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こっちから島の音を探している人を見つけました。 音のつながりで島について、ここからの視線、島からの視線がつながらないかなぁ。 http //www.ops.dti.ne.jp/~ken-scs/NEWS.html http //www.joeokuda.com/amami.html 友達だった彼がCDデビュー http //perfectcircle.sunnyday.jp/ 名曲ばななむーん http //sound.jp/inoo/inooA.html ひとまずそれぞれをめもめも http //www.gogo-planet.com/ganaha/index2.html http //atarik.exblog.jp/ http //www.office-augusta.com/hajime/ http //ricklabo.cool.ne.jp/recordkun/1st.html いつかしたいこと。 しまっちゅのしまっちゅによるしまっちゅのための コンサート
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《魂(たましい)のつながり》 通常罠 自分のデッキからモンスターカード1枚を選択して手札に加える。
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「僕らはつながりのなかに(ぼくらはつながりのなかに)」とは、ポケモンノベルにて掲載されている作品である。作者はラディアル。全10話(前後書きふくめ)。 жжжжжжж目次жжжжжжж 概要 世界観 あらすじ 登場人物主要人物 その他の登場人物 データ 関連項目 リンク жжжжжжжжжжжжжжжжжж 概要 世界観 あらすじ そうだよね。 ボクたちはずっとずっと、つながってるよね。 ひとりぼっちなんかじゃないよね、きっと― ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ココは毎日がとても平和なホウエン地方。 そこに住むルカリオは今日も、一番の友だち、ピカチュウと遊んでいた。 『いつまでも二人でずっといようね』これが、初めて出会った二人の最初で最後の大切な約束であった。 が、ある時を境に二人の約束は破られた― (ストーリーより抜粋) 登場人物 主要人物 その他の登場人物 データ 2011年5月8日連載開始 ラディアルからのあいさつ 1,逆らえない現実 2,避難生活の日課 3,苦しい現実 4,離れていく宝物 5,真の答え 6,記憶の部屋 7,携帯電話 8,僕らはつながりのなかに あとがき 関連項目 ラディアル リンク 僕らはつながりのなかに(ポケモンノベル)
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つながりだけ補完してます(マップの正確な形と大きさは考慮してません) # ⑳ # ⑱━⑲ # ⑰ #㉒ ① ⑯ ⑤ ⑧━┓⑮ #㉑━②━③③③ ⑦ ┃⑭ # ┃ ④ ┗⑥┛ ⑨┛ # ┃ # ⑩ ⑬ # ┗━⑪━⑫ ①アルマドゥラの城下町②アルマドゥラ南の街道、オークの洞窟③街道の難所、サハギンの洞窟④メルカド市場⑤神殿都市アルテサノ ⑥森の入り口⑦迷いの森⑧森の町ボスケ⑨暗闇の洞窟⑩デシエルト砂漠 ⑪砂漠のオアシス⑫砂の町カクトゥス⑬ピラミッド(入り口)、ピラミッド⑭コンヘラル雪原、氷結の迷宮⑮雪の町グラニソ ⑯腐り沼⑰廃墟⑱名を捨てた町、廃坑⑲ヌブラド荒野⑳エクソルシスモ火山洞 ㉑メセタ高原㉒旅人たちのキャンプ コメント ものすごくズレてるんだが・・・環境によって違うのかな (2012-07-17 01 07 07) スペースとか入れて見やすくしたつもりだけどどうよ? (2012-07-16 23 54 11) 文字をでかくした (2012-06-20 18 13 07) とりあえず文字だけで作ってみたが激しく見にくいな(苦笑) (2012-06-20 13 58 50)
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日韓両国に共通するのは、一言で言えば「原子化」と「グローバル化」ということだと思います。「原子化」というのは市民たちがさまざまな伝統的紐帯を失って、ばらばらになってしまうことです。人々が「自立」して、「自己実現」をめざして「自己決定」をくだし、その成否についてはすべて「自己責任」を負う。そういう生き方のことです。誰にも依存しない。誰からも依存されない。誰にも迷惑をかけない。誰からも迷惑をかけられない。自分の失敗の責任は誰にも転嫁しない。その代わり自分が獲得したものは誰ともわかちあわない。相互扶助・相互支援の仕組みは要らない。親族も地域社会も要らない。自分に必要なものがあれば貨幣を出して市場で商品 として買えばいい。そういう考え方です。家事労働も、医療も、教育も、介護も、慰安も、快楽も、すべては商品として市場に並んでいる。誰でも金さえ出せば買えるのだから、ひとりひとりはただ「で きるだけ多くの貨幣をできるだけ効率よく稼ぐこと」だけに集中すればよい。十分な貨幣を稼げない人間は、人間として必要な最低限のサービスを受けられず、 ついには路上生活に転落して窮死するしかないが、それは「自己責任」である。それが「原子化した市民」の生き方です。 一方、「グローバル化」というのは、商品、資本、人間、情報が国境を越えて超高速で移動することです。「世界のフラット化」という言い方をすることもあります。国民国家はそれぞれが固有の言語、固有の通貨、固有の度量衡、固有の法制度、固有の文化を持っていますが、グローバル化というのは、そういうものは「はっきり言って、邪魔」という立場のことです。国境のボーダーコントロールを廃し、国語をやめて英語を公用語にし、通貨も度量衡も経済法制も世界同一にし、消費者の価値観や欲望やライフスタイルも世界同一にし、労働者の規格も賃金も世界同一にする。それがグローバル化ということです。つまりは「国民国家を解体して、世界市場に組み込む」ということなのですが、その目標に向かって日本も韓国もまっしぐらに進んでいます。 でも、どうして「そんなこと」をしなければならないのか、それについてのきちんとした説明を僕は聞いたことがない。政治家も官僚もビジネスマンも学 者もメディアも「国の仕組みをすべてグローバル化に最適化しないと、われわれは『おしまい』だ」と浮き足立っているだけです。何がどう「おしまい」になる のか、それについての説明はありません。 僕がこの本の中で論じているのは、主に個人レベルで起きている「原子化」の現象についてです。 原子化趨勢に抗って、共同体の一員としてどう互いに支え合い支援し合うのか、教育を通じてどう次世代を育てるのか、労働を通じてどう自分自身を成熟させて ゆくのか。そういったことが繰り返し語られます。そういう問題を論じているうちに、これらがすべて「グローバル化趨勢」が個人レベルで出来した歴史的な問 題なのだということがわかってきました。市民の原子化は社会のグローバル化の論理的帰結なのです。 日韓両国民は今「原子化」がもたらした深い孤立に苦しんでいます。 親族とのつながりが絶え、隣人たちと地縁で結ばれることもなく、人間として生きてゆくための基本的なサービスをすべて商品として市場で購入しなければなら ない。タイトな生き方です。人間は誰でも病むし、傷つくし、老いるし、生産性を失うことがあります。ひとりで生きていれば、そういうことがある度に社会の 最下層に転落するリスクを負うことになる。 そのリスクを回避するためには、集団成員が相互に支え合い、支援し合う仕組みを作る他ありません。集団に帰属してさえいれば誰でも(お金がなくても、能力 がなくても、幼くても、老いていても、病んでいても)人間としての自尊感情を高く持って、愉快に暮らしていける仕組みが必要です。 とりあえず僕はそう思っています。 でも、「グローバル化に最適化すること」に夢中になっている人たちはそのような提案を一顧だにしません。それはまさに「自己決定・自己責任」の対極にある考え方だからです。経済成長や収益増大や株価上昇と何の関係もない話だからです。 いや、相互・相互支援の共同体が整備されてしまうと、経済活動は停滞する怖れがあります。 家事労働や介護や教育など、それまで原子化していた市民がしかたなく市場でお金を出して買っていたものが共同体に属していると「あ、私がやっておいてあげ るよ」という隣人から無償サービスとして提供される可能性があるからです。「代わりに今度、なにか頼むから」で済んでしまう。これは市場経済にとっては大 きなダメージになります。不動産や家財だってそうです。孤立した市民はひとりずつばらばらに暮らしますから、住む家も家財道具も一式全部自分で揃えなけれ ばなりません。でも、共同体に属していれば、シェアハウスできるし、家財道具も共有できるし、車だって何人かで一台所有しておけば、重い荷物を運ぶときと か、足の悪い人をどこかに連れてゆくときにだけ「今日は私に使わせてね」で済む。 共同体で暮らすようになるとものを買わなくなる。これは考えれば当然のことです。 でも、資本主義にとってはたいへん迷惑な話です。だから、資本主義経済は全力をあげて相互支援的な共同体の形成を阻止しようとする。 当然のことです。良い悪いではなくて、資本主義というのは「そういうもの」だからです。 でも、人間は資本主義経済のために生きているわけじゃない。人間が愉快に暮らすために経済システムは存在するわけで、本末転倒されては困る。 ですから、資本主義経済の要請に逆らっても、相互扶助の仕組みを作ることが、現代社会における最優先の「人間的」課題だろうと僕は思っています。経済成長やGDPの増大やビジネスモデルの開発やマーケットシェアの拡大よりも、相互扶助の仕組み作りの方が優先すべきです。 世の中には金儲けよりも大切なことがある。それは支援を求めている人を支援することだ。というのが一言で言ってしまえば僕がこの本で主張していることのすべてです。 支援を求めている人にはいろいろなかたちがあります。物質的に困窮している人もいるし、成熟したいのだけれどメンターがいない人もいるし、仕事を探 しているけれど見つからない人もいるし、病み、傷つき、癒しを求めている人もいるし、危機に瀕していて救助を求めている人もいる。それらの「困っている人 たち」それぞれに適切な支援がなされる仕組みを作りましょう。 なんだか当たり前すぎて、小学生でも言えそうな話ですけれど、この「小学生でも言えそうな話」を実現するために政治家も官僚もメディアも指一本動かす気がないということに僕は愕然としています。 日本では今生活保護の打ち切りや社会福祉の切り下げが進行しています。働きのない人間が税金に「ただ乗り」することは許さないということを平然と言い放つ 政治家がいます。「在特会」という名の日本のナショナリスト組織は在日コリアンへのヘイトスピーチや暴力行為で知られていますが、彼らが主に攻撃している のは政治運動や政治思想ではなく、在日コリアンには「生活保護受給者が多い」という「金の話」なのです。「支援を求めている人」は自己責任でそのような事 態に陥ったのであるから「支援を求める権利」を持たないという奇怪なロジックがメディアでは大声で、大まじめに語られている。 この知的・倫理的頽廃を前にして、「もう行政に頼らず、自分でなんとかしなければいけない」と思い始めた人たちが日本には最近出てきました。さまざまなサイズの相互支援のための共同体の試みが日本各地で今急速に拡がっています。 それは従来あったような血縁共同体の復活ではなく、また労働組合や互助組合のようなものでもありません。自力で新しい相互支援の仕組みを構想しなければな らないということはみんなもわかっている。けれども、できあいの「サクセスモデル」を模倣するということができない(まだ成功事例がないんですから)。だ から、どれも手探り、手作りです。 それらの試みに共通しているのは、とりあえず手元に「贈与できるだけの資財の余裕」がある人たちがそれを提供して、人々が集まれる場所を作るということです。 多くはそこに「塾」という看板を掲げて、学びの場としてスタートしています。 僕自身は2011年の秋に凱風館という道場を建てました。 武道の道場として毎日稽古に使っていますが、それ以外に毎週「寺子屋ゼミ」という学びの場を設け、さまざまな講演、レクチャー、映画会、古典芸能の上演(能楽、落語、浪曲など)の他、門人やゼミ生たちの自主的な利用に開放しています。 最も便利なことは200人近くの人々が出入りしていますから、「要らないもの」と「欲しいもの」がしばしば一致するということです。家具でも家電製品でも 本でもパソコンでも自転車でもベビー服でも、「欲しいものがある」と告知しておけば、だいたいすぐに手に入る。もちろん無料です。食べ物もそうです。季節 ごとにタマネギが送られてくる、桃が来る、蟹が来る。家で食べきれないものはみんな凱風館に持ち込みます。「ご自由にお持ち帰りください」と記して廊下に 置いておけば、一日できれいになくなります。それだけではありません。凱風館で友だちができる、仕事仲間をリクルートする、結婚相手がみつかる。そういう 例ももういくつもあります。この2年半で門人同士5組が結婚しました(うち4組は仲人を僕たち夫婦が勤めました)。彼らはみんな凱風館の近くに新居を構え ましたので、僕はいわば「十人の息子と娘」に囲まれて暮らしているような気分です。ほんとうの親族たちよりも、この「息子・娘」たちと一緒に過ごす時間の 方がずっと長いのですから、これはもう一種の「拡大家族」と呼んでよいかも知れません。 僕がこのような具体的な共同体実践を決意に至ったのは、もしかするとこの本が扱っている「原子化」トレンドの分析の結果だったのかも知れません。この本の中の文章を書いているときは、まだ「道場を建てる」ということはぼんやりとした夢想でしかなかったのですから。 韓国でもおそらく今これと同じような共同体実践の試みが進められているだろうと思います。そういった韓国での共同体実践とわが凱風館が国境を越えて連携できる機会を今度はぼんやりと夢見ることにします。 韓国のみなさんもがんばってください。
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VS/W50-019 カード名:ご先祖つながり ファビア カテゴリ:キャラ 色:緑 レベル:0 コスト:0 トリガー:0 パワー:1000 ソウル:1 特徴:《格闘》? 【自】 絆/「U15チャンピオン アインハルト」 [①] (このカードがプレイされて舞台に置かれた時、あなたはコストを払ってよい。そうしたら、あなたは自分の控え室の「U15チャンピオン アインハルト」を1枚選び、手札に戻す) アインハルト、出発したって… レアリティ:C ViVid Strike!収録 ・関連カード カード名 レベル/コスト スペック 色 備考 U15チャンピオン アインハルト 1/0 4500/1/0 緑 対応カード
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【種別】 音楽CD 【タイトル】 Going Now!~つながり~ 【アーティスト】 roddy×BLACK BABE 【作詞】 ai 【作曲】 tomoyo 【編曲】 BLACK BABE 【発売日】 2013年3月13日 【発売元】 TOP RUN X 【型番】 STRX-2004 【劇中使用】 OP主題歌 『ひっとべ!ボッケモンランド』オープニング曲、『薩摩剣士隼人 第一部完結編』挿入歌(2013年3月13日発売) ステッカー特典封入。 1. GOING NOW!~つながり~ 2. 大きな世界 3. GOING NOW -inst- 【関連するページ】 関連商品
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伊坂幸太郎『砂漠』 「みんな必死だな」と思う僕を、鳥井は「学生は近視眼型と鳥瞰型に分類できる、北村は鳥瞰型だ」と断定する。「近視眼型は目の前のことしか見えない、鳥瞰型は上から全体を眺めて周囲を見下している」。仙台の繁華街にある、全国チェーンの2階だ。法学部の学生が八十人、集まっていた。鳥井は「よし行くか。女の子と親交を深めないで、何が、大学生だよ」と僕の肩をたたき、立ち上がった。南はちょっとした超能力が使える。東堂は誰が見ても美人だった。そして遅れてきた西嶋は「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と演説した。何事にもさめている僕とその大学生活が、もしかすると彼らによって、劇的なものになるのかもしれない。そんな予感とも期待ともつかない気配を、その時の僕は感じていた。なんてことは、まるでない。 僕はできる限り講義には出席しようとしていたから、朝一番の講義室に空席が増えていく様を見ながら、なかなか興味深いな、と思っていた。西嶋に「四者会談。確率と中国語の勉強」に誘われる。平和を築くのを止めない西嶋が4位で麻雀は終わり、帰り道、東堂が西嶋に惹かれていると告白。東堂は、新入生歓迎のボウリング大会で、下手なのに臆さない、自分を信じる西嶋を見る。翌々日、本を見ながら練習する西嶋も見る。悔しかったのだ。ボウリングが出来なかった自身を。自分を信じているから。「北村だったら絶対やらないでしょ。わたしもそう。でも、じゃあ何の事なら必死にやるのか、って思わない? 結局さ、いざという時はやる、なんて豪語している人は、いざという時が来てもやらない。西嶋はさ、どんなことも真剣勝負なんだよ、言い訳しないで、逃げずに、克服しようとする」。
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内田樹『街場の大学論』 ニッポンの教育はどこへ行く 「誰が日本の教育をこんなにしてしまったか」という議論は不毛である。教育問題には被害者しかいないからだ。そこから脱却して、「誰がしたのか分からないが、たまたま現場に居合わせた以上は私がなんとかするしかない」と考える人たちを糾合して、手持ちの使える限りのリソースを動員して、できる限りのことをするしかない。「学ぶ」ことができない、「学ぶ」意味が分からない子どもたちがいま組織的に作り出されている。そんな大量の元・子どもを抱え込むコストは国民全体にとっても不幸なことである。彼らを学びへと動機付けるのは大人の責務である。「損か得か」という基準がいまの日本人たちの行動を決定する支配的なモチベーションになっている。この子どもでも分かる価値観から、どう学びを動機付ければよいか。 なぜ学力が低下するか。それは学力低下が主観的には利益を得ているように錯覚するからである。人間は利益のないことはしない。これがすべての社会問題を考える時の前提である。子どもたちは同学齢集団の中で競争する。偏差値と言うのは、その中の相対的な学力指数であって、絶対学力の低下は現象としては顕在化しない。相対的な学力を上げるのであれば方法は2通りある。自分の学力を上げること、そして他人の学力を下げることである。だから閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」に努力を優先的に向けるようになる。学生の学力低下の原因は「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。その暗黙の合意に基づいてお互い「他人の学力を低下させること」に努めてきた、その結果「こんな世の中」になってしまったのである。誰が悪いわけでもない。 学ぶというのは情報を増やすことではない。「自分が何を知らないか」について知ることである。学校と言うのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。一方、受験勉強は自分が知っていることに特化することを子どもたちに強いる。「自分の知らない/できないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っている/できること」は共同体的に意味を持つ。仮に自分の知らないことは、自分には関係のないことだと思い込む子どもを組織的に作り出している教育機関があれば存在しない方がましである。 「国が教育に口を出さない方が国にとって良い」と思っている。教育のことはそれぞれの教育現場で好きにやってもらうのがよい。現に、教育を全国斉一的に管理する機関がなかった明治時代まで、日本の教育は当時の最高水準にあった。二百七十の藩にはそれぞれ藩校があり、全国に私塾があった。子どもを育てるシステムはできるだけ画一的でない方がシステム管理上安全であり、国民のうちに一定数の大粒の人間を出現が間歇的にではあれ担保されるシステムの方が、そうでないシステムよりも国がクラッシュする危険が少ないだろうと考えている。日本の教育は「子どもたちを均質化すること」一点において、ほかに類を見ないほど成功しすぎている。「みんなと同じであることを最優先に配慮し、みんなと違うことを心から恐怖する子ども」を作り出す努力をしてきた成果が今日の「世界一勉強しない子どもたち」なのである。だからこれを教育制度の「失敗」ととらえるのは間違いであり、問題があるとすれば成功しすぎたことにある。システムの過程で、必ず脱落したり逃亡したりするものがいる。そしてその少数のはぐれものが次のシステムを構築するという流れがある。しかるに日本の教育システムはあまりに「うまくゆきすぎた」ために、システムからドロップアウトする者は網羅的に排除され、病気になったり引きこもったり自殺したりして文字通り姿を消し、彼らがシステムの活性化に関与する機会をなくしている。もしこれに対処を講ずるのだとしたらもっとバグやノイズを注入してシステムの効率を下げるのがいい。最悪なのは斉一的に「勉強する子どもはどうやったら作り出せるか」の模範解答を施行することである。「ゆとり教育」も「スパルタ教育」も「愛国教育」も「民主教育」も「教育と言うのは平等に子どもを方向づけるものである」という了解においては双生児のように似ている。 「昔の子どもはもっと勉強した。あの時代に戻そう」という説を唱える人がいる。あの時代に戻すのならば、方法はある。一番簡単なのは勉強できない子どもを組織的に排除し、みんなでいじめることだ。成績の悪い子は差別待遇する。子どもたちは必死で勉強するであろうし、親だって額に青筋立てて勉強させるであろう。だって日本人にとって何より大切なのは「みんなと同じこと」だからである。「マークされること」「群れから抜けること」を日本人は恐れる。「私らが学生の頃は、『善の研究』や『人生論ノート』や『三太郎の日記』を読んだもんだ。それに比べて今どきの若いもんは本を読まん」という慨嘆老人たちは自分たちが「自分のとなりにいるやつ」と同じ本を読んでいないと大勢から脱落しそうで怖いという点において今どきの若いもんと同一の思考の生理に律されている。みんながそうしているからそうしている。みんなが塾に行くなら自分も行く。みんなと同じじゃないと怖いからだ。そういう他者志向の人間を日本社会は一生懸命に作りだしてきた。均質の努力を止めたいなら、まず自分の子どもが「みんなと同じでいなければ、生きていけないのではないか」という恐怖を感じずに生きていけるように、我が子の独自性を愛し、育み、守るというところから始めるほかないだろう。だが全国一斉に「個性を開花させる」教育改革をする発想は「日本的システム」を再生産することに過ぎない、ということは留意しておきたい。