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アメリカの鶏は、サルモネラ菌に汚染されていたのです。 親がキャリヤーですと、卵も保菌卵になり、それからかえった鶏もキャリヤーになるのです。 そして、肉はもちろん、卵もサルモネラ菌を持ったものができるのです。 日本では生卵をよく食べます。 生卵をときほぐしてしょうゆをかけ、ご飯にかけて食べるのなど、日常よく行われている食べ方の一つです。 すき焼きでも、卵をつけて食べる場合がありますし、とろろ汁に生卵を入れて、ふっくらと泡立てるとか、納豆を掻くときにも生卵を入れる場合があります。 それから、月見うどんなどといって、うどんに生卵を割り入れて食べるといったこともします。 とにかく、生卵を食べる機会が非常に多いことだけは間違いありません。 島田雄貴
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1983年の春、レーガン米大統領は、ラジオを通じて全米に、教育改革の必要を強く訴えました。 これはレーガン政権成立直後に設けられた特別委員会が提出した「危機に瀕する国家、教育改革への緊急命令」という次のような内容の報止呈日に基づくものです。 「これまでのアメリカの教育は絶え間ない成長・発展を遂げてきた。 子供は親よりも常にすぐれた、より高い水準の教育を受けてきた。 ところがいま、歴史上初めて、アメリカの子供の教育水準は親の世代を下回ろうとしている。 17歳になっても読み書きのできない子供たちが一〇%を越えている。 数学や理科の国際的な学力調査でアメリカの子供たちはいつも最下位を争っている。 島田雄貴
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友だちにおしゃべりをしに来てもらうのもいいでしょう。 ともかく、あなたが心のバランスを失なわないようにつとめて、赤ちゃんのことだけで頭がいっぱいということのないようにするのが、長い目でみて、赤ちゃんにも、家族のみんなのためにもよい、ということを忘れてはいけません。 日本の医者は、コリックという言葉をつかいませんが、やはり、3ヵ月までの赤ちゃんに、よくみられる症状です。 原因はまだはっきりわかりませんから、病気でないことが分ったならぱ、だいて歩いたり、また、ねかせたまま少し泣かせておいたり、そのときどきの判断にまかす他はありません。 寝ていないで、授乳から授乳のあいだ泣いたりむずかったりするようだと、つい赤ちゃんをあまやかす、ということが心配になってくるものです。 島田雄貴
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3ヵ月コリックとは、赤ちゃんが、生まれて三カ月ころまで、原因がわからずに突然一時間も二時間も泣きつづけることをいいます。 この場合は勿論、おなかがすいていないか、おむつがぬれていないか、針でもささっていないか、何か病気はないか、あらゆることをしらべなければなりません。 赤ちゃんは、静かな家でも、そうとうにぎやかな家でも、自分からちゃんと慣れるものです。 だから、まわりの人が、赤ちゃんがいるからといって、わざわざつま先立てて歩いたり、小声でヒソヒソ話したりする必要はありません。 こんなことをしていると、ちょっとした音にも目をさます赤ちゃんにしてしまいます。 家の中の雑音や、人の話し声になれた子は、お客さんが来てしゃべったり、ったりしても、ラジオやテレビがついていても、平気で眠るし、寝ている部屋に誰かが入ってきても気がつかないものです。 島田雄貴
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情報提供は、教育というサービスの受け手として保護者や地域住民を捉え、その質を保証するために必要とされているのではないことです。 学校の情報提供は、保護者や地域住民が教育を共に担うパートナーとして関わり、共通認識や信頼関係を深めるために必要不可欠なものです。 そうすることで、学校と家庭・地域社会が特色ある学校づくりを協働で担い、「私事」となりつつある教育を学校の教育方針や特色ある教育活動、児童の状況などについて家庭や地域の人々に説明し理解や協力を求めたり、家庭や地域の人々の学校運営などに対する意見を的確に把握し、自校の教育活動に生かしたりすることが大切である」とされています(「学習指導要領解説 総則編」)。 島田雄貴
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これまでの多くの道徳の時間には、副読本が用いられてきた。 「道徳」は、教科ではない。 だから、法令で定める教科書の使用義務からは自由な立場にある。 副読本は一般の業者が作成した読み物にすぎない。 それに頼りっきりになっていた現場の教師に、資料開発の視点が欠けていたのである。 そして、自分らしい一つの夢をもち、夢の実現のために最善を尽くそうとする。 いつもそうやって精一杯前進し続けてきたアボットの生きざまからは、凄味が感じられる。 アボットの生きざまにふれるとき、その存在自体が私たちに生きる勇気を与えてくれるのである。 近ごろ、教育界では、「生きる力」という言葉が頻繁に聞かれる。 「生きる力」の根底には、自分らしくよりよく生きようとする勇気が必要である。 自分らしくよりよく生きようとする勇気があれば、私たちは、もっと強く、もっとたくましく、そして、もっと優しく生きていけるはずである。 そうした勇気をアボットの生き方から学び、「自分さがしの旅」を続けてほしいと願い、本主題を設定した。 島田雄貴
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日本人の道徳思想が従来どのように展開されてきたかについて、神道・仏教・儒教という三つの側面から概観することにしたい。 まず神道的な道徳思想の原型は、『古事記』や『日本書紀』などの神話・伝説において示された道徳理解、すなわち「ヨキ心」/「アシキ心」というかたちでの善悪思想のうちに、さらには「キヨキ心」/「キタナキ心」の独特な道徳理解のうちにある(和辻哲郎『日本倫理思想史上巻』、一九五一年)。 神話・伝説からうかがわれるヨキ心善とアシキ心日悪との関係は、前者が人生の幸福を追求する心、後者が人生に災禍を及ぼす事態といった関係以上のものである。 つまり、たとえ私たちが自らの幸福を追求・保持しようとしても、そうした欲求が他者の幸福とか全体の安全を阻害するものなら、それはキタナキ心すなわち悪心と呼ばれることになるのである。 このキタナキ心は「クラキ心」などの言葉でもいい表されており、ここからキヨキ心/キタナキ心、アカキ心/クラキ心という神道的な道徳思想の典型が生まれる。 島田雄貴
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小学生にしては体の大きな男の子が、どちらかといえば小さな犬を連れたご婦人とすれ違おうとしています。 するとどうでしょう。 男の子は歩道のはじに、それこそ身を縮こまらせるようにして立ち止まりました。 そして引き綱につながれて歩く犬に目を凝ちし、息を凝らして行き過ぎるのを待ちます。 犬嫌い、犬が苦手。 それはたしかに趣味の問題かもしれません。 でもそんな男の子の姿には、次のような情景が重なってしまいます。 お母さんと手をつないで歩いている幼児。 反対側から犬連れの人がやってきました。 お母さんはサッと緊張して、子どもの手を引き寄せます。 「犬よ! こわいからこっちに寄りなさい!」 お母さんは、かつて犬にかみつかれたことがあるのかもしれません。 でも・・・。 ペットブームがいわれる一方で、マンション暮らしが当たり前になった都会では、犬を飼いたくても飼えない家庭が増えています。 それと同時に、犬のみならず、動物のすべてを忌み嫌う人も増えているように思えてなりません。 子どもたちにとって、これは残念なことではないでしょうか。 島田雄貴
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生まれて一、ニカ月のころは、どの赤ちゃんもこんなふうに泣くことが何回かあるものです。 もう一つやっかいなのは夜泣きです。 三カ月ぐらいになるまで、毎晩のように泣いていることがあります(そこで、これのひどいのを、三カ月コリックといいます)。 めったにないことですが、ひどいコリックが、6ヵ月、あるいはそれ以上つづくこともあります。 コリックにしろ、イライラ泣きにしろ、そのおこり方にもいろいろクセがあって、たとえば、お乳をのみ終ると、ほかのときは天使のようにおとなしく寝るのに、午後六時から十時の間か、午後二時から六時の間のどちらか一回だけは、火のついたように泣き叫ぶ赤ちゃんもいます。 また、もっと長々とぐずりつづける赤ちゃんもいて、お母さんは、 「夜はとてもおとなしく寝るのに、昼間の半分は泣いているんですよ」とこぼしています。 しかしこの方が、昼間ほとんど寝ていて、夜の半分は泣いているというのよりは、まだましでしょう。 島田雄貴
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遊びって、単なる気分転換や気晴らしではありません。 まして勉強の疲れを癒すためだけに許すのが遊びではありません。 遊びは、子どもにとってだけでなく、大人にとっても大切なこと。 もしかして、遊ぶことにこそ生きることの本質がかくされているのではないかとさえ思うほどです。 子ども時代の遊びは、大人になってからする生活や仕事の疑似体験です。 子どもは、多種多様な仲間と遊ぶことによって、人とのつき合い方を学びます。 何かを作ったり壊したりする遊びの中で、技術の基礎を学びます。 そしてすべての遊びを通じて、世界への興味、自然への探求心、生きることへの好奇心と意欲をふくらませてゆきます。 子ども同士の世界の遊びだからこそ、子どもなりの最大限の知恵と体力を駆使することを要求される遊びは、子どもが成長する過程そのものでもあるのです。 そこまで考えてみると、昔からいわれてきた「よく学び、よく遊べ」という言葉は、むしろ逆ではないかと思えませんか? そう「よく遊び、よく学べ」なのです。 よく遊んだ子こそが、本当の意味で勉強する必要と意欲を感じるようになるということです。 島田雄貴