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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―11 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p211-215 目次 11 【引用者註】トーマス・マンの誤読と利用 赤松隊の皆本少尉の話というのがある。 隊員の兵隊二人が、あるとき逃亡した。そのとき、赤松は「去る者を追うのはよそう」と言った。「赤穂も最後は四十七人しか残らなかった」とも言ったとある。兵隊の逃亡を黙認した赤松の態度は、まことに寛大といわざるをえない。陣地をはなれたという理由だけで、防召兵に「逃亡」の罪をきせ、どこまでも追いかけてさがし出し、陣地に連れもどして処刑した赤松、これが同一人の態度かとうたがわざるを得ないほど隊員に対しては寛大であったことがわかる。島の住民や、住民出身の防召兵を、同じ種類の人間とみていなかった歴然たる証拠である(赤松の逃亡隊員に対する態度は一種の逃亡帯助)。 生きるも死ぬるも戦場では、まったくの運というもので、生きているからといって非難されるいわれはない。生き残った者は、日本の再建に努力すべきだ、と赤松はいう。 戦争に対する反省がなくて、どういう日本の再建に努力するっもりなのだろうか。 宗教的視点から、究極的には、刑法思想を否定する結果におちいるような言説をなす曽野氏は、宗教の立場からの赤松弁護と、陸軍刑法などを持ち出しての刑法上の立場からの二重弁護を試みている。『ある神話の背景』は、事件関係者の証言を多く集めて、読者に判断を任す装いをとっているが、資料処理や立論の方法は演緯法をとり、赤松弁護に傾い 211 ている。 『ある神話の背景』の末尾にトーマス・マンの言葉が引用されている。「非政治的人間の考察」からとった、一寸、長い引用文である。「いかにも絵にかいたような血まみれで凄愴そのもののような悲惨が、この世で最もどん底の、ほんとうに最も恐ろしい悲惨ではない」とマンはいう。つまり人間の歴史で、戦争だけが悲惨であつたのではなく、戦争以上に悲惨な人生がわれわれの日常をとりまいている、というのである。 その例として、「シチリアの硫黄坑における囚人労務者たちの生活や、ぞっとするような貧困の中で堕落し、虐待のために不具になるロンドンの東部貧民街の子供たちの生活」をあげる。そして、マンは、そういう人生の悲惨に対して、いろんな態度をとる人たちの例をあげて、それらを似而非ヒューマニストときめつけるが、彼らには何とでも言わせておけ。「だが、戦争反対という政治的・博愛主義的な悲願を得々としてうたうことだけは、やめてもらいたい」というのである。つまり「戦争反対」を叫ぶエセ・ヒューマニストに至っては、がまんができないというわけである。 「こんどの戦争で博愛主義者になった文学者は、この戦争を畜生道におちた恥辱であると感じない者はすべて反精神的人間であり、犯罪者であり、人類の敵であるなどと吹聴してまわっているが、わたしはこの宣言ほどたわけたでたらめを知らない」という。 212 なるほど、「一般読者や批評家たちが修辞的政治的な人間性要請を人間性そのものと取りちがえてくれるおかげで、かろうじて生きながらえているにすぎない」「理論的愛と教条的人間性を説く人たち」に対するマンの義憤はわかるような気がする。 しかし、曽野氏の引用した部分を読んだ限りでは、それは救いのない言葉のように私にはおもわれる。では、マンのいうほんとのヒューマニストは、人生日常の悲惨や戦争に対して、実践的にどう対処すればいいのかという指針は見っからないのである。 エセ・ヒューマニストたちを鋭く冷笑するマンは、資本主義機構から派生する悲惨な人間の生活と、戦争とのかかわり合いを、どうみているか、あの引用文だけではわからない。 トーマス・マンの「非政治的人間の考察」は、第一次大戦直後、一九一八年に出版され、当初から「政治的人間たち」から袋叩きにされ、マン自身が直ちに自己のあやまちと敗北をみとめた日くつきの論文である。マンはのちに「政治的人聞」となり、ナチスに対して抵抗の姿勢をとるようになる。 曽野氏は、この「非政治的人間の考察」中の一文を、「赤松隊の事件の中に自分のいかなる姿を見るか、ということについてきわめて警告的な文章」として引用しているのである。マンの文章は、曽野氏によって次のように利用されているようにおもわれる。 世の中には戦争より悲惨な人生がいくらもある。その悲惨の原因をつくった人たちは何 213 の処罰をうけることなく、常に社会の上層部を闇歩している。そのことを考えるとき、戦争のメカニズムの中で、ひとつの歯車として動いたにすぎないある軍人の罪とか責任とかを追及することは酷ではないか――。 この問題をここで論ずることはさけるが、トーマス・マンの「非政治的人間の考察」からとった引用文が、『ある神話の背景』の中では、通俗的に利用されている感じをうける。『ある神話の背景』で、現実の出来事に対する作者の解釈が思想的に昇華された高みにおいて、マンの言葉がすえられているというより、赤松弁護という次元の低い目的のために、装飾的に、あるいは一種の煙幕として、それが利用されているように、私には思える。 それから、現実社会の問題に、「絶対者」や「絶対観念」を持ちこむと、すべての問題を非現実的なものにしてしまう。現実の問題は、すべて相対的な意味しか持たないからである。殺人の罪を犯さないものが、殺人者を告発するのは、曽野氏も引用している「カルネアデスの板」(ただし、緊急避難といった単純な意味ではない)とはいえないだろうか。そうでないと社会秩序が維持できないという相対の原理が、そこでは働くのである。もし、絶対者以外は誰も裁く資格がないとなると、トーマス・マンのいう日常の悲惨事や戦争の悲惨のほかに、現実に裁きをうけて服罪している多くの囚人たちの悲惨と、不完全な人間であるにもかかわらずそれらを裁いた多くの裁判官たちの罪の問題が生じてくる。 214 究極的には、曽野氏がいうように、いかなる人も殺人者を告発できないかも知れない。 告発者となりうるのは、「殺された人間」だけということになる。しかし、「殺された人間」は、つねに告発しないし、また、告発できないのである。 215 (以上) 集団自決などをめぐって|目次
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―7 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p193-197 目次 7 【引用者註】「必死兵器」と「決死兵器」、「死のエリート」たちの凶暴な「生」へのもがき ほんとに死を諦観した人は幼心に帰るのではないか。豪州のシドニー湾内に潜行した特殊潜航艇員が出撃前に童謡を歌っていたという話を聞いたことがある。 神風特攻隊員が出撃の前晩、静かに寝ている写真をみても、普通の軍隊内務班の就寝状況と何ら変わらない。 死はあくまで自己との戦いなのである。死には他人の問題が介在してこない。死と直面する人は、むしろ人なつこくなるのではないだろうか。他人に対して狂暴となるのは、生死の境にあって、生を求めるもがきがあるからであるとおもわれる。 慶良間列島に配置された陸軍特攻艇は、特攻機や海軍特攻艇とちがって「必死兵器」ではなかった。たとえば、特攻機は、地上から飛び立った瞬間、一〇〇%の死が待っている。 この場合と、九九%は死を意味しても、一%だけ生きる機会がある場合とでは、心理的に大いにちがってくる。なぜなら、「一%の生きる可能性」を二%にし、五%にし、二〇%にし、しまいには五〇%以上にしようとするのは人情だからである。「必死」と「決死」とはちがうのである。「必死」は客観的にみて死を意味し、「決死」は主観的な死の覚悟を意味する。 吉田俊雄(元参謀、海軍中佐)の『沖縄―Z旗のあがらぬ最後の決戦』では、次のよう 193 に説明している。 「海軍の特攻艇が、同じモーター・ボートでありながら、艇首に大量の弾薬をもち、敵艦船の横腹に撃突し、自分は粉ミジンになって相手を撃沈しようという『必死艇』であったのにくらべ、この陸軍特攻艇は、撃突を狙ったのではなく、敵艦船に肉薄、そこで艇尾の爆雷を投げこみ、水中でドカンとやって、『柔らかい下腹』に穴をあけようと狙った点が違っていた」云々。(戦車攻撃要領の応用)。 陸軍特攻艇出撃の一例をあげると、昭和二十年四月十五日夜、海上艇身第二十六戦隊の二十二隻が嘉手納沖の米艦船を攻撃、かなり戦果を報じているが、未帰還はわずか三名(搭乗員は一隻一名)である。なかには出撃して全員帰還した戦隊もある。(『沖縄方面陸軍作戦』) 右の実行例からみると、生還率はかなり高かったことがわかる。 海軍特攻隊が敵艦船と直角に激突するのに反し、陸軍特攻艇は敵艦船に対してゆるい角度、または敵艦船とやや並行して肉薄する。 投爆後の脱出退避時間は約五秒である。 同特攻隊の最大速力は二十ノットだから、この速度なら、一秒間に約十メートル、脱出時間が五秒だから五十メートルは退避できる計算になる。 194 同特攻隊は、敵の防御火力を予想して、目的達成のためには可及的最大速度を出さなければならないことを考慮に入れてよい(『ある神話の背景』の作者は、同特攻艇の速度を「自転車のようなのろい」速度と形容しているが、それは不正確な表現である。自転車の速度にはいろいろある)。 海軍の特攻艇は「必死兵器」だから脱出のための技術訓練は不要である。ところが、陸軍特攻艇の隊員たちにとって、脱出速度及び脱出技術訓練は、自己の生命にかかわる重要事である。おそらく、陸軍特攻艇員たちは、各自、心中ひそかに脱出技術をたえず心がけていたにちがいない。 彼らは、「決死の覚悟」と「脱出技術の訓練」の中で、特殊な心理状態におかれていたはずである。 前述の吉田俊雄氏はいう。 「沖縄本島の戦闘ではパニツクらしいパニックはほとんど起こらなかった。備えを固めて敵を待つ状態にあったので、日本人の強さ、勇敢さが発揮されたが、慶良間列島では不意の敵上陸にショックを受けて狼狽し、日本軍人の悪い面がムキ出しになり、日本人のなんともやりきれないエゴイズム、未成熟の優越意識、生命の軽視などが、ドス黒く噴き出したのだと思う」と。 195 特攻出撃を断念した赤松隊は、一種のパニツク状態(『ある神話の背景』によれば「発狂状態」)となるが、厄介なのは、彼らに「特攻隊員としてのエリート意識」だけは残っていたことである。 「なんとかして生きたい」という生の欲望は意識下にかくれ、「どうせおれたちは死ぬんだ」というエリート意識(死の仮面)だけが、心と言動の表面を支配する。そして他人の生命の軽視となる。 そして赤松隊のヒステリック症状は、直ちに住民の集団自決(無理心中)と、物理的にも心理的にも直結のつながりをもち、赤松隊による狂暴な住民処刑となる(阿嘉島の野田戦隊長は「部落民は軍規律適用外であるので、その進退は各人の自由意思に任す方針」をとっている=『沖縄方面陸軍作戦』)。 牛島軍司令官の「戦闘指針」の中で、「軍はどんな事態になっても、絶対にパニックを起こさせないこと」の心得を訓戒し、パニツクは各級指揮官の指揮に乱れがある場合に生ずる、と説明している。軍司令官自身、作戦要務令綱領中の「指揮官と軍隊」で示されている典範例を地でゆくような態度を示していた。 渡嘉敷島では、当初の米軍上陸戦以外は、日本軍にとって直接の危険は去っているが、その状況で軍はかえって住民に対して狂暴になっている。生へのもがきが露骨化してきた 196 といえよう。 最高司令部(沖縄本島)の指揮から杜絶し、直属上官大町大佐が渡嘉敷島沖で戦死したあと、監視者のいない渡嘉敷島で、「孤島の王様」となった赤松隊の一部は、一方では特攻隊員の犠牲的精神と軍人の誇りに陶酔し、他方では米軍の攻撃と陣地の暴露を極度におそれる自己保存のエゴがあり、心が絶えず動揺していたとみられる。とにかく、ひどい目にあった住民は、不運であった。 もし告発者にまちがいがあれば、告発者が死刑になるというユダヤ教の教義とかが引例されているが、その場合「まちがった告発者」を告発するのは誰か。おそらく「神」に対してウソをついたという罰だろうが、絶対観念を無理に現実制度におしこんだ極端な例である。「まちがった告発者」とされていた者が、もしまちがっていなかったらどうなるか。 その教義は他に多くの矛盾をふくむが、それは作者に考えてもらおう。話は別だが、現行法では、刑事事件の原告は検事(国家)である。ユダヤ教の流儀なら、告発者たる国家がまちがえれば、国家を死刑にしなければならなくなる。 197 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―2 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p171-175 目次 2 【引用者註】自決命令と住民処刑について 『ある神話の背景』では、渡嘉敷島に関するいくつかの戦記がほとんど『鉄の暴風』の中の第二章「集団自決」のひき写しであることが念入りに例証されている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記の部分が、直接体験者でない人から取材した伝聞証拠によるものである点をあげ、その信憑性が疑われている。だが、この場合、逆の見方も成り立つ。たとえば、直接体験者(遺族会)の記録である『渡嘉敷島の戦闘概要』が『鉄の暴風』をまねているというなら、それは表現を借用したというだけの話で、『鉄の暴風』の記述が大体においてまちがいないことの有力な証拠にさえなりうる。 問題は軍が自決命令を出したかどうかだが、『ある神話の背景』では、赤松証言に基づ 171 いてその事実はなかったという判断に傾いている。 この点について、私は次の疑問だけを述べておく。なぜ、戦闘必須の兵器である手榴弾が多数住民の手に渡っていたか。もし防衛隊員(正規兵といえない)の手から流れたというなら、一人の防衛隊員が妻に会いに行ったぐらいで処刑するような軍隊が、兵器の管理をなぜ怠ったか。理由なく手榴弾(あの場合は重要兵器)を住民に渡す行為こそ罰せらるべきである。 手榴弾は軍が渡したのではなかったか。第二の疑問は、赤松の本隊から離れた場所にいた住民は生存者が多く、本隊近くに集まった住民、本隊に近接して行動した住民に犠牲者が多かった事実である。 それから、集団自決の生き残り金城重明氏の手記にはっきり自決命令があったことをみとめている点である。金城氏は、現在、牧師である。集団自決の体験を一生の十字架として牧師になった人である。その言葉は、「神に誓った言葉」であるはずである。クリスチャンである『ある神話の背景』の作者は、金城氏のこの言葉については何も述べていない。むしろ、そこを素通りしている。ただ、赤松元大尉の自決命令否定をおもくみている。 住民を殺害して、今日なお自分の行為はまちがっていなかったとする加害者の言葉が、「被害の罪」を背負って神に仕える信仰者の言葉よりも信頼がおけるのだろうか。火のな 172 い所に煙は立たないという。当時、少年だった金城氏は、自決命令の「煙の部分」をたしかにみたのだろう。(座問味島では軍の自決命令が確認されている)。 集団自決について赤松戦隊員だった一人は、実に不愉快なことを述べている。「軍が命令を出していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけないと思ったから、我々は黙っていた」 それから住民処刑についても、『ある神話の背景』は、いろいろ弁護しているが、その中でこれも不愉快に感じたのは、次の点である。赤松隊の陣中日誌中の伊江島女性処刑に関する記述に、「日本人としての自決を勧告す。女子、自決を諾し、斬首を希望、自決を幇助す」とある部分を、作者が、元法務官だったという人の意見などを参考に、「その場合の赤松隊側の責任は、一般刑法による自殺幇助に該当するという」などと述べて納得した形になっているくだりである。 物事の本質に対する解釈が、右のような弁護に傾き、自殺を強制し、殺す殺人行為を自殺帯助として疑わないようにみえるのは、いささか、意外である。敵に通報されるかも知れないとの脅迫観念からか、赤松の戦隊本部の位置を知った住民はいずれも処刑されている。 このことから逆に類推すると、赤松の陣地に保護を求めてきた住民たちの集団自決は、伊江島女性に対する「自殺幇助」と同性質のもので、そのハシリだったのかも知れない。 173 「悪においても、善においても、それほどに完壁だというものは、この世にめったにあり得ない」とする作者が、赤松隊の行動のなにからなにまで弁護しようとする態度には、頭をかしげざるをえない。 ついに住民処刑の弁護は、「人一人殺したものでないと、なにごともわからないのではないか」という見方に発展する。 陸軍の特攻艇は、『ある神話の背景』に書いてあるような「必死兵器」ではなかった。事実、馬天沖や嘉手納沖で爆雷攻撃を実施した戦隊はいずれも半数以上が生還している。「必死兵器」でなかったことが、のちの出撃中止と微妙にからんでいる。「決死」(必死ではない)を「生きる可能性」の方へ転換させる心理的動機が、そこにかくされているような気がする。そして、「決死のつもりのエリート意識」が、住民に死を強要するようになる。そして、本人たちは生き残る。昭和二十年八月十五日(終戦)をさかいに、それまで狂気の行動をとった彼らは、初めて自らの都合のよい論理のミノにかくれる(詔勅で武器を捨てたのだから降伏ではなかった)。どころか、立派な軍隊だったことを強調する。『ある神話の背景』によると、「赤松隊が終戦を確認したのは、八月二十一日付で軍情報隊長、塚本保次大佐からの書簡が届けられて来たからであった」とある。ところが、赤松隊では、その三日前から降伏準備をしていた。同隊陣中日誌には、八月十九日、戦死者の遺骨を集 174 めたり、附近から石をひろったりしている(高校野球の甲子園の土を連想する)。 八月二十日は兵器を処分している。「終戦の確認」を待ち切れずに、郷里に帰れるのだと、兵器を捨てて、小学生のようにいそいそと降伏準備をする敗残兵たち(敗残兵の規定には理由がある)。――自分らが島に残した行動の歴史的意味を知らないで―。 金城重明氏は戦争被害者としてこの体験を十字架として生きているが、『ある神話の背景』の作者は、赤松戦隊員にかかわって、贖罪の十字架を負っているのだろうか。 しかし、赤松隊の加害者たち自身に、人間としての、戦争に対する深い反省がないとすれば、そのことに、ほんとの問題がひそんでいるような気がするのである。 175 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―8 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p197-202 目次 8 【引用者註】二重弁護に依って防召兵殺害は擁護できない 加害者を告発することは誰にもできない、と曽野氏はいう。そして、告発者を告発する 197 形で、加害者を弁護している。 明治以来の沖縄における軍国主義教育(教育や言論の指導者たちによる)が、渡嘉敷島民の集団自決の遠因となっている、と曽野氏はいう。また、カール・メニンジャの精神分析に関する論文を引用して、集団自決者の心理分析を試みようとする。 その中で、「人間は殺されたいという意識下の願望がある」「自分自身を死刑という形で処罰されたい願い」「家族成員各人の死の願望の満足」「死への恐怖を持たなくて済むことが意識下でわかっているから、人々は死んだのだ」などの言葉が散見する。 そして、集団自決の自害行為性を立証しようとする。自決命令を否定する赤松証言に対する側面擁護射撃である。 曽野氏はいう。「あくまで職業・法律上の責任を問おうとするならば、赤松元隊長に法的解釈のまちがいがあるかどうか、ということと共に、何よりも大きな責任を持たねばならないのは、そのような軍事上の法規を、平気でそのまま日本領土内の戦場に持たせて出した軍当局である。この最大の怠慢を考えずに、渡嘉敷島の悲惨な事件の本当の原因は考えられないのである」と。 これは、赤松に対する二重弁護になっている。住民処刑に関する赤松の軍人としての刑法上の責任は、曽野氏が、元法務官だった人の意見を参考に陸軍刑法を引用して弁護して 198 いる。それでも自信が持てないのか、赤松に刑法上の責任がある場合も想定して、次のように弁護する。その責任は赤松というより「軍当局」にあるのだと。 「そのような軍事上の法規」というのは、曽野氏によれば、外地を目あてに作られた作戦要務令や陸軍刑法のことで、沖縄のような日本領土内における「軍事上の法規」は用意されていなかったというわけである。だったら、阿嘉島の野田戦隊長が、住民は軍規の適用外として、その進退は住民各自の自由意志に任せ、同島では住民処刑などがなかったのは、なぜか。陣地をみたからには帰すわけにはいかないと住民を殺した赤松戦隊長と、野田戦隊長は同一条件の下におかれていたはずである。 さらに海軍司令官大田実少将は詳説はさけるが、住民に対する態度や処置において赤松とは極端に対照的であったのはなぜか。 「赤松の責任を問うというなら、もっと悪く、残忍なのは渡嘉敷島にひどい攻撃を加えた米軍であろう」というに至っては、曽野氏の論法もどうにかしている(陸軍法規については後述する)。 曽野氏によれば、集団自決は住民の自害行為だし、赤松隊による住民処刑も赤松隊の責任ではないというわけである。「全く無人格なものの責任」という表現を曽野氏は用いている。つまり、国家の責任ということである。私はあえて問う。 199 ああいう殺し合いを地上で許す、曽野氏のいう「神」には責任というものはないだろうか。キリスト教によれば、人間は神の被造物であり、神は人間を最も愛しており、かつ神は万能であるはずである。なぜ、人間社会に殺し合いがあり、その殺し合いを神はただ見ているだけであり、しかも、神は殺す者の罪さえゆるしてあげるのだろうか。 「現代において、被害者と加害者は分けて考えられなくなったということであった。渡嘉敷島で、父母をナタで殺した少年は加害者であったか? (中略)、彼らはれっきとした加害者であり、被害者であった」と曽野氏はいう。この論法で、「赤松は加害者であり、かつ被害者でもあった」と弁護する。ここで集団自決と住民処刑が混同されている。 赤松は、敵に投降するおそれのある者、または投降した住民を処刑した。しかし、沖縄戦の時点で、天皇はすでに降伏を決意していたことは歴史の明らかにするところである(政府による本土決戦呼号は、国内国外向け謀略的ゼスチュアにすぎなかった)。赤松流のやり方からすれば、天皇こそ「処刑に価いする存在」だったということになる。だが、天皇は軍をみはなしていた。軍が死の道連れにしようとしていた国民の生きる道を考えていた。 投降した沖縄住民も戦いにやぶれて捕われたにすぎない。そして、戦いに敗れた責任は軍にあったのである。 200 人間としての責任は他人が「感じろ!」と強いることができないものである。 感じないことを非難して悔い改めさせることもできない。どのように感じたかを表明させる権利も他人にはない。それを強いることのできるのは――たった一つの人間ではない存――私流に言えば神だけである、と曽野氏はいう。 これは宗教的視点から刑法思想を否定するものである。どんな悪いことをしても、刑罰を加えられなければ、良心の苛責をなめいやして、罪を十分に意識しなくなる弱点が、人間にはある。それは無視できない。 大城徳安氏は、家族に会いに行き、逃亡の罪で処刑された。 赤松隊のある将校が、渡嘉敷島の海岸におりて、ひとりで魚をとっていたことが『ある神話の背景』の証言の中にでてくる。 ほかの赤松隊員たちも、ときどき、海岸にでて、海中で魚をとっていたにちがいない。 防召兵が陣地からいくらもはなれていない家族のいる場所までゆくことは、死に価いする「逃亡の罪」であり、島の限界線である海岸に、赤松隊員がおりることは、逃亡でもなんでもなく、大目に見られていたわけだ。防召兵は正規兵というが、なぜ、それほど差別されたのか。防召兵が島の住民だったからか。 あの小さい島のどこからどこまでが、逃亡か、そうでないかを判断する地理的限界線だ 201 ったのかと言いたい。限界線はむしろ赤松隊員の心の中にあったのではないか。 202 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―4 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p179-183 目次 4 【引用者註】言動が信用できない赤松に信をおく 赤松隊「陣中日誌」に、「三月二十九日も曇雨。昨夜より自決したるもの約二百名。首を縛つた者、手榴弾で一団となって爆発したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頚部を切断した者、戦いとは言え、言葉に表し尽し得ない情景であった」と、あたかも目撃したように記録してある。 ところが、『ある神話の背景』では、「集団自決の情景」をみたものは、赤松隊には誰もいなかったことになっている。 179 赤松の話では、第三戦隊陣中日誌は主に谷本候補生(伍長)が書いたという。 陣中日誌に関しては、作戦要務令第三〇八条から第三一七条の各条で規定してあるが、それら各条記載の規定内容をみても、同日誌は、相当軍隊経験に富む者でなければ書けるものではないことがわかる。各所属隊長の捺印署名と共に通常一カ月ごとに大本営に提出すべく規定された陣中日誌を、年端もゆかない、しかも陸軍学徒の身分にある者に書かせたというのも変だが、『ある神話の背景』の別の個所には、「谷本氏は人々に戦後、初めてまとめたという『陣中日誌』を配った」とある。戦後、手を加えたことが考えられ、いわゆる作戦要務令にある「陣中日誌」とはちがうようだ。 村民全体が自決せよ、というような重大な命令がでて、それが軍の越権であるとわかれば、殺されることがあっても、村の指導者としては身を挺して抗議すべきだった、と『ある神話の背景』の作者はいう。これこそ、作者のいう「戦後的発想」というものであろう。考えてみたらよい。戦時中、あの戦争が暴挙であることを知る者は国内にかなりいたはずだが、日本の知識人その他で、当時、軍に向かって正面切ってそのことを言えたものがいるだろうか。 一億の運命に関することでさえ然りであった。まして、軍刀をふり回すことしか知らない若年の下級士官に、村の指導者が戦場で抗議することは無意味で、そんなことができる 180 状態ではなかったはずである。 「誰が悪いかといえば、最も残忍なのは米軍であろう。彼らは日本人の非戦闘員がいるなどということに、何ら道義的なものを感じないでいられたのであろう。なぜなら、その島に、ほんの少数の住民がいて、そんな連中の生命や家をふっとばしたからと言って、何ら心の痛みなどを覚えることはないのである」と作者はいう。 『鉄の暴風』が書かれた時代に「沖縄戦における米軍のヒ一マニズムと日本軍の暴状」を対照的にとらえる感情的背景があったことを、私は作者に話したことはあるが、ここでは私の予期しない方法で、状況が逆転させられている。 ただし、米軍の攻撃は戦闘行為であり、住民に対する責任を負うものは、あの時点では日本の国家であつた。住民疎開の問題がそこに介在してくる。その疎開が、また沖縄戦ではまことに計画性のない、泥縄式のもので、デタラメといってよかった。 「赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。(中略)それは面長でやせた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた。 神話は神話として、深く暗く遠いところに置かれている限り、そして、実体が人々の目にふれない限り、安定した重い意味を持つのだった。しかしそれが明るみに取り出された場合、神話の本体を目撃した人はたじろぐのが普通である」と作者はいう。 181 かんたんに言えば赤松が悪人には思えなかったということである。 だが赤松は、この作者がうけた印象とちがった姿を沖縄の人たちに見せた。『週刊新潮』に赤松に関する記事がでた直後、昭和四十三年八月八日、『琉球新報』でとりあげられたのが、現実の人物として、戦後、赤松が紹介された最初である。 琉球新報記者とのインタビューで、赤松は「自分のとった措置はまちがっていなかった。処刑を命じたのは大城訓導一人だけだった」と語った。それが沖縄の人たちを刺激した。 「神話の人物」は、決して「一市井人」としてではなく、「まったく事実を曲げる反省のない人間」として立ち現れたのである。 事実、『ある神話の背景』では、大城訓導以外にも処刑したことをみとめている。赤松の言葉は、前後、信用がおけないのである。 大城訓導の処刑理由として、彼が「れっきとした正規兵」であったことを作者は力説する。 防召兵は、沖縄戦で初めて召集された特殊な兵隊で、二等兵の階級をあたえられてはいるが、正規兵とはいえない。だいいち徴兵署をへずに、しかも「赤札」でなく、「青札」で召集され、十六歳の未成年者から五十歳の初老もふくまれ、兵隊の訓練もあたえず、武器も持たさず、もっぱら弾丸運びなどの使役に使った苦力兵を「正規兵」とするのは、正 182 規兵の権利はあたえず、その義務だけを負わせた解釈である。 大城訓導の如きは、正式に防衛召集されたが、赤松隊が勝手に防召兵にしたのかどうかも疑わしい。 赤松隊の候補生や兵隊は食を求めて住民のいる場所をうろうろしていたらしい(統率は乱れていた)。彼らはなんともないのに防召兵が住民に接近しただけで処刑している。そこに「差別」を感ずる。 「日本軍将校」や「日本兵」が米軍の捕虜となり、米軍に使われて、何度も、渡嘉敷島の日本軍に降伏をよびかけている。降伏勧告にきた伊江島住民を処刑した赤松流のやり方からすれぱこれら日本兵捕虜こそ、まさに処刑にあたいする存在であるはずである。これら日本兵に対して赤松隊のとった反応は「無視すること」だけだった。そこにも「差別」を感じる。 『ある神話の背景』で、作者は自殺者の心理分析を試みている(集団自決の自害行為性の立証として)。むしろ赤松の心理を分析したほうが、事件当時の真相を理解するカギとなるのではないか。 183 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―10 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p206-210 目次 10 【引用者註】『ある神話の背景』は「非政治的」か? 『ある神話の背景』に、「勤務隊第三小隊所属の曽根元一等兵のように、彼ら軍夫たちをかたらって逃亡させた立場の人に訊いてみれば、又、別の視点があり得るだろう。曽根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である」というくだりがある。 206 『ある神話の背景』の取材中に私は作者と二度あった。私が曽根一等兵の話を、作者から聞いたのは、那覇港に近いシーメンス・クラブで会ったときだったとおぼえている。 そのとき、朝鮮人軍夫の話がでて、ついでに曽根一等兵のことを作者が話した。 曽根一等兵は元共産党員だが、渡嘉敷島の朝鮮人軍夫何十人かをこっそり逃がしてやったというのである。曽根もいっしょに逃げたらしいが、初めて聞く話で、私は興味をそそられた。曽根一等兵は勤務隊の兵隊で、戦隊員ではなかったが、赤松大尉の指揮下にあった。 おそらく、渡嘉敷島の日本兵の中で、赤松隊の行動を批判的な目でみていた唯一の人物ではないかとおもわれる。また、彼だけは赤松と「同じ穴のムジナ」ではなかったということで、真相をつたえてくれる人物であるような気がする。 作者は、「曽根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である。会えば視点も変わるだろう」と言っている。 曽根元一等兵と会わずに『ある神話の背景』を書いたのは、ちょっと、軽率だったように、私には思える。しかし、彼と会っておれば、『ある神話の背景』は書けなかったかも知れないという気もするのである。 彼と会わなかったということ、「赤松戦隊員」だけと会って証言を取ったということだ 207 けでも、『ある神話の背景』の「軍側の証言」は証言力がはなはだ弱いと見ないわけにはいかない。 シーメンス・クラブで、朝鮮の軍夫の話がでたとき、「朝鮮の人たちのことが発表されたら、それこそ大変なことになるでしょうね」と、曽野氏が真顔で語ったのは印象的だった。「それは、そうでしょうね」と私はうなずいたが、とにかく、曽野氏が、朝鮮の人たちの話は、タブーだとして回避する意向であったことがわかる。『ある神話の背景』では、軍夫に対する赤松隊員の加害行為についてはほとんどふれていない。 『ある神話の背景』が、宗教的視点から、戦争と人間の問題をテーマにしているとすれば、朝鮮人軍夫の問題を除くべきではない。その問題をさけたところに、政治的なにおいがにおうのである。「政治」を避けたところが、むしろ政治的なのである。 「赤松神話」は、朝鮮の軍夫たちの立場からはどうだったかということを追求してみるべきであった。『ある神話の背景』が、たんに、「ヤマトンチュ対ウチナーンチュ」の立場から書かれていることは、致命的な欠陥であり、そのことで、この作品は倭小化され、また、すこぶる政治的なものになっている。 『ある神話の背景』の帯評の中で、田村隆一氏は、「ここでも"神話"は、感情の集団化 208 と、思考の政治化によつて支えられていたにすぎない」と書いている。『ある神話の背景』では、「感情の集団化」と「思考の政治化」をうながしたとみられる、いくつかの文章を引用し、「ジヤーナリズムが、一つの社会現象、人間像を造る上での責任は大きい」と作者は書いている。もちろん、「ジヤーナリズムの責任」の中に、私の書いた「赤松神話」もおかれているわけだが、感情的、政治的な文章として、作者は、『サンデー毎日』に執筆したルポライターのI氏の文章をあげている。その文章の内容について私は意見をのべるつもりはないが、ただ、ここでは、『ある神話の背景』の作者自体が、「感情の集団化」や「思考の政治化」をうながすようなことになっていないかどうかを考えてみたいのである。『ある神話の背景』では、「赤松令嬢」の立場に対する、作者の同情など、「神話否定」のための感情的要素として働いており、他方、明治時代に沖縄で発行された教育雑誌『琉球教育』からの引用で、沖縄の中で、忠君愛国思想による軍国主義教育が培われたことを証し、それが集団自決の心理的遠因となっていることをほのめかしているが、自決の心理と教育行政をむすびつけて説くのは、「非政治的」といえない。いったい社会の集団生活の中で、純粋な「非政治的人間」というのが存在しうるだろうか。政治的、非政治的というのは、あくまで相対的観念ではなかろうか。政治にまるで関心がなく・選挙のときは棄権する人が「非政治的」かというと、そうもいえない。投票の棄権は、現実政治の容認の 209 一形式であり、その人は棄権によって消極的な意味で政治に参加しているのである。永井荷風のような極端に「非政治的人間」とみられる人でも、彼の社会批評または花柳文学によつて、他人の思考感情に影響をあたえる点では、非政治的とはいえないのである。人間の言動は、本人の意図せざる結果を生むから、まったく非政治的ではありえない。『ある神話の背景』が、作者の意図するところとちがって、もし旧軍人や自衛隊員、または一般国民の思想にある種の影響をあたえるとすれば、つまり、政治的結果を生むことになる。そうなれば、「ジャーナリズムの責任」だけをとやかく言えなくなる。 曽野氏は「私は明瞭にするべく歩き出したのだが、事ここに至って、どんどん背景がぼやけて来るのを感じる。老眼と乱視と近視が一度にかかったようだ。島は、そこで死んだ人と生きた人とをのぞいては、誰もそれを語る資格はないとでも言うように、優しい拒絶の微光に包まれているように見えてくる」というだけの慎みは、もっているようだ。 私には、『ある神話の背景』の中で、トーマス・マンの言葉より何よりも重みを感ずるのは、金城牧師の言葉であり、曽根一等兵の行為であるような気がする。金城牧師や曽根一等兵の側から書かれたら、作品は次元の高いものになっていただろう。 210 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―1 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p167- 171 目次 1 【引用者註】赤松擁護と、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護 曽野綾子氏(以下、作者と略す)の『ある神話の背景』で、赤松神話のバイブルとされているのが『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記である。その「神話部分」の執筆者として、意見をのべざるをえない。 『ある神話の背景』は、多くの関係者の証言で構成され、同時に、人間の問題を掘り下げたものである。ただ、「証言」そのものの検討が、十分になされているとは思えない。証言の中に、もし「ウソ」がまじっていたら、全体の構成がぐらつく。ことに、加害者側の証言(厳密な意味では証言とはいえない)は、ふつう信憑性がうすく、都合のよい自己弁護になりがちである。 たとえば、特攻艇出撃中止に関する証言で、赤松第三戦隊は沖縄本島の船舶団本部に打電し、同本部から、転進命令の返電をうけたというのは、ちょっと理解しにくい。 船舶団長の大町大佐は、約十五人の幕僚をつれて慶良間列島視察にきている(赤松隊は 167 承知)。本島の船舶隊本部は、首脳部のいない留守部隊である。目と鼻の先にいる大町大佐に指揮を仰がずに、わざわざ留守部隊に連絡するというのは、軍隊の常識では考えられない。また命令は軍司令部から出されたように書かれているが、たとえそうであっても、座間味、阿嘉島をへて渡嘉敷島に向かいつつある直属上官たる大町大佐の指示を待たずに、渡嘉敷島の第三戦隊だけが単独行動をとることは、「独断専行」の言いわけもたたないほど命令系統を無視した行為である。 第三十二軍高級参謀八原博通元大佐の『沖縄決戦』によると、八原大佐は、敵が慶良間を攻撃したとき、同地域の特攻艇の出撃に期待をかけたが、特攻出撃の気配なく、遂に失望したとのべている。すると高級参謀は「転進命令」を関知しなかったことになる。 特攻艇出撃中止のような軍の最高作戦事項について高級参謀が知らなかったとはどういうことか。しかも特攻艇の慶良間配備は八原参謀の意見に基づくものである。 「貴様は逃げる気か」と大町大佐は、激怒して赤松戦隊長を叱りつけたというが、当の大町大佐が戦死している今日、言葉を持つのは赤松氏だけである(右の件につき防衛庁戦史室発行の『沖縄方面陸軍作戦』の記録はチグハグである)。 裁判では、一方に検事(告発者)がいて、他方に弁護士がいるのは当然だが、赤松事件に関しては「判事」はいない。『ある神話の背景』が、「人間が人間を裁くことはむつかしい」168 という思想に立っている以上、作者は判事たりえない。 「もしも私がその島の指揮官であったなら、私は自分の身心を助けるために、あらゆる卑怯なことをやったに違いない」という作者。実は、その部分が、『ある神話の背景』の論理構成全体の支点の役目をなしている。 作者が赤松の立場に身をおきかえて自己内省をやることで、人間としてのおののきを感ずるのは、主観的には誠実といえる。 しかし半面、この自己内省は、客観的には、赤松の立場の擁護となり、告発者に対する批判となる。ただし、「汝らのうち罪なき者、石もてこの女を打て」というキリスト教的思想からすれば、地上的な「罪に対する裁きの問題」は成り立たなくなる。裁判官は殺人犯でも裁けなくなる。 誰が赤松を「告発」する資格があるかということではなく、どうして、赤松に住民を殺す資格があったのか、ということが問題であり、赤松を告発するのは特定の個人ではなく、社会のルールである。 戦場の異常な環境と心理に基づく行為を、平和時に云々することはむつかしいとの考え方もあるが、これは「裁き」の否定になる。戦場に限らず、すべての殺人行為は異常な環境と心理の中でおこなわれ、あとで、冷静な立場と判断からの裁きをうけるのである。戦 169 場の特殊事項が「免責」の理由になるなら、軍法会議や戦犯裁判は成立しない。 『ある神話の背景』は、「人が人を裁くことのむつかしさ」という次元のちがう問題を「社会が、行為を裁く刑事責任」の中に持ち込んでいるような気がする。赤松の立場に身をおいて考える作者は、「もしあのとき、自分が渡嘉敷島の住民の一人であったら、果たして赤松隊の行動を弁護する気になっただろうか」という住民の立場からも考えてみる必要があったのではないか。 『ある神話の背景』について私が持っている疑問のひとつは、なぜ、渡嘉敷島の事件だけが弁護に価するかということである。沖縄戦の各地で起こった同様な事件、あるいは中国その他外地での日本軍による対住民加害事件について、作者はどう考えるかということである。 軍隊は住民を守るためにあるのではないとして、曽野氏は、「軍の主とする所は戦闘なり、故に百年皆戦闘を以て基準とすべし」との作戦要務令綱領の一文をあげる。 これは、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護であり、そのなかで戦争目的そのものが陥没する。作戦要務令その他の典令は軍事テクニックに関するもので、軍人モラルを示した軍人勅諭の解釈である戦陣訓には「住民を愛護せよ」とある。軍略と軍政は並行すべきで、敵国住民でも保護、宣撫しなければ戦争目的は遂行できない。いわんや自国住民に対 170 してはなおさらである。現に、赤松隊の連下氏は「軍は住民を守る任務を持っていた」とのべている。早い話が、米軍は戦闘間、敵国の沖縄全住民を保護しているではないか。米軍の保護下にせっかくはいった住民の幾人かを、赤松隊はごていねいにも殺害しているのである。 戦闘員相互間の殺し合いは、正当防衛論で、辛うじて説明されるが、非戦闘員の立場は別である。赤松隊員の住民殺戮行為は、いかなる正当防衛に基づくのか判断しにくい。 171 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―9 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p202-206 目次 9 【引用者註】住民を日本国民として扱ったか 集団自決命令の有無に関して、状況証拠となりそうな参考事実に、一寸、ふれておきたい。 集団自決という事実は、厳としてあったのである。それは赤松第三戦隊長のいた渡嘉敷島だけでなく、第一戦隊(梅沢裕少佐)のいた座間味でもあったし、第二戦隊(野田義彦少佐)の守備配下にあった慶留間島でもあったようだ。これらの事実は符節を合わしたような偶然の出来事だったのだろうか。 各個別々におきた事件だろうか。それに、集団自決は慶良間列島の住民だけに起こった出来事である。沖縄本島にもその例はなく、本島周辺の他の島々でも起きていない。たとえば、最大の激戦地の一つであった伊江島や、渡嘉敷島よりも多数の住民が鹿山兵曹長指揮下で虐殺された久米島でも、集団自決はなかった。 【引用者註】この一文が書かれたときには、伊江島や沖縄本島での集団自決例はまだ報告されていなかったと思われる。たとえば読谷村チビチリガマの真相が明らかになったのは、戦後38年たった1983年であった。http //www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm 慶良間列島は、緒戦で、米軍から不意の猛攻をうけたこと、島々があまりに小さかったことなどで、極度のパニック状態におそわれたようだ。おそらく住民側にも集団自決を用 202 意する「心理的ガソリン」があったのだろう。しかし、その「ガソリン」に、軍が点火しなかったと果たしていえるだろうか。 住民の集団自決は、慶良間列島各戦隊の統一した住民処置方針だったのではないだろうか。 赤松元戦隊長は、曽野氏に送った私信の中で、いみじくも、次のような意味のことを述べている。 「当時、陸軍刑法など輸郭は観念的にはわかっていたが、深く研究はしなかった。 軍刑法を知らなくても、いろいろと処置するのにさほど抵抗を感じなかった。(住民処刑などを指す)。それは私達も、今に近く死んで行くのだという気持ちが根底にあったからだと思う。この気持ちは部隊の者がとった全ての行動に働いていて、これを抜きにしては私達のとった行動は理解し難い」。 本音とおもわれるこの赤松の言葉が、前にも述べた私の推理をあざやかに実証してくれている。彼らには「死ぬつもりのエリート意識」があって、住民の生命は軽視されたのである。「抵抗を感じなかつた」というのは、平気で殺したということである。 この意識で住民を殺した彼らと、集団自決で肉親同士が殺し合った行為とは、異質のものである。 203 赤松大尉は、米軍のところに降伏の相談にゆくとき、「なけなしの牛かん一箱」を部下にかつがせて持たせたという。米軍へのお土産というわけである。これはどういう心境だろうか。なぜ、「お土産」をもっていったのだろう。「昨日の敵は今日の友」というわけだろうか。また、そのプレゼントを受けた米軍の指揮官はどんな気持ちを抱いただろうか。部下の兵隊たちが、栄養失調でバタバタとたおれてゆくときに、赤松のところには、牛かんが保管されていたわけだ。 餓死寸前にあった部下の兵隊たちにとっては高根の花であったその牛かんの一部が、かん詰めなどありあまるほどある米軍に土産として差し向けられたのである。 ある時期から赤松はひそかに生きることを考えていたともおもえる。赤松の陣地は、やがて、「食糧を保管した住居」となる。 戦うための陣地は、随時、移動できるが、住居となった陣地は移動しにくい。そして、食糧貯蔵倉庫でもある陣地を砲撃破壊されることは、生存に対する脅威である。 陣地をみたという理由で住民がやたらに殺されているが、「陣地という名の赤松の住居」をみたためではなかっただろうか。 『ある神話の背景』の中での赤松弁護は、良心の呵責も感じないらしい赤松のハートにわざわざ神の名において膏薬をはってやるようなものではないだろうか。 204 赤松隊は、終戦後も住民二人を殺している。当時の村長の証言では、二人は陣地に連れてゆかれて処刑されたことになっているが、赤松側の言い分では、歩哨線で"誰何"したら、逃げたので射殺したと弁明している。作戦要務令の歩哨一般守則には、「夜間近づく者あらば銃を構へて良く確め彼我判明せざるときは機先を制して"誰か"と呼ぶ、三回呼ぶも夏なければ殺すか又は捕獲すべし」の一項がある。これは、敵前歩哨の夜間動作を示すもので、敵味方不明のとき歩哨のとるべき処置である。さて、前述の住民二人が射殺されたのは昭和二十年八月十六日の朝である。朝だから、米兵か住民かの見わけはつく。夜間の「彼我判明せざるとき」とはちがう。昼間である。昼間・歩哨が三回"誰何"したというのはおかしい。 また渡嘉敷島は日本領土であり、米軍以外は、そこに住む人間がすべて日本国民であることははっきりしている。住民と軍は一体となって戦うべき立場にあった。はっきり住民と知った上で赤松隊の歩哨が、住民二人を射殺していることは明らかである。これは、赤松隊が渡嘉敷島の住民を敵視していた動かしがたい事実である。 曽野氏は、作戦要務令歩哨一般守則について誤解しているようだ。「日本国外の戦場を対象として作られた作戦要務令を、日本国内の戦場に持たせてやった軍当局が悪い」と曽野氏はいう。そんなはずはない。戦場が日本領土内たとえば渡嘉敷島の場合なら、指揮官 205 がとるべき方法はいくらもあるはずである。歩哨は作戦要務令の一般守則だけで動いているのではない。(必ず)各指揮官からあたえられるさらに具体的な行動基準たる「歩哨特別守則」がある。特別守則の作成は各指揮官の裁量に任されていて、同守則により、いかなる状況にも対応できる余地が残されている。同胞たる渡嘉敷島住民に対してとるべき適当な措置を「特別守則」の中にもりこむことができる。 赤松隊長は、住民を同胞とおもわず、住民が歩哨線に近接したときは射殺せよと、特別守則の中で命令していたのだろうか。当時、赤松隊長が、歩哨にどういう「特別守則」をあたえていたか、その全内容も問題である。 ただし、曽野氏の『ある神話の背景』が沖縄戦記録文学の中で最初の、現時点では唯一の、戦争と人間の問題を掘り下げた作品であること、さらに、沖縄における戦後的思考のパターンに痛烈な一撃をあたえた作品であることは否めない。 206 次へ
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通054 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 ア 座間味島について(ア)(梅澤命令説記載文献) 梅澤命令説について直接これを記載し,若しくはその存在を推認せしめる文献等としては,以下に記載するものがあげられる。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(ha) a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(ha)(a)(住民の体験戦記)* (b)(座間味島の記述)* (c)(巻末の記載)* (a)(住民の体験戦記)* 「鉄の暴風」は,その「まえがき」にあるように,軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず,あくまでも,住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。そして,その第10版に掲載された「五十年後のあとがき」には,その取材方法等について,「戦後も五年目」で 「資料らしい資料もなく,頼りになるのは,悲惨な載争を生き抜いてきた,人々の体験談をきくのが唯一の仕事で,私(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの) を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。語ってくれた人数も多いが,話の内容は水々しく,且つほっとであった。もっと時間が経過すれば,人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。戦争体験は,昨日のように生まなましく,別の観念の這入りこむ余地はなかった。」 と記載されている。 (b)(座間味島の記述)* 「鉄の暴風」には, 「座間味島駐屯の将兵は約一千人余,一九四四年九月二十日に来島したもので,その中には,十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて,隊長は梅沢少佐,守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は,座間味島に十二隻,阿嘉島に七,八隻あったが,いずれも遂に出撃しなかった。その他に,島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日,軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ,玉砕を命じた。しかし,住民が広場に集まってきた,ちょうど,その時,附近に艦砲弾が落ちたので,みな退散してしまったが,村長初め役場吏員,学校教員の一部やその家族は,ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」 「この自決のほか,砲弾の犠牲になったり,スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて,座間味島の犠牲者は約二百人である。日本軍は,米兵が上陸した頃,二,三カ所で歩哨戦を演じたことはあつたが,最後まで山中の陣地にこもり,遂に全員投降した。」 として,原告梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め,玉砕を命じた旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁,なお,以下では同じ文献が甲号証及び乙号証で提出されている場合には,便宜上一方の記載にとどめることとする。)。 (c)(巻末の記載)* また,「鉄の暴風」には,本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており,昭和20年3月28日の箇所に,座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと,厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。 <被告らの読みとり> <原告らの読みとり> 戻る | 次へ 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 読める判決「集団自決」
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昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-055 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(2) 集団自決に関する文献等 ア 座間味島について(ア)(梅澤命令説記載文献) 梅澤命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha) (判決本文p144~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha)(a)(住民の体験戦記)* (b)(座間味島の記述)* (c)(巻末の記載)* (a)(住民の体験戦記)* 「鉄の暴風」は, その「まえがき」にあるように, 軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず, あくまでも, 住民の動き, 非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。 そして, その第10版に掲載された「五十年後のあとがき」には, その取材方法等について, 「戦後も五年目」で 「 資料らしい資料もなく, 頼りになるのは, 悲惨な載争を生き抜いてきた, 人々の体験談をきくのが唯一の仕事で, 私(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの)を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。 語ってくれた人数も多いが, 話の内容は水々しく, 且つほっとであった。 もっと時間が経過すれば, 人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。 戦争体験は, 昨日のように生まなましく, 別の観念の這入りこむ余地はなかった。」 と記載されている。 (b)(座間味島の記述)* 「鉄の暴風」には, 「 座間味島駐屯の将兵は約一千人余, 一九四四年九月二十日に来島したもので, その中には, 十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて, 隊長は梅沢少佐, 守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。 海上特攻用の舟艇は, 座間味島に十二隻, 阿嘉島に七, 八隻あったが, いずれも遂に出撃しなかった。 その他に, 島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。 米軍上陸の前日, 軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ, 玉砕を命じた。 しかし, 住民が広場に集まってきた, ちょうど, その時, 附近に艦砲弾が落ちたので, みな退散してしまったが, 村長初め役場吏員, 学校教員の一部やその家族は, ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。 その数五十二人である。」 「 この自決のほか, 砲弾の犠牲になったり, スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて, 座間味島の犠牲者は約二百人である。 日本軍は, 米兵が上陸した頃, 二, 三カ所で歩哨戦を演じたことはあつたが, 最後まで山中の陣地にこもり, 遂に全員投降した。」 として, 控訴人梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め, 玉砕を命じた旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁, なお, 以下では同じ文献が甲号証及び乙号証で提出されている場合には, 便宜上一方の記載にとどめることとする。)。 (c)(巻末の記載)* また, 「鉄の暴風」には, 本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており, 昭和20年3月28日の箇所に ,座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと, 厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。 (引用者注) 「鉄の暴風」についての信用性等の評価は、判決文「集団自決に関する文献等の評価について」の当該項に書いてある。 目次 戻る 通2-055 次へ 通巻