる戦車小隊は、緊迫する情勢を受けその全車両を前方監視哨に配置している。ちょうど施設隊から借りた小型ショベルドーザで予備の戦車用掩体を掘り終えたところだった。 「ずいぶん急いでいますね。まさか、戦況に動きが?」 砲手の根来二曹が迷彩服の泥を払いながら言った。南瞑同盟会議側が敗北を重ねていることは、すでに陸自側も把握している。無人偵察機からの映像には、街道に沿って延々と倒れ伏した南瞑同盟会議軍の死骸が映し出されていた。 先遣隊本部は隷下の各隊に警戒を厳とするよう指示を出すとともに、偵察隊に対してオートバイ斥候の派出を禁じた。 陸自は、鬱蒼と茂る熱帯林の傘に邪魔をされ、南瞑同盟会議軍を屠ったはずの帝國軍を見失っている。先の戦闘は北方わずか20キロ。どこから帝國軍が現れてもおかしくは無い。 「いや、無線は静かなままだ。第一、帝國軍が現れるなら俺たちが最初に接触するはずだ。別件だろう」 「何でしょうね?」 「分からん。まあ、ちょうど良い。小休止にしよう」 柘植はそう言うと、ここ数日ですっかり打ち解けた異世界の武人を出迎えるため、森を出た。 衛士団長殿はよほど急いだようだ。柘植はケーオワラートの姿に驚きを覚えた。彼が乗る葦毛の馬体はびっしりと汗をかいている。鼻息は荒い。そして、普段なら彼の後を駆けて付き従う従者のカルフの姿が見えない。 「こんにちは。ケーオワラート団長殿。何かありましたか?」 ケーオワラートだけは、普段と変わらず鞍の上で真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。 いや。 よく見ると、ケーオワラートは尋常ではない緊張感をその顔面に漲らせていた。大きな瞳はつり上がり、口元は微かに震えている。戦の前でもこんな表情をするだろうか? 柘植は訝しんだ。 「ケーオワラート殿。もし、重要な話であれば向こうで伺いますが?」 「……いや、この場でよい」 柘植の申し出をケーオワラートは即座に断った。重々しい動作で軍馬を降りる。彼は周囲の隊員などいないかのように、柘植を見つめていた。 「ツゲ殿。貴殿に問いたいことがある」 「何でしょうか?」 ケーオワラートは、一言一言絞り出すように言った。常に不思議に思うことだが『通詞の指輪』は、その言葉の持つ空気さえ翻訳しているようだった。彼の言葉は重苦しい響きを纏っていた。 「昨日敗報が届いた。義勇軍が全滅した。聞いておるな?」 「……ええ、概略は」柘植は慎重に答える。 「参事会は貴国に救援を求めた。だが、貴国は断った──何故だ」 ついに来たか。柘植は先遣隊長の三好一佐とのやりとりを思い出した。指揮官参集が命じられ集合した本部で、彼らは告げられていた。 『帝國軍と南瞑同盟会議軍の情勢は達した通りだ。だが、現状は部隊行動基準を満たしていない。各部隊は明確な敵対行為を受けるまでは、交戦を禁じる』 『しかし、帝國軍は確実にブンガ・マス・リマに来ますよ。そして、同盟会議側にろくな戦力は残っていません。我々が助けなければ……』 『南瞑同盟会議は日本国の同盟国ではない。そもそもまだ国家として承認したわけでもない。防衛出動の根拠が無い』 『でも、目の前で山ほど殺されている。そして、もうすぐもっと死にます』 『死んでいるのは我が国の国民では無い。治安出動の要件も満たさない。手出しはできん』 『じゃあ、我々は何を根拠にして、いったい何のためにここにいるんですか?』 『命令は命令だ。各隊は警戒を厳とし、攻撃を受けた場合は速やかに報告せよ。可能な限り交戦を避けよ。以上』 参集した各指揮官は全員が納得のいかない表情を隠さなかった。三好一佐ですらそうだった。法律上、無理に無理を重ねた派遣である。彼らの立場はあいまいで、異世界の人々の扱いもまた、あいまいであった。 普通科小隊長が柘植に言った。『まるでPKOだぜ』 目の前で第三国同士が戦闘行為を行っていても、手出しできない。危険を回避しつつ、呼びかけるだけ。民間人が襲われていても、介入できない。幾度となく議論の俎上に上がりながら、なおざりにされてきた矛盾だ。 柘植たちにとって最悪なことに、日本国民が回したツケの払いが今、彼らの元に回ってきたのだった。 「我々は部隊行動基準によって行動を定められています。現時点で『帝國軍』と呼称される武装集団から我々は攻撃を受けておらず、交戦は許されていません」 「……貴軍は戦えないと申すか」 「もし、攻撃を受けた場合は反撃を許可されています」 ケーオワラートはうなった。 「すでに帝國軍の手によって多くの街が焼かれ、鬼畜の所業が行われているのだぞ。奴らは間違い無く来る。いずれは貴軍と当たるであろう。それが明らかでも今は戦わぬと言うのか?」 「……心情としては味方したいのですが」 柘植は不条理を思い知らされながら言った。 「襲われているのは南瞑同盟会議の人々であり、我が国の法律上これを助けるための武力行使は許されていないのです」 口を開くのが嫌になった。酷い話だ。 ケーオワラートは、柘植の言葉に顔を歪めた。そして、一瞬目線を北へ向けた後、静かに言った。 「……ツゲ殿。我は貴軍が厳しい軍律を守り、鍛え上げられた兵たちであることを知っている。であるからこそ、国法は絶対なのであろう──それが如何なるものであれ」 ケーオワラートはそこで言葉を切った。真っ直ぐに柘植を見る。黒々とした大きな瞳に、次第に感情が宿るのが分かった。 「だがッ!」ケーオワラートが吼えた。 「ツゲ殿。我が民の被害は是非も無きこと。我らの力が及ばぬが故に塗炭の苦しみを与えている。その責めは我らが負うべきであろう。 だが、〈ニホン〉はすでに帝國軍の侵攻を受けたのであろう? 多くの民を殺され、街を焼かれ、千を超える民が拐かされたままなのであろう! であるのに何故だ! 何故戦えぬ?」 「それは……」 ケーオワラートの剣幕に、周囲の隊員が一様に驚いた。ようやく彼に追いついて来た衛士団員やカルフも目を丸くしている。柘植は言葉を接げない。 「ツゲ殿は我に言ったな。〈ジエイタイ〉は日本国の平和と独立を守り、国民の生命と財産を守る。我はその言葉にいたく感服したのだ。まさに武人の本懐であると。我らと志を同じくする者たちだと──その言葉は、偽りであったのか?」 ケーオワラートの顔は真っ赤だった。その瞳は真摯な色を浮かべ、柘植を見つめている。口ひげが震えていた。ケーオワラートは柘植の言葉を待っていた。 「……それでも」柘植は言葉を絞り出した。 「それでも我々は、命令に従わねばなりません。それが我らの義務──」 柘植の内心は混乱していた。俺は、命令だからと思考停止しているのではないか? そんな思いが少なからず沸き起こった。だから、柘植は目を伏せた。後ろめたさを抱えたまま、ケーオワラートの視線に耐えられなかった。 「義務なのです。命令が無ければ交戦は出来ません」 ケーオワラートの手甲がぎちりと音を立てた。 「貴殿は己を偽っている。……だが、もう良い。我は見誤っていたようだ」 鱗鎧が金属音を立てる。彼は軍馬に跨がると、馬首を巡らせた。 「失礼する」 その日を境に、自衛隊とパラン・カラヤ衛士団の関係は決定的に悪化した。衛士はことあるごとに自衛隊員を悪し様に罵り、それによって市民の態度も一変した。 衛士や市民との問題が発生することが懸念された。ただ、それは杞憂に終わった。帝國軍南下による情勢の悪化から、先遣隊本部は各隊に外出禁止を指示。部隊は臨戦態勢に入ったのだった。 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 前哨陣地 2013年 1月6日 9時17分 陸自偵察隊が帝國軍を再捕捉したのは、南瞑同盟会議義勇軍壊滅から3日後の午前9時を回ったころだった。 稜線上に黒い染みが滲み出るかのように、帝國軍の姿が見えている。照りつける太陽の下で、その数は数千に達しようとしていた。くすんだ色合いの中に光るものは、全て彼らの持つ刃の煌めきだろう。 街道を見下ろす森に布陣した陸自偵察隊指揮官柘植一尉は、念入りに偽装した小隊長車の車長席から、眼下の光景を睨んでいる。 情勢が緊迫したことで監視哨から前哨陣地に役割を変えた森には、90式戦車4両が掩体壕に車体を沈めている。周囲には偵察隊の小銃班が展開していた。 前哨陣地を預かる彼らの前に、味方は存在しない。マワーレド川流域に広がる草原と湿地には、今や帝國軍が満ちようとしていた。そして、彼らの後方に構築すべきはずの主抵抗陣地もまた、存在しなかった。 偵察隊の後方は、ブンガ・マス・リマの市街地であり、小銃小隊と迫撃砲小隊が薄く展開しているだけである。彼らは部隊行動基準に縛られ、ろくに塹壕すら掘れていない。 結局、積極的な行動に出ることは許可されなかった。各隊はそれぞれの持ち場で首をすくめながら敵を待ち受けることしか許されていない。柘植の偵察隊は市外に布陣していたため、陣地を構築することが出来た。 幸運と考えるべきだった。柘植は部下に掩体壕の予備まで与えられたが、多くの部隊はバリケード程度しか用意出来ていないのだ。 「隊長、帝國軍が隊列を組み始めました」 小隊班員が、双眼鏡を覗きながら報告した。柘植は右手で了解の合図を出すと、無線で本部に報告した。 「ハリマ、ハリマこちらエゾ。前方5㎞付近に帝國軍多数確認。目標連隊規模、なお増大中。交戦許可を要請する。送レ」 『エゾこちらハリマ。攻撃を受けているか? 送レ』 先遣隊本部はすぐに返事を寄越した。無線の声はクリアだ。 「こちらエゾ。まだこちらは発見されていない。だが、帝國軍は南下している。当該勢力の脅威は増大中。発砲の許可を求む。送レ」 『交戦は許可できない。現在ブンガ・マス・リマ市警備部隊がそちらへ急行中。繰り返す。交戦は許可できない。送レ』 予想通りの返答に、柘植は舌打ちすると叩きつけるように返答した。 「エゾ了解。現地点で待機する。終ワリ」 「クソッ!」 「隊長、ブンガ・マス・リマ市方面より接近する集団あり」 柘植は身体をひねると、報告のあった方向に視線を向けた。蛇行するマワーレド川の流れに沿うように、道幅の広い街道があった。その路上を数百名の男たちが隊列を組んで北上していた。 「なんてこった。市警備部隊ってのはあいつらかよ……」 眼下には、パラン・カラヤ衛士団の姿があった。鱗鎧を煌めかせ早足で北へ進んでいる。柘植は慌てて無線に叫んだ。 「ハリマこちらエゾ。市警備部隊を確認した。『パラン・カラヤ衛士団』一個中隊規模。間違い無いか? 送レ」 『こちらハリマ。間違い無い。送レ』 「敵は連隊規模だぞ。兵力差が大きすぎる」 『エゾは現地点で待機せよ。交戦は許可しない。終ワリ』 戦車の周囲で小隊班員たちがざわめくのが分かった。「おい、あれっぽっちじゃやられちゃうぞ」柘植も同感だった。 衛士団は約200名。ほとんどが歩兵で10騎程の騎乗士と数台の馬車を帯同していた。先頭にはよく知った顔が見えた。その指揮官が腕を高く掲げ左右に振った。 衛士団の縦列が左右に開き始めた。 そこは蛇行するマワーレド川と柘植たちが潜む森がある丘に挟まれ、最も平坦部が狭まる地点だった。衛士団はそこに3列の横隊を敷いた。背後に馬車を並べ、わずかな数の弓兵を置く。 集団戦に慣れていないのだろう。その動きはどこかぎこちなく、列は一部に乱れを生じていた。 (まるで、ベニヤ板だぞ) 彼方に迫る大軍勢に対し、衛士団の戦列はあまりにも貧弱なものだった。予備兵力は見つけられなかった。 その時、視界の中に一台の馬車が入ってきた。馬車は土煙を立てながら丘を登っていた。間違いない。真っ直ぐに前哨陣地に向かっている。 「何のつもりだ」柘植は、入念な偽装を施した陣地の存在が暴露することを恐れた。だが、彼に馬車を止めるすべはない。彼は盛大にため息をつくと、車長席から飛び降りた。 「誰何の要なし! 俺が対応する」 柘植を見つけたのだろう。馬車は彼の目の前に走り込んできた。幌を外した荷台には衛士が2名と、麻袋が3つ。何だろうといぶかしむ間もなく、馬車は陣前に停車した。 「我はパラン・カラヤ衛士団衛士長ガーワ・ジュンジーヤ。団長より荷を預かってまいった」 御者台の上で細身の衛士が告げた。 「我らこれより戦に赴かん。願わくばこれなる荷を暫し預かっていただきたい」 「荷物?」柘植が質問する間もなかった。 「では、お頼み申す」 ジュンジーヤ衛士長の合図で荷台から麻袋が地面に降ろされた。かなり大きい。 「いや、ちょっと待っていただきたい。一体何のことだか──」 「おお、帝國軍どもが迫りよる。では、これにて御免!」 ジュンジーヤは言うだけ言うと、馬に素早く鞭を入れ猛烈な勢いで丘を下っていってしまった。 「隊長……こいつはナマモノですぜ」 小隊班員が呆れたように言った。麻袋を見る。確かに動いていた。よく聞けばうめき声が聞こえる。 「開けてみろ」 隊員が恐る恐る袋の口を開けると、そこからまろびでて来たのは手足を縛られた十代の少年たちであった。衛士団の従者である彼らは、袋から出るなりやかましく叫び始めた。 「団長! 僕らも戦います!」 「どうか、どうかお側に!」 「そこの異世界人。早く縄を解けェ!」 一目見て事情は察した。同時に思う。俺たちはやつらに軽蔑されていたんじゃなかったか? とにかく、黙らせる必要があった。柘植は3人に優しく呼びかけた。 「まあ、落ち着きなさい」 効果は無かった。 「あ、ツゲ様! お願いです縄を解いてください。私は団長のお側に行かねばなりません」カルフが懇願した。 「おい、早く縄を解けこの腰抜けどもが!」 「どうして、僕らを置いていくのですか! 戦えるのに!」 他の2人も興奮したままだ。 「カルフ君。事情はよく知らないが、団長たちは君たちを死なせたくないんだと思う。だから我々に託したんだ」 「ツゲ様! 私は命など惜しくありません。栄光あるパラン・カラヤ衛士団の一員として、戦場に倒れるならこの上ない名誉! どうか私たちを団長の元へ!」 「君たちが行ってどうなる?」 「貴方も武人ならお分かりになるはず! どうかお願いです。解いて下さい!」 「カルフ! こいつらは武人じゃないんだ。無駄だよ! ちくしょうほどけよッ!」 「解くことは出来ない──おい」柘植は、小銃班員に命じた。腹が立っていた。何で死にたがる。ガキのくせに。 「どうしますか?」 「このまま、73式に放り込んでおこう。縄は解くな」 「はッ」 柘植の命令を受けて、隊員たちは暴れる従者を抱え上げると、森の中へと運んで行った。その間も少年たちは叫び続けていた。 柘植が街道に目をやると、馬車は戦列に組み込まれていた。衛士団は戦闘配置を完成させたらしい。柘植は、ケーオワラートの姿を探した。どんな顔をしているのか見たくなった。 双眼鏡を構え、一番派手な男を探す。すぐに見つかった。戦列の右翼で背筋を伸ばしている。ケーオワラートはこちらを見向きもしなかった。 ただ、部下を率いて敵を睨んでいた。その姿はまるで巌のようだった。 「何を考えているんだ? あんたは」 帝國軍も衛士団を捕捉したようだ。行軍隊型が、アメーバが形を変えるように横に広がり始めた。鈍重な動きだが数の迫力が柘植を圧倒した。 戦闘は2時間もすれば始まるだろう。ケーオワラートの衛士団に勝ち目は無い。 柘植は車長席によじ登りながら、小さく罵声を漏らした。 ブンガ・マス・リマ西市街 陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊本部 2013年 1月6日 9時35分 左前になった小さな商館を借り上げた先遣隊本部内は、蜂の巣をつついたような喧騒に包まれていた。本部要員が異国情緒に頬を弛ませる余裕があったのは、ごくわずかな期間だった。 情勢は坂道を転がり落ちるように悪化し、本部要員の睡眠時間は削られ続けている。簡素ながらも歴史を感じさせた石造りの部屋は、無数のケーブルが床をのた打ち、発電機が駆動音を響かせる空間になり果てていた。 「偵察隊より帝國軍視認の情報! 市域北東5㎞付近。目標は連隊規模。偵察隊は交戦許可を要請しています!」 「交戦は不許可だ。徹底させろ」 「西市街街路上で対戦車小隊が市民に保護を求められています。市民から洋上の艦艇に収容して欲しいとの要求が殺到しているようです」 「有線通信網が使用できません。あちこちでラインが切断されています」 「この街の連中が、珍しいからって切っちまうんだ。畜生め」 「政府特使は大丈夫か?」 「現在、護衛と共に大商議堂で同盟会議側と調整中です」 「最悪、脱出も考えておくぞ。海自とチャンネルを開けておけよ」 無線がひっきりなしに鳴り響く室内で、周辺地図を見下ろしながら、先遣隊長三好一佐は、少し前まできれいに撫でつけられていたはずの髪をかきむしった。その細面には疲労が色濃く滲んでいる。 隷下部隊からは、ひっきりなしに「交戦許可」や「現地部隊との協同」「市街での本格的な防御陣地構築」等を求める無線が入っていた。三好はこれを全て却下している。彼にもそれを許す権限が与えられていないのだ。 「幕は何か言ってきたか?」 「いえ……こちらの具申に対しては『しばし待て』の一点張りです」 「何なんだ! 普段は『全て報告しろ。政治的な難しい判断はこちらでやる』なんて言っておきながら、肝心なときにこれか!」 上官の癇癪に首をすくめながら、幕僚の一人がささやいた。 「どうも、本国を含めたあちら側が相当大変なことになっているようです。2日前の中東から始まって中国国内もヤバいらしいですよ」 「だからって、こっちは放置か!」 「現状では、どうにもなりません。いっそ現地判断を考慮に入れるべきでは……」 幕僚の言葉に、三好は背筋を伸ばすとはっきりとした発音でこれを否定した。 「駄目だ! 現地部隊の独断専行は許されない」 彼は陸自の高級幹部として、現場指揮官の独自判断についていささか教条的なスタンスを持っていた。それは、一種のトラウマのようなものかもしれない。 「とにかく、部隊の保全に全力を尽くせ。陸幕に連絡を続けろ。情報は全て私に上げろ。いいな! 勝手に撃たせるな!」 「はッ」 ブンガ・マス・リマ北東7㎞付近 帝國南方征討領軍 義勇兵団 2013年 1月6日 12時18分 帝國南方征討領軍に所属する義勇兵団──実態は降伏した都市からの徴用兵である──カルブ自治市軍の一隊を率いるディル・マイラーヒは、苦労して部下に隊列らしいものを組み上げさせた。 彼の部下たちは控え目に表現しても荒くれ兵士という表現が似合う男たちであり、凡そ規律というものにはそぐわなかった。彼らに隊列を組ませていたものは、「隊列を組まねば死ぬ」という経験則であった。 (俺も堕ちたものだ) マイラーヒは自嘲の笑みを浮かべた。彼は元々カルブ自治市の警備隊長の一人だった。しかし、自治市が帝國軍に降伏。家族を守るためには、義勇兵団に加わることしか無かった。 帝國軍に組み込まれたあとの戦闘は苛烈を極めた。損耗前提の任務。素人ばかりの集団。督戦隊。そして、逃亡者とその一族への処分。彼を始め義勇兵団の男たちが荒むのに時間はいらなかった。 「ブンガ・マス・リマといやぁ一番の交易都市だ。お宝で溢れているぜ!」 「女だ。いい女が山ほどいる!」 「手前はそればっかりだな! ぐははは」 部下たちは好き勝手なことを言っては、下品な笑い声を上げていた。薄汚れた装備。いい加減な手当てのせいで、誰も彼も酷い面構えだ。マイラーヒ自身も左頬に大きな刀傷ができている。 「こないだの連中は、傑作だったなぁ」 「目の前で仲間が犯られているのをみて、泣いてやがった。ありゃ最高だった」 「スカした野郎だったからな。最期はぐちゃぐちゃに切り刻んでやったけどな」 戦利品だろうか。楽しそうに笑う男たちの腕には碧い水晶をあしらった揃いの腕輪が見える。マイラーヒは明らかな虐殺と略奪の証拠を前に、何も咎めようとはしなかった。 帝國軍は略奪を奨励した。元は善良な男たちは死の恐怖を逃れるために、最初はオドオドと、そのうち嬉々として悪行に手を染めた。 指揮官たちはそれを制止しなかった。暫くするとマイラーヒのような例外を除き、指揮官たちも略奪に加わった。 まれに悪行を止めようとした者もいた。しかし、そのうちいなくなった。死んだからだ。ある者は敵に討たれ、ある者は夜が明けると宿営地で死んでいた。 元はただの市民である。奪った貴金属を山ほどぶら下げた男は寡黙な粉挽きだったし、犯し殺した人数を誇る男は、教会の下働きだった。皆傷付き、汚泥にまみれ、獣となった。 マイラーヒは傷だらけになってしまった自分の手を見つめた。もう、俺はこの手に我が子を抱けないな。畜生、どいつもこいつも畜生だ。 一瞬顔を伏せ、歪める。周囲が何かにどよめいた。顔を上げると、前方に煌びやかな軍装に身を包んだ南瞑同盟会議軍が見えた。わずか数百。 加盟都市を守れなかった同盟会議のクソ野郎どもめ。俺たちはもう地獄に堕ちた。貴様等も道連れだ。 マイラーヒは昏い笑みを浮かべた。前進か死か。どうせ狂った世界なら、我も狂って殺して死のう。 「野郎ども! 敵はたったあれっぽっちだ! さっさとぶち殺して、街になだれ込むぞォ!」 マイラーヒの檄に部下たちが猛る。 「ウオオォォォォォオオ!」 「義勇兵団カルブ自治市軍、突撃!」 その号令を皮切りに、義勇兵団約2000が突撃を開始した。 ブンガ・マス・リマ北東5㎞付近 前哨陣地 2013年 1月6日 12時24分 「帝國軍らしい集団、突撃に移行」 了解、と返答した柘植は自分の声が震えていることに気付いた。部下にバレなければ良いが、と思う。眼下で繰り広げられつつある光景は、急速に破滅へと進みつつあった。 パラン・カラヤ衛士団は、薄い横隊を組み上げ敵を迎え撃とうとしている。突撃をかけた帝國軍は数千名。明らかに練度は低く、連携もとれていない連中だったが、この兵力差では大した問題ではない。 南方征討領軍主将レナト・サヴェリューハとその参謀たちは、圧倒的な兵力差を用いて、南瞑同盟会議軍を叩き潰そうと考えていた。 (連中、全滅しちまうぞ) 結果は見えていた。このままだと30分後には衛士団は全滅し、2時間後には市街地が戦場と化す。もし、俺たちが何もしなければ。 「01より各車。多目的対戦車榴弾(HEAT─MP)を装填」 柘植は、隊内系で指示を出した。敵に装甲車両が存在しないため、以後特令するまで弾種はこのままだ。ほどなく各車から装填よしの報告が上がる。 「小銃班、準備完了」小隊長車の傍らで、小銃班長が右手を上げた。柘植が頷く。小銃班長は「いつでも行けます」と言い残し、掩体壕に潜った。 もし、俺たちが参戦したならば──。 90式戦車の火力なら、たかだか数千名の兵隊など簡単に吹き飛ばしてしまえるだろう。衛士団は生き残り、街も助かる。 「やりましょう柘植一尉。このままだと、とてつもない被害が出ます」 「あいつら死んじまいます。ムカつく連中だけど、死なれたら寝覚めが悪い」 「隊長!」 部下から、次々と意見具申が上がる。そうだ、やろう。だが……くそ。俺が戦争の火蓋を切っていいのか? 胃袋が収縮し、酸っぱい胃液がこみ上げてきた。いつの間にか柘植の顔面は脂汗塗れだった。 「ハリマ、ハリマこちらエゾ。帝國軍と南瞑同盟会議軍は間もなく交戦状態に入る。兵力比は1対10だ。援護射撃の許可を要請する。送レ」 結局、陸上自衛官として受けてきた教育が柘植を踏みとどまらせた。先遣隊本部は混乱しているらしい。返答が来るまでに数分を要した。 「エゾこちらハリマ。交戦は許可できない。被攻撃時のみ反撃を許可する。送レ」 焦燥感と憤りで身体が熱い。だが、脳の一部は自分が脱力感と安堵を微かに覚えていることも認識していた。 ちくしょう、上に命令されたから撃ちませんでした。そう言い訳をして生きるのか、俺は。いっそ奴らが撃ってくれば。駄目だ。普通科の連中は生身なんだぞ。 すでに、帝國軍とパラン・カラヤ衛士団との距離は500メートルを切っていた。辺りには、北から逃れてきた避難民の群れが、よろよろと南へ逃げている姿があった。家財を抱えた者もいる。衛士団が敗れれば、彼らも帝國軍に押し潰される運命にある。 「両軍間もなく交戦距離に入ります──衛士団が射撃開始!」 「駄目だ、あの程度じゃ止まらねえ!」 アメーバのように形を変えながら前進する帝國軍の先鋒に向けて、衛士団の弓射が開始された。1斉射ごとに数名が倒れる。だが、偵察隊員が洩らした言葉の通り、押し寄せる大軍勢を止める力は無い。 胴間声。喚声。帝國軍の戦列が一斉に歩みを早めた。彼我の距離約100メートル。突撃発起点に達した帝國軍の各指揮官が、最終命令を発したのだった。これに対し、衛士団は長刀を構えた。 柘植は信じられない思いだった。あまりにも無謀な戦い方だ。衛士団は10倍の敵をただ正面から迎え撃っていた。 「おい、火の玉とか流星雨とかそういう魔法は無いのかよ……」 操縦手の村上三曹が呆然とつぶやいた。 鉄塊同士がぶつかり合うような音が響く。喚声は悲鳴混じりに変わり、戦列が接触したあちこちで血煙が舞った。 「ハリマ、ハリマこちらエゾ。帝國軍と衛士団戦闘開始。射撃許可を!」 「──」 返答は無い。無線からは空電のガリガリとした音が虚しく響く。 衛士団は精鋭の名に恥じぬ戦いぶりを示していた。長刀を振り下ろし、帝國軍の前衛を斬り捨てる。戦列はたわみこそしたが、破れなかった。 だが、練度で返せる兵力差では無かった。正面の敵を衛士が倒す横から、帝國兵の槍が突き込まれる。衛士はその柄を叩き割るが、さらに別の帝國兵が蛮刀を振る。1人に対して3人4人と襲いかかられ、衛士団の戦列は櫛の歯が欠けるようにやせ細っていった。 衛士団は勇戦敢闘した。 ひとりとして逃げる者は無く、誰かが倒れれば誰かがその穴を埋め、戦列を維持した。だが、それもわずかな時間のことだった。最も圧力を受ける右翼で、崩壊の予兆が生まれる。一度天秤が傾けば、早かった。衛士は次々と討たれた。 その時、柘植の耳に歌が聞こえた。 ゛意気天を衝き双腕に血は躍る ここより後に兵は無し いざ起ち奮えわが勇士゛ 演習後の懇親会の席。酔った彼らがしきりに歌っていた歌だ。右翼──彼らの指揮官がいるあたりで朗々とした歌声が戦場に響く。歌声を聞いた衛士たちが力を取り戻したように見えた。彼らは次々と歌声に連なり、戦った。 ゛われらパラン・カラヤ衛士団 誓って商都の御楯とならん゛ しかし、ほどなくして歌声は止んだ。柘植はケーオワラートの姿を探したが、戦場のどこにも煌びやかな軍装などは存在しなかった。全てが血と泥にまみれていた。 勝ち鬨が戦場に響く。戦闘開始からわずか十数分。パラン・カラヤ衛士団の衛士たちは全て地に倒れ伏していた。帝國兵は手にした剣で衛士たちに止めを刺している。青々としていたはずの草原は赤黒い血と臓物で黒く染まっていた。 「ぜ、全滅です。衛士団は全滅しました……」 血の気の失せた声で根来二曹が報告した。柘植は、車長席の縁を握りしめた。無意味な玉砕にしか見えなかった。つい先日互いを讃え合い、また反目し合った衛士たちは一人残らず肉塊となり果てた。 倒した帝國兵は数十ほどに過ぎない。 「何で……何で……」 柘植の頭は靄がかかったようだった。目の前で数百の人間が死んだ光景に、自衛官とはいえ一般的な現代人の感覚を多分に残す、彼の意識がついて来ない。何も出来なかった──いや、やらなかった。見殺し。ちくしょう、何で逃げない。死ぬぞ。このままではもっと──。 『──らエチゴ──』 ああ、奴ら避難民を襲い始めるぞ。何で交戦許可が下りないんだ。 『──ゾ、こちらエチゴ。感明いかが? ちくしょう、そっちまで──たのか?』 「──長」 みんな死んじまった。くそ! 帝國兵の外道どもめ。さっそく死体から追い剥ぎを始めやがった。 『エゾこちらエチゴ。応答してくれ』 「隊長! 隊長! 無線です!」 柘植は、そこでようやく現実に引き戻された。無線が彼を呼んでいる。村上三曹が心配気に砲塔を見上げていた。 「エチゴ、エチゴこちらエゾ。すまん、取り込んでいた。どうかしたか? 送レ」 『エゾこちらエチゴ。頼むからしっかりしてくれ! あんたが頼りなんだ』 何の話だ? 柘植の思考はまだ戻っていなかった。だが、エチゴ──西市街を警備しているはずの普通科小隊長の声が、新た な衝撃を柘植の脳に叩き込んだ。 『先遣隊本部は全滅した! 三好一佐は行方不明だ!』 「……何を言っているんだ? 敵が市内に侵入したとでもいうのか?」 『いや、敵の姿なんかどこにも見えん! だが、本部は全滅だ。通信が途絶したんで伝令を出したら、部屋は血の海だった。俺にも何が何だか……』 互いに符丁を用いることすら忘れていた。 「一体誰にやられたんだ……。そっちは無事か?」 『無事だ。他も全部。本部だけがやられた。繰り返すが敵が市内に入ったとの報告は無い。あんたのところが最前線だ──ところで、どうすればいい?』 柘植はぽかんとした。さっきからこいつは何を言っているんだ? 何で俺に聞く? 『おい、頼むよ。先遣隊で、あんたが先任なんだ』 「……そう、か」 考えてみれば当然だった。三好一佐と本部要員は全滅。序列に従えば、柘植が先任幹部なのだ。古今東西の軍隊のしきたりでは、指揮官が戦死した場合、最先任者が指揮を引き継がねばならない。 柘植は思わず空を見上げた。 何かが、南の方角へ飛び去っていった。10はいただろうか。鳥? いや大き過ぎる。 街道を見る。帝國軍は態勢を立て直しつつあった。おどろおどろしい太鼓の音が響く。避難民の一部はその場にへたり込んでいる。逃げる気力を失ったのだろう。 最後に部下を見た。掩体の中から隊員たちが柘植を見つめていた。彼の脳裏にケーオワラートの顔が浮かんだ。ケーオワラートは大きな瞳で静かに柘植を見ている。 あの親父、結局何も言い残さずに死にやがったな。 柘植は息を吐いた。肺が空になる。自然に酸素が肺に流れ込み、頭がすっきりとした気分になった。 「エゾより各隊。ハリマに代わり指揮を執る。各隊は警戒を厳とせよ。ハリマは敵の攻撃により全滅した。敵は帝國軍と思われる。我々は攻撃を受けた。以後、敵性勢力に対する発砲を許可する。ただし、発砲の際は民間人への被害を極限せよ」 柘植はゆっくりと命令を発した。大嘘をついたな、と思った。本部を全滅させたのが誰なのかまだ分からない。 各隊から了解が伝えられた。もう後戻りは出来ない。 柘植は吹っ切れた表情を浮かべると、張りのある声で戦車小隊に命令した。 「前方の帝國軍を撃退する。前方敵歩兵。距離500、対榴、小隊集中──」 柘植はひどく凶暴な気分になった。 「撃てッ!」 発砲音。爆風が顔を叩く。偽装に使っていた草が吹き飛ぶ。視界が白く染まる。柘植は笑顔すら浮かべていた。 「小隊前進用意。前へ!」 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 街道上 2013年 1月6日 12時53分 ディル・マイラーヒは高揚感と不機嫌の狭間にいた。 彼の所属するカルブ自治市軍は、南瞑同盟会議軍に勝利した。わずかな兵力にもかかわらず愚かにも立ちはだかった敵は、全滅した。マイラーヒ自身も、絶望的な抵抗を試みた敵兵を二人、切り捨てている。 勝利。それは何物にも代え難い。勝ったからこそ、彼は生き残っている。もしかしたら戦利品を抱えて、家族の元へ帰ることができるかもしれない。マイラーヒは『未来』という名の果実を掴み取ったのだった。 だが、その代償は大きい。 わずか10分ほど前には何とかそれらしい陣形を組んでいたはずの彼の部隊は、無様に崩れていた。軍隊として非常に脆弱な状況だ。敵兵の死骸から金品を漁る者が続出している現状は、野盗の群れと何ら変わりのない姿であった。 名誉。規律。練度。全てが存在しない。それなりに熟練した戦士であるマイラーヒにとって、目の前の光景は腹立たしいことこの上ない。彼は、盗賊の頭目になりたいわけでは無いからだ。 「いつまで浮かれている! 陣を組み直せ。すぐに市街地に突入せねばならんのだぞッ!」 マイラーヒが吼えるように命じると、旗手がしぶしぶ旗を立て、組頭たちが兵を怒鳴りつけ始めた。動きはのろい。疲れもあるのだろう。部下たちは農奴のような態度だった。 畜生め。いつもこれだ。もう、敵がいないから良いものの、まともな軍とぶつかったら酷いことになるぞ。 剣を鞘に収めながら、彼は思った。 突然、今の今まで血が昇っていたマイラーヒの思考が、ふっ、と冷えた。不思議な感覚だ。 目を動かさなくても全てが分かった。 昨日と同じように燦々と照りつける太陽の光の下、彼の間抜けな部下たちは、目の前のはした金を気にしながらノロノロと陣形を立て直している。 彼の隊の右翼では自治市軍の一隊が避難民に襲いかかろうとしていた。軍太鼓が乱打され、泥を跳ね上げながら数百の兵が前進している。 左翼には、気味の悪い森の土民ども──ソーバーン族の集団が勝利の舞いを踊っている。背後には糞忌々しい督戦隊。さらに帝國軍が堅固な縦隊を組んでマイラーヒたちを見張っていた。 彼の正面。南には二十万都市、ブンガ・マス・リマがある。敵軍はいない。全部倒した。そのはずだ。 そこで彼は違和感に気付いた。殺気と表現しても良い。誰かがこちらを見ている。どこだ? 後ろか? いや──あの森だ。 マイラーヒがそこまで考えた次の瞬間、丘の上に張り付くように繁った小さな森で、閃光が光った。一斉に鳥が飛び立つ。貧弱な森の外縁部が、破裂したように見えた。 柘植小隊の放った集中射は、パラン・カラヤ衛士団を全滅させた敵兵のど真ん中で炸裂した。一瞬、砂糖に群がる蟻のように見えていた敵兵の姿がかき消える。 擬装を払いのけ、前哨陣地がある森を飛び出した4両の90式戦車は、低木をはね飛ばしながら猛烈な勢いで丘を下った。起伏の大きさをものともしない。履帯が地面を噛み、重量50トンの車体を力強く前進させた。 世界水準の第3世代主力戦車として、北海道の原野でソビエト自動車化狙撃師団のTー80の群れを迎え撃つべく、三菱重工業によって設計された90式は、アラム・マルノーヴの戦野を疾走するために必要な性能を十分に与えられていた。 とはいえ、さすがにお世辞にも乗り心地は良いとは言えない。起伏を越えるたびに、車体は前後左右に大きく揺れた。柘植は慣れ親しんだ振動を巧みにいなしながら、車長用視察装置を覗き込んだ。前方の街道上は帝國兵で埋まっているように見えた。 敵はこちらの砲撃に混乱しながらも、慌てて密集陣形を組み直している。旗がしきりに振られ、兵たちが集結を始めていた。付近に味方の衛士たちはいない。全滅したからだ。 柘植はこみ上げてきた感情を強引に無視すると、無線に向かって指示を出した。 「01より各車。01と03は右、02と04は左に開け。射線に注意しろ」 『02了解』小隊陸曹が指揮する2号車がすぐに返答した。ベテラン陸曹長が指揮する2号車は、返答と同時に切れの良い挙動で針路を変更した。4号車が後に続く。 雁行陣形が左右に開く。2両ずつに分かれた戦車小隊は、左右から帝國軍を包囲するような機動をとっている。120㎜滑腔砲を重騎士が抱えるランスのように振りかざし、砲塔が重々しく旋回した。スタビライザが作動し、砲口はまっすぐに敵を睨む。 「砲手、前方敵歩兵、対榴。操縦手、停止よーい、止まれ! 撃てッ!」 重量50トンの巨体が、わずか2メートルの制動距離で停車する。発砲。衝撃。大気を切り裂いて榴弾が敵兵に吸い込まれた。轟音と共に土煙があがる。赤い火がかすかに見えた。その向こうで人間が吹き飛ぶのが分かった。 柘植は射撃が完璧な統制の元で行われ、寸分違わぬタイミングで弾着したことに満足した。彼の内心に、自身が少し前に見せた迷いは存在しない。戦闘が開始された今、柘植という存在は単純化されている。機動力と火力で敵を包囲し、分断し、殲滅するのだ。 「いいぞ、このまま開く。前進よーい、前へ。砲種連装、連装行進射──撃てッ!」 柘植車はディーゼルエンジンの音高らかに前進を再開した。3号車が続く。距離が詰まる。掘り返された地面の上でもがく帝國軍に対し、砲塔主砲同軸に装備された車載機銃が火を噴いた。 帝國軍義勇兵団は完全に混乱していた。無理もなかった。南瞑同盟会議軍を殲滅し、あとは市内に突入すれば勝ちだ。そう思っていたところに、奇襲を受けたのだ。 『右も左も敵だらけだ。どっちに撃っても当たるぞ』 『04、02。敵歩兵、対榴、班集中行進射、撃てッ!』 『命中、命中』 「砲手、続けて撃て」柘植は曳光弾の行き先を見つめ、命令した。 「発射」根来二曹の冷静な声色がレシーバーに響く。発砲。車内に焼尽薬莢の燃える臭いがした。 機銃に引き裂かれ、算を乱して逃げ出そうとしていた帝國兵が吹き飛ぶ。パラン・カラヤ衛士団を全滅させ、その遺体を漁っていた集団はあらかた土に還っていた。柘植は、カラカラに乾いた唇をひと舐めすると、次の命令を発した。 「敵を蹂躙する。全車前進」 帝國兵はまだ千名以上が健在だった。叩くなら混乱している今だ。柘植は、ごく自然に思った。 『エゾこちらヒナギク。支援は要らないか? 送レ』 小銃班長のじれたような声が無線から響いた。彼らはまだ森で待機している。 「こちらエゾ。敵兵は多数だ。君らを出すのは危険だ。そのまま待機されたい。送レ」 『しかし、随伴歩兵無しだと危ないよ』 「大丈夫。弓、槍と刀じゃこいつはかすり傷一つ負わない」 小銃班長の心配に、柘植は明るく答えた。彼は生身の隊員を敵に曝すことは、危険だと判断していた。道理であった。戦車は矢傷を負わないが、人間は違う。 だが、次の瞬間。突然の衝撃に柘植は激しく揺さぶられた。身体が前方に放り出され目の前の操作パネルに頭を打つ。一瞬意識が遠くなる。戦車が何かにつんのめったようだ。 「車体正面に被弾! 被弾です!」 何だと? 一体何があった? ぼやけた視界と思考の中で、柘植は村上三曹の悲鳴のような報告を聞いた。 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 街道上 2013年 1月6日 13時02分 マワーレド川の水面が太陽の光を乱反射して金色に煌めいている。その光景はまるで一面に金剛石をちりばめたように美しい。だが大河に沿って伸びる大街道上では、数百名の人間たちが血と泥の海に溺れ、もがいていた。 帝國南方征討領軍義勇兵団約二千は、完全に統制を失いつつあった。突如、軍の側面に叩きつけられた敵の奇襲は破滅的な威力を発揮した。閃光と共に浴びせられた火炎弾は、一瞬にしてカルブ自治市軍の一隊を肥料に変えてしまった。 奇襲を受けた軍は脆い。その衝撃は、精鋭部隊をたやすく烏合の衆に変えてしまう。まして、義勇兵団は精鋭とは言えぬ徴用兵の集まりに過ぎない。 「……あの森から出てきたものは、何だ? あんなものは見たことが無い」 「分かりません。あの様な魔獣は聞いたことがありません」 帝國南方征討領軍指揮官が魂の抜けたような声で呟き、参謀の一人である魔導師が青い顔をして答えた。 ほんの数分前まで、彼は順調な戦ぶりに満足していた。彼が指揮するのは諸都市混成義勇兵団二千と、やはり徴用兵からなる督戦隊二百。そして直率するゴブリン三百と帝國兵約百騎。 戦闘序列に従い前衛に横陣を組んだ義勇兵団、その後方に督戦隊。最後方に予備兵力として本営を配置し、帝國軍は南瞑同盟会議軍最後の防衛線に対して攻勢を開始した。 対する南瞑同盟会議の最終防衛線は、わずか二百の衛士団に過ぎず、交戦開始からいくらも経たぬうちにあっさりと壊滅していた。損害は義勇兵団に数十程度。帝國軍指揮官はますます笑いを大きくした。 人の財布で飲み食いするようなものだった。金の代わりに浪費されるのは生命だが、どれだけ増えても指揮官の懐は痛まない。 だが、突如義勇兵団に叩きつけられた爆炎と、森から現れた4体の魔獣が全てを台無しにしつつある。 幕下の騎士が咎めるように言った。 「呆けている場合ではありませんぞ。あの魔獣の正体が何であれ、このままでは軍が崩壊いたします」 すでにカルブ自治市軍の半数が壊乱し、周囲の隊もそれに引きずられるように乱れ始めていた。魔獣は軽騎兵も顔色を失うほどの速さで駆け、炎を放ち、徴用兵を蹂躙している。 幸いにして後方の督戦隊と直率する本営は統制を保っていたが、手を打たねばそれを失うことは時間の問題であった。 「……しかし、どうすれば良い?」 魔獣は戦象より巨大で、ヘルハウンドより速く、強力な魔導を用いている。そんな相手にどう立ち向かえば良いのかさっぱり分からない。 「飛行騎兵団か魔獣兵団に援軍を要請しては──」 「莫迦なッ! そのような無様な真似が出来るか」 主将サヴェリューハは無能を許さない。わずかな敵をもみ潰すだけの任務で援軍など求めては、身の破滅である。指揮官は両腕を振り回し、参謀の進言を却下した。そうしている間にも、前衛は滅茶苦茶に叩かれ続けている。 「御覧ください! 魔獣の一体が足を止めましたぞ」騎士が弾んだ声で言った。 確かに、左翼を切り裂いていた巨体が足を止めていた。一体何が? 指揮官は目を凝らし数百メートル先の魔獣を見つめた。 「あれは……ソーバーン族の精霊魔法でございます」 「おおッ!」 魔獣の体躯に、太い蔓が幾重にも絡みついている。精霊遣いが森の精霊に働きかけ、召喚したのだった。太いもので人の腕ほどもあろうかという蔓が、無数に地面から立ち上がり、まるで壁のように魔獣に立ち塞がっていた。 並みの精霊遣いであれば、せいぜい10メートル先の人間の足を絡め捕るのが関の山である。獣の如く森に生きるソーバーン族が、どれほど濃く精霊と共に在るのかを示していた。 「あれならば、もしかしたら倒せるやもしれん」 指揮官はすがるように言った。自らが征服し従えた者たちに頼らなければならない現状の滑稽さに、彼は気付いていなかった。 「柘植一尉! 大丈夫ですか?」 「ん、ああ……大丈夫だ。状況を」 根来二曹の呼びかけに答えた柘植は、頭を振りながら言った。90式は停止している。システムに警報は──出ていない。発煙も無い。 「今のところ砲その他に異常はありません」根来二曹が操作パネルを確認しながら言った。となれば、駆動系か? 「村上、そっちはどうだ?」 「現在、停止中。エンジン異常なし。ですが、衝撃の後引っかかっているような感じです。車体前面に何かがあるようなのですが……よく見えません」 「車体前面だと?」 柘植は車長用視察装置を見た。数十メートル先に蠢く敵兵。あちこちが掘り返された草原。十時方向に僚車が見えた。2号車だろうか? 当然の事ながら、車体前面は見えない。索敵のためのサイトは、数メートル先の地面を見るようには出来ていなかった。 ハッチ全周に設けられたペリスコープも似たようなものだった。畜生、何が引っかかっているんだ? 戦場で止まったままなんで冗談じゃない。 柘植は速やかに決断した。足を踏ん張り、両手でハッチを持ち上げる。新鮮な、だが生臭さを感じる空気が車内に流れ込んだ。 「直接確認する」 両手両足で身体を持ち上げた。視界が一気に広がった。素早く周囲を確認する。先程より敵が迫っている気がした。気のせいではない。歩兵は、停止した戦車に肉薄しようとするものだからだ。 彼の戦車を止めたもの──それは濃緑色の蔓の群れだった。車体前面下部をびっしりと覆っている。元からあったとは信じがたい。この世界の非常識が襲ってきたことに間違いない。柘植は魔法の非常識さに驚きながらも、被弾では無かったことに安心した。 「こんなものでどうにかなると思ったか! 操縦手、ただの蔓だ。前進して引きちぎれ!」 「了解、前進します」 行く手を塞がれた怒りも露わに柘植が命じると、V10水冷ディーゼルエンジンが、車長に感化されたかのような唸りを発した。排煙が排気管から立ち上る。樹木を裂く湿った音が聞こえ始めた。 森から飛び出してきた敵を足止めせんと、ありったけの精霊魔法をかき集め、叩きつけながら、ソーバーン族第四支族長ハイヤ・ソーバーンは絶望的な気分に陥っていた。 敵は──いや敵かどうかもわからない異形は、巨大で速かった。長大な角を振りかざした四体の化け物は、絶えずその角と頭から炎を吐き、義勇兵たちを吹き飛ばしている。 ハイヤは、無意識に登ることの出来る大木を探していた。肉食獣に遭遇したとき、森に糧を求め生きる彼らは樹上に逃げる。身体がその記憶を思い出している。 未熟な若い男の中は、恐怖のあまりその場にうずくまってしまう者もいた。だが、ハイヤは支族長としての矜持と戦士としての経験を総動員し、己を奮い立たせた。 「あれは、祟り神ぞ」誰かが言った。 色とりどりの獣骨で作った護符がじゃらりと鳴る。鮮やかな紋様を全身に彫り込み髪を結い上げたハイヤは敵を凝視した。 古老より口伝えに聞く、森の奥深くに潜む禍。人に祟り仇なすそれは伝説の中にのみ存在していた。 今日までは。 「駄目か……」 高位の術師である彼を含めて、十人以上が精霊に呼びかけ顕現させた戒めも、化け物は容易くかみ砕こうとしていた。野太い蔓が激しい音を立てて引きちぎられる。あの調子では突破されるのは時間の問題だろう。 「何でもよい。放て」 ハイヤが命じると、ソーバーン族の戦士たちは各々が持つありったけの得物を化け物にぶつけた。 彼の右手側で、空気を震わす笛の音に似た音と共に拳大の石が放たれた。投石隊のスリングだ。熟練した戦士が用いれば、100メートル先の重装歩兵を昏倒させる投石が雨霰と化け物に降り注ぐ。矢が放たれる。 左手側では精霊遣いたちが再度〈戒めの蔓〉を詠唱し始めた。付近に精霊が集まっているのを感じる。地中から湧き出た蔓が敵に伸びた。 だがその全てが、化け物にわずかな手傷すら与えられずにいた。化け物は、ついに蔓を引きちぎると、猛烈な勢いで突進を始めた。悪夢のような姿だった。長大な角がハイヤに真っ直ぐ向いた。 彼は化け物の上に人間が乗っていることに気付いた。魔獣遣いか。あれを殺すことが出来れば──いや、出来まい。 化け物は剣歯虎より速く走っている。にもかかわらずその角はぴたりとこちらを向いて少しも変わらない。彼は自分が狩られる獲物であることに気付いていた。 「おお、偉大なる森の精霊よ。彼の祟神をどうか鎮め賜え──くそったれ! あんなものがいるなんて聞いてないぞ」 ハイヤは引き続き何か冒涜的な言葉を発しようとした。化け物の角が赤く光った。何かが放たれる。猛烈な閃光と爆発がハイヤを包み、彼が続きを叫ぶことは無かった。 「命中。目標を撃破」 根来二曹が冷静に報告する。 柘植の90式は車体前面に絡みついていた蔓を纏めて引きちぎると、敵軍に対して突撃を再開した。民族衣装を身にまとった集団は、散り散りになって逃げまどっていた。熱風が柘植の頬を叩く。彼は車長席から上半身を出し、周囲をせわしなく見回していた。 「隊長、危ないですよ」 「ああ、確かに──」流れ矢が車体に当たって硬質な音を立てた。柘植は首を竦めたが、車内には戻らない。 「危ないな。だけど周りはよく見える」 様々な努力が払われているにも関わらず、戦車内部からの視界がごくわずかな範囲に限られるという欠点は、完全には解消される見込みがない。 今世紀に入っても、随伴歩兵無しに敵勢力圏に踏み込んだ主力戦車が、手酷い目に合った事例は無数に存在する。必要な対戦車火器を装備し、地形を利用するのであれば戦車の撃破は可能なのである。 もちろん多くの場合、対価として相応の人命を支払う必要があるのだけれど。 「まずいな」 再度周囲をぐるりと見回した後、柘植は固い声で言った。 いつの間にか彼の戦車小隊は敵と混交してしまっていた。蹂躙された敵兵がバラバラに逃げ散った結果、敵のど真ん中に突入した形になってしまったのだ。数十メートルという戦車にとっての至近距離に、武装した敵兵が右往左往している。 「近過ぎて主砲が撃てません。機銃で叩きます」根来二曹の声が砲塔内から聞こえた。 速度を保っているうちは良い。だが、さっきのように足を止められた場合は危険だった。柘植は改めて異世界である事を思い出していた。 身一つで対戦車ロケット並の火力を持つ奴がいるかも知れないじゃないか。迂闊だったかな。とにかく動き続け、敵を叩き続けるしかない。 90式戦車の周囲は、怒号と悲鳴、そして発砲の轟音が支配している。多くの敵兵は逃げ惑っているが、驚くべき事に未だ戦意を保っている集団も存在していた。柘植は、何が敵兵を踏みとどまらせているのか見当がつかない。 彼はひとまず主砲で攻撃可能な相手を探すことにした。車長用照準潜望鏡を回転させる。パノラマサイトがすぐに敵を見つけ出した。300メートル前方に無傷の敵が待機している。あれなら、狙える。 「砲手、二時方向、距離300。あいつをやるぞ」 根来二曹が旋回ハンドルを操作した。電動機の力で長大な砲塔が重々しく右を向く。砲身がわずかに動き、仰角が微調整された。当然の如く装填は終わっている。 「照準よし」 「撃てッ!」 発砲。砲が後座する。すぐに駐退復座装置が作動し砲身は元の位置に戻った。発射された今日8発目の砲弾は、オレンジの光跡を残し敵のど真ん中に吸い込まれた。 本営の前方に展開していたケルド市軍が魔獣の炎に貫かれた。耳を塞いでもなお強烈な爆音が辺りに木霊した。濛々と土煙が上がり、視界を塞ぐ。 今まで、督戦隊として前衛を駆り立てていたケルド市民兵たちは、一撃で大損害を受け戦意を根こそぎ吹き飛ばされた。悲鳴を上げてのたうつ者。悲鳴すら上げることなく横たわる者。それらを残し、あっさりと壊乱する。 それを咎め戦列に引き戻すべき本営は、言葉を失い立ち尽くしていた。 「な、何故あんな化け物が我らを襲うのだ! 南瞑同盟会議の奴らは如何なる手管を用いている?」 指揮官はひたすら狼狽し、金切り声を上げた。本営の帝國兵にも動揺が広がる。 「分かりません! 分かりません! あれはこの世のものでは無い! あのような魔獣はこのアラム・マルノーヴには」 そこまで言った参謀は、突然何かに気付いたかのようだった。目を大きく見開き、ガタガタと震える。 「どうした? 何か心当たりがあるのか?」 「まさか、まさか……あれは。あ奴らは!」 「知っているなら申せ!」 「何ということだ。早くサヴェリューハ閣下にお伝えせねば! もし、あれが〈門〉を越えて来たのであれば──」 「〈門〉? それは何だ?」 指揮官は参謀の変貌に得体の知れぬ気味の悪さを感じていた。恐る恐るといった風情で尋ねる。参謀は、白蝋の如き顔色のまま、言葉を絞り出そうとした。 「恐らくあれは〈門〉から現れし異──」 「化け物がこちらにッ!」 本営詰めの騎士が警告を発するのとほぼ同時に、いつの間にかこちらを向いていた魔獣の角から、鮮やかな炎が吹き出した。 参謀が最後まで言葉を発することは無かった。彼らを含む本営の帝國兵たちは、無数に飛び散った弾片を全身に受け切り刻まれた。 ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 2013年 1月6日 13時11分 正午過ぎに始まった戦闘は、大量の死傷者を発生させつつ拡大の一途を辿っている。始めは南瞑同盟会議軍パラン・カラヤ衛士団が戦神の御許に突撃し、続いて帝國南方征討領軍が冥界へと進軍した。 陸自マルノーヴ先遣隊が、わずか一両の90式戦車による射撃で帝國軍本営を粉砕したことは、義勇兵団に致命的と言える衝撃を与えた。 後方に控える帝國軍の縦列が、華美な軍旗ごと消し飛ぶのを目撃したカルブ自治市軍の一隊──すでに壊滅したマイラーヒ隊とは別の部隊である──は、あっさりと士気を崩壊させた。柘植の90式戦車は、彼らを支えていた「欲」と「恐怖」をまとめて吹き飛ばしたのだった。 「待て! 逃げるな、おい!」 カルブ自治市軍百人隊長が人の波に押し流されながら叫ぶ。当然聞くものなどいない。徴用された市民兵たちは、我先にと逃げ出していた。 「莫迦野郎ッ! あんな化け物相手に何が出来るよ」 「しかし、逃亡は死罪だぞ」 百人隊長の傍らを駆け抜けながら、兵士は呆れたような顔で言った。 「お目付役はみんな死んじまっただ。誰も見ちゃいねえよ。悪いことは言わねぇ、隊長も逃げちまいな」 「マイラーヒ様の部隊を見なよ。誰も生きちゃいない。俺はああなりたくねぇ」 百人隊長は辺りを見回した。彼の所属する隊は中央に位置していた。右翼のマイラーヒ隊は、街道上で全滅していた。左翼のソーバーン族は化け物に引き裂かれ散り散りに森へ逃げ込んでいる。 彼は背後を見た。自分たちを戦場に追い立てていた、憎んでも憎みきれないケルド市の連中はすでに壊乱し、帝國軍本営は跡形も無かった。 うなり声が聞こえた。気がつくと目と鼻の先に、小山のような巨大が迫っていた。角を振りかざし、全てを踏み砕いて進んでくる。気がつくと百人隊長は一人になっていた。マイラーヒ隊の生き残りを合わせて千名以上いたはずの兵士たちは、誰も残っていなかった。 百人隊長は気付いた。目の前の暴力の塊に対し、自分が何を出来るというのだ。無力。ただ挽き潰される存在でしかない。 「ヒッ、ま、待ってくれぇ!」 彼は情けない悲鳴を上げると、武器を放り投げよたよたと森の中へ駆け出して行った。 後には無数の武具や軍旗、そして物言わぬ骸が残された。 柘植は肩すかしを食らった気分だった。あれだけ頑強に抵抗していた帝國軍は、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったからだ。 「01より全車、状況知らせ」 『こちら02、河川敷へ到達。被害無し。戦闘可能』 『03、車載機銃残弾僅少、戦闘可能』 『04、戦闘可能。付近に敵影無し。みんな逃げちゃいました』 「01了解。全車警戒態勢を維持せよ」 終わるときはあっさりだったな。いくら砲撃を食らわせても引かなかった連中が、急に崩れたのは何故だ? 柘植は一つ息をつくと、森で待機している小銃班を呼び出した。北方から迫る敵がこれで終わりだとは限らない。速やかに生存者を救出し(仮に生き残りがいればだが)、防衛線を再構築しなければならなかった。 「隊長、囲まれています」 村上の声に、柘植は慌てて周囲を見渡した。確かに囲まれていた。いつの間に。だが、戦車を包囲しているのは兵士では無かった。 避難民である。 本来なら帝國軍に蹂躙され、なけなしの財産ごと焼き払われる運命だった者たちだ。ある者はマワーレド川に身を踊らせ、ある者は諦めの境地でわずかな窪みに身を伏せていた。 だが、森を飛び出してきた巨大な何かによって、あっという間に帝國軍は撃退された。最初は悪魔が出たと誰もが思った。ところがよく見れば人が乗っているようだ。そのうち、誰かが異国から来た風変わりな軍勢のことを思い出した。 「あなたが大将さまで?」 目の前におずおずと進み出た、泥の塊のような見かけの男(声色で柘植はそう見当をつけた)が言った。そこだけは泥の色ではない瞳が、明らかに怯えた光を湛えている。柘植は右手にはまった『通詞の指輪』を確かめると、なるべく明るく聞こえるように答えた。 「私は日本国自衛隊の指揮官です。あなたがたの敵ではありません」 だが泥の男は、ヒッ、と悲鳴を漏らし後ずさった。思ったより強めの声が出てしまったらしい。柘植はまだ、戦闘の余韻が消せない。 「〈ニホン〉? 聞いたことがございません。同盟会議の御味方で?」 気がつけば周囲には百人を超える避難民が集まっていた。誰一人まともな身なりをした者はいない。傷つき泥にまみれていた。まだ幼い子供の姿もある。小学生くらいの兄が、妹を背中に守ろうとしている姿を視界の隅に見た柘植は、ぐっと奥歯を噛み締めた。 みんな怯えている。殺されるのではと震えているじゃないか。彼は努めて明るい表情で避難民たちに語りかけた。 「我々は、南瞑同盟会議の味方です。帝國軍から守るために、この地に派遣された者です。もう大丈夫、安心してください!」 その言葉の効果は劇的だった。 避難民たちが一斉に戦車に駆け寄る。泥まみれの顔には笑顔が浮かんでいた。 「助かった! 俺たち助かったんだ!」 「おおお、信じられない。奇跡だ」 「ありがとう! ありがとうございます。あなた方のおかげです」 彼らは口々に礼を述べた。柘植は「危険だから離れるように」と言おうとしたが、あっという間に周囲は避難民たちで溢れかえった。 森を出た小銃班の隊員たちは、戦車が包囲されている様子に色めき立ったが、すぐに状況を理解した。凄惨な戦場でぼろぼろの姿で集まってくる人々。一部の者は額や腕から血を流し、動けなくなるほど衰弱した家族を抱える者もいる。 彼らには90式の武骨な車体が、まるで神の御遣いのように見えているのだ。 小銃班員たちは、速やかに行動を開始した。彼ら自衛隊員にとり、『被災者』救助はすでに本能に等しい。自衛隊創設後の歴史が、軍事組織としてはいささか過剰なまでの民間人保護を彼らのDNAに刻み込んでいた。 「柘植一尉! 一個分隊を警戒に就けます。残りは──」 「任せる。戦車は警戒に就く!」 先回りした柘植の言葉に、小銃班長は感謝の表情を浮かべると部下の半数に救助を命じた。彼自身も突撃するような勢いで、両親を失ったらしい兄妹の元へ走り出す。彼には同じ年頃の娘がいるのだ。 彼の部下たちも班長に劣らぬ勢いで、避難民たちの救護に取りかかった。衛生員が簡易トリアージを行い、治療が必要な避難民を選別する。軽傷の者には隊員が傷口を清潔にし、個人用キットで手当てを行った。 疲労でへたり込んだ老人に、装輪装甲車から引っ張り出した毛布をかけ、少女にチョコレートを与える。隊員たちは淡々と、だが全力で避難民に対処した。 驚いたのは、マルノーヴの民の方だった。戦場では虫けら程の扱いを受けるしかない自分たちを、この騎士団はまるで家族のように扱っている。 「有難てぇ。わしゃもう死んだもんと諦めとったよ……」 上等な毛布をかけられ、額の傷を手当されている老人が言った。目の前の異国の兵士は、戦化粧であろう様々な色で塗られた顔に気遣いの色を浮かべながら、彼を丁寧に扱った。言葉は通じ無いようだったが、態度が老人を安心させた。 「……おいしい」 少女はここが戦場であることを忘れた。恐ろしげな風体の兵士が近づいてきたときは身を堅くした彼女だが、心外そうな表情を浮かべた兵士が差し出した、銀色の紙に包まれた茶色の塊は、それ程までの威力を発揮した。 今まで体験したことのない甘味に、口の中がびっくりしている。一口噛むごとに疲労した体に力が戻るのを感じた。彼女は(これは聖餐なのかしら)と思った。大地母神の御加護でもなければ、こんな美味しい食べ物は作れない。 「本当においしい……ありがとう」 上目遣いに見上げた彼女が恐る恐る目の前の兵士に礼を言うと、熊のような見かけの兵士は嬉しそうに頷いた。よく見ると優しげな目をしていると思った。 避難民たちは思った。何故〈ニホン〉の騎士団は、自分の領民ですら無い者を手厚く保護するのだろう? どうやって避難民たちを安全な場所に移したものか。軽装甲機動車や装甲車ではとても追いつかないぞ。 柘植は、車長席で周囲を警戒しながら、これからについて考えていた。避難民は二百名を超え、さらに集まり続けている。戦闘再開前にどうにかしなければならない。 「〈ニホン〉の大将さま?」 柘植を呼んだのは、壮年の男だ。おそらくそれなりの立場の者だろう。彼の背後には治療を受けた避難民たちがいる。 「あなた様の騎士団が、帝國軍をやっつけたのでございますか?」 「……はい」 柘植の答えに、避難民がどよめく。口々に「俺は見たぞ。この魔獣が帝國軍の奴らを蹴散らすのを!」「なんと凄まじい」「いったいどこの国の方々なのかしら」などと話している。見る見るうちに彼らの表情が歓喜に包まれるのが分かった。 「まことに、まことにありがとうございます。帝國軍の暴虐を前に、我ら死を待つのみでありました。それをお救い下さった皆様の御恩、いくら御礼を述べても足りません」 「いえ、我々は自衛のために戦っただけで……」 「自衛? はて、これは御冗談を。あれほどまでに凄まじい焔、見たことも聞いたこともございません。この魔獣はあなた様が使役なさっておられるのですか?」 「……まあ、そうなります」 「これほどの魔獣を手足の如く使役されるとは、さぞ名のある遣い手でございましょう!」 避難民たちは、偵察隊の隊員たちを口々に讃え、感謝を表した。90式戦車の巨大さに目を丸くし、隊員の強さに感嘆した。 そんな時だった。 「どうしてッ!」 甲高い叫びが、温かだったその場の空気を凍らせた。あまりにも悲痛な響きだった。柘植は声の主を見た。予想はついていた。 「……カルフ」 縄を抜けたのだろう。少年は肩を震わせ、全身を強ばらせて柘植を見ていた。柔らかな髪は乱れ、泣きはらした瞳は赤く、はにかむように笑っていた少年の面影は無い。憔悴した表情には絶望と悲嘆が満ちていた。 「どうしてなのですかツゲ様! これほどまでに圧倒的な力を持ちながら、なぜなのです?」 少年の足下には、彼の所属したパラン・カラヤの衛士たちが血塗れの姿で事切れている。抱き起こそうとしたのだろう。少年の華奢な体は、衛士たちの血で染まっていた。 柘植は、カルフから目が離せなかった。衛士団との関係が悪化した後も、何かと気を使ってくれた優しい少年は、咎めるような瞳で柘植を見ている。 (憎まれて当然か) 少年が言わんとすることを柘植は理解している。 「これほどの力なら。帝國軍数千をたやすく屠ることができるのならば、何故衛士団を見殺しになさったのですか? みんな、みんな死んでしまった……私は何もできなかった。でも、でもあなたなら!」 村上三曹は、カルフの元へ駆け寄ろうとしたが、できなかった。ある衛士の死体のそばには、血塗れの写真が落ちている。90式戦車を前にすました表情でポーズをとる三人の衛士が写っていた。 「私には理解できません! なぜ衛士団が全滅するのを待ったのですか? ツゲ様──」 カルフは力無く跪き、血塗れの死体に顔を伏せ泣き続けた。 避難民たちは困惑し、自衛隊員たちは凍り付いている。柘植は理解していた。自分たちは結果として、命の選別を行ったに等しい。 己の選択が、避難民たちを救い、衛士団を救わなかった。その結果は眼前に示されている。 慟哭するカルフの声を聞きながら、柘植は握り拳を90式の砲塔上部装甲に叩きつけた。鈍い痛みが走った。 南からはくぐもった爆発音が響いていた。稜線の向こうに黒い煙が幾筋も立ち昇っている。無線は市内各所で戦闘が行われていることを伝えていた。どうやら敵は複数の経路でブンガ・マス・リマへ侵攻を企図していたらしい。 柘植は部下に命令を発するため、カルフから視線を外した。戦闘の方が楽だと、一瞬でも思う自分を恥じた。 感情のあれこれはあとだ。あとでたっぷりと苛まれてやる。だが、今は己の為したことへの責任を取らなければならない。柘植は思った。俺は指揮官としての責務を果たさなければならない。 まだ、俺が始めた戦争は始まったばかりなのだ。 柘植は熱を持ち始めた拳を頭の上に掲げ、命令を発するべく部下を呼び集めた。 南瞑海 無人島 2013年 1月6日 11時00分 迷宮の主(あるじ)は目を覚ました。 微かな波動を感じる。迷宮内に蜘蛛の巣のように張り巡らされた魔導が、侵入者を感知したのだ。 か弱い下等生物どもが迷宮内に潜り込んでいる。 彼は瞬時に状況を把握した。地下七層にも及ぶ迷宮は、彼の城であり、彼はその絶対的な支配者であった。何人もその目を逃れ忍び込むことなど不可能であり、不遜な侵入者に待つのは惨たらしい〈死〉でしかない。 過去、迷宮に挑む者は星の数ほど存在した。多くは下等な『ヒト族』やその亜種である。ある者は宝物を求めて。ある者は彼らにとって災厄といえる迷宮の主を倒すために。 その無謀な試みは、主によりことごとく粉砕され、骸を晒すこととなった。非力で下等な『ヒト族』如きが、神代の頃より迷宮を守護する存在に抗えるはずも無い。 主自身にすら、いつからこの迷宮に棲んでいるのか分からなかった。はっきりとしているのは、この迷宮には何人たりとも侵入を許さぬという、自らの使命のみである。 以前は迷宮の周囲に『ヒト族』どもの集落が存在した。主にはどうでもよいことであったが、この島は交易中継点としてこの上ない位置にあり、また太古の神々によって造られた地形は、天然の良港となる条件を満たしていた。 生意気なことに『ヒト族』は当然のような態度で住み着き始めた。彼は、たまに気が向くと眷属を差し向け彼らを屠殺させた。 畏れおののいた『ヒト族』は、生贄を差し出したが、彼にとってそれはただの肉袋以上の価値は無かった。柔らかいはらわたの感触はそう悪くは無かったが、そもそも主は飢えを感じないのだ。 ある日、ある侵入者に手傷を負わされた 彼が、激情のおもむくままに『ヒト族』の集落を襲ったのち、島は無人となった。 異変を感じてからしばらくの時が過ぎた。ヒト族どもは迷宮に出たり入ったりを繰り返しているようだ。 久しく侵入者の絶えた迷宮に、忍び込む者がいる。迷宮の主は腹の底から湧き上がる凶暴な衝動を楽しみながら、傍らにあった得物を手に取った。 涎が口元から溢れ、ふいごのような鼻息が荒々しく響く。馬の胴すら容易く引きちぎる程の膂力を秘めた体躯を震わせ、主は巨大な角をそびやかせ、ニヤリと確かに笑った。 次の瞬間。 迷宮の各所で何かが弾ける感覚が彼に伝わった。未知の感覚に彼はうなり声をあげる。その時には既に彼の棲む地下最深部の広間にも、断続的な振動と、鈍い音の連なりが届いていた。 迷宮の主は身を起こし、広間の出口に向かおうとした。 轟音が真上で響いた。小さな破片が剥離してパラパラと降り注ぐ。彼は天井を仰ぎ見た。ひび割れが瞬く間に広がった。 彼が気付いた時には、全てが崩壊を始めていた。アーチ状の天井が崩れ、大量の土砂と石材が怒り狂う主の上に降り注いだ。 ──3時間前。 日本国政府マルノーヴ調査団と共に島に上陸した陸上自衛隊は、普通科と施設科で混成一個小隊を編成し迷宮へ進入させた。武装した隊員たちは、迷宮内を彷徨うモンスターの抵抗を排除しつつ、探索を進めた。 「どうだ?」 陸自調査団付隊指揮官である島崎三佐が尋ねた。迷宮の地下第三層までの探索を終えた施設科分隊長が、埃と、何かの粘液にまみれた顔で答えた。 「こいつは何とも驚きました。どでかい城が地面に埋まっているなんざ、初めてです」 迷宮は、洞窟では無かった。巨大な石造りの城が地中に埋まっているのだった。 「洞窟なら完全に潰すことは難儀でしたが、この構造なら大丈夫です。あたしの見立てじゃ、地下第三層までを支える柱さえへし折れば、重みで下層階まで崩落します」 職人然とした分隊長の言葉に、島崎は頷いた。背後に立つ外務官僚に話しかける。腕まくりしたワイシャツ姿で、白の安全ヘルメットを被った官僚は、やたらと偉そうな態度の男だった。メガネが太陽の光を受けてギラリと煌めいた。 「登坂さん。爆破は可能です」 「よーし。では爆破だ! 派手にやるぞ」 登坂と呼ばれた官僚の大声を受けて、自衛官たちは予め定められた手順に従い、行動を開始した。 普通科隊員が89式小銃の薬室を確認する。弾薬を補充し装具のあちこちに取り付けられた弾倉ポーチに収めた。さらに暗視ゴーグルの電池を入れ替え、作動確認も忘れない。 ある隊員は一人当たり4発携行する閃光発音弾のピンが、正しく刺さっていることを確認し、装具の確認を終えた。 施設科の隊員は、爆破に必要な高性能爆薬と電気雷管を丁寧な手つきで背嚢にしまった。リールに巻かれた導爆線がよれていないことを確認し、彼は満足げに頷いた。 隊員を直接指揮する下級指揮官たちは、即席で作成された見取り図を囲み爆薬の設置地点を打ち合わせている。施設科分隊長が赤ペンで印を付け、普通科の各分隊長や小隊・分隊陸曹が地点を確認する。 そのかたわらでは、無線手が符丁を本部と確認していた。 ほどなく、突入準備は完了した。 「突入」 島崎三佐が命じた。隊員たちは冷静で、まるで通常業務に取りかかる会社員のような風情であった。ただ、その動作は機敏で淀みがない。それを見て島崎は成功を確信した。彼が鍛え上げた『施設科』という名の戦闘工兵たちは、淡々と任務に臨んでいる。 再突入した隊員たちは速やかに爆破準備を進めた。迷宮の天蓋を支える巨大な柱に高性能爆薬を仕掛け、導爆線で連結する。コードは地表の点火器に接続される。 混成小隊は、闇の中から湧き出る動き回る骸骨や巨大なドブネズミ、不定形の物体を排除しつつ、約30分ほどで爆破準備を完了した。 「爆破準備完了。退避宜しい」 施設科分隊長が報告した。入口から約500メートル離れた本部で島崎三佐は了解した。傍らで登坂が南瞑同盟会議の人間と何か話し込んでいる。異世界の住人はひどく怯えていた。 「大丈夫、我々に任せなさい」 登坂が異常なほどの自信を漲らせ、言った。大ぶりの眼鏡の奥で眼光が鋭く光る。 だが、浅黒い肌をした相手は納得していないようだ。2メートル近い体格のいかにも海賊然とした男は、見た目に反して幼子のように小刻みに震えている。顔色は海よりも青い。 「主の迷宮を破壊するなど、能うはずがない! 貴殿らはあの化け物の恐ろしさを知らんのだ……」 日本国調査団がこの島に上陸すると言い出した時、マルノーヴ大陸の人々の反応は一様に同じだった。 正気の沙汰ではない。 ある者は言外に、またある者は直接的に態度を表明した。つまり、誰も同行しようとはしなかったのである。 最終的には淡々と準備を進める日本人の姿に、意を決した一人の水軍士官が「異世界人に南瞑同盟会議に人無しと言われるのは我慢ならん!」と、同行を申し出たのだった。 「過去、迷宮に挑んだ手練れは数多。いずれも『主』の餌食となった。我ら人の力では無理だ。悪いことは言わん。諦められよ」 そう言いながら、今にも逃げ出したそうな大男の姿に、島崎三佐は首をひねった。(ここまで怯えるとは。一体何が潜んでいるんだろう?)確かに、突入した隊員たちにも、『何かの気配がする』と言いだす者がいた。どうやら、さっさと吹き飛ばすことにした方が良さそうだ。 「登坂さん。爆破します」島崎が確認した。 「派手にいこう。やってくれ」 登坂がゴーサインを出す。島崎は拡声器を手に取り、命令を発した。 「点火百秒前!」 傍らの無線手が無線機で各隊に通報する。あらかじめ安全な位置に退避した隊員たちが遮蔽物に身を隠した。安全係幹部が最終的な安全を確認する。異常なし。施設科分隊長が、机に置かれた点火器のハンドルを握った。 「十秒前──ヨン、サン、ニィ、イチ、点火!」 衝撃が足元を突き上げる。くぐもった轟音は地中を伝わり、隊員たちの半長靴を震わせた。巨大な入口を始めとする開口部から一斉に土砂と白煙が噴き出した。生暖かい爆風が、500メートル離れた彼らの顔を撫でた。 「ぬぉッ!」 南瞑同盟会議の男が、思わずよろめく。地面が揺れるこの事態が理解出来ないといった様子だ。ましてそれを為したのが、傍らの日本人であるとは思ってもいない。 周囲の隊員たちも、過去に無い規模の爆破の結果を固唾をのんで見守っていた。 しばらくして揺れは収まり、静寂が島に訪れた。 年嵩の曹長が、白煙を吹き上げる迷宮入口をじっと睨んでいる。しばらくして彼は満足げに頷いた。島崎三佐に報告する。 「爆破完了。地下施設の崩落は間違いありません」 付近の漁師から『悪魔の顎』と呼ばれていた地下迷宮への巨大な入口は、既に無い。石造りの神殿めいた建物も、周囲に林立していた無数の柱も、全てまとめて瓦礫と化していた。 入口の周囲、半径300メートルが大きく陥没している。あちこちに開いた亀裂からは、濛々と白煙が立ち上っていた。 爆破は完全な成功を収めていた。戦後、地味な扱いに甘んじながらも他の職種に勝る実戦経験を積み重ねてきた、陸上自衛隊施設科の真骨頂であった。 熟練した技術者集団である施設科隊員たちは、初めて見る建築構造と素材を前にしても慌てなかった。彼らは知らぬ者が見れば魔法を使ったかのように、建物の急所を見つけ出した。 陸曹の手によって仕掛けられた高性能爆薬は、点火器からの電気信号を受けた雷管の発火により、巨大な迷宮を支える支柱の群れを根元から吹き飛ばした。あえて偏った位置に仕掛けられた爆薬によって、構造物に大きな負荷がかかる。 爆破から数秒後には、天蓋が崩落を開始していた。瓦礫は迷宮内の異形たちを巻き込んで、各階層の床を破壊。さらなる瓦礫となり最下層まで落ちていった。 「これで辺りの人々を悩ませていた地下迷宮も、消え去ったわけだ」 登坂が言った。彼自身は何もしていないが、まるで彼が為したことだと言わんばかりの口調だ。実際、彼はそう信じている。 「……何という……これを貴殿らが為したというのか? いかなる魔導を用いた?」 大男は口をパクパクさせた。 「だから任せろと言っただろう? さあ、確認してもらおうか。ここは確かに無主の──」 登坂が言い終わる前に、地面が揺れた。迷宮の中を何かが動いている。島崎三佐は直感した。それは正しい認識だった。振動の発生源は地中を上り、ほどなく地表へと飛び出たのだった。 轟音と共に破片が飛び散る。人の胴体ほどもある石片が100メートル以上先に落下した。中心は『悪魔の顎』だ。 「グオオオオオォォォオオオン!!」 魂を消し飛ばす咆哮が大気を震わせた。声の主は迷宮入口にあった。瓦礫が砕け飛び散る。白煙の向こうにそれはいた。 「あ、ああ、あ。『主』だ」 南瞑同盟会議の男が、腰を抜かしてへたり込む。彼は失禁していた。 視線の先には、巨大な異形が姿を見せていた。身長は優に5メートルを超える。堂々とした逆三角形の上半身は、鋼線を寄り合わせたような筋肉で武骨に盛り上がっている。羆すらたやすく屠りそうだ。人型をしているが、全身が漆黒の毛に覆われている。 そして、明らかに人ではない。 一目で怒り狂っていることが判るその顔は、雄牛の姿をしていた。巨大な二本の角が天を衝き、真っ赤な瞳には理性の欠片もない。涎を撒き散らしながら、異形は再度咆哮した。 「終わりだ。皆殺しだ。主が地表に出たときは怒り狂っているときだ。我らは皆引きちぎられる」 失禁した男が、放心したように言った。 「あれが『主』か。ほう……こっちでもやはりミノタウロスなのか」 登坂は平気な顔をしている。その様子に南瞑同盟会議の男はいきり立った。 「貴殿らは阿呆か! あれを見よ! まもなく怒り狂って襲いかかってくるぞ。あの戦斧を防ぐ術など……どうしてくれる!」 「これは我々に対する挑戦だな」 その時、『主』がこちらを見た。復讐に燃えるその異形は、正確に自分をこの様な目に合わせた者を見極めたようだった。 「ひぃ、見つかった。く、来るぞ」 へたり込んだ男が、地面を後ずさった。腰が抜けて立てない。 「大丈夫。任せろ──」 「射撃始め!」 登坂の言葉に被せるように、島崎三佐の号令が響く。背後でビールの栓を抜くような気の抜けた音が複数鳴った。続いて、左側面で重々しい射撃音が響く。それだけではない。周囲では無数の銃火器が一斉に火を吹いていた。 81ミリ迫撃砲の射弾は、あらかじめ調定された座標──迷宮入口に向けて狙い違わず放物線を描く。迫撃砲弾が弾着する前に、まず『主』を襲ったのは普通科小隊の放った5.56ミリ小銃弾と7.62ミリ機関銃弾である。 乾いた銃声を残して曳光弾が『主』に吸い込まれる。着弾点で黒い毛が舞い散る。だが、『主』は踏みとどまった。衝撃を受けてはいるが、倒れる気配は無い。 「効いてないのか? まさか」分隊陸曹が呆れたように言った。 一拍遅れて、より大威力の砲弾が着弾した。貴重なLCACで揚陸された87式偵察警戒車の25ミリ機関砲だ。 『主』の体表が鈍く光る。砲弾が炸裂し、破片が飛び散った。『主』の足が瓦礫を踏みしめその場に縫い付けられた。25ミリ機関砲弾を受け、流石に前進出来ないようだった。だが── 「こいつも耐えるか……化け物め」 偵察警戒車の車長が呻いた。軽装甲車両やソフトスキン車両を破壊しうる砲弾である。生身が受ければ跡形も無い。だが、『主』は耐えている。全身から深紫の光を放ち、傷を負った素振りは無い。物理以外の力がそこに働いているのは間違い無かった。 だが、自衛隊の火力はそこで終わりでは無かった。 三脚に据え付けられた40ミリ自動擲弾銃から、多目的榴弾が叩き込まれる。普通科隊員が84ミリ無反動砲を放つ。弾丸は機関砲弾を受けて踏みとどまる異形の怪物に吸い込まれ、炸裂した。 さらに上空から迫撃砲弾が降り注いだ。着弾した弾丸は辺りの瓦礫とともに粉塵を巻き上げた。閃光が粉塵に混じる。炸裂音が木霊する。『主』の姿は見えなくなった。 「グオオオオオォォォォ──ォゥ……」 力無い咆哮が爆発音に混じったのを、島崎は聞き逃さなかった。 「打ち方待て!」 号令が肉声と無線で伝達される。部隊はびたりと射撃を中止した。 粉塵と白煙が風に流されていく。徐々に弾着点が姿を表した。 「お、おおお。迷宮の魔物が……」 そこにはぼろ切れのように引きちぎられた『主』が横たわっていた。隊員たちは、それがまだ生きていることに驚愕した。 だが生きているだけであった。手足は千切れ、角も片方が折れている。瞳は爛々と自衛官たちへの呪詛を湛えていたが、身動き一つ取れないようだ。地面に血溜まりが広がる。それはまるで赤い絨毯のように見えた。 「生け捕りは無理かな?」登坂が言った。 「止めましょう。悪い予感しかしない」 島崎が首を振った。 「だな。ではよろしく」 あっさりと諦めた登坂の言葉を受け、島崎は右手を上げ前方に振り下ろした。 背中にボンベを背負った隊員が二人、小銃を構えた護衛を従えて前に進み出た。50メートルほど手前で、手にした武器を構える。 轟という音と共に、紅蓮の炎が『主』に伸びた。ゲル化油を燃焼剤として燃え盛る炎は、すぐに『主』に燃え移り、肉の焼ける臭いが辺りに漂い始めた。吐き気と食欲を刺激する臭いだ。 『主』は、長い断末魔を残して、息絶えた。 「倒してしまった……ああ、ワシは夢でもみているのか」 呆然とつぶやく男の傍らで、登坂が鼻を鳴らした。 「ふん。ただの牛男なんぞこんなものだ。自衛隊を舐めるな。俺は件(くだん)の方がよっぽど恐ろしいぞ」 (おいおい、そりゃ俺の台詞だよ)島崎は密かに思った。口には出さない。面倒臭いやりとりになるからだ。 登坂は黒こげの塊と化した『主』の残骸に対する興味を失ったようだった。辺りを見回す。島は支配者を失った。 「さて、確認する。この島は永く無主の島であったのだな?」 「『主』は妖魔の類だ。人が治めていなかったという意味なら、そうだ」 「よろしい!」登坂は頷いた。胸を傲然とそらし、高らかに宣言する。 「現時刻をもって、日本国政府はこの島を無主地であると確認し、先占の法理をもって日本国に編入する!」 登坂は島崎を振り返り、人の悪そうな笑みを浮かべて言った。 「島の名前、何が良いかな?」 2013年1月6日午前11時45分。 日本国は異世界アラム・マルノーヴに史上初の『世界外』領土を獲得した。 東京都千代田区永田町 総理大臣官邸 2013年 1月6日 16時27分 執務室にいるのは部屋の主だけであった。 部屋の調度品は、チーク材で作られた重厚な執務机と、背後に掲げられた日の丸の他は、質は良いが簡素な品でまとめられている。棚に飾られた渋い色合いの井戸茶碗だけが、装飾品としての存在感を示していた。 窓には分厚いカーテンが引かれている。照明の光度が落とされているため、本来明るい色合いのはずの執務室は薄暗く、どこか重苦しい雰囲気に包まれているようだった。 内閣総理大臣、上総正忠(かずさ・まさただ)は、いつの間にか凝り固まった背筋を大きく伸ばし、椅子の背もたれに身体を預けた。五十を超えた今でも緩むことのない細身の体躯が悲鳴を上げていた。 あいつも俺も、いつから寝ていないかな? 報告に訪れた情報分析官が退出するのを見送った上総は、中空を見つめながら思った。盗聴防止のため窓ガラスを震わせている微細な振動音が耳障りだった。 2013年を迎えた世界は、沸騰した大鍋のようだった。中東で勃発した戦争は、世界経済へ深刻な影響を与えると共に、まるで群発地震のように世界各地に波及していた。 日本の周囲に限っても、中国国内と朝鮮半島に不穏の種が顔を出しており、関係省庁は正月早々不夜城の如き姿を強いらている。 おそらく霞ヶ関と市ヶ谷の庁舎の会議室辺りは、ダンボールと寝袋で埋まっていることだろう。上総自身も、ようやく地下の危機管理センターを出て、一旦執務室に戻る機会を得たところだった。 あの異世界について、曖昧な位置付けで対応するのはもう限界だな。上総はため息をついた。方針と法律の不備が現地部隊に混乱と被害を生じさせている。最早、治安出動云々でどうにかなる状況ではなかった。 政治が責任をとる場面だ。 異世界の存在を公式に認め、国家として承認し、安全保障条約を締結する。世界は驚くだろうか? 普通なら俺の気が狂ったと思うだろう。たとえ事実と認めたとして、あちこちから口と手を挟もうとする連中が湧いて出るだろうな。 ──だが。 上総は口元に笑みを浮かべた。 このどさくさはいい機会だ。国連も安保理も、これ以上厄介事を抱え込む余裕なんかない。連中、中東とアジアで過労死寸前だからな。 第五次中東戦争への対応に米軍とNATOは注力しなければならなかった。中国は国内が旧正月の花火のようで、よそに手を突っ込む余裕はない。ロシアは中東と隣国がこの有様では迂闊に動けない。 日本とて余裕が有るわけではないが、何せ『門』は青森県に開いている。 アメリカの次に安全保障条約を結ぶ先が、ファンタジー世界の国家になるという冗談のような話に、上総が面白味を感じた時だった。 執務机の引き出しの中で、電話のベルが鳴った。上総は一瞬動きを止めた。引き出しを開けると、懐かしの黒電話が顔を出した。 「やあ、トム。こんな時間に電話とは君も寝ていないようだな──ああ、私もだよ。この年になるとキツいね」 電話をとった上総の顔は口調ほど気楽なものではなくなっている。 「──その通りだよ。予定通り発表する。内容については……もうデータは受け取っただろう? トールキンやヴェルヌが話を聞いたら、小躍りしただろうか」 電話の向こう側と少しのやり取りのあと、上総は目を閉じた。数秒の沈黙の後、彼は電話口に言った。 「君のボーイズにそんな余裕はあるのかい──ああ、分かった。その規模なら、受け入れ可能だろう。担当部局には伝えておく。但し、あの『門』は我が国の領域内にある。遠足の引率はこっちでやるよ。いいね?──うん。じゃあ、おやすみ。ミスター・プレジデント」
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ジャイアントスレイヤー・プレイヤーズ・ガイド Giantslayer Player s Guide ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスはオークが所有するベルクゼンの地で、頑として独立している、包囲された町トルナウから始まる。この冒険はホープナイフ祭の前夜から始まる。ホープナイフ祭は地元の若人が成年へとなるときに催される重要な催事である。PCは町に到着し、住民を知るようになるが、その後災厄が起こるのだ! 集結 COMING TOGETHER このアドヴェンチャー・パスはトルナウという小さな町から始まるので、少なくとも一人のキャラクターがトルナウ生まれ、あるいは町へ定期的に来る普通の訪問者であることが最善である。このプレイヤーズ・ガイドのキャンペーン特徴の一つは、その特徴を選択した根本となるキャラクターを助け、残りの特徴もその地域からのキャラクターにとって有意義である。地元のキャラクターのプレイヤーがトルナウに慣れ親しむのを助けるために町の地名をこのガイドの7ページに記載している。この地名はトルナウで成長することがどのようなものであるかを理解し、町の最重要人物何人かを紹介するのに役立つものである。 君のキャラクターがトルナウ出身ではないが町に精通しているような場合、頻繁に訪れていることからこの情報を得ることができる。君のキャラクターは定期的に町へと運び込んでいる隊商の一員であったり、ベルクゼン南方を警邏して休息と物資の再補充のために町へ立ち寄るスカウトの一団であるかもしれない。 トルナウに以前は全く関与していなかったキャラクターなら、君のキャラクターは冒険が始まるその日まさに町に到着した隊商の一員であるかもしれないし、もしかしたらその一行は国境を接している別の国で結成され、ベルクゼン南部を通るところからその冒険を開始したのかもしれない。君のキャラクターは近くの部族から追放され文明化された社会を探しているハーフオークであったり、包囲されている町を調査しているグループの一員であるラストウォールの特使かもしれない。町へとやってきて、その外壁の安全性と住民のもてなしを楽しんでいるようなショアンティ人の放浪者であることは君のキャラクターとして普通なことではない。 いずれにせよ、君のキャラクターに勇敢で独立しているトルナウの町を訪れさせようと君が計画している場合にこのアドヴェンチャー・パスでは最も機能する。周辺諸国と近くの居住地についての詳しい情報や、パーソナリティの背景設定へのアドバイスに関しては、4ページの出身の項目を参照せよ。 キャラクターのコツ CHARACTER TIPS 君はジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスを始めるが、どのようなキャラクターをプレイするのだろうか? 山中で巨人と戦うというテーマに沿ったキャラクターを作り、キャンペーンで生き残るための準備ができているキャラクターを作る最良の方法はどのようなものか? 以下のヒント、提案、キャラクター・オプションは、このアドヴェンチャー・パスで君と君のパーティを待ち構えている脅威と課題を克服していくのに最適なキャラクターを作成するのに役立つ。以下の提案は決して徹底するものではなく、キャンペーンで輝く可能性のある数多ものキャラクター・コンセプトも存在する。ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスのキャラクターに関するより多くの議論のために、paizo.comの掲示板を見て、君の経験をこのキャンペーンを遊んでいる人と共有しよう。 アーキタイプ、クラス・オプション Archetypes and Class Options ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスの大部分は、マインドスピン山脈を旅し、隠れ家で巨人と戦い、強力なアーティファクトを調べ、旅の途中で竜やその他危険な獣に遭遇したりする。全てのキャラクター・クラスがアドヴェンチャー・パスに適しているが、クラスによってはプレイヤーが選択できるテーマに合った選択肢がある。またキャンペーンの大部分が巨人の住処での巨人との戦いを扱うため、乗騎を得るキャラクター・クラスは、巨人より小さな人型生物によってつくられたダンジョンを進むよりもこのキャンペーンの数ある巨人用の通路を進む楽な時間を過ごせるかもしれない。 有用そうなアーキタイプが以下である。 獣の騎手(キャヴァリアー) Ultimate Combat収録 Goliath druid(ドルイド) Pathfinder Player Companion Giant Hunter's Handbook収録 潜入者(レンジャー) Advanced Player's Guide収録 山岳ドルイド(ドルイド) Advanced Player's Guide収録 山の魔女(ウィッチ) Advanced Class Guide収録 小剣士(スワッシュバックラー) Advanced Class Guide収録 Titan fighter(ファイター) Pathfinder Player Companion Giant Hunter's Handbook収録 巨人殺し(バーバリアン) Ultimate Combat収録 足下の達人(ハーフリング・モンク) Advanced Race Guide収録 Vexing dodger(ローグ) Pathfinder Player Companion Giant Hunter's Handbook収録 Advanced Race Guideは、ハーフリング・キャヴァリアーのために特に作られたキャヴァリアーの騎士団、パウ騎士団を含んでいる。山との強いつながりを持つキャラクターを作りたいと考えているならば、Pathfinder RPG Ultimate Magicに収録されている動物と地形の領域を使用するドルイドを遊ぶ人は山脈の領域を考慮すべきである。 上級クラスを持つことに興味があるキャラクターには多くの選択肢がある。以下の提案はジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスのテーマのものである:halfling opportunist(Pathfinder Player Companion Halflings of Golarion)、ホライズン・ウォーカー(Advanced Player's Guide)、Pathfinder delver(Pathfinder Campaign Setting Seeker of Secrets)、skyseeker(Pathfinder Campaign Setting Paths of Prestige)。 血脈、神秘 Bloodlines and Mysteries ほとんどの血脈が良い選択肢であるが、以下に提案するものはジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスのテーマによく合うものである:地底(Advanced Player's Guide)、竜、元素、orc(Pathfinder Player Companion Orcs of Golarion)、嵐(Advanced Player's Guide)。 アドヴェンチャー・パスのデータに最も強く結びついているオラクルの神秘は闘争、石、そして、シャーマンは同名の霊をよく合ったキャラクター・オプションとして選ぶことができる。 もちろん、これらの限られた提案だけがプレイヤーが選択できるものではない――ほとんどの血脈、神秘、霊がジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスで上手く機能するはずである。 使い魔、動物の相棒 Familiars and Animal Companions キャラクターは様々な背景や遠く離れた地からこのアドヴェンチャー・パスへと集結することができるので、エキゾチックな動物の相棒や使い魔を連れてくることができる。しかしこの地域のキャラクターや環境に似合った動物を選びたい人はもう少し選択肢が欲しいかもしれない。以下に示す使い魔はこのアドヴェンチャー・パスの気候と地形で与えられる良い選択肢である:バットB1、キャットB1、ジャイアント・フリーB4、ゴートB3、ホークB1、ハウス・センチピードUM、リザードB1、アウルB1、レイヴンB1、スカーレット・スパイダーB4、ウィーゼルB1。 以下の動物はマインドスピン山脈とベルクゼンで見かけることができ、動物の相棒(あるいは同様の乗騎)のための良い選択肢である:オーロックスB1、ベアB1、バード(イーグルB1、ホークB1、アウルB1)、スモール・キャット(mountain lionB1)、ダイア・バットB1、ドッグB1、エルクB3、ホースB1、リザード(ジャイアント・ゲッコウB3)、リザード(モニター・リザードB1、cave lizardB1)、リャマ/llamaAA、ポニーB1、ラムB2、ロックB1、スタッグB4、ジャイアント・ヴァルチャーB3、ジャイアント・ウィーゼルB4、ウルフB1。 ここに記載した動物に加え、Pathfinder Adventure Path #91 The Battle of Bloodmarch Hillのbestiaryは、PCが動物の相棒として選択できるベルクゼンとマインドスピン山脈固有の動物を記している。これらが可能かについてはGMと話しあうこと。 得意な敵と得意な地形 Favored Enemies and Favored Terrains ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスの大部分はマインドスピン山脈が舞台となるが、冒険はPCを地下、丘陵、沼地の環境へと連れて行く。得意な地形の最善の選択肢は山岳(丘陵を含む)であり、2番目は地下である。得意な敵の最善の選択は人型生物(巨人)、竜、人型生物(オーク)、魔獣である。 もっと読みたい場合は? Want to Read More? 他の多くの書籍が君のジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスの体験を強化するのに役立つ。以下は必須なものではないが、このキャンペーンを通じて楽しんでいる間に有用で刺激的なものであるかもしれない他の情報源である。 ゲーム・マスター用 For Game Masters ベルクゼン南部の荒涼とした危険な土地(アドヴェンチャー・パスの最初の舞台となる場所)の詳細についてはPathfinder Campaign Setting Belkzen, Hold of the Orc Hordesを参照せよ。君の巨人の伝説を強めるにはPathfinder Campaign Setting Giants Revisitedを読もう。巨人との遭遇を視覚化する為にはPathfinder Flip-Mat Giant Lairsを確認せよ。 プレイヤー用 For Players 巨人と戦うことの前提として、Pathfinder Player Companion Giant Hunter s Handbookが貴重なものである。プレイヤー・キャラクターはあらゆる探索にもかかわるため、冒険中の生存へのヒントとしてPathfinder Player Companion Dungeoneer s Handbookを参照せよ。 このアドヴェンチャー・パスにおいてハーフオークのキャラクターのための多くのオプションをもっと探したいと思うプレイヤーはPathfinder Player Companion Bastards of Golarionをチェックし、ドワーフをプレイしたいプレイヤーはPathfinder Player Companion Dwarves of Golarionをチェックせよ。 出身 Origins ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスでは、君のキャラクターがどこで生まれたかは重要な問題ではない。マインドスピン山脈はベルクゼンの領土、ヴァリシア、ニアマサス、ニダル、モルスーンを通じて広がり、ラストウォールの西部の国境から50マイル以内である。これらの国々全てはこのキャンペーンでキャラクターの郷土とすることができる。 マインドスピン山脈は内海地方全域をめぐる全ての来客をひきつけている。その多くは山岳地帯や麓からわずか数日の旅路のいずれかに居住地を作っている。ヴァリシアにあるオークの支配する都市アーグリンが近くにあり、ハーフオークのキャラクターの故郷であるかもしれない。必須ではないが、パーティの少なくとも一人はトルナウの出身者であるか、少なくとも町のことをよく知っている普通の訪問者であることを強く推奨する。犯罪者の集まったフリーダム・タウンは変化に富んだ過去を持つキャラクターのための素晴らしい故郷となるだろう。このキャンペーンのドワーフはジャンダーホッフ、薄明街、クラッゴダンからやって来ているかもしれない。血誓渓谷の両側には材木と採掘の居住地スケルトとヴァリシア人の都市国家コルヴォーサがあり、どちらもこのアドヴェンチャー・パスのキャラクターには良い故郷である。マインドスピン山脈の北端から西に僅か数百マイル離れているところにケル・マーガ――内海地方で最も奇妙な混血の人々にとっての故郷であり、異常なキャラクターにとっての起源として最適な場所――があり、ケル・マーガの南方にはコルヴォーサ領にある集落シラスーがある。この山脈のニダル国内にはブリムストーン温泉と呼ばれる、奇妙なミネラル成分で知られる温泉で有名な小さな町があり、入浴する者に魔法の利益を与えると言われている。モルスーンのキャラクターはアバダルの司祭によって支配された都市ブラガンザからやってきたかもしれない。 これらの近くの居住地の全てがキャラクター出身地としての良い場所である一方で、このキャンペーンで休息や宝物を売る場所、補給地点としても機能する。 種族 Races アヴィスタン大陸西部はまだ多くの場所が人口密度の低いフロンティアである。全ての種類の人型生物の本拠地である一方で、人間がこの地域で最も一般的な種族である。ハーフオークもドワーフ、ハーフリング、ノーム、エルフ、ハーフエルフのように一般的な種族である。ドワーフとノームの防御修練の種族特徴はこれら両方の種族をこのアドヴェンチャー・パスにおいて強力な存在にする選択肢である。さらにこのキャンペーンのためにハーフリングのキャラクターを作成しているプレイヤーは、自身より大きな敵と戦うときにボーナスを得られる足の下にの代替種族特徴を確認したほうが良い。 人間の中では、ヴァリシア人、シェリアックス人、タルドール人がこの地域で最も一般的な人種である。しかし南部へと冒険を進めて、トルナウまでの旅路を終えたケーリド人やウールフェン人を目にしても場違いということはないだろう。同様にキャラクターは内海地方のどこからでもこのキャンペーンに登場させることができる。 宗教 Religion このアドヴェンチャー・パスでは宗教は大きな役割を果たさないが、クレリックなしで冒険に行くべきという意味ではない。君のキャラクターがトルナウ出身である場合は、アイオメデイやアバダルを崇拝しているかもしれない。これら2柱の信仰はトルナウにはある。狩猟がトルナウ(そしてアヴィスタン大陸西部の荒涼とした土地全域)にとって重要であるので、エラスティルの信仰もこの地域では普通のものである。このアドヴェンチャー・パスの旅の要素のためにはデズナは素晴らしい信仰の対象であり、ゴズレーは戦争に関心を持つクレリックには良い選択である。トローグはドワーフだけでなく、鍛冶、守護、戦略を重んじる正義のキャラクターにも適している。 技能、特技 Skills and Feats このアドヴェンチャー・パスでは他の技能よりも頻繁に使用するようになるような技能はないため、PCは一般的に冒険で役に立つ技能、特に山岳地帯での冒険のためのものを選ぶ必要がある。 〈軽業〉は巨人の途方もない間合い内で無傷で移動するのに役立つだけでなく、幅広い割れ目を飛び越えたり、狭い山道を進み、瓦礫やがれ場を移動して登山をするのにも役立つ。〈登攀〉は山を登り、巨人の隠れ家の中で動き回るときに有用である。野外での情報収集は重要であり、3種類の〈知識〉に注目することが良い選択であろう:〈知識:神秘学〉、〈知識:ダンジョン探検〉、〈知識:地域〉。〈生存〉はパーティが荒野に対処し、このアドヴェンチャー・パスで見つける山岳地帯をナビゲートするのに有用な選択であり、〈知覚〉はどのような冒険においても常に優先させる技能である。 パスファインダーには数多もの特技があり、巨人と戦うとき多くのキャラクターへと有意性を本当に与えることができる。そのような特技の最大級の資産はPathfinder Player's Companion Giant Hunter's Handbookにあり、この本には特に巨大な敵と戦うためにデザインされた15もの特技が収録されている。この本に加えUltimate Combatにはドワーフとノームに、巨人に対してさらに優越性を与えるようにデザインされた2種類の一連のスタイル特技が収録されている。これは《地の民の束縛》、《地の民の型》、《地の民の足払い》と《対の雷鳴》、《対の雷鳴連打》、《対の雷鳴体得》である。Advanced Player's Guideには小型かそれより小さいキャラクターのための特技――《上からには下から》、《足元駆け抜け》――があり、両方とも巨人と戦う際に役立つ防御術である。最後に《一撃離脱》、《反撃の構え》は戦闘する者が巨人の長い間合いを対処するのに有用である。 特徴 Traits 下記のキャンペーン特徴やGiant Hunter's Handbookにある特徴に加え、多くの他の特徴にはジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスのキャラクターに適しているものがある。Dwarves of Golarionには、マインドスピン山脈のキャラクターのための2つの地域特徴がある:〔blooded〕、〔coin hoarder〕。Advanced Player's Guideの〔ハイランダー〕の地域特徴はキャラクターが岩場で隠れるのに役立ち、Rise of the Runelords Anniversary Edition Player's Guideには〔giant slayer〕の特徴が収録されている――これは別のアドヴェンチャー・パスのキャンペーン特徴であるので、ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスでこの特徴を許可するかをGMに確認せよ。ヴァリシアのキャラクターはPathfinder Player Companion Varisia, Birthplace of Legendsに収録されている〔regional recluse〕の特徴を選択することができるだろう。 キャンペーン特徴 CAMPAIGN TRAITS ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスはマインドスピン山脈の様々な場所へとキャラクターを進ませるが、オークが支配するベルクゼンの領土にある人間の街トルナウから始まる。このキャンペーンのために作成されるプレイヤー・キャラクターは、トルナウの住人、あるいは最近町へやってきたものである必要がある。少なくとも1人のプレイヤーが自分のキャラクターに〔トルナウ生まれ〕の特徴を選択すると役立つだろうが、PCがどのキャンペーン特徴を選択するかに拘らず、戦っている巨人やその味方がどこにいるかに興味があるべきである。 〔アーティファクトを求めて〕/Artifact Hunter:君はいつだって魔法に興味があった。とりわけアーティファクトとして知られる伝説の魔法のアイテムに魅了された。何年もかけてこの伝説の神具を探し、記録に残る物語や伝説に全力を捧げてきた。今や君はこの手のことに関しては達人の類いだ。君は魔法のアイテムの特性を識別するための〈呪文学〉判定に+1の特徴ボーナスと、〈魔法装置使用〉判定に+1の特徴ボーナスを得る。さらに、これらのいずれか1つ(君が選ぶ)はクラス技能となる。加えて、アーティファクトを最初に見たとき、君は50%(+レベルごとに1%)の確率で、そのアーティファクトの名前、起源、アーティファクトの力や能力、危険がなんなのかを知ることができる。君が持つ知識がどの程度正確なのかは、GMの決定に従う。 〔竜の敵〕/Dragonfoe:君はいつだって竜が憎かった。ひょっとしたら祖先が有名な竜殺しなのかもしれないし、暴れ回る竜が家族や友達を殺したのかもしれない。騎士が囚われの姫を邪悪な竜の手中から救い出す物語を聞いて育つうちに、竜を殺そうと思い至ったのかもしれない。強迫観念の理由がなんであれ、それが、竜と戦いその恐るべき攻撃から身を守る術を学ぶきっかけになった。君は竜の種別を持つクリーチャーに対するACに+1の回避ボーナスと、ブレス攻撃に対する反応セーヴに+2の特徴ボーナスを得る。 〔ドワーフ流訓練〕/Dwarf-Trained:ドワーフは巨人やオークによる脅威に精通している。彼らは何百年もの間、この敵と戦う訓練を磨き続けている。君はドワーフと共に訓練し、彼らが憎む敵に対する戦略をいくつか学んだ。君は(巨人)副種別を持つクリーチャーに対するACに+2の回避ボーナス(これはドワーフやノームの“防衛訓練”種族特性とは累積しない)と、(オーク)副種別を持つクリーチャーに対する攻撃ロールに+1の特徴ボーナス(これはドワーフの“嫌悪”種族特性とは累積しない)を得る。ドワーフとノームはこの特徴を選択することはできない。 〔巨人の血〕/Giant-Blooded:血統のどこかで巨人の血が入り込んだという噂で、君の家族はいつも陰口をたたかれていた。錬金術の研究かもしくは魔法の研究か、はたまた遥か昔の先祖が巨人と結婚したからなのか、そのため君は種族の中でも身体が大きい。ひょっとしたら燃えるように赤い髪や蒼白な肌、馬鹿でかい掌のように、わずかではあるが表面上の特徴を巨人の血から与えられているかもしれない。君が自分のサイズよりも大きい武器を装備する際、適切でないサイズの武器を使用することで受ける攻撃ロールへのペナルティは半分に減少する。加えて、君は“ふっとばし攻撃”戦技に対するCMDに+2の特徴ボーナスを得る。君がドワーフなら、“安定性”種族特性は“ふっとばし攻撃”戦技にも適用される。 〔巨人殺しの子孫〕/Giantslayer Scion:巨人の敵と大立ち回りをしたという、有名な先祖の話を聞いて君は育った。祖先の名前を口にすれば屈強な巨人の戦士すらもその心に恐怖を抱くほど。君は先祖の足跡を追いかけると決意した。君は(巨人)の副種別を持つ自分より大きなクリーチャーに対して、〈威圧〉判定にペナルティを受けない。君は(巨人)の副種別を持つクリーチャーに対して[恐怖]に基づく効果を使用する際、DCに+1の特徴ボーナスを得る。 〔巨人が原因の孤児〕/Orphaned by Giants:君は山の近くにある穏やかで幸せな故郷で育った。しかしその幸せは砕かれる。巨人が山から下りてきて、君の住まいを襲撃したのだ。巨人は君の両親を殺し、君は若くして孤児となった。その日から、君は同族の死に報いると誓った。君は(巨人)の副種別を持つクリーチャーに対して行う攻撃ロールに+1の特徴ボーナスと、(巨人)の副種別を持つクリーチャーに対して行うクリティカル・ロールに+2の特徴ボーナスを得る。 〔かわしの匠〕/Roll With It:君はこの世で最高の巨人殺しと共に訓練し、巨人の強力な攻撃による最悪の効果を避ける術を学んだ。君は反応セーヴに+1の特徴ボーナスを得る。加えて、1日1回、(巨人)の副種別を持つクリーチャーが君に対して武器もしくは叩きつけ攻撃(魔法や特殊能力は除く)でクリティカル・ヒットを確定させた際、君はその攻撃をかわすことができる。まるでクリティカルが確定しなかったかのように、その攻撃から通常のダメージを受ける。君はその攻撃に気付いており、反応できなければならない――君が【敏捷力】ボーナスをACに加えられない場合、この能力を使用することはできない。君がドワーフもしくはノームであれば、この能力を1日に2回使用することができる。 〔巨人族調査員〕/Student of Giantkind:君はいつも巨人種族に魅了されており、その歴史や社会を調べるのに可能な限り情熱を傾けている。そのため君は、彼らの思考と能力に対する閃きを得た。君は(巨人)の副種別を持つクリーチャーに対する〈交渉〉判定に+1の特徴ボーナスと、(巨人)の副種別を持つクリーチャーに関する〈知識:地域〉判定に+1の種族ボーナスを得る。加えて、これらの技能のいずれか1つ(君が選択する)はクラス技能となる。加えて、君は巨人語を知っている(これは君の言語の総数に加えない)。 〔トルナウ生まれ〕/Trunau Native:君はトルナウの町で生まれ、育った。この町はオークに支配されたベルクゼンの領土では珍しい、人間の居住地だ。オークの襲撃は絶えずつきまとう脅威であり、トルナウ人みんなと同じように、君は抗戦の誓いを立てた。オークであれ何であれ、トルナウを全ての攻撃から守る。自由に生き、絶対にやり遂げるのだ。成人し、君はホープナイフ/hopeknife――小さい鞘付きダガー。服の下にある鎖につけておく――を与えられた。そしてオークに囚われた時に自決し、傷ついたものに速やかに死の慈悲を与えられるように、この武器の使い方を教わった。この街出身であるため、君はトルナウの兵役に就き、警邏隊隊長であるクルスト・グラスやロドリク・グラスと共に戦った。君はホープナイフ(高品質のダガー)を持ってゲームを開始する。逆境に直面しても諦めない精神により、君は意志セーヴに+1の特徴ボーナスを得る。 〔煩わしい守護者〕/Vexing Defender:君は自分より大きな敵との戦闘法を訓練し、敵の足下で戦い続け、あらゆる方向から敵を悩ませることに熟達している。君は〈軽業〉判定に+1の特徴ボーナスを得、〈軽業〉はクラス技能となる。加えて、君は機会攻撃を誘発することなく敵の接敵面を通過する際に行う〈軽業〉判定に+4のボーナスを得る。ただしこのボーナスは敵が自分より大きい場合にのみ与えられる。 トルナウの地名 TRUNAU GAZETTEER ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスはトルナウの街から始まる。町の辞典はPathfinder Campaign Setting Towns of the Inner Seaから転記したものを下に記している。 トルナウ Trunau ベルクゼンの2つしかない非オークの居住地のうちの一つであるトルナウは屈強な農民と勇敢な兵士からなる巨大な共同体であり、交易するやいなや殺すようなオークのぞっとするような海を漂っている。神の恩寵、指導者の卓越した粘り強さと創意工夫、そして先祖代々の土地から追い出されることに対する単純な魂からの拒絶を通じて彼らは生き延びている。 トルナウ人はあらゆる形での犠牲を知っている。彼らの生活は決して安泰なものではないが、理想主義者、悪党ども、追放者のこの一団は、敵対的な地域に自分たちの存在があるという独立性に大きな自尊心を持っている。彼らにとって、この町が存続する日々は文明の征服不可能な精神と驚異的な希望の強さの継続する例である。 トルナウの歴史 History of Trunau 国境が3828ARに“囁きの暴君”の敗北の後に確立されて以来、ベルクゼンの領土は着実に南方へとラストウォールまで拡大し、十字軍の戦線を押し戻し、オークの統治する領土内の数千マイルも続く国境上の破壊された要塞を朽ちるに任せた。4515AR、ハーキスト長城の陥落以来300年近く続く活発な戦争によって限界まで追い込まれた包囲された兵士と農民は、土塁と木製の柵より多少はマシなもので構築された話にならない出来の軍勢防衛線と呼ばれる新たな境界線を構築し、ケストレル川沿いで踏み留まった。それでも、その戦線より後ろの共同体がオークの脅威は最終的に阻止されたという希望をある程度持てるほどの時間を稼ぐことはできた。 しかしそうはならなかった。軍勢防衛線の建設後間もなくして、その西側の防塁が破壊され、オークがラストウォールの南側へと侵略した。ラストウォールの司令官はさらに別の場所への避難を渋々命じ、遥か東に後退させた新たな防衛線を引き、放棄された領地内の住民を持てる物と共に安全な所へと逃がし、そして死に物狂いで暴れ回るオークの一歩先を行った。 しかし誰も彼もが逃げたわけではない。ラストウォールの卑劣な裏切りと見做したものに対し憤慨した、トルナウの穏やかな居住地の農民らと退役した十字兵らは、逃げることを拒否した。岩の多い天然の要塞であるブラッドマーチ・ヒルと呼ばれる台地の上に位置する共同体は壕を掘り、杭を尖らせ、落とし穴を掘り、その人口は撤退して友を見捨てるつもりのない難民と兵士で膨れ上がった。避けられぬオークの到着の際、防衛者たちはトルナウの守備隊に優るとも劣らない獰猛さを見せつけ、侵入者たちは崖際や防柵への襲撃で手痛い損失を受けた後、南へと撤退し、放棄された居住地を略奪した。 勝利に浮かれ、生き残った住民たちは協定を結んだ。そこは今日抗戦の誓い(あるいは単に“誓い”)として知られている:その地に来るあらゆる者から自らの土地を守る為に、略奪するオークにも隣国の軍隊にも鐚銭も渡さない。どれだけの代償を払おうと、自らの大地に立ち、自由に生きる。 ここ数世紀の間、トルナウの人々はこの誓いを立ててきた。破壊的な襲撃や適地の中での生活の厳しさにもかかわらず町が陥落しなかったことは大きな誇りである。しかし、さらに重要なものは、北部のフリーダム・タウン――ラストウォールの厳しい法律から逃れるためにベルクゼンの領土内に定住した犯罪者と亡命者の街――とは異なり、トルナウの人々は基本的に文明的な性格を失ったことがなく、外部の団体から保護を求めたことがないことである。 多くの人々が影のある過去から逃げるために長年にわたりトルナウへ来る一方で、トルナウはそういった重荷を受け入れない;仕事をしコミュニティに貢献する気がある者だけが、町の壁の安全性を共有できる。オークが来ると全ての男女が貧富や職業に関係なく、防衛を手助けすることが期待されている。義務を果たし名誉を持って行動する者はトルナウの住人が新しく来たものが以前はどのような人物であったかについてほとんど気にしない――気にするのは今どのような人物になろうとしているかだけである。 トルナウの有名人 Notable People in Trunau 以下の人物はトルナウで著名な市民の一部である。 黒刃のチーフ・ディフェンダー ハルグラ Chief Defender Halgra of the Blackened Blades 評議員にして銀行員 レッシー・クランキン Councilor and Banker Lessie Crumkin 議員 アグリット・スタギンスダー Councilor Agrit Staginsdar 議員 サラ・モーニングホーク Councilor Sara Morninghawk 司祭 タイリ・バルベイトス High Priestess Tyari Varvatos 希望泉の管理人 シルバーメイン Hopespring Warden Silvermane 店長 ケッセン・プルーム Master of Stores Kessen Plumb 警邏隊のキャプテン クルスト・グラス Patrol Captain Kurst Grath 警邏隊のキャプテン ロドリク・グラス Patrol Captain Rodrik Grath 警邏隊のリーダー ジャグリン・グラス Patrol Leader Jagrin Grath トルナウでの生活 Life In Trunau トルナウの人々は絶えず脅威にさらされて生きており、死を単なる生命の別の一面として受け入れてきた。住民全員が自身の死の定めを完全に受容しているというわけではないが、単純に自らの死の定めは可能性が高いと認識しており、そのため略奪や不幸な事故によって命を落とすことについて過剰に心配することなく、最高の人生を過ごそうと努めている。 おそらくこれの最高の象徴物――そして、確実に最も想像力を掻き立て外部の者の目を惹くもの――はホープナイフの伝統である。トルナウの居住者全員が持ち歩いているホープナイフは小さな鞘に納められたダガーであり、通常は服の下の鎖に繋がれて身に付けられているが、最近は成人したばかりの若い大人が自らの短刀を見せびらかしていることもある。ホープナイフのこの伝統は、オークによる捕獲はしばしば迅速な死よりも遙かに悪いため、あらゆる住民は虜囚となる場合に自殺したり負傷者に慈悲を齎したりする準備をする必要があるという理解から生まれた。皮肉にも、元々は過酷な必要性に基づいていたが今では成人と独立の象徴となっており、多くの子供は自分の12歳の誕生日を今か今かと待ち構えており、その日になるとその者のホープナイフを手渡され、自分あるいは愛する者が敵の手に落ちる場合にその動脈を切断するのだと示される。ホープナイフは常に鋭利に保たれ、配偶者はしばしば結婚式の一環としてナイフを交換するが彼らの意図する目的以外には使用されない。 既に希望泉によって水の制御ができているトルナウで防衛に次ぐ問題事項は食料だ。町は国境のパトロールや警邏隊を国境付近の仮設の監視塔に配属し、多くの畑を維持し、長期間保存できる作物に焦点を当てて、包囲された場合に備え大規模な備蓄を維持することができる。しかし畑は簡単に燃やされるため、町は狩人と罠師にも大きく依存している――オークとの活発的な対立の間に、しばしば伝統的なファイターと協力し、食料と家畜をオークから盗み出す。 おそらく町の生存によってもっとも重要なものはシージストーンである。立ち上がって戦うとトルナウが決心した直後、町の指導者たちはこの町は飢餓に対し脆弱であることを認め、魔法による解決を見つけるために資源を共同出資することを決めた。取引の集団が町の容易に持ち運びできる貴重品の殆どを持たされ東のウースタラヴへと送られ、困難な時に味気のない粥をガロン単位で生産し、住民を全く飢えないようにできる巨大な大釜のような祭壇であるシージストーンと共に帰還した。石はロングハウスにあり、極度に必要な場合を除いて使用することはない――その魔法を使いつくす恐れがあり、また町の誰も平時に絶望の味を味わうことを熱望しない両方の理由からである。 トルナウの人々は生まれながらにして独立しているが、それでも全員が防衛評議会の知恵に従っている。2年置きに人民の階級から選ばれるこの6人は、町の物流と防衛の管理に従事し、法が順守され誰もこの共同体を危険に晒さないようにしている。6人の評議員のうち1人がチーフ・ディフェンダー/Chief Defenderの肩書を持つ。チーフ・ディフェンダーは町の安全に関する全ての最終的な決定権を持ち、危機が起こった時の指揮官である。それ以外では6人の評議員は町の繁栄、法律、仲裁などの問題については建前上は同等の権限を持っている。 ここ20年、チーフ・ディフェンダーの地位は黒刃のハルグラに保持されている。トルナウ生まれであるハルグラは幼き頃に町を去って冒険者となり、駆け塚から破砕海岸まで、そしてその遙か先のマンモス諸侯領に至るまで戦い襲撃をした。彼女は最終的に42歳にして、全員が異なる父親を持つ沢山の正真正銘の実子たちと共に帰郷し、余生を故郷の防衛の為に過ごそうと定住した。ジャグリン・グラスは現在巡視隊らと強襲する一行らを案内しているが、ハルグラはまだ山のような女性であり、彼女のトレードマークである黒く塗られた剣は素早く、巧みな駆け引きと戦術的な洞察力もあり誰も彼女の指導力の適性に正直に挑むことができない。 貿易はトルナウの生活の重要な一部である。大部分の確立された貿易ルートからは遠く離れているトルナウは、それでも放棄された居住地から町民が未だに引き上げている貴重な救出家財を熱望するラストウォールやニアマサスからの行商人を(「このような孤立した共同体から町民が要求できる」と商人が知っている暴騰した価格と同様に)迎え入れている。これらの中で最も一般的な貿易商はベルクゼンの領土を超えようとするヴァリシア人の隊商か、駆け塚のキチン質の化け物あるいはオークに対して自分自身を証明するためにヴァリシアから東へと来たショアンティ人の急襲隊である。トルナウ自身も隊商をラストウォールへと送り、必需品と引き換えに、オークの動きに関する貴重な情報を永立城の十字軍へと流している。グラスク・ウルデス/Grask Uldethによる貿易と文明への現在の心酔は長くは続かないだろうという共通の見解があるが、町はウルギルからの少数のオークの貿易商との関係を維持してさえいる。 オークはトルナウでは自然と軽蔑されているが、それでも皮肉なことに、他の場所よりもハーフオークはここでの偏見は少ない。オークが虜囚に対しどのような非道をなすかトルナウが知っている通りに、そしてハルグラ自身が冒険していた頃にハーフオークの恋人たちとの間に2人の子供をこさえたように、ハーフオークは同情されており、オークの収容所で育ったハーフオークはトルナウの壁の中での場所を獲得するために1人ならず逃げ出している。 トルナウは勤勉な共同体であるが、祝い事の価値を理解し、どこにいても安心できる共同体である。家族は緊密に結びついており、ほとんどの家族が、世代のある時点で結婚によって少なくとも多少は関連してる。住人はできるならば愛を見つけることを推奨され、住民が他人の自由を尊重する限り、社会的・性的なタブーはほとんどない。おそらく、トルナウの人生観で最も良い例は、ホールドファスト/Holdfastの休日である。この日は町で最初にオークに勝利したことへの祝祭であり、忘れられない思い出の堅苦しい朗読と小枝を編んで作った剣に火を灯すことから始まり、ゲーム、ダンス、エール、そして多数のロマンチックな私通へと続いていく。 トルナウを一瞥 Trunau at a Glance トルナウの街で最も目に付く特徴はその柵である。当初は、柵は鋭く尖らせた枝で作ったその場しのぎのフェンスであったが、数十年にも渡る戦いの中で、トルナウ人は長く残る危険なものにした。高さ10フィートの木の幹が、頂上は凶々しく鋭くとがり、光さえ間を通らないほどきつく結ばれた状態で村の低い部分を取り囲んでいる。その根元は地中へと更に5フィートも刺さっており、その壁の下半分は荒いが頑丈な石の基礎で覆われている。小さな棘でいっぱいの壕は、襲撃から壁を守る致命的な茨の茂みを構成している。また、柵に組み込まれているものには更に高く聳える岩の断崖があり、門の両側を含む木製の見張り塔複数の底部を構成している。 門を過ぎると、町は丘の上から40フィート上の吹きさらしの石の台地にある崖に面した急なつづら折りへと上がっていく。これらの崖は町の真なる防衛機構である、何故なら一握りの防衛者たちでさえ切り立った崖を登ろうとする侵略者どもを簡単に狙い撃ちすることができ、市民が大部分の防衛を下側の柵へと集中できるようになるからだ。石造りの見張り塔は町の高い位置にあり、通常の家と店の間にも強固に作られた構造物がある。納屋やそのほかの作業を行う建築物は、壁の外側に置かれ、多くの住民がその建物で日夜過ごしているが、全ての住民は町で自分の区画を維持するか、オークからの攻撃が来た間にのみ使用する壁の中の誰かの家の1区画か部屋を借りるために「包囲網料/siege fee」を払わなければならない。包囲網料は不当な利益を獲得することを防ぐために、防衛評議会によって決められた利率である。 以下はいくつかのトルナウの街にある注目すべき場所である。 1.メイン・ゲート/Main Gate:トルナウには一つしかゲートがない。包囲された際に出入りする者は町の高い方の崖から吊るされた縄梯子を使うだけである。ゲートは両側で石が積み重なるように造られ、丘の岩が破城槌に対しての補強をしている。岩の上には、十数人の守備兵が弓を放つか相対的に安全な場所から攻撃者に熱湯を放つのに十分な大きさの、木製の見張り塔がある。オークを威嚇し火のついた矢から守るために、塔の側面と屋根は壁を襲って死んだオークの盾や胸当てで装甲されており、様々な一族のシンボルが目立つように飾られている。町の評議会は昼夜問わず多くの目が確実に壁の上にあるようにするため精密な監視日程を設定しており、村民の全ての大人は定期的な時間割で動くことを要求される。 2.アイヴォリー・ホール/Ivory Hall:トルナウの権力の座であるアイヴォリー・ホールはもともとトルナウの最初の包囲の際に倒れた凶暴なオークの覇者たち及び酋長たちの頭蓋骨で花綵状に飾られており、その中空の眼窩はトルナウの存在の足下にある絶え間ない脅威と、住民によるそれを生き延びるための揺るぎない献身の両方への無言の証明となっていた。後の世代の評議員は展示物があまりにも恐ろしく、オークの独自のトロフィーを飾っておく伝統と類似していたがために、骨を捨ててしまった。今日ホールはその華麗な白い壁からその名称を名付けられ、チーフ・ディフェンダーである人の家としても用いられている。ハルグラはこの邸宅をよく利用し、成長した彼女の子供たちの家族をその多くの部屋に住まわせている。残りの無鉄砲な彼女の一族が立ち入り禁止となっているのは会議室である――周囲の田園風景を見渡しながら彼女は戦争の評議会を主宰し、貿易商やヴィジルやフィリン城からの使者、あるいはベルクゼンへの探検の出発地点としてトルナウを利用するパスファインダー協会の者などの訪問客を楽しませたりする。 3.哀悼の焔/Flame of the Fallen:トルナウ人は殺害した敵の骨を集め、残った骨から荒々しいモニュメントを作り上げるというオークの習慣にあまりにも精通している。倒れた死者を敬い、自分たちの敵にその死体を骨だけのまがい物へと変化させる機会を与えないために、トルナウ人は戦いで殺された市民の死体を取り戻すためにどんなことでもする。回収されたものは、町の頂きにある崖に沿って大きな火で燃やし、その光と煙は空に広がる無限の自由へと流れ込む。包囲される間、篝火が昼夜問わず燃え続け、守備隊を鼓舞し、オークに対して挑戦し続ける――が、一部の皮肉屋は、新しい死体がだんだんと増えていくことに市民が気付いて絶望してしまうのを防ぐために火を燃やし続けていると主張している。 4.コモンズ/Commons:トルナウの共同体の中心的な特徴は石畳のある広い円形状の一段盛り上がった舞台を備えたステージである。日によってはコモンズはトルナウの訓練場として用いられ、住民はジャグリン・グラスの下で武道の訓練を行う――町での主な役割にもよるが、一部の熱心な戦士たちはほぼ毎日訓練を受けている。しかし他の能力に秀でている人は少なくとも1か月に1日は訓練を受けることになっている。しかし夜になると、コモンズは寛ぎや祝宴の場へと変わり、町の人々が集まり、若者のためのホープナイフの儀式を執り行い、あるいは他の祝いの名目に夢中になる。子供のための学校の授業は階段状になった座席の列で行われることが多く、舞台は発表や演劇のために使われる。一般にコモンズは全ての住民にとって快適な野外の集会場である。 5.バーターストーン/Barterstones:トルナウは壁の中で店舗を設けているが、一般的な商売のほとんどは町の東側にある幅の広い平らな岩の上で開かれた屋外市場で行われる。元々この市場は共同体の壁の中へ入ることを許されるまでの信頼を得られていなかった外部の人々とオークとの貿易にのみ使われていたが、時間とともに、町の中の急で幅の狭い通りでワゴンや家畜を率いるよりもここで会うのが簡単であると町の農民と牧畜家は気が付き、今ではこの地の貿易の大部分がバーターストーンでも行われ週2回市場が開かれる(そして貿易商が来る頻度も増えている)。 6.疫病の家/Plague House:軍勢防衛線が陥落する前、ここは地元の農業のコミュニティに貢献したアイオメデイの小さな教会であった。ラストウォールの軍が撤退しトルナウが立って戦うと決めた時、アイオメデイの司祭が彼らに加わった――しかし他の住民とは違い、司祭長アーサリス・ベインと2人のアシスタントは要塞の壁の中に退くことを拒否した。アイオメデイの怒りが彼らのために迎え来る襲撃者を襲うと確信していた。 司祭は勇敢に戦ったが、教会は猛攻するオークたちによってすぐさまほとんどが全焼し、その住人3人は全員殺害された。教会は何十年も燃え尽きた残骸として立っており、そして50年前町を襲う疫病で苦しんでいる人々を救う場所として急遽再建された。町の壁の中から疫病を取り除くことは間違いなく多くの人々を救ったが、疫病の家は完成後数夜で謎の火災で、患者と治療者20名とともに燃え尽きてしまった。火災は事故であるか永久に疫病を止めようとした放火犯の犯行であるかは誰も知らないが、誰も2度とこの現場で再建をしようと提案しなかった。 今日、この地――「燃え落ちた教会/Burned Church」と「疫病の家」の両方として知られている地――には日没後に黒焦げの角材の中央部に子供たちが勇敢にも立つことが時折あることを除いて、ひと気がない。しかし、夜にこの教会で光が動き回っているのが最近見かけられるが、最高の追跡者でさえ翌朝にその痕跡の証拠を見つけられない。町全体は新しい目撃の度に突飛な推測で騒めく。 7.聖域/Sanctuary:トルナウの古い教会が失われてから1年後、宣教師たちがアイオメデイの教会から到着し、かの女神を称え、トルナウの人々に仕える為の新しい礼拝堂を作り始めた――今回は賢明にも町の壁の中に建設した。新しい聖域には6人のパラディンとクレリックが住み、町の防衛に協力するだけでなく、大規模な礼拝堂と戦闘後に怪我人が運ばれる可能性のある休憩所にスタッフを派遣する。一部の市民はアイオメデイ信者を不信の目で見てはいる――彼ら全員はまだ正式にラストウォールに忠誠を主張しており、ここでの自分たちを、国境がもう一度拡大されるまで前哨基地との外交関係の維持を手伝っている存在だと見做している――が、特筆すべき理由として彼らは政府の立場に仕えることを拒否しているため、勤勉で大切な住人であるアイオメデイ信徒を本当に締め出す気のある者はいない。 聖域の現在の寮母はヴィジルのSecond Sword Knight of the Sancta Iomedaeの若きシスターであるタイリ・バルベイトス/Tyari Varvatosという若いクレリックである。彼女が何故他の有名なシスターと一緒ではなく、トルナウで精を出して働いているかについて、他のシスターの影で生きるよりはむしろ自分の名前を売ることだろうと多くの人が推測している。彼女の最も忠実な味方は以前フィリン城に駐留していたブラントス・カルデロン/Brantos Calderonという名の逸脱したパラディンであり、この過酷な開拓地に挑む断固たる若いクレリックであるタイリに自身の刃(と噂によれば、心臓)を捧げるために、自身の立場を捨てた人物だ。 聖域に最も長くいる居住者(兼患者)はカツレズラ/Katrezraという名の老いたハーフオークである。空拳族の中で育った彼は、嫉妬深い指導者が苦痛に満ちた未来の幻視を体験させるために硫黄臓卜寺院へと彼を行かせたときに得た、顔と両腕の血の滲む爛れと肺の恐ろしい感冒で苦しんでいる。オークの野蛮性に飽き飽きした彼は自分に聖域を与えるようハルグラを説得し、以来アイオメデイの光の中に再誕を見出し、そして町の防壁の上で何度も忠義を示している。彼は未だ時として幻視を見、多くのものが幻覚や注目を集めたいだけだと切り捨てているが、タイリ/Tyariは重要な啓示を指している可能性を秘めているとして記録している。 8.辻宿/Ramblehouse:独立した町として創立される前は、トルナウには宿の需要は殆どなく、多くの世代の間、町に訪れる稀な訪問客は空いた場所に滞在した。しかし30年弱前にモルスーンから逃げ出してきた一握りのハーフリングの奴隷は新しい人生を始めることを決意し遙々トルナウへと北上した。そのうちの一人チャム・ラーリングファス/Cham Larringfassは自分と友人のための場所だけでなく、宿屋と下宿も建てることを決めた。彼女はその努力の途上で残りの仲間を引き入れ、まもなくして町の下端に、あらゆる形状とあらゆるサイズの部屋を詰め込んだ、無秩序に広がる奇抜な邸宅ができあがった。客はまだ珍しいが、適切に名付けられた辻宿は現在の町のハーフリングの人口のかなりの部分だけでなく、他の種族の多くの下宿人が住んでいる。チャムはまだ宿屋の主人であり、包囲網料でよい生活を送っているので、他のハーフリングや「正しいサイズ」の種族との取引を結ぶことを好む――彼女の気質で唯一面倒なのは、客候補向けに仲介人を演じるところだ。 9.ロングハウス/Longhouse:この町で最も大きな建物であるロングハウスはトルナウの中心的な集会場であり、議会の会議が行われ、天候が悪い日には様々なトレーニングや通常コモンズで催される祝賀会が行われる。宴会や会議のための大きな共有ルームに加え、建物には幾つかの兵舎が内蔵されており、性別を問わず若い未婚の兵士がより民兵としての訓練に集中できるような生活が送れる。ここのチーフはジャグリン・グラスであり、警邏隊のリーダーという単純な選ばれた称号にもかかわらず、町の民兵を訓練し指揮している評議員である。彼の妻――才能あるレンジャーにして戦士でもあった――がオークの強襲隊の手にかかって死んだあと、彼とその息子はロングハウスへと移動し、これ以上の家族が離れ離れになることがないように、町を守り、犠牲者を増やし続けるオークたちに略奪し返し、トルナウの住民全員に兵士の技術を訓練することに尽くしている。個人的な巡回部隊の先導に加えて、彼は見張り塔の交代勤務の組織化と任命を担当しており、ロングハウスの長大な地下にある包囲戦用の携帯食、武器、ポーションの膨大な在庫が利用可能であるとケッセン・プルーム評議員がきちんと確認することを手伝っている。滑車などの道具なしで動かすにはあまりにも重いシージストーンを除き、ロングハウスにある在庫全てにはカギがかけられており、6人の評議員のみが合鍵を持つ。 10.トルナウ会計室/Trunau Countinghouse:ラストウォールが初めてトルナウを放棄した時、バラン・クランキンという名のこの地域のアバダルの収税吏は遊蕩してトルナウの住人と運命を共にようと決心した、彼らを蛮行に直面しながら文明を推進しようと足掻く自身の信仰の模範であると見做したからだ。彼はこの町で他の同志の商人を集め、住民が自分の財産を家に隠してオークの襲撃時に失う可能性を生じさせる代わりにそれを安全に預け、利息を得ることができる銀行「トルナウ会計室」を設立した。 今日では、トルナウ会計室は地元住人や行商人の銀行業と精神的なニーズの両方を兼ね備えた大きく堂々とした建物へと成長した。その所有者である評議員にして銀行員のレッシー・クランキンは、自分の血筋を銀行の創業者まで誇らしげに遡り、十分仕事に取り込んでいるが、一部の人々は訓練場での彼女の武器の技術の確かさだけでなく、町から離れる巡察隊を熱心に監視する彼女のやり方にも気が付いている――特に彼らのリーダーであるジャグリン・グラスは。 11.希望泉/Hopespring:元々は単に「ヒルスプリング/Hillspring」という名であったこの淡水の流れは、この町が建立した理由とその存在の鍵である。石の深い所から湧き上がってくるこの驚異的な流れは、町に純粋の滝を提供し、数マイル離れた小川で地表に現れる前に地下を流れ、もう一度岩の隙間を流れて濾過されて町の貯水池を満たす。 滝が自然なものであるか魔法的なものであるかは誰も口にできない――だがそのことは誰も知らないということを意味しているわけではない。その萎びた特徴が彼の歳経ぬ種族の間でさえ彼の年齢を敬うべきものにしている唖のエルフのドルイドは、静かにこの泉とその貯水池を観察しているが、その静かな瞑想の目的は誰にも推量できない。街の住人から銀蓬髪/Silvermane と呼ばれている彼は、町が建立される前からこの丘に住み、この泉の近くで眠っている。彼は誰とも滅多にコミュニケーションをとらないが、時々何らかの形の手話を介してハルグラと会話しているのが見かけられる。概して町の出来事から距離を取っているにも拘らず極稀な――瀕死の子供を治癒したり、侵略者に稲妻を落としたりといった――魔法の行使によって彼は大半の住人から尊敬を得てはいるが、それは彼の不可解な動機に関する疑問と混じり合ったものだ。最も一般的な噂は彼が凶暴なドルイドたちの寄り合いであった茨評議会/Council of Thornsの唯一の生き残りであるというもので、その議会の会員たちは幽霊火沼/Ghostlight Marshにその名前を与えた並外れた血の儀式でその人生を終えている。 12.インナー・クォーター/Inner Quarter:トルナウには2つの石の内壁があり、台地の頂上まで続いている斜面区画を塞いでいる。これらの内壁は主となる柵が破られた場合に市民が町のより高い場所へ退却できるようにする為に設計されており、坂の両端に門を持つことで防衛側は侵略者を効率よく詰まらせられるようになり、この傾斜全てを鏖殺場に変え、壁や崖の上から矢を放てるようになっている。 13.希望の家/House of Wonders:呪文発動を購入したり、魔法のアイテムを購入したりしようとする多くの訪問客はアグリット・スタギンスダー/Agrit Staginsdarを紹介され驚く。秘密の理由でジャンダーホッフを離れトルナウへとやってきた戦士たちの長い列の唯一の娘である彼女は、兵法学を学んでいたほんの1~2年の期間の後に秘術の魔法へ目を向けると主張して、家族を大いに失望させた。彼女は自ら素晴らしいビジネスを構築したが、彼女の家族はまだ彼女の居場所は町の外のパトロールにあると強く感じている――サラ・モーニングホーク/Sara Morninghawkとの子供のいない結婚がスタギンスダー家の末裔として終わらせたことは喜ばしいことではない。アグリットは自分の人生の選択について激しく防衛的になることがあるが、自分の仕事について話すか町のその他の急成長している秘術の術者を指導しているときに明るくなる。彼女は常に馴染みのない魔法のアイテムを調べたがっており、そして不思議と神秘の感覚に訴える者はだれでも無償で魔法のアイテムを特定することをアグリットに頼むことができる(DC15の〈交渉〉判定に成功する必要がある)。 14.轟き屋/Clamor:技術的には「モーニングホーク良鉄店」ではあるが、この鍛冶屋は日中に雷が鳴るかの如くハンマーが絶え間なく叩かれていることから「轟き屋」というニックネームで知られている。オーナーであるサラ・モーニングホークは町についた時点ですでに妊娠していたショアンティの女性の娘で、過去について話すことに興味がない。サラは自らの混血の血統についてほとんど気にしていないが、その血が自身に「鍛冶屋としての仕事をするのにふさわしい肩」を与えていることに留意している点は除く。 モーニングホークは取引の様々な局面に特化したような数人の見習いを含む町の金属加工の全てを監督している。彼女は母の斧を置いてどこにも行かず、常に背中に結んでいる。サラは自分とアグリットとの結婚について一部の人間が眉をひそめているのをかなり気にかけているが、屈強な上腕二頭筋を見せつけながら明るく反応し、ドワーフ以外の誰が自分を扱えるのかという質問で返す。 15.鏖殺場/The Killin' Ground:町の2つの内門の間にある上り坂に位置することからその名がつけられたこの関所は、レイブス・クレアンストンが自身の愛する密造酒の製造の資金を調達する為の道として始まった。タイリと町の一部の道徳的な住人の非難の声にもかかわらず、レイブスは活発的にビジネスをしている――彼の取引を管理している唯一の法律は、誰かが彼の製品を呑みながら巡回や当直をしていた場合にはレイブス自身もその罰を共有しなければならないというものである。その結果レイブスは誰よりもシフトのスケジュールを知っている。彼のほぼ常時の酩酊状態にもかかわらず、彼は次の当番の4時間以内(飲むのをやめられなくなる者に対しては、6時間もしくは8時間にさえなることもある)に彼の関所内で飲むことを許可しない。 鏖殺場自体は足下から始まる壁を有し、屋根が完全に粗布でできている奇妙な建築物である。地方の激しい嵐に巻き込まれるとき、レイブスは粗布を引いて、雨とこの丘の斜面を利用してこの関所で常時行われている宴会の汚れを洗い流す――そして丘の下の住人を大きく悩ませる。 16.あの店/That 'n' Such:正式な名前――ミーソン新品回収品店/Meeson's Goods Salvage――ではなくニックネームで知られているもう一つの店、「あの店」はトルナウにある店の中で雑貨屋に最も近い。所有者であるジェス“クレイジー・ジェス”ミーソンはほとんどの事柄に敏感なビジネスマンであるが、ラストウォールの国境が後退する前の日から残留品回収に対する彼女の情熱は遠慮がなくなり、彼女の店は町の人々にとって有用なありふれた商品と、パトロールと冒険者から購入した「宝物」で散らかっている。彼女の夫Gorkis Meesonは町でただ一人の在住の薬剤師として自身の趣味に同じように憑りつかれている。店の後ろにある彼の作業場で、病気のために町の信仰系の治療者を探すのがあまりに恥ずかしいか気難しい人のために、彼は魔法とありふれたものでポーションと薬を作っている。 ベルクゼンの日付 Belkzen Dates ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスの始まりの地ベルクゼンの領土には長い歴史があり、オークの群れはラストウォールの騎士を南方へと幾度となく押しやり、人間に彼らの国の国境を引き直すことを何度も強要している。残念なことに複数の退却により、複数の製品上で矛盾した日付が生じた。 特にPathfinder Campaign Setting Belkzen, Hold of the Orc Hordesには、軍勢防衛線の陥落について誤った日付が記されている。軍勢防衛線の陥落の正確な日付は、印刷版に記載されている4524ARではなく4517ARである。PDF版には正しい日付を入れるためにアップデートを行い、 ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスではアップデートを行った日付を使用している。 アップデート版Pathfinder Campaign Setting Belkzen, Hold of the Orc HordesのPDFに書かれている日付はPathfinder Adventure Path #11の“The Hold of Belkzen”の記事にある元の日付より優先される。 環境について ENVIRONMENTAL CONSIDERATIONS ジャイアントスレイヤー・アドヴェンチャー・パスは君のキャラクターをマインドスピン山脈の奥深くへと誘う。山間部を移動するとき、遭遇するかもしれない危険な状況に注意せよ。君の技能を磨き、正しい装備を持ち込み、目を見開いて、以下の環境のルールを考慮せよ――迅速かつ簡便化のためのリファレンスをここに転記するが、大元はPathfinder RPG Core Rulebookにある。 地形:丘陵 Hills Terrain 丘はどんな地形にあってもおかしくないが、丘陵群が景色の主要な要素になっている土地もある。このような地形としての丘陵には、大別して2種がある。なだらかな丘陵と起伏の多い丘陵である。丘陵地形はしばしば、移動困難な地形(山岳など)と平坦な地形(平地など)の間に中間地帯として存在する。 ゆるやかな斜面:ゆるやかな斜面の勾配は、移動に影響を与えるほどではない。それでも、斜面の上のほうにいるものは、下の敵への近接攻撃に+1のボーナスを得る。 急な斜面:急な斜面を登る(隣の、より高度の高いマス目に移動する)キャラクターは“急な斜面”のマス目に入る場合、1マスあたり2マス分の移動がかかる。上から下へ(隣の、より高度の低いマス目へ)疾走または突撃を行うキャラクターは、その疾走や突撃の中で最初に“急な斜面”のマス目に入った時点で、DC10の〈軽業〉判定を行わねばならない。騎乗したキャラクターは〈軽業〉ではなくDC10の〈騎乗〉判定を行う。これらの判定に失敗したものはつまづき、1d2×5フィート先で移動を終えねばならなくなる。5以上の差で失敗したものはそのマス目で転倒して伏せ状態になり、そこで移動を終える。急な斜面では〈軽業〉のDCは+2される。 崖:典型的な崖はよじ登るのにDC15の〈登攀〉判定が必要で、高さは1d4×10フィート。ただし自作のマップに必要なら、もっと高い崖を出しても差し支えない。崖は完全に垂直なものではなく、高さ30フィート未満なら一辺5フィートの正方形を占め、高さ30フィート以上なら一辺10フィートの正方形を占める。 軽度の下生え:丘陵にはヤマヨモギその他の小ぶりな灌木が生えているが、あたりじゅう下生えだらけということはない。軽度の下生えは視認困難を提供し、〈軽業〉と〈隠密〉の判定DCを+2する。 丘陵のその他の地形の構成要素:丘陵に木が生えているのは珍しくない。谷間には水の流れる小川(幅5から10フィート、深さ5フィート以下)や水の涸れた川床(幅5~10フィートの塹壕として扱う)がよくある。水は常に上から下へ流れることに注意。 丘陵での隠密行動と探知:なだらかな丘陵では、近くに他者のいるのを探知するために〈知覚〉判定を行える最大距離は2d10×10フィート、起伏の多い丘陵では2d6×10フィートである。丘陵で〈隠密〉技能を使うのは、手近に下生えがないかぎり困難である。丘のてっぺんや尾根は、背後にいる者に遮蔽を提供してくれる。 地形:山岳 Mountain Terrain 地形としての山岳には3種がある。高原、起伏の多い山岳、険しい山岳である。キャラクターが山岳地帯を上へ上へと登っていくと、これら3種類に順番に出くわすことになる。まず高原、次に起伏の多い山岳、最後に山頂近くの険しい山岳。 山岳には岩壁という重要な地形の構成要素が存在する。これはマス目を占めるのではなく、マス目とマス目の間の境界線上に記される。 ゆるやかな斜面、急な斜面:これについては『地形:丘陵』を参照。 崖:丘陵の崖と同様に機能するが、ただ山岳の典型的な崖は高さ2d6×10フィート。高さ80フィートよりも高い崖は、水平方向にして20フィートを占める。 裂け目:裂け目は、普通の地学的プロセスによって形成されたものであり、ダンジョンにおける落とし穴と同様の機能を有する。裂け目は隠されているわけではないので、うっかり裂け目に落ち込んでしまうなどということはない(突き飛ばしを受ければ話は別だが)。典型的な裂け目は深さ2d4×10フィート、長さ20フィート以上、幅は5~20フィート。裂け目を登って出るにはDC15の〈登攀〉判定を要する。“険しい山岳”では、典型的な裂け目の深さは2d8×10フィートになる。 軽度の下生え:これについては『地形:森林』を参照。 ガレ場:ガレ場には小さなぐらぐらする石くれが一面に散らばっている。移動速度に影響はないが、斜面にこんなものがあると、とんだことになりかねない。ゆるやかな斜面がガレ場になっていると、〈軽業〉判定のDCが+2され、急な斜面にあると+5される。また、なんらかの斜面がガレ場になっていると、〈隠密〉の判定DCが+2される。 重度の瓦礫:地面が大小の瓦礫に覆われている。“重度の瓦礫”に覆われたマス目に入るには、1マスにつき2マス分の手間がかかる。重度の瓦礫の上では〈軽業〉のDCは+5、〈隠密〉のDCは+2される。 岩壁:岩壁は石の垂直な平面であり、これを登るにはDC25の〈登攀〉判定が必要になる。典型的な岩壁の高さは“起伏の多い山岳”では2d4×10フィート、“険しい山岳”では2d8×10フィート。岩壁はマス目の中ではなく、マス目とマス目の間に描かれる。 洞窟の入り口:洞窟の入り口は崖のマス目、急な斜面のマス目、岩壁の隣などにあり、典型的なもので幅5~20フィート、高さ5フィート。その奥には単なる1個の岩室から、複雑極まりない大迷宮まで、あらゆるものが存在し得る。モンスターの巣になっている洞窟には、典型的なもので1d3個の部屋があり、それぞれ差し渡し1d4×10フィート。 山岳のその他の地形の構成要素:高原は森林限界線よりも標高が高いところから始まるのが普通である。このため、山岳では木などの森林でよく見られる地形の構成要素は稀になっている。水の流れる小川(幅5~10フィート、深さ5フィート以下)や水の涸れた川床(幅5~10フィートの塹壕として扱う)はよくある。標高が特に高い場所は、周りのもっと低い場所よりも概して気温が低く、氷に覆われていることがある(『地形:砂漠』を参照)。 山岳での隠密行動と探知:山岳では一般に、近くに他者のいるのを探知するために〈知覚〉判定を行える最大距離は4d10×10フィートである。むろん一部の頂や尾根に立てば、もっと遠くまで見渡せ、入り組んだ谷や渓谷では視認可能な距離がもっと短くなる。視線をさえぎる植生が少ないので、マップがどうなっているかを細かに見れば、それだけで遭遇がどの距離で始まるかを判断するヒントが得られるだろう。丘陵と同様、山岳でも山頂や尾根は背後のものに遮蔽を提供してくれる。 山岳では遠くの音を聞き取るのが容易い。音による〈知覚〉判定のDCは、聞く者と音源の間が(10フィートではなく)20フィート離れているごとに+1される。 山岳の旅 Mountain Travel 標高の高い場所を旅するのは、慣れていないクリーチャーにはひどく疲れる──それどころか、時には致命的である。寒さははなはだしく、空気中の酸素不足はもっとも頑健な戦士をもへたばらせてしまう。 高地に順応したキャラクター:高地に慣れたキャラクターは、山岳では低地民よりもうまくやっていける。“出現環境”の項に山岳が入っているキャラクターは山岳の原住者であり高地に慣れている者として扱われる。また、高地で1ヶ月以上暮らしたキャラクターは高地に慣れる。2ヶ月以上山岳から離れていたキャラクターは、再び山岳に戻る際には、もう一度順応をやり直さなければならない。アンデッド、人造、その他呼吸をしないクリーチャーは高度の影響を受けない。 高度帯:一般的に言って、山岳には3つの高度帯がありうる。低い峠、低い頂/高い峠、高い頂である。 低い峠(高度5,000フィート未満):低い山での旅の多くは、低い峠を進むことになる。この高度帯の多くは高原と森林でできている。旅人たちは進むのが難しいと感じるかもしれない(これは山岳を移動する際の修正に反映されている)。ただし高度自体の影響はない。 低い頂/高い峠(高度5,000フィート~15,000フィート):低い山の頂近くの斜面を登る場合や、高い山を普通に旅するにあたってのほとんどの場合は、この高度を通ることになる。高地に順応していないクリーチャーはみな、この高度の薄い空気を呼吸するだけで一苦労である。こうしたキャラクターは、1時間ごとに1回頑健セーヴ(DC15、加えて2回目以降1回ごとに+1)を行い、失敗すると疲労状態になる。この疲労は、キャラクターがもっと空気の濃い場所に降りた時点で終わる。高地に順応しているキャラクターは、この頑健セーヴを行う必要がない。 高い頂(高度15,000フィート以上):もっとも高い山には高度20,000フィート(約6,000メートル)を越えるものもある。この高度ではキャラクターは高い高度による疲労(前項参照)の影響を受け、加えて高山病の影響を受ける。キャラクターが高地に順応していようといまいと関係ない。いわゆる高山病というのは、“長い間体に酸素が十分回っていないことをあらわすもの”であり、精神的能力値と肉体的能力値の両方に影響を与える。キャラクターは高度15,000フィート以上の場所で6時間を過ごすごとに1回、頑健セーヴ(DC15、加えて2回目以降1回ごとに+1)を行い、失敗すると全ての能力値に1ポイントの能力値ダメージを受ける。高地に順応しているキャラクターは、高い高度による疲労や高山病に抵抗する際のセーヴィング・スローに+4の技量ボーナスを得る。とはいえ、どんなベテランの山男も、この高度にいつまでもとどまっているわけにはいくまい。
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唐書巻一百六十六 列伝第九十一 賈耽 杜佑 子式方 従郁 孫悰 慆 牧 顗 曾孫裔休 令狐楚 子緒 綯 孫滈 渙 渢 弟定 賈耽は、字は敦詩で、滄州南皮県の人である。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、臨清県の尉に補任された。論事を上書して、太平県に移された。河東節度使の王思礼に任命されて度支判官となった。汾州刺史に累進し、治めることおよそ七年、政務で優秀な成績を修めた。召還されて鴻臚卿、兼左右威遠営使となった。にわかに山南西道節度使となった。梁崇義が東道に叛くと、賈耽は屯谷城に進撃して、均州を奪取した。建中三年(782)、山南東道節度使に遷った。徳宗が梁州に移ると、賈耽は行軍司馬の樊沢に奏上を行わせた。樊沢が帰還すると、賈耽は大宴会を開いて諸将と酌み交わした。にわかに突然詔があって、樊沢を賈耽に代らせることとなり、召還されて工部尚書に任命されることとなった。賈耽は詔を懐に入れて、もとのままに飲んでいた。罷免されるとき、樊沢を呼び寄せて「詔によって君に代らせることとなった。私もただちに命令を遵守しよう」と言った。将や吏を集めて樊沢と合わせた。大将の張献甫は、「天子が巡幸されているとき、行軍(樊沢)は公の命によって行在に天子に拝謁に行き、そこで軍を指揮しようとはかって、公の土地を自分の利にかなうようにしました。これは人に仕えて不忠というべきです。軍中は納得しませんから、公のために行軍を殺させてください」と言ったが、賈耽は「何を言っているのか。朝廷の命があったから、節度使となったのだ。私は今から行在に拝謁しに行くが、君と一緒に行こう」と言って、張献甫とともに行ったから、軍中は平穏となった。 しばらくして東都留守となった。慣例では、東都留守となった者は洛陽に居住し、守って城から出ないこととなっていたが、賈耽は弓をよくしたから、特別に詔があって近郊で狩猟することを許された。義成軍節度使に遷った。淄青節度使の李納は偽王号を取り去ったとはいえ、密かに陰謀を含み、怨みを晴らしたいと思っていた。李納の兵数千は行営より帰還するため、滑州を経由したから、賈耽に向かってある者は野外に宿営させるべきだと言った。賈耽は「私と道を隣り合っているのに、どうして疑おうか。野外で野ざらしにでもさせるというのか」と言い、命じて城中に泊まらせ、役所で宴会を開き、李納や士は皆心服した。賈耽は狩猟をするごとに、数百騎を従え、たびたび李納を境内に入れた。李納は大いに喜んだが、しかし賈耽の徳を恐れて、あえて謀をしなかった。 貞元九年(793)、尚書右僕射同中書門下平章事(宰相)となり、魏国公に封ぜられた。常に節度使の将帥となるべきものが不足しており、賈耽は天子に向かって自らを節度使に任じるべきであると言ったが、もし賈耽が軍中から謀れば、下の者は後ろ向きとなってしまうから、人々に不穏な動きが出るとした。帝はそうでと思い、賈耽の案を用いなかった。順宗が即位すると、検校司空・左僕射に昇進した。当時、王叔文らが実権の握り、賈耽はこれを憎み、しばしば病と称して辞職を求めたが、許されなかった。卒し、年七十六歳であった。太傅を贈られ、諡を元靖という。 賈耽は書物を読むのを嗜み、老いてもますます勤勉で、最も地理に詳しかった。四方に使節に行った人や夷狄の使者を見かけると、必ず風俗を尋ね求め、そのため天下の土地・区域・産物・山川・険阻の地は、必ず究明して知ったのである。吐蕃が盛強になると、隴西に侵入してきたが、以前は州県の遠近を役人に伝えられていなかった。賈耽はそこで布に隴右・山南・九州を描き、かつ河が流れを図に描いて載せ、また洮州・湟州・甘州・涼州の屯鎮や人口・道や里の広狭、山の険阻や水源を『別録』六篇、『河西戎之録』四篇として進上した。詔して宝物・馬・珍器を賜った。また『海内華夷』を描き、広さ三丈、縦三丈三尺にもなり、縮尺は一寸を百里とした。あわせて『古今郡国県道四夷述』を撰し、その中国の基本は「禹貢」で、外夷の基本は班固の『漢書』で、古の郡国を墨で題し、今の州県は朱で題し、漏れ落ちたところは、多く改正した。帝はこれをよしとし、下賜物がさらに加えられた。あるいは図を指してその国の人に尋ねると、すべてその通りであった。また『貞元十道録』を著し、貞観年間(623-649)の天下の十道使、景雲年間(710-712)の按察使、開元年間(713-741)の采訪使、設置・廃止や行き来が備わっていた。陰陽・雑数も通じていないものはなかった。 賈耽の度量は広く、思うに長者であったのであろう。人物のよしあしを批判することを喜ばなかった。宰相となること十三年、安全や危険といった緊急の大事に際して対策を披露することはできなかったとはいえ、身を引き締めて決められたことを実行するのは、自ら得意とするところであった。邸宅に帰るごとに、賓客と面会しても少しも倦むところをみせず、家人や近習は、喜怒をみたことはなかった。世間ではいつも道理に従った人だといっていた。 杜佑は、字は君卿で、京兆万年県の人である。父の杜希望は、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、交際があった者は全員僅かな間に英傑となった。安陵県令となり、都督の宋慶礼はその優れた政務能力を上表した。些細な罪のため連座して官を去った。開元年間(713-741)、交河公主が突騎施(テュルギシュ)に嫁ぐことになると、杜希望に詔して和親判官とした。信安郡王李漪が上表して霊州別駕・関内道度支判官に任命した。代州都督に任じられ、召還されて京師に戻り、辺境の問題について奏上し、玄宗はその才能を優れたものとした。吐蕃が勃律(ギルギット)を攻撃し、勃律は帰順を願ったから、右相の李林甫は隴西節度使となっており、そのため杜希望を鄯州都督に任命し、隴西節度留後とした。駅伝で急ぎ隴州に向かい、烏莽部の軍を破り、千人あまりの首級をあげ、進撃して新城を陥落させ、軍を凱旋させて帰還した。鴻臚卿に抜擢された。これより鎮西軍を設置し、杜希望は軍を引き連れて塞下に分置したから、吐蕃は恐れ、書簡を送って講和を求めた。杜希望は「講和を受けるのは臣下があれこれできることではない」と答え、敵はすべて争って講和の地につこうとした。杜希望は大規模・小規模な戦いをすること数十におよび、その大酋を捕虜とし、莫門に到達して、積載された備蓄物を焼き払い、終わって城に帰還した。功績によって二子に官位を授けられた。当時、戦争がしばしば勃発し、府庫はだんだん少なくなっていったが、杜希望は鎮西軍にあること数年、備蓄された穀物や金絹は余剰が出るほどであった。宦官の牛仙童が辺境にやってきて、ある者は杜希望に誼を結ぶことを勧めたが、「金銭によってこの身を節度使のままでいようとは、私には堪えられない」と答え、牛仙童は戻って杜希望が職務を行っていないと奏上したから、恒州刺史に左遷され、西河に遷った。しかし牛仙童が諸将より金銭を受け取っていたことが漏洩し、その罪は死罪に相当し、金を送った者は全員罪となった。杜希望は文学を愛し、門下で引き立てられた者は崔顥らのように全員有名となって当代に重んじられた。 杜佑は父の蔭位のため済南参軍事・剡県の丞に補任された。かつて潤州刺史の韋元甫のもとを通過すると、韋元甫は友人の子であったから厚遇したが、杜佑自身は韋元甫に礼を加えなかった。他日、韋元甫に疑獄の案件を抱えて結審することができず、試しに杜佑に訊問させると、杜佑が述べるところは、要点がつくされていないところはなかった。韋元甫は優れた人物だと思い、司法参軍に任じ、韋元甫が浙西・淮南節度使となると、上表して幕下に任用した。京師に入って工部郎中となり、江淮青苗使に任命され、再び容管経略使に遷った。楊炎が宰相となると、金部郎中を経て水陸転運使となり、度支兼和糴使に改任された。ここに戦争が起こると、補給のことは杜佑が専決した。戸部侍郎の地位によって判度支となった。建中年間(780-783)初頭、河朔の兵は内乱となり、民は困窮して、賦は出されなかった。杜佑は弊害を救うために用途を省くにこしたことはなく、用途を省けば官員も減員するから、そこで上議して次のように述べた。 「漢の光武帝は建武年間に四百県を廃止し、吏は十分の一しか任命されず、魏の太和年間(227-233)には方々に使者を派遣して吏員を削減し、正始年間(240-249)には郡県を併合し、晋の太元年間(376-396)には官七百を廃止し、隋の開皇年間(581-600)には郡五百を廃止し、貞観年間(623-649)初頭には内官六百人を削減しました。官を設置する根本は、百姓を治めるためであって、だから古は人を数えて吏を設置し、無駄に設置することをよしとしなかったのです。漢から唐まで、戦争で困難のため吏員を削減するのは、実に弊害から救うのに合致したことなのです。 昔、咎繇(皋陶)は士となりましたが、これは今の刑部尚書・大理卿にあたるので、つまりは二人の咎繇がいることになるのです。垂は共工となりましたが、これは今の工部尚書・将作監にあたり、つまりは二人の垂がいることになるのです。契は司徒となりましたが、これは今の司徒・戸部尚書にあたるので、つまりは二人の契がいることになるのです。伯夷は秩宗となりましたが、つまりは今の礼部尚書・礼儀使にあたるので、つまりは二人の伯夷がいることになるのです。伯益は虞となりましたが、これは今の虞部郎中・都水使司にあたるので、つまりは二人の伯益がいることにあるのです。伯冏は太僕となりましたが、これは今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑厩使にあたるので、つまりは四人の伯冏がいることになるのです。昔、天子は六軍あり、漢は前後左右将軍が四人いましたが、今、十二衛・神策八軍で、だいたい将軍は六十人います。旧名を廃止せず、新たに日々加えられているのです。また漢は別駕を設置し、刺史に従って巡察しましたが、これは今の監察使の副官のようなものです。参軍は、その府軍事に従いますが、これは今の節度判官のようなものです。官名職務は、変化にあたっても同じのままであって、どうして名実一体しておりましょうか。本当に余剰について検討しなければなりません。統治しようとするのならまず名実を正すのです。神龍年間(707-710)、任官は気まま勝手で、役人は大いに集められ選ばれましたが、官職は既に欠員がなく、そこで員外官を二千人設置し、これより常態化したのです。開元・天宝年間(713-756)当時は、国の四方に敵はおらず、戸九百万あまりを数え、財庫は豊かで溢れ、余分な費用がかかったとしても、心配するほどではありませんでした。今耕作地は疲弊し、天下の戸は百三十万、陛下が使者に詔してこれを調査させましたが、わずかに三百万がいただけで、天宝年間(742-756)に比べると三分の一、とりわけ浮浪の者が五分の二おりますから、賦税を出すことができる者は段々減っているのに、禄を食む者はもとのままなのです。どうして改めないままでおれましょうか。 議論する者は、天下なお群雄が跳梁跋扈して朝廷に服していないのだから、ただ官吏を削減すれば、罷免された者が皆群雄のもとに行ってしまうとしています。これは一般的な心情を述べたものであって、正確に述べたものではありません。なおかつ才能ある者を推薦して用いるのですから、不才の者はどうして群雄のもとに行っていなくなったとて心配することがありましょうか。ましてや姻戚・財産をかえりみるでしょうか。建武年間(25-56)に公孫述と隗囂はまだ滅ぼせておらず、太和年間(227-232)・正始年間(240-249)・太元年間(376-396)に魏は呉・蜀と鼎立しており、開皇年間(581-600)に陳はまだ南に割拠しておりましたが、皆英才を捕まえ、人を失って敵に利益をもたらすとは心配しておりませんでした。今、田越のような輩は頻繁に刑罰を用いて重税を課し、軍には目をかけるものの、士人への待遇は奴婢のようで、もとより范睢が秦の遺業をならせたり、賈季(狐射姑)が狄を強くしたような恐れはありません。または長年にわたっているものをにわかに改めるべきではありません。かつ仮に別駕・参軍・司馬を削減し、州県で内官を試験し、戸ごとに尉を設置すべきです。ただちに罷めるべきなのは、行義があるとして在所から上奏されたものの、実際にはそうではなかった場合、推薦者を罪としてしまえば、人のために推薦する者がいなくなるので、常調官に任ずべきです。またどうして心配することありましょうか。魏で柱国を設けた時、当時の宿老の功業は柱国の地位にあったので、第一に尊ばれたのです。周・隋の時代には授けられる者が次第に多くなり、国家はこれをただの勲功とし、わずかに地を三十頃得るだけになったのです。また開府儀同三司・光禄大夫もまた官名でありましたが、非常に多くなったので、かえって位階の一つとなりました。時に従って制度を樹立し、弊害にあえばただちに変えるのであれば、どうして必ず順応して改めるのを憚ることがありましょうか。」 議題に上がったものの、採用されなかった。 盧𣏌が宰相となると、盧𣏌に嫌われたため、京師から出されて蘇州刺史となった。前の刺史の母の喪があけると、杜佑の母は健在であったから、辞退して行かず、饒州刺史に改められた。にわかに嶺南節度使に遷った。杜佑は大きな道路をつくり、間隔をあけた街並みとしたから、大火災にならなくなった。朱厓の民は三代にわたって要衝によって節度使に服しなかったから、杜佑は討って平定した。召還されて尚書右丞を拝命した。にわかに京師から出されて淮南節度使となったが、母の喪のため任を解かれるよう願ったが、詔して許されなかった。 徐州節度使の張建封が卒すると、軍が騒動をおこし、その子張愔を立て、承認を朝廷に願ったが、帝は許さず、そこで杜佑に詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)、徐泗節度使として討伐させた。杜佑は軍艦を配備し、部下の将の孟準を派遣して淮河を渡河して徐州を攻撃させたが、勝てずに撤退した。杜佑は軍を出兵させて変乱に対応するのを得意とはしていなかったから、そこで境を固めてあえて進撃せず、張愔に徐州節度使を授け、濠州・泗州の二州を割いて淮南に隷属させた。それより以前、杜佑は雷陂を決壊させて大規模灌溉を実施し、海に近い土地を田とし、収穫された米は五十万斛にもおよび、軍営は三十区をならべ、兵士・馬は整然とし、四隣は恐れさせた。しかし部下に寛容であったため、南宮僔・李亜・鄭元均が権力を争って政治を乱したから、帝は全員を追放した。 貞元十九年(803)、検校司空・同中書門下平章事(宰相)に拝命された。徳宗が崩ずると、詔して摂冢宰とした。検校司徒、兼度支塩鉄使に昇進した。ここに王叔文が度支塩鉄副使となったが、杜佑は既に宰相であったから度支塩鉄使は自ら執り行わず、王叔文が遂に専権した。後に王叔文が母の喪によって家に帰ると、杜佑が審査決定することとしたが、郎中の陳諌が王叔文にさせるよう要請したから、杜佑は「専権させないようにするからなのか」と言い、そこで陳諌を京師から出して河中少尹とした。王叔文は東宮を動かそうとし、杜佑に助けを求めたが、杜佑は応じず、そこで謀して追放しようとしたが、まだ決する前に失脚した。杜佑はさらに李巽を推薦して自らの副官とした。憲宗が諒暗に服すると、再び摂冢宰となり、度支塩鉄使を李巽に譲った。それより以前、度支使は職務にあたっては経費を削減してきたが、職務が増加するにつれて経費が多くなっていったから、吏を任命して百司の暫時の代理とし、繁多な上に決まりがなかった。杜佑は営繕署を将作監に、木炭は司農寺に、染色を少府に帰属させ、職務を簡素化した。翌年、司徒を拝命し、岐国公に封ぜられた。 党項(タングート)が密かに吐蕃を導いて乱をおこし、諸将が功績を得ようと、討伐を請願した。杜佑はよくない辺臣が叛乱をおこすことと思い、そこで上疏して次のように述べた。 「昔、周の宣王が中興したとき、異民族の獫狁が害をなし、これを太原に追いましたが、国境に到達してから追跡を止めました。中国の弊害となることを願わず、遠夷を怒らせることになるからです。秦は兵力をたのんで、北は匈奴を防ぎ、西は諸羌を追い払いましたが、怨みをまねいて乱のきっかけとなり、実際には流謫人からなる守り人を生んだだけであった。思うに聖王が天下を治めるのは、ただ多くの人を安撫させようとすることを願うからで、西は流沙まで、東は海まで、北も南も、天子の名声を聞きその教えを被るのですが、どうして内政が疲弊しているのに外征を行おうというのでしょうか。昔、馮奉世は詔を偽って莎車王を斬り、首を京師に伝送し、威は西域に震わせたので、宣帝は爵位・封土を加えるかどうかを議論させました。蕭望之は一人詔を偽り命令を違えたことを述べて、功績があっても通例としてはならないとし、後世に使者となった者が国家のために夷狄に事件を引き起こさせるような事態を恐れたのです。近年では、突厥の黙啜が中国に侵掠し、開元年間(713-741)初頭に郝霊佺が捕えて黙啜を斬り、自らこの功績は二つと匹敵するものはないと言っていましたが、宋璟は辺境にいる臣下がこのようにして功績を得ようとするのを恐れて、ただ郎将を授けただけでした。これより開元の盛が終わるまで、再び辺境に関する議論はおこらず、中国はついに安泰となったのです。このような事情の戒めは手本とするに遠い過去のことではありません。 党項は小蕃で、中国と雑居しており、時折辺境の将が攻撃しては、その良馬や子女を己に利させ、徭役を苛斂誅求し、遂には謀反させるに到り、北狄と西戎とを互いに誘致して辺境に掠奪させたのです。伝(『論語』季氏篇)に「遠方の人が随わないなら、必ず文化力を高め、そうやって招き寄せる」とあり、管仲は「国家は勇猛の者をして辺境にいさせてはならない」と言っていますが、これは本当に聖哲が兆候を見て、その傾向や問題の本質を知覚できるということなのです。今戎どもは強くなり、辺境の防備は備わっておりません。本当に良将を慎重に選び、防備を完備させ、苛斂誅求を禁止し、真心を示し、来れば防いで懲らしめ、去れば備えるべきです。そうすれば彼らは懐柔し、奸悪の謀をするのを改めるでしょう。どうして必ずしばしば軍役をおこし、座して財力・人材を消耗する方を採用するのでしょうか。」 帝は喜んで受け入れた。 一年あまりして、致仕を願い出たが、聴されず、詔して三・五日に一度、中書・平章政事に入らせた。杜佑は進見するごとに、天子は尊んで礼遇し、呼ぶのに官名を呼んで、名前では呼ばなかった。数年後、固く骸骨(辞職)を乞い、帝はやむを得ず許した。そこで光禄大夫・守太保致仕を拝命し、毎月朔日(一日)・望日(十五日)に朝廷に出席し、宦官を派遣して賜い物は非常に厚かった。元和七年(812)卒した。年七十八歳。冊立して太傅を追贈し、諡を安簡という。 杜佑の性格は学問を嗜み、貴い身分になって、それでも夜分に読書した。これより先、劉秩は百家を拾い上げて、周の六官法を揃え、『政典』三十五篇をつくり、房琯は才能は漢の劉向を超越したと称えた。杜佑は『政典』は未だに尽くされていないと思っていたから、そこでその欠落部分を補い、『開元新礼』を参考にし、二百篇をつくって、自ら『通典』と名付けて奏上し、詔してお褒めの言葉を賜り、儒者はその書物が簡約でありながら詳細であることに感服したのである。 人となりは簡素かつ恭順な人物で、物事に背かなかったから、人は皆敬愛して重んじた。名声は漢と胡に広がり、しかも練達の文章は誰もが及ばないのである。朱坡・樊川の地には、すぐれた東屋・高台・林泉の庭園をつくり、山を穿って泉を掘り、賓客とともに酒を酌み交わすのを楽しみとした。子弟は皆朝廷に供奉することを願い、貴く盛んなことは当時の筆頭であった。能力は吏職に精勤し、統治しても苛斂誅求を行わず、しばしば税務を司り、宰相として民の利害によって差配を決めたから、議論する者は杜佑を統治・行ないに欠点はないと称えた。ただ晚年、妾を夫人としていたが、杜佑の業績からは隠れる程度といわれる。子に杜式方がいる。 杜式方は、字は考元で、父の蔭位によって揚州参軍事を授けられた。再び太常寺主簿に移り、音律を考察して定めたから、太常卿の高郢に称えられた。杜佑が宰相になると、京師から出されて昭応県令となり、太僕卿に遷った。子の杜悰は、公主を娶った。杜式方は宗室の姻戚となったから、たちまち病と称して業務を行わなかった。穆宗が即位すると、桂管観察使を授けられた。弟の杜従郁は長らく重い病に罹っており、自ら薬を与えて食事の介助をし、死ぬと泣いたから、世間ではその真心のこもった行ないを称えた。卒すると礼部尚書を追贈された。 杜従郁は、元和年間(806-820)初頭に左補闕となり、崔群らからは宰相の子であったから嫌われ、再び秘書丞に遷された。駕部員外郎で終わった。子に杜牧がいる。 杜悰は、字は永裕で、一門の蔭位のため三遷して太子司議郎となった。権徳輿が宰相となると、その婿で翰林学士の独孤郁は嫌疑を避けて自らその職を辞するよう申し上げた。憲宗は独孤郁が文章をよくするのを見て、「権徳輿に婿ありというのはまさにそなたのことだな」と歎いた。当時、岐陽公主がおり、帝はこの娘を愛していた。昔の制度では、多くは姻戚や将軍の家より選ばれたが、帝は始め宰相李吉甫に詔して大臣の子より選んだが、皆病と称して辞退し、ただ杜悰だけが選抜によって麟徳殿で召見された。婚礼が終わると、殿中少監・駙馬都尉と授けられた。大和年間(827-835)初頭、澧州刺史より召還されて京兆尹となり、鳳翔忠武節度使に遷った。京師に入って工部尚書、判度支となる。たまたま岐陽公主が薨ずると、杜悰は長らく挨拶せず、文宗は不可解に思った。戸部侍郎の李珏は「この頃駙馬都尉は皆公主の服喪は天子・父同様の斬衰三年で、だから杜悰は挨拶できなかったのです」と述べると、帝は驚き、始めて詔して服喪期間を斉衰杖期の一年とし、法令として明記させた。 会昌年間(841-846)初頭、淮南節度使となった。武宗は揚州監軍に詔して俳優の家の娘十七人を禁中に進上させ、監軍は杜悰に同じく選ばせようとし、また良家に姿形がよい者を見せようとしたから、杜悰は「私は詔を奉っていないのにたちまち共に行うのは罪である」と言ったから監軍は怒り、帝に上表した。帝は杜悰に大臣の体裁があるのを見て、そこで詔して俳優を進上させるのを廃止し、その意は杜悰を宰相にすることにあった。翌年(844)、召還されて検校尚書右僕射・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、判度支を兼任した。劉稹が平定されると、左僕射・兼門下侍郎となった。しばらくもしないうちに、宰相を罷免され、京師から出されて剣南東川節度使となり、西川節度使に移り、また淮南節度使となった。当時、旱魃となり、道路に流亡する者が溢れ出て、民は運河で運ばれてくる米を濾して自給するようになり、「聖米」と呼び、湖沼のまぐさや蒲の実を採ってすべて尽き果ててしまったにも関わらず、杜悰は上表して吉祥・災異の前触れと報告した。獄囚は数百人を数えたが、酒色におぼれて安逸に過ごしたから裁決できなかった。罷免されて、兼太子太傅、分司東都となった。翌年、起用されて東都留守となり、再び剣南西川節度使となった。召還されて右僕射、判度支、進兼門下侍郎同平章事(宰相)となった。 それより以前、宣宗の在位中、夔王李滋以下の五王を大明宮の内院に住まわせて、鄆王を十六宅に住まわせた。帝が重病となると、枢密使の王帰長・馬公儒らが遺詔によって夔王を擁立しようとしたが、左軍中尉の王宗実らが殿中に入って、以為王帰長らのために詔が偽られたとし、そこえ鄆王を迎えて即位させた。これが懿宗である。しばらくして、枢密使の楊慶を派遣して中書省にやって来たが、ただ杜悰だけが拝礼し、他の宰相の畢諴・杜審権・蒋伸はあえて進み出なかったから、杜悰に説諭して大臣にふさわしくない者を弾劾させて罪にあてようとした。杜悰はにわかに封を使者に授けて復命し、楊慶に向かって、「お上は践祚されてからまだ日が浅い。君達は権力を手中にして愛憎によって大臣を殺せば、役人の禍いは日を待たないだろう」と述べ、楊慶の顔色を失い、帝の怒りもまた解け、大臣は安泰となった。しばらくもしないうちに、司空となり、邠国公に封ぜられ、検校司徒によって鳳翔・荊南節度使となり、加えて太傅を兼任した。たまたま黔南観察使の秦匡謀は蛮を討伐しようとしたが、兵は敗れ、杜悰のもとに逃げたが、杜悰はこれを逮捕し、節義に殉じなかったことを弾劾したが、詔によって斬られてしまった。杜悰は死んでしまうとは思っていなかったから、驚きのあまり病となって卒した。年八十歳。太師を追贈された。葬送の日、宰相百官に詔して参列させた。 杜悰は大いに議論しては往々として時勢に適うところがあったが、しかし才能は適応しなかった。将軍や宰相の地位を行ったり来たりし、厚く自ら父母を孝養したが、いまだかつて在野に隠れた士を推薦したことがなく、杜佑の素風は衰えたのだった。だから当時の人は「禿角犀(角が禿げたサイ)」と呼んだ。 子の杜裔休は、懿宗の時に翰林学士・給事中を歴任したが、事件に罪とされて端州司馬に貶された。弟の杜孺休は、字は休之である。累進して給事中となった。大順年間(890-891)初頭、銭鏐が弟の銭銶を派遣し、兵を率いて徐約を蘇州で攻撃して破り、海昌都将の沈粲が刺史の業務を執行したが、昭宗が杜孺休に命じて蘇州刺史とし、沈粲を制置指揮使とした。銭鏐は喜ばず、密かに沈粲を遣わして殺害してしまった。杜孺休は攻められると、「私を殺さないでくれ。君に金をあげよう」と言ったが、沈粲は「お前を殺せば、金はどこに行くのかね」と答えた。兄の杜述休も同じく死んだ。 杜悰の弟に杜慆がいる 杜慆は、咸通年間(860-874)に泗州刺史となった。龐勛が反乱を起こすと、城を囲まれ、処士の辛讜が広陵よりやって来て杜慆に面会し、家族を城から出して、ただ身を守るよう勧めた。杜慆は「私が一族全員を逃れさせて生を求めたところで、軍心は動揺するだけだ。将兵と生死を共にするのにこしたことはない」と言い、軍は聞いて皆涙を流した。杜慆は籠城の困難を聞いて、堀を浚って城の防備を固め、籠城の器械で備わっていないものはなかった。 賊将の李円は杜慆が組みやすしとみて、勇士百人を馳せて府庫に入らせようとすると、杜慆は甘言によって礼を厚くして迎えて慰労したから、賊は杜慆の謀であると思わなかった。翌日、兵士三百名を伏兵し、球場で宴して賊を全員殲滅した。李円は怒り、曲輪を攻撃したが、杜慆は数百人を殺したから、李円は撤退して城の西に立てこもった。龐勛はそのことを聞いて、兵を増やして、書簡を城中に射て投降を促した。夜になって、杜慆は鼓を打って城壁の上から大声で叫んだから、李円の士気は削がれ、走って徐州に戻った。しばらくもしないうちに、賊は淮口を焦土とし、昼夜戦ってやむことはなく、辛讜はそこで救援を守将の郭厚本に要請し、賊は包囲を解いて去った。浙西節度使の杜審権は将を派遣して兵千人によって救援させたが、かえって李円の軍に包囲され、一軍もろとも全滅した。杜慆は人を間道によって京師に走らせると、戴可師に詔して沙陀・吐渾の援軍二万によって討伐させた。淮南節度使の令狐綯は牙将の李湘を派兵して淮口に駐屯させ、郭厚本と合流したが、李円の攻撃のため敗北し、李湘らは枕を並べて討ち死にし、ここにおいて援軍は途絶えた。賊はそこで鉄の鎖で淮河の流れを途絶えさせ、梯子と衝角で城を攻撃した。兵糧は尽きて、そのため薄い粥を支給していた。懿宗は使者を派遣して杜慆に検校右散騎常侍に任命し、防衛に努めさせた。龐勛は李円を派遣して城内に入って杜慆に面会して投降を約束させようとしたが、杜慆は怒って李円を殺してしまった。龐勛は再び書簡を送ったが、安禄山・朱泚らがついに滅亡してしまったと答書し、ひそかに龐勛の軍にあてつけた。龐勛はしばしば攻撃したが目的を遂げることができず、たまたま招討使の馬挙が兵を率いてやって来たから、遂に包囲を解いて去った。包囲されることおよそ十か月、杜慆は兵士を慰撫し、全員が命を投げ出し、辛讜は包囲を冒して出入し、援軍を集め、ついに一州を全うさせたから、当時の人は艱難さを称えた。賊が平定されると、杜慆は義成軍節度使、検校兵部尚書に遷り、卒した。 杜牧は、字が牧之で、詩文をつくることが上手であった。進士の試験に合格し、さらに賢良方正科の試験にも合格した。当時江西観察使であった沈伝師が朝廷に届けて、江西団練府巡官とした。それからこんどは牛僧孺の淮南節度府の書記の職につき、監察御史に抜擢されたのち、病気を理由にして東都(洛陽)の分司御史となった。弟の杜顗の病気が悪化したので退官し、再び宣州団練判官の職につき、殿中侍御史内供奉をさずかった。 この頃、劉従諌が沢潞節度使として、また何進滔が魏博節度使として、相当にごうまんで国の法律制度に従わなかった。杜牧は、長慶年間(821-824)初頭から朝廷の処置が方法を誤り、そのためにまたしても山東の地を失い、大きい領域をもった重要な藩鎮の処理は、天下の人が唐の政権を重く視るか軽く視るかに関係することだけに、それを世襲のように受けつかせたり、軽々しく授与したりしてはいけないのに朝廷はこれを許したことを、当時にさかのぼってとがめようとした。が、こうしたことは、すべて朝廷のきめる大事だから、自分がその地位にないのに分をこえたことを言うのは、とがめられるおそれがあり、そういうことはよくない、ということで「罪言」を作った。その文にいう、 「人々は常に戦争の惨劇に苦しみ、戦争は山東で始まって、天下に広がっていきました。山東を占領しなければ、戦争をやめることができません。山東の地は、禹が全国九土を分割して冀州(九州)といい、舜がその中でも非常に大きい部分を分割して幽州とし、并州としました。その自然条件を見てみると、河南と匹敵し、常に全国の十分の二の強さがあり、そのため山東の人は勇猛で力が強く、規律を重んじ、苦労を厭わないのです。魏晋の時代より以降、職人と織機の技術は巧妙で、ありとあらゆるものが流出し、習慣は卑俗となり、人々はますます脆弱となっていったのです。ただ山東だけが五種の穀物を種まき、兵は弓矢の道を根本として、他はゆったりしていて揺らぐことはありません。丈夫な馬を生産し、馬の下位のものでも一日に二百里を移動するから、兵は常に天下と対抗することができるのです。冀州は、その強大さをたのんで摂理に従わず、冀州が必ず弱く弱体化することを期待しましたが、敗れたとはいえ、冀州はまた強大となったのです。并州は、力は併呑するのに充分な能力があります。幽州は、幽陰(奥深く)で厳しい土地柄です。聖人はだからこの名をつけたのです。 黄帝の時、蚩尤は戦争をおこない、それより以後は帝王が多くその地にいることになりました。周が衰えて斉が覇者となりましたが、一世代もたたずに晋が強大となり、常に諸侯を使役しました。秦が三晋より強勢となると、六世代の時を経て韓を占領したため、遂に天下の背骨を折り、また趙を占領して、そこで残る諸侯を拾い上げるように征服したのです。韓信が斉を占領しましたが、だから蒯通は漢と楚のどちらが勝利するかは韓信次第であることを知っていたのです。漢の光武帝は上谷で挙兵し、鄗で帝業をなしとげました。魏の武帝は官渡で勝利して、天下三分のうち、その二が手中にあったのです。晋が乱れて胡が侵攻してくると、宋の武帝が英雄となり、蜀を占領して、関中を手中におさめましたが、黄河以南の地の大半を占領し、天下は十分の八まで得られましたが、しかし一人として黄河を渡って胡に攻め入る者はいませんでした。高斉(北斉)の政治が荒れると、宇文(北周の武帝宇文邕)が占領し、隋の文帝が陳を滅ぼし、五百年で天下が一つ家となったのです。隋の文帝は宋の武帝には敵いませんが、これは宋が山東を占領できず、隋が山東を占領したから、そのため隋は王業をなしとげ、宋は霸となるにとどまったのです。この観点からみてみると、山東は、王者が獲得できなければ王業はならず、霸者が獲得できなれば霸道は得られませんが、狡猾な匪賊でも得られれば、天下を不安にすることが十分にできるのです。 天宝年間(742-756)末、燕州の安禄山は反乱をおこし、成皋・函谷関・潼関の間を無人の地を行くかのように出入りしました。郭子儀・李光弼らは兵五十万を率いていましたが、鄴を越えることができませんでした。それより百あまりの城や、天下が力を尽くしても、尺寸の地すら得られず、人々は元は唐土であったこれらの土地をまるで回鶻や吐蕃を望み見るかのように扱い、あえて攻撃しようとする者はいませんでした。国家はそのため畦や河を阻塞とし、街路を封鎖しました。斉・魯・梁・蔡はそのような影響を蒙り、そのため彼らも叛徒となったのです。裏(河北)を表(河南)の後ろ盾とし、水の流れが旋回するかのように混乱状態となり、五年間常に戦っていない者はいない状態となったのです。人々は日に日に貧しくなり、四方の異民族は日に日に勢いが盛んとなり、天子はそのため陜州に逃れ、漢中に逃れ、じりじりとして七十年あまりとなりました。孝武帝のような時運に遭遇し、古着を着て一日一度だけ肉を食べ、狩猟や音楽をせず、身分の低い中から将軍や宰相を抜擢することおよそ十三年、それでもすべての河南・山西の地を征服し、改革を実行に移すことができなかったのです。山東は服属せず、また二度も攻撃しましたが、すべて勝利には到りませんでした。どうして天は人々にまだ安寧な生活をさせないのでしょうか。どうして人の謀がまだできていないのでしょうか。どうしてそんなに難しいのでしょうか。 今日、天子は聖明であらせられ、古を凌駕し、平和に治めようと努力されています。もし全国の人々を無事に過ごさせたいのなら、戦争を終わらせることが重要です。山東を得られなければ、戦争は終わりません。今、上策は自立して治まるのにこしたことはありません。なぜならば、貞元年間(785-805)に山東で燕・趙・魏の叛乱があり、河南で斉・蔡が叛乱しましたが、梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春はすべて大軍で十箇所以上防衛し、わずかに自ら治所を守るのにたる程度で、実は一人として他所にとどまることはできず、遂に我が力はほどけ勢いは緩み、反逆があっても熟視するだけで、どうすることもできなかったのです。この頃、蜀もまた叛乱をおこし、呉もまた叛乱をおこし、その他まだ叛乱をおこしていない者でも、時勢によっては上下し、信頼を保つことはできなくなりました。元和年間(806-820)初頭より今にいたるまでの二十九年間、蜀・呉・蔡・斉を占領し、郡県を回復すること二百城あまりとなり、まだ回復していないのは、ただ山東の百城だけとなりました。土地・人戸・財物・兵士は、往年の時と比べて、余裕綽々ではありませんか。また自分に統治能力があると思わせるのに充分です。しかし法令制度・条文は果たして自立できるといえるでしょうか。賢才や悪人を探し出して選んだり捨て置いたりしますが、果たして自立できるといえるでしょうか。要塞や鎮守、武器や車馬は、果たして自立できるといえるでしょうか。街や村々、穀物や財物は、果たして自立できるといえるでしょうか。もし自立できなければ、これは敵を助けて敵の為に行っているのと同じなのです。土地の周囲は三千里、叛乱が根付いてから七十年、また天下には密かにそれを支持して助ける者がいるのに、どうして回復できるのでしょうか。ですから上策は自立するにこしたことはないのです。中策は魏州の占領です。魏州は山東で最も重要な地で、河南にとっても最も重要な地です。魏州は山東にあって、趙州の障壁となる地です。朝廷はすでに魏州を越えて趙州を奪取することも、もとより趙州を越えて燕州を奪取することもできませんでした。これは燕州・趙州にとって魏州が常に重要地点であることを意味し、魏州は常に燕州・趙州の命運の握っているのです。そのため魏州は山東で最も重要な地なのです。黎陽は白馬津から三十里離れており、新郷は盟津から百五十里離れており、城塞は互いに向かい合っており、朝から晩ばで戦い、この白馬津・盟津の二津のうち、敵が一つでも破ることができれば、数日もしないうちに成皋に突入することができるのです。そのため魏州は河南で最も重要な地なのです。元和年間(806-820)、天下の兵を動員して蔡・斉を誅伐したので、五年ほどは山東からの攻撃の心配はなくなりましたが、魏州を得られたからです。先日、滄を誅伐し三年ほどは山東の攻撃の心配はなくなりましたが、これまた魏州を得られたからです。長慶年間(821-825)初頭に趙州を誅伐しましたが、一日のうちに五諸侯の軍隊は壊滅し、そのため魏州を失いました。先日、趙州を討伐しましたが、長慶の時のように魏州を失ったので失敗しました。そのため河南・山東の勝敗の要は魏州にあるのです。魏が強大なのではなく、地形がそうさせているのです。そのため魏州を奪取するのが中策なのです。最下策は軽率な作戦で、地勢を計算に入れず、攻守を分析しないことがそうです。兵士と兵糧が多く、人々を戦わせることができれば、それは防衛に有利であり、兵士と兵糧が少なく、人を自発的に戦う必要もなく、攻勢が有利となります。そのため我が軍は常に攻勢で失敗することが多く、敵は防御で悩むことが多くなるのです。山東が叛いて五世代にもなり、後世の人々が見たり聞いたりした行動は、叛乱側ではなく、物事の理はまさにそうあるべきだと思い、なじんで骨髄にまで入っており、そういではないと思わなくなっています。包囲が激しく兵糧が尽きると死体を食べてまで戦っています。これはもはや習慣となっていますが、どうして一勝一負を決することができましょうか。十年あまりにおよそ三度趙州を奪還しましたが、兵糧が尽きて撤退しました。郗士美が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、杜叔良が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、李聴が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻しました。そのため地勢を計算に入れず、攻守を分析せず、軽率な作戦を行うことは、最下策なのです。」 何度か昇進して左補闕兼史館修撰となり、その後膳部員外郎に転じた。宰相の李徳裕は、かねてより杜牧の才能を、とりわけすぐれたものであると高く評価していた。会昌年間(841-846)のことであるが、黠戛斯(キルギス)が回鶻(ウイグル)を破り、回鶻の部族は負けてばらばらになって漠南(内蒙古)にのがれて来た。その時は、次のように李徳裕に説いてすすめた。「この機をのがさずに討ち取ってしまうほうがよろしい。私が考えますのに、前後漢の匈奴討伐は、いつも秋と冬に行われましたが、この季節は、匈奴の強い弓が、膠の折れる冷気のためにより強くなっており、はらんだ馬が子を産んでじゅうぶん働けるようになっております時期で、ちょうどこの時にはりあったものですから、負けることが多く、勝つことがほとんどなかったのです。ですから、今も夏の中頃に、幽州・并州のよりすぐりの騎兵と酒泉の兵を出動させて、匈奴の意表をつきましたら、一度で殲滅できましょう。これこそ上策と存じます」李徳裕はこの策を高く評価した。ちょうどその頃、劉稹が朝廷の命令を拒否したので、天子は諸鎮の軍に詔を下してこれを討伐させた。その時にも李徳裕に意見をのべた。「私が考えますのに、河陽は、西北の方天井関からは百里(56km)あまりありますが、ここに大勢の人を使ってとりでを築いて、軍の進入口をふさぎ、守りを固めてまともに交戦してはいけません。成徳軍節度使は、代々昭義軍節度使と敵対しております。それで成徳軍節度使の王元逵は、一度仇を報いて自軍の士気を高揚したいと考えています。しかしなにぶんにも遠方のことゆえ遠い道のりを駆けてまっすぐに昭義軍の根拠地の上党を攻撃することができません。そこで、当方のぜひとも狙わねばならぬところは、賊の西の方です。今もし忠武・武寧の両軍に、青州の精鋭五千人と宣州・潤州の弩の名手二千人を加えて、絳州を通って東へ攻め入りましたら、数か月もたたぬうちにきっと敵の本拠を滅ぼすことができましょう。昭義軍の食糧は、その全部を山東に頼っておりまして、ふだん節度使はたいてい邢州に留まって生活しています。山西にいる兵は孤立して少数ですから、敵の手うすにつけこんで不意に襲撃して取るのがよいのです。こういうわけで、戦争には、拙速というのはありますが、およそ巧久(うまくて長びく)というのはまだあったためしがないのです」。まもなく沢潞は平定された。戦略は大体において杜牧のたてた方策の通りであった。黄州・池州・睦州三州刺史を歴任したのち、朝廷に入って司勛員外郎となったが、いつも歴史を編輯する官を兼任した。その後、吏部外郎に転じ、かさねて請願して湖県刺史となった。その翌年、考功郎中に進み兼ねて知制詰となり、つぎの年には中書舎人に昇進した。 杜牧は性格が剛直で、なみなみならぬ節義があり、慎重すぎて小事になずむことはせず、大胆に朝廷の大事を論じ、弊害と利益を指し示して述べたがその指摘は、とりわけ適切でゆきとどいていた。若い時から李甘・李中敏・宋邧と仲がよかった。しかし、杜牧が古代と現代の事柄に精通していて、政治やいくさの成功にも失敗にも十分にうまく処する道を知っていたことは、李甘らの及ぶところではなかった。杜牧はまた歯に衣着せぬ率直な態度がわざわいして、当時彼を助ける者がいなかった。従兄の杜悰は、将軍と宰相を歴任したが、杜牧は、官途に苦しみつまずいて調子よくのびてゆけず、相当にくさくさして不満であった。卒した時、五十歳であった。かつては、ある人が「あなたは畢(おわり)という名にすべきだ」と言った夢を見た。さらにまた自分が「曖昧たる白駒」という字を書いているのを夢見た。ある人が「これは、白馬が戸のすきまの向こうをきっと走り過ぎるということだ。死期が近いことの暗示だ」と言った。まもなく穀物を蒸す蒸し器が破裂した。杜牧は「縁起が悪い」と言った。それから自分の墓誌をつくり、今までに作った詩文をすっかり焚いてしまった。杜牧は詩において、その趣が力強くて雄々しく、人々は彼を「小杜」とよんで、杜甫と区別した。 杜顗は、字は勝之で、幼いころに眼病を患い、母は杜顗に学問することを禁じた。進士に推挙され、礼部侍郎の賈餗が人に向かって「杜顗を得られれば数百人に匹敵する」と語り、秘書省正字を授けられた。李徳裕が奏上して浙西府賓佐とした。李徳裕は尊く勢いは盛んで、賓客はあえて逆らう者はいなかったが、ただ杜顗はしばしば諌めて李徳裕を糾した。袁州に流謫されることとなると、「門下が私を愛するのに全員が杜顗のようであったなら、私は今日のようなことはなかったのに」と歎いた。大和年間(827-835)末に、召還されて咸陽県の尉、直史館となった。常に人に語って、「李訓と鄭註は必ず失脚する」と言っていたが、行って都に到着する前に、彼らが殺害されたのを聞き、上疏し病と称して辞任した。杜顗もまた文章をよくし、杜牧と評判はどちらかが上か下かというほどであった。ついに失明して卒した。 令狐楚は、字は殼士で、令狐徳棻の後裔である。生まれて五歲にして、文章をよくした。加冠の年となると、進士に推薦され、京兆尹の推薦によって第一となろうとしていたが、当時、許正倫は軽薄の士で、長安では有名な人物で、蜚語をなしていたから、令狐楚はそのような人物と争うのを嫌って、譲って自らが下とした。及第すると、桂管観察使の王拱がその才能を愛し、令狐楚を任命しようとしたが、恐れて赴くことはなく、そのためまず奏上してから、後で招いたのであった。王拱の所にいても、父が并州で官職についていて孝養できていないから、宴も楽しむことはできなかった。年季が終わって父のもとに帰った。李説・厳綬・鄭儋が相次いで太原を摂領し、いずれも令狐楚の行業を高潔なものとし、幕府に引き止め、そのため掌書記から判官となった。徳宗は文章を好み、太原からの上奏文を見るたびに、必ず令狐楚の書いた文章について語り、しばしば称賛した。鄭儋がにわかに死ぬと、後の事を行うことができる者がおらず、軍は大騒動となり、軍乱が起ころうとしていた。夜に十数騎が刃を引っ提げて令狐楚を連行し、遺奏を書かせたが、諸将が取り囲んで熟視する中、令狐楚の顔色は変わらず、筆をとるとたちまちに出来上がり、全員に示すと、士は皆感泣し、全軍が平穏となった。これによって名はますます重んじられた。親の喪が明けると召還されて右拾遺を授けられた。 憲宗の時、累進して職方員外郎、知制誥に抜擢された。作成した文章は、とくに上奏・制令が最も優れ、一篇ができるごとに、人々は皆伝え合って暗唱した。皇甫鎛は発言が憲宗の寵幸を得ており、令狐楚・蕭俛とともにかなり親しかったから、そのため帝に推薦した。帝もまた自分自身でも彼らの名声を聞いていたから、召還して翰林学士とし、中書舎人に昇進した。蔡州を討伐しようとし、まだ命令が下される前に、議論する者の多くは出兵を取り止めたいと思っていたが、帝と裴度だけは蔡を赦すことをよしとしなかった。元和十二年(817)、裴度は宰相になり、彰義節度使となり、令狐楚に制書を起草させようとしたが、その文章は趣旨とは合わないところがあり、裴度は令狐楚の心の内を知ることになった。当時、宰相の李逢吉は令狐楚と親しく、皆裴度を助けなかったから、帝は李逢吉を罷免し、令狐楚の翰林学士を停職として、ただ中書舎人のみとした。にわかに京師から出されて華州刺史となった。後に他の学士に書かせた宣旨は誰も趣旨に合わなかったから、帝は令狐楚の草稿を見て、令狐楚の才能を思わずにはいれなかった。 皇甫鎛が宰相となると、令狐楚を河陽懐節度使に抜擢して、烏重胤と交替させた。それより以前、烏重胤は滄州に移り、河陽の兵士三千を従えたが、兵士は不満を持ち、道の途中で規律は崩壊して帰り、北城を根拠とし、転進して旁州を掠奪しようとしていた。令狐楚は中潬に到着すると、数騎で自ら行って労った。軍の兵士は出てきたが、令狐楚は疑う素振りをみせず、そのため全員が降伏した。令狐楚は主犯を斬り、軍はついに平定された。裴度が太原に出されると、皇甫鎛は令狐楚を推薦して中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)とした。穆宗が即位すると、門下侍郎に進んだ。皇甫鎛が罪を得ると、当時の人は令狐楚が皇甫鎛との縁によって昇進し、またかつて裴度を追い出したと言い、天下は皇甫鎛と令狐楚の両方を憎んでいたが、たまたま蕭俛が宰相となっていたから、あえて表立って言う者はいなかった。景陵を造営すると、令狐楚に詔して山陵使とし、親吏の韋正牧・奉天令の于翬らは造営のための雇い賃十五万緡を捻出できず、令狐楚が献上したのを羨余であるとし、怨んで訴えを道に掲げた。詔して于翬らを捕らえて獄に下して誅殺し、令狐楚を京師から出して宣歙観察使とした。にわかに衡州刺史に貶され、再び移されて、太子賓客の職を以て東都に分司となった。長慶二年(822)、陜虢観察使に抜擢されたが、諌官が議論して置かれず、令狐楚は陜州に到着して一日で再び罷免され、東都に戻った。 たまたま李逢吉が再び宰相となり、令狐楚を起用しようと奔走したが、李紳が翰林にいて令狐楚の昇進を阻んだから、起用はならなかった。敬宗が即位すると、李紳は追い出され、そこで令狐楚を河南尹とした。宣武節度使に遷った。汴軍は傲慢であるため、韓弘兄弟が職務にあたって厳しい法によって糾し治め、兵士は安逸を楽しんで、心を改めることはなかった。令狐楚が到着すると、厳しさや過酷さをとりやめ、真心をつくして勧戒・説諭したから、人々は喜び、ついに世情は好転した。京師に入って戸部尚書となり、にわかに東都留守を拝命し、天平節度使に遷った。それより以前、汴州・鄆州の藩鎮が赴任するごとに、州の銭二百万を藩鎮に私に納めることになっていたが、令狐楚一人が辞退して受け取らなかった。李師古が園地・欄干と僭称した物を破壊した。しばらくして、河東節度使に遷った。召還されて吏部尚書、検校尚書右僕射となった。慣例では、検校尚書右僕射の官は従二品の重職であり、朝儀ではその班位によることとなっていたが、楚は吏部尚書の相当官は三品であるから固辞したから、詔によってお褒めのお言葉を賜った。にわかに太常卿を兼任し、左僕射・彭陽郡公に進んだ。 李訓が乱をおこすと、将軍や宰相は全員神策軍に捕縛された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を呼んで禁中に入れ、令狐楚は、「外には三司・御史がおり、大臣の指示には従わないことになっているので、宦官は宰相を捕縛する権限はありません」と建言したから、帝は頷いた。詔を起草して、王涯・賈餗は冤罪で、その罪を指すのにそぐわないとしたから、仇士良らは恨んだ。それより以前、帝は令狐楚を宰相とするのを許可していたが、そのため果せず、さらに李石を宰相として、令狐楚を塩鉄転運使とした。これより先、鄭註が榷茶使を創設するよう奏上し、王涯もまた官が茶園を運営することを議したが、人々にとって不便であったから、令狐楚は榷茶使を廃止して旧法のままとすることを請願し、令狐楚の意見に従った。元和年間(806-820)、禁軍から武器を出して左右街使に宰相が入朝するのを建福門まで護衛させていたが、今回の乱のため廃止された。令狐楚は「藩鎮の長は初めて任命されると、必ず戎服で仗を持って尚書省に行って挨拶しました。もとより鄭註には実は乱の兆しとなり、そのため王璠・郭行余は将吏を使役して京師を血まみれにしたのです。停止すべきです」と述べ、詔して裁可された。開成元年(836)上巳、群臣に曲江の宴を賜った。令狐楚は新たに大臣が誅殺され、骸が晒されて回収おらず、怨みや禍いがからみあって解けないから、病と称して行かなかった。そこで衣服・棺の材を給付を願ったから、刑死された者の骨をおさめると、喜びの顔をみせた。当時、政治の実権は宦官にあり、しばしば上疏して位を辞することを求め、山南西道節度使を拝命した。卒したとき、年七十二歳であった。司空を追贈され、諡を文という。 令狐楚の表向きは厳重で犯しがたい雰囲気があったが、その内面は度量がひろく、士を待って礼儀をつくした。客で星歩鬼神のような占いを勧める者がいると、一度も会わなかった。政務を行っては慰撫に優れ、治世に実績があり、人は適材適所であった。病が重くなり、子供達は薬を勧めたが、口に入れるのをよしとせず、「士はもとより命に限りがあるのだ。どうしてこんな物に頼ろうか」と言った。自らの力で天子に最期の奏上をしようと、門人の李商隠を呼び寄せて、「我が魂はすでに尽きた。私を助けて完成させてくれ」と言い、その大まかな内容は、甘露の事変で誅殺された者達への怒りを解き、全員の罪を洗い清めることを願った。文章は委細をつくしたが、錯誤するとことはなかった。書き終わると、子供達に「私の一生は時勢には無益であったから、諡を賜うことを願ってはならず、葬礼用の鼓吹も願わず、ただ葬式用の布車一台で葬り、銘を書いてもらうのに高位の人を選んではならない」と言い、この日の夜、大きな星が寝室の上に落ち、その光が庭を照らした。座って家族と別れ、そこで命を終えた。詔があって行幸をやめ、その志を述べさせた。 子の令狐緒・令狐綯は、当時に名声があらわれた。 令狐緒は蔭位によって出仕し、隋州・寿州・汝州の三州刺史となり、善政があった。汝州の人は石に頌徳を刻むことを願ったが、令狐緒は弟の令狐綯が宰相であったから、固辞した。宣宗はその思いをよしとし、そこで沙汰止みとなった。 令狐綯は、字は子直で、進士に推挙され、左補闕・右司郎中に累進した。京師から出されて湖州刺史となった。 大中年間(847-860)初頭、宣宗が宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀のとき、道中で風雨に遭って、六宮の百官は全員退避したのに、一人背が高くて髭の者が梓宮で奉って去らなかったのを見たが、一体あれは誰だったのか」と言い、白敏中は「山陵使の令狐楚です」と言い、帝は「子はいるのか」と尋ねたから、「令狐緒は若い頃から関節痛で、用いるのに堪えられません。令狐綯は今湖州を守っています」と答えたから、「その人となりは宰相の器だな」と言い、そこで召還して考功郎中、知制誥とした。翰林学士となった。ある夜、呼び寄せて共に人間の病苦について論じ、帝は「金鏡」の書を取り出して、「太宗が著したものである。卿は私の為にその概要をあげよ」と言い、令狐綯は語を摘要して「治に到っていまだかつて不肖に任せず、乱に至って未だかつて賢を任ぜず。賢を任ずるは、天下の福をうく。不肖を任ずるは、天下の禍に罹る」と言い、帝は「よろしい。朕はこれを読んだのはかつて二・三回だけだった」と言うと、令狐綯は再拝して「陛下は必ず王業を興されようと願っていますが、これを棄ててどうして先んずることがありましょうか。『詩』に「徳があるからこそ、自分に似る人物を推薦できる」とあります」と述べた。中書舎人に昇進し、彭陽県男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷った。また翰林学士承旨となった。夜に禁中で話し合い、燭がつきると、帝は乗輿と金蓮華の松明で送り届けてくれたが、院吏が遠くから見て、天子が来ると思っていたのに、令狐綯がやって来るのを見て、全員が驚いた。にわかに同中書門下平章事(宰相)となり、宰相となること十年であった。懿宗が即位すると、尚書左僕射・門下侍郎によって司空を拝命した。しばらくもしないうちに、検校司徒平章事に任じられ、河中節度使となった。宣武軍節度使となり、また淮南節度副大使となった。安南が平定されると、兵糧運搬の功績によって、涼国公に封ぜられた。 龐勛が桂州より戻ると、浙西白沙を通過して濁河に入り、舟を盗んで遡上した。令狐綯は聞いて、使者を派遣して慰撫し、なおかつ兵糧を送った。部下の将の李湘は「徐州の兵は勝手に帰ってきたのですから、なりゆきとして反乱となるでしょう。まだ討伐の詔が下っていないとはいえ、節度使として任にある以上すべての反乱を制するのは、我々が対処しなければなりません。今その兵は二千足らずで、軍船を展開させ、旗や幟をたて、夥しさを人に示せば、非常に我らを恐れるでしょう。高郵は崖が切り立っていて流れは狭いので、もし草を積んだ舟をその前で火を放させ、精兵をその背後から攻撃させれば、一挙に殲滅できるでしょう。そうでなければ、淮河・泗水を渡らせてしまい、徐州の不逞の徒と合流すれば、禍乱はひどいものになるでしょう」と言ったが、令狐綯は臆病でその提案を採用することができず、また詔が出ていないことを理由として、「彼らは乱暴を働いていないのだから、淮河を渡るのと許してやり、あとは私の知ったことではない」と言ったから、龐勛は戻ると、やはり徐州を掠奪し、その衆は六・七万人となった。徐州は食料が乏しく、兵を分けて滁州・和州・楚州・寿州を攻撃して陥落させ、食料が尽きると、人を食べて腹を満たした。令狐綯に詔して徐州南面招討使とした。賊が泗州を攻撃すると、杜慆は固守し、令狐綯は李湘に命じて兵五千を率いて救援に向かわせた。龐勛は令狐綯に挨拶して「何度も赦免を受けましたが、ただちに降伏できなかった理由は、一・二人の将が反対意見を述べただけであって、ここから去りたいと思っています。一身を以て命令を聞きます」と言ったから、令狐綯は喜び、そこで龐勛を節度使に任命するよう願い、そこで李湘に「賊が降伏したら、君は謹んで淮口を守り、戦ってはならない」と命じ、李湘はそこで警戒をやめて備えを解いたから、その日は龐勛の軍とともに喜んで語っていた。後に賊は隙に乗じて李湘の陣地を襲撃し、すべて捕虜として食べてしまい、李湘および監軍の郭厚本を塩漬けとした。その時、浙西節度使の杜審権が勇将の翟行約に千人の兵を率いて李湘と合流させようとしたが、到着以前に李湘は壊滅しており、賊は偽って淮南節度使の旗幟を立てて誘引し、これもまた全滅させた。 令狐綯の軍が敗北すると、そこで左衛大将軍の馬挙を令狐綯と代わらせた。太子太保となり、東都に分司した。僖宗が即位したばかりの頃、鳳翔節度使を拝命した。しばらくして、同平章事を加えられ、趙国公に移封された。卒し、年七十八歳であった。太尉を追贈された。子に令狐滈・令狐渙・令狐渢がいる。 令狐滈は父令狐綯が宰相であったため進士に挙されなかった。父は宰相の職にあって、令狐滈と鄭顥は姻戚であったから、勢力をたのんで驕慢で、賓客を通じて権勢を招き、四方の財貨を集め、皆側目であえて言うものはなかった。懿宗が即位すると、しばしば人にその事を暴かれたから、そのため令狐綯は宰相を去ることとなった。そこで令狐滈を進士たちとともに役人に試験させることを願い出て、詔して裁可され、この年に及第した。諌議大夫の崔瑄が、令狐綯が十二月に宰相の位を去ったのに、有司の解牒は十月のままで、朝廷が進士を採用する法を令狐滈の家の事に屈したと弾劾奏上し、御史に委ねてその罪の実を取り調べることを願ったが、聴されなかった。令狐滈はそこで長安県の尉の任によって集賢校理となった。しばらくして右拾遺・史館修撰に遷った。詔が下って、左拾遺の劉蛻と起居郎の張雲はそれぞれ上疏してその悪行を指弾した。「李琢を登用して安南都護とし、長となって南方を乱し、賄賂のために害となって人々は涙を流し、天下の兵士は租税を給付されませんでした。李琢は最初から賄賂を令狐滈に送り、令狐滈は人の子の立場でありながら、父の令狐綯を悪行に陥らせました。振り返ってみれば令狐滈は諌臣となるべき人物でしょうか」と述べ、また弾劾して「令狐綯は大臣で、まさに国家と調え守る根本たるべき人物でしたが、大中年間(847-860)、諌議大夫の豆盧籍と刑部侍郎の李鄴を引き立てて夔王李滋らの侍読としましたが、これは長幼の序を乱すもので、先帝の後継者についての謀を陛下に及ばさせなかったのです。かつまた令狐滈は当時にあって、「白衣の宰相」と呼ばれていました。令狐滈はまだ進士に推挙されていなかったのに、すでに理解したとも妄言し、天下をして無解の及第と言わせるような事態になったのは、天下を欺かずにすんでいるといえるでしょうか」と述べた。令狐滈はまた恐れ、他の官に換えるよう求め、詹事府司直に改められた。その当時、令狐綯は淮南節度使であって、上奏して自分への嫌疑を雪ぎ、帝はそのため張雲を興元少尹に、劉蛻を華陰令に貶した。令狐滈もまた不幸にして官職が振るわないまま死んだ。 令狐渙・令狐渢はともに進士に推挙され、令狐渙は中書舎人で終わった。 令狐定は、字は履常で、令狐楚の弟である。進士に及第した。大和年間(827-835)末、駕部郎中の職を以て弘文館直学士となった。李訓の甘露の変で、王遐休がまさにこの日に職に就いたから、令狐定は行って祝ったから、神策軍のために捕らえられ、殺されようとする者がしばしばいたが免れた。桂管観察使で終わった。 賛にいわく、賈耽・杜佑・令狐楚は皆誠実な学者で、大官高官で、廟堂に威儀をただし、古今を導き、政務を処理するのに優れていた。立派な忠節であるのに責めることは、思うに玉のような美しい石の中に玉の表面があるようなものであろうか。杜悰・令狐綯が代々宰相となったのもまた誹謗するのに充分な理由ではない。杜牧が天下の兵を論じて「上策は自立するにこしたことはない」と述べたのは何と賢いことであろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十五 列伝第九十 『新唐書』巻一百六十六 列伝第九十一 巻一百六十七 列伝第九十二
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これも孫策じゃなくて曹休かな? -- (名無しさん) 2010-02-08 23 25 57 バランスの良い名将。統率+武力値はトップクラスなので、君主との義兄弟候補にも向いている。 特技威風は弱くは無いが、おまけ的要素が強く、単体では戦局を変えられる程の強さは無い。 兵科は高い統率を活かして戟兵での盾役が向いている。もちろん得意な騎兵や 槍将 と組ませて擬似槍神にするのもいい。 威風を活かしたいのなら、弩適正Sの武将と組ませての乱射や、投石の霹靂、連戦や補佐等攻撃回数が増える特技とも相性が良い。 -- (名無しさん) 2010-02-09 21 59 50 かなりゴージャスな使い方だが威風+心攻+戟将にして 多部隊を相手に戦法を決めまくると相手は士気ガタガタ 部隊の兵数が出陣時よりはるかに多いということもザラ 徴兵禁止縛りにどうぞ -- (名無しさん) 2010-02-25 21 57 25 泣く子も黙る遼来来はあまりにも有名。 統率と武力が高いので、安心して主将を任せられる。 知力も低くはないが、一線級の計略隊が相手では厳しいので、 素直に副将はつけるべきか。 特技を活かすには、戟兵で出すか、霹靂付きの投石が一番か。 合肥トリオ(張遼+楽進+李典)の霹靂は豪華で気持ち良いかも。 これだけ優秀な3人を固めるのは実用的ではないかもしれないが。 -- (名無しさん) 2010-03-31 23 57 20 威風を活かすなら援護要因にするのが一番じゃないか? 張遼は主将として出陣する事の多い優秀な武将と相性が良く、 さらにそいつらは大抵同勢力だったりすぐ近くだったりするので、 援護攻撃を発動出来る機会は意外と多いから。 でも一番は補佐持ちの副将になることか(高統率高武勇が死ぬが)。 -- (名無しさん) 2010-10-25 20 08 33 トップクラスの統率・武力に加えて、史実武将唯一の直接攻撃3兵科(槍・戟・騎)オールSを与えられている。 (いにしえ武将・水滸伝武将まで含めても、あとは項籍が該当するのみ) 親愛武将も多く、呂布陣営でも曹操陣営でも戦場では常にトップクラスの活躍が見込めるだろう。 魏の五大将筆頭にふさわしい能力といえるだろう。(威風は気にしない!) -- (名無しさん) 2010-11-04 22 59 27 良く調べたね。盲点というか気付かなかったよ。 適性では甘寧並みに優遇されてても、いまいち特技とかみ合ってないんだよね、 弩も兵器もBだし。戟Sなのが救いか。 -- (名無しさん) 2010-11-04 23 59 57 能力や特技の関係で彼の援護攻撃ほど頼もしいものはないので、義兄弟を作る際、真っ先に候補に挙がる存在かも -- (名無しさん) 2010-11-07 11 12 39 山田! -- (名無しさん) 2011-03-14 21 14 56 夏侯淵+曹休(射手持ちなら誰でも可)というラインアップだと地形を選ばずどこでも鬼。 兵器適性が低いのは基本攻撃力が高いことで十分補いがつくのであまり気にしないでよい。 -- (名無しさん) 2011-03-15 02 01 57 S1とS12では晋陽にいるので丁原軍でやるときは是非確保したい。 -- (名無しさん) 2011-04-24 20 14 07 甘寧や顔良の威風持ちとの義兄弟はマジ鬼畜。 3人とも集めれれば言うことないが、現実的ではないので、2人で妥協すべき。 3人目の義兄弟や補佐持ちに掃討を入れてやると、1ターンで相手の気力0も可能! -- (名無しさん) 2011-04-25 00 33 06 ↑紛らわしいので訂正 3人目の義兄弟や補佐持ちの部隊に掃討を入れてやると、 -- (名無しさん) 2011-04-25 00 35 21 高順とは不仲だったはずだが -- (名無しさん) 2011-05-29 21 44 24 それを言ったら、関羽以外の親愛設定は謎だらけだ。 呂布とも君臣以上の関係があるわけでもなし。 気になるのなら自分で解除すればいいし、 ゲーム的にはこの親愛設定は強力なので生かしてもいい。 -- (名無しさん) 2011-05-30 07 15 50 呂布みたいな人物に最後まで仕えたこと 劉備のいる沛城を高順と落としたこと 合肥を協力して守ったこと などをゲーム上で再現するためなので 親愛設定は必ずしも仲の良さを表わしていません -- (名無しさん) 2011-05-30 10 57 06 槍、戟、騎兵がSと、陸上の直接攻撃の適正3つがSなので、陸上なら戦場を選ばない名将。 もし呂布軍プレイしているなら覇王は是非張遼に。野戦では呂布並に、攻城では高順すら 凌ぐ化け物と化す。 -- (名無しさん) 2011-07-17 02 53 45 わずかな兵で敵軍を混乱させた実績+騎馬Sで疾走なんて似合いそうだけど それだと強すぎるかな -- (名無しさん) 2011-08-23 22 20 08 ↑適正Sが3つもあるんだからそういう兵科を限定する特技は合わないかと -- (名無しさん) 2011-08-23 22 44 43 趙雲と一緒で誰にも嫌悪されていないというのはいいな。 -- (関羽大好き) 2012-01-25 21 10 11 攻撃時、固有セリフで「張・来・来!」みたいな事を言うけど、本人が言ってると思ったら笑える(爆) 呉で民衆的に言われてんのに、本人がなんで知ってんねん(笑) それはさておき、高い統率と武力、そして直接攻撃オールSが光る魏の名将。 知力はそこまで高くないので、副将は必要だが、低知力が相手の場合は張遼ひとりの部隊でも大丈夫。 ただ、特技の威風は敵の気力を20削るものの、戦局をひっくり返すまでのものではないので、信用しすぎないように。 -- (名無しさん) 2012-02-02 23 03 20 おかしくは無いと思うけどな 日本語的に言えば「張遼、ここにあり」みたいな 敵国の情報位入って来るだろうから自分が恐れられてると判れば名を使わない手は無いだろう 現代戦だったら名乗りを上げるなんて撃ってくださいと言ってる様なもんだけど -- (名無しさん) 2012-02-03 19 31 10 蒼天航路では李典や温恢、楽進まで「遼来来」連呼してたから その影響があるんじゃないかね。実際決戦制覇・合肥での活躍は鬼 序盤シナリオだと他に副将回すべき部隊ばかりなので、この人は一人で出撃させることが多い 威風は、どちらかというと戦況不利な防衛戦で輝くかな 他武将が得意兵科で出撃したあと余った兵装で出してやればいいので、そういう点でも使いやすい -- (名無しさん) 2012-02-03 21 55 52 連戦とも相性がいい。魏の連戦持ちは2人。牛金と曹洪だ。 曹洪は槍適性Sが張遼と被るので誰か別の将の副将にしたほうがいいだろう。 そうなると牛金の方が適役か。 上手くいけば1回の攻撃で相手の気力を40も減らせる! 防衛戦では相手の兵器隊を必要に攻撃。 速攻で無力化できるw -- (名無しさん) 2012-02-21 10 11 28 張遼だー!! 張遼がきたー!! -- (呉の兵卒) 2012-03-02 04 16 10 連戦(牛金)+楽想or詩想の戟兵が現実的に1番いいかな。 適性を考えると曹洪はもったいない。 基本は連戦期待で通常攻撃。敵が固まっていれば懐での薙ぎ払い。 捕縛でもいいけど捕らえ過ぎでつまんなくなると思う。 -- (名無しさん) 2012-09-02 17 10 39 ↑基本通常攻撃なら楽奏or詩想よりも急襲とかのほうが良いんじゃない? 戦法使用が時々なら軍楽台だけで十分でしょ 夏侯淵はもったいないから、曹叡あたり?(寿命の関係上難しいけど) -- (名無しさん) 2012-09-02 17 45 09 魏軍に戟将がいないのが残念、連戦でも強いが結構地味 もう一人は無理にコンボ考えるよりは少々不安が残る計略への対策優先でいいかな 連戦+急襲で結果に一喜一憂するのもまあ面白いが -- (名無しさん) 2012-09-02 20 49 11 魏で張遼の全盛時代だと急襲って誰がいるっけ? -- (名無しさん) 2012-09-03 09 18 50 ↑夏侯淵だけ。他の急襲持ちは登場が遅すぎる。 -- (名無しさん) 2012-09-03 18 48 47 孫権から嫌悪されてないのは意外っちゃ意外 -- (名無しさん) 2012-09-30 10 56 07 ↑×3 魏ではないが、丁奉が一番近い年代の急襲持ち。 寿春に攻めてきたところを捕えて登用すればおk。 -- (名無しさん) 2012-09-30 18 35 06 孫権も張遼嫌悪するほど器狭くないだろ。 仮に張遼が寝返ってきたら、国を挙げて歓迎して厚遇すると思う。 -- (名無しさん) 2012-10-08 15 36 56 大破されただけで一々嫌悪つけてたら良将の人間関係大変なことになってしまう -- (名無しさん) 2012-10-19 18 53 43 義兄弟に威風持ちで、1ターンで気力0にすることが可。チョウリョウが火矢、威風持ちが火矢(チョウリョウの威風支援が50バーセント見込める)、義兄弟が火矢(チョウリョウらの威風支援が1回分期待できる)。これで、20+20+10+20で気力70が削れる。さらにリテンやガクシン、チョウコの親愛支援などで、0にできる! -- (名無しさん) 2013-02-13 09 20 09 張虎は血縁のみで親愛はない、念のため。 -- (名無しさん) 2013-02-13 12 55 57 さっきやっていた女の戦い(在野仮想)で張遼が息子に対しての推挙イベント(この地に〜という豪傑がの奴)が発生した… -- (名無し) 2013-02-21 01 29 23 一騎討ちが弱い -- (名無しさん) 2013-02-23 13 34 15 『よく戦った 悔いはない』って固有セリフじゃないよ -- (名無しさん) 2014-03-04 08 18 30 甘寧と、どっちに覇王付けようか迷ってます。 -- (孫権もどき) 2015-01-01 15 11 26 覇王は雑魚に付けましょう 名将に覇王を付けると(この場合は)威風が死ぬ上に覇王は能力依存しないので ただ死んでも困るので統率武力60以上が付けるには望ましいか -- (名無しさん) 2015-10-25 15 48 28 そこまで知将のイメージがあるわけでもないが、知力が実はかなり高い 副将いらずの名将 不満は特技が物足りない点くらいだろうか -- (名無しさん) 2015-11-13 21 55 53 威風が物足りないってお前対人戦やったことない素人かよwwww もしくは威圧と間違えてるとか? -- (名無しさん) 2015-11-14 08 52 46 三国志11は普通1人用の戦略シミュレーションゲーであって、対戦なんかやってるやつのほうがめずらしいぞ。威風が物足りないというのはたしかにまだ三国志11をやりこめてないように思えるが。 -- (名無しさん) 2015-11-20 00 31 22 は?無印時代に買って数十回はクリアしてるんだが 蜀は神将闘神神算、呉も勇将や火神がいるのに魏随一の名将が威風じゃ 物足りないって意味なんだが。 てか対人戦とか言ってるやつは馬鹿かよ -- (名無しさん) 2015-11-20 22 18 48 鉄壁()の曹仁よかマシ -- (名無しさん) 2015-11-20 23 28 07 その神将闘神神算だのなんだのをたった数回攻撃するだけで使えなくしてしまえる恐ろしい特技なんだがな。あらゆる有名武将達の強力な特技を無効化させれると思えば物足りないかい?とんでもなく恐ろしい、まさしく魏の名将たる特技とも思えるがなぁ。それともそんな錯乱と火力ごり押しプレイでしか満足できないのかな。 -- (名無しさん) 2015-11-22 10 54 27 相手に計略も特技も使わせず、こちらが一方的に計略と特技を使えるようになる。まさに戦局を大きく覆せる、将たる者にふさわしいとおもうなぁ。錯乱ゲーで相手に錯乱をさせないってすごい効果だと思うんだけども。たしかに地味なんだけどねw -- (名無しさん) 2015-11-22 11 00 23 -20じゃ足りねーだろ -- (名無しさん) 2015-11-22 14 53 40 曹仁(鉄壁)「そうだそうだ!」 于禁(規律)「いいぞもっと言え」 徐晃(沈着)「泣けてきますよー」 -- (名無しさん) 2015-11-22 15 29 13 算数もできないのか?相手が特技や計略使うのに消費する気力と、威風の20が毎ターン減るんだ。3,4回でもう相手は計略も特技も使えないんだぞ?これで足りないとか君はどんだけ短期決戦プレイしてきたんだよw君の戦争はいつも1,2回で敵が全滅するのか?それとも錯乱で相手を動けなくして一方的にフルボッコにするしか能がないのかい?錯乱と火力以外ゴミってか?だから三国志11をやりこめてないって言ってるんだ。 -- (名無しさん) 2015-11-22 18 55 49 は?無印時代に買って数十回はクリアしてるんだがwwwwwwwwwww -- (名無しさん) 2015-11-22 19 00 35 まぁこのゲームはたしかに計略や特技の効果が大きい。敵の強力な攻撃の回数を減らせるのは大勢の味方を護ることにもなる。やはりチョウリョウは弓や投石での範囲攻撃だな。弓に連戦も半端ない。他の名将の特技と比べれば地味なのはたしかだが、神算も火神も気力がなければ防御特技にしかならない。カンウやチョウヒの槍螺旋も撃つ回数を半減させられる。うまくつかえば通常攻撃しかできなくさせれる。こんなありがたい特技もないと言えると思う。ただ不満があると書いてるだけで文句言ってるわけではないんじゃないかな。 -- (名無しさん) 2015-11-22 19 13 04 弓に連戦で相手の攻城兵器をあっという間に無効化させれるから使い方によってはおもしろい。物足りないとか言ってるやつは自分自身が使いこなせていないだけだと自覚したほうがいいのでは?それに不満があるなら編集しろでおわり。 -- (名無しさん) 2015-11-22 19 16 01 チマチマ気力削るより撹乱してタコ殴りにするほうが手っ取り早くて強いから物足りないってことだろう -- (名無しさん) 2015-11-22 20 44 53 何の気なしに書いたコメントが思いのほか物議を醸してて申し訳ない 僕の言いたかった特技が物足りないっていうのは、蜀の五虎将がみんな固有特技なのに 魏では張遼でも固有特技が与えられないとかいった、そういうイメージ的な意味 ちなみに僕はそんなにやりこんでないですハイ -- (名無しさん) 2015-11-23 12 16 48 撹乱してタコ殴りばっかりで数十回もクリアしたの?すごいな逆に。よくあきなかったなw 威風も固有特技じゃないの?いつでもどこでもなんでも撹乱させれるわけじゃないし、まさに張遼らしい納得の特技だと思うんだがなぁ。数十回ずっと公式チート軍団の蜀でプレイでもしてたのかな -- (名無しさん) 2015-11-23 14 24 04 おそらく超級でプレイしてないんだろう。 -- (名無しさん) 2015-11-23 14 45 06 そもそも固有特技ってなんだよwww魏の五将軍だってみんなしょっぼい特技じゃねぇかww蜀がおかしいだけだ -- (名無しさん) 2015-11-23 17 07 06 1回20(連戦入れて期待値30)の気力減少で無力化するより、特技で8~10割の確率で撹乱させた方が効率的に無力化できるってのはまず確実に言える。 さらに本気で気力減少による無効化を狙う場合、連戦持ちが必要不可欠で、しかもやることが騎射か弩での通常攻撃メインになる。 これらの条件をクリアしてようやく使い物になるわけだけど、それでもはっきりいって混乱系特技の方が強力かつ便利なのは否めない。 「よくあきなかったなw」って上でも言われてるが、逆に言えば性能を追求するなら勝負にならないぐらい撹乱→タコ殴りの方が強い。 勿論撹乱リンチばっかりだと飽きるって話はよくわかるし、それはそれで楽しみ方として十分ありだとおもうが、上の人はそういう特殊な前提では語ってないだろう。 例えば親○だって巡察縛りの世紀末プレイとかしてると神特技になるが、だからって張既のところに「特技が超使える!スゴイ!」とは書かないでしょう普通。 -- (名無しさん) 2015-11-25 19 59 03 そりゃぁ究極は混乱させてフルボッコだろう。けど威風の使い方の連戦が不可欠という前提が間違っている。その考え方じゃ、相手はまったく気力を使ってないじゃないか。あんたがプレイすると相手はまったく計略も特技も使ってこないのかい?相手も気力を消費し、さらにこっちの威風でさらに減る。3,4ターンで詰みだ。混乱してフルボッコはつねにできるわけじゃない、それができる強い勢力で毎回プレイしている証拠だ。そしてたった数ターンでその強力な混乱フルボッコをできなくさせれるわけだ。不満だの物足りないだの個人の意見は勝手だしそれを悪く言うつもりもない。ただ威風の魅力に気づいてもらおうと思っているだけだ。弱小勢力や超級でプレイしてみれば、威風もちのキャラがどれだけありがたいかきっとわかる。 -- (名無しさん) 2015-11-25 20 32 02 張遼の威風が物足りないのは賛同できないなぁ。自分も張遼好きで魏を選んで プレイしているが、蜀と闘う時は絶対に必須特技だわ。張遼がいないとお話にならない。 蜀の反則級の特技を使えなくできるのは威風だけだ。自分は威風でピッタリだと思うしすごく助かってる。 -- (名無しさん) 2015-11-25 20 45 04 まぁいろいろ書いたが、やりこめているかどうかなんてどうでもいいんだ。要するに、火力に直結しない特技を物足りないと感じている人はまだまだ三国志11を楽しめるとおもう。奥が深いゲームだよ。 -- (名無しさん) 2015-11-25 20 51 23 どうでもいいならネチネチ他人を煽るような文章書くなよ -- (名無しさん) 2015-11-26 21 31 48 だれにいってんだおまえ。威風と関係ないコメントするならどっかいけ -- (名無しさん) 2015-11-27 19 55 16 ↑いやここ威風について語る場所じゃなくて張遼について語るとこだから 威風について語りたいならお前こそどっかいけよ -- (名無しさん) 2015-11-27 22 37 16 喧嘩してたら張遼が来るよ -- (名無しさん) 2015-11-27 22 47 53 威風についてのみ語りたいんだったら特技のページのコメント欄を使ったほうがいいと思う。ちなみにあちらでの評価は○になっている。 張遼と威風という点について語るのであれば、やはり「敵を無力化するための特技ならもっといいのがある」という点と、 「張遼の能力で威風(=通常攻撃主体)は勿体無い」という点は動かしがたいと思う。 ただ書き換えをするほどか、となるとこれはまた別の話。 -- (名無しさん) 2015-11-28 00 41 33 まぁいわんとしてることは理解できるが、このゲームでは威風が張遼の特技なわけで、特技も個別にいまんとこないからねぇ。ここで話してもいいと思うが、ネチネチだなんだは関係ないからそういうのは迷惑だと思う。 -- (名無しさん) 2015-11-28 18 04 48 そもそも威風が不満だと言い出してることが原因なのでは?自分ですきなのに編集すればおわり、誰かさんの日記じゃないんだからね -- (名無しさん) 2015-11-28 18 05 59 こう使えるとか前向きなコメントをするべきだと思う -- (名無しさん) 2015-11-28 18 08 04 最近来た人なのかもしれないが、特技一覧というページがあるので単に特技のみに関する議論はそこでやって欲しい。評価も含め。 このコメント欄はあくまで張遼に関する攻略情報を補完するところ。 そして「張遼の性能はいいが、それを活かすためには特技がイマイチor微妙」というのは立派な攻略情報だし、 「ならば書き換えるべきか」あるいは「張遼を活かすためにはどんな特技を与えるべきか」という議論はちゃんと有用なもの。 ただあんまり特技のみに関連する話になっていくのなら、やっぱし特技一覧のページでやったほうがいいと思う。 -- (名無しさん) 2015-11-28 18 50 49 俺個人の意見として言うなら、威風はやはり張遼には勿体無いとは思う。 威風をガチで使うのならばやはり連戦と組ませて特化させたいし、その運用法は張遼の能力を無駄にしている。 ただ、物足りなくはあるが、積極的に書き換えるほどか、と言われるとそれも違うと思う。 まず曹操勢力の場合、張遼よりさらに特技が使えない高能力武将が多いから、武力依存特技なんかが出た場合はそっちの方に回したい。 そして呂布勢力でも、能力依存しない闘神や覇王が出たのなら、それはむしろ張遼本人でなくてお供の軍師に与えたい。威風はそれを軸に運用するほどではないが、コンボに組み込んでも損のない特技ではある。 「別の混乱担当部隊と一緒に運用し、本人は戟兵でお供に戟神や闘神を引き連れつつ範囲戦法攻撃」というのが張遼の理想的運用法の一つにはなりうると思う。 -- (名無しさん) 2015-11-28 19 11 11 そんなこと言い出したらもう、統率と武力あげて適性もあげて好きな特技つければいい。これのどこが張遼の攻略なんだ?どのキャラでもいいじゃないか。たいがいのキャラは育てれば張遼くらいの能力になる。張遼の攻略の話というのならこの能力と特技でどうするかを話し合うべきなんじゃないのか?物足りないだなんだは立派な攻略でもなんでもなく、ただのないものねだりか愚痴じゃないか。 -- (名無しさん) 2015-11-29 12 52 23 あんたらも書いてるように、能力依存しない神クリティカルは張遼にはもったいないと。だったらそのとおりそういう副将と組ませるなりして使えばいい。武力依存の特技がでたらならつければいい。そういう話ならOKだが、特技をディスってるだけのコメントはいらない。その特技がしっくりくる人もいるんだ。好きに編集して使えばいい、こんなところに書くことなのか。 -- (名無しさん) 2015-11-29 12 59 07 ホントに初めてなのかこのwiki? 武将を成長させるのは立派なこのゲームの要素だし、研究や廟から出た特技を付け替えるのもそう。 なんで一切の成長は悪、既存のままで行かなければならないとかいう異常な前提で語るんだ? っていうかどの武将でもそういった方向性でコメントが書かれているんだが。 親羌持ちの張既のコメントなんかでも「特技が明らかに勿体無いので、性能を活かすために射程に書き換えたい」とか書いてあるけど、貴方的にはこれもNGなのか? -- (名無しさん) 2015-11-29 18 46 59 「特技が物足りないから書き換えよう」は攻略の内でしょう。張遼の威風で言えばこのwikiでの評価は○止まりだし、物足りないと感じる人がいても全く不思議はない。プレイスタイルは人によって違うし、威風が便利だと思ってる人はそれこそここの意見なんて気にしないでそのまま使ってればいいのでは。 -- (名無しさん) 2015-11-29 23 32 56 初めてかなんてどうでもいいとおもうんだが何度も書くほど重要なのかw言い分はわからなくはない。成長するぶんも考慮するのもそのとおりだろう、極論統率武力適性あげて好きな特技でおわりだ。どの武将にでもいえる当たりまえのことであって、全武将の攻略であって張遼の攻略とは言いがたいと感じただけだ。それらはまぁよしとしても、不満だ物足りないだはそれらを気に入っている人を不快にさせるだけなのでは?それこそ好きに編集しろここにいちいち書くなでイタチごっこだ。 -- (名無しさん) 2015-11-30 18 56 28 気に入らないなら見に来るなって書いたもん勝ちかよ。俺は攻略サイトもみちゃいけないのかい?その考えは賛同できないなぁ -- (名無しさん) 2015-11-30 18 59 39 残念ながらこのwikiはみんなの新武将のページに代表されるように書いたもの勝ちの傾向が強い -- (名無しさん) 2015-11-30 23 18 44 張遼のログだけでも既に2番目のコメに「特技は弱くはないが、おまけ的要素が強い」って書いてあるように、昔からここはそういう点から語るところ。 ここは攻略wikiであってファンサイトじゃない。 「この特技は使えないから書き換えたい」ってコメに「そんなことない、この特技も使い様」って反論している部分は他の至るところにあるけど、 「不快だから使えないとか言うのやめろ」なんて言われてるのはここしかないんだけど。もう少し過去ログとか見てくれんものかね。 -- (名無しさん) 2015-12-01 00 03 34 そもそも、みんなの新武将が書いたもの勝ちになったのは編集合戦が頻発したからなんだよなあ・・・ 折角作ってくれる人がいるのに、問答無用で消したり書き換えてふんぞり返るような連中がいたらそらそうなるべ つまり節度が大事よ節度が -- (名無しさん) 2015-12-01 01 30 23 「この武将はもっと能力高いはず!能力に納得がいかない!」→「勝手に編集してろ」これなら分かる。 「特技微妙だから書き換えたい」→「不快だからやめろ」これはおかしいでしょ。 より効率の良いプレイを目指すのは当然だし、そもそもそんなことを気にしてたら攻略wikiなんて成り立たなくなる。荀イクの眼力を書き換えようと誰も言わない攻略サイト見たいか? ましてや今回はwiki本文でもなくコメント欄の話。こんなもんただのワガママと言われてもしょうがない。 -- (名無しさん) 2015-12-01 05 22 33 武将を育成しようにもそれ相応に時間はかかる。武力高や統率高には回数制限があり、経験知稼ぎも指導がいないとはかどらない。デフォルトの能力、適性、特技、寿命、登場時期などを考慮すれば、育成に向いている武将、向いていない武将は確実にいる。「どの武将にも言える当たり前の事」という主張は現実的ではない。 張遼で言えば不満の声が上がるとすれば特技くらいのもの(無論、不満が無いプレイヤーもいるだろう)逆に言えば特技さえ変えてしまえば、それだけで超一流の能力になるということ。特技を変えるか否か、変えるとすれば何かがコメント欄で論じられるのは自然な成り行き。 -- (名無しさん) 2015-12-01 08 05 26 威風はレアな特技なんだしさ、安易に書き換えるよりも活かす方策を考えた方がゲーム的には面白くないかね? イメージ的に騎神や神将も合うと思うけど、能力依存しない特技は雑魚武官につけて副将にしたっていいんだしさ! -- (名無しさん) 2015-12-01 10 48 58 敵として出てくると厄介この上ない武将。単騎であっても そこいらの文官では混乱・偽報が通じないし、統率93武力92でトップクラスな戦闘力なもんだから 早い段階で壊滅させないとごっそり兵力も気力も削られてしまう。 馬を与えられたらそれこそ手に負えない事態になる。 -- (名無しさん) 2015-12-01 20 52 17 威風自体はレアだが、最初の方からずっと言われてる通り、張遼の場合の威風はやっぱし基本的にはオマケ的なものになるだろう。 特技は副将頼みで高統率を生かして戦法で戦いつつ、ついでに気力も削れていればまあいいやぐらいな感じに。 どうしても威風を活かしたいのなら、補佐もちを主将+階級を下げた副将張遼+連戦もち副将って構成で弩兵を率いて気力削りに特化するぐらいの方がいい。 が、この使い方は何度もいわれてるとおり張遼の特技は活きても能力が全て無駄になるし、混乱系特技がいるんならそっちに頼ったほうが早い。 混乱要員がずらりと揃った劉備軍で登用した場合とかはそんな贅沢な使い方をするのもアリといえばアリだが、オススメとは言いがたい。 -- (名無しさん) 2015-12-03 00 19 41 威風が物足りないにたいして、威風のよさを説明しているだけなんだがな。こんな使い方もあるぞと。物足りないなら編集すればいい、威風が気に入っているしっくりきてる人がみれば不快なコメントをわざわざ書く必要はないといってるだけだ。 -- (名無しさん) 2015-12-30 10 06 55 初めてとか、昔からとかすごくどうでもいい。勝手にそんな場所って決めないでもらいたいな。 -- (名無しさん) 2015-12-30 10 10 40 統率と武力と適正がよくて、威風も消してほかの特技とかさ。それってもう張遼じゃなくね?なんかもう、もともこもないことを平然というんだなみんなw -- (名無しさん) 2015-12-30 10 17 59 だからここは攻略サイトなんだって。 威風の活用法を書くのは有効だし立派な攻略情報だが、同時に威風が勿体無いから書き換えるべきだと言うのも同じことだ。 貴方が不快かどうかなんて、それこそ他人にとってはすごくどうでもいいよ。 荀彧を眼力のまま使おうが張コウを昂揚のまま使おうが貴方の勝手だけど、だからといって他人の攻略的な観点からのコメントに不快だからやめろというのは滅茶苦茶だ。 -- (名無しさん) 2015-12-30 21 32 12 ちょっと―――いいかな? 俺は張遼は好きだし、威風も使い方によっては戦局を変える強力な特技だと思っている。 だからこと張遼に対して文句を言うつもりはない・・・のだが。 思うにここには高水準の張遼の能力&適性を活かすために、特技を変えようはとする派(仮にこれを張遼派とする)と、 威風という気力にダメージを与える特殊な特技を活かそうとする派(同威風派)がいるために、意見が割れているのだと思う。 威風派の意見から先に言えば、この特技をもっとも活かせる兵科つまり弩を副将によって補い、 豊富な親愛関係を考慮してできれば連戦の副将も連れて出陣すれば、敵の気力をあっという間に削れるというのが主張の概要だろう。 対して張遼派諸氏は副将いらずの知力に槍・戟・騎の3兵科Sの張遼に、威風という特技を活かすためだけにそこまでするのか? それであれば、例えば覇王等をつけたほうが、局面に応じて3兵科を使い分けられる張遼の猛将ぶりと応用力を活かせるのではないか、というのが主張の大筋だろう。 私はこれを相反する主張だとは思わない。 例えば彼の他に文武両道の良将がいないのであれば、できれば張遼には単独で出陣してもらいたい、 そのためには騎兵で一部隊ずつちまちま気力を削る威風はいかにも物足りないと感じるであろうし、 その反対に上述のような副将に恵まれているのであれば、彼オンリー(ではないけれど)の戦い方をしてみたいと思うのもおかしいとは思えない。 そして、多くのシナリオで彼が所属する魏!これが問題をさらに複雑にしている。 魏は呉蜀に比べ人材に恵まれている。とは言っても張遼はその中でもトップクラスの万能武将だ。 その彼の能力や適性を活かすのか、周りとは毛色の違う特技を活かすのか・・・ どちらもそれなりに結果を出せるはずなので、最終的には各個人の好みとなるしかない。 それゆえ恐らくこの論争は終わりをみることがない問題であろう・・・age -- (名無しさん) 2016-01-04 14 02 36 「変えたければ変えなさい」としか言えないんだが……そもそもが好みの差だし公式は変えられないだろうに -- (名無しさん) 2016-01-07 07 35 28 混乱要員とセットで行動が基本だろう 戟で出撃させて曹操などの攪乱と組み合わせて戦法が確実にヒットするようにすれば威風の使い勝手は向上する 数的な面で -- (名無しさん) 2016-01-07 07 40 43 いやいや、違うんだって。どう攻略するかなんかどうでもいい好きにすればいい。威風かほかの特技かという話ではない。物足りないと思うのも自由だ、否定しないし変えればいいじゃないか。そういう問題ではなくて、わざわざ物足りないだのなんだの書く必要ないだろうと言ってるんだ。物足りないという意見に対してこんな使い方もあると説明しているだけだ。威風じゃ物足りないという表現は気に入っている人もいるのだから、張遼はこの特技もいける。とかそういう表現にできないのかということだ。どう攻略しようと勝手だ、そんなもんは各自好きにすればいい。批判や否定めいた表現は不要だと言ってるんだ。 -- (名無しさん) 2016-01-07 22 12 49 使えるか、使えないかを判断するのは個人だ。攻略サイトは情報をのせるだけでいい。余計な決めつけや不快な表現は必要ない。こう使えるああ使えると、前向きな表現でいい。物足りないだ使えないだと、勝手な個人の決めつけなど書くのは不要だと言ってるんだ。書くべきは確実で正確な情報だけでいい。その特技をどう思うかどう判断するかはプレイヤーの自由なのだから。批判や否定的な表現は控えていただきたいな。 -- (名無しさん) 2016-01-07 22 23 44 要は特技を貶すなって事なんでしょうが、ここが攻略サイトである以上、それは難しい注文でしょうね。 特技や武将に使い勝手の差で優劣が生まれるのは必然ですし、使い勝手の悪いもの微妙なものは出てくる。 攻略サイトを頼りにプレイするのが主に初心者、中級者であろうことを考えると、否定的な内容を一切省いた上で「ああ使える。こう使える」と書くよりシンプルに「この特技は微妙。使うなら云々〜」と書いてあるほうが分かりやすいという側面もありますし。特技ページの5段階評価も同様。 それに否定的な意見に対する反論とそれに付随するやり取りは攻略サイトとして意義のあるものですし、やはり否定的な意見を書くなという主張はサイトの性質上無理があるかと。 -- (名無しさん) 2016-01-08 04 31 16 そういえば特技のコメント欄にも「不快だから5段階評とか止めろ」とか粘着してた人がいたなあ。論旨が同じだし、同一人物かな。 ページの過去ログと過去の構成の歴史を見て、どっちが我儘を言ってる方なのか考えてほしい。こんな攻略的に何の意味もない粘着でログがずらずら並んでるのここだけだよ。 -- (名無しさん) 2016-01-08 20 04 47 (CSPK)230年を過ぎても生存しているので不自然死だと思う -- (名無しさん) 2016-01-20 01 08 28 PCPKにて、ツール確認でも不自然死です。 -- (名無しさん) 2016-01-20 01 30 51 COMの育成で知力90台になっていることもあり、要注意 -- (名無しさん) 2016-03-01 21 05 45 連戦をつけた副将と共に出陣させると、ガリガリ相手の士気を削れるので一考の価値あり。あえて弩兵Sの武将と組ませて、ひたすら乱射するのも有り。 -- (名無しさん) 2016-04-18 10 11 24 魏の誇る超万能武将 何をさせても強く、腐りにくい性能を持つ -- (名無しさん) 2016-04-24 03 10 50 威風は水軍ではいいが、水軍適性が低くなかなか陸戦では効果が見込めない。 乱射に使うのももったいないし、使ったところで気力減る前に殲滅してしまう。 覇王や飛将辺りがいいが、なければ連戦や補佐でも威風よりは良い。 というわけで書き換え推奨。 -- (名無しさん) 2016-09-13 10 56 54 私はいつも不屈に書き換えてます! 少人数を率いて敵の大軍を掻き乱すっていかにも張遼らしいので -- (名無しさん) 2016-09-13 11 25 38 補佐はともかく、連戦は流石に書き換えるにはもったいないのでは。威風は単独では使い勝手はイマイチだけど、連戦と合わせたらそれなりの効果になる。 張遼程の武将だと基本的には戦法主体で戦いたいし、戦法失敗時の保険or通常クリ特技と合わせて通常攻撃主体にするにせよ、副将に連戦つけた方がいい。 まあ人手不足で張遼を単独出撃させねばならなかったり、白馬+築城で2枠使ってるからどうしても張遼に覚えさせる必要がある、なんて場合は別だけども。 -- (名無しさん) 2016-09-13 23 57 48 威風に比べれば連戦の方が増しだろう。 本人が連戦持ってれば、白馬や長駆とも部隊組めるし、一枠は詩想や築城でも良い。 能力に高さを戦闘で活かすなら、威風は超級でも変える方がいい。 -- (名無しさん) 2016-09-14 23 08 56 威風も張遼の能力はもったいないが、連戦(=通常攻撃主体)も充分もったいないからなあ。 そりゃ2枠がどうしても埋まるって場合ならありだが、連戦もち主将の場合、親和性のある特技と言えば駆逐や白馬みたいな通常クリ系の特技しかないし、どちらも所有者が少なく組むのを前提にできる状況はそう多くない。 そして張遼の能力をフルに活かすなら、副将に覇王や疾走や○将などをつけて戦法主体にしたいけど、そんな運用ではそれこそ連戦よりも威風の方が+αになる。 連戦は威風との相性もいいし、よほど編成の都合で枠が圧迫されてない限りは副将につけたほうがいいと思う。 まして超級では、あまり使わない通常攻撃の期待値が1.5倍になるより、兵器隊や計略隊の行動を確実に1回分減らせる威風の方がうれしいはず。 -- (名無しさん) 2016-09-15 00 42 51 威風プラス連戦で気力ゼロ目指すとか、どんだけ準備不足ってレベル。 い戦闘で一対一でやり合う機会は少ないし、やり合ったところで殲滅が先。 最初の書き込み通り別に連戦に拘っているわけではなく、補佐や連戦は威風よりは増しってだけ。 戦法主体と言っても必ず成功するわけではないし、相手が戟兵ならともかく、兵器隊なら気力削るより、連戦で倒した方がよっぽど早い。 -- (名無しさん) 2016-09-15 00 55 20 威風は敵にするとウザいが自分が使うとしょぼい 敵の気力を減らすスピードより、高スペック原因で敵を壊滅してしまう。 覇王、飛将、騎神が出たら書き換え推奨。 補佐、連戦、遁走、強行、長駆、藤甲でも変えると使い勝手がよくなると思う。 詩想や楽奏で自前回復でも可だが、副将で補うことも出来るから三枠考えて特技を振るといい。 お好みで変更出来るので無特技に近い。 -- (名無しさん) 2016-09-15 01 08 40 俺も別に飛将や補佐や遁走は否定する気ないけど、連戦だけはもったいないと思うってだけ(あと騎神も)。 他の2枠にちゃんとした当てがあるんならともかく、単に連戦が出たから乗り換える、ぐらいの感覚なら本人威風で副将につける方がお勧めできると思う。 そして兵器隊は水上戦と同じぐらい気力減っていくから、超級ではちゃんと有効だよ。準備不足っていうか、準備すればちゃんと使えるというべき。 特に超級鄧艾とか曹操のくっそ硬い兵器隊は、張遼の騎S通常攻撃でも6~700しか出ないし、気力削りが有効なケースも少なくない。 そしてそもそも、削りたいんなら通常攻撃じゃなくて戦法使うでしょ普通。戦法外れた時の保険のためだけに連戦いれるというのも悪くはないが、それは別に本人に限る必要はない。 とにかく威風は張遼のスペックに対してもったいないのは事実だが、使い道がないわけではないので、「とりあえずカス特技だからなんでもいいので変更」みたいに性急に書き換えを焦ることはないと思う また11はシステム上、戦法のダメージアップはクリティカル特技で上限に達するので、そこにさらに攻撃面で上乗せしたいと思ったときに効果がある数少ない特技でもある。 CSPKだと生き延びた雑魚勢力が覇王つきの雑魚をむやみに放流したりするし、流れてきたそういう武将を副将にする機会は結構ある。 -- (名無しさん) 2016-09-15 15 00 13 一時期“威風厨”とでも呼ぶべき輩が跋扈していたけれども、冷静に考えたら張遼のスペックに威風は勿体ないと思うのが普通だよね。 これは勢力の規模にもよると思うんだけど、副将付けられるような規模の勢力なら威風のままでもいいと思うけど、弱小勢力で運よく張遼が登用できたのなら、補佐や覇王あたりに書き換える方がいいと思う。 元も子もない言い方だけど、どのシナリオのどの勢力で使うかによって各武将の運用方法の最適解も変わってくるから、各武将毎の攻略コメントは不要という結論に到るんだよね… (11愛好者同士、あれやこれや話し合うのはとても愉快なことだけれども) -- (名無しさん) 2016-09-15 16 37 55 ↑あれは「威風を悪く言われると俺が不快だからやめろ」とかいう謎理論だから全然別の話でしょう。 あと確かに勢力の内訳によって最適解は異なるが、武将本来の能力や特技というものがあるんだから、勢力によって使い方が全然異なるという訳ではない。 こういうコメントが攻略情報なんだから、別に不要ということはないでしょう。このコメント欄はあくまで攻略情報書くところなんだし。 -- (名無しさん) 2016-09-15 20 00 24 ↑↑↑ 大勢力なら武将の数も揃ってるから多部隊対多部隊になるだろう。 威風の効果が出る前に敵殲滅。 小部隊対小部隊なら短期に決着付ける方がいいから、結局他に特技の方がマシ。 別に連戦に拘ってるわけじゃなく、威風で特技一枠使うくらいなら長駆や遁走でも何でもいい。 流石に高揚よりはマシだが、威風に比べれば不屈や金剛でも全然いいくらい。 超級でも殲滅までに気力がゼロになることはほとんどない。 威風に頼ってる時点で戦の準備不足だろう。 ピンチにもチャンスにも使えない特技というのは変わらん。 -- (名無しさん) 2016-09-15 23 53 09 兵器隊は向こうも気力をガンガン使うから、衝車は別として超級なら威風で普通に気力0が通用するよ。支援や連戦を準備していけばほんとにあっさり0にできるので、硬い相手にはそれなりに有効。 その隙に他の部隊は別の部隊に攻撃できるわけだから、決して無駄ではない。それ以外にも無論やり方はあるけど、これも効率としては悪くない。 他の有用な特技が出た時、あるいは部隊の枠を圧迫した時に書き換えをためらうような特技ではない、というのは同感。 ただ副将に覚えさせれば済むものを、わざわざ本人で書き換えるほどひどい特技という訳ではない、と思う。 それに不屈や金剛や連戦だと、その内さらにいい特技に乗り換えて張遼の性能を活かしたくなる(武力依存系の勇将や神将が出たら即乗り換えるだろう)が、そうすると結局特技をひとつ無駄にしたことになる。 -- (名無しさん) 2016-09-16 00 21 44 comみたいに手当たり次第みたいな戦い方しない限りは各個撃破が常だから超級でもやっぱり使えない。 不屈や金剛は上書きしてももったいなくない特技。 連戦は上書きするのはもったいないが、武力技巧研究を待ってもいい。 デフォ技巧研究なら、覇王は当然だが、後は補佐、連戦も十分合う。 威風が使えないので不屈や金剛でもいい。 -- (名無しさん) 2016-09-16 07 34 38 硬い敵や兵器隊だけに効果が見込めるというのは利点の一つであって、高い能力を生かすなら、もっと汎用的な特技の方がいい。 大体は自分のより格下の多数の敵と毎回戦うんだから。 しかも能力上、その頻度も高い地方に配属されることが多い。 兵器隊相手なんて何の利点にもならない。 -- (名無しさん) 2016-09-16 12 02 46 流石に威風に敵意抱きすぎ。利点になる機会が少ないのは事実だが、上に挙げた通り0ではない。 各個撃破といっても、兵器隊が気力0になるのは撃破するのと同じこと。拠点に取りつかれない限りさしたる脅威ではないし、ZOCで他の敵を各個に集中攻撃しながら、兵器隊は威風に担当させるというのも十分あり。 これが仕えないというのなら、連戦だって(通常攻撃より戦法使うのが普通なので)そんなに多くない。戦法が失敗する10~25%の確率で、通常攻撃の期待値をわずか1,5倍にするだけに過ぎない(しかも反撃ダメージもある)んだから。 そもそも特技を乗り換える時に、副将で同じ効果が得られるものをわざわざ本人を書き換えるのは非効率、って点は動かしがたい。 連戦や金剛は、防計用の副将にとりあえずつける特技としてはそれなりに有用なので(不屈はまあ・・・あれかな・・・)、上書きして無駄にするのは貴方も言ってる通りもったいない。枠がつまってなくて副将で済ませられるなら副将で十分。 もう俺たちでログ埋めすぎてるのでこの辺にしておくけども、きちんとした運用ビジョンが(というか残り2枠が)確定してるんならともかく、そうでないのに無理に書き換える必然性は薄い。 威風にとっても連戦にとってももったいない。 -- (名無しさん) 2016-09-16 23 58 36 期待値が1.5倍なら十分だろう。 威風のほぼ唯一の強みである兵器隊相手なら反撃ないから連戦が上。 第一、威風は時間掛かるし限定的で使えないことに変わりない。 これだけ使えない特技にこだわる意味が分からん。 こんな特技で一枠使うなんてアホか趣味のレベル。 これがカス武将ならともかく。 -- (名無しさん) 2016-09-17 00 34 17 あの、15~25%の確率で1.5倍なんだから、最終的な期待値はさらに下なんだけど… -- (名無しさん) 2016-09-17 21 39 44 もはや張遼も威風も関係ない連戦の話になっちゃうけど、 連戦の強みは戦法失敗したときも50%の確率で2回攻撃できるよってことと、 気力尽きたり地形上の制約で戦法使えないときも、通常攻撃に+αの効果があるよってことだから、 期待値云々の話はまた別次元の話なんじゃないかな -- (名無しさん) 2016-09-17 23 09 39 威風の使い道ってマジで兵器隊の気力減らして無効化するだけ。 ↑↑森での戦いやぬま地など使い方は状況に応じて選べるだろ。 使いたい時に使った際の期待値が1.5倍なら十分だ。 -- (名無しさん) 2016-09-18 02 16 27 おい張遼の話しろよ、だれだここを威風と連戦の待ち合わせ場所にしたやつは。爆発しろ -- (名無しさん) 2016-09-18 12 32 46 威風厨が一人いるからな。 威風が勝てる特技など掃討くらいしかないのに。 張遼と威風を同一視してしまい、「威風が馬鹿にされる=張遼が馬鹿にされている」と思い込んでいる張遼ファンだろう。 -- (名無しさん) 2016-09-18 20 04 39 好き嫌いと評価を混同してるなあ。嫌いだからって理由で書き換えは非合理極まりないってのにな。 -- (名無しさん) 2016-09-18 23 23 01 合理、非合理で考えれば兵器隊を時間掛かって無力化出来る威風の書き換えは合理的だろ。 使い続ける方が非合理。 -- (名無しさん) 2016-09-19 00 30 37 なんか勘違いしてるなあ。誰も「威風の書き換えNG」だなんて言ってないよ。↑のほうの不愉快だから君を除けば。 張遼はどの勢力だろうが主力の一角だし、最終的には連戦や威風じゃなくて、もっと張遼のスペックを活かせる特技に書き換えたい。ハイスペック+特技が微妙なんだから、いい特技がでたら最優先で回したい。 だがいずれ書き換えるというのに、わざわざそれまでのつなぎとして書き換える理由は何? 不屈や金剛みたいに、ドブに捨てても惜しくない特技ならわかる。でも連戦は相応に使い道がある特技だし、いずれ書き換えて捨ててしまうのはもったいない。 無論2枠が別の特技で埋まってて張遼しか書き換えの対象がないってんならこれは納得だが、副将で済むんなら後々を考えてもそっちの方がいいに決まってるでしょ。 特技が使えないからといって、特に必然性もなく連戦を浪費するのが非合理だって言ってるんだよ。 -- (名無しさん) 2016-09-19 01 15 12 最初に勘違いして噛み付いてきたのはそっちだろ。 別に最初から連戦が最良とは言ってない。 別に補佐み連戦も他にいい特技がなければ「威風よりは」いいってだけ。 ばか? -- (名無しさん) 2016-09-19 01 48 46 こっちは最初からずっと 覇王や飛将辺りがいいが、なければ連戦や補佐でも威風よりは良い ってのに対して、「連戦だけはもったいない」って言ってるだけなんだけど。他の特技への書き換えは基本的に同意だよ。ただ無駄に連戦浪費するぐらいなら威風のままで十分って話。 「大抵の特技は威風よりはマシ」ってのも否定しないが、それイコール「だから書き換えろ」ってのは単に趣味のそれであって実利はない。 部隊に3つ特技が入るんだから、それを考慮せずにやみくもに書き換えるのは効率のいいことではない。 -- (名無しさん) 2016-09-19 02 00 24 張遼の能力なら十分他の特技つけた方がいいいだろ。 連戦だとしても何でもいいけど結局威風で一枠使うのは無駄。 威風に利点がない以上、能力と三枠を使えるようにするのは当たり前だろ。 威風に勝ってる特技など掃討くらい。 先に連戦があれば他に二枠使える。別に不屈でも金剛でも威風よりはマシ。 -- (名無しさん) 2016-09-19 02 38 36 だから そりゃ2枠がどうしても埋まるって場合ならありだが って最初からずっと言ってるんだけど…… 他二枠の特技が用意できてる、ないしそのアテがあるんなら別に文句ないよ(アテとして不屈はどうかと思うが)。 その予定がたってないのにとりあえず書き換えるぐらいなら、副将に連戦つけた方がマシだってこと。 -- (名無しさん) 2016-09-19 02 49 06 副将に連戦つけて兵器隊をちまちま無力化してどうすんだよ。 連戦プラス2特技の方がよっぽどいいだろ。 威風プラス2より。 -- (名無しさん) 2016-09-19 03 34 29 張遼に弩Sと軍楽台気力回復2倍の副将つけて範囲撃ちすりゃおもしろいし、他にも威風が役立つところはわかるだろう? たしかに神算だので混乱させてフルボッコしてるような軍団で威風は肩身狭いわな。それは理解できるが、乱舞で張遼勢力のとき 攻撃力も防御力も特技もおっそろしい連中に威風はありがたいぞ?もめてる連中はプレイスタイルが違いすぎるんじゃないか? -- (名無しさん) 2016-09-19 06 08 40 ↑↑だから「プラス2が埋まってるんなら書き換えはやむを得ない」って何度も何度も何度も何度も言ってるんだけど。 [張遼:威風][副将1:白馬][副将2:詩想]…この状態で張遼を連戦に書き換えるのはまったく理に適っている。 [張遼:威風][副将1:覇王][副将2:連戦]…この状態で張遼を補佐に書き換えるのもアリだろう(おれはこの場合はしないだろうけど)。 だが、 [張遼:威風][副将1:強奪][副将2:なし]…こんな状態で張遼を連戦に書き換えるより、普通に副将2に回すべき。 [張遼:威風][副将1:鉄壁][副将2:親羌]…この状態も然り。 その方が部隊の戦闘力は変わらないが、副将2の人材としての価値が上がって融通が利くようになる分プラスだし、そもそも張遼の連戦自体一時的なものだろう。 最終的にはもっといい特技に、しかも可及的速やかに書き換えることになるが、そうすると結果として1個連戦が無駄に消えてしまうことになる。 張遼の部隊の戦闘力を、無駄がでまくってももいいのであらゆる手を尽くして向上させたい!のかもしれないが、張遼の部隊1つで戦闘ができるわけじゃないんだから、最終的に無駄を出さないに越したことはない。 -- (名無しさん) 2016-09-19 06 35 39 自演乙。 やむを得ないってか威風は使えないし、別に連戦でも構わん。 どうあがいても威風は兵器隊相手にしか役に立たないんだから。 -- (名無しさん) 2016-09-19 08 20 15 俺は登用人数縛ってるから、副将ありきの話題には口を挟めないが、 ハイスペックな張遼に、誰でも効果が変わらない威風を持たせておくのはちと勿体無い気がする -- (名無しさん) 2016-09-19 13 08 56 要するにだ、威風自体は使いようはあるけれども、張遼にはもったいないのではないかって事じゃないのか?威風がどうのこうのではなくてさ。 -- (名無しさん) 2016-09-19 14 28 54 使いようあるか?かなり限定的じゃない? 威風がせめて気力–50とかだったら話は別だが、他の特技を付けた方が戦術に幅は広がる。 -- (名無しさん) 2016-09-19 18 26 21 ついに自演認定までしだしたか…まあ威風についてのみ語りたいんなら、特技のページで語ればいいんじゃないかね。 -- (名無しさん) 2016-09-19 18 37 42 威風+射手使っても特技の効果を感じる前に壊滅するスペック。 書き換え推奨。 -- (名無しさん) 2016-09-20 00 07 59 どの特技にも言えることだが、威風部隊が5つくらいあったらすごいことになるけれども、張遼一人がもっててもしょうがないってことだろう。 -- (名無しさん) 2016-09-20 02 22 47 神算や強力な戦法特技なども気力がないと撃てないわけで、気力減らして撃てなくしたり撃てる回数減らせるのは十分大きなメリットだと思う。だいたいそんないつも短期決戦なわけないだろう、おまいらの戦闘はいつも2,3ターンで相手全部壊滅するとでもいうのかw 気力消費する強力な特技もちすべてに威風は有効だろう。話みてたら威風がダメなのではなく張遼には他にもっといいのがあるってだけのことだろう?そりゃそうだろうあのスペックじゃぁなぁ。好きな特技に書き換えればいい。まだもめるようなことか?爆発しろよ -- (名無しさん) 2016-09-20 02 29 02 元々は連戦うんぬんでもめてるわけだろ。 実際、威風に比べりゃ連戦の方が特技としてはマシだが、張遼にはもったいないとかそんな話。 張遼と関係ねーよ。絡んだ方も二点三点してるし。 -- (名無しさん) 2016-09-20 02 45 39 ↑↑強力な部隊は真っ先に各個撃破の対象なんだよな。 威風が気力ー50で連戦と組み合わせて1ターンで無力化くらいならともかく。 恩恵の少ない特技だが、ここまで上がってる通り、水軍、兵器隊に有効なくらいだろう。 -- (名無しさん) 2016-09-20 02 50 22 「書き換えるのはいいけど、どうせもっといい特技を回すのに、『何でもいいからとりあえず書き換えろ』ってのは非効率」だって言われてるだけなのに 指摘点はいっさいスルーして「どうでもでもいいから、一秒でも威風にはしていたくないので付け替えろ」って言い続けてるって本当に威風が嫌いなんだな。 2転3転(点じゃないぞ)なんかしてない。ずっと最初っから同じこと言い続けてるよ。 張遼に対してもったいないという点では威風も連戦も同レベルだし、副将というシステムがあるのに何で本人の書き換えにそんなに固執するのかって話だ。 -- (名無しさん) 2016-09-20 17 18 47 そもそも連戦や築城といった「副将でも効果が変わらない特技」というのは、張遼のような主将タイプではなく、主に防計や適性補正を担当する副将の方に需要が高い。 彼らは戦闘用の特技をもってること自体少ないので、特技が飽和状態になるCSPKですら、3枠が有効な特技で埋まらない部隊というのは結構な確率で出てくる。 張遼の威風だけじゃなく、張郃の昂揚や徐晃の沈着といった微妙な特技にしても、効率と言う観点から言えば、書き換えはちゃんと副将枠を考慮して行いたい。 「使えねーから」という理由で連戦や補佐をつけて、それが結局槍将や勇将に上書きされて虚空に消えちゃうぐらいなら、最初から荀彧や蒋済に回した方が結局無駄がない。 -- (名無しさん) 2016-09-20 17 36 55 ↑ 失礼、補佐は副将タイプはNGね。 -- (名無しさん) 2016-09-20 17 39 17 人に指摘しておいて自分も間違えるとか。もう引っ込んどけ。 -- (名無しさん) 2016-09-20 18 29 31 理屈では反論できないんだなあ・・・ -- (名無しさん) 2016-09-20 19 13 23 連戦大好き君は2CHで騎馬最強説唱えて全く論破できてないのに「はい論破」とか 言ってたヤツと同じ臭いがする。大体連戦は超級じゃ反撃被害が大きすぎて使えない。 弩か混乱した敵を叩くしかない。また、発動しても技巧ポイントが入らない。 荒らしが目的なんだからスルーしましょう。 -- (名無しさん) 2016-09-20 19 26 56 連戦好きとか言ってねーよ。 半年ロムれ。 -- (名無しさん) 2016-09-20 19 39 16 技巧ポイントは幾らでも稼ぐ方法あるから趣旨が違うと思う -- (名無しさん) 2016-09-20 19 47 20 面白くてROMってたが、どっちもどっち -- (名無しさん) 2016-09-21 20 59 46 でもよ、ほじくり返すわけじゃないが威風が50なら使えるみたいなこと書いてるけどそんな短時間に全滅させるってどんなチード軍団つかってるんだ?気力がなくなれば闘神も弓神も特技なしみたいなもんじゃないか。相手が消費する気力も考えて威風20は十分有効だ兵器にしか使えないはちと言いすぎなんじゃないか?計略部隊にも使えるだろう。威風は使えないというような意見してる人は蜀しか使ったことがないのか? -- (名無しさん) 2016-09-22 21 54 37 毎ターン相手の消費気力+20減らせるんだ、3,4ターンでもう相手はガス欠だろう。気力をうばうってのは計略も防ぎ騎馬隊の突進即死も防いでくれる。相手は通常攻撃しかできないわけだから戟兵の技巧も生かせるし着火もできないから藤甲も生きる。味方全体を守るすばらしい特技だわ。さすが張遼だと思うけどなぁ。みんなはそんなに使えないと感じているのか。 -- (名無しさん) 2016-09-22 22 03 18 2ちゃんでも度々言われてるが、三国志11自体が撹乱フルボッコゲーだからじゃないか? 神算や虚実だけじゃなく、螺旋や疾走などとりあえず撹乱みたいな。 つまりそもそも威風で無力化というより無力化させてから敵を叩くのが王道みたいな。 威風で減らすより部隊人数減らした方が被ダメ少ないしってなる。 +α的な使い方だね。 -- (名無しさん) 2016-09-23 03 06 54 使えないというか、ほとんどの人が認めてるのは「張遼レベルの武将にはもったいない」ってことかな。 張遼レベルのド主力級になると、神将や勇将みたいな武力依存の決定的な特技が出た時、書き換え候補の第1だよね。 威風自体の評価はともかく、「張遼じゃなくてもいい」っていうのはまさにそう。 ただ張遼のように統率・武力・戟が高い武将の場合、最前線で耐えながら反撃でガンガン気力を削るということも可能で、そういう意味でのシナジーは実はある。 特に兵科Sの敵部隊は躊躇せず高級戦法を使うので、敵のS戦法で25+反撃で20+こちらの攻撃で20、さらに通常攻撃で連戦が発動すれば+20で、合計85が敵味方1ターンの間に削れてしまう。 そういう意味で言えば張遼は威風を活かしているとも言えるが、ただこれよりも他に勝ち筋があるというのも事実。気力0になったって呂布や関張なんか通常攻撃だけでも鬼のような強さだしね。 だが攪乱系が必ず用意できるとは限らないし、やっぱし状況によっては選択肢の一つにおいておいてもいい、ぐらいじゃないかね。 -- (名無しさん) 2016-09-23 05 16 17 混乱フルボッコが王道なのは理解できるがそれ言い出したら混乱系と戦法クリティカル系以外ゴミになって元も子もないしなぁ。被弾しないから☆の能吏さえ×レベルの価値になる。威風単体の評価をすべきだろうな -- (名無しさん) 2016-09-23 06 34 06 威風単体は難しいな。どうしても張遼と甘寧とセットになってしまう。 張遼も甘寧も各軍のエース級なのに、ってなる。 威風が一番有効なのは超級の隘路じゃないかな。 ただどうしても限定的な能力。 掃討のしかしながら掃討の−5ってどういう意味なんだろうか。 掃討が−10で威風が-30くらいならまた評価み変わったんだろうが。 -- (名無しさん) 2016-09-24 06 38 12 威風も掃討も減少させる気力が特技保有者の能力に連動していれば良かったかもね。 例えば威風だと(統率+武力)÷5,相当だと÷10みたいに。 そうすれば顔良に怖れる白馬城の劉延のシーンが再現できたかな、と考えてみた。 -- (名無しさん) 2016-10-04 09 26 42 範囲3マスまで毎ターン気力を減らすとかなら最高だった。 -- (名無しさん) 2016-10-07 18 27 35 もういいかげんに威風の評価はよそでやってくれ。。 威風そのものに意見したいならKOEIにいってくれ。。 1.威風が使えないと思う人は特技を書き換えりゃいい。 ならば何に書き換えれば効果的かを検討しようよ。 2.威風を効果的に使うのも醍醐味と思うならそのまま使ってくれればいい。 ならば張遼を誰と、あるいはどんな特技と組ませるかを検討しようよ。 まぁ、コメントをさかのぼりゃ、かなり出尽くしてるんだけどね。 -- (名無しさん) 2016-10-10 01 38 41 張遼と誰組ませるっても単騎で十分強いから、築城、思想、楽想、疾風、長駆、強行や、水軍S武将とかのテンプレみたいな特技か、釣り武将くらいだろうな。 -- (名無しさん) 2016-10-15 02 37 31 釣り役なら[[王忠]]がおすすめ -- (名無しさん) 2016-10-15 18 15 28 王忠 -- (名無しさん) 2016-10-15 18 15 52 特技がクリティカル系では無いため、火力に僅かな不安が残るが、戟でまとめて攻撃した時もしっかり作用するのがでかい。 短期的に見れば微妙に思えるが、長期的に見ると彼がいるか否かで、戦法を放てる数がだいぶ変わってくるため、戦局がこちら側優位に傾きやすい。登用できれば顔良と別部隊で同時に出陣させ、あっという間に気力を削りきるなんてこともできる。 -- (名無しさん) 2016-10-31 21 09 26 特技は確かに微妙だが、統率と武力が90越えで陸上直接攻撃適性がオールSのため、どんな局面でもそつなく使える名将。しかも知力も並以上で義理も高く素晴らしい。 ちなみに「遼、来、々!」は、自身が言ったワケではありません(笑) -- (名無しさん) 2016-12-09 00 21 13 ↑てめぇ、んなつまんねえこと今更書いてんじゃねぇよ -- (名無しさん) 2016-12-09 14 59 04 ↑そんな偉そうな貴様の張遼運用法は? -- (名無しさん) 2016-12-09 21 26 00 ↑はぁ?覇王つけて暴れまくるに決まってんじゃねぇか -- (名無しさん) 2016-12-09 21 31 15 ↑武力が高くて槍Sでクリティカル系の特技ならだいたいそうするわなwww -- (名無しさん) 2016-12-09 21 32 39 ↑てめぇ、んなつまんねえこと今更書いてんじゃねぇよ -- (名無しさん) 2016-12-09 21 33 16 魏は能力が高いのに特技が微妙という見本みたいな武将。 徐晃、張郃などと同じく特技書き換え候補上位。 特技開発デフォなら補佐、覇王。出れば騎神。 -- (名無しさん) 2017-01-26 19 46 57 このチンカス武将の義理が4とかねーよwww 義理1でもいいくらいだわ -- (名無しさん) 2017-01-27 19 46 38 は? なんで張遼がチンカスなのよ? 張遼がチンカスなら大半がチンカスだぞ。 -- (名無しさん) 2017-01-27 21 29 22 ↑何切れてんだよカスチン -- (名無しさん) 2017-02-06 21 02 50 補佐+連戦+威風でとてもえぐいことに -- (名無しさん) 2017-02-09 08 34 56 ↑補佐の発動には補佐持ちを主将にしなくてはならず、補佐を持つのは関平や満寵ぐらい。その2人の副将に張遼はもったいなくないか。 -- (名無しさん) 2017-02-09 09 47 53 満寵と義兄弟にすればええやん。あと1人はお好みで。 -- (名無しさん) 2017-02-09 12 20 18 主将にしないと補佐は発動しない、張遼以上の統率の補佐なんかいるのか? -- (名無しさん) 2017-04-15 01 58 08 ↑主将にしたいだけなら補佐を張遼より高い官職につければ良いだけだぞ それでも枠に上限のある義兄弟使ってまでやることかは疑問が残るが -- (名無しさん) 2017-04-15 02 17 44 呂布とのコンビが凄かった。(戟) -- (名無しさん) 2017-06-07 16 37 54 活躍の割には、意外と武力が低め。龐徳が94なことを考えるとちょっと切なくなるな。 -- (名無しさん) 2018-03-05 10 36 47 威風がゴミ特技過ぎてもったいない 主将以外で使うことはないレベルなので補佐か、単騎駆け時の気力低下見越して連戦か -- (名無しさん) 2018-03-26 19 07 50 張遼の居る勢力で連戦まで研究してて副将つけてる余裕がないって状態がまったく思いつかないので連戦は副将につければ問題ない 弱い威風も連戦で2回殴ればある程度意味は出てくるし 親愛が多いのでその辺と一緒に運用してれば気付いたら相手の気力が0だったなんてことは多々あるし、連戦と付け替えなければならないほど威風は弱くない でも補佐があるならそっちの方が100倍良いので急いで付け替えよう -- (名無しさん) 2018-03-30 22 26 59 威風が弱いとかいつまで初級プレイしてるんだよ。カッチカチの超級なら長期戦になるから☆レベルに活躍できるのにまだゴミだなんだ言うやついるのか。威風を弱いって言うやつは強い勢力で無双してるだけだろ。威風じゃなくて自分が未熟だと認めるべきだ -- (名無しさん) 2018-06-07 09 34 10 敵に投石+霹靂があると、とても厄介。 こんなとき、威風は物凄く役立ちます。 -- (名無しさん) 2018-06-09 09 20 09 基本が出来ていれば威風いらないから。攻城なら櫓陣系の設置場所と攻める時期、ルート、相手間違えてる。防戦一方なら内政より櫓、陣を作っておくべき。敵の歩数計算して先制+ZOC+アウトレンジ+各個撃破+戦法禁止地形で戦法なんてそんなに喰らわない。ただし、森が多い都市か江夏なら☆レベルになる。でも限定的特技と比べても射手や乱戦よりも下レベル。 -- (名無しさん) 2018-06-10 18 18 36 時も場合も選ばない優良特技じゃなくて時と場合を選ぶ特技、でいいじゃない なんで超級デヤッテルガーが今更沸くんや -- (名無しさん) 2018-06-11 01 52 28 趙雲と同じでドーピング -- (ジャギ) 2019-08-28 09 19 58 コメ欄見てて思ったのは、張遼がいるのに強い勢力じゃないってどこ想定?ってこと 女の戦いですら張遼に威風があって良かったと思うほど苦しい戦いにはならんのだが… -- (名無しさん) 2020-01-15 18 51 09 史実の呂布かな?高知力の郭嘉や荀彧、呂布なら基本的に曹操軍の大物たち(于禁や曹一族)とかに軽く盆踊りさせられるから 攪乱とか虚報持ちの曹操の沈黙化ぐらいかな、濮陽なら攻め手は渡しに限られるから威風の活躍は可能 -- (名無しさん) 2020-02-02 17 03 57 張遼 -- (張遼) 2020-04-22 07 03 30 谷中麻里衣 -- (成山裕治) 2020-04-22 07 03 43 山縣苑子 -- (森洋輔) 2020-04-22 07 04 08 藤澤健至 -- (藤沼建人) 2020-04-22 07 04 20 張遼 -- (山木梨沙) 2020-04-22 07 04 37 ↑6なるほど。 2マス目に入ってきた副将荀攸入りの曹操隊を相手するには確かに張遼の弩兵隊じゃないと厳しいね。 今まではたまたま曹操が荀攸連れて来なかっただけだったらしい。 教えてくれてありがとう。 -- (名無しさん) 2020-08-29 20 30 31 恵まれた能力に、クソみてぇな特技 -- (名無しさん) 2021-06-16 23 46 11 甘寧と義兄弟にして常に隣接させておくと偉容な強さ -- (名無しさん) 2021-08-10 12 42 11 強い -- (名無しさん) 2021-09-25 19 41 42 威風はこの種の白兵タイプの武将より、援護攻撃を主任務とする弩兵隊等に付いてて欲しい特技ではあるが、甘寧らと違って最初から戟Sな為、まだ「使えない」程ではない とは言え孫堅 孫策を上回り、趙雲と五分で関羽に迫る程の最高クラスの総合軍事能力を持つ彼をダメージソースとして使わないのは勿体無いので、有力なダメージ強化系特技が出たなら深く考えず付け替えても何ら問題無いだろう また、李通や孫礼、牛金等の「適性は微妙だが、強力な特技を持っている」類の武将との相性は良好である 張遼の場合自前の知力が非凡に高い為よっぽど強力な計略要員を擁する敵と相対しない限りは防計要員は無しでも案外何とでもなるので、その種の高性能副将達を戦況に応じて付け替えながら戦うのがとても楽しいのでお勧めだ -- (名無しさん) 2022-12-31 12 34 34 張遼とか数少ない失敗エピも人格破綻エピもなく強い猛将やん こいつがチンカスなら三国志の武将99%チンカスやろ -- (名無しさん) 2023-01-10 13 22 27 そんなに6年前悔しい思いしたんですか -- (名無しさん) 2023-01-11 20 22 59
https://w.atwiki.jp/pcro/pages/72.html
ゲーム進行の主軸となるクエストです。 ストーリーのネタバレを含む部分は畳んであります。閲覧にはご注意ください。 各ストーリーのあらすじはフィニャンシェ(座標:157,125)にいるトウホウから読むことが出来ます。(第6章まで) メインクエスト報酬リストも参考に ※青文字はキャラクター名を指します。 ※橙文字は地名を指します。 ※赤文字のアイテムはクエストアイテムです。所持品には追加されません。 ※緑文字のアイテムはクエスト中限定ドロップとなります。所持品に追加され、クエストに必要な数まで所持することが可能です。 そのクエスト中以外に手に入れる方法はありませんが、クエスト以外での用途も皆無です。 アイテムの説明文はこの機会でしか読めないので、細部まで楽しみたい人は見逃さないように注意。 フィールド上のイベントマークについて オレンジの [?] …メインクエストのイベント 水色の [?] …サブクエストのイベント 桃色の [?] …クライムチャレンジ 赤い [!] …戦闘イベント チェックポイント(CP)について オレンジ色の [!]マークで、メインクエスト序盤のみ設けられた誘導用の印です。 CPを通過するとドルチェが手に入り、また現在のメインクエスト目的地までたどり着くことができます。 序盤の攻略ガイドになりますが、それ以上にお金稼ぎとしてもかなり有用なので逃さず通過していくのがよいでしょう。 クエスト序盤を過ぎると存在しなくなります。 ガイドアローについて メインクエスト中は主人公の前方に方向を示す剣のマークが付き、これが指す方角にクエストの目的地があります。 地名を言われてもピンと来ない場合でも、ガイドアローに従うとサクサク進みやすいです。 ただしあくまで方角のみで道筋まで示してくれるわけではないので、目的地にたどり着くのに詰まったら ウォールナッツ王国・ミルフィーナなどの各マップ詳細ページも参照してみて下さい。 第1章襲われる少女 魔物退治へ イドに秘められた力 第2章遺跡荒らしを逮捕 研究進む 神の宝石 第3章ゴールドラッシュ 希望のエネルギー 大臣の陰謀 隠された遺跡 第4章秘法流出 よみがえる秘法 ボディの真実 巨人の出現 第5章働かざる者住むべからず 火を乞う人 孤独な少年 塔に住む秘密 第6章大人の領分 戦いの記憶 泡立つ想い 女豹の復活 犬も喰わない 堕ち来るモノ あまい生活 黒い鎧の男 マジョを名乗る少女 新たな住民 次期村長の座を賭けて 盲従使いの姫君 今日寝るところに住むところ 正しき資質 少年のおねがい マジョの虜 花火をあげて 我ら精霊騎士団 戦うものと戦わぬもの 駆引きはベリーの香り 帰りたい帰れない 天の怒り、地の叫び 救いの紙片 ケモノたちのソーラン 樹を枯らすもの 宙神様の儀式 忍び歩く巨体 塔に隠されたヒミツ ミルフィーナの七不思議 魔法を砕く鉄槌 一騎討ち! 騎士来襲 第7章未知の島調査隊 花の髪飾り 唐突の要求 盗まれたお宝 温かな水の湧き出る場所 裸のおつきあい 少年を救え マグマに潜む恐怖 たんぽぽのお酒 ハはハンマーのハ よろこびの機会 何かが空をやってくる 虹の彼方へ 第8章街のゴミ拾い ペンは剣より強し 晩餐会はまもなく 迷い子を探して 調和を乱す者 危険なおもちゃ 救いの悪意 帝国の将軍 正義vs正義 偽の手紙 我が街を守るのは我ら 再会 執政官の罠 理不尽な襲撃 たゆたいの蜃気楼 荒ぶるものたち 悪夢のうずまき 捕獲大作戦 可愛く憎き虜囚 逃亡者を追って 疑惑の少女 破壊の代償 自分そっくり よみがえらない記憶 またもや侵入者 密会 巨人の塔 第9章おそろしの森 まいごのまいごの かがり火端の腹ごしらえ 森に響くあやしき歌 罠の魔法 風のゆくえ 奪われた鍵 マジョたびたび マンダラサンゴを探して 風がやむ森 はさみうち! 怒れる風 石に埋もれた秘密 開かない宝 お魚とお金 時には父のように 美人秘書はいそがしい 慈悲ぶかい男 水晶の森に響く音 盗賊総力戦! 国王と博士 禁忌を求めて 過去からの声 フクロウたち 風の精霊とフクロウ 石ころの魔法 執政官の思い出 潮風をさがして 第10章潮騒の町にようこそ サンゴはどこか 堕ちた冒険者 水を司るもの 丸い海で歌を歌うクジラ 小宇宙の名を持つ災厄 亜麻色サンゴの乙女 リトルコスモスの復活 ふるびた杖 光と闇の遣い 冒険家のたましい 災厄よサラバ 巨人のたくらみ 空からの使者 精霊大集合! ほしをつぐもの エクストラシナリオ→エクストラシナリオへ コメント 第1章 [部分編集] 襲われる少女 + ... いわゆるチュートリアル。記憶喪失でアナナス海岸に漂着した主人公が目を覚ますと、近くでヴァニラという少女と王国兵が揉めている。 ヴァニラを王国兵から助けた(?)主人公は、彼女の住む村ガトーヴィレッジに案内される。 始点:初期位置(座標:66,113) 報酬:『はかない蘇生の種』×1個、熟練値350 クエスト内容 謎の少女から『木の枝』をもらい、王国兵士(Lv1)×2と戦闘。 もう一度、王国兵士(Lv1)×2と戦闘。 ヴァニラを追いかけ、チェックポイント(以下:CP)を辿り東に進む。 ジャンプとレーダーについてのチュートリアルを受ける。 そのまま報酬をもらって終了。 魔物退治へ + ... ガトーヴィレッジの村長コルネに挨拶をすると、ホットケーブ遺跡に住むケモノ、アオミドリの討伐を依頼される。 討伐したアオミドリの巣で何故か古文書を発見するが、突然現れた考古学者一行のガラクッタ博士に「その古文書を譲れ」とせがまれ、彼らに渡すことになる。 始点:ガトーヴィレッジ:コルネ(座標:204,147) 報酬:1,000ドルチェ、熟練値60 クエスト内容 コルネからアオミドリ討伐を頼まれ、『メディ』×10個をもらう。 アオミドリ討伐のため、CPを辿ってホットケーブ遺跡入り口に向かう。 グリリに呼び止められ、『フォーレルナイフ』、『カワーナックル』、『ワカバボウ』の中から一つをプレゼントされる。 ホットケーブ遺跡入り口(座標:293,159)でジェノワと会話する。 ホットケーブ遺跡上層(座標:299,113)へ向かい、アオミドリ(Lv13)と戦闘。 アオミドリの巣(座標:302,106)を調べ、『不思議な古文書』を手に入れる。 ガラクッタ一行に『不思議な古文書』を渡し、5,000ドルチェをもらう。 コルネにアオミドリを討伐したことを報告し、報酬をもらって終了。 イドに秘められた力 + ... 主人公は失った記憶を取り戻す手がかりを探すことにし、村長に相談すると、「精霊の力が頼りになるのではないか」と提案される。 ただし精霊が今でも本当に存在するかについては村長自身も半信半疑であった。 それでも主人公は村長の助言を受け、精霊が宿るといわれる『イド』にとりあえず向かってみることにする。 すると本当に精霊が現れ、魔法を使えるようにしてくれると言うが…。 後半はフィニャンシェでの様々なチュートリアル。ぷちっとくろにくるの様々なシステムを説明してもらうことができる。 始点:ガトーヴィレッジ:コルネ(座標:204,147) 報酬:称号(4種類) クエスト内容 コルネの提案通り、イドに向かう。※各魔法のイドの場所は魔法のページ参照。コルネに土のイドに連れていってもらえる。※また魔法はこの時点で1種類しか習得できないので注意。魔法ごとに消費SPと威力が異なるほか、取得できる称号にも影響があるのでこちらも参照に。 マホダマを手に入れて魔法を宿すため、四体の精霊の内、誰かと契約し、試練を受ける。水のイド(座標:70,249)でウルディナと契約し、スイギョマジワリー(Lv7)×10と戦闘。『アイスジャベリン』を習得する。 風のイド(座標:236,125)でシルキーと契約し、チィバナ(Lv7)×10と戦闘。『ウィンドカッター』を習得する。 土のイド(座標:195,246)でノームと契約し、キジェリ―(Lv7)×10と戦闘。『アースハープーン』を習得する。 火のイド(座標:272,130)でイフリンと契約し、コンバッドラコ(Lv7)×10と戦闘。『フレイムアロー』を習得する。 精霊にガトーヴィレッジではなくフィニャンシェに飛ばされ、そこで様々なチュートリアルを受ける。グリリから生産チュートリアルを受ける。 グヌヌから強化チュートリアルを受ける。 グルルから合成チュートリアルを受ける。 グレレから装着チュートリアルを受ける。 ブ・リュレーからスキル・称号・ショートカットについてのチュートリアルを受ける。称号獲得:『PTメンバー募集!』、『PTにさそって!』、『ギルド員募集!』、『ギルドにさそって!』 パセリからアイテムメニューチュートリアルを受ける。 ツォンズにガトーヴィレッジに飛ばしてもらう。 レビューを書くかどうかの選択をする。「はい」→レビューを書いて『ココアンハット』を入手した後、終了。 「いいえ」→そのまま終了。 第2章 [部分編集] 遺跡荒らしを逮捕 + ... 『忘却呪律』で失った記憶を取り戻す手掛かりとして、出会った精霊に古い遺跡で呪いを解く手がかりを探すことを提案された。 村長に相談すると、「港町で情報を集めてみてはどうか」と提案され、ついでにマフィンへのお使いを頼まれる。主人公はマフィンから記憶を取り戻す鍵になりそうなタルトランド遺跡の話を聞き、 そこで出会ったピン・グレと名乗る謎の女性と行動を一時共にすることになる。 二人で遺跡の奥へ進んだところ、そこで王宮の者と思われる人物とトラヒゲ商会が怪しい密売取引をしている現場に偶然出くわしてしまい…。 始点:ガトーヴィレッジ:コルネ(座標:204,147) 報酬:5,000ドルチェ、熟練値50 クエスト内容 コルネから『黄金の貝がら』をもらい、花大砲に乗って、ザラメブルグにいるマフィンに話しかける。 マフィンからタルトランド遺跡(座標:235,519)のことを聞いてそこへ向かい、そこでピン・グレと戦闘をするかどうかの選択をする。「はい」→ピン・グレ(Lv40)と戦闘。 「いいえ」→戦わない。 ピン・グレと共に遺跡の奥へ進み、そこでリカワォーン(Lv17)と戦闘。 ピン・グレから『術法の石板』をもらう。 コルネに事の顛末を報告し、報酬をもらって終了。ワールド移動メニューの『ザラメブルグ』が解禁され、以降CPが消失。 研究進む + ... ピン・グレから呪いを解くための術法が記された石盤を貰ったが、肝心の魔法を扱える者がいなかった。 そこで村のエレメカの博士であるココヤッツは魔法の代わりにエレメカを使って術を発動させることを提案するが、 それを実現させるには動力として『神の宝石』が必要になるらしい。 『神の宝石』はおとぎ話の中の架空の物質と言われていたが、先日出会った学者一行のうちの助手、ボディがその宝石の製造法を発見したという。 ボディを訪ねて得た情報とココヤッツの技術で神の宝石の試作品を作ることに成功したものの、今度は実験費が足りないという問題が発生した。 始点:タルトランド遺跡入り口(座標:232,504) 報酬:なし クエスト内容 ボディから『古文書の写し』をもらう。 ココヤッツ:(座標:188,154)に『古文書の写し』を渡し、コンバッドラコから入手できる『トカゲの目玉』×10個も集めて届ける。 ココヤッツから『神の宝石 試作品』をもらい、それをタルトランド遺跡入り口にいるボディに届けに行く。 ボディから『国王への嘆願書』をもらって終了。 神の宝石 + ... 大臣マカダミアンは『神の宝石』に興味津々で、ボディの援助をすることにした。 主人公はボディにそのことを伝えに行くが、そこでガラクッタ一行がなぞの刺客に襲われている現場に遭遇する。 彼らの話しぶりによると『神の宝石』を使ったエレメカ運用は何かと都合が悪く、妨害するように命令されているらしい。 期待されている夢のエネルギーとやらにも、どうやら様々な陰謀が隠れていそうだ。 始点:ザラメブルグ港:ドルチェ(座標:266,415) 報酬:熟練値120 クエスト内容 ドルチェに『国王への嘆願書』を渡し、マカダミアンから『大臣の返書』をもらう。 アナナス平原(座標:135,267)に向かい、なぞの刺客(Lv24)となぞの刺客(Lv23)×3と戦闘。 ボディに『大臣の返書』を渡した後、ガラクッタの投げ捨てた『古文書の写し』を拾う。 坂を上った先(座標:70,289)でボディに『古文書の写し』を譲るかどうかの選択をする。「はい」→メインクエスト継続。 「いいえ」→会話終了。 ボディに『古文書の写し』を渡した後、ドルチェに事の顛末を報告し、サブリーナ平原(座標:146,472)に向かう。 港町のエレメカ(座標:201,404)のスイッチを入れるためにザラメブルグへ戻り、ボタンを押すかどうかの選択をする。「はい」→モサモサピテクス(Lv25)と戦闘。 「いいえ」→何も起こらない。 モサモサピテクスを倒した後、熟練値120を手に入れて終了。 第3章 2013/02/21正式版~ [部分編集] ゴールドラッシュ + ... ココヤッツは着々と主人公の呪いを解くためエレメカの準備を進めてくれていたが、肝心の動力である『神の宝石』の材料がもう手元にない。 神の宝石の材料である『グルーチウム』を手に入れるため、東大陸にあるラスクドルフ鉱山に主人公は向かうことにした。 そこで採取された『グルーチウム』は厳しく管理されているはずだが、どうやら無断で持ち出した人物がいるらしい。 犯人はオムオムという人物である可能性が高く、主人公は王宮にいるその人物から『グルーチウム』を返して貰ってきて欲しいと頼まれる。 結果的に『グルーチウム』を取り戻したものの、返しに行ったつもりが逆にプレゼントされ、そのままココヤッツに『神の宝石』を作ってもらうことにした。 始点:ガトーヴィレッジ:ココヤッツ(座標:188,154) 報酬:なし クエスト内容 ココヤッツと会話した後、コルネの家の張り紙を調べ、ラスクドルフ鉱山(座標:377,347)に向かう。 イーストキンと話し、言葉を言い直すかどうかの選択をする。「はい」→「バカヤロー!」と言われてグルーチウムはもらえない。 「いいえ」→イーストキンに気に入られるが、グルーチウムはもらえない。 グロッギー(座標:422,339)と会話し、王宮にいるモモ(座標:496,103)に話しかける。 モモのペットらしきミーミットを追って王宮南西の山道入り口(座標:405,229)に向かう。 さらにミーミットを追ってラスクドルフ鉱山の西(座標:351,316)へ向かい、ミーミットと戦うかどうかの選択をする。 「はい」→セリカ(Lv80)と戦闘。 「いいえ」→無用な戦いはやめておく。 さらにミーミットを追いかけてアナナス平原(座標:141,308)に向かい、コリアンダーと会話する。 ザラメブルグ入り口(座標:230,366)へ向かい、ラングに『グルーチウム』を渡すかどうかの選択をする。「はい」→そのままラングに『グルーチウム』を渡す。 「いいえ」→いいえを5回選ぶとドルチェが助けに来てくれ、1,500ドルチェがもらえる。 トリュフから『グルーチウムの鉱石』をもらい、グロッギーに渡しに行く。 グロッギーから『グルーチウムの鉱石』を返され、そのままそれをココヤッツに渡して終了。 希望のエネルギー + ... お礼として『グルーチウムの鉱石』をグロッギーから譲ってもらい、ようやく呪いを解くエレメカを実働することができたものの、 ココヤッツの努力も虚しく、術法は主人公の記憶には全く効き目がないようであった…。 コルネに相談すると、もう一度精霊に会ってみてはと言われ、彼から『精霊のブローチ』を授かり、タルトランド遺跡の奥にあるキッシュ遺跡へ向かうことになる。 そして主人公はキッシュ遺跡の奥で、以前マホダマの契約をした精霊を含む4人の精霊に出くわした。 精霊たちは主人公の記憶喪失は呪いではなく『夢の檻』なのではないかと言い、ひょっとしたら強い力を持った大使徒なのでは…などと噂する。 更に彼らはこの地上の『星脈』が乱れていることを危惧し、大使徒にこのことを伝えて欲しいと主人公に言い残した。 始点:ガトーヴィレッジ:ココヤッツ(座標:188,154) 報酬:なし クエスト内容 ココナッツと会話した後、コルネから『精霊のブローチ』をもらう。 キッシュ遺跡(座標:338,518)へ向かい、謎の声を聞きながらどんどん先に進んでいく。 キッシュ遺跡にある祭壇(座標:323,539)で精霊たちから話を聞き、コルネに報告して終了。 大臣の陰謀 + ... 精霊から聞いた話をコルネに報告すると、コルネは使徒についての歴史を語ってくれた。 そして大使徒について一番詳しいと思われる国王陛下を訪ねることにするが、港でドルチェに会うと、悪人退治に付き合わされることになる。 あっさり大臣が陰謀を企てているという証拠と現場を取り押さえた2人は、大臣の臣下をお縄に入れることに成功した。 そしてグルーチウムが急激に掘り出されたことが星脈の乱れの原因であると話し、ラスクドルフ鉱山の坑道閉鎖を決行する。 始点:ザラメブルグ港:ドルチェ(座標:266,415) 報酬:なし クエスト内容 ドルチェと会話し、ザラメブルグ南側の出口(座標:225,466)でデストラとシニストラの会話を聞く。 南サブリーナ平原の海岸(座標:107,424)で王国兵士(Lv34)×1と王国兵士(Lv35)×2と戦闘。 拾った『大臣のブローチ』をドルチェに渡し、メレンゲを逮捕して終了。 隠された遺跡 + ... 明日の生活を抱えた炭鉱夫たちの親方は閉山に猛反対するも、『星脈』の乱れで地盤のもろくなった鉱山に地震が襲いかかる。 その地震で主人公は足を滑らせ穴から鉱山の地下に落下してしまうが、地震を発生させたと思われるケモノが奥に逃げていくのを発見する。 ケモノを追いかけて奥に進むと、そこにはリーゼタール遺跡という巨大な古代遺跡都市が眠っていた…。 遺跡の奥で偶然にも古文書を発見した主人公は、記憶の手がかりになるかもしれないと思い、解読の方法を探し始める。 始点:ラスクドルフ鉱山(座標:377,347) 報酬:熟練値240 クエスト内容 チュロスと会話した後、グロッギーに話しかける。 イーストキンからグロッギーを止めに行けと言われ、ラスクドルフ鉱山入り口に向かう。 ラスクドルフ鉱山地下(座標:410,341)でケモノを退治するためにリーゼタール遺跡に向かう。遺跡を反時計回りに降りる途中に3箇所Uの字のような装置があるので攻撃する。→3箇所装置を起動させると遺跡入り口の部屋の床の模様が光りだす。(崖から落ちると移動が楽) ※ログアウトで装置リセット→真ん中の模様から次の部屋へ。(三角形の角の模様は何かの小部屋へ)→床に張り付く四角形の装置を、1つめを踏んだ時点から1分以内に4つ踏むと、端の丸い装置が光りだす。 ※中央の丸い装置は帰り道。 遺跡の最深部でモゲッチ(Lv37)と戦闘。コリアンダーが教えてくれた宝箱から『ぼろぼろの古文書』を手に入れる。 リーゼタール遺跡、ラスクドルフ鉱山地下から脱出し、熟練値240を手に入れて終了。 第4章 ウォールナッツ王国編最終章 [部分編集] 秘法流出 + ... ガラクッタの助手・マカロンの助言により、主人公は古文書解読のため王宮にいるスノッブ博士を訪ねる。 解読する代わりに頼み事を受け、彼の孫の兵士ヌガーに協力して大臣の国外逃亡を阻止しようとするも、結局囮だったのか大臣の行方は掴めなかった。 サクットの返事を伝えるために王宮に戻ると、ドルチェが『ナクパタル』と『夢の檻』の関係について語ってくれる。 解読を終えたスノッブのもとに戻ると、預けた古文書の一部『ナクパタルの法』について書かれたページが破り取られ盗まれたことが発覚した。 ガラクッタとマカロンは容疑者として捕まるものの、ガラクッタはその法はボディが欲していたものであり彼が犯人だと主張する。 そんな中、血相を変えて走ってきた兵士から「王国のエレメカのグルーチウムが全て石になってしまった」という報告を受けて…。 始点:王宮:スノッブ(座標:485,89) 報酬:なし クエスト内容 スノッブに話しかけ、預かった『博士の手紙』を持って南マーブル平原の海岸(座標:408,544)に向かう。 兵士から聞いた情報を元にマロンブリッジ(座標:317,328)へ向かい、トラヒゲ商会下っぱ(Lv42)×5と戦闘。 ロボを逮捕したサクットに『博士の手紙』を渡し、スノッブに返事を伝えに行く。 王宮の入り口(座標:485,176)でボディと会話し、スノッブにサクットの返事を伝えて終了。 よみがえる秘法 + ... 国の暮らしを支えるエレメカが動かなくなり、ガトーヴィレッジも騒然としていた。 そこへ精霊たちが現れ、『星脈』がかなり危険な状態にあると告げる。 主人公は彼らの導きで、精霊の存在をかき消してしまうかもしれないほどの強い力の流れがある方角へと向かう。 その先に居たのは、『ナクパタルの法』を用いて強大なエネルギーを発生させ、謀反を企てようとしていた大臣と、それに貢献したボディであった。 しかし、ついに本性を表したボディに大臣もまた裏切られ…。 始点:ガトーヴィレッジ:ココヤッツ(座標:188,154) 報酬:なし クエスト内容 ココヤッツと会話した後、精霊たちの導きに従って北サブリーナ平原(座標:224,331)に向かう。 さらに精霊たちの後をついていき、北マーブル平原(座標:394,287)に向かう。 さらに精霊たちの後を追って北マーブル平原(座標:517,391)へ向かい、精霊たちと別れる。 一人のまま南マーブル平原(座標:524,436)へ向かい、カカオ(Lv43)とエッセンス(Lv43)と戦闘。 カカオとエッセンスに退いてもらい、南マーブル平原(座標:523,502)でマカダミアン(Lv48)と王国兵(Lv45)×?と戦闘。※王国兵は無限湧きなのでマカダミアン単体を狙う。 エレメカの側に落ちていた『古文書の断章』を拾い、それをスノッブに届けて終了。 ボディの真実 + ... ガラクッタに命じられ、主人公はボディを探してラスクドルフ鉱山に向かう。 そこで出会ったボディは『ナクパタルの法を』用いて『巨人の化身』を復活させることが目的というが、最終的な望みがどこにあるのかは未だ計り知れない。 一方、王宮から抜け出してきたガラクッタは、主人公が遺跡で発見してきた古文書もとい『魔法学全書』に関する過去の事件について話す。 そこに書かれている『ナクパタルの法』がいかに危険なものであるかを説き、ボディをなんとしてでも見つけ出して捕らえようとする。 何とかボディを発見した主人公一行だったが、彼は自分がレッド・コニャックの息子だと明かし、既に遅いと不吉なことを言って逃げてしまった。 王宮の様子を見に行くと、そこには『巨人の化身』が復活していて…。 始点:王宮:スノッブ(座標:485,89) 報酬:なし クエスト内容 スノッブと会話した後、ボディを探してラスクドルフ鉱山入り口(座標:346,345)に向かう。 逃げたボディを追ってマロンブリッジ(座標:276,329)へ向かい、逃げ出してきたガラクッタから話を聞く。 フランボワーズやシャルロットたちと共にアナナス平原崖際(座標:59,239)へ向かい、デュークロ(Lv50)×4と戦闘。 王宮(座標:485,126)へ向かい、ドルチェと会話して終了。 巨人の出現 + ... 王宮に現れた『巨人の化身』を止めに行く主人公。 ドルチェと共に何とか『巨人の化身』を倒すことに成功するが、そこに大臣マカダミアンが現れる。 マカダミアンが『巨人の化身』に攻撃すると凄まじい衝撃がウォールナッツ王国中を襲った。 目を覚ました主人公が辺りを見ると、全く知らない海岸に辿り着いていて…。 始点:王宮(座標:485,121) 報酬:なし クエスト内容 コリアンダーと会話した後、王宮(座標:485,100)でアダマシーン(Lv52)×2とイブマシーン(Lv52)×2と戦闘。 『巨人の化身』の爆発の後、今度は記憶を持ったままどこかの砂浜で目を覚ます。 ココアと会話した後、ワールド移動メニューの『ミルフィーナ』が解禁されて終了。 第5章 ここからメインクエストの舞台はミルフィーナとなる。 ミルフィーナは立体的で迷いやすい地形をしているので、「ミルフィーナ」←こちらのページの地図も参照に。 [部分編集] 働かざる者住むべからず + ... 今度は記憶を持ったままグルトの入り江に漂着した主人公が目を覚ますと、近くにミーミットのハニトーちゃんと、ココアという少女がいた。 ココアのアドバイスを聞いた主人公は、彼女の住む村ミルフィーナに案内される。 そこで村長のパンナコッタから村への出入りを認められた主人公は、これからどうするかを考えることになった。 最後にココアから『二段ジャンプ』のやり方を教えてもらい、これ以降『二段ジャンプ』が使えるようになる。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『干し肉』×1個(用途はない) クエスト内容 パンナコッタに話しかけ、ミルフィーナに住ませてもらうために、自分の分の食料を集めに行く。 ブリオッシュ広野(座標:400,430)付近にいるマダラゲッチョ(Lv58)を倒し、『マダラゲッチョの肉』を手に入れる。※これ以外の場所にもマダラゲッチョは出現するし、別レベルのマダラゲッチョを倒しても『マダラゲッチョの肉』は手に入る。※討伐するケモノは大型のイノシシ型ケモノ『マダラゲッチョ』であり、小型のイノシシ型ケモノ『アシゲッチョ』ではない。 手に入れた『マダラゲッチョの肉』を持ち帰ろうとすると、村の桟橋(座標:378,459)でルー・ビーに『マダラゲッチョの肉』を奪われる。 もう一度『マダラゲッチョの肉』を取りに行き、またルー・ビーに『マダラゲッチョの肉』を奪われる。 ラードのアドバイスに従い、近くにある木(座標:415,440)から『かおりのする木』を手に入れる。 『かおりのする木』を持ってラード(座標:384,457)に話しかけ、『ムシコナーイ』を作ってもらい、ルー・ビーを撃退する。 パンナコッタに『マダラゲッチョの肉』を渡し、パンナコッタの話が分かったかどうかの選択をする。「はい」→村への出入りを許され、『干し肉』をもらう。 「いいえ」→パンナコッタに精魂注入され、選択をやり直す。 ココアに聞かれた『二段ジャンプ』のやり方を知っているかどうかの選択をする。「はい」→知ってるふりするなと言われる。 「いいえ」→褒められる。 ココアから『二段ジャンプ』のチュートリアルを受け、『二段ジャンプ』を習得して終了。 火を乞う人 + ... 村長が主人公に夕飯を作ってくれるらしいが、調理のための火がないらしい。 そこで焔台に火を取りに行ったところ、村の生活に必要である大切な燭台の火がモンスターの捨て身の攻撃により消されてしまった。 主人公は火を取り戻すために『紅蓮の火水晶』というアイテムを探してくるよう命じられる。 一方村長達は、村へモンスターをけしかけたのは、かつてこの村を追われたミシェルという少年のイタズラではないかと疑い始めていた…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:800ドルチェ クエスト内容 ミルフィーナの焔台(座標:384,514)へ向かい、ルー・ビー(Lv60)×4と戦闘。 マシュマルディ湿原(座標:424,487)へ向かい、チャトリュフ(Lv62)×2と戦闘。 マシュマルディ湿原(座標:457,489)で『紅蓮の火水晶』を手に入れる。 マシュマルディ湿原入り口(座標:433,451)でミシェルと会話した後、パンナコッタに『紅蓮の火水晶』を渡す。 パンナコッタから報酬をもらって終了。 孤独な少年 + ... 主人公は村長からミシェルが村から追放された経緯について聞き、彼を罰するという役目を与えられる。 遺跡の奥で出会ったミシェルは、湿原でも遺跡でも主人公へケモノをけしかけたのは自分だと白状する。 しかし、村を襲わせたり狩りの邪魔をさせたりした事に関しては否定した。 追い出された憎しみよりも、孤独の寂しさを感じさせる言動を残して彼は去っていく。 ミシェルの話が本当であれば、村へケモノをけしかけている犯人は別にいるという事になるが…。 また、遺跡の道中でガラクッタ博士とマカロンのコンビや、精霊のノームに再会。 かつて暮らしていた王国とは全く別の土地に来てしまったにも関わらず、皆相変わらずマイペースのようである。 村へ戻り村長へミシェルの事を報告すると、村長は自身の過去を語り、ミシェルがかつての自分のようだと話す。 本当は村へ戻してやりたいものの、反発の声も多く難しいと頭を抱える。 ミシェルが危険区域である『大地の塔』へ向かった事を知った村長は、心配だがら見てきて欲しいと主人公にお願いした。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:800ドルチェ クエスト内容 ミルフィーナから北東にある球根前の橋(座標:446,401)へ向かい、ココアから球根の使い方を教わる。 キャラメリオ遺跡入り口(座標:478,437)でマカロンから報酬の800ドルチェを先払いされる。 ガラクッタの頼みを受け、キャラメリオ遺跡入り口(座標:499,451)でチャトリュフ(Lv62)×2と戦闘。 キャラメリオ遺跡第三階層(座標:577,475)でウルル(Lv64)と戦闘。 キャラメリオ遺跡最深部(座標:581,549)でドロロイド(Lv65)と戦闘。 ノームと会話した後、パンナコッタに報告して終了。 塔に住む秘密 + ... 『大地の塔』に入っていったミシェルを追いかけて最深部へ行くと、何やら封印されていた『バケモノ』が解き放たれた様子…。 急いで村へ帰ると、大量のルー・ビーを従えた大型のケモノ、グルー・ビーが復讐のため村を襲いに来ている所だった。 しかし、ミシェルの召喚とノームの魔法でグルー・ビーを一時的に撃退。 一連の襲撃騒動はグルー・ビーの仕業であったことが明らかとなり、村の者たちのミシェルに対する誤解も解けた。 そして主人公はグルー・ビーに立ち向かうべく、ブリオッシュ広野へ向かう。 始点:大地の塔入り口(座標:666,303) 報酬:『蘇生の種』×3個 クエスト内容 マカロンから報酬の『蘇生の種』×3個を先払いされ、大地の塔最深部に向かう。ミッション:中は螺旋階段状になっており、制限時間内に全てのスイッチを攻撃して起動しないと先に進めない。スイッチの数は3つ。全て階段の途中にあり、「真ん中→上部→飛び降りて下部」の順に押す必要がある。制限時間は最初のスイッチを押してから45秒以内。クリアすると最下部中央の床に穴が開き、先へ進めるようになる。穴の先の更に最下部に、奥の部屋へ続く入り口がある。 大地の塔最深部でルー・ビー(Lv82)×4と戦闘。 ブリオッシュ広野(座標:384,453)でココアと会話し、さらにブリオッシュ広野(座標:386,450)でグルー・ビー(Lv80)と戦闘。 グルー・ビー(Lv80)を倒して終了。 第6章 [部分編集] 大人の領分 + ... 村の住人であるジャムが『忘れたことを思い出す薬』を作ることができることをパンナコッタから聞いた主人公は、 ジャムにその薬を作ってもらうべく、材料探しに赴くことになる。 その途中で一度、チャツネという女性に邪魔をされ、話を聞くと、彼女も以前はミルフィーナの村に住んでいたらしい…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:8,000ドルチェ クエスト内容 ジャム(座標:368,515)に話しかけ、コマンドラコを倒して『浅葱龍の凶刃』×8個を手に入れる。※コマンドラコはマシュマルディ湿原の木の橋を通過し、桟橋や原野を道なりに進んでいった先に生息している。 マシュマルディ湿原入り口(座標:432,447)でチャツネに『浅葱龍の凶刃』×8個を奪われる。 マシュマルディ湿原(座標:446,478)『純白の無垢卵』を手に入れ、スカーレッコダイン(Lv80)×3と戦闘。 『純白の無垢卵』をチャツネ(座標:446,629)に渡し、『浅葱龍の凶刃』×8個を返してもらい、お礼として8,000ドルチェももらう。 ジャムに『浅葱龍の凶刃』×8個を渡して終了。 戦いの記憶 + ... 引き続きジャムの協力のもと、『忘れたことを思い出す薬』の材料集めに励む主人公。 その過程でスフレという女性から、かつて村で起きた『第三次ブリオッシュ抗争』という、 『美瑠妃哭』と『魅留腐威那』という2組の不良グループが争った時の話を聞かされる。 その後、手に入れた『やさしい脂油』をジャムに渡そうとするとチャツネが現れ、薬のレシピが奪われてしまう。 始点:ミルフィーナ:ジャム(座標:368,515) 報酬:なし クエスト内容 薬に必要な『やさしい脂油』を手に入れるため、ラードに入手方法を聞く。 アシゲッチョから『葦毛猪の金剛脂』×10個を手に入れ、スフレ(座標:407,502)に『やさしい脂油』を作ってもらう。 スフレの昔話を聞いた後、ジャムに『やさしい脂油』を渡して終了。 泡立つ想い + ... 主人公が次の材料を集めていると、上の崖からチャツネが降ってくる。 話を聞くと、どうやらジャムとチャツネは『第三次ブリオッシュ抗争』で争った不良グループの女リーダー同士であり、 かつてのジャムは常にご機嫌斜めな不良で『森の女豹』などと呼ばれていたらしい。 しかし今のジャムは不良時代の後悔から謝り癖が付き、見ての通りすっかり丸くなってしまっている。 この事に興ざめしたチャツネは奪ったレシピをジャムへ返し、またどこかへ去って行ってしまった。 始点:ミルフィーナ:ジャム(座標:368,515) 報酬:なし クエスト内容 クサハーミンから『草喰蟹の殻』×20個を手に入れ、マシュマルディ湿原東(座標:490,452)でチャツネの独り言を聞く。 ジャムに『草喰蟹の殻』×20個を渡して終了。 女豹の復活 + ... 最後の材料『巨神龍の喉玉』を入手し村へ戻ると、巨大なケモノが子供に襲いかかろうとしていた。 チャツネが割り込むも、苦戦。しかし見かねたジャムが普段からは想像もつかない本気を出して応戦し、 最後にはチャツネが惚れ込むほどの猛烈な拳の技『ファイナルウルトラフィニッシュスーパーエンディングラストアタック』を見せ、圧勝で退けてしまう。 そして母の病気を治すために『巨神龍の喉玉』を探しているというその男の子の境遇に自分を重ねたジャムは、 彼にアイテムを譲っていいかどうか主人公に持ちかける。 ジャムの言動を見たチャツネは「安心して村を任せられる」と言い、満足気に去って行くのであった。 始点:ミルフィーナ:ジャム(座標:368,515) 報酬:12,000ドルチェ クエスト内容 キャラメリオ遺跡第三階層(座標:582,475)でコマンドラコ(Lv80)×10と戦闘。 続けてマハーラードラコ(Lv86)と戦闘。『巨神龍の喉玉』を手に入れ、マカロンから報酬をもらう。 ジャムに話しかけ、男の子に『巨神龍の喉玉』を譲るかどうかの選択をする。「はい」→普通に男の子に『巨神龍の喉玉』を渡して終了。 「いいえ」→いいえを5回選ぶと、チャツネが勝手に『巨神龍の喉玉』を男の子に渡して終了。 犬も喰わない + ... 『巨神龍の喉玉」を譲った男の子が「お母さんの病気が治った」とお礼を言いに来る。 しかしそこで男の子の母であるクロワッサンと父のコフィが痴話喧嘩を始めてしまった。 男の子は二人の思い出の花である『睡恋の花』で仲直りさせられないかと、主人公とジャムに相談する。 主人公は『睡恋の花』を手に入れ、これで仲直りをするようコフィに渡す。 遠巻きに仲直りが無事成功するのを見届けていた主人公たちだったが、突然上から兵士が落ちてきて…。 始点:ミルフィーナ(座標:369,509) 報酬:熟練値12,000 クエスト内容 クロワッサンとコフィの喧嘩を見た後、ミルフィーナ西の広野(座標:298,503)で『睡恋の花』を手に入れる。 コフィ(座標:364,510)に『睡恋の花』を渡し、報酬をもらって終了。 堕ち来るモノ + ... 気絶している兵士にきつけ薬を与え話を聞くと、彼はアーモンド帝国の巡察兵との事で、ある人物を追っているらしい。 その人物に『ナクパタルの秘法』を渡さないためと言っているが…。 聞き覚えのある不穏な言葉に、主人公はパンナコッタと話をすることになる。 始点:ミルフィーナ:ジャム(座標:368,515) 報酬:『チュラ』×8個、『メディスタラ』×5個 クエスト内容 キョバナから『巨生花の辛酸液』×10個を集め、ミルフィーナ入り口(座標:366,483)に向かう。 謎の人物の気配を感じた後、『巨生花の辛酸液』×10個をジャムに渡し、報酬をもらって終了。 あまい生活 + ... 『ナクパタルの法』の悪用を狙う者から村を守るため、再度『涅槃晶ワナスヴァン』を取り戻しに『大地の塔』へ行く主人公。 無事に取り戻してパンナコッタへ届けると、そこにガラクッタとマカロンが現れる。 パンナコッタは、6つの宝玉をある所へ持ち寄れば『ナクパタルの法』を再現できると言うが、 それは主人公たちの知っている『ナクパタルの法』のやり方とは別物だった。 とにもかくにも、ガラクッタは宝玉を狙っている者がボディだと考えているようだが…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『ルビー』×1個、20,000ドルチェ クエスト内容 『涅槃晶ワナスヴァン』を回収しに大地の塔最深部に向かう。 ネィ・ビーから『蒼海蜂の甘蜜』×5個を集め、ノームに渡して『涅槃晶ワナスヴァン』を返してもらう。 大地の塔入り口(座標:668,286)で謎の人物の視線を感じた後、パンナコッタに『涅槃晶ワナスヴァン』を渡し、報酬をもらって終了。 黒い鎧の男 + ... 村長の家に隠しておいたはずの『涅槃晶ワナスヴァン』が何者かに持ち去られた。 なんとその犯人は村人のコフィ。彼は大地をひとつにすることに熱であり、石の力でなんとかできないかと思ったらしい。 コフィは涅槃晶を『黒い鎧の男』に渡したと供述しており、主人公は彼の居るグルトの入り江に向かう。 入り江で『黒い鎧の男』と対峙した主人公。戦闘で力を見せると、彼は「我が主にならないか」と持ちかける。 突然の事に困惑する主人公だったが、そこへパセリが登場し、彼女の力で男は退けられるのであった。 主人公には結局鎧の男もパセリも素性や目的がよく分からないままであったが、無事に涅槃晶を奪還し村に届ける。 村の宝を盗んだコフィは永久追放を言い渡されるが、妻や子供がついていくと言ったため、村人が激しく反対。 結局コフィは村長の考えた永久追放よりもツライ『採れたての湿原ナマズで1万回シリ叩き』の刑を受けることでまとまり、一件落着するのであった。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『エメラルド』×1個、20,000ドルチェ クエスト内容 コフィに話しかけ、黒い鎧の男に会いに行く グルトの入り江(座標:262,472)でディアノコツ(Lv78)×2と戦闘。 黒い鎧の男の頼みを聞くかどうかの選択をする。「はい」→黒い鎧の男の名を聞けそうなところで、パセリがその邪魔をする。 「いいえ」→黒い鎧の男と戦闘になりそうなところで、パセリがその邪魔をする。 『涅槃晶ワナスヴァン』を取り返し、ミルフィーナ(座標:374,513)に向かう。 コフィの処遇を見届けた後、パンナコッタに『涅槃晶ワナスヴァン』を渡し、報酬をもらって終了。 マジョを名乗る少女 + ... 最近村が不穏な空気に包まれていると感じ取ったパンナコッタは、村の防衛の強化をはかることに決める。 主人公は村長に頼まれた素材を集めに森へ行くと、『マジョ』と名乗る少女から襲撃を受けた。 向こうは主人公のことを知っているみたいだが、一体何者なのかは分からない。 そのまま村へ戻ると、先日の兵士に引き続き、またケガ人が運ばれてきたようだ。 村長の言う通り、何か不穏な事が始まろうとしているのかもしれない…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『サファイア』×1個、25,000ドルチェ クエスト内容 ブリオッシュ広野中央部で『みえっぱりの蔓』×5個を手に入れる。5つのポイント(座標:471,336)、(座標:471,354)、(座標:463,360)、(座標:437,364)、(座標:432,342)を調べる。 1個目の『みえっぱりの蔓』を手に入れたところでマジョと出会い、マジョ(Lv1)と戦闘。 集めてきた『みえっぱりの蔓』×5個をパンナコッタに渡し、報酬をもらって終了。 新たな住民 + ... 先日運ばれたというケガ人に会うと、なんとそれはマジョ(マルジョレーヌ・ジョコンド)であった。 しかし彼女は主人公に「はじめまして」と言い、村長の命令に素直に従うなど、前日の雰囲気とは明らかに異なっている。 更にマジョは村長に言われた以上の大量の宝を村へ持って帰り、村人の心を掴んでいく。 そんな中、ココアだけは彼女に対し「何かイヤなものを感じる」と信用の気を出さず、主人公を励ました。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『オパール』×1個、25,000ドルチェ クエスト内容 『うまそうに見える肉』×15個を集め、ミルフィーナ入り口(座標:390,446)に向かう。 パンナコッタに『うまそうに見える肉』×15個を渡し、ココアから報酬をもらって終了。 次期村長の座を賭けて + ... パンナコッタはマジョの才能を認め、彼女を時期村長として養育しようとするが、 猛反対のココアが主人公を次期村長に推薦し始めた。 村長から試練としてマンモスドラコケの退治を言い渡されたマジョと主人公の2人はブリオッシュ広野に向かう。 2人きりになるとマジョは主人公にケモノをけしかけ、ついに先日の襲撃時のような本性を現した。 しかしその一部始終をココアやラードたち村人に見られた彼女は、村人たちを焼き払おうとした後、姿をくらます。 間一髪、主人公の中に眠る力で村人たちは助かるが、その力の正体は主人公自身にも分からなかった。 村に戻ってマジョの背信行為を村長に報告するが、彼女をすっかり信用しきった村長はマジョの帰りを待つと言って聞かず…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 パンナコッタの養子になるかどうかの選択をする。「はい」→村長候補になるための試練を受ける。 「いいえ」→いいえを5回選ぶと、ココアに『ウサギダンス』を見せられ、村長候補にさせられる。 ブリオッシュ広野北部(座標:438,208)でマンモスドラゴケ(Lv85)と戦闘。 続けてジャリラルヴァ(Lv75)×?と戦闘(1分間の耐久) パンナコッタに報告して終了。 盲従使いの姫君 + ... マジョを盲信する村長の様子に異常を感じたジャムたちは、村長を落ち着かせる薬を作って飲ませることにする。 しかし、実際はマジョが村長にかけた『盲従使いの姫君』という魔法がパンナコッタの心をトリコにしていたらしい。 ノームとミシェルの影の功労とココアの治療(物理)により村長は正気を取り戻すが、その一部始終を彼女は見ていて…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『ダイヤモンド』×1個、25,000ドルチェ クエスト内容 ベイ・ビーから『鉄紅のしずく』×10個を集め、ジャムに渡す。 パンナコッタに薬を飲ませた後、ジャムから報酬をもらって終了。 今日寝るところに住むところ + ... コフィの協力も得てジャムに『忘れたことを思い出す薬』を作ってもらった主人公だったが、飲んでも効果は見られない。 そのうちに、主人公は「もう村の一員として暮らしたらどうか」と村人から引っ張りだこにされ、 結局バームクーヘンの村守の仕事を手伝うことになる。 主人公がバームクーヘンの昔話を聞いている一方その頃、マジョはノームとミシェルに接触し…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値15,000 クエスト内容 ジャムに話しかけ、もらった『忘れたことを思い出す薬』を飲む。 バームクーヘン(座標:304,530)に話しかけ、クサハーミン(Lv76)×20と戦闘。 再度話しかけて、マダラゲッチョ(Lv77)×10と戦闘。 再度話しかけて、マンドラゴケ(Lv80)×5と戦闘。 再度話しかけて、ドロロイド(Lv70)×2と戦闘。 バームクーヘンに話しかけ、報酬をもらって終了。 正しき資質 + ... バームクーヘンの話に付き合っていると、彼は主人公の隠された才能を見抜いて別の仕事を勧めてきた。 そこでパンナコッタに話を聞いたところ、どうやらこの村以外の場所にも住んでいる人がいるらしく、 その人物がどうやってこの地に辿り着いたのか訊き出してこいと、主人公に調査を依頼する。 フローラルサーカスに行くと、パネットーネというお婆さんは多くを語らず、『獅子花の種』を渡してきた。 主人公の能力を信頼したパンナコッタは、次期村長候補の座を真面目に考えて欲しいと頼んでくるが…。 始点:ミルフィーナ:バームクーヘン(座標:304,530) 報酬:熟練値18,000 クエスト内容 バームクーヘンから『バームクーヘンの手紙』を預かり、それをパンナコッタに渡す。 フローラルサーカスへ向かい、パネットーネ(座標:745,321)に話しかける。 リスキから『はつらつとした若苗』×10個を集め、フローラルサーカス入り口(座標:710,315)に向かう。 パネットーネに『はつらつとした若苗』×10個を渡し、代わりに『獅子花の種』をもらう。 パンナコッタに『獅子花の種』を渡し、報酬をもらって終了。 ケット党員222号「フローラルサーカス」解放 少年のおねがい + ... パンナコッタとの会話中、ミシェルがマジョに封印されたノームを助けてほしいと頼んできた。 ノームを助けるためには『ねがいの翼』というアイテムが必要らしく、それも今は手元にないらしい。 『ねがいの翼』を取り返すためにキャラメリオ遺跡へ向かうと、そこにいたのはガトーヴィレッジにいたチョコラだった。 チョコラは現在パネットーネのお世話になっているらしく、この現状を楽しんでいるらしいが…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 キャラメリオ遺跡最深部(座標:600,564)でコマンドラコ(Lv80)×10と戦闘。 チョコラから『ねがいの翼』をもらい、そのままミシェルに渡す。 パンナコッタに報告して終了。 マジョの虜 + ... パンナコッタとの会話中、またもミシェルが助けを求めにやってくる。 『ねがいの翼』は主人公でないと使えないらしく、力を溜めてかかげると、無事にノームを解放することができた。 復活したノームは「マジョに一万倍返しするのは今でしょ!」と叫んで、そのままどこかに行ってしまう。 その直後に出会ったマジョは、やはり主人公のことを知っているらしく…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値21,000 クエスト内容 ブリオッシュ広野北西部(座標:349,285)へ向かい、ミシェルから『ねがいの翼』をもらう。 何でもいいからケモノを90体倒し、『ねがいの翼』に力をためて、ブリオッシュ広野北西(座標:349,285)に戻る。 ノームを解放した後、パンナコッタに報告し、報酬をもらって終了。 花火をあげて + ... 帝国兵士の頼みを聞いて、フローラルサーカスへ向かう主人公。 風の強い場所で花火を上げたところ、突然謎の集団に話しかけられ、彼らはそのままどこかに行ってしまう。 戻ってジャムに様子を聞くと、帝国兵士はまだ容体が安定しないらしく、話を聞けるようになるのは当分先になりそうだ。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値30,000 クエスト内容 ジャムに話しかけた後、帝国兵士から『帝国軍の赤い花火』をもらう。 フローラルサーカス(座標:778,378)で花火を上げるかどうかの選択をする。「はい」→『帝国軍の赤い花火』を打ち上げた後、チーサエイプ(Lv86)×5と戦闘。 「いいえ」→今はまだやめておく。 ジャムに報告し、報酬をもらって終了。 我ら精霊騎士団 + ... 突然『真精霊騎士団』と名のる集団がやって来て、帝国兵士を引き渡すように言ってくる。 帝国兵士の敵だとも名のる彼らに対し、村長は帝国兵士を客人として、引き渡すことを拒否した。 その結果、精霊騎士は実力行使に訴え出るが、村民たちは一致団結してこれを撃破。 しかしながら精霊騎士団は撤退してなお、村を取り囲みながら見張っていて…。 始点:ミルフィーナ:ジャム(座標:368,515) 報酬:なし クエスト内容 ジャムに話しかけ、村民無双の戦闘を見守る。 バームクーヘンに話しかけ、グルトの入り江への道(座標:272,522)で精霊騎士(Lv90)×3と戦闘。 バームクーヘンに報告した後、ラードに話しかける。 ミルフィーナ北西の段々畑(座標:353,433)で精霊騎士(Lv90)×4と戦闘。 ラードとバームクーヘンの会話を聞いた後、パンナコッタに報告して終了。 戦うものと戦わぬもの + ... 襲われる前に相手を倒したいパンナコッタと、 帝国兵を捕まえたいだけの精霊騎士団と話し合いで問題を解決したいバームクーヘンの間で、親子喧嘩が勃発する。 お互いの意見をぶつけ合った結果、パンナコッタはバームクーヘンに全てを任せることにし、主人公にも協力を要請した。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ジャリラルヴァから『皇帝虫の冠角』×15個を集め、バームクーヘンに渡して終了。 駆引きはベリーの香り + ... 戦闘を避けたいバームクーヘンと一緒に、主人公は敵陣まで交渉をしに行くことになる。 途中で『カワーメット』を被った謎の女性と出会うが、その笑い声はどこかで聞いたことがあるような…。 バームクーヘンからもらった『交渉者のあかし』をつけて『真精霊騎士団』の本拠地まで行くと、 そこにいたのは先ほどの謎の女性。『真精霊騎士団』の部隊長グリーベンは、ラードに染みついたベリーの香りを懐かしいと言う。 バームクーヘンの作戦によって、帝国兵士は村からひとりでに逃げ出し、問題は無事に解決された。 しかし、パンナコッタはバームクーヘンの煮え切らない態度が気に入らないようで…。 始点:ミルフィーナ:バームクーヘン(座標:304,530) 報酬:なし クエスト内容 ミルフィーナ北のT字路(座標:422,392)でアオドデカンテン(Lv90)と戦闘。 バームクーヘンから『交渉者のあかし』をもらい、『真精霊騎士団』と交渉をする。 バームクーヘンの芝居に付き合って終了。 帰りたい帰れない + ... ガラクッタとマカロンが村に食べ物を買いに来たが、帝国兵と精霊騎士の一件以降、部外者を村に入れる事ができなくなっていた。 そこで主人公は食べ物を持っていなかった2人(ココア曰く、『カメネジ(カタッポメガネジジイ)』と『リメネム(?)』)に、食料を買ってくるよう頼まれる。 しかし、ココアによると今はあげられるものがないらしく、ワガママなカメネジ(ワカメネジ)のために『ふうがわりな肉』が欲しいと頼まれた。 集めた材料からココアが加工してくれた『ふうがわりな食糧』をガラクッタたちに渡すことができたが、彼らの食糧問題の根本的解決はまだまだ遠い。 果たして、ココアの考えたマカロンのあだ名の正式名称は、一体どんなものなのだろうか…。 始点:ミルフィーナ:バームクーヘン(座標:304,530) 報酬:『ほびろん』×1個 クエスト内容 ココアに話しかけた後、べビバグから『ふうがわりな肉』×13個を集める。※『ふうがわりな肉』はおたすけぼーど№162「おそろしやきにく」で5個必要になる。※場合によっては一旦倉庫に預けるなどして、少し多めに集めた方がいいかもしれない。 『ふうがわりな肉』×13個をココアに渡し、代わりに『ふうがわりな食糧』をもらう。 グルトの入り江(座標:260,475)で待っているガラクッタたちに『ふうがわりな食糧』を渡し、マカロンから報酬をもらって終了。 天の怒り、地の叫び + ... その日の食べ物にも困っているガラクッタとマカロンから、村で生活できるようにパンナコッタへの口添えを頼まれる。 そこでパンナコッタに相談してみたところ、彼はどうにもガラクッタのことが気に入らないらしい。 しかしそんな中、突如として大きな地震が発生した。 幸い、村に大きな被害はなかったが、主人公は村長に頼まれ観測所のバクラヴァの様子を見に行かされる。 バクラヴァによると望遠鏡の『眺天丸』が妙な場所にいる人を発見したらしい。 村長の案内でミルフィーナ南の小島へ向かったところ、そこには過去にアナナス海岸で出会ったドーナツがいた。 ドーナツは自分が死んだと考えているらしく、この死後の世界(未来の世界)を楽しむ気でいるらしい。 一方、村では地震を契機に『宙神様』の信仰が盛んになっていて…。 始点:グルトの入り江(座標:269,470) 報酬:『ぴーたん』×1個 クエスト内容 マカロンの頼みを受け、パンナコッタと会話をする。 グルトの入り江の崖上にいるバクラヴァ(座標:235,543)に話しかけ、謎の人物のことを聞く。 パンナコッタに報告し、ミルフィーナ南の小島(座標:333,646)でスマートホーン(Lv93)×2と戦闘。 ドーナツのことをパンナコッタに報告し、報酬をもらって終了。 救いの紙片 + ... パンナコッタと会話中に、「ガラクッタ博士が大変なことになった」と、マカロンから助けを求められる。 グルトの入り江に行ってみると、何と先の地震でガラクッタが大岩の下敷きになってしまっていた。 落ちてきたという謎の紙きれには『火薬』を5個集めろと書いてあり、主人公はその指示に従ってチャトリュフを倒しに行く。 さらに紙切れの指示に従っていくと『爆弾』を手に入れることができ、それを使って無事にガラクッタを救出することができた。 ちなみに、紙切れの差出人はボディだったようだが、彼の目的は一体…? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『うこっけい』×1個 クエスト内容 グルトの入り江(座標:275,463)へ向かい、マカロンから指示を受ける。 チャトリュフから『火薬』×5個を集め、グルトの入り江に戻る。※このクエスト中のみのドロップ 『火薬』×5個を砂浜に埋め、そこから『爆弾』を手に入れる。 ガラクッタを救出した後、パンナコッタに報告し、報酬をもらって終了。 ケモノたちのソーラン + ... バクラヴァの報告によると、地震の後でパニックになったケモノたちが大量に村に押し寄せてくるようだ。 村を守る為に、村民達と協力して彼らを撃退することになる。 無事にケモノたちを撃退した主人公の前に、突然ボディが現れた。 どうやらボディは『大地の塔』を調べたいようで、そこはかつて『大地派』の巡礼地だったらしい。 崩壊した後のこの世界で、一体ボディは何がしたいのだろうか…? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ラードに話しかけ、マダラゲッチョ(Lv77)×5、コマンドラコ(Lv92)×5、スカーレッコダイン(Lv93)×4、ギナー・ビー(Lv94)×3、ドロロイド(Lv94)×2、グルー・ビー(Lv95)と戦闘。 パンナコッタに報告して終了。 樹を枯らすもの + ... 地震以降、宙神宗教の説話を村内でよく目にするようになった。 そこで、不安になったパンナコッタから村の中を見て回るように頼まれる。 結果は信じている人も信じていない人もまちまちだったが、とにかく存在自体は皆知っているようだ。 シロップによると、地震の原因はこの世界をつなぎとめている樹が急成長していることによるらしい。 とにかく樹の成長を止めないと、このままでは地面がバラバラになってしまう。そこで主人公は、植物を枯らせるための薬を探すことになった。 行商人のディライトに話を聞いたところ、ボディが植物を枯らす薬を持っているかもしれないと教えられる。 そこで『大地の塔』にいるボディに相談してみたところ、地面が壊れないようにするための『強壮の腐樹液』を作ってくれた。 これで樹の成長が止められるといいのだが…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値33,000 クエスト内容 バームクーヘン→ココア→ジャム→コフィ→スフレ→アプリコット→クロワッサン→ブラウニー→シロップ→パンナコッタの順番に話しかける。 ディライト(座標:429,386)に話しかけ、大地の塔入り口(座標:669,276)に向かう。 キョバナから『巨生花の辛酸液』×20個を集め、ボディに『強壮の腐樹液』を作ってもらう。 パンナコッタに『強壮の腐樹液』を渡し、報酬をもらって終了。 宙神様の儀式 + ... 『強壮の腐樹液』を使っても、樹の成長を止めることはできなかった。 シロップは「人の作ったものでは、巨人の力に対抗できない」と説き、宙神の儀式を行おうとする。 しかし、儀式には『ニエ』が必要であるらしく、主人公はその用意をするように頼まれた。 ディライトに相談したところ、最近マシュマルディ湿原に現れたモリハーミンが良いのではないかとアドバイスされる。 そこでモリハーミンに挑んでみたが、その甲殻は凄まじい硬さをを誇り、倒せそうにはない。 仕方がないので、ラードのアドバイスに従い『草喰蟹の重肥肝』を集めることにした。 集めたいけにえで儀式を始めたところ、そこにモリハーミンが現れる。 パンナコッタは身を挺して村人を守ろうとし、幸いにもモリハーミンは彼らの前で停止した。 村人たちが撤退した後で現れた黄金の羽根、そしてそれが言っていた『白面譜号』とは一体…? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値36,000 クエスト内容 ディライトに話しかけ、マシュマルディ湿原(座標:486,452)でモリハーミン(Lv100)と戦闘(15秒間の耐久) クサハーミンから『草喰蟹の重肥肝』×99個を集め、パンナコッタに話しかける。 シロップ(座標:325,507)に『草喰蟹の重肥肝』×99個を渡し、報酬をもらって終了。 忍び歩く巨体 + ... シロップは相変わらず宙神を信じ続け、パンナコッタも相変わらず宙神を信じない。 それはそうとして主人公はパンナコッタにモリハーミンを倒しに行くよう頼まれるが、 こちらも相変わらず、モリハーミンにはあらゆる攻撃が効かなかった。 そこでノームに相談してみたところ、モリハーミンの強さはケモノたちが倒されることによって進化しているからだと言う。 とりあえずノームの協力の下、モリハーミンの『魔法障壁』を破壊し、その討伐に成功するが…。 始点:ミルフィーナ:シロップ(座標:325,507) 報酬:熟練値39,000 クエスト内容 パンナコッタに話しかけ、宙神とパンナコッタどちらの味方かの選択をする。「宙神の味方」→村のために働くならば、何を信じ祈るかについては不問にされる。 「パンナコッタの味方」→褒められる。 「どちらの味方でもない」→無難な答えを出すなと怒られるが、不問にされる。 マシュマルディ湿原(座標:486,452)へ向かい、モリハーミンとイベント戦闘をする。 大地の塔最深部へ向かい、ノームからのアドバイスを受ける。 ジャリラルヴァから『大地の癒し石』×10個を集め、マシュマルディ湿原に戻ってモリハーミン(Lv100)と戦闘。 パンナコッタに報告し、報酬をもらって終了。 塔に隠されたヒミツ + ... ガラクッタはボディを追うために大地の塔まで行きたいと騒いでいた。 仕方がないので主人公はそのワガママを聞き、おじいちゃんの護衛を頼まれることになる。 大地の塔でボディと出会った主人公たちは、ボディがこの場で父のレッド・コニャックの符牒詩を見つけたことを伝えられる。 どうやら大地の塔には禁忌に触れる何かがあるらしく、ボディはそれを回収しに来たようだ。 大地の塔の前で聞いたボディの話によると、前に作ってくれた『強壮の腐樹液』は樹を枯らすものではなく、逆に樹を育てる肥料だったという。 どうやらこの大地は樹同士の結びつきで繋ぎ留められているのであり、それを枯らしたら本当に大地がバラバラになるそうだ。 地震が増えた原因については、何らかの人間の活動によってその樹々の結びつきが弱まったことによるらしい。 とにもかくにも、ボディの作ってくれた肥料により、明日明後日の地面の崩壊は止められたようだ。 ウォールナッツ王国を滅ぼしたり、はたまたミルフィーナを救ったり…ボディの言う秩序の回復とは一体何なのだろうか? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値42,000 クエスト内容 ジャムに話しかけ、ブリオッシュ広野北西部(座標:373,279)でコマンドラコ(Lv96)×4と戦闘。 ブリオッシュ広野北東部(座標:583,328)でべビバグ(Lv96)×3、ベイ・ビー(Lv97)×3と戦闘。 大地の塔中層でギナー・ビー(Lv98)×4と戦闘。 大地の塔入り口(座標:666,303)へ向かい、ジャムに報告し、報酬をもらって終了。 ミルフィーナの七不思議 + ... 最近物騒な事が増えた為、ココア専用の武器『絶対微笑のニンジン』をパワーアップしてくるように頼まれる主人公。 武器に力を溜めるために各地のパワースポットを巡ることになるが、そこは宙神の聖地と場所が重なっており、たびたびシロップに出会う。 最後の訪れたパワースポットでは、黄金の羽根とコリアンダーが会話しているところを目撃した。 シロップはコリアンダーを宙神だと言うがコリアンダーはこれを否定し、「自分は何もしない」と言って立ち去る。 パセリやコリアンダーなど、白い顔をした彼らには何か秘密がありそうだ。 始点:ミルフィーナ:ジャム(座標:368,515) 報酬:『メディハイパー』×20個、50,000ドルチェ クエスト内容 ココアから『絶対微笑のニンジン』と『パワースポットを書いたメモ』をもらう。 パンナコッタの家の上(座標:386,504)へ向かい、昼間でも見える星を見る。 マシュマルディ湿原(座標:421,495)へ向かい、うざい幽霊に取りつかれる。 キャラメリオ遺跡入り口(座標:499,450)へ向かい、喋りながら浮遊する樽を目撃する。 ブリオッシュ広野中央部(座標:440,361)へ向かい、巨人に出会う。巨人を構成していたべビバグ(Lv105)×2、リスキ(Lv105)×2、アシゲッチョ(Lv106)、クサハーミン(Lv106)、アナーキ(Lv107)×2、チャトリュフ(Lv107)×2、コマンドラコ(Lv108)、レッコダイン(Lv108)と戦闘。 ブリオッシュ広野北部の花畑(座標:448,262)へ向かい、不思議な音(喋るコリアンダー人形の声)を聞く。 ブリオッシュ広野北西部の水場(座標:365,352)へ向かい、ケモノたちの集会を見る。 ブリオッシュ広野北西部の大樹の頂点(座標:365,267)へ向かい、『ゆぅほぉ(黄金の羽根)』を見る。 ココアに報告し、報酬をもらって終了。 魔法を砕く鉄槌 + ... ココアが喋る樽を拾ってきたのだが、何とそれはマジョによって樽に封印されたシルキーだった。 ノームの力を借りてもその封印は解けず、主人公は樽を壊すための手伝いをすることになる。 集めてきた『静かな希少金属』をシャルロッティ一族末裔のグロロの手で『ゴールデンハンマー』に加工してもらい、 それによって無事にシルキーを救出することに成功した。 その様子を精霊騎士の一人が離れた場所から観察していて…。 始点:ミルフィーナ:ココア(座標:349,547) 報酬:なし クエスト内容 チャトリュフから『静かな希少金属』×20個を集め、ココアに話しかける。 ディライトに話しかけた後、ミルフィーナ北西の段々畑(座標:342,431)でシャルロッティ一族の人間と会話する。 『うまそうに見える肉』×5個を集めて段々畑に戻り、グロロに『静かな希少金属』×20個を『ゴールデンハンマー』に加工してもらう。 ココアに話しかけ、樽に向けて『ゴールデンハンマー』を振り降ろすかどうかの選択をする。「はい」→樽を破壊してシルキーを救出し、そのまま終了。 「いいえ」→シルキーに「待て」と言われる。 一騎討ち! + ... パワーアップしたココア専用の武器『絶対微笑のニンジン』の切れ味?を試すことになったが、何故か主人公はそれに付き合わされることになる。 ブリオッシュ広野でアシゲッチョを屠るココアだが、そんな二人の前に精霊騎士が現れ、主人公に決闘を申し込んだ。 結果として主人公はなかなかの強さと認められ、精霊騎士は『雪の罪つくり』に欲しいと謎の言葉を呟いて立ち去った。 果たして『真精霊騎士団』は主人公に何を見出しているのだろうか…? 始点:ミルフィーナ:ココア(座標:349,547) 報酬:なし クエスト内容 ブリオッシュ広野のミルフィーナ入り口前(座標:387,449)で精霊騎士(Lv115)と戦闘。 パンナコッタに報告して終了。 騎士来襲 + ... 精霊騎士がまた攻めてくるかもしれないため、主人公は戦闘の訓練と準備をすることになる。 準備が完了したころ、『真精霊騎士団』が主人公に用があると言ってやってきた。 団長のグリーベンは「ご無沙汰」と村民たちに挨拶し、その正体(ラードの娘であること)を明かす。 彼女の話によると主人公を『真精霊騎士団』の団長に据えたいらしく、「少し考えてみてほしい」と言って立ち去った。 去り際にある精霊騎士が「ミルクハイムの執政官シンメルに相談してみてはどうか」とアドバイスをくれる。 パンナコッタは主人公が団長になることに否定的だが、ココアは「なると決めたなら応援する」と言ってくれていて…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ココアに話しかけ、精霊騎士の幻影が現れた樽を破壊する軍事教練を行う。 モゲラッポの棲む沼へ向かい、(座標:469,334)、(座標:477,317)、(座標:478,294)、(座標:461,285)、(座標:450,285)、(座標:437,285)、(座標:430,298)、(座標:430,312)、(座標:428,326)、(座標:446,334)で『つぶやき草』×10個を集める。 ラードに『つぶやき草』×10個を渡し、草トランポリンを使ってミルフィーナ上空の浮島(座標:366,537)に向かう。 パンナコッタに報告し、『真精霊騎士団』の団長になるかどうかの選択をする。「はい」→パンナコッタに「もう少し考えろ」と言われて終了。 「いいえ」→パンナコッタに「それがいい」と言われて終了。 第7章 [部分編集] 未知の島調査隊 + ... 村の近所に流れ着いた島、フロマージュ島にラードと一緒に探索に行くことになった主人公。 島で見つけた花を持っていこうとしたところ、以前出会ったグロロとその弟のグララに出会う。 グララは「わいらの土地のものはわいらのもの」として譲らず、強硬な姿勢を見せるが、グロロの方は弱腰な態度を見せる。 どうも彼らには親分と呼ばれる存在がいるらしく、その人物がフロマージュを支配しているのだろうか…? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 フロマージュ島入り口(座標:283,676)へ向かい、スマートホーン(Lv110)×2、チーサエイプ(Lv110)×2と戦闘。 『聖賢鹿の螺旋』を手に入れ、フロマージュ島(座標:268,731)へ向かう。 パンナコッタに『聖賢鹿の螺旋』を渡して終了。 花の髪飾り + ... フロマージュ島からミシェルが奪ってきた花を保存加工するため、主人公はココアから材料集めを頼まれる。 材料を集めて無事に花を加工し終えることができたはいいが、単にココアが髪飾りを作りたかっただけなのでは…? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ジャリラルヴァから『大地の癒し石』×5個を集め、ココアに渡す。 ベビバグから『幼皇虫の白糸』×5個を集め、ココアに渡して終了。 唐突の要求 + ... 加工した花飾りをつけたココアをフロマージュ島を連れて行くことになった主人公。 しかしながらグララとグロロに阻まれフロマージュ島には入れず、さらに花を盗んだ落とし前をつけられることになる。 何か宝物をよこせと言う彼らに対し、『黒い石』を渡したところ、それは『アダマント鉱石』という貴重なものだったようだ。 これによって村長の宝物を守ることには成功したが、彼らと友好関係を作ることはできるのだろうか…。 始点:ミルフィーナ:ココア(座標:349,547) 報酬:熟練値45,000 クエスト内容 フロマージュ島入り口(座標:294,657)へ向かい、一旦戻ってココアに話しかける。 パンナコッタに話しかけ、ジャムとラードとバームクーヘンに話を聞けとアドバイスされる。ジャム→マシュマルディ湿原(座標:446,453)で見つかるまん丸な『黒い石』の話を聞く。 ラード→その辺に生えている『なんでもない草』の話を聞く。 バームクーヘン→クサハーミンから採れる『草喰蟹の甲羅』の話を聞く。 ミルフィーナ(座標:371,511)で、集めてきたお宝をグララとグロロに渡す。『黒い石』→『アダマント鉱石』と判定され、手打ちになる。 『草喰蟹の甲羅』→中の下と言われる。 『なんでもない草』→話にならないと怒られる。 『何も渡さない』→話にならないと怒られる。 パンナコッタから報酬をもらって終了。 盗まれたお宝 + ... パンナコッタの大切な宝物が何者かに盗まれたようだ。 主人公は何だか様子のおかしいミシェルを追ってフロマージュ島へ向かったところ、彼はグララとグロロに捕まっていた。 話を聞いたところ、ミシェルはグララとグロロが村長のお宝を盗んだと言い、そのままどこかに連れ去られてしまう。 名探偵ココアと助手のバブルスくんは一度戻ってパンナコッタに相談するが、そこでラードたちが力ずくでお宝を取り返そうと言いだした。 フロマージュ島へ戻ったところ、ラードたちも捕まってしまっていたが、名探偵ココアの策略によりグララとグロロはお宝を盗んだことを自白する。 何でも彼らの親分が『涅槃晶ワナスヴァン』を欲しがっていたようだが、助手のバブルスくんは無事に村のお宝を取り戻すことに成功した。 後で分かったことだが、二人が盗んだのは村長の集めていた『海賊カード』だったようだ。 哀れ村長の宝物はココアの手によって捨てられ(本当は捨てていない)、事件は一件落着を迎えるのだった。 それにしても『涅槃晶ワナスヴァン』を欲しがる人物、グララとグロロの親分とは一体…? 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値48,000 クエスト内容 ココアのお店前にある丸太の場所(座標:335,542)へ向かい、ミシェルと会話する。 フロマージュ島(座標:260,735)へ向かい、一旦戻ってココアに話しかける。 アナーキから『いかがわしい若芽』×3個を集めてフロマージュ島へ戻り、『村長の宝箱』を取り戻す。 パンナコッタに『村長の宝箱』を返し、ココアから報酬をもらって終了。 温かな水の湧き出る場所 + ... パンナコッタの命で、主人公はフロマージュ島にある温泉の調査に行くことになる。 村長の考えとしてはそこを温泉リゾートして利用したいようだが、すんなりいくとは思えない。 何はともあれ温泉に辿り着いた主人公だが、そこを縄張りとするチーサエイプたちがお宝をくれと要求してきた。 パセリのアドバイスでチーサエイプたちから温泉に入る許可を得た主人公は、そのまま温泉に入ってなんだか幸せな気分になる。 彼女によるとペコリーノ温泉の効能は肌荒れ、腹痛、花粉症、便秘、風邪、 その他、おバカサン、金運女運仕事運の悪さ、夢の実現、雨乞い、ダイエットなどにも効き目抜群らしい。 パンナコッタに温泉のことを報告したところ、彼も温泉に興味津々だった。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:『転移の缶詰』×5個、60,000ドルチェ クエスト内容 ペコリーノ温泉(座標:387,838)へ向かい、パセリと会話する。 ペコリーノ温泉の南にある高台上(座標:397,885)、(座標:387,879)、(座標:378,886)、(座標:368,896)、(座標:358,902)、(座標:357,914)、(座標:378,911)、(座標:388,903)で『しょっぱい花種』×8個を手に入れる。 ペコリーノ温泉へ戻り、チーサエイプたちに『しょっぱい花種』×8個を渡し、温泉に入る許可をもらう。 パンナコッタに報告し、報酬をもらって終了。 裸のおつきあい + ... 村の皆で一泊二日の温泉旅行に行くことになった。 先に女性たちが入ることになり、主人公は男性たちの見張りを申し付けられる。 しかし、彼らと一緒に厳しい精神攻撃を耐え忍んでいたところ、なんとグララとグロロが女子風呂を覗いていた。 主人公は男たちの欲求不満を背負って戦い、グララをこてんぱんのボコボコにする。 そこに現れたのは以前コフィをそそのかした黒い鎧の男。 グララとグロロの親分である彼は相変わらず『涅槃晶ワナスヴァン』を狙っているとみて間違いない。 結局温泉旅行は中止になってしまい、フロマージュ島には今後関わらないようにすることが決定した。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ペコリーノ温泉(座標:391,825)でグララ(Lv115)と戦闘。 パンナコッタに話しかけて終了。 少年を救え + ... フロマージュ島で人質に取られたままのミシェルを救いに、主人公はココアとノームと一緒に再度フロマージュ島へ向かうことになる。 途中でラードとバームクーヘン、さらにはジャムとクロワッサンも応援に駆け付け、相手の拠点へ潜入した。 グルファクシはミシェルと引き換えに『涅槃晶ワナスヴァン』を要求するが、そこでグララが彼を裏切りミシェルは無事に救出される。 しかし、グルファクシに逃げられた以上、彼はまた涅槃晶を手に入れるために暗躍を続けそうだ…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ココアに話しかけ、フロマージュ島の岩場から半円形の端を渡った先(座標:229,732)に向かう。 ペコリーノ温泉(座標:389,829)へ向かい、さらにフロマージュ島にある廃塔の東(座標:287,791)に向かう。 フロマージュ島にある廃塔の最上部(座標:251,798)でグルファクシと会話し、ミシェルを救出して終了。 マグマに潜む恐怖 + ... パンナコッタにお説教されたが、とにかくミシェルを救い出すことに成功した。 諸悪の根源であるグルファクシは火の遺跡に逃げたようだが、主人公は臆病者たちに代わって彼を追う役目を任せられる。 遺跡の中ではガラクッタとマカロンが調査をしていたが、何と彼らはグルファクシの手によってマグマの池に突き落とされてしまった。 主人公はマグマの中に飛び込み、ゴーマンドラを倒して二人を無事に救出し、さらにグルファクシを追いかける。 火の遺跡を出たところでグルファクシに追いつくが、そこに帝国の巡察兵が現れて彼を追いかけていってしまった。 何でもグルファクシは帝国の将軍であったが、叛乱を扇動した罪に問われて逃亡中であるらしい。 とりあえずひとまずは安心と言ったところだが、果たして村はこれからどうなっていくのだろうか…? 始点:フロマージュ島:廃塔の最上部(座標:250,806) 報酬:『転移の缶詰』×15個、60,000ドルチェ クエスト内容 火の遺跡へ向かい、ガラクッタ一行と会話する。 火の遺跡(地下三階)へ向かい、ケモノの声を聞く。 火の遺跡(地下五階)へ向かい、火の遺跡最深部でゴーマンドラ(Lv115)と戦闘。 火の遺跡入り口(座標:176,810)へ向かい、マカロンから報酬をもらう。 パンナコッタに報告して終了。 たんぽぽのお酒 + ... パネットーネから貰った種がぜんぜん育たない為、主人公は肥料集めを頼まれた。 肥料を混ぜた土に『獅子花の種』を埋め、それからしばらくパンナコッタと成長を観察するが、 相変わらずパネットーネがこの地までやってきた方法は分からなかった。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 ストロンハーミンから『闇色のホルモン』×5個を集め、パンナコッタに渡して終了。 ハはハンマーのハ + ... 村の何でも屋としてこき使われるようになってしまったグロロとグララ。 彼らが鍛冶屋の仕事をできるように、主人公はフロマージュ島の廃塔に彼らの仕事道具を取りに行くことになるが、 そこはいつの間にか『真精霊騎士団』の砦になってしまっていた。 グリーベンによると鍛冶道具は精霊騎士が持って行ってしまったようだが、後でミルフィーナに届けてくれるらしい。 それはそうとしてグリーベンから預かったバームクーヘン宛ての手紙。彼女はこれを果たし状と言っていたが…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:熟練値51,000 クエスト内容 フロマージュ島の廃塔(座標:239,795)へ向かい、エンドラーコを倒して『精霊騎士章』を手に入れる。 フロマージュ島の廃塔に戻ってグリーベンに『精霊騎士章』を渡し、報酬と『グリーベンの手紙』をもらう。 バームクーヘンに『グリーベンの手紙』を渡して終了。 よろこびの機会 + ... バームクーヘンはグリーベンからの果たし状を受けることに決め、 その間主人公はバームクーヘンの代わりに村守を務めることを頼まれる。 後にやってきたグリーベンの話によると、主人公からダンディラの花の香りがするという。 白い綿毛になったダンディラの花で空を飛べるとの話だが、 もしかするとパネットーネもそうやってこの辺りにやってきたのかもしれない。 ただこの辺りの風は読むのが難しく、狙った通りの場所に行くのはかなり難しいようだが…。 始点:ミルフィーナ:バームクーヘン(座標:304,530) 報酬:なし クエスト内容 準備をしてからバームクーヘンに話しかけ、キョバナ(Lv111)×20、クサハーミン(Lv111)×20と戦闘。 パンナコッタに報告して終了。 何かが空をやってくる + ... パンナコッタが育てていたダンディラの花に白い綿毛が生え始めた。 しかし、安全に飛行するためには風を操る力が必要なため、主人公は風の精霊シルキーに協力を求めることにする。 主人公が遊覧飛行を楽しんでいる一方その頃、マジョとグルファクシが接触していて…。 始点:ミルフィーナ:パンナコッタ(座標:380,508) 報酬:なし クエスト内容 スマートホーンから『気高きひづめ』×8個を集め、大地の塔入り口(座標:667,297)に向かう。 シルキーに『気高きひづめ』×8個を渡し、綿毛で飛行して終了。 虹の彼方へ + ... シルキーの能力と『ねがいの翼』に残った力を使えば、もっと遠くの場所に飛んでいけるらしい。 そこで主人公はミルフィーナからミルクハイムへ旅立とうとしたところ、そこに村人たちがやってくる。 皆から見送られた主人公は、自らの記憶を取り戻すため、新たな場所へと旅立っていった…。 始点:大地の塔入り口前(座標:667,297) 報酬:なし クエスト内容 パネットーネのサブクエスト「ミルクハイムへの道のり」をクリアする。ベイ・ビー×20、ルー・ビー×20、ネィ・ビー×20、ギナー・ビー×20を討伐する。 フローラルサーカス(座標:751,332)へ向かい、ミルクハイムへ行くかどうかの選択をする。「はい」→ミルクハイムに向かう。 「いいえ」→まだ行かない。 ボンボリーノと会話した後、ワールド移動メニューの『ミルクハイム』が解禁されて終了。 第8章 [部分編集] 街のゴミ拾い + ... ミルクハイムに初めてやってきた主人公は、ボンボリーノにこの街のことを教えてもらうことになる。 鉱山の採掘で栄えたこの街は今は衰退しているらしく、その影にはシンメル・グラニーという執政官の姿があるらしい。 それはそうと、着いたばかりの主人公に帝国兵がスパイ容疑をかけてきて、そのまま囚われてしまうことになる。 執政官と知り合いであるボンボリーノが助けてくれたが、公務執行妨害の罪でゴミ拾いの刑に処され、 ミルクハイム中のゴミ拾いをすることになってしまったのだった。 しかしその甲斐あってかブルトンに「怪しいヤツだが悪いヤツではなさそうだ」と認められ、何とかこの街でもやっていけそうだ。 ところで、ボンボリーノやブルトンの言葉にちょくちょく現れる執政官シンメルという人物…。 とある精霊騎士が「記憶を取り戻す方法を彼に相談してみてはどうか」と言っていたが、会える日は来るのだろうか? 始点:ミルクハイム:ボンボリーノ(座標:849,539) 報酬:なし クエスト内容 帝国兵に捕まえられた後、今後どうするかの選択をする。(「無言を貫く」を選ぶまで選択が続く)「無実を主張する」→微妙に怒られる。 「自分がスパイだと言う」→微妙に褒められる。 「自分はこれからどうなるのか」→「執政官の判断に任せられる」と言われる。 「あなたは誰なのか」→ブルトンが自己紹介してくれる。 「さらに無実を主張する」→「命乞いしたって無駄だ」と言われる 「やっぱり無実を主張する」→「主張を二転三転するな」と言われる。 「スパイだと認める」→「罪が軽くなるかもしれない」と言われる。 「相手を責める」→「開き直るな」と言われる。「無言を貫く」→「骨がない」と言われた後、ボンボリーノが助けてくれる。 ミルクハイムの色んな場所(座標:845,396)、(座標:853,431)、(座標:872,472)、(座標:853,521)、(座標:872,456)、(座標:966,445)、(座標:817,437)、(座標:743,443)、(座標:833,409)、(座標:886,350)で『しょうもないゴミ屑』×10個を集める。 ブルトン(座標:841,369)に『しょうもないゴミ屑』×10個を渡して終了。 ペンは剣より強し + ... この前主人公が拾ったゴミから、とんでもないものが出てきたらしい。 ブルトンから渡された新聞には主人公にあらぬ疑いがかけられる原因となったスパイのことが書かれ、 どうやらミルクハイムにスパイが潜んでいるのは本当のことのようだ。 何故か主人公はこの記事を書いた新聞記者を捕まえる手伝いを頼まれ、ティラミスという女性に話を聞きに行くことになる。 見解の相違による戦闘なども交えて、何とかスパイに繋がりそうな情報を手に入れることができたが、 そこへ執政官シンメルの三本柱の一人、フレンチパイがやってくる。 「なかなかできそう」と目だけで彼女に判断された主人公だが、執政官の秘書と懇意にできれば、執政官に会えるかもしれない…。 始点:ミルクハイム:ブルトン(座標:841,369) 報酬:なし クエスト内容 ティラミス(座標:879,413)に話しかけた後、ティラミス(Lv115)と戦闘。 『ティラミスの手帳』を手に入れ、それをそのままブルトンに渡して終了。 晩餐会はまもなく + ... スパイ発見の手がかりを見つけた功績からか、フレンチパイが主人公に目をつけてくれているらしい。 そんな彼女の頼みごとを聞いてみると、今夜のパーティで振る舞われる食事の材料を集めてきてほしいとのことだった。 とりあえず依頼をこなした主人公に、フレンチパイは「帝国の連中には気をつけろ」と警告してくるが、両者の関係はどうなっているのだろう…? 始点:ミルクハイム:ブルトン(座標:841,369) 報酬:『割れやすい風船』×10個、70,000ドルチェ クエスト内容 ブルトンと会話した後、執政官邸にいるフレンチパイ(座標:949,457)に話しかける。 ジャッグルルから『騒々しい肉』×5個を集め、フレンチパイに渡す。 アルフォンチューから『純情なる肉』×5個を集めてフレンチパイに渡し、報酬をもらって終了。 迷い子を探して + ... パーティの食材を調達するはずだった出入りの商人がまだ来ない。 主人公はその商人の捜索を頼まれ、コンポート水晶原を探索することになるが、 無事に見つけた行商人のヨーグルは「ミルクハイムと縁を切りたい」と言っていた。 原因は目玉商品のグルーチウムを譲ってくれないことらしいが、この世界でもグルーチウムは特別なもののようだ。 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 ミルクハイム入り口(座標:694,437)へ向かい、ヨーグルと会話する。 ハグレガーネットから『美しきガーネット』×10個を集めた後、ミルクハイム入り口でハグレシトリン(Lv116)と戦闘。 戦闘後に手に入れた『美しきシトリン』をヨーグルに譲るかどうかの選択をする。「はい」→『美しきシトリン』を渡し、お礼に熟練値54,000をもらう。 「いいえ」→いいえを10回選ぶと、『美しきシトリン』を強引に奪われる。 フレンチパイに報告して終了。 調和を乱す者 + ... フレンチパイに本格的に気に入られた主人公は「執政官邸で働かない?」と誘われる。 シンメルの博識ぶりは有名らしく、本当に彼に訊いたら何かが分かるかもしれない。 それはそうとして、主人公はラング・ド・シャーという男の行動を止めろと依頼され、コンポート水晶原へ向かう。 そこにいたのはかつてザラメブルグで出会った泣く子も黙るトラヒゲ商会の宴会部長ラングだった。 口の悪さは相変わらずだが、今のラングは暴力沙汰を封印しているように見受けられる。 少し丸くなったことといい、フレンチパイが言うような悪い人物には見えないのだが…。 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 コンポート水晶原北部(座標:599,331)でクリチュータル(Lv118)×4と戦闘。 ラングの言葉をフレンチパイに伝えて終了。 危険なおもちゃ + ... フレンチパイとの会話中、コンポート水晶原で謎の爆発が発生する。 どうやらフレンチパイはラングを犯人と疑っているようだが、現場ではラングも同じく犯人捜しを行っていた。 真犯人を探すべく主人公は調査を再開するが、見慣れぬものと一緒にそこで出会ったのは行商人のヨーグル。 彼は譲ってもらえないグルーチウムを破壊して盗もうとしていたようだが、 そのために彼とその仲間で『巨人の塔』が開発した新型爆弾『ケルベロス』を使用しているらしく、 それが起動すればミルクハイムが一面吹っ飛んでしまうらしい。 何とか起爆前の爆弾を回収することに成功するが、ミルクハイムに悪意を持つ連中がいることは間違いない。 その上、ヨーグルの言葉に出てきた『黒い鎧の男』…おそらくその人物は以前ミルフィーナで出会った…。 何はともあれ、ミルクハイムの危機は主人公と執政官補佐ラング・ド・シャーの手で未然に防がれたのだった。 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:熟練値57,000 クエスト内容 コンポート水晶原中部(座標:645,404)へ向かい、ラングと会話する。 コンポート水晶原北部(座標:574,306)へ向かい、『小さな鉄の塊』を手に入れる。 コンポート水晶原(座標:573,267)、(座標:520,250)、(座標:543,216)、 br()(座標:610,345)、(座標:592,406)で『ケルベロス』×5個を回収する。 コンポート水晶原北部に戻り、ラングから報酬をもらって終了。 救いの悪意 + ... ラングの話によると、今の世の中は元居た世界から500年ほど経過した世界らしい。 彼もまた、大地が壊れた後にこの地で目が覚め、そこを執政官シンメルに拾われて更生したようだ。 しかし再開の余韻に浸る間もなく、ミルクハイムにケモノたちが侵入して一時騒動に発展する。 幸い、ラングや主人公、他の帝国兵の活躍により、市民への危害を免れることができたが、一体何故こんなことが起こったのだろう…? 偶然にもミルクハイムに帝国五卿の一人であるイゴーがたまたまいたことも……この事件には色々と裏がありそうだ。 始点:コンポート水晶原北部(座標:574,306) 報酬:なし クエスト内容 ラングと会話した後、ミルクハイム入り口(座標:715,437)へ向かう。この間、ミルクハイムNPCの台詞が変わる。 ミルクハイム広場(座標:856,391)でカインマシーン(Lv120)×5と戦闘。 ミルクハイム南部(座標:856,491)でカインマシーン(Lv120)×5と戦闘。 ミルクハイム南部の階段上(座標:874,476)でアダマシーン(Lv120)、カインマシーン(Lv120)×10と戦闘。 フレンチパイに話しかけて終了。 帝国の将軍 + ... 自治が許されているミルクハイムだが、帝国は本格的にこの街を占領したいと考えているようだ。 そのことが許せないラングはイゴーに決闘を申し込むが、結果は敢え無く惨敗。やはり将軍の名は伊達ではなかった。 やられっぱなしでいるわけにもいかない二人は、打倒第一軍の将軍を目指して修行に励むことにした。 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 イゴーの話を聞いた後、執政官邸前の橋(座標:925,445)へ向かい、ラングの仇を取るかどうかの選択をする。「はい」→イゴーと戦うが、敗北する。 「いいえ」→そのままイゴーを見送る。 クリチュータル×10を倒し、ミルクハイム入り口(座標:698,437)でラングと会話して終了。 正義vs正義 + ... 帝国兵にミルクハイムから出ていってもらうため、ラングと主人公は衛兵の力を借りることにする。 彼らは帝国から派遣されている兵士だが、執政官の政策によりこの街に情が移っているため、きっと協力してくれるはずだ。 また、途中で主人公はシュトルーデルから先輩マンジェの助けをして欲しいと頼まれ、素材集めに奔走する。 マンジェは『帝国兵の信念の証』を作って帝国兵と何をするつもりなのだろう? 始点:ミルクハイム入り口(座標:698,437) 報酬:なし クエスト内容 アルフォンチューから『まつろわぬ堅爪』×5個を集め、マンジェに渡して終了。 偽の手紙 + ... マンジェの話によると、ミルクハイムの衛兵たちは同時にこの街の監視者を務めている。 彼女は帝国からの命令と兵士としての理念の板挟みで、微妙な立ち位置にいるらしいが、他の兵士たちはすでにミルクハイム側についているようだ。 一方、一時は主人公に疑われたミルクハイムのスパイがようやく捕まり、主人公は帝国の連絡員に『偽の手紙』を渡すよう頼まれる。 帝国の連絡員と会うためには毎日変更される合言葉を知る必要があり、 主人公は「ねこみみ!」との問いかけに「たちばな」と答えて連絡員に『偽の手紙』を渡すことに成功した。 連絡員の話によると帝国は第二軍将軍の乱以降、治安が不安定になり、 五卿の面々は直轄地の動向をかなり気にしているらしい。 特に彼らは第二軍将軍(グルファクシ)がミルクハイムに匿われていないかが気になるらしく、 その点においては帝国秘密警察のボス、ヴィゾニフルという人物も非常に関心を寄せているようだ。 この疑いを晴らすためには、これからどうすればいいのだろうか…? 始点:ミルクハイム:マンジェ(座標:811,437) 報酬:『腕力の小種』×3個、80,000ドルチェ クエスト内容 マンジェと会話した後、ラングから『偽の手紙』を預かる。 コンポート水晶原中央部(座標:618,485)へ向かい、合言葉の照合を行う。(暗号を手に入れないと正解できない) コンポート水晶原中央部(座標:599,437)へ向かい、板のようなものを拾うかどうかの選択をする。「はい」→板のようなものをアルフォンチューに奪われる。 「いいえ」→拾わない。 アルフォンチューから『板のようなもの』を手に入れ、暗号を手に入れる。 コンポート水晶原中央部に戻り、暗号の照合を行う。暗号は「たちばな」 連絡員に『偽の手紙』を渡し、執政官邸前(座標:952,445)に向かう。 ラングに報告し、報酬をもらって終了。 我が街を守るのは我ら + ... 五卿ヴィゾニフルのスパイの件から、ミルクハイムは帝国管理化の動きに待ったをかける。 一方のイゴーはその提案を受け止めつつ、ミルクハイムの治安維持の問題から、 彼の率いる帝国第一軍とミルクハイム軍との模擬戦で実力を図りたいと打診してきた。 主人公も一部隊を任され、辛くもこれに勝利。 イゴーはミルクハイム軍の実力を認め、軍を一時的に撤退させるのだった。 始点:ミルクハイム:執政官邸前(座標:952,445) 報酬:『生命力の小種』×3個、80,000ドルチェ クエスト内容 ミルクハイム入り口(座標:695,437)へ向かい、模擬戦を行う。攻撃あるのみ(?) 特殊攻撃は一度しか使用できないので注意。 部隊が全滅した場合は、主人公が「火事場の馬鹿力」を使用。 模擬戦に勝利した後、ラングから報酬をもらって終了。 再会 + ... 精霊騎士の話によれば、ミルクハイムの執政官シンメルは『真精霊騎士団』の最大の援助者であるらしい。 重ね重ね、精霊騎士はシンメルに話を聞くことを勧めてくるが、主人公はまだその姿すら見ていない。 それを聞いた精霊騎士は「それなら一緒に会おう」と持ちかけてきたが、あいにく執政官は留守のようだった。 果たして、一体いつになったら主人公は執政官シンメルに出会えるのだろうか? 始点:ミルクハイム入り口(座標:695,437) 報酬:熟練値60,000 クエスト内容 ジャッグルルから『謙虚な肝臓』×5個を集め、ミルクハイム入り口(座標:695,437)へ向かう。 精霊騎士に『謙虚な肝臓』×5個を渡し、報酬をもらう。 執政官邸前(座標:952,445)へ向かい、ラングたちの会話を聞いて終了。 執政官の罠 + ... 帰ってこない執政官を探すために、主人公は精霊騎士と一緒に捜索を開始する。 道中の精霊騎士の話によれば、かつてミルクハイムには横暴な執政官がいたが、 その暴政を打破したのが執政官シンメルという人物らしい。 彼は市民を扇動して執政官とその側近全員を追い出し、新しい執政官になったが、 それが原因で帝国から目をつけられているようだ。 二手に分かれて執政官を探していたところ、主人公は執政官と名乗るひげ面の男に出会う。 その彼にいきなり谷底に叩き落されてしまった主人公はケモノたちに襲われるが、 そこをミルクハイムで見かけたミーミットのワッフルに助けられた。 ラングやフレンチパイの語る執政官像とは違う男だったが、彼は本当に執政官なのだろうか…? 始点:ミルクハイム:執政官邸前(座標:952,445) 報酬:なし クエスト内容 ミルクハイム入り口(座標:714,437)へ向かい、精霊騎士の話を聞く。 コンポート水晶原中央部(座標:606,375)でチューワロフスキー(Lv120)×2と戦闘。 フレンチパイに話しかけて終了。 理不尽な襲撃 + ... フレンチパイと話していたところ、突然ひげ面の男がこちらに向かって爆弾を投げてきた。 彼を追いかけて話をしたところ、主人公がミルクハイムにいては具合が悪いらしく、亡き者にしたいらしい。 分身の術を使いながら襲ってくる相手に翻弄される主人公だが、最後にはまたもワッフルが助けに来てくれた。 それから展望台まで執政官を追いかけて言った主人公だが、追い付いてきたフレンチパイが彼は執政官ではないと証言。 執政官改め謎のひげ面の男は意味ありげなことを言い、どこか虚空へと消えていった。 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 執政官を追って執政官邸前の橋の先(座標:877,457)へ向かい、彼と戦う。敵の分身を見破って本物を叩く。一回目の本物は左 二回目の本物は左 三回目の本物は三人目 四回目の本物は一人目 逃げた執政官を追って展望台(座標:834,407)へ向かい、フレンチパイの話を聞く。 フレンチパイに話しかけ、彼女の誤解を解いて終了。 たゆたいの蜃気楼 + ... 本物の執政官はいつまでたっても帰ってこず、そこにミーミットのワッフルが偽物執政官の行き先が分かったとの知らせを持ってきた。 主人公はフレンチパイから偽物の正体を探ってほしいと頼まれ、ワッフルとともにコンポート水晶原を探索する。 そこで見つけた奇妙な水晶をワッフルは壊せと促してくるが、主人公の使っている武器では壊せない。 ラクヴィチカによればマダールテイが『心躍る玉髄』から便利なエモノを作ってくれるかもと教えてくれ、 主人公は彼に作ってもらったクワでキレイに水晶を壊すことに成功する。 中には執政官を騙った謎のひげ面の男が隠れており、そこにマジョも現れた。 どうやら水晶に『たゆたいの蜃気楼』という魔法をかけて主人公を殺そうとしていたらしいが、結局は失敗に終わったらしい。 そこで魔女と行動を共にするグルファクシが主人公に襲い掛かろうとするが、それはワッフルによって阻まれた。 ラングが駆け付けることによって不利と判断したマジョたちは姿を消すが、彼らは一体なぜ自分のことを狙うのだろう? 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 コンポート水晶原南部(座標:594,526)へ向かい、奇妙な水晶を発見する。 『心躍る玉髄』×10個を集めてマダールテイ(座標:609,290)に話しかけ、エモノを作ってもらう。 コンポート水晶原南部に戻り、エモノを使って水晶を壊す。(必ず攻撃ボタンをショートカットに入れておく) マジョたちと話をして終了。 荒ぶるものたち + ... 最近夢見の悪いレヴァネは恋人が欲しいらしい。 女性の悲鳴を聞いて助けに向かった彼だが、肝心なところで眠気に襲われ倒れてしまう。 結局は主人公に活躍を任せるし、突然現れた馬のようなケモノ相手にも怯えるだけという体たらく 彼が恋人を作るのはまだまだ先のことになりそうだ。 一方、サンデーをミルクハイムまで送った主人公は彼女から昨日見た悪夢についての話を聞く。 黒いケモノについてフレンチパイに報告したが、彼女もどこか寝不足のようだ。 ……ミルクハイムで悪夢が流行っているのだろうか? 始点:コンポート水晶原南部(座標:593,516) 報酬:『知力の小種』×3個、85,000ドルチェ クエスト内容 コンポート水晶原北部(座標:587,324)へ向かい、ハグレガーネット(LV121)×10と戦闘。 サンデーをミルクハイム入り口の橋(座標:773,437)まで送る。 サンデーから報酬をもらい、フレンチパイに報告して終了。 悪夢のうずまき + ... フレンチパイによると連日する悪夢のせいで街の生産性が落ちているらしい。 皆が皆悪夢を見て寝不足だということを考えると、これは明らかに異常事態だ。 情報通のティラミスに話を聞くと、町全体に悪夢の魔法がかけられているかもしれないと言う。 帝都の大学に通うフールならと、情報を聞きに行くと、彼女は彼女で忙しそうだ。 ただ何とか解き方を教えてもらった主人公はフレンチパイに伝え、悪夢の問題は解消の兆しが見え始めた。 しかし、誰が一体何の目的でそんな魔法をかけたのだろうか? 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:『精神力の小種』×3個、85,000ドルチェ クエスト内容 ティラミスに話を聞いた後、フール(座標:852,421)に話しかける。 『メディ』×10個を集めてフールに渡す。 『謙虚な肝臓』×5個を集めてフレンチパイに話しかけ、報酬をもらって終了。 捕獲大作戦 + ... 悪夢に効く『謙虚な肝臓茶』を街の人に配ってほしいと頼まれた主人公。 まず初めに情報をくれたティラミスに渡しに行くが、今までの疲れからか彼女の前で倒れてしまう。 意識を失っている間に見た夢はどれも悪夢ばかりで散々な目に遭ってしまう主人公。 その原因はマジョが街全体かけた魔法『悪夢のうずまき』らしく目的は嫌がらせのようだった。 記憶のない彼女は何となくで主人公を嫌っていて、こちらから何とかできることはほとんどない。 その場はラングによって悪夢から目覚めることができたが、やはりマジョをどうにかしないと根本的解決にはならない。 それを聞いたラングは主人公を餌にマジョをはめようと提案し、見事コンポート水晶原で彼女を取り押さえることに成功した。 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 ティラミスに『謙虚な肝臓茶』を渡した後、悪夢の中でジャッグルル(LV118)×3、アルフォンチュー(LV119)×2、クリチュータル(Lv120)×2、ハグレガーネット(LV121)×3、アルカンチュール(LV125)と戦闘。 コンポート水晶原西部(座標:557,434)へ向かい、マジョを捕らえて終了。 可愛く憎き虜囚 + ... マジョを捕らえたものの、彼女の力の前では檻に近づくことすらままならない。 そこで主人公はシュトルーデルから檻の強化のための素材集めを頼まれる。 また、捕らえられておなかの減っているマジョに食べ物を与えると、少しだけ話を聞いてくれるようになった。 『夢の檻』という魔法について話して二人で記憶探しをしようと提案してみるが、返事を聞く前にグルファクシがマジョを解放してしまう。 逃げる彼女は一瞬、主人公に何か言いたげな視線を送っていたが……。 始点:コンポート水晶原西部(座標:557,434) 報酬:なし クエスト内容 『聡明な軟骨』、『まつろわぬ堅爪』、『軽快な奥牙』、『あせりがちな脚骨』を手に入れ、シュトルーデル(座標:702,439)に話しかける。 集めたものをブルトンに渡し、トラヒゲInc.(座標:872,398)から『兵士の食糧袋』をもらう。 ブルトンに話しかけ、マジョに『兵士の食糧袋』を渡して終了。 逃亡者を追って + ... 逃げたマジョとグルファクシを探すため、衛兵たちは捜索活動を開始する。 一方、主人公は取り逃がした時のことを考え、街を守るための武器強化素材の収集を頼まれた。 素材集めの帰り道、謎の兵士に襲われた主人公はそれを撃退するも、彼女は『巨人の塔』という単語を口にして街の中に逃げていった。 『巨人の塔』といえば『ケルベロス』という新型兵器を開発していた組織のはず。 なぜ彼女はそんな団体の中で主人公に見覚えがあると言ったのだろうか……? 始点:ミルクハイム:ブルトン(座標:841,369) 報酬:熟練値63,000 クエスト内容 クリチュータルから『軽快な奥牙』×6個を集め、ミルクハイム入り口でクナーファ(LV125)と戦闘。 『軽快な奥牙』×6個をブルトンに渡し、報酬をもらって終了。 疑惑の少女 + ... 街に逃げ込んだ反乱軍の兵士が見つからない。 ブルトンは街の誰かが匿っていると考えて疑わしい人物に見張りをつけることにした。 主人公が任されたのはあいさつの発音がいつもと違っていたサンデー。 彼女を尾行してみると、草むらの中で銅貨を見つけたり街の外にある薬草を欲しがっていたりと、どこか怪しい。 最終的にサンデーに見つかってしまった主人公は、丁度いいと彼女の代わりに薬草摘みを頼まれた。 摘んできた薬草をサンデーに渡したところ、帝国銅貨の出自を問われて彼女が確保されそうになる。 しかし、その前に反乱軍の兵士が姿を現し、自分の罪を告白した。 ミルクハイムの衛兵たちはそんな彼女を守ってやるべきだと言い、その処遇は執政官に任されることになった。 始点:ミルクハイム:ブルトン(座標:841,369) 報酬:熟練値66,000 クエスト内容 ミルクハイムの踏切を進んだ先にある通路(座標:856,445)へ向かい、ごまかし方の選択をする。「踊ってごまかす」→踊ってみると、楽しい気分になった。(5分間最大SP+50) 「歌ってごまかす」→歌ってみたが、あまりうまくなかった。 「眠ってごまかす」→地面に寝そべると、ラングに突き飛ばされた。 ミルクハイムの南階段下(座標:857,484)へ向かい、サンデーとマダールテイの話が終わるまで待つ。 ミルクハイムの南階段上(座標:873,488)へ向かい、ごまかし方の選択をする。「ネコの鳴きまねをする」→チーターかと見過ごされる。 「カエルの鳴きまねをする」→いいダシが取れると見つかりそうになる。 ミルクハイムの南西外周部(座標:831,469)へ向かい、草むらで『帝国銅貨』を見つける。 ミルクハイム入り口の橋(座標:788,437)へ向かい、様子のおかしいサンデーを見守る。 ミルクハイム入り口(座標:698,437)へ向かい、サンデーからのお願いを聞く。 コンポート水晶原の一番高い丘の上(座標:614,456)へ向かい、『峻厳なる薬草』を手に入れる。 『峻厳なる薬草』をサンデー(座標:856,381)に渡し、報酬をもらって終了。 破壊の代償 + ... 薬草をクナーファに届けたいサンデーだが、彼女の方を見ると何かラングが騒いでいる。 話を聞くと、ラングは彼女を匿うことに反対しているようだった。 それでも執政官にかけあうことを約束したラングは、とりあえずクナーファと主人公に街の修復を依頼する。 修復のための素材を取ってきた主人公はクナーファと少し話をするが、 彼女はそこで主人公は『記憶を封印された』のではなく『最初から記憶などない』のではないかと言ってきた。 つまり主人公には成長過程などなく、その姿のままでこの世界に生まれ落ちたということだ。 クナーファはこの説を自分の勘違いだというが……。 始点:ミルクハイム:サンデー(座標:856,381) 報酬:なし クエスト内容 ブルトンに話しかけた後、ハグレガーネットから『激昂する硝子』×7個を集める。 ブルトンに報告した後、クナーファに『激昂する硝子』×7個を渡して終了。 自分そっくり + ... マジョとグルファクシは依然として見つからない。 主人公とブルトンがそのことについて話をしていると、クナーファが『形見のペンダント』を失くしてしまったと言ってきた。 部下をフォローするのは上司の務めと、ブルトンは主人公を誘ってペンダントを探しに行く。 その途中、主人公はコンポート水晶原で自分のことを『ミーレスナンバー7』と呼ぶ謎の男に出会った。 ペンダントはその男が拾っていたらしく、返す条件の性能実験と称して主人公は彼からケモノを倒すように命令された。 ケモノを倒して戻ってくると、なんとそこには自分そっくりの人がいた。 とりあえずペンダントは返してもらえたが、謎の男は主人公のことを「局長が選んだ『オリゴ』」と言い、どこかへ行ってしまった。 クナーファにペンダントを返すと、彼女はそれをスネル・ニーズヘッグに陥れられた父の形見だと教えてくれた。 ニーズヘッグは宙神教教会の大僧正、最高権力者で、帝国五卿の一人でもあるらしい。 五卿の君臨に不満を持つ者は多く、そこにグルファクシはつけこんだのだ。 過去を振り返って反省するクナーファに、主人公は敬礼を返した。 始点:ミルクハイム:ブルトン(座標:841,369) 報酬:なし クエスト内容 コンポート水晶原北部(座標:522,265)へ向かい、そこで謎の男と出会う。 ハグレガーネット×10、ジャッグルル×10、アルフォンチュー×10を倒して、コンポート水晶原北部に戻る。 謎の男から『形見のペンダント』を受け取り、ブルトンに話しかける。 クナーファに『形見のペンダント』を返して終了。 よみがえらない記憶 + ... 色々考えた末、クナーファは一度帝国に戻って身の振り方について考えたいという。 その前に彼女は主人公の記憶について、『巨人の塔』が『ミーレス』という兵器を作っていたことを教えてくれた。 ミーレスは人間型の兵器であり、グルファクシもそれを購入しようとしていたらしい。 何はともあれ、ミーレスについて調べれば自分のことについても何かわかるかもしれない。 そう思って最初に彼らと会った場所に向かってみると、マダールテイが鉱山に入って坑道を荒らしたと言いがかりをつけてきた。 自分が疑われたとなれば、恐らくは自分そっくりなミーレスに違いない。 ミーレスを追って彼を倒すが、兵器だけあってかなりタフだ。 しかしフレンチパイが彼に何かを渡したことで、しばらくの間鉱山に被害は出ないようになったらしい。 始点:ミルクハイム:ブルトン(座標:841,369)) 報酬:なし クエスト内容 コンポート水晶原北部(座標:522,265)へ向かい、マダールテイと話をする。 コンポート水晶原中央部(座標:566,436)へ向かい、ミーレスナンバー7(LV130)と戦闘。 マダールテイに報告して終了。 またもや侵入者 + ... マダールテイによると、またも鉱山荒らしがでたらしい。 主人公は今度こそその二人組を捉まえてこいと彼に言われ、ミルクハイムを探しに行く。 するとそこにはガラクッタとマカロンが衛兵に止められていた。 ガラクッタたちのために食料を集め、フールとの運試しに勝利して調理法を教えてもらう主人公。 結局、鉱山を荒らしていた犯人はガラクッタたちであり、それもお金で何とか解決することができたようだ。 始点:ミルクハイム:マダールテイ(座標:609,290) 報酬:『蘇生の種』×1個、90,000ドルチェ クエスト内容 ミルクハイム入り口(座標:698,437)へ向かい、ジャッグルルから『ややこしい肉』×5個を集める。 フールに話しかけ、サイコロで運試しゲームをする。運を信じよう!(?) (数が倍になるカードと4以上が出るカードを残しておくと攻略難易度が下がるかも…?) フールから『フールの調理メモ』を受け取り、ミルクハイム入り口へ向かう。 ガラクッタたちに『フールの調理メモ』と『ややこしい肉』×5個を渡し、報酬をもらう。 マダールテイに報告して終了。 密会 + ... マダールテイはガラクッタがうるさいと困っている。 一方のガラクッタはこの地でボディを見たと言い、主人公は彼の捜索を頼まれた。 パパナシに聞くとボディは近くの崖を見ていたと言い、そこを調べると謎の文言と合言葉が書いてあった。 指示されたとおりに行動をすると、次は変な紙切れを見つける主人公。 さらに指示された通りに行動すると、今度はタライが降ってきた。 タライの裏に書いてある場所へ向かうと、そこでは謎の男とミーレス、さらにはフレンチパイが密会をしていた。 それはそうと、探していたボディは一体どこへ行ったのだろう? 始点:ミルクハイム:マダールテイ(座標:609,290) 報酬:なし クエスト内容 パパナシ(座標:621,406)に話しかけ、ボディの行方について聞く。 パパナシの近くにある崖(座標:609,423)を調べ、アルフォンチュー×10を倒してシュトルーデルに話しかける。 シュトルーデルに合言葉を伝え、コンポート水晶原中央部(座標:600,490)へ向かう。 紙切れの指示通りに行動する。間違えると頭にジャッグルルが積み重なっていく。 コンポート水晶原南部(座標:581,527)へ向かい、密会の現場を目撃する。 マダールテイに話しかけて終了。 巨人の塔 + ... ガラクッタはどうやら疲れて帰ったようだ。 マダールテイに人違いだったことを伝えると、マカロンはガラクッタが何故ボディを探しているのか説明した。 ボディに世界をバラバラにした責任を取らせようと考えているらしい。 そこへレヴァネが来る。執行官が油断ならない鉱石を求めているようだ。 報酬が弾むと聞いたマカロンとマダールテイは主人公を誘う。マダールテイは鉱山の中を探してくる様子。 マカロンと協力して一緒に地上を探そう。 始点:ミルクハイム:マダールテイ(座標:609,290) 報酬:『友達蘇生の種』×1個、90,000ドルチェ クエスト内容 コンポート水晶原(座標:577,400)、(座標:518,422)、(座標:579,461)、(座標:660,457)、(座標:674,490)で『油断ならない鉱石』×5個を手に入れる。 レヴァネ(座標:607,527)に話しかけ、『油断ならない鉱石』×5個を渡し、『筒のようなもの』と報酬をもらう。 コンポート水晶原南端(座標:642,621)へ向かい、スレープニル(LV120)と戦闘。 スレープニルを倒して終了。 第9章 [部分編集] おそろしの森 + ... 逃げたグルファクシを兵士達は追っていった。 フレンチパイの話は黒いやつを炙り出すためのでまかせだったようだ。 ミーレスと謎の男は主人公に「自分のこと、ミーレスやオリゴについて知りたければ巨人の塔まで来るといい」と言い残し飛んでいってしまった。 兵士達が帰ってきたが、ヘンな声が聞こえた為、怖くて退避してきたらしい。主人公はマジョたちの行方が気になっている。 暫くして精霊騎士が深森から出てきた。ヘンな声が聞こえ、怖くて退避したとのこと。一向に戻らない仲間を探しているらしいが力が出ず動けないらしい。 ついでに大事なペンダントも探すよう頼まれた。 彼の代わりに探しに行ってあげよう。 始点:コンポート水晶原南端(座標:642,621) 報酬:熟練値69,000 クエスト内容 深森入口(座標 243,206)にてドルチェと会話し、森林西方(座標 情報求)にて『ゆかいなペンダント』を拾う。 精霊騎士(座標 243,206)にペンダントを渡し終了。 まいごのまいごの + ... 戻ってこない主人公を心配して深森まで来た精霊騎士。 力が出ず動けない彼の代わりに、仲間を探して連れてきてあげよう。 始点:(座標:243,206) 報酬:なし クエスト内容 精霊騎士(座標:319,207)を見つける キューコンから「踊れる黒い葉」×5を集め、精霊騎士(座標:319,207)に持っていく。 精霊騎士を深森入り口(座標:243,206)まで送っていく。 かがり火端の腹ごしらえ + ... 精霊騎士を送り届けるとドルチェに再び会遇した。 小腹も空いてきたし、食べられるものを持っていこう。 始点:深森入り口(座標:243,206) 報酬:なし クエスト内容 プディング深森のドルチェに、ご飯を作って欲しいと頼まれる。 材料をプディング深森で採ってくる。(すべて拾わなくても料理へ進める。)『真っ白い粉の袋(座標 302,349)』、『緑色に光る草(座標 399,279)』、『切り出された生肉(座標 297,189)』 再度ドルチェ(座標 289,245)に話しかけ、兵士のアドバイスを聞き料理を作る。調味料、食材を4つ以上入れると味がイマイチになる。 料理の出来により、称号「王様の料理人」「メシマズ大臣」を手に入れる。 もう片方の称号も常駐クエストから手に入るので好きに遊ぶとよい。 森に響くあやしき歌 + ... ドルチェに頼み事をされる。誰にでも頼めることでは無いようだ。石碑に供えに行こう。 始点:プディング深森一層: 報酬:なし クエスト内容 「しびれた皮袋」をフクロウの石碑(座標 348,277)に供える。 コバルギョを10体倒す。 ドルチェ(座標 285,244)に報告する。 罠の魔法 + ... 肌寒いプディング深森の広場で、謎の老人ドルチェは自分鍋に興じていた。一番風呂を丁重に断りつつ、あなたは謎の悲鳴を聞きつける。そこには罠にかかった精霊シルキーの姿が。 始点:プディング深森一層:ドルチェ(座標:285,244) 報酬:なし クエスト内容 深森北西(座標:240,182)へ向かう。 (座標:252,285)の樹の上で『魔法の炎』を採ってくる。 風のゆくえ + ... シルキーを解放し、罠にかかったケモノを解放したあなたは、ふとドルチェの出した手紙の返事が気になった。 始点:座標() 報酬:なし クエスト内容 キューコンを10体倒す。 シルキーのいた場所に戻り、罠にかかったケモノを解放する。 二層入り口(座標:379,303)へ向かう。 ドルチェ(座標:285,244)に手紙の返事を聞きに行く。 奪われた鍵 + ... ドルチェのマブ、イゴー・フレズヴェルグから手紙の返事が来た。巨人の塔を知っていて、取引までしているが、その拠点の位置までは知らない。常に吹く風にされて移動しているという。 風の精霊であるシルキーに話を聞くため、彼女が消えていった深森のさらに奥へあなたは向かった。 シルキーの「そよ風の貝殻」をノヅラー達から取り戻したあなたはシルキーに巨人の塔について聞くが、情報は得られなかった。 始点:プディング深森一層:ドルチェ(座標:285,244) 報酬:『アイテム取得の種子』×1個、95,000ドルチェ クエスト内容 二層入り口(座標:379,297)でキングノヅラー(Lv.135)と戦闘。 ノヅラーを倒し『そよ風の貝殻』を取り返す。 マジョたびたび + ... プディング深森のさらに奥、二層入り口に突入しようというとき、ドルチェから止められてしまう。ドルチェを打ち負かしたあなたは、シルキーを閉じ込めていた罠の除去を頼まれた。 罠を除去しているうちに、自分が罠にかかってしまい、マジョが目の前に現れる。マンダラサンゴの粉で脱出するが、意識を失ってしまい、不思議な夢を見る。 マンダラサンゴなら「夢の檻」が解けるかもしれないと、やってきたドルチェに詰め寄るマジョ。しかしマンダラサンゴはあなたに分けたのが最後のようだ。ならば自分で探すといい、マジョは立ち去っていった。 ドルチェはマンダラサンゴをくれた友達は森の奥にいるという。 始点:プディング深森二層入り口(座標:379,297) 報酬:『経験の種子』×1個、95,000ドルチェ クエスト内容 プディング深森二層入り口付近でドルチェ(Lv135)と戦闘。 (315,228)、(238,252)、(285,295)を調べ罠を除去する。 マンダラサンゴを探して + ... 突然現れた兵士とドルチェを追って森の奥、二層入口へ来たあなた。ドルチェの仲間として兵士に戦いを挑まれる。 返り討ちにすると、どうやら盗賊団と勘違いされていたらしい。兵士はドルチェを追っていった。 マンダラサンゴを探してあなたも森の奥、プディング深森二層へ足を踏み入れた。 再会したシルキーはマンダラサンゴの化石ならあるかもしれないという。 シルキーと共にマンダラサンゴの化石を探しているとマジョと出会った。マジョは森のもっと奥の深いところにあるかもしれないという。 疲れたあなたは入口へ戻り、マンダラサンゴを探す理由をシルキーに話す。シルキーは記憶などあってもなくてもそう変わらないのでは?と言っているが…。 始点:・プディング深森(座標:283,301) 報酬:なし クエスト内容 プディング深森二層入り口付近でクグロフ(Lv135)と戦闘。 プディング深森二層へ。 プディング深森二層(座標:339,239)、(座標:255,191)、(座標:268,306)を調べる。 プディング深森一層入口へ戻る。 風がやむ森 + ... 今度は自分の探し物に付き合ってほしいというシルキー。何者かが風を止めるために封印をしているらしいのでそれを壊してほしいそうだ。 途中、言い争う盗賊団を目撃する。無事にすべての封印を壊すと深森に風が吹き込んだ。 始点:プディング深森二層入り口(座標:376,286) 報酬:熟練値72,000 クエスト内容 三か所の封印(座標:311,171)(座標:234,191)(座標:280,331)を調べる。 三つ目の封印を調べ、クリムギョ(Lv.125)と戦闘。 プディング深森一層入り口に戻る。 はさみうち! + ... 先ほどの盗賊団がすれ違っていった。追ってきた兵士クグロフは、あなたに盗賊のはさみうちを手伝ってほしいという。 盗賊の正体はなんと、過去から飛ばされてきた盗賊ロボ達だった。なんとかはさみうちに成功する。 始点:プディング深森一層入り口(座標:376,286) 報酬:熟練値75,000 クエスト内容 二層東の樹の上(座標:391,266)に向かう 二層北(座標:325,156)でロボ(Lv.132)と戦闘。 二層西(座標:238,231)に向かう。 クグロフ(座標:284,256)と話す。 怒れる風 + ... クグロフからお礼を受け取ると、ロボ達は黒い鎧の男グルファクシに雇われたのだという。気が付くと、ロボ等を救出しに来た盗賊団を倒していくうち、グルファクシとマジョ、シルキーに遭遇したが、二人は逃げてしまった。 始点:プディング深森二層:クグロフ(座標:284,256) 報酬:なし クエスト内容 二層(座標:228,297)、(座標:299,314)、(座標:246,283)で盗賊(Lv.130)×16と戦闘。 クグロフ(座標:284,256)と会話。 石に埋もれた秘密 + ... ロボと子分をミルクハイムへ連行したクグロフにマンダラサンゴの在り処を尋ねると、化石を集めればその中に有るかもしれないという。 …が、集めた化石の中には求めるマンダラサンゴは無かったのだった…。 始点:プディング深森二層:クグロフ(座標:284,256) 報酬:なし クエスト内容 アカイヤウィッシから『注意不足な化石』を5個集める。 クグロフ(座標:284,256)と会話する。 クリムギョから『腹の据わる凶歯』を1個集める。(Lv.135のみドロップ) クグロフ(座標:284,256)と会話する。 開かない宝 + ... クグロフから、盗賊の収集したお宝の中にもサンゴの化石があるのでは?と助言されたあなたは、ちょうど通りかかった盗賊団からお宝を奪い取ることに。 盗賊たちを捕まえたが、盗賊たちは黒い男グルファクシに嫌気がさし脱走するつもりだという。宝の事を問い詰めるとすべて黒い男に取られたというが、一つだけ鍵の掛けられた宝箱が残っているらしい。 盗賊たちとお宝を山分けし化石を手に入れたその時、またもヘンな声が森にこだまする。その隙をついたマジョに化石を奪われてしまった。 始点:プディング深森二層:クグロフ(座標:284,256) 報酬:『熟練の種子』×1個、100,000ドルチェ クエスト内容 (座標:299,314)でパックンフラッパー(Lv.135)・盗賊(Lv.130)各×4、と戦闘。 (座標:318,233)でガッチリフラッパー(Lv.145)と戦闘。宝箱の暗号を入手する。後からまた確認できる。 (座標:380,320)で暗号を入力する。 (座標:299,314)へ向かう。 お魚とお金 + ... 逃げたマジョの姿をとらえたその時、飛び出してきたガラクッタとぶつかり、マジョをとり逃してしまった。怒り狂うガラクッタにケモノに取られたお金を取り戻すよう命じられた。 博士にお金を返すと走り去るボディの姿を見つけた。博士一行と追いかけたその先には、マジョと黒い鎧の男グルファクシがいた。 始点:(座標:262,163) 報酬:なし クエスト内容 クリムギョから『博士のドルチェ』を10個集める。 (座標:262,163)へ向かう。 (座標:248,285)へ向かう。 (座標:335,309)へ向かう。 (座標:280,331)へ向かう。 時には父のように + ... ボディを追いかけていったガラクッタ博士を見届けた後、助手マカロンからケモノの退治を依頼される。 マカロンに報告に戻ると、グルファクシに襲われるガラクッタ一行が!助けに入ったボディを支援し撃退したが、ガラクッタの説得も虚しく、ボディは去って行った... 始点:(座標:280,331) 報酬:『バッグ+50β』 クエスト内容 ナンテンキューコンを20体倒す。 (座標:321,224)へ向かう。ボディをリアルタイムで援護してグルファクシを撃退するミニゲーム。「回復」ボディを回復。3回のみ使える。 「爆弾」グルファクシを攻撃。3回のみ使える。 「捨て身」大ダメージを与えることがある。そうでもないこともある。1回のみ使える。 グルファクシ側もマジョが同じことをしてくる。 美人秘書はいそがしい + ... 盗賊たちを一網打尽にすべく兵士を引き連れたフレンチパイに、森の奥、最深部への案内を依頼された。報酬はマンダラサンゴ。願ってもない。 最深部入口にたどり着いた一行は、入り口を封鎖して兵糧攻めをする作戦にでた。 森の入り口に戻ってみるとフレンチパイの支援に来た精霊騎士たちが現れた。 始点:(座標:321,224) 報酬:熟練値78,000 クエスト内容 (座標:303,317)へ向かう。 (座標:335,309)でマンジェ&シュトルーデル(Lv.135)と戦闘。 (座標:377,286)へ向かう。 慈悲ぶかい男 + ... ラングが兵士を連れてきた。やはりフレンチパイと仲が悪くフレンチパイに協力を求める提案にブルトンの耳を貸すことはなく、逆に向こうの兵士をこちらに引き入れるつもりだ、と宣っている。 頼まれた薬草の材料を集めて届けにいこう。 始点:(座標:377,286) 報酬:熟練値81,000 クエスト内容 クリムギョから『いのちがけの背びれ』を5個集める。 (座標:288,304)へ向かう。 ガッチリフラッパーから『自慢げな根っこ』を2個集める。 (座標:335,309)へ向かう。 水晶の森に響く音 + ... すぐにアジトに乗り込み短期決戦に持ち込もうと言うラングに対し、フレンチパイにここを通すことはできないと言い放たれ立ち去るラング。 フレンチパイはミルクハイム13個分の心の広さで彼についていくことを許してくれる。 ラングに追いつきケモノを追い払うと、何とか森の奥地に入る手段はないかとそばに来ていたクグロフにラングは意見を求めた。クグロフ曰く、この森の水晶の樹は最下層から一層まで伸びていて、その中には空洞になっている物があるらしい。 水晶の樹に穴を開ける間、周辺の警戒を任された。寄ってくるケモノの退治がひと段落つくと、フレンチパイに見つかり止められてしまう。ラングと口論していると、そこに盗賊団が現れた! 始点:(座標:335,309) 報酬:なし クエスト内容 (座標:237,236)でマホノヅラー(Lv.148)と戦闘。 柱の上(座標:343,224)付近に上る。 (座標:334,217)でナンテンキューコン(Lv.135)×12 → パックンフラッパー(Lv.145)×12と戦闘。 盗賊総力戦! + ... 盗賊たちが姿を現すまで準備だ。 戦いの準備ができたら、戻ってこよう。 始点:(座標:335,309) 報酬:なし クエスト内容 イベント後もう一度(座標:335,309)へ向かう。 盗賊(Lv.140)×99と戦闘。 国王と博士 + ... ドルチェの友達に会いにいこう。 ビビットエイプを倒して 『有頂天の萌実』を手に入れよう 始点:(座標331:315,) 報酬:なし クエスト内容 (座標:268,257)へ向かう。 ビビッドエイプから『有頂天の萌実』×5を入手 再度(座標:268,257)へ向かう。 禁忌を求めて + ... ドルチェの友達に会うため、プディング深森のさらに奥へと行こう。 ガラクッタのために水を汲みにいこう。 手に入れた水を持って、 ガラクッタの元へ戻ろう。 始点:(座標:268,257) 報酬:『新星の宝石箱』×1個、105,000ドルチェ クエスト内容 座標(354,234)へ向かう。 座標(286,258)へ向かう。 座標(264,213)へ向かう。エメラルギョ(Lv.135)と選択戦闘はい→戦闘後、スキルの種子を入手 いいえ→戦闘回避 座標(231,188)へ向かう。 座標(354,234)へ向かう。 過去からの声 + ... ドルチェの友達に渡す手土産を探しに行こう。どうやら草でもいいようだ。 始点:(座標:354,234) 報酬:『金針の宝石箱』×1個、105,000ドルチェ クエスト内容 座標(213,267)へ向かう。 草(オブジェ)→ナンテンキューコン(Lv.137)×12と戦闘。 座標(351,256)へ向かう。 フクロウたち + ... ガラクッタを追おう。 ボディとガラクッタが入っていった遺跡の最深部に向かおう。 始点:(座標:356,234) 報酬:なし クエスト内容 座標(363,291)へ向かう。 座標(371,305)へ向かい中へ入る。 ミス・ホー(Lv.150)×1、ミス・ホー子分(Lv.150)×3(無限に召喚)と戦闘。 風の精霊とフクロウ + ... 始点:(座標:371,305) 報酬:なし クエスト内容 座標(363,291)へ向かう。 座標(286,241)へ向かう。 座標(330,181)で、エメラルギョ(Lv.135)×12と戦闘。 座標(204,243)へ向かう。 座標(363,291)へ向かう。 石ころの魔法 + ... コバルギョを倒して、『清らかな水晶塩』 を手に入れよう。 始点:プディング深森一層:ドルチェ(座標:285,244) 【ワールド移動→初期位置に戻る】を繰り返すと速い 報酬:熟練値84,000 クエスト内容 コバルギョから、『清らかな水晶塩』×4を入手 ドルチェ 座標(285,244)と会話。 座標(238,181)へ向かう。 座標(371,254)で、ギガノヅラー(Lv.160)とイベント戦闘(1分逃げ続ける)。 ドルチェ 座標(285,244)で会話。 執政官の思い出 + ... 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:熟練値87,000 クエスト内容 ボンボリーノ 座標(849,539)と会話。【ワールド移動→初期位置に戻る】を使うと速い 座標(714,437)へ向かう。【ワールド移動→ミルクハイム】を使うと速い ジャッグルルを×20倒す。 座標(695,437)へ向かう。 ラクヴィチカ 座標(612,416)と会話。 緑色の岩オブジェクト×5を破壊 フレンチパイ 座標(949,457)と会話。 潮風をさがして + ... 始点:ミルクハイム:フレンチパイ(座標:949,457) 報酬:なし クエスト内容 座標(695,437)へ向かう。 座標(645,403)へ向かう。 座標(597,329)へ向かう。 座標(568,278)へ向かう。 座標(535,220)へ向かう。 第10章 [部分編集] 潮騒の町にようこそ + ... 始点:(座標:598,628) 報酬:なし クエスト内容 ズッコットに『クラゲカニヒトデ対決』で勝利する。三回勝負のじゃんけんをする。 ズッコット 座標(603,536)と会話する。再度一回勝負する。勝敗に関係なくストーリーは進行する。 ゴーフレット 座標(512,489)と会話。 座標(394,598)へ向かう。座標(493,509)からショートカット可 ゴーフレット 座標(512,489)と会話。ネトゲあるあるを聞ける サンゴはどこか + ... 始点:ゴーフレット(座標:512,489) 報酬:なし クエスト内容 パンドーロ 座標(521,502~512,511)と会話。 ファッジ 座標(498,494)と会話。 ベニエ 座標(514,501)と会話。 座標(532,575)に向かう。 ゴーフレット 座標(512,489)と会話。 堕ちた冒険者 + ... 始点:ゴーフレット(座標:512,489) 報酬:『帝王の宝石箱』×1個、110,000ドルチェ クエスト内容 クサッテモタイから「くさってないにく」×10を集め持っていく。 水を司るもの + ... 始点:ゴーフレット(座標:512,489) 報酬:なし クエスト内容 ウルディナに海岸に来てほしいと頼まれる。 クサッテモタイから「メディスタ」×5を集め、海岸(座標:536,580)に持っていく。 クサッテモタイから「しかくい砂粒」×5を集め、海岸に持っていく。 ズワイハーミンから「含み笑いのトゲトゲ」×5を集め、海岸に持っていく。 丸い海で歌を歌うクジラ + ... 始点:ルートビア(座標:536,580) 報酬:なし クエスト内容 ウルディナを追って海の中(座標:507,567)に向かう。 海底のダゴンの遺跡で『嬉し泪のオカリナ』を探してくるよう頼まれる。 海底(座標:480,548)ハクトー・オート―を見つける 海底(座標:487,556),(座標:504,532),(座標:543,506)で海草を刈り、『嬉し泪のオカリナ}』を手に入れる。(戦闘にはならない) ウルディナ(座標:507,567)に持っていく。 持ち主のギモーヴ(陸上座標:439,529)に話しかける。 小宇宙の名を持つ災厄 + ... 始点:ギモーヴ(座標:438,529) 報酬:なし クエスト内容 ギモーヴに話しかけると、精霊騎士に『瑠璃色の水晶片』を町はずれの仲間に渡してほしいと頼まれる。 町はずれ(座標:605,533)へ向かい、ズッコット(LV153)と戦闘。 (座標:604,619)へ向かう。 オクトヒメを倒して『瑠璃色の水晶片』を手に入れ、(座標:604,619)に向かう。 海岸(座標:539,585)に向かう。 亜麻色サンゴの乙女 + ... 始点:ルートビア(座標:539,585) 報酬:なし クエスト内容 海中(座標:507,567)でアオからボーロの話を聞く。 町でゴーフレット(座標:513,489)と話す。 海岸(座標:528,615)に向かう。 北東の高台のふもとの泉(座標:571,601)でリスキー(LV155)×8と戦闘。 海の近くの砂浜のはしっこ(座標:539,585)に向かう。 左の宝箱に物を入れて3回転し取り出す。右の宝箱に物を入れて2回転する。そのまま真ん中の宝箱を開ける。 記憶を取り戻すか選択するが、サンゴは奪われてしまう。 リトルコスモスの復活 + ... 始点:ルートビア(座標:539,585) 報酬:なし クエスト内容 (座標:565,640),(座標:623,587)でマジョ(LV140)と戦闘。 (座標:,)でマジョと戦闘。倒されて進む。つまり負けイベ。 ふるびた杖 + ... 始点:ルートビア(座標:513,495) 報酬:なし クエスト内容 「明るき魔力の片鱗」×10と「暗き魔力の片鱗」×10を集める。 「明るき魔力の片鱗」×10は、昼に海の中の砂の流れる滝あたり(座標:506,497)でグレートマッシロコ(LV154)と戦闘後手に入る。 「暗き魔力の片鱗」は夜に町を出たあたりにある赤い花の咲くあたり(座標:620,567)ディアノコツ(LV141)×10との戦闘後手に入る。 (ゲームの仕様として現実の1時間で1日が経つ。) (時間になった場合、(座標:513,495)の会話で今の時間なら手に入るといわれる) (座標:513,495)に向かう。 光と闇の遣い + ... 始点:ルートビア(座標:513,495) 報酬:なし クエスト内容 海岸付近(座標:548,633)に向かう。 町の入り口(座標:,)に向かい宝箱を5つ見つける。(入口から見て焚火の奥の荷物置き場、右奥の畑の手前、魚屋の屋根の上、左の船の甲板、左後ろの鉄塔と木箱の間)切る色によって変わりはない。 再度(座標:548,633)に向かう。 冒険家のたましい + ... 始点:ルートビア(座標:548,633) 報酬:なし クエスト内容 町の中央(座標:506,495)に向かい、ウミセカワハラ(LV157)×3と戦闘。 クラッカーを探して(座標:409,535)に向かう。 町の中央(座標:506,495)に向かい、海岸で『かすかな流木』×5を拾ってくるよう頼まれる。 (座標:545,560)(631,552)(635,599)(584,603)(526,619)で『かすかな流木』を拾い、町の中央に戻る。 災厄よサラバ + ... 始点:ルートビア(座標:506,495) 報酬:なし クエスト内容 海の底(座標:547,512)に向かい、マジョ(LV140)と戦闘。 フィネムムンディ(LV150)と戦闘。 海岸(座標:537,577)に向かう。 巨人のたくらみ + ... 始点:ルートビア(座標:537,577) 報酬:なし クエスト内容 海中(座標:490,524)に向かう。 海岸(座標:537,577)でミーレスナンバー(LV135)×12と戦闘。 空からの使者 + ... 始点:ルートビア(座標:537,577) 報酬:なし クエスト内容 ゴーフレットに話しかけ、町の中央(座標:506,495)、(座標:433,490),海底(座標:521,547)に向かう。 トドノツマリを倒して、『赤の眼晶』『青の眼晶』『黄の眼晶』『緑の眼晶』『黒の眼晶』を集めナツメグに届ける。(イベントアイテムのためバックに表示されない) 精霊大集合! + ... 始点:(座標:521,547) 報酬:なし クエスト内容 ゴーフレットに話しかけ、4つの資材置き場から材料を集める。 町の高台(座標:537,503)に向かう。 海岸付近(座標:546,622)でモエスギールバット(LV150)と戦闘。 町の高台 (座標:537,503)に向かう。 ほしをつぐもの + ネタバレ注意 遂に巨人の塔へ乗り込むことに成功した主人公と精霊達。 塔を進んでいくと、ルートビアで襲いかかってきた謎の科学者(名前を忘れました)が、以前よりも更に戦闘力を向上させたという改造ミーレスを引き連れて立ち塞がる。そのミーレス軍団を退けると、その科学者は観念したのかミーレスが生まれた経緯を語り始める。 今まで現れたミーレスが主人公と瓜二つなのは、彼(彼女)達が他でもない主人公のデータを基にして作り出された人造人間であるためだった。主人公は他の人間と比べて魔力が非常に高く、それを基に作ったミーレスはやたらと高性能だったのだという。それを語り終えると、彼は捨て台詞を吐いてどこかへ逃げ去ってしまった。 更に先へ進み、扉の仕掛けを解いたり警備用のロボットを倒したりしながら最奥地へ進んでいくと、そこには仰々しいエネルギーを渦巻いた祭壇とボディの姿が。秘法を既に完成させたというボディだが、秘法を阻止したい主人公達とは案の定相容れず敵対。 ナイフを手に襲い来るボディを退けると、追い詰められた彼は秘法とかつて世界の奥底に封印されていた巨人の力をも取り込み、巨人と融合したかのような異形の姿へと変貌してしまう。 ウルディナの説得にも耳を貸さず、精霊すら素手で退ける程の力を得て父親と巨人族を虐げた世界への復讐を誓うボディだったが、徐々に星霊の力を取り戻しつつあった主人公には敵わず。最終的に「星霊が出てくるようじゃどうにもならなかったか」と観念する。 ボディを退け、ナクパタルの秘法を封印しようとする精霊達だったが、この秘法が生み出す膨大な魔力を使えば、今度こそ主人公の記憶と星霊の力を完全に取り戻せるかもしれないのだという。そうすれば星霊の力でナクパタルの秘法を完全に消し去り、あわよくば世界が崩壊する運命を回避できるかもしれない。 しかし、イフリン曰く星霊としての力を取り戻した瞬間、主人公は世界の概念と一体化してしまい、人間として主人公を知る人々からは忘れ去られてしまうのだという。 記憶を取り戻し、星霊の力で世界を平定するか、記憶を取り戻さず、今の姿のままで世界に生きる人々と共に苦難に立ち向かうか。主人公の選んだ選択は…。 + ~記憶を取り戻さなかった場合~ 「星霊として何かをしなくても、人々と力を合わせれば辛い運命だって変えられる。」記憶を取り戻さず今の姿のままで生きる選択をした主人公達は、一先ず祭壇にあった秘法を封印する。 世界崩壊の運命を回避したかはさておき、所変わってガトーヴィレッジでは村人達が集まり何やら物々しい雰囲気。今までにない規模のケモノの大群が村めがけて押し寄せており、このままでは村は大惨事になってしまう。 村人達が途方に暮れる中、その中心に颯爽と降り立つ主人公。状況もすべて把握済だとコルネを感嘆させた主人公は先んじて武器を取り、村人達と共にケモノに立ち向かっていくのだった…。 称号「王者の片鱗」入手後、ガトーヴィレッジ近くの海岸からスタート。 始点:ルートビア:町の高台(座標:537,503) 報酬:称号(最後の選択肢で変化) クエスト内容 + ... ルートビアに出現した入り口から巨人の塔へ侵入し、先へ進んでいく。イベントで数回閉じ込められる点を除けば、基本的に雑魚は出現しない。クエスト完了後は入り口が消滅し、巨人の塔に入れなくなる。特に取り逃すようなアイテムはないが、スクショ等は今のうちに。 まさかのエクストラシナリオ第5章『精算』で巨人の塔が再登場を果たす。写真など撮り逃した際にはエクストラシナリオ第5章まで進むとまた入れるのでその時に。エクストラシナリオの巨人の塔も構造自体はこのクエストと同じである。 途中の!マークでミーレス改4体と戦闘。イベント上ではたくさんいるが、ルートビアの時と違い4体しか出現しない。ワープ直後に殴られると回避が難しいため、逃げ回るのではなく適度に空振りを誘うように立ち回ると良い。 実は!マークを無視すれば普通にスルーできる。ただしラスボスを倒してしまうと戦えなくなるため、シナリオ的な意味でもできるだけ倒しておきたい。 閉じた扉は別フロアにあるスイッチを叩けば開く。途中閉じ込められてサタマシーン数体と戦闘になる。 最深部でラスボスに話しかけると戦闘。第一形態は片手剣で斬り付けてくるだけなので大して強くない。 第二形態(Lv160)になるとミカマシーン2体を引き連れ、拳のスキルと上級大将のように地面を爆発させる技も使用してくるようになる。 撃破後の選択肢はエンディング以降の会話と得られる称号に影響する。どちらが悪いわけではないので単純にお好みで。エクストラシナリオでの会話も結末相応に変わるが、大筋は一緒。 エクストラシナリオ →エクストラシナリオへ コメント 第9章以降は載せないのですか? -- ななな (2017-08-21 17 27 35) 報酬はいいので内容を…w -- 名無しさん (2018-05-23 13 22 20) 内容がないよぅ(笑) -- 名無しさん (2018-08-12 21 37 59) 6年も経ってこれ。 -- 名無しさん (2019-03-25 15 14 01) 書いてください!今私六章です。ぷちくろの名前です -- 美珠亜 (2019-03-26 16 05 34) 9章載せてください。お願いします! -- 美珠亜 (2019-03-29 11 33 24) 「ほしをつぐもの」からエクストラとは言えないほど先があるので事実上11章目として追加したほうがいいでしょう。 -- 名無しさん (2019-04-02 00 31 31) ほしをつぐものだけyoutubeで見たんだなww -- 名無しさん (2019-04-03 12 01 58) なぜ裸の大将? -- 名無しさん (2019-04-06 21 38 35) 9章の初め少し埋めたけど、あらすじと攻略隠す部分逆だよねー。 -- 名無しさん (2019-09-08 21 56 58) 長すぎてスマホじゃ重くて見にくいので5~6章あたりでページ分けていいです?10日まで反対か返事が無ければ勝手にやりますね -- 名無しさん (2019-09-08 22 03 58) スミマセン...9章風のゆくえって本当にありましたか? -- 名無しさん (2019-09-09 00 38 18) 重くて見にくいのは同意だけど、ページは一つにまとまっていた方が便利かな -- 名無しさん (2019-09-09 21 12 34) あと表示をPC版に変えると若干処理が軽くなって見やすい気がする -- 名無しさん (2019-09-09 21 14 41) うーん、若干じゃすまない重さが不便と考えたのですが・・・このままで -- 名無しさん (2019-09-09 21 27 13) やはり、ほかの方の意見も聞いてみましょうか? -- 名無しさん (2019-09-22 23 08 24) ちょうど進めているので10章の途中からざっくり書きますね。ページは分けなくていいと思います。 -- 名無しさん (2020-05-01 01 39 15) 更新されてるううぅ! -- ふおおおおお! (2020-05-02 17 28 57) ↑ミス・ホー戦闘同位置で風の精霊とフクロウ開始。【363,291】で会話イベント後『不運なコケ』を集める。【286,241】、【330,181】でエスメラルギョLv135×12と戦闘、【204,243】の三ヶ所で採取。開始地点に戻りコケを渡して終了。 -- 名無しさん (2020-07-11 00 26 59) ↑イベントの報酬は無し。次のイベントが一階層なので【初期位置に戻る】を階層毎に繰り返せば時短にはなる。 -- 名無しさん (2020-07-11 00 31 37) 石ころの魔法、開始イベント後コバルギョから清らかな水晶塩×4集める(例:付近の【244,264】辺りでコバルギョLv121に段差上から魔法を撃っていれば安全に集められる等)。開始地点にて会話後【238,181】、【371,254】でギガノズラーLv160と1分間逃走戦闘イベント(ダメージが1しか与えられない)。開始地点で報酬を貰い終了。ミルクハイムへ。 -- 名無しさん (2020-07-11 14 34 52) 執政官の思い出、開始後『黄金のチェス駒』をボンボリーノに(初期位置に戻るでok)、『象牙色の判子』を【714,437】シュトルーデルに(ワールド・ミルクハイムでok)、街の入り口付近等にいるジャッグルルを20討伐後【695,437】付近で会話イベント、【613,416】で採掘イベント(何個か鉱石オブジェクトを壊すと終了)、開始地点でアップルと会話して終了。 -- 名無しさん (2020-07-11 15 03 03) 潮風を探して、開始後街の入り口【696,437】、【645,403】# -- 名無しさん (2020-07-11 15 17 14) ↑【597,329】、【568,279】、【535,220】にて終了。ルートビアへ。 -- 名無しさん (2020-07-11 15 27 20) 【530,580】に降り立った後【599,627】にて潮騒の -- 名無しさん (2020-07-11 15 33 32) ↑『潮騒の街にようこそ』が開始(三回勝負)。イベント後【603,536】にて再度イベント(1回で終了)、【512,489】、【394,598】(【493,509】で短縮可能)、町長に報告して終了(選択肢はどちらでも良い)。 -- 名無しさん (2020-07-11 15 47 25) サンゴはどこか、開始後町中のパンドーロ、ファッジ、ベニエと会話、浜辺【532,575】、町長に報告して終了。 -- 名無しさん (2020-07-11 15 58 10) 以上、攻略抜け保管。このコメントを移すなり消すなり好きにして下さいませー( 0w0)ノ -- 詩維 (2020-07-11 16 03 53) (訂正、保管→補完) -- 名無しさん (2020-07-11 16 05 02) 反映分削除 -- 名無しさん (2020-08-14 01 44 43) 『潮風をさがして』まで反映しました -- 名無しさん (2020-08-24 00 47 04) 10章冒頭反映しました -- 名無しさん (2020-08-25 15 34 02) 9章『おそろしの森』、『まいごのまいごの』の始め、『風のゆくえ』がまだ空いています -- 名無しさん (2020-08-25 15 35 46) 後はあらすじらしきものが多数空いてます。これは絶対要るものですか…? -- 名無しさん (2020-08-25 15 37 42) るーと -- 名無しさん (2021-01-07 21 30 34) ルートビアの最後まで更新していただきありがとうございます -- 名無しさん (2021-01-07 21 31 10) 10章の「巨人の企み」水中の戦闘イベントはケンカを買わない選択肢をずっと選択すると戦闘回避できました -- z (2021-11-04 15 10 11) 7章最後のパネットーネのクエスト討伐×10体ずつになってました -- 名無しさん (2022-01-10 12 32 30) 9章前後追加しました -- 名無しさん (2022-01-23 13 20 51) 風のゆくえ無かったような…?ドルチェが「意外と君せっかちだねぇ人生長いしもっとのんびり…」云々言ったあと、次に話しかけたらそのまま返事が来たってなったはず -- 名無しさん (2022-01-23 16 47 35) 名前 コメント
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意見・質問 質問 Q、 バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ 攻略wiki とコラボして欲しいです - レン 2012-04-25 20 13 01 最終編集 2 か月前、Æskja 政教分離の歴史 政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する[* 1]。したがってここでは政教分離原則成立の社会的背景を、近代国家とそれに先行する政治社会の宗教政策との関連性に基づくものとしてその歴史を概観する。 バチカン市国 中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はバチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている 基本的な視野 政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。 近代国家成立史として カール大帝の戴冠(ジャン・フーケによる1460年ごろの作品) カール大帝は800年教皇レオ3世によって加冠され、キリスト教西ローマ帝国の皇帝となった。ゲルマン的普遍世界の成立を告げる重要な画期であったが、後代カール大帝はこのとき塗油によって聖別されたと信じられた[* 2]。厳密に言えばそれは後代のアナクロニズム(時代錯誤)であったが、のちに「国王が教皇によって聖別されること」が王権に対する教権の優位の有力な根拠となった一方、一度聖別された国王が聖性をもつことの根拠ともなり、のちには血統霊威の観念[* 3]などと結びついて王権神授説に発展し、絶対王権の根拠ともなった 近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。 このような状況は西ヨーロッパに固有の問題であると言えるが、近代国民国家が西ヨーロッパで成立したと考えられているために、国家と宗教の関係性の歴史が近代国家の成立史において主要な論点として意義を有することになる。現在の国民国家は例外はあるものの、ほとんどの国が政教分離を原則としており、また近代国家の克服の対象であった教会の側では、中世以来のカトリック教会の首長であるローマ教皇は、一方でバチカン市国という一つの近代国家の首長となり変容を遂げた。 霊性史として さらにより宗教史的・神学的な視点から、キリスト教の宗教的領域(「霊性(スピリトゥアリタス、Spiritualitas)」)についての歴史として、政教分離の歴史的経緯を捉えることも出来る。「霊性」とは本来「洗礼の際、神によって注がれた霊に遵って生きること」、つまりキリスト教的倫理に遵った生活のことであった[1]。 この「霊性」という言葉は、使われはじめた当初から新プラトン主義的な、身体や物質と対立する意味での「魂(プシュケー)」に概念的な接近を見せており[* 4]、12・13世紀の文献においては、政治や経済といった人間の世俗的な概念に対する、人間の「超自然性」「非物質性」を意味している。さらには国家に対する教会法的意味での教会の聖職を指す用語となった[6]。中世の政治思想において国家は、「世俗的なるもの」に対する「霊的なるもの」の優位という階層秩序観に基づき、教会への奉仕を求められることになる[* 5]。これは国家が道徳倫理においても卓越性を持つと考えられていた古典古代の政治思想と著しい対照をなした[* 6]。 すでにアウグスティヌスにおいて、政治秩序とキリスト教倫理の間の緊張関係は「地の国」と「神の国」という超越的な世界観との関連において捉えられていたが、カール大帝の戴冠以後、皇帝と教皇の権力という現実と密接に関連していくことになる。中世盛期に登場したトマス・アクィナスにおいては、政治社会とその秩序は、より上位の神学的・倫理的共通善を実現するための外的諸条件の確保のためにあるものと考えられている。 ところが中世後期のパドヴァのマルシリウスにいたると、逆に国家の平和を維持するという観点から教皇至上権批判が展開される。さらに同時期のウィリアム・オッカムにおいては、政治秩序を自然法的規範よりは自由な合意形成によって形成すべきであるという考えが提示されている。このオッカムの議論は抵抗権の思想に直接的に結びついた。 ルネサンスの時代には、神や普遍的自然法思想に支えられた階層的秩序観は動揺し始め、この時期に登場したニッコロ・マキアヴェリは政治と倫理道徳の結びつきを問い直し、政治原理のキリスト教からの自立を促した。こうしてキリスト教的道徳規範から独立した政治社会は、トマス・ホッブズによって支配契約関係として捉え直され、このような近代国家においては宗教も国家権力に従属すべきとされた。ジョン・ロックはホッブズの理論を批判しつつ継承したが、彼においては国民国家の統一を守るために、宗教の問題はもはや公権力が関知することではなく、政策的に寛容な立場を取ることによって私事として処理されるべきものとされた。 今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。 正教会の事情 「ビザンティン・ハーモニー」も参照 カトリックとは異なり、ビザンツ(東ローマ)皇帝の強い影響下にあった正教会においては、権威において教会の首長であるコンスタンティノープル総主教がビザンツ皇帝を上回ることはなく、公会議も皇帝によって招集された[* 8]。行政区分に基づいた主教管区をおく伝統によって、独立した国家ごとに主教管区が設けられ、ビザンツ帝国の後期には帝国の縮小に伴ってバルカン半島諸国で主教管区がコンスタンティノープル総主教の管轄を離れ、独立する傾向にあった。 ビザンツ帝国が滅亡し、教会がオスマン帝国の支配下にはいると、コンスタンティノープル総主教は帝国の拡大に伴ってバルカン半島や西アジア・エジプトなどに管轄を広げ、アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの三総主教座も事実上その管轄下に収めることになった。しかし一方でオスマン皇帝の意向を重視した総主教が選出される傾向が増し、聖職売買が横行するようになった。またこの時代の東方教会においては聖職者・修道僧の識字率の低下も見られた。このような状況は東方における神学教育の低迷をもたらし、カトリックの神学校に留学する正教神学徒も増加した。西ヨーロッパで宗教改革が起こると、カトリック・プロテスタント両派ともバルカン半島を中心とする東欧国家での布教活動を重視するようになり、正教側も対抗改革派とくにイエズス会の神学校に影響されて、神学校を設立し、正教神学校はのちに近代国家の宗教政策において一定の関与をすることになる。 18世紀以降オスマン帝国が縮小に向かうと、バルカン半島で民族独立運動が激化し、それに伴ってバルカンの民族教会は総主教から独立しようとするようになった。このような動きに対し、コンスタンティノープル総主教は概して否定的で、これら民族教会の正教徒よりはオスマン皇帝に近い立場にあった[* 9]。オスマン帝国の縮小とともにコンスタンティノープル総主教の管轄も狭まり、第一次世界大戦後にトルコ共和国が成立してオスマン帝国の本体が国民国家となると、総主教は形骸化して名目的な地位と化した[* 10]。 歴史的展開 近代のキリスト教は東西いずれの教会においてもその影響力を低下させた。ここでは近代社会と宗教について、とくに近代国家とキリスト教の問題を焦点とすることとし、その際近代国家成立の前提としての近代以前のヨーロッパ史における世俗王権とカトリックの教権の関係をまず概観する。さらにその背景となる思想史についても適宜記述する。近代以降については正教世界にも視野を広げて記述するが、近代国家との関連性を重視するという観点から中世以前の正教世界についてはここでは詳しく触れない。 近代以前の正教世界については正教会・東ローマ帝国・キリスト教の歴史を、正教会における国家と教会の関係を示す政治理念についてはビザンティン・ハーモニーを参照 概要 四福音書記者 新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。鷲で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下) 「歴史的展開」節の記述は政治社会とキリスト教の関係について、政治史・国家史・教会史・思想史の多岐にわたって概説するため、ここでは便宜のために要約を示す。 古代のキリスト教 「古代のキリスト教思想」では、キリスト教本来の思想傾向と古代に現れたキリスト教の思想を、政治思想史の観点から概説する。 「初期キリスト教と国家」ではパウロの思想やアウグスティヌスに代表される教父哲学を概説する。イエスの思想は内面と政治社会を区別する特徴的な思想を形成し、パウロは神の恩寵という観点を持ち込むことでイエスの思想を一つの宗教にまで高めた。アウグスティヌスの政治思想はのちに中世の異端思想や宗教改革に影響を与えた。 またとくに「両剣論」は教皇ゲラシウス1世が唱えた「教権と帝権がともに神に由来する」という考え方で、中世を通じて教権と王権の関係性についての有力な理論的根拠の一つであった。 加えて「初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝」では、古代の典礼に見られるキリスト教に特徴的な内面性を概観し、皇帝礼拝とキリスト教迫害についての問題を取り上げる。 中世普遍世界 「キリスト教普遍世界」では、一般に封建社会、あるいはヨーロッパ中世として知られる時代での、世俗国家と教権のありかたの推移を概説する。 「教皇国家の成立」では、教皇権の経済的基盤ともいうべき教皇領の成立までを概観する。 「ゲルマン諸民族の世俗国家」では、西ローマ帝国滅亡後に西ヨーロッパに割拠したゲルマン人の諸国家における国家と宗教の関係を概観する。この時期のゲルマン人の王権は後世に比べると世俗的で、教会の宗教的権威に依存する面が少なく、領域内の教会については実質的な支配を及ぼしていた。ただ国家ごとに内実は多少異なり、地中海に面した西ゴート王国やヴァンダル王国と内陸部のメロヴィング朝は経済的条件も文化的条件もかなり異なっていた。 「政治的宗教的統一体の自覚」では、6世紀における政治思想としてトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世を取り上げ、ビザンツ帝国による統一的支配という観念が西欧地域で薄れ、新たな領域国家意識が発生し始めている様子を概観する。 「ランゴバルド族と中世初期の南イタリア」では、東ゴート王国の時代から東ローマ帝国の支配を経て、分裂する南イタリアの情勢を概観し、12世紀のシチリア王国の成立に至る。 「カロリング朝の帝権」では、メロヴィング朝の衰退からカロリング朝が成立し、やがて西ヨーロッパ世界で唯一の世俗的至上権、皇帝権を獲得するまでに至る過程を概観する。 また初期の教権と帝権について、その理念的背景として「カロリング朝期の政治思想」を概観する。 「グレゴリウス改革と教権の絶頂」では、11世紀から始まる教会の改革運動と13世紀の教皇権の絶頂期を概観する。 「周縁における権力と教会」では、西ヨーロッパのキリスト教世界の周縁に位置したイングランド王国とイベリア諸国およびスカンディナヴィアにおける、中世前半期における教会と王権の関係を概観する。 「等族国家と公会議主義」では、封建国家に身分制に立脚した議会主義が成立し、それにより国民単位の政治社会の基礎が築かれたことを概説する。さらに議会主義と国民単位の類似制度が教会においても成立し、公会議主義となった。 「王権の超自然的権威の獲得過程」では、王権が教権に対抗するために一定の宗教的権威を獲得していった過程を概説する。共通にキリスト教思想に立脚しながらも、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝の宗教的権威が「ローマ的」であったのに対して、イングランドのそれが「アングロ・サクソン的」、フランスのそれが「フランク的」であり、そこに王権が国民的な国家形成の核になる端緒があった。 「カトリック大国、スペイン」では、この時期あらたに大国としてヨーロッパ政治に主要な位置を占めることになったスペインの初期宗教政策について概説する。スペインがカトリック信仰に熱心であったのは事実とはいえ、その王権や文化が必ずしも教権に盲従していたわけではない。 教会の正統な信仰とは別次元で、中世の民間にはやや異なった信仰が存在した。「中世の民衆信仰」では、このような民間信仰を概観する。 「宗教改革前思想史」では、中世後期の異端思想と人文主義について概観する。それらの思想の立つ政治的立場と背景にある政治状況についてもある程度言及する。また宗教改革との関連性も指摘する。 宗教改革以降 「近代社会とキリスト教」では、宗教改革以降の近代社会における国家の宗教政策、および時代ごとのキリスト教に関する思想の変遷を概観する。 「宗教改革(プロテスタント側から)」では、ルターの宗教改革がなぜ宗教問題にとどまらずに政治的な問題に転化したかということについて簡単に説明する。 「ドイツの領邦教会制度」では、ドイツにおける宗教改革の初期の帰結としての領邦教会制度が成立するまでを概観する。 ドイツで宗教改革が始まった頃、スイスでも同様に福音主義的改革が始まっていた。「スイス盟約者団と福音主義」では、宗教改革の第2戦線ともいうべきスイスの宗教改革を概観する。 「宗教改革派の諸思想」では、宗教改革派の諸思想を概説する。 「フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」では、フランスの改革派ユグノーとフランス王権の宗教政策から絶対主義の形成過程を概観する。 「低地地方と宗教改革」では、ネーデルラントにおける独立運動と、それによって成立した新教国オランダの初期の状況について概観する。 日本 「日本近代史における政教分離」では、明治維新以降日本国憲法発布までの日本の宗教政策について概説する。 古代のキリスト教思想(〜500年) 十字架を担うキリスト エル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像である。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された 具体的な世俗国家とキリスト教の関係性の歴史を、この記事では中世以降の政治史を中心に概観する。しかしながらそれに先だって、キリスト教本来の政治に対する思想傾向と以後のキリスト教と世俗国家の歴史に特徴的な影響を及ぼすいくつかの思想を概観する。 初期キリスト教と国家 ここではまずイエスの思想と考えられるものの中から、政治社会に関係すると思われるものについて概説し、次にパウロの思想について説明する。その後アウグスティヌスに代表される教父哲学の思想を概観する。とくにパウロの「ローマの信徒への手紙」とアウグスティヌスの思想は後世のキリスト教に決定的な影響力を及ぼしており、その歴史上で繰り返し回顧される重要な思想である。 イエスの思想の歴史像 詳細は「イエス・キリスト」、「救世主イエス・キリスト」、「史的イエス」、および「ナザレのイエス」を参照 ここでは新約聖書に現れるイエスの思想の中から、とくに政治社会に言及する限りにおいて重要なものを指摘する。イエス思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである。 イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序に基づく生活が始まる。新しい秩序はまず愛の共同体であって、そこでは人々が神の愛を無条件に受け入れることで一切の対立が消滅する。この「神の国」に参加するために、人は罪を悔い改め、欲を捨てて神に従った生活態度を取らなければならない。基本的にはこれは世俗的秩序の否定であり、人間の内面の重視と政治社会の本来性の否定であった。イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べて、世俗社会と精神世界を区別し、「神の国」の到来によってやがては内面的な精神世界が世俗社会にとってかわると述べた。しかしイエスによれば、現存する世俗秩序は決して無意味ではない。「神の国」にはいるためには現世でのおこないが決定的であると説く。イエスは現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる。 以上のイエスの思想に鑑みると、二つの特徴を指摘することができる。一つは政治社会と内面の区別、もう一つは政治社会の価値が「神の国」の価値とほとんど正反対であるということである。このようなイエスの課題はまったく政治社会を超越しており、その意味で非政治的であるが、現実の政治社会に批判の目を向け緊張をもたらすという意味で政治的であった。後述するように、キリスト教の教会が中世において、世俗権力を超えた有力な政治社会となっている点が見られるのも、キリスト教が本来的に現世を超越している点に求めることができる[* 11]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] パウロ パウロ ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教を言語化し、神学的説明を加えた。これは後代の信仰理解に決定的影響を与えるものであった 詳細は「パウロ」を参照 パウロはもともとイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となった。彼はキリスト教思想において最も重要な人物の一人[* 12]で、その著作「ローマの信徒への手紙」[* 13]は以降のキリスト教思想に繰り返し影響を与えた。 パウロにおいては罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われることがないのである。そしてパウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという[* 14]。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。 政治思想としては、受動的服従が知られる[* 15]。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない[* 16][* 17]。だが、それは内面の良心の故であり、決してそれらの権力それ自体に価値があるからではない。その正統性はあくまで神によって認められている限りであるという。このようにパウロは「ローマ人の信徒への手紙」の中でキリスト教の将来はローマ帝国とともにあると考えており[* 18]、ローマ帝国の支配を無条件に肯定している[26]。 また注目すべき思想としては、「自分の手で働くこと」を推奨している[* 19]ことで、これは明らかに古典古代の労働観に反する[28][* 20]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教父哲学(アウグスティヌス) 詳細は「アウグスティヌス」を参照 アウグスティヌスはキリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父のなかで、とくに後世に大きな影響を残した人物である[* 21]。 アウグスティヌス ボッティチェリによる1480年ごろの作品。アウグスティヌスの思想はキリスト教的歴史意識を確立し、中世の異端運動や宗教改革にも大きな影響を与えた 『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように、「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。またアウグスティヌスは、人間の自由意志について論じ[* 22]、古代以来の「自由」という言葉を「神との関係における人間そのもののあり方に関わる言葉」[36][* 23]として再定義し、のちの思想史に大きな影響を与えた。その一方で人間は本来的に堕落しており無力であるというパウロの思想が踏襲され、神の恩寵が絶対的であることも説かれた。 このようなアウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった[* 24]。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも決定的な影響を与えるものであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 両剣論 「両剣論 ("theory of two swords")」とは世俗的な政治権力と宗教的権威の関係性について述べたもので、もともとは「ルカによる福音書」のなかのイエスの言葉に由来する[* 25]。教皇ゲラシウス1世はこれを俗権と教権がともに神に由来することを述べたものであるとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝が並列的に存在していることを論じた[* 26]。この両剣論はその本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものであった。 中世になると、両剣論には二つの異なる立場から相反する解釈がおこなわれた[* 27]。ひとつは皇帝に有利な解釈で、帝権が直接神に由来することは世俗的世界での皇帝権の自立性の根拠となった。もうひとつは教権に有利な解釈で、教皇が両剣を持ち、一方の世俗的な剣を皇帝に委任して行使させるという解釈[* 28]で、教権の優位性の重要な根拠の一つとなった。 歴史的には、グレゴリウス改革以前、11世紀の頃には聖職叙任権も、ときには教皇の叙任権さえ神聖ローマ皇帝が「神の代理」として掌握しているというのが実情であった[42]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝 ステファノ その名前が明らかにギリシャ風であることからも分かるように、初代教会において、彼はヘレニストの代表であった。彼はファリサイ派によって石打ちの刑にされるが、ジャン・ダニエルーはこの殉教の裏側にキリスト教内部のヘレニストとヘブライストの立場の違いを見ている[43]。図はイタリアバロックのボローニャ派に属するジャコモ・カヴェドーネ (en Giacomo Cavedone) の作品 キリスト教はユダヤ教とは明らかに異なった礼拝観を持っていた。イエスは旧約的な神殿礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方でより内面を重視した新しい礼拝観を示した。「ヨハネによる福音書」のなかでイエスは あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。[44] と言っている。使徒時代のキリスト教徒であるステファノの次の言動には、このイエスの内面的な礼拝観がよく表れている。 神のために家を建てたのはソロモンでした。 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 『主は言われる。 「天はわたしの王座、/ 地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/ どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 これらはすべて、/ わたしの手が造ったものではないか。」』[45] 彼はエルサレムの神殿に直結したユダヤ教の祭祀を否定し、イエスの述べた新しい礼拝を強く主張したために、殉教にいたることになった[46]。 だからといって、初期のキリスト教会が外形的な表現を重視しなかったわけではない。集会堂としての教会は典礼の中心となったし、洗礼はキリスト教共同体としての「教会」への加入を視覚的に表現した。しかし一方で2世紀後半から3世紀にかけてのキリスト教著述家ミヌキウス・フェリクスは「私たちには、神殿も祭壇もない」ということを異教徒に対して誇った。教会は集会する場所であり、祭儀は建物としての教会堂に帰するのではなく、信徒共同体としての教会それ自体に帰するのである。初期キリスト教ではイエスこそが「祭司」であり「大祭司」で、そのキリストに繋がれているという意味で、教会が「祭司」なのであった[47]。 このような内面性の強いキリスト教の性格はローマ帝国で行われたいわゆる「皇帝礼拝」と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である「皇帝礼拝」を受け入れないキリスト教徒を、公共の宗教からの逸脱者、国家離反者として迫害したという説が歴史学者の間で長く論じられてきた。とくに自らを「主にして神」と称したドミティアヌスがこのような皇帝礼拝の要求者とされ、彼の治下に激しいユダヤ教徒やキリスト教徒の迫害が起こったと考えられた[* 29]ことから、迫害と皇帝礼拝は因果づけて考えられてきた。間接的には古代教会が日曜日を「主の日」として制定したことも、皇帝礼拝に対抗するキリスト教徒の信仰告白であったという見方も提示されてきた[49]。また「ヨハネの黙示録」の「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」[50]という記述も思い出されるであろう。 しかし、最近の研究によれば、そもそも「皇帝礼拝」という名で括られている祭儀は多様であり、内容においては極めて政治的な意味を持つものから宗教性の高いものまで、範囲においても都市国家規模から属州単位のもの、担い手も一様でなく、それらを統一的に「皇帝礼拝」という一語で把握することには飛躍が伴うことが示されている。黙示録の記述についても正確な史実を反映したものではなく、ドミティアヌス統治期に皇帝礼拝拒否が法廷での処刑につながったという見方は困難である[51]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト教普遍世界(500年〜1500年) 「中世」も参照 中世初期、5・6世紀の段階においては、ゲルマン人の侵入や西ローマ帝国の滅亡など歴史的な地殻変動を象徴する事件が起きた後であったにもかかわらず、なお地中海をとりまくローマ世界はビザンツの帝権の下に存続していたと見ることができる。6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た。 しかしながら、7・8世紀になると、地中海を中心とした統一的な世界はもはや完全に消滅し、西ヨーロッパはローマを中心としたカトリック世界として、コンスタンティノープルを中心とする正教世界とは分離する傾向が決定的となる。その要因としては以下の3つを挙げることが出来る。 イスラーム教徒の侵入 ビザンツ帝権の弱体化 ローマの自立 まず、イスラーム教徒が急速に勢力を拡大し、北アフリカ・イベリア半島を制圧するに及んで、従来これらの地で高度に発達していたキリスト教の文化は衰退した。今日に至るまでイベリア半島を除くこれらの大部分の地域はイスラーム圈にとどまっている。とくに教会会議が頻繁に開かれ、中世初期において西方のキリスト教世界の一つの中心であったイベリア半島陥落の影響は大きい[* 30]。 次にビザンツ帝国は一時的に地中海を回復したものの、イスラーム教徒の東地中海地域での拡大とランゴバルト族のイタリア半島侵入によって支配領域を縮小させ、西地中海での覇権を維持することが困難となった。これ以後ビザンツの帝権は南イタリアの支配地域を通じて間接的にしか西方世界に影響を及ぼせなくなる。 第三にローマ司教である教皇は上記のようなビザンツ帝権の影響力低下に伴って、西方世界において強力な庇護者を別に求めねばならなくなった。と同時に、東方から自立して西方世界の宗教指導者たらんと積極的な布教活動に乗り出す。8世紀ビザンツで起こった聖像破壊運動に対する教皇の対応の仕方はこの表れで、教皇は西方教会をして、この運動の蚊帳の外におくことに尽力した。 こうして東ヨーロッパと西ヨーロッパは、ローマ帝国とキリスト教という共通の根を持ちながらも、それぞれ独自の発展をしていくことになる。この節で中心的に述べるキリスト教普遍世界とはこのうち西ヨーロッパを中心としたカトリック世界のことである[* 31]。 教皇国家の成立 天国への鍵を授けられるペテロ イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている 詳細は「教皇領」を参照 ここではやや時代を遡って教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。 西ローマ帝国の滅亡と西地中海世界 西ローマ帝国の領域にゲルマン人が多数の国家を形成し、西ローマの皇帝権が没落して古代的な帝国支配が弛緩すると、古都ローマはほとんどゲルマン人の支配の間に孤立した形となり、東ローマ帝国とのつながりは徐々に薄れて西ローマ帝国の領域は独自の発展をしていくようになる。しかしながらゲルマン人たちが西ヨーロッパで優勢を占めているように見えても、かつてのローマ帝国の西側と東側は地中海によって繋がれており、文化的経済的な繋がりは維持されていたのであって、突然にローマ的な文明がゲルマン的な文明になってしまったわけではない。地中海世界での東ローマ皇帝の優位性はいまだ揺らいではいなかったし、ゲルマン人たちは皇帝の支配を名目上は受け入れて、彼ら自身が皇帝になりかわろうという意図を持つことはほとんどなかった。ただ一方でこのような状況がローマ教皇に一定の自立性の根拠を与えたのであり、東方の正教会とは独自のカトリック教会が生まれる素地がここにあったことは間違いない。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ペテロの後継者 ローマ司教が教会において優位性を立証できるとすれば、それはまずイエスの言葉に求められるべきであったし、事実そこに根拠が見つけられた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた[* 32]。 ただ初期の教会において、このことがあまり重視されていたわけではなかった。4世紀にはローマ司教は有力なイタリア大教区を管轄しており、「西ローマ総大司教」とも見なされていたが、一方で一般信徒の面前で司教の選挙によって選ばれた、小さなローマの聖堂聖区の司教でしかなかった。ローマ司教の特別な地位が認められたのは343年のサルディカ宗教会議であって、それ以前は公式なものではなかった。この時期の教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年にヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。4世紀の教皇シリキウスはテサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアとマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせている。5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及ぶようになった[54]。 しかしこのことでただちにローマ教皇の地位が、後世のように独自の権威性をもって普遍的な優位を確立したわけではない。東ローマ皇帝ユスティニアヌスがイタリア半島をローマ皇帝の支配の下に回復すると、彼はローマの司教も皇帝の統制に服するべきであると考えた。教皇の側もそれを受け入れ、帝国の支配に復帰することをむしろ歓迎していた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教権の自立化への動き カール大帝 デューラーによる1510年の作。教会側が教皇の手による戴冠に皇帝の根拠を求めたのに対し、カール大帝自身はあくまでその神授性を強調した。彼の名乗った称号は「神によって戴冠され、ローマ帝国を統治し、平和をもたらす、最も至高なる偉大な皇帝にして、神の慈悲によってフランク人およびランゴバルド人の王であるカール」であった。 ところが東ローマ帝国に結びついたことは教皇にとって必ずしも良い結果をもたらしたのではないことは次第に明らかとなった。東方でさかんにおこなわれていた神学論争が西方に持ち込まれる結果となり、しかも神学論争にしばしば政治的に介入する皇帝の姿勢は不満の種となった。北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示したし、ガリアとイベリア半島でも分離傾向が見られた。関係が変化するのは「大教皇」グレゴリウス1世の時代である。彼の時代にはイタリア半島にランゴバルド族が侵入し、再びローマは危機的な状況を迎えていた。グレゴリウス1世はフランク王国を重視して、これと友好的な関係を結んだ。もともと行政官として経験を積み、ローマ総督の地位についたこともあったグレゴリウス1世は、おそらく都市ローマの行政上における教皇の影響力を増大させた。ランゴバルト族に連れ去られた捕虜の買い戻し、ローマの破壊を防ぐ代償としてのランゴバルド族への貢納の支払いに教皇は積極的に関与している。このころから教皇は都市ローマの公共事業を担うようになったと考えられている。 分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、司教座を熱望する動きが上層階級に見られるようになっていた[55][56]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[55]。しかしグレゴリウス1世は司教座に対する支配を徹底して、ナポリの司教を解任し、メリタの司教を降格し、タレントゥム・カリャリ・サロナの高位聖職者たちを厳しい口調で批判した[57]。ブルンヒルドによるテウデリク2世・テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送った[* 33]が、実を結ぶことはなかった[59]。この当時のガリア教会は完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[60]。ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関する問題においてさえ、無力であった[59][* 34]。 グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織し、このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。ブリテン島はこののち北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となり、たとえばカール大帝の時代にはアングロ・サクソン人の伝道者たちが、大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派の牙城であった西ゴート王国のカトリックへの改宗に成功した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国 フランク王国でメロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、つづく教皇ステファヌス3世[* 35]はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息カールとカールマンに塗油の秘蹟を施した。 この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝も774年にイタリア半島へ遠征し、教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた[* 36]。つづく教皇レオ3世は800年、カール大帝をローマに招いてローマの帝冠を授け、彼に西ローマ皇帝の地位を与えた[* 37]。 かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった[* 38]。教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった [* 39]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ゲルマン諸民族の世俗国家 ゲルマン諸王国のヨーロッパ世界(526年 - 600年) ローマ帝国東ローマ帝国 ゲルマン系の国家フランク王国|東ゴート王国|西ゴート王国|ヴァンダル王国|ブルグント王国|ランゴバルド王国|アングロ・サクソン諸王国 その他の周辺民族ノルマン人|ピクト人|スコット人|ブルトン人|スラヴ人|テューリンゲン人|スエヴィ人|アヴァール人|ササン朝|アラブ人 西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡してもローマ世界は確かに存続していた。一見西ヨーロッパはゲルマン人の諸王によって分割され、モザイク模様を形成しているかのように見える。しかし彼らは「皇帝の名によって」統治したのであり、実際には東ローマ皇帝の超越的な主権に服していたと見るべきである。これらゲルマン族の国王は宗教的権威において支配したのではなく、純粋に世俗的なものであって、教会はこれらの国家にとって本質的な構成要素ではなかった。国王の即位に際して何らかの宗教的儀式がおこなわれていたわけではない[* 40]。ゲルマン人の王国では国王が教会の首長であり、司教を任命し、宗教会議を開催した。後世の国家とは異なり、これらの王国では世俗的支配者の同意なくして聖職者になることができなかった。ここでは西ゴート王国[* 41]・ヴァンダル王国・メロヴィング朝フランク王国を特筆し、それぞれの国家と教会との関係を記述する[* 42]。 西ゴート王国 西ゴート族はクローヴィスによって南フランスから追い出されると、イベリア半島のトレドに宮廷を定めた。このころの西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止されており[* 43]、このような分離の背景には信仰の相違があったと考えられている。大部分のローマ人がカトリックであったのに対し、西ゴート族はアリウス派を信仰していたからである[* 44]。西ゴート族は征服した土地のカトリック司教を追い出すことがあったが、これを信仰の違いに帰することはおそらく適切ではない。司教たちの追放の理由は彼らが国王の支配に抵抗したことに由来すると考えられており[* 45]、大部分の西ゴート王はカトリック信仰に寛容であった。 レオヴィギルド王[* 46]の時代にカトリックに改宗した王子ヘルメネギルドによる反乱があり[* 47]、つづくレカレド王の時代には王自身がカトリックに改宗した。こうして西ゴート王国はカトリック信仰を奉じるようになり、徐々に首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。589年から701年の間に18回もの宗教会議がトレドで開かれ、いずれも王が召集をおこなっている。これらの宗教会議は、後世のように狭い教義上の問題だけが取り上げられたのではなくて、世俗的な問題も議題とされた[* 48][* 49]。したがって出席者は聖職者ばかりに限られず、世俗の高官も臨席した。 とくに618年ないし619年の第2回セビリャ教会会議および633年の第4回トレド公会議ではセビリャのイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した[* 50]。トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。確実に知られるのは672年のワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ヴァンダル王国 アフリカ北岸に王国を築いたヴァンダル族の場合は西ゴート族とはかなり異なる。この王国は東ローマ帝国と敵対的な関係にあり、その宗教政策は政治的対立に基づいていた。ヴァンダル族はアリウス派を信じており、カトリック司教がローマを通じて東ローマ帝国に通じているのではないかと疑っていた。 ゲイセリクス王はカルタゴを占領すると、同地のカトリック司教クオドウルトデウスを追放した。以後24年間カルタゴには司教が置かれなかった。ゲイセリクスの後継者フネリクス王は晩年の484年に、かつてホノリウス帝がドナティスト[* 51]に出した告示を踏襲して、カトリック教徒を法の保護外とする告示を出した。要するに、ヴァンダル王国ではほぼその全時代を通じて、カトリックと王権の間に軋轢が絶えなかった。 カトリック聖職者は王権とそれに結びついたアリウス派に対する抵抗運動を指導した[* 52]ので、王権は弾圧を加え根絶しようとしたが、すでにアウグスティヌスの伝統が深く根を下ろしていた北アフリカの教会はこの弾圧に耐えた[* 53]。ただこのような混乱と迫害は、カトリック聖職者の離散をもたらし、彼らはプロヴァンス地方やカンパーニア地方、イベリア半島へ集団逃亡(「エクソダス」)した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] メロヴィング朝フランク王国 詳細は「メロヴィング朝」を参照 メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリクスとその子クローヴィスである。キルデリクスの時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した[* 54]。したがってフランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルドと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[78]。 メロヴィング朝フランク王国(600年ころ) クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した[* 55]ので、クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。 クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任され、三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。 613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった[* 56]。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。 聖コルンバヌス 聖コルンバの弟子であった聖コルンバヌスは、倫理的で厳格な修道制をガリア地域にもたらしてたちまち熱狂を巻き起こし、6世紀後半、一大修道院設立運動が起こった。図はブルニャートの聖コルンバヌス修道院にあるフレスコ画 クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策においても転換期となっている。クロタール2世は、ガロ・ローマン的セナトール貴族を支持基盤としていた王妃ブルンヒルドに反発したアウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[81]、従来のセナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かい、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[81] [82]。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができ、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回を数えるのみなのに対し、ロワール川以南では同時期40回を数えた[81]。ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も7世紀を境に、セナトール貴族中心であったものが、ゲルマン貴族が目立つようになってくる[* 57]。このようにゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである[84]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[83]。 のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した[* 58]。7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていたと見るべきである。 上述のように、メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。 王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた[* 59]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 政治的宗教的統一体の自覚 最後に、この時代の代表的歴史叙述家であるトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世の叙述を主に取り上げ、6世紀の思想状況において、部族国家が、また国家と宗教の関係がどのように捉えられていたかを概観する。 トゥールのグレゴリウス 『歴史十巻』扉 メロヴィング朝治下アウストラシアのトゥールの司教であったグレゴリウスは、彼が著したフランク王国についての基本史料『歴史十巻』によって知られる。彼のクローヴィスをめぐる歴史叙述には、「コンスル」や「プラエフェクトゥス」といったローマ帝国の官職名や、ビザンツ帝国の「パトリキウス」などの用語が使われている。このことが従来歴史家の一部で、特にビザンツ帝国の政治秩序にメロヴィング王権が組み込まれたという認識につながる根拠とされてきた。 しかし最近の研究では、それらの用語はビザンツの帝国法にのっとったものではなく、おそらく聖書の叙述に範をとったもので、グレゴリウスは皇帝とクローヴィスとの間に厳密に法的な関係を想定していたわけではないという見方が示されている[85]。さらに、従来部族の王を指す「rex」には部族名が付されるのが一般的であった。しかるに、グレゴリウスは西ゴート王を記述するのに「レックス・ヒスパノールム」 (rex Hispanorum) あるいは「レックス・ヒスパニアエ」 (rex Hispaniae) という称号を用い、その支配権を領土的観念で捉え始めている。同様に自らの属するアウストラシアの王を「われわれの王」と呼び、その王国を「レグヌム・フランキアエ」 (regnum Franciae) と呼ぶ。彼は自らの歴史叙述の中で、フランクの使者にビザンツ皇帝を「あなたがたの皇帝」と呼ばせている。彼の歴史叙述には皇帝によるフランク王へのガリア統治権委託の観念はなく、クローヴィス以来、フランク王はその征服活動によって自らガリアの支配権を打ち立てているという見方が示されているのである。彼が基本的にビザンツ皇帝にのみ「インペラートル」や「インペリウム」を使用していることは、ビザンツ帝国の優位性を認めている証左であるが、そこから自立した独自の西欧世界の萌芽が見られること、またそこに領土意識とおぼろげながらも一定の民族意識を見ることができる[85]。 グレゴリウスはまた、フランク王に司教を指導する力を認めている。549年のオルレアン公会議は司教の叙任にあたって、王権による事実上の司教任命権を承認したうえで、その介入に歯止めをかけようとしたものであるが、グレゴリウスはこのような王権による教会側への介入を批判するどころか疑問さえ呈していない[85]。 以上のようなグレゴリウスの歴史叙述の性格に基づけば、ビザンツ帝国によるヨーロッパの統一的支配という観念は6世紀には後退し、そこでは各部族王権が部族という枠組みを越えて領域支配を確立しつつあり、一定の領土意識の形成が見られるとともに、そこへの帰属意識を見て取ることができる。同時に王権に教会への介入を認めていることは、中世の特徴である教皇の普遍的教会統治が、この時代のフランク王国には全く存在していなかったことが明らかであろう。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] グレゴリウス1世 詳細は「グレゴリウス1世 (ローマ教皇)」を参照 グレゴリウス1世 トゥールのグレゴリウスがかつての西ローマ帝国の領域の部族国家に生きた知識人を代表する存在であるとすれば、同時代の偉大な教皇グレゴリウス1世は、同じ西方世界に生きながらも、より東帝国に近い知識人の代表であった。彼はユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っているローマに生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きたのである。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとした。したがって、彼にとって教皇の優位性は何にもまして必要なものであった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は正統なカトリック信仰を選ばずに、アリウス派の異端に堕していた。グレゴリウスの言うとおり、教会の統一において教皇の首位性は欠くべからずものであったろうが、一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけてしまったという見方もできる[86]。 またグレゴリウスは教皇ゲラシウス1世の両剣論を根拠に、俗権の及ばない宗教的裁治に関する管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた[87]。 グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった[88]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 西ゴート王国のカトリック改宗をめぐって この時代の宗教意識と国家意識の問題の上で、興味深いのが西ゴート王国で起こったヘルメネギルドの反乱事件を巡る当時の歴史叙述における相違である。前述したように、レオヴィギルド王の治世下に王の第一子ヘルメネギルドがカトリックに改宗し、アリウス派であった父に対し陰謀を企てた。 これについて、トゥールのグレゴリウスや教皇グレゴリウス1世は仔細に記述し、この事件をのちのレカレド王の改宗に至る前史的な出来事として特筆した。これに対し、セビリャのイシドールスの『ゴート史』やゴート人ヨハンネスによる『年代記』など、西ゴート王国で書かれた史料はこの事件にほとんど注目していない。ここに西ゴート王国の内部と外部で明確な意識の違いを見ることができる。さらにレオヴィギルドについて、後者ヒスパニアの史料はこの君主を政治的軍事的統一を西ゴート王国にもたらした英主として描くのに対し、教皇グレゴリウス1世は「異端者、子殺し」と呼んでおり、相違が見られる。グレゴリウス1世はレオヴィギルドが臨終に際してカトリックに改宗したことを記して、彼に好意を示すもののその叙述は護教的である。一方トゥールのグレゴリウスはグレゴリウス1世とは異なり、レオヴィギルドの政治的手腕を高く評価し、その視点はヒスパニアの史家に近い。 レカレド王の改宗 この違いはレカレド王の改宗を巡る記述にも見られ、このことは同じ西ゴート王国の外部者という立場に立つ両者であるが、部族国家内部に生きるトゥールのグレゴリウスと、ローマでビザンツ帝国の影響下に生きる教皇グレゴリウス1世の思想状況の違いを示している[89]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ゲルマン人の集団改宗 メロヴィング朝と西ゴート王国のカトリックへの改宗を見ると、それは決して個人的な理由のみで行われたのではなく、集団改宗という形式で一般に行われたと見る方が適切であろう[90]。少なくともクローヴィスの改宗は明確に集団改宗である。レカレド王の改宗は587年にまずなされているが、この改宗が個人的なものか集団的なものかは明らかでない[* 60]が、589年のトレド公会議は西ゴート王国を公式にカトリック改宗へと導いた[91][89]。このような集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできないであろう[90][* 61]。ゲルマンの王は集団の支持を必要としており、彼らの改宗は、個人的な内面性より集団に重点が置かれていた[90]。改宗が直接的に国王個人や住民の生活習慣を変えるようなものではなかったことからも明白である。たとえばクローヴィスは洗礼を受けたにも関わらず、その後の有様は蛮族の王そのままであった[90]し、そもそもメロヴィング王国住民も表面的にしかキリスト教化されていなかった[93]。 このような改宗は何をもたらしたのであろうか。一般的な説明では、改宗によって支配者と被支配民の宗教が一致し、統治に安定をもたらしたことが述べられる一方、改宗の政治的意義を小さく、あるいは全く評価しない論者もいる。たとえばコリンズ (en Roger Collins) によれば、西ゴート王国は改宗以前、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はアリウス派からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった[94]。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方も可能である[89]。メロヴィング朝では7世紀クロタール2世の統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教が王権に王国を守るという崇高な任務を与え、聖性を付与し、その意義を高めたからである[95]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ランゴバルド族と中世初期の南イタリア 西ローマ帝国滅亡後のイタリア半島は、東ゴート族の支配を受けたのち、東ローマ帝国の支配に復帰したのであるが、やがてランゴバルド族の侵入によって、北イタリアから中部イタリアにかけての大部分はランゴバルド族の支配に帰した。ランゴバルド王国はしかし、イタリア半島全体を支配することはついにかなわず、ローマとラヴェンナの間と南部イタリアは東ローマ帝国の支配下に止まった。やがてカロリング朝がローマ教皇の要請を受けて北イタリアに侵入し、774年にはカール大帝により北イタリアのランゴバルド王国はフランク王国に併合された。 しかし、中部イタリアのランゴバルド系公国であるベネヴェント公国は存続し、分裂しながらも独立した政体を維持した。またビザンツ支配下の南イタリア都市も徐々に独立し、シチリア島はムスリムの支配下となる。こうして中世初期のイタリア半島南部は分裂状態におかれるのであるが、やがて傭兵として雇われたノルマン人の集団がシチリア王国を建国し、地域の統合をもたらすこととなり、新局面が訪れた。 東ゴート王国とビザンツ帝国のイタリア再征服 詳細は「東ゴート王国」を参照 ボエティウス テオドリックに投獄された際に執筆された主著『哲学の慰め』は中世西欧で広く読まれた 西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって476年に廃位されると、西ローマ皇帝は存在しなくなった。しかし、ローマ帝国の支配体制自体が変化を蒙ったわけではない。オドアケルは東ローマ帝国の宗主権を認めており、そのオドアケルの政権を打倒した東ゴート王テオドリックも東ローマ帝国の宗主権を認め、この間西帝国の元老院も存続していた。しかしながら、東ゴート族はアリウス派を信仰しており、このことが東ローマ帝国との政治的対立に結びつくこととなった。また王国の統治はローマ人官僚の貢献によって支えられていたが、彼らは正統信仰を維持しており、信仰上の対立がゴート人とローマ人の不和の原因となって王国の統治を攪乱することとなった。テオドリックは寛容な宗教政策を展開して王国内の平和を保っていたが、晩年には宗教問題が政治問題化した。たとえば、ボエティウスの事例が典型的である。ローマの有力貴族アルビヌスが王位継承問題に絡んで東ローマ帝国と通じた問題で、ボエティウスはアルビヌスを弁護して投獄され、524年に処刑された。東ローマ帝国はこれをカトリック教会に対する迫害と捉え、当時アリウス派に一時的な寛容政策をとっていたユスティヌス1世の態度を硬化させた。ユスティヌスは527年に異端に対する勅令を出してアリウス派を弾圧[* 62]し、以前からカルケドン信条を守っていたブルグント王ジギスムントやカトリック信仰に転じたヴァンダル王ヒルデリック[* 63]と同盟してテオドリックを牽制した。 ユスティヌス1世を継承した甥のユスティニアヌス1世は532年にササン朝のホスロー1世と永久平和条約を結んで帝国東部辺境を安定させると、西方の旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出した。まずヴァンダル王国に矛先を向け、533年にカルタゴを占領し、534年にはヴァンダル王国を完全に滅ぼした。さらに535年、テオダハドが東ローマ帝国と友好的な東ゴート女王アマラスンタを殺害すると、これを口実としてイタリア半島に遠征軍を派遣した。東ローマ帝国軍は当初有利に事を進めたが、最高司令官ベリサリウスと将軍ナルセスの間に不和が生じるなど指揮系統に混乱が生じた。ナルセスが本国に召還されると、539年にはベリサリウスは東ゴート族を懐柔することに成功した[* 64]が、ベリサリウスはササン朝の侵入に対抗するため540年に本国に召還されてしまい、失望した東ゴート族は再び反乱を起こした。東ゴート族はやがてトーティラを王に推戴して勢力を盛り返した。544年にベリサリウスはイタリアに戻るが、兵力不足から有効な反撃が出来ず、549年には再び本国へ召還された。550年になると、トーティラ率いる東ゴート軍はローマを占領し、イタリア半島をほとんど支配する状態となって、シチリア島に侵入するまでになった。552年にナルセスが大軍をもって派遣されると、ようやく東ローマ帝国軍は反撃に転じ、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシャ語版、イタリア語版、英語版)(ギリシア語 Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum)で東ゴート族を大いに破った。トーティラは殺され、東ゴート族はなおも各地に拠って抵抗したが、554年にはほぼイタリアに平和が戻り、561年には抵抗は完全に収まった。 しかしこの戦乱によってイタリア半島の荒廃は進み、かつての繁栄を失った。東ゴート王国下においては、古典古代の文化を保存する活動は維持されており、前述したボエティウスが『哲学の慰め』を著述してプラトンやアリストテレスの哲学概念を用いてキリスト教教義を論じたり、カッシオドルスが『ゴート人の歴史』を書いてローマ人とゴート人の調和を説いたりといった文化活動が見られた。カッシオドルスは修道院教育に自由七科を導入するなど修道院文化の育成にも関わるが、この伝統は戦乱とともに一時廃れた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ランゴバルド王国 詳細は「ランゴバルド人」および「ランゴバルド王国」を参照 アギルルフス時代のイタリア半島(616年) ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝の支配に服すこととなったが、その統一は長く続かなかった。ランゴバルド族が侵入し、彼らがイタリア半島に王国を築いたからである。彼らの文化水準は低く、したがってその支配による影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった[98][99]。 ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年にビザンツ帝国によって、パンノニアとノリクムの境界地域に定住を許された[100]。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、ビザンツ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった[61][101][* 65]。ランゴバルド族はゲピド族を抗争を繰り返し、566年になってビザンツ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[103]。しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[96]。569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[* 66]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[96][104][105]。 572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフも574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[106][107]。しかしその勢いは衰えず、諸公の一人ファロアルド1世(イタリア語版、英語版)はスポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネ(イタリア語版、英語版)はさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた[106][107]。ランゴバルド諸公に対して、ビザンツ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[106][108]。フランク王国はすでに574年ランゴバルド王国を征討し、これを打ち負かして貢納と領土の割譲を条件に講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていたのである[109]が、ビザンツの勧誘を受けて585年と588年にイタリアへ侵入し、クレフの子である王アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[110]。フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。既述のように、574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフスは591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、ビザンツ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した[111]。アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[112]。パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。 リウトプランド時代のイタリア半島(744年) 616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代の国王は、三章書論争[* 67]で三章書を支持して分離したミラノやアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。しかし626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景にはビザンツ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っているビザンツ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリア・コルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した[114]。またロターリは643年に「ロターリ王の告示」、いわゆるロターリ法典を編纂したが、これはランゴバルド人の法慣習を採録したものである[115]。ロターリはランゴバルド王国の最盛期を現出したが、652年のその死後、王国は急速に分裂、弱体化した。彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年にアギロルフィング家のアリペルトゥス1世に王位が移った。アリペルトゥス1世の死(661年)に際して2人の息子に王国が分割されたが、これが内紛を生じ、662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世が王位を手に入れることとなった[116]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ベネヴェント公国と南イタリアのランゴバルド三侯国 前節で述べたように、クレフ王の死後の10年間、ランゴバルド諸公は一種の合議政体をもって王国を運営し、この間に地方に割拠する諸公の力は強まった。特にイタリア中部のスポレート公国と南イタリアのベネヴェント公国はラヴェンナとローマの枢軸を維持するビザンツ帝国によって、北イタリアのランゴバルド王国の中央から隔てられているために、自立性が高かった。初代ベネヴェント公ゾットーの跡を継いだアリキス1世はビザンツ帝国領カラブリアと沿岸都市以外の南イタリアをほぼ制圧し、広大な領土を支配するようになった[116]。第5代のグリモアルドゥス1世はランゴバルド王国で起きた王位継承を巡る争いに乗じて、ランゴバルド王位を獲得し、ランゴバルド王とベネヴェント公をかねてランゴバルド人を統一した[116]。しかし彼の死後は2人の息子がランゴバルド王位とベネヴェント公位を分割して保持することになり、再び両国は分かたれた。ベネヴェント公位を継いだロムアルドゥスは弟のガリバルドゥスにランゴバルド王位を譲ったのである[117]。まだ幼かったガリバルドゥスは即位後1年で王位をペルクタリトゥスに奪われ、ランゴバルド人の統一は失われた。 リウトプランドの肖像が描かれたトリミセス貨幣(1トリミセス=1/3ソリドゥス) その後北のランゴバルド王国では短期間での王位の変転が続くが、712年にリウトプランドが王位につくと、ビザンツ帝国側の内紛を利用して領土を拡大した。ビザンツ皇帝レオン3世がイコノクラスムを開始すると、教皇グレゴリウス2世はこれに反発して皇帝と対立し、折しも対イスラーム教徒戦争の重税に苦しんでいた多数のイタリア都市も帝国の支配に反抗した。この防備の弱体化をついてリウトプランドはビザンツ領へ侵攻し、730年ごろにはラヴェンナを奪取した[118][* 68]。ビザンツ帝国は教皇グレゴリウス3世の登位後、ヴェネツィアの協力を得て、734年にこれを奪還した[118][* 69]。リウトプランドはカール・マルテルと同盟してムスリムとも戦い、725年ごろにはムスリム支配下のコルシカ島を従属させた。710年から730年の間にはサルディニア島にあったアウグスティヌスの遺骸がパヴィアに運ばれ、サン・ピエトロ大聖堂 (en San Pietro in Ciel d Oro) に納められた[118][121]。またリウトプランドの治世に、ロターリ法典は新たに153章の法文を付けくわえられたが、これらの中には女性や貧者に抑圧に抗する一定の権利を認めるものが含まれている[118]。リウトプランドの後はまた短命な王が続くが、749年に即位したアイストゥルフは精力的で、751年にラヴェンナを制圧してイタリア半島をほぼ統一した。しかし754年と757年の2度、教皇ステファヌス3世の懇請を受けてピピン3世がイタリアに侵入すると、これらの征服地は奪回された[122]。アイストゥルフの次代の王デシデリウスはカール大帝の弟カールマンと結んでフランク王国の政治に介入しようとし、また教皇領を攻撃して領土拡大を目指したが、逆に773年カール大帝のイタリア遠征を招き、翌774年には首都パヴィアが陥落してデシデリウスは廃され、カール大帝が自らランゴバルド王を兼ねるに至って、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した[123][124][125]。 他方、ロムアルドゥスの後継者たちが支配した南のベネヴェント公国は、774年のランゴバルド王国滅亡を傍観しながら生き残り、8世紀後半にはランゴバルド王国の正統を自認してベネヴェント侯国を名乗るようになる[126]。侯国の地方統治はガスタルディウス (gastaldius) という地方役人が担っていたが、彼らは徐々に侯から独立するようになり、ベネヴェント侯国は分権化し始めた[127]。839年に第5代のベネヴェント侯シカルドゥスが暗殺された後、侯位を巡って争いが起こり、849年にはサレルノ侯国(イタリア語版、英語版)が分かれた[128]。このサレルノ侯国の有力者カープア伯は861年に自立してカープア伯領を形成するが、900年にカープア伯アテヌルフス1世(イタリア語版、英語版)がベネヴェント侯に即位してカープア・ベネヴェント侯国(イタリア語版、英語版)が成立した[128]。この統一侯国は982年まで続くが、その後はベネヴェント侯国とカープア侯国(イタリア語版、英語版)に分かれた[129]。こうしてランゴバルド三侯国が成立した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング朝の帝権 詳細は「カロリング朝」を参照 フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。つづくピピン3世はすでに述べたように、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 メロヴィング王権の衰退 814年のヨーロッパ カール大帝末年のヨーロッパ。今日の政治的・宗教的枠組みにつながる構造が形成されている。 東方世界東ローマ帝国|ブルガリア王国 西方世界カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア イスラームアッバース朝|後ウマイヤ朝 周辺諸民族ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。659年にアウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルト1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された[* 70]。このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた[* 71]。ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリィの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カール・マルテルとイスラム勢力の西漸 714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こり[* 72]危機を迎えたが、ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世[* 73]が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたユードと和平を結んだ。ユードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ユードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。 このころイスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年にはイスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪しトゥールーズを包囲した。ユードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。 735年にユードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ユードの息子クノルトに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。 トゥール・ポワティエ間の戦い アキテーヌを支配していたユードはイスラム教徒の国境司令官オスマーンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンはこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてユードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。 一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り[* 74]、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立 741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。 カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた[* 75]。742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。 751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式[* 76]を受けた。754年には教皇ステファヌス3世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。 ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる[130][131]。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立 ハールーン・アッラシード(左側)とカール大帝(右側) カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した 詳細は「カール大帝」を参照 768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[* 77]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[* 78]。781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。 教皇レオ3世は800年のクリスマスにカール大帝に帝冠を授け、西ローマ帝国が復活した[* 39]。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[* 79]。教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた[* 80]。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を一つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト教帝国の解体 詳細は「東フランク王国」、「西フランク王国」、および「中部フランク王国」を参照 広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。 ヴェルダン条約によるフランク王国の分割 西フランク王シャルル2世アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境 中フランク王ロタール1世ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ 東フランク王ルートヴィヒ2世ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン 814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒは帝位と王権を継承した。ルートヴィヒ1世は817年「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒにバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。しかしシャルルが生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、ロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒがこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。 841年ロタール1世とシャルル、ルートヴィヒはオーセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分されることとなった(ヴェルダン条約)。帝権はロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ルートヴィヒ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をルートヴィヒ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にシャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。 869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルルがロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒがこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)[* 81]。西フランク王シャルルは875年のルートヴィヒ2世の死後はイタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒの死に際して、シャルルは東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒの息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 分裂後のカロリング朝後継国家 結局カール大帝の帝国は社会的・制度的に永続性を欠いており、王家の分割相続により瓦解することとなった。 885年にはカール3世によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、887年にはアルヌルフによって廃位に追い込まれた。翌888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。 この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。彼らは地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。 北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング・ルネサンス、中世文化の始まり カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としてはトゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。 この、カール大帝のいわゆるカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。 カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックス[* 82]に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング朝期の政治思想 ここではカロリング朝が帝権を手に入れた9世紀初頭ごろの政治思想を概観する。まずカール大帝のキリスト教帝国の政治思想として アルクインの思想を、次に教権の側の政治思想として作者不明の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を特筆する。 アルクイン 教皇シルウェステル1世とコンスタンティヌス大帝 コンスタンティヌス大帝はシルウェステル1世にローマ全土を教会領として寄進する約束をしたという説話が8世紀ごろに作られた。この『コンスタンティヌス帝の寄進状』は中世を通じて教権の重要な根拠の一つとなっていたが、のちにヴァラなどによって偽作されたものであることが明らかにされた 詳細は「アルクィン」を参照 アルクインはブリテン島出身の神学者で、カール大帝の宗教政策を中心とした問題についての、最も有力な助言者の一人であった。カール大帝時代のいわゆる「カロリング・ルネサンス」においても指導的役割を演じたと考えられている。アルクインはカトリック信仰が地上に平和をもたらすものであると信じ、その実現者をカール大帝に見た[132]。 カール大帝が795年教皇レオ3世が選出された際に送った外交書簡はアルクインの手になるものと考えられている[133]。この書簡は、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じて国王を補佐することであると述べている。799年にアルクインがカール大帝にあてた有名な書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落している[* 83]のに対し、カール大帝のフランク王国のみが正しいキリスト教君主であるとした。そのすぐあとに出された書簡では、アルクインはカールのフランク王国を「キリスト教帝国 ("Imperium Christianum")」と呼び、カールの王権を全キリスト教共同体を覆うものとしている。このアルクインのいう「キリスト教帝国」は800年のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。 アルクインはまた両剣論を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた[* 84]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] コンスタンティヌス帝の寄進状 詳細は「コンスタンティヌスの寄進状」を参照 『コンスタンティヌス帝の寄進状』は、『偽イシドールス教令集』に記載されていたもので、作者は不明である。このイシドールスとは7世紀イベリア半島のセビリャ大司教のことである。イシドールスは従来の教令集[* 85]にスペインでの教会会議の決定を増補し、『ヒスパナ』という教令集を編纂した。のちにこれが『イシドールス集録』と呼ばれ、カノン法の法源とされた。『偽イシドールス教令集』はこれとは別の物で、8世紀か9世紀にイシドールスに仮託して作成された偽文書である[* 86]。 この文書は書簡形式であり、その日付は315年3月30日に書かれたことになっている[134]。まずコンスタンティヌス1世は癩病を患い、時の教皇シルウェステル1世の祈りによって救われたとする。コンスタンティヌスはシルウェステル1世を皇帝にしようとしたが、シルヴェステル1世は帝冠を一度受け取ったが被らず、帝冠を改めてコンスタンティヌス1世に被せたという。次にこの文書は聖ペテロに向ける形でコンスタンティヌスによる以下の寄進の記録を記す。すなわちアンティオキア・アレクサンドリア・エルサレム・コンスタンティノポリスと、他の全ての教会に対する優越権、皇帝の紋章とラテラノ宮殿の下賜、西部属州における皇帝権を教皇に委譲した。この架空の歴史的事実によって教皇は「普遍的司教」であり、皇帝任命権を保持していると主張した。カール大帝の戴冠もこの理念に則った形で行われ、これを先例としてのちに教皇は皇帝よりも優越的な地位にあることの根拠とした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] グレゴリウス改革と教権の絶頂 これまで述べたように、中世ヨーロッパという固有の文明社会の成立には、皇帝権と教皇権という2つの普遍的権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が本質的な対立に向かい、中世ヨーロッパ社会の秩序が根本的な変革に直面することとなった。一般にグレゴリウス改革[* 87]として把握される一連の教会改革運動である。結果的には教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現することになり、日常生活に関わる秘蹟への関与を強めることにより、民衆の精神支配において圧倒的な影響力を持つようになる。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。 一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、12・13世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求[* 88]という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった[* 89]。 修道院改革運動と教会改革の始まり クリュニー修道院 フランス革命によって破壊される以前は、偉容を誇った壮大な修道院であった。アキテーヌ公ギヨームにより設立された。12世紀にいたるまで西ヨーロッパで絶大な影響力を持った グレゴリウス改革の前史としての修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンで広がりを見せた。このロートリンゲンの修道院改革に影響を与えたのがクリュニー修道院である。クリュニー修道院は909年ないし910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世は、このクリュニーの修道精神に深く共感し、聖職売買(シモニア)を強く批判し、教会改革を求めた。しかし、後に息子のハインリヒ4世と改革の主導者であったグレゴリウス7世は問題となっていた聖職者の任免権を巡って叙任権闘争で争うことになる。 一方でクリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。そしてクリュニー精神に基づき、修道院活動を純化し汚れない本来の姿に戻ろうとする動きは、シモニアやニコライティズム(聖職者の妻帯)に対する批判と軸を同じくした。改革に熱心な教皇レオ9世が登位すると、教皇権がこの教会改革の主導権を握るようになった。レオ9世は聖職者の倫理改革を目指してシモニアに対して厳しく対処することを表明し[* 90]、改革遂行のため、当時の改革的聖職者を教皇庁の下に結集して、教会改革に合致する教会法の集成に着手させ、さらに教皇首位権を現実化しようとした。レオ9世時代の改革はこのようにグレゴリウス改革に直結するものであるが、その対象はほぼ教会内部に限られており、教権と俗権の関係には及んでいない。その後ニコラウス2世は1059年、ラテラノの教会会議で下級聖職者に限って俗人叙任を明確に禁止した[* 91]。つづくアレクサンデル2世も聖職者の倫理改革に着手し、教皇特使を活用してキリスト教社会に影響を及ぼそうとし、シモニアやニコライティズムを強く批判した。こうしてグレゴリウス7世の登極までに改革は着実に進展していた。 このように、クリュニー修道院に影響を受けた修道院改革の基本精神は教会改革に継承されたのであるが、これはクリュニーの精神とグレゴリウス改革が全ての面において、一致していたということを必ずしも意味しない[* 92]。教皇主導の教会改革が徐々に急進化するに及び、当初は協力的であったクリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論[* 51]に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対した。またイスパニアでもカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはむしろアルフォンソ6世と結びつくことで、これに対抗した[* 93]。 しかしクリュニー精神もグレゴリウス改革も、キリスト教が「危機」に直面しているという認識では一致していたのであり、この時代の大きな雰囲気の中から生まれたものであることは共通していた。クリュニーは世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニア批判に結びつき、グレゴリウス改革で本格的にそれが主張されるという、発展の傾向は認められる[137]。だが、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であったし、その運動の進展はグレゴリウス改革と並行していた。したがって、両者の関係はクリュニーがグレゴリウス改革を生み出したというよりは、両者が間接的に影響し合っていたと見るべきである[138]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 周縁における権力と教会 中世ヨーロッパにおいて周縁に位置するイングランドやイベリア諸国、スカンディナヴィアでは、そこがキリスト教世界にとって前線であるがゆえに、西ヨーロッパの中央とは異なったあり方でキリスト教が存在していた。これらの地域ではカトリックとは異なる典礼を発達・維持させていた教会が存在していたのである。しかしグレゴリウス改革の影響はこれらの地域にも波及し、新たな展開を見せた。 イングランド教会の伝統 ブリテン島のキリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウスや聖パトリックが知られており、後者によってアイルランド伝道が開始された。アイルランドが急速にキリスト教化するのと対照的に、ブリテン島はアングロ・サクソン人の侵入を受け、一時的にキリスト教布教が停滞した。しかしながら563年以降、アイルランドから渡った聖コルンバがアイオナ島を拠点にスコットランド改宗に着手し、597年6月9日の死にいたるまで熱心な布教活動を続けた。ちょうど同じ年の6月2日に教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンがケント王国に上陸し、イングランド布教も開始された。 アンセルムス 師であるランフランクの跡を継いでカンタベリー大司教となる。イングランド王国での聖職叙任権改革を進め、王権と対立。17年にわたる在位期間中、2度も追放される憂き目にあった こうしてアイルランド人のケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教を開始したが、両者は様々な面で相違していたために[* 94]、布教をめぐって摩擦や対立が生じることとなった。両者は664年、ホイットビー教会会議[* 95]で信仰について話し合い、結局この会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えた[142]が、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた[143]。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した[144]。 エドワード懺悔王の死後、1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった[* 96]。1073年にグレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった[146]。ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた[146]。ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした[* 97]。ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた[150][151][* 98]。 ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった[* 99]。アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていた[154][155][156][157]ので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した[158][159]。つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ[* 100]。そこでは国王や俗人から聖職者が叙任されることは原則的に禁じられた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられた。これによってイングランド国王は教会に対する実質的な影響力を維持した。しかしながら、1114年のカンタベリー大司教選挙において、国王が推薦する候補が落選するなど、国王の教会政策に一定の疑問が投げかけられる結果をもたらした[161]。ヘンリー1世の跡を継いだスティーブン王の時代は混乱を極め、王は自らの権力を維持するために教会にあらゆる譲歩をしたが、その約束は果たされず、逆に国王と教会の対立は深まった。1139年に国王がソールズベリー司教ロジャーを逮捕投獄する事件が起こり、これを機にスティーブンは聖界の支持を決定的に失った。1141年のウィンチェスター教会会議で司教たちは、司教には国王を聖別する権利があると主張し、マティルダを「女支配者」 ("Domina Anglorum") として認めた[162][163]。スティーブン王の治世の間、イングランドは実質的な内乱状態にあったが、教会はその混乱の中で影響力を強め、王権からの相対的な自由を獲得した。 スティーブン王の死後、生前の約束通りヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。新国王はイングランドの無秩序状態を収拾するため、法律を整備する必要性を感じ、裁判制度の改革に乗り出した。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されており、聖職者は教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者の特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏を買収して剃髪して詐って聖職者を名乗り、刑を軽くするような法の抜け道が存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗で刑罰が異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法[* 101]を制定した。これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケットは一度は不承不承認めたものの、のちに教会の権利を擁護して国王に反対した。長く追放された後、ベケットはイングランドに帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士に殺害された。しかしこのことでベケットは殉教者として崇敬されるようになり、国王は逆に譲歩せざるを得なくなった。結局大逆罪に関する条項を除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。 中世の初期においては国王の強力な掣肘化にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝の開始時には大陸での教会改革の成果も取り入れ、王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代にカンタベリー大司教の首位権が徐々に確立され、イングランドにおぼろげながらも一つの信仰共同体が形成され始めたことは、後の国教会体制を準備するものであった[* 102]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 西ゴートの伝統、イベリア半島諸国 1031年のイベリア半島 後ウマイヤ朝が滅亡した直後のイベリア半島 キリスト教諸国レオン王国|カスティーリャ伯領|ナバーラ王国|アラゴン伯領|カタルーニャ君主国 イスラム教タイファ諸国アルコス|アルバラチン|アルプエンテ|アルヘシラス|アルメリア|ウエルバ|カルモナ|グラナダ|コルドバ|サラゴサ|サンタ・マリア・デル・アルガルベ|シルヴェス|セビーリャ|デニア|トルトサ|トレド|ニエブラ|バダホス|バレンシア|マラガ|マロン|ムルシア|メルトラ|ロンダ 711年に西ゴート王国が滅亡して後、イベリア半島はそのほとんどがイスラム教徒によって支配された。イスラム教徒の支配下では税を支払う代わりに西ゴート式の独自の典礼を維持したキリスト教徒たちがおり、彼らは「モサラベ」と呼ばれた。一方北部を中心にキリスト教国が残存していたが、その中でも山岳地帯に位置したアストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国に対抗した[165][166][167][168][* 103]。アルフォンソ2世の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきたモサラベの建言を容れて、西ゴート方式の宗教儀式を部分的に採用し、西ゴート王に連なる家系図を作らせ、アストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるという「新ゴート主義」[* 104]が成立した[173][174][* 105]。アルフォンソ3世の時代になると、植民活動を活発化させ、教会堂の建設事業を積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いでいる[173][178][* 106]。つづくガルシア1世の時代に王国は首都をレオンへ移し、王国はレオン王国と呼ばれるようになった。レオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した[* 107]。一方同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでいた[183]。ナバラ王国もその点は全く同様で、イスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまっていた[184]。アラゴン伯領もいまだレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[185]。一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え[186]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[187]。 11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[188][* 108]。その息子でカスティーリャ王国を相続したフェルナンド1世はレオン王国を併合(カスティーリャ=レオン王国)すると、南へ遠征し、後ウマイヤ朝滅亡後にアル・アンダルスに割拠したタイファ諸国を攻撃して金による貢納(パリア)を求めた [* 109]。しかし貢納金を支払わせるということは、逆にフェルナンドをしてこれらタイファ国を保護する義務を生じさせるものでもあった。フェルナンドとその息子のサンチョ2世はタイファ国の救援要請を受けて、これを攻めたキリスト教国と干戈を交えている[190][191][192]。フェルナンドの晩年にはいくつかのアル・アンダルスの都市を征服するなど「レコンキスタ」[* 110]的な行動が見られたが、同じキリスト教を奉ずる国々との戦争も頻繁に行われており、このころの軍事行動が宗教的動機を離れて行われていたことは注目に値する[193][* 111]。 11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった[* 112]。フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。例えばアルフォンソ6世はトレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナール (en Bernard de Sedirac) に任せた[196][* 113]。一方で改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし、「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張した。これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した[199][197][200]。アルフォンソはクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした[201]。アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れた。だが、1090年のレオン教会会議で西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けた[202]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スカンディナヴィアの改宗 9世紀まで、スカンディナヴィアにおいてキリスト教が大きな影響力を持つことはなかったが、キリスト教の信仰と典礼はこの地域にかなり早く波及していた[203]。その信仰は西ローマ帝国の滅亡以前に遡るものもあるが、8世紀に形成された北欧とフランク王国などのキリスト教諸国との間の交易路が大きな影響を及ぼしたと考えられている[203]。8世紀の初頭にはイングランドの修道士であったウィリブロード (Willibrord) によるフリジア地方への布教が知られており、彼はデンマーク南部のリベ(Ribe)まで足を運んで、その地から30人の少年を連れ帰って教育し、彼らに現地語で布教させようとした[* 114][203]。また近隣のフランク王国は北方地域への布教を継続的に支援していた[203]。 9世紀初頭にフランク王国はザクセン戦争の結果エルベ川以南のサクソン人を服従させ、改宗を強制した[203]。このことはサクソン人と境を接していたデーン人に脅威を抱かせ、デーン人を率いていたゴッドフリード (Gudfred) はフランク王国に抵抗するが、810年に政敵によって暗殺された[203]。彼の死後は息子たちが抵抗を続けたが、フランク王国との宥和政策を主張するハラルド (Harald Klak) が台頭して内戦となった[203]。819年にフランク王国の支援を受けてハラルドが権力を回復すると、彼の支配領域で、ランスの司教エボ (Ebbo) の主導によってキリスト教布教が開始された[204]。ハラルドの権力はつねに脅かされていたために、彼はフランク王国の支援を必要としており、826年、彼はマインツでルイ敬虔帝の見守る中キリスト教へ改宗した[205]。彼はアンスカル (Ansgar) という修道士を伴ってデンマークへと帰還したが、1年後には追放された[205]。一方、829年にはスウェーデン東方にあったスウェーデン人 (svear) の王の要請でビルカにアンスカルが派遣された[205]。18年の歳月を要した彼の伝道活動は成功裏に終わり、ビルカの総督であったヘリガル (Herigar) を改宗させ、彼によって教会堂が建てられた[205]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 等族国家と公会議主義 アヴィニョン教皇庁 ゴシック建築を代表する。1316年にまず最初の建築がおこなわれ、クレメンス6世時代に増築された グレゴリウス改革以後、西ヨーロッパ教会における教皇首位権は確立された。教権の伸長はこの時期さまざまな局面での教権の世俗の領域への介入につながったが、封建君主たちの激しい抵抗に遭い、一連の政治闘争によって教皇権の根拠に対して厳しい批判の目が向けられるようになった。 この時期封建制国家は、特にイギリスとドイツで典型的に身分制秩序が発展し、身分制議会(これを等族議会という)が形成されるようになった。これは一方で貴族による王権の制限という形式を取ったが、同時に王権を中心とした王国単位での共同体を創設することにもなり、普遍的な世界の解体につながるものであった。このような身分制に基づく議会主義をとる国家を等族国家といい、ヨーロッパ中世後期に特徴的な国家様式であると考えられている。等族国家は西はブリテン島から東はポーランド、さらには聖地に作られた十字軍国家も同様の形態を取るが、その内実は地域によりかなり異なる。たとえばドイツでは大空位時代から諸侯の自立化が進み、カール4世の時代に金印勅書の制定によって国王の選挙制が確立された。重要な帝国法は帝国議会で決定されるのが常となり、典型的な等族国家を形成した。一方でフランスではカペー朝による王領拡大が諸侯領を破壊する形でおこなわれ、王国に対する国王の支配がより強力であったために、等族議会である三部会では当初から国王が主導的な役割を担い、国王の政策の道具として扱われる側面が強かった。 ともかくこのような等族国家は、各王国規模での政治社会を定着させることにつながり、中世的な普遍世界から絶対王政への橋渡しをする役割を担ったといえる。これは普遍的にキリスト教世界に影響を及ぼす教権の側から見れば、王国ごとに教会を分断しようとする動きとなり、危険なものであった。なぜなら皇帝権との対立が同じ普遍性の土台の上で戦ったものであったために教権の普遍性自体を疑うものではなかったのに対し、等族国家はまさに普遍性そのものを問題としたからである。ところでこのような代議制的統治の構造は、実に教会においてまず発展したものであった。そして教会においては教皇首位権に対する公会議主義の思想が展開されていくのである[* 115]。 フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム 寡婦なるローマ 教皇不在のローマを象徴的にあらわした図。アヴィニョン捕囚は教皇に対する不満を増大させ、また「捕囚」されている事実それ自体が教皇権威の失墜を意識させるものであった この時代、ドイツの皇帝にかわってフランス王権が台頭し、イタリアにも進出するようになり様々な局面で教権と対立するようになってきた。13世紀後半にフィリップ4世が即位すると、この国王と教皇の間で聖職者への課税権を巡って対立がおこった。教皇の側ではアエギディウス・コロンナが論陣を張り、一方のフランス王権を支持したのがパリのヨアンネスであった。ヨアンネスは聖職者は単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるべきでないとして教皇の世俗への介入を批判し、一方で世俗国家を自然的社会の最高形態であるからその君主は教会による聖別を必要としないと論じた。 1302年にフィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ[* 116]、教皇ボニファティウス8世を捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件[* 117])。フィリップ4世はフランス人であるクレメンス5世を擁立すると、教皇庁をアヴィニョンに移転させた。以後70年間にわたり教皇庁はアヴィニョンにあってフランス王権の影響をうけることになり、この時代を教皇の「アヴィニョン捕囚」という。クレメンス5世の時代にはテンプル騎士団がフィリップ4世によって異端として告発され、クレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴを維持しようとした[* 118]が、結局はフランス王権に屈服し、ヴィエンヌ公会議ではっきりとした理由も示さずにテンプル騎士団の解散を宣言した。 このようにクレメンス5世はフランス王権の影響を強く受けており、グレゴリウス11世までの「アヴィニョン捕囚」期の教皇の立場は総じてクレメンス5世とあまり変わらなかった。カペー朝の断絶後、1337年に百年戦争が始まるとフランスは徐々に戦争により疲弊し、相対的に教皇庁は自立性を強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権の没落期・低迷期と考えられる時期であるが、一方で教会の司法制度[* 119]が整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。 この時代にガリカニスムという主張があらわれた。ガリカニスムとは「ガリア主義」という意味で、ガリアとはフランスのことである。この主張はフランス教会の教権からの独立を説くもので、その契機と考えられるのは前述したパリのヨアンネスである。このガリカニスムはとくに16世紀以降法学者たちの間でさかんに論じられるようになり、やがてイエズス会などの教皇至上主義と激しく対立して民族主義に近づいていった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 皇帝との対立、そして「金印勅書」 14世紀の神聖ローマ帝国 この時代は代表的な家門の間で皇帝権の争奪がおこなわれていた。図中紫がルクセンブルク家の家領。図中オレンジがハプスブルク家の家領。図中緑はヴィッテルスバハ家の所領。このような家門どうしの皇帝権争奪に対して、教皇権はいずれかの候補を支持することで介入した 神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はイタリア政策を積極的に進めようと皇帝代理をイタリアに派遣したが、このことがアヴィニョンのヨハネス22世を刺激し、教皇はイタリアにおける自身の権益が脅かされているものと認識した。ヨハネス22世はルートヴィヒ4世が教皇による国王としての、あるいは皇帝としての承認を受けていないにもかかわらず、国王として、また皇帝として振る舞っているとして批判した。ヨハネス22世は以上の論法からルートヴィヒ4世が教皇に服従することを求めたが、ルートヴィヒ4世が応じようとしないので、これを破門した。これに対しルートヴィヒ4世は選挙に基づく王権の独立性を訴えた。彼に理論的根拠を与えたのはパドヴァのマルシリウスで、『平和の擁護者』を著して法の権威を人民に求め、教会の介入に対して政治社会の自律性を主張した。教皇首位権に対しても聖職者の平等を訴えてこれに挑戦する内容であった。 ルートヴィヒ4世は1327年にイタリア遠征に出発し、ローマに入城して1328年にはローマ人民によって戴冠された。カール大帝以来、帝冠は教皇によって戴冠されるものと考えられていたのに対し、この新式の戴冠は明らかに同行していたマルシリウスの示唆によるものだった。ルートヴィヒ4世はヨハネス22世の廃位を宣言し、ニコラウス5世を擁立した。しかしニコラウス5世は皇帝がイタリアを去ると、1330年にはヨハネス22世に屈服した。その後もルートヴィヒ4世はオッカムのウィリアムなどの有力な理論的神学者を用い、ヨハネス22世とその跡を継いだベネディクトゥス12世、クレメンス6世との間で長い論争が続いたが、決着はつかなかった。 論争が続けられる一方、1338年に帝国法「リケット・ユーリス」が決議され、皇帝選挙の根拠が定められた。これは皇帝の位と権力が神に由来することを示し、選挙侯による選挙によって選ばれた者がただちに国王であり、皇帝であることを定めたもので、ドイツの国王位と神聖ローマ皇帝位に対する教皇の介入を徹底的に排したものであった。ルートヴィヒ4世の死後、ルクセンブルク家のベーメン王カールがカール4世として即位すると、金印勅書を制定して国王選挙権を7人の選帝侯に限り、さらにその選帝侯の権利はそれぞれの領国に結びつけられ、長子相続によることが定められた。これによりドイツ国王は教皇の承認を経なくても皇帝権の行使をおこなうことが可能となり、皇帝位がドイツ国王位と永久的に結びつけられたが、一方で選帝侯は領国内での無制限裁判高権、至高権、関税徴収権、貨幣鋳造権などの諸特権を獲得し、国王からの自立性を強めた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] イングランド王権との対立 イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルターが1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。インノケンティウス3世はこの訴えに対し、王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。ところがこの決定にジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任のウォルターの例をあげれば、彼はカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代の国王リチャード1世が十字軍遠征に参加して不在の間、国内の政治をとって安定を守った。このようにカンタベリー大司教はイングランド国内にあって単なる宗教的権威にとどまらず、国王の重要な高級官僚としての役割も担っていたのであった。当時のイングランドにはカンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例[* 120]があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇はイングランドにおける全教会の聖務停止を科し、ジョン王は報復として教会財産の没収を命じた。この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権は大司教選挙施行の許可権と選挙結果への同意権を確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなった[* 121]。 エドワード1世 ウェールズを征服し、スコットランドにも遠征してブリテン島におけるイングランドの優位を確立させた。積極的な外征とその成功によって支持を集める一方、内政においても「模範議会」に代表される議会制度の整備や立法制度、司法制度などにも進歩をもたらした。しかし晩年には課税を巡って教会や諸侯と対立するなど政治的には危機的状況を迎えた このときジョン王の王権に対するイングランド諸侯の反発は最高潮に達し、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。後述するマグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、彼らがここを拠点とするようになると、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。ところがマグナカルタは王権にとって不利であるだけでなく、教権にとってもあまり好ましいものでないことは明らかとなった。マグナカルタは伝統的に「保証条項」と呼ばれる箇所で、25人の諸侯が王国内の平和と諸自由に対して権利を持ち、責任を担うことを規定していたからである。このことはイングランド王が教皇の封臣となっていた当時、教皇権の裁治権を狭めるものであると考えられたからである[* 122]。教皇はマグナカルタを批判し、これに力を得たジョン王はマグナカルタを守らなかった。反乱諸侯はフランス王権に介入を依頼し、カンタベリー大司教など幾ばくかの聖職者もこれに荷担する様子を見せたので、いよいよ混乱が避けられぬかと思われた矢先に、1216年10月18日突然にジョン王は逝去した。息ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。 一方でこの時期イングランド国内では議会制度が形成された。13世紀にはすでに大会議(グレート・カウンシル、"Great council")と小会議(スモール・カウンシル、"Small council")に分けられる封建的集会が存在し、裁判所としての役割をしていたことが知られるが、ヘンリー3世がわずか9歳で即位すると、小会議の役割が増大した。ヘンリー3世は成人して親政を開始すると、小会議に行政官やプランタジネット家の故郷である南フランス系の親族を参加させ、彼らを重用した。このことは諸侯との対立を招き、課税を巡って彼らと対立したためにヘンリー3世は一時的に妥協したが、税金が徴収されると結局は約束を破った。しかしヘンリー3世は一連の諸侯との交渉において何人かの固定した成員によって形成される常設の国王評議会(キングズ・カウンシル、"King s council")を認め、のちにこれが議会(パーラメント、"parliament")と呼ばれるようになった[* 123]。ヘンリー3世に不満を持つ諸侯がシモン・ド・モンフォールを中心に反乱すると、モンフォールは従来の成員のほかに各州より2名の自由民と各都市から2名の代表を集めて議会を開いた。結局乱は鎮圧され、これは定例とはならなかったのであるが、エドワード1世の時代、1295年の「模範議会 ("Model Parliament")」からは平民の代表が呼ばれることが規則となった。エドワード1世はこの模範議会で聖職者と平民に課税同意を求めたが、聖職者は教権に訴え、教皇ボニファティウス8世は教皇勅書「俗人は聖職者に(クレリキス・ライコス、"Clericis laicos")」を発し、俗権の教会課税にはそのつど教皇の認可が必要であり、違反に対しては破門を持って応じるとしたので、エドワード1世の意図はくじかれた。 14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。というのも前述したように、この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇の教会支配が強まったイングランドでは聖職売買によって地位を得た外人聖職者を受け入れざるをえない状況が続いていた。国王と議会は1351年に聖職者任命無効令を、1353年に上訴禁令を出してイングランド国内における教権と教会法の影響を排除しようとした。これは教権との政治上の駆け引きにおいて有効な武器として使われることもあったが、実際に行使されたことはなかった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教会大分裂と公会議主義 教会大分裂 青がローマ教皇庁支持。赤がアヴィニョン教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた 教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。グレゴリウス11世の死後、教皇選挙でウルバヌス6世が即位することとなった[* 124]。ウルバヌス6世は当初官僚的で温厚な人物だと考えられていたが、即位すると枢機卿に対し強圧的になった。その結果フランス人枢機卿がまずローマを去り、イタリア人の枢機卿たちも結局はこれに従った。彼らはしばらく教皇と交渉と試みたが、埒があかないことを悟ると、一転してフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここにローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する長い教会大分裂[* 125]が始まった(1378年〜1417年)[* 126]。 ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂した[* 127]が、このことは民族を中心にまとまり始めた各国家の利害が教会の内部の問題にも介在するようになったことを示していた。事実両教皇の死後も教権の分立状態は解消されず、主にフランス王権と神聖ローマ皇帝権の意を受けたそれぞれの教皇が並び立つこととなった。ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、フランス教会のガリカニスムの傾向をますます強めることとなった。 このような混乱のなか、譲歩しようとしない両教皇の態度に業を煮やした両教皇庁の枢機卿団は、公会議を開いて新しい教皇を選任し、この分裂を解消しようという動きを取り始め、公会議派が形成された。公会議派は1409年ピサ公会議を開き、両教皇の参加を求めたが受け入れられなかった。この公会議で公会議派は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世はペルピニャンで、グレゴリウス12世はチヴィタレでそれぞれ自派の公会議を開き、ピサ公会議の決定を受け入れなかったので、ここに3人の教皇が鼎立することとなった。アレクサンデル5世は1年後に亡くなり、そのあとはヨハネス23世が継いだが、この教皇の評判は芳しくなかった。 皇帝ジギスムント 教会大分裂の解消に熱心であった。図中右の鷲の紋章はドイツ王権を、左の双頭の鷲の紋章は皇帝権を象徴する。彼はローマ王として単頭の鷲を、皇帝として双頭の鷲を印璽で用いた最初の君主であり、以後慣習として定着した。また図中の双頭の鷲の頭には光輪が見えるが、これもジギスムントによって帝国の神聖さの象徴として書き加えられることが定められた このときにあたって、ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントは、教会の再統一に積極的な姿勢を見せ、ヨハネス23世を説得し、グレゴリウス12世の同意もとりつけて1415年にコンスタンツ公会議を開いた。このコンスタンツ公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。すなわち公会議での決定は個人単位ではなく、イングランド・フランス・ドイツ・イタリアの4つの出身団(ナツィオ、"natio")によりおこなわれ、1417年からはスペインの出身団と枢機卿団[* 128]が加えられて投票権を持つ集団は6つとなった。公会議の途中で教皇ヨハネス23世は出奔し、公会議は召集権を持つ教皇を失って一時危機を迎えたが、公会議派が中心となって公会議の決定が教権に優越することが主張され、公会議は教令「サクロサンクタ ("Sacrosancta")」を発してその正当性を保持することに成功した[* 129]。 しかし会議は難航した。フスなどの異端運動に対する問題や、教会改革を声高に主張する急進者と反発する保守派、そして国民間の対立や神学者同士の理論上の対立[* 130]が持ち込まれることもしばしばであった。さらに公会議に教皇の選任権があるのかという問題も紛糾した。とにかくこの公会議はさまざまな論争と政治的駆け引きに翻弄され、長引いたものの、鼎立した3人の教皇を廃位し、あらたにマルティヌス5世が選任されることで一致した。こうして教会大分裂は終わったが、一連の過程のなかでもはや普遍的であると信じられていた教会のなかでさえ、国民性が影響力を増していることが明らかとなった。教会大分裂の時代にもカトリック教会の統一が維持されたことは、普遍的な教会が未だ求心力を失っていなかったことを示しているが、国民的な単位を通して世俗の権力が教会に対する支配を強めたことは確かであった[* 131]。 教会大分裂 主な教会会議ローマ教皇庁アヴィニョン教皇庁公会議派 ウルバヌス6世 (1378-1389)クレメンス7世 (1378-1394) ボニファティウス9世 (1389-1404) ベネディクトゥス13世 (1394-1417) インノケンティウス7世 (1404-1406) ピサ教会会議 (1409年)グレゴリウス12世 (1406-1415)アレクサンデル5世 (1409-1410) コンスタンツ公会議 (1414-1418)ヨハネス23世 (1410-1415) マルティヌス5世 (1417-1431) 現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇(図の黄色)を正統として数え、それ以外の教皇は対立教皇としている。(M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年などを参考に作成) [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 王権の超自然的権威の獲得過程 中世を通じて王権はキリスト教的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性、霊性を民衆の心性のうちに獲得しようとし、実際に王権はある種の霊威、あるいは超自然的権威を位置づけることに成功した。このような霊威は当初、偉大な王の個性に基づいて「一代限り」のものであると考えられていたが、徐々に世襲されるようになり、儀礼も備えて王権とそれを世襲する王家に一種のカリスマを付与することになった[* 132]。宗教的儀式によって、王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対しては優位性を主張しえたからである[206]。霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった[* 133]。 イングランド、エドワード懺悔王の霊威 イングランドにおける国王の霊威をあらわす初期の例は、ノルマン朝のヘンリー1世によるもので、王はおそらく瘰癧患者にその手で触れることにより治療をおこなっている。この王権による瘰癧治癒能力は、おそらく後述するカペー朝がすでにおこなっていた瘰癧治療に対抗するためにエドワード懺悔王の説話を用いて設定されたもので、カペー朝の王権に対抗するためのものであったと考えられている。つづくプランタジネット朝の時代にはヘンリー2世がすでに瘰癧治療を「御手によって」おこなっているのはほぼ確かで、エドワード1世時代には治療を受けた者に王が施しをするのが明らかになっているので、会計記録からその集計を知ることができる。この瘰癧治癒の霊威の根源は国王が塗油され聖別されたことに由来するとされた。 エドワード2世のころから別種の奇跡、指輪の奇跡がイングランド王権の儀式にあらわれる。これは毎年復活祭直前の金曜日に、王がまず一定の金銀を寄進した上で、それを買い戻し、買い戻した元の寄進の金銀で指輪を作るという儀式で、こうして作られた指輪は痙攣や癲癇の病人の指にはめられると、病をいやすと考えられていた。この儀式では当初、寄進された金銀が聖性を帯びると考えられ、王権は直接に霊威の由来とはされなかったのであるが、テューダー朝のヘンリー8世のころには塗油された王権に由来するものと考えられるようになり、この時期にはすでに儀式において「買い戻し」の行為が省かれていた。指輪の奇跡は宗教改革の時代に批判に晒されるようになり、エリザベス1世によって廃止された。 一方で瘰癧さわりのほうはしばらく存続した。ステュアート朝初期には熱心に瘰癧さわりがおこなわれたが、オランダ人であったウィリアム3世はこの儀式に否定的で患者に触ろうとはしなかった。つづくアン女王は瘰癧さわりをおこなったが、ハノーヴァー朝以降全くおこなわれなくなった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] フランス、聖マルクールの霊威 百合紋 フランス王家の紋章。14世紀半ば頃に百合紋を巡って一つの説話が作られた。"ある日、クローヴィスがコンフラとの決闘の準備をしている時に従者に甲冑を取りに行かせると、甲冑に普段の三日月紋にかわって、青地に百合が3輪描かれている。4度別の甲冑に取り替えさせるが、いずれも同様の百合紋がついている。そこでしかたなくこれを着て決闘するとクローヴィスは勝利を収めることができた。じつはこれはキリスト教徒であった妃クロティルドの計らいで、妃は百合紋を用いて決闘に向かえば勝利するであろうとの啓示を受けていたのだった" フランスではカペー朝の初期、フィリップ1世がおそらく瘰癧さわりをおこなったと考えられている。フィリップ4世の時代にはフランス全土ばかりか、全西ヨーロッパ規模でこの「瘰癧さわり」は評判となっており、教皇領であるウルビーノやペルージャからも治癒を求める民衆がやって来ていることが確認されている。また中世を通じて医学書に瘰癧の治療法としてこの「瘰癧さわり」が記述されていた[* 134]。一方でルイ6世の時代には王旗や王冠がカール大帝の伝承にむすびつけられ、カロリング朝とフランス王権の間に観念的な連続性を生じさせた。 フィリップ4世のころには、この瘰癧さわりがクローヴィスの洗礼に由来する[* 135]塗油された王の霊威によるものという観念があらわれている。そしてこの伝説はランス大聖堂にクローヴィス以来の聖香油が聖瓶(サント・アンブール)に保管されており、王の即位式で王は聖香油を塗油され聖別されるという観念につながった。 中世末期になると、この瘰癧さわりに別個の聖マルクールの瘰癧治療信仰が混入し、区別がつかなくなった[* 136]。ヴァロワ朝のフランソワ1世の時代には、王の瘰癧治癒能力がこの聖者に由来するという観念が一般化していた。フランス王はコルブニーにある聖マルクールの遺骨の前でミサをおこなう際に瘰癧さわりも施すようになり、それを目的として参集する病人が年々増大した。 フランスの「瘰癧さわり」はブルボン朝のルイ16世の時代まで熱心に続けられていたが、フランス革命が起こると王は神授権説とともにこの慣習も捨てることとなった。これ以降はシャルル10世の時代に「瘰癧さわり」の復活が試みられているが、王自身も否定的であったので1825年に一回おこなわれたのみでこれが最後の事例となった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教権の宗教的権威への挑戦 このような王権の超自然的権威はローマ教皇の宗教的権威、具体的には教皇勅書「唯一の、聖なる(ウナム・サンクタム、"Unam sanctam")」への挑戦であった。この教皇勅書はボニファティウス8世により出されたもので、教皇は世俗的領域と宗教的領域の両方で、至上権を有していることを述べていた。以後歴代教皇はこの勅書を基本的に踏襲し、教皇首位権を擁護する聖職者・神学者たちはこれをしばしば引用したばかりか、ややもすれば拡大解釈して教皇の特権を強調した。 王権の「瘰癧さわり」に関してはしばしば異端の疑いを受け、また宗教的権威において、教権に対しての王権の優位性を根拠づけることに成功したとは言い難いものの、中世の後期には民衆の間でこの慣習が広く受け入れられていたことは事実である。またこのような王権の超自然的権威が、一方で近代的な意味での国民的な感情に結びついていたことを見逃してはならない。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 王の二つの身体(霊的王権から政治的王権へ) 中世前期、皇帝派の著述家たちはしばしば王が霊的な権能を有していることを主張した[* 137]。それに対し、教皇派の著述家たちは王権の聖職者としての性格を拒否した。王は純粋に世俗的で肉体的な自然的身体を持つ一方で、王として塗油された瞬間から他の世俗的権力者を超越する霊的身体を持つと考えられ、皇帝派によって大いに喧伝された[* 138]。教皇派は「王に対する塗油が、司教に対するものと違って、魂に何の影響も与えない」[* 139]として、前者の考えを否定した。 中世後期にいたると、王の霊的権能のほとんどは名目的な称号や役職へと退化していたが、それでも著述家たちは王が単に世俗的な支配者であるに留まるわけではないことを強調した。これには中世に発達した法学の影響があり[* 140]、王はあらゆる法的義務から超越し、正義の源泉であると考えられた。その過程において、王権は王個人と区別して観念されるようになった。法学者たちは、王には自然的身体と政治的身体の二つの身体があり、自然的身体は可死的な王の生まれながらの身体であるが、政治的身体は不可死かつ不可視で、政治組織や政治機構からなり、公共の福利をはかるために存在していると考えた[* 141]。 清教徒革命時には王個人の行動が政治的身体である王権に反するものであるとして、議会の王への反抗が正当化された。彼らは「王 (King) を擁護するために王 (king) に対して闘え」と叫び、さらにチャールズ1世を「大逆罪」で処刑することもできたのである。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カトリック大国、スペイン 16世紀に新しい大国が西ヨーロッパの政治舞台に登場した。イベリア半島のスペインとポルトガルである。両国とも盛んに海洋進出をはかり、新大陸・アジアなどへの航路を確保しながら広大な植民地を獲得していった。またこれらの地域への布教活動においても重要な役割を担った。ヨーロッパにおける教権との関係でいえば、スペインはとくに重要な個性としてヨーロッパ政治史に固有の位置を占めることになる。 王権によるスペイン教会の掌握 異端審問 ゴヤによる1815年ごろの作。異端を疑われた者は図のような高い帽子を被らされた カスティリャ王国とアラゴン王国の合同によって成立したスペインは、レコンキスタを完成してイベリア半島からイスラームの勢力を駆逐すると、国内の宗教的統一をはかるようになった。当初は征服地のイスラム教徒であるムーア人に信仰の自由を許していたが、彼らが反乱したのを理由に1501年、ムーア人に信仰を守って移住するか信仰を捨てて洗礼を受けるかの二者択一を迫った。またユダヤ教徒を国内から追放し、キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)についても密かにユダヤ信仰を守っているのではないかという疑いをかけていた。 イサベル1世とフェルナンド2世は、王国の安定のためには国内の宗教的統一が不可欠であると考え、教皇に要請して1478年スペイン異端審問所を設けた[* 142]。この異端審問所では当初から国王が全権を握り、スペイン教会における王権の影響力を高めて事実上教権からの自立を勝ち取ったばかりか、王権による国家政策の一環として政治目的にも利用されるようになった。さらに支配下のナポリ王国に教皇が領主権を主張すると、これに激しく反発して一時は教皇と断交寸前にいたった。つづくカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の時代にはサンティアゴ騎士団長の位が王家によって世襲されることを定め、国王は国内の宗教的権威と権限を掌握した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] イベリア半島におけるキリスト教文化の興隆 この時代スペインではキリスト教文化においても大きな前進が見られた。具体的にはルネサンスの人文主義の成果が取り入れられ、先進的な神学校や大学などの教育機関がスペイン各地に設けられた。この時代のスペインのキリスト教アカデミズムを代表するのがメンドサとシスネーロスである。 メンドサは1492年のグラナダ攻略の際にスペインの首座大司教であり枢機卿であった人物で、宗教教育推進のためにキリスト教教育書を書いた。シスネーロスはアルカラ・デ・エナーレス大学を創設し、ここには当時の主要な神学、トマス派、スコトゥス派、唯名論などの講座が設けられ、ギリシア語・ヘブライ語も学ぶことができた。さらにここでは聖書原典の編纂事業が行われ、『コンプルトゥム多国語対訳聖書』が著された。これらスペインでのキリスト教文化の発展は、人文主義に対する一定の寛容をもたらし、とくにエラスムスの著作はこの地域で大変な人気を博し、よく読まれた。このことはのちの宗教改革において、この地域での宗教改革派の影響が軽微に止まる原因の一つともなった。 ポルトガルでは、1554年にイエズス会の手によって、エヴォラ大学が創設された。エヴォラ大学は、中世以来のコインブラ大学に対抗し、近代的な大学であったが、一方で科学の自由な知的探究を排し、講義はラテン語でおこなうなど現地語主義を抑圧した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 中世の民衆信仰 中世を通じて、支配者や聖職者の知的な宗教世界とは別の次元で、民衆の間にも独自の信仰が展開されていた。このような民間信仰は民衆の日常生活や伝統的な世界観と結びつき、ときには集団的な様相を取って大きな宗教的運動に結びついた。ここではキリスト教がいかに中世のヨーロッパの一般民衆の生活に根付いていったかを概観する。 魔術的な神から摂理的な神へ 王としての「キリスト」 フェルナンド・ガレゴによる15世紀の作品。紀元1000年ごろから、威厳を持った王の姿で表されるキリスト像が現れる ゲルマン人の間にキリスト教が受容された当初、「神の全能」は多分に魔術的に解釈されていた。たとえばクローヴィスは妻クロティルドにキリスト教への改宗を薦められると、キリスト教の神が彼の戦勝に貢献するなら、信仰を受け入れようと約し、勝利を得た後に改宗した。これはゲルマン神話の戦争の神オーディンがルーンを習得して魔法を使う魔術の神であったことを考えれば、魔術的な神への信仰としてキリスト教を見ていたことになる[* 143]。中世初期には、聖職者はしばしば魔術的な力を持つと信じられた。聖職者は民衆から尊敬の眼差しで見られる一方、魔術師として恐れられ嫌われた。11世紀のデンマークでは、聖職者は天候に対して魔術的な力を持つと信じられ、天候不順であった際には迫害を受けた。13世紀フランスでは、ある村で疫病がはやった際に、司祭を犠牲にすることで村を救おうとした事例がある。11世紀のグレゴリウス改革において教会が排除しようとしたのは、王権の奇跡能力と、聖職者に対するこのような魔術的迷信であった。グレゴリウス7世は王や聖人の奇跡を否定する一方、デンマークで天候不順の際におこなわれた聖職者への迫害を非難している。 しかしながら中世を通じて、神の起こす奇跡は自然法則を超えることができると信じた民衆の心性は、ほとんど変わることがなかった。例えば王権の超自然的な奇跡能力への信仰は、中世後期にむしろ強められさえし、聖人への信仰は特定の奇跡と聖人を結びつけ特殊化する方向に進んだ[* 144]。一方で民間信仰とは別個の次元で、教会は奇跡を神学的に論じ、神の摂理の合理的な体系の中に位置づけた。すなわち教会はある人物を列聖する際には、その人の起こした奇跡をその生涯と奇跡のあらわれ方から吟味して、聖人とするかどうかを決定するようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 新しい信仰形式、清貧、巡礼、神の平和 10世紀末ごろから、従来の信仰形式とは異なった、いくつかの大衆的な宗教運動が現れた。 このころ従来の修道院とは異なった形で、よりイエスのあり方に近い修道生活を目指す運動がおこった。この運動の淵源は東ローマ帝国に近い、南イタリアのカラブリア地方のギリシア系修道士たちの生活に端を発し、南イタリアにイスラム教徒が攻撃を加えるようになると、彼らは難を避けて北上した。11世紀になると全ヨーロッパ規模で、この新しい運動に基づいた修道院設立が活発化した。とくに影響が大きかったのは13世紀に現れたアッシジのフランチェスコで、彼の清貧運動には在俗の多くの信者が共感し、ともに貧しい生活を営んだ。同時期に同様に清貧を唱えた異端のワルドー派も多くの在俗信者を獲得した。このように聖職者の貴族的な共同生活であった修道生活が、イエスの清貧という理想を通じて、民衆の間に広く受け入れられた。 信徒たちの母として描かれた聖母マリア(1445年ごろ) 12世紀西欧では、聖母信仰が流行した。聖母マリアのイエスを失うという悲劇的な体験が、イエスと贖いの苦しみを共有するものと観念されたからである。聖母マリアは普遍化され、「神の母」としてキリスト教社会のすべての信徒を包み込む存在とされ、厚く尊崇されるようになった またこのころ、聖遺物や聖人に対する信仰が高まり、各地に収められた聖遺物や聖人の故地への巡礼がさかんとなった。サンティアゴ・デ・コンポステーラや聖地エルサレムへの巡礼は大衆運動となった。のちには十字軍運動と結びついて、多数の信者が十字軍に参加したり、特に少年十字軍に代表されるように、自発的に大衆の十字軍が組織されたりもした。西ヨーロッパの交通網は11世紀までにまず聖地のネットワークとして形成され、徐々に定期市や港湾にネットワークを広げ、その拠点には金融市場が形成されるようになった。こうして成立した中世の交通網は古代のローマ帝国の街道網とはかなり異なったものであった[207]。 10世紀末の南フランスでは、フェーデに代表される封建的な私闘を、破門を威嚇に用いることで抑制しようという「神の平和」運動が起こった。これは封建的私闘の悪弊から、農民の財産や労働、商人の活動を保護しようという意図をもち、平和攪乱者に対して破門を下すとともに、農民が武器を持って戦うことも正当化するものであった。この「神の平和」運動は11世紀前半には全フランスに広がり、やがてドイツにも伝播した。ドイツではこの平和運動に王権が積極的な役割を演じ、時期を限ってフェーデを禁ずるラント平和令を出した。このラント平和令はのちには永久化されて、中世的な自力救済に基づいた私刑主義を非合法化し、公権力を創出するものとなった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト像の変容と聖母信仰 キリスト教が西ヨーロッパ社会で広がっていく過程において、イエス・キリストとその母マリアのイメージも大きく変容した。 まず紀元1000年ごろから「子なる神」イエスに対する関心が非常に高まり、とくに厳しい審判者として、あるいは威厳ある王としてのキリスト像が頻繁につくられるようになった。ところが12世紀ころから、今一度キリスト像に大きな変化が見られ、貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエスの像も数多く見られるようになった。このキリスト像を、その清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのが、アッシジのフランチェスコであったといえる[208]。 最近のカトリック教会による教義の明確化[* 145]にいたるまで、教義上は確固とした位置を占めなかった聖母についての数々の信仰もこの時代に成立した。まず12世紀ごろに聖母マリアも死後昇天したという「聖母の被昇天」信仰があらわれ、14世紀にはキリストを宿したマリアが原罪を背負っているはずはないとする「無原罪の御宿り」信仰があらわれ、激しい論争の種となった。聖母は「子なる神」イエス・キリストの母として、信者とイエス・キリストの間をとりなす特別の存在として尊崇を集めた。12世紀には祈祷文「アヴェ・マリア」が成立している。このような聖母マリアへの特別の尊崇は、ときに彼女をキリストの贖罪になくてはならず、贖いの補足者と見なす見解にもつながったが、教会は一貫してこの見解を斥けている[* 146]。この聖母信仰は、のちに宗教改革派によって攻撃の的とされた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 宗教改革前思想史 宗教改革は思想史的に言えば、突然に起こったものではなく、宗教改革諸派の思想は基本的に前代のさまざまな異端思想や人文主義思想と共通する点が多い。したがって宗教改革は思想面での革新性を示したというよりは、むしろ中世を通して堆積してきた政治状況に注意すべき点があるといえる。国家と宗教の関係についていえば、これらの思想はこの問題を直接的に扱い、論じているものが多い。宗教改革を巡る政治状況については後述するが、ここでは思想史的背景から宗教改革の前思想ともいうべき様々な思想傾向を概観する。 近代思想の先駆(1):パドヴァのマルシリウス イングランドの異端思想、ウィクリフとロラード派 思想上の接点は必ずしも明確ではないが、ロラード派はイングランドの宗教改革運動にある程度の影響を及ぼしている 詳細は「パドヴァのマルシリウス」を参照 パドヴァのマルシリウスの『平和の擁護者』(1324年)は、しばしば近代的な人民主権理論の先駆として言及される。この著作においてマルシリウスは世俗社会に対する教会の介入を批判し、当時の皇帝ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世の間の論争において皇帝側を擁護する論陣を張った。 さて、マルシリウスが人民主権理論の先駆とされる理由は、法の強制力は公民の同意に基づくと述べたためである。つまり『平和の擁護者』において、強制力を持つ実定法こそが真の意味の法であり、翻って実定法がなぜ強制力によってでも守らなければならないものであるかといえば、実定法がある時点で人為的に、公民の意志に基づいて制定されているからであるという論が示されている。支配者はこうして強制的に法を執行することが可能であるが、一方で人民に対して責任を持つ。 マルシリウスによれば、実定法である法には、次のような性格が明瞭である。 法の対象は外的な行為に対してであって、信仰などの内面に関わらない 神の法は窮極的な原因であるが、世俗の法には直接的に関わらない 国家における正義および利益の実現を目的とする 支配者の安全、統治の継続に資する とくに 1. 2. については明瞭に政教分離の考えを述べている。 マルシリウスは教皇権の批判にも筆を進め、教会がキリスト教徒全体の共同体であるとし、そうであるならば、教皇権はキリスト教自体に全く根拠を持たない歴史的な産物であるとし、本来聖職者は平等であるべきで、教義の問題は教皇ではなく公会議によって決めるべきだとした。このマルシリウスの主張は公会議主義の有力な根拠となった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 近代思想の先駆(2):ブリテン島の科学主義、唯名論の系譜 詳細は「ロジャー・ベーコン」、「ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス」、および「ウィリアム・オッカム」を参照 12世紀から13世紀にかけてスコラ哲学は完成に向かい、それはトマス・アクィナスによって一応なされたのであるが、そのトマスと同時代のイングランドでは、オックスフォード大学を中心として、すでにスコラ哲学の解体へと向かう運動が始められつつあった。14世紀に入ってからの後期スコラ学の時代には、パリ大学ではアヴェロエス主義[* 147]的な傾向が強まったのに対し、オックスフォード大学では、すでにアリストテレスに基づいた論理や概念は必ずしも尊重されず、より正確な論理的方法や概念が探究されるようになり、経験主義的な傾向が強まった。 オッカムのウィリアム 唯名論に基づいた著作が異端とされ、1328年破門されると、ルートヴィヒ4世のもとへ逃亡し、『教皇権に関する八つの提題』を著して教権を攻撃した。このなかで注目されるのは聖書の啓示を万民に許されているという思想で、のちの宗教改革を先取りしている オックスフォード大学における経験主義の先駆としてはロジャー・ベーコンがまず挙げられる。彼はトマス・アクィナスの同時代人であるが、アリストテレスを信じず、それに依拠しないで自ら実験して数学的な知識に基づいて研究し、錬金術も行った。ベーコンによればトマス・アクィナスのような神学は、経験的でないから学問に値しないものであった。 ベーコンの半世紀後に登場したドゥンス・スコトゥスは、ベーコンとは逆に、トマス・アクィナスが演繹的でないという批判を行った。スコトゥスによれば学問とは必然的で論理的な内容を持つものであるべきで、神の問題は厳密に言えばこのような論理的な積み上げによって得られる知識ではないから、神学が学問の中心的分野になることはおかしいとして、トマスの「神学は哲学の婢」という考え方を批判した[* 148]。 オッカムのウィリアムはドゥンス・スコトゥスの考えを発展させ、普遍的なもの(抽象)は名辞によってしか知られず、事物の本質はそれぞれの個体(具体)に存するという考えを唱えた(「唯名論」)。これはつまり「人間という観念がまずあって、それを基に個々の人間が存在する」のではなく、「無数の人間がまずあって、それらの共通点を抽象化したのが人間という観念である」という考え方である。この考えを拡張すると、この世界が合理的な秩序に基づいているという神の摂理を主張する立場が否定され、神の秩序なるものは、所詮神が個々に命じた個別的な意志の集積に過ぎないとする考え方に到達する。これはジャン・カルヴァンの「神中心主義」に近い考えである。 さらにオッカムのウィリアムは前述のパドヴァのマルシリウスと同じくルートヴィヒ4世に仕えて、反教権論を展開したのであるが、その思想はより原理主義的で、のちの社会契約説を先取りしている面がある。パドヴァのマルシリウスがアリストテレスに基づいて、国家を家族から発展した自然の共同体と見ているのに対し、オッカムのウィリアムは国家以前の自然状態を論じ、公共の福祉、共通善の実現のために契約によって国家が成立したのだと論じた。オッカムのウィリアムはさらに、マルシリウスにおいては不徹底であった人民主権的な考え方をより鮮明に打ち出し、国家が契約に基づくのであるから、立法には公民全体が参加すべきであるという考えを説いた。そして、オッカムのウィリアムは自身の理想とする政治社会のアンチテーゼとして現実の教会を批判した。教会においては教皇が異教的なローマ皇帝の制度に依拠して、本来は万民に開かれているべき権限を独占し簒奪している。神の啓示は本来聖書の中に記されているはずなのに、教会や教皇はそれらをみだりに読むことを禁じ、信徒から遠ざけている。本来であれば聖書を読める者なら誰でも、神の啓示に参加できるはずである。オッカムのウィリアムの考えは宗教においてもマルシリウスよりラディカルであり、公会議主義にも否定的である。彼によれば公会議もやはり教会という限られた共同体の聖職者に限られ、信徒全体に依拠するものではないから不完全である。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 改革運動の先駆(1):ウィクリフ 詳細は「ジョン・ウィクリフ」および「ロラード派」を参照 しばしば宗教改革の先駆として引用されるウィクリフは、オックスフォード大学に学んだイングランドの神学者で、1374年ころからイングランド王権と教皇庁の課税権を巡る論争に現れ、イングランド王権を擁護する主張を繰り返すようになった。ウィクリフの主張は課税権にとどまらず、やがて教皇の聖職叙任権にも向けられ、さらには教会は布教に必要最低限の財産しかいらないと述べて、教会財産の没収にまで言及するようになった。教会はウィクリフを異端審問にかけたが、王権や民衆の側から圧力が加えられ、ウィクリフは解放された。 こののちウィクリフは教義の批判に進み、アウグスティヌスに基づいて予定説を唱えた。彼は真の教会が目に見えないもので、あらかじめ救済が予定されている者によって構成されているのに対し、可視的な教会はすでに堕落しており、聖書のみに基づいたキリスト教の原始的な信仰に戻るべきだと説いた。 1384年にウィクリフは死ぬが、そののちコンスタンツ公会議で1415年に異端とされ、死体が掘り起こされて焼かれた。ウィクリフの教えに従って聖書を尊重するロラード派(あるいはロラーズ、"Lollards")という一派を生み、一時はオックスフォード大学などを中心に広まったが、のちに徹底的に弾圧された[* 149]。彼の思想は直接的には次のフスにつながり、宗教改革やイングランドのキリスト教解釈にも影響を及ぼした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 改革運動の先駆(2):フス エラスムス 16世紀前半にヨーロッパで広汎な影響力を持った人文主義者。中世を通じて教会が聖書解釈を独占していたが、エラスムスは独自のギリシャ語新約聖書を出版し、大変な人気を博した。ルターによって宗教改革が始まると、予定説と領邦教会制を批判し、人間の自由意志と全ヨーロッパ的なキリスト教共同体を擁護した。彼は領邦教会制がキリスト教の世俗権力への従属に他ならないことを批判し、ヨーロッパに平和がもたらされるためには全ヨーロッパ的なキリスト教共同体が不可欠なことを主張した。彼は信仰の自由、聖書解釈の自由、キリスト教徒の平和共存を説いたが、宗教改革が激化するとプロテスタント・カトリック双方から槍玉に挙げられるようになった 詳細は「ヤン・フス」および「フス戦争」を参照 フスは貧しい農民の出身で、オックスフォード大学で勉強し、のちにプラハ大学の教授となった。フスはウィクリフの思想に影響されて個人の信仰を重視して教会を否定的に考えるようになった。 神聖ローマ皇帝カール4世の時代にボヘミアは文化的な隆盛を迎えた。この統治者のもとでプラハは独立の大司教区となり、プラハ大学を創設した。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わったが、のちにこのような一部の聖職者に富が蓄積される傾向が、世俗貴族や下級聖職者の批判するところとなった。このころのボヘミアでは少数でありながら影響力の大きいドイツ人移民と土着のチェック人の間で対立がおきており、その構造はプラハ大学でも同様で、ドイツ人の同郷団[* 150]は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。またチェック人の同郷団はウィクリフ派であったが、残りの同郷団は反ウィクリフ派であった。このことがしばしばプラハ大学でも大きな分裂を引き起こしたが、1409年に皇帝ヴェンツェルはドイツ人の同郷団が皇帝の意向に背いたために、勅令を出してチェック人の同郷団を優遇すること[* 151]とし、これを不満に思ったドイツ人学生はライプツィヒに移住し、ライプツィヒ大学が分離した。そしてライプツィヒのドイツ人はフスを異端だとして突き上げた。 フスは破門を宣告されるが、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とした。またウィクリフに従って予定説を論じたが、ウィクリフとは異なって聖職位階制に対しては否定しなかった。ヴェンツェルの弟で、皇帝であったジギスムントはこの宗教問題を平和的に解決しようとコンスタンツ公会議に出席するようフスを説得し、教皇も破門を一時的に留保したのでフスは公会議に参加した。しかしこの公会議でフスは異端と宣告され、火刑に処された。フスが死んだとはいえ、ボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。 ヴェンツェル死後にジギスムントがボヘミアを相続することになると、ボヘミアのフス派はいよいよ反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派(英語版)を中心としてジギスムントの十字軍を何度も撃退し、一時は一方的に国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を事実上実現させるなど大いに盛んとなった[* 152]が、やがてフス派の穏健派が中心となって皇帝と和解し、皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。しかしボヘミアは以後もカトリック教会においてほとんど独立した状態を維持していた。 戦争の影響で教会や修道院が大きく衰退し、聖職者は議会において影響力を失い、ボヘミアの議会は貴族と都市市民が参加する世俗的な身分制議会を形成することとなった。またドイツ人が多く域外へ脱出し、チェック人の勢力が強まり、チェコ語の礼拝が重視されるようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 人文主義の宗教観:エラスムス 詳細は「デジデリウス・エラスムス」を参照 エラスムスは15世紀末から16世紀前半にかけて、ヨーロッパに最も影響を及ぼした人文主義者の一人であった。エラスムスはパウロの「ローマの信徒への手紙」に影響を受け、聖書を自ら再検討しようと考え、ギリシア語を学んで『校訂ギリシア語新約聖書』を著した[* 153]。これは印刷術の進歩による後押しもあって当時広汎な地域に流通し読まれた[* 154]。 エラスムスは教会の腐敗と信仰における聖書の重視を訴え、教会が聖書解釈を独占しようとして一般信徒に聖書を調べることをしばしば禁じていることを批判し、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うものであることを主張した。この面でエラスムスはのちの宗教改革者と同じ平面に立っていたが、彼は教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て、これを公然と批判するようになった。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。ともかく両者はこのように、教会の腐敗への批判と聖書の重視という点では一致していたが、その教義上の立場も政治上の立場も全く異なるものであった。 エラスムス自身は教会の普遍性を信じ、カトリックとプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた[* 155]彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年、トリエント公会議で禁書処分にされた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 近代社会とキリスト教(1500年〜1800年) ルター 「95カ条の論題」を発表[* 156]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった 宗教改革は純粋に宗教内での問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を基礎づけたばかりか、近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった。 宗教改革(プロテスタント側から) 詳細は「宗教改革」および「プロテスタント」を参照 1517年アウグスティノ修道会士であったルターによって「95カ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった。 神聖ローマ皇帝カール5世とエラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントとカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[* 157]。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ドイツの領邦教会制度 当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[* 158]。 シュマルカルデン戦争 詳細は「シュマルカルデン同盟」および「シュマルカルデン戦争」を参照 1530年にカール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。 アウクスブルク帝国議会(1530年) この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] アウクスブルクの平和令 アウクスブルク宗教平和令 1555年にマインツで印刷された版本の表紙 このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年に諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[* 159]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイス盟約者団と福音主義 ドイツでルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴにカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、ずっとのちに近代的な政教分離の主張へとつながっていくことになる[209]。 スイス盟約者団の歴史的経緯 詳細は「スイスの歴史」を参照 スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[* 160]。今日では、スイスの国家統合は14,15世紀を通じてスイス周辺の状況のなかで徐々に進行したと考えられており、当初の盟約はあくまでラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。 12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境の隔絶された山田舎に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒはウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属の地位とした[* 161]。1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[* 162]。14世紀初頭にはウンターヴァルデン地方も帝国直属を獲得しているのが確認される。これ以前の1291年にはすでにこれらの三者は盟約を結んでいた[* 163]。 1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王は1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦い(ドイツ語版、英語版))。この直後の12月9日盟約が更新され、盟約者団はさらに結束を強化した。こののち14,15世紀を通じてハプスブルク家との戦いが続くが、近隣の邦や都市が徐々に同盟の形で参加した。1499年、皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団に奪われたハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争(ドイツ語版、英語版))、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国から独立した[* 164]。1513年のアペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持されることとなる[* 165]。 長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦い(フランス語版、ドイツ語版、英語版)でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年にルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い(英語版)で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイスの宗教改革(1):ツヴィングリ ツヴィングリ像 チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している 1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭からマタイによる福音書の説教を開始した。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタを使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン[* 166]の内部での対立は、たちまち先鋭化した。 1522年3月、受難節の断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[* 167]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」の説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明し、チューリヒはツヴィングリの福音主義の拠点となった。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとなった。ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した。一方で教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりこののちのチューリヒにおける改革の枠組みが定まった。すなわちチューリヒでの改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれるのである。 1524年6月には市内全域から聖像画・聖遺物・ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されて資産はカントンに接収された。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のためにカロリーヌム[* 168]が開設された。こうしてスイスにおける福音主義の橋頭堡は着々と固められた。 しかしながらこの時点では、スイス内での福音主義の孤立は明らかであった。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンはカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した。しかし1528年1月に有力なベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンやコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。これを見てカトリック派のカントンも宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第1次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議)。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである。ここに信仰の「属地主義」、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。 第二次カッペル戦争 ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版 第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立し[* 169]、物別れに終わった。 ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるに留まった。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第2次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。このときカトリック側8000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した。 しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。スイスにおける福音主義は後継者ブリンガーに受け継がれ、カルヴァンの登場を待つこととなる。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイスの宗教改革(2):カルヴァン ジュネーヴのサン・ピエール教会 ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った 1536年7月から8月にかけてのころ、たまたまジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、同地で福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請された。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知り、援助を願ったのである。カルヴァン自身はこのときストラスブールへ向かっている途中であったが、これに協力することを決意した。 1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[* 170]。1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの新しい市参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。 やがてジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、彼らによる再びの招聘を受けて、1541年9月13日カルヴァンはジュネーヴへと帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職[* 171]を定め、いわゆる「神権政治」を開始した。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミシェル・セルヴェが三位一体説を批判した廉で、異端としてカルヴァンにより火あぶりに処された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すようになった。 聖ニコラウス 15世紀後半盟約者団の間で対立が表面化し始めていたが、隠修士として尊敬を集めていたニコラウスの呼びかけによって、諸邦は再び結束し、シュタンス協定を結んで内部抗争の調停方法を定めた。ヴィルヘルム・テルと並んでスイスの国民的英雄である 1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリック根絶を強硬に主張し、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年に国教会の地位を獲得するに至った。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] プロテスタント圏スイスとカトリック圏スイス 宗教改革はスイスにとって結局どのような変化をもたらしたのであろうか。それについては前述の、宗教的な動機から見た展開とは別に、政治的意味から見た別の側面も確認できることに注目する必要がある。 周辺を諸侯修道院領に囲まれた都市共同体にとって、宗教改革を導入することは、これらを解体して領域支配に組み込める可能性が生じた。同時に教会財産の没収により経済力を高めることができた。またツンフトに代表される中下層の市民にとっては、都市共同体を上層で寡頭支配している門閥や都市貴族を排除できる可能性が生じた。なぜなら彼らの多くは保守的でカトリック信仰にとどまっていたからである[* 172]。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[* 173]。 1600年ごろには、スイスの宗教的分裂は一過性のものではなく、もはや既成事実として明らかなものとなっていた。盟約者団内部で、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった[211]。もちろん宗教的不和は厳として存在し、それはしばしば顕在化したものの、なお盟約者団への帰属意識が存在していたのである。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 宗教改革派の諸思想 ここでは、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。 ルター ルター像 ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している 詳細は「マルティン・ルター」を参照 ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている[* 174]。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二世界論」である。 ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した。 政治社会との関係でいえば、重要なのは「二世界論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるという。しかしながら、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である。これは信仰における諸侯の絶対的権限、領邦教会制度を理論的に認めるものであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ツヴィングリ マールブルク会談 この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった 詳細は「フルドリッヒ・ツヴィングリ」を参照 ツヴィングリは後世にツヴィングリ派ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちである。しかしながら、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとは言えない[212]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なって人文主義やスコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 175]。 ツヴィングリの福音主義思想の中で、明らかにルターと異なると認められる特徴は、その実践的な性格である。ルターは個人的な深い宗教的探求によってその思想を形成しカトリックを批判したが、ツヴィングリはより実践的な考慮によって、つまり生活上の慣習や社会通念における誤った宗教的理解について攻撃を加えた。彼によれば、聖書に根拠のない聖人崇拝、修道制、独身制などは廃止されるべきで、さらに進んで生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであるとし、宗教を含めた生活の監督は信徒の集まりによって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとされた[* 176]。 ツヴィングリの死ぬころには、彼の信仰告白を受け入れる都市はスイスに留まらず、ドイツ南部にまで広がっていたが、彼の死後それらの多くはカルヴィニズムの中に分解されていった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カルヴァン ジャン・カルヴァン その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない 詳細は「ジャン・カルヴァン」を参照 カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。 カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には見える教会と見えない教会があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。 一方世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家の中には必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。 カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない攻撃性も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズムに直面するうちに失われていき、寛容へと傾いていった[* 177]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] フランスのコンフェッショナリズムと主権理論 コンフェッショナリズムとは、政治闘争が信仰の対立と密接に結びついた、宗教改革の時期特有の政治状況である。このような形での宗教対立が最も典型におこなわれたのが16,17世紀のフランスであった。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[* 178][* 179]。このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。 フランスの改革派、ユグノー カトリーヌ・ド・メディシス アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った 詳細は「ユグノー」を参照 フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[* 180]、1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった。 国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世は1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。 これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。 アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ユグノー戦争 詳細は「ユグノー戦争」および「ナントの勅令」を参照 前述の状況の中、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年のナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。 これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[213][214]。 サン・バルテルミの虐殺 ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。 この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルク家のフェリペ2世が1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。 アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令を1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ナントの勅令廃止まで ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリやノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌやラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。 アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。 ユグノーの多く居住する地域(17世紀) しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。 1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。 ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[* 181]。これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ユグノーとフランス経済史 マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノーは16~17世紀のフランス経済に大きな影響を及ぼした[* 182]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 183]。 ナントの勅令 ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[215]。その内訳は貴族・農民・手工業者・商人・金融業者など多様な社会階層に及んだ[216]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。 ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。 毛織物工業では、ラングドック・プロヴァンス・ドフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[217]。絹織物工業においては、17世紀中葉トゥール・リヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[218]。オーヴェルニュやアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 184]。 ラ・ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[219]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[220]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[221]。 ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 政治思想(モナルコマキとポリティーク) カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ、暴君放伐論者をモナルコマキ(英語版)という。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。 ジャン・ボダン 国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ベーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。 ラ・リーグの側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。 一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた。彼らを国家主義者という意味でポリティークと呼ぶ。 ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンで、彼は一方で近代的な主権理論の祖ともいわれる。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 低地地方と宗教改革 詳細は「オランダの歴史」を参照 メルセン条約によって東フランクと西フランクに分属することとなった低地地方[* 185]は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。しかしながら、14世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 186]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。 低地17州の歴史的経緯 ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿 詳細は「ネーデルラント」および「ブルゴーニュ領ネーデルラント」を参照 12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公、エノー伯、ルクセンブルク伯、フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。 低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。 14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており[* 187]、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」[* 188]へと発展した。 14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。 1477年にシャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世) カール5世の「帝国」(1547年) 詳細は「ネーデルラント17州」を参照 1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州[* 189]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。 カール5世に続いて低地地方を支配したのは長子フェリペであった。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 190]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 191]。このころフランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド 「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた 1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政マルハレータに提出した[* 192]。マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。 フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 193]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 194]。しかし、この頃フランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 1566年、フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[* 195]。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである。1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世は1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 八十年戦争とオランダ共和国 詳細は「八十年戦争」を参照 ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した。1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。 1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 日本近代史における政教分離 大政奉還がなされて明治政府が誕生し、日本の近代史が始まる。ここでは近代の法制史の立場から政教分離に関連する歴史を概説する。 大政奉還の年(1867年慶応3年)神祇官が復興され、明治新政府は祭政一致の国家形成を目指す方針を出した[222]。1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立して行政制度において独自の位置を占めた。しかし1871年には神祇省に格下げされて、1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。 これに対して浄土真宗本願寺派の島地黙雷が三条教則批判建白書を提出し(1872年明治5年)、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、結局同5月に大教院は解散することとなる。 1873年1月に太陽暦が導入され、1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じ、国家祭祀に専念させることとし、国民的な習俗として一般的な宗教とは区別されることが方向付けられた。このさい内務省通達により神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)[223]。 大日本帝国憲法(1889年明治22年)には第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。 昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、日本政府の方針にしたがうべきことを表明した。 第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、現行憲法では政教分離が原則的には実現されている。 現代日本における政教分離原則に関する問題については政教分離原則・靖国神社問題・公明党を参照 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 関連項目 帝権と教権 叙任権闘争 皇帝 ローマ教皇 神聖ローマ帝国 フランク王国 カロリング朝 ホーエンシュタウフェン朝 ハプスブルク家 ルクセンブルク家 選帝侯 各国史 ドイツの歴史 フランスの歴史 イギリスの歴史 教会 キリスト教の歴史 ローマ教皇の一覧 東西教会の分裂 正教会 カトリック教会 教会大分裂 公会議主義 宗教改革 プロテスタント ヨーロッパ外の祭祀王権との比較 天皇 神道 皇帝祭祀 天下 参考文献 全体 森安達也 『近代国家とキリスト教』 平凡社〈平凡社ライブラリー, 446〉、2002年。ISBN 4582764460。[* 196] 歴史学研究会 編『現代歴史学の成果と課題 1980年-2000年 2 "国家像・社会像の変貌"』青木書店、2003年。 小林良彰・河野武司・山岡龍一 著『政治学入門 ( 07)』放送大学教育振興会、2007年。 江川温 著『ヨーロッパの歴史 ( 05)』放送大学教育振興会、2005年。 リュシアン・フェーヴル 『ヨーロッパとは何か 第二次大戦直後の連続講義から』 長谷川輝夫訳、刀水書房、2008年。ISBN 9784887083646。 ウィリアム・ウッドラフ 著、原剛ほか訳『概説 現代世界の歴史 1500年から現代まで』ミネルヴァ書房、2003年。 岡本明 編著『支配の文化史 -近代ヨーロッパの解読-』ミネルヴァ書房、1997年。 各国史全般 松谷健二 著『東ゴート興亡史』白水社、1994年[2003年中公文庫] 玉置さよ子 『西ゴート王国の君主と法史』 創研出版、1996年。ISBN 978-4915810084。 アズディンヌ・ベシャウシュ 著、藤崎京子 訳『カルタゴの興亡』知の再発見双書、1994年。 松谷健二 著『ヴァンダル興亡史』白水社、1995年[2007年中公文庫]。 青山吉信 『先史〜中世』1、山川出版社〈世界歴史大系, イギリス史〉、1991年。ISBN 4634460106。 今井登志喜 著『イギリス社会史』上下、東京大学出版会、1953年。 ベーダ・ヴェネラビリス 『イギリス教会史』 長友栄三郎訳、創文社、1965年。ISBN 978-4423460078。 J・R・H・ムアマン 『イギリス教会史』 八代崇ほか訳、聖公会出版、1991年。ISBN 978-4882740636。 村岡健次 ほか編著『イギリス近代史 宗教改革から現代まで』ミネルヴァ書房、1986年。 樺山紘一 ほか編『世界歴史大系 フランス史』1〜3、山川出版社、1995年。 成瀬治、山田欣吾、木村靖二 『ドイツ史』1、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年。ISBN 9784634461208。 森田安一 『スイスの歴史と文化』 刀水書房、1999年。ISBN 4887082355。 森田安一 『スイス・ベネルクス史』 山川出版社〈世界各国史, 14〉、1998年、新。ISBN 4634414406。 ウルリヒイム・ホーフ 『スイスの歴史』43、刀水書房〈刀水歴史全書〉、1997年。ISBN 488708207X。 川口博 『身分制国家とネーデルランドの反乱』 彩流社、1995年。ISBN 4882023709。 南塚信吾 著『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年。 『新版世界各国史15 イタリア史』 北原敦、山川出版社、2008年。ISBN 978-4634414501。 クリストファー・ダガン 『ケンブリッジ版世界各国史 イタリアの歴史』 創土社、2005年。ISBN 978-4789300315。 高山博 『中世地中海世界とシチリア王国』 東京大学出版会、1993年。ISBN 978-4130261067。 Henry Bernard Cotterill (1915). Medieval Italy during a Thousand Years A Brief Historical Narrative with Chapters on Great Episodes and Personalities and on Subjects Connected with Religion, Art and Literature. George G. Harrap. Edward Hutton (1913). Ravenna a Study. E. P. Dutton. ISBN 978-0554137117. - 名無しさん 2015-08-23 21 32 12 名前 A、 バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ 攻略wiki とコラボして欲しいです - レン 2012-04-25 20 13 01 最終編集 2 か月前、Æskja 政教分離の歴史 政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する[* 1]。したがってここでは政教分離原則成立の社会的背景を、近代国家とそれに先行する政治社会の宗教政策との関連性に基づくものとしてその歴史を概観する。 バチカン市国 中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はバチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている 基本的な視野 政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。 近代国家成立史として カール大帝の戴冠(ジャン・フーケによる1460年ごろの作品) カール大帝は800年教皇レオ3世によって加冠され、キリスト教西ローマ帝国の皇帝となった。ゲルマン的普遍世界の成立を告げる重要な画期であったが、後代カール大帝はこのとき塗油によって聖別されたと信じられた[* 2]。厳密に言えばそれは後代のアナクロニズム(時代錯誤)であったが、のちに「国王が教皇によって聖別されること」が王権に対する教権の優位の有力な根拠となった一方、一度聖別された国王が聖性をもつことの根拠ともなり、のちには血統霊威の観念[* 3]などと結びついて王権神授説に発展し、絶対王権の根拠ともなった 近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。 このような状況は西ヨーロッパに固有の問題であると言えるが、近代国民国家が西ヨーロッパで成立したと考えられているために、国家と宗教の関係性の歴史が近代国家の成立史において主要な論点として意義を有することになる。現在の国民国家は例外はあるものの、ほとんどの国が政教分離を原則としており、また近代国家の克服の対象であった教会の側では、中世以来のカトリック教会の首長であるローマ教皇は、一方でバチカン市国という一つの近代国家の首長となり変容を遂げた。 霊性史として さらにより宗教史的・神学的な視点から、キリスト教の宗教的領域(「霊性(スピリトゥアリタス、Spiritualitas)」)についての歴史として、政教分離の歴史的経緯を捉えることも出来る。「霊性」とは本来「洗礼の際、神によって注がれた霊に遵って生きること」、つまりキリスト教的倫理に遵った生活のことであった[1]。 この「霊性」という言葉は、使われはじめた当初から新プラトン主義的な、身体や物質と対立する意味での「魂(プシュケー)」に概念的な接近を見せており[* 4]、12・13世紀の文献においては、政治や経済といった人間の世俗的な概念に対する、人間の「超自然性」「非物質性」を意味している。さらには国家に対する教会法的意味での教会の聖職を指す用語となった[6]。中世の政治思想において国家は、「世俗的なるもの」に対する「霊的なるもの」の優位という階層秩序観に基づき、教会への奉仕を求められることになる[* 5]。これは国家が道徳倫理においても卓越性を持つと考えられていた古典古代の政治思想と著しい対照をなした[* 6]。 すでにアウグスティヌスにおいて、政治秩序とキリスト教倫理の間の緊張関係は「地の国」と「神の国」という超越的な世界観との関連において捉えられていたが、カール大帝の戴冠以後、皇帝と教皇の権力という現実と密接に関連していくことになる。中世盛期に登場したトマス・アクィナスにおいては、政治社会とその秩序は、より上位の神学的・倫理的共通善を実現するための外的諸条件の確保のためにあるものと考えられている。 ところが中世後期のパドヴァのマルシリウスにいたると、逆に国家の平和を維持するという観点から教皇至上権批判が展開される。さらに同時期のウィリアム・オッカムにおいては、政治秩序を自然法的規範よりは自由な合意形成によって形成すべきであるという考えが提示されている。このオッカムの議論は抵抗権の思想に直接的に結びついた。 ルネサンスの時代には、神や普遍的自然法思想に支えられた階層的秩序観は動揺し始め、この時期に登場したニッコロ・マキアヴェリは政治と倫理道徳の結びつきを問い直し、政治原理のキリスト教からの自立を促した。こうしてキリスト教的道徳規範から独立した政治社会は、トマス・ホッブズによって支配契約関係として捉え直され、このような近代国家においては宗教も国家権力に従属すべきとされた。ジョン・ロックはホッブズの理論を批判しつつ継承したが、彼においては国民国家の統一を守るために、宗教の問題はもはや公権力が関知することではなく、政策的に寛容な立場を取ることによって私事として処理されるべきものとされた。 今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。 正教会の事情 「ビザンティン・ハーモニー」も参照 カトリックとは異なり、ビザンツ(東ローマ)皇帝の強い影響下にあった正教会においては、権威において教会の首長であるコンスタンティノープル総主教がビザンツ皇帝を上回ることはなく、公会議も皇帝によって招集された[* 8]。行政区分に基づいた主教管区をおく伝統によって、独立した国家ごとに主教管区が設けられ、ビザンツ帝国の後期には帝国の縮小に伴ってバルカン半島諸国で主教管区がコンスタンティノープル総主教の管轄を離れ、独立する傾向にあった。 ビザンツ帝国が滅亡し、教会がオスマン帝国の支配下にはいると、コンスタンティノープル総主教は帝国の拡大に伴ってバルカン半島や西アジア・エジプトなどに管轄を広げ、アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの三総主教座も事実上その管轄下に収めることになった。しかし一方でオスマン皇帝の意向を重視した総主教が選出される傾向が増し、聖職売買が横行するようになった。またこの時代の東方教会においては聖職者・修道僧の識字率の低下も見られた。このような状況は東方における神学教育の低迷をもたらし、カトリックの神学校に留学する正教神学徒も増加した。西ヨーロッパで宗教改革が起こると、カトリック・プロテスタント両派ともバルカン半島を中心とする東欧国家での布教活動を重視するようになり、正教側も対抗改革派とくにイエズス会の神学校に影響されて、神学校を設立し、正教神学校はのちに近代国家の宗教政策において一定の関与をすることになる。 18世紀以降オスマン帝国が縮小に向かうと、バルカン半島で民族独立運動が激化し、それに伴ってバルカンの民族教会は総主教から独立しようとするようになった。このような動きに対し、コンスタンティノープル総主教は概して否定的で、これら民族教会の正教徒よりはオスマン皇帝に近い立場にあった[* 9]。オスマン帝国の縮小とともにコンスタンティノープル総主教の管轄も狭まり、第一次世界大戦後にトルコ共和国が成立してオスマン帝国の本体が国民国家となると、総主教は形骸化して名目的な地位と化した[* 10]。 歴史的展開 近代のキリスト教は東西いずれの教会においてもその影響力を低下させた。ここでは近代社会と宗教について、とくに近代国家とキリスト教の問題を焦点とすることとし、その際近代国家成立の前提としての近代以前のヨーロッパ史における世俗王権とカトリックの教権の関係をまず概観する。さらにその背景となる思想史についても適宜記述する。近代以降については正教世界にも視野を広げて記述するが、近代国家との関連性を重視するという観点から中世以前の正教世界についてはここでは詳しく触れない。 近代以前の正教世界については正教会・東ローマ帝国・キリスト教の歴史を、正教会における国家と教会の関係を示す政治理念についてはビザンティン・ハーモニーを参照 概要 四福音書記者 新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。鷲で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下) 「歴史的展開」節の記述は政治社会とキリスト教の関係について、政治史・国家史・教会史・思想史の多岐にわたって概説するため、ここでは便宜のために要約を示す。 古代のキリスト教 「古代のキリスト教思想」では、キリスト教本来の思想傾向と古代に現れたキリスト教の思想を、政治思想史の観点から概説する。 「初期キリスト教と国家」ではパウロの思想やアウグスティヌスに代表される教父哲学を概説する。イエスの思想は内面と政治社会を区別する特徴的な思想を形成し、パウロは神の恩寵という観点を持ち込むことでイエスの思想を一つの宗教にまで高めた。アウグスティヌスの政治思想はのちに中世の異端思想や宗教改革に影響を与えた。 またとくに「両剣論」は教皇ゲラシウス1世が唱えた「教権と帝権がともに神に由来する」という考え方で、中世を通じて教権と王権の関係性についての有力な理論的根拠の一つであった。 加えて「初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝」では、古代の典礼に見られるキリスト教に特徴的な内面性を概観し、皇帝礼拝とキリスト教迫害についての問題を取り上げる。 中世普遍世界 「キリスト教普遍世界」では、一般に封建社会、あるいはヨーロッパ中世として知られる時代での、世俗国家と教権のありかたの推移を概説する。 「教皇国家の成立」では、教皇権の経済的基盤ともいうべき教皇領の成立までを概観する。 「ゲルマン諸民族の世俗国家」では、西ローマ帝国滅亡後に西ヨーロッパに割拠したゲルマン人の諸国家における国家と宗教の関係を概観する。この時期のゲルマン人の王権は後世に比べると世俗的で、教会の宗教的権威に依存する面が少なく、領域内の教会については実質的な支配を及ぼしていた。ただ国家ごとに内実は多少異なり、地中海に面した西ゴート王国やヴァンダル王国と内陸部のメロヴィング朝は経済的条件も文化的条件もかなり異なっていた。 「政治的宗教的統一体の自覚」では、6世紀における政治思想としてトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世を取り上げ、ビザンツ帝国による統一的支配という観念が西欧地域で薄れ、新たな領域国家意識が発生し始めている様子を概観する。 「ランゴバルド族と中世初期の南イタリア」では、東ゴート王国の時代から東ローマ帝国の支配を経て、分裂する南イタリアの情勢を概観し、12世紀のシチリア王国の成立に至る。 「カロリング朝の帝権」では、メロヴィング朝の衰退からカロリング朝が成立し、やがて西ヨーロッパ世界で唯一の世俗的至上権、皇帝権を獲得するまでに至る過程を概観する。 また初期の教権と帝権について、その理念的背景として「カロリング朝期の政治思想」を概観する。 「グレゴリウス改革と教権の絶頂」では、11世紀から始まる教会の改革運動と13世紀の教皇権の絶頂期を概観する。 「周縁における権力と教会」では、西ヨーロッパのキリスト教世界の周縁に位置したイングランド王国とイベリア諸国およびスカンディナヴィアにおける、中世前半期における教会と王権の関係を概観する。 「等族国家と公会議主義」では、封建国家に身分制に立脚した議会主義が成立し、それにより国民単位の政治社会の基礎が築かれたことを概説する。さらに議会主義と国民単位の類似制度が教会においても成立し、公会議主義となった。 「王権の超自然的権威の獲得過程」では、王権が教権に対抗するために一定の宗教的権威を獲得していった過程を概説する。共通にキリスト教思想に立脚しながらも、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝の宗教的権威が「ローマ的」であったのに対して、イングランドのそれが「アングロ・サクソン的」、フランスのそれが「フランク的」であり、そこに王権が国民的な国家形成の核になる端緒があった。 「カトリック大国、スペイン」では、この時期あらたに大国としてヨーロッパ政治に主要な位置を占めることになったスペインの初期宗教政策について概説する。スペインがカトリック信仰に熱心であったのは事実とはいえ、その王権や文化が必ずしも教権に盲従していたわけではない。 教会の正統な信仰とは別次元で、中世の民間にはやや異なった信仰が存在した。「中世の民衆信仰」では、このような民間信仰を概観する。 「宗教改革前思想史」では、中世後期の異端思想と人文主義について概観する。それらの思想の立つ政治的立場と背景にある政治状況についてもある程度言及する。また宗教改革との関連性も指摘する。 宗教改革以降 「近代社会とキリスト教」では、宗教改革以降の近代社会における国家の宗教政策、および時代ごとのキリスト教に関する思想の変遷を概観する。 「宗教改革(プロテスタント側から)」では、ルターの宗教改革がなぜ宗教問題にとどまらずに政治的な問題に転化したかということについて簡単に説明する。 「ドイツの領邦教会制度」では、ドイツにおける宗教改革の初期の帰結としての領邦教会制度が成立するまでを概観する。 ドイツで宗教改革が始まった頃、スイスでも同様に福音主義的改革が始まっていた。「スイス盟約者団と福音主義」では、宗教改革の第2戦線ともいうべきスイスの宗教改革を概観する。 「宗教改革派の諸思想」では、宗教改革派の諸思想を概説する。 「フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」では、フランスの改革派ユグノーとフランス王権の宗教政策から絶対主義の形成過程を概観する。 「低地地方と宗教改革」では、ネーデルラントにおける独立運動と、それによって成立した新教国オランダの初期の状況について概観する。 日本 「日本近代史における政教分離」では、明治維新以降日本国憲法発布までの日本の宗教政策について概説する。 古代のキリスト教思想(〜500年) 十字架を担うキリスト エル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像である。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された 具体的な世俗国家とキリスト教の関係性の歴史を、この記事では中世以降の政治史を中心に概観する。しかしながらそれに先だって、キリスト教本来の政治に対する思想傾向と以後のキリスト教と世俗国家の歴史に特徴的な影響を及ぼすいくつかの思想を概観する。 初期キリスト教と国家 ここではまずイエスの思想と考えられるものの中から、政治社会に関係すると思われるものについて概説し、次にパウロの思想について説明する。その後アウグスティヌスに代表される教父哲学の思想を概観する。とくにパウロの「ローマの信徒への手紙」とアウグスティヌスの思想は後世のキリスト教に決定的な影響力を及ぼしており、その歴史上で繰り返し回顧される重要な思想である。 イエスの思想の歴史像 詳細は「イエス・キリスト」、「救世主イエス・キリスト」、「史的イエス」、および「ナザレのイエス」を参照 ここでは新約聖書に現れるイエスの思想の中から、とくに政治社会に言及する限りにおいて重要なものを指摘する。イエス思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである。 イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序に基づく生活が始まる。新しい秩序はまず愛の共同体であって、そこでは人々が神の愛を無条件に受け入れることで一切の対立が消滅する。この「神の国」に参加するために、人は罪を悔い改め、欲を捨てて神に従った生活態度を取らなければならない。基本的にはこれは世俗的秩序の否定であり、人間の内面の重視と政治社会の本来性の否定であった。イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べて、世俗社会と精神世界を区別し、「神の国」の到来によってやがては内面的な精神世界が世俗社会にとってかわると述べた。しかしイエスによれば、現存する世俗秩序は決して無意味ではない。「神の国」にはいるためには現世でのおこないが決定的であると説く。イエスは現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる。 以上のイエスの思想に鑑みると、二つの特徴を指摘することができる。一つは政治社会と内面の区別、もう一つは政治社会の価値が「神の国」の価値とほとんど正反対であるということである。このようなイエスの課題はまったく政治社会を超越しており、その意味で非政治的であるが、現実の政治社会に批判の目を向け緊張をもたらすという意味で政治的であった。後述するように、キリスト教の教会が中世において、世俗権力を超えた有力な政治社会となっている点が見られるのも、キリスト教が本来的に現世を超越している点に求めることができる[* 11]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] パウロ パウロ ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教を言語化し、神学的説明を加えた。これは後代の信仰理解に決定的影響を与えるものであった 詳細は「パウロ」を参照 パウロはもともとイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となった。彼はキリスト教思想において最も重要な人物の一人[* 12]で、その著作「ローマの信徒への手紙」[* 13]は以降のキリスト教思想に繰り返し影響を与えた。 パウロにおいては罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われることがないのである。そしてパウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという[* 14]。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。 政治思想としては、受動的服従が知られる[* 15]。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない[* 16][* 17]。だが、それは内面の良心の故であり、決してそれらの権力それ自体に価値があるからではない。その正統性はあくまで神によって認められている限りであるという。このようにパウロは「ローマ人の信徒への手紙」の中でキリスト教の将来はローマ帝国とともにあると考えており[* 18]、ローマ帝国の支配を無条件に肯定している[26]。 また注目すべき思想としては、「自分の手で働くこと」を推奨している[* 19]ことで、これは明らかに古典古代の労働観に反する[28][* 20]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教父哲学(アウグスティヌス) 詳細は「アウグスティヌス」を参照 アウグスティヌスはキリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父のなかで、とくに後世に大きな影響を残した人物である[* 21]。 アウグスティヌス ボッティチェリによる1480年ごろの作品。アウグスティヌスの思想はキリスト教的歴史意識を確立し、中世の異端運動や宗教改革にも大きな影響を与えた 『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように、「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。またアウグスティヌスは、人間の自由意志について論じ[* 22]、古代以来の「自由」という言葉を「神との関係における人間そのもののあり方に関わる言葉」[36][* 23]として再定義し、のちの思想史に大きな影響を与えた。その一方で人間は本来的に堕落しており無力であるというパウロの思想が踏襲され、神の恩寵が絶対的であることも説かれた。 このようなアウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった[* 24]。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも決定的な影響を与えるものであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 両剣論 「両剣論 ("theory of two swords")」とは世俗的な政治権力と宗教的権威の関係性について述べたもので、もともとは「ルカによる福音書」のなかのイエスの言葉に由来する[* 25]。教皇ゲラシウス1世はこれを俗権と教権がともに神に由来することを述べたものであるとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝が並列的に存在していることを論じた[* 26]。この両剣論はその本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものであった。 中世になると、両剣論には二つの異なる立場から相反する解釈がおこなわれた[* 27]。ひとつは皇帝に有利な解釈で、帝権が直接神に由来することは世俗的世界での皇帝権の自立性の根拠となった。もうひとつは教権に有利な解釈で、教皇が両剣を持ち、一方の世俗的な剣を皇帝に委任して行使させるという解釈[* 28]で、教権の優位性の重要な根拠の一つとなった。 歴史的には、グレゴリウス改革以前、11世紀の頃には聖職叙任権も、ときには教皇の叙任権さえ神聖ローマ皇帝が「神の代理」として掌握しているというのが実情であった[42]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝 ステファノ その名前が明らかにギリシャ風であることからも分かるように、初代教会において、彼はヘレニストの代表であった。彼はファリサイ派によって石打ちの刑にされるが、ジャン・ダニエルーはこの殉教の裏側にキリスト教内部のヘレニストとヘブライストの立場の違いを見ている[43]。図はイタリアバロックのボローニャ派に属するジャコモ・カヴェドーネ (en Giacomo Cavedone) の作品 キリスト教はユダヤ教とは明らかに異なった礼拝観を持っていた。イエスは旧約的な神殿礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方でより内面を重視した新しい礼拝観を示した。「ヨハネによる福音書」のなかでイエスは あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。[44] と言っている。使徒時代のキリスト教徒であるステファノの次の言動には、このイエスの内面的な礼拝観がよく表れている。 神のために家を建てたのはソロモンでした。 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 『主は言われる。 「天はわたしの王座、/ 地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/ どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 これらはすべて、/ わたしの手が造ったものではないか。」』[45] 彼はエルサレムの神殿に直結したユダヤ教の祭祀を否定し、イエスの述べた新しい礼拝を強く主張したために、殉教にいたることになった[46]。 だからといって、初期のキリスト教会が外形的な表現を重視しなかったわけではない。集会堂としての教会は典礼の中心となったし、洗礼はキリスト教共同体としての「教会」への加入を視覚的に表現した。しかし一方で2世紀後半から3世紀にかけてのキリスト教著述家ミヌキウス・フェリクスは「私たちには、神殿も祭壇もない」ということを異教徒に対して誇った。教会は集会する場所であり、祭儀は建物としての教会堂に帰するのではなく、信徒共同体としての教会それ自体に帰するのである。初期キリスト教ではイエスこそが「祭司」であり「大祭司」で、そのキリストに繋がれているという意味で、教会が「祭司」なのであった[47]。 このような内面性の強いキリスト教の性格はローマ帝国で行われたいわゆる「皇帝礼拝」と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である「皇帝礼拝」を受け入れないキリスト教徒を、公共の宗教からの逸脱者、国家離反者として迫害したという説が歴史学者の間で長く論じられてきた。とくに自らを「主にして神」と称したドミティアヌスがこのような皇帝礼拝の要求者とされ、彼の治下に激しいユダヤ教徒やキリスト教徒の迫害が起こったと考えられた[* 29]ことから、迫害と皇帝礼拝は因果づけて考えられてきた。間接的には古代教会が日曜日を「主の日」として制定したことも、皇帝礼拝に対抗するキリスト教徒の信仰告白であったという見方も提示されてきた[49]。また「ヨハネの黙示録」の「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」[50]という記述も思い出されるであろう。 しかし、最近の研究によれば、そもそも「皇帝礼拝」という名で括られている祭儀は多様であり、内容においては極めて政治的な意味を持つものから宗教性の高いものまで、範囲においても都市国家規模から属州単位のもの、担い手も一様でなく、それらを統一的に「皇帝礼拝」という一語で把握することには飛躍が伴うことが示されている。黙示録の記述についても正確な史実を反映したものではなく、ドミティアヌス統治期に皇帝礼拝拒否が法廷での処刑につながったという見方は困難である[51]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト教普遍世界(500年〜1500年) 「中世」も参照 中世初期、5・6世紀の段階においては、ゲルマン人の侵入や西ローマ帝国の滅亡など歴史的な地殻変動を象徴する事件が起きた後であったにもかかわらず、なお地中海をとりまくローマ世界はビザンツの帝権の下に存続していたと見ることができる。6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た。 しかしながら、7・8世紀になると、地中海を中心とした統一的な世界はもはや完全に消滅し、西ヨーロッパはローマを中心としたカトリック世界として、コンスタンティノープルを中心とする正教世界とは分離する傾向が決定的となる。その要因としては以下の3つを挙げることが出来る。 イスラーム教徒の侵入 ビザンツ帝権の弱体化 ローマの自立 まず、イスラーム教徒が急速に勢力を拡大し、北アフリカ・イベリア半島を制圧するに及んで、従来これらの地で高度に発達していたキリスト教の文化は衰退した。今日に至るまでイベリア半島を除くこれらの大部分の地域はイスラーム圈にとどまっている。とくに教会会議が頻繁に開かれ、中世初期において西方のキリスト教世界の一つの中心であったイベリア半島陥落の影響は大きい[* 30]。 次にビザンツ帝国は一時的に地中海を回復したものの、イスラーム教徒の東地中海地域での拡大とランゴバルト族のイタリア半島侵入によって支配領域を縮小させ、西地中海での覇権を維持することが困難となった。これ以後ビザンツの帝権は南イタリアの支配地域を通じて間接的にしか西方世界に影響を及ぼせなくなる。 第三にローマ司教である教皇は上記のようなビザンツ帝権の影響力低下に伴って、西方世界において強力な庇護者を別に求めねばならなくなった。と同時に、東方から自立して西方世界の宗教指導者たらんと積極的な布教活動に乗り出す。8世紀ビザンツで起こった聖像破壊運動に対する教皇の対応の仕方はこの表れで、教皇は西方教会をして、この運動の蚊帳の外におくことに尽力した。 こうして東ヨーロッパと西ヨーロッパは、ローマ帝国とキリスト教という共通の根を持ちながらも、それぞれ独自の発展をしていくことになる。この節で中心的に述べるキリスト教普遍世界とはこのうち西ヨーロッパを中心としたカトリック世界のことである[* 31]。 教皇国家の成立 天国への鍵を授けられるペテロ イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている 詳細は「教皇領」を参照 ここではやや時代を遡って教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。 西ローマ帝国の滅亡と西地中海世界 西ローマ帝国の領域にゲルマン人が多数の国家を形成し、西ローマの皇帝権が没落して古代的な帝国支配が弛緩すると、古都ローマはほとんどゲルマン人の支配の間に孤立した形となり、東ローマ帝国とのつながりは徐々に薄れて西ローマ帝国の領域は独自の発展をしていくようになる。しかしながらゲルマン人たちが西ヨーロッパで優勢を占めているように見えても、かつてのローマ帝国の西側と東側は地中海によって繋がれており、文化的経済的な繋がりは維持されていたのであって、突然にローマ的な文明がゲルマン的な文明になってしまったわけではない。地中海世界での東ローマ皇帝の優位性はいまだ揺らいではいなかったし、ゲルマン人たちは皇帝の支配を名目上は受け入れて、彼ら自身が皇帝になりかわろうという意図を持つことはほとんどなかった。ただ一方でこのような状況がローマ教皇に一定の自立性の根拠を与えたのであり、東方の正教会とは独自のカトリック教会が生まれる素地がここにあったことは間違いない。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ペテロの後継者 ローマ司教が教会において優位性を立証できるとすれば、それはまずイエスの言葉に求められるべきであったし、事実そこに根拠が見つけられた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた[* 32]。 ただ初期の教会において、このことがあまり重視されていたわけではなかった。4世紀にはローマ司教は有力なイタリア大教区を管轄しており、「西ローマ総大司教」とも見なされていたが、一方で一般信徒の面前で司教の選挙によって選ばれた、小さなローマの聖堂聖区の司教でしかなかった。ローマ司教の特別な地位が認められたのは343年のサルディカ宗教会議であって、それ以前は公式なものではなかった。この時期の教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年にヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。4世紀の教皇シリキウスはテサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアとマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせている。5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及ぶようになった[54]。 しかしこのことでただちにローマ教皇の地位が、後世のように独自の権威性をもって普遍的な優位を確立したわけではない。東ローマ皇帝ユスティニアヌスがイタリア半島をローマ皇帝の支配の下に回復すると、彼はローマの司教も皇帝の統制に服するべきであると考えた。教皇の側もそれを受け入れ、帝国の支配に復帰することをむしろ歓迎していた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教権の自立化への動き カール大帝 デューラーによる1510年の作。教会側が教皇の手による戴冠に皇帝の根拠を求めたのに対し、カール大帝自身はあくまでその神授性を強調した。彼の名乗った称号は「神によって戴冠され、ローマ帝国を統治し、平和をもたらす、最も至高なる偉大な皇帝にして、神の慈悲によってフランク人およびランゴバルド人の王であるカール」であった。 ところが東ローマ帝国に結びついたことは教皇にとって必ずしも良い結果をもたらしたのではないことは次第に明らかとなった。東方でさかんにおこなわれていた神学論争が西方に持ち込まれる結果となり、しかも神学論争にしばしば政治的に介入する皇帝の姿勢は不満の種となった。北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示したし、ガリアとイベリア半島でも分離傾向が見られた。関係が変化するのは「大教皇」グレゴリウス1世の時代である。彼の時代にはイタリア半島にランゴバルド族が侵入し、再びローマは危機的な状況を迎えていた。グレゴリウス1世はフランク王国を重視して、これと友好的な関係を結んだ。もともと行政官として経験を積み、ローマ総督の地位についたこともあったグレゴリウス1世は、おそらく都市ローマの行政上における教皇の影響力を増大させた。ランゴバルト族に連れ去られた捕虜の買い戻し、ローマの破壊を防ぐ代償としてのランゴバルド族への貢納の支払いに教皇は積極的に関与している。このころから教皇は都市ローマの公共事業を担うようになったと考えられている。 分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、司教座を熱望する動きが上層階級に見られるようになっていた[55][56]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[55]。しかしグレゴリウス1世は司教座に対する支配を徹底して、ナポリの司教を解任し、メリタの司教を降格し、タレントゥム・カリャリ・サロナの高位聖職者たちを厳しい口調で批判した[57]。ブルンヒルドによるテウデリク2世・テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送った[* 33]が、実を結ぶことはなかった[59]。この当時のガリア教会は完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[60]。ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関する問題においてさえ、無力であった[59][* 34]。 グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織し、このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。ブリテン島はこののち北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となり、たとえばカール大帝の時代にはアングロ・サクソン人の伝道者たちが、大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派の牙城であった西ゴート王国のカトリックへの改宗に成功した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国 フランク王国でメロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、つづく教皇ステファヌス3世[* 35]はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息カールとカールマンに塗油の秘蹟を施した。 この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝も774年にイタリア半島へ遠征し、教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた[* 36]。つづく教皇レオ3世は800年、カール大帝をローマに招いてローマの帝冠を授け、彼に西ローマ皇帝の地位を与えた[* 37]。 かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった[* 38]。教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった [* 39]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ゲルマン諸民族の世俗国家 ゲルマン諸王国のヨーロッパ世界(526年 - 600年) ローマ帝国東ローマ帝国 ゲルマン系の国家フランク王国|東ゴート王国|西ゴート王国|ヴァンダル王国|ブルグント王国|ランゴバルド王国|アングロ・サクソン諸王国 その他の周辺民族ノルマン人|ピクト人|スコット人|ブルトン人|スラヴ人|テューリンゲン人|スエヴィ人|アヴァール人|ササン朝|アラブ人 西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡してもローマ世界は確かに存続していた。一見西ヨーロッパはゲルマン人の諸王によって分割され、モザイク模様を形成しているかのように見える。しかし彼らは「皇帝の名によって」統治したのであり、実際には東ローマ皇帝の超越的な主権に服していたと見るべきである。これらゲルマン族の国王は宗教的権威において支配したのではなく、純粋に世俗的なものであって、教会はこれらの国家にとって本質的な構成要素ではなかった。国王の即位に際して何らかの宗教的儀式がおこなわれていたわけではない[* 40]。ゲルマン人の王国では国王が教会の首長であり、司教を任命し、宗教会議を開催した。後世の国家とは異なり、これらの王国では世俗的支配者の同意なくして聖職者になることができなかった。ここでは西ゴート王国[* 41]・ヴァンダル王国・メロヴィング朝フランク王国を特筆し、それぞれの国家と教会との関係を記述する[* 42]。 西ゴート王国 西ゴート族はクローヴィスによって南フランスから追い出されると、イベリア半島のトレドに宮廷を定めた。このころの西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止されており[* 43]、このような分離の背景には信仰の相違があったと考えられている。大部分のローマ人がカトリックであったのに対し、西ゴート族はアリウス派を信仰していたからである[* 44]。西ゴート族は征服した土地のカトリック司教を追い出すことがあったが、これを信仰の違いに帰することはおそらく適切ではない。司教たちの追放の理由は彼らが国王の支配に抵抗したことに由来すると考えられており[* 45]、大部分の西ゴート王はカトリック信仰に寛容であった。 レオヴィギルド王[* 46]の時代にカトリックに改宗した王子ヘルメネギルドによる反乱があり[* 47]、つづくレカレド王の時代には王自身がカトリックに改宗した。こうして西ゴート王国はカトリック信仰を奉じるようになり、徐々に首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。589年から701年の間に18回もの宗教会議がトレドで開かれ、いずれも王が召集をおこなっている。これらの宗教会議は、後世のように狭い教義上の問題だけが取り上げられたのではなくて、世俗的な問題も議題とされた[* 48][* 49]。したがって出席者は聖職者ばかりに限られず、世俗の高官も臨席した。 とくに618年ないし619年の第2回セビリャ教会会議および633年の第4回トレド公会議ではセビリャのイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した[* 50]。トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。確実に知られるのは672年のワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ヴァンダル王国 アフリカ北岸に王国を築いたヴァンダル族の場合は西ゴート族とはかなり異なる。この王国は東ローマ帝国と敵対的な関係にあり、その宗教政策は政治的対立に基づいていた。ヴァンダル族はアリウス派を信じており、カトリック司教がローマを通じて東ローマ帝国に通じているのではないかと疑っていた。 ゲイセリクス王はカルタゴを占領すると、同地のカトリック司教クオドウルトデウスを追放した。以後24年間カルタゴには司教が置かれなかった。ゲイセリクスの後継者フネリクス王は晩年の484年に、かつてホノリウス帝がドナティスト[* 51]に出した告示を踏襲して、カトリック教徒を法の保護外とする告示を出した。要するに、ヴァンダル王国ではほぼその全時代を通じて、カトリックと王権の間に軋轢が絶えなかった。 カトリック聖職者は王権とそれに結びついたアリウス派に対する抵抗運動を指導した[* 52]ので、王権は弾圧を加え根絶しようとしたが、すでにアウグスティヌスの伝統が深く根を下ろしていた北アフリカの教会はこの弾圧に耐えた[* 53]。ただこのような混乱と迫害は、カトリック聖職者の離散をもたらし、彼らはプロヴァンス地方やカンパーニア地方、イベリア半島へ集団逃亡(「エクソダス」)した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] メロヴィング朝フランク王国 詳細は「メロヴィング朝」を参照 メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリクスとその子クローヴィスである。キルデリクスの時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した[* 54]。したがってフランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルドと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[78]。 メロヴィング朝フランク王国(600年ころ) クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した[* 55]ので、クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。 クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任され、三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。 613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった[* 56]。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。 聖コルンバヌス 聖コルンバの弟子であった聖コルンバヌスは、倫理的で厳格な修道制をガリア地域にもたらしてたちまち熱狂を巻き起こし、6世紀後半、一大修道院設立運動が起こった。図はブルニャートの聖コルンバヌス修道院にあるフレスコ画 クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策においても転換期となっている。クロタール2世は、ガロ・ローマン的セナトール貴族を支持基盤としていた王妃ブルンヒルドに反発したアウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[81]、従来のセナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かい、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[81] [82]。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができ、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回を数えるのみなのに対し、ロワール川以南では同時期40回を数えた[81]。ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も7世紀を境に、セナトール貴族中心であったものが、ゲルマン貴族が目立つようになってくる[* 57]。このようにゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである[84]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[83]。 のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した[* 58]。7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていたと見るべきである。 上述のように、メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。 王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた[* 59]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 政治的宗教的統一体の自覚 最後に、この時代の代表的歴史叙述家であるトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世の叙述を主に取り上げ、6世紀の思想状況において、部族国家が、また国家と宗教の関係がどのように捉えられていたかを概観する。 トゥールのグレゴリウス 『歴史十巻』扉 メロヴィング朝治下アウストラシアのトゥールの司教であったグレゴリウスは、彼が著したフランク王国についての基本史料『歴史十巻』によって知られる。彼のクローヴィスをめぐる歴史叙述には、「コンスル」や「プラエフェクトゥス」といったローマ帝国の官職名や、ビザンツ帝国の「パトリキウス」などの用語が使われている。このことが従来歴史家の一部で、特にビザンツ帝国の政治秩序にメロヴィング王権が組み込まれたという認識につながる根拠とされてきた。 しかし最近の研究では、それらの用語はビザンツの帝国法にのっとったものではなく、おそらく聖書の叙述に範をとったもので、グレゴリウスは皇帝とクローヴィスとの間に厳密に法的な関係を想定していたわけではないという見方が示されている[85]。さらに、従来部族の王を指す「rex」には部族名が付されるのが一般的であった。しかるに、グレゴリウスは西ゴート王を記述するのに「レックス・ヒスパノールム」 (rex Hispanorum) あるいは「レックス・ヒスパニアエ」 (rex Hispaniae) という称号を用い、その支配権を領土的観念で捉え始めている。同様に自らの属するアウストラシアの王を「われわれの王」と呼び、その王国を「レグヌム・フランキアエ」 (regnum Franciae) と呼ぶ。彼は自らの歴史叙述の中で、フランクの使者にビザンツ皇帝を「あなたがたの皇帝」と呼ばせている。彼の歴史叙述には皇帝によるフランク王へのガリア統治権委託の観念はなく、クローヴィス以来、フランク王はその征服活動によって自らガリアの支配権を打ち立てているという見方が示されているのである。彼が基本的にビザンツ皇帝にのみ「インペラートル」や「インペリウム」を使用していることは、ビザンツ帝国の優位性を認めている証左であるが、そこから自立した独自の西欧世界の萌芽が見られること、またそこに領土意識とおぼろげながらも一定の民族意識を見ることができる[85]。 グレゴリウスはまた、フランク王に司教を指導する力を認めている。549年のオルレアン公会議は司教の叙任にあたって、王権による事実上の司教任命権を承認したうえで、その介入に歯止めをかけようとしたものであるが、グレゴリウスはこのような王権による教会側への介入を批判するどころか疑問さえ呈していない[85]。 以上のようなグレゴリウスの歴史叙述の性格に基づけば、ビザンツ帝国によるヨーロッパの統一的支配という観念は6世紀には後退し、そこでは各部族王権が部族という枠組みを越えて領域支配を確立しつつあり、一定の領土意識の形成が見られるとともに、そこへの帰属意識を見て取ることができる。同時に王権に教会への介入を認めていることは、中世の特徴である教皇の普遍的教会統治が、この時代のフランク王国には全く存在していなかったことが明らかであろう。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] グレゴリウス1世 詳細は「グレゴリウス1世 (ローマ教皇)」を参照 グレゴリウス1世 トゥールのグレゴリウスがかつての西ローマ帝国の領域の部族国家に生きた知識人を代表する存在であるとすれば、同時代の偉大な教皇グレゴリウス1世は、同じ西方世界に生きながらも、より東帝国に近い知識人の代表であった。彼はユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っているローマに生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きたのである。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとした。したがって、彼にとって教皇の優位性は何にもまして必要なものであった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は正統なカトリック信仰を選ばずに、アリウス派の異端に堕していた。グレゴリウスの言うとおり、教会の統一において教皇の首位性は欠くべからずものであったろうが、一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけてしまったという見方もできる[86]。 またグレゴリウスは教皇ゲラシウス1世の両剣論を根拠に、俗権の及ばない宗教的裁治に関する管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた[87]。 グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった[88]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 西ゴート王国のカトリック改宗をめぐって この時代の宗教意識と国家意識の問題の上で、興味深いのが西ゴート王国で起こったヘルメネギルドの反乱事件を巡る当時の歴史叙述における相違である。前述したように、レオヴィギルド王の治世下に王の第一子ヘルメネギルドがカトリックに改宗し、アリウス派であった父に対し陰謀を企てた。 これについて、トゥールのグレゴリウスや教皇グレゴリウス1世は仔細に記述し、この事件をのちのレカレド王の改宗に至る前史的な出来事として特筆した。これに対し、セビリャのイシドールスの『ゴート史』やゴート人ヨハンネスによる『年代記』など、西ゴート王国で書かれた史料はこの事件にほとんど注目していない。ここに西ゴート王国の内部と外部で明確な意識の違いを見ることができる。さらにレオヴィギルドについて、後者ヒスパニアの史料はこの君主を政治的軍事的統一を西ゴート王国にもたらした英主として描くのに対し、教皇グレゴリウス1世は「異端者、子殺し」と呼んでおり、相違が見られる。グレゴリウス1世はレオヴィギルドが臨終に際してカトリックに改宗したことを記して、彼に好意を示すもののその叙述は護教的である。一方トゥールのグレゴリウスはグレゴリウス1世とは異なり、レオヴィギルドの政治的手腕を高く評価し、その視点はヒスパニアの史家に近い。 レカレド王の改宗 この違いはレカレド王の改宗を巡る記述にも見られ、このことは同じ西ゴート王国の外部者という立場に立つ両者であるが、部族国家内部に生きるトゥールのグレゴリウスと、ローマでビザンツ帝国の影響下に生きる教皇グレゴリウス1世の思想状況の違いを示している[89]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ゲルマン人の集団改宗 メロヴィング朝と西ゴート王国のカトリックへの改宗を見ると、それは決して個人的な理由のみで行われたのではなく、集団改宗という形式で一般に行われたと見る方が適切であろう[90]。少なくともクローヴィスの改宗は明確に集団改宗である。レカレド王の改宗は587年にまずなされているが、この改宗が個人的なものか集団的なものかは明らかでない[* 60]が、589年のトレド公会議は西ゴート王国を公式にカトリック改宗へと導いた[91][89]。このような集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできないであろう[90][* 61]。ゲルマンの王は集団の支持を必要としており、彼らの改宗は、個人的な内面性より集団に重点が置かれていた[90]。改宗が直接的に国王個人や住民の生活習慣を変えるようなものではなかったことからも明白である。たとえばクローヴィスは洗礼を受けたにも関わらず、その後の有様は蛮族の王そのままであった[90]し、そもそもメロヴィング王国住民も表面的にしかキリスト教化されていなかった[93]。 このような改宗は何をもたらしたのであろうか。一般的な説明では、改宗によって支配者と被支配民の宗教が一致し、統治に安定をもたらしたことが述べられる一方、改宗の政治的意義を小さく、あるいは全く評価しない論者もいる。たとえばコリンズ (en Roger Collins) によれば、西ゴート王国は改宗以前、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はアリウス派からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった[94]。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方も可能である[89]。メロヴィング朝では7世紀クロタール2世の統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教が王権に王国を守るという崇高な任務を与え、聖性を付与し、その意義を高めたからである[95]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ランゴバルド族と中世初期の南イタリア 西ローマ帝国滅亡後のイタリア半島は、東ゴート族の支配を受けたのち、東ローマ帝国の支配に復帰したのであるが、やがてランゴバルド族の侵入によって、北イタリアから中部イタリアにかけての大部分はランゴバルド族の支配に帰した。ランゴバルド王国はしかし、イタリア半島全体を支配することはついにかなわず、ローマとラヴェンナの間と南部イタリアは東ローマ帝国の支配下に止まった。やがてカロリング朝がローマ教皇の要請を受けて北イタリアに侵入し、774年にはカール大帝により北イタリアのランゴバルド王国はフランク王国に併合された。 しかし、中部イタリアのランゴバルド系公国であるベネヴェント公国は存続し、分裂しながらも独立した政体を維持した。またビザンツ支配下の南イタリア都市も徐々に独立し、シチリア島はムスリムの支配下となる。こうして中世初期のイタリア半島南部は分裂状態におかれるのであるが、やがて傭兵として雇われたノルマン人の集団がシチリア王国を建国し、地域の統合をもたらすこととなり、新局面が訪れた。 東ゴート王国とビザンツ帝国のイタリア再征服 詳細は「東ゴート王国」を参照 ボエティウス テオドリックに投獄された際に執筆された主著『哲学の慰め』は中世西欧で広く読まれた 西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって476年に廃位されると、西ローマ皇帝は存在しなくなった。しかし、ローマ帝国の支配体制自体が変化を蒙ったわけではない。オドアケルは東ローマ帝国の宗主権を認めており、そのオドアケルの政権を打倒した東ゴート王テオドリックも東ローマ帝国の宗主権を認め、この間西帝国の元老院も存続していた。しかしながら、東ゴート族はアリウス派を信仰しており、このことが東ローマ帝国との政治的対立に結びつくこととなった。また王国の統治はローマ人官僚の貢献によって支えられていたが、彼らは正統信仰を維持しており、信仰上の対立がゴート人とローマ人の不和の原因となって王国の統治を攪乱することとなった。テオドリックは寛容な宗教政策を展開して王国内の平和を保っていたが、晩年には宗教問題が政治問題化した。たとえば、ボエティウスの事例が典型的である。ローマの有力貴族アルビヌスが王位継承問題に絡んで東ローマ帝国と通じた問題で、ボエティウスはアルビヌスを弁護して投獄され、524年に処刑された。東ローマ帝国はこれをカトリック教会に対する迫害と捉え、当時アリウス派に一時的な寛容政策をとっていたユスティヌス1世の態度を硬化させた。ユスティヌスは527年に異端に対する勅令を出してアリウス派を弾圧[* 62]し、以前からカルケドン信条を守っていたブルグント王ジギスムントやカトリック信仰に転じたヴァンダル王ヒルデリック[* 63]と同盟してテオドリックを牽制した。 ユスティヌス1世を継承した甥のユスティニアヌス1世は532年にササン朝のホスロー1世と永久平和条約を結んで帝国東部辺境を安定させると、西方の旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出した。まずヴァンダル王国に矛先を向け、533年にカルタゴを占領し、534年にはヴァンダル王国を完全に滅ぼした。さらに535年、テオダハドが東ローマ帝国と友好的な東ゴート女王アマラスンタを殺害すると、これを口実としてイタリア半島に遠征軍を派遣した。東ローマ帝国軍は当初有利に事を進めたが、最高司令官ベリサリウスと将軍ナルセスの間に不和が生じるなど指揮系統に混乱が生じた。ナルセスが本国に召還されると、539年にはベリサリウスは東ゴート族を懐柔することに成功した[* 64]が、ベリサリウスはササン朝の侵入に対抗するため540年に本国に召還されてしまい、失望した東ゴート族は再び反乱を起こした。東ゴート族はやがてトーティラを王に推戴して勢力を盛り返した。544年にベリサリウスはイタリアに戻るが、兵力不足から有効な反撃が出来ず、549年には再び本国へ召還された。550年になると、トーティラ率いる東ゴート軍はローマを占領し、イタリア半島をほとんど支配する状態となって、シチリア島に侵入するまでになった。552年にナルセスが大軍をもって派遣されると、ようやく東ローマ帝国軍は反撃に転じ、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシャ語版、イタリア語版、英語版)(ギリシア語 Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum)で東ゴート族を大いに破った。トーティラは殺され、東ゴート族はなおも各地に拠って抵抗したが、554年にはほぼイタリアに平和が戻り、561年には抵抗は完全に収まった。 しかしこの戦乱によってイタリア半島の荒廃は進み、かつての繁栄を失った。東ゴート王国下においては、古典古代の文化を保存する活動は維持されており、前述したボエティウスが『哲学の慰め』を著述してプラトンやアリストテレスの哲学概念を用いてキリスト教教義を論じたり、カッシオドルスが『ゴート人の歴史』を書いてローマ人とゴート人の調和を説いたりといった文化活動が見られた。カッシオドルスは修道院教育に自由七科を導入するなど修道院文化の育成にも関わるが、この伝統は戦乱とともに一時廃れた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ランゴバルド王国 詳細は「ランゴバルド人」および「ランゴバルド王国」を参照 アギルルフス時代のイタリア半島(616年) ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝の支配に服すこととなったが、その統一は長く続かなかった。ランゴバルド族が侵入し、彼らがイタリア半島に王国を築いたからである。彼らの文化水準は低く、したがってその支配による影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった[98][99]。 ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年にビザンツ帝国によって、パンノニアとノリクムの境界地域に定住を許された[100]。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、ビザンツ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった[61][101][* 65]。ランゴバルド族はゲピド族を抗争を繰り返し、566年になってビザンツ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[103]。しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[96]。569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[* 66]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[96][104][105]。 572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフも574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[106][107]。しかしその勢いは衰えず、諸公の一人ファロアルド1世(イタリア語版、英語版)はスポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネ(イタリア語版、英語版)はさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた[106][107]。ランゴバルド諸公に対して、ビザンツ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[106][108]。フランク王国はすでに574年ランゴバルド王国を征討し、これを打ち負かして貢納と領土の割譲を条件に講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていたのである[109]が、ビザンツの勧誘を受けて585年と588年にイタリアへ侵入し、クレフの子である王アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[110]。フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。既述のように、574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフスは591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、ビザンツ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した[111]。アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[112]。パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。 リウトプランド時代のイタリア半島(744年) 616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代の国王は、三章書論争[* 67]で三章書を支持して分離したミラノやアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。しかし626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景にはビザンツ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っているビザンツ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリア・コルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した[114]。またロターリは643年に「ロターリ王の告示」、いわゆるロターリ法典を編纂したが、これはランゴバルド人の法慣習を採録したものである[115]。ロターリはランゴバルド王国の最盛期を現出したが、652年のその死後、王国は急速に分裂、弱体化した。彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年にアギロルフィング家のアリペルトゥス1世に王位が移った。アリペルトゥス1世の死(661年)に際して2人の息子に王国が分割されたが、これが内紛を生じ、662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世が王位を手に入れることとなった[116]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ベネヴェント公国と南イタリアのランゴバルド三侯国 前節で述べたように、クレフ王の死後の10年間、ランゴバルド諸公は一種の合議政体をもって王国を運営し、この間に地方に割拠する諸公の力は強まった。特にイタリア中部のスポレート公国と南イタリアのベネヴェント公国はラヴェンナとローマの枢軸を維持するビザンツ帝国によって、北イタリアのランゴバルド王国の中央から隔てられているために、自立性が高かった。初代ベネヴェント公ゾットーの跡を継いだアリキス1世はビザンツ帝国領カラブリアと沿岸都市以外の南イタリアをほぼ制圧し、広大な領土を支配するようになった[116]。第5代のグリモアルドゥス1世はランゴバルド王国で起きた王位継承を巡る争いに乗じて、ランゴバルド王位を獲得し、ランゴバルド王とベネヴェント公をかねてランゴバルド人を統一した[116]。しかし彼の死後は2人の息子がランゴバルド王位とベネヴェント公位を分割して保持することになり、再び両国は分かたれた。ベネヴェント公位を継いだロムアルドゥスは弟のガリバルドゥスにランゴバルド王位を譲ったのである[117]。まだ幼かったガリバルドゥスは即位後1年で王位をペルクタリトゥスに奪われ、ランゴバルド人の統一は失われた。 リウトプランドの肖像が描かれたトリミセス貨幣(1トリミセス=1/3ソリドゥス) その後北のランゴバルド王国では短期間での王位の変転が続くが、712年にリウトプランドが王位につくと、ビザンツ帝国側の内紛を利用して領土を拡大した。ビザンツ皇帝レオン3世がイコノクラスムを開始すると、教皇グレゴリウス2世はこれに反発して皇帝と対立し、折しも対イスラーム教徒戦争の重税に苦しんでいた多数のイタリア都市も帝国の支配に反抗した。この防備の弱体化をついてリウトプランドはビザンツ領へ侵攻し、730年ごろにはラヴェンナを奪取した[118][* 68]。ビザンツ帝国は教皇グレゴリウス3世の登位後、ヴェネツィアの協力を得て、734年にこれを奪還した[118][* 69]。リウトプランドはカール・マルテルと同盟してムスリムとも戦い、725年ごろにはムスリム支配下のコルシカ島を従属させた。710年から730年の間にはサルディニア島にあったアウグスティヌスの遺骸がパヴィアに運ばれ、サン・ピエトロ大聖堂 (en San Pietro in Ciel d Oro) に納められた[118][121]。またリウトプランドの治世に、ロターリ法典は新たに153章の法文を付けくわえられたが、これらの中には女性や貧者に抑圧に抗する一定の権利を認めるものが含まれている[118]。リウトプランドの後はまた短命な王が続くが、749年に即位したアイストゥルフは精力的で、751年にラヴェンナを制圧してイタリア半島をほぼ統一した。しかし754年と757年の2度、教皇ステファヌス3世の懇請を受けてピピン3世がイタリアに侵入すると、これらの征服地は奪回された[122]。アイストゥルフの次代の王デシデリウスはカール大帝の弟カールマンと結んでフランク王国の政治に介入しようとし、また教皇領を攻撃して領土拡大を目指したが、逆に773年カール大帝のイタリア遠征を招き、翌774年には首都パヴィアが陥落してデシデリウスは廃され、カール大帝が自らランゴバルド王を兼ねるに至って、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した[123][124][125]。 他方、ロムアルドゥスの後継者たちが支配した南のベネヴェント公国は、774年のランゴバルド王国滅亡を傍観しながら生き残り、8世紀後半にはランゴバルド王国の正統を自認してベネヴェント侯国を名乗るようになる[126]。侯国の地方統治はガスタルディウス (gastaldius) という地方役人が担っていたが、彼らは徐々に侯から独立するようになり、ベネヴェント侯国は分権化し始めた[127]。839年に第5代のベネヴェント侯シカルドゥスが暗殺された後、侯位を巡って争いが起こり、849年にはサレルノ侯国(イタリア語版、英語版)が分かれた[128]。このサレルノ侯国の有力者カープア伯は861年に自立してカープア伯領を形成するが、900年にカープア伯アテヌルフス1世(イタリア語版、英語版)がベネヴェント侯に即位してカープア・ベネヴェント侯国(イタリア語版、英語版)が成立した[128]。この統一侯国は982年まで続くが、その後はベネヴェント侯国とカープア侯国(イタリア語版、英語版)に分かれた[129]。こうしてランゴバルド三侯国が成立した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング朝の帝権 詳細は「カロリング朝」を参照 フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。つづくピピン3世はすでに述べたように、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 メロヴィング王権の衰退 814年のヨーロッパ カール大帝末年のヨーロッパ。今日の政治的・宗教的枠組みにつながる構造が形成されている。 東方世界東ローマ帝国|ブルガリア王国 西方世界カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア イスラームアッバース朝|後ウマイヤ朝 周辺諸民族ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。659年にアウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルト1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された[* 70]。このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた[* 71]。ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリィの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カール・マルテルとイスラム勢力の西漸 714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こり[* 72]危機を迎えたが、ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世[* 73]が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたユードと和平を結んだ。ユードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ユードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。 このころイスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年にはイスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪しトゥールーズを包囲した。ユードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。 735年にユードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ユードの息子クノルトに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。 トゥール・ポワティエ間の戦い アキテーヌを支配していたユードはイスラム教徒の国境司令官オスマーンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンはこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてユードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。 一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り[* 74]、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立 741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。 カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた[* 75]。742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。 751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式[* 76]を受けた。754年には教皇ステファヌス3世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。 ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる[130][131]。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立 ハールーン・アッラシード(左側)とカール大帝(右側) カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した 詳細は「カール大帝」を参照 768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[* 77]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[* 78]。781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。 教皇レオ3世は800年のクリスマスにカール大帝に帝冠を授け、西ローマ帝国が復活した[* 39]。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[* 79]。教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた[* 80]。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を一つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト教帝国の解体 詳細は「東フランク王国」、「西フランク王国」、および「中部フランク王国」を参照 広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。 ヴェルダン条約によるフランク王国の分割 西フランク王シャルル2世アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境 中フランク王ロタール1世ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ 東フランク王ルートヴィヒ2世ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン 814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒは帝位と王権を継承した。ルートヴィヒ1世は817年「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒにバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。しかしシャルルが生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、ロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒがこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。 841年ロタール1世とシャルル、ルートヴィヒはオーセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分されることとなった(ヴェルダン条約)。帝権はロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ルートヴィヒ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をルートヴィヒ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にシャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。 869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルルがロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒがこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)[* 81]。西フランク王シャルルは875年のルートヴィヒ2世の死後はイタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒの死に際して、シャルルは東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒの息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 分裂後のカロリング朝後継国家 結局カール大帝の帝国は社会的・制度的に永続性を欠いており、王家の分割相続により瓦解することとなった。 885年にはカール3世によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、887年にはアルヌルフによって廃位に追い込まれた。翌888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。 この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。彼らは地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。 北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング・ルネサンス、中世文化の始まり カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としてはトゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。 この、カール大帝のいわゆるカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。 カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックス[* 82]に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング朝期の政治思想 ここではカロリング朝が帝権を手に入れた9世紀初頭ごろの政治思想を概観する。まずカール大帝のキリスト教帝国の政治思想として アルクインの思想を、次に教権の側の政治思想として作者不明の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を特筆する。 アルクイン 教皇シルウェステル1世とコンスタンティヌス大帝 コンスタンティヌス大帝はシルウェステル1世にローマ全土を教会領として寄進する約束をしたという説話が8世紀ごろに作られた。この『コンスタンティヌス帝の寄進状』は中世を通じて教権の重要な根拠の一つとなっていたが、のちにヴァラなどによって偽作されたものであることが明らかにされた 詳細は「アルクィン」を参照 アルクインはブリテン島出身の神学者で、カール大帝の宗教政策を中心とした問題についての、最も有力な助言者の一人であった。カール大帝時代のいわゆる「カロリング・ルネサンス」においても指導的役割を演じたと考えられている。アルクインはカトリック信仰が地上に平和をもたらすものであると信じ、その実現者をカール大帝に見た[132]。 カール大帝が795年教皇レオ3世が選出された際に送った外交書簡はアルクインの手になるものと考えられている[133]。この書簡は、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じて国王を補佐することであると述べている。799年にアルクインがカール大帝にあてた有名な書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落している[* 83]のに対し、カール大帝のフランク王国のみが正しいキリスト教君主であるとした。そのすぐあとに出された書簡では、アルクインはカールのフランク王国を「キリスト教帝国 ("Imperium Christianum")」と呼び、カールの王権を全キリスト教共同体を覆うものとしている。このアルクインのいう「キリスト教帝国」は800年のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。 アルクインはまた両剣論を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた[* 84]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] コンスタンティヌス帝の寄進状 詳細は「コンスタンティヌスの寄進状」を参照 『コンスタンティヌス帝の寄進状』は、『偽イシドールス教令集』に記載されていたもので、作者は不明である。このイシドールスとは7世紀イベリア半島のセビリャ大司教のことである。イシドールスは従来の教令集[* 85]にスペインでの教会会議の決定を増補し、『ヒスパナ』という教令集を編纂した。のちにこれが『イシドールス集録』と呼ばれ、カノン法の法源とされた。『偽イシドールス教令集』はこれとは別の物で、8世紀か9世紀にイシドールスに仮託して作成された偽文書である[* 86]。 この文書は書簡形式であり、その日付は315年3月30日に書かれたことになっている[134]。まずコンスタンティヌス1世は癩病を患い、時の教皇シルウェステル1世の祈りによって救われたとする。コンスタンティヌスはシルウェステル1世を皇帝にしようとしたが、シルヴェステル1世は帝冠を一度受け取ったが被らず、帝冠を改めてコンスタンティヌス1世に被せたという。次にこの文書は聖ペテロに向ける形でコンスタンティヌスによる以下の寄進の記録を記す。すなわちアンティオキア・アレクサンドリア・エルサレム・コンスタンティノポリスと、他の全ての教会に対する優越権、皇帝の紋章とラテラノ宮殿の下賜、西部属州における皇帝権を教皇に委譲した。この架空の歴史的事実によって教皇は「普遍的司教」であり、皇帝任命権を保持していると主張した。カール大帝の戴冠もこの理念に則った形で行われ、これを先例としてのちに教皇は皇帝よりも優越的な地位にあることの根拠とした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] グレゴリウス改革と教権の絶頂 これまで述べたように、中世ヨーロッパという固有の文明社会の成立には、皇帝権と教皇権という2つの普遍的権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が本質的な対立に向かい、中世ヨーロッパ社会の秩序が根本的な変革に直面することとなった。一般にグレゴリウス改革[* 87]として把握される一連の教会改革運動である。結果的には教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現することになり、日常生活に関わる秘蹟への関与を強めることにより、民衆の精神支配において圧倒的な影響力を持つようになる。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。 一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、12・13世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求[* 88]という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった[* 89]。 修道院改革運動と教会改革の始まり クリュニー修道院 フランス革命によって破壊される以前は、偉容を誇った壮大な修道院であった。アキテーヌ公ギヨームにより設立された。12世紀にいたるまで西ヨーロッパで絶大な影響力を持った グレゴリウス改革の前史としての修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンで広がりを見せた。このロートリンゲンの修道院改革に影響を与えたのがクリュニー修道院である。クリュニー修道院は909年ないし910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世は、このクリュニーの修道精神に深く共感し、聖職売買(シモニア)を強く批判し、教会改革を求めた。しかし、後に息子のハインリヒ4世と改革の主導者であったグレゴリウス7世は問題となっていた聖職者の任免権を巡って叙任権闘争で争うことになる。 一方でクリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。そしてクリュニー精神に基づき、修道院活動を純化し汚れない本来の姿に戻ろうとする動きは、シモニアやニコライティズム(聖職者の妻帯)に対する批判と軸を同じくした。改革に熱心な教皇レオ9世が登位すると、教皇権がこの教会改革の主導権を握るようになった。レオ9世は聖職者の倫理改革を目指してシモニアに対して厳しく対処することを表明し[* 90]、改革遂行のため、当時の改革的聖職者を教皇庁の下に結集して、教会改革に合致する教会法の集成に着手させ、さらに教皇首位権を現実化しようとした。レオ9世時代の改革はこのようにグレゴリウス改革に直結するものであるが、その対象はほぼ教会内部に限られており、教権と俗権の関係には及んでいない。その後ニコラウス2世は1059年、ラテラノの教会会議で下級聖職者に限って俗人叙任を明確に禁止した[* 91]。つづくアレクサンデル2世も聖職者の倫理改革に着手し、教皇特使を活用してキリスト教社会に影響を及ぼそうとし、シモニアやニコライティズムを強く批判した。こうしてグレゴリウス7世の登極までに改革は着実に進展していた。 このように、クリュニー修道院に影響を受けた修道院改革の基本精神は教会改革に継承されたのであるが、これはクリュニーの精神とグレゴリウス改革が全ての面において、一致していたということを必ずしも意味しない[* 92]。教皇主導の教会改革が徐々に急進化するに及び、当初は協力的であったクリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論[* 51]に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対した。またイスパニアでもカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはむしろアルフォンソ6世と結びつくことで、これに対抗した[* 93]。 しかしクリュニー精神もグレゴリウス改革も、キリスト教が「危機」に直面しているという認識では一致していたのであり、この時代の大きな雰囲気の中から生まれたものであることは共通していた。クリュニーは世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニア批判に結びつき、グレゴリウス改革で本格的にそれが主張されるという、発展の傾向は認められる[137]。だが、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であったし、その運動の進展はグレゴリウス改革と並行していた。したがって、両者の関係はクリュニーがグレゴリウス改革を生み出したというよりは、両者が間接的に影響し合っていたと見るべきである[138]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 周縁における権力と教会 中世ヨーロッパにおいて周縁に位置するイングランドやイベリア諸国、スカンディナヴィアでは、そこがキリスト教世界にとって前線であるがゆえに、西ヨーロッパの中央とは異なったあり方でキリスト教が存在していた。これらの地域ではカトリックとは異なる典礼を発達・維持させていた教会が存在していたのである。しかしグレゴリウス改革の影響はこれらの地域にも波及し、新たな展開を見せた。 イングランド教会の伝統 ブリテン島のキリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウスや聖パトリックが知られており、後者によってアイルランド伝道が開始された。アイルランドが急速にキリスト教化するのと対照的に、ブリテン島はアングロ・サクソン人の侵入を受け、一時的にキリスト教布教が停滞した。しかしながら563年以降、アイルランドから渡った聖コルンバがアイオナ島を拠点にスコットランド改宗に着手し、597年6月9日の死にいたるまで熱心な布教活動を続けた。ちょうど同じ年の6月2日に教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンがケント王国に上陸し、イングランド布教も開始された。 アンセルムス 師であるランフランクの跡を継いでカンタベリー大司教となる。イングランド王国での聖職叙任権改革を進め、王権と対立。17年にわたる在位期間中、2度も追放される憂き目にあった こうしてアイルランド人のケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教を開始したが、両者は様々な面で相違していたために[* 94]、布教をめぐって摩擦や対立が生じることとなった。両者は664年、ホイットビー教会会議[* 95]で信仰について話し合い、結局この会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えた[142]が、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた[143]。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した[144]。 エドワード懺悔王の死後、1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった[* 96]。1073年にグレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった[146]。ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた[146]。ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした[* 97]。ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた[150][151][* 98]。 ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった[* 99]。アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていた[154][155][156][157]ので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した[158][159]。つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ[* 100]。そこでは国王や俗人から聖職者が叙任されることは原則的に禁じられた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられた。これによってイングランド国王は教会に対する実質的な影響力を維持した。しかしながら、1114年のカンタベリー大司教選挙において、国王が推薦する候補が落選するなど、国王の教会政策に一定の疑問が投げかけられる結果をもたらした[161]。ヘンリー1世の跡を継いだスティーブン王の時代は混乱を極め、王は自らの権力を維持するために教会にあらゆる譲歩をしたが、その約束は果たされず、逆に国王と教会の対立は深まった。1139年に国王がソールズベリー司教ロジャーを逮捕投獄する事件が起こり、これを機にスティーブンは聖界の支持を決定的に失った。1141年のウィンチェスター教会会議で司教たちは、司教には国王を聖別する権利があると主張し、マティルダを「女支配者」 ("Domina Anglorum") として認めた[162][163]。スティーブン王の治世の間、イングランドは実質的な内乱状態にあったが、教会はその混乱の中で影響力を強め、王権からの相対的な自由を獲得した。 スティーブン王の死後、生前の約束通りヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。新国王はイングランドの無秩序状態を収拾するため、法律を整備する必要性を感じ、裁判制度の改革に乗り出した。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されており、聖職者は教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者の特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏を買収して剃髪して詐って聖職者を名乗り、刑を軽くするような法の抜け道が存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗で刑罰が異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法[* 101]を制定した。これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケットは一度は不承不承認めたものの、のちに教会の権利を擁護して国王に反対した。長く追放された後、ベケットはイングランドに帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士に殺害された。しかしこのことでベケットは殉教者として崇敬されるようになり、国王は逆に譲歩せざるを得なくなった。結局大逆罪に関する条項を除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。 中世の初期においては国王の強力な掣肘化にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝の開始時には大陸での教会改革の成果も取り入れ、王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代にカンタベリー大司教の首位権が徐々に確立され、イングランドにおぼろげながらも一つの信仰共同体が形成され始めたことは、後の国教会体制を準備するものであった[* 102]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 西ゴートの伝統、イベリア半島諸国 1031年のイベリア半島 後ウマイヤ朝が滅亡した直後のイベリア半島 キリスト教諸国レオン王国|カスティーリャ伯領|ナバーラ王国|アラゴン伯領|カタルーニャ君主国 イスラム教タイファ諸国アルコス|アルバラチン|アルプエンテ|アルヘシラス|アルメリア|ウエルバ|カルモナ|グラナダ|コルドバ|サラゴサ|サンタ・マリア・デル・アルガルベ|シルヴェス|セビーリャ|デニア|トルトサ|トレド|ニエブラ|バダホス|バレンシア|マラガ|マロン|ムルシア|メルトラ|ロンダ 711年に西ゴート王国が滅亡して後、イベリア半島はそのほとんどがイスラム教徒によって支配された。イスラム教徒の支配下では税を支払う代わりに西ゴート式の独自の典礼を維持したキリスト教徒たちがおり、彼らは「モサラベ」と呼ばれた。一方北部を中心にキリスト教国が残存していたが、その中でも山岳地帯に位置したアストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国に対抗した[165][166][167][168][* 103]。アルフォンソ2世の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきたモサラベの建言を容れて、西ゴート方式の宗教儀式を部分的に採用し、西ゴート王に連なる家系図を作らせ、アストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるという「新ゴート主義」[* 104]が成立した[173][174][* 105]。アルフォンソ3世の時代になると、植民活動を活発化させ、教会堂の建設事業を積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いでいる[173][178][* 106]。つづくガルシア1世の時代に王国は首都をレオンへ移し、王国はレオン王国と呼ばれるようになった。レオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した[* 107]。一方同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでいた[183]。ナバラ王国もその点は全く同様で、イスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまっていた[184]。アラゴン伯領もいまだレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[185]。一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え[186]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[187]。 11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[188][* 108]。その息子でカスティーリャ王国を相続したフェルナンド1世はレオン王国を併合(カスティーリャ=レオン王国)すると、南へ遠征し、後ウマイヤ朝滅亡後にアル・アンダルスに割拠したタイファ諸国を攻撃して金による貢納(パリア)を求めた [* 109]。しかし貢納金を支払わせるということは、逆にフェルナンドをしてこれらタイファ国を保護する義務を生じさせるものでもあった。フェルナンドとその息子のサンチョ2世はタイファ国の救援要請を受けて、これを攻めたキリスト教国と干戈を交えている[190][191][192]。フェルナンドの晩年にはいくつかのアル・アンダルスの都市を征服するなど「レコンキスタ」[* 110]的な行動が見られたが、同じキリスト教を奉ずる国々との戦争も頻繁に行われており、このころの軍事行動が宗教的動機を離れて行われていたことは注目に値する[193][* 111]。 11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった[* 112]。フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。例えばアルフォンソ6世はトレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナール (en Bernard de Sedirac) に任せた[196][* 113]。一方で改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし、「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張した。これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した[199][197][200]。アルフォンソはクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした[201]。アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れた。だが、1090年のレオン教会会議で西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けた[202]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スカンディナヴィアの改宗 9世紀まで、スカンディナヴィアにおいてキリスト教が大きな影響力を持つことはなかったが、キリスト教の信仰と典礼はこの地域にかなり早く波及していた[203]。その信仰は西ローマ帝国の滅亡以前に遡るものもあるが、8世紀に形成された北欧とフランク王国などのキリスト教諸国との間の交易路が大きな影響を及ぼしたと考えられている[203]。8世紀の初頭にはイングランドの修道士であったウィリブロード (Willibrord) によるフリジア地方への布教が知られており、彼はデンマーク南部のリベ(Ribe)まで足を運んで、その地から30人の少年を連れ帰って教育し、彼らに現地語で布教させようとした[* 114][203]。また近隣のフランク王国は北方地域への布教を継続的に支援していた[203]。 9世紀初頭にフランク王国はザクセン戦争の結果エルベ川以南のサクソン人を服従させ、改宗を強制した[203]。このことはサクソン人と境を接していたデーン人に脅威を抱かせ、デーン人を率いていたゴッドフリード (Gudfred) はフランク王国に抵抗するが、810年に政敵によって暗殺された[203]。彼の死後は息子たちが抵抗を続けたが、フランク王国との宥和政策を主張するハラルド (Harald Klak) が台頭して内戦となった[203]。819年にフランク王国の支援を受けてハラルドが権力を回復すると、彼の支配領域で、ランスの司教エボ (Ebbo) の主導によってキリスト教布教が開始された[204]。ハラルドの権力はつねに脅かされていたために、彼はフランク王国の支援を必要としており、826年、彼はマインツでルイ敬虔帝の見守る中キリスト教へ改宗した[205]。彼はアンスカル (Ansgar) という修道士を伴ってデンマークへと帰還したが、1年後には追放された[205]。一方、829年にはスウェーデン東方にあったスウェーデン人 (svear) の王の要請でビルカにアンスカルが派遣された[205]。18年の歳月を要した彼の伝道活動は成功裏に終わり、ビルカの総督であったヘリガル (Herigar) を改宗させ、彼によって教会堂が建てられた[205]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 等族国家と公会議主義 アヴィニョン教皇庁 ゴシック建築を代表する。1316年にまず最初の建築がおこなわれ、クレメンス6世時代に増築された グレゴリウス改革以後、西ヨーロッパ教会における教皇首位権は確立された。教権の伸長はこの時期さまざまな局面での教権の世俗の領域への介入につながったが、封建君主たちの激しい抵抗に遭い、一連の政治闘争によって教皇権の根拠に対して厳しい批判の目が向けられるようになった。 この時期封建制国家は、特にイギリスとドイツで典型的に身分制秩序が発展し、身分制議会(これを等族議会という)が形成されるようになった。これは一方で貴族による王権の制限という形式を取ったが、同時に王権を中心とした王国単位での共同体を創設することにもなり、普遍的な世界の解体につながるものであった。このような身分制に基づく議会主義をとる国家を等族国家といい、ヨーロッパ中世後期に特徴的な国家様式であると考えられている。等族国家は西はブリテン島から東はポーランド、さらには聖地に作られた十字軍国家も同様の形態を取るが、その内実は地域によりかなり異なる。たとえばドイツでは大空位時代から諸侯の自立化が進み、カール4世の時代に金印勅書の制定によって国王の選挙制が確立された。重要な帝国法は帝国議会で決定されるのが常となり、典型的な等族国家を形成した。一方でフランスではカペー朝による王領拡大が諸侯領を破壊する形でおこなわれ、王国に対する国王の支配がより強力であったために、等族議会である三部会では当初から国王が主導的な役割を担い、国王の政策の道具として扱われる側面が強かった。 ともかくこのような等族国家は、各王国規模での政治社会を定着させることにつながり、中世的な普遍世界から絶対王政への橋渡しをする役割を担ったといえる。これは普遍的にキリスト教世界に影響を及ぼす教権の側から見れば、王国ごとに教会を分断しようとする動きとなり、危険なものであった。なぜなら皇帝権との対立が同じ普遍性の土台の上で戦ったものであったために教権の普遍性自体を疑うものではなかったのに対し、等族国家はまさに普遍性そのものを問題としたからである。ところでこのような代議制的統治の構造は、実に教会においてまず発展したものであった。そして教会においては教皇首位権に対する公会議主義の思想が展開されていくのである[* 115]。 フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム 寡婦なるローマ 教皇不在のローマを象徴的にあらわした図。アヴィニョン捕囚は教皇に対する不満を増大させ、また「捕囚」されている事実それ自体が教皇権威の失墜を意識させるものであった この時代、ドイツの皇帝にかわってフランス王権が台頭し、イタリアにも進出するようになり様々な局面で教権と対立するようになってきた。13世紀後半にフィリップ4世が即位すると、この国王と教皇の間で聖職者への課税権を巡って対立がおこった。教皇の側ではアエギディウス・コロンナが論陣を張り、一方のフランス王権を支持したのがパリのヨアンネスであった。ヨアンネスは聖職者は単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるべきでないとして教皇の世俗への介入を批判し、一方で世俗国家を自然的社会の最高形態であるからその君主は教会による聖別を必要としないと論じた。 1302年にフィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ[* 116]、教皇ボニファティウス8世を捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件[* 117])。フィリップ4世はフランス人であるクレメンス5世を擁立すると、教皇庁をアヴィニョンに移転させた。以後70年間にわたり教皇庁はアヴィニョンにあってフランス王権の影響をうけることになり、この時代を教皇の「アヴィニョン捕囚」という。クレメンス5世の時代にはテンプル騎士団がフィリップ4世によって異端として告発され、クレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴを維持しようとした[* 118]が、結局はフランス王権に屈服し、ヴィエンヌ公会議ではっきりとした理由も示さずにテンプル騎士団の解散を宣言した。 このようにクレメンス5世はフランス王権の影響を強く受けており、グレゴリウス11世までの「アヴィニョン捕囚」期の教皇の立場は総じてクレメンス5世とあまり変わらなかった。カペー朝の断絶後、1337年に百年戦争が始まるとフランスは徐々に戦争により疲弊し、相対的に教皇庁は自立性を強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権の没落期・低迷期と考えられる時期であるが、一方で教会の司法制度[* 119]が整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。 この時代にガリカニスムという主張があらわれた。ガリカニスムとは「ガリア主義」という意味で、ガリアとはフランスのことである。この主張はフランス教会の教権からの独立を説くもので、その契機と考えられるのは前述したパリのヨアンネスである。このガリカニスムはとくに16世紀以降法学者たちの間でさかんに論じられるようになり、やがてイエズス会などの教皇至上主義と激しく対立して民族主義に近づいていった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 皇帝との対立、そして「金印勅書」 14世紀の神聖ローマ帝国 この時代は代表的な家門の間で皇帝権の争奪がおこなわれていた。図中紫がルクセンブルク家の家領。図中オレンジがハプスブルク家の家領。図中緑はヴィッテルスバハ家の所領。このような家門どうしの皇帝権争奪に対して、教皇権はいずれかの候補を支持することで介入した 神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はイタリア政策を積極的に進めようと皇帝代理をイタリアに派遣したが、このことがアヴィニョンのヨハネス22世を刺激し、教皇はイタリアにおける自身の権益が脅かされているものと認識した。ヨハネス22世はルートヴィヒ4世が教皇による国王としての、あるいは皇帝としての承認を受けていないにもかかわらず、国王として、また皇帝として振る舞っているとして批判した。ヨハネス22世は以上の論法からルートヴィヒ4世が教皇に服従することを求めたが、ルートヴィヒ4世が応じようとしないので、これを破門した。これに対しルートヴィヒ4世は選挙に基づく王権の独立性を訴えた。彼に理論的根拠を与えたのはパドヴァのマルシリウスで、『平和の擁護者』を著して法の権威を人民に求め、教会の介入に対して政治社会の自律性を主張した。教皇首位権に対しても聖職者の平等を訴えてこれに挑戦する内容であった。 ルートヴィヒ4世は1327年にイタリア遠征に出発し、ローマに入城して1328年にはローマ人民によって戴冠された。カール大帝以来、帝冠は教皇によって戴冠されるものと考えられていたのに対し、この新式の戴冠は明らかに同行していたマルシリウスの示唆によるものだった。ルートヴィヒ4世はヨハネス22世の廃位を宣言し、ニコラウス5世を擁立した。しかしニコラウス5世は皇帝がイタリアを去ると、1330年にはヨハネス22世に屈服した。その後もルートヴィヒ4世はオッカムのウィリアムなどの有力な理論的神学者を用い、ヨハネス22世とその跡を継いだベネディクトゥス12世、クレメンス6世との間で長い論争が続いたが、決着はつかなかった。 論争が続けられる一方、1338年に帝国法「リケット・ユーリス」が決議され、皇帝選挙の根拠が定められた。これは皇帝の位と権力が神に由来することを示し、選挙侯による選挙によって選ばれた者がただちに国王であり、皇帝であることを定めたもので、ドイツの国王位と神聖ローマ皇帝位に対する教皇の介入を徹底的に排したものであった。ルートヴィヒ4世の死後、ルクセンブルク家のベーメン王カールがカール4世として即位すると、金印勅書を制定して国王選挙権を7人の選帝侯に限り、さらにその選帝侯の権利はそれぞれの領国に結びつけられ、長子相続によることが定められた。これによりドイツ国王は教皇の承認を経なくても皇帝権の行使をおこなうことが可能となり、皇帝位がドイツ国王位と永久的に結びつけられたが、一方で選帝侯は領国内での無制限裁判高権、至高権、関税徴収権、貨幣鋳造権などの諸特権を獲得し、国王からの自立性を強めた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] イングランド王権との対立 イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルターが1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。インノケンティウス3世はこの訴えに対し、王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。ところがこの決定にジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任のウォルターの例をあげれば、彼はカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代の国王リチャード1世が十字軍遠征に参加して不在の間、国内の政治をとって安定を守った。このようにカンタベリー大司教はイングランド国内にあって単なる宗教的権威にとどまらず、国王の重要な高級官僚としての役割も担っていたのであった。当時のイングランドにはカンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例[* 120]があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇はイングランドにおける全教会の聖務停止を科し、ジョン王は報復として教会財産の没収を命じた。この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権は大司教選挙施行の許可権と選挙結果への同意権を確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなった[* 121]。 エドワード1世 ウェールズを征服し、スコットランドにも遠征してブリテン島におけるイングランドの優位を確立させた。積極的な外征とその成功によって支持を集める一方、内政においても「模範議会」に代表される議会制度の整備や立法制度、司法制度などにも進歩をもたらした。しかし晩年には課税を巡って教会や諸侯と対立するなど政治的には危機的状況を迎えた このときジョン王の王権に対するイングランド諸侯の反発は最高潮に達し、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。後述するマグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、彼らがここを拠点とするようになると、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。ところがマグナカルタは王権にとって不利であるだけでなく、教権にとってもあまり好ましいものでないことは明らかとなった。マグナカルタは伝統的に「保証条項」と呼ばれる箇所で、25人の諸侯が王国内の平和と諸自由に対して権利を持ち、責任を担うことを規定していたからである。このことはイングランド王が教皇の封臣となっていた当時、教皇権の裁治権を狭めるものであると考えられたからである[* 122]。教皇はマグナカルタを批判し、これに力を得たジョン王はマグナカルタを守らなかった。反乱諸侯はフランス王権に介入を依頼し、カンタベリー大司教など幾ばくかの聖職者もこれに荷担する様子を見せたので、いよいよ混乱が避けられぬかと思われた矢先に、1216年10月18日突然にジョン王は逝去した。息ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。 一方でこの時期イングランド国内では議会制度が形成された。13世紀にはすでに大会議(グレート・カウンシル、"Great council")と小会議(スモール・カウンシル、"Small council")に分けられる封建的集会が存在し、裁判所としての役割をしていたことが知られるが、ヘンリー3世がわずか9歳で即位すると、小会議の役割が増大した。ヘンリー3世は成人して親政を開始すると、小会議に行政官やプランタジネット家の故郷である南フランス系の親族を参加させ、彼らを重用した。このことは諸侯との対立を招き、課税を巡って彼らと対立したためにヘンリー3世は一時的に妥協したが、税金が徴収されると結局は約束を破った。しかしヘンリー3世は一連の諸侯との交渉において何人かの固定した成員によって形成される常設の国王評議会(キングズ・カウンシル、"King s council")を認め、のちにこれが議会(パーラメント、"parliament")と呼ばれるようになった[* 123]。ヘンリー3世に不満を持つ諸侯がシモン・ド・モンフォールを中心に反乱すると、モンフォールは従来の成員のほかに各州より2名の自由民と各都市から2名の代表を集めて議会を開いた。結局乱は鎮圧され、これは定例とはならなかったのであるが、エドワード1世の時代、1295年の「模範議会 ("Model Parliament")」からは平民の代表が呼ばれることが規則となった。エドワード1世はこの模範議会で聖職者と平民に課税同意を求めたが、聖職者は教権に訴え、教皇ボニファティウス8世は教皇勅書「俗人は聖職者に(クレリキス・ライコス、"Clericis laicos")」を発し、俗権の教会課税にはそのつど教皇の認可が必要であり、違反に対しては破門を持って応じるとしたので、エドワード1世の意図はくじかれた。 14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。というのも前述したように、この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇の教会支配が強まったイングランドでは聖職売買によって地位を得た外人聖職者を受け入れざるをえない状況が続いていた。国王と議会は1351年に聖職者任命無効令を、1353年に上訴禁令を出してイングランド国内における教権と教会法の影響を排除しようとした。これは教権との政治上の駆け引きにおいて有効な武器として使われることもあったが、実際に行使されたことはなかった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教会大分裂と公会議主義 教会大分裂 青がローマ教皇庁支持。赤がアヴィニョン教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた 教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。グレゴリウス11世の死後、教皇選挙でウルバヌス6世が即位することとなった[* 124]。ウルバヌス6世は当初官僚的で温厚な人物だと考えられていたが、即位すると枢機卿に対し強圧的になった。その結果フランス人枢機卿がまずローマを去り、イタリア人の枢機卿たちも結局はこれに従った。彼らはしばらく教皇と交渉と試みたが、埒があかないことを悟ると、一転してフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここにローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する長い教会大分裂[* 125]が始まった(1378年〜1417年)[* 126]。 ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂した[* 127]が、このことは民族を中心にまとまり始めた各国家の利害が教会の内部の問題にも介在するようになったことを示していた。事実両教皇の死後も教権の分立状態は解消されず、主にフランス王権と神聖ローマ皇帝権の意を受けたそれぞれの教皇が並び立つこととなった。ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、フランス教会のガリカニスムの傾向をますます強めることとなった。 このような混乱のなか、譲歩しようとしない両教皇の態度に業を煮やした両教皇庁の枢機卿団は、公会議を開いて新しい教皇を選任し、この分裂を解消しようという動きを取り始め、公会議派が形成された。公会議派は1409年ピサ公会議を開き、両教皇の参加を求めたが受け入れられなかった。この公会議で公会議派は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世はペルピニャンで、グレゴリウス12世はチヴィタレでそれぞれ自派の公会議を開き、ピサ公会議の決定を受け入れなかったので、ここに3人の教皇が鼎立することとなった。アレクサンデル5世は1年後に亡くなり、そのあとはヨハネス23世が継いだが、この教皇の評判は芳しくなかった。 皇帝ジギスムント 教会大分裂の解消に熱心であった。図中右の鷲の紋章はドイツ王権を、左の双頭の鷲の紋章は皇帝権を象徴する。彼はローマ王として単頭の鷲を、皇帝として双頭の鷲を印璽で用いた最初の君主であり、以後慣習として定着した。また図中の双頭の鷲の頭には光輪が見えるが、これもジギスムントによって帝国の神聖さの象徴として書き加えられることが定められた このときにあたって、ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントは、教会の再統一に積極的な姿勢を見せ、ヨハネス23世を説得し、グレゴリウス12世の同意もとりつけて1415年にコンスタンツ公会議を開いた。このコンスタンツ公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。すなわち公会議での決定は個人単位ではなく、イングランド・フランス・ドイツ・イタリアの4つの出身団(ナツィオ、"natio")によりおこなわれ、1417年からはスペインの出身団と枢機卿団[* 128]が加えられて投票権を持つ集団は6つとなった。公会議の途中で教皇ヨハネス23世は出奔し、公会議は召集権を持つ教皇を失って一時危機を迎えたが、公会議派が中心となって公会議の決定が教権に優越することが主張され、公会議は教令「サクロサンクタ ("Sacrosancta")」を発してその正当性を保持することに成功した[* 129]。 しかし会議は難航した。フスなどの異端運動に対する問題や、教会改革を声高に主張する急進者と反発する保守派、そして国民間の対立や神学者同士の理論上の対立[* 130]が持ち込まれることもしばしばであった。さらに公会議に教皇の選任権があるのかという問題も紛糾した。とにかくこの公会議はさまざまな論争と政治的駆け引きに翻弄され、長引いたものの、鼎立した3人の教皇を廃位し、あらたにマルティヌス5世が選任されることで一致した。こうして教会大分裂は終わったが、一連の過程のなかでもはや普遍的であると信じられていた教会のなかでさえ、国民性が影響力を増していることが明らかとなった。教会大分裂の時代にもカトリック教会の統一が維持されたことは、普遍的な教会が未だ求心力を失っていなかったことを示しているが、国民的な単位を通して世俗の権力が教会に対する支配を強めたことは確かであった[* 131]。 教会大分裂 主な教会会議ローマ教皇庁アヴィニョン教皇庁公会議派 ウルバヌス6世 (1378-1389)クレメンス7世 (1378-1394) ボニファティウス9世 (1389-1404) ベネディクトゥス13世 (1394-1417) インノケンティウス7世 (1404-1406) ピサ教会会議 (1409年)グレゴリウス12世 (1406-1415)アレクサンデル5世 (1409-1410) コンスタンツ公会議 (1414-1418)ヨハネス23世 (1410-1415) マルティヌス5世 (1417-1431) 現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇(図の黄色)を正統として数え、それ以外の教皇は対立教皇としている。(M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年などを参考に作成) [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 王権の超自然的権威の獲得過程 中世を通じて王権はキリスト教的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性、霊性を民衆の心性のうちに獲得しようとし、実際に王権はある種の霊威、あるいは超自然的権威を位置づけることに成功した。このような霊威は当初、偉大な王の個性に基づいて「一代限り」のものであると考えられていたが、徐々に世襲されるようになり、儀礼も備えて王権とそれを世襲する王家に一種のカリスマを付与することになった[* 132]。宗教的儀式によって、王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対しては優位性を主張しえたからである[206]。霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった[* 133]。 イングランド、エドワード懺悔王の霊威 イングランドにおける国王の霊威をあらわす初期の例は、ノルマン朝のヘンリー1世によるもので、王はおそらく瘰癧患者にその手で触れることにより治療をおこなっている。この王権による瘰癧治癒能力は、おそらく後述するカペー朝がすでにおこなっていた瘰癧治療に対抗するためにエドワード懺悔王の説話を用いて設定されたもので、カペー朝の王権に対抗するためのものであったと考えられている。つづくプランタジネット朝の時代にはヘンリー2世がすでに瘰癧治療を「御手によって」おこなっているのはほぼ確かで、エドワード1世時代には治療を受けた者に王が施しをするのが明らかになっているので、会計記録からその集計を知ることができる。この瘰癧治癒の霊威の根源は国王が塗油され聖別されたことに由来するとされた。 エドワード2世のころから別種の奇跡、指輪の奇跡がイングランド王権の儀式にあらわれる。これは毎年復活祭直前の金曜日に、王がまず一定の金銀を寄進した上で、それを買い戻し、買い戻した元の寄進の金銀で指輪を作るという儀式で、こうして作られた指輪は痙攣や癲癇の病人の指にはめられると、病をいやすと考えられていた。この儀式では当初、寄進された金銀が聖性を帯びると考えられ、王権は直接に霊威の由来とはされなかったのであるが、テューダー朝のヘンリー8世のころには塗油された王権に由来するものと考えられるようになり、この時期にはすでに儀式において「買い戻し」の行為が省かれていた。指輪の奇跡は宗教改革の時代に批判に晒されるようになり、エリザベス1世によって廃止された。 一方で瘰癧さわりのほうはしばらく存続した。ステュアート朝初期には熱心に瘰癧さわりがおこなわれたが、オランダ人であったウィリアム3世はこの儀式に否定的で患者に触ろうとはしなかった。つづくアン女王は瘰癧さわりをおこなったが、ハノーヴァー朝以降全くおこなわれなくなった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] フランス、聖マルクールの霊威 百合紋 フランス王家の紋章。14世紀半ば頃に百合紋を巡って一つの説話が作られた。"ある日、クローヴィスがコンフラとの決闘の準備をしている時に従者に甲冑を取りに行かせると、甲冑に普段の三日月紋にかわって、青地に百合が3輪描かれている。4度別の甲冑に取り替えさせるが、いずれも同様の百合紋がついている。そこでしかたなくこれを着て決闘するとクローヴィスは勝利を収めることができた。じつはこれはキリスト教徒であった妃クロティルドの計らいで、妃は百合紋を用いて決闘に向かえば勝利するであろうとの啓示を受けていたのだった" フランスではカペー朝の初期、フィリップ1世がおそらく瘰癧さわりをおこなったと考えられている。フィリップ4世の時代にはフランス全土ばかりか、全西ヨーロッパ規模でこの「瘰癧さわり」は評判となっており、教皇領であるウルビーノやペルージャからも治癒を求める民衆がやって来ていることが確認されている。また中世を通じて医学書に瘰癧の治療法としてこの「瘰癧さわり」が記述されていた[* 134]。一方でルイ6世の時代には王旗や王冠がカール大帝の伝承にむすびつけられ、カロリング朝とフランス王権の間に観念的な連続性を生じさせた。 フィリップ4世のころには、この瘰癧さわりがクローヴィスの洗礼に由来する[* 135]塗油された王の霊威によるものという観念があらわれている。そしてこの伝説はランス大聖堂にクローヴィス以来の聖香油が聖瓶(サント・アンブール)に保管されており、王の即位式で王は聖香油を塗油され聖別されるという観念につながった。 中世末期になると、この瘰癧さわりに別個の聖マルクールの瘰癧治療信仰が混入し、区別がつかなくなった[* 136]。ヴァロワ朝のフランソワ1世の時代には、王の瘰癧治癒能力がこの聖者に由来するという観念が一般化していた。フランス王はコルブニーにある聖マルクールの遺骨の前でミサをおこなう際に瘰癧さわりも施すようになり、それを目的として参集する病人が年々増大した。 フランスの「瘰癧さわり」はブルボン朝のルイ16世の時代まで熱心に続けられていたが、フランス革命が起こると王は神授権説とともにこの慣習も捨てることとなった。これ以降はシャルル10世の時代に「瘰癧さわり」の復活が試みられているが、王自身も否定的であったので1825年に一回おこなわれたのみでこれが最後の事例となった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教権の宗教的権威への挑戦 このような王権の超自然的権威はローマ教皇の宗教的権威、具体的には教皇勅書「唯一の、聖なる(ウナム・サンクタム、"Unam sanctam")」への挑戦であった。この教皇勅書はボニファティウス8世により出されたもので、教皇は世俗的領域と宗教的領域の両方で、至上権を有していることを述べていた。以後歴代教皇はこの勅書を基本的に踏襲し、教皇首位権を擁護する聖職者・神学者たちはこれをしばしば引用したばかりか、ややもすれば拡大解釈して教皇の特権を強調した。 王権の「瘰癧さわり」に関してはしばしば異端の疑いを受け、また宗教的権威において、教権に対しての王権の優位性を根拠づけることに成功したとは言い難いものの、中世の後期には民衆の間でこの慣習が広く受け入れられていたことは事実である。またこのような王権の超自然的権威が、一方で近代的な意味での国民的な感情に結びついていたことを見逃してはならない。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 王の二つの身体(霊的王権から政治的王権へ) 中世前期、皇帝派の著述家たちはしばしば王が霊的な権能を有していることを主張した[* 137]。それに対し、教皇派の著述家たちは王権の聖職者としての性格を拒否した。王は純粋に世俗的で肉体的な自然的身体を持つ一方で、王として塗油された瞬間から他の世俗的権力者を超越する霊的身体を持つと考えられ、皇帝派によって大いに喧伝された[* 138]。教皇派は「王に対する塗油が、司教に対するものと違って、魂に何の影響も与えない」[* 139]として、前者の考えを否定した。 中世後期にいたると、王の霊的権能のほとんどは名目的な称号や役職へと退化していたが、それでも著述家たちは王が単に世俗的な支配者であるに留まるわけではないことを強調した。これには中世に発達した法学の影響があり[* 140]、王はあらゆる法的義務から超越し、正義の源泉であると考えられた。その過程において、王権は王個人と区別して観念されるようになった。法学者たちは、王には自然的身体と政治的身体の二つの身体があり、自然的身体は可死的な王の生まれながらの身体であるが、政治的身体は不可死かつ不可視で、政治組織や政治機構からなり、公共の福利をはかるために存在していると考えた[* 141]。 清教徒革命時には王個人の行動が政治的身体である王権に反するものであるとして、議会の王への反抗が正当化された。彼らは「王 (King) を擁護するために王 (king) に対して闘え」と叫び、さらにチャールズ1世を「大逆罪」で処刑することもできたのである。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カトリック大国、スペイン 16世紀に新しい大国が西ヨーロッパの政治舞台に登場した。イベリア半島のスペインとポルトガルである。両国とも盛んに海洋進出をはかり、新大陸・アジアなどへの航路を確保しながら広大な植民地を獲得していった。またこれらの地域への布教活動においても重要な役割を担った。ヨーロッパにおける教権との関係でいえば、スペインはとくに重要な個性としてヨーロッパ政治史に固有の位置を占めることになる。 王権によるスペイン教会の掌握 異端審問 ゴヤによる1815年ごろの作。異端を疑われた者は図のような高い帽子を被らされた カスティリャ王国とアラゴン王国の合同によって成立したスペインは、レコンキスタを完成してイベリア半島からイスラームの勢力を駆逐すると、国内の宗教的統一をはかるようになった。当初は征服地のイスラム教徒であるムーア人に信仰の自由を許していたが、彼らが反乱したのを理由に1501年、ムーア人に信仰を守って移住するか信仰を捨てて洗礼を受けるかの二者択一を迫った。またユダヤ教徒を国内から追放し、キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)についても密かにユダヤ信仰を守っているのではないかという疑いをかけていた。 イサベル1世とフェルナンド2世は、王国の安定のためには国内の宗教的統一が不可欠であると考え、教皇に要請して1478年スペイン異端審問所を設けた[* 142]。この異端審問所では当初から国王が全権を握り、スペイン教会における王権の影響力を高めて事実上教権からの自立を勝ち取ったばかりか、王権による国家政策の一環として政治目的にも利用されるようになった。さらに支配下のナポリ王国に教皇が領主権を主張すると、これに激しく反発して一時は教皇と断交寸前にいたった。つづくカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の時代にはサンティアゴ騎士団長の位が王家によって世襲されることを定め、国王は国内の宗教的権威と権限を掌握した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] イベリア半島におけるキリスト教文化の興隆 この時代スペインではキリスト教文化においても大きな前進が見られた。具体的にはルネサンスの人文主義の成果が取り入れられ、先進的な神学校や大学などの教育機関がスペイン各地に設けられた。この時代のスペインのキリスト教アカデミズムを代表するのがメンドサとシスネーロスである。 メンドサは1492年のグラナダ攻略の際にスペインの首座大司教であり枢機卿であった人物で、宗教教育推進のためにキリスト教教育書を書いた。シスネーロスはアルカラ・デ・エナーレス大学を創設し、ここには当時の主要な神学、トマス派、スコトゥス派、唯名論などの講座が設けられ、ギリシア語・ヘブライ語も学ぶことができた。さらにここでは聖書原典の編纂事業が行われ、『コンプルトゥム多国語対訳聖書』が著された。これらスペインでのキリスト教文化の発展は、人文主義に対する一定の寛容をもたらし、とくにエラスムスの著作はこの地域で大変な人気を博し、よく読まれた。このことはのちの宗教改革において、この地域での宗教改革派の影響が軽微に止まる原因の一つともなった。 ポルトガルでは、1554年にイエズス会の手によって、エヴォラ大学が創設された。エヴォラ大学は、中世以来のコインブラ大学に対抗し、近代的な大学であったが、一方で科学の自由な知的探究を排し、講義はラテン語でおこなうなど現地語主義を抑圧した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 中世の民衆信仰 中世を通じて、支配者や聖職者の知的な宗教世界とは別の次元で、民衆の間にも独自の信仰が展開されていた。このような民間信仰は民衆の日常生活や伝統的な世界観と結びつき、ときには集団的な様相を取って大きな宗教的運動に結びついた。ここではキリスト教がいかに中世のヨーロッパの一般民衆の生活に根付いていったかを概観する。 魔術的な神から摂理的な神へ 王としての「キリスト」 フェルナンド・ガレゴによる15世紀の作品。紀元1000年ごろから、威厳を持った王の姿で表されるキリスト像が現れる ゲルマン人の間にキリスト教が受容された当初、「神の全能」は多分に魔術的に解釈されていた。たとえばクローヴィスは妻クロティルドにキリスト教への改宗を薦められると、キリスト教の神が彼の戦勝に貢献するなら、信仰を受け入れようと約し、勝利を得た後に改宗した。これはゲルマン神話の戦争の神オーディンがルーンを習得して魔法を使う魔術の神であったことを考えれば、魔術的な神への信仰としてキリスト教を見ていたことになる[* 143]。中世初期には、聖職者はしばしば魔術的な力を持つと信じられた。聖職者は民衆から尊敬の眼差しで見られる一方、魔術師として恐れられ嫌われた。11世紀のデンマークでは、聖職者は天候に対して魔術的な力を持つと信じられ、天候不順であった際には迫害を受けた。13世紀フランスでは、ある村で疫病がはやった際に、司祭を犠牲にすることで村を救おうとした事例がある。11世紀のグレゴリウス改革において教会が排除しようとしたのは、王権の奇跡能力と、聖職者に対するこのような魔術的迷信であった。グレゴリウス7世は王や聖人の奇跡を否定する一方、デンマークで天候不順の際におこなわれた聖職者への迫害を非難している。 しかしながら中世を通じて、神の起こす奇跡は自然法則を超えることができると信じた民衆の心性は、ほとんど変わることがなかった。例えば王権の超自然的な奇跡能力への信仰は、中世後期にむしろ強められさえし、聖人への信仰は特定の奇跡と聖人を結びつけ特殊化する方向に進んだ[* 144]。一方で民間信仰とは別個の次元で、教会は奇跡を神学的に論じ、神の摂理の合理的な体系の中に位置づけた。すなわち教会はある人物を列聖する際には、その人の起こした奇跡をその生涯と奇跡のあらわれ方から吟味して、聖人とするかどうかを決定するようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 新しい信仰形式、清貧、巡礼、神の平和 10世紀末ごろから、従来の信仰形式とは異なった、いくつかの大衆的な宗教運動が現れた。 このころ従来の修道院とは異なった形で、よりイエスのあり方に近い修道生活を目指す運動がおこった。この運動の淵源は東ローマ帝国に近い、南イタリアのカラブリア地方のギリシア系修道士たちの生活に端を発し、南イタリアにイスラム教徒が攻撃を加えるようになると、彼らは難を避けて北上した。11世紀になると全ヨーロッパ規模で、この新しい運動に基づいた修道院設立が活発化した。とくに影響が大きかったのは13世紀に現れたアッシジのフランチェスコで、彼の清貧運動には在俗の多くの信者が共感し、ともに貧しい生活を営んだ。同時期に同様に清貧を唱えた異端のワルドー派も多くの在俗信者を獲得した。このように聖職者の貴族的な共同生活であった修道生活が、イエスの清貧という理想を通じて、民衆の間に広く受け入れられた。 信徒たちの母として描かれた聖母マリア(1445年ごろ) 12世紀西欧では、聖母信仰が流行した。聖母マリアのイエスを失うという悲劇的な体験が、イエスと贖いの苦しみを共有するものと観念されたからである。聖母マリアは普遍化され、「神の母」としてキリスト教社会のすべての信徒を包み込む存在とされ、厚く尊崇されるようになった またこのころ、聖遺物や聖人に対する信仰が高まり、各地に収められた聖遺物や聖人の故地への巡礼がさかんとなった。サンティアゴ・デ・コンポステーラや聖地エルサレムへの巡礼は大衆運動となった。のちには十字軍運動と結びついて、多数の信者が十字軍に参加したり、特に少年十字軍に代表されるように、自発的に大衆の十字軍が組織されたりもした。西ヨーロッパの交通網は11世紀までにまず聖地のネットワークとして形成され、徐々に定期市や港湾にネットワークを広げ、その拠点には金融市場が形成されるようになった。こうして成立した中世の交通網は古代のローマ帝国の街道網とはかなり異なったものであった[207]。 10世紀末の南フランスでは、フェーデに代表される封建的な私闘を、破門を威嚇に用いることで抑制しようという「神の平和」運動が起こった。これは封建的私闘の悪弊から、農民の財産や労働、商人の活動を保護しようという意図をもち、平和攪乱者に対して破門を下すとともに、農民が武器を持って戦うことも正当化するものであった。この「神の平和」運動は11世紀前半には全フランスに広がり、やがてドイツにも伝播した。ドイツではこの平和運動に王権が積極的な役割を演じ、時期を限ってフェーデを禁ずるラント平和令を出した。このラント平和令はのちには永久化されて、中世的な自力救済に基づいた私刑主義を非合法化し、公権力を創出するものとなった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト像の変容と聖母信仰 キリスト教が西ヨーロッパ社会で広がっていく過程において、イエス・キリストとその母マリアのイメージも大きく変容した。 まず紀元1000年ごろから「子なる神」イエスに対する関心が非常に高まり、とくに厳しい審判者として、あるいは威厳ある王としてのキリスト像が頻繁につくられるようになった。ところが12世紀ころから、今一度キリスト像に大きな変化が見られ、貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエスの像も数多く見られるようになった。このキリスト像を、その清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのが、アッシジのフランチェスコであったといえる[208]。 最近のカトリック教会による教義の明確化[* 145]にいたるまで、教義上は確固とした位置を占めなかった聖母についての数々の信仰もこの時代に成立した。まず12世紀ごろに聖母マリアも死後昇天したという「聖母の被昇天」信仰があらわれ、14世紀にはキリストを宿したマリアが原罪を背負っているはずはないとする「無原罪の御宿り」信仰があらわれ、激しい論争の種となった。聖母は「子なる神」イエス・キリストの母として、信者とイエス・キリストの間をとりなす特別の存在として尊崇を集めた。12世紀には祈祷文「アヴェ・マリア」が成立している。このような聖母マリアへの特別の尊崇は、ときに彼女をキリストの贖罪になくてはならず、贖いの補足者と見なす見解にもつながったが、教会は一貫してこの見解を斥けている[* 146]。この聖母信仰は、のちに宗教改革派によって攻撃の的とされた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 宗教改革前思想史 宗教改革は思想史的に言えば、突然に起こったものではなく、宗教改革諸派の思想は基本的に前代のさまざまな異端思想や人文主義思想と共通する点が多い。したがって宗教改革は思想面での革新性を示したというよりは、むしろ中世を通して堆積してきた政治状況に注意すべき点があるといえる。国家と宗教の関係についていえば、これらの思想はこの問題を直接的に扱い、論じているものが多い。宗教改革を巡る政治状況については後述するが、ここでは思想史的背景から宗教改革の前思想ともいうべき様々な思想傾向を概観する。 近代思想の先駆(1):パドヴァのマルシリウス イングランドの異端思想、ウィクリフとロラード派 思想上の接点は必ずしも明確ではないが、ロラード派はイングランドの宗教改革運動にある程度の影響を及ぼしている 詳細は「パドヴァのマルシリウス」を参照 パドヴァのマルシリウスの『平和の擁護者』(1324年)は、しばしば近代的な人民主権理論の先駆として言及される。この著作においてマルシリウスは世俗社会に対する教会の介入を批判し、当時の皇帝ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世の間の論争において皇帝側を擁護する論陣を張った。 さて、マルシリウスが人民主権理論の先駆とされる理由は、法の強制力は公民の同意に基づくと述べたためである。つまり『平和の擁護者』において、強制力を持つ実定法こそが真の意味の法であり、翻って実定法がなぜ強制力によってでも守らなければならないものであるかといえば、実定法がある時点で人為的に、公民の意志に基づいて制定されているからであるという論が示されている。支配者はこうして強制的に法を執行することが可能であるが、一方で人民に対して責任を持つ。 マルシリウスによれば、実定法である法には、次のような性格が明瞭である。 法の対象は外的な行為に対してであって、信仰などの内面に関わらない 神の法は窮極的な原因であるが、世俗の法には直接的に関わらない 国家における正義および利益の実現を目的とする 支配者の安全、統治の継続に資する とくに 1. 2. については明瞭に政教分離の考えを述べている。 マルシリウスは教皇権の批判にも筆を進め、教会がキリスト教徒全体の共同体であるとし、そうであるならば、教皇権はキリスト教自体に全く根拠を持たない歴史的な産物であるとし、本来聖職者は平等であるべきで、教義の問題は教皇ではなく公会議によって決めるべきだとした。このマルシリウスの主張は公会議主義の有力な根拠となった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 近代思想の先駆(2):ブリテン島の科学主義、唯名論の系譜 詳細は「ロジャー・ベーコン」、「ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス」、および「ウィリアム・オッカム」を参照 12世紀から13世紀にかけてスコラ哲学は完成に向かい、それはトマス・アクィナスによって一応なされたのであるが、そのトマスと同時代のイングランドでは、オックスフォード大学を中心として、すでにスコラ哲学の解体へと向かう運動が始められつつあった。14世紀に入ってからの後期スコラ学の時代には、パリ大学ではアヴェロエス主義[* 147]的な傾向が強まったのに対し、オックスフォード大学では、すでにアリストテレスに基づいた論理や概念は必ずしも尊重されず、より正確な論理的方法や概念が探究されるようになり、経験主義的な傾向が強まった。 オッカムのウィリアム 唯名論に基づいた著作が異端とされ、1328年破門されると、ルートヴィヒ4世のもとへ逃亡し、『教皇権に関する八つの提題』を著して教権を攻撃した。このなかで注目されるのは聖書の啓示を万民に許されているという思想で、のちの宗教改革を先取りしている オックスフォード大学における経験主義の先駆としてはロジャー・ベーコンがまず挙げられる。彼はトマス・アクィナスの同時代人であるが、アリストテレスを信じず、それに依拠しないで自ら実験して数学的な知識に基づいて研究し、錬金術も行った。ベーコンによればトマス・アクィナスのような神学は、経験的でないから学問に値しないものであった。 ベーコンの半世紀後に登場したドゥンス・スコトゥスは、ベーコンとは逆に、トマス・アクィナスが演繹的でないという批判を行った。スコトゥスによれば学問とは必然的で論理的な内容を持つものであるべきで、神の問題は厳密に言えばこのような論理的な積み上げによって得られる知識ではないから、神学が学問の中心的分野になることはおかしいとして、トマスの「神学は哲学の婢」という考え方を批判した[* 148]。 オッカムのウィリアムはドゥンス・スコトゥスの考えを発展させ、普遍的なもの(抽象)は名辞によってしか知られず、事物の本質はそれぞれの個体(具体)に存するという考えを唱えた(「唯名論」)。これはつまり「人間という観念がまずあって、それを基に個々の人間が存在する」のではなく、「無数の人間がまずあって、それらの共通点を抽象化したのが人間という観念である」という考え方である。この考えを拡張すると、この世界が合理的な秩序に基づいているという神の摂理を主張する立場が否定され、神の秩序なるものは、所詮神が個々に命じた個別的な意志の集積に過ぎないとする考え方に到達する。これはジャン・カルヴァンの「神中心主義」に近い考えである。 さらにオッカムのウィリアムは前述のパドヴァのマルシリウスと同じくルートヴィヒ4世に仕えて、反教権論を展開したのであるが、その思想はより原理主義的で、のちの社会契約説を先取りしている面がある。パドヴァのマルシリウスがアリストテレスに基づいて、国家を家族から発展した自然の共同体と見ているのに対し、オッカムのウィリアムは国家以前の自然状態を論じ、公共の福祉、共通善の実現のために契約によって国家が成立したのだと論じた。オッカムのウィリアムはさらに、マルシリウスにおいては不徹底であった人民主権的な考え方をより鮮明に打ち出し、国家が契約に基づくのであるから、立法には公民全体が参加すべきであるという考えを説いた。そして、オッカムのウィリアムは自身の理想とする政治社会のアンチテーゼとして現実の教会を批判した。教会においては教皇が異教的なローマ皇帝の制度に依拠して、本来は万民に開かれているべき権限を独占し簒奪している。神の啓示は本来聖書の中に記されているはずなのに、教会や教皇はそれらをみだりに読むことを禁じ、信徒から遠ざけている。本来であれば聖書を読める者なら誰でも、神の啓示に参加できるはずである。オッカムのウィリアムの考えは宗教においてもマルシリウスよりラディカルであり、公会議主義にも否定的である。彼によれば公会議もやはり教会という限られた共同体の聖職者に限られ、信徒全体に依拠するものではないから不完全である。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 改革運動の先駆(1):ウィクリフ 詳細は「ジョン・ウィクリフ」および「ロラード派」を参照 しばしば宗教改革の先駆として引用されるウィクリフは、オックスフォード大学に学んだイングランドの神学者で、1374年ころからイングランド王権と教皇庁の課税権を巡る論争に現れ、イングランド王権を擁護する主張を繰り返すようになった。ウィクリフの主張は課税権にとどまらず、やがて教皇の聖職叙任権にも向けられ、さらには教会は布教に必要最低限の財産しかいらないと述べて、教会財産の没収にまで言及するようになった。教会はウィクリフを異端審問にかけたが、王権や民衆の側から圧力が加えられ、ウィクリフは解放された。 こののちウィクリフは教義の批判に進み、アウグスティヌスに基づいて予定説を唱えた。彼は真の教会が目に見えないもので、あらかじめ救済が予定されている者によって構成されているのに対し、可視的な教会はすでに堕落しており、聖書のみに基づいたキリスト教の原始的な信仰に戻るべきだと説いた。 1384年にウィクリフは死ぬが、そののちコンスタンツ公会議で1415年に異端とされ、死体が掘り起こされて焼かれた。ウィクリフの教えに従って聖書を尊重するロラード派(あるいはロラーズ、"Lollards")という一派を生み、一時はオックスフォード大学などを中心に広まったが、のちに徹底的に弾圧された[* 149]。彼の思想は直接的には次のフスにつながり、宗教改革やイングランドのキリスト教解釈にも影響を及ぼした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 改革運動の先駆(2):フス エラスムス 16世紀前半にヨーロッパで広汎な影響力を持った人文主義者。中世を通じて教会が聖書解釈を独占していたが、エラスムスは独自のギリシャ語新約聖書を出版し、大変な人気を博した。ルターによって宗教改革が始まると、予定説と領邦教会制を批判し、人間の自由意志と全ヨーロッパ的なキリスト教共同体を擁護した。彼は領邦教会制がキリスト教の世俗権力への従属に他ならないことを批判し、ヨーロッパに平和がもたらされるためには全ヨーロッパ的なキリスト教共同体が不可欠なことを主張した。彼は信仰の自由、聖書解釈の自由、キリスト教徒の平和共存を説いたが、宗教改革が激化するとプロテスタント・カトリック双方から槍玉に挙げられるようになった 詳細は「ヤン・フス」および「フス戦争」を参照 フスは貧しい農民の出身で、オックスフォード大学で勉強し、のちにプラハ大学の教授となった。フスはウィクリフの思想に影響されて個人の信仰を重視して教会を否定的に考えるようになった。 神聖ローマ皇帝カール4世の時代にボヘミアは文化的な隆盛を迎えた。この統治者のもとでプラハは独立の大司教区となり、プラハ大学を創設した。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わったが、のちにこのような一部の聖職者に富が蓄積される傾向が、世俗貴族や下級聖職者の批判するところとなった。このころのボヘミアでは少数でありながら影響力の大きいドイツ人移民と土着のチェック人の間で対立がおきており、その構造はプラハ大学でも同様で、ドイツ人の同郷団[* 150]は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。またチェック人の同郷団はウィクリフ派であったが、残りの同郷団は反ウィクリフ派であった。このことがしばしばプラハ大学でも大きな分裂を引き起こしたが、1409年に皇帝ヴェンツェルはドイツ人の同郷団が皇帝の意向に背いたために、勅令を出してチェック人の同郷団を優遇すること[* 151]とし、これを不満に思ったドイツ人学生はライプツィヒに移住し、ライプツィヒ大学が分離した。そしてライプツィヒのドイツ人はフスを異端だとして突き上げた。 フスは破門を宣告されるが、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とした。またウィクリフに従って予定説を論じたが、ウィクリフとは異なって聖職位階制に対しては否定しなかった。ヴェンツェルの弟で、皇帝であったジギスムントはこの宗教問題を平和的に解決しようとコンスタンツ公会議に出席するようフスを説得し、教皇も破門を一時的に留保したのでフスは公会議に参加した。しかしこの公会議でフスは異端と宣告され、火刑に処された。フスが死んだとはいえ、ボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。 ヴェンツェル死後にジギスムントがボヘミアを相続することになると、ボヘミアのフス派はいよいよ反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派(英語版)を中心としてジギスムントの十字軍を何度も撃退し、一時は一方的に国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を事実上実現させるなど大いに盛んとなった[* 152]が、やがてフス派の穏健派が中心となって皇帝と和解し、皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。しかしボヘミアは以後もカトリック教会においてほとんど独立した状態を維持していた。 戦争の影響で教会や修道院が大きく衰退し、聖職者は議会において影響力を失い、ボヘミアの議会は貴族と都市市民が参加する世俗的な身分制議会を形成することとなった。またドイツ人が多く域外へ脱出し、チェック人の勢力が強まり、チェコ語の礼拝が重視されるようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 人文主義の宗教観:エラスムス 詳細は「デジデリウス・エラスムス」を参照 エラスムスは15世紀末から16世紀前半にかけて、ヨーロッパに最も影響を及ぼした人文主義者の一人であった。エラスムスはパウロの「ローマの信徒への手紙」に影響を受け、聖書を自ら再検討しようと考え、ギリシア語を学んで『校訂ギリシア語新約聖書』を著した[* 153]。これは印刷術の進歩による後押しもあって当時広汎な地域に流通し読まれた[* 154]。 エラスムスは教会の腐敗と信仰における聖書の重視を訴え、教会が聖書解釈を独占しようとして一般信徒に聖書を調べることをしばしば禁じていることを批判し、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うものであることを主張した。この面でエラスムスはのちの宗教改革者と同じ平面に立っていたが、彼は教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て、これを公然と批判するようになった。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。ともかく両者はこのように、教会の腐敗への批判と聖書の重視という点では一致していたが、その教義上の立場も政治上の立場も全く異なるものであった。 エラスムス自身は教会の普遍性を信じ、カトリックとプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた[* 155]彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年、トリエント公会議で禁書処分にされた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 近代社会とキリスト教(1500年〜1800年) ルター 「95カ条の論題」を発表[* 156]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった 宗教改革は純粋に宗教内での問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を基礎づけたばかりか、近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった。 宗教改革(プロテスタント側から) 詳細は「宗教改革」および「プロテスタント」を参照 1517年アウグスティノ修道会士であったルターによって「95カ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった。 神聖ローマ皇帝カール5世とエラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントとカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[* 157]。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ドイツの領邦教会制度 当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[* 158]。 シュマルカルデン戦争 詳細は「シュマルカルデン同盟」および「シュマルカルデン戦争」を参照 1530年にカール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。 アウクスブルク帝国議会(1530年) この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] アウクスブルクの平和令 アウクスブルク宗教平和令 1555年にマインツで印刷された版本の表紙 このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年に諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[* 159]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイス盟約者団と福音主義 ドイツでルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴにカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、ずっとのちに近代的な政教分離の主張へとつながっていくことになる[209]。 スイス盟約者団の歴史的経緯 詳細は「スイスの歴史」を参照 スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[* 160]。今日では、スイスの国家統合は14,15世紀を通じてスイス周辺の状況のなかで徐々に進行したと考えられており、当初の盟約はあくまでラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。 12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境の隔絶された山田舎に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒはウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属の地位とした[* 161]。1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[* 162]。14世紀初頭にはウンターヴァルデン地方も帝国直属を獲得しているのが確認される。これ以前の1291年にはすでにこれらの三者は盟約を結んでいた[* 163]。 1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王は1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦い(ドイツ語版、英語版))。この直後の12月9日盟約が更新され、盟約者団はさらに結束を強化した。こののち14,15世紀を通じてハプスブルク家との戦いが続くが、近隣の邦や都市が徐々に同盟の形で参加した。1499年、皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団に奪われたハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争(ドイツ語版、英語版))、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国から独立した[* 164]。1513年のアペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持されることとなる[* 165]。 長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦い(フランス語版、ドイツ語版、英語版)でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年にルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い(英語版)で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイスの宗教改革(1):ツヴィングリ ツヴィングリ像 チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している 1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭からマタイによる福音書の説教を開始した。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタを使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン[* 166]の内部での対立は、たちまち先鋭化した。 1522年3月、受難節の断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[* 167]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」の説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明し、チューリヒはツヴィングリの福音主義の拠点となった。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとなった。ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した。一方で教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりこののちのチューリヒにおける改革の枠組みが定まった。すなわちチューリヒでの改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれるのである。 1524年6月には市内全域から聖像画・聖遺物・ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されて資産はカントンに接収された。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のためにカロリーヌム[* 168]が開設された。こうしてスイスにおける福音主義の橋頭堡は着々と固められた。 しかしながらこの時点では、スイス内での福音主義の孤立は明らかであった。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンはカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した。しかし1528年1月に有力なベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンやコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。これを見てカトリック派のカントンも宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第1次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議)。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである。ここに信仰の「属地主義」、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。 第二次カッペル戦争 ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版 第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立し[* 169]、物別れに終わった。 ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるに留まった。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第2次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。このときカトリック側8000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した。 しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。スイスにおける福音主義は後継者ブリンガーに受け継がれ、カルヴァンの登場を待つこととなる。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイスの宗教改革(2):カルヴァン ジュネーヴのサン・ピエール教会 ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った 1536年7月から8月にかけてのころ、たまたまジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、同地で福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請された。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知り、援助を願ったのである。カルヴァン自身はこのときストラスブールへ向かっている途中であったが、これに協力することを決意した。 1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[* 170]。1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの新しい市参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。 やがてジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、彼らによる再びの招聘を受けて、1541年9月13日カルヴァンはジュネーヴへと帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職[* 171]を定め、いわゆる「神権政治」を開始した。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミシェル・セルヴェが三位一体説を批判した廉で、異端としてカルヴァンにより火あぶりに処された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すようになった。 聖ニコラウス 15世紀後半盟約者団の間で対立が表面化し始めていたが、隠修士として尊敬を集めていたニコラウスの呼びかけによって、諸邦は再び結束し、シュタンス協定を結んで内部抗争の調停方法を定めた。ヴィルヘルム・テルと並んでスイスの国民的英雄である 1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリック根絶を強硬に主張し、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年に国教会の地位を獲得するに至った。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] プロテスタント圏スイスとカトリック圏スイス 宗教改革はスイスにとって結局どのような変化をもたらしたのであろうか。それについては前述の、宗教的な動機から見た展開とは別に、政治的意味から見た別の側面も確認できることに注目する必要がある。 周辺を諸侯修道院領に囲まれた都市共同体にとって、宗教改革を導入することは、これらを解体して領域支配に組み込める可能性が生じた。同時に教会財産の没収により経済力を高めることができた。またツンフトに代表される中下層の市民にとっては、都市共同体を上層で寡頭支配している門閥や都市貴族を排除できる可能性が生じた。なぜなら彼らの多くは保守的でカトリック信仰にとどまっていたからである[* 172]。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[* 173]。 1600年ごろには、スイスの宗教的分裂は一過性のものではなく、もはや既成事実として明らかなものとなっていた。盟約者団内部で、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった[211]。もちろん宗教的不和は厳として存在し、それはしばしば顕在化したものの、なお盟約者団への帰属意識が存在していたのである。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 宗教改革派の諸思想 ここでは、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。 ルター ルター像 ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している 詳細は「マルティン・ルター」を参照 ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている[* 174]。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二世界論」である。 ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した。 政治社会との関係でいえば、重要なのは「二世界論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるという。しかしながら、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である。これは信仰における諸侯の絶対的権限、領邦教会制度を理論的に認めるものであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ツヴィングリ マールブルク会談 この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった 詳細は「フルドリッヒ・ツヴィングリ」を参照 ツヴィングリは後世にツヴィングリ派ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちである。しかしながら、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとは言えない[212]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なって人文主義やスコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 175]。 ツヴィングリの福音主義思想の中で、明らかにルターと異なると認められる特徴は、その実践的な性格である。ルターは個人的な深い宗教的探求によってその思想を形成しカトリックを批判したが、ツヴィングリはより実践的な考慮によって、つまり生活上の慣習や社会通念における誤った宗教的理解について攻撃を加えた。彼によれば、聖書に根拠のない聖人崇拝、修道制、独身制などは廃止されるべきで、さらに進んで生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであるとし、宗教を含めた生活の監督は信徒の集まりによって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとされた[* 176]。 ツヴィングリの死ぬころには、彼の信仰告白を受け入れる都市はスイスに留まらず、ドイツ南部にまで広がっていたが、彼の死後それらの多くはカルヴィニズムの中に分解されていった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カルヴァン ジャン・カルヴァン その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない 詳細は「ジャン・カルヴァン」を参照 カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。 カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には見える教会と見えない教会があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。 一方世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家の中には必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。 カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない攻撃性も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズムに直面するうちに失われていき、寛容へと傾いていった[* 177]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] フランスのコンフェッショナリズムと主権理論 コンフェッショナリズムとは、政治闘争が信仰の対立と密接に結びついた、宗教改革の時期特有の政治状況である。このような形での宗教対立が最も典型におこなわれたのが16,17世紀のフランスであった。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[* 178][* 179]。このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。 フランスの改革派、ユグノー カトリーヌ・ド・メディシス アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った 詳細は「ユグノー」を参照 フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[* 180]、1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった。 国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世は1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。 これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。 アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ユグノー戦争 詳細は「ユグノー戦争」および「ナントの勅令」を参照 前述の状況の中、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年のナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。 これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[213][214]。 サン・バルテルミの虐殺 ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。 この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルク家のフェリペ2世が1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。 アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令を1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ナントの勅令廃止まで ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリやノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌやラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。 アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。 ユグノーの多く居住する地域(17世紀) しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。 1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。 ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[* 181]。これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ユグノーとフランス経済史 マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノーは16~17世紀のフランス経済に大きな影響を及ぼした[* 182]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 183]。 ナントの勅令 ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[215]。その内訳は貴族・農民・手工業者・商人・金融業者など多様な社会階層に及んだ[216]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。 ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。 毛織物工業では、ラングドック・プロヴァンス・ドフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[217]。絹織物工業においては、17世紀中葉トゥール・リヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[218]。オーヴェルニュやアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 184]。 ラ・ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[219]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[220]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[221]。 ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 政治思想(モナルコマキとポリティーク) カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ、暴君放伐論者をモナルコマキ(英語版)という。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。 ジャン・ボダン 国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ベーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。 ラ・リーグの側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。 一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた。彼らを国家主義者という意味でポリティークと呼ぶ。 ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンで、彼は一方で近代的な主権理論の祖ともいわれる。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 低地地方と宗教改革 詳細は「オランダの歴史」を参照 メルセン条約によって東フランクと西フランクに分属することとなった低地地方[* 185]は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。しかしながら、14世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 186]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。 低地17州の歴史的経緯 ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿 詳細は「ネーデルラント」および「ブルゴーニュ領ネーデルラント」を参照 12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公、エノー伯、ルクセンブルク伯、フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。 低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。 14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており[* 187]、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」[* 188]へと発展した。 14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。 1477年にシャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世) カール5世の「帝国」(1547年) 詳細は「ネーデルラント17州」を参照 1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州[* 189]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。 カール5世に続いて低地地方を支配したのは長子フェリペであった。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 190]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 191]。このころフランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド 「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた 1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政マルハレータに提出した[* 192]。マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。 フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 193]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 194]。しかし、この頃フランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 1566年、フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[* 195]。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである。1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世は1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 八十年戦争とオランダ共和国 詳細は「八十年戦争」を参照 ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した。1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。 1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 日本近代史における政教分離 大政奉還がなされて明治政府が誕生し、日本の近代史が始まる。ここでは近代の法制史の立場から政教分離に関連する歴史を概説する。 大政奉還の年(1867年慶応3年)神祇官が復興され、明治新政府は祭政一致の国家形成を目指す方針を出した[222]。1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立して行政制度において独自の位置を占めた。しかし1871年には神祇省に格下げされて、1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。 これに対して浄土真宗本願寺派の島地黙雷が三条教則批判建白書を提出し(1872年明治5年)、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、結局同5月に大教院は解散することとなる。 1873年1月に太陽暦が導入され、1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じ、国家祭祀に専念させることとし、国民的な習俗として一般的な宗教とは区別されることが方向付けられた。このさい内務省通達により神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)[223]。 大日本帝国憲法(1889年明治22年)には第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。 昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、日本政府の方針にしたがうべきことを表明した。 第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、現行憲法では政教分離が原則的には実現されている。 現代日本における政教分離原則に関する問題については政教分離原則・靖国神社問題・公明党を参照 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 関連項目 帝権と教権 叙任権闘争 皇帝 ローマ教皇 神聖ローマ帝国 フランク王国 カロリング朝 ホーエンシュタウフェン朝 ハプスブルク家 ルクセンブルク家 選帝侯 各国史 ドイツの歴史 フランスの歴史 イギリスの歴史 教会 キリスト教の歴史 ローマ教皇の一覧 東西教会の分裂 正教会 カトリック教会 教会大分裂 公会議主義 宗教改革 プロテスタント ヨーロッパ外の祭祀王権との比較 天皇 神道 皇帝祭祀 天下 参考文献 全体 森安達也 『近代国家とキリスト教』 平凡社〈平凡社ライブラリー, 446〉、2002年。ISBN 4582764460。[* 196] 歴史学研究会 編『現代歴史学の成果と課題 1980年-2000年 2 "国家像・社会像の変貌"』青木書店、2003年。 小林良彰・河野武司・山岡龍一 著『政治学入門 ( 07)』放送大学教育振興会、2007年。 江川温 著『ヨーロッパの歴史 ( 05)』放送大学教育振興会、2005年。 リュシアン・フェーヴル 『ヨーロッパとは何か 第二次大戦直後の連続講義から』 長谷川輝夫訳、刀水書房、2008年。ISBN 9784887083646。 ウィリアム・ウッドラフ 著、原剛ほか訳『概説 現代世界の歴史 1500年から現代まで』ミネルヴァ書房、2003年。 岡本明 編著『支配の文化史 -近代ヨーロッパの解読-』ミネルヴァ書房、1997年。 各国史全般 松谷健二 著『東ゴート興亡史』白水社、1994年[2003年中公文庫] 玉置さよ子 『西ゴート王国の君主と法史』 創研出版、1996年。ISBN 978-4915810084。 アズディンヌ・ベシャウシュ 著、藤崎京子 訳『カルタゴの興亡』知の再発見双書、1994年。 松谷健二 著『ヴァンダル興亡史』白水社、1995年[2007年中公文庫]。 青山吉信 『先史〜中世』1、山川出版社〈世界歴史大系, イギリス史〉、1991年。ISBN 4634460106。 今井登志喜 著『イギリス社会史』上下、東京大学出版会、1953年。 ベーダ・ヴェネラビリス 『イギリス教会史』 長友栄三郎訳、創文社、1965年。ISBN 978-4423460078。 J・R・H・ムアマン 『イギリス教会史』 八代崇ほか訳、聖公会出版、1991年。ISBN 978-4882740636。 村岡健次 ほか編著『イギリス近代史 宗教改革から現代まで』ミネルヴァ書房、1986年。 樺山紘一 ほか編『世界歴史大系 フランス史』1〜3、山川出版社、1995年。 成瀬治、山田欣吾、木村靖二 『ドイツ史』1、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年。ISBN 9784634461208。 森田安一 『スイスの歴史と文化』 刀水書房、1999年。ISBN 4887082355。 森田安一 『スイス・ベネルクス史』 山川出版社〈世界各国史, 14〉、1998年、新。ISBN 4634414406。 ウルリヒイム・ホーフ 『スイスの歴史』43、刀水書房〈刀水歴史全書〉、1997年。ISBN 488708207X。 川口博 『身分制国家とネーデルランドの反乱』 彩流社、1995年。ISBN 4882023709。 南塚信吾 著『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年。 『新版世界各国史15 イタリア史』 北原敦、山川出版社、2008年。ISBN 978-4634414501。 クリストファー・ダガン 『ケンブリッジ版世界各国史 イタリアの歴史』 創土社、2005年。ISBN 978-4789300315。 高山博 『中世地中海世界とシチリア王国』 東京大学出版会、1993年。ISBN 978-4130261067。 Henry Bernard Cotterill (1915). Medieval Italy during a Thousand Years A Brief Historical Narrative with Chapters on Great Episodes and Personalities and on Subjects Connected with Religion, Art and Literature. George G. Harrap. Edward Hutton (1913). Ravenna a Study. E. P. Dutton. ISBN 978-0554137117. - 名無しさん 2015-08-23 21 32 12 名前 意見 バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ 攻略wiki とコラボして欲しいです - レン 2012-04-25 20 13 01 最終編集 2 か月前、Æskja 政教分離の歴史 政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する[* 1]。したがってここでは政教分離原則成立の社会的背景を、近代国家とそれに先行する政治社会の宗教政策との関連性に基づくものとしてその歴史を概観する。 バチカン市国 中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はバチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている 基本的な視野 政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。 近代国家成立史として カール大帝の戴冠(ジャン・フーケによる1460年ごろの作品) カール大帝は800年教皇レオ3世によって加冠され、キリスト教西ローマ帝国の皇帝となった。ゲルマン的普遍世界の成立を告げる重要な画期であったが、後代カール大帝はこのとき塗油によって聖別されたと信じられた[* 2]。厳密に言えばそれは後代のアナクロニズム(時代錯誤)であったが、のちに「国王が教皇によって聖別されること」が王権に対する教権の優位の有力な根拠となった一方、一度聖別された国王が聖性をもつことの根拠ともなり、のちには血統霊威の観念[* 3]などと結びついて王権神授説に発展し、絶対王権の根拠ともなった 近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。 このような状況は西ヨーロッパに固有の問題であると言えるが、近代国民国家が西ヨーロッパで成立したと考えられているために、国家と宗教の関係性の歴史が近代国家の成立史において主要な論点として意義を有することになる。現在の国民国家は例外はあるものの、ほとんどの国が政教分離を原則としており、また近代国家の克服の対象であった教会の側では、中世以来のカトリック教会の首長であるローマ教皇は、一方でバチカン市国という一つの近代国家の首長となり変容を遂げた。 霊性史として さらにより宗教史的・神学的な視点から、キリスト教の宗教的領域(「霊性(スピリトゥアリタス、Spiritualitas)」)についての歴史として、政教分離の歴史的経緯を捉えることも出来る。「霊性」とは本来「洗礼の際、神によって注がれた霊に遵って生きること」、つまりキリスト教的倫理に遵った生活のことであった[1]。 この「霊性」という言葉は、使われはじめた当初から新プラトン主義的な、身体や物質と対立する意味での「魂(プシュケー)」に概念的な接近を見せており[* 4]、12・13世紀の文献においては、政治や経済といった人間の世俗的な概念に対する、人間の「超自然性」「非物質性」を意味している。さらには国家に対する教会法的意味での教会の聖職を指す用語となった[6]。中世の政治思想において国家は、「世俗的なるもの」に対する「霊的なるもの」の優位という階層秩序観に基づき、教会への奉仕を求められることになる[* 5]。これは国家が道徳倫理においても卓越性を持つと考えられていた古典古代の政治思想と著しい対照をなした[* 6]。 すでにアウグスティヌスにおいて、政治秩序とキリスト教倫理の間の緊張関係は「地の国」と「神の国」という超越的な世界観との関連において捉えられていたが、カール大帝の戴冠以後、皇帝と教皇の権力という現実と密接に関連していくことになる。中世盛期に登場したトマス・アクィナスにおいては、政治社会とその秩序は、より上位の神学的・倫理的共通善を実現するための外的諸条件の確保のためにあるものと考えられている。 ところが中世後期のパドヴァのマルシリウスにいたると、逆に国家の平和を維持するという観点から教皇至上権批判が展開される。さらに同時期のウィリアム・オッカムにおいては、政治秩序を自然法的規範よりは自由な合意形成によって形成すべきであるという考えが提示されている。このオッカムの議論は抵抗権の思想に直接的に結びついた。 ルネサンスの時代には、神や普遍的自然法思想に支えられた階層的秩序観は動揺し始め、この時期に登場したニッコロ・マキアヴェリは政治と倫理道徳の結びつきを問い直し、政治原理のキリスト教からの自立を促した。こうしてキリスト教的道徳規範から独立した政治社会は、トマス・ホッブズによって支配契約関係として捉え直され、このような近代国家においては宗教も国家権力に従属すべきとされた。ジョン・ロックはホッブズの理論を批判しつつ継承したが、彼においては国民国家の統一を守るために、宗教の問題はもはや公権力が関知することではなく、政策的に寛容な立場を取ることによって私事として処理されるべきものとされた。 今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。 正教会の事情 「ビザンティン・ハーモニー」も参照 カトリックとは異なり、ビザンツ(東ローマ)皇帝の強い影響下にあった正教会においては、権威において教会の首長であるコンスタンティノープル総主教がビザンツ皇帝を上回ることはなく、公会議も皇帝によって招集された[* 8]。行政区分に基づいた主教管区をおく伝統によって、独立した国家ごとに主教管区が設けられ、ビザンツ帝国の後期には帝国の縮小に伴ってバルカン半島諸国で主教管区がコンスタンティノープル総主教の管轄を離れ、独立する傾向にあった。 ビザンツ帝国が滅亡し、教会がオスマン帝国の支配下にはいると、コンスタンティノープル総主教は帝国の拡大に伴ってバルカン半島や西アジア・エジプトなどに管轄を広げ、アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの三総主教座も事実上その管轄下に収めることになった。しかし一方でオスマン皇帝の意向を重視した総主教が選出される傾向が増し、聖職売買が横行するようになった。またこの時代の東方教会においては聖職者・修道僧の識字率の低下も見られた。このような状況は東方における神学教育の低迷をもたらし、カトリックの神学校に留学する正教神学徒も増加した。西ヨーロッパで宗教改革が起こると、カトリック・プロテスタント両派ともバルカン半島を中心とする東欧国家での布教活動を重視するようになり、正教側も対抗改革派とくにイエズス会の神学校に影響されて、神学校を設立し、正教神学校はのちに近代国家の宗教政策において一定の関与をすることになる。 18世紀以降オスマン帝国が縮小に向かうと、バルカン半島で民族独立運動が激化し、それに伴ってバルカンの民族教会は総主教から独立しようとするようになった。このような動きに対し、コンスタンティノープル総主教は概して否定的で、これら民族教会の正教徒よりはオスマン皇帝に近い立場にあった[* 9]。オスマン帝国の縮小とともにコンスタンティノープル総主教の管轄も狭まり、第一次世界大戦後にトルコ共和国が成立してオスマン帝国の本体が国民国家となると、総主教は形骸化して名目的な地位と化した[* 10]。 歴史的展開 近代のキリスト教は東西いずれの教会においてもその影響力を低下させた。ここでは近代社会と宗教について、とくに近代国家とキリスト教の問題を焦点とすることとし、その際近代国家成立の前提としての近代以前のヨーロッパ史における世俗王権とカトリックの教権の関係をまず概観する。さらにその背景となる思想史についても適宜記述する。近代以降については正教世界にも視野を広げて記述するが、近代国家との関連性を重視するという観点から中世以前の正教世界についてはここでは詳しく触れない。 近代以前の正教世界については正教会・東ローマ帝国・キリスト教の歴史を、正教会における国家と教会の関係を示す政治理念についてはビザンティン・ハーモニーを参照 概要 四福音書記者 新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。鷲で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下) 「歴史的展開」節の記述は政治社会とキリスト教の関係について、政治史・国家史・教会史・思想史の多岐にわたって概説するため、ここでは便宜のために要約を示す。 古代のキリスト教 「古代のキリスト教思想」では、キリスト教本来の思想傾向と古代に現れたキリスト教の思想を、政治思想史の観点から概説する。 「初期キリスト教と国家」ではパウロの思想やアウグスティヌスに代表される教父哲学を概説する。イエスの思想は内面と政治社会を区別する特徴的な思想を形成し、パウロは神の恩寵という観点を持ち込むことでイエスの思想を一つの宗教にまで高めた。アウグスティヌスの政治思想はのちに中世の異端思想や宗教改革に影響を与えた。 またとくに「両剣論」は教皇ゲラシウス1世が唱えた「教権と帝権がともに神に由来する」という考え方で、中世を通じて教権と王権の関係性についての有力な理論的根拠の一つであった。 加えて「初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝」では、古代の典礼に見られるキリスト教に特徴的な内面性を概観し、皇帝礼拝とキリスト教迫害についての問題を取り上げる。 中世普遍世界 「キリスト教普遍世界」では、一般に封建社会、あるいはヨーロッパ中世として知られる時代での、世俗国家と教権のありかたの推移を概説する。 「教皇国家の成立」では、教皇権の経済的基盤ともいうべき教皇領の成立までを概観する。 「ゲルマン諸民族の世俗国家」では、西ローマ帝国滅亡後に西ヨーロッパに割拠したゲルマン人の諸国家における国家と宗教の関係を概観する。この時期のゲルマン人の王権は後世に比べると世俗的で、教会の宗教的権威に依存する面が少なく、領域内の教会については実質的な支配を及ぼしていた。ただ国家ごとに内実は多少異なり、地中海に面した西ゴート王国やヴァンダル王国と内陸部のメロヴィング朝は経済的条件も文化的条件もかなり異なっていた。 「政治的宗教的統一体の自覚」では、6世紀における政治思想としてトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世を取り上げ、ビザンツ帝国による統一的支配という観念が西欧地域で薄れ、新たな領域国家意識が発生し始めている様子を概観する。 「ランゴバルド族と中世初期の南イタリア」では、東ゴート王国の時代から東ローマ帝国の支配を経て、分裂する南イタリアの情勢を概観し、12世紀のシチリア王国の成立に至る。 「カロリング朝の帝権」では、メロヴィング朝の衰退からカロリング朝が成立し、やがて西ヨーロッパ世界で唯一の世俗的至上権、皇帝権を獲得するまでに至る過程を概観する。 また初期の教権と帝権について、その理念的背景として「カロリング朝期の政治思想」を概観する。 「グレゴリウス改革と教権の絶頂」では、11世紀から始まる教会の改革運動と13世紀の教皇権の絶頂期を概観する。 「周縁における権力と教会」では、西ヨーロッパのキリスト教世界の周縁に位置したイングランド王国とイベリア諸国およびスカンディナヴィアにおける、中世前半期における教会と王権の関係を概観する。 「等族国家と公会議主義」では、封建国家に身分制に立脚した議会主義が成立し、それにより国民単位の政治社会の基礎が築かれたことを概説する。さらに議会主義と国民単位の類似制度が教会においても成立し、公会議主義となった。 「王権の超自然的権威の獲得過程」では、王権が教権に対抗するために一定の宗教的権威を獲得していった過程を概説する。共通にキリスト教思想に立脚しながらも、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝の宗教的権威が「ローマ的」であったのに対して、イングランドのそれが「アングロ・サクソン的」、フランスのそれが「フランク的」であり、そこに王権が国民的な国家形成の核になる端緒があった。 「カトリック大国、スペイン」では、この時期あらたに大国としてヨーロッパ政治に主要な位置を占めることになったスペインの初期宗教政策について概説する。スペインがカトリック信仰に熱心であったのは事実とはいえ、その王権や文化が必ずしも教権に盲従していたわけではない。 教会の正統な信仰とは別次元で、中世の民間にはやや異なった信仰が存在した。「中世の民衆信仰」では、このような民間信仰を概観する。 「宗教改革前思想史」では、中世後期の異端思想と人文主義について概観する。それらの思想の立つ政治的立場と背景にある政治状況についてもある程度言及する。また宗教改革との関連性も指摘する。 宗教改革以降 「近代社会とキリスト教」では、宗教改革以降の近代社会における国家の宗教政策、および時代ごとのキリスト教に関する思想の変遷を概観する。 「宗教改革(プロテスタント側から)」では、ルターの宗教改革がなぜ宗教問題にとどまらずに政治的な問題に転化したかということについて簡単に説明する。 「ドイツの領邦教会制度」では、ドイツにおける宗教改革の初期の帰結としての領邦教会制度が成立するまでを概観する。 ドイツで宗教改革が始まった頃、スイスでも同様に福音主義的改革が始まっていた。「スイス盟約者団と福音主義」では、宗教改革の第2戦線ともいうべきスイスの宗教改革を概観する。 「宗教改革派の諸思想」では、宗教改革派の諸思想を概説する。 「フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」では、フランスの改革派ユグノーとフランス王権の宗教政策から絶対主義の形成過程を概観する。 「低地地方と宗教改革」では、ネーデルラントにおける独立運動と、それによって成立した新教国オランダの初期の状況について概観する。 日本 「日本近代史における政教分離」では、明治維新以降日本国憲法発布までの日本の宗教政策について概説する。 古代のキリスト教思想(〜500年) 十字架を担うキリスト エル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像である。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された 具体的な世俗国家とキリスト教の関係性の歴史を、この記事では中世以降の政治史を中心に概観する。しかしながらそれに先だって、キリスト教本来の政治に対する思想傾向と以後のキリスト教と世俗国家の歴史に特徴的な影響を及ぼすいくつかの思想を概観する。 初期キリスト教と国家 ここではまずイエスの思想と考えられるものの中から、政治社会に関係すると思われるものについて概説し、次にパウロの思想について説明する。その後アウグスティヌスに代表される教父哲学の思想を概観する。とくにパウロの「ローマの信徒への手紙」とアウグスティヌスの思想は後世のキリスト教に決定的な影響力を及ぼしており、その歴史上で繰り返し回顧される重要な思想である。 イエスの思想の歴史像 詳細は「イエス・キリスト」、「救世主イエス・キリスト」、「史的イエス」、および「ナザレのイエス」を参照 ここでは新約聖書に現れるイエスの思想の中から、とくに政治社会に言及する限りにおいて重要なものを指摘する。イエス思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである。 イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序に基づく生活が始まる。新しい秩序はまず愛の共同体であって、そこでは人々が神の愛を無条件に受け入れることで一切の対立が消滅する。この「神の国」に参加するために、人は罪を悔い改め、欲を捨てて神に従った生活態度を取らなければならない。基本的にはこれは世俗的秩序の否定であり、人間の内面の重視と政治社会の本来性の否定であった。イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べて、世俗社会と精神世界を区別し、「神の国」の到来によってやがては内面的な精神世界が世俗社会にとってかわると述べた。しかしイエスによれば、現存する世俗秩序は決して無意味ではない。「神の国」にはいるためには現世でのおこないが決定的であると説く。イエスは現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる。 以上のイエスの思想に鑑みると、二つの特徴を指摘することができる。一つは政治社会と内面の区別、もう一つは政治社会の価値が「神の国」の価値とほとんど正反対であるということである。このようなイエスの課題はまったく政治社会を超越しており、その意味で非政治的であるが、現実の政治社会に批判の目を向け緊張をもたらすという意味で政治的であった。後述するように、キリスト教の教会が中世において、世俗権力を超えた有力な政治社会となっている点が見られるのも、キリスト教が本来的に現世を超越している点に求めることができる[* 11]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] パウロ パウロ ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教を言語化し、神学的説明を加えた。これは後代の信仰理解に決定的影響を与えるものであった 詳細は「パウロ」を参照 パウロはもともとイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となった。彼はキリスト教思想において最も重要な人物の一人[* 12]で、その著作「ローマの信徒への手紙」[* 13]は以降のキリスト教思想に繰り返し影響を与えた。 パウロにおいては罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われることがないのである。そしてパウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという[* 14]。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。 政治思想としては、受動的服従が知られる[* 15]。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない[* 16][* 17]。だが、それは内面の良心の故であり、決してそれらの権力それ自体に価値があるからではない。その正統性はあくまで神によって認められている限りであるという。このようにパウロは「ローマ人の信徒への手紙」の中でキリスト教の将来はローマ帝国とともにあると考えており[* 18]、ローマ帝国の支配を無条件に肯定している[26]。 また注目すべき思想としては、「自分の手で働くこと」を推奨している[* 19]ことで、これは明らかに古典古代の労働観に反する[28][* 20]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教父哲学(アウグスティヌス) 詳細は「アウグスティヌス」を参照 アウグスティヌスはキリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父のなかで、とくに後世に大きな影響を残した人物である[* 21]。 アウグスティヌス ボッティチェリによる1480年ごろの作品。アウグスティヌスの思想はキリスト教的歴史意識を確立し、中世の異端運動や宗教改革にも大きな影響を与えた 『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように、「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。またアウグスティヌスは、人間の自由意志について論じ[* 22]、古代以来の「自由」という言葉を「神との関係における人間そのもののあり方に関わる言葉」[36][* 23]として再定義し、のちの思想史に大きな影響を与えた。その一方で人間は本来的に堕落しており無力であるというパウロの思想が踏襲され、神の恩寵が絶対的であることも説かれた。 このようなアウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった[* 24]。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも決定的な影響を与えるものであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 両剣論 「両剣論 ("theory of two swords")」とは世俗的な政治権力と宗教的権威の関係性について述べたもので、もともとは「ルカによる福音書」のなかのイエスの言葉に由来する[* 25]。教皇ゲラシウス1世はこれを俗権と教権がともに神に由来することを述べたものであるとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝が並列的に存在していることを論じた[* 26]。この両剣論はその本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものであった。 中世になると、両剣論には二つの異なる立場から相反する解釈がおこなわれた[* 27]。ひとつは皇帝に有利な解釈で、帝権が直接神に由来することは世俗的世界での皇帝権の自立性の根拠となった。もうひとつは教権に有利な解釈で、教皇が両剣を持ち、一方の世俗的な剣を皇帝に委任して行使させるという解釈[* 28]で、教権の優位性の重要な根拠の一つとなった。 歴史的には、グレゴリウス改革以前、11世紀の頃には聖職叙任権も、ときには教皇の叙任権さえ神聖ローマ皇帝が「神の代理」として掌握しているというのが実情であった[42]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝 ステファノ その名前が明らかにギリシャ風であることからも分かるように、初代教会において、彼はヘレニストの代表であった。彼はファリサイ派によって石打ちの刑にされるが、ジャン・ダニエルーはこの殉教の裏側にキリスト教内部のヘレニストとヘブライストの立場の違いを見ている[43]。図はイタリアバロックのボローニャ派に属するジャコモ・カヴェドーネ (en Giacomo Cavedone) の作品 キリスト教はユダヤ教とは明らかに異なった礼拝観を持っていた。イエスは旧約的な神殿礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方でより内面を重視した新しい礼拝観を示した。「ヨハネによる福音書」のなかでイエスは あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。[44] と言っている。使徒時代のキリスト教徒であるステファノの次の言動には、このイエスの内面的な礼拝観がよく表れている。 神のために家を建てたのはソロモンでした。 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 『主は言われる。 「天はわたしの王座、/ 地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/ どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 これらはすべて、/ わたしの手が造ったものではないか。」』[45] 彼はエルサレムの神殿に直結したユダヤ教の祭祀を否定し、イエスの述べた新しい礼拝を強く主張したために、殉教にいたることになった[46]。 だからといって、初期のキリスト教会が外形的な表現を重視しなかったわけではない。集会堂としての教会は典礼の中心となったし、洗礼はキリスト教共同体としての「教会」への加入を視覚的に表現した。しかし一方で2世紀後半から3世紀にかけてのキリスト教著述家ミヌキウス・フェリクスは「私たちには、神殿も祭壇もない」ということを異教徒に対して誇った。教会は集会する場所であり、祭儀は建物としての教会堂に帰するのではなく、信徒共同体としての教会それ自体に帰するのである。初期キリスト教ではイエスこそが「祭司」であり「大祭司」で、そのキリストに繋がれているという意味で、教会が「祭司」なのであった[47]。 このような内面性の強いキリスト教の性格はローマ帝国で行われたいわゆる「皇帝礼拝」と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である「皇帝礼拝」を受け入れないキリスト教徒を、公共の宗教からの逸脱者、国家離反者として迫害したという説が歴史学者の間で長く論じられてきた。とくに自らを「主にして神」と称したドミティアヌスがこのような皇帝礼拝の要求者とされ、彼の治下に激しいユダヤ教徒やキリスト教徒の迫害が起こったと考えられた[* 29]ことから、迫害と皇帝礼拝は因果づけて考えられてきた。間接的には古代教会が日曜日を「主の日」として制定したことも、皇帝礼拝に対抗するキリスト教徒の信仰告白であったという見方も提示されてきた[49]。また「ヨハネの黙示録」の「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」[50]という記述も思い出されるであろう。 しかし、最近の研究によれば、そもそも「皇帝礼拝」という名で括られている祭儀は多様であり、内容においては極めて政治的な意味を持つものから宗教性の高いものまで、範囲においても都市国家規模から属州単位のもの、担い手も一様でなく、それらを統一的に「皇帝礼拝」という一語で把握することには飛躍が伴うことが示されている。黙示録の記述についても正確な史実を反映したものではなく、ドミティアヌス統治期に皇帝礼拝拒否が法廷での処刑につながったという見方は困難である[51]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト教普遍世界(500年〜1500年) 「中世」も参照 中世初期、5・6世紀の段階においては、ゲルマン人の侵入や西ローマ帝国の滅亡など歴史的な地殻変動を象徴する事件が起きた後であったにもかかわらず、なお地中海をとりまくローマ世界はビザンツの帝権の下に存続していたと見ることができる。6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た。 しかしながら、7・8世紀になると、地中海を中心とした統一的な世界はもはや完全に消滅し、西ヨーロッパはローマを中心としたカトリック世界として、コンスタンティノープルを中心とする正教世界とは分離する傾向が決定的となる。その要因としては以下の3つを挙げることが出来る。 イスラーム教徒の侵入 ビザンツ帝権の弱体化 ローマの自立 まず、イスラーム教徒が急速に勢力を拡大し、北アフリカ・イベリア半島を制圧するに及んで、従来これらの地で高度に発達していたキリスト教の文化は衰退した。今日に至るまでイベリア半島を除くこれらの大部分の地域はイスラーム圈にとどまっている。とくに教会会議が頻繁に開かれ、中世初期において西方のキリスト教世界の一つの中心であったイベリア半島陥落の影響は大きい[* 30]。 次にビザンツ帝国は一時的に地中海を回復したものの、イスラーム教徒の東地中海地域での拡大とランゴバルト族のイタリア半島侵入によって支配領域を縮小させ、西地中海での覇権を維持することが困難となった。これ以後ビザンツの帝権は南イタリアの支配地域を通じて間接的にしか西方世界に影響を及ぼせなくなる。 第三にローマ司教である教皇は上記のようなビザンツ帝権の影響力低下に伴って、西方世界において強力な庇護者を別に求めねばならなくなった。と同時に、東方から自立して西方世界の宗教指導者たらんと積極的な布教活動に乗り出す。8世紀ビザンツで起こった聖像破壊運動に対する教皇の対応の仕方はこの表れで、教皇は西方教会をして、この運動の蚊帳の外におくことに尽力した。 こうして東ヨーロッパと西ヨーロッパは、ローマ帝国とキリスト教という共通の根を持ちながらも、それぞれ独自の発展をしていくことになる。この節で中心的に述べるキリスト教普遍世界とはこのうち西ヨーロッパを中心としたカトリック世界のことである[* 31]。 教皇国家の成立 天国への鍵を授けられるペテロ イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている 詳細は「教皇領」を参照 ここではやや時代を遡って教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。 西ローマ帝国の滅亡と西地中海世界 西ローマ帝国の領域にゲルマン人が多数の国家を形成し、西ローマの皇帝権が没落して古代的な帝国支配が弛緩すると、古都ローマはほとんどゲルマン人の支配の間に孤立した形となり、東ローマ帝国とのつながりは徐々に薄れて西ローマ帝国の領域は独自の発展をしていくようになる。しかしながらゲルマン人たちが西ヨーロッパで優勢を占めているように見えても、かつてのローマ帝国の西側と東側は地中海によって繋がれており、文化的経済的な繋がりは維持されていたのであって、突然にローマ的な文明がゲルマン的な文明になってしまったわけではない。地中海世界での東ローマ皇帝の優位性はいまだ揺らいではいなかったし、ゲルマン人たちは皇帝の支配を名目上は受け入れて、彼ら自身が皇帝になりかわろうという意図を持つことはほとんどなかった。ただ一方でこのような状況がローマ教皇に一定の自立性の根拠を与えたのであり、東方の正教会とは独自のカトリック教会が生まれる素地がここにあったことは間違いない。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ペテロの後継者 ローマ司教が教会において優位性を立証できるとすれば、それはまずイエスの言葉に求められるべきであったし、事実そこに根拠が見つけられた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた[* 32]。 ただ初期の教会において、このことがあまり重視されていたわけではなかった。4世紀にはローマ司教は有力なイタリア大教区を管轄しており、「西ローマ総大司教」とも見なされていたが、一方で一般信徒の面前で司教の選挙によって選ばれた、小さなローマの聖堂聖区の司教でしかなかった。ローマ司教の特別な地位が認められたのは343年のサルディカ宗教会議であって、それ以前は公式なものではなかった。この時期の教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年にヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。4世紀の教皇シリキウスはテサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアとマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせている。5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及ぶようになった[54]。 しかしこのことでただちにローマ教皇の地位が、後世のように独自の権威性をもって普遍的な優位を確立したわけではない。東ローマ皇帝ユスティニアヌスがイタリア半島をローマ皇帝の支配の下に回復すると、彼はローマの司教も皇帝の統制に服するべきであると考えた。教皇の側もそれを受け入れ、帝国の支配に復帰することをむしろ歓迎していた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教権の自立化への動き カール大帝 デューラーによる1510年の作。教会側が教皇の手による戴冠に皇帝の根拠を求めたのに対し、カール大帝自身はあくまでその神授性を強調した。彼の名乗った称号は「神によって戴冠され、ローマ帝国を統治し、平和をもたらす、最も至高なる偉大な皇帝にして、神の慈悲によってフランク人およびランゴバルド人の王であるカール」であった。 ところが東ローマ帝国に結びついたことは教皇にとって必ずしも良い結果をもたらしたのではないことは次第に明らかとなった。東方でさかんにおこなわれていた神学論争が西方に持ち込まれる結果となり、しかも神学論争にしばしば政治的に介入する皇帝の姿勢は不満の種となった。北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示したし、ガリアとイベリア半島でも分離傾向が見られた。関係が変化するのは「大教皇」グレゴリウス1世の時代である。彼の時代にはイタリア半島にランゴバルド族が侵入し、再びローマは危機的な状況を迎えていた。グレゴリウス1世はフランク王国を重視して、これと友好的な関係を結んだ。もともと行政官として経験を積み、ローマ総督の地位についたこともあったグレゴリウス1世は、おそらく都市ローマの行政上における教皇の影響力を増大させた。ランゴバルト族に連れ去られた捕虜の買い戻し、ローマの破壊を防ぐ代償としてのランゴバルド族への貢納の支払いに教皇は積極的に関与している。このころから教皇は都市ローマの公共事業を担うようになったと考えられている。 分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、司教座を熱望する動きが上層階級に見られるようになっていた[55][56]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[55]。しかしグレゴリウス1世は司教座に対する支配を徹底して、ナポリの司教を解任し、メリタの司教を降格し、タレントゥム・カリャリ・サロナの高位聖職者たちを厳しい口調で批判した[57]。ブルンヒルドによるテウデリク2世・テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送った[* 33]が、実を結ぶことはなかった[59]。この当時のガリア教会は完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[60]。ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関する問題においてさえ、無力であった[59][* 34]。 グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織し、このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。ブリテン島はこののち北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となり、たとえばカール大帝の時代にはアングロ・サクソン人の伝道者たちが、大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派の牙城であった西ゴート王国のカトリックへの改宗に成功した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国 フランク王国でメロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、つづく教皇ステファヌス3世[* 35]はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息カールとカールマンに塗油の秘蹟を施した。 この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝も774年にイタリア半島へ遠征し、教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた[* 36]。つづく教皇レオ3世は800年、カール大帝をローマに招いてローマの帝冠を授け、彼に西ローマ皇帝の地位を与えた[* 37]。 かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった[* 38]。教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった [* 39]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ゲルマン諸民族の世俗国家 ゲルマン諸王国のヨーロッパ世界(526年 - 600年) ローマ帝国東ローマ帝国 ゲルマン系の国家フランク王国|東ゴート王国|西ゴート王国|ヴァンダル王国|ブルグント王国|ランゴバルド王国|アングロ・サクソン諸王国 その他の周辺民族ノルマン人|ピクト人|スコット人|ブルトン人|スラヴ人|テューリンゲン人|スエヴィ人|アヴァール人|ササン朝|アラブ人 西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡してもローマ世界は確かに存続していた。一見西ヨーロッパはゲルマン人の諸王によって分割され、モザイク模様を形成しているかのように見える。しかし彼らは「皇帝の名によって」統治したのであり、実際には東ローマ皇帝の超越的な主権に服していたと見るべきである。これらゲルマン族の国王は宗教的権威において支配したのではなく、純粋に世俗的なものであって、教会はこれらの国家にとって本質的な構成要素ではなかった。国王の即位に際して何らかの宗教的儀式がおこなわれていたわけではない[* 40]。ゲルマン人の王国では国王が教会の首長であり、司教を任命し、宗教会議を開催した。後世の国家とは異なり、これらの王国では世俗的支配者の同意なくして聖職者になることができなかった。ここでは西ゴート王国[* 41]・ヴァンダル王国・メロヴィング朝フランク王国を特筆し、それぞれの国家と教会との関係を記述する[* 42]。 西ゴート王国 西ゴート族はクローヴィスによって南フランスから追い出されると、イベリア半島のトレドに宮廷を定めた。このころの西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止されており[* 43]、このような分離の背景には信仰の相違があったと考えられている。大部分のローマ人がカトリックであったのに対し、西ゴート族はアリウス派を信仰していたからである[* 44]。西ゴート族は征服した土地のカトリック司教を追い出すことがあったが、これを信仰の違いに帰することはおそらく適切ではない。司教たちの追放の理由は彼らが国王の支配に抵抗したことに由来すると考えられており[* 45]、大部分の西ゴート王はカトリック信仰に寛容であった。 レオヴィギルド王[* 46]の時代にカトリックに改宗した王子ヘルメネギルドによる反乱があり[* 47]、つづくレカレド王の時代には王自身がカトリックに改宗した。こうして西ゴート王国はカトリック信仰を奉じるようになり、徐々に首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。589年から701年の間に18回もの宗教会議がトレドで開かれ、いずれも王が召集をおこなっている。これらの宗教会議は、後世のように狭い教義上の問題だけが取り上げられたのではなくて、世俗的な問題も議題とされた[* 48][* 49]。したがって出席者は聖職者ばかりに限られず、世俗の高官も臨席した。 とくに618年ないし619年の第2回セビリャ教会会議および633年の第4回トレド公会議ではセビリャのイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した[* 50]。トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。確実に知られるのは672年のワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ヴァンダル王国 アフリカ北岸に王国を築いたヴァンダル族の場合は西ゴート族とはかなり異なる。この王国は東ローマ帝国と敵対的な関係にあり、その宗教政策は政治的対立に基づいていた。ヴァンダル族はアリウス派を信じており、カトリック司教がローマを通じて東ローマ帝国に通じているのではないかと疑っていた。 ゲイセリクス王はカルタゴを占領すると、同地のカトリック司教クオドウルトデウスを追放した。以後24年間カルタゴには司教が置かれなかった。ゲイセリクスの後継者フネリクス王は晩年の484年に、かつてホノリウス帝がドナティスト[* 51]に出した告示を踏襲して、カトリック教徒を法の保護外とする告示を出した。要するに、ヴァンダル王国ではほぼその全時代を通じて、カトリックと王権の間に軋轢が絶えなかった。 カトリック聖職者は王権とそれに結びついたアリウス派に対する抵抗運動を指導した[* 52]ので、王権は弾圧を加え根絶しようとしたが、すでにアウグスティヌスの伝統が深く根を下ろしていた北アフリカの教会はこの弾圧に耐えた[* 53]。ただこのような混乱と迫害は、カトリック聖職者の離散をもたらし、彼らはプロヴァンス地方やカンパーニア地方、イベリア半島へ集団逃亡(「エクソダス」)した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] メロヴィング朝フランク王国 詳細は「メロヴィング朝」を参照 メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリクスとその子クローヴィスである。キルデリクスの時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した[* 54]。したがってフランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルドと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[78]。 メロヴィング朝フランク王国(600年ころ) クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した[* 55]ので、クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。 クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任され、三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。 613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった[* 56]。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。 聖コルンバヌス 聖コルンバの弟子であった聖コルンバヌスは、倫理的で厳格な修道制をガリア地域にもたらしてたちまち熱狂を巻き起こし、6世紀後半、一大修道院設立運動が起こった。図はブルニャートの聖コルンバヌス修道院にあるフレスコ画 クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策においても転換期となっている。クロタール2世は、ガロ・ローマン的セナトール貴族を支持基盤としていた王妃ブルンヒルドに反発したアウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[81]、従来のセナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かい、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[81] [82]。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができ、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回を数えるのみなのに対し、ロワール川以南では同時期40回を数えた[81]。ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も7世紀を境に、セナトール貴族中心であったものが、ゲルマン貴族が目立つようになってくる[* 57]。このようにゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである[84]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[83]。 のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した[* 58]。7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていたと見るべきである。 上述のように、メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。 王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた[* 59]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 政治的宗教的統一体の自覚 最後に、この時代の代表的歴史叙述家であるトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世の叙述を主に取り上げ、6世紀の思想状況において、部族国家が、また国家と宗教の関係がどのように捉えられていたかを概観する。 トゥールのグレゴリウス 『歴史十巻』扉 メロヴィング朝治下アウストラシアのトゥールの司教であったグレゴリウスは、彼が著したフランク王国についての基本史料『歴史十巻』によって知られる。彼のクローヴィスをめぐる歴史叙述には、「コンスル」や「プラエフェクトゥス」といったローマ帝国の官職名や、ビザンツ帝国の「パトリキウス」などの用語が使われている。このことが従来歴史家の一部で、特にビザンツ帝国の政治秩序にメロヴィング王権が組み込まれたという認識につながる根拠とされてきた。 しかし最近の研究では、それらの用語はビザンツの帝国法にのっとったものではなく、おそらく聖書の叙述に範をとったもので、グレゴリウスは皇帝とクローヴィスとの間に厳密に法的な関係を想定していたわけではないという見方が示されている[85]。さらに、従来部族の王を指す「rex」には部族名が付されるのが一般的であった。しかるに、グレゴリウスは西ゴート王を記述するのに「レックス・ヒスパノールム」 (rex Hispanorum) あるいは「レックス・ヒスパニアエ」 (rex Hispaniae) という称号を用い、その支配権を領土的観念で捉え始めている。同様に自らの属するアウストラシアの王を「われわれの王」と呼び、その王国を「レグヌム・フランキアエ」 (regnum Franciae) と呼ぶ。彼は自らの歴史叙述の中で、フランクの使者にビザンツ皇帝を「あなたがたの皇帝」と呼ばせている。彼の歴史叙述には皇帝によるフランク王へのガリア統治権委託の観念はなく、クローヴィス以来、フランク王はその征服活動によって自らガリアの支配権を打ち立てているという見方が示されているのである。彼が基本的にビザンツ皇帝にのみ「インペラートル」や「インペリウム」を使用していることは、ビザンツ帝国の優位性を認めている証左であるが、そこから自立した独自の西欧世界の萌芽が見られること、またそこに領土意識とおぼろげながらも一定の民族意識を見ることができる[85]。 グレゴリウスはまた、フランク王に司教を指導する力を認めている。549年のオルレアン公会議は司教の叙任にあたって、王権による事実上の司教任命権を承認したうえで、その介入に歯止めをかけようとしたものであるが、グレゴリウスはこのような王権による教会側への介入を批判するどころか疑問さえ呈していない[85]。 以上のようなグレゴリウスの歴史叙述の性格に基づけば、ビザンツ帝国によるヨーロッパの統一的支配という観念は6世紀には後退し、そこでは各部族王権が部族という枠組みを越えて領域支配を確立しつつあり、一定の領土意識の形成が見られるとともに、そこへの帰属意識を見て取ることができる。同時に王権に教会への介入を認めていることは、中世の特徴である教皇の普遍的教会統治が、この時代のフランク王国には全く存在していなかったことが明らかであろう。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] グレゴリウス1世 詳細は「グレゴリウス1世 (ローマ教皇)」を参照 グレゴリウス1世 トゥールのグレゴリウスがかつての西ローマ帝国の領域の部族国家に生きた知識人を代表する存在であるとすれば、同時代の偉大な教皇グレゴリウス1世は、同じ西方世界に生きながらも、より東帝国に近い知識人の代表であった。彼はユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っているローマに生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きたのである。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとした。したがって、彼にとって教皇の優位性は何にもまして必要なものであった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は正統なカトリック信仰を選ばずに、アリウス派の異端に堕していた。グレゴリウスの言うとおり、教会の統一において教皇の首位性は欠くべからずものであったろうが、一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけてしまったという見方もできる[86]。 またグレゴリウスは教皇ゲラシウス1世の両剣論を根拠に、俗権の及ばない宗教的裁治に関する管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた[87]。 グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった[88]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 西ゴート王国のカトリック改宗をめぐって この時代の宗教意識と国家意識の問題の上で、興味深いのが西ゴート王国で起こったヘルメネギルドの反乱事件を巡る当時の歴史叙述における相違である。前述したように、レオヴィギルド王の治世下に王の第一子ヘルメネギルドがカトリックに改宗し、アリウス派であった父に対し陰謀を企てた。 これについて、トゥールのグレゴリウスや教皇グレゴリウス1世は仔細に記述し、この事件をのちのレカレド王の改宗に至る前史的な出来事として特筆した。これに対し、セビリャのイシドールスの『ゴート史』やゴート人ヨハンネスによる『年代記』など、西ゴート王国で書かれた史料はこの事件にほとんど注目していない。ここに西ゴート王国の内部と外部で明確な意識の違いを見ることができる。さらにレオヴィギルドについて、後者ヒスパニアの史料はこの君主を政治的軍事的統一を西ゴート王国にもたらした英主として描くのに対し、教皇グレゴリウス1世は「異端者、子殺し」と呼んでおり、相違が見られる。グレゴリウス1世はレオヴィギルドが臨終に際してカトリックに改宗したことを記して、彼に好意を示すもののその叙述は護教的である。一方トゥールのグレゴリウスはグレゴリウス1世とは異なり、レオヴィギルドの政治的手腕を高く評価し、その視点はヒスパニアの史家に近い。 レカレド王の改宗 この違いはレカレド王の改宗を巡る記述にも見られ、このことは同じ西ゴート王国の外部者という立場に立つ両者であるが、部族国家内部に生きるトゥールのグレゴリウスと、ローマでビザンツ帝国の影響下に生きる教皇グレゴリウス1世の思想状況の違いを示している[89]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ゲルマン人の集団改宗 メロヴィング朝と西ゴート王国のカトリックへの改宗を見ると、それは決して個人的な理由のみで行われたのではなく、集団改宗という形式で一般に行われたと見る方が適切であろう[90]。少なくともクローヴィスの改宗は明確に集団改宗である。レカレド王の改宗は587年にまずなされているが、この改宗が個人的なものか集団的なものかは明らかでない[* 60]が、589年のトレド公会議は西ゴート王国を公式にカトリック改宗へと導いた[91][89]。このような集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできないであろう[90][* 61]。ゲルマンの王は集団の支持を必要としており、彼らの改宗は、個人的な内面性より集団に重点が置かれていた[90]。改宗が直接的に国王個人や住民の生活習慣を変えるようなものではなかったことからも明白である。たとえばクローヴィスは洗礼を受けたにも関わらず、その後の有様は蛮族の王そのままであった[90]し、そもそもメロヴィング王国住民も表面的にしかキリスト教化されていなかった[93]。 このような改宗は何をもたらしたのであろうか。一般的な説明では、改宗によって支配者と被支配民の宗教が一致し、統治に安定をもたらしたことが述べられる一方、改宗の政治的意義を小さく、あるいは全く評価しない論者もいる。たとえばコリンズ (en Roger Collins) によれば、西ゴート王国は改宗以前、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はアリウス派からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった[94]。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方も可能である[89]。メロヴィング朝では7世紀クロタール2世の統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教が王権に王国を守るという崇高な任務を与え、聖性を付与し、その意義を高めたからである[95]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ランゴバルド族と中世初期の南イタリア 西ローマ帝国滅亡後のイタリア半島は、東ゴート族の支配を受けたのち、東ローマ帝国の支配に復帰したのであるが、やがてランゴバルド族の侵入によって、北イタリアから中部イタリアにかけての大部分はランゴバルド族の支配に帰した。ランゴバルド王国はしかし、イタリア半島全体を支配することはついにかなわず、ローマとラヴェンナの間と南部イタリアは東ローマ帝国の支配下に止まった。やがてカロリング朝がローマ教皇の要請を受けて北イタリアに侵入し、774年にはカール大帝により北イタリアのランゴバルド王国はフランク王国に併合された。 しかし、中部イタリアのランゴバルド系公国であるベネヴェント公国は存続し、分裂しながらも独立した政体を維持した。またビザンツ支配下の南イタリア都市も徐々に独立し、シチリア島はムスリムの支配下となる。こうして中世初期のイタリア半島南部は分裂状態におかれるのであるが、やがて傭兵として雇われたノルマン人の集団がシチリア王国を建国し、地域の統合をもたらすこととなり、新局面が訪れた。 東ゴート王国とビザンツ帝国のイタリア再征服 詳細は「東ゴート王国」を参照 ボエティウス テオドリックに投獄された際に執筆された主著『哲学の慰め』は中世西欧で広く読まれた 西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって476年に廃位されると、西ローマ皇帝は存在しなくなった。しかし、ローマ帝国の支配体制自体が変化を蒙ったわけではない。オドアケルは東ローマ帝国の宗主権を認めており、そのオドアケルの政権を打倒した東ゴート王テオドリックも東ローマ帝国の宗主権を認め、この間西帝国の元老院も存続していた。しかしながら、東ゴート族はアリウス派を信仰しており、このことが東ローマ帝国との政治的対立に結びつくこととなった。また王国の統治はローマ人官僚の貢献によって支えられていたが、彼らは正統信仰を維持しており、信仰上の対立がゴート人とローマ人の不和の原因となって王国の統治を攪乱することとなった。テオドリックは寛容な宗教政策を展開して王国内の平和を保っていたが、晩年には宗教問題が政治問題化した。たとえば、ボエティウスの事例が典型的である。ローマの有力貴族アルビヌスが王位継承問題に絡んで東ローマ帝国と通じた問題で、ボエティウスはアルビヌスを弁護して投獄され、524年に処刑された。東ローマ帝国はこれをカトリック教会に対する迫害と捉え、当時アリウス派に一時的な寛容政策をとっていたユスティヌス1世の態度を硬化させた。ユスティヌスは527年に異端に対する勅令を出してアリウス派を弾圧[* 62]し、以前からカルケドン信条を守っていたブルグント王ジギスムントやカトリック信仰に転じたヴァンダル王ヒルデリック[* 63]と同盟してテオドリックを牽制した。 ユスティヌス1世を継承した甥のユスティニアヌス1世は532年にササン朝のホスロー1世と永久平和条約を結んで帝国東部辺境を安定させると、西方の旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出した。まずヴァンダル王国に矛先を向け、533年にカルタゴを占領し、534年にはヴァンダル王国を完全に滅ぼした。さらに535年、テオダハドが東ローマ帝国と友好的な東ゴート女王アマラスンタを殺害すると、これを口実としてイタリア半島に遠征軍を派遣した。東ローマ帝国軍は当初有利に事を進めたが、最高司令官ベリサリウスと将軍ナルセスの間に不和が生じるなど指揮系統に混乱が生じた。ナルセスが本国に召還されると、539年にはベリサリウスは東ゴート族を懐柔することに成功した[* 64]が、ベリサリウスはササン朝の侵入に対抗するため540年に本国に召還されてしまい、失望した東ゴート族は再び反乱を起こした。東ゴート族はやがてトーティラを王に推戴して勢力を盛り返した。544年にベリサリウスはイタリアに戻るが、兵力不足から有効な反撃が出来ず、549年には再び本国へ召還された。550年になると、トーティラ率いる東ゴート軍はローマを占領し、イタリア半島をほとんど支配する状態となって、シチリア島に侵入するまでになった。552年にナルセスが大軍をもって派遣されると、ようやく東ローマ帝国軍は反撃に転じ、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシャ語版、イタリア語版、英語版)(ギリシア語 Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum)で東ゴート族を大いに破った。トーティラは殺され、東ゴート族はなおも各地に拠って抵抗したが、554年にはほぼイタリアに平和が戻り、561年には抵抗は完全に収まった。 しかしこの戦乱によってイタリア半島の荒廃は進み、かつての繁栄を失った。東ゴート王国下においては、古典古代の文化を保存する活動は維持されており、前述したボエティウスが『哲学の慰め』を著述してプラトンやアリストテレスの哲学概念を用いてキリスト教教義を論じたり、カッシオドルスが『ゴート人の歴史』を書いてローマ人とゴート人の調和を説いたりといった文化活動が見られた。カッシオドルスは修道院教育に自由七科を導入するなど修道院文化の育成にも関わるが、この伝統は戦乱とともに一時廃れた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ランゴバルド王国 詳細は「ランゴバルド人」および「ランゴバルド王国」を参照 アギルルフス時代のイタリア半島(616年) ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝の支配に服すこととなったが、その統一は長く続かなかった。ランゴバルド族が侵入し、彼らがイタリア半島に王国を築いたからである。彼らの文化水準は低く、したがってその支配による影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった[98][99]。 ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年にビザンツ帝国によって、パンノニアとノリクムの境界地域に定住を許された[100]。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、ビザンツ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった[61][101][* 65]。ランゴバルド族はゲピド族を抗争を繰り返し、566年になってビザンツ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[103]。しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[96]。569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[* 66]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[96][104][105]。 572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフも574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[106][107]。しかしその勢いは衰えず、諸公の一人ファロアルド1世(イタリア語版、英語版)はスポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネ(イタリア語版、英語版)はさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた[106][107]。ランゴバルド諸公に対して、ビザンツ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[106][108]。フランク王国はすでに574年ランゴバルド王国を征討し、これを打ち負かして貢納と領土の割譲を条件に講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていたのである[109]が、ビザンツの勧誘を受けて585年と588年にイタリアへ侵入し、クレフの子である王アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[110]。フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。既述のように、574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフスは591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、ビザンツ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した[111]。アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[112]。パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。 リウトプランド時代のイタリア半島(744年) 616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代の国王は、三章書論争[* 67]で三章書を支持して分離したミラノやアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。しかし626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景にはビザンツ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っているビザンツ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリア・コルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した[114]。またロターリは643年に「ロターリ王の告示」、いわゆるロターリ法典を編纂したが、これはランゴバルド人の法慣習を採録したものである[115]。ロターリはランゴバルド王国の最盛期を現出したが、652年のその死後、王国は急速に分裂、弱体化した。彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年にアギロルフィング家のアリペルトゥス1世に王位が移った。アリペルトゥス1世の死(661年)に際して2人の息子に王国が分割されたが、これが内紛を生じ、662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世が王位を手に入れることとなった[116]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ベネヴェント公国と南イタリアのランゴバルド三侯国 前節で述べたように、クレフ王の死後の10年間、ランゴバルド諸公は一種の合議政体をもって王国を運営し、この間に地方に割拠する諸公の力は強まった。特にイタリア中部のスポレート公国と南イタリアのベネヴェント公国はラヴェンナとローマの枢軸を維持するビザンツ帝国によって、北イタリアのランゴバルド王国の中央から隔てられているために、自立性が高かった。初代ベネヴェント公ゾットーの跡を継いだアリキス1世はビザンツ帝国領カラブリアと沿岸都市以外の南イタリアをほぼ制圧し、広大な領土を支配するようになった[116]。第5代のグリモアルドゥス1世はランゴバルド王国で起きた王位継承を巡る争いに乗じて、ランゴバルド王位を獲得し、ランゴバルド王とベネヴェント公をかねてランゴバルド人を統一した[116]。しかし彼の死後は2人の息子がランゴバルド王位とベネヴェント公位を分割して保持することになり、再び両国は分かたれた。ベネヴェント公位を継いだロムアルドゥスは弟のガリバルドゥスにランゴバルド王位を譲ったのである[117]。まだ幼かったガリバルドゥスは即位後1年で王位をペルクタリトゥスに奪われ、ランゴバルド人の統一は失われた。 リウトプランドの肖像が描かれたトリミセス貨幣(1トリミセス=1/3ソリドゥス) その後北のランゴバルド王国では短期間での王位の変転が続くが、712年にリウトプランドが王位につくと、ビザンツ帝国側の内紛を利用して領土を拡大した。ビザンツ皇帝レオン3世がイコノクラスムを開始すると、教皇グレゴリウス2世はこれに反発して皇帝と対立し、折しも対イスラーム教徒戦争の重税に苦しんでいた多数のイタリア都市も帝国の支配に反抗した。この防備の弱体化をついてリウトプランドはビザンツ領へ侵攻し、730年ごろにはラヴェンナを奪取した[118][* 68]。ビザンツ帝国は教皇グレゴリウス3世の登位後、ヴェネツィアの協力を得て、734年にこれを奪還した[118][* 69]。リウトプランドはカール・マルテルと同盟してムスリムとも戦い、725年ごろにはムスリム支配下のコルシカ島を従属させた。710年から730年の間にはサルディニア島にあったアウグスティヌスの遺骸がパヴィアに運ばれ、サン・ピエトロ大聖堂 (en San Pietro in Ciel d Oro) に納められた[118][121]。またリウトプランドの治世に、ロターリ法典は新たに153章の法文を付けくわえられたが、これらの中には女性や貧者に抑圧に抗する一定の権利を認めるものが含まれている[118]。リウトプランドの後はまた短命な王が続くが、749年に即位したアイストゥルフは精力的で、751年にラヴェンナを制圧してイタリア半島をほぼ統一した。しかし754年と757年の2度、教皇ステファヌス3世の懇請を受けてピピン3世がイタリアに侵入すると、これらの征服地は奪回された[122]。アイストゥルフの次代の王デシデリウスはカール大帝の弟カールマンと結んでフランク王国の政治に介入しようとし、また教皇領を攻撃して領土拡大を目指したが、逆に773年カール大帝のイタリア遠征を招き、翌774年には首都パヴィアが陥落してデシデリウスは廃され、カール大帝が自らランゴバルド王を兼ねるに至って、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した[123][124][125]。 他方、ロムアルドゥスの後継者たちが支配した南のベネヴェント公国は、774年のランゴバルド王国滅亡を傍観しながら生き残り、8世紀後半にはランゴバルド王国の正統を自認してベネヴェント侯国を名乗るようになる[126]。侯国の地方統治はガスタルディウス (gastaldius) という地方役人が担っていたが、彼らは徐々に侯から独立するようになり、ベネヴェント侯国は分権化し始めた[127]。839年に第5代のベネヴェント侯シカルドゥスが暗殺された後、侯位を巡って争いが起こり、849年にはサレルノ侯国(イタリア語版、英語版)が分かれた[128]。このサレルノ侯国の有力者カープア伯は861年に自立してカープア伯領を形成するが、900年にカープア伯アテヌルフス1世(イタリア語版、英語版)がベネヴェント侯に即位してカープア・ベネヴェント侯国(イタリア語版、英語版)が成立した[128]。この統一侯国は982年まで続くが、その後はベネヴェント侯国とカープア侯国(イタリア語版、英語版)に分かれた[129]。こうしてランゴバルド三侯国が成立した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング朝の帝権 詳細は「カロリング朝」を参照 フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。つづくピピン3世はすでに述べたように、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 メロヴィング王権の衰退 814年のヨーロッパ カール大帝末年のヨーロッパ。今日の政治的・宗教的枠組みにつながる構造が形成されている。 東方世界東ローマ帝国|ブルガリア王国 西方世界カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア イスラームアッバース朝|後ウマイヤ朝 周辺諸民族ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。659年にアウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルト1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された[* 70]。このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた[* 71]。ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリィの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カール・マルテルとイスラム勢力の西漸 714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こり[* 72]危機を迎えたが、ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世[* 73]が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたユードと和平を結んだ。ユードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ユードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。 このころイスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年にはイスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪しトゥールーズを包囲した。ユードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。 735年にユードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ユードの息子クノルトに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。 トゥール・ポワティエ間の戦い アキテーヌを支配していたユードはイスラム教徒の国境司令官オスマーンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンはこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてユードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。 一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り[* 74]、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立 741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。 カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた[* 75]。742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。 751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式[* 76]を受けた。754年には教皇ステファヌス3世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。 ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる[130][131]。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立 ハールーン・アッラシード(左側)とカール大帝(右側) カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した 詳細は「カール大帝」を参照 768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[* 77]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[* 78]。781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。 教皇レオ3世は800年のクリスマスにカール大帝に帝冠を授け、西ローマ帝国が復活した[* 39]。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[* 79]。教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた[* 80]。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を一つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト教帝国の解体 詳細は「東フランク王国」、「西フランク王国」、および「中部フランク王国」を参照 広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。 ヴェルダン条約によるフランク王国の分割 西フランク王シャルル2世アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境 中フランク王ロタール1世ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ 東フランク王ルートヴィヒ2世ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン 814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒは帝位と王権を継承した。ルートヴィヒ1世は817年「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒにバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。しかしシャルルが生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、ロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒがこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。 841年ロタール1世とシャルル、ルートヴィヒはオーセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分されることとなった(ヴェルダン条約)。帝権はロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ルートヴィヒ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をルートヴィヒ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にシャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。 869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルルがロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒがこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)[* 81]。西フランク王シャルルは875年のルートヴィヒ2世の死後はイタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒの死に際して、シャルルは東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒの息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 分裂後のカロリング朝後継国家 結局カール大帝の帝国は社会的・制度的に永続性を欠いており、王家の分割相続により瓦解することとなった。 885年にはカール3世によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、887年にはアルヌルフによって廃位に追い込まれた。翌888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。 この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。彼らは地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。 北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング・ルネサンス、中世文化の始まり カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としてはトゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。 この、カール大帝のいわゆるカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。 カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックス[* 82]に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カロリング朝期の政治思想 ここではカロリング朝が帝権を手に入れた9世紀初頭ごろの政治思想を概観する。まずカール大帝のキリスト教帝国の政治思想として アルクインの思想を、次に教権の側の政治思想として作者不明の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を特筆する。 アルクイン 教皇シルウェステル1世とコンスタンティヌス大帝 コンスタンティヌス大帝はシルウェステル1世にローマ全土を教会領として寄進する約束をしたという説話が8世紀ごろに作られた。この『コンスタンティヌス帝の寄進状』は中世を通じて教権の重要な根拠の一つとなっていたが、のちにヴァラなどによって偽作されたものであることが明らかにされた 詳細は「アルクィン」を参照 アルクインはブリテン島出身の神学者で、カール大帝の宗教政策を中心とした問題についての、最も有力な助言者の一人であった。カール大帝時代のいわゆる「カロリング・ルネサンス」においても指導的役割を演じたと考えられている。アルクインはカトリック信仰が地上に平和をもたらすものであると信じ、その実現者をカール大帝に見た[132]。 カール大帝が795年教皇レオ3世が選出された際に送った外交書簡はアルクインの手になるものと考えられている[133]。この書簡は、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じて国王を補佐することであると述べている。799年にアルクインがカール大帝にあてた有名な書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落している[* 83]のに対し、カール大帝のフランク王国のみが正しいキリスト教君主であるとした。そのすぐあとに出された書簡では、アルクインはカールのフランク王国を「キリスト教帝国 ("Imperium Christianum")」と呼び、カールの王権を全キリスト教共同体を覆うものとしている。このアルクインのいう「キリスト教帝国」は800年のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。 アルクインはまた両剣論を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた[* 84]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] コンスタンティヌス帝の寄進状 詳細は「コンスタンティヌスの寄進状」を参照 『コンスタンティヌス帝の寄進状』は、『偽イシドールス教令集』に記載されていたもので、作者は不明である。このイシドールスとは7世紀イベリア半島のセビリャ大司教のことである。イシドールスは従来の教令集[* 85]にスペインでの教会会議の決定を増補し、『ヒスパナ』という教令集を編纂した。のちにこれが『イシドールス集録』と呼ばれ、カノン法の法源とされた。『偽イシドールス教令集』はこれとは別の物で、8世紀か9世紀にイシドールスに仮託して作成された偽文書である[* 86]。 この文書は書簡形式であり、その日付は315年3月30日に書かれたことになっている[134]。まずコンスタンティヌス1世は癩病を患い、時の教皇シルウェステル1世の祈りによって救われたとする。コンスタンティヌスはシルウェステル1世を皇帝にしようとしたが、シルヴェステル1世は帝冠を一度受け取ったが被らず、帝冠を改めてコンスタンティヌス1世に被せたという。次にこの文書は聖ペテロに向ける形でコンスタンティヌスによる以下の寄進の記録を記す。すなわちアンティオキア・アレクサンドリア・エルサレム・コンスタンティノポリスと、他の全ての教会に対する優越権、皇帝の紋章とラテラノ宮殿の下賜、西部属州における皇帝権を教皇に委譲した。この架空の歴史的事実によって教皇は「普遍的司教」であり、皇帝任命権を保持していると主張した。カール大帝の戴冠もこの理念に則った形で行われ、これを先例としてのちに教皇は皇帝よりも優越的な地位にあることの根拠とした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] グレゴリウス改革と教権の絶頂 これまで述べたように、中世ヨーロッパという固有の文明社会の成立には、皇帝権と教皇権という2つの普遍的権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が本質的な対立に向かい、中世ヨーロッパ社会の秩序が根本的な変革に直面することとなった。一般にグレゴリウス改革[* 87]として把握される一連の教会改革運動である。結果的には教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現することになり、日常生活に関わる秘蹟への関与を強めることにより、民衆の精神支配において圧倒的な影響力を持つようになる。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。 一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、12・13世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求[* 88]という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった[* 89]。 修道院改革運動と教会改革の始まり クリュニー修道院 フランス革命によって破壊される以前は、偉容を誇った壮大な修道院であった。アキテーヌ公ギヨームにより設立された。12世紀にいたるまで西ヨーロッパで絶大な影響力を持った グレゴリウス改革の前史としての修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンで広がりを見せた。このロートリンゲンの修道院改革に影響を与えたのがクリュニー修道院である。クリュニー修道院は909年ないし910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世は、このクリュニーの修道精神に深く共感し、聖職売買(シモニア)を強く批判し、教会改革を求めた。しかし、後に息子のハインリヒ4世と改革の主導者であったグレゴリウス7世は問題となっていた聖職者の任免権を巡って叙任権闘争で争うことになる。 一方でクリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。そしてクリュニー精神に基づき、修道院活動を純化し汚れない本来の姿に戻ろうとする動きは、シモニアやニコライティズム(聖職者の妻帯)に対する批判と軸を同じくした。改革に熱心な教皇レオ9世が登位すると、教皇権がこの教会改革の主導権を握るようになった。レオ9世は聖職者の倫理改革を目指してシモニアに対して厳しく対処することを表明し[* 90]、改革遂行のため、当時の改革的聖職者を教皇庁の下に結集して、教会改革に合致する教会法の集成に着手させ、さらに教皇首位権を現実化しようとした。レオ9世時代の改革はこのようにグレゴリウス改革に直結するものであるが、その対象はほぼ教会内部に限られており、教権と俗権の関係には及んでいない。その後ニコラウス2世は1059年、ラテラノの教会会議で下級聖職者に限って俗人叙任を明確に禁止した[* 91]。つづくアレクサンデル2世も聖職者の倫理改革に着手し、教皇特使を活用してキリスト教社会に影響を及ぼそうとし、シモニアやニコライティズムを強く批判した。こうしてグレゴリウス7世の登極までに改革は着実に進展していた。 このように、クリュニー修道院に影響を受けた修道院改革の基本精神は教会改革に継承されたのであるが、これはクリュニーの精神とグレゴリウス改革が全ての面において、一致していたということを必ずしも意味しない[* 92]。教皇主導の教会改革が徐々に急進化するに及び、当初は協力的であったクリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論[* 51]に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対した。またイスパニアでもカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはむしろアルフォンソ6世と結びつくことで、これに対抗した[* 93]。 しかしクリュニー精神もグレゴリウス改革も、キリスト教が「危機」に直面しているという認識では一致していたのであり、この時代の大きな雰囲気の中から生まれたものであることは共通していた。クリュニーは世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニア批判に結びつき、グレゴリウス改革で本格的にそれが主張されるという、発展の傾向は認められる[137]。だが、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であったし、その運動の進展はグレゴリウス改革と並行していた。したがって、両者の関係はクリュニーがグレゴリウス改革を生み出したというよりは、両者が間接的に影響し合っていたと見るべきである[138]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 周縁における権力と教会 中世ヨーロッパにおいて周縁に位置するイングランドやイベリア諸国、スカンディナヴィアでは、そこがキリスト教世界にとって前線であるがゆえに、西ヨーロッパの中央とは異なったあり方でキリスト教が存在していた。これらの地域ではカトリックとは異なる典礼を発達・維持させていた教会が存在していたのである。しかしグレゴリウス改革の影響はこれらの地域にも波及し、新たな展開を見せた。 イングランド教会の伝統 ブリテン島のキリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウスや聖パトリックが知られており、後者によってアイルランド伝道が開始された。アイルランドが急速にキリスト教化するのと対照的に、ブリテン島はアングロ・サクソン人の侵入を受け、一時的にキリスト教布教が停滞した。しかしながら563年以降、アイルランドから渡った聖コルンバがアイオナ島を拠点にスコットランド改宗に着手し、597年6月9日の死にいたるまで熱心な布教活動を続けた。ちょうど同じ年の6月2日に教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンがケント王国に上陸し、イングランド布教も開始された。 アンセルムス 師であるランフランクの跡を継いでカンタベリー大司教となる。イングランド王国での聖職叙任権改革を進め、王権と対立。17年にわたる在位期間中、2度も追放される憂き目にあった こうしてアイルランド人のケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教を開始したが、両者は様々な面で相違していたために[* 94]、布教をめぐって摩擦や対立が生じることとなった。両者は664年、ホイットビー教会会議[* 95]で信仰について話し合い、結局この会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えた[142]が、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた[143]。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した[144]。 エドワード懺悔王の死後、1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった[* 96]。1073年にグレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった[146]。ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた[146]。ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした[* 97]。ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた[150][151][* 98]。 ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった[* 99]。アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていた[154][155][156][157]ので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した[158][159]。つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ[* 100]。そこでは国王や俗人から聖職者が叙任されることは原則的に禁じられた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられた。これによってイングランド国王は教会に対する実質的な影響力を維持した。しかしながら、1114年のカンタベリー大司教選挙において、国王が推薦する候補が落選するなど、国王の教会政策に一定の疑問が投げかけられる結果をもたらした[161]。ヘンリー1世の跡を継いだスティーブン王の時代は混乱を極め、王は自らの権力を維持するために教会にあらゆる譲歩をしたが、その約束は果たされず、逆に国王と教会の対立は深まった。1139年に国王がソールズベリー司教ロジャーを逮捕投獄する事件が起こり、これを機にスティーブンは聖界の支持を決定的に失った。1141年のウィンチェスター教会会議で司教たちは、司教には国王を聖別する権利があると主張し、マティルダを「女支配者」 ("Domina Anglorum") として認めた[162][163]。スティーブン王の治世の間、イングランドは実質的な内乱状態にあったが、教会はその混乱の中で影響力を強め、王権からの相対的な自由を獲得した。 スティーブン王の死後、生前の約束通りヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。新国王はイングランドの無秩序状態を収拾するため、法律を整備する必要性を感じ、裁判制度の改革に乗り出した。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されており、聖職者は教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者の特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏を買収して剃髪して詐って聖職者を名乗り、刑を軽くするような法の抜け道が存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗で刑罰が異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法[* 101]を制定した。これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケットは一度は不承不承認めたものの、のちに教会の権利を擁護して国王に反対した。長く追放された後、ベケットはイングランドに帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士に殺害された。しかしこのことでベケットは殉教者として崇敬されるようになり、国王は逆に譲歩せざるを得なくなった。結局大逆罪に関する条項を除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。 中世の初期においては国王の強力な掣肘化にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝の開始時には大陸での教会改革の成果も取り入れ、王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代にカンタベリー大司教の首位権が徐々に確立され、イングランドにおぼろげながらも一つの信仰共同体が形成され始めたことは、後の国教会体制を準備するものであった[* 102]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 西ゴートの伝統、イベリア半島諸国 1031年のイベリア半島 後ウマイヤ朝が滅亡した直後のイベリア半島 キリスト教諸国レオン王国|カスティーリャ伯領|ナバーラ王国|アラゴン伯領|カタルーニャ君主国 イスラム教タイファ諸国アルコス|アルバラチン|アルプエンテ|アルヘシラス|アルメリア|ウエルバ|カルモナ|グラナダ|コルドバ|サラゴサ|サンタ・マリア・デル・アルガルベ|シルヴェス|セビーリャ|デニア|トルトサ|トレド|ニエブラ|バダホス|バレンシア|マラガ|マロン|ムルシア|メルトラ|ロンダ 711年に西ゴート王国が滅亡して後、イベリア半島はそのほとんどがイスラム教徒によって支配された。イスラム教徒の支配下では税を支払う代わりに西ゴート式の独自の典礼を維持したキリスト教徒たちがおり、彼らは「モサラベ」と呼ばれた。一方北部を中心にキリスト教国が残存していたが、その中でも山岳地帯に位置したアストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国に対抗した[165][166][167][168][* 103]。アルフォンソ2世の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきたモサラベの建言を容れて、西ゴート方式の宗教儀式を部分的に採用し、西ゴート王に連なる家系図を作らせ、アストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるという「新ゴート主義」[* 104]が成立した[173][174][* 105]。アルフォンソ3世の時代になると、植民活動を活発化させ、教会堂の建設事業を積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いでいる[173][178][* 106]。つづくガルシア1世の時代に王国は首都をレオンへ移し、王国はレオン王国と呼ばれるようになった。レオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した[* 107]。一方同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでいた[183]。ナバラ王国もその点は全く同様で、イスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまっていた[184]。アラゴン伯領もいまだレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[185]。一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え[186]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[187]。 11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[188][* 108]。その息子でカスティーリャ王国を相続したフェルナンド1世はレオン王国を併合(カスティーリャ=レオン王国)すると、南へ遠征し、後ウマイヤ朝滅亡後にアル・アンダルスに割拠したタイファ諸国を攻撃して金による貢納(パリア)を求めた [* 109]。しかし貢納金を支払わせるということは、逆にフェルナンドをしてこれらタイファ国を保護する義務を生じさせるものでもあった。フェルナンドとその息子のサンチョ2世はタイファ国の救援要請を受けて、これを攻めたキリスト教国と干戈を交えている[190][191][192]。フェルナンドの晩年にはいくつかのアル・アンダルスの都市を征服するなど「レコンキスタ」[* 110]的な行動が見られたが、同じキリスト教を奉ずる国々との戦争も頻繁に行われており、このころの軍事行動が宗教的動機を離れて行われていたことは注目に値する[193][* 111]。 11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった[* 112]。フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。例えばアルフォンソ6世はトレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナール (en Bernard de Sedirac) に任せた[196][* 113]。一方で改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし、「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張した。これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した[199][197][200]。アルフォンソはクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした[201]。アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れた。だが、1090年のレオン教会会議で西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けた[202]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スカンディナヴィアの改宗 9世紀まで、スカンディナヴィアにおいてキリスト教が大きな影響力を持つことはなかったが、キリスト教の信仰と典礼はこの地域にかなり早く波及していた[203]。その信仰は西ローマ帝国の滅亡以前に遡るものもあるが、8世紀に形成された北欧とフランク王国などのキリスト教諸国との間の交易路が大きな影響を及ぼしたと考えられている[203]。8世紀の初頭にはイングランドの修道士であったウィリブロード (Willibrord) によるフリジア地方への布教が知られており、彼はデンマーク南部のリベ(Ribe)まで足を運んで、その地から30人の少年を連れ帰って教育し、彼らに現地語で布教させようとした[* 114][203]。また近隣のフランク王国は北方地域への布教を継続的に支援していた[203]。 9世紀初頭にフランク王国はザクセン戦争の結果エルベ川以南のサクソン人を服従させ、改宗を強制した[203]。このことはサクソン人と境を接していたデーン人に脅威を抱かせ、デーン人を率いていたゴッドフリード (Gudfred) はフランク王国に抵抗するが、810年に政敵によって暗殺された[203]。彼の死後は息子たちが抵抗を続けたが、フランク王国との宥和政策を主張するハラルド (Harald Klak) が台頭して内戦となった[203]。819年にフランク王国の支援を受けてハラルドが権力を回復すると、彼の支配領域で、ランスの司教エボ (Ebbo) の主導によってキリスト教布教が開始された[204]。ハラルドの権力はつねに脅かされていたために、彼はフランク王国の支援を必要としており、826年、彼はマインツでルイ敬虔帝の見守る中キリスト教へ改宗した[205]。彼はアンスカル (Ansgar) という修道士を伴ってデンマークへと帰還したが、1年後には追放された[205]。一方、829年にはスウェーデン東方にあったスウェーデン人 (svear) の王の要請でビルカにアンスカルが派遣された[205]。18年の歳月を要した彼の伝道活動は成功裏に終わり、ビルカの総督であったヘリガル (Herigar) を改宗させ、彼によって教会堂が建てられた[205]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 等族国家と公会議主義 アヴィニョン教皇庁 ゴシック建築を代表する。1316年にまず最初の建築がおこなわれ、クレメンス6世時代に増築された グレゴリウス改革以後、西ヨーロッパ教会における教皇首位権は確立された。教権の伸長はこの時期さまざまな局面での教権の世俗の領域への介入につながったが、封建君主たちの激しい抵抗に遭い、一連の政治闘争によって教皇権の根拠に対して厳しい批判の目が向けられるようになった。 この時期封建制国家は、特にイギリスとドイツで典型的に身分制秩序が発展し、身分制議会(これを等族議会という)が形成されるようになった。これは一方で貴族による王権の制限という形式を取ったが、同時に王権を中心とした王国単位での共同体を創設することにもなり、普遍的な世界の解体につながるものであった。このような身分制に基づく議会主義をとる国家を等族国家といい、ヨーロッパ中世後期に特徴的な国家様式であると考えられている。等族国家は西はブリテン島から東はポーランド、さらには聖地に作られた十字軍国家も同様の形態を取るが、その内実は地域によりかなり異なる。たとえばドイツでは大空位時代から諸侯の自立化が進み、カール4世の時代に金印勅書の制定によって国王の選挙制が確立された。重要な帝国法は帝国議会で決定されるのが常となり、典型的な等族国家を形成した。一方でフランスではカペー朝による王領拡大が諸侯領を破壊する形でおこなわれ、王国に対する国王の支配がより強力であったために、等族議会である三部会では当初から国王が主導的な役割を担い、国王の政策の道具として扱われる側面が強かった。 ともかくこのような等族国家は、各王国規模での政治社会を定着させることにつながり、中世的な普遍世界から絶対王政への橋渡しをする役割を担ったといえる。これは普遍的にキリスト教世界に影響を及ぼす教権の側から見れば、王国ごとに教会を分断しようとする動きとなり、危険なものであった。なぜなら皇帝権との対立が同じ普遍性の土台の上で戦ったものであったために教権の普遍性自体を疑うものではなかったのに対し、等族国家はまさに普遍性そのものを問題としたからである。ところでこのような代議制的統治の構造は、実に教会においてまず発展したものであった。そして教会においては教皇首位権に対する公会議主義の思想が展開されていくのである[* 115]。 フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム 寡婦なるローマ 教皇不在のローマを象徴的にあらわした図。アヴィニョン捕囚は教皇に対する不満を増大させ、また「捕囚」されている事実それ自体が教皇権威の失墜を意識させるものであった この時代、ドイツの皇帝にかわってフランス王権が台頭し、イタリアにも進出するようになり様々な局面で教権と対立するようになってきた。13世紀後半にフィリップ4世が即位すると、この国王と教皇の間で聖職者への課税権を巡って対立がおこった。教皇の側ではアエギディウス・コロンナが論陣を張り、一方のフランス王権を支持したのがパリのヨアンネスであった。ヨアンネスは聖職者は単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるべきでないとして教皇の世俗への介入を批判し、一方で世俗国家を自然的社会の最高形態であるからその君主は教会による聖別を必要としないと論じた。 1302年にフィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ[* 116]、教皇ボニファティウス8世を捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件[* 117])。フィリップ4世はフランス人であるクレメンス5世を擁立すると、教皇庁をアヴィニョンに移転させた。以後70年間にわたり教皇庁はアヴィニョンにあってフランス王権の影響をうけることになり、この時代を教皇の「アヴィニョン捕囚」という。クレメンス5世の時代にはテンプル騎士団がフィリップ4世によって異端として告発され、クレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴを維持しようとした[* 118]が、結局はフランス王権に屈服し、ヴィエンヌ公会議ではっきりとした理由も示さずにテンプル騎士団の解散を宣言した。 このようにクレメンス5世はフランス王権の影響を強く受けており、グレゴリウス11世までの「アヴィニョン捕囚」期の教皇の立場は総じてクレメンス5世とあまり変わらなかった。カペー朝の断絶後、1337年に百年戦争が始まるとフランスは徐々に戦争により疲弊し、相対的に教皇庁は自立性を強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権の没落期・低迷期と考えられる時期であるが、一方で教会の司法制度[* 119]が整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。 この時代にガリカニスムという主張があらわれた。ガリカニスムとは「ガリア主義」という意味で、ガリアとはフランスのことである。この主張はフランス教会の教権からの独立を説くもので、その契機と考えられるのは前述したパリのヨアンネスである。このガリカニスムはとくに16世紀以降法学者たちの間でさかんに論じられるようになり、やがてイエズス会などの教皇至上主義と激しく対立して民族主義に近づいていった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 皇帝との対立、そして「金印勅書」 14世紀の神聖ローマ帝国 この時代は代表的な家門の間で皇帝権の争奪がおこなわれていた。図中紫がルクセンブルク家の家領。図中オレンジがハプスブルク家の家領。図中緑はヴィッテルスバハ家の所領。このような家門どうしの皇帝権争奪に対して、教皇権はいずれかの候補を支持することで介入した 神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はイタリア政策を積極的に進めようと皇帝代理をイタリアに派遣したが、このことがアヴィニョンのヨハネス22世を刺激し、教皇はイタリアにおける自身の権益が脅かされているものと認識した。ヨハネス22世はルートヴィヒ4世が教皇による国王としての、あるいは皇帝としての承認を受けていないにもかかわらず、国王として、また皇帝として振る舞っているとして批判した。ヨハネス22世は以上の論法からルートヴィヒ4世が教皇に服従することを求めたが、ルートヴィヒ4世が応じようとしないので、これを破門した。これに対しルートヴィヒ4世は選挙に基づく王権の独立性を訴えた。彼に理論的根拠を与えたのはパドヴァのマルシリウスで、『平和の擁護者』を著して法の権威を人民に求め、教会の介入に対して政治社会の自律性を主張した。教皇首位権に対しても聖職者の平等を訴えてこれに挑戦する内容であった。 ルートヴィヒ4世は1327年にイタリア遠征に出発し、ローマに入城して1328年にはローマ人民によって戴冠された。カール大帝以来、帝冠は教皇によって戴冠されるものと考えられていたのに対し、この新式の戴冠は明らかに同行していたマルシリウスの示唆によるものだった。ルートヴィヒ4世はヨハネス22世の廃位を宣言し、ニコラウス5世を擁立した。しかしニコラウス5世は皇帝がイタリアを去ると、1330年にはヨハネス22世に屈服した。その後もルートヴィヒ4世はオッカムのウィリアムなどの有力な理論的神学者を用い、ヨハネス22世とその跡を継いだベネディクトゥス12世、クレメンス6世との間で長い論争が続いたが、決着はつかなかった。 論争が続けられる一方、1338年に帝国法「リケット・ユーリス」が決議され、皇帝選挙の根拠が定められた。これは皇帝の位と権力が神に由来することを示し、選挙侯による選挙によって選ばれた者がただちに国王であり、皇帝であることを定めたもので、ドイツの国王位と神聖ローマ皇帝位に対する教皇の介入を徹底的に排したものであった。ルートヴィヒ4世の死後、ルクセンブルク家のベーメン王カールがカール4世として即位すると、金印勅書を制定して国王選挙権を7人の選帝侯に限り、さらにその選帝侯の権利はそれぞれの領国に結びつけられ、長子相続によることが定められた。これによりドイツ国王は教皇の承認を経なくても皇帝権の行使をおこなうことが可能となり、皇帝位がドイツ国王位と永久的に結びつけられたが、一方で選帝侯は領国内での無制限裁判高権、至高権、関税徴収権、貨幣鋳造権などの諸特権を獲得し、国王からの自立性を強めた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] イングランド王権との対立 イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルターが1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。インノケンティウス3世はこの訴えに対し、王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。ところがこの決定にジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任のウォルターの例をあげれば、彼はカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代の国王リチャード1世が十字軍遠征に参加して不在の間、国内の政治をとって安定を守った。このようにカンタベリー大司教はイングランド国内にあって単なる宗教的権威にとどまらず、国王の重要な高級官僚としての役割も担っていたのであった。当時のイングランドにはカンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例[* 120]があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇はイングランドにおける全教会の聖務停止を科し、ジョン王は報復として教会財産の没収を命じた。この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権は大司教選挙施行の許可権と選挙結果への同意権を確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなった[* 121]。 エドワード1世 ウェールズを征服し、スコットランドにも遠征してブリテン島におけるイングランドの優位を確立させた。積極的な外征とその成功によって支持を集める一方、内政においても「模範議会」に代表される議会制度の整備や立法制度、司法制度などにも進歩をもたらした。しかし晩年には課税を巡って教会や諸侯と対立するなど政治的には危機的状況を迎えた このときジョン王の王権に対するイングランド諸侯の反発は最高潮に達し、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。後述するマグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、彼らがここを拠点とするようになると、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。ところがマグナカルタは王権にとって不利であるだけでなく、教権にとってもあまり好ましいものでないことは明らかとなった。マグナカルタは伝統的に「保証条項」と呼ばれる箇所で、25人の諸侯が王国内の平和と諸自由に対して権利を持ち、責任を担うことを規定していたからである。このことはイングランド王が教皇の封臣となっていた当時、教皇権の裁治権を狭めるものであると考えられたからである[* 122]。教皇はマグナカルタを批判し、これに力を得たジョン王はマグナカルタを守らなかった。反乱諸侯はフランス王権に介入を依頼し、カンタベリー大司教など幾ばくかの聖職者もこれに荷担する様子を見せたので、いよいよ混乱が避けられぬかと思われた矢先に、1216年10月18日突然にジョン王は逝去した。息ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。 一方でこの時期イングランド国内では議会制度が形成された。13世紀にはすでに大会議(グレート・カウンシル、"Great council")と小会議(スモール・カウンシル、"Small council")に分けられる封建的集会が存在し、裁判所としての役割をしていたことが知られるが、ヘンリー3世がわずか9歳で即位すると、小会議の役割が増大した。ヘンリー3世は成人して親政を開始すると、小会議に行政官やプランタジネット家の故郷である南フランス系の親族を参加させ、彼らを重用した。このことは諸侯との対立を招き、課税を巡って彼らと対立したためにヘンリー3世は一時的に妥協したが、税金が徴収されると結局は約束を破った。しかしヘンリー3世は一連の諸侯との交渉において何人かの固定した成員によって形成される常設の国王評議会(キングズ・カウンシル、"King s council")を認め、のちにこれが議会(パーラメント、"parliament")と呼ばれるようになった[* 123]。ヘンリー3世に不満を持つ諸侯がシモン・ド・モンフォールを中心に反乱すると、モンフォールは従来の成員のほかに各州より2名の自由民と各都市から2名の代表を集めて議会を開いた。結局乱は鎮圧され、これは定例とはならなかったのであるが、エドワード1世の時代、1295年の「模範議会 ("Model Parliament")」からは平民の代表が呼ばれることが規則となった。エドワード1世はこの模範議会で聖職者と平民に課税同意を求めたが、聖職者は教権に訴え、教皇ボニファティウス8世は教皇勅書「俗人は聖職者に(クレリキス・ライコス、"Clericis laicos")」を発し、俗権の教会課税にはそのつど教皇の認可が必要であり、違反に対しては破門を持って応じるとしたので、エドワード1世の意図はくじかれた。 14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。というのも前述したように、この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇の教会支配が強まったイングランドでは聖職売買によって地位を得た外人聖職者を受け入れざるをえない状況が続いていた。国王と議会は1351年に聖職者任命無効令を、1353年に上訴禁令を出してイングランド国内における教権と教会法の影響を排除しようとした。これは教権との政治上の駆け引きにおいて有効な武器として使われることもあったが、実際に行使されたことはなかった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教会大分裂と公会議主義 教会大分裂 青がローマ教皇庁支持。赤がアヴィニョン教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた 教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。グレゴリウス11世の死後、教皇選挙でウルバヌス6世が即位することとなった[* 124]。ウルバヌス6世は当初官僚的で温厚な人物だと考えられていたが、即位すると枢機卿に対し強圧的になった。その結果フランス人枢機卿がまずローマを去り、イタリア人の枢機卿たちも結局はこれに従った。彼らはしばらく教皇と交渉と試みたが、埒があかないことを悟ると、一転してフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここにローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する長い教会大分裂[* 125]が始まった(1378年〜1417年)[* 126]。 ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂した[* 127]が、このことは民族を中心にまとまり始めた各国家の利害が教会の内部の問題にも介在するようになったことを示していた。事実両教皇の死後も教権の分立状態は解消されず、主にフランス王権と神聖ローマ皇帝権の意を受けたそれぞれの教皇が並び立つこととなった。ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、フランス教会のガリカニスムの傾向をますます強めることとなった。 このような混乱のなか、譲歩しようとしない両教皇の態度に業を煮やした両教皇庁の枢機卿団は、公会議を開いて新しい教皇を選任し、この分裂を解消しようという動きを取り始め、公会議派が形成された。公会議派は1409年ピサ公会議を開き、両教皇の参加を求めたが受け入れられなかった。この公会議で公会議派は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世はペルピニャンで、グレゴリウス12世はチヴィタレでそれぞれ自派の公会議を開き、ピサ公会議の決定を受け入れなかったので、ここに3人の教皇が鼎立することとなった。アレクサンデル5世は1年後に亡くなり、そのあとはヨハネス23世が継いだが、この教皇の評判は芳しくなかった。 皇帝ジギスムント 教会大分裂の解消に熱心であった。図中右の鷲の紋章はドイツ王権を、左の双頭の鷲の紋章は皇帝権を象徴する。彼はローマ王として単頭の鷲を、皇帝として双頭の鷲を印璽で用いた最初の君主であり、以後慣習として定着した。また図中の双頭の鷲の頭には光輪が見えるが、これもジギスムントによって帝国の神聖さの象徴として書き加えられることが定められた このときにあたって、ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントは、教会の再統一に積極的な姿勢を見せ、ヨハネス23世を説得し、グレゴリウス12世の同意もとりつけて1415年にコンスタンツ公会議を開いた。このコンスタンツ公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。すなわち公会議での決定は個人単位ではなく、イングランド・フランス・ドイツ・イタリアの4つの出身団(ナツィオ、"natio")によりおこなわれ、1417年からはスペインの出身団と枢機卿団[* 128]が加えられて投票権を持つ集団は6つとなった。公会議の途中で教皇ヨハネス23世は出奔し、公会議は召集権を持つ教皇を失って一時危機を迎えたが、公会議派が中心となって公会議の決定が教権に優越することが主張され、公会議は教令「サクロサンクタ ("Sacrosancta")」を発してその正当性を保持することに成功した[* 129]。 しかし会議は難航した。フスなどの異端運動に対する問題や、教会改革を声高に主張する急進者と反発する保守派、そして国民間の対立や神学者同士の理論上の対立[* 130]が持ち込まれることもしばしばであった。さらに公会議に教皇の選任権があるのかという問題も紛糾した。とにかくこの公会議はさまざまな論争と政治的駆け引きに翻弄され、長引いたものの、鼎立した3人の教皇を廃位し、あらたにマルティヌス5世が選任されることで一致した。こうして教会大分裂は終わったが、一連の過程のなかでもはや普遍的であると信じられていた教会のなかでさえ、国民性が影響力を増していることが明らかとなった。教会大分裂の時代にもカトリック教会の統一が維持されたことは、普遍的な教会が未だ求心力を失っていなかったことを示しているが、国民的な単位を通して世俗の権力が教会に対する支配を強めたことは確かであった[* 131]。 教会大分裂 主な教会会議ローマ教皇庁アヴィニョン教皇庁公会議派 ウルバヌス6世 (1378-1389)クレメンス7世 (1378-1394) ボニファティウス9世 (1389-1404) ベネディクトゥス13世 (1394-1417) インノケンティウス7世 (1404-1406) ピサ教会会議 (1409年)グレゴリウス12世 (1406-1415)アレクサンデル5世 (1409-1410) コンスタンツ公会議 (1414-1418)ヨハネス23世 (1410-1415) マルティヌス5世 (1417-1431) 現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇(図の黄色)を正統として数え、それ以外の教皇は対立教皇としている。(M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年などを参考に作成) [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 王権の超自然的権威の獲得過程 中世を通じて王権はキリスト教的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性、霊性を民衆の心性のうちに獲得しようとし、実際に王権はある種の霊威、あるいは超自然的権威を位置づけることに成功した。このような霊威は当初、偉大な王の個性に基づいて「一代限り」のものであると考えられていたが、徐々に世襲されるようになり、儀礼も備えて王権とそれを世襲する王家に一種のカリスマを付与することになった[* 132]。宗教的儀式によって、王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対しては優位性を主張しえたからである[206]。霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった[* 133]。 イングランド、エドワード懺悔王の霊威 イングランドにおける国王の霊威をあらわす初期の例は、ノルマン朝のヘンリー1世によるもので、王はおそらく瘰癧患者にその手で触れることにより治療をおこなっている。この王権による瘰癧治癒能力は、おそらく後述するカペー朝がすでにおこなっていた瘰癧治療に対抗するためにエドワード懺悔王の説話を用いて設定されたもので、カペー朝の王権に対抗するためのものであったと考えられている。つづくプランタジネット朝の時代にはヘンリー2世がすでに瘰癧治療を「御手によって」おこなっているのはほぼ確かで、エドワード1世時代には治療を受けた者に王が施しをするのが明らかになっているので、会計記録からその集計を知ることができる。この瘰癧治癒の霊威の根源は国王が塗油され聖別されたことに由来するとされた。 エドワード2世のころから別種の奇跡、指輪の奇跡がイングランド王権の儀式にあらわれる。これは毎年復活祭直前の金曜日に、王がまず一定の金銀を寄進した上で、それを買い戻し、買い戻した元の寄進の金銀で指輪を作るという儀式で、こうして作られた指輪は痙攣や癲癇の病人の指にはめられると、病をいやすと考えられていた。この儀式では当初、寄進された金銀が聖性を帯びると考えられ、王権は直接に霊威の由来とはされなかったのであるが、テューダー朝のヘンリー8世のころには塗油された王権に由来するものと考えられるようになり、この時期にはすでに儀式において「買い戻し」の行為が省かれていた。指輪の奇跡は宗教改革の時代に批判に晒されるようになり、エリザベス1世によって廃止された。 一方で瘰癧さわりのほうはしばらく存続した。ステュアート朝初期には熱心に瘰癧さわりがおこなわれたが、オランダ人であったウィリアム3世はこの儀式に否定的で患者に触ろうとはしなかった。つづくアン女王は瘰癧さわりをおこなったが、ハノーヴァー朝以降全くおこなわれなくなった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] フランス、聖マルクールの霊威 百合紋 フランス王家の紋章。14世紀半ば頃に百合紋を巡って一つの説話が作られた。"ある日、クローヴィスがコンフラとの決闘の準備をしている時に従者に甲冑を取りに行かせると、甲冑に普段の三日月紋にかわって、青地に百合が3輪描かれている。4度別の甲冑に取り替えさせるが、いずれも同様の百合紋がついている。そこでしかたなくこれを着て決闘するとクローヴィスは勝利を収めることができた。じつはこれはキリスト教徒であった妃クロティルドの計らいで、妃は百合紋を用いて決闘に向かえば勝利するであろうとの啓示を受けていたのだった" フランスではカペー朝の初期、フィリップ1世がおそらく瘰癧さわりをおこなったと考えられている。フィリップ4世の時代にはフランス全土ばかりか、全西ヨーロッパ規模でこの「瘰癧さわり」は評判となっており、教皇領であるウルビーノやペルージャからも治癒を求める民衆がやって来ていることが確認されている。また中世を通じて医学書に瘰癧の治療法としてこの「瘰癧さわり」が記述されていた[* 134]。一方でルイ6世の時代には王旗や王冠がカール大帝の伝承にむすびつけられ、カロリング朝とフランス王権の間に観念的な連続性を生じさせた。 フィリップ4世のころには、この瘰癧さわりがクローヴィスの洗礼に由来する[* 135]塗油された王の霊威によるものという観念があらわれている。そしてこの伝説はランス大聖堂にクローヴィス以来の聖香油が聖瓶(サント・アンブール)に保管されており、王の即位式で王は聖香油を塗油され聖別されるという観念につながった。 中世末期になると、この瘰癧さわりに別個の聖マルクールの瘰癧治療信仰が混入し、区別がつかなくなった[* 136]。ヴァロワ朝のフランソワ1世の時代には、王の瘰癧治癒能力がこの聖者に由来するという観念が一般化していた。フランス王はコルブニーにある聖マルクールの遺骨の前でミサをおこなう際に瘰癧さわりも施すようになり、それを目的として参集する病人が年々増大した。 フランスの「瘰癧さわり」はブルボン朝のルイ16世の時代まで熱心に続けられていたが、フランス革命が起こると王は神授権説とともにこの慣習も捨てることとなった。これ以降はシャルル10世の時代に「瘰癧さわり」の復活が試みられているが、王自身も否定的であったので1825年に一回おこなわれたのみでこれが最後の事例となった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 教権の宗教的権威への挑戦 このような王権の超自然的権威はローマ教皇の宗教的権威、具体的には教皇勅書「唯一の、聖なる(ウナム・サンクタム、"Unam sanctam")」への挑戦であった。この教皇勅書はボニファティウス8世により出されたもので、教皇は世俗的領域と宗教的領域の両方で、至上権を有していることを述べていた。以後歴代教皇はこの勅書を基本的に踏襲し、教皇首位権を擁護する聖職者・神学者たちはこれをしばしば引用したばかりか、ややもすれば拡大解釈して教皇の特権を強調した。 王権の「瘰癧さわり」に関してはしばしば異端の疑いを受け、また宗教的権威において、教権に対しての王権の優位性を根拠づけることに成功したとは言い難いものの、中世の後期には民衆の間でこの慣習が広く受け入れられていたことは事実である。またこのような王権の超自然的権威が、一方で近代的な意味での国民的な感情に結びついていたことを見逃してはならない。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 王の二つの身体(霊的王権から政治的王権へ) 中世前期、皇帝派の著述家たちはしばしば王が霊的な権能を有していることを主張した[* 137]。それに対し、教皇派の著述家たちは王権の聖職者としての性格を拒否した。王は純粋に世俗的で肉体的な自然的身体を持つ一方で、王として塗油された瞬間から他の世俗的権力者を超越する霊的身体を持つと考えられ、皇帝派によって大いに喧伝された[* 138]。教皇派は「王に対する塗油が、司教に対するものと違って、魂に何の影響も与えない」[* 139]として、前者の考えを否定した。 中世後期にいたると、王の霊的権能のほとんどは名目的な称号や役職へと退化していたが、それでも著述家たちは王が単に世俗的な支配者であるに留まるわけではないことを強調した。これには中世に発達した法学の影響があり[* 140]、王はあらゆる法的義務から超越し、正義の源泉であると考えられた。その過程において、王権は王個人と区別して観念されるようになった。法学者たちは、王には自然的身体と政治的身体の二つの身体があり、自然的身体は可死的な王の生まれながらの身体であるが、政治的身体は不可死かつ不可視で、政治組織や政治機構からなり、公共の福利をはかるために存在していると考えた[* 141]。 清教徒革命時には王個人の行動が政治的身体である王権に反するものであるとして、議会の王への反抗が正当化された。彼らは「王 (King) を擁護するために王 (king) に対して闘え」と叫び、さらにチャールズ1世を「大逆罪」で処刑することもできたのである。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カトリック大国、スペイン 16世紀に新しい大国が西ヨーロッパの政治舞台に登場した。イベリア半島のスペインとポルトガルである。両国とも盛んに海洋進出をはかり、新大陸・アジアなどへの航路を確保しながら広大な植民地を獲得していった。またこれらの地域への布教活動においても重要な役割を担った。ヨーロッパにおける教権との関係でいえば、スペインはとくに重要な個性としてヨーロッパ政治史に固有の位置を占めることになる。 王権によるスペイン教会の掌握 異端審問 ゴヤによる1815年ごろの作。異端を疑われた者は図のような高い帽子を被らされた カスティリャ王国とアラゴン王国の合同によって成立したスペインは、レコンキスタを完成してイベリア半島からイスラームの勢力を駆逐すると、国内の宗教的統一をはかるようになった。当初は征服地のイスラム教徒であるムーア人に信仰の自由を許していたが、彼らが反乱したのを理由に1501年、ムーア人に信仰を守って移住するか信仰を捨てて洗礼を受けるかの二者択一を迫った。またユダヤ教徒を国内から追放し、キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)についても密かにユダヤ信仰を守っているのではないかという疑いをかけていた。 イサベル1世とフェルナンド2世は、王国の安定のためには国内の宗教的統一が不可欠であると考え、教皇に要請して1478年スペイン異端審問所を設けた[* 142]。この異端審問所では当初から国王が全権を握り、スペイン教会における王権の影響力を高めて事実上教権からの自立を勝ち取ったばかりか、王権による国家政策の一環として政治目的にも利用されるようになった。さらに支配下のナポリ王国に教皇が領主権を主張すると、これに激しく反発して一時は教皇と断交寸前にいたった。つづくカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の時代にはサンティアゴ騎士団長の位が王家によって世襲されることを定め、国王は国内の宗教的権威と権限を掌握した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] イベリア半島におけるキリスト教文化の興隆 この時代スペインではキリスト教文化においても大きな前進が見られた。具体的にはルネサンスの人文主義の成果が取り入れられ、先進的な神学校や大学などの教育機関がスペイン各地に設けられた。この時代のスペインのキリスト教アカデミズムを代表するのがメンドサとシスネーロスである。 メンドサは1492年のグラナダ攻略の際にスペインの首座大司教であり枢機卿であった人物で、宗教教育推進のためにキリスト教教育書を書いた。シスネーロスはアルカラ・デ・エナーレス大学を創設し、ここには当時の主要な神学、トマス派、スコトゥス派、唯名論などの講座が設けられ、ギリシア語・ヘブライ語も学ぶことができた。さらにここでは聖書原典の編纂事業が行われ、『コンプルトゥム多国語対訳聖書』が著された。これらスペインでのキリスト教文化の発展は、人文主義に対する一定の寛容をもたらし、とくにエラスムスの著作はこの地域で大変な人気を博し、よく読まれた。このことはのちの宗教改革において、この地域での宗教改革派の影響が軽微に止まる原因の一つともなった。 ポルトガルでは、1554年にイエズス会の手によって、エヴォラ大学が創設された。エヴォラ大学は、中世以来のコインブラ大学に対抗し、近代的な大学であったが、一方で科学の自由な知的探究を排し、講義はラテン語でおこなうなど現地語主義を抑圧した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 中世の民衆信仰 中世を通じて、支配者や聖職者の知的な宗教世界とは別の次元で、民衆の間にも独自の信仰が展開されていた。このような民間信仰は民衆の日常生活や伝統的な世界観と結びつき、ときには集団的な様相を取って大きな宗教的運動に結びついた。ここではキリスト教がいかに中世のヨーロッパの一般民衆の生活に根付いていったかを概観する。 魔術的な神から摂理的な神へ 王としての「キリスト」 フェルナンド・ガレゴによる15世紀の作品。紀元1000年ごろから、威厳を持った王の姿で表されるキリスト像が現れる ゲルマン人の間にキリスト教が受容された当初、「神の全能」は多分に魔術的に解釈されていた。たとえばクローヴィスは妻クロティルドにキリスト教への改宗を薦められると、キリスト教の神が彼の戦勝に貢献するなら、信仰を受け入れようと約し、勝利を得た後に改宗した。これはゲルマン神話の戦争の神オーディンがルーンを習得して魔法を使う魔術の神であったことを考えれば、魔術的な神への信仰としてキリスト教を見ていたことになる[* 143]。中世初期には、聖職者はしばしば魔術的な力を持つと信じられた。聖職者は民衆から尊敬の眼差しで見られる一方、魔術師として恐れられ嫌われた。11世紀のデンマークでは、聖職者は天候に対して魔術的な力を持つと信じられ、天候不順であった際には迫害を受けた。13世紀フランスでは、ある村で疫病がはやった際に、司祭を犠牲にすることで村を救おうとした事例がある。11世紀のグレゴリウス改革において教会が排除しようとしたのは、王権の奇跡能力と、聖職者に対するこのような魔術的迷信であった。グレゴリウス7世は王や聖人の奇跡を否定する一方、デンマークで天候不順の際におこなわれた聖職者への迫害を非難している。 しかしながら中世を通じて、神の起こす奇跡は自然法則を超えることができると信じた民衆の心性は、ほとんど変わることがなかった。例えば王権の超自然的な奇跡能力への信仰は、中世後期にむしろ強められさえし、聖人への信仰は特定の奇跡と聖人を結びつけ特殊化する方向に進んだ[* 144]。一方で民間信仰とは別個の次元で、教会は奇跡を神学的に論じ、神の摂理の合理的な体系の中に位置づけた。すなわち教会はある人物を列聖する際には、その人の起こした奇跡をその生涯と奇跡のあらわれ方から吟味して、聖人とするかどうかを決定するようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 新しい信仰形式、清貧、巡礼、神の平和 10世紀末ごろから、従来の信仰形式とは異なった、いくつかの大衆的な宗教運動が現れた。 このころ従来の修道院とは異なった形で、よりイエスのあり方に近い修道生活を目指す運動がおこった。この運動の淵源は東ローマ帝国に近い、南イタリアのカラブリア地方のギリシア系修道士たちの生活に端を発し、南イタリアにイスラム教徒が攻撃を加えるようになると、彼らは難を避けて北上した。11世紀になると全ヨーロッパ規模で、この新しい運動に基づいた修道院設立が活発化した。とくに影響が大きかったのは13世紀に現れたアッシジのフランチェスコで、彼の清貧運動には在俗の多くの信者が共感し、ともに貧しい生活を営んだ。同時期に同様に清貧を唱えた異端のワルドー派も多くの在俗信者を獲得した。このように聖職者の貴族的な共同生活であった修道生活が、イエスの清貧という理想を通じて、民衆の間に広く受け入れられた。 信徒たちの母として描かれた聖母マリア(1445年ごろ) 12世紀西欧では、聖母信仰が流行した。聖母マリアのイエスを失うという悲劇的な体験が、イエスと贖いの苦しみを共有するものと観念されたからである。聖母マリアは普遍化され、「神の母」としてキリスト教社会のすべての信徒を包み込む存在とされ、厚く尊崇されるようになった またこのころ、聖遺物や聖人に対する信仰が高まり、各地に収められた聖遺物や聖人の故地への巡礼がさかんとなった。サンティアゴ・デ・コンポステーラや聖地エルサレムへの巡礼は大衆運動となった。のちには十字軍運動と結びついて、多数の信者が十字軍に参加したり、特に少年十字軍に代表されるように、自発的に大衆の十字軍が組織されたりもした。西ヨーロッパの交通網は11世紀までにまず聖地のネットワークとして形成され、徐々に定期市や港湾にネットワークを広げ、その拠点には金融市場が形成されるようになった。こうして成立した中世の交通網は古代のローマ帝国の街道網とはかなり異なったものであった[207]。 10世紀末の南フランスでは、フェーデに代表される封建的な私闘を、破門を威嚇に用いることで抑制しようという「神の平和」運動が起こった。これは封建的私闘の悪弊から、農民の財産や労働、商人の活動を保護しようという意図をもち、平和攪乱者に対して破門を下すとともに、農民が武器を持って戦うことも正当化するものであった。この「神の平和」運動は11世紀前半には全フランスに広がり、やがてドイツにも伝播した。ドイツではこの平和運動に王権が積極的な役割を演じ、時期を限ってフェーデを禁ずるラント平和令を出した。このラント平和令はのちには永久化されて、中世的な自力救済に基づいた私刑主義を非合法化し、公権力を創出するものとなった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] キリスト像の変容と聖母信仰 キリスト教が西ヨーロッパ社会で広がっていく過程において、イエス・キリストとその母マリアのイメージも大きく変容した。 まず紀元1000年ごろから「子なる神」イエスに対する関心が非常に高まり、とくに厳しい審判者として、あるいは威厳ある王としてのキリスト像が頻繁につくられるようになった。ところが12世紀ころから、今一度キリスト像に大きな変化が見られ、貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエスの像も数多く見られるようになった。このキリスト像を、その清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのが、アッシジのフランチェスコであったといえる[208]。 最近のカトリック教会による教義の明確化[* 145]にいたるまで、教義上は確固とした位置を占めなかった聖母についての数々の信仰もこの時代に成立した。まず12世紀ごろに聖母マリアも死後昇天したという「聖母の被昇天」信仰があらわれ、14世紀にはキリストを宿したマリアが原罪を背負っているはずはないとする「無原罪の御宿り」信仰があらわれ、激しい論争の種となった。聖母は「子なる神」イエス・キリストの母として、信者とイエス・キリストの間をとりなす特別の存在として尊崇を集めた。12世紀には祈祷文「アヴェ・マリア」が成立している。このような聖母マリアへの特別の尊崇は、ときに彼女をキリストの贖罪になくてはならず、贖いの補足者と見なす見解にもつながったが、教会は一貫してこの見解を斥けている[* 146]。この聖母信仰は、のちに宗教改革派によって攻撃の的とされた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 宗教改革前思想史 宗教改革は思想史的に言えば、突然に起こったものではなく、宗教改革諸派の思想は基本的に前代のさまざまな異端思想や人文主義思想と共通する点が多い。したがって宗教改革は思想面での革新性を示したというよりは、むしろ中世を通して堆積してきた政治状況に注意すべき点があるといえる。国家と宗教の関係についていえば、これらの思想はこの問題を直接的に扱い、論じているものが多い。宗教改革を巡る政治状況については後述するが、ここでは思想史的背景から宗教改革の前思想ともいうべき様々な思想傾向を概観する。 近代思想の先駆(1):パドヴァのマルシリウス イングランドの異端思想、ウィクリフとロラード派 思想上の接点は必ずしも明確ではないが、ロラード派はイングランドの宗教改革運動にある程度の影響を及ぼしている 詳細は「パドヴァのマルシリウス」を参照 パドヴァのマルシリウスの『平和の擁護者』(1324年)は、しばしば近代的な人民主権理論の先駆として言及される。この著作においてマルシリウスは世俗社会に対する教会の介入を批判し、当時の皇帝ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世の間の論争において皇帝側を擁護する論陣を張った。 さて、マルシリウスが人民主権理論の先駆とされる理由は、法の強制力は公民の同意に基づくと述べたためである。つまり『平和の擁護者』において、強制力を持つ実定法こそが真の意味の法であり、翻って実定法がなぜ強制力によってでも守らなければならないものであるかといえば、実定法がある時点で人為的に、公民の意志に基づいて制定されているからであるという論が示されている。支配者はこうして強制的に法を執行することが可能であるが、一方で人民に対して責任を持つ。 マルシリウスによれば、実定法である法には、次のような性格が明瞭である。 法の対象は外的な行為に対してであって、信仰などの内面に関わらない 神の法は窮極的な原因であるが、世俗の法には直接的に関わらない 国家における正義および利益の実現を目的とする 支配者の安全、統治の継続に資する とくに 1. 2. については明瞭に政教分離の考えを述べている。 マルシリウスは教皇権の批判にも筆を進め、教会がキリスト教徒全体の共同体であるとし、そうであるならば、教皇権はキリスト教自体に全く根拠を持たない歴史的な産物であるとし、本来聖職者は平等であるべきで、教義の問題は教皇ではなく公会議によって決めるべきだとした。このマルシリウスの主張は公会議主義の有力な根拠となった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 近代思想の先駆(2):ブリテン島の科学主義、唯名論の系譜 詳細は「ロジャー・ベーコン」、「ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス」、および「ウィリアム・オッカム」を参照 12世紀から13世紀にかけてスコラ哲学は完成に向かい、それはトマス・アクィナスによって一応なされたのであるが、そのトマスと同時代のイングランドでは、オックスフォード大学を中心として、すでにスコラ哲学の解体へと向かう運動が始められつつあった。14世紀に入ってからの後期スコラ学の時代には、パリ大学ではアヴェロエス主義[* 147]的な傾向が強まったのに対し、オックスフォード大学では、すでにアリストテレスに基づいた論理や概念は必ずしも尊重されず、より正確な論理的方法や概念が探究されるようになり、経験主義的な傾向が強まった。 オッカムのウィリアム 唯名論に基づいた著作が異端とされ、1328年破門されると、ルートヴィヒ4世のもとへ逃亡し、『教皇権に関する八つの提題』を著して教権を攻撃した。このなかで注目されるのは聖書の啓示を万民に許されているという思想で、のちの宗教改革を先取りしている オックスフォード大学における経験主義の先駆としてはロジャー・ベーコンがまず挙げられる。彼はトマス・アクィナスの同時代人であるが、アリストテレスを信じず、それに依拠しないで自ら実験して数学的な知識に基づいて研究し、錬金術も行った。ベーコンによればトマス・アクィナスのような神学は、経験的でないから学問に値しないものであった。 ベーコンの半世紀後に登場したドゥンス・スコトゥスは、ベーコンとは逆に、トマス・アクィナスが演繹的でないという批判を行った。スコトゥスによれば学問とは必然的で論理的な内容を持つものであるべきで、神の問題は厳密に言えばこのような論理的な積み上げによって得られる知識ではないから、神学が学問の中心的分野になることはおかしいとして、トマスの「神学は哲学の婢」という考え方を批判した[* 148]。 オッカムのウィリアムはドゥンス・スコトゥスの考えを発展させ、普遍的なもの(抽象)は名辞によってしか知られず、事物の本質はそれぞれの個体(具体)に存するという考えを唱えた(「唯名論」)。これはつまり「人間という観念がまずあって、それを基に個々の人間が存在する」のではなく、「無数の人間がまずあって、それらの共通点を抽象化したのが人間という観念である」という考え方である。この考えを拡張すると、この世界が合理的な秩序に基づいているという神の摂理を主張する立場が否定され、神の秩序なるものは、所詮神が個々に命じた個別的な意志の集積に過ぎないとする考え方に到達する。これはジャン・カルヴァンの「神中心主義」に近い考えである。 さらにオッカムのウィリアムは前述のパドヴァのマルシリウスと同じくルートヴィヒ4世に仕えて、反教権論を展開したのであるが、その思想はより原理主義的で、のちの社会契約説を先取りしている面がある。パドヴァのマルシリウスがアリストテレスに基づいて、国家を家族から発展した自然の共同体と見ているのに対し、オッカムのウィリアムは国家以前の自然状態を論じ、公共の福祉、共通善の実現のために契約によって国家が成立したのだと論じた。オッカムのウィリアムはさらに、マルシリウスにおいては不徹底であった人民主権的な考え方をより鮮明に打ち出し、国家が契約に基づくのであるから、立法には公民全体が参加すべきであるという考えを説いた。そして、オッカムのウィリアムは自身の理想とする政治社会のアンチテーゼとして現実の教会を批判した。教会においては教皇が異教的なローマ皇帝の制度に依拠して、本来は万民に開かれているべき権限を独占し簒奪している。神の啓示は本来聖書の中に記されているはずなのに、教会や教皇はそれらをみだりに読むことを禁じ、信徒から遠ざけている。本来であれば聖書を読める者なら誰でも、神の啓示に参加できるはずである。オッカムのウィリアムの考えは宗教においてもマルシリウスよりラディカルであり、公会議主義にも否定的である。彼によれば公会議もやはり教会という限られた共同体の聖職者に限られ、信徒全体に依拠するものではないから不完全である。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 改革運動の先駆(1):ウィクリフ 詳細は「ジョン・ウィクリフ」および「ロラード派」を参照 しばしば宗教改革の先駆として引用されるウィクリフは、オックスフォード大学に学んだイングランドの神学者で、1374年ころからイングランド王権と教皇庁の課税権を巡る論争に現れ、イングランド王権を擁護する主張を繰り返すようになった。ウィクリフの主張は課税権にとどまらず、やがて教皇の聖職叙任権にも向けられ、さらには教会は布教に必要最低限の財産しかいらないと述べて、教会財産の没収にまで言及するようになった。教会はウィクリフを異端審問にかけたが、王権や民衆の側から圧力が加えられ、ウィクリフは解放された。 こののちウィクリフは教義の批判に進み、アウグスティヌスに基づいて予定説を唱えた。彼は真の教会が目に見えないもので、あらかじめ救済が予定されている者によって構成されているのに対し、可視的な教会はすでに堕落しており、聖書のみに基づいたキリスト教の原始的な信仰に戻るべきだと説いた。 1384年にウィクリフは死ぬが、そののちコンスタンツ公会議で1415年に異端とされ、死体が掘り起こされて焼かれた。ウィクリフの教えに従って聖書を尊重するロラード派(あるいはロラーズ、"Lollards")という一派を生み、一時はオックスフォード大学などを中心に広まったが、のちに徹底的に弾圧された[* 149]。彼の思想は直接的には次のフスにつながり、宗教改革やイングランドのキリスト教解釈にも影響を及ぼした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 改革運動の先駆(2):フス エラスムス 16世紀前半にヨーロッパで広汎な影響力を持った人文主義者。中世を通じて教会が聖書解釈を独占していたが、エラスムスは独自のギリシャ語新約聖書を出版し、大変な人気を博した。ルターによって宗教改革が始まると、予定説と領邦教会制を批判し、人間の自由意志と全ヨーロッパ的なキリスト教共同体を擁護した。彼は領邦教会制がキリスト教の世俗権力への従属に他ならないことを批判し、ヨーロッパに平和がもたらされるためには全ヨーロッパ的なキリスト教共同体が不可欠なことを主張した。彼は信仰の自由、聖書解釈の自由、キリスト教徒の平和共存を説いたが、宗教改革が激化するとプロテスタント・カトリック双方から槍玉に挙げられるようになった 詳細は「ヤン・フス」および「フス戦争」を参照 フスは貧しい農民の出身で、オックスフォード大学で勉強し、のちにプラハ大学の教授となった。フスはウィクリフの思想に影響されて個人の信仰を重視して教会を否定的に考えるようになった。 神聖ローマ皇帝カール4世の時代にボヘミアは文化的な隆盛を迎えた。この統治者のもとでプラハは独立の大司教区となり、プラハ大学を創設した。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わったが、のちにこのような一部の聖職者に富が蓄積される傾向が、世俗貴族や下級聖職者の批判するところとなった。このころのボヘミアでは少数でありながら影響力の大きいドイツ人移民と土着のチェック人の間で対立がおきており、その構造はプラハ大学でも同様で、ドイツ人の同郷団[* 150]は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。またチェック人の同郷団はウィクリフ派であったが、残りの同郷団は反ウィクリフ派であった。このことがしばしばプラハ大学でも大きな分裂を引き起こしたが、1409年に皇帝ヴェンツェルはドイツ人の同郷団が皇帝の意向に背いたために、勅令を出してチェック人の同郷団を優遇すること[* 151]とし、これを不満に思ったドイツ人学生はライプツィヒに移住し、ライプツィヒ大学が分離した。そしてライプツィヒのドイツ人はフスを異端だとして突き上げた。 フスは破門を宣告されるが、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とした。またウィクリフに従って予定説を論じたが、ウィクリフとは異なって聖職位階制に対しては否定しなかった。ヴェンツェルの弟で、皇帝であったジギスムントはこの宗教問題を平和的に解決しようとコンスタンツ公会議に出席するようフスを説得し、教皇も破門を一時的に留保したのでフスは公会議に参加した。しかしこの公会議でフスは異端と宣告され、火刑に処された。フスが死んだとはいえ、ボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。 ヴェンツェル死後にジギスムントがボヘミアを相続することになると、ボヘミアのフス派はいよいよ反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派(英語版)を中心としてジギスムントの十字軍を何度も撃退し、一時は一方的に国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を事実上実現させるなど大いに盛んとなった[* 152]が、やがてフス派の穏健派が中心となって皇帝と和解し、皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。しかしボヘミアは以後もカトリック教会においてほとんど独立した状態を維持していた。 戦争の影響で教会や修道院が大きく衰退し、聖職者は議会において影響力を失い、ボヘミアの議会は貴族と都市市民が参加する世俗的な身分制議会を形成することとなった。またドイツ人が多く域外へ脱出し、チェック人の勢力が強まり、チェコ語の礼拝が重視されるようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 人文主義の宗教観:エラスムス 詳細は「デジデリウス・エラスムス」を参照 エラスムスは15世紀末から16世紀前半にかけて、ヨーロッパに最も影響を及ぼした人文主義者の一人であった。エラスムスはパウロの「ローマの信徒への手紙」に影響を受け、聖書を自ら再検討しようと考え、ギリシア語を学んで『校訂ギリシア語新約聖書』を著した[* 153]。これは印刷術の進歩による後押しもあって当時広汎な地域に流通し読まれた[* 154]。 エラスムスは教会の腐敗と信仰における聖書の重視を訴え、教会が聖書解釈を独占しようとして一般信徒に聖書を調べることをしばしば禁じていることを批判し、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うものであることを主張した。この面でエラスムスはのちの宗教改革者と同じ平面に立っていたが、彼は教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て、これを公然と批判するようになった。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。ともかく両者はこのように、教会の腐敗への批判と聖書の重視という点では一致していたが、その教義上の立場も政治上の立場も全く異なるものであった。 エラスムス自身は教会の普遍性を信じ、カトリックとプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた[* 155]彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年、トリエント公会議で禁書処分にされた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 近代社会とキリスト教(1500年〜1800年) ルター 「95カ条の論題」を発表[* 156]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった 宗教改革は純粋に宗教内での問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を基礎づけたばかりか、近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった。 宗教改革(プロテスタント側から) 詳細は「宗教改革」および「プロテスタント」を参照 1517年アウグスティノ修道会士であったルターによって「95カ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった。 神聖ローマ皇帝カール5世とエラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントとカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[* 157]。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ドイツの領邦教会制度 当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[* 158]。 シュマルカルデン戦争 詳細は「シュマルカルデン同盟」および「シュマルカルデン戦争」を参照 1530年にカール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。 アウクスブルク帝国議会(1530年) この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] アウクスブルクの平和令 アウクスブルク宗教平和令 1555年にマインツで印刷された版本の表紙 このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年に諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[* 159]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイス盟約者団と福音主義 ドイツでルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴにカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、ずっとのちに近代的な政教分離の主張へとつながっていくことになる[209]。 スイス盟約者団の歴史的経緯 詳細は「スイスの歴史」を参照 スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[* 160]。今日では、スイスの国家統合は14,15世紀を通じてスイス周辺の状況のなかで徐々に進行したと考えられており、当初の盟約はあくまでラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。 12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境の隔絶された山田舎に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒはウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属の地位とした[* 161]。1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[* 162]。14世紀初頭にはウンターヴァルデン地方も帝国直属を獲得しているのが確認される。これ以前の1291年にはすでにこれらの三者は盟約を結んでいた[* 163]。 1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王は1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦い(ドイツ語版、英語版))。この直後の12月9日盟約が更新され、盟約者団はさらに結束を強化した。こののち14,15世紀を通じてハプスブルク家との戦いが続くが、近隣の邦や都市が徐々に同盟の形で参加した。1499年、皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団に奪われたハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争(ドイツ語版、英語版))、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国から独立した[* 164]。1513年のアペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持されることとなる[* 165]。 長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦い(フランス語版、ドイツ語版、英語版)でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年にルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い(英語版)で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイスの宗教改革(1):ツヴィングリ ツヴィングリ像 チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している 1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭からマタイによる福音書の説教を開始した。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタを使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン[* 166]の内部での対立は、たちまち先鋭化した。 1522年3月、受難節の断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[* 167]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」の説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明し、チューリヒはツヴィングリの福音主義の拠点となった。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとなった。ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した。一方で教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりこののちのチューリヒにおける改革の枠組みが定まった。すなわちチューリヒでの改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれるのである。 1524年6月には市内全域から聖像画・聖遺物・ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されて資産はカントンに接収された。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のためにカロリーヌム[* 168]が開設された。こうしてスイスにおける福音主義の橋頭堡は着々と固められた。 しかしながらこの時点では、スイス内での福音主義の孤立は明らかであった。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンはカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した。しかし1528年1月に有力なベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンやコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。これを見てカトリック派のカントンも宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第1次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議)。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである。ここに信仰の「属地主義」、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。 第二次カッペル戦争 ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版 第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立し[* 169]、物別れに終わった。 ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるに留まった。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第2次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。このときカトリック側8000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した。 しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。スイスにおける福音主義は後継者ブリンガーに受け継がれ、カルヴァンの登場を待つこととなる。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] スイスの宗教改革(2):カルヴァン ジュネーヴのサン・ピエール教会 ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った 1536年7月から8月にかけてのころ、たまたまジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、同地で福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請された。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知り、援助を願ったのである。カルヴァン自身はこのときストラスブールへ向かっている途中であったが、これに協力することを決意した。 1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[* 170]。1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの新しい市参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。 やがてジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、彼らによる再びの招聘を受けて、1541年9月13日カルヴァンはジュネーヴへと帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職[* 171]を定め、いわゆる「神権政治」を開始した。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミシェル・セルヴェが三位一体説を批判した廉で、異端としてカルヴァンにより火あぶりに処された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すようになった。 聖ニコラウス 15世紀後半盟約者団の間で対立が表面化し始めていたが、隠修士として尊敬を集めていたニコラウスの呼びかけによって、諸邦は再び結束し、シュタンス協定を結んで内部抗争の調停方法を定めた。ヴィルヘルム・テルと並んでスイスの国民的英雄である 1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリック根絶を強硬に主張し、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年に国教会の地位を獲得するに至った。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] プロテスタント圏スイスとカトリック圏スイス 宗教改革はスイスにとって結局どのような変化をもたらしたのであろうか。それについては前述の、宗教的な動機から見た展開とは別に、政治的意味から見た別の側面も確認できることに注目する必要がある。 周辺を諸侯修道院領に囲まれた都市共同体にとって、宗教改革を導入することは、これらを解体して領域支配に組み込める可能性が生じた。同時に教会財産の没収により経済力を高めることができた。またツンフトに代表される中下層の市民にとっては、都市共同体を上層で寡頭支配している門閥や都市貴族を排除できる可能性が生じた。なぜなら彼らの多くは保守的でカトリック信仰にとどまっていたからである[* 172]。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[* 173]。 1600年ごろには、スイスの宗教的分裂は一過性のものではなく、もはや既成事実として明らかなものとなっていた。盟約者団内部で、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった[211]。もちろん宗教的不和は厳として存在し、それはしばしば顕在化したものの、なお盟約者団への帰属意識が存在していたのである。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 宗教改革派の諸思想 ここでは、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。 ルター ルター像 ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している 詳細は「マルティン・ルター」を参照 ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている[* 174]。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二世界論」である。 ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した。 政治社会との関係でいえば、重要なのは「二世界論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるという。しかしながら、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である。これは信仰における諸侯の絶対的権限、領邦教会制度を理論的に認めるものであった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ツヴィングリ マールブルク会談 この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった 詳細は「フルドリッヒ・ツヴィングリ」を参照 ツヴィングリは後世にツヴィングリ派ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちである。しかしながら、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとは言えない[212]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なって人文主義やスコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 175]。 ツヴィングリの福音主義思想の中で、明らかにルターと異なると認められる特徴は、その実践的な性格である。ルターは個人的な深い宗教的探求によってその思想を形成しカトリックを批判したが、ツヴィングリはより実践的な考慮によって、つまり生活上の慣習や社会通念における誤った宗教的理解について攻撃を加えた。彼によれば、聖書に根拠のない聖人崇拝、修道制、独身制などは廃止されるべきで、さらに進んで生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであるとし、宗教を含めた生活の監督は信徒の集まりによって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとされた[* 176]。 ツヴィングリの死ぬころには、彼の信仰告白を受け入れる都市はスイスに留まらず、ドイツ南部にまで広がっていたが、彼の死後それらの多くはカルヴィニズムの中に分解されていった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] カルヴァン ジャン・カルヴァン その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない 詳細は「ジャン・カルヴァン」を参照 カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。 カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には見える教会と見えない教会があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。 一方世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家の中には必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。 カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない攻撃性も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズムに直面するうちに失われていき、寛容へと傾いていった[* 177]。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] フランスのコンフェッショナリズムと主権理論 コンフェッショナリズムとは、政治闘争が信仰の対立と密接に結びついた、宗教改革の時期特有の政治状況である。このような形での宗教対立が最も典型におこなわれたのが16,17世紀のフランスであった。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[* 178][* 179]。このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。 フランスの改革派、ユグノー カトリーヌ・ド・メディシス アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った 詳細は「ユグノー」を参照 フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[* 180]、1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった。 国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世は1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。 これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。 アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ユグノー戦争 詳細は「ユグノー戦争」および「ナントの勅令」を参照 前述の状況の中、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年のナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。 これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[213][214]。 サン・バルテルミの虐殺 ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。 この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルク家のフェリペ2世が1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。 アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令を1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ナントの勅令廃止まで ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリやノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌやラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。 アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。 ユグノーの多く居住する地域(17世紀) しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。 1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。 ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[* 181]。これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ユグノーとフランス経済史 マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノーは16~17世紀のフランス経済に大きな影響を及ぼした[* 182]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 183]。 ナントの勅令 ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[215]。その内訳は貴族・農民・手工業者・商人・金融業者など多様な社会階層に及んだ[216]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。 ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。 毛織物工業では、ラングドック・プロヴァンス・ドフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[217]。絹織物工業においては、17世紀中葉トゥール・リヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[218]。オーヴェルニュやアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 184]。 ラ・ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[219]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[220]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[221]。 ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 政治思想(モナルコマキとポリティーク) カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ、暴君放伐論者をモナルコマキ(英語版)という。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。 ジャン・ボダン 国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ベーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。 ラ・リーグの側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。 一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた。彼らを国家主義者という意味でポリティークと呼ぶ。 ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンで、彼は一方で近代的な主権理論の祖ともいわれる。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 低地地方と宗教改革 詳細は「オランダの歴史」を参照 メルセン条約によって東フランクと西フランクに分属することとなった低地地方[* 185]は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。しかしながら、14世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 186]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。 低地17州の歴史的経緯 ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿 詳細は「ネーデルラント」および「ブルゴーニュ領ネーデルラント」を参照 12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公、エノー伯、ルクセンブルク伯、フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。 低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。 14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており[* 187]、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」[* 188]へと発展した。 14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。 1477年にシャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世) カール5世の「帝国」(1547年) 詳細は「ネーデルラント17州」を参照 1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州[* 189]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。 カール5世に続いて低地地方を支配したのは長子フェリペであった。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 190]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 191]。このころフランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド 「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた 1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政マルハレータに提出した[* 192]。マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。 フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 193]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 194]。しかし、この頃フランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。 1566年、フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[* 195]。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである。1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世は1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 八十年戦争とオランダ共和国 詳細は「八十年戦争」を参照 ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した。1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。 1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 日本近代史における政教分離 大政奉還がなされて明治政府が誕生し、日本の近代史が始まる。ここでは近代の法制史の立場から政教分離に関連する歴史を概説する。 大政奉還の年(1867年慶応3年)神祇官が復興され、明治新政府は祭政一致の国家形成を目指す方針を出した[222]。1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立して行政制度において独自の位置を占めた。しかし1871年には神祇省に格下げされて、1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。 これに対して浄土真宗本願寺派の島地黙雷が三条教則批判建白書を提出し(1872年明治5年)、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、結局同5月に大教院は解散することとなる。 1873年1月に太陽暦が導入され、1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じ、国家祭祀に専念させることとし、国民的な習俗として一般的な宗教とは区別されることが方向付けられた。このさい内務省通達により神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)[223]。 大日本帝国憲法(1889年明治22年)には第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。 昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、日本政府の方針にしたがうべきことを表明した。 第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、現行憲法では政教分離が原則的には実現されている。 現代日本における政教分離原則に関する問題については政教分離原則・靖国神社問題・公明党を参照 [ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ] 関連項目 帝権と教権 叙任権闘争 皇帝 ローマ教皇 神聖ローマ帝国 フランク王国 カロリング朝 ホーエンシュタウフェン朝 ハプスブルク家 ルクセンブルク家 選帝侯 各国史 ドイツの歴史 フランスの歴史 イギリスの歴史 教会 キリスト教の歴史 ローマ教皇の一覧 東西教会の分裂 正教会 カトリック教会 教会大分裂 公会議主義 宗教改革 プロテスタント ヨーロッパ外の祭祀王権との比較 天皇 神道 皇帝祭祀 天下 参考文献 全体 森安達也 『近代国家とキリスト教』 平凡社〈平凡社ライブラリー, 446〉、2002年。ISBN 4582764460。[* 196] 歴史学研究会 編『現代歴史学の成果と課題 1980年-2000年 2 "国家像・社会像の変貌"』青木書店、2003年。 小林良彰・河野武司・山岡龍一 著『政治学入門 ( 07)』放送大学教育振興会、2007年。 江川温 著『ヨーロッパの歴史 ( 05)』放送大学教育振興会、2005年。 リュシアン・フェーヴル 『ヨーロッパとは何か 第二次大戦直後の連続講義から』 長谷川輝夫訳、刀水書房、2008年。ISBN 9784887083646。 ウィリアム・ウッドラフ 著、原剛ほか訳『概説 現代世界の歴史 1500年から現代まで』ミネルヴァ書房、2003年。 岡本明 編著『支配の文化史 -近代ヨーロッパの解読-』ミネルヴァ書房、1997年。 各国史全般 松谷健二 著『東ゴート興亡史』白水社、1994年[2003年中公文庫] 玉置さよ子 『西ゴート王国の君主と法史』 創研出版、1996年。ISBN 978-4915810084。 アズディンヌ・ベシャウシュ 著、藤崎京子 訳『カルタゴの興亡』知の再発見双書、1994年。 松谷健二 著『ヴァンダル興亡史』白水社、1995年[2007年中公文庫]。 青山吉信 『先史〜中世』1、山川出版社〈世界歴史大系, イギリス史〉、1991年。ISBN 4634460106。 今井登志喜 著『イギリス社会史』上下、東京大学出版会、1953年。 ベーダ・ヴェネラビリス 『イギリス教会史』 長友栄三郎訳、創文社、1965年。ISBN 978-4423460078。 J・R・H・ムアマン 『イギリス教会史』 八代崇ほか訳、聖公会出版、1991年。ISBN 978-4882740636。 村岡健次 ほか編著『イギリス近代史 宗教改革から現代まで』ミネルヴァ書房、1986年。 樺山紘一 ほか編『世界歴史大系 フランス史』1〜3、山川出版社、1995年。 成瀬治、山田欣吾、木村靖二 『ドイツ史』1、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年。ISBN 9784634461208。 森田安一 『スイスの歴史と文化』 刀水書房、1999年。ISBN 4887082355。 森田安一 『スイス・ベネルクス史』 山川出版社〈世界各国史, 14〉、1998年、新。ISBN 4634414406。 ウルリヒイム・ホーフ 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Medieval Italy during a Thousand Years A Brief Historical Narrative with Chapters on Great Episodes and Personalities and on Subjects Connected with Religion, Art and Literature. George G. Harrap. Edward Hutton (1913). Ravenna a Study. E. P. Dutton. ISBN 978-0554137117. - 名無しさん 2015-08-23 21 32 12 名前
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ドルイド Druid 炎の秘伝継承者 CR1/2 Initiate of Flame XP 200 ドワーフ、1レベル・ドルイド 秩序にして中立/中型サイズの人型生物(ドワーフ) イニシアチブ +0;感覚 〈知覚〉+6 防御 AC 14、接触10、立ちすくみ14(+4鎧) HP 15 (1d8+7) 頑健 +5、反応 +0、意志 +4;毒、呪文、および擬似呪文能力に対して+2 防御能力 防衛訓練(巨人に対するACに+4回避ボーナス) 攻撃 移動速度 20フィート 近接 スピア=+2(1d8+3/×3) 遠隔 スリング=+0(1d4+2) 特殊攻撃 オークおよびゴブリン類の人型生物に対する攻撃ロールに+1 領域の擬似呪文能力 (術者レベル1;精神集中+3) 5回/日―炎の矢 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル1;精神集中+3) 1レベル―エンデュア・エレメンツ、バーニング・ハンズ(領)(DC13)、フェアリー・ファイアー 0レベル(回数無制限)―ステイビライズ、ディテクト・ポイズン、フレア(DC12) (領) 領域呪文;領域 火 戦術 戦闘前 このドルイドは、毎日エンデュア・エレメンツを発動する。 戦闘中 このドルイド は、フェアリー・ファイアーを使用し、自分の足元に発煙棒を落として敵を自分の方に来させ、おそらく突撃に対してスピアを準備しておく。彼はスピアで戦うかバーニング・ハンズを使用する。 一般データ 【筋】15、【敏】10、【耐】16、【知】12、【判】15、【魅】6 基本攻撃 +0;CMB +2;CMD 12(足払い、突き飛ばしに対して16) 特技 《追加HP》 技能 〈生存〉+8、〈知覚〉+6(通常のものでない石製の仕掛けに気づく+8)、〈知識:自然〉+3、〈知識:地理〉+5、〈登攀〉+4、〈動物使い〉+2 言語 共通語、巨人語、ドルイド語、ドワーフ語 その他の特殊能力 自然感覚、自然との絆(火の領域)、野生動物との共感-1 戦闘用装備 錬金術師の火(2)、発煙棒(2);その他の装備 高品質のハイド・アーマー、スリングとブリット20個、スピア、登攀用具、治療用具、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、8GP この火山地域の敵対的な守護者はその火のような環境に適した気性を持ち、侵入者に容赦しない。 風手繰りの名手 CR1 Sail Master XP 400 人間、2レベル・ドルイド 中立にして悪/中型サイズの人型生物(人間) イニシアチブ +1;感覚 〈知覚〉+5 防御 AC 17、接触12、立ちすくみ15(+1回避、+3盾、+1【敏】、+2鎧) HP 18 (2d8+6) 頑健 +5、反応 +1、意志 +4 攻撃 移動速度 30フィート 近接 高品質のクラブ=+5(1d6+3) 遠隔 ショートスピア=+2(1d6+3) 領域の擬似呪文能力 (術者レベル2;精神集中+3) 4回/日―暴風の爆発 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル2;精神集中+3) 1レベル―オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ、シャレイリ、ジャンプ 0レベル(回数無制限)―ステイビライズ、ノウ・ディレクション、フレア(DC11)、ライト (領) 領域呪文;領域 天候 戦術 戦闘中 このドルイド は、戦闘の開始時にオブスキュアリング・ミストを、近接戦闘の間合いに移動する前にシャレイリを使用する。 一般データ 【筋】17、【敏】13、【耐】14、【知】8、【判】12、【魅】10 基本攻撃 +1;CMB +4;CMD 16 特技 《回避》、《盾熟練》 技能 〈職能:船乗り〉+5、〈水泳〉+5、〈生存〉+7、〈知覚〉+5、〈知識:自然〉+1、〈知識:地理〉+3、〈治療〉+5、〈動物使い〉+5 言語 共通語、ドルイド語 その他の特殊能力 自然感覚、自然との絆(天候の領域)、森渡り、野生動物との共感+2 戦闘用装備 スクロール・オヴ・キュア・ライト・ウーンズ(2)、スクロール・オヴ・エンタングル(2)、錬金術師の火(4);その他の装備 高品質のレザー・アーマー、木製ヘヴィ・シールド、高品質のクラブ、ショートスピア、ひっかけ鉤、治療用具、麻のロープ(50ft.)、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、琥珀のネックレス(25GPの価値)、45GP 風と天候の制御はあらゆる船にとって福音であり、そのため多くの北方のドルイドは船長、航海士、そして戦闘の支援者を勤める。 森林の守人 CR2 Sylvan Protector XP 600 ノーム、3レベル・ドルイド 混沌にして中立/小型サイズの人型生物(ノーム) イニシアチブ +2;感覚 夜目;〈知覚〉+8 防御 AC 18、接触13、立ちすくみ16(+1サイズ、+2盾、+2【敏】、+3鎧) HP 24 (3d8+7) 頑健 +5、反応 +3、意志 +5;幻術に対して+2 防御能力 防衛訓練(巨人に対するACに+4回避ボーナス) 攻撃 移動速度 20フィート 近接 シックル=+1(1d4-2) 特殊攻撃 ゴブリン類および爬虫類の人型生物に対する攻撃ロールに+1 領域の擬似呪文能力 (術者レベル3;精神集中+5) 5回/日―電弧 ノームの擬似呪文能力 (術者レベル3;精神集中+5) 1回/日―ゴースト・サウンド、スピーク・ウィズ・アニマルズ、ダンシング・ライツ、プレスティディジテイション 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル3;精神集中+5) 2レベル―ウィンド・ウォール(領)、サモン・スウォーム、フレイミング・スフィアー(DC14) 1レベル―オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ(2)、スピーク・ウィズ・アニマルズ 0レベル(回数無制限)―ヴァーチュー、ステイビライズ、フレア(DC12)、ライト (領) 領域呪文;領域 風 戦術 戦闘中 このドルイド は、スパイダー・クライムを使用して隠れ、それからオブスキュアリング・ミストを使用する。 一般データ 【筋】6、【敏】14、【耐】15、【知】10、【判】15、【魅】14 基本攻撃 +2;CMB -1;CMD 11 特技 《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》 技能 〈隠密〉+8、〈呪文学〉+6、〈生存〉+10、〈知覚〉+8、〈知識:自然〉+6、〈治療〉+6、〈動物使い〉+7 言語 共通語、ドルイド語、ノーム語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(風の領域)、森渡り、野生動物との共感+5 戦闘用装備 スクロール・オヴ・キュア・ライト・ウーンズ(3)、スクロール・オヴ・スパイダー・クライム、足留め袋(2);その他の装備 +1レザー・アーマー、高品質の木製ヘヴィ・シールド、シックル、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、95GP 無作法な植物学者 CR3 Savage Plant sage XP 800 ハーフオーク、4レベル・ドルイド 混沌にして中立/中型サイズの人型生物(オーク、人間) イニシアチブ +1;感覚 暗視60フィート;〈知覚〉+6 防御 AC 20、接触11、立ちすくみ19(+2外皮、+1【敏】、+7鎧) HP 32 (4d8+11) 頑健 +6、反応 +2、意志 +5;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 オークの凶暴性 攻撃 移動速度 20フィート 近接 高品質のクラブ=+9(1d6+4) 遠隔 スピア=+4(1d8+4/×3) 特殊攻撃 自然の化身1回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル4;精神集中+5) 4回/日―樹木の拳 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル4;精神集中+5) 2レベル―サモン・スウォーム、バークスキン(領)、ブルズ・ストレンクス 1レベル―エンタングル(領)(2、DC12)、シャレイリ(2)、フェアリー・ファイアー 0レベル(回数無制限)―クリエイト・ウォーター、ステイビライズ、ノウ・ディレクション、ライト (領) 領域呪文;領域 植物 戦術 戦闘前 このドルイドは、自分にバークスキンを発動する。 戦闘中 このドルイド は、エンタングルまたはサモン・スウォームを使用する。 基本データ バークスキンを除いた、このドルイドのデータは AC 18、接触11、立ちすくみ17。 一般データ 【筋】18、【敏】12、【耐】14、【知】8、【判】13、【魅】10 基本攻撃 +3;CMB +7;CMD 18 特技 《化身時発動》、《武器熟練:クラブ》 技能 〈威圧〉+2、〈生存〉+10、〈知覚〉+6、〈知識:自然〉+8、〈治療〉+7 言語 オーク語、共通語、ドルイド語 その他の特殊能力 跡無き足取り、オークの血、自然感覚、自然との絆(植物の領域)、武器精通、森渡り、野生動物との共感+4 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・モデレット・ウーンズ;その他の装備 +1ドラゴンハイド製ブレストプレート、高品質のクラブ、スピア(4)、ヒイラギとヤドリギ、93GP 大洞窟の守護者 CR4 Cavern Defender XP 1,200 ハーフエルフ、5レベル・ドルイド 真なる中立/中型サイズの人型生物(エルフ、人間) イニシアチブ +2;感覚 夜目;〈知覚〉+11 防御 AC 20、接触13、立ちすくみ17(+1回避、+2盾、+2【敏】、+5鎧) HP 31 (5d8+5) 頑健 +6、反応 +6、意志 +9;心術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 攻撃 移動速度 20フィート 近接 クオータースタッフ=+2(1d6-1)またはシックル=+2(1d6-1) 遠隔 高品質のスリング=+6(1d4-1) 特殊攻撃 自然の化身1回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル5;精神集中+9) 7回/日―酸の矢 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル5;精神集中+9) 3レベル―ストーン・シェイプ(領)、スパイク・グロウス(2、DC17) 2レベル―サモン・スウォーム、ソフン・アース・アンド・ストーン(領)、バークスキン、ベアズ・エンデュアランス 1レベル―オブスキュアリング・ミスト、キュア・ライト・ウーンズ、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、マジック・ストーン(領) 0レベル(回数無制限)―ガイダンス、クリエイト・ウォーター、ノウ・ディレクション、ライト (領) 領域呪文;領域 地 戦術 戦闘前 このドルイドは、自分の場所を守るために日に2回スパイク・グロウスを発動し、自分に近づくものを防ぐ必要がある場合はストーン・シェイプを使用する。 戦闘中 このドルイドは、近接戦闘から逃れる最初の機会に小型の空を飛ぶ動物に化身する。続くラウンドで彼女は敵の足元の地形にソフン・アース・アンド・ストーンとスパイク・グロウスを使用する。彼女はこれらの呪文を撒き散らし、スピーク・ウィズ・アニマルズと敵を痛めつけるための飛行クリーチャーを召喚する呪文を使用する。呪文を使い果たした場合、彼女は酸の矢を使用する。 一般データ 【筋】8、【敏】14、【耐】13、【知】12、【判】18、【魅】10 基本攻撃 +3;CMB +2;CMD 15 特技 《回避》、《技能熟練:生存》、《化身時発動》、《神速の反応》 技能 〈呪文学〉+7、〈生存〉+15、〈知覚〉+11、〈知識:自然〉+11、〈知識:ダンジョン探検〉+6、〈治療〉+10、〈登攀〉+1、〈動物使い〉+6、〈飛行〉+4 言語 エルフ語、共通語、地下共通語、ドルイド語 その他の特殊能力 跡無き足取り、エルフの血、自然感覚、自然との絆(地の領域)、森渡り、野生動物との共感+5 戦闘用装備 ワンド・オヴ・キュア・ライト・ウーンズ(50チャージ)、錬金術師の火(3);その他の装備 +1ハイド・アーマー、木製ヘヴィ・シールド、高品質のスリングとブリット20個、クオータースタッフ、シックル、クローク・オヴ・レジスタンス+1、背負い袋、治療用具、ヒイラギとヤドリギ、絹のロープ(50ft.)、呪文構成要素ポーチ、91GP ほとんどのドルイドは開けた空の下にある自然の土地の面倒を見、守護をするが、他の者は地面の下にある洞窟をうろつき回り、番人、守護者、そして蟲と菌類の世話人を勤める。 ジラル Zirul ジラルはコウモリとあらゆる種類の蟲が豊富な大きな洞窟網の孤独な守護者である。若い頃ここに捨てられた彼女は洞窟を故郷とみなし、そこに入ろうとするいかなる者も許さない。彼女は洞窟の壁面によく溶け込む暗色の斑点のある衣服を纏い、文明から長い間遠くは慣れて生活した結果、人間性の一部を失っている。 戦闘遭遇:ジラルの戦闘の原則はよい防御は圧倒的な攻撃の基礎となるというものだ。彼女は常に防御の強い場所から戦闘に入ろうと図る。 ロールプレイの指針: ジラルは他の人型生物に対して共感を持つ能力をほとんど失っている。彼女は常に独り言をいったり周囲にいる鼠やスウォームにぶつぶつ話しており、彼女の奇妙な振る舞いに混乱した人々の反応を無視する。 捕え難き小男 CR5 Evasive Slip XP 1,600 ハーフリング、6レベル・ドルイド 中立にして悪/小型サイズの人型生物(ハーフリング) イニシアチブ +4;感覚 〈知覚〉+9 防御 AC 22、接触15、立ちすくみ18(+1サイズ、+2盾、+4【敏】、+5鎧) HP 40 (6d8+10) 頑健 +7、反応 +7、意志 +8;恐怖に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 抵抗 [雷撃]10 攻撃 移動速度 15フィート 近接 高品質のシックル=+6(1d4) 遠隔 高品質のスリング=+10(1d3) 特殊攻撃 自然の化身2回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル6;精神集中+8) 5回/日―電弧 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル6;精神集中+8) 3レベル―ガシアス・フォーム(領)、呪文持続時間延長サモン・ネイチャーズ・アライII(2) 2レベル―ウィンド・ウォール(領)、サモン・スウォーム、呪文持続時間延長サモン・ネイチャーズ・アライI、バークスキン 1レベル―エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト(領)、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー、マジック・ファング 0レベル(回数無制限)―ディテクト・ポイズン、ノウ・ディレクション、ピュアリファイ・フード・アンド・ドリンク、ライト (領) 領域呪文;領域 風 戦術 戦闘前 このドルイドは、1日の始まりにエンデュア・エレメンツを発動する。戦いの前にポーション・オヴ・インヴィジビリティを飲む。 戦闘中 不可視化した後、ドルイドは敵から遠ざかる。次の数ラウンドを費やして、スピーク・ウィズ・アニマルズと持続時間延長サモン・ネイチャーズ・アライIを使用し、次に召喚したクリーチャーにワンドから マジック・ファングとバークスキンを使用する。召喚したクリーチャーがダメージを負った場合、ワンド・オヴ・ キュア・モデレット・ウーンズで治療する。インヴィジビリティが疑われた場合、自然の化身でイーグルに変身し間合いを取る。 一般データ 【筋】10、【敏】18、【耐】13、【知】10、【判】14、【魅】10 基本攻撃 +4;CMB +3;CMD 17 特技 《呪文持続時間延長》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》 技能 〈隠密〉+12、〈軽業〉+4(跳躍時+0)、〈呪文学〉+7、〈真意看破〉+4、〈水泳〉+3、〈生存〉+13、〈知覚〉+9、〈知識:自然〉+6、〈治療〉+6、〈はったり〉+2 言語 共通語、ドルイド語、ハーフリング語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(風の領域)、森渡り、野生動物との共感+6 戦闘用装備 ポーション・オヴ・インヴィジビリティ、スクロール・オヴ・ロングストライダー、ワンド・オヴ・バークスキン(8チャージ)、ワンド・オヴ・キュア・モデレット・ウーンズ(15チャージ)、ワンド・オヴ・マジック・ファング(8チャージ);その他の装備 +1ハイド・アーマー、ダークウッド製高品質の木製ヘヴィ・シールド、高品質のシックル、高品質のスリングとブリット20個、耐毒剤、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、52GP この風のように捉えがたい、物怖じするドルイドは、最も危険な状況からすら逃れるその恐るべき力を使って他者から離れていようとする。 ヴェラン・ザ・スリップ Velun The Slip かつて奴隷であったヴェランはあるドルイドの助けによってくびきから逃れ、その者から訓練を受けた。彼ができる全てを学んだと感じた時、彼はそのドルイドを殺し、師の動物の相棒である狼をクロークにしてしまった。ヴェランは現在完全に人里離れた地に住み、都市とあらゆる曲がり角に潜んでいると彼が信じる奴隷商人を極度に恐れている。 戦闘遭遇:極度のパラノイアであるため、ヴェランは他の知性あるクリーチャーと組むことはほとんどなく、稀にそうする場合は彼の居場所を伝える言葉が奴隷商人や他の堕落した都市の住民の耳に入らないように、他の人々とほとんど繋がりがないことを確認する。ヴェランは戦闘から離れていようとし、召喚したクリーチャーを使って彼の逃亡を確実にしようとする。 ロールプレイの指針:ヴェランは彼を探しに来た全てのクリーチャーは変装した奴隷商人だと考える傾向にある。彼らが来るのを見た場合、可能ならば離れて隠れる。彼らがなんとかして彼に話しかけた場合、有用または友好的に見えることは奴隷商人にとってより魅力的な目標となることだとみなしているため、彼はほとんど何も語らない。彼が新来の人々と遭遇した後は、ヴェランは誰も彼を追跡できないように新しい野営地に再移動する。 孤島の守護者 CR6 Island Defender XP 2,400 エルフ、7レベル・ドルイド 秩序にして中立/中型サイズの人型生物(エルフ) イニシアチブ +6;感覚 夜目;〈知覚〉+15 防御 AC 24、接触14、立ちすくみ22(+3盾、+2反発、+2【敏】、+7鎧) HP 47 (7d8+12) 頑健 +6、反応 +6、意志 +8;心術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 睡眠;抵抗 [氷雪]10 攻撃 移動速度 20フィート 近接 高品質のショートスピア=+6(1d6)または クラブ=+5(1d6) 遠隔 高品質のショートスピア=+8(1d6) 特殊攻撃 自然の化身2回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル7;精神集中+10) 6回/日―氷柱 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル7;精神集中+10) 4レベル―アイス・ストーム、コントロール・ウォーター(領) 3レベル―ウォーター・ブリージング(領)、キュア・モデレット・ウーンズ、スリート・ストーム、デイライト 2レベル―アニマル・メッセンジャー、バークスキン、フォッグ・クラウド(領)、ベアズ・エンデュアランス、レジスト・エナジー 1レベル―エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、マジック・ファング 0レベル(回数無制限)―ピュアリファイ・フード・アンド・ドリンク、メンディング、ライト、リード・マジック (領) 領域呪文;領域 水 戦術 戦闘前 このドルイドは、自分のポーション・オヴ・シールド・オヴ・フェイスを飲む。 戦闘中 このドルイド は、彼女の能力を有利にする大量の水の中または傍にいることを好む。彼女は敵を遅らせるためにアイス・ストームまたはフォッグ・クラウド呪文で戦端を開く。その後、自然の化身でダイア・ベアかジャイアント・オクトパスのどちらか(地形による)になり、ベアズ・エンデュアランスやバークスキンのような呪文を使って攻撃のラウンドに入る。 基本データ シールド・オヴ・フェイスを除いた、このドルイドのデータは AC 22、接触12、立ちすくみ20;CMD 17。 一般データ 【筋】10、【敏】14、【耐】12、【知】15、【判】16、【魅】8 基本攻撃 +5;CMB +5;CMD 19 特技 《イニシアチブ強化》、《化身時発動》、《神速の反応》、《戦闘発動》 技能 〈言語学〉+3、〈呪文学〉+11(魔法のアイテムの特性を識別する+13)、〈水泳〉+5、〈生存〉+14、〈知覚〉+15、〈知識:自然〉+14、〈知識:歴史〉+4、〈治療〉+11、〈動物使い〉+5、〈飛行〉+4 言語 エルフ語、共通語、水界語、ドルイド語、森語、竜語 その他の特殊能力 跡無き足取り、エルフの魔法、自然感覚、自然との絆(水の領域)、武器精通、森渡り、野生動物との共感+6 戦闘用装備 ダスト・オヴ・ドライネス、ポーション・オヴ・ヘイスト、ポーション・オヴ・シールド・オヴ・フェイス、ワンド・オヴ・キュア・モデレット・ウーンズ(8チャージ)、雷石(2);その他の装備 +1ドラゴンハイド製ブレストプレート、+1ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、クラブ、高品質のショートスピア、フェザー・トークン(ファン)、耐毒剤、魚網、ヒイラギとヤドリギ、絹のロープ(50ft.)、呪文構成要素ポーチ、金のトーク(100GPの価値)、43GP 一部のドルイドは小さな島だけがもたらすことができる平和と静謐を求め、自分たちの聖域を守るためにその人生を送る。 テセイラ・スプレースピリット Tasseira Sprayspirit テセイラは古代の邪悪が潜む孤島の厳格なエルフの守護者である。彼女は全ての非エルフをその領域の侵入者とみなし、発見するや否や攻撃してくる。彼女は海と非常に密接な関係を持ち、1日の大部分を水棲のクリーチャーに化身して過ごす。彼女はその容貌を隠す装飾的な木の仮面をかぶり、緑と青のゆるい衣服を纏う。 私掠船の船長 CR7 Sea Captain XP 3,200 ハーフリング、8レベル・ドルイド 中立にして悪/小型サイズの人型生物(ハーフリング) イニシアチブ +7;感覚 〈知覚〉+15 防御 AC 26、接触14、立ちすくみ23(+3外皮、+1サイズ、+2盾、+3【敏】、+7鎧) HP 61 (8d8+22) 頑健 +9、反応 +7、意志 +12;恐怖に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 攻撃 移動速度 15フィート 近接 高品質のシミター=+11/+6(1d4+3/18~20) 遠隔 高品質のスリング=+11/+6(1d3+3) 特殊攻撃 自然の化身3回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル8;精神集中+12) 8回/日―雷の君主 7回/日―暴風の爆発 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル8;精神集中+12) 4レベル―コントロール・ウォーター、スリート・ストーム(領)、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(DC18) 3レベル―ウィンド・ウォール、クウェンチ、コール・ライトニング(領)(DC17)、プロテクション・フロム・エナジー、グレーター・マジック・ファング 2レベル―ウォープ・ウッド、ガスト・オヴ・ウィンド(DC16)、バークスキン、フォッグ・クラウド(領)、ブルズ・ストレンクス 1レベル―エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト、キュア・ライト・ウーンズ(4) 0レベル(回数無制限)―クリエイト・ウォーター、ディテクト・マジック、フレア(DC14)、ライト (領) 領域呪文;領域 天候 戦術 戦闘前 このドルイドは、バークスキンおよびブルズ・ストレンクスを発動する。 戦闘中 このドルイド は、肉体的な短所をよく自覚しており、近接戦闘から逃れる最初の機会に中型のエア・エレメンタルに化身する。安全な高度をとった後ウィンド・ウォールとフリーダム・オヴ・ムーヴメントを使用する。いまだ脅威にさらされている場合、フレイム・ストライク やスリート・ストームのような攻撃的な呪文や天候の領域の擬似呪文能力を使用する。術者の目標になった場合、視界をくらますためにフォッグ・クラウドを使用する。近接戦闘を強いられた場合、超大型の動物(トリケラトプスやオルカを好む)に化身する前にグレーター・マジック・ファングを使用する。 基本データ バークスキンおよびブルズ・ストレンクスを除いた、このドルイドのデータは AC 23、接触14、立ちすくみ20;近接 高品質のシミター=+11/+6(1d4+1/18~20);遠隔 高品質のスリング=+11/+6(1d3+1);【筋】12;CMB +6;CMD 19;技能 〈登攀〉+6、〈水泳〉+3。 一般データ 【筋】16、【敏】16、【耐】12、【知】10、【判】18、【魅】10 基本攻撃 +6;CMB +8;CMD 21 特技 《イニシアチブ強化》、《化身時発動》、《追加HP》、《武器の妙技》 技能 〈軽業〉+1(跳躍時-3)、〈呪文学〉+7、〈水泳〉+5、〈生存〉+13、〈知覚〉+15、〈知識:自然〉+10、〈治療〉+11、〈登攀〉+8、〈動物使い〉+5、〈飛行〉+6 言語 共通語、ゴブリン語、ドルイド語、ハーフリング語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(天候の領域)、森渡り、野生動物との共感+8 戦闘用装備 スクロール・オヴ・アウルズ・ウィズダム、錬金術師の火(3)、雷石;その他の装備 +1ドラゴンハイド製ブレストプレート、高品質の木製ヘヴィ・シールド、高品質のシミター、高品質のスリングとブリット20個、クローク・オヴ・レジスタンス+1、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、ひっかけ鉤、治療用具、ヒイラギとヤドリギ、絹のロープ(50ft.)、呪文構成要素ポーチ、22GP 風と嵐を支配し制御する能力で、かなりのドルイドが有無の船長となり、その能力を使ってある時は交易、ある時は海賊を行う。 エダル Edal エダルは繁栄している航路を脅かす海賊船、アンラッキー・ハーフリング号の船長である。この船は若い間に貪欲なリーフクロウによって片目と指4本を失ったエダル自身にちなんで名づけられた。彼はスリルを求める者で、他のほとんどの船長が避ける海域を航海することを好む。彼は大嵐の中で安らぎを感じる。 戦闘遭遇:エダルはほとんどの場合彼の船の中で乗組員に囲まれている。乗組員が減った場合、彼は港に向かい、新しい乗組員を集めるための強制徴募隊を率いる。 ロールプレイの指針:スリルをもとめる天性のため、彼はすぐに卑猥な冗談をいい、挑戦を受け入れ、自分の勇気を証明するために酒場で喧嘩を始めたりする。 ぬかるみの祈祷師 CR8 Mud Shaman XP 4,800 人間、9レベル・ドルイド 混沌にして中立/中型サイズの人型生物(人間) イニシアチブ +0;感覚 〈知覚〉+13 防御 AC 22、接触10、立ちすくみ22(+3外皮、+2盾、+7鎧) HP 69 (9d8+25) 頑健 +8、反応 +5、意志 +11;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 毒;抵抗 [強酸]10 攻撃 移動速度 20フィート 近接 高品質のクラブ=+10/+5(1d6+3) 遠隔 高品質のショートスピア=+7/+2(1d6+3) 特殊攻撃 自然の化身3回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル9;精神集中+14) 8回/日―酸の矢 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル9;精神集中+14) 5レベル―アニマル・グロウス(DC20)、ウォール・オヴ・ストーン(領)、ストーンスキン 4レベル―ジャイアント・ヴァーミン、スパイク・ストーンズ(領)(DC19)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント 3レベル―ストーン・シェイプ(領)、スパイク・グロウス(DC18)、グレーター・マジック・ファング(3) 2レベル―ソフン・アース・アンド・ストーン(領)、バークスキン(2)、フォッグ・クラウド、ブルズ・ストレンクス(2) 1レベル―キュア・ライト・ウーンズ(2)、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー(2)、マジック・ストーン(領) 0レベル(回数無制限)―ガイダンス、クリエイト・ウォーター、ノウ・ディレクション、ライト (領) 領域呪文;領域 地 戦術 戦闘前 このドルイドは、バークスキンおよびブルズ・ストレンクスを発動する。 戦闘中 このドルイド は、敵を分断するためにその間にウォール・オヴ・ストーンを使用する。次のラウンドで召喚呪文を発動し、グレーター・マジック・ファングで召喚したクリーチャーを力づける。最後に近接戦闘に入るためステゴサウルスに化身する。 基本データ バークスキンおよびブルズ・ストレンクスを除いた、このドルイドのデータは AC 19、接触10、立ちすくみ19;近接 高品質のクラブ=+8/+3(1d6+1);遠隔 高品質のショートスピア=+7/+2(1d6+1);【筋】13;CMB +7;CMD 17;技能 〈水泳〉+4。 一般データ 【筋】17、【敏】10、【耐】14、【知】8、【判】20、【魅】13 基本攻撃 +6;CMB +9;CMD 19 特技 《強打》、《渾身の一打》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》、《神速の反応》、《踏み込み》 技能 〈呪文学〉+4、〈水泳〉+6、〈製作:木工〉+6、〈生存〉+18、〈知覚〉+13、〈知識:自然〉+9、〈知識:地理〉+5、〈動物使い〉+6、〈飛行〉+4 言語 共通語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(地の領域)、森渡り、野生動物との共感+10 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ、スクロール・オヴ・レッサー・レストレーション、スクロール・オヴ・プロテクション・フロム・エナジー、スクロール・オヴ・ウォール・オヴ・ファイアー;その他の装備 +1ドラゴンハイド製ブレストプレート、高品質の木製ヘヴィ・シールド、高品質のクラブ、高品質のショートスピア(3)、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、60GP 泡立ち、時に有毒な泥の窪地をうろつき回るこのドルイドは辛辣な性格と能力を有する。 キロ Kiro 人里離れた部族の祈祷師であるキロは、よそ者を自分たちの文化と民に対する脅威とみなす。彼は数年前交易商人からグリーン・ドラゴンハイド・ブレストプレートを入手したが、それを戦闘によってではなく購入しなければならなかったことを恥じているため、クロークとひざ掛けの下に隠している。 戦闘遭遇:キロは泥の坑を敵をからめとるための罠として使う。 ロールプレイの指針:頑固なよそ者嫌いであるキロは、部族のものでない者と会話することを好まない。 水商人 CR9 Water Merchant XP 6,400 ノーム、10レベル・ドルイド 中立にして悪/小型サイズの人型生物(ノーム) イニシアチブ +7;感覚 夜目;〈知覚〉+13 防御 AC 28、接触15、立ちすくみ25(+3外皮、+1サイズ、+3盾、+1反発、+3【敏】、+7鎧) HP 88 (10d8+40) 頑健 +10、反応 +9、意志 +12;幻術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 防衛訓練(巨人に対するACに+4回避ボーナス);完全耐性 毒;抵抗 [氷雪]10 攻撃 移動速度 15フィート 近接 +1シミター=+7/+2(1d4-1/18~20) 遠隔 ダート=+11/+6(1d3-2) 特殊攻撃 ゴブリン類および爬虫類の人型生物に対する攻撃ロールに+1、自然の化身4回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル10;精神集中+14) 7回/日―氷柱 ノームの擬似呪文能力 (術者レベル10;精神集中+11) 1回/日―ゴースト・サウンド、スピーク・ウィズ・アニマルズ、ダンシング・ライツ、プレスティディジテイション 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル10;精神集中+14) 5レベル―アイス・ストーム(領)、ウォール・オヴ・ソーンズ、コール・ライトニング・ストーム(DC19) 4レベル―コントロール・ウォーター(領)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(2、DC18) 3レベル―ウォーター・ブリージング(領)、キュア・モデレット・ウーンズ、コール・ライトニング(DC17)、グレーター・マジック・ファング(2) 2レベル―キャッツ・グレイス、バークスキン(2)、フォッグ・クラウド(領)、レジスト・エナジー、レッサー・レストレーション 1レベル―エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ(2)、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー 0レベル(回数無制限)―クリエイト・ウォーター、ディテクト・ポイズン、ピュアリファイ・フード・アンド・ドリンク、ライト (領) 領域呪文;領域 水 戦術 戦闘前 このドルイドは、バークスキンおよびキャッツ・グレイスを発動する。彼女は毎朝エンデュア・エレメンツを発動する。 戦闘中 このドルイド は敵から距離をとる。彼女はフリーダム・オヴ・ムーヴメントを使用し、それからエア・エレメンタルに化身して飛び去る。自分が戦術的優位にあると感じた場合、彼女は近接戦闘を避けるために召喚呪文と遠隔で使える能力に頼る。 基本データ バークスキンおよびキャッツ・グレイスを除いた、このドルイドのデータは イニシアチブ +5;AC 23、接触13、立ちすくみ22;反応 +7;遠隔 ダート=+9/+4(1d3-2);【敏】 12;CMD 16;技能 〈飛行〉+5。 一般データ 【筋】6、【敏】16、【耐】15、【知】15、【判】18、【魅】12 基本攻撃 +7;CMB +4;CMD 18 特技 《イニシアチブ強化》、《技能熟練:はったり》、《化身時発動》、《神速の反応》、《追加HP》 技能 〈言語学〉+4、〈交渉〉+5、〈呪文学〉+12、〈職能:商人〉+15、〈真意看破〉+10、〈生存〉+17、〈知覚〉+13、〈知識:自然〉+11、〈知識:地理〉+9、〈動物使い〉+10、〈はったり〉+10、〈飛行〉+7 言語 エルフ語、共通語、ドルイド語、奈落語、ノーム語、森語、竜語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(水の領域)、森渡り、野生動物との共感+11 戦闘用装備 フェザー・トークン(ウィップ)、スクロール・オヴ・ロングストライダー;その他の装備 +1ドラゴンハイド製ブレストプレート、+1木製ヘヴィ・シールド、+1シミター、ダート(5)、クローク・オヴ・レジスタンス+1、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、リング・オヴ・プロテクション+1、ヒイラギとヤドリギ、インク小ビン、ペン(2)、紙(5枚)、巻物入れ、呪文構成要素ポーチ、水袋、33GP 荒涼とした地域でよく見られるこれらのドルイドは代価と引き換えに他者に水を供給するために魔法を使う。 サスラクーテンネック Sasrukutenek サスラクーテンネックは2つの砂漠の都市の間の陸路にある宿場で水を売っている。彼女はこの商品に法外な値を付けているが、それが乏しい場合、彼女の顧客にはほとんど選択の余地がない。 高地の女首領 脅威度10 Mistress of High Places 経験点 9,600 ハーフエルフ、11レベル・ドルイド CN/中型サイズの人型生物(エルフ、人間) イニシアチブ +5;感覚 夜目;〈知覚〉+14 防御 AC 23、接触13、立ちすくみ21(+1回避、+3盾、+1反発、+1【敏】、+7鎧) hp 84 (11d8+31) 頑健 +10、反応 +5、意志 +13;心術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 毒;抵抗 [電気]10 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1シックル=+10/+5(1d6+2) 遠隔 高品質のショートスピア=+10/+5(1d6+1) 特殊攻撃 自然の化身4回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル11;精神集中+16) 8回/日:電弧 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル11;精神集中+16) 6レベル:チェイン・ライトニング(領)(DC22)、グレーター・ディスペル・マジック 5レベル:ウォール・オヴ・ファイアー(DC21)、キュア・クリティカル・ウーンズ、コール・ライトニング・ストーム(DC21)、コントロール・ウィンズ(領)(DC20) 4レベル:アイス・ストーム(DC20)、エア・ウォーク(領)、キュア・シリアス・ウーンズ、スクライング(DC19)、フリーダム・オヴ・ムーヴメント 3レベル:ガシアス・フォーム(領)、スリート・ストーム、プロテクション・フロム・エナジー(2)、グレーター・マジック・ファング(2) 2レベル:アニマル・メッセンジャー、ウィンド・ウォール(領)、バークスキン(3)、フォッグ・クラウド 1レベル:エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ(2)、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー(2) 0レベル(回数無制限):ステイビライズ、フレア(DC16)、メンディング、ライト (領) 領域呪文;領域 風 戦術 戦闘前 このドルイドは、11日毎に自分のブレストプレートにアイアンウッドを、1ヶ月に3回樫の木にライヴオークを、毎朝エンデュア・エレメンツを発動する。 戦闘中 このドルイドは、トリエントの守護者に戦闘に入るように命じ、大型のアース・エレメンタルに化身し、地潜り能力を使って地下に逃れ、自分自身に有用な呪文を使用する。準備が終わったら、地表に現れてチェイン・ライトニングで戦端を開く。 一般データ 【筋】12、【敏】13、【耐】15、【知】8、【判】20、【魅】10 基本攻撃 +8;CMB +9;CMD 22 特技 《イニシアチブ強化》、《回避》、《技能熟練:生存》、《強行突破》、《化身時発動》、《渾身の一打》、《呪文熟練:力術》 技能 〈芸能:舞踏〉+2、〈言語学〉+2、〈呪文学〉+5、〈生存〉+18、〈知覚〉+14、〈知識:次元界〉+3、〈知識:自然〉+9、〈治療〉+9、〈動物使い〉+6、〈飛行〉+6 言語 エルフ語、火界語、共通語、水界語、ドルイド語、風界語 その他の特殊能力 跡無き足取り、エルフの血、自然感覚、自然との絆(風の領域)、森渡り、野生動物との共感+11 戦闘用装備 ポーション・オヴ・ヘイスト、ワンド・オヴ・キュア・モデレット・ウーンズ(6チャージ);その他の装備 +1アイアンウッドブレストプレート、+1ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1シックル、高品質のショートスピア(3)、バッグ・オヴ・ホールディング(タイプI)、クローク・オヴ・レジスタンス+1、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、リング・オヴ・プロテクション+1、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、289gp これらの風と氷のエレメンタルが往来する峰の守護者たちは、彼らの聖地を守るために山の嵐の精霊を召喚する。 高き地のエイラ Yala of the High Places エイラは極北の山頂で生活する。彼女の混血がその家系双方にもたらした不都合のために若い時に両親に捨てられた彼女はイエティの部族に育てられ、彼女のドルイドの力が成長するとすぐに彼らに崇められるようになった。彼女の役割や大きなクリーチャーたちの社会に全く安息を感じることができなかった彼女は、現在は冬と山々自体を祀る人里離れた社の面倒を見る孤独な生活を送っている。彼女の強化されたシールドは彼女の機嫌をとろうとするイエティの酋長からの贈り物だが、彼女はその誘いを完全に無視している。 戦闘遭遇:可能ならば常にエイラは敵に絶壁の近くで姿を現し、風の魔法を使って敵を高地から投げ落とし、下の岩場にたたきつける。古代の山々への血の供物として。 ロールプレイの指針:冷たくよそよそしい女性であるエイラは、人型生物の仲間よりも動物や召喚されたエレメンタルの仲間を好む。彼女は故郷の山の純粋さを守るという強迫観念にとらわれているが、何が「石を怒らせるか」は他者には予測することが困難である。 漂流者 脅威度11 Castaway 経験点 12,800 ハーフオーク、12レベル・ドルイド LN/中型サイズの人型生物(オーク、人間) イニシアチブ +3;感覚 暗視60フィート;〈知覚〉+17 防御 AC 21、接触15、立ちすくみ17(+1回避、+3盾、+1反発、+3【敏】、+3鎧) hp 79 (12d8+22) 頑健 +11、反応 +9、意志 +14;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 オークの凶暴性;完全耐性 毒 攻撃 移動速度 30フィート 近接 +1シミター=+12/+7(1d6+3/18~20)または高品質のクラブ=+12/+7(1d6+2) 遠隔 ダート=+12/+7(1d4+2) 特殊攻撃 自然の化身5回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル12;精神集中+16) 12回/日:雷の君主 7回/日:暴風の爆発 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル12;精神集中+16) 6レベル:コントロール・ウィンズ(領)(DC20)、グレーター・ディスペル・マジック、リペル・ウッド 5レベル:アイス・ストーム(領)、キュア・クリティカル・ウーンズ、コール・ライトニング・ストーム(DC19)、ツリー・ストライド 4レベル:キュア・シリアス・ウーンズ、スリート・ストーム(領)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(DC18) 3レベル:キュア・モデレット・ウーンズ、コール・ライトニング(領)(DC17)、プロテクション・フロム・エナジー(DC17)、グレーター・マジック・ファング(3) 2レベル:キャッツ・グレイス、バークスキン(2)、フォッグ・クラウド(領)、ブルズ・ストレンクス、ベアズ・エンデュアランス 1レベル:エンタングル(DC15)、エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト(領)、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー 0レベル(回数無制限):ヴァーチュー、ガイダンス、ステイビライズ、ディテクト・マジック (領) 領域呪文;領域 天候 戦術 戦闘前 このドルイドは、12日毎にライヴオークを、毎朝エンデュア・エレメンツを発動する。 戦闘中 このドルイドは、超大型のエア・エレメンタルに化身してフリーダム・オヴ・ムーヴメント、 バークスキン、 グレーター・マジック・ファングを唱えるまでの間トリエントに自分を守るように命令する。その後サモン・ネイチャーズ・アライVIを任意発動してダイア・タイガーを召喚し、それに対してアニマル・グロウス、 バークスキン、 グレーター・マジック・ファング、キャッツ・グレイスを使用する。 一般データ 【筋】14、【敏】16、【耐】13、【知】10、【判】18、【魅】8 基本攻撃 +9;CMB +11;CMD 26 特技 《回避》、《強打》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》、《戦闘発動》、《迎え討ち》 技能 〈威圧〉+1、〈言語学〉+3、〈真意看破〉+9、〈水泳〉+7、〈生存〉+15、〈知覚〉+17、〈知識:自然〉+13、〈治療〉+11、〈登攀〉+8、〈動物使い〉+5、〈飛行〉+9 その他の特殊能力 跡無き足取り、オークの血、自然感覚、自然との絆(天候の領域)、武器精通、森渡り、野生動物との共感+11 戦闘用装備 ポーション・オヴ・ヘイスト、スクロール・オヴ・プラント・グロウス;その他の装備 +1ライト・フォーティフィケイション・レザー・アーマー、+1ダークウッド製鋼鉄製ヘヴィ・シールド、+1シミター、ダート(5)、高品質のクラブ、ブローチ・オヴ・シールディング、クローク・オヴ・レジスタンス+2、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、リング・オヴ・プロテクション+1、治療用具、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、273gp 難破や魔法的移動によって、何人かのドルイドは孤島に1人でいる自分に気がつく。 パサゴ Passago パサゴは熱帯の孤島で生活し、自らをその主であると考えている。彼とその娘は数年前妬み深いウィザードのよってここにテレポートされ、すぐにそれを愛するようになった。自然の化身を使っている場合、彼は自分の島の動物たちの姿をとることを好む。 戦闘遭遇:パサゴは自分の故郷とした島と娘の双方を愛している。いずれかが脅威にさらされた場合、速やかに守りに来る。彼はそれらのいずれか1つを守るために命をかけるだろう。 ロールプレイの指針:頑固で誇り高いパサゴは自分が島の主であると信じ、自分自身やその行動について誰かに説明する必要を感じない。 フェイの共感者 脅威度12 Fey friend 経験点 19,200 ノーム、13レベル・ドルイド CN/小型サイズの人型生物(ノーム) イニシアチブ +2;感覚 夜目;〈知覚〉+20 防御 AC 24、接触15、立ちすくみ21(+1回避、+1サイズ、+3盾、+1反発、+2【敏】、+6鎧) hp 96 (13d8+34) 頑健 +12、反応 +8、意志 +15;幻術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 25%の確率でクリティカル・ヒットおよび急所攻撃を無効化する、防衛訓練(巨人に対するACに+4回避ボーナス);完全耐性 毒;抵抗 [冷気]20 攻撃 移動速度 15フィート 近接 +1シックル=+13/+8(1d4) 遠隔 高品質のスリング=+13/+8(1d3-1) 特殊攻撃 ゴブリン類および爬虫類の人型生物に対する攻撃ロールに+1、自然の化身5回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル13;精神集中+18) 8回/日:氷柱 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル13;精神集中+18) 7レベル:エレメンタル・ボディIV(領)(ウォーターのみ)、クリーピング・ドゥーム(DC23) 6レベル:アンティライフ・シェル、コーン・オヴ・コールド(領)(2、DC21) 5レベル:アイス・ストーム(領)、キュア・クリティカル・ウーンズ(2)、コール・ライトニング・ストーム(DC20)、ストーンスキン 4レベル:キュア・シリアス・ウーンズ、コントロール・ウェザー(領)、スパイク・ストーンズ(DC19)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(DC19) 3レベル:ウォーター・ブリージング(領)、クウェンチ、スピーク・ウィズ・プランツ、スリート・ストーム、プロテクション・フロム・エナジー、グレーター・マジック・ファング 2レベル:キャッツ・グレイス(2)、スパイダー・クライム、バークスキン(2)、フォッグ・クラウド(領) 1レベル:エンデュア・エレメンツ、オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、パス・ウィズアウト・トレイス、フェアリー・ファイアー、ロングストライダー 0レベル(回数無制限):ガイダンス、ステイビライズ、フレア(DC15)、ライト (領) 領域呪文;領域 水 戦術 戦闘前 このドルイドは、13日毎にライヴオークを、毎朝エンデュア・エレメンツを発動する。 戦闘中 このドルイドは、トリエントにストーンスキンを使用し戦闘に入るように命令する。彼女はバットに化身し、自分自身にキャッツ・グレイス と バークスキンを使用する。そして必要に応じてキュア呪文または任意発動したサモン・ネイチャーズ・アライIを使用する。近接戦闘に入る場合はプロテクション・フロム・エナジーとグレーター・マジック・ファングを使用し、トリエントに化身する。 一般データ 【筋】8、【敏】14、【耐】14、【知】13、【判】20、【魅】10 基本攻撃 +9;CMB +7;CMD 21 特技 《回避》、《化身時発動》、《攻防一体》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》、《戦闘発動》、《武器の妙技》 技能 〈騎乗〉+7、〈言語学〉+6、〈呪文学〉+14、〈水泳〉+4、〈製作:木工〉+11、〈生存〉+22、〈知覚〉+20、〈知識:自然〉+14、〈知識:地理〉+7、〈治療〉+12、〈動物使い〉+6 言語 火界語、共通語、巨人語、水界語、地界語、ドルイド語、ノーム語、風界語、森語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(水の領域)、千の顔、森渡り、野生動物との共感+13 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ、ポーション・オヴ・インヴィジビリティ、スクロール・オヴ・ヒール;その他の装備 +2グラマード・ハイド・アーマー、+1ライト・フォーティフィケイション・ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1シックル、高品質のスリングとブリット20個、クローク・オヴ・レジスタンス+2、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、リング・オヴ・プロテクション+1、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、42gp これらのドルイドは自らを森の守護者ではなく、付き合いのあるフェイのように、その一部であるとみなしている。 パイ・スピリットウィンド Pai Spiritwind フェイの住む森の住人であるパイはフェイとその主張の熱烈なる弁護人である。破壊的な人間との多くのいざこざの後、彼女は全てのフェイでないクリーチャー(ノームを除く)を侵入者とみなすようになり、見るや否や攻撃してくる。 炎の激情 脅威度13 Fury of Flame 経験点 25,600 人間、14レベル・ドルイド NE/中型サイズの人型生物(人間) イニシアチブ +1;感覚 〈知覚〉+15 防御 AC 28、接触13、立ちすくみ27(+5外皮、+3盾、+2反発、+1【敏】、+7鎧) hp 120 (14d8+54) 頑健 +13、反応 +7、意志 +15;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 毒;抵抗 [火]20 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1クラブ=+16/+11(1d6+6) 遠隔 高品質のショートスピア=+12/+7(1d6+5) 特殊攻撃 自然の化身6回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル14;精神集中+18) 7回/日:炎の矢 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル14;精神集中+18) 7レベル:エレメンタル・ボディIV(領)(ファイアーのみ)、ファイアー・ストーム(2、DC23) 6レベル:ウォール・オヴ・ストーン、ファイアー・シーズ(領)、呪文威力強化フレイム・ストライク(2、DC20) 5レベル:ウォール・オヴ・ファイアー、ファイアー・シールド(領)、呪文威力強化ファイアーボール(2、DC19) 4レベル:アイス・ストーム(DC20)、ウォール・オヴ・ファイアー(領)、エア・ウォーク、キュア・シリアス・ウーンズ、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント 3レベル:スパイク・グロウス(DC17)、ドミネイト・アニマル(DC17)、ファイアーボール(領)(2、DC19)、グレーター・マジック・ファング(2) 2レベル:キャッツ・グレイス、バークスキン(3)、ブルズ・ストレンクス、プロデュース・フレイム(領) 1レベル:キュア・ライト・ウーンズ、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、バーニング・ハンズ(領)(2、DC17)、フェアリー・ファイアー 0レベル(回数無制限):クリエイト・ウォーター、ステイビライズ、フレア(DC16)、ライト (領) 領域呪文;領域 火 戦術 戦闘前 このドルイドは、バークスキンを発動する。彼はさらに自分のブレストプレートに月に2回アイアンウッドを、毎朝エンデュア・エレメンツを発動する。 戦闘中 このドルイドは、攻撃的な呪文を使用する場合超大型のファイアー・エレメンタルに化身し、近接戦闘に入る場合に超大型のアース・エレメンタルに化身する。彼はファイアー・ストーム や威力強化 ファイアーボールのような呪文で戦端を開く。近接戦闘に入る前に、自分自身にキャッツ・グレイス、 フリーダム・オヴ・ムーヴメント、グレーター・マジック・ファングを使用する。 基本データ バークスキンを除いた、このドルイドのデータは AC 23、接触13、立ちすくみ22。 一般データ 【筋】20、【敏】12、【耐】15、【知】10、【判】18、【魅】8 基本攻撃 +10;CMB +15;CMD 28 特技 《強打》、《化身時発動》、《渾身の一打》、《呪文威力強化》、《呪文熟練:力術》、《上級呪文熟練:力術》、《戦闘発動》、《追加hp》 技能 〈騎乗〉+7、〈芸能:朗誦〉+5、〈呪文学〉+11、〈水泳〉+9、〈生存〉+23、〈知覚〉+15、〈知識:自然〉+11、〈知識:地理〉+7、〈治療〉+12、〈登攀〉+8、〈動物使い〉+6、〈飛行〉+5 言語 共通語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(火の領域)、千の顔、森渡り、野生動物との共感+13 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ、ポーション・オヴ・ヘイスト;その他の装備 +1アイアンウッドブレストプレート、+1ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1クラブ、高品質のショートスピア、ベルト・オヴ・フィジカル・マイト+2(【筋】、【耐】)、クローク・オヴ・レジスタンス+2、ハンディ・ハヴァサック、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+2、リング・オヴ・プロテクション+2、携帯用寝具、治療用具、ヒイラギとヤドリギ、絹のロープ(50ft.)、呪文構成要素ポーチ、27gp 火と大地の力を操るこれらのドルイドは自然の怒りの化身である。 カルス・ファイアーソウル Karuth Firesoul カルス・ファイアーソウルは真に啓発された火のドルイドであり、どうやら狂っている。数年前、予言者的なエルダー・ファイアー・エレメンタルと運命的な遭遇をし、カルスは他の人間とは異なり魂を持たないという刻印を受けた。その代わりに彼の内にはエレメンタルの火の核が燃えている。放たれなければならない火が。それは都合のいいことに彼の放火魔的な行いを正当化した。 戦闘遭遇:カルスは警告なしで攻撃し、遭遇したあらゆる生物を燃やしながら狂気の笑い声を上げる。 ロールプレイの指針:カルスは邪悪ではあるが、時折正気の後悔の時期に苦しめられることがある。この時期の間、彼はその恐るべき力に立ち向かうチャンスがあるように見える全ての者に、死によって自分の邪悪な衝動から解放してくれるように涙ながらに頼む。 忍び寄る死 脅威度14 Creeping Death 経験点 38,400 エルフ、15レベル・ドルイド NE/中型サイズの人型生物(エルフ) イニシアチブ +7;感覚 夜目;〈知覚〉+18 防御 AC 31、接触16、立ちすくみ27(+1回避、+5外皮、+3盾、+2反発、+3【敏】、+7鎧) hp 96 (15d8+25) 頑健 +12、反応 +10、意志 +16;心術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 25%の確率でクリティカル・ヒットおよび急所攻撃を無効化する;完全耐性 睡眠、毒;DR 10/アダマンティン(150ポイント) 攻撃 移動速度 30フィート 近接 +1冷たい鉄製サイズ=+13/+8/+3(2d4+2/×4) 特殊攻撃 自然の化身6回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル15;精神集中+20) 8回/日:樹木の拳 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル15;精神集中+20) 8レベル:コントロール・プランツ(領)(DC23)、ワード・オヴ・リコール 7レベル:アニメイト・プランツ(領)、クリーピング・ドゥーム(DC22)、トゥルー・シーイング 6レベル:アンティライフ・シェル、ウォール・オヴ・ストーン、マス・キュア・ライト・ウーンズ、リペル・ウッド(領) 5レベル:インセクト・プレイグ、ウォール・オヴ・ソーンズ(領)、ストーンスキン、ツリー・ストライド、トランスミュート・ロック・トゥ・マッド、ベイルフル・ポリモーフ(DC20) 4レベル:エア・ウォーク、キュア・シリアス・ウーンズ、コマンド・プランツ(領)(DC19)、スクライング(DC19)、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、ラスティング・グラスプ 3レベル:デイライト、プラント・グロウス(領)、プロテクション・フロム・エナジー(2、DC18)、グレーター・マジック・ファング(2) 2レベル:バークスキン(領)(3)、ベアズ・エンデュアランス、レッサー・レストレーション、ロングストライダー 1レベル:エンタングル(領)(DC16)、オブスキュアリング・ミスト、キュア・ライト・ウーンズ(2)、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー(2) 0レベル(回数無制限):ディテクト・マジック、メンディング、ライト、リード・マジック (領) 領域呪文;領域 植物 戦術 戦闘前 このドルイドは、ストーンスキン、バークスキン、およびロングストライダーを発動し、自分のポーション・オヴ・ヘイストを飲む。 戦闘中 このドルイド は、敵をエンタングル、 ウォール・オヴ・ストーン、トランスミュート・ロック・トゥ・マッドで封じ込め、距離をとってクリーピング・ドゥーム と アニメイト・プランツを使用する。 基本データ ストーンスキン、バークスキンおよびロングストライダーを除いた、このドルイドのデータは AC 27、接触16、立ちすくみ23;DR なし;移動速度 20フィート 一般データ 【筋】13、【敏】16、【耐】12、【知】12、【判】20、【魅】8 基本攻撃 +11;CMB +12;CMD 28 特技 《イニシアチブ強化》、《回避》、《強打》、《化身時発動》、《戦闘発動》、《抵抗破り》、《迎え討ち》、《無視界戦闘》 技能 〈騎乗〉+6、〈呪文学〉+14(魔法のアイテムの特性を識別する+16)、〈水泳〉+5、〈生存〉+19、〈知覚〉+18、〈知識:次元界〉+9、〈知識:自然〉+14、〈知識:地理〉+10、〈治療〉+13、〈登攀〉+5、〈動物使い〉+9、〈飛行〉+7 言語 エルフ語、共通語、ドルイド語、奈落語 その他の特殊能力 跡無き足取り、エルフの魔法、自然感覚、自然との絆(植物の領域)、千の顔、時知らずの肉体、棘の鎧(1d6+7、15ラウンド/日)、武器精通、森渡り、野生動物との共感+14 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ、ポーション・オヴ・ヘイスト、スクロール・オヴ・ヒール;その他の装備 +1ドラゴンハイド製ブレストプレート、+1ライト・フォーティフィケイション・木製ヘヴィ・シールド、+1冷たい鉄製サイズ、アミュレット・オヴ・ナチュラル・アーマー+1、クローク・オヴ・レジスタンス+2、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+4、パール・オヴ・パワー(1st)、リング・オヴ・プロテクション+2、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、652gp 忍び寄る死のドルイドは、地形を彼の住処を略奪しようとするものに対する究極の武器とみなす。 ジェニエルト・グレイクローク Genyielt Graycloak この沼地と湿地をうろつく者は、彼の荒廃した故郷を文明が侵食するのを終わらせるために疲れることを知らずに働く。 タイガの巡察者 脅威度15 Taiga Stalker 経験点 51,200 人間、16レベル・ドルイド LN/中型サイズの人型生物(人間) イニシアチブ +2;感覚 〈知覚〉+21 防御 AC 26、接触13、立ちすくみ25(+3盾、+2反発、+1【敏】、+10鎧) hp 119 (16d8+44) 頑健 +14、反応 +9、意志 +18;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 毒;抵抗 [冷気]20 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1シミター=+15/+10/+5(1d6+3/18~20) 遠隔 +1スリング=+15/+10/+5(1d4+3) 特殊攻撃 自然の化身7回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル16;精神集中+22) 9回/日―氷柱 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル16;精神集中+22) 8レベル―呪文威力強化コーン・オヴ・コールド(2、DC22)、ホリッド・ウィルティング(領)(DC24) 7レベル―エレメンタル・ボディIV(領)(ウォーターのみ)、トゥルー・シーイング、ヒール、ファイアー・ストーム(DC23) 6レベル―アンティライフ・シェル、ウォール・オヴ・ストーン、コーン・オヴ・コールド(領)(DC22)、グレーター・ディスペル・マジック、呪文威力強化フレイム・ストライク(DC20) 5レベル―アイス・ストーム(領)、アニマル・グロウス(2、DC21)、キュア・クリティカル・ウーンズ、ストーンスキン、デス・ウォード 4レベル―エア・ウォーク、コントロール・ウェザー(領)、スパイク・ストーンズ(DC20)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(DC20) 3レベル―ウォーター・ブリージング(領)、デイライト、プロテクション・フロム・エナジー、グレーター・マジック・ファング(3) 2レベル―キャッツ・グレイス、バークスキン(3)、フォッグ・クラウド(領)、ブルズ・ストレンクス、ベアズ・エンデュアランス 1レベル―オブスキュアリング・ミスト(領)、キュア・ライト・ウーンズ(3)、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー、ロングストライダー 0レベル(回数無制限)―クリエイト・ウォーター、ディテクト・マジック、メンディング、ライト (領) 領域呪文;領域 水 戦術 戦闘前 月に2回、このドルイドは自分の鎧にアイアンウッドを、さらにライヴオークを発動する。 戦闘中 このドルイドは、威力強化コーン・オヴ・コールドを使用し、それから任意発動でクリーチャーを召喚し始め、それらにアニマル・グロウス、 ストーンスキン、グレーター・マジック・ファングを使用する。それらが戦っている間、彼女は呪文を使ってそれらを治療したり能力を強化する。近接戦闘に入る場合は、超大型のウォーター・エレメンタルに化身する前に、自分自身にトゥルー・シーイング、デス・ウォード、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、バークスキンを使用し、ポーション・オヴ・ ヘイストとディスプレイスメントを飲む。 一般データ 【筋】14、【敏】14、【耐】14、【知】10、【判】22、【魅】8 基本攻撃 +12;CMB +14;CMD 28 特技 《強打》、《化身時発動》、《渾身の一打》、《渾身の一打強化》、《呪文威力強化》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》、《戦闘発動》、《鎧習熟:重装》 技能 〈騎乗〉+3、〈呪文学〉+17、〈製作:木工〉+11、〈生存〉+22、〈知覚〉+21、〈知識:自然〉+15、〈知識:地理〉+9、〈治療〉+14、〈動物使い〉+9、〈飛行〉+8 言語 共通語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(水の領域)、千の顔、時知らずの肉体、森渡り、野生動物との共感+15 戦闘用装備 ポーション・オヴ・ヘイスト、ポーション・オヴ・ディスプレイスメント、スクロール・オヴ・ワード・オヴ・リコール、ワンド・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ(10チャージ);その他の装備 +1ワイルド・アイアンウッドフル・プレート、+1ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1シミター、+1スリングとブリット10個、クローク・オヴ・レジスタンス+2、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+4、リング・オヴ・プロテクション+2、防寒服、治療用具、ヒイラギとヤドリギ、高品質の木彫り道具、呪文構成要素ポーチ、110gp この頑健なドルイドは北方の森林の氷に覆われた辺縁部を巡回し守護しており、呪文と能力を等しく冷徹に容赦なく用いる。 忌まわしき災い 脅威度16 Hateful Scourge 経験点 76,800 ハーフエルフ、17レベル・ドルイド NE/中型サイズの人型生物(エルフ、人間) イニシアチブ +1;感覚 夜目;〈知覚〉+25 防御 AC 28、接触14、立ちすくみ27(+4盾、+1洞察、+2反発、+1【敏】、+10鎧) hp 158 (17d8+78) 頑健 +16、反応 +9、意志 +20;心術に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 毒 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1クラブ=+15/+10/+5(1d6+3) 遠隔 高品質のショートスピア=+14/+9/+4(1d6+2) 特殊攻撃 自然の化身7回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル17;精神集中+24) 17回/日―雷の君主 10回/日―暴風の爆発 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル17;精神集中+24) 9レベル―ストーム・オヴ・ヴェンジャンス(領)(DC26)、呪文威力強化ファイアー・ストーム(DC24) 8レベル―アースクウェイク、ワード・オヴ・リコール、ワールウィンド(領)(DC25) 7レベル―クリーピング・ドゥーム(DC24)、コントロール・ウェザー(領)、トゥルー・シーイング、ヒール、ファイアー・ストーム(DC24) 6レベル―アンティライフ・シェル、ウォール・オヴ・ストーン、コントロール・ウィンズ(領)(DC23)、グレーター・ディスペル・マジック、呪文威力強化フレイム・ストライク(2、DC21) 5レベル―アイス・ストーム(領)、インセクト・プレイグ、キュア・クリティカル・ウーンズ(2)、コール・ライトニング・ストーム(DC22)、ベイルフル・ポリモーフ(DC22) 4レベル―コントロール・ウォーター、スリート・ストーム(領)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(2、DC21) 3レベル―コール・ライトニング(領)(DC20)、ドミネイト・アニマル(DC20)、プロテクション・フロム・エナジー(2)、グレーター・マジック・ファング(3) 2レベル―キャッツ・グレイス、バークスキン(3)、フォッグ・クラウド(領)、ブルズ・ストレンクス(2) 1レベル―エンタングル(2、DC18)、オブスキュアリング・ミスト(領)、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー(2) 0レベル(回数無制限)―ピュアリファイ・フード・アンド・ドリンク、フレア(DC17)、ライト、レジスタンス (領) 領域呪文;領域 天候 戦術 戦闘前 このドルイドは、週に一度シャンブラーを、17日毎にライヴオークおよびアイアンウッドを発動する。 戦闘中 このドルイドはストーム・オヴ・ヴェンジャンスを発動している間、シャンブリング・マウンドとトリエントを戦闘に送り込む。肉体的に脅威にさらされた場合、ドルイドはアンティライフ・シェルを使用し、次に威力強化ファイアー・ストームを使用する。 一般データ 【筋】14、【敏】12、【耐】16、【知】8、【判】24、【魅】10 基本攻撃 +12;CMB +14(武器破壊+16);CMD 28(武器破壊に対して30) 特技 《技能熟練:生存》、《強打》、《化身時発動》、《渾身の一打》、《渾身の一打強化》、《呪文威力強化》、《戦闘発動》、《追加hp》、《武器破壊強化》、《鎧習熟:重装》 技能 〈騎乗〉+2、〈芸能:歌唱〉+4、〈言語学〉+3、〈呪文学〉+8、〈水泳〉+3、〈生存〉+21、〈知覚〉+25、〈知識:自然〉+12、〈知識:地理〉+8、〈動物使い〉+6、〈飛行〉+3 言語 エルフ語、火界語、共通語、水界語、地界語、ドルイド語、風界語 その他の特殊能力 跡無き足取り、エルフの血、自然感覚、自然との絆(天候の領域)、千の顔、時知らずの肉体、森渡り、野生動物との共感+17 戦闘用装備 ポーション・オヴ・ヘイスト(2);その他の装備 +1アイアンウッドワイルド・フル・プレート、+2ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1クラブ、高品質のショートスピア(3)、ベルト・オヴ・マイティ・コンスティチューション+2、クローク・オヴ・レジスタンス+3、ドルイズ・ヴェストメント、くすんだ薔薇色の三角柱のアイウーン・ストーン、アイズ・オヴ・ジ・イーグル、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+4、リング・オヴ・プロテクション+2、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、水袋、134gp この強力なドルイドは文明を疫病とみなしている。 パテバ・ブラックマインド Pateba Blackmind 山猫と同じほど野性的なパテバは、自分の森を哀れみも容赦もなく守護している。侵入するものは駆り立て破壊するべき物だ。 暗き自然の神官 脅威度17 Dark Nature Priest 経験点 102,400 ハーフリング、18レベル・ドルイド NE/小型サイズの人型生物(ハーフリング) イニシアチブ +3;感覚 〈知覚〉+24 防御 AC 28、接触19、立ちすくみ24(+1回避、+1サイズ、+5盾、+1洞察、+3反発、+3【敏】、+4鎧) hp 156 (18d8+72) 頑健 +18、反応 +13、意志 +20;恐怖に対して+2、フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 完全耐性 毒 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1クオータースタッフ=+15/+10/+5(1d4) 遠隔 +1スリング=+18/+13/+8(1d3) 特殊攻撃 自然の化身8回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル18;精神集中+23) 8回/日:樹木の拳 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル18;精神集中+23) 9レベル―マス・キュア・クリティカル・ウーンズ、シャンブラー(領) 8レベル―コントロール・プランツ(DC23)(領)、ワード・オヴ・リコール、ワールウィンド(2、DC23) 7レベル―アニメイト・プランツ(領)、トゥルー・シーイング、ヒール、ファイアー・ストーム(DC22) 6レベル―マス・キャッツ・グレイス、グレーター・ディスペル・マジック、呪文威力強化フレイム・ストライク(2、DC19)、リペル・ウッド(領) 5レベル―アニマル・グロウス(DC20)、ウォール・オヴ・ソーンズ(領)、コントロール・ウィンズ(DC20)、ストーンスキン(2)、ベイルフル・ポリモーフ(DC20) 4レベル―キュア・シリアス・ウーンズ、コマンド・プランツ(領)(DC19)、スパイク・ストーンズ(DC19)、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(2、DC19) 3レベル―ドミネイト・アニマル(DC18)、プラント・グロウス(領)、プロテクション・フロム・エナジー(2)、グレーター・マジック・ファング(2) 2レベル―スパイダー・クライム、バークスキン(領)(3)、フォッグ・クラウド、ホールド・アニマル(DC17) 1レベル―エンタングル(領)(DC16)、オブスキュアリング・ミスト、キュア・ライト・ウーンズ、シャレイリ、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー(2) 0レベル(回数無制限)―ステイビライズ、ノウ・ディレクション、ライト、リード・マジック (領) 領域呪文;領域 植物 戦術 戦闘前 このドルイドは、定期的にライヴオークおよびシャンブラーを発動し、自身に同行する1d4+2体の強大化シャンブリング・マウンドおよびトリエントの従者を常に伴っている。 戦闘中 このドルイドは侵入者を憎悪している。彼女はシャンブリング・マウンドとトリエントを近接戦闘に送り込み、ストーム・ジャイアントを招来することで戦闘を始める。それからティラノサウルスを招来し、それにアニマル・グロウスを使用し、次の数ラウンドで招来したクリーチャーをバークスキン、 マス・キャッツ・グレイス、 グレーター・マジック・ファングで強化する。そして攻撃呪文を使い、ポーション・オヴ・ ヘイストを飲んで、超大型のエレメンタルに変身して近接戦闘に入る。 一般データ 【筋】8、【敏】16、【耐】16、【知】12、【判】20、【魅】10 基本攻撃 +13;CMB +11;CMD 29 特技 《回避》、《化身時発動》、《渾身の一打》、《呪文威力強化》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》、《戦闘発動》、《武器熟練:クオータースタッフ》、《迎え討ち》 技能 〈軽業〉+4(跳躍時+0)、〈騎乗〉+9、〈言語学〉+5、〈呪文学〉+19、〈水泳〉+7、〈生存〉+19、〈知覚〉+24、〈知識:自然〉+16、〈知識:地理〉+14、〈治療〉+13、〈登攀〉+8、〈動物使い〉+6、〈飛行〉+12 言語 火界語、共通語、水界語、地界語、ドルイド語、ハーフリング語、風界語、森語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(植物の領域)、千の顔、時知らずの肉体、棘の鎧(1d6+9、18ラウンド/日)、森渡り、野生動物との共感+18 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ(2)、ポーション・オヴ・ヘイスト、ワンド・オヴ・アイス・ストーム(3チャージ);その他の装備 +2レザー・アーマー、+3ヘヴィ・ワイルド・ダークウッド製木製シールド、+1クオータースタッフ、+1スリングとブリット20個、クローク・オヴ・レジスタンス+3、くすんだ薔薇色の三角柱のアイウーン・ストーン、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+4、リング・オヴ・プロテクション+3、背負い袋、消えずの松明、ヒイラギとヤドリギ、絹のロープ(50ft.)、呪文構成要素ポーチ、96gp これらの暗き自然の神官は自らの故郷を養育することはないが、そのかわりに開拓され怒れる大地の代理として人型生物の共同体に疫病、汚染、憎悪を広める。 猛り立つ炎 脅威度18 Rage Flame 経験点 153,600 ハーフオーク、19レベル・ドルイド CN/中型サイズの人型生物(オーク、人間) イニシアチブ +6;感覚 暗視60フィート;〈知覚〉+23 防御 AC 28、接触16、立ちすくみ26(+4盾、+1洞察、+3反発、+2【敏】、+8鎧) hp 161 (19d8+72) 頑健 +16、反応 +11、意志 +22;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 オークの凶暴性;完全耐性 毒;抵抗 [火]20 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1クラブ=+17/+12/+7(1d6+3) 遠隔 +1スリング=+17/+12/+7(1d4+3) 特殊攻撃 自然の化身8回/日 領域の擬似呪文能力 (術者レベル19;精神集中+27) 11回/日―炎の矢 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル19;精神集中+27) 9レベル―エレメンタル・スウォーム(領)(ファイアー呪文のみ)、呪文威力強化ファイアー・ストーム(3、DC27) 8レベル―インセンディエリ・クラウド(領)(DC26)、呪文高速化キュア・シリアス・ウーンズ、サンバースト(DC28)、リヴァース・グラヴィティ、ワード・オヴ・リコール 7レベル―エレメンタル・ボディIV(領)(ファイアーのみ)、呪文高速化キュア・モデレット・ウーンズ、トゥルー・シーイング、ヒール、ファイアー・ストーム(2、DC27) 6レベル―マス・キャッツ・グレイス、グレーター・ディスペル・マジック、ファイアー・シーズ(領)、呪文威力強化フレイム・ストライク(3、DC24) 5レベル―ウォール・オヴ・ファイアー(2)、キュア・クリティカル・ウーンズ(2)、ストーンスキン、ファイアー・シールド(領) 4レベル―アイス・ストーム(DC24)、ウォール・オヴ・ファイアー(領)、ディスペル・マジック(2)、フリーダム・オヴ・ムーヴメント、フレイム・ストライク(2、DC24) 3レベル―ファイアーボール(領)(5、DC23)、プロテクション・フロム・エナジー(DC21)、グレーター・マジック・ファング 2レベル―バークスキン(2)、ブルズ・ストレンクス(2)、プロデュース・フレイム(領)、ホールド・アニマル(DC20)、レッサー・レストレーション 1レベル―エンデュア・エレメンツ、キュア・ライト・ウーンズ、シャレイリ、バーニング・ハンズ(領)(2、DC21)、フェアリー・ファイアー(2) 0レベル(回数無制限)―ガイダンス、クリエイト・ウォーター、フレア(DC20)、レジスタンス (領) 領域呪文;領域 火 戦術 戦闘前 このドルイドは、週に一度シャンブラーを、19日毎に自分の鎧にアイアンウッドを発動する。 戦闘中 このドルイドは、シャンブリング・マウンドを戦闘に送り込み、マス・キャッツ・グレイスを使用して、超大型のファイアー・エレメンタルに化身し挟撃位置に移動する。 一般データ 【筋】14、【敏】14、【耐】14、【知】10、【判】26、【魅】8 基本攻撃 +14;CMB +16;CMD 32 特技 《イニシアチブ強化》、《強打》、《化身時発動》、《呪文威力強化》、《呪文高速化》、《呪文熟練:力術》、《上級呪文熟練:力術》、《戦闘発動》、《追加hp》、《無視界戦闘》 技能 〈威圧〉+1、〈騎乗〉+6、〈言語学〉+5、〈呪文学〉+15、〈真意看破〉+16、〈水泳〉+6、〈生存〉+21、〈知覚〉+23、〈知識:次元界〉+4、〈知識:自然〉+13、〈知識:地理〉+7、〈登攀〉+6、〈動物使い〉+5、〈飛行〉+6 言語 オーク語、火界語、共通語、巨人語、地界語、ドルイド語、風界語、竜語 その他の特殊能力 跡無き足取り、オークの血、自然感覚、自然との絆(火の領域)、千の顔、時知らずの肉体、武器精通、森渡り、野生動物との共感+18 戦闘用装備 ポーション・オヴ・キュア・シリアス・ウーンズ(2)、ポーション・オヴ・ヘイスト、スクロール・オヴ・マス・キュア・シリアス・ウーンズ;その他の装備 +2ワイルド・アイアンウッドブレストプレート、+2アニメイテッド・ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1クラブ、+1スリングとブリット10個、ベルト・オヴ・マイティ・コンスティチューション+2、クローク・オヴ・レジスタンス+3、くすんだ薔薇色の三角柱のアイウーン・ストーン、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+6、リング・オヴ・プロテクション+3、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、銀製の冠(200gpの価値)、63gp これらのドルイドは世界で最も爆発を起こしている場所に住んでいる。 大地の父 脅威度19 Earthfather 経験点 204,800 ドワーフ、20レベル・ドルイド NE/中型サイズの人型生物(ドワーフ) イニシアチブ +1;感覚 〈知覚〉+22 防御 AC 33、接触16、立ちすくみ31(+1回避、+5盾、+1洞察、+3反発、+1【敏】、+12鎧) hp 150 (20d8+57) 頑健 +17、反応 +10、意志 +22;毒、呪文、および擬似呪文能力に対して+2;フェイおよび植物を目標とした効果に対して+4 防御能力 防衛訓練(巨人に対するACに+4回避ボーナス)、身かわし;完全耐性 [酸]、毒 攻撃 移動速度 20フィート 近接 +1ゴースト・タッチ・クオータースタッフ=+19/+14/+9(1d6+5) 遠隔 +1ライト・ハンマー=+17/+12/+7(1d4+4) 特殊攻撃 オークおよびゴブリン類の人型生物に対する攻撃ロールに+1、自然の化身の回数無制限 領域の擬似呪文能力 (術者レベル20;精神集中+27) 10回/日―酸の矢 準備済みのドルイド呪文 (術者レベル20;精神集中+27) 9レベル―エレメンタル・スウォーム(領)(アース呪文のみ)、呪文高速化キュア・クリティカル・ウーンズ(2)、ストーム・オヴ・ヴェンジャンス(DC27)、呪文威力強化ファイアー・ストーム(DC24) 8レベル―アースクウェイク(領)、フィンガー・オヴ・デス(DC25)、リヴァース・グラヴィティ、リペル・メタル・オア・ストーン、ワード・オヴ・リコール 7レベル―エレメンタル・ボディIV(領)(アースのみ)、マス・キュア・モデレット・ウーンズ、クリーピング・ドゥーム(DC25)、チェンジスタッフ、トゥルー・シーイング、ヒール 6レベル―アンティライフ・シェル、ストーンスキン(領)、グレーター・ディスペル・マジック(2)、呪文威力強化フレイム・ストライク(DC21) 5レベル―アニマル・グロウス(2、DC22)、ウォール・オヴ・ストーン(領)、ウォール・オヴ・ソーンズ、呪文高速化オブスキュアリング・ミスト、デス・ウォード 4レベル―エア・ウォーク、スパイク・ストーンズ(領)(DC21)、ディスペル・マジック、フリーダム・オヴ・ムーヴメント(2)、フレイム・ストライク(DC21) 3レベル―ウィンド・ウォール、キュア・モデレット・ウーンズ、ストーン・シェイプ(領)、ドミネイト・アニマル(DC20)、グレーター・マジック・ファング(3) 2レベル―キャッツ・グレイス、ソフン・アース・アンド・ストーン(領)、バークスキン(3)、ブルズ・ストレンクス、ベアズ・エンデュアランス 1レベル―オブスキュアリング・ミスト、キュア・ライト・ウーンズ(2)、スピーク・ウィズ・アニマルズ、フェアリー・ファイアー(2)、マジック・ストーン(領) 0レベル(回数無制限)―ガイダンス、クリエイト・ウォーター、ステイビライズ、メンディング (領) 領域呪文;領域 地 戦術 戦闘前 このドルイドは、1d4+2体の強大化シャンブリング・マウンドを作るためにシャンブラーを発動する。 戦闘中 このドルイドはシャンブリング・マウンドを配置し、超大型のアース・エレメンタルに化身し、自分自身に呪文を使用する。さえぎられた場合は地潜り能力を使用し、ストーム・オヴ・ヴェンジャンスを発動する。 一般データ 【筋】16、【敏】13、【耐】14、【知】10、【判】24、【魅】6 基本攻撃 +15;CMB +18;CMD 34(足払い、突き飛ばしに対して38) 特技 《回避》、《強打》、《化身時発動》、《渾身の一打》、《呪文威力強化》、《呪文高速化》、《呪文熟練:召喚術》、《招来クリーチャー強化》、《戦闘発動》、《鎧習熟:重装》 技能 〈騎乗〉+3、〈芸能:打楽器〉+4、〈言語学〉+4、〈呪文学〉+21、〈水泳〉+5、〈生存〉+19、〈知覚〉+22(通常のものでない石製の仕掛けに気づく+24)、〈知識:工学〉+4、〈知識:次元界〉+8、〈知識:自然〉+15、〈動物使い〉+3、〈飛行〉+3 言語 火界語、共通語、水界語、地界語、ドルイド語、ドワーフ語、風界語 その他の特殊能力 跡無き足取り、自然感覚、自然との絆(地の領域)、千の顔、時知らずの肉体、森渡り、野生動物との共感+18 装備 +3ワイルド・アイアンウッド・フル・プレート、+3アニメイテッド・ダークウッド製木製ヘヴィ・シールド、+1ゴースト・タッチ・クオータースタッフ、+1ライト・ハンマー、ブーツ・オヴ・スピード、クローク・オヴ・レジスタンス+3、くすんだ薔薇色の三角柱のアイウーン・ストーン、ヘッドバンド・オヴ・インスパイアード・ウィズダム+4、リング・オヴ・イヴェイジョン、リング・オヴ・プロテクション+3、ヒイラギとヤドリギ、呪文構成要素ポーチ、487gp 古代の叡智を伝えるものである、これら希少にして強大なドワーフのドルイドはその民に崇められている。