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概要 ドルリア砦の戦いとは、アルファ684年、バルディゴス討伐連合軍とルディック帝国軍の間に起きた戦いである。 ここでは、前哨戦となった戦いも併せて表記する。 戦闘に至るまでの背景 ▲684年6月における勢力図 バルディゴス討伐連合軍の侵攻をしったバルディゴスは、ルディック帝国の兵力を総動員して迎撃の態勢をとった。ルディック城への道は天然の山地に阻まれ、数少ない街道にはドルリア砦、レッド・ロウ砦という拠点がその道を塞いでいた。 バルディゴスは、ドルリア砦にガリィ、ゾニバリーという歴戦の将を派遣、これに対して連合軍は、ドルリア砦方面にゴルを総大将にライグ、キャルス、サリーア、メスロー、ディアルを派遣した。 両軍の戦力 攻撃側 守備側 バルディゴス討伐連合軍 軍勢 ルディック帝国軍 総兵力59000 兵力 総兵力32000 ゴル 総指揮 ガリィ ライグ 軍師 バロム 主要参戦者 アゾル国 ゴル ラディア リヴァ ガリィ ゾニバリー バロム ★ゴルディア ★ゴズ リューグ国 ライグ ★ゼノス シャリアル国 メスロー ケリス ドラグゥーン ギディス イージル国 キャルス レニース ギラス ゾリメック国 サリーア グルディア ★シーザルス国 ★ディアル ★ルーディア ★ヴィルガス ★オルリア ★は前哨戦となるガズス砦、ジース砦の戦いにのみ参戦した将。ゴルディア、ゴズは前哨戦で戦死、ゼノスはドルリア砦ではなく、本国に後退(これはカルディスの命令による)。シーザルス国軍は、ジース砦の戦い終了と同時に、ドルリア方面から、レッド・ロウ砦方面に移動している為、ドルリア砦の戦いそのものには参戦していない。 戦闘経緯 ドルリア砦に到着するまでに二つの砦が存在していたが、この二つの砦の戦いも全て含めて「ドルリア砦の戦い」と呼ばれている為、ここでは併せて表記する。 。 6月18日前哨戦としてはじまった第一の砦ガズス砦の戦い、攻め手はシャリアル国の猛将ギディス、守るはルディック国のゴルディアであった。武勇に自信を持つゴルディアは砦から打って出る。これを待ち構えたギディスは、まずゴルディアの副将ゴズを討ち取るとゴルディアを挑発、彼を誘い出して退路を断ち矢の雨を食らわせて討ち取った。 砦に撤退したルディック軍に対して、ギディスはわざと退路を残して包囲、彼等の撤退を黙認するという一面も見せた。 続いて6月23日、ジース砦はリューグ国軍、イージル国軍が包囲していたが、ジース砦には後に蜉蝣時代最強の男とも呼ばれることになるゼノスが立て篭もり、寡兵ながら彼の鬼神の如き突撃を仕掛け、二国の軍勢は被害を受けて後退。ガズス砦を攻略した連合軍の他部隊に援軍を頼み込んだ。これに応じたのがシーザルス国であり、国主ディアル、軍師ルーディア、猛将ヴィルガスを含めた精鋭部隊がジース砦へと向かう。 猛将ヴィルガスとゼノスが壮絶な一騎打ちを始めるが、それこそがディアルの策であった。偶発的に見せたこの一騎打ちでゼノスを指揮官から一介の猛将へと引きずり出し、指揮官不在の砦を難なく攻め落とす。 ゼノスは囲みを突破して後退し、こうしてドルリア砦攻略戦への道は開けた。 その直後、ジース砦で戦っていた筈のシーザルス国軍が、今度は一転してレッド・ロウ砦の戦いに現れることとなる。 これは、総指揮官であるボルゾックが、いざ戦いが近づくと、自分の指揮に不安を覚え始め、少しでも兵力を増強したいと考え出し、突然発生した命令である。ドルリア方面軍は、自分達の戦いが目前に迫っている為、この突然の命令を拒否したが、ディアルは一夜にして合流を果たし、レイディックはその進軍速度に感心した。 シーザルス国軍を移動させたとはいえ、兵力で勝っていた連合軍は、そのままドルリア砦への攻撃を開始した。 イージル国主キャルスが先陣を申し出るが、先の前哨戦での戦いから既に彼の将としての力量に不安を持った諸将は、彼を補佐する形で密かに布陣する。仁君で知られるゴルやサリーアが戦いが始まる前から真剣にキャルス救出の策を立てている姿を、この時点ですでに乱世の到来を予期していたメスローは冷笑を浮かべて見守っていた。 7月2日早朝、日の昇りと同時に始まったドルリア攻略戦、イージル国軍はレニース、ギラスという二人の武将が突撃を敢行するが、砦を落とせずに戦いは昼を迎える。攻め疲れたイージル国軍の一瞬の隙をついてドルリア砦からゾニバリーの軍勢が出陣、この攻撃にひるんだイージル国軍は四散、ギラスはゾニバリーに挑むものの討ち取られれ戦死。 この報告を聞いたイージル国軍本陣は撤退が献策されるが、他の国主への体面を考えたキャルスは全軍の再編成と突撃を決定。しかしその瞬間にアゾル国軍がゾニバリー軍を側面から遮断、そのままドルリア砦へと向かう、更にシャリアル国軍も加わりゾニバリーの軍勢は分断されて各個撃破される。急いで砦に戻ろうとするゾニバリーだが、待ち構えたのは後に「風の舞姫」と呼ばれることとなるラディア。彼女の剣技によってゾニバリーは討ち取られ、ガリィ、バロムは急ぎ撤退していく。 戦後の宴、姫の様な衣装を纏ったラディアを各国の将軍が持て囃すが、シャリアル国主メスローと軍師ケリスだけは、ラディアを後の障壁になると認知していた。 戦いの結末 ドルリア方面軍は、そのまま進軍、レッド・ロウ砦の戦いで友軍が勝利するとの報告を受けると、決戦の地となるルーズの戦いへと赴いた。
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山口館の戦い 山口館の戦い(よしだやかたのたたかい)は永禄11年に毛利家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・浜田城兵 旗本隊:足軽隊18500:姉小路頼綱、山中幸盛、ルーミア 博麗隊:鉄砲隊5000 :博麗霊夢、江馬輝盛、江馬時盛 霧雨隊:鉄砲隊5000 :霧雨魔理沙、原長頼、鈴仙・U・イナバ 近江隊:騎馬隊9000 :磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 西国隊:鉄砲隊5000 :明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 明智隊:鉄砲隊5000 :斎藤利三、明智秀満、遠藤直経 後詰隊:騎馬隊8247 :三木顕綱、磯野員昌、紅美鈴 毛利・山口館守備兵31226 守将:小早川隆景 第一迎撃隊:足軽隊7500:島清興 第二迎撃隊:弓隊7500:因幡てゐ 第三迎撃隊:弓隊8000:長船貞親 第一奇襲部隊:足軽隊3000:毛利元就(6月20日) 第二奇襲部隊:足軽隊3000:吉川元春(6月25日) 第三奇襲部隊:足軽隊3000:陶晴賢 当初、兵力数は2 1で姉小路側で優勢であったがルナサ・プリズムリバーが9000を輸送している。 毛利側としては本州最後の城であり、これを死守すべく毛利元就を始め主力武将がそろっている。 概要 姉小路軍は毛利軍を本州より排除すべく、いまや本州毛利領最後の防御施設である 山口館を攻めとるために対三好防衛隊を除く西国攻略隊全軍を浜田城に集結させた。 対する毛利方は四国防衛の兵を最小限にし、その他の全軍を山口館に集結させた。その陣容は毛利主力軍といってよい。 しかしながらその兵数の差は懸絶しており、山口館が平地に建っている分吉田郡山城などと比べて 格段に防衛施設として劣っていることから、毛利方の苦戦は避けられないものと見られた。 五月五日、姉小路軍は周防山口館に向けて出陣した。 しかし周防長門国境付近で兵糧、物資不足に陥る危険が生じた。 姉小路軍は通常、前もって侵攻地の豪族や惣村などの有力者を調略し、 兵糧を供出させたり、運搬させるなど、兵站の大部分を担わせていた。 しかし、毛利方が姉小路方に通じた豪族や惣村を焼き払うなどの見せしめを行った事で、調略の甲斐なく協力が得られなくなった。 これまではこのようなことがあっても、後方領から物資を運搬させることで対応ができた。 だが、今回の場合は浜田城と山口館との距離と難路の多さ、下関港が毛利方であるため制海権を持たないことから物資の運搬は困難であった。 隘路で長蛇の列を作っている姉小路方の荷駄隊に幾度となく毛利方の小隊が襲い掛かった。 如何に姉小路方が荷駄の護衛に人数を割いても地の利を得た毛利方を短時間で撃退することは難しく、幾度となく兵糧物資が焼き払われることとなった。 これは、今回の合戦の最初から最後まで影響を及ぼす事となる。 明石隊や終盤の後詰隊は兵糧が尽きて一時撤退したし、明智隊も弾薬不足で二度までも戦線離脱を余儀なくされた。 六月五日、交戦開始。明石隊と合戦直前に突如行方不明となった霧雨隊が不在であったが、それでも姉小路方の兵数は圧倒的であった。 毛利方は島清興の第一迎撃隊が近江騎馬隊を押さえ、第二、第三迎撃隊が旗本隊、近江隊に矢風を浴びせたが、旗本隊はそれらの攻撃をすり抜けて城壁にたどり着いた。 旗本隊はその勢いのまま館を攻撃、城壁を越えることに成功した。 しかし、歓声が上がったまさにその時、元就の遊撃隊による奇襲が行われた。 隊が城内と城外に二分されて連絡がとりづらかったことも手伝って山口館内に侵入した兵は 痛手を負って完全に撃退され、城外の隊も混乱して寡勢の元就隊に押し込まれた。 ただ、やはり寡兵で長期間大部隊である旗本隊を押し続けることはできず、 近江隊が一時援護し、各鉄砲隊が元就隊を攻撃したことで余裕が生まれ、旗本隊は立ち直った。 この後に吉川元春と陶晴賢の奇襲も行われたが、旗本隊は動揺することなく逆に敵を押し返した。 しかし、これすらも元就にとっては布石に過ぎなかったと言える。 元就は旗本隊から発せられる数多くの伝令達を密かに討ち取ったり生け捕りにすることに成功した。 旗本隊内部に送り込んでいた間者によって伝令の動きをつぶさに知る事ができたし、旗本隊は陶隊、元春隊、元就隊によって三方を囲まれており、 伝令がどの道を通って各部隊へ指示を届けるかは地理に詳しい毛利方にとってわかりやすいものとなっていたからである。 毛利方は生け捕った伝令を買収したり、代わりの偽伝令を数多く放つ事で各隊に次々と疑心暗鬼を植えつけていった。 七月五日朝、毛利方は狼煙を合図に行動を開始した。 元就は偽伝令の数を一気に増やし、各隊に偽報が一気にあふれた。これによって各隊の指揮系統は脆くも崩れ去った。 さらに、各隊に潜んでいた間者達は厩や陣、物資に火をかけ、或いは公然と鉄砲で他の隊を銃撃した。 これらの異変を味方部隊からの攻撃と判断した隊もおり、実際に同士討ちとなったケースも存在した。 その上で元就隊は姉小路方を急襲したので被害は拡大し、姉小路軍はこのまま崩壊していくかに見えた。 姉小路軍を全軍の崩壊から救ったのは姉小路頼綱の機転と山中鹿介の勇気であった。 頼綱は自部隊の上空にルーミアを飛ばせ、点滅させたのだ。 これによって各隊は旗本隊の位置と頼綱の無事を知る事ができた。 また、一度全将兵が空を見上げる事で一種の気分転換となり冷静さを取り戻す一助になったと言われている。 鹿介は各隊を攻撃し終わって、引き際の元就隊に単騎で飛び込んだ。 誰が敵か味方か分からない混乱状態の自軍の兵を率いるのは危険と判断したから単騎で突撃したと言われるが、真実は分からない。 しかし、この蛮勇というべき突撃は思わぬ効果を生み出した。頼綱は鹿介が出撃したとしるや、すぐさま自身の馬廻を差し向けた。 引き際の元就隊は思わぬ足止めを食った形となった。 そこへ、遅れて戦場に到着した霧雨隊が駆けつけた。 この隊は元就の情報操作を殆ど受けておらず、全軍の統制を保ったままの部隊であり、他の部隊に目もくれず真っ直ぐに元就隊に襲い掛かったのである。 寡兵で戦い続けて疲労が溜まっていたところに、山中鹿介及び頼綱の馬廻の一撃を立て続けにもらい 大損害を被った所に霧雨隊の銃撃を受けた為、流石の元就隊も壊滅した。 情報操作を行っていた大本が崩れた後、各隊が再び統制を取り戻すのに殆ど時間は必要ではなかった。 混乱が収まった後も姉小路方にとっては有利な状況ではなかった。既に姉小路方と毛利方の兵数の差は逆転していた。 合戦の最初から最前線で戦場の一角を支配し続けていた近江隊は損耗率90%を越え、撤退を余儀なくされた。 旗本隊も死傷者が多く、撤退は時間の問題であり、このままでは全軍撤退は避けられないと思われた。 姉小路方が再逆転を果たすきっかけは霧雨隊が作った。彼女らの銃撃(砲撃?)はこれまでの損害の蓄積もあって一撃で城壁を打ち崩した。 城壁はすぐさま臨時修復されたものの、城兵は大いに動揺した。 その動揺した城兵の十数人を今度は博麗隊が調略、館に火をかけさせた。 おりしも日照り続きで空気は乾燥しており、火は短時間で派手に燃え広がった。 下手人たちは逮捕されたものの、混乱は収まらずにむしろ全軍に広がっていった。 混乱が収まる頃には、毛利方は迎撃隊、遊撃隊が長船隊を残して全て壊滅していた。 一方、姉小路方も最大兵力であった旗本隊が撤退するなど、櫛の歯が欠けるように数を減らしていった。 ただこの時点で戦場での兵数は五分であるとはいえ、姉小路方は8000以上の後詰騎馬隊が出陣しており、ほぼ勝負は決まったと言ってよい。 長船迎撃隊が壊滅して後、守将小早川隆景が山口館にて孤軍奮闘していたが、 元々大した防備ではない上に城壁が破られ、次々に鉄砲隊によって撃ち減らされていった。 九月一日、粘りに粘った末に落城。戦いは集結した。 当初5万を大きく上回っていた姉小路方が1万8千を割り込んでしまう、非常な激戦であった。 合戦の影響 毛利方は本州のほぼ全てを失い、西国一の大大名から四国の一大名に転落した。 姉小路方の西国攻略軍の受けた損害も大きいもので九州攻略にはすぐに取り掛かれないが、対三好の部隊が健在であるから本州制圧には影響はなかった。 しかしながら毛利・三好同盟は瀬戸内海を押さえる拠点を維持しており、 対三好として拘置していある播磨軍も備州攻略において発生するであろう問題からしてその兵力の全てを維持しきれるとは断定できない。 本州制圧以後の四国・九州征伐の遅延は免れないと思われる。 また、今回の戦で顕在化した兵站問題についても改善が図られることとなった。 戦となれば数万単位の兵を常時運用するうになった現在、現地調達ではまかないきれぬ程の糧秣が必要な事は以前よりはっきりしていたが、 今回の経験を機に、より近代的な対処が取られることとなった。 これまでの戦では、姉小路家の前線兵士と後方支援兵士の割合はおおむね10:1の割合であったが、 以後は大幅に改められ、状況によっては10 4程度にまで引き上げられることとなった。 兵站の要となる馬も、狭隘な地や険しい山間部でも十分な行動が可能な御崎馬や対馬馬といった品種の馬が使われるようになった。 これらの馬は山岳部の急斜面で育った種で、生まれながらに山坂の登りが巧みであり、山間部での輸送に大きな効果を発揮した。 護衛にも余剰の砲筒を渡すことで自衛能力を増加させたほか、専門の護衛部隊が新設されることとなった。 この当時は、『輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち』と呼ばれる程に各大名の兵站、輜重、補給全体に対する関心は低かった。 特に半農半兵の兵士にとっては、首級を上げる機会に恵まれぬ後方支援任務は敬遠される場合が多く、姉小路家もそれの例外ではなかった。 だが、いざ実際に部隊が物資不足に見舞われたことで、その偏見は払拭されていくこととなる。 改善されたのはは部隊だけに止まらず、街道にもその影響が及んだ。 食料はまだしも、銃、弾薬の策源地が遙か東となった現在、迅速な輸送手段の確立は姉小路家にとって不可欠であることから、 長期使用計画に基づいたな街道の整備までもが行われることとなった。 結果、姉小路家の兵站状況は著しく改善され、栄養不足による疫病の蔓延を押さえた他、略奪などの問題が大幅に減少する副次的な効果までもたらした。 弾薬の使用量の増加も、堺、紀州、琵琶湖沿岸の産地の優秀な人材を丸ごと抱え上げ、生産量を引き上げることで補えるよう、対処が施された。 この時代、気づいたものはほとんど皆無だったが、既に時代は短期戦を主眼とした旧来の戦争から脱皮し、 前線の兵士はもとより、後方支援、引いては糧秣を生み出す農民、火薬や弾丸を生成する職人までもを含めた大規模な消耗戦、あるいは総力戦への移行の気配を見せつつあった。 なお、兵站問題の顕在化の理由としては西国における電撃的な侵攻によるものである。 山城制圧後の西国征伐はこの周防・長門にいたるまでわずか4年足らずであり、東国・北国のような後方整備が為されぬまま突き進んでいる。 兵力も投降兵・現地での志願兵であり、今回の辛勝はこの電撃戦の限界点であったと言えよう。 逸話 山口館は元々大内氏の居館であった。毛利氏が防長経略によって手に入れた後は毛利元就の居館となった。 西国の京と謳われる山口の美しい街に相応しく白壁に金の瓦が映える壮麗な作りであった。 武士の居館らしく土塁なども備えており防御力もあった。 山口の街は毛利氏が大内氏と違って博多の権益を持っていないこと、 家風が質実であることもあって、往時ほどの賑わいはなかったが、それでも西の京といわれるだけ繁栄していた。 この戦いで館のかなりの部分が焼けてしまったが、主な建物は修復可能な程度の損害であり、高名な枯山水庭園は無事であった。 街にも損害はでたが、あくまで館周辺の一部であった。 西の京山口はこれほどの戦火にも関わらず奇跡的に後世のために保存された。 この戦いでは毛利方の部隊は全て壊滅したが、姉小路方の損害は勝利者であるのにも関わらず多大なものであった。 特に損害が大きかったのは博麗隊である。 この隊は常に戦場にあって旗本隊が健在のときは副将、退却の後は主将となって一貫して指揮を行っていた。 特に旗本隊が退いた後は指揮権を委譲するべき後詰隊が遅れたり、 兵糧不足に陥るなどの理由から壊滅寸前になっても引き上げる事ができなかった。 幸い、部隊が壊滅する前に戦闘を終結させることができたが、 当初5000人いた隊が、傷兵除いてたったの89人にまで討ち減らされたという悲惨な状況であったという。 頼綱は後に、生涯で最も危うかった一戦にこの戦いをあげている。 同士討ちによる混乱が長引けば、毛利勢に各個撃破されて全滅の可能性すらあったからだ。 それを回避した頼綱の機転は大したものだが、敗れたとはいえそこまで追い込んだ元就は流石である。 戦の中で元就は「姉小路に将多かれど、真に強き戦の出来うるものは竹中重治・朝倉教景の両名のみ」と語ったとされる。 BGM
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各地形での戦い方の一例です
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登録日:2010/03/13 Sat 21 53 56 更新日:2024/03/04 Mon 10 30 56NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 ターニングポイント レッドクリフ 三国志 世界史 中国史 呉 歴史 真・三國無双 蜀 赤壁の戦い 魏 赤壁の戦いとは208年に、現在の湖北省赤壁において曹操軍と孫権・劉備連合軍との間に起こった戦いで、官渡の戦いを超える三国志史上最も有名な戦い。 経緯 事の発端は7月の曹操軍の南征から始まる。 目標は荊州を治めていた劉表及びその庇護下の劉備であったが、 劉表は曹操の到達前に病死、彼の息子はすぐさま降伏し、劉備は長坂にて必死の逃避行の末、魯粛と会見し、夏口に布陣。 孫権陣営は当初帰順しようという意見が多数であったが、周瑜と魯粛が説き伏せ、孫権の決断の後、 劉備の使者である諸葛亮との間に同盟を結ぶ。 曹操軍もおよそ十五万とされる兵と荊州で得た水軍を率い、長江を下ってゆく。 戦闘 両軍は赤壁にて激突、緒戦は疫病に苦しむ曹操軍が敗北する。曹操軍は後退し烏林に布陣。 両軍は睨み合いを続けたが、曹操軍の船と船が密着していることに気づいた黄蓋が偽降の計を用い、 自らが降伏するように見せかけ、その間隙をついて火を放ち、散々に打ち破ることに成功する。 陣営まで火は届き、大量の人や馬が焼死及び溺死する。 曹操軍は這々の体で敗走し、周瑜と劉備は曹操軍を追撃、孫権も合肥を伺うが、合肥を救援に向かった蒋済の計により、孫権は包囲を解いて本拠に戻る。 それでも追撃の手は南郡まで及び、江陵を守備する曹仁と周瑜、劉備の軍は対峙。 夷陵を甘寧が数百で奪取したり、曹仁がそれに五千近くの兵を送ったり、周瑜が自ら甘寧を救援したりして夷陵を支配下に置く。 その後周瑜は曹仁の副将の牛金を包囲するが、曹仁がなんと数十名でこの包囲網を撃破し牛金を救出、 更に周瑜に矢傷を負わせるが、ついに包囲されてしまい、補給路の北道も関羽に封鎖されてしまう。 必死に堅守する曹仁だったが既に戦闘開始から一年が経過していた故に疲弊・困窮してしまったが、 誰かが封鎖していた筈の北道から李通の救援軍が包囲網を破ったため、曹仁はなんとか江陵から脱出出来た。 そのまま周瑜は南郡を、劉備は荊州南部四郡を平定することに成功。 これで一通り赤壁から起こった一連の戦は一応の決着を見る。 所で、諸葛亮の名前がほとんど出なかった事が気になった人が居るだろうが、 正史にて明らかになっている彼の動向は「劉備と孫権の同盟を取り付けた」ぐらいであり、史書の彼の伝では赤壁について「曹操は赤壁にて敗北し、兵を引いた」としか書かれて居ないのである。 つまりは赤壁戦時における孔明の動向は現実では空白になっているがため、大活躍した…というのは創作以外の何者でもないということになっている。 考察 何故起こったか、であろう。 ●何故、曹操は長江を下り、周瑜は長江を遡ったのか 恐らく中国史における大きな謎の一つであろうと考えられる。 曹操の性格、今までの戦歴からして、江陵を落とし荊州を平定し、劉備を追い払った、 これで普通は魏の南征を終結させたはずである。残った孫権らは大した力はなく、後でじわじわ締め付ければそれでよかった。それを、わざわざ大軍を率いて長江を下り孫権討伐をする理由がわからない。 中原と河北を制した曹操の慢心、というのは思考停止以外の何物でもあるまい。 良く言われるのは、戦の発端が曹操の脅迫文であったこと。 しかしこいつの出典は孫呉を賛美する『江表伝』であり、内容が明らかにおかしい為に正史に採用されていないのだが、 他に曹操の侵攻を説明する目処が無いのである。 孫権の項でも触れられているが、ここにも文を載せようと思う。 『近く勅命を奉じ罪人を討つべくして南に軍旗を向けたが、 荊州は抵抗することもなく降伏をした これより水軍八十万を率いてゆく 呉の地にて孫将軍と共に狩りをしようではないか』 この文章の突っ込み所は四つ。 まず八十万というのは各地の曹操軍全てをかき集めた兵数であり、先ず現実的では無い(*1) そもそも荊州攻めには皇帝の勅命を奉じている訳で無いし、当時の孫権の所在地は呉ではない。 更にこの文が発され受け取った時から両軍が進発しても、長江赤壁にて衝突しない筈なのである。 が、他に理由とできるものも見つからず、演義を始めとした創作物はこれを脚色し、様々な赤壁像を作り上げている。 そもそも「赤壁の場所」自体が正確に判明しておらず、近年では史実上の存在を疑問視する歴学者もいる始末。 戦の結果 赤壁の戦いの意義として、大きくは3つ。 ●孫呉政権が曹操打倒の可能性を見いだす 孫呉は豪族の寄り合い勢力であり、彼らがバラバラであればどうしようも無いのだが、 赤壁での勝利により曹操を倒すということが現実的なものとなり、呉郡豪族が一丸となるきっかけを生み出した。 ●劉備が足掛かりとなる土地を得る 曹操の勢いが完全に止まったスキに、劉備は徐州以来であった領土をついに得た。そこが隣接する益州・巴蜀の地を盗る足掛かりとなっていく。 ●曹操の中華統一の頓挫 破竹の勢いにて中原と河北を統一し、残すのは僅かと思われた曹操が赤壁で喫した敗北は痛恨の極みであった。 この後も、勢いづいた孫権、劉備の両陣営には濡須口や漢中にて苦しめられることになり、ついに曹操一代では天下に手が届かなくなってしまった。 上記三点から、三国志の帰趨を大きく分けた戦いであるのは間違い無い、と思われる。 追記、修正宜しくお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 実際の所正史で何が起こったのかよく分からない 曹操軍側が疫病の被害が大きくて、最終的に退いたのは本当ぽいがそれ以外がな -- 名無しさん (2014-09-13 23 47 56) カクは「江陵で徳を垂れていれば相手は自然と下ってくるでしょう」と東呉の自滅を促すよう献策したのに、曹操は江陵に大軍を駐屯させ相手を威圧するより南下を選んだ。これによってバラバラだった東呉は逆に一枚岩になってしまい曹操は敗れる。江陵では蜀の使者張松を軽んじて劉備のところに行かせてしまっているし、曹操もこのときはヤキが回っていたと見ていいだろう。 -- 名無しさん (2014-09-29 07 51 56) 蒼天航路の解釈はおもしろかったわ -- 名無し (2014-11-06 22 14 38) ↑2当時曹操は既に53歳と(当時としては)高齢の域に達していた。 自分が生きている内に乱世を集結させたいという焦りがあったんじゃないかな。 -- 名無しさん (2016-04-03 13 40 52) 乱世を終結させたいなんて考えてたかなぁ…中国は勝ったときに成果を水増し、負けた時に相手を強大に書いて「負けてもしょうがなかったんです!」とやる悪癖があるから80万は大嘘だろうと思うけどぶっちゃけ呉なんか獲ってもうまみが少ないし統治のごたごた抱えた状態で代替わりするよりは内政を充実させるんじゃないかな。まぁただの妄想だけどね -- 名無しさん (2016-10-04 10 14 32) 実兵力は本文にもあるように十数万だろうと言われてる。後方部隊や荊州駐屯軍など合わせても30万を超えたかは疑問。向こうは「号して百万」みたいに、威圧なんかの目的で実数の数倍くらいは平気でふかすが、それでも十万超えは確かだろう。 -- 名無しさん (2016-10-04 10 21 15) 三国無双のせいか前半のターニングポイントっていうイメージが自分の中でできてしまった。後半のターニングポイントは樊城…どっちも中国の真ん中ら辺の戦いのような気がした -- 名無しさん (2016-10-04 10 44 18) 確かに表立って楯突いたのはこの戦いに際してだけど、孫家は歴然とした独立勢力としての力を持ってたんだから武力にせよ外交による臣従にせよ一度はっきりとした形で屈服させないと天下統一とは言えないだろう。時期がもう少し前後する可能性はあったが、お互いどのみち避けられなかった戦いだと思う -- 名無しさん (2017-04-05 16 03 35) ちょっと修正したよ -- 名無しさん (2017-11-28 13 29 58) 「世界史における」って大げさやろ。三国志、せめて中国史にしときなさいよ -- 名無しさん (2017-11-28 14 02 59) これ「筆者の考え」がモロに書かれてるけど、こういうのってアニヲタwikiで許されてたっけ -- 名無しさん (2017-11-28 16 59 34) 三國無双では龐統先生や諸葛亮先生の小細工(前者は曹操軍の船を固定、後者は言わずもがな、東南の風)も勝利に貢献していたけど…… -- 名無しさん (2018-05-15 19 18 50) 最近妖怪ウォッチのゲームCM見て今更ながらに気づいたんだが敵から矢を得る計略って火矢を撃たれたら破綻するよな。演技はやっぱり戦争素人が書いたファンタジーだったんだな -- 名無しさん (2018-07-01 18 59 32) 河北省じゃなくて湖北省だろ? -- 名無しさん (2018-07-01 19 01 15) 孔明 -- 名無しさん (2019-06-22 02 25 33) どこぞの漫画といい、ここといい、さらに言えば演義すら周瑜のしゅの字すらない武帝紀において赤壁で主体的に戦ったとされる劉備の動きを軽視してるんだよね… -- 名無しさん (2019-06-22 02 29 45) 勝手な妄想だけどここでの大敗がなかったなら曹操1代での中華統一はギリギリ間に合ったんじゃないかなと思う -- 名無しさん (2021-09-12 09 07 16) これが曹操の若い頃だったら仮にあんな大敗をやらかしても何とか天下統一には間に合ったかもしれないな。中年になってからの戦いだったから天下統一の前に自分の寿命が来ちゃったって感じ -- 名無しさん (2022-12-18 18 07 39) 正直戦があったかすら怪しいけど、曹操の南征を頓挫させる軍事的大失敗自体は多分確実にあったぽいのがややこしいところ -- 名無しさん (2023-01-12 19 18 15) 官渡と夷陵の時はそれぞれ敗れた袁紹と劉備が2人とも敗戦のショックで病死しちゃったけど赤壁では曹操はこれだけの大敗を喫したのに生き延びた事から彼の「天下統一するまでは決して死なぬぞ」といった凄まじい執念を感じる -- 名無しさん (2023-01-14 11 08 43) もし赤壁の戦いをモチーフとした作品が大ブームを引き起こして「今、赤壁が熱い!」とか紹介されたら「曹操軍兄貴成仏してクレメンス」とかネタにされるんだろうか……。 -- 名無しさん (2023-01-22 17 45 09) 名前 コメント
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岩村城の戦い ☆このページでは、霧雨の野望における岩村城の戦いについて詳細に解説しています。 史実での岩村城の戦いについて詳しく知りたい方はwikipediaなどの岩村城の戦いを調べてください 岩村城の戦いとは永禄11年11月に武田と姉小路の間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 八雲弾幕隊:鉄砲隊9500:八雲紫、堀秀政、仙石秀久 本隊:騎馬隊14500:竹中重治、六角義治、可児吉長 紅魔弾幕隊:鉄砲隊9500:十六夜咲夜、レミリア・スカーレット、斎藤龍興 前衛足軽隊:足軽隊9500:羽柴秀吉、柳生宗厳、鵜殿氏長 第一遊撃騎馬隊:騎馬隊14000:赤井直正、前田玄以、橙 第二遊撃騎馬隊:騎馬隊8500::籾井教業、八雲藍、前田利益 第一支援弾幕隊:鉄砲隊5000:丹羽長秀、関一政 第二支援弾幕隊:鉄砲隊5000:羽柴秀長、宮部継潤 第三支援弾幕隊:鉄砲隊5000:滝川益重、蒲生賢秀 第四支援弾幕隊:鉄砲隊5000:荒木氏綱、淡河定範 第五支援弾幕隊:鉄砲隊5000:小野寺輝道、中川清秀 武田家 岩村城守城山上照久→真田幸隆→武田義信 岩村城所属総兵力57000+援軍26000(12月5日前後)+援軍6500(12月20日) 迎撃部隊 第一迎撃隊:足軽隊8000:上泉信綱 第二迎撃隊:騎馬隊8000:小幡信貞 第三迎撃隊:足軽隊9000:原虎胤 第四迎撃隊:騎馬隊8500:相馬義胤 第五迎撃隊:騎馬隊8500:山上照久 第六迎撃隊:騎馬隊5000:大関高増 第七迎撃隊:足軽隊7500:保科正俊 旗本隊:騎馬5000:武田義信、佐竹義重 背景 美濃岩村城は武田家の美濃攻略及び信濃防衛のための最も重要な出城の一つであった。美濃での数度にわたる合戦の結果武田家は多くの兵を失って次第に劣勢になったが、なおも武田家東山道方面軍の大将である武田義信が八万もの兵力を率いて岩村城を守っていた。この時点で姉小路家の美濃に駐在していた兵力はおよそ9万ほどであり、兵力が均衡していたために双方手が出せなかった。ところが永禄十二年八月の戦いで姉小路家は北信濃の海津城を得たことから状況は変化した。武田義信は姉小路家の海津城領有を良しとせず、奪回のために岩村城から2万6千を率いて出陣した。これによって美濃方面の武田家と姉小路家の兵力の均衡は破られたのである。 概要 竹中重治は武田義信出陣の報を得ると即座に軍の編成を命じた。急編成であり、率いる武将は半月以内に出陣できる者に限ったため参加武将は美濃駐在諸将及び尾張駐在の将のごく一部であった。 総兵力はおよそ8万。先陣は竹中重治本隊が勤めた。 対する武田家は岩村城の外堀というべき岩村川の東岸に布陣した。岩村に残る兵力は5万7千以上で決して少ない兵力ではなかったが、率いるべき将が不足しており武田の迎撃部隊は上泉隊、小幡隊の2部隊わずか1万6千と寡兵であったため、渡河点全てを守りきる事ができなかった。 竹中隊と羽柴秀吉隊が上泉隊、小幡隊両隊を引きつけたため、姉小路の他の部隊は容易に岩村川を越えて城攻めを開始することができた。 一方の武田義信は海津城へ進軍していたが、守将の黒田孝高が海津城を破却して越後へと撤退したため何も得るところ無く岩村城へ退却することとなった。この部隊が岩村城へと帰ってきたのが12月5日前後だが、その頃には岩村城の城門は焼け落ちていた。 しかし、武田方も主力の武将が揃ったため合戦は激しくなった。中でも姉小路家の鉄砲隊へと攻撃を加えようとする武田の諸部隊と、それを防ごうとする羽柴秀吉隊の戦いは熾烈を極めた。 秀吉隊は武田騎馬隊の波状攻撃を受けてなお硬く陣を守っていたが、守るばかりではなく12月5日のように陣から突出し逆襲。秀吉隊が武田諸隊に与えた打撃自体は軽微であったが、常に武田の攻撃を引きつけて他の姉小路諸部隊の被害を軽減した。 その後の戦況は姉小路勢に有利に推移した。紅魔弾幕隊の集中砲火で精鋭の義信隊を退却させることに成功すると、八雲隊も乱戦の中、保科隊の将の保科正俊を包囲することに成功、保科正俊は自らの武勇でなんとか脱出できたものの保科隊は大混乱に陥った。 前線の一角を担っていた保科隊の急な崩壊に武田勢が対応できず、全出撃部隊をも一時混乱に陥らせた。 だが、何よりも姉小路勢を有利にしていたのは竹中重治配下の優秀な薬師による傷兵の治療である。姉小路勢は常に兵力の補給を受け続けているも同然であった。 損害の殆どは秀吉隊で押さえ込んだために秀吉隊は大きな被害を出し、終結まで最前線での戦闘を続ける事はできなかったが、 秀吉が前線から後退した頃には勝敗は決していた。翌永禄13年1月2日、岩村城は陥落した。 この戦いの影響 永禄8年美濃防衛戦以来の美濃の中心部を巡る武田と姉小路の戦いはこの戦いで武田が岩村城を失った事で幕を下ろした。 姉小路家は信濃攻略を企図していたが、信濃深志城への道は大変な難路続きで通行には街道周辺の住民の慰撫と協力が必要であったため拙速を避けた。 以降、この地方では岩村城代の羽柴秀吉によって住民への調略が行われ、将来の信濃攻略への準備が行われていく。 武田義信は多くの兵を失い、深志城へと退却。東海道方面からの将兵の補給を受けてこれを守備する事となった。 逸話 この合戦の功によって羽柴秀吉は岩村城の城代に任命された。 この岩村城代は武田家の部隊はもちろん、 美濃国内の撹乱や諜報を行う間者を防ぐ任務を帯びており、いわば美濃の大田園地帯を守る楯であった。 それと同時に甲斐に次ぐ最重要拠点である信濃を攻略する為の諜報と調略を行う任務も帯びており、いわば武田領に突き出した矛でもあった。 戦略担当の竹中重治が、軍議中に「蜂須賀殿が二人欲しい」と嘆いた逸話があるほどの重職である。 この職に武将としてが中堅程度の地位であった秀吉を抜擢するのは異例中の異例であった。 岩村城駐在の武将には赤井直正のような守護や守護格の上級武将も含まれているため、 中堅武将の秀吉ではまとめられない恐れから本来であれば通らない人事であったが、 この合戦での秀吉の活躍は諸将を納得させるのに十分な功績であったし、 岩村城駐在の中では最大級の実力を持つ八雲紫率いる旧幕臣衆という強力な推薦者がいたため、この異例の抜擢となったのである。 この戦いで秀吉隊は山上道及隊、相馬義胤隊、原虎胤隊などの敵部隊から集中的に攻撃された。 これは姉小路家の中では足軽隊が技術的に最弱であることが大きな要因である。 にもかかわらず、同部隊は合戦の最初からほぼ最後まで敵部隊を食い止め、友軍の被害を抑えた。 ただし、その勇戦ゆえに羽柴隊の被害は大きく、全軍の戦死及び行方不明率だけで実に3割を超え、部隊死傷率はおよそ99%。 しかも、一度負傷して竹中隊の治療によって戦闘に復帰した者が多く居り、延べ死傷率では150%を超えるという説もある。 この被害状況でこれほど戦えたのは羽柴秀吉の部隊統率力が優れていた点が大きい。 ちなみに、死傷率の高さによって当合戦で秀吉隊は一度の合戦における最多の感状獲得記録を更新した。 (これまでの最高記録は山口館の戦いにおける博麗霊夢隊。秀吉隊同様に非常に高い死傷率で知られている。)
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山地 地形の1つ、当たり前だが山に多い。フライ無しだときつい陣営は多い -- 名無しさん (2022-07-27 00 23 10) ゴブリンやドワーフの得意地形、特にドワーフとの山地での殴り合いだけは絶対に避けるべき。 -- 名無しさん (2022-08-06 03 52 51) 名前 コメント
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究極の戦い 提供 Vikipedia 移動先 案内、 検索 究極の戦い 年月日:2016年10月 場所:パン板(おーぷん) 結果:アルティメットカルパッチョの勝利 交戦勢力 アルティメットカルパッチョ パン軍 戦力 スレの乱立 損害 特に無し パン板の崩壊 パン板戦争 パン板侵略 - パン板侵略2時間戦争 - 第二次パン板侵略 - パン板の決戦 - 第四次パン板侵略 - アルティメット戦争 究極の戦い(きゅうきょくのたたかい)とは、 10月未明から10月末までパン板で起きていたアルティメットカルパッチョとパン板民の戦いである。 概要 10月未明、パン板の決戦が終結した頃、おーぷんVIPコテアルティメットカルパッチョが廃墟と化していたパン板に今までは使われなかった特殊な方法で侵略しに来た。(本人に侵略の意思があったのかは不明なのだが) 今までのパン板侵略では使われなかった特殊な方法、それはパンに関係するスレの乱立である。 パン板では、パンに関係するスレを立てるという独自のルールがあるため、 それに則ったアルティメットカルパッチョの戦い方にパン板民は苦戦。パン板の決戦のように消去人が現れる事がなかった。 その結果、 1日のほとんどのスレはアルティメットカルパッチョによって立てられているという 状況までパン板は陥り、その攻撃によって平和でなくなってしまったパン板は、ほぼ崩壊状態に追い込まれてしまった。 しかし、アルティメットカルパッチョは、10月31日にパン板から撤退することを決めた。 これによりパン板には再び平和が訪れた。 備考 究極の戦いという名はアルティメットカルパッチョのアルティメットが元である。 関連記事 パン板侵略2時間戦争 第二次パン板侵略 パン板の決戦 「https //2ch.me/vikipedia/index.php?title=究極の戦い oldid=7694」から取得 カテゴリ おーぷんVIPコテ史の出来事 案内メニュー 個人用ツール ログイン 名前空間 ページ 議論 変種 表示 閲覧 ソースを表示 履歴表示 その他 検索 案内 最近の更新 今後の更新予定一覧 おまかせ表示 練習用ページ アナリティクス コテハンの一覧 ニュー速VIP ニュー速VIP+ ラウンジクラシック 自己紹介板 Open2chVIP 2ちゃんねる(その他) その他一覧 Vikipediaの項目一覧 過去の煽り合い レスの属性 煽りに関する理論 2ch外のサービス 用語・慣用句 コテの組織 コテ評価 VIPコテ史年表 コテハン流行語大賞 コテハンSSの一覧 おーぷんVIPコテ年表 ページの短縮URL https //2ch.me/vikipedia/?curid=1844 ツール リンク元 関連ページの更新状況 特別ページ 印刷用バージョン この版への固定リンク ページ情報 このページの最終更新日時は 2017年1月14日 (土) 18 04 です。 �c�C�[�g このページは 374 回アクセスされました。 プライバシー・ポリシー Vikipediaについて 免責事項 モバイルビュー
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究極の戦い 提供 Vikipedia 移動先 案内、 検索 究極の戦い 年月日:2016年10月 場所:パン板(おーぷん) 結果:アルティメットカルパッチョの勝利 交戦勢力 アルティメットカルパッチョ パン軍 戦力 スレの乱立 損害 特に無し パン板の崩壊 パン板戦争 パン板侵略 - パン板侵略2時間戦争 - 第二次パン板侵略 - パン板の決戦 - 第四次パン板侵略 - アルティメット戦争 究極の戦い(きゅうきょくのたたかい)とは、 10月未明から10月末までパン板で起きていたアルティメットカルパッチョとパン板民の戦いである。 概要 10月未明、パン板の決戦が終結した頃、おーぷんVIPコテアルティメットカルパッチョが廃墟と化していたパン板に今までは使われなかった特殊な方法で侵略しに来た。(本人に侵略の意思があったのかは不明なのだが) 今までのパン板侵略では使われなかった特殊な方法、それはパンに関係するスレの乱立である。 パン板では、パンに関係するスレを立てるという独自のルールがあるため、 それに則ったアルティメットカルパッチョの戦い方にパン板民は苦戦。パン板の決戦のように消去人が現れる事がなかった。 その結果、 1日のほとんどのスレはアルティメットカルパッチョによって立てられているという 状況までパン板は陥り、その攻撃によって平和でなくなってしまったパン板は、ほぼ崩壊状態に追い込まれてしまった。 しかし、アルティメットカルパッチョは、10月31日にパン板から撤退することを決めた。 これによりパン板には再び平和が訪れた。 備考 究極の戦いという名はアルティメットカルパッチョのアルティメットが元である。 関連記事 パン板侵略2時間戦争 第二次パン板侵略 パン板の決戦 「https //2ch.me/vikipedia/index.php?title=究極の戦い oldid=7694」から取得 カテゴリ おーぷんVIPコテ史の出来事 案内メニュー 個人用ツール ログイン 名前空間 ページ 議論 変種 表示 閲覧 ソースを表示 履歴表示 その他 検索 案内 最近の更新 今後の更新予定一覧 おまかせ表示 練習用ページ アナリティクス コテハンの一覧 ニュー速VIP ニュー速VIP+ ラウンジクラシック 自己紹介板 Open2chVIP 2ちゃんねる(その他) その他一覧 Vikipediaの項目一覧 過去の煽り合い レスの属性 煽りに関する理論 2ch外のサービス 用語・慣用句 コテの組織 コテ評価 VIPコテ史年表 コテハン流行語大賞 コテハンSSの一覧 おーぷんVIPコテ年表 ページの短縮URL https //2ch.me/vikipedia/?curid=1844 ツール リンク元 関連ページの更新状況 特別ページ 印刷用バージョン この版への固定リンク ページ情報 このページの最終更新日時は 2017年1月14日 (土) 18 04 です。 �c�C�[�g このページは 374 回アクセスされました。 プライバシー・ポリシー Vikipediaについて 免責事項 モバイルビュー
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柳川の戦い 柳川の戦い あらすじ ステージ情報 武将データ 戦局展開・イベント ミッション 推奨携帯道具 特別会話相互 個別 攻略アドバイス 無双演武・九州の章一覧 あらすじ 慶長五年(1600)。日本の中央、関ヶ原の地で 家康擁する東軍と三成率いる西軍による決戦が行われた 同じ頃、九州の柳川を本拠とする立花宗茂は、 西軍に身を置き、東軍についた近江の大津城を包囲した やがて、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わる。 西軍の将として参戦していた立花誾千代は柳川へ撤退 同じく西軍として参戦した島津義弘も 壮絶な敵中突破を果たし、戦場から脱出した 傷ついた義弘らの軍勢を迎えたのは 大津攻めを諦め、国へ帰ろうとしていた宗茂の船だった ステージ情報 冒頭解説 島津と立花、宿敵同士の共同戦線。東軍の包囲網を打ち破れ! 出現条件 無双演武「九州の章」&「天下統一の章」もしくは「真田の章」クリア 操作可能武将 立花誾千代・立花宗茂・島津義弘 難易度 ★★★★★☆☆☆☆☆ 制限時間 60分 勝利条件 黒田官兵衛と鍋島直茂の撃破 敗北条件 立花宗茂と島津義弘と立花直次いずれかの敗走 武将データ 西軍 備考 東軍 獲得 備考 立花宗茂 総大将 黒田官兵衛 道具 総大将 島津義弘 敗北条件 鍋島直茂 武器 ミッションNo.5の撃破対象 立花直次 加藤清正 武器不定不定 撃破後、二回再出現 立花誾千代 村田吉次 金銭 ミッションNo.1の撃破対象 由布惟信 ミッションNo.7の成功条件 吉田長利 不定 小野鎮幸 ミッションNo.8の成功条件 後藤太郎助 不定 新田鎮実 野村市右衛門 不定 安東久照 鍋島勝茂 武器 ミッションNo.3の撃破対象 石松政之 鍋島忠茂 不定 十時惟久 石井生札 巻物 佐々木小次郎 増援 成富茂安 不定 竹中重利 不定 松浦鎮信 不定 有馬晴信 不定 増援1 大村喜前 不定 石井茂成 不定 増援2 石井茂清 不定 飯田直景 巻物 増援3 森本一久 金銭 庄林一心 不定 加藤重次 不定 詰所頭×4 なし 増援3ミッションNo.4の撃破対象 母里太兵衛 武器 増援4ミッションNo.7の撃破対象 栗山利安 不定 井上之房 巻物 増援4ミッションNo.8の撃破対象 黒田直之 不定 鍋島茂里 不定 増援5ミッションNo.9の撃破対象 鍋島茂賢 不定 戦局展開・イベント 開始直後、ミッションNo.1が発生。 ミッションNo.1達成後、矢留砦を制圧。由布惟信が酒見砦の防衛を開始。矢留砦が開門。工作兵が出現し、一の関と二の関へ進軍開始。ミッションNo.2が発生。ミッションNo.2発生後、敵増援1の有馬晴信と大村喜前が出現。有馬晴信と大村喜前が工作兵へ進軍開始。自軍増援の佐々木小次郎が出現。 ミッションNo.2成功時、敵軍士気が一部低下。工作兵が撤退。 ミッションNo.2終了後、ミッションNo.3が発生。西軍迎撃のため酒見砦東門が開門。伝令隊長が出現し、目標地点へ進軍開始。西軍が立花本陣西門を開門。敵増援2の石井茂成と石井茂清が出現し、伝令隊長へ進軍開始。両者に接近後、ミッションNo.6が発生。 ミッションNo.3達成後、酒見砦を制圧。小野鎮幸が酒見砦の防衛を開始。東軍が各所の詰所を制圧し、西軍への兵糧攻めを開始。ミッションNo.4が発生。敵増援3が出現し、詰所頭の守備を開始。敵増援4が出現し、矢留砦と酒見砦へ進軍開始。ミッションNo.4達成まで、敵増援3は無限復活。 母里太兵衛と栗山利安に接近後、ミッションNo.7が発生。 井上之房と黒田直之に接近後、ミッションNo.8が発生。 ミッションNo.4達成後、敵増援5の鍋島茂里と鍋島茂賢が出現し、立花本陣へ進軍開始。鍋島本陣が開門。ミッションNo.5が発生。鍋島茂里と鍋島茂賢に接近後、ミッションNo.9が発生。 ミッションNo.5達成後、黒田本陣が開門。 ミッション 番号 名称 内容 備考 No.1 矢留砦奪取 矢留砦制圧のため、村田吉次と吉田長利を撃破せよ! No.2 道を切り開け 一の関と二の関の開門まで工作兵を護衛せよ! No.3 酒見砦奪取 酒見砦制圧のため、鍋島勝茂と鍋島忠茂を撃破せよ! No.4 補給確保 詰所を制圧せよ! 詰所頭は全部で4人。レア武器ミッション:佐々木小次郎(模擬演武) No.5 勝利の風を呼ぶ 鍋島本陣制圧のため、鍋島直茂を撃破せよ! レア武器ミッション:立花宗茂 No.6 ☆救援要請 伝令を目標地点まで護衛せよ! 2将撃破後、伝令は進軍開始。 No.7 ☆矢留砦防衛 母里太兵衛と栗山利安を撃破し、由布惟信の敗走を阻止せよ! No.8 ☆酒見砦防衛 井上之房と黒田直之を撃破し、小野鎮幸の敗走を阻止せよ! No.9 ☆急襲阻止 鍋島茂里と鍋島重賢の立花本陣侵入を阻止せよ! ☆はボーナスミッション 推奨携帯道具 名称 備考 特別会話 相互 対象武将 内容 話者 発言 立花誾千代 島津義弘 島津義弘 …気を使わせてしまったな、すまぬ 立花誾千代 やめてくれ、島津はいつもどおり皮肉屋で捻じ曲がっていればいい 立花宗茂 島津義弘 島津義弘 豊久は今頃…紹運殿にしごかれておろうな 立花宗茂 きっといい武将に成長しているだろう。だが、まだ会いに行くには早いぞ、鬼よ 個別 使用武将 対象武将 内容 話者 発言 立花宗茂 加藤清正 加藤清正 もういいだろう、降伏しろ宗茂。どいつもこいつも、なぜ死に急ぐ…! 立花宗茂 大事なものを失ってでも、守らなければならない未来がある…そうだろ? 清正 島津義弘 黒田官兵衛 黒田官兵衛 家康様は天下を制したばかり。大規模な遠征に出る確率は低い…ゆえに… 黒田官兵衛 戦ったほうが本領安堵につながる、か。バクチ打ちのはったり、通用すると思うか? 島津義弘 通用するほうに、賭けよう。お膳立ては、あ奴が整えてくれたのでな 攻略アドバイス シナリオ開始時点で、すでに豊久はこの世の人ではない。 島津の二人を中心にプレイをしてきた筈なので、一度立花夫妻を模擬演武等で鍛えておくことを推奨したい。 ミッションNo.6と9は立花本陣を巡る内容なので、一方を本陣に伏せておくと展開が容易になる。 無双演武・九州の章一覧 第一話 第二話 第三話 外伝 耳川の戦い 沖田畷の戦い 岩屋城・立花山城の戦い 柳川の戦い
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佐渡の戦い 佐渡の戦い(英 Sado war)は、2023年3月21日から2023年3月24日にかけて、同盟国側と義勇軍側間で行われた世界規模の戦争である。 佐渡の戦い 戦争 佐渡の戦い 年月日 2023年3月21日 - 2023年3月24日 場所 主戦場は佐渡本土。他にペンゲーブルク諸島、陽和国など 結果 同盟国側の勝利、ミュンヘン条約の締結。 交戦勢力 同盟国 義勇軍 ペンギー 佐渡 バイエルン ペンゲーブルク 陽和国 イスラム 帝国 損害 戦死者 約120人 戦死者 50人 開戦 2023年3月21日に佐渡にミサイル及び爆撃による攻撃が始まり開戦した。当時はいじめだと非難され、この戦争は停戦になった。 2023年3月24日の戦闘 諸島地域における同盟国の緒戦での混乱 緒戦、同盟国は混乱しており、要塞の構築中に防衛装置が暴走、ペンゲーブルクの領土の不法占拠(*1)など、うまく統制できていなかった。不法占拠が原因で、ペンゲーブルクが参戦したと考えられている。 南佐渡戦役 同盟国は南佐渡地域に上陸し、攻勢を開始。しかし、佐渡軍の大量の軍用犬で身動きが取れず、攻勢は失敗した。この戦役は義勇軍側における重要な勝利であり、しばらく戦線を維持することに成功した。 佐渡本土における防衛計画の失敗と空中戦への移行 南佐渡の戦線を同盟軍が突破し、首都へ前進する途中、徐々に戦闘に変化が見られた。それはエリトラとTNTによる空中戦である。これにより首都が爆撃され、佐渡軍は窮地に追いやられた。爆撃は苛烈になり、王宮が陥落する勢いだった。帝国が参戦し、この戦争は終盤へと向かった。 本土決戦 同盟軍による爆撃と帝国の進撃により戦いは首都近郊に移行した。多くの佐渡軍が戦いで命を落とし、佐渡の皇帝は降伏を宣言した。しかしながら、戦いは降伏した後も続いた。 終戦 戦闘が終わり、ミュンヘン条約が締結された。これによりこの戦争は終わった。 講和会議の結果 バイエルンの要求 我が国との不可侵条約 四ヶ月 建物1個要求 皇居凱旋 出入国の許可 (半年) 規約読む義務 ペンギーの要求 航空機製造禁止(一ヶ月) 北白山 白山 南両津 北荒野の非武装化 陽和国の要求 大佐渡との国民の自由の出入国 この後、ペンゲーブルク内で革命が起き、第一次世界大戦へと移行する。(第一次世界大戦(チャプター2、シーズン1))