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学力調査 正式名称 全学年統一下克上大会 by 学力 →天下一武闘会みたいなのをもじったほうがよくねww 主要目的 全学年統一試験 詳細 全学年統一問題、点数上限なしの試験で学年の枠を超えての位置計測。 現在正式名称の新案を募集しています。 ここを編集
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主に学力を上げて登場するキャラ。 元の男性向け(『1』~『3』)では文系と理系に分かれていて、それぞれに色んなタイプのキャラがいたのだが、 GSシリーズではこの二つが統合し「学力」になっている。 ちなみに『GS2』の後に発売された『4』では、今までの男性向け同様に文系と理系に分かれている。 『GS1』:守村桜弥・・・開業医の一人息子で自然を愛する優しい男の子 『GS1』:蒼樹千晴・・・帰国子女でパソコンが趣味の礼儀正しい男の子 『GS2』:氷上格・・・規律にうるさい生真面目な男の子 『GS2』:赤城一雪・・・お坊ちゃまな見かけとは裏腹で口げんか上等のツンデレ少年 『GS3』:紺野玉緒・・・温厚で爽やかな性格で面倒見がよく、生徒達から信頼されている好青年 『GS4』:本多行・・・知識を蓄え、教えることが大好きなクイズ王 厳密には蒼樹と赤城は隠しキャラ(アドベンチャーキャラクター)なのだが蒼樹は外交官志望、赤城は生徒会長なのでこちらにも入れた。 この6人に共通することは、進路が一流大学であること。 蒼樹、赤城、本多を除いた3人の髪の毛の色は、初代学力(文系)ヒロイン如月未緒と同じ緑系統である。 『2』、『3』と「髪の毛が緑色で、進路が一流大学な同級生の文系キャラ」がいなかったため、 文系と学力の違いはあれども、髪の毛が緑色で進路が一流大学、そして運動が苦手な守村は如月の後継キャラと言えるだろう。 また、スキーが得意な紺野玉緒と、攻略キャラではないものの一緒に遊べば運動パラメータが上昇する『GS2』の小野田千代美は運動は苦手ではない。 関連項目 キャラ別特性 文系キャラ 理系キャラ
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各企業では、採用試験を受けるにあたって一定の学力を要求している場合があります。外資系であれば英語や第二外国語、理系研究職では基本的な数学・物理化学の知識など。各企業が要求する学力は、幅広く一つに定まりません。そこで書類審査と平行して学力試験を行うことで、最終段階の面接前に、学力があるという前提条件を作るために受験者を制限する、所謂“足きり”が、この学力試験です(もちろん、それ以外の場合も)。 学力試験と適性検査 具体的な実施内容は各企業独特ですので、それぞれお問い合わせください。 実施パターンは、二つ。 学力試験 専門内容(ex,物理学,統計簿記) 英語 数学 国語 時事問題 小論文・作文 適性検査 SPI (1,2,3) CAB・GAB 複合(学力試験+適性検査) テストセンター Webテスト(委託、独自) それぞれのSPIやテストセンターは、専門の会社が運営しているテストになります。各種対策についてはここでは触れません。以下には、私が受けた試験について簡単に解説したいと思います。 1,テストセンター テストセンターの試験は、主要都市の雑居ビルで開催される試験です。決まった時間があるわけではなく、PCを使って常時入れ替え式で行われる試験になります。テストセンターは多くの企業が利用しており、1回受験すれば結果を使い回しできます。ただし、企業側から受験指示がないと受けられません。 内容は、簡単な日本語の読解、算数計算などです。1,2回受験すればコツが掴め、3回目ぐらいの結果では十分な出来だと思いますので、使い回しをしましょう。なお、問題数は固定ではなく、常時正答率から出題を変更しているようなので、おそらく具体的な点数は出てきません(そもそも、正答について知ることはできません)。つまり受験者のレベル評価を行ってるだけだと考えられますので、内容について深く考える必要は無いと思います。そもそも、足きりに使うだけですので、よほど悪い結果にならない限りは、問題はないと考えられます。 2,専門内容 理系研究職で、研究所などへの採用試験を行う場合、課されることがあります。私が受けた場合は、物理学の試験でした。内容は光の屈折率や振動に関する問題でした。これに関しては、対策は難しく、大学でやってきた内容について考える必要がありますので、簡単に紹介いたしました。 3,Webテスト 最近ポピュラーな受験形式です。自宅や学校のコンピューターから、会社のWebテストの受験ページにアクセスすることで、簡単に試験が受けられます。内容はテストセンターと似たような問題で、そこまで難しくはない? 簡単な問題が多いと考えれます。ただ企業によっては難しくなっており、時間が足りない問題もちらほらありました。また、並行して適性検査も行われます。内容は、私は○○だと言われている。はいorいいえ。……運転免許を取る時の適性検査のような、性格検査のような。いずれにせよ、答えはありませんので傾向を出すだけです。どのように評価するかは、各企業それぞれだと思います。 なお、このWebテストに関しては、色々と問題があったりします。制限時間は設けられていますが、試験時に誰かが監督しているわけではありません。パソコン上の情報を見られているわけでもありません。故に、簡単に不正が行われている可能性があります。友人は、あまり勉強が得意でなかったので、パソコンの両脇に頭の良い友人を座らせ、テストに挑んでいました。当然、その結果は……ええ、一流の企業に決まっていましたけど。
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日本の学力問題を考える上で、「受験学力」を避けて通ることはできない。特に、中学や高校で身につける学力は、受験という呪縛に囚われており、受験に合格するために身につける学力だからである。それは大学で授業をしていても、様々な面で現れる。何かを覚えるときに「語呂合わせ」を用いる、「結局正しい答えは何ですか?」と聞きたがる、解答の導き方ではなく、公式的な解き方を覚えようとする、等々。こうした勉強は試験のための勉強で身につけたものであり、短い時間で大量の問題を解くために、必要に迫られて追い求めた方法だともいえる。 しかし、この講義の最初に断ったように、こうした方法は、社会でそのままの形では有効性が乏しい。実際に社会で求められる能力は、こうした単純な正解答ではないからである。では、このような受験勉強で獲得した知識や技能は無意味なのか。もちろん、より適切な学習によって獲得した学力があれば、受験で獲得した学力が必要であるとは思えないが、しかし、受験学力が無益だということにはならないだろう。ただ、受験学力には多くの欠陥がある。 では、受験学力の特徴は何か。 第一に、個別知識の蓄積であり、多くの場合その関連性が無視されている。そして、その知識を使用して何かを説明することには、十分でなくても済んでしまう。これは、近年コンピューターによるテストがほとんどであるために、記述式の問題が出されることが稀になっているために、説明などの訓練をしなくても済むからである。 第二に、公式主義という側面がある。ある大学の数学者が、高校生の息子の三者面談に出たときに、「あなたの息子さんは、数学の問題を解く上で、何故そうなるのか、考えすぎる。そんなことでは受験に対応できません。」と言われてショックを受けたということを、書いていたことがある。学問的な数学においては、解いていくプロセスが重要であり、プロセスを無視して解答を得ればよいという立場にはない。しかし、高校の教師によれば、ある問題がでたら、その問題に使う公式は何かを素早く判断し、その公式を使って計算し、正しい答えを出すことが重要なのだという。もちろん、基本的には、大学の数学者の考えが正しいのだろうが、高校の教師の考えを生んだ源泉は、大学側の問題形式にある。 第三に、出題の範囲が限定されていることである。一部の難関私立中学は別として、ほとんどの入学試験は、学習指導要領の範囲内で出題されるべきであると指導され、そこから逸脱した問題を出すと、社会から非難され、また文部科学省による「助言」がなされることもある。しかし、社会で必要な能力は、「未知」に切り込むことであろう。 第四に、特に英語などで顕著だが、実際に社会生活の中で使われている形態と、学力の内容が異なる場合があるという点である。言語は生活上使われる道具であり、多くは「音声」による。しかし、受験学力としての英語は、専ら「書かれた文章」で試される。そして、正しく使われるているかを試験するために、普段あまり重視されない末梢的なことが問われる傾向があると言われている。つまり、実際の英語と受験の英語とに、乖離が生じる。センター試験が音声試験を取り入れたのは、そうした弊害を是正するためであるが、そのことによって改善される部分はまだ明らかではない。 さて、受験学力の内的特質ではないが、大きな問題は、受験という明確な目的のために覚え込んだ知識であるために、受験が済むと急速に忘れていく点である。いわゆる「剥落」である。「東大生が分数の足し算ができなかった」というのも、受験が済んだあとは大学の勉強や日常生活に無関係の内容なので、記憶から剥がれ落ちたに過ぎない。
https://w.atwiki.jp/miyaji/pages/18.html
彼の学力は非常に高いレベルであったw。 東大模試の彼の点数はなんと314点もあるのだ。(自宅受験&代ゼミなのはもちろん内緒さ) それもそのはず、彼はあの有名な数学参考書、「本質の研究」を7週はしていた。 おまけに東大の英語25ヶ年をたった三日で終わらせるほどの集中力だ。 これは試験時間を考慮にいれると物理的に不可能と思われるw。 だがしかし、そこは天才。当然やってのける。そこに痺れるぅ憧れるぅぅぅ! しかし彼の高校時代の友人Aはこう語る。 「え、あいつ確かセンター模試の英語は160点、数学IAなんか60切ってry」 _ _ . , .. ∧_∧ 友人A ∧ _ - ― = ̄  ̄` , .∴ ( ) , -  ̄ __――= , ・,‘ r⌒ _/ / / -―  ̄ ̄  ̄" " . ’ | y ⌒ ⌒i / ノ | / ノ | / , イ ) , ー /´ヾ_ノ / _, \ / , ノ | / \ `、 / / / j / ヽ | / / , / ノ { | / /| | / / | (_ !、_/ / 〉 `、_〉 ー‐‐` |_/ 天才は僻まれるものだ。きっとMじまはその日も、ものすごい腹痛に襲われたのだろう。 とにかく、彼の非凡な学力に疑いの余地はないw。
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学力偏差値
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がくりょくていかようりょう【学力低下要領】[名詞] 文部科学省が定めている学習指導要領の蔑称。
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1856.html
確かな学力
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2010-1-12 お久しぶりです!1週間以上サボってしまいました・・・ 今日は県学力調査がありました。 いや~難しかったッス!英語は時間かかって最後までできなかったし、国語も社会も理科もほとんど勘だったし、数学も時間過ぎちゃったしもうサイアクですよ・・・ まぁ、勉強しなかった私が悪いんですけど・・・とにかくこれからがんばろう!! 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/235.html
{学力の定義} 学力をつけようと、教師と生徒、そして親は日々努力をしている。しかし、そもそも学力とは何か、これまで何度も学力論争が起きたことでわかるように、きちんと意味を明確にしようとすると、かなり曖昧な概念である。よく指摘されることだが、日本語の「学力」に相当する英語はないという。試しに、和英辞典と英和辞典を用意して確認してみよう。ジーニアス和英辞典で「学力」を引くと、achievement と scholastic ability そして academic ability の3つの訳語がでている。あとの2つは「単語」ではないし、日本語の学力とはニュアンスが異なっているので、achievement を今度は英和辞典で引くと「学業成績」と出る。ところで、「学業成績」と「学力」は同じ意味だろうか。たぶん多くの人は、異なる内容を考えるだろう。このように、「学力」とはかなり独特の意味であると考えられる。 小学館の日本語大辞典によると、学力は次のような意味をもつ。 1 学習によって得た能力 2 学問に必要な能力 3 学校の授業によって得た能力 この場合、1は achievement に近く、2は academic ablity に近いといえるだろう。しかし、3の意味に近い英語はあまりないようだ。このことは、逆に、学校で獲得する能力を重視する意識が日本には形成されていたということになる。 さて、「能力」から「学力」になるとき、能力一般の内、「学」に関わる能力が「学力」だと言えるが、「学」について、「学問」と「学校」というふたつの理解があるように思われる。 「学校」で教え、身につけさせる能力が「学力」であるとする考え。そして、体力や感性ではなく、「学問」に関わる能力が「学力」であるとする考えのふたつである。こうした常識は、少し丁寧に検討すると、更にいくつかの前提的認識がある。 第一に、学校では、「教える」という行為を基本にするので、「伝えられる」能力が学力となるのであって、伝えられない直感的能力のようなものは、学力とは考えないということ。天才的数学者の頭脳の中に浮かんだアイデアのようなものは、能力を表すものではあっても、学力ではなく、そのアイデアが文字として書かれ、他人に理解され、かつそれを教えることができるように整理されたとき、それが「学力」の内容を構成するとということである。中内敏夫は「学力は、モノゴトを処する能力のうちだれにでも分かち伝えうる部分である」という学力の定義を与えた。\footnote{中内敏夫『増補学力と評価の理論』国土社 1977 p54} 第二に、教育実践は常に評価を伴うから、どの程度理解できているか、あるいはわかったのか、まだわかっていないのか等「計測」することができなければならない。インスピレーションは計測できないが、教える内容が形成され、それが試験として計測できるように構成され、試験でよい成績を納めれば、「学力が向上した」「十分な学力がある」と意識される。勝田守一は学力を、「計測できるように構成された教授内容の体系」と定義した。 {戦後改革期の学力論争} ここで注意しなければならないことは、学力が単独に問題になることは少なく、あくまでも「テスト」や「カリキュラム」との関連において問題になるという点である。 戦前は、教育内容は政府によって決められ、教科書も文部省によって全国同一の国定教科書であったから、あまり学力論争が起きる余地はなかった。学力論争が活発に行なわれるようになったのは戦後である。 戦後改革はアメリカの主導の下に行なわれ、大きく学校制度が変わったが、教育方法もアメリカ進歩主義教育の「経験主義」が導入され、それに基づいた教育計画や学校づくりがさかんに行なわれた。しかし、やがて、とりわけ入学試験の結果を憂えた人々が、経験主義によって教育された子どもたちは、基礎学力が低下していると批判し、経験主義から知識重視の教育への転換を主張した。しかし、経験主義を積極的に評価する人たちから、そもそも育てるべき学力は何かを問題とし、「基礎学力論争」と呼ばれる論争が起きたのである。そして、実態を明らかにするために、様々な団体が学力テストを試みた。この時期には以後文部省が学力テストを行い、日教組が批判するという構図はなく、むしろ日教組や関係団体が積極的に学力テストを実施していていた。 その一例を紹介しよう。 当時の報道によって、その雰囲気を知ってもらおう。 朝日新聞昭和25年2月20日の記事によると、東京の小学校31校6年生1500名、中学校9校3年生900名、新制高校5校250名の日教組による検査で、 ・読み書きは小学生が63.7、中学生が87.5、高校98.4点で、小学生が「先生」を欠けなかったり、「医師」という言葉を知らなかったという結果がでた。 ・算数では、2ケタの割り算ができないのが、高校で16%、中学で40%、小学校で58%であるという。 そして、この問題を戦前行なえば、小学校でも読み書き問題は80点くらいとれていたと結論し、学力低下が裏付けられたという日教組の主張を紹介している。日教組は、学力低下の原因を二部授業、教員の素質低下、社会環境が影響しているとして、その改善を求めているというのが、記事の趣旨だ。教員の学歴レベルが子どもの成績に影響し、また、地域の産業基盤も影響していると解説している。 学力低下したと主張する人たちは、基本的に戦後改革の経験主義的教育に批判的であり、中学入試や高校入試に現れた学力の低下、特に「基礎学力」と漠然と考えられていた読書算の低下を問題にしていた。そこで、「基礎学力」とは何か、そもそも学力とは何かという大論争が起きたのである。 生活カリキュラムを支持する馬場四郎は、入学試験の学力から判断すること自体を批判した上で、必要な知識は現実生活と結びついたものであり、従来の「暗記科目」とされる教科の中で「棒暗記」を強いられてきたような知識は無意味であると批判する。そして、生活の中で学ばれた知識は、正しい方法で学べばやがて、科学的系統性も獲得するという「原則」から、戦後の生活単元学習・経験主義的学習を擁護した。この議論は形を変えて21世紀に入り、PISAの学力テストにおいて復活することになった。PISAの学力イメージは後述するが、この時期の「読書算」中心の基礎学力論よりは、ずっと生活カリキュラム論の問題解決的能力に近いからである。(馬場四郎「教育現実と新しいカリキュラム」昭和24年執筆『日本教育論争史緑』第一法規 p312) しかし、戦後改革を支持する立場からも、学力概念を吟味する必要が主張される。 {1960年代の全国学力テスト問題} 1960年代になると、学力を巡る様相は一片した。最大の原因は「学習指導要領」が法的拘束力をもつとされたことである。1958年の改訂で、それまで「試案」であり、あくまでも「参考」であるとされた学習指導要領が、守らなければならない法的なものであり、教科書も学習指導要領の範囲でのみ検定を合格するとされたこと、そして、「道徳」の時間が設けられ、教育課程を構成する一部となったことである。学習指導要領の法的拘束性は当初から、教育界全体を巻き込む論争となり、文部省への批判も強かった。この点については、長く裁判でも争われることにもなった。 文部省は学習指導要領の現場における徹底を図るために、全国学力テストを悉皆調査として行い、これもまた大きな争いになり、60年代の内に中止され、最近になるまで文部省は「学力テスト」を行なうことができなかったのである。 この学力テスト問題は、「学力問題」に新たな局面を付加したといえる。それは、学力内容は誰が決めるのか、学力の状況を誰が評価するのか、学力の内容を教師や国民に強制できるのかという問題である。これは学力から見れば、外側の問題であるが、外部が内部を規定することは少なくないから、学力の内容に間接的に関わる問題である。これは「国民の教育権」「国家の教育権」という教育権理論をめぐる論争でもあり、当初「国家教育権」の立場にたっていた政府・文部省は、次第に国民の立場を論理的に取り入れ、当初は粗雑だったが、次第に次のような論となった。 日本は民主主義の国家であり、政治の内容や方向は国民が選挙で判断する。従って、選挙で選ばれた政府が決めた内容は、国民の意思が反映されたものであり、政府は当然教育内容を決める権限があるし、また、その実態を把握するために国民に対して試験をする権限がある。 それに対して、政治の担当を決めることを国民は政府に委託したとしても、それは教育の内容まで委託したわけではない。そもそも、教育は政治によって左右されるべきではなく、真理に基づいて行なわれるべきものである。従って、政府が教育内容を詳細にまで定めたり、理解度を調査することを強制すべきではない。 不幸なことに、相互に政治的な色彩をもち、政治の対立が教育に持ち込まれた側面が否定できなかった。この問題については「現代学校教育論」で詳細に論じるので、ここでは、学力の内容について、国家という政治機関がどのように関わるべきなのか、逆に関わってはいけないのかという問題があることだけ指摘しておきたい。 PISAの学力像 PISAは従来の学力テストと内容がかなり異なると言われている。PISAは、OECD(経済協力開発機構)が実施する国際学力テストであるが、それまでのほとんどの国際学力テストが、教育界における学力テスト運営組織が行なっていたのに対して、経済界の組織が行なった点が全く異なっており、その目的も新しい経済社会において必要な能力・学力を姿を明らかにし、かつその学力の実態を調査するものである。しかも、その学力観は、従来の日本の学力観、特に受験勉強で形成されている学力観とは非常に異なるものであった。日本の成績が低下したと考えれらるのも、こうした学力観の相違に起因する部分もあるだろう。では、PISAの学力観とは何か。 まず問題を見てもらおう。国語の問題は次のようなものであった。 国語の問題は、落書きに対する賛成意見と反対意見を提示し、文意を確認するだけではなく、自分の意見を書く問題となっている。意見問題について、採点がどのように行なわれたのかは、わからないが、少なくとも、通常日本の国語の問題として、出題されるのは、文意を確認する2番までであろう。数学の問題も、グラフを読み取る問題はあっても、かなりパターン化した「直線」グラフであって、この問題のように、曲線が材料になることはあまりないだろう。 いずれの問題も、材料が出されて、それを合理的に解釈し、説明する、更に考察する力が求められている。これは、従来の日本の学力観、特に基礎学力と考えられてきた内容とは大幅に異なっている。日本の子どもがこれまで国際学力テストで好成績を納めてきたのに、PISAで少し低い評価になったのは、そのためであるとも考えられる。 サドベリバレイ校の学力観 サドベリバレイ校は決まった時間割による授業を行なわない。つまり、義務的に学ぶことは一切ないわけである。学ぶときにだけ学ぶ、あるいは、生活全体の中で常に学んでいるという考え方をとっている。それでも、サドベリバレイ校の教育は、どのような能力を形成しようとしているのだろうか。もちろん、能力や学力の形成を無視しているのではなく、むしろ明確にその必要性を認識しているのである。 学力の社会的機能 東井義雄の『村を育てる学力』という名著があった。これは、実際の学校の学力が、「村を捨てる学力」を育てているという批判意識の下に、村を育てる学力とは何か、それをどう育てるかを模索した本である。つまり、戦前からずっと続く立身出世主義の教育では、学力が優秀であると、結局都会に出て、そこで出世を目指し、自分が育った村を出て行く構図がある。もちろん、東京に出て成功した人が、故郷のために働いてくれるという期待もあったが、やはり、学力のもつ「社会的機能」として、教育の歪んだ姿を示しているといえる。 学力の剥落 大田堯は、戦前の壮丁学力テストの結果を詳細に調べることによって、どのような学力が大人になるまで残っていたかを明らかにした。壮丁学力テストというのは、徴兵制の下で、徴兵される青年が学力テストは体力テストを受けたのであるが、そのテストをいう。学力テストは、義務教育で教えた内容の理解度を試験したのだが、大田の指摘では、天皇への忠誠心を学ぶ内容が、最も正解率が高かったという。(大田堯『学力とは何か』)つまり、知的な内容ではなく、道徳的な教え込まれた内容が、長く残っていたのである。こうした学んだことを忘れてしまうことを「学力の剥落」ということがあるが、近年の日本での学力論争も、この剥落現象がきっかけとなった。 東大生が簡単な分数計算ができなかったということが、ひとつの学力低下論争のきっかけだったが、日常的に使う知識であれば、通常は剥落することはない。分数計算は、日常生活の中で実際に使われることはほとんどないから、剥落することは不思議ではないし、たとえ東大生であろうと、できなくなる可能性はあるだろう。もちろん、以前は正確にできた学生たちだろうから、復習をすれば、すぐに再びできるようになるたとは明らかだから、これをもって、学力低下と決めつけることの妥当性は議論の余地があるが、むしろ、このことで明らかになるのは、普段使わない知識が剥落することは明らかだから、学校教育の中で、生活の中で使われない知識が、初等教育の中で教えられているという事実にこそ、目を向ける必要がある。 戦前の義務教育の内容が、ほぼ剥落するような内容だったことということになろう。