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521 名前:通常の名無しさんの3倍 :2015/04/28(火) 21 43 05.47 ID RRzI5pmz0 いや、身を崩すような散財とか、今後の生活に備えての貯蓄を崩してとかならともかく 自由に使えるお金なら、多いに使って構わないと思うけどな。経済も回るし>セイ ドモン マオ「京セラの稲盛会長なんてポケットマネーでサンガのスタジアム建てるゆーてくれましたのに 京都政財界が伏魔殿なせいで亀岡まで撤退して、さらに謎の団体が急に声を上げて反対運動が……」 522 名前:通常の名無しさんの3倍 :2015/04/28(火) 23 01 31.55 ID 1CGeGWrU0 フリット「ありとあらゆるスポーツでやらかす修羅の国:福岡に比べれば……」 ルナマリア「あの国で成功する孫さんパネェわよね」 523 名前:通常の名無しさんの3倍 :2015/04/29(水) 02 35 54.95 ID aHLlTrhE0 シン「フリットとルナに繋がりがあったなんて意外だな」 フリット「ネオ福岡にはレベルファイb…もといアスノ家の工房があるからね」 ルナ「ホーク家は南海の頃からのホークスファンよ」ドヤッ フリット「たまに年配の人と喧嘩してるよね……西鉄ライオンズのファンの」 ルナ「ネオ福岡はもうホークスの勢力下なんだから、いつまでもライオンズにデカい顔されたくないわよ」フンス シン(同じことをハリーさんが言ってたなぁ……) ルナ「っていうかフリット君は福岡から帰るときにお土産で明太子買うけど、私はふくやよりやまやの方が美味しいと思うのよね」 フリット「ええ~!?味覚まで外れだしたの、ルナマリアさん!ふくやこそ博多めんたいの始祖にして王道でしょ?」 ルナ「最初の人が偉いってんならコーディネーターなんて要らないわけよ。青は藍より出て青しっていうでしょ?」チッチッチ シン(ルナが慣用句を使いこなしているなんて……!?!) フリット「もう生粋の博多っ子と言っても過言ではないぐらい頑固だね。朱に染まれば赤くなるっていうか……」ヤレヤレ ルナ「フリット君だって手榴弾を道に落としてもスルーするぐらい福岡に馴染んでるでしょうが!」 フリット「福岡で手榴弾を落とすってことはね、コンビニでビニ傘を傘立てに挿すようなものなんだよ! 挿した時点で誰に盗まれても仕方ない、いわば公共物になるわけで、手榴弾もまた然りなのがネオ福岡のルールなんだよ!」 ルナ「はいはいわかったわかった。じゃあ間とってお土産は博多通りもんってことにしましょ!」 フリット「む~!!」 シン(しかし3つも離れてるのに普通に話してるなぁ。ルナが幼いのか、フリットが大人びてるのか…… そういえばアムロ兄さんにシャア社長が"姉女房は身代の薬"だとか"姉さん女房は金の草鞋を履いてでも探せ"とかいうって 滔々と語っていたっけ。意外とルナとフリットも……) フリット「あーだ!」 ルナ「こーだ!」 壁| エミリー <●> <●> …… ユリン <○> <○> …… メイリン「自分のフラグが目の前でベキベキ折れていることに気づいてないお姉ちゃんと彼女たち 一体どっちが不幸なんだろう……」 レイ「気にするな。俺は気にしない」
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評価と贈与の経済学 自分の気持ち至上主義 岡田氏によれば、私たちは戦後民主主義のもと、「自分の気持ちを大切に」、「自分らしく生きなさい」と教わり続け、障害を乗り越えて自分の気持ちや自分らしさを貫き通す生き方を「カッコいい」、「美しい」と感じる価値観を刷り込まれて育ってきた。つまり、行為を「自己決定」するに際して、「自分の気持ち」を至上の判断基準とするような、生きる上での態度(エートス)のことです。 情報社会の現代では、この世界にはたくさんの人がいて自分はその中のちっぽけな一個人にすぎないんだということに、誰もが嫌でも気づかされる。そしてそのことによってかえって唯一無二の自分の個性を、気持ちを大切にしようという「自分の気持ち至上主義」が立ちあがってくる、というのだ。これは自 分の気持ちに現実を妥協しないということであり、ひと言で言ってしまえば、みんなわがままになってしまったってことを意味する。 昔は貧しかったから、自分が「何が好きだ」とか「やりたいことを探す」よりも、生きるためにさっさと一人前になることが大事だった。豊かになると、やりたいことをやるのが幸せなことだと考えられるようになって、それで「自分の気持ち至上主義」になってしまった。 「気持ち」というのは常に変化を続けながら、苦痛を避けて快楽を求めようと動くものなので、それを満足させ続けようとするのであれば、「気持ち」を喜ばせる新鮮な「刺激」を、不断に与え続けるしかありません。 要するに、「自分の気持ち至上主義者」は、最終的には「刺激ジャンキー」になるほかはないわ けですが、それで一生を満足して過ごすことができるのは、「気持ち」に(刺激という)「ドラッグ」を与え続けることに成功した、ごく一部の人たちだけなの であって、多くの人たちは、「気持ちいいことが幸福であり、よいことである」という意識だけはもちながらも、実際にはそれが達成できないことも多いですか ら、むしろ多くのフラストレーションを抱えながら、日常を過ごすことになりがちです。
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「ファン」というのは、対象が好きでたまらないという、主観的な状態。「マニア」というのは、対象そのものよりもそれに対する研究や収集にのめり込んでいる、客観的な状態。「オタク」とは、対象が自分にとってどういうものなのか、対象と自分との関係を考えて再配列できるところまで振り切った状態である。「オタク」は茶道や華道のような「道」に近く、絶対的な正解はない。独自の視点から導き出した「通の目」を整理し発展させていく、自己求道のような修行の過程である。 「オタク」にとって、作品とは語るものである。自分にとって対象とはいったいなんなんだろうと考えることだ。その評価基準を形成しているのは、観察者が属している文化的バックグラウンドである。自分が対象とであったときに、どう感じたのか。対象と自分の間に横たわる、感じ方を決定するバイアスについて探っていくことが批評である。音楽や映画などの作品インタビューにおいて、僕らはついつい正解を求めてしまう。つまり作者と作品の関係の中に僕らが理解すべきメッセージが詰まっていると思いがちであるが、それは違う。正解というのは、「対象と観察者」の間に存在するのだ。映画にしろゲームにしろマンガにしろ、もともと何かを体験するというのは大変孤独なことだ。その作品と自分との間に発生した感動は誰とも共有できない。年代や性別や家庭環境や経験によって、人それぞれ受け取るメッセージは違うからだ。批評というのは、この耐えられない孤独を解消するために感動を言語化し、他人に情理を尽くして共有しようという行為なのだ。 スマートノート 私は大学のときからメモをつけていました。議論の際はポケットからメモを取り出して書きながら話をしていました。
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こなたがそんなことを言い出してきた理由は、ななこにはわからなかった。 ネットゲームでのチャットでの会話だから『言う』という表現は正しくないだろうが、とにかく こなたの話は唐突だった。 《先生、花売りやらない?》 《アホか!やるわけないやろ》 花売りとは、代価――大抵はゲーム内の通貨を支払うことでチャHの相手をする商売行為のこと である。こなたがそんなことをするところなど全く想像できなかったのだが……。 《まさか泉はリアルでやろうとか考えてへんやろな?》 ななこ自身はそんなことをやろうとは思わない。たとえネット上とはいえ売春行為のようなもの だし、教師という立場上、生徒のそのような行為を看過できない。リアルでやるとなればなおさらだ。 《そんなことするわけないじゃないですか》 ほっとした次の瞬間、さらに一行。 《先生はわたしがそんなことすると思ったんですか》 《思うわけないやろ》 《じゃあなんで聞くんですか?私のこと信じてないんですか》 今日はやけにつっかかるな……そんなことを思いながらも、誤解を解くためにタイプを続ける。 《信じとるよ。けど確認せなあかんやろ》 《ほんの冗談じゃないですか》 《冗談でもそんなことは言うたらあかん》 《だったら先生だって変な疑いかけないでください》 《信じるために疑わないとあかんときもあるんや。何の根拠もなく信じるのは馬鹿のやることや からな。泉がやってないって言うんならウチはそれで信じるよ》 口で言えばすぐにすむだろうに、タイピングだとそれ以上の時間がかかってもどかしい。そもそも こんな変な冗談を言ってごねるこなたなど、げんこつをくらわせてやればそれで終わりなのだ。 しかしチャットでは言葉以外のニュアンスが伝わらないし、げんこつなどできやしない。 《それって変じゃないですか》 《発言は疑わないとあかん。でも泉のことは信じとるよ》 人の道を説くのが教師の務めとはいえ、こんな青春ドラマのような台詞を書かされて、なんだか むずがゆかった。柄にもない発言の数々に、急に恥ずかしくなる。 《それに疑われたくなければ変なこと書かなければええやろ》 とりあえずななこは軌道修正をはかった。これ以上青春ドラマはやりたくない。 《いえですね、先生が花売りするなら私が買いたいと思って》 は? モニターに映し出された文字の意味を理解するのにかなりの時間を要した。 《先生だったら相場の倍を出しても》 《アホ!いい加減にせんかい!!》 さっきの間を、花売りに応じるかどうか迷っているのと勘違いされたらしい。 《冗談でもやめろ言ったやろ》 こんなことを要求してくることと、自分がこんなことをやる人間だと思われていることに無性に 腹が立った。目の前にこなたがいたらげんこつ一発ではすまなかったかもしれない。 《私は先生としたいんです。冗談じゃなく》 本気か? 自分と同じようにパソコンに向かっているはずのこなたの真意はここからではわからない。 しかしつい数十秒前にこなたの言うことを信じると言ったのは、他でもないななこだった。 《先生のことを考えると今でもこんなに》 こんなになんだろう。頭の中で想像が一人歩きする。それなりに歳を重ねたななこには、それなりの 知識がある。その知識の出所がレディコミだったりするのだが。 《濡れてるんです》 そしてこなたの言葉が示す内容は、ななこの想像と何ら変わらなかった。 《先生、好きです》 今度こそ冗談。理性がそう判断したのに、何かに胸を打たれたような気がした。 《先生、そんないきなり…ああ!》 《コラ勝手に始めんな!》 《おっぱいいいです!もっとやってください!》 ななこの突っ込みを完全に無視して、こなたはチャHを続行する。モニターの無機質なはずの 文字列を眺めると、こなたの痴態が想像の中に現れた。 《舐めるの気持ちいいです… あっ!吸うのも好きです》 ななこは自分がこなたの乳首を舐め、吸っている様を想像した。それに敏感に反応したこなたは、 色っぽいあえぎ声をあげる。 《ブラはとってください。直接がいいです》 どうやら今までブラはつけていたらしい。慌てて脳内のこなたをブラをつけている姿に修正して、 それを脱がすことにする。全く膨らんでいない胸に、小さな桜色の突起が申し訳程度についている。 《揉んでください。強くしてもいいですから》 想像の中のこなたは、瞳を潤ませて乞う。顔立ちも体型も子供そのままで、保護欲をそそられる姿。 それを悦楽でめちゃくちゃにしてしまいたいという情欲が、胸の奥で燃え上がっていた。 《ええよ、ムチャクチャにしたる》 もう、後戻りはできなかった。 《小さいなぁ。ウチが大きくしたろか》 《言わないでください。これでも気にしてるんですよ》 そんなことはお構いなしに、こなたの胸をもみしだく。 《そんなこと言っても気持ちええんやろ?》 《あん、んっ…気持ちいいです》 こなたはしっかり感じてくれている。ならばもっと気持ちよくさせてあげよう。 《もっと気持ちよくせなあかんな。ほら、下脱ぎや》 《はい》 《全部脱ぐんやで》 《はい》 想像の中のこなたは、羞恥に顔を真っ赤に染めながらも、従順だった。ゆっくりスカートを下ろし、 下着を下ろす。 《手で隠したらあかん。ちゃんと見せるんや》 《はい》 下着を下ろすと、そこにはスリットがあった。こなたは恥ずかしがりながらも、それをこちらに 晒している。こちらに向ける視線には抗議の色が混じっていたが、それが嗜虐心を燃え上がらせる。 あの生意気なこなたが、若干反発しながらも、こんな恥ずかしい要求を受け入れてくれるのだ。 《まずは指一本でいってみよか》 こなたの敏感な割れ目に、そっと指を挿しいれる。 《んっ》 感度は良好。なかなかいい具合だった。 《ほな動かすで》 《はい…はぁ、ああ!》 こなたがななこの指で感じている。などけない子供のように見えるこなたが感じている。 《二本でいくで》 指を増やすと、こなたの反応も大きくなる。いつもはやる気のなさそうな目は、今では快楽に 染まりきっていて遠くを見つめている。小憎らしい笑みを作る口も、今は喘ぎ声をあげるために だらしなく開かれている。 《幼児体型なのにこんなに濡れとるんやな》 《あ、だめ、気持ちよすぎです!》 《もっと感じさせたろ。クリも一緒にやったるで》 満を持して女の子の一番敏感な部分への攻撃を始める。最初は優しく、徐々に強く。 こなたの喘ぎ声は、その声量の限界まで大きくなる。もはや目は焦点があっておらず、そこから やってくる快感を受ける以外の、全ての行動を体が放棄していた。それでもななこの攻めはゆるむ ことなく、容赦なくこなたを絶頂へと追い込む。 《そろそろいくで》 指使いをさらに激しく。一切の遠慮はない。 《だめですいっちゃいます!!!!!》 そこでこなたの理性は決壊した。こなたはななこの指使いに耐え切れず、叫び声とともに絶頂を 迎えた。ようやくななこの指はこなたを解放し、こなたの体を休ませてやった。あとにはこなたの 荒い息遣いの音だけが響く。――そんな妄想。 ――な、何をやっとるんやウチは! 行為を終えたあとのななこは、得体の知れない罪悪感に押しつぶされていた。チャHという行為 自体に抵抗があったのだが、その相手がよりにもよって高校生、それも自分の生徒であり、同性の こなたなのだ。それを想像の中でとんでもないことをしてしまった。一人エッチをしたあとの罪悪感 など比べ物にならない。 こなたはさっきのやりとりが終わってから一言も発していない。仮にも教師であるななこがこんな ことをしてしまったのだから、何も言えなくなるのも当然かもしれない。 と思いきや、突然会話が再会した。 《すいません待たせちゃいました》 レスがあったことに少し安堵しながらも、このあとの会話を思うと気が重い。なんと言えばいい のか、見当もつかない。 《ちょっとまどろんでたあと、手を洗っていたんで。もしかしたらお父さんに声聞かれちゃったかも》 《ほんまにしたんか!?》 ますます恥ずかしくなってきた。モニターを前にこなたが一人エッチに耽っているところを、 再び想像してしまった。 あかんあかん。頭を振っても、想像の中のこなたは消えてくれない。 《いや泉、これはいろいろまずいやろ》 《こっちからもしちゃいます》 二人の書き込みはほぼ同時、よって会話は成り立っていないが、こなたの言葉がもたらした衝撃は、 そんな些細なことなどどうでもよくなるほど強烈だった。 《こっちからって》 《脱いでください。まずは上だけ》 これ以上続けるべきではないとわかっていた。それでもこなたの言葉に、これから起こることの 誘惑に逆らえず、素直に上着を脱いだ。 《ブラも脱ぐんか?》 《脱いでください》 むしろ積極的になっている。馬鹿だ。理性が語りかける反対意見はだんだん小さくなっている。 これから胸に何をされるか、それで頭が一杯になる。 《大きいですね。ずるい》 《大人はこんなもんや》 《こんな胸は揉んじゃいます。まずは右!》 ななこは自分の左手をキーボードから離して、自分の右の乳房を揉んだ。 《うりゃうりゃ!もっと揉んでやれ》 《まって激しすぎや》 片手のタイピングの遅さにいらだちながら、自分の胸を揉むという行為に没入していく。 《でも乳首立ってるじゃないですか》 言われたとおり、乳首が立っていた。 《突いちゃいます》 指先で乳首を突く。 「あっ、あかん」 胸の先にこみ上げる快感と同時に、喘ぎ声がこみあがってきた。 《感じてますか?》 レスがないことにこなたが不安になったのだろうか。いや、こなたは嬉々として自分を攻め立てて いるはずだ。 《感じとるやばい》 《それじゃもっとしつこくいっちゃいましょう》 ななこは左手もキーボードから離して、両手で自分の乳房をいじり始めた。掌で乳房を包んで、 円を描くように優しく揉む。始めは優しく、そしてだんだんと激しく。それは自分自身で何度も 繰り返した行為であった。 乳房を揉んでいるのが、想像の中のこなたに置き換わる。すると、急に羞恥心と快感が増して きた。今、ななこにこんなことをしているのはこなたなのだ。 「泉、もっと激しく……」 《もっと激しいのがお好みなんですね》 大人なりに成熟した乳房を、こなたは激しく揉んでくる。そんなに激しくしてくるのは自分に それがないための妬みかもしれない、などと思いながら、今ではそれがありがたかった。 「あっ、ああっ、はぁ……」 息が荒くなっていく。少しずつ高いところに登り始めていた。 《乳首をせめるのを忘れちゃいけませんね。摘んじゃいましょう》 揉みしだく動きを維持しながらも、その指で乳首を摘む。こなたの攻めはねちっこく、そこに もたらされる性感は今までの一人エッチとは確実に違っていた。 《そろそろいいですね。全部脱いでください》 胸への刺激をやや名残惜しく感じながらも、素直にこなたの指示に従う。 《脱いだよ。早く》 タイピングがじれったくて雑になる。早くこの先を味わいたい。 《私がどんなに感じていたか教えてあげます。まずは指一本で》 こなたの趣味ならもっと下品な表現を使うかもしれないが、こういったチャットでは一部の単語 ――例えば女性器の名称などはNGワードになっている可能性が高い。 それを少し残念に思いながら、人差し指をゆっくりと入れた。下腹部に痺れるような感覚が やってくる。 《もう濡れてますね。いきなり激しくやりましょう》 こなたの指はいきなりななこの中の一番感じる部分を探り当て、激しく攻め立てる。そう、この 指はこなたの指なのだ。 「あかん、いきなり、そんな」 ななこの濡れそぼったところに指を入れているのは、こなた。ななこを攻めるこなたの表情は、 さっきまでななこの指で乱れきっていたこなたとは正反対の、むしろ普段どおりの少し意地の悪い 笑みを浮かべるあどけない少女だった。そんな年端も行かない少女に好きなようにされてしまって いることに、今までに経験のない感覚と感情が胸にやってきた。 その感覚を言葉で表すなら背徳感だろうし、感情を言葉で表すなら――認めたくなかった。 こんなことがきっかけで恋愛感情が芽生えたなんて。それでもこなたの指は一切の容赦をしない。 こなたがこんなにも感じさせてくれている。こなたを思うと快感が何倍にも高まる。 《やばいウチ感じとる》 《もっと感じてください。指増やしちゃいます。クリちゃんも舐めますよ》 その言葉を待ちわびていた。ななこは指の本数を増やして、同時にクリトリスを刺激する。 普通はゆっくり刺激していくはずのその部分は、十分すぎるほどの性感が高まっていているせいで すでに勃起しきっていた。 「あうっ!泉、やりすぎや!」 ゆっくり、などという余裕もなく、いきなり最大級の刺激が送られる。愛液で濡らしておいた 指でもかなり急激なものだった。 それでもこのクリトリスはこなたが舐めている。こなたがやってくれているのだから、全てを 受け入れてやらなければならない。 《もっとはげしく!!!》 むしろさらに強い刺激を求める。こなたは指での中への攻撃と舌でのクリトリスへの攻撃を 器用に両立している。もっともっと、こなたはいくらでも自分を感じさせてくれる――はずなのに。 《だめです》 ななこにとって、あまりに残酷な仕打ちだった。ここでやめさせられるなんて。 《あかん。お願いやから最後まで》 慌ててキーボードを打って懇願する。キーボードが汚れることは気にならなかった。 《私のこと好きって言ってください。そしたら最後までやってあげます》 《好きや。愛してる》 《いいんですね。冗談じゃないんですよ》 《ウチも本気や。愛してる》 必死だった。ここで手放したくない。その想いだけでひたすら訴える。もしここにこなたがいる なら、抱きしめてキスしてあげたいのに。 《その言葉、忘れないでくださいね。ほら、クリちゃんに欲しいんでしょ》 ようやく再開してくれた。好き。愛してる。もっと、何でもいいからこなたとのつながりを示す 言葉が欲しかった。 「泉、好きや。好きやからっ!」 こなたはななこの最も望むところを的確に感じ取って攻めてくる。こなたには全て見透かされて いる。だから、こなたが与えてくれるこの感覚は何者にも換えがたく…… 《好きやからもっと》 《はい。イかせてあげます》 こなたの攻めが最終段階に入った。もうななこには一分の躊躇いもない。 「泉、いずみぃ!」 《イってください。激しくイっちゃってください》 「ん、んぁっ、ふあっ、も、もうあかん!!」 もう耐えられない。こなたの全力に晒されて、もう耐えられない。一気にそこまで上り詰める。 その先は、今まで感じたことないくらいの高いところで―― 「い、いずみ、いく、ウチ、いくぅーーーーーーっ!!!」 自分の指でイった。否、こなたの指と舌でイかされた。 しばらくの間――十分か二十分か――ななこは余韻を味わったまま、放心状態だった。こなたは いつのまにかログアウトしており、自分の恥ずかしい液体に濡れた椅子とキーボードが現実を 思い知らせた。 その翌日、まともにこなたを見ることができなかった。ホームルームでちらりちらりとこなたの 様子を見ても、全く変わったところはなかった。幸か不幸か、この日はこなたのクラスの授業が なく、昼休みもこなたが見つからず、まともに話をするのは放課後まで待たされることになった。 「先生、目が怖いですよ」 進路指導室に呼び出されたこなたは、昨日のことなどなかったかのように堂々としていて、 それがななこには腹立たしかった。こっちは今日一日悶々としていたというのに。例えばホーム ルームで生徒全員の前で昨日の件を言い出すんじゃないかとか、内心ヒヤヒヤしてもいたのだ。 「泉、昨日のあれはなんや」 正確には、件のチャットは十二時を過ぎたあとのことであり、『今日』の出来事である。二人とも わざわざそんなことにつっこんだりはしない。 「チャットH、略してチャHです」 「堂々と言うな!」 げんこつを一発。チャットでは二回はげんこつしてやりたいと思ったのだから、あともう一回 くらいはしてもいいだろう。 「ウチが聞いとるんは会話の内容のことや」 「先生寝落ちしてましたよね。まさか本当にイっちゃったとか――」 げんこつをもう一発。今日のげんこつは打ち止めにしておこうと心に誓った。 「それやなくて、あの……冗談とかそうやないとかいう話のとこや」 「だから言ったじゃないですか。本気だって」 「ホンマに本気なんやな!?」 「信じるって言ったの先生ですよ」 「ああ……よかった」 脱力したななこは、いきなりこなたを抱きしめる。 「うおっ、先生!?」 「泉、好きや。愛してる」 「昨日も聞きましたよ」 「直接言わんと不安になるやろ。第一なんでチャットなんや」 「ネタ的においしいじゃないですか、ネトゲのパーティーで恋愛って」 「は?」 その発言自体が意味不明だが、頭の中の冷静な部分が分析する。ネタというのは他人に話す ことを前提にした話だと。 「先生と生徒の禁断の愛っていうのもいいんですけど、どこか少女漫画っぽいじゃないですか。 だからどこかに萌え要素を追加しておこうと」 こなたの恋愛はななこの恋愛でもある。それを萌え要素とか言われるのは変な気分だが、相手が こなたという時点でそれは諦めている。それよりも、さっき気になった部分を聞かねばならない。 「誰かに話したんか?」 「かがみんとつかさとみゆきさんに。いやあ、昼休み中問い詰められちゃいましたよ」 「アホー!!」 ついさっき心に誓ったことをあっさりと破った。 「先生、痛いです……大丈夫ですよ、かがみんたちは理解してくれましたから」 「そういう問題やないやろ……」 ツッコミどころがありすぎて、何も言う気になれない。こなたを恋人にすることは、いろいろな ものを諦めることと同義なのかもしれない。 「罰として今日はネットゲーム禁止」 「お、横暴です、いくらなんでも!」 こなたの反論にたじろぐことなく、しかしこなたから目をそらしながら言う。 「そのかわり今日はウチんとこきいや」 それが何を意味しているか、こなたはわかっているはずで、こんなことを言うのはものすごく 恥ずかしい。 「ウチが勉強教えたる。泉の成績危ないやろ」 「それで、夜の勉強も教えてくれるわけですね!」 四度目をやろうかと思ったが、図星だったのでやめておいた。 「あんまアホなこと言うとまた殴るで」 「うーん……こういうのも一種のツンデレなのか……」 「やめんか!」 なんだかいろいろと疲れてきた。柊姉妹や高良はいつもこんな気分なのだろうか。 「まあええわ。泉ん家に送って行ったるからお父さんに連絡し」 「進路指導室でエッチっていうのも萌えるかもしれませんね」 「ええ加減にせえ……」 昨日は勢いであんなことをしてしまったが、今日はどうやって目的を果たそうか、そんなことを 思案しながらななこは車を走らせた。案外簡単にエッチに持ち込めるかもしれないが。 きっかけがきっかけとはいえ、晴れて両思いになったというのに、こなたは普段と全く変わらない。 ななこには、それが不安だったが嬉しくもあった。こなたがこんな調子なら、生徒と教師、あるいは ゲーム仲間という繋がりをなくしても関係を続けていられるという証明になるはずだ。 「伊藤静さんみたいに関西弁萌えになってみようかな」 「誰やそれ……」 でもやっぱりこなたの相手は疲れるのだった。 -終わり- コメントフォーム 名前 コメント 実際やってるの? ラグナとか信長とかいっきとかの中で。 信長オンライン→「かついえ…やらないか」「とうきちろう殿…」 うん、リアルな戦国だ! -- 名無しさん (2011-04-11 19 30 14) 最高!! 先生可愛過ぎだ -- 名無しさん (2010-01-16 14 50 00)
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「ご機嫌」に生きよう(提案) なぜ「ご機嫌」か ご機嫌でいるのは難しい。人間なら嫌な事は常に起こるし、体調が悪い時だってある。そんなにいつも機嫌良くしてはいられない。そんなの当たり前だと思う。ところが、自分の上司や学校の先生が「不機嫌」に現れると本当に迷惑な気分になる。何しろ その不機嫌の原因は(ほぼ)自分ではないから だ。こうなると不機嫌な年上の人は「自分の問題を自分で解決できないまま」年下の前に現れていることになる。「年上のくせに」と、年下の人間は思うだろう。 自分よりも長く生きているくせに、自分のメンタルすらコントロールできないで、その不満をまだ未熟な者たちにぶち巻いている のだからみっともない。こんな感じだろう。なぜ「ご機嫌」であるべきかというと、 ご機嫌な人とは「寛容で器が大きい人」 なので、言いにくい話やどうでもいい話をしやすいのだ。「これを言ったら切れるな」とか「不機嫌で何言っても怒られそう」と思われていたら、誰も話をして来なくなる。必然的に 情報弱者 、”関係弱者”となり、その人は時代に取り残されていく。部下の心情や人間関係も理解できないだけでなく、情報弱者に競争力はないので仕事の結果も出ない事になる。時代に取り残されているので、過去の成功体験だけで仕事を進めようとする。そしてそれは通用しないので更に不機嫌になり人は離れていく、という悪循環が待っているのだ。これは職場以外でも同じで、 不機嫌な親に子供は本当の事は言わない。不機嫌な先生に子供は本当の事は言わない。 すると問題は水面下で巨大化、凶悪化して行き、表面化した時には手遅れになっている。子供のイジメ、自殺などが大人の知らない所で進んで行く原因の1つは、器の小さい年上の人間の「不機嫌」のせいなのだ。 この国でははるか昔に「不機嫌な大人」に対してドアを閉じる、という若者が現れ、それは絶望的に世代を分離してしまっているのだ。 かつてこの国には 「わかりやすい不良」 という人たちがいた。特に80年代の「不良」はわかりやすくて、自分達を「大人」や「つまらない社会人」とは違う「反抗する子供」と主張して踏ん張っていた。この時代のドラマでは大人と子供、不良と真面目と構造がシンプルだった。おそらくはその前の世代が「体制」と「反体制」に分かれていた構造だったところから、 局地的なもの に変わったのだろう。政治や社会に楯突くの事の無力感から「身近な大人」に楯突くようになっていったわけだ。その代表が暴走族で、彼らは社会を変えようなどとは思っていなかった。ただ「ムカつくから自由にやりたいんだ」という主張のみで存在をアピールしていたわけだ。ところが 90年代になると「不良」というのがわかりにくくなっていく。彼らは昔の「不良」のように大人とやり合うことはしない。ただ「スルー」するだけだ。つまり大人を相手にしていないのだ。つまり 子供は大人を「いないもの」として切り捨てた わけだ。そんな子供を理解しようと大人達は必死になったが、あらゆる事が空回りして、子供が唯一心を許す「大人」はガンダムやナウシカやエヴァンゲリオンの監督やアイドルのプロデューサー、アイドルや役者やミュージシャンや芸人など自分の好みの世界にいる大人と、スティーブ・ジョブズやホリエモンなどの「新世代のカリスマ」だけになった。 大人になってしまった「年上」の人間はこの事実を認識していないとすぐに「いないもの」としてスルーされてしまう。 ダダ流しの地上波テレビの時代が終わり、自分の好みのみで選択できるネットで彼らは生きている。気に入らない情報や人間は「ブロック」すれば、自分好みの快適空間は維持される。こうなるともう「年上の特権」が発動できる場は学校や職場の(金のために仕方なく存在している)縦関係のみになっていく。年下の人間はここで 「いかにつまらない年上との接触を無くせるか」 ということに力を尽くす。ブロックをしながらブロックをしてないフリをするのだ。そういう若者が「先輩ありがとうございます」とか言っていても、「早く帰れよ」と思っているのだ。特に 年上である事にあぐらをかいて「不機嫌」を投げ散らかしている人間は実際に会っていても「ブロック」されている 。それが現代だ。
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ARMORED COREとArmored Combat ZEROの合成
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プロデュースサークルとは?
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内田樹 『呪いの時代』 呪いとはなにか 「弱者」は救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」は償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義」は公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。それが他者のみならず自身へ向かう呪いとしても機能していることにはあまりに無自覚です。ネット上ではもっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間が英雄視されます。その「呪い」の言説が際だってきたのは、1980年代の半ば、「知性の冴え」がほとんど「攻撃性」や「辛口」、「毒舌」と同義になってきた頃からでした。「呪い」とは破壊することを目指します。それは破壊することがはるかに簡単だからです。身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、何かを破壊する生き方を選択します。破壊する者の側に回れば、創造した側と対等、あるいは上位に立つことさえ可能だからです。新しいものを創り出すことは、個人的であり具体的なことです。創造する側は匿名性にも忘却にも逃れられずに自分がどの程度の人間であるかをまるごと示してしまう。だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。何も作品を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。 自己評価と外部評価 「呪い」がこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。高い自己評価と低い外部評価の落差を埋めるためには、ふつうの人は外部評価を高めるために努力します。けれども中には違う努力で高い自己評価を維持しようと試みる人たちがいます。たとえば「引きこもり」は、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して評価されない立場に逃げ込むという解決策です。「自分探しの旅」も、自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる外部がこの世界のどこかにあるはずだという信憑に導かれてのものです。本当の私がどこかにいる。いずれ遠い未来か、ここではない場所で本当の私がなすべき仕事を果たしてくれるはずである。だから「私は子どもで、無力で、無能である」ことを正当化してしまった。市民的成熟のための努力を止めてしまったのです。僕たちの社会はフェアではありませんが、でも、それではどうやって社会的に平等を作り上げていくかという創造的な議論にとりかかるべきで、「努力しても報われない」という説明を自分に許してはならない。階層社会は努力することに対する動機付けの有無に基づいて二極化します。努力することの動機付けを傷つけるというのが社会的差別の効果的な部分なのです。この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。それは、生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの自分を受け入れ、承認し、懸命に努力することを祝福すること。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け入れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。利己的で攻撃的な誤った自分の愛し方をしている人に、僕たちはまず「自分を愛する」ということを思い出させるところからもう一度始めるしかないと僕は思います。 本当の自分 「自分を愛する」間違った解釈は、自己利益を最優先にし、他人を考慮しないことです。たとえば、金儲けビジネスに熱中し、寝食を忘れて仕事に没頭し、家族を顧みず、友人とも会わないという人はまったく利己的とはいえません。彼が利したのは「金の多寡は幸福の多寡あるいは人間的価値と相関する」というイデオロギーと、「ある種の社会的立場」を他者から承認されたいという欲望です。「自分らしさ」というのは欠如感から生まれます。「私はここにる人間ではない」「私に対する評価はこんなに低いものではない」という現実の自分に対する身悶えするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。自分を探しているのではなく、自分を支えてくれる土台、壁、屋根を探している。この世にたった一つの自分の入れ物を求めて旅に出たり、転職したり、離婚したりする。就活を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。自分が適職に合うために、自分の適性に対する情報と世の中にある職業の情報を必死で求める。しかし、実際に働き始めると、新入社員にはワクワクするようなクリエイティブな仕事が与えられるわけがありません。たいていは誰でもできるような面白くない作業を命じられる。「適職イデオロギー」にとりつかれ、ここが私の天職かと悩んでしまう若者は、「いつか出ていきたいが、今は出ていけないので我慢してここにいる」という就労態度を示すことになる。そんな態度の人が職場で上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われることは起こりません。職場でのコミュニケーションは不調で、さらに適職を求めるようになります。これが婚活業界に適応されると「運命の人イデオロギー」に悩まされることになります。ですが、結婚というのは普通の人たちがそこそこ幸福に過ごせるようなシステムとして設計されている。「誰としたって、まあ、似たようなものだよ」とゆるい結婚観をひろく採用し、その上で、「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸せになれる能力」に教育的資源を集中する。それが成熟した社会における結婚のありようではないか、と僕は思います。結婚が必要とする能力とは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支えあい、慰めあうことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じています。日本社会の深刻な問題の一つは、他者との共生能力が劣化していることです。想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。この能力を開発するうえで結婚とは極めてすぐれた制度ではないでしょうか。 草食系男子 性的衝動において積極的でないものを「草食系男子」と呼称します。ここまで集団化すると、誰かの個性と呼ぶことはできません。ある種の社会的ふるまいとして公的に登録されたパターンを彼らは学習し、それを再演している。ではこのような「草食的ふるまい」がもたらす生存戦略上の利点とはなんでしょうか。弱さをアピール出来た個体が、強い個体よりもしばしば多くの利益を得る。そういった実例が蓄積しないと、「弱者を選ぶ」というような不利な行動に生物は踏み切りません。ということは、現代では弱さをアピールする個体の方が利益を得ているということになるのでしょうか。当今の若者たちは決して感情が薄かったり、性的欲望がないわけではありません。そうではなく、傷つくのが嫌いなのです。大人になるというのは「だんだん人間が複雑になる」ということです。表情も感情も複雑になり、人格の層の厚みが増す。少年のような無垢さと、青年のような客気と、老人のような諦念が同居しているというのが大人の実情です。他者と共生するというのは他者に耐えるということではなく、他者を構成する複数の人格のうちにいくつか私との同類項を見出し、この他者は部分的には私自身であると認めることです。内なる彼らとの対話と協働とを経由して、彼らとの共生を果たし得たならば、そのノウハウを足掛かりに、外部にある他者たちとの共生の途も見出すことが出来る。そうして他者との共生は深まっていくのだろうと僕は思っています。オープンマインドとは自分の中の醜さ、臆病さ、狭量な部分もすべて受け入れられる人のことをいいます。こんなのは私ではないと言って切り捨てる人が、他人の欠点に寛容でありうるはずがありません。「自分らしく生きたい」人が、自分らしくない私を排除してしまうとき、他者と共生することは極めて困難です。 贈与経済 経済活動とはものをぐるぐる回すことです。ものをぐるぐる回すためにはまず社会的インフラが整備されていなければなりません。円滑な経済活動は共通の言語の習得を要請する。あるいは法律を必要とする。移動手段が必要となり、道路を整備し、船を造り、自動車を発明し、それを技術的に支援するには気象学や海洋学や航空力学の発達が要請される。それと、「ものをぐるぐる回す」ためには、それなりの「人間的資質」というものが必要になります。仕事ができる人間とは、円滑にパスを受け取り、送れる人のことなわけです。自立せよ、自分らしく生きよ、妥協するなというタイプの「自己決定・自己責任論」が80年代から展開されました。貧しくても自分らしい人生が素敵だというアナウンスが30年続いている。弱者は連帯しなければならない。その当たり前のことが言い落されている。これからの日本はどうなるか。僕の展望は「交換経済」から「贈与経済」にシフトしてゆくだろうと思います。贈与経済というのは自分のところに来たものは退蔵しないで次にパスするということ。消費には身体という限界があり、その分周りの人にパスしてあげたらいい。そのために、パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ構築しておくことが必要です。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークの中に自分を置くことが出来ます。その人が誰にも贈れないひとならば、誰からも贈与が届かない。例えば、世の中には優れた頭脳を持っている人たちがいます。でも、才能の絶対量は評価に値しません。それを自己利益のためにだけ排他的に使用する人間を僕は人間としては評価することができません。たくさんある人はそれを使って困っている人の荷物を持ってあげればいい。自分に例外的に与えらえた能力は、それを持たない人たちの役に立つように使うべきです。見下したり、有意さを利用して自己利益を増大させるために使うものではありません。 あとがき 村上春樹は『ノルウェイの森』がベストセラーになった後に、日本を脱出してしまったが、その最大の理由は業界から彼に向けて発信された組織的な「呪い」から逃れるためだった。それらの言葉を発した本人たちは「教化的善意」なり「批評的理想主義」なりに基づいて自分の攻撃性を正当化していたのだろうと思う。でも、彼らは作家がその批判によってさらに質の高い作品を書くだろうと思ってそうしていたわけではなく、「ものが書けなくなる」ような傷を負うことを願ってそうしていたのである。村上春樹は「バブルが崩壊したあとは、ネガティブなものが主流をとっていた。『こいつはバカだ』とか『こいつはダメだ』とか『こいつはくだらない』とか、今のメディアを見ていると、何か悪口ばかりじゃないですか。でも、そういうものというのは、人びとの心を淋しく虚しくしていくだけだろうという感じがしてならない。ネガティブなことを言ったり書いたりしているのは、簡単だし一見頭がよさそうに見える。実際、今のマスメディアでもてはやされているのは、それに適した頭の良さだったりする傾向があるけれど、僕はやっぱり、そろそろ新しい価値観を作るべき時期だと思うんです。」と言う。いかに鮮やかに相手を閉口させるか、傷つけるか、そのような言葉が瞬時に出る人は頭がよさそうではある。けれども、いったいそうすることで、彼らがいかなる「よきもの」を創り出そうとしているのか。私が問いたいのは、世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは何をする気なのかということである。完膚なきまでに批判しぬくことが、効果的な改善実践であるという定型からもう抜け出すべきである。私たちは壊す時代から創る時代に踏み入るべきだろうと思う。批判から提言へ、破壊から創造へ、排除から受容へ、そして呪いから祝福へ。社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトする時期が来た。