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rank2/弓兵 固有:教導慈育 威力:▼▼▼ 効果:味方の兵力を回復させ、知力・防御を上げる。自身の命中が上がる。 lv 1 [兵力] 16_a [武力] 06_a [知力] 11_s [防御] 10_b [命中] 10_b [素早] 09_d 更新:(´ω`)у~~2016/04/03
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武将名 かようたいごう 華陽宮の女傑 華陽太后 統一名称:華陽太后 生没年:不明~前230「呂不韋は信用できません。 私がこの王宮を守らねば……」古代中国、戦国時代の秦の王太后。楚の公女として秦の昭襄王の次男・安国君に嫁ぐ。子はおらず呂不韋の助言に従い、趙で人質となっていた子楚を養子として迎えた。夫は即位してすぐに病没するが、以降も太后として君臨した。 勢力 蒼 時代 春秋戦国 レアリティ SR コスト 1.0 兵種 槍兵 武力 3 知力 6 特技 - 計略 覇進の祈り(はしんのいのり) 最も武力の高い蒼の味方の武力が上がり、覇道が前進する 必要士気 3 効果時間 知力時間 Illust. 煎茶 声優 堀江由衣 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 武力強化 3 +3 - - - 8.8c(知力依存0.4c) 蒼限定対象は範囲内の最も武力の高い1部隊計略使用で覇道が1前進 (最新Ver.2.0.0G) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.2.0.0G 効果時間 7.9c → 8.8c ↑ - 所感 蒼の1コスト槍兵。 無特技ながらコスト比として高めの武力3と知力6を持つ。 「覇進の祈り」は投げ計略。 武力上昇に加えて覇道が前進するため、英傑呼応まであと1マスだが攻めきれない場合の最後のひと押しに利用できる。 また、覇道が1マス前進すると追加効果を得られる陣形を持つ義理の孫の嬴政とは抜群に相性がいい。 解説 「第31回大戦スタンプキャンペーン」(2024/1/17~2024/1/30)のスタンプ60個報酬。 嬴政の養祖母。出身は楚で呂不韋の意向で嬴政の父に楚の衣装を着させて会わせたことで気に入られ養子にしたという。 また嬴政の父は養母の出身地にあやかって名を「異人」から「子楚」に改めたとも言われる。 楚の考烈王と昭襄王の娘の子である昌平君を養育したという記録も残っている。 嬴政が王となった頃の秦王の外戚と派閥は以下の通り。 楚系 - 華陽太后(養祖母)派、昌平君(嬴政の叔父?)、昌文君 韓系 - 夏太后(祖母?)派、成蟜(腹違いの弟?) 趙系 - 趙姫(実母)派、呂不韋(知恵の父、実父?)、嫪毐(自称仮父) 前240年に夏太后が亡くなりその後成蟜が反乱を起こし韓系は弱体化。 成蟜の反乱を鎮圧した嫪毐が今度は反乱を起こす。その後鎮圧され連座で呂不韋が失脚し、趙姫は幽閉され趙系は弱体化。 最後に残った楚系はここで絶頂期を迎えるが、前228年に華陽太后が亡くなり2年後の楚攻略で嬴政を諌めた昌平君は不興を買い失脚、同じ頃に昌文君は死去している。 考烈王の子である昌平君が項燕に担ぎ上げられるのはこの後のことである。 大戦シリーズにおいて 台詞 \ 台詞 開幕 控えよ!華陽の人間は、臆病者ではない! └自軍に蒼102_呂不韋 呂不韋、面を上げよ。そなたの礼は見飽きたぞ 計略 我らの血が汚されている。大秦帝国を守るため、立ち上がりなさい! └絆武将 新たな王が創る国へ、大王の道を作るのです! 兵種アクション - 撤退 痴れ者か……! 復活 牙と爪を出しなさい! 伏兵 - 攻城 私たちの武器は、見せかけではありません 落城 大秦帝国はこの私が守り抜きます 贈り物① - 贈り物② - 贈り物(お正月) - 贈り物(バレンタインデー) 多くの女たちに貰っているようだけど、私からも贈らせてほしい。支えてくれてありがとう。 贈り物(ホワイトデー) まあ、お返しなんて考えなくてもいいのに!……ですが、せっかくなのでいただきましょうか。 贈り物(ハロウィン) - 友好度上昇 - 寵臣 - └特殊 - 贈り物の特殊演出 ① 対象武将: 会話武将 台詞 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 「我らの地が汚されている」じゃないんかなぁ - 名無しさん (2024-02-08 12 00 48) イントネーションが血なのよね 言葉は地の方がそれっぽいんだけど - 名無しさん (2024-02-08 12 12 47) 華陽太后から見ると始皇帝とは血が繋がってないもんねえ わからん - 名無しさん (2024-02-08 14 06 46)
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「我らの地が汚されている」じゃないんかなぁ - 名無しさん (2024-02-08 12 00 48) イントネーションが血なのよね 言葉は地の方がそれっぽいんだけど - 名無しさん (2024-02-08 12 12 47) 華陽太后から見ると始皇帝とは血が繋がってないもんねえ わからん - 名無しさん (2024-02-08 14 06 46)
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皇太后(こうたいごう、ピンイン:Huang Tai Hou)は、先代の天皇・皇帝の皇后またはその人の称号。太后とも略される。太皇太后、皇后とならび三宮のひとつ。また、太上天皇(太上法皇)を意味する院ないし有力貴族、寺社と総称して院宮、院宮王臣家ともいった。 解説 皇室典範により現在の敬称は「陛下」と定められるが、古くは皇太后宮という様に「宮」(ぐう)の字をつけて敬称した。「おおきさいのみや」と訓じた。 中国では秦・漢の時代から清の時代にまで、在位中の皇帝の生母と先代の皇后を並び尊崇して「皇太后」と呼ぶ。 日本では古く奈良・平安朝に、当代の生母というだけで皇太后若しくは皇太夫人の尊号を奉られることもあったが、江戸初期以来その例はなく、先代の嫡妻をもって太后とするのが慣例になった。 また、大宮御所とは皇太后の御在所のことを言い、皇太后の世話をする部署を皇太后宮職と称する。 皇太后は通常、皇后であった者に対する追号として用いられることはないが、孝明天皇の后であった英照皇太后、明治天皇の后であった昭憲皇太后には例外として用いられる。 「王太后」という称号 Queen Dowagerを参照 王に対しては「王太后(英語 Queen Dowager)」という言葉があたるが、独立国の元首をすべて皇帝と称してきた典礼上の慣例から日本語では熟しておらず、皇太后が準用される。代表的な使用例は、イギリス女王エリザベス2世の母であるエリザベス皇太后がある。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月28日 (水) 16 44。
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皇太后 / 太皇太后 パク 皇太后 朴氏(名前不明) キャスト キム・ヘジャ 称号 皇太后 → 太皇太后 性別 ♀ 年齢 80歳(数え) 先帝 聖祖の妻で、シンやユルの祖母。 現皇帝 イ・ヒョンの母親。 少女のように可愛らしい人で、皆を温かく見守る。 皇室最高権力者として亡き夫の遺志を継いで、皇室を守り、導いている。 長男であり前皇太子だったイ・スを交通事故で亡くし、続けて夫を亡くし、皇帝に就いた次男イ・ヒョンまでも重い病だと解って、皇室の未来を案じ、皇太子 シンに結婚を命じた。 しきたりにより宮中から追放された恵政宮と義誠君の親子に対して同情し、心を痛めている。 庶民出身で奔放な皇太子妃 チェギョンにも理解を示し、親しく接していつも彼女を励ましている。 皇室に吹き荒れる嵐が収まり、家族揃って仲良く集える日を強く待ち望んでいる。 人間関係 家族 夫:聖祖皇帝(故人) 長男:孝烈皇太子 イ・ス(故人) 嫁:恵政宮 ソ・ファヨン 孫:義誠君 イ・ユル 次男:皇帝 イ・ヒョン 嫁:皇后 ミン 孫:ヘミョン姫 孫:皇太子 イ・シン 孫婦:皇太子妃 シン・チェギョン 皇太后に仕える人達 ソ尚宮 クァク尚宮(追尊まで) 呼称 皇太后(ファンテフ)太后(テフ)と略されることも 太皇太后(テファンテフ) [追尊後]※皇太后に付く敬称は「陛下(マーマー)」 おばあさま(ハルマママーマー?)
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254.皇太后不祔葬 穆宗久葬,其妃韋氏生武宗,亦已久亡,武宗立,欲以母祔葬於穆宗之光陵。宰臣奏,神道安於靜,光陵葬已二十年,不可更穿,太后所葬之福陵亦崇築已久,不宜徙請,但奉主祔廟穆宗,從之。 又明世宗有三后,孝源,元配也;繼張后,被廢;繼孝烈方氏,薨。帝欲先以其神主祔太廟,羣臣請設位於皇妣睿皇后之次,後寢藏主,則設幄於憲廟皇祖妣之右,以從祔於祖姑之義。帝曰:「安有享從此而主藏彼,可祧仁宗,而以后主即列於朕之位次。」群臣言后雖宜祔享,但遷及廟次,非臣子所敢言。帝怒,乃祔主於第九室。隆慶中,從群臣議,仍以元配孝源后合葬永陵,孝烈主移於宏孝殿。 案明憲宗生母周,已尊爲皇太后,孝宗時始崩。孝宗問劉健等祔廟禮,健曰:「漢以前一帝一后,祔二后自唐始也。祔三后自宋始也。三后者,一正后,一繼后,一生母也。」帝曰:「事須師古,祖宗來一帝一后,今並祔則壞禮自朕始矣。」遂不祔廟。嘉靖中移祀陵殿,題主曰皇后,不繋帝諡,以別嫡庶。自後穆宗母、神宗母、光宗、熹宗、莊烈帝母,咸用此制。
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第二十三話 「魔王」 ー何太后の館ー 何太后「それで何じゃ、董卓?用とは?」 董卓「……、お前の息子…、弁だが…。」 何太后「…?少帝がどうした?」 董卓「あれは無能だ。始末するぞ…。」 何太后の表情がみるみる変わっていく。 何太后「おのれ!何を言ってるのか…ぐ!」 それが何太后の最後の言葉となった。 そして、董卓の軍師、李需が館に入ってきた。 李需「弁を始末しました…。」 董卓「ヌハハ……、政治とはどういうものか見せてやるわ…。」 董卓、少帝を廃す。
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第二十二話 「董卓、帰還。」 『こちら、皇宮前です!たった今、董卓将軍が憎き十常侍から天子様と劉協様を救い出しました!現場では、董卓将軍と天子様を讃える人々で溢れかえっておりますっ!』 曹操「憎き十常侍だと…、ついにマスコミにも手が届かなくなったか…。」 夏侯惇「ああ、何でも北ボウパーキングエリアで死体で発見されたらしい…。」 曹操「エン紹はどうでるかな…。」 ー皇居ー 少帝「母上~!」 何太后は今や天子となった我が子を抱きしめた。 何太后「よくやった、董卓…、褒美をつかわそう。」 董卓「褒美なぞ、いらぬ…、それより話がある…。後で尋ねるぞ。」 大臣「なっ…、太后様に対して無礼なるぞ!」 董卓が大臣を睨む。大臣はみるみる萎縮した。 何太后「まあ、よい。では太后殿まで来るがいい…。」 何太后「さあ、弁、いや、少帝、疲れたろう?ゆっくりお休み。」 十常侍が滅び、都には平和が戻った……。 しかし、これは嵐の前の静けさであった。
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52.漢外戚輔政 漢自呂后王諸呂,使産、禄掌兵,幾致奪國,故諸大臣以薄太后家仁善,遂立文帝,固有鑒於外戚之禍矣。乃武帝又以祖母竇太后弟子竇嬰爲丞相,母王太后之同母弟田蚡亦爲丞相。已而衛后弟青爲大司馬大將軍。后姊子霍去病爲大司馬驃騎將軍,於是外戚又日以寵貴。其後去病之弟光,遂以大司馬大將軍受遺詔輔政,自此大司馬兼將軍一官遂永爲外戚輔政之職。宣帝祖母史良娣死巫蠱之禍,帝乃以良娣弟高爲大司馬車騎將軍領尚書事。又許后爲霍氏毒死,乃以后叔父延壽爲大司馬車騎將軍輔政。然武、宣二帝皆英斷,不假以權,故劉向謂正所以安全之也。元帝又以延壽子嘉爲大司馬車騎將軍輔政。嘉女爲成帝后,成帝又以嘉輔政。後又以母王太后弟鳳爲大司馬大將軍輔政。鳳卒,從弟音爲大司馬車騎將軍輔政。音卒,又以其弟根爲大司馬驃騎將軍輔政。根薦兄子莽自代,會成帝崩,哀帝即位,莽避帝外家,退就國。哀帝以祖母傅太后從弟喜爲大司馬輔政,尋罷。又以母丁太后兄明爲大司馬驃騎將軍輔政,然帝亦不假以權,不如王氏在成帝時也。哀帝崩,成帝母王太后仍詔莽爲大司馬,立平帝,莽輔政,遂以簒漢。 前頁 『廿二史箚記』巻三 次頁 先生或只稱一字 52.漢外戚輔政 兩漢外戚之禍
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(01)真宗の景徳四年(1007)四月、皇后の郭氏が崩じた。諡を荘穆(正しくは章穆)といった。 (02)大中祥符三年(1010)四月甲戌(二十五日)、皇子の受益が生れた。後宮の李氏が生んだ子供である。 李氏は杭州の人で、後宮に入ると劉徳妃の侍女となり、〔その人となりは〕荘重寡黙であった。帝は夜の伴を命じた。妊娠の後、帝とともに砌台に赴いたとき、玉釵(かんざし)が落ちた。帝は、もし玉釵が壊れなければ、男子が産まれはずだと心に占いを立てた。近習のものが玉釵を拾って差し出すと壊れていなかった。ほどなく果たして男子が産まれた。劉徳妃が取り上げて自分の子としたが、李氏は何もいわず、朝廷内外のものも事の真相を知らなかった。 (03)五年(1012)十二月丁亥(二十四日)、徳妃の劉氏を皇后とした。 これ以前、皇后の父の通は虎捷都指揮使となったが、太原征討の中で戦死した。皇后は幼児にして孤児となり、母方の祖父の家で育てられた。太鼓を打つのがうまかった。蜀の人に龔美というものがいた。銀工を生業としており、銀を携えて京師に売りに出ていた。〔皇后は〕年十五で襄王の邸に入った。帝が即位すると、美人から徳妃に進められ、後宮で寵愛を受けた。郭皇后が崩ずると、帝は劉氏を皇后にしようとした。翰林学士の李迪は、劉徳妃は微賤の出身であるから、天下の母としてはならないと言ったが、帝はこれに従わず、ついに皇后とした。劉氏は皇后になったが、宗族がなかったので、美を兄とし、その姓を劉に変えさせた。李迪の諫言を耳にすると、たいそうこれを憾んだ。皇后は生まれながら機敏で、史書に明るかった。朝廷の政治を耳にしては、その顛末をよく覚えていた。帝は外廷から退くと、四方から送られる意見書に目を通していたが、それは夜中に及ぶことも多かった。このとき皇后はいつも側で相談に乗っていた。宮中に問題があると、そのつど故事を引いて答えた。帝は深く皇后を頼みとするようになった。このため皇后は徐々に政治に関与するようになった。 はじめ帝は劉氏を皇后に立てようと思い、丁謂に命じて楊億に立后の制書を書かせたが、億は難色を示した。 謂、「無理してでも書けば、富貴は思いのままだぞ。」 億、「そんなことで富と地位を手に入れるくらいなら、こちらから願い下げだ。」 そのため他の学士に書かせることになった。 (04)乾興元年(1022)二月戊午(十九日)、帝が崩じ、太子が即位した。皇后を尊び皇太后とし、淑妃の楊氏を皇太妃とした。 (05)三月庚寅(二十一日)、帝ははじめて崇徳殿に赴いた。太后は幕を設けて承明殿に赴き、垂簾(1)して輔臣と対面した。 (06)八月乙巳(八日)、太后は帝とともに承明殿に赴き、垂簾して政務を執った。 (07)仁宗の天聖元年(1023)五月庚寅(二十八日)、皇太后の儀仗と護衛の方法を議論した結果、制により皇帝と同じものとなった。 (08)三年(1025)春正月辛卯(八日)、長寧節(皇太后の生辰)のため、近臣と契丹の使者は崇政殿で太后の長寿を祝った。 (09)五年(1027)春正月壬寅朔、帝は群臣を率いて会慶殿で太后に朝見した。 これ以前、帝が太后に言うには、「元日になれば、まず太后の長寿を祝い、その後で朝見を受けとうございます」と。太后はこれを許さなかった。王曾は「陛下は孝行をもって母に仕えるあり方を示され、太后は謙譲の徳でもって国のあり方を全うされました。どうか太后の仰せのままに」と進めたが、帝は従わなかった。 (10)太后はあるとき参知政事の魯宗道にこんなことを聞いた。「唐の武后(則天武功)とはどのような御方じゃ。」 魯宗道、「唐の罪人です。社稷を滅ぼすところでした。」 后は黙って頷いた。 小臣の方仲弓というものが、劉氏のために七廟を立ててはどうかと申し出た。后はこれを輔臣に諮ったところ、だれも答えなかった。しかし宗道だけは進み出ると、「もし劉氏の七廟を立てるとおおせなら、若君をどうなさるおつもりです。」そのため沙汰止みになった。 后が帝と慈孝寺に出向いたときのこと、后は帝の前に車を出そうとした。しかし宗道が「夫が死ねば子に従う」という夫人のあり方によって批判したため、后は帝の後に車を付けさせた。これ以後、后の近臣らは宗道を憚り、「魚頭の参政」とあだなするようになった。 (11)七年(1027)十一月癸亥(九日)、冬至の日、帝は百官を率いて会慶殿で太后の長寿を祝うと、ともに天安殿に赴き政務を執った。 秘閣校理の范仲淹は前もって意見書を提出していた。――「天子が内廷にあって親に孝行を尽くす場合は、おのずから子供としての作法があります。しかし百官とともに北面して朝礼なさるというのでは、君主としてのあり方を欠き、君主としての威勢を損ねることになり、後世に範を垂れられるものではありません。」意見書は受理されたが、聞き入れられなかった。 これ以前、晏殊は仲淹に館職を授けてはどうかと言っていた。ところが仲淹の意見書を知って慌てふためき、仲淹を呼んで怒鳴りつけた、「軽率なことをして売名行為のつもりか。推薦した私にも累が及ぶんだぞ」と。しかし仲淹は毅然とこう言い放った、「私は公の推薦を忝なくしたにも関わらず、いつも相応しからぬ振る舞いばかりで、知己の恥になることを懼れていた。しかるにかえって忠誠実直な振る舞いのため、貴方に罪を獲ることになろうとは。」殊は答えることができなかった。 仲淹はすぐにまた意見書を提出し、太后に政権を返還するよう願い出たが、聞き入れられなかった。ついに地方官を求めると、河中府通判として都を出て行った。 (12)八年(1030)二月、范仲淹は意見書を提出し、太后に政権を返還するよう願い出た。その概略はこうである。――「太后陛下は皇帝陛下の御身を守り、大政を裁断されること、既に日月久しう御座います。既に皇帝陛下は成長され、睿哲聡明に御座います。しかるに君権を母に捧げるとあっては、皇帝陛下の福と申せません。太后陛下は長楽宮で長寿を保たれ、大権をあるべき主君に還し、天下の扶養を受けられてはいかがでしょうか。」 (13)明道元年(1032)(2)二月丁卯(二十六日)、真宗の宸妃の李氏が死んだ。 李氏は帝の実母であった。太后は帝を取りあげて自分の子とすると、楊太妃に帝を守らせた。李氏は黙々と先朝の嬪御(妃の一つ)の列におり、特別な振る舞いはなかった。周囲のものも太后を畏れ、あえて事実を口にするものはなかった。そのため帝は大きくなっても、李氏の子であることを知らなかった。 ここに至り、李氏の病が篤くなると、順容(妃の一つ)から宸妃に進められた。李氏が死ぬと、太后は宮人として扱い、宮廷の外で喪礼を行わせようとした。呂夷簡が手厚く喪礼を行うよう申し出た。太后は急いで帝を連れ出した。しばらくして戻ってくる都、一人で御簾の後に立った。 太后は夷簡を呼び出すと、「宮人が一人死んだだけのこと。相公がどうこう言うとは何事だ。」 夷簡、「臣は責を宰相に任じておれば、事に内外の区別なく、すべてに責任がございます。」 后は怒って、「相公は我が母子を引き離そうというのか。」 夷簡、「太后は劉氏の保全をお考えにならぬのですか。劉氏のことを思えばこそ、喪礼は厚くおこなうべきです。」 司天監(天文や暦数を担当した部署)の官僚は、太后に媚び、葬儀の歳月に適していないと言ったが、夷簡はそれを握りつぶし、発哀・成服の礼(喪礼の一つ)行うよう申し出た。さらに入内都知の羅崇勲には、「宸妃は皇帝陛下をお生みになった。もし喪礼を行わなければ、後々必ずその罪を受けることになろう。いま私に何の献言もなかったとは言わないでくれよ。皇后の喪服でつつんで棺桶に納め、水銀を満たしておくのだ。」 后は事の重大さを理解し、一品の礼でもって棺桶に納めた。この時、太后は宮城の垣に穴を開け、そこから喪を送り出そうとした。 夷簡、「垣に穴を開けるなど、喪礼ではありません。西華門から喪を送り出されませ。」 太后はこれに従い、洪福院に喪を安置した。 (14)二年(1033)二月乙巳(九日)、皇太后は天子の礼服と冠を付け、太廟に供物を献じようとした。 薛奎は強く諫め、「太廟でどのような礼拝をなさるおつもりですか」と申し出た。后は聴きいれず、儀天冠をかぶり、天子の礼服をまとって初献をし、皇太妃が亜献をし、皇后が終献をした。(3)礼が終わると、群臣は太后に尊号を奉った。 丁未(十一日)、帝は東郊で先農(農業の神)を祭り、みずから耤田を耕した。宰相の張士遜に『謝太廟』と『躬耤田記』を作らせた。検討の宋祁が「皇太后の宗廟謁見は後世の法になりません」と言ったので、『躬耤田記』だけを作らせた。 (15)三月庚寅(二十五日)、皇太后の病が篤くなった。大赦し、通常の恩赦で赦さぬものを除き、乾興以来の貶死者(4)を復官し、左遷されていたものを内地に移した。 (16)甲午(二十九日)、皇太后が崩じた。 后は称制十一年、後宮から政務を執ったが、政令は厳密明白で、恩威を天下に加え、側近にも手を緩めなかった。宮殿をむやみに増改築することなく、朝廷内外への賜物にも節度があった。一族に食事を授けるときも、必ず金食器に変え、「宮廷の食器を我が家に入れてはならぬ」と言っていた。 三司使の程琳が『武后臨朝図』を献上すると、后は地面に投げ捨て、「私は祖宗に背くようなことはせぬ」と言った。漕使の劉綽は京西から帰還したとき、「倉に余った米が千余斛あります。三司に申しつけください」と報告した。すると后は「お前は王曾・張知白・呂夷簡・魯宗道を知らぬのか。この四人が余剰米を宮中に収めると思うておるのか。」 晩年は外祖父の家人を重用した。また宦官の羅崇勲や江徳明などを用いて外廷の事を調べさせた。このために崇勲の権勢は天下を傾けるほどだった。 ここに至り、后が崩じた。帝は近臣を見ては涙に暮れ、「太后は病を患われ、ものも言えなかった。それでもしばしば私の衣を引っ張られ、なにか思うところがおありのようだった。何だろう。」 薛奎、「天子の衣と冠をお望みだったのです。しかしそれを許せば、地下で先帝に見えることはできますまい。」 帝は諦め、皇后の服をまとわせて棺桶に納めた。諡を荘献明肅(正しくは章献明肅)といった。旧制では、皇后は二字の諡だった。称制した場合に四字の諡を加えようになったのは、このときから始まったものである。 太后の遺詔には「太妃を尊んで皇太后とし、皇帝とともに軍国の事を処置させよ」とあった。閤門官は朝廷の百官に〔称制のための〕慶賀の礼を勧めたが、御史中丞の蔡斉は目で御史台の官僚の朝列を止め、後殿に入り、執政に訴えた。――「上は充分に経験を積まれ、天下の実情をよくご存知のこととて、今後はみずから朝政をお執りにになるべきです。女后が前後相続いて称制する必要などありません。」殿中侍御史の龎籍も、閤門官に命じて垂簾を焼き捨てさせるよう申し出た。そこで太妃を尊んで皇太后とするに止め、「ともに軍国の事を処置せよ」という言葉は削ることにした。 (17)夏四月壬寅(七日)、近臣は帝のために申し出た。――「陛下は李宸のお生まれです。ですが妃は非業の死を遂げられました。」 帝は数日にわたって泣き叫び、詔を下して自己の罪を責め、妃を追尊して荘懿という諡を与えた。洪福院に出向いて礼拝し、梓宮を取りかえ、みずから棺を開いて検分した。妃は水銀に浸されていたおかげで、姿形は生きていたときのままであったが、冠や衣服は皇后のものを用いていた。帝は溜息をついて「人の言葉は信用できたものでない」と言い、ますます劉氏を手厚く遇するようになった。 (18)壬子(十七日)帝は親政をはじめると、寺院や道観の造営を罷め、法外の賜物を削減し、宋綬と范仲淹を呼び戻し、内侍の羅崇勲などを退けたため、朝廷内外は歓喜した。 (19)范仲淹を右司諫とした。 仲淹は遺詔に「楊太妃を皇太后とし、軍国の事を処置する」なる文句があったと知るや、すぐに申し出た。――「太后とは母の呼び名です。皇帝を保育したことにより、その位に立ったものは、誰一人としておりません。いま一人の太后が崩ぜられ、また一人の太后を立つとあっては、天下のものは疑いましょう、陛下はいつも母后に助けられている、と。」 このとき既に「軍国の事を処置する」という言葉は削られていた。しかし結局は太后の号は改められず、ただその冊命を罷めただけだった。 (20)そのむかし太后は帝を我が子のように愛し、帝もまた孝行を尽くし、ほんのわずかな隙間もなかった。帝がみずから政務を執るようになると、太后の時代のことを悪く言うものが多く出てきた。 范仲淹、「太后は先帝の遺命を受け、陛下をお守りになること十余年。わずかな過失には目をつむり、太后の大徳を全うさせるべきです。」 帝、「太后の悪口は、朕も聞くに堪えない。」 そこで朝廷内外に詔を下し、皇太后垂簾の得失を論じてはならぬと戒しめた。 (21)冬十月丁酉(五日)、荘献明肅(章献明肅)と荘懿皇后を永定陵(真宗の陵墓)に葬った。 祔廟の礼(位牌を廟に納める方法)を決めさせたところ、翰林侍読学士の宋綬は『春秋』の「仲子の宮を考す」(5)と唐の坤儀廟(6)の故事を用い、別に宮を作るよう申し出た。そこで奉慈廟を作り、二人の神主(位牌)を奉納した。 〔注〕 (1)垂簾聴政のこと。御簾を垂れて群臣の政務を見ること。皇太后や皇后が皇帝にかわって政治を行うとき行われる政治形態。 (2)正確には天聖十年。 (3)初献などは礼拝の方法を指す言葉。 (4)地方に左遷され、その地で死んだもの。 (5)考仲子之宮は、隠公が弟(後の桓公)の母のために新たに廟を立てたことを指す。 (6)坤儀廟は儀坤廟のこと。唐の睿宗の時代、肅明皇后劉氏と徳妃竇氏(昭成皇后)のために作った廟。『資治通鑑』巻210などを参照。