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昭和十八年一月十六日、大阪に空襲はあったんでしょうか? トーキョーローズは何人いらしたのですか?また、軍部が期待したほどの効果は有ったのですか? 太平洋戦争当時、朝鮮半島に軍事企業はありましたでしょうか? 戦中の右翼はどんな活動してたんでしょうか? 大戦末期日本まで攻めてきた米軍機が一般市民に機銃掃射をするというような事は本当に起きたのでしょうか? 沖縄で日本軍が沖縄市民を虐殺したってホント? 「平型関の戦い」で、公平な戦史上の評価はどの程度のものなのでしょうか? 連合艦隊のトラック進出の意義について教えてください。 戦時中の日本は塩まで欠乏する有様になったそうですが、なんで周りが海なのに欠乏するんですか? 第2次大戦において、補給線が断たれ孤立した島の兵士に食料や医薬品などを潜水艦で運んであげることはできなかったのでしょうか。 戦地に赴く男がお守りとして女のあそこの毛を持っていたって本当でしょうか 防衛庁の研究で、戦略上沖縄を捨て駒にしたというのは事実でしょうか? 米軍か英軍が日本軍の立て籠もってる島に上陸した時に、落ちてる排泄物の量から300人はいると推測したが実際には100人しかいなかったという事があったというのは本当の話ですか? 日本軍のインパールやポートモレスビー攻略が失敗したのは、人が通るのもやっとな山脈に補給線通そうとしたから? 第二次世界対戦において、上陸前の空襲や艦砲射撃で上陸海岸の砲台や陣地、トーチカなどが壊滅したという例はどこですか? 太平洋戦争中で、大きな被害を被った日本の空挺部隊はありますでしょうか? 学徒出陣の日本ニュースにて南太平洋海戦エンタープライズ艦上で撮影のフィルムが「決戦」と称し登場しますが、どのようにして日本側が手に入れたのでしょうか? 先日ばあちゃんから今は亡きじいちゃんが何とか航空隊にいて皇族の何とかと言う人の近くにいた。 日本が戦時中に徴兵制なった時、医者は出兵しなくてよかったよね? 太平洋戦争で、何故アメリカ軍は台湾を攻略しなかったんですか? ガダルカナル島の無名日本兵の日記があるそうですが、これを読めるサイトや書籍はあるのでしょうか? 日本軍の将校は重要書類を前線で平気で持ち歩いて、戦死したときに奪われたと聞くんですけど、日本軍は気付いていたんでしょうか? 太平洋戦争末期(昭和20年)の日本の憲兵は何名位いたのでしょうか? 旧軍の学徒動員兵ってちゃんと給料もらえるんでしょうか? 旧軍で徴兵された(高砂族など以外)朝鮮台湾人兵士はどのように部隊に配置されたのですか? 沖縄がアメリカの支配下になったあとは沖縄に滑走路を作って、そこからB-29を飛ばしていた? 旧陸軍第2師団の大東亜戦争の戦歴を教えていただけないでしょうか? 大東亜聖戦時における帝国陸海軍それぞれの予算配分はいか程だったのでしょうか? 本土決戦の兵力(作戦機、師団数)を教えてください うちの祖父は大正14年生まれで、昭和20年に徴兵されたそうです。 大平洋戦争で米軍は「飛び石作戦」で日本本土に近付いて来ましたよね。 日本が南仏印へ進駐した際、現地の仏軍は武装解除されたのでしょうか? 戦記を読んでるとラボールという地名が出てきてラボール小唄というのも出てきたんですが 子供のころ祖父に太平洋戦争のころの話を聞いたら徴兵検査に落ちたので兵隊にならなかったとだけ聞きました 基幹生産力を担う熟練工を日本はどうして一兵卒程度の待遇で前線に送り出したのでしょうか? 太平洋戦争時、警察官と軍の関係はどうだったのでしょうか。 大戦後半の日本国内のメディアや国民感情はどのようなものだったのでしょうか? 「日本の戦争、不許可写真集」という本があって不許可の理由は主に銃や大砲などの兵器があるので軍の機密保持のためと書かれてますが 第二次世界大戦中日本軍が細菌・毒ガス戦をしなかったのは何故なのでしょうか? 金持ちは戦争に行かなくても良かったのですか 戦時中、明治神宮で行われた出陣学徒壮行式の時に使われた行進曲の曲名は、なんですか? インパール作戦後の日本軍の退却路は、別名「白骨街道」と呼ばれたそうですが、 徴兵された日本人の学歴はどうなのですか? ガ島や、ウェーク島などの、攻撃の戦略やいくらぐらい上陸してどんな感じで進んだのか知りたい 太平洋戦争のとき、南京から沖縄に移った師団ってありますか? 日本が植民地人の軍事的利用に消極的だったのは何故ですか? 大日本帝国陸軍がガ島の位置を把握していなかったって本当ですか? 日本軍はなぜ捕虜になるくらいなら自決とするよう教えていたのでしょうか? 軍は沖縄防衛についてどの位積極的だったのでしょうか? 旧日本軍は台鮮の植民地出身者の士官任官を終戦に至るまで認めなかったんですか? 海軍軍人であった祖父が先の大戦初期に於いて、ある島で「○○警司令」および「○○民政部長」 社員旅行で沖縄本島に行くのですが沖縄戦に関わるところを回るとしたら何処がいいでしょうか? 亡くなった祖父が「ラエンノ(ラエーノ?)基地がやばい、やばい」とよく言ってましたがそんな基地はあったのでしょうか? うちの祖父は明治43年生まれで終戦時は35歳でした。 支那事変から太平洋戦争終結までの国債総額とそれが国家予算何年分か教えてください。 20歳の法定徴兵検査以外に徴兵検査は無かったのですか? 私の祖父が徴兵されて出征しています。 私の祖父は身体検査の視力検査の際に近視であると偽り、丁種不合格となって大戦を生き延びた。 大東亜戦争中,軍部の力が強かったというのなら,なぜ東条英機内閣は倒されたんですか? 戦時中の東条内閣が潰れた理由の一つに「身内の陸軍からの反発」があったそうですが、どの辺が不満だったのでしょうか? 日本は,広田・マリク会談,近衛特使など,ソ連に和平仲介工作をしてますが,なんでソ連に頼んだんですか? むざむざ反故にされて……, 南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本にはなかったんでしょうか? 戦時中、外地の捕虜を日本へ海上輸送すると嘘の電文を流したりして、潜水艦に輸送船団の攻撃を躊躇わせたりすることはできなかったんでしょうか? 第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか? 太平洋戦中、熟練工が徴兵されて女子や中学生?が工場で働いたため品質が低下したそうですが、全工場労働者に占める女子や中学生の割合というのはどれぐらいだったのでしょう? 戦時中、医者はほとんど徴兵されて戦地ですよね。本土では病院に医者がいなくなって困ったと思いますが、どうしていたんですか? 5年制だった旧制中学の中で、戦場に送り込むために1年早く卒業させられた少年たち 戦時中は、米の替わりにアワやヒエやソバやヌカもたべていたんですか? 大戦の末期に海上封鎖で塩が不足したそうですけど、海に囲まれた日本で何で塩不足なんかが起きるんでしょうか? 日本は火山国なので戦時中に硫黄が不足する事はなかったのでしょうか? 女学生が「慰問袋」を送った所 受け取った兵隊さんから返事が来て文通が始まったという話 旧日本軍の兵器工場で働いていた人から、「物資不足の末期には航空機エンジンに陶器を使用していた」と聞きましたが、本当でしょうか? 太平洋戦争末期、日本中が空襲にあっていた中でも大本営は、嘘の大戦果を垂れ流していたんでしょうか? 東京大空襲のとき、連合国側の大使はどうしてたんですか? 先の大戦中、日本国内の民間人が、戦争や徴兵から逃れるために、国外に脱出することはできましたか? 海軍乙事件が起こらず古賀峯一がGF長官であり続けたなら戦争はどうなったでしょうか? 日本軍が在インドネシアの蘭人を収容所にいれたのはなぜですか? 天皇が各地の作戦に口出しをして犠牲を増やした・・・これ本当? 終戦の日にも東京では電車が(当時の基準で)普通に走っていたと聞きますが、これは将来の占領政策か何かの意図で手加減とかあったからなのでしょうか? 太平洋戦争末期のフィリピン戦ではゲリラが跳梁して日本軍の小部隊の移動は後方でさえ自殺行為だったそうですが 「硫黄島からの手紙」で憲兵隊が非国民の犬を撃ち殺すシーンが有りましたが当時はそのような事が頻繁に行われていたのでしょうか? 天皇が玉砕した島届かないものと知りながら電報(無電)を打たせたという話を以前聞いたのですが 戦時中、食糧不足を少しでも解消する為に釣りをしたり野山へ山菜を取りに言ったりすることが流行ったりしたんでしょうか? 太平洋戦争中って、人海戦術で砂鉄をかき集めたりとかしなかったんですか?磁石とか使って 第2次大戦中、紙の割り当てが削減されて、雑誌は多くが休刊・廃刊になったそうですが横溝正史や江戸川乱歩、小栗虫太郎などの作家はその間どのようにして生計を立てていたのでしょうか? 先の大戦当時、日本でおおっぴらに戦争反対を唱える人はどうなったんですか? 南方の資源地帯を占領したのに、そこに現地工場を作らなかったの? 日本の消費者物価は、昭和10年度から20年度にかけて、13倍になっていますがこれは統制価格がでしょうか? 本土決戦直前の内地の毒ガス配備状況は、どうでしたでしょうか。 終戦間際、日本の共産主義者が危なくなってたという話を聞いたのですが 戦中の報道管制下でイタリアやドイツの同盟国の敗北を新聞やラジオはどのように伝えたのですか? 日本の工業力の実態 戦時中、日本から脱出する方法はあったの? 教科書の杉原千畝氏の欄に「なお43年2月以降、日本は上海にゲットーを創設し、上海に非難していた無国籍ユダヤ人に迫害を展開した」と書いてました 太平洋戦争中は、日本沿岸や遠洋での鯨漁はどの程度行われていたんでしょうか? 戦時中日本やその他の国々では女性や学生を工場に兵器製造として徴用させていましたが、工具はあるとはいえ素人が銃砲弾や手榴弾などを製造できたのでしょうか? 本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか? 映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画? 戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。 戦時中、ラジオの短波放送が禁じられていたそうですが、主な理由はなんですか? 大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか? 徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか 戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか? 大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか 1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか? 日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう? 太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか? 戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか? 宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです 大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが 太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか? 戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか? 戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか? ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの? 駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。 戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか? 戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの? 太平洋戦争末期に誕生した国民義勇隊の詳細を教えてください 敗戦直前の昭和20年7月頃に勝札なんて宝くじがあったそうですが、 戦中、日本国内にいた外国人はどんな扱いだったのでしょう? 戦艦や巡洋艦のスペックとか、一般市民にどれぐらい公開されてたのでしょうか? 鉱物資源は日本領土や大陸でコストを度外視して採掘しても、戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか? 戦中、キリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが、それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう? 徴用された船舶が撃沈されたら弁償してもらえたの? 沖縄戦の集団自決って本当にあったのですか? 戦中の軍人と宗教の関係を教えて下さい。 昭和20年の航空機生産計画は何を根拠に決められていたんでしょうか? 日本の軍用機の生産数のピークが、物資に相当困っているはずの1944年だったのは何故ですか? 東条英機暗殺計画について御教授ください 手榴弾による自決は存在したんですか? シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。 旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか? 沖縄戦で、米軍に降伏する際に使用したと思われるビラ(旗?)について知りたいのですが ゼロアワーって軍部が期待したほどの成果があったのでしょうか? 戦中の食糧不足に関して教えて下さい。 戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう? 戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの? 本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。 戦時経済について知りたいです。 石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの? 南雲がミッドウエーでは大敗したものの、南太平洋沖海戦では勝利したのに、その後左遷のようにサイパンに送られたのはどうしてですか? 石原莞爾が太平洋戦争の指揮をとっていれば、戦局は少しはマシになっていたんでしょうか? ガダルカナルって、バナナとかヤシの実とかの人が食べれる植物は自生していなかったんでしょうか? 太平洋戦争の時、戦況に関する緘口令とかあったんですか? 太平洋戦争で日本はアメリカと早期講和は可能だったのですか? 昭和十八年一月十六日、大阪に空襲はあったんでしょうか? 火災です。 空襲ではないです。 (14 眠い人 ◆ikaJHtf2) トーキョーローズは何人いらしたのですか?また、軍部が期待したほどの効果は有ったのですか? 米軍の兵士は、ラジオ東京の複数の女性アナウンサーを(東京ローズ)と呼んでいた。 全部で何人いたのかは不明。 戦後名乗り出たのは、アイバ・トグリ・ダキノ(本名 戸栗郁子)さんだけ。 米軍の兵士は、東京ローズの放送を楽しみにしていたというくらいだから、 日本の軍部が期待したような効果はなかったと思う。 (27 154) 太平洋戦争当時、朝鮮半島に軍事企業はありましたでしょうか? 何を軍需産業と規定するかによって変わってきます。 少なくとも、航空機、車両の工場はありません。 鴨緑江の電源開発が行われ、その電力を利用したアルミ精錬事業、石炭と 鉄鉱石を利用した鉄鋼業、石油精製といった素材に関わる部分を担っていたようです。 あとは、薬莢の元型になるパンチ材を製作していました。 進出企業としては、日産コンツェルンの日本鉱業、日窒コンツェルン、日本高周波重工業等が上げられます。 (33 眠い人 ◆ikaJHtf2) 戦中の右翼はどんな活動してたんでしょうか? 新聞使って戦意高揚にこれ勤めたり(頭山某、池崎某、徳富蘇峰)、 裏で企業人と結託して大儲けしたり(笹川某、児玉某)していました。 あと、東条打倒をやって逆に発覚し、自殺した人(中野某)もいます。 少壮軍人とはあまり仲が良くなかったみたいです。 詳しいことは、清沢洌という人が書いた「暗黒日記」(ちくま文芸文庫)とか、 昭和軍閥史をお読みになれば宜しいかと思います。 (37 眠い人 ◆ikaJHtf2) 大戦末期日本まで攻めてきた米軍機が一般市民に機銃掃射をするというような事は本当に起きたのでしょうか? うちの爺さんが山菜取りに行って、えびの高原付近で攻撃され 鉈を投げて追っ払ったそうです 一緒にいった人も同じことを言ってたので本当だと思われます (41 295) 交戦相手とはいえ一般市民相手に直接銃撃を加えるというのは、問題にはならないのでしょうか? 大問題です。 が、敗戦国でGHQの軍政下に置かれ、講和/独立は賠償権放棄とセット でしたので、これに限らず連合国の戦争犯罪は追及がほぼ不可能です。 (41 298) 沖縄で日本軍が沖縄市民を虐殺したってホント? 軍ヲタご用達の客観資料 港区西麻布交通安全教育センタービル「沖縄戦資料室」 (63 304) 洞窟に避難している市民を追い出した(艦砲射撃下では事実上の虐殺) 泣き叫ぶ赤ん坊を殺害したなどなど ただし、軍や師団による命令ではない 日本軍による虐殺ではなく、個人犯罪なら正確 (63 305) 「平型関の戦い」で、公平な戦史上の評価はどの程度のものなのでしょうか? 戦史叢書では、補給部隊となっています。 この資料は比較的信頼の置けるものであり、事実と思います。 この戦いは中国軍の勝利として喧伝され、国民の士気高揚に役立ちましたし、 補給部隊が弱体化したことで、日本軍の進撃速度が鈍り、忻口戦で中国軍が 戦線を構築するための時間を稼ぐ格好にもなりました。 (65 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 連合艦隊のトラック進出の意義について教えてください。 内地からいちいち出撃していたら石油が持たない (65 382) 敵の手の届かないところで思う存分訓練ができる、という点が最大の意義では? (65 383) 戦時中の日本は塩まで欠乏する有様になったそうですが、なんで周りが海なのに欠乏するんですか? 生産してもそれを運ぶ手段がなかったからです。 海上は機雷で封鎖され、陸上ルート(鉄道)は空襲で寸断されるといった状況では、 たとえ生産できてもどうにもなりませんでした。 (70 657) 生産手段が大量生産ではなく、またリソースを農産物の増産、 あるいは工場・軍関係のほうに廻される事が多かったためです。 特に、低い生産能力と運送手段が問題だったでしょう。 (70 658) 海水から塩を作る作業は、職人が居れば可能と言う訳ではない。 海水中の水分を直射日光で蒸発させて塩分濃度を高めた物を燃料で熱して塩分を抽出する。 その方法は数種あるが、基本的に 1.雨の少ない海岸に大量の燃料(他に使い道がない雑木)を運ぶ。 2.雨の少ない内陸に大量の海水を運ぶ。 のどちらか、つまり、大量の人員を投入して輸送作業を行う必要がある。 人件費が安い分、今では絶対にコストに見合わないようなやり方で人力に頼る業種が多かった点を考慮されよ。 ヨイトマケとか。 (70 677) 第2次大戦において、補給線が断たれ孤立した島の兵士に食料や医薬品などを潜水艦で運んであげることはできなかったのでしょうか。 当時物資輸送用潜水艦という考えはなかったのでしょうか。 ありましたが、何か?>輸送潜水艦 (76 519) ネズミ輸送でググると良いと思われ (76 520) 輸送用の潜水艦のうち、潜輸小(波号101型)は硫黄島と父島の輸送に 従事しただけで、陸軍の丸ゆ艇は、フィリピン戦線です。 また、丁型(伊号361型)、丁型改(伊号373)の完成はガ島戦後です。 結局そう言う専門艦がなかったので、ガ島への補給は、攻撃潜水艦たる 甲型潜水艦が主に行いました。 (76 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦地に赴く男がお守りとして女のあそこの毛を持っていたって本当でしょうか 本当 (77 287) 防衛庁の研究で、戦略上沖縄を捨て駒にしたというのは事実でしょうか? 第2次大戦時の話かな? 前後の話がよくわからないのだが、一応書いておくと、 沖縄を「戦略上」捨て駒にしたというより、 沖縄戦開始時すでに日本は反撃の余力などほとんどなく、 捨てざるを得ない、選択の余地などない状態。 それをふまえて考えよう。 捨て駒っていうのは、意味としてはその駒を見捨てる (敵に取らせる)ことによって、全体を有利に進めようとするものだ。 確かに本土決戦用と称して戦力の温存が始まっており、 兵力を退避させるなどの傾向があったのは否定できないが、 菊水作戦は大和をはじめとして動く艦船のほとんどを動員しているし、 沖縄特攻は九州の航空兵力を根こそぎ動員している。 沖縄をまるっきり捨ててしまっているわけじゃなく、それなりの反撃はこころみてる。 ほぼ日本の全力と言っていい反撃だろう。 だから、その前後の戦況を見ても沖縄は「捨て駒」ではない。 だから、「ウヨサヨの問題じゃない」のも確かだが、 沖縄は捨て駒ではないし、最初から見捨てる予定だったわけでもない。 反撃が及ばなかっただけ。 (77 681) 遅滞行動ってのは後退しながらやるもんで 捨て駒ってのは無意味な作戦のために踏み止まって死守作戦、 と言ってみる。 沖縄の場合は増援の見込みもなければ後退もできず 負け戦を長引かせるのが目的だから戦った将兵や被害を受けた 島民には悪いが「捨て駒」 (77 687) 米軍か英軍が日本軍の立て籠もってる島に上陸した時に、落ちてる排泄物の量から300人はいると推測したが実際には100人しかいなかったという事があったというのは本当の話ですか? 本当ですよ。日本人は米が主食なので、肉食が主の欧米人に比べ、 食物繊維を多く採っているので、便の分量が多かったのです。 (82 711) 日本軍のインパールやポートモレスビー攻略が失敗したのは、人が通るのもやっとな山脈に補給線通そうとしたから? 機械力、船腹量、総合分析力の差でやんしょ。 New Guineaでは、日本軍の作戦が悉く連合軍に漏れていて、補給を求めようと 海岸に出てきたら、すかさず砲爆撃。 これで、日本軍は随分すり減らされています。 それを飽きもせず何回も行う訳で。 Imphalの場合は、現地人に味方が殆どおらず、現地の状況も弁えず、いけいけ どんどんで深みに嵌っている訳で。 対する連合国側は、ずっとそこを統治してきたノウハウもあり、地勢を良く理解 している。 また、徹底した隠見工作によって、部隊の秘匿に努め、加えて戦車、戦闘用航 空機の充実があり、後方を支える輸送機、土木機械などの機械が充実していた ので、補給はかなり容易に出来ている訳で。 (85 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 基本的に、日本軍の場合は、兵站を軽視しがちだったこと、 インパールにしても、ポートモレスビーにしても、当初の攻勢の限界線を越える場所に位置していました。 攻勢の限界線は、ほぼ兵站の限界線と言ってよかったでしょう。 そこまでたどり着く輸送路も、連合軍の航空機や潜水艦の攻撃によって不安定なものでした。 そして、それに天嶮を超えていかなければならない、という悪条件が加わわってということになるでしょう。 英米軍の場合、大変に兵站を重視します。 成否はともかく、十分にその辺は計画化し、 そして、それを支えるだけの自動車、航空機、艦船も十分に持っていました。 戦争に投入できる経済力が圧倒的に高いんです。 そこらあたりの差が如実に出ています。 (85 877) 第二次世界対戦において、上陸前の空襲や艦砲射撃で上陸海岸の砲台や陣地、トーチカなどが壊滅したという例はどこですか? 第二次世界対戦において、上陸前の空襲や艦砲射撃で上陸海岸の砲台や陣地、トーチカ などが壊滅したという例はほとんどありません。 ということは、砲弾と砲撃時間の限られた艦砲射撃では、 トーチカの壊滅は不可能だということです。 100キロを超える上陸海岸全体にすきまなく砲弾を注ぎ込むには、 どれほど艦艇があっても足らないでしょう。 (88 494) もちろん充分な量の艦砲射撃は行われたが、 味方に当てないようにと海岸の後方を狙ったので、 防御施設にはほとんど損害を与えることができなかったのよ。 これは航空攻撃も同じ。 (88 495) 堅固なトーチカには艦砲射撃は効力がない。 硫黄島で立証され沖縄戦で修正された。 (88 496) ついでにいうと、オマハ・ビーチでは、事前爆撃が爆撃隊のミスで失敗していたという 史実もあります。 他の上陸地点では、抵抗はあれほど強力なものではありませんでした。 (88 499) 台湾の高雄要塞が1945年3月10日のB-29による爆撃で跡形もなく破壊された。 (88 575) 太平洋戦争中で、大きな被害を被った日本の空挺部隊はありますでしょうか? 厳密には空挺攻撃ではありませんが どちらも輸送機の胴体着陸で目標に到達するので フィリピン作戦での薫/高千穂空挺隊 沖縄作戦での義烈空挺隊 など。敵飛行場破壊を目的とした生還無視の斬り込み部隊で、 全て壊滅しています。 (88 774) 義烈空挺隊 沖縄戦の最中に米軍飛行場へ強行着陸して、奮戦するも最終的に全滅。 (88 775) 学徒出陣の日本ニュースにて南太平洋海戦エンタープライズ艦上で撮影のフィルムが「決戦」と称し登場しますが、どのようにして日本側が手に入れたのでしょうか? 欧州で流されたニュースフィルムを中立国(スイスやスウェーデン)を通じて 入手したのではないでしょうか。 実際そういったルートで入手した欧州の軍事関連の雑誌を元にして 当時の「航空朝日」がかなり正確な敵空母に関する情報を特集していたりしますので。 (90 名無し軍曹) 先日ばあちゃんから今は亡きじいちゃんが何とか航空隊にいて皇族の何とかと言う人の近くにいた。 これだけの情報で、たぶんうそ、とか多分ここだ、とかわかる人いたら、教えてください。 ざっと調べた限りでは可能性が高いのは海軍中将久邇宮朝融王ではないでしょうか。 久邇宮殿下は香淳皇太后(昭和天皇皇后良子)の実兄で昭和天皇の義兄に当たります。 殿下は海軍兵学校(49期)卒、海軍大学校(30期)卒の海軍軍人です。 航空隊での勤務が多く、いくつかの航空司令を歴任しています。 昭和14年10月10日第1連合航空隊参謀 14.11.15大佐 15.07.09八雲艦長 15.11.01木更津空司令 17.03.20高雄空司令 17.10.05南西方面艦隊付 17.11.01少将 18.04.01第19連合航空隊司令官 19.10.01第20連合航空隊司令官 20.05.01中将 20.11.30予備役編入 22.10.14皇籍離脱 久邇を姓とする 34.12.7死去 享年58 (90 名無し軍曹) 航空軍司令官なら、李王垠中将、航空総監部教育部部員兼陸軍航空本部教育部部員なら、 朝香宮孚彦少佐、後、東久邇宮稔彦大将が防空総軍の司令官だったような。 (90 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本が戦時中に徴兵制なった時、医者は出兵しなくてよかったよね? 医学生は徴兵猶予があるはずですが、 一般医師は容赦なく一兵卒として徴兵されるんじゃ無いでしょうか。 といっても戦場ほど医療関係者が必要な場所に一兵卒として送り込まれるのもばかばかしい話で、 短期現役軍医といって軍人教育を受けた上で軍医になれる制度がありました。 当然の措置なのですが、当時の軍は多分に官僚的で、 軍需産業で必要な熟練工や技術者まで徴兵して使いつぶすなんて愚行をしてたりします。 (90 機甲自転車 ◆bNp1aYDlSU) 徴兵は、帝国憲法下における国民の三大義務の一つで、戦時のみでは ありません。平時にも実施されています。 なお、当時は女性の権利・義務は著しく制限されていたので、女性が 兵役の義務を持たないからと言って、帝国憲法には抵触しません。 (90 38) 現実には適齢期男子の16%程度しか取られないヘタレな国民皆兵だったけどね。 (90 39) だから徴兵制ではあっても国民皆兵ではないのでは? 選抜徴兵制というのが適当かも。 (90 40) 現役兵だけが兵役ではない。 補充兵だって国民兵だっている。 (他に予備兵・後備兵があるが、これらは現役を終えた兵士) (90 42) 太平洋戦争で、何故アメリカ軍は台湾を攻略しなかったんですか? 代わりに沖縄を攻略したからです。 (90 81) 沖縄と台湾の得失を計算した結果 フィリピンからの距離は、台湾の方が近いが、大した差ではない 台湾は中国本土の日本軍基地から飛行機が飛んでくる 台湾を押さえても、九州上空の航空優勢は獲得できない などの理由により、沖縄攻略の方が楽&後の作戦に有利と判断されたためです (90 84) ガダルカナル島の無名日本兵の日記があるそうですが、これを読めるサイトや書籍はあるのでしょうか? ガダルカナル島作戦に於ける百武十七軍敗北の真相 山本筑郎, 戦記 最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル・インパール戦記/高崎伝著/光人社 まだ多数ありますが絶版物も多いので一度お近くの図書館でお尋ねを (91 36) 日本軍の将校は重要書類を前線で平気で持ち歩いて、戦死したときに奪われたと聞くんですけど、日本軍は気付いていたんでしょうか? 将校が重要書類持ち歩くのは当然 問題は、破棄の時期であり、負け戦が多い軍隊ほど書類を奪われる傾向にあるので 米軍よりも日本軍が奪われることが多いのは当然 中国軍は、それほど大量の書類が必要なほど官僚化していないし。 ただ、海軍某事件のように戦訓が生かされない傾向にあったこと 上級将校ほど保全意識に甘いのも事実 (現在も同じだったりする) (91 218) 太平洋戦争末期(昭和20年)の日本の憲兵は何名位いたのでしょうか? 内地に10,679名、台湾に745名、朝鮮に1,927名、関東軍に4,946名、北支に4,253名、 中支に6,115名、南支に1,094名、仏印に479名、昭南島に362名、Malayに754名、 Thailandに937名、Burmaに540名、Philippinesに829名。 合計36,037名(1945年現在) (92 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 思ったより人数は少ないですね、内地に1万少々とは。 基本的に内地の治安維持は警察で、憲兵は思想犯の摘発と軍人の非違検察 が主な任務で、戦争末期は、隠退蔵物資の摘発にも乗り出しています。 当初は鎮台設置場所だけに置かれていましたが、戦争が激化すると、一県 一憲兵隊となり、可成り拡充されました。 ちなみに、1933年で僅か2,250名しかいません。 つまり、3万余人の大多数は、本来の憲兵ではありません。 これらは、憲兵学校を出た者で他に、他兵科から憲兵の補助となった補助憲兵、 朝鮮籍の志願者から軍属として憲兵の補助となった憲兵補、満州籍の志願者から 選抜された、軍属ではないものの、二等兵から伍長に準ずる憲補があります。 (92 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 憲兵は戦後も文民警官として沢山居ました。 (92 75) 旧軍の学徒動員兵ってちゃんと給料もらえるんでしょうか? 学徒動員兵だろうがなんだろうが入営すればちゃんと給料はもらえますよ。 すずめの涙ほどですけどね。 負けてても軍隊って給料出るのか? 戦地に出征していた人は復員してから復員事務所で未払い分の給料を支給されています。 戦後のインフレでわずかな価値しかなかったそうですが。 (92 142) 硫黄島のフィルムなんか見ると札束を戦利品として持ってる兵士が写ってる。 戦地の将校は意外と金持ち。 (92 153) 旧軍で徴兵された(高砂族など以外)朝鮮台湾人兵士はどのように部隊に配置されたのですか? 朝鮮には陸軍二ヶ師団(羅南・道山)は主に朝鮮人で編成された師団です。 現地徴用の日本人と混成でした。 台湾では師団編成を開始した昭和二十年に戦争が終わってしまったので、 朝鮮のようにはいきませんんでした。 (93 122) 朝鮮を兵員補充地とした師団は 第320師団 第19師団 第20師団 第79師団。 この内第19、20師団が中国、南方などの戦線を転戦。 (93 125) 沖縄がアメリカの支配下になったあとは沖縄に滑走路を作って、そこからB-29を飛ばしていた? 事実です。 中国ですが一週間でB-29の滑走路を作ってしまった例も。 (93 414) 嘉手納基地のサイトにもうちょっと詳しく書いてあったぞ Kadena History Kadena history dates back to just before the April 1945 invasion of Okinawa when a local construction firm completed a small airfield named Yara Hikojo near the village of Kadena. The airfield, used by Japanese warplanes, was one of the first U.S. 10th Army targets and was captured just hours after American troops stormed the island beaches April 1. Americans captured a 5,000-foot strip of badly damaged coral runway. Army engineers quickly made repairs and by nightfall the runway could accept emergency landings. After adding six inches of coral, the airfield was declared operational eight days later. By August 1945, an additional runway was built and the original runway lengthened and improved to accommodate bombers. Although originally a fighter base, a B-29 organization ? the 316th Bombardment Wing ? was the first element responsible for base operations. The 316th was preparing to fly combat missions against Japan. However, President Harry Truman announced the end of offensive action against Japan on August 15,1945, before bombers could take to the skies. The surrender of the Ryukyus-deployed Japanese forces occurred Sept. 7 when Gen. Joseph Stilwell accepted the surrender at a location which later became Kadena's Stearley Heights housing. (93 424) 旧陸軍第2師団の大東亜戦争の戦歴を教えていただけないでしょうか? 仙台第二師団は開戦時第16軍に隷属し、ジャワ島攻略に参加しました。 その後ガダルカナル→(マニラで再編成)→ビルマと転戦しています。 (29連隊はビルマではなくシンガポールから仏印に進駐しました) 所属部隊は以下の通り。 仙台歩兵第4連隊(勇一三〇一部隊) 新発田歩兵第16連隊(勇一三〇二部隊) 若松歩兵第29連隊(勇一三〇三部隊) 高田歩兵第30連隊(豊五六二三部隊) 騎兵第二連隊 野砲兵第二連隊 独立山砲兵第一連隊 工兵第二大隊 輜重兵第二大隊 上記の歩兵連隊のうち、第4・16・29連隊はジャワ→ガダルカナル→ビルマ(マレー)と転戦し ガダルカナルで一度全滅の憂き目に遭っていますが、歩30連隊のみは 原隊と切り離されてハルピンに移駐し、19年7月に宮古島警備を担当してそのまま終戦を 迎えています。 より詳しくは新人物往来社刊の「太平洋戦争連隊戦史」を読まれることをお勧めします。 (94 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 大東亜聖戦時における帝国陸海軍それぞれの予算配分はいか程だったのでしょうか? 太平洋戦争時の予算配分は昭和財政史でも紐解いてみないと判らないですし、 それは今の中国の軍事予算のように多岐の費目にわたっているので、判らない 部分が多いと思います。 しかも、その決算処理は平時と違い、単年度予算ではなく、その戦争が完了する まで行われないことになっていましたので、更に判らない状況です。 例として、昭和6年の臨時軍事費(軍事予算の大多数を占めるもので、昭和18年 から軍事費は全て此処からの支出となる)の場合、 歳入:公債 → 20億2,270万円 歳出:臨時軍事費 → 20億2,270万円 うち、陸軍臨時軍事費 → 14億2,270万円 うち、海軍臨時軍事費 → 3億4,996万円 うち、予備費 → 2億5,000万円 となっています。 敗戦までに、この歳出額は1,654億1,377万1,000円、これに、陸海軍省費として 99億6,413万7,000円が支出されています。 このほか、徴兵費を加えたものが直接軍事費となっています。 (94 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 本土決戦の兵力(作戦機、師団数)を教えてください 地上兵力は第1/第2総軍、および大本営直轄の第5方面軍で 64個師団33個旅団の96万人 作戦機は作戦用機が約2800機、特攻作戦などにも投入された 練習機が2200ほどで約5000機でした (94 941) うちの祖父は大正14年生まれで、昭和20年に徴兵されたそうです。 戦中に徴兵年齢は18歳に引き下げられたと聞いたんですが、何がおかしいのでしょう? 18歳に引き下げられたのになぜ祖父君はハタチ過ぎまで徴兵されなかったのかということなのでしょうが、 徴兵検査を受けて乙一種合格だったけれども結局徴兵されなかった方もいらっしゃるようですし、 学徒出陣の中心は文系の学生で、理系の学生は2~3年の猶予があったりもしたようですし。 とにかく一律全員が一斉に兵隊になったわけではないので、おかしくはないと思いますよ。 (95 45) 大平洋戦争で米軍は「飛び石作戦」で日本本土に近付いて来ましたよね。 でも、迎え撃つ日本軍はどうやって守備作戦を立ててたんでしょうか?。 日本側は当初艦隊決戦を行って戦争の雌雄を決する構想でいました つまり米の反抗が始まった機会を捉え我の艦隊を集結させて一気に 戦争を終わらせようともくろんでいたわけで、まともな防衛戦略は 存在しませんでした。 (結局大東亜戦争においては大規模な艦隊決戦は起こりませんでした) のち、米が長距離爆撃可能なB-29を実戦配備すると、この攻撃から 日本本土を防衛するため(B-29の航続距離から見て対日攻撃基地に 最適な)サイパン・グアムを防衛するプランが浮上します。日本海軍は 空母機動部隊の連携作戦で米艦隊を迎え撃つ「あ号作戦」を発動します が、結局アメリカに敗れ太平洋戦線の防衛作戦は事実上崩壊します。 その後はもっぱら本土決戦を意識し米に出血を強いる戦略がとられます。 できるだけアメリカ兵に被害を出し、敵国の厭戦気運を高めよう…とい うわけです。結果、沖縄や硫黄島といった日本攻撃に都合の良い地点に 兵力を集中して防衛作戦が行われました(ただ、日本側は当初アメリカの 侵攻ルートを台湾と見誤っていた節があり、そのため一部の兵力が沖縄・ 台湾に分散してしまっています)。 概略としては、大東亜戦争の日本側防衛戦略はこんな感じだと思います。 もちろん、太平洋に散らばる日本占領地にはちゃんと防衛部隊が存在して いました。ウェーキ島や南鳥島のように、終戦まで米軍が上陸しなかった 地点もいくつか存在します。 (95 877) 日本が南仏印へ進駐した際、現地の仏軍は武装解除されたのでしょうか? 昭和16年の南部仏印進駐の時には武装解除されてないはず 日本はビシー政権とは別に戦争してないし 武装解除されたのは昭和20年の仏印処理の時だと思うけど (95 795) 戦記を読んでるとラボールという地名が出てきてラボール小唄というのも出てきたんですが ラボールはラバウルのことですか? 多分ラバウルで良いと思われ。 (97 369) 子供のころ祖父に太平洋戦争のころの話を聞いたら徴兵検査に落ちたので兵隊にならなかったとだけ聞きました 徴兵検査に落ちることってよくあることなんですか また 落ちた人たちは他のことをさせられたりしたんでしょうか 徴兵検査の結果は、甲種、乙種(第一~第三)、丙種、丁種、戊種に別れていました。 このうち戊種は翌年再検査、丁種は不合格です。 不合格になる理由は、体格不良、病気(特に伝染病)、身体障害などです。 最高ランクの甲種合格は全体の半分をやや下回る程度、丁種は3%前後だったようです。 不合格者は軍務につくことができないので、家業を継いだり、民間に就職したりする ことになります。 進んで兵役につきたがる人は少数派でしたが、甲種合格してこそ一人前の男という考 えが当時は一般的で、不合格者は肩身が狭かったようです。 (98 607) 日中戦争が始まるまでの現約徴収率はせいぜい20パーセント以下です。 いわゆる甲種合格になる人間はもっと多かったようですが、予算や定員の都合から 甲種合格になった人からさらに入営者をくじ引きで選んでました。 つまり大きな戦争でもない限りは兵隊になる人のほうが少なかったのです。 ただ、不合格でも完全に免除されるのは丁種だけで乙種や丙種の場合は12年間の 補充兵役があるので、戦争で欠員がでたら召集される可能性はあります。 (98 611) 基幹生産力を担う熟練工を日本はどうして一兵卒程度の待遇で前線に送り出したのでしょうか? 今の世の中にもいるでしょう。 財務と人事だけで会社の全体が判ったような気がして、どんどん経営を傾かせていく経営者が。 あれと同じです。 例えば、1943年に警視庁職業課の課長が航空機産業の仕事の60%は女性でもこなせると力説して みせたり、1944年に栗原海軍大佐は、全航空機労働者の70~80%は女性で代替できると述べています。 航空機産業は最先端の産業であることから、近代的な大量生産方式が導入されていると言うのが 大前提で、工程的に単純で反復の多い作業に分割でき、それが流れ作業となっているので、 男性労働者よりも体力に劣り、非熟練工でも容易に生産に貢献できると考えられた訳です。 このため、航空機産業に於いては熟練工をいとも簡単に徴兵したものと考えます。 一方で、造船業は重い鋼材を扱うため、非力な女性では機械力がないと戦力にならない (米国はこういう部分を機械で補い、女性のこの分野への進出を為し得ています) と考えられていましたから、徴用工を主に充当しています。 このほかの基幹産業に関しては、企画院の美濃口氏などはその論文の中で、基幹産業従事者は、 専門的な技師、熟練工が必要であり、生涯を掛けて工員は技術的知識と熟練を身につけることを要求されている。 そのため、結婚まで数年しか働かない女性はこういう基幹産業、就中、 重化学工業には全く不向きであると述べています。 実際は不十分な単能機械と生産管理技術しか無かった日本では、こういった熟練工を不要とすることはなかったのですが。 (99 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争時、警察官と軍の関係はどうだったのでしょうか。 その昔、警官と軍隊が対立して政治問題に発展した、ゴーストップ事件というのがありました。 従いまして、警察と軍との関係は一種緊張状態にあったと言えましょう。 但し、ゴーストップ事件の後は、軍は警察に対して一段と優越した立場にあり、軍の行動を支援する ものに変質していきます。 国家総動員法では、「国の全力を挙げて戦争目的を遂行するとして労務、物資、資金、施設、事業、 物価、新聞、出版物などあらゆる部門にわたって命令によって広範かつ強力な制限をなし得る」 ものとなっていました。 沖縄の場合は少し特殊で、警察が、本来地方自治体のやっていた徴兵業務も代行していました。 また、沖縄戦の場合は、警察は警察警備隊に名前を変え、直接軍の作戦体制を補完するため、 住民の避難誘導、スパイ取締り、弾薬運送の労働力提供を行なっていました。 (99 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦後半の日本国内のメディアや国民感情はどのようなものだったのでしょうか? マスメディアについては、政府の完全統制下にあった関係上、 敗戦まで大日本帝国まんせーな記事を書き飛ばしています。 戦況などに関しては軍以外にソースはありませんし。 もちろん勇気ある言論人がいなかった訳ではありませんが、則逮捕、 発禁ということになるので、事実上存在しないのと同じでした。 一般の国民感情については、本音と建て前の使い分けとか結構あったようで、 誰かのところに赤紙が来ると、昼間、祝いの言葉を述べた人が、 夜になるとお悔やみを言いに来たとかいった類の手記は、よく見かけます。 さらに末期になると、電車の車内や、街角などで、 半ば公然と軍や政府を非難する声も聞かれるようになったと、憲兵隊や警察の資料にあります。 (99 585) 「日本の戦争、不許可写真集」という本があって不許可の理由は主に銃や大砲などの兵器があるので軍の機密保持のためと書かれてますが 軍の機密保持なら軍服もOUTではないでしょうか? 僕は戦時中に撮影された祖父の軍服姿の写真を大量に持っていますが襟や袖などの 部隊章にボカシが入っていますよ。 (99 695) 別に軍服に機密を要する部分は殆どありません(部隊章、階級章除く)。 銃、大砲といったものは、それがまだ一般に知らしめるものではなかったため、 機密指定を受け、不許可となる場合がありました。 (99 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次世界大戦中日本軍が細菌・毒ガス戦をしなかったのは何故なのでしょうか? 相手側に細菌・毒ガス戦を仕掛けられた場合、対処できないからです (102 491) 日本軍は中国大陸で細菌・毒ガス戦を実施しております 英米軍、ソ連軍に対し使用しなかったのは英米軍や独軍が使用しなかった理由と同じです また細菌・毒ガス兵器は当時の高度科学兵器であり大変高価なものであったので、たかが 太平洋の島1つに大量散布するなどというもったいないことはできませんし、第一島全体に ばら撒けるほどの量もありませんし、1943年以降は運ぶ手段すらありません (102 492) 国土が狭く人口密度も高いから、本土に細菌戦を仕掛けられたら不利。 毒ガスの生産能力は結局のところ化学工業の規模がモノをいうので 同じ手段で反撃されたら不利になるだけ。 何しろWW1で欧州では毒ガス戦たけなわだった頃に日本ではやっと液体塩素の 生産が始まったぐらいなんで。 (102 493) 金持ちは戦争に行かなくても良かったのですか んなこた~ないです。 金持であっても、近衛の息子のように、徴兵された場合もありますし、中野正剛による東条批判事件では、 その弾圧に批判的な対応をした検事(43歳で国民兵に編入)、毎日新聞記者は、 戦局批判をしたために、四国丸亀の機関銃中隊に徴兵され、 松前重義逓信省工務局長も本来は少将待遇だったのが、 召集されて二等兵として南方の第一線に飛ばされています。 但し、徴兵されても、元居た所が必要と言うことで、 軍に陳情するルートを持っていれば、即日帰郷という場合もありました。 このほか、徴兵忌避の方法として、「軍事警察雑誌」には以下のケースが上げられています。 強度の眼鏡を使用し、近視眼となるもの/全く故障無き眼を近視の如く訴ふるもの/ 眼に刺激性のものを入れ眼球を充血せしむるもの/前夜睡眠を為さずして他に眼病有るが如く訴ふるもの/ 耳穴に奥深く豆類を挿入したるもの/鼓膜に鳥の羽のものを付着せしめ聴力の 故障を起こさしむるもの/強き刺激性の食物を採りて耳鳴りを起さしめ故障有るが如く訴ふるもの/ 歯を故意に抜き取るもの/醤油の類を多量に飲み心臓の鼓動を高くし心臓その他の疾病あるが如く訴ふるもの/ 受検二三日前より絶食し身体を衰弱せしむるもの/指を切断するもの/ 肛門に漆を塗り痔疾の如く訴ふるもの/神仏に徴兵を免るべく祈願するもの 他に、「徴兵検査研究録」では、 卵黄を外聴道内に注入し、化膿性中耳炎を疑はしめしもの/角膜を刺傷または火傷せしめて角膜えいを作為せるもの/ 魚鱗を角膜に貼して角膜えいを作為せるもの/右示指(人差し指)を故意に長日間伸展位もしくは 屈曲位に緊縛し置き該指の萎縮、強剛を作為せしものと言うケースも語られています。 (103 眠い人 ◆gQikaJHtf2) やはり財閥の子息とかでも徴兵逃れは出来なかったという理解でよいのでしょうか? 近衛公爵の息子も徴兵されたとある 財閥<華族だぞ、戦前では その華族の筆頭が近衛公爵なんだが (103 610) お言葉ですが徴兵逃れと懲罰的徴兵を混同されていませんか? 民間の小金持ちが金を積んで徴兵逃れした例。 戸籍を北海道や沖縄に移す。(実際は居住しない) 例/夏目漱石・芥川龍之介など。 失礼、太平洋戦争中の事例を見ていたもので、戦前の事例は確認していませんでした。 ただ、戦前の場合は有り得たものの、昭和19年10月18日の兵役法施行令改正以降は、 第二国民兵として丁種以外の壮丁は全員召集可能になった訳で、そう言う意味での 理論上、徴兵逃れが出来なくなったはずと記憶しています。 また、昭和20年6月には義務兵役法によって、男子は15~60歳、女子が17~40歳という 根こそぎ動員も掛けられるようになっていますね。 (103 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部で行ないます。 この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、 該当者を召集令状を作成します。 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、 動員令が下令されると発行するものです。 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で 人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、 治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、 役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、 中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、 召集令状は来ることがありませんでした。 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。 1. 侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫 2. 陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者 3. 鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象) 4. 船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象) 5. 民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象) 6. 国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者 7. 陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象) 8. 都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象) 9. 帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官 10. 帝国議会の議員 11. 国民学校教員中必要なる者(一般国民対象) 12. 上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、 教師も一部が召集対象から外れています。 また工場の熟練労働者も対象となっています。 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、 工場幹部の親戚が事務屋として入っていて召集延期者として選出させた事例もあります。 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。 これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は 全員この対象となって、召集を延期されています。 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、 例え徴兵検査で入営することが決まっていても、 一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。 この制度も1944年から開始されています。 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、 「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、 職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、 「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、 1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、 特別召集解除制度は1943~45年で4.3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、 結果的に召集されなかった人も多かったようです。 (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中、明治神宮で行われた出陣学徒壮行式の時に使われた行進曲の曲名は、なんですか? 過去のニュース映像の雨の行進映像に流れているやつですか? それなら「抜刀隊」ですよ 西南戦争に参加した薩軍の抜刀攻撃に対抗するために結成された隊を記念して後に作られました 陸軍分列行進曲ですね (104 542) インパール作戦後の日本軍の退却路は、別名「白骨街道」と呼ばれたそうですが、 何故ビルマの十五軍本部はそのような惨状を目の当たりにしながら、 食料や医薬品を支給するための救援隊を派遣しなかったのでしょうか? 因果関係が逆です 補給に失敗したから前線を維持できず退却し白骨街道化したのです (104 510) とりあえず、高木俊郎氏の名著「インパール」(文藝春秋)を読むことをおすすめします。 が、絶版で、なかなか読むことができないかもしれませんので。 一部の参謀は「補給ができません。無謀な作戦です」と、牟田口に反対していた。 牟田口は慎重論を唱える参謀長を更迭。後任の参謀長は積極派。 他の参謀たちも、司令部のトップ二人が乗り気なので、次第に反対を口にしなくなった。 牟田口の考えた補給案はだいたいこんなところ。 牛をつれて歩く。牛に食料その他を運ばせ、適当なところで牛を殺して食べる。 敵は日本軍が来たらすぐ逃げ出す。ならば、簡単にインパールは落とせる。 インパールにたどり着ければ、敵の食料は奪い放題。 最初の見通しが大甘、前提条件が崩れてもそれをなかなか認めない。 気がついたら日本軍は総崩れ、といったあたりです。 (104 524) 最初から失敗する可能性なんて考えていなかった、というあたりが正解ではないかと。 (104 526) 救援の努力をしたが果たせなかったのか、最初から失敗したときのことを考慮せずに作戦を立案したのか あの~、常識的に考えて「補給の為の救援隊」ってのは補給部隊な訳で、 ソレが出されて前線部隊にたどり着けるなら補給は最初から失敗してないんじゃ。 疑問を感じる事自体が不思議なんですけど。「補給が失敗した理由」なら兎も角、 「補給を成功させなかった理由」を聞いてるんですから、 「そりゃ、能力が足りなかったんでしょう」としか答えようがありません。 出先なんで資料がありませんが、駄馬編制の輜重兵連隊の能力なら家に有ったと思います。 鉄道やトラックに比べると非効率というレベルでは有りません。 根本的に道路や鉄道が繋がってない場所で戦争をする事自体が無謀なんです。 一日数kgの補給が必要な駄馬一頭で100kg(必要なら正確な資料を出します)程度の荷物しか運べないんですから、 10日の行程を進めば補給部隊への補給で物資が消滅してしまいます。 (104 529) ウインゲート空挺団と呼ばれる部隊が第十五軍の後方に降下・進出し 補給路を寸断したと言う事情もあります。 このため、たとえば第31師団「烈兵団」は糧秣をわずか60トンしか事前集積できず、 その後は輜重兵連隊がわずかに糧秣を運送できたのみでした。 (104 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 「ジンギスカン」「牟田口」で、ぐぐると良いと思います。 (104 552) 徴兵された日本人の学歴はどうなのですか? ピンきりです。尋常小学校しか出ていない人もいれば、学徒出陣で出征した一兵卒の大学生もいますし。 最も、当時の日本では中学以上に進学するものはそう多くいませんでしたが。 陸軍では中学校以上を卒業しているものには可能な限り幹部候補生の試験を受けさせて 士官や下士官への道を開いていました。 (105 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 10代20代なのですか? 徴兵は満20歳からです。ただし昭和18年から満19歳に繰り下げになりました。 パイロットや戦車兵など専門教育が必要な部隊には18~19歳の兵士もいました。 再召集・再々召集を受けた方には30代の方も多く、末期(昭和18年以降)には45歳までは 徴兵が可能だったため、(当時として)かなりの年配の方もいたようです。 (105 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦前の教育制度は複線式で高等小学校から師範学校ってコースすら有りました。 戦前の「高等学校」ってのは今の国立大学の教養課程の事。 今の国立大学の幾つかは当時の高校が母体になっています。 戦前の中学は5年制で尋常小学校の上だったから現在の私立の 「中高一貫教育」と同じだと考えれば良いでしょう。 「専門学校」ってのは今の専門学校とは意味合いが違って「単科大学」の事。 「工業大学」とか「医科大学」とかも専門学校と呼ばれました。 (105 517) 兵士の学歴については 岩波新書「日本の軍隊 ―兵士たちの近代史」(¥740) に詳しい記述(明治期~大戦期)があるので読んでみては? (105 527) ガ島や、ウェーク島などの、攻撃の戦略やいくらぐらい上陸してどんな感じで進んだのか知りたい 図入りで戦況について詳しく書いてあるサイト知りませんか? 本当に細かい床まで知りたいなら歴史偶像とかその辺の戦いを扱った本でも買ったほうがいいとおもう。 簡単な図と説明でいいのならいくつか心当たりはあるが。 (106 522) 太平洋戦争のとき、南京から沖縄に移った師団ってありますか? ありません。 沖縄戦で全滅した2個師団のうち、 24師団は満州 62師団は北支 からそれぞれ移動しています。 (106 955) 日本が植民地人の軍事的利用に消極的だったのは何故ですか? 占領地についてはインドネシアで、ジャワ防衛義勇軍などを設置しています。 朝鮮については、反乱を警戒したというのが定説のようです。 志願兵制が敷かれた時も、破壊工作を行う為に 偽装入隊してくる抗日分子が多かったとのことです。 (107 384) 朝鮮においては、正規の軍人として徴兵を始めたのは、1944年からですが、 志願兵制は1938年から存在しています。台湾では志願兵制の導入は1942年から 徴兵は朝鮮と同じく1944年からです。 理由は色々あるでしょうが、一番の理由は極実務的なもので、当時の植民地 において行われていた日本語教育のレベルでは、軍務に耐えるだけの日本語 能力を持った人間を養成できなかったためでしょう。軍務に就くためには、日本語 (文語体旧仮名遣い)で書かれた兵器操作法などのマニュアルを読みこなす 必要があったわけですから。 実際、陸軍の要請により、当時の日本語教育関係者やその他有識者によって 日本語の表記の簡素化と日本語口語の教授法についての研究が行われています。 そして、この軍が研究した表記の簡素化は、現代仮名遣いにつながっています。 この辺に関心持たれたのならこの本をどうぞ。 「海を渡った日本語―植民地の「国語」の時間」(川村湊) ちなみに、兵補・軍属としてならば、日本軍の軍政下にあった東南アジアの占領地からも 多くの住民が自発的・強制的に参加しています。 (107 385) 大日本帝国陸軍がガ島の位置を把握していなかったって本当ですか? 米軍によるガ島の海軍飛行場占領以前はソロモン方面の作戦について 情報の受け渡しなどの協定は無かった。 だから大本営陸軍部員の中の人でガ島の位置すら知らない人が多かった。 陸軍の立場から見れば「海軍が勝手にやってた作戦」が頓挫したため やむなく引きずり込まれたってことになり、作戦初期段階で位置を 把握してないのはある意味当たり前。 (110 337) 日本軍はなぜ捕虜になるくらいなら自決とするよう教えていたのでしょうか? 「七生報国」と、何度も生きて戻ることを教えたほうが良さそうな気がするのですが・・・ とりあえず、「七生」は七回の人生っつーことで 何度でも生まれ変わって国に報いるぞ、という意味なので 何度も生きて戻るという意味ではありませぬですはい (111 113) 軍は沖縄防衛についてどの位積極的だったのでしょうか? 軍とは沖縄守備の第三十二軍ですか? それとも大本営の事ですか? 沖縄第三十二軍は総兵力七万七千の他、 現地の男子を動員して総力戦を展開する構えで、 上陸してくる米軍を水際で殲滅する考えでありました。 しかし、大本営は第三十二軍宛に台湾に一個師団出したいと言って来ました。 三十二軍はふざけるなとばかりに拒否したが結局第九師団が台湾に移りました。 こうなると、当初の水際で敵を殲滅するという考えを改めなければなりません。 結局、一日でも一時間でも、島に引き付ける為に島の内陸に立て篭もるわけですわ。 こうする事で、本土決戦で出来るだけ多くの敵兵を殺して置けば有利に立てると考えたそうです。 結局米上陸は大変静かでした。 結局沖縄守備第三十二軍は持久戦を選択して、反攻に出たのは賀谷支隊ぐらい。 で、一時は、総兵力を持って反攻開始を決定(8日攻撃)するも、強力な機動部隊殺到の報告を受け、停止。 再び持久戦を採る。 海軍は、沖縄決戦を唱え、陸軍と海軍の特攻機三百五十余機と第二艦隊は最後の連合艦隊の沖縄特攻を決めて出撃も7日撃沈。 最後の連合艦隊は破砕された。 んで、首里が包囲で撤退。 でもね、大本営は、「持久戦などせず、なぜ総力突撃しない!」って苛立ってたというから、 もはや、敵を削れというぐらいなのかもしれない。 すいません、意味不明です。 (111 Belgar '@-@') かなり積極的だったと思うよ。 第九師団抽出後、その代わりとして姫路歩兵八四師団を送ろうとしたり (3ヶ月後で、しかも派遣決定の翌日、本土決戦戦力の確保の為、取り消しになるけど)、独立 歩兵一五連隊は延べ数51機の輸送機、爆撃機、 グライダーによる空中輸送で沖縄に送ったりしてるからねぇ…… 大本営が積極攻勢を指示したのも、 「持久戦では最終的な勝利を収める事が出来ないから」 という面もあるからね。 日本軍の島嶼防衛戦は、結果的に『捨石』になっちゃった、ってケースも多いよ。 (111 ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E) 第九師団の人たちは凄く悔しかっただろうな。 元々沖縄駐留の精鋭だったら。 (111 330) 旧日本軍は台鮮の植民地出身者の士官任官を終戦に至るまで認めなかったんですか? 朝鮮出身のコウ中将がいますし 韓国陸軍の初代参謀総長は、要塞砲兵の少佐でした (114 257) 海軍軍人であった祖父が先の大戦初期に於いて、ある島で「○○警司令」および「○○民政部長」 なる職?にあったようなのですが、これはどういった任務なのでしょうか。 警司令なら、警備隊の司令官ではないでしょうか。 担当する島嶼、地域の防御、警備を担当する部署で、後は港湾庶務、通信事務も行ないます。 1941.11.12に制定されている海軍警備隊令で要員などは規定されています。 後者は軍占領地に於ける占領行政の内、特に民政を担当した部門の統括者を指すものだと思います。 海軍なら、蘭印や南洋群島などに置かれていました。 (115 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 眠い人のレス( 823)への蛇足 グァム島は開戦直後に海軍陸戦隊(「第5防備隊」の一部)と陸軍(「南海支隊」)が上陸して占領した。 海軍は昭和16年12月20日付けで「第54警備隊」を新設し、 司令には海軍陸戦隊指揮官(第5防備隊副長)であった林弘中佐が任命された。 昭和17年1月1日付けで「グァム民政部」が設置され、民政部長は第54警備隊司令の林中佐が兼務した。 (115 建武集団) 社員旅行で沖縄本島に行くのですが沖縄戦に関わるところを回るとしたら何処がいいでしょうか? まあ、南部戦線を巡るのがベストでしょう。 何はともかく観光地化されてるんで、見て回りやすいっすよ。 (116 ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E) 亡くなった祖父が「ラエンノ(ラエーノ?)基地がやばい、やばい」とよく言ってましたがそんな基地はあったのでしょうか? 御祖父様は陸軍の方?それとも海軍の方ですか? 多分、「ラエ」だと思います。 ラエ基地は、ニューギニアにあった基地で、当時の最前線でした。 (116 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 追加で質問なのですが「まわせ」と言うのは軍隊用語でしょうか? 夜中に突然「まわせーまわせー」と叫んだりしていたのですが。 今の自動車と違い、当時の自動車、航空機のエンジンは、 スターターというものがありません。 従って、外部から何らかの力を加えて軸を回す必要があり、 これを「回せ」といった訳です。 (116 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ペラ回せー!というやつですな (116 77) エンジン起動時の「イナーシャ(慣性起動器)回せ」の事でしょう (116 79) 戦争初期には歴史に名を残す搭乗員達が、ラエで戦っていました。 元アメリカ大統領もラエ上空で死にかけました。 (116 93) うちの祖父は明治43年生まれで終戦時は35歳でした。 20才の時に徴兵検査をうけ、「第一乙種」合格だったそうです。しかし、終戦まで召集令状を受ける事が無かったそうです。 戦局が悪化した際、召集令状を乱発したそうですが、甲種の次の合格者が召集を受けない事はありえるのでしょうか? 有り得ます。 対象外になる人、職種に関してはFAQに以前の回答がありますので、参考になさって下さい。 召集令状には、元々、充員召集令状と臨時召集令状の二種類があります。 充員召集令状は、各年度毎に各師団に必要な人数を、陸軍中央で割当て、 それを基に各道府県の連隊区司令部で召集者を事前にピックアップし、必要に応じて召集するものです。 一方、臨時召集令状は、各師団の都合に合わせて、欠員が生じた場合に召集するものです。 295氏の祖父殿の場合、鍼灸師とのことですから、手に職を付けています。 しかも、一種の医療従事者ですから、真っ先に召集の対象者になっているはずです。 但し、充員召集令状でピックアップしていた場合、本当に当初計画通り、 該当師団に欠員が生じない限り召集されません。 毎年、ピックアップされても、召集の要件を満たさないと、召集出来ませんし、臨時召集の対象からは外れます。 また、徴兵検査で兵籍簿に名前が掲載されていても、呼集時に何らかの事情で、 勤務不適とされた場合、以後の召集は為されません。 実際の所は、兵籍簿などを当たらないと何とも言えませんが(大抵は敗戦時に焼却しています)、 上記二つの何れかのパターンに当てはまったのかも知れません。 (122 眠い人 ◆gQikaJHtf2,298) 支那事変から太平洋戦争終結までの国債総額とそれが国家予算何年分か教えてください。 1937~1945年までの国債発行額は1,368億円。 1944年度の歳出規模(一般会計歳出+特別会計歳出+臨時軍事費)は約1,587億円。 1944年度の予算を基準にすれば、1年分に満たず。 1937年度の歳出規模は約132億円。 1937年度の予算を基準にすれば、約10年分。 (123 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 20歳の法定徴兵検査以外に徴兵検査は無かったのですか? 徴兵検査は満20歳の徴兵適齢者 (前年12月1日~その年の11月30日までの間に20歳に成る者)が全員受けます。 この一回で陸海軍、甲種~丁種までの区分に分けられ、 その結果が各徴募区ごとの兵籍簿に掲載されます。 (124 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 私の祖父が徴兵されて出征しています。 名古屋在住だったといった情報しかないのですが、どの師団でどの戦線にいったかといったかを調べたいのですが、 どういった方法があるでしょうか? 旧軍の徴兵は地元中心で編成するから、名古屋~愛知県内に駐屯していた部隊の足跡を追えばいいよ。 貴方の祖父殿がよほどのエリートでない限りはほぼ間違いなくその部隊に配属されたはず。 (124 35) とりあえず 陸 軍 師 団 総 覧 Ⅰ、Ⅱをどうぞ (124 36) ※リンク消滅 師団と言う事は陸軍ですね? お祖父さんが終戦時に戸籍のあった場所の都道府県庁が軍歴を保管しています ご当人で無くても、肉親の方が開示請求されても、理由如何では通ると聞いてます 該当の役所に確認されてみてはどうでしょうか (124 37) 名古屋で編成された師団というと3、15、38、43、73、143、303 他に師団に属さない独立部隊もあるからねえ。 せめてどの方面に出征したのかくらい分からないと、特定は難しいね。 (124 52) 私の祖父は身体検査の視力検査の際に近視であると偽り、丁種不合格となって大戦を生き延びた。 といつも私に語ってくれていました。 しかしこんな適当な徴兵拒否工作で乗り切れるほど、当時の検査は甘かったのでしょうか? 軍の本部から直接徴兵されるわけではないので 地元でコネやなんかがあれば徴兵を避ける事は出来た。 徴兵が免除されやすい工場の熟練技術者と偽る事も可能だった。 (124 149) そもそも近視で視力不足だと、第二乙種合格となるはずなんだが。 それだと大戦後期には普通に再招集の対象になってるぞ。 丙種合格(おおむね身体虚弱が理由)の場合も、その時期に再検査されてる。 再検査でもさらに丙種合格になると、第二国民兵役となる。 おたくの爺さんはこれに該当すると思うんだけど。 丁種不合格で免除されるのは、身体障害者や禁治産者の場合なので考えにくいな。 (124 167) 其処はそれ、極めて日本的なナァナァの世界ですから、 その辺の徴兵逃れはやろうと思えば何とでも成ります。 検査するのは同じ街の医者ですから、その人が知り合いであれば、 工作は容易いことです。 徴兵されても、即日帰郷、以後召集に適せずの烙印を押される場合もありました。 この場合は、それなりの金がそれなりの要路に渡っていますが…。 また、徴兵検査直前に醤油を飲むなど各種の欺瞞工作は行われていました。 各市町村には、徴兵係が一名専任で置かれており、彼と懇意の場合は、 徴兵を免れる場合もあったようですし、会社勤めで、事務屋をしていた人が、 徴兵を逃れる為に、工場勤務と偽っていたケースもあります。 但し、徴兵逃れが発覚した場合の罪は重く、即刻召集、最前線送りというケースか、 その代わりに常磐炭坑などの炭坑で炭坑夫となるケースがあります。 また、本人ばかりでなく、市町村長、徴兵係も連帯責任と言うことで 懲戒処分を受ける場合もありますので、徴兵係は、滅多に徴兵逃れの片棒を担ぐことはありませんでした。 (124 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大東亜戦争中,軍部の力が強かったというのなら,なぜ東条英機内閣は倒されたんですか? 元々海軍系の重臣は反東條だし,参謀総長兼任で,陸軍内部にも反感を抱く者がぽつぽつ出てきた. さらに,サイパン失陥により,国民の間にも漸く東條に対する不信感が芽生えていた. マリアナ決戦の敗戦を機に,重臣たちの倒閣運動は活発となったが,しかし東條も辞める気はさらさらなく,内閣を改造し,強力な挙国一致内閣をつくろうとした. そこで国務大臣のポストを一つ空けるために岸信介に辞めて貰おうとしたが,裏から重臣の手が回っており,岸は辞表の提出を拒否. 内閣改造に失敗し,自分に対する(特に重臣たちの)反感の強さを痛感した東條が,失意のうちに桂冠した. なお,これに関しては「軍閥」という映画が秀逸・必見! (日本史板) 戦時中の東条内閣が潰れた理由の一つに「身内の陸軍からの反発」があったそうですが、どの辺が不満だったのでしょうか? 東条は戦争を遂行するに当たって海軍との協力が必要と考えていました。 その為、海軍に対して非常に宥和的であったのが身内である陸軍は不満だったのでしょう。 事実、陸軍内では「海軍との揉め事を東条さんの所に持って行くとこっちが負ける」とボヤかれてました。 それでいて負けが込んでいる訳ですから、身内からも「東条さんじゃ駄目だ」と思われてしまいます。 他にも参謀長や大臣兼任による独裁化や懲罰召集等の公私混同も挙げられます。 (348 ue ◆WomMV0C2P) 日本は,広田・マリク会談,近衛特使など,ソ連に和平仲介工作をしてますが,なんでソ連に頼んだんですか? むざむざ反故にされて……, 1,開戦前から講和の仲介はソ連かローマ法王と考えていた.この安心感で昭和天皇は,御前会議で英米協調派から開戦派へ変身したといわれている. 2,ソ連がヤルタ密約で対日参戦をアメリカから要請を受け,合意してたのを知らなかった.天皇・内閣・外務省は,なぜかソ連信頼派が多かった.松岡の不可侵条約締結のインパクトが幻を生んでいたのではないかと思う. 一部に,ソ連対日参戦可能性ありとの情報も入ったらしいが,最上部まで届かなかったらしい. 大国で,頼める国が他になかったのも大きい理由のひとつ.法王は非現実的だし,スイスなどではちょっと力不足.それに,満州からすぐ行けるのも大きい. 3,ソ連も,日本の提案は具体的でないとか,近衛特使の使命が不明確とか時間稼ぎをしていて,日本に気を持たせていた. 4,軍部・政策決定上層部の,情報不足が致命傷.しっかり,諜報して分析していれば,ソ連はアメリカ側についてると分かったはず. 和平交渉時点では,太平洋戦争に参加してないソ連とするとアジアで米などが東アジアで主導権を握るのは好まないから,均衡策から日本のことでアメリカを牽制するんじゃないか,っていう甘い見通しがあった どうも,当時の軍や上層部は思い込みが激しい.ドイツ勝利の確信とか(以下略. 5,ソ連への仲介工作がなくとも,原爆・ソ連参戦・千島占拠はあったと思います. 対日参戦と見返りとしての千島確保のヤルタ密約は45年2月,和平仲介交渉は45年の6~7月. シベリア抑留は,関東軍参謀が助かるために抑留を内諾してたとかしてないとか言われててわかりませんが. なお,ソ連が講和斡旋してくれた場合の日本の手土産は,以下のとおり. 南樺太返還 漁業権解消 津軽海峡開放 北部満州諸鉄道譲渡 内蒙におけるソ連の勢力範囲 旅順と大連の租借 北千島割譲 満州国中立化(6月に追加) (朝鮮は留保と満州帝国は独立維持) 以上,1945年5月14日の最高戦争指導会議にて. 関東軍特別演習等,ずっと敵視政策をしてきたソ連に頼るという観点が,甘えの構造を感じさせる. (日本史板) 南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本にはなかったんでしょうか? アメリカにその意思が無いから無理。 色々と戦略眼の無さが指摘される日本海軍and陸軍だが、 アメリカが戦力を整えるまで、守りに入っている事だけは認識していた。 (377 261) 戦時中、外地の捕虜を日本へ海上輸送すると嘘の電文を流したりして、潜水艦に輸送船団の攻撃を躊躇わせたりすることはできなかったんでしょうか? 国内へ輸送された捕虜4.7万人のうち、1.1万人が、途中で海没しています。 まあ、無駄ですね。 ここに戦時中の連合軍兵士の捕虜について書いてある。 http //homepage3.nifty.com/pow-j/j/00100camp/campinjapan.htm (初心者スレ482 914*一部加筆) 第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか? まだそのころはアメリカ、イギリスと戦争をする前だったので、ロンドンには駐在武官とかいたと思うのですが、 防空体制はこう築くべきだとか、或いは逆に空爆する時はこうすべきだとか、バトル・オブ・ブリテンでどういう教訓を得たのでしょうか? もしかして、ノモンハンみたいになにもしなかったのでしょうか? 当時は防空演習も盛んに行われており、防空や対空についての関心は高く、 政府機関からも国民向けに様々な情報提供を行っています。 1940年10月には、ロンドン空襲について爆撃痕などの写真が掲載されると共に、 日本の都市が空爆されたらと言うシミュレーションが国民向けに宣伝されています。 例えば、敵の250kg爆弾が百貨店の一角と路面電車の正面道路上に命中した場合、 百貨店は滅茶苦茶に破壊され、自動車は百貨店4階まで吹き上げられ、水道管、ガス管、 通信線も破壊され、百貨店内並びに道路上の人々も無残な死を遂げると言う結論が出て います。 一方で、焼夷弾による火災は軽視し、10kg級油脂焼夷弾については、消防ポンプを使わずに、 バケツリレーで消火すると言う楽観的な見通しが考えられています。 で、その結果として空襲対策には防空壕を建設すべしと言う結論に持って行っています。 空襲を阻止すると言う点においては、「そうむざむざと、我が国上を敵機の蹂躙に任す様な事は 無い」としながらも、各都市の空襲の例を見ると、「侵入する敵機を全部捕捉撃滅することは不可能」 であるとし、普段の防空訓練と、「我が国土は我が手で護るという決意」が大切であると言う精神論に なっています。 1938年当時は、国民の安全を考え、空襲時の避難方法とか毒ガスから身を守る方法が考えられて いましたが、1941年になると、空襲から逃げずに消火活動をせよ、防空壕は身を潜める場所ではなく、 積極的な防護活動をするための待機所である、となっています。 因みに、この方針転換は、1941年11月の防空法第一次改正から行われたもので、BoBやモスクワ空襲など の影響も如実に受けていると言えるでしょう。 また、従来は毒ガス弾対策が考えられていましたが、欧州の空襲ではその様なものが使われなかった事から、 焼夷弾対策に重点を移しているのも特徴です。 (初心者スレ486 534,眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦中、熟練工が徴兵されて女子や中学生?が工場で働いたため品質が低下したそうですが、全工場労働者に占める女子や中学生の割合というのはどれぐらいだったのでしょう? 1940年10月の時点で、機械工業に従事している男子は1,879千人、女子は225千人。 1944年2月の時点で、機械工業に従事している男子は3,524千人、女子は787千人です。 1944年の時点での労務動員計画では、学校在学者は男子1,133千人、女子が920千人の動員を 見込んでいましたが、これらが全て工業に従事した訳ではなく、農業や建設奉仕に回す分もあります。 学徒動員の軍需生産と食糧生産、建設工事の割合は大体、50:43:7の比率です。 産業全体で行くと、1944年の労務動員計画では、男性2,536千人、女性1,986千人となります。 (505 311:眠い人 ◆gQikaJHtf2) 補足だけど、1945年初めの八大造船所の平均では、正規従業員は20%、徴用工と学徒が55%、 朝鮮人・中国人・捕虜・囚人など合計21%となってる。 (505 315:経済板住人 ◆ebHA.RI.WI) 戦時中、医者はほとんど徴兵されて戦地ですよね。本土では病院に医者がいなくなって困ったと思いますが、どうしていたんですか? それを補うために女子医学専門学校(通称女子医専)が国内に多数作られた。戦後は共学に。 たとえば、 東京女子医専=東京女子医大 福島女子医専=福島県立医大 岐阜女子医専=岐阜大学医学部 北海道女子医専=札幌医大 など。だから、現在90歳前後の医者には女医が非常に多い。 また、必ずしも医者が枯渇していたわけではない。年寄りの医者は徴兵されなかったから。 それでも非常に医者不足であったことは間違いないが。 蛇足だが、医者が最も多かったのは昭和30~40年代。これらの学校で養成された医者が非常に多かったからね。 その後、医療費抑制政策の影響で、現在は戦中を思わせるような極端な医師不足w (505 436) 5年制だった旧制中学の中で、戦場に送り込むために1年早く卒業させられた少年たち http //www.morioka-times.com/news/2005/0512/29/05122908.htm この認識は正しいのでしょうか?戦場に送るためにこうなったの? そう言う面も一部にはありますが、どちらかと言えば、中等学校の年限と軍学校や高等学校の 入学試験が中学校4年修了で可となっていて、その入学試験の出題範囲も中学校4年までだった ので、中学校教育が大いに乱されたことから、その混乱を収拾することに重きが置かれました。 とは言え、一方では彼等の卒業年限を縮めて其の分を実業教育に充てるか、世に出して生産力の 増強や、軍事力の増強に充当した方が良いと言う観点から、1943年入学者より中等学校の修業年 限を1年短くし、1944年勅令第80号国民学校令等戦時特例により、1944年の4年生から適用したものです。 この年度の4年生は、1945年3月に5年生と同時に卒業することになりました。 流石に生産増強や軍事力増強が不要となると、旧に復し、1946年度より5年制に戻っています。 (516 733:眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中は、米の替わりにアワやヒエやソバやヌカもたべていたんですか? 手に入る地域では食べてました。 ほかにも芋茎や蘿蔔を米に混ぜたり汁に入れたりして食べる事もありました。 また新聞で美味しく食べられる野草や昆虫の特集が組まれる事すらありました。 道ばたや庭先、学校の校庭などで新たに畑を作る場合、 苗の入手が簡単でカロリーの生産効率に優れ手入れも簡単なイモ類が第一に好まれたようです。 そのためイモで不足する栄養素を補うための野菜等はあわせて作られましたが 雑穀の類いは効率が悪く苗の入手先も限定されるため敬遠されたようです。 (522 382) 大戦の末期に海上封鎖で塩が不足したそうですけど、海に囲まれた日本で何で塩不足なんかが起きるんでしょうか? 石油と石炭不足になったので、海水焚き(海水を濾して煮詰めて塩にする)の塩を作るための燃料が不足した。 更に、日本本土上空を米艦隊の艦載機や硫黄島等から飛んでくる陸軍戦闘機が飛び回るようになると、 日中海水を焚いているとその煙を上げている設備が銃撃された。 海水焚きの製塩は24時間以上焚き続けなければならないので、日中釜に火を入れられないと製塩が出来ない。 加えて東海地震で塩田が被害を受け、徴兵による若壮年の労働力不足で数少ない生産量が壊滅状態になった。 海上封鎖されてるので輸入も出来ず、どうにもならない状態だった。 製塩には大量の燃料が必要となる。 近代以前だと、塩田は周囲の林や森から伐採と植林を繰り返し複数の生産地を使いまわしていた。 戦前なら燃料は石炭が相場だろう。石炭は北海道や九州辺りが産地。 海上交通が破壊されれば燃料不足で製塩が出来なくなるのは自明の理。 また、当時の製塩方法は入浜式製塩。 これは気候、海岸の地形に左右されやすく、瀬戸内の十州塩が製塩の大半を占めていたように産地が偏り易い。 同上の理由で輸送が阻害されれば、他の地方への塩の供給が止まる。 それに、イオン交換膜法がある現代でも日本は塩の一大輸入国だ。 それより遥かに効率の悪い入浜式製塩をやっていた戦前なら、ちょっとでも妨害を受ければあっさり塩不足が起きる。 (523 186,187) 日本は火山国なので戦時中に硫黄が不足する事はなかったのでしょうか? 国内に硫黄鉱山があったので。 廃墟マニアには有名な岩手の松尾鉱山がが有名。 国内の硫黄鉱山は戦後は石油を脱硫する過程で人工硫黄が安価に大量に 得られるようになって採算が取れなくなり、皆閉山した。 松尾鉱山は硫黄分の強い排水を未処理のまま北上川に流した為に一時は 北上川を”死の川”に追いやった。 そのままでは流域のの農業が絶滅してしまうので、莫大な費用を掛けて 処理施設が作られ現在も稼動中。 余談だがこの松尾鉱山に出稼ぎに来ていた朝鮮人労働者が鉱山労働を 辞めて帰国しようとしたが朝鮮戦争の為に帰国が不可能になり、盛岡の街で 屋台を出したのが「盛岡冷麺」の発祥。 余談だが、硫黄以外でも石灰石も自給できる数少ない資源。 セメントの原料になるので、特火点の設営やコンクリ船の建造等、戦中は特に不足しなかったそうだ。 ただ、末期は輸送網が陸海共に壊滅状態になって、採掘は出来ても輸送できない状態だったが。 (353 485,488) 女学生が「慰問袋」を送った所 受け取った兵隊さんから返事が来て文通が始まったという話 テレビで見ましたがこのようなことは本当にあったのでしょうか? 家族などでない人アカの他人が前線の兵隊さんに手紙を送る事は許可されていたのでしょうか?? 前線の兵隊さんが見ず知らずの人に手紙を送るのは機密保持の観点から許されていたのでしょうか?? 軍事郵便という制度があり、可能です。 ただし、検閲が入り戦地の情報を書くことはできません。 例えば、南の暑い所で大変だ みたいな事を書くのは大丈夫ですが具体的な地名を書くのは駄目。 また、戦争反対みたいなことも駄目。 ただ、80過ぎのうちのバァさんに言わせると、番組の内容には違和感を覚えるそうです。 慰安袋が盛んだったのは、太平洋戦争が始まる前 日中戦争の頃だそうで 当時ならまだ余裕があり戦地の兵隊さんと文通するようなこともあったかもしれない。 でも、太平洋戦争が始まる昭和16年頃からは、そんな余裕もなくなり慰安袋も廃れたいったような記憶だそうです。 そんな悠長な事をするより、借り出されて普通に工場で一日働かされていたそうです。 まぁ、テレビに出演された方が「実話だ」と言われればそれまでですが同時代を生きたうちのバーサンに言わせると 「なんだか、しっくりこない、まるで別の世界の話のようだ」という感想になるそうです。 ちなみに、番組に中でも手紙を書く再現映像はあっても、戦地から送られてきた手紙の映像はありませんでしたね。 普通この手の話の場合、現物の手紙の映像を流すのが普通ではないか、と考えるのは邪推でしょうか?ww それとも、夫婦共に大事な手紙をすべてなくしてしまったのでしょうか?? まぁ、貴方が疑問を持たれるのもわかるような気はします。 (353 780) 旧日本軍の兵器工場で働いていた人から、「物資不足の末期には航空機エンジンに陶器を使用していた」と聞きましたが、本当でしょうか? 実際、その兵器工場と言うのが、どんな会社なのかが判らないとはっきりした答えは出ないと思います。 エンジン部品だと点火線用碍子とか特呂号用のロケット部品や隔膜板ではないか、と推定できます。 他に航空機エンジンの部品で陶器が使われるものは考えられず、実際に東洋陶器、名陶、高島製陶、村万製陶 が生産したのはこの辺りです。 (539 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争末期、日本中が空襲にあっていた中でも大本営は、嘘の大戦果を垂れ流していたんでしょうか? 例えば、神戸大空襲の時は、B-29撃墜20機とか言う風に、戦果を過大に発表しています。 国民の士気に関わるのと、迎撃機の操縦士や対空砲指揮の人々が、空襲の火炎の照り返しを 燃えて撃墜したものと勘違いした場合などがあったりする訳で。 (352 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 東京大空襲のとき、連合国側の大使はどうしてたんですか? 連合国側の外交官は、不可侵条約を結んでいたソ連以外は開戦後に交換船でそれぞれの母国に送り返された。 連合国側に駐在していた日本の外交官も同様に日本に帰還している。 それ以外の枢軸国の外交官やソ連の外交官は、東京空襲が始まると軽井沢(だったか)に疎開している。 (352 669) 先の大戦中、日本国内の民間人が、戦争や徴兵から逃れるために、国外に脱出することはできましたか? 徴兵から逃れるのは難しいですが、満州、中国、フィリピン、東南アジア地域、南洋諸島に 移民として渡る事は可能でした。 それでも、戦禍は逃れられたかと言えば疑問符は付きますが…。 後、特殊な事例ですが、豪州北部海域では真珠貝を採取する船の乗組員の大多数は日本人 でした。 彼等は、豪州領の島に渡っており、此処で12月8日を迎え、民間人捕虜第1号として敗戦まで 豪州本土で過ごしています。 また、移民でも、日英、日米交換船で帰還した人々の中には、途中、シンガポールやフィリピン などで下船し、通訳や現地で就職した人もいます。 それから、一部の人々の場合は、満州からシベリア鉄道を経由し、ノボシビルスクで途中下車、 カスピ海を南下してタシケントから西に向かい、カスピ海を渡り、バクーに至り、トルコに至る経路で 欧州に渡っています。 この経路は屡々用いられ、留学生も外交官や軍人とチームを組んで利用しています。 と言う事で、民間人でも外国に行けないと言う訳ではありません。 (545 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 東京都の場合(1873年から1883年までの10年間)税金を二百七十円納付すると兵役免除となりました。 徴兵事務手続きの関係で、転居を繰り返して赤紙の発行を最初からやり直させて逃れるという 手が使えていた時期があります。その後、転居の場合は発行された赤紙が転居先へと追いかけて いくよう手続きが変わりこの手は使えなくなったそうです。 (545 759-762) 海軍乙事件が起こらず古賀峯一がGF長官であり続けたなら戦争はどうなったでしょうか? 基本的に変わらない展開を辿ったと思われる。 ただ、古賀長官は就任後最初の会議での有名なやり取り、 「既に我が海軍には3分の勝ち目もないだろう」 「まだ3分はあるということです!」 「陸軍の原則では3割を失ったら全滅と判断される。つまりはそういうことだ」 で解るように「もうこの戦争には勝てない」と悟っていたようなので、もしかしたら 講和の方向へ誘導する努力をしたかもしれないな。無駄だったろうけど。 仮想戦記的に考えるんなら、海軍きっての戦艦派だっただけに、マリアナ決戦で 戦艦を主体にした作戦を考えたかもしれない。 レイテ決戦が半年繰り上がったような戦況になったかも。 それと、海軍乙事件が起きないならあの事件での重要な失点である「暗号文書の流出」が 起きない事になるのでそれで少しは・・・いや変わらないか。 (549 863) 日本軍が在インドネシアの蘭人を収容所にいれたのはなぜですか? 占領の前半期には、抑留所外での生活が可能でした。 しかし、1943年11月に全オランダ人を収容しますが、これは戦局逼迫の折から、 敵性外国人が敵国に情報を流すことを恐れた為とも言われています。 また、在蘭印の日本軍が度重なる島嶼部での敗戦で、前線に抽出され、兵力が枯渇し、 実質的に兵補を用いることでしか占領地域の維持管理が出来なくなっており、それならば、 敵性外国人を収容して一つ所に集めた方が監視しやすいと言うこともありました。 (343 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 天皇が各地の作戦に口出しをして犠牲を増やした・・・これ本当? 大和の沖縄特攻は天皇のせいってのは知ってるけど ガ島の戦いは天皇の一声で増派決定 送られた人々は飢えと病の中で無残にのたれ死んでいった (572 669) 終戦の日にも東京では電車が(当時の基準で)普通に走っていたと聞きますが、これは将来の占領政策か何かの意図で手加減とかあったからなのでしょうか? 予定では8月15日以後から大々的な鉄道施設空爆が始められる予定でした。 (574 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争末期のフィリピン戦ではゲリラが跳梁して日本軍の小部隊の移動は後方でさえ自殺行為だったそうですが なぜこのような状況にまでなってしまったのですか? 単純には日本の占領統治が悪かったから 戦前は Q・日本人とスペイン人とアメリカ人が公園に馬車を止めていた フィリピン人の乞食が集まるのはどの馬車か A・日本人の馬車、他の馬車はフィリピン人を奴隷としかみないから とか、アメリカ共産党ですらフィリピンを自派の指導下にあるとみなすとか 色々例はあるが、ともかくフィリピンはアメリカから搾取されていた で、占領当初は親日だったのだが 軍政下におかれてから、徴発とか教育とかがフィリピン人の希望に添ったものではなかった むしろスペイン・アメリカに代わる植民地支配としかフィリピン人には思えなかった で反感が広がり、日本の軍政下にあるよりかはアメリカの支配のほうがましだ、と思えるぐらい 日本の軍政はひどかったから、日本が負け戦になると、今までの軍政下の反感が噴出した で、日本軍が弱体化すると、「どれ日本軍をぼこぼこにしてアメリカからお金でももらおうか。」 というぐらいフィリピン人の感情が悪化したため 占領統治だけの問題でもない。 大戦勃発・日本の占領により、東南アジア植民地は欧米市場から切り離され経済が崩壊した。 また、戦争中期以降は日本軍による軍需作物の栽培強制、食料徴発、米軍潜水艦による通商破壊で 食糧事情が逼迫している。 結局のところ、日本の”開放”によって何もかもが悪化しちゃったんだよ。 (336 341,345) 「硫黄島からの手紙」で憲兵隊が非国民の犬を撃ち殺すシーンが有りましたが当時はそのような事が頻繁に行われていたのでしょうか? ググッタ結果 どうしても猫を殺すと軍の人が言うのです。白い雪が赤く染まって、 数百匹の犬や猫が死んでいました。『私が坂を下りていきますから、 殺すなら、坂を下りきってからにしてください』と言うと、軍の人は 『わかった』と言いました。そこで、私はいやいやながら、猫を差し 出しました。そして背を向けた瞬間、『ぎゃっ!』という断末魔の叫 びが聞こえました。今でもその時の猫の叫びが聞こえてくるかのよう で、つらいです」 井上こみちさんは、戦時中の犬や猫の供出について取材し『犬の消えた日』という本を出版なさっています。 関連リンクを3つ紹介しましょう。 http //tinyurl.com/9f8rq http //tinyurl.com/btgp4 http //tinyurl.com/8wpaa 毛皮にされたり,缶詰にされたり・・・ あのように撃ち殺す事は無いでしょうね多分。 (336 393) 軍用犬種を一般の人が育てて、成長すれば軍用犬にするという制度はありました。 しかし犬は今でもそうですが優秀な防犯装置であり これを憲兵や軍人が勝手に連れて行くことはありません。 また猫もねずみを取る優秀なハンターであり、猫の飼育も 戦前の日本の衛生環境では、重要な伝染病予防手段でした。 そのため、きちんと飼育されている犬や猫を、軍人が殺すということはありません。 ただし、野犬狩りや野良猫狩りといったことは戦争前から行われており 野犬や野良猫と間違って捕まらないように、飼い犬・猫には首輪に鑑札をつけるようにとの 内務省からの通達が、戦争前からあったことから考えて 野犬狩りや野良猫狩りとの混同も考えられます。 あと、戦争中はウサギの飼育の奨励も国から行われました。 ウサギは多産で成長が早く雑草を餌にでき糞の始末も楽で鳴声も出さず臭いもひどくなく と都市部での飼育に向いていたので、子供にウサギを与えて成長させ 成長したウサギは食用にし、毛皮を供出する制度はありました。 恐らくこの辺が混同されたか http //www1.korea-np.co.jp/sinboj/%82%8A-2005/06/0506j0617-00002.htm 朝鮮総督府は38~45年の間に、朝鮮の在来犬を毎年10~50万匹も供出させ、 合わせて150~200万匹を殺して防寒服の毛皮と食用に使ったといいます。 朝鮮半島からの帰国者の情報が混じったものかと思われます。 (336 404) 天皇が玉砕した島届かないものと知りながら電報(無電)を打たせたという話を以前聞いたのですが アッツ島での守備隊に対して、天皇陛下が打電した話ですかね。 昭和帝を扱った本であれば、大抵のエピソードにこの話が掲載されていたかと記憶しております。 (333 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中、食糧不足を少しでも解消する為に釣りをしたり野山へ山菜を取りに言ったりすることが流行ったりしたんでしょうか? 本格的にヤヴァいとなってきた18年後半ごろには勤労動員が始まってたので そんなに活発じゃありませんでした。 配給品をなるべく食い延ばす方法は色々な形で啓蒙されましたが 山菜・釣りの推奨などはほとんどありませんでした。 そちらへ向けられる労働力があるのならお国のために働け、といったところかもしれません 都市部の場合だと、野山や海に出るだけでも大変だったりするのも積極的でなかった理由の一つでしょう が。 しいたけ栽培などの管理を小学校以下の学童に移管した例もありますので 労働力として期待できない学童などを使って 食料確保の補助のために山菜取りや釣りをした例もあったかもしれませんね 藤子不二雄先生の漫画「少年時代」では児童が宿題として 山菜や、火薬の原料にする為蓬の干したものを提出しないと 授業を受けさせないというシーンが出てきます。 戦時中よりむしろ戦後に山菜や野草まで食べねばならない地域があり、 食べられる野草の見分け方、調理法などの本(粗末な)がいくつも出ていたようです。 (329 631-634) 太平洋戦争中って、人海戦術で砂鉄をかき集めたりとかしなかったんですか?磁石とか使って 真面目な話、太平洋戦争中に列車がブレーキをかけた際に落ちた車輪の鉄粉を回収して 鉄にすると言う研究が行われたことがありました。 しかし、大戦中の研究とは言え、流石に投入する工数に対して得られるものが少なすぎる と言う事でおじゃんになっています。 ついでに、砂鉄を坩堝で溶かして玉鋼にする昔ながらの踏鞴製鉄は、主に中国地方にて 行われており、明治末から大正期までは、特殊鋼の元になる鋼として呉海軍工廠に納品 されていたりしました。 (その流れで、日本砂鉄工業が特殊鋼製造の為、高砂とか姫路で、鹿児島産砂鉄を用いて 特殊鋼生産をしていました) 当然、日本にもそれなりに埋蔵量のある砂鉄(利用可能な砂鉄鉱の埋蔵量31,400,000トン、 うち、含鉄量17,217,000トン)があり、釜石と倶知安を主要鉱山としています。 釜石が品位60~65%の富鉱が1,400~1,500万トン、品位20~30%の貧鉱が3,000万トンで、 年産30万トン、最盛期で61万トンとなっており、倶知安では品位50%、埋蔵量400~500万トン で年産15万トン程度です。 その砂鉄資源の利用は技術上難点があり、溶鉱炉の湯溜り、炉面の狭窄、炉底の隆起などがあ あり、中々利用出来ないでいます。 日鐵では八幡製鉄所内に日産1トンの小型溶鉱炉を設置して北海道は噴火湾沿岸の八雲 砂鉄の焼結鉱(品位鉄分37%、珪酸34%、酸化チタニウム4.6%)のみの試験生産を行いました。 その実験の結果、輪西工場第三溶鉱炉(日産225トン)で、八雲砂鉄の焼鉄鉱(鉄分50%、珪酸12%、 酸化チタニウム6.5%)を普通の鉱石に対し50%混入して実験を行って、実用を確認しています。 (602 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第2次大戦中、紙の割り当てが削減されて、雑誌は多くが休刊・廃刊になったそうですが横溝正史や江戸川乱歩、小栗虫太郎などの作家はその間どのようにして生計を立てていたのでしょうか? 紙数制限を受けたのは、初期は主に軍にとって都合の悪い本を出版した会社が主(例えば、中央公論社 とか)で、戦争末期にやっと多くの出版社が影響を受けた形です。 しかし、娯楽作品の分野では、西洋ものの探偵小説や耽美小説が掣肘を受けたくらいで、捕物帖とかには 余りお咎めがありません。 従って、彼らは別の分野、例えば捕物帖を書いて糊口を凌いだり、外国作品の翻訳をして時を過ごしたり、 戦後に出版するつもりの長編小説を書いて過ごしたりしています。 また、日本文学報国会に属している作家は、軍に要請されて、南方に赴き、占領地を題材にした作品を 書いたり、国民向けの講演会を行っています。 このほか、時局報告会と称して、各地で講演を開催したりもしていました。 このほか、戦前に貯めた金を投資して、事業を興したりして文学と全く違う分野に進出した人もいました。 (604 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 先の大戦当時、日本でおおっぴらに戦争反対を唱える人はどうなったんですか? 階層によっても異なります。 例えば、吉田茂の様な人物ならば憲兵隊の監視下に置かれたくらいですし、 評論家の清沢冽の場合は、本人が注意深い性格だったからかも知れません が、それとなく注意されるくらいで、特にお咎めはありませんでした。 とは言え、某上等兵を激怒させると、本人がどれくらい年を食っていようが、兵役に 引っ張られ、一兵卒として前線に送られるくらいの懲罰はありましたし、自殺を強要 させられたりした例もあります。 庶民の場合は、特別高等警察や憲兵に引っ張られました。 ちょっとした言動で引っ張られても、学生だったら下手をすれば放校処分を受けたり、 ムラ社会であれば容赦なく村八分。 つまり、社会的に抹殺されます。 戦争反対を大っぴらに唱えるのは命がけであり、下手をすれば命を失いかねません。 万一、収監された場合は、最もきつい労役現場に送り込まれることになります。 例えば、南洋群島の飛行場設営とか、常磐炭鉱、夕張炭鉱など炭鉱や鉱山での労役、 造船所での建造作業など危険な現場での作業が割り当てられました。 尤も、共産党指導部みたいに、禁錮を食らってずっと塀の中と言うケースもありますが。 (607 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 南方の資源地帯を占領したのに、そこに現地工場を作らなかったの? アルミ精錬には大量の電気が必要で、発電所から作るとアルミ工場が精錬を開始する前に 日本国内の備蓄が尽きます.。それよりはボーキサイトを国内に運び込んで精錬した方が よっぽど手っ取り早い.。 工場とは少し違うが、南方油田地帯を占領した後、大慌てで採掘用資材を南方に送り出し、 あまつさえ国内や満州で操業し始めていた油田からも資材をわざわざ取り外させて南方へ送り、 結局戦争中盤はどこもかしこも採掘機材設置中…で石油は手に入らず、 終盤にようやく設置が終わった頃にはタンカーを沈められまくって運べず…なんてこともあったらしい。 日本の建設能力の低さを考えると、工場を作ってる間に戦争の決着はついてそうだな。 (323 249,250) 日本の消費者物価は、昭和10年度から20年度にかけて、13倍になっていますがこれは統制価格がでしょうか? それとも闇価格がでしょうか? 統制価格になります。 元々、1941年5月には高物価増産論が国会でぶち上げられていましたし、1942年 6月には価格形成委員会が公定価格の引き上げを具申しています。 1944年には物不足が極まってきて、公定価格は実質上廃止されてしまいます。 更に、1945年になると各地域の自活を打ち出したことと空襲でモノの移動がスムース にならなくなった事から、遂に政府は自治的価格統制に後退してしまっています。 (610 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 本土決戦直前の内地の毒ガス配備状況は、どうでしたでしょうか。 結論から言うと、よくわかってない。以下、参考程度。 日本の化学剤の生産量はざっと7千トン。 うち4千トンは終戦時に大久野島(陸軍)と相模(海軍)の工場周辺に残ってた。 残り3千トンは各地に出荷され、うち相当量は国内16か所の兵器工場・研究機関にあった。 大戦後半には基本的に軍レベルで管理してて、中国戦線だと南京の兵器廠なんかに多くはあった。 でも、中国各地から結構発見されてるとこからして、前線にも少し残ってたようだな。 特殊なものとして、対戦車用のちび弾はソ連参戦時に満州で前線に配布されたようだ。 構ってほしくて質問してるんじゃなく、まじめに調べてんなら、下のスレでじっくりやるのを勧める。 【BC兵器】生物・化学戦総合スレ【731部隊】 http //anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1235388332/ (610 299) 終戦間際、日本の共産主義者が危なくなってたという話を聞いたのですが 日本共産党の党史でも読めば。 昭和二十年になっ”本土決戦”が予想されるようになってくると、 当局は収監した左派政治犯の「処分」と在野の「要注意者」の 強制収監処分を計画して発動の寸前だった。 また、当時政治犯として収監されてた人によると、昭和二十年の春を 過ぎたあたりから急に食事が(更に)減量されてメニューもしょぼく なったそうで、どこでも飢餓の寸前だったという。 なのでもう少し戦争が長引いていたら日本の共産主義勢力は絶滅する ところだった。 まぁ「隠れキリシタン」や国外逃亡組もいたわけだけど。 (322 574) 戦中の報道管制下でイタリアやドイツの同盟国の敗北を新聞やラジオはどのように伝えたのですか? 1944年の年鑑類でも、きちんとイタリア降伏は書かれています。 但し、我らがDuceは北イタリアにおわし、健在。 北イタリアの政府が南のバドリオ傀儡政権に対し圧迫を加えつつあると言う報道が 成されていますね。 同様に、1945年のドイツ降伏もきちんと伝えています。 これから我々はどうしていくべきか、なんて論調もあります。 また、ドイツ降伏の影響についても新聞は報道してます。 (322 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の工業力の実態 外国製品の模造について困難を感じる点、という調査の結果は次の通り。 1、外国産と同じ材料が得られない 14件 2、材質が分からない 1件 3、熱処理不明 7件 4、外国産のような滑らかな切断面が得られない 5件 5、鍛造技術の研究不十分 5件 6、主要部分が特許となっている 2件 7、国産の軸受用ボール・ローラー・ベアリングの質が悪い 16件 8、歯車の製造困難 7件 9、工作方法不明 1件 10、機械仕上げ加工の基礎知識不十分 1件 11、工作機械の各部門専門部品がないため全ての部品の研究製作が必要 3件 12、工場設備不十分等々で模造困難 5件 13、電気部品製作所との協力困難 7件 14、特殊電気装置の製作設計困難 3件 15、強力な小型電動機の入手困難 9件 16、精密計測設備の不十分 9件 17、精密工具の入手困難 5件 これでも各メーカーは自社の技術を誇張するためかなり控えめに報告しているという。 http //www.geocities.co.jp/Milkyway-Sirius/6597/ind.html (対ソ戦に全力を挙げるべきだった 530) 戦時中、日本から脱出する方法はあったの? 残念ながら日本の周辺は海に囲まれています。 が、日本から出るルートとしては、幾つかあります。 まず、北。 樺太に渡って、日本側警備兵の隙を見て、国境に走って下さい。 不法入国で逮捕されるかもしれませんが、運が良ければ、脱出することは可能です。 ただ、強制送還もしくは収容所の露となることは覚悟してください。 正規ルートならば、日本とソ連の間は1945年8月までは中立状態ですので、ソ連への渡航ビザさえあれば、 満州里からソ連に入ってカムチャツカ辺りを通って、北ルートで米国に渡ることは可能です。 とは言え、途中で消え去る可能性もありますが。 中国大陸に渡ることさえ出来れば、後の脱出経路は自由です。 西に向かって進めば、新疆省に出ることも出来ますし、蘭州まで行けば、上手くすれば航空便を捕まえること が出来るかもしれません。 そうすれば、重慶に渡って、インド経由で外の世界に出ることも可能です。 1941年なら、香港に渡って其処から南方へと言うことも出来ます。 但し、途中で日本人と分かれば、ただでは済まない可能性もありますし、航空便の場合は、途中で撃墜されても 文句を言わないでください。 また、重慶で空爆死することもありますからサイレンの回数には気をつけてください。 2回目のサイレンで防空壕に逃れられなければ動いてはいけません。 動くと監視兵に射殺されます。 南方なら、仏領印度支那に抜けるかタイに抜けさえすれば、後はご自由に。 1941年以前なら蘭印という選択肢もあります。 1942年以降なら、外国人に成り済まして下さい。 上手くいけば、交換船に乗って安全地帯に逃げることが可能です。 後、南洋諸島に渡れば、ほら、船を使えば、グアムまではほんの少し。 或いは、アラフラ海で操業する真珠貝採取船に乗り込むのも良いかもしれません。 こんなところですかね。 (317 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 教科書の杉原千畝氏の欄に「なお43年2月以降、日本は上海にゲットーを創設し、上海に非難していた無国籍ユダヤ人に迫害を展開した」と書いてました 嘘だろうけど?当時のユダヤ人への対応ってどんな物だったか詳しく教えてください 河豚計画と称してユダヤ系資本の流入を期待してユダヤ難民を受け入れた ものの、独日の接近、開戦などで頓挫。 しかも難民の殆どがユダヤ資本の後援の無い貧乏人でもてあましてしまい 元々あった上海のユダヤ人街に送致、そこからの移動を禁じてたのよ。 ナチスから日本政府への要求よりマシだけど胸は張れないなorz (316 19) 太平洋戦争中は、日本沿岸や遠洋での鯨漁はどの程度行われていたんでしょうか? 大きな鯨を取る事で、食料不足の解決にならなかったんでしょうか? 元々日本の捕鯨船には有事の際に徴用して母船は補給艦&油槽艦に、捕鯨艇は 掃海艇&哨戒艇にすることが考慮されて海軍が補助金を出していた。 太平洋戦争勃発と共にみな徴用され、ほとんどは沈みました。 船がない上に戦争後半には日本近海は潜水艦と空母艦載機がうろうろしてるので、 出漁になど出られません。 そもそも、船を動かす燃料がありませんでした。 日本の水産業は上記の理由で戦争の後半にはほぼ操業不可能に追い込まれています。 魚を捕ることすらできなくなっていたのです。 (315 583) 戦時中日本やその他の国々では女性や学生を工場に兵器製造として徴用させていましたが、工具はあるとはいえ素人が銃砲弾や手榴弾などを製造できたのでしょうか? 今だって派遣や期間工の素人が自動車作ってるだろ (642 37) ケースバイケース。 はじめから非熟練工でも生産できるようにつくらた生産ラインなら問題が少ない。 アメリカを中心に普及していたフォード生産方式はこれ。 設備投資がかさむ代わりに、工員はいくらでも入れ替え可能。 逆に旋盤やヤスリを使った職人的技術に頼っていた工場は性能の落ち込みが激しかった。 弾薬類は構造が単純だから不発が増えるぐらいで済むが、航空機のエンジンなんかは末期に近づくほど、まともに動かなくなっていった。 そんな工場で生産できるように兵器の方を省力化・簡略化する努力もされていたが限度がある (642 モッティ ◆uSDglizB3o) ついでに補足すると「はじめから非熟練工でも生産できるようにつくらた生産ライン」は その生産をする工具が、非熟練工でも精度に狂いが無い全く同じものを作れるようにする 工作機械であることなどを指す これに、各工員ごとに簡単な最小の部品をひたすら作らせる事で、熟練工員のような 技術を持っていなくても、同じものを大量に作る事が出来る (そうして出来た部品同士を組み合わせる工程も、非熟練工による単純流れ作業) ただこの方式の欠点として、単純で同じ作業を延々続ける事で工員の精神的疲労が高く 同じ人がずっとその仕事を続けていく事が出来ない事 そのため、工員は定期的に新しい人を雇って入れ替えていく必要があるが もともと誰でも工員になれる上に簡単に取り替えられる前提であるのであまり問題が無い そして、戦時中の日本の場合、その「工作機械」が無かったので非熟練工を雇っても 本当に単純なものしか作らせる事が出来なかったし、 作らせるものの方を単純簡略化する、という対応ぐらいしかできなかったという ちなみに旋盤加工にも、後付けで倣い旋盤装置なんかを取り付けて 非熟練工でもある程度、精度の高い製品を複製できるようにした装置なんかもある (642 40-41) 本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか? 大戦末期の根こそぎ招集だと、乗る船もないので、本土決戦用の蛸壺掘って 終わったと言う人もありますよ。 (47 眠い人 ◆gQikaJHtf2) みんながみんな外地に行ったわけじゃないんですよ。 「本土決戦」も考えていましたし、内地にもちゃんと部隊はいました。 たとえば、作家の池波正太郎は海軍に入り、横須賀の海兵団を経て 終戦まで美保にいました。 (47 327) 映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画? 中国戦線の独立混成旅団の戦いを描いた映画 陸軍省後援だけど戦意高揚的な匂いはあまりしなかったと記憶 (48 247) 戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。 活動はかなり低調化していたようです。 当時のヤクザは現在みられるように大規模なものでなく、街ごとのこじんまりとした集団でした。 あとは”仁義無き戦い”でも読んでください。復員後のヤクザについて書かれております。 (48 269) 戦時中、ラジオの短波放送が禁じられていたそうですが、主な理由はなんですか? 外国の流す宣伝放送を聴く事ができないように。 あと、スパイがラジオを通して指令を聴くことができないようにさせるため。 主にこの二つ。 (51 309) 短波は電離層反射により遠くまで届くため、防諜上から受信そのものが禁じられた (51 310) 大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか? なぜ、わざわざ名称まで変えたのでしょうか? 1943年9月30日の御前会議で、戦争指導の大綱が決定しますが、軍政府と行政府との 齟齬で、その実現が余り上手くいっていないこと、また、大本営だけでは、殊軍事だけの 視点でものを見がちで、外交面はともすれば等閑にされてしまっていること、でもって、 外交面で言うと、大東亜共栄圏の諸国が今後独立を達成するに当たって、彼らの協力を 得るため、また、独ソ戦などでのドイツの勢いが落ちてきたことなどから、今後の戦争指導 には外務省(大東亜省)の助力が必要なこと、などが理由となり設置されました。 また、軍需生産が軍需省に一元管理されて、軍政と切り離されたことによって、調整の場が 必要になったこともあります。 (307 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか 一応、出征家族に対しては家族手当があります。 また、万一の時に備えて、徴兵保険(富国生命保険は昔これを一手に扱っていました)を 掛けている人も多かったようです。 更に、軍事扶助法によって、現役下士官の家族には扶助金が出ます。 (233 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか? 戦闘または戦闘に準じる公務で死亡した場合、その遺族には、普通恩給の金額、それ以外 の普通公務で死亡した場合は、普通恩給の10分の8、それ以外の要因で死亡した場合は、 普通恩給の10分の5が、それぞれ支払われますが、これは、軍在籍3年以上で恩給年限に 達しなかった人の場合です。 それに達しなかった人の場合は、当時の棒給月額に在職月数を乗じた額が一時的に支給 されます。 戦地に出た人のいる家族に対しては、隣組や婦人会、町内会で相互扶助を行っていました。 特に応召者のいる家庭の訪問、遺家族に対する慰問などが重要視されています。 (233 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 蛇足 恩給法における公務扶助料は、軍人等が戦病死した場合に、その軍人等によって生計を維持し または生計をともにしていた配偶者を先順位者として、続いて未成年の子、父母等の順序で 支給されることになっています 従って支給額は個々によって違います その他には金杯と知事から労いの紙切れ一枚 (304 シチュー砲 ◆STEW.ibjrE) 大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか ニューギニアの第十八軍は人肉食の横行に苦慮し友軍の肉を食べたものは厳罰に処す旨の 通達を出している。実際に処刑された日本兵もいる。 逆に敵兵の肉は食べてもお咎めなしであった (658 226) 1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか? ソ連は、ドイツに利益となる日本人のビザを発行したがりません。 日本のドイツ駐在武官を、東欧の他の国の駐在武官として偽って報告したこともありました。 日本は苦肉の策として、遭難したソ連人船員の帰国のビザと交換に、日本人のソ連通過ビザを得たこともありました。 しかし、1942年に日本人外交団がソ連のビザを得て、ソ連領を通過してドイツへ行きました。 中央アジアを経由しました。 その際、観察したソ連の様子を、ヨーロッパから無線電信で日本へ報告しました。 それは、暗号解読していた、アメリカやイギリスの関係者にも、有用なソ連情報でした。 1944年1月は、独ソ戦でソ連が有利になっていました。 ドイツへの日本人の通過ビザは、なかなか発行しません。 (672 霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I) 多分、佐貫亦男さんのエッセイか何かを呼んで疑問に思ったのでしょうが、可能です。 但し、1943年10月に日本近海で撃沈されたソ連貨物船乗組員50名を満州国経由で送還する交換条件ですが。 この時は外国人3名、民間人3名、満州の民間人1名に査証が降りています。 そして、1943年11月にベルリンから在ドイツ日本大使館一等書記官の牛場信彦、佐貫さん、古賀電工技師の松尾敏彦、 川村知、満州国官吏の河野徳太郎、ブダ=ペシュトから、大久保利隆マジャール公使、 ブカレストから在ブルガリア日本大使館二等通訳官が帰国しています。 先ず、ベルリン組は二手に分かれて、寝台列車でブレスラウ、スロバキア領を通過し、ブダ=ペシュト着、それから ブカレスト経由で、ソフィア、イスタンブール、アンカラを経てソ連へ、クラスノボーツクからノボシビルスクを経由し、 チタ、そしてアトポールで満洲里到着というコースです。 また、1943年11月から1944年1月にはトルコに赴任する田辺宗夫三等書記官、スウェーデンに赴任する土屋準二二等 書記官、スイスに赴任する武川基外交官補がソ連経由でドイツに向かっています。 途中、伝書使としてベルリンに赴いています。 このルートで最後に帰国したのは堀切善兵衛欧州遊撃大使になります。 後、ブルガリアから帰国する日本外交官が、1944年11月にソフィアからイスタンブールに行き、アンカラ、バクー、コーカサス 経由で、モスクワに行き、そこから満洲里に言った記録も残っています。 (672 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう? 特に人の行き来は、現代の海外旅行のようにはいかなかったと思うのですが。 第二次大戦勃発当初は、イタリアがまだ参戦していませんでしたので、通常の欧州航路から地中海に入り、 ナポリで下船し、鉄路でベルリンに向かいました。 これは1940年春にイタリアが英仏に宣戦を布告するまで続きます。 1940年9月以降はスエズを通航出来なくなり、パナマ運河経由か喜望峰経由に変更。 この場合、リスボンに寄港し、欧州に行く人々はここから鉄路で各地に向かっています。 前者は1941年7月18日に米国が通航を拒否したため休止、後者も経済的に維持出来ず休止されました。 シベリア鉄道経由はウラジオ、ハバロフスク経由、満洲里経由の2ルート(満洲里経由は出発地によって2ルートあるので、 都合3ルート)ありましたが、ソ連が軍人、外交官を除き一般人にビザを発給しなかったので、利用は少ないです。 1939年9月1日に一旦中断し、12月頃再開、1941年6月22日の独ソ開戦で中断されました。 米国経由は、太平洋航路で、シアトル、サンフランシスコから鉄路でニューヨークへ、其処から大西洋航路で 欧州(米国は未だ中立国)へ渡ると言うものですが、これも1941年7月26日の在米国日本資産凍結によって 事実上閉鎖されました。 以後は、南米航路で、ブラジル、アルゼンチンからリスボンに渡ると言うものでしたが、これも、 1941年12月8日の日米開戦で途絶しました。 太平洋戦争勃発後は、先ず、日米、日英交換船による外交官赴任があります。 これはポルトガル領だったロレンソ・マルケス(今のモザンビークの首都マプト)経由、其処からポルトガルの 便船で喜望峰経由でリスボンに向かい、其処から鉄路でベルリンやらヴィシーやらベルンなどに赴きました。 (ちなみに、外交官のポルトガル船での赴任は、連合国に了承されています) また、陸路は、シベリア鉄道のモスクワ経由は無くなっていますが、満洲里から ソ連に入り、中央アジアを抜け、コーカサス経由でトルコに入り、トルコを横断し、 ブルガリアへ、ブルガリアからロマーニャ、そしてマジャールを経由してドイツという ルートです。 そのルートは二ヶ月の時間を要し、ソ連の通過査証が中々降りないのがネックでした。 一応切り札として、日本領海で遭難して救助したソ連船員との交換で発給を受けて いたのですが、なかなか発給されず、屡々在モスクワ日本大使館とソ連外務省との 間で丁々発止の遣り取りが行われています。 この陸路を通った例としては、ローマのイタリア大使館から帰国した参事官が最初で、 ローマ→ウィーン→ブタペシュト→ブカレスト→ドナウを下ってジュルジュからブルガリア のルセを渡り、ソフィア→スビレングラード→其処からバスでイスタンブール→アンカラ →サルカムシ→カルスを経て此処からアルメニアのレニナカン(現在のクマイリ)→グル ジアのチフリス(今のトビリシ)→ソ連に入ってスターリングラード→ラポリ→クイビシェフ →ノボシビルスク→シベリア鉄道で満洲里という右往左往ルートです。 独ソ戦で、コーカサスが最前線になると、チフリスまでは上記通り(但し、ドナウの結氷期は連絡船は動かないため、 小舟で渡るか、歩いて渡ることになります)、チフリスからはロシアに入らず、バクーに移動し、カスピ海を横断、 トルクメニスタンのクラスノボーツクから鉄道でタシュケントに抜け、カザフスタンのアルマアタ、セミパラチンスク を経てノボシビルスクというルートで以後、シベリア鉄道というルートに変わりました。 このルートは、1944年8月23日のルーマニア降伏まで続きました。 で、それ以外は、潜水艦によるものが人口に膾炙されていますが、伊号第30号潜水艦、同第8号潜水艦、同34号潜水艦、 同29号潜水艦、同第52号潜水艦の5回試みられ、欧州到達したのは3回、往復したのは1回でした。 ドイツ潜水艦によるものも試みられ、U511、U1224、U234の3回のうち、1回のみ成功、イタリア潜水艦も4艦のうち、 1回だけ昭南に到達しました。 後は、物資だけなら、ドイツの封鎖突破船、イタリアからの福生まで空路というのもあったりします。 イタリアからの福生まで空路ってどの程度実現していたのでしょうか?又中継地は? 特殊型なのですが、1939年7月30日~8月1日に掛けて、Savoia-Marchetti S.M.82PDと言う 改造型は、航研機の持つ周回記録を上回る12,910kmの飛行を行っています。 同じような改造型で、1942年にイタリアのローマから、ブカレスト、コーカサス(当時はドイツの 占領下)を経て、其処からは無着陸でアフガンを越え、天山山脈上空を飛行し、中国の日本占 領地(蘭州辺りだったかと記憶)に飛び、其処から満州を経て、福生へ飛んでいます。 ちなみに、このルートは、1938年4月23~28日に満州航空が購入したHe-116の2機が通った ルートをほぼトレースしています。 この時には、カプロニの「ジェット」エンジンを搭載してきたんですよね。 帰りには南方で採取された資源(生ゴム、雲母、錫、タングステン、阿片)を搭載して見事に 帰着しています。 後、思い出しましたが、逆ルートで、立川A-26の2号機を用いて、シンガポールからドイツまで 無着陸連絡飛行(セ号)を1943年6月30日に福生を出発、シンガポールで給油し、7月7日にド イツに向かいましたが、インド洋上空で行方不明、1944年から45年にかけて、立川キ-74遠距離 偵察爆撃機の2号機を使って同じような飛行をしようとしていましたが、ドイツ敗戦で中止になりました。 (236 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか? この島は機密保持の為、地図から消されていたといわれていますが 工場が設置されたのは、戦前の1929年で、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所 となっています。 この工場開設時は、昭和の大恐慌時だったので、工員の応募総数が6,000名で、 そのうち200名が採用されています。 従って、地域では、陸軍が工場を設置したことは判っていたでしょう。 また、1933年に秩父宮、1934年に高松宮が工場を訪れており、日中戦争勃発後 は生産拡張のために、男女従業員1000名が採用され、工員は忠海港から島に 通い、1940年には、工場内に技術者養成所が設置されて、広島、岡山の国民 学校高等科卒業の男子を集め、養成工として3年間の教育を始めました。 彼等は、20年の雇用契約を結んでいます。 1943年のRooseveltによる毒ガス報復宣言が出てからは、この島でのガス生産 は低下し、風船爆弾などの製造に転用されたりしています。 戦前からの動き、毒ガスの使用状況、砲弾の補給状況などを丹念に追っていけば、 何処で製造されているか、までは突き止められます。 但し、ホスゲン、サリンなどの新規開発の瓦斯はあるのかは、第二次大戦末期になる まで判らなかったみたいですがね。 (289 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか? 我が実家も有耶無耶の内に、隣の土地を市に没収されたっけ。 曾祖母が怒ること怒ること。 配給途絶に備えて、空き地の徹底的活用で食料を緊急増産する為に、地方自治体から 南瓜、韮、不断草などの種子を無料配布したり、作り方を教授するようにしています。 ただ、例えば、南瓜などの種子は、粉末化して食料にするため、回収していますね。 なお、こういった耕作地については、戦時農園としてきちんと登録する必要がありました。 更に、芋類に関しては、戦時農園推進員が巡回して、生育状況を確認しますが、統制外の 南瓜の様な作物は、お目こぼしされています。 但し、種芋についての配給は、入荷が遅れて、種付けに間に合わない場合が多かった様です。 (289 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです チャフでしょうか? 多分チャフ(日本では電探欺瞞紙と呼ぶ)。 アルミ箔(日本では紙に錫箔を貼った物)をレーダー電波の波長と同じ長さに細長く切ったもの。 空中で大量に散布して電波を撹乱して、敵の探知を妨害した。 レーダー画面上では白い雲のように映る。 おそらくは日本に侵攻してきたB-29が散布した物。 (286 48) 大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが 「川崎造船所40年史」以外で。 Tom Smith辺りの論文でそうしたものを扱う予定でしたが、残念なことに本人が病没しました。 とりあえず、新修神戸市史の産業経済編巻2と3が参考になるでしょう。 また、日本経済新聞に、日本財閥経営史という一連の本がありますが、このうちの「新興財閥」編、 「地方財閥」編もしくは、「阪神財閥」編に触れているものがあったかと。 (283 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか? 少なくとも邦人に関しては、それなりの生活が出来ています。 食料事情も内地よりは豊かでした。 例えば、台湾の場合、日本の内地では余り見かけなくなった砂糖がふんだんにあったりしますね。 朝鮮の米事情に関しては1939年の凶作の影響で、余り良くなかったと言う点はありましたが、それ 以外はまずまずと言えるかもしれません。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか? 提灯行列自体は、1941年までは何とか行われていましたが、太平洋戦争が 勃発した時点では、既に止めようと言うことになってしまっています。 見送りも最小限になっています。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか? 雷撃艇とか揚陸艇にでも使われてたんですか? 海軍は、レーダーの代りに海上を見張る監視艇、掃海艇として主に用いられていました。 陸軍は、海上トラックとして、また、現地調弁用の漁船として使用しています。 (277 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの? 参謀長口達覚書なるものに捕虜の扱いが書かれていたとされる。 元々、商船を捕獲するとは思っても見なかった。 海上通商破壊には情報漏洩を第一に考える。 Uボートの場合、大西洋上で撃沈することが多く、少々の食料を与えて陸地の方角を教えたところで、 その陸地に到達するまで長い時間が掛かり、更に、現地に着いてからも人跡未踏のジャングルだった りするので、情報の伝達まで時間が掛かる。 インド洋では、陸地に到達する距離が短く、また人口も密集している為、情報伝達時間が短いことを 考慮したものかもしれない。 (275 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。 「秋風艦上の虐殺事件」 1943.3. 東部New Guinea、カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が、駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を 全員ラバウルに移送するよう命令を受ける。 カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士、11名の修道女、彼女たちが世話していた2~7歳の中国人3名。 3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船、翌日午後、マヌス島の40名(3名の神父、3名の修道女、ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻 2組と1人の子供、2名のドイツ人農園主、2名の中国人と3名の原住民。)が乗船。 なお、ドイツ人の他、少なくとも5名がオランダ人、1名がマジャール人、1名が米国人。 3.18.AM.10 00 秋風はカビエン沖に停泊、海岸と信号をかわした後、ラバウルに向けて航行を開始。 カビエン沖60マイルの地点で、艦長(佐部鶴吉少佐)が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える。 外国人たちは、前方の乗員室に連れてこられ、目隠しをされ、船尾に特設された処刑台に連行。 両手首を縛られて吊され、小銃の一斉射撃にて銃殺され、そのまま、海中に放り込まれる。 処刑開始は正午、終了が午後3時半。 その後、秋風は午後10時にラバウルに帰港。 豪州側は、三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの、管轄権の問題で 米国側に委譲され、不起訴に終わる。 これは、「秋風」の艦長、先任将校が戦死、秋風自体も米潜水艦によって撃沈され、乗組員は 全滅したため、三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている。 詳細は、豪州国立公文書館 SeriesMP742/1 細目336/1/1444 「秋風虐殺事件調査ファイル」を 参照してください。 ちなみに、ビハール号事件の際にも、南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠に なったと言う話もありますが、その資料そのものが発見できていません。 (派生議論スレ4 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか? 戦略爆撃調査団の報告書では”本土に対する諜報工作は絶望的”という記述がある。 陸奥爆沈事件などのきな臭い事件もあるが,破壊工作の可能性は低いという説が一般的。 (112 13) 戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの? 1935年前後、大学卒の初任給が60円前後、対して自動車の価格は、 キャデラック・フリートウッドが35,000円、リンカーン・ゼファーが9,000円、シヴォレーが4,000円、 ダットサンが2,100円でしたから、自家用の免許を持った人はあまりおらず、殆どが職業運転士 でした。 で、今、手元にあるのが、KKKのバス事業の資料しかないのですが、まず、運転士になりたい 人は、会社に入って、現役運転士の補助になります。 この現役運転士がお師匠となり、補助に付くと、その一挙手一投足を目で盗み、庫内で自習を します。 いい人に当たると、結構手取り足取り教えてくれた人も居たようですが。 そんなこんなで数ヶ月すると、路上教習になります。 で、これにお師匠と試験官が付いて、路上に出て一通りの運転動作をした上、問題が発生しな ければ、運転免許証が発行されます。 内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは、大正8年に内務省警保局・土木局が 連名で出した自動車取締令によるものです。 これを基に、各府県は自動車取締細則を定めて運用します。 ちなみに、軍事とは離れますが、大正12~13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件、 歩行者の死者3名、負傷者41名、従業員の負傷者1名、その他13名で、事故を起こした運転士 61名のうち、15名は無免許です。 運転手の養成所はありましたが、数が足りず、免許取得の運転手の添乗の下、 助手が無免許でハンドルを握らせています。 流石にこの状態は不味いので、大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され、 業務用(乗合、貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ、そのナンバーも 外せない構造となります。 (118 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争末期に誕生した国民義勇隊の詳細を教えてください 一応、国民義勇軍は、小磯内閣の最末期である1945年3月の閣議に於て、義勇奉公隊(仮称)組織ニ関スル件が 閣議決定され、府県毎に本部を設け、本部長は知事とし、市町村隊の隊長は市町村長が当たることを定めています。 (但し、義勇奉公隊が国民義勇隊と訂正されている部分と無い部分があり、訂正も閣議前か後かが不明であり、 また、国民義勇隊に関する閣議決定、了解資料は数多いのですが、施行しないもの、前後矛盾したものが多かった りしますので、注意が必要です) 1945年4月の鈴木内閣成立後の閣議で、国民義勇隊組織ニ関スル件が決定され、国民義勇隊に中央機関を設けないこと、 大政翼賛会と大日本翼賛壮年団の解体を定めます。 同時に警防団は国民義勇隊の組織に一体化することとなり、陸海軍大臣請議の「状態急迫セル場合ニ応スル国民戦闘 組織ニ関スル件」が閣議決定され、情勢急迫した場合は、国民義勇隊組織から戦闘組織に転移することを明確にし、戦場 となる地域の国民義勇隊は戦闘隊に転移するものとし、軍管区司令官、鎮守府司令長官の命令に服すること、そのため 兵として動員し、統帥権下に服従させ得るための法的措置をすること、戦闘隊と国民義勇隊は表裏一体とすること、在郷 軍人防衛隊は発展解消させることが確認されています。 また同じ4月に内務大臣請議による「国民義勇隊ノ組織運営指導ニ関スル件」が閣議決定され、国民義勇隊の当面の任務 として、軍需・食糧増産など戦力の増大に努めるものとし、戦闘隊に転移した場合でも、主に作戦の要望する生産・輸送・築城・ 防空・救護など兵站業務を中心に服し、最後の場合、戦闘任務に就くと言うこととしています。 国民義勇戦闘隊とは少し性格が違うものです。 国民義勇隊は、行政措置で設置された任意組織であり、出動には強制力が無く、衛生組合や翼賛会と同様に民間の機関であって 国家機関ではありません。 国民義勇隊は、地方に於ては地方総監府第三部が所管し、国民義勇隊自体は市区町村単位あるいは、職域単位で設置され、 その隊員は非戦闘員です。 (272 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 敗戦直前の昭和20年7月頃に勝札なんて宝くじがあったそうですが、 こういうギャンブル的なこと、芸能・スポーツとかも戦時中に普通に行われていたんでしょうか? 芸能に関しては、1945年も押し迫った状態でもやってます。 徳川夢声とかが新宿の演芸場なんかで芸をしてたら、空襲警報であっという間に中止とか 言う話もありましたけど。 流石に歌舞伎は中止でしたが(芝居を掛ける小屋がない)、演劇とか漫才などは、 移動演劇ということで、田舎の慰問の名目で最後まで行なってます。 スポーツは、武道・鍛錬の名目で推奨されていましたが、学生野球が1943年秋のシーズンまでで終ったのを 皮切りに、他のスポーツも、決戦態勢の確立の名の下、1944年までにどんどん中止させられていきます。 ちなみに、株式市場も1945年8月10日までやってました。 (121 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中、日本国内にいた外国人はどんな扱いだったのでしょう? 日本国内にいた日本国籍を持つ欧米系外国人は、スパイの疑いがあるとして憲兵による 監視下に置かれていました。 J・Bハリス氏の他にも、かのグラバーの子息倉場富三郎や外交官寺崎英成の妻女 (娘マリコの名が日米交渉の暗号に使われたのは有名)など、かなりひどい目に あったようです。 日本国籍を持たない外国人は開戦と同時に拘束されましたが、日本と連合国が 行った在留者相互交換により本国へ強制送還されました。 日英および日米の交換船は合わせて4回抑留者の交換を行っています。 (143 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦艦や巡洋艦のスペックとか、一般市民にどれぐらい公開されてたのでしょうか? まあ娑婆の人々がどこまで理解していたかはともかく、海軍はそれなりに広報していました。 私のかかりつけの医者は、子供の頃に陸奥の実物をスケッチしたことがあると話していますし 軍港見物ができた時代は、佐世保は陸奥、舞鶴は吾妻が船内公開されていたようです。 開戦まで、新聞報道はギリギリの線で海軍の情報を流していました。 佐世保のお膝元、長崎日日新聞の記事には 6年6月、霧島が長崎・五島で公演・映写会・見学 11年10月、修理中の由良で蒸気噴出、6名死亡 など、やばげな報道もしていました。 陸海軍が現代の「白書」じみた年鑑を発行していたことも分かっています。問題は頒布先ですが。 また、維新から日華事変参戦中の艦艇の写真集も発行してます。(編纂委員長が古賀さんなのです)。 公開されたスペックを覚えている海軍ヲタから、名前ぐらいは知っている程度までの幅はあれど 銃後の人たちは、艦艇を知る義務ではなく、知る権利を与えられていたのはまちがいないです。 (143 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 鉱物資源は日本領土や大陸でコストを度外視して採掘しても、戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか? 石炭、鉄鉱石など連合国の通商破壊で日本本土への輸入が叶わなくなった資源の場合、 本当に採算を度外視して、鉱脈があれば人的資源を投入して採掘を行ないました。 しかしながら、その鉱山開発に必要な採掘機械生産への投資や資源配分が行なわれなかったため、 既存の鉱山から採掘機械を転用するなどして、本来、重要鉱山(例えば、室蘭の鉄、常磐、筑豊の炭坑など) で使用すればもっと生産が上がったであろうものまで影響を受けており、そうした資源開発をすることは 反って生産効率を落とすことになっています。 (146 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中、キリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが、それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう? 最近、仏教徒の宗派にしろ、基督教の宗派にしろ、太平洋戦争に於ける国家への戦争協力 を反省する文章が出てた筈です。 例えば、賀川豊彦門下のキリスト教徒が、国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりして います。 また、太平洋戦争では、宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され、戦時活動実施の要目 として、教化活動の強化、宗教施設活用、報国団の整備拡充を申し合わせています。 仏教徒は、大東亜仏教青年会連盟を結成し、大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集する としていました。 基督教では、日本基督教団が、各宗派の大同団結の下に結成され、ラテン語の賛美歌を日本語化 する活動を行い、新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降 使っています。 建前上、日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが、国家神道は別格扱いでした (とは言え、その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが)。 民間レベルでは、特にその教義から基督教は敵視され、徴兵に於いても、生きて帰ってきても 何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに、基督教系の学校で先生やってた から、祖父は三回も徴兵されたし)。 (251 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴用された船舶が撃沈されたら弁償してもらえたの? 太平洋戦争中徴用された船舶が喪失した場合、海上危険(衝突、座礁、沈没など)の 要因によって、保険金が支払われる場合がありました。 敵国に撃沈されたと明確に判断の付く場合(これを戦争危険と言い、乗組員の証言、同行船舶 乗組員の証言などで判断)は、保険が掛けてあっても、保険金ではなく、軍から補償金が支払わ れます。 一方、単独行動中に行方不明になったとか、操舵員のミスで座礁したとか、衝突したなどと言った 場合は、保険会社が調査の上、海軍当局と協議し、潜水艦などに依るか否かと判断して、それが 敵の軍事行動による滅失の場合は、軍当局から補償金が、普通海上危難の場合は、保険会社から 保険金が支払われます。 これは徴用船舶、民間船舶でも同じでしたが、民間船舶の場合は軍が補償金を支払うケースは余り ありませんでした(海軍の護衛下で船団航行中に喪われた場合がこれに相当する)。 また、海軍徴用船舶の場合は、普通海上危険によっても分損の場合の修繕費用は海軍が負担した のに対し、陸軍徴用船舶の場合は、分損、全損とも普通海上危険では保険会社の支払いとなりました。 但し、軍の補償金は保険金額よりも一般的に低く、船主によっては普通海上危険にして貰おうと画策した 者もいたようです。 (155 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 沖縄戦の集団自決って本当にあったのですか? 一番有名なのは、渡嘉敷島の集団自決ですが、沖縄タイムスが編集した1950年の 「鉄の暴風」が最初に触れ、その後、それが子引き、孫引きで定着したのが始まりです。 曾野綾子がその辺を調べて、1973年に「ある神話の背景」という本を出しています。 さて、問題になるかならないかですが、例えば、渡嘉敷島の事例では、確かに集団自決 が行われています。 しかし、その集団自決は、軍の命令ではなく、村長や防衛隊員辺りから誰からともなく、 「自決命令」を聞いて、自決したものであったことが最近の研究で判明しています。 これが「軍の命令」となったのは、1955年頃、日本政府の援護法適用の際、「『軍の要請』 で戦闘に参加し、戦死した」形式を取らないと、補償の適用除外となってしまうことが判った ため、生き残りの住民に島の長老が偽証するよう要請したと言う話です。 全部が全部この様な事例ではないと思いますが、一部にはこういう形で伝えられたものも あります。 (230 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中の軍人と宗教の関係を教えて下さい。 いくつか手掛かりになりそうなものをあげておきます。 まずは田中智学の創設した「国柱会」です。ここは日蓮宗系の宗教団体で 宮沢賢治が入信していたことで知られていますが、田中智学は国家主義的思想が強く、 石原莞爾に代表される陸軍内の強硬派の信仰を集め、多大な影響を与えています。 ちなみに田中智学は「八紘一宇」という造語の創作者であることで知られています。 次に、竹内巨麿の創設した「天津教」があります。 いわゆる「竹内文書」によってオカルトファンには有名ですが、最盛期には 荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将といった錚々たる面々が信奉者として名を連ねています。 最終的に天津教は、天皇家の紋章である菊花紋を使ったという罪で不敬罪に問われ、 竹内巨麿は逮捕されましたが、終戦で不敬罪が消滅したことで無罪になっています。 その他に、治安維持法違反で検挙された大本教にも軍人のシンパは多かったとか。 この時期の新興宗教は、軍人を引き入れるのに熱心でした。 これは、教祖側が官憲の弾圧に対する抑止力として軍人の力を欲したことや、軍人の中に 国枠主義者が多く、教義的に受け入れやすかったことなどがありました。 (226 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦争「末期」ではないが、 大日本回教協会の初代会長は林銑十郎陸軍大将。 また、1938年、日本側の寄付によって建てられた東京モスクの落成式には 頭山満・松井岩根陸軍大将・山本英輔海軍大将が列席しておる。 もっとも彼らのイスラーム指向は宗教的なものというよりも、 当時、満州国にかなり存在した回教徒に対する対策的意味合いが強い。 そもそも林大将は皇道主義者であり、 現人神を信じる皇道主義と、 多神教を憎悪する(原理的な意味において)イスラームとは合い入れないものであるはずなのだが、 なぜか当時の(今も少なからずの)日本人はそういう矛盾を感じなかったらしい。 さらに笑えるのは 日本イスラームのパイオニア有賀文八郎(民間人)の著した「日本イスラム教の道徳概要」では 「但し」「但し」「但し」の連発によりて 飲酒、豚食、喫煙を肯定してしまっておる。 これではイスラームではなく、 イスラーム神道と呼んだほうがよいかもしれぬ。w 戦前は日本と中東の距離が地理的にも精神的にも遠く、 お互いにファンタジーじみた「中東」理解、 ファンタジーじみた「日本」理解(例えば日露戦争礼賛がそれである)で 事足りたのであろう。 しかしこれほど情報化が発達した世界においては もはやそのような牧歌的な関係は 望んでも得られぬであろう。残念なことに。 (226 イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw) 昭和20年の航空機生産計画は何を根拠に決められていたんでしょうか? 20年前半期の計画より後半期は随分少なくなってますが。 既に南方からの輸送路が絶たれ原料供給の見込みが立っていない状況で、 希望的な数値を出しても意味がありませんから、ボーキサイトの在庫がどれ だけ、それから出来るジュラルミンの製造高がどれだけ、ならば、作ることが 出来る機体の数はこれだけ、特殊鋼はこれだけ在庫があるから、エンジンに 回せるのはどれだけ…と引き算の論理で行けば、幾ら盲でも近似値は出せる わけですわな。 ついでに、これも海軍の例ですが、雷電用の火星エンジンは1944年中期の時点で 誉への一極集中のため生産中止が決定し、治工具は他ラインに流用されてしまい ました。 しかし、1944年11月の中島飛行機武蔵製作所への空襲は、海軍当局を周章狼狽させ、 生産中止になった火星を100基を2ヶ月で生産して納入しろと言った訳で。 工場では出来ないと断ったのですが、「これが出来ないと日本は敗れる」と拝み倒され、 結局、生産簡易化を図って12月から供給出来るようになったと言う話もあります。 1944年末には航空機生産高の増加を政府が命令しながら、1945年2月には生産現場の 疎開(しかも生産を落とさずに)を命じるなど、終始一貫してない訳ですな。 (225 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の軍用機の生産数のピークが、物資に相当困っているはずの1944年だったのは何故ですか? 生産力が分散して、今まで総花的に、やれ戦艦だ、やれ戦車だ、やれ大砲だ、と色々やってたのが、 1944年以降に航空主兵に転換して、何が何でも航空機を作れと言う話になったからです。 1943年3月に五大重点産業が指定され、航空機生産のため、産業再編成が行われます。 この時に、不要不急産業(繊維産業など)は軍需産業への転換を余儀なくされます。 1943年10月には軍需会社法が制定され、軍需会社に対する統制と特権措置が発動、11月に軍需省が 設けられ、その麾下に航空兵器総局が設置されて航空機増産体制が一元化、1944年1月に航空工業会 が発足、1942年に続き、航空機大増産指令が出され、超重点最優先の産業となります。 この時期に、機械工業力のピークを迎えた訳です。 (225 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦略爆撃調査団はこう述べています。 戦争中期には航空機生産に関しては、アルミニウムは潤沢な供給があった。 しかし44年に急激に引き上げられた航空機生産目標を達成しようとすれば、アルミの供給は需要を満たすことはできなかっただろう。 以上要約。 アメリカの潜水艦が輸送船攻撃を明確に打ち出したのが43年後半。功を奏すのが44年半ばごろからです。つまり、44年前半までは、 ある程度アルミの新規取得が可能でした。 43年のアルミのストックと44年前半のアルミで、44年の航空機生産を支えていましたが、景気が良かったのはあくまで前半の話。 後半になるにつれ、輸送船の被害が拡大。44年後半にはアルミの取得は前年の66%に低下、末には新規取得は事実上0となります。 こうして45年の航空機製造は寒いものになってしまいますが、44年はある程度のアルミの取得が可能だったことと、生産設備の 充実に伴って、航空機生産はピークを迎えたのでした。 で、あとは資材不足と空襲で生産設備が被害をうけ、下り坂を転がり落ちていく、と。 (225 784) 東条英機暗殺計画について御教授ください サイパン戦の不始末、マリアナ海域での戦況悪化、北九州爆撃と言った状況にも関わらず、 東条首相は、嶋田海相と共に、杉山陸軍参謀総長、永野海軍軍令部総長を元帥にして追い出し、 それぞれがその後任に就任し、一気に権力を掌握します。 その後、高松宮の軍令部からの転出、近衛側近の酒井中将の解任、岡田大将と瀬島大佐の関東軍 への転出、松永参謀本部戦争指導班長の中国戦線への転出、松前逓信院工務局長の二等兵として の召集、創価学会関係者の弾圧、毎日新聞の新名記者の政権批判記事に対する弾圧と召集などしたい 放題の状況となっていきます。 事此処に至って、1944年6月22日の夜、神大佐は、小料理屋に元海軍中尉で、5.15事件で犬養毅を射殺 した三上卓を呼び出して会合を持ちます。 翌23日に、高木惣吉と、神大佐が会合を持ち、次の7条件を示します。 1. 秘密保持と民間人の犠牲者を出さないために、三上卓は勿論、民間人とは一切関係を持たない。 2. 計画の実行者は7名 3. 決行後の脱出は一式陸攻を用い、パイロットと共に7名が搭乗するために、決行人員は7名となる。 決行後6名を脱出させ、現場には高木惣吉が残り、全責任を取る。 4. 決行日は火曜か金曜とする。これは、東条がその日10時にオープンカーに乗って行くからである。 5. 決行方法は自動車3台に7名が分乗して、東条首相のオープンカーに衝突させ自動車事故とする。 失敗したときは射殺する。 場所は海軍省手前の四つ角で、1台は海軍省に、大審院の壕側にもう1台、内務省に1台を配置し、 見張を警視庁前に置いて、東条の乗ったオープンカーが見えたら合図し、四つ角にさしかかるところで、 前と両方の進路から突入して襲撃する。 6. 決行者の脱出については、厚木基地司令の小園中佐が協力し、一式陸攻で決行者は台湾に脱出する。 7. 決行日は高木が決定し、決行日2日前に決行者に直接連絡する。 で、6月23日に東条首相はサイパン放棄を決め、24日、いよいよ臍を固めた高木惣吉は岡田大将を訪ね、 決行を打ち明けます。 岡田は之に反対しますが、高木の決意は固く、決行前に必ず連絡させることを約束させて帰します。 それから、岡田大将は、伏見宮元帥を訪ね、海軍内部の状況を報告し、伏見宮から天皇に上奏が行き、 嶋田更迭、東条辞職の布石が打たれたため、暗殺決行は中止となりました。 (195 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 手榴弾による自決は存在したんですか? 光人社の戦記物読むと、脱落兵の手榴弾自殺は頻繁にあったことがわかります。 (54 421 シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。 パージバルが降伏に際して色々要求を出しごねたらしく 山下将軍が「イエスかノーかどちらなのか?」と返答したところを マスコミが大げさに書いたのです。 (57 669) 旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか? トラップの類は正規の記録には殆ど載らないので、戦記あたりから類推することが多くなりますが、 日本軍によるブービートラップの使用は、連合軍側の記録にはかなりよく見られます。 ただ、パンツァーファウストの様な簡易対戦車兵器は日本には無いですから、 自分が知る範囲では、もっぱら爆薬による物です。 日本軍の手榴弾は発火方式の都合で、このような使い方にはあまり向いていませんが、 爆弾や地雷を改造したものを使用したとの記述もあります。 ttp //www.pacificwrecks.com/provinces/png_alexishafen.html 捕獲した米英の手榴弾も、利用されたかもしれません(この部分は想像)。 アメリカ兵の戦利品コレクション癖に気付いた日本軍は、 彼らが喜ぶ日本刀や日の丸に、よくトラップを仕掛けたそうです。 友軍の死体に爆薬を仕掛けると言うのは、欧米人には理解し難い事だったようですが、 当時はキリスト教的道徳観のない日本軍の方が、米英兵よりもトラップの類を多く用いたというような話も聞きます。 (57 590) 沖縄戦で、米軍に降伏する際に使用したと思われるビラ(旗?)について知りたいのですが 大戦末期は、白旗を振ったり、手を頭の上に乗せるだけでは、米軍、英軍は信用しなかったそうです。 日本軍の、白旗を振って投降をする振りをして攻撃するという手法を取った為だそうです。 後、投降しようとした兵士は、反対する兵士に殺されたりしたそうです。そういった戦死は、戦った戦死では無く、軍旗違反による処刑なので非常に不名誉で死後も近 隣の住民から冷たい待遇をされたりしたので、投降を試みる者も少なかったとの事です。 大抵は白旗を振るか、武器を敵前に投げ込み自分たちはその場に残り一人ずつ投降すると言う手法を取ったらしい。 ↓こんな感じに ↓戦車や機銃 . . ○○ ↓米兵士↓ ○○○○○○ ○. . .○←投降する兵士が通過間際に危険が無いか確認する役。射殺できるように機銃などで武装している。 . . ●←投降する日本兵 (58 871) ゼロアワーって軍部が期待したほどの成果があったのでしょうか? 「ゼロアワー」って東京ローズがアナウンスしてた番組のことですかね? もともと厭戦気分を煽ることを目的とした放送なのに、厭戦気分を煽るどころか米兵にも 日本人にも大人気で全然軍の意図と違った番組になったみたいですね。 詳しくは「東京ローズ」ドウス昌代 著(文藝春秋社)を読まれるのが宜しいかと。 (60 名無し軍曹) 戦中の食糧不足に関して教えて下さい。 大井篤氏の海上護衛戦・文庫版第八章-30 空腹・降伏より転載 戦前から、日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで、 残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた。 ところが戦時中の船舶の損失によって輸入食料は減少の一途をたどった。 (ここで表、一部のみ書く。食料輸入量14・4~15・3:2793→18・4~19・3:1871→19・4~20・3:1188 以上1000kg単位) この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は、もちろん、出来るはずも無い。 戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで、昭和十九年までは、大きな減少もないが、増加もなかった。 (中略) 輸入減によって減らされる部分は、食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる。 日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから、それが闇を刺激し、それからそれへと悪循環を生んだ。 (中略) われわれの記憶に新しいように、食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた。 翌十九年には闇が深刻化してきた。 十九年の全国食糧消費から計算すると、国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた 以上p431-432 七月上旬の閣議で、主食の一割減配が議論された。 食料輸入の前途は真っ暗どころか、壁に突き当たった格好だ。 オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている p419-420 (205 933) 戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが 都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった. 終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国 的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった. ttp //www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm 公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね。 (205 ふみ) うちの母方は大阪近郊で空襲に遭い、焼け出されたのだが、経営していた会社からの 支援があったので、路頭に迷うことが無かった。 ちなみに、当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので、食料は十分 にありました。 但し、うちの曾祖父は、贅沢三昧が祟り、配給では食っていけなくなったので、結核を患い、 敗戦の翌年には亡くなっています。 後、清沢洌の暗黒日記(3巻P.164~東京大空襲の件) 「甥の笠原貞夫は出征しており、その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが、 修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と一向に受け付けない。 貰ったのが、五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。 仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。 布団二枚を自転車に積んで連れてきた。 国家の羅災者救助というのは、五日分の米と醤油だけだ。」 これが東京の状況。 神戸や大阪も同様だったかと思います。 後、流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ。 野坂は飢えがひどくて犬殺して食ったらしいけどな。同じ神戸でもえらい違いだな そりゃ、技能を持ってたり、資本や工場を持ってたりする人々と、それが無い人々との生活の差は戦時下には 結構ありますが、一概には言えんでしょう。 例えば、父方の曾祖父は医者でしたから、開業医として近隣の農家の人々を診ていました。 なので、その御礼というか、薬代代わりに食料を得ることも可能ですし、元居た会社から、部下や世話をした 人が南方からの土産品として、バナナとか甘味料を持ってきてくれ、それを近隣の農家に分けて、代わりに 食料を補填してましたし。 母方の方は会社が重要会社だったので、その辺から手を回して、配給だけは途切れさせなかったですし。 それらが無い、または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか、と思いますよ。 例によって蛇足ですが、戦略爆撃調査団の調査で、「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に、「消費物資欠乏のため」 を言う回答選択肢があります。 この回答では、大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合、14%の人がその選択肢を選択しています。 同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%、軽度に破壊された中小都市で9%、意外に、東京が8%と低く、 小規模爆撃があったか、爆撃を受けなかった都市では13%、田園共同体で19%、都市疎開者では14%となっています。 このアンケートを見る限り、東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします。 東京は首都であり、交通の結節点であり、統制経済の中心であることから、意外に物資の集積が行われたのではないか、 と言う話もあります。 一方で、田園共同体、即ち、田舎の方では物資を都会に供出したことで、相当物資不足に苦しんだと言う話もあります。 例えば、子供に対する加配はなく、学校給食もないので、子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく、 油、酒の配給は東京の1/3、魚、海苔、豆腐の配給はなく、況や、薪炭の配給もないと言う話もあったりします。 (205 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう? 20歳未満の航空機産業従事者で、男性は平均時給26.1銭、女性は22.7銭。 30歳以上となると、男性が50銭以上、女性は33.7銭。 ちなみに厚生省が定めた最低時間割賃金は、航空機産業で20歳未満の第三級労務者(非熟練工)で、男性13.3銭、女性10.6銭。 ただ、固定給部分が低く抑えられ、加給部分が大きいから格差は更に拡大。 男性なら加給率200%も珍しくない。 ちなみに、挺身隊員の場合は、給与ではなく謝金とされ、最初の三ヶ月は8時間労働で日給0.75円~1.15円だった。 (しょうもない知識を披露するスレ10 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの? 金属回収で、エレベータの鉄の籠まで供出したりしたのは結構有名。 他に、金の供出、銀製品の回収、白金回収もやっていた。 このほか、木炭を包んだ俵、それを縛った紐、棕櫚の皮も回収の対象。 茶殻は馬糧にする運動も行われている。 更に、1944年末以降、綿製品、特に布団類の回収と言うのも行われている。 これは、綿火薬の原料にするためだったりする。 1945年からはアルミ貨の回収も進んだり。 金属製品家庭等回収実施要領(長野県の場合) 回収の対象…官庁、公共団体、一般家庭及び非指定施設の保有するアルミニウム(アルマイトを含む)製品、 鉄鋼製品、銅製品、鉛製品、アンチモン製品、錫製品など全金属製品に付き廃品は不要、 不急品代替容易なるものを主とするも、現用品も極力圧縮回収す。 回収物件…鉄鋼、銅、鉛、アンチモン、錫などにして従来の回収物件の残存物件全部。 アルミニウム製品は、戦時家庭生活の維持に必要なる最低量の器具を除き、全部供出。 アルミニウムに関する供出物件 全量回収 → 喫煙用器具、文房具、化粧用品、花器、電灯笠、茶器、置物他装飾品、 玩具、箸、箸箱、帽子掛、押板、蹴板、階段滑止め、ローソク立、盆、コップ、其の他廃品類 仕様を極力圧縮して供出 → 鍋釜類、湯沸、弁当箱、水筒、其の他厨房用品 対価(但し献納を妨げず) アルミニウム → 1貫(3.75kg)に付15円 鉄 → 同 2円 銅及び銅合金 → 同 20円 鉛、アンチモン → 同 20円 錫及び錫合金 → 同 50円 こうして回収された金属製品だったが、その対価の支払いは、戦力増強用の貯金に回され、 各人の手に渡ることがなかった。 (しょうもない知識を披露するスレ10 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。 1945年の末期的症状の日本。 西部軍は本土上陸を想定した場合、待ち伏せ襲撃、夜間襲撃、破壊活動を行うために700~800名の兵士からなる、 70~80のゲリラ戦部隊を確保していた。 既に民間の防衛団に対し、200本の弓、800本の矢を引渡し、更に800本の矢を司令部にて保管していた。 その威力を確かめるべく、1945年8月10日、連合国側兵士8人の処刑の際、1人に対して矢を15本用いたが、 失敗し、結局、袈裟懸けした後、斬首をせざるを得なかった。 なお、本土上陸に対抗するため、弓矢を用いるほかに、一般人を装って空手で敵軍兵士に攻撃を加えると言う ことも考えられ、この処刑の際に、2名に対して1人は6名が空手で、残りの1人は10名が空手で攻撃を掛けたが、 これにも失敗して、結局2人とも斬首せざるを得なかった。 (しょうもない知識を披露するスレ11 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時経済について知りたいです。 財政と戦争の観点から太平洋戦争を論んじた本てあるの? 日本が戦争で勝っていても国債と軍票の払い戻しで超インフレは免れず、国は潰れていただろうと思うんだけど。 昭和財政史がありますけど、お手軽なのは、多田井喜生氏の著書でしょう。 東洋経済新報社から1997年に出版された、「大陸に渡った円の興亡」、PHP新書で2002年に 出版された、「朝鮮銀行-ある円通貨圏の興亡」なんか、その辺の事を分かり易く記しています。 軍票は占領地域に於ける軍人軍属の棒給以外に、現地人への一時的な支払いに充てる為に使用されたので、 占領が一定期間に及ぶと回収されます。 例えば、満州では、満州中央銀行券、華北では、日華事変当初は朝鮮銀行券、後には河北銀行券を経て、 中国連合準備銀行券、華南では軍票から中央儲備銀行券、フィリピン、インドネシア、マラヤ、北ボルネオでは、 軍票から南方開発金庫券、インドシナでは、印度支那銀行券ピアストル貨、タイでは、泰国銀行バーツ貨と なっています。 軍票がほぼずっと使用されていたのは、華中地域で、最初は日銀券が使われ、以降は軍票が使用されました。 占領区域では、各地域毎の独立会計として、日本の財政とは切り離され、財政の自立を図っています。 租税は占領前を基準に課税し、不足分は南方開発金庫からの借り入れと、臨時軍事費からの補給金に拠って 補填されています。 これに加えて、現地での作戦費用に関しても、日本の財政に直接影響を与えないようになっています。 例えば、南方開発金庫は、営業資金を臨時軍事費特別会計から借り入れますが、それは各地域の現地通貨表示の 軍票で借り入れ、これを資源開発事業や現地日本側銀行を通じて貸し付け、企業は軍に納品したものを軍票で受取、 南方開発金庫に返済、南方開発金庫は、これを臨時軍事費特別会計の借り入れ返済に充てていました。 中国地域でもこれは同じで、日本銀行から、正金銀行を経由して臨時特別費特別会計が支出されると、 朝鮮銀行東京支店に送金されます。 引き替えに、朝鮮銀行東京支店は、同額の国債を日銀から購入します。 これで、収支は相償い、朝鮮銀行東京支店は、北京支店にこの日銀から支出された軍事費を送金します。 朝鮮銀行北京支店には、中国連合準備銀行名義の預金口座があり、送金を受けた金額を、預金口座に貸記します。 中国連合準備銀行にも、朝鮮銀行名義の預金口座があり、送金額と同額を預金口座に貸記します。 これで、現金が動くことなく、いわば架空預金の遣り取り(預け合い契約)となっていました。 でもって、現地軍は、中国連合準備銀行にある、朝鮮銀行の預金口座から、連銀券で支払いを受ける、と。 つまり、円は全然発行されず、連銀券だけが無闇に発行されるという仕組みです。 これと同じ契約は、横浜正金銀行と中央儲備銀行との間、朝鮮銀行と正金銀行との間に結ばれており、 中国地域のインフレ進行は加速された訳です。 敗戦間際の1945年、外資金庫が設立されます。 これは、大蔵省次官を理事長、主計局長、外資局長、日銀、正金、鮮銀、南発の代表者を理事として、 本店を大蔵省外資局内に置き、代理店を正金銀行上海支店、張家口支店内、朝鮮銀行北京支店内、 南方開発金庫各支店内に置いた上、本店業務は大蔵省外資局が行いました。 これは、実態のない帳簿上の金融機関で、臨時軍事費特別会計中の物件費支払いの際、予算金額 では、現地がインフレの為に到底間に合わないので、予算の10~30倍、最終的には130倍近くに上る 差額を価格調整金の名目で、支払う為に、作られた金融機関です。 Bubble崩壊後のRSECですっけ、そんな香具師の嚆矢でつね。 この金額決済は、例によって、預け合いで最終的に5,000億円を決済しました。 これらの清算は最終的に、正金銀行が、天津相場を基準にして、上海に持っていた金塊約50トンを売り抜け て、日本側の債務を全て弁済したことにしています。 これで、戦後の大陸のインフレをモロに被らなくて済んだ訳です。 要は高い時に借りた金を、安くなって現地通貨が紙くずと化しつつある時に返済した、と言う訳です。 ちなみに、日本人の認識では、「我が国に皇室のおわします限り、幾ら紙幣を増発してもインフレにならぬ」 とか、「公債の発行は無限に出来る」と言う「皇国国債観」、と言うのが罷り通っていたり。 無茶苦茶で御座いますわな。 (軍票スレ 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの? J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より引用。 「大豆油、落花生油、椰子油、及びひまし油が産業用に使用された。 メタノール、エタノール及びアセトンがガソリンに代用された。 ブタノールはイソオクタン原料としても使われ、また直接ガソリンに混用された。 潤滑油は各種の植物油又は脂肪から造られた。 民間の馬鈴薯、砂糖、酒等のストックはアルコール燃料として引き上げられた。 生ゴムから油を採ることも行われた。 絶望的になった海軍は夢想的な松根油計画に着手した。 『二百の松根は一機を一時間飛ばすことが出来る』というスローガンの下に全国民を 松根堀に駆り出した。 約34,000の釜や蒸留器や小さな蒸留装置が準備され、各一日3~4ガロンの粗油を 出すように計画された。 これに要する労力は驚くべきものであった。 松根油1ガロンの生産に2.5日の労力が要った。 この計画の絶頂では一日当たり12,000バレルの粗油を予定していたから、一日当たり 125万人を要するはずであった。 1945年6月には、松根粗油の月産は70,000バレルに達していたが、精製上の難点は解決 されていなかった。 終戦時までに航空機用の予定で生産されたガソリンは3,000バレルに過ぎず、それも実際 に飛行機に実用した形跡は無かった。 合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンが止まって使い物に ならなくなった。」 毛沢東の村営溶鉱炉を我々は笑えんです。 (泣ける話@軍事板第4章 眠い人 ◆ikaJHtf2) 南雲がミッドウエーでは大敗したものの、南太平洋沖海戦では勝利したのに、その後左遷のようにサイパンに送られたのはどうしてですか? 機動部隊の後で第1艦隊司令長官やら、呉鎮守府長官やらを経て、南雲がまた前線に出たいと希望 方面艦隊司令長官として、サイパンに赴任する訳で 陸軍で言えば方面軍司令官に相当するし、別に左遷ではないぞ 軍艦の艦長が連隊長相当、戦隊司令官が旅団長、艦隊司令長官が師団長か軍司令官と考えれば (俺初質スレ2049 728) 古賀が遭難して、後任に豊田が決まった時に、豊田は自分より適任がいると 暗に南雲を推薦してるので、この時点で南雲がGF司令長官になった可能性もあった 山本が32期で古賀が34期、南雲は36期だからね 豊田は古賀より先輩の33期なのに、古賀の後任になったから、そこが不満だったのかも (俺初質スレ2049 729) 石原莞爾が太平洋戦争の指揮をとっていれば、戦局は少しはマシになっていたんでしょうか? 支那事変が発生した時に現地軍へやめろと言いに行ったら、あんたと同じ事やっただけだよとバカにされてるくらいだから、 どう考えても抑えられないだろ。 (俺初質スレ2049 999) ガダルカナルって、バナナとかヤシの実とかの人が食べれる植物は自生していなかったんでしょうか? 現地人の畑じゃないとうまい具合にはない。 野生種を見つけたとしてもとても部隊の需要は満たせない 戦闘中に探してる余裕もない ジャングルってのは緑の砂漠っていわれるぐらいで 食べれる植物はそんなにない (俺初質スレ2050 モッティ ◆uSDglizB3o) 俺も南方のことはよく知らんけど現にあれだけ餓死者を出してるってことは無いんだろ多分 ただガ島みたいに戦争しながらやるのは無理だが、後期のラバウルみたいに連合軍から放置されてた島では芋の栽培とかしてたらしいが (俺初質スレ2050 225) あるにはあるがそういうものはものすごい高い木の上にあったりしそもそもほとんどの日本人は 熱帯の植物のどれが食べられるのかわからないし食べられるものを見つけられない また熱帯の植物は有毒のものが多く知識なしでは危険だ 台湾の原住民の高砂族出身の兵隊はそういう知識があったから見つけられたが 彼らはごく少数しかいなかった (俺初質スレ2050 228) マジレスすると数万人いる兵に対して、自生してる分だけでは供給量が足りず、数日で食い尽くしてしまう つまり供給量に対して人口密度が高すぎる 数十人なら賄えても、数万人は賄えなかったから飢えた 村自体数十人の集落しかなく、数万人分の食糧提供はできない (俺初質スレ2050 234) 太平洋戦争の時、戦況に関する緘口令とかあったんですか? 当然あるし、それどころか、どこへ行ってきたか家族に言うのも禁止されてた。 (俺初質スレ2050 279) 太平洋戦争で日本はアメリカと早期講和は可能だったのですか? ほとんど無理だと思うが、アメリカ次第だな 「早期」講和って事は日本軍が攻めまくって、ハワイはもちろん米本土が脅かされるくらいでないと無理だろう むしろ早期講和でなく、ベトナムみたいに10年以上粘って、それでも勝敗が見えないような、泥沼状態の方が講和に繋がるかもしれないな できる限り出血を強いて、50万とか100万単位の戦死者を出せばあるいは それが日本にできるかは疑問だけど (俺初質スレ436 880) 最近、ハワイなんざ無理に攻め込まず、フィリピンだけ占領して持久体制に持ち込めば 米内部で勝手にフィリピン奪還に米兵士の生命を消費する意義があるかという議論が 起きて早期講和につながったんじゃないかと想像してる (俺初質スレ436 881) 結局ルーズベルトが大統領な限り無理、あいつの人種差別観は20世紀最悪レベル ぶっちゃけヒトラー以下 (俺初質スレ436 885)
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/262.html
本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか? 映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画? 戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。 戦時中、ラジオの短波放送が禁じられていたそうですが、主な理由はなんですか? 大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか? 徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか 戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか? 大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか 1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか? 日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう? 太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか? 戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか? 宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです 大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが 太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか? 戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか? 戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか? ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの? 駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。 戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか? 戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの? 太平洋戦争末期に誕生した国民義勇隊の詳細を教えてください 敗戦直前の昭和20年7月頃に勝札なんて宝くじがあったそうですが、 戦中、日本国内にいた外国人はどんな扱いだったのでしょう? 戦艦や巡洋艦のスペックとか、一般市民にどれぐらい公開されてたのでしょうか? 鉱物資源は日本領土や大陸でコストを度外視して採掘しても、戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか? 戦中、キリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが、それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう? 徴用された船舶が撃沈されたら弁償してもらえたの? 沖縄戦の集団自決って本当にあったのですか? 戦中の軍人と宗教の関係を教えて下さい。 昭和20年の航空機生産計画は何を根拠に決められていたんでしょうか? 日本の軍用機の生産数のピークが、物資に相当困っているはずの1944年だったのは何故ですか? 東条英機暗殺計画について御教授ください 本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか? 大戦末期の根こそぎ招集だと、乗る船もないので、本土決戦用の蛸壺掘って 終わったと言う人もありますよ。 (47 眠い人 ◆gQikaJHtf2) みんながみんな外地に行ったわけじゃないんですよ。 「本土決戦」も考えていましたし、内地にもちゃんと部隊はいました。 たとえば、作家の池波正太郎は海軍に入り、横須賀の海兵団を経て 終戦まで美保にいました。 (47 327) 映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画? 中国戦線の独立混成旅団の戦いを描いた映画 陸軍省後援だけど戦意高揚的な匂いはあまりしなかったと記憶 (48 247) 戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。 活動はかなり低調化していたようです。 当時のヤクザは現在みられるように大規模なものでなく、街ごとのこじんまりとした集団でした。 あとは”仁義無き戦い”でも読んでください。復員後のヤクザについて書かれております。 (48 269) 戦時中、ラジオの短波放送が禁じられていたそうですが、主な理由はなんですか? 外国の流す宣伝放送を聴く事ができないように。 あと、スパイがラジオを通して指令を聴くことができないようにさせるため。 主にこの二つ。 (51 309) 短波は電離層反射により遠くまで届くため、防諜上から受信そのものが禁じられた (51 310) 大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか? なぜ、わざわざ名称まで変えたのでしょうか? 1943年9月30日の御前会議で、戦争指導の大綱が決定しますが、軍政府と行政府との 齟齬で、その実現が余り上手くいっていないこと、また、大本営だけでは、殊軍事だけの 視点でものを見がちで、外交面はともすれば等閑にされてしまっていること、でもって、 外交面で言うと、大東亜共栄圏の諸国が今後独立を達成するに当たって、彼らの協力を 得るため、また、独ソ戦などでのドイツの勢いが落ちてきたことなどから、今後の戦争指導 には外務省(大東亜省)の助力が必要なこと、などが理由となり設置されました。 また、軍需生産が軍需省に一元管理されて、軍政と切り離されたことによって、調整の場が 必要になったこともあります。 (307 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか 一応、出征家族に対しては家族手当があります。 また、万一の時に備えて、徴兵保険(富国生命保険は昔これを一手に扱っていました)を 掛けている人も多かったようです。 更に、軍事扶助法によって、現役下士官の家族には扶助金が出ます。 (233 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか? 戦闘または戦闘に準じる公務で死亡した場合、その遺族には、普通恩給の金額、それ以外 の普通公務で死亡した場合は、普通恩給の10分の8、それ以外の要因で死亡した場合は、 普通恩給の10分の5が、それぞれ支払われますが、これは、軍在籍3年以上で恩給年限に 達しなかった人の場合です。 それに達しなかった人の場合は、当時の棒給月額に在職月数を乗じた額が一時的に支給 されます。 戦地に出た人のいる家族に対しては、隣組や婦人会、町内会で相互扶助を行っていました。 特に応召者のいる家庭の訪問、遺家族に対する慰問などが重要視されています。 (233 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 蛇足 恩給法における公務扶助料は、軍人等が戦病死した場合に、その軍人等によって生計を維持し または生計をともにしていた配偶者を先順位者として、続いて未成年の子、父母等の順序で 支給されることになっています 従って支給額は個々によって違います その他には金杯と知事から労いの紙切れ一枚 (304 シチュー砲 ◆STEW.ibjrE) 大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか ニューギニアの第十八軍は人肉食の横行に苦慮し友軍の肉を食べたものは厳罰に処す旨の 通達を出している。実際に処刑された日本兵もいる。 逆に敵兵の肉は食べてもお咎めなしであった (658 226) 1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか? ソ連は、ドイツに利益となる日本人のビザを発行したがりません。 日本のドイツ駐在武官を、東欧の他の国の駐在武官として偽って報告したこともありました。 日本は苦肉の策として、遭難したソ連人船員の帰国のビザと交換に、日本人のソ連通過ビザを得たこともありました。 しかし、1942年に日本人外交団がソ連のビザを得て、ソ連領を通過してドイツへ行きました。 中央アジアを経由しました。 その際、観察したソ連の様子を、ヨーロッパから無線電信で日本へ報告しました。 それは、暗号解読していた、アメリカやイギリスの関係者にも、有用なソ連情報でした。 1944年1月は、独ソ戦でソ連が有利になっていました。 ドイツへの日本人の通過ビザは、なかなか発行しません。 (672 霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I) 多分、佐貫亦男さんのエッセイか何かを呼んで疑問に思ったのでしょうが、可能です。 但し、1943年10月に日本近海で撃沈されたソ連貨物船乗組員50名を満州国経由で送還する交換条件ですが。 この時は外国人3名、民間人3名、満州の民間人1名に査証が降りています。 そして、1943年11月にベルリンから在ドイツ日本大使館一等書記官の牛場信彦、佐貫さん、古賀電工技師の松尾敏彦、 川村知、満州国官吏の河野徳太郎、ブダ=ペシュトから、大久保利隆マジャール公使、 ブカレストから在ブルガリア日本大使館二等通訳官が帰国しています。 先ず、ベルリン組は二手に分かれて、寝台列車でブレスラウ、スロバキア領を通過し、ブダ=ペシュト着、それから ブカレスト経由で、ソフィア、イスタンブール、アンカラを経てソ連へ、クラスノボーツクからノボシビルスクを経由し、 チタ、そしてアトポールで満洲里到着というコースです。 また、1943年11月から1944年1月にはトルコに赴任する田辺宗夫三等書記官、スウェーデンに赴任する土屋準二二等 書記官、スイスに赴任する武川基外交官補がソ連経由でドイツに向かっています。 途中、伝書使としてベルリンに赴いています。 このルートで最後に帰国したのは堀切善兵衛欧州遊撃大使になります。 後、ブルガリアから帰国する日本外交官が、1944年11月にソフィアからイスタンブールに行き、アンカラ、バクー、コーカサス 経由で、モスクワに行き、そこから満洲里に言った記録も残っています。 (672 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう? 特に人の行き来は、現代の海外旅行のようにはいかなかったと思うのですが。 第二次大戦勃発当初は、イタリアがまだ参戦していませんでしたので、通常の欧州航路から地中海に入り、 ナポリで下船し、鉄路でベルリンに向かいました。 これは1940年春にイタリアが英仏に宣戦を布告するまで続きます。 1940年9月以降はスエズを通航出来なくなり、パナマ運河経由か喜望峰経由に変更。 この場合、リスボンに寄港し、欧州に行く人々はここから鉄路で各地に向かっています。 前者は1941年7月18日に米国が通航を拒否したため休止、後者も経済的に維持出来ず休止されました。 シベリア鉄道経由はウラジオ、ハバロフスク経由、満洲里経由の2ルート(満洲里経由は出発地によって2ルートあるので、 都合3ルート)ありましたが、ソ連が軍人、外交官を除き一般人にビザを発給しなかったので、利用は少ないです。 1939年9月1日に一旦中断し、12月頃再開、1941年6月22日の独ソ開戦で中断されました。 米国経由は、太平洋航路で、シアトル、サンフランシスコから鉄路でニューヨークへ、其処から大西洋航路で 欧州(米国は未だ中立国)へ渡ると言うものですが、これも1941年7月26日の在米国日本資産凍結によって 事実上閉鎖されました。 以後は、南米航路で、ブラジル、アルゼンチンからリスボンに渡ると言うものでしたが、これも、 1941年12月8日の日米開戦で途絶しました。 太平洋戦争勃発後は、先ず、日米、日英交換船による外交官赴任があります。 これはポルトガル領だったロレンソ・マルケス(今のモザンビークの首都マプト)経由、其処からポルトガルの 便船で喜望峰経由でリスボンに向かい、其処から鉄路でベルリンやらヴィシーやらベルンなどに赴きました。 (ちなみに、外交官のポルトガル船での赴任は、連合国に了承されています) また、陸路は、シベリア鉄道のモスクワ経由は無くなっていますが、満洲里から ソ連に入り、中央アジアを抜け、コーカサス経由でトルコに入り、トルコを横断し、 ブルガリアへ、ブルガリアからロマーニャ、そしてマジャールを経由してドイツという ルートです。 そのルートは二ヶ月の時間を要し、ソ連の通過査証が中々降りないのがネックでした。 一応切り札として、日本領海で遭難して救助したソ連船員との交換で発給を受けて いたのですが、なかなか発給されず、屡々在モスクワ日本大使館とソ連外務省との 間で丁々発止の遣り取りが行われています。 この陸路を通った例としては、ローマのイタリア大使館から帰国した参事官が最初で、 ローマ→ウィーン→ブタペシュト→ブカレスト→ドナウを下ってジュルジュからブルガリア のルセを渡り、ソフィア→スビレングラード→其処からバスでイスタンブール→アンカラ →サルカムシ→カルスを経て此処からアルメニアのレニナカン(現在のクマイリ)→グル ジアのチフリス(今のトビリシ)→ソ連に入ってスターリングラード→ラポリ→クイビシェフ →ノボシビルスク→シベリア鉄道で満洲里という右往左往ルートです。 独ソ戦で、コーカサスが最前線になると、チフリスまでは上記通り(但し、ドナウの結氷期は連絡船は動かないため、 小舟で渡るか、歩いて渡ることになります)、チフリスからはロシアに入らず、バクーに移動し、カスピ海を横断、 トルクメニスタンのクラスノボーツクから鉄道でタシュケントに抜け、カザフスタンのアルマアタ、セミパラチンスク を経てノボシビルスクというルートで以後、シベリア鉄道というルートに変わりました。 このルートは、1944年8月23日のルーマニア降伏まで続きました。 で、それ以外は、潜水艦によるものが人口に膾炙されていますが、伊号第30号潜水艦、同第8号潜水艦、同34号潜水艦、 同29号潜水艦、同第52号潜水艦の5回試みられ、欧州到達したのは3回、往復したのは1回でした。 ドイツ潜水艦によるものも試みられ、U511、U1224、U234の3回のうち、1回のみ成功、イタリア潜水艦も4艦のうち、 1回だけ昭南に到達しました。 後は、物資だけなら、ドイツの封鎖突破船、イタリアからの福生まで空路というのもあったりします。 イタリアからの福生まで空路ってどの程度実現していたのでしょうか?又中継地は? 特殊型なのですが、1939年7月30日~8月1日に掛けて、Savoia-Marchetti S.M.82PDと言う 改造型は、航研機の持つ周回記録を上回る12,910kmの飛行を行っています。 同じような改造型で、1942年にイタリアのローマから、ブカレスト、コーカサス(当時はドイツの 占領下)を経て、其処からは無着陸でアフガンを越え、天山山脈上空を飛行し、中国の日本占 領地(蘭州辺りだったかと記憶)に飛び、其処から満州を経て、福生へ飛んでいます。 ちなみに、このルートは、1938年4月23~28日に満州航空が購入したHe-116の2機が通った ルートをほぼトレースしています。 この時には、カプロニの「ジェット」エンジンを搭載してきたんですよね。 帰りには南方で採取された資源(生ゴム、雲母、錫、タングステン、阿片)を搭載して見事に 帰着しています。 後、思い出しましたが、逆ルートで、立川A-26の2号機を用いて、シンガポールからドイツまで 無着陸連絡飛行(セ号)を1943年6月30日に福生を出発、シンガポールで給油し、7月7日にド イツに向かいましたが、インド洋上空で行方不明、1944年から45年にかけて、立川キ-74遠距離 偵察爆撃機の2号機を使って同じような飛行をしようとしていましたが、ドイツ敗戦で中止になりました。 (236 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか? この島は機密保持の為、地図から消されていたといわれていますが 工場が設置されたのは、戦前の1929年で、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所 となっています。 この工場開設時は、昭和の大恐慌時だったので、工員の応募総数が6,000名で、 そのうち200名が採用されています。 従って、地域では、陸軍が工場を設置したことは判っていたでしょう。 また、1933年に秩父宮、1934年に高松宮が工場を訪れており、日中戦争勃発後 は生産拡張のために、男女従業員1000名が採用され、工員は忠海港から島に 通い、1940年には、工場内に技術者養成所が設置されて、広島、岡山の国民 学校高等科卒業の男子を集め、養成工として3年間の教育を始めました。 彼等は、20年の雇用契約を結んでいます。 1943年のRooseveltによる毒ガス報復宣言が出てからは、この島でのガス生産 は低下し、風船爆弾などの製造に転用されたりしています。 戦前からの動き、毒ガスの使用状況、砲弾の補給状況などを丹念に追っていけば、 何処で製造されているか、までは突き止められます。 但し、ホスゲン、サリンなどの新規開発の瓦斯はあるのかは、第二次大戦末期になる まで判らなかったみたいですがね。 (289 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか? 我が実家も有耶無耶の内に、隣の土地を市に没収されたっけ。 曾祖母が怒ること怒ること。 配給途絶に備えて、空き地の徹底的活用で食料を緊急増産する為に、地方自治体から 南瓜、韮、不断草などの種子を無料配布したり、作り方を教授するようにしています。 ただ、例えば、南瓜などの種子は、粉末化して食料にするため、回収していますね。 なお、こういった耕作地については、戦時農園としてきちんと登録する必要がありました。 更に、芋類に関しては、戦時農園推進員が巡回して、生育状況を確認しますが、統制外の 南瓜の様な作物は、お目こぼしされています。 但し、種芋についての配給は、入荷が遅れて、種付けに間に合わない場合が多かった様です。 (289 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです チャフでしょうか? 多分チャフ(日本では電探欺瞞紙と呼ぶ)。 アルミ箔(日本では紙に錫箔を貼った物)をレーダー電波の波長と同じ長さに細長く切ったもの。 空中で大量に散布して電波を撹乱して、敵の探知を妨害した。 レーダー画面上では白い雲のように映る。 おそらくは日本に侵攻してきたB-29が散布した物。 (286 48) 大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが 「川崎造船所40年史」以外で。 Tom Smith辺りの論文でそうしたものを扱う予定でしたが、残念なことに本人が病没しました。 とりあえず、新修神戸市史の産業経済編巻2と3が参考になるでしょう。 また、日本経済新聞に、日本財閥経営史という一連の本がありますが、このうちの「新興財閥」編、 「地方財閥」編もしくは、「阪神財閥」編に触れているものがあったかと。 (283 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか? 少なくとも邦人に関しては、それなりの生活が出来ています。 食料事情も内地よりは豊かでした。 例えば、台湾の場合、日本の内地では余り見かけなくなった砂糖がふんだんにあったりしますね。 朝鮮の米事情に関しては1939年の凶作の影響で、余り良くなかったと言う点はありましたが、それ 以外はまずまずと言えるかもしれません。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか? 提灯行列自体は、1941年までは何とか行われていましたが、太平洋戦争が 勃発した時点では、既に止めようと言うことになってしまっています。 見送りも最小限になっています。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか? 雷撃艇とか揚陸艇にでも使われてたんですか? 海軍は、レーダーの代りに海上を見張る監視艇、掃海艇として主に用いられていました。 陸軍は、海上トラックとして、また、現地調弁用の漁船として使用しています。 (277 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの? 参謀長口達覚書なるものに捕虜の扱いが書かれていたとされる。 元々、商船を捕獲するとは思っても見なかった。 海上通商破壊には情報漏洩を第一に考える。 Uボートの場合、大西洋上で撃沈することが多く、少々の食料を与えて陸地の方角を教えたところで、 その陸地に到達するまで長い時間が掛かり、更に、現地に着いてからも人跡未踏のジャングルだった りするので、情報の伝達まで時間が掛かる。 インド洋では、陸地に到達する距離が短く、また人口も密集している為、情報伝達時間が短いことを 考慮したものかもしれない。 (275 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。 「秋風艦上の虐殺事件」 1943.3. 東部New Guinea、カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が、駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を 全員ラバウルに移送するよう命令を受ける。 カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士、11名の修道女、彼女たちが世話していた2~7歳の中国人3名。 3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船、翌日午後、マヌス島の40名(3名の神父、3名の修道女、ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻 2組と1人の子供、2名のドイツ人農園主、2名の中国人と3名の原住民。)が乗船。 なお、ドイツ人の他、少なくとも5名がオランダ人、1名がマジャール人、1名が米国人。 3.18.AM.10 00 秋風はカビエン沖に停泊、海岸と信号をかわした後、ラバウルに向けて航行を開始。 カビエン沖60マイルの地点で、艦長(佐部鶴吉少佐)が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える。 外国人たちは、前方の乗員室に連れてこられ、目隠しをされ、船尾に特設された処刑台に連行。 両手首を縛られて吊され、小銃の一斉射撃にて銃殺され、そのまま、海中に放り込まれる。 処刑開始は正午、終了が午後3時半。 その後、秋風は午後10時にラバウルに帰港。 豪州側は、三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの、管轄権の問題で 米国側に委譲され、不起訴に終わる。 これは、「秋風」の艦長、先任将校が戦死、秋風自体も米潜水艦によって撃沈され、乗組員は 全滅したため、三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている。 詳細は、豪州国立公文書館 SeriesMP742/1 細目336/1/1444 「秋風虐殺事件調査ファイル」を 参照してください。 ちなみに、ビハール号事件の際にも、南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠に なったと言う話もありますが、その資料そのものが発見できていません。 (派生議論スレ4 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか? 戦略爆撃調査団の報告書では”本土に対する諜報工作は絶望的”という記述がある。 陸奥爆沈事件などのきな臭い事件もあるが,破壊工作の可能性は低いという説が一般的。 (112 13) 戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの? 1935年前後、大学卒の初任給が60円前後、対して自動車の価格は、 キャデラック・フリートウッドが35,000円、リンカーン・ゼファーが9,000円、シヴォレーが4,000円、 ダットサンが2,100円でしたから、自家用の免許を持った人はあまりおらず、殆どが職業運転士 でした。 で、今、手元にあるのが、KKKのバス事業の資料しかないのですが、まず、運転士になりたい 人は、会社に入って、現役運転士の補助になります。 この現役運転士がお師匠となり、補助に付くと、その一挙手一投足を目で盗み、庫内で自習を します。 いい人に当たると、結構手取り足取り教えてくれた人も居たようですが。 そんなこんなで数ヶ月すると、路上教習になります。 で、これにお師匠と試験官が付いて、路上に出て一通りの運転動作をした上、問題が発生しな ければ、運転免許証が発行されます。 内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは、大正8年に内務省警保局・土木局が 連名で出した自動車取締令によるものです。 これを基に、各府県は自動車取締細則を定めて運用します。 ちなみに、軍事とは離れますが、大正12~13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件、 歩行者の死者3名、負傷者41名、従業員の負傷者1名、その他13名で、事故を起こした運転士 61名のうち、15名は無免許です。 運転手の養成所はありましたが、数が足りず、免許取得の運転手の添乗の下、 助手が無免許でハンドルを握らせています。 流石にこの状態は不味いので、大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され、 業務用(乗合、貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ、そのナンバーも 外せない構造となります。 (118 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争末期に誕生した国民義勇隊の詳細を教えてください 一応、国民義勇軍は、小磯内閣の最末期である1945年3月の閣議に於て、義勇奉公隊(仮称)組織ニ関スル件が 閣議決定され、府県毎に本部を設け、本部長は知事とし、市町村隊の隊長は市町村長が当たることを定めています。 (但し、義勇奉公隊が国民義勇隊と訂正されている部分と無い部分があり、訂正も閣議前か後かが不明であり、 また、国民義勇隊に関する閣議決定、了解資料は数多いのですが、施行しないもの、前後矛盾したものが多かった りしますので、注意が必要です) 1945年4月の鈴木内閣成立後の閣議で、国民義勇隊組織ニ関スル件が決定され、国民義勇隊に中央機関を設けないこと、 大政翼賛会と大日本翼賛壮年団の解体を定めます。 同時に警防団は国民義勇隊の組織に一体化することとなり、陸海軍大臣請議の「状態急迫セル場合ニ応スル国民戦闘 組織ニ関スル件」が閣議決定され、情勢急迫した場合は、国民義勇隊組織から戦闘組織に転移することを明確にし、戦場 となる地域の国民義勇隊は戦闘隊に転移するものとし、軍管区司令官、鎮守府司令長官の命令に服すること、そのため 兵として動員し、統帥権下に服従させ得るための法的措置をすること、戦闘隊と国民義勇隊は表裏一体とすること、在郷 軍人防衛隊は発展解消させることが確認されています。 また同じ4月に内務大臣請議による「国民義勇隊ノ組織運営指導ニ関スル件」が閣議決定され、国民義勇隊の当面の任務 として、軍需・食糧増産など戦力の増大に努めるものとし、戦闘隊に転移した場合でも、主に作戦の要望する生産・輸送・築城・ 防空・救護など兵站業務を中心に服し、最後の場合、戦闘任務に就くと言うこととしています。 国民義勇戦闘隊とは少し性格が違うものです。 国民義勇隊は、行政措置で設置された任意組織であり、出動には強制力が無く、衛生組合や翼賛会と同様に民間の機関であって 国家機関ではありません。 国民義勇隊は、地方に於ては地方総監府第三部が所管し、国民義勇隊自体は市区町村単位あるいは、職域単位で設置され、 その隊員は非戦闘員です。 (272 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 敗戦直前の昭和20年7月頃に勝札なんて宝くじがあったそうですが、 こういうギャンブル的なこと、芸能・スポーツとかも戦時中に普通に行われていたんでしょうか? 芸能に関しては、1945年も押し迫った状態でもやってます。 徳川夢声とかが新宿の演芸場なんかで芸をしてたら、空襲警報であっという間に中止とか 言う話もありましたけど。 流石に歌舞伎は中止でしたが(芝居を掛ける小屋がない)、演劇とか漫才などは、 移動演劇ということで、田舎の慰問の名目で最後まで行なってます。 スポーツは、武道・鍛錬の名目で推奨されていましたが、学生野球が1943年秋のシーズンまでで終ったのを 皮切りに、他のスポーツも、決戦態勢の確立の名の下、1944年までにどんどん中止させられていきます。 ちなみに、株式市場も1945年8月10日までやってました。 (121 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中、日本国内にいた外国人はどんな扱いだったのでしょう? 日本国内にいた日本国籍を持つ欧米系外国人は、スパイの疑いがあるとして憲兵による 監視下に置かれていました。 J・Bハリス氏の他にも、かのグラバーの子息倉場富三郎や外交官寺崎英成の妻女 (娘マリコの名が日米交渉の暗号に使われたのは有名)など、かなりひどい目に あったようです。 日本国籍を持たない外国人は開戦と同時に拘束されましたが、日本と連合国が 行った在留者相互交換により本国へ強制送還されました。 日英および日米の交換船は合わせて4回抑留者の交換を行っています。 (143 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦艦や巡洋艦のスペックとか、一般市民にどれぐらい公開されてたのでしょうか? まあ娑婆の人々がどこまで理解していたかはともかく、海軍はそれなりに広報していました。 私のかかりつけの医者は、子供の頃に陸奥の実物をスケッチしたことがあると話していますし 軍港見物ができた時代は、佐世保は陸奥、舞鶴は吾妻が船内公開されていたようです。 開戦まで、新聞報道はギリギリの線で海軍の情報を流していました。 佐世保のお膝元、長崎日日新聞の記事には 6年6月、霧島が長崎・五島で公演・映写会・見学 11年10月、修理中の由良で蒸気噴出、6名死亡 など、やばげな報道もしていました。 陸海軍が現代の「白書」じみた年鑑を発行していたことも分かっています。問題は頒布先ですが。 また、維新から日華事変参戦中の艦艇の写真集も発行してます。(編纂委員長が古賀さんなのです)。 公開されたスペックを覚えている海軍ヲタから、名前ぐらいは知っている程度までの幅はあれど 銃後の人たちは、艦艇を知る義務ではなく、知る権利を与えられていたのはまちがいないです。 (143 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 鉱物資源は日本領土や大陸でコストを度外視して採掘しても、戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか? 石炭、鉄鉱石など連合国の通商破壊で日本本土への輸入が叶わなくなった資源の場合、 本当に採算を度外視して、鉱脈があれば人的資源を投入して採掘を行ないました。 しかしながら、その鉱山開発に必要な採掘機械生産への投資や資源配分が行なわれなかったため、 既存の鉱山から採掘機械を転用するなどして、本来、重要鉱山(例えば、室蘭の鉄、常磐、筑豊の炭坑など) で使用すればもっと生産が上がったであろうものまで影響を受けており、そうした資源開発をすることは 反って生産効率を落とすことになっています。 (146 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中、キリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが、それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう? 最近、仏教徒の宗派にしろ、基督教の宗派にしろ、太平洋戦争に於ける国家への戦争協力 を反省する文章が出てた筈です。 例えば、賀川豊彦門下のキリスト教徒が、国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりして います。 また、太平洋戦争では、宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され、戦時活動実施の要目 として、教化活動の強化、宗教施設活用、報国団の整備拡充を申し合わせています。 仏教徒は、大東亜仏教青年会連盟を結成し、大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集する としていました。 基督教では、日本基督教団が、各宗派の大同団結の下に結成され、ラテン語の賛美歌を日本語化 する活動を行い、新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降 使っています。 建前上、日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが、国家神道は別格扱いでした (とは言え、その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが)。 民間レベルでは、特にその教義から基督教は敵視され、徴兵に於いても、生きて帰ってきても 何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに、基督教系の学校で先生やってた から、祖父は三回も徴兵されたし)。 (251 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴用された船舶が撃沈されたら弁償してもらえたの? 太平洋戦争中徴用された船舶が喪失した場合、海上危険(衝突、座礁、沈没など)の 要因によって、保険金が支払われる場合がありました。 敵国に撃沈されたと明確に判断の付く場合(これを戦争危険と言い、乗組員の証言、同行船舶 乗組員の証言などで判断)は、保険が掛けてあっても、保険金ではなく、軍から補償金が支払わ れます。 一方、単独行動中に行方不明になったとか、操舵員のミスで座礁したとか、衝突したなどと言った 場合は、保険会社が調査の上、海軍当局と協議し、潜水艦などに依るか否かと判断して、それが 敵の軍事行動による滅失の場合は、軍当局から補償金が、普通海上危難の場合は、保険会社から 保険金が支払われます。 これは徴用船舶、民間船舶でも同じでしたが、民間船舶の場合は軍が補償金を支払うケースは余り ありませんでした(海軍の護衛下で船団航行中に喪われた場合がこれに相当する)。 また、海軍徴用船舶の場合は、普通海上危険によっても分損の場合の修繕費用は海軍が負担した のに対し、陸軍徴用船舶の場合は、分損、全損とも普通海上危険では保険会社の支払いとなりました。 但し、軍の補償金は保険金額よりも一般的に低く、船主によっては普通海上危険にして貰おうと画策した 者もいたようです。 (155 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 沖縄戦の集団自決って本当にあったのですか? 一番有名なのは、渡嘉敷島の集団自決ですが、沖縄タイムスが編集した1950年の 「鉄の暴風」が最初に触れ、その後、それが子引き、孫引きで定着したのが始まりです。 曾野綾子がその辺を調べて、1973年に「ある神話の背景」という本を出しています。 さて、問題になるかならないかですが、例えば、渡嘉敷島の事例では、確かに集団自決 が行われています。 しかし、その集団自決は、軍の命令ではなく、村長や防衛隊員辺りから誰からともなく、 「自決命令」を聞いて、自決したものであったことが最近の研究で判明しています。 これが「軍の命令」となったのは、1955年頃、日本政府の援護法適用の際、「『軍の要請』 で戦闘に参加し、戦死した」形式を取らないと、補償の適用除外となってしまうことが判った ため、生き残りの住民に島の長老が偽証するよう要請したと言う話です。 全部が全部この様な事例ではないと思いますが、一部にはこういう形で伝えられたものも あります。 (230 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中の軍人と宗教の関係を教えて下さい。 いくつか手掛かりになりそうなものをあげておきます。 まずは田中智学の創設した「国柱会」です。ここは日蓮宗系の宗教団体で 宮沢賢治が入信していたことで知られていますが、田中智学は国家主義的思想が強く、 石原莞爾に代表される陸軍内の強硬派の信仰を集め、多大な影響を与えています。 ちなみに田中智学は「八紘一宇」という造語の創作者であることで知られています。 次に、竹内巨麿の創設した「天津教」があります。 いわゆる「竹内文書」によってオカルトファンには有名ですが、最盛期には 荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将といった錚々たる面々が信奉者として名を連ねています。 最終的に天津教は、天皇家の紋章である菊花紋を使ったという罪で不敬罪に問われ、 竹内巨麿は逮捕されましたが、終戦で不敬罪が消滅したことで無罪になっています。 その他に、治安維持法違反で検挙された大本教にも軍人のシンパは多かったとか。 この時期の新興宗教は、軍人を引き入れるのに熱心でした。 これは、教祖側が官憲の弾圧に対する抑止力として軍人の力を欲したことや、軍人の中に 国枠主義者が多く、教義的に受け入れやすかったことなどがありました。 (226 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 戦争「末期」ではないが、 大日本回教協会の初代会長は林銑十郎陸軍大将。 また、1938年、日本側の寄付によって建てられた東京モスクの落成式には 頭山満・松井岩根陸軍大将・山本英輔海軍大将が列席しておる。 もっとも彼らのイスラーム指向は宗教的なものというよりも、 当時、満州国にかなり存在した回教徒に対する対策的意味合いが強い。 そもそも林大将は皇道主義者であり、 現人神を信じる皇道主義と、 多神教を憎悪する(原理的な意味において)イスラームとは合い入れないものであるはずなのだが、 なぜか当時の(今も少なからずの)日本人はそういう矛盾を感じなかったらしい。 さらに笑えるのは 日本イスラームのパイオニア有賀文八郎(民間人)の著した「日本イスラム教の道徳概要」では 「但し」「但し」「但し」の連発によりて 飲酒、豚食、喫煙を肯定してしまっておる。 これではイスラームではなく、 イスラーム神道と呼んだほうがよいかもしれぬ。w 戦前は日本と中東の距離が地理的にも精神的にも遠く、 お互いにファンタジーじみた「中東」理解、 ファンタジーじみた「日本」理解(例えば日露戦争礼賛がそれである)で 事足りたのであろう。 しかしこれほど情報化が発達した世界においては もはやそのような牧歌的な関係は 望んでも得られぬであろう。残念なことに。 (226 イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw) 昭和20年の航空機生産計画は何を根拠に決められていたんでしょうか? 20年前半期の計画より後半期は随分少なくなってますが。 既に南方からの輸送路が絶たれ原料供給の見込みが立っていない状況で、 希望的な数値を出しても意味がありませんから、ボーキサイトの在庫がどれ だけ、それから出来るジュラルミンの製造高がどれだけ、ならば、作ることが 出来る機体の数はこれだけ、特殊鋼はこれだけ在庫があるから、エンジンに 回せるのはどれだけ…と引き算の論理で行けば、幾ら盲でも近似値は出せる わけですわな。 ついでに、これも海軍の例ですが、雷電用の火星エンジンは1944年中期の時点で 誉への一極集中のため生産中止が決定し、治工具は他ラインに流用されてしまい ました。 しかし、1944年11月の中島飛行機武蔵製作所への空襲は、海軍当局を周章狼狽させ、 生産中止になった火星を100基を2ヶ月で生産して納入しろと言った訳で。 工場では出来ないと断ったのですが、「これが出来ないと日本は敗れる」と拝み倒され、 結局、生産簡易化を図って12月から供給出来るようになったと言う話もあります。 1944年末には航空機生産高の増加を政府が命令しながら、1945年2月には生産現場の 疎開(しかも生産を落とさずに)を命じるなど、終始一貫してない訳ですな。 (225 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の軍用機の生産数のピークが、物資に相当困っているはずの1944年だったのは何故ですか? 生産力が分散して、今まで総花的に、やれ戦艦だ、やれ戦車だ、やれ大砲だ、と色々やってたのが、 1944年以降に航空主兵に転換して、何が何でも航空機を作れと言う話になったからです。 1943年3月に五大重点産業が指定され、航空機生産のため、産業再編成が行われます。 この時に、不要不急産業(繊維産業など)は軍需産業への転換を余儀なくされます。 1943年10月には軍需会社法が制定され、軍需会社に対する統制と特権措置が発動、11月に軍需省が 設けられ、その麾下に航空兵器総局が設置されて航空機増産体制が一元化、1944年1月に航空工業会 が発足、1942年に続き、航空機大増産指令が出され、超重点最優先の産業となります。 この時期に、機械工業力のピークを迎えた訳です。 (225 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦略爆撃調査団はこう述べています。 戦争中期には航空機生産に関しては、アルミニウムは潤沢な供給があった。 しかし44年に急激に引き上げられた航空機生産目標を達成しようとすれば、アルミの供給は需要を満たすことはできなかっただろう。 以上要約。 アメリカの潜水艦が輸送船攻撃を明確に打ち出したのが43年後半。功を奏すのが44年半ばごろからです。つまり、44年前半までは、 ある程度アルミの新規取得が可能でした。 43年のアルミのストックと44年前半のアルミで、44年の航空機生産を支えていましたが、景気が良かったのはあくまで前半の話。 後半になるにつれ、輸送船の被害が拡大。44年後半にはアルミの取得は前年の66%に低下、末には新規取得は事実上0となります。 こうして45年の航空機製造は寒いものになってしまいますが、44年はある程度のアルミの取得が可能だったことと、生産設備の 充実に伴って、航空機生産はピークを迎えたのでした。 で、あとは資材不足と空襲で生産設備が被害をうけ、下り坂を転がり落ちていく、と。 (225 784) 東条英機暗殺計画について御教授ください サイパン戦の不始末、マリアナ海域での戦況悪化、北九州爆撃と言った状況にも関わらず、 東条首相は、嶋田海相と共に、杉山陸軍参謀総長、永野海軍軍令部総長を元帥にして追い出し、 それぞれがその後任に就任し、一気に権力を掌握します。 その後、高松宮の軍令部からの転出、近衛側近の酒井中将の解任、岡田大将と瀬島大佐の関東軍 への転出、松永参謀本部戦争指導班長の中国戦線への転出、松前逓信院工務局長の二等兵として の召集、創価学会関係者の弾圧、毎日新聞の新名記者の政権批判記事に対する弾圧と召集などしたい 放題の状況となっていきます。 事此処に至って、1944年6月22日の夜、神大佐は、小料理屋に元海軍中尉で、5.15事件で犬養毅を射殺 した三上卓を呼び出して会合を持ちます。 翌23日に、高木惣吉と、神大佐が会合を持ち、次の7条件を示します。 1. 秘密保持と民間人の犠牲者を出さないために、三上卓は勿論、民間人とは一切関係を持たない。 2. 計画の実行者は7名 3. 決行後の脱出は一式陸攻を用い、パイロットと共に7名が搭乗するために、決行人員は7名となる。 決行後6名を脱出させ、現場には高木惣吉が残り、全責任を取る。 4. 決行日は火曜か金曜とする。これは、東条がその日10時にオープンカーに乗って行くからである。 5. 決行方法は自動車3台に7名が分乗して、東条首相のオープンカーに衝突させ自動車事故とする。 失敗したときは射殺する。 場所は海軍省手前の四つ角で、1台は海軍省に、大審院の壕側にもう1台、内務省に1台を配置し、 見張を警視庁前に置いて、東条の乗ったオープンカーが見えたら合図し、四つ角にさしかかるところで、 前と両方の進路から突入して襲撃する。 6. 決行者の脱出については、厚木基地司令の小園中佐が協力し、一式陸攻で決行者は台湾に脱出する。 7. 決行日は高木が決定し、決行日2日前に決行者に直接連絡する。 で、6月23日に東条首相はサイパン放棄を決め、24日、いよいよ臍を固めた高木惣吉は岡田大将を訪ね、 決行を打ち明けます。 岡田は之に反対しますが、高木の決意は固く、決行前に必ず連絡させることを約束させて帰します。 それから、岡田大将は、伏見宮元帥を訪ね、海軍内部の状況を報告し、伏見宮から天皇に上奏が行き、 嶋田更迭、東条辞職の布石が打たれたため、暗殺決行は中止となりました。 (195 眠い人 ◆gQikaJHtf2)
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クラン戦中盤戦 このページはだれでも閲覧可能にして有ります。 ここでは、試合開始からバクダン設置→試合後半を書きます。 初歩にも書きました、味方のポジション取り・場所が動きの基本となります。 ・まず、最初は、 音を聴きましょう 。スピーカーの右か左か、銃声か爆音かスナの発砲か、TSなどで音声を使用しているなら、皆に教えましょう。 ・次に足音。 ・そして、自分が、 攻め・守りに関わらず 皆に知らせましょう。 (FPSの作戦基準は、相手の守りの薄い所に対してピンポイントで攻撃を行い、戦力を削る事が一番となります。) 相手戦力の情報・場所を読み切る事が勝利への近道となります。 ・もし、自分が居るポジションに対して、 複数以上もしくは対処し切れない敵が来た場合は、おとなしく下がりましょう 。果敢に攻めるのも良いですが、敵におびき出されて逆撃を食らいやられるのが一番チームとしての損失です。 FPSで絶対覚えて置くことは。 単独での深追いはするな FPSゲームは、「 臆病が丁度良いのです 」 名前 コメント
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手榴弾による自決は存在したんですか? シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。 旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか? 沖縄戦で、米軍に降伏する際に使用したと思われるビラ(旗?)について知りたいのですが ゼロアワーって軍部が期待したほどの成果があったのでしょうか? 戦中の食糧不足に関して教えて下さい。 戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう? 戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの? 本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。 戦時経済について知りたいです。 石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの? 南雲がミッドウエーでは大敗したものの、南太平洋沖海戦では勝利したのに、その後左遷のようにサイパンに送られたのはどうしてですか? 手榴弾による自決は存在したんですか? 光人社の戦記物読むと、脱落兵の手榴弾自殺は頻繁にあったことがわかります。 (54 421 シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。 パージバルが降伏に際して色々要求を出しごねたらしく 山下将軍が「イエスかノーかどちらなのか?」と返答したところを マスコミが大げさに書いたのです。 (57 669) 旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか? トラップの類は正規の記録には殆ど載らないので、戦記あたりから類推することが多くなりますが、 日本軍によるブービートラップの使用は、連合軍側の記録にはかなりよく見られます。 ただ、パンツァーファウストの様な簡易対戦車兵器は日本には無いですから、 自分が知る範囲では、もっぱら爆薬による物です。 日本軍の手榴弾は発火方式の都合で、このような使い方にはあまり向いていませんが、 爆弾や地雷を改造したものを使用したとの記述もあります。 ttp //www.pacificwrecks.com/provinces/png_alexishafen.html 捕獲した米英の手榴弾も、利用されたかもしれません(この部分は想像)。 アメリカ兵の戦利品コレクション癖に気付いた日本軍は、 彼らが喜ぶ日本刀や日の丸に、よくトラップを仕掛けたそうです。 友軍の死体に爆薬を仕掛けると言うのは、欧米人には理解し難い事だったようですが、 当時はキリスト教的道徳観のない日本軍の方が、米英兵よりもトラップの類を多く用いたというような話も聞きます。 (57 590) 沖縄戦で、米軍に降伏する際に使用したと思われるビラ(旗?)について知りたいのですが 大戦末期は、白旗を振ったり、手を頭の上に乗せるだけでは、米軍、英軍は信用しなかったそうです。 日本軍の、白旗を振って投降をする振りをして攻撃するという手法を取った為だそうです。 後、投降しようとした兵士は、反対する兵士に殺されたりしたそうです。そういった戦死は、戦った戦死では無く、軍旗違反による処刑なので非常に不名誉で死後も近 隣の住民から冷たい待遇をされたりしたので、投降を試みる者も少なかったとの事です。 大抵は白旗を振るか、武器を敵前に投げ込み自分たちはその場に残り一人ずつ投降すると言う手法を取ったらしい。 ↓こんな感じに ↓戦車や機銃 . . ○○ ↓米兵士↓ ○○○○○○ ○. . .○←投降する兵士が通過間際に危険が無いか確認する役。射殺できるように機銃などで武装している。 . . ●←投降する日本兵 (58 871) ゼロアワーって軍部が期待したほどの成果があったのでしょうか? 「ゼロアワー」って東京ローズがアナウンスしてた番組のことですかね? もともと厭戦気分を煽ることを目的とした放送なのに、厭戦気分を煽るどころか米兵にも 日本人にも大人気で全然軍の意図と違った番組になったみたいですね。 詳しくは「東京ローズ」ドウス昌代 著(文藝春秋社)を読まれるのが宜しいかと。 (60 名無し軍曹) 戦中の食糧不足に関して教えて下さい。 大井篤氏の海上護衛戦・文庫版第八章-30 空腹・降伏より転載 戦前から、日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで、 残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた。 ところが戦時中の船舶の損失によって輸入食料は減少の一途をたどった。 (ここで表、一部のみ書く。食料輸入量14・4~15・3:2793→18・4~19・3:1871→19・4~20・3:1188 以上1000kg単位) この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は、もちろん、出来るはずも無い。 戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで、昭和十九年までは、大きな減少もないが、増加もなかった。 (中略) 輸入減によって減らされる部分は、食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる。 日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから、それが闇を刺激し、それからそれへと悪循環を生んだ。 (中略) われわれの記憶に新しいように、食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた。 翌十九年には闇が深刻化してきた。 十九年の全国食糧消費から計算すると、国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた 以上p431-432 七月上旬の閣議で、主食の一割減配が議論された。 食料輸入の前途は真っ暗どころか、壁に突き当たった格好だ。 オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている p419-420 (205 933) 戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが 都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった. 終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国 的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった. ttp //www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm 公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね。 (205 ふみ) うちの母方は大阪近郊で空襲に遭い、焼け出されたのだが、経営していた会社からの 支援があったので、路頭に迷うことが無かった。 ちなみに、当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので、食料は十分 にありました。 但し、うちの曾祖父は、贅沢三昧が祟り、配給では食っていけなくなったので、結核を患い、 敗戦の翌年には亡くなっています。 後、清沢洌の暗黒日記(3巻P.164~東京大空襲の件) 「甥の笠原貞夫は出征しており、その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが、 修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と一向に受け付けない。 貰ったのが、五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。 仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。 布団二枚を自転車に積んで連れてきた。 国家の羅災者救助というのは、五日分の米と醤油だけだ。」 これが東京の状況。 神戸や大阪も同様だったかと思います。 後、流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ。 野坂は飢えがひどくて犬殺して食ったらしいけどな。同じ神戸でもえらい違いだな そりゃ、技能を持ってたり、資本や工場を持ってたりする人々と、それが無い人々との生活の差は戦時下には 結構ありますが、一概には言えんでしょう。 例えば、父方の曾祖父は医者でしたから、開業医として近隣の農家の人々を診ていました。 なので、その御礼というか、薬代代わりに食料を得ることも可能ですし、元居た会社から、部下や世話をした 人が南方からの土産品として、バナナとか甘味料を持ってきてくれ、それを近隣の農家に分けて、代わりに 食料を補填してましたし。 母方の方は会社が重要会社だったので、その辺から手を回して、配給だけは途切れさせなかったですし。 それらが無い、または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか、と思いますよ。 例によって蛇足ですが、戦略爆撃調査団の調査で、「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に、「消費物資欠乏のため」 を言う回答選択肢があります。 この回答では、大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合、14%の人がその選択肢を選択しています。 同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%、軽度に破壊された中小都市で9%、意外に、東京が8%と低く、 小規模爆撃があったか、爆撃を受けなかった都市では13%、田園共同体で19%、都市疎開者では14%となっています。 このアンケートを見る限り、東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします。 東京は首都であり、交通の結節点であり、統制経済の中心であることから、意外に物資の集積が行われたのではないか、 と言う話もあります。 一方で、田園共同体、即ち、田舎の方では物資を都会に供出したことで、相当物資不足に苦しんだと言う話もあります。 例えば、子供に対する加配はなく、学校給食もないので、子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく、 油、酒の配給は東京の1/3、魚、海苔、豆腐の配給はなく、況や、薪炭の配給もないと言う話もあったりします。 (205 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう? 20歳未満の航空機産業従事者で、男性は平均時給26.1銭、女性は22.7銭。 30歳以上となると、男性が50銭以上、女性は33.7銭。 ちなみに厚生省が定めた最低時間割賃金は、航空機産業で20歳未満の第三級労務者(非熟練工)で、男性13.3銭、女性10.6銭。 ただ、固定給部分が低く抑えられ、加給部分が大きいから格差は更に拡大。 男性なら加給率200%も珍しくない。 ちなみに、挺身隊員の場合は、給与ではなく謝金とされ、最初の三ヶ月は8時間労働で日給0.75円~1.15円だった。 (しょうもない知識を披露するスレ10 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの? 金属回収で、エレベータの鉄の籠まで供出したりしたのは結構有名。 他に、金の供出、銀製品の回収、白金回収もやっていた。 このほか、木炭を包んだ俵、それを縛った紐、棕櫚の皮も回収の対象。 茶殻は馬糧にする運動も行われている。 更に、1944年末以降、綿製品、特に布団類の回収と言うのも行われている。 これは、綿火薬の原料にするためだったりする。 1945年からはアルミ貨の回収も進んだり。 金属製品家庭等回収実施要領(長野県の場合) 回収の対象…官庁、公共団体、一般家庭及び非指定施設の保有するアルミニウム(アルマイトを含む)製品、 鉄鋼製品、銅製品、鉛製品、アンチモン製品、錫製品など全金属製品に付き廃品は不要、 不急品代替容易なるものを主とするも、現用品も極力圧縮回収す。 回収物件…鉄鋼、銅、鉛、アンチモン、錫などにして従来の回収物件の残存物件全部。 アルミニウム製品は、戦時家庭生活の維持に必要なる最低量の器具を除き、全部供出。 アルミニウムに関する供出物件 全量回収 → 喫煙用器具、文房具、化粧用品、花器、電灯笠、茶器、置物他装飾品、 玩具、箸、箸箱、帽子掛、押板、蹴板、階段滑止め、ローソク立、盆、コップ、其の他廃品類 仕様を極力圧縮して供出 → 鍋釜類、湯沸、弁当箱、水筒、其の他厨房用品 対価(但し献納を妨げず) アルミニウム → 1貫(3.75kg)に付15円 鉄 → 同 2円 銅及び銅合金 → 同 20円 鉛、アンチモン → 同 20円 錫及び錫合金 → 同 50円 こうして回収された金属製品だったが、その対価の支払いは、戦力増強用の貯金に回され、 各人の手に渡ることがなかった。 (しょうもない知識を披露するスレ10 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。 1945年の末期的症状の日本。 西部軍は本土上陸を想定した場合、待ち伏せ襲撃、夜間襲撃、破壊活動を行うために700~800名の兵士からなる、 70~80のゲリラ戦部隊を確保していた。 既に民間の防衛団に対し、200本の弓、800本の矢を引渡し、更に800本の矢を司令部にて保管していた。 その威力を確かめるべく、1945年8月10日、連合国側兵士8人の処刑の際、1人に対して矢を15本用いたが、 失敗し、結局、袈裟懸けした後、斬首をせざるを得なかった。 なお、本土上陸に対抗するため、弓矢を用いるほかに、一般人を装って空手で敵軍兵士に攻撃を加えると言う ことも考えられ、この処刑の際に、2名に対して1人は6名が空手で、残りの1人は10名が空手で攻撃を掛けたが、 これにも失敗して、結局2人とも斬首せざるを得なかった。 (しょうもない知識を披露するスレ11 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時経済について知りたいです。 財政と戦争の観点から太平洋戦争を論んじた本てあるの? 日本が戦争で勝っていても国債と軍票の払い戻しで超インフレは免れず、国は潰れていただろうと思うんだけど。 昭和財政史がありますけど、お手軽なのは、多田井喜生氏の著書でしょう。 東洋経済新報社から1997年に出版された、「大陸に渡った円の興亡」、PHP新書で2002年に 出版された、「朝鮮銀行-ある円通貨圏の興亡」なんか、その辺の事を分かり易く記しています。 軍票は占領地域に於ける軍人軍属の棒給以外に、現地人への一時的な支払いに充てる為に使用されたので、 占領が一定期間に及ぶと回収されます。 例えば、満州では、満州中央銀行券、華北では、日華事変当初は朝鮮銀行券、後には河北銀行券を経て、 中国連合準備銀行券、華南では軍票から中央儲備銀行券、フィリピン、インドネシア、マラヤ、北ボルネオでは、 軍票から南方開発金庫券、インドシナでは、印度支那銀行券ピアストル貨、タイでは、泰国銀行バーツ貨と なっています。 軍票がほぼずっと使用されていたのは、華中地域で、最初は日銀券が使われ、以降は軍票が使用されました。 占領区域では、各地域毎の独立会計として、日本の財政とは切り離され、財政の自立を図っています。 租税は占領前を基準に課税し、不足分は南方開発金庫からの借り入れと、臨時軍事費からの補給金に拠って 補填されています。 これに加えて、現地での作戦費用に関しても、日本の財政に直接影響を与えないようになっています。 例えば、南方開発金庫は、営業資金を臨時軍事費特別会計から借り入れますが、それは各地域の現地通貨表示の 軍票で借り入れ、これを資源開発事業や現地日本側銀行を通じて貸し付け、企業は軍に納品したものを軍票で受取、 南方開発金庫に返済、南方開発金庫は、これを臨時軍事費特別会計の借り入れ返済に充てていました。 中国地域でもこれは同じで、日本銀行から、正金銀行を経由して臨時特別費特別会計が支出されると、 朝鮮銀行東京支店に送金されます。 引き替えに、朝鮮銀行東京支店は、同額の国債を日銀から購入します。 これで、収支は相償い、朝鮮銀行東京支店は、北京支店にこの日銀から支出された軍事費を送金します。 朝鮮銀行北京支店には、中国連合準備銀行名義の預金口座があり、送金を受けた金額を、預金口座に貸記します。 中国連合準備銀行にも、朝鮮銀行名義の預金口座があり、送金額と同額を預金口座に貸記します。 これで、現金が動くことなく、いわば架空預金の遣り取り(預け合い契約)となっていました。 でもって、現地軍は、中国連合準備銀行にある、朝鮮銀行の預金口座から、連銀券で支払いを受ける、と。 つまり、円は全然発行されず、連銀券だけが無闇に発行されるという仕組みです。 これと同じ契約は、横浜正金銀行と中央儲備銀行との間、朝鮮銀行と正金銀行との間に結ばれており、 中国地域のインフレ進行は加速された訳です。 敗戦間際の1945年、外資金庫が設立されます。 これは、大蔵省次官を理事長、主計局長、外資局長、日銀、正金、鮮銀、南発の代表者を理事として、 本店を大蔵省外資局内に置き、代理店を正金銀行上海支店、張家口支店内、朝鮮銀行北京支店内、 南方開発金庫各支店内に置いた上、本店業務は大蔵省外資局が行いました。 これは、実態のない帳簿上の金融機関で、臨時軍事費特別会計中の物件費支払いの際、予算金額 では、現地がインフレの為に到底間に合わないので、予算の10~30倍、最終的には130倍近くに上る 差額を価格調整金の名目で、支払う為に、作られた金融機関です。 Bubble崩壊後のRSECですっけ、そんな香具師の嚆矢でつね。 この金額決済は、例によって、預け合いで最終的に5,000億円を決済しました。 これらの清算は最終的に、正金銀行が、天津相場を基準にして、上海に持っていた金塊約50トンを売り抜け て、日本側の債務を全て弁済したことにしています。 これで、戦後の大陸のインフレをモロに被らなくて済んだ訳です。 要は高い時に借りた金を、安くなって現地通貨が紙くずと化しつつある時に返済した、と言う訳です。 ちなみに、日本人の認識では、「我が国に皇室のおわします限り、幾ら紙幣を増発してもインフレにならぬ」 とか、「公債の発行は無限に出来る」と言う「皇国国債観」、と言うのが罷り通っていたり。 無茶苦茶で御座いますわな。 (軍票スレ 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの? J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より引用。 「大豆油、落花生油、椰子油、及びひまし油が産業用に使用された。 メタノール、エタノール及びアセトンがガソリンに代用された。 ブタノールはイソオクタン原料としても使われ、また直接ガソリンに混用された。 潤滑油は各種の植物油又は脂肪から造られた。 民間の馬鈴薯、砂糖、酒等のストックはアルコール燃料として引き上げられた。 生ゴムから油を採ることも行われた。 絶望的になった海軍は夢想的な松根油計画に着手した。 『二百の松根は一機を一時間飛ばすことが出来る』というスローガンの下に全国民を 松根堀に駆り出した。 約34,000の釜や蒸留器や小さな蒸留装置が準備され、各一日3~4ガロンの粗油を 出すように計画された。 これに要する労力は驚くべきものであった。 松根油1ガロンの生産に2.5日の労力が要った。 この計画の絶頂では一日当たり12,000バレルの粗油を予定していたから、一日当たり 125万人を要するはずであった。 1945年6月には、松根粗油の月産は70,000バレルに達していたが、精製上の難点は解決 されていなかった。 終戦時までに航空機用の予定で生産されたガソリンは3,000バレルに過ぎず、それも実際 に飛行機に実用した形跡は無かった。 合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンが止まって使い物に ならなくなった。」 毛沢東の村営溶鉱炉を我々は笑えんです。 (泣ける話@軍事板第4章 眠い人 ◆ikaJHtf2) 南雲がミッドウエーでは大敗したものの、南太平洋沖海戦では勝利したのに、その後左遷のようにサイパンに送られたのはどうしてですか? 機動部隊の後で第1艦隊司令長官やら、呉鎮守府長官やらを経て、南雲がまた前線に出たいと希望 方面艦隊司令長官として、サイパンに赴任する訳で 陸軍で言えば方面軍司令官に相当するし、別に左遷ではないぞ 軍艦の艦長が連隊長相当、戦隊司令官が旅団長、艦隊司令長官が師団長か軍司令官と考えれば (俺初質スレ2049 728)
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当時闇市というものがあって政府の決定した価格の数倍の値段で食料品などが提供されていたようですが、国民みなでこの闇市を利用しなければならないほど普通の商店から物がなくなってしまっていたのでしょうか?(479 521) 当時闇市というものがあって政府の決定した価格の数倍の値段で食料品などが提供されていたようですが、国民みなでこの闇市を利用しなければならないほど普通の商店から物がなくなってしまっていたのでしょうか?(479 521) 戦時中は配給制といって、米麦みたいな食料品や必需品は買える量が決まってたり、切符がないと購入できない仕組みになってた。 逆に言えば最低限の買い物はできる仕組みなってたわけ。 それが戦局が悪化して遅配や欠配が続くようになったので、本来勝手に売り買いできないものを農家と直接交渉して買ってたりした。 戦時中は監視が厳しかったので、闇市という具体的な場所があったわけではない。 焼け跡などで勝手に店を構えて、進駐軍の横流し品や配給制度の目を逃れた食料品などを売る闇市が生まれたのは終戦後。 戦前生まれの親戚とか祖父母がご健在で、そういうことに興味があるなら今の内にこういう話は聞いといたほうがいいぞ。 (479 523)
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戦中の登校者 ◆ggowmuNyP2 戦前 もしくは前線 配点(行ってきます)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ● 正純は、フラついていた。 ……いかんなー……。 ライダーは弱小の存在ではあるが、サーヴァントである事には変わりはない。 自身も気付かぬ内に拝気を消耗しているのだろう。 「消耗、か」 戦闘系でない自分にはやや実感が伴わないところではあったが、 「葵の、……不可能の力」 それを改めて思い起こす。 しかし、ここにあの馬鹿はいない。 流体燃料や、それに相当するような物も探す必要があるかもしれんな、と正純は思う。しかし、 「無いんだよなー……」 無いのだ。貧しいのだ。極貧なのだ。 金の話だ。胸ではない。 こんなとこまで再現せずとも良いだろう、と言いたくなるがまあ仕方ない。 バイトの給金は最低限の食費を除き、ほぼ全額を草紙の購入に回すという生活はこちらでも続けていたのだ。 ……内燃拝気を回復する為の瞑想も必要になるし、夜間のバイトは危険度が高くなるしなあ。 ともかく、現状では金銭取引を行うのは難しい。 それは何も、戦いに関連する事項に限った話ではない。故に、 ……空腹だ。 朝食を抜きにしたのが悪かった。 恐らく、今の自分の体調が悪いのは、魔力云々よりもそちらの方が原因だ。 『まー』 ツキノワが、慰めるような鳴き声を発した。 ……ツキノワは可愛いなあ! お前の分の食費はきちんと捻出してやるから安心しろ、と頬ずりする。 「……ここの学園では、こういった事も気軽には出来なくなるな」 だから家でも存分に行ったのだが、それを見ていたライダーが妙な顔をしていたのは何故だろうか。 心なしか輪郭もかなりテキトーになって頭身も縮んでいた気がするが、あれはユニコーンのようなものだろうか。 走狗《マウス》の有用性について語ったところ納得を得たようだったので、それはいいのだが。 しかし『マウスはいいな。ヤークトティーガーもゴリアテも好きだ。ホルニッセの、ナースホルンの88mm《アハトアハト》は心が躍る』とか言っていたが何か脱線してはいなかったろうか。 「――ん」 歩道に設置されたベンチに腰を下ろす。 ……行き倒れとか、本気で洒落にならんからな。 正純は、往来の流れを見つめた。 今、正純は徒歩での登校の最中だ。 この街には四輪駆動の自動車を始めとして、見慣れないものもかなりある筈だが、不思議と迷いを感じる事はない。 着用している制服にしても、精神的にはともかく肉体的な違和感はない。気が利いている、と言うべきか。 それについて、思うところはあるが――。 「お」 自分と同じく、徒歩で登校してくる生徒達の姿。その中に、見知った顔があった。 後輩らしい女生徒と何やら語り合っていた彼女はこちらを見ると、女生徒に手を振ってからこちらへと向かってきて、 「おはよ、正純」 Jud.、と正純は頷いた。 「ああ。――おはよう、第四特務」 ● は? と、彼女が目を丸くした。 ……しまった! ついいつものノリで普通に挨拶してしまった。 ここにいる彼女は、正純の知る彼女ではないのだろう。 その背にある筈のもの――黒翼が見当たらない以上、それは明らかだ。 彼女は武蔵アリアダスト教導院の第四特務ではなく、月海原学園の一生徒なのだ。 一度呼吸を整えて、改めて挨拶する。 「あー……おはよう、ナルゼ」 「大丈夫? 顔色、変だけど」 「あ、ああ。最近、肥満体型の中年独逸軍人と同棲する事になってな。それでまあ、少し調子が悪いかもしれん」 『軍人と』の辺りから猛スピードでネーム切りを始めたナルゼを見て、この辺は変わらんなー、と少し安心する。 いや、安心するべきではないのかもしれないが。 「そう、調子悪いの。――じゃあアンタが朦朧としてる間にちょっとゴリ押ししたい事があるんだけど、いいかしら?」 「そこはもうちょっと包み隠せよ!!」 まあ、と一応頷く。 「とりあえず言ってみろ。……まともな判断力は残っているつもりだからな」 こちらの瞳を見つめたナルゼは、 「知り合いネタにして同人誌描いてるんだけど、それ今度の祭りで売り物にしていいわよね?」 「いいわけあるかあ――――――!!」 いかんいかん、大声を出しては怪しまれるか。しかしここは抗議しておくべき所だろう、常識的に考えて。 「言っとくけど私とマルゴットだけの話じゃないから。さっきの子、瀬尾って言うんだけど、そこのサークルとの合同。 ネタとしては、今回は女性方面。まず兎角と晴。それとユミルとクリスタ、黒子と御坂。基本と言えば基本ね。 で、それに加えて、羽ピンと蒼香、アサリとヤモト、雪子と千枝、カズと朱里、それから――」 「幾ら内容の解説したって決定が覆ると思うなよ……!」 というか知らない名ばかりだがここでは一体どんな交友関係を築いているのか。 そもそもこの外道なノリに巻き込んで大丈夫なのかこれは。いや、今名の上がった人物が全て学園に居るわけではないだろうが、大丈夫じゃないだろう確実に。 ナルゼは舌打ちを一つした後、 「会長のイッセーだと絶対アウトだろうから副会長狙いで行ったんだけど、やっぱダメか」 「何故私なら行けると思ったのか知りたいんだが……」 そのままこちらから背を向けたナルゼは、 「マキはサッキヤマとの組み合わせもアリだと思うのよね……」 などと呟きながら学園へと向かっていった。 ……なんだかなー。 その背を見送りながら、ふと、思う事がある。 「副会長、か」 生徒会に所属している、その立場を活用できる事もあるかもしれないとは思う。 ネシンバラ辺りなら『令呪の存在を秘匿するために生徒全員にオリジナルの紋章をその身に刻ませようよ!』とか提案するかもしれん。 だが、今思うのはそうではなく、生徒会の会長を務める人物の事だ。 「やはり、馬鹿はいないのだな」 あの馬鹿と、そしてホライゾンの存在は、武蔵の人間の中では非常に大きい。 だからこそ、先程の会話ではそこに大きな違和感を得た。 勿論この空間でも常時全裸だったり女装だったりワカメだったり餃子だったりされたら本当に違和感どころの話ではないのだが。 いや、いるとしたら即逮捕だろうから結果的に目に入らないだけなのか? そこは置いておこう。 ……それに。 外道分も足りていなかった。 何しろナルゼが許可など求める筈がない。というか実際無許可で制作販売されていたしな私の本。 ともあれ、 「やはり手抜きと言うかやる気がないと言うか、そんな印象も受けるが……」 ――否、そうではない。 聖杯はこちらの脳内に直接情報を伝えて、更には記憶を操作しているのだ。 そこまでやっておいて、あえて違和感を持たせるような世界の作り方をする。 それには、何らかの意図がある筈だ。まず考えられるのは、 「他のマスターとの兼ね合いか」 正純が存在していた環境は、ありたいていに言ってしまえば、かなり特殊なものだ。 あの狂人共を完全再現した場合、正純はともかくそれ以外の者が大いに困惑する事は疑いない。 ……しかし、新しく武蔵に来た連中は、割と馴染んでる事多いんだよなー……。 まあ何人かはあっさり適応してしまうかもしれんが、大抵はダメだろう。多分。 「まず、名前の時点で訝しがられるかもしれんしな」 正純は襲名に失敗した身ではあるが、名前はそのまま名乗っている。 また、先のナルゼのように、歴史上の人物にあやかった名も多い。 ナルゼの場合は、松平の武将である成瀬・正義、ないし次代の成瀬・正成だが、 「私の名は、……どうなのだろうな」 本多・正純という人物は、それほどメジャーとは言えないが、かといってマイナーとも言えない。 その名の持つ意味に気付く者もいるだろう。 無論、そうでない者もいるだろうし、それこそあやかっただけだと思われる可能性もある。 ……流石にサーヴァントが学生になってるって発想する奴はいないよな? いない、と断言できないのが怖いところだ。 何にせよ、 「マスターは、この冬木という土地――二十世紀前後の日本の環境に慣れている者が多いという事か」 こちらは、そういった者達に合わせられたと見るのが自然だ。 そうは言っても、本戦まで進んだ者の大半がこの時代の者だとは限らない。正純のように、違和感を持ったが故に記憶を取り戻した者もいるだろう。 「それに、……ヒントを与えている、という事もあるか」 『元と何ら変わりない環境』を用意された場合、そこから抜け出す事は困難になる。 聖杯戦争は、あくまでも参加者同士の戦いがメインだ。 気付くか気付かぬか、微妙な範疇でヒントを与えてくるというのは考えられる。 だが、腑に落ちない点もある。 「何故、この舞台を継続して使っているのか、だよな」 戦いと、その勝者のみを求めるのなら、予選が終了した時点で新規に専用の舞台を作った方が管理が楽であるのは明らかだ。 過度のNPCの殺害の禁止を始めとする、参加者の行動を抑制するルールを用意してまでこの舞台を引き続き使う必要はない。 NPCの殺傷が咎められない場合は、無差別な大量破壊を可能とする宝具を持つサーヴァントが有利となる可能性はある。 互いに準備を整えた上で一対一で戦う決闘方式の場合は、正面からの戦いを苦手とするサーヴァントが不利となるだろう。 だが、そもそも真に公平なルール、取り決めなどというものは存在しないのだ。 故に武蔵でも正純は自陣営が有利となるように交渉を行ってきて結果的に戦争になったりした。うむ、別に好きで戦争に持ち込んだ訳ではない。 しかし正純と違い、聖杯はあらゆる参加者よりも上の立場にいる、いわば主催者だ。 単に管理を行いやすいようなルールを制定すれば、それでいい。 そもそも、本当にルールを順守させたいと言うなら、もう少し強制力を高めるべきだ。 極端な話、監督役という監視者を置く以前に、予選の段階で記憶を操作したように、最初からルールを破れないように行動を制限してしまえばいいのだから。 逆に言えば、 「それでもこの舞台で、このルールで戦いを行わせる理由がある」 ……思い当たる事はある。 それは、 「――再現だ」 聖杯は時代を越えて、人物を、土地を、英霊を、あらゆるものを再現している。 この聖杯戦争そのものも、その再現の一環であったとしたら。 そのルールも、何時か何処かで行われたであろう聖杯戦争のルールを再現しているのだとしたら。 人類が再び天上へと登るため、聖譜に則って歴史再現を行ってきたように、 「聖杯は、聖杯戦争という事象を再現する事で、自らの望むものを観測しようとしている訳か」 また、聖杯による再現は完全なものではなく、ある程度の解釈が含まれている。 例えば、ライダーはかつて自身の部下であった戦鬼の徒をサーヴァントとして召喚するという宝具を持つ。 しかし生前のライダー――少佐は、そのような能力は有していない。あくまでも、最後の大隊の指揮官として彼らを率いていただけだ。 こういった事は、歴史再現を行う襲名者達の間では全く珍しい事ではない。 ごく一部を挙げるだけでも、異端の術式である"地動説"と"天動説"を用いて戦闘を行うK.P.A.Italiaのガリレオや、傭兵王ヴァレンシュタインとの二重襲名で亡霊戦士団"加賀百万G"を使役するP.A.ODAの前田・利家などがいる。 それに二つの球を合わせてチューチューして何度も引っ張って街中を大騒ぎにした"マクデブルクの半球"のゲーリケも直接交渉した事もあって記憶に残っている。そういえば彼も独逸人だったな。 過去の時代にも"兵士同士の結婚"を推奨したバレンタイン司教や、アキレスと亀のパラドクスの実験中にアキレス役が亀に追い付きそうになったのでアキレス腱固めをかけて実力阻止したゼノンが存在していた。 これらと同じものとして見ていいかどうかは、かなり、かなり微妙なところだが、何にせよ聖杯は完全な再現を行っている訳ではない。 つまり――。 「こちらが行う“解釈”もまた通用する。少なくとも、聖杯は解釈を行っている。意思がある」 この推論が正しいとも限らない。聖杯との交渉以前に行うべき事も山とある。それでも、交渉材料は見えてきた。 ……しかし、その為に、調べねばならない事があるか。 正純は、学生鞄からノートを取り出し、そのページ上に鳥居型の表示枠《サインフレーム》を展開。 周囲からはノートに書き込みを行っているように見せながら、表示枠にメモを取っていく。 それが終わった後に、新規に画面を表示する。 行うのは実況通神《チャット》だ。 その相手は、 副会長 『――いいだろうか、少佐』 戦争狂 『構わないとも、武蔵副会長』 正純が学園にいる時間帯、ライダーとは別行動を取っている。その理由は単純なもので、共に行動するメリットが薄いからだ。 仮に正純がマスターである事が既に把握されていたとしても、諸々のリスクを考えれば、日中の学園内で真正面から堂々とこちらに仕掛けてくる相手はいないだろう。 だが、周囲に人がいない状況など、襲撃者にとっての好条件が整った場合はどうか。 "暗殺者"という、そのものズバリのクラスのサーヴァントが存在している以上、警戒はしておくに越した事はない。 一般的なサーヴァントであれば、そういった事態に備えたり、逆に相手を牽制する為に、霊体となってマスターに同行するのが定石なのだろうが、 ……ライダーは、そのどちらも無理だからなあ。 "戦鬼の徒"を常時展開すれば話は別だろうが、それはあまりにも非効率的だ。 幸いと言うべきか、ムーンセルの解釈によるものか、ライダーも単独で表示枠を表示させることができる。 通神帯《ネット》の機能には多少制限があるようだが、冬木市の情報に関しては問題なく検索が可能だ。 それならば、正純は十全に注意を払いつつ学園に向かい、ライダーは自宅に待機し別方面で情報収集を行うというのが落とし所になる。 そして何か発見などした場合は、互いに連絡を取り合う事になっていた。 ● 戦争狂 『――再現、か。成程。で?』 それが、 戦争狂 『それがどうした? 聖杯には意思がある感情がある願望がある、プログラムに沿って動くだけの機械ではない。ああそうだろう、そうだろうとも。 そうでなければ、私のような君のような者を放置しておくまい。反攻もまた聖杯の望むところなのだろうさ。それを再確認したところで、何を言いたい』 表示枠に映されるのは、挑発的ではあるが、続きを促す言葉だ。 副会長 『今後、如何なる情報を重点的に集めていくか、……それについて提案をしたい』 息を吸い、身体に冷気を入れつつ、正純は文字をタイピングしていく。 副会長 『私は、再現元である聖杯戦争についての調査を行いたいと考えている』 いいか? 副会長 『聖杯が真に万能の願望機であり観測機であるのなら、このような試みを行う必要すらない筈だ。とはいえ、聖杯の演算能力そのものに関しては疑う余地はない』 ならば、 副会長 『一見しただけでも参加者間の公平性が保たれているとは決して言えず、穴も多いルールで行われるこの聖杯戦争。 莫大な能力を持つ聖杯が敢えてそのような方法で“観測”を図ろうとするからには、表には出ていない、隠された何かがある筈だ。 交渉にしろ戦争にしろ、聖杯に挑むに際して、それを知っておくべきだと思う』 戦争狂 『では、監督役に接触するか? 敗北主義者のように頭を垂れるか、ゲシュタポのように尋問にかけるか、方法は政治家に任せるとしよう』 自身の顔に苦笑が生じた事を、正純は知覚した。 ……解った上で言っているな、これは。 副会長 『方法はともかく、……いずれ対面せねばならぬ相手ではあるだろう。しかし、情報提供は期待できないな。 特定の陣営に肩入れを行うようでは公平な監督役とは言えないし、現状の我々の戦力では戦闘に持ち込む事すら出来まい。 ルールに抜け道があるように、監督役にも隙がある可能性は、勿論ある。だが、今の段階で目を付けられるのは回避したい』 戦争狂 『ならば、どうする。どうするどうするどうする、君ならどうするねお嬢さん《フロイライン》』 副会長 『――他のマスターとの交渉。それが現時点で有効な一手だろう』 続ける。 副会長 『それも、私のように巻き込まれた者ではなく、自ら望んで方舟へと乗り込んだマスターとの交渉だ。 準備を整え、必勝の態勢でこの戦いに挑んだマスターならば、事前に聖杯戦争についての知識も得た上でやって来たと推測できる』 正純は、そこで一旦息を吐いた。 ……言葉にしてしまうのは簡単なんだが、な。 副会長 『無論、交渉に至るまでには様々な障害があるだろう。まずは捜索から行う必要があるし、そのマスターについての調査も必要だ。 都合良くこちらの望む情報を持っているとも限らないし、更に他のマスターに接触したり、行動によって我々の正当性を高めたりする必要があるかもしれない。 そういった過程をすっ飛ばして交渉に当たらねばならないような事態も考えられる』 だが、 副会長 『だが、この方針自体最初から決定されていた事だ。あくまでも優先的に接触すべき相手についての話だと、そう思って頂きたい。 出会ったマスターが、喪失を望まず、ただ生存を願う相手であるのならば、当然ながら協力を持ちかけていく』 戦争狂 『ふん、いいだろう。では――ひとつ聞こうか』 ――来るか。 幻視する。 表情を読み取らせない眼鏡のその奥にある、狂気を含んだ瞳。 首を傾け、両腕を大きく振り上げ、演説でも行うようにこちらに語りかける、その姿を。 戦争狂 『自ら戦争に臨んだ、彼の、彼女の、あるいはどちらでもない者の望みを。聖杯などという化物に縋り付かねばならなかった感情を。 悲嘆を淫蕩を嫌気を強欲を虚栄を傲慢を憤怒を暴食を嫉妬を、君は受け止める事ができるのかな』 「――――」 戦争が始まった今となって、改めて問われている。 他者を喪失させる事でしか叶えられぬような悲願と、その覚悟を持った相手。 その相手と如何にして交渉を行うか、ではなく。 その身をもって相対する事は出来るのか、と。 「……決まっている」 打ち込むのは、ただの一語だ。それは、 副会長 『Jud.』 ● Judgement.――ああ、我ら聖罰を受ける者なり。 副会長 『何度でも言おう。私は、喪失も、それによってもたらされる救いも、認めない』 可能性を食らいて行く被罰者なり。 副会長 『聖なる遺物であろうが、それに願いを託す者であろうが、認める事はないだろう』 されど我ら、――悲しみを与えぬ者達なり。 副会長 『故に私は、この聖杯戦争を“解釈”する。あくまでも聖杯がそれを認めないというのであれば――』 副会長 『戦争をしよう。一心不乱の大戦争を』 ● 戦争狂 『ならそうしよう。今しばらくは政治家に表舞台を任せるとしよう。何、雌伏だって慣れているし、後に待つものを思えば中々楽しいものだ』 ……まったく。 本当に、ごく当たり前の事を再確認しただけ、という風だ。 手強い相手だと、改めて思う。 とはいえ、確かに今やった事と言えば、情報収集の方針について伝えただけではある。 もう少しコミュニケーションというものを取ってみるべきかもしれない、とは思うが、 ……急がねば、授業が始まるか。 副会長 『そろそろ、こちらは時間になる。そちらも、何かあったら連絡を寄越してくれ。出来る限りは返答を返すつもりだ』 戦争狂 『征くがいいさ武蔵副会長。良い戦争が出来るようにな』 その時正純は、こう思った。 ……こういう時、最後に何か、言っておくべきだよな。 ネタならある。 ライダーに出会った当初から考えていたものだ。 ――よし。 副会長 『では、最後の大隊の指揮官よ。――だいたい、そんな感じで頼む』 ● 十数秒の沈黙の後、手刀で表示枠を叩き割ってから正純は立ち上がった。 ――よし。 何がよかったのかは解らんが、まあよしだ。 交差点を曲がれば、すぐに校門が見えてくる。 正純は一度伸びをして、 「――行こう」 呟きと共に、一歩を踏み出した。 【C-3/月海原学園付近/一日目 早朝】 【本多・正純@境界線上のホライゾン】 [状態]空腹 [令呪]残り三画 [装備]学生服、ツキノワ [道具]学生鞄、各種学業用品 [所持金]極貧 [思考・状況] 基本行動方針:他参加者と交渉することで聖杯戦争を解釈し、聖杯とも交渉し、場合によっては聖杯と戦争し、失われようとする命を救う。 1.マスターを捜索し、交渉を行う。その為の情報収集も同時に行う。 2.聖杯戦争についての情報を集める。 3.可能ならば、魔力不足を解決する方法も探したい。 【C-3/正純の自宅/一日目 早朝】 【ライダー(少佐)@HELLSING】 [状態]健康 [装備]拳銃 [道具]不明 [所持金]不明 [思考・状況] 基本行動方針:聖杯と戦争する。 1.暫くは待機し、通神帯による情報収集を行う。 BACK NEXT 044 POINT OF VIEW 投下順 046 何万光年先のDream land 044 POINT OF VIEW 時系列順 046 何万光年先のDream land BACK 登場キャラ NEXT 015 本多正純&ライダー 本多・正純&ライダー(少佐) 070 ソラの政治家達
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昭和戦中期① 皇紀2599(昭和14/西暦1939)年 9月1日 ナチス・ドイツ軍、神聖イシュトヴァーン王冠帝国領オーストリアに対し侵攻。以前より警戒していた王冠帝国軍は苛烈な迎撃戦闘を行うも、機動力と戦力の集中の点で勝るナチス・ドイツ軍の前に大損害を出して遅滞防御に走る。 9月3日 大日本帝國、神聖イシュトヴァーン王冠帝国への援軍派兵を即時決定(飽くまでもナチス・ドイツは正当政府ではないため国交が無く、宣戦布告は行わなかった)。内戦が終わったばかりのイスパニア帝国の安定の一助としてバルセロナ近海に在泊し(主に要注意対象であるフランスに対して)睨みを利かせていた遣欧艦隊をイタリア近海まで急行させ、イタリアの了解を取り付けた上でその呆れるほど長大(過大)な航続距離を活かし、艦載機をイタリア半島を横断させ王冠帝国領オーストリアの飛行場まで先遣隊として派遣。既に同地で繰り広げられつつある航空戦(特にザルツブルク)に介入を開始。先の欧亞不可侵条約に基づき欧亞連合軍を結成し、欧州に於ける総司令部をウィーンに開設。 9月17日 初手こそ譲ったために侵攻を許したものの、王冠帝国領オーストリアの国境線を数十キロ下がった所で進軍を停止させた欧亞連合軍に対し、ナチス・ドイツ軍が王冠帝国領オーストリア以外の各地でも長大な国境線を突破。更に後背からソ連がポーランドに殴り掛かり、欧亞連合軍は一気に窮地に立たされる。 9月27日 中国共産党人民解放軍が第一次支那事変時の停戦線を各所で突破。内戦に明け暮れて各方面と睨み合いになっていた各地の軍閥は各個撃破の危機に晒される。 9月28日 相互援助条約と軍隊の駐留権を要求するソ連の最後通牒を、エストニアは拒否。 10月5日 相互援助条約と軍隊の駐留権を要求するソ連の最後通牒を、ラトビアは拒否。 10月6日 ポーランド・リトアニア間の連絡線が独ソによって分断される。 10月10日 相互援助条約と軍隊の駐留権を要求するソ連の最後通牒を、リトアニアは拒否。 10月15日 大日本帝國、日ソ国境線を固めつつ本土主力を満州に移動。準動員を下令。 11月 ソ連はフィンランドに対し、レニングラードの安全保障上の問題を理由に、フィンランド湾の島嶼とカレリア地方の割譲等を要求する最後通牒を行い、フィンランドは拒否。 大日本帝國、遣欧軍出航。英本土への防空部隊を中心とした航空戦力を満載した輸送船団と、突貫工事で数を間に合わせた護衛艦艇で構成。 11月30日 ソ連がバルト三国とフィンランドへ侵攻。 12月 フィンランドとバルト三国はソ連軍を寡兵で以て撃退。その間にグレートブリテン軍がスカンジナビア半島を横断し援軍としてバルト海に到達。ソ連領で唯一バルト海に接するレニングラードを巡り、ソ連軍との間にバトル・オブ・バルト(BOB)が繰り広げられる。一方、同じ人民戦線陣営であるフランスの不気味な沈黙を警戒していたため、北海からの攻勢によって戦力を誘因出来ないことから、南北の連絡線を断たれ東西から徐々に削られるポーランドに対し、グレートブリテンは有効な支援を行えず、本格的な動員を待つことになる。 皇紀2600(昭和15/西暦1940)年 1月 大日本帝國、遣欧船団第一陣が神聖イシュトヴァーン王冠帝国に到着。その数は機械化二個師団と一個航空艦隊にも及び、到着直後から戦闘に加入。ナチス・ドイツの大機甲部隊との間に第二次ザルツブルク攻防戦を生じる。 2月11日 第二次ワルシャワ攻防戦。ワルシャワ前面に展開する連合軍に突進するソ連軍を、ポーランド軍を主力とする騎兵(とは名ばかりの高速機械化師団)が半包囲し火力戦を挑む。一週間の攻防の末、弾薬の著しい消耗と引き換えにソ連軍を撃退する。 ソ連軍、フィンランド戦線に於いて総攻撃。大日本帝國は極圏航路で送り込んだ航空隊でコラ半島を空襲しフィンランド戦線のソ連軍地上部隊を襲撃。更に本国で大増産中の航空機を新米搭乗員の育成も兼ねて空輸に使う荒業で大量に持ち込む。 2月14日 日本軍事顧問団の援助を受ける張作霖軍、北京東方で中華人民解放軍と交戦。 2月23日 張作霖軍と交戦した人民解放軍、機械化された張作霖軍に包囲殲滅される。 3月13日 足掛け1か月余りの攻防でソ連軍は激甚な損害を蒙りフィンランド侵攻は頓挫。元の国境線まで押し戻される。代わりにバルト三国への攻勢を強めるが、ポーランド=リトアニア間の再連絡を棚上げしバルト三国の防衛に先ずは心血を注ぐBOBでは、予てから(それこそロシア革命での独立以来)半ば要塞と化していた所に(ドイツを警戒してバルト海に艦船を入れられないものの)北海からスカンジナビア半島を通じて物資と兵力を送り込んだグレートブリテン軍が資本主義の本領を発揮しており、圧倒的兵数(≠兵力)を擁するソ連軍と互角に戦っていた。 3月16日 第一次山西省の戦い。人民解放軍と張作霖軍による睨み合いに終始。 4月9日 ナチス・ドイツがデンマークに侵攻。スウェーデンからの鉄鉱石輸入に大きく依存しているナチス・ドイツが北欧を席捲しようとしていると見たグレートブリテンは集結させた本国艦隊を大挙出撃させ、デンマーク救援に向かう。 4月10日 第二次ユトランド沖海戦。ナチス・ドイツのデンマーク占領阻止に出撃したグレートブリテンの本国艦隊、今まで閉塞していた、第一次世界大戦以来の旧式艦を主力としていたナチス・ドイツ艦隊を捕捉し艦隊決戦に及ぶも、本来の艦隊主力を囮として水面下に潜む潜水艦達の「殺し間」に誘い込まれ、止めにナチス・ドイツの最新鋭艦「ビスマルク」の砲撃を受け、伝統の水雷防御に於ける欠陥設計が露呈。戦艦の半数が撃沈または大破する大損害を蒙る。 4月13日 デンマークに取り残された連合軍、ナチス・ドイツ軍の攻勢を辛うじて撃退するも、激しい空襲に晒される。 スウェーデン海軍、バルト海に機雷を敷設。キール以東へのナチス・ドイツ軍艦艇の移動に制限を掛け、バルト海の制海権で優位に立つ。 4月14日 グレートブリテン空軍、ヴィルヘルムスハーフェンを空襲しドック内で建造中の大型艦(空母グラーフ・ツェッペリンの艦体)を擱座させる。 4月18日 第一次貴州の戦い。人民解放軍をグレートブリテンが支援する華南軍閥が迎撃。激しい塹壕戦となる。 4月27日 第二次山西省の戦い。張作霖軍が人民解放軍を強襲したものの、消耗戦となり半壊。 5月10日 ナチス・ドイツ、エルザス=ロートリンゲン王国に侵攻。三方面作戦を実施。これに刺激されたフランスも現場軍人の独断という形でエルザス=ロートリンゲンに侵攻。エルザス=ロートリンゲンは何の通告もないままに侵攻する両軍に対し激しく抵抗するものの、独仏の緩衝国として設定されたに過ぎない小国が両大国に抗し切れる筈もなく、5月15日には両者に対し降伏を宣言したものの、ナチス・ドイツ軍とフランス軍がそのまま交戦状態に突入したため、エルザス=ロートリンゲン王国の降伏は無視・黙殺されることになる。 5月12日 第三次山西省の戦い。日本陸軍遣支方面軍が本格的に戦闘に加入。機体性能と練度もあり数だけは多い人民解放軍の航空部隊を手も無く捻り潰し、華北の人民解放軍を沈黙させる。 5月20日 ナチス・ドイツがベネルクス三国に侵攻。オランダ、ベルギーの両王国が連合軍への参加と救援要請を表明。 5月26日 連合軍はダイナモ作戦を発動。グレートブリテン軍がナチス・ドイツの潜水艦が待ち受けているのを承知での低地諸国への揚陸作戦を実行。 5月30日 グレートブリテンの本国艦隊が威信を賭けた護衛作戦を行ったことと、オランダ・ベルギー両軍の粘り強い抵抗もあり、ナチス・ドイツのベルギー南部貫通を許したもののダイナモ作戦はグレートブリテン軍を主力とする上陸部隊の揚陸を完遂し、オランダとベルギー北部の死守に成功する。一方、連合軍の上陸までにベネルクス三国の撃破が間に合わなかったナチス・ドイツ軍はベルギー南部を突破し、連合軍の南下による分断の危険を冒しつつも、エルザス=ロートリンゲンに攻め込んだフランス軍の包囲殲滅に動く。 6月9日 「コルマールの悲劇」発生。エルザス=ロートリンゲン争奪戦を繰り広げるフランスとナチス・ドイツの両軍が、無防備都市宣言を行ったコルマールの占領を賭けて突進し、ほぼ同時に到達。両軍が郊外で衝突すると共に、市街に雪崩れ込んで自軍への協力を強要。拒んだ市民は敵軍協力者としてその場で射殺されるなどの凄惨な戦いとなる。背景には機動包囲されつつあるフランス軍主力が、政権の面子に掛けてエルザス=ロートリンゲンの占領を完遂させる必要に迫られており、戦略的撤退を実行できなかったことから、一刻も早くエルザス=ロートリンゲンを占領し、ナチス・ドイツ軍主力に正対しなくてはならないという焦りがあったことにあると考えられている。 6月14日 「コルマールの悲劇」を察知した連合国、「やっていることが変わりない」としてフランスに対し国交を断絶。対独戦に於いて協同しているわけではないものの、敵の敵である潜在的味方から背中を撃たれた形となったフランスは連合国を痛罵。ナチス・ドイツ宣伝省は(自らの行いは棚に上げて)フランスの行いに対する自らの正当性を声高に叫ぶものの、連合軍がナチス・ドイツ相手の戦闘で手加減することも無かった。 6月19日 第二次貴州の戦い。互いに戦車部隊を主力とした華南軍と人民解放軍の機動戦。泥縄式に戦闘規模が肥大化したため、双方とも統制不能となり泥沼化。 6月28日 マルセイユ沖をイタリアのラ・スペツィアからイスパニアのバルセロナへ向けて航行中だった日本の遣欧船団の支隊が、トゥーロンから出撃したフランス艦隊の執拗な追跡を受ける。地中海に於いて遣欧船団を護衛するイタリア艦隊主力との睨み合いに。 7月3日 アメリカ東海岸を出港した輸送船団がフランス・ビスケー湾各地の港湾に大挙入港。アメリカは自らを「民主主義の兵器廠」と称し、「民主主義によって選ばれたる人民戦線内閣」の全力支援を宣言。連合国の対仏開戦に漏れなく自国からの宣戦布告が憑いて回ることを示唆。連合国に釘を打ち込む。 7月24日 第三次ワルシャワ攻防戦。ウクライナとリトアニア方面からの増援が戦略機動包囲を行いソ連のワルシャワ攻撃軍を圧迫。 8月12日 エルザス=ロートリンゲンに侵入したフランス軍の後方をナチス・ドイツ軍が遮断。半包囲を解こうとフランス軍がパリ前面に展開した主力で側面からの挟撃を図る。 8月23日 第三次ワルシャワ攻防戦、ナチス・ドイツ軍に対し守勢を取りつつソ連軍に対し攻勢を取ったリトアニア方面軍が独ソに分断されたポーランド・リトアニア間の連絡線を突破。南側からウクライナ方面軍がソ連軍を攻撃しつつワルシャワに突進。包囲を逃れたソ連軍は一時転進(撤退ではなく転進)。 9月1日 第一次キール運河攻防戦。キール軍港から北海へ抜けるナチス・ドイツ軍艦艇の唯一の移動経路であるキール運河の閉塞を狙って空襲を仕掛けた連合軍と、空襲を悟って近隣飛行場に先制奇襲攻撃を仕掛けたナチス・ドイツ軍の戦い。レーダーで空襲を奇襲を察知した連合軍は守勢に立たされ、爆撃機の大半が退避に失敗。一方、ナチス・ドイツ軍も激しい航空消耗戦に陥る。 9月5日 連合軍、転進するソ連軍を追撃しソ連に侵された失地を回復。軍部が実権を掌握しクレムリンを制圧する政変が起こり、スターリンが失脚。猛烈な内ゲバに。 9月13日 ソ連軍の積極的攻勢が停止。支那大陸での戦闘も鈍化。 9月19日 ケーニヒスベルクの戦い。抑えを残して従来の国境線での対峙に移行した対ソ戦線から、対ナチ戦線へと転身したリトアニア方面軍が、東プロイセンのナチス・ドイツ軍との本格戦闘に突入。ポーランド方面軍の戦力回復時間を捻出する。 9月27日 ソ連共産党は「スターリン専制主義を幇助」し「人民に塗炭の苦しみを味わわせた専制主義に回帰させんとした不法結社」であるとして、軍部が立ち上げた臨時政府たるソ連軍事評議会はソ連共産党を解散。軍部が擁立したレフ・トロツキー率いるソビエト連邦社会党が形式的に多数派を形成し、最高会議の第一党に躍り出、組閣する。 10月5日 カリシュの戦い。従来の国境線に近いナチス・ドイツ占領下にあるカリシュの回復を目指し、ソ連軍への備えを残したウクライナ王国軍のほぼ全力がポーランド方面軍として加入。 11月5日 本格動員を終え十分に訓練された日本陸軍が一個航空艦隊と共にプラハ入城。ドイツ東部の工業都市であるドレスデンを守るナチス・ドイツ軍との本格戦闘に突入する。 11月18日 ソ連と連合国は停戦に合意。正式な講和条約の締結へと動く。 12月 日本海軍、長門級、金剛級「比叡」「榛名」の近代化改装を終える。入れ替わりで「金剛」「霧島」が近代化改装に入る。 12月8日(米国時間で12月7日) ビスケー湾に於いてフランスに軍需物資を運び込んでいたアメリカの輸送船「リバティ号」が雷撃を受け沈没。これを口実として、アメリカがナチス・ドイツに対する本格的戦争状態への突入を宣言。フランスに対し「武器貸与(レンドリース)法」を可決し事実上無制限に無尽蔵の支援を行うと共に、「何故か」本国で待機していた陸軍部隊を満載した輸送船団を発する。 皇紀2601(昭和16/西暦1941)年 1月 アメリカ、対独戦備を口実に更なる軍備拡張案を可決。一方、北大西洋上に於いてアメリカからの船団「のみ」を狙ったナチス・ドイツの潜水艦が殺到し輸送船団は大打撃を蒙る。 2月1日 府米協定調印。グレートブリテンとアメリカは互いをナチス・ドイツに相対する友軍であることを認め、互いに敵対的行動を少なくとも「ナチス・ドイツが打倒されるまで」取らないことを相互に確約。抜け駆け的にアメリカ(そして不穏な動きを見せていたフランス)との関係改善を行ったグレートブリテンに対し、連合国の中では不満が出たものの(特に地中海で衝突しかけた日本とイタリア)、目下差し迫る脅威はナチス・ドイツなので、押し隠しつつも轡を並べて戦っていくことになる(但し、従来からの「連合国」は一度たりともフランス戦線からナチス・ドイツとは戦わなかった)。 3月 第二次キール運河攻防戦。グレートブリテンから移動した一個航空艦隊がキール運河を破壊。キール軍港に残存する有力艦艇を殲滅。キール運河を挟んで両軍の激しい塹壕戦に。 3月13日 リガ講和条約。連合国はソ連に対して求めた「レニングラードを含むバルト海に於ける非武装化」こそ得られなかったものの、戦前の国境線に戻し、レフ・トロツキーからは「革命の輸出」「世界革命論」の撤回と一国社会主義への転向、尚且つ国境線からレニングラードを除いた30km圏内のソ連側を、非武装地帯として軍隊の配備を規制する内容での締結に成功。徒に他国への革命輸出を図らない方針へと転換し、当面の間、欧州と支那大陸と国境線での睨み合いに於ける軍事力の積み上げを行わずに済む予測が成り立ったことを以て、日府両国は当面の間ソ連に対する矛を収めることになる。 6月6日 アメリカ軍はノルマンディーに一個軍を揚陸。 6月9日 ナチスドイツはバルバロッサ作戦を発動。北海の制空権を航空戦力の全力出撃による飽和攻撃で確保し、府仏海峡を残存する艦艇の全力で突進し、上陸中の米軍を撃破し戦意を挫こうとするもの。戦略的にも戦術的にも低地諸国を陸海空一体となって攻撃した方が合理的で成功率も高く、末期戦に有り勝ちな視野狭窄に拠る所が大きい。当然ながら、カイザー・シュラハトよりも更に無謀な作戦だった。 6月11日 第三次ユトランド沖海戦。互いの航空戦力が北海上空の制空権獲得競争に拘束される中、ヴィルヘルムスハーフェンを出港草々に捕捉されたナチス・ドイツ艦隊と、グレートブリテン艦隊が艦隊決戦。遮二無二突破を図るナチス・ドイツ艦隊が死兵と化し激しく突進。激しい海戦となり、グレートブリテンは戦艦「フッド」を撃沈されるなどの大打撃を蒙るも、ナチス・ドイツ軍の主力であった「ビスマルク」「ティルピッツ」の両艦を大破漂流に追い込み、作戦目的達成前に壊滅させる。 6月12日 北海上を大破漂流中の「ビルマルク」「ティルピッツ」、連合軍に降伏し鹵獲され、連合軍に同道していたドイツ帝国軍によって武装解除。 6月14日 バルバロッサ作戦発動により対仏戦線の突破を図ったナチス・ドイツ軍、パリ正面のフランス軍主力を撃破しパリに迫るも、アメリカの供給する潤沢な重砲を装備したフランス軍の守備が土壇場で間に合ったことと、何れの戦線でも完全な突破に失敗し必要とする資源地帯を得られなかったことからくる物資の不足もあり、パリを前にして攻勢が停止。逆に突出部となって包囲撃破の危機に。 6月30日 重武装の日本陸軍を中核とした連合軍オーストリア方面軍、国境を突破しミュンヘンを守備するナチス・ドイツ軍の南方軍集団との間にローゼンハイム会戦を展開。 7月3日 アウグスブルク蜂起。アウグスブルクを中心にカトリック教徒が半ばローゼンハイム会戦に呼応する形で暴動。 7月6日 アウグスブルク蜂起が全土に波及。ナチス・ドイツ、親衛隊(SS)を除いた全軍部隊が、暴動の鎮圧命令を無視し自衛以外の戦闘行動を停止。 7月9日 パリ前面に迫っていたナチス・ドイツ軍、アメリカ軍を前に撤退を開始。 7月10日 ベルリン政変。総統官邸が爆破されヒトラー以下ナチス幹部が十把一絡げに暗殺される。ドイツ臨時政府が立ち、臨時政府首班にエルヴィン・ロンメルが就任。連合国に対し停戦を申し入れ。エルザス=ロートリンゲンからの撤退を開始。 7月11日 アメリカは「無条件降伏以外は認めない」旨の声明を出すも、「不当に国土と国権を占拠する不法集団」を除き暫定的に秩序を回復した者さえも殺めようとするのかと連合国から反発を受け、ドイツ皇帝ルイ・フェルディナント一世から「我が国の叛乱状態が自らの力によって鎮圧に向かっている以上、不法占拠者が降伏するのは自分であるべきであって他国に対してではない」旨の関係筋からの発言を受け、発言撤回に追い込まれる。 7月15日 アメリカ軍の本格的戦闘開始を前に、ドイツ臨時政府がドイツ皇帝に対する降伏とそれに伴う叛乱の収束を宣言。以降、事実上の戦争状態を終わらせるための交渉(具体的にはドイツ帝国を通じたドイツ叛乱勢力であるナチス・ドイツの侵攻に対する補償)へと舞台が移る。 7月17日 連合国がオランダ・ベルギー全土を回復。ドイツ本土に連合軍を伴って上陸したルイ・フェルディナント一世に対し、ドイツ臨時政府首班であるエルヴィン・ロンメルが改めて降伏を宣言し武装解除を行う。 7月23日 ポツダムに於いてナチス・ドイツとの交戦国と、統治を回復したドイツ帝国との間に、戦争状態の終結を目指すポツダム会談が持たれる。国境線に於いてはナチス・ドイツ政権が成立する前の状態に回復することが最初に決められたものの、激しい戦闘で政府が消滅したエルザス=ロートリンゲンを巡り、自らの統治下に置きたいフランスと、何らかの緩衝国を置いておきたいドイツとの間で紛糾。更に補償問題でも特に東欧諸国と揉め、更に動き出したばかりの戦時生産の勢いを保ちたいアメリカが首を突っ込んで事態をややこしくする。 7月26日 ドイツ帝国、アフリカ植民地をフランスに割譲し、大規模な軍縮を実施。国内に残存する兵器の内最低限を残した一切合財を現物賠償として譲渡し、主に連合軍と遣り合って破壊された国内インフラの復興に、アメリカから借款を受けて将来利子付で返すことでその利子分を賠償とする内容で、一応の講和条約を締結。交戦国と共に講和が成ったことを発表(ポツダム宣言)。これにより、第二次世界大戦の前半戦とも言える、1939年から1941年までの三年弱戦われた「三年戦争」が終結する。 しかしながら著しく低下した軍事力は、第一次世界大戦以来の仇敵であり、経済的に上手く行かず、アメリカ参戦の出汁にされて存在感の低下が著しく、その上イスパニア内戦での行いから連合国からは常に疎外感を感じているフランスからすると、格好の獲物としか映っていないのは明らかだった。しかもナチスに煽動され無様に瓦解したドイツ国民には、帝室が残存しているとは言え、今更帝室に阿っても居心地の悪い思いをせざるを得ず、最早合わせる顔も無いといった風体から、逆に統治者と非統治者との間に隙間風が吹く様になる。また、周辺諸国との間にも安易な煽動に乗って戦禍を撒き散らしたことから、第一次世界大戦以来の民族意識の高まりから来る対立的意識が醸成される。 統治者(王室)不在となったエルザス=ロートリンゲン王国は、ナチス・ドイツに一時占領されたルクセンブルク大公国に合同し、ルクセンブルク、エルザス、ロートリンゲンの三大公国を包括する永世中立国「ルクセンブルク=エルザス=ロートリンゲン王国」が新たに建国。領土化を目論み自国への併合論を唱えていたフランスの意見は退けられた。 尚、秘密条項として、支那事変で更に進行していた支那大陸各地の租界の要塞化と利権の切り売りは、抜け駆けによって他国を出し抜いたり、現地への大規模な進駐でもしない限りは暗黙の了解として黙認することが決定された他、支那大陸への一定以上の航続距離と搭載量を持つ爆撃機の輸出も禁じられた。 8月 本格的参戦直後に停戦・講和が発効したことにより、アメリカの軍需産業の株価は急落。既存計画分の内、艦艇については既存艦艇の更新という形で計画分の全ての建造が認められたものの、陸軍の動員は解除され、新型長距離爆撃機の生産は常識的な範囲に大幅に縮小される。この為、アメリカは倉庫でダブついた余剰兵器に関して、ソ連と、混迷を極める支那大陸の軍閥に売却することを決定。これに加え、国内軽工業の衰退に伴う代替的軽工業地帯をアメリカ経済が欲していたこともあり、軽工業設備それ自体が輸出されることに。またその陰で、対ナチス・ドイツ戦で多大な援助をアメリカから受けたフランスも、事実上アメリカ経済の軍門に下ったも同然の状態に陥る(代表例として、戦中にアメリカへ発注した艦艇の数々について、フランスはキャンセルを認められなかった)。 9月 アメリカ、レフ・トロツキー政権下のソ連を「秩序を回復し、専制主義を打倒し人民によって選ばれた正義の政府」の統治下にある国家とし、支那大陸には「混迷を極め困窮する人民に自衛力を与え、秩序と安寧を齎すため」として、武器売買契約を締結したことを宣言。 大日本帝國、欧州からの艦隊引き揚げを決定。航空艦隊に関しても連合軍の回復を待って順次撤退へ。・11月 対ナチス・ドイツ戦に備えて計画された軍備に加え、嘗ての軍縮条約時代の主力艦が更新時期に来ていることや、技術革新に伴う戦力の拡大(特に日本での旧式艦の徹底改装による再戦力化)から、対ナチス・ドイツ戦の終了に託けた軍備縮小会議の必要性を、各国の有識者が連名で唱えるも、それぞれの参戦経緯や戦場での行い、政府間での講和とは別に存在する国民感情から、潜在的に対立が残る各国の大多数の国民からは、戦争それ自体には否でも戦争を吹っ掛けられることを警戒した自存自衛意識の方が勝ったため、支持を得られず。総力戦体制こそ発動されないものの、少なくとも戦中に発動された軍備計画の大半は、進行速度を低下させながらも継続が是認される。 12月16日 日本海軍、大和級戦艦1番艦「大和」竣工。 皇紀2602(昭和17/西暦1942)年 1月 ソ連はスターリン政権下の重工業偏重路線を改め、農工業全般の均衡性を重視した成長戦略を策定。トロツキー政権を擁立した軍部自身が「富国強兵」路線を支持し、軍縮が進行する一方、長大な国境線を接する日本を鏡とした火力密度の向上へと特化していく。 2月 ルクセンブルク=エルザス=ロートリンゲン王国、シャルロット・アルデゴンド・エリザベート・マリー・ウィルエルミーヌが女王として即位し成立。豊富な鉄鉱石と石炭の産地を丸々抱え込む、ヨーロッパでも有数の工業・資源国に。政情の安定しないドイツと今一信用ならない人民戦線内閣が存続するフランスに挟まれるベネルクス三国は、関税同盟を結成する。 4月 大日本帝國、陸海軍の航空部隊を改組し空軍を創設。防空及び長距離爆撃任務に特化するものとし、地上部隊の直掩は陸軍、艦載機部隊及び対潜哨戒は海軍に委ね、輸送機は其々の需要に合わせて各軍が必要数を調達し、それらの上に方面軍司令部を創設して統合運用に当たらせるものとした。 6月26日 フランスの膠州湾租借地に入港しようとしたアメリカからの貨物船を、南シナ海上で日本海軍が臨検。船内からポツダム宣言に於ける秘密条項に反する性能の爆撃機が分解状態で発見される。 6月27日 大日本帝國はアメリカに対しポツダム宣言秘密条項違反を抗議するも、ルーズヴェルト政権は秘密条項の存在を「公表されていないものの存在など与り知らぬ」として、自らも締結国の一つであるにも関わらず存在しないものとして黙殺。(一応)秘密条項となっているため、大日本帝國も公に強く攻撃することは出来ず。 7月4日 アメリカは独立記念日に於ける演説に於いて、「友好国との軍事的交流」としてフランス植民地であるインドシナから西回りに各地を「親善訪問」する艦隊の派遣を発表。更に米仏同盟の一環として、比較的周囲から孤立した立地にあるインドシナ地域防衛に寄与すべく、在仏印米軍の創設をも視野に入れていることを仄めかす。ポツダム宣言ではインドシナ地域は支那大陸には含まれていなかったため、ポツダム宣言を理由としてアメリカを掣肘することも出来ず。大日本帝國では「白色米帝艦隊(グレート・ホワイト・フリート)の再現か」と警戒感が一気に上昇する。 7月29日 アメリカ陸軍航空隊が仏印・サイゴンに進出。 8月1日 アメリカは対日輸出を停止。 8月5日 日本海軍、大和級戦艦2番艦「武蔵」竣工。 10月30日 第二次上海事変。日本海軍が臨検を行おうとしたアメリカ船籍の貨物船が上海港で座礁。乗船を試みた日本海軍兵と銃撃戦の末、貨物船が爆沈。残骸から大型爆撃機用の航空爆弾が積載されていたものと推測され、アメリカのポツダム宣言違反が強く疑われたものの、アメリカは日本によって不当に座礁させられ撃沈されたと言い張り、両国の関係は急速に悪化していく。 11月10日 日米交渉開始。二度の臨検に於けるアメリカの不正輸出疑惑に対する調査結果の積み上げと追及、仏印への米軍駐留の撤回を求めるも、アメリカは「ポツダム宣言秘密条項など存在しない」「仏印派兵は米仏両国間の合意事項であって他国に対し何ら軍事的脅威を与えるほどのものでもなく、日本は過剰反応している」等、交渉を持つことそれ自体に積極的かつ真摯ではなかった。更に三年戦争中に計画・生産された武器を中心とした対仏ソ輸出による戦後の一時的な経済の躓きからの回復が、実際の所は三年戦争中の契約の履行を隠れ蓑にしたアメリカ自身の軍備拡張によるものであり、アメリカが日本との戦争を準備していることは、日本も含む諸外国も薄々勘付いており、それ故に尚のこと互いを頑なにしているのも交渉不成立の原因だった。 11月26日 大日本帝國の「対中輸出に於けるポツダム宣言秘密条項の誠実な履行」「仏印からの撤退」「これらを実行した上での正常な貿易関係の再開」を骨子とした最終案に対し、アメリカは「満州国の市場開放」「支那大陸の市場開放」「太平洋上に於ける航路解放」「太平洋に於ける軍縮」を骨子とする最終案(ハル・ノートと呼ばれる)を手交。更に在仏印米軍に旧式戦艦から成るアジア艦隊を編成・追加派兵した為、日米交渉は事実上物別れに終わる。 11月29日 日本海軍は、アメリカ合衆国を徒に刺激することを避けるために連合艦隊の下に方面艦隊を組織する形式を敷いていた太平洋方面の表面的平時哨戒体制を解き、連合艦隊の下に決戦型の部隊を組織する戦時体制への完全移行を決定。各地に分散配置している主力艦の集結を始める。 12月1日 日本海軍、大型爆撃機用航空爆弾を満載した膠州湾行のアメリカ船を拿捕。アメリカは大日本帝國に対し猛烈に抗議。日本もアメリカの不実を痛罵し両者は完全に決裂。 12月8日(日本時間) アメリカ合衆国は「度重なる日本の悪意ある行為」によって「アメリカ国民が犠牲」となり「交渉に於いて誠実な態度どころか痛罵した」ことを以て「アメリカの正義を示し政治的後進国である日本を民主化するため」、アメリカ・ワシントン時間12月7日16時を以て宣戦を布告。太平洋戦争勃発。
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●言葉(日本語)の起源(原始言語) ++++++++++++++++ 中学生や高校生を教えていると、 ときどき、こんな話しになる。 「大昔の日本語は、どうだったか」と。 大昔といっても、石器時代の話し。 あるいはそれ以前。 そのつど、私はこんな話しを生徒たちにする。 ++++++++++++++++ ●「イ」と「ウ」の世界 人類の歴史は、約20万年と言われている。 その中でも、新石器時代に別れを告げ、現在に見る文明社会に突入したのは、約5500年前。 そのころ黄河流域に黄河文明、チグリス・ユーフラテス川流域に、メソポタミア文明が生まれた。 もちろん地域差も大きかった。 黄河文明が栄えたときですら、その周辺の民族は、火を使うことすら知らなかったという。 いつだったか、台湾から来ていた東洋医学の先生が、そう話してくれた。 で、そういう世界では、つまり文明が始まる以前の人間は、どのようにして意思を伝達していたか。 その点、私たちが使っている日本語には、ひとつのヒントが隠されている。 「イ」と「ウ」である。 ●状態は「イ」、動作は「ウ」 これはあくまでも私の推察だが、ものの状態を表すときは、「イ」を使った。 「イ~」だったかもしれない。 あるいは発音は、「イ」に近いというだけで、もっとあいまいなものだったかもしれない。 その「イ」の前に、いろいろな名詞がくっついた。 たとえば「草」と「イ」で、「クサイ(草イ)」と。 それが「臭い」となった、など。 当初は単純な表現のみだった。 食生活や危険に関するものが多かったのでは? 「うま・イ」「まず・イ」「あぶな・イ」「こわ・イ」など。 それがやがて感情の表現へと発展していった。 「かなし・イ」「うれし・イ」と。 同じように動作を表すときは、「ウ」を使った。 たとえば「走る・ウ」「食べる・ウ」「切る・ウ」と。 だから原始の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、「イ~」「ウ~」というような言い方で、ものの性質や動作を表していた。 もちろん何らかのジェスチャも併用された。 「食べる」というジェスチャを示しながら、「ウ~、ウ~」と言っていたことは、じゅうぶん、推察される。 ●幼稚言語 私は似たような現象を、ときどき、幼児の世界に見る。 もう30年前になるだろうか。 私の近所のアパートに、若い家族が移り住んできた。 が、両親は共働き。 今で言う崩壊家庭。 2人の子ども(上が4歳前後の男児、下が2歳前後の男児)がいたが、保育園へも行かず、一日中、近所の広場で遊んでいた。 ときどき母親が仕事先から戻ってきて、何かの世話をやいていたが、それだけ。 その子どもたちの騒々しさといったら、普通ではなかった。 道路が遊び場だった。 そのときのこと。 私は2人の子どもが、独特の言葉を使っているのを知った。 三輪車は「シャーシャー」、 押すは「ドウドウ」、 コロ付きの台車のようなものをもっていたが、それは「ゴーゴー」。 だから、「三輪車を押す」は、「シャーシャー、ドウドウ」となる。 ほかにもいろいろな言葉を使っていた。 記憶は定かではないが、「あぶない」は、「ウヒャ」「ドヒャ」など。 終日、わけのわからない奇声が道路から聞こえていた。 ●原始言語 今から思うと、原始言語と言われるものも、それに近かったのではないか。 まず身近で関心のあるモノを、何らかの言葉で表現する。 先の子どもたちにすれば、三輪車。 「三輪シャ」の「シャ」だけが残って、「シャーシャー」になったとも考えられる。 では、「ドウドウ」は、どうか。 いつか親が、「押す」という言葉を教えたのかもしれない。 「押す」が、「ドウ」になった? ともかくも原始言語の世界では、「モノ」に「ウ」がくっついた。 それによって、動作を表した。 ものの変化もその中に含まれる。 たとえば「草・ル」が、「クサル(腐る)」になったなど。 草が変化して、臭くなる。 (私は、草・イ(臭い)、草・ル(腐る)は、「草」から生まれた派生語と推察している。) 「生きる」にしてもそうだ。 息をしている人は、生きている。 だから「息(いき)る」が「生きる」となった(?)。 が、その中でもとくに注目したいのが、短い単語。 原始言語の世界では、音の数も少なかったはず。 たとえば「うつくし・イ」は、6つの母音を含む。 こういう言葉は、ずっとあとになって生まれた。 原始言語の世界では、母音の数は1つ、あるいは2つ。 「見る・ウ」「聞く・ウ」など。 わかりやすいのは、「イイ」。 自分にとって都合のよいものは、「イイ」と表現した。 それが「良い」へと変化していった。 食べものであれば、「うま・イ」から、「おいし・イ」と。 もちろんその反対のこともある。 「わる・イ」「こわ・イ」と。 興味深いのは、「まず・イ」と「まずし・イ」。 本当に関連があったかどうかは、わからないが、ともに、「貧しい」の「貧」でつながっている。 味が貧弱だから、「まずい」、食料が乏しいから、「貧しい」と。 ●早口 ついでに言うと、1000年前の日本人と比べただけでも、現代人はきわめて早口になっていると推察される。 私はそのことを、学生時代、謡(うたい)を習っているときに知った。 ご存知の方も多いと思うが、謡の中に出てくる会話は、実にかったるい。 『これはこのオ~、~~の~~がしにて、そうろうウ~」と。 現在の話し方と比べても、数倍は時間がかかる。 謡の中の会話がかったるいのではない。 1000年前の日本人は、そういう話し方をしていた。 そう考えるべきである。 というのも、私たちが子どものときでさえ、(ちょうど半世紀前ということになるが)、当時の日本人は、今よりずっとゆっくりと話していた。 さらにこんなこともあった。 私たちが高校の修学旅行で、山口県の秋芳洞へ行ったときのこと。 私たちが早口なのを知り、現地のバスガイドがたいへん驚いていた。 「岐阜では、みな、そんな話し方をするのですか!」と。 地域性もある。 これを原始言語に当てはめて考えると、言葉が誕生したころの世界では、人々は、今より、はるかにゆっくりと話しをしていた。 語彙数にしても、当時の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、数10とか、数100とか、その程度しかなかったのでは? ……こうして想像力を働かせていくと、この世界はかぎりなく膨らんでいく。 それがまた楽しい。 子どもたち(中学生や高校生たち)も、こういった話しになると、目を輝かせて耳を傾けてくれる。 もちろん私がここに書いたことは、あくまでも私の推察。 記録などあるはずもない。 しかしさらに最近、私はこんな発見をした。 犬のハナ(今年20歳)が、ときどき言葉らしきものを話す。 たとえば私が家に帰ったようなとき、垣根の向こうから、「クク~ン、ウ~ン」というような声を出す。 それが毎回、同じ。 まったく、同じ。 私には、「パパ、お帰り」と言っているように聞こえる。 つまり「同じ」という点で、それがハナの言葉ということになる。 声帯が発達していないから、「言葉」としては認識できないが、もし声帯が人間並みに発達していたら、簡単な言葉を話すようになるかもしれない。 恐らくこうした研究は、言語学の世界で真剣になされているだろうから、私がここに書いたことは、雑談ほどの意味しかない。 が、おもしろいことは、おもしろい。 たいへん興味深い。 原始時代の人間は、どんな言葉を使っていたか。 あなたも一度、子どもとそんなテーマで話しを進めてみるとよい。 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 原始言語 原始時代の日本語 新石器時代の言葉)2011/07/31記 Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司 ●浜松(遠州地方)の言葉 ++++++++++++++++ 私が住むこの遠州地方では、「本当?」と 聞き返すようなとき、「ウッソー(嘘)」と言う。 40年前、私が浜松へ来た直後には、 この言葉が、たいへん不愉快だった。 最初のころは、「嘘とは何だ!」と、本気で 言い返したことがある。 このことについては、もう何度も書いた。 が、ほかにもある。 このあたりでは、久しぶりに人に会ったりすると、 こう言う。 「まだ、~~の仕事、してたのオ~?」と。 60歳以上の年配の人が、よく使う。 たぶん、「元気で仕事をつづけられていいですね」 という意味でそう言う。 しかし先にも書いたように、私はここに住んで 40年になるが、いまだにこの言葉を使われると、 頭にカチンと来る。 たとえば私に向かって、「まだ塾やってるのオ~?」と。 聞き方によっては、(私はそう聞いているが)、 バカにされたように聞こえる。 だからそのつど、私はこう思う。 「バカにするな!」と。 「ウッソー」にしても、「まだ~~してるのオ?」に しても、あまり品のよい言葉ではない。 遠州地方の人たちにはそれがわからないかもしれない。 が、外の地方では使わない方がよい。 相手を確実に不愉快にする。 ++++++++++++++++++++ ●独特の考え方 戦争を経験した世代の人たちは、独特のものの考え方をする。 「死」を、「生きること」にからませて考える。 たとえば30年ほど前、私にこう言った人(男性)がいた。 当時40歳くらいだった。 「なあ、林(=私)、どうせ、あいつはオレより早く死ぬんだよ」と。 その男性は、相手の年齢を見て、そう言った。 つまり「長生きをしたほうが、勝ち」と。 あるいは「人生の結論は、臨終のときにわかる」と言う人も多い。 が、さらに一歩進んで、生き残り競争をしている人もいるという。 朝食のとき、ワイフがこんな話しをしてくれた。 ●生き残り競争 A氏(85歳)とB氏(75歳)は、隣どうしだが、仲が悪い。 顔を合わせることもない。 視線が合っても、たがいに顔をそむける。 あいさつすらしない。 ともに元公務員。 年金だけは、じゅうぶんある。 それもあるのだろうが、A氏はいつもこう言っている。 「あいつ(=B氏)の最後だけは、見届けてやる」と。 10歳も年下だから、平均余命から計算すれば、A氏のほうが先に死ぬ。 が、A氏は、「見届けてやる」と。 B氏に対する憎しみを、生き残り競争に転化させた。 それはすさまじいほどの執念と言ってよい。 80歳を過ぎてから、ウォーキングマシンを購入したという。 毎朝散歩し、ときどき自転車にも乗る。 ほかに生きがいらしい生きがいはない。 妻はいるが、すでに毎日ケアセンターに通っている。 息子と娘がいたが、この30年以上、音信はない。 だからその執念(=恨み)を、B氏に向けた。 ●以心伝心 が、ここからの話しが興味深い。 そういうA氏の執念は、B氏に伝わっている。 A氏は、様々ないやがらせを、B氏に繰り返した。 それもあって、B氏はこう言っているという。 「Aさんが何を考えているか、よくわかっています」と。 が、幸か不幸か(?)、B氏はいたって健康。 奥さんも健康。 75歳を過ぎても、どこかの事務所で、事務の仕事を手伝っている。 それがA氏には、どうもおもしろくないらしい。 A氏は、ますます長生き競争に拍車をかけた。 ●憎しみは人格を崩壊させる 『人を憎むことは、ネズミを追い出すために、家に火をつけるようなもの』という。 つまり人格そのものを崩壊させる。 それもそのはず。 憎しみを覚えると、免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。 そのサイトカインが、脳ストレスを引き起こす。 それが免疫機能を弱体化させる。 が、それだけではない。 脳ストレスが慢性化すると、異常にこだわりが強くなり、ひいてはうつ病を引き起こす。 これが精神のさまざまな分野に影響を及ぼし、その人の人格を少しずつむしばんでいく。 つまり人格の崩壊をもたらす。 『家に火をつけるようなもの』というのは、そういう意味。 事実、A氏の形相はふつうではない。 いつ見ても苦虫をかみつぶしたような顔をしている。 それがぞっとするほど、醜い。 つまりこうしたものの考え方そのものが、戦争を経験した世代の独特の考え方ということになる。 彼らがよく使う、「死んでも死にきれない」という言葉の裏には、そういう憎しみが隠されていることが多い。 が、もちろんそうでない人も多い。 ワイフの父親(=義父)などは、いつもこう言っていた。 「申し訳ない」「申し訳ない」と。 義父はラバウルで生き残った数少ない帰還兵。 「自分だけ生き残って帰ってきて、申し訳ない」という意味で、そう言っていた。 そういう人もいる。 だからみながみな、A氏のようなものの考え方をしているというわけではない。 しかし少なくないのも、事実。 ●長生き 日本人の平均余命(年齢)は、世界一という。 男性で80歳前後。 女性で86歳前後。 もちろん長生きをすることは、すばらしい。 それはそれでよいこと。 しかしそこに「だからそれがどうしたの?」という疑問をかぶせてみると、平均余命も、そのまま色あせてしまう。 長生きをする……だからそれがどうしたの?、と。 つまり長生き競争も結構だが、長生きをするならするで、そこに生きる意味を加味しなければならない。 そうでないと、それこそ「息(いき)ている」だけで終わってしまう。 言い換えると、「息ている」だけの人生に、どれほどの意味があるというのか。 ……とまあ、私たちの世代は、そう考える。 が、戦争を経験した世代は、そうではない。 「自分だけ助かった」という思いを、「ああ、よかった」という思いに変えてしまう。 そういう思いが思考回路の基礎になっているから、「長生きしたほうが勝ち」と。 あの独特のものの考え方に、変わっていく。 ともあれ、生と死を駆け引きに使ってはいけない。 神聖にして不可侵のテーマ。 いわんや「競争」に使ってはいけない。 A氏は、その愚かさに、死ぬまで気がつかないだろう。 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 戦中派 独特の考え方 生存競争 生き残り競争)2011/07/3記 Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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YYYY MM DD 区分 国 内容 補足 1914 06 28 正史 オーストリア=ハンガリー二重帝国、大公にして皇太子フランツ・フェルディナンドが暗殺される。 サラエボ事件 1892 08 18 正史 露仏 露仏同盟(軍事協定)秘密同盟締結。 1918年12月公開 1879 10 07 正史 独墺 独墺同盟調印。
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昭和戦中期② 皇紀2602(昭和17/西暦1942)年 12月8日(日本時間) アメリカ合衆国は「度重なる日本の悪意ある行為」によって「アメリカ国民が犠牲」となり「交渉に於いて誠実な態度どころか痛罵した」ことを以て「アメリカの正義を示し政治的後進国である日本を民主化するため」、アメリカ・ワシントン時間12月7日16時を以て宣戦を布告。太平洋戦争勃発。 その外交文書を交わしている最中、アメリカ海軍が編成した空母機動部隊が大日本帝國の一大工業地帯である関東地方を薄暁奇襲する関東(大)空襲が発生。 大日本帝國側の被害は横須賀海軍工廠ドック内の大和級四番艦「甲斐」が小破した他、横須賀軍港に集結・在泊していた東日本方面軍艦隊の空母「翔鶴」と「神鶴」が甲板を小破。浦賀水道に夜明けを待って侵入中のタンカーが攻撃を受け大破炎上。流出した油にも引火し浦賀水道を火の海に変え、東京湾に艦船が閉じ込められる。 更に示威行為として東京の下町まで強引に侵入したアメリカ軍の焼夷弾装備機の攻撃により発生した火災が、乾燥していた空気と当日吹いていた強風に煽られ火災旋風を発生し、非戦闘員の死者行方不明者2000人という惨事に。街を焼き払うことで会戦早々に戦意を挫こうという企図から行われた焼夷弾攻撃であったが、関東大震災に於ける大火災のトラウマのある大日本帝國では臣民の激烈な怒りを買うことになる。 日本軍は土壇場で迎撃機の展開に成功し、陸海空共同でアメリカ艦隊の放った攻撃隊を五月雨式に襲撃し、甚大な被害を与え戦術的には辛勝したものの(アメリカ軍の2派に分かれた攻撃隊の帰還率は5割に届くか届かないかというレベル)、軍事的要衝どころか市街地への攻撃すら許し、米空母部隊の捕捉と撃滅には失敗したため、戦略的には敗北を喫する。その上前述した様に浦賀水道が火の海となり、火災に巻き込まれて大破漂流する船舶が続出したため、東京湾に一個機動部隊が丸々閉じ込められる事態となる。 一方で双方とも航空機を集中運用することで強力な攻撃力を発揮し、従来の主力艦である戦艦よりも長射程を発揮する優位性を再確認。アメリカ艦隊は高い損耗率を記録したため一時的に航空部隊が半壊し活動が低調になるも、後方から即座に予備戦力を回すことで回復に努める。 正面絶対数の差から両者当面互角状態になるが、日本海軍は横須賀での戦訓から急遽、現状では戦力の浪費であるとして、艦艇防空能力の更なる強化を決定。これにより多数の艦艇が改装工事に拘束されたため、太平洋上の制海権は拠点付近でもない限りアメリカ軍優勢となる。 尚、三年戦争が終わりこれで世情は不穏ながらも世界大戦は終わったとばかり思っていた各国は、冷や水を浴びせられた形となったものの、互いの都合(欧州で孤立する同盟国を抱えるアメリカと、後背に信用ならないソビエトを持つ日本)から二正面作戦を展開する愚を避けて日米は互いに互い一国のみを対象として宣戦布告を行い、各々の同盟国には一時的に参戦を留保させていたため、三年戦争では多数の参加国が入り乱れていたものの、太平洋戦争では大変分かり易い構図となる。また再び戦争(しかも国力に於いて世界の五指の中でも上位に入る二国の)が始まったことで、互いに自身の陣営への軍事的援助や物資の発注を行った為、欧州では経済的に一息吐ける事になる。 12月10日 サイゴンから出撃し、南シナ海上の大日本帝國の海上交通網の破壊活動に出たアメリカ海軍アジア艦隊の旧式戦艦「オクラホマ」「アリゾナ」を、訓練中に開戦の報を受けた日本海軍第一戦隊の戦艦「大和」「武蔵」が捕捉。射程外からの電探・光学複合照準により、最初に通信・指揮能力の撃破を目論んで3式弾を初弾から斉射。相手の電探及び通信装置(ついでに監視員)を破壊し、統制の取れた戦闘を困難にせしめる。優速を以て距離を詰めた「大和」「武蔵」は通常弾頭に換装し、距離3万3000メートルから「オクラホマ」を斉射、初弾命中という偉業での撃沈を成し遂げる(第一次南シナ海海戦)。 更に「アリゾナ」は海南島から航空機の傘をかけていた海南空の一団に殲滅され、史上初の航空機による戦艦撃沈という不名誉な記録を計上する。 アジア艦隊は手もなく即座に瞬殺されたため、大和級の戦闘力はアメリカ側へは漏れず。日本連合帝國軍は南洋に航空艦隊を進出させ、米軍を擦り減らしながら住民や政府が避難する時間を稼ぎ出しつつ、一大金属資源地帯であり、連合帝國の輸出入の大半を占める南洋航路の最後の壁となる呂宋と毬亞を最終防衛線(この時期荒れ狂う北太平洋沿岸は互いに戦場とするには不向きであり、陸伝いに侵攻するとしても間にはグレートブリテンの眷属たるカナダが横たわっているため、これまた論外とされた)として、この戦争に於ける主力である連合艦隊が、侵攻してくるアメリカ軍を粉砕する体制を整える時間的猶予を得るための遅滞戦闘を仕掛ける戦略を立てる。 皇紀2603(昭和18/西暦1943)年 1月 対日開戦に伴いアメリカは太平洋に主要艦艇を回航し、サモアからマーシャル(鳳舞)、マーシャル(鳳舞)からトラック(香凛)、トラック(香凛)からマリアナ(毬亞)へと進み、43年~44年までには日本を屈服させると言う何とも皮算用的なスケジュールの戦争計画を実行に移していく。 一方の大日本帝國も横須賀での被害により海軍主力がすぐには動けないため、そして三年戦争の戦訓から開戦直後より潜水艦隊による通商破壊活動を重視して展開し、三年戦争の余勢を駆って圧倒的物量で護衛艦隊を編成したアメリカ海軍との間に壮絶な通商破壊戦を繰り広げることになる。 1月27日 南シナ海上に進出した日本海軍の機動部隊は、南洋からの輸送船団の護衛任務を餌として、在仏印米軍とアジア艦隊を誘い出し、航空撃滅戦を仕掛ける(第二次南シナ海海戦)。輸送船団を狙って出撃した航空部隊を戦闘機で固めた機動部隊が迎撃し、アジア艦隊の残存する旧式戦艦とは日本海軍の四四四艦隊に於ける旧式戦艦組、扶桑級が対処。両者共に壮絶な戦闘を繰り広げたものの、最初から在仏印米軍の航空戦力を削いで南シナ海の安全を確保しようと戦闘機で固め、更に徹底にも程がある程の大改装の果てに、「速射砲」とまで言われる砲撃性能を獲得した扶桑級で猛打した日本海軍に軍配が上がる。 実質的にはこれ以降、同盟国ではあるものの一応の中立状態にあるフランスの中でも遠隔地にあり孤立しているフランス領インドシナ周辺では、戦力を運び込むことも出来ず、かと言って一応の中立国の領土であるため侵攻されることも無く、仏印戦線は各地の秘密港から出撃する米軍の潜水艦や魚雷艇との戦闘以外は、大した戦闘が起きることも無く収束していく。 2月2日 アメリカ軍はサモアに集結させた太平洋艦隊を大挙出撃させ、マーシャル(鳳舞)諸島に侵攻。日本軍は初手から全力で空襲を行い、多大な被害を与えたものの、米軍が第二次南シナ海海戦の戦訓から戦闘機の数を増やしており、更に主力艦を守るためその身を挺する護衛艦艇が相次いだこともあり、空母と戦艦には大した損害を与えられず。要塞化の進行も遅く、制海権の確保に必要な艦艇の数が不足していたため、4日間にも及ぶ航空戦の末に日本軍の航空部隊は半壊。米軍の接近と艦砲射撃を許すものの、その間に住民と政府の疎開は完了しており、深夜の内に残存部隊も撤退を果たし、5日間の攻防の末に鳳舞諸島は陥落する。 3月9日 約一ヶ月で損害を回復した(回復が容易な中小艦艇が被害の主だったこともある)アメリカ艦隊、トラック(香凛)へ侵攻。大日本帝國は既に住民と政府の疎開を終え、主要部隊は毬亞と呂宋に撤退していたこともあり、米軍はほぼ無傷でトラック(香凛)諸島を手に入れる。 3月29日 アメリカ軍はトラック(香凛)諸島の拠点化を進めつつ、トラック(香凛)諸島をほぼ無傷で手に入れられたことから、偵察によりほぼ無人と判明したパラオ(帛琉)へ侵攻。これを無血占領し、大量の航空戦力が犇めき要塞と化したマリアナ(毬亞)を避け、その先にあるフィリピン(呂宋)を攻め海上交通線を途絶させ締め上げる戦略に出る。一方の日本海軍もそれを狙っており、寧ろそうなる様に仕向けてきたことから、両者の決戦志向は急速に高まる。 4月13日 樹野(ジュノー)沖海戦。アメリカがカナダを避けてアラスカ(荒棲家)南部への侵攻を試み、樹野を根拠地としていた荒棲家方面軍との戦闘に発展。結果、現地航空部隊と水面下に展開する潜水艦の群れに翻弄された挙句、引き連れていた輸送艦を徹底して狙われ多大な被害を出した米軍が撤退。以後、フィリピン(呂宋)占領による南太平洋打通派が多数を占める米軍内では、アラスカ(荒棲家)侵攻は立ち消えになる。 5月20日 アメリカ海軍はフィリピン(呂宋)に展開する日本軍を激しく空襲。同時にアメリカ陸軍がフィリピン(呂宋)中部黎輝島への強襲上陸を開始。当時用意可能であった、工兵などの要塞化部隊を含めた侵攻用陸上兵力のほぼ全力である21万名を揚陸し、フィリピン(呂宋)を不落の要塞を成さしめて確実且つ早期に息の根を止めることを決意していたが故の全力出撃だった。しかし、予想以下の数しか展開しておらず、また艦隊による迎撃にも出て来ない日本軍に対し、アメリカ軍内で慢心が生まれる。 5月22日 日本軍は台湾・海南からの長距離航空攻撃を開始。侵攻軍北方に展開していた米機動部隊は警戒を強め、一時東方へ後退する。この隙を突いた日本海軍は、海南島に配置していた甲部隊(近代化改装により就役時とは別物の戦闘力を持った四四四艦隊の戦艦「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」「扶桑」「山城」「伊勢」「日向」+空母「赤城」「高雄」「芙蓉」「鳳仙」基幹)と豊後水道南方へ展開していた乙部隊(空母機動部隊。「飛龍」「蒼龍」「翔鶴」「天鶴」の4隻基幹)に対し攻撃を下令。 5月24日 昼遅く、日本海軍の乙部隊と、アメリカ軍の機動部隊が放った索敵機が互いの艦隊を発見し、史上初の空母同士の艦隊決戦が発生。艦載機はほぼ同数ながら、台湾から強引に進出してきた部隊に防空を任せほぼ全力をアメリカ軍へ差し向けた日本海軍が戦力集中度と練度で勝り、空母「飛龍」「翔鶴」の中破に対し、空母3隻の撃沈ないし大破という戦果を挙げる。日没後、両者が一時反転し戦力再編を図る間に空母部隊を切り離した日本海軍の甲部隊がスールー(洲潤)海から向かいつつあることをアメリカ軍側が察知、急遽アメリカ軍側は戦艦のみを分離し、サンベルナルジノ(桟縁成)海峡での迎撃に向かう。 5月25日零時 サンベルナルジノ(桟縁成)海峡を突破した日本海軍甲部隊は呂宋(フィリピン)海溝付近でアメリカ海軍戦艦部隊と交戦。新鋭艦で固められたアメリカ海軍有利となり、作戦の戦術通りアメリカ軍有利となった時点での艦隊保全を決めていた日本海軍は、被害が出る前に甲部隊を反転逃走させる。米艦隊が追撃を開始したその直後、台湾近海から夜間に一挙に距離を詰めた大和級3隻(「大和」「武蔵」「信濃」。「甲斐」はこの時点でまだドックから出ていない)からなる丙部隊が米艦隊背後より突入する。 未知の巨大戦艦による背後からの挟撃で大混乱に陥ったアメリカ海軍は、高速戦艦で固められた優位性を以て射程から逃れつつある甲部隊の戦艦群から、急速に距離を詰めてくる数で圧倒的に少ない丙部隊の戦艦群に移る。しかし前代未聞の巨大さと重装甲に固められた大和級の装甲は貫けず、「大和」「信濃」の中破と引き換えに、「ノース・カロライナ」以外の米艦隊は全鑑撃沈または大破鹵獲という結果に終わる。 夜明け頃から事態を察知した米機動部隊による空襲が行われるも、夜明けに丙部隊と合流するスケジュールで大神鎮守府から出撃した空母「瑞鶴」「神鶴」からなる丁部隊に、北方に退避していた甲部隊の「赤城」「高雄」が合流。局地的制空権を維持して撃退。さらに被弾損害と乙部隊護衛を理由として撤退した金剛級4隻以外の戦艦全ても合流し、上陸したアメリカ軍が犇めく黎輝湾へ突入。後世語り継がれることになる「殴り込み」を演出する。 36cm砲48門、41cm砲54門、46cm砲36門に及ぶ空前絶後の艦砲射撃により、極短時間の間にアメリカ軍死者は万単位を数え上げ、有史以来稀に見る破滅的損害を被る(侵攻艦隊の50%が何らかの決して無視出来ない損害を受けており、無傷の艦から数えた方が早いぐらいの一方的な打撃を受けた)。この時点でアメリカが戦場に攻勢戦力として投入可能な陸軍戦力の3割(6万3000人)が天国への転属を余儀なくされ、2割が行方不明。さらに2割が後送された結果、この2日間の戦闘で陸軍だけで計14万7000人が編成上から消え実質上、侵攻軍は全滅した。 更に黎輝湾殴り込み部隊に攻撃を仕掛ける米機動部隊の間隙を衝き、残存機動部隊の航空戦力全てを叩き付けた空襲により、米機動部隊も多大なる被害を受け撤退を決定。上陸部隊の生残者は孤立し、物資・戦力の窮乏により降伏する破目に。 一方の日本軍は事実上25%の戦力低下で済んでおり、またその後の潜水艦による夜間雷撃によりアメリカ海軍は更なる多数の被害艦艇を計上することとなり、早くも侵攻能力を喪失。アメリカ政府は国民に対し敗北を隠匿する。 6月1日 アメリカ軍はパラオ(帛琉)から撤退。 6月9日 日本軍は帛琉(パラオ)に無血上陸。 6月15日 アメリカ軍はトラック(香凛)諸島から撤退。この際、毬亞で温存されていた日本軍攻撃隊が大渡洋攻撃を行い、多数の艦艇を撃沈するが、同時に付け焼刃ながら強化された対空戦闘陣形の前に多数の未帰還機を出す。 7月10日 日本軍は香凛(トラック)諸島へ無血上陸。 8月1日 アメリカ軍はマーシャル(鳳舞)から撤退。 8月15日 日本軍は鳳舞(マーシャル)に無血上陸。 9月20日 アメリカ軍残存艦隊はハワイ(布哇)に集結。 10月10日 兵力と回復した領土の根拠地の守備体制も整えた日本軍はSA作戦を発動。アメリカ軍サモア守備隊は成す術もなく、日本艦隊の艦砲射撃により「文字通りの意味で」全滅する。 11月8日 日本海軍はあ号作戦(布哇攻略作戦)を発動。連合艦隊のほぼ全力を以って布哇へ殺到する。これを阻止しようと展開したアメリカ軍は、機動部隊と基地航空隊を空母10隻(「赤城」「高雄」「芙蓉」「鳳仙」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」「天鶴」「神鶴」)分の艦載機と、猛烈な対空射撃の前に磨り潰され、最後の望みを掛けて夜襲を行った戦艦部隊も、大和級4隻とそれに隠れながらの一斉砲撃を行う四四四艦隊という圧倒的な弾薬投射量の差により壊滅。艦隊陣形再編と弾薬の補給のため一時退避した日本軍を尻目に、唯一再び生き残ったノース・カロライナ」は命からがらに真珠湾に入港を果たすも、そこで力尽いて大破着底する。 11月10日 アメリカ軍との艦隊決戦により弾薬を消費していた日本海軍は、丸一日掛けて予め手配していた補給を行ない、再度布哇攻略を開始。激しい空襲をオアフ島各地に見舞う。アメリカ軍航空隊残存部隊も善戦したが、空母を2隻毎に分けて各方面から神出鬼没の飽和攻撃を仕掛け、更に個々の技量で圧倒する日本海軍航空隊の前に壊滅。 11月11日 日本軍は布哇諸島に対し上陸を開始。予てからのアメリカの圧制に不満が噴出した現地(有色)住民の叛乱により、アメリカ軍は周りの全てを敵として戦うことに。 12月8日 日本軍、あ号作戦に参加し損傷のため真珠湾に入稿していた戦艦「金剛」に、アメリカ軍ハワイ守備隊の工作員が仕掛けた時限爆弾攻撃により舵機を損傷し大破。海戦劈頭から丁度一年に当たる日に再び奇襲を成功させたとして、アメリカ軍は本攻撃を士気昂揚の為に喧伝する。 12月28日 アメリカ軍ハワイ守備隊は山間部に追い詰められた挙句、物資窮乏により降伏する。 皇紀2604(昭和19/西暦1944)年 1月6日 大日本帝國、アメリカに対し「名誉ある停戦と講和」を勧告。これに対しアメリカは「自由と正義が証明されるまで戦う」と徹底抗戦を宣言。 2月14日 大日本帝國政府の交換船である「対馬丸」が東太平洋上でアメリカ海軍潜水艦により撃沈され、多数の非戦闘員に死者を出す。アメリカ政府はこの事件を「アメリカ海軍による攻撃は存在せず、単なる不幸な沈没事故である」とし、日本の謝罪要求を突っぱねる。 2月15日 大日本帝國、は号作戦発動。 2月26日 日本軍、サンディエゴを空襲し米軍航空戦力を殲滅の後、危険を冒して夜間に高速接近した戦艦群の艦砲射撃によりサンディエゴ市街ごと軍港を破壊。石油槽(タンク)が破壊され、流出した石油に引火。手の付けられない大火災となる。アメリカ西海岸では恐慌状態に。 2月28日 日本軍、ロサンゼルスを空襲し米軍航空戦力と激しい戦闘に突入。更に夜間に拘束接近した艦隊による艦砲射撃によりロサンゼルス市街ごと港湾を破壊。 3月9日 日本軍、パナマを強襲し、空襲と艦砲射撃を加え、運河を通行中の大型船ごと運河を徹底破壊。その際、通過中の油槽船が運河上で撃沈され大量の油が流出炎上。運河施設が回復不能なまでの高熱で焼き払われる。 3月15日 アメリカ議会の上下院で和平派・親日派・知日派議員がルーズヴェルト政権は西海岸に攻撃を加えられるほど海軍が大敗しているにも拘わらず之を隠匿し、名誉ある講和をすべきであると促されていたにも拘わらずそのテーブルを蹴り、徒に国民の血を流させたとし、これをマスコミが激しく煽動。海軍戦力の全滅、サンディエゴ、ロサンゼルス、パナマの潰滅という真実と、フィリピン(呂宋)で短期間に積み上げられた遺体無き死者の数々を前に、アメリカ国民の反戦機運も一挙に高まる。 4月1日 日本軍、アメリカ本土に最も近い荒棲家南部樹野に上陸部隊を含めた艦隊を移動。更に戦略爆撃機「富嶽」を現地に展開。は号作戦に於いて唯一攻撃を免れていたシアトルに対し、態々カナダを迂回して侵入後に艦隊の進出と講話を勧告する宣言ビラを投下。迎撃に出た米軍機の更に上空を圧倒する高速で突進する「富嶽」による打電「我ニ追イツク米軍機ナシ」が有名となる。 4月2日 日本軍の荒棲家進出が決定打となり、本土決戦となる前にルーズヴェルト政権は議会の弾劾により崩壊。ヘンリー・A・ウォレスが副大統領から昇格し臨時に大統領となり、停戦交渉を開始。 4月7日 大日本帝國、「布哇王国の復古」「対馬丸事件に対する謝罪と賠償」「ハル・ノートの撤回」「支那大陸への武器輸出の停止」「正常な外交及び貿易関係の再開」を骨子とした講和条件を提示。 4月12日 大日本帝國、アメリカ合衆国は即時停戦に合意。サンフランシスコでの講和会議開催を決定。 4月29日 サンフランシスコ日米講和会議開催。大日本帝國の提示した講和条件を骨子として交渉開始。 9月9日 大日本帝國とアメリカ合衆国との間にサンフランシスコ講和条約が締結・発効。骨子をほぼそのまま履行したもので、これにより足掛け1年9か月、実質的には1年5か月戦われた第一次太平洋戦争(俗には一年戦争)は終結を見る。サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、布哇に入植した白人の内、帰化を選択した一部以外の大半は保有資産を買い上げ(そしてその金額に関しては全てアメリカ持ちとされた)の上でアメリカ本土に総引き揚げを行うことになる。また、ミッドウェー諸島が布哇王国へ割譲された。 10月 グレートブリテン委任統治領パレスチナに於いて、ユダヤ人組織によるテロが頻発。ドイツ三年戦争期間中、ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツへの対抗から、聖地の座するパレスチナを委任統治するグレートブリテンに対しユダヤ人は協力してきたが、三年戦争に際しヨーロッパを逃れてパレスチナに逃れてきたユダヤ人は、アラブ人との間に多大な軋轢を生じていた。その上、三年戦争終結後、ユダヤ人によるパレスチナでのユダヤ人国家建設運動が勃発するも、中東地域の植民地統治に何かと気を使っていたグレートブリテンは、アラブ人の大規模な反発を招きかねないユダヤ人国家建設に前向きではなかったことが、ユダヤ人テロの原因。 11月7日 アメリカ合衆国大統領選挙に於いて、民主党政権であったルーズヴェルトを継いだ臨時大統領であったウォレスを破り、共和党のタフトが当選。一年戦争の敗戦に伴い、壊滅した西海岸の復興には戦争を主導した民主党ではなく共和党で、更に孤立(モンロー)主義的なタフトを選ぶことで海外情勢に関わることなく自国の復興に集中出来るだろうという見通しから。 12月7日 大日本帝國、東南海地震発生。死者2000人を出すものの、一年戦争当初の焼夷弾攻撃から防火帯の設置が行われるなどしていたため、火災被害は大きくならず。戦争終結直後の準戦時体制下ということもあり、官民を問わず初動が迅速だったことも被害を抑制した。主に建造物の倒壊での被害が大きく、また津波は慶長地震以来の大堤防が功を奏する形となり、地震・津波の規模に対して比較的被害が少なかった。 皇紀2605(昭和20/西暦1945)年 1月1日 布哇王国・オアフ島に於いて、明治時代に日本に亡命したカイウラニ王女と、カイウラニ王女と結婚した山階宮定麿王の孫に当たる布哇宮明陽王が布哇王国国王として即位。(意外なことに)日本史上初の日本人による外国元首となるも、莫大な戦費を前に「(アメリカとの)適度な対立」を政軍共に望んだことから、意図的に武装中立国として太平洋中央部を巨大な緩衝地帯とすべく、大日本帝國は布哇王国の特に軍備に深い影響力を保持しながらも、意図的に自主独立性を持たせる様に鋭意努力していくことになる。 またその第一陣として、大日本帝國は真珠湾に入港し修理中の艦艇を、支援の一貫として現物提供(正確には大日本帝國が布哇王国の再興に辺り軍事支援を行うために現物提供する方便として、形式上天皇からこの時点では未だ臣下である布哇宮明陽王に対し下賜した形になる)。真珠湾にドック入りしている金剛級4隻を中核とした布哇王立海軍が設立。更に日米という仲の良くない二大超大国に戦争をさせないために、布哇王国は国際連盟本部の移転を提案。欧州大戦の激戦地となり大国の都合に翻弄されたエルザス=ロートリンゲンとの誘致合戦となる。 2月 大日本帝國、動員解除を開始。艦隊も動員解除に伴い旧式艦の淘汰も兼ねて世代交代が行われ、以下の艦艇を中核とした編成に改められる。 戦艦 - 「大和」「武蔵」「信濃」「甲斐」「黒姫」「武尊」「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」 空母 - 「赤城」「高雄」「芙蓉」「鳳仙」「翔鶴」「瑞鶴」「天鶴」「神鶴」「大鳳」「瑞鳳」 老朽化著しい扶桑級を除籍し、新世代戦艦(の試験艦)である黒姫級二隻と、(新世代戦艦の本命である)大和級四隻から成る六隻を水上打撃戦力の中核とし、長門級、加賀級を空母機動部隊として新設される戦略単位である機動艦隊の旗艦に充て、一機動艦隊辺り戦艦一隻、空母ニ~三隻(この辺り、偶数を戦隊単位としたがる日本軍の性癖が反映されていないことからも、時代が変わったと言われた)とし、常時一個機動艦隊を予備兼整備に充当し、三個機動艦隊を洋上に浮かべるという極めて贅沢な編成を行い、更にこれらを新設する方面軍の隷下に置き、陸海空の三戦力を統合運用する柔軟性を持たせた。 5月 パレスチナに於けるユダヤ人テロが激化。ユダヤ人とアラブ人によるテロ合戦に、委任統治者であるグレートブリテン人が武力行使に及ぶ三つ巴の無法地帯に。 8月 大日本帝國、国際連盟は二度目の大戦勃発に対し有効な権能を有しなかったとして、特に昨今テロ行為が頻発するパレスチナ地域を引き合いに出し、「実力のある調停者」を作ることで国家同士の戦争を防止することを提案。更に欧州と太平洋の二箇所を同格の組織として、その権能の及ぶ範囲の偏重を阻止してはどうかとも提案し、国連軍の設置と、国際連盟本部の誘致合戦の収拾に漕ぎ着ける。 12月24日 大戦中に何ら有効に機能しなかった国際連盟は、総会に於いて全会一致で「常設国連軍」と「国際連盟太平洋本部」「国際連盟ヨーロッパ本部」の設立を承認。国際連盟の活動資金には、各国の拠出金の他に、新たに設立された「世界銀行(国際復興開発銀行)」の利益の一部、「世界市民」からの供託金(寄付)を充当するものとし、一年後の活動開始を目指すものとした。 皇紀2606(昭和21/1946)年 3月 グレートブリテンは悪化するパレスチナの治安情勢に対し、抜本的改善を図るため、戦略爆撃機を含む陸空の大部隊を派遣し、武装組織の殲滅作戦を開始。 6月29日 グレートブリテンはパレスチナに於いて活動するユダヤ人組織の一斉拘禁を実行し3000名以上を逮捕。 7月22日 武装ユダヤ人組織がグレートブリテン軍パレスチナ司令部の置かれていたエルサレムのキング・ダビテ・ホテルを爆破。 7月30日 グレートブリテン軍は中東方面の爆撃機部隊を動かし、無双ユダヤ人組織の根城となっていた区画を空爆の後、戦車を押し立てた地上部隊によって蹂躙。多数の死者を出す。 9月3日 第二次世界大戦勃発に伴って順延されたオリンピックの次回開催地が、開催を逃した東京に決定。 9月23日 大日本帝國、沖ノ鳥島沖に於いて、廃船に搭載した核爆弾を起爆(げ号作戦)。史上初の核兵器実用化に成功する。尚、本作戦により発生した津波により沖ノ鳥島の一部が流失。軍が慌てて復旧・拡張工事を行うという珍事が発生している。 12月21日 大日本帝國、南海地震発生。死者2500人を出すものの、比較的被害が少なかった。頻発する大地震に対し、大日本帝國は災害対策として観測体制と都市部の道路拡幅、機能分散、交通網の多角化に真剣に取り組むことになる。 12月24日 再編された国際連盟(通称新国連)が始動。その最初の仕事は南海地震によって大きな被害(とは言え自力でも復興は可能な程度)を受けた大日本帝國に対する支援活動だった。