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456.弟を皇太子とし、叔母を太皇太后とする 元の武宗(カイシャン)は弟の仁宗(アユルバルワダ)を立てて皇太子とし、明宗(コシラ)は弟の文宗(トク・テムル)を立てて皇太子とした。思うに皇太子とは王朝の跡継ぎの名号であって、一族の序列では論じられないのである。しかし弟を子と称するとは、名の正しくないこと、これほどひどいことはない。 順帝(トゴン・テムル)は叔母(文宗の后のブッダシリ)に立てられた恩があったので、尊び奉ろうと考えて、まず尊んで皇太后とし、次いでまた尊んで太皇太后とした。叔母を祖母の称で奉ずるとは、もっとも可笑しいことである。当時にも許有壬が強く諫めたが、聞き入れられなかった。また明宗が殺された事件が追究されると、鉾先は太后におよんで、東安州にうつされて死んだ。はじめに彼女を非礼によって尊び、のちに彼女を冤罪に連座させる。衰朝の荒主のやることが無茶苦茶なのは、もとより責めるまでもないことだろうか。 456.弟爲皇太子叔母爲太皇太后 武宗立弟仁宗爲皇太子,明宗立弟文宗爲皇太子,蓋以皇太子爲繼體儲君之名號,不論輩行也。然以弟稱子,名之不正,莫此爲甚。順帝以從母(文宗后卜荅失里)援立之恩,極欲尊奉,先尊爲皇太后,繼又尊爲太皇太后,以叔母而奉以祖母之稱,尤可笑也。當時許有壬力諫,不聽。又追究明宗被害之故,遷怒於后,安置東安州以死。始則尊之以非禮,後則坐之以非罪,衰朝荒主,顛倒妄行,固無足責矣。
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70.夫在稱太 皇太后、太皇太后,皆從乎子孫而言也。漢書孝元傅昭儀傳:「昭儀初爲倢妤,上寵之,欲殊之於後宮。以倢妤有子爲王,而上尚在,未得稱太后。乃更號曰昭儀,位在倢妤上。」是夫在不稱太也。乃光武帝廢郭后,封后子輔爲中山王,而即以后爲中山太后,後輔徙封沛,又稱沛太后。夫在稱太,究屬不經。
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セイタイコウ(西太后) 中国帝王の系譜に登場する人物。 関連: カンポウテイ (咸豊帝、夫) ドウチテイ (同治帝、息子) 別名: シータイホウ コウキンケンコウゴウ (孝欽顕皇后) ジキタイコウ (慈禧太后) ラオフオイエ (老仏爺) ツーシータイホウ (慈禧太后)
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44.結婚するときに世代順を問題にしない 漢の恵帝(劉盈)の皇后の張氏は、恵帝の姉の魯元公主のむすめであって、つまるところ恵帝の姪にあたる。呂太后は肉親を重んじようとしたので、恵帝に連れ添わせて皇后として立てるのに、帝の姪を妻としたのである。哀帝(劉欣)の皇后の傅氏は、哀帝の祖母の傅太皇太后の従弟のむすめにあたる。太皇太后はかつて元帝の昭儀であって、定陶共王(劉康)を生み、定陶共王は哀帝を生んだ(宮中に入って成帝の跡を継ぎ、このため皇帝となった)。このように哀帝は傅太皇太后の孫である。しかし傅太皇太后は肉親を重んじようとして、姪を哀帝にめあわせたので、外戚の叔母世代を妻としたのである。漢のときの法制は、このように大ざっぱであった。 44.婚娶不論行輩 漢惠帝后張氏,乃帝姊魯元公主之女,則帝之女甥也。呂后欲爲重親,遂以配帝,立爲皇后,是以甥爲妻也。哀帝后傅氏,乃帝祖母傅太后從弟之女。太后初爲元帝昭儀,生定陶共王,王生哀帝,(入繼成帝,故爲帝。)是哀帝乃傅太后之孫。而傅太后欲重親,以姪女妻之,則以外家諸姑爲妻也。漢時法制,疏闊如此。 前頁 『廿二史箚記』巻三 次頁 漢初妃后多出微賤 44.婚娶不論行輩 皇子繋母姓
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第十五話 ー太后宮ー 何進「何故そこまで十常侍をかばう?今こそ十常侍を全滅させる好機ではないか。」 何太后「ふふ、大将軍であり天子の叔父である兄上が何を恐れているのです。董太后を毒殺したのですよ、いずれにしても、我々の天下に変わりありませぬわ。」 何進「……だといいがな。」 しかし、十常侍は自らの害になるものを放っては置かなかった…。 何進、誅殺。 洛陽はまさに血で血を洗う惨劇の舞台となっていた。
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名稱:慈喜 伺服器及顏色: 1服藍 類型:武 性別:女 生命值:待補 武力:32 智力:22 防禦:10 敏捷:32 運勢:87 敘述 (1835年11月29日-1908年11月15日,即道光十五年十月十日—光緒三十四年十月二十二日),姓葉赫那拉氏,諱名杏貞[1]。滿洲 鑲藍旗人;清文宗咸豐皇帝的妃子,清穆宗同治皇帝的生母,以皇太后身分或垂簾聽政或臨朝稱制,為自1861年至1908年間大清帝國的實際統治者,為期僅 次於清朝康熙帝和乾隆帝。生前,外人有以“慈禧太后”、“西太后”、“那拉太后”等稱之者
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王妃殺害事件の関係者の証言 「禍乱の張本人たる禹範善、李斗鎬、李範来、リシンコウ、趙義淵、権濚鎭等を斬首して露館に来り、朕の観覧に供せよ」「王妃を殺した部下に復讐するために、国が滅んでもかまわない」とロシア公使館逃亡中の高宗の発言。(1896年のソウルの町中に張られた勅令) 「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)) 「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺) 「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件) 「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周會(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり) 「計画の首謀者は、大院君だ」と記したロシアの参謀(ゲ・デ・チャガイが編集した「朝鮮旅行記」のロシア参謀「カルネイェフ」の発言) 「事件に協力した」と、日本の三浦公使 「今後も、日本とは最も親密で居よう」と高宗(1896年2月11日の詔勅) 高宗・純宗という目撃者と容疑者の自白から、王妃を殺害したのは「朝鮮の禹範善」 石塚英蔵氏の文章 20060726115385214909363300.jpg 訳文「入城して実行の任務に当たった守備隊の将校兵卒の四つの門の警護の制止に止まらず、門内に侵入し殊に野次馬達は深く建物内部に入り込み王妃を引きずり出し2,3箇所刀傷を負わせ、かつ裸にし念入りに局部検査をして(笑ながら、また、怒りながら)、最後に油をかけて焼き殺すなど・・・」 この「野次馬」当然ながら、朝鮮民衆ですね。 エゾ報告書を信じるなら、「明成皇后を陵辱したの朝鮮の一般民衆でした。」 結局、韓国のマスコミや学者が、文章を歪曲・捏造していただけでしたwww 元ネタ「明成皇后」から判明する、韓国の妄想と隠蔽体質(ENJOY Korea) 角田房子「閔妃暗殺─朝鮮王朝末期の国母─」 〜くず本 崔基鎬(Che keiho)『韓国 堕落の2000年史』より抜粋 (注)著者 崔基鎬(Che keiho)加耶大学客員教授 閔妃はオカルトに凝っていた。 金剛山の12000の地点に、1つの地点に1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。 つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施した。 当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していただけだった。 閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上だった! これは法外な浪費だった。 宮廷の役人は、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈っていた。 そして王妃に媚びてオカルトに積極的に参加し、巫女と踊り狂った。 閔妃は、狂気の宮廷に君臨する女王だった。 (中略) 日本の愚かな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いた事がある。 しかし、閔妃は義父(大院君)を裏切った女である。 民衆を地獄に苦しみに突き落とした女である。国費を浪費して国を滅ぼした恐ろしい女である。 日本人は韓国の歴史に対する無知が、逆に日韓関係を歪めてきた事を知るべきだ。 アマゾン
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資治通鑑巻第十三 漢紀五 高皇后 元年(甲寅、前一八七) 1冬,太后議欲立諸呂爲王,問右丞相陵。陵曰:「高帝刑白馬盟曰:『非劉氏而王,天下共撃之。』今王呂氏,非約也。」太后不説,問左丞相平、太尉勃,對曰:「高帝定天下,王子弟;今太后稱制,王諸呂,無所不可。」太后喜,罷朝。王陵讓陳平、絳侯曰;「始與高帝啑血盟,諸君不在邪?今高帝崩,太后女主,欲王呂氏;諸君縱欲阿意背約,何面目見高帝於地下乎?」陳平、降侯曰:「於今,面折廷爭,臣不如君;全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」陵無以應之。十一月,甲子,太后以王陵爲帝太傅,實奪之相權。陵遂病免歸。 乃以左丞相平爲右丞相,以辟陽侯審食其爲左丞相,不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸於太后,公卿皆因而決事。 太后怨趙堯爲趙隱王謀,乃抵堯罪。 上黨守任敖嘗爲沛獄吏,有德於太后,乃以爲御史大夫。 太后又追尊其父臨泗侯呂公爲宣王,兄周呂令武侯澤爲悼武王,欲以王諸呂爲漸。 1. 2春,正月,除三族罪、妖言令。 2. 3夏,四月,魯元公主薨。封公主子張偃爲魯王,謚公主曰魯元太后。 3. 4辛卯,封所名孝惠子山爲襄城侯,朝爲軹侯,武爲壺關侯。太后欲王呂氏,乃先立所名孝惠子強爲淮陽王,不疑爲恆山王;使大謁者張釋風大臣。大臣乃請立悼武王長子酈侯台爲呂王,割齊之濟南郡爲呂國。 4. 5五月,丙申,趙王宮叢台災。 5. 6秋,桃、李華。 6. 二年(乙卯、前一八六) 1冬,十一月,呂肅王台薨。 1. 2春,正月,乙卯,地震;羌道、武都道山崩。 2. 3夏,五月,丙申,封楚元王子郢客爲上邳侯,齊悼惠王子章爲朱虚侯,令入宿衞,又以呂祿女妻章。 3. 4六月,丙戌晦,日有食之。 4. 5秋,七月,恆山哀王不疑薨。 5. 6行八銖錢。 6. 7癸丑,立襄成侯山爲恆山王,更名義。 7. 三年(丙辰、前一八五) 1夏,江水、漢水溢,流四千餘家。 1. 2秋,星晝見。 2. 3伊水、洛水溢,流千六百餘家。汝水溢,流八百餘家。 3. 四年(丁巳、前一八四) 1春,二月,癸未,立所名孝惠子太爲昌平侯。 1. 2夏,四月,丙申,太后封女弟嬃爲臨光侯。 2. 3少帝浸長,自知非皇后子,乃出言曰:「後安能殺吾母而名我!我壯,即爲變!」太后聞之,幽之永巷中,言帝病,左右莫得見。太后語羣臣曰:「今皇帝病久不已,失惑昏亂,不能繼嗣治天下;其代之。」羣臣皆頓首言:「皇太后爲天下齊民計,所以安宗廟、社稷甚深。羣臣頓首奉詔。」遂廢帝,幽殺之。五月,丙辰,立恆山王義爲帝,更名曰弘,不稱元年,以太后制天下事故也。以軹侯朝爲恆山王。 3. 4是歳,以平陽侯曹窋爲御史大夫。 4. 5有司請禁南越關市、鐵器。南越王佗曰:「高帝立我,通使物。今高后聽讒臣,別異蠻夷,隔絶器物,此必長沙王計,欲倚中國撃滅南越而並王之,自爲功也。」 5. 五年(戊午、前一八三) 1春,佗自稱南越武帝,發兵攻長沙,敗數縣而去。 1. 2秋,八月,淮陽懷王強薨,以壺關侯武爲淮陽王。 2. 3九月,發河東、上黨騎屯北地。 3. 4初令戍卒歳更。 4. 六年(己未、前一八二) 1冬,十月,太后以呂王嘉居處驕恣,廢之。十一月,立肅王弟産爲呂王。 1. 2春,星晝見。 2. 3夏,四月,丁酉,赦天下。 3. 4封朱虚侯章弟興居爲東牟侯,亦入宿衞。 4. 5匈奴寇狄道,攻阿陽。 5. 6行五分錢。 6. 7宣平侯張敖卒,賜謚曰魯元王。 7. 七年(庚申、前一八一) 1冬,十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。 1. 2春,正月,太后召趙幽王友。友以諸呂女爲后,弗愛,愛他姫。諸呂女怒,去,讒之於太后曰:「王言『呂氏安得王!太后百歳後,吾必撃之。』」太后以故召趙王,趙王至,置邸,不得見,令衞圍守之,弗與食;其羣臣或竊饋,輒捕論之。丁丑,趙王餓死,以民禮葬之長安民塚次。 2. 3己丑,日食,晝晦。太后惡之,謂左右曰:「此爲我也!」 3. 4二月,徙梁王恢爲趙王,呂王産爲梁王。梁王不之國,爲帝太傅。 4. 5秋,七月,丁巳,立平昌侯太爲濟川王。 5. 6呂嬃女爲將軍、營陵侯劉澤妻。澤者,高祖從祖昆弟也。齊人田生爲之説大謁者張卿曰:「諸呂之王也,諸大臣未大服。今營陵侯澤,諸劉最長;今卿言太后王之,呂氏王益固矣。」張卿入言太后,太后然之,乃割齊之琅邪郡封澤爲琅邪王。 6. 7趙王恢之徙趙,心懷不樂。太后以呂産女爲王后,王后從官皆諸呂,擅權,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姫,王后使人鴆殺之。六月,王不勝悲憤,自殺。太后聞之,以爲王用婦人棄宗廟禮,廢其嗣。 7. 8是時,諸呂擅權用事。朱虚侯章,年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入侍太后燕飲,太后令章爲酒吏。章自請曰:「臣將種也,請得以軍法行酒。」太后曰:「可。」酒酣,章請爲耕田歌,太后許之。章曰:「深耕穊種,立苗欲疏;非其種者,鋤而去之!」太后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之而還,報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之!」太后左右皆大驚,業已許其軍法,無以罪也,因罷。自是之後,諸呂憚朱虚侯,雖大臣皆依朱虚侯,劉氏爲益強。陳平患諸呂,力不能制,恐禍及己。嘗燕居深念,陸賈往,直入坐,而陳丞相不見。陸生曰:「何念之深也!」陳平曰:「生揣我何念?」陸生曰:「足下極富貴,無欲矣;然有憂念,不過患諸呂、少主耳。」陳平曰:「然!爲之奈何?」陸生曰:「天下安,注意相;天下危,注意將。將相和調,則士豫附;天下雖有變,權不分。爲社稷計,在兩君掌握耳。臣常欲謂太尉絳侯,絳侯與我戲,易吾言。君何不交歡太尉,深相結?」因爲陳平畫呂氏數事。陳平用其計,乃以五百金爲絳侯壽,厚具樂飲;太尉報亦如之。兩人深相結,呂氏諸益衰。陳平以奴婢百人、車馬五十乘、錢五百萬遺陸生爲飲食費。 8. 9太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝之,願守代邊。太后乃立兄子呂祿爲趙王,追尊祿父建成康侯釋之爲趙昭王。 9. 10九月,燕靈王建薨,有美人子,太后使人殺之。國除。 10. 11遣隆慮侯周灶將兵撃南越。 11. 八年(辛酉、前一八〇) 1冬,十月,辛丑,立呂肅王子東平侯通爲燕王,封通弟莊爲東平侯。 1. 2三月,太后示犮,還,過軹道,見物如蒼犬,撠太后掖,忽不復見。卜之,雲「趙王如意爲祟」。太后遂病掖傷。太后爲外孫魯王偃年少孤弱,夏,四月,丁酉,封張敖前姫兩子侈爲新都侯,壽爲樂昌侯,以輔魯王。又封中大謁者張釋爲建陵侯,以其勸王諸呂,賞之也。 2. 3江、漢水溢,流萬餘家。 3. 4秋,七月,太后病甚,乃令趙王祿爲上將軍,居北軍;呂王産居南軍。太后誡産、祿曰:「呂氏之王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐爲變。必據兵衞宮,愼毋送喪,爲人所制!」辛巳,太后崩,遺詔:大赦天下,以呂王産爲相國,以呂祿女爲帝后。高后已葬,以左丞相審食其爲帝太傅。 4. 5諸呂欲爲亂,畏大臣絳、灌等,未敢發。朱虚侯以呂祿女爲婦,故知其謀,乃陰令人告其兄齊王,欲令發兵西,朱虚侯、東牟侯爲内應,以誅諸呂,立齊王爲帝。齊王乃與其舅駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平弗聽。八月,丙午,齊王欲使人誅相。相聞之,乃發卒衞王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王固善,勃請爲君將兵衞王。」召平信之。勃既將兵,遂圍相府,召平自殺。於是齊王以駟鈞爲相,魏勃爲將軍,祝午爲内史,悉發國中兵。 使祝午東詐琅邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王,自高帝將也。請大王幸之臨菑,見齊王計事。」琅邪王信之,西馳見齊王。齊王因留琅邪王,而使祝午盡發琅邪國兵,並將之。琅邪王説齊王曰:「大王,高皇帝適長孫也,當立。今諸大臣狐疑未有所定,而澤於劉氏最爲長年,大臣固待澤決計。今大王留臣,無爲也,不如使我入關計事。」齊王以爲然,乃益具車送琅邪王。琅邪王既行,齊遂舉兵西攻濟南。遺諸侯王書,陳諸呂之罪,欲舉兵誅之。 相國呂産等聞之,乃遣穎陰侯灌嬰將兵撃之。灌嬰至滎陽,謀曰:「諸呂擁兵關中,欲危劉氏而自立。今我破齊還報,此益呂氏之資也。」乃留屯滎陽,使使諭齊王及諸侯與連和,以待呂氏變,共誅之。齊王聞之,乃還兵西界待約。 呂祿、呂産欲作亂,内憚絳侯、朱虚等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之。欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未決。 當是時,濟川王太、淮陽王武、常山王朝及魯王張偃皆年少,未之國,居長安;趙王祿、梁王産各將兵居南、北軍。皆呂氏之人也。列侯羣臣莫自堅其命。 太尉絳侯勃不得主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商,令其子寄往紿説呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已佈告諸侯,皆以爲宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守藩,乃爲上將,將兵留此,爲大臣諸侯所疑。足下何不歸將印,以兵屬太尉,請梁王歸相國印,與大臣盟而之國。齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲以兵屬太尉。使人報呂産及諸呂老人,或以爲便,或曰不便,計猶豫未有所決。 呂祿信酈寄,時與出遊獵,過其姑呂嬃。嬃大怒曰:「若爲將而棄軍,呂氏今無處矣!」乃悉出珠玉、寶器散堂下,曰:「毋爲他人守也!」 九月,庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相國産計事。郎中令賈壽使從齊來,因數産曰:「王不早之國,今雖欲行,尚可得邪!」具以灌嬰與齊、楚合從欲誅諸呂告産,且趣産急入宮。平陽侯頗聞其語,馳告丞相、太尉。 太尉欲入北軍,不得入。襄平侯紀通尚符節,乃令持節矯内太尉北軍。太尉復令酈寄與典客劉掲先説呂祿曰:「帝使太尉守北軍,欲足下之國。急歸將印辭去。不然,禍且起。」呂祿以爲酈況不欺己,遂解印屬典客,而以兵授太尉。太尉至軍,呂祿已去。太尉入軍門,行令軍中曰:「爲呂氏右袒,爲劉氏左袒!」軍中皆左袒,太尉遂將北軍。然尚有南軍。丞相平乃召朱虚侯章佐太尉,太尉令朱虚侯監軍門,令平陽侯告衞尉:「毋入相國産殿門。」 呂産不知呂祿已去北軍,乃入未央宮,欲爲亂。至殿門,弗得入,徘徊往來。平陽侯恐弗勝,馳語太尉。太尉尚恐不勝諸呂,未敢公言誅之,乃謂朱虚侯曰:「急入宮衞帝!」朱虚侯請卒,太尉予卒千餘人。入未央宮門,見産廷中。日食甫時,遂撃産,産走。天風大起,以故其從官亂,莫敢斗,逐産,殺之郎中府吏廁中。朱虚侯已殺産,帝命謁者持節勞朱虚侯。朱虚侯欲奪其節,謁者不肯。朱虚侯則從與載,因節信馳走,斬長樂衞尉呂更始。還,馳入北軍報太尉。太尉起,拜賀朱虚侯曰:「所患獨呂産。今已誅,天下定矣!」遂遣人分部悉捕諸呂男女,無少長皆斬之。辛酉,捕斬呂祿而笞殺呂嬃,使人誅燕王呂通而廢魯王張偃。戊辰,徙濟川王王梁。遣朱虚侯章以誅諸呂事告齊王,令罷兵。 灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王舉兵,使使召魏勃至,責問之。勃曰:「失火之家,豈暇先言丈人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能爲乎!」乃罷魏勃。灌嬰兵亦罷滎陽歸。 班固贊曰:孝文時,天下以酈寄爲賣友。夫賣友者,謂見利而忘義也。若寄父爲功臣而又執劫,雖摧呂祿以安社稷,誼存君親可也。 5. 6諸大臣相與陰謀曰:「少帝及梁、淮陽、恆山王,皆非眞孝惠子也。呂后以計詐名他人子,殺其母養後宮,令孝惠子之,立以爲後及諸王,以強呂氏。今皆已夷滅諸呂,而所立即長,用事,吾屬無類矣。不如視諸王最賢者立之。」或言:「齊王,高帝長孫,可立也。」大臣皆曰:「呂氏以外家惡而幾危宗廟,亂功臣。今齊王舅駟鈞,虎而冠。即立齊王,復爲呂氏矣。代王方今高帝見子最長,仁孝寬厚,太后家薄氏謹良。且立長固順,況以仁孝聞天下乎!」乃相與共陰使人召代王。 代王問左右,郎中令張武等曰:「漢大臣皆故高帝時大將,習兵,多謀詐。此其屬意非止此也,特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新啑血京師,此以迎大王爲名,實不可信。願大王稱疾毋往,以觀其變。」中尉宋昌進曰:「羣臣之議皆非也。夫秦失其政,諸侯、豪桀並起,人人自以爲得之者以萬數,然卒踐天子之位者,劉氏也,天下絶望,一矣。高帝封王子弟,地犬牙相制,此所謂磐石之宗也,天下服其強,二矣。漢興,除秦苛政,約法令,施德惠,人人自安,難動搖,三矣。夫以呂太后之嚴,立諸呂爲三王,擅權專制;然而太尉以一節入北軍一呼,士皆左袒爲劉氏,叛諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲爲變,百姓弗爲使,其黨寧能專一邪?方今内有朱虚、東牟之親,外畏呉、楚、淮陽、琅邪、齊、代之強。方今高帝子,獨淮南王與大王。大王又長,賢聖仁孝聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王。大王勿疑也。」代王報太后計之。猶豫未定,卜之,兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余爲天王,夏啓以光。」代王曰:「寡人固已爲王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具爲昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃命宋昌參乘,張武等六人乘傳,從詣長安。至高陵,休止,而使宋昌先馳之長安觀變。昌至渭橋,丞相以下皆迎。昌還報。代王馳至渭橋,羣臣拜謁稱臣,代王下車答拜。太尉勃進曰:「願請間。」宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉乃跪上天子璽、符。代王謝曰:「至代邸而議之。」 後九月,己酉晦,代王至長安,舍代邸,羣臣從至邸。丞相陳平等皆再拜言曰:「子弘等皆非孝惠子,不當奉宗廟。大王,高帝長子,宜爲嗣。願大王即天子位。」代王西郷讓者三,南郷讓者再,遂即天子位。羣臣以禮次侍。 東牟侯興居曰:「誅呂氏,臣無功,請得除宮。」乃與太僕汝陰侯滕公入宮,前謂少帝曰:「足下非劉氏子,不當立!」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去;有數人不肯去兵,宦者令張釋諭告,亦去兵。滕公乃召乘輿車載少帝出。少帝曰:「欲將我安之乎?」滕公曰:「出就舍。」舍少府。乃奉天子法駕迎代王於邸,報曰:「宮謹除。」代王即夕入未央宮。有謁者十人持戟衞端門,曰:「天子在也,足下何爲者而入?」代王乃謂太尉。太尉往諭,謁者十人皆掊兵而去,代王遂入。夜,拜宋昌爲衞將軍,鎭撫南北軍;以張武爲郎中令,行殿中。有司分部誅滅梁、淮陽、恆山王及少帝於邸。文帝還坐前殿,夜,下詔書赦天下。 6. 太宗孝文皇帝上 元年(壬戌、前一七九) 1冬,十月,庚戌,徙琅邪王澤爲燕王;封趙幽王子遂爲趙王。 1. 2陳平謝病。上問之,平曰:「高祖時,勃功不如臣,及誅諸呂,臣功亦不如勃,願以右丞相讓勃。」十一月,辛巳,上徙平爲左丞相,太尉勃爲右丞相,大將軍灌嬰爲太尉。 諸呂所奪齊、楚故地,皆復與之。 2. 3論誅諸呂功,右丞相勃以下益戸、賜金各有差。絳侯朝罷趨出,意得甚。上禮之恭,常目送之。郎中安陵袁盎諫曰:「諸呂悖逆,大臣相與共誅之。是時丞相爲太尉,本兵柄,適會其成功。今丞相如有驕主色,陛下謙讓。臣主失禮,竊爲陛下弗取也!」後朝,上益莊,丞相益畏。 3. 4十二月,詔曰:「法者,治之正也。今犯法已論,而使無罪之父母、妻子、同産坐之,及爲收帑,朕甚不取!其除收帑諸相坐律令。」 4. 5春,正月,有司請蚤建太子。上曰;「朕既不德,縱不能博求天下賢聖有德之人而禪天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。其安之!」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟、社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也;呉王,兄也;淮南王,弟也,豈不豫哉?今不選舉焉,而曰必子,人其以朕爲忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也!」有司固請曰:「古者殷、周有國,治安皆千餘歳,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝平天下爲太祖,子孫繼嗣世世不絶,今釋宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子啓最長,純厚慈仁,請建以爲太子。」上乃許之。 5. 6三月,立太子母竇氏爲皇后。皇后,清河觀津人。有弟廣國,字少君,幼爲人所略賣,傳十餘家,聞竇後立,乃上書自陳。召見,驗問,得實,乃厚賜田宅、金錢,與兄長君家於長安。絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不爲擇師傅、賓客;又復效呂氏,大事也!」於是乃選士之有節行者與居。竇長君、少君由此爲退讓君子,不敢以尊貴驕人。 6. 7詔振貸鰥、寡、孤、獨、窮困之人。又令:「八十已上,月賜米、肉、酒;九十已上,加賜帛、絮。賜物當稟鬻米者,長吏閲視,丞若尉致;不滿九十,嗇夫、令史致;二千石遣都吏循行,不稱者督之。」 7. 8楚元王交薨。 8. 9夏,四月,齊、楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。 9. 10時有獻千里馬者。帝曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行三十里。朕乘千里馬,獨先安之?」於是還其馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也。其令四方毋求來獻。」 10. 11帝既施惠天下,諸侯、四夷遠近歡洽。乃修代來功,封宋昌爲壯武侯。 11. 12帝益明習國家事。朝而問右丞相勃曰:「天下一歳決獄幾何?」勃謝不知。又問:「一歳錢穀出入幾何?」勃又謝不知,惶愧,汗出沾背。上問左丞相平。平曰:「有主者。」上曰:「主者謂誰?」曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢谷,責治粟内史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「陛下不知其駑下,使待罪宰相。宰相者,上佐天子,理陰陽,順四時;下遂萬物之宜;外鎭撫四夷諸侯;内親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」帝乃稱善。右丞相大慚,出而讓陳平曰:「君獨不素教我對!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數,君欲強對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,人或説勃曰:「君既誅諸呂,立代王,威震天下。而君受厚賞,處尊位,久之,即禍及身矣。」勃亦自危,乃謝病,請歸相印,上許之。秋,八月,辛未,右丞相勃免,左丞相平專爲丞相。 12. 13初,隆慮侯灶撃南越,會暑濕,士卒大疫,兵不能隃領。歳餘,高后崩,即罷兵。趙佗因此以兵威財物賂遺閩越、西甌、駱,役屬焉。東西萬餘里,乘黄屋左纛,稱制與中國侔。 帝乃爲佗親塚在眞定者置守邑,歳時奉祀;召其昆弟,尊官、厚賜寵之。復使陸賈使南越,賜佗書曰:「朕,高皇帝側室之子也,棄外,奉北藩於代。道里遼遠,壅蔽樸愚,未嘗致書。高皇帝棄羣臣,孝惠皇帝即世;高后自臨事,不幸有疾,諸呂爲變,賴功臣之力,誅之已畢,朕以王、侯、吏不釋之故,不得不立。今即位。乃者聞王遺將軍隆慮侯書,求親昆弟,請罷長沙兩將軍。朕以王書罷將軍博陽侯;親昆弟在眞定者,已遣人存問,修治先人塚。前日聞王發兵於邊,爲寇災不止。當其時,長沙苦之,南郡尤甚。雖王之國,庸獨利乎!必多殺士卒,傷良將吏,寡人之妻,孤人之子,獨人父母,得一亡十,朕不忍爲也。朕欲定地犬牙相入者,以問吏,吏曰:『高皇帝所以介長沙土也。』朕不得擅變焉。今得王之地,不足以爲大;得王之財,不足以爲富。服領以南,王自治之。雖然,王之號爲帝。兩帝並立,亡一乘之使以通其道,是爭也;爭而不讓,仁者不爲也。願與王分棄前惡,終今以來,通使如故。」 賈至南越,南越王恐,頓首謝罪,願奉明詔,長爲藩臣,奉貢職。於是下令國中曰:「吾聞兩雄不倶立,兩賢不並世。漢皇帝,賢天子。自今以來,去帝制、黄屋、左纛。」因爲書,稱:「蠻夷大長、老夫臣佗昧死再拜上書皇帝陛下:老夫,故越吏也,高皇帝幸賜臣佗璽,以爲南越王。孝惠皇帝即位,義不忍絶,所以賜老夫者甚厚。高后用事,別異蠻夷,出令曰:『毋與蠻夷越金、鐵、田器、馬、牛、羊。即予,予牡,毋予牝。』老夫處僻,馬、牛、羊齒已長。自以祭祀不修,有死罪,使内史藩、中尉高、御史平凡三輩上書謝過,皆不反。又風聞老夫父母墳墓已壞削,兄弟宗族已誅論。吏相與議曰:『今内不得振於漢,外無以自高異。』故更號爲帝,自帝其國,非敢有害於天下。高皇后聞之,大怒,削去南越之籍,使使不通。老夫竊疑長沙王讒臣,故發兵以伐其邊。老夫處越四十九年,於今抱孫焉。然夙興夜寐,寢不安席,食不甘味,目不視靡曼之色,耳不聽鐘鼓之音者,以不得事漢也。今陛下幸哀憐,復故號,通使漢如故;老夫死,骨不腐。改號,不敢爲帝矣!」 13. 14齊哀王襄薨。 14. 15上聞河南守呉公治平爲天下第一,召以爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼,帝召以爲博士。是時賈生年二十餘。帝愛其辭博,一歳中,超遷至太中大夫。賈生請改正朔,易服色,定官名,興禮樂,以立漢制,更秦法。帝謙讓未遑也。 15. 二年(癸亥、前一七八) 1冬,十月,曲逆獻侯陳平薨。 1. 2詔列侯各之國,爲吏及詔所止者,遣太子。 2. 3十一月,乙亥,周勃復爲丞相。 3. 4癸卯晦,日有食之。詔:「羣臣悉思朕之過失及知見之所不及,□以啓告朕。及舉賢良、方正、能直言極諫者,以匡朕之不逮。」因各敕以職任,務省繇費以便民,罷衞將軍。太僕見馬遺財足,餘皆以給傳置。 穎陰侯騎賈山上書言治亂之道曰:「臣聞雷霆之所撃,無不摧折者;萬鈞之所壓,無不糜滅者。今人主之威,非特雷霆也;執重,非特萬鈞也。開道而求諫,和顏色而受之,用其言而顯其身,士猶恐懼而不敢自盡;又況於縱欲恣暴、惡聞其過乎!震之以威,壓之以重,雖有堯、舜之智,孟賁之勇,豈有不摧折者哉!如此,則人主不得聞其過,社稷危矣。 昔者周蓋千八百國,以九州之民養千八百國之君,君有餘財,民有餘力,而頌聲作。秦皇帝以千八百國之民自養,力罷不能勝其役,財盡不能勝其求。一君之身耳,所自養者馳騁弋獵之娯,天下弗能供也。秦皇帝計其功德,度其後嗣世世無窮;然身死才數月耳,天下四面而攻之,宗廟滅絶矣。秦皇帝居滅絶之中而不自知者,何也?天下莫敢告也。其所以莫敢告者,何也?亡養老之義,亡輔弼之臣,退誹謗之人,殺直諫之士。是以道諛、媮合苟容,比其德則賢於堯、舜,課其功則賢於湯、武;天下已潰而莫之告也。今陛下使天下舉賢良方正之士,天下皆欣欣焉曰:『將興堯舜之道、三王之功矣。』天下之士,莫不精白以承休德。今方正之士皆在朝廷矣;又選其賢者,使爲常侍、諸吏,與之馳驅射獵,一日再三出。臣恐朝廷之解馳,百官之墮於事也。陛下即位,親自勉以厚天下,節用愛民,平獄緩刑;天下莫不説喜。臣聞山東吏布詔令,民雖老羸癃疾,扶杖而往聽之,願少須臾毋死,思見德化之成也。今功業方就,名聞方昭,四方郷風而從;豪俊之臣,方正之士,直與之日日獵射,撃兔、伐狐,以傷大業,絶天下之望,臣竊悼之。古者大臣不得與宴游,使皆務其方而高其節,則羣臣莫敢不正身修行,盡心以稱大體。夫士,修之於家而壞之於天子之廷,臣竊愍之。陛下與眾臣宴游,與大臣、方正朝廷論議,游不失樂,朝不失禮,議不失計,軌事之大者也。」上嘉納其言。 上毎朝,郎、從官上書疏,未嘗不止輦受其言。言不可用置之,言可用采之,未嘗不稱善。 帝從霸陵上欲西馳下峻阪。中郎將袁盎騎,並車攬轡。上曰:「將軍怯邪?」盎曰:「臣聞『千金之子,坐不垂堂』。聖主不乘危,不徼幸。今陛下騁六飛馳下峻山,有如馬驚車敗,陛下縱自輕,奈高廟、太后何!」上乃止。 上所幸愼夫人,在禁中常與皇后同席坐。及坐郎置,袁盎引卻愼夫人坐。愼夫人怒,不肯坐;上亦怒,起,入禁中。盎因前説曰:「臣聞『尊卑有序,則上下和』。今陛下既已立后,愼夫人乃妾。妾、主豈可與同坐哉!且陛下幸之,即厚賜之。陛下所以爲愼夫人,適所以禍之也。陛下獨不見『人彘』乎!」於是上乃説,召語愼夫人,愼夫人賜盎金五十斤。 賈誼説上曰:「管子曰:『倉廩實而知禮節,衣食足而知榮辱。』民不足而可治者,自古及今,未之嘗聞。古之人曰:『一夫不耕,或受之饑;一女不織,或受之寒。』生之有時而用之亡度,則物力必屈。古之治天下,至纖至悉,故其畜積足恃。今背本而趨末者甚衆,是天下之大殘也!淫侈之俗,日日以長,是天下之大賊也!殘、賊公行,莫之或止;大命將泛,莫之振救。生之者甚少而靡之者甚多,天下財産何得不厥。 漢之爲漢,幾四十年矣,公私之積,猶可哀痛。失時不雨,民且狼顧;歳惡不入,請賣爵子。既聞耳矣,安有爲天下阽危者若是而上不驚者! 世之有饑、穰,天之行也;禹、湯被之矣。即不幸有方二三千里之旱,國胡以相恤?卒然邊境有急,數十百萬之衆,國胡以饋之?兵、旱相乘,天下大屈,有勇力者聚徒而衡撃,罷夫、羸老,易子上咬其骨。政治未畢通也,遠方之能僭擬者並舉而爭起矣;乃駭而圖之,豈將有及乎!夫積貯者,天下之大命也。苟粟多而財有餘,何爲而不成!以攻則取,以守則固,以戰則勝,懷敵附遠,何招而不至! 今驅民而歸之農,皆著於本。使天下各食其力,末技、游食之民轉而縁南晦則畜積足而人樂其所矣。可以爲富安天下,而直爲此廩廩也,竊爲陛下惜之!」 上感誼言,春,正月,丁亥,詔開藉田,上親耕以率天下之民。 4. 5三月,有司請立皇子爲諸侯王。詔先立趙幽王少子辟強爲河間王,朱虚侯章爲城陽王,東牟侯興居爲濟北王;然後立皇子武爲代王,參爲太原王,揖爲梁王。 5. 6五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌,誹謗之木,所以通治道而來諫者也。今法有誹謗、妖言之罪,是使眾臣不敢盡情而上無由聞過失也,將何以來遠方之賢良!其除之!」 6. 7九月,詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也;而民或不務本而事末,故生不遂。朕憂其然,故今茲親率羣臣農以勸之;其賜天下民今年田租之半。」 7. 8燕敬王澤薨。 8.
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バンレキテイ(万暦帝) 中国の明の皇帝。 関連: リュウケイテイ (隆慶帝、父) コウテイタイゴウ (孝定太后、母) コウタンケンコウゴウ (孝端顕皇后、妻) コウセイタイゴウ (孝靖太后、妻) コウネイタイゴウ (孝寧太后、妻) コウケイタイコウタイゴウ (孝敬太皇太后、妻) タンヒシュウシ (端妃周氏、側室) エイヒオウシ (栄妃王氏、側室) ショウヒリュウシ (昭妃劉氏、妻) ギヒヨウシ (宜妃楊氏、妻) トクヒンリシ (徳嬪李氏、妻) タイショウテイ (泰昌帝、息子) シュケンゲン (朱軒嫄、娘) シュジョウジュン (朱常洵、息子) シュジョウエイ (朱常瀛、息子) シュジョウコウ (朱常浩、息子) シュケンキ (朱軒嬀、娘) シュケンビ (朱軒媺、娘) シュケンキツ (朱軒姞、娘) シュケンキ(2) (朱軒姫、娘) シュケントウ (朱軒嬁、娘) 別名: ヨクキン (翊鈞)
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唐書巻七十七 列伝第二 后妃下 張皇后 章敬呉太后 貞懿独狐皇后 睿真沈太后 昭徳王皇后 韋賢妃 荘憲王皇后 懿安郭太后 孝明鄭太后 恭僖王太后 貞献蕭太后 宣懿韋太后 尚宮宋若昭 郭貴妃 王賢妃 元昭太后 恵安王太后 郭淑妃 恭憲王太后 何皇后 肅宗廃后庶人張氏、鄧州向城人、家徙新豊。祖母竇、昭成皇后女弟也。玄宗幼失昭成、母視姨、鞠愛篤備。帝即位、封鄧国夫人、親寵無比。五息子、曰去惑・去疑・去奢・去逸・去盈、皆顯官。去盈尚常芬公主。去逸生后。 肅宗為忠王時、納韋元珪女為孺人。既建太子、以孺人為妃、后為良娣。妃兄堅為李林甫構死、太子懼、請與妃絶、毀服幽禁中。安祿山反、陷于賊、至徳中薨。 始、妃既絶、良娣得專侍太子、慧中而辯、能迎意傅合。玄宗西幸、娣與太子従、度渭、民鄣道乞留復長安、太子不聴。中人李輔国密啓、娣又贊其謀、遂定計北趣霊武。時軍衛單寡、夕次、娣必寢前、太子曰:「暮夜可虞、且捍賊非婦人事、宜少戒。」對曰:「方多事、若倉卒、妾自當之、殿下可徐為計。」駐霊武、産子三日、起縫戰士衣、太子敕止、對曰:「今豈自養時邪?」乾元初、冊拜淑妃、贈其父尚書左僕射、姊妹皆封号、弟清・潜尚大寧・延和二郡主。遂立為皇后、詔内外命婦悉朝光順門。 后能牢寵、稍稍豫政事、與李輔国相助、多以私謁橈權。親蠶苑中、群命婦相礼、儀物甚盛。二年、群臣上帝尊号、后亦諷群臣尊己号「翊聖」、帝問李揆、揆爭不可。會月蝕、帝以咎在後宮、乃止。又與輔国謀徙上皇西内。端午日、帝召見山人李唐、帝方擁幼女、顧唐曰:「我念之、無怪也。」唐曰:「太上皇今日亦當念陛下。」帝泫然涕下、而内制於后、卒不敢謁西宮。帝不豫、后自箴血寫佛書以示誠。 初、建寧王倓數短后於帝、上皇在蜀、以七宝鞍賜后、而李泌請分以賞戰士、倓助泌請、故后怨、卒被譖死。繇是太子深畏、事后謹甚。后猶欲危之、然以子早世而侗幼、故太子得無患。宝應元年、帝大漸、后與内官朱輝光等謀立越王係、而李輔国・程元振以兵衛太子、幽后別殿。代宗已立、群臣白帝請廃為庶人、殺之。清・潜與舅竇履信皆流放、支黨伏誅。 肅宗章敬皇后呉氏、濮州濮陽人。父令珪、以郫丞坐事死、故后幼入掖廷。 肅宗在東宮、宰相李林甫陰構不測、太子内憂、鬢髪班禿。後入謁、玄宗見不悅、因幸其宮、顧廷宇不汛掃、楽器塵、左右無嬪侍、帝愀然謂高力士曰:「兒居處乃爾、将軍叵使我知乎?」詔選京兆良家子五人虞侍太子、力士曰:「京兆料擇、人得以藉口、不如取掖廷衣冠子、可乎?」詔可。得三人、而后在中、因蒙幸。忽寢厭不寤、太子問之、辭曰:「夢神降我、介而劍、決我脅以入、殆不能堪。」燭至、其文尚隱然。生代宗、為嫡皇孫。生之三日、帝臨澡之。孫體攣弱、負姆嫌陋、更取他宮兒以進、帝視之不楽、姆叩頭言非是。帝曰:「非爾所知、趣取兒來!」於是見嫡孫、帝大喜、向日視之、曰:「福過其父。」帝還、盡留内楽宴具、顧力士曰:「可與太子飲、一日見三天子、楽哉!」 后性謙柔、太子礼之甚渥、年十八薨。代宗即位、群臣請以后祔肅宗廟、乃追尊為皇后、上謚、合葬建陵。啓故窆、貌沢若生、衣皆赭色、見者嘆異、謂有聖子之符云。 代宗貞懿皇后独孤氏、失其何所人。父穎、左威衛録事参軍。 天宝中、帝為廣平王、時貴妃楊氏外家貴冠戚里、秘書少監崔峋妻韓国夫人以其女女皇孫為妃。妃生子偲、所謂召王者。妃倚母家、頗驕媢。諸楊誅、礼寖薄、及薨、后以姝豔進、居常專夜。王即位、冊貴妃、生韓王迥・華陽公主。 大暦十年薨、追号為皇后、上謚。帝悼思不已、故殯内殿、累年不外葬。後三年、始詔於都左治陵、欲朝夕望見之。補闕姚南仲諫而止、乃葬荘陵。詔宰相常為哀冊、帝於后厚、故送終華廣、務称其情、極道悽婉、以中帝意。又詔群臣為挽辭、帝擇其尤悲者令歌之。 初、后愛遇第一、官其宗叔卓少府監、兄良佐太子中允。 代宗睿真皇后沈氏、呉興人。開元末、以良家子入東宮、太子以賜廣平王、實生徳宗。 天宝亂、賊囚后東都掖廷。王入洛、復留宮中。時方北討、未及歸長安、而河南為史思明所沒、遂失后所在。代宗立、以徳宗為皇太子、詔訪后在亡、不能得。 徳宗即位、乃先下詔贈后曾祖士衡太保、祖介福太傅、父易直太師、弟易良司空、易直子震太尉。一日封拜百二十七人、詔制皆錦翠池飾、以厩馬負載賜其家。易良妻崔入謁、帝易服、召王・韋美人出拜、詔崔勿答。 建中元年、乃具冊前上皇太后尊号、帝供張含元殿、具冕、出自左序、立東方、群臣在位、帝再拜奉冊、欷歔感咽、左右皆泣。於是中書舍人高参上議:「漢文帝即位、遣薄昭迎太后于代。今宜用漢故事、令有司擇日分遣諸沈行州縣物色咨訪、以述宣皇帝孝思意、冀上天降休、霊命允答。須審知皇太后行在、然後遣大臣備法駕奉迎。」帝乃以睦王述為奉迎使、工部尚書喬琳副之、昇平公主侍起居、使者分行天下。 故中官高力士女頗能言禁中事、與女官李真一嘗従后游。李見高、疑問之、含糊不堅、而年状差似后。又后嘗削脯哺帝、傷左指、高亦嘗剖瓜傷指。是時宮中無識后者。於是迎還上陽宮、馳以聞。帝喜、群臣皆賀。力士子知非是、具言其情、詔貸之。帝謂左右:「吾寧受百罔、冀一得真。」於是自謂太后者數矣、及索驗左、皆辭窮、終帝世無聞焉。貞元七年、詔贈外高祖琳為司徒、封徐国公、為立五廟、以琳為始祖、詔族子房為金吾将軍、奉其祀。 憲宗即位、有司建言:「皇太后沈氏厭代二十有七年、大行皇帝至孝、哀思罔極、建中時、發明詔、遣使者奉迎、凡舟車所至罔不逮、歳推月遷、参訪理絶。請因大行皇帝啓殯、詔群臣為皇太后發哀肅章内殿、中人奉廞衣置幄坐、宮中朝夕上食、告天地宗廟、上太皇太后謚冊、作神主祔代宗廟、備法駕、奉褘衣、納于元陵祠室。」詔曰「可」。 徳宗昭徳皇后王氏、本仕家、失其譜系。帝為魯王時納為嬪、生順宗、尤見寵礼。既即位、冊号淑妃、贈其父遇揚州大都督、子姓姻出悉得官。 貞元三年、妃久疾、帝念之、遂立為皇后。冊礼方訖而后崩、群臣大臨三日、帝七日釋服。将葬、后母郕国鄭夫人請設奠、有詔祭物無用寓、欲祭聴之。於是宗室王・大臣李晟渾瑊等皆祭、自發塗日日奠、終發引乃止。葬靖陵、置令丞如它陵臺。立廟、奏坤元之舞。敕宰相張延賞・柳渾等製楽曲、帝嫌文不工。李紓上謚冊曰「大行皇后」、帝又謂不典。並詔翰林学士呉通玄改譔、冊曰「咨后王氏」。然議者謂岑文本所上文徳皇后冊言「皇后長孫氏」為得礼。永貞元年、改祔崇陵。 徳宗賢妃韋氏、戚里舊族也。祖濯、尚定安公主。初為良娣、徳宗貞元四年、冊拜賢妃。宮壼事無不聴、而性敏淑、言動皆有繩矩、帝寵重之、後宮莫不師其行。帝崩、自表留奉崇陵園。元和四年薨。 順宗荘憲皇后王氏、琅邪人。祖難得、有功名於世。代宗時、后以良家選入宮、為才人。順宗在藩、帝以才人幼、故賜之、為王孺人、是生憲宗。王在東宮、冊為良娣。后性仁順、宮中化其徳、莫不柔雍。順宗即位、疾已頓、后侍醫藥不少怠。将立后、會病棘而止。憲宗内禪、尊為太上皇后。元和元年、乃上尊号曰皇太后。 后謹畏、深抑外家、無豪絲假貸、訓厲内職、有古后妃風。十一年崩、年五十四。遺令曰:「皇太后敬問具位。萬物之理、必歸於有極、未亡人嬰霜露疾、日以衰頓、幸終天年、得奉陵寢、志願獲矣、其何所哀。易月之典、古今所共。皇帝宜三日聴政、服二十七日釋。天下吏民、令到臨三日止。宮中非朝暮臨、無輒哭。無禁昏嫁・祠祀・飲食酒肉。已釋服、聴舉楽。侍醫無加罪。陪祔如舊制。」有司上謚、葬豊陵。 憲宗懿安皇后郭氏、汾陽王子儀之孫。父曖、尚昇平公主、實生后。憲宗為廣陵王、娉以為妃。順宗以其家有大功烈、而母素貴、故礼之異諸婦、是生穆宗。元和元年、進冊貴妃。八年、群臣三請立為后、帝以歳子午忌、又是時後廷多嬖豔、恐后得尊位、鉗掣不得肆、故章報聞罷。 穆宗嗣位、上尊号皇太后、贈曖太尉、母斉国大長公主、擢兄釗刑部尚書、鏦金吾大将軍。后移御興慶宮、凡朔望三朝、帝率百官詣宮門為壽。或歳時慶問燕饗、後宮戚里内外婦、車騎駢壅、環佩之聲滿宮。帝亦豪矜、朝夕供御、務華衍侈大称后意。后嘗幸驪山、登覽裴回、詔景王督禁甲従、帝自到昭應奉迎、留帳飲數日還。帝崩、中人有為后謀称制者、后怒曰:「吾效武氏邪?今太子雖幼、尚可選重徳為輔、吾何與外事哉?」 敬宗立、号太皇太后。宝暦倉卒、后召江王嗣皇帝位、是為文宗。文宗性謹孝、事后有礼、凡羞果鮮珍及四方奇奉、必先献宗廟・三宮、而後御之。 武宗喜畋游、角武抃、擇五坊小兒得出入禁中。它日問后起居、従容請曰:「如何可為盛天子?」后曰:「諫臣章疏宜審覽、度可用用之、有不可、以詢宰相。毋拒直言、勿納偏言、以忠良為腹心、此盛天子也。」帝再拜、還索諫章閲之、往往道游獵事、自是畋幸稀、小兒武抃等不復橫賜矣。 宣宗立、於后、諸子也、而母鄭、故侍兒、有曩怨。帝奉養礼稍薄、后鬱鬱不聊、與一二侍人登勤政樓、将自隕、左右共持之。帝聞不喜、是夕后暴崩。有司上尊謚、葬景陵外園。太常官王請后合葬景陵、以主祔憲宗室、帝不悅、令宰相白敏中讓之。曰:「后乃憲宗東宮元妃、事順宗為婦、歴五朝母天下、不容有異論。」敏中亦怒、周墀又責謂、終不橈、墀曰:「信孤直。」俄貶句容令。懿宗咸通中、還為礼官、申抗前論、乃詔后主祔于廟。 憲宗孝明皇后鄭氏、丹楊人、或言本朱氏。元和初、李錡反、有相者言后當生天子。錡聞、納為侍人。錡誅、沒入掖廷、侍懿安后。憲宗幸之、生宣宗。宣宗為光王、后為王太妃。及即位、尊為皇太后。太后不肯別處、故帝奉養大明宮、朝夕躬省候焉。懿宗立、尊后為太皇太后。咸通三年、帝奉后宴三殿、命翰林学士侍立結綺樓下。六年崩、移仗西内、上謚冊、葬景陵旁園。 穆宗恭僖皇后王氏、越州人、本仕家子。幼得侍帝東宮、生敬宗。長慶時、冊為妃。敬宗立、上尊号為皇太后、贈后父紹卿司空、母張追封趙国夫人。文宗時、称宝暦太后。大和五年、宰相建白以太皇太后與宝暦太后称号未辨、前代詔令不敢斥言、皆以宮為称、今宝暦太后居義安殿、宜曰義安太后。詔可。會昌五年崩、有司上謚、葬光陵東園。 穆宗貞献皇后蕭氏、閩人也。穆宗為建安王、后得侍、生文宗。文宗立、上尊号曰皇太后。 初、后去家入長安、不復知家存亡、惟記有弟、帝為訪之。俄有男子蕭洪因后姊婿呂璋白見之、太后謂得真弟、悲不自勝。帝拜洪金吾将軍、出為河陽三城節度使、稍徙鄜坊。始、節度自神策出者、舉軍為辨裝、因三倍取償。洪所代未及償而死、軍中併責償於洪、洪不許、左軍中尉仇士良憾之。會閩有男子蕭本又称太后弟、士良以聞、自鄜坊召洪下獄按治、洪乃代人、詔流驩州、不半道、賜死。擢本贊善大夫、寵贈三世、帝以為真、不淹旬、賜累鉅萬。然太后真弟庸莫能自達、本紿得其家系、士良主之、遂聴不疑。歴衛尉卿・金吾将軍。會福建觀察使唐扶上言、泉州男子蕭弘自言太后弟、御史臺参治非是、昭義劉従諫又為言、請與本辨、有詔三司高元裕・孫簡・崔郇雜問、乃皆妄。本流愛州、弘儋州、而太后終不獲弟。 初、大和中、懿安太后居興慶宮、宝暦太后居義安殿、后居大内、号「三宮太后」。帝毎五日問安及歳時慶謁、率繇複道至南内、群臣及命婦詣宮門候起居。有司献四時新物送三宮、亦称賜、帝曰:「上三宮、何可言賜?」遽索筆滅「賜」為「奉」。開成中、正月望夜、帝御咸泰殿、大然鐙作楽、迎三宮太后、奉觴進壽、礼如家人、諸王・公主皆得侍。 武宗時、徙積慶殿、又号積慶太后。大中元年崩、上今謚。 穆宗宣懿皇后韋氏、失其先世。穆宗為太子、后得侍、生武宗。長慶時、冊為妃。 武宗立、妃已亡、追冊為皇太后、上尊謚、又封后二女弟為夫人。有司奏:「太后陵宜別制号。」帝乃名所葬園曰福陵。既又問宰相:「葬従光陵與但祔廟孰安?」奏言:「神道安於靜、光陵因山為固、且二十年、不可更穿。福陵崇築已有所、當遂就。臣等請奉主祔穆宗廟便。」帝乃下詔:「朕因誕日展礼于太皇太后、謂朕曰:『天子之孝、莫大於承續。』今穆宗皇帝虚合享之位、而宣懿太后實生嗣君、當以祔廟。」繇是奉后合食穆宗室。 尚宮宋若昭、貝州清陽人、世以儒聞。父廷芬、能辭章、生五女、皆警慧、善屬文。長若莘、次若昭・若倫・若憲・若荀。莘・昭文尤高。皆性素潔、鄙薰沢靚妝、不願歸人、欲以学名家、家亦不欲與寒郷凡裔為姻對、聴其学。若莘誨諸妹如嚴師、著女論語十篇、大抵準論語、以韋宣文君代孔子、曹大家等為顔・冉、推明婦道所宜。若昭又為伝申釋之。 貞元中、昭義節度使李抱真表其才、徳宗召入禁中、試文章、問經史大誼、帝咨美、悉留宮中。帝能詩、毎與侍臣賡和、五人者皆預、凡進御、未嘗不蒙賞。又高其風操、不以妾侍命之、呼学士。擢其父饒州司馬・習藝館内教、賜第一區、加穀帛。 元和末、若莘卒、贈河内郡君。自貞元七年、秘禁圖籍、詔若莘總領、穆宗以若昭尤通練、拜尚宮、嗣若莘所職。歴憲・穆・敬三朝、皆呼先生、后妃與諸王・主率以師礼見。宝暦初卒、贈梁国夫人、以鹵簿葬。 若憲代司秘書、文宗尚学、以若憲善屬辭、粹論議、尤礼之。大和中、李訓・鄭注用事、惡宰相李宗閔、譖言因駙馬都尉沈厚賂若憲求執政。帝怒、幽若憲外第、賜死、家屬徙嶺南。訓・注敗、帝悟其讒、追恨之。 若倫・若荀早卒。廷芬男独愚不可教、為民終身。 敬宗貴妃郭氏、右威衛将軍義之子、失義何所人。長慶時、后以容選入太子宮。太子即位、為才人、生晉王普。帝以早得子、又淑麗冠後廷、故寵異之。踰年、為貴妃、贈義礼部尚書、兄環少府少監、賜大第。文宗立、愛晉王若己子、待妃礼不衰。亡其薨年。 武宗賢妃王氏、邯鄲人、失其世。年十三、善歌舞、得入宮中。穆宗以賜潁王。性機悟。開成末、王嗣帝位、妃陰為助畫、故進号才人、遂有寵。状纖頎、頗類帝。毎畋苑中、才人必従、袍而騎、校服光侈、略同至尊、相與馳出入、觀者莫知孰為帝也。帝欲立為后、宰相李徳裕曰:「才人無子、且家不素顯、恐詒天下議。」乃止。 帝稍惑方士説、欲餌藥長年、後寖不豫。才人毎謂親近曰:「陛下日燎丹、言我取不死。膚沢消槁、吾独憂之。」俄而疾侵、才人侍左右、帝熟視曰:「吾氣奄奄、情慮耗盡、顧與汝辭。」答曰:「陛下大福未艾、安語不祥?」帝曰:「脱如我言、奈何?」對曰:「陛下萬歳後、妾得以殉。」帝不復言。及大漸、才人悉取所常貯散遺宮中、審帝已崩、即自經幄下。當時嬪媛雖常才人專上者、返皆義才人、為之感慟。宣宗即位、嘉其節、贈賢妃、葬端陵之柏城。 宣宗元昭皇后氏、不詳其世。少入邸、最見寵答。及即位、以為美人。大中中薨、贈昭容、詔翰林学士蕭寘銘其窆、具載生鄆王・萬壽公主。後夔・昭等五王居内院、而鄆独出閤。及即位、是為懿宗。外頗疑帝非長。寘出銘辭以示外廷、乃解。帝追冊昭容為皇太后、上尊謚、詔后二等以上親悉官之、配主宣宗廟、自建陵曰慶陵、置宮寢。 懿宗恵安皇后王氏、亦失所來。咸通中、冊号貴妃、生普王。七年薨。十四年、王即位、是為僖宗。追尊皇太后、冊上謚号、祔主懿宗廟、即其園為壽陵。后屬緦以上、帝悉官之。 懿宗淑妃郭氏、幼入鄆王邸。宣宗在位、春秋高、惡人言立太子事。王以嫡長居外宮、心常憂惴。妃護侍左右、慰安起居、終得無恙。生女未能言、忽曰:「得活。」王驚異之。及即位、以妃為美人、進拜淑妃。 女為同昌公主、下嫁韋保衡。保衡處内宅、妃以主故、出入娯飲不禁、是時譁言與保衡亂、莫得其端。僖宗立、保衡縁它罪為人所發、且汙舊謗、卒貶死。妃猶處禁中。黄巣之難、天子出蜀倉卒、妃不及従、遂流落閭里、不知所終。 懿宗恭憲皇后王氏、其出至微。咸通中、列後廷、得幸、生壽王而卒。王立、是為昭宗、追号皇太后、上謚、祔主懿宗室、即故葬号安陵、召后弟官之。 景福初、位任寖重、帝亦以外家倚之、為中尉楊復恭所媢、表為黔南節度使。之鎮、道吉柏江、復恭密喩楊守亮覆其家。 昭宗皇后何氏、梓州人、系族不顯。帝為壽王、后得侍、婉麗多智、恩答厚甚。既即位、号淑妃。従狩華州、詔冊為皇后。 光化三年、帝獵夜歸、后遣徳王還邸、遇劉季述、留王紫廷院。明日、季述等挾王陳兵召百官、脅帝内禪。后恐賊臣加害天子、即取璽授季述、與帝同幽東宮。賊平、反正。 天復中、従帝駐鳳翔、李茂貞請帝勞軍、不得已、后従御南樓。會朱全忠逼帝東遷、后謂帝曰:「此後大家夫婦委身賊手矣!」涕數行下。帝奔播既屢、威柄盡喪、左右皆悍逆庸奴、后侍膳服、無須臾去側。至洛、帝憂、忽忽與后相視無死所。已而遇弑。 哀帝即位、尊為皇太后、宮中不敢哭、徙居積善宮、号積善太后。帝将禪天下、后亦遇害。初、蒋玄暉為全忠邀九錫、入喩、后度不免、見玄暉垂泣祈哀、以母子託命。宣徽使趙殷衡譖於全忠曰:「玄暉等銘石像瘞積善宮、将復唐。」全忠怒、遂遣縊后、以醜名加之、廃為庶人。 前巻 『新唐書』 次巻 巻七十六 列伝第一 『新唐書』巻七十七 列伝第二 巻七十八 列伝第三