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116.建業には三つの城があった 六朝のとき、建業の地には三つの城があった。中央のものは台城とされ、皇帝の住居とされ、宮殿や尚書省はみなここにあった。その西は石頭城とされ、当時は京師を守るために兵を宿営させていた。王敦が反乱を起こしたとき、周札が石頭城を守っていたが、開門して王敦を迎え入れた。王敦は石頭に拠って王師を破った。後に蘇峻が反乱を起こすと、成帝をさらって石頭に移した。蘇峻が敗れると、成帝はようやく出ることができた。盧循の水軍がやってくると、朝臣たちは兵を分散して諸港を守ろうとした。劉裕は「兵を分散すると軍勢は弱まります。兵を石頭に集めるのが最善で、そうすれば大軍の力を分散せずにすみます」と言って、自ら石頭に駐屯し、予期どおりに反乱軍を破った。宋の末年に袁粲が石頭城に拠って蕭道成を殺害しようとしたが、かえって蕭道成に殺されてしまった。当時の諺に「可憐なるは石頭城、むしろ袁粲を死なせても、褚淵を生かしはしない」といった。梁の末年に王僧弁が石頭に駐屯していたが、陳霸先は侯安都を派遣してこれを襲撃させた。石頭の城壁は大して高くなかったので、軍士が捧で侯安都を姫垣の中に投げ入れると、兵士たちが続いて城内に入り、ついに王僧弁を捕らえた。後に徐嗣徽が北斉の兵を率いて石頭に入り、台城に来攻して迫った。侯安都は台城から武装した兵士を東掖門と西掖門に突出させて、徐嗣徽の軍を破った。賊軍は石頭に帰還すると、あえて台城に迫ろうとはしなくなった。台城の東には東府城があった。おおよそ宰相・録尚書事・兼揚州刺史の者がここに居住した。武装した兵士がかつては数千人いた。晋のとき会稽王司馬道子がここに住んだ。劉裕が政権を握ると、またここに居住した。劉裕が出征すると、「留府」と呼ばれた。そのときは劉穆之に東府の事務を監督させた。劉裕が劉毅を討って帰途につくと、公卿たちはみな新亭で伺候しようとしたが、劉裕はすでにひそかに東府に帰還していた。宋の末年に後廃帝が殺害されると、蕭道成は東府に駐屯地を移した。『宋書』順帝紀に「蕭道成は東府に出鎮して輔政にあたり、後に爵位を斉王に進めた。卞彬がふざけて『殿下はいま青渓を鴻溝とし、渓東を斉とし、渓西を宋としました』といい、詩に詠んで『誰か謂う宋遠しと、つまだてて予これを望む』といった」とある。陳の安成王陳頊が輔政にあたると、尚書省に入って居住した。劉師知らはこのことを嫌って、詔令といつわり帰そうとしたという東府がここ東府城である。いまとなって見るべきは、二城がいずれも要地であったことである。宋の後廃帝が狂暴であったため、阮佃夫は帝の出遊の機会を待って、台城を閉ざし、人を分遣して東府・石頭の二城を守らせて帝を阻ませようとした。たまたま帝が出遊していなかったため、取りやめた。斉の豫章王の蕭嶷は東府を守り、竟陵王蕭子良は石頭に駐屯していたが、いずれも京師の中に私邸を造っており、遊宴して任地に帰るのを忘れていた。范雲に「重要な土地を留守にするのはよろしくありません」と言われたので、蕭嶷は東府に帰り、蕭子良は石頭に帰った。この二城が京師を守る最も重要な拠点だったからである。当時にはまた冶城というのがあった。徐嗣徽らが北斉の兵を率いて石頭に拠ると、商業地域が南路にあり、台城からはやや遠かったため、陳霸先はここを拠点化されるのを恐れて、徐度を派遣して冶城寺に駐屯させ、塁を築いて徐嗣徽らを阻ませた。これはまた台城の南にあった。 116.建業有三城 六朝時,建業之地有三城。中爲臺城,則帝居也,宮殿臺省皆在焉。其西則石頭城,嘗宿兵以衛京師。王敦内犯,周札守石頭城,開門納敦,敦遂據之以敗王師。後蘇峻之反,劫遷成帝於石頭。峻敗,帝始出。盧循舟師將至,朝臣欲分守諸津,劉裕謂「兵分則勢弱,不如聚兵石頭,則眾力不分。」乃自鎮石頭,果敗賊。宋末,袁粲據石頭,欲誅蕭道成,爲道成所殺,當時諺曰「可憐石頭城,寧爲袁粲死,不作褚淵生。」梁末,王僧辨鎮石頭,陳霸先使侯安都往襲之。石頭不甚高,軍士捧安都投入女姮内,衆隨入,遂執僧辨。後徐嗣徽引北齊兵入石頭,來逼臺城。安都自臺城以甲士突出東、西掖門,敗之。賊還石頭,遂不敢逼臺城是也。臺城之東,則有東府,凡宰相録尚書事兼揚州刺史者居之。實甲嘗數千人。晉時會稽王道子居之。劉裕秉政亦居此。裕出征,則曰「留府。」嘗使劉穆之監府事。裕討劉毅回,公卿咸侯於新亭,而裕已潛還東府矣。宋末,後廢帝之弑,蕭道成移鎮東府。順帝紀「蕭道成出鎮東府輔政,後進爵齊王。卞彬戲謂曰『殿下今以青溪爲鴻溝,溪東爲齊,溪西爲宋。』因詠詩曰『誰謂宋遠,跂予望之。』」陳安成、王頊輔政,入居尚書省。劉師知等忌之,矯詔令其還東府是也。可見是時,二城皆爲要地。宋後廢帝狂暴,阮佃夫欲俟其出游,閉臺城,分人守東府、石頭以拒之。會帝不出,乃止。齊豫章王嶷守東府,竟陵王子良鎮石頭,而皆造私第於京師中,遊讌忘返,因范雲謂「重地不宜虚曠。」嶷乃還東府,子良乃還石頭。縁此二城,拱衛京師,最居要害故也。其時尚有冶城,當徐嗣徽等引北齊兵據石頭,而市廛在南路,去臺城稍遠,恐爲城所乘,乃使徐度鎮冶城寺,築壘以斷之。此又在臺城之南。 前頁 『廿二史箚記』巻八 次頁 騶虞幡 116.建業有三城 南朝多以寒人掌機要
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ここでは孫氏が撮影したSS(スクリーンショット)を公開しています。たまには美しい景色を見て和め。 建業風景シリーズ第四弾「石頭城落日」。孫権は家臣の遺言に従い秣陵の地を建業と改め清凉山の周囲7里に渡り石頭城を築城した。 建業風景シリーズ第三弾「建業東門」。南大門と違い人の出入りも少なく搦め手的な意味合いを持つ東門。二人の門番も眠そう。 建業風景シリーズ第二弾「市場入り口」。東呉は豊かな水運を持つ文化都市。そんな活気ある市場へ通じる石段。新緑が目に映えます。 建業風景シリーズ第一弾「建業城内遠景」。青々とした柳と城内にまで引き込まれた運河が印象的な建業の風景。今日も柳影をその水面に写しています。 疫神。村長。これから怒涛の10連敗の開演です(笑)
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魏 曹操 夏侯惇 夏侯淵 曹仁 曹洪 呉 孫堅 孫権の父。劉表を攻めている最中に戦死。 孫策 孫堅の子。玉璽を質に兵を借り受け江東を制圧。200年に暗殺される。 孫権 孫堅の子。呉の初代皇帝。249年に病死。 孫亮 呉の2代目皇帝。孫権の7男。孫休に毒殺される。 孫休 呉の三代目皇帝。文学を呉に広めた。 孫皓 孫和の子。呉の最後の皇帝。281年に石頭城で晋に降伏。 蜀 劉備 漢の皇族。義勇軍として各地を転戦する。221年に病死。 関羽 劉備・張飛と義兄弟。荊州攻めの最中に呉軍に攻められ戦死。 張飛 関羽の敵を取るための呉征伐の準備中に暗殺される。 諸葛亮 言わずと知れた天才軍師。234年、五丈原で病死。 姜維 諸葛亮の後継者。264年に魏軍に破れ戦死。 メインページに戻る
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問題 答え 他選択肢 『三国志演義』において「黄巾の乱」の首謀者である張角らに、『太平要術の書』を与えたとされる仙人の名前は? 南華老仙 北華老仙 東華老仙 西華老仙 歴史書『三国志』によると後漢の最後の皇帝である献帝は第何代目の皇帝? 14代目 12代目 13代目 15代目 『三国志演義』においてそのりりしい姿からついたとされる蜀の武将・馬超の通称は? 錦馬超 金馬超 筋馬超 欣馬超 『三国志演義』において呉軍が関羽を捕らえる際に活躍した武将で、後に趙雲によって殺されたのは? 朱然 陸遜 呂蒙 程普 『三国志』の登場人物にちなむアブラナ科の一年草・ハナダイコンの別名は? 諸葛菜 劉備菜 曹操菜 司馬菜 五斗米道を創始したとされる宗教家は? 張陵 張角 張南 張遵 詩人としても有名で「詩聖」とも称された中国・三国時代・魏の曹氏一族の人物は? 曹植 曹仁 曹操 曹叡 現在は観光名所となっている西暦212年に中国・三国時代の武将・孫権が、呉の都・建業に建てた城は? 石頭城 青首城 鷲鼻城 大口城
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オウジュウ 列伝 王渾(玄沖とは別人)の子。竹林の七賢の最年少者。 【演義】 晋の建威将軍。279年の呉討伐戦に参戦。武昌に進軍し、先に石頭城に入城していた王濬と合流した。 【正史】 幼少時から大人顔負けの聡明さを発揮。鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられた。河東太守、荊州刺史などを歴任。晋の恵帝の時に司徒となった。しかし、政務には関心がなく、自己の利益に執心していた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 57 36 72 55 49 269 93 165 順位 409 489 186 385 495 416 479 413 偏差値 49.8 42.3 56.5 49.3 44.5 47.2 45.6 48.6 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C C B A 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 26 42 25 46 24 40 29 40 29 39 32 49 順位 498 435 498 443 502 445 495 434 487 337 459 208 偏差値 41.4 47.2 41.5 47.2 41.1 47.2 41.7 47.3 43.2 50.7 45.2 54.3 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 40 青徐 名声 現状維持 重視 3/5 1/5 3/3 234 253 305(72歳) 自然死 小心 小心 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 王戎が親愛する武将 なし 王戎が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 未登場 小沛 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 未発見 小沛 - - - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 未登場 小沛 - - - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S12 187年 4月 何進包囲網 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 - 未登場 小沛 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 小沛 - - - 0 - - 忠実武将で一番最後まで生き残る人 全シナリオで未登場↑ -- (名無しさん) 2010-09-12 18 13 26 出番は集結系のシナリオになるだろう 知力以外の能力値は酷いものだが魏寄りの相性の中では貴重な水軍A持ちなので活躍の場はある -- (名無しさん) 2012-05-17 06 37 30 S7ですら登場まで28年、というか生まれるまで9年という滅多に、というかほぼお目にかかれない人物。 集結系シナリオではまだ使えるものの、そもそもしばらく水上で戦うことも少ないため生産担当になりやすい。 それでもまだ使えるだけましなのかもしれないが。 -- (名無しさん) 2013-01-11 09 48 13 イメージで徴税を付けてあげたい -- (名無し) 2013-02-08 23 47 25 名前 コメント すべてのコメントを見る
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三国志終焉呉滅亡 [勢力] 晋(しん) 呉(ご) 鮮卑(せんぴ) [おもな登場人物] 晋(しん) 杜預(とよ)、王濬(おうしゅん)、王戎(おうじゅう) 賈充(かじゅう)、胡奮(こふん)、王渾(おうこん)、周浚(しゅうしゅん) 司馬チュウ[イ由](しばちゅう)、唐彬(とうひん) 馬隆(ばりゅう) 呉(ご) 孫晧(そんこう)、陶濬(とうしゅん) 張悌(ちょうてい)、 沈瑩(しんえい) [おもな地名・場所] 江陵(こうりょう)、武昌(ぶしょう)、夏口(かこう)、 江西(こうせい)、ト中、長江、建業(けんぎょう) [前回のあらすじ] 279年 晋(しん)の杜預(とよ)が呉(ご)への進軍を上奏します。 呉では郭馬(かくば)が率いる内乱が起きていたため、 その願いはすぐに受け入れられました。 晋は20数万という大軍を持って 準備していた大船団を中心に 6方向からいっきに呉へ攻め入ります。 呉での反乱は鎮圧されたもののすでに時は遅く。 攻撃してくる晋への対応は後手に回ります。 ——————————————————— 279年11月 晋は賈充(かじゅう)が総指揮を取り以下より呉に侵攻します。 1- 杜預 江陵(こうりょう) 2- 王戎(おうじゅう) 武昌(ぶしょう) 3- 胡奮(こふん) 夏口(かこう)、 4- 王渾(おうこん)・周浚(しゅうしゅん) 江西(こうせい)、 5- 司馬チュウ[イ由](しばちゅう) ト中、 6- 王濬(おうしゅん)・唐彬(とうひん) 長江を下り進入 呉も迎え撃ちますが 陸抗(りくこう)亡き後、軍事的に優れた人物はおらず また圧倒的な兵力の前に敗戦を続けます。 279年12月 かねてより北方の異民族である鮮卑(せんぴ)が晋へ攻め込んで 長期化していた戦いも馬隆(ばりゅう)が鮮卑に勝ち涼州を平定する という晋にとっては追い風となる連絡が入ります。 280年3月 王渾が呉の尋陽・頼郷の諸城を攻略。 280年4月 75歳の老将王濬(おうしゅん)は、唐彬を先陣としながら 船団を長江沿いに進み、城を落としていきます。 (丹楊城、西陵、夷道、楽郷城と攻略) そこで、呉では【郭馬の乱】から戻ったばかりで 意気の上がっている 陶濬(とうしゅん)が王濬にあたります。 しかし、晋の船団は小さい船ばかりだと思い込んでいた 陶濬軍はその大きな船団を見るや ろくに戦わずに敗走・離散するというお粗末な結果となります。 途中、王濬は 呉の鉄錐(てっすい)という川にめぐらせた罠が邪魔となりますが 筏(いかだ)を船より先に流して 取り去りこれをクリアーし進軍つづけます。 王濬は、王渾と合流し夏口・武昌を攻略。 また、杜預が江陵を攻略。 胡奮も江安を攻略。 まさに「破竹の勢い」 呉の皇帝孫晧(そんこう)は 残る兵3万を集結させ、戦いのプロではない 呉の丞相張悌(ちょうてい)に 全軍の指揮を任せます。 張悌は南下してくる杜預の軍と決戦を挑むことにします。 参謀の沈瑩(しんえい)が長江を渡って戦うのは不利であるので 守って戦うべきであるという言葉を退け、 長江を渡り強気に出る方法をとります。 しかし結果、戦局を変えることはできず、 数にも勝る晋の前に大敗を期す事となりました。 これにより張悌・沈瑩など主だった将は 降伏せず戦って死ぬ事を選びました。 280年5月 王濬の船団は、その後も南下を続け 遂に建業近くにある石頭城(せきとうじょう)を 落とすに至ります。 このことで完全に観念した孫晧は降伏を申し出ます。 孫晧39歳の時でした。 こうして呉は滅亡し、晋が中国を統一し、 約100年に及ぶ怒涛の三国時代の歴史に 終止符が打たれる事となりました。 (戦紹介 終わり)
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三国志終焉呉滅亡 [勢力] 晋(しん) 呉(ご) 鮮卑(せんぴ) [おもな登場人物] 晋(しん) 杜預(とよ)、王濬(おうしゅん)、王戎(おうじゅう) 賈充(かじゅう)、胡奮(こふん)、王渾(おうこん)、周浚(しゅうしゅん) 司馬チュウ[イ由](しばちゅう)、唐彬(とうひん) 馬隆(ばりゅう) 呉(ご) 孫晧(そんこう)、陶濬(とうしゅん) 張悌(ちょうてい)、 沈瑩(しんえい) [おもな地名・場所] 江陵(こうりょう)、武昌(ぶしょう)、夏口(かこう)、 江西(こうせい)、ト中、長江、建業(けんぎょう) [前回のあらすじ] 279年 晋(しん)の杜預(とよ)が呉(ご)への進軍を上奏します。 呉では郭馬(かくば)が率いる内乱が起きていたため、 その願いはすぐに受け入れられました。 晋は20数万という大軍を持って 準備していた大船団を中心に 6方向からいっきに呉へ攻め入ります。 呉での反乱は鎮圧されたもののすでに時は遅く。 攻撃してくる晋への対応は後手に回ります。 ——————————————————— 279年11月 晋は賈充(かじゅう)が総指揮を取り以下より呉に侵攻します。 1- 杜預 江陵(こうりょう) 2- 王戎(おうじゅう) 武昌(ぶしょう) 3- 胡奮(こふん) 夏口(かこう)、 4- 王渾(おうこん)・周浚(しゅうしゅん) 江西(こうせい)、 5- 司馬チュウ[イ由](しばちゅう) ト中、 6- 王濬(おうしゅん)・唐彬(とうひん) 長江を下り進入 呉も迎え撃ちますが 陸抗(りくこう)亡き後、軍事的に優れた人物はおらず また圧倒的な兵力の前に敗戦を続けます。 279年12月 かねてより北方の異民族である鮮卑(せんぴ)が晋へ攻め込んで 長期化していた戦いも馬隆(ばりゅう)が鮮卑に勝ち涼州を平定する という晋にとっては追い風となる連絡が入ります。 280年3月 王渾が呉の尋陽・頼郷の諸城を攻略。 280年4月 75歳の老将王濬(おうしゅん)は、唐彬を先陣としながら 船団を長江沿いに進み、城を落としていきます。 (丹楊城、西陵、夷道、楽郷城と攻略) そこで、呉では【郭馬の乱】から戻ったばかりで 意気の上がっている 陶濬(とうしゅん)が王濬にあたります。 しかし、晋の船団は小さい船ばかりだと思い込んでいた 陶濬軍はその大きな船団を見るや ろくに戦わずに敗走・離散するというお粗末な結果となります。 途中、王濬は 呉の鉄錐(てっすい)という川にめぐらせた罠が邪魔となりますが 筏(いかだ)を船より先に流して 取り去りこれをクリアーし進軍つづけます。 王濬は、王渾と合流し夏口・武昌を攻略。 また、杜預が江陵を攻略。 胡奮も江安を攻略。 まさに「破竹の勢い」 呉の皇帝孫晧(そんこう)は 残る兵3万を集結させ、戦いのプロではない 呉の丞相張悌(ちょうてい)に 全軍の指揮を任せます。 張悌は南下してくる杜預の軍と決戦を挑むことにします。 参謀の沈瑩(しんえい)が長江を渡って戦うのは不利であるので 守って戦うべきであるという言葉を退け、 長江を渡り強気に出る方法をとります。 しかし結果、戦局を変えることはできず、 数にも勝る晋の前に大敗を期す事となりました。 これにより張悌・沈瑩など主だった将は 降伏せず戦って死ぬ事を選びました。 280年5月 王濬の船団は、その後も南下を続け 遂に建業近くにある石頭城(せきとうじょう)を 落とすに至ります。 このことで完全に観念した孫晧は降伏を申し出ます。 孫晧39歳の時でした。 こうして呉は滅亡し、晋が中国を統一し、 約100年に及ぶ怒涛の三国時代の歴史に 終止符が打たれる事となりました。 (戦紹介 終わり)
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オウシュン 列伝 晋の益州刺史。 【演義】 陸抗の死後、呉討伐を奏上。279年に呉討伐戦が始まると龍驤将軍(りゅうじょうしょうぐん)に任ぜられ、唐彬と共に益州から長江を下って侵攻した。呉の岑昏が晋軍の艦隊を防ぐため水中に設けた鉄錐を、いかだを用いて破壊。石頭城で張象を下し、孫皓を降伏させた。杜預、司馬伷らと合流して呉を完全に平定すると、その功績から輔国大将軍に封ぜられた。 【正史】 呉討伐戦では王渾と功績を争った。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 81 73 77 71 75 377 154 231 順位 62 155 110 224 131 44 94 46 偏差値 60.6 57.2 58.9 56.5 58.2 63.6 59.3 62.6 成長期 晩成 晩成 晩成 晩成 普通 - - - 能力持続 長い 長い 長い 長い 長い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 A B A C S S 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 69 77 58 75 62 73 59 57 73 69 73 77 順位 105 51 171 108 61 48 257 187 19 15 30 16 偏差値 59.8 63.4 56.4 59.6 60.8 63.8 53.3 55.7 65.6 69.0 65.8 70.1 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 造船 艦船生産日数半減 マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 32 司隷 能力 中華統一 無頓着 3/5 3/5 2/3 206 225 285(80歳) 自然死 剛胆 剛胆 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 道理 ○ ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 王濬が親愛する武将 なし 王濬が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 2歳 未登場 洛陽 - - - 0 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 6歳 未登場 洛陽 - - - 0 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 20歳 未発見 洛陽 - - - 0 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 未発見 洛陽 - - - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 12歳 未登場 洛陽 - - - 0 - - S12 187年 4月 何進包囲網 - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 - 未登場 洛陽 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 成都 - - - 0 - - 魏ではなく、晋で活躍した将。 三国志は後半になるにつれて凡将が増えていくが、魏は知勇兼備の良将が後をたたない。 水軍適正がSなので呉と戦う時も、水上戦では互角に渡り合える。 地上では同じく適正Sの兵器を使ってどんどん城を制圧していこう。 -- (名無しさん) 2010-03-30 10 09 41 特技は史実通りというべきか、造船なのが面白い。 適正Sの水軍をフルに活用するための闘艦は、自給自足しよう。 -- (名無しさん) 2010-05-27 03 29 19 呉以外の水軍適性Sはとてつもなく貴重。兵器適性Sも光る。陸では投石、海では闘艦を率いさせ、楽奏もち高武力でもつけ、 後方から砲撃しまくるのがいい。 -- (名無しさん) 2011-02-21 21 15 06 晋の武将だが、意外と早い時期から登場する。兵器Sに水軍Sと、かゆいところに手が届く存在。 -- (名無しさん) 2012-04-30 16 48 19 能力は魏ではよくいるレベル(後期になればそうでもない)だが、適正が非常に良い。 長寿なのもありがたく、後半シナリオでプレイする時は積極的に育成をしていける。 -- (名無しさん) 2014-08-15 14 51 31 武将の一覧のほうの寿命間違ってるよね -- (名無しさん) 2014-10-03 23 47 08 優秀 -- (名無しさん) 2021-09-25 19 37 16 名前 コメント すべてのコメントを見る
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孫権 姓 孫 名 権 字 仲謀 誕生年 182年 死亡年 252年(71歳) 出身地 呉郡富春県 年表 年 所在 立場・事跡 出典 備考 196 陽羨県 陽羨県の県長に任じられる 呉書・呉主伝 このとき孫権は十五歳とある 196 郡太守から孝廉の資格を認定され、刺史からは茂才に推挙されて、奉義校尉を代行する 呉書・呉主伝 199 廬江 兄孫策に従い廬江太守の劉勲?を撃破する 呉書・呉主伝 199 江夏郡沙羨県 黄祖?を撃破する 呉書・呉主伝 200 建安五年、兄孫策の後を継ぐ 呉書・呉主伝 ? 曹操の上奏により討虜将軍に任じられ、会稽太守に封じられる 呉書・呉主伝 ? 呉郡呉県 呉県に本拠を置く 呉書・呉主伝 202 呉郡呉県 建安七年、母の呉氏が亡くなる 呉書・呉主伝 208 江夏郡 建安十三年春、黄祖を攻めて撃破し、馮則が黄祖を討ちとる 呉書・呉主伝 208 劉備が諸葛亮を使者に立ててくる。孫権は周瑜?・程普を劉備のもとに送った 呉書・呉主伝 208 周瑜・程普を左右両軍の司令官に任じ、それぞれ兵一万を授けて劉備とともに赤壁に軍を進めて曹操と激突させ、曹操を大敗に追いやる 呉書・呉主伝 208 九江郡合肥県 自ら軍を率いて合肥を包囲し、張昭?に九江郡当塗県を攻めさせるが一月経っても合肥は陥落せず、張喜?が合肥救援に向かったため到着前に引きあげる 呉書・呉主伝 209 劉備の上表により車騎将軍の代行となり、徐州牧に封じられる 呉書・呉主伝 210 予章郡を分けて鄱陽郡を設け、長沙郡を分けて漢昌郡を設ける 呉書・呉主伝 211 丹陽郡秣陵県 秣陵に本拠を移す 呉書・呉主伝 212 丹陽郡建業 石頭城を築き、秣陵を建業と改称する 呉書・呉主伝 212 曹操が攻めてくるとの情報を聞き濡須塢を築く 呉書・呉主伝 213 揚州廬江郡 一月、濡須で曹操と戦う 呉書・呉主伝 この戦闘は一ヶ月近く続いた 213 揚州廬江郡 夜陰に乗じて長江の中洲に渡った部隊を包囲して三千余りを捕え、水に溺れた者も数千に達した 呉歴 213 揚州廬江郡 大船に乗って敵情視察に向かうと、弓と弩を大量に浴びせられたため、刺さった矢の重みで船が傾いて転覆しそうになる。孫権は船をめぐらせて反対側にも矢を受けさせ、船を安定させてから引きあげた 魏略 213 揚州廬江郡 曹操に「春の出水が間近です。お早く去られるように」と手紙を送り、曹操は「わしに嘘をつく男ではない」と軍を引きあげた。また別の手紙では「あなたが生きてるかぎり、私は安心できませぬ」と伝えている 呉歴 214 廬江郡皖城 五月、皖城に遠征する 呉書・呉主伝 214 廬江郡皖城 閏月、皖城を攻め落とす。廬江太守の朱光と参軍の董和および男女数万人を捕虜とした 呉書・呉主伝 214 蜀を平定した劉備に荊州の返還を求めて諸葛瑾?を使者に立てるが拒否される 呉書・呉主伝 ? 南方三郡(長沙・零陵・桂陽)に官吏を送り込むが関羽?に追い返される 呉書・呉主伝 215 荊州陸口 呂蒙?を総司令官として鮮于丹・徐忠・孫規などの率いる二万の兵で長沙・零陵・桂陽を攻撃させ、魯粛?に一万の兵を授けると巴丘に駐屯させて関羽を防がせる。孫権自身は陸口にとどまり、軍糧の調達と各攻略軍の指揮にあたった 呉書・呉主伝 年は蜀書・先主伝による 215 荊州陸口 劉備が公安に軍を進め、関羽が三万の兵で益陽へと進出したため呂蒙らを呼び戻して魯粛の救援に向かわせる 呉書・呉主伝 215 荊州陸口 曹操が漢中に侵攻したため、劉備が和議を申し入れてくる。諸葛瑾を使者に立てて荊州・長沙・江夏・桂陽以東を返還させ、同盟を結びなおす 呉書・呉主伝 215 揚州九江郡合肥県 陸口から帰還すると合肥に遠征したが、攻め落とせず引きあげる。この際に甘寧?・凌統らと逍遙津に残っていたところ、魏将・張遼?に急襲される。凌統らの奮戦により孫権は橋を渡って逃れることができた 呉書・呉主伝 216 揚州廬江郡 建安二十一年冬、曹操が居巣に本営を置いて濡須を攻める 呉書・呉主伝 217 揚州廬江郡 春、都尉の徐詳を派遣して帰順を申し入れる 呉書・呉主伝 219 荊州 建安二十四年、閏十月。孫権は関羽の背後を呂蒙に襲わせる 呉書・呉主伝 219 荊州 関羽に降伏するよう勧める使者を送るが、関羽は降伏するとみせかけて逃走する。しかし、孫権はあらかじめ朱然と潘璋に命じて退路を断たせておいた 呉書・呉主伝 219 荊州 十二月。潘璋?の司馬である馬忠?が章郷で関羽とその子関平、都督の趙累?らを捕えた。こうして荊州は平定された 呉書・呉主伝 ? 曹操の上表により驃騎将軍に任じられ、節を与えられて荊州牧、南昌侯に封じられた 呉書・呉主伝 ? 校尉の梁寓を使者として漢の朝廷に貢ぎ物を献上させ、王惇に馬を購入させた。さらに魏の朱光らを帰国させた 呉書・呉主伝 221 十一月、魏の朝廷より孫権に賞を加える親書が下される 呉書・呉主伝 221 劉備が荊州へと侵攻してくる。孫権は陸遜?を督に任じ、朱然?・潘璋を率いさせて防がせた 呉書・呉主伝 ? 魏帝が孫権の子の孫登を侯に封じると伝えたが、まだ幼いことを理由に辞退する親書を送る。さらに西曹掾の沈珩を謝礼の使者として、呉の特産品を献上した 呉書・呉主伝 ? 孫登を太子に立てる 呉書・呉主伝 222 陸遜が劉備を撃破する 呉書・呉主伝 222 秋九月、魏が洞口・濡須・南郡に侵攻してくると呂範?に五軍を指揮させて洞口の魏軍に当たらせ、濡須には諸葛瑾ら、南郡には朱桓?を督として送り込んだ 呉書・呉主伝 222 揚州と越の不服従民族の対処に終われた孫権は曹丕に講和を申し出るが、孫登を差し出すよう迫られる 呉書・呉主伝 222 冬十一月、大風により呂範の軍に被害が出たため、江南へと退いた。曹仁が臧覇に命じて徐陵を襲わせて攻城車を焼き払い、数千人を殺傷して引きあげると、全琮?と徐盛?はこれを追撃して魏将の尹盧を斬り、数百人を殺傷した 呉書・呉主伝 222 十二月、太中大夫の鄭泉に白帝城の劉備を訪ねさせ、友好関係を修復した 呉書・呉主伝 222 夷陵を西陵と改名した 呉書・呉主伝 223 正月、夏口の江夏山に城壁を築く 呉書・呉主伝 223 四月、群臣が帝位につくよう勧めたが、承知しなかった 呉書・呉主伝 224 魏の文帝との関係が断絶する 呉書・呉主伝 備考 名前 コメント
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▽タグ一覧 【石頭】とは、メイドウィン小説のオリジナルキャラクターの1人である。 時空断罪者の一人だが、プライベートではレースに参加したりと結構フランクな人物。 普段はフードを着ているが、その正体は翻訳機で人語を話せるラムパルドというポケモン。 石頭の異名通り全てを破壊する頭部、ラムパルドの中でも桁外れの攻撃力を持つ。 レースではナリタブライアンとはよく話す仲で、断罪者の質の低下を愚痴っていたことも。 名前 コメント