約 20,973 件
https://w.atwiki.jp/okinawa935/pages/12.html
太田良博
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/101.html
「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(1) この原稿を書いている今、私の体は痣(あざ)だらけである。私はつい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである。 私の心の中には、エチオピアがマスコミのハイライトを浴びているような時に行くのは避けたい、という思いが強かった。しかし、私の遠慮とは別に、そういう時ほどわたしがそういう場所へ行くような機運が不思議と向いてくるのである。 痣はのみいと南京虫に食われた後の引っかき傷、ラバに十時間も乗って被災状況も分からぬ村に行った時に蹴られたり、岩で擦りむいた傷跡などで、実に薄汚い。 エチオピアへ行くことを決意したのは、人道主義の立場から出たことではないのである。私は作家ではあるが、作家が特に人道主義的であらねばならない、などと思ったことの一度もない人間である。ただ、私はここ数年、不思議な偶然から、韓国のハンセン病の村と、マダガスカルの小さな産院とに送る善意のお金、年間約一千万円を集めてそれを確実に送金する事務局の任務を果たす巡り合わせになってしまった。これも、私の家ですませば、印刷代もプリント代も電気代も、一切がいらないから、やっているだけのことである。 しかし、そういう経緯を知っている友人たちは、私にエチオピアの実情も知っておくように配慮してくれたのではないか、と思う。もちろんすべて自費で行ったのだが、そういう友情がなければ、とても個人が入れない土地だったのである。 エチオピアで私が入ったのは、首都のアジス・アベバから五百キロほど北に行ったスリンカというキャンプだが、そこは日本テレビの「愛は地球を救う・二十四時間テレビ」の企画によって集められたお金の一部で運営され、日本人のドクター一人と看護婦さん五人で運営されていた。 何しろ水のない土地である。野っぱらにテントが幾張りかあるだけで、水は土地の女性たちが、大きな水甕(みずがめ)でアルバイトとしてくんで来るのを、買い上げているだけである。ひところのような骨と皮ばかりの、餓死寸前にあるような子供はかなり減ったが、それでも私が夜寝袋で寝ているところから、三十メートルと離れない隔離病棟ならぬ隔離テントの中は、アメーバ赤痢とチフスと思われる重症の下痢患者ばかりである。その中の数人は血まみれの排便をし続けている。 貧しさと苦しみは人間から人間らしさを奪う。被災民たちの一つの特徴は、こうしたドクターや看護婦さんたちにも、大して感謝をしない、ということだ。それどころか、なぜもっと援助をしないか、と文句を言う人までいる。 しかしそれでもなんでもいいのである。もし、私たちの中に、戦争に対する心からの拒否の感情があれば、迷うことはない。テレビ局にお金を寄せた人々も、そこで働いている医療関係者も、ともに言葉ではなく行為でそのことを示したのである。 年月とともに戦争体験が古びて、戦争の恐ろしさがなくなる、としたら、それは戦争というものを受け止める人の心がいいかげんなのだ。私は終戦の年に十三歳にもなっていたから、戦争のことをよく知っているが、私あてにいつもお金を送って下さる人たちのほとんどは、私より若い、従って戦争体験も全くない人たちである。その人たちが、自分が不自由しても不遇な人々に尽くしたい、という素朴な善意を確実に実行してくれているのである。 第二次世界大戦が終わってから四十年が経った。ということは、あの終戦の日に、私たちが日露戦争を思い返すのと、ほぼ同じ長さの年月が経ったということである。いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない。大切なのは、そのことによって、私たちの生き方がいささかでも死者たちによって高められ、たとえほんのわずかでも現在生きている人々の生に役立つことだと思う。私自身は、エチオピアでもある日一日、疥癬(かいせん)だらけの子供たちの爪(つめ)を切ったり、トラコーマや結膜炎の患者に目薬をさす(こういう土地は野戦病院と同じで、だれでも働けるものができることをするのだ)くらいのことしかできない無能力者だが、たった一つ私にできることは、死にかけている人々に命を与えるために働いている人々のことを、世間に知らせることだ。 そういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/102.html
「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(2) あいまいな状況 もう数年も前のことである。私は那覇で一人の新聞記者のインタビューを受けた。その方は開口一番、私に、「渡嘉敷島の集団自決命令が軍によって出された、ということは、曽野さんの本によってくつがえされたことになりましたが」 と言った。 「そうでしょうか」 と私は答えた。 「私はただ、集団自殺命令が出されなかった、という証明もできない代わり、確実に出されたという証明もできない、ということを言ってるんですよ。今日にもどこかの洞窟の中から、自決命令書が出て来るかもしれないでしょう。ただ、今までのところは、一切が確実ではない、という曖昧さに私たちが耐えねばならない、ということを、私は言い続けて来ただけなんです」 私が「ある神話の背景」を書いたのは、太田良博氏が何と言われようと、太田氏の執筆責任による「沖縄戦記・鉄の暴風」の中で、赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたからである。人間はそもそも間違えるものだから、赤松氏が、卑怯なところもあり、作戦の間違いもやった指揮官、という程度に太田氏が書いていたなら、正直なところ、赤松のことなど、私の注意をひかなかったと思う。 太田氏は次のような書き方もしたのだ。 「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」 こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。 古波蔵村長の言葉 太田氏は、渡嘉敷島の事件について取材したのは、当時の村長であった古波蔵惟好氏と宇久眞成校長であったと今回になって急に言い出したが、私が太田氏に尋ねた時には、確かな記憶がない、と言って宮平栄治氏の名前を挙げたのである。 今にして思うと、私はその時、事件をだれから取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというのなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が、古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件を直接体験者であり、しかも村については絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあるのだろうか。 私は生存している主な関係者には、取材の時、すべて例外なく会うように試みたから、宇久校長に会わなかったということは面会を断られたからである。そして今回太田氏が言う集団自決の命令の真相を知っているという古波蔵村長は、私と次のような会話を交わしているのである。 私「安里さん(当時の駐在巡査)を通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」 古波蔵氏「ありません」 私「じゃ全部安里さんがなさるんですね」 古波蔵氏「そうです」 私「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」 古波蔵氏「私へ来るんです」 かっこつきの引用 もしこの会話が古波蔵氏の嘘でなければ、赤松大尉が自決命令を出したことは、安里巡査には証言できても、そこにいなかった古波蔵氏には証言できないことになる。ましてや太田氏が書いたように、赤松大尉が壕の入り口に立ちはだかって住民を睨(にら)みつけた、というような場面は、かりに実際にあったとしても、古波蔵氏には証言できない。なぜなら、古波蔵氏は、私に、自分は始終村民と行を共にしていたので、その時軍と関係があったのは安里巡査だけであると言い、私もそのことを当然だと感じたことを今も記憶している。そして、私が安里氏に直接会って聞いた時、安里氏は自決命令がだされたことについては、はっきりと否定したのである。 太田氏は、「私は赤松の言葉を信用しない」というような言い方をするが、そもそも歴史を扱う者は、だれかの言葉は信用し、だれかの言葉は信用しない、などということを大見え切って言うことではないのである。また太田氏は私が赤松氏に会って「『悪人とは思えない』との印象をうけた」といかにも私が書いたような括弧づきの引用をしているが、私は自分の著書を昨日から今までひっくり返して探しているのだが、探し方が悪いのか、そういう言葉がまだ見つからない。私は書いてもいないことを括弧(かっこ)づきで引用されたくはないと思う。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/62.html
集団自決などをめぐって太田良博氏遺稿より 「ある神話の背景」論争at沖縄タイムズ1985「沖縄戦に“神話”はない」太田良博 「沖縄戦」から未来へ向って・曽野綾子 「土俵をまちがえた人」太田良博 「沖縄の証言」(上)より 宮城晴美氏 読谷村史5上 沖縄県公文書館サイト 沖縄戦関係資料閲覧室 集団自決の再検討 集団自決などをめぐって 太田良博氏遺稿より 『鉄の暴風』取材ノートを中心に 「渡嘉敷島の惨劇は果して神話か」琉球新報1973.7.11~7.25 「ある神話の背景」論争at沖縄タイムズ1985 論争史ガイド 「沖縄戦神話論争」の時系列 「沖縄戦に“神話”はない」太田良博 太田良博氏の曽野批判:1985年4月8日から10回連載 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(2) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(3) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(4) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(5) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(6) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(7) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(8) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(9) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(10) 「沖縄戦」から未来へ向って・曽野綾子 曽野綾子氏の反論1985年5月1日~6日(5日は休載) 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(1)」 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(2)」 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(3)」 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(4)」 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(5)」 「土俵をまちがえた人」太田良博 太田良博氏の曽野氏への再反論1985年5月11~17日(12日は休載) 「土俵をまちがえた人」(1) 「土俵をまちがえた人」(2) 「土俵をまちがえた人」(3) 「土俵をまちがえた人」(4) 「土俵をまちがえた人」(5) 「土俵をまちがえた人」(6) 「沖縄の証言」(上)より 宮城晴美氏 読谷村史5上 チビリガマでの集団自決 沖縄県公文書館サイト 沖縄戦関係資料閲覧室 集団自決の再検討 兵隊が泣く子を殺す (2006-10-11 13 28 45) サイト名 URL
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1668.html
今日の訪問者 - 琉球新報2008.11.13-4 「大江・岩波訴訟高裁判決に思う」 琉球新報2008.11.13 「大江・岩波訴訟高裁判決に思う」上 山崎行太郎 基本文献読まず議論 思想的に退廃する論壇 クリックすると拡大 琉球新報2008.11.14 「大江・岩波訴訟高裁判決に思う」下 山崎行太郎 言論には言論で勝負を 太田良博氏の名誉回復必要 クリックすると拡大 太田良博関連ファイル 読める控訴審判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/yamazakikoutarou/pages/2.html
メニュー 大阪地裁判決 大阪高裁判決 [[]] 宮平秀幸証言研究 曽野綾子研究 大江健三郎 太田良博
https://w.atwiki.jp/okinawa935/pages/2.html
メニュー トップページ メニュー メニュー2 宮平秀幸証言研究 曽野綾子 大江健三郎 太田良博 リンク @wiki @wikiご利用ガイド 他のサービス 無料ホームページ作成 ここを編集
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1215.html
通099 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(4) 集団自決に関する文献等の評価について 第4・5(4)ア 「鉄の暴風」について 第4・5(4)ア 「鉄の暴風」について(ア)(取材方法について)* (イ)(初版の誤記)* (ウ)(上陸日時の誤記)* (エ)(取材方法についての曽野綾子の批判は)* (オ)(資料価値は有る)* (カ)(調査不足を謝罪したという梅澤陳述書は疑問)* (ア)(取材方法について)* 第4・5(2)ア(ア)aに記載したとおり,「鉄の暴風」は,軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず,あくまでも,住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり,戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものである。 第4・5(2)ア(ア)aのとおり,牧港篤三が記載した「五十年後のあとがき」によれば,体験者らの供述をもとに執筆されたこと,可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上,戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり,集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる。 同じく「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は,沖縄タイムスに掲載された「沖縄戦に神話はない-「ある神話の背景」反論〈1〉」, 「同〈3〉」(甲B40の1)において,「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと,「鉄の暴風」が証言集ではなく,沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため,証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかったことを記載している。 (イ)(初版の誤記)* 原告らは,「鉄の暴風」の初版には, 「隊長梅澤のごときは,のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」 との記述があり,「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は,風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張し,確かに初版(甲B6・41頁)にそのような記述があることが認められる(これは証拠(甲B6及び乙2)によれば,第10版で訂正されていることが認められる。)。 しかしながら,戦後の混乱の中,体験者らの供述をもとに執筆されたという性質上,住民ではない原告梅澤のその後などについては不正確になったとしてもやむを得ない面があり,そのことから,直ちに「鉄の暴風」全般の信用性を否定することは相当でないものと思われる。 (ウ)(上陸日時の誤記)* 原告らは,「鉄の暴風」について,米軍の渡嘉敷島への上陸を昭和20年3月26日午前6時ころとするが,「沖縄方面陸軍作戦」によれば正しくは同月27日午前9時8分から43分であって,米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載されていると旨批判するところ,この批判は,第4・5(1)の認定事実に照らして,妥当するものと思われ,この点でも「鉄の暴風」の記述には,正確性を欠く部分があるといわなければならない。 もっとも,「鉄の暴風」は,前記のとおり,軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず,あくまでも,住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ,こうした誤記の存在が「鉄の暴風」それ自体の資料的価値,とりわけ戦時中の住民の動き,非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる。 すなわち,「鉄の暴風」の原告梅澤が 「米軍上陸の前日,軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ,玉砕を命じた」 との記載,赤松大尉が 「こと,ここに至っては,全島民,皇国の万歳と,日本の必勝を祈って,自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い,米軍に出血を強いてから,全員玉砕する」 と命じたとする部分については,これを聞いた者が十分特定されていないけれども,座間味島,渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については,第4・5(2)で子細に認定,判示した住民の体験談と枢要部において齟齬することはなく,集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたとする牧港篤三,「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たとする太田良博の見解を裏付ける結果となっており,民間から見た歴史資料として,その資料的価値は否定し難い。 (エ)(取材方法についての曽野綾子の批判は)* もっとも,曽野綾子が著した「ある神話の背景」では,「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判がなされている。 この点,「鉄の暴風」の執筆者の1人である太田良博は,沖縄タイムスに複数回連載した「沖縄戦に神話はない-「ある神話の背景」反論」(甲B40の1)の中で,山城安次郎と宮平栄治からは渡嘉敷島の集団自決について取材したのではなく,沖縄タイムスが集団自決について調査する契機となった情報提供者にすぎないと反論し,集団自決の証言者として取材した対象は古波蔵村長など直接体験者であったとしている。「ある神話の背景」には,宮平栄治が太田良博から取材を受けた記憶はない旨述べたことが記述されているが(甲B18・51頁),これは,前記の太田良博の反論と整合する側面を有している。 そして,先に指摘したとおり,座間味島,渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については,第4・5(2)で子細に認定,判示した住民の体験談と枢要部において齟齬を来していないのであって,この事実からすると,「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判には,疑問がある。 (オ)(資料価値は有る)* 以上のとおりであるから,「鉄の暴風」には,初版における原告梅澤の不審死の記載(これは甲B第6号証及び乙第2号証によれば,平成5年7月15日に発行された第10版では削除されていることが認められる。),渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し,誤記が認められるものの,戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として,資料価値を有するものと認めるのが相当である。 (カ)(調査不足を謝罪したという梅澤陳述書は疑問)* ところで,原告らは,執筆者の牧志伸宏が,神戸新聞において,原告梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し,原告梅澤の陳述書(甲B33)にも,昭和63年11月1日に新川明と面接した際のことについて, 「私の方から提出した宮村幸延氏の『証言』を前に,明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には,応対した同社の新川明氏(以下「新川明氏」)が,謝罪の内容をどのように書いたら良いですかと済まなそうに尋ねて来たため,私が積年の苦しい思いを振り返りながら,また,自分自身の気持ちを確かめながら,自分の望む謝罪文を口述し,それ新川明氏が書き取ったのです。」, 「その後,昭和63年12月22日,私の上記要求に対する回答ということで,沖縄タイムス社大阪支社において新川明氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様,岩崎氏に立ち会って貰いました。そうしたところ,沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ, 『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている。』 と主張して私の言い分を頑として受け入れませんでした。」 と記載している。 先に認定したとおり,沖縄タイムスは,原告梅澤と面談した直後である昭和63年11月3日,座間味村に対し,座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20),座間味村長宮里正太郎は,同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答しているのであり,こうした回答を待つことなく,宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を示されただけで,困惑して謝罪したというのは,不自然の感を否定できない。仮に,原告梅澤が陳述書で記載するとおり,昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば,同年12月22日に態度を一転させた場合,前回の謝罪行為を取り上げて,新川明を批判するのが合理的であろうが,会談の記録を録音し,それを反訳した記録である乙第43号証の1及び2には,そうした状況の録音若しくは記載がない。加えて,証拠(乙43の1及び2)によれば,原告梅澤は, 「日本軍がやらんでもええ戦をして,領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということは,これは歴史の汚点ですわ。」 「座間味の見解を撤回させられたら,それについてですね,タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが,わたしはそんなことはしません。あの人たちが,今,非常に心配だと思うが,村長さん,宮村幸延さん,立派なひとですよ。それから初枝さん,私を救出してくれたわけですよ。結局ね。ですから,もう私は,この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に,何のわだかまりも作りたくない以上です。」 と述べて,沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが,それは,原告梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間であったとすれば(さらに言えば,原告梅澤の主張を前提とすれば),原告梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。 この点についての原告らの主張を踏まえても,「鉄の暴風」の戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として,資料価値を否定することはできない。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/89.html
論争史ガイド 石川為丸氏 http //www.h3.dion.ne.jp/~kuikui/hihyou.htm 【「集団自決」論争】 『ある神話の背景』の背景 〈神話〉を作る身振りと〈事実〉へ向かう姿勢 石川為丸 曽野綾子の『ある神話の背景』は、いささか挑発的な、右よりの論調を特徴とする雑誌『諸君』に1971年10月から1972年8月まで11ヶ月にわたって連載された後、1973年に、単行本として文芸春秋社から刊行された。この『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。 「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のために、曽野はこんなザレ歌をわざわざつくったりしているのだ。 「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。 最後の「渡嘉敷」に無理があるへたくそなザレ歌ではあるにせよ、曾野のこういう軽いノリが、暗黙のうちにそのことを物語ってもいるのだろう。 だが、この書『ある神話の背景』はそれなりの説得力を持ってはいたようである。琉大の仲程昌徳先生でさえ、こんなことを書いて、曽野の「神話」説に寄り添ったほどなのだから。仲程先生は、「公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。」(「本土の作家の沖縄戦記」)などと曽野を持ち上げていたのだ。だが、もし、曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。いったいそんなもののどこに、「公平な視点というストイックなありよう」などが貫かれていようか。だが、仲程先生はさらに、〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。〉とまで述べて、曽野の「神話」説を全面肯定したのだ。 こうした論調の存在を踏まえて、1985年になって、『鉄の暴風』で渡嘉敷島の集団自決の項を執筆した太田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日~4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。 「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけられた『鉄の暴風』の記述を戦後四十年にしてさらに補完したことでジャーナリストとしての責任を果たしたことになり、そのことに敬意を表したい。」といれい氏が述べている通り、この論争では太田良博氏は一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢を貫いた。それに比べて、曽野綾子の不真面目さが際立っていた。曽野は、「つい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである」ことをまず述べて、太田氏の主張も、それに反駁することも、自分の著作も、「現在の地球的な状況の中では共にとるに足りない小さなことになりかけていると感じる」などと言って、まともに対応しなかったのだ。また、「第二次世界大戦が終わってから四十年が経った」ので「いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない」などと説教までたれていたのだ。こういう無責任なずらしに対しては、石原氏がピシリといいことを言っている。「歴史始まって以来の大きなできごとである沖縄戦の全事実の一部たりとも、闇に葬り去らずに記録し、そこから再び惨劇を繰り返さない歴史の教訓を学ぶことが、体験者と同時代に生きるものの責務であり、体験を語ることが戦没者の死を無駄にしない生存者の使命となっている」と。『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図は、住民虐殺を始めとする、沖縄における日本軍のなした悪業の数々を免罪しようということであった。もともとそんなことは無理なことなので、曽野はまともに論争することができなかったのだと言えよう。客観的な事実に正面からぶつかったら、当然にもボロが出てしまうような質のものだった。だから曽野は、『鉄の暴風』の中の太田氏の記述を、「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」とけなしてみたり、「太田氏という人は分裂症なのだろうか。」などと病む者への配慮を欠いた、けなし文句で対応することしかできなかったのだ。挙句の果ては、沖縄は「閉鎖社会」だとか、学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせろ、などと述べる始末であった。太田氏の反論に対して、曽野は、結局何一つまともに対応できなかったのだ。 曽野の発言に見られるような支配的な潮流は、沖縄戦における日本軍の犯罪を免罪し、「もうあの戦争のことは忘れよう」ということであった。そういう文脈の中で、仲程昌徳氏が、「軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう」という岸田秀の一節を引用して、民衆レベルでの戦争責任を持ち出そうとしたのは、それ自体は大切な問題であったにもかかわらず、住民の側が凄まじい被害を受けた場であるということを考慮にいれていないために、大きく論点を逸らす役割しか果たさなかったと言えよう。それは、「生き残ったものすべての罪である」などといった、沖縄戦における真の加害責任を免罪しようとする曽野の論調に荷担するものでしかなかったのだ。だが、そのような仲程氏の発言を除けば、県史料編集所専門員(当時)の大城将保氏の、「住民虐殺」も「集団自決」も根本的な要因は軍の住民に対する防諜対策、スパイ取締であったという、客観的な資料に基づく説をはじめとして、総じて沖縄戦を再認識させる真摯なものであった。ただ、残念であったことは、論争が、沖縄という地域限定のものから全国的なものに展開する前に、曽野が逃亡を決め込んでしまったことである。 こうした十四年前に行なわれた論争に、私たちは、今何を付け加えようか。それがあまりにも常識的なことであるためなのか、天皇制への言及がなかったことが、ただ一つ私などの気になっている点ではある。渡嘉敷や座間味にまで慰安婦を連れて蠕動していた日本軍は、そこでいったい何を目的にしていたのかということを、ひとまず再確認しておこう。渡嘉敷では住民を虐殺し、「集団自決」を強制させていたわけであるが、それは、皇軍の使命が沖縄を守るためなどではなく、「国体(天皇制)護持」のためであったからということだ。ポツダム宣言の受諾が遅れたのは、時の権力が国体護持すなわち天皇制の存続に執着したためであることは、今や常識となっている。天皇の命を救い、天皇制を延命させるための策謀のために、沖縄の住民九万四千人が犠牲にされたのだということは、何度でも確認しておく必要があるだろう。天皇(制)による戦争の凄まじい犠牲にあいながらも、それから半世紀以上経てもなお、天皇制は温存され、沖縄が日米両軍の戦争遂行のための中心基地にされているという事態に、私たちはもっと驚くべきなのだ。これは、戦争責任の問題が、「戦後責任」として現在にも持ち越されているということにほかならない。十四年前の「集団自決」論争は、今に温存されてしまった「戦前・戦中」と絡めて、繰り返し想起していくべきはずのものである。 〈「EDGE」 NO8 1999 より〉 愛・蔵太氏 http //d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01 雑誌『正論』(※)に1971~72年にかけて連載されたテキストをまとめた『ある神話の背景』が1973年に出版され、それに対する反論が1985年に「沖縄タイムス」で、太田良博さんという、沖縄タイムスが刊行して、曽野綾子さんの批判対象テキストになっている『鉄の暴風』を書いた人によって掲載されたわけです。 なんで本が出てから10年以上もたってこんなことになったかは不明なんですが(あまりくわしく調べてないんだけど、家永三郎教科書裁判と関係ある様子)、太田良博さんの批判テキストは1985年4月8日から10回にわたって掲載され、それに対する曽野綾子さんの反論が、1985年5月1日から5回、さらに太田良博さんの再反論が1985年5月15日から6回にわたって掲載されました。 ぼくのブログで、その全テキストを掲載・紹介してみたいと思います。 渡嘉敷島の集団自決が軍命令であったのかなかったのか、について考察するための、ちょっとした資料になるような気がします。 (※)正しくは『諸君』 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1741.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-108 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(4) 集団自決に関する文献等の評価について (原)ア 鉄の暴風について (判決本文p204~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)ア 鉄の暴風について(ア)(取材方法について)* (イ)(初版の誤記)* (ウ)(上陸日時の誤記)* (エ)(取材方法についての曽野綾子の批判は)* (オ)(資料価値は有る)* (カ)(調査不足を謝罪したという梅澤陳述書は疑問)* (ア)(取材方法について)* 第4・5(2)ア(ア)aに記載したとおり,「鉄の暴風」は,軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず,あくまでも,住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり,戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものである。 第4・5(2)ア(ア)aのとおり,牧港篤三が記載した「五十年後のあとがき」によれば,体験者らの供述をもとに執筆されたこと,可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上,戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり,集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる。 同じく「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は,沖縄タイムスに掲載された「沖縄戦に神話はない-「ある神話の背景」反論〈1〉」, 「同〈3〉」(甲B40の1)において,「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと,「鉄の暴風」が証言集ではなく,沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため,証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかったことを記載している。 (イ)(初版の誤記)* 控訴人らは,「鉄の暴風」の初版には, 「隊長梅澤のごときは,のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」 との記述があり,「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は,風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張し,確かに初版(甲B6・41頁)にそのような記述があることが認められる(これは証拠(甲B6及び乙2)によれば,第10版で訂正されていることが認められる。)。 しかしながら,戦後の混乱の中,体験者らの供述をもとに執筆されたという性質上,住民ではない控訴人梅澤のその後などについては不正確になったとしてもやむを得ない面があり,そのことから,直ちに「鉄の暴風」全般の信用性を否定することは相当でないものと思われる。 (ウ)(上陸日時の誤記)* 控訴人らは,「鉄の暴風」について,米軍の渡嘉敷島への上陸を昭和20年3月26日午前6時ころとするが,「沖縄方面陸軍作戦」によれば正しくは同月27日午前9時8分から43分であって,米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載されていると旨批判するところ,この批判は,第4・5(1)の認定事実に照らして,妥当するものと思われ,この点でも「鉄の暴風」の記述には,正確性を欠く部分があるといわなければならない。 もっとも,「鉄の暴風」は,前記のとおり,軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず,あくまでも,住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ,こうした誤記の存在が「鉄の暴風」それ自体の資料的価値,とりわけ戦時中の住民の動き,非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる。 すなわち,「鉄の暴風」の控訴人梅澤が 「米軍上陸の前日,軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ,玉砕を命じた」 との記載,赤松大尉が 「こと,ここに至っては,全島民,皇国の万歳と,日本の必勝を祈って,自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い,米軍に出血を強いてから,全員玉砕する」 と命じたとする部分については,これを聞いた者が十分特定されていないけれども,し,これを聞いた知念副官の心境までも具体的に記述しているが, これを話した者が特定されておらず, どれほど正確なものであるかどうかは全く不明である。しかし少なくともその内容は編集者が創造し, 脚色するようなものとは考えられず, そのような話が仮に伝聞であったにしても当時住民からなされたこと自体は明らかであると考えられ, 座間味島,渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については,第4・5(2)で子細に認定,判示した住民の体験談と枢要部において齟齬することはなく,集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたとする牧港篤三,「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たとする太田良博の見解を裏付ける結果となっており,民間から見た歴史資料として,その資料的価値は否定し難い。 (エ)(取材方法についての曽野綾子の批判は)* もっとも,曽野綾子が著した「ある神話の背景」では,「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判がなされている。 この点,「鉄の暴風」の執筆者の1人である太田良博は,沖縄タイムスに複数回連載した「沖縄戦に神話はない-「ある神話の背景」反論」(甲B40の1 枝番を含む)の中で,山城安次郎と宮平栄治からは渡嘉敷島の集団自決について取材したのではなく,沖縄タイムスが集団自決について調査する契機となった情報提供者にすぎないと反論し,集団自決の証言者として取材した対象は古波蔵村長など直接体験者であったとしている。「ある神話の背景」には,宮平栄治が太田良博から取材を受けた記憶はない旨述べたことが記述されているが(甲B18・51頁),これは,前記の太田良博の反論と整合する側面を有している。 そして,先に指摘したとおり,座間味島,渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については,第4・5(2)で子細に認定,判示した住民の体験談と枢要部において齟齬を来していないのであって,この事実からすると,「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判には,疑問があるは, 採用できない。 (オ)(資料価値は有る)* 以上のとおりであるから,「鉄の暴風」には,初版における控訴人梅澤の不審死の記載(これは甲B第6号証及び乙第2号証によれば,平成5年7月15日に発行された第10版では削除されていることが認められる。),渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し,誤記が認められるものの,戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として,資料価値を有するものと認めるのが相当である。 (カ)(調査不足を謝罪したという梅澤陳述書は疑問)* ところで,控訴人らは,執筆者の牧志伸宏が,神戸新聞において, 控訴人梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し,控訴人梅澤の陳述書(甲B33)にも,昭和63年11月1日に新川明と面接した際のことについて, 「私の方から提出した宮村幸延氏の『証言』を前に,明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には,応対した同社の新川明氏(以下「新川明氏」)が,謝罪の内容をどのように書いたら良いですかと済まなそうに尋ねて来たため,私が積年の苦しい思いを振り返りながら,また,自分自身の気持ちを確かめながら,自分の望む謝罪文を口述し,それ新川明氏が書き取ったのです。」, 「その後,昭和63年12月22日,私の上記要求に対する回答ということで,沖縄タイムス社大阪支社において新川明氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様,岩崎氏に立ち会って貰いました。そうしたところ,沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ, 『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている。』 と主張して私の言い分を頑として受け入れませんでした。」 と記載している。 先に認定したとおり,沖縄タイムスは,控訴人梅澤と面談した直後である昭和63年11月3日,座間味村に対し,座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20),座間味村長宮里正太郎は,同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答しているのであり,こうした回答を待つことなく,宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を示されただけで,困惑して謝罪したというのは,不自然の感を否定できない。仮に,控訴人梅澤が陳述書で記載するとおり,昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば,同年12月22日に態度を一転させた場合,前回の謝罪行為を取り上げて,新川明を批判するのが合理的であろうが,会談の記録を録音し,それを反訳した記録である乙第43号証の1及び2には,そうした状況の録音若しくは記載がない。加えて,証拠(乙43の1及び2)によれば,控訴人梅澤は, 「日本軍がやらんでもええ戦をして,領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということは,これは歴史の汚点ですわ。」 「座間味の見解を撤回させられたら,それについてですね,タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが,わたしはそんなことはしません。あの人たちが,今,非常に心配だと思うが,村長さん,宮村幸延さん,立派なひとですよ。それから初枝さん,私を救出してくれたわけですよ。結局ね。ですから,もう私は,この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に,何のわだかまりも作りたくない以上です。」 と述べて,沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが,それは,控訴人梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間であったとすれば(さらに言えば,控訴人梅澤の主張を前提とすれば),控訴人梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。 この点についての控訴人らの主張を踏まえても,「鉄の暴風」の戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として,資料価値を否定することはできない。 目次 戻る 通2-108 次へ 通巻