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編集 皇后卿也。(応劭) 秋は収成の時、長は恒久の義。故に皇后の官名に以て為す。(顔師古) 大長秋とは、皇后に仕える職官である。中宮の家政を司り、時には皇后の詔勅や尚書を取り扱う。その属吏は主に宦官が就任した。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏大長秋丞 属官(後漢)中宮僕 中宮謁者 中宮尚書 中宮私府 中宮永巷 中宮黄門 中宮署 中宮薬長 皇太后・太皇太后 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 将行は故の秦官。漢もこれを継ぐ。 景帝中六年、更名して大長秋と為す。 成帝鴻嘉三年、皇后の詹事官を省き、大長秋に併合する。 位 (前漢) 一人、秩二千石。 或いは中人(奄人、宦者)を用い、或いは士人を用いる。 席次詹事の下。 (後漢) 宦者、一人、秩二千石。 職掌 (前漢) (後漢) 中宮(皇后)の命を奉じ宣うことを職掌とす。凡そ宗親に給賜し、及び宗親の謁見に当たる者、これを関通す。中宮が出れば則ち従う。 皇后の法駕の出に当たり、則ち中謁者、中宦者の職の吏が詹事を権兼し奉引す。訖(おわ)れば罷める。 宦者の誅の後、尚書が選兼し職吏一人が奉引すると云う。 属吏 大長秋丞 (前漢) 一人、秩六百石。 (後漢) 宦者。一人、秩六百石。 属官(後漢) 前漢の属官は不詳。 中宮僕 宦者。一人、千石。 馭を主る。 前漢の中太僕。中興して「太」を省き、秩を減じて大長秋に属す。 中宮謁者 中章を報じるを主る。 中宮謁者令 宦者、一人、秩六百石。 中宮謁者 三人、秩四百石。 中宮尚書 宦者。五人、六百石。 中文書を主る。 中宮私府 中藏幣帛諸物、裁衣、被補浣者ら、皆主る。 中宮私府令 蔵銭の府、天子曰く少府、諸侯曰く私府。(顔師古) 宦者。一人、六百石。 中宮私府丞 宦者。一人。 別説 中宮藏府令が有り、秩千石。儀、御府令に比す。 中宮永巷 中宮永巷令 宦者。一人、六百石。 宮人を主す。 中宮永巷丞 宦者。一人。 中宮黄門 中宮黄門冗従僕射 宦者。一人、六百石。 中黄門冗従を主る。 中黄門冗従 宦者。 給事黄門 四人。黄門侍郎に比す。 給事中宮侍郎 宦者、六人。 尚書郎に比す。 給事羽林郎 一人。 羽林将、虎賁官騎下に比す。 中宮署 中宮の清署を主る。 中宮署令 宦者。一人、六百石。 中宮署丞 宦者。一人 復道丞 中閣道を主る。 宦者。一人。 女騎 六人。 中宮薬長 宦者。一人、四百石。 皇太后・太皇太后 (後漢) 太皇太后の長信宮、皇太后の長楽宮には,少府一人を置き、長信少府、長楽少府とする。職、長秋の如く、及び余吏はみな宮名を以て号と為す。員数、秩次、中宮の如くして、位は大長秋の上。職吏、みな宦者。 長楽宮には、また衛尉が有り、僕は太僕と為し、皆二千石、丞は六百石。長楽少府の上に在す。その崩によって省き、不常置。 所属項目(タグ) 中宮 二千石 卿 大長秋 宦者 皇后 職官 詹事 関連項目・人物 詹事 大長秋 詳説 編集 -
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編集 宗正とは、朝廷の職官である。九卿の一つに数えられ、現代の大臣に相当する。各郡国に在す宗室、親属の名籍(皇帝の一族の戸籍簿)、系譜を管理する。もし宗族に重罪の者があれば郡国から報告を受け、宗正はその是非を裁決する。 目次 目次 歴史 地位 職掌 属吏宗正丞 員吏 属官都司空 内官 諸公主家 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 周成王の時、彤伯入りて宗伯と為る。 宗正は、故の秦官。漢もこれを継ぐ。 平帝元始四年、更名して宗伯とする。 王莽新は、秩宗に併合する。 中興すると、宗正の名をを復す。 地位 (前漢) 卿、一人。秩中二千石。 (後漢) 九卿、一人。秩中二千石。 職掌 (前漢) 親属を掌る。 (後漢) 王国の嫡庶の次、及び諸宗室の親属遠近の序録を掌る。郡国、歳に因り、宗室名籍を計上す。若し犯法の髡以上に当たるもの有れば、先に宗正に諸いて上す、宗正以て聞き、乃ちに報決す。 また、歳に一、諸王の世譜差序秩第を治す。 属吏 宗正丞 (前漢) 秩千石。 (後漢) 一人、比千石。 員吏 四十一人。 そのうち六人は四科、一人は二百石、四人は百石、三人は佐、六人は騎吏、二人は法家、十八人は学事、一人は官医。 属官 都司空 律に云う、司空は水と罪人を主る。賈誼曰く『輸はこれ司空、編はこれ徒官』。 中興して省く。 都司空令 一人。 都司空丞 有り 内官 度、分寸尺丈引を主る。長短の尺度、単位を管轄する。 尺度、単位とはは法度の起こる所であり、故にその職分は廷尉に掌られる。 また獄を有し、親族にまつわる罪状の者が繋がれた(*1)。 初め少府に属し、中に主爵に属し、後に宗正に属した。 中興して省く? 内官長 一人。 内官丞 有り。 諸公主家 その余属吏、増減に常無し。 (前漢) 公主家令 公主門尉 (後漢) 家令 一人、秩六百石。 主簿 一人、秩六百石。 家僕 一人、秩六百石。 私府長 一人、秩六百石。 家丞 一人、三百石。 直吏 三人。 從官 三人。 所属項目(タグ) 九卿 卿 宗伯 宗族 宗正 職官 親属 関連項目・人物 宗正 詳説 編集 -
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編集 歩兵校尉(步兵校尉)は、前漢武帝期以降に置かれた朝廷の職官。いわゆる武帝八校尉一。 軽車を掌る。 後漢には置かれず、射声校尉に併せられた。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 武帝が置く。 中興以後は置かれず。 位 一人、秩二千石。 職掌 軽車を掌る。 属吏 不詳。 所属項目(タグ) 二千石 戦車 校尉 武官 武帝八校尉 職官 虎賁校尉 軽車 関連項目・人物 虎賁校尉 詳説 掌るところの「軽車」とは、戦車のこと。輜重を積載する重車に比して言う。 前漢では「軽車将軍」等の号が用いられた通り、兵科として健在だったが、徐々に典礼上のものになる。虎賁校尉が後漢以降置かれなくなるのはこのだめだろう。 虎賁郎との関係は不詳。 編集 -
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編集 徒隸を掌るを以って而して巡察す、故に司隸と云う。(顔師古) 司隷校尉(司隸校尉)とは、前漢代中期以降に置かれた朝廷の職官である。 初期は徒隸(奴隷となった刑徒)を率い、皇太子、三公以下、諸侯、官吏、民の非法を余すところなく検挙する官であったが、やがて京師周辺の諸郡を監察する州刺史に近い職となっていく。 本職が監督することとなった三輔(*1)、三河(*2)、弘農郡の七つの尹郡を司隷校尉部、または司隷、司州と称する。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏(前漢)中都官徒 属吏(後漢)従事史都官従事 功曹従事 別駕従事 簿曹従事 兵曹従事 諸郡国従事 仮佐門亭長 門功曹書佐 孝経師 月令師 律令師 簿曹書佐 都官書佐 諸典郡書佐 属郡(両漢) 属郡(晋) 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 司隷は、故は周官。 漢では武帝征和四年、初めて司隷校尉を置く。後にその兵を罷める。 元帝初元四年、節を取り去る。 成帝元延四年、省く。 哀帝元壽二年、また置く。ただ司隸と為し、冠は進賢冠、大司空に属し、地位は司直に比す。 光武帝建武年間、また置く。一州を并せ領す。 位 (前漢) 一人、秩二千石。 大司空に属して以後は、司直に比すのならば秩比二千石か。 (後漢) 一人、秩比二千石。 職掌 (前漢) 巫蠱を捕らえ、大姦猾を督し、三輔、三河、弘農を察す。 (後漢) 京師、外部諸郡を典(つかさど)り、所糾さざる所無し。封侯、外戚、三公以下、尊卑無し。宮に入れば、中道を開き使者を称す。会ごと、後に到りて先に去る。 属吏(前漢) 中都官徒 千二百人。 後に罷める。 属吏(後漢) 従事史 十二人。 都官従事 百官の法を犯す者を察し挙げることを主る。 洛陽百官の朝会を主ること、三府掾と同じく。 多く河内に出、貴戚を掊撃す。 功曹従事 州(司隷)の選署(人事)、及び衆事を主る。 別駕従事 校尉が部を行けば則ち奉引し、衆事を録す。 簿曹従事 財、穀の簿書を主る。 兵曹従事 軍事が有れば置く。兵事を主る。 諸郡国従事 郡国ごと各一人。 文書を督促し、非法を察挙することを主る。みな州自ら辟除し、故に通り為して百石と云う。 仮佐 二十五人。 簿録、閤下事を主り、文書を省る。 門亭長 州正を主る。 門功曹書佐 選用を主る。 孝経師 試経の監を主る。 月令師 時節の祠祀を主る。 律令師 法律を平らかにすることを主る。 簿曹書佐 簿書を主る。 都官書佐 諸典郡書佐 郡国ごと一人。 おのおの一郡の文書を主る。 郡吏を以って補し、歳満ちて一更(一交替)す。 属郡(両漢) 京兆尹 河南尹 右扶風 左馮翊 河内郡 河東郡 弘農郡 属郡(晋) 河南郡 滎陽郡 弘農郡 上洛郡 平陽郡 河東郡 汲郡 河内郡 広平郡 陽平郡 魏郡 頓丘郡 所属項目(タグ) 二千石 司州 司隷 察 尉 校尉 比二千石 督 節 職官 関連項目・人物 「司隷校尉」をタグに含むページは1つもありません。 詳説 節を持し、中都官の徒千二百人を従え、本来天子の詔勅が必要な官吏をも独断で捕縛し、盗賊や姦猾を自ら討つ力を有すも、この二者はやがて剥奪される。 編集 -
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漢三国高位職官表 皇帝 天子 万石 上公 相国 太師 太傅 太保 大司馬 大将軍 前漢驃騎将軍 一品 三公・上卿 丞相 太尉 太尉 司徒 司空 驃騎・車騎・衛将軍 前漢前後左右将軍 中二千石 御史大夫(前漢のみ) 魏晋四征・四鎮将軍 二品 諸卿・九卿 太常 光禄勲 衛尉 太僕 廷尉 大鴻臚 宗正 大司農 少府 執金吾 太子太傅 太后卿 河南尹 京兆尹 三品 二千石 太子太傅 詹事 典属国 水衡都尉・内史・主爵中尉・護軍都尉(前漢のみ) 将作大匠(3) 大長秋(3) 太子少傅 州牧 後漢諸将軍 諸郡太守(5) 比二千石 侍中 散騎常侍 中常侍 光祿大夫 司隸校尉中領軍 中護軍(以上三品) 中郎将 校尉 都尉 五営校尉 城門校尉(以上四品) 虎賁中郎將(5) 千石 中書監(3) 中書令(3) 尚書令(3) 尚書(5) 御史中丞(4) 太中大夫(7) 魏晋六百石県令 六百石 北軍中候(5) 諸部署令 諫議大夫(7) 後漢州刺史[[ 州[[領兵刺史(4) 州単車刺史(5) 魏晋六百石県令(7) 四百石 県長(9) 三百石 県長(9) ※括弧内数字は官品 よく読まれているページ トップページ メニュー 弘農王妃 唐氏(唐姫) 長水校尉 秩石 光禄勲 九卿 衛尉 騎都尉 執金吾 作成された後漢末の人物 龔都 黄邵 鮑邵 鮑信 魏越 魏続 魏种 魏 太祖武皇帝 曹操 高順 高祚 駱業 韓莒子 韓胤 韋晃 韋休甫 霍奴 霊懐王皇后(王美人) 霊思何皇后(何太后) 霊帝宋皇后 陳遵(琅邪国相) 陳耽 陰夔 阿貴 金禕 金瑋 金尚 鄴侯 袁紹 鄧盛 鄧済 郝萌 郗慮 趙衢 趙犢 趙昱 趙叡 賈信 許訓 許耽 許相 許汜 許敬 許攸 許劭 解□ 観鵠 襄賁侯 劉虞 襄楷 裴茂 袁遺 袁術 袁滂 袁敍 袁忠 袁嗣 衛茲 蕭建 蔣石 舞陽宣徳侯 何真 舞陽君 興 臧旻 聞人襲 耿紀 紀霊 笮融 第五文休 章誑 种拂 种岱 种劭 眭固 眭元進 白繞 畢諶 畢瑜 田豊 田疇 王芬 王肱 王立 王琰(上洛都尉) 王次仲 王楷 王斌 王必 王匡(泰山郡人) 王儁 檀謨 棗祗 梁興 梁綱 梁紹 梁岐 桓邵 栗成 来豔 杜濩 李進(乗氏県人) 李豊 李蒙 李肅(五原郡人) バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は? お手数ですが、お問合せフォームからご連絡ください。
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編集 上に自(したが)い下を安んじる、曰く尉。武官は悉く、以って称と為す。(応劭) 太尉は、軍事を担当する宰相(首相)。 前漢においては、民事を司る丞相と権限を二分し、席次は丞相に次ぎ、秩禄は同等であった。しかし、前漢前期にも空席の時期が多く、やがて正式に省かれてその職務は丞相に一本化される。 前漢後期、改めて丞相の職責を三分して三公が置かれたが、軍事を担当したのは大司馬であった。 後漢光武帝期の半ばに大司馬が改称されて太尉の名称が復活し、以後長く三公の地位を占める。 三公としての太尉は、武官であるが将帥ではなく、あくまで将兵の功績を孝課し政策を建言する大臣の職である。張温・司馬懿等少数を例外として、直接軍を率いることはなかった。 +概略と歴史 太尉 発祥 秦官。 職掌 丞相制に於いては丞相と文武の権を分割し、武事を掌る。三公制においては四方の兵事の功課を掌る。 秩石 万石 品秩 一品官 衣冠 金印紫綬 上位 天子・皇帝 下位 百官・諸将 戦国 戦国秦にて国尉が用いられ、太尉の原型とされる。 秦 秦王朝が成立すると、丞相・御史大夫らと共に太尉を置く。 前漢 秦制を倣い、丞相・御史大夫と共に置かれ、上卿を占める。丞相と文武の権限を分け、秩禄は同等であった。 断続的に任官者が存在したが、武帝建元二年(前139年)、正式に省かれ、その職掌は丞相に一本化される。 成帝綏和元年(前8年)、三公の制度がが定められたが、武事を司る官には大司馬が置かれ、太尉は復活しなかった。 新 - 後漢 世祖光武帝が中興すると、先例に倣い三公制を採って大司馬を置いた。建武二十七年、名称を太尉に改めた。 献帝中平三年、張温が太尉を拜し、持節し使者として長安に就いた。三公が京師の外に在るのはこれが初めての例となった。 建安十三年、三公を廃して丞相・御史大夫を復活させるが、太尉は置かれず、軍事は丞相曹操の手に握られた。 魏 漢制を継ぎ三公として太尉を置いた。司馬懿は太尉のままで兵を率いて征伐した。 蜀漢 三公を置くことはなく、太尉の記録も無い。 孫呉 呉は、しばらく丞相を置いたが、孫晧]代には三公を置いた。建衡三年(271年)には任官者として[[范慎の名が見える。 西晋 漢魏の制を倣い、三公の一人として太尉を置く。 目次 目次 位 職掌 概説 属吏前漢 後漢 属官後漢 所属項目(タグ) 関連項目・人物 位 前漢 上卿、一人。秩万石、金印紫綬。 席次は丞相に次ぐ。 後漢以降 三公、一人。金印紫綬。 職掌 前漢 武事を掌る。 後漢以降 四方の兵事の功課を掌る。歳尽きれば即ち其の殿最(評価)を奏し、而して賞罰を行う。 凡そ郊祀の事,亜獻(二番目の献酒)を掌り、大喪には則ち南郊に諡を告す。凡そ国に大造・大疑が有れば、則ち司徒、司空と通じ而してこれを論ず。国に過ちの事有れば、則ち二公と通じこれを諫争す。 概説 太尉は秦官である。その原形は戦国秦の国師とされ、白起や尉繚が任じられている。 秦は統一後に丞相・御史大夫らと共に太尉を置いた。 漢が興ると諸々の秦制を倣い、太尉もまた置かれた。軍事の最高大臣であったが、漢初においては、有事にあって自ら出征し、事が終われば免じられる場合もある、軍政と軍令が未分化の戦国の遺風を色濃く残すものであった。また、盧綰・周勃・灌嬰・周亜夫・田蚡といった有力者が不在の場合は空席のままに置かれる職でもあった。 武帝建元二年(前139年)、正式に省かれ、その職掌は丞相に一本化された。以後、代わって大司馬が高位の将軍号に冠して置かれる時代が続いたが、大司馬は国家の軍事を統括せず、太尉と異なる存在であった。 成帝綏和元年(前8年)、三公を定められたが、太尉は復活せず、大司馬に金印紫綬を賜り、官属を置き、軍事を司らせた。大司馬の禄は丞相に比して、将軍の号を取り去った。 哀帝建平二年(前5年)、三公の制度を取りやめて大司馬の印綬・官属を取り去り、冠将軍を故の如くとした。 元寿二年(前2年)、また三公制に復し、大司馬に印綬を賜り、官属を置き、将軍号を取り去った。その位は司徒の上であった。 世祖光武帝が中興すると、先例に倣い三公を定めて大司馬を置いた。建武二十七年(51年)、名称を太尉に改めた。太尉は大司馬の地位を継いで三公の首座となり、この序列が三国・晋へと引き継がれることとなった。 献帝中平三年(186年)、張温が太尉を拜し、持節し使者として長安に就いた。三公が京師の外に在るのはこれが初めての例となった。 建安十三年(208年)、曹操が三公を廃して丞相・御史大夫を復活させるが、太尉は置かれず、軍事は丞相曹操の手に握られた。 魏は、漢制を継ぎ三公として太尉を置いた。司馬懿は太尉のままで兵を率いて征伐した。 呉は、しばらく丞相を置いたが、孫晧]代には三公を置いた。建衡三年には任官者として[[范慎の名が見える。 蜀漢はほぼ三公を置くことはなく、太尉の記録も無い。 属吏 前漢 長史 一人、千石。 後漢 詳しくは三公の属吏を参照。 長史 一人、千石。 もろもろの曹事を署す。周の小宰の如く。 諸曹掾属 二十四人。 黄閤 一人? 簿録を主り、衆事を省る。 令史及び御属 合わせて二十三人。 閤下令史 閤下の威儀事を主る。 記室令史 百石。 上章表報書記を主る。 門令史 府門を主る。 その他、令史はおのおの曹文書を典じる。 御属 秩不明。 公の御と為るを主る。 録事の如くという。 官騎 秩不明。 三十人(二十二人ともいう)。 以下、多数の斗食・佐史が務めた。 属官 後漢 太常 光祿勳 衛尉 九卿のうちの三名が太尉の部署する所と言う(*1)。しかし、実際の統属関係は定かではない。 所属項目(タグ) 一品官 万石 三公 上卿 中都官 大司馬 尉 武冠 秦官 紫綬 職官 金印 関連項目・人物 「太尉」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
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編集 射に工(たく)みな者なり。冥冥中、声を聞き則ちこれに中てる、因り以って名とすなり。 須く詔の命ずる所、而して射る。故に曰く待詔射なり。 射声校尉(射聲校尉)は、前漢武帝期以降に置かれた朝廷の職官。待詔射声士を掌る。 後漢に到ると光武帝が再び置き、北軍に組み込まれた。 後漢以降は宮中に宿直する宿衛兵を掌ったため、外征に出る官ではないが、後漢ではしばしば外戚諸氏の有力者が任官した。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 武帝が置く。 中興して再び置く。 光武帝建武七年、省く。 光武帝建武十五年、再び置く。 以後、漢魏晋ともに置き続ける。 位 (前漢) 一人、秩二千石。 (後漢) 一人、秩比二千石。 (魏・西晋) 一人。 秩比二千石、四品官か。(宋志より) 職掌 (前漢) 待詔射声士を掌る。 (後漢) 宿衛兵を掌る。 (魏・西晋) 営兵を領す。 属吏 (後漢) 司馬 一人、秩千石。 員吏 百二十九人。 領士 七百人。 (魏・西晋) 司馬 功曹 主簿 営兵 所属項目(タグ) 二千石 北軍五校尉 宿衛 射声校尉 待詔 校尉 武官 武帝八校尉 比二千石 職官 関連項目・人物 射声校尉 詳説 前漢においては待詔射声士を掌るとされる。待詔とは諸々の材技を以って徴召され、未だ正官に有らぬ者、とされるが、漢書の用法を見ると必ずしも無為徒食の身分ではなく、皇帝の召し出しに応じて下問に応えたり、微行に随行している。このことからすると「待詔射声士」とは、一般の徴兵や胡騎の従軍とは異なり、射撃に長じているということで朝廷に召されて有事のために待機する者達、ということになるのだろう。或いは、胡越騎や長水胡騎のような部隊として統制された集団ではなかったかもしれない。 後漢では、宿衛兵を掌る地位から、外戚の与党が就任して皇帝を守護したり、儒士が宮中に出入りするための官として多く記録に残る。 外戚としては竇彪や郭舉(*1)、来歴(*2)。 [儒士]]としては章帝の元で後漢の礼制を定めた曹襃、白虎観議奏に参加した丁鴻、東観漢記や霊帝期の六経正定に携わった馬日磾がこの官を経験している。 他に有力者としては、西域で活躍した班超が朝廷に復命後に就任した。 編集 -
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編集 衛将軍(衞將軍)とは、名号将軍の一つである。後漢では比公の位にあり車騎将軍に次ぎ、魏晋では二品官、位亜三司(三公に次ぐ)とされる高位に位置した。その名の示す通り、前漢に宮廷・京師の諸軍や衛士を統括し皇帝を衛護する要となった事に発祥する。また、宣帝以降、大司馬衛将軍として輔政の任に当たった例が複数見られる。 漢三国期を通じて叙任者の多くはない名号だが、帝権の不安定な時期に皇帝の特に信頼する股肱の臣が務め、また、権臣が朝廷を支配する時期にはその一族の有力者が占めることが多い職となった。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏(漢)長史 司馬 從事中郎 掾属兵曹 稟假 刺姦掾 御属 令史 属吏(魏) 属吏(晋)長史 司馬 主簿 功曹史 門下督 録事 兵鎧曹 士曹 賊曹 營軍都督 刺姦都督 帳下都督 領兵(漢)部部校尉 軍司馬 仮司馬 曲軍候 軍仮候 屯屯長 別部司馬 所属項目(タグ) 関連項目・人物 歴史 高后八年、文帝が代より長安に入り天子に即位したその夜、代王国中尉であった宋昌を衛将軍に任じ、長安の南北軍を領した。これが衛将軍の創始となる。 宣帝の許で張安世が任じられた際には、両宮衛尉、城門、北軍兵を掌握して宮廷と京師を抑え、霍氏余党を排除する最大の功績を挙げた。 前漢末には、大司馬衛将軍として、外戚の王商、丁明、傅晏、佞幸伝に列する董賢が輔政の任に当たっている。 中興後、輔政に預かる外戚の地位として定着した大将軍・車騎将軍と異なり、衛将軍は絶えて置かれず、記録に残る最初の例が献帝期の董承となった。この空白期間に、特例等で秩禄や位階の上昇があった大将軍・驃騎将軍・車騎将軍と、格の上で水をあけられたようである。 曹丕が魏王を継ぐと、魏王国衛将軍には曹洪が任じられる。魏代後期、司馬懿が曹爽を排除して専権を握ってからは、司馬師・司馬昭が任官し、父兄の補佐に当たった。 呉では、前漢の例が復活し、衛将軍が輔政の任に就く例が目立つ。諸葛恪と共に孫亮を託された滕胤は衛将軍領尚書事として諸葛恪の副となり、孫休期の初めには孫恩が御史大夫衛將軍・中軍督として丞相孫綝に次ぎ、後に濮陽興が太常衛将軍・平軍国事(軍事部門を担当する平尚書事か)となった。孫晧期には滕牧が衛将軍録尚書事を務めている。 蜀漢末期、鄧艾の侵攻に応戦し緜竹で戦った従軍者に、羽林右部督李球、尚書張遵、尚書郎黄崇といった名が見られる。彼ら成都の防衛用戦力(及び、或いは中都官の志願者か)を割いて出動した司令官が、行都護・衛将軍・平尚書事の諸葛瞻であったことは、衛将軍の名に相応しい選出だったと言えるのだろう。 位 (前漢) 一人。上卿(或いは上卿に次ぐ)、金印紫綬。(*1) (後漢) 比公、或いは卿の上。一人。 比公であれば金印紫綬。 卿の上であれば秩中二千石、銀印青綬か。(*2) (晋) 一人。二品官。 職掌 不定。 宋昌は長安の南北軍を領し、張安世は両宮衛尉、城門、北軍兵を支配下に置いた。董承は献帝の東帰に先んじて洛陽の宮室を修理した。これらから、京師や宮殿を衛護し、諸軍を統括することが期待された名号と見られる。 前漢代後期には大司馬を冠し領尚書事となる例が増え、東呉がこの慣習を継いだ。 将軍の本来の任である出征を専らとした例は少なく、東呉の全琮、蜀漢の姜維がある程度である。ただし、前漢では隴西へ出征した三将軍の後詰として周舍が車騎将軍張武と共に渭水の北岸に軍して後詰となった例や、魏の毋丘倹の乱後に司馬師が危篤になった際に司馬昭が衛将軍となって許昌へ派遣された例がある。 属吏(漢) 長史 一人、千石。 司馬 一人、千石。 從事中郎 二人、六百石。 掾属 二十人。 その部署が明らかなのは以下の三曹六人のみ。 兵曹 兵事を主る。 兵曹掾 曹の長。 兵曹属 副。 稟假 稟假を主る。 稟假掾 曹の長。 稟假属 副。 刺姦掾 罪法を主る。 刺姦掾 曹の長。 刺姦属 副。 御属 一人。 令史 二十四人。 属吏(魏) 魏代の府員は明らかではない。晋とおおよそ同じか。 属吏(晋) 長史 一人,秩千石 司馬 一人,秩千石 主簿 功曹史 門下督 録事 兵鎧曹 士曹 賊曹 營軍都督 功曹 書佐 門吏 門下書吏 各一人。 刺姦都督 功曹 書佐 門吏 門下書吏 各一人。 帳下都督 功曹 書佐 門吏 門下書吏 各一人。 領兵(漢) 部 将軍営の下には、幾つかの部がある。 校尉を長とし、軍司馬を副とするが、校尉を置かず軍司馬一人のみの場合もある。 部校尉 一人、比二千石 部を指揮する。 軍司馬 一人、比千石 部校尉の副。 仮司馬 置かれることがある。部校尉の副。 曲 部の下の部隊単位 軍候 一人、比六百石。 曲を指揮する。 軍仮候 軍候の副。 屯 曲の下の部隊単位。 屯長 一人。比二百石 別部司馬 別営の司馬。 所属項目(タグ) 中都官 宿衛 将軍 比公 衛尉 領兵 関連項目・人物 「衛将軍」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
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夏侯惇(かこうとん) 字は元譲(げんじょう) (?-220) 前漢の夏侯嬰(前漢。劉邦の臣下。馬車の御者などを経て信頼される)の子孫。 曹操とは、父親が兄弟の従兄弟同士になる。 軍の中で一番信頼されていた武将だろう。 14歳の時に学問の師を侮辱した者を殺して以来、激しい気性の持ち主として知られるようになった。 曹操が挙兵した時から副将としてつき従う。 陶謙討伐の際には濮陽の守備を任されるが、謀反により呂布が入城してしまった。 夏侯惇は曹操の家族を救おうと、別の城へ軽装備の軍勢で向かうが、途中呂布軍と交戦。 呂布軍は夏侯惇を捕らえ人質にした。そして、夏侯惇軍を脅すが、配下の者が「国法により人質に構わず賊を殺します」と言い、全軍に攻撃を命じた為に、おびえた賊により無事に釈放された。 その後の呂布討伐の際に流れ矢が当たり、左目を失う。軍中ではこの時以来、夏侯惇を「盲夏侯」と呼んだ。 ただ、本人はこの呼び方を最も嫌い、鏡を見る度に腹を立て地面に投げ捨てていた。 その後も曹操からの厚い信任を受け、法令に拘束されず独自で行政を任されたり、孫権討伐の際には全26軍の総司令官になったりしている。 曹操の寝室にも特別出入りを許可された唯一の将。 曹操が亡くなってから数ヵ月後、後を追うように静かに亡くなった。
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ゴゼイ(呉芮) 中国の前漢の長沙国の王。