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遊びって、単なる気分転換や気晴らしではありません。 まして勉強の疲れを癒すためだけに許すのが遊びではありません。 遊びは、子どもにとってだけでなく、大人にとっても大切なこと。 もしかして、遊ぶことにこそ生きることの本質がかくされているのではないかとさえ思うほどです。 子ども時代の遊びは、大人になってからする生活や仕事の疑似体験です。 子どもは、多種多様な仲間と遊ぶことによって、人とのつき合い方を学びます。 何かを作ったり壊したりする遊びの中で、技術の基礎を学びます。 そしてすべての遊びを通じて、世界への興味、自然への探求心、生きることへの好奇心と意欲をふくらませてゆきます。 子ども同士の世界の遊びだからこそ、子どもなりの最大限の知恵と体力を駆使することを要求される遊びは、子どもが成長する過程そのものでもあるのです。 そこまで考えてみると、昔からいわれてきた「よく学び、よく遊べ」という言葉は、むしろ逆ではないかと思えませんか? そう「よく遊び、よく学べ」なのです。 よく遊んだ子こそが、本当の意味で勉強する必要と意欲を感じるようになるということです。 島田雄貴
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理屈を学校で道徳を教えることに当てはめるとどうなるだろうか。 道徳をどうとらえるかによって、次のような可能性が考えられる。 A=道徳は合理的な知識である。 B=道徳は合理的な知識ではなく、信念や信条、価値の問題である。 Aであれば学校で道徳を「教える」ことは一〇〇パーセント可能になるし、Bであれば(1)学校で道徳は教えられないか、あるいは(2)道徳を合理的に検証する根拠はあたえられないが、子どもに断定的・教条的にそれを教え込むことが許される(道徳教育を学校教育中の例外として特別扱いする。 つまりそれを知的な教育とは別枠と考える。 )か、あるいはまた(3)道徳の問題は、すべてではないが一部に合理的な知識を含んでおり、その部分に関しては学校で「教える」ことが可能であるか、のいずれかになる。 たとえば「人命は尊重すべきだ」「人を傷つけ、殺してはならない」といった道徳原理を論理的に証明することが困難なことを考えれば、Aの可能性はあまり見込みがないだろう。 島田雄貴
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保護者会があるのだけれど、どうにも出席する気になれない。 こんな気持ちになったことは、だれにでも一度や二度はあるはずです。 毎回同じような話ばかり聞かされていたのでは、嫌になるのも当然です。 親の関心事を敏感に察知して、資料を用意するくらいの配慮がほしいものです。 事前に「こんな話をしてほしい」と先生にリクエストするのもひとつの方法です。 保護者会が憂うつな人の悩みのひとつに、保護者会に行くたびに繰り返される、先生からのわが子批判があげられます。 今日もまた、自分の子どもの悪口を言われるのではないかとと、冷や冷やしているお母さんも多いのです。 本来、保護者会は、クラス全体にかかわるようなことを話題にするものです。 従って個人のプライバシーに触れるような話題は慎むべきです。 そういう問題は、他に人がいない場面で個人的に保護者と話すべきものなのです。 それにもかかわらず、先生が、「お母さん、○男君は、またこの前も友達と大喧嘩して友達をたたいちゃったのよ。 でもこのクラスの子って優しいでしょ。文句も言わずに許してあげられるのよ。本当、よいクラスね」 と、大勢の保護者の前で言ったという話を聞いたことがあります。 この先生は、クラス全体の優しさを誉めたかったのでしょうが、そのために引き合いに出された○男君の保護者は嫌な気分です。 島田雄貴
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あるテレビ番組を見ていた時のことです。 番組の最後に司会者が、「子どもの誕生とは何であるか」を短いコピーで言って欲しい、と言うのです。 「七十年後の老人の誕生」 私はそう答えました。 隣につい最近子どもを産んだというタレントさんがいたのですが、その方にまじまじと見つめられ、言われたものです。 「あなたって本当に変わった人ねえ・・・」 変わっているかどうかは別として、子どもに対して私なりの思い入れはもちろんあります。 弦(げん)、静(しずか)、奏(かな)。 高一の長男を筆頭に一男二女の父親であるわけですが、できるものなら音楽の道にでも・・・、そんな思いを込めて名前を付けたのです。 名付けだけは、我ながら上々の出来栄えであると思っていますし、それぞれそれなりに成長しているようです。 ただ、長男などは「星を見るのが好きだ」 などと、親の思惑とはまったく違った方向を向いているような部分もありますが・・・。 島田雄貴
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水田雄一さんの姓名判断 水田雄一さんの総運【22画 凶】努力不足 衰退 無力 薄弱 霊感 芸術 水田雄一さんの人運【17画 吉】積極的 地位 財産 権威 積極性 純粋 直感 水田雄一さんの外運【5画 吉】健康 財産 安泰 福寿 繁栄 調和 協調 水田雄一さんの地運【13画 大吉】円満 名声 人気 才能 水田雄一さんの天運【9画 凶】薄幸 消極的 短命 逆境 孤独 知力 衰弱
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ちょっと注意深くさぐってみると、男の子のおしゃれへのこだわりは、案外と単純であることが分かります。 靴下の色一つだったり、靴の形一つだったり、シャツだったり、何か一つのことにはすごくこだわるけど、後のことはまるでおかまいなしということだって少なくないのです。 そう思えば、認めてあげるのはたやすいことじゃないですか。 お母さんのセンスから見ると少々とっちらかっているとしても、「まあいいか」と思えるじゃないですか。 服装やファッションは、どの年齢であろうとも、その世代の"共通言語"です。 同年齢の仲間同士では通じても、他の年代から見ると理解を超えたトンチンカンなものであるのが普通。 トンチンカンでも「まあいいか」と認められるのが、親の知恵というものです。 思い出してみてください。 その辺りをめぐっては、あなた自身だって、成長期を通じてご両親と衝突をくり返してきたのではないでしょうか。 だったら許してあげてください。 「あれでもそれなりのおしゃれなんだ」と認めてあげてください。 そして、子どもながらもおしゃれ心を発揮し始めた姿を、心から喜んであげてほしいと願います。 大多数の子は、中学に入れば制服のお仕着せで過ごすことになります。 制服なんかないほうがよい、は、まだまだ少数意見かもしれません。 でも子どもなりのおしゃれを許すことには、できるだけ早く、できるだけ広い寛容な心を持ちたいものだとも願います。 島田雄貴
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小学生の男の子に、おしゃれしたい気持ちなんてない、と思いますか? とんでもありません!それが証拠に、ちゃんとお気に入りのシャツやズボンがあるじゃないですか。 あなたのお子さんだってそうでしょ? 放っておくと、いつもいつも同じものを着たがったりします。 髪形だって気にしています。 鏡の前で、寝グセのついた髪の毛にブラシをかけていたり。 そんな場面を目撃したことありません? そんな子を、もしも強引にも丸坊主にでもしようとしたら、猛烈きわまりない反発を食らうことになります。 「嫌だよそんなの! 格好悪いよ!」 そう、この年齢の男の子のおしゃれの基準は「格好いい」か「格好悪い」か程度のもの。 おしゃれとしてはとても未熟であるのはたしかです。 色合わせもふくめてセンスよい服装をさせたいと思っているお母さんかちみれば、"とんでもないセンス"を発揮することだってしょっちゅうでしょう。 でも、未熟ではあっても自分なりの"おしゃれ心"です。 まずは認めてあげてください。 島田雄貴
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娘の勉強が女らしさを奪うかどうかは、まずは勉強する本人の自覚によって、次にそれを心配している親の見識と態度によって決められます。 男の教養にも女の教養にも自然な感じが必要です。 しかし、自然な感じを与えるという点では、女のほうが難しいように思われます。 そこで前にも書いたように、女は、「すぐれた聞き手」になり得るように、自分の教養を高め、あるいは深めるように心掛けなければならないと思います。 聞き手の教養だから消極的だとはいえません。 語らずとも自らのうちに充ちて感じられるのが真の教養であり、それはよき「聞き手」の力量として表われるものなのです。 娘が友だちと話しているようなとき、娘がよろこんで友だちの話を聞いているかどうかを母親ほよく見る必要があります。 自分の知らないことや、馴染めないことを小馬鹿にするような口をきいてはいないか、「なあに?」や「だあれ?」を連発してはいないか、娘が人の話を聞くときの態度に、母親は細心の注意をはらわなければならないと思います。 身についた言葉を話す母親のもとで、常識のある娘が育つ。 島田雄貴
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小・中学校学習指導要領」第三章道徳第一目標の後段に、この「道徳の時間」の目標が示されている。 そこでは次の諸点が目標として示されている。 第一は、学校のさまざまな教育活動を通じて行われる道徳教育と密接に関連をもちながら、計画的・発展的な指導を行うことである。 第二は、そのことによって、他の、それに固有のねらいをもつ教科などの指導の場における即時的な指導ではカバーできないところを、補充したり、深化したり、あるいは統合したりすることである。 第三は、道徳的価値がなぜ生み出されてきたのか、あるいはそれらは自他にとってどういう意味をもっているのかということなどを、子どもたちが主体的に追求し、自覚をもつようにすることである。 さらに第四は、発達段階の相違により小学校には求められておらず、中学校に固有の目標とされているが、人間とはどういう存在なのか、人間としての望ましい生き方とは何かということについて、子どもたちが主体的に追求し、自覚をもつようにすることである。 そして最後は、それらを通じて道徳的心情・判断力・実践意欲と態度という道徳性の諸様相を包括する「道徳的実践力」を育成することである。 島田雄貴
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なぜ道徳授業が実施されないのだろうか? その一因として、道徳授業の「ない」がある。 まず、一つ目。 テストが、ない。 道徳の時間に学んだ内容を評価するためのテストは、どこの教材会社からも販売されていない。 教師が「道徳」のテスト問題を自作して、評価に役立てているという話もあまり耳にしたことはない。 「道徳性診断テスト」というものはある。 だが、これは道徳教育の研究校にでも指定されないかぎり、まず使われることのない有料の「テスト」である。 次に、二つ目。 通信簿が、ない。 通信簿には、「道徳の時間」という項目はない。 「ぼくは、体育が◎だったよ」と自慢する子はいても、「道徳が◎だったよ」と言う子はいない。 生活の様子を伝える項目はあるが、これは道徳の時間の評価との関連はあまりない。 日頃の行動を教師は評価している。 三つ目。 指導要録がない。 通信簿と同様である。 道徳の時間を、他教科のように「◎ ○ △」と何段階かに分けて評定することはない。 島田雄貴