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なんだ、まだ生きてたのか バカウヨ -- バカウヨハンター (2015-07-03 04 07 11) ↑バカウヨハンター(゚Д゚)<死ね -- 野獣先輩 (2017-01-10 23 53 09)
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コメント元ページ GHQの占領政策と影響 - 名無しさん 2015-12-22 17 01 50 ttp //jpn.yamato.omiki.com/documents/two_america/4-2.html -- 名無し (2010-03-28 10 20 09) 第2次大戦の時のアメリカの動向はこれを見ると分かりやすい -- 名無し (2010-03-28 10 21 34) GHQの占領政策と当時のアメリカの考え方の背景などもこれが参考になる -- 名無し (2010-03-28 10 44 06) 1948年の「母子衛生対策要綱」による母子別室制への言及があるとなお良いかと存じます。 -- 大和令武 (2010-05-27 10 40 47) なぜ日本人左翼は社会主義崩壊後も思考転向できないのですか?間違いを認め改めることがそんなに難しいことでしょうか。自分には到底理解できません。愛国心があるのなら簡単ではないでしょうか。 -- 名無しさん (2012-02-27 22 24 30) アメリカ(白人)は幕末から第一次世界大戦で日本の底力が解ったのです。 -- 澁谷 信夫 (2012-09-16 13 28 28) いい加減にしろ!テメエらが今何をやらかしつつあるのか判ってんのか!日本の面汚しだよ面汚し!一回自分の顔を、鏡でよーく見てみろ。指名手配犯さながらの醜悪な面構えに自分でも驚くだろうよ!バカウヨ辞めますか、それとも人間辞めますか? -- まともな日本人 (2013-05-13 11 33 58) 具体性の無い指摘をマトモとは言わん。ただの罵倒だ。鏡見て来い。 -- 名無しさん (2013-06-03 02 22 55) 鏡見るのはお前の方だよ似非国士キモウヨ!!逃げの常套句だなWWW。鏡見るのはお前の方じゃないの?キモウヨだけに自分の顔見られないってか!!WWWW。きっと松田優作張りのなんじゃこりゃ!!なんでしょ?WWWWいい加減自白しちまえよ!! -- ここはヒドイ掲示板ですねww (2013-08-15 17 25 46) TPPや米国債を買いまくる売国自民党信者の集会所はここですか、表現言論規制で自国民を殺す自民党信者はここですか。 -- 名無し (2013-11-01 00 39 47) 結果より、なぜあのような悲惨な戦争に -- 名無しさん (2014-09-22 11 46 58) 結果より何故あのような悲惨な戦争に至ったのか、あの当時の指導者は国力の差を調べ結果がどうなるかの判断ができなかったのか、行きたくない戦地、広島、長崎の原爆、一夜に十万人殺傷された東京空襲など一般市民の命。人の命に対する認識を思うとあの戦争の指導者たちは犯罪者達です。一般の人達に国の行く末など考えさせなくしたうえでですから。 -- HYR (2014-09-22 12 10 48) 戦時国際法により国体変更は禁止されているので、GHQがやったのは、帝国政府が機能不全に陥ったので、本土日本限定自治政府の政治体制を新しく作ることでした。 -- 名無しさん (2015-01-06 21 23 26) 上があるから下がある。共産党の発想。指導者が悪くて自分達は被害者。共産主義者の発想。 - 名無しさん 2015-12-25 06 47 08 wgipはまさにこういった発想に固定すること - 名無しさん 2015-12-25 06 49 29 W.G.I.P.に洗脳された人々 ・・・ - 月光(A.H.) 2016-01-31 10 23 06 悲しい事ですが、人間の世界では、戦わなければならない時が有るのです。結果として負けましたが、立派に良く戦ったと思い感謝しています。私は日本軍は世界一の立派な軍隊だったと思っています。特亜から言われる様な悪しき事は世界一少なかったと思っています。将来、靖国に感謝の意でお参りに行きたいと思っています。 - 冨田 2016-04-22 21 42 59
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第九章 国民代表と選挙制度 p.133以下 <目次> ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類[155] (一)歴史上最初の代表は王であった [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された ■第ニ節 代表または代表制の意義[161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない ■第三節 日本国憲法上の代表制[165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない ■第四節 選挙と選挙権[167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える ■第五節 選挙制度[174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である ■第六節 被選挙権と立候補の自由[177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か [179] (三)立候補は自由でなければならない ■第七節 選挙区[180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される ■第八節 選挙方法[182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 ■ご意見、情報提供 ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類 [155] (一)歴史上最初の代表は王であった 代表概念は実に多義的えある。 それは、ある権限それ自体、その権限を有する人・機関、または、それらの権能(役割)のいずれか、または、全てを表す。 今日いう「代表」とは、通常、選挙民によって選出された人をいい、そのための制度を「代表制」という。 そのことからすれば、「代表」なる概念は、選挙制、議会制といった制度の表現体である。 これを「狭義の代表」と称することにしよう。 この狭義の代表概念は、例えば、《アメリカの大統領は、全国民の利益を代表する》、とか、《君主は国家を代表する》とかいわれる場合の、機能からみた「代表」概念と同じではない。 狭義の代表は、議会において必ず民意(選挙人の利益、全国民の利益)を表出しなければならないわけではない。 代表の表出する利益は、一院制か二院制かによって異なり、二院制のなかでも、州の利益代表、職能の利益代表等々、様々である。 議会が登場する以前の代表は、王であった。 王は、その機能からみれば、国家・国民の一体性を象徴しているという意味での「象徴的代表」であったり、国家・国民のもつ特質を集約的に共有しているという意味での「縮図的代表」であったりした。 [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した 中世中期以後、王への自主的援助金(これが後に税となる)に対する等族(司祭、村長、修道院長等)の同意を得る実際的必要性から、審議権限をもつ集会たる等族会議が登場する。 王は、財政的基礎を領主関係を超えた諸階層に求め始めたのである。 等族は、「国家」機関ではなく、「国家内国家」(公法上の団体)であって、それぞれの構成員を支配する権限を有する独立団体であった。 等族は、等族会議に代表を送り出すが、その代表は、①選挙区の特権身分の有する伝統的な固有の権利を君主から守るために、各身分から派遣され、②私法的な委任の原則による規律に服する存在であった。 それは、選出母体からの命令的・個別的委任を受ける「委任的代表」であった。 委任の条件と範囲を逸脱する代表の行為は無効とされるばかりでなく、代表の罷免事由とされた。 また、その役割は、君主の諮問機関であったために、討論・表決することではなく、君主と選出母体との間の導管役を果たすにとどまった。 右の代表の役割がいかに限定されていたとはいえ、その統治にもたらした変容は、重大な意味をもっていた。 すなわち代表の登場は、君主の権力は絶対的ではなく、等族の有する権力との二元構造のなかで制限されていることの象徴的意義を有していた。 絶対君主制に代わる制限君主制が説かれるに当って、歴史上のモデルとされたのが等族的な代表であった。 [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した 国家は、等族国家にみられた君主と等族との二元構造を克服することによって成立した。 ヨーロッパ大陸では、その克服は、政治的統一を一身で代表する君主の登場、すなわち、絶対君主制の確立によって達成された([2]参照)。 これに対して、市民革命期のイギリスにおいては、等族君主制から立憲君主制への円滑な移行によって、二元構造が克服されたのである。 立憲君主制は、パーラメントという統一的統治機構を有するイギリスにおいて、まず実現された。 その後、統一的国家の中に、最高・直接機関としての君主と、もう一つの直接機関としての議会(または議院)が存在するに至った段階で、近代国家は新たな二元構造上の政治的軋轢に遭遇することになる(この新たな二元構造を克服する試みが、議院内閣制であることは後の第11章の [208] でふれる)。 なお、「直接機関」とは、国家の組織法たる憲法に基づき国家機関となるものをいい、委任に基づいて機関たる地位を与えられる「間接機関」と対比される。 イギリスでの議会は、法を語る大法院でもあり、間歇的に活動する諮問機関でもあったパーラメントから発展して成立する。 パーラメントは、等族会議とは違って公法上の団体ではなく、地域的閉鎖性を打破する国民代表機関(政治的統一を担う機関)としての性格を次第に獲得していった。 そして、パーラメントは、代表機関の同意こそ法の拘束力の基礎たるべしと主張しつつ、「すべての人に関係あることはすべての人により同意されるべきである」との標語のもとで、まず、「法を作ること」(law-making)に参与する。 それが、国民の同意の通路、国民の代表者としての議会(パーラメント)となる。 議会は、もともと法の確認と修正を行う機関であったが、「法を作ること」がすなわち「立法」であると法実証主義的公法学者によって同視されるに至って、「立法機関としての議会」が誕生するのである。 もともと議会の成立要因は、立法機関としての地位を獲得することだけにあったのではない。 議会は、課税という立法でもなく行政でもない君主の作用について同意することから発生・生育したことに表れているように(後述する [289] 参照)、執政府を監視監督しながらそれを抑制することを目指していた。 その本来の目的に従って議会は、立法権限から、さらに勢力を拡張して、執政府の責任追及権まで獲得していく。 この段階であっても、君主は立法の裁可権を保持するのであるが、ほぼ全面的に制限された君主となる。 [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく 右のような移行は、代表制のあり方と密接に関連している。 等族会議から議会への移行は、トーリ的代表観に代わってウィッグ的代表観が定着してきたことを反映している。 トーリ的代表観とは、代表は地域的利害を君主に対して表明し交渉する存在であるべし、とする思考をいう。 等族会議への代表は、同質的な地域的利害を代弁する存在であった。 これに対して、ウィッグ的代表観とは、直接機関の構成員としての代表は、「一つの利益をもった一つの国民」の意思を表示すべきであって、選出母体から自由に見解を表明できる存在足るべし、とする思考をいう。 ウィッグ的代表観は、次のようなE. バーク演説(1774年)に典型的に表れている。 すなわち、「議会は全体の利益をもった一つの・・・・・・国民の審議のための集会である。・・・・・・代表者は、その偏見なき意見、その成熟した判断力・・・・・・を、いかなる人間、団体に対しても、犠牲に供してはならない。」 これは、議会が政治権力の中心となるために、代表の意思は、選挙区からの個別的な訓令がなくとも全国民の意思を表わすが故に正当であることを強調したものである。 この代表観によって初めて、議会は全国民の代表としての地位と、それに相応しい政治権力とを獲得したのである。 このウィッグ的な代表制は「選挙制代表」と呼ばれ、その代表は、委任的代表、象徴的代表、縮図的代表のいずれであってもならない、とされる。 もっとも、17世紀以降のイギリスにおける代表観は一様ではない。 先にふれたように、トーリ流に、地方の利害を代表し、不満の救済を王に求めるという伝統的代表観ばかりでなく、急進派レヴェラーズのように、委任的代表観に立って頻度の高い選挙を要求する流れもみられた。 こうした様々な代表観は、個人を単位として成立している近代社会にあって、部分(地域)的利害を全体(全国)的利害へと社会統合するための架橋として、複数の解答があることを示唆している。 [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された こうした様々な代表観は、18世紀フランスに渡った。 そこでは、二つの代表概念が意図的に使い分けられた。 まず、1791年憲法はウィッグ的代表観に影響され、「各県から選出された代表者は個々の県の代表ではなく全国民の代表である」(第三編第一章第五節七条)と謳うことによって委任的代表制を否定した(命令的委任の禁止または自由委任)。 代表が選挙民から自由であるために、「代表として、職務執行に際しては、言動を理由として捜索され、起訴され、裁判されることはない」とする免責特権をも同憲法典は認めた(第三編第一章第五節七条)。 この代表は「純(粋)代表」と呼ばれる。 この代表制が、ナシオン主権理論のもとで主張された点については、既にふれた([114]参照)。 これに対して、ルソー理論の影響のもとでプープル主権理論にでた1793年憲法(ジャコバン憲法)は直接民主制の原則を標榜し、純(粋)代表観を否定して、命令的委任の制度を採用した(ルソーによれば「主権は代表され得ないし、同様に譲り渡し得ない」のであるから、議員は代表ではなく、受任者となる)。 19世紀中葉以降のフランスにおいて、また新たな代表観の登場をみる。 男子普通選挙制の実現(1848年)後に制定された第三共和国憲法(1875年)は、純粋代表に代わる別の代表を模索して、選挙民の意向を無視できなくするための工夫を凝らした。 具体的には、(ア)大統領による民選議院の解散制度を導入し、(イ)選挙民を直截に代表する議会の最高機関性を謳った、のである。 これによって選挙民は、代表の行為と表決を実効的に統制でき、ここに選挙人と代表との事実上の同一性が確保される、とする新たな代表観が誕生した。 この代表が「半代表」または社会学的代表と呼ばれることについては、既にふれた([113]参照)。 [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された アメリカ合衆国憲法典における代表観は、総じてウィッグよりも急進的である。 同憲法典は、主権が人民にあることを宣言し、代表制を直接民主制の次善の策またはその手段として捉えた。 そのために、連邦議会の下院議員に大きな独立性を与えることを避け、議員を二年ごとの頻繁な選挙に服せしめるのである。 さらに同憲法典は、一身で全国民を代表する大統領を置いた。 もっとも、その選出に当っては、人民の激情による選出を阻止するために、間接選挙という制度が採用された。 大陸諸国の相当数が、君主と議会という二つの代表機関を置けば、かっての二元構造の復活となることを危惧して、議院内閣制という新たな理論によってこれを克服しようとするのに対して(議院内閣制については第11章 [207] 以下でふれる)、アメリカは独自の代表観と権力分立構想のもとで、独自の道を歩むのである(アメリカ独特の権力分立については。[196] でふれる)。 ■第ニ節 代表または代表制の意義 [161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる 法的な意味での代表とは、Aの行為の法的効果がBに帰属する場合のAをいうが、憲法学でいわれる代表とは政治的意味でのそれ、つまり、ある政治体制のなかで統治の一体性を、公然と表象する地位または役割を有する人をいう。 それを「政治的代表」という。 政治的代表の概念は、私法上の代表概念とは全く異なる。 歴史を振り返れば、我々は、三つの代表概念が存在してきたことに気づく。 その第一は、 民会を中心として行われる直接民主政におけるポリス的代表観である。そこでは、有責・有徳の人物(君主、貴族または多数の公民)から構成される政治的共同体において、各人が共通利益を代表しながら、積極的・自発的に政治参加することが理想とされた。 その第二は、 理性の力によって自由な判断(私利私欲を払拭した判断)を為す公民が自らの意思を現前させれば、一般意思が形成され、たとえ代表が存在するとしても、それが最終的決定権を持つことはない、とする18世紀のルソー的な代表観である。 その第三は、 一定の条件を満たせば選挙人としての資格をもって、その選挙人が代表を選出するという装置のなかで、代表は、公衆(public)の政治的選好を公然と(publicly)再現前(represent)すべきものである、という今日的な代表観である。 この最後の代表観は、選挙によって選出される議員から成る議会が、選挙民に代わって政治上の争点を解決する、とする制度を前提とする。 その制度は、強制的委任を排除しながらも、定期的な選挙に代表を服さしめる(一定の任期期間中だけ存在する)制度でもある。 [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る 政治的代表は、国民主権の実現と共に、一般意思または主権者意思を表明する機関または機関構成員を意味するようになる。 そして、そこでの代表制とは、多数の意思を反映するように機関が組織されていることをいう(宮沢『憲法』219~220頁)。 これを国民代表(制)という。 国民代表には、二つのタイプがあり、一つが直接民主制、他の一つが間接民主制である。 直接民主制とは、機関概念を用いて説明するとすれば、全体としての国民が一つの機関となると同時に、全員が機関構成員となる統治技術をいう。 この直接民主制は、国民の各自が代表者兼決定者となり、統治の自同性を最大化するための国民代表制である。 これに対して間接(代表)民主制とは、同じく機関概念を用いるとすれば、一次機関としての国民が二次機関としての議会(その構成員たる議員)を選出し、二次機関が政治的統一性を表象する統治技術をいう。 近代国家は、右の二つのうち、間接民主制を採用して議会を置き、その構成員たる議員の選出方法として、選挙によるとするのが通例である。 間接民主制が各国で採用された理由は、 第一に、 広大な領土と多大な人口を抱える近代国家においては直接民主制の実行は不可能または困難であること、 第二に、 加熱しがちの人民のパッションや、地域的利害のストレートな強要を抑制する必要のあること(近代立憲主義は、人民の積極的政治参加に警戒的であった点は、既に [78] [81] でふれた)、 第三に、 統治の自同性を確保実現することは、憲法の目指すところではなく、統治にとってリーダー(代表)は不可欠であること、 等に求められる。 右のうち、(ニ)(※注釈:第二の理由)が最も重要である。 直接民主制は多数者の選好をストレートに反映するのに対し、間接代表制は少数者をも代表し得るのである。 [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した 近代立憲主義にとって、代表という観念は極めて重要な発明であった。 というのは、この代表技術によって初めて、絶対君主のもとにあった単一の権力から分離独立した権力保持者としての議会が成立し得たからである。 換言すれば、代表技術の考案によって成立をみた議会こそ、絶対君主の専制からの訣別の第一歩であった。 議会は、君主の権力を剥奪または抑制するための組織として成立をみたのである。 議会の成立時においては、議会に対する信頼は絶大であった。 普通選挙のもとでの自由な投票は、議会が国民に対して最大の効用を実現するであろう、と期待された。 J. S. ミルでさえ、代議政治こそ最善の統治形態である、と述べたのは、そのためであった。 実際、19世紀は「議会制の時代」となった。 それを先導したのは、一つには、イギリス憲法史の所産である、代表制、両院制、大臣責任制、議院内閣制といった制度であり、一つには18世紀の哲学の所産である、国民主権、憲法制定権力、権力分立等の理論であった。 君主と議会との力関係は国によって異なるものの、立憲君主制以降は、両者が直接機関としての地位を占めるに至り、議会がまず立法権の本質部分を担うようになる([156]でふれたように等族会議の時代には、その会議体は直接機関ではなかった。また、立憲君主制の意義については、[197]参照)。 その時代には、イェリネックの如く、一次機関(国民)と二次機関(国民代表)とが「法的な統一体となる」と解することも、「議員の意思は国民全体の意思である」と解することも、本来擬制であるとはいえ、説得的であり得た。 なぜなら、国民が統一体として、統一的選挙によって代表を選べば、国民の統一的意思は議会に反映され、従って、我々は民主制を獲得したのだ、といい得るからであった(同時に、多くの人々は、民主制のなかに自由がある、と確信して、19世紀の「議会の時代」を賞賛した)。 ところがその後、君主権限が完全に名目化されたり、君主の存在自体が否定されたりして、議会は抵抗すべきターゲットを失った。 この時点以降、選挙制代表または純粋代表制のもとでの議会は、国民から法上独立した機関であって、議会と国民との間の法的同一性こそ擬制中の擬制であることが判明してくる。 例えば、「昔の政治の大迷信は国王の神権であった。今日の政治の大迷信は議会の神権である」(H. スペンサー)とか、「疑いもなく代議制は民主主義の歪曲である。純粋な民主制は、人民主権を議会という媒介者を通じてのみ発動せしめることを否定する直接民主制のはずである」(ケルゼン)とかの指摘は、「議会の時代」への反省を人々に迫った。 「個」と「全体」との対立は、いかなる代表技術をもってしても解決されることはない。 そこで、真の民主制としての「治者と被治者との自同性」を満たす直接民主制への回帰を訴える人々が出てくるのも当然である。 しかしながら、直接民主主義的統治理念も、ほかならぬ擬制であり、空虚な主張形式に過ぎない。 各人全員が代表者であり、かつ、決定者となる事態は在りようもなく、在ったとしても「感情という誘惑を伴う群衆の仕事であって何者もその衡平を保障しない」であろう(デュギー『公法変遷論』第一章)。 国家は、二つの相対立する形成原理に拠って立つ。 一つは、「同一性の原理」であり、他の一つが、「代表の原理」である。 同一性の原理に依拠する国制が直接民主制であるが、統治に一定の組織・機構と指導者が不可欠である以上、その国制といえども、自己統治を実現することはなく、ただ、民意と指導者の意思とのギャップを極小化することに期待されるだけである。 これに対して、代表の原理に徹する国制は、指導者たちによる統治を極大化するであろう。 それにも拘わらず、代表制や普通選挙制と、国民主権とを関連させながら、議会が主権者たる国民の意思を代表すると説くことは、有害無益である(主権者としての国民、すなわち、選挙人団としての国民が議会を創設することをもって、主権の行使であると説くことは出来ない。この点については、既に [56] [130] でふれたが、後の [173] でもふれる)。 この点と関連して、「議会制民主主義」という用語に過剰な内容を吹き込むことにも我々は慎重でなければならない。 その用語は、国民と代表との間の関係を表示するものではなく、議会内での討議、表決等の手続にみられる特徴をだけ指すものに限定されるべきである。 [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない 民主制とは、被治者が治者(代表)に対して有効な統制を及ぼすための装置である([56]参照)。 その装置のうち間接民主制または純(粋)代表制は、統治技術としてベストではなく、様々な工夫によって補完されなければならない。 まず 第一に、 民意の多元的な分布を可能な限り正確に反映する代表制とするために、選出(選挙)の在り方が検討されなければならない。その工夫の一つが比例代表制である。これは、複数政党の掲げる公約または綱領が選挙の争点となり、基本的には、選挙民が投じた票数に応じて議席が配分される選挙制である(比例代表制のタイプについては、[183]でふれる)。政党は、代表制を補完する政治的装置として、自然発生的に生まれたのである。 第二に、 地域的利害は、住民の生活に最も密着した地方政府に直接表明されることが望ましく、そのためのチャネルの整備保障も望まれるところである。地方自治制度は、地域的部分意思を住民自ら形成するための制度であるばかりでなく、全国的な多数者意思形成を準備させるための基盤でもある。 第三に、 一定種の公務員に関しては、任命による公務員であっても、国民による選定罷免権の対象とすることも一つの対応である(日本国憲法にみられる最高裁判所裁判官の国民審査はその一例である)。 第四に、 政治過程から隔絶されている少数集団(マイノリティ・グループ)は、その政治的意思を政治過程へ正確に反映できないこと(under-representation)に鑑みて、非政治的機関(典型的には司法府)による救済手段を彼らに柔軟に講ずることも必要であろう。 最後に、 代表制を半代表制に近づけることも一案ではあるが、社会学上の概念である半代表を、法上の概念として制度化することは困難であって、結局民意と代表者意思との可能な限りの一致は、現実の政治的展開によって解決されるほかない(半代表をいかに評価すべきかについては、すぐ後の [166] で述べる)。 ■第三節 日本国憲法上の代表制 [165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない 日本国憲法が採用している国民代表制につき、徹底した直接民主制であると解する余地はなく、次のいずれかの選択肢が残される。 まず、 ① 選挙人の意思から法上独立するなかで、独自に統一的意思形成をする代表制、すなわち「純代表制」である、とするA説、 ② 選挙人の意思を反映しながら、代表と選出母体との利害の類似性を確保する代表制、すなわち「半代表制」である、とするB説、 ③ 日本国憲法が人民主権に立っているとの前提で、その採用する代表制は、命令的委任に服する代表制、すなわち「委任的代表」か、直接民主制の次善手段としての代表制である、とするC説。 我が憲法上の代表制は、「権力は国民の代表者がこれを行使する」と謳う前文、国会議員が「全国民の代表である」と定めて選出母体からの統制を受けないことを示唆する43条、それを具体化するために代表に免責特権を与えている51条等から考えて、A説(純代表制)またはB説(半代表制)の説くところであろう。 なお、本書は、「実在する民意または選挙民の意思」という表現を使用しない。 民意や選挙民の政治的選好は、モザイクのように、ただ浮遊するのみであって、統一的な実在物ではない。 [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない このうち、半代表とは、何度か繰り返したように、選挙人の意思と代表の意思との「事実上の同質性」を満たすものをいい、ときに社会学的代表ともいわれる。 なるほど、普通選挙制の実現、民選議院解散に伴う選挙の実施、党員政党の発達等によって、事実としては、代表への自由委任は貫徹し得なくなってきている。 とはいえ、法上の代表の性質如何を問う場合に、事実上の性質をもって論ずることでは、代表に対する法的拘束力を説き得ない。 また、純代表であっても、選挙民の意思に十分配慮すべきものとされていることからしても、A説が妥当である(今日いう純代表を擁護する有名な演説をしたE. バークでさえ、選挙民との密接な接触の必要性、彼らの利益の優先性を説いた点を忘却すべきではない。また、普通選挙制が国民主権の実現であるとか、民主制の実現であると、ナイーヴに同視してはならない。プルードンの指摘するように「普通選挙制とは、人民をしてその本質的統一の姿において語らしむるを得ない立法者が、市民をして一人一人自己の意見を発表せしむるもの」に過ぎない。この点については、[173]でふれる。 半代表制論には、地域的利益は同質であってその意思は代表され得るであろう、との想定がある。 ところが、地域的利益も実は多元的であって、代表され得ると思われる利益も、実は、個別的でしかないのである。 半代表論は、得票最大化動機や団体利益促進願望に支配される代表を産み、国会を地域の特殊・個別的利益の巣とするであろう(大統領公選制や首相公選制は、特殊利益代表と化した議会に対して、全体利益代表としての執政府の長を置いて、半代表機能を修正する試みである)。 さらには、参議院議員の任期が6年、衆議院議員のそれが4年と長期であることからして(45条、46条)、選挙民と代表との事実上の同質性は強調し得ない。 [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない 法律を行うはずの「行政」担当者、なかでも、官僚が、法律案の策定のみならず、執政領域の政策立案、政策の見直し等々、統治の全過程に力を持ってきた。 それは、「自由市場のもたらしてきた不公正の是正」を理由として、国家が、ときには企業として、ときには保護者として、我々の「市民社会」にきめ細かく介入して、生産とその成果の分配を決定し始めた。 これは、「福祉国家・積極国家」の必然の帰結であった。 実際、無数ともいえる国家目的決定の選択肢と実現手段が、投票者には理解できないほど複雑になったために、その主導権は、議会でもなく、国民でもなく(ましてや国民の多数派でもなく)、官僚へと移ってきたのである。 かくして官僚は、リソースの配分と分配を決定する「権力」を保有することとなった。 この現代立憲国家においては、ヘーゲル『法権利の哲学』第311節が既に指摘していたように、個人は代表されることはなく、ただ、規模の大きい組織化可能な利害のみが代表されるに至った。 民主主義は、多数派を代表することさえしないのである。 なかでも、代表民主制は、「代表する者」と「代表される者」とを切断するばかりでなく、その二つの者の間隙に、「代表されない者」を出現させる。 代表制は、まさにその中に、「代表されない者」を生み出すという逆説をもつのである。 ■第四節 選挙と選挙権 [167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする 任命権者による選任を「任命」というのに対して、選挙人(有権者)によって代表を選任する行為を「選挙」という。 我が国の通説は、選挙に当って選挙人が選挙人団という一つの機関を構成すると捉える。 この観点からは、選挙における個々の選挙人の意思表示は、選挙とは異なるものと観念されて、「投票」と呼ばれる。 こうした思考は、国家法人説に立って、国家という法人の構成員たる選挙人が、選挙人団という法人の一機関を構成する、と捉えることによる。 この考え方でいけば、「選挙行為」とは、最高国家機関でもあり一次機関でもある選挙人団が二次機関を創設する行為(公的な行為、従って公務としての特質をもつ行為)であり、「選挙権」とは、個々の選挙人が選挙人団の構成員たる資格を求める権利(選挙人資格請求権)である、とされる。 この資格は、国家構成員であるが故に認められるのであるから、これを国籍保有者に限定するのが当然である(選挙人資格を認められた者の氏名等を登録した名簿を選挙人名簿という。同名簿の作成方法には、本人の登録に基づく自発的登録制と、公的機関が職権で登録する自動登録制とがある。我が国は後者に拠っており、公職選挙法第4章に詳細な定めがある)。 [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする 「選挙人団」という観念を持ち出すと、その行為は個々の選挙人の権利とは別次元のものと考えざるを得なくなる。 ここから、「選挙人団の行為=公務としての選挙」と、「個々人の選挙権=資格請求権としての選挙権」との区別が帰結される。 これが、イェリネックにみられた、公務としての選挙行為と能動的権利としての選挙権という二元説である。 [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる もっとも、我が国で二元説といわれる場合には、イェリネックの見解とは異なった意味で用いられる。 それは、選挙権は、選挙人団という機関の公務であると共に、「参政の権利」として主観的権利でもある、という趣旨で通常用いられる(芦部信喜『憲法と議会政』281頁、佐藤・109頁)。 つまりこの二元説は、選挙行為を、機関としての国民から統一的にみれば選挙人団の機関行為であるとみる一方で、個々人のレヴェルに分解してみれば参政権の行使である、と説くのである。 この我が国の通説は、「機関としての選挙行為=公務としての選挙行為」という等式にさらに、「選挙人資格請求権+自己の意思表示としての選挙行為(参政権)=主観的利益としての選挙権」とする等式を加えることによって、選挙権の二元的正確を解明してみせるのである。 しかしながら、各人の選挙権と選挙人団の選挙行為という異なる次元のものを「二元的」と称すること自体、誤導的である。 もともと「参政権」という概念自体、イェリネックにはみられなかった極めて曖昧な概念である。 選挙権が主観的利益であることが解明されて初めて「それは参政権である」といい得るのであって、芒洋とした「参政権としての選挙権」という前提から選挙権の権利性を根拠づけることは結論先取りの循環論に過ぎない。 機関概念を前提とする限り、定義上、個々人の選挙権はあくまで「有権者の一員となる資格の請求権」であり、選挙行為は「機関としての国民の行為(公務の遂行)」である、と説くのが正しい。 [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である 通説的位置を占める二元説に対抗するかたちで、最近では、選挙権を権利であるとする立場(権利説)が提唱されてきている。 権利説の中にも、自然権説、憲法上の基本権説、等様々な立場があるが、中でもプープル主権論を基礎とする権利説が注目されている。 プープル主権論によれば、主権が現実的具体的存在としてのプープルに帰属する以上、プープルが最大限直接に国家権力を行使すべきものとされ、選挙とは、主権主体たるプープルが、主権の客体たる国家機関を創設したり改廃したりする「権利」である、と位置づけられる。 この場合の「権利」には、選挙人となる資格および選挙行為の双方が含まれるばかりでなく、同権利は「主権を直接に行使する権利」(奪うことの出来ない政治的権利)である、と特徴づけられる。 このプープル主権論を基礎とする権利説は、次のような多くの難点を残す。 第一に、選挙を主権の行使と捉えることは、正しくない。選挙を主権的権利であると捉え得るか否かは、主権や民主主義をいかに捉えるかと関連している。プープル主権論は、民主主義を「治者と被治者の自同性の実現」と捉えるために、主権の行使(治者の行為)と選挙権の行使(被治者の行為)との同質性を見て取るのである。しかしながら、統治に同質性など在り得ない。多元的社会における民主主義は、国民の最大可能な部分が、治者を定期的に交替させる装置をもつ政治体制、または、決定者(代表)を決定する政治体制である([56]参照)。今日においては、シュンペーターも指摘するごとく「人民の意思は政治過程の推進力ではなくて、むしろその産物である」といわざるを得ず、選挙民の意思を統一的に捉えて、それが政治的意思の最高の決定であり推進力である(主権の行使である)、とすることは擬制にすぎる。「民主主義理論は、最小限度、一般市民が指導者に対して比較的高度のコントロールを発揮できる諸過程に関連をもっていると考えられている。このことこそ、・・・・・・[民主主義理論という言葉の]最低限度の定義なのである」(R. ダール『民主主義理論の基礎』11頁)。選挙とは、右にいう「統治者に対する有効なコントロール」を行うためにシトワイアン(各市民)が参加するメカニズムであって、プープル(シトワイアンの総体)の行為ではない、と考えるべきである。選挙は、自ら統治することを含意していない(間歇的な選挙は、不断の統治とは異なる)。 また、プープル主権論に基づく選挙権権利説に対する疑問の第二として、次の点が挙げられよう。すなわち、いかに民主主義が徹底されようとも、選挙権の享有主体の具体化は法令に待たねばならず、シトワイアンであれば選挙権を「奪われることのない権利」として保障されるわけではない。選挙権は、国民のうち、行為能力のある成人にのみ、平等原則に基づいて法認されるのが通例であり、何歳をもって成人とするか、居住要件や不適格要件をどうするか等は、立法府の裁量的判断によって決せられざるを得ない。 なお、選挙権を自然権の一種であると説いて、その権利性を主張する立場もみられるが、各種の技術的制約(例えば、年齢、定住性、登録等)に服さざるを得ない選挙権を自然権と理論構成することは、不可能である。 [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない 選挙権は、国籍保有者たる国家構成員にのみ付与される。 憲法15条1項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定めているのは、国家は、対人高権によって画される政治的共同体であって、その政治的意思決定は、対人高権の指標でる国籍の保有者によって下されるべきことを明らかにしているものと解される。 また、国民主権または民主制の観念が、選挙人資格を最大限広げることを要請しているとしても、それは、国政が国籍保有者によって為されるものとする結論に変化はもたらさない。 イェリネックの指摘するように、「民主制的共和制の理念がどんなに進んでも、国家の全ての住民が政治的権利を持つべきだということにはならない。せいぜい、国家の全ての構成員が政治的権利を持つべきだというところで止まる」(イェリネック『一般国家学』582頁)。 最高裁判決は(最ニ小判平5.2.26、判時1452号37頁)、永住外国人が平成元年の参議院議員選挙での投票を行い得なかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、マクリーン事件判決(最大判昭53.10.4、民集32巻7号1233頁)を援用しながら、「国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法9条1項の規定が憲法15条、14条の規定に違反するものではない」と判断した。 同判決は、国家権力行使の源泉は「国民」とすることが国民主権原理の意であるとしながら、学界の通説である「権利性質説」に立って、外国人をその権利保障の範囲外としたのである。 国家権力行使の源泉が「国民」にあるとする伝統的な思考に従えば、被選挙権が外国人に保障されない、と解釈されざるを得ない。 ある下級審判決は(大阪地判平6.12.9、判時1539号107頁)、国会議員の被選挙権について、日本国籍を有さない者が参議院議員選挙への立候補を受理されなかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、「右権利は、国民主権原理に基づくものであるから、同条[憲法15条]の『国民』とは日本国籍を有する者のことであることは明らかである」と述べた。 [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である 選挙は、国政だけにみられるわけではない。 地方政治のレヴェルにおいても各種の選挙が実施される。 そこでの選挙権は、その地方の住民であることに基づく資格であると考えれば、その要件として一定期間の定住性が課せられることに異論はない(定住性を満たさない外国人については、論外である)。 地方公共団体における選挙について、「定住性」以外を要件とすることにつき、日本国憲法の採用するスタンスについては、以下の三説があり得る。 まず、A説は、 憲法93条2項が「住民」による直接選挙を保障していることを根拠に、日本国憲法は、定住外国人への選挙権付与を要請している、とする(積極説)。この説に立てば、国籍を要件としている現行の地方自治法11条は違憲とされる。このA説には、地方自治の目的は、国家の意思から独立して、住民の身近に感じている地域的な行政需要に応ずることにある、との前提がある。この前提に立てば、定住性や、共同体意識においても日本人と変わりない外国人に選挙権を付与して、その意思を地方行政へ反映するためのチャネルを解法するのは当然の対応ということになろう。 次にB説は、 憲法93条2項にいう「住民」には、外国人を含み得る余地ありと解して、憲法が外国人の選挙権を許容している、とする(許容説)。この説をとれば、現行の地方自治法は違憲とまではされないものの、同法を改正して、定住外国人に選挙権を与えたとしても違憲ではないことになる。 これに対してC説は、 地方自治をもって住民の行政需要に応ずるためのものでなく、あくまで地方の「政治(統治)」を決定する統治制度であると捉えながら、地方自治であっても、それはあくまで国家における統治であって、その政治的統一性は国民のなかの一定の意思によって為されなければならない、とする。となれば、93条2項にいう「住民」とは国民の中での部分意思を意味し、従って、憲法は、外国人の選挙権を否認していると帰結される(禁止説)。この説に立てば、現行の地方自治法上の規定は合憲であり、外国人に選挙権を承認する法改正は禁止されることになる。 憲法93条2項の文理からすれば、A、B説の成立する余地がないではないが、地方自治の統治的性格からして、「住民」とは「国民の中の住民」を意味すると解するのが妥当である。 1990年、ドイツの憲法裁判所が、外国人に選挙権を与える州および特別市の法律について違憲判決を下したのも、統治なるものは、同質なる国民(Volk)の意思によて為されるべし、との古典的な思想を基本的には反映している(もっとも、右のドイツ憲法裁判所の違憲判決は、ドイツ基本法20条にいう「全ての国家権力は、国民(Volk)に由来する。国家権力は、選挙および投票において国民により、かつ、立法・執行権および裁判の個別の機関によって行使される。」との定めを文理解釈しながら導き出されたものであって、その意味では、やや技術的な姿勢にとどまるものの、基本的な国家観とも関連を有していると考えられる。なお、ドイツにおいては、1992年12月に基本法28条が一部改正され、「郡および市町村における選挙に際しては、欧州共同体を構成する国家の国籍を有している者も、欧州共同体の法の基準に従って、選挙権および被選挙権を有する」こととされた)。 本書は、C説を妥当と考える。 なお、国際人権規約(B規約)25条は、すべての「市民」が「普通かつ平等の選挙権」を有すると定めるが、「市民」とは、国籍保有者を意味するものと理解すべきである。 外国人の地方公共団体における選挙権について、最高裁は(最三小判平7.2.28、判時1523号49頁)、 ① 公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、その権利の保障は、在留外国人には及ばないこと、 ② 憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内の住所を有する日本国民を意味すること、 を明らかにした。 もっとも、同判決は、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、・・・・・・法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」と指摘したこと(許容説にでたこと)に我々は留意しておかなければならない。 地方レヴェルでの被選挙権に関する最高裁の判断は、今のところ、示されていないとはいえ、右の最高裁判決が「日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に [永住外国人等の意思を] 反映させるべく」と表現していることからすれば、地方統治の意思を決定するポストに関わる被選挙権に対しては、消極的とならざるを得ないものと思われる。 [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える 【表12】選挙権に関する本書の見方 ① 国家法人説に立たず、従って、有権者団という国家機関を考えない。 ② 求心性に欠ける有権者が統一的意思をもつことはなく、従って、有権者が機関となることはない。 ③ 秘密投票まで承認する選挙方法は、公的責任ある統一的な政治的判断を産むことはない。 ④ 間歇的に行われる選挙は、主権の行使ではない。 ↓ 選挙とは、統治される民主主義のもとで個々の選挙人が、代表を選出する行為であり、選挙権は主観的公権である。 本書は、選挙とは選挙人団という機関行為(公務)ではなく、代表を選出するための個々人の行為であると解する(表12をみよ)。 選挙人団なる概念は、払拭されるべきドイツ国法学上の残滓である。 もし、選挙行為を公務であると考えれば、「個人の自由な処分に服するという意味での権利ではない」とする思考が正しく(シュミット『憲法論』295頁)、従って、ベルギー憲法48条にみられるように「投票義務」を帰結することとなる(「同国憲法48条1項は「選挙人団の構成は、法律により定められる。」と「選挙人団」という用語によりつつ、3項は「投票は義務であり、秘密である。」と定めている)。 確かに我が国の二元説は、この不当な帰結を回避するかの如くである。 ところが、その二元説が理論構築に成功しているわけではない。 特に今日の選挙が個別的地域を基礎にした選挙区制によって為される以上、選挙民は統一的国家意思の法上の単位ではない。 代表は、選挙民のバラバラの行為(通常は秘密投票)の後に、有効投票の多数が法上結合されて、法上の効果として、出来上がるのである。 利害を異にする有権者が機関を構成することはない(佐々木・318、224頁)。 また、選挙人の多数により示される意思をもって主権であるとする理論は、単純な擬制である(J. ベンサムは、19世紀初頭、「支配する少数者」を選定・解任する権利を多数者に認めることが「最大幸福」に繋がるとみた。これに対して、デュギーは、20世紀初頭にその著『公法変遷論』において既に「現代意識は、選挙団体の多数によりて示される主権の単純すぎる観念ではもはや満足しない」と指摘していた)。 選挙とは、代表(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程であり、選挙人からみれば、それは、その競争過程の最終段階において、代表を選択する行為である、と考えたい。 つまり、選挙とは、機関としての行為でもなく、公務でもなく、主権の行使でもなく、代表を選出する主観的権利の行使である、と本書は考える。 各自の投票におくる意思表示が法上結合されて、そのうちの有効投票で最多数または一定数以上の投票を得た候補者が、法上の効果として、代表の資格を与えられるのである。 この権利は、国民が統治者に対する有効なコントロールを及ぼすための基本的で重要な権利である。 かく解すれば、「選挙権/選挙行為」、「選挙/投票」の区別は不要となる。 我が国の古い最高裁判例(最大判昭30.2.9、刑集9巻2号217頁)は「国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一つである」と述べた。 その後も、議員定数不均衡に関する一連の最高裁判決(最大判昭51.4.14、民集30巻3号23頁)も、選挙権をもって憲法上の最も重要な基本的権利であることを、繰り返し指摘している。 その最高裁の論理は、国民主権から選挙権の権利性を説く点で、プープル主権論にみられると同様の疑問を残すものの、通説にみられる二元説に立っていない点では、基本的方向として妥当である。 ■第五節 選挙制度 [174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 年齢、居住要件以外を選挙権資格の認定に必要としないものを、「普通選挙制」という。 これに対して、独立した政治的判断は、教養と「財産」を有する有閑階層のみが出来ると考えられた場合には一定以上の納税額が、公事に参画するためには一定以上の教養・判断能力が必要であると考えられた場合には知能または教育レヴェルが、女性は家事に男性は公事にという女性への差別感が反映した場合には男性であることが、選挙権付与の要件とされる。 これらの要素のいずれかまたは全部を要件とする選挙制度を「制限選挙制」という。 我が憲法典は、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」(15条3項)としている。 数多くの国々で採られていた制限選挙制は、19世紀中葉から20世紀にかけて、次々と撤廃されていった。 普通選挙制の実施によって、政治の様相は一転する。 第一に、 大衆を指導・組織する政党政治が生まれた。議院内閣制の成立も普通選挙制と無関係ではない。 第二に、 労働者階級を基盤とする社会主義政党が登場して、福祉国家への変容を促進した。 第三に、 純粋代表の思想はもはや実際上貫徹できず、半代表概念が説かれるに至る。 選挙が統治者に対する有効なコントロールのための最大の機会である以上、選挙人となる範囲を意味する「包括度」が可能な限り高くなければならない([57]参照)。 それは、普通選挙制度のもとでも、欠格事由が、やむを得ざるものであり、かつ、その範囲が最小限でなければならないことを意味する。 我が国の公職選挙法11条は、禁治産者、禁固以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者等を欠格者として法定している。 旧憲法時代には欠格事由として、準禁治産者、破産者、貧困のため生活扶助を受ける者等が挙げられていたことと比べれば、その範囲は縮小されたといえよう。 選挙違反による処罰者に対し選挙権・被選挙権を停止している公選法252条につき、最高裁は「選挙の公正を害した者として、選挙に関与せしめるに不適当なものとみとめるべきであるから、これを一定期間、公職の選挙に関与することから排除するのは相当」である、と合憲判断を示した(前傾最大判昭30.2.9)。 しかし、選挙関係犯罪を「公民権停止」事由としていることには、公選法が本来合法的とも思われる戸別訪問等の選挙運動を犯罪として法定している点も合わせ考慮すれば、疑問が残らざるを得ない。 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 「何人も一人として数えられ、一人以上には数えられない」との形式的正義原理に基づいて投票数または投票価値を平等にする one person one vote, one vote one value に依拠する選挙制度を「平等選挙制」といい、これらに格差を設けるものを「差等選挙制」という。 差等選挙制度には、選挙人に一票もつ者と複数票もつ者との別を設ける「複数投票制」、選挙人を幾つかの等級に分けて、各等級ごとに一定の代表数を配分する「等級選挙制」とがある。 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である 我が国では、大正14年に25歳以上のすべての男子に選挙権を認める普通選挙制が採用された。 昭和20年には、女子にも選挙権が与えられると共に、年齢資格が20歳以上に引き下げられ、完全な普通選挙制度となった。 日本国憲法15条3項は、明文で普通選挙制を保障している。 これに対して、同憲法典には平等選挙制に関する明文規定はないものの、14条の平等原則規定、国会議員選挙における選挙人資格の平等を定める44条但書からして、当然にこれを採用しているものと解される。 なかでも、44条但書は、投票数および投票価値に関して、選挙人の判断能力、財産、社会的身分等の差異を捨象した、徹底した形式的平等観を示したものである(この点については『憲法理論Ⅱ』 [230] でふれる)。 また、直接選挙制について我が憲法典は、地方公共団体の長および議会議員等の選挙について明文規定をもつにとどまるものの、これを当然視しているものと思われる。 公選法の定める選挙は、すべて直接選挙である。 ■第六節 被選挙権と立候補の自由 [177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する 民主主義は、自由に闘わされる複数の選択肢のうち、最大多数の票によって支えられたものが勝利を得た選択であるとみなされ、それまでの選択肢に平和裡に取って代わることにその特質がある([56]参照)。 日本国憲法前文の第一文が「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・・・・自由のもたらす恵沢を確保し、・・・・・・」と述べているには、この特質に基づく統治体制を予定してのことである。 民主主義は、選挙民となる人口が大であることのみならず、複数の政党または候補者が投票獲得を求めて自由に競争することをも、その必要条件としている。 この観点からすれば、被選挙人資格につき、特定政党の構成員であることや、特定団体の推薦を受けること等を法上の要件とすることは許されず(一党制を公認するとなると、党が国家となってしまう)、立候補は自由でなければならない。 [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か 通説は、被選挙権とは、選挙人団によって選定されたとき、これを承諾し、公務員となりうる資格をいう、と解している(資格説)。 この説は、被選挙権とは公務就任権の帰属主体となりうる資格をいうのであって、権利そのものではなく、権利能力の如きものと捉えるようである。 これに対して、我が最高裁(最大判昭43.12.4、刑集22巻13号1425頁)は、「被選挙権は、15条1項の保障する重要な基本的人権の一つ」であるとして、選挙される資格につき、国家から妨害、干渉を受けない自由とみている(自由権説)。 なるほど、被選挙人資格の具体的あり方は、立法府の判断に委ねられざるを得ないものの、選挙人資格の決定に当って、性別、財産、教育等を関連性のなき不合理な要素とする思考は、被選挙資格の付与の際にも妥当する。 従って、これらの不合理な要素を理由に被選挙資格を制限されないことをもって、被選挙権という、と解してよい。 我が憲法典は、特に国会議員のそれについて、法律事項に委ねながら「但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」(44条)と規定しているのは、この趣旨にでたものと解される。 もっとも、包括度が最大である必要はない。 例えば、公務員(官僚と呼ばれる人々)であること、補助金受給者であること、といった事実を欠格事由とすることが真剣に検討されるべきである。 なぜなら、彼らは、それ以外の人々とは違って、政策の立案実行の段階で、既に数票を投じておきながら、選挙時点で、また、一票をもつことになるからである。 [179] (三)立候補は自由でなければならない 被選挙人資格を有する者が、自己の自由な意思に基づいて公選に係る公職に就任するために立候補することを、立候補の自由という。 政党を主導とする選挙制が採用される場合には、政党によって立候補の自由も規制されることがありうるが、それは、基本的には、党と立候補者の私人間の問題である(もっとも、政党の国法上の位置によっては、また、現実の政治に対する政党の統制力如何によっては、政党を国家機関またはそれに準じたものとして扱い、憲法典規定を直接適用することがあり得る)。 これに対して、政党の存在を憲法上公認している国家にみられるように、法上、政党を単位とする選挙制が採用されている場合には、 ① 政党結成の自由が保障されていること、 ② 立候補決定の党内手続が公開され、多数者意思を反映するよう整備されていること、 ③ 構成員が立候補するについては、その自由意思に委ねられること(構成員の自由)、 等の条件が必要である。 我が憲法典には、立候補の自由に関して明示的規定はない。 その根拠については、憲法13条の幸福追求権を挙げるもの、14条1項にいう政治的関係における平等原則を挙げるもの等、様々である。 公選法は、憲法典が同自由を保障していることを当然の前提として、公職の候補者になろうとする者に暴行または威力を加えること等を禁止している(225条)。 なお、政党だけを単位とする選挙制を採用することには、我が憲法典上、個人の立候補の自由との関係上、大きな疑義がる。 公選法(87条の2)が、参議院議員の比例代表選挙について、政党その他の政治団体が候補者名簿を選挙長に届け出ることにより、名簿記載者を候補者とすることが出来る、としているのは、そのためである。 ■第七節 選挙区 [180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という 全体の選挙人を数個の選挙人団に分割して、それぞれの選挙結果を独立に決定するための単位を選挙区という。 通常、選挙区は地域を標準として区分され、一名を選出するものを小選挙区制、二名以上を選出するものを大選挙区制という。 選挙区の設定は、古くは王の特権であった。 議会の勢力が強くなるにつれ、その特権は否定され、議会の制定法による原則が確立された。 これを「選挙区法律制度」という。 我が憲法典も、国会議員の選挙区につき、「法律でこれを定める」ことを明らかにしている(47条)。 それを受けて公選法は、衆議院については大選挙区制を採用している(3名ないし5名区が多く、我が国特有に「中選挙区制」と呼ばれている)。 参議院については比例代表選出と選挙区選出という方式に分かたれ、前者は全都道府県の区域という大選挙区制をとり(12条2項)、後者の選挙区は都道府県を単位とする大選挙区制をとっている。 [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される 選挙区制のもとでは、立候補から当選人の決定までの選挙手続は、一定地域を単位として行われる。 各選挙区から選出される議員数の配分方法としては、各区の人口に比例させるもの、一定地域(例えば各県につき一人)を基礎とするもの等、様々のものがある。 我が憲法典は、議席配分基準を明示することなく、法律事項としている(47条)。 公選法は配分基準を明示することなく、衆議院の小選挙区選出議員については別表第一で、同議員比例代表選出議員については別表第二で、参議院選挙区選出議員については別表第三で定めることとしている(13、14条)。 そのうち、別表第二の末尾には、「この表は、国勢調査(統計法・・・・・・第四条第二項の規定により十年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によって、更生することを例とする。」と述べられており、人口を基礎にすることが示唆されている。 これに対して、参議院の選挙区選出議員に関しては、こうした指示は見当たらない。 それは一つには、都道府県を単位とする地域代表的性格をもっていることから来るものとみる余地もある(議院定数不均衡と日本国憲法14条との関係については、『憲法理論Ⅱ』でふれる)。 ■第八節 選挙方法 [182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 選挙人が、議員や首長等公選に係る公務員を直接に指名することを「直接選挙」といい、選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出されるものを「間接選挙」という。 そして、実定法によってそれぞれの選挙方法を制度化したものを「直接選挙制」、「間接選挙制」と呼ぶ。 後者は、一般有権者の判断能力に対する不信感から採用されたが、その後の民主主義思想の浸透に伴って、今日では直接選挙制を採用する国家が多くなっている。 間接選挙制の典型例が、アメリカ合衆国の大統領選挙にみられる(もっとも、アメリカの大統領選挙においては electoral college と呼ばれる大統領選挙人が政党別に選出され、各人は予め支持すると公約した大統領候補者に投票しなければならないという習律が成立しているために、その実質は直接選挙となっている)。 これに対して、フランスの大統領選挙は、かつては議会が選出する方式によっていたが、1962年の憲法的法律制定以来、それに代えて直接選挙制によっている。 大統領権限の正当性を強化するためである。 また、「直接選挙制」と似て非なるものとして、被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出するという「複選制」というものもある。 この場合の議員は、複選のためだけの職務に限定されていない点で、中間選挙人の職務とは異なる。 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 代表の選出がその選挙区の多数派の意思によって決定される選挙方法を「多数代表法」という。 これは、代表機関は多数者意思を反映すべきものである、という思想に基づく。 大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれに当たる。 ところが、これによれば多数派による代表機関の独占の可能性が生ずるため、少数派もまた代表を送り込める方策が模索される。 その方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれに当たる。 もっとも、この方法によれば必ず少数派が代表を送り出せるというわけではなく、立候補者の数や投票行動といった外的要因によって左右される。 そこで、これを修正し、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする「比例代表法」も考案されて、19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されている。 比例代表法の基本的特徴は、 ① 当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものとしてドント式がある)、 ② 当選基数を超える投票が他の候補者に移譲されること、 この二点にある。 比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代方法とに大別だれる。 ① 単記移譲式比例代表法これは、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。 ② 名簿式比例代方法これは、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補内で為される方法をいう。この方法には大別して二つある。一つは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他の一つは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純高速名簿式である。 我が国の参議院議員の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を、「秘密投票」という。 これに対して、挙手、起立、記名等の方法のように、第三者に投票内容が知れるものを、「公開投票」という。 政治は、責任ある公人によって為されるものであるという理念が強調されれば、公開投票制が好まれる。 しかし、その制度は、他者による拘束や圧力等の不利益を選挙人に与えることになる。 そこで今日では、各人の自由な意思に基づく投票を確保する秘密投票制が広く採用されている。 我が国の憲法典も、「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」(15条4項)と定める。 これを受けて公選法は、無記名投票(46条3項)、投票の秘密侵害罪(227条)につき定め、さらに、何人も投票した被選挙人の氏名または政党その他の政治団体の名称を陳述sる義務はない(52条)としている。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 ものすごく分かりにくい -- よもぎ (2015-01-18 16 58 43) ものすごく分かりやすい -- くさもち (2016-12-04 23 46 36) 名前 コメント
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今度の参院選は我が国の大衆デモクラシーの衆愚度合いが問われる選挙になるものと覚悟せざるを得ない。内容的にまだまだ粗いと思うが、そうした衆愚政治の問題を考えていくために当ページをとりあえず作成しました。 -- ページ作成者 (2010-06-14 21 54 07) 凄く良いページですね -- 名無しさん (2010-12-03 17 21 44) 「自衛隊は合憲」とはいつのどの判例でしょうか? 詳しく知りたいのですが……。 -- 名無しさん (2011-10-04 21 52 40) 「民主主義」や「人権」を -- 名無しさん (2012-01-01 01 48 29) 「民主主義」や「人権」を盲信せず、法の支配を真剣に考えることが大事だと思います。 -- 名無しさん (2012-01-01 01 49 58) 「民主主義」や「人権」を盲信せず、法の支配を真剣に考えることが大事だと思います。日本の現状は残念ながら「衆愚制」であると言わざるを得ないように思います。「法(Law)」 -- 名無しさん (2012-01-01 01 52 23) 「民主主義」や「人権」を盲信せず、法の支配を真剣に考えることが大事だと思います。日本の現状は残念ながら「衆愚制」であると言わざるを得ないように思います。「法(Law)」と「立法(Legislation )」を峻別し、立法権(国会)を法の支配に服せしめることが求められていると思います -- 政治家志望の一高校生 (2012-01-01 01 55 13) コメントが重複しました。申し訳ありません。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-01-01 01 56 47) 民主主義への批判として全体主義を持ってくるのは適切ではないと思うなあ。 確かに民主主義は時として全体主義に堕する。しかしじゃあ民主主義以外の政体なら全体主義に陥らないかっつーとそんなことはないし。 例えば戦前の日本は明らかに「混合政体」であり「無制限のデモクラシー」ではなかったけど、全体主義に陥ったわけで。 後、民主主義を掣肘するものとして「国体」を持ってくるのもどうだろう? 成文憲法の方が内容が具体的で明確な分良いと思うけど。成文憲法に欠陥があるなら改正すればいいし。 -- 名無しさん (2013-10-14 17 07 55)朝鮮半島や中国大陸は、それで国家自体が何度も180度変化し、興亡が繰り返された歴史事実もあります。よい伝統を成分化するのが「憲法」の成り立ちであり、人定法主義に基づく成分憲法が日本国憲法なわけです(恐らく筆者自体は不文憲法がいいと言っている訳でなく、慣習法の成分化をすべきという点で成分憲法を評価しているのではないでしょうか?) - 名無しさん 2016-02-17 21 44 03
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安倍晋三氏著作 ●美しい国へ 767円(税込) 文藝春秋 ●この国を守る決意 1,500円(税込) 扶桑社 ←岡崎久彦氏との共著 ●安倍晋三対論集―日本を語る 1,470 円(税込) PHP研究所 ●吾が心は世界の架け橋―安倍外交の全記録 2,100円(税込) 新外交研究会 ←入手難 中川昭一氏著作 ●飛翔する日本 1,680円(税込) 講談社インターナショナル ●日本を守るために日本人が考えておくべきこと 1,575円(税込) PHP研究所 ●どうした、日本―中川昭一と宋文洲の不愉快な対話 1,500円(税込) ダイヤモンド社 ←宋文洲氏との共著 ●アメリカの正義 日本の正義 1,223円(税込) 双葉社 ←三根生久大氏との共著 ●21世紀への座標軸―フレッシュアンテナを生かせ! 1,325円(税込) 史輝出版 ←入手難
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中川八洋公式掲示板に3/24付けで記事あり。言葉づかいは相変わらず激しくてちょっとどうかとは思うが、論旨明快で参考になる。「立憲主義」を振り回す“反・立憲主義”の朝日新聞 ──「集団的自衛権」への第九条解釈変更こそ“立憲主義”http //nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/03/24/131147 -- 名無しさん (2014-04-03 02 23 43) 松尾光太郎氏blog記事。一記事に内容が詰め込まれすぎていて(思想の累多)とてもではないが全部理解するには行かない、という珍しい(そして貴重な)タイプ br()立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞 br()http //blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/archive/2014/02/08 -- 名無しさん (2014-04-05 03 28 05)
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第十一章 議院内閣制 p.179以下 <目次> ■第一節 議院内閣制の意義[207] (一)議院内閣制とは議会と執政府との間に政治的一致原則を実現させる制度をいう [208] (ニ)議院内閣制は君主と議会という二元的対立を緩和する制度として登場する ■第ニ節 議院内閣制の起源とその特質[209] (一)議会勢力の強い国では議会主義となる [210] (ニ)君主の力が強い国で議院内閣制が採用された [211] (三)オルレアン型議院内閣制は執政府の二元的組織と責任とがその特徴となる [212] (四)議院内閣制は民主主義と直接関連するわけではない ■第三節 議院内閣制の展開[213] (一)立憲君主制は次第に名目化されるか消え去っていく [214] (ニ)議会と執政府との政治的一致原則を実現するために諸方策が考案された [215] (三)選挙民が執政府と議会との最終的均衡を復元する ■第四節 議院内閣制の標識[216] (一)議院内閣制の特性を何に求めるかについて見解は対立する [217] (ニ)議院内閣制には共通の標識がある [218] (三)責任本質説と均衡本質説との対立は相互排他的ではないものの、後者が明確である [219] (四)執政府の二元的構造は議院内閣制にとって決定的要素ではない [220] (五)議院内閣制は三極構造のなかで再構成されなければならない ■第五節 日本国憲法と議院内閣制[221] (一)明治憲法下では官僚(超然)内閣制が採用されていた [222] (ニ)現行憲法典は議院内閣制を採用していないとする学説もある [223] (三)通説は現行憲法典が議院内閣制を採用していると解するものの、その理由を異にする [224] (四)「責任」は議院内閣制の合理化・制度化の表示にすぎない [225] (五)相互に独立した機関間の均衡を図るための権限が重要な標識となる [226] (六)日本国憲法は、ニ機関を厳格には均衡させていない ■ご意見、情報提供 ■第一節 議院内閣制の意義 [207] (一)議院内閣制とは議会と執政府との間に政治的一致原則を実現させる制度をいう 議院内閣制 parliamentary governmentとは、憲法典が、議会と執政府とを法的に独立した機関と位置づけながらも、両者間の政治的一致の原則を制度化している統治構造をいう。 真の議院内閣制は、裁判方式による法的責任追及のための大臣訴追や弾劾制が後退し、それに代わって、執政府と議会の政治的一致の原則が認められて、はじめて始まったのである(シュミット『憲法理論』399頁)。 14世紀のイギリスにおいては、下院が大臣の法的違背を弾劾するために訴追し、上院がこれを判するという大臣訴追制が確立したが、議会が大臣と内閣の政治責任を追及する慣行が成立するに従って大臣訴追制は姿を消し、議院内閣制によって、二機関の政治方針を一致させるようになったのである。 もっとも、政治的「一致」といっても、その程度は現実には様々であり、政治的方針を共通にすることに表れることもあれば、一方の他方に対する従属として表れることもある。 [208] (ニ)議院内閣制は君主と議会という二元的対立を緩和する制度として登場する 政治的一致の原則は、君主と議会との二元的対立を克服して、政治的統一を確保しようとする試みのなかで、超然(官僚)内閣制に代わるものとして成立した。 超然内閣制とは、内閣が専ら君主の信任に基礎を置くものをいう。 議院内閣制は、これに代わって、前章でふれた議会と内閣との協同体制の合理化・具体化である。 その体制は、立憲君主と議会の狭間にあって、両者の政治的バランスを巧妙にとろうとする内閣が重要な地位を占めるに至った段階で登場する。 議院内閣制は、政治的な合目的性を理由としてイギリスにおいて登場し、次いで、イギリスの慣行を基礎にした理論体系としてフランスの公法学者、B. コンスタン(1767~1830年)によって樹立された。 コンスタンは、 ① 立法権は議会に属すること、 ② 君主は拒否権によってのみ立法権に参与すること、 ③ 執行権は諸大臣に属すること、 ④ 君主は議会の指名した大臣の任命、恩赦、議院解散権、等を通して他の機関の調整役(調整権限の保持者)となること 等を説いた。 ところが、ルイ18世の統治下フランスの1814年の憲法典は、右理論を否定して、国王こそが全ての国家権力の源泉であるとする命題に立って、明治憲法類似の外見的権力分立構造を採用するにとどまった(同憲法典上の立憲君主制は、はやくも1830年に国民主権原理に取って代わられた)。 その後、19世紀初頭から中葉にかけて、議院内閣制は、イギリスの慣行から離れた抽象理論として完成される。 イギリスの慣行とフランスの抽象理論の二つは、立憲君主制にみられる統治構造に「権力分立」の観点から修正を加えようとした点で共通点を有するものの、それぞれの国の歴史や権力関係を反映して、執政府と議会との優劣関係に関する見方を同じくするわけではない。 ここに、議院内閣制にも二つのタイプが存在することになる。 もっとも、いずれの制度であれ、議院内閣制なるものが憲法典上に明示されることはほとんどないのである。 同制度の体系は、イギリスにおいては政治的プラクティスの中にだけ存在し、フランスにおいては抽象理論の中にだけ存在してきた。 議院内閣制の確固とした理論は、偶然の集積であるイギリスの発展からは引き出せないのであって、イギリスを理論モデルとして参考にすることには、我々は慎重でなければならない。 これに対して、フランスにおける抽象理論は、それまでは政治過程の展開に委ねられていた議会と執政府との政治的一致の原則を、法的に統制して、「政治過程から法的過程へ」と権力を合理化・制度化するための試みである(これを「合理化された議院内閣制」という)。 イギリスにおける議院内閣制は、君主を補佐する官僚団に対する議会の優位、ことに民意を代表する庶民院の優位を確立する歴史の展開であった。そこでは、「政治/行政」の概念上の区別が強調された。そこでいう「政治」とは、議員、大臣、内閣といった国家機関の活動を指し、行政とは、内閣に直属する軍事官僚制と行政官僚制の活動を指す。この「政治/行政」の区別は、国民から選出された勢力(議会、内閣)の為す「政治」は、非選出勢力の為す「行政」よりも優位することを論拠づける目論見をもっていた。すなわち、「政治/行政」のモデルは、【国民→議会→内閣・大臣】→【官僚】→【国民】という統治の流れを想定しながら、政治家による官僚の統制を正当化する理論であった。 これに対して、権力分立のドグマが支配する大陸においては、「立法/司法/行政」という概念上の類別が強調された。このモデルにおいては、大統領、首相、大臣、これを補佐する官僚団の活動が「行政」であると観念しながら、【国民・議会】→【内閣・大臣・官僚】→【国民】の流れの中で、国民・議会による「行政」の法的統制の必要が語られてきた。 ■第ニ節 議院内閣制の起源とその特質 [209] (一)議会勢力の強い国では議会主義となる 議院内閣制は、議会と執政府とが、法上、別個独立の機関とされる「権力分立」的統治構造の一形態である。 「権力分立」にも、「議会優位型(国民公会型)」、「厳格分離型(アメリカの大統領制型)」、「協同体制型」等さまざまあり、議院内閣制はこれらの中の一つである。 広く世界の統治体制を類型的に概観するに当たっては、フランスの公法学者R. レズロープの論文(1918年)で説かれた次のような類型が参考となる。 ① アメリカ大統領制執政府を独任制機関としながら、議会と執政府のそれぞれの選任方法についても、権能行使についても、できる限り分離しようとするタイプ。 ② 旧ドイツの立憲君主制執政府として独任制機関たる君主と合議制機関である政府とを置き、政府と議会の構成員の選任方法を別々としながらも、君主のもとでの政府と議会との協同体制を原則としつつ、執政府の独立、優位確保に仕える限りでの分離を維持しようとする体制。 ③ イギリスの議会統治制右の②と同様に、執政府が二つの機関から成るものの、名目化された権限のみをもつ君主のもとでの協同原則に、さらに、執政府(内閣)在職についての議院の信任を付け加えるタイプ。 ④ スイスの議会統治制議会が執政府構成員を選任してその組織を決定するのに対して、執政府は、議院解散権をもたず、議会の決定を遂行するのみで、議会の優越、執政の従属という原理のもとで維持される体制([213]もみよ)。 歴史上最初に登場した変型は、ルソー流の人民主権論を背景にした「国民公会(コンヴァンシヨン)制」または「議会主義」と呼ばれる「議会優位型」であった(レズロープの類型からすれば、右の④)。 「国民公会制」または「議会主義」とは、一般意思を反映する一院からなる議会が、立法権限を独占するだけでなく、国家の最高の意思機関となって、執政府を従属させるタイプをいう。 これにあっては、議会が執政府の長の任免権をもつばかりでなく、執政府に対して議会の決定した施策を実現するよう指揮命令する。 当然のことながら、執政府の長は、議会の解散権をもつことはない。 ところが、この「議会主義」思想は、「権力分立」論の様相をとっているものの、統治の直接的正当性を人民の統一的意思に求めながら、実は、「分立」を否定する理論であった。 さらに、そのもとでは、最高機関である議会の制定する立法こそ最高と扱われることになり、憲法典と法律との区別すら否定されてくる(「イギリスの議会は、男を女に、女を男にする以外、何事でも為し得る」という法諺に表れている如くに)。 [210] (ニ)君主の力が強い国で議院内閣制が採用された これに対して、フランスにおける議院内閣制思想は、君主の地位を温存しようとする勢力からの巻き返しとして提唱されてくる。 彼らは、全ての国家権力の源泉である君主のもとで議会と政府(または諸大臣)とが協同して統治に当たる立憲君主制に「権力分立」構想を加味することによって、政府を正式機関として制度化し、これに執行権の中心部分を集中させようとした。 ここに「分立論」上の正式機関として「内閣」が誕生した。 この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優位性を否定した。 彼らは、片や旧来の立憲君主制を克服し、片や押し寄せる急進的勢力を抑え込むために、中庸の政治機構を構想したのである。 その理論によれば、 ① 君主は国家を代表し、議会から独立し、無答責であること、 ② 現実の執政権行使に当たって君主は、一切の行為を内閣の同意に依存し、内閣が議会に対して責任を負うこと、 ③ そのために、執政権は君主と内閣という二元的組織となること(モンテスキューが内閣・大臣の独自的存在について語らなかったことは、[200]で既にふれた)、 ④ 議会と内閣とは対等独立の地位にあり、一方が他方に従属するものであってはならず、常に、相互了解を得ながら、君主のもとで協同して統治に当たるべきであること、 ⑤ 相互了解・協同関係が維持できないときは、議会は内閣の不信任を表明し、内閣はこれに対する対等な抑制手段として解散権を行使できること、 といった要素が強調される。 [211] (三)オルレアン型議院内閣制は執政府の二元的組織と責任とがその特徴となる これから分かるように、フランス流議院内閣制の特徴は、 (ア) 執政府の二元的組織、 (イ) 内閣の責任の二元性(君主 [後には大統領] への責任と、議会への責任)、 (ウ) 内閣と議会との均衡関係、 という点にある。 もっとも、右の特性のうち、執政府の二元的組織は、19世紀初頭のオルレアン王朝期に採用されたものであって、その後は、君主権限の名目化の進展に応じて、重視されなくなる。 執政権限が実質的に内閣の手に移った後は、内閣と議会との対等な関係を表象する解散権の存在こそ、ある統治構造が国民公会に近いか、それとも、議院内閣制に近いか、を識別するテストとなる(この点について [218] で再びふれる)。 内閣の議会解散権は、もともとは立憲君主制の残存物である。 内閣は、議会との均衡関係が崩れたと思われるとき、助言制度(副署権)を通して君主の有する解散権に訴えて、君主を基軸にして均衡関係を復元しようとしたのである。 議院内閣制がその起源を立憲君主制にもつといわれる理由は、この点にある。 [212] (四)議院内閣制は民主主義と直接関連するわけではない ケルゼンは、議院内閣制とは、執政府を議会の委員会とするものであり、これは人民主権(「主権者たる人民→議会→執政府」という垂直構造)の論理必然的帰結点であって、「権力分立」の亜種でもない、とみている。 しかしながら、この見解は、議院内閣制が民主主義に立脚するとの誤った前提に出たために、同制度を「権力分立」から離してしまったのである。 これでは、議会主義(国民公会制)と議院内閣制との区別が出来なくなる。 確かに、議会と執政府との間に政治的一致の原則が制度的に認められているものを議院内閣制という点、に着目すれば、統治権限の民主的な集中制のように思われる。 なるほど、18世紀イギリスにおいて議会勢力が立法と行政の二つの権力を掌握して、《議会が内閣をその委員会にした段階で、議院内閣制は確立した》、といわれるように(W. バジョット『イギリス憲政論』は、「議院内閣制は、立法部によって選出される委員会の政治である」と述べた)、議院内閣制は、権力分立とは相容れない、権力の集中化であるように考えられる。 ところが、それは、「民主」勢力の優位を貫徹して君主権力を解体するために、立法と行政のニ権力の融合を過度に強調したためであった([208]もみよ)。 同制度は、内閣(または大臣)の議会解散権(【N. B. 15】参照)を梃子にして、連帯と反発のシステムによって政治的一致原則を実現する点をその要諦とする以上、集中型とは解し得ず、柔軟な「権力分立」の体制と位置づけるのが正当である。 【N. B. 15】議会解散権の類型について。 解散権の類型としては、その主体別に、①君主の解散権、②大統領の解散権、③大臣または内閣の解散権、④議会の自己解散権、⑤人民の請求に基づく解散権、等がある。 ①の君主の解散権は、 代表機関としての議会に対して、君主の優位を確保を確保する目的をもつ。このタイプの解散権は、議会を攻撃する武器となる。 ②の大統領の解散権は、 議会との均衡を図るための手段であり、選挙民に、議会か執政府のいずれかの立場を支持する機会を与えて、両者間の政治的対立を解決させる目的をもつ。 ③の大臣の解散権は、 議会多数派と大臣との間の衝突を、選挙民によって最終解決させる目的をもつ。 ■第三節 議院内閣制の展開 [213] (一)立憲君主制は次第に名目化されるか消え去っていく 歴史的には、先に見たように、議院内閣制は、「権力分立」の影響力に抗し切れない立憲君主制が、君主の正当なる地位を維持し続けるための最後の依りどころであった。 その後、普通選挙制が実現され、大衆を組織する政党が政治過程の実権を握るにつれて、民意を直接反映しない立憲君主は直接機関としての地位を失って、姿を消すか、または、名目的形式的な元首となる。 なかでも、議会が民意を統一的に表示すると期待された国家においては、議会多数派の指導者が政治的指導と統率を掌握する「議会主義」となる。 これに対して、統一的民意は議会ではなく、一人の自然人によって統一的に代表されるべきであるとする思想が支配的な国にあっては、「大統領制」になる。 大統領は、立憲君主の理論的代替物であった。 すなわち、大統領は、君主の存在に似せて作られたが、選挙によって選出される点で決定的に君主とは異なる存在とされた。 大統領は、選挙人の意思を一人で統一的に代表する存在として、もう一つの代表機関である議会の優越的地位を抑制するよう期待される。 この二つの直接機関を独立させて、相互の抑制に期待するのが大統領制である。 [214] (ニ)議会と執政府との政治的一致原則を実現するために諸方策が考案された ところが、大陸の思想家たちにとって、大統領制は、等族国家のもとでみられたと同じような、君主とと等族との対立(二元構造の矛盾)の轍を踏むことにならないか危惧された(この点については、[208]でふれた)。 彼らは、二元構造の矛盾を回避すべく、議会と執政府との間に政治的一致をもたらす統治構造を構想した。 支持的一致を確保する手段として考案されたものが、 ① 内閣の存立を議会(特に、民選議院)の信任に依拠させること、 ② 議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典上明記すること、 ③ 大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、等である。さらに、 ④ これらの手段で政治的一致に達しなかった場合の最終的手段が、解散に伴う選挙において選挙民に訴えて、再び政治的一致を復元すること、である。 すなわち、普通選挙制が実現された時点以降、二つの代表機関は、選挙人という第三の勢力に訴えて、それぞれの正当性を主張するのである。 このことから、「19世紀には、確かに主権的な議会が支配的なものと見られるが、政治的指導は内閣に、政治的決定は選挙人にある」(シュミット『憲法理論』403頁)といわれるに至る。 もっとも、そこにいわれる「選挙民による政治的決定」とは、「政党というリーダーの決定」というほどの限定的な意味として捉えるべきであろう。 [215] (三)選挙民が執政府と議会との最終的均衡を復元する 議院内閣制に関する抽象的理論を比較的忠実に憲法典に取り入れたのが、ヴァイマル憲法(1919年)であった(もっとも、制定過程においては、議院内閣制としての性格づけは意識的に避けられた)。 同憲法典は、君主に代わるものとして、選挙人によって直接選出される大統領を置くと同時に、大統領が議会から超然として君臨することのないよう、大統領と議会との結合を図るための合議機関たる「政府」(宰相および大臣からなる組織体)をも置いて、二元的執政府とした。 二元的執政府は、責任の所在がそれだけ分散され、議会による責任追及が複雑となるという点で、等族国家での二元構造よりも責任政治にとって危険であるため、同憲法典は、宰相または大臣による副署によって大統領を拘束し、さらに、宰相が政治の基本方針を決定すると定めて、執政府の統一性を確保した。 宰相と大臣によって構成される政府は、一方で、大統領による任免に服し、他方で、議会による信任に依存する、という二元的な責任を負った。 政府は、議会に対しては大統領を、大統領に対しては議会を、それぞれ代弁する媒介役であった。 ヴァイマル憲法のもとで、二つの代表者、つまり議会と執政府(大統領と政府)との最終的均衡をもたらすのは、選挙民であった(表15を見よ)。 そのための権能として、選挙民には、 ① 大統領による議会解散後の選挙、そして、 ② 法律の公布に先立って大統領が命令する人民投票、および、 ③ 議会の提案する大統領解職のための人民投票、 が保障された。 この中でも、大統領の有する議会解散権こそ、均衡回復の梃子であると解釈され、実際そう運用された。 ヴェイマル憲法54条の定めによれば、宰相および大臣は、 (a) その職務執行について議会の信任を必要とするばかりでなく、 (b) 議会の明示的な決議により信任を失った場合には辞職しなければならない、 とされていた。 議会が執政府の責任追及手段として実際に活用したのは、曖昧な(a)ではなく、明示的な(b)であった。 この手段に対抗して宰相・大臣は副署権限を通して、大統領のもつ解散権に訴えるのである(表16を見よ)。 【表15】 議会と執政府との均衡の図式 議会 執政府 活動能力獲得 ← 大統領の間接的召集権 ∟ → 法律案の発案権 法律の制定権 ← 」 ∟ → 法律の人民投票請求権 執政府不信任決議権 ← 」 ∟ → 大統領による議会解散権 人民投票による大統領解職請求権 ← 」 ※人民が選挙または人民投票によって均衡を最終的に復元する。 【表16】 執政府内での均衡の図式 大統領 政府 議会信任に依存しない独任機関 議会の信任に依存する合議制機関 憲法典に列挙された権限の主体 その他の一切の執政府権限の主体 (国家機関相互の調整権限主体) (執政権の実質的主体) その権限行使 ∟ → 副署権 宰相・大臣の任免権 ← 」 (君主権限の名残) ■第四節 議院内閣制の標識 [216] (一)議院内閣制の特性を何に求めるかについて見解は対立する 既にふれたように([208]参照)、議院内閣制は、抽象理論のなかだけに存在し、実定憲法典に明示されることはなかった。 実定憲法典上に組み込まれる統治構造は、ときには議会主義的、ときには君主制的と、さまざまの統治体制の複合体であることが圧倒的に多い。 従って、ある実定憲法典上の議会と執政府との関係につき、議会主義が採用されているという理解も、議院内閣制が採用されているという理解も、視座の取り方によっては、同時に成立する。 そればかりでなく、議院内閣制にも、イギリスの実践型とフランスの理論型との二つの流れがあるために、議院内閣制の特質をどこに求めるべきかについて、見解は分かれざるを得ない。 [217] (ニ)議院内閣制には共通の標識がある 議院内閣制は、どのような変種であれ、次の要素を共有するのが通例である。 ① 政府または内閣の構成員が、原則として、同時に議会の構成員であること。この要素は、モンテスキュー流の厳格な「分立」論においては否定されていた。にも拘わらず、これが共通の要素とされるのは、議会に出席し発現できる地位を大臣に与えて、議会が大臣の政治的責任を追及し易くするためである。 ② 政府または内閣が、多数党または多数派を構成する連立諸政党の領袖たちによって組織されること。これは、議会が執政府の政治責任を追及し易くするために考案されたプラクティスである。 ③ 政府または内閣が、宰相または内閣総理大臣を頂点とするピラミッド構造をもつよう制度化されていること。この要素は、①および②と関係しており、議会での指導者が、同時に執政府の頂点に立って、政治的責任の所在の統一性を体現することを意味している。 ④ 政府または内閣が、議会の過半数の信任を得ている限りにおいて、その職にとどまること。 ⑤ 政府または内閣が、議会と協同して統治に当たること。 ⑥ 政府または内閣と議会に、それぞれ自由に行使しうる相互的で対等なコントロールの権能と手段が与えられており、しかもそれらが実際に利用されること。 [218] (三)責任本質説と均衡本質説との対立は相互排他的ではないものの、後者が明確である 右の①~⑥の要素は、政治的一致の原則を実現するためにも、二つの流れがあることを示唆している。 その二つの流れは、議院内閣制の本質をめぐる論争である、責任本質説と均衡本質説に対応している。 責任本質説とは、執政府の議会に対する「責任」または「信任」を標識とする立場である。 この立場は、議院内閣制の範型として、右の要素のうち①ないし④を重視するのである。 これに対して、均衡本質説とは、右の⑥にいう議会と執政府が有する武器の対等、すなわち、議会による内閣(または大臣)不信任決議と、執政府による議会解散権という機関間コントロールを重視する立場である。 両説は、実は相互排他的ではない。 責任本質説、均衡本質説ともに、議会と執政府との間の政治的一致原則を所与のものとして(すなわち、右要素のうちの⑤を前提として)、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。 責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が採り得る手段に着目する。 均衡本質説といえども、執政府の議会に対する責任問題を看過しているわけではなく、「責任」という概念の曖昧さを回避したいのである。 というのは、同説によれば、議会の明示的な不信任決議が提出されない以上、執政府は継続して黙示的に信任されているのであって、「責任」は議院内閣制にとって決定的な標識にはならないからである。 「責任」概念が有意となるのは、議会において多数派が偶然に存在するときだけである(既にふれたように、ヴァイマル憲法54条は、「宰相および大臣は・・・・・・議会の信任を要する」とする前段と、「明示の議決により議会の信任を失った宰相および大臣は辞職しなければならない」とする後段から成っていたが、多数を制する政党が存在しなかったために、実際に有意な条項として援用されたのは、後段であった)。 さらに、執政府の責任の取り方にも、連帯責任、宰相の単独責任、閣僚の個別的責任という三つの方式があるうえ、議会による執政府の責任追及の仕方にも、執政府提案の法律案や予算法案の否決から、不信任決議まで多種多様であり、それは政治的に決定されざるを得ないのである。 となると、「合理化された議院内閣制」の標識は、政治過程において偶然的に決定される「責任」に求めるのではなく、議会と執政府との間の政治的一致をもたらすため均衡の制度化(公式の権限)に求めるのが正しい。 均衡とは、両者対等の協力関係を意味し、その関係が維持されなくなったとき、選挙民が最終的審判者として、政治的一致の原則を回復するのである。 そのために、執政府には議会解散権が、議会には執政府不信任決議権が、与えられる。 「議会解散権と不信任投票権は、あたかもピストンとシリンダーのように対をなすものである。両者の力強い相互作用こそ、議会制機構の車輪を回転せしめるものに他ならない」(レーヴェンシュタイン)とか、「解散権を欠いては、議院内閣制は国民公会制に変質し、議会の優位性に至る」(ビュルドー)とか指摘する立場は、均衡こそ議院内閣制の本質であるとみているのである。 [219] (四)執政府の二元的構造は議院内閣制にとって決定的要素ではない もっとも、均衡を重視する場合であっても、議会と君主(元首)との間の均衡にウエイトを置く18世紀の図式によるか、それとも、議会と内閣(政府)との間のそれにウエイトを置く19世紀の図式によるか、二つの見方が存在する。 前者の図式によれば、 ① 執政府が、元首と、それによって組織される内閣という二元的構造を示していること、 ② 内閣が、元首と議会の双方の信任に依拠していること、 ③ 内閣の議会解散権は、元首の有する解散権に訴えて発動されること、 が重視される。 ところが、①の執政府の二元的構造は、君主の名残をとどめる元首が「機構運営の動力」としての地位から次第に名目化されるにつれて、決定的な標識とはならなくなる。 そして、内閣が「機構運営の動力」となるにつれて、元首との関連でいわれた②、③の要素も、議院内閣制の標識としての重要性を失うことになる。 となると、元首の存在が名目化された時点、または、元首が存在しなくなった時点で、議院内閣制の標識は、一次的には、内閣 対 議会の関係の中に求めざるを得なくなるのであsる。 [220] (五)議院内閣制は三極構造のなかで再構成されなければならない 先にふれたように、「責任」または「信任」概念の多義性を考慮した場合、責任本質説は妥当ではない。 特に同説は、「執政府の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなる点でも、難点を残す(「責任」が政治責任をも含む広範なものであるとすれば、そこには何ら法学的識別標識はなく、責任追及の具体的手段を選挙民がもつことはない)。 国家の二元的構造を克服せんとした抽象理論に起源をもつ議院内閣制は、二元的構造の一つである君主の存在が名目的または無となった時点で、「内閣-(選挙民)-議会」という三極構造のなかで、再構成を迫られることになる。 すなわち、かつての議院内閣制は、「君主 対 議会」という対立を抑制・回避しながら「君主-内閣-議会」という連結関係をもたせることによって統治の安定を確保するための工夫であったのに対して、今日における議員内閣制は、選挙民を介在させることによって内閣と議会との間に連結関係をもたせる工夫である(我が国の論者の中には、[212]でみたケルゼンの理解に影響されて、「選挙民→議会→内閣」という直線的連結を重視して、この連結は民主主義の実現に適する、と説くものもみられる。しかしながら、議会、内閣ともに、法的には二つの分離・独立した機関であることに鑑みれば、「直線的連結」は比喩以上の意味を持たない。また、議院内閣制が「民主的」統治構造の一種であるとする右見解は早計である。「執政府までの民主化」は、国民公会制の狙うところであって、議院内閣制の企図するところではない)。 ■第五節 日本国憲法と議院内閣制 [221] (一)明治憲法下では官僚(超然)内閣制が採用されていた 明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。 それは、立憲君主制の常道であった。 輔弼(advice)とは、意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期することをいう。 国務大臣は、国務に関する大権を輔弼するに当たって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。 これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制である。 大臣助言制のもとでは、各大臣が君主に対して責任を負うものとされた。 君主の単独支配は、君主の恣意的な意思を法的に統制して初めて正当化される。 なぜなら、君主の裁可が補佐機関の助言に従って為されたことを要件として初めて「王は悪を為し得ず」といえるからである。 この要件が、立憲君主制を支えるための「大臣助言(責任)制」となり、さらには、議会に対して政治責任を負う合議制機関としての「内閣」となっていったのである。 明治憲法典の制定に先立って、内閣制度が勅令たる内閣官制(明治18年)によって実現されていた。 内閣は、内閣総理大臣と国務大臣によって組織され、内閣総理大臣の「統督」のもとに統一体をなす合議機関であった(旧憲法下での内閣の地位については、[396]でふれる)。 内閣の組織を命ずる権限は、天皇の大権に属した。 内閣官制制定の趣旨は、内閣はもっぱら君主の信任に依存すべきであるとする、超然内閣制を採用することにあると理解されていた(枢密院議長としての伊藤博文演説)。 そのため、明治憲法典が議院内閣制を採用していると解される余地はなかった。 それどころか、当時のいわゆる立憲主義的立場に立つ憲法学者であってさえ、議院内閣制を「事実上の慣習たるにとどまり、憲法上の制度として定められるものにあらず」と理解していた。 ただ、明治31年、憲政党が組織され、大隈重信を総理大臣とする憲政党内閣が成立して以降、当初の超然内閣制は廃棄され、衆議院の信任にかからしめる議院内閣制の「慣習」が成立したと説かれるに至った(美濃部達吉『憲法撮要』299~301頁)。 [222] (ニ)現行憲法典は議院内閣制を採用していないとする学説もある 我が国の憲法典は、議院内閣制を採用しているか否か、採用しているとすれば如何なるタイプのそれであるか。 A説は、 ① 二元的執政府となっていないこと、 ② 解散権のモーターたる君主または元首に相当する者が存在しないこと(天皇は、これらのいずれでもない。この点については、第二部第三章第一節の [253] [254] でふれる)、 ③ 「衆議院議員選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職しなければならない。」(70条)とされているように、議会に対する内閣の従属度が高いこと、 を理由に、日本国憲法上の統治構造は典型的な議院内閣制ではない、という。 もっとも、内閣が衆院解散権を有している以上、国民公会制でもない。 そこでこのA説は、「国民公会制を顕著に浸透させた議院内閣制」であると、結論するのである(小嶋・460頁)。 ところが、先にふれたように、二元的執政府や解散権を有する君主の存在は、議院内閣制が選挙民というモーターによって回転させられるようになった時点で、その意義を失ったのである。 また、この説の③にいう内閣の議会への従属性も、必ずしも議会の優位を意味するものではなく、新たな民意に依拠する内閣の選出を狙ったものである(また、解散権発動が7条に基づく場合には、内閣総辞職という効果を伴うというバランスも考慮されている)。 [223] (三)通説は現行憲法典が議院内閣制を採用していると解するものの、その理由を異にする 通説たるB説は、我が憲法典が議院内閣制を採用したものであるとする。 もっとも通説の論拠も一様ではない。 まずB1説(責任本質説)は、議院内閣制を「内閣の存立が議会の意思に従う統治構造」または「執政府が立法府、主として下院に対して政治的責任を負う統治体制」と定義しながら、我が憲法典は「責任」を標識とする議院内閣制を採用していると解する。 その論拠としては、 ① 内閣は行政権の行使につき国会に対して連帯して責任を負うこと(66条3項)、 ② 内閣総理大臣は国会議員の中から、衆議院の優越のもとに指名されること(67条1項)、 ③ 国務大臣の過半数が国会議員でなければならないこと(68条1項但書)、 ④ 内閣総理大臣その他の国務大臣は、議院に出席うる権利または義務をもつこと(63条)、 ⑤ 内閣は、衆議院において不信任の決議案を可決されまたは信任決議案が否決されたときは、衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならないこと(69条)、 等を挙げる。 すなわち、このB1説は、右の①ないし④が内閣の責任を明定するためのものであり、議院による責任追及の最終的手段が⑤の不信任決議の可決または信任決議の否認である、と理解するのである。 [224] (四)「責任」は議院内閣制の合理化・制度化の表示にすぎない ところが、内閣の構成員が同時に議会の構成員であることを原則とするという、両者間の人的結合を強調すればするほど、内閣は国会に従属する「委員会」に等しいものとなってしまい、両者が法的には別個の機関である点は軽視されがちとなる。 両者は法的にはあくまで対等の独立した機関であって、だからこそ、それぞれに内部規律権と他機関に対する抑制の権能が保障されているのである。 この点こそ、「権力分立」内での議院内閣制の理解の鍵である。 さらに、先にふれた「責任」の意義・発動態様の曖昧さを考慮すれば、右のB1説は妥当ではないとの帰結をみざるを得ない。 議院内閣制の本質は、議会と執政府との均衡に求めるのが正しい。 日本国憲法が、あたかも「責任」を中心としているかのようなスタイルを採ったのは、議院内閣制を合理化・制度化するに当たって、国会と内閣との間の政治的一致を、政治過程(政治的慣行)に委ねないで、法的過程のなかで正式に確保せんとしたためである。 しかしながら、それでも「責任」は法的に捉えきれるものではない([218]参照)。 [225] (五)相互に独立した機関間の均衡を図るための権限が重要な標識となる 均衡本質説たるB2説に立った場合、議院内閣制にとっての本質的要素である解散権が、憲法典上どこに根拠をもち、如何なる要件のもとで発動されるか検討されなければならない。 この点は、いわゆる69条説、非69条説、という形で長く論争されてきた。 69条が不信任決議または信任決議の否認の効果(衆議院の解散か、内閣の総辞職か)を専ら定めたものであると解すれば、実体的解散権の所在は、69条以外に求められることになる(非69条説)。 これに対して、69条は、内閣総辞職を求める衆議院の意思が、同時に、解散原因ともなることを定めていると理解すれば、実体的解散権の所在を直截に69条に求めてよい(69条説。ヴァイマル憲法典にみられたように、大臣の不信任決議が辞職という効果を持ち得ると定める条文と、大統領の議会解散権を定める条文とが別々であれば、大臣の副署権限を介して大統領の実体的解散権に訴えるという迂回した理論構成をとらざるを得ない。内閣の天皇に対する「助言と承認」のなかに、内閣の解散権限を読み込む7条説は、これと同様の手順をとるが、我が憲法典は、内閣不信任決議と衆議院の解散権とを、69条の一条においてワンセットとしたものと解され、7条を迂回する必要はない。69条説が正しい。解散権と7条との関係については、第二部第三章第四節の [262] でふれる)。 69条は、 ① 衆議院による不信任決議の可決等が内閣と国会との協同関係の喪失を明示的に表示するものであること、 ② それに直面した内閣は、総辞職か、それとも選挙民による再統合に訴えるための解散権を発動するか、という二者択一を迫られること を定めたものである。 [226] (六)日本国憲法は、ニ機関を厳格には均衡させていない 何度も指摘したように、議院内閣制は、憲法典中に明記されることはなく、歴史的にはまず、議会と執政府との間に政治的一致原則をもたらす慣行として発生し(多くの国では憲法習律にすらならなかった)、その後に、一致原則をもたらすための制度化が図られたことによって顕在化した。 その制度化のための工夫のうち最も重要なのが、右にみてきたような解散権の所在と行使の要件であった。 議会による執政府不信任決議と、執政府による民選議院の解散とがセットとなっていることを以って、「均衡」と呼ぶのであって、その他の権限において両者が厳格に対等の関係にないとしても、議院内閣制であると判断して差し支えない。 日本国憲法の場合、41条が「国権の最高機関」であると述べていることに法的意味があるとしたとしても、議院内閣制と矛盾しない。 また、70条によって、内閣は、特別会召集時に、たとえ総選挙において選挙民の支持を得たことが明らかであっても、総辞職しなければならないとされていることは、国会の優位を示唆しはするものの、議院内閣制と矛盾しない。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際
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※以下は、今後記入すべき内容のプロット(このページは未完成です) ■皇統無私の伝統 「仰せの通、身に欲なく、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候こと、人君たるものの第一の教云々」 たまたま、その秋、殿下は京都に御旅行になり、京都御所内にある仙洞御所に一週間御滞在になったことがある。京都御所内には数棟の土蔵があるが、そのうちの一つ、別に目立たぬ普通のお蔵のようではあるが、これが所謂東山御文庫で皇室にとっては非常に大切なお蔵である。扉には勅封が施されてあり、毎年秋季に東京から特に侍従が差し遣わされ、開扉の上、約一ヶ月かかって内贓品を曝涼するのが例となっている。内蔵されているものは御歴代の宸翰、旧記の類である。 殿下の京都御滞在が、ちょうど、この曝涼期間であったため、一日、殿下はお蔵拝見においでになった。私もお供をしていたため内部を拝見する機会を得たのであるが、多くの陳列品のうち、たまたま私の眼にうつったのが光格天皇の御書簡であった。 明治天皇より三代前の光格天皇は幼少僅か九歳で閑院宮家から入って帝位を継がせられ、御先々代、後桜町上皇(女帝)の並々ならぬ御訓育を多年に亙り受けさせられた次第であるが、おん年二十九歳のとき、その上皇に対して、したためられた御書簡がこれであった。別にゆっくり拝読したわけではなかったが、 「仰せの通、身に欲なく、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候こと、人君たるものの第一の教云々」 のお筆の跡に、私は一瞬電撃を感じた次第であった。大江戸城によって天下を睥睨する徳川幕府全盛の時代にあって、三十六峰に包まれた、ここ京洛の地、清くさやけき御所のうちには、人知れず寂かに天下万民をのみ念とせられる御精神が脈々として皇統のうちに流れていた長い年月のあったことを初めて知り、私はおのずから身の引き締まるのを覚えた次第であった。 右の御書簡の外、いろいろなお歌を拝見しているうちに、私は大いに覚るところがあった。東山御文庫に充満する空気は「無私、ただ、くにたみを念(おも)う」の一言に尽きる、と私は観たのである。 その夜、京都市民の盛大な提灯行列が催され、一群また一群と数万の人々が仙洞御所の御門前を通り、万歳の声は広い御苑内を埋め尽くした。殿下は提灯片手に御門のところに立たせられて歓呼の声にこたえられ、私もお側におったが、そのうちに私の両眼から玉のような涙が次から次へと出てきて、何ともしようがない。いくら暗がりでも、あたりの人に余り恥ずかしいので、私は提灯の列を横切って反対側の人のいない芝生に逃れでて遠慮なく泣いた。殿下は、この万歳の声を、どんなお気持ちでお聞きになっておいでになるだろうかと思うと、涙が止まらない。今日の昼、ごらんになった東山御文庫内の烈々たる芳香は、いま殿下を厳しく且つ暖かく包んでいるに相違ない。いま聞えるこの万歳の歓呼の声は、結局は歴代の聖天子の御余徳に対する京都市民の感謝の声ではないか。積徳の余栄に、いま、このお若い殿下が酔われてはならぬ、と思うと、居ても立ってもいられない気持ちになった。 ~木下道雄(元侍従次官)著『宮中見聞録』京都東山御文庫の章より引用 (第119代 光格天皇より第117代 後桜町上皇に宛てた宸翰・現代語訳)寛政11(1799)年 (後桜町上皇)仰せの通り、仁君は仁を本といたし候事、古今和漢の書物にも数々これある事・・・(中略)・・・仰せの通り、何分自分を後にし天下万民を先とし、仁恵、誠信の心、朝夕昼夜に忘却さぜる時は、神も仏も御加護を垂れ給ふ事、誠に鏡に掛けて影をみるがごとくにて候。・・・(中略)・・・御厚意御念、此の御書付、実に実に有りがたく有りがたく存じまいらせ候。 (昭和天皇、宮内記者の質問への返答)昭和52(1977)年8月 国体というものは、日本の皇室は、昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであります。・・・(中略)・・・また(歴代天皇も)国民を我が子と考えられてきたのであり、それが皇室の伝統であります。・・・(中略)・・・日本の皇室は、世界の平和と国民の幸福を祈っていると言うことでは、昔も今も変わっていないと思います。 ■「国民(くにたみ)を治らす(しらす)」~天皇統治の本義とは何か 災害を見舞われる天皇皇后両陛下(写真) 「しらす」(治らす=知らす、「しる」の尊敬語)とは、国民の事情を知ること。(西洋的な「国民を支配する」概念とは完全に別個) 初代天皇(神武天皇)の諡号は「ハツクニシラススメラミコト(初めて国を「知らす(治らす)」天皇)」 皇室のあり方を体現された仁徳天皇 ■天壌無窮の神勅~日本書紀の伝える天皇統治の起源 天照大御神から国を「しらす」ご命令を受けて天下った皇室のご祖先 神武天皇のご即位 天壌無窮の神勅にみる予定説http //d.hatena.ne.jp/jinkenvip/20070105/1167993109 ■祭祀と統治の聖なる統合 古代においては、世界のあらゆる民族/国家において、祭事(まつりごと)は政事(まつりごと、政治)であった。 日本においては、この古代の祭祀と統治の統合の伝統が、現代も脈々と受け継がれている。 権力と権威の分離の伝統 ■皇室の起源と歴史について 神武即位紀元の由来(辛酉革命説) 欠史八代の実在性 戦後のマルクス主義(唯物史観)派の王朝交代説を排す 上記3項目は、歴史問題の基礎知識を参照して下さい。 昭和21(1946)年元旦の「新日本建設に関する詔書」(所謂「人間宣言」)の誤解を解く ■参考リンク 竹の間~竹田恒泰氏(旧皇族竹田宮家)ホームページ 人間宣言と木下道雄
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あらゆるルール、わけても法的ルールは、主権者と呼ばれる主体によって、意図的に設定されたものである、あるいは、あらゆる法は、主権者の意志の表出である、と考える法の主権者意志説は、主権者の権力の無制限を帰結した。 多数者としての大衆が主権者の高みにある今日においては、これは、多数者大衆に無制限の権力を委ねることに等しい。 しかし、総ての(法的)ルールを主権者が意図的に設定することなど、果たして可能なのであろうか。 あるいは、如何なる(法的)ルールによっても制限され得ない主体など、果たして存在し得るのであろうか。 ハイエクは、この問いに対して、如何なる行為、あるいは、如何なる主体と言えども、何等かの先験的なルールあるいは形式に従うことによって、始めて行為あるいは主体足り得るという議論を以て答える。 すなわち、ハイエクは、あらゆる行為(主体)は、カントの言う先験的カテゴリーに類似した、先験的なルール(あるいは形式)を前提することによって、始めて存在し得ると言うのである。 ハイエクによれば、あらゆる行為は、あるカテゴリーに属する行為の当否を決定する一般的なルールが、無数に重ねあわされることによって、特定されたものである。 言い換えれば、ある特定の行為は、ある一般的なクラスに属する行為の是非を判定する抽象的なルールが、幾層にも積み重ねられることによって、構成(constitute)されるのである。 従って、ハイエクの言う抽象的なルールは、具体的な行為に常に先行し、行為を行為足らしめるという意味において、それを構成するものである。 すなわち、ハイエクの言う抽象的なルールは、カントの意味において、まさに先験的なのである。 この意味において、ハイエクは、紛れもないカント主義者であると言えよう。 ハイエクは、ある特定の具体的な行為が、一般的、抽象的なルールの重ね合わせによって構成されるとする彼の主張を、抽象的なるものの優位性(primacy of the abstract)と呼んでいる。 抽象的なるものは、具体的なるものから、主体的な行為によって、作成されたものではなく、むしろ、主体的な行為をも含む具体的なるものこそが、抽象的なるものによって、そのものとして構成されると言うのである。 言わば、ハイエクは、あらゆる行為を、何等かの抽象的なルール群によって構成された、社会的なゲームの具体的な遂行であると考えているのである。 従って、あらゆる行為は、社会的なゲームを構成する先験的なルールを前提として始めて存在することになる。 しかし、ハイエクは、具体的な行為に対する抽象的なルールの先験性を主張するからと言って、必ずしもカントの議論の総てを引き受ける訳ではない。 ハイエクにとって、先験的なルールは、決して絶対的なものではあり得ない。 前章で見たように、ハイエクの言うルールは、行為の持続的な遂行を通じて生成され、また、経験的に遂行されていること以外には、それに従うべきいかなる根拠も持ち得ない、相対的なものである。 すなわち、ハイエクの言うルールは、行為の歴史的あるいは地域的な遂行に相対的である、遂行的な秩序なのである。 ここで、行為の持続的な遂行にのみ根拠を持つルールが、何故、行為を先験的に構成し得るかという疑問が、当然、生じて来ると思われる。 行為によって生成されるルールが、何故、行為を構成し得るのか、まことに当然な疑問である。 しかし、この問いに答えることは、本節の後半まで、しばらく預けて置くことにしよう。 ここでは、行為を構成する先験的なルールの存在が、法の主権者意志説に現れている主体主義あるいは個体主義に対して、いかなる含意を持ち得るかを、まず検討してみたい。 さて、ルールの、行為の当否を判定して、行為の秩序を構成するという側面を、その規範的(normative)な側面と呼ぶことにする。 すなわち、ルールは、暗黙的な側面とともに規範的な側面を持つ秩序なのである。 ところで、ルールが存在すると言うことは、行為に何等かの秩序が存在すると言うことに外ならないのであるから、ルールの存在と、ルールに行為が従うことによって形成される自生的秩序の存在とは、実は、同じ一つの事態に外ならないと言い得る。 自生的秩序は、ルールの構成する社会的なゲームであると見なし得るので、これは、あるルールの構成するゲームの記述と、あるゲームを構成するルールの記述とが、同等である、と言うに等しい。 従って、ルールが、規範的な側面を持つということは、取りも直さず、自生的秩序もまた、規範的な側面を持つということに外ならないことになる。 すなわち、自生的秩序もまた、暗黙的であるとともに規範的でもある秩序なのである。 言い換えれば、自生的秩序は、行為の内に黙示され、行為の意識的な対象とななり得ない秩序であるとともに、行為の外に前提され、行為を規範的に拘束する秩序なのである。 このような、ルールと、それに行為が従うことによって形成される自生的秩序とに、規範的な側面が存在することの主張は、たとえば法の主権者意志説に対して、いかなる含意を持っているのであろうか。 あらゆる行為には、その行為を行為として発効させる、先験的なルールが前提されるのであるとすれば、主権者による法の制定という行為もまた例外ではあり得ない。 すなわち、主権者による法の制定もまた、(主権者自身の制定に因らない)何等かのルールに従っている筈である。 この意味においては、主権者と言えども、なるほど無制限ではあり得ない。 しかし、この意味において主権者を拘束するルールは、たとえば、法は言語によって記述されねばならず、法の制定は言語のルールに従わねばならない、といった極めて抽象的なレベルのルールを含むものである。 従って、この意味におけるルールに、何の限定も加えないとするならば、なるほど、主権者は何等かのルールによって制限されてはいるが、法的には全く無制限である、ということにもなりかねない。 たとえば、日本語で立法しさえすれば、いかなる法でも立法し得るといった具合である。 すなわち、主権者を制限するルールが、実質的な意義を持ち得るのは、あくまで、それが法的なレベルにおけるルールである場合なのである。 それでは、主権者の立法に先行し、主権者の立法を制限する、法的なルールとは、いかなるルールであるのか。 それは、主権者が意図的に設定する(法的)ルールを、(法的)ルールとして妥当させる理由あるいは根拠となるルールである。 すなわち、主権者の法を制定する際に従うべき手続きや、主権者の制定する法の充たすべき一般的な内容といった、法が法として発効するための要件を規定する(法的)ルールによって、主権者は制限されるのである。 このようなルールは、言語によって記述された憲法をもちろん含み得るが、決して、それに留まるものではあり得ない。 何故なら、このようなルールは、書かれた憲法のように、主権者によって意識的に制定されたものではありえないからである。 すなわち、法の主権者意志説が主権者の無制限を帰結することの対偶を取れば明らかなように、主権者を制限し得るルールは、主権者によって設定されたものではついにあり得ないのである。 主権者を制限し得る法的ルールは、主権者の意図的に設定したものではないとすれば、主権者の遂行的に従っているそれ以外にはあり得ない。 すなわち、主権者の、その行為において、慣習的に遂行しているルールこそが主権者を制限し得るのである。 言い換えれば、主権者の行為は、自らの遂行的に従う、慣習的なルールを根拠にして始めて、主権者の行為として法的に発効し得るのである。 従って、この場合、主権者の遂行的に従うルールが、その行為を規範的(あるいは先験的)に構成するルールに転化していることになる。 しかし、このような、遂行的なルールの規範的なルールへの転化の問題は、本節の最後で取り上げることにする。 ここでは、主権者の行為を法的に発効させる根拠となるルールによって、主権者が法的に制限されるという事態が、あらゆる法的なルールは主権者によって意図的に設定されたものであるとする、法の主権者意志説を、真っ向から覆すものであることを確認しておきたい。 すなわち、主権者の行為を(法的に)構成するルールの存在は、主権者の無制限を帰結する法の主権者意志説とは、決して両立し得ないのである。 言い換えれば、法の主権者意志説に現れた主体主義あるいは個体主義は、主体あるいは個体それ自体を構成するルールの存在によって、その理論的な貫徹を、阻止されざるを得ないのである。 このような、主権者の行為を制するルールを、ハイエクは、(法的)ルールが(法的)ルールとして妥当するために充たすべき一般的な条件についての、世間一般の意見(opinion)と呼んでいる。 言い換えれば、主権者は、世間一般の意見によって制限されるのである。 ハイエクの言う、世間一般の意見は、世間一般の意志(will)とは明確に区別される、かなり独特な概念である。 すなわち、世間一般の意志が、たとえばルールの可否をめぐる投票などによって、意識的に表出されるのに対して、世間一般の意見は、主権者の設定したルールがルールとして実際に従われるか否かによって、遂行的にのみ示されるのである。 従って、主権者の制定する法は、世間一般の意見によって拒否されない限りにおいて、法足り得ることになる。 今日においては、多数者大衆が主権者なのであるから、世間一般の意志と主権者の意志は一致していると考えてよい。 この場合、世間一般の意志によって設定されたルールと言えども、世間一般の意見によって拒否されるのであれば、ルールとしては発効し得ないことになる。 すなわち、世間一般の意見は、世間一般の意志をも制限し得るのである。 この意味において、ハイエクのいう世間一般の意見は、アナール学派の言う集合的心性(mentalite)に、かなり近しい概念である。 何故ならば、いずれも、行為を規範的に限定し得るとともに、自らは遂行的にのみ存在し得る、集合的な精神の秩序に外ならないからである。 それでは、本節の前半で残して措いた問題を取り上げることにしよう。 すなわち、行為の持続的な遂行の意図せざる結果として生成されるルールが、何故に、行為を先験的に構成する規範たり得るのか、という問題である。 あるいは、この問題を、自らに従う行為の持続的に遂行されていること以外には、いかなる根拠をも持ち得ないルールが、何故に、行為の社会的に発効し得るか否かを決定する根拠たり得るのか、と言い換えてもよい。 すなわち、この問いは、行為の発効し得るか否かを決定する根拠それ自身が、行為の結果として生成されるということに、果たして何の矛盾も生じ得ないのか、という疑いから発せられているのである。 このような疑いには、充分な根拠がある。 何故ならば、もし行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるとするならば、行為の有効/無効を決定するのは行為自らである、という事態が生じ得るからである。 たとえば、「私の決定(行為)は無効である」と私は決定(行為)する、といった事態が生じ得るのである。 このような事態は、明らかにパラドックスを孕んでいる。 すなわち、もし、「私の決定は無効である」という私の決定が有効であるとするならば、私の決定は無効であることになり、逆に、「私の決定は無効である」という私の決定が無効であるとするならば、私の決定は有効であることになる。 従って、このような事態においては、私の決定の発効し得るか否かを決定することは、論理的に不可能となるのである。 このパラドックスは、いわゆる自己言及(self-reference)のパラドックスと同型のパラドックスとなっている。 すなわち、自己の決定の発効し得るか否かは、自己自身によっては決定不能であるという事態は、自己言及による意味の決定不能性と同型の構造を持っているのである。 従って、行為の有効/無効は、行為自らによっては決定し得ないのであるから、行為の発効し得るか否かを決定する根拠が、行為自らによって与えられるような状況においては、行為の社会的な効力など、全く決定不能であるように考えられる。 すなわち、行為の社会的な発効の条件を規定するルールが、行為の持続的な遂行の結果として生成されるという状況においては、行為の社会的に発効し得るか否かは、ついに決定し得ないように思われるのである。 しかし、このような帰結が導かれるように見えるのは、実は、行為の発効し得るか否かを決定するルールを、行為自らによって意図的に設定(決定)し得ると考えているからに外ならない。 すなわち、行為の発効条件を規定するルールを、決定や制御や言及やといった行為の意識的な対象となり得ると考えるが故に、行為の発効し得るか否かを、行為自らが決定するという事態が生じているように見えるのである。 言い換えれば、ルールが行為の意識的な対象として(意図的に)設定されるという事態であると見なすが故に、行為の有効/無効を行為自らが決定しているように見えるのである。 従って、行為の有効/無効を決定するルールが、行為の結果として生成されるにも拘わらず、行為によって意図的には設定(決定)し得ない事態であると考えるならば、この問題(自己言及の非決定性)は、ひとまず解消することになる。 すなわち、行為の社会的な効力を決定するルールが、行為の持続的な遂行の結果であるにも拘わらず、行為の意識的な対象とはなり得ないという意味において暗黙的であるならば、行為の発効し得るか否かは、ひとまず決定可能となるのである。 言い換えれば、ルールが、行為の有効/無効を、とりあえず決定し得るとするならば、それは、ルールが、暗黙的であるからに外ならないのである。 以上の議論から、遂行的に生成されるルールが、にも拘わらず、行為を規範的に拘束し得るとするならば、それは、ルールの暗黙的である場合に限られることが明らかになった。 言い換えれば、行為が、自らを行為として発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬとするならば、そのようなルールは、暗黙的たらざるを得ないのである。 ここで注意すべきは、この、行為が自らを発効させるために、何等かのルールに依存せねばならぬ、という(次々節で行為の文脈依存性と呼ばれることになる)命題は、ここでは単に仮定されているだけなのであって、何の論証も為されている訳ではないということである。 すなわち、ここでは、行為が自らの発効をルールに依存していることが、とりあえず仮定されるならば、そのようなルールは暗黙的であることが帰結される、という議論をしているのである。 従って、行為は自らの発効をルールに依存しているのか否かという問いが、また改めて問われねばならない。 しかし、この問いを問うことは、次節以下に委ねたい。 ここでさらに注意すべきは、行為の発効を根拠付けるルールが、たとえ暗黙的であったとしても、いわゆる自己言及の非決定性が、完全に解消する訳ではないということである。 なるほど、行為の有効/無効を決定するルールが、行為自らの言及(決定)対象とはなり得ないとすることによって、行為の発効し得るか否かは、確かに決定可能となった。 しかし、そのことによって、ルールそれ自体は、自らの有効性あるいは妥当性を決定し得る、いかなる根拠をも与えられるわけではない。 何故ならば、ルールそれ自体の妥当性を、(行為ではなく)ルールに根拠を置いて決定することは、明らかに自己言及のパラドックスを引き起こすからである。 従って、ルールそれ自体の妥当し得るか否かは、依然として決定不能なのである。 言い換えれば、行為の有効/無効を決定するルールが暗黙的であるとすることによって、行為についての(自己言及の)非決定性は、確かに解消されたのであるが、それは、(自己言及の)非決定性を、ルールについてのそれに、ただ先送りしたに過ぎないのである。 あるいは、ルールが暗黙的であるということは、取りも直さず、ルールそれ自体の妥当性が決定不能であるということに外ならない、と言い換えてもよい。 すなわち、ルールの暗黙性とはその自己言及性に外ならないのである。 いずれにせよ、自己言及の非決定性は、行為についてのそれからルールについてのそれへと、そのレベルを変更しただけであって、パラドックスそのものは、少しも解消していない。 自己言及性は、(次々節に述べる文脈依存性と共に)人間とその社会にとって、ついに逃れ得ない、言わば運命的な特質なのである。